次の文章を読んで、問いに答えなさい。

「あら大きな波が来てよ」
 と沖の方を見ていた妹が少し怖そうな声でこういきなりいいましたので、私たちも思わずその方を見ると、妹の言葉通りに、これまでのとはかけはなれて大きな波が、両手をひろげるような (あ) 恰好で押寄せて来るのでした。泳ぎの上手なMも少し気味悪そうに陸の方を向いていくらかでも浅い所までにげようとした位でした。私たちはいうまでもありません。腰から上をのめるように前に出して、両手をまたその前に突出して泳ぐような恰好をしながら歩こうとしたのですが、何しろひきがひどいので、足を上げることも前にやることも思うようには出来ません。私たちはまるで夢の中で怖い奴に追いかけられている時のような気がしました。
 後から押寄せて来る波は私たちが浅い所まで行くのを待っていてはくれません。見る見る大きく近くなって来て、そのてっぺんにはちらりちらりと白い泡がくだけ始めました。Mは後から大声をあげて、
「そんなにそっちへ行くと駄目だよ、波がくだけると捲まきこまれるよ。今のうちに波を越す方がいいよ」
 といいました。そういわれればそうです。私と妹とは立止まって仕方なく波の来るのを待っていました。高い波が屏風を立てつらねたように押寄せて来ました。私たち三人は丁度具合よくくだけない中に波の脊を越すことが出来ました。私たちは体をもまれるように感じながらもうまくその大波をやりすごすことだけは出来たのでした。三人はようやく安心して泳ぎながら(1) 顔を見合せてにこにこしました。そして波が行ってしまうと三人ながら泳ぎをやめてもとのように底の砂の上に立とうとしました。
 ところがどうでしょう、私たちは泳ぎをやめると一緒に、三人ながらずぼりと水の中に潜ぐってしまいました。水の中に潜っても足は砂にはつかないのです。私たちは驚きました。慌てました。そして一生懸命にめんかきをして、ようやく水の上に顔だけ出すことが出来ました。その時私たち三人が互いに見合せた眼といったら、顔といったらありません。顔は真青でした眼は飛び出しそうに見開いていました。@ 今の波一つでどこか深い所に流されたのだということを私たちはいい合わさないでも知ることが出来たのです。いい合わさないでも私たちは陸の方を眼がけて泳げるだけ泳がなければならないということがわかったのです。
 三人は黙ったままで体を横にして泳ぎはじめました。けれども私たちにどれほどの力があったかを考えて見て下さい。Mは十四でした。私は十三でした。妹は十一でした。Mは毎年学校の水泳部に行っていたので、とにかくあたり前に泳ぐことを知っていましたが、私は横のし泳ぎを少しと、水の上に仰向けに浮くことを覚えたばかりですし、妹はようやく板を離れて二、三間げん泳ぐことが出来るだけなのです。
 御覧なさい私たちは見る見る沖の方へ沖の方へと流されているのです。私は頭を半分水の中につけて横のしでおよぎながら時々頭を上げて見ると、その度ごとに妹は沖の方へと私から離れてゆき、友達のMはまた岸の方へと私から離れて行って、暫しばらくの後のちには三人はようやく声がとどく位ぐらいお互たがいに離ればなれになってしまいました。そして波が来るたんびに私は妹を見失ったりMを見失ったりしました。私の顔が見えると妹は後ろの方からあらん限りの声をしぼって
「兄さん来てよ……もう沈む……苦しい」
 と呼びかけるのです。実際妹は鼻の所位まで水に沈みながら声を出そうとするのですから、その度ごとに水を呑むと見えて真蒼な苦しそうな顔をして私を睨みつけるように見えます。私も前に泳ぎながら心は後ろにばかり引かれました。 (い) 幾度も妹のいる方へ泳いで行こうかと思いました。けれども私は悪い人間だったと見えて、こうなると自分の命が助かりたかったのです。妹の所へ行ゆけば、二人とも一緒に沖に流されて命がないのは知れ切っていました。私はそれが恐ろしかったのです。何しろ早く岸について漁夫にでも助けに行ってもらう外はないと思いました。今から思うとそれは(2) ずるい考えだったようです。
 でもとにかくそう思うと私はもう後ろも向かずに (う)無我夢中で岸の方を向いて泳ぎ出しました。力が無くなりそうになると仰向けに水の上に臥ねて暫く気息をつきました。それでも岸は少しずつ近づいて来るようでした。一生懸命に……一生懸命に……、そして立泳ぎのようになって足を砂につけて見ようとしたら、またずぶりと頭までくぐってしまいました。私は慌てました。そしてまた一生懸命で泳ぎ出しました。  立って見たら水が膝の所位しかない所まで泳いで来ていたのはそれからよほどたってのことでした。ほっと安心したと思うと、もう夢中で私は泣声を立てながら、
「助けてくれえ」
 といって砂浜を気狂いのように駈けずり廻まわりました。見るとMは遥かむこうの方で私と同じようなことをしています。私は駈けずりまわりながらも妹の方を見ることを忘れはしませんでした。波打際から随分遠い所に、波に隠れたり現われたりして、可哀そうな妹の頭だけが見えていました。
 浜には船もいません、漁夫もいません。その時になって私はまた水の中に飛び込んで行きたいような心持ちになりました。大事な妹を置きっぱなしにして来たのがたまらなく悲しくなりました。
 その時Mが遥かむこうから一人の若い男の袖を引ひっぱってこっちに走って来ました。私はそれを見ると何もかも忘れてそっちの方に駈け出しました。若い男というのは、土地の者ではありましょうが、漁夫とも見えないような通りがかりの人で、肩に何か担なっていました。
「早く……早く行って助けて下さい……あすこだ、あすこだ」  私は、涙を流し放題に流して、地だんだをふまないばかりにせき立てて、震える手をのばして妹の頭がちょっぴり水の上に浮うかんでいる方を指しました。
 若い男は私の指す方を見定めていましたが、やがて手早く担っていたものを砂の上に卸ろし、帯をくるくると解いて、衣物を一緒にその上におくと、ざぶりと波を切って海の中にはいって行ってくれました。
 私はぶるぶる震えて泣きながら、 両手の指をそろえて口の中へ押しこんで、それをぎゅっと歯でかみしめながら、その男がどんどん沖の方に遠ざかって行くのを見送りました。私の足がどんな所に立っているのだか、寒いのだか、暑いのだか、すこしも私には分りません。手足があるのだかないのだかそれも分りませんでした。
 抜手を切って行く若者の頭も段々小さくなりまして、妹とのへだたりが見る見る近よって行きました。若者の身のまわりには白い泡がきらきらと光って、水を切った手が濡れたまま (え)飛魚が飛ぶように海の上に現われたり隠れたりします。私はそんなことを一生懸命に見つめていました。
 とうとう若者の頭と妹の頭とが一つになりました。私は思わず指を口の中から放して、声を立てながら水の中にはいってゆきました。けれども二人がこっちに来るののおそいことおそいこと。私はまた何なんの訳もなく砂の方に飛び上りました。そしてまた海の中にはいって行きました。如何どうしてもじっとして待っていることが出来ないのです。
 妹の頭は幾度も水の中に沈みました。時には沈み切りに沈んだのかと思うほど長く現われて来ませんでした。若者も如何かすると水の上には見えなくなりました。そうかと思うと、ぽこんと 跳ね上るように高く水の上に現われ出ました。何んだか曲泳ぎでもしているのではないかと思われるほどでした。それでもそんなことをしている中うちに、二人は段々岸近くなって来て、とうとうその顔までがはっきり見える位になりました。が、そこいらは打寄せる波が崩れるところなので、二人はもろともに幾度も白い泡の渦巻きの中に姿を隠しました。やがて若者は這うようにして波打際にたどりつきました。妹はそんな浅みに来ても若者におぶさりかかっていました。私は (お)有頂天になってそこまで飛んで行きました。
 飛んで行って見て驚いたのは若者の姿でした。せわしく深く気息をついて、体はつかれ切ったようにゆるんでへたへたになっていました。妹は私が近づいたのを見ると夢中で飛んで来ましたがふっと思いかえしたように私をよけて砂山の方を向いて駈け出しました。Aその時私は妹が私を恨らんでいるのだなと気がついて、それは無理のないことだと思うと、この上なく淋しい気持ちになりました。
 それにしても友達のMは何所どこに行ってしまったのだろうと思って、私は若者のそばに立ちながらあたりを見廻すと、遥かな砂山の所をお婆様を助けながら駈け下りて来るのでした。妹は早くもそれを見付けてそっちに行こうとしているのだとわかりました。
 それで私は少し安心して、若者の肩に手をかけて何かいおうとすると、若者はうるさそうに私の手を払いのけて、水の寄せたり引いたりする所にすわりこんだまま、いやな顔をして胸のあたりを撫でまわしています。(3) 私は何んだか言葉をかけるのさえためらわれて黙ったまま突立っていました。
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