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大阪教育大学 国語学講義
受講生による 小説習作集

詩織

 
2014年度号
「GATE」122129
「ある人の一日」122125
「きっとおよげる」122202
「ちらし寿司」113911
「アイアース」 112201
「アイスキャンディー」122108
「キャサリン」123911
「テディベア」122211
「僕と健太君」122120
「僕の休日」122128
「博士の恥ずかしい研究」122210
「合コン・イン・ザ・ダーク」122206
「呪文」123908
「巡り合い」122114
「平凡からの脱却」122121
「思い出」122124
「恋愛糞、雑魚小説」102211
「未知との遭遇」122127
「白と黒」122209
「空に唄えば」112207
「結婚式」122123
「薄墨色の世界」122130
「記憶のない国」122205
「誕生日プレゼント」122139
「関西弁の魔法使い」122208
「魔女の生きる世界」 122112
「桃太郎」122133
「例の彼」122118

「GATE」

122129

目次

十月五日(日)前
十月五日(日)後
十月七日(火)
十月十三日(月)
十月十九日(日)
十月二十日(月)
十月二十六日(日)
十月二十七日(月)
十一月二日(日)
十一月二十三日(日)
]月]日(])

 俺はヨウスケ。とある公立高校に通う高校二年生だ。特に賢いわけでもないし馬鹿でもない、イケメンでもブサメンでもない、平均と比べて背が少し低いこと以外はごくごく普通の男子高校生だと思っている。


十月五日(日)前
 今日は日曜日だが、俺は学校へ向けて自転車を走らせている。日曜参観というものだ。どうせ明日が代休になるんだから面倒だとは思わない。休みの日が二日連続にならないことが少し残念なくらいだ。
 そんなことを考えながら全速力で自転車を漕いでいると、学校に辿りついた。教室に入って数人の友達とあいさつを交わしていると、誰かが俺の方に向かって走ってくる姿が見えた。
「ヨウスケおはよ!昨日ネット見てたらまた新しい七不思議見つけてよ、今日の放課後お前んちの裏の公園で試そうと思ってんだけど来るよな?」
話しかけてきたのは親友のセイヤだ。セイヤはいつもネットやら本やらから仕入れてきたという七不思議やおまじないを試したがる。
「オッケ、行くよ。あいつらも来るんだろ?」
「もちろん!」
試すときに集まるのはいつも決まったメンバーだ。言い出しっぺのお調子者セイヤ、ごくごく普通の男子高校生である俺、見た目がすげーヤンキーで常に勢いで生きているジュンタ、仲良し双子のカイとリク。今回も例にもれずこの五人で七不思議を試すらしい。
「じゃあ部活終わったら正門に集合な!」
「了解。」
セイヤは満足げに席についた。俺たち五人は小学生のときからの仲良しだ。今は俺とセイヤだけ同じクラスで、他はバラバラになっている。

 午前中しか授業がなかったからか、時間は思ったよりも早く過ぎた。高校生ともなれば参観に来る親は少ししかいない。だから本当に普段とあまり変わらない感じだ。部活の時間も気付けば終わっていて、俺は早めに着替えると正門に向かった。
「ヨウスケおせーぞ!」
正門には既に四人が集合していた。俺が軽く謝りながら合流すると、みんなは待ちわびていたかのように即座に身を翻して門を出た。

 セイヤの持ち出してくる七不思議やおまじないはデタラメだ。ネットや本で見たと言っているがそれもすごく嘘くさい。きっとセイヤが適当に考えたものだと思う。
 たとえばこの間はおまじないとしてはかなり有名なこっくりさんを五人でやった。こっくりさんは地域によってやり方に差があるらしいが、それでも基本的には平仮名、数字、YES/NOを書いた紙に十円玉を置いてするもんだと思う。でもセイヤのいうこっくりさんは一味違った。公園の地面に木の棒で鳥居を書いて、その上にこっくりさんに食べてもらうというポテチとコーラを置き、全員で手をつないでその周りを囲み、こっくりさんを呼ぶという方法だった。質問するとこっくりさんが脳内に直接答えを贈ってくれるなんてセイヤは言っていたが、いくら質問をしても答えを得たものは誰もいなかった。当然といえば当然である。
 花子さんを呼んだこともある。わざわざ暗くなるまで待ってトイレへ行き、ホースを使って床に水で“花子”と書いた。後は五人で手を合わせ、ずっと花子さんの名前を呼び続けた。もちろんこんな気持ち悪い集団のところにホイホイと現れる花子さんではなかったし、俺たちの奇行は学年主任の先生にしっかりと見られていたらしく、次の日には五人揃って先生に呼び出され説教を受けた。あのときの先生の呆れ顔は今でも夢に見て辛くなる。

 「今日やるのはGATE、異世界への扉を開く七不思議なんだ。」
セイヤの声で、俺は考え事をやめた。
「異世界なんて行ってどーすんだよ。」
「えー、どーするっていうか、おもしろそーじゃん。」
「そうか?ってか携帯は?つながんの?」
「そりゃ異世界だしこっちの世界とは連絡取れないと思うぜ。」
「まーじかよ。帰り方は?」
「ちゃんとネットで見てるから安心しろよ。」
「へぇ〜。ま、初めっから成功するとも思えねーけど。」
ジュンタは軽く笑い飛ばしている。いつものことだ。
「今日はラーメンにする?牛丼?」
「たまには行ったことないとこに行ってみようぜ。」
カイとリクはもう、七不思議を試したあとどこで夕食にするかを相談している。
 俺たちはいつも七不思議やおまじないを試したあと、「あれ〜?やっぱただの噂だったのか〜?」なんて言って悔しがるセイヤを生暖かい目で見守り、みんなで夕食を食べに行く。セイヤには内緒だが、俺たちはどちらかというと七不思議やおまじないなんかよりも、みんなでがやがや夕食を食べる時間のほうを楽しみにしている。でも何だかんだみんなセイヤのノリが嫌いになれなくて、怪談ブームも過ぎ去ったこの時代で七不思議やおまじないに必死になっているのだ。
 学校を出てから十分ほど歩くと、公園に辿りついた。現在の時刻は午後四時四十分だ。セイヤは迷うことなくまっすぐに、公園の隅にある小さな倉庫へ向かっていく。俺たちは黙ってセイヤの後に続いた。


十月五日(日)後
 俺たちは倉庫の前で足を止めた。
「今からこの倉庫の中に異世界への扉を召喚する。」
セイヤが言った。このまじめくさった顔が面白い。
 この倉庫は俺が生まれたときからこの公園の隅にあった。もうだいぶ長いこと誰にも使われてないようで、鍵は壊れており、出入りが自由にできる。とはいえ、中はかなり埃っぽく、ぼろぼろの長机とクッションの破れたパイプ椅子がそれぞれ数台ずつ折りたたまれた状態で壁に立てかけてあるだけだから、誰も入ろうとはしない。かくれんぼする小学生がたまに入るぐらいだ。
 セイヤは一度倉庫の扉を開け、中の様子をみんなに見えるようにした。いつもと何も変わらない様子だ。埃っぽい空気が流れ出し、カイが少し咳き込んだ。
「GATEのやり方を説明するぜ。ちなみに、四時四十四分でないと異次元への扉は開かねぇからな、さっさと動けよ。」
セイヤは倉庫の扉を閉めて俺たちの顔を見た。
「まず、この倉庫の周りを二重に囲む線を引く。」
リクとカイは手ごろな木の枝を見つけて、倉庫の周りをぐるりと回り、線を引いた。
「次に、五人で倉庫を囲むように立つ。」
俺たちは小さな倉庫を囲むように立った。俺は倉庫の扉から最も離れたところに立った。扉の正面はもちろんセイヤだ。
「みんな、それぞれ足元に自分のイニシャルを書け。名前のほうな。」
セイヤは指示をしながらつま先で足元にイニシャルを書いた。俺たちもそれにならう。リクとカイは先程の木の枝でイニシャルを書いていた。
「じゃ、俺が呪文唱えるから静かにしとけ〜。あとでせーのって言うから、みんなでいっせいに『GATE』だぞ、いい?」
俺たちはうなずいた。時計が四時四十四分を指した。

「願わくば この倉庫の中に 異世界への扉を 開けたまえ。
  願わくば 異世界の主により 我らを異世界へと 導きたまえ。」
「せーの」
「GATE!!!!!」

セイヤは勢いよく倉庫の扉を開いた。そのまま中へ駆け込んでいく。他のやつらもそれに続いた。俺も倉庫の扉の方へと駆け出した――と、そのとき、俺の目の前を勢いのついたサッカーボールが駆け抜けた。
「すいませーん!」
「ボール取ってくれませんかー?」
振り向くと、小学生らしき男の子が二人、俺に手を振りながらこちらへ走ってくる。仕方ないな、と思いつつ、俺は転がっていくボールを追いかけた。ボールは公園の外まで転がり出ると、道路の側溝に落ちて止まった。俺はそれを拾うと、後ろからついてきた小学生たちに渡し、走って倉庫の方へ戻った。
 倉庫に近寄ると、息を切らしているカイが見えた。扉のところまで来ると、ジュンタがじっと倉庫の中を見つめていた。リクは扉の横の壁にもたれている。
「どうだった?」
そう尋ねると、一番傍にいたカイはフッと言って俺に笑顔を向けた。いや、笑顔というよりは力なく微笑んだように見えた。
 扉は開いていたから、中を覗いてみた。いつもと何も変わらない様子だ。なんだ、やっぱり今回もデタラメじゃないか。
「な〜んだ。なんもないじゃん。」
そういって振り返ると、ジュンタがゆっくり頷いた。心なしか顔が青ざめているように見える。
「さ、今日はどこに食べに行く?俺は牛丼がいいかな!」
変に静まり返った空気がいやで、俺は少し大きな声で言ってみた。ようやくジュンタがかすれた声を出した。
「……セイヤが…、…いない…。」
さっと顔から血の気が引いた気がしたが、すぐにじんじんと熱くなる感覚もあった。俺は一度自分の周りをぐるりと見渡した後、倉庫の中を見た。しかし、セイヤの姿はない。
「携帯にかけてみればいいじゃん!」
俺はそう言いながら自分の携帯を取り出して電話帳を探す。しかし、そこにあるはずのセイヤの名前も、番号も消えている。
「セイヤの番号が消えてる…。確かに登録していたのに…。」
「ラインも同じ。」
リクがラインのトーク画面を開いていた。俺たち五人のグループから、いつの間にかセイヤが消えていた。退室したとのメッセージはない。言うまでもなく、友達一覧からもセイヤの名前は消えていた。
「どういうことだよ…。」
セイヤの情報が丸ごと消えている。ふと、公園へ向かう道中でセイヤが言った言葉を思い出した。
――「そりゃ異世界だしこっちの世界とは連絡取れないと思うぜ。」
セイヤは本当に異世界に行ってしまったのだろうか。だとしたら、どうしてセイヤ一人だけが?
「お前ら、中で何も見なかったのか?」
聞くと、リクとカイは揃って首を横に振った。ジュンタだけが
「何も見てねぇ。けど、気味が悪くなって出てきたんだ。そしたら、セイヤだけ出てこなかった。」
と答えてくれた。しかし、それ以上のことは何も言わなかった。
 俺たちはその後三十分ぐらい公園の中を捜しまわったが、結局セイヤは見つからなかった。さすがにこの重い空気のまま夕食を食べに行くことはできず、それぞれ静かに家へと帰った。


十月七日(火)
 昨日は代休だったが、俺は一日何をしていたのかあまり覚えていない。日曜に起こった出来事を受け止められなくて、何度も携帯の電話帳やラインの画面を見ては溜め息をついていたように思う。
 教室に辿りついた。いつも俺より早く教室にいるはずのセイヤが今日はいない。セイヤがいつも座っていた窓側の一番後ろの席は、なんだかやけに綺麗に見えた。
 やがてチャイムが鳴り、担任が入ってきた。毎朝恒例の出席を確認する点呼が始まる。淡々と生徒の名前を読み上げる担任がセイヤの名前をとばしたことに俺は気付いた。
「以上。全員出席だな。」
担任は名簿をファイルにしまおうとしたから、俺は急いで手を挙げた。
「セイヤ、山田セイヤをとばしていますよ。」
「なに?」
担任は怪訝な顔をして名簿に目を落とした。しかしすぐに顔を上げると俺に向かって吐き捨てた。
「中田、寝ぼけているのか?このクラスに山田なんていないぞ。」
同時に、クラス中から笑いが起こった。
「おーいヨウスケ〜。勘弁してくれよ、面白すぎるぜ。」
「山田って誰だよ好きな人かよ〜!」
からかってくる奴らは無視して、更に担任に訴える。
「ほらあそこ!窓際の一番後ろの席にいつも座ってただろ!」
「夢でも見たんだろ。あそこは元々空席だ。そろそろ授業の時間なんだから、静かにしてくれないか。」
担任のハゲおやじは俺の言うことなんて流すばっかりで聞いちゃくれない。そればかりか、クラスのやつらも馬鹿にして笑うばかりだ。セイヤの隣の席の女子なんかは、え〜私の隣におばけでもいるのかな〜?なんてくだらないことを言って笑っている。
 そんな馬鹿な、という気持ちと、やっぱりな、という気持ちが同時に湧いた。やっぱりセイヤの存在はこの世界から消えているんだ。一緒にGATEをやった俺たちしかセイヤのことを覚えていないんだ。
 休み時間になると俺はすぐに教室を出て、カイ、リク、ジュンタを集めた。そして朝にあったことを話した。
「そうか…。やっぱり、セイヤは異世界へ行ってしまったんだな…。」
ジュンタはそう言ってうつむいた。なんだかわからないけど、俺はジュンタたちが俺に隠し事をしているように思えてならなかった。
「お前ら、本当にあの倉庫で何も見なかったのか!?」
ジュンタの胸倉に掴みかかってやった。リクが慌てて俺の手を押さえにきた。リクはいつもいざこざが起こると和を保とうとする冷静で優しい奴だ。が、今日はそれを無視をして続ける。
「俺が戻ったとき、明らかに様子がおかしかったぜ!」
リクが俺をなだめているが聞こえない。ジュンタはとうとう観念したかのように口を開いて教えてくれた。
「実は…あのとき、倉庫の中はやけにひんやりしてて薄気味悪くて…中心に大きな紫の光がいたんだ。本当に気持ち悪かった。慌てて逃げたんだ。セイヤがどうなったかなんて、ちゃんと見ていなかった…。」
ジュンタは溜め息をつき、カイとリクも暗い表情のまま口を閉ざした。俺は返事をすることもできず、ただジュンタから手を放した。しばらく四人向かい合っているだけの時間が続き、重い空気が流れたが、ふとカイが
「仕方ない。調べよう、GATEについて。それしか出来ないだろ。」
と言った。俺たちは静かに頷き、放課後GATEについて調べることを約束した。
 
 放課後、俺は図書室に来た。ここだけの話、高校に入ってから初めての図書室だ。使い方なんてわかったもんじゃないから、カウンターにいた見たこともない先生に声をかけて、一緒に本を探してもらうことにした。七不思議やおまじないについて調べたいと言うと、先生は始めこそ不思議そうな顔で俺のことを見ていたが、すぐに数冊の本を持ってきてくれた。俺は空いている席に座り、図書室の椅子が予想以上にふかふかしていることに感動しつつ、それらの本を読み始めた。
 同じ頃、ジュンタはネットでGATEについて調べてくれていた。カイとリクは近所の公共図書館へ行ってくれているらしい。俺たちはラインで連絡を取り合いながら、GATEについて調べていた。
 俺は先生が持ってきてくれた本を全て読み終えた。ラインを開くと、ジュンタはネット上の情報を粗方読んでしまったようだし、カイとリクは俺と同様、使えそうな本は全て読み終えたらしい。
 結果は全員同じだった。GATEなんて七不思議はどこにも載っちゃいない。どうやって調べたって存在しない七不思議だったのだ。
 やっぱりセイヤの七不思議やおまじないはデタラメだ。ネットや本で見たなんてとんだ大嘘だったんだ。デタラメなのに今回だけたまたま成功して、こんな最悪な結果になってしまったんだ。と言うことは、帰り方を調べたっていうのもどうせ嘘だろう。その証拠に、セイヤは二日経っても帰ってこない。
 ラインの通知音が鳴った。リクが「お手上げだ」と送ってきた。全くその通りだ。俺たちにはセイヤを助ける方法はない。
 俺を含めた四人は半ば諦めた様子で、その日は各自家へと帰った。


十月十三日(月)
 木曜日からテスト一週間前期間だったこともあり、俺は誰とも連絡を取ることなく休日を過ごした。今日は早めに登校し、教室で勉強をしている。担任が来て朝礼が始まるまで、まだ二十分もある。
「ヨウスケ!」
誰かが大声で俺の名前を呼んだ。振り向くと、カイとリクが息を切らして教室へ駆け込んできた。
「どうしたんだよ。」
「今朝ジュンタに用があってさ、電話しようとしたんだよ。んじゃさ、見ろよこれ…」
リクが震える手で俺に携帯を向けた。画面を見た俺は、頭の奥がジーンとしびれるのを感じた。
 ラインのトーク画面だ。グループ名を見ると、俺たち五人のトーク画面であることが分かる。しかし、メンバーは、三人しかいなかった。
「嘘だろ…。」
俺はポケットから携帯を取り出した。休日の間はほとんど携帯を触らなかったため、中途半端に充電が減っている。急いで電話帳を開き、ジュンタの名前を捜す。しかしジュンタの名前が見つからない。見逃したのだろうかと、三周ほど電話帳を見返したが、やはりジュンタの名前は見つからなかった。
「多分あのGATEってやつ、まだ続いてるぜ…。」
カイはそう言った。少し汗をかいているようだった。チャイムが鳴り、双子はそれぞれ自分のクラスへと帰っていった。
 次の休み時間、俺はジュンタの担任やジュンタとの共通の友達に話を聞いてみた。しかしというか予想通りというか、彼らの反応はセイヤのときと同じで、ジュンタなんてやつは知らないといっていた。
 ジュンタまでもが、いなくなった。


十月十九日(日)
 今日はテスト中の貴重な休みだ。俺は朝から単語帳に目を通している。木曜と金曜もテストだったが、イマイチできた気がしなかった。今もそう、単語帳を読んではいるけど、あまり頭には入ってこない。
 きっと二週間前に公園でやったおかしな七不思議に友人を二人も奪われたことに意識を全て持っていかれているんだと思う。思い出すたびあれからもう二週間も経つのかと思ってしまう。セイヤがいなくなって二週間、ジュンタがいなくなって一週間…。
 考え事をし始めると本当に単語なんて何も頭に入ってこないから、俺は思い切って単語帳を閉じた。お菓子の袋を開け、部屋のテレビをつける。夕方の四時半なんてろくな番組が放送されていないんだが、俺はぼーっとテレビに見入っていた。
 不意に鳴り響いた着信音で、俺は我に返った。時計を見ると五時半だ。結構長い間テレビを見ていたらしい。鳴り続ける携帯を確認すると、カイからの電話だった。携帯を充電器につなぎ、電話に出た。
「もしもし?」
「ヨウスケか…?もう、何が何だか分からない…。」
カイの声は震えていた。泣いているようだった。嫌な予感がする。
「どうしたんだよ。」
「リクが…、リクが、いなくなった…。」
ズッ、と音を立ててカイが鼻水をすすった。
「本当に訳が分からない、リクはコンビニに行っただけなんだぜ?…なかなか帰ってこないからさ、母さんに言ったんだよ、『リクおせーな』ってさ…。じゃあさ、母さん何て言ったと思う?『リクって?誰のこと?』だぜ?…信じらんねぇ…。」
カイは咳き込んでいる。俺だって信じられない。それまで普通に接していた親が突然我が子のことをきれいさっぱり忘れてしまうなんて、いくらなんでも受け止めきれないだろう。しかもカイの話では、家にあったリクの持ち物もいつの間にか消えていたのだという。
「でさ、ヨウスケ。考えてみろよ。セイヤが消えたのは二週間前の日曜日、夕方の四時四十四分だろ?…リクがコンビニに行ったのは四時半くらいなんだよ。で、俺が母さんにリクの話をしたのはきっと五時ごろだったと思う…。ジュンタのことは詳しくはわからねぇけど、みんな日曜日の四時四十四分に消えてるって考えてもよさそうだよな…?」
「ああ、俺も、そうだと思う…。」
そう答えることしかできなかった。GATEは、俺たちがみんな消えるまで続くんだろう。
「じゃあ次は絶対俺だよな…!?なあ、ヨウスケ。どうしよう。もう俺どうしたらいいかわからない。」
カイは泣きじゃくっていた。俺は慰めることしかできなかった。その後もずっと、泣くカイを俺が慰めるということの繰り返しだったが、二十分ぐらいすると、カイは「ごめんな。」と言って電話を切った。
 俺はまた携帯を放置しようとしたが、その前にラインだけは目を通しておこうと思った。俺たち五人のグループラインだったものは、今やカイとの個人ラインになってしまっていた。


十月二十日(月)
 テストの時間は気付けば終わっていた。できた気はしないがもうそんなことは気にならなかった。
 俺の学校ではテスト期間になると、教室に遅くまで残って勉強をする生徒が増える。俺は勉強をするわけではなかったが、目を真っ赤に腫らしたカイが心配だったから、居残ってカイと一緒にいてやることにした。カイは、無駄だとわかっていながらも周りにいる先生や友達にリクを見ていないかと尋ねていた。結果はやはり「リクなんて知らない」という答えが返ってくるばかりだった。しかも、カイが「俺の双子の弟だ」という説明をすると、ほとんどみんながカイに双子がいることに驚き、写真を見せろと要求していた。
 そんなやりとりを通して一つ気付いたことがあった。
「ヨウスケ、これ見ろよ…。」
「うわ…。」
こればかりは本当に信じ難かったが、セイヤやジュンタやリクは、携帯に入っている写メや現像したプリクラからも姿を消していたのだ。普段全然写真を撮らないから気付くのが遅れてしまったが、本当に手が込んでいる。ここまで徹底的に存在を抹消されていては、さすがに俺でもあいつらが本当は始めからいなかったんじゃないかという錯覚を起こしてしまいそうだ。
「すげぇな…。」
思わずそう漏らしてしまった。カイは小さく頷いて、俺に
「なぁ、今度の日曜日さ、一緒にいようぜ。やっぱり怖いし…。」
と言った。俺は即頷いた。俺たちは日曜日に二人でカラオケに行く約束をしてその日は帰宅した。


十月二十六日(日)
 午後一時。俺はカイと二人でカラオケの一室にいた。カイは会ったときからガタガタ震えている。よくよく考えてみれば、今日襲われるのは俺かもしれないのに、何故だか俺には全く恐怖や危機感はなかった。
 俺たちは部屋に入ってすぐ、お互い一曲ずつ歌を歌ったが、それ以降はどちらもマイクに触れることなく座っていた。途中ジュースを入れにいったカイは、戻ってくると俺のすぐ隣に座った。直接見なくとも震えが伝わってくる。彼女なら抱きしめてやるところだが、ここは肩に手をまわしてやる程度にしておいた。
 午後四時。カイは初めに比べると逆に落ち着いたようだ。俺の方が緊張してきた。それと同時に、あと四十四分経てばどちらかが消えてしまうのだと考えるとすごくさみしくなって俺は何度も腕時計を見た。
 四時半。
 四時四十分。
 四時四十一分。
 四時四十二分。
 四時四十三分―――

 午後四時四十四分、いきなり部屋の明かりが消えた。テレビの画面はついていたから停電ではない。テレビの明かりだけに照らされた薄暗い部屋の中で、カイの声にならない悲鳴を聞いた。直後、
「うわあああぁぁぁぁっ!」
カイが叫んだ。何が起こっているんだ、俺には何もわからない。
「カイ!落ち着けって!!」
「む、むらさき…紫の光が!!」
カイは薄暗い部屋の中央を指さしてそう訴えた。だが、俺には何も見えない。紫の光なんてどこにもない。
「落ち着けよ!カイ!紫の光なんてないから!!」
「嘘だ!!あんなにはっきり…わあああああぁぁぁぁっ!」
カイはさらに叫んで手を振り回した。まるで体にまとわりついた蜘蛛の巣を払うかのような動きだ。
「このっ!離れろ!離れろ!」
カイはそう言いながら手を振り回している。俺には何も見えないが、紫の光にまとわりつかれているようだ。そしてなんと、カイは指先から少しずつ消え始めたのだ!
「カイ!」
もう何が起こっているのか分からなかった。ただ、カイは俺の目の前で、半狂乱になって叫びながら少しずつ消滅していた。
 そしてついに、カイは完全にどこかへ消えてしまった。同時に部屋の明かりが元に戻り、室内には呆然とする俺だけが残された。
 俺はもちろん、これ以上この気味の悪いカラオケボックスにいる気にはなれず、すぐに外へ出た。帰りに当然のように一人分の料金だけを求めてきた店員にも、申し訳ないが気味の悪さを感じた。
 家へ帰る道中で、俺は携帯を取り出しラインを確認した。俺たち五人のグループは、俺一人になってしまったからか、トークごと消えていた。
 俺は一人残された。


十月二十七日(月)
 もう驚きもしないが、学校からも四人の痕跡は影も形もなく抹消されていた。俺にはあの四人の他にも友達はいるから、特に一人ぼっちになるということはなかったが、誰に相談してもわかってもらえないという辛さと、俺自身がいつかあいつらのことを幻のやつらだったと思ってしまうのではないかという不安が、常に俺を苦しめた。紫の光や異世界に対しての恐怖はさほどなかったが、カイが俺の目の前で叫びながら消えたことを思い出すと、そのときだけ胃がキリキリとした。


十一月二日(日)
 日曜日だ。運命の日だ。今日俺は紫の光とやらの手でとうとう異世界に連れていかれる。そして、やっとGATEが終わる。
 この日になっても俺は恐怖心を抱かなかった。やっぱり、他の四人と違って紫の光を見ていないからだろう。恐怖心はなかったものの、この世界から抹消されるとなるとやっぱりちょっと変な気持ちになる。思い返してみれば、セイヤが消えてからもうすぐで一カ月になる。そこから順番にみんな消えていって、カイが消えたのがちょうど一週間前、誰も悪いことなんてしていないのに、つくづく運が悪い。
 考え事をしながら昼ご飯を食べ終えると、俺はトイレに立った。トイレに行くのは今日で何度目だろう。もしかしたら俺は、すごく緊張しているのかもしれない。そういえばさっき母さんにも今日は顔が固いねと言われた。
 それからしばらく色んなことをしていると、時計が午後四時半を指した。俺は自分の部屋へ行くと、扉を閉めた。部屋の中央にあぐらをかいて座る。どこからでもこい、という姿勢をアピールしているつもりだ。時計は四時三十五分を指している。やけに針の進むのが遅い。
 四時三十六分。
 四時四十分。
 四時四十一分。
 四時四十二分。
 俺は目を閉じた。覚悟を決めた。このまま何も見ずに、気が付いたときには異世界へ辿りついていたらいいのに。
 時間はひどくゆっくり流れているように感じた。全身がじんじんと熱くなり、肌寒い季節だというのに汗をかいているのを感じた。目を固く閉じすぎていたのか、まぶたがぴくぴくとする。
 ――どれくらい経ったのだろう、そろそろ異世界へ辿りついている頃だろうか。俺は待ちきれなくなって目を開いた。そこは、いつもと何も変わらない俺の部屋だった。時計はもうすぐ五時を指そうとしていた。
 リビングへ行き、母さんに話しかけた。いつもと何も変わらないやり取りで、ここが異世界なんかじゃないということがはっきりわかる。
「助かった…?」
自然とそんな言葉が出た。疑問形になったのは、この結果が本当に俺にとっていいものなのかがわからなかったからだ。母さんは、挙動のおかしい俺を見てくすくす笑っていた。
 俺は一人残された。




 それから一度目、そして二度目の日曜を迎えたが、俺はどこへも行かずこの世界にいる。GATEという七不思議はセイヤが勝手に考えたものだから正しいことはわからないが、きっと異世界へ行くという契約は、紫の光を見た時点で成立するんだと思う。俺は異世界への扉を開くことには協力したが、紫の光は見ていない。契約が中途半端なんだ。だから、異世界へ連れて行かれることはないが、連れて行かれた人のことを忘れることもない。
 これはきっとすごく喜ばしいことなんだと思う。得体の知れないところへ飛ばされることもなく、平和に暮らせているんだから。俺はあのときサッカーボールを飛ばした小学生に感謝しなくちゃならない立場だ。
 でも、正直すごくさみしい。ずっと仲が良かったみんなとこんな形で離れるなんて。離れるならいっそ、存在を全く忘れてしまったほうがよかった。覚えるだけ覚えていて、でも写真も連絡先も何もなくて、いつかは自分でも架空の友達だと思ってしまうのかもしれない。そう考えるとすごく切ない。
 考え事ばかりするようになったせいか、俺はいつしか学校でも一人で行動するようになっていた。先生や親には心配されたが、俺の悩みは全世界のどんな人の悩みよりも理解されないものだから、最初から誰にも言わなかった。
 そして、俺のもとに、三度目の日曜日が巡ってくる。
 
 
 
 
十一月二十三日(日)
 午後四時三十八分。俺は家を出た。行き先は、家の裏にある公園、もうだいぶ前に、GATEをした公園だ。俺はあのときのセイヤのように、迷うことなくまっすぐに、公園の隅にある小さな倉庫へ向かっていった。
 俺は倉庫の前で足を止めた。
「今からこの倉庫の中に異世界への扉を召喚する。」
セイヤの真似をして言ってみる。あのまじめくさった顔になっているだろうか。
 俺は一度倉庫の扉を開け、中の様子を見た。いつもと何も変わらない様子だ。埃っぽい空気が流れ出す。俺は倉庫の扉を閉めてGATEのやり方を頭の中でおさらいした。
「まず、この倉庫の周りを二重に囲む線を引く。」
独り言をつぶやき、木の棒を両手に一本ずつ持つと、倉庫の周りをぐるりと回り、線を引いた。
「次に、倉庫を囲むように立つ。」
もちろん俺一人だから囲むように立つのは無理だ。でも俺はただセイヤの真似をしたいだけだから問題はない。立つ位置はもちろん扉の正面だ。
「足元に自分のイニシャルを書く。名前のほう。」
俺は前にリクとカイがしていたように、木の棒でイニシャルを書いた。
「俺が呪文唱えるしかないんだよな。」
俺は自分の言葉に自分でうなずいた。時計が四時四十四分を指した。

「願わくば この倉庫の中に 異世界への扉を 開けたまえ。
  願わくば 異世界の主により 我を異世界へと 導きたまえ。」
息を肺いっぱいに吸った。
「GATE!」

 セイヤがしたように、俺は勢いよく倉庫の扉を開いた。今回は俺を邪魔するサッカーボールは転がってこない。そのまま倉庫の中へ駆け込んだ。

「これだったのか…。」
自然に言葉が口から漏れる。倉庫の中はジュンタの言った通り、やけにひんやりして薄気味悪かった。そして…、中心に大きな紫の光がいた。紫の光は妖しい輝きを放ちながら俺を照らしている。
「さあ、俺を異世界へ連れて行け。」
俺はそう言って全身の力を抜いた。紫の光は素早い動きで俺にまとわりついた。まとわりつかれている部分がピリピリとしたが、次第に指先から少しずつ感覚がなくなっていった。
 カイもこんな感じだったのかな。俺は薄れていく意識の中でそんなことを考えた。


]月]日(])
 どれくらい眠っていたのだろうか。俺は目を覚ました。空はやけに真っ白だった。
「ここは…?」
口に出してすぐ、自分が自ら望んで異世界へ飛ばされたことを思い出した。ここは?なんて聞いている場合じゃない、ここは異世界だ。
 どおりで空が真っ白なわけだ。それに、見渡してみれば空だけでなく、地面も花も目に見える全てのものがやけに白い。
「まぶしいとこだなぁ。」
つぶやいてポケットから携帯を取り出した。異世界だから当然なのかもしれないが、日付も時間もすべてエラー表示になっている。もちろん電波も届いていない。いざという時のためにポケットに忍ばせていたが、これじゃあまったくの役立たずだ。
「あ〜、この世界でも使える携帯とか、せめて地図とかないかなぁ。」
言い終わると同時に、バサッという小さな音が聞こえた。足元を見ると、地図と、俺が持ってきたものと同じ形の携帯が落ちている。
「あれ?今出てきたのかな。」
あまりにも都合よく出てきたから、一瞬使うのをためらったが、せっかくだから拾ってみた。地図は真っ白の紙に薄い緑で書かれており、少し見にくかったが、携帯は俺の持っているものと使い方まで全く一緒で使いやすかった。俺は携帯の地図アプリを使って、とりあえずどこか建物があるところまで行ってみることにした。
 地図を見ると、この世界は本当に何もないところで、建物らしきものも一件しか見つからなかった。そこへ向かって歩いたが、見渡せど見渡せど白い世界が広がっているばかりだった。だが根気よく歩くと、やがて目の前に二階建ての大きな家が現れた。あそこに行くと誰かいるかもしれない、そう思ってゆっくりとその家へ近づいた。
 ふと、誰かが家の中から出てきた。初めは俺に気付いていないようだったが、俺が更に近づくとその人もこっちを向いた。
 息が止まった。声を出そうとしても何を言えばいいのかわからない。相手も同じような顔をしてこちらを見ていた。そして同時に声を上げた。
「ヨウスケ!!」
「セイヤ!!」
間違いない、セイヤだ。セイヤもここへ飛ばされていたんだ。俺はもう会えないかもしれないと思っていた友人の姿を見られたことに想像以上に喜んで、セイヤの方へ駆け寄った。しかし、セイヤは駆け足で家の中へ入ると、バタンと音を立ててドアを閉めてしまった。
 呆然として家の扉を見ていると、しばらくの後、扉が開き、セイヤだけでなくジュンタ、リク、カイが現れた。
「みんな…、みんなここにいたのか。」
「ヨウスケおせーぞ!」
「もう来ないかと思ったぜ。」
「やっと揃ったな。」
久々に再会を果たした俺らは口々にそう言って、揃って家の中へ入った。家の中は決して豪華ではなかったが、必要なものはすべて揃っており、大型のテレビにはゲーム機がつながれていた。
「ここはどういうところなんだ?」
試しに聞いてみると、四人は口を揃えて「楽園」と言った。
「楽園?」
「うん、楽園だって説明されたよ。」
「説明?誰に?」
「その内来ると思うぜ。」
なんでも、こちらの世界には長のような人が一人いるらしく、誰かが新しく来るたびにこの世界についての説明をしに来るのだという。四人いわく、この世界がどういうところかという疑問については、その人に聞くのが一番わかりやすいとのことだ。
 その他にもう一つ、この世界には独特の制度があるらしい。この世界はさっき地図でも見たとおり本当に何もない世界であり、新しくここへ来ても、与えられるのは何も置いていない空っぽの家一軒だけらしいが、その代わりなんと、一日につき一人十個ずつ、自分の望むものを創りだせるのだという。その説明を聞いたとき、俺はさっき突然現れた携帯と地図の正体がわかった。あれは、俺の望みによって創りだされたものだったんだ。
「セイヤは馬鹿でよ、」
カイが笑いながら話し始めた。
「いちいち椅子とか机とかを一つずつ創りだしたもんだから、初めの数日は苦しい暮らしをしていたらしいぜ。でも一週間後にこっちへ来たジュンタはずる賢いからさ、『毎日三食おいしいものを出してくれるキッチン』とか『シャンプーや石鹸やタオルが完備された大きなお風呂』ってな感じで大きなものをどんどん創りだしたんだ。だから、俺が来るころにはもうきちんと生活できる空間が完成されていたんだよ。」
カイの話を聞いてジュンタは得意げな顔をしていた。一方セイヤは唇をとがらせている。それにしても、『シャンプーや石鹸やタオルが完備された大きなお風呂』が一つとしてカウントされるなんて、この世界はだいぶいい加減らしい。
 わいわいと雑談をしていると、夕食時になった。お腹がすいたな、なんて考えていると、なにやらいいにおいがキッチンの方から漂ってきた。
「よっしゃ!今日は牛丼だぜ!」
リクとジュンタがキッチンからどんぶりを運んできた。今まで誰もキッチンに足を運ばなかったところを見ると、『毎日三食おいしいものを出してくれるキッチン』がしっかり稼働しているようだ。
「あれ、四つしかねーや。おーい、住人が一人増えたから今回から五人分用意してくれー。」
ジュンタが誰もいないキッチンにそう呼びかけると、たちまちもう一人分の牛丼が用意された。本当に不思議だ。
 俺たちはテーブルに着き、食事を始めた。こんなふうに五人でがやがやと夕食を食べるのはいつぶりだろう。思い返してみれば、GATEをした日も、みんなでがやがやと夕食を食べるはずだったんだよな。何故だか涙が出そうになるのをこらえながら牛丼をかきこんでいると、何者かが家のドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞー。」
リクが扉を開けにいった。セイヤは俺の顔を見て
「来たぜ。」
と言った。しばらくの後、俺たちの前に初老の男が現れた。髪はきちんとセットしてあり、上等なスーツをピシッと着こなしている。彼は俺の顔をまっすぐと見て、丁寧にお辞儀をした。
「お捜しいたしました。」
「あなたは?」
「おっと、失礼いたしました。私は『救いの楽園プロジェクト』の代表を務めております。まぁ、そんなことは難しいので覚えていただかなくても結構です。私のことは、この世界の長とでも思っていただければ良いでしょう。」
落ち着いた声で挨拶をされる。口調や振る舞いで、かなりしっかりとした頭のいい人だということが伝わってくる。俺はおずおずとうなずいた。
「あなたは先にいた四名の方とお知り合いでしたか?よければあなた用に空き家を用意いたしますが…」
俺は首を横に振った。ここにはせっかく生活用品が揃っているし、なによりまだよく知らない世界で一人暮らしは避けたい。
「そうですか。なら、五人暮らしということですね。またそれぞれ家が欲しくなればいつでもお申し付けください。一人一件までならご用意できますので。」
男は俺たち五人の顔をそれぞれ見て微笑んだ。そしてもう一度俺の方に向き直り
「まだ来たばかりで慣れないでしょうが…何か質問はございますか?」
と聞いた。俺はまずここの世界がどういうところなのかを聞いた。
「こちらの世界は…そうですねぇ。私たちはこちらを『救いの楽園』として開発しております。」
男は一息置くと続けた。
「あなた方が元々いた世界のことを思い出してください。近頃、日本をはじめ、自殺者が年々増えているのをご存知ですか?」
ニュースで聞いたことがあるような気がしたから俺はうなずいた。男は俺に微笑みかける。
「自ら命を絶つほどですから…きっと相当辛い生活を送っているのでしょう。しかし、死んでしまってはどうしようもない、私たちはそう考えたのですよ。だって、死んでしまってはもうおいしいものも食べられないし楽しいこともできない。その上、残された遺族の方や友人たちは本当に悲しむでしょう。そう思いませんか?」
男はずっと俺の方を見て話すから、俺ばかりがうなずいている。まぁ、他の四人はこの話を聞くのが初めてではないから仕方がない。
「そこで思いついたのがこの『救いの楽園プロジェクト』なのです。ここは自殺志願者――現世があまりに辛くて解放されたい方――のための楽園なのです。ここへ来れば何もその人を縛り付けるものはありません。欲しいものは手に入りますし、毎日気楽に生きることができます。また、元いた世界からはその人に関わる痕跡を一切抹消しますので、残された人が悲しむということもありません。」
俺は感心した。この男が話し上手だということもあるが、なんだかすごく素敵な企画に思えたからだ。確かに、これがあれば苦しむ人は少なくなりそうだ。けど、ちょっと待てよ。俺たちは自殺志願者じゃない。GATEというデタラメ七不思議をしてこんなところへやってきただけだ。
「あの、元の世界への帰り方を教えてもらえますか?」
質問をすると、男は眉を下げ、少し困ったような表情になった。
「それが…先の四人も皆同じ質問をされたのですが…」
俺は四人の顔を見た。それぞれ小さくうなずいてみせた。
「お話ししたとおり、ここは現世から逃げ出したくなった方を救うための世界なのですよ。だから、元いた世界へ帰るシステムを実装する予定は全くなかったわけです。第一、このプロジェクト自体まだまだ開発の段階で…、実は私たちもあなた方が急にお越しになったことに心底驚いているわけです…。全く予想外で…。」
俺が何も言えずに黙っていると、男は真剣な顔になって
「しかし、あなた方はどう見ても間違ってここへ来てしまったようにしか見えません。実際、帰り方を聞くほどですし、この世界にいてはいけない方でしょう。我々の力がどこまで及ぶかわかりませんが、なんとしてもあなた方を元の世界に返せるよう尽力いたしましょう!」
と宣言した。
 俺たち五人はお互いに顔を見合わせた。しばらく沈黙が続いたが、五人は決心したようにうなずいた。
「仕方ねぇよ。元はと言えば、俺たちが妙なことをしたのが原因だしな。」
「おじさんが頑張ってくれるなら、俺たちもそれを信じなきゃな。」
「まぁ、ここもそんなに居心地悪くないし。」
「気楽だし少々長くいても大丈夫だわー。」
「幸い、あっちの世界じゃ俺らはいなかったことになってるから、誰にも心配かけないしな。」
口々にそう言うと、立ち上がり肩を組んだ。男は微笑みながらその光景を見ている。
 俺たちはしばらくの間、この世界に住むことに決めた。







To be continued…  

「ある人の一日」

122125

 今から書く物語は、あくまで僕の個人的な予想・推測に基づいた物語です。実際総理大臣がどんな生活をしているかも知らなければ、調べたわけでもありません。ただただ主観に任せて書いたものです。

 私の名前は、安田直一郎(やすだなおいちろう)。大阪府出身大阪府育ち。年齢は五九歳。高校生まで大阪で過ごし、一浪して東京大学法学部に進学後、弁護士となり、四〇歳の頃、郵政民営化のブームにのっかって、初当選を果たした。家族は妻と息子が二人いる。長男はI大学商学部に進学後、現在は公認会計士として独立している。一方次男は、私への反抗心からか、ろくに学校も行かず、高校卒業後はアルバイトで稼いだお金をギャンブルなどにつぎ込んでは、妻に金をせびるような息子である。妻とは二九年前に結婚し、弁護士のときも、その後の政治家である私を支え続けてくれている。私が政治家になったのはちょうど一九年前。いまは自由国民党の総裁を任されるようになった。自由国民党の総裁ということは、私は第七五代内閣総理大臣である。まあ私の自己紹介はこれくらいとしておこう。

 年の瀬も迫り、肌寒く感じられる季節になってきた一二月のある日の朝六時。
「総理、六時になりました。起床の時間です。」
総理官邸に仕えるベテラン給仕が私を起こしにきた。私を起こしに来る人は全部で三人いる。朝の目覚めの快感度からすると一位は美人な給仕の若い子、二位は妻、三位はこのベテランといったところであろうか。だから今日は最悪な目覚めである。
「ふぅー。肩がこるなあ。」
五九歳にもなると朝起きたときの倦怠感がとてつもない。しかも昨日は、色々と込み合っていて、帰ってくるのが遅かったため、結局寝たのが深夜の一時過ぎだったから半端なく眠い。
「朝ごはんの用意ができております。食堂へどうぞ。」
ベテランがしわがれた声で教えてくれた。私が毎朝食べている朝食はものすごく豪華である。今日は私の大好物である魚をふんだんに使った海鮮丼である。今日もおそらく忙しい一日になると思うので、残さずきちんと食べた。けれども正直言うと、贅沢すぎると思っている。実はこの朝食には税金が使われている。正直に言うと税金の無駄遣いであることは間違いない。しかし美味しい。朝食が終わると私は毎朝シャワーを浴びるのが日課である。大きな大浴場には毎朝お風呂が沸いている。総理大臣たるもの毎日ワイドショーを賑わす存在であることは自覚している。私がテレビに出ない日など総理大臣になって約二年ものあいだ、一日たりともなかった。だからルックスは常に意識して生活している。シャワーからあがると七時すぎには近所の床屋が毎日やってきて、髪の毛のセットと髭をそってくれる。実はこのお金も税金から支払われている。正直に言うと税金の無駄遣いである。
これが終わると七時半すぎ。秘書がやってきた。
「今日のご予定は午前九時から国立博物館の記念式典に参加していただきます。午前一一時からC経済産業大臣との消費税増税についての会合があります。これは昼食を交えてということになっております。そして午後一五時からは後援会のみなさんとの交流会。午後一八時からB幹事長との会談を行い、午後二一時五四分から消費税増税についてワイドステーションに出演していただくことになっております。」
やはり今日もくそ忙しいな。朝から晩まで働きづめである。
「では、迎えの車が来ておりますので、一階までお降りくださいませ。」
よしいくか。まずは国立博物館か。興味はないけど呼ばれたらいかなければならない。断ればマスコミから変な勘繰りをされるかもしれないし、もしサボったのがばれた時には国民の皆さんからの批判もやばいだろうし。だから興味がなくても仕方なくいかなければならない。それも総理大臣の大事な仕事。ちなみにこのリムジンは、総理大臣がかわる度に買い換えられるらしい。1台およそ四〇〇〇万円。ハイオクでしか走らないし、燃費も悪いらしく維持費・ガソリン代で年間約三〇〇万円。これも税金から賄われている。正直に言うと間違いなく税金の無駄遣いである。移動するぐらいなら別に軽自動車でもできるからである。リムジンの中では朝のニュースが流れていた。
「安田総理の支持率は現在四三パーセント。就任当時の七〇パーセントから比べると約二七%減少していますね。この事態をどう思われますか、○○さん……」
この支持率下がってますよアピールが私にとっては最大の敵である。私だって一生懸命やってるのに。毎日のように増税政策に批判的な姿勢をとる評論家や、街の声がニュースで流れている。増税しなきゃお金ないんだよ。本当にとんでもなくお金ないんだから。まあ税金を無駄遣いしている私が言うのもなんだけど。今年に入ってから消費税は五パーセントから八パーセントに引きあげた。本年度中には一〇パーセントに引き上げると決めている。国民の皆さんに向かっては慎重に検討していくとか言ってるけど、もう引きあげるときめている。ほんとにお金ないから。
「衆議院の解散も近いかもしれませんね。」
ゲスト出演している芸能人がまた適当なことを言っている。大体半年後に衆議院総選挙が控えているのに、このタイミングで衆議院を解散させることなどありえない。政治評論家はまだしも、素人の意見というのは本当にあてにならない。こんなことを適当に言うやつがいるから素人の国民がまんまと騙されてまた支持率が下がる。こういったことが原因で支持率が下がっていく負のスパイラルである。そんなことを考えていると、寝不足のせいで眠くなってきた。
「総理、着きました。」
秘書の声が聞こえた。眠たい目をこすり車から降りた。今日のSPはなかなか好きなやつらばかりだ。中には大嫌いなSPもいる。目に見えて守る気がない奴もいる。しかし今日のメンバーはまあ悪くはない。まあこんな安全な国でテロなど起きないのだろうけれど。
「それでは国立博物館記念式典を始めさせていただきます。それではまずご来賓の方を代表いたしまして安田内閣総理大臣からご挨拶いただきたいと思います。安田総理よろしくお願いいたします。」
これも総理の大事な仕事。昨日秘書に作らせておいたカンペをもってひたすら読む。みょうにうなづく聴衆。報道陣からの無数のシャッター音。今ものすごく注目を浴びてる。もともと目立ちたがり屋な性格なので気分は悪くない。
「危ない!!!」
どこかでSPの声が大きく響いた。その瞬間、
「バーーーーーン」
発砲音が国立博物館内に大きく鳴り響いた。SPの声に反応して身を伏せていた私は間一髪のところで助かった。館内は騒然となった。慌てふためくもの、逃げ惑うもの。犯人はすでにSPの手によって取り押さえられていた。日本って安全じゃなかったっけ?私は命からがらリムジンまで戻った。実はこのリムジン、防弾対策がしてあるので、実はものすごい高性能である。
「ふうー。」
総理大臣になってはじめてなかなかのスリルを味わった。

「続きまして、銀座の料亭でC経済産業大臣との会談がございます。」
Cとの会談か。こいつは自由国民党で最大派閥握っている。入閣させなければ党内からの反発の声も多く出る。だから入閣させてやったけど、正直あんまり好きじゃない。銀座の料亭に向かっているときに私のプライベート用の携帯に着信が入った。
ピロリロリン……ピロリロリン……
妻からの電話だ。妻が仕事中にプライベート用の電話をかけてくるときには、大抵次男のことである。
「栄作がまた悪さをしたそうで、週刊誌から連絡が入りました。どうしましょう。」
「どこだ?」
「週刊真潮社です。」
「うむ、わかった。何とかもみ消しておこう。」
「お願いします。」
また面倒なことが起きた。家族のスキャンダルというのは週刊誌のかっこうのネタである。もしそんな記事が掲載されたりしたら、支持率は下がるどころか、引責辞任という事態にもなりかねない。だからこうしてもみ消すのである。てか、撃たれたのにそれどころじゃないといいたいところでもある。
プルル……プルル……
「はい、真潮社です。」
「内閣総理大臣の安田です。社長をおねがいします。」
「かしこまりました。少々お待ちください。」
……………………………………
「はい、お電話変わりました。」
「息子のことでご相談が。」
「お宅の息子さんも大変ですね。」
「いくらつめばいい。いくらでも用意しよう。」
「三〇〇万円ってとこですかね。」
「分かった。すぐに用意しよう。だからくれぐれも内密な。」
「わかりましたよ。」

息子の悪行をもみ消すためにこれまた税金を使っている。これこそ本当の無駄遣いである。けれども可愛い息子であることには違いない。これを親ばかというのだろう。
「総理、着きました。」
秘書が言った。なんだかSPが増えた気がする。この撃たれたというのは模倣犯の増加を防ぐために、報道規制をかけているので私と秘書、そして警察内部の人間しかまだ知らないことである。女将から案内された一室に足を踏み入れると、もうC経済産業大臣がまっていた。
「お待ちしておりました。」
実はC経済産業大臣は次期総裁候補と言われている。歳は私よりも二つ下だが、政治力・経済力・国民からの人気、すべてが私を上回っている。正直私からすると敵以外の何ものでもない。今日は増税がらみの会談と銘打っているが、私の腹心を探ろうとしているに違いないだろう。
ところでこの料亭、かなり美味いところである。総理大臣になって気付いたことであるが、総理大臣は税金で会談のときのご飯が食える。私もかつては幹事長を務めていたが、幹事長時代には税金でご飯を食うことはできなかった。でも今は違う。税金で朝昼夜すべて賄うことができる。これも無駄遣いである。
 だから今日の会合も一応私の奢り、ということになっているけれども、実際のところは税金で支払っているだけである。しかしさっきから飯がうますぎて、C経済産業大臣の話など全く耳に入ってこない。
「増税するということは……………………。」
「次の総選挙に向けて……………………。」
黙って飯を食えばいいのに。ほらこの魚めっちゃ美味しいぞ。
「そういえば、総理は次期総裁選挙に立候補されるのですか?」
ついにきた。私が話を聞いていないことを察し、今日の本題をふっかけてけてきたようだ。
「う、うん。正直迷っているけどね…………。」
と適当な返事をしておく。本当のところは出るに決まっいる。一度総理大臣の生活を経験してしまうと、普通の生活には戻れない気がするからだ。ただ、こいつが最大のライバルであることは間違いない。裏金情報とか掴めたら完璧なのになあ。いやしかし、私がこんなにも税金の無駄遣いをしていることがばれてしまったら終わりである。そんなことばかり考えていたらだんだん飯がまずくなってきた。
「私も正直迷っています。総理を差し置いて私が総裁になるなど………………。」
嘘つけ。お前絶対出るやろ。こいつ嘘ばっかり言い寄るなあ。
「ところで、うわさを聞いたのですが、総理今日発砲されたというのは本当ですか?」
なんでこいつ知っているんだ……。
「何の話かね?」
「いや、ちょっとした噂だったので心配しておりました……。」
そうこうしているうちに飯の時間も終わりを迎えた。最後の方にはきちんと税金の話をした。年内には一〇パーセントに引き上げる方向で話は進んだ。今日の仕事二つめ終了。

正直次の任務が今日一番嫌なことである。確かに後援会からいただくお金はありがたい多くの支援をしていただいている。けれども耳の遠い、考えの凝り固まった老人のお相手をするのは本当に骨が折れる。今日は後援会の皆さんが東京に出てくるそうだ。めんどくさいけれども、せっかくきてくれるのだから相手をしないといけない。
「安田はん、しっかりせな!」
「税金あげたらあかんで!」
「集団的自衛権とかわしらにはむずかしいてなんもわからんわい!」
くるなりそうそう悪口のオンパレードだ。何も知らないくせに、と言い返したいところだが、ぐっとこらえて聞くことに専念した。それにしてもひさしぶりにこてこての関西弁を聞くととても疲れる。東京に出てきておよそ四〇年。ために関西弁が出てしまうことがあっても、完全に標準語に染まってしまった。だからこてこての関西弁を聞いていると懐かしさを覚えるというよりもしんどさが上回ってしまう。しかしこうは言っても、後援会というものはありがたいものである。皆さん文句ばっかり言うけれども、基本的には味方なので、居心地はいい。ただ大きい声で話しすぎて喉がかれそうである。今日の晩はワイドステーションの出演が控えているので、あまり声をからすことはできない。
「安田の声がすがすやん。」
「こいつの声気持ちわるw」
とかツィッターに書かれるのがオチである。だから何としても声は枯らさないでおきたい。ああもう一七時だ。そろそろ後援会の皆さんがお帰りになられる時間だ。後援会の皆さんにはお土産に東京ばななを渡してあげた。大阪の人には珍しいもんだろう。みんな笑顔で帰って行った。さよなら。今日の仕事三つ目完了。

 それにしても朝の事件はなかったかのように平和な数時間である。嫌でもどこかがおかしい。すごく嫌な予感がする。

 次はB幹事長との会談か。B幹事長は同い年であり、同じときに政治家となり昔からよく行動を共にしてきた唯一無二の親友である。政治家の中で私が心を許せるのは彼だけと言っても過言ではないだろう。会談と銘打って税金を使っているが、実際には友人との食事会である。
「政治家になったばかりのころは色々あったな。」
「今の日本もなかなか大変だな。」
午前中に行ったC経済産業大臣とのとは打って変わって、何の気遣いもせず、和やかな雰囲気で、昔話や今の日本についてなど様々なことを語り合った。政治家というのは心をゆるせる人がとても少ない。昨日まで仲間だと思っていた人物が、今日になったら敵になっていることなど山ほど見てきたし、私も体験してきた。だからこうした心を許せる人というのは、本当に大事にしたいものである。
「総理そろそろお時間です。」
秘書が言った。楽しい時間はあっという間に過ぎるものである。本当ならば酒を酌み交わしながら、もっと色々話していたいものだが、このあとには大事な予定が控えているので、今日のところはお開きということになった。

本日最後の仕事である。半年後に控えた衆議院議員総選挙に向けて、勝負のテレビ出演である。二一時にテレビ夕日に入りDキャスターとのリハーサルを終えた。そして本番。自分の思いの丈を存分に語った。選挙のこと、税金のこと、集団的自衛権のこと、内閣改造のこと、国民の皆さんに訴えた。正直に言うと、自分の意図したことや事実が歪曲されて報道されることが多々ある。こうして自分の生の声を世の中に訴えることができるのは、非常に大切にしなければならない。三〇分ほどのテレビ出演だったが、なかなかの手ごたえをつかむことができた。よし最後の仕事完了。

帰りのリムジンで深夜のニュースを見ていると、「C経済産業大臣逮捕」というテロップが流れた。これはまずい・・なにをやらかしたんだ。私の任命責任が問われるではないか……。
そこで秘書に電話が入った。
「今朝の発砲事件、指示したのはC経済産業大臣だったそうです。」
……。がち?
ここでようやく合点がついた。報道規制をかけていたのも関わらず、私が撃たれたことを知っていたわけを。どうやら秘書によると、次期総裁になりたいがために指示して撃たせたのだとか。これは間違いなく明日のトップニュースだな……。また忙しくなるぜ。
この期に及んでは撃たれたショックよりも、忙しくなることのほうがショックは大きいのである。

「ふう〜。」
家に着いたのは深夜一時前だった。
家に帰ると妻はまだ起きていた。
「おかえりなさい。お茶漬けでも食べますか。」
「うむ。小腹がすいているからな。」
もともとは大阪の庶民だった私には少々今の生活は華やかすぎるようだ。豪華な朝ごはんよりも、美味すぎる昼ごはんよりも、料亭で食べた晩御飯よりも、家に帰ってから食べたお茶漬けが何よりも美味しかった。妻は何も言わずただただ寄り添ってくれた。非常にいい妻をもったとまたあらためて実感することができた。今日も長い長い一日が終わった。政治の世界というのは弱肉強食の世界である。権力を持った者がどんどん成り上がっていく。日本という世界的に見ても先進国の、この国の長である私は常に死と隣り合わせる状況にある。今日たまたま撃たれた。私に対して恨みを持つもの、批判を持つ国民、数えだしたらきりがないだろう。しかしこの日本をよくしたい、その気持ちに嘘偽りはないのである。また命を狙われることは何度もあるだろう。そのくらいのことができていなければ総理大臣など勤まるわけがない。そんなことを考えているとだんだん眠たくなってきた。また明日の朝も早い。朝起きたら報道陣が総理官邸に詰めかけているだろう。また明日から頑張るか。

「きっとおよげる」

122202

ある日うさぎさんは1匹のかえるに出会いました。
うさぎさんは彼のことをかえるくんと呼び、かえるくんはうさぎさんと呼びました。
かえるくんは 最近おたまじゃくしからかえるになったばかりの新米がえるです。
だから、まだまだ泳ぎもへたくそで、仲間からいつもバカにされていました。

であって1週間後、2匹は川にでかけました。
?きれいで、流れのゆるやかなひろい川へいきました。
「かえるくんはきっと上手に泳げるようになるよ。」 と、うさぎさんいいました。
「今はまだコツがつかめていないだけなんだ。きっと誰よりも上手に泳げるようになる、わたしも精一杯応援するわ。」 と、うさぎさんは いいました。

「わたし、浮き輪をもっているの。まずはこの浮き輪を使って練習しましょう。」 ?うさぎさんは一つの大きな浮き輪を出しました。
かえるくんはそれをうけとると、すぐに身に着けて、できるだけ大きく足をうごかしました。スー、スー。からだは前に進みました。しかし、ぜんぜんうまくは泳げません。
かえるくんは、川の端から端の、4分の1も泳げませんでした。
わらいごえがしました。 しげみに3羽のにわとりがいました。
「あいつ、かえるのくせに浮き輪なんてつけてるぜ。」 と、にわとりたちは いいました。
「きみ、やめたほうがいいとおもうよ。」

かえるくんは、泣きながらうさぎさんのところへはしってかえりました。
「うさぎさん。」 と、かえるくんは いいました。
「浮き輪をつかっても泳げなかった。 ぼくもう練習やめるよ。」
「もう一度やるんだよ。」 と、うさぎさんはいいました。
「浮き輪は体の上半分が浮いたままになってしまうからね。きっとそれが原因なのさ。きみのせいじゃない。」 うさぎさんが励ましました。

「わたし、ビート板をもっているの。つぎはこのビート板を使って練習しましょう。」 ?うさぎさんは一枚のビート板を出しました。 「これなら体のほとんどが水に浸かるわ。」
かえるくんはそれをうけとると、すぐに手に持って、できるだけ大きく足をうごかし、水の中に体をつけました。ススー、ススー。からだは前に進みました。しかし、まだまだうまくは泳げません。
かえるくんは途中で疲れて、川の端から端の、半分も泳げませんでした。
わらいごえがしました。 木の上に二匹のサルがいました。
「あいつ、かえるのくせにビート板なんて持ってるぜ。」 と、サルたちは いいました。
「きみ、やめたほうがいいとおもうよ。」
かえるくんは、また泣きながらうさぎさんのところへはしってかえりました。
「うさぎさん。」 と、かえるくんは いいました。
「ビート板つかっても泳げなかった。 ぼくもう練習やめるよ。」
「もう一度やるんだよ。」 と、うさぎさんはいいました。
「ビート板は手がふさがって足しか使えなくなるからね。きっとそれが原因なのさ。きみのせいじゃない。」 うさぎさんが励ましました。

「わたし、シュノーケルをもっているの。つぎはこのシュノーケルを使って練習しましょう。」 ?うさぎさんは一本のシュノーケルを出しました。 「これなら全身を使って、いきつぎを気にする必要もないわ。」
かえるくんはそれをうけとると、口にくわえて、できるだけ大きく足をうごかし、水の中に体をつけ、手も目いっぱいうごかしました。スススー、スススー。からだはぐんと前に進みました。しかし、まだまだうまくは泳げません。
かえるくんは途中で疲れて、川の端から端まであと少しというところで止まってしまいました。
わらいごえがしました。 川の向こうに一匹の犬がいました。
「お前、かえるのくせにシュノーケルなんて使ってるのか。」 と、犬は いいました。
「きみ、やめたほうがいいとおもうよ。」

かえるくんは、むなしくなってうさぎさんのところへはしってかえりました。
「うさぎさん。」 と、かえるくんは いいました。
「シュノーケルつかっても泳げなかった。 ぼくもう泳ぐのやめるよ。」
「あきらめちゃダメよ。」 と、うさぎさんはいいました。
「シュノーケルをつけるといきつぎの練習ができないからね。きっとそれが原因なのさ。きみのせいじゃない。」 うさぎさんが励ましました。
「ほら、だってもうあなた、川の端まで泳げそうじゃない。泳ぎ方はかんぺきよ!」

かえるくんは何も持たずに川へ走っていきました。
何もつけずに、できるだけ大きく足をうごかし、水の中に体をつけ、手も目いっぱいうごかしました。ススススー、ススススー。からだはぐんと前に進みました。もういきつぎだってかんぺきです。
かえるくんはやっと川の端から端まで泳ぎ切ることができました。

川の反対側で た「やったぜ!」 と、かえるくんがさけびました。 「そうだとも。」 と、うさぎさんがいいました。 「浮き輪でもだめで、 ビート板でもだめで、 シュノーケルでだめでも、 それでもね、まずは足のうごかし方、次に下半身の使い方、そして腕をつけて、最後にいきつぎの練習をすれば、きっときみはうまく泳げるようになれる。わたしはわかっていたの。」
3羽のにわとりも、2匹のサルも、川の向こうの犬もみんなでかえるくんをお祝いしました。

「ちらし寿司」

113911

「あめあめ ふれふれかあさんが じゃのめで おむかえ うれしいな
ピッチピッチ チャッピチャップ ランランラン♪」
雨の日は大っ嫌い。でも、大好きなこの歌を聴けるから、雨の日もちょっぴり好き。
雨の日におばあちゃんとこの歌を歌うことが大好きだ。
「りっちゃんは、お歌が上手だね。すごいな。」おばあちゃんはいつも私の歌を褒めてくれる。

私とおばあちゃんは隣に住んでいる。両親が共働きだったことで、両親がいない間はおばあちゃんが私の面倒を見てくれていた。もしかすると、幼い頃は両親よりおばあちゃんと過ごす時間の方がずっとずっと長かったのかもしれない。
幼い頃の私の記憶はおばあちゃんでいっぱいだ。
両親がけんかしている時には、よくおばあちゃんの家に逃げ込んだりもした。
「おや、りっちゃん。こんな時間にどうしたんだい?」
「お父さんとお母さんが喧嘩してるの。だから、逃げてきたの。」
するとおばあちゃんは、いつも優しい口調で、
「そうかい、そうかい。それは困ったね。ゆっくりしておいで。」
おばあちゃんは本当に優しい。
どんなに眠くたって、しんどくたって私の相手をしてくれたのだから。
土曜日の朝、私は決まって早起きだった。
それはおばあちゃんとホットケーキを作るからである。
土曜日は『ホットケーキの日』なのだ。
昔は今と違って治安が良かったから、おばあちゃんの家の勝手口はいつも開いていた。
そこから家に入る。家の中はしーんと静まり返っていた。それもそのはず。まだ朝の6時なのだから。
「おばあちゃん!早く起きてよー」
私は遠くから叫ぶ。返事は返ってこない。
私は早くホットケーキが作りたくて作りたくてたまらなかった。
おばあちゃんの寝室は一階の一番奥の和室だ。
ー よし、直接起こしに行こう。
「おばあちゃん!ホットケーキ!作ろうよ!」
大きな声で叫ぶ。
すると、おばあちゃんがゆっくり目を覚ます。
「おや、りっちゃん。おはよう。今日は早いんだね。りっちゃんが早起きということは今日は土曜日だね。」
「そう!ホットケーキの日!」
おばあちゃんの身支度が済んだら、ようやく待ちに待ったホートケーキ作りだ。
しっかり温まったフライパンの上にホットケーキの液をお玉一杯分流し込む。
少したつと表面にぷくぷくとした泡が現れる。これを見ているのが大好きだった。
「ねぇ、もうひっくり返しても良い?」
焦る私に、おばあちゃんはゆっくりと口を開く。
「まだよ、まだ。もっとぷくぷくさせなくちゃ。美味しいホットケーキはできないよ。」
ぷくぷくが表面全体に現れると私がフライ返しでひっくり返す。
これが難しい。でも私は得意だった。おばあちゃんにコツを教わっていたのだ。
「いくよ!せーの!」
「りっちゃん、すごい!上手にひっくり返せたね。」
こんがりきつね色に焼き上がったホットケーキはお店に出せるんじゃないかと思うくらい美味しそうだ。
それをお皿に盛る。お皿は洋風のいかにもホットケーキが似合うシャレたものではない。おばあちゃんの家には和風の食器しかないのだ。でもどんなお皿に盛っても、甘い香り漂うホットケーキにバターを乗せれば、私にとってそれは豪華な朝食だった。

両親がいない時にはお昼ご飯を一緒に食べることもあった。
「りっちゃん、今日は何食べたい?」おばあちゃんが聞く。
そんな時、私は決まって
「ちらし寿司!」と答える。
「はいはい、りっちゃんの大好物のあれね。」
おばあちゃんも待ってましたとばかりの返事をする。
おばあちゃんのちらし寿司は世界一、いや宇宙一美味しい。まだ幼かった私の目に、そのちらし寿司は宝石のように映った。細かい作り方なんて全然分からなかったけれど、作っているおばあちゃんの姿はまるで魔法使いみたいで、どんな美味しいおまじないをしているのだろうといつも不思議に思って見ていた。
「わぁ、本当にいい香り。」
具材を煮詰める醤油と出汁の甘い香りが家中に広がる。
その香りにゆずの酸っぱい香りが加われば、もう完成の合図だ。
「りっちゃん、できたわよ。早く降りてらっしゃい。」
二階でお絵描きをしている私におばあちゃんが声を掛ける。
「はーい。」
私はものすごい勢いで階段を駆け下りていく。
「そんなに急いだら、危ないでしょ。りっちゃんのぶんはたくさんあるんだから。
 好きなだけ食べなさいね。」
おばあちゃんはいつも私のことを心配してくれる。
「だって、早く食べたかったんだもの。待ちきれなくって…。もう食べて良い?」
「いいわよ。今お皿に盛ってあげるからね。」
「わーい!りっちゃんね、おばあちゃんのお寿司ならいくらでも食べられちゃうんだよ。
 すごいでしょ?」
「あら、嬉しい。でもあんまり食べ過ぎるとおなか壊しちゃうよ。しっかり噛んで食べる
 んだよ。」
大皿に盛られたお寿司の上にはふっわふわの錦糸卵といりごま。そして、ネギと豆腐が入った白みそ仕立てのちょっぴり甘いお味噌汁。これがいつもセットだ。おばあちゃんのちらし寿司は、このみそ汁がないと成立しない。
「いただきまーす。」
「はい、どうぞ、召し上がれ。」
一口食べた瞬間に、顔中の力が一気に抜ける。あまりにも美味しくて。
「おばあちゃん、今日のお寿司もすっごく美味しいよ。」
「本当に?今日のは少し酢がきつくなってしまったように思うけど。」
おばあちゃんは自分のちらし寿司をなかなか褒めない。
私はそれが不思議でたまらなかった。
「そんなことないよ!すっごく美味しい!」
「嬉しいこと言ってくれるのね、優しいなりっちゃんは。」
幼くて小さい私の体にしては、驚くほどたくさんのちらし寿司を食べていた。
いつも2皿は食べていたように思う。
「ごちそうさま!」
「おそまつさまです。まだ台所にたくさんあるから、持って帰る?」
「え!いいの?お父さんとお母さんにも食べさせてあげたいから持って帰りたいな。」
「分かったよ。でも2人には今日のちらし寿司はちょっと失敗だよって言っておいて
 ね。」
おばあちゃんは本当に自分のちらし寿司を褒めない。こんなに美味しいのに。
「だから、そんなことないって。すっごーく美味しいんだからね!」
「ありがとう、りっちゃん。」
そう言うとおばあちゃんは、とても綺麗な重箱にちらし寿司をつめてくれた。その重箱をこれまた綺麗な風呂敷で包んでくれる。まるで有名店のおせち料理みたいだ。それを家に持って帰るのがちょっぴり誇らしかった。2食続けてちらし寿司なんて飽きるだろうと言われるけれど、おばあちゃんのちらし寿司は飽きない。作り立てのときは柚子とお酢の香りがふわっと広がるのが良い。そして、少し時間が経ったものは具材の味が酢飯にたっぷり行き渡っていてこれまた絶品なのだ。

料理上手でとっても優しいおばあちゃんは私にとって自慢のおばあちゃんだった。

月日は経ち、私は中学生になった。私はずっと憧れていた吹奏楽部に入部した。毎日、朝や放課後に練習しなければならないことに加え、勉強の方も忙しくなった。そんなことでおばあちゃんと会う機会も自然に減ってしまった。しかし、毎日おばあちゃんと顔を合わせる時間はあった。おばあちゃんはお母さんに変わって私のお弁当を毎日作ってくれていたのだ。私は毎朝、そのお弁当を取りに隣のおばあちゃんの家まで足を運ぶ。
「おばあちゃん、おはよう。」
「おはよう、りっちゃん。はい、おべんとう。」
「ありがとう。行ってきます。あ、昨日のお弁当も美味しかったよ。」
「あら、ありがとう。行ってらっしゃい。」
おばあちゃんの優しい声に見送られ、私は学校へと急いだ。
おばあちゃんのお弁当の中身はどれも手作りで、いつも全く違う献立だ。
そのお弁当が私にとっての大きな自慢で、友達に見せびらかしたりもした。

そして、私は高校生になった。中学まで続けていた吹奏楽部へは入部しなかった。めんどくさかったのだ。勉強はさらに難しくなり、いつの間にか授業についていけなくなった。放課後は友達と遊びに出かけることが多くなり、カラオケに行ったり、ファミリーレストランなどで外食をし、夕食を家族で食べることもなくなった。帰りが10時を過ぎることも少なくなかった。付き合っている友達の影響を受け、スカートを短くしたり、茶髪にしてみたり、とにかく校則を違反してばかりだった。
そんなある日、いつものように11時くらいに家に帰ると、この時間ならいつも寝ているはずの、しかも隣に住んでいるはずのおばあちゃんが玄関にいた。
おばあちゃんと会うのは本当に久しぶりだ。
中学までは忙しいながらも毎日、お弁当を取りに行っていたが、高校生になり、周りの友達がコンビニのおにぎりやパンを食べている中、1人だけ手作りのお弁当を食べることが妙に恥ずかしかったのだ。それに、その時のギャル化した私に手作りのあったかいお弁当なんて到底似合わないと思っていた。だから、お弁当は断り、おばあちゃんの家に近づくことはなくなったのだ。
久しぶりに見るおばあちゃんの姿は、少し昔までの優しいおばあちゃんではなかった。
「ちょっと、りっちゃん!一体何時だと思ってるのよ!いい加減にしなさい。」
おばあちゃんが声を荒げるのを聞いたのは、このときが生まれて初めてだったのではないかと思う。正直、かなり動揺した。
きっとお父さんかお母さんがおばあちゃんに私のことを告げ口したのだ。
「別に何時に帰ってこようが関係ないじゃん。誰にも迷惑かけてないんだし。ほっといてよ。」
その動揺を隠すように私はおばあちゃんに強い口調で言い返した。
おばあちゃんは、何も言わない。じっとこちらを見ているだけだ。
きっと久しぶりに見た私の姿が以前の面影が全くないことに驚き、ショックを受けていたに違いない。
私は沈黙が耐えられなくなり、続けて反抗した。
「それから、りっちゃんっていう呼び方もやめて!いつまでも小さい子みたいに。もう私は子どもじゃないの!!」
本当は『りっちゃん』って呼んでほしかった。でも、その時はおばあちゃんに反抗せずにはいられなかったのだ。
どうして、隣に住んでいるおばあちゃんに口出しされないといけないのか、どうしていつまでも子ども扱いするのか、無性にたくさんのことに腹がたっていた。
それでも、おばあちゃんは何も言わない。言い返してこないことにさらに腹がたった。しかし、私はおばあちゃんの怒った顔の奥で少し寂しそうな表情が見えたような気がした。
でもその時の私にはそんなこと気にならなかった。
もう話すことなどなかったから、私は急いでおばあちゃんの前から姿を消すように階段を駆け上った。
すると、遠くから
「りっちゃん、りっちゃん!またおばあちゃんの家に遊びにおいでね。」
「また、ちらし寿司作ってあげるからね。」
というおばあちゃんの優しい声がうっすら聞こえた。
そういえば、ちらし寿司なんてここ何年も食べていなかった。
あんなに大好きだったのに。
幼い頃の私だったら、「食べたい!」と言って大はしゃぎするだろう。
でもその時の私はそんなことを思う余裕がなかった。
ただただおばあちゃんに対して腹が立っていた。どうしてか理由は分からなかったけれど腹がたっていられなかった。
おばあちゃんに注意されたことは心に引っかかっていたが、反抗期だった私は素直に聞き入れることができず、不規則な生活を続けたまま高校を卒業した。
卒業と同時に私は、東京の大学進学のため上京することとなった。
あの日以来、おばあちゃんと顔を合わせていなかった。あばあちゃんから会いに来ることもなかった。今更話すこともなかった。私はおばあちゃんに何も言わずに家を離れ、上京した。

上京して4年が過ぎた。大学を卒業した私は、地元での就職が決まり久しぶりに地元での生活に戻った。家の前に着くと、なんだか無性におばあちゃんに会いたくなった。初めておばあちゃんに叱られたあの日以来、おばあちゃんには一度も会っていない。
私は小さい頃のように、おばあちゃんの家の勝手口を開け、大きな声で叫んだ。
「おばあちゃん!ただいま!」
するとおばあちゃんの姿が現れた。
少し背が縮み、痩せたようだ。しわも増え、ずいぶん年を取ったように感じた。
眼鏡の奥の目がじっと私を見つめている。
あまりにも久しぶりすぎて、そしてあまりにも突然の訪問であったから驚いているのだろう。少し間をおいて、おばあちゃんが口を開いた。
「まぁ、りっちゃんじゃないの!」
心なしか以前より声がか細くなっている。
「ただいま。おばあちゃん。今ね、家に着いたところなの。おばあちゃんに会いたくなってね、来ちゃった。」
私は笑顔で話したが、自分が知っているおばあちゃんよりもずいぶん年を取った姿に悲しくなった。
「そうかい。まぁまぁ、そんなところにいないでお入り。美味しいお茶を入れてあげようね。」
おばあちゃんはそういうとゆっくりとした足取りで台所の方へ向かって行った。
私は昔いつもおばあちゃんと2人で過ごした居間へと向かった。
そういえば、おばあちゃんの家にあがるのは本当に久しぶりだ。中学の時でさえ、玄関先でお弁当を受け取っていただけだった。
廊下を歩くとミシミシという音がする。私の体重が重くなったのか、それとも家が古くなったのか。
居間は、以前と全く変わっていなかった。丸くて年期の入ったちゃぶ台。そんなに背の高くない茶箪笥。おじいちゃんの仏壇。何もかも昔と変わっていない。なんだかホッとした。
すると、おばあちゃんがお茶を持ってきてくれた。
「好きなところへ座ってちょうだいね。あ、りっちゃんはいつもそこへ座っていたね、確か。」
そう、私はいつも同じところに座っていた。庭が見える位置。そこが私の一番好きな位置だった。
「いつもの席に座ってもいい?私ここが大好きだったな。」
「もちろん、座りなさい。はい、お茶とお菓子よ。食べてね。」
私の前にお茶を差し出すおばあちゃんの手はしわしわになっていた。きっとずっと前からしわしわだったんだろうけれど、彫りの深いしわになっていた。
「あ!このお菓子、すごく懐かしい。大好きだったやつだ。」
昔から、おばあちゃんとのおやつの時間には決まってこのお菓子が登場した。こしあんを黒糖味の薄皮で包んだ和菓子だ。小さい頃からそれが大好きだった。何も変わっていない。でも、一つ変わってしまったことがある。丁寧にお菓子の下に懐紙が添えられていた。まるで、お客さんに出すように。それは、おばあちゃんの私に対する心遣いに違いなかった。でも、なんだか寂しくも感じた。
ー 私って、お客様なのか…。
一口食べてみる。ほんのり甘い、昔と全く変わらない素朴な味がした。
「本当に美味しいね、これ。懐かしいな。」
「それは良かった。まだたくさんあるからね。」
「りっちゃん、大学は楽しかったかい。」
私はおばあちゃんに大学でのこと、友達のこと、東京でのことなど4年分の出来事を一気に話した。おばあちゃんはずっと笑顔で私の話に耳を傾けてくれる。うんうんと頷いてくれる。私とおばあちゃんの空白の時間がどんどん埋まっていくような気がした。
「おばあちゃんを一度、東京に連れて行ってあげたいな。」
「行ってみたいね。今、りっちゃんのお話を聞いてとても興味が湧いたよ。そのためにも少し体力を付けないとね。」
確かに今のおばあちゃんは痛々しい程に痩せてしまっている。あまりにも痩せていて理由を聞くのが怖くて聞けなかった。きっと年を取ったせいだ。
おばあちゃんと話しているうちに、高校生のときの諍いのことが頭をよぎった。
「おばあちゃん、あの時…あの、高校の時、たくさんひどいことを言ってごめんね。本当にごめんなさい。」
「何言ってるの。そんな昔のことはとっくに忘れちゃったわよ。大丈夫よ。そんなこと気にしないの。」
絶対嘘だ。忘れたなんて。そんなことあるわけない。あの時のあばあちゃんの寂しそうな顔は簡単に忘れられるようなものではない。
少し間が開いた。重たい空気を作ってしまった。私の思い詰めたような表情を察したおばあちゃんは優しい、そして明るい表情で私に話しかける。
「そんな顔しないの。可愛い顔が台無しだよ。りっちゃんは笑顔が一番似合うんだから。」
おばあちゃんって本当に優しい。空気まで軽くしてしまう。本当にすごい人だ。
「そうだ。りっちゃん、一緒にちらし寿司作らない?りっちゃんが大好きだった、あれ。」
ちらし寿司。おばあちゃんのちらし寿司。何年も食べていなかったけれど、その名前を聞くだけで柚子とお酢の酸っぱい香り、醤油と出汁で煮た具材の甘辛い香りが自然に鼻に抜けるような気がした。
「作りたい、作りたい。久しぶりにおばあちゃんのちらし寿司食べたい!」
「そんな大きな声出さなくても。じゃあ作ろうかね。」
私は興奮して自然に大きな声になっていたようだ。さっきまであんなに落ち込んでいたのに。不思議だ。
実はおばあちゃんとちらし寿司を一緒に作ったことは一度もなかった。幼かった私はいつもおばあちゃんの隣で作っている姿を見ていただけだ。それだけで、小さかった私は十分楽しかった。でも、今日は一緒に作れる。そう思うと少しドキドキしていた。
台所に行くと、ここも昔と何も変わっていない。少し鍋が年期が入ったことをのぞけば。
おばあちゃんが割烹着姿で現れた。昔と変わらない。おばあちゃんの手には、もう一つ割烹着が握られている。
「はい、りっちゃんもこれを着て。綺麗なお洋服が汚れてしまっちゃいけないからね。」
すごくすごく嬉しかった。少しおばあちゃんに近づけたような、料理上手にでもなれたかのような気持ちになった。
「じゃあ、まず材料を用意するよ。お米は3合。水は少なめで炊くのがコツだよ。」
「え、どうして。」
「柚子とお酢を加えるからね、水分が多いとべちゃべちゃしちゃうんだよ。この水加減が結構難しくてね。おばあちゃんは未だに自信がないのよ。」
おばあちゃんはいたずらっぽくくすっと笑った。
そういえば、よく今日のは失敗だって言ってたけれど、この水加減が上手くいってなかったことだったのかもしれないと納得した。
お米に少なめの水を入れ、炊飯器のスイッチを入れた。
「ご飯を炊いている間に、具材の準備だね。にんじん、大根、椎茸、コンニャク、タケノコ。いつも入れてるものはこれくらいかな。これを細かく切っていくんだよ。」
まず、おばあちゃんが手本を見せてくれる。すごく早い。でも切られた具材の大きさはどれも均一で美しい。私もやってみる。かなり難しい。おばあちゃんと同じ包丁のはずなのに。
けれど、おばあちゃんは
「上手、上手。おばあちゃんが若い頃はもっとへたくそだったよ。それに比べるとりっちゃんは本当に上手ね。」
褒め上手なおばあちゃん。でも、なんだか嬉しい。
具材を切るのにかなりの時間がかかった。ちらし寿司を作るのってこんなに大変だなんて思ってもいなかった。やっぱりおばあちゃんはすごい。
「味付けも重要だよ。調味料は醤油、酒、みりん、出汁。量は量ったことないんだよ。」
またくすっと笑う。
次々に調味料を加えていくおばあちゃんの手は慣れたものだった。きっと手が量りになっているに違いない。
クツクツクツクツ。煮込んでいく。幼い頃に大好きだった、あの甘辛い香り。
水分が無くなればもう完成。
炊きあがったご飯に、柚子とお酢、具材を混ぜ込んでいく。
出来上がったら、おばあちゃんの味見チェック。
「上出来、上出来。お米の水加減も完璧だったね。今日のちらし寿司は今までで一番の仕上がりだよ。」
おばあちゃんはとっても嬉しそうだ。
私も一口食べてみる。本当に美味しい。今までのちらし寿司とはひと味違った味がしたような気がした。
「うん!すっごく美味しい。さすがおばあちゃんのちらし寿司!」
そのあと、2人そろってちらし寿司を食べた。昔のように。
それから、そのちょっぴり甘い白みそ仕立てのお味噌汁も一緒に。

私は家に帰ってすぐ、手帳にうろ覚えのレシピをメモした。
私とおばあちゃんをつなぐ、ちらし寿司。
いつか1人で作っておばあちゃんに食べさせてあげよう。

「アイアース」

112201

 地球ができて約四六億年と言われている。もちろんこれは推定である。その時代を記録したものなど残っているわけがないからだ。そもそも人類が存在しない。その人類が誕生したのは五百万年ほど前だという。いわずもがな推定である。きっと偉い学者たちが化石などから割り出したのだろう。細かい事件や人物の記録が残っているのなんて、ここ数千年の話だ。そう考えたら俺の存在ってすごいちっぽけだよなぁ……。

 「お客さん!お客さん!いいかげん起きてくださいよー!!。」
 怒鳴るような声で目が覚めた。最悪の目覚めだ。
 「やっと起きてくれましたか。この電車は車庫に入れるから、早く降りてもらわないとお客さんも車庫まで一緒に行ってもらうことになるよ。」
 俺は車掌に何度も頭を下げ、あわてて電車から降りた。どうやら残業をなんとか終電までには切り上げたが、終点まで寝過ごしたらしい。終電を逃した客を待ち構えてるタクシーに乗り込み家路を急いだ。
 「こんなことなら会社から直接タクシー乗ったほうが安上がりだったよ、まったく…。」
 ぶつぶつと文句を言っているうちにまた眠ってしまい、次は運転手に起こされる前に自然と家の近くで目が覚めた。運転手に料金を払い、誰も起こさぬようこっそりと玄関のドアを開けた。
 「おかえりなさい。遅かったわね。」
 妻の声にビクッとした。明かりが消えていたから先に寝ているものだと勝手に思っていた。こんな夜中に家に帰るのは何も後ろめたいものがなくても緊張する。
 「そうなんだよー。残業してて終電には間に合ったんだけどね。電車で寝過ごして終点まで行っちゃって、結局タクシーで帰ってきちゃたよー。」
 俺は早口で説明したが、第一声にしては言い訳がましすぎる。逆に怪しくなってしまった。しかし、口から発されかけた言葉をまた口に戻すこともできず、後悔だけが残った。
 「あら、そう。タクシー代で使ったからっておこづかい前借りはさせてあげないからね。」
 後悔はすぐに消えた。浮気の心配などされていなかった。二十代のころに帰りが遅くなるとよく妻に何をしてたか詮索されたものだが、このところ全く詮索はしてこない。当時は、うっとうしいとさえ思っていた妻からの詮索も今では恋しくなっているのだから男心は難しいもんだ。しかし妻の判断は賢明だ。三十代半ばで中年デブ、髪の毛もはげかかっている。おまけに、小遣い二万で毎月やりくりしている俺に女の影は皆無だった。
 「ごはん早く食べちゃってよー。」
 リビングから妻の声が聞こえる。自分も朝からパートがあるのに俺の帰りを待ってくれ、できたての晩飯を食べさせてくれる妻を俺は愛している。妻との出会いは劇的なものではなかった。一目見たときに稲妻が走るような衝撃もなかった。知人の紹介で、なんとなく趣味が合うから付き合い、なんとなく笑うタイミングが一緒だから結婚した。すぐに子供も生まれ、月並みの幸せを手にした。今年八歳になる一人息子も愛している。この平凡な毎日こそ幸せなんだな。ふとそんなことを考えながらリビングに向かった。
 「じゃあ先に寝てるから洗い物よろしくね。」
 と妻はあくびをしながら寝室に入っていく。俺はテレビで一人今日のプロ野球のハイライトを見ながら白飯をかきこんだ。そして、洗い物をしている最中にこんな声が耳に飛び込んできた。
 「あなただけの地球を創ってみませんか?」
 初めて見るコマーシャルだ。俺はテレビに夢中になった。どうやらアメリカが最新のテクノロジーで作った擬似地球のおもちゃのようだ。十五秒程度のコマーシャルでは、それくらいの情報しか得られなかった。特に気にすることもなくその日は眠りについた。

 次の朝、いつものように家族三人で食卓を囲み、たわいもない会話をする。妻のパートでの人間関係の愚痴。息子の遠足の行き先。この何気ない時間が一日働くエネルギーになる。
そしていつものように満員電車に乗ると、同僚と乗り合わせた。今日の会議の話や奥さんの愚痴など聞いていると、あるものが目に入った。
 「あなただけの地球を創ってみませんか。」
 電車のつり革広告だ。広大な宇宙に一つ地球が浮かんでいる。そしてこのキャッチコピー。ただこれだけで、商品の説明など一切ない。昨日の夜中のテレビコマーシャルの記憶がよみがえってくる。
 「すごいよなー。子供のおもちゃなんてレベルじゃないらしいぞ。これ。」
 つい広告に見とれている俺に同僚は説明した。革新的な広告、革新的なデザインでかつてパソコンやスマートフォンを世に送り込んだリンゴのマークの会社の最新商品だ。今やこの世界はリンゴのマークの会社に支配されていると言っても過言ではないくらいこの会社の商品で溢れている。もうアメリカでは売り切れ続出の人気商品らしい。
 「しかし、この会社は通信機器がメインの会社なのに、どういう風の吹き回しなんだろうな。」
 「もう人との関わりなんか煩わしいことやめて、自分で地球を作って神になれってやつらからのメッセージじゃね?」
 笑い話をしているうちに会社についてしまった。今日もいつもどおりデスクワークをこなし、会議をこなし、一日が終わっていった。一つ違うことと言えば頭になにか引っかかっていることだ。その引っかかりを解消すべく帰宅するとすぐにリンゴのマークのパソコンを立ち上げた。
 「アイアース。あなただけの地球を創ってみませんか?」
 専用のホームページが作られている。アイアース。確かにこの会社の商品ならこういう名前になるんだろうなとは予想はしていたが、なんとも語感が気持ち悪い。まぁ聞きなれると他の商品みたいに馴染んでくるのだろう。俺は様々な項目をクリックし、情報収集に努めた。どうやら、まだ日本では予約の段階で発売していないこと、あまりのリアルさに子供には難しく大人に人気があること、そして、俺の今の小遣いでは買えそうにない価格であることがわかった。おもちゃに数万円払うのは無駄だろう。長いこと少ない小遣い生活をしていると、すぐに価格とその物の価値を天秤にかけてしまう。その日はそんな気持ちでパソコンの電源を落とした。

 次の日もその次の日も、特に変わったこともなく一日が過ぎていく。変わったことといえば、毎晩アイアースのホームページをチェックすることが日課になったことぐらいだ。何か新しい情報が追加されないか、自分の住んでいる地域の予約はまだ完売していないかを毎日チェックする。この年齢になって、子供のときのようにここまで気になる存在に出会えたことは喜ばしいことだろう。特に、シミュレーションゲームが好きだったとか、ましてや地球を作りたいなんて願望があったわけではない。しかし、このアイアースには何か惹きつけられるカリスマ的魅力があるのだ。きっとそんなもんだろう。そして今日も日課のホームページをチェックしていると異変に気付いた。自分の住んでいる地域の店舗での表示が「予約受付中」から「予約あと少し」に変わっている。予約するつもりはなかったのだが、気持ちが少し焦ってくる。
 「毎晩何調べてるの?」
 背後から妻の声がした。うちでは家族共用で使っているためパソコンをリビングに設置している。普段パソコンを使わない俺が毎晩パソコンに向き合っていることの妻は気付いていたようだ。
 「あぁアイアースねー。なんかパートの仲良い人も予約したって言ってたわ。」
 妻が画面をのぞきこんでくる。
 「いろんなとこで宣伝してるからどんなもんか気になって。もう予約もあと少しなんだって。」
 欲しいとはなかなか言い出せない。希望小売価格は俺の小遣い2か月分だ。怒られるに決まっている。しかし、妻は意外にもこんなことを言い出した。
 「欲しいの?買うの?」
 「欲しいけど金がない。」
 「まぁいいんじゃない。家族で使うものとして、お小遣いからは別に出しましょう。」
 なんとも意外な展開だ。こうしてあっさりと購入が決まった。妻は普段ケチだが、大きな買い物をするときは変に気前がいい。流行に乗り遅れたくないだけなのかもしれないが。妻や息子にも触らせることを約束し、俺は早速予約した。
 指折り数えるとはこのことか。子供の時にはよく味わった感覚が蘇ってくる。最近は流行にも疎くなり、物を予約して発売日に買うことなんてなくなっていた。あと何回寝れば俺の地球、アイアースに会えるかと毎日考えた。事前に調べられる情報は全て調べた。そして、その日がやってきた。

 仕事を早く切り上げ、いつもとは逆方向の電車に乗り込む。リンゴのマークの店舗は県一番の繁華街にある。あと数分でアイアースが手に入ると思うとスキップでもしだしたい気分だが、社会人としてはやる気持ちを抑えた。無事アイアースを手に入れた後もタクシーにでも乗って帰りたい気分だったが、無駄遣いはできないと電車で家路についた。
家では家族も俺の帰りを楽しみに待っていた。俺のというよりアイアースの帰りを。まずは夕飯を済ませ、妻と息子が見守る中、アイアースの包み紙を勢いよく破った。中からはお馴染みのリンゴのマークがついたタブレット。今日はこのリンゴもいつもよりジューシーに見えやがる。そして本体である地球。どういう原理かはわからないが、タブレットで本体の電源を入れると、ちょうどリンゴくらいの大きさのこの地球が宙に浮く。前情報によると、この地球を揺らすと実際にこの地球上では地震が起こったり、水をかけると大雨が起こったりするらしい。天災はすべて神の仕業というわけだ。キリスト教の国らしい発想だ。
 「パパーやらしてー」
 予想通り最初は息子のおもちゃになってしまった。現代っ子の息子はタブレットを器用に操作していたが、一時間ほどすると「おもしろくない。」といって投げ出してしまった。説明書を読まずにやるとこうなるんだな。わが子から学んだ俺は、まず説明書を開くことにした。開くといってもこの会社の商品には説明書はついていない。ネットから説明書ファイルをダウンロードしてパソコンで見なくてはならない。アナログな俺は紙媒体のほうが良いのだが文句も言ってられない。
説明書によると地球の方は基本的には触らず、操作はタブレットにより行うらしい。操作といっても地球内の気温を調節したり、地形をいじってみたりするくらいで後は観賞するだけだ。もちろん何億年も見ていられないので、早送りや巻き戻しもできる。地球の好きな場所をアップにしてタブレットで見ることもできる。壮大なシュミレーションゲームだと考えればわかりやすい。俺はこうして自分だけの地球を創り始めた。

 いま住んでいるこの地球というのはとてつもない奇跡によって誕生したらしい。地球を創り始めて三日ほどで気がついた。まず植物すら俺のアイアースには誕生しやがらない。海と陸地の割合なんか今の地球とそっくりにしたし、気温だって似たようなものだ。しかし、何百万年早送りをしても生命はいっこうに誕生する気配すらない。実家の庭に生えていた雑草なんかはほっといてもすぐに生えてくるのに、なぜ俺のアイアースには植物が誕生しないのか。会社でも仕事はそっちのけでそのことばかり考えていた。考えても考えても答えはでない。あまり気は進まないが、インターネットのアイアース攻略サイトでヒントをいただくことにした。
 「植物誕生には空気中の酸素、二酸化炭素濃度が重要!」
 盲点だった。確かに光合成に必要なものは二酸化炭素だと小学生のころ理科で習った記憶があったが、そんな知識は会社で使うはずもなくどこかに置いてきてしまっていた。さっそく、残っていた仕事を適当に切り上げ、家に帰りアイアースの空気濃度を変えなくてはならない。最近では家に帰ることが楽しみになっている。趣味を持つということは実に良いことだ。同僚たちと安い居酒屋で飲んでいた日々がバカらしく感じられる。
 「ただいまー。」
 家に帰るなりタブレットで空気濃度を調節した。そして早送りモードに切り替え、夕飯を食べる。家族でのたわいもない会話もそこそこにアイアースの様子を確認する。陸地をアップにすると、そこにはタブレットいっぱいの緑が覆い茂っていた。成功だ。少し感動した。生命の誕生に感動したのか、自分が創ったものの成果が出たことに感動したのかどちらかはわからない。いや、その両方かもしれない。早速、妻と息子に報告した。
 「これ見てみろよ。」
 タブレットを差し出す。
 「なにこれ?」
 「なにって……木だよ。植物だよ。ついに俺のアイアースに生命が誕生したんだ。」
 「あら、よかったわね。それより早くお風呂にはいってしまって。」
 どうやら女子供にはこの感動は伝わらないらしい。生命の誕生より風呂の湯加減のほうが大事とはなんとロマンがない。息子に至っては一瞥しただけですぐに携帯ゲーム機のほうに視線を戻してしまった。俺のアイアースはそんなにつまらないものか。がんばった俺を褒めてほしい。息子に注目されたい。パパすごいと思われたい。……そうだ、恐竜を創ろう。
 
創ろうといって創れるなら神様も苦労しない。こちらも何日かけても上手くいかず、今回は攻略サイトを見てもなかなか恐竜が誕生する気配はない。まだ世界中探しても恐竜を創りだした人はいないのではないだろうか。俺は今やタブレットを常に持ち歩き、仕事の時間もアイアースにあてている。たまに上司にバレて嫌味も言われるが、今まで会社に尽くしてきたのだから、一つ没頭できる趣味ができたときくらい大目に見てほしい。家でも会社でも通勤電車でもアイアースと向き合った。何日も何日も試行錯誤を繰り返した。
そして、アイアースの中では何百万年の時が過ぎたとき奇跡が起きた。水辺をアップで見ていると、小さな爬虫類が誕生しているのだ。この小さな爬虫類の進化をゆっくり見守った。何万年もかけて小さな爬虫類は恐竜に進化した。成功だ。俺は感動に震えた。正確に言うと恐竜らしきものであって、実際われわれが想像するようなジュラシックパークに出てくるような恐竜とは姿、形が異なる。何よりの驚きは、色がどの種類の恐竜も同じ、土みたいな色をしていることだ。色鮮やかな赤や緑の恐竜は存在しない。よくよく考えてみると、今の現代人が持つ恐竜のイメージは誰が作ったのだろう。化石から大きさや形は推測できるにしても、色まではその時代に生きている人がいないかぎりわからないはずだ。しかし、俺はこの目で見ているから断言できる。恐竜は土みたいな色をしていると。とは言ってもわれわれの恐竜のイメージから全くかけ離れているというわけではない。ティラノサウルスのような大型のものから名前はわからないような小型のもの、空飛ぶ翼竜も存在する。大恐竜時代の幕開けだ。この大恐竜時代の感動をいち早く息子に伝えるため、その日は仮病を使い会社を早退し夕方には帰宅した。
「恐竜に会わしてやるぞー。」
そう言うと息子は最初は喜んで見ていたものの、数分で飽きてしまったのかテレビアニメを見始めてしまった。テレビアニメなんか人間に作られたものを見て何が楽しいというのか。俺はこの大恐竜時代を何日だってぶっつづけで見ていられる自信がある。しかし俺には使命がある。次は人間を創らねば。

今回ばかりはさすがの俺もお手上げかもしれない。アイアース購入から数ヶ月経っていたが、俺のアイアースには人類はまだ誕生していない。会社の有給は使い切ってしまった。親戚という親戚はみんな死んだことにしてしまって忌引きも使えない。仕事に時間をとられてアイアースをおろそかにするなんてことはあってはならないのに。なぜなら、俺は神だからだ。神には人類を誕生させる使命がある。
そういえば、家族のたわいもない会話でアイアースとの時間を邪魔されることもなくなった。先日、妻が神であるこの俺に文句を言い、アイアースを取り上げようとしてきた。だから俺は妻を殴ってやった。結婚して初めて妻に手をあげた。妻は泣いていたが、俺には使命がある。こんなところで立ち止まってはいられないのだ。
会社では文句を言われることもなくなった。同僚たちは俺を避けている。俺が狂人にでも見えているのだろう。創造する者は狂人といつも紙一重なのだ。そんな創造主である俺ですら人類を誕生させることができずにいた。
いつものように、どのようにアクションを起こすかとアイアースとにらめっこしていると、社長から直接呼ばれた。一時もアイアースのもとを離れたくなかったが、しかたがないこともある。軽く舌打ちをして俺は社長室に向かった。
「なぜ呼ばれたかわかっているだろ?」
「いえ。」
「君の怠慢にはみんなうんざりしている。クビだ。」
好都合である。これで全ての時間をアイアースに使える。退職金は出るのだろうか。いやそんなことはもうどうでもいい。そもそも神である俺に雇われの仕事など合ってなかったのだ。スキップしながら自分の机に戻り、大急ぎで荷物をまとめ会社を出て行ってやった。
自宅に戻るとゆっくりしてはいられなかった。早く人類を誕生させなくては。攻略サイトはもうとっくに役に立たない。世間ではようやく恐竜を誕生させたところらしい。ここは創造主らしく自分で道を切り開かなくては。

会社をやめて一ヶ月ほど経ったとき奇跡が起きた。色々試しすぎてもはや何が上手く作用したのかわからないが、ついに人類の前身である猿人が陸地に誕生した。俺は猿人の命を絶やさないようにしっかりと監視しながら進化を待った。何千年もかけてゆっくりと猿人は人間になっていった。成功だ。涙が止まらなかった。もう誰にも見せる必要はない。俺だけの地球。アイアース。そこに人類が誕生したのだ。
大陸が今の地球のようにゆっくりと時間をかけて分かれるように設定し、後はあまり神は関与せず、人間の進化を見守ることにした。
人間の繁殖力はすさまじい。さらにその生命力はゴキブリ以上だ。たまに、大洪水や大地震を起こしてみるものの、人間たちは力を合わせて乗り越えてくる。その度に涙が止まらなくなった。
そして人間は言葉を発明した。アイアースでの人間が喋っている言葉は理解できないが、大陸によって様々な言語があるらしい。そのうち日本語も出てくると思うとワクワクが止まらなかった。

現実世界で何年経ったかわからない。もう何年も外に出ていない。妻と息子はとっくに出て行ってしまった。そんなことは人類の成長を見守っている神からしたらささいなことだ。一日中アイアースを観賞している。もう一日という概念もなくなってしまった。ずっとずっとだ。
アイアースでの総人口が六十億人を突破した。今この地球と同じくらいか。地球の見た目も今の現実の地球そっくりだ。やはり人間が誕生してからはめまぐるしくアイアースの地球は変わっていった。人間の存在というものは地球に大きな影響を与えているようだ。革命や戦争もお約束のように行われている。人種差別もしっかりあったようだし、それに反対する黒人牧師も登場した。彼の演説には涙が止まらなかった。人類が初めて月に行った時は大変だった。月の模型をインターネットで画像を見つけて必死に作ったのは良い思い出だ。今でもその模型にはアメリカの国旗が突き刺さっている。よくよく考えればあんなもの適当で良かったのだ。適当に作ったその月がアイアースの中では月として認知されるのだから。まぁそんなことどうでもいい。そろそろ現実世界でいう二十一世紀だろう。俺は日本の様子をアップで見ることにした。
しがないサラリーマンと思われる男がなにやら楽しげに包み紙を勢いよく破っている。妻と思われる女と息子と思われる子供もその様子を楽しそうに眺めている。中からは見覚えのあるリンゴのマーク。俺は何か見てはいけないものを見てしまったような気分になってタブレットを閉じた。

俺は自分が誰だかわからなくなった。
 

「アイスキャンディー」

122108

 その活発な少年はまったく迷子という感じではなかった。迷子というのは少しぐらい泣くものではないのか。ジッと僕の目を見て、「母さんとはぐれたから、一緒に探して!」と頼んできた。偶然出会ったこの僕に。
今日は晴天の日曜日。僕は日課の散歩をしていた。桃色の花びらを落としすっかり緑色に衣替えした桜の並木道を抜けて、スズメがチュンチュンと鳴き、カラスがカアカアと叫ぶ公園に着くはずだった。公園の入口にその少年は立っていた。周囲をキョロキョロとしていたので、誰かと待ち合わせをしているのかと思って、僕は何となく見ていた。すると、キッとこちらに目を向けた。と思いきや、視線をそのままにツカツカとこちらに向かって来るではないか。僕の前に立ち止まり、こちらをジッと見る。だいたい、小学校五年生ぐらいであろうか。僕の胸ぐらいの身長である。
「母さんとはぐれたから、一緒に探して!」
突然、少年から発せられた言葉に僕は混乱した。あまりにも唐突だろう。少年は少しも視線をそらさない。僕はどこではぐれたのか聞いてみた。
「分かんない。いつの間にかいなくなってた」
その後も色々と質問をしてみたが、家の位置さえも分からなかった。最近この近くに引っ越してきたばかりらしい。さらには名前も教えてもらっていない、「個人情報の保護!」だそうだ。手に入れた情報で確かだったことは、この少年の好きな食べ物がアイスだということだけだ。とりあえず、歩けば何か分かるのではないかと思い、少年を連れて、町を歩くことにした。
 少年は、辺りをキョロキョロとしている。マンション、アパート、一軒家が混在するこの町は、昔から、いわゆる転勤族が多く住んでいる町として知られている。交通の便はよく、周辺の町よりは比較的静かであり、住みやすい。僕も七年ほど前にこの町に引っ越してきた口である。公園から歩いてきて五分ほど経ったとき、少年が言った。
「あ、いい匂い」
なるほど、確かにいい匂いがする。この町のパン屋さん「田井中ベーカリー」である。焼きたてのクロワッサンが名物であり、その匂いが周辺に漂い、いつも住人の胃を鳴らさんとしている。僕も週に二度は買いに来る。
「この匂い前にも嗅いだことあるよ。前に住んでいた町にね、こんな匂いのするパン屋さんがあったんだよ」
パン屋さんの匂いというのは同じではないのだろうか、と考えながらもガラス越しに店内の様子を見ながら、前を通り過ぎる。ガラスに映った少年は物欲しげな目をしている。何か思い出すことはないかと少年に聞いてみた。
「ううん、なんにも!」
自信たっぷりの笑顔である。
 パン屋さんを通り過ぎた僕たちは、そのまま真っ直ぐに続く道を歩き続けた。僕は今、学校に向かおうと思っている。少年が通っているであろう小学校だ。その名は「北小学校」。何ともひねりのないない名前である。僕はこの小学校には通ったことがない。ちょうど中学生になるときにこちらに引っ越してきたからだ。しかし、僕の出身小学校の名前も「北小学校」である。偶然であろうか、それとも安直に名前をつけてしまう人というのはどこにでもいるということであろうか。
「小学校……」
少年は何か不安そうな顔をしている。どうしたのかと僕は少年に聞いてみた。
「うーんとね、えーと、僕この学校好きじゃないんだ」
ぼそりぼそりと、たどたどしくしゃべる。先ほどまでの元気は何処へやら。
「前に行ってた学校は、友達もいっぱいいて、先生も優しくて、もっとグラウンドも広くて、遊具とかもいっぱいあったんだけど、この学校は……」
下を向いたままの少年はいかにも寂しい感じである。引っ越してきてまだ日は浅い。友達を作るにはまだまだ難しいようだ。僕も引っ越してきてから数週間は、全くと言っていいほど友達ができなかったことを覚えている。人見知りが激しかったというのも手伝っていたように今は思うが、当時は大変に悩んだ。グラウンドは真ん中に陸上用の白いレーンが引かれ、隅の方に鉄棒や砂場があるだけで、他に楽しそうな遊具などは見当たらない。僕が小学生だったころは、もっと巨大な遊具、複合型ジャングルジムなるものがあったが、そういうものは「危険だ!」というPTAや地域の苦情によって現在の小学校にはほとんど残っていない、とテレビニュースで報じられていたのが記憶に残っている。
「…………」
すっかりと元気がなくなってしまった少年に、行こうと声をかけ、僕たちは小学校を後にした。
 僕が次に向かった先は神社である。何でも平安時代後期に建てられた由緒正しき神社らしい。名前は「天輝神社」という。町の人たちもどこか、そんなに古いなら確かに神様の一人や二人宿っていてもおかしくないと、口々に言う。初詣には毎年この町の住民だけでなく、近隣の町からも参詣者が来ているらしく、お正月には文字通り、人の波がうねうねしている。少し長い階段を上がると本堂が正面に姿を現す。本堂の前には、身を清めるための水がチョロチョロと流れている。柄杓を使い、手を清め、口を清める。少年も僕の真似をして手を清め、口を清める。
「神社ってお金を入れて、ジャカジャカ鳴らして、お願いするだけじゃないんだね」
確かにそうするだけの家もあるだろう。しかし僕の家では、この水で清めるという行為をする。なんとなく、この水を手に掛けたときに「今、まさに清められた!」という感じがして、爽やかな気分になるのだ。さて、いよいよ神様にお願いをするときがきた。小銭を出す。ちょうど五円玉が二枚あったので、一枚を少年に渡し、一枚を握りしめ、そして二人同時に賽銭箱に放り込んだ。柏手を鳴らし、願い事を神様に伝える。どうか、この少年の母親が見つかりますように。自分で言うのもなんだが、なんと心清き男であろうか。願い終わり、少年の方を見ると、真剣な顔をして願っている。早く自分母親が見つかるように願っているのだろうと思い、僕は一人納得した。神社の少し長い階段を下りながら、何を願っていたかを少年に聞いた。
「一つ目は、母さんが早く見つかるように!それと、パン屋さんでおいしいパンがいっぱい食べられますように。と、それから学校で友達ができますようにと、それから……」
指折り数える少年に、子どもの願いというのは素晴らしく多いものであることを学んだ。
 少し元気になってきた少年とともに僕は再び公園に戻ってきた。少年からはいまだに手がかりらしきことを聞けていない。スズメがチュンチュン、カラスがカアカアと鳴いているのは先ほどと同じである。しかし、一つ公園の様子がさきほど来たときと少し変わっているところがあった。「あいすきゃんでぃー」と書いてある小さなのぼりをかかげた自転車が止まっている。後部には大きな冷凍ボックスらしきものが備え付けてある。そして、自転車のすぐそばに帽子をかぶった六十歳ぐらいに男性が立っている。
「あ!アイス!」
少年は見つけるやいなやサッとその自転車の前に向かった。仕方なく僕もその自転車の前に行った。
「リンゴ味、オレンジ味、ブドウ味、メロン味、レモン味……」
目を輝かせて、味の種類をひたすらに読み上げている。
「メロン味!」
指を差すとともに、こちらにサッと視線を向ける。輝く瞳がまぶしい。仕方ないと思いつつ、メロン味を二本注文した。おじいさんは、冷凍ボックスを開け、手を突っ込んだ。黄緑色のアイスキャンディーが少年の目の前に現れた。会計を済ませ、少年に一本渡した。少年はこの上ない笑顔を見せ、
「ありがとう!」
と言った。僕はアイスキャンディー一本でここまで喜ぶ少年を見て、子どもというのは分かりやすいなと思った。嫌なときは暗くなり、嬉しいときは明るくなり、感情を表に出すことをためらわない。僕も昔はこんなんだったのだろうかと思い、アイスキャンディーをかじる。メロンのような味がする。そういえば、アイスキャンディーを食べるのは久しぶりのような気がする。ずっと昔、引っ越しをする前、そう、小学生の頃にもこんな味を食べた気がする。あの時は、もう少し暑かったときで、母親に買ってもらった。懐かしい記憶が、心の奥の方から、ズズッと引っ張り出されてきているような、そんな不思議な気分になった。
 ふと我に返る。いつの間にか公園のベンチに座っていた。日は傾き、西の空が少し夕焼けの色に染まっている。はて、と思い周囲を見回す。アイスキャンディーを売っていたおじいさんは、のぼりを立てた自転車ごとどこかに消え、スズメもカラスも鳴いていない。ただ緑色の桜の木が風になびく音が聞こえるだけである。少年はどこに行ったのかと思う。名前を呼ぼうにも、名前を教えてはもらっていない。少年、少年と声を少し大きくしてみるが、返事をするものはいない。夢であったのかと考えたが、いやそんなはずはない。僕はちゃんとアイスキャンディーの棒を確かに持っている。あのアイスキャンディー売りは現実に存在した。そして、メロン味を注文したのだ、あの少年が食べたいと言ったから。輝く瞳がまぶしかったこともよく覚えている。あの夕陽よりもまぶしかったのだ。母親には会えたのだろうか。いや会えたに違いない。そうでなくては僕が困る。いらぬ心配事がひとつ増えてしまっては駄目だ。どうか、母親のもとに帰っていてくれ。
 少年は、それきり姿を現すことはなかった。父親に話してみても、そんな子見たことないと言って、取り合おうとはしない。それきり、僕は少年について考えないようにした。またいつかどこかで会える。そう思って僕は少年のことを心の奥にしまい込んだ。

「キャサリン」

123911

 〜深い深い森の奥に、美しい女の子が、継母と二人のいじわるなお姉さんと暮らしていました。毎日薄暗い屋根裏部屋で生活し、掃除、洗濯、家事をすべて任され、一日の食事は、一切れのパンとコップ一杯のミルクだけ。薄汚い服に身を包んだその女の子のもとに、ある日、魔法使いのおばあさんが現れ、魔法をかけられ舞踏会に出かけるのです。でも、魔法のリミットは深夜の0時……。0時の鐘が鳴るとともに、その夢のような時間は消えてしまいます。女の子は、舞踏会で、王子様との幸せなひと時を過ごすものの、突然消えてしまいます。そこに、片足のガラスの靴を残して……。小さな小さなその靴は、たった一人、女の子にしか履けないガラスの靴。王子様は町中の少女から、靴の履ける女の子を探し求め、最終的に王子様と女の子は結ばれ、幸せに幸せに暮らしました。〜

 こんな話、一つも聞きたくないわ。あの子さえ現れなかったら。あの子さえ、生まれなかったら、王子様と結ばれるのは、私だったのに。私の人生が狂ったのは、義妹、カトローナのせい。全部全部あの子のせいよ!カトローナが憎くて仕方ない。あの子のすべてが許せない。生まれ持った、透き通ったブルーの大きな瞳。風になびく、ウェーブのかかったブロンドの髪。人より、一回り小さな小顔。真っ赤なつやのある唇に、透き通った美しい声。それに比べて私は……。小さい頃から自分のことが嫌いだった。小さな目に、低い鼻。色は黒く、喋るのも苦手。唯一の救いは、国一番のお金もちである家系に生まれたこと。お母様はとってもプライドが高く、自分の娘を一番可愛い子に育てたかったからって、沢山の努力の甲斐あって、どうにかマシな顔に持ち直せたんだけど。どこを取っても、あの子に勝てるとこがないのは、分かってるわ。でも、あの子さえ、あの子さえ現れなければ、お母様の力で、王子様と結婚できるのが決まってたの。

 いつもと変わらない朝。大きなベッドで、小鳥のさえずりを聞き、太陽の日差しを浴びて、いつもと変わらない一日が始まろうとしていた。
 「キャサリン、朝よ。起きなさい。」
 「はい。お母様。今すぐ起きるわ。」
 お母様と、お姉さんのベル。そして妹の私。三人で幸せに暮らしていたの。国で一番を争うお金持ちの父が残してくれた財産で、とても優雅な毎日を送れていた。召使のララおばさんが作る朝ごはんは、とてもおいしくて、毎日がとても幸せだった。
 「ララおばさん。今日の朝ごはんは何かしら?」
 いつものように、大広間に降りて行った。
 「キャサリンお嬢様。おはようございます。今日は、カエルのスープに、子ウサギと自家製キッシュの三種のサラダ添え、それに、ズッキーニ、ナス、モッツアレラチーズのミルフィーユ、アンチョビソースのタルティーヌですよ。」
 「あら、美味しそう。ララおばさんのお料理は世界一ね!!!!!!!!!!!!」
 そんなことを言いながら、朝から気分よく、自分の席に着いた。
 「キャサリン、今日は朝からご機嫌ね。あなたの声が大きすぎて、朝から耳が痛くなるようだわ。」
 「おはようございます。ベルお姉さま。だって、これを見てちょうだい。今日の朝食は、カエルのスープに、子ウサギと自家製キッシュの三種のサラダ添え、それに、ズッキーニ、ナス、モッツアレラチーズのミルフィーユ、アンチョビソースのタルティーヌ!!!」
 「ララおばさん、おはようございます。はいはい、もういいわ。見たらわかるもの。カエルのスープに、子ウサギと自家製キッシュの三種のサラダ添え、それに、ズッキーニ、ナス、モッツアレラチーズのミルフィーユ、アンチョビソースのタルティーヌ。どう?あってるでしょう。それにしても、こんなに素敵な朝ごはん、他の誰も知らないでしょうね。私たちは、世界で一番幸せな姉妹よ。」
 「まあ、素敵。世界一幸せな姉妹だなんて。この家に生まれて良かったわ。森のしたに住んでる人たちって一体どんな生活を送っているのかしら。ふふふ。想像もつかないわ。ふふふ。」 
 一つ違いの姉、ベルとは、生まれた時からずっと一緒。大の仲良しだ。喧嘩をすることもあるけど、友達のいないカトローナにとってベルは唯一の遊び相手。きっとベルも同じことを思っているはず。
 「おはよう。私のかわいいかわいい二人の娘。あらあら、二人とも、朝から元気だこと。ララ、おはよう。今日の朝ごはんは、カエルのスープに、子ウサギと自家製キッシュの三種のサラダ添え、それに、ズッキーニ、ナス、モッツアレラチーズのミルフィーユ、アンチョビソースのタルティーヌね!なかなかじゃない。」
 「お母様っ!おはようございます。大変光栄でございます。」
 「ふふふ。では、みんな揃ったところで、いただきましょう。」
 「「おいし〜〜〜〜〜〜いっっっ!!!!!!」」
 「ベル、それちょうだい!!!!!!!!!」
 「いやよ、ほんっっっとに欲張りなんだから。ダイエットするって昨日言ってたばっかりじゃない。」
 「だって、美味しいんだもの!!!!!んー幸せっ!!!ダイエットは明日からに変更よ。」
 「まったく……。そのセリフ何回目かしら。」
いつもと変わらない会話。いつもと変わらない一日の始まりだった。
と、そこへ……
 トントン。
 「あら、誰かしら。」
 トントン。トントン。
 「朝からうるさいわね。こんな時間から、一体どちら様?」
 少し、イライラした様子で、お母様が言った。
 「ララ、誰か見てきてちょうだい。」
 「ははあ。かしこまりました。今すぐ見てまいります。」
 
ガチャ。
 「どちら様?」
「わたくし、隣の王国からやってまいりました、へーベルと申します。ウィルフリット王子の愛娘であるカトローナを、今日からしばらくの間、こちらでお預かりしていただくということで、連れて参りました。」
 「少し待ってちょうだい。一体どういうことなの?」
 「わが王国では、現在北欧の国であるダイエニギュサンサパウロ国との戦いが一層激しさを増しており、とても危険な状態です。ウィルフリット王子の要望で、愛娘であるカトローナ王女を、こちらに避難させておこうということでございます。……………………………………………………………………………………」
 いきなり現れ、マニュアルを丸暗記して喋るかのように、立ち入る隙間もなく、話始めるへーベル。そこへ、お母様が、
 「遅いわねえ。ララ。あら、へーベルじゃないの。ごきげんよう。どうしらのかしら。」
 「お母様。実は、この、へーベルとい」
 「あなたは、黙っていて。へーベルなんの御用?」
 「お母様。実は、わが王国では、現在北欧の国であるダイエニギュサンサパウロ国との戦いが一層激しさを増しており、とても危険な状態です。ウィルフリット王子の要望で、愛娘であるカトローナ王女を、こちらに避難させておこうということでございます。……………………………………………………………………………………」
 さきほどと、同じように、これまでの経緯を機械的にへーベルは喋り続ける。
 「わかったわ。ウィルフリット王子のお頼みなら、引き受けるしかないようね。少しの間だけね。ここで預かるわ。」
 「ははあ。ありがとうございます。では、カトローナ王女を紹介致します。カトローナ王女下りておいで。」
 バタン。馬車の扉があき、小さな女の子が下りてきた。
 「こちらがカトローナ王女。ウィルフリット王子の愛娘でございます。」
 「ごきげんよう。初めまして。カトローナと申します。よろしくお願い致します。」
 まあまあ。なんと行儀のいいこと。透き通ったブルーの大きな瞳。風になびく、ウェーブのかかったブロンドの髪。人より、一回り小さな小顔。真っ赤なつやのある唇に、透き通った美しい声。
 お母様の顔が、みるみるうちにひきつっていくのがわかる。
 「お母様、では、カトローナ王女をよろしくお願い致します。カトローナ王女いい子にしているんだよ。すぐに迎えに来るからね。」
 「へーベル。はい。わかりましたわ。」
そういって、へーベルは急いで、隣の国へと戻っていった。小さな女の子カトローナを残して。
「カトローナといいます。よろしくお願いします。」
 
それから、お母様は、すぐに部屋へと向かった。そして、大きな鏡に向かってこう言った。
「鏡よ。鏡。世界で一番美しいのは、どこの誰かしら。」
“お母様の娘、キャサリンとベルはとてもとても美しい姫へとお育ちになった。しかし、世界で一番美しいのは、隣の国の王女キャサリンよ“
お母様の顔は、さらにさらに恐ろしい顔へと変わっていった。
「私の娘が一番でないなんて……。そんなの許せない。絶対に許せないわ!!!!!!!」

大広間では、何もしらないキャサリンとベルが朝食を食べ終えた頃だ。
「あーーーーおなかいっぱい。」
「キャサリンは、いつもそうね。少しは、美容にも気を遣いなさいよ。」
「わかってるわ。今日もこれから、乗馬をして運動するんですもの。」
「あらそう。……それにしても、お母様たち遅いわね。」
ちょうどそのとき、ララがカトローナを連れて、大広間へ戻ってきた。
「キャサリンお嬢様。ベルお嬢様。今日から、ここでしばらくの間一緒に暮らすことにんったカトローナ王女よ。隣の国では、現在北欧の国であるダイエニギュサンサパウロ国との戦いが一層激しさを増しており、とても危険な状態です。ウィルフリット王子の要望で、愛娘であるカトローナ王女を、こちらに避難させておこうということでございます。……………………………………………………………………………………」
「カトローナです。よろしくお願いします。」
さきほどのへーベルと同じように、経緯を説明し終えたときの、キャサリンとベルの顔といえば……。透き通ったブルーの大きな瞳。風になびく、ウェーブのかかったブロンドの髪。人より、一回り小さな小顔。真っ赤なつやのある唇に、透き通った美しい声。自分が一番、そうでないと気に食わないキャサリンは、カトローナをみて唖然とした。

その日から、カトローナとの生活が始まったわ。言うまでもなく、お母様と私たち姉妹にとってカトローナは天敵。可愛がる?仲良くする?とんでもないわ。ララおばさんは、どう思っていたか知らないけど……。でも、ウィルフリット王子の愛娘とだけあって、なにかあってはいけなかった。ウィルフリット王子とは、私たちのお父様の実の弟で、大切なつながりのあるお方なの。お金の面でね!

でも、その日はやってきたの!
その日は、朝から雨だった。前日からものすごい雷で、大嵐って感じ。いつものように、大広間に集まって、朝ごはんを食べていたわ。すると……
ドンドンドンドン
「うるさいんだから!!!!!!!!誰よ!!!!!」
 ドンドン、ドンドンドンドン。
 「ララ、見てきて!!!!!!!!!!」
 ずいぶんと、イライラした様子で、お母様が言った。
 「ははあ。かしこまりました。今すぐ見てまいります。」
 
ガチャ。
 「どちら様?」
「へーベルでございます。実は、実は……ダイエニギュサンサパウロ国との戦いの末、ウィルフリット王子が……王子が……………………、お亡くなりになってしまい……………………………………………………………………………………………………………………………………。」
「そ、そんな…………!!!!!!!!!!!!」
「ウィルフリット王子から、最後の遺言として、カトリーナ王女を守れと……。カトリーナ王女をこちらで、幸せに育ててくれと………………………………………………………………」
 へーベルは、涙ながらに話した。

それから、カトリーナにも告げられた。美しい美しいカトリーナも、その日からしばらくは、とても悲しそうだった。そんな中で、お母様と、キャサリンは一機に逆転した気分だ。
「カトローナ、今日からあなたは、このうちの雑用係よ。」

〜ここからのお話は、良く知ってるでしょう。おとぎ話の中で、「女の子は、屋根裏部屋で、お姉さまにいじめられながら、毎日を送っていました。」ってそんなとこかしら。“いじわるなお姉さま”だなんて、ほんとに失礼だわ。……なになに?舞踏会の日になにがあったかって?はあ、まったく、私が一番びっくりよ。まさかあの子が、舞踏会に来てたなんて……。完璧なはずだった。いつものように、カトローナは屋根裏部屋に閉じこもり、家中の掃除に、洗濯、ララおばさんも、すっかりカトローナに頼るようになっちゃってて。お母様に連れられて、私は王子に会いに舞踏会へ行ったわ。最高な一日になると思ってた。なのに、なのに……………………………………………………………………………………………………!!!!!〜

待ちに待った舞踏会の日。生まれてきてから、すべてがこの日のためにあったといっても過言じゃないわ。
「おはよう、ララおばさん。」
「キャサリンお嬢様。まあ、今日は早起きだこと!」
「だって、今日は……!!!!!!!今日は舞踏会の日よ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!まあ、なんて素敵な天気。なんて素敵な朝なんでしょう。もう嬉しくって!嬉しくって!!!」
朝から、とってもご機嫌だった。
「あらあら、今日も朝から元気なことといったら、キャサリンは。」
そういいながらお母様も起きてきた。
「私も楽しみで昨日はあまり眠れなかったわ!」
ベルも起きてきた。
「はやくドレスが着たいわ!!!」
「私はピンクのドレスよ!」
「私は赤のドレスにしようかな。うーーーーん、でも、紫の方がセクシーかしら。ふふふ。どうしましょう。決められないわ!」
「ヘアスタイルも決めなきゃね!」
「もう、楽しみすぎて、待ちきれないわ!ふふふ!」
「ふふふ!」
そんな、楽しそうな会話の中、カトローナは、今日も屋根裏部屋の中で独りぼっち。
「お姉さまたち……。今日が舞踏会なのね!いいな〜。私もきれいなドレスを着て行ってみたかったなあ〜……………………………………………………………………………………………………」

日が落ちてきたころ、お母様とキャサリン、ベルの三人は、舞踏会へ出かけて行った。ララおばさんは、ここぞとばかりにお見送りをしたあと、すぐに寝ちゃったみたい。
カトローナは、屋根裏部屋の窓から、お姉さまたちが舞踏会へ行くのをぼんやりと眺めていた。
「ふう。くよくよしててもしょうがないわ!今日は私もゆっくり寝ようかな。」
と、そこに……
“カトローナ”
「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
いきなり目の前に、魔法の杖を持った魔法使いが現れた。
“カトローナ王女。私はいつもあなたのことを見ていたわ。つらい思いをしてきたのね。今からあなたを舞踏会へ連れて行くわ。”
「え、ほんとに?舞踏会へ?まあ、夢みたい!!」
“ええ、ほんとよ。ほら!”
「でも、私、ドレスも持ってないし、こんな恰好で……………………」
“心配しないで”
そういって、魔法使いは、杖を一振り
“あふぉjンsぁjgb;おいjンgkぁsmンf;おいlkjfンm下;おkンjg;おぢfjkンめら;おぎいvkjdfasfnykjmfedgfsdggmmmんm;おがjあdgtjhj、mytxjhnsrtjhsrtghrklfjん;おヴぃkjぁmfb;おいkじゃおりげ;おじゃbg;おいljかね;おbjkん;あおえいjklbん;おあslkfjaethynmsezrgnadvhんぃうjkはsNugjknlm,damnfhkjlnLDIfvjkんぃkじゃaertnaertnaerynsHNvd;;いljkhん;zfdsてyなえrtんtれsztadgfhgjyktjrthdfgjhyrethynsjkんbvぃkjなsfflkjvんlkjなsfvlkjんlkじゃんmsfdvlきjnいいえじゃb”
なにやら、よくわからない魔法を唱えながら。するとたちまちカトローナは、真っ白な純白のきれいなドレスを着た、美しい美しい王女へと変身したのです。
「最後に、これは、私からのプレゼント。」
そういって差し出したのは、まばゆいばかりのガラスの靴。
「まあ、なんてきれいなの!……それに、私の足にぴったり!」
魔法使いは微笑んだ。
“カトローナひとつだけ、忠告よ。私の魔法は真夜中の0時を過ぎると消えちゃうの。0時を過ぎる前には、必ず戻ってくるのよ。”
「わかったわ!ありがとう!」
そういって、魔法使いは、さらに魔法を唱えた。
“ぢjh外wljghンkぁsjfンgぃウhgvkjlhrsgdfjfkjhgbsdgfsdgsdgAam,nsf;kmksjfkgh;おあうじゅfhg;科jsg;欧亜h後会うjh化;sjgh;浅茅fgはw;尾jrえstryなえrtyなえryんrてstrynytれshs;お会いfgjくぁ;尾rjh;gfkjsh;語彙jh輪;尾rjgン;kfjhg;おうjhw;ojgさFbgasfvおjぁねfdlkjんヵjfsんbvlkjなsfblvkjnfha;osufgh;2wjrhg;あおおおaksdhfgbblakjsfnv;kjamnsfdlvkjnおえ;kんfらgん;おじゃlkfg;おあうぃrjlkg;おあいjkg;おあううjkhsんfd;gkjn”
一瞬強い光に目を瞑った。そして、目をひらくと、そこには素敵な馬車が……!
「まあ、なんてこと!夢みたい!魔法使いさん、ほんとにほんとにありがとう!」
カトローナは、すぐさま魔法の馬車に乗り、舞踏会へと向かったのである。

舞踏会では、カトローナは注目の的。
ざわざわざわざわ……………………
「あの美しい娘は一体どこの子だ。」
「あんなにきれいな子、みたことないわ。」
ゴーンゴーンゴーンゴーン
0時の鐘が鳴るとともに、女の子は、消えてしまいました。片足のガラスの靴を残して…………………………………………………………………………………………………………。

〜そう、これがすべての話。魔法使いだなんて信じられる?お母様も、私も初めは、ララおばさんを疑ったわ!どうして、もっとちゃんと見てなかったのかって。でも、これが本当の真実だってわかったの。それからは、言うまでもなくカトローナは王子様と幸せに暮らしたわ。正直、最初からかなうわけないのは分かってた。透き通ったブルーの大きな瞳。風になびく、ウェーブのかかったブロンドの髪。人より、一回り小さな小顔。真っ赤なつやのある唇に、透き通った美しい声。カトローナが羨ましかった。私も、あの子に生まれたかった。〜

〜深い深い森の奥で、お母様と姉のベル、妹のキャサリンは、とても仲良く暮らしていました。そこへ、ある日、隣の国の王女カトローナが現れて、魔法使いのおばあさんの力を借り、キャサリンの結婚相手である王子様を奪ったのです。わざとガラスの靴を片足残して、姿を消すカトローナは、とっても小悪魔な女の子だったのです。キャサリンの幸せは、こうしてなくなったのでした。〜

「テディベア」

122211

「明日、目が覚めたら、枕元に素敵なプレゼントが置いてあるよ。」
彼はわたしの髪を撫でながら言った。
「えっ、なんで、どうして。誕生日でもないよ。クリスマスにもまだ早いのに。」
「いいからいいから、楽しみにしてて。きっと気に入ると思う。おやすみ、あゆ。」
「ええ、何よー、気になって眠れるわけないじゃん。」
 そう言いながらも、この日もたくさんの仕事をこなした後だったからか、わたしはすぐにまどろんできた。
 彼はまた、わたしの髪を優しく撫でた。
 プレゼントって何だろう、珍しいなあ、ああ本当に楽しみだ……胸を弾ませながら、わたしは目を閉じ、眠りに落ちて行った。


「あ、あった!!!!」
 受験番号5132、目の前にある大きな模造紙には、何度見てもその番号がくっきりと印刷されていた。私は心の中で何度も何度もガッツポーズをした。
「浜口あゆみさん、はい、おめでとう。」
 受付のお姉さんから、合格者だけがもらえる書類を受け取り、私は満足感でいっぱいだった。
3月といっても、まだ厳しい寒さが残る今日は高校の合格発表だった。あまり勉強のできない私がそれなりの公立高校に合格したことは、きっと親戚みんなが祝福してくれるだろう。
「……よっしゃあぁぁあ!!!!」
 帰り際にまた模造紙の横を通ると、ものすごく嬉しそうな表情をした男の子が雄叫びをあげていた。チラッと見えた名札に佐藤と記されている。
「おい、トモ、みんな見てる!恥ずいぞ!」
 同じ制服を着た背の高い男子中学生が慌てているが、佐藤トモという名前らしい男の子は全く聞こえないようだ。このひとたちが同級生になるのか‥と考えながら、わたしはしばらくその男の子を見つめて、ふっと笑った。喜びをこんなにストレートに表現できたら、楽しいだろうな。わたしはひとりだった。いつもはひとりでいることに抵抗はないけど、今日だけは、喜びを分け合える友達がいたらよかったな、なんてことを、寒空を見上げながら考えた。


 わたしは平凡な中学生で、優秀な成績をとれたこともなく、運動もよくできるわけでも全くだめなわけでもない、「ふつう」の子だった。たったひとつだけ自信があるのが歌だったが、そんなに目立ちたがらない性格だったので、ひそかに抱いていた歌手の夢はとっくの昔に打ち捨てて、公立高校を志望した。目標のない人生を送っていたこのころのわたしには、明日を心待ちにして眠りにつくことも、そして夜明けが来てしまうこともなかったのだ。

 わたしは家に届いた封筒を指でつまみ、ひらひらと揺らした。
「ええ!オーディション受かったの?!」
 トモが、文字通り目を丸くして言った。
「そう、やっとね、拾ってもらえたんだ。Bベックスっていう会社だよ。」
 合格発表の日から2年の月日が経とうとしていた。そろそろみんなが進路を考え出しているときに、わたしは打ち捨てたはずの夢を追って、こっそり歌手のオーディションを受けていた。もちろん中学生のころに予想していた通り、周りの人には驚かれ、馬鹿なことをするなと言われ続けたが、トモだけはわたしを信じてくれていた。トモがわたしの背中を押してくれたのだ。
「やったな、あゆ!俺、あゆの歌が本っ当に好きなんだよ!」
「ありがとう、わたし、トモがそう言ってくれたから諦めなかったんだよ。」
 トモはにっこり笑って、わたしの頭を撫でた。他人のことなのに、自分のことのように喜んでいるのが表情でわかる。トモが学年の人気者であることの大きな理由のひとつだ。
「お祝いにどこかに行かないとな!」
「ほんとに?!どこでもいい?」
「あゆの行きたいところならどこでも。あー、でも、外国とかは金が貯まってからな。」
「やった!それじゃ、植物園がいいなあ。」
「え、植物園?!お祝いに?あゆって変なとこでずれてるんだよな、普通はディズニーとかなんじゃないの?」
 わたしたちは笑った。


「俺と付き合ってほしいんだ」
 いつになく真剣な面持ちで、トモがわたしに向かい合って立っていた。遠足で行った名古屋の、味噌カツで有名なお店の前だった。
 合格発表の日に見かけた男の子は、高校に入学すると同じクラスだった。佐藤智久という名前の彼は、みんなからトモと呼ばれ、入学初日から周りの男の子たちとたちまち仲良くなっていた。委員会を決める学級活動の時間に、誰の立候補もなく、いつまでも空白だった美化委員にわたしが渋々立候補すると、一緒にやるよと佐藤智久も手を挙げてわたしに笑いかけた。甘ったるい少女漫画によくある筋書きだ。そしてわたしは筋書き通り、彼が笑うたびに、彼がわたしに優しくしてくれるたびに、まんまと彼に惹かれていった。美化委員が人気のない一番の理由だった放課後清掃でさえ心待ちにしている自分が、あまりにも単純でおかしかった。
 それでも、その言葉を聞いて本当にびっくりした。わたしがまんまとはまった少女漫画の筋書きの中でも、トモの気持ちだけはぼやけていた。トモの気持ちなんて考えたことがなかった。片思いでもよかったから…なんてことはただの強がりで、ただ考えるのが怖かったのだ。
「合格発表で見かけたときから気になってたんだよ。俺、昔から頭悪くて、公立高校なんて無理だってずっと言われてたもんだから、合格して嬉しくて。喜んでる俺のこと、お前がずっと見てて‥」
 そんなときからわたしのこと知っててくれてたんだと思うと嬉しかった。わたしだってトモを見てたし、その日のことははっきり覚えてた。だけどそんなことは恥ずかしくて、「そうだったっけ?」なんて可愛くない反応をして、すぐに思い直した。
「‥ありがとう。わたしも同じ気持ちだよ。これからよろしくね、トモ。」
「えっ!え、いいの?俺、今オッケーされたの?」

 今思うと、甘酸っぱいどころか酸っぱくてしょうがないトモの告白からもう1年半が経って、わたしはトモについてのことならある程度はわかっているつもりだった。
トモが自分で言っていた通り、彼の成績が真ん中より上に行くことは滅多になかった。最近、私と二週間前から猛勉強したテストは、ちょうど真ん中にまで成績が伸びたのだと満面の笑みで報告をくれた。お気楽そうに見えるトモも、彼なりに進路に悩んでいるようで、大学のパンフレットをパラパラとめくっているときは不安そうな、頼りなげな表情をしていた。わたしはそんなトモを見て、日常が壊れていきそうで、なんだか怖くなったことがあった。そんな話をするといつもトモは、あゆは詩人だな、と言って笑い飛ばしてくれた。その言葉にわたしも笑った。トモはわたしを笑わせるのが上手で、楽しい話ならずっとずっと笑い合っていた。
「じゃあ、また明日な、歌手の浜口あゆみさん!」
 いつも通り家まで送ってくれて、去って行くトモの背中は思ったよりも小さくて、日常が壊れていくんじゃない、わたしがこの日常を壊そうとしているんだということに気がついた。

歌手になるということは、幼いころからずっと憧れていた夢だった。でも現実的な夢じゃない。小学校のときに友達から笑われてからこの夢を隠すようになり、高校に入ったときにはすでにあきらめていた。あるとき、トモと付き合って数か月くらい経ったころに、小さいころの夢の話になった。今でも話の一部始終を覚えている。
「あゆって、ちっちゃいころは何になりたかったの?」
「ええ、ないしょ。」
「なんで?教えてよ。」
「恥ずかしいから言わない。絶対笑うもん。みんなそうだったもん。」
「俺は人の夢を笑ったりなんかするわけないだろ。ここまで言われたら気になるから早く言って」
トモの顔は茶化してるんじゃなくて、真剣だった。だからわたしはなんだか秘密でいるのも悪い気がして、うつむきながら言った。
「……歌手。」
「え?」
「もういい!歌手になりたかったの!」
「まじで!あゆ、前カラオケ行ったときめちゃめちゃ歌うまかったよな。ほんとに、ほんとに歌手になればいいのにって思ったんだよ、ほんとだって!だから今ほんとびっくり。なあ、あゆは今はもう歌手になろうって気持ちないの?」
「…ないよ。なれるわけないじゃん」
私の歌手になりたいという夢を笑わなかったのは、トモだけだった。両親ですら、まだそんなことを言っているのかとおなかを抱えて笑ったのだ。いつもは両親ととても仲がいいが、そのときだけは本気で怒ったものだった。
「なれるわけないって誰が決めたの?オーディションとか一回でも受けてみたの?」
「そんなのあるわけないよ、恥ずかしいじゃん、オーディション受けるなんて。受けても絶対無理だし」
「絶対なんかこの世にないよ、そんなのやってみないとわかるわけないだろ。あゆ、一回やってみよう。そこから決めればいい。あゆがまだその夢に未練あるの、顔見てるとわかるよ。」
こうやって、トモに絶対に後悔はしちゃいけない、これは絶対なんだと諭され、ボイストレーニングに通いだし、数か月後にはオーディションに応募していた。何回か落ちたが、練習を重ねていくうちにやっぱりわたしは歌が好きなんだということに気づいて、もう抜け出せなかった。そしてついに、Bベックスのオーディションに受かってしまったのだった。


歌手になろうと思ったのはトモのおかげだった。オーディションを受けるたびに前日にお守りを作って応援してくれたのもトモだ。Bベックスのオーディションに持ってきてくれたお守りは、はちみつ入りののど飴と、手作りのキーホルダーだった。トモは今回は豪華版だ、うまくいったんだよこれ、と得意そうな表情をして笑った。これからの未来はきっと他の高校生とは違うのだろうと思った。うまくいかなくっても、やれるだけやってみると決めているのだから、もう普通の高校生には戻らないという決意でもあった。それでもこの人のもとで生きていこうと、それだけは変わらないでいようと、そう思いながら、トモの背中を見送った。

 わたしのファーストシングルが発売されるころには、学校中の好奇の目が私に寄せられていた。わたしが歌手になるなんて、誰も思っていなかったのだろう。3枚目のシングルがそれなりにヒットした途端に、今まで全く関わりのなかった人も、親しげに声をかけてくるようになった。4枚目は有名な作曲家の曲をもらったことで大ヒットだった。そのころから、わたしの生活もめまぐるしく変わり出した。ラジオやテレビに出演するようになり、高校に行ける日は少なくなった。買い物に行ったら浜口あゆみさんですよね?と握手を求められた。それはまさに、オーディションを受けた段階で憧れていた日々だった。けれど、ずっと抱いていた憧れを目の前にすると戸惑うものだ。本当のわたしを置いて、毎日が映画のように流れていくことが怖かった。本当のわたしはまだここにいて、何万もの人が最近知った「浜口あゆみ」がだれなのかわからなくなった。わたしの形をしていても、わたしじゃないような気がした。
そんなことをぼーっと考えるわたしの横でトモが、相変わらず能天気に、わたしの曲なんて口ずさんでいるところを見ていると、やっと日常に戻った気がして落ち着くのだった。

 ちょうどそのころに高校では卒業式があった。わたしは歌手として活動を始めてから信用のできる友達は減った。その代わりにはほぼ全校生徒に近いぐらいの人数にサインや写真をせがまれて、嫌になるくらいだった。卒業の寂しさはなく、歌手に専念できるぐらいにしか思ってなかった。トモはたくさんの友達とワイワイやっていた。入学初日からクラスのムードメーカーだった彼は、卒業式の日には学年中の人気者になっていた。トモは悩んだのちに努力を重ね、Bベックスに関係のある小さな会社に就職した。わたしはトモが高校を卒業してもわたしと繋がりを持ってくれることが嬉しくて、本当に感謝していた。現実に置いて行かれそうになるとき、いつもそばにいて、いつもと変わらずに話して、笑ってくれた。わたしには何ができたのだろう。わたしは彼に、何をしてあげるべきだったんだろう。

トモが仕事に慣れたころ、わたしはトモと一緒に暮らし始めた。わたしの曲は出すたびに売れた。わたしのファッションがみるみるうちに流行った。わたしの姿が雑誌の表紙になり本屋に並んだ。ひとりで歩いていると街が大騒ぎになった。同棲は、そんなわたしを心配してトモが提案してくれたことだった。トモはわたしのごはんを用意してくれていたが、わたしの生活は不規則で、急に帰れなくなるなんてしょっちゅうだった。トモはいつもわたしを気遣ってくれていたが、わたしは全国ツアーがあると何十泊も帰ることができず、たまに帰ってもトモとの会話もそこそこに、すぐに倒れるように眠り込んでしまった。
「あゆ、あゆ、起きて」
「んー…」
「まだお風呂入ってないでしょ、歯も磨いてない。その状態では寝るなよ。」
「やだ…眠い…疲れたんだもん…」
「……あゆ、歌手なんて俺、薦めなかったらよかったのかな…」
「…なんでそう思うの?」
「いや、なんにもないよ。さっ、起きて、お風呂入って歯磨きしてきなさい!」
このときにちゃんとトモの顔を見てあげるべきだったのかもしれない。わたしはトモの言葉に一瞬不思議に思って、顔を見上げようとしたのだ。でもあまりにも眠すぎたのと、疲労の中では自分のことしか考えられなくなるものだ、トモが言ったから歌手になったんじゃないか、と少し不満を抱えた。わたしは日に日に、毎日のスケジュールに追われるうちに、トモのことを考える時間が少なくなっていた。トモが今どういう気持ちでいるのか、仕事で何をがんばっているのか、ふと気になってもすぐにその気持ちは目の前のスケジュールにもみ消された。あまりにも忙しかったのだ。目の前にはっきりと見えるレールの上をただただ走ることで精いっぱいだった。

 そんなある日のことだった。仕事にひと段落ついて、2週間ぶりに家に帰ると、いつもの通りトモが待ってくれていた。わたしは玄関まで迎えに来てくれたトモに微笑んだが、本当に疲れていたので、トモの横を通り過ぎてソファに倒れこんだ。
「おかえり、あゆ。」
 そう言って笑ったトモの顔は少しやせた感じがした。
「トモ、ありがとう、ただいま。やせたね。ちゃんと食べてる?」
「大丈夫。あゆがいない間に料理にはまっちゃってさ、DEFクッキングスタジオなんか行ったりして。健康的な食事になったからやせたように見えるのかもな」
「ええ、あんなのかわいらしい女の子ばっかりだったんじゃない?男の子ひとりだけだったでしょ」
「それがそうでもなくて、俺のペアの子が主夫やってますっていう30代のお兄さんでさ。話聞いてたら結構楽しかったんだよな」
他愛もない話を交わし、少し笑った。どんなに疲れているわたしでも笑わせてくれるトモはすごい。だけど、コーヒーを入れてくれるトモの背中は、やっぱりやせた感じがして、いつもに増して小さく頼りなく見えた。

「トモ、そろそろ寝よっか。明日はなんと、3か月ぶりのお休みなんだ」
「そうだ、あゆ」
 トモは閉じていた目を開け、わたしのほうを向いて笑った。
「明日、目が覚めたら、枕元に素敵なプレゼントが置いてあるよ。」
わたしの髪を撫でながら言ったその声が、なんだかとても、あまりにも優しすぎた気がしたけれど、そんなことよりもプレゼントという言葉に驚いた。
「えっ、なんで、どうして。誕生日でもないよ。クリスマスにもまだ早いのに。」
「いいからいいから、楽しみにしてて。きっと気に入ると思うよ。おやすみ、あゆ。」
「ええ、何よー、気になって眠れるわけないじゃん。」
 そう言いながらも、度重なるツアーに、取材に、体は疲労困憊の状態だった。わたしはすぐにまどろんできた。
 彼はまた、わたしの髪を優しく撫でた。
 プレゼントってなんだろう。なんでそんなものを用意してくれたんだろう。がんばってよかったな。トモがいてくれてよかったな…
 わたしは期待に弾む胸を抱えながら眠りについた。やがて訪れる夜明けを心待ちにして。

 …トモと出会ったころの夢を見た。今のトモよりも、若くて、肉付きがいい。トモは思いっきり笑っていた…こんなトモの顔はいつ以来見ていないだろうか…、トモはわたしのほうへ手を伸ばした。だけどわたしはなにかに縛られているかのように手を伸ばせない。トモは夢の中で、どんどんやつれていった。みるみるうちに頬がやせて、目の輝きも消えていった。そして変わり果てたその姿は、今のトモの姿そのものだった。…トモはそんなに変わっていたんだ…、トモの笑っていた表情は次第に崩れ、泣き顔になって、ついにぐちゃぐちゃになり、何もわからなくなった。トモの姿はそのまま、闇の中へ消えていった。

 朝日が差し込んで目が覚めた。こんなによく寝たのは3か月ぶりだ。伸びをすると違和感があり、すぐにその正体がわかって驚いた。そこには大きな大きなクマのぬいぐるみが寝そべっていた。わたしは嬉しさで胸がいっぱいだった。プレゼントってこのことだったのか。すぐにトモの顔が見たくなった。
「トモ!!!!」
けれど、トモはどこにもいなかった。
 消えたのはトモだけではなかった。トモのいたはずの形跡がすべて、部屋からなくなっていた。服も、煙草も、漫画も、何もなかった。あるのは大きなテディベアだけ。
部屋に残ったものを見て気付いた。料理なんてしてないじゃないか。冷蔵庫を見ても、調理器具を見ても、キッチンを見ても、料理をしていた跡なんてどこにもなかった。DEFクッキングに問い合わせても、佐藤智久なんて人物は訪れていなかった。それどころか、職場に電話をすると、トモはとっくの昔に仕事を辞めてしまっていた。同じ会社のもとで働いていたのに、わたしはそんなことにさえ気づいてあげられなかったのだった。わたしはいやに物わかりがよかった。トモがわたしに負担をかけないために何も言わなかったこと、そしてついに去ってしまったことを知った。自分の代わりに大きなクマのぬいぐるみを置いて行ったのだということも。

いつだったか、あれは高校時代だ。トモと付き合ってまもない頃だ。
「ねえ、見て!テディベアだ、おっきい〜。女の子だったら、だれでも憧れるよねえ。」
「へえ、あゆもあんなの欲しがってたときがあったの?」
「わたしにとっても、だれにとっても永遠の憧れだよ!ずーっと欲しい。けど、なかなか買えるものではないんだよね、超高いし、かさばるし。自分で貯金して買うようなものでもないし」
「ふうん、みんな欲しがるものか。男だったらそんなものより名誉が欲しいけどな」
「ああー、男の子っぽいね。トモって生粋の男の子だよね」
「なんだよそれ。褒めてんのか」
そうか、わたしは手に入れたんだ、誰もが欲しがっているものを、地位を、名声を、お金を、憧れを、テディベアを、全部手にしたんだ。だけど失ったんだ、わたしだけの、一番大切なものを。

ステージから湧き上がる歓声に耳を澄ました。トモを失ってからしばらくは喪失感に包まれるばかりで、なにも考えられなかった。トモがどこにいるのか、そんなことは調べなかった。戻ってきてほしいとどんなに思っただろう。トモがどうして出ていったのかは考えたくなかった。わたしはトモを本当に大切にしていたのか?トモがいることが当たり前になっていなかったか?そんなことを考えだすと、もう歌手としての名誉なんて、誰もが憧れる幸せなんて、どうでもよかった。


 それでもわたしが歌いつづけたのは、せめてトモが去ってまで守ってくれたわたしの仕事を、わたしらしくやり抜くことだった。トモはわたしに歌手をやめろと一言も言わなかった。言えなかったのかもしれない。自分が薦めた道だったから。でも大丈夫だ、わたしには守るべき人がいる。トモは去った。わたしはエンドロールで、何千人もの観客に向かって涙を流しながら感謝を伝えた。観客はいつまでも、いつまでも、そこに残ってわたしの歌を歌っていた。

「僕と健太君」

122120

 僕は就職活動を控えた大学生だ。4回生になり、いよいよ本格的に就職活動を始めなくてはいけない。いや、むしろ遅いくらいだ。周りはすでに始めている。僕はまだエントリーシートも書いていなければ、企業説明会にも言っていない。もっと言えば働きたい職種なんてものも決めていないのだ。自分が何をしたいのか、なんてことも決まっていない。人のために働きたいなんてことは考えたこともない。 
 働かなくてはいけないという気持ちだけはあった。でも、働きたいという気持ちは一切なかった。働かなくてはいけないというのも、世間体や金銭面を考慮したうえでの気持ちである。
 アルバイトの経験は多少あった。でも長続きしたアルバイトはなかった。以前にしていた塾講師のアルバイトを辞めてから、もう半年が過ぎようとしている。思えば半年以上続いたアルバイトはない。コンビニのアルバイトは3ヶ月、中華料理屋のアルバイトは6ヶ月、楽だと聞いてはじめた市営プールの監視員のアルバイトは、退屈だと2ヶ月で、居酒屋のアルバイトに至っては店長とのソリが合わないと1ヶ月で辞めてしまった。塾講師のアルバイトにしたって働き始めてまだ3ヶ月も経っていなかった。
この他にもイタリアンレストラン、本屋、新聞配達などのアルバイトもしたことがあったが、時給が低い、休みが取りにくい、社員や同じアルバイトの人と合わないなど理由をつけては長続きしないまま辞めてしまった。
そんなことを考えていると、自分が社会不適合者なのではないかと思えてきて、つい溜息が漏れてしまった。
そんな暗い気分の中でベッドから体を起こし、カーテンを開ける。自分の暗い気分とは正反対な初夏の日差しが部屋に射し込む。その眩しさに思わず目を背け、窓とは反対側に掛かった時計を見ると昼の1時を回ったところだった。
 1階のリビングに降りると、朝からパートに出て行った母親が朝食に、と作り置きしてあったサンドイッチがある。母親に多少の罪悪感は抱きつつも、昼のワイドショーを見ながら朝食兼昼食を取る。それでも満腹にはならず、しかし何か料理を作るというほどの気力も起こらず、買い溜めしてあるカップラーメンを食べた。大学の講義も、友人と遊ぶ予定もないときの休日はたいていこんな生活だ。

 自室に戻ってもう一度寝ようとしたが、眠れない。やはり就職のことがどこか引っかかっているからだろうか。
少し気分転換でもしようと思い、シャツに着替えて散歩に出ることにした。五月の日中はシャツ1枚でも十分なほど暖かく感じられた。あまりに心地よいので、川沿いの道を通って公園の方まで歩いてみようと思った。
川沿いの道に向かうために、住宅街を歩いていると、小さな子どもが1人で泣いているのが見えた。
「どうしたの?なんで泣いているの?」
この子が1人じゃなかったら、もしくは大学生や中高生くらいだったら、おそらく声をかけなかっただろう。無視されたり、絡まれたりするのが怖いのだ。僕は、大学生や中高生くらいの騒いでいる集団はすごく苦手だ。偏見だとは分かっているけど、彼らは僕みたいなイケてない人に対して、バカにして、嘲笑したりするイメージがあるのだ。一人の泣いている小さい子どもならば、無視も、絡まれたりもしないと臆病者の僕は考えたのだ。
「お家のカギを、なくしちゃって……」
「お家のカギ?それは大変だね。どこでなくしたの?」
「わかんない……」
「困ったな……お家はどこなの?」
僕がそう聞くと、子どもは後ろを指差した。どうやら僕の後ろに立っている一軒家のようだ。壁はレンガ調のような塗装で、屋根は赤く、小さな庭には手入れの行き届いた花壇があり、オシャレな一軒家だった。おそらく家の前まで帰ってきたが、カギをなくしたことに気づき、家の前で泣いていたのだろう。
「お家の人はまだ帰ってこないの?」
「6時くらいまでは帰ってこれないって……」
 「そうか……じゃあ、お兄ちゃんと一緒にカギを探そうか。」
「ほんと? ありがとう!」
正直言って面倒なことになったと思ったが、泣いている小さい子を放っておくわけにもいかないので、ついこんなことを言ってしまった。言った後で、交番にでも連れて行けばよかったと後悔したが、子どもはもうキョロキョロと自分の周りを見渡して探し始めていたので、何も言えず僕も探し始めることにした。
「じゃあ、来た道を引き返してみよう。どこに行ってたの?」
「小学校だよ。」
「あ、もう小学生なのか。何年生なの?」
「1年生!」
「そうなんだ。あ、名前はなんていうの?」
「健太!」
「健太君かー。」
こんなやり取りをしながら僕はカギ探しのために、小学校までの道を歩くことになった。
「大変な散歩になっちゃったな。というより変質者に見られないかな。」
そんなことをぼそぼそと呟いている僕を尻目に、
「何だか冒険みたいで楽しいね!」
と、健太君はもうすっかり泣き止んで、上機嫌で歩いている。
道路の溝や、電信柱の影など隅々まで探しながら歩くが、なかなか見つからない。そうやって探しながら歩いていると、駅前の大通りに出てきてしまった。
「健太君、大きい道に来ちゃったけど、この道で合ってるの?」
「うん、僕の通学路だよー。」
「そっかー。しかし、なかなか見つからないね。」
「うん。でも、もう少ししたら見つかるかも!」
と、であった当初は家のカギをなくして泣いていたのとは、まるで別人かのように元気いっぱいに返されてしまった。そんな返事をされてしまっては
「そうだね!もう少し頑張って探してみよう!」
と、返すしかなかった。これではまるで、僕がカギをなくして健太君に慰められているみたいではないか。

カギを探しながら大通りを歩いていると、健太君が突然「あっ!」と声を上げた。
「見つかった?」
と、僕はようやく終われると期待しながら聞いたが、健太君の返事は違った。
「ううん。あのおばあちゃん大変そう。」
健太君が指した方向を見てみると、確かにおばあさんが大変そうに大きな荷物を運びながら歩道橋の階段を上っているのが見えた。
「お兄ちゃん、おばあちゃんを助けてあげよう!」
と言い終わるや否や、健太君は歩道橋に向かって走り出していった。僕は咄嗟のことに反応できず、健太君が走り出した数秒後にようやく健太君の後を追った。健太君は小学1年生にしては足が速く、彼に追いついたのと、おばあさんに追いついたのは同時だった。
「おばあちゃん、大丈夫?」
と健太君はおばあさんに声をかけていたが、僕はまず息を整えることが先決だった。いったいいつからこんなに体力がなくなってしまったのだろう。大学に入ってから、運動なんてほとんどしなかったもんな。などと考えているうちに、健太君とおばあさんの会話は進んでいた。
「ありがとう。ちょっと荷物が大きくてね。」
「手伝ってあげるね!」
「ありがとうね。でもボクには少し重たいからいいよ。まだまだおばあちゃんだって若くて、元気なんだよ。」
「お兄ちゃんも手伝ってくれるから平気だよ!」
どうやら知らない間に、僕も手伝うことになっていた。ただ、散歩に出かけただけなのに、子どものカギを探す手伝いをする羽目になったし、まださらに、おばあさんの荷物持ちを手伝うなんて、正直ごめんだった。おばあさんには悪いが断って、さっさとカギを探して帰ろう。
「ああ、そうなのかい。でも申し訳ないからいいよ。気持ちだけもらっとくね。」
「あ、いえ、手伝いますよ。」
……せっかく、おばあさんが助け船を出してくれたのに断れなかった。さっきまで断ろうと思っていたのに、見栄っ張りでお人好しの自分がなんだか情けなくなった。
「いやいや、ほんとに大丈夫よ。」
「いえ、手伝いますので。」
「そうかい?ごめんなさいねえ。じゃあ、お言葉に甘えます。重いけどごめんなさいね。」
 一度手伝うと言ってしまったため、もう引き下がれなかった。おばあさんが渡してきた荷物は確かに重く、おばあさんは小柄な体型であり、これを運ぶにはなかなかの重労働になったことだろうと僕は思った。
「歩道橋の階段だけ運んでくれると、助かるわ。」
「お兄ちゃん、お家まで運んであげたら?」
「何で健太君が決めてるんだよ。それより、おばあさん、お家はどこですか。」
「本当にいいのよ。お家はこの大通りを抜けた筋をまっすぐ行ったところにあるんだけどね。」
「小学校への道と一緒だよ!」
「んー、そうか。じゃあおばあさん、家まで荷物運びますよ。かなり荷物も重たいですし。そのかわり健太君はしっかりとカギを探すんだよ。」
「うん!わかった!」
「いいのかい?すまないねえ。」
そうして僕は、重たい荷物を抱え、小学1年生の男の子とおばあさんを連れた状態で歩き始めた。ただ散歩に出かけただけだったのに、この状況はいったい何だろうかと可笑しくなってきた。
「健太君、よく探すんだよ。」
「君たちはカギを探しているのかい?」
と、おばあさんは疑問を投げかけてきた。僕は健太君と出会ったこと、健太君がカギをなくしたこと、一緒に探していることをおばあさんに説明した。
「そうなんだねえ。健太君大変だったねえ。優しいお兄さんに出会ってよかったねえ。」
「うん!」
別に、僕は優しさでやっているわけではないんだけどなあと思いながら愛想笑いを浮かべながら、さらにおばあさんの家を目指して歩いた。しばらく歩くと、おばあさんが
「ありがとうね。ここが、私の家だよ。重たかっただろう。ごめんなさいね。」
その家は、昔ながらの日本家屋で、平屋の大きな家だった。庭には大きな松の木が1本立っていた。
「いえいえ、無事に着けてよかったです。」
「優しいお兄ちゃんに出会えてよかったね!おばあちゃん!」
「そうだねえ。何かお礼をしなくちゃねえ。」
「いえ、健太君のお家のカギを探さないといけないので構いませんよ。」
「そうは言ってもねえ。あ、クッキーがあるから持って行ってちょうだい。」
「ありがとう!おばあちゃん!」
「こちらこそありがとうございます。断るのもなんですし、せっかくなのでもらいますね。」
「ええ、いっぱい持って行ってね。本当に助かったわ。」
「ええ、では。」
「ばいばい!おばあちゃん!」
 別に、お礼のクッキーをもらったから思うわけでもなく、人から感謝されるっていうのはなかなか気持ちいいものだと僕は思った。自発的に手助けをしようと思ったわけではないのだけれど……。
 「お手伝いしたら気持ちいいね!お兄ちゃん!」
 どうやら健太君も同じことを思っていたみたいで、満足気な顔でクッキーを頬張っている。でも、僕はまだ君のお家のカギを探すっていうお手伝いが残っているんだけどね。
 「うん、そうだね。次は健太君のお家のカギを探さないといけないね。」

 また、僕たちはカギを探し始めた。確か、記憶によれば健太君の言う小学校はもう少しのはずである。そこまでの道のりにあればよいが、そこにもなければ後は学校の中か……。
 健太君もだんだん事の重大性に気付いたのか、残りのクッキーをランドセルにしまって真剣にカギを探している。しかしそれでもカギは見つからずに、いよいよ学校の前まで来てしまった。
「カギ、見つからないね……」
さっきまで元気だった健太君も、しょんぼりしてしまっている。
「見つからないね。でも、教室にあるかもしれないよ。頑張って探そう。」
最初は成り行き上、嫌々手伝っていたカギ探しではあったが、今では真剣になって探している自分がいることに気付いた。学校の教職員の方に事情を説明して、学校の中を探させてもらったが、やはり見つからなかった。
 「やっぱりなかったね……」
落ち込んだ健太君の顔は、いよいよ泣きだしそうで、出会ったときと同じような表情をしていた。
 「絶対見つかるさ。今度は学校から、お家までの道をまた逆戻りして探してみよう。」
心から健太君の為にカギを見つけてあげたいと思っていた。誰かのために何かをしてあげたいなんて思うことはいつ以来のことであろうか。
「まずは、おばあさんからもらったクッキーを食べて、元気を出そう。」
「……うん。」
健太君は涙目になりながら、ランドセルに手を入れた。そのとき
「あっ!」
「どうしたの?」
「カギあった!ランドセルの中に入ってた!」
 僕は言葉を失ってしまった。今までの苦労はなんだったのだろうか……
「ごめんね、お兄ちゃん!ありがとう!」
でも、健太君が喜んでいるし別にいいか。

健太君やおばあさんと出会ったその日の晩から、僕は就職活動に真剣に取り組み始めた。あの日までまったく働く意欲のなかった僕だったが、あの日から変わった。誰かのために僕が働くことで、誰かが喜んでくれる。それは僕にとっても喜ばしいことなんだとわかったからだ。小学生のためにカギを探すことだって、おばあさんのために重い荷物を運ぶことだって、就職して働くことだって、すべて誰かの、僕の喜びに繋がるはずなんだ。

「僕の休日」

122128

 「いらっしゃいませー」
 「お次の方こちらにどうぞー」
 ここは某ハンバーガーショップ。店内はかなり賑やかである。休日ということもあり、レジまで行列を作っている。
 あまりに人が多いので前も見えない僕は、店内のいたるところに貼られたメニューをぼーっと見つめる。
 「お次の方どうぞ!」
 
 元気の良い声に我に返って前を見ると、次は僕の番である。
 とっさにメニューに描かれている写真をいくつか指さし、注文を済ませる。基本的に何が出されようが僕には関係ないのであって……今は何を食べるかではなく、どこで食べるか、か重要なのだ。
 トレーに乗せられた商品がそろっていく。チーズバーガー、ポテト、ジュースのセット。キャンペーンでおまけのストラップが貰えるようだが、そんな子どもっぽいもの、どこにつけろというのだ。邪魔になるから断っておいた。
 それにコーヒーも一杯追加で注文する。
 ここはいたって普通のファストフードだが、コーヒーはそこそこおいしいと評判なのである。
 「お待たせいたしました」

 さて、次が一番重要な作業だ。
 これが今日の僕のランチタイムを左右すると言っても過言はない。込み合った店内の中でも、どの席に座るのかということは非常に重要な選択である。
 普通の人は、とにかく空いている席を見つけると、そこに座ってしまいがちなのだが、そんなことは初心者がするものである。空いている手前の席にあわてて荷物をどさっと置く若い女性たち。
 わかってないなーと横目で流しながら、店内を一周する。
 三連休の日曜日、しかもここは駅前の映画館の近くということもあり、家族連れや女子高生、休日出勤かサービス業関連か、サラリーマン風の人までごった返している。
 選択肢は三つ。
 一つ目は、窓際のカウンター席。
 二つ目は、二人掛けのテーブル席。
 三つめは、店内中央のカウンター席。
 「どれにしようか……。」
 なにせ、早く決めないと席が無くなってしまうので、ここは長年の経験と鋭い洞察力に頼るしかない。
 こういう場合は、脳内トーナメントを開催する。
 お分かりいただけると思うが、脳内トーナメントとはその名の通り、頭の中でトーナメント表を作り、最上のものを決めるというものである。僕は日常的にこの手法を使う。例えば休日の予定であったり、その日の食事であったりとかね。彼女だって一番いい人とお付き合いしたいから、もちろんこの方法に当てはめるよ。いい男っていうのは、その時々の選択を間違えたりしないものなのさ。

 まあ、僕の頭の中なんてどうでもいい。
 今大切なのは、席をはやく決めてしまうことである。
 この場合は、カウンター席同士で戦わせ、テーブル席はシードだな。
 基本的にカウンターというものは、総じて狭いものなのである。隣の席の人の肘にぶつかったこともあるし、飲み物をこぼしてしまう可能性もなきにしもあらず、だ。
 一回目の勝負の決着は早く着いた。店内中央のカウンター席の勝利である。なぜなら、窓際のカウンター席からは、噴水公園の景色しか見えないのである。 
 確かに今日は晴れていて気持ちいいが、それでは何のために来たのか分からない。 
 さあ、次はテーブル席との勝負であるが、これは非常に難しい。
 テーブル席の方がやはりゆったりしていて本も読める。しかし、向かい合った二人掛け席であるから、目の前に誰もいないテーブル席というのは少しさみしい。
 それに比べて、カウンター席はコンセントがある唯一の席種のため、ほとんど若い女性がスマホを充電しながら座っている。僕はそんなものなどなくても、この世の中で暮らしていけるので、そんな文明的なものは持ってはいないのだが…これは面白そうだ。
 「すみません、ここ空いていますか?」
 と紳士的に声を掛けようと思ったが、よく気が付く女性は、僕とふと目が合うと、にっこりして荷物を端に寄せてくれた。いいすべり出しである。
 無事に座席を確保した僕は、さっそく周りを見渡す。
 右隣には、一人でコーヒーを飲んでいるOL風の女性。その隣には模試帰りかなにかの女子高生二人組。左隣りはいかにも不良、というようなピアスをじゃらつかせている、金髪の青年が一人。
 このカウンター席、30センチほどの半透明の仕切り版を挟んで、向かい側にも同じような席がある。ようは、一つのテーブル席を仕切り板で、半分にしたような感じと言えば分るだろうか。ぼくの向かいには、これまた女子高生くらいの三人組。
 
 さて、今日はこの人たちの話にも耳を傾けてみるか。
 あ、紹介しておくのを忘れていたが、僕が何のためにこんなところでランチタイムを過ごしているのかというと、人を見るためである。つまり、人間観察というものだ。
 この人間観察の面白さについては、語っていると長くなるので省略するが、なんとも魅力のあるものである。それに、普通にランチを食べるよりも実に生産的ではないか。
 人間観察といっても、じっと見ているだけではただの変な人である。そこを変な人に見られないように注意しながら、観察を進める。今日のこの時間だけ、ランチタイムをともに過ごす仲間。その仲間の性格も、背景も何一つ知らないが、それを脳内補完するのが人間観察の醍醐味である。
 もう、隣から面白そうな話が聞こえてきている。
 
 「あみちゃんってこんなにかわいかったっけ?」
 「これ、絶対にプリクラやからやろー。目とかめっちゃもってるやん。」
 「そうやんなー。しかもなんか自分がかわいく見えるポーズとか、絶対わかってそう。」
 「ほんま、それなー。家でこっそり研究してそう。」
 「うわ、ほんまないよなー。どんだけモテたいねん。」
 二つ隣の女子高生である。
 仕事柄、女子高生と接することなどめったにないし、僕には子どももいないので、この言葉づかい、とても新鮮である。
 しkし、女の子はつくづくおそろしい話をさらっとするもんだ。
 それに、携帯をいじって、もう一人に見せながら話しているのだが、カウンター席を覗き込むように身を乗りだして話しているもんだから、僕のすぐ隣のOL風女性に話しているようにも見えて、なかなか面白い構図になっている。
 
 「そういえば、あみちゃんってパーマあてた?」
 「そう、それ思った!」
 「なんかさ、ちょっと前から怪しいなーとはおもっててんけど、なーみーもそう思ってた?」
 「思ってたー!なんか後期に入ってからおかしいなーとは思っててんけど、みゆも気づいててんや。」
 その女の子たちの声は、それは大きく、少なくとも一帯のカウンター席の人は皆、話を聞こうと思っていなくとも、容易に話が把握できているのではないだろうか。 
 
 「それでさ、パーマって3年生にならんとあてたらあかんやん。」
 この声は「みゆ」の方だ。
 「ほんまや、今改めて考えたら絶対にあかんやつやーん。」
 「あ、でもこれ、パーマじゃないとか誰か言ってたかも……。」
 「え、うそー。これ絶対パーマやって」
 高校生って元気があるなあ。
 一体「あみちゃん」というのは、どんな髪型をしているのか、非常に気になる。この席からは身を乗りだしたって見ることはできないのは分かっているのだが、見れないと分かると見たいもの。僕はポテトをちまちま食べながら、まだ見たこともない「あみちゃん」を想像するのである。

 「でさ、どうやってこんなクルクルにできたと思う?」
 「え、知ってる?」
 「なんか、バスケ部の子から聞いた話やねんけど、三つ編みしたらこうなったらしい」
 「え?三つ編み」
 
 僕の心の声と女の子の声が重なった。
 みつあみって、僕でも知っているあの三つ編み、か?
 あれはクルクルというよりも、サラサラな髪の人がするイメージだぞ。

 「寝る前に、みつあみをめっちゃ作るねんて。レゲエみたいに」
 「あー。現地の人みたいな?」
 「そうそう。それで、朝起きてみつあみほどいたら、いい感じにクルクルなってるらしい」
 「めっちゃいいやん」
 「やろ。やろかな」
 「やる?」
 「じゃあ、今度一緒にやろーや、家で!」
 「うわ、めっちゃ楽しみやん!!」
 
 何とも斬新なアイデア。
 一体だれが初めに思いついたのだろうか。
 三つ編みをしていたら寝にくくないのか?いや、寝にくいだろう。
 しかも、「現地の人」はよく分からないけど、とにかく全ての髪をあむのだったら、相当時間がかかるし、面白いことになるだろう。
 夜中に火事でもあって、外に出る必要があったらどうするんだ。とか思い、またその時の空想を膨らましながら今度はチーズバーガーにかぶりつく。
 そんな女子高生たちの斬新なアイデアに耳を傾けていて気付かなかったが、左隣の席の不良風青年がいなくなって、代わりにおばあちゃん群団が座っていた。
 群団といっても三人しかいないのだが、その三人が放つ存在感はかなり大きかった。 
 第一印象は、なぜこんなところに。
 そして、ハンバーガが食べられるのか、という疑問だった。
 それも、そのおばあちゃん達は、見た感じ80歳はゆうにいっていると思うのだ。
 ちょっとコーヒーでお茶でもするのかと思っていると、運ばれてきたのは大盛のポテト三つ、ダブルハンバーガー、それにジュースである。
 
 もっとも年長の女性が、ゆったりとした声で、
 「ポテトが一番だわあ」
 というのが聞こえてきたが、これはどう考えても3人では食べきれない量のポテトである。一つのトレーは全てポテトに占領されているではないか。
 それに、このおばあちゃんたち、別に体格がいいわけでもなく、どちらかというと、線が細いタイプ背ある。テレビでよく健康青汁や、グルコサミン?コラーゲンやらサプリメントの宣伝がされているが、それに出て来てもおかしくないような、健康的な見た目をしている。
 
 「西田敏行いい役だったわねぇ。」
 「ほんとに感動しちゃったわ。でもあの映画、最近観たことあるよねぇ」
 「うん。内容覚えてたわー。題名はなんといったかしら……。」
 「あ、そうなの? しのはらさん、映画館に見に来たのかしら」
 「えー。私はめったに映画を見に行ったりしないのよ。もったいないじゃない。」
 「そうなの?」
 「きっと私、家でみたのよ」
 
 え、――そんなことあるはずない。と声に出さずに突っ込む。西田敏行が主演の映画は最近公開されたばかりで、今日、全国ロードショー初日だとさんざんCMで宣伝していたはずだ。
そんな最新の映画がテレビでやっていたなら、それじゃあ映画館に見に来る意味がないではないか。
 きっとちがう映画のことに違いない。
 見たかった映画なので、できるだけおばあちゃんたちのネタバレ情報が入ってこないようにしながら、
 ポテトを片付ける。視界のすみに、ポテトにシェイクをつけて、お互いに「あーん」としているカオスなカップルが入ってしまったが、後で見に来ることにしよう。
 
 「それで話が大体わかってたのよ」
 「でも、田中さん、結構寝てたわよ」
 「ねー?」
 おばあちゃんの一人がなぜか突然僕に同意を求めてきた。
 「はぁ」
 おばあちゃんは満足そうな顔をしてまた、三人で話し始める。

 もう一度言うが、最高齢だと思われるおばあちゃんは、かなり痩せていて、ファストフードなんか食べていなさそうなのに、一口でポテトをひとつかみくらい食べている……。
 一方、シェイクとポテトのカップルはというと、まだやっている。
 
 休日ランチに出かけるというのは、いつもと違ってまた楽しいものだが、こういうカップルも多く目に入ってきてしまう。僕の方はというと、生まれてこの方、交際が1か月ともったことがない。
 なぜなら、気に入った女性のことを観察対象として見てしまうからなのだ。僕の観察眼は鋭く、どんな些細なことでも見てしまう。例えば、彼女が僕と一緒にいても、違うことを考えている、なんてことはすぐにわかってしまうのだ。不幸な能力をもってしまったものである。
 今度こそと思って、想像を膨らまさないようにしていても、僕の頭の中は沢山のサイドストーリーで溢れかえってしまう。あぁ、ほんとうになんて能力を持ってしまったんだ。
 
 僕が3つ目の恋を思い返しているとき、カップルが急にこっちを見てきた。まずい、見ていることに気付かれてしまったかと思ったが、こんな時は、ナチュラルに目をそらすことに限る。
 そもそも僕は、じっと見ているわけではない。正面を見ているようで、うっすらと目をあけている。
 カップルは、何事もなかったように、彼女は彼氏の膝の上に座っている。
 「すみません」
 その彼女が急に僕に話しかけてきた。
 「は、はい」
 「写真をとってもらえませんか」
 「えっ」
 「あの、ここ押したら撮れるから。わかる?」
 (なんて馴れ馴れしい口調なんだ、最近の若者は)
 なんて、ついおじいちゃんみたいなことを思ってしまう。
 彼氏は携帯を渡してきた。周りには僕とおばあちゃんと怖そうな青年しかいない。僕しかいないのか。
 「はい、チーズ」
 「ありがとー」
 あぁ、なんで僕は他人のラブラブな写真を撮っているんだろう。
 
 ぼくは何をしているんだ…
 他の人の人生を観察し、脳内で……
 あぁ、そうか、この想像力(妄想力?)を生かせば、大物の小説家になれるんじゃないか。
 とんでもないことを閃いてしまった。思い立ったらさっそく実行に移したくなるのが僕の性分というもの。ショルダーバックから、どこかで貰って入りっぱなしになっていたボールペンを取り出し、紙ナフキンに物語のあらすじを書き始める。
 (なんだ、どんどん話が膨らんでいくぞ。これなら本でも一冊だせるかもしれない)
 男は心の中でそう思いながら、しかし、どんどん書き進めていく。登場人物の設定を書き終えた時点で、テーブルに備え付けの紙ナフキンは無くなってしまった。この昼の忙しさで、店員はレジにかかりっきりになっている。しかし、頭の中の想像はどんどん広がって、消えて行ってしまいそうになる。
 早く書かなくては。
 
 「すみません、それください。」
 さっきのカップルにお願いしてみた。
 「あ、これですか、いいっすよ」
 
 「あ、助かります。ありがとうございます」
 そういって、紙の束を受け取ろうとしたとき、彼女の方が身を乗り出してこっちを見てきた。 
 「何書いてんの?」
 相変わらずのなれなれしい口調。
 カップルはカウンターの向こうがわ、ちょうど斜めの席に座っているので、こちら側は仕切りの板で見えないはずだったが、油断していた。 
 「いえ、ジュースをこぼしてしまって」
 とっさの言い訳が苦しい
 「それだったら、これありますよ」
 と言って彼女が渡してきたのは、台拭き。全く必要ないと心の中で思いながら
 「あ、あったんですね、ありがとうございます」
 と愛想よく笑顔をつくり、青い台拭きを受け取った。一応拭いている動作をしておく。
 手がつかれるまで書き続け、そろそろ時間が迫っていることに気付く。本来、僕はひとランチタイムで大体10組は見ることに決めているのだが、今日は書きたいことが山ほどあって、それどころではない。しかし、タイムリミットは、刻々と迫っている。僕がここに入れるのはあと3分ほどとなった。
ガサガサと粗く書きなぐった。きっとこの字は僕にしか読めないな。
 エピローグが大方書き終わり、すっかり冷たくなったコーヒーを流し込んだところで―
 「うわっ」
 急に腕を掴まれた。迎えが来たのだ。
 僕はもうついていくしかなかった。来るのは分かっていたんだ。
 こっそりと紙をお気に入りのかばんに詰め込み、今日のランチタイムに分れを告げた。
  連れて行かれる寸前、
 「じゃあ、ボク、またね」
 と隣のポテトのおばあちゃんが手を振ってくれた。
 
 僕は30分ぶりに会えたお母さんの手をしっかり握りながら、手を振った。

「博士の恥ずかしい研究」

122210

 誰だって、「恥ずかしい」と思った経験があるだろう。僕にもある。どんな?いや、それは恥ずかしいから教えてあげない。
 さて、あるところに、天才と言われるおじいちゃん博士がいました。この物語は、博士の、ちょっぴり恥ずかしいお話。

 「気になったことは、気が済むまで、とことん研究する。それが博士ってもんじゃ。」
これは博士の口ぐせでる。博士は、子どものころからこんな性格らしい。常に疑問を抱いていて、常にそれを解決しようとしている。最近では、「不老不死のネズミ」や「一般人の宇宙旅行」が彼の代表的な研究成果である。そう、博士はあらゆる専門分野に精通していて、多くの成果を上げ、若いころから賞という賞を総なめにしてきた。いわゆる「天才」というやつだ。御年80歳にして、科学界の最前線で活躍している。むろん大金持ちだが、金に頓着する気配は一切見せない、まさに科学者の鏡だ。また、なんでもかんでも気が済むまでとことん突き詰めるので、研究に対する熱意は凄まじいものがあるが、それが災いして周囲の人間を怒らせたり、対立したりすることもよくあった。
かくいう僕もその中のひとりで、研究者としての博士は尊敬するものの、彼の人間性にはときどき腹を立ててしまう。が、僕はただの助手なので、彼を怒らせないよう、顔色をうかがう毎日である。僕が一人前の研究者になるためには、彼のそばで金魚のフンをしていることが最も近道なのだ。彼に懐柔され、彼に尽くすことで、いつか寵愛されるようになれば、と、気を遣う毎日だが、実際に彼の寵愛を受けているのは、不老不死のネズミ「チャーリー」と、ペットのパグだけなのだ。

ある日のこと。
博士は、日課の犬の散歩のため、毎朝早朝5時に目を覚ます。はずなのだが、結局起きるのは決まって午前7時。この空白の2時間、僕は朝食の用意をしながら、10分に一度博士に声をかける。助手の一日は目覚まし時計になることから始まる。めんどうくさい。
ようやく目を覚ますと、博士は散歩の前に、顔を洗って、歯を磨き、朝食を済ませ、また歯を磨き、パジャマから着替える。これを待つのにももう慣れてしまった。この後は長い長いトイレの時間だ。
午前8時。ようやく散歩の時間になった。
愛犬のパグは「まんぷく」という名前で、本当にお腹がはち切れそうなくらい太ったやつだ。顔もしわくちゃで、なにをしていても不機嫌に見えるところは、なんとなく、博士に似ているような気がする。犬は飼い主に似るなんて非科学的だと思っていたが、現実のものらしい。
パグという犬種は、生まれながらにして、悲しいハンデキャップを背負っていると聞いたことがある。博士を含め、パグ好きの人間は、決まって顔がぺちゃんこなところがいいと言う。ぶさいくなだけじゃないかと思うが、ぶさいくじゃなくて、“ぶちゃいく”らしい。
 パグは、その“ぶちゃいく”な顔のせいで、低い鼻があまり機能せず、体温調整が苦手なのだという。しかも、パグは忠誠心が高く、いつも元気なのが特徴らしい。歳をとっても元気で、主人が楽しそうにしていると、疲れも疲れても、そんなことはお構いなしにはしゃぎまわるそうだ。その結果、体温が上がりすぎて、死に至るケースもあるという。なんて馬鹿な犬なんだ。
だから、まんぷくの世話には細心の注意を払っている。もしも僕の不注意でまんぷくになにかあれば、僕は科学の世界から永久に追放されるだろう。

散歩のコースはいつも決まっていて、家を出て、徒歩15分ほどの大きな池のある公園へ行き、約3キロあるその池をぐるりと一周し、ベンチで休憩したり、ほかの犬たちと遊んだりして、また15分かけて帰るというものだ。その間、助手の僕は何をするのかというと、フンを入れる袋とトイレットペーパーを持って、博士とまんぷくのお供を務める。
この散歩が博士の脳をかなり刺激するらしく、ネズミの「チャーリー」も、元々は散歩の途中に捕まえたただのドブネズミだった。彼の独創的な研究を支えるもののひとつが、この散歩なのである。そういう意味では、この僕の仕事も、科学史に残る偉業と言っても過言ではないと思いたい。
ちなみに、他に彼の研究を支えているものと言えば、彼が決まって毎晩食べる出前のお寿司「金の皿」と、彼が生まれながらに持つ才能と、この僕ぐらいだろう。
目覚まし係と散歩係の他にも、掃除、洗濯、買い物、マッサージまで、日常のあらゆる雑務は僕の仕事になっている。
博士も大金持ちなんだから、さっさといい人を見つけて、僕を解放してほしいと思うが、僕も40代前半にして彼女もいないので人のことは言えない。そんな人を作る時間もなければ、お金もない。また、博士にそんな人を作らせるわけにもいかない。クビになったら終わりだ。博士が結婚することも、お手伝いさんを雇うことも、僕にとってはどうしても防がなくてはならないことなのだ。だから、こうして助手でいられるように、もう20年近く、毎日毎日、専業主婦のようなことまでやっているのである。ああ、情けない。

話を戻そう。
ある日のこと。
いつも通りの朝の時間が終わって、公園でまんぷくの散歩をしているとき、事件は起こった。
その日は小雨が降っていて、地面が少し濡れていた。僕たちはレインコートを着用し、まんぷくにもカッパを着せて散歩していた。
池を一周し、ベンチで他の愛犬家たちと話をしていたら、突然、「うわあああああ!」と博士が叫んだ。ふり返ると、博士が池に向かって芝生の坂を転がり落ちていた。足を滑らせたのだろうが、不運なことに、そこには飼い主の不始末で犬のフンが大量に落ちていた。
坂から這い上がってきた博士はフンまみれで、臭かった。ふっふっふ、と、心の声が出ないよう、必死で心配している顔を作るが、どこからどう見ても、そこにいたのは、泥とフンにまみれた初老のじいさんであった。近所の子どもや奥様方がくすくす笑う中、僕は博士とまんぷくを連れて博士の家に帰った。

「ああ、なんて恥ずかしいんじゃ!」
 家に帰り、シャワーを浴びている間、浴室からは彼の悲痛な叫び声が何度も何度も聞こえた。それもそうだろう。大衆の前で足を滑らせただけでも恥ずかしいのに、そのうえ坂を転がり落ちて、おまけに犬のフンまで浴びてしまったのだ。こんな誰もしたことのないような失敗をして、恥ずかしくないわけがないだろう。僕は過去最悪なまでに不機嫌な博士の姿を見ながら、面白いような、小気味いいような、可哀想なような気分でいながら、八つ当たりだけは勘弁してくれと祈っていた。
博士の叫び声が聞こえなくなり、シャワーの音も止んだ。しばらくしても出てこないので、様子を見に行こうとしたら、ガラガラと扉が開いた。
浴室から出てきた博士は、無表情で、何も言わずに研究室に入っていった。
これはまずい。もうずいぶん長く博士と付き合っているが、あんな博士は見たことがない。不機嫌なときの博士は、八つ当たりで僕に怒鳴り散らして憂さ晴らしをするか、ジムに行ってリフレッシュするかのどちらかだった。僕の心が全て心配モードに変わったが、もう手遅れだった。いくら声をかけても返事がない。
仕方がないので、僕は博士の家に泊まって、まんぷくの世話と、少し自分の研究をしながら、ときどき研究室に閉じこもる博士に声をかけた。しかし、その日はとうとう一度も返事がなかった。
次の日も、博士の応答はない。部屋の前に置いた寿司は、金箔をあしらった皿以外なくなっていたので食欲はあるようだ。少し安心したが、仕方なく、その日も泊まることにした。
次の日も、その次の日も、またその次の日も、博士は顔も見せてくれない。博士の引きこもり中、病院に相談しようか、カウンセラーに相談しようか、博士の親友に相談しようか、博士の家族に相談しようかと、さまざまなことを考えたが、結局は、博士の名誉のために僕一人でなんとかすることにした。
部屋の前に食事を運び、それを回収するだけの日が十日を過ぎた。もう放っておいてもいいか、と諦め始めた十一日目の朝、博士が難しい顔をして出てきた。
「なあ、お前さん、恥ずかしいとは、どんな感情だ?」
あきれて何も言えなかった。博士の中ではもう先日のことは済んでしまって、また、次の疑問が現れたらしい。心配していた自分が馬鹿だった。少しは泊りがけで世話を焼いてくれた助手に感謝の言葉をかけてくれてもいいだろうに。
博士の質問には答えずに、十日分の洗濯物を一気に洗濯してしまって、今日はさっさと帰ってしまった。

帰る途中、「お前さん、恥ずかしいとは、どんな感情だ?」という博士の質問を思い出した。
なにを言っているんだ。恥ずかしいっていうのは、つまり、その…、あれ?うまく説明できない。いままで恥ずかしいと思う経験はいくらでもしてきた。子どものころから当たり前のように知っている感情だ。しかし、説明しろと言われると、なかなかうまくいかない。
よし。この恥ずかしいという感情の正体を突き止めて、博士に僕を助手にしてよかったと思わせてやろう。あわよくば、それが出世につながるかもしれない。
研究者としての維持と出世願望を抱いて、僕は自分の家に帰ってすぐに国語辞典を調べた。
「恥ずかしい…自分の失敗や欠点を意識して、他人に顔向けできない気持ち」
ああ、確かにそうだ。恥ずかしいとは、失敗をしたときに生じる感情なのか。探していた答えは意外とすぐに見つかってしまった。だが、この説明なら納得できそうだ。よし、明日はこれを博士に報告して、仲直りしよう。

「恥ずかしいとは、自分の失敗や欠点を意識して、他人に顔向けできない気持ちのことではないでしょうか。ですから、失敗をしたときに自然に生じる感情だと言えると思います。」
次の日の僕の第一声だ。「先日の博士のように。」は絶対に言わないよう、我慢した。
「うーむ、少し違うな。」と博士は言った。もう先日のことを気にしている様子はなかった。昨日すぐに帰ってしまったこともお咎めなしだ。
「もしそうなら、人はいつ悔しいと思うのじゃ?」
たしかにそうだ。自分の失敗や欠点を意識して、他人に顔向けできない気持ちのことを「悔しい」というときもある。しかし、当たり前だが、「悔しい」と「恥ずかしい」では意味がぜんぜん違う。では、「悔しい」と「恥ずかしい」はいったい何が違うのだろう。

家に帰って、悔しいという気持ちについて考えた。僕にとっては縁の深い言葉である。
僕は、博士のような博士になれるよう、博士の家から帰った後も、毎晩遅くまで勉強している。しかし、いつまでたっても助手をやっていることからもわかるように、頭の出来はあまりよくない。研究論文も、書き進めるたびに博士にミスを指摘されてばかりだ。
なぜ、研究論文のミスを指摘されているときは「悔しい」のだろう。なぜ、「恥ずかしい」とは感じないのだろう。なぜ、先日の博士は「恥ずかしい」と感じたのだろう。
あ、ひらめいた。

「劣等感につながる失敗が、他人に見られている、ということが、恥ずかしいという感情にとっては必要なのだと思います。」
どうだ!と言わんばかりの満面の笑みで、僕は昨夜のひらめきを博士に語った。
「悔しいという感情と、恥ずかしいという感情の違いは、そこに他人の目があるかどうかだと思います。不得意な分野の研究を一人で進めていて、途中に失敗があってもあまり恥ずかしいとは思わずに、むしろ、悔しいと思うはずです。しかし、人前で他人がしないような失敗をしてしまった場合には、きっと恥ずかしいと感じるはずです。」
人前で他人がしないような失敗をしてしまった場合については、博士のトラウマに触れてしまうリスクを回避するため、作り話の経験談を語った。
また、肝心の「劣等感」についても説明を加えた。
「たとえば、スポーツ選手が、世界記録に挑戦して、惜しくも失敗してしまったときはどうでしょうか。きっと恥ずかしいなんていう感情にはならないはずです。子どもが、先生の出した問題があまりに難しすぎて誰も答えられないときも、きっと恥ずかしくないはずです。つまり、いま挙げたような劣等感につながりにくい失敗のときは、人は恥ずかしいとは感じないのです。」
僕はすぐさま続けて、「このことから、他人の目だけでなく、劣等感につながる失敗というのも、恥ずかしいという感情にとってのひとつのポイントであると思います。」と言った。
決まった。これで、恥ずかしいという感情がうまく説明できた。しかも、初めて僕自身の、僕だけの力で博士の疑問を解決できた。このことは、僕の研究者としての今後に大きく影響するだろう、と調子に乗ってはいけないが、やはり嬉しい。博士の中で少しくらいは僕の株も上がっただろう。
「うーん、なるほど…。」
疑問が解決した割には、薄いリアクションだった。期待していたのは、もっと嬉しそうな、大げさなリアクションだったが、僕にはまだ早いということか。というよりも、博士の中でそこまで大きなテーマではなかったのかもしれない。でも、まあ、解決したのだから結構なことだ。これからもまだまだ、専業主婦を続けていこう。

数日が経ったある日、久しぶりに休みをもらった。たまには街へ出てショッピングでもしてみようと、電車とバスを乗り継いで、このあたりでいちばんの繁華街へ出かけた。
僕は昔からファッションというやつが苦手で、オシャレとか格好いいという言葉から縁遠い人間だった。それはオッサンと呼ばれる歳になった今でも変わらず、白衣でいるときには意識しないが、私服を人前にさらすときには緊張や恐怖を感じる。だから、家にあるのは無難な無地のポロシャツなんかが多い。この街の若者たちのような、個性的で、はでな服など恥ずかしくて着られやしない。
ん?はでな服を着ることは恥ずかしいことなのか?いや、少なくとも僕にとっては恥ずかしい。僕だけではなく、そう思っている人も世の中には多くいそうである。では、なぜはでな服を着ると恥ずかしいのか。劣等感につながる失敗をしたわけではないのに。
せっかくの休日なのに、また博士のポイントを稼ごうとしている。助手体質が染みついてしまったようだ。
結局ショッピングは早めにやめて、近所の図書館で考え事をすることにした。論題はもちろん恥ずかしいという感情だ。はでな服を着ることのように、失敗したわけではないのに恥ずかしいと感じる場合はないだろうか。
考え事をするときは、静かな空間に限る。図書館は最高だ。カーペットが敷いてあるので足音もしないし、なにより、静かにしなさいという絶対的ルールがある。ここの図書館も例外でなく、聞こえるとすれば本のページをめくる音ぐらいだ。なんとも集中できる。
「グー」
向かい側の席から、ふと音がした。見ると、若いОL風の女性が顔を赤らめていた。お昼時だから、きっとおなかがすいていたのだろう。恥ずかしそうに荷物をかたづけて、図書館から出て行った。
あった。失敗したわけではないのに恥ずかしいと感じる場合が。
おなかがすいて鳴るというのは自然な生理現象であり、失敗なんかではない。しかし、人前でおなかがグーと鳴ってしまったら、やはり恥ずかしいだろう。さっきの女性も顔を真っ赤に染めていた。
はでな服を着ることも、人前でおなかがグーと鳴ってしまうことも、「劣等感につながる失敗が他人に見られているということが恥ずかしいという感情にとっては必要」という僕の仮説では説明できない。失敗したわけではないのに恥ずかしいと感じるときが、たしかにある。

まだ博士の疑問を解決できていなかった。次の日、ショッピングでの唯一の戦利品であるパグのiPhoneカバーとともに、そのことを博士に報告した。
博士は早速それを付けて、まんぷくの顔の前にちらつかせながら、
「わしも同じようなことを考えておった。」
と言った。小学生の時、みんなの前で先生に褒められたことがあり、それが恥ずかしかったと言う。たしかにそれも、失敗したわけではないのに恥ずかしいと感じる場合の例だろう。
褒められているのに恥ずかしいという経験は僕にもある。しかし、あれは恥ずかしいというよりも、「照れくさい」という感情に近い気がする。
「照れくさい」やら「悔しい」やら、「恥ずかしい」には似たような感情が多い。それがこの問題をいっそうややこしくしているのだろう。だが、解決の糸口もそこにあるように思う。「照れくさい」と「恥ずかしい」の違いを明らかにしなければならない。

その答えは、たまたまテレビで見かけた、知り合いでも何でもないおばちゃんが教えてくれた。
そのおばちゃんとの出会いは、こちらが一方的に画面を通して見かけただけなのだが、あるバラエティ番組の食レポのロケだった。レポーターの俳優が町を歩いていると、呼ばれてもいないのにカメラの端で嬉しそうにピースサインをしていた。いわゆる野次馬だ。全国放送のテレビカメラの前に立つなんて、照れ屋の僕には考えられないことだが、そのおばちゃんは目立ちたがり屋なのだろう。そうでなければあんなことはしない。
そのときに思ったのは、目立つのが好きな人は「照れくさい」と感じないのではないか、ということだった。「照れくさい」という感情は、目立つこと、注目されることによって引き起こされるのだ。
しかし、目立つのが好きな人でも「恥ずかしい」と感じることはきっとあるはずだ。ハロウィンシーズンに派手なコスプレをして平気で街を歩く女子高生も、お正月にその格好をするのは恥ずかしいに違いない。「恥ずかしい」という感情は、単に目立つこと、注目されること以上の何かが引き金になっているのではないか。
その引き金は、「周囲の共感」であると考えた。つまり、「照れくさい」という感情は、目立つこと、注目されることによって引き起こされる感情なのに対して、「恥ずかしい」という感情は、単に目立つこと、注目されることによってのみ引き起こされるわけではなく、周囲の共感を得られないような目立ち方をしたときに生じる感情なのである。
だから、はでな服を着ることも、その服が周囲の人間から共感を持って受け入れられていると感じれば恥ずかしくはない。周囲の人間が「そんなはでな服よく着られるなあ」と思っていると感じてしまったとき、それが恥ずかしい感情なのである。
また、人前でおなかがグーと鳴ってしまうことも、「そうだよなあ、おなかがすいたよなあ」と周囲から共感を得られればなんら恥ずかしいことではない。
世界記録への挑戦失敗も、先生の出した難しい問題も、そして、みんなの前で先生に褒められることも、同様のことなのだ。

このことを博士に伝えると、博士はすっきりした表情で、「ありがとう!」と言った。普段はどんな仕事や家事を手伝っていても聞けなかったセリフが、いとも簡単に聞くことができた。博士にとって疑問が解決することはそれほどまでに大きなことなのかと、違いすぎる価値観を感じながら僕は大きな満足感と達成感を感じていた。

それから一週間が経ち、相変わらず助手として博士の家の掃除をしていたとき、また事件が起こった。
掃除機をかけていた僕は、研究室の床にある大きなシミを巨大な虫と勘違いし、ひとりでびっくりしてしまった。
そのとき、心臓が止まりそうになるほどの大きな驚きの後に、とてつもない恥ずかしさを感じた。目立ってしまったわけでも、周囲の共感を得られなかったわけでもなく、ただ一人で驚いたことがとんでもなく恥ずかしかった。
また、僕の仮説は打ち破られた。
「恥ずかしい」の研究はまだまだ終わりそうもない。僕が博士をあっと驚かせられるのはあと何年先のことだろうか。そもそもそんな日が来るのだろうか。
ああ、このままでは一生かかっても博士になんてなれそうもないな。なんで僕の名前は「博士(ひろし)」なんだ。
恥ずかしい!

「合コン・イン・ザ・ダーク」

122206

 私立金星学園。俺が通うこの中高一貫の男子校が、難関国公立に大量の合格者を輩出していたのは今や昔、最近の金星は勉強もスポーツも大した実績のない平々凡々な進学校に成り下がっていた。
 四方八方どこを見ても男しかいないこの学園生活も、終わりを迎えようとしていた。今日は卒業式である。
 入学当初は、期待に胸膨らませる、文字通りのピカピカの一年生だったので、教室に男しかいないという異常な状況に何の疑問も持たなかったが、学園生活に慣れ、思春期を迎える中2の頃には、女子と一切関わりのない生活を嘆き、この学園に入学したことを後悔するようになっていた。
 しかしながら、男子校生活を数年も続けていると、女子と接する機会が皆無なのは男子校生徒の宿命だ、といった風な半ば諦めにも似た表情で、そして、「大学に入学すれば彼女ができる」という何の根拠もない風説を信じ、日々を過ごしていた。
 当然、俺もそんなことを考えながら、金星での日常を過ごす生徒の一人であったわけだが、この虚しくも平穏な日々にセンセーショナルな事件が起きたのは、忘れもしない、高校2年の秋のことであった。卒業を迎えた今、あの日の出来事が走馬灯のように、俺の脳内を駆け巡った。


「なあ、篠田。彼女ってどうやったらできると思う?」
 彼が下校中にこの言葉を発するのは何十回目だろうか。俺はいつもと同じ言葉を斉藤に返した。
「さあな。俺も知りたいよ」
 斉藤は中学一年のときのクラスメイトで、席が前後だったことから仲良くなった。学年が変わり、中二から高一の三年間は別のクラスになっていたが、今は同じクラスでお互い帰宅部ということもあり、下校を共にすることが多かった。
 テレビやゲームや音楽の話をしながら、今日まで何百回と歩いてきた通学路を、登校時はとは逆方向に歩いて最寄り駅に向かう。駅に着いたら改札に向かって、片道三十分弱の電車旅で家へと向かう。
 変わり映えのしない、退屈だが平和な一日が、今日も終わろうとしていた。
 斉藤とは路線が違うため、いつもと同じ、駅の近くの噴水広場に差し掛かったあたりで別れの挨拶をしようとしていた時だった。
「――あの、ちょっといいですか?」
 不意に後ろから、女の子の声がした。道でも尋ねられるのかと思い振り返ると、そこにはセーラー服に冬用の黒いセーターを着た、二人の女子高生が立っていた。
 振り返った俺たちに、彼女らは食い気味に言葉を継いだ。
「――あの! えっと、その……」 妙な間が空く
「突然なんですけど……」
 もう一人の女子高生が、俺たちに声を掛けた女子高生を小突く。
「――合コン、しませんか?」
 ……ごうこん? ごうこんとはなんだ? ああ、合コンか……合コンだと!?
「合コンっていうと、あの、その、男と女が一緒にご飯食べながら話したりする……?」
 斉藤も動揺している。
「はい、その、合コン……です……」
 まさか俺たちは女子高生に合コンに誘われているのか?
 ようやく俺の頭が状況を把握し始めた。どうやら彼女たちは俺たちと合コンがしたいらしい。しませんか、と疑問形で聞かれているのだ。何かしらの返答をしなければいけない。どう答えるべきか相談しようと斉藤の方を向くと、彼も同時にこちら向いたところだった。
「おい、どうするよ。合コンだってよ! これ、もしかすると、もしかしなくて、彼女を作るチャンスなんじゃないか!」
 斉藤は少し興奮気味だ。もう彼の中で答えは決まっているのだろう。
「ああ、そ、そうかもな」
 俺は至って冷静に答えたつもりだった。しかし、様々な感情が渦巻き、平静を保っていられなかったのは俺も同じだったらしい。二人の返答はもう決まっていた。
 俺たちは同時に言った。
「よろしくお願いします!」

 斉藤は校則に従い携帯を家に置いてきていたので、俺が黒田さんと連絡先を交換し、詳しいことはメールで決めようということになった。
 黒田さんというのは声を掛けてきた方の女の子である。彼女との何回かのメールのやりとりで、合コンは四対四で行うことと、日時が決まった。
 相手側と連絡を取っていたのが俺一人だけだったため、形式上、俺は男側の幹事という立場であった。幹事が合コンまでにしなければならないことが二つ。どこで何をするかを決めることと、面子を揃えることである。
 場所は普段、俺たちがよく行くファミレスに決定した。近辺の学校の生徒も多く通う店で、健全で問題ないだろう、ということになった。
 面子にもアテがあった。斉藤が組んでいるバンドのメンバーたちである。斉藤は今年の夏頃からギターを初めていた。理由は単純で、高校最後の学園祭でライブをするという思い出を残したいからであった。そのために同じ学年の3人と、彼はフォーピースバンドを結成していた。
 ドラムの濱田には、去年の学園祭で知り合ったという彼女がいたので、ギターボーカルの河野とベースの栗山が合コンに参加することとなった。
 全ての準備が整った旨を黒田さんにメールをした。「わかりました。楽しみですね」という短い文面とともに、可愛らしいうさぎの絵文字の入ったメールが返ってきた。
 携帯電話を持ったのが中学に入ってからだったので、女の子とメールをするというのは初めて経験であった。女の子とメールをしている。これだけもう、俺の心は有頂天になっていた。もしかするとこの合コンで、人生初の彼女ができるかもしれない。そんなことを考えながら、合コン当日を、指折り数え待つ日が続いた。

 ついに合コン当日がやってきた。集合は午後一時だったが、浮き足立っていた俺たちは十二時半には例のファミレスに集合し、作戦会議を行っていた。
 作戦会議と言っても、俺たちに合コンの経験なんてない。作戦なんて立てられるわげなく、話の中心は、「もし彼女ができたらしたいこと」に変わっていた。己の欲望を正直に出した議論の盛り上がりが最高潮に達しようとしていたとき、机に置かれていた俺の携帯に着信が入った。黒田さんからだった。駅についたから迎えに来てほしという旨だった。
 斉藤と河野を店に残し、俺と栗山が駅まで迎えに行くこととなった。席を立つ直前、なぜか俺は斉藤と河野とハイタッチを交わした。合コンを前にして少し変なテンションになっていた。
 ファミレスから駅までは徒歩ニ分程度である。この二分間の道のりを、金星生は俗に「ゴールデンコース」と呼んでいた。なぜならファミレスの地下にはカラオケがあり、ファミレスと駅までの間にはゲーセンがあるからだ。ファミレスで食事をしたあとにカラオケで盛り上がり、プリクラを撮って〆る。今日のプランは完璧だった。その道すがら、栗山が俺にある質問をした。
「そういえば、お前が連絡取ってた黒田さんって、可愛いのか?」
「どうだろ。覚えてないけど……かわいかった……と思う」
「は? 覚えてないってどうことだよ。お前、会って話したんだろ」
「ああ。でも会話したのはものの数分だったし、ちゃんと顔は見てない。……いろいろ恥ずかしかったし」
「ったく、なんだよ。プリクラくらいもらっとけよな」
 そんな会話をしているうちに駅に到着した。改札の前で待つこと十数分、約束の十三時を五分ほど過ぎたころ、遠くに四人組の女の子たちの姿が見えた。
 きた。ついにきた。
 隣を見ると、普段はクールな栗山の顔が、心なしか綻んでいる。
 四人の女の子たちが近づいてくる。顔がはっきりとわかる距離まであと数m。女の子たちは一歩一歩近づいてくる。一人がこちらに向けて手を振っている。女の子たちが改札を通過し、俺と栗山の前までやってきた。
 俺は四人の女の子を一瞥したあと、隣に立つ栗山に視線を向けた。
 栗山は、この世の終わりのような顔をしていた。
 おそらく俺も同じような顔をしていただろう。俺たちの目の前には、「かわいい」とは正反対の位置に座する四人が立っていた。

 女の子たちとは数mの間隔を保ちながらファミレスへと向かう。
「だからプリクラくらいもらっとけって言ったんだよ……」
 栗山は明らかに不機嫌である。
「ごめん。本当にごめん」
 栗山の機嫌が悪くなるのは自然の道理であった。白鳥を見に湖に行ったら、亀しかいなかった。彼の心境を例えるならこんな感じであろう。心中お察しする。
「帰ってもいい? なあ、帰ってもいい?」
 ファミレスに近づくにつれ、栗山の機嫌はどんどん悪くなる。帰るのだけはやめてくれ。俺も正直帰りたい。
 駅からファミレスまでの道のりは二分足らず。無情にも今日の会場は目と鼻の先である。二人プラス四人はファミレスに到着した。
 四人を連れて斉藤と河野が待つテーブルへと向かう。彼らと女の子が対面したとき、彼らは駅での栗山と同じ表情をしていた。
 八人が着席し、待ちに待った合コンの火蓋が切って落とされた。

 座ってからしばらくの間、沈黙が続いた。実際に沈黙していたのは男四人だけであり、女の子たちはというと、時折こちらを見ながらひそひそと話していた。俺たち四人はさながら地蔵のように固まっていた。
「えっと、とりあえず自己紹介でもしよっ、か……」
 沈黙にしびれを切らしたのか、普段は底抜けに明るい性格の河野が会話の口火を切った。まずは男四人が自己紹介をした。話すことを脳が拒否しているのか、四人は名前以上のことを言わなかった。学生客や親子連れで賑わう、休日の昼下がりの店内の雰囲気とは裏腹に、四人の声は消え入りそうなほど小さかった。
 次に女の子たちが自己紹介した。一人目は例の黒田さんである。彼女はこの四人の中で比較的、ある意味特筆すべき点のない控えめな容姿をしていた。
 二人目は有田さんといった。少し顎が出ていて滑舌が悪い。何故か好きなブランド名を話してくれたのだが、滑舌の悪さと、そもそも俺たちに女性ブランドの知識がないことが相まって何を言っているのかほとんどわからなかった。大変失礼なことではあるが、合コン後、俺たち四人は有田さんの特徴と名前をもじって「アリゲーター」と呼んだ。
 三人目は吉岡さんといい、漆黒のゴシックロリータファッションに身を包んだ女の子であった。俺たち以上に声が小さく、これまた何を言っているかわからなかった。
 最後の四人目は福田さんと名乗った。このテーブルに座る八人の中で最もいい体格をしていた。
 自己紹介の後、再び俺たちに沈黙が訪れた。しかし、今回の沈黙は店員によって破られた。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
 とりあえず女の子たちにお伺いを立てる。その役は、斉藤が買って出てくれた。
「何食べる? 俺らここめっちゃ来てるからどれが美味いとか結構わかるで? このミートソースとかおすすめ!」
「これとこれ、あとこれで」
 女の子たちは、斉藤の善意に耳を傾けることなく、ドリンクバーとデザートを注文した。
 斉藤は血が滲みそうなほど拳を強く握っていた。耐えてくれ斉藤、食事が終わるまでの辛抱だ。俺たちは怒りを食にぶつけるかのごとく、パスタやピザ、サイドメニューのポテトを普段の倍ほど注文した。

 料理が来るまでの間、せっかくの合コンなのだから、お互いのことをよく知ろうという河野の案で会話が始まった。
「たしか、黒田さんと有田さんが、斉藤と篠田を合コンに誘ったんよな? もしかして斉藤か篠田がどっちかのタイプだったりするん?」
 河野が俺の気になっていたことを聞いてくれた。いくら容姿が人並み外れた彼女たちからであれ、同年代の女の子に好意を持たれて悪い気はしない。「合コンしませんか?」なんて、言ってしまえば逆ナンである。声を掛けられただけでも男としての箔がつくというものである。
「えっと、最初は海星学園の人を誘ってたんだけど、全部断られて、じゃあもう、って感じで……」
 海星学園というのは、ここから2キロほど先にある金星と同じ中高一貫の男子校である。ここ数年で海星は実績を伸ばし、さらには来年からの共学化が決まり、生徒が海星に奪われているという噂がある。金星生は海星をライバル視しているが、金星には海星に対抗出来る要素など何一つなく、ライバル視というよりもはやただの僻みや妬みであった。
 なるほど。俺たちは海星の代わりだったと言うわけか。男の箔もへったくれもありゃしない。俺のプライド脆くも崩れ去った。
 この会話の間、栗山はというと、心ここにあらずといった感じで、ひたすらにミルクティーにシロップを入れてはストローでかき混ぜていた。
 
 料理が運ばれてきてから、俺たちは食べることに集中し始め、また沈黙が訪れた。途中、斉藤が気を利かせてピザを八等分に切り分けるなどしていたが、福田さんの
「私たちお昼食べできたから」
の一言の前に、斉藤は取り付く島もなく、それからというもの黙りこくってしまった。
 
 ひと通り料理を食べ終わったあと、俺たちは何とかお開きにしようという雰囲気を作り始めた。
「今日は話せて楽しかった! また都合あえばなんかしよう!」
 河野がつとめて明るく言った。
 時刻は十四時。休日はまだまだこれから、という時間であるが、俺たちにこのあとも彼女たちと行動を共にする気力はなかった。
 「明日は月曜だし早く帰ったほうがいいよね?」
 およそ一時間ぶりに栗山が口を開いた。どう考えても晩に言うべきセリフであったが、異を唱えるものはいなかった。
 八人は会計を済ませ外に出た。ファミレスは建物の二階にあったので、俺たちが先導して一階の出口へと向かった。しかし、ファミレスから出るにあたり、一つの問題が発生した。
 この建物は一階がエレベーターホールで二階がファミレス、そして地下がカラオケになっている。地下にあるカラオケは、エレベーターとは反対方向にあり、エレベーターを使って二階に上がるときには視界に入らない。しかし、エレベーターから降りるとカラオケは真正面に見えてしまう。なんとか見せまいと、俺たちは女の子たちの視界を遮るように前を歩いた。
 しかし、その努力も虚しく
 「あ、カラオケあるやん! カラオケいこうよ!」
 アリゲーターの顎、もとい口から恐れていた言葉が飛び出した。
 俺たち四人は覚悟を決め、カラオケへと向かった。
 
「いらっしゃいませ。八名様ですね。ご利用時間はお決まりでしょうか?」
「そうやなー、三十分くらいでええんちゃう? 三十分くらいで」
 ファミレスでは率先して女の子とコミュニケーションを図っていた河野も、一刻も早くこの場から離脱したいようで、しきりに三十分を連呼していた。しかし、
「二時間で」
 カラオケが好きなのか、なぜかここにきて大きく強い声を出したゴスロリの吉岡さんの気迫に押され、二時間で入店することとなった。
 第二ラウンドの幕開けである。
 
 皮肉にも、パーティー用の大部屋が空いていて、そこに通された八人は、距離を取るように向かいのソファ同士に固まって座った。
「なに歌うー?」
「えー どうしよー 恥ずかしいー」
 カラオケボックス特有の、騒がしいBGMに混じって女の子たちの声が聞こえる。俺たちはというと、もはや女の子たちのことは無視して、歌うことを楽しもうという結論に至っていた。
 しかしそうはいっても、今回は合コンという形できているのである。最初の数曲程度は合コンの体裁を保とうではないか。潰れかけていたメンタルを何とか立て直した斉藤が女の子に提案する。
「俺ら一応バンド組んでるし、歌とかには結構自信あるで? デュエットとかしてみる?」
「ピピピピ、ピピッ!」
 女の子たちは、再びの斉藤の善意に耳を傾けることなく、各々が好きな曲を入力していった。斉藤のメンタルは、もはや拳を握る力すら残らないほどに潰されてしまった。
 
 最初の一時間はまさにカオスというにふさわしい状況であった。八人でカラオケに来てはいるものの、全員が全員、ただ好きな歌を好きなように歌うという空間になっていた。
 マイクが一周した頃、黒田さんがある提案をした。
「席替え、しない?」
 席替えは合コンにおける重要なファクターである。それまで離れた席にいた相手と近づき距離をつめることができる。しかし、合コン参加者にとって席替えが重要な意味を持つのは、自分の意中の相手が合コンに参加しているときにおいてのみである。この女の子とたちと一刻も早く別れたいと思っている俺たち四人にとって、距離が詰まる席替えは自殺行為といっても過言ではなかった。
 しかし、嫌だ嫌だと思っても、押しに弱い俺たちは席替えを受け入れ、男男女女の順で一つのソファに座ることとなった。男女男女とならなかったのは、俺たち四人の意地がなすところであった。
 俺たちは何とか差し障りのない会話を続けた。好きな音楽の話になり、吉岡さんが某男性二人組アイドルが好きだということで、河野と栗山がそのアイドルの曲を歌った。
 二人はバンドを組んでいるだけあって歌が上手く、特にバンドでボーカルを務める河野は、クラス一歌の上手い男としてある定評があったので、これは女の子たちも聞き入っていることだろうと考えていた。
 歌が二番のサビの終わりに差し掛かる頃、何やら歌声に混じって別の声が聞こえてきた。その声を辿ってみると、信じられない光景が目に飛び込んできた。
「アルプス一万尺〜こやりの上で〜」
 黒田さんと有田さんんがアルプス一万尺をしていた。
「って、なにしてんの君ら……」
 歌い終わった河野が当然のつっこみを入れた。
「最近学校で流行ってんねん〜」
 もしかしたら、この子たちにとって、人が歌っている最中にアルプス一万尺をすることは自然なことなのかもしれない。そう思わせるほど、屈託のない笑顔で黒田さんが答えた。
「そっか〜流行ってんのか〜へえ〜 ちょっとみんな連れション行こうぜ〜」
 河野は極めて穏やかな口調で、穏やかな笑顔で俺たちを外に連れ出した。部屋から出た数秒後、河野は
「なんっっっっっっでやねん!!!」
と、壁に向かって懇親のツッコミを入れた。
 部屋に戻るとちょうど終了十分前を告げる電話が掛かってきた。俺たちはそそくさと荷物をまとめ、フロントへと向かった。
 
 時刻は十六時にさしかかろうとしていた。西の空が暗くなり始め、そろそろ終わりを告げても、ある程度には不自然でない時間になろうとしていた。カラオケを出た一行は駅へと歩みを進めた。駅についてさようならを言えば、この合コンから解放される、ゴールは近いというのに、俺たち四人の足取りは重かった。
 ゴールデンコースは俺たちが幾度となく通ってきた道である。この先にどんな店があるのかは把握している。次の角を曲がった時どんな店があるのかを知っているのだ。
「あ、ゲーセンあるやん! ゲーセンいこうよ!」
 アリゲーターの顎、もとい口から恐れていた言葉が飛び出した。
 俺たち四人は覚悟を決め、ゲーセンへと向かった。
 
 騒がしい店内の奥へと進む女の子たち。彼女たちの目的であろうそれは、大抵ゲーセンの奥に配置されている。
 それとはつまり、プリント倶楽部、通称プリクラのことである。
 「4、4に別れて撮ろー」
 「河野くんと一緒に撮りたいー」
 「私は斉藤くんー」
 ここまで来ては仕方がない、俺は河野と有田さん、それから福田さんの三人とプリクラを撮った。
 有田さんと福田さんはカメラの前で様々なポーズを取っている。彼女たちはいったい何が楽しいのだろうか。そんなことを考えているうちに撮影が終わった。
 有田さんがプリクラをハサミでカットし渡してくれたが、俺はそれをそのままポケットへとねじ込んだ。

 ゲーセンを出ると、ものの数十秒で駅に到着した。
「今日は楽しかったねー」
 女の子たちは笑顔でそんなことを言い合っている。さっきも思ったのだが彼女たちは何がそんなに楽しいのだろうか。もしかしすると俺たちが精神をすり減らしている様子が楽しかったのだろうか。女の子たちはいつまでも今日の感想を言い合っている。
「それじゃ、今日はここまでということで……」
 河野が別れの言葉を言い、俺たち四人は改札へと向かう女の子四人を見送った。
 女の子たちは改札の向こうで笑顔で話しながら、時折こちら振り返りながら去っていく。女の子たちの姿が見えなくなった瞬間、俺たち四人は同時に
「よっしゃ!」
の声と共に、今日のストレスを発散させるべく、来た道を引き返し、カラオケへと向かった。この時の俺たちはとても清々しい顔をしていたと思う。
 家に帰り、ポケットから取り出した、くしゃくしゃになったプリクラを広げて見てみると、顔の横でダブルピースをしている有田さんと福田さんの後ろで、無表情の俺と河野が直立不動の姿勢で立っていた。


「なんやかんやであの合コンも、今となってはいい思い出やんなー」
卒業式の帰り、駅に向かう道で、俺の後ろを歩いていた河野がつぶやいた。
「いや、いい思い出ではないだろ もう一生合コンはごめんだわ」
隣の栗山が即座に否定する。
「それにしても、驚いたよな。まさか斉藤と黒田さんが付き合うなんてさ」
 実はあの合コンのあと、斉藤さんと黒田さんが交際を始めたのである。たしかに、あの四人のなかで付き合うなら、百歩譲って黒田さんを選ぶだろう。しかし、人が歌っている最中にアルプス一万尺を始めるような女のどこがいいのだろうか。
「春からは大学生だ。きっと大学には素敵な女の子たちがいる、俺たちはちゃんといい彼女作ろうな!」
 大学で彼女を作る。そう決意しながら、俺は後ろを振り向いた。
 なぜか河野と栗山は苦い顔をしていた。
「別に隠してたんちゃうけど、卒業式やから言うけど……俺と栗山、中3の時に彼女おったんよな……」
「俺と河野さ、中3のときB組だったじゃん。あのころのB組って、結構やんちゃなやつら多かったから、そいつらに女の子紹介してもらったりしてたんよ……なんか、ごめんな」
「あ、でも今はおらんで! すぐ別れたし。大学入ったらまた彼女探さなな!」
 
 そうか。そうだったのか。青春の六年間、彼女がいたことがないのは俺だけだったのか。思い返してみると、六年間で女の子と会話をしたのは、あの合コンでだけだったな。あの体験を、「女の子」と「会話」したとカウントしていいのだろうか。
 俺の合コンは、永遠に闇へと葬られた。

「呪文」

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「やあやあ。」
呼ばれてふと顔見上げると、そこにはいつもと変わらない友の顔があった。いつもと変わらない電車に乗って、いつもと変わらない制服に身を包み、いつもと変わらない挨拶をするトモヤにマサルはいつもと変わらない挨拶を返した。
「やあ、おはよ。」
「調子はいかが?」
調子はいかがと聞かれても、またいつもと変わらない日常が始まったにすぎない。
「いつもと変わらないよ。何も変わらない。平凡な日常の一つだよ。特別なことなんて何一つないよ。」
「僕は昨日あんなに楽しい気分だったのに、今日は全然違うんだ。君は特別だね。」
何を言ってるのか分からない。しかし、これもいつもの会話だ。マサルはトモヤの話を相手にせず、話を変えた。
「そうかい。ところで、今日は英語の単語テストがあるよね。君は大丈夫かい。」
と、マサルはトモヤに尋ねた。
「大丈夫なもんかい。君もしってるように英語は僕の1番苦手な科目だよ。特に英単語なんて最悪だ。どうも覚えることができないんだ。だから、僕は今日は朝から楽しい気分にならないんだ。」
話を変えたつもりだったが、なるほどトモヤの気分が優れない理由がわかってしまった。
「へぇ、そうかい。でも、確か君は暗記が得意じゃないか。」
「得意?得意というか、まぁ、得意だけど。英単語は別だよ。」
「何が別なんだい?」
「何が別って、そりゃ英単語は難しいんだよ。」
「難しいってなにが難しいんだよ。」
「君はおかしなことを言うなあ。難しいっていうのには理由が必要なのかい?」
 これだ。トモヤと話をしているといつもこちらがおかしいもの扱いされる。おかしいのはどう考えたってトモヤの方じゃないか。だから、マサルはいつもトモヤの話を半分しか聞かない。いや、聞けないと言った方が正しいだろう。
「そうかい。なら、頑張って呪文のように覚えるしかないよ。」
「呪文?それだ!呪文のように何度も唱えてみればいいんだ。」
 マサルには、トモヤの考え方本当に理解できない。
「ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。」(face 顔 clock 置き時計 lion ライオン foot 足 gun 鉄砲 hair 髪 dictionary 辞書 computer コンピュータ radio ラジオ baby 赤ん坊 coin 硬貨 knife ナイフ arm 腕albumアルバム ship 船 shoe 靴 card カード record レコード glove グローブ animal 動物)
 トモヤはカバンから英単語のプリントを取出し、何度も繰り返し同じ呪文を唱えた。
「ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。」
 マサルはつくづくあきれた。どう考えたってFACEをふぁせと覚えるよりフェイスと覚える方が効率がいいに決まっている。しかし、マサルはトモヤに突っ込むのが面倒になり放っておくことにした。
「ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ―――。」
 同じことを繰り返し言い続けている友といるとマサルはいつの間にか深く眠ってしまった。
 気が付くと、そこはマサルとトモヤの中学校の最寄駅だった。マサルは電車を降り、続いてトモヤが降りてきた。トモヤはまだ例の呪文を唱えているらしい。
「ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。」
 わからないやつだな。と、マサルがあきれていると別の車両から同級生のミオが降りてきた。そのときマサルは驚いた。
「ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。」
 ミオもトモヤと同じように例の呪文を唱えているのだ。
「やあ、おはよ。君も英単語の暗記をしているのかい?」
 マサルは少し馬鹿にしたように尋ねてみた。
「何を言っているの?意味が分からないわ。」
 ミオは怪訝な顔をして言い捨て、また例の呪文を唱えながら先に行ってしまった。
「なんだ?何かおかしなことを言っただろうか。」
 マサルはよくわからなかったその時ようやく気が付いた。周りの人が皆例の呪文を唱えながら歩いているのだ。
「ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。」
「ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。」
「ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。」
 駅員さんもサラリーマンもおばあさんもみんな。みんなとうとうおかしくなったのか。マサルそう思って急に不安になってきた。とにかくこの状況を整理しようと思ったが、いや、待てよ。とにかく元凶はトモヤだ。トモヤに聞けば何かわかるだろうと思ってトモヤを探したがどこにも見当たらない。必死で探したがどこにも見当たらない。探し回っているうちに一人の老人に出会い、声をかけられた。
「坊や。何かおかしいかい?」
「おかしいも何も皆どうしてあのへんてこな呪文を唱えているんだい?」
「坊や。君はまともなことをいうね。おかしな子だ。」
「まともなことを言うのがおかしいのかい?それはちがう。」
「なにも違わないよ。君はまともなことをいうおかしな子だ。」
 この爺さんはぼけている。関わっていてはならない。そう考えたマサルはとにかく学校に行ってみることにした。
 学校に到着してマサルはまた驚いた。四百人近くの生徒がカバンを持ったまま遊んでいるのだ。もちろん例の呪文を唱えながら。
「ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。」
「ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。」
「ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。」
 先ほど先に行ったミオも後輩のケンタも先輩のリョウタもみんな例の呪文を唱えている。すると、ケンタがマサルの気がつき、近寄ってきた。
「おはようございます。マサル先輩。何してるんですか?早く行きましょうよ。」
「やあ、おはよ。何してるはこちらのセリフだよ。どうしてみんな予鈴が鳴ったのに教室に戻らないんだ。授業を受けないのかい?」
「はは、先輩はまともなことを言いますね。」
「まともって、当たり前じゃないか。」
「先輩どうしたんですか?おかしくなってしまったんですか?」
「おかしくなったの君たちの方じゃないか!」
 マサルは激怒した。必ずこの意味不明な元凶のトモヤを懲らしめなければならぬ。しかし、教室についても誰も教室には居なかった。みんな例の呪文を唱えて校庭で遊んでいる。
「なんなんだよ。これはいったいどうなってしまったんだ。」
 マサルは嘆いた。
「どうだい?少しは分かったかい?」
 振り向くとそこにはトモヤが不敵な笑みを浮かべて立っていた。
「どうだい?マサル。人と違うというレッテルを貼られる気分は?僕の気持ちが少しでも理解できたかな?君は僕をよく変わった奴だという扱いをしてきたね。でも、本当に変わっているのは僕の方かな?大多数と違うから変わっている?本当にそうかい?自分と考え方が違うから変わっている?本当にそうかい?そうやって何でも自分の尺で君や世間の人は他人を離別してきた。もうわかるよね?この世界では、君が大多数に対する少数派でみんなからおかしいと思われるんだよ。結局君は大多数に流されるんだ。さあ、君もあの呪文を唱えるんだよ。」
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。ふぁせかおくろっくおきどけいりおんらいおんふぉおとあしぐんてっぽうはいあかみでぃくちおんありいじしょこむぷてあこんぴゅーたーらでぃおらじおばびいあかんぼうこいんこうかくにふぇないふあるむうであるぶむあるばむしぷふねしょえくつかるどかーどれこるどれこーどぐろべぐろ−ぶあにまるどうぶつ。」
マサルは目覚めた。
まだ電車の中だ。トモヤはまだ例の呪文を唱えている。
 マサルは安堵の溜息をついた。

「巡り合い」

122114

 明らかに三分以上たったであろうカップ麺を勢いよくすする。これで一週間連続で同じ晩御飯だ。いくら、食に関心がないとはいえ、こうもレトルト食品ばかり食べていると、体を壊す前に心の方が病んでくる。当たり前のように残業を終え、家族団らんの声でにぎわう大きな一軒家を後目に帰路に着く。刺激も、変化も、楽しみも、最近は何も感じない。かといって刺激がほしいわけではない。そんなもの、あったらあったで疲れるだけだ。楽しみがないわけじゃない。金曜日の晩に録画しておいたB級映画を見ながら晩酌しているときは、確かに、生きている意味を感じることができる。しかし、何かが違う。何かが満たされない。「結局はめんどくさいと言いながらも刺激を求めているのだろうか」たべおわったカップ麺を捨てて、そそくさと風呂に入る準備をする。「明日も六時起きか…」そんな当たり前のことを口にして、熱いシャワーを頭から浴びる。もうすぐ三十を迎えようとする体に日々の疲れがたまっているのがわかる。嫁さんの一人でもいれば、こんな毎日でも少しは華々しいものになるのだろうか。「今までろくに女の子と話したこともない俺が言えることではないな」風呂から上がり、目覚ましをセットしたことを確認すると、落ちるようにして深い眠りについた。
 降り注ぐ太陽の光と、鳥たちのさえずりといった、何ともべたな朝の風物詩によって目が覚める。毎朝訪れる、この会社に行くまでの時間が何とも言えず大嫌いだ。朝食をとろうとして、昨日食パンを食べきっていたことをおもいだした。何とも気合の入らないまま身支度を終えると、足早に六畳一間のアパートを後にした。
 職場に着くと、いつもと同じ作業の繰り返しだ。かかってきた電話に対応し、見積もりの書類を作成する。入社七年目にもなるとできない業務はないが、それ以上のことができないため、この年になっても役職はもらっていない。つまり、いわずもがな仕事はあまりできない方である。しかし、向上心といったものは生まれてこの方持ち合わせたことはなく、このだらだらと続く現状に特に不満はない。各々が他に興味を示さず、淡々と自身の作業を進めていくこの職場は過ごしやすかったが、時折寂しさのようなものを感じる瞬間があった。「そういえばお腹すいたな…」午前の業務を終えてひと段落しているときにふと、今朝、朝食をとりそこねたことを思い出した。「お昼食べにいきます?」そういって声をかけてきたのは、同じ職場の後輩の女の子。この子が新人で入ってきたとき、たまたま教育係りを任され、それ以来、無口な自分にもニコニコと話しかけてくれる、後輩の鏡のような後輩だ。「また、朝ご飯たべてないんですか?」時間をかけてセットしてきたであろう、髪をかき分けて話しかけてくる。「よし、ごはんいこう」人付き合いは苦手だが、さそわれて悪い気はしない。不思議そうにこっちを見ている後輩を尻目に鼻唄交じりに食堂へと向かった。
 昔から友達が多い方ではなかった。かといって孤独な学生生活を送ってきたかというと、中学はバスケ部、高校では音楽系の部活に入っていたことを考えると、そうとも言えない。女性との付き合いも、学生の頃には何度か経験したこともある。ただ、社会人になってから「機会がない」といったことを理由に、そういったことから目を背けてきた。「ちんたらしてたら、もうこんな年になっちまったなぁ」会社帰りに、家族のもとに帰るであろうスーツ姿のサラリーマンを見て、ふとそんなことを考えてしまう。昼間は温かくても、この時間になると少し肌寒い季節になってきた。「さっさと帰って、風呂に入ろう」これからの季節は仕事終わりの風呂も大きな楽しみになってくる。とたん、背筋に寒気が走る。痛いぐらいのその寒気は背後から、だが確かにそれは、男に向けられたものだと感じることができる。なにが起こったのかわからない。逃げたい。それしか考えることができなかったが、今まで感じたことがない恐怖に体が動かない。近づいては来ない。だが、確かにいる。わき目もふらず、逃げ出すのが正解だと頭では分かっている。しかし、その意に反して好奇心が顔を振り向かせてしまう。整った顔立ちで細身の体、真っ黒で腰のあたりまで伸びた美しい髪が印象的であった。しかしその顔色は生きている人間のそれではなく、青白いといった表現がぴったりと当てはまる。何より、生気といったものが全く感じられない。「おばけ…?」小学生のような発想しか浮かばなかった。悪寒の原因であろうその女性を見たことで恐怖が再び襲いかかってくる。今度は、迷わなかった。一目散に、街灯の少ない住宅街を走り抜けた。久々の全力疾走に心臓が裂けそうに痛い。しかし、そんなこと意にも介さず、一気にアパートに駆け込み、自分の部屋に飛び込んだ。息を切らしてソファーに崩れ落ちた。全力疾走のつけが今になって体を襲ってくる。息をするのが苦しい、体中の関節が悲鳴を上げているのがわかる。霊感なんてなかったはずなのに。あれは本当に霊的なものだったのか?なにがしたかったのだろう。ちょっと綺麗だったな。わけのわからない状況に頭が混乱している。「風呂に入って寝よう」いつも通りの残業で、空腹も限界のはずなのに、食事をとるということが思いもつかなかった。今すぐに寝たい、寝て、目覚めることで、さっき起こったことを忘れようとしていたのだろうか。そんなことを考えているうちに、ソファーの上で眠りについた。「目覚ましかけなきゃ」意識が途絶える寸前にそんなことを考えたが、どうにも体が動かなかった。
 ほんのりと焼き目のついたトーストを口いっぱいに頬張った。少し覚めたコーヒーを一気に飲み干して、一息つく。いつもとなんら変わらない朝、目覚ましは書けなかったものの、ソファーで寝てしまったため、体の痛さで目が覚めた。今日も面白いくらいの晴天で、窓からあふれんばかりの光が差し込んでいる。ただ一つ、いつもと違うことといえば、目の前に昨日出くわした女が座っている。正確には、こちらに体を向け、突っ立っている。「雰囲気って大事なんだな」目を覚ました瞬間、その女を見つけたが、男の体は予想外の反応を示した。しっかりとした足取りで女に近づいた。昨晩のびびりようからは、想像もできないような行動だが、朝日の差し込む部屋と、そこに立っている女の不気味さがあまりにも矛盾していて、面白ささえ感じていた。とりあえず、肩の辺りを触ってみた。「やっぱりお化けって透けてるんだな」女は表情一つ変えずにじっと一点を見つめている。霊感なんて全くなかったはずなのに、こんなにもはっきりと見えるなんて。昨晩に比べると圧倒的に冷静になってはいたものの、今でも状況が呑み込めず、どうすればいいのかわからない。「おっと、ぼーっとしすぎた」気が付けば、すでに家を出る時間がすぐそこまで迫っていた。「お化けもいいが、働かないとこっちがお化けになっちまう」直面している状況に対して少し冷静すぎる気もするが、もともとお化けといったものは苦手で、どちらかといえば肝は小さい方だ。しかし、こうも堂々と目の前に出てこられると、怖いという感覚がどうも鈍ってしまう。残っているコーヒーを一気に飲み干すと、カバンを持って急ぎ足で玄関をでた。「いってきます」
 「大丈夫ですか?」突然後ろから声をかけられて驚いたが、いつも通りの笑顔になぜかホッとした。そう言えば、昨夜の出来事があってから「人」と話すのは初めてだった。「顔色わるいですよ?」話しかけられてもぼーっとしている私を見て、後輩が追い打ちで話しかけてきた。「いや、別に。いたって元気だよ」驚いた。実際、ソファーで寝てしまったせいもあって少し疲れてはいたのだが、自分では、もう冷静になっていたつもりだったし、誰にも悟られることはないと思っていた。「そうなんですか。いつもにもまして顔色が悪いんで心配しちゃいました。」こうやって気さくに話しかけてくれることのありがたさが、最近になってやっとわかってきたように思う。こんな奥さんがいればな、最近そんなことまで考えてしまう自分がいる。「いまさら何をもとめているんだろう」机の上にたまった書類が目に入る。今日も定時には帰れそうにない。「今日も一日がんばっていきましょー」そう言って颯爽とかけていく彼女を見て、なぜか心が少し絞められるような気分になった。
 コンビニで買ったビールとおでんを片手に、足早に家までの住宅街を歩いている。「金曜日というものは何度味わってもいいものだ」足取りが軽い理由は説明するまでもない。録画したまま溜まっている映画を見ようか、それとも漫画を読みながらゆっくり飲もうか、いや、さっと飲んでそのまま倒れるように寝るのもありだな。貴重な金曜日の晩の優雅な過ごし方をあれこれと考えているうちに、気づけば家の前まで来ていた。ゆっくりとドアを開けると、金曜日の晩に気をとられすぎて、忘れていたことに気づく。それと同時に、背筋を這うような悪寒が一気に体を巡ってくる。どうやらまだそこにいらっしゃるらしい。急に恐怖がこみあげてきて、逃げ出したくなったが、にげる場所もない。それよりも、かえって金曜日の晩にこんな憂鬱な気分にしてくれた彼女、正確にはお化け、に対して怒りの感情すら湧いていた。「どうにでもなれ」男は、半分自暴自棄になりながら勢いよく家に飛び込んだ。テレビと机の間の狭い空間に案の定女のお化けが、じっとこちらを見ながら突っ立っていた。一瞬怯みそうになってしまったが、ここでひいてしまっては、この晩を楽しむことができないと考えた。「気にしたら負け。いつも通り生活していれば、害はないはずだ」自分に言い聞かせるようにして気を強く持った。気を紛らわすため、とりあえずテレビをつける。相変わらずの無表情で、一点をじっと見つめている。どうやら、自分のことをみているのではないようだ。缶ビールをあけて半分ほど一気に飲み干す。意識しないようにして、なるべくいつもと同じように振る舞おうとする。「どういう作りになっているんだ」お化けの体越しに見るテレビはどうにも奇妙な感じがしてならなかった。初めこそ、気になってならなかったが、慣れてくるとあまり違和感がなくなってきた。「自分がこんなに順応性のある人間だとは知らなかった」お化けとの奇妙な共同生活で、自分もしらない新たな一面を発見することができたようだ。「おまえもおでん食うか?」酒も入って少し気が大きくなったせいか、お化けに食事を勧めることができた。女は相も変わらず無表情のまま一点を凝視している。疲れと緊張と酒の様々な要因により、男はそのまま眠りに落ちた。
 「とまあ、こんな感じのことが最近あってね」何か面白い話をしてくれと後輩がせがんでくるものだから、特に隠すことでもなかろうと何のけなしに事の全貌を話した。息が白くなり始め、十一月頭に差し掛かっていた。女のお化けとの奇妙な共同生活も、一か月になろうとしていたが、最近はすっかり慣れたもので、「いってきます」「ただいま」と声をかけるのが、一人暮らしの男にとっては少し楽しみになっていた。「先輩に女っ気がなさ過ぎてお化けが気を遣ってきてくれたんじゃないですか?」おどけている様子を見ると、どうやら信用していないようだ。まぁ、信じないのが当然の反応だろう。ここで反論して頭のおかしい人だと思われてもたまったもんじゃないので、これ以上の主張は控えることにした。「ところで先輩、今度はどこにごはんいきます?」嬉しそうに後輩がたずねてくる。「そうだなー。前はイタリアンだったから、中華とか食べたいな」「いいですね。それにしましょう。」家にあの女のお化けが住み着いて以来、どうも、私生活の運気が上がっているようだった。こうやって、後輩と、ご飯という名のデートに行くことになるとは、一か月前では想像もつかなかっただろう。案外、あいつも悪い奴じゃないのかもな。もしかしたら座敷童的なお化けだったりして。そんなことを考えるまでになった。実際、住み着いていても、害はなく、すこし気味が悪い程度である。しかも、最近となっては愛くるしさを覚えるほどである。「かえったら、日ごろの感謝の気持ちでも伝えてみるかな」
 「お邪魔しまーす」頬を紅潮させ、少しふらついた足取りで後輩が玄関で靴をぬいでいる。「すまん。狭い家だが勘弁してくれ」二人でご飯に行って、後輩が終電を逃してしまったため、家に泊まりに来ることになった。「そうだ先輩。この前言ってた女の人のお化けってどこにいるんですか?」にやにやしながら後輩がたずねてくる。「あんなのただの作り話だ、忘れてくれ」「やっぱり」後輩がしたり顔でこっちを見てくる。見えない人に何を言っても無意味なことぐらいわかる。そいつは今日も机とテレビの間に立って、一点を凝視していた。しかし、いつものように無表情ではなく、微笑んでいるようにも思える。初めて来た後輩のことを歓迎しているのだろうか?「ほんとに、おまえは俺にとって幸運の女神様なのかもな、生活に張り合いがでてきたし、なんせあんなかわいい後輩が家にきてくれているんだからな」返事は帰ってこないが、きっと伝わっているだろうと男は思った。「先輩何独り言ぶつぶつ言ってるんですか?」後輩がリビングに入ってきた。その瞬間、どことなく一点を見つめていた女の視線がとたんに後輩の方に向いた。男は驚いて、女の表情を見ると、その表情は怒りで埋め尽くされ、血走った眼を大きく見開いて睨み、憎悪のすべてを後輩に向けているようだった。男は初めて、このお化けと会った時の恐怖を思い出した。男が動けないでいると、女は、首を、ゆっくり、ゆっくりと、こちらに向けてきた。「どうかした…?」さすがに後輩も、この空気を察して、なにかよくないことが起こっていることは理解しているようだった。ゆっくりと動かしていた首の動きが止まった。今度は完全に男をにらんでいる。そして、口が動いて何かを呟いている。しかし、声が小さいせいで全く聞き取ることができない。だが、その声は次第に大きくなっていった。


「モウスコシデイッショニナレタノニ」

「平凡からの脱却」

122121

 私は凡人だ。
 なんのとりえもなく、なんの目標もない。ただ生きるために生活している。一番タチの悪い、が、しかし、おそらくこの世で一番多く存在しているクズ人間だ。まぁ、一番多いからこそ凡人とされる所以であるが、そんな自分のような存在でも世の中がうまくまわるためには必要不可欠なのである。だって凡人がいなければ天才は天才と呼ばれない。マジョリティーあってこそのマイノリティー。大事なことだから二回言おう、凡人あってこその天才なのだ。そこんとこしっかり念頭に置いておけ天才たちよ。天才様を際立たせる大役を担っているんだから、こんな凡人にも生きてる価値はあるんだなぁ…みんな存在価値があってみんな平等。世界ってステキ。あなたの娘はこうして思ってもないことを淡々と口にできる感じに仕上がりましたよ、お母さん。…うーん、仕上がるにはまだ早いか華の十九歳。今のところあんまりいいダシも出ていない。
 つい最近までこんなアホみたいなことを考えるのは私ぐらいだろうと思っていたが、段々と世間の人々は自分が思っているよりも考えて生きているということがわかってきた。どうやら自分を買い被りすぎていたようだ。きっと凡人は凡人らしくみんな考えてることも似たり寄ったりで、今私が言ったような天才感謝しろコノヤローとか思ってるんだろう。ほいで多くの人はついこの前の私みたいに「たぶん私だけ」とか「どうして自分ばっかり…」とかなんとか悲劇のヒロイン張りのことを考え…いや、今の私が考えてない時点でこれは一概に言えないか。私みたいに悟った種族もいるということだ。いうなれば「凡」星人の中の「悟り」族と「買い被り」族。どちらもいい気はしない。どうやら凡人には凡人を卑下したがる性質があるらしい。よく集団ノイローゼにならずに生き延びてきたもんだ、凡星人たちよ。
私たち凡星人は叱られるのなんて大嫌いだ。叱られることが成長に繋がるなんて上向きな考え、生まれた時へその緒に忘れてきました。最近私みたいなやつはゆとりだと言われるけれど、特別取り立てられなかっただけでこんなやついつの時代もいたはずだ。凡人あってこその…皆まで言うまい。
凡人万歳、平凡万歳。
向上心なんかクソくらえ!


「…―と!みーなーと!」
「ん…」
「いつまで寝てんのー。昼休み。」
「あれ…うそ…岩山ちゃん起こし来てないじゃん…」
「もう呆れられてんじゃないの?ほぼ毎回起こされてるんだから」
「まじかよー教師が生徒見放すなんて世も末だなぁ」
「教師のせいにせずにちょっとくらい起きとけ」
 こんな平凡な会話が今日もいろんなとこで繰り広げられてる。今日も平和ですねニッポン…。
「みなっちゃーん!オレンジとリンゴどっちがいーい?」
 廊下からでかい声が聞こえてきたかと思ったらもう目の前に声の主がいる。
「オレンジ。百パーセントで。」
「えぇ…いっつもクーがいいって言うのに…」
「今日は寝起きだから酸味を求めてるのー」
「いやあんたいつでも寝起きじゃん。相変わらずひろに冷たすぎ」
 私は基本的に付き合っても長続きせず、このひろもまだ付き合い始めて二週間。いつまで続くかわかったもんじゃない。こんな凡人でもなんやかんや彼氏はできるんだから、まだ救いのある凡人なのかもしれない。自分で言うのもなんだけど、顔は特別整ってはいないもののそれなりに見れるレベルではあると思う。お母さんは正直ちょっと崩れてる方だから、お父さんが頑張ったんだろう。よくやった我が父よ、褒めて進ぜよう。って何様だ私。そしてマシなだけで褒めるほどのもんでもないぞ私。
「みなっちゃん、今日一緒に帰ろーどっか寄って帰ろー」
「今日は明美とカラオケ行く約束してるからだめ。」
「いいよ別に、また今度行こ」
 こういう状況になると明美はよく遠慮する。
「よくないって。今日はカラオケの気分だし前から約束してたんだから」
「じゃあ俺も行っていい?」
「明美が気つかうでしょ。だめ。」
「…はーい」
「別に私はいいのに…」
 お昼休みが終わり、その後の授業もいつも通り適度に寝て過ごした。
放課後になって割り当てられてる個所の掃除をして、ちょっとだけ友達と喋ってから明美と校門を後にする。
「ひろ、ほんとによかったの?だいぶ落ち込んでたよ?」
「いいのいいの。明美が気にすることない」
「そんな感じで大丈夫?またこれまでみたいにすぐ別れるんじゃないの」
「うーん…たしかになぁ…ひろのことを好きかと言われるとそうでもないような気も…」
「あーあ。でも今までのとはちょっと違うんじゃない?ひろ人気者タイプだし、みなとにベッタベタだし」
「人気者ねぇ…そう言われると付き合ってる私もいい気がするような気はするような…」
「はっきりしないねー」
 ひろと仲良くなっていい感じだった時、別のクラスだけどたしかに明るくて人気者だし、こんな人と付き合えたら…と思ってた。今まで付き合った人は、だいぶ言葉は悪いけれど言ってしまえば妥協の気持ちもちょっとあって、結局だめになってしまった。そんな風に考えていると、ひろから告白され、舞い上がって付き合ったのが約二週間前だ。
 付き合って数日のうちは今日みたいに教室に来てくれると照れてしまい、私のそんな反応を見てはひろが喜んでた。でもそんなのほんとにほんの数日だけで、慣れてしまうと今日の通りだ。
「ひろならいけると思ったんだけどなぁ…どんな人と付き合いたいのかなぁ…」
「いや、それ考えちゃってる時点でもうアウトじゃん」
 本当にそうなのかもしれない。何をとっても平凡な自分。ある程度までそつなくこなすことができるけれど、何一つ長続きしない飽き性な自分。一体どうしたら良いのか。全く思い浮かばない。おそらくこのままだらだら中途半端に熱しやすくなった恋愛体質によって気の向くままに恋愛し、付き合ってはすぐに別れを繰り返し、予想では婚期を逃すのではないかと考えている。
せめて子どもが産める歳までには収入が安定してる人と結婚してよ、未来の自分。


そんなこんなで平凡な毎日はやっぱり過ぎていくわけで、一週間くらい経った頃。
「最近冷たくない?みなっちゃん」
 一緒に帰っていた放課後、ひろが急に真顔で言った。
 あぁ、きたか。
 これは分かれるちょっと前大体かけられる言葉。たぶん周囲から見ても明らかなほど私の態度は本当に冷め切っていて、もう我慢できなくなって言ってしまうのだろう。そんな時は私もだいぶ冷めてしまっているため、当然と言えば当然である。そしてその一言が火ぶたを切るかのように言い争いを誘発し、あれよあれよという間に別れ話に発展するのだ。きっと話を切り出した側の相手はそこまで考えていなかっただろう。私が半ば強制的にそういう方向に持っていくのだ。そう考えると私は無意識にその言葉を待っているのかもしれない。別れのきっかけとして…
「そんなことないよ。どうしたの急に」
「だってまだ三週間しか経ってないけど付き合いたての頃とだいぶ俺への対応違うしさ、帰ってから連絡してもなかなか返ってこないし…」
「何?なんか疑ってる?」
「え、そういうわけじゃないけど…」
「まぁ、そういう風に見えるなら冷めてきちゃってるのかもしれないね。私は別になんとも思ってなかったけど」
「そ、そんなことないよ!ごめん。俺の気のせい」
「それでも私としては言われたら傷つくよ。ひろのことは好きだけど、信用されてないなら私はどうにもできない」
 我ながらよくこんなに次から次へと言葉が出てくるものだ。
 私が落ち込んではひろがフォローし、というやり取りを何度も繰り返した後、ひろが言った。
「わかった、じゃぁ、俺はちょっと距離置いてみる。みなっちゃんは気にしなくていいから」
「…え?」
「みなっちゃんはいつも通りで何も気にしなくていいよ。俺が合わせてみる。大丈夫、こう見えて割と忍耐強い方だから」
「でも、そんなの、悪いよ。やっぱり合ってないんだよ、私たち。合ってないのに無理やりひろに合わさせるなんてそんなこと…」
「大丈夫だって!元々俺が好きになったんだし、俺の方が気持ちが大きいのは当たり前じゃん。大は小を兼ねるってね!」
 その大は小を兼ねるの使い方は果たして適切だろうか。違う、そこじゃない。私が思ってるのと違う。いつもみんなある程度言い合いをすると、イライラしてきて「あぁ、こいつ別れたいのか」ってだんだん気付き始める。ひろにはそれが一切見られない。どうして?
「でも、でもね、仮にそれでうまくいってもこれからずっとそんな感じだとひろが疲れちゃうでしょ。それでひろに嫌われるなら、私早いうちに…」
「早いうちに、なに?」
「あ…」
 ひろの表情が一瞬で変わった。
なにこれ。いつもと違う。
「どうしたの」
「早いうちに、離れた方が、いいのかなって…」
「俺と別れたいの?」
 あ、気付いてる。いつもと同じだ。急に態度が変わったしあまりに直球すぎるけれど、結局向かっているところは同じだ。違うのは私がいつもより取り乱してしまってるだけ。
「別れたくないって言いたいけど、後々そんなにしんどくなっちゃうなら今のうちに」
「別れたいの?」
「え?」
「はっきり言いなよ、別れたいなら。」
「別れ…たいです」
「だめ」
「は?」
 …は?
 何言ってんの、この人。ここまで直球で聞き出しといてだめってどういうこと?
「…え、だめってなに?」
「俺が別れたくないからだーめ。」
 なんという身勝手さ。横暴だ。全く悪びれもなく言っているように見える、というか多少の茶目っ気すら感じられる。少なくとも別れ話をしている時に出す雰囲気ではない。
「私の意思は?何か後ろめたさを感じてしまう相手と付き合ってて楽しい?」
 負けじと言い返す。
「今は頭に血が上って冷静に考えられないだけだよ。急に別れる方向に持っていこうとしちゃってさ。たぶん今までそうやってすぐに別れてきたんでしょ」
 う。
 図星だ。何も言い返せない。
「それに流される方も流される方だけどさ、人間誰でも思い通りになると思ったら大間違いだよ?みなと」
 なんでこんなに強気なの。なんなのこいつ。いつもへらへらしてて尻に敷きたい男ナンバー1みたいなオーラ全身から放ってるくせに。
 ひろは急ににかっと笑って私に言った。
「そんなに深く考えなくていいよ。先はまだまだ長いんだから〜リラックスしないと〜」
 この一言に、私は異常なぐらい違和感を感じた。
先は長いなんて、私の感覚にはなかった。そうか、周りの人は一年も二年も付き合うのは当たり前だっていう感覚で付き合い始めるんだ。私は付き合う時点でもう無意識に、今回もどうせ駄目だろうな、なんて思ってしまっていたのだ。
「…駄目だよ、それでも…」
「とりあえずもう言いたいことは言わせてもらったから後は俺のやりたいようにやるよ。その後どうするかはみなっちゃんが決めたらいい」
そう言って頭の上にぽんと手を置き、髪の毛をわしゃわしゃされた。
「ばいばい」
ひろは帰って行った。
 何も言葉が出ない。ただ唖然としているだけ。どれくらい佇んでいたかわからないけれど、私は我に返ると変な汗が全身から一斉に噴き出した。


「ねぇ、最近どうしたのひろ。全く寄ってこないじゃん」
 明美が不思議そうに聞いてくる。あの後ひろはびっくりするぐらい私への対応を変えた。
昼休みは一切話しかけてこないし、前は放課後になると毎日一緒に帰ろうと言ってきたのに、今は二日に一回しか教室にこない。家に帰ってからの連絡も激減し、ひどい時は一通もメールがこなくなってしまった。あまりに急に変わったせいで別れたのかと聞いてきた人も何人かいた。
「…どうしたんだろうね…」
 正直私もついていけていない。私は別れたいと言い、向こうは別れたくないと言った。じゃぁこれはなんなのか。まるで自分が振られたかのような気持ちになってくる。


 数日後に三連休があり、その最終日の昼前、私はケータイを手に迷っていた。ひろに連絡しようか。でも私から連絡したことなんてほとんどないし、別れたいとまで言ったのにいきなり会いたいなんて都合がよいと思われるだろうか。
 そう、会いたいのだ。まさか三連休に一度も会わない、まして連絡がこないことなんてないだろうと思っていた。けれど、予想は外れた。ひろから連絡がくる気配はない。すると急に不安になって、思わず会いたいというようなメールを打ってしまい、送信するかどうかを迷っているのだ。
「…よし」
 ここで長時間うだうだと理由を考えながら迷い続けるのは性に合っていない。もう打ってしまっているのだから、あとは送信を押すだけ。…押した。
 どうしたんだろう。飼い主に放置された犬のような気持ちだ。いや、どちらかというと猫かもしれない。甘やかしてくれる飼い主に甘えるだけ甘えて、ちょっとした気まぐれで近づかなくなると、飼い主の方が愛想を尽かして撫でてくれなくなった。餌と水はくれるし生活は不自由なく送れているけれど、何か物足りないような状態。こんな感覚初めてだった。
 そんなことを考えていると、メールの返事が来た。
“会えるなら、会おっか。”
 返事はずいぶん淡泊だった。でも会ってくれる。すぐに支度をし始めた。
 家を出て、待ち合わせ場所にした駅に向かう。なぜかものすごく緊張している。もう時間が時間だし、会っても特にどこに行くでもなく、少し話して帰る程度だ。それでもどこか不安を拭いきれないような心境のまま駅に着いた。
「みなっちゃーん」
「あ…」
「あそこの公園とかで大丈夫?俺さっき財布見たら全然金入ってなかったの」
 そう言ってなんの悪びれもなく舌を出す素振りをするのは、いつものひろだ。思わず気が抜けてその場でへたり込みたいような気持になったが、抑えた。
「いいよ」
 二人で公園まで歩いた。その道中も、ひろは変わらず楽しそうに話している。ここ最近の態度はなんだったのだろうかと思うほど自然だ。
 公園に着いて、ベンチに座る。近くでボール遊びをしていた子どもたちが急にひそひそ話をし出して、にやにやしながら離れていった。
「あのね…」
「やっぱり別れたい?」
「…え…」
「俺と、別れたい?」
 またあのひろだ。前の、なんでも見透かされそうな気になってしまう目。別れたい?と聞かれているのに、別れたくないでしょ?と聞かれているような感じがする。
「…別れたく、ない、です」
 やっとの思いでカラカラの喉から絞り出した声は、今まで自分でも聞いたことがないようなか細さだった。
「…はーっ」
 ひろがベンチにもたれかかってずりずりと下に落ちていく。
「ね。言ったでしょ。一時の感情に任せて別れちゃダメだって」
「…」
 ここまで何も言い返せないのは初めてだ。変にプライドが高い私は、屈辱、ではないけれど、恥ずかしさといたたまれなさと安心感で顔が真っ赤になり、思わずうつむいてしまった。
「みなっちゃんさ、追いかけることに慣れてないんだよ。モテちゃうからいつも追われる立場で、追ったことがないから不安になったこととかないんだ。突き放されたり距離を置く前に別れちゃうから、しんどい思いしたことなかったんだ」
 種明かしをするかのようにひろは話し始めた。よくわかっている。心理カウンセラーでも目指したらどうだろうか。
「ごめん」
「別に責めてるわけじゃないよ。大丈夫、ちゃんと自分からきてくれたし」
「…ありがとう」
「何に関してもさ、一回冷静になって考えてみなよ。人間自分で思ってるより、焦ってるときとか頭に血が上ってる時ってちゃんとした判断できてないもんだよ。みなっちゃんみたいに変わり者はそれに慣れちゃってたりもするし」
「うん…ん?」
変わり者?
「どしたの」
「変わり者って言った?」
「変わってるでしょ、どう見ても」
「変わってないでしょ、超平凡でしょ」
「平凡?いや、何において平凡だって言ってるのかは知らないけど、考えてる内容とか、考えすぎてるところとか、恋愛が超不器用なところとか、あんまり他の人が入り込まない溝にがっつりはまりながら生きてってる感じがするよね」
「なにそれ」
「変わり者だって言いたいだけだよ」
そう言いながら彼は笑ってた。私も笑った。人間は大体私と同じような感覚をもっていて、同じような人生を送っていると思っていた。でも考えはいくら似ていても違うものだし、『一般的な人生』なんてないのだから、平凡だなんて思ってもそれは考えるだけ無駄なことなのかもしれない。
 少し晴れやかになった私は、すっかり日が傾いて真っ赤になっている夕日をぼーっと眺めた。
 いつもなんとなく眺めている夕日が、今日は一段と綺麗に思えた。
おわり

「思い出」

122124

 今日はよく晴れた日だ。

 空は真っ青に晴れ、大きな入道雲が浮かんでいる。鳥が鳴き、川はさらさらと流れている。ふわっと吹く風はなんて心地がいいのだろう。深く息を吸い込むと、都会とは違った澄んだ空気が肺に沁みる。
 僕は東京で働く会社員である。その中でも、会社の期待に応えながら若くしてチーフまで上り詰めた、いわゆるエリートというやつだ。毎日が忙しく、休む暇なんてほとんどない、睡眠も削って仕事三昧の日々である。正直自分でも色褪せた日々を過ごしていると思うわけではあるが。
それがなんでこんな片田舎にいるかというと数日前、母が倒れたとの連絡を受け有給を取って実家に帰ってきたわけである。だが、僕が着いた頃には母の容態は大分よくなっていたようで「あんたの顔が久しぶりに見れて嬉しいよ。」なんて世間話ができるほどに回復していた。とはいえ折角取った有給である。最近は忙しかったし、少しくらい肩の力を抜いてもいいのではないか。そんな僕の姿を見てか、母は「少し散歩してきたらどう?」と言ってくれた。その言葉に甘え、僕は数年ぶりの自分の育った場所をブラブラと歩く。真夏ということもあり、流石に汗が額を、頬を伝う。ふと、木陰にベンチがあるのを見つけ、腰を下ろすことにした。特にすることもなくたたずんでいると、懐かしい、あの時のことを思い出した。



何年前かのあの日も、よく晴れた暑い一日だった。真っ青な空に入道雲がそびえ立っている。てっぺんに浮かぶ太陽は容赦なく下界を照らし、ところどころ土が見えるアスファルトの地面はジリジリと焼きつけられている。
中学3年生だった僕は、道の隅にある木陰に立っていた。塾の帰り道、僕は決まってこの木陰に寄るのであった。僕の住んでいるところは片田舎であるから勿論、家の近くに塾なんてものはない。少し発展した隣の町まで毎日わざわざ出かけていた。田舎ではこのままだとロクな職に就けない。今から勉学に励んでいい職に就くのがお前のためだ。というのが父の口癖だった。この頃の僕はいい加減、嫌気がさしていたのだ。毎日勉強、勉強、勉強。逃げ場所を求めた結果がこの木陰であったわけである。木陰は涼しい、とまではいかなくても日向よりは数倍マシ。ましてや、塾や家なんかより、たとえ暑くても気持ちはいくらか軽く感じた。まだ、家に帰りたくない。
今日もいつもと変わらない景色が広がっている。アスファルトから反射する熱を眺めた。必死に鳴き続ける蝉の鳴き声を聞いているとこっちまで辛くなってくる。
「なんでこうも毎日暑いのかな、夏ってのは。」
口に出すと空気が余計熱くなったような気がして思わず顔をしかめる。言霊って言葉、聞いたことがあるぞ。まったく嫌なものである。
「あーあー、寒い寒い。」
今度はこんなことを呟いてみたけど一向に涼しくなんてならない。気持ちはちょっぴり寒くなったかもしれないが。所詮言霊なんてそんなものだ。蝉の声もやっぱり煩くて耳が痛くなる。こんなことは置いておいて、さあこれからどうしようかと熱そうな地面を睨み付けていると目の前から視線を感じた。いつもは誰も僕のことなんか気にも留めないはずなのに。
いつまでも続く視線に無視をするわけにもいかず、顔を上げるとそこには今までこの辺りで見たことのない女の子が立っていた。真っ白なワンピースに身を包み、シンプルな鞄を肩から下げ、大きなリボンのついた麦わら帽子を被った夏らしい恰好。黒くて長い髪は二つに束ねられている。見た感じだと僕と同じくらいの歳だ。大きな瞳は伏し目がちに僕に向けられている。
「今、もしかしてヒマだったり、しない?」
「何か用?」
怪訝な顔をして、僕が尋ねると、はにかんだ笑顔で彼女は、
「私、ここに引っ越して来たばっかりで…友達がいなくて、よかったら、よかったらだけど仲良くできたらな、って。」
と、もじもじしながら言葉を紡いだ。まったく物好きな子もいるものだと思った。それに、初対面の相手に暇そうだってさ。しかし、完全に暇というわけではないけれど、暇といっても過言ではない。たまには誰かと話すのも悪くないかもなんて思う僕がいたわけで。
「僕でいいなら、ちょっとくらい付き合ってあげてもいいよ。」
気づいたらこんなことを口走っていた。少し面倒なことを言ったかなと思ったけれど、嬉しそうに目を輝かせた彼女の顔を見たらどうでもよくなった気がした。
「うれしい!初めてのお友達。何して遊ぼうかな…あなたは何かしたいこと、ある?」
少女はほんとうに、ほんとうに嬉しそうに声を弾ませながら僕の顔を見た。大げさな奴だな。そう思ったのと共に“友達”という言葉が僕の頭にこだました。ずいぶんと懐かしい響きだよな、友達って。無論、僕にだって友達らしき人はいる。友達、というよりかは勉強仲間といった方が正しいのかもしれない。常に成績で争い、たまに世間話をする程度である。だから、ここ最近、なにをしようかなんて遊ぶような話をしたことがなかった。
「特にないよ。君の言うとおり、僕は暇だったんだから。ボンヤリ日陰に立ってるくらいのことしかすることなんてないよ。」
「あの、ごめんなさい。その、最初のことば、気にかかっちゃった?わたし、そんなつもり全然なくて、だから……。」
さっきまでの嬉しそうな姿から一変してしどろもどろ、しゅんとした彼女は中々に面白かった。感情が表面に出やすいタイプである。さすがに意地悪だったかなと思い直して軌道修正。
「気にしてないって。そんなことより、君は何がしたいの?」
自分は、と言われると困ってしまったのか、彼女は長い黒髪の端をクルクルと弄びながらうーん、と短く唸り、瞬間、思いついた、というように顔をあげた。
「そうだ!私、ゲームセンターに行ってみたい!」
「ゲームセンター?」
「そう、ゲームセンター。いろんな景品があって見ているだけでも楽しいし、おまけに室内だからクーラーがついていて涼しい!可愛いぬいぐるみも取れちゃうかも!ねね、名案じゃない?」
えっへんとでも効果音がつきそうな様子だ。僕は見て取るようにわかる彼女の感情の変化に半ば呆れ、半ば尊敬したが、確かに名案かもしれない、と思った。ゲームセンターか。僕が通っている塾のある町は、周りが過疎な分、ある程度の栄えを見せている。だから、この辺りで唯一ゲームセンターがあるところだといえる。しかし、僕にはそんな場所には接点がほとんどなく、改装されたってときから一度も行っていないことに気づく。そうなると俄然興味がわいてくる。
「それでいいんじゃないかな。」
言いながら、そのとき僕はあることに気づいた。あることが何かって、決まっている。
「そういえばお金を持ってない。もし、何かしたくなっても、これじゃ何にも出来やしないよ。」
 僕の家では、お小遣いはあったもののお金については親が管理していた。それに、毎日通うところが決まっているので使う必要もない。持ち歩く必要もない。故に僕はこのとき一文無しであったわけである。
「大丈夫、私こう見えて結構持っているの。ほら、見て!」
鞄の中からカエルの顔がプリントしてあるガマ口財布から銀の硬貨が数枚ちらっと見える。
「じゃーん、六百円。だから、ちょっとは遊べるよ?」
「わ、ほんとだ。でも大切にした方がいいと思うけど。」
ゲームセンターのゲームほど、自分に還ってこないものはないのではないだろうか。それだったら貯めて店で売っているものを買えばいいじゃないか、と現実的なことを思ったりしてしまうのは悪い癖である。それに、女子に奢られるなんて、日本男児としてどうなんだ。
「いいのいいの。使える時に使わないと!」
僕の気も知らないで、彼女は自信たっぷりに言い放った。これは引けそうにはない。
「ね、遊びに行こう!」


「ねえ、早く!」
彼女のウキウキとした声が僕を急かす。これがついさっき出会ったばっかりの、最初はあんなにオドオドとしていた女の子とは到底思えない。彼女はきっととてつもなく順応力が高いのだということが数分でわかった。しかも、単純なうえにセッカチなのか。そんな悪態にも似たような台詞を心の中で吐きつつ、僕はできるだけ足を急かす。
「ちょっと、待ってよ。ねえ、そんなに急いでもゲームセンターは逃げないし、まだまだ閉店時間じゃないよ。それに、どこにあるのかちゃんとわかってるの?」
「わ、わかってるよ、そんなことくらい!だって外が暑いんだもん、早く涼しい所に行きたいじゃない。」
暑さのせいなのか、声を張り上げたせいなのか、ふいっと目を逸らした彼女の顔は赤かった。でも確かに彼女が言っていることは一理ある。どうせ今から涼しい場所に行くなら早いに越したことはない。いや、でも走ると熱くならないか。僕は考えることをやめて、とにかく足を動かすことに集中することにした。

 自動ドアを開けて入った店内はとても涼しかった。外の世界と切り離された、まるで別世界の様だった。さっきまでの汗ダラダラが嘘のように引いていく。とはいえ、運動なんて最近全然していなかった僕は、息を整えようと必死だった。ゲームセンター特有のガヤガヤとした音楽が耳に煩いが仕方ない。彼女はというとニコニコ顔で商品を物色中である。そのまま目を逸らしクレーンゲームに目を向けると、知らない猫のキャラクターのぬいぐるみが陳列していて、妙な気分になる。
「なんだこいつ?」
「あのネコさん?最近の流行のキャラクターだよ!まあ、可愛いと思うけど、私は違う子が好きかな。」
赤い体に腹巻であろうものを付けた丸い目のそいつらは、僕たちの方をじっと見つめている。さあ、早く取ってくれよと言いたげだ。まあやらないけど、と横目で流して歩いていると今度は黄色いネズミのキャラクター。黒くまん丸の目が愛らしい。ああ、こいつは知っているぞ。それにしても、いつの時代にも猫とネズミの対決ってのはあるんだなと実感した。知らないうちに色々なキャラクターが進出している、と関心をしていると彼女が僕の腕を引っ張って台の前まで連れて行った。
「ねえ、これが欲しいかも!」
彼女が嬉々として指差したのは某電気ネズミのキーホルダー。愛らしくこちらにウインクをしている。今回はどうやらネズミの方に軍配が上がったらしい。女の子って可愛いものにほんと目がないと思う。時々“可愛い”の基準がわからないことがあるけど。
「…ところで、クレーンゲームは得意?私、今までにクレーンゲームって片手の指で足りるくらいしかやったことないんだけど…」
「僕も、クレーンゲームなんてやったのはずいぶん前だから自信ないかな。あ、でもほら、へえ…“苦手な人は店員さんにコツを教えてもらおう!“って書いてある。」
 そうはいってもモノは試し、まずは一回だけでもやってみようという話になった。できる根拠など微塵もないのに妙にやる気になり、取れるような気がする僕がいた。そういえばこうやって遊ぶことなんて何時振りだろう。誰かと遊ぶなんて何時振りだろう。久しぶりに胸の高鳴りを覚えて、無性に嬉しくなった。
 僕と彼女のクレーンゲームの結果は無残に終わったかと思えたが、二人で足掻き、店員さんにも手伝ってもらった結果、奇跡的に一個、コロンと出口に落ちてきてくれた。彼女はそれを嬉しそうに、大事そうに鞄へとつけていた。その表情を見ただけで、僕の心は温かくなった気がしたのである。することもなくなり、店の外へ出ると、またあの蒸し暑い空気が僕たちを出迎えてくれた。とはいえ日も傾きかけており、幾分かはマシに感じた。

ゲームセンターから出た僕達は、最初に出会った木陰へと戻っていた。最初に出会ったとき本当は何をしていたのかと問われ、塾の帰りだったのだと答えると彼女は驚いた顔をしながらこう言った。
「塾に通って勉強なんて、すごいね。」
 正直、どう答えていいのかわからなかった。親に言われた通り、勉強して、塾に通っているだけの僕はそれほどすごいものなのだろうか。
「わたしは勉強が苦手だから、そうやって通ったりできるのが羨ましい、かな。」
 聞けば、彼女の家は塾などに通える状態じゃないらしい。彼女の求めている環境にいるにも関わらず、不幸顔をしていた自分が少し恥ずかしく思えた。
「羨ましい、なんて初めて言われた。くすぐったいや。」

そうしているうちに、時間はあっという間だったようで空はオレンジに色づいていた。夕方とはいえ真夏なのだから、ゆうに5時は回っていることがわかる。楽しい時間も終わりであることを僕は察した。
「そろそろ帰らないと。」
どちらともなく声が出る。
「あなたは、明日もここにいるの。」
彼女がそう、僕に尋ねた。
「いるよ。好きな場所だから。」
本心から好きかどうかは兎も角、僕はあの木陰に居場所を感じていた。唯一の心安らぐ場所として。そして気づいたらこんなことを口走っていた。
「僕でよければ、勉強教えてあげようか。」
明日も彼女と会いたい、と思うと自然に口から言葉が零れたのだ。僕自身も驚いたが、彼女はもっと驚いていた。そして、嬉しそうな顔をして、そして最後にははにかむように答えた。
「また明日、ここで会おう。一緒に、遊ぼう。勉強しよう。約束だよ!」
「うん、約束。」
 サヨナラの手を振りながら、その日の帰り道、僕の心はいつもと違って喜びに満ちていた。
 それから、僕と彼女は毎日木陰で待ち合わせをして、遊んだり勉強をしたりするようになった。彼女のキラキラとした勉強に対する姿勢を見ていると、しぶしぶだった勉強も頑張ろうと思えた。今までの生活が色あせていたかのような、鮮やかな日々だった。帰りが遅くても、勉強の跡が見えるからか、両親は「遅かったね。」とは言うけれど、それ以上言及することはなかった。
しかし夏休みの終わりと共に、僕があの木陰に行くことはなくなってしまった。知どもすれ違わないなんてことがあるのかもわからないが、もしかすると彼女にも都合があったのかもしれないし、何より僕自身、学校が始まると生活リズムも変わり、それどころではなくなってしまった。結局それから彼女に会うことはなかったのである。やがて、月が過ぎていくとだんだんと彼女のことも忘れ、勉強に集中する毎日になった。そして、高校に進学するとともに寮に入り、大学に入ると都内で一人暮らし。会社に入ると実家に帰ることもなくなり、彼女のことなどすっかり忘れてしまった。



そういえばここは、あの時彼女と出会った木陰だ。僕の人生における、短くも最も青春たる時間を過ごした場所。今、彼女は何をしているのだろうか。あの日々のことを覚えているだろうか。さっきまでの僕のように忘れてしまっているだろうか。そのとき、目の端にふわっと白いものが映った。白いワンピース。身にまとった彼女はあの時のような、はにかんだ笑顔で僕に尋ねた。
「もしかして今、お暇ですか?」
 僕の世界はまた色付く、そんな予感がした。

「恋愛糞、雑魚小説」

102211

 全部、セックスが悪いのだ。
 「13日の金曜日」でジェイソン少年が死んだのもセックスのせいだし、村上春樹がノーベル賞を取れないのも作品にセックス描写が含まれているせいだ。だから、こうして僕がこんな夜中に、僕の部屋から出て行ってしまった彼女を探しているのもセックスのせいに決まっている。
どうして人間はセックスをひた隠しにするのだろうか。ボノボはそんなことしない。ボノボはどこでもセックスをする。ボノボは人と同じように正常位でセックスをし、緊張の緩和、快楽、コミュニケーションなどの目的でセックスをする。そのおかげで、彼らは非常に平和的だ。チンパンジーに見られるような殺し合い、共食い、レイプなどの暴力的行為は見られない。それに対して人間はどうだろうか。セックスの回数で称号がもらえるかのように競い合い、チンパンジーがするような殺人、レイプ、共食いはどうかわからないが、暴力的な行為を平気でする。人間社会なんてクソだ。人間もボノボを見習って気軽にセックスができる社会を作るべきなのだ。そんな社会だったなら、僕にだってセックスができたはずだ。それをあの女は、僕がセックスを断ったくらいで怒って出て行ってしまったのである。あんなヤリマンクソビッチとなんて、もっと早くに別れておくべきだったのだ。
そう思いながらも、僕が彼女を探す足を止められないのは、きっと僕がとても優しいからで、そもそもこんな性格なのは、遺伝子のあれやこれやが影響していて、それはやっぱり両親のセックスのせいだ。セックスなんてクソだ。
はー、とついた溜息が白い。

もう、ゲオでクソみたいな映画でも借りて帰るかと、半ば捜索を諦めかけていたところで、彼女を見つけた。彼女といってもそれは、僕の彼女という意味ではなくて、見たこともない女性で、とにかくゴミ捨て場の陰で突っ立っている下着姿の彼女を僕は見つけたのだ。
「何見てんだよ、雑魚。服貸すだろ、普通」
雑魚とは商品価値の低い魚、特に小魚の総称で、転じて大した人物でない人のことを言う。つまり僕は見ず知らずの人にめちゃくちゃ馬鹿にされているのだが、考える間もなく
「あ、はい、どうぞ」
と着ていたスウェットパーカーを脱いで、彼女に渡した。それどころか彼女が僕のパーカーを着終わると
「下も、でしょうか」
とパーカーの下から少しはみ出している、彼女の下着を見つめながら、自分から進んで提案までしているのであった。
「あたりまえだろ。雑魚」
と彼女が下着を隠すようにパーカーの裾を伸ばしながら言うので、僕はいそいそと履いていたスウェットズボンを脱いで彼女に渡した。僕のズボンには右膝の少し下の辺りに足が通せてしまうくらいの穴があいており、彼女は何度もその穴に足を引っ掛けていたので、彼女がズボンを履くのには少し時間がかかった。僕は彼女がズボンを履く間もずっと彼女の下着を眺めていた。下着を見ると、僕はちゃんと興奮している。それなのにどうしてセックスに対してはあんなに怯えてしまうのだろうか。そんなことを考えていた。
 彼女が着替えを一通り終えると、僕たちはお互いの顔を見合った。街灯でうっすらと照らされる彼女は長い黒髪で、派手さのないメガネをしており、彼女の顔から受けた印象は、口調に反してとても大人しそうだった。高校生にしては大人びているような気がするし、年は僕より少し上で、二十歳くらいだろうか。それよりも彼女はどうしてこんな寒空の下下着とメガネだけを着けて突っ立っていたのだろうか。
下着とメガネだけの姿をもう少しじっくり見ておけばよかったと少し後悔していると、僕の顔辺りにあった彼女の目線が下がった。彼女の目線を追って、僕は自分がTシャツとトランクスで寒空の下に突っ立っていることに気が付いた。
「家に帰ってもいいでしょうか」
僕が彼女に尋ねると、彼女は少し間を空けて
「まあ、いいか」
と答えた。

 僕は自分の部屋に帰ってきた。一人暮らしの僕の部屋は、急いで出てきた時のまま、電気は付けっ放し、暖房は付けっ放しだった。部屋の壁に掛けている時計を見ると、ちょうど2時を回ろうとしているところだった。僕はその時、僕が部屋を飛び出した当初の目的を完全に見失っていたのだが、僕の彼女はまだ部屋には戻ってきていなかった。僕は残念だったような、ほっとしたような気分だった。仮に彼女が部屋にいて「ごめんなさい」と誤ってきたとしても、僕には一緒に部屋までついてきた、後ろに立つ女性について、きちんと説明する自信がなかったからである。僕の部屋までの道中、彼女は沈黙を貫いていた。僕も「ついてくるんだ」と驚きはしたが、口には出さなかった。一人暮らしで、着る服も、それを買うお金もそんなに持っているわけではないので、パーカーとズボンは返してほしかったし、一人で夜道をTシャツとトランクスだけで歩くよりかは、後ろに女性がいる方が、まだ自然かなとも思えたので、黙って彼女を部屋まで連れてくることを選んだ。それに、僕と同じ学生マンションに住んでいるだけという可能性もあったし。まあ、そうではなかったのだけれど。
「世の中、雑魚ばっかりだわ」
彼女は、廊下を抜けた部屋の入口で立っている僕の横をすり抜けると、ドスンと勢いよくベッドに腰を掛け、溜息交じりに言葉を放った。初めて彼女がしゃべった時と比べると、少し口調は和らいでいるような気がしたが、それでも、どこか気を張っているように思えた。「〜だわ」なんて、二十歳の女性がそんなこと言うものだろうか。「何見てんだよ」よりは大分ましであるが。
「私はもう寝るわよ」
と言って彼女は、ベッドに寝転がり、布団に潜ってしまった。
「電気は消さなくても大丈夫よ」
僕は、真っ暗じゃないと眠れない派だ。そんなことではないとはわかってはいるものの、僕は目の前で起きていることにしか反応できなくなっていた。ベッドは占領されているので、冷たい床にバスタオルを二枚重ねて敷き、電気は消して、暖房は切らないまま眠ることにした。
「それと私は、眠る時もメガネをはずさないから気にしないで」
そんな声が聞こえたような気がした。

 一限目の授業を聞きながら、昨日あった出来事について考えていた。一つは昨日であった彼女についてだ。朝起きると、彼女の姿はベッドから消えていたのだが、僕は彼女に名前を聞くこともしなかったことに、今になって気付いた。彼女は一体どこの誰だったのだろうか。これは考えたところでどうしようもない。そして、もう一つは、僕の彼女を探すことを途中であきらめてしまったことについてだ。昨日以上に怒っていることだろう。僕は僕の彼女との関係修復のために努力しなくてはいけないのだろうか。これはきちんと考えれば何かしら結欄には辿り着けそうだったが、考えたくなかった。とにかく、いろんなことがあったので、携帯電話のアラームをかけ忘れて眠ってしまったが、なんとか一限が始まる時間に間に合うように起きられたことについては、非常に良かったと言えるだろう。一限を寝過ごして、そのまましばらく大学にも来ない方が良かったかもしれないと思い直したのは一限が終わってすぐのことである。
 「賢介氏、いったいどういうことでござるか」
授業後、僕の席に駆け寄ってきたのは、ござる先輩だった。僕は立ち上がってござる先輩に向き直り、何か弁解みたいなことをしようと思ったが、何について弁解をすればいいのかわからなかった。
ござる先輩は、僕の所属するパソコンサークルの先輩で、この大学に通って今年で六年目らしい。クソオタクだ。パソコンサークルといっても、ござる先輩の気が向いたときに、みんなを集合させ、適当におしゃべりをしたり、各々好きなことをパソコンを使ってしたりというだけの活動内容で、僕がいつもしていることといえば、違法でアップロードされたクソアニメの動画を違法だと知りながら見ているだけだ。どうしてこんなサークルが存続しているのか疑問だが、噂ではこの大学の学長が、このサークルのOBらしく、つぶれないように多方面に圧力をかけているらしいが、定かではない。圧力をかけるなら、むしろ僕らにちゃんと活動するように圧力をかけるべきではないのだろうか。パソコンサークルのちゃんとした活動が何を指すのか僕は知らないが。
「姫が昨日、拙者に電話をかけてきたでござるよ」
ヒメとは僕の彼女のことで、いわゆるオタサーの姫というやつである。
オタサーの姫とは男性の割合が多い文化系サークルに存在する数少ない女性メンバーで、サークル内では希少な存在であるため、圧倒的美少女でなくともオタク男性メンバーに「姫」とあがめられているもののことを言うらしい。サークルのメンバーは僕とござる先輩と姫の三人で、僕とござる先輩は彼女のことを「ヒメ」と呼んでいるので、少なくともこの条件は満たしている。それにヒメが新歓コンパの自己紹介で「私はこのサークルの姫になります」と言っていたので、まず間違いないだろう。少しだけ違うのはヒメは僕の彼女という贔屓目で見なくとも圧倒的な美少女であるという点である。
「拙者は、賢介氏が不可侵条約を破った時、賢介氏を殴ったでござる」
不可侵条約を破ったというのは、僕とヒメが付き合ったことを指しているのであろう。僕とヒメが付き合ったのが三日前のことで、ござる先輩に殴られたのが一昨日のことである。それにしても不可侵条約を破ったというのはおかしな表現である。僕に付き合おうと提案してきたのは彼女の方なのだから。
 ヒメは圧倒的な美少女だったので、ヒメ見たさにたくさんの男が入部してきた。そんなクソ男たちは、秋ごろにはすべて辞めてしまっていた。というのも、ござる先輩が毎日サークルを開き、クソ男たちに「ほのぼの日常系アニメ」についてサークルの時間中、サークルが終わって帰りの電車の中でも、熱く語っていたからである。「ほのぼの日常系と一括りにいっても、その中にはアニメに漂う空気感、ギャグがどれくらい含まれているか、キャラクターとして可愛いか、ストーリー性はあるかなど様々な要素が絡み合っていて……」という具合に。次第にクソ男たちはサークルに来なくなり、しまいには大学内でござる先輩を見かけただけで、走って逃げだすようになっていった。ござる先輩からするとヒメを守っているような気分だったかもしれないが、ヒメからすると、余計なお世話だったらしい。「このサークルでオタサーの姫になることは不可能みたいだから、あなたと付き合うことにする」どういう理屈かはわからないが、三日前の夜にファミリーレストランでヒメは僕にそのようなことを言い、僕はそれを承諾した。僕が承諾する理屈は簡単だ。ヒメが圧倒的美少女だったからである。
「拙者は、賢介氏が姫を守り抜く騎士になると誓ったから、あの時は許したでござる。しかし、今再び、拙者の拳が真っ赤に燃えて、賢介氏を殴れと轟き叫んでいるのでござる」
何かのアニメのパロディなのかもしれないが、ござる口調のせいで元ネタがわからない。
「うぉー」
ござる先輩が何事か叫び、僕は頬を殴られた。殴られたといってもクソオタクであるところのござる先輩は、恐らく殴り合いの喧嘩のようなことはしてこなかったのであろう。大きく腕を振りかぶって、手首の付け根あたりで僕の頬を撫でるように振り下ろした。猫パンチのもっとねっとりしたやつだ。僕はござる先輩の手が頬に当たったまま「ごめんなさい」と謝った。
「すまない。拙者も興奮しすぎたでござる。姫と別れて傷ついているのは、賢介氏も同じでござるな」
どうやらヒメの中で、僕とヒメは別れたことになっているらしかった。今は別にそれでも良かった。
 僕はござる先輩と適当に別れると、次の授業の教室へ向かった。その日は四限目まで授業がびっしりつまっていたが、そのどれも聞いているような、聞いていないような態度で受けた。サークルで集まる約束のはずだったのだが、気分が乗らず、初めてサークルを欠席して家に帰った。

 家に帰ると、彼女がいた。彼女とは、下着姿で立っていた方のことである。僕はいつも部屋の鍵は閉めないで出ていくので、彼女が勝手に入って来ていても、おかしいことではない。
「遅かったわね」
彼女はちょうど、どん兵衛のかき揚げうどん特盛を汁まで飲み干したところだった。部屋には見慣れない大きなバッグがいくつか転がっていた。
「世の中は雑魚ばっかりよ。見て、ツイッターやユーチューブで自分の犯罪の自慢をする若者のニュースが、今日も溢れているわ」
相変わらず芝居がかっている。
「こんな連中は雑魚よ。誰かに認められることで、誰かに認識されることで、自分の価値を見出されようと必死なのね」
しばらく沈黙がある。彼女はきっと僕に何か答えを求めているわけではない。
「私たちは違う。誰にも認められなくても、自分はここにいて、自分にとって価値があることを選択して行うの」
「いや」
「ねえ、私たちでもっと赤身らしいことしましょうよ」
とにかく私は彼女の話にまったくついていけてなかった。
「百段階段の段数を数えましょう」

僕と彼女は百段階段の前に立っていた。僕の部屋から十分くらい歩いたところにある会談で、その階段を上った先には、階段を上る労力にはまったく見合わない小さな公園がある。階段に正式な名前があるかどうかはわからないが、その長さから、この辺りに住む学生の間では百段階段と呼ばれていた。その階段の段数を彼女は数えようと言っているのだ。
あの大きな荷物は何なのか。雑魚の反対は赤身なのかどうか。そもそもいったい君は誰なのか。そんな僕の思いをよそに「一……、二……、三……」と彼女は階段をゆっくり、丁寧に上り始めた。僕は彼女に後に着いていき、横に並んだ。いろんなことが気になってしかたなかたが、真剣に数を数えている5彼女の顔を覗いていると、僕もつられて「十五……、十六……、十七……」と心の中で呟いていた。
「三十七……、三十八……、三十九……」
「五十四……、五十五……、五十六……」
「九十三……、九十四……、九十五……」
僕の心の声はいつの間にか、外に漏れ出していて、僕の声と彼女の声が重なっていった。
「百」
百段目で、僕らは同時に足を止めて、まだ上へと続く階段を眺めた後にお互いの顔を見合って、笑った。そして、どちらともなしに、また足を進めた。
「百一……、百二……、百三……」
この階段を上り切った先に、何か素敵なものがあるかもしれない。僕はそんな期待を抱いていた。
「百四十五」
そんな僕の期待はむなしく、上った先はやはり、下宿先に初めて来たときに見た小さな公園で、錆びたばねが支えているパンダとゾウの乗り物と、半分埋め込まれたタイヤが三つあるだけだった。僕は少しがっかりして、彼女も同じ気持ちかもしれないと、彼女の顔を覗き込んだ。
「百四十五……、百四十五……」
彼女はがっかりを通り越して、怒りに震えているのか、何度も「百四十五」と呟いていた。
「まあ、そんなに気を落とさなくても、百段は超えたし、良かったじゃん」
と自分でも的外れだとはっきりわかる慰めの言葉を彼女にかけたが、彼女は全く聞いていなかった。
「百四十五よ、あなたわかる。百四十五よ」
彼女は怒りに震えているわけでも、落ち込んでいるわけでもなく、とても興奮していた。
「百四十五なんて、四捨五入すればぎりぎり百よ。ぎりぎり。それを百段と言い切ってしまう図太さ。それに、本来その多さを表すために百という数字を使っているのに、実際はそれよりも結構多いのよ。こんなことが信じられる。これは赤身よ。とっても赤身だわ」
「百四十五……、百四十五か」
そう言われてみれば、確かにすごい数字のような気もしてきた。
「百四十五」
「百四十五」
僕らは何度も「百四十五」を呟きながら、タイヤからタイヤへ飛び移ったり、パンダとゾウを激しく前後させたりして、しばらく、はしゃぎまわった。
 散々はしゃぎまわった後、僕たちは二人で僕の部屋へ帰って来て、昨日のようにして眠った。彼女が持ち込んでいた大きな鞄には、彼女の着替えや、その他の生活に使うものと、僕が使うための毛布が入っていた。

 僕らは、それからいくつも赤身なことを探して回った。大学へ行って帰ってくると彼女がいて、それから赤身を探して、またこの部屋に彼女は帰って来て、泊まり、朝起きると彼女はいなくて、僕は学校へ行く。そんな毎日だった。僕らがしていたことといえば、ガリガリ君のソーダ味とコーラ味らが当たりが多いか調べたり、道で詩を売っている人をお互いに見付けて、どちらの詩がより美しいか議論したり、そんなことだった。赤身の内容は彼女が提案することがほとんどで、僕もたまに提案することを求められたが、僕の案が採用されたのは、ゲオの漫画コーナーの一七巻だけ飛ばしておいてある「烈火の炎」の十八巻を借りるのはどんなやつか調べるというものだけだった。どれも結果がどうだったかは、はっきりとは思い出せない。どんな結果でも彼女は「赤身だ。赤身だ」と言って喜び、はしゃいでいた。

 そんなことを繰り返していたある朝、彼女が出ていくときに忘れていったであろう財布を見付けてしまった。財布の中には彼女の学生証が入っていた。僕がこれを見てしまえば、この生活は終わってしまうかもしれない。クソみたいな行動だとわかっていながらも僕は財布から学生証を抜きだし、それをじっくりと見た。その学生証には、僕の知らなかった彼女についての情報がいくつも書かれていた。彼女は僕と同じ一年生で僕と同じ十八歳の冬生まれ。名前は「松田佳奈」。そして、僕が何よりも驚いたのは彼女が僕と同じ大学に通っていたということだった。僕はその場にいるのがたまらなくなって、急いで学校へ向かった。
 学校へ着くと、僕は彼女のことを学校中探して回ろうと考えていたが、その必要はなかった。僕が一限の教室へ、とりあえず鞄だけ置いておこうと、向かっている途中で彼女を見付けたのである。彼女は知らない二人の女性と歩いてこっちに向かってきていた。より正確にいえば、二人の後を彼女が着いて行っているように見えた。彼女たちが僕の立つ横を通り過ぎる時、僕は彼女に「よう」と声をかけた。彼女は何も言わず、伏し目がちに頷いただけだった。僕は彼女たちが通り過ぎた後、彼女たちの会話に耳を傾けていた。
「佳奈、あれ知り合い」
「うん、まあ、うん」
「ふうん」
 僕はその場に突っ立って僕と彼女の関係は何なのだろうかと考えていた。そして、「松田佳奈」の顔を思い出そうとしたが、それは叶わなかった。どうしても彼女の顔が思い出せなかった。もしかしたら、僕は何度も彼女とすれ違ったことがあったのかもしれないが、一度も気付かないぐらい学校での彼女の顔は平凡で、なんだか、そう、雑魚かった。
 「君はああいう女の子が好みなんだ」
気付くと僕の目の前にヒメが立っていた。
「私とはしないくせに、あんな地味な子とはセックスするんだ」
僕はムッとしてヒメを睨んだ。
「あら、まだだったの。それなら気を付けた方がいいかもしれないわよ」
僕はヒメの次の言葉を待った。
「あの子たちのサークル、いわゆるヤリサーよ」

 部屋へ戻ると、彼女はいた。彼女はもう「松田佳奈」の顔をしてはいなかった。
「遅かったわね。今日はあなたが何か提案しなさいよ」
「セックス。セックスをしよう」
少し間があって、
「最低」
と言うと彼女は僕の部屋から出て行ってしまった。僕は彼女を追いかけなかった。

 次の日も、その次の日も彼女は部屋に戻って来なかった。僕はその間、一歩も外へ出ず、お腹が減ると彼女が残していった、どん兵衛のかき揚げうどん特盛を食べた。汁は残して、流しへ捨てた。そんな時にござる先輩からサークルへ来るように連絡がきた。僕が初めてサークルを休んだ日以来、呼び出されることはこれまで一度もなかった。僕は何もする気が起きなかったが、断って何度も誘われるよりはいいと思い、サークルへ行くことにした。
 サークルの部室へ行くと、ヒメがパソコンの前に座っていて、ござる先輩の姿はなかった。
「あなたと会うと、また殴ってしまうからですって。あの人らしいわね」
ヒメが立ち上がりながら言った。
「今日は例のヤリサーが追い出しコンパをするらしいわ。助けにいくでしょ」
「僕たちは自分にとって価値のあることしかしない。彼女がそれを価値あることだと見出したなら、僕はそれを否定しない」
「ああ、気持ちが悪い。そうやって、物事をきちんと見もしないで、取捨選択して、オタクって本当に気持ちが悪い。オタクなんて経験の少ない童貞ばっかりなんだから、何でもやってみて、そこから自分に価値があったか判断すればいいじゃない。どうせあんたみたいなやつはセックスしたらしたで、それから猿みたいにセックスのことしか考えられなくなるのよ」
猿の事を悪く言うな。ボノボはもっと知性的だ。
「どうして、僕なんかに構うんだよ。獏たちはもう別れたんだろ」
「そりゃあ、あの人があなたを助けるでござるって言うからよ」
僕はそこで、どうしてもその違和感について口にしなければ耐えられなかった。
「ござる先輩と何かあった」
「言って無かったっけ。私たち付き合っているのよ」
「ええ、いつからいつから」
「あなたの部屋から出ていった時よ。あの人は、行き場をなくしてさまよっていた私に優しく声をかけてたの。私がどれだけ孤独だったかあなたには解らないでしょう。三駅分よ。三駅分も歩いたのよ」
それじゃあ、あの日、僕が殴られたのも、その前に殴られたのも殴られ損だったような気がしてきた。結局、おいしいところはあの人が全部持って行っているではないか。
「ちなみに、はじめてセックスをしたのは、あなたが初めてサークルを休んだ日よ」
だから、それはあの日の事じゃないか。
「ちなみに、場所はここ」
頼むからもうこれ以上余計な情報を僕に与えないでくれ。
「私、ヤリサーって嫌いなのよね。まるで、セックスの回数で称号がもらえるかのように競い合うじゃない。ボノボはそんなことしないわよ」
僕は二度とボノボの例えを使うまいと決心した。ヒメからヤリサーの追いコンの会場を聞くと、僕は急いで部室を後にした。

 「うぇーい」「うぇーい」そんな掛け声がいろんなところで飛び交う。サークルの飲み会というものに初めて参加したが、五十人以上は集まっており、僕が紛れ込んでも誰も気に留めなかった。
「あれ、佳奈の知り合いじゃん」
どうやら、この前、学校ですれ違ったうちの一人らしい。彼女は近くにはいなかった。
「はい、飲んで飲んで」
僕は手渡されたグラスの中身を一気に飲み干した。

 気が付くと僕は布団で寝かされていた。布団をどけて辺りを見る。ここがどこだか判断はできなかったが、周りにはいくつもの布団が並んでいた。雑魚が雑魚寝している。
 耳をすますと、かすかに声が聞こえた。
「ねえ、佳奈ちゃんいいでしょ」
僕は慌てて布団をかぶり直した。
「この前は、下着までだったし、今日は全部脱いじゃおうよ」
勃起する股間を押さえ、僕はさらに息を潜めた。
「また来たってことは、そういうことでしょ」
「やめてください」
「ボノボはね、どこでもセックスするんだよ」
僕はいてもたってもいられなくなり、布団を飛び出して、声が聞こえてきた布団を除け、彼女に乗っかるクソ男を引きはがした。
「てめえ、何すんだよ。いいところだったのによ」
「このクソ雑魚野郎」
立ち向かって来るクソ男の顔面を僕は思いっきり殴った。殴ったといってもクソオタクであるところの僕は、殴り合いの喧嘩のようなことはしたことがなかったので、大きく腕を振りかぶって、手首の付け根あたりで頬を撫でる、猫パンチのもっとねっとりしたやつを繰り出しただけだった。
「何だこれ、くせえ」
男はそういうと、僕から遠のいた。その瞬間、どこかで嗅いだことのある、生臭い匂いが鼻を突いた。僕は布団に包まって、股間を押さえているうちに射精してしまっていたようだった。そして、手に着いた精液がクソ男の顔にべったり塗られることになったのである。
「何だ何だ」「どうしたどうした」
この騒ぎで布団に入っていた他の連中も起き始めた。
「逃げよう」
僕は左手で彼女の腕を掴み、光が差す方へ走って行った。建物から抜け出してやっと気づいたのだが、ここは僕らの大学の構内だった。僕が眠っていたのは色んなサークルの部室が入っているサークル棟の中の「合宿室」という部屋だったようである。存在だけは知っていたがこんな形で使うことになるなんて。
「おいこら待て」
裸足で逃げ出した僕たちにクソ男たちが追いつくのは時間の問題だった。

 「それならば、総合的に見て一番おもしろいほのぼの日常系アニメとは何か」
「誰だてめえ」サークル棟の、僕たちが出てきたのとは違う扉から出てきた男の声で、クソ男たちの動きが止まった。僕たちも足を止めてその男の言葉に耳を傾けた。
「それは苺ましまろでござる」
「ござる先輩」
僕がそう叫ぶと、僕たちを追いかけてきていたクソ男たちは「ノイローゼになる」などと叫びながら、散り散りにどこかへ走って行ってしまった。どうやらクソ男たちのほとんどは、ヒメ目当てにパソコンサークルへ入ってきたクソ男で構成されていたらしい。
「走りなさい」
ござる先輩の後ろから出てきたヒメげ僕たちに向かって叫んだ。僕たちはそれを聞いて再び走り出した。
 走りながら僕は彼女にしゃべりかけていた。
「パソコンサークルに入るといいよ」
「どうして」
「僕とござる先輩とヒメと佳奈の四人で麻雀をするんだ」
「麻雀なんて雑魚の大学生がすることよ」
「そんなことないよ。クソオタクのござる先輩と、オタサーの姫で圧倒的美少女のヒメと、下着姿で走り回るクソど変態の佳奈が一堂に会するんだ。こんなに素敵なことはないよ」
「確かに二人とも有名人だものね。それでも、ござる先輩は卒業するでしょ」
「大丈夫。ござる先輩はきっとまた留年する」
「私が入ったら、姫さんはオタサーの姫の定義からはずれるでしょ」
「大丈夫。ヒメは苗字が姫野なんだ。だから、みんながヒメって呼ぶし、いつまでもオタサーの姫なんだよ」
「じゃあ、あなたは何なの」
「僕は、雀卓と牌を用意するよ。何なら僕の部屋を使ってもいい。いつでも四人で集まれるように」
「それなら安心ね」
彼女はメガネに下着姿という出で立ちだったが、そんなことはどうでもよかった。またどこかで僕が服を貸してやればいい。こうして、僕が彼女と走っているのも、やっぱりセックスのせいなのである。

「未知との遭遇」

122127

 僕は駅のホームに立っていた。電車が走る音、駅員のアナウンス、出勤する人たちのざわめきがうるさいほど聞こえる。ただ、僕にはその雑音なんて届かない。
 僕は向かいのホームにいる一人の男を見つめていた。

*

 僕は普通の大学生だ。これといった特技もないし、趣味もない。名前だって、二宮とかいう中途半端な苗字だし、太郎なんていうよくある名前である。ちなみに彼女いない歴20年です、哀れみの目を向けていただいて結構ですよ。かといって、世の中に不満があるわけでもない。何となく生活していれば何となく生きることはできる。何もない自分が嫌いなわけでもないから、死んでしまおうなんて考えたこともない。
 その日もただ普通に学校へ行くつもりだった。毎日通る道を自転車で走り、駅に着いたら定期を取り出し、改札を出てホームに向かう。いつもなら昼食のこととか好きな漫画のこととか、たまにテストのこととか考えながら、ぼーっと突っ立っている。
 ただ、その日だけは、向かいのホームにいる人物から目が離せなかった。今まで一度も見たことがない男が一人立っていたのだ。そいつは僕とは違って、ものすごく整った顔をしていた。目が大きくて睫毛も長くて鼻は高い。眉毛は少し太かったが、それもちょうどいいアクセントになっている。こういう顔がモテるんだろうなあと見ていると、ばちっと目が合った。驚いて目を逸らそうと思ったが、僕は何故か逸らすことができなかった。だから見つめ合う形になってしまった。向こうも目を見開いているから驚いたんだろう、それにしてもそんなに驚くことなのだろうか。こんな普通の僕を見て。
その瞬間、彼の口が何か言うように動いた気がしたけど、ちょうど電車が通ったので何も聞こえなかった。

*

「ニノはさあ、何か面白いことないの。」
そんなことを幼馴染の神山翔に言われる。翔さんは小学校の時からの幼馴染で僕の良き理解者だ。学校は違えど、今もよく会っている。僕のことをニノという愛称で呼ぶのは今のところ、翔さんだけである。お察しの通り、あだ名で呼び合う友達が少ないだけかもしれないけれど。
名前があの国民的アイドルグループのメンバーと同じだからという理由だからか、顔も悪くはないし最近彼女ができたらしい。智子ちゃんという名前だけ教えてもらった。特にどうでもいい情報である。
「何それ、別に何もないけど。」
シェーキを吸い込みながら言うと、翔さんは、だよなあと笑う。
「いや、最近同じことの繰り返しでさ、面白くないんだよね。」
「例の智子ちゃんとはどうなのさ。」
「もうめっちゃ安泰です。可愛すぎてどうしようもない。」
ものすごい惚気を聞いて、僕は今朝の出来事を思い出した。
「そういえば、今日超きれいな人に会った。」
「えっ、どこの人?」
翔さんが身を乗り出す。
「駅の向かいのホーム。といっても男だけど。」
「なんだあ。」
翔さんが乗り出した身を戻す。
「女の子かと思ったのに。」
「はは、でもすげえ綺麗だったんだよ。」
「男に綺麗とは、ニノは面白いね。」
「うるさいな。」
結局、翔さんにその話はできなかったけど、その後も二人で笑って話した。

 翔さんと別れて、いつもの道をまた歩く。木に付いている葉はもう色づき始めて、風も肌寒い。夏も終わりに近づいている。秋はまだいいが、冬は寒くて嫌いだから早く終わって春になってほしい。そんなことをぼちぼち考えながら歩いていると、いきなり後ろから手を掴まれる。
 本日2回目の驚きと共に後ろを振り向くと、今朝の美少年が息を切らして僕を見ていた。彼の声が今度ははっきりと聞こえる。
「やっと見つけた…!」
残念ながら、こんな美少年に探される覚えはないのだが。

 とりあえず僕の弱い頭では整理しきれなかったので、喫茶店に入って話を聞くことにした。彼も了承してくれたので、そこらで一番近い店に入る。てきとうに僕はコーヒーを、彼は紅茶を注文した。
 彼の名前は、時多潤というらしい。何でも、今朝向かいのホームで見かけた僕が自分の好きな漫画の主人公に酷く似ていたそうでずっと探していたそうだ。睫毛をバサバサ(本当にそんな効果音が鳴りそうなぐらいなのだ)いわせながら話す彼を見て、意外とヲタクっぽいんだなと平凡代表の自分とさほど変わらないことを知って少し嬉しくなってしまった。
「あの、カズって呼んでもいいですか…!」
本名と全く掠ってもいないあだ名を付けられ普通なら拒否するところだが、目の前のイケメンがやけに恥ずかしそうにするもんだから、つい、「いいよ」なんて言ってしまう。
「あ、ありがとう…。」
イケメンの少し可愛らしい部分を見てしまった。女子はこんなところにグッとくるんだろうな。
「じゃあ、時多くんは…。」
「潤でいいよ。」
「潤くんはそのために僕を追ってきたの?」
潤くんが言うには、今まで会ったどんな人よりも、その『カズ』っていう主人公に似ていたらしいが、そんなことで見ず知らずの男に声をかけるのだろうか。僕だったら絶対にかけない。僕がかけないと言うのなら、これが一般的な意見だろうと思う。
「お恥ずかしながら…。」
「お、おお、すごいな…。」
こんな些細なきっかけから、僕は潤くんと知り合った。

 僕と潤くんは友達になった。これは潤くんから言ってくれたから僕の妄想なんかじゃないはずだ。イケメンとお近づきになる機会なんてないから付き合い方なんてわからない。一緒に話した喫茶店でも周囲の女子が何やら騒いでいるのが聞こえていたし、やっぱり潤くんはモテるんだろうと思う。それなのに彼に彼女がいないというのは多分彼の性格が災いしているのだろう。潤くんはかなりのヲタクだった。僕を自分の好きな主人公に見立てるところもアレだが、家にはたくさんの漫画があるらしい。アニメキャラにも詳しい。語りだすと、とてつもなく話が長いし早口になる。あれだ、ツイッターとかで見たことがある典型的なコミュ障の例通りの人だった。
僕にとって潤くんは今まで会ったことのない、そう、言うならば宇宙人のような人だと思った。

*

「…ということがあったわけよ。」
「へえ、何か本当に宇宙人みたいだな。」
 これまでの潤くんとの出来事を翔さんに報告したら、やっぱりそんな反応だった。翔さんは聞いただけでそう思ったかもしれないが、実物を見ればもっとそう思うだろう。
「で?そいつとお友達になったわけ?」
「…本人が言ってくれてるから多分そうだと思う。」
そこらへんに関して全く自信はないが、僕から言ってるならともかく、潤くんからだから、うん、多分友達でいいよね。
「まじか!めっちゃ気になるわーそいつ。」
今度会わせてよ、という翔さんに潤くんはどう答えるだろうか。

*

「…別にいいけど…。」
 嘘だ、めっちゃ嫌そうな顔してるじゃん。最近、気付いたけど、この人はすぐ顔に出るタイプだから、わかりやすい。
「それよりさ、今度文化祭でライブするんだけど、チケット渡すから、カズ、見に来てよ。」
「へ?ライブ?何の?」
「俺の!あれ?俺、軽音楽部って言ってなかったっけ?」
言ってない。多分おそらく、いや絶対聞いてない。宇宙人のもっと不思議なところを見つけてしまった気がする。この容姿で軽音楽部って…超ど級のヲタクじゃなかったら絶対モテてる。
「あ、じゃあその翔さんって人も連れてきてよ。チケット二枚渡すし!」
「あ、うん、わかった…。」
完全に流されているのを感じながら、僕は渋々チケットを二枚受け取る。嬉しそうな潤くんを尻目にチケットへと目を落とす。そこには〈風山大学 学園祭 大風祭〉と書かれていた。脇には最近流行りの梨の妖精と熊本のクマのイラストが描かれており、何ともシュールな絵面だった。

 
*

 そして、〈風山大学 学園祭 大風祭〉当日。潤くんが通う学校の正門前に僕と翔さんはいた。忘れていたけど風山大学は超お金持ち学校で敷地も校舎もかなり大きい。周りを通る人たちはみんな気品が良さそうで、身なりもすごく整っている。こんな日に寝坊して髪の毛に寝癖がつきっぱなしの翔さんとは大違いである。兎にも角にも僕らは潤くんを拝むだめに来てしまったわけである。恐るべし、時多潤。
「俺の大学はこんなキャラメルポップコーンなんて売ってないぞ。」
パンフレットの出店一覧を見ながら翔さんがぼやいた。もちろん、僕の大学にもそんなシャレオツな物は売られていない。ポップコーンが食べたけりゃ映画館に行け。
「…なんで潤くんは僕らなんかにライブを見てほしかったんだろう。」
「僕ら、っていうより、ニノに、って感じだよなあ。俺は明らかにオマケだよ。」
「え、そうなの?」
「だって最初はお前だけにチケットを渡そうとしたじゃん。」
そういえばそうだな。その時にたまたま翔さんが潤くんに会いたいという話をしていたから、二枚もらえたのであって、元々、僕に見に来てほしかった…?いや、そうなると、ますますわからない。
 とりあえず受付で翔さんと2人分の名前を書き、紹介者のところに「時多潤」と書くと、受付の女子生徒の顔が強張った。
「時多くんのお知り合いですか?」
と聞いてくる限り、時多という名前はかなり通っているらしい。まあ、あの様子じゃファンクラブとか既に出来てそうだもんな。
「一応そうだけど…。潤くんって有名なの?」
当たり前だが、僕はそれが良い噂であると思い込んでいた。
僕の間抜けな返答を聞いて、女子生徒はため息をつきながら、口を開く。
「有名なんてもんじゃありませんよ。時多潤といえば、この学校一の宇宙人だと評判です。」

 風山大学の文化祭は他校と同じように体育館でやる催し物と先程述べたキャラメルポップコーンのような出店の二つに分けられている。体育館では30分ずつで各クラスやクラブがスケジュールを組んでおり、確認したところ、軽音部は3番目の11時半からであった。お昼前だから、がら空きかと思って来てみれば、前から後ろまでぎっちり人が入っていた。
「おお〜、すげえな。」
翔さんがキョロキョロと空いている席を探してくれた。着席して辺りを見回すと驚くべきことに女子生徒ばかりであった。先程の受付の女子生徒の言葉が気になる。

「時多潤といえば、この学校一の宇宙人だと評判です。」

 初めて会った時から他と違う雰囲気は感じ取っていたつもりだったが、まさかそんな認識だと思わなかった。彼女が言うには、容姿端麗、頭脳明晰、楽器ができて、運動もできるという正にパーフェクトボーイでありながら、いつしかその存在が〈宇宙人〉と揶揄されるようになったらしい。多分その言葉には「この世の物ではない」や「自分とは通じ合えない」といったような意味が含まれているのだろう。でも、それって。
「すごく寂しくない?」
「ん?ああ、時多のことか?」
「ちょっと人より出来がいいからって、他の人と同じように生きていけないって言われているようで、僕だったら嫌だな。」
この大学で潤くんがどのように生活しているのかが気になった。差し支えなければ、今度聞いてみよう。ただその第一前提として、今から始まる軽音楽部のショーを拝ませてもらおうじゃないか。

*

 それはまるで宇宙にいるような感覚だった。これを何と言葉で言い表そうと考えれば、それがぴったりくると思う。大きな引力に引きつけられているような、また漂っているような。軽音部の演奏はまさにそんな感じだった。一言で言えば、良い意味ですごかった。始まる前は歓声で割れんばかりだった体育館が、演奏中は静かに感動で震えているようだった。
 終わった後に潤くんに会いに行くと、舞台上とは違ってぱあっと可愛らしい笑顔でこちらに向かって来た。
「カズ!見てくれたの??」
「うん、見てたよ。すごかった。なんか上手く言い表せないけど、すごかった。」
「ふふ、何それ。ありがとう。」
自分の言葉のボキャブラリーの無さを責めたい。あの雰囲気を言い表せる言葉がなかった。まさか宇宙にいるみたいだった、なんて、そんな阿呆なことは言えまい。
「あ、そちらが噂の翔さん?」
僕の後ろにいる翔さんを指して潤くんが尋ねる。
「どうも。ご紹介に預かりました。神山翔と申します。」
「ご丁寧にありがとう。時多潤です。よろしく。」
お互いの自己紹介が終わった後で、潤くんは変な質問をしてきた。
「ところで、お二人とも、楽器は何かできますか?」
翔さんと顔を見合わせて考える。僕は一応、ギターができる。女子にモテようと思って始めたが、これが意外に楽しくて今でも部屋にはギターがある。ただ、最近は弾いてないけれど。翔さんは小さいころから親の英才教育でピアノを習っていた。家には電子ピアノもあり、たいていの曲なら弾けるそうだ。
そう答えると潤くんはにんまりと笑って、驚くべきことを口にした。
「ねえ、二人とも。俺らとバンドを組みませんか?」
一瞬、何を言っているのかわからなかった。先程見たステージでは五人組バンドで全員が役割を持っていたし、第一、部外者の僕らが入り込む余地なんてないように思えるが。
「実は、ギターとキーボードとボーカルが全員先輩で、今年卒業なんだよね。」
潤くんによると、その三人はこの文化祭が終わったら引退してしまうらしい。そうなったら自分たちはバンドが成り立たなくなる。そこで急遽、僕らを勧誘したいそうである。
翔さんに、どうしよう、と言うと、
「お前、別に夢中になれることも楽しいこともないからいいんじゃない?やってみる?」
という何とも無責任な答えが飛んできた。

とりあえず、答えは軽音楽部を見せてもらってからで保留にした。潤くんはどうやらベースという楽器の担当らしい。そしてもう一人同学年でドラムのやつがいるらしいので紹介してもらった。
「相葉ちゃーん」と呼ばれて出てきた奴は、この中の誰より背が高かった。「はーい!」という元気良さから性格の明るさが伺える。相葉卓巳というそいつは潤くんとは真逆のムードメーカーだった。
「で、カズにはギター、翔さんにはキーボードをやってほしいんだ。」
潤くんは僕らに、駄目かな?というように楽器の振り分けを伝えてきた。でも、僕らにもいくつか問題がある。
「ちょっと待って。さっきも言ったけど僕らは部外者だ。そんな僕らがこの学校の軽音楽部に入ることなんてできるの?」
「ウチは部というよりサークルみたいな感じだし、他校の生徒だってたくさんいるよ。他のバンドでは全員学校が違うところもある。」
「じゃあ、僕も翔さんも楽器をそんなに練習しているわけじゃない。こんな本格的なバンドをいきなりできるの?」
「いきなりじゃなくていい。俺たちにはまだ時間があるし、急な大会や催しもない。だからゆっくり合わせていけばいいんだ。」
「うう…。あ、あと相葉さんはそれでいいの…?」
「うん!俺は入ってくれることに対しては大歓迎だし、むしろ人がいないから助かる!」
ここまで言われれば、さすがに完敗だ。一応、翔さんにも援護射撃を頼むため、目で訴えたが、思ったより翔さんの目はきらきらとしていて、何も言えなかった。
 その日から僕らは軽音楽部に入ることとなった。

*

 潤くんから指定された場所までたどり着く。なんとそこは最初に潤くんと話した喫茶店だった。風山大学の文化祭から二日後、本格的に始めると連絡がきた。もっとも楽器の練習も僕らには必要であったが、それよりも重大なことがあった。メインボーカルがいないことだ。ギターの僕やベースの潤くんが演奏しながら歌う、というのも考えたが、バンド初心者の僕にはとてもじゃないが難しいし、潤くんはあまり歌が上手いほうではなく、むしろ下のハモりのほうが上手かった。ということで僕らはボーカル探しに明け暮れることとなった。軽音楽部員の声や僕と翔さんの友達から歌声を取って聞いてみたが、どれもしっくりこないようであった。
「うーん、駄目かなあ。」
「でも俺はわりと三番の子とか好きだよー。」
「あー錦戸?まあ、上手いよな。てか、ついに番号で呼び始めたな。」
「なんか品評会してるみたい。」
それには全員が笑ったが、すぐに現実に戻ってしまった。どこかその辺に歌の上手い人がいないだろうか…。そんな風に思っていた時、外から声が聞こえた。どうやら通行人が歩きながら歌っているようだったが、その歌声の凄まじさはそこにいた四人全員がわかった。
「これだ…!」
言うが早いか、潤くんが飛び出す。それに続いて僕ら三人も会計を済まして飛び出した。潤くんが捕まえた小柄なその人はきょとんとして僕らを見ていた。僕らの誰よりも背が低いその人に潤くんが尋ねる。
「お名前は…?」
間違ったナンパみたいであるが、本人はいたって本気なのであまりからかわないでやってほしい。
「俺?榎本智…」
榎本智と名乗ったその人はこれまた違う大学の同級生だった。今はどこの部活にもサークルにも入っていないらしい。歌を歌うのは好きだが、これといって練習していたわけでもないという。潤くんが事情を話して、軽音楽部に勧誘すると、
「面白そうだね、やってみようかな。」
というお返事がもらえ、正式に入部する運びとなった。
 これで僕ら五人は集まったのである。パート分けもしっかりできていて、それぞれに得意分野がある。こんな奇跡があるだろうか。このメンバーが集まったのは偶然じゃないように思えた。さらに偶然じゃないと思ったのは、翔さんがうわ言のように「智子ちゃんに似てる…。」と呟いていたからである。

*

 それから僕らはバンド練習を重ねた。最初は不安だったギターも指はちゃんと動いたし、翔さんもピアノと変わらないキーボードにはすぐ慣れた。何しろ、僕らは智さんの声が好きだったからそれを聞けば頑張ることができた。ボイスセラピーでも始めたほうがいいと本気で思っている。
 そんなある日、潤くんが一枚のチラシを持ってきた。それは街が主催している軽音楽の大会で、優勝すればお買物券一万円分を全員に、というものだった。潤くんはこれに出ようと提案してきた。練習してきているのだから、実践の場が欲しいと思っていたところだ。全員が賛成し、潤くんが申し込んでくれた。ただ、申込みにはバンド名がいるらしく、そこで僕らは自分たちに名前がないことに初めて気付いた。
「どうしよっか…。」
「どっかのアイドルみたいに全員の頭文字を集めて言葉にする?」
「それ作るの難しそうだな。TAKEN…。」
「ださいわ。うーん、もっとかっこいいのないかなあ。」
「あ、風山大学軽音部でしょ?じゃあ、風山から嵐にして、stormにして、嵐の夜って意味で〈a stormy night〉は?」
という意見を出したのは翔さんだった。
 僕らに目標ができた。そんなに日もないが、初めて出てきた、大会という名の目標に向かって走り出したその日の天気は、まさに嵐の夜だった。

*

 それから二か月後に僕らは初の舞台に立った。それは市民会館ホールという名の小さい場所だったが、観客席にはたくさんの人が見に来てくれていた。二か月の間に、一回相葉さんの手のマメが破けたし、僕の爪だって割れた。それほど必死に練習を続けてきたのだ。演奏する曲だってだいぶ悩んで全員で決めた。それが今日報われるか、それとも失敗に終わるかは僕ら次第である。
 ついに僕らの順番が来た。歩き方を見ると、全員緊張しているみたいだった。自分の立ち位置に立つと、一度お辞儀をして、担当楽器に触れる。全員とアイコンタクトを取る。全員が準備できたところで、智さんが最初の声を出す。
「どうもこんにちは。僕らは、あ、すとーみぃないと、といいます。」
思いっきりひらがな表示でバンド名を言う智さんにみんな笑った。おかげで少し緊張がほぐれたようだ。智さんは続けてバンドの紹介をする。
「僕らは風山大学の軽音楽部という名目ですが、メンバーは寄せ集めです。僕も道で歌っていたら声をかけられました。あの時は…。」
「あの、智くん。長いです。」
絶妙なタイミングで翔さんが止める。相葉さんが変な声で笑っている。会場にも、どっと笑いが起こった。困ったように笑う潤くんと目が合って、僕も笑ってしまった。
「…まあ色々ありましたが、僕らは出会うことができて本当に良かったと思っています。」
潤くんが横からまとめる。智さんはむうっと膨れたが気を取りなおして言う。さていよいよ本番です。
「それでは聞いてください。」

 僕らの初舞台は審査員特別賞というものに終わった。優勝はできなかったものの、演奏はほぼいつも通りで、目立ったミスもなかった。これが今の僕らの実力ということだ。
「あー、楽しかった!」
楽器の片づけ等で二人になった時、潤くんが言った。
「カズも楽しかったでしょ?」
初めて会った時から変わらない整った顔が僕に笑いかける。あの時は綺麗な顔をして色んな意味ですごい奴だと思ったが、それも変わらず、今もすごいと思っている。
「潤くん、誘ってくれてありがとう。」
きっかけは僕と漫画のキャラクターの空似でも、宇宙人の潤くんがいなければ、その行動力がなければ、この五人は集まっていない。潤くんは僕の言葉を聞いて、思いっきり照れている。これから先もこの五人で活動できたらいいな、なんて笑い合いながら言う。
僕はこの宇宙人の住む星にもう少し住んでみようと決めたのだった。


おわり

「白と黒」

122209

 ――白が好き。黒は嫌い。
「ねえ、どうして昔のお姉ちゃん、白い服ばっかり着てるの?」
 十も歳が離れているひかりが、アルバムをめくりながら不思議そうに尋ねた。
「うーん、その頃はなぜか白色が好きだったのよ。なんだか落ち着いて。」
 少し困ったように笑いながら、あすかは答えた。
「ふーん、変なの。そういえばお姉ちゃんのおさがりって白色が多いよね。」
「確かに、そうかもね。さっ、ひかりはそろそろ寝なさい。明日起きれなくなっちゃうよ。」
 そう言って、あすかはひかりを自分の部屋に帰るように促した。
「お姉ちゃん、おやすみ。」
「おやすみ。」
 誰も居なくなった部屋で、あすかは先ほどひかりが見ていたアルバムを手に取った。
「白色か。なつかしいな。」
 写真を眺めながらぽつりとつぶやいた。
 アルバムの写真には、十歳頃のあすかとまだ幼いひかりが写っていた。その頃の写真のあすかはどれも白い服を身につけていた。
「この頃は何でも白じゃなきゃ嫌って言って、よくお母さんを困らせてたよね。白色が好きだったって、嘘じゃないけどそんな単純な理由でもないか。」
 あすかはアルバムを抱えてベッドに寝転び、目を閉じた。あの頃の自分を思い起こしながら。


「あすか、いってきます。今日も遅くなるから、きちんと戸締りしてね。」
「いってきます。学校でしっかり勉強してくるんだぞ。」
 毎朝早くに仕事に出かけるお父さんとお母さんを見送るのが私の日課だった。お父さんとお母さんは家の近くの小さな工場で働いていた。お父さんもお母さんも毎日必死に働いていたけれど、工場の経営は厳しいようで、けっして裕福な家庭ではなかった。でも、優しい両親や仲のいい友達に囲まれたおだやかな生活だった。
 その日もいつも通り両親を送り出してから、私は小学校に向かった。四年生の教室に入るといつも通りのみんながいて、一緒に授業を受けて、休み時間は一緒に遊んだ。学校が終わってからは、仲良しの子の家に遊びに行って、夜ご飯までご馳走になって家に帰ってきた。あとは家で宿題をしながら、お父さんとお母さんが帰ってくるのを待つだけ。そうしていつも通りの私の一日が終わるはずだった。
「お父さんもお母さんも遅いなぁ。」
私は学校の宿題も終わって暇になり、少しうとうとしていた。
そのとき、
「あすかちゃん!」
 大きな焦ったような声と共に、家のドアが激しくドンドンと叩かれた。
 私はびっくりして玄関に向かい、ドアの穴から覗いてみると、近所のおばさんが息を切らした様子で立っていた。ドアを開け、「おばちゃん、どうしたの」と尋ねようとした瞬間、おばさんが私の肩をつかんで叫んだ。
「あすかちゃんのお父さんとお母さんの工場が火事だよ!」
「えっ。」
 近所のおばさんに連れられるまま、私はお父さんとお母さんが働く工場に向かった。走りながら、私は何も考えられなかった。現状が全くつかめていなかったのだろう。
私はおばちゃんの後を懸命に追いかけて走った。白い息が流れていった。工場の近くには人がたくさん集まっていた。人ごみを抜け、曲がり角を曲がったとき、私の目に飛び込んできたのは、真っ暗な夜に不釣り合いな赤い炎と闇に溶けていく黒い煙だった。
 見慣れた工場のはずなのに、目の前の状況が信じられなくて私は呆然となった。
「お父さん。お母さん。」
 大声で叫んだつもりだったのに、出たのは震えたかすかな声だった。
「ここは危険だから、下がって!」
「火のまわりが速いぞ。急げ!」
「この火事じゃ、中に人がいても助からんじゃろうな。」
「かわいそうに。」
 消防隊の人や近所の人たちの声がどこか遠くから聞こえてくるように感じた。
 もしお父さんとお母さんが死んじゃったら…?私は一人ぼっちになるの…?
 頭の中でぐるぐるぐるぐると悪い考えばかりが浮かんだ。
「お父さん……。お母さん……。」
 視界を黒く染める煙を見上げながら、また震えた声がかすかに出た。
 それからどれぐらいの時間がたったのか。ようやく火は消えた。目の前に残ったのは、黒い建物らしき物体だった。
「あすかちゃん!」
近所のおばさんが叫びながら走ってきた。
「お父さんとお母さん、向こうにいるよ。さっき無事救助されたんだって。早くおいで。」
 急に我に返ったかのように、私は走りだした。救急隊の人に囲まれたなかに、お父さんとお母さんはいた。黒い煤で全身を真っ黒にしていたが。生きてる――。

 正直それからはよく覚えていない。お父さんとお母さんの無事が分かり、安心して幼い子のように泣きじゃくっているうちに眠ってしまったらしい。気付けば近所のおばさんや救急隊の人に連れられて、病院にいた。後から聞いた話だと、お父さんとお母さんは火事が起こったとき、火元から離れた場所に居て、避難が速かったこともあり、多少の火傷はあるものの軽傷で済んだ。しかし、避難が遅れた人も数人いて、その人たちは煙を吸いすぎたことによる一酸化炭素中毒で亡くなった。つまりあの黒い煙が人を殺したのだ。
それから私たち家族はおばあちゃんの家に引っ越すことになった。今回の火事がきっかけにはなったが、もともといつかは母方のおばあちゃんの家に引っ越そうかということをお父さんとお母さんで話をしていたらしい。
「いらっしゃい。よく来たね。」
 背が小さめで白髪のおばあちゃんが、私たちを出迎えてくれた。今までおばあちゃんとは年に数回しか会えなかったけど、私は優しくて物知りなおばあちゃんが大好きだった。
新しい場所で、新しい生活が始まった。お父さんとお母さんは新しい職場で働き始め、私も新しい小学校に転校した。
そして、また日々が慌ただしく過ぎていった。お父さんとお母さんはまた以前のように忙しく働いていた。まるで火事のことなんかすっかり忘れてしまったかのように。
私だけがあの事件の日から進めないでいた。あの日から、何か黒いもやもやしたものが心のなかにずっとあるような気がした。
あの夜の黒い煙、真っ黒になってしまった建物、大切なものを失うかもしれないという恐怖。自分の部屋にいるはずなのに、暗闇に一人取り残されたような気がして、一人で震えていることもよくあった。
家では、お母さんたちに心配をかけまいとなるべくいつも通り振る舞っていたけれど、通い始めた新しい小学校では、今までの明るい性格が嘘のように、ほとんど喋らず、笑いもしない子になってしまった。あのときの私は、近寄りがたい暗い転校生だとクラスメイトからは噂されていた。

「あすかちゃん。」
 夜、寝る準備をしているとおばあちゃんが部屋に入ってきた。手には何か布のようなものを持っていた。
「どうだい?新しい学校は。お友達はできたかい?」
 おばあちゃんの問いかけに、私はうつむいて何も答えられなかった。
 おばあちゃんはそんな私を柔らかく見つめながら、言った。
「あすかちゃん、無理をしてないかい?ばーちゃんには、あすかちゃんが家のなかでいっつも無理して笑ってるように見えるんだがねぇ。」
「そんなこと…ない。」
 小さなかすれた声で答えるのが精一杯だった。
「人は誰でも黒いもやもやしたものを心のなかに抱えてるときはしんどいものさ。そんなときは、誰かに正直にしんどいよー、助けてーって言ってもいいんだよ。」
「……。」
 何も答えられない私におばあちゃんは私の頭を優しくなでてくれた。
「あすかちゃんは優しい子だからね。お父さんとお母さんに心配かけないように一生懸命なんだね。ばーちゃんは、魔法使いじゃないから、あすかちゃんのつらかったことも、心のなかの黒いもやもやも失くしてあげることはできねけども……。」
 おばあちゃんはそう言って、私に白いワンピースを渡した。
「このワンピースは昔あすかちゃんのお母さんが子供のとき着てたやつなんだけどね。あの子があんまり新しい洋服が欲しいって駄々をこねるから、仕方なくばーちゃんが作ってやったもんなんだよ。」
「これおばあちゃんが作ったの?かわいい!」
 私は顔を上げ、おばあちゃんと白いワンピースを交互に見比べながら言った。白いワンピースは、確かに昔風のデザインではあるが、汚れもなく、大切に保存されていたことが分かった。
「ふふ、ありがとうね。けど、せっかく作ったのにあの子は数回着ただけで、飽きたとか言うんだよ。もし良かったら、あすかちゃんもらってくれないかい?ちょっと古臭いかもしれんが。ばーちゃんの勝手な考えなんじゃが、これは今のあすかちゃんを助けてくれる色かもしれんと思ったんだよ。」
「色?」
「ばーちゃんは、色には大きな力があると思っとる。例えばおんなじ形の服でも、色が違うと雰囲気がずいぶん変わることもあるじゃろ?明るい色の服や小物を身に着けるとなんとなく気分まで明るくなったりとか。」
「うーん、そう言われてみればそんな気もするような…。」
「まあ、そんなに難しく考えんでもええ。ばーちゃんからの、お守り代わりのプレゼントとでも思ってくれれば。…あすかちゃんは今、黒いもやもやしたものを抱えとる。この黒いやつはなかなか厄介じゃ。どんどん色濃くなっていくか、薄まっていくか、どちらかじゃ。このままだとあすかちゃんは、一人で真っ黒なものに飲み込まれてしまうような気がしたんじゃよ。」
「黒……?」
「それで気休めにしかならんかもしれんが、この白いワンピースをあすかちゃんにばーちゃんからのお守りとしてあげようと思ってな。…黒を薄められるのは、変えられるのは、白だけじゃろ?」
「……。」
「すまんの。あすかちゃんをもっと混乱させてしまうことになってしまったようじゃの。ばーちゃんのいつもの心配癖がまた出たとぐらいに思っといておくれ。さて、ゆっくりお休み。」
 そう言っておばあちゃんは部屋から出て行った。
 灯りが消えた部屋で一人、私はさっきのおばあちゃんの言葉を思い返していた。
「私が黒に……。」
 はっと顔をあげると目の前に広がるのはもちろん真っ暗な部屋。黒が一面に広がる。思い出すのはあの黒い煙。私から大切なものを奪おうとした「黒」。私を恐怖のどん底に突き落とした「黒」。黒なんて大嫌い。黒に飲み込まれる。恐い。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
――黒を変えられるのは白。
 おばあちゃんの声が聞こえた気がした。
「助けて…!」
頭を抱え俯いていた私がパッと顔を上げると、目にあの白いワンピースが飛び込んできた。白いワンピースは、ちょうどカーテンの隙間からもれる月の光をうけて白く輝いているように見えた。白は暗闇に負けない、暗闇をも照らす光になっていた。
いつの間に眠りについたのだろう。次の日、なんだか心のつかえが取れたような気分で目が覚めた。少しドキドキしながら、白のワンピースを着てリビングに向かった。
「あら、おはよう。あすか、白いワンピース良く似合ってるわね。」
 一瞬ビクッとした私にお母さんが笑顔で声をかけてくれた。
「…おはよう!」
私も思わず笑顔になった。

それから私は少しずつ前のように喋ったり笑ったりできるようになっていった。無理に作った笑顔じゃない。普通に笑うことができた。そうしたら、新しい学校でも友達ができた。
「今までは話しかけにくい雰囲気だったけど、なんだか明るくなって、すごく話しかけやすくなった。」
と、クラスメイトからはよく言われた。
 私が日常の生活を取り戻した頃、妹のひかりが生まれた。真っ白な病室に、真っ白な布にくるまれてひかりは居た。
「あすか、おいで。」
 おかあさんが優しく声をかけた。
「この子の名前はひかりよ。あすかとはちょうど十歳離れてるのね。ひかりのこと新しい家族として、妹として守ってちょうだいね。」
「…うん!」
 私は改めてひかりを見た。ひかりはなんというか、まだまったく色がついていない、純粋で、居るだけで周りを明るくするような、そんな感じがした。
 お母さんに促されて、ひかりをゆっくり抱っこしてみた。
「かわいい……。」
 思わず言葉と笑顔がこぼれた。
 それから私はひかりに夢中になった。学校が終わるとすぐに家に帰ってきて、ひかりの傍にいた。ひかりの傍は私の落ち着く場所になっていた。

ひかりが生まれてから二年が過ぎて私は、六年生になった。
おだやかな日々が続くなか、私は一人の男の子と出会った。名前は何だっただろうか。確か黒崎とか黒井とかそんな感じだった。周りの人は彼のことを「くろ」と呼んでいた。くろは六年生のときに私のクラスにやってきた転校生だった。
 私はあまり彼と関わろうとはしなかった。別に彼が嫌いとかそういうわけじゃないのだけれど、なんだか無意識に彼を避けていたように思う。
 特に彼と関わりもないまま、私は小学校を卒業した。次は中学校へ入学だ。そうは言っても、ほとんどが小学校の持ち上がりなので、顔見知りばかりだ。もちろんそのなかにはくろもいる。

「あすか、そろそろ起きないと入学式に遅れちゃうわよ。」
 お母さんの声で、目が覚めた。いよいよ今日は中学校の入学式だ。今日はお母さんも入学式に来てくれるから、仕事はおやすみ。
ほとんど顔見知りとはいえ、先生は知らない人ばかりだし、先輩と後輩っていう上下関係もできるし、不安でいっぱいだ。でも新しい生活は楽しみでもある。部活はどうしようかなとか、クラスに仲良しの子がいるといいなあとか考えながら、用意をしていた。
――トントン。
「あすか、入るわよ。はい、これ制服ね。」
お母さんが持ってきてくれたのは、今日から私が毎日着なければならない服。黒色の制服――。
知らなかったわけじゃない。通学路とかでも中学生はよく見かけたし。黒字に赤色のラインとリボンがついているよくある普通のセーラー服だ。特に何も思っていなかった、ううん、考えることから逃げていたのかもしれない。
「早く着替えて、下に降りてらっしゃいね。」
 お母さんが部屋から出て行って、一人になった。私はそっと黒色の制服に触れた。今日から中学生なんだから。毎日着るものなんだから。自分のなかで何度も何度も繰り返しながら、私はそろそろ制服を着た。
 何だ。着れるじゃん。別にどうってことない。あー、良かった。ほっとしながら、私はくるっと振り向いてしまった。
見えたのは鏡に写る私。黒に包まれた私。そのとき、私の心を占めたのは恐怖だった。自分でも何故だか分からない。別にあれから黒を見なかったわけじゃない。この制服を着た人だって見たし、黒い服を着た人だっていっぱいいる。分からない。でも恐い。そんな思いでいっぱいだった。
私は何かから逃げるように制服を脱いだ。そして助けを求めるかのように、クローゼットから取り出したのはあの白いワンピースだった。
「あすかー。本当に遅刻しちゃうわよー。」
 お母さんの声がどこか遠くから聞こえるようだった。

――結局、私は入学式に行くことができなかった。あの後、なかなか下に降りてこない私にしびれを切らしたお母さんが、怒りながら部屋に入ってきた。でも白いワンピースを抱えながら、真っ青な顔をしている私を見て、何かあったのだと気付いてくれたようだった。学校のほうには、体調不良で欠席すると連絡をしてくれたらしい。
 私は白い服に着替え、妹のひかりの横にちょこんと座った。二歳になったひかりはいろんな物に興味津々で、その時は絵本に夢中になっているところだった。
 お母さんは私に何も言わなかった。あの白いワンピースに気付いていたかどうかも分からない。てっきり、怒られるとばかり思っていたから安心した。今責められたとしても、どうしようもない。だって、どうしてこんなに恐いのか自分でも分からないんだから。
夕方。お母さんに気分転換にひかりと散歩でも行って来たらと言われた私は、外に出る準備をしていた。
「あすかちゃん。」
「おばあちゃん、どうしたの?」
「いつかは向き合わなきゃいけないよ。」
「…?」
「黒もそんなに悪い色ではないさ。あすかちゃんは肌が白いから、黒い服もよく似合うだろうね。ひかりちゃんと散歩にいくのかい?気を付けて行っといで。」
 おばあちゃんはそれだけ言うと、奥の部屋に戻ってしまった。
 私とひかりは手をつないでゆっくり歩いていた。ひかりはもう一人で歩くことはもちろん、走ったりジャンプしたりもできるようになって、どこに行くか何か危険なことをするか分かったもんじゃない。
 土手に座って、ひかりが蝶々のあとを追いかけているのをぼーと眺めながら、さっきのおばあちゃんの言葉を考えていた。ふと顔を上げると同級生の子たちがこっちに歩いてくるのが見えた。みんなあの黒い制服に身を包んでいた。
 私は思わず立ち上がって、土手を駆け下り、木の後ろに隠れてしまった。入学式に来なかったことを言われるのも嫌だし、今はあの制服は見たくない。みんなは私に気付かずにお喋りしながら土手の上の道を通り過ぎて行った。
 私はホッと胸をなで下ろし、木の後ろから出ながら言った。
「ひかりー。そろそろ帰ろっか。」
――居ない。
 えっ、どうして。さっきまでそこにいたのに。私はあたりを見回した。蝶々がひらひらと飛び回っている。もしかして、あの子チョウを追って行ったんじゃ…!
私はパニックになって走り出した。
「ひかり―。どこー?ひかりー!」
 辺りは暗くなってきた。闇はどんどん深くなる。この土手には灯りがついていないので、真っ暗になった。
 自分の声や足音しか聞こえない。でもその音さえも闇に吸い込まれていくよう。立ち止まってみると、その静けさがより一層際立った。
 恐い。恐い。真っ暗ななか一人なのも恐い。でも、もしこのままひかりを見つけられなかったらと思うともっと恐い。今度こそ「黒」に私の大切なものを奪われてしまう――。
 ひかりの名を呼びながら走って走って走り続けた。
「あっ!」
 私は石につまずいて転んでしまった。目に涙がにじんできた。どうしよう。ひかりが見つからない。白が黒に飲み込まれちゃう。
「――おい。」
 どこからか急に声をかけられ、私はパッと顔をあげた。目の前に誰かいるけど、闇と同化していてよく見えない。
「こいつお前の妹だろ?」
 雲に隠れていた月がちょうど顔を出して、辺りをかすかに照らした。
 目の前にいたのは、黒い学ランに身を包んだ男の子だった。
「えっ、くろ君?」
同級生のくろが私を見下ろしていた。
「これぐらいの年は好き勝手走りまわるからな。目を離すなよ。」
 くろの背中におぶさって、眠っていたのはひかりだった。
「ひかりっ!」
 思わず大声で叫んだ。
「ひかりっ…!よかった。無事で。」
 私はほっとしてくろの前でぽろぽろと泣き出してしまった。
良かった。無事で本当に良かった。
くろがひかりを見つけてくれた。私を救ってくれた。
それから、くろは眠ってしまったひかりを家までおぶってくれた。家までの道を二人で並んで歩いたけれど、二人ともほとんど何も話さなかった。さっきまで恐かった静けさも暗闇も気にならなかった。ちらっと横を見ると、服が闇と同化しているくろが居て、なんだかおかしくて、安心した。



「お姉ちゃーん。早く行こうよー。」
白いワンピースに身を包み、おめかししたひかりが、あすかの部屋に訪れて言った。
「私はとっくに用意できてるよ。ひかりが寝坊して、遅くなっちゃったんじゃない。」
「うっ、ごめんなさい…。あっ、部屋にチケット忘れたー!」
 ひかりがバタバタと自分の部屋に走っていく。
あすかは微笑みながら、眺めていたアルバムをぱたんと閉じ、椅子から立ち上がった。
「ひかりー。先に玄関のとこ行ってるよ。」
 そうひかりに声をかけ、あすかは階段を降り、玄関のほうに向かった。
「おや、あすかちゃん、出かけるのかい?」
おばあちゃんは、玄関に飾ってある花に水をあげていた。
「うん、ひかりと私の友達と三人で遊園地に。」
「そうかい。楽しんでおいで。」
「うん。」
「あすかちゃん。その黒い服よく似合ってるねえ。」
おばあちゃんがにこにこしながら言った。
「…ありがとう!」
あすかも笑顔で答えた。
「お待たせっ。」
そこにちょうどひかりがやってきた。
「おばあちゃん、いってきます。」
「いってきまーす!」
「いってらっしゃい。」

 

「空に唄えば」

112207

あいつは唄うのが好きだった。
一人でいるときや、ぼぉっとしてるときには決まって鼻唄を唄っていたものだ。
しかも唄っている本人はまったく気付いていないらしい。
昔そのことを聞いたら、あいつは驚いていたっけ。
『ええっ!?本当ぉ!?』という具合いに。
それ以来、あいつはちゃんと歌詞を唄うようになっていた。
たぶん、無意識に鼻唄を唄っているのが恥ずかしいことだと思ったのだろう。
私は普通に唄う方がもっと恥ずかしいと思うけど。
ちゃんと唄うようになったあいつの唄を聞いていると、ふと気付くことがある。
いつも二番まで唄わずに一番をリピートしているようだった。
「二番とかないの?」
気になって聞いてみると、
「これが二番だよ?」
あいつは面白そうに笑った。
何が面白いのか理解出来なかったけど、まあ面白いんならそれでいいかと思い、納得しておく。
何事も楽しめればそれにこしたことはない。この場合は意味合いが違うけど。
ただ、二番と言われると一番が気になる。
私は聞いてみる。
あいつは何か気持ちを押し隠したような笑顔を浮かべた。
「一番はね、ちょっと歌詞が悲しいんだよ。唄ってると切なくなってくるから、唄いたくないんだよね」
その歌詞を思い出していたのだろう。
それほどまでに切ない歌詞なのか興味がわいたけど、私はあえて追及しなかった。
「実は三番もあるんだけど、あれイマイチなんだよね。無理矢理感がいなめないっていうか。だから、二番が一番イイのかな」
そう言って、あいつはまた口ずさむ。
その歌詞は、物語調につむがれている。
それは、ある女の子が大切な人を探す唄だった。
一番がわからないから、どう繋がっているのかは曖昧だったけれど。
その女の子はずっとずっと歩き続ける。
澄みわたる青空に願いをかけ、流れゆく雲に祈りをはせる。
最後に大切な人を見つけ、ぎゅっと抱き締める。
そんな唄だった。
一番と三番を知らなかったけど、確かにそこだけはすごくイイ唄だと思えた。
あいつが好きなのもよくわかる。
私はその唄を口ずさんでいるあいつを眺めた。
唄っているときのあいつは、なんだか楽しそうで、私は自然と笑んでいたのだった。
そんなある日、あいつが唄わなくなった。
いつもの唄はもちろんのこと、鼻唄まで唄わなくなったのだ。
私はどうしたんだろうと思い、聞いてみると、あいつは顔を真っ赤にしながら、こう言った。
「ねぇ、お姉ちゃん。お姉ちゃんは誰かを好きになったことある?」
こいつは私を馬鹿にしてるのかと思ったよ。
私とて人の子だ。
好きな人の一人や二人はいて当たり前だろうが。
初恋だって小一で済ましてるしな。
なんて怒鳴りつけてやろうかと思ったが、私の方が年上なので、ここは堪えた。
というか何故に私は怒っているんだ?
「まぁ人並みにはな」
「そっかぁ。お姉ちゃんにも人間の規格が当てはまるんだ」
やっぱこいつは私を馬鹿にしてるな。
「でさぁ、その好きな人に、お姉ちゃんは何か言ったりしたの?」
好きな人には何か言ったのだって・・・・・・・?
小一のガキンチョだったときの自分は、ひどく冷めたやつだったと思う。
誰かを好きになっても、その人は決して自分のものになんかならない。
だから告白なんてしても無駄だ。
そんなことを考えていたような気がする。
我ながらにアホなクソガキだったようだ。
今なら、そんなに好きならさっさと告白してしまえば良かったなぁと思うけど、当時の私はイジメられていたこともあり、セカイに絶望していたんだ。
誰も助けてくれないセカイなんて壊れてしまえと思っていた。
もし昔に戻れるなら一時間くらい説教をかましてあげたい。
だけどさ、こんな話をするわけにもいかないよね。
私にも少なからず恥辱心があるから。
「うーん。何も言わなかったな」
「そうなの?それって辛くなかった?」
確かに辛かった。
辛くて辛くて、泣きそうだった。
いや、泣いてたか。
弱っちいな、私。
「辛くても、その気持ちは自分のものだったから。私は受け入れたよ。それも含めて恋だからな」
ちょっとカッコつけた私のセリフは、しかしあえなく流される。
「お姉ちゃんは変わってるね」
ああ。変わってるさ。わりぃか。
「ううん。なんだかそれでこそお姉ちゃんって感じがする」
誉めてるのか貶してるのか、計りかねる言い方だよ。
いや、むしろ誉めてるんだと取っておくか。
もちろん妥協だけど。
「でもね、僕はそんなこと耐えられない。いつまでもこの気持ちを持ち続けられない。ホントに好きだから」
いま気付いたわけじゃないけれど、どうやらこいつは恋をしたらしい。
なるほどね。
不安なんだな。
ずっと悩んでたんだな。
それでも決められなくて、私に後押ししてほしかったのか。
勝手な解釈かもしれないけれど、それ以外に考えられない。
「まぁお前は私はじゃないんだから、お前がどうしようがそれはお前の勝手なんだよ。どうせなら私とは違うことをしてほしいと思うしね。まぁ簡単に言ってしまえば、告っちまえってことだ」
「うん」
あいつは即答した。
逡巡や躊躇いなど微塵もなく、首をコクリと曲げた。
たぶん、あいつは微笑んでいたんだと思う。
真偽の程はわからないけれど、そう、思いたい。
たとえ、悩み悩んで悩み抜いた結果に出た苦笑いだとしても、セカイに絶望して自分をさげすみながら滲み出た自嘲の笑みでも、全てを諦めたせいで笑うしかなかったのだとしても、あいつは笑っていたことには変わりはない。
そして―――これがあいつと交した最後の会話だった。
次の日、あいつは自殺した。
学校の屋上から飛び降り、死んだ。
屋上には一枚の紙が置いてあり、そこには『ごめんなさい』と一言だけ書いてあった。
飛び降り自殺をしたあいつを最初に見つけたのは、あいつが告白したやつだったらしい。
そいつは屋上に呼び出されて、あいつが飛び降りるのを目撃し、屋上のヘリまで駆け寄り下を見た。
そいつはその場で嘔吐し、あいつは落下音を聞き付けた用務員さんに救急車を呼ばれた。
けれどさ、それはどう見ても、病院に連れていかれたところで、たとえブラックジャックに執刀してもらおうが治りっこないってことは目に見えてわかるのに・・・・・・・。
結果的に言ってあいつは死んだよ。即死だったのが、せめてもの救いだったんだろうな。
数日後、あいつの葬式は、粛粛と行われた。
父と母は目に涙を浮かべ、親類はみな暗い顔をしていた。
参列者には同級生がたくさんいて、私は少し嬉しさを感じる。
もし私が死んだりしても、女友達など誰も来ないだろう。
それはそれでいい。
だが、今こんなことを考えている私はひどく現実感に欠けているな。
あいつが死んだのに―――自殺したのに、こんなにも冷静でいられるなんて、もう壊れてるとしか言い様がない。
元々壊れていたのかもしれないし、生きてるうちに少しずつ壊れてきたのかもしれない。
ただ言えることは、今の私は確実に壊れていて、あいつの死を素直に―――いや、私の場合、自分の気持ちに素直だったらむしろ悲しまないんだから、卑屈に受け入れてさえいれば、悲しめたに違いない。
ただし、それは上っ面だけの悲しみで、内面は今日の晩御飯何かな程度のことを考えてるんだろうね。
あーあ。欠陥だよこれ。
チャームポイントにしては、少々度が過ぎてるから、やっぱこれは欠点で欠陥なんだな。
うん。なんだか吐き気がする。
自分で自分をぶん殴ってあげたいくらい。
私はあいつのお姉さんなんだから、無理矢理でもいいし、偽りでもいいから、せめて悲しめ。
じゃなきゃあいつが悲しむだろうが。
死んだのに悲しむなんて非現実的だけど、それにあいつは私のことを私以上に知っているから、私が悲しまないであろうこともわかっているんだろうな。
棺の上に飾られているあいつの写真。
写真の中のあいつは確かに微笑んでいる。
変わることなく微笑んでいる。
だけど・・・・・・・色あせた感じの白黒写真が、なんだか悲しげに見えた。
それは私に対する当て付けなのかもしれない。
私のことをよく知っているあいつの嫌がらせ、だと思えば少しは気が楽になる。
もしかしたら、あの唄の一番を唄ってたときのあいつは、こんな顔をしていたのかもしれないな。
今となってはもうわからないけれど、そんな感じがする。
・・・・・・・・・・・・・・あ。
そうだ。そうだよ。唄。
あいつの好きだった唄を、プレゼントしてやろう。
あの唄のCDを棺の中に入れてやれば、喜ぶかもしれない。
出棺まであと僅かしかない。
私は立ち上がり、急いであいつの部屋へ行く。
部屋は綺麗にかたずいていて、そこにいたやつの痕跡などほとんど感じられなかった。
CDラックや机、はたまたクローゼットなど探したが、どこにも目当てのCDはなかった。
その時、エンジンの駆動音が聞こえてきた。
「くそ・・・・・間に合わなかった・・・・・・・・・・・」
窓から外を見れば、霊柩車が遠ざかっていく光景。
あいつと私はもう、会えなくなった。
それから一年の月日が流れた。
あいつが死んでからの一年。
それは長くもあり、短くもあった。
あいつがいなくても、セカイは何事もなかった様にまわる。
人間一匹なんてセカイにとっては六十億分の一という、さほど気にならない数字でしかない。
そう、数字でしかないんだ。
身近にいる私らにはそれはたった一人の人間に感じられるけれど、あいつのことを知らない人にすれば、そんなのはただの事実であり。なんら関係のない数字だ。
新聞記事に載ったのを見て『ああそんなやつもいるのか』『かわいそうだなぁ』『むしろ自業自得じゃない』『死ぬなんて馬鹿じゃない』『関係ないけど』とか思うのか、もしくは何も思わず流すだけなのか、その程度でしかない。
自殺なんて、そう珍しくも目新しくもない。
よくあることなんだ。
このセカイではよくある。
イジメを苦に自殺。
借金を苦に自殺。
自殺するのに、そんな理由で十分なのか、私にはわからない。
私に自殺する勇気など、ないのだから。
あの日、結局CDは見つからなかった。
あいつの部屋のどこを探しても見つからなかった。
もしかしたら、そもそも持っていなかったというのも考えられる。
聞いたことがあるだけだったのかもしれない。
だったらあの日、必死で探した私はひどく滑稽だな。
―――・・・・・・・自嘲をするのも疲れるな。
それにそろそろ飽きてきた。
だからもうやめよう。
別にあいつが死んだからって止まっていたわけじゃないが、そろそろ歩き出すべきだと思う。
そう思ったから私は今、ここにいるのだしな。
ここ―――あいつの墓前に。
あの日、出来なかったことをするためにここへ来たんだ。
わたせなかったものをわたすために。
私は持っていたバックの中から一枚のCDを取り出し、墓前に供える。
両手を合わし、目を細め、墓石を睨みつける。
「お前さ、なんであの唄が洋楽だって言わなかったんだよ。おかげで散々探し回ったじゃないか、このボケが」
しかも勝手に洋楽を日本語訳にして唄いやがって。
私は合わせた手を離して、右手の平を墓石にくっつける。
「それになんだよあの『ごめんなさい』って?謝るなら最初から自殺なんてするなって話だ。される方の身にもなってみろ。誰がお前の死体の後片付けをすると思ってるんだよ?家族か警察か、あとは死体拾いのバイトくらいだろうな。・・・・・・・自殺なんてみんなそうさ。誰かに迷惑かけまくりなんだ。首吊りは家族に。リストカットも家族だ。飛び降りにいたっては下にいる人にまで迷惑がかかる。自分一人で死のうとして誰かを道連れなんて洒落にならない」
私は一息吐いて、また話し出す。
「人は一人じゃ生きれないのと一緒でな、一人じゃ死ねないんだよ。そこんとこわかってないから簡単に死ねるんだ」
あー、なに説教たれてんだろ私。
「確かにお前は辛かったんだと思う。死ぬ決意なんてするんだから文字通り死ぬほど辛かっただろうし、その気持ちもわからなくもなくない―――とは言わない。だって『お前も同じ気持ちを味わったのか』って聞かれれば『いいや知らね』って答えるしかないし『だったら余計なこと言うな』って言われれば終わりだから。それにそれを味わったのはお前で、それはお前だけのものなんだよ。誰のものでもない、な。前に言っただろう。その気持ちも含めて自分のものだって」
もしあの時、私があいつに告白しろなんて言わなければ、あいつは死ななかったのかもしれない。
「だから私はこの気持ちも自分のものだと受け止める」
あいつが死んだのも、全て受け止める。
私は全然これっぽっちも強くなく、むしろ《脆弱》が相応しいけれど、この気持ちだけは受け止めなくちゃならない。
それが私の―――あいつの姉としての責任だ。
「お前は強いさ。決意と勇気をもって死を選んだ」
・・・・・・・ああ。なんだ。そういうことか。
ひどくつまらない。
ひどくくだらない。
ひどくあっけない。
簡単過ぎてヘドが出る。
「ただな。お前のその強さは弱さの同義語なんだよ。お前は生きる勇気がなかったんだ。絶望って簡単な答えを見つけ、死などいう安易な場所へ逃げる。怖かったんだろ。これ以上傷つくのが」
今、私の感じている
この怒りも。
この憤りも。
あいつに対する想い全て―――
「逃げるなよ。戦えよ。それで負けそうになったら、私に言えよ。そうすれば助けてあげたのに。私なんかじゃ、なんの助けにもならなかったかもしれないけれど、お前の話くらいは聞いてあげられたのに。なのに・・・・・・・なんの相談もなしに、死ぬなんて・・・・・・・・・・・・・・卑怯だろうが」
―――私はただ、悲しかったんだ。
「お前は私に何も言わなかったんだ。だから私は、悲しんでやらないぞ。葬式のときも、悲しまなかった。どこ吹く風だ」
自分に言い聞かせるように、無理矢理思い込ませるように。
「お前がどんなに悲しくて自殺したとしても、私は悲しまない。お前が死んでも、悲しくない。お前がいなくても、悲しまない。私は絶対に、悲しくなんてないんだ」
自己暗示のように一通り言ったあと、私は意地悪に微笑んだ。
「誰が泣いてやるもんか」
今にも崩れそうな、壊れそうな、歪んでしまいそうな、微笑み。
「・・・・・・・誰が、泣くか」
自分でも嫌になるくらいの偽り。
偽り続けることで自分が壊れていると戒める。
それゆえに欠陥。
私はその気持ちを隠すように、唄を口ずさんだ。
あいつが好きだった、あの唄。
そっと漏れる歌声は、まるで空気と同化するように滲んでいく。
もしかしたら、ここで唄えば、あいつに届くのだろうか。
わからない。
けれど・・・・・・・。
私は視線を墓石から空に向けた。
「・・・・・・・空って、こんなに低かったっけ」
澄みわたるような青空は、まるで手を伸ばせば届きそうで―――
「これなら聞こえるかな?」
ほんの少し背伸びして、空に唄えば。

「結婚式」

122123

めざましの音で目が覚めた。昨日遅くまで新作のゲームをやっていたせいなのか、いつもより気だるく、頭が動かない。枕元に置いてある目覚し時計をかねた携帯電話を開き、時間を見る。
 06:45 
しばらくそのまま時間の表示された画面をぼーっと見つめる……。

まずい!

 今日はコンビニのアルバイトが7時からあったのだった。大学を卒業してからはや一年半、就職活動を繰り返しては落ちる。そんな生活の中食いつなぎとして始めたはずのコンビニのアルバイトもいまではすっかりベテランの中の一人になってしまった。そんな自分が遅刻してしまう訳にはいかない。急いで用意をして、寝癖もそのままに家を出る。

 なんとか間に合った。
ギリギリについたことで店長からグチグチと小言をうける。始めた当初は優しかったのだが、近くに大手のディスカウントショップができ、売上が落ちてからはずっと小言ばかり言っている。まるで自分のようなコンビニだと思っていた。学生時代はサークル活動も精力的に行って、それなりに友達もいた。馬鹿騒ぎをしてはしゃいだりしながら笑い合っていた。未来が広がる明るい道を歩いていたはずだった。就職活動が失敗に終わって、いまとなっては、ただひたすらに終わりの見てない道をただ出口もわからないまま、何も変わることなくグダグダと言い訳をしながら歩いているようだった。
 そして、今日もそのように一日を無為に終わるのだと思っていた。
 アルバイトが終わり夕方に住んでいるアパートに帰ってくる。このアパートも住んでもうじき7年になりそうだ。就職のため地元にかえるのも、せっかく大学のために大きな都市に出てきたのにという、変なプライドが邪魔して帰るに帰れず、未練がましくすんでいる。いつも通りのドアがあると思っていたが、なにか白いものがドアのチラシ受けに挟まっていた。朝は時間がギリギリだったためチラシ受けは見れていなかったので気づかなかったのだろう。
「手紙だ……何なに……」
自分あてに手紙が来ることなんてあるのだろうか、そんな当てはないので間違いではないだろうかと思いながら、表を見ると自分の名まえが書かれてある。つまり自分あてであることは間違いない。就職活動の手紙であろうか。いや最近は落とされることが怖くなってろくに行っていない。そう思いながら裏へとひっくりかえしてみると、

田中

と書かれていた。
田中……疲れてろくに動かない頭を、動かして考えながら手紙を開け、中身を見てみる。

--------------------- ?
今度結婚式あげることになった。
親友のお前にはぜひ出席してほしい。

田中太郎

-------------------
田中太郎そうだ!小学校の時から、違う高校に入って別れるまで、ずっと仲が良かった親友だった。ありきたりな名字のせいなのか、親友だったはずの田中太郎のことが思い浮かばなかった。

(そうか、田中もついに結婚するのか。そういえばもう結婚していてもおかしくない年だな。)

久しぶりに会ってみたくなった。スマートフォンを取り出し、電話帳を見る。田中に電話をかけてみよう。ちょうど明後日は、バイトが休みの日だった。その日に会う約束を取り付けてみよう。


‐会う約束をした日‐
久しぶりに地元に戻ってきて、学生時代によく使ったファミレスを待ち合わせ場所へと指定し、田中が来るのを待つ。
あれだけ帰ってくることが嫌だった地元も、このように用事があって帰ってくると嫌とは感じない。あっけないものだ。

(しかしあの田中が結婚するとは…。二人して学生時代にモテない同盟を作っていたのが懐かしい。)
田中に先に結婚されたことは少々悔しくはあったのだったが、親友と久しぶりに会え、またその親友の祝い事ともなるとこちらもうれしく感じる。

「いよーっす。久しぶり」
「よう。久しぶり」
店に入ってくるなりすぐに田中と分かった。会う前は田中と分かるかどうか不安であったが、予想とは異なり、学生時代と変わらない田中の姿にすぐに気づいた 。
久しぶりにあったため、つもる話はるのだが、まず聞きたい事は一つだった。

「とりあえず結婚おめでとう、田中。どんな人と結婚するのか見せろよ。」
「照れるなあ…、この人だよ。」
と言ってはにかみながら田中はスマートフォンの待ち受け画面を差し出してきた。
そこには、幸せそうに笑う田中と、とても美人でやさしそうな黒髪の女性がいた。

「なんで、お前がこんな美人と結婚できたんだ。非モテ同盟のお前が。」

「運命が導いたんだよ。」

……
とりあえずむかついたので一発殴っておいた。

「いてえっ。すまん、二人の馴れ初めはこうだ。
まず彼女とは会社が同じで、彼女がセクハラで有名な上司に絡まれていたところを偶然に通りかかった俺が助けて、そこから交際が始まったんだ。 」

「なんだよそのイケメンっぷりは、顔に似合ってない。」

「顔のことは言うなよ…」

「悔しいな、裏切られた気分だよ。」

「ひがむな、ひがむな。」

ファミレスの店員がやってきて、二人に注文を聞いてきた。

「俺がお祝いを兼ねておごってやるつもりだったが、やめた!田中、お前のおごりだぞ。くそっ、おめでとう。幸せになりやがって。」

と言って遠慮なく、昼定食とドリンクバー、デザートまでつけて頼んだ。

「おい、少しは遠慮しろよ!」
と言いながらも田中はうれしそうだった。

お互いに注文した品が来てある程度食べ進めたところで、田中が話しかけてきた。

「ところで結婚式は来られるのか? 来月末なんだが」

「ああ、いけるよ。俺は今フリーターだからな。いくらでも都合はつく。」

少しいうのは嫌だったが事実であるし、田中相手にかっこをつけても仕方ない。

「ところで、他には誰を呼んだんだ?」

「……」
田中がだまる。

「?」

「お前だけだよ。俺はお前しか友達いないからな。」

「あ……そうか」

小中と、ずっと仲の良かった俺たち二人ではあるが、その学校生活は大きく異なっていた。
かたやクラスのお調子者、かたや教室の空気のような存在だった。

また田中は風のうわさで高校では少しいじめられていたらしい。

結婚式に呼べるような友達などいなかった。
今となっては立場も逆になった気もしないことはないのだが、、、

「………」


田中と別れ、自分の家に帰ってきた後、一人悩んでいた。
このままでは、田中側の出席者がとても寂しい事になってしまう。

(親友のために俺が何とかしてやるしかない!)

存在を忘れかけていたとはいえ、久し振りに会い、フリーターをしているといっても顔色一つ変えなかった、すぐに昔のようにはなせた、そんな俺にとっても数少ない親友の為、俺は卒業生名簿を取り出した。
住所と電話番号が書いてあるものだ。

「……」
prrr・prrrr……
「もしもし……さんのお宅でしょうか?
 私は……という者で、・・君の……はい、小学生の頃の」


田中と繋がりがあった者ならば、誰でも良い。
手当たり次第連絡し回った。
同窓会のようなものもかねて、成人式ぶりに集まれるのだ。
みんな来てくれるだろう。そう思いながらかけ始めた電話だったが、帰ってきた結果は
そう安易に事が進まないことを示すようなものだった。

『ちょっと仕事が忙しくてさ…』

『田中? 誰だっけ。……』

『ごめんね!旅行に行くのと被っててー』


どれだけ断られ続けても、粘った。
そして一週間の間に数十人と連絡を取る事にだけは成功する。


結果は、 ゼロだった。

(俺には友達さえもまともに呼べないのか。
就活どころか友達のために何かすることですらもできない奴だったのか。)

いやまだあきらめるのは早い。時期尚早だ。
あきらめたらそこですべておわりなんだと、自分が働いているときよりも、もっというならば就活の時よりも頑張った気がした。

「駄目もとでいいんだ、駄目もとで。」

そこからはもうひたすらに電話をかけまくった。

田中の母に事情を話し、高校の時の卒業名簿も借りてきて、どんどん電話を掛けた。


しかし、


「誰も捕まらなかった……。」


式はもう一週間後に迫っていた。
この数週間、必死に電話をかけ続けたが、誰一人として呼びかけにこたえてくれる人はいなかった。


ブーブーと音を立てながら、携帯が震える。

呼び出しは田中からだった。

『よう。式は来週だけど、大丈夫だよな?』


「もちろんだ!スーツもクリーニングにだしといたよ。」

『そうか。良かった。一応友人代表って事でいいか?』

「ああ。光栄だよ。今から楽しみだよ」

『一人で騒ぐと恥ずかしいから、あんまりあばれるなよ』

『まあ大丈夫ならいいんだ。またな』


実際結婚式に来る友達が、たった一人というのはどうなのだろうか。
考えるだけで、悔しくなるし、怖くなる。


深呼吸をすると、再び卒業式名簿をめくり始めた。
自分なりの最後のあがきだった。


とうとう結婚式当日がやってきた。
会場となったホテルのパーティルームには、既に招待客が詰まっている。

「……。」
それでも、花嫁側の席だけだ。
田中側の方は、空席の方が断然多く、丸テーブルに両親と一緒に座っている俺はかなり浮いていた。

悔しい気持ちでいっぱいだった。

所詮俺には何も物事をする力なんてないんだと改めて空席の多い結婚式を見て思い知らされた気分だった。

そもそも自分の就職活動ですら、まともにできていない俺が他人のために何かするなんてこと自体が分不相応だったのかもしれない。

フリーターはしょせんどこまで行っても責任能力のないフリーターなのだろう。

「それでは新郎のご友人を代表されて、……様に挨拶をして頂きます」


司会が俺の名前を呼ぶ。

ちらりと田中を見てから、申し訳のない気持ち、自分のふがいなさを振り払って、マイクの前に立ちスピーチを行った。

せめてスピーチぐらいはまともにこなさなければと思い、話そうとしたその時だった。


ホテル側のスタッフが司会に耳打ちをしていた。会場の外が少し騒がしかった。
進行が一時中断し、辺りが微かにざわめく。



何か問題でもあったのだろうか
何か俺がまずい事でもしたのだろうか。
そう思った時だった。






「「「「「「「「遅れました。すみません。」」」」」」」」


との声とともに会場が急に騒がしくなった。
式場のスタッフがあわただしく入ってきながら急な来訪者を案内しながら

「失礼しました。どうやら新郎のご友人一行がただいま到着されたようです」
といった。


「え?」

俺も田中も新婦も、その会場にいた誰もが驚いた顔をしながら声を上げていた。







どうやらめでたい席であるはずの結婚式の誘いであるにもかかわらず
本人の田中から誘うのではなく、俺からの誘いだったといいうこと、
あまりにも俺がみんなを誘う様子が緊迫したような様子だったことから
みんな

―田中が結婚してすぐに死んでしまう。不治の病なのではないか。―


のような漫画のようなことを想像して、予定を急きょあけてきてくれたらしい。


たしかに正式な案内も出さずに、結婚式のひと月ほど前にもなって急に誘われて

誘う側の俺に余裕がない様子であれば、そんなことも思ってしまうのかもしれない。



あのあと無事に結婚式は終わった。

俺と田中は、
特に俺はだが、みんなが勝手にしていた想像のせいで、心配したじゃないかということで

ビールとケーキまみれにされるなどのハプニングはあったが、

楽しく、田中もよい笑顔で終わることができた。



そして俺もあの結婚式の出来事のおかげで、一生懸命にやればどんな形でさえ

熱意は伝わることを学ぶことができたように思う。


結局地元に戻っての小さな会社であるが、

内定をもらい
新入社員として一生懸命働いている。
理想とは違ったかもしれないが、

あの気持ちを忘れないよう日々過ごしている。

「薄墨色の世界」

122130

 ―――ガタンゴトン ガタンゴトン
 雲一つなく、パレットに露草色の絵の具を水で溶いてから、そっと色づけたように青々とした空は、秋のにおいを風に乗せ、方々に運んでいた。その眼下を小刻みに揺れながら小豆色の車体を持つ電車が八両ほど連なって走って行く。露草色と相まって小豆色がよく映え、その美しさはまるで一枚の印象派の絵画を彷彿とさせるものがある。ここに、秋色に染まった紅葉が、ちらちらと電車の作り出す風に吹かれてそっとその空間を舞うものだから、その美しさといったらなかった。
 電車の中は、朝の通勤ラッシュの時ほどではないが、数人の乗客が座れない程度には混んでいた。乗客たちは、個々に自分自身のやりたいことをしながら、自分自身が降りるべき駅まで時間を持て余している。その電車のとある車両の座席の一角になぜか誰も座っていない場所があった。数人の乗客が立っていながら、なぜか誰もそこの座席には座ろうとはしなかった。なぜなら、そこには「彼」がいるからである。
 彼は薄墨色の存在であり、彼がしていることから旅人とも呼ばれている。まあ、実際に誰が呼んでいるわけでもないのだが、とにかくそうなのである。
旅人は薄墨色の存在ではあるが、別に薄墨色をしているわけではない。姿形はどこにでも居そうな小柄な少年で、どこにでもありそうな髪の色にどこにでもありそうな瞳の色をしている。どこにでもありそうな色のマフラーというには少々粗末な布で鼻から口元までが隠されており、瞳以外顔のパーツをはっきりと視認することは出来ない。長く、どこにでもありそうな色のマントで身体全体を隠すようにしており、どこにでもありそうな色で形のショートブーツがその裾から少しだけ顔を出している。唯一目立つとすれば、彼の胸元に銀の細い鎖でかかっている月白に輝く砂時計であろう。しかしながら、それは砂時計の体裁をとっていながら、中身は何も入っていない。砂時計というのも烏滸がましいのかもしれない。だが、これは砂時計なのだと旅人は思っていたし、旅人にとってそれ以上でもそれ以下でもなかった。どこにでも居そうであるが故に誰にも認識されることはなく、いるけれどもいない、いないけれどもいるといった不確定で不安定な存在が、この薄墨色の存在であり、旅人なのである。
旅人は、その通り旅をしている、旅は旅でも、わたしたちの思っているものとは少し一緒で、少し違っている。
 旅人はわたしたちが認識している「世界」とは違う「世界」を旅している。並行世界《パラレルワールド》と言われるものと似て非なるものであるのだが、並行しているようで並行していない、つまりはわたしたちが認識している「世界」と同様にどこまでも不安定な時空間であって、でもどこか違う。何とも形容し難い立ち位置にある「世界」だと認識してくれれば、恐らく誤解はないだろう。
 
そんな「世界」を旅人は旅しているのだ。
 
この不安定な時空間、実はわたしたちの認識している「世界」と密接した場所に入り口が存在している。それが、今、旅人が腰かけている電車なのだ。この電車の扉の内側から見た外側の「世界」にわたしたちの認識の外にある「世界」が広がっている。もちろん、わたしたちが普段電車から見ている景色とは全く違う。恐らくわたしたちの眼前に広がる景色は、今、この電車の中からであれば、停車した駅のプラットホームやその駅名の書かれた看板、電車を待つ人々、露草色に染まる空に紅葉がふわりと浮き上がり、秋を彩っている…といったところであろうか。都会に走る電車であれば、プラットホームや駅名の書かれた看板の他に、その電車が来たことやどこにどういった駅を通過して行くのかをアナウンスする車掌の声、車の音や人々の雑踏、高くそして窮屈な空間に隙間を埋めるように建てられたビル…とどこまでも人間の手によって成される音や景色で埋め尽くされているだろう。逆に田舎を走る電車であれば、当然あるものの他に、都会では埋め尽くされてしまって見えなくなっているどこまでも広がる高い高い空や、その季節を彩る木々や草花を見ることが出来るだろうが、そこは都会とは違って無人駅かもしれない。これがわたしたちが認識している「世界」の概要的なものであって、後はその場所によって少しずつ差が生じている。
 これらとは全く違う「世界」が、旅人の眼前には広がっているのだ。
 その「世界」は、いつどこにどのような時空間になるのか、旅人の目にどのように映るのか、旅人は知らないし、むしろ他に誰が知っているのか検討もつかない程に不可思議きまわりない「世界」である。

 そんな「世界」を旅人は旅している。

 どうして旅人がこのような時空間を旅しているのか、いつから旅をしているのか、そんなことはある意味で些細なことであって、言及するに値しない。というよりも、どうしてこの不安定で認識されていない「世界」を見てまわる必要があるのかも、いつから旅をしているのかも理由なんて存在しないからだ。そもそも、この旅にはじまりは無いし、終わりももちろん存在しない。「永遠」という不確定な時間の流れとはどこか逸脱したところで、何とか存在しているといったところだろう。旅人は気が付いた時には旅をして様々な「世界」をまわっていたし、そこに終わりが存在するだなんて、当然ながら考えていない。ただただ「世界」を見てまわるのが、たとえそこに明確な目的や目標がないとしても、旅人の唯一の存在意義であり、最大の存在意義であるのだった。
これまでも本当に多くの「世界」を旅人は見てきた。人間が主軸に動いている「世界」ばかりでなく、犬や猫、鳥といった動物と言われる生物が主だった「世界」も存在したし、鬼や龍といった妖怪と言われるものばかりの「世界」も存在した。色も形も当然ながら命も何もない、ただただ広いのか狭いのかも分からない空間だけがそこに存在する「世界」も、万物で溢れた「世界」も存在した。ハッピーエンドのように観える「世界」もあれば、悲しみに溢れている「世界」もあった。空虚感が漂う「世界」や全てのありとあらゆる感情が入り混じった「世界」もあった。とにかく本当に本当に多くの「世界」を旅人は見てきたのだ。
 この全ての「世界」を旅人は詳細に渡って覚えているし、全ての「世界」をそれに完璧に見合った装丁の本に書き込んでいる。その文面があまりにも眈々としているため、報告文のように見えて仕方が無いかもしれないが、旅人は別段気にしていないし、そもそも自分自身以外に読み手はいない上に、自分自身は全ての「世界」を覚えているのでその本を開くこともない。つまりは無意味でしかない作業なのだが、これも旅人にとっては至極当然のことであって、この行為はそれ以上もそれ以下もないのだった。旅人としては、その「世界」にいくとその「世界」を表すかのような装丁が施された本突然手元に現れるのだから、仕方ないのだ。
 
そんな旅人の眼前に、今日もまた「世界」が広がっていく。
はてさて、今日はどんな「世界」なのだろうか。


電車がゆっくりと止まり、扉が開くと同時に旅人は胸元にかけていた月白の砂時計を外し、そっとひっくり返した。すると、これまで滞りなく流れていた時間は突如その流れを止めた。時間が止まったことを確認すると、旅人はすっと立ち上がり、電車の扉の方へとゆったりと歩みを進めた。
扉の外に出ると、そこに広がっていた「世界」は烏羽色に染まったものであった。それ以外には何もない。足元に整備された道があるわけでも、道標の標識があるわけでも、はたまた、遥か遠くに光が見えるわけでもないのだが、旅人は進むべき方向が分かった。旅人は、手に持っていた月白の中身のない砂時計をそっと足元に置いた。時はまだひっそりと息をひそめている。旅人が出てきた電車の扉を背に歩みを進めた。
烏羽色に染まった空間の中をゆっくりと周囲を観察しながら歩く。それでも道は迷わない。烏羽色の空間に音はなく、ただただ静寂だけが旅人を包んでいる。旅人は別段気に掛けることなく進むべき道を進んでいく。ずっとずっと進んでいくと、何かが旅人の足元にぽとりと落ちた。腰をかがめて拾い上げると、それは一本の金色に輝く小麦であった。暫くじっと見つめていると、旅人はいつの間にか手に持っていた一本の小麦の色に染まる小麦畑の中に佇んでいた。持っていたはずの小麦はその色と同じ厚手の表紙を持つ本となって旅人の手にずっしりと重みを伝えた。



ハウラル=ビータンはなやんでいた。ただっ広い金色に輝く小麦畑の中でなやんでいた。
 藁しか詰まっていないお粗末な頭をひねって一生懸命なやんでいた。とはいっても実際は頭をひねるどころか瞬きすらできない存在だから、ただの例えでしかないのだけれど、とにかくそのくらいなやんでいた。
 かれこれ一ケ月はなやんでいた。とはいってもハウラル=ビータンのお粗末な頭では一ヶ月という単位を実際には理解できてはいなかった。だけど数を数えることは出来たから、なやみ始めて太陽が三十回ほど昇って三十回ほど沈んだことは分かっていた。だから、以前人の子が言っていた一ヶ月という時間がそれと同じだと思って、そのくらいの時間は経ったのだろうとハウラル=ビータンなりに考えていた。とにかくひたすらなやんでいた。
 藁しか詰まっていないお粗末なハウラル=ビータンだけれど、そんなハウラル=ビータンにもできることがいくつかあった。その中の一つであり、ハウラル=ビータンが一番気に入っていることがある人を笑顔にすることだった。とはいってもハウラル=ビータン自身は小麦畑の中でずっと立ちながら決められた表情で過ごしているだけなのだけれど、その結果、鳥と呼ばれる空を飛び回る生き物を追い払えるのでその人は笑顔でハウラル=ビータンを労うのだ。ハウラル=ビータンはこれが自分の人でいう仕事であり存在意義だと思っていたし、その笑っているのを見る度に藁しか詰まっていない身体の人でいう胸の辺りが太陽の日差しが差し込んできたようほかほかと暖かくなった。ハウラル=ビータンは満足していた。

 けれど、かれこれ一ヶ月程前、太陽が沈んだ後のような色の鳥に突然体中を突かれてしまった。ずっと長い時間仕事をしてきたのと風雨で身体の藁が弱くなっていたためか、数回突かれるとハウラル=ビータンの身体はぼろぼろと崩れだしてしまった。朝になって、いつものように様子を見に来たその人は、そんなハウラル=ビータンを見て悲しそうに
「そろそろ潮時だな」
と呟いた。ハウラル=ビータンはその言葉の意味をよく分からなかったけれど、自分の状態からすると恐らく今まで当たり前だったものを、仕事をやめなければならないのだろうと思った。
 やめたくはなかった。今までの当たり前を手放したくなかった。でもこのままではあの人を笑顔にできないことくらいハウラル=ビータンにも分かっていた。
ハウラル=ビータンはなやんだ。ずっとずっと、たくさんたくさんなやんだ。そしてなやみ始めて三十一回目の太陽が昇った。

その人はハウラル=ビータンに代わるものを作っていた。この頃忙しかったせいでなかなか作業が進まなかったのでけれど、一ヶ月かけてようやくできた。
(また名前を決めなければならないな…。)
とその人は思った。
正直、その人の家族はそれに名前を付けるなんて変わっていると口々に言うのだけれど、一緒にこの小麦畑で生活する仲間として当然の行いであるとその人は考えていたので必ず与えた名前で呼んでいたのだった。
だから例のごとくまた名前を考えた。ずっと昔、その人がまだ黄唐茶色であった小麦畑を一生懸命に耕して作ったのと同時に作って、立てて、名前を与えたハウラル=ビータンと同様に素敵な名前を…と考えた。今までずっと一緒に過ごしてきたハウラル=ビータンとの別れを考えると、それこそハウラル=ビータンの体のように、ぼろぼろで身を引きちぎられるような思いだが、
(もう十分に頑張ってくれたのだから休ませてやろう…。)
とその人は思った。
その人はやっとできたそれにチロリアン=ジーストという名前を与えた。

ハウラル=ビータンがなやみ始めて三十一回目の太陽が沈んだ。ハウラル=ビータンのなやみの種を与えた鳥と同じ色の空が広がる中、一人の人が現れた。ハウラル=ビータンは初めて人が例えとかではなく浮かんでいるのを見た。いつも笑顔を向けてくれるあの人とは違うことくらいハウラル=ビータンにも分かっていたけれど、人が宙に浮けるなんてことはまるで知らなかった。その人はいわゆる仙人と呼ばれる者だったのだけれど、ハウラル=ビータンが知るはずもなかった。目の前に浮かぶ太陽の光のような色の衣をまとって、同じ色の長い長い髭をたくわえたその人はにこりと笑ってハウラル=ビータンに語りかけた。
「君はもう一ヶ月もなやんでいるようだね。…ああ、話せないのは知っているから大丈夫だよ。そして君のなやみも知っているから大丈夫だよ。助けてあげたいのだけれど、どうやら君の代わりがここに生まれてしまったようだ。そこで、もうなやむのは止して休んでみてもいいと思うのだけれどどうだろうか?」
 ハウラル=ビータンはその人の言葉を聞いて人でいう胸の辺りがきゅうっと締まって苦しくなった。代わりがあるということに、そしてもうあの人の笑顔を見れないことにハウラル=ビータンは藁しか詰まっていない身体が壊れてしまうようだった。もしハウラル=ビータンが人であったのなら涙というものが出ていたのかもしれない。そのくらい苦しかった。
 その様子をその人は感じ取ったのか、ふむふむと頷いてまたにこりとハウラル=ビータンに笑いかけた。
「そうかそうか。まだまだ仕事がしたいのか。では、その願いを叶える方法を教えてあげよう。あの真っ暗な、君になやみの種を与えた鳥と同じ色の空に願いなさい。さすれば君の願いは叶うだろう。立派な立派な案山子のハウラル=ビータン。」
 語り終えるとその人は最後ににこりと笑って、すっと音もなくそこから消え去った。
 ハウラル=ビータンはあの仙人が言ったように一生懸命願った。また仕事がしたいと。まだあの人の笑顔が見たいと……。何度も何度も藁しか詰まっていない身体で願い続けた。ずっとずっと願い続けた。

三十二回目の太陽が昇る頃、その人はチロリアン=ジーストを抱えて暗い飴色の小麦畑の中を進んでいた。ハウラル=ビータンの代わりにチロリアン=ジーストを立てるためにその場所へと進んでいた。その足取りは少し重かった。
 その場所に着いたとき、その人は思わずチロリアン=ジーストを落としそうになった。あのぼろぼろになってしまったはずの案山子のハウラル=ビータンが堂々とした姿でそこにいたのだ。何が起こったのかは全く分からない。どうして、あんなにぼろぼろであったはずハウラル=ビータンがなぜ、あの黄唐茶色の小麦畑が眼前に広がっていた時と同じように堂々とした姿でそこに立っているのか。疑問は次から次へと湧いたが、その人にとってはそんなことは些細なこと過ぎて、一瞬でどうでもよくなっていた。ただ、その人は嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。嬉しくて嬉しくて涙をぼろぼろと流した。あまりの嬉しさにハウラル=ビータンの肩を軽くたたいて笑い泣きをしていたその人であったが、ふとあることに気付いた。今、その人が抱えている、このチロリアン=ジーストはどうしたものか。
(チロリアン=ジーストももう一緒に生活する仲間なのだ。だから、当然ながらハウラル=ビータンが無事であるのだからさよなら、なんてそんなことは絶対に出来ない。ううん…。)
と少しなやんで、ふむと頷くとハウラル=ビータンの横にチロリアン=ジーストをそっと立ててふむと次は力強く頷いた。そしてにこりと笑うとハウラル=ビータンとチロリアン=ジーストの肩をぽんと軽くたたいて家の方へと歩いて行った。その足取りはとても軽いものだった。
 三十二回目の太陽は、ハウラル=ビータンとチロリアン=ジーストの影をゆっくりと金色に輝く小麦畑の中にかたどっていった。



 旅人は、ハウラル=ビータンの行く末を見届けると、自身のマントの左側の内をごそごそと探り、羽ペンと小さな小瓶をそっと取り出した。羽ペンの先は様々な色が混ざり合い、それでいて反発しているような、この世の色とは思えない奇妙な美しさを投影しているように染まっていた。小さな小瓶の中には、月白に輝くどろっとした液体が入っている。旅人は、小瓶のふたをゆっくりと開けて、羽ペンの先をそっと下ろした。すると、これまで月白に輝いていた液体は、羽ペンの先が触れたところから、波紋を描くように烏羽色に変化していった。そう、あのハウラル=ビータンの人生――いや、ここでは「案山子生」だろうか――について回った、あの鳥の色である。旅人は、羽ペンにその液体が馴染んだことを確認すると、そっと彼の持つ小麦色に染まった厚手の表紙の本に今まで眼前で繰り広げられたハウラル=ビータンのことについて書きこみ始めた。その羽ペンの動きはさらさらと止まることなく、旅人が見聞きしたことを他者に報告するかのように書かれていった。

どのくらいの時間が流れただろうか。ハウラル=ビータンとチロリアン=ジーストの影がゆっくりと伸びていったことを最後に書き添えると、旅人はその金色の表紙の本をぱたんと閉じた。そして、自身のマントの右側の内に大切に入れた。本は消えるようにマントの中に吸い込まれていった。それを確認すると、羽ペンと小さな小瓶を左側に仕舞い込んで、来た道を引き返して行った。小さな小瓶の中の液体は、また月白に輝いていた。

 烏羽色に染まった空間の中をゆっくりと感傷に浸るように歩く。それでも道は迷わない。
 旅人の眼前に作られた光が見えた。どうやら電車まで戻ってきたらしい。電車の近くまで来ると、旅人は腰をかがめて行きに置いて行った月白の中身の無い砂時計を拾い上げて首から下げた。すると、これまで止まっていた時間が動きだし、電車の中に騒がしい人々の声が戻ってきた。その騒然とした電車の中を誰に当たるでもなく、ゆっくりと歩いて元々座っていた場所にもう一度腰をかけた。何事もなかったかのように扉は音を立てて閉まり、電車は走り出しの大きな揺れを乗客に与えて、また走り出した。
 旅人はそっと目を閉じる。今日もまた、良い「世界」が見られた。次はどんな「世界」を見ようか。どんな「世界」を記録していこうか。記録するだけで、誰かに読んでもらうわけでもないのだけれど、それでも…。もう数えるなんてするだけ無意味なほどの多くの「世界」の記録を胸に旅人は、まだ見ぬ「世界」に思いを馳せた。



何度も何度も繰り返す、そんなこの「世界」の隙間に見える別の「時間」と別の「空間」で構成された別の「世界」。それは存在することを肯定も出来なければ、だからといって存在しないと否定も出来ない。その「世界」を見ることができるのは薄墨色の存在だけ…。   
わたしたち人間は、いつだって「世界」に色を求めて、現在自分自身の目に映っている「世界」の色が正しいと思い込み、何かに疑問を抱いたり違和感を覚えたりすることなく、日々、自分自身の信じて疑わない「世界」をただただ生きている。漠然と生きているくせに正解の色だけは必死に追いかけている。追いかけているくせに何が正解なのかは分かっていない。何とも救われない「世界」だ。こんな「世界」ですら、他の「世界」から見れば、もしかしたら不可思議で、魅力のある「世界」なのかもしれない。この「世界」に生きるわたしたちには、この「世界」の色しか見えないから、そこのところがどうなっているのかは見当もつかない。知っているのは薄墨色の旅人だけ…。

電車の中でふと気が付いたときに、なぜか誰も座っていない席はありませんか?
もしあれば、きっとそこには薄墨色の「彼」が座っていて、多くの「世界」を、多くの「色」を永遠に旅しているに違いありません。

「記憶のない国」

122205

あるところに、いつも物語を話して子供たちを楽しませていた老人がいました。老人は何度も何度も物語を話しましたが、絵本や紙芝居にあるようなお話は一つもありませんでした。いつものように子供たちは老人の元に集まり、物語を聞こうとします。しかし、老人の様子がいつもとは違いました。頬は痩せこけ、体も小さく見えました。子供たちは、心配しましたが、すぐに老人はいつもの笑顔を作り、物語を話しました。
「ごほん、、」

 むかしむかしある国に、背は高く顔の整った少年がおりました。そ少年の名前は亮といいます。亮は心の優しい少年で、彼の周りにはいつも笑顔が絶えませんでした。彼の家は農家で、決して裕福な暮らしをしているわけではありませんでしたが、何か不満があるわけでもありませんでした。この国の国王も、優しい人で、税は軽く、兵役もありません。その結果、近隣の国々に比べると財政が厳しくなりましたが、そんな状況でも他国の危機には援助を惜しまない、そんな国王でした。さらに、この国には不思議なことがあります。それは、犬や猫が非常に多いことです。国民と同じぐらいの数の犬や猫がこの国にはいます。そして、事件事故で家族、恋人を失った国民はこの犬や猫と一緒に暮らすことで悲しみを癒していました。また、国王は国の隅々に花を植えることを法律にしており、毎月国民には花の種が配られていました。
?亮の家にも、二匹の犬がいました。しかし、家族はこれだけです。両親はおらず、名前も覚えていません。物心がついた時には、二匹の犬と共に暮らしていました。二匹の犬の名前は、大きい方がシン、小さく白い方をリンでした。由来は特になく、最初からこの名前でした。亮の朝は早く、毎朝5時に目覚めます。目覚めると言っても、リンが毎朝起こしに来るのでした。
「わかったから、向こうに行って!」
服を引っ張るリンに向かって毎朝こう言って亮は目覚めます。朝食の前に畑の見回りをします。その時は毎回シンと一緒でした。畑に何か異常があると、シンが亮に向かって吠える。
「ありがとうシン、助かったよ」
何度もシンに助けられることがありました。畑の見回りが終わると、食卓には朝食が並べられており、リンも自分の席についています。不思議なことでしたが、物心ついた時からこうなので、亮は不思議には思いませんでした。家族三人が揃うと、
「わん!」シンが1番に吠え、それに続いて、
「いただきます!」と亮が言います。同時にリンも吠えています。なぜかはわからないけど、いつもこの順番でした。そして、朝食が終わるとシンはどこかに出かけて行きます。それに続いて、亮は学校に出かけて行きます。学校といえば、こんなこともありました。

?ある日、亮が友達と遊んでいました。友達の名前は勇太と遥。いつものメンバーです。場所は校舎内、先生には注意されていましたが、三人は消しゴムとほうきで野球をするのが大好きでした。
「ほら、亮、行くぞストレート!!」
ぶるん、空振り。キャッチャーの遥は、
「ナイスボール!でも、私のリードがいいのかなぁ?」笑いながら言う。すると亮は、
「まだまだ、これからだー!」といい、またほうきを構える。
「じゃあこれで、三振だ!」勇太が投げる。すっぽ抜けだ。亮の体の近くに消しゴムが飛ぶ。ツーストライク追い込まれていた亮は思い切りほうきを振る。
バリン!!
嫌な音と、衝撃が亮に伝わる。窓が割れた。先ほどの和やかな空気から一変して、重たい空気が三人を包む。
「どうしよう。」遥が言う。
「とりあえず、逃げよう。」勇太が言い返す。亮は迷ったが、二人についていくように、教室を出て行った。
全力で三人は階段を駆け下り、職員室の前にさしかかる。
ガラガラ、職員室の扉が開く。担任の先生が出てきた。
「お前ら、何を急いでるんだ?」真っ青な顔の三人を見て、先生は気づいたようだ。
「何があったか説明しなさい。」三人は素直に話をした。しかし、先生は、逃げようとした三人が許せないようだったが、三人の親に連絡を入れ、その日は返されることになった。勇太と遥の親にはすぐに連絡がついたが、亮には親がいない。仕方がないので、亮はそのまま返されることになった。先に学校を後にした亮は、複雑な気持ちになっていた。親に連絡を入れられている二人の顔を見たからであった。後で叱られる怖さもあっただろうが、どこか安心したような顔をしていた。複雑な気持ちで家に帰った亮に、シンとリンが駆け寄る。夕食もなぜか用意されていた。
?「いただきます、、」どこか元気のない亮を二匹の犬が見つめる。
「今日、実はね、、」今日の出来事を全て話した。二匹は、言葉が分かっているのか、亮に歩み寄り、顔を舐めた。
「ありがと、」亮には二匹が、両親のように感じた。
?学校での出来事はこれ以外にもたくさんあったが、いつでも、二匹の犬は亮に寄り添い、支えていた。二匹の犬と1人の人、不思議な家族が亮の家族でした。
亮の家以外にも、犬や猫が家族として生活をしている家がたくさんありました。気づいたらそうなっていたので、誰もおかしいことだとは思いませんでした。

しかし、ある日、遠くの国から盗賊団がこの国に襲いかかってきました。兵役のないこの国は数日のうちに焼け野原になってしまいました。幸い、亮の家族は全員無事でしたが、そのころから、不思議なことが起こるようになったのです。まず、高額な税を課されるようになり、兵役も開始されました。しかし、なぜだか不満を言う国民は1人もいません。さらになぜか、そのころから犬や猫の数がどんどん増えていきました。そして、1番の不思議なことは、亮に両親の記憶が戻ってきたことです。おぼろげにも思い出せなかった顔が、声が、少しずつ亮に蘇ってきました。すると、亮は、両親以外にも忘れている人がたくさんいたことを思い出しました。近所のおばさん、病院のお姉さん、そして、一緒に遊んでいた友達がもう1人いたこと。記憶が戻るにつれて、疑問が浮かび上がります。
「あの人たちは、どこに行ったんだろう。」亮は調べてみることにしました。

国の図書館に行き、亮は歴史を調べました。年代順に綺麗に整理されている歴史書でした。しかし、おかしいところがあります。ここ20年ほどの記述が妙に少ないのです。あるのは、今の王の功績や血筋に関するものばかり。確かに、この前の盗賊団がくるまで、大きな事件はなかったように亮は感じる。それでも、今の王になるまでは、数年に一回、自然災害や、内紛が起こっている。何かがおかしい。
?次に、亮は、役所に行き、人口を調べることにした。明らかに計算が合わない。死亡者数も記されていたが、その数よりもはるかに多い人数がこの国からはいなくなっている。どういうことなのだろうか。亮は、これまでなんの不満もなかった、国に対して疑問を持つようになった。役所から、家に帰ろうとすると、首の後ろに強烈な痛みを感じた。目の前が真っ暗になった。

しばらくして、目が覚めると、そこにはボロボロの兵士がいた。その兵士は、
「お前は何を調べているんだ?」
と聞いた。亮は、
「この国は何かがおかしいんだ。」
と返した。すると兵士はため息をつき、
「役所に入る時から、お前はつけられている。それに気づいていたのか?」
「え、、」
「お前は知りすぎたんだ。なんとかかくまったが、今日はもう帰れ。今後は今までのように何もせず笑顔で生きるんだ。」兵士はそう言い残し、去っていった。

それから数日間、亮は先日持った疑問を忘れたかのように生活をしていた。いや、本当に忘れていたのかもしれない。税が課されるようになったことで、生活は苦しくなったはずだが、税が課される前の生活と比べることもせず、不満なく生活をしていた。いつものようにリンに起こしてもらい、シンと一緒に畑を見回り、そろって朝食を食べ、学校に行く。いつものように、授業を受け、放課後、いつものように遥と二人で遊ぶ。
「今日は何する??」遥が言う。
「公園でキャッチボールでもしようか。」亮が答える。
「なんかこの頃退屈だよねー。なんか物足りないっていうか。」遥が言う。
「確かに。ずっと前はもっと楽しかった気がするけど、何にも思い出せないな。」
最近のことを話しているうちに、学校の近くにある公園に着いた。
「よし、キャッチボールしよう!!」亮がかばんからボールを出しながら言う。
学校の話、家の話、将来の話、いろいろな話をしながらキャッチボールは続く。
「あ。」遥の投げたボールがすっぽ抜けた。ガシャン。嫌な音がした。近くの家の窓を割ったようだ。
「どうしよう。」遥が言う。
「とりあえず逃げよう。」二人は走り出す。ガラガラ。家の人が出てくる。
「こら!!!!!」大きな声で窓を割られた家の親父が叫ぶ。二人が並べられ、説教をされている。なぜか二人の横に同じように丸くなった犬が座っている。二人はなぜだかわからないが、落ち着いたような気分になった。二人と一匹は説教を受けた後で、歩き始めた。犬は二人の間をずっとついてきている。
「そういえば、学校から出たときからずっとこの犬ついてきてるかも。」遥が言う。
「そうだ、キャッチボールの時もずっと近くで見ていたな。」亮が返す。
「なんか、この犬がいるほうが楽しいよね。」
「うん。」
「私たち、ずっと前のことが思い出せないでいたけど、こんな感じじゃなかった??」
遥がそう言ったとき、亮が躓いた。ポケットから消しゴムが落ちる。一緒に歩いていた犬がそれを拾い上げ、楽しそうに走り回る。二人に電気が走ったような感覚があった。
「勇太??」二人は同時に同じ名前を呟いた。すると、尻尾を振って走り回っていた犬がこちらを向き、うなずいた。
「え、え、勇太??どういうことだ??」混乱する亮。
「あ、そういえば。」亮はこのまえ、国について調べたことを思い出した。
「遥、この国はおかしいんだ。」
「どうゆうこと??」
「この国の人はどんどん記憶をなくしているんじゃないかな。」
「え??」遥が返す。
「実は、この前、役所で、、」亮が話しかけたその時、犬になった勇太が大声で吠えだした。黒い服を着た男たちが数人、こちらに近づいてくる。
「もしかして、この前つけてきた奴らかもしれない。逃げるぞ遥。」
「何、何???」亮は遥の手を引き、走り出す。勇太も後をついていく。
全力で走る三人。黒い服の男たちは追いかけてくる。
「どうしよう、あいつらのほうが少し早い。こうなったら遥だけでも。」そう思い、亮は振り返る。その時、
「だから、何もせず生きろといったのに。」どこかで聞いた声がした。あの時の兵士である。
兵士は、剣に手をやり、男たちと向き合った。にらみ合う。しばらくの沈黙の後、男たちは帰って行った。
「なんなんだあいつら。」亮が言う。兵士は、
「国王の兵だ。」ボロボロの兵士は言う。
「どうして兵が僕らを狙うんだ!!」亮は兵士に詰め寄ったが、
「とりあえず場所を変えよう。」三人と一匹は、兵士の隠れ家に連れていかれた。

兵士の隠れ家に着くやいなや、亮たちは驚いた。壁一面に、人の顔が描かれた絵が貼ってあったのだ。
「なにこれ。。。」遥が言った。
「これは、忘れられた人たちだ。」兵士が答える。
「どうゆうこと??」亮が訪ねる。
「お前たちも気付いているんじゃないか?この国の秘密に。」
「そういえば、、」亮と遥は顔を見合わせる。
「この犬、友達なんです。勇太っていう。人間だったはずなんです。ずっとずっと三人で遊んでたはずなんです。」亮が焦ったように言う。
「そうか、君もそうだったのか。」兵士は悲しむように言った。
「実は、この国には秘密があるんだ。この国には、争いがなく、不満もない。表面上はそう見えるが、そうではない。不満を持つと国民ではいられなくなるんだ。」
「どうゆうこと??」遥が訪ねる。
「この国が抱えている秘密は大きく二つ。一つ目は、王宮の地下にある。王宮の地下には、とある薬物が製造されているんだ。」兵士は答える。
「薬物??」亮と遥。
「ああ。その薬物は、人を動物に変える効果があるんだ。」
「もしかして、それで勇太は、、」亮がつぶやく。
「そうだ。」
「でも、不満を持った国民を根こそぎ犬や猫に変えていたら誰かが気付くんじゃないの?」遥が言う。
「確かにそうだ。でも、この国にはもう一つの秘密がある。ヒントは、この国の法律だ。」
「法律??この国の法律なんて、花を植えるやつしか思い浮かばないよ。」亮が言う。
「そうだ。それが二つ目の秘密だ。」
「え??」二人は言う。
「国王が法律を作ってまで花を植えようとした理由それは、あの花の花粉が人の記憶を奪う効果があるからだ。」
「そんなのぶっ飛びすぎて信じられるわけないよ。」亮はあきれたように言う。
「そうか?じゃあ、前にあったとき、お前の記憶はなぜ戻っていたんだ?」兵士は質問した。
亮は何とか記憶をたどったが、思い出せなかった。
「じゃあ、こう聞けばどうだ?あのとき、変わったことがなかったか?」
「盗賊団??」亮は答える。
「そうだ。盗賊団のせいで、この国は一旦焼け野原になった。つまり、あの瞬間この国には花はなかったんだ。」兵士は言う。
「そうか。。。あ、確かあのころから犬や猫が急に増えたのは。」亮が言うと、
「そうだ。国王は思い出してしまった国民に片っ端から薬物を投与したんだ。それに伴い、人手もお金も必要となり、兵役と税が課される運びとなったわけだ。」
「うそでしょ。」遥にも状況が把握できたようだった。
「これから僕たちはどうすればいい?」亮は尋ねた。
「作戦はもう始まっているんだ。お前の親父を中心に。」兵士は答える。
「親父?僕にはお父さんなんて。。もしかして。」亮は思い出した。
「そうだ、お前の両親は、シンとリン、今は犬になっているけどな。」兵士は言う。さらに、
「この国の花の効果は犬や猫には影響がないんだ。つまり、犬や猫になった国民にはすべての記憶がある。」兵士は言う。
「じゃあ、じゃあ、なんでシンとリンは僕に教えてくれなかったの?」
「お前を守るためだ。この国では、何も知らない、何もしない国民だけが人でいられるんだからな。」
「父さん、母さん。。」
「で、作戦って何なの?」遥が暗い空気を切り裂くように尋ねる。
「この国の秘密の中で一番危険なのは、花だ。花さえなくなれば王国との兵力の差は必ず逆転する。しかし、俺たち人間が妙な動きをすれば必ずさっきの男たちにつぶされてしまう。犬猫を人間に戻す方法がわからない以上、花を消すしかないんだ。そこで、お前の父親を中心に、今、国中の犬猫に情報が回っている。同時に火を放てってね。」
「国に火を??」亮は返す。
「そうだ。国中の花がなくなった時しか、こちらに勝ち目はない。」兵士は言う。
「それに、今回の作戦はワンチャンスだ。」
「どうして?」遥が尋ねる。
「国王は、犬猫に記憶が残っていることを知らないんだ。だから、今回の作戦が失敗すれば、犬猫のほとんどは消されてしまうだろう。犬猫の数が一番多い今しかこの作戦は成功しないんだ。」兵士は答える。
「僕たちはどうすればいい?」亮は興奮した様子で尋ねる。
「引き寄せるんだ。大きな騒ぎを起こして、兵力を王宮に集める。」
「なんで王宮に??」
「記憶が戻った兵士を一か所に集めておけば、一気に王宮を落とせるからだ。」
「そんな、失敗したら、僕たちも犬になっちゃうんじゃ。」亮は言う。
「嫌ならやめておけ」兵士は冷たく言い放つ。
「いや、やるよ。楽しい記憶がなくなっちゃうなら、犬になったほうがましだ。」亮は力強く答える。そして、隠れ家の壁から、両親の絵をはがし、ポケットに入れて、隠れ家を出た。

 午前一時過ぎ、町の明かりは消えて、とても静かである。三人と一匹はバラバラに、王宮を目指していた。亮は王宮の左側から近づくことになった。コツコツ、自分の足音だけが聞こえる。コツコツ、ガツ。違う足音が混じっていることに亮は気づいている。亮はそれでも王宮に進んでいく。
パーーーン!!!!!!!
右手のほうから大きな音が聞こえた。兵士は王宮の門の正面から近づいている。兵士が発砲した音だった。打ち合わせ通りだった。隠れていた黒い男たちが慌てているのを亮は背中で感じていた。次は、左手側から、
ワオーーーン!!!!
勇太だ。さらに男たちは焦りだす。最後は王宮を挟んで向こう側に花火が上がった。
今だ。
亮は王宮に向かって走る。虚を突かれた男たちも冷静さを失いついてくる。その時、国の四方八方から煙が上がった。しかし、暗闇の中、焦っている男たちは目の前の亮たちを追いかけることで精いっぱいだ。
「はあ、はあ、はあ。」亮は何とか王宮に着いた。残りの三人はすでにきているようだ。
「お疲れ様。でも、ここからだね。」遥が言う。
王宮の門の前で、四人は黒い男に囲まれた。
「俺たちが死んでも、この男たちは記憶を取り戻すはずだ。」兵士はどこか自分の命はあきらめたようだった。
「観念しろお前ら。」男たちの中で一番大きい男が言う。
「思い出した後で、後悔するんじゃないぞ。」亮の顔にも達成感があった。
「何を言っているんだ。お前ら。」そう言い、男は引き金を引こうとした。
「ん???なんだこれは。。」男たちは混乱を始めたようだ。
パーーン!!
混乱の中で発砲してしまったものがいるようだ。
「っ。。」亮の左手から、血が流れる。
「間に合ったのに、ついてないなー」亮は重症ではないようだ。
男たちは黒い服を脱ぎ、我に返った。そして、兵士は、男たちに説明した。この国の秘密について。

信じられない人もいるようだったが、何とか一段となって、王宮内に入っていく。王宮内の警備員も、混乱しているようで、邪魔をするものもおらず、国王の前に到着した。国王は、この動乱に早く気付いたのか、薬を飲み、気を失っているようだ。一団は国王を縛り、地下の向上へ向かった。工場の研究員もほとんどは気を失っており、工場をストップすることはたやすかった。
「これで、終わったのか。」亮はぐったりと腰を落とした。
「終わった。」兵士は兜を脱いだ。
「こ、国王様。」一段となっていた男たちのほとんどがひれ伏した。しかし、亮、遥、若い男たちは訳が分からなかった。
「何をしているんですか?」亮は尋ねた。
「この人は、前国王だ。」ひれ伏した男が言った。
「え??」亮は、図書館で歴史書を調べたとき、兵士と同じ顔を見ていたのを思い出した。
「やっと、王の仕事ができたかな。」前国王は言った。

それから、犬猫になった国民たちを元に戻すための研究が昼夜問わず行われた。新たな国王は国民が人間に戻ってから決めることになったが、おそらくはこのまま、臨時の前国王が二期目の王政を気付いていくことになるだろう。亮や遥は、王宮に努めることを打診されたが、断り、これまでの生活に戻ることを選んだ。これまでの生活といっても、記憶がすぐになくなっていく生活ではない。楽しいことも、苦しいことも、不満も、怒りもすべてのことを記憶に刻んでいく生活が始まったのである。
朝、リンが亮を起こしに来る。
「お母さん、おはよう。」
シンと一緒に畑を見回る。
「お父さん、いつもありがとう。」
そして、家族そろっての食事。
「ワン!」シンが元気な声で言う。それに続いて
「いただきます。」亮は、リンの鳴き声と同時に言う。
これまでと同じ朝の光景が、亮には違って見えていた。このまま、人間に戻らなくても、僕たちは家族だからいいや。とさえ思ったのである。


「おじいさん!これ、ほんとの話なの??」話を聞き終わった子供たちが老人に詰め寄る。
「さあ、どうだろうね??」老人は答える。
「ばかだなあ、こんなことあるわけないじゃん。」そう言う子供もいる。
「君たち、目に見えてるもの、覚えていることだけがすべてだと思ってはいけないんだよ。」
老人はそう言い残し、痛々しい鉄砲の傷がついた左手で、カバンを引きながら帰って行った。

「誕生日プレゼント」

122139

 「ハッピーバースディトゥーユー、ハッピーバースディトゥユー…」
 今日は二月十四日。町ではあちらこちらに赤やピンクのハートが散りばめられ、ショッピングセンターの特設コーナーでは、女たちがたくさんの種類がある中からとっておきのチョコレートを選ぶ。男たちはチョコレートがもらえるどうかワクワクドキドキしながら一日を過ごす。カップルには楽しい、一人身には何とも言えないイベントの日だ。
 「ハッピーバースディ、ディア、おーれー、ハッピーバースディトゥーユー。」
そんなバレンタインデーの日にさみしそうなバースディソングが聞こえてくる。ふーっとろうそくを吹き消す。彼の名前は「櫻木深舞」。聞くだけで、桜が舞い散る景色が思い浮かんできそうな名前だ。彼は今、ちょうど二十歳の誕生日を迎えたところだった。街のにぎやかさとは違い、ひとりでこの記念すべき瞬間を迎えた。
「はあー。さみし。」
深舞は冴えない大学生。田舎から大学入学と共に大阪に出てきて、今は一人暮らしをしている。高校時代はバスケットボール部に所属して毎日部活漬けだったため、あまり遊んでこなかった。そのためキャンパスライフには相当な期待を持っていた深舞だった。しかし、現実のキャンパスライフは、想像していたものとは大きく違っていた。専攻していた学科には女子がいない。サークルも楽しくない。バイトも続かない。こんな感じで月日は過ぎ、もう大学二回生になっていた。
「もう大学生活も半分か。はあー。これでいいのか俺…。」
ベッドに横になって誰に話しかけるわけでもない言葉を口にしている。深舞はぼーっと天井を見ながら今までの二十年間の人生を思い返していた。
(幼稚園の時は、知恵ちゃんが好きだったな。遠足の時は手をつないで一緒に歩いたっけ。今はどうしてるだろう。そうだ、小学校の時はみんなにさっこって呼ばれてた女の子のことがずっと好きだったよなー。席替えで隣になった時たくさんいたずらした気がする。中学で離れちゃったからそれ以来会ってないけど元気してるかな。中学は、陽子ちゃんに一目ぼれしたんだ。陽子ちゃん可愛かったなー。みんなからモテモテですごかったし。そういえば、今はどっかに留学行ってるって聞いたけど。高校は…忘れもしないな、後輩の捺ちゃんに告白されて付き合って、めっちゃ好きになって、一ヶ月で振られたんだよな。なつかしいなー。)
頭の中に浮かんでくるのは、今まで好きになった女の子ばかり。
「フェイスブック探してみよっと。」
そうこうしているうちに、二十歳になって一時間が過ぎていた。起きていてもさみしいだけだと悟った深舞は、電気を消して寝ようとしていた。
その時、コトン。ポストに何かが投函される音がした。
(こんな時間に郵便?もしかして、誕生日のサプライズかなんかかも。)
 期待が膨らんですでに顔には笑みがこぼれていた。たぶん英字だろうな、などと考えてポストを見ると、そこには白い手紙のようなものがあった。
「HAPPY BIRTH DAY」封筒にはそう書かれていた。嬉しい気持ちがいっぱいで早く中身が見たい深舞は、玄関先で封筒に中身を確認した。

 櫻木深舞さん、お誕生日おめでとうございます。
 この度は、二十歳になられた深舞さんに一日チケットをお送りします。
 「一日限定 芸能人になれるチケット」
 使用する場合は、暗いところでカメラのライトを照らしてください。

封筒の中には、便箋と、名刺ほどの大きさのチケットが入っていた。宛名を見ても差出人の名前は書いていなかった。
「こんなことするやつ、絶対英字しかいないだろ。芸能人になれるチケットって。ふっ。なんだよこれ。」
そう言いながら、嬉しそうな深舞は、さっそく部屋の電気を全部消して、携帯のカメラを起動した。光を当てたら隠し文字とか出てくる感じか、そんなことを考えた。
「ライト、ライト。あったこれこれ。」
 ピカーン。
携帯からまぶしい光がチケットに当たったとたん、チケットからそれよりもはるかにまぶしい光が深舞の顔を照らした。
 「うわっ。」
あまりのまぶしさに目を閉じてしまった深舞だったが、数秒がたってゆっくりと目を開けた。すると、そこは、自分の部屋ではない、今までみたことのない場所だった。
 「は、ここどこだよ。」
辺りを見回しても知っている景色は一つもない。そこには、大きな鏡が壁に取り付けてあり、その前には机と椅子。小さな部屋のようだった。
 「櫻木深舞さん、お願いします。」
と、年上に見える知らない男性に声を掛けられた。どうしてこの人が自分の名前を知っているのか、まずここがどこなのか、よく見ると着ている服も違う。なにもかも意味が分からなかった。しかし、名前を呼ばれているため、無視している訳にもいかないと思い、その男性についていくことにした。
 「おはようございます。」
出会う人出会う人に声をかけられた。
(いまって朝なのか、それなら自分はさっき寝て起きたってことか?)
と疑問に思いながら、男性の後を急いだ。
 「櫻木深舞さん、はいられます。」
そういってドアの向こうに案内された。そこには、なにやらピカピカと光るステージのようなものがあり、その前には大勢のお客さんがいた。
(なんだ?)
とただひたすらに疑問を抱えながらまっすぐに進んでいくと、黒いスーツを着た人が座っている。その人がこちらを向くと見えたのは、真っ黒なサングラスだった。
 (え、タモリじゃね。いや、いきなり目の前にタモリがいるわけない。コスプレか?でも、これなんか見たことある気がする。いいとも?あれ終わったよな?)
「あーどうもどうも、櫻木深舞さんです。」
と、考えがまとまる前に、そのタモリさんらしき人に案内され、タモリさんらしき人の横にある椅子に座った。それから、電報の紹介、花の紹介が終わり、タモリさんらしき人との雑談が始まった。
 (これ、英字の演出にしてはでき過ぎる。でも、いきなりタモリが現れて、自分がいいともに出てる?なんで?)
そんなことを考えていた時、ふと、あのチケットのことを思いだした。
「一日限定 芸能人になれるチケット」
 (もしかして、あれ?俺いま芸能人になってんの?は?じゃあ、これがちタモリ?)
「それでは、百分の一アンケートにチャレンジしてもらいます。」
 (うわ。これあれだ。テレフォンショッピングだ。)
ここで、すべてを悟り信じた深舞だった。いいともの仕事が終わり、さっきの男性に連れられて車で移動をした、
(どうやらこの人は俺のマネージャーらしい。この人に色々聞いたら何か分かるかもしれない。)
 「あの…。」
 「はい、なんでしょうか。」
 「僕って、これからなにするんですか。」
 「次は、雑誌の取材です。」
 「雑誌の…。昨日は僕なにしてました?」
 「昨日は一日オフだったので、存じ上げませんが…。」
(雑誌の取材ってことは、もしかして俳優とかになれてるのか?)
 「明日の仕事は?」
 「明日は、次のドラマの顔合わせですね。」
(ドラマってことは、俳優しかないよな。まじか、俺の誰にも今まで言わなかった夢、俳優。一日だけでも体験できるのか。)
 さっきまでは、疑ってなにも信じなかった深舞だったが、すべてを悟った後は、起こることすべてを信じることができた。二十歳の誕生日に突然送られてきたチケットによって、深舞は、実はかねてからの夢だった俳優になれたのである。
 それからというもの、深舞は、芸能人の仕事を楽しみながら体験し、新しいことにも動じずにこなしていった。
 一日の仕事が終わり、マネージャーに家まで送ってもらった。マンションの前につくと見覚えのあるマンションがそこにはあった。
「え、これ俺のマンションだ。」
いつも通り階段を上がり、自分の部屋のドアの前で立ち止まった。
(まてよ、これ中に入ったら現実に戻る的なやつ?)
うーん。とドアの前で考えて十分が経った。深舞にはまだやり残していることがあった。それは、女優さんに会うこと。女優と言っても、誰よりも一番好きな「有村架純」に会うことだ。時計を見ると、針は午後八時をさしていた。
「一日っていつまでだよ。やばい。」
今まで、俳優になって仕事をすることが楽しくて、有村架純に会うことなど完全に忘れていた。いざ、元の世界に戻ることになるかもしれないと思うと、やりのこしたことがどんどん出てくる。その中でも、なにより有村架純に会うことだけはあきらめることが出来なかった。気付かないうちに深舞はドアの前を離れて階段を降りようとしていた。
(どうやったら会える?まずどうやって連絡すればいいんだよ。)
考えても答えは見つからない。
ブーブーブーブー
突然マンションの静かな階段に、深舞のアラーム音が鳴り響いた。
「こんな時になんでアラームだよ。」
イライラしながら携帯の画面を見る。するとそこには、「架純」の文字が。幸運にも深舞には「架純」という名前の友達はいなかった。深舞は、心臓の音が自分に聞こえてきそうなのを感じながら電話に出た。
 「深舞?あたしだけど」
電話の向こうからは、かわいい女性の声が聞こえてくる。深舞には、初めて聞いた声には感じなかった。毎日のように有村架純が出ている映画やドラマを見ていたかもしれない。
「あ、うん。おれ。」
「今から会えないかな?家に行ってもいい?」
「え、あ、うん、いいよ。」
電話の向こうにいる女性が、あの有村架純だと思うと、緊張してうまく返事をすることが出来なかった。しかも、その彼女がいまから家に来るというものだから、深舞の心臓はバクバクと音を立てている。
(やばい。やばい。やばい。あ、そうだ、部屋の掃除をしないと。)
そう思った深舞は、自分の部屋に戻りドアを開けた。急いで靴を脱いで、部屋の電気をつけた。
「ああああああ!」
と、大きな叫び声が部屋中に響いたかと思うと、深舞は勢いよくドアを開けて外を見た。
そこには、小さな女性が立っていた。
「どうしたの?」
その女の人が顔をこちらに向ける。小さな顔に大きな目、白い肌に長くて黒い髪。目の前にいたのは正真正銘、「有村架純」だった。
「そんなに慌ててどこかいくの?」
架純はこっちをみて笑っている。
「あ、ごめんごめん、ちょっと思い出したことがあって。もう大丈夫だよ。」
「もーびっくりした。」
そう言いながら、架純は部屋の中に入る。その後ろ姿を見ながら深舞は心を落ち着かせていた。
(戻らなかったな。よかった。)
部屋にはいると架純がソファーに座っている。深舞はこの状況に、どうすればいいかわからない。いつ自分が元の世界に戻ってしまうか分からないため、深舞は今できることを考えた。
(そうだ、写真を撮ろう。)
携帯はこっちでもそのままに使うことが出来たことから、深舞は架純ともツーショットの写真を残そうと考えたのだった。
「ねえ、写真とらない?」
「写真?いいけど、どうしたの?」
「いや、なんとなく、思い出の残しとこっかなって思って。」
そういうと、また架純は笑っていた。そんな彼女の横に座ると、さらに彼女のことを小さく感じた。
「部屋だし、ライト付けた方がいいんじゃない?」
深舞は、そうだなと言われたままにライトをつけた。記念になるのだからと、深舞は左手を架純の肩に回した。
「はい、チーズ」
ピカーン。
その言葉と共にシャッターが押され、ライトが光った。その光は部屋中が明るくなってしまうほどの明るさだ。もちろん二人は目を閉じてしまった。深舞はなにも考えることなくすぐに目を開けた。
「…。」
目を開けると、そこに架純の姿はなく、右手には携帯が、左手にはあのチケットがあった。
「あああああああああ!」
先ほどよりも大きな声で深舞は叫んだ。服を見るといつものジャージを着ている。急いで外にでて景色を確認するが、そこにあるのは見覚えのあるいつもの景色だった。
「なんだよ!」
今まで起こっていたことが何だったのか、夢だったのかも分からないまま、深舞は部屋に戻った。部屋に入ると、有村架純の大きなポスターが目に入る。
「はあ。」
時計を見ると、十一時五九分。
「もう誕生日終わるやん。」
時計の針が一二時をさした時。
ピンポーン。
「こんな時間にだれや、英字か?」
いままで起きていたことがまだ整理できていない深舞であったが、ひとりでいるのも少し辛く思ったため、玄関に向かった。
「はい…」
「お誕生日おめでとうーーーー」
ドアを開けると、そこにいたのはたくさんの友達だった。
「あ、ありがとう。でも俺の誕生日、昨日だよ。」
「なに言ってんの?今日十四日よ。」
そう言われて携帯の日付を見ると、確かに二月十四日と表示されている。
「おめでとう!」
友達たちはどかどかと部屋の中に進んでいく。深舞は、携帯の日付を見ながらぼーっとしていた。そして、ふとさっき撮った写真のことを思い出した。
(そういえば、あの写真…。)
カメラロールを一番下までスクロールする。
(あるわけないか、夢でもみてたのかもしれない。)
カメラロールの一番下には、二人の男女が映っている写真があった。
(あ…。)
その写真をタップすると、画面いっぱいに写真が写る。
「あれは夢じゃなかったんだ。」
深舞はその写真を確認して、さっきまでの顔とは全く違う表情になった。それは、なにかを吹っ切ったような表情だった。その日、深舞は、みんなで賑やかな誕生日を過ごしたのであった。

「関西弁の魔法使い」

122208

 最近なにも良いことがない。2日前は、母が朝起こしてくれなくて遅刻して先生に怒られた。昨日は席替えで嫌な奴の隣になった。今日も理科の時間に当てられたけど、答えることができなくて赤っ恥をかいた。そもそもクラスのみんなと話が合わない。部活をして、流行っている音楽を聞いて、休み時間には昨日のテレビの話をしている。それが普通なのだが、その普通の生活がどうも合わない。
小学校から仲良い友達がほとんどテニス部に入ったから僕も入部したが、僕は限界を感じている。今日も体調不良だと嘘をつき部活を休む。部活に行かなくなり二か月は経っただろう。もう部員も僕のことはいないものとして活動している。明日はどんな嫌なことがあるのかなと考えながら、毎日通る道を普通の人よりも二時間ほど早く歩いていた。空は僕の気持ちと裏腹に晴れている。

 帰り道には公園がある。午後三時過ぎにそこを通ると小学生が遊んでいるのが見える。その公園はそんなに広くはないがブランコやすべり台があり、それなりに遊ぶことができる。今日は五、六人でボール遊びをしている小学生が見える。その公園の横を通って僕は毎日帰っている。公園の小学生を見ながら、自分の小学生のころを思い出した。僕が小学生のころはなにも考えずに生活できていた。嫌いな奴もいなかったし、みんなの前で問題を間違えてもなにも思わなかった。中学生になると色々考えるようになってしまった。みんなが部活に入ったから部活に入った。男はみんな運動部に入るから運動部に入った。みんなが塾に通うから塾にも入った。みんながJPOPを聞くから僕も聞いた。それが普通だからだ。中学生になったら部活に入るのが普通。男なら運動部に入るのが普通。塾に通うのが普通。流行りの音楽を聞くのが普通。大勢から外れると普通じゃなくなる。普通から外れると仲間外れにされてしまう。テニス部をサボりだした僕は、今まさに普通からはずれようとしている。

 公園にはブランコやすべり台の他にベンチもある。そのベンチに目をやると、ボロボロの黒いサンダルを履いて、薄汚いグレーのジャージのズボンを履き、ところどころ汚れた白いTシャツに、オレンジのカーディガンを羽織った坊主のおじさんが座っていた。変なおじさんだと思い、かかわらないように公園を通り過ぎようとした。するとおじさんはベンチから立ち上がり、僕の方へ近づいてきた。明らかにこっちをみている。かかわらないようにうつむきながら歩いていたが、おじさんと僕の距離は確実に近づいていた。とうとう僕の目の前におじさんが来た。その時
「なんや、お前、悩んどんのか」
 確実に話しかけられたが、僕は無視して歩き続けた。
「お前やお前、無視すんなコラ。こちとら魔法使いやぞ」
 おじさんがあまりにも突拍子もない冗談を言うものだから僕は、おじさんの方を向いてしまった。おじさんと目が合う。近くに来ておじさんの顔がはっきり見えた。くちひげとあごひげはうっすら伸びていて、つまようじをくわえていた。
「魔法使い?」
 僕は聞いた。
「ああ、そうや」
 表情一つ変えず、おじさんはそう答えた。やはりおじさんのジャージにカーディガンの姿は滑稽だ。
「お前、なんか悩んどるやろ」
 おじさんはつまようじをくわえながら話した。
「いや、別に」
 僕はおじさんの前を去ろうとした。
「お前、俺が魔法使いやって信じてへんな?」
 この薄汚いおじさんを魔法使いだと信じるわけがなかった。
「信じるわけないよ」
「なんでや?」
 おじさんは間髪入れずに聞いてきた。
「だって普通魔法使いってマントして、三角の帽子して、ほうきを持って……」
「だれが決めたんやそんなもん」
 おじさんは呆れたように笑いながら言った。
「ほな、なんか魔法見せたら信じてくれるんか」
「たとえばどんなことができるの?」
「一瞬だけ雨降らしたるわ」
 おじさんはそう言って、くわえていたつまようじを手に取り振りかざした。
「ちょっと待って!」
「なんや」
「そのつまようじが杖的な役割なの?」
「おう」
「普通、もっとかっこいい木の枝のピカピカしたやつみたいな……」
「やからだれが決めたんやそんなもん」
 おじさんは、また呆れたように笑いながら言った。
「黙って見とけ」
 おじさんは、つまようじを振りかざし、軽く空に向かって突き出した。
すると晴れた空からぱらぱらと雨が降り出した。僕は信じられなかった。おじさんの顔を見ると、どうだと言わんばかりに僕の方を見ている。数十秒すると雨は止んだ。
「信じたか?」
 僕は信じざるをえなかった。
「うん。でもなんでつまようじなの?」
「届出さえだせばなんでもええねん。杖は」
「届出?」
「おう。魔法使いは、私はこれを杖として使いますっていう届出がいるねん。俺はつまようじやけど、最近はカーボン製の軽いやつが流行っとる」
「なんでおじさんは、つまようじなの?」
「つまようじとしても使えるやん。持ち運び便利やし。一回綿棒で申請したけどあかんかったわ」
「なるほど」

 おじさんは、僕が興味を示したことでいい気になったようだった。
「俺はな、時間もあやつれるで。今午後三時やな。一瞬で夜に変えたるわ。見とけ」
 おじさんは、またつまようじを振りかざしたが、僕は夕方の情報番組の中の、シェフと主婦が料理対決するコーナーを楽しみにしていたので、やめてもらった。
 僕は疑問に思っていることをおじさんに聞いてみることにした。
「魔法使いって、どうやって空を飛ぶの?」
「空か?免許とって、ほうきかじゅうたんで空飛ぶんや」
「免許制なの?」
「ああ」
 僕は魔法使いの世界にもいろいろあるんだなと思った。
「おじさんは、空とか飛ぶの?」
「おう。でも俺は免許取り消されとる」
「なんで取り消されたの?」
「スピード違反繰り返してもうたんや」
 僕はおじさんの性格というか人物像がだいたい掴めた気がした。
「おじさんはほうき?じゅうたん?」
「そりゃほうきやわ」
「そりゃってどういうこと?」
「男はほうきに決まっとるやろ」
「男性はほうきで、女性はじゅうたんってきまっているの?」
「いや、決まってるわけではないけど、男は黙ってほうきなんや。俺らの世代は」
 僕はこの世界における自動車のMT免許がほうきで、AT免許がじゅうたんにあたるようなものなのかと考えた。
「魔法使いの世界なのに、届出とか、いろいろややこしいんだね。魔法使いってもっと自由だと思っていたよ」
「だれが決めてんそんなもん」
 とおじさんは言った。

「お前、なんか悩んどるやろ」
 おじさんは再び聞いてきた。
「別に。何も悩んでないよ」
「嘘つけ。悩んでる歩き方してたわ」
 悩んでる歩き方ってどんな歩き方だろうと思った。
「ほなな、お前の願いを一つ、なんでも叶えたるわ。なにがええ?」
 おじさんはそう言った。でも、僕は早く家に帰って、テレビが見たかった。おじさんとの話を早く終えたかった。
「いや、別に僕は悩んでないし、いいよ。おじさん今日はありがとう」
 僕ははやあしで家に帰った。

 家についた僕はすぐにテレビの電源をつけた。僕がテレビを見ている間に他のみんなは部活をしている。最初はそのことに罪悪感を感じていたが、最近は慣れてきて感じなくなった。僕はもう学校に行くことすら嫌に感じていた。僕は勉強も得意ではないから塾でも勉強についていけない。流行りの曲も良いとは思はない。テニス部も最近行っていない。仲間外れにされるくらいならいっそのこと学校に行かないおこうか、と考えた。
 シェフと主婦が料理対決をするコーナーを見終えたあとは、宿題をするわけでもなく、友達とLINEをするわけでもなく、なにをするわけでもなく時間が過ぎ、僕は寝ようとしていた。明日は塾だ。宿題をしていないから怒られる。また明日も嫌な一日なんだろうな。僕はそう思ってベットにもぐった。

 僕は、物音で目が覚めた。外は薄明るく、時計を見ると午前5時30分だった。なんの物音だろうと部屋を見渡した。すると、下はグレーのジャージで、上はオレンジのカーディガンのおじさんが立っていた。
「なんでここにいるの!?」
 と僕は聞いた。
「魔法使いやからや」
 と当たり前のようにおじさんは言った。
「なにしにきたの?」
 僕は聞いた。
「お前の望み叶えたるって昨日言う多やんけ。叶えたろう思ってきたんや」
「望み?」
「なんでも叶えたる。未来に行くことだってできるし、過去に戻ることだってできる」
「過去にも行けるの?」
「おう」
「じゃあ過去に行きたい。そうだな……」
 僕は考えた。三日前に戻って、朝ちゃんと起きて先生に怒られないようにしようか。二日前に戻って、席替えを違った結果にしようか。昨日に戻って、理科の質問に答えれるようにしようか。それとも、部活に行かなくなった一か月前に戻って、ちゃんと部活に行こうか。僕はいろいろ考えた。考えたが、こんな貴重な機会の願いはこんなものでいいのだろうか、とも考えた。
他の人なら、願いを一つ叶えてやろうと言われたら、普通はどんなお願いをするのだろう

「おじさん、他の人は普通こういうときってどんなお願いをするの?」
僕が聞くと、おじさんは呆れたような顔でこう言った。
「あのな、お前昨日から、普通普通ってなんやねん。なにをもって普通やねん」
 僕はそう言われてすぐに言葉が出なかった。
「お前、昨日からずっと、魔法使いはマントするのが普通だとか、杖は木が普通だとか、普通普通ゆうてたけど、そんなもんだれが決めてん。そうしてるやつが多かったらそれが普通なんか。他の人がどうするかは、関係あんのか」
 おじさんは真剣な顔で僕に向かって言う。おじさんの真剣な顔は初めて見た。そして、おじさんの言っていることが胸の奥に深く刺さった。おじさんの言葉を聞いて、僕の中でなにかが変わった気がした。

「さあ、過去に戻るか?」
 僕は首を 横に振る。
魔法使いはニヤリと笑ってどこかへ消えた。

「魔女の生きる世界」

122112

〜目次〜

一、おだやかな日
二、ローラの失踪
三、北の魔女
四、トム
五、サウスマウンテンへ
六、謎の呪文
七、南の魔女
八、刻まれた花
九、よみがえりの花
十、ノースマウンテンへ
十一、北の魔女 南の魔女
十二、村へ


一、おだやかな日

「おじいちゃま!こっちにきて!」
「どうしたのじゃ?おお、これは!」
「わたし、こんなにきれいでかわいらしいお花は初めてよ。」
「そうじゃな。ローラ、お前は本当にかわいいのう。お前はわしの宝物じゃよ。」
 グリーンウッド村の村長ジョン・ウィリアムズは早くに妻を亡くし、大きな屋敷で一人寂しく住んでいた。息子のマイケルはそんな父を心配し、娘ローラを連れて、父の屋敷に遊びに来ていた。
「いやあ、お父さんが楽しそうでなによりだよ。」
「自分の孫がこんなにもかわいいとはな。別れ際が今から心配だよ。」
「そういえば、最近村の様子はどうなんだい?平和にみんな過ごせているの?」
「ああ、特に問題はないさ。問題と言えば、スコットおばさんが自分の飼い犬に手を噛まれたと言って大騒ぎしていることくらいさ。」
「ああ、おばさんは何でも話を大きくするのが癖だからね。」
 グリーンウッド村は四方を山に囲まれたみどり豊かな村である。村の人々は農家や牧場で働く人がほとんどで、みな心優しく穏やかだ。村には学校が一つ、病院も一つ、子どもたちはみな顔見知りで仲良しである。
「困ったときはお互いさま、みんなで助け合うのさ」
これが村の人々のあい言葉だった。村の村長は代々ウィリアムズ家が担っており、ジョンはその十五代目だった。大きな屋敷にはジョンと昔からの召使いが二人、料理人が一人いた。
 その日の夕食は、牛のステーキ、村で育てた野菜のサラダ、パスタ、ピザなどのごちそうが並んだ。
「お父さん、えらくはりきったね。」
「当然さ。ローラ、たくさん食べるんだよ。」
「はい、おじいちゃま!」
楽しい夕食の時間が終わり、ローラは遊び疲れたのか、早めに部屋にいって休むことにした。父と息子はリビングで村のワインを開け、二人で乾杯をした。
「今日は本当に楽しかったよ。久しぶりにこの村を見て、安心したよ。」
「ああ、それはよかったよ。」
「そうだ。小耳に挟んだんだけど、北の魔女がまた悪さをしているって本当なのかい?」
「……。誰から聞いた?」
「誰からってわけじゃないんだ。……やっぱり何かあったんだね。」
「わしもよく知らんのじゃが、何かまたたくらんでいるらしい、というのは聞いたことがある。」
  北の魔女というのは、グリーンウッド村を囲む四つの山のうち、北にあるノースマウンテンの奥深くに住む魔女のことである、この魔女は昔から人間と仲が悪く、村の農作物を枯らしたり、村の若い男子をさらったり、人間を困らせるようなことばかりしていた。しかしそんな魔女が近頃おとなしく、何の悪さもしてこない。本来なら喜ばしいことなのであろうが、村の人はきっと家で何か大きなたくらみをしているのだと恐れていたのだ。
「とにかく、お父さんも気をつけてくれよ。それじゃそろそろ寝るよ。」
「ああ、おやすみ。」
 その夜は、月がきれいで、ジョンは窓辺で月を見ながら、いつのまにか眠りについていた。
 

二、ローラの失踪
「大変だ!大変だ!起きてくれ!お父さん!」
ジョンは朝早く、息子の叫び声で目を覚ました。
「いったいどうしたというのだ。騒々しいぞ。」
マイケルは二階の寝室から。ふらふらして手すりで体を支えながら、降りてきた。顔色は悪く、青ざめていた。ジョンもそんな息子の表情を見て、これからこの息子の口からきくのはよい知らせではないとすぐに察した。
「どうしたんだ?」
ジョンは必死に感情を抑えた声で訊いた。
「いないんだ……。いないんだよ。」
「何が……いないんだ……?」
いやな予感がする。
「ローラが、ローラが……朝、様子を見に部屋に行ったらいなくて、トイレかなと思ったんだがトイレにもいなくて……。どこにもいないんだよ!」
ジョンは一瞬目の前が真っ白になった。ローラが消えた?そんなことあるわけない。
「わしも探す!とにかくもう一度屋敷の中を隈なく探そう。案外簡単に見つけられるかもしれないよ。」
ローラの捜索はその日、日が沈むまで続けられた。村の交番にも届けを出し、村人全員でお大捜索だった。しかし、結局ローラは見つからなかった。
「ああ、なぜだ。どこに行ってしまったんだ、ローラ。」
「出てきておくれ、ローラ、ローラ、ローラぁ!」


三、北の魔女
「こちらでよろしいでしょうか。」
「うん?ああ、なんと若々しい!すばらしいではないか!これは誰の娘だ?」
「グリーンウッド村の村長、ジョン・ウィリアムズの孫娘にございます。」
「ほお、すばらしい!年は?」
「十でございます。」
「よし。分かった。十分な若さだな。」
「あの、お約束の……。」
真っ暗な部屋の中でろうそくがゆらゆらと揺れ、かろうじて部屋を照らしていた。ぼんやりとした部屋の中には二人の女と小さな女の子がいた。女の一人は顔を黒のベールで被い、黒いドレスを着たまま、さっきから落ち着かない様子だ。もう一人の女は椅子に腰かけ、水晶を見つめている。水晶の女は顔に深くしわが刻まれており、髪は白髪混じりで縮れていた。小さな女の子は、部屋の隅に寝転がされている。
「クックックッ、まあそうあせるな。」
水晶の女は、金歯銀歯が光る歯を見せながら、クックックッと笑った。
「本当に約束は守ってくれるのでしょうね。」
黒のベールの女は、不安げに尋ねる。
「きさま!私を誰だと思っている!約束は守る。今から準備を始めるから黙って待っておれ。」
水晶の女はおもむろに立ち上がると、部屋の隅の本棚から古びた分厚い本を取り出した。その本は茶色で注意してめくらなければ簡単に破れてしまいそうだ。女は細くしわだらけで爪の延びた指で字をなぞりながら、ぶつぶつ何かつぶやいている。読み終えたのか、女は棚から、いくつか小瓶を取り出し、それを机の上に並べた。そして、大きな壺を隣に置いた。
「よし、準備は整った。」
「この小瓶に入っているのは何ですか?」
「クックックッ。これはな、今から作る若返りの薬に必要な材料じゃよ。運よく全て家にあったわい。」
「いったい何を入れるのですか?」
「カエルのホルマリン漬けに、トカゲのしっぽ、魔女の世界で最も長生きをしたエルローサという女の髪の毛を三本、ウサギの耳に……」
「もういいです!説明はその辺で……。気分が……。」
「クックックッ。そうかまだまだあるんじゃがな。ではさっそく儀式に取り掛かる。いいか、この儀式の途中には決して言葉を発してはならぬ。もし一言でも話してしまったら今までの努力は水の泡じゃ。それだけではない。もう二度と魔力の効かない人間になってしまう。それから、薬はどんなにまずくても一気に飲み干すこと。飲み干してから眠気が襲ってくるから、眠ってしまう前にいくつくらいに若返らせてほしいのか、具体的な年齢を言うこと。そのあとは、まあ何とかなる。そして最後に!決して今日ここで行ったことはだれにも言わないこと。これは絶対じゃ。よいな?」
「分かりました。お願いします。」
それから、水晶の女は材料を大きな壺に入れグツグツと煮込みだした。太い棒でかき混ぜ、しばらくすると、奇妙なにおいがしてきた。それから、女はコップに一杯分、そのエキスをすくって入れ、何かぶつぶつと呪文のようなものを唱えた後、黒のベールの女にそのコップを手渡した。黒の女は、ベールを少しめくり上げ、約束通り一気に薬を飲み干した。そしてふらふらしながらこうつぶやいた。
「私を、私が一番美しかった時代、二十五歳の頃に戻して!」
そして女はばたりと倒れ、意識を失った。


四、トム
「大丈夫ですか!大丈夫ですか!しっかりしてください!」
 耳元で聞こえる男の人の声で、目を覚ました。
「あの、私……」
「ああ、よかった。意識を失っていただけなんですね。大丈夫ですか?ここを通りかかったら、あなたが倒れていたから驚いて……」
女は、何がどうなっているのか必死に自分の記憶を呼び起こした。そして、自分が若返りの薬を飲んだ後の記憶を失っていることに気付いた。
「まあ……、どうしましょう。本当にありがとうございます。私あまり何も覚えていないんですの。」
「そうですか。とにかくお家までお送りしましょう。お家はどちらですか。」
そのとき初めて女は男の姿をしっかりと見た。男は木こりのような恰好をしており、顔は日焼けして、たくましく優しそうな表情をしていた。
「ありがとうございます。案内いたしますわ。」
女は男に支えられながら、家へと帰って来た。どうやら薬を飲んだあの家からはだいぶ離れたところで眠っていたらしい。
「今、お茶を入れますから。少しお待ちになって。」
女にはどうしても確認したいことがあった。部屋の隅に隠すように置いていた手鏡をそっと覗きこんだ。そして黒のベールをめくった瞬間、思わず「あっ」と声が出た。何と、ほれぼれするような美しい顔であった。白く透き通るような肌に、大きなブルーの瞳、真っ赤な唇と、ピンクに色づいた頬。ついさっきまでの自分とは似ても似つかぬ美しさであった。女はあの若返りの薬がしっかりと効いたことを確信した。自分は二十五歳に若返ることができたのだと。
「はい、どうぞ。」
女は黒のベールを取り、恥ずかしげに男に紅茶を差し出した。
「ありがとうございます。」
男はふと女の姿を見て、驚いたように目を見開いた。
「どうかされましたか?」
「いや、その、あまりに、美しくて……。驚いてしまいました……。」
「まあ、美しいだなんて。」
女は喜びを隠せなかった。もう何年も、いや何十年もそんな言葉をかけてもらったことはなかったからだ。
「失礼ですが、その、お名前は……?」
「エレーナです。あなたは?」
「エレーナ……。いい名前だ。僕はトムといいます。」
「トム、よろしくね。」
それから二人は日が暮れるまで楽しく話続けた。こんなにも堂々と男性と話せるのも、若返ったおかげだと、エレーナは心底思った。
「もうこんな時間だ。もっと話していたいけれど、もう帰らないと。」
「そうね……。また会いに来てくれればいいわ。たくさんお話ししましょう。」
 

五、サウスマウンテンへ
 村は大変なことになっていた。ローラがいなくなって一週間が経っていた。ジョンもマイケルも毎日生きた心地がしなかった。知らせを聞いたマイケルの妻エリーも駆けつけ、村中の人間がローラを探したが全く手がかりを見つけられずにいた。ある日、村の長老のダンがジョンにこう提案した。
「もう頼るしかないのではないか。南の魔女に。」
 南の魔女は村を囲む四つの山のうち南に位置するサウスマウンテンに住んでいる魔女である。南の魔女は昔、人間ととてもいい関係を結んでいた。村が悪天候で悩まされているときには魔法でいい天気にしてくれたり、北の魔女が村の人間を連れ去ったときには、魔法で探し出してくれたりもした。しかし、あるとき、村の人間が南の魔女が、実は北の魔女と組んでいて村人を騙し、いつかはグリーンウッド村を乗っ取ろうとしているという根も葉もない噂を流した。村人はそんな根も葉もない噂に惑わされ、信じた。そしていつしか南の魔女を非難するようになり、南の魔女は人間に姿を見せなくなった。それから五十年、村人の中で南の魔女を見たという者は一人もいない。
「しかし、南の魔女はもう人間に力など貸してくれないでしょう。あんなことがあったのだから。」
ジョンのその言葉にダンは、厳しく言い放った。
「何を言っておる!そんなことを言っておる場合か!ローラが、ローラがどうなってもいいのか!魔女のところへはわしも行く!そして二人で頭を下げるのじゃ。昔のばかな人間の過ちを詫びるのじゃ。それしかないじゃろう。」
ダンのその言葉に、ジョンははっと我に返った。自分が今できることは南の魔女に頼んで、ローラの居場所を探してもらうことしかない。そして、ジョンとダンはすぐに、サウスマウンテンに向かった。


六、謎の呪文
「やっと目を覚ましたか。もう三日も眠っておったな。」
ここはノースマウンテン。そして今こう呟いたのは北の魔女である。
「ここはどこなの?おじいちゃまは?おとうちゃまは?ねえ、あなたは誰?」
幼い女の子は、ゆっくりと体を起こし、不安げに魔女を見上げた。
「クックックッ、おじいちゃま?おとうちゃま?そんなものには二度と会えないさ。お前はここでわしに魂を売るのさ。」
「タマシイを売る?どういうことなの、それ?」
「いいか!お前は若い。若くて元気で美しい。わしはな、そういうやつを見ているといらいらするんだ。そしてどうしようもなくその若さを奪いたくなる。若ければ若いほどな!」
 少女はただ恐ろしく、声も出せなかった。すると魔女はゆっくりと壁に立てかけていたステッキを持ち上げ、少女の頭上にそれをかざした。
「な、何をするの?」
「クックックッ、お前らみたいな子どもの若い魂を手に入れて、そして永遠の命を……。」
魔女は暗い声で長い呪文を唱えると、最後に「ハアッ!」とステッキを振り上げた。その瞬間少女はばたりと床に倒れ、白いもやのようなものが少女の口から飛び出した。そのもやは、ふわふわと漂いながら魔女の机の上に置いてある水晶の中に吸い込まれるようにして入っていった。
「クックックッ、これでまた永遠の命に近づいたわい。」


七、南の魔女
 南の魔女の家はサウスマウンテンの奥深くにある。それまでの道のりは決して平坦なものではなかった。村と違って山には山賊や獣がたくさん住んでいる。山にはめったに人間が立ち入らないため、山賊も獣も人間に飢えていた。そいつらに何度も命を奪われそうになりながら、ジョンとダンは必死に山を登った。とにかく急がなくてはならない。道なき道をまる三日二人は休むことなく登り続けた。そしてとうとう、南の魔女の住む家に到着したのだった。
「やっと着いたぞ!」
ジョンはふらふらとドアの前に進んだ。
「いよいよじゃ。とにかくまずは謝ろう。そしてお願いするのじゃ。」
ダンはそう言うとドアをノックした。しかし中から返事はない。もう一度ノックをした。それでも応答はない。二人が困っていると、
「何しに来た!」
突然、背後で大きな声がした。二人は驚き腰を抜かしそうになりながら、後ろを振り向いた。するとそこには、つぎはぎだらけの黒い服を来て、長い白髪を無造作に一つにくくった老婆が立っていた。
「何しに来たんだと訊いているんだ!」
老婆はいらだった様子でもう一度尋ねた。
「あの、その、今日は少しお話したいことがございまして。」
ジョンは恐る恐るそう答えた。
「話?ない!人間と話すことなんて何もない!帰れ!」
老婆は鋭い目つきで二人をにらんだ。
「そんなこと言わないでください!少しだけでいいんです。話を、話を聞いて下さい!」
ジョンはすがりつくように頼んだ。ここで引き下がるわけにはいかないのだ。
「帰れと言ってるだろう!どんなに頼まれても無理だ!」
老婆の心が揺らぐ様子はない。そのとき、ずっと黙っていたダンの大きな声が響いた。
「謝りたいんじゃ。いや謝らせてくれ!昔、わしら人間はあんたにひどいことをした。あんたはいつも人間を助けてくれていたのに、わしらはそれを踏みにじった。ありもしない噂を信じて、あんたを人間の世界から追い出した。そして今まで一度も謝りに来なかった、誰一人な。」
老婆の目つきが変わった。
「だからな、遅いかもしれん。じゃが、謝りたい。本当にあのときはすまなかった。この通りじゃ。」
ダンはひざまずき、頭を地面にこすり付けるようにして謝った。ジョンもそれに続いた。
「すまない!本当に申し訳ないことをした!」
老婆はただ黙って二人の姿を見ていた。そしてかすれるような声でつぶやいた。
「そんなこと、今さら言われても困る。もう私は人間とは縁を切ったんだ。」
「孫が!孫がいなくなってしまったんです。もう十日になります!どんなに探しても見つからないんです!南の魔女のあなたに探してもらうしか、もう方法がないんです!」
ジョンは必死に訴えかけた。何が何でも南の魔女に協力してもらうしかない、その思いで必死だった。
「お孫さんが?分かったわ。中に入りなさい。」
ジョンとダンは驚いた。しかし今は急がなくてはならない。二人は魔女の後に続いた。
「で?何があったんだい?」
二人は、ローラというジョンの孫娘が十日前に突然姿を消した話をした。そして、ローラが今どこにいるのか魔法で探してほしいを頼んだ。
「水晶で人の居場所を見ることはできる。だが、これだけは覚悟してほしい。万が一だが、命がないこともある。」
「そんな……。でも分かっています。とにかく探して下さい!」
魔女は水晶の前に座ると、ぶつぶつと呪文を唱えた。そしてしばらくの間、誰も何も話さない沈黙の時間が流れた。
「分かったよ、居場所。」
「どこです?どこにいるんですか!」
「ローラはね、北の魔女のところさ。」
「北の魔女!あいつか!それで?無事なんですよね?」
魔女は立ち上がり、水晶と二人に背を向けると、悲しい声で答えた。
「残念だが、北の魔女に魂を奪われている。北の魔女が何のためにそんなことをしているのか分からないが、魔女に魂を奪われた人間を救う方法は、一つしかない。」
「魂を奪われているだって?」
ダンは驚き、言葉を失った。
「助ける方法って何なんです!」
ジョンは魔女に詰め寄り、肩を揺さぶりながら尋ねた。
「イーストマウンテンに昔から伝わる伝説の花があるんだ。それは『よみがえりの花』と言って、魂を奪われた人間を再び蘇らせることができる花なんじゃ。しかしその花はどこにあるのか分からない。本当にあるのかさえな……。昔から何人もの人間がその花を探してイーストマウンテンに登ったことがある。しかし、生きて帰ってこられたものは一人もおらん。」
「何てことだ……。しかし仕方ない!それしか方法がないのなら、今からイーストマウンテンに登って手当たり次第探すしかない!」
「無駄だ!そんなことをしたら、あんたまで命を落とすことになるぞ!」
魔女は大きな声で叫んだ。
「待ってくれ。」
そうつぶやいたのは、ダンだった
「『よみがえりの花』のことなら少し知っている。実は昔、植物学者だったわしの父が、亡くなった母のために、人を蘇らせることのできる花『よみがえりの花』の種を作り出したんじゃ。しかし、その種は村では芽を出さなかった。土が合わんかったらしい。そしてその種に合う土があるのはイーストマウンテンだけだということが分かった。そして人に見つからないような山奥に父は種を植えに行ったんじゃ。しかし、父は帰ってこなかった。わしは悲しみにくれたが、父がイーストマウンテンに行く前、地図を残してくれていたことを思い出した。『この地図は「よみがえりの花」が咲いたときにその場所が赤く光る仕組みになっている。もし、万が一父さんが戻ってこなくても、必ず花を摘みに来てくれ。』父はそう言っていたのだ。確かにそれから半年ほど経つと、地図に赤い印がついた。これこそが『よみがえりの花』の在り処だとすぐに分かったが、わしは花を摘みには行かなかった。なぜかって?それは怖かったからさ。臆病だったんだ、わしは。」
そう言うと、ダンはポケットから古びた地図を取り出した。
「いつも持ち歩いているんだよ。自分の臆病さを忘れないためにね。」
ジョンと魔女はその地図を覗き込んだ。確かに一か所赤くなっているところがある。
「ありがとう!ダン!恩に切るよ!これで探しにいける!」
「だめだ!あんたじゃだめなんだよ。」
魔女の大きな声にジョンは驚いた。
「なぜだめなんです!」
「『よみがえりの花』はね、一番罪深いものが取りに行かなくてはならない。」
「罪深いもの?北の魔女ですか!」
「違う!村のはずれに住むエレーナだよ。」
「エレーナ?誰ですか、それは?」
驚くジョンにダンはこう説明した。
「エレーナは若かったころ、村で一番美しいと評判だった子だね。しかし、最近では全く人前に姿を見せなくなったなあ。」
「そうさ。エレーナはかつて本当に美しい娘だった。しかし、エレーナは自分が年を取っていくことを許せなかった。もう一度あのころに戻りたい、若かったあのころに……その思いがこんな恐ろしい事件を引き起こしたのさ。」
南の魔女は詳しく全てを説明してくれた。エレーナは自分が老いて老婆になっていくことに恐ろしさと悔しさを覚えた。そしてある日、北の魔女が若返りの薬を作ってくれるとのうわさを聞く。しかし、北の魔女はただで人に薬など作らない。そこで生け贄を差し出すように言われたのだろう。エレーナはローラをさらい、北の魔女に差し出した。そして自らは若返りの薬を飲み、見事に若さと美しさを取り戻したのだという。ここまで聞いてジョンは怒りに狂った。
「許せん!そんなことのために、わしのかわいいローラを……!何が何でもエレーナに『よみがえりの花』を探させてくれ!」
魔女は泣き崩れるジョンを見て、小さく頷いた。
「あなたはエレーナに一番大切なものを奪われた。だからあの女の一番大切なものも奪ってやろう。」
「何をする気だ!」
ダンが不安な叫び声をあげる中、魔女はダンの地図を水晶にかざし、何かを唱えた。少し長い呪文だった。
「何をしたんだ!」
ダンが詰め寄ると魔女は答えた。
「エレーナにとって一番大切なものはあの顔だよ。だからあの顔にこの地図を彫ってやったのさ。その傷は『よみがえりの花』を見つけ、私に渡しに来るまで消えることはない。きっとエレーナは必死になって探すさ。」


八、刻まれた地図
 エレーナはトムとともに楽しい日々を送っていた。朝から晩まですっと一緒にいることもあった。二人は結婚しようと誓い合ってもいた。しかし、そんなある日、エレーナは顔に違和感を覚え、朝早くに目を覚ました。不思議に思い、鏡を覗くと何ということだろう。エレーナの顔には、恐ろしいほどの皺が刻み込まれていた。あまりのショックで倒れそうになりながらよく見てみると、それはどうやら地図のようだった。そして一か所だけが赤く光っている。
「何よ!何なの、これは!」
エレーナは何度も顔を洗い、クリームを塗ったが変化はなかった。そして鏡の中をもう一度覗き込むと鏡の中の自分の顔がゆっくりと変化し、白髪の老婆になった。
「誰!誰なのよ!」
「エレーナ、わしは南の魔女だよ。あんたは自分の美しさを取り戻すために、ローラをさらって北の魔女に差し出したね?全部知っているよ。あんたのせいでローラは北の魔女に魂を奪われた。だからあんたにはローラを蘇らせてもらわなくてはならない。そのためにはその顔の地図に記された場所にある『よみがえりの花』を探してもらわないとね。ちなみにその顔は、『よみがえりの花』を私のところに持ってくるまでは消えないからね?分かったかい?必ず探すんだよ!」
エレーナは驚いた。なぜ南の魔女に知られてしまったのだろう。そして自分は今から「よみがえりの花」を見つけにいかなくてはならない。さもなければ一生この顔のままなのだ。エレーナはすぐに準備をした。そして手鏡を持って家を飛び出した。

 そのころ北の魔女は、グリーンウッド村のとなりにある村、ブルーシー村の子どもの魂を四つ手に入れ、水晶に入れたところだった。
「クックックッ、これで準備は整ったな!これで永遠の生を手に入れることができる!」


九、よみがえりの花
 イーストマウンテンの道のりもまた、厳しいものだった。しかしエレーナは何が何でも「よみがえりの花」を見つけなければならなかった。早くもとの美しい顔に戻りたい、その気持ちが顔の地図を見るたびに強くなっていった。顔の地図を見るためには何度も手鏡で醜い顔を見なければならない。その苦痛はエレーナにとっては耐え難いものであった。そしてとうとうエレーナは『よみがえりの花』を見つけた。薄い桃色のかわいい花は思ったよりも小さく、しかし力強く咲いていた。エレーナはその花をそっと摘み取ると、南の魔女の家へと急いだ。


十、ノースマウンテンへ
 南の魔女の家では、ジョンとダンが祈りながら待っていた。どうかエレーナが「よみがえりの花」を見つけてくれますようにと。
 ガチャッ
南の魔女の家の扉が開いたのはそのときだった。
「エレーナ!」
エレーナは片手に桃色の花を握りしめ、ぼろぼろになったドレスを引きずり、扉の前に立っていた。
「見つけたんだね?」
南の魔女はエレーナに近づき、「よみがえりの花」をエレーナの手から受け取った。
「見つけたわよ。ねえ、早く私の顔をもとに戻してよ!もうこんな顔見たくないわ!」
「待ちな!そんなのまだだよ。ローラを救うのが先だよ!」
魔女はそう言い放つと、杖とほうきを手に持った。
「今からこの花を持って北の魔女のもとへ行く。エレーナ、あんたも一緒に行くんだよ。いいね。」
「そこに行ったら、もとに戻してもらえるんでしょうね!」
「ジョン、ダン、あなたたちはここで待ってな。」
魔女はそう言い放つと、エレーナをほうきの後ろに乗せ、ノースマウンテンへと飛び立った。


十一、北の魔女 南の魔女
ノースマウンテンでは北の魔女が水晶の前に立ち、儀式の準備を始めていた。
ドンドンドン
北の魔女の家の扉が突然激しく叩かれた。
「なんだい!」
北の魔女は扉をゆっくりと開いた。するとそこには南の魔女と若返ったエレーナが立っているではないか。
「何しに来たんだい。」
「ローラという子を知っているね?今日はその子を救いに来たんだよ。」
「ローラ?そんな子いたっけなあ。」
「とぼけるんじゃないよ。エレーナが若返りの薬をあんたから手に入れるために、ローラという十才の子をさらってきただろう!そしてあんたはその子の魂をその水晶に閉じ込めた。」
北の魔女はそれを聞くと、顔色を変えて隣に立っていたエレーナをにらみつけた。
「エレーナ!あんた約束を破ったね!誰にも言ってはいけないと言ったはずだ!」
「私は誰にも話していません!」
エレーナは必死に弁明したが北の魔女は聞く耳をもたない。
「いいから早くローラの魂を返してもらうよ。」
「クックックッ、残念だね!それは不可能さ。一度魂を抜かれた人間は二度と生き返らない!」
北の魔女は黒く光った水晶を撫でながらケラケラと笑った。
「そんなことはないよ。『よみがえりの花』がここにはあるからね。」
「『よみがえりの花』!なぜ、そんなものを!だけど、それを使うには魂を奪った者の胸元にその花をかざさなければならないだろう?そんなことあんたにできるわけない!」
北の魔女はステッキを持ち、南の魔女に先を向けた。
「お前は何で人間のためにまたこんなことをしているんだ!昔あいつらにされたことを忘れたのか!」
「忘れてなどいない!これは自分のためにやっていることだ!」
南の魔女はそう叫ぶと、杖の先を北の魔女に向けた。そして二人の魔女はそれぞれに長い長い呪文を唱え始めた。暗い部屋には風が吹き起こり、エレーナは目を開けていられなくなった。不思議な光が二人の魔女を包んだ。
「人間に媚びているお前など、魔女の風上にもおけんわ!」
「ローラは必ず救ってみせる!」


 どれくらい目をつむっていたのだろうか。エレーナはゆっくりと目を開け、辺りを見渡した。そこには二人の魔女が倒れていた。エレーナは南の魔女のもとに近寄り、肩をゆすった。すると南の魔女はゆっくりと起き上った。
「北の魔女は……」
北の魔女は目を覚まさなかった。魔力の消えたその姿はあまりにも寂しげだった。
「北の魔女が……」
南の魔女は静かに立ち上がると、『よみがえりの花』を北の魔女の胸元にかざした。その瞬間、部屋の中がぱっと白い光に包まれ、黒の水晶が音を立てて割れた。そして中から五つの白いもやのようなものがとび出し、それらは次第に人間の形に姿を変えた。そこには五人の子どもたちの姿があった。そしてその中にはローラもいた。
「ローラ!無事かい!」
南の魔女はすぐに駆け寄り、ローラを抱き起した。するとローラは目を覚まし、不安げに辺りを見渡した。
「ここはどこなの?」
南の魔女は安心したようにローラを抱きしめた。
 そのとき、エレーナが顔をおさえて叫びだした。
「ううっ!痛い!何なの!」
エレーナは顔を押さえ苦しんだ。するとエレーナの姿はみるみるうちにしわだらけの老婆の姿に変わっていった。
「どうして!もとに戻してくれるんじゃなかったの!」
「北の魔女の魔力が消えた今、あんたの飲んだ若返りの薬の効果も切れたのだよ。」
エレーナは自分の老いた姿を手鏡で見ると、泣き叫んだ。


十二、村へ
 南の魔女は四人の子どもたちがブルーシー村の子どもたちだということが分かると、南の魔女は子どもたちを村へと連れていった。そしてその後、ローラ、エレーナの三人で南の魔女の家に向かった。
「おじいちゃま!」
ローラはジョンに抱きつき、ジョンはローラを強く抱きしめた。
「南の魔女、本当にありがとう。君のおかげでローラは戻ってきてくれた。本当にありがとう。」
ジョンは南の魔女を抱きしめた。
「しかし、なぜ北の魔女は子どもたちの魂を集めていたのだろう。」
「それは、北の魔女が言っていたわ。永遠の命がどうとかって。」
ローラのつぶやきに南の魔女はピンときたようだった。
「北の魔女は死を恐れていた。自分の力が消えることを。だから幼い子どもたちの魂を集めて、その力で永遠の命を手に入れようとしていたんだ。五人の元気な子どもたちの魂を水晶に閉じ込め、呪文を唱えることで永遠の力が手に入る。魔女の世界では有名な話だ。」
「でもどうしてここまでしてくれたんだい。」
ダンは目に涙を浮かべながら、ふいにそう尋ねた。
「それは……、それは救えなかったからだよ。」
「救えなかった?」
南の魔女には大切な一人息子がいた。人間と親しくしていた時期に村の人間との間にできた子だった。しかし人間に迫害されたことで、その人とは一緒に暮らすことができなくなった。息子は、山奥でひっそり暮らす南の魔女にとってただ一人の安らぎの存在だった。しかし、彼はある日、人間の父親に会いたいと一人で村へと向かおうとし、誤って命を落としてしまったのだった。
「それで、子どもを救うことにここまで一生懸命になってくれたのだね。」
「罪滅ぼし。今度は救いたかったんだよ。」
南の魔女は今までで一番優しい笑顔を浮かべ、ローラの頭を撫でた。
「南の魔女、村へ一緒に来てくれ。村の人間に君のことを、君がローラを救ってくれたことを言いたいんだよ!そしてみんなの誤解を解きたい!南の魔女は村を乗っ取ろうとなんてしていないということを!」
ジョンは必死にお願いした。南の魔女はそんなことしなくていい、と何度も断ったが、最後には村へ向かうことになった。
 ジョンは村に戻ると、すぐに村で大集会を開いた。そして南の魔女のこと、今までのことを全て話した。村人たちは南の魔女にやむことのない拍手を送り、昔の人間の過ちを詫びた。
 「あんたはどうするんだい?」
魔女に尋ねられ、エレーナは小さな声で答えた。
「本当のことを彼に、トムに伝えます。信じてもらえないだろうけど。」
「そう……。エレーナ、北の魔女は死を恐れ、あなたは年をとることを恐れた。でもあなたが年を重ねてきたその時間は無駄ではなかったはずだよ。エレーナ、たとえ昔の若さや美しさが無くなったとしても、それとは違う良さってもんも、きっとあるんだよ。」
エレーナは力なく微笑んだ。


 その後、エレーナは村に一つの学校で、子どもたちに村の歴史を教える先生になった。トムには本当のことを全て話した。そして学校の仕事を紹介してくれたのはトムだった。年を重ねた者にしかできないこともある、エレーナはそのことに気付いたのだ。
 ジョンはたまに遊びに来るローラに会うのをいつも楽しみに、村の安全を守っていた。そして南の魔女は村人たちの相談にのり、村の平和を魔法という力で守った。
 
「おじいちゃま!」
「ローラ!よく来たね!」
「見て!こんなにきれいなお花を見つけたわ!」

グリーンウッド村には今日も美しい花が咲き、さわやかな風が吹いている。


(おわり)

「桃太郎」

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目次

桃太郎とおじいさんおばあさんの出会い
桃太郎誕生
桃太郎いじめ
桃太郎決意
別れ
新たな出会い

 いまのいまのあるところにおじいさんとおばあさんがいました。おじいさんは歳をとっても村一番の漁師で、毎日毎日漁船にのって漁に出かけていました。おばあさんも漁師で、毎日堤防で釣りをしていました。おじいさんは村一番の漁師だったので、たくさんの人が弟子入りしたいと思っていましたが、おじいさんは歳をとってしまったが、弟子はとらないことにしていました。そんなある日のことです。めずらしくおじいさんは漁がおばあさんより早く終わり、家に帰って暖房をつけ、暖まっていました。そうしていると、おばあさんが帰ってきましたが、いつもとは様子が違います。
「おじいさん、おじいさん、早く来ておくれ。とにかく早く来ておくれ。」
とおばあさんがキッチンの方から叫んでいるので、おじいさんは部屋から出てキッチンの方へ行きました。キッチンへ行くと、なんとそこには、おおきなおおきな桃があるではありませんか。
「なんじゃ、この大きい桃は。こんな大きな桃なんて見たことない。見るところ、一メートルほどあるぞ。スーパーでこんな桃が売っとったんか?」
とおじいさんはいいました。おばあさんは答えました。
「いやいや、スーパーに売っとるわけないじゃろう。今日釣りをしとったら、釣れたんじゃよ。わたしもそれはそれはびっくりして、だれにもばれないようにここまで帰ってきたんじゃよ。しかし、これはどうしたらよいのかのう。捨てるにも捨てられんわい。」「たしかにのう。」
おじいさんとおばあさんは頭を抱えました。しかし、どうすることもできず、神棚に飾ることにして、寝床につくことにしました。
 
「おぎゃーおぎゃーおぎゃー」
アラームよりも大きな音?声?がするので、おじいさんとおばあさんは急いでその大きな声がするほうへ向かいました。その先には、ぱっくりと割れた桃がありました。おじいさんがその割れた桃を覗いてみると、なんとそこには赤ちゃんがいました。
「おばあさん、おばあさんよ。桃の中に赤ちゃんがおるぞ。なんじゃこれは。」
とおじいさんは腰を抜かせながら言いました。
「しかし、可愛らしい赤ちゃんじゃのう。これはもしかしたら、神様がわたしたちにプレゼントをしてくれたのかも知れんぞ。」
そういっておばあさんが赤ちゃんを抱き上げると赤ちゃんは泣き止みました。
「子宝に恵まれんかったわしたちに神様がプレゼントをしてくれたのか。それなら、わしたち責任をもって育てないといけないな。名前は、桃太郎にしよう。」
 
桃太郎はすくすくと育っていきました。そして、ある日おばあさんがおじいさんに言いました。
「おじいさんや、今日桃太郎が学校の宿題で自分の名前がなぜ桃太郎なのかを調べてくる宿題があるらいしいのじゃが、どうしたもんかのう。」
「そうじゃのう。桃太郎と出会って早十年、あの子に知らせるのはまだ、早いような気がするなあ。よし、桃のように可愛い子だったので、桃太郎ということにしよう。」
おじいさんは言いました。
―学校―
 「それではみなさん、昨日やってきてもらった宿題ですが、忘れずに持ってきていますか?」
「はああああい。」
「それでは今日は自分の生い立ちについて勉強しましょうね。では、まずは悠くん。教えてくれる?」
「うん。僕の名前は悠です。悠という字には、悠大な、悠なといったように、とても大きな・寛大な・どこまでも続くなどの意味があり、大きな心をもつようになって欲しいということでお父さんとお母さんが悠という名前をつけてくれました。」
「はい。ありがとう。いい名前だねえ。」
「では次は、桃太郎くん、教えてくれるかな?」
「うん。僕の名前は桃太郎です。桃のように可愛い子だったので、桃太郎という名前をお父さんとお母さんがつけてくれました。」「はい。ありがとう。」
桃太郎が発表を終えると周りのこがみんなくすくす笑い始めました。
「桃のように可愛いってお前男だろ。可愛いだってー。かっこわりぃー。」
みんなが騒ぎ始め、桃太郎に暴言を言いだしました。
「こら。みんなそんなこと言ってはいけないよ。」
桃太郎は悔しかったのですが、我慢して今日も授業を終え、家に帰りました。
「ただいまー。お父さんは?」
「お父さんはまだ漁から帰ってきてないよ。どうしたんじゃ?」
とおばあさんは言いました。
「いや、お父さんにお願いがあるんだ。漁に連れてってもらいたいんだ。村で一番の漁師になりたいんだ。」
「そうか。それじゃあ帰ってきたらお父さんにお願いしてみようかの。でも、どうしたのじゃ急に。漁師になりたいとは。」
「いや、なんでもないんだ。ふと思っただけだよ。」
夕方になり、おじいさんが帰ってくると、すぐに桃太郎はおじいさんにお願いをしました。
「お父さん。ぼくを弟子にしてください。ぼくも漁師になって、村一番の漁師になりたいんです。」
「どうしたんじゃ。急に。なにか理由でもあるのか」
「いや、理由は特にはないんだけど、、、」
「そんな理由じゃ、お前を漁師にすることはできん。確かに漁師はええ仕事じゃ。しかしな、海には危険がいっぱい住んどる。自然との戦いになる漁師はほんとに危険なんじゃ。そんな甘い気持ちで漁師になることはわしは許さん。」
「と、とにかく漁師になりたいんだ。村で一番の漁師になりたいんだ。」
「意思は固いようじゃの。さてはなにかあったんじゃな。その理由言うたらお前に漁を教えてやろう。」
「がっ、学校でさ、みんなに馬鹿にされてさ。それで見返してやりたいんだよ。あのみんなを。」
「今日の授業、宿題のやつじゃろ。わしらが変な名前つけたがためにいじめられたんか。それは悔しいのう。でもの、それはわしと母さんが悪い。わしは友達を見返すために、お前に漁師になって欲しくはない。そして、漁師というのは繋がりが大事なんじゃ。仲間が必ずおらないい漁師にはなれん。いまの友達がその仲間になるんじゃから、その友達を見返すために漁師になっても村一番の漁師になるどころか、一人前の漁師にもなれん。お前が漁師になりたいと言ってくれるのはうれしいが、もう一度考え直してこい。それでもまだ漁師になりたい気持ちがあるなら、お前に漁を教えてやろう。わかったか。」
「うん。わかった。ちょっと考えなおしてくるよ。」

桃太郎は、三日間ずっとお父さんの後をついていき、漁とはどのようなものなのか、漁師という仕事はどのようなものなのかをよく見ることにしました。
僕は、漁を舐めていた。朝は早く起き、まだ寝ている身体を鞭打ってたたき起こし、漁船に乗り込む、皆、船で三十分ごとに交代で仮眠をとり、起きている人たちは過酷な肉体労働だった。昼は採れた魚にそれぞれが持ち寄ったおにぎりなどで腹を満たす。新鮮な魚を食べられることは、とても羨ましいことのようだが、本人たちはそれが当たり前で当然のことのような顔をしている。漁師一日体験なんてものがあれば、こぞってみんな参加するであろうが、毎日漁にでるとなるとそうはいかない。僕は漁師になった自分を想像すると身震いがした。その日の夜、港に帰る途中、急な大雨に見舞われ、激しい波がまるで、鬼のようになり、船員の一人が海に引きずり込まれてしまった。
「たっ、大変だ。与作が海に落ちたぞ」
僕は、怖くなり船室に入って、窓から様子を伺った。その時だった。船員の一人が量で使う網を腰に強く巻きつけ、海に飛び込んだ。
「さあ、与作を捕まえたぞ。早くあげてくれ。」
漁師は、レバーを引き、網は船の上に押し上げられた。
その英雄はまるで、第二次世界大戦の神風特攻隊のような魂を持っていた。
ドクンッ。ドクンッ。心臓が脈打つ音が聞こえる。怖い。怖い。怖い。もう少しで人が死ぬところだった。でも、それ以上に格好良い。
そして、漁から帰った後、桃太郎はおじいさんにこう言いました。
「お父さん、やっぱぼく漁師になりたい。友達を見返すためじゃなくて。この三日間の漁で漁師っていう仕事をしっかり見たんだ。そしたら、漁師ってかっこいいなって。お父さんみたいになりたいなって思ったんだ。お父さん。ぼくを弟子にしてください。」
「わかった。今回の漁を見てで漁師とはどんなものかわかったか。よし、弟子にしてやろう。しかし、わしは厳しいぞ。耐えてついてこいよ。」
とおじいさんは言いました。そして、無事桃太郎は弟子になることができました。そこからというもの、桃太郎は雨の日も風の日も漁に出ました。おじいさんと一緒に漁に出ることは、桃太郎はとても幸せだと感じていました。

「今日は無理じゃよ。しっかり休んでおきなさい。」
「大丈夫だよ。今日も僕は漁に出たい。」
「だめじゃ、そんな体調で出ても危険なだけじゃ。」
「おじいさんの言うとおりじゃよ。今日はわたしが代わりに船に乗るから桃太郎は家でゆっくり休んでおきなさい。」
「はい。お休みなさい。気をつけていってらっしゃい。」
冬の寒さで桃太郎は風邪をひいてしまったのです。桃太郎は心配になりながらもおじいさんとおばあさんを見送り、床につくことにしました。
「んんっ。眩しいな。」
桃太郎が目を覚ますともう朝になっていました。しかし、あたりを見回してもおじいさんとおばあさんがいません。少し不安になっているとそこに、
「おーい。桃太郎。急いでこっちにこい。とにかく急いで。」
と言って、村の若い衆が家に入ってきました。悪い予感が的中したのかと、桃太郎は飛び起き、村の若い衆についていきました。そしてその先にはなんといつも桃太郎が乗っている、いや、おじいさんが乗っている船の大破した姿がそこにはありました。
「え?どういうこと。お父さんとお母さんは中にいるの?どこにいったの?」
「…………。」
村人はだまったままです。
「答えてよ。お父さんとお母さんはどこにいったの?」
桃太郎は村の若い衆に詰め寄ります。
「桃太郎。残念だが、お前のお父さんとお母さんは…………。」
桃太郎は五年前のことを思い出しました。そう、桃太郎が弟子になる際におじいさんの漁についていったあの三日間のことを。
「昨日はすごい波だったからなあ。おれもお前の親父さんとおふくろさんを止めたんだよ。でも、どうしてもって。桃太郎がいないからって、漁に出ないわけにはいかない。ましてや桃太郎が家で寝込んでいるんだから、うまい魚を獲って帰らないといけないって。」
これを聞いて桃太郎は泣き崩れました。もし、自分が元気ならば、もし自分が元気で漁に出て正確な判断ができていれば。それからというもの、桃太郎は一年ほどずっと家にこもってしまった。もちろん、中学は卒業したものの、高校へは進学しなかった。それを見かねて、村の長老が桃太郎のところにやってきた。
「桃太郎、一年前のあの事故は残念なことだった。しかし、漁に危険はつきものだ。お前の親父さんとおふくろさんは毎日教えてくれただろう。そういうことだ。ここでお前が自暴自棄になって、海に出なくなったら、誰が一番悲しむと思う?親父さんとおふくろさんだろう。それを考えろ。」
桃太郎はハッとした。確かにここで自分が塞ぎ込んで漁に出なかったら、お父さんとお母さんはどう思うだろう。毎日、どんなことがあっても漁に出ていた二人は自分に何も残さなかったのか。いや、違う。優しさとそれ以上に漁に、海について学んだではないか。二人の意思は必ず自分が受け継がなければならない。ここまで考えると桃太郎はじっとしていられなかった。まずは自分はなにをしなければならいのか考えた。そうだ。小学校でいじめられたとき、お父さんは言っていた。漁に仲間が必要だと。まずは仲間を探さなければいけない。そう思い桃太郎は生前おばあさんが毎日作ってくれた『きびだんご』を友達にお歳暮として送ることにした。お歳暮を贈ると何人かの友達から手紙が届きました。
「桃太郎、射貫です。元気でやってるか?最近見ないから心配してるよ。一回会って話をしよう。」
「桃太郎、砂流です。高校にも進学してないみたいだけど大丈夫か?心配してるぞ。一回会って話をしよう。」
「桃太郎、喜治です。一年前のことは聞いたぞ。でも元気出せ。一回会って話をしよう。」
桃太郎は、みんなの優しさを感じた。そして、その友達と連絡を取り合い、自分と一緒に船にのらないかと誘うことにした。
「よっ。桃太郎、元気そうだな。心配したんだよ。いま何してんの?」
「元気してるよ。今は漁師になる準備をしてんだ。それよりさ、射貫くん海に興味ない?」
射貫は小学校の時から勉強がよくでき、魚博士と呼ばれていたので、海に興味があるのではないかと思い、桃太郎は誘った。
「うん。いま、高校行きながら海について勉強してるんだ。たくさんの魚が見たいからね。」
「それじゃあさ。僕と一緒に漁師になろうよ。僕は村一番の漁師になるから、たくさんの魚を見せてあげれるよ。」
「いいねえ。いい話だ。でもお父さんとお母さんがうるさいから、頑張って説得するよ。」
なんとか射貫は説得できそうだ。
「よっ。桃太郎、元気そうだな。心配したんだよ。いま何してんの?」
「元気してるよ。今は漁師になる準備をしてんだ。それよりさ、砂流くん海に興味ない?」
砂流は力持ちで、いつも学校の相撲大会では一番だったので、仲間になってもらいたいことを伝えました。
「どうしたんだよ急に。元気になったと思ったら急にこれか。確かにお前は村一番の漁師の下で修行をした。けどなあ、そんなに漁ってのは甘いもんじゃねえだろ?」
と砂流はいいました。
「わかってるさ。相撲は砂流くんに負けるかもしれないけど、海の上では負けないよ。」
「ほお。おもしろいな。わかった一年だけ付き合ってやる。それで村一番の漁師になれなきゃおれはやめさせてもらうよ。」
砂流くんも説得することができたようです。
「よっ。桃太郎、元気そうだな。心配したんだよ。いま何してんの?」
「元気してるよ。今は漁師になる準備をしてんだ。それよりさ、喜治くんの家も漁師一家だよね?喜治くんはいつ漁師になるつもりなの?」
「んーわからないなあ。もしかして、ぼくを誘ってるの?」
「そうだよ。ぼくはすぐにでも漁に出たいんだ。手伝ってくれないか?」
「わかった。いいよ。おれもそのことを考えてたんだ。桃太郎なら、村一番の漁師の息子だから絶対うまく行くよ。」
喜治の両親も漁師だったので、すんなりと仲間になってくれました。
そこで三人揃ったところで、桃太郎は毎日漁に出かけ、村一番の漁師になりましたとさ。
さて、みなさんお気づきでしょうが、これは桃太郎をパロディーして作られた物語です。さて、この桃太郎の鬼とは何だったのでしょうか。それは読者のみなさんにおまかせしません。あなたの身近にも鬼は潜んでいるかもしれません。

「例の彼」

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「咲良、またツイッター?」
隣に座ってきた親友の椛があたしの携帯を覗き込んで声をかけてきた。
「もう、人の携帯覗き込まないでっていつも言ってるのに。趣味わるーい。」
椛が携帯をのぞいてくるのはいつものこと。特にやましいことしているわけでもないし隠すこともないんだけど、椛が声をかけてくるタイミングは決まって、ツイッターをしているときだ。
「あ、また、例の彼?」
「うん。今日もリプくれたの。」
「なんて?」
「セミの声がうるさくて、勉強に集中できないよ〜って。」
「ふーん。彼、まじめなんだね。何歳なんだろう。」
「さぁ…同い年くらいなんじゃない?勉強とかいってるし、来年卒業とか書いてるし。」
「ねぇ、イケメンかなぁ。」
「うーん。どうだろう…。」
相手がどんな人かっていうのは、椛が話題にするまであんまり考えないようにしていた。でも、やりとりをするうちに相手のことが少しずつわかってきて、それとともにあたしの想像も膨らんだ。(今日は、練習)とかいってるから、きっと野球かサッカーか何かのスポーツをしているに違いない。(今日は、先生に怒られた8->)って書いてたから、学校でなにかやらかしたんだな…授業中居眠りしてたり、とか。想像は限りなく膨らんだ。そんな彼は、毎日あたしにリプしてくる。日を重ねるごとにあたしの中で彼の存在は大きくなっていった。

 彼とのやりとりが二週間以上も続いたある日のこと。彼が、
(今日は、天気がいいから若葉公園まで散歩に行こう。)
ってツイートしていた。これは、彼を見ることができる絶好のチャンスかもしれないと思った。
「ねぇ、椛。今日の帰り、若葉公園寄ってかない?」
「いきなりどうしたの、咲良。」
「例の彼が、見れるかもしれない。」
「え、あの例の彼?」
「うん。さっき、若葉公園に散歩に行こうってツイートしてた。」
「まじで。それは行くしかないっしょ。」
あたしと椛は、膨らみすぎた想像の彼にドキドキしながら、若葉公園に向かった。いくら天気がいいといっても、七月半ば。真夏日の昼下がりに公園へ出かけてくる物好きはほとんどいない。公園にいたのは、アイスを食べる小学生三人組と、木陰で休む車いすの男の子だけだった。筋肉質で背の高い、制服をさわやかにきこなす高校生を想像していたあたしは、例の彼を見つけることができなかった。椛も期待していただけに悔しそうにしていた。
 その日の夜、
(いい気分転換だった。若葉公園気に入った。また今度行こっと。)
と彼がツイートしていた。やっぱり行ってたんだ…もう少し早く行ってたら会えたかな…とちょっぴり後悔。自分も若葉公園に行っていたことを伝えたくて、リプした。
(今日、あたしも学校の帰りに友達と若葉公園に行ったよ。)
彼からは、一分もしない間に返事が返ってきた。
(さくらちゃんも来てたんだ。今日は暑かったけど、風が心地よかった。)
言い忘れてたけど、あたしの名前は、「大西咲良」。「おおにしさら」っていうの。ツイッターでは、「さくら」っていうハンドルネーム。そんなあたしは次、いつ彼が若葉公園に来るのか知りたかったけど、なんかストーカーみたいだったから聞くのは我慢した。そして、次に会えるチャンスを期待して待っていた。

 若葉公園の出来事から、三日後、チャンス到来。
(今日も気分がいい。若葉公園に行くか:-O)
彼のツイートを見つけて心のなかでガッツポーズ。さっそく椛を誘い、放課後のチャイムと同時に教室から駆け出した。早く例の彼を見てみたい。そんな気持ちが高まる。
 若葉公園に到着。ところが公園には、木陰に昨日の車いすの男の子と犬の散歩をするおじいさんだけ。昨日はすぐ帰っちゃったから会えなかっただけでもう少し待ったら来るかもしれない。そう期待して一時間待った。でも、期待の例の彼は姿を現さなかった。
「ほんとに私たちと同じ年の男の子なの?」
期待を二度も裏切られた椛が疑いの目をあたしに向けてきた。あたしも内心疑いが生じていた。ツイッターなんて、なりすませば何にだってなれる。もしかして女の子なのかな。全然年齢が違うのかもしれない。
「ねぇ、毎日お互いのツイートにコメントするくらい仲いいんだったらさ、どんな人か聞いてみたら?あたしもよく若葉公園に行くから会えるかもね。なんて言ってさ。」
椛はこうやって簡単に言うけど、今まで真剣に悩んできた。例の彼は今まであたしのことは一切聞いてこなかった。つまり、彼もきっと自分のことについては深く聞かれたくないはず。相手に踏み込むのが怖かった。踏み込んだことで、もう二度と連絡をとることができなくなるんじゃないか、嫌われてしまうんじゃないかって思って、いつも(あなたは高校生?身長は高いほう?)って文字は打つけど、下書き削除。結局、そんな毎日を今日まで引きずってきて、今日も例の彼には会うことができなかった。難しい顔をしてうじうじしているあたしに椛がもう一度声をかけた。
「聞いてる?どんな人か聞けば早いって。思い切って聞いちゃおうよ。咲良のこの調子じゃいつまでたっても会えないと思うけど。」
椛の声はちょっときつかった。あたしはこんなに悩んでるのに、ってちょっとイライラした。
「うん…わかってるけどさ…」
このあとの言葉がうまく続かない。そんなあたしに、しびれをきらしたのか椛があたしの手から携帯を奪い取った。
「もういい。咲良が聞けないんだったらあたしが聞いてやるって。あなたは高校生ですか?次、若葉公園にはいつ来ますか?っと。」
携帯を奪って逃げる椛を必死に追いかけたが、椛は陸上部の選抜選手。追いつくはずもなかった。
「やめてよ。そんなことして二度と連絡取れなくなったらどうしてくれんの。」
「大丈夫だって。こんくらいで返事かえってこなかったら、それまでの関係だったってことでしょ。そしたら、会うことも諦めつくでしょ。」
椛は携帯を持って、逃げながら笑って答えた。
「はい、咲良がいつまでたっても聞かないから、あたしがかわりに聞いてやったよ。明日また返事きかせてね〜」
そういって、あたしに携帯を返して、椛は走って去って行った。携帯の画面に目を落とすと、そこには確かにツイートされていた。あたしは絶望感でそこから動けなかった。
 
 その夜、あたしは宿題にも手が付けられず、ずっと携帯とにらめっこ。いつもは一時間もしないうちに返事が返ってくるのに、四時間たっても返事がない。やっぱり、聞かれたくなかったのかな、もう二度と連絡してくれないのかも…そんな不安がいっぱいになって涙が止まらなくなった。と同時に、このあたしの真剣な悩みを笑って踏みにじった椛のことが許せなかった。怒りと不安が混じった涙が一晩中とまらなかった。

 次の日の朝、携帯をみてみたけれど、例の彼からの返事はなかった。もうダメなのかな…そう諦めの気持ちが生まれ始めていた。
「おっはっよう。ねぇ、昨日あれからどうなった?」
椛が機嫌よく、肩をたたいてあいさつしてきた。やけに元気な調子のいい椛の声にイライラがとまらない。そして、絶対聞いてくるだろうなと思ったセリフがそのまま椛の口から出てくるもんだから、もっとイライラした。
「どうもこうもないけど。」
椛の顔を見ると、イライラが爆発して多分泣いてしまうから、顔は見ずにまっすぐ前を向いて、冷静さを装い答えた。
「え、なにそれ。でさ、高校生だったの?あ、もしかしてもう会えちゃってたりとか?」
昨日あたしがどんなに悩んでたか考えようともしない椛の発言に怒りが爆発。
「椛が余計なことするから、返事が返ってこないの。嫌われたかもしれない。きっともう二度と会ってくれないかも。どう責任とってくれんのよ。」
椛に言葉を投げ捨てて、教室へ向かった。椛がすべて悪いわけじゃない。内心あたしも例の彼に聞きたいって思ってたこと。いつまでもうじうじ聞けない自分がいたこともわかってる。自分が聞いていてもこうなっていたのかもしれないのに、全部を椛のせいにしようとしている自分にも腹が立った。そんな始まりを迎えた一日は、椛と一切口をきかなかった。もちろん例の彼からの返事もない。

 椛と喧嘩して、彼からの連絡もない日が三日ほど続いた。休日の朝で、部活もないしベッドの上でごろごろしていた。窓の外は、嫌というほど明るい。クーラーのきいた部屋でごろごろしていたら、携帯から通知の音。そこには例の彼からの返事が。ベッドから飛び起きて、なぜか正座で携帯と向き合った。
(返事がおそくなってごめんね。僕は高校生だよ。さくらちゃんと同い年の受験生。身長は想像しているよりは低いと思う。)
そんなご丁寧な返事が書かれていた。今まで抱いていた不安なんてどっかへ飛んで行って、返事が返ってきたことに対する喜びに涙した。もう恐れる気持ちはなくなった。思い切って聞いてみようかと思って返事した。
(やっぱり。勉強いやになっちゃうよね。あたしもよく気晴らしに若葉公園に行くんだ。今度はいつ行くの?)
送信してから、やっぱり聞かなきゃよかったかな、なんて後悔したけど、そんなこと考えている間に例の彼からの返事がきた。
(今、ちょっと体調が悪くて…もう少しよくなったら、かな。)
もう会う約束ができるんじゃないかって期待してただけにちょっとショックだった。でもそれよになにより、また例の彼と連絡がとれるようになったことがうれしかった。

 そんなやりとりがあった三日後、彼からリプが返ってきた。
(もうだいぶ元気になったよ。明日の夕方、若葉公園に行こうかな:|)
心の中で全力のガッツポーズ。会えることが嬉しかった。その反面、椛と喧嘩してからは、クラスにいづらかった。クラスの誰とでも仲良くできる椛は、違う女の子たちと最近は仲良くしているうえに、あたしがツイッターでやりとりしている男の子がいることも話したみたいで、クラスの女の子からは冷ややかな目で見られる日々が続いた。それだけにとどまらず、筆箱を隠されたりとどんどんエスカレートしていった。学校に行きたくないという気持ちが大きくなる一方で、例の彼からの返事は心の救いだった。
 次の日、今日一日学校を乗り切れば、例の彼に会える。そう思って今日も勇気を出して学校へ行った。三時間目の体育が終わった後、教室に帰ると机の上に置いていたはずの自分の制服が見当たらない。教室の中をいくら探しても見つからない。今日は、例の彼に会える日だから、とっておきのベストを着てきたのに、見つからない。その日、放課後までみんなの冷ややかな目に耐えながら体操服で過ごした。これもきっと椛たちがしたこと。制服とお気に入りのベストは、女子トイレのごみ箱から見つかった。悔しさとつらさをツイートにぶつけた。
(あたし何か悪いことした?どうしてこんな辛い思いしなきゃいけないの?死にたい)
例の彼からの慰めの返事を待っていた。自分のよりどころは今は彼しかいないと思っていいた。二、三分して返事の通知。そこには、期待していたこたえはなかった。
(死にたいなんて簡単に言わないで。)
とても冷たい返事だった。勝手に期待していただけなのに、彼にも裏切られた気がした。汚い制服で行くわけにもいかないし、体操服なんて恥ずかしくて、その日、あたしは若葉公園には寄らなかった。
夜、彼からまたリプがきた。
(さっきは、冷たい返事してしまってごめんね。僕でよかったら悩みきくよ。明日また若葉公園で待ってる:-P)
彼は何も悪くないのに、きっとあれからずっと考えてくれてたんだ、心配してくれてたんだと思い、明日はきちんと会いに行こうって決めた。

 そんな次の日は、雨だった。放課後、公園に行ったけど、土砂降りの雨で誰もいなかった。一時間待ったけど、誰も来なかった。期待していただけに落ち込んだ。また、明日来よう、そう思ってその日は諦めた。その夜、彼からの返事がないことだけ確認して、眠りについた。

 次の日は、前日の雨が嘘のように天気が良かった。初めて、彼を探しに行ったあの日みたいに蒸し暑い日だった。放課後、若葉公園へ。公園に入ったが、こんな蒸し暑い昼下がりに公園に来る人なんてそうそういない。そう思って諦めて帰ろうとしたとき、小さな花束を抱えた女性が公園に入ってきた。公園の真ん中にある大木の根本に花束を供え、拝んでいる。「誰か亡くなったのかな。」気になったあたしは、女性に近づき、声をかけた。
「あの…ここで誰か亡くなられたのですか?」
女性はいきなり声をかけられて驚いた様子だったけれど、優しく答えてくれた。
「昨日、私の息子がね。急に具合を悪くしてしまって、そのまま眠るように死んでしまったの。そう、ちょうどあなたと同い年くらいの男の子。あの子ね、この公園の大木の下の木陰が大好きだったの。暑いのに、毎日のように来ていたわ。」
「そうなんですか…息子さん、ずっとお体を悪くしていたんですか?」
女性の話を聞きながら、初めて彼を探して若葉公園に来たあの日、木陰の下に誰かいたことを思い出していた。
「えぇ…。実はね、うちの息子、高校に入ってうまく友達を作れなくていじめられてたの。あたしそれに気づいてやれなくて…ちょうど入学した年のちょうど今ごろ、トラックに飛び込んで自殺しようとしたの。息子は本当に死ぬ決意をしていたようだった。大けがをして、両足は切断、頭も打ち所が悪かったのか後遺症が残ってしまったの。なにより辛かったのは、余命がついたこと。高校を卒業できるかどうかもわからないといわれてしまった。息子は、病室でも一切しゃべらなくなって、いつも窓の外を眺めて上の空。外の世界に出会うと何かが変わるかもしれないと思って、息子には半年ほど前に携帯を買ってやったの。最初は全然興味もしめさなかったんだけどね、同じ病室の女の子に、ツイッターだったかな、なんかみんなのコメントを見ることができるネットワークを教えてもらったみたいでね、それを始めてからみるみるうちに元気になっていったの。同年齢の子が受験やら勉強やらいっているのをみて、やる気が出たのか、勉強もがんばるようになって、毎日笑うようにもなった。画面だけのつながりだけれど、息子にとって大切なともだちだったのね、きっと。三週間ほど前からは、いきなり外へ行くって言い出してね、今までずっと外にでることを嫌がっていた子がそんなこというなんて夢みたいだった。一昨日は、待ち合わせがあるんだとか何とか言って元気に出かけていったわ。一年前の病室にこもりっきりで暗い顔をしていた息子からは、考えられないくらい元気だった。でも、病気はとまってはくれなかったわ。一昨日、夜になっても公園から帰って来ないって病院から連絡があって、探しにいったら公園で冷たくなってたの。携帯をにぎりしめて。きっと、誰かをまってたんじゃないかしら。でも、あの子の顔は苦しんでなかった。穏やかな顔で、今にも笑い出しそうな感じだった。よっぽどこの場所がお気に入りだったのね。本当に悲しいけど、息子は幸せだったと思うわ。」
そういって、女性は去って行った。あたしは、その場に立ち尽くした。あたしは、彼に会っていたんだ。自分の想像ばっかり膨らませて、制服を着た、背の高い高校生ばっかり探してた。でも、この公園に確かにいた、例の彼が。何で気づけなかったんだろう。溢れそうになる涙をこらえて、携帯をとりだした。もう例の彼がツイートすることはないことは分かっている。返事もないことはわかってる。でも、どうしても彼に返事がしたくなった。開いた彼のページには、まだ見たことのないツイート。
(君の居場所は学校だけじゃないんだよ。ここも君の居場所。辛くなったら、若葉公園の一番大きな木の下においで、ずっと待ってるから。君の笑顔は、周りを明るくする元気にするパワーがある。だから、もう死にたいなんていわないで。元気をありがとう。さくらちゃん、さようなら。)
リプじゃないけれど、わたしに向けたメッセージが残されていた。間違いなく例の彼だった。確信した。携帯の画面に大粒の涙がこぼれ落ちた。悲しみに暮れるあたしを励ますように、若葉の大木が優しく揺れた。