次の文章を読んで、問いに答えなさい。
金曜日の午後、高等学校からの帰り道、いつも乗る私鉄の十二両連結の電車のなかほどの車両から、三年生の伊藤洋介はプラットフォームに降りた。どの車両からも、何人かの乗客が、それぞれになぜか疲労した様子で外へ出てきた。線路をむこうへまたぐ木造の建物が、プラットフォームの端にあった。誰もがそこにむけて歩いた。
歩きながら伊藤洋介は空を仰いだ。1梅雨のあいまの曇った日だった。空は均一に灰色だった。空を見渡したあと、彼はふとふりかえった。おなじクラスの女性が歩いて来るのを、洋介は見た。遠山恵理子という名の女性だった。
洋介の視線が彼女の目と合った。恵理子は淡く微笑した。いつ見ても静かに落ち着いた雰囲気を保っている、2聡明そうな美少女だ。洋介は立ちどまった。恵理子を待った。そしてふたりは肩をならべて歩いた。恵理子と洋介はおなじ背丈だった。
発車した電車は駅を出ていき、すぐむこうにある一級3河川にかかる鉄橋にむけて、走り去った。
「いつもここで降りるの?」
洋介がきいた。
「そうよ」
「知らなかっ,た」
「私は知ってたわ」
「どうして?」
「何度も見かけたから」
木造の建物の階段を、ふたりは上がっていった。線路を越え、反対側の階段を降りた。駅の北口からふたりは外へ出た。
洋介が母親とふたりで住んでいる部屋のある建物まで、駅から歩いて十分かからなかった。部屋のある位置を洋介は恵理子に説明した。恵理子も家の場所を教えた。ふたりが住んでいる場所は、歩いて五分ほどの距離だけ離れていることが、おたがいにわかった。
駅前から続いている商店街を、ふたりは抜けていった。やがて正面にT字交差が見えた。
「あそこを僕は右へいく」
と洋介は言った。
「私は左です」
恵理子が答えた。そして、
「川へいってみましょうよ」
と、彼女は言った。
ふたりはT字交差を右へ曲がった。住宅地のなかを道なりにまっすぐいくと、やがて川の土手が正面に見えた。その高い土手に造ってある階段を上がった。
土手の道に立つと、川幅が広いところで三百メートルはある川のぜんたいを、左右へ視界いっぱいに見渡すことができた。都市部を流れる川の平凡な光景が、その視界のなかに続いていた。
土手の上の道をふたりは4川下にむけて歩いた。このあたりの川原はあ国が管理する公園施設となっていた。5粗末なバックネットの立つ野球のグラウンドがふたつ、土手に沿ってならんでいた。手前のグラウンドでは、会社勤めに見える人たちが、試合をおこなっていた。隣りのグラウンドに人はいなかった。
恵理子と洋介は立ちどまって試合を見た。
「練習試合だね」
洋介が言った。
恵理子は洋介に顔をむけた。彼の横顔を見てひと呼吸だけ置き、
「野球の選手だったのですって?」
と彼女はきいた。
洋介はい苦笑した。
「ずっと以前だよ。リトル・リーグ。僕はキャッチャーだった」
洋介の返答に、恵理子はうれしそうに微笑を深めた。洋介は子供の頃もいまとおなじく、細身の優しそうな少年だった。しかし、外見が人にあたえる印象とは大きくちがって、彼は頼りになる優秀なキャッチャーだった。
「なぜ知ってるの?」
洋介はきいてみた。
「クラスの人が言ってました」
土手の道をさらにしばらく川下へ歩き、やがてふたりはおなじ道を引き返した。練習試合がおこなわれているグラウンドの上まで戻って、ふたりはしばらく試合を見た。
「もう野球はしないの?」
恵理子がきいた。
洋介は首を振った。
「ゲームは楽しいけれど、最後は勝ち負けになってしまうから」
「明日の土曜日は、なにをしているの?」
「なにもしてない」
「私とキャッチ・ボールをしてください」
「キャッチ・ボールを?」
「ええ」
「きみが?」
「そう。私が」
「キャッチ・ボールを」
「してください」
「雨は降らないかな」
「だいじょうぶよ」
「グラヴは?」
「持ってます」
「野球のボールなんか、僕はもうずいぶん投げてないよ」
「ひさしぶりに」
「そうだね。よし、明日はキャッチ・ボールをしよう」
「午後、このあたりで」
きれいに澄んだ熱意が、彼女の口調のなかをまっすぐにとおっていた。
「二時くらいかな」
「そうね」
「ここで会おう」