平成26年度 修士論文提出日:平成27年1月14日
平成26年度 修士論文
指導教員 野浪正隆先生
大阪教育大学 大学院
教育学研究科 国語教育専攻
国語学専修
山平 千鶴
本修士論文は「文学作品における色彩語表現―太宰治作品を用いて―」と題目を設定し、文章表現中における色彩語の表現特性を研究するものである。文学作品の中でも小説に焦点化して分析・考察を行うことにより、色彩語が小説を解釈する上で有効な手段の一つとなりえるかを明らかにする。
執筆者は以前より詩や小説の作品世界を築くためのさまざまな表現技法に関心があり、作品に触れる際、なぜ「美しい」などの情感が湧くのか、なぜその作品に好意を寄せることがあるのか、ということに注目していた。その際作家の色彩語に関する論文を読む機会があり、文学作品における色彩語研究が発展途上のものであることを知った。さらには以前からよく好んで読んでいた太宰治作品が色彩語研究の対象として扱われている事例がほぼ皆無であることを知り、ぜひ自身の修士論文で取り組みたいと考えるに至った。
色彩語研究は個人の生活環境や読書経験、その他今日まで関わってきた認知のために、大きく認識が左右される分野である。個々人で色の尺度を持っており、異なりが生じる部分は少なくない。信号機の色を例にとると、「進め」を意味するあの色は果たして青であるか、緑であるか、またはエメラルドグリーンなのか。青として認識する人もいれば、緑として認識する人もいるはずであり、各色名が許容する色の範囲は一人一人多様である。しかしこれは色の境界が微妙に揺れる色について言えることで、信号機の赤は赤として、黄色は黄色として大方の人が同様に判別する色も存在する。作家はこのような色認識の曖昧さを承知して、叙述という方法をもって、色を文章に組み込んでいく。そして、作品世界を築き、そこにわたしたちを誘おうとするのである。色彩語は作家の手によって、その作品世界を形成する要素のひとつとなり、より世界を具体化する役割を担うようになる。
文学作品に現れる色彩を取りあげる際は、後述するが、扱いに窮することが往々にしてある。本論はそのような部分に関しては操作方法を明確にしながら、作者が作り上げた作品世界を読み取る(解釈する)方法のひとつとして、色彩語という観点が有効であるか否かを追究したいと考えるものである。
本研究の目的は、文学作品の中でも小説に注目し、そこに確認される色彩語の出現、またその出現の様相について分析・考察を行うとともに、色彩語の観点が作品を解釈する方法として機能するのか否かを明らかにすることである。研究対象とする作品をひとつひとつ取り上げ、指定した色彩語を抽出し、それらを分析・考察するとともに作品主題と比較することによって、色彩語が作品主題を構築する役割の一端を担うものとして機能しているのかをみていく。これに関して執筆者は、現段階では作品主題と色彩語の関係を読み取ることが、色彩語を用いて作者が作り上げた作品世界を読み取る(解釈する)ことにつながると考えている。
文学作品における色彩語の研究は、代表者として波多野完治や伊原昭、大藤幹夫らが挙げられ成果を残しているが、未だ研究の方法論としては確立されていないと言えるだろう。大藤幹夫は文学作品における色彩語研究が未熟であることを
わが国のこの方面の研究注は、これまで一部の人の研究にゆだねられ、それも全体計画の一部であって正面からこれを取り上げてはいなかった。
(注:色彩語研究を指す)―大藤幹夫『色彩語研究の成果と問題点』49頁―
と述べている。しかしこの論は1971年当時であるからこそ言えるものであり、多くはないにしろ、近年においては文学作品の色彩語を対象とした研究は注目されてきたようである。例えば1981年に倉橋克は「作家の色彩感覚−谷崎潤一郎について」という題目で谷崎作品を色彩語の観点から考察し、また岡崎晃一は「近代文学の色彩語」(1997)や「近代作家の色彩感覚」(1998年)という論文を提出していた。これらは文学研究の一部として色彩語を扱っているのではなく、色彩語を研究テーマに据え、文学作品を考察したものである。
しかしこのように色彩語と真正面から対峙した研究の絶対数は、やはり視点や語りの主体などを観点に据えた研究に比べると依然少ないままである。つまり、未だ発展途上の分野であるといえるのである。従来の文学作品における色彩語研究の問題として長年色彩研究に携わってきた大熊利夫は、
文学作品から色彩語注を取り出して、その時代の特色のなかで色がどういう使われ方をしているかを探った本はいくつかある。けれども、読んでみるとどれも食い足りないなにかを感じるのである。
(注:「色彩語は、形容詞、色の名前を基本にした。」と作者は述べている。)―大熊利夫『色彩文学論―色彩表現から見直す近代文学―』10頁―
と述べている。これは1995年初版発行の『色彩文学論―色彩表現から見直す近代文学―』における記述である。この自らの問いに対して大熊は、従来の研究というものが、ある特定の文学作品に出現している色彩語を分析し、結果をまとめるだけに留まっており、「「なぜ、どうして」そういう色彩語を多く使ったり、特別な色彩語を作品のなかで使っているのかということまで踏み込んでいない」という点に「食い足りなさ」の原因があると述べている。つまり従来の研究では、作家がその色彩語を使用する意味の言及、色彩語と作品のテーマ性の比較がなされていないため、単なる色彩語抽出に留まる結果となってしまっている、と指摘しているのである。
またこれまでの研究には、もうひとつ問題点がある。それは研究方法である。
後に詳しく述べることとするが、色彩語研究を打ち立てた波多野完治は、その研究の大半が、研究対象を一人の作家につき一つの作品として据えたものであった。その後年数を経るにしたがって研究方法がさまざまな研究者の間で見直され、一人の作家でも複数の作品を研究対象に据える方法が提示されてきた。しかし特定の作家が生み出したほとんど全ての作品を対象とした研究は近年になってからのことであり、以下に挙げる上村和美や大藤幹夫らによるものが代表される。一人の作家につき一つの作品を研究対象として分析・考察を行うと、それはその作品の色彩語研究となり、作家の色彩語使用の実態をつかめているとは言えない。各作品で叙述方法が異なるのは当然のことであるためである。作家の色彩語使用の実態における研究を行うのであれば、出来る限りその作家が生み出した多くの作品を取り上げなければならないはずである。この問題点を含め、色彩語の観点から文学作品を捉え直す研究は、現段階は未だ模索状態なのであり、さまざまな方法論が打ち立てられている最中であることを再度指摘しておきたい。
ではここで原点に立ち戻り、文学作品における色彩語は作品中において、どのような要素として機能しているといえるのかを考え直してみたい。
文学作品とは言うまでもなく作者により構築されたものであり、そのすべての叙述は作者の意図的な行為の結果として存在している。つまり文学作品で描かれる世界は作家が作り上げた虚構の物語として成立し、それらはすべて作家によって意図的に構造化されたものなのである。よってその虚構世界の構築のために使用されている叙述表現すべて、色彩語に関しても当然例に漏れることなく、作品世界を作り上げる「要素」として機能していると言うことができる。この点に関しては岡崎も「(中略)各人各様の好みがあり、使われ方に特徴がある。色彩語も一種の文体要素であると言えよう。」(―『解釈 第43巻10月号』31頁―)と述べ、伊原も、
(中略)記録的な文献注では、記録すべき個々の事物についての説明のために、個々に正確な色彩を明示し、概念的に規定されているのでまったく非文芸的である。これに反して文学作品では、色彩を表現すると否とは作者の自由であり、作者は制約を受けずに彼の感情・意志に従って選ぶ色彩が形象される。 (注:伊原はこの「記録的な文献」の指示範囲として、大日本古文書(正倉院文書など天平六年より宝亀七年までの分)・大日本仏教全書(西大寺文書)・古語拾遺・上宮聖徳法王帝説・住吉大社神代記・日本後紀・令集解・令義解・聖徳太子伝歴・続日本紀・入唐求法巡礼記などの古代文献にすぎないと明示している。)―伊原昭『色彩と文芸美』21頁―
と述べている。どのような色彩を提示するか、または色彩語を提示するのかしないのかという有無の選択についても、その判断は作品世界を構築する作家に一任されている。仮に色彩語が選択された場合、それは作品の要素の一つとして機能し、わたしたちは作家の意図の表れであるとみなすことができるのである。これは伊原の言う「記録的な文献」にも言えることであるが、すでに色彩が見えているものを描写する場合と、虚構の世界において色彩を恣意的に提示する場合を比べると、その意図のレベルに差が生じていることは明らかであると言えるだろう。
さらに色彩語のもうひとつの機能として、読者に対し、作品世界をより具体的に表現する働きをもつと考えられる。対象に対して色彩がどのように現れているかを、あえて色彩語を用いて明示するという行為からは、読者に対し作家が自身の理想とする虚構世界へ向かわせようとする意志が認められる。色彩語は作家の意図的な行為の結果として表現されていることは先に述べたが、それと同時に、作家の読者意識が顕著に表れたものであるとも言うことができるのである。
従来の文学作品における色彩語の研究は、単なる色彩語出現の割合のみを明らかにすることだけに留まる傾向にあったこと、また作家が多数対象とされ、研究対象となる作品はたいへん限定されていたことを問題点として先に述べた。その点を考慮し本研究はまず、より一層分析の精度を上げるため、作家を限定して彼の多くの作品を分析・考察し、その作家における色彩語表出の実態を明らかにする。そして、単に色彩語の出現頻度や出現割合のみを明らかにするのではなく、その結果と作品主題とを照らし合わせ、比較考察することにより、色彩語を手がかりに作品を解釈することが果たして有効であるかどうかを探っていきたい。わたしたちが実際に目で見る色というものは無限に、多様に存在する。しかしそれを表現するためのことば(単語)が、実際視覚で捉えた実体を完全に言い表すことはない。これは現実世界においても、虚構の世界においても同様である。しかしその限られた表現を使ってでも、作家があえてその色名を指して表現したというこの事実部分には、研究を行うための十分な可能性があると考える。
また、この研究はある特定された作家の文体を通時的に観察することになり、結果としてその作家の全体的な色彩語の叙述傾向を考察することにもなる。しかしそれを単なる研究対象とした作家の癖である、という早計な結論を出すのではなく、個々の作品を丁寧に見ていくことによって、その作品の主題とその作品に現れている色彩語を関連付けて結論付けたい。さらに本論で用いる研究方法は、今回研究対象とする作家のみに通用するものとして留めることのないよう留意し、この方法がこれからの色彩語研究におけるひとつの可能性として発展することを願うものである。研究対象としては太宰治作品を取り上げるが、決して彼の作品だけに通用するような方法論を打ち立てるのではなく、可能な限り他作家の作品にも通じる研究方法として提示することを目指したい。これにより、この研究結果が文章表現論の分野で機能することは言うまでもなく、ひいては国語教育としての観点においても有効となることを期待している。
波多野の色彩語研究は、後の研究の基盤となるものであり、「文学作品における色彩語」という研究の着眼点を広く示したという点で大きく貢献している。
波多野は『最近の文章心理学』(昭和40年)において、まず各作家の色彩語数の多少について述べる際、
「作家というものが大体どのぐらいの色彩語をつかうかの、見当がついていなければ、そういう評価も主観的にとどまるといわねばならない。大体の基準にくらべて多いとか少ないとかいうのでなくては、客観的な評価としての「カラフル」「色彩にとぼしい」という語は妥当性をもたぬわけである。」―波多野完治『最近の文章心理学』46頁―
という問題提起を行い、日本の代表作家八人についてそれぞれの代表作を取り上げ、日本の小説における色彩語表現の基準を導き出そうとした。
その研究方法は、研究者主観で各々はっきりと色彩語であると判断できるものを冒頭から順に拾っていき、その数が100個になるまでの総文字数を利用して分析を施している。例えば、田山花袋は『田舎教師』において色名100個が現れるまで59,942字を必要としていることから、色名1語につき約599文字必要であるという結果を彼は導いた。さらに他作家の色彩語の出現も同様に分析し、平均をとることで、「日本の小説における叙述ではおおよそ1,277字の内1語色名が存在する」と結論付けた。
しかしこの方法論では、波多野自身も指摘しているがいくつかの問題点があることを指摘しておきたい。
まずは作家・作品の背景についてである。波多野がこの研究で示した作家と彼らが生きた時期、作品名に加え、その作品の発表年を次頁に示す。
男性作家調査対象
作家名 | 存命期間 | 作品名 | 作品発表年 |
田山花袋 | 1871-1930(明治4-昭和5) | 『田舎教師』 | 明治42 |
島崎藤村 | 1872-1943(明治5−昭和18) | 『破戒』 | 明治39 |
夏目漱石 | 1867-1916(慶応3-大正5) | 『門』 | 明治43 |
志賀直哉 | 1883-1971(明治16-昭和46) | 『暗夜行路』 | 大正10 |
谷崎潤一郎 | 1886-1965(明治19-昭和40) | 『細雪』 | 昭和18 |
川端康成 | 1899-1972(明治37-昭和28) | 『雪国』 | 昭和10 |
堀辰雄 | 1904-1953(明治37-昭和28) | 短編 | 作品不特定のため未定 |
井上靖 | 1907-1991(明治40-平成3) | 『氷壁』 | 昭和32 |
作家名 | 存命期間 | 作品名 | 作品発表年 |
野上弥生子 | 1903-1951(明治36-昭和26) | 『真知子』 | 昭和5 |
岡本かの子 | 1889-1939(明治22−昭和14) | 『母子叙情』 | 昭和12 |
林芙美子 | 1885-1985(明治18-昭和60) | 『放浪記』 | 昭和5 |
宇野千代 | 1883-1971(明治30-平成8) | 『色ざんげ』 | 昭和10 |
宮本百合子 | 1899-1951(明治32-昭和26) | 『伸子』 | 大正15 |
では次に、伊原昭の色彩語研究について取り上げる。
伊原(大正6年〜)は主に国文学の立場から色彩語研究を行っており、その業績は『日本文学色彩用語集成 ―中世―』(笠間書院 昭和50)と併せて『日本文学色彩用語集成 ―中古―』(笠間書院 昭和52)を提示するなど大きなものである。この他の代表著書には『色彩と文学 ―古典和歌をしらべて―』(桜楓社 昭和34)、『色彩と文学美 ―古典における―』(笠間書院 昭和46)、『平安朝の文学と色彩』(中央公論社 昭和57)などが挙げられ、古典における色彩語研究の代表者として位置づけられるだろう。
彼女は主に和歌を対象に研究を行い、何色がどのような系譜をたどって色彩語として日本人に表現されてきたかを明らかにしている。例えば白に関しての結論部分を引用すると、彼女はさまざまな角度から白という色彩語に関する分析を行った後、
(中略)白は、万葉・八代集・十三代集共に自然現象を主として形容し、概して清らかな情感を歌に与えた色であると言える。ただ万葉ではごく自然に物の姿の一部分としてありのままに歌の中によみこまれてしまつているのであるが、勅撰集では共通して、他の色彩や色彩語を伴わせて白を強調して示す、或は他の白い物になぞらえるということが盛んに行われたのであった。―伊原昭『色彩と文学』216頁―
というように、当時実際に書かれた文献(主に和歌)を研究対象とし、その色の使われ方を通時的に、総合的に考察している。彼女の研究は色の使われ方がどのような変遷を辿ったのかということを明らかにするだけではなく、その初出を私たちに提示し、大きなくくりとして、日本の古典における文章表現方法の変遷をも明らかにしたと言えるだろう。
また彼女はこの色彩語研究を通して、心理学的側面からも文学作品に対しアプローチを施している。例えば『平安朝の文学と色彩』(中央公論社 昭和57年)においては、色彩から連想できる情感を『源氏物語』や『枕草子』に登場する人物の服装等から考察し、彼らの心理や性格について迫っている。『源氏物語』における考察をここでひとつ引用すると、
『源氏物語』は、以上のように、衣裳の色目を、ただ人物の表面の姿を現実的に表現し、絵画のように描きだすためのものとしてだけではない、心情・性格などの内面のあり方、それからにじみ出る態度、さらに容貌・容姿などの外面のあり方、そうした人間としてのすべてを象徴するものとして、とりあげている。服色と人とは相即不離、一体のものであることを示している。―伊原昭『平安朝の文学と色彩』162頁―
としており、服色から登場人物の内面を推し量ることが可能であると断言した。本研究は、単なる太宰作品の色彩語の表面的な分析に終わることを目指しているわけではない。この伊原の言葉にみられるように、太宰が含ませた意味を色彩語から見出すことを目指し、さらには作品のテーマ性までを比較・研究対象として、色彩語とどのような関係があるのかをつかむことを目標とする。このような考察は、色彩語から作品への解釈を試みることへつながり、伊原の研究はその先駆けとして有効な方法を効果的に提示してくれているといえるだろう。
しかし彼女の研究は研究当時の時代背景もあり、色彩語を手作業で数え上げているように思われる。本研究ではその点において、コンピューターによる検索手段を用いるため、手作業から生じるであろう誤差を出すことはない。その反面、コンピューターは指定された語句をそのまま抽出するので色彩を表していなくても(たとえば「赤子」のようなものでも)拾い上げてしまうことが往々にしてある。このような語をどの範囲まで色彩を表すものとして位置づけるかが、本研究における分析の要となるだろう。
次に上村和美の『文学作品にみる色彩表現分析(芥川龍之介作品への適用)』(双文社 平成11年)について、その研究方法を考察する。彼女は「芥川の小説149編のテキストデータベースを使用し、その中から、色彩表現を抽出し、芥川の色彩観を数量的に考察し」ている。(―上村和美『文学作品にみる色彩表現分析』31頁―)なお、彼女の研究方法の手順は本研究方法に一番近しいものである。
彼女はまず149編の芥川小説の総文字数と、その中から出現している白、黒、赤、青、黄、紫、緑の七色を表す語句を抽出している。その抽出方法としては、色彩として取り上げることが可能な語句を、Aタイプ「色彩をかんじることができて、他の機能に置き換えても同一の事物を指示する」もの(青空、青い空)、Bタイプ「他の機能に置き換えると、別の事物を指示する」もの(白鳥、赤帽)、Cタイプ「色彩を感じることができないノイズ」(告白、青年)の三つに分類した。これらを色彩が強く表現されていると思われる順に並べると、Aタイプ>Bタイプ>Cタイプということになる。そこでCタイプのものは研究対象外にするとして、Bタイプの判断が困難になる。
たとえば「黒幕」という語について例が挙げられているが、この語は
一、部屋には光を遮るために、黒幕が張ってあった。
二、彼は組織の黒幕だった。
というようにそれぞれの文脈で使用されると異なる意味が反映する語である。これについて彼女は
(一)、部屋には光を遮るために、黒い幕が張ってあった。
(二)、彼は組織の黒い幕だった。
というように「い」を付加することによって、その語が色彩を表しているかどうかを判別するようにし、これは人間が手作業で行えば可能であると述べている。しかし彼女はあくまでもコンピューターによる機械的作業に重きを置いているため、BタイプはAタイプとして考えられる場合とCタイプとして考えられる可能性を孕むことから、研究対象とするタイプはAタイプのみに絞っている。
しかしこの抽出方法で、果たして芥川龍之介作品に対する完全な色彩語研究が行われているということができるのであろうか。
確かに彼女の研究方法はコンピューターを使用している点でまず取りこぼしなどの誤差は考えられにくく、芥川龍之介の色彩表現が「厳粛さ=白」「嫌悪=黒」「現実=赤」「追憶=青」「死=黄」「不安と憧憬=紫」「自然と安堵=緑」(―上村和美『文学作品にみる色彩表現分析』148頁―)として結論付けた点において功績を残しているといえるだろう。しかし実際にはっきりとした色を表していない可能性のある語でも、例えば(二)「彼は組織の黒い幕だった」と表現されていても、それは「裏で動かしている人物であった」などと言い換えることができたはずである。これをあえてそのようには言わず、「黒幕」として使用した芥川龍之介は、少なからず闇の色、つまり「黒」を意識しただろうと思われる。よって本研究においては、コンピューターを用い、機械的に分類を行いながらも、上村の分類したBタイプに配される語句に関しては、自身が文脈から判断することによって、色彩語として分類するか否かを判断することとした。
先にこの上村の研究は、本論で取り上げる先行研究の中で方法論としては本研究と一番近しいものであると述べた。しかし上記と併せてもう一点、本論と異なる点を取り上げると、それは作品における主題との考察である。上村はあくまでも言語学的な観点において考察を続け、どのように修飾されているかなどの文法的な傾向や、具体的に色彩が表されている対象物「身体」「着物・装身具」「自然物」「人工物」「心理・象徴」と色の相関を考察するにとどまっている。
作家は文学作品を構築する際、なんらかのテーマ(主題)をもって表現し、作品世界を構築させている。テーマ性をもったある一つの作品世界を構築するために、色彩語もその役割の一端を担っていると考えることは可能である。しかし上村のような色彩語の表出における分析や考察だけでは、作品ひとつひとつに注目するというよりも、あくまで芥川龍之介はそれらの色を全作品においてどのように使用しているかという全体的な傾向を明らかにすることに留まる。本研究では、作家の色彩語使用における傾向を分析しながらも、それが個々の作品においてどのような意味づけがなされ、世界を構築するために機能しているのかというところまで考察を深めたい。表面的かつ全体的な色彩語使用を明らかにし、個々の作品との相関をみることが、作品解釈の方法の一つとして色彩語が有効であるかを研究することにつながるだろう。
最後に、大藤幹夫の研究について取り上げる。大藤は、宮沢賢治の童話を研究対象として色彩語研究を行った人物である。彼はそれまで色彩語研究があまり着手されていなかった原因として、文学は作家の主観的表現の上に成り立っており、それを形式的に数量化すれば必ず諸々の問題が生じる可能性が高いということ、また研究者の主観的判断に委ねなければならない部分が往々にして存在すること、最後に研究方法の違いによって全く異なった結果が現れる場合があることを挙げている。この研究方法の違いに関しては本研究でも丁寧に扱わなければならない項目である。大藤は波多野完治の研究と安本美典の研究を例に挙げ、色彩語研究が抱える問題点について以下のように論を進めている。
まず「研究方法の違いによって全く異なった結果が現れる場合がある」ということに関してであるが、例えば二人の色彩語研究者がいたとして、両者が同じ作家を取り扱うとしてもその作家の分析対象作品が異なった場合、色彩語表出の差異が起こってしまうということである。波多野と安本は同じ女流作家五名を挙げているが、波多野は野上弥生子の作品で『真知子』を取り上げているのに対し、安本は『海神丸』を取り上げている。これは両者が同一の作家を取り上げていることは共通であるとしても、結局は作品を一つに固定したために起こる問題として捉えることができるだろう。ここでの問題を解決するためには、ある作家の色彩語傾向を考察する場合、その作家のほぼ全作品を取り上げ、その総文字数から平均値を割り出すことが必要である。大藤はこのような考えのもと、自身の研究において『宮沢賢治全集』の6・7・8・9・10巻から124作品を対象としている。なお本論においては、この問題点をクリアするため太宰が執筆した作品のほとんどを占める154作品を取り上げることとした。
次に「研究法の違い」について色彩語抽出の方法から考察する。ここで、大藤のことばを引用したい。
両者の抽出法をくらべると、波多野は色彩語数を固定して調査し、安本は、字数を固定して色彩語を抽出しようとしている点に差異がみられる。―大藤幹夫『宮沢賢治童話における色彩語の研究(改訂版)』6頁―
先にも述べたように、波多野は作品の書き出しから色彩語を100個取り出し、その色彩語100個に要する総文字数の割合から一語あたりの必要文字数を算出する方法をとっていた。一方安本は、彼女独自の方法に従いテキストとして用いた『現代日本文学全集』(筑摩書房)が1頁3段組になっていることからランダムに20個の段を取り出す手順を踏んでいる。これは400字詰め原稿用紙30枚分程度の文量にあたるが、安本はこの取り出した文章から色彩語がいくつ存在しているのかを調査することによってその出現割合を導いた。よって両者の色彩語を抽出する手順が根本的に異なるために、やはり結果として差異が生まれてしまっていた。この問題点を踏まえ大藤は、宮沢賢治の童話として位置づけられている124作品を対象とし、その中から彼の基準に従って色彩語として判断できるものすべてを作品全体から取り上げることとしている。本研究においてもこの大藤の方法の立場をとり、作品ひとつひとつのすべての文章を取り上げ、色彩語を抽出することとする。
次に大藤は、どのような対象物に対して色彩が表現されているかを取り上げているが、その分類にはいささか疑問が残る。彼は対象物の分類を「自然(1)」「自然(2)」「光・火」「人・人以外」「衣服」「建造物・道具」の6つで行っている。しかし大藤は「賢治童話に表現されているモノ(対象)は、おびただしい数になる。」と自身でも述べていることから、この6つの大分類では細かいデータとしての実証にはなりにくいのではないかと思われる。これは上記上村の5つの分類わけに関しても、同様のことが言えるだろう。
しかし彼の研究はこれまでの色彩語研究のなかでもより精密で、綿密に練られたものである。彼の研究は、賢治の故郷の環境と、彼の作品に出現する色彩語の関連性をみたという点においても前例になく、評価される研究であると考えられている。本論ではこの大藤の色彩語研究を大いに参考にし、さらに細かな分析を行いたい。
以上、これらの主な色彩語研究を取り上げ、それらの変遷について考察してきた。次に各研究の主な特徴を挙げ、以降本研究を執筆者が行う上で参考にし、付け足したいと考えている内容をまとめている。以下でいう「研究名」とは、本章で取り上げ、特に注目した研究を挙げたのみであり、同研究者におけるその他の関連研究も存在するということをここで明言しておく。なお本論で取り上げた先行研究はあくまでも代表的なものであり、その他発表されている研究はおおよそこれらのうちのどれかに類似しているものと考える。
ここでは色彩語の定義づけを行うとともに、対象とする色彩語の限定について述べる。
『日本国語大辞典』(小学館)によると、「色彩語」という項目はなく「色彩」としての意味の記述は以下のようになっている。
しきさい【色彩】[名]
@色。また、色の調子やぐあい。いろどりや色合い。
Aある人、物事などに現れてくる、ある様子や傾向。―『日本国語大辞典 第九巻』424頁―
文学作品における色彩語を研究する上では、@A両方の意味を大切にしながらも、特にAの意味に注目することになるだろう。これは特に、顔色などに使用される色彩や、視点人物からみた他の登場人物の容姿の評価などの考察に関わるものである。
また、本研究において研究対象とする色彩は「赤」、「青」、「白」、「黒」である。色彩に注目して文学研究を行う場合、これら四色に加えて黄色にも着目している研究が数多く散見されるが、今回分析を行ったところ、研究対象としている太宰治作品では「黄」は118個しか出現しておらず、これらは四色で一番数の少なかった「青」の出現頻度245個と大きく隔たっていると考えたため除外した。また各色の類似色については同じ「赤」として区別される「紅」、「朱」、「緋」、「丹」を加え、「青」については「蒼」、「碧」を加えて分析している。さらに「赤」「白」「黒」に関してはひらがな表記「あか」「しろ」「くろ」でも色彩語が出現していたため、これも併せて分析することとした。なお「青」に関しては検索の結果、このような色彩表現は出現しなかったため取り上げていない。なお分析において「赤系統」「青系統」「白系統」「黒系統」と表示している部分があるが、これは上記で述べたように「赤」、「紅」、「朱」、「緋」、「丹」、「あか」の6項目をすべてまとめて「赤系統」とし、「青」、「蒼」、「碧」の3項目を「青系統」、「白」と「しろ」の2項目をまとめて「白系統」、「黒」と「くろ」の2項目をまとめて「黒系統」としている。
また、本論は各系統色の出現傾向をみるとともに、太宰がどのような意味を込めて色彩語を使用しているかということについても迫っていく。よってここで、各系統の代表色「赤」「青」「白」「黒」について、日本においてはどのような象徴性があると認識されているのかを確認しておく。次頁に掲載している引用文は、武井邦彦がそれぞれの色の象徴性について述べたものである。(下線は執筆者による)このような象徴性に則って太宰が色彩語を使用しているか否かについては後の分析・考察の段階で述べることとする。
<赤>
「赤は、我が国に限らず、多くの人々にとって魅力的な色であり、おおいに用いられてきた色である。また、かつては、呪術的な意味あいで用いられたことも多かったといえよう。赤は、青が理性の色であるのに対し、情熱の色である。赤は火の色であり、燃えたぎる情熱の炎を思わせる。そして、活力、激情、喜悦、誠心、革命、興奮などを象徴するものとされている。我が国では、古来、慣習的にめでたい色とされ、慶祝の意味で用いられることも多い。」(―武井邦彦『日本色彩辞典』32頁―)
<青>
「(中略)その落着いた美しさは、日本の代表的な色といってもよいものと思われる。青は晴れわたった大空の色であり、幸福と希望をあらわす。(中略)また、青は、沈着、深遠、悠久、瞑想、冷静を、そして、ときには未完を象徴する。」(―武井邦彦『日本色彩辞典』29頁―)
<白>
「白は「汚れがない」「清浄である」というようなことを内容とすると考えられ、純潔、純粋、清浄、素朴、潔白、神聖などを象徴する。古来、我が国では、その「明白」という感じから、「清浄」な色として尊ばれてきた歴史がある。また、白は神聖な色として、信仰の色によく用いられて来たが、特に我が国においては、神事の色として古く上代より尊ばれ用いられてきている。白は、日本民族の精神構造に合った、象徴に満ちた色であるということができよう。」(―武井邦彦『日本色彩辞典』83頁―)
<黒>
「黒は、あらゆる意味で、白と対照的な色といえよう。黒は暗闇の色のような感じから、死、悲哀、絶望、静寂、沈黙を象徴する。そのため、凶色とされることが多く、僧衣・喪服の色などにも用いられる。また、罪悪、不正などの意味をもたされることもある。なお、厳粛、荘重などの象徴から、白とともに礼服の色にも用いられる。」(―武井邦彦『日本色彩辞典』63頁―)
これらのイメージ、象徴性をもつ色について、本論では太宰治作品を対象に研究を進めていく。なお、この引用文についてはあくまでも参考にとどめ、太宰が象徴させていると考えられるものを明らかにしていきたい。
幾種類もある色彩語の中で「赤」、「青」、「白」、「黒」を選択した理由は、これらが対をなす色彩であり、もっとも基本的な色であると考えられるからである。この選択に関しては主に、色彩語の研究に携わった柴田武の論を採用した。彼はこの四色を他の色名群と区別して「基本色名」と呼び、次のような特徴づけを行っている。(―柴田武「色名の語彙システム」『「日本語学」特集テーマ別ファイル 普及版 意味4』72頁―)
基本色名の特徴
@基本色名は単純語である。
A基本色は物の色に由来していない。
B基本色名は共通の接尾語・接頭語のようなものをとることができる。
まず@に関して単純語とは、「あかむらさき」や「黄みのあか」というように、複合語や三語からなるものなどが日本における色名には多く、単純語として規定されているのは本研究対象の四色と、「紫」「緑」のみとなっている。(JIS色名より)
Aに関して柴田は、上記で挙げた基本色名である四色以外の「紫」は、ムラサキ科の多年草「紫」の根からとる染料の色が由来となっており、また「緑」に関してはもともと木の若芽の色からきているなど、物の色が由来していることをつきとめ、これらを基本色名候補から除外するに至っている。
さらに基本色名の特徴Bとしては、接尾語に「い」や「さ」がつくことができるか、また「あかあか」のように重複して語として構成することができるかを判断基準としている。「黄」に関しては「黄色」という呼び方はあるものの「黄い」や「黄さ」、「黄黄」という呼び方は存在しないため、今回基本色名として取り上げる項目からは除外することとなっている。よって柴田のいう「基本色名」は「赤」「青」「白」「黒」の四色として決定するということになる。
さらにこの四色の組み合わせとして、「あかぐろい」「あおぐろい」「あおじろい」のように複合することができても、「あかあおい」「しろくろい」のようには表現することがないことを彼は指摘している。ここから、この四色の色名は「赤―青」「白―黒」という対立関係をみることができるのである。
あか−あお
|
しろ―くろ
このように四色の関係性をみることはできるが、それぞれの明暗については以下の例を筆頭に多く説が存在する。今回は柴田の論を、あくまでも研究対象とする色を決定するという目的で扱った。
この基本四色で分ける方法は、「私の色彩語観」(―三宅鴻「私の色彩語観」『「日本語学」特集テーマ別ファイル 普及版 意味4』80頁―)という論文で、三宅鴻も同様に採用している。彼は国語国文学者である佐竹昭広の論を挙げながら、これらの色の明暗について、次の図のように表している。
つまり彼が考察したことをかみ砕いて述べると、「白」ははっきりとしていて明るい色、「青」ははっきりとはしていないが明るい色として捉え、また「赤」ははっきりとしているが明るいとは言えない色、「黒」ははっきりとしていなければ明るくもない色として位置づけたのである。この明暗については太宰の作品における作風(前期後期:暗、中期:明)にも大いに関係することであると思われるため、後の第三章で触れたいと考えている。
これらのことを踏まえ、この研究における用語を以下に整理する。
「赤系統」・・・赤、紅、朱、緋、丹、あか
「青系統」・・・青、蒼、碧
「白系統」・・・白、しろ
「黒系統」・・・黒、くろ
「色彩語」・・・赤系統、青系統、白系統、黒系統に含まれる色彩を表す語
※明暗については作風と関連性をもって使用されているかを考察することとする。
また色彩語抽出における注意点として、具体的な色名は表さないが、色が自ずと共起されるもの(「血」:赤、「牛乳」:白)に関しては、今回の研究対象からは除外している。
事物の名称等から、自ずと色を共起するものは数多くある。しかし色彩語研究を行うにあたって、これらの扱いはひじょうに難しいものである。なぜなら、「血」と聞いた人間が全員同じ色を共起するとは限らないからである。「血」と聞いた場合、多くは「赤」を想像するだろう。しかしその「赤」の色味加減は、「赤黒」や「鮮やかな赤」など多岐に及ぶと推測される。また色名をどのように表現するかについては序章で述べたような信号機の「進め」の色を例にとると、想起する色名の種類は「血」で共起する色の比ではないだろう。つまり、ある単語を受け取った全員が同じ色を共起することはないと考えられ、かつ同じ色を連想したとしても何と表現するかという点で差異が生じると考えられるのである。
この問題に関しては受け手の個人的な経験・体験が大きく関与する。一般論として「血」=「赤」を採用するとしても、その他「熟し始めたトマト」などと形容された場合、一般的に共起する色は何色として処理すればよいか決定することができない。今回はこのように個人によって微妙な捉え方の差がある可能性を考え、色彩語を抽出する際には、色名がはっきりと作者から提示されているものを採用せざるを得なかったことを予め明言したい。
しかしこの問題に関して、現段階では色彩語研究の分野において有効な研究方法は成立されていないが、ゆくゆくはこの問題をクリアした新しい研究方法を見出したいと考えている。この色の共起の問題は、読者が作品に接し、解釈するという行動を起こす限り必ず生じる問題である。日常生活において既知の物質であればその単語を理解するだけで自発的に姿形を想起するだろう。その想起したものには色付けがなされているということを考えれば、この問題は色彩語研究として避けては通れないものなのである。文章表現学の立場から捉えてみても、どのような表現をすれば読者は自身が想像してほしいと考える色を思い浮かべるようになるのか、この心理学的側面を明らかにすることは重要である。今回の研究は、このような色彩を自発的に想起してしまう可能性のある語を除外しているが、これを解決する研究方法確立のための前段階として、役立つものになることを願っている。
今回扱う研究対象は太宰治作品である。以下に、彼の略歴を整理して述べることとする。なお、これは太宰の執筆活動期間を前期・中期・後期で分割する方法や作品主題の分析等に影響すると考えられる事柄をおもに注目しながら取り上げたものである。
太宰治(本名:津島修治 1909年(明治42年)6月19日 - 1948年(昭和23年)6月13日)は、青森県北津軽郡金木村大字金木字朝日山に父:源右衛門と母:タネの間に男七人・女四人の末から二番目として生まれた。津島家は県内屈指の素封家として知られ、天皇崇拝の傾向が強い家庭であった。そのことも関係し、有権者は天皇との距離が近いと考えた父:源右衛門は衆議院議員にまで上り詰めた有力者であった。太宰は兄弟が相次いで亡くなったことや、実母が病弱であったことなどから乳母のもとで育てられるようになる。その後乳母が去り、叔母のキヱに代わって育てられた彼は、数え年八歳でキヱから引き離されるまで、彼女を実母であると思い込んでいた。さらにその後太宰の子守となった近村タケの教育によって、彼は早くから本を読むことを覚え、学齢期に達する前に小学校に入学し、特別に教室の一隅で机と椅子があてがわれた。タケは太宰が九歳の時に津島家を去った。実父の源右衛門は仕事で忙しくしており、実母とは血のつながりがありながらも実際に幼少期を育てられることはなかったという事実は、彼の幼い心に重くのしかかることとなったと推測される。
太宰は兄弟の内で最も聡明で、学校の成績は常に優秀を修めていた。なかでも文章を得意としていた彼は、青森中学に入ると「花子さん」と題するユーモア小説を書き、同級生を笑わせたという話が伝わっている。津軽の実家から余裕のある仕送りが送られていたということも手伝い、彼は級友や弟、寄宿先の若夫婦などを誘って雑誌の創刊を試みている。またこのときには生涯師と仰ぐ井伏鱒二の『山椒魚』のもとになった『幽閉』を読み、彼を文学の道へと奮い立たせた。さらに彼を文学の道に誘ったもう一人の重要な人物として芥川龍之介が挙げられる。太宰は秀才であったが、それと同時に実家からの期待は大きく、エリートの道を指示されるようになっていた。家族に認められたい一心から彼は懸命に努力をするが、一方でもうやめてしまいたいという気持ちが膨らんでいたようである。兄からは、文学は馬鹿のやることなどと言われており、勉強の合間に息抜きとして文学作品に触れていた彼は、反動からより一層、文学の世界に惹かれていくようになる。このころから、家族に対する疎外感や緊張感を強く感じ始めるようになった。
1927(昭和2)年、太宰は高校受験を迎えたが、努力報いず第一志望の受験に失敗した。太宰にとっては強いショックであり、同時に家の期待を裏切ったという罪の意識が芽生え始める。その後旧制の弘前高校へ進んだのであるが、彼が高校一年生の時、芥川の自殺を知り強い衝撃を受ける。芥川は太宰にとって好んで読んできた作家であったため、彼の幾度の自殺未遂は、芥川の自殺にあこがれてのことだという説が多くある。まもなく彼は料亭に出入りするようになり、芸者遊びを始めるようになって学業を放棄した。ここで知り合った小山初代は、後に四度目の自殺未遂を共にする人物である。彼がまだ高校生であるにも関わらずこのような遊びが実現したのは、一重に彼の実家の財によるものであろう。
そして1929(昭和4)年、弟である礼治の病死、自らの苦悩などが重なり、期末試験の前日である11月ごろ、町の娘と郊外でカルモチン自殺を図った。どちらも未遂に終わったが、これが太宰の一度目の自殺未遂となる。
その翌年1930(昭和5)年3月15日、文科生71名中第46席という成績で弘前高校を卒業。3月中旬に東京帝国大学を受験し、4月20日に東京帝国大学仏文科に入学した。しかし同年5月上旬、中学・高校の先輩の訪問を受けて勧誘され、非合法の社会主義運動への資金援助を承諾し、その後非合法運動に関係するようになる。彼は学校に登校しない日が続き、かねてから交際があった小山初代の存在が実家に知られることとなる。激怒した長兄の文治は太宰と初代との結婚を認める代わりに分家除籍を言い渡し、卒業までの毎月の仕送りを約束された形で太宰は初代と婚姻関係を結ぶ。しかしその同月、知り合って間もない銀座のカフェの女給・田辺あつみと鎌倉で心中未遂を起こす。田辺あつみは死亡、太宰は罪に問われたが、実家が田辺の内縁の夫に和解金を渡したことにより事態は解決された。翌年1931(昭和6)年からは満州事変が勃発し、十五年戦争が幕を開ける。
1935(昭和10)年、太宰は落第し、大学を卒業する見込みがなくなってしまったことから都新聞社の入社試験を受けるが失敗。そのまま単身で三度目の自殺未遂を企てたが、これも紐が切れたことによって未遂に終わる。その後入院し、鎮痛剤に使用していたパビナールの接種から中毒状態に陥ることとなる。佐藤春夫や井伏鱒二の援助を受け、中毒療養のため入院する。なお、この時点でも小山初代との夫婦関係は継続している。
1937(昭和12)年、入院生活から解放された太宰は、自身の入院中に妻である初代が姦通していたことを知る。衝撃を受けた太宰は群馬県谷川温泉で初代とともに自殺を図るがこれも未遂に終わった。太宰の四度目の自殺未遂である。その後、初代とは離別する。
初代と別れた翌年1938(昭和13)年、自らの師とし、懇意にしていた井伏鱒二の紹介で石原美知子と出会い、1939(昭和14)年に結婚。この石原美知子と出会ったときから、太宰執筆期の中期が訪れる。精神的にも安定し、住まいを東京の三鷹に移す。
1941(昭和16)年は太平洋戦争が始まった年であるが、彼は胸部疾患により免除された。同年八月、母:たねの容体が悪いことを聞き、約10年ぶりに一時青森に帰郷する。
1945(昭和20)年は彼の文学作品における後期の幕開けの年であるが、この時戦争が激化、東京大空襲を受けて、彼は美知子と彼女との間にできた二人の子どもを甲府に疎開させる。また美知子らが疎開したあとすぐに三鷹も空襲に襲われ、彼自身も甲府に疎開した。その後甲府の家も全焼したことにより、彼の故郷である金木の実家に疎開先を移すこととなる。
太宰は1947(昭和22)年に次女をもうけ、三人の子どもに恵まれるも自身の精神は不安定なものになっており、被害妄想が昂じて人を恐れるようになる。生活も破綻していて、この年の11月、「斜陽」のモデルとなった太田静子の間に治子が誕生し、認知した。そのころの太宰の仕事は忙しく、執筆以外にも取材やテレビドラマ化などの話が舞い込んでくる。この年、後に心中する山崎冨栄と出会い、家庭からの避難の場所とするが、太宰はその関係性に苦しむようになる。
1948(昭和23)年、過労と結核の病状悪化から身体衰弱を極め、精神的にも追いつめられるようになる。『朝日新聞』において「グッド・バイ」を80回程度連載する予定であったが、13回分の原稿を書き終えた後6月13日から14日にかけて玉川上水へ山崎富栄と入水自殺。実に、五回目の自殺計画であった。このころは持病である結核もたいへん悪化しており、単に精神状態の不調によるものではなかったことが推測される。その後6月19日に遺体発見。この日は太宰の39歳の誕生日であった。よって「グッド・バイ」は絶筆となり、未完の遺作として現代でも読み継がれている。
本研究において研究対象とする具体的な太宰治の作品名は、本論の後に付することとする。作品数は154作品である。
これらの作品はすべてテキストデータ化することで処理した。なおテキストデータは新字体で処理し、引用文については筑摩書房から出版されている『太宰治全集』を参照することで論じている。またテキストデータ化を行う際、それぞれの作品について総バイト数を調べている。2バイトは全角1字であることを考えると、全作品の総バイト数は5,028,033バイトであったため、1作品当たりの平均文字数は約16324.8字(5,028,033÷2÷154)と算出することができた。小数点以下の数値が出るのは、一部半角数字やアルファベットなどが挿入されているためであるが、今回は別段これを考慮することはない。
また「女生徒」や「パンドラの匣」、「トカトントン」、「正義と微笑」、「斜陽」などは、一から十までが太宰の創作というわけではない。知り合いの日記をベースに構想を練り直したもの、また特に「斜陽」に関しては太田静子の『斜陽日記』からほぼそのまま抜き出されているようである。この事実に即せば、太宰が使用したこれら作品における色彩語は、太宰の直接的な産物とはならないことになる。しかし、太宰があえてこの色彩語を消さず、あくまでも残したまま彼の作品として発表したことを考えると、やはりすべての叙述は太宰の名で発表されている限り太宰の叙述であると考えた方が良いだろう。よって他者の叙述を引き取った作品であっても、これらは完全に太宰治作品であると本研究はみなし、分析・考察を加えていくこととする。
研究方法は、上記に挙げた作品をそれぞれテキストデータ化し、KWIC Finderを使用することで各色における出現を確認した。このソフトは検索ワードを指定し、検索を行うとテキストデータ内すべてからその語を抽出することが可能になるものである。次にその中から色彩を表していないと考えてよい結果を取り除き、各色にデータをまとめることで分析を行っている。なお、ここでいう「色彩を表していないと考えてよい結果」とは人物名や地名、その他の語を指し、例としては「黒田先生」(「正義と微笑」)、「青森」(「トカトントン」)、「赤ちゃん」(「雪の夜の話」)「面白い」(「パンドラの匣」)などが挙げられる。なお「白足袋」など色彩と名詞(物)が合わさったものについては、分析の対象として適宜処理した。また、「青白」や「赤黒」などのこれら四色のうちいずれかが混ざった表現については、それぞれ「青」と「白」、「赤」と「黒」に分割して抽出したものと、「青白」や「赤黒」として抽出したものの双方を用意した。考察には「赤」のように単色で出現したものを「一色表現」と呼称し、「赤黒」など色彩が複数同時に使用されて出現したものを「二色表現」と呼称している。先に挙げた柴田武は「あかぐろい」などという形容の仕方は存在しないと述べているが、本研究では太宰が実際に使用している箇所が見られため、あくまでも基本色名四色を限定する際に彼の論を支持したのであって、色彩語の分析としては加えていることをここで明言しておく。
次に色彩語を抽出した後、それぞれの色彩語がどのような語と修飾関係にあるかを調べ、その色彩で表現されている対象の語を『分類語彙表』(国立国語研究所発行)を参考に区別した。この分類により、どのような対象に色彩が多用されているのかを後で述べている。
なお以下は、実際にKWIC Finderを使用し、エクセルを用いてデータをまとめたものを抜粋したものである。太宰作品における「女生徒」の「赤」「紅」「あか」に対する分析結果であり、「朱」は出現しなかったためこの表には含まれていない。また「対象語」とは文脈上色彩が使用されている対象として考えられるものを差し、「分類語」は対象語を『分類語彙表』に従って区別したものである。
色彩語が修飾している語を分類したのち、各作品を出版年順に並び替え、<分割方法T>太宰治作品における前期・中期・後期で分割した結果、<分割方法U>太宰治の人生に影響を及ぼした戦争を基準として分割した結果、<分割方法V>自殺遍歴の区切りで分割した結果の色彩語の表出の仕方を考察した。これにより、先の3つの契機は太宰の色彩語表現において何らかの影響を及ぼしているのかを検討している。
この3つの分割方法について、前期・中期・後期で分割する方法は奥野健男の論を採用したものであり、数々の太宰論でも参考にされてきた分割方法である。しかし、そのほかの戦争や自殺計画における契機も、太宰が生きた当時の日本の情勢・社会を大きく反映し、また彼の私生活に密着した事柄であるということから分析の重要な着眼点に成り得ると考えた。つまり本研究では、今までの通例であった太宰作品を前期・中期・後期のみで分割する方法だけでなく、このような彼の思想などを汲みして、戦争と自殺遍歴における分割方法を項目立てることとした。
またこれらの分析・考察の後、系統別の考察、分類語別の考察へと進み、最終的にはそれぞれの作品において通例とされている主題を挙げ、各作品における色彩語の出現状況との関係性を探っていく。なお、分析を行った資料に関しては膨大になりすぎるため、本論では割愛することとする。具体的な数値データに関しては、必要と思われる箇所に適宜提示していくこととする。
この考察で色彩語と主題との間に何らかの関係性が見えれば、色彩語が文学作品を解釈する上で、観点のひとつとして成り立つという結果を得ることができるだろう。どのような主題を基準として考えるかは熟考しなければならないが、このような分析が今後の国語学の分野だけでなく、国語教育の分野でも有効になるような結果が出ることを期待する。
ここでは本研究において対象とした全154作品の、それぞれ四系統(赤系統、青系統、白系統、黒系統)における全体の出現の割合を考察する。以下は先述した抽出の注意点に従って色彩語として認めたものの結果である。
○全作品中における四系統の出現頻度と割合
以下、表・グラフとも数値は小数点第二位を四捨五入している。
頻度(個数) | 割合(%) | |
白系統 | 609 | 32.4 |
赤系統 | 556 | 29.6 |
黒系統 | 361 | 19.2 |
青系統 | 355 | 18.9 |
合計 | 1881 | 約100 |
<分割方法T> 前期・中期・後期について
太宰の作品研究を行う際は、奥野健男の前期・中期・後期の三つでわけることが定石のようである。以下は奥野の太宰作品に関する引用文である。
太宰治の作品を年代順に見ると、大きく三つの時期を割していることがわかります。すなわち前期は、一九三三年(昭和八年)の『思ひ出』から『虚構の彷徨』を経て、三七年『HUMAN LOST』までの四年間。
(前期と中期の間に『燈籠』を挿んで、その前後一年半の沈黙の期間があります。)
中期は、三八年の『満願』より『東京八景』『新ハムレット』などを経て四五年の『惜別』『お伽草子』までの七年間。
後期は、四五年の『パンドラの匣』より『ヴィヨンの妻』『斜陽』を経て、四八年の『人間失格』『グッド・バイ』までの三年間。
この三つの時期における太宰の作品や生活は、その根底を同一の下降指向によって支えられながら、前期中期に中期は後期とはっきり対立し、前期と後期が微妙な違いを持ちながら重なり合っています。―奥野健男『奥野健男論集T』47頁―
また細谷博はこの奥野の論を採用し、自らの研究を進めている。彼はこの三分割の方法を、太宰の自殺遍歴や戦争体験、作家活動の起伏に配慮して、以下のように言い換えている。
すなわち、一九三三(昭和八)年の作家「太宰治」の出現から最初の妻と別れる一九三七(昭和十二)年ごろまでを「前期」、その後、甲府へ行き見合いをする一九三八(昭和十三)年ごろから津軽に疎開して敗戦を迎える一九四五(昭和二十)年までを「中期」、さらに、一九四五年の敗戦から一九四八(昭和二十三)年の死までを「後期」、と三期に分けるのです。それは、実生活上の大きな変化とともに、作家的転機と作風の変化に注目した区分です。 ―奥野健男『太宰治』40頁―
彼はこの区分について、太宰の作家としての活動の期間における「様々な実験的試みを行った激動」の時期として「前期」があり、「プロの作家としての自覚をもち安定した創作をつづけた」時期が「中期」、「戦後社会の中で反逆的な無頼派の姿勢をあらわした」時期が「後期」であると述べている。
よく太宰研究の中でこの区分については、「前期」は暗い作風が多い一方、「中期」は明るく、「後期」は再び暗くなるという述べられ方をしている。しかしこのもとに配されるすべての作品における作風がこのようにまとめられるかについては疑問が残る。作品の明るさや暗さは、読者の個人的判断に過ぎないということが原因のひとつとして挙げられる。
今回の研究については、今まで太宰研究の通説であったこの区分をもとにし、また派生させながら分析・考察を行いたいと考えている。この結果が果たして作風の明暗の定説に関係しているのかもみていきたい。
<分割方法U> 戦争について
太宰は肺結核を患った経験により、丙種として判定され、自身の出兵は免れている。よって自国において、戦前・戦中・戦後の間継続的に筆をとった(とらざるを得なかった)戦中作家であると言えるだろう。太宰は1914(大正3)年の第一次世界大戦や1931(昭和6)年の満州事変、1937(昭和12)年の日中戦争、1941(昭和16)年の太平洋戦争を経験した。これらの戦争経験は、彼に少なからず作風の変化をもたらしたことであろう。作品内容としても戦時下の様子が描かれているものは散見されるが、果たして色彩語に関してもそのような変化が表れているのかを考察したい。推論としては、異国文化が戦争を契機に日本に介入してきたことが予想されるため、外国製品に対する色彩語が多く見られるのではないだろうかということ、また戦争の暗さを表す「黒」も頻出するのではないかと考えている。
よってこの分割方法Uの分け方は、戦争発生時をもとにすることとする。先にも述べたが太宰は1914(大正3)年は太宰がまだ当時五歳であること、また1931(昭和6)年は彼が本格的に執筆を始めた時であったことからこれらの基準を除外し、1937(昭和12)年、1941(昭和16)年の戦争勃発を生きた文学作家と考え、この二つの契機をもとに考察していきたい。
<分割方法V> 自殺遍歴について
太宰は絶命するまでに四度の自殺未遂を行い、最終的には玉川で入水自殺を完遂した。これらの自殺には芥川への憧れなども語り伝わっているが、ほぼ必ずと言ってもいいほど女性が伴っているという点にも注目したい。彼の自殺遍歴について簡単にまとめると、次頁のように整理することができる。
今回研究対象とした154作品の内、色彩語が見られなかった作品は「あさましきもの」「誰も知らぬ」「一燈」「庭」「やんぬる哉」「苦悩の年鑑」の6作品であった。これは全作品中約4.5%を占めるものである。またこの6作品の総バイト数は59,120バイトであり、全体のバイト数5,028,033からその割合を求めると約1.2%でしかないことがわかった。バイト数は文字数の二倍として反映しているから、これは文字数に関しても同様のことがいえる。
これに関しては今一度考察する必要があるだろう。なぜなら色彩語が使用されていない作品と使用されている作品を比較することによって、太宰作品における色彩語がどのような場合に表出し、また色彩語がどのような役割を担っているかを明らかにすることになると考えられるからである。
まず、これら6作品における総バイト数と文字数の関係から考察する。総バイト数は59,120バイトであることから、実際に使用されている総文字数は29,560文字であるということがわかる。これを単純に6作品という作品数で割ると、一作品当たり平均約4,926.7文字が使用されているという計算になる。これは400字詰め原稿用紙に換算した場合、約12.3枚にあたる。
ここで色彩語が使用されている作品の総文字数を計算する。対象とした全作品の総バイト数は5,028,033バイトであり、そこから色彩語使用の作品の総文字数を計算するには以下の式の値を求めればよいということになる。
(色彩語使用作品の総文字数)÷(色彩語使用の作品数)
=(色彩語使用の一作品あたりの平均文字数)
{(5,028,033−59,120)÷2}÷(154−6)
=16786.9
以上の計算から、色彩語が使用されている作品の平均総文字数は約16,786.9文字であるということがわかった。これは色彩語が使用されていない作品の平均文字数の約3.4倍であるということを指す。この結果より、色彩語が使用されない作品の傾向の一つとして、文量の少なさが挙げられるのではないかと思われる。
では次に、色彩語が使用されていなかった作品について、特徴や主題を述べることとする。
○「あさましきもの」
この作品は太宰執筆時期の前期にあたる昭和12年4月に、『若草』を媒体として発表された作品である。3つの小話が挿入されており、作者である太宰自身が当作品について、結末部に「これは、かの新人競作、幻燈のまちの、なでしこ、はまゆう、椿、などの、ちょいと、ちょいとの手招きと変らぬ早春コント集の一篇たるべき運命の不文、知りつつも濁酒三合を得たくて、ペン百貫の杖よりも重き思い、しのびつつ、ようやく六枚、あきらかにこれ、破廉恥の市井売文の徒、あさましとも、はずかしとも、ひとりでは大家のような気で居れど、誰も大家と見ぬぞ悲しき。一笑。」と述べている。この低評価が意図的であるか否かは太宰のみぞ知るところであるが、3つの小話に登場する各主人公をあさましく思う対象として描き、またこの作品についてもそのように評価していると捉えるのなら、作品題通り太宰自身が「あさましきもの」と考えるものについて書き綴った作品であると捉えることができる。よってこの作品主題は作品題通り、「(この作品自身を含めて)あさましきもの」として位置づけることができるだろう。
○「誰も知らぬ」
「誰も知らぬ」は今年女学校三年になる娘をもつ主人公(「安井夫人」)の、秘めていた過去の恋愛や秘密を暴露する形式で展開する作品である。奥野はこの作品について「運命のわかれる人生の機微、魔の一瞬を定着している。」(―奥野健男『太宰治』212頁―)と述べ、主人公と「芹川さん」、また「兄さん」との関係が変化する一瞬の巧みな表現を評価している。執筆者もこの作品は、「運命のわかれる人生の機微」を主題に作品が成り立っていると考える。なお奥野の言う「魔の一瞬」とは、自分自身の衝動を抑えきれずに、わき目もふらず行動に走ってしまう一瞬であると考えられる。なおこの作品は昭和15年4月に発表されたものであり、太宰執筆活動において中期にあたるものである。中期は「燈籠」や「女生徒」、「皮膚と心」など女語りの形式で表現された作品がいくつか発表されており、「誰も知らぬ」もその例に漏れない。前期と比較すると中期は女語りの手法で表現されている作品が増加することから、太宰自身が女語りに積極的に取り組んでいた時期であると言えるかもしれない。
○「一燈」
この作品は皇太子殿下が昭和8年12月23日にお生まれになった時の町の様子を、回想の形式で書き綴ったものである。そこには、つい先ほどまで怒り心頭していた兄が急に手放しで浮かれ、喜んだように、国民全員が万歳と叫び提灯行列を行うほどの世の人々の歓喜が沸き起こっている様子が描写されている。太宰はそこに芸術との関連性を見出し、冒頭部の「昔から、芸術の一等品というものは、つねに世の人に希望を与え、怺えて生きて行く力を貸してくれるものに、きまっていた。私たちの、すべての努力は、その一等品を創る事にのみ向けられていた筈だ。至難の事業である。けれども、何とかして、そこに、到達したい。」ということばや結末部の「あのように純一な、こだわらず、蒼穹にもとどく程の全国民の歓喜と感謝の声を聞く事は、これからは、なかなかむずかしいだろうと思われる。願わくは、いま一度。誰に言われずとも、しばらくは、辛抱せずばなるまい。」ということばにもあるように、人々にそのような生きる希望を与えることのできる芸術作品を作りたいと切望する気持ちを表現した作品であると考えられる。この作品が発表されたのは昭和15年11月であり、太宰執筆時期の中期に値する。この時期は石原美知子との安定した結婚生活を送っている最中であり、執筆に対する強い上昇志向を抱いていたと考えられている。よってこの作品は「彼自身の芸術(小説)への強い上昇志向」を表現した作品であると結論づけることができるだろう。
○「庭」
「庭」は後期の昭和21年1月に、『新小説』において発表されたものである。作品中主人公は長年関係を絶っていた実家に疎開することとなる。そこで長兄と会話を交わすのであるが、やはり長兄と主人公は考え方のそりが合わず、主人公は長兄に対して親しみを抱けないままに終わる。この作品について奥野は
「長兄が家主になっている津軽の生家に疎開した太宰の心境小説である。「兄たち」「帰去来」「故郷」につながる、家に反逆し、故郷を捨てた作者の、世間的に立派である兄や家に対する愛と憎のアンビバレンツなコンプレックスを書いている。家の庭をスケッチしながら兄の寂しさと、理解されない弟と、そして反逆的芸術観を表現している。」(―奥野健男『太宰治』260頁―)
と述べており、この時点において太宰は実家のコンプレックスをぬぐえていないことを指摘している。実際、これを払拭するのはこの後に取り上げる「苦悩の年鑑」においてであると彼は述べている。後期のこの時点においても太宰が実家に対するコンプレックスを抱いたままであるように読めるのは、長年関係が絶えていた実家に「疎開」という目的ではありながらも頼らざるを得なかったという書きぶり等が関係していると考えられる。長兄と実家、このふたつに対しての太宰の思いを捉えた作品であるということができるだろう。
○「やんぬる哉」
この作品は、主人公が小学生時代の旧友と再会して語らうものであり、主にその旧友が一方的に話を進めていくものである。疎開者を批判する話ばかりを聞かされた主人公は辟易して逃げ出すが、結末はその旧友の立場が自身妻の出現によってなくなってしまうという展開である。
この作品は昭和21年3月に『月刊読物』に収録されたものであり、太平洋戦争の最中に執筆されたものである。太宰自身も約10年ぶりに青森へと疎開しており、その環境下で起こった出来事が原因で執筆されたものと考えられる。これまで疎開者の皮肉を言っていた旧友の面目をなくしてしまう展開からは、太宰の、もとから田舎に暮らしていた者に対する反発を感じることができる。この作品について奥野も
「焼け出され着のみ着のままで田舎に疎開した都会人に対し、従来の生活環、人生観を一歩もゆるがさず、そこから冷酷に批判し排斥する地方の人々の一片の同情心もないエゴイズムに対する怒りと憎しみが書かした作品である。ここには太宰の辛い屈辱的な疎開体験が秘められ、そのせいいっぱいの復讐がこめられている。」(―奥野健男『太宰治』261頁―)
と述べている。このことを加味すると、当作品の主題を「疎開人の地方の人々に対する反発」として捉えることができる。
○「苦悩の年鑑」
この作品は昭和21年3月に『新文芸』において発表されたものである。太宰の生家、また幼児期からの天皇崇拝、度重なる戦争や事件と自身の変化について順に述べていき、最後に「私は、歴史は繰り返してはならぬものだと思っている。まったく新しい思潮の擡頭を待望する。」ということばを記している。自身の思想遍歴と今後の展望をまとめた作品、またはエッセイともいえるだろう。特に自身の生家については決して驕ることなく、むしろ客観的に、俯瞰して述べている。奥野はこの作品について
「小説というより、自叙伝的エッセイ、思想遍歴のアフォリズム集である。幼児からの思想の変遷、形成の過程を辿ったもので、怒涛の時代に生きる一知識人の家のこと、デモクラシー、文学への接近、マルキシズム、転向、キリスト教、戦争観、戦争の立場が、率直に表現されている。今まで愛憎ともに過大に神秘的に表現されていた生家を、「私の生れた家には、誇るべき系図も何もない。どこからか流れて来て、この津軽の北端に土着した百姓が、私たちの祖先なのに違ひない」と、たんたんと客観的に語られている。太宰は自己の重荷であった金持の生家をようやく、コンプレックスなしに眺められるようになった。思想的表現と感覚的表現が効果的に配されている。」(―奥野健男『太宰治』262頁―)
と述べており、実家に対するコンプレックスからの脱却に注目している。確かに執筆者もそれについては同感であるが、この作品においてみるべき部分は、太宰の思想の遍歴と今後の社会への問題提起であると考える。それは以下のような引用からも明らかである。まず冒頭部において彼は、
「時代は少しも変らないと思う。一種の、あほらしい感じである。こんなのを、馬の背中に狐が乗ってるみたいと言うのではなかろうか。」
(「苦悩の年鑑」)
と書き出し、後に
「(中略)いまから三十年ちかく前に、日本の本州の北端の寒村の一童児にまで浸潤していた思想と、いまのこの昭和二十一年の新聞雑誌に於いて称えられている「新思想」と、あまり違っていないのではないかと思われる。」
(「苦悩の年鑑」)
と当時の社会的な思想について問題を提起している。そして次に、以下の引用に見られるように自身が今思うこと(執筆当時)について結末部でまとめているのである。
十歳の民主派、二十歳の共産派、三十歳の純粋派、四十歳の保守派。そうして、やはり歴史は繰り返すのであろうか。私は、歴史は繰り返してはならぬものだと思っている。 まったく新しい思潮の擡頭を待望する。それを言い出すには、何よりもまず、「勇気」を要する。
(「苦悩の年鑑」)
よってこの作品は全体を通して、(当時の)現代社会に対する問題提起であるということができるのである。戦争や天皇について、これまでの思想から逸脱しなくては再び同じことが起こると彼は読者に提起しているのである。それを可能にするには、周囲からの反発ももちろん受けることになるだろう。よって「それを言い出すには、何よりもまず、「勇気」を要する。」と彼は述べているのであり、自身も思想を新しく展開しようとあがいている姿を読者は感じとることができるのである。よってこの作品の主題は「太宰の思想遍歴と今後の社会への問題提起」と据えることができる。
これらの作品を見てみると、疎開先での出来事を書いた作品(「庭」「やんぬる哉」)と戦争と絡ませた太宰自身の思想について書いた作品(「苦悩の年鑑」)、また天皇に関する事柄について書いた作品(「一燈」)、そしてその他の作品(「あさましきもの」「誰も知らぬ」)というように作風の傾向をみることができた。しかしこのような作風の作品は色彩語が使用されているものにもいくつか存在し、一概にこの作風であるからといって色彩語が使用されない傾向にあるということはできない。特に「あさましきもの」や「一燈」などは作品論からみても圧倒的に論じられているものが少ないのであるが、それが「津軽」や「斜陽」などと比較して広く認知されている作品とは言えないためかは判然としない。
また先に、色彩語が使用されない作品の傾向のひとつとして、文量の少なさを挙げた。確かに色彩語が使用されていない作品は、色彩語が使用されている作品と比較すると、文量が少ないと判断できた。しかしここで、色彩語が使用されている作品の文量について細かく注目すると、次の表を挙げておかなければならない。
本項では各系統の各色において、それぞれの作品における色彩語の出現頻度(個数)÷総文字数を求め、各作品における色彩語の出現割合を調べている。
なおここでは、出現割合に40000倍をすることで400字詰め原稿用紙100枚にその作品を換算した場合の色彩語数を考察することを予め明言しておく。これは色彩語の出現割合がたいへん小さいことによる不明瞭さをなくすために行った操作である。
よってここでの計算式とそれから求められるものの関係は、
(ある作品「○○」において)
総バイト数÷2=総文字数
出現した総色彩語数(出現頻度)÷総文字数=色彩語出現割合
色彩語出現割合×40000字=400字詰め原稿用紙100枚に換算した場合、出現すると想定される色彩語の語数
ということになる。なお、今回扱っている色彩語のなかでひらがな表記のもの(「あか」、「しろ」、「くろ」)が存在するが、これは2文字で1個の色彩語となっている。しかしここでは算出の便宜上、2文字であっても再処理することはなく、すべて1文字として計算した。
なおこの計算式を用いて算出し、想定される色彩語の出現が順に並べ替えると以下のような結果となった。
各作品における全色彩語数の出現順位
※「出現割合」および「×40000」については予め小数点第5位以下を四捨五入している。
なおこの順位表では、「×40000」の数値の上位20作品のみを提示している。
「おしゃれ童子」は語り手(主人公)の学生時代における服装のこだわりを叙述した作品である。どのような服装を好んで身につけていたかを詳細に描写し、その際色彩語を多用しているため、実際に使用された色彩語数も他の作品より多く、条件内で換算した場合の想定される色彩語数ももっとも多くなっていた。この作品は太宰の色彩語の使用傾向をみるうえで重要なものであるため、第三章第三節第一項で詳しく分析・考察を述べることとする。
なお上の表で色をかけて強調した作品は、すべて太宰の執筆前期に発表されたものである。20作品中10作品がこの順位表に入っているということからも、太宰が前期に赤系統・青系統・白系統・黒系統の色彩を多用していたことがわかる。
また次に、総色彩語数ではなく各色彩語別で出現した色彩語数(頻度)を用いることによって、各作品における各色彩語の想定を算出した。以下はその操作を行った青系統における「青」の例である。
各作品における「青」の出現順位
※「出現割合」および「×40000」については予め小数点第5位以下を四捨五入している。
この例に挙げた範囲だけを見ると、「×40000」の結果から、「猿ヶ島」を400字詰め原稿用紙100枚に換算した場合、「青」という色彩語はおよそ59語出現すると想定されることになる。
この計算方法を用いて、以下のような表を作成した。横軸「20語以上」「30語以上」「40語以上」「50語以上」という表記は、400字詰め原稿用紙100枚に換算した場合に出現する色彩語数の基準を示している。また縦軸における()で表記したものは、該当する色彩語で「20語以上」〜「50語以上」の範囲に出現した作品の数である。なお、ここでは各色で想定される出現頻度が最低20語以上のものから取り上げている。20語未満の数値結果が出た作品は存在していたが、作品数が多く数値も拮抗しているため分析対象外として扱った。また縦軸の「」で示した色彩語の種類においても、この20語以上の出現範囲内では該当する作品がなかったため、「紅」や「しろ」のような色彩語は取り上げていない。
各作品における各色彩語の出現(20語以上の想定のみ)
以降では上記表で示した各色彩語の結果において、400字詰め原稿用紙100枚を想定した場合、20語以上の色彩語の出現が想定される作品について整理していく。20語以上とはつまり、400字詰め原稿用紙100枚のうち、5枚に1語の割合で色彩語が出現するという想定を指す。なお、各グラフ各作品における実際の出現頻度(個数)と、各色の出現割合(%)を示したものである。
〇赤系統「赤」(40語以上50語未満)
まず初めに赤系統の考察から行う。赤系統の色彩語を全対象作品において400字詰め原稿用紙100枚に換算した際、色彩語がもっとも多く出現すると想定される作品は「ア、秋」で、約45.8979語の想定となった。以下は「ア、秋」の実際の色彩語出現頻度(個数)と割合(%)である。
「ア、秋」は総文字数が1743字で、今回研究対象とした全作品から算出した平均文字数約16,324.8字の約9分の1であり、たいへん文量が少ない作品であるといえる。よって頻度(個数)が少なくても、原稿用紙100枚に換算した場合に想定される色彩語出現率が高くなったと考えられる。この作品は語り手が、秋という季節に対して付随することばや現象等を吟味する内容となっている。吟味する対象が「赤」に代表される季節としての秋であるため、赤系統の出現頻度は多くなると想定していたが、実際の結果は以下の「おしゃれ童子」における白系統の出現率などと比べるとかなり低いものとなった。なお、この作品で「赤」が使用されている部分の一つを取り上げると、
捨テラレタ海。と書かれてある。
秋の海水浴場に行ってみたことがありますか。なぎさに破れた絵日傘が打ち寄せられ、歓楽の跡、日の丸の提灯も捨てられ、かんざし、紙屑、レコオドの破片、牛乳の空瓶、海は薄赤く濁って、どたりどたりと浪打っていた。
(「ア、秋」)
と叙述されている。海の色は本来ならば「青」であるが、このように濁り、汚れた海を表現する場合、太宰は「青」とは対をなした「赤」を用いて表現していた。
〇赤系統「赤」(30語以上40語未満)
この範囲には「服装に就いて」と「リイズ」が該当する。以下にそれぞれの実際の色彩語出現の結果を示す。
「服装に就いて」は赤系統の色彩語が他の色彩語よりも多く使用されており、円グラフを見ると約8割を占めているということがわかった。ここで赤系統が実際どのように使用されているのかを見てみると、10個中8個が服飾関係に修飾していた。タイトルも「服装に就いて」となっており、特に服飾の色味や模様を表現する際に使用されているということは想像に易い。なお、この作品における想定される赤系統の出現は、約32.1543語であった。
「服装に就いて」では「赤い着物」が複数回出現する。この作品において「赤」は10回中8回が着物の色彩を表すために使用されていた。主人公がこの作品で問題にしている赤い着物は、彼が十年前、服装に凝っていた時分に購入したものである。しかしその柄には赤い縞が入っており、おしゃれに凝っていたといえども女物で、購入してから十年も経ちろくに洗いもしていなかったために醜く変色していた。もとの着物の姿を知らない女房は衣服に対して吝嗇な主人公のためにこれを仕立て直すが、主人公は、今となってはその年季の入った赤の着物をとても着ることはできないと感じている。以下はそれを述べた箇所の引用である。
「これは私が高等学校の、おしゃれな時代に、こっそり買い入れたもので薄赤い縞が縦横に交錯されていて、おしゃれの迷いの夢から醒めてみると、これは、どうしたって、男子の着るものではなかった。あきらかに婦人のものである。あの一時期は、たしかに、私は、のぼせていたのにちがいない。何の意味も無く、こんな派手ともなんとも形容の出来ない着物を着て、からだを、くにゃくにゃさせて歩いていたのかと思えば、私は顔を覆って呻吟するばかりである。とても着られるものでない。見るのさえ、いやである。」
(「服装に就いて」)
(自身のことについて)「きょうはまた、念入りに、赤い着物などを召している。私は永遠に敗者なのかも知れない。」
(「服装に就いて」)
この引用から、「服装に就いて」で叙述されている着物の「赤」は、語り手(主人公)にとって到底身につけることなどできない派手さを表していると読み取ることができる。赤い着物を着ることで、自身は卑屈にさえなってしまうほどの嫌悪ぶりである。これは以下に述べる「白」や「黒」の服飾における使われ方とは大いに異なった点として指摘しておきたい。
「リイズ」では、赤系統の色彩語が約34.3840語想定された。ただし棒グラフでもわかることであるが、白系統における「白」が赤系統における「赤」を上回って使用されている作品である。この作品に見られる「赤」は4個存在したが、そのうちの3個(1〜3)は登場人物の肌の色を表現する際に使用されている。
1「杉野君は、顔をぽっと赤くして、笑とも泣きべそともつかぬへんな表情を浮かべ、」
2「「いや、それが、」と杉野君は顔を真赤にして、少し口ごもり、」
3「色、赤黒く、ただまるまると太っている。」
4「私は、すぐ近くの井の頭公園へ、紅葉を見に出かけ、途中で気が変って杉野君のアトリエを訪問した。」
(全て「リイズ」より)
ここで1〜3に注目すると、1と2は杉野君という登場人物が恥ずかしさを感じているために顔を赤らめているものである。また3は赤黒い肌と描写しているが、これは杉野君の「ああ、出来た、わあ、これあひどい。」や、主人公の「一目見て私も、これあひどいと思った。」という感想から、二人とも醜悪の対象としてモデルの姿を認識していることがわかる。また4に見られる「紅葉」としての「紅」は、その他作品でも何度か出現する自然を表す色彩として使用されていたが、ここでは1個の出現頻度に留まっていたため割愛する。
〇赤系統「赤」(20文字以上30文字未満
)
これまでの色彩語に関する先行研究の結果を見ると、主に作家は赤系統の色彩をよく使用するようであった。しかし太宰治作品は白系統をもっとも使用しており、赤系統は20語以上30語未満の出現想定でも3作品(「黄金風景」「畜犬談」「女類」)にとどまっていた。なおこれら3作品は想定される色彩語の文字数にあまり大きな差はなかった。
以下にそれら3作品の頻度と割合を示す。
「黄金風景」で想定される赤系統の色彩語は約24.8447語である。この作品にはほかの色彩語が出現せず、赤系統の出現のみとなったため作品中で100%の割合を示していた。なお、実際使用されている文は以下のとおりである。
1「すこし顔を赤くして笑い、」
2「外に三人、浴衣着た父と母と、赤い洋服着た女の子と、絵のように美しく並んで立っていた。」
(二文とも「黄金風景」より)
1の文で表現されている赤い顔は、主人公と偶然会った巡査の表情である。妻であろうお慶を褒めており、これは自身の身内を褒めることになるため、照れた表情を表していると推測できる。
2の文では、「赤」という色彩が女性(女の子)の象徴として機能していることがわかる。このような「赤」に対する性差の象徴は以下の他作品からも読み取ることができる。
「でも、下駄の鼻緒が赤くて、その一点にだけ、女の子の匂いを残しています。」
(「東京だより」)
赤などの暖色系の色彩は、寒色系の色彩と比較すると現代でも女性のイメージが強い。この二つに引用文から、当時の太宰もこのような現代と共通する色彩への性差イメージがあったと考えられる。
「畜犬談」で想定される色彩語は約24.7486語であった。この作品は、語り手(主人公)が犬という存在を恐れ、嫌いながらも、自宅で飼うこととなったポチと過ごした日々について語る内容となっている。犬の描写がたいへん多い作品であり、ここで使用される「赤」はすべて犬の毛色を表現する手段として使用されていた。
「街頭で見かける犬の姿は、けっしてそんな純血種のものではない。赤いムク犬が最も多い。採るところなきあさはかな駄犬ばかりである。」
(「畜犬談」)
主人公は友人から犬にかまれた話を聞き、犬を極度に恐れている。ある時主人公のあとをついて来た黒犬(ポチ)を追い払うことができず、しぶしぶ飼うことになったのであるが、そのポチが重度の皮膚病にかかり奇怪かつ悪臭がすること、また主人公の諸々の逼迫と焦燥から殺してしまおうという算段になった。しかしポチは生き延び、主人に殺されそうになったことをわかりながらもまだ彼について来ようとしたため、主人公はポチに愛着を抱かずにはいられなくなるという内容である。
ここで上記に挙げたように、主人公は「赤」いムク犬を「あさはかな駄犬」として形容している。山梨に移り住んだことから純血種である犬に甲斐犬を挙げているが、その他よく街中で見かける「赤」いムク犬は恐れるべき、忌むべき対象であると述べている。そして主人公が実際に飼う犬は「黒」い犬であり、その他街中で見かける犬はすべて「赤」い毛の犬としてまとめて表現されている。つまり、語り手(兼主人公)は自身が飼う犬を「黒」犬、他の野蛮な犬を「赤」い毛の犬として区別しているのである。「赤」い毛の犬は獰猛で、主人公にとって終始醜い生き物として蔑視の対象となっていた。
「女類」で想定される赤系統の色彩語は約24.4275語であった。赤系統は実際に出現した色彩語のうち、当作品中で半分の割合を占めている。
ここでの「赤」が修飾している語はさまざまであるが、先の「服装に就いて」と共通しているところは、主人公の兄貴分である柳田という男の服装について、泥酔した作家の葛西氏が
「どだい、その、赤いネクタイが気に食わん。」
(「女類」)
と発していることである。やはり男性の服装において、「赤」は印象の悪い色として太宰が描く傾向にあると捉えることができるのではないだろうかと推測する。
〇赤系統「あか」(20語以上30語未満)
以下「禁酒の心」は総文字数3,807.5字で、今回研究対象とした作品の平均文字数約16,324.8字の約4分の1にしか満たない作品である。この作品は400字詰め原稿用紙100枚で換算した場合、想定される出現色彩語数は約21.0112語となった。またこの作品は、以下で示すように「赤」ではなくひらがな表記の「あか」が2回実際に使用されていた。
しかしここでの使われ方は、
「それほどまでに酒を飲みたいものなのか。夕陽をあかあかと浴びて、汗は滝の如く、髭をはやした立派な男たちが、ビヤホオルの前に行儀よく列を作って、そうして時々、そっと伸びあがってビヤホオルの丸い窓から内部を覗いて、首を振って溜息をついている。なかなか順番がまわって来ないものと見える。」
(「禁酒の心」)
となっている。「あか」という2文字を赤系統の色彩語としてカウントしているため、このように畳語として使用されている場合は2回の使用として算出結果に現れた。
この作品は太平洋戦争戦時下に執筆されたもので、本文でも配給の酒が少なくなり、価格も高騰し、市場に酒が出回らなくなったことが述べられている。主人公である作者は酒飲みであるため、禁酒を志すが最終的にはまた酒に魅了されてしまっている。先の引用文は酒を飲みに外へ出た際、ビヤホールの前で男たちが酒を飲むために行列を作っている様子を描いたものである。ここでの「あか」の使用は、「夕陽をあかあかと浴び」る=気温の上昇、暑さを示すものであり、畳語での叙述がその暑さの程度をより一層厳しいものとして表現している。また読者に、そのような厳しい状況に立たされてもなお行列に並ぶ男たちを、酒を求める哀れな姿として想像させる効果がある。
これらの分析により、赤系統の色彩語には人間やそれに付随するもの、そして動物の別に関係なく醜さ・汚さなどマイナスの要素を表現する傾向があるということ、加えて描写される人物の「照れ」などの心理状況を表すということがわかった。また「あか」は畳語として使用されることがあり、程度の強さを表現する場合があるということがいえるだろう。
〇青系統「青」(50語以上)
原稿用紙100枚に換算した場合、青系統で最も多く出現すると想定される作品は「晩年」に収録されている「猿ヶ島」であり、約59.0697語という結果となった。これは次に多く想定される作品が「葉」の約28.1153語であるということを考えると、青系統の中では特に突出した結果であるということができる。以下はその「猿ヶ島」における実際の出現頻度(個数)と割合(%)である。
上図よりこの作品中に占める色彩語の中で、青系統は約4割を占めるということがわかった。
この作品の青系統の使われ方で、何度も使用されているのは「青葉」である。この「青葉」は、「青」という色彩語が9回出現するうちの5回の出現を占めていた。「青葉」ということばは日本猿である主人公が故郷の山を思い出すことによって登場する。本論文における研究では、「青葉」は「植物」として対象語の分類をしている。一般的な葉を表現するのであれば「青」の色彩を使用しなくてもよいので、ここは作者が「青」を意図的に表現していると考えて色彩語の出現とみなした。このほか「青」は「草」(1回)や「空」(1回)といった自然に包括されることばを修飾していた。以下は「青葉」が用いられている箇所の本文の引用である。
「私もふるさとのことを語りたくなった。「おれには、水の音よりも木がなつかしいな。日本の中部の山の奥の奥で生れたものだから。青葉の香はいいぞ。」」
「霧はまったく晴れ渡って、私たちのすぐ眼のまえに、異様な風景が現出したのである。青葉。それがまず
私の眼にしみた。私には、いまの季節がはっきり判った。ふるさとでは、椎の若葉が美しい頃なのだ。私は
首をふりふりこの並木の青葉を眺めた。しかし、そういう陶酔も瞬時に破れた。」
(二文とも「猿ヶ島」より)
二重線部分からもわかるように、「青葉」は主人公にとって懐かしく、まぶしく、美しく思う対象である。岩石ばかりが集まっている孤島にいる今の主人公は、日本のふるさとの自然を恋しく思っているのである。
よってこの作品からは、「青」は自然の美しさを表す色として使用されていることがわかった。
〇青系統「青」(20語以上30語未満)
先にも述べたように、「青」では「猿ヶ島」が突出した結果を得た。しかし40語以上〜50語未満、30語以上〜40語未満の想定がされる作品はなかった。ここでは「猿ヶ島」の次に多い想定がなされ、20語以上30語未満の範囲に該当した「葉」「美少女」「満願」「ア、秋」「喝采」「魚服記」の計6作品について述べる。
「葉」で想定された色彩語は約28.1153語である。
「葉」は他の作品とはかなり異なった内容となっていて、作品になり切れなかった諸々のフレーズを寄せ集め、作品化されたものである。よってこの作品は個々の散文を集めたものとして捉えることが可能である。執筆者は「葉」という題について、「花」(小説、作品)を支えるものとして解釈している。作品として使われることのなかった数々の文(文章)の上に、一つの完成された作品は成立しているということを、太宰は伝えようとしていると考えることができるためである。この作品が収録されている「晩年」が太宰の初めての小説集であり、また「葉」は冒頭に構成されているということからも、このようなメッセージ性を感じずにはいられない。よってここで表出した色彩語は、個々の作品の一部(散文)の集まりであるということを踏まえ、「葉」というひとつの作品に集約されながらも、色彩語の表出の仕方はコンテクストに寄らないという点において、他の作品とは異なっているということを指摘しておく。
ここで使用されている「青」はそれが修飾している語と併せて、主人公の何らかの行動を婉曲的に表現したもの、また比喩的に表現する際の一部として叙述されているものがある。以下にその3つを取り上げる。なお、二つ目の文章と三つ目の文章は、同じ一つの散文内で叙述されたものである。
「そんなら自分は、一生涯こんな憂鬱と戦い、そうして死んで行くということに成るんだな、と思えばおのが身がいじらしくもあった。青い稲田が一時にぽっと霞んだ。泣いたのだ。」
「おかしな幽霊を見たことがございます。あれは、私が小学校にあがって間もなくのことでございますから、どうせ幻燈のようにとろんと霞んでいるに違いございませぬ。いいえ、でも、その青蚊帳に写した幻燈のような、ぼやけた思い出が奇妙にも私には年一年と愈々はっきりして参るような気がするのでございます。」
「ほんとうに申し訳がございませぬけれど、なにもかも、まるで、青蚊帳の幻燈のような、そのような有様でございますから、どうで御満足の行かれますようお話ができかねるのでございます。」
(全て「葉」より)
一つ目の文章は主人公の泣くという行動が婉曲的に表現されたものである。涙で目がかすむ様子を、目の前の風景自体がかすんだかのように表現している。ここでの「青い稲田」という描写からは季節がわかり、少なくとも秋の収穫期ではないということが推測できる。
二つ目と三つ目の文章は、自身の幼い記憶について述べたものである。「青蚊帳」ということばから、季節は夏であるということが推測できるようになっている。「青蚊帳の幻燈」という表現から、まどろんでいる子どものおぼろげな夢を指す比喩的な表現であるとみなすことができる。
「美少女」を原稿用紙100枚に換算した場合、出現すると想定される色彩語は約27.2758語であった。
この作品では、色彩語の出現が青系統と白系統で同じ頻度となっている。「白」は毛髪などを表現するためにも使用されているが、「青」は主人公が見とれた少女の病身である肌の色と少女の服装の色を表すものであった。
「全身が少し青く、けれども決して弱ってはいない。大柄の、ぴっちり張ったからだは、青い桃実を思わせた。」
「青い簡単服着て、窓のすぐ傍の椅子に腰かけている少女の姿である。」
「いまは青い簡単服に包まれているが、私はこの少女の素晴らしい肉体、隅の隅まで知ってる。」
(全て「美少女」より)
主人公は皮膚に発疹のある妻とともに銭湯へ出かけ、そこで病から回復しつつある美しい少女と出会う。実際に深い関わり合いはもたないが、主人公の脳裏には彼女の姿が焼き付いていて、それから後にまた散髪屋で偶然に再会するというものである。最後まで主人公と少女は深く関わることがないが、「青」という色彩がこの美しい少女のイメージ色として表現されていることは明白であり、「青」が美しさを表現する方法として機能している点については、肌と自然という対象の異なりはありながらも「猿ヶ島」と共通であるといえる。
「満願」では約25.5918語の「青」の色彩が想定された。
この作品の総文字数は1,563字であり、たいへん文量が少ない。よって総色彩語数は3つであるが、原稿用紙100枚に換算した場合想定される色彩語が比較的多いという結果に至った。以下は実際に「青」が使用されている部分の引用である。
「裏口からまわって、座敷の縁側に腰をかけ、奥さんの持って来る冷い麦茶を飲みながら、風に吹かれてぱらぱら騒ぐ新聞を片手でしっかり押えつけて読むのであるが、縁側から二間と離れていない、青草原のあいだを水量たっぷりの小川がゆるゆる流れていて、その小川に沿った細い道を自転車で通る牛乳配達の青年が、毎朝きまって、おはようございます、と旅の私に挨拶した。」
(「満願」)
この作品における「青」の使用も、「猿ヶ島」と同じく自然の描写として機能していた。よって自然の豊かな風景や、人物の透き通るような美しさを表す際に「青」は使用される傾向にあると推測することができる。また上記の「青草原」という表現から、季節は秋や冬以外であるということも読者は知ることができるようになっている。
この作品は「赤」(40語以上50語未満)でも取り上げたが、「青」でも想定される色彩語数が上位になっていたためグラフを再掲する。
「ア、秋」のなかで、「青」が想定される色彩語として推測されるのは約22.9489語であった。この作品に関しては前述のように、文量の少ない作品であるため比較的多い想定結果になったと考えられる。なおこの作品における「青」も、「赤」で一部使用されていたものと同様、「「秋について」という注文が来れば、よし来た、と「ア」の部の引き出しを開いて、愛、青、赤、アキ、いろいろのノオトがあって、そのうちの、あきの部のノオトを選び出し、落ちついてそのノオトを調べるのである。」のように使用されていた。なお、主人公の考える「青」の内容については列挙対象の一つとして挙がっているのみで、紙幅を割いて叙述されてはいない。
「喝采」では約22.7661語の想定結果となった。
この作品は、単独演説の形式で叙述されている作品である。主人公(作者)と中村地平の友情と夢、そして決別が語られている。「青」という色彩語は「青葉」「青空」「青い壁紙」「マッチの青い焔」というようにすべてが名詞に修飾していた。なお、それぞれの使用法や対象語における共通点は見られなかった。
「魚服記」では約21.5285語が想定された。
この作品は太宰作品が初めて世に出された処女作として有名である。スワという少女が魚に変化することから、水に関係して「青」が多くなることは推測できたが、実際は3つの出現にとどまっていた。またここでも自然の「青」さを表現している箇所があり、
「スワは空の青くはれた日だとその留守に蕈をさがしに出かけるのである。」
(「魚服記」)
という表現がなされていた。この場面ではスワはまだ父親に犯されておらず、平穏にふたりの親子の日々を送っている時である。好天気の日には、父親が炭を売りに行っている間、スワはキノコ狩りをして家計を支えるという内容が前後に叙述されている。その後魚になったスワの場面では、「青」という色彩は現れずに水を肌に触れる感触が叙述されていた。
これらの結果より、「青」の使用傾向には自然や人間の描写に関わって、美しさや季節を表現するために使用される傾向にあるということがわかった。これは「赤」には見られなかった傾向である。
○白系統「白」(50語以上)
次に「白」について考察していく。ここでは「おしゃれ童子」(約115.9234語)と「i can speak」(約60.4230)、「座興に非ず」(約59.7610語)、「リイズ」(約57.3066語)、「満願」(約51.1836語)が該当した。
分析の結果、白系統の中で最も色彩語の出現率が高い作品は「おしゃれ童子」であり、これは「白」の出現として400字詰め原稿用紙100枚に換算すると約115.9234語の出現が想定された。これは四系統すべての出現率の中でも突出して多い結果である。四系統すべての出現率でこの次に多い想定がされたのは「逆行」であるが、色彩語は「くろ」で約64.0620語の想定される出現頻度となり、やはり「おしゃれ童子」は全研究対象の作品中でも抜きんでた結果を出したということができるだろう。
ここで、「おしゃれ童子」の実際の出現頻度(個数)と割合(%)について提示する。
上図より、「おしゃれ童子」では白系統の色彩語が最も多く、その他三系統に関しては黒系統がわずかに多いまでも、白系統の比ではないことがわかった。この白系統は特に服飾に関する対象語によく用いられており、シャツや手袋など主人公の服飾に関する趣向が綴られた作品である。その使用のされ方については第三章第三節第一項「「おしゃれ童子」の主題と色彩語」で詳しく述べることとするが、「白」の使用傾向としては清潔さや純粋さを表し、語り手でもある主人公が良い意味で固執するというものであった。
「i can speak」の総文字数は1,986字である。これは他作品の総文字数を考慮すると、文量が少ない作品のひとつであるといえる。したがって総色彩語数が4個であっても、原稿用紙100枚に想定される色彩語の数は多くなるという結果を得るに至った。「i can speak」での「白」の使用のされ方は、人物の服の色を表すものが2回と、肌の色を表すものが1回であった。それらの例を以下に挙げる。
「私は、障子を少しあけて、小路を見おろす。はじめ、白梅かと思った。ちがった。その弟の白いレンコオトだった。季節はずれのそのレンコオトを着て、弟は寒そうに、工場の塀にひたと脊中をくっつけて立っていて、その塀の上の、工場の窓から、ひとりの女工さんが、上半身乗り出し、酔った弟を、見つめている。月が出ていたけれど、その弟の顔も、女工さんの顔も、はっきりとは見えなかった。姉の顔は、まるく、ほの白く、笑っているようである。弟の顔は、黒く、まだ幼い感じであった。(中略)たあいない風景ではあったが、けれども、私には忘れがたい。」
(「I can speak」)
ひとつめの「白」は「白梅」という植物がレインコートの例示として使用されていたが、実際には服装を示すものであるのでここでは服の色を表す「白」としてカウントした。この場面は工場に勤める姉と夜間学校に通う弟が夜中に語り合うところを主人公でもある語り手が観察しているという場面である。この時の時刻が夜であることから、弟のレインコートと姉の顔は月光に照らされてはっきりと主人公の目に写っている。酔った弟の話を笑いながら聞いている姉のまるい顔からは、やさしさが溢れているように感じられる。服装における「白」も姉の顔の「白」もここでは単なる色彩の描写にすぎないが、「私には忘れがたい」という語り手(主人公)の発言からもあるように、印象的な場面として読者に強調して提示するために作者が意図的に表現していると考えることができる。
「座興に非ず」で想定された「白」の色彩語出現想定は約59.7610語である。白系統で突出して出現の多かった「おしゃれ童子」では、「白」の使用が服飾関係を表すものに最も多く修飾していると述べたが、この作品も3回の出現すべてが服飾関係をあらわすものに修飾していた。以下はその引用である。
「私の白地の浴衣も、すでに季節はずれの感があって、夕闇の中にわれながら恐しく白く目立つような気がして、いよいよ悲しく、生きているのがいやになる。」
「白麻のハンチング、赤皮の短靴、口をきゅっと引きしめて颯爽と歩き出した。」
(二文とも「座興に非ず」より)
この作品も「おしゃれ童子」同様、服飾関係を表すものに対して「白」という色彩を使用していた。一つ目の引用文では「いよいよ悲しく、生きているのがいやになる」と述べているが、これは寒さや夕闇、「白」という色彩から死装束を彷彿としたためであると考えられる。しかし「すでに季節はずれの感があって」という表現から彼がこの夏の間、この服を頻繁に着用していたことが読み取れ、また太宰自身が実生活において「白」の浴衣を愛用していたこともあり、彼にとって思い入れのある服装であることが推察される。
二つ目の引用文の行動主は、語り手兼主人公とは異なり、彼が電車で何気なく目を付けた青年である。語り手はこの青年を含め、周囲にいる人物を「青年たちは、なかなかおしゃれである。」と評価している。中でも特にこの青年は「口をきゅっと引きしめて颯爽と歩き出し」ており、全体の雰囲気を語り手は高評価していると言ってよい。
ここで指摘しておきたいことは、主人公とこの青年以外の人物において、服装の色は描写されないということである。他の人物は「無数の黒色の旅客」や「黒色の蟻」というように表現され、その対象色(「白」)をまとう主人公と青年の存在を浮き上がらせているといえる。よって「おしゃれ童子」だけでなく「服装に非ず」からも、「白」という色彩が太宰において注意すべき色であることがわかった。
「リイズ」で想定される「白」の出現は約約57.3066語であった。やはりこれも、上記と同じく服飾関係を表すものに修飾している。以下に引用を挙げる。
「あの、庭の桜の木の下に白いドレスを着て立ってもらうんです。」
「ほら、真白い長いドレスを着た令嬢が、小さい白い日傘を左手に持って桜の幹に倚りかかっている画があったでしょう?」
「お団子が、白い袋をかぶって出て来た形であった。」
「あのひとである。先日のモデルである。白いエプロンを掛けている。」
(全て「リイズ」より)
この作品で「白」が使用されているのは主人公の知人である杉野君が用意した、ルノワールの「リイズ」という作品で女性が着ているものに似た「白」のドレスである。杉野君は画家志望でルノワールに憧れており、「リイズ」について語る彼の「あれは、令嬢かな?マダムかな?」という発言からは、彼にとって「白」のドレスが気品を感じさせるものであるということが推測できる。しかし実際に、杉野君の母親が呼び寄せたモデルは決して美しくなく、大柄であるためドレスが似合わなかったという展開を迎える。この作品で確認できた「白」の色彩語が付随していた名詞の中で、「日傘」や「(ルノワールの画のモデルが着ていた)ドレス」、「エプロン」などは特に外国から日本に輸入されてきたと考えられるものである。このような異国のものに対して「白」を使用していることから、太宰のひとつの傾向が見いだせるかもしれない。
「満願」は、「白」の想定においては約51.1836語の出現という結果になった。以下に「白」が使用されている部分を引用する。
「奥さんは、小がらの、おたふくがおであったが、色が白く上品であった。」
「ふと顔をあげると、すぐ眼のまえの小道を、簡単服を着た清潔な姿が、さっさっと飛ぶようにして歩いていった。白いパラソルをくるくるっとまわした。」 (二文とも「満願」より)
上記の例からも「リイズ」同様、「白」は気品を感じさせる色として使用されていることがわかる。また二つ目の文からも、やはり服飾関係に修飾される色として「白」が挙げられていた。なお、「パラソル」においては当時(作品発表年:昭和13年9月)の状況を考えると、戦争を契機に輸入されたものであると考えることが妥当であろう。このような外国からの輸入物に対し、一種の羨望を込めることによって、「白」を用い表現したのかもしれない。
〇白系統「白」(40語以上50語未満)
白系統の中で、想定される色彩語数が40語以上50語未満のものは「新郎」(約46.2695語)「陰火」(約42.2580語)であった。
「新郎」を400字詰め原稿用紙100枚に換算した際、出現すると想定される「白」の色彩語は約46.2695語であった。これは部屋の壁の色と、花の色の表現2つを除けばその他6つは全て服装やシーツなどに使用される布地の色を表現したものである。以下は「白」の色彩が使用されている引用部分である。
「純白のさらし木綿を一反、腹から胸にかけてきりりと巻いている。いつでも、純白である。パンツも純白のキャラコである。之も、いつでも純白である。そうして夜は、ひとり、純白のシイツに眠る。」
「私は此の馬車に乗って銀座八丁を練りあるいてみたかったのだ。鶴の丸(私の家の紋は、鶴の丸だ)の紋服を着て、仙台平の袴をはいて、白足袋、そんな姿でこの馬車にゆったり乗って銀座八丁を練りあるきたい。ああ、このごろ私は毎日、新郎の心で生きている。」
(二文とも「新郎」より)
上記二つの文章から、主人公兼語り手が「白」という色彩を強調しようとしているのかがわかる。
この「新郎」という作品は、戦時下を生きる主人公の日々の生活を綴ったものである。この作品における主人公は、食べ物や酒が薄くなっても一日一日を精いっぱい生きることを目標としている。今までは破れたドテラなどを着て不潔であったのが、心変わりをして毎日清潔な身だしなみをするようになっている。先の不安などを今は考えず自分の仕事を毎日しっかりとこなし、その日その日を精いっぱい正直に生きることを目指しているのである。
布地に関しても、洗い立てということを強調するかのように「白」が多用されており、きちんとした身なりで日々を過ごしている様子が叙述されている。
この作品において作者が「白」を意図的に用い、表現しようとしているのは、洗練と誠実を表現するためであろう。周りの者に優しく接し、自分のやるべきこと、なすべきことを一生懸命努力し、周りにも自分自身にも恥じないような生き方をしようと立ち上がった主人公(作者)の心情が現れているように読まされる。使用されていた色彩語の内、約7割が「白」であったということから、作者の「白」への固執を見て取ることができた。
「陰火」では約42.2580語の「白」の色彩語出現が想定された。
「陰火」は「誕生」「紙の鶴」「水車」「尼」という四つの短編を収録した作品であり、「晩年」に収録された「逆行」と対をなした作品である。また「白」の使われ方もそれぞれの短編で異なっている。特に「紙の鶴」という作品では、自分の妻における過去の男性との関係を考えまいとして、むやみやたらに別の事柄について考えている場面があり、そこに「白」を使用している箇所が散見された。これはおそらく、太宰自身が当時妻であった小山初代の姦通を知った時の心情を描いたものではないかと考えられる。
〇白系統「白」(30語以上40語未満)
ここでは400字詰め原稿用紙100枚に換算した場合、想定される「白」の出現が30語以上40語未満であるという結果を得た作品について、その実際の出現頻度(個数)と割合(%)について述べる。
30語以上40語未満の範囲で一番多い想定結果が出た作品は「令嬢アユ」である。これは約39.9202語であった。以下に、この作品において「白」が使用されている部分を修飾の対象となるものの別に分類して引用する。
<肌の描写に関するもの>
「ふと前方を見ると、緑いろの寝巻を着た令嬢が、白い長い両脚を膝よりも、もっと上まであらわして、素足で青草を踏んで歩いている。清潔な、ああ、綺麗。十メエトルと離れていない。」
「歯が綺麗だ。眼が綺麗だ。喉は、白くふっくらして溶けるようで、可愛い。みんな
綺麗だ。」
(二文とも「令嬢アユ」より)
<服装の描写に関するもの>
「もの憂げに振り向くと、先刻の令嬢が、白い簡単服を着て立っている。」
「まさしく濡れ鼠のすがたである。白いドレスが両脚にぴったり吸いついている。」
「令嬢の白い簡単服の胸のあたりに血が、薔薇の花くらいの大きさでにじんでいる。」
(全て「令嬢アユ」より)
あとの一つの関連する文は、植物の花の色を列挙する中で「白」が使用されていた。
肌の色を描写する際の使用のされ方を見てみると、どちらも「綺麗」という主人公の感想が述べられていた。前述でも何度か触れたように、やはり人物(特に女性)の肌を表現する際、「白」を使用していれば美しさを表す傾向にあるようである。
またやはりこの作品でも「白」は服飾関係を描写する際に使用される傾向があった。「リイズ」において「白」のドレスを着た女性を美しいと表現していることを併せて考えると、女性の「白」い服も肌の色の表現と同じく、美的対象として表現される傾向があるように推測できる。
「父」で想定された「白」の語数は、約36.2413語であった。以下はその使用のされ方について注目すべき引用文である。
「それは、たしかに、盗人の三分の理にも似ているが、しかし、私の胸の奥の白絹に、何やらこまかい文字が一ぱいに書かれている。その文字は、何であるか、私にもはっきり読めない。たとえば、十匹の蟻が、墨汁の海から這い上って、そうして白絹の上をかさかさと小さい音をたてて歩き廻り、何やらこまかく、ほそく、墨の足跡をえがき印し散らしたみたいな、そんな工合いの、幽かな、くすぐったい文字。その文字が、全部判読できたならば、私の立場の「義」の意味も、明白に皆に説明できるような気がするのだけれども、それがなかなか、ややこしく、むずかしいのである。」
(「父」)
この文章は主人公である作者が、自らの信じる「義」のために家庭を顧みず放蕩を続けることについて、その「義」とは何かを叙述したものである。引用文冒頭の「それ」とは、「義」を指している。上記に述べられているように、「義」とは一口に説明できるものではない。家庭にいる女性から見れば自分勝手な屁理屈であると一蹴されてしまうようなことであるが、この「義」こそは彼の根幹をなすものであり、「家庭の幸福」や「桜桃」にも共通する点がある。
この引用文で注目すべきことは、「義」の内容ではなく「白」という色彩語が「義」を説明するために使用されているということである。「私の胸の奥の白絹」と表現していることから、これは主人公のもっともデリケートな部分であり、本質的な部分であることを指している。つまり、主人公の思想の本質、主人公の思想のもっとも正直な中心部分としてこれを解釈することができるのである。よってこの「白」の使われ方は「新郎」で考察したことにも些か似ているが、主人公であるわたしの嘘偽りの無い部分を表していると考える。
「玩具」で想定された色彩語数は約34.6508語であった。
この作品は、作家である主人公が幼少期(1歳から3歳)の記憶を断片的に回想するものである。この作品について奥野健男は「せっぱつまった現状から幼少期へ退行する心情を断片として提出している。ここにも新しい小説方法模索の苦しみが見られる。」(―奥野健男『奥野健男作家論集3』141頁―)と述べ、太宰が苦しんでいたころの心情が表われているとしている。この作品は「晩年」に収録されており、暗い印象の作品が多く生み出された、執筆活動前期に提出されたものであることを考慮しておきたい。
この作品中で「白」は4回出現しているが、そのうちの二つは祖母が死にゆく姿を描写する際に使用されている。以下はその時の描写の引用である。
「祖母は下顎をはげしくふるわせ、二度も三度も真白い歯を打ち鳴らした。やがてころりと仰向きに寝ころがった。」
「臈たけた祖母の白い顔の、額の両端から小さい波がちりちりと起り、顔一めんにその皮膚の波がひろがり、みるみる祖母の顔を皺だらけにしてしまった。」
(二文とも「玩具」より)
ここでは視点人物である私(主人公)の感情が描かれていない。あくまでも目の前で起こっていることを淡々と描写し、列挙しているのみである。ここで使用されている歯の「白」さ、顔の「白」さは、死にゆく祖母をある意味機械のように、ひとつの個体として観察しているかのように描写されていた。特に顔における「白」の色彩を用いた描写からは、血の気の引いた様子を表現することに成功しているといえるだろう。「白」という色彩を用いて描写を連続させることにより、主人公が祖母を今まさに命を終えようとする人間一個体として観察していることを読者はより強烈に感じさせられるのである。
「美少女」は約34.0948語の想定がなされた作品である。
この作品は前述した、「青」という色彩で少女の美しさを表現する叙述傾向が見られた。そこで「白」の表現は実際どのようであったかというと、
「浴場は、つい最近新築されたものらしく、よごれが無く、純白のタイルが張られて明るく、日光が充満していて、清楚の感じである。」
「二組の家族がいる。一組は、六十くらいの白髪の老爺と、どこか垢抜けした五十くらいの老婆である。品のいい老夫婦である。この在の小金持であろう。白髪の老爺は鼻が高く、右手に金の指輪、むかし遊んだ男かも知れない。」 (二文とも「美少女」より)
となっていた。これは「白」が使用されている引用の一部であるが、浴場の壁の「白」さも、老夫婦の白髪も気品ある美しいものとして表現されていた。また少女に関する「白」の使われ方は「可愛いすきとおるほど白い小さい手であった。」というようにやはり美しい人物の描写として使用されており、少女の描写としては、「青」も「白」も美的要素を表すものとして機能しているといえる。
「猿ヶ島」では約32.8165語の想定がされた。この作品は「青系統「青」」において、もっとも多く出現する語が多い作品として前述した作品である。ここでの使用のされ方は以下のとおりであった。
1「私の姿をじろじろ眺め、やがて、まっ白い歯をむきだして笑った。笑いは私をいらだたせた。」
2「ふさふさした白い毛を朝風に吹かせながら児猿に乳を飲ませている者。」
3「水を打った砂利道が涼しげに敷かれていて、白いよそおいをした瞳の青い人間たちが、流れるようにぞろぞろ歩いている。」
4「また、あそこのベンチに腰かけている白手袋の男は、おれのいちばんいやな奴で、」
5「日はすでに高く上って、島のここかしこから白い靄がほやほやと立っていた。」
(全て「猿ヶ島」より)
この作品において「白」という色彩語は、身体の描写、服飾関係の描写、自然現象の描写を行うために使用されていた。
1と2の文章では主人公と同類の猿たちを描いたものである。3と4は主人公ら猿を見物に来た人間であり、自分たちが外の人間たちを見物していると思っていたら、実は自分たちこそが見物されている立場であったという作品のしかけがわかるものである。作品全体を通して、5の文のようにゆたかな自然描写が主人公目線の語りによって織り込まれているため、それを見ている主人公自身が猿であると読者は思わずに読んでしまうようなしかけが施されている。3の「水を打った砂利道」「涼しげ」「白いよそおい」という表現から、この作品で設定されている初夏の季節の様子を読み取ることができる。
「逆行」で「白」は約30.3452語の想定がなされた。「逆行」は4つの短編を収録しており、「蝶々」「盗賊」「決闘」「くろんぼ」という四部構成になっている。このなかで「白」が使用されていた作品は「盗賊」(3か所)と「決闘」(6か所)である。やはりこの作品でも「白」は服飾関係の描写に関係しているところがあり、給仕の少女たちがかけている「白いエプロン」や、主人公が使用している「純白の革手袋」と「白線の帽子」などというように表現されているものが確認できた。特に「白いエプロン」の使用に関しては
「食堂のなかを覗くと、奉仕の品品の饗應にあづかつてゐる大學生たちの黒い密林のなかを白いエプロンかけた給仕の少女たちが、くぐりぬけすりぬけしてひらひら舞ひ飛んでゐる」
(「逆行」)
と表現され、さも少女たちが蝶のような姿でせわしなく動いているかのようである。このような使用のされ方から、少女たちは作者から悪い評価を与えられて表現されているのではないということがわかる。また「純白の革手袋」や「白線の帽子」も主人公の一張羅として表現されているため、「白」いエプロンと同様、高評価が与えられているように感じ取ることができる。
〇白系統「白」(20語以上30語未満)
「白」においてこの想定される範囲で結果を出した作品は他系統色の結果よりも数値が拮抗し、作品数が多かったため以下の表にまとめることとする。
この範囲の想定でもなお、前述したように人の肌の色を表現するもの、服装の様子を表現したものが多く存在した。以下にそれらの代表的なものを引用する。
肌の色を表現したもの
<女性>
「或る映画女優は、色を白くする為に、烏賊のさしみを、せっせとたべているそうである。あくまで之を摂取すれば、烏賊の細胞が彼女の肉体の細胞と同化し、柔軟、透明の白色の肌を確保するに到るであろうという、愚かな迷信である。」
(「女人訓戒」)
「女の子、愛されているという確信を得たその夜から、めきめき器量をあげてしまった。(中略)額も顎も両の手も、ほんのり色白くなったようで、お化粧が巧くなったのかも知れないが、大学生を狂わせてはずかしからぬ堂々の貫禄をそなえて来たのだ。」
(「狂言の神」)
「ツネちゃんという娘だ。(中略)大柄な色の白い子で、のんきそうにいつも笑って、この東北の女みたいに意地悪く、男にへんに警戒するような様子もなく、伊豆の女はたいていそうらしいけれど、やっぱり、南国の女はいいね、いや、それは余談だが、とにかくツネちゃんは、療養所の兵隊たちの人気者で、その頃、関西弁の若い色男の兵隊がツネちゃんをどうしたのこうしたのという評判があって、僕もさすがにムシャクシャしていた。」
(「雀」)
これらの引用文からは、女性は色白が美しいと男性は考えており、女性も自ら色白になろうと努力しようとしていることが読み取れる。しかし男性が色白であることはどのように評価されているかというと、
<男性>
「路肩のほの白き日蓮上人」
(「狂言の神」)
「色が白く、細面の、金縁の眼鏡をかけた、二十七、八のいやらしいおまわりさんでございました。
(「燈籠」)
というように表現されており、日蓮上人が描写されているものでは神秘性や気品などが感じられるが、一般人の男性に対しては色白が低い評価を受ける要素のひとつとして働いていることを読み取ることができる。この範囲内の想定では結果が出なかったが、「女生徒」にもある男性について、「もう四十ちかいのに、好男子みたいに色が白くて、いやらしい。」と表現されており、色白=美しいという方程式が常に成り立つのはおよそ女性におけることであろうと推測することができた。
次に死者に対する「白」の表現はどのようになっているのかというと、
<死者>
「つぎの日、私のうちの人たちは父の寢棺の置かれてある佛間に集つた。棺の蓋が取りはらはれるとみんな聲をたてて泣いた。父は眠つてゐるやうであつた。高い鼻筋がすつと青白くなつてゐた。私は皆の泣聲を聞き、さそはれて涙を流した。」(「思ひ出」)
というように、血の気が引くという様子が「青」と「白」を使って表現されていた。「青」は使用されていないが前述の「玩具」で、主人公の祖母が死にゆく様子を「白」を用いて描写した時と共通点が見られる。また服飾関係を表すものにおいては、
<服飾関係>
「私は早くから服裝に關心を持つてゐたのである。シヤツの袖口にはボタンが附いてゐないと承知できなかつた。白いフランネルのシヤツを好んだ。襦袢の襟も白くなければいけなかつた。えりもとからその白襟を一分か二分のぞかせるやうに注意した。」
(「思ひ出」)
というように主人公(作者)のこだわりを垣間見ることができた。このように「白」が服飾関係を表現するものについては第三章第三節第一項で詳しく述べる「おしゃれ童子」や、前述した「服装に就いて」にもよく出現している。服装における主人公の「白」への固執はこれ以外の作品でも散見され、以降注目するに値すると考える。
よってこれらのことから、「白」は太宰が強い意図をもって使用している可能性があることがわかった。特にそれは服装や人の肌の色についてであり、おそらく美しさや気品、清潔さ、一種の憧憬などを色彩語に包含させて表現していると考えられる。これは太宰の色彩語使用の要になると考えられるため、以降丁寧に分析・考察を行うこととする。
〇黒系統「黒」(50語以上)
黒系統で最も多いと想定される作品は「逆行」である。分析結果は約64.0620語であった。以下にこの作品におけるそれぞれの頻度(個数)と割合(%)について提示する。
「逆行」は前述したように4つの短編を収録しており、「蝶々」「盗賊」「決闘」「くろんぼ」という四部構成になっている。今回「逆行」が、黒系統の中で原稿用紙100枚にした際もっとも出現するという結果が出た理由はこの4作品の中でも「くろんぼ」と題された作品にあり、主人公が「くろんぼ」という呼称を作品内で19回使用していることによる。「くろんぼ」はおそらく黒人の女性のことであって、主人公はその女性に思いを馳せているためその人物を心内外問わず呼ぶ手段としてこの愛称を使用しているが、主人公以外の人間はその呼び名を差別的に使用している。よって肌の色を表現する色彩は、「白」の表現のされ方などを比較すると、高評価を与えるもの(主人公によって)、低評価を与えるもの(周囲の人物によって)に分けることができると推測することができる。
〇黒系統「黒」(40語以上50語未満)
作品を原稿用紙100枚に換算し、40語以上50語未満の黒系統の出現が想定された作品は「東京だより」である。「東京だより」は約42.0618語となり、それらの実際の出現頻度(個数)と作品に占める割合(%)は以下のとおりであった。
この作品では上図からもわかるように、青系統の色彩語は出現していなかった。赤系統「赤」で唯一使われていたのは「でも、下駄の鼻緒が赤くて、その一点にだけ、女の子の匂いを残しています。」という部分であり、色が性別の違いを表すものとして使用されている例となっている。そしてここで注目する黒系統では「黒」が使用されていたが、修飾する語は顔や事務服、アゲハ蝶となり、対象語の種類がそれぞれ分かれていた。以下は「黒」が使用されている部分の引用文である。
「働く少女たちには、ひとりひとりの特徴なんか少しも無い、と前にも申し上げましたが、その工場の事務所にひとり、どうしても他の少女と全く違う感じのひとがいたのです。顔も別に変っていません。やや面長の、浅黒い顔です。服装も変っていません。みんなと同じ黒い事務服です。髪の形も変っていません。どこも、何も、変っていません。それでいて、その人は、たとえば黒いあげは蝶の中に緑の蝶がまじっているみたいに、あざやかに他の人と違って美しいのです。そうです。美しいのです。何のお化粧もしていません。それでも、ひとり、まるで違って美しいのです。私は、不思議でなりませんでした。」
(「東京だより」)
この作品における「黒」は、個性のない他に埋没する色として使用されている。何色にも混ざらない色である「黒」は、その他の色と並べば一方の色を目立たせることができる。このような色の特性を利用した叙述法は「座興に非ず」と類似している。周囲に混ざりながらも、その中に少女の美しさを見出した主人公は、「黒」を同じように配し他者と同一の色としていながらも、この少女そのものに対しては高評価を与えていると読み取ることができる。
○黒系統「黒」(30語以上40語未満)
「座興に非ず」は40語に程近い約39.8406語の「黒」の色彩語が想定された。
これは先の「白」でも取り上げた作品である。この作品における「黒」の使われ方は上述「東京だより」と類似している。以下にその引用を提示する。
「無数の黒色の旅客が、この東洋一とやらの大停車場に、うようよ、蠢動していた。すべて廃残の身の上である。私には、そう思われて仕方がない。ここは東北農村の魔の門であると言われている。ここをくぐり、都会へ出て、めちゃめちゃに敗れて、再びここをくぐり、虫食われた肉体一つ持って、襤褸まとってふるさとへ帰る。」
(「座興に非ず」)
ここでの旅客は日焼けした農民たちを指していると考えられる。この文章のあと彼らは再び「黒色の蟻」として揶揄されている。一度都会に出て失敗した主人公は、彼らを軽蔑のまなざしで見ていると言っても過言ではない。「黒」には、「逆行」でもとりあげたような黒人を表す場合と、日焼けを暗に示す場合があり、人々をまとめて描写する機能があるということがわかった。
「陰火」では、「黒」は約33.8064語想定された。実際の出現割合は、白系統と同じく約3割を占めていた。
この作品において「黒」は肌の色を描写する役割で何度か出現するが、良し悪しの評価が与えられているものは少ない。以下はその数少ない評価付きの色彩語の中でも、低評価を与えている箇所の引用である。
「僕は尼の手を見てゐた。爪が二分ほども伸びて、指の節は黒くしなびてゐた。「あなたの手はどうしてそんなに汚いのです。かうして寢ながら見てゐると、あなたの喉や何かはひどくきれいなのに。」」
(「陰火」)
手が「黒」いと汚さを感じるのは現代でも同じだろう。ここでは爪も伸びているということから、主人公はなおさら不快感を得、上記のような発言をするに至ったと考えられる。
「竹青」は主人公が烏に変化することから、かなり多く出現すると推測していたが、算出すると400字詰め原稿用紙100枚に換算したときの想定は約31.4658語にとどまっていた。
「その家の色黒く痩せこけた無学の下婢」
(「竹青」)
これは主人公の描写である。主人公は両親と死別し、親戚の家を転々とまわる書生であり、自分の財産は全く持ち合わせていないという設定である。「下碑」や「黒く痩せこけた」というように描写することで主人公がみすぼらしく、不健康な容姿であることがわかる。
その他「竹青」では、烏の黒い姿を描写する場面が2回あるが、その他6回は黒衣の人物を描く際に使用されていた。
「「呉王さまのお言いつけだ。そんなに人の世がいやになって、からすの生涯がうらやましかったら、ちょうどよい。いま黒衣隊が一卒欠けているから、それの補充にお前を採用してあげるというお言葉だ。早くこの黒衣を着なさい。」ふわりと薄い黒衣を、寝ている魚容にかぶせた。たちまち、魚容は雄の烏。」
(「竹青」)
黒衣は烏の羽の色を反映している。一つ目の引用に挙げた主人公の「黒」さは、後に彼が烏になることと対応しており、伏線となっていることがわかる。よってこの作品における主人公の「黒」は、すべて烏という鳥を視野においた使われ方であると言える。
○黒系統「黒」(20語以上30語未満)
この範囲で「黒」の出現が想定される作品は「おしゃれ童子」(約25.7607語)「ア、秋」(約22.9489語)「列車」(約22.7758語)「めくら増紙」(約22.5146語)「二十世紀旗手」(約22.1891語)「美少女」(約20.4569語)「佐渡」(約20.4151語)「i can speak」(約20.1410語)の8作品であった。以下にそれらの実際の出現頻度(個数)と割合(%)を挙げながら、「黒」という色彩語がどのように使用されているかを分析していく。
「おしゃれ童子」では約25.7607語の「黒」の色彩語が想定された。この作品は全作品の中で、最も高い割合で色彩語が使用されていた作品である。
白系統でも述べたように、この作品では服飾関係を描写するために色彩語が多用されている。これは「黒」においても同様で、実際の表現は以下に挙げる通りである。
「久留米絣に、白っぽい縞の、短い袴をはいて、それから長い靴下、編上のピカピカ光る黒い靴。」
「どういうわけか広い襟を好んだようです。その襟には黒のビロオドを張りました。」
「黒の、やや厚いラシャ地でした。これを冬の外套として用いました。」
「こんどは、黒のラシャ地を敬遠して、コバルト色のセル地を選び、それでもって再び海軍士官の外套を試みました。」
(全て「おしゃれ童子」より)
出現割合からみてもわかるように、やはり主人公(作者)は自身の服装について「白」を多用している。引用文からは、「黒」を靴や襟などワンポイントとして使用していることがわかる。また冬の外套として使用した「黒」はすぐに敬遠され、コバルト色に変更していることから、「黒」を全面的に強調する服装は好まなかったものと推測することができる。
「ア、秋」では実際に「黒」が出現している箇所は1か所でありながら、その全体の文量ゆえに約22.9489語の想定がなされた。ここでの使用のされ方は以下のとおりである。
「窓外、庭ノ黒土ヲバサバサ這イズリマワッテイル醜キ秋ノ蝶ヲ見ル。並ハズレテ、タクマシキガ故ニ、死ナズ在リヌル。決シテ、ハカナキ態ニハ非ズ。と書かれてある。
これを書きこんだときは、私は大へん苦しかった。いつ書きこんだか、私は決して忘れない。けれども、今は言わない。」
(「ア、秋」)
この文章は主人公が「秋」という季節をテーマに、自身が思うこと、見たことを覚え書きしたものを見直す場面である。ここでは自身の庭の土を描写するために「黒」が使用されていた。また、この黒土は蝶が何色かはわからないまでも、蝶が懸命に飛ぼうとしている姿をよりはっきりと認識させる役割を担っていると考えられる。
この作品では約22.7758語の色彩語が想定された。「列車」は昭和8年2月に「サンデー東奥」に懸賞小説として掲載されたもので、「太宰治」という筆名で発表された初めての小説である。
この作品では当時上野から青森まで通じている列車の描写が多分になされている。以下は「黒」が使用されている箇所の引用文である。
「一〇三号のその列車は、つめたい雨の中で黒煙を吐きつつ発車の時刻を待っていた。」
(「列車」)
またこの作品で「黒」は、人物の顔色を描写したものもあり、
「三輛目の三等客車の窓から、思い切り首をさしのべて五、六人の見送りの人たちへ
おろおろ会釈している蒼黒い顔がひとつ見えた。その頃日本では他の或る国と戦争を
始めていたが、それに動員された兵士であろう。私は見るべからざるものを見たよう
な気がして、窒息しそうに胸苦しくなった。」
(「列車」)
というように使用されていた。一つ目の引用にみられる「黒」は列車の吐く煙の様子を描写しているものであるが、二つ目の「黒」は兵士の心情を代弁しているようである。人々に見送られながら、これから戦地へと向かう兵士の顔色を主人公(語り手)は「蒼黒い顔」と表現し、「見るべからざるものを見た」「窒息しそうに胸苦しくなった」と感想を抱いていることから、彼(動員された兵士)に降りかかる何らかの不吉な予感を主人公は感じているように読み取ることができる。またこの色彩からは、動員された兵士が日焼けしている様子や、緊張状態にある様子も感じとることができる。
「めくら草紙」では、約22.5146語の「黒」の想定がなされた。実際の出現は黒系統が5個であり、その内訳は「黒」が4個で「くろ」が1個であった。なお「くろ」の使われ方は「庭のくろ土」という表現であった。
この作品のなかで、主人公は隣の家に住むマツ子という娘に純粋な年下の者に対する愛情を抱いている。「黒」の使われ方は4個のうち3個がこのマツ子に対するものであり、以下はその引用部分である。
「「マツ子は、いろが黒いから産婆さんにでもなればよい。」と或る日、私がほかのことで怒っていたときに、言ってやった。そんなに黒くはないのだけれども、鼻もひくいし、美しい面貌ではない。ただ、唇の両端が怜悧そうに上へめくれあがって、眼の黒く大きいのが取り柄である。姿態について、家人に問うと、「十六では、あれで大きいほうではないでしょうか。」と答えた。また、身なりについては、「いつでも、小ざっぱりしているようじゃございませんか。奥さまが、しっかりしていますものですから。」と答えた。」(「めくら草紙」)
この引用から、「黒」が人物の容姿を表現するために使用されていることがわかる。この文章からわかることは、肌が黒く鼻が低ければ美人であるという評価は受けないということ、またそれに反して、唇の口角が上がり、眼が黒く大きい場合は良い面立ちとして評価されるということである。これにより、人物の容姿の良し悪しを判断する場合、先に述べた「白」やこのような「黒」の色彩が、判断材料として機能すると考えられ、また肌の色に関しては「黒」という色彩は低評価を表すものとして機能することがわかった。
「二十世紀旗手」では約22.1891語が想定された。この作品は太宰自身が「二十世紀旗手」として選ばれたという自負をもつ反面、「生まれて、すみません。」というエピグラフからもわかるように、その廃残意識に引き裂かれている心情を技巧的に構成した野心作であるが、やや才に走りすぎたきらいのある作品である。(―「奥野健男作家論集3」148頁―)
「ああ、かの壇上の青黒き皮膚、痩狗そのままに、くちばし突出、身の丈ひょろひょ
ろと六尺にちかき、かたち老いたる童子」
(「二十世紀旗手)
というように今までの作品であれば単に「肌の色は青黒く、痩せていて、口は突出し……」と表現していたものが、本作品では上記のような叙述表現になっている。ここでは「かたち老いたる」と表現していることから、「(青)黒」い皮膚にも低評価が与えられていると言える。その他「黒」の使用としては
「(中略)それっきり、以来、十箇月、桜の花吹雪より藪蚊を経て、しおから蜻蛉、紅葉も散り、ひとびと黒いマント着て巷をうろつく師走にいたり、」
(「二十世紀旗手)
という叙述で、冬の到来を表すものとして「黒いマント」を取り上げている点が色彩語の使用法として確認できた。これは現代においても同様に見られることで、冬の上着として「黒」が多いことは当時においても変わらないということがわかった。
「美少女」は「青」や「白」でも取り上げた作品である。「黒」の想定としては、約22.1891語の想定がなされた。この作品において「黒」という色彩語は、この作品でも「めくら草紙」と同じく、人物の姿を形容するものとして使用されていた。以下はその引用文である。
「七十くらいの老爺、からだが黒くかたまっていて、顔もくしゃくしゃ縮小して奇怪
である。」
「やっぱり、ふたりの黒い老人のからだに、守られて、たからもののように美事に光
って、じっとしている。」
「十七、八の弟子がひとりいて、これは蒼黒く痩せこけていた。」
(すべて「美少女」より)
一文目と二文目からは、老人の体が決して健康なものではなく、少女の体を引き立てるかのように「黒」を使用して描写されていることがわかる。また三文目の若者の描写においても、後の「痩せこけていた」という表現から、読者は良い容姿であると想像することはできないように思わされる。なおこの作品中に登場する老人は、「白」で表現された場合高評価を与えられる対象となることが前述において確認できていた。このように色別で考察すると、低評価と高評価というそれぞれ異なる意味が表出していたということはたいへん興味深い。
「佐渡」では400字詰め原稿用紙100枚に換算した場合、約20.4151語の「黒」の出現が想定された。
この作品は主人公が佐渡へ行く道中を主に描いたものである。ここで特徴的な「黒」の使用法として以下の引用文を挙げる。
「新潟は、いや日本の内地は、もう見えない。陰鬱な、寒い海だ。水が真黒の感じである。スクリュウに捲き上げられ沸騰し飛散する騒騒の迸沫は、海水の黒の中で、鷲のように鮮やかに感ぜられ、ひろい澪は、大きい螺旋がはじけたように、幾重にも細かい柔軟の波線をひろげている。日本海は墨絵だ、と愚にもつかぬ断案を下して、私は、やや得意になっていた。」
(「佐渡」)
この場面での時刻は、前述に「新潟出帆、午後二時。佐渡夷着、午後四時四十五分の予定。」と述べられていることから昼間であると推測する。また「十一月十七日。ほそい雨が降っている。」という記述から、東北の寒い海の上に主人公(太宰)は位置していて、昼間でも暗い状態であるということが推測できる。主人公はこの海を「陰鬱な、寒い海だ」と形容しており、さらにその色彩を「真黒」「墨絵」と表現することによって、より一層の寒さ、暗さ、冷たさなどを読者は感じ取ることができるようになっている。
またこの作品における「黒」は、海ばかりを表現しているのではない。以下の叙述のように、島に関しても同様の色彩を用いている。
「私は、うんざりした。あの大陸が佐渡なのだ。大きすぎる。北海道とそんなに違わんじゃないかと思った。(中略)高等学校の生徒は、私に嘘を教えたのだ。すると、この眼前の黒いつまらぬ島は、一体なんだろう。つまらぬ島だ。人を惑わすものである。こういう島も、新潟と佐渡の間に、昔から在ったのかも知れぬ。」
(「佐渡」)
この「つまらぬ島」というのは、主人公が一時佐渡であると勘違いをしてしまった島である。この文章の前に主人公は高校生と語らい、この島を佐渡であると自信をもって断言していた。よって恥ずかしさを隠すために「つまらぬ島」と表現し、何もない、見る価値のない島であるということを表すために「黒」という色彩語が使用されたと考えられる。
この作品は白系統でも取り上げた作品である。この作品の「黒」の出現想定は約20.1410語であった。実際には1回のみの出現であるが、作品内の文量が少ないためにこのような結果が想定されたと考えられる。
なおここでの「黒」の使用のされ方は「弟の顔は、黒く、まだ幼い感じであった。」というものである。ここではおそらく、時刻が夜であること、また彼が夜間学校に通っているという叙述から、夜の暗闇と彼自身の日焼けによる黒さである可能性があると考えられる。
これらの結果により、太宰作品において使用される「黒」は醜さや日焼けを表現するために用いられる場合や、何か強調したいものを引き立てるために用いられる場合があるということが分かった。特に「醜さ」などの低評価を与える使用は「白」の使用傾向と比べると正反対のものであると考えられる。
ここで、この項におけるこれまでの分析をまとめると次のようになった。
以降の分析とこれらの結果を併せて、太宰は色彩語にどのような意味を含ませて使用していると読み取ることができるのかを考察していきたい。
ここでは「第二章 研究概要」の「第二節 研究方法」で述べた操作と同様、各色が修飾している語を、『分類語彙表』(国立国語研究所)を用いて分類したものを扱う。(以下「分類語」と呼称する。)これに関して何度その分類語が出現したかを算出し(頻度(個数))、その累積比率(%)等を求めることによってその傾向をみていく。なお、以降「対象語」と呼称しているものは、色彩語が文脈上修飾していると判断できる被修飾語を指す。また「分類語」と呼称しているものは、前述したとおり『分類語彙表』(国立国語研究所)を参考にし、分類のための見出しとして使用した語を指す。よって本論では、「分類語」は「対象語」の上位語として捉えることができる。
なお全対象作品から得た全分類語の内訳は以下のとおりであった。(上位10位までを掲載)ただし、これは一色表現で出現したものと二色表現で出現したものを総合した結果である。
※小数点第5位以下は四捨五入
この結果より、全対象作品中もっとも多く修飾されていた分類語は「頭・目鼻・顔」であり、累積比率から全体の約24.0%を占めているということがわかった。また2位は「皮・毛髪・皮膚」で、これに分類される対象語のほぼ全ては人物の容姿(特に肌、髪)を描写するものであった。
実際に太宰の作品を手にとると、登場する人物は細部まで容姿を描写して説明しているものと、ほぼ説明しないものにわけられるように感じる。これについては太宰治作品の翻訳で有名なドナルド・キーンも、
どうしても必要だと思った時以外は、めったに人物の容姿について子細に書かない。(中略)必要でないところでは、太宰は、人物は丸い顔をしているとか、肩幅が広いとか、おそらく他の作家なら書くだろうようなことを決して読者に語らない。(―『ドナルド・キーン著作集 第四巻 思い出の作家たち』182頁―)
と述べている。このように太宰作品における人物描写について評されていることを鑑みると、太宰が積極的に人物を描写しようとする場合、彼の重要な意図があると感ぜざるを得ない。実際の例をとると、上記で「細部まで容姿を描写して説明しているもの」としては以下の例が挙げられる。これは「美少女」というタイトルにも表されている人物の描写である。
あいだに、孫娘でもあろうか、じいさんばあさんに守護されているみたいに、ひっそりしゃがんでいる。そいつが、素晴らしいのである。きたない貝殻に附着し、そのどすぐろい貝殻に守られている一粒の真珠である。私は、ものを横眼で見ることのできぬたちなので、そのひとを、まっすぐに眺めた。十六、七であろうか。十八、になっているかも知れない。全身が少し青く、けれども決して弱ってはいない。大柄の、ぴっちり張ったからだは、青い桃実を思わせた。お嫁に行けるような、ひとりまえのからだになった時、女は一ばん美しいと志賀直哉の随筆に在ったが、それを読んだとき、志賀氏もずいぶん思い切ったことを言うと冷やりとした。けれども、いま眼のまえに少女の美しい裸体を、まじまじと見て、志賀氏のそんな言葉は、ちっともいやらしいものでは無く、純粋な観賞の対象としても、これは崇高なほど立派なものだと思った。少女は、きつい顔をしていた。一重瞼の三白眼で、眼尻がきりっと上っている。鼻は尋常で、唇は少し厚く、笑うと上唇がきゅっとまくれあがる。野性のものの感じである。髪は、うしろにたばねて、毛は少いほうの様である。ふたりの老人にさしはさまれて、無心らしく、しゃがんでいる。
(「美少女」)
これは主人公でもある語り手がその少女を初めて見た時の様子を描写したものである。引用文先頭の「あいだに」という叙述は、少女が老夫婦に挟まれるようにしてしゃがんでいることを表す。ここでの「きたない貝殻」と「どすぐろい貝殻」はその老夫婦を指したものである。
描写の順序はまず少女を真珠に例え、際立つ美しさを示したあとで、年齢の推測、全身の肌の色と目視で確認できる健康状態、体格を述べ、次に志賀直哉の引用を用いて美しさを強調している。次に全体の顔の印象、目、鼻、口、髪の順で描写し、再度老人に挟まれてしゃがんでいることを繰り返している。
この引用文を見ると細部まで細かく描写されていることから、「美少女」においてこの少女が主人公にとってたいへん重要な人物として位置していることがわかる。一方、同作品内における引用文を以下に示してみよう。この引用文は主人公が後日、とある散髪屋でその問題となっている少女と再会する場面であるが、そこで登場する散髪屋の主人と弟子の描写は先の少女の描写文と比較すると情報量がたいへん少ないことがわかる。
横丁の銭湯屋の向いに、小さな店が一軒あって、そこを覗いてみたら、やはり客がいるような様子だったので、引き返しかけたら、主人が窓から首を出して、「すぐ出来ますよ。散髪でしょう?」と私の意向を、うまく言い当てた。私は苦笑して、その散髪屋のドアを押して中へはいった。(中略)主人は、四十くらいで丸坊主である。太いロイド眼鏡をかけて、唇がとがり、ひょうきんな顔をしていた。十七、八の弟子がひとりいて、これは蒼黒く痩せこけていた。
(「美少女」)
主人公に話しかけた散髪屋の主人に対してはおおよその年齢と髪型、装飾品、口、全体の顔の印象が述べられているが、弟子については年齢と肌の色、体格のみである。特に弟子に関しては細部まで述べられているとは言い難い。このあとの叙述は、主人公が散髪をする様子については語られず、彼の意識は問題となっている少女に向けられるため、彼らの描写はこれで終わってしまう。これにより、作品中で重要となる人物の描写が色濃くなされるが、主要でない人物に対してはほとんど描写がなされないということを確認することができた。次に、もうひとつ作品を取り上げる。
「それ以来、僕たちは、面と向えば彼女をトシちゃんと呼んでいたが、かげでは、眉山と呼ぶようになった。そうしてまた、若松屋の事を眉山軒などと呼ぶ人も出て来た。
眉山の年齢は、はたち前後とでもいうようなところで、その風采は、背が低くて色が黒く、顔はひらべったく眼が細く、一つとしていいところが無かったけれども、眉だけは、ほっそりした三ヶ月型で美しく、そのためにもまた、眉山という彼女のあだ名は、ぴったりしている感じであった。」
(「眉山」)
トシちゃん(眉山)は、作品中、話題の中心となっている人物である。他には若松屋という飲み屋に足しげく通う主人公と、彼の飲み仲間である人物が複数登場するが、人物の容姿における描写は上記で取り上げた眉山(トシちゃん)のみである。ここでの描写は眉山のおおよその年齢、体格、肌の色、顔、目、眉という順でなされており、先の「美少女」と同じく全体から部分へと描写部分が移行していることがわかる。作者が眉山を細かく描写することによって、読者は彼女のイメージ像を得、次の展開で彼女が御不浄に行く様子を想像しやすくさせる効果がある。
これらの引用から、容姿における描写が細かくなされている登場人物は、作品においてたいへん重要度が高い人物であるということがわかった。色彩語が高い頻度で修飾していた分類語は1位が「頭・目鼻・顔」、2位が「皮・毛髪・皮膚」であったことを併せて考慮すると、これらの分類語における分析・考察には十分意味があると考える。よって「頭・目鼻・顔」や「皮・毛髪・皮膚」の中で、特に人物の描写の手段として使用している色彩や対象語について以降考察することとする。
○全系統からみる分類語「頭・目鼻・顔」について
分類語「頭・目鼻・顔」は、人間の体において首から頭までを範囲としている。この分類語で分類された対象語をそれぞれ計上すると、以下の表からわかるように「顔」に関するものが最も多いことが分かった。
この結果より、「頭・目鼻・顔」でも約60%を占めていた「顔」を分析することが重要であると考え、以降これに焦点をあてて分析・考察を行なうこととした。
○全系統からみる「顔」について
分類語が「頭・目鼻・顔」である場合、色彩語が最も修飾する可能性を孕む対象語が「顔」であるということは推測しやすい。なぜなら「顔」は、「顔を赤らめる」や「顔色が蒼白になる」など、人の心理変化を描写するために昨今でも話し言葉、書き言葉のどちらにおいても使用されやすい部位であるからである。
先の表より、対象語としての「顔」は2位の「頬」と比較すると約4.7倍の出現頻度をもつ対象語であることがわかった(「顔」の出現頻度÷「頬」の出現頻度より)。また比率としては両者の間に約13.5%の開きがあることからも、「頭・目鼻・顔」における「顔」の重要度は高い。以下は、実際に「顔」という対象語がどのような色彩語に修飾され、その色彩にどのような意味が含まれているのかということに着目し、使われ方の傾向について明らかにするものである。
まず初めに、「顔」がどのような色彩で修飾されていたかを以下の表・グラフで示すこととする。またこれは、二色表現を考慮せず一色表現で使用されていたものを算出している。
この調査により、分類語「頭・目鼻・顔」のうち「顔」は、「赤」と最も併せて叙述されることがわかった。また「顔」を修飾する色彩は「赤」に次いで「蒼」が多く、それ以外は「あか」と「青」、「白」、「黒」の出現がほぼ近似値を示しており、また「紅」「朱」「くろ」は各1個ずつの出現となっていた。
さらにこれらの系統別における出現頻度と割合を算出すると以下の結果が得られた。
この結果により、「顔」を修飾する色彩は赤系統が最も多く、次いで青系統が多いということがわかった。これはおそらく「赤」と「蒼」の突出した出現頻度が影響していると考えられる。また白系統、黒系統はほぼ同様の出現頻度(個数)と割合(%)を示していた。
○仮説
「顔」を「赤」で表現する理由の仮説として、そのように描写される人物の心理状況は「恥」に関係するものや「照れ」、「怒り」に関係することが多く、また心理的側面以外にはその人の「性質」(その人物がもつ平素固有の顔の特徴)、酒からくる「酔い」を表している可能性が高いと考える。
一方「赤」に次いで、「顔」と併せて使用される色彩語として多く出現した「蒼」については、「顔面が蒼白になる」など強い「衝撃」などにより血の気の引く様子を表す際に使用されると推測する。また上記で述べたことと同じく、心理的側面以外を考えると「性質」を表現する手段として同様に使用されていると考えられる。
よってここでは、「赤」は「恥」や「照れ」、「怒り」の感情を表すものとその人物における「性質」や酒に酔った状態(「酔い」)を表すものを表し、「蒼」は心理的に大きな「衝撃」を受けたものとその登場人物の「性質」を描写するために使用されているものが最も多いとして仮説を立てることとした。
以下、この仮説をもとに実際の「顔」における色彩の使用法について、各色にわけて分析・考察を行っていく。
○「顔」における「赤」の分類項目設定に関して
ここでは、「赤」という色彩語一色を用いて「顔」を描写したものの表現傾向を明らかにする。以下は「顔」が「赤」い理由の分類項目を設定し、それに該当するための条件を整理したものである。
まず初めに、仮説で述べたことを明確化するため「恥」という感情について整理しておく。「恥」には「羞恥心」や「恥じらい」など微妙な意味の違いがあるため、この二つの語について注釈を加える。参考は全て、『日本国語大辞典』による。
「羞恥心」は「はずかしいと感じる気持。はじらいの気持。」を指し、「恥じらい」は「恥ずかしがること。はにかみ。気おくれ。」という意味を指す。よって「羞恥心」は「恥じらい」を包括することばであるということがわかる。自然に湧き上がってくる気持ちとして恥ずかしがるか、恥ずかしいという感情を行動に出すかとでは大きな違いがあるが、ここでは両方に共通する心理が「恥」であるということを考慮し、「恥」と名づけて分析の項目のひとつとした。
この「恥」を表すものに該当した例は以下のとおりである。
まず僕が、或る日の午後、まだおでんやが店をあけていない時に、その店の裏口から真面目くさってはいって行った。「おじさん、いるかい。」と僕は、台所で働いている娘さんに声をかけた。この娘さんは既に女学校を卒業している。十九くらいではなかったかしら。内気そうな娘さんで、すぐ顔を赤くする。「おります。」と小さい声で言って、もう顔を真赤にしている。
(「未帰還の友に」)
「赤」が叙述されている前後の文章から、ここでの登場人物である「娘」は、他人と接する際にたいへん恥ずかしがる質であることがわかる。「内気」である性格や、「十九」という年齢の説明がなされていることから、その傾向があることに読者は違和を感じることはない。このように、「恥」の項目に分類するには色彩が出現している前後の叙述や、その描写対象人物における性格等の叙述を手掛かりに吟味した上で判断することとする。
また、自分の行為や才能が劣っていると感じた場合も「恥」に該当するとして処理した。以下はそれにあたる引用である。
「「いや、なに、それがねえ、」と少しおどけたような口調で言い、「問題はその進駐軍なんです。とにかく君、これを読んでみて下さい。」そうして、僕に一枚の便箋を手渡した。便箋には英語が一ぱい書かれている。「英語は僕、読めません。」と僕は顔を赤くして言った。「読めますよ。君たちくらいの中学校から出たての年頃が一ばん英語を覚えているものです。僕たちはもう、忘れてしまいました。」にやにや笑いながら言って、僕のベッドの端に腰をおろし、僕にだけ聞えるように急に声を低くして、「実はね、これは僕の書いた英文なんです。きっと文法の間違いがあるだろうから、君に直してもらいたいんです。読めばわかるだろうが、どうもこの道場の人たちは、僕をよっぽど英語の達人だと買いかぶっているらしく、いまにこの道場へアメリカの兵隊が来たら、或いは僕を通訳としてひっぱり出すかも知れないんだ。その時の事を思うと、僕は心配で仕様がないんですよ。察してくれたまえ。」と言って、てれ隠しみたいにうふふと笑った。「だって、あなたは本当に英語がよくお出来になるようじゃありませんか。」と僕は、便箋をぼんやり眺めながら言った。」
(「パンドラの匣」)
これは自分の才能が周囲から見て劣っていると感じた時の顔の「赤」さを表している。「君たちくらいの中学校から出たての年頃が一ばん英語を覚えているものです。」や、「君に直してもらいたいんです」「読めばわかるだろうが」という表現から、主人公に接する相手のあからさまな期待が寄せられていることがわかる。しかし主人公は便箋が英語であると気づいたときに「英語は僕、読めません」と発し、また引用文最後の「便箋をぼんやり眺めながら」という表現から本当に英語を苦手としているということがわかる。ここでの顔が「赤」くなる様子は、相手の期待に応えられる才が自身にはないということを自覚したことによるものであると言えよう。
また、以下の引用文も同じく「恥」に分類したものである。
「風はおさまったけれど、朝はどんより曇って昼頃ちょっと雨が降り、それから、少しずつ晴れて来て、夜は月が出た。今夜は、まず、きのうの日記を読みかえしてみて、そうして恥ずかしく思った。実に下手だ。顔が赤くなってしまった。十六歳の苦悩が、少しも書きあらわされていない。文章が、たどたどしいばかりでなく、御本人の思想が幼稚なのだ。どうも、仕方がない。」
(「正義と微笑」)
このように、直前に「恥ずかしく思った」という叙述があること、また自身の日記を見返して文章の稚拙さを痛感していることから「恥」に該当する十分な理由があると考えた。これはだれかと接して、その人物と自分を比較することで恥ずかしくなったというものではなく、自分自身の才の無さに気づいて赤面している様子である。
よって「恥」に該当するための条件は、性格として元来備わっている恥ずかしがりや、周囲と自身を比較した時に自覚する劣等感、自分自身が抱いているコンプレックスの露呈、また誇りが傷ついたと感じるときなどの感情の表出として表現されていることとする。
次に「照れ」についての説明を行う。ここでは自分自身(または近親者)が周囲から褒められた場合ないし自身で自分に高評価を与える場合や、自身が好意を寄せている人物と接する際に生じる照れくささによって顔が紅潮する様子を、「照れ」として分類することとした。以下はその引用である。
「けれども、お巡りは、朗かだった。「子供がねえ、あなた、ここの駅につとめるようになりましてな、それが長男です。それから男、女、女、その末のが八つでことし小学校にあがりました。もう一安心。お慶も苦労いたしました。なんというか、まあ、お宅のような大家にあがって行儀見習いした者は、やはりどこか、ちがいましてな」すこし顔を赤くして笑い、「おかげさまでした。お慶も、あなたのお噂、しじゅうして居ります。こんどの公休には、きっと一緒にお礼にあがります」急に真面目な顔になって、「それじゃ、きょうは失礼いたします。お大事に」
(「黄金風景」)
この作品における主人公は、故郷を追われて住まいを移し、また病を患って一人孤独な生活を送っている人物である。この場面はその土地で偶然、昔主人公の実家で女給として働いていた「お慶」を妻とする(と推測される)「お巡り」に出会い、ふたりに共通する彼女の話を「お巡り」が主人公にしている場面である。「お宅のような大家にあがって行儀見習いした者は、やはりどこか、ちがいましてな」という発言には、自身の身内である「お慶」を褒める態度が含まれている。よってこの場面における「すこし顔を赤くして笑い」は、「お巡り」自身の良妻を嬉しく思う気持ち、またそれを人に自慢することによる「照れ」の表れであると言える。
「その頃はもう私も十五六になつてゐたし、手の甲には靜脈の青い血管がうつすりと透いて見えて、からだも異樣におもおもしく感じられてゐた。私は同じクラスのいろの黒い小さな生徒とひそかに愛し合つた。學校からの歸りにはきつと二人してならんで歩いた。お互ひの小指がすれあつてさへも、私たちは顏を赤くした。」 (「思ひ出」)
これは「自身が好意を寄せている人物と接する際に生じる照れくささ」を表したものである。この「思ひ出」に叙述されている引用文は主人公の過去の回想であり、自身が経験した学生時代の恋愛体験を述べたものである。ここではお互いの指先が触れ合った際、「照れ」によって、顔が「赤」くなったと判断することができる。また、以下の例も加えこの「照れ」における条件を明確にしておく。
「うん。」僕は普通の声で返辞した。「なやみがあると言ってた。」よく噛んで、よく噛んで、きれいな血液を作るのだ。「いやらしい。」竹さんは小さい声で言って顔をしかめた。「僕の知った事じゃない。」あたらしい男は、さっぱりしているものだ。女のごたつきには興味が無いんだ。「うち、気がもめる。」と言って、にっと笑った。顔が赤い。僕は、少しあわてた。ごはんを、なま噛みのまま呑み込んでしまった。「たんと食べえよ。」と、低く口早に言って、僕の前を通り、部屋から出て行った。僕の口は思わずとがった。なあんだ。大きいなりをして、だらしがねえ。なぜだか、その時、そんな気がして、すこぶる気にいらなかった。組長じゃないか。人を叱って気がもめる、もないもんだ。僕は、にがにがしく思った。竹さんも、もっと、しっかりしなければいかんと思った。けれども、三杯目のごはんをよそって、こんどは僕のほうで顔を赤くしてしまった。おひつのごはんが、ばかに多いのだ。いつもは、軽く三杯よそうと、ちょうど無くなる筈なのに、きょうは三杯よそっても、まだたっぷり一杯ぶん、その小さいおひつの底に残ってあるのだ。ちょっと閉口だった。
(「パンドラの匣」)
この作品で主人公は友人と文通を行っており、入院生活の様子を綴ることを習慣としている。作品はその手紙のやり取りを読者に提示する形式で展開していく。
小説の後半部分に主人公が抱いている本音を暴露する箇所があるが、そこには「君は竹さんを、凄いほどの美人だと言って、僕はやっきとなってそれを打ち消したが、それは僕だって、竹さんを凄いほどの美人だと思っていたのさ。この道場へ来た日に、僕は、ひとめ見てそう思った。君、竹さんみたいなのが本当の美人なのだ。」と述べられていることや、「今こそ僕は告白する。僕は竹さんに、恋していたのだ。」と彼自身が告白することから、上記引用文に見られる主人公の「竹さん」を否定するようないくつかの叙述は照れ隠しであると推測することができる。引用文では二か所、登場人物の顔が「赤」くなる部分があるが、前者の「竹さん」の顔の「赤」は、主人公と会話をすることによる「竹さん」自身の「照れ」である。結局彼女は別の男性と結婚してしまうが、実は主人公に思いを寄せているのであった。しかしこの時点では、主人公は「竹さん」からの好意を確たるものとして気づいてはいない。この彼女の「照れ」た様子と、いつもよりご飯が多く入れられていることの二点によって、主人公は「竹さん」が自身に好意を抱いていることを感じ取り、顔が「赤」くなってしまったのである。
このような現象を見ると、「照れ」が生じるときには自分自身が何か違和感を感じ取っており、またその違和感は決してマイナスのものではなくプラスのものであるということがいえる。上記引用においては「違和感」が予想しなかった竹さんからの好意であり、それを悪く思わない主人公の心情が「プラスの感情」として該当する。もしもこれがマイナスの感情としての違和感なのであれば、主人公は「竹さん」に対して困惑し、拒否するようになるだろう。しかしこの後も主人公は竹さんを受け入れ、また小説の後半部分に前述したような自身の隠していた気持ちが告白されることから、この引用文の場面における主人公の「赤」い顔の心情は、「竹さん」に対する好意が婉曲的に表現されたもの(「照れ」)として読みとることができる。
よって項目の一つとして設定した「照れ」に該当するための条件は、自分自身や身内(近親者)を褒める時と褒められる時の感情の表出として「赤」が使用されていることがひとつに挙がる。また、どちらか一方または双方が好意を寄せている男女が接触する際に生じた「顔」の「赤」も、この項目に該当するとして処理することができる。この「照れ」の感情が生じる過程としては、「照れ」る人物がプラスの違和感を覚えていることとする。
次に「性質」についての説明を行う。「性質」は、心理的な変化や体調面における変化に左右されず、もともとの顔が「赤」であることを指す分類として項目のひとつに設けた。以下はその例である。
「あのやうに高名なお方でございますから、さだめし眼光も鋭く、人品いやしからず、御態度も堂々として居られるに違ひないと私などは他愛ない想像をめぐらしてゐたのでございましたが、まことに案外な、ぽつちやりと太つて小さい、見どころもない下品の田舎ぢいさんで、お顔色はお猿のやうに赤くて、鼻は低く、お頭は禿げて居られるし、お歯も抜け落ちてしまつてゐる御様子で、さうして御態度はどこやら軽々しく落ちつきがございませんし、このやうなお方がどうしてあの尊い仙洞御所の御寵愛など得られたのかと私にはそれが不思議でなりませんでした。」
(「右大臣実朝」)
「「そなたは、どう思うか。こんな馬鹿らしい話を、わざわざ殿へ言上するなんて、ちと不謹慎だとは思わぬか。世に化物なし、不思議なし、猿の面は赤し、犬の足は四本にきまっている。(中略)」
(「新釈諸国噺」)
上記にふたつ例を挙げたが、前者の「右大臣実朝」における引用部分は人間における顔の「赤」、後者の「新釈諸国噺」における引用部分は動物である猿の顔の「赤」を表したものである。ここで本項は、色彩の対象となる登場人物が人間でなくてもよいということをあらかじめ明言しておく。どのような色彩語が表出しているかを見るために、作家が表現した叙述を全て研究対象として取り上げるため、ここでは動物である猿も分析の対象とみなす。上記二例からはそれぞれの「赤」が、対象人物(動物)の平素固有の性質であることがわかる。このような、心理変化や酔いなどの体調の変化によるものではない顔の「赤」をここでは「性質」とし、他の項目と明確に区別することとした。
その他、仮定で予測した「恥」「照れ」「性質」のほかに、分類として設えた項目には「嘘」「興奮」「酔い」「体調の変化」がある。次にこれらについての説明を行う。
「嘘」に関しては、ある事柄において嘘をつく、または隠すことにより生じた顔の「赤」が該当する。以下はそれに分類した引用文である。
「ジャンパーのポケットに手をつっ込むと、おびただしい紙屑が指先に当る。何だろう。はっと気がつく。金だ。ほのぼのと救われる。よし、遊ぼう。鶴は若い男である。
東京駅下車。ことしの春、よその会社と野球の試合をして、勝って、その時、上役に連れられて、日本橋の「さくら」という待合に行き、スズメという鶴よりも二つ三つ年上の芸者にもてた。それから、飲食店閉鎖の命令の出る直前に、もういちど、上役のお供で「さくら」に行き、スズメに逢った。「閉鎖になっても、この家へおいでになって私を呼んで下さったら、いつでも逢えますわよ。」
鶴はそれを思い出し、午後七時、日本橋の「さくら」の玄関に立ち、落ちついて彼の会社の名を告げ、スズメに用事がある、と少し顔を赤くして言い、女中にも誰にもあやしまれず、奥の二階の部屋に通され、早速ドテラに着かえながら、お風呂は? とたずね、(中略)」
(「犯人」)
この場面における主人公は金に困ったため姉に工面してもらおうと姉宅へ出向くのであるが、姉が応じなかったため彼女を殺し、その店の売り上げを強盗したという経緯をたどっている。主人公は「さくら」において「スズメに用事がある」と発しているが、本当は思いつきで「さくら」に寄っているため、仲居である「スズメ」に特別の用があるわけではない。また「女中にも誰にもあやしまれず」という叙述は、「スズメ」に用があるという主人公の発言と、彼が人殺しを行ったことの二点を指していると考えられる。よってこの引用文における主人公の赤面は、「嘘」や隠し事をすることによって生じたものであるといえよう。
小使銭を支給されたその日に、勝治はぬっと節子に右手を差し出す。節子は、うなずいて、兄の大きい掌に自分の十円紙幣を載せてやる。それだけで手を引込める事もあるが、なおも黙って手を差し出したままでいる事もある。節子は一瞬泣きべそに似た表情をするが、無理に笑って、残りの五円紙幣をも勝治の掌に載せてやる。「サアンキュ!」勝治はそう言う。節子のお小使は一銭も残らぬ。節子は、その日から、やりくりをしなければならぬ。どうしても、やりくりのつかなくなった時には、仕方が無い、顔を真赤にして母にたのむ。母は言う。「勝治ばかりか、お前まで、そんなに金使いが荒くては。」節子は弁解をしない。「大丈夫。来月は、だいじょうぶ。」と無邪気な口調で言う。
(「花火」)
この場面は節子(妹)が勝治(兄)に金をせびられ、渡してしまったことによって母にさらなる小遣いを催促している場面である。母は節子の要求が勝治に起因していることを知らないため節子を叱るが、彼女は弁解せずに母に言われるままとなっている。ここでの「顔を真赤にして母にたのむ」という叙述からは、節子の母から追加の金をもらおうとすることへの気おくれと、勝治のことをひた隠しにする心情が伺えるだろう。何かを発言して嘘をつくというわけではないが、勝治のことを隠すため、自身が小遣いを使い切ったように見せかけるという行動をとることによって、顔の「赤」が生じていると推測する。
よって項目「嘘」に該当するための条件は、この「嘘」を発する際や隠し事をする際に生じた顔の紅潮であることとする。
また、この項目ついて嘘の露呈は該当しないこととする。その場合は嘘で保っていた自分自身が崩壊することによる気恥ずかしさ、つまり「恥」に該当するとして処理した。
次に、「興奮」についての説明を行う。
「ベルを押す。出て来たのはれいの女性だ。やはり、兄さんの推定どおり、秘書兼女中とでもいったところらしい。「おや、いらっしゃい。」相変らず、なれなれしい。僕を、なめ切っている。「先生は?」こんな女には用は無い。僕は、にこりともせずに尋ねた。「いらっしゃいますわよ。」たしなみの無い口調である。「重大な要件で、お目に、――」と言いかけたら、女は噴き出し、両手で口を押えて、顔を真赤にして笑いむせんだ。僕は不愉快でたまらなかった。僕はもう、以前のような子供ではないのだ。
(「正義と微笑」)
この場面は、主人公が役者を目指し、その道の名門とされる斎藤先生の自宅を訪れ、弟子入りを乞う時の場面である。「れいの女性」という人物はそこで働く秘書兼女中である。この女性は主人公を何度か見かけており、未だ子どものようにみえる主人公の型破りな名家への訪問を笑っている。ここでの顔の「赤」は、単に主人公の行動を面白おかしく思うものであって、決して彼を嘲笑しているのではない。このように当該人物にとってたいへん面白く感じられる事柄が起こった際、顔赤らかに大きく笑う様子を「興奮」として区別することとした。
また「興奮」には、次のような例も該当する。
「女の子の財布には、その子供自身で針金ねじ曲げてこしらえた指輪なんかがはいっていて、その不手際の、でこぼこした針金の屈曲には、女の子のうんうん唸って、顔を赤くして針金ねじ曲げた子供の柔かいちからが、そのまま、じかに残っていて、彎曲のくぼみくぼみに、その子供の小さい努力が、ほの温くたまっていて、」
(「春の盗賊」)
これは語り手の推測した事柄であり、女の子の財布に入っていた、針金で捻じ曲げた指輪について述べたものである。おそらく持ち主である女の子は、「うんうん唸って」という叙述から一生懸命力を込めて指輪を作ったのであろうと推測されている。ここでの顔の「赤」は、その制作時の力んで顔が紅潮する様子として表現されている。これは「興奮」という項目の名の意味からはいささかニュアンスが異なるが、描写対象となる人物の大きな身振りの結果として捉え、「興奮」として区別することとした。
よって「興奮」に該当するための条件は、顔が「赤」い人物自身の、極端な行動の結果として表現されているものとする。またこれに該当する心理的な様子としては面白おかしく思うもの、それ以外は上記「春の盗賊」にみられたような一生懸命力いっぱい力む様子であることとする。
次に、「酔い」を表す顔の「赤」についての説明を行う。これは字義通り、酒に酔った場合を指している。以下はそれに該当した引用文である。
「「私の死んだ父が大酒家で、そのせいか私は、夫よりもお酒が強いくらいなのです。結婚したばかりの頃、夫と二人で新宿を歩いて、おでんやなどにはいり、お酒を飲んでも、夫はすぐ真赤になってだめになりますが、私は一向になんとも無く、ただすこし、どういうわけか耳鳴りみたいなものを感ずるだけでした。」」
(「おさん」)
これは主人公である「私」が、夫と酒を飲み交わした時の回想を述べている場面である。ここでの「赤」は、酒を飲んだことによる顔色の変化であることがわかる。
「酔い」に該当する条件としては、酒を飲むことによって生じた顔の「赤」であると推測できるものとした。前後文脈から判断し、明らかに酒が原因であると考えられるものをこの項目に分類している。
最後に、「体調の変化」を表す顔の「赤」についての説明を加える。これは顔において「赤」の色彩語が使用されていたものの中では一つしか出現が見られなかった。その引用文を以下に挙げる。
「「入院したほうが、……」と私が申し上げたら、「いや、その必要は、ございませんでしょう。きょうは一つ、強いお注射をしてさし上げますから、お熱もさがる事でしょう」と、相変らずたより無いようなお返事で、そうして、所謂その強い注射をしてお帰りになられた。けれども、その強い注射が奇効を奏したのか、その日のお昼すぎに、お母さまのお顔が真赤になって、そうしてお汗がひどく出て、お寝巻を着かえる時、お母さまは笑って、「名医かも知れないわ」とおっしゃった。熱は七度にさがっていた。」
(「斜陽」)
この場面は「私」の「お母さま」が体調を崩し、一時は肺炎になるのではないかと危ぶまれた場面である。ここでの「赤」の使われ方は、注射を打ったことにより体温が上がったためであると推測することができる。よってここで表現された「赤」は、「体調の変化」という項目を設けることによって区別することとした。
以上、上記説明で述べたようにここでは顔に見られる「赤」が意味していることを、「恥」「照れ」「性質」「嘘」「興奮」「酔い」「体調の変化」の7項目で区別することとした。しかしここで注意しなければならないことは、顔を「赤」で表現しているものが全てこれら一つずつの項目に当てはまると言うことはない、ということである。実際に分類を行なうと、項目「照れ」と項目「興奮」の両方の意味が推測できるものなどが存在したため、これらに関しては重複するものとして別々に処理した。よって顔における「赤」の出現頻度の総数よりも、各項目でカウントして算出した総数の方が多く出現することとなっている。以下、この注意を踏まえ、結果を考察することとする。
○分析・考察結果
「顔」を描写する色彩として、赤系統における「赤」は94個存在した。またこれらを上述で説明した項目ごとに分類し、集計すると以下の結果となった。なお先にも述べたように、ひとつの出現でありながら複数項目に該当したものも存在するため、以下グラフの総出現頻度と「顔」を「赤」で表現したものの出現頻度には異なりが生じている。
これにより、顔が「赤」という色彩で描写されているものは「照れ」と「恥」の2項目で約62.4%を占めているということがわかった。この分析を行う前に挙げた仮説を再掲すると、「「赤」は「恥」や「照れ」、「怒り」の感情を表すものとその人物における「性質」や酒に酔った状態(「酔い」)を表すものが多い」としていたが、「恥」や「照れ」に関しては仮説通りの結果が得られたものの、「怒り」を描写したものはなく、また「性質」や「酔い」を表すものは全体の割合から見ると少ない結果となっていた。よって太宰作品における人物の顔を描写する際の「赤」の使用は、「恥」や「照れ」を表現する手段として使用されることが多いと言えるだろう。
また、これらの7項目のうち、心理的な変化を伴うものは「照れ」「恥」「興奮」「嘘」の4項目である。その他の3項目「性質」「酔い」「体調の変化」は、心理的な変化を伴わずして顔が「赤」く描写されていると考えることができる。この心理的な変化を伴う4項目の総出現頻度(個数)・割合(%)と、それを伴わない3項目の出現頻度(個数)・割合(%)は以下の通りである。
「心理的な変化を伴うもの」が約8割を占めた結果が得られた理由としては、顔を「赤」で描写する際の半数以上の出現割合を占めていたものが、心理的な変化を必要とする「恥」や「照れ」であったことに大きく起因すると考えられる。この結果により、太宰が「顔」という部位に色彩語「赤」を用いる場合、その人物の心理的な変化を表現する傾向があると言うことができた。またこれは彼が登場人物の感情の変化を読者にわかりやすく表現しようとした表れであるとも考えられる。「顔」を使用した理由としては、小説という文章表現において、登場人物の表情を描写することで心情を描くことが多いからではないかと考える。またもうひとつ「頭・目鼻・顔」でも「顔」がよく使用されている理由として、語の上位・下位が挙げられるだろう。たとえば「頬」や「唇」、「鼻」などは主に「顔」の中に存在するものであり、「顔」が上位語として存在していることは明らかである。「顔」全体を表現する場合と各部位を表現する場合の機会の多少を考えれば、感情が表情として如実に現れやすい「顔」を用いる方が圧倒的であるのは想像に易い。これは太宰の作品のみに言えることではなく、多くの作家においても同様の結果が得られると考えられる。
○「顔」における「蒼」の分類項目設定に関して
次に、「蒼」の色彩語一色を用いて登場人物の顔を表現する場合についての分析・考察を行う。顔とともに使用される「蒼」についての仮説は、「心理的に大きな「衝撃」を受けたものと、その登場人物の「性質」を描写するために使用されているものが最も多い」というものであった。以降では、この仮説が立証されるか否かを「赤」で述べた順序と同様、出現した「蒼」の文を分析しながら各項目に分類、その条件を明確にし、結果について考察を行う。なお、この「蒼」における顔の描写では設えた項目が前述「赤」よりも多く、12項目となっていた。また「赤」の場合と同様、いくつかの項目が重複して該当した文が存在したため、後の考察では顔における「蒼」の出現頻度よりも、該当した項目の総出現頻度の方が多くなったということを予め指摘しておく。以下は、その「蒼」で設えた12項目(「衝撃」「怒り」「恐怖」「苦悶」「真剣さ」「疲労」「酔い」「疾病」「緊張」「興奮」「性質」「冷酷」「諦観」)について述べたものである。
まず初めに、仮説でも述べた強い「衝撃」を表すものの例を以下に挙げる。
「その夜、私たちは、結婚のちぎりをした。私の知られざる傑作「初恋の記」のハッピイ・エンドにくらべて、まさるとも劣らぬ幸福な囁きを交した。(中略)翌朝、私は、雪と一緒に、またこっそり湯殿のかげの小さいくぐり戸から外へ出たのである。(中略)夜明けのまちには、人ひとり通らなかった。私たちは、未来のさまざまな幸福を語り合って、胸をおどらせた。私たちは、いつまでもそうして歩いていたかった。雪は旅館の裏山へ私を誘った。私も、よろこんでついて行った。くねくね曲った山路をならんでのぼりながら、雪は、なにかの話のついでに、とつぜん或る新進作家の名前で私を高く呼んだ。私は、どきんと胸打たれた。雪の愛している男は私ではない。或る新進作家だったのだ。私は目の前の幸福が、がらがらと音をたてて崩れて行くのを感じたのである。ここで私は、すべてを告白してしまったら、よかったのである。すくなくとも雪を殺さずにすんだのかも知れない。しかし、それができなかった。そんな恥かしいことは死ぬるともできなかった。私はおのれの顔が蒼ざめて行くのを、自身ではっきり意識した。」(「断崖の錯覚」)
これは主人公と、彼の新妻である「雪」との間に起こった出来事の叙述である。主人公の顔が「蒼」くなった理由は、まぎれもなく「雪」の発言によるものであると推測される。幸福の最中にいた主人公は彼女もまた同様であると思いながら、楽しいひと時を過ごしていた。この引用場面の時刻が夜明けであり、人気が無い状況であることも、二人の関係をより濃密なものとして読者に印象付ける効果がある。しかし彼女が主人公に呼びかける際、主人公の名を誤って違う男性の名を呼んでしまったことから、主人公の顔は一気に「蒼」ざめてしまう。この作品では主人公もこの新進作家同様、小説を書くことを生業としており、またこの引用の前に「僕は君みたいな女が欲しくて、小説を書いてるのだよ。」と発していること、さらには酔っぱらった「雪」が主人公の書いた作品を「だめ。私読めないの。まだ酔っぱらっているのかしら。」と言い断ったことを受け、「たとえ、どのように酔っていたとて、一行読みだすと、たちまちに酔も醒めて、最後の一行まで、胸のはりさける思いでむさぼり読まれて然るべき傑作ではないか。ウイスキイ二三杯ぐらいの酔のために、膝からはらいのけるとは!」とまで憤慨したことから、「雪」への深い恋慕、また自分という小説家に誇りを抱いていたことが推測できる。このような思いを抱いているにも関わらず、他の新進作家である男性の名で間違われて呼ばれたという事実は、主人公にとって強い「衝撃」を与えたと言っても過言ではない。
もう一つ、「衝撃」による顔の「蒼」で分類したものの引用を以下に挙げる。
「「(中略)周君は、このごろ、元気が無いようやないか?解剖実習など、いやがっていやせんか?(中略)日本の Kranke は、死後に、医学の発達に役立つ事をたいへんよろこんでいる、殊にもそれが、やがて支那のお国にも役立つのだと知ったら、むしろ光栄に思うだろう、とそう言って勇気をつけてやるんだね。解剖実習くらいで蒼くなっていたんでは、将来、小さな Operation ひとつ出来やしないんだからね。」と周さんの事ばかり言っている。」
(「惜別」)
これは「惜別」における「先生」の発話である。発話内容は「周君」という人物について述べられており、「蒼」は顔の色を説明するために使用されている。ここでは「解剖実習」が話題に挙げられているため、普段見慣れぬ人体の解剖の光景に「衝撃」を受ける様子を表すものとして「蒼」が使用されていると考えられる。この「蒼」からは血の気が引く様子が推測され、程度の強い「衝撃」を描写するものである。
よって「衝撃」の項目に該当するための条件は、ある事実や事柄が「衝撃」を受ける人物にとって程度の強いものであると考えられる場合とした。
次に「怒り」として分類したものの説明を行う。以下はその例である。
「「(中略)奇妙な事件が起った。ネロが昼寝していたとき、誰とも知られぬやわらかき手が、ネロの鼻孔と口とを、水に濡れた薔薇の葉二枚でもって覆い、これを窒息させ死にいたらしめむと企てた。アグリパイナは、憤怒に蒼ざめ、――」」
(「古典風」)
ここでは「憤怒」という理由が明確に述べられているものである。よってこの顔における「蒼」の描写は、「怒り」に該当するとして処理した。また、以下の例も「怒り」によって顔を「蒼」くしている例であると言える。
「突如、宴席の片隅から、浅田の馬鹿野郎!という怒号が起った。小さい男が顔を蒼くして浅田をにらみ、「さいぜん汝の青砥をだました自慢話を聞き、胸くそが悪くなり、酒を飲む気もしなくなった。浅田、お前はひどい男だ。つねから、お前の悧巧ぶった馬面が癪にさわっていたのだが、これほど、ふざけた奴とは知らなかった。程度があるぞ、馬鹿野郎。青砥のせっかくの高潔な志も、お前の無智な小細工で、泥棒に追銭みたいなばからしい事になってしまった。人をたぶらかすのは、泥棒よりもなお悪い事だ。恥かしくないか。天命のほどもおそろしい。世の中を、そんなになめると、いまにとんでもない事になるにきまっているのだ。おれはもう、お前たちとの附合いはごめんこうむる。きょうよりのちは赤の他人と思っていただきたい。(中略)」」
(「新釈諸国噺」)
「浅田の馬鹿野郎!」と罵声を発した人物は後に発話する「小さい男」である。「胸くそが悪くなり」や「おれはもう、お前たちとの附合いはごめんこうむる。」ということばからもわかるように、この顔の「蒼」の描写は「怒り」によるものであると判断できる。
よって「怒り」の項目として該当するための条件は、前後の説明や発話の内容から判断し、明らかに「怒り」の感情を当人が感じていると判断できるものとした。顔を「赤」で描写するものの中で「怒り」を表現するものはなかったという先の分析から、太宰作品においては「怒り」の感情を顔の色を用いて表現する場合、「蒼」を使用することがあることをここで指摘しておく。
次に、「恐怖」を表す「蒼」として区別した例を以下に挙げる。
「ここまでの事は、君もご存じの筈だが、さて、君とわかれて、ひとりで部屋へ引返した時には、僕の気持は興奮を通り越して、ほとんど蒼ざめるほどの恐怖の状態であった。わざと越後を見ないようにして、僕はベッドに仰向けに寝ころがったが、不安と恐怖と焦躁とが奇妙にいりまじった落ちつかない気持で、どうにも、かなわなくなって、とうとう小さい声で、「花宵先生!」と呼びかけてしまった。」
(「パンドラの匣」)
これは「蒼」の後で叙述されている「恐怖の状態」や「不安と恐怖と焦燥とが奇妙にいりまじった落ちつかない気持」という表現に注目し、「恐怖」という項目に該当するとして処理したものである。この「花宵先生」とは結核で入院している主人公の隣のベッドで治療しており、彼もまた結核を患っている患者の一人である。今までは彼が高名な人物であると主人公は知らなかったのであるが、彼が「オルレアンの少女」の作曲を手掛けた人物であると気づいた主人公は、彼にある種の畏怖を感じているともいえる。本来の「恐怖」の意義と「畏怖」の意義は異なるが、ここでは「ほとんど蒼ざめるほどの恐怖の状態」という叙述をもとに、「恐怖」という項目を設けて処理した。また、そのほかに顔における「蒼」の描写がその人物の「恐怖」している状態を表している例をもうひとつ以下に挙げる。
「ただ、そうして、ついて歩いていたころは、まだよかった。そのうちにいよいよ隠してあった猛獣の本性を暴露してきた。喧嘩格闘を好むようになったのである。(中略)たまには勢負けして、吠えながらじりじり退却することもある。声が悲鳴に近くなり、真黒い顔が蒼黒くなってくる。いちど小牛のようなシェパアドに飛びかかっていって、あのときは、私が蒼くなった。
(「畜犬談」)
この引用文には二つ「蒼」という色彩を用いて、登場人物の表情が描写されている。しかしひとつめの「蒼」は「ポチ」という主人公の飼い犬の描写であるが、これは「蒼」とともに「黒」という色彩を用い、「蒼黒」と表現されているので、以下の「第三項 二色表現の出現傾向と意味づけ」で詳しく述べることとする。
ここでは自身の飼い犬である「ポチ」が、果敢にも「小牛のようなシェパアドに飛びかかっていっ」たときの主人公の表情が描写されている。「たまには勢負けして、吠えながらじりじり退却することもある。」と「声が悲鳴に近くなり、真黒い顔が蒼黒くなってくる。」という「ポチ」の描写を受けて、次に主人公の「蒼」の描写があるため、一つ目の「蒼」における「ポチ」の心情と二つ目の「蒼」における主人公の心情は同様のものであると考えられる。この戦いには勝ち目がないことを主人公は悟り、どのような勝負になるのかということについて、主人公は「ポチ」の行動に衝撃を受けながらも主に「恐怖」を感じていると読み取ることが妥当である。
よって「恐怖」に該当すると処理するための条件は、描写されている対象の人物が「恐怖」を感じていると考えられる文脈に「蒼」が出現していること、またその前後の文に、「恐怖」や「怖さ」に類似したことばが存在することとする。
次に、「苦悶」の項目に該当するものの例を以下に挙げ、説明を行うこととする。
「王子と二人きりになってから、ラプンツェルは小さい声で言いました。「あたし、おもてへ出てみたいの。なんだか胸が苦しくて。」顔が真蒼でした。王子は、あまりに上機嫌だったので、ラプンツェルの苦痛に同情する事を忘れていました。人は、自分で幸福な時には、他人の苦しみに気が附かないものなのでしょう。ラプンツェルの蒼い顔を見ても、少しも心配せず、「たべすぎたのさ。庭を歩いたら、すぐなおるさ。」と軽く言って立ち上りました。」
(「ろまん燈籠」)
「ラプンツェル」は、母である魔女によって塔に幽閉された人物である。この小説は、「入江新之助氏の遺家族」である「みんなロマンスが好き」な「兄妹、五人」によって展開される物語を挿入し、展開している。よってこの「ラプンツェル」に関する物語は、登場人物ら(作者である太宰)によって創作されたものであると言い換えることができる。なお、この引用部分は長女によって展開されたものである。
ここでの「ラプンツェル」は、一度接触し、思い焦がれていた「王子」と久しぶりに面会し、魔女の目を盗んで兼ねてより望んでいた外の世界へ出ることを申し出ている。そして念願叶い外へ出た後、「ラプンツェルは、やっと、にっこり笑いました。」と表現されていることから、「ラプンツェル」は塔に幽閉された暮らしに気を病んでいたということがわかる。よって上記二か所の「ラプンツェル」の表情である「蒼」は、「ラプンツェルの苦痛」ということばから、「苦悶」の表情であるとして読み取ることができる。次に、この「蒼」に関する例をもう一つ挙げる。
「ああ、それから飲酒に於いて最も注意を要する事が、もう一つあります。それは、酒の席に於いては、いかなる約束もせぬ事。これは、よくよく気をつけぬと、とんだ事になる。飲酒は感激を呼び、気宇も高大になる。いきおい、自分の力の限度以上の事を、うかと引き受け、酔いが醒めて蒼くなって後悔しても、もう及ばぬ。これは、破滅の第一歩。酔って約束をしてはならぬ。」
(「新ハムレット」)
この引用文をみると、「蒼」は「自分の力の限度以上のことを、うかと引き受け」たことによって、ぞっとする表情を描写するために使用されていると捉えることができる。取り返しのつかないことをしてしまったことを後で実感した際の表情であると読むこともできよう。よってこの「蒼」は、後悔という気持ちを伴った今後の不安に対する「苦悶」であると判断した。
以上のことから、「蒼」における項目の一つとして「苦悶」を設けた。これは「蒼」で描写されている人物の立たされている状況から、その人物が心理的に逼迫しており、また立ち行きいかない状況であると判断した場合に該当させることとする。
次に、「疲労」として区別した項目の説明を行う。以下はそれに該当したものの例である。
「「奥さま、なぜあんな者たちと、雑魚寝なんかをなさるんです。私、あんな、だらしない事は、きらいです。」「ごめんなさいね。私、いや、と言えないの。」寝不足の疲れ切った真蒼なお顔で、眼には涙さえ浮べてそうおっしゃるのを聞いては、私もそれ以上なんとも言えなくなるのでした。」
(「饗応夫人」)
「真蒼」という表現の直前に「寝不足の疲れ切った」という説明がなされていることから、この夫人の顔の「蒼」さは「疲労」によるものであるということは明らかである。「あんな者たち」とは、この作品中に登場する「笹島先生」とその仲間を指す。この叙述の直前には、「その夜は、夜明け近くまで騒いで、奥さまも無理にお酒を飲まされ、しらじらと夜の明けた頃に、こんどは、こたつを真中にして、みんなで雑魚寝という事になり、奥さまも無理にその雑魚寝の中に参加させられ、奥さまはきっと一睡も出来なかったでしょう」という「私」(ウメちゃん)の「奥さま」を心配する心情が語られ、またこれは「奥さま」の寝不足と疲労の説明にもなっている。
このような引用を例に、「疲労」という項目に該当するための条件は、前後の文脈から判断し、その顔の「蒼」さが「疲労」によるものであると明らかにわかるものとした。
次に、項目「酔い」についての説明を行う。この「酔い」は全て酒によるものである。以下に、その「酔い」で区別したものの例を挙げることとする。
「(中略)私はそのうちに父をあざむいて、あの人と、よそで逢うようになりまして、坊やがおなかに出来ましたので、いろいろごたごたの末、どうやらあの人の女房というような形になったものの、もちろん籍も何もはいっておりませんし、坊やは、てて無し児という事になっていますし、あの人は家を出ると三晩も四晩も、いいえ、ひとつきも帰らぬ事もございまして、どこで何をしている事やら、帰る時は、いつも泥酔していて、真蒼な顔で、はあっはあっと、くるしそうな呼吸をして、(中略)」
(「ヴィヨンの妻」)
この引用文では「蒼」の直前に「帰る時は、いつも泥酔していて」とあり、また「はあっはあっと、くるしそうな呼吸をして」と述べられていることから、「蒼」い顔の人物はたいへん酒に酔っている状態であるということを読み取ることができる。これも上記「疲労」の項目と同様、該当するものの条件としては前後の文脈から判断し、明らかに酒による「酔い」であると考えられるもののみを対象とした。
次に、「疾病」の項目に該当するとして判断したものについての説明を行う。例は以下の通りである。
「やがて十月になったが、からりとした秋晴れの空にはならず、梅雨時のような、じめじめして蒸し暑い日が続いた。そうして、お母さまのお熱は、やはり毎日夕方になると、三十八度と九度のあいだを上下した。そうして或る朝、おそろしいものを私は見た。お母さまのお手が、むくんでいるのだ。朝ごはんが一ばんおいしいと言っていらしたお母さまも、このごろは、お床に坐って、ほんの少し、おかゆを軽く一碗、おかずも匂いの強いものは駄目で、その日は、松茸のお清汁をさし上げたのに、やっぱり、松茸の香さえおいやになっていらっしゃる様子で、お椀をお口元まで持って行って、それきりまたそっとお膳の上におかえしになって、その時、私は、お母さまの手を見て、びっくりした。右の手がふくらんで、まあるくなっていたのだ。「お母さま! 手、なんともないの?」お顔さえ少し蒼く、むくんでいるように見えた。」
(「斜陽」)
これは「斜陽」における「お母さま」の顔の描写として「蒼」が使用されている例である。先の「お母さまのお熱」に関する叙述や食事の様子から、彼女が病を抱えているということがわかる。よってこの場面における「蒼」の描写に関しては、「疾病」という項目を設けて他の「蒼」と区別することとした。
よって「蒼」における顔の描写において「疾病」に該当するための条件としては、前後文脈からその描写対象となっている人物の健康状態がどのようなものになっているかを考慮し、判断することとした。
次に、項目「緊張」についての説明を行う。これは「蒼」で表情が描写されている人物の心理が、緊張状態であることを指したものである。以下はそれに該当した例のひとつである。
「「女は、もう、ねむっているのか?」「ねむっていない。目を、はっきりと、あいている。顔が蒼い。口をひきしめて、天井を見つめている。僕は、ねむり薬を呑んで、床へはいる。」」
(「雌に就いて」)
この作品は、主人公と客人が思い思いにことばを紡いでひとつの小説を創作していく形式で展開している。上記引用文は、その途中に挿入されるものである。ここで登場する「女」は彼らが仕立て上げた人物であり、小説の中の男に旅行に誘われ連れ立つも旅らしいことを何もせず、夜を迎えた状態である。この引用文のあとに、「「(中略)――寝てから五分くらいたって、僕は、そっと起きる。いや、むっくり起きあがる。」「涙ぐんでいる。」「いや、怒っている。立ったままで、ちらと女のほうを見る。女は蒲団の中でからだをかたくする。」」と述べられていることから、「女」はこの後「男」から行動を起こされることを予期していると推測される。よってこの「女」の「蒼」い表情は、布団の中で「緊張」し、窮屈になっている状態であると考えることができる。
「蒼」で表情が描写されているもののうち、「緊張」は「苦悶」で述べたように逼迫している状況と類似しているが、苦しんでいるとは叙述されていないため、これらを項目別にすることによって区別した。よって「緊張」は何らかの原因で心理的に差し迫った状態ではあるものの、苦しみではなく緊張の面持ちであるということを条件とする。
次に、「興奮」について以下に該当した2例を示しながら説明を加える。
「「待て、待て。」詩人は、悲鳴に似た叫びを挙げた。「ひとの忍耐にも限りがある。一体、それは何だね。」「ネロの伝記だ。暴君ネロ。あいつだって、そんなに悪い奴でも無かったのさ。」不覚にも蒼ざめている。美濃は自身のその興奮に気づいて、無理に、にやにや笑いだした。」
(「古典風」)
「言い合っていると際限が無かった。私は、小さい食堂を前方に見つけて、「はいろう。あそこで、ゆっくり話そう。」興奮して蒼ざめ、ぶるぶる震えている熊本君の片腕をつかんで、とっとと歩き出した。」
(「乞食学生」)
上記2例にはどちらも「興奮」ということばで「蒼」ざめた表情を作者自身が説明している。これはあまりにも感情が高ぶってきたために、表情が「蒼」く変化したことを示す。「興奮」することによって顔が「蒼」くなることは文脈として判断することが困難であったため、これに該当するものは「興奮」という表現が併せて叙述されていることとした。よってこの項目に該当するものは上記2例のみである。
次に、各1個ずつの出現頻度であった「冷酷」「性質」「諦観」についての例を挙げることとする。
「性質」「冷酷」
「(中略)文武天皇の御時、慶雲四年六月十五日に、たけ八丈よこ一丈二尺一頭三面の鬼、異国より来る、かかる事どもも有るなれば、このたびの人魚、何か疑うべき事に非ず。」と名調子でもって一気にまくし立てると、百右衛門、蒼い顔をさらに蒼くして、にやりと笑い、「それこそ生半可の物識り。それがしは、議論を好まぬ。議論は軽輩、功をあせっている者同志のやる事です。子供じゃあるまいし。青筋たてて空論をたたかわしても、お互い自説を更に深く固執するような結果になるだけのものさ。議論は、つまらぬ。それがしは何も、人魚はこの世に無いと言っているのではござらぬ。見た事が無いと言っているだけの事だ。金内殿もお手柄ついでにその人魚とやらを、御前に御持参になればよかったのに。」と憎らしくうそぶく。」
(「新釈諸国噺」)
これは「新釈諸国噺」中に挿入されている「人魚の海」に見られたものである。「百右衛門、蒼い顔をさらに蒼くして、」という個所で「蒼」は二度使用されている。一つ目の「蒼い顔」は前述に彼の説明として「青崎百右衛門とて、(中略)身のたけ六尺に近く極度に痩せて、両手の指は筆の軸のように細く長く、落ち窪んだ小さい眼はいやらしく青く光って、鼻は大きな鷲鼻、頬はこけて口はへの字型、さながら地獄の青鬼の如き風貌をしていて」と述べられていることから、「百右衛門」の「性質」を表していると考えられる。なお「性質」の項目は、出現した色彩がその登場人物の平素固有のものとして表現されているという点において、上記「赤」で述べた条件と同様とする。
しかし二つ目の「蒼」は「百右衛門」の「性質」を表す「蒼」とは異なる。以降彼によって発話される内容は、争論の相手を婉曲的に卑下するものである。よってこの「蒼」は、「百右衛門」の「世の中が面白くな」いと思っているかねてからの心情の反映として読み取ることが可能であり、皮肉さや「冷酷」さが表れたものであると推測することができる。よってここでは「冷酷」という項目を一つ設けることとした。
「諦観」
「「それじゃ出ようか。」「ええ。」小さく首肯いて、顔を挙げた。その顔が、よかった。断然、よかった。完全の無表情で鼻の両側に疲れたような幽かな細い皺が出来ていて、受け口が少しあいて、大きい眼は冷く深く澄んで、こころもち蒼ざめた顔には、すごい位の気品があった。この気品は、何もかも綺麗にあきらめて捨てた人に特有のものである。マア坊も苦しみ抜いて、はじめて、すきとおるほど無慾な、あたらしい美しさを顕現できるような女になったのだ。」
(「パンドラの匣」)
「マア坊」とは、結核患者を療養する病院の看護婦で、患者である主人公に思いを寄せている。また主人公は同じ病院の看護婦である「竹さん」に好意を抱いている。この場面は「マア坊」が主人公に、「竹さん」が結婚すること、また本当は「竹さん」も主人公に好意を寄せていたことを告げる場面である。主人公は「竹さん」も自身と同じ心情であったことを知って満足するのであるが、その様子をみた「マア坊」は、主人公が自分にまったく恋愛感情を抱いていないということを知って潔く諦めている。この「完全の無表情で鼻の両側に疲れたような幽かな細い皺が出来ていて、受け口が少しあいて、大きい眼は冷く深く澄んで、こころもち蒼ざめた顔」をしている「マア坊」を、語り手でもある主人公は「その顔が、よかった。断然、よかった。」と表現している。この場面における「マア坊」は、自身の気持ちが叶わなかったことを全て受け入れている。よってこの「蒼」は、「諦観」の心情を表現するために使用されていると考えることができる。
「顔」を表現するための「蒼」には、以上12項目における区別が必要であった。以下に、それらの出現頻度(個数)と割合(%)における考察を行うこととする。
仮説通り、強い「衝撃」を表すものについては最も多い結果が得られた。しかしここで注目しなければいけないことは、「蒼」一色のみを使用して顔を描写する場合、その登場人物の「性質」を表現しているものは出現頻度が1個にとどまり、また割合も約1.9%であったということである。よって「「蒼」は心理的に大きな「衝撃」を受けたものとその登場人物の「性質」を描写するために使用されているものが最も多い」という仮説は立証されなかったといえるだろう。また、「衝撃」を表すものは多く存在したが、それは全体の約3割程度にとどまったということからも、「赤」における顔の、仮説の確実性には及ばなかったといえる。
さらに顔の描写における「赤」の考察と同様、「蒼」に関しても心理的な変化の有無で分析すると、以下のような結果が得られた。
「心理的な変化を伴うもの」に分類した項目は「衝撃」「怒り」「恐怖」「苦悶」「緊張」「興奮」「冷酷」「諦観」の8項目で、「心理的な変化を伴わないもの」に分類した項目は「疲労」「酔い」「疾病」「性質」の4項目である。項目数の多さから上記のような結果は期待できたことであるが、顔の様子を描写する「赤」における「心理的な変化を伴うもの」の出現割合(%)も約83.2%であったことを考慮すると、近しい数値が得られたということができる。よってこの二色を使用して顔の様子を描写する場合、太宰は心理的な変化を表す傾向があるということがわかった。
○「皮・毛髪・皮膚」について
これまでは全対象作品中もっとも多く色彩語が修飾されていた分類語「頭・目鼻・顔」の中から、突出して出現した「顔」について「赤」と「蒼」という二色に着目し、分析・考察を行った。これは全対象作品中約24.0%を占めた分類語であるが、2位の「皮・毛髪・皮膚」も約12%を示していたので、着目すべき必要があると考える。先にも述べたように、ドナルド・キーンのことばを借りると「必要でないところでは、太宰は、人物は丸い顔をしているとか、肩幅が広いとか、おそらく他の作家なら書くだろうようなことを決して読者に語らない。」傾向があると考えられることも、分析を行う理由の一つに挙がる。
なお、分類語「皮・毛髪・皮膚」における対象語の詳細は以下の通りである。またこれは、一色表現で出現したものと二色表現で出現したものの総数を示している。
この結果により以降では「皮・毛髪・皮膚」における対象語のほぼ全てが、「動物の毛」や「魚の鱗」を除く人物の容姿を描写するものであること、また約70%を「肌」や「皮膚」という対象語が占めていたということから、分析を「肌」「皮膚」に限定することとする。なお、これより「肌」と「皮膚」を併せて「肌」として呼称することとする。
各分析の初めに、「肌」におけるそれぞれの色彩語の分布を以下に示す。またこれらは二色表現を除き、一色表現で出現した「肌」を修飾する色彩語を提示したものである。
この結果により、「肌」に関しては「白」と「黒」が突出して多いということがわかった。「くろ」も「赤」や「青」と比較すると多いとみなすことができるが、ここでは「白」と「黒」を中心に分析する必要があると考えられる。また、以下にそれぞれの系統別における出現頻度(個数)と出現割合(%)を提示しておく。
系統別で算出すると、白系統(59個)よりも黒系統(62個)が多く出現していたということがわかる。しかし黒系統は約48.8%、白系統は約46.5%であることからその差は約2.3%であり、極端に黒系統が多いというわけではなかった。白系統と黒系統の和が「肌」における出現割合のほぼ95%を占めているということ、またそのなかでも「白」は「黒」と対をなす色彩であることから、それぞれの使用傾向に特徴があるのではないかと予想する。
○仮説
よってここでの仮説は、「白」と「黒」の二色に注目して対象語「肌」の分析を通すことにより、各色が互いに相反する特徴をもつ結果が得られるのではないかと推測するものである。これには「白―黒」は「明―暗」の対になっていること、また「白」は他の色に染まる色であるが、「黒」はどの色にも染まらない色であるなどの理由が挙げられる。
「肌」という身体部分を「白」や「黒」の色彩と併せて捉えてみると、感覚的には「白い肌」には美しさや脆弱さが感じられ、「黒い肌」にはそのような美しさは感じられないように思われる。さらに「性質」としての「白い肌」には女性を連想し、美醜を考えると「黒い肌」よりも「白い肌」の方が美しさを感じる人は多いかもしれない。以下はこのような観点のもと、「肌」における「白」と「黒」について分析・考察を行い、仮説の検証を行うものである。
○「白」い「肌」について
「肌」の色を「白」で表した58個は、全て人物の「性質」を表現するために使用されたものであった。以下はその例である。
「園子のおなかは、ぶんまわしで画いたようにまんまるで、ゴム鞠のように白く柔く、この中に小さい胃だの腸だのが、本当にちゃんとそなわっているのかしらと不思議な気さえする。」
(「十二月八日」)
「そのとしの春に、妻が女の子を出産した。その二年ほどまへ、妻が都の病院に凡そひとつきも祕密な入院をしたのであつた。女の子は、ゆりと呼ばれた。ふた親に似ないで色が白かつた。」
(「陰火」)
「療養所のすじむかいに小さい射的場があって、その店の奥で娘さんが顔を赤くして笑っている。ツネちゃんという娘だ。はたちくらいで、母親は無く、父親は療養所の小使いをしている。大柄な色の白い子で、のんきそうにいつも笑って、(中略)」
(「雀」)
これらは「赤」や「蒼」で述べた「性質」と同様、その人物の外面における平素固有のものとして表現されていることがわかる。上記3つの例では、その色の「白」さについて語り手からは何の評価も与えられていない。しかし一方で、語り手や語り手を兼任する主人公によって描写対象とする人物に何らかの評価を与えているものも存在した。このように彼らの与えた評価のうち、良い評価を「高評価」と称し、悪い評価を「低評価」と称することとする。以下はそれぞれの例である。
<高評価>
「「この辺には、美人が多いね。」と私は小声で言つた。通り過ぎる部落の、家の蔭からちらと姿を見せてふつと消える娘さんたちは、みな色が白く、みなりも小ざつぱりして、気品があつた。」
(「津軽」)
この引用文においては、美人な女性がもつ要素として「色が白く、みなりも小ざつぱりして、気品があ」るということが挙げられている。
「青木さんも、目もと涼しく、肌が白くやわらかで、愚かしいところの無いかなりの美人ではあった(中略)」
(「グッド・バイ」)
この引用文からは、美人の要素として「目もと涼しく、肌が白くやわらかで、愚かしいところの無い」ことが挙げられている。この「青木さん」と叙述されている人物は女性である。
「かず子は頸すじが白くて綺麗だから、なるべく頸すじを隠さないように」
(「斜陽」)
「或る映画女優は、色を白くする為に、烏賊のさしみを、せっせとたべているそうで
ある。」
(「女人訓戒」)
上記2例からは、女性における色白の評価が与えられている。「斜陽」では、頸筋が白いことを「綺麗」と評価しており、また「女人訓戒」では女性が色白になるために努力を惜しない様子が表現されていることがわかる。
ここで、上記で挙げた4例は全て女性における色白の表現であることを指摘しておく。では、男性における色白はどのように評価されているかというと、
「口は小さく、顎も短い。色が白いから、それでも可成りの美少年に見える。」
(「乞食学生」)
という「乞食学生」の例により、少年と称される年齢においては、色が白いことを「美少年」であることの要素の一つとして挙げていることがわかった。また、
「そのお隣りは、木下清七殿。左官屋さんだ。未だ独身の、二十八歳。健康道場第一等の美男におわします。色あくまでも白く、鼻がつんと高くて、眼許すずしく、いかにもいい男だ。」
(「パンドラの匣」)
という「パンドラの匣」の例からは、28歳程度の年齢においても色白は高評価を与えられていることがわかる。
これらの実例より、女性は白い肌をもつ人は美しく、気品があるとされ、またそれは女性の願望でもあるということがわかる。さらに男性については、若い年齢であれば色白の肌が美男子、美少年の要素のひとつに挙がるということがわかった。しかしこの男性の色白への評価については、以下の例も取り上げておきたい。
<低評価>
「息子の名は吉太郎というが、かねてその色白くなよなよしたからだつきが気にくわ
ず」
(「新釈諸国噺」)
「もう四十ちかいのに、好男子みたいに色が白くて、いやらしい。」
(「女生徒」)
「新釈諸国噺」では、色白であっても貧弱な体格であれば低評価の対象となることがわかる。「十三歳の息子」と前述されていることから、この「息子」はまだ少年の年齢であるということは明白であるが、低評価の対象となっていた。また、少年とされる年よりも年齢が上がれば、色白はかえって低評価をうけるということが「女生徒」からは読み取れる。これは女性の語り口で展開する作品であることから、女性の目には年齢を重ねた色白の男性は嫌悪の対象になるということがいえる。
「兄ちゃん、少し痩せたわね。ちょっと凄味が出て来たわ。でも色が白すぎて、そこ
んとこが気にいらないけど、(中略)」
(「貞子と律子」)
これも女性による男性への評価であるが、色が白すぎると良い容姿としては評価されないということがわかった。この「兄ちゃん」は冒頭で「大学生、三浦憲治君は、ことしの十二月に大学を卒業し、卒業と同時に故郷へ帰り、徴兵検査を受けた」説明された人物である。よって彼は年を重ねた人物であるとは言えないが、徴兵検査の結果を「極度の近視眼のため、丙種でした、恥ずかしい気がします」と自身が述べていること、また「文学をやってるんですってね?」と「貞子」に発されていることから、決して運動に通じた剛健な体格をもつ人物ではないように読まされる。これは「新釈諸国噺」で挙げた「吉太郎」の例と些か似ており、若い年齢で色が白くても、ある程度健康的でなければ「美少年」「美男子」として評価されないということがわかった。
ここで指摘しておきたいことは、女性の色白さについて低評価が与えられているものは存在しなかったということである。低評価が与えられているものは全て男性の描写に関するものであり、女性の描写ではすべて高評価が与えられていた。よって男性の場合とは異なり、年齢にも左右されない、ということが言える。
○「黒」い「肌」について
次に、「黒」で表現された「肌」にはどのような叙述がなされていたのかを見ていく。
「黒」で「肌」の色を描写しているものは全43個の出現であったが、このうち4つは「性質」以外を表すものであり、その他39個の出現は全て登場人物の「性質」を表していた。初めに、この「性質」以外を表す4つの例について取り上げておく。
「ゴルフの最中に、別荘の隣りに住んでいる生田繁夫という十八になる中学生が、「こんにちは」と言ってやって来て、こちらが、「こんにちは」と挨拶を返したらすぐに、「この代数の問題を解いて下さい。」と言ってノオトブックを僕の鼻先に突きつけた。ずいぶん失敬だと思った。この人とは、小さい時分、よく一緒に遊んだものだが、それにしても、久し振りで逢って挨拶のすむかすまぬかのうちに、「この問題を解いて下さい」は、ずいぶん失敬な事だと思う。なにか僕たちに敵意でも抱いているのではないかとさえ疑われた。皮膚も見違えるほど黒くなって、もうすっかり、浜の青年になっている。」
(「正義と微笑」)
この場面において主人公は九十九里浜に遊びにきたところである。そこで幼い時から知っている「生田繁夫」と再会し、彼の変貌を上記引用文のように叙述している。「皮膚も見違えるほど黒くなって」という表現から、以前の彼はそのように黒くはなかったということが読み取れ、「浜の青年」「九十九里浜」という表現からこの人物における「肌」の「黒」さは「日焼け」によるものであると考えることができる。
もう一つ「性質」以外を表す「肌」の色を描写した表現は以下の通りである。
「黄昏時になると父親は炭小屋から、からだ中を真黒にしてスワを迎えに来た。」
(「魚服記」)
「からだ中」と表現されているが、これはおそらく身につけている服とそこから垣間見える「肌」の両方を指すと考えられる。「スワ」の「父親」は炭を作って売ることを生業としていることから、ここで表現されている「黒」は、炭小屋で灰を全身に被ったための「黒」であると考えるのが妥当であろう。よってここでは「性質」を表す色彩として「黒」が使われているのではなく、「仕事」による結果であると判断した。
もう一つ、この「仕事」による「肌」の「黒」さを表現していると考えられる例を以下に挙げる。
「けさは、ほんとに妙なことばかり考える。二、三日まえから、うちのお庭を手入れしに来ている植木屋さんの顔が目にちらついて、しかたがない。どこからどこまで植木屋さんなのだけれど、顔の感じが、どうしてもちがう。大袈裟に言えば、思索家みたいな顔をしている。色は黒いだけにしまって見える。目がよいのだ。眉もせまっている。鼻は、すごく獅子っぱなだけれど、それがまた、色の黒いのにマッチして、意志が強そうに見える。唇のかたちも、なかなかよい。」
(「女生徒」)
これは「女生徒」で2個の出現が確認されたものである。「肌」の「黒」さについて描写されている人物が「植木屋」であるということから、おそらくこれは「正義と微笑」と「魚服記」の例を併せた「仕事」による「日焼け」によるものであると考えられる。またこの例で注意しておきたいことは、語り手がこの「肌」の「黒」さについて高評価を与えているということである。これは女性の目線から高評価を与えているものである。以下に同様の例を示しておく。
高評価と低評価の両方を与えている例
「きょうは、つくしのベッドに、隣りの「白鳥の間」の固パンが移って来た。姓名は須川五郎、二十六歳。法科の学生だそうで、なかなかの人気者らしい。色浅黒く、眉が太く、眼はぎょろりとしてロイド眼鏡をかけて、鷲鼻で、あまり感じはよくないが、それでも、助手さんたちから、大いに騒がれているのだそうだ。どうも、男から見ていやなやつほど、女に好かれるようだ。」
(「パンドラの匣」)
これは「つくし」という結核で入院している人物の隣りのベッドに、他の人物とは異なった雰囲気を放つ通称「固パン」が移った場面の叙述である。「男から見ていやなやつほど、女に好かれるようだ。」という表現から読み取れるように、男性目線からみると、他の男性(「固パン」)の「肌」の「黒」さには低評価が与えられているが、女性目線からは男性(「固パン」)の「肌」の「黒」さに時として高評価を与える場合があるということがわかった。
よってこの例は「肌」を描写する「黒」のなかでは高評価も低評価も与えている唯一の例であるということがいえる。
しかし、このように高評価を与えているものが存在しながら、実際はその他全てが低評価を与えているものであるということがわかった。以下その低評価の与えられ方について例を挙げながら説明を行う。
「おれはこの色黒のため生れて三十何年間、どのやうに味気ない思ひをして来たかわからない。」
(「お伽草子(カチカチ山)」)
「お伽草子(カチカチ山)」は、うさぎ(雌)とたぬき(雄)の物語で、太宰により改変された内容となっている。たぬきはうさぎを振り向かせようとするのであるが、うさぎはそれを邪険に思っている。たぬきはうさぎに大やけどをさせられ、さらにたぬきを陥れようとするうさぎは行商になりすまし、やけどを酷くさせる薬(唐辛子を練ったもの)をたぬきに持ってくる。どうにかしてその薬を塗らせようとするうさぎは、「色黒にもきくかね。」というたぬきの問いに対し効果があると返答する。たぬきはかねてから自分の色黒の容姿に卑屈となっており、「少くともおれの顔は、目鼻立ちは決して悪くないと思ふんだ。ただ、この色黒のために気がひけてゐたんだ。」ということばとともに薬を塗って、逆にやけどが悪化してしまうという内容である。この場面では、たぬきはやけどの治療よりも、色黒をなおしたいという思いだけが先行していることがわかる。たぬきは色黒を恥じ、自身の容姿のなかで一番醜い点であると考えているのである。
次に「パンドラの匣」で挙げた例について取り上げたい。
「なんだ、すごい美人じゃないか。馬鹿にしてやがる。(中略)」「予想と違ったかね。」「違った、違った、大違い。堂々として立派なんて言うから、馬みたいなひとかと思っていたら、なあんだあれは、すらりとしているとでも形容しなくちゃいけない。色だって、そんなに黒くないじゃないか。あんな美人は、僕はいやだ。危険だ。」
(「パンドラの匣」)
「パンドラの匣」は結核を患い隔離病棟で入院している主人公と、その知人とのやり取りの形式で叙述されている。主人公は引用中「美人」と形容されている女性の看護婦に恋をしているのであるが、それを照れ隠しゆえ知人に醜い女性として語っていた。そしてこれは、知人が主人公の見舞いにやってきたとき、話題の看護婦を目にしてまったく悪い容姿ではない、と語り合っている場面である。「色だってそんなに黒くない」→「美人」ということから、美人の条件として色黒でないことが一つの要素であると読み取れる。
最後に「眉山」について取り上げる。
「眉山の年齢は、はたち前後とでもいうようなところで、その風采は、背が低くて色が黒く、顔はひらべったく眼が細く、一つとしていいところが無かったけれども、眉だけは、ほっそりした三ヶ月型で美しく、そのためにもまた、眉山という彼女のあだ名は、ぴったりしている感じであった。」
(「眉山」)
これは前述したように、読者に特に意識させたい登場人物の容姿を太宰が表現する際、ひとつひとつの要素を羅列しながら叙述するという方法にかなったものである。ここで「一つとしていいところが無かった」と叙述していることで、美しい人間として表現するには色が黒くないことが求められているということがいえる。
これらの例に共通していることは、男女問わず「顔」や「肌」の色が「黒」で形容される場合、それは容姿の悪い人物として、つまり低評価を与えた人物として叙述されているということである。二重線で下線を引いている部分はその人物の風貌に評価を加えているところであり、色黒であれば「味気ない思いをする」(「お伽草子(カチカチ山)」)、「いいところが無」い(「眉山」)と負の評価が与えられている。なおこれらは「お伽草子」の例からもわかるが、決して女性の容姿にだけ当てはまる事項なのではなく、男性の色黒についても低い評価が与えられているということがいえる。
ここで、「肌」の色を「白」と「黒」で表現している場合の、それぞれの評価について数値を挙げながら説明を行う。以下の表は、各色で「肌」の色に関し高評価または低評価が与えられているものの出現頻度(個数)とその割合(%)である。
※「白」「黒」とも、評価が与えられていないものについては除外している。
以上の分析の結果から、ほぼ「白」い「肌」においては高評価が与えられ、「黒」い「肌」においては低評価が与えられる傾向があると言える。しかし「白」い「肌」においては約2割が低評価を与えていたため、「黒」い「肌」よりは評価傾向の確実性に欠けている。
この結果により、「肌」の描写については、「白」は美しさや気品があると表現され、「黒」については醜さを表現する傾向にあるということが証明できた。これは仮説で挙げた「「白」と「黒」の二色に注目して対象語「肌」の分析を通すことにより、各色が互いに相反する特徴をもつ結果が得られるのではないか」という推測に当てはまるものである。また一般的に考え得るであろう「白い肌」と「黒い肌」の印象として挙げた仮説「「白い肌」には美しさや脆弱さが感じられ、「黒い肌」にはそのような美しさは感じられないように思われる。さらに「性質」としての「白い肌」には女性を連想し、美醜を考えると「黒い肌」よりも「白い肌」の方が美しさを感じる人は多いかもしれない。」ということについても、一部立証したこととなる。ここで「一部立証」と述べた理由は、「白」い「肌」が描写されている人物の男女比が男性:女性=27個:30個、また性差判別不能のものが1個存在したためであり、「白い肌」は女性についての描写であるとは言い難い結果を得たためである。しかし「黒い肌」と「白い肌」の美醜の別は、やはり「白い肌」が美を、「黒い肌」が醜を表す傾向が得られたという点では立証ができたと結論づける。
これらの分析により、一色表現における太宰の表現傾向は以下のようにまとめることができた。
後に、一色表現のなかでも執筆者が特に注目する「白」の使用法について考察を行うこととする。これは「おしゃれ童子」において服飾関係を描写するためにたびたび出現しており、語り手でもある主人公のこだわりが感じられるものである。読み進める中でも太宰の何らかの意図を感ぜざるを得ない表現となっていたため、後の第三章第三節第一項で上記とは別に分析・考察を行うこととする。
これまでは一色表現の色彩傾向を分析し、考察を行った。ここでは2つの色が組み合わされて出現しているものを「二色表現」と呼称し、それらの使用傾向について考察したい。
本論で対象とした色彩は赤系統・青系統・白系統・黒系統である。これらに含まれる色彩語を組み合わせ、対象とした全作品に検索をかけて出現を確認したところ、赤系統と白系統、赤系統と黒系統、青系統と白系統、青系統と黒系統、白系統と黒系統の二色表現の色彩が8種類見つかった。以下はその結果を表したものである。
この結果より、二色表現で使用される色としては白系統と黒系統が多くなっていることがわかった。白系統は一色表現の使用では最も多い出現となっていたが、上左図から算出すると、赤系統9回、青系統53回、白系統40回、黒系統28回という出現頻度から二色表現に関しては同じことが言えなかった。ここで二色表現の出現頻度をグラフで表してみると、以下のような結果になった。
このグラフより、「青白」「蒼白」「蒼黒」「赤黒」の4つの二色表現が主に使用されていることがわかる。よって以下は、この4種類に焦点を当てて考察することとする。また二色表現の色彩に関しては、出現頻度(個数)が一色表現の色彩よりも少なかったため、作品別に分析するのではなく、分類語別の分析を行うこととする。
○「青白」
「青白」の出現は21個あり、その対象語における分類語の内訳は以下の通りであった。もっとも多かった分類語は「頭・目鼻・顔」で21個中12個存在し、約57.1%を占めているということがわかった。よって本論では、「青白」の分類語「頭・目鼻・顔」に着目して考察することとする。
「青白」の対象語を「頭・目鼻・顔」で分類することができた作品は「駈込み訴え」(2)「八十八夜」(2)「富嶽百景」(1)「火の鳥」(1)「花吹雪」(1)「惜別」(1)「善蔵を思う」(1)「津軽」(1)「花燭」(1)「思ひ出」(1)の10作品であった(括弧内は「頭・目鼻・顔」の出現頻度を表す)。また、「頭・目鼻・顔」の内訳は「顔」(8)「鼻筋」(2)「頬」(1)「肌」(1)であった。
「青白」が「頭・目鼻・顔」の分類語に修飾していたものは、その登場人物に対し、語り手から何らかの評価が加わっていると判断できるものと、登場人物における何らかの変化を表しているものに分けることができる。それに関してまず初めに、語り手からの評価として、高評価が与えられているものを考察する。
「マルタの妹のマリヤは、姉のマルタが骨組頑丈で牛のように大きく、気象も荒く、どたばた立ち働くのだけが取柄で、なんの見どころも無い百姓女でありますが、あれは違って骨も細く、皮膚は透きとおる程の青白さで、手足もふっくらして小さく、湖水のように深く澄んだ大きい眼が、いつも夢みるように、うっとり遠くを眺めていて、あの村では皆、不思議がっているほどの気高い娘でありました。」
(「駈込み訴え」)
「駈込み訴え」で出現している「青白」は、マリヤの美しさや気品を称えていると読み取ることができる。これは語り手が高評価を与えている例であるといえよう。姉のマルタを「なんの見どころも無い百姓女」であると先に述べ、その後マリヤに関して述べることによって、読者はマルタとマリヤが対称的な人物像であると読まされることになる。さらに「青白」という表現から、マリヤは弱弱しくありつつも、美しい人物、どこか冷たさを感じさせる人物としてイメージさせられることになる。
次に語り手から低評価を表現するために使用されている「青白」の叙述を取り上げる。
「けばけばしいなりをして、眉毛を剃り落した青白い顔の女中が、あ、と首肯き、それから心得顔ににっと卑しく笑って引き込み、ほとんどそれと入れちがいに、とみが銘仙を着て玄関に現われた。」
(「花燭」)
「文学と武術とは、甚だ縁の遠いもので、青白く、細長い顔こそ文学者に似つかわしいと思っているらしい人もあるようだが、とんでもない。」
(「花吹雪」)
「花燭」では、「けばけばしいなりをして」という表現から、この女中の着飾る様子に対して主人公は相容れない気持ちを抱いていると読み取ることができる。また「眉毛を剃り落した」という異様さと、「卑しく笑」うという表現から嫌悪感が表れており、「青白」い顔に「駈込み訴え」で述べたような美しさや気品は感じ取ることができない。
さらに「花吹雪」で表現されている「青白」さは、不健康な様子を表す叙述であると考えられる。武術に携わる人間と対照的に叙述していることから、体力があることや剛健さに反した表現であるといえよう。これは語り手が「青白」という表現を使って、その登場人物に体力面や健康面に低評価を与えているものであると考えることができる。
次に、登場人物における何らかの変化を表現する「青白」について考察する。
「つぎの日、私のうちの人たちは父の寢棺の置かれてある佛間に集つた。棺の蓋が取りはらはれるとみんな聲をたてて泣いた。父は眠つてゐるやうであつた。高い鼻筋がすつと青白くなつてゐた。私は皆の泣聲を聞き、さそはれて涙を流した。」
(「思ひ出」)
「津軽」では主人公の父親がなくなったという叙述に加え、「青白くなつてゐた」という「ている」表現により、時間の経過を表す表現が使用されている。よってここでの「青白」は、生から死へと移行するにしたがって、血の気が引いてしまった様子を表現したものであることがわかる。語り手はこの色をあえて挿入することによって、主人公の父の死を読者に強く意識させ、なかなか故郷へ帰ろうとせず、家族を疎んじていた彼が涙を流す様子を理解することになる。
次の引用も、登場人物の変化を表現するために「青白」という色彩を使用している例である。
「(中略)そう言い結んだ時に、あの人の青白い頬は幾分、上気して赤くなっていました。私は、あの人の言葉を信じません。れいに依って大袈裟なお芝居であると思い、平気で聞き流すことが出来ましたが、それよりも、その時、あの人の声に、また、あの人の瞳の色に、いままで嘗つて無かった程の異様なものが感じられ、私は瞬時戸惑いして、更にあの人の幽かに赤らんだ頬と、うすく涙に潤んでいる瞳とを、つくづく見直し、はッと思い当ることがありました。」
(「駈込み訴え」)
この「青白い頬」は、夫の平常の顔色、つまり性質を表現していると考えられる。この場面では、夫の不健康な「青白」い頬が、今回ばかりは興奮することによって赤く染まっていた、という描写がなされている。主人公である妻は、このいつもは起こらない夫の変化に驚き、何かを予感することによって彼の言ったことに含蓄される意味を読み取ろうとしている。ここでただ「あの人の頬は幾分、上気して赤くなっていました。」と述べるのではなく、あえて「青白い頬」と表現することによって、いつもとは全く異なった夫の変化を描くことに成功している。
以上より、分類語「頭・目鼻・顔」を修飾する「青白」は、評価を与える色として使用される場合と、何らかの変化を表現する場合に分けられるということがわかった。これら「青白」の叙述は、それぞれの意味を読者に意識づけるために機能しているといえる。
また「青白」で修飾された分類語で、もうひとつ着目すべきものは「感情・気分」である。ここでは2個の出現頻度に留まっていたが、登場人物の心情を表すものとして注目すべき項目であると考える。
「感情・気分」を表現する方法として「青白」が使用されていたのは「みみずく通信」と「おさん」の2作品であった。以下はそれぞれの該当箇所の引用文である。
「「太宰さんを、もっと変った人かと思っていました。案外、常識家ですね。」「生活は、常識的にしようと心掛けているんだ。青白い憂鬱なんてのは、かえって通俗なものだからね。」」
(「みみずく通信」)
「旅に反対する理由もありませんでしたので、私は夫のよそゆきの麻の夏服を押入から取り出そうとして、あちこち捜しましたが、見当りませんでした。
私は青白くなった気持で、
「無いわ。どうしたのでしょう。空巣にはいられたのかしら。」」
(「おさん」)
「みみずく通信」では「青白い憂鬱」というように、心情を表す単語(「憂鬱」)が「青白」とともに合わさって表現されている例である。英単語blueが憂鬱な気持ちを表す意をもつことから、おそらくこの「青白」と「憂鬱」の組み合わせが出現したのではないかと考える。「常識的」な生活の対として「青白い憂鬱」を伴った生活があると表現しているが、それは意識的に、常識的に生きようとしなければ、自身はすぐに「青白い憂鬱」に陥ってしまう可能性があるという意味を包含していると言えるだろう。
また「おさん」では、主人公であると同時に語り手でもある妻が、夫の浮気を知りながら過ごす日々の様子を語ったものである。この場面は夫が急に温泉に行きたいと言い出したため、その支度をする場面である。しかし夏服が見当たらないことに動揺し、空巣ではないかと恐ろしくなっている状態を表現していると考えられる。これは「青白い」の本来の意味「(1)青みを帯びて白い。(2)顔色が青ざめて、血の気がない。」(―『日本国語大辞典 第一巻』71頁―)の(2)の意味で使用されていると推測する。よって上記2つの引用からは、「青白」においては太宰固有の意味づけを得ることはなく、本来の語の意味で使用されており、感情や気分を表現するために機能していると考えられる。
しかし太宰の使用する「青白」には、感情や気分を表現するときは従来通りの意味として使用していても、主に「肌」の色を表現する場合に使用され、それには高低どちらかの評価が含まれていたり、また評価を与えずともその人物における何らかの変化を表現していたりする場合があることを今一度ここで指摘しておく。
○「蒼白」
次に、上記で述べた「青白」とは表記の異なった「蒼白」について考察する。なお、「青」と「蒼」の違いについては以下の通りである。(初出に関する記述については割愛、また下線部は執筆者による)
あお[あを] 【青】
【一】〔名〕
(1)本来は、黒と白との中間の範囲を示す広い色名で、主に青、緑、藍をさし、時には、
黒、白をもさした。
「青空」「青海」「青葉」などと他の語と複合して用いることが多い。
(2)馬の毛色が青みがかった黒色であること。また、その馬。青毛。青毛の馬。
(3)青本のこと。草双紙の類をさす。
(4)青銭のこと。寛永銭をさす。
(5)野呂松(のろま)人形の中で、主要な役に使われる人形。頭は平らで、顔の色が青く、一座の中の主要な人形遣いがつかう。よろく。
(6)うなぎの一形態。背色の少し青みがかったものをいう。うなぎ食いの通(つう)の言葉。
(7)カルタ用語。
(8)「あおしんごう(青信号)」「あおでんしゃ(青電車)」などの略。
(9)やお屋をいう、露店商人などの隠語。
(10)たくあんや大根の漬物をいう、てきや、盗人仲間などの隠語。
【二】〔接頭〕
(1)木の実などが、十分に熟していないことを表わす。「青梅」など。
(2)年が若く十分に成長していないこと、人柄、技能などが未熟であることを表わす。「青二才」「青侍(あおざむらい)」「青女房(あおにょうぼう)」「青道心」など。(―『日本国語大辞典 第一巻』59頁―)
そう[サウ] 【蒼】〔名〕(形動タリ)
(1)深い青色。緑がかった青い色。また、そのような色であるさま。
(2)頭髪の白いさま。しらがであるさま。(JapanKnowledge Libにおける「蒼」より)
「青」が黒から白を指す広い色名であること、また「蒼」が深い緑がかった青い色を指す色名であることから「青」は「蒼」を包括する色であるということがわかった。さらに「蒼白」に関しては、
そうはく[サウ・・] 【蒼白】〔名〕
(1)あおい色と白色。
(2)(形動)あお白いこと。顔色などの血の気がなく、あおざめていること。また、そのさま。(―『日本国語大辞典』306頁―)
という説明がなされている。おそらく小説においては(2)の意味で使用されることが多いと考えられる。
以降では、「蒼白」が使用されていた作品における、「蒼白」の使われ方についての考察を行う。
「蒼白」は全対象作品中15個の出現しており、下図は修飾される分類語の内訳である。
これにより、「蒼白」では、「頭・目鼻・顔」に分類される対象語が約80%を占めていることがわかった。また出現頻度が3個であった「皮・毛髪・羽毛」では全て人の肌の色を表す方法で使用されていた。
では次に、これら「蒼白」に修飾されたものの考察を行う。まず初めに、「頭・目鼻・顔」で使用されていたものを取り上げる。「頭・目鼻・顔」で使用されていた「蒼白」には、文脈から判断すると、登場人物の心情を表すものとしてさまざまな意味づけがなされていることがわかった。以下はその分類を示したものである。
上記の図の項目については以下のとおりである。まず「性質」とは、その登場人物の本来の顔色を指す。心情の変化が起こっておらず、もとの顔色が「蒼白」であることを示している。実例としては、
「律子は、そんな子だった。しっかり者。顔も細長く蒼白かった。貞子は丸顔で、そうしてただ騒ぎ廻っている。」
(「貞子と律子」)
が挙げられ、ここでは「あおじろ」として読ませ、律子の普段の顔の血色に関する情報が提示されている。ここでは貞子との対比から、律子は貞子ほど県構想には見えないというように読まされる。
次に「緊張」とは、集中した状態をも含み、極度の精神的な緊張により「蒼白」になっていることを示す。実例としては
「左翼思想が、そのころの学生を興奮させ、学生たちの顔が颯っと蒼白になるほど緊張していました。
(「おしゃれ童子」)
という文が挙げられる。「左翼思想」という過激な表現と、「蒼白」な顔色からは学生たちの緊迫した様子が表われている。「蒼白になるほど」と強調して叙述されていることから、ここでの「蒼白」は強い心理的な変化を表す色として表現されていると考えられる。
次に「動揺」は、一瞬の心の衝撃を「蒼白」で表現したものとして処理した。
「「ああ、ラプンツェル!」王子は、狂喜しました。「私を思い出しておくれ!」
ラプンツェルの頬は一瞬さっと蒼白くなり、それからほのぼの赤くなりました。」
(「新釈諸国噺」)
この場面は四年間思い焦がれていた王子が、まさに今、自ら(ラプンツェル)の近くにいることを知った一瞬の場面である。ここでラプンツェルは訪問者が誰であるかに気づき、長年の孤独からの解放と、かねてより求めていた人物がいままさに近くにいることを知って、一瞬の強い動揺かつ衝撃と嬉しさ(「ほのぼの赤くなりました。」)を感じていると読み取ることができる。
最後に「酔い」と「感情の抑制」に関しては以下の実例を挙げる。
「酔い」
「また、さいぜんから襖によりかかって、顔面蒼白、眼を血走らせて一座を無言で睨み、近くに坐っている男たちを薄気味悪がらせて、やがて、すっくと立ち上ったので、すわ喧嘩と驚き制止しかかれば、男は、ううと呻いて廊下に走り出て庭先へ、げえと吐いた。酒の席は、昔も今も同じ事なり、しまいには、何が何やら、ただわあとなって、(中略)」
(「花燭」)
ここでは主人公を含む複数の男たちが、酒を飲んでいる場面である。各人の酒に酔った様子が各々述べられており、ここでは酒によって醜態を晒す男の叙述がなされている。よってこの文における「蒼白」とは、酔いが回った様子を表していると考えられる。またその後の叙述「げえと吐いた。」という部分も併せて、この顔の「蒼白さ」はひどく酒に酔っていることを表していると推測できる。これは対象となる人物の性質や心理変化を表現したものではなく、「酔い」という体調の変化を表現しているものであるといえる。
「感情の抑制」
「「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。」(「走れメロス」)
この場面はメロスが暴君ディオニスを初めて訪問する場面である。この段階でのディオニスは、人を信じられず、疑心暗鬼になり、多くの人を殺し続けている状態である。ディオニスはメロスが訪問した際、メロスが短剣を所持していることを知ったために自身の身の危険を感じ、怒りや恐怖を覚えている。しかしこれを赤などで描写するのではなく、「蒼白」として表現していること、また「暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以て」と表現していることから、感情を抑制している状態であると読み取ることができる。王のこの顔色は、彼の緊迫した状況を伝えている。
このように「頭・目鼻・顔」を表現する場合の「蒼白」には、登場人物の性質を表す場合と心理的な状況を表す場合、また体調面に関する変化を表す場合があることがわかった。その中でも心理的な状況を表現する場合は、程度の大きな心理的変化であると考えられる。
また「蒼白」という二色表現を使用している場合、その人物に対し読者に氷のような冷たい印象を抱かせることがある。そこから表れる人物の人格や心理的状況は、冷徹で閉塞的なものをイメージさせると思われる。
また「皮・毛髪・皮膚」の色を表現するために「蒼白」が使用されているものは、全対象作品において3個の出現頻度であった。二色出現の色彩語が使用されていた作品は「思ひ出」「津軽」「彼は昔の彼ならず」である。しかし「津軽」では、「思ひ出」の本文引用がなされており、またその引用部分に「蒼白」が使用されていることから、出現頻度には計上されているものの、実際に作品内での文脈で使用されているといえる作品は2作品であると言えよう。よってここでは「思ひ出」と、「彼は昔の彼ならず」における使用方法のみを分析することとする。
まず、「思ひ出」での「蒼白」は以下の文脈において使用されていた。
「たけは又、私に道徳を教へた。お寺へ屡々連れて行つて、地獄極樂の御繪掛地を見せて説明した。火を放けた人は赤い火のめらめら燃えてゐる籠を脊負はされ、めかけ持つた人は二つの首のある青い蛇にからだを卷かれて、せつながつてゐた。血の池や、針の山や、無間奈落といふ白い煙のたちこめた底知れぬ深い穴や、到るところで、蒼白く痩せたひとたちが口を小さくあけて泣き叫んでゐた。嘘を吐けば地獄へ行つてこのやうに鬼のために舌を拔かれるのだ、と聞かされたときには恐ろしくて泣き出した。」
(「思ひ出」)
「たけ」とは、主人公の家で雇っていた女中である。「たけ」は主人公を教育するため、幼少期、さまざまな本を与え、また道徳を教えるために寺へ連れていくなどをした。この場面は主人公が「たけ」に連れられ寺に行った際、地獄極楽の御絵掛地を見た場面である。
ここで「蒼白」の色彩の対象となっている人物は地獄に落ちた人々である。「蒼白く痩せた」と表現したのは、その場がいかに悲惨で残酷なところであるかを表現するためであろう。彼らは苦しみに満ちた人間の姿として描写されている。また「蒼白」とよく併せて使用される語は「顔面」が主であるが、そのほかに「痩躯」が挙げられる。これは対象となる人物のやせ細って不健康な様子を表現するためである。このことについては以下の「彼は昔の彼ならず」にも言える。
「僕は学生時代から天才という言葉が好きであった。ロンブロオゾオやショオペンハウエルの天才論を読んで、ひそかにその天才に該当するような人間を捜しあるいたものであったが、なかなか見つからないのである。(中略)いま僕は、こうして青扇と対座して話合ってみるに、その骨骼といい、頭恰好といい、瞳のいろといい、それから音声の調子といい、まったくロンブロオゾオやショオペンハウエルの規定している天才の特徴と酷似しているのである。たしかに、そのときにはそう思われた。蒼白痩削。短躯猪首。台詞がかった鼻音声。」
(「彼は昔の彼ならず」)
ここでは語り手でもある主人公の考える、「天才」と形容される人物の特徴として、「蒼白」という表現が使用されている。「青扇」とは主人公を欺きながらも主人公にとって憎めない人物であるが、その人物の容姿の形容のひとつとして「蒼白」が挙げられている。上記に挙げたように、「蒼白」と併せて使用される痩身を「痩削」と叙述することによって四文字熟語のように表現され、その後の語調を整えている。これらの容姿の表現から、尋常の人間とは少し異なるような、天才の像であるとして語り手は説明しているのである。しかしこれも「思ひ出」で叙述されているものと同じく不健康さを感じさせる。よって「蒼白」な肌の色は不憫な人物を表す色にもなり得るし、凡人とは異なった明晰な人物を表す色にもなり得るということになる。
○「蒼黒」
「蒼黒」という色彩表現は、太宰によって作られたものであると考えられる。『日本国語大辞典』では「蒼黒」という項目はなく、「青黒い」という項目のみが記述されている。ここで今一度「蒼」の意味を再掲すると
そう[サウ] 【蒼】〔名〕(形動タリ)
(1)深い青色。緑がかった青い色。また、そのような色であるさま。
(2)頭髪の白いさま。しらがであるさま。(―『日本国語大辞典 第十二巻』229頁―)
となっており、また「黒」は「(1)炭の色」や「(4)きたない。よごれている。」(―『日本国語大辞典 第七巻』12頁―)という意味を持つことから、顔や全身の肌の色を形容する際には不潔な色として使用される可能性が高い。以下、この考えのもとに考察を進めることとする。
「蒼黒」が修飾していた分類語の内訳は以下のとおりである。なお、「頭・目鼻・顔」で分類された対象語は10個の出現中8個が「顔」であり、その他は「頬」であった。また「皮・毛髪・皮膚」で分類された対象語は3個すべてが「肌」であった。
ここで「蒼黒」における登場人物の「頭・目鼻・顔」を表現した場合について考察する。なお、「蒼黒」における「頭・目鼻・顔」の出現は約76.9%を占めていた。
「蒼黒」が出現している作品は「ダス・ゲマイネ」「思ひ出」「陰火」「女類」「惜別」「善蔵を思う」「道化の華」「列車」の8作品であり、「ダス・ゲマイネ」に関しては3個の出現頻度となっていた。また、その他作品の出現頻度は各1個にとどまっていた。以下は「ダス・ゲマイネ」で「蒼黒」が使用されていた部分の引用である。
「それからというもの、私たちはその甘酒屋で実にしばしば落ち合った。馬場はなかなかに死ななかったのである。死なないばかりか、少し太った。蒼黒い両頬が桃の実のようにむっつりふくれた。彼はそれを酒ぶとりであると言って、こうからだが太って来ると、いよいよ危いのだ、と小声で附け加えた。」
(「ダス・ゲマイネ」)
この馬場という男に主人公が初めて会った時、彼の肌の「蒼黒」さについては、次のようにも言い換えて表現していた。
「私はこの甘酒屋で異様な男を見た。(中略)そのつぎには顔である。これをもひとめ見た印象で言わせてもらえば、シューベルトに化け損ねた狐である。(中略)皮膚は、大仰な言いかたをすれば、鶯の羽のような汚い青さで、まったく光沢がなかった。」
(「ダス・ゲマイネ」)
この叙述より、馬場という人間の肌の「蒼黒」さは「鶯の羽のような汚い青さ」かつ「まったく光沢」の無い色として読み替えることができる。また「汚い」と断言していることからも、読者は馬場という人間が不潔な、人が嫌悪する風貌の人物であるという印象を抱かざるを得ない。また、
「その日、私は馬場との約束どおり、午後の四時頃、上野公園の菊ちゃんの甘酒屋を訪れたのであるが、(中略)馬場の蒼黒い顔には弱い西日がぽっと明るくさしていて、なんだかおかしな、狐狸のにおいのする風景であった。」
(「ダス・ゲマイネ」)
という叙述からもわかるように、馬場の顔の「蒼黒」さを反復して述べていることから、馬場という人間の決して美しくはないイメージを読者に何度も与えている。またこの引用文と、前の引用文で馬場を形容することばとして「狐」が認められるが、ここでの引用文は「狸」という形容もなされており、人を欺くような印象を与えているといえる。「シューベルトに化け損ねた狐」のような人物が「弱い西日」を「ぽっ」と受け、「なんだかおかしな、狐狸のにおいのする風景」を想像させられた読者は、主人公の身に何か悪いことが起こるのではないかという予兆を感じる可能性がある。
また次の引用は、馬場ではなく太宰自身の容姿について「蒼黒」の色彩を使って形容した文章である。
「君、太宰ってのは、おそろしくいやな奴だぞ。そうだ。まさしく、いや、な奴だ。嫌悪の情だ。僕はあんなふうの男とは肉体的に相容れないものがあるようだ。(中略)蒼黒くでらでらした大きい油顔で、鼻が、――君レニエの小説で僕はあんな鼻を読んだことがあるぞ。危険きわまる鼻。」
(「ダス・ゲマイネ」)
この叙述により、太宰は自分自身を「蒼黒」い顔として表現し、それを嫌悪していることが読みとれる。この文章の後にも太宰の容姿を否定する文が続いていることとあわせて、この「蒼黒」が容姿の悪さを表現する役割を担っているということは言うまでもない。
よって元来備わっている性質としての「蒼黒」い顔は、太宰にとって不快な印象を表すと判断することができる。
次に、「皮・毛髪・皮膚」で分類された「蒼黒」の対象語についての考察を行う。
これに関する出現は「貨幣」「逆行(決闘)」「美少女」にあり、各1個ずつの出現頻度となっていた。以下は「貨幣」と「美少女」における該当箇所の引用文である。
「ばらばらばら、火の雨が降って来ます。神社も燃えはじめました。
「たのむわ、兵隊さん。も少し向こうのほうへ逃げましょうよ。ここで犬死にしてはつまらない。逃げられるだけは逃げましょうよ」
人間の職業の中で、最も下等な商売をしているといわれているこの蒼黒く痩せこけた婦人が、私の暗い一生涯において一ばん尊く輝かしく見えました。」
(「貨幣」)
「主人は、四十くらいで丸坊主である。太いロイド眼鏡をかけて、唇がとがり、ひょうきんな顔をしていた。十七、八の弟子がひとりいて、これは蒼黒く痩せこけていた。」
(「美少女」)
「頭・目鼻・顔」でも述べたように、やはり「蒼黒」には痩せた体がよく併せて表現されるようである。「貨幣」で引用したこの場面は戦時中であり、今まさに空爆の被害を受けているところである。世の中では経済がうまく回っていない。乳呑児を抱えたこの女の「人間の職業の中で、最も下等な商売」とは、小料理屋で客にお酌をすることである。この引用文の前の「いま乳呑児をかかえている女は、どんなにつらい思いをしているか、お前たちにはわかるまい。あたしたちの乳房からはもう、一滴の乳も出ないんだよ。からの乳房をピチャピチャ吸って、いや、もうこのごろは吸う力さえないんだ。」という女の台詞から、貧困である様子がありありと表現されている。「美少女」における弟子の他の情報は叙述されていないが、「貨幣」での分析を考慮すると、この少年も裕福であるとは言い難い人物であると推測することができるだろう。
また、以下の文章は「逆行」において「蒼黒」が出現している箇所の引用である。
「私たちは次のやうな爭論をはじめたのである。
――あまり馬鹿にするなよ。
――馬鹿にしたのぢやない。甘えたのさ。いいぢやないか。
――おれは百姓だ。甘えられて、腹がたつ。
私は百姓の顏を見直した。短い角刈にした小さい頭と、うすい眉と、一重瞼の三白眼と、蒼黒い皮膚であつた。身丈は私より確かに五寸はひくかつた。私は、あくまで茶化してしまはうと思つた。」
(「逆行」)
この作品において、主人公は巷で活動役者として有名な外国青年と自身の容姿が似ていることを誇らしく思っている。また酒を飲むために入ったカフェの女給からももてはやされたため、ほぼ有頂天の状態となっている。この場面は主人公の気持ちが大きくなり、隣に座った百姓のウイスキーを盗み飲んでしまったことが原因で口論となった場面である。主人公は相手の百姓の容姿を確認し、自身より劣っていると判断したため「あくまで茶化してしまはう」と考えるに至ったと推測できる。結果は主人公が大敗するのであるが、この主人公の、相手の容姿について見下す要素の一つに「蒼黒い皮膚」というものが挙げられている。
よってこれらの分析から、「蒼黒」は、人物の容姿において低評価を与える色彩であると結論づけることができる。
○「赤黒」
最後に、「赤黒」について考察する。「赤黒」が修飾していた分類語は、以下のような内訳となった。これを見ると、やはりこの二色表現でも「頭・目鼻・顔」に分類される対象語が多いことがわかった。この二色表現で「頭・目鼻・顔」の占める割合は50%であった。
よってこれまで同様、まず初めに「頭・目鼻・顔」で分類された対象語を修飾している「赤黒」の使われ方について述べることとする。
以下は「誰」という作品において、「赤黒」が出現していた部分の引用文である。
「病院へ来て下さいと言うのであるが、私は考えた。私は自分の容貌も身なりも、あまり女のひとに見せたくないのである。軽蔑されるにきまっている。ことに、会話の下手くそは、自分ながら呆れている。逢わないほうがよい。私は返辞を保留して置いた。(中略)その女の人は、きっと綺麗な夢を見ているのに違いない。私の赤黒い変な顔を見ると、あまりの事に悶絶するかも知れない。悶絶しないまでも、病勢が亢進するのは、わかり切った事だ。できれば私は、マスクでも掛けて逢いたかった。」
(「誰」)
この場面は、作家である主人公のもとに珍しく女性の読者から手紙が送られてきた場面である。その女性は病気を患って入院しており、主人公は退屈まぎれに手紙をよこしているのだろうと推測している。しかし手紙の内容は回を重ねるにつれ、主人公に会いたいので、どうか病院まで来てくれというものになった。そこでここでは主人公が行くか行かざるかを思案している様子を描写している。
上記では、「赤黒」は主人公が自分の容姿を述べる際に使用されていた。自身の顔を「赤黒い変な顔」と表現し、その顔を見れば病気が進行するとまで述べ、卑屈になっていることがわかる。自分の姿を見せると他人から「軽蔑され」てしまうとまで言っていることから、その他の要因も併せて、この赤黒い顔は醜い顔であるとして表現されていることがわかる。
次に、「虚構の春」で出現していた「赤黒」について取り上げる。
「自分でも忘却してしまいましたが、私自身が、女に好かれて好かれて困るという嘘言を節度もなしに、だらだら並べて、この女難の系統は、私の祖父から発していて、祖父が若いとき、女の綱渡り名人が、村にやって来て、三人の女綱渡りすべて、祖父が頬被りとったら、その顔に見とれて、傘かた手に、はっと掛声かけて、また祖父を見おろし、するする渡りかけては、すとんすとんと墜落するので、一座のかしらから苦情が出て、はては村中の大けんかになったとさ等、大嘘を物語ってやって、事実の祖父の赤黒く、全く気品のない羅漢様に似た四角の顔を思い出し、危く吹き出すところであった。」
(「虚構の春」)
この場面は祖父を回想する場面である。ここでも「赤黒」い顔は醜いものとして評価されており、「全く気品のない」とまで叙述されていた。
次に、「女生徒」について取り上げる。先の「誰」や「虚構の春」は男性の顔の「赤黒」さを叙述するものであったが、「女生徒」は女性の顔を叙述するものである。
「バスの中で、いやな女のひとを見た。襟のよごれた着物を着て、もじゃもじゃの赤い髪を櫛一本に巻きつけている。手も足もきたない。それに男か女か、わからないような、むっとした赤黒い顔をしている。」
(「女生徒」)
これは主人公がバスの中で見た女性について描写している場面である。「襟のよごれた着物」や「もじゃもじゃの赤い髪」など、主人公が嫌悪に思う対象はさまざまであるが、その要素のひとつとして「むっとした赤黒い顔」というものも含まれている。「いやな女のひと」と表現しているにも関わらず「男か女か、わからないような」と述べているので、服装や髪の長さから女性であるとはわかっても、顔だけで判断することは難しいような顔立ちであると読者は察することができる。
最後に、「花燭」で使用されていた「赤黒」の「頭・目鼻・顔」を修飾している引用文を以下に挙げる。
「あによめの顔には、たしかに、恐怖の色があらわれる。ここに立っているこの男は、この薄汚い中年の男は、はたしてわたしの義弟であろうか。ねえさん、ねえさんと怜悧に甘えていた、あの痩せぎすの高等学校の生徒であろうか。いやらしい、いやらしい。眼は黄色く濁って、髪は薄く、額は赤黒く野卑にでらでら油光りして、唇は、頬は、鼻は、――あによめは、あまりの恐怖に、わなわなふるえる。」
(「花燭」)
これは田舎から仕送りをしてもらいながらも虚栄のために生活がうまく回らず、人としても落ちぶれてしまった主人公が、もし自分が田舎に帰ったら家族はどのような反応をするだろうと想像を巡らせている場面である。主人公は今の自分を軽蔑し、忌み嫌ってさえもいる。卑屈になっている彼は、自身をいつも気にかけてくれたあによめでさえ、おそらく自分を恐怖・嫌悪の対象として見るだろうと推測している。よって引用文一行目の「ここに立っているこの男」、「この薄汚い中年の男」は自分自身を指しているということになる。
「眼は黄色く濁って、髪は薄く、額は赤黒く野卑にでらでら油光りして、唇は、頬は、鼻は」と自身の容姿を描写しているが、他人から見ればこれは「いやらしい」と思う対象で、「恐怖」の対象でもある。よって「赤黒」い額はそのように判断される要素のひとつとして機能しており、人の顔の様子に低評価を与えるものとして読み取ることができる。
よってこれらの引用文から、「頭・目鼻・顔」を修飾する「赤黒」という色彩は、人の容姿を表す際、低評価を与えるものとして機能していることがわかった。
次に、「赤黒」が「皮・毛髪・皮膚」で分類される対象語を修飾しているものをひとつ引用する。
「(中略)いまね、モデルが仕度していますから、ああ、出来た、わあ、これあひどい。」
モデルは、アトリエのドアを静かにあけて玄関へ出て来たのである。一目見て私も、これあひどいと思った。どうも、あまりにも健康すぎる。婦人の容貌に就いて、かれこれ言うのは、よくない事だが、ごく大ざっぱな印象だけを言うならば、どうも甚だ言いにくいのだが、――お団子が、白い袋をかぶって出て来た形であった。色、赤黒く、ただまるまると太っている。これでは、とても画にはなるまい。」
(「リイズ」)
これは主人公が、知人である画家志望の杉野君の自宅を訪問した時の場面である。杉野君は一念発起し、母親にモデルを探させて呼びよせ、ルノワールの「リイズ」のような絵を描こうとしている。しかし母親が呼んだモデルはとても絵になるような人ではなく、用意した白のドレスを着た姿はまるで「お団子が、白い袋をかぶって出て来た」ようであると主人公は表現している。
ここでも「赤黒」における「頭・目鼻・顔」の分析と同様、「赤黒」は容姿の醜い様子を叙述する機能をもつと考えることができる。このような評価は顔の色だけに下されるものではなく、全身の肌の色を表す場合にも低評価が与えられるということがわかった。
最後に、「「赤黒」の出現の内訳」で「その他」に分類したものについて考察する。これは「花燭」において見られた表現である。
「すこしずつ変っていた。謂わば赤黒い散文的な俗物に、少しずつ移行していたのである。それは、人間の意志に依る変化ではなかった。一朝めざめて、或る偶然の事件を目撃したことに依って起った変化でもなかった。自然の陽が、五年十年の風が、雨が、少しずつ少しずつかれの姿を太らせた。一茎の植物に似ていた。春は花咲き、秋は紅葉する自然の現象と全く似ていた。自然には、かなわない。ときどきかれは、そう呟いて、醜く苦笑した。けれども、全部に負けた、きれいに負けたと素直に自覚して、不思議にフレッシュな気配を身辺に感じることも、たまにはあった。人間はここからだな、そう漠然と思うのであるが、さて、さしあたっては、なんの手がかりもなかった。」
(「花燭」)
これは先に挙げた「花燭」の引用文に続くもので、自身が田舎に帰る想像を行ったあと、場面が切り替わって叙述されているものである。この「すこしずつ変っていた」と「赤黒い散文的な俗物」が示すものは、主人公である彼自身のことだと推測できる。
「散文的」とは、『日本国語大辞典』によると「〔形動〕(1)散文のような趣であるさま。韻文でないこと。(2)詩情に乏しいこと。散漫で無趣味なさま。殺風景なさま。」 とあり、「俗物」は「〔名〕無学な人や無風流な人。金銭や世間の名声を第一として、芸術や恋愛の情趣を解さない人。また、そのような人をののしっていう。」とある。(―『日本国語大辞典 第十二巻』360頁―)
この作品「花燭」では彼の人格を、彼自身の虚栄からくる経済的な困難から「男爵は、いったいに無趣味の男」になってしまったと述べており、また、「自分の心の醜さと、肉体の貧しさと、それから、地主の家に生れて労せずして様々の権利を取得していることへの気おくれが、それらに就いての過度の顧慮が、この男の自我を、散々に殴打し、足蹶にした。それは全く、奇妙に歪曲した。」と述べている。この「歪曲した」という表現は、引用文に表現されている「変っていた」「移行していたのである」と同様のものとして読み取ることができる。
彼が落ちぶれていき、無趣味な、散文的な人間(俗物)へと変わっていった原因は、冒頭部に叙述されている「多人数の大家族の間に育った子供にありがちな、自分ひとりを余計者と思い込み、もっぱら自分を軽んじて、甲斐ない命の捨てどころを大あわてにあわてて捜しまわっているというような傾向」に起因し、また「この男は、その学生時代、二、三の目立った事業を為した。恋愛と、酒と、それから或る種の政治運動。牢屋にいれられたこともあった。自殺を三度も企て、そうして三度とも失敗している。」という経緯を辿った所以であるとも推測することができる。よってここでの「赤黒い散文的な俗物」とは彼自身のことを喩えて言っているのであり、またそれには決して高評価が与えられていない。よって「赤黒」は、人を表す場合、卑しむ評価を与えていると考えることができるのである。
以上、この項ではよく使用されていた二色表現における色彩語の使用傾向を分析した。以下にそれらのまとめを提示する。
なお、これは今回分析した分類語や条件においてのみ言えるものであり、全ての場合について反映することはできない。しかし今回分析・考察を行った一色表現と二色表現からは、太宰の色彩語における使用傾向を明らかにすることができた。
ここでは、第三章第一節と第二節で述べた分析と考察をもとに、太宰治作品で使用されていた色彩語が、各作品の主題と関連性をもつのかということについて検証する。ここでまず初めに、本論で使用する「主題」という概念について整理する。
『国語教育研究大辞典』によると、「主題」は以下のように定義されている。
言語表現における主題は、表現する者の、表現しようと意図した中心的な(限定した)内容(事象・問題)、またはその意図や中心的な考え(中心思想)のことである。「中心的な考え」とは、特定の題材について、表現者の判断・意志を示したもので、話や文章を貫き、これをまとめるはたらきをする。(―『国語教育大辞典 普及版』明治図書 476頁―)
小説の「主題」が、「表現する者の、表現しようと意図した中心的な内容、またはその意図や中心的な考え」であるならば、「主題」は小説になくてはならないもの、つまり、その小説を成り立たせるものとして捉えることができる。「主題」については昨今でも論議されているが、本論では「主題」を、「小説を成立させている中心的なもの」として位置させることとする。この考えのもと、初めに分析・考察の対象となる作品について執筆者の主題の見解を提示する。次に、その作品に関する文献を参考にしながら、その主題の精査を行うこととする。そして最終的には、作品中で使用されている色彩語は「主題」と関連性を持つのか、ということに言及していきたい。なお、ここで使用する文献は奥野健男による『奥野健男作家論集3』(泰流社)、『太宰治』(文藝春秋)やその他太宰治の作品論を述べたいくつかの文献・論文にあたることによって、執筆者の考える主題は提示しながらも決してそれだけに偏ることのないよう、一般的なものとして位置づけることのできる各作品の「主題」を導きたいと考えている。
また対象とする作品は、国語科教科書の教材として取り上げられている「走れメロス」と「富嶽百景」、また色彩語の出現比率が最も多かった「おしゃれ童子」とする。国語科教科書の教材を取り上げる理由は、本研究が色彩語研究の研究方法の確立を目指すものであるとともに、太宰治作品において色彩語が作品解釈の手立てのひとつとなり得るかを検証するものであるためである。もしも教材となっている作品に表出した色彩語が、その作品の「主題」と関わるものであり、太宰の意味づけ(第三章第一節、第二節)を反映しているものであるとするなら、太宰治作品の指導の観点のひとつとして意味をなすと考えている。
「走れメロス」は中学校二年生の国語科の教科書に掲載されており、以下は執筆者が確認できたもののリストである。
平成23年度検定版の教科書の中でも5社に採用されているということから、分析・考察の重要性があると考える。また高等学校の国語科における太宰治作品の掲載に関しては、以次の表のように整理することができた。
この表から、21の教科書に太宰治作品は掲載されており、そのなかでも半数以上を占める12の教科書で「富嶽百景」が掲載されているということが確認できた。これにより、教科書に掲載されている彼の作品の中でも、「走れメロス」と「富嶽百景」の分析・考察を特に行う必要があると考える。
また「おしゃれ童子」は主に服装や装飾品に対する青年期の主人公の嗜好を叙述したものであるが、400字詰め原稿用紙100枚に色彩語の出現を換算した場合、他の作品よりも抜きんでて多い色彩語出現の想定結果が出たことから、主題と色彩語の関係性を考察する作品として適したものであると考えた。おそらくは教科書に掲載されている作品を考察するよりも、主題と色彩語に関してより一層の関係性が見られるのではないかと推測する。よってこれら3作品について本節は考察を行い、本研究の目的について迫っていきたいと考えている。
ここでは、「おしゃれ童子」における色彩語と、その作品主題の関係性について考察を行うこととする。「おしゃれ童子」は昭和14年11月号の「婦人画報」に発表された作品であり、これは太宰の活動期間の中では比較的明るい作風が多く輩出されたと言われる中期に当てはまる。この中期に関しては後述で詳しく整理することとするが、作品内容は、主人公が幼少期から服装について強く関心を抱きながら成長していく過程を語り手の目線から述べられるというものである。太宰自身、学生時代は周囲とは一風異なった独自の服装をしていたというエピソードが残されていて、「服装に就いて」という作品の内容も同様、主人公は太宰自身であると捉えられやすいようである。
読者はこの作品を読むと、「白」という色彩が頻繁に出現していることに気づかされる。主人公が好む服装は、執拗なまでに「白」という表現で彩られている。この気づきをもとに、「おしゃれ童子」では色彩がどのような意図をもって表現されているのかを以下に考察していくこととする。
まず、この作品における主題について、執筆者の見解を明確にしておく。「おしゃれ童子」の主題は言うまでもなく、やはり「瀟洒、典雅。」(「おしゃれ童子」)に収斂するであろう。太宰の投影であると考えられる主人公は、周囲にどのように思われたとしても自身の「おしゃれ」を貫き通し、またそれを誇りに思う人物である。彼には彼なりの一流の着こなし方があるのであって、そのためには借衣も辞さない覚悟である。彼は「外面の瀟洒と典雅だけを現世の唯一の「いのち」として、ひそかに信仰しつづける」人物であり、一成人となった太宰はそのことを俯瞰して皮肉的に述べながらも、この小説の筋として設定している。まさに、「瀟洒と典雅」のみを描き、「瀟洒と典雅」が無ければ成立しない小説となっている。
次にこの作品の主題について、奥野健男は以下のように述べている。
「決闘」や「服装に就いて」などと共に、作者の服装についての趣味や美学がうかがわれる。「瀟洒と典雅だけが唯一のいのち」という太宰の一面があらわれている。(―奥野健男『太宰治』210頁―)
奥野もこの作品は「作者の服装についての趣味や美学」を叙述したものであり、またそれについて、「瀟洒と典雅だけが唯一のいのち」であるという表現に着目して作品を分析しているようである。また渡部芳紀はこの作品について、
「この作で一番中心となるのは、ダンディズム精神である。前期の太宰の中心的課題を、ここで振り返っているといえよう。」(―渡部芳紀「おしゃれ童子」『太宰治必携』90頁―)
と述べている。「ダンディズム」は、『日本国語大辞典』では「男のおしゃれ、またはおしゃれ精神。」(―『日本国語大辞典 第13巻』283頁―)とされている。先の引用文を換言すると、この作品での主題は「(太宰の考える)男のおしゃれ」が中心となっている。しかし、渡部のいう「前期の太宰の中心的課題」についてはその他叙述が無いためどの課題を指すのかは判然としない。「ダンディズム精神」という作品内容及び作風について述べていることから、これはおそらく作品の表現について焦点を当てた課題ではないかと考えられる。ここで太宰の前期におけるこの問題点について東郷のことばを以下に引用する。
「(中略)『晩年』には太宰の才華の芽のほとんどがすでに出揃っているが、それ以後、「虚構の春」「狂言の神」を経て、「二十世紀旗手」「HUMAN LOST」に至る形式破壊の道は、解体に頻した自我を、それにみあう解体したスタイルで表現することによって、その分だけさらに自我の解体を深めるというかたちで進行した。その結果、生活者としての自己は完全に破砕され、表現の自立性そのものも見失われるに至った。」(―東郷克美「太宰治」『研究資料現代日本文学 第一巻 小説・戯曲T』376頁―)
「形式破壊の道」とは、太宰が自己の投影として人物を登場させ、作品を作り上げていったということにあるだろう。自己について書けば書くほど文学作品における虚構と現実の境目が曖昧なものとなり、結果「生活者としての自己は完全に破砕され、表現の自立性そのものも見失われるに至った」のである。奥野によれば、「画期的な小説を書いてみたいという野望」(―奥野健男『太宰治』194頁―)をこの時期太宰は抱きながらも、麻薬中毒や自殺未遂、生家との断絶や借金など度重なる様々な事柄によって「自分は滅びる人間なのだという脱落感」(―奥野健男『太宰治』194頁―)を感じている最中である。上に挙げた渡部の「前期の太宰の中心的課題を、ここで振り返っているといえよう。」ということばは、太宰が自身の生活環境や「自我の解体」を基本とした小説の表現形式を振り返っていることをさすのではないだろうか。
これらのことから本作品の主題は、奥野の見解や渡部の見解を踏まえ、「主人公(太宰)における瀟洒と典雅について」と決定して差し支えないと判断する。
では、以降で実際に「おしゃれ童子」における色彩語がどのように主題と関わっているのかということについて明らかにしていく。「おしゃれ童子」に出現している色彩語は以下引用に挙げ、また色彩語のそれぞれの出現頻度(個数)と出現割合(%)も再掲しておく。
「赤」…1「股引の両外側に太く消防のしるしの赤線が縦にずんと引かれていました。」
「青」…1「少年も、もう、いまでは鬚の剃り跡の青い大人になって、」
「白」…1「絣の着物の下に純白のフランネルのシャツを着ているのですが」
2「シャツの白さが眼にしみて、いかにも自身が天使のように純潔に思われ、」
3「袴と晴着と、それから仕立ておろしの白いフランネルのシャツとを、枕もとに並べて置いて寝て、」
4「それでもフランネルのシャツは、純白に光って、燃えているようでした。」
5「白いフランネルのシャツは、よっぽど気に入っていたものとみえて」
6「久留米絣に、白っぽい縞の、短い袴をはいて、」
7「魔法使いに、白線ついた制帽は不似合いと思ったのかも知れません。」
8「この外套には、白線の制帽も似合って、まさしく英国の海軍将校のように見えるだろうと」
9「白のカシミヤの手袋を用い、」
10「白い絹のショオルをぐるぐる頸に巻きつけました。」
11「そのような服装をしていながら、白線の制帽をかぶって、まちを歩いたのは、」
12「カシミヤの白手袋を、再び用いました。」
13「唐桟、角帯、紺の腹掛、白線の制帽、」
14「白手袋、もはや収拾つかないごたごたの満艦飾です。」
15「カシミヤの白手袋が破れて、新しいのを買おうとしても」
16「生地は、なんであっても白手袋でさえあればという意味で、軍手になりました。」
17「兵隊さんの厚ぼったい熊の掌のように大きい白手袋であります。」
「黒」…1「それから長い靴下、編上のピカピカ光る黒い靴。」
2「その襟には黒のビロオドを張りました。」
3「黒の、やや厚いラシャ地でした。」
4「こんどは、黒のラシャ地を敬遠して、」
「蒼白」…1「学生たちの顔が颯っと蒼白になるほど緊張していました。」
※上記グラフと図に関しては、「蒼白」をそれぞれ青系統1個、白系統1個として分割して算出しているため、実際の引用例の数とは若干の異なりがあるということをここで指摘しておく。
グラフと図を見ると、「おしゃれ童子」において白系統の色彩語が圧倒的に多く使用されているということは明らかである。また実際の引用例を分類すると、計24個の出現頻度中、生地に関するものが16個、模様に関するものが6個、顔に関するものが2個であることがわかった。 それらの割合(%)については以下の通りである。また、下図で示した「色彩が対象としているもの」とは対象語や分類語のことを指すのではなく、実際にどのような物質に修飾しているかということを指している。
この結果により、全24個の出現頻度中約半数以上の割合が生地を占めているということがわかった。また引用文を再度顧みると、これら「生地」はほぼ衣服・装身具に関するものであるということは明らかである。今回全作品について研究対象とした色彩語が修飾している対象語の割合としては「頭・目鼻・顔」が最も多いということは先に述べたが、最も比率的に色彩語が多く使用されている「おしゃれ童子」に関しては、「衣服」「装身具」における「生地」などの服飾関係を表すものに多く修飾されていたという点で、異なった結果を得たということになる。これは当作品の題目が「おしゃれ」という語で表現されているということからもわかるように、題材の焦点が登場人物の移りゆく人間関係にあるのではなく、服飾に置かれているということも関係していると考えられる。
○「おしゃれ童子」における「白」について
太宰はこの作品において、先の結果から「白」を最も多く色彩語として使用しているということがわかった。ここで研究対象として扱った全太宰作品における白系統の対象語と、「おしゃれ童子」における白系統の対象語についての考察を深めたい。
研究対象とした全太宰作品における白系統の色彩語の対象語のなかで、最も多かった分類項目は「皮・毛髪・羽毛」である。これは白系統で出現した対象語のなかでも約15.8%を占めており、続く第二位は「頭・目鼻・顔」(約9.9%)、第三位は「ネクタイ・帯・手袋・靴下など」(約7.4%)であった。
上記からは、「おしゃれ童子」における白系統のほとんどの対象語が服飾関係を指すものであるということがわかった。そこで今回研究対象とした全作品の白系統における分類語において、服飾関係を表す対象語がどのような頻度で使用されているかを調査してみると、
という結果が得られた。全作品における「白系統」で出現した分類語項目は73種類存在していたが、そのなかでも服飾関係を表す分類語は上記に示した11種類である。よって分類語のみを考えると、全体に占める割合は11種類÷73種類を計算し、約15.0%を占めているということがわかった。つまり、白系統(「白」「しろ」)は、約4回に1回の確率で服飾関係を修飾しているといえる。さらに、上記表の「割合」部分をすべて加算すると約77.8%になるということから、出現割合に関しては約8割の対象語が服飾関係を指すものであるということが明らかになった。つまり、分類語の種類としては、服飾関係は白系統において約15.0%を占め、実際の出現頻度(個数)の割合としては全作品のうち「白系統」で表されていたものの中で約77.8%を占めるということになるので、これらを整理すると、
(白系統が服飾関係を表す)<(白系統が服飾関係を表さない)
分類語の総数 分類語の総数
(約15.0%) (約85.0%)
白系統の色彩が服飾関係を修飾する割合>白系統の色彩が服飾関係を修飾しない割合
(約77.8%) (約22.2%)
という関係性が明らかになったといえる。
ここで上記の円グラフ「「おしゃれ童子」における色彩の対象」を、服飾関係を表すか表さないかという観点で分類し直すと、次のような円グラフ「2「おしゃれ童子」における色彩の対象」を導き出すことができた。
これは「模様」として分類しているもの(例「白線の制帽」)を、直接的に修飾はしていなくても、服飾関係の対象の様子を描写している(「白線の制帽」白は線を対象とし、制帽という服飾を大きな対象として据えている)と捉え直し、再分類したものである。なお、この再分類は白系統に限らず、あくまでも「おしゃれ童子」で叙述されている本研究対象の色彩語全てを分析対象としている。この再分類により、「おしゃれ童子」の色彩は全24個の出現頻度中22個が服飾を表すものであり、約91.7%の割合にあたるということがわかった。よってこの作品は、色彩語を服飾関係の描写として主に使用したものであると結論付けることができるだろう。
ではここで、「おしゃれ童子」において太宰が描写した白系統には、どのような意味が内包されていると考えることができるのだろうか。この作品における白系統の出現の実際を以下に再掲する。
「白」…1「絣の着物の下に純白のフランネルのシャツを着ているのですが」
2「シャツの白さが眼にしみて、いかにも自身が天使のように純潔に思われ、」
3「袴と晴着と、それから仕立ておろしの白いフランネルのシャツとを、枕もとに並べて置いて寝て、」
4「それでもフランネルのシャツは、純白に光って、燃えているようでした。」
5「白いフランネルのシャツは、よっぽど気に入っていたものとみえて」
6「久留米絣に、白っぽい縞の、短い袴をはいて、」
7「魔法使いに、白線ついた制帽は不似合いと思ったのかも知れません。」
8「この外套には、白線の制帽も似合って、まさしく英国の海軍将校のように見えるだろうと」
9「白のカシミヤの手袋を用い、」
10「白い絹のショオルをぐるぐる頸に巻きつけました。」
11「そのような服装をしていながら、白線の制帽をかぶって、まちを歩いたのは、」
12「カシミヤの白手袋を、再び用いました。」
13「唐桟、角帯、紺の腹掛、白線の制帽、」
14「白手袋、もはや収拾つかないごたごたの満艦飾です。」
15「カシミヤの白手袋が破れて、新しいのを買おうとしても」
16「生地は、なんであっても白手袋でさえあればという意味で、軍手になりました。」
17「兵隊さんの厚ぼったい熊の掌のように大きい白手袋であります。」
18「学生たちの顔が颯っと蒼白になるほど緊張していました。」
上記1と2、3と4は一文に集約されている。本文の引用は以下の通りである。
「絣の着物の下に純白のフランネルのシャツを着てゐるのですが、そのシャツが着物の袖口から、一寸ばかり覗き出て、シャツの白さが眼にしみて、いかにも自身が天使のやうに純潔に思はれ、ひとり、うっとり心醉してしまふのでした。修業式のまへの晩、袴と晴着と、それから仕立おろしの白いフランネルのシヤツとを、枕もとに並べて置いて寢て、なかなか眠れず、二度も三度も枕からそつと頭をもたげては、枕もとの品々を見ました。まだ、そのころはランプゆゑ部屋は薄暗いものでしたが、それでもフランネルのヤツは、純白に光って、燃えてゐるやうでした。 」
(「おしゃれ童子」)
この文章の叙述から、登場人物である少年が「白いフランネルのシャツ」に特別な感情を抱いていることがわかる。「いかにも自身が天使のように純潔に思われ、ひとり、うっとり心酔してしまうのでした。」という叙述からは、純白のシャツに恍惚となっている様子が描かれている。フランネルのシャツとは稀にネルシャツとも呼ばれるものであり、現在では多く市場に出回っていて手にすることは容易である。しかしこの作品を太宰の少年時代の回想録とするならば、太宰が小学生を卒業したのは大正11年(1922年)であるため、以下の記述あるように、洋装が浸透し始めたころであると考えるべきであろう。
また、大正十一年(一九二二)には東京子供洋服商組合が結成されて子供服陳列会や子供服洋服展覧会が開催され、子供服に対する関心が高まった。さらに酷暑のさなかの大正十二年九月に起こった関東大震災は、簡易で活動的な子供服の普及に拍車をかけ、大正時代末には子供服はほとんど洋服となった。このめざましい普及の理由は、子供の洋服が大人の衣類を更生して、家庭洋裁で簡単に製作できるという点にあった。
流行した子供服は男女児のセーター、男児のジャケット・半ズボン、女児のワンピースやツーピース、男女児のオーバー・コート、マント、コンビネーション(上下つづきの肌着)やベスト(チョッキ)、ブルマース、シャツなどであった。(―増田美子『日本衣服史』342頁―)
しかし明治から大正にかけては、人々が身につけた衣服は和洋折衷混沌としていたようである。以下は『日本衣服史』を記した増田が、明治四年(一八七一)に雑誌媒体で広まった洋服仕立屋の宣伝文句を挙げ、当時の人々の服飾について解説したものである。
「西洋衣服類品々、奇なり妙なり、世間の洋服、頭に普魯士の帽子を冠り、足に仏蘭西の沓をはき、筒袖に英吉利海軍の装、股引は亜米利加陸軍の礼服、婦人の襦袢には膚に纏いて窄く、大僕の合羽は脛を過ぎて長し、恰も日本人の台に西洋諸国はぎ分けの鍍金せるが如し」と当時の洋服の着方について批判し、その原因は事物を知らない古着屋や袋物師が変化した洋服仕立屋のせいであるとしている。この店の謳い文句は西洋の仕立師を抱え、羅紗・フランネルその他の反物を本国より取り寄せて客の身丈に合わせ、流行に従った正真の洋服を仕立てるというものであった。この広告文からは、西洋の衣服であればどんなものでもかまわずに着用した当時の人びとの洋服に対する強い憬れと、それに反して洋服についての知識をほとんど持たなかったようすがみてとれる。洋服を誂えるには大金を要したため、洋服であれば何でもよいと古着でまにあわせることも多かった。(下線部は本論執筆者注)(―増田美子『日本衣服史』298頁―)
「おしゃれ童子」において、この登場人物である少年が太宰自身であるということは、1923年に太宰が中学受験を果たし、そのころ父親である源右衛門が亡くなったこと、彼の服装や芸者遊びに関する記述、太宰の私小説としての作風などからおよそ合致するため推測をすることはできるが、確定することはできない。しかし、もしもこの自己流のおしゃれを追求した少年が太宰自身であった場合、太宰の実家(津島家)の財力をもってすれば式典で着ていく晴れ着として大金を支払い、シャツを仕立てることは可能であったのではないだろうか。そのように仮説を立てると、「仕立ておろしの白いフランネルのシャツ」という叙述から、当時高級であり、容易に手に入るものでなかったシャツがいま自分の手中にあるという太宰少年の嬉しさを伺い知ることができる。そこでこの小説が仮に太宰の回想録であるならばと考え、彼の小学校卒業時(大正11年、西暦1922年)において、仕立てのシャツとはどのぐらいの金額を出せば手に入るものであったのかを調査した。すると注文ワイシャツの値段は大正10年で1円70銭、大正12年で2円となっていることが分かった。 ここでさらに各職業における当時の賃金を見直してみると、小学校教員の初任給は大正9〜12年では40円〜55円(月額)であるという資料が残っている。大正11年における小学校の初任給を仮に50円とし、同時期の注文ワイシャツの値段を2円であるとすると、それを購入するには初任給の約4%を必要とすることになる。現代の初任給が20万円であると仮定すれば、その値段はおよそ8000円(一枚当たり)のということになる。このように当時では高級な注文ワイシャツであるが、太宰の父:源右衛門は地主や貴族院議員として成功者であったという理由から、小学校教員の初任給の数倍にも勝る賃金を得ていたと考えられるので、もしもこの小説が太宰自身の回想録であった場合、このようなシャツは簡単に拵えることができたと考えられる。
では、次の一文を引用してみよう。
「白いフランネルのシャツは、よっぽど気に入っていたものとみえて、やはり、そのときも着ていました。」(「おしゃれ童子」)
この文は上記5における叙述である。前述したように、1,2,3,4の元の文章からはシャツの「白」さに恍惚となっている様子を読み取ることができた。ここでは「よっぽど気に入っていたものとみえて」という叙述からも推測されるように、以降小学校の卒業式だけではなく中学受験の際にも着用するなど再三の使用について書かれている。「シャツの白さが眼にしみて、いかにも自身が天使のように純潔に思われ」と2の文でも述べられているが、聖書を愛読していた太宰にとって「白」は天使を想起させる色であり、純潔、清純なイメージを持っていたといえよう。よって太宰は「白」に恍惚となる様子とともに、ある種憧憬に似た感情をも抱いていたと言うことができるかもしれない。
その他の「白」が使用されている文6〜17は、登場人物である少年の突飛な装いについて皮肉交じりに評価した叙述がなされている。少年は自身の服装について友人から「よだれかけや大黒様のようだ」などと指摘されていて、また語り手自身が「(中略)一たい、どういふ美學がヘへた業でせう。そんな異様の風俗のものは、どんな芝居にだつて出て來ません。」(50頁)と述べているように、彼の服装は周囲を逸しており、和洋折衷をやたらに組み合わせ、考えられ得る限りの服飾を用いて自身を装っていることが伺われる。しかしその中でも「白」に対する想いは格別のものがあるようで、
「カシミヤの白手袋が破れて、新しいのを買はうとしても、カシミヤのは、仲々無いので、しまひには、生地は、なんであつても白手袋でさへあればといふ意味で、軍手になりました。兵隊さんの厚ぼつたい熊の掌のやうに大きい白手袋であります。 」
(「おしゃれ童子」)
というように、むしろ「白」であれば生地に関しては何でもよいと諦めるまでの執着である。これはおそらく冒頭でも叙述されている、小学校の卒業式で着ることができた「白」いフランネルのシャツの恍惚が続いたものであると考えることができる。
また「白」線のついた制帽に関しても同様の執着をしているようで、自身の価値観で余程不似合でない限りはこの帽子を着用している様子が頻繁に述べられていた。
「この外套には、白線の制帽も似合つて、まさしく英國の海軍將校のやうに見えるだらうと、すこし自信もあつたやうです。」
(「おしゃれ童子」)
これは「白」線の制帽を着用する際の文の一つであり、上記8を含むものである。その他友人から「オペラ座の怪人」というあだ名を付けられるもまんざらでなかった様子が挙げられており、異国文化に対する憧れや、服装における周囲からの孤立を求める傾向があったことを読み取ることができる。これに関して奥野健男は、
『おしゃれ童子』は「婦人画報」昭和十四年十一月号に発表された随筆風、自伝的作品で作者の服装へのダンディズム、生命をすりへらしてもおしゃれしたいという伊達の薄着的な美的趣味が戯画的に描かれている。こういう一面があるからこそ、今日でも若者のアイドルになるのだろう。(―奥野健男『奥野健男作家論集3』161頁―)
と述べている。この記述から奥野も、この作品の主人公が太宰自身であったのではないかと推測しているようである。またここでいう「生命をすりへらしてもおしゃれしたい」という指摘は、本文中において語り手より、彼(主人公)が借衣をしてまでも自身の服飾に凝らずにはいられない性分であること、またいくつになっても「外面の瀟洒と典雅だけを現世唯一の「いのち」として、ひそかに信仰しつづける」(52頁)だろうと語られていることによるものだろう。
また奥野は、主人公の思う「瀟洒と典雅」を表した服飾を、作品は戯画的に描いているという。ここで「戯画」ということばについて改めて『日本国語大辞典』を引くと、
ぎ‐が【戯画】[名]
戯れに描いた絵。また、誇張して描いたりした滑稽な画。おどけ絵。ざれ絵。カリカ
チュア。
と説明されている。これは主人公の服飾が常軌を逸しており、周囲からは滑稽な目で見られているということの表れである。しかも主人公はそれを神聖なおしゃれであると信じているという点でも、この小説のユーモラスな性質が浮かび上がる。
以上、「おしゃれ童子」における白系統の太宰の使用の仕方からは、服飾関係の分類語に関して多く用いられる傾向があること、またその「白」については格別の恍惚、憧憬、純潔、清純のイメージを抱く場合として用いられているということがわかった。これは第三章第二節第二項で述べた、「主に、描写対象となる人物の「肌」の「白」さについて高評価を与えるために用いられる」という考察の結果と類似している。今回は「肌」の「白」さではなく服装における「白」の美しさや気品漂う様子、憧憬、清純などのイメージを包含していることを示したが、どちらも「白」が作者や主人公にとってプラスの要素として働いているということがいえるのである。
ここで主題との関係性について改めると、この作品における主題は「主人公(太宰)における瀟洒と典雅について」と先にしていた。これを「白」の色彩と併せて考えると、彼の嗜好としている服装が「白」という色彩を多分に用いてこの作品が展開され、また「白」に対し彼の抱くイメージが肯定的であるという点において、合致していることいえる。よってこの作品においては、作品主題が色彩に影響しており、また色彩が作品主題に影響しているともいえ、関係性が存在することが明らかになったと結論づけることができる。本作品の解釈を色彩語の観点から考察することができるといえよう。
「走れメロス」は、太宰の執筆時代を前期・中期・後期で分けるならば中期に該当する作品である。このころに執筆されたものは数々の研究書において「明るい作風」が展開された時期であると述べられている。太宰の作風が前期の「暗黒」から中期にかけてこのように変化した原因を、奥野健男は以下のように述べている。
「何の転機で、さうなつたらう。私は生きなければならぬと思つた。」(「東京八景」)という中期を迎える。その原因らしきものは「東京八景」にくわしく述べられている。最大のコンプレックスであった故郷の家の没落による特権階級といううしろめたさの解消、健康の回復、三十歳になったという生活人としての自覚、現世の限度を知った、前期の狂乱への嫌悪と反省、中日戦争の勃発、聖書の影響等々、いくつもあげられるであろう。(―奥野健男『太宰治』201頁―)
このように奥野が述べていることを顧みれば、中期への転換を知るためには「東京八景」に迫ることは必然であるように思われる。よって以下に、「東京八景」において、太宰が自身の転換について述べていると考えられる箇所を挙げることとする。なお「東京八景」も中期に執筆された作品であり、昭和16年1月、「文学界」で発表されている。
「故郷の家の不幸が、私にその当然の力を与えたのか。長兄が代議士に当選して、その直後に選挙違犯で起訴された。私は、長兄の厳しい人格を畏敬している。周囲に悪い者がいたのに違いない。姉が死んだ。甥が死んだ。従弟が死んだ。私は、それらを風聞に依って知った。(中略)続く故郷の不幸が、寝そべっている私の上半身を、少しずつ起してくれた。私は、故郷の家の大きさに、はにかんでいたのだ。金持の子というハンデキャップに、やけくそを起していたのだ。不当に恵まれているという、いやな恐怖感が、幼時から、私を卑屈にし、厭世的にしていた。金持の子供は金持の子供らしく大地獄に落ちなければならぬという信仰を持っていた。逃げるのは卑怯だ。立派に、悪業の子として死にたいと努めた。けれども、一夜、気が附いてみると、私は金持の子供どころか、着て出る着物さえ無い賤民であった。故郷からの仕送りの金も、ことし一年で切れる筈だ。既に戸籍は、分けられて在る。しかも私の生まれて育った故郷の家も、いまは不仕合わせの底にある。もはや、私には人に恐縮しなければならぬような生得の特権が、何も無い。かえって、マイナスだけである。その自覚と、もう一つ。下宿の一室に、死ぬる気魄も失って寝ころんでいる間に、私のからだが不思議にめきめき頑健になって来たという事実をも、大いに重要な一因として挙げなければならぬ。なお又、年齢、戦争、歴史観の動揺、怠惰への嫌悪、文学への謙虚、神は在る、などといろいろ挙げる事も出来るであろうが、人の転機の説明は、どうも何だか空々しい。その説明が、ぎりぎりに正確を期したものであっても、それでも必ずどこかに嘘の間隙が匂っているものだ。人は、いつも、こう考えたり、そう思ったりして行路を選んでいるものでは無いからでもあろう。多くの場合、人はいつのまにか、ちがう野原を歩いている。」
(「東京八景」)
長兄の選挙違犯、姉・甥・従弟の死、素封家津島家の没落、30歳を迎えた彼の年齢、戦争などは奥野の述べたとおりである。「神は在る」という表現は聖書を指しており、太宰は熱心にキリスト教を信仰したわけではないが、聖書から材料を得て「駈込み訴へ」などの小説も残した。上記の引用部分で太宰は「転機の説明」を試みていること、また「ちがう野原を歩いている」という表現から、自身の思想における変化を明らかに自覚していたということがわかる。
またこの太宰の転換期は、井伏鱒二の紹介で石原美知子と結婚した時期でもある。そのことについては、以下の引用が該当する部分となっている。
「それから二年経って、私は或る先輩のお世話で、平凡な見合い結婚をした。さらに二年を経て、はじめて私は一息ついた。貧しい創作集も既に十冊近く出版せられている。むこうから注文が来なくても、こちらで懸命に書いて持って行けば、三つに二つは買ってもらえるような気がして来た。これからが、愛嬌も何も無い大人の仕事である。書きたいものだけを、書いて行きたい。」
(「東京八景」)
この「或る先輩」とは井伏鱒二のことを指している。「第二章第一節第二項 太宰治略歴」でも述べたように、太宰は井伏鱒二の『幽閉』を読んだことを契機に文学について興味をもち、その後生業とするまでになった。紆余曲折はありながらも太宰は井伏に幾度か手を差し伸べられていて、この結婚においても井伏の計らいで行われたものである。また彼は、妻となった美知子に「僕は、こんな男だから出世も出来ないし、お金持にもならない。けれども、この家一つは何とかして守って行くつもりだ」(「東京八景」)と宣言したとも同作品内で述べられており、生活人としての自覚が表れた証拠であると考えられるだろう。加えて上記引用の「書きたいものだけを、書いて行きたい。」という素直な表現からは、太宰の力強い上昇志向や文筆活動への情熱が感じられる。太宰はこの作品について、「青春への訣別の辞として、誰にも媚びずに書きたかった」と述べており、この作品以降(中期)から後期に入るまでは、太宰自身が規定する「青春」から脱したものであるといえるのである。よってこの「東京八景」は、前期に苦しんだ自己との決別が明確に著された作品であると捉えることができるのである。
「東京八景」からは、文筆活動に精力的になる中期の太宰の意気込みが見てとれた。ではこの期間に執筆された「走れメロス」は、どのような経緯をもって執筆されたのであろうか。
「走れメロス」は昭和15年5月号「新潮」に発表され、また同年6月に「女の決闘」を収録し、河出書房から出版された作品である。また今日でもこの作品は長く中学校国語科教材として使用されている。奥野健男によれば「ギリシャのダーモンとフィジアスという古伝説、及びその古伝説によったシラーの「担保」という詩から題材をとっている。」(―奥野健男『太宰治』213頁―)とされている。また細谷博は「ローマの古伝説によったシルレル(シラー)の詩「人質」をもととして書かれた」(―細谷博『太宰治』90頁―)と述べている。当該の詩は「担保」または「人質」と訳されているため、両人とも同一の詩を指していると考えて差し支えない。なぜドイツのシラーの詩を扱っていると判断されているかについては、太宰自身が「新潮」発表時、末尾に「(古伝説と、シルレルの詩から。)」と記しているためである。なお、彼(Friedrich von Schiller、1759-1805)による詩の原文のタイトルは「Die Burgschaft」である。『日本文学研究叢書 太宰治U』に収録されている角田旅人「「走れメロス」材源考」では、「走れメロス」はシラーの詩を材料としており、さらにそれは小栗孝則訳の「人質」を「「走れメロス」の粉本と判断」 できる(―『日本文学研究叢書 太宰治U』角田旅人「「走れメロス」材源考」171頁―)、と断言している。
「太宰治」という作家を顧みると、作品に登場する主人公または周辺人物のいずれかは、太宰自身の投影であるように感じられることが度々ある。しかしいくら太宰の作品が私小説のようであり、自身の身にあったことを自伝的に叙述していると思われても、すべての作品をそのようにして捉えることは危険である。しかし「走れメロス」を解釈する上では、以下のような、太宰の数少ない友であった壇一雄のエピソードについて注目せずにはいられない。これは筑摩書房『太宰治全集 第三巻』の付録として添付された「月報3」の、壇による執筆「「走れメロス」と熱海事件」の一部を引用したものである。
昭和十一年の暮であつたか。
何しろ寒い時節のことであつた。おそらく太宰が碧雲荘に間借してくらしてゐた頃であつたらう。本郷の私の下宿に太宰の先夫人の初代さんがやつてきたのである。用向は太宰が今熱海に仕事をしに行つてゐるから、呼び戻して來てくれといふのであつた。
その時預つた金は、太宰が兄さんから月三囘に分けて送つてもらつてゐる三十圓。三十圓全部はなかつたかもしれないが、二十八九圓はあつた。(中略)
太宰はひどく喜んで、三十圓を受け取つてから、天婦羅を喰ひに行かうと、私を誘つた。袖ヶ浦に拔けるトンネルの少し手前の、斷崖の上に立つてゐる見リしのいい、イケスの天婦羅屋であつた。途々女郎屋町のまん中のノミ屋のオヤヂに金を渡し支拂はせてゐたが、たしか十何圓といふあらかた持參金の半分近くがけし飛ぶやうな勘定だつたことを覺えてゐる。
それからはもう無茶苦茶だ。女郎屋の方に流連荒亡。目がさめれば例のノミ屋のオヤヂの店で飲みつづける。
或朝太宰が、菊池寛のところに借金嘆願に行つてくると云つて、さすがに辛さうに振りきるやうにして熱海をあとにして出ていつた。成算あるのかどうか心許ないが、しかし、私は待つより外にない。
五日待つたか、十日待つたか、もう忘れた。私は宿に軟禁の態である。この時私が自分の汽車賃だけをでも持つてゐたならば、必ず脱出しただらう。
が、それさへ出來ず、ノミ屋のオヤヂに連れられて、井伏さんの家へノコノコと出かけていつた汚辱の一瞬の思ひ出だけは忘れられるものではない。太宰は井伏さんと將棋をさしてゐた。私は多分太宰を怒鳴ったらう。さうするよりほかに恰好がつかなかつた。
この時、太宰が泣くやうな顏で、
「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」
暗くつぶやいた言葉が今でも耳の底に消えにくい。(―筑摩書房『太宰治全集 第三巻』付録「月報3」昭和30年12月―)
このエピソードを「走れメロス」にあてるとするならば、太宰はメロスであり、壇は竹馬の友セリヌンティウスである。作品中でメロスはセリヌンティウスのもとに帰り約束を果たすのであるが、上記のエピソードでは太宰は壇のもとに戻ってはいない。しかし事の顛末はさておき、太宰自身に起こった卑近な出来事が作品の題材に使用されているということを思わずにはいられないエピソードであるといえるだろう。太宰が壇との間に起こった出来事を作品の題材のヒントとして使用した、ということの真偽は定かではないが、「待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね」という太宰の言葉は、作品内結末部におけるメロスの「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」という発言と、セリヌンティウスの「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」という、双方の自分自身における弱さの告白にもつながっているようである。ここには互いの待つ・待たせる時間における苦痛が反映されている。
このような作品の背景を踏まえた上で、以下に作品主題について整理を行う。
執筆者は「走れメロス」における主題を「人間の二面性の提示」と「友情及び人を信じることの美しさ」であるとする。この作品は比較的明るい作風が多く輩出された中期のものであり、太宰における執筆活動への強い上昇志向をみてとることができる。このころの太宰の生活状況を顧みると、小山初代と別離し、麻薬中毒から脱却を経、また石原美知子と安定した結婚生活を過ごしている時期である。また実家の没落などによって、太宰の思想に常に付きまとっていた恵まれた者としての引け目のようなものが消失した時期でもあり、「走れメロス」は太宰の何のしがらみにも囚われない、健康的な思想が全面的に出現しているようにも思われる。
「人間の二面性の提示」とは、メロスの「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」ということばと、対になっている暴君ディオニスの「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」ということばや、メロスが刑場に間に合い、セリヌンティウスに再び対面した際交わしたことば「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」というものと、その後セリヌンティウスの「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」という発言に顕著に表れている。前者メロスとディオニスが交わした会話からは、人を信じる心と人を信じない心、つまり信頼心と猜疑心がせめぎ合っている。これは誰もが持ちうる心であり、文章表現として示されていることを発見した時、読者は改めてその自分自身にも潜在的に存在する二面性に気づかされるであろう。またメロスとセリヌンティウスの間で交わされる会話にはメロスの目標に対する諦念、セリヌンティウスの猜疑心が表れており、互いに恥ずべき心を抱いてしまったことを告白し、それを「殴れ」という発言の働きかけによって相殺することで、互いの友情を復活させている。信じる心と疑う心、また自分に打ち勝とうとする克己の心と諦めてしまいそうな弱い心が作品中縦横に張り巡らされており、人間であれば誰もが持つ善と悪の心について、つまり「人間の二面性」をこの作品は読者に提示しているのである。また「友情及び人を信じる心の美しさ」はこのメロス、セリヌンティウス、ディオニスの三者で交わされるものであり、「友情」と「信じる心」というふたつの美しさについて太宰は作品を通し、読者に語り聞かせているのである。文章表現の巧みさと併せて、この作品の主題が上記のような事柄であり、青少年にも理解されやすい美談となっていることが、今日でも教科書教材として使用されるに至る所以であると考える。
では執筆者のこのような考えのもと、「走れメロス」の主題について他の研究者はどのような見解を示しているのかについて整理していく。
奥野健男は『太宰治』の中で、「走れメロス」について
「人間の信頼と友情の美しさ、圧政への反抗が簡潔な力強い文体で表現されていて、中期の明るい健康的な面を代表する短編である。」(―奥野健男『太宰治』213頁―)
と述べた。太宰はこの作品を執筆するにあたり、「私の今一番書きたいのは美談だ。天にもとどろくような美談だ。」と語ったことを、太宰と交友のあった小野正文は証言している。 (―小野正文『太宰治 その風土』43頁―)この証言が事実であるならば、太宰は奥野の述べたような「人間の信頼と友情」にある種の憧れを抱いていたと捉えることができる。
しかし、なぜ「天にもとどろくような美談」を太宰は書きたがっていたにも関わらず、ほぼシラーの詩を引用し、枠組みとするような形でこの作品を執筆したのか。「美談」というものを、引用を用いず自身で築き上げなかったのか。饗庭孝男は、
「(太宰の中期の作品について)太宰の文学的生涯で言えば、いわゆる中期の比較的安定した時期である。彼の作品を時代のなかで考えてみると、虚実ないまぜにしてかたるにせよ、「前期」と「後期」が「私」性のつよい作品が書かれているのに対して、この「中期」は、比較的虚構性のつよい作品が書かれているということである。それは他者の生活記録、手紙、日記、回想、それに古典等をかりて、そこに「私」の心情を仮託してあらわす型である。」 (―饗庭孝男『鑑賞 日本現代文学』84頁―)
と述べており、原因のひとつとして虚構性の強い作品を精力的に執筆しようとした可能性を挙げることができるかもしれない。これについては本論の趣旨からは逸れるのでこれ以上取り上げることはしないが、検討する意味があると考えている。
次に東郷克美の「走れメロス」における主題について取り上げる。東郷は以下のような見解を述べている。
「いうまでもなく、この作品の主題は、<義>であり<信実>である。<信実>というものに、暴君ディオニスは賭けをするのだが、王とともに作者自身もかけたかのごとくである。その結果<信実とは決して空虚な妄想ではなかつた>という結論が導き出される。(中略)<人の心を疑ふのは、最も恥づべき悪徳だ>というメロスと、<疑ふのが、正当の心構へなのだ>というディオニスとは、一見対照的に描かれているが、王の苦悩は誰よりも<信実>を求めるがゆえのものであって、実はメロスも王も作者の憧憬と苦悩のそれぞれの形象化なのだ。メロス自身も心衰えれば<正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかつたか>と不貞腐れるディオニス的側面も持つているのだ。」 (―東郷克美「太宰治」『研究資料現代日本文学 第一巻 小説・戯曲T』381頁―)
「信実」とは、真面目で偽りがなく、誠実であることを意味することばである。中期の太宰を顧みれば、誠実に、自分に正直に生きようとする明るい上昇志向にあることは先に述べたとおりである。この時期はひとつひとつ作品に真面目に取り組んで、借金も返済しようとしている最中であり、また妻の美知子には自身の誠実を宣言していた。よってこの作品は太宰自身の誠実を象徴したものであると考えることができる。また彼は前期で麻薬中毒に陥るなど、自己退廃を極めた。その経験があるからこそ求める憧憬は生半可なものではなく、<信実>を達成するまでに至るその苦悩を、子細に描いたと考えられる。東郷はこの作品の主題を<義>かつ<信実>であると述べているが、ここでの<義>は「家庭の幸福」で表現されたような男性(夫、父親)としての義ではなく、およそ忠義の<義>に近いものであると考えられる。
次に『表現学体系 各論篇第十三巻 近代小説の表現 五』から、佐藤嗣男と橘豊における見解を以下に示す。
「この物語では、人を信ずることの尊さ、を訴えることが重要な主題となっている。そして、その前提として、人を信ずることの難しさが厳然として立ちはだかっているのであって、先ず、そのことが問われなければならない。ただ、そうは言っても、普段から極く自然に不信を見馴れ、いわば不信と付き合い、妥協を重ねて日を送っている生活人にとって、通常は、さして問題にもされずに、見過ごされているのも事実である。しかしながら、人間の欠点や弱点について、異様なまでに研ぎすまされた太宰の感覚は、それを「ごまかし」として抉り出し、白日の下に晒け出さずにはおかないのである。そのことによって、仮令、自分も他人もどれほど傷つこうとも、である。」(―佐藤嗣男、橘豊『表現学体系 各論篇第十三巻 近代小説の表現 五』199頁―)
彼らも「人を信ずることの尊さ」を同作品の主題として述べているが、やはりそれにおける困難を軽視することはできない。人を本当の意味で信じようとするときには、それを願う心と訝しく思う心の双方が内在し、その難しさにおいて自己が打ち勝った時に初めてそれが達成され、美談となり得る。作品内でセリヌンティウスは刑場に拘束されていて、生と死の狭間に立たされている。このような究極の状態に陥った場合にこそ本当に「人を信ずること」が要求されるのであり、そしてそれが達成された時に初めて「尊さ」というものが導き出されるのであろう。
このように、執筆者自身の主題への見解と、先行研究における幾人かの主題における見解について整理すると、この作品における主題はまず「友情及び人を信じることの美しさ」というものが共通して挙げられるだろう。そして「信じること」が達成されるには「人間の二面性」が無くてはならないものとして存在している。つまり、「人間の二面性」が露呈されて初めて、この作品は「友情及び人を信じることの美しさ」を生みだしていると考えられるのである。よってここでは執筆者の当初の見解に修正を加え、「友情及び人を信じることの美しさと、それを成立させることの難しさ」とする。
本論は、作家が文章表現内で意図的に提示した色彩が、その作家固有の使用法に則って思想を反映するものとして表現されており、その作品の主題を表現するための手段として機能しているのかを検証するものである。よって「走れメロス」で使用されている色彩語が、分析を行うことによって、主題に沿うような形で使用されていると判明すれば色彩語は有効に機能しているということになり、国語科の授業で同作品を取り扱う場合、解釈のための観点のひとつとして提案することができる。よって以降では、「走れメロス」で使用されている色彩語を取り上げ、その実際の使用における分析を行うことによって、主題(「友情及び人を信じることの美しさと、それを成立させることの難しさ」)との関係性について探っていく。
○「走れメロス」における色彩語分析
「走れメロス」において、今回色彩語として定義した色彩の出現頻度(個数)と内訳は以下の通りであった。
この作品は色彩語を400字詰め原稿用紙100枚に換算した場合約38.8992語の色彩語が想定された。これは分析を行った154作品中47番目に色彩語が多く出現すると想定される結果である。上記表からみてもわかるように、この作品では主に一色表現の出現となっていて、その中でも赤系統に出現が偏っているということがわかった。しかし、第三章第一節第二項で述べたように、太宰が使用する色彩語のうち、美しさなどを表すものは「白」や「青」であった。特にこれは描写対象となる人物の、「肌」の「白」さや服装における「白」への憧憬、太宰の「白」への執着を表すものなどを中心に分析したことからわかったことであるが、描写対象が何であれ「白」に対し太宰が執着しているということは分析で明らかとなっている。しかしこの「走れメロス」では、「白」という色彩は一色表現として用いられずに作品が展開していた。また「青」に関しても同様である。この結果より、「白」や「青」によって何らかの美しさが表現されていなかったと言うことから、「走れメロス」においては主題と色彩は関係性をもたない、ということが推測される。以下、そのことについて使用されていた各色彩語を分析しながら結論付けたい。
○「走れメロス」における色彩語の実際
まず、最も作品内で使用されていた赤系統についての分析を行う。実際にこの作品で使用されていた赤系統の色彩語は以下に引用するとおりであった。ここでは「あか」や「紅」「緋」などが数個取り上げられていた。
@「「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。あす、おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」妹は頬をあからめた。「うれしいか。綺麗な衣裳も買って来た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」」
A「もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰った。私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸を截ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。」
B「その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手で掬って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復と共に、わずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。」
C「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」「いや、まだ陽は沈まぬ。」メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。」
D「群衆の中からも、歔欷の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」」
EF「ひとりの少女が、緋のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」勇者は、ひどく赤面した。」
(全て「走れメロス」から引用)
太宰の使用する「赤」の使用傾向は、先に述べたように「主に、描写対象となる人物の「照れ」や「恥」における心理状況を表す際に用いられる。」としている。ここで「赤」という色彩語が使用されているのは上記挙げた引用のBCFである。BCはどちらも夕陽の赤い様子を表しており、これはメロスにとって「日没」というディオニスと交わした約束の期限を示すものである。作品中この太陽は重要な役割を果たしており、メロスにとっても読者にとっても彼とセリヌンティウスの生と死、いずれかが決定することを示す基準となっている。よって太陽は文章中幾度も描写され、上記以外でメロスが刑場につくまでの太陽の描写が行われているところは多い。「眼が覚めたのは翌る日の薄明の頃である。」から読者に太陽の姿を見せないまでも存在感を与え、「隣村に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。」「太陽も既に真昼時です。」「陽は既に西に傾きかけている。」「折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、」「ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。」「陽は、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。」などのように結末部に向かうにつれ太陽の様子は細かく表現されているということがわかっている。この太陽は約束を果たそうとするメロスの激情や情熱が象徴されていると考えることができる。
またFの「赤」の使用は二字熟語「赤面」としての使用である。自身が裸体で群集の眼前に立っていることと、セリヌンティウスによって少女の親切を知った時の様子を表しており、その意義通り「恥」や「照れ」を表現している。これは「赤」の使用傾向である「主に、描写対象となる人物の「照れ」や「恥」における心理状況を表す際に用いられる。」というものに合致しているということができよう。しかしこれは、主題とは関係のない小説の展開に従って発生した人物(メロス)の心理的変化の描写である。
また「緋のマント」に関しては、位の高いもの、この小説であれば勇気ある者を指す色であると考えられる。なぜなら「緋」は、古来より位の高い者の色として象徴されてきたためである。このことに関し、以下の引用文を挙げることとする。
「茜と灰汁で染めた褐色味の赤色をいう。その和名「あけ」は日や火の色を指す「あか」と同意語である。緋は中国古代の「?」や「絳」に当り、茜染の三染の色である。推古天皇十一年(六〇三)の冠位十二階の「礼」の位色や、孝徳天皇大化三年(六四七)の冠位十三階の「錦冠」の位色の「真緋」や、『衣服令』に定められた五位の服色の「浅緋」はこの色である。」(―長崎盛輝『譜説 日本傳統色彩考 全三巻・解説』42頁―)
これらの引用により、「緋」は階級を示す色でもあったということを併せると、少女がメロスに与えた「緋のマント」は、試練を乗り越えた者に授けるものとして捉えることができよう。しかしこのマントはもとから少女が保持していたものであり、「与える」という行為に対し「(勇者を称えるものを)授ける」という考え方はできるが、その他の読み取りが必要であるように感じられる。なぜならここでは裸体で刑場に突進してきたことによるメロスの恥ずかしさを赤系統の色で表したとも考えられ、またこのマントは、もとは少女が持っていたものであるということから無垢の赤子のような姿として表現している可能性もあるからである。
よってこの赤系統の分析に関しても、友情や人を信じること、またそれらの困難さについて表現されていると断言することはできない。この作品における赤系統の使用については、「友情及び人を信じることの美しさと、それを成立させることの難しさ」という主題と関係性があるとは言えないということになる。
一方「黒」における一色表現の使用傾向は先に、「主に、描写対象となる人物の「肌」の「黒」さについて低評価を与えるために用いられる。」としていた。そこで本作品をみてみると、使用のされ方としては以下のように、自然を表すものと人物の姿を曖昧にさせるために使用されていたということがわかった。
@「結婚式は、真昼に行われた。新郎新婦の、神々ヘの宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、めいめい気持を引き立て、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも怺え、陽気に歌をうたい、手を拍った。」
A「メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。路行く人を押しのけ、跳ねとばし、メロスは黒い風のように走った。」
(全て「走れメロス」から引用)
@では、「不吉なもの」が今後起こるかのように思わせるため、雨雲として雲を「黒」く表現している。ここではメロスの妹の結婚式が行われており、祝いの場であるにも関わらず突如「黒」い雨雲が出現し、雨を降らせたことから「不吉」さを表現することに成功している。これに関しては本作品の主題としていた「友情及び人を信じることの美しさと、それを成立させることの難しさ」の「難しさ」を予兆として象徴させていると考えることができる。
またAでは「メロスは黒い風のように走った」と描写することによって、彼が目にも留まらぬ速さで、まさに命懸けで駆けていく姿を描写している。これは「隣村に着いた頃には、雨も止み、日は高く昇って、そろそろ暑くなって来た。メロスは額の汗をこぶしで払い、」や「一気に峠を駆け降りたが、流石に疲労し、折から午後の灼熱の太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく眩暈を感じ、」という描写からもわかるように、酷暑のための日焼けという可能性も孕んでいる。よって太宰の使用傾向である「肌」の「黒」さにおける低評価が与えられているというわけではないということがわかった。
次に、二色表現である「蒼白」について考察を行う。この色の使用傾向は「登場人物の心理状況(緊張、同様、感情の抑制)を表す。」「登場人物がもつ本来の顔色や、酔いなどの体調の変化を示す。」「哀れな人物、または非凡人を表す。」としている。ここで、「走れメロス」で出現した「蒼白」の引用文を以下に挙げる。
「「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以て問いつめた。その王の顔は蒼白で、眉間のしわは、刻み込まれたように深かった。」
(「走れメロス」)
この引用文における王の顔色は先の考察で「感情の抑制」の結果として判断し、また彼が緊迫した心理的状況に置かれているとした。この「蒼白」は作品中に現れた色彩語と主題の関係性を見る上で着目すべき色であり、作品主題「友情及び人を信じることの美しさと、それを成立させることの難しさ」の後者部分を象徴していると考えて良いだろう。この引用部分における王ディオニスは、自分の近親者を次々と殺しており、「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」という強い脅迫観念を持つ人物として表現されている。「蒼白」という色からは、冷徹さも表現されているといえよう。人を信じることのできないディオニスは、自分を信じて躍動的にひた走るメロスと対極的に描かれていて、結末部分において「暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」」と表現されていることから、小説の冒頭部分と結末部分でも対照的な顏の色彩が表現されている点は注目すべきである。よってこの作品では赤系統では主題との関係性が見られなかったものの、「黒」や「蒼白」においては関係性が見られたとここで明言しておく。しかしこのように主題と関係性があると判断できたものの出現頻度は2個のみであったということは軽視できない事実である。よってこの作品全体を通せば、色彩語が主題に関係しているかという問いは、初めに推測したように肯定するに及ばないと言わざるを得ない。
「富嶽百景」は昭和14年2-3月号の「文体」に分けて連載された中期の代表的短編である。太宰はこの作品を山梨県川口村御坂峠の天下茶屋で執筆し、それまで(前期)の退廃的な生活から立ち直ろうとした。彼はこの作品「富嶽百景」を書くときに、「思ひをあらたにする覚悟」(「富嶽百景」)をもって取り組んでいる。先に述べた「おしゃれ童子」は昭和14年11月号の「婦人画報」に発表され、「走れメロス」は昭和15年5月号の「新潮」において発表されているということから、「富嶽百景」がこれらの作品よりも以前に発表されたものであり、中期の始まりである「満願」(昭和13年9月号「文筆」)、「姥捨」(昭和13年10月号「新潮」)「I can speak」(昭和14年2月号「若草」)に次ぐ作品であるため、「走れメロス」などと比較すると未だ前期からの回復を試みている段階であるということがわかる。現代においてもこの作品は「走れメロス」同様、教科書教材として使用されている。
「富嶽百景」の主題を考えた時、「富士」という存在が主人公と決して切り離すことのできないものであるということを念頭に置かねばならない。形式段落1では葛飾北斎らの浮世絵に描かれている富士のイメージと、実際の富士との差異について述べ、「決して、秀抜の、すらと高い山ではない。」と断言することによって低評価を与えている。それに反して形式段落2では、十国峠から見える富士を「あれは、よかつた。」「やつてゐやがる、と思つた。」と述べることによって高評価を与えている。形式段落3以降は自身の経験が富士に多分に含まれるようになり、例えば苦い経験とともに見た形式段落3の富士を「くるしい」と形容することによって低評価を与えるようになっていく。このようにこの作品では、主人公の目から見た富士の様子が主人公の心象風景となって描写されていると分析することができ、またそれを読むことによって、彼の心は絶えず、正と負に大きく揺れ動いていることを読み取ることができる。そして結末部分の叙述「富士山、さやうなら、お世話になりました。」と感謝の意を示した箇所では、読者は彼自身の安定を感じとる。実際に富士がどのような叙述で評価されているかということについては、数多くの研究がなされているので詳しくは割愛するが、主題を設定する際には主人公の心象風景としての富士が描写されているということを軽視することはできない。そしてそのことは、富士の描写は彼の心象を反映したものにすぎず、作品は彼の心の揺れ動きを描き出したものであると考えるに足るのである。
よってここでは、「富嶽百景」の主題を「自己(ここでは太宰であると考える)の心の安定に向かうまでの紆余曲折」としたい。心の振れを富士に投影し、最後には精神状態の安定を獲得する、という経緯をこの作品は描いていると結論づけたためである。
では次に、他の研究者はどのようにこの作品の主題をみているのかということについて整理していく。まず初めに東郷克美はこの作品について以下のように述べている。
いうまでもなく、「富嶽百景」は、<私>の心象風景である。富士に対する<私>の態度は、明・暗、肯定・否定に大きく蕩揺しながら、しだいにその振幅を小さくして、結びの富士への感謝に収斂していく。<東京の、アパートの窓から見る富士>の<くるしい>印象から<酸漿に似てゐた>甲府の宿での富士の印象に至るまでの、<念々と動く>心情の揺れの背後には、<私>すなわち作家太宰治の転身のドラマがある。作品の内容そのものが<私>の再生を主題にしている。再生は二重の意味での再生でなければならなかった。実生活上のそれと、文学上のそれと。 (下線部は執筆者による)(―東郷克美「太宰治」『研究資料現代日本文学 第一巻 小説・戯曲T』378頁―)
執筆者が実生活の安定における回復をみていたのに対し、東郷はそれに加え、文学上の回復もみているようである。文学上の回復とは後に叙述される「青春への決別をこめた最初の本格的客観小説「火の鳥」の執筆によってめざされること」であり、それは「内的事実を客観化しようとする本格的ロマンの執筆」を目指すことを意味している。この「内的事実」という部分には太宰の「実生活」における経験等が当てはまる。作品に「実生活」を織り込む太宰の執筆スタイルでは、文学と実生活はどちらも切り離すことのできない、密接に関わり合うものであるということが指摘されている。よって東郷は「実生活上の」再生と、「文学上の」再生の二点がこの作品の主題であるというのである。しかしここで注目すべきところは、「「富嶽百景」は単に明るく清澄なだけの作品ではない。作品の背後に流れる虚無の心情のようなものを見落としてはならない。」(―東郷克美「太宰治」『研究資料現代日本文学 第一巻 小説・戯曲T』379頁―)という指摘である。これは彼が前期に様々な苦しい経験をしているからこそ言えることなのであり、そこからの再生を、作品を通して試みていることを顧みれば明らかである。最後は完全な自己再生に向かうが、その結末部のみに注目して「明るく清澄」な作品であると決めるのは早計であり、紆余曲折を経ての結果であるということを主題には反映させなければならない。
また饗庭は以下のようにこの作品を位置付けている。
「考えてみると、この「富嶽百景」は、生きることへの「声援」をしるした作品と言うことができよう。峠の茶屋のおかみさんも、そして、娘も同じく太宰の生きようとする姿勢をはげましている。娘は彼の仕事のすすみぶりにいつも気をつかっている。そのことに彼は感動し、「これは人間の生き抜く努力に対しての、純粋な声援である」と言わずにはいられない。(―饗庭孝男『鑑賞 日本現代文学』88頁―)
上記の引用をみると、彼もやはり「富嶽百景」は太宰の再生に関わるものであると考えていることがわかる。実生活や文学上の事柄を全て包含して、「生きること」への「声援」が記されていると彼は述べているのである。
これら二者の見解を鑑みると、執筆者は当初「富嶽百景」の主題を「自己の心の安定に向かうまでの紆余曲折」としていたが、「これまでの諸問題の解決による自己再生」と改める方がよいようである。「諸問題」とは実生活上においても文学上においても該当するものであり、またその「解決」と表現したことによって、単なる明るい作品に留まることなく、太宰の苦悩についても指摘することができる。「解決」とは何らかの策を講じてなされるものであるが、この作品における解決の要因は、太宰自身による受容の姿勢が関係している。小山初代の不貞の受容はその最たるものであり、初め苦心してはいるものの、その後さまざまな登場人物に折り触れて接し、それによって自己の苦悩についても受け入れることができるようになり、結果、真の自己再生が可能となる。東郷のことばを借りると、「周囲の人々の善意を素直に受け入れ、しだいに人間信頼を回復し、安定した生活者として自己再建をとげて行く。」(―東郷克美「太宰治」『研究資料現代日本文学 第一巻 小説・戯曲T』379頁―)ということである。この受容があってこそ諸問題の解決が可能となり、またそれと同時にこの作品は、明日の明るい自身(再生した自身)を予感させるものにも成り得る。よって先の見解より改め、「富嶽百景」における主題を本論では「これまでの諸問題の解決による自己再生」と設定することとする。
また、ここでひとつの仮説を立てるとすれば、富士が作者の心象風景として描写されているのであるのなら、富士の描写に使用されている色彩は主題と密接に関係するのではないか、ということである。富士が心象風景となる、つまり心の振れが表れた形で描写されるということは、上記で設定した主題が各々富士に投影されるということにも成り得る。本作品の分析に当たってはこの仮説も想定しながら、分析を試みたい。
では実際に、「富嶽百景」の色彩語の出現状況について整理し、その使用状況を分析することによって、上に挙げた作品主題と色彩語の間に何らかの関係性が生じているかを考察する。
この作品における色彩語の出現頻度(個数)は以下のとおりである。なお、二色表現で出現していた「青白」についても互いに青系統1個、白系統1個の出現頻度として加え、算出している。
この結果により、最も使用されている色彩語は白系統であり、黒系統はほぼ使用されていないということがわかった。しかし富士の描写に関しては、青系統または白系統の二種でしか描写されていなかったということが確認できている。では全23個の出現のうち、それらの色彩語が修飾していた対象語の内訳はどのようになっていたのだろうか。その結果について以下に提示する。
上図項目の「その他の自然」とは、「湖」や「紅葉」、「葉」を総じて表したものである。よって約30.4%の割合を占めていながらも、特定の一つの対象語を表しているわけではないので、この作品では突出して色彩語が「富士」を修飾していると判断することができる。「富士」は作者の心象風景とも密接に関わっている対象語であって着目に値するので、以下に「富士」が色彩語を用いて描写されている文を引用しながら、分析を行うこととする。
@「三年まへの冬、私は或る人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた。その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。一睡もせず、酒をのんだ。あかつき、小用に立つて、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真白で、左のはうにちよつと傾いて、あの富士を忘れない。窓の下のアスファルト路を、さかなやの自転車が疾駆し、おう、けさは、やけに富士がはつきり見えるぢやねえか、めつぽふ寒いや、など呟きのこして、私は、暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫でながら、じめじめ泣いて、あんな思ひは、二度と繰りかへしたくない。」
(「富嶽百景」)
これは先にも述べた形式段落3の叙述で、小山初代の不貞を知った時に見た富士が描写されている箇所である。「あの富士を忘れない」という叙述と、「あんな思ひは、二度と繰りかえしたくない」という叙述は、初代の不貞を知った衝撃を言い換えているだけのことであって、この富士に対しては何の評価も与えられず、ただ描写されてはいない。
A「路を歩きながら、ばかな話をして、まちはづれの田辺の知合ひらしい、ひつそり古い宿屋に着いた。そこで飲んで、その夜の富士がよかつた。夜の十時ごろ、青年たちは、私ひとりを宿に残して、おのおの家へ帰つていつた。私は、眠れず、どてら姿で、外へ出てみた。おそろしく、明るい月夜だつた。富士が、よかつた。月光を受けて、青く透きとほるやうで、私は、狐に化かされてゐるやうな気がした。富士が、したたるやうに青いのだ。燐が燃えてゐるやうな感じだつた。鬼火。狐火。ほたる。すすき。葛の葉。私は、足のないやうな気持で、夜道を、まつすぐに歩いた。下駄の音だけが、自分のものでないやうに、他の生きもののやうに、からんころんからんころん、とても澄んで響く。そつと、振りむくと、富士がある。青く燃えて空に浮んでゐる。私は溜息をつく。維新の志士。鞍馬天狗。私は、自分を、それだと思つた。ちよつと気取つて、ふところ手して歩いた。」
(「富嶽百景」)
ここでの富士は、主人公でもある語り手を鼓舞するかのように存在していることを文脈から読み取ることができる。「維新の志士。鞍馬天狗。私は、自分を、それだと思つた。ちよつと気取つて、ふところ手して歩いた。」という表現は、酔いの影響も考えられるが、富士の美しい姿に影響されたものであると捉えることができる。「青く透きとほるやう」に夜に聳える富士からは、夜の月光も相まって凛とした姿を想像することができる。彼はこの富士を見て「維新の志士」や「鞍馬天狗」という表現を連想し、自身をそれに当てはめるという思考を辿っており、彼の精神的回復が示唆されているようでもある。これは富士の姿が、大きく彼の心に作用している色彩語の出現例である。
B「「お客さん! 起きて見よ!」かん高い声で或る朝、茶店の外で、娘さんが絶叫したので、私は、しぶしぶ起きて、廊下へ出て見た。娘さんは、興奮して頬をまつかにしてゐた。だまつて空を指さした。見ると、雪。はつと思つた。富士に雪が降つたのだ。山頂が、まつしろに、光りかがやいてゐた。御坂の富士も、ばかにできないぞと思つた。「いいね。」とほめてやると、娘さんは得意さうに、「すばらしいでせう?」といい言葉使つて、「御坂の富士は、これでも、だめ?」としやがんで言つた。私が、かねがね、こんな富士は俗でだめだ、と教へてゐたので、娘さんは、内心しよげてゐたのかも知れない。「やはり、富士は、雪が降らなければ、だめなものだ。」もつともらしい顔をして、私は、さう教へなほした。」
(「富嶽百景」)
これは富士からの影響ではなく、富士に対し彼が高評価を与えている場面である。彼は雪が山頂に積もった富士の美しさを評価しており、また娘さんに対し好意的に弁解していることから、彼自身の精神的な回復の兆候を表していると考えられる。「まつしろに、光かがや」く山頂を「いいね。」と評価していることについては、「白」という色彩が美しさや太宰にとっての憧憬、純潔を表す色彩であるという先の考察にも合致している。
C「ねるまへに、部屋のカーテンをそつとあけて硝子窓越しに富士を見る。月の在る夜は富士が青白く、水の精みたいな姿で立つてゐる。私は溜息をつく。ああ、富士が見える。星が大きい。あしたは、お天気だな、とそれだけが、幽かに生きてゐる喜びで、さうしてまた、そつとカーテンをしめて、そのまま寝るのであるが、あした、天気だからとて、別段この身には、なんといふこともないのに、と思へば、をかしく、ひとりで蒲団の中で苦笑するのだ。くるしいのである。」
(「富嶽百景」)
「水の精みたいな姿で立つてゐる」という表現によって、「青白」が夜の冷たさを備えた美しさを表現するために使用されていることがわかる。この青白い富士は彼に直接的に作用しているというわけではない。最後の「くるしいのである。」という告白は「をかしく、ひとりで蒲団の中で苦笑するのだ。」という行動の理由として述べられている。先の「透きとほるやう」な青い富士は彼に姿勢を正させ、自信を回復させる作用を及ぼしていたが、ここではそのような作用は見られない。
D「山を下る、その前日、私は、どてらを二枚かさねて着て、茶店の椅子に腰かけて、熱い番茶を啜つてゐたら、冬の外套着た、タイピストでもあらうか、若い知的の娘さんがふたり、トンネルの方から、何かきやつきやつ笑ひながら歩いて来て、ふと眼前に真白い富士を見つけ、打たれたやうに立ち止り、それから、ひそひそ相談の様子で、そのうちのひとり、眼鏡かけた、色の白い子が、にこにこ笑ひながら、私のはうへやつて来た。「相すみません。シャッタア切つて下さいな。」」
(「富嶽百景」)
二人の娘が「ふと眼前に真白い富士を見つけ、打たれたやうに立ち止り、」「「シャッタア切つて下さいな」と彼に依頼するという行動描写は、富士の美しさを婉曲的に読者に伝えている。この引用部分は本作品の結末部分にあたるため、彼は完全に精神を回復させたところであり、一つ目の引用例の白い富士を見る心境とは正反対のものになっているといえる。
これら@〜Dの、色彩語で修飾されている富士をみてみると、夜は「青」を使用して富士を描写しており、朝または昼では「白」を用いて描写されているということがわかる。これは単に日の光や雪を原因としてそのような色が使用されたと考えられるが、AやBの富士における色彩は、結果的に彼の精神的回復を表すものとして機能していると考えることができる。しかし@CDでは描写として表現することに重きが置かれている。その他は、例えば哀れな遊女たちのことを思い「寒空のなか、のつそり突つ立つてゐる富士山、そのときの富士はまるで、どてら姿に、ふところ手して傲然とかまへてゐる大親分のやうにさへ見えた」というような、時に比喩的に表現されるその立ち姿自体に、彼の心象は投影されていると判断することができる。
よってこの作品では全ての富士の描写における色彩が主題「これまでの諸問題の解決による自己再生」を表す機能を担っていると断定することはできず、結果、主題との関係性に関しても存在するとは言い難い結果となった。しかしこれは富士における色彩を考察したのみに言えることであり、作品全体の色彩を考察した結果ではないということを今一度指摘しておく。
○太宰治によって使用される色彩語に内包されている意味
ここでは主に第三章第一節と第二節で明らかとなったことを整理する。
太宰は、執筆後期へと向かうにしたがって色彩語をあまり使用しない傾向にあるということがわかった。色彩語が多く使用された時期は執筆前期に集中し、中期・後期に向かうにしたがって減少傾向にあるということである。またこの三期による分割方法ではなく戦争を契機とした分割、自殺を契機とした分割のもとに分析を行っても、やはり同様の結果が得られるということがわかった。
また本論で研究対象とした154作品において、赤系統・青系統・白系統・黒系統におけるそれぞれの色彩語使用に認められた傾向を総括すると、以下のとおりであった。
<一色表現>
<二色表現>
上記<一色表現>と<二色表現>の共通項をみると、「赤」と「黒」に関しては人物描写として使用される場合低評価が与えられる傾向にあるということ、また「蒼」に関しては心理的な状況を表現するために使用される傾向があるということがわかった。なお特に「白」に関しては太宰自身が好む色であると考えられ、彼は「白」という色彩に対し描写対象が人であれ物であれ、美しく気品高いものとして使用する傾向があることがいえる。しかし第三章第三節をみる限り、こうした使用は虚構性の弱い作品(特に「おしゃれ童子」)においていえることであり、虚構性の強い作品にそれが頻出するとまでは言えない。
また<二色表現>について注目すると、一色表現として使用される「青」と「白」は互いに高評価を与える色彩として使用される傾向があるのに対し、二色表現「青白」として使用されると高評価に加え、低評価も表すようになるということがわかった。さらに「蒼白」に関しては、「白」がもつ高評価の意味が消失し、出現していたとしても非凡人のような、俗世とは隔たった崇高な人物として使用される場合が認められた。よって「白」に対する太宰の高評価は、他の色彩と組み合わされると弱まる傾向にあるということがいえる。この「白」という色彩は154の太宰作品の中で最も使用される色彩語である。最も色彩語が使用されている作品は割合で計算すると「おしゃれ童子」であったということも同時に指摘しておく。
○主題と色彩語の関係性について
第三章第三節では太宰治作品における色彩語の出現と主題との関係性について迫ったが、色彩が主題を反映していると考えられるもの(「おしゃれ童子」)と反映していないと考えられるもの(「走れメロス」「富嶽百景」)の双方を確認することができた。しかし色彩が主題を反映していないと考えられる作品においても、稀にそれを認めることができる個所が存在していたことは事実である。またこの三作品は虚構性の強いもの(「走れメロス)と虚構性の弱いもの(「おしゃれ童子」「富嶽百景」)のふたつにもわけることができるが、虚構性が弱く作者自身を近しく反映することができたとしても、主題と色彩語が密接な関係をもつ作品(「おしゃれ童子」)ともたない作品(「富嶽百景」)があるということがわかった。ではなぜこのような差異が生まれたのか。これを考えるには、主題の限定度合に注目することが必要であると思われる。試みとして、本論で使用した「おしゃれ童子」と「富嶽百景」の各主題を並べてみると以下のようになる。
「おしゃれ童子」における「瀟洒と典雅」は、上述したように服飾関係に焦点が当てられており、さらに限定されたものであるということがいえる。このふたつの主題を比較すると、その限定性に関しては圧倒的に「おしゃれ童子」の方が強いことがわかる。「富嶽百景」の主題は太宰の自己再生という彼の実生活及び文学上に渡る大きなものであり、「おしゃれ童子」のように彼にまつわる特定の範囲のことだけを叙述しているのではない。そこには過去と現在、生き方など、壮大な彼自身の時間の流れといってもよい大きなものが主題として横たわっている。よって本論では、太宰治の色彩使用の傾向から導き出された色彩語に内包されている意味は、限定された、狭められた主題で成立している作品に反映されると結論付ける。よってこのような条件を満たす作品であれば、作品解釈に色彩語は有効な観点となることがあるが、それを満たさない作品であれば、色彩語は主題の解釈に有効な手立てとしては機能しないということがわかった。
これら二つの結果を踏まえると、太宰作品に使用されている色彩語において、彼がそれらに含ませた意味は、「白」においては特徴的なものが存在するといえる。しかし他の色彩については、意図的に意味を含ませて使用しているとは断定できないようである。例えば「黒」が日焼けをしている様子や衣服や肌の汚さを表すことは十分考えられ得ることであり、またそれを執拗に誇張して表現しているという結果も得ることはできなかったためである。しかしこれは太宰治作品のみを対象に分析・考察したためである可能性も否定することはできない。以下に述べる今後の課題のひとつにもなるが、彼と同時代を生きた他の文学作家、また同じ「無頼派」と呼ばれる作家たちの作品を同じように分析・考察すると、太宰独自の色彩感覚をつかむことができる可能性もある。今後は研究対象とする色彩語の数を増やし、また新たな研究対象を得ることによって、さらなる太宰の色彩感覚を見出したいと考えている。
本論は太宰治作品のほぼ全ての文章表現から色彩語を抽出した上でその使用傾向を調査し、内包される意味について考察を行い、色彩語が太宰作品の内容解釈に有効な手立てとなるかを研究したものであった。しかし実際に調査できた色彩語は「赤」「蒼」「白」「黒」の4つの一色表現と、「青白」「蒼白」「蒼黒」「赤黒」の4つの二色表現にとどまり、色彩を連想する表現(「血」「牛乳」など)への考究までには至っていない。さらに全作品における色彩語の出現状況に関して分析は行えたものの、その機能に関しては「おしゃれ童子」「走れメロス」「富嶽百景」のみを明らかにしたまでであり、よって信憑性に関しては未だ不十分であることをここで指摘しておく。しかし太宰治作品における数々の先行研究がある中、これまで彼の全作品を通した色彩語研究がなされていなかったという点に本論は光を当てたものとなり、今後彼の作品における研究に新たな分野として視点を広げることができたのではないだろうか。またそれと同時に、色彩語研究における新たな方法を提案することへもつながったのではないかと考えている。
太宰治作品は言うまでもなく評価される近代文学のひとつであり、現代でもこれからにおいても多くの人に読み継がれていく作品であろう。執筆者のように彼の作品に魅了された人々にとって、この研究がさらに彼の作品を楽しませるものとなり、また教科書に掲載されている作品については、指導の方法として何らかの形で有効なものとなるよう今後も深く掘り進めていきたいと考えている。本論は「太宰治作品における色彩語の研究」の第一歩として足を踏み出したものに過ぎない。執筆者は一旦ここで筆を置くこととするが、この研究にはこれからも長期的に取り組み、太宰研究の一つとして誇れるものを築き上げたいと積極的に考えている。
最後に、ここに至るまでご尽力くださった多くの方々に厚く御礼を申し上げます。特に指導教員としてご指導くださった野浪正隆先生、大阪教育大学国語科の先生方、同級の大学院生には深く感謝しております。大学院入学時、言語学から文章表現学へ転向するという多大なご迷惑をおかけいたしましたが、みなさまがあたたかく受け入れてくださったおかげで、結果的にどちらにも関係する、自身が今一番やりたいことを研究することができました。まだまだ課題は山積しておりますが、この研究には長く付き合っていきたいと心から思うことができます。この御恩はこれから教員として指導する際、生徒にしっかりと還元していきたいです。
すべての方々に、二年間、本当にありがとうございました。