次の文章を読んで、問いに答えなさい。

 坂の多いサンフランシスコの街々は自動車に乗っても電車に乗っても、目まぐるしいように眼界が転回する。八層、十層の高楼も、たちまち眼下に模型の建築物のように小さくなってしまう。
 雨の日は建物の地肌で赤く黒くそれぞれの色彩を保っているが、晴れた日は一様に黄色い日光を浴びている。
 高台の電車軌道の大きく迂回しているところから左へ行くと、金門公園がある。
 太平洋沿岸の旅を終わって、日本へ帰る便船を待ちながらP街の『柳ホテル』に滞在していたわたしは、ある早春の午後、その公園の疎林の中を歩いていた。枝ばかり残った枯れたような木々も、傍へ寄ってみると明るい空にいつか@新芽を吹いている。
 わたしは静かな小径を抜けて、水族館前の広場に出ようとした。その時、
「もしもし、失礼ですけれども……」
 と、不意に呼びかける者があった。
 それは紛れもない日本語で、しかも(i)遠慮っぽい調子である。わたしは思わず足を止めた。見ると、二十五、六の鼠色の背広を着た日本人が木陰のベンチから半ば立ち上がって、嘆願するようにわたしを見上げている。
「なんです? どうかしたのですか?」
 わたしは(い)早合点をして傍へ寄っていった。青年がその日の生活に困って、物乞いをするのだと思ったからである。けれども、自分はすぐ勘違いをしたことに気づいた。青年の服装はきちんとして靴も光っていた。
「見ず知らずの方に突然こんなことをお願いしたら、定めし変な奴だとお思いになるでしょうが、どうぞわたしを助けてください。わたしはいま、(a)絶体絶命の位置にいるのです。こんなことを申しては失礼ですけれども、わたしはあなたをお見かけした瞬間、きっとあなたならわたしのこの妙な話を平気で聞いてくださると思って、つい声をおかけしたのでございます」
 青年はそう言いながらも、落ち着きのない視線をわたしの肩越しに後ろへ投げている。
「きみを助けるのですって? わたしにそんな力があるでしょうか? 絶体絶命だのなんだなのって、それはいったい何のことです?」
「まったく、あり得べからざることなのです。けれども、事実は迫ってきているのです。このままでいたら、わたしは数日中に殺されてしまうでしょう」
 わたしは口もとに込み上げてくる微笑を抑えてベンチに腰を下ろし、まず煙草を取り出した。だが青年の思い迫ったような顔つきに、(ろ)わたしの微笑は消えてしまった。
「わたしども夫婦はカナダから当地へ来て、ある有力な日本人の家に(ii)厄介になっておりますが、わたしの妻は現在わたしどもの世話になっている主人に奪られそうになっているのです。わたしにはA厳重な監視がついているのです。あれを見てください、あれはその男の手下で、わたしがなんにもできないように見張っているのです」
 遠くの公園の入口のところに、鳥打帽を被った二人の日本人が立ち話をしていたが、急にわたしたちのいるほうに進んできた。
「ああ、いけない! こっちへやって来ます」
 青年は恐怖の色を浮かべて叫んだ。
「なぜきみは警察へなり、B領事館なりへ行かないのだね?」
「警察? そんなことをすれば、石段を上らないうちに拳銃でやられてしまいます」
「では、そんな危険な家を出てしまって、シカゴなりニューヨークなり安全な土地へ逃げたらどうです」
「夫婦で逃げるなんていうことはとうていできません。わたし一人逃げたら、あとに残った妻の運命はその日のうちに決まってしまいます。……お願いです、なんとかしてわたしどもを助けていただくことはできないでしょうか?」
「よろしい、わたしにできるだけのことをしましょう。それには、充分にきみの話を聞かなくてはならない」
 わたしはその時、全身に少年のころの向こう見ずな血が湧き起こってくるのを覚えた。
 鳥打帽の日本人が来るのをその場で便々と待つまでもなく、こっちから進んでいって相手に直面しようとわたしは考えた。
「ありがとう存じます。詳しい話を聞いていただかなければなりませんが、あの男たちに油断をさせるために、いまはここをお別れしておくほうが好都合なのです」
 と、青年は訴えるように言った。
「分かった、わたしはP街の柳ホテルに泊まっている川瀬という者だから、きみの都合のいいときにいつでもやって来たまえ」
「では、今晩九時に伺わせていただきましょう」
 わたしは(は)青年の立場を察して、怪しい男たちの来ないうちにその場を立ち去った。