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大阪教育大学 国語学講義
受講生による 小説習作集

詩織

 
2015年度号

「ab-normal」132202
「Buddy」132204
「Fly to the moon」 132203
「ある夏の出来事」132136
「いつもどおり」132103
「カエル」 132206
「ステレオタイプ」 132131
「つながり」132109
「ぼくのなつやすみ、わたしのなつやすみ」132126
「悪夢」132207
「家族」132117
「私を連れていって」132201
「平行世界2013年」132137
「未来からの贈り物」132205
「夢の国(仮)」132116
「向日葵」132208
「憧れの人」132106
「夢の大冒険」132119

「ab-normal」132202

『エイリアンシリーズが1以外駄作とか言う奴wwwwww』
『福山雅治だけど質問ある?』
『教習中の教習車煽るの楽しいンゴwwwww』

 たかしはパソコンの前に座って、掲示板サイトを眺めていた。カップヌードルシーフードの残り汁をすすりながら、時々、興味あるスレッドに書き込みをしていた。
『クソワロタwwwww』
 真顔でキーボードを叩き、たかしはカップヌードルを飲み干した。

 朝布団から出て、母親が部屋の前に置く飯を食ってパソコンをいじり時々散歩して寝る。たかしは労働のないこのだらけきった生活をこよなく愛していた。
 「普通がこの上ない」というのがたかしの信条だった。特別に良いことも悪いことも起きない。だらだらと過ごす「普通」な毎日を最上として生きていた。
 他人は親の金を食いつぶして何が「普通」だと騒ぐだろうが、関係ない。周囲のガヤなど俺の「普通」な毎日に何の影響もしない。そんなたかしに、もはや母親も生きてくれてさえいればいいと考えるようになった。
 父親は開業医だったので、たかしの家に金だけはあった。たかしの「普通」は恵まれた環境の中で幸運にも保証され続けていたのだった。

「八時…」
 ネット上の掲示板で某アイドルグループを散々にこき下ろす数時間を過ごした後、たかしはパソコンを閉じておもむろに立ち上がった。散歩だ。
 たかしは散歩に行くのは夜と決めていた。夜ならば、負け犬扱いで白い目を向けてくる近所の死に損ないばあさん共がいない。邪魔されることなく散歩を遂行することが出来た。
 たかしは自分を負け犬だと考えたことはなかった。むしろ勝ち組だと考えていた。
 俺は幸運にも開業医の親の元に生まれ落ちて十分な金があるのだから、働く必要がない。
 働けないのではなく、働かないのだ。友達も女もいないし、賭博や酒などの類にも興味はないので、特別散財することもない。
 この恵まれた環境に散財欲のない性格をもって、たかしには「普通」な生活がこれからも続けられる自信があった。

 たかしは一目につかない場所を求めて、住宅地から離れた公園へ向かった。
 女子小学生に挨拶しただけで通報されるこの現代の中で、灯りもない道を黒のジャージで歩く自分は、不審者に見えかねないという自覚があった。つまらない誤解で自分の「普通」な生活が乱されるのは、腹に据えかねる。そんな考えで、夜の散歩はいつも同じ一目につかない公園だった。
 公園に着いた。たかしはいつも通りベンチに座って何をするでもなく公園を眺めていた。
 たかしは、ぼんやりと時間を過ごしていても、こうして外に出ているだけで全国に何万人といるであろう引きこもりと自分を区別出来る気がして満足だった。気分転換でもあり、低俗な自己充足感を与えてくれるこの時間が、たかしは気に入っていた。
 突然、遠くから派手なバイクのエンジン音が聞こえてきた。たかしは身を縮めた。
 バイクのエンジン音がたかしは嫌いだ。この音を出している人間は、自分とは相容れない人種に違いないという確信がたかしにはあった。
 たかしは近づいてこないことを心の内で祈っていたが、願い虚しくエンジン音はだんだん大きくなり、公園の前で数台のバイクが止まった。
「あれ?お前たかしじゃん 何してんの?」
「あ、いや…えと、べつに…」
「誰?知り合い?」
「いや、中学校ん時の同期なんだけどさぁ、こいつにいろいろ助けてもらってたんだよ。
―――なぁ、また昔みたいに助けてくれよ。お前ん家医者だったろ?小遣いもらってんだろうよ、なぁ」
「あっ…わ、わかったよ…」
 たかしは従順に財布を出した。
 たかしにとって今最も悔しいのは、金を取られることよりも「普通」な生活を第三者による抗えない力によって壊されたことだ。速やかに「普通」な生活を取り戻すため、財布を出して金を渡すのはたかしにとって当然だった。
 金を受け取ったら不良共は去っていった。
 また不良共が戻ってくるかもしれないので、いつもならまだ公園をぶらついている時間だったが、今日は早めに帰ることにした。
 「普通」を狂わされた、腹の底に渦巻くような不快感を抱きながら、たかしは帰路についた。
 あの不良によって、思い出したくもない中学校時代が海馬の奥から顔を見せ始めるのを感じた。
 そうだ。思い返せば、俺の「普通」への執着はあの時から始まっていたのだ。
 中学校当時のたかしは俗に言う中二病というものに罹っていた。人と異なるのがステータスだとばかり考え、自分には特別な能力があるのだと本気で信じ込んでいた。
 スキー合宿の時に木にぶつかってついた頬の切り傷を、神から授かった聖痕(スティグマータ)だと信じて疑わなかったたかしは、自分が選ばれた人間であると思いこみ、合宿の帰り、いつものように絡んでくる不良に下段蹴りを繰り出してしまった。
 それからというもの、たかしに対するいじめは激化した。不良ではない生徒も関わり合いになるのを避け始め、いつしかたかしは学年全体の誹謗中傷の的となった。
 「人とは違う」ことに憧れていじめられるようになったたかしは、それ以降自分を隠すことに徹するようになり、反作用的に「普通」であることに執着するようになったのだった。
 中学生時代の忌まわしい思い出がぞわぞわと記憶からはみ出してくるのを必死で押し込みながら、腹立たしい気持ちを抱えてたかしはようやく家に辿り着いた。
 十時、母親がまだ起きていた。
「たかし? いつもより早かったのね…晩御飯あるけど…一緒に食べる?」
 母親の、自分に気を遣っているような態度が無性に鼻につく。
「うるっせぇなババア! ひっこんでろよ! いつも通りドアの前に置いておけよ!」
「ごめんね、たかし…でもたかしの好きなハンバーグだから…たまには一緒に食べるかと思って…」
「あああああっ黙れよ! いいよ、もういらねぇよ!」
 たかしは母親の視線を背後に受けながら階段を登り、自分の部屋の扉を乱暴に閉めた。
 母親というものはなぜああも口煩い生き物なのか、甚だ理解しがたい。家事をしていればあとは黙っていればいい。いっそ殺してしまって家政婦でも雇おうか。
 自ら自分の「普通」を壊す勇気など無いのに、極論を頭の内で吐いてみる。そもそも「家政婦」を雇うこと自体が自らの「普通」たる生活に第三者を介入させる事態であることに気づき、たかしは頭が少し冷えていくのを感じた。
 窓のブラインドを下げて、いつも通りパソコンを起動した。買いだめたカップヌードルを漁りながら、たかしは掲示板を眺める作業に没頭し始めた。
 たかしからは見えなくなった窓の向こうで、流れ星が一筋落ちた。
 
 次の日、たかしが起きた時にはすでに十二時だった。たかしはベッドではなく机にうつぶせて寝ていたことに気がついた。いつ寝てしまったのだろうか。確か一時くらいまでは秋期のアニメの感想スレッドで野次を飛ばしていたような気がする。夜型生活の自分はいつも四時くらいまでは起きているのだが。
 寝違えた首を揉みながら、ゴミと漫画で散らかった部屋を横切る。
 部屋のドアノブを押した時、扉と何か硬いものがぶつかる感触があった。扉を押し開けると、昨日当り散らした母親の冷めたハンバーグが盆に乗って置かれていた。
 昨日母親に向けて放った言葉に後悔も反省も無い。だが、このハンバーグはこのまま置いておくわけにもいかないし、捨てるのも少し気が引けた。
 仕方なくたかしはハンバーグの盆を手に取り、電子レンジのある台所へと向かった。また母親と顔を合わせなければならないのは憂鬱だが、昼時の今なら、母親はリビングで横になってテレビを見ているはずだ。こちらに気づかないかもしれないし、気づいても無視すればいい。
 一階に降りる階段の途中で、たかしは、今日こそ誰にも邪魔されない「普通」な生活を全うすることを心に誓った。今日は散歩はやめておこう。心穏やかにだらだらしていよう。
 一階に降りて、リビングへそっと入った。しかし、そこに母親の姿は無かった。たかしは意外に感じたが、いないならいないでいいとすぐに思い直した。電子レンジにハンバーグをいれ、スイッチを押した。出来上がる時間を待っているのは手持ち無沙汰だ。せっかく母親がいないのだから、とたかしはテレビのリモコンを手に取り、電源を入れた。
 ―――何も映らない。普段ならがやがやと喧しいバラエティー番組が映るはずの時間帯、今は砂嵐とザーザーという不快な音のみが流れ出している。母親の不在にはどこ吹く風だったたかしも、これには流石にぎょっとした。テレビの故障だろうか。リモコンでチャンネルをいろいろに変えてみても、画面は依然砂嵐のままだった。
 この「普通」ではない事態にいきなり出鼻を挫かれたような思いがしたが、たかしはすぐに気持ちを持ち直した。普段からテレビは見ないのだ。問題ない。むしろ、壊れるのがパソコンでなくて良かった。
 電子レンジが鳴った。たかしはハンバーグを取り出して、誰もいない食卓についた。がつがつとハンバーグを咀嚼しながら、ふと、母親がなぜいないのかが気になった。
 この時間帯に母親がいないのは珍しい。それに、普段なら置いているはずの昼飯も用意されていない。ハンバーグがあるからいいようなものだが。もしかしたら昨日の俺の言葉に腹を立てて昼飯も作らずに外に出たのだろうか。・・・いや、それは無いだろう。父親が死んでからというもの、母親は俺に逆らうことができなかった。俺が母親に腹を立てることはあっても、母親が俺に腹を立てることなど今まで一度も無かったのだ。となると、買い物にでも行っているのだろか。普段なら確実にいる時間だけに違和感はあるが、何かの用事や事故で遅くなっているのかもしれない。うん、きっとそうだ。きっとそのうち帰ってくるさ。
 母親がいない理由をこじつけて無理やり納得したたかしは、ハンバーグを食べ終わった後、再び自分の部屋へと戻った。YouTubeでアニメの動画を再生し始めた二秒後には、母親のことなどたかしの頭から消え去っていた。
 
 五時間が経った。窓の外はすでに日が沈みかけ、たかしの部屋はパソコンの画面だけが煌々と光っていた。アニメをひたすら視聴していたたかしは、休憩がてら漫画でも読もうとヘッドホンを外した。部屋は静まり返っていた。まるでヘッドホンをしなくても初めから雑音など存在しなかったかのようだ。静けさの中でたかしは母親のことを思い出した。扉を開けて一階の様子を窺っても、まるで音がしない。まだ帰ってきていないようだ。いったい母親はどこまで出かけているんだ。それなりに気になったものの意識はすぐに手に持った漫画に向いた。この漫画、確か新刊出ていたよな…明日は散歩に出ようか。
 
 とうとう八時になった。普段なら既に晩飯が用意されている時間だ。たかしは段々と苛立ちが募るのを感じていた。「普通」の生活を乱されるのは、特に母親によって乱されるのは我慢ならなかった。もう既に何度も一階と二階を往復して、母親が帰ってきていないかの確認を繰り返していた。
 どうして帰ってこないのだろうか。俺の晩飯のことを忘れているのか? 昨日不良共に乱された「普通」の生活を今日こそは全うしたかったんだ。それに水を差しやがって、一体どういうつもりなんだ? 本当に嫌気が差して出ていったというのはあり得るだろうか。もしそうだとしたら…
 たかしは自分が捨てられた可能性を感じて、また一階へと急いだ。リビングへと駆け込み、棚の引き出しを勢いよく開けた。
 そこには預金通帳とキャッシュカードがちゃんと置かれていた。通帳には父が残した膨大な財産が刻み込まれている。たかしは安堵した。良かった。金を持ち去られてはいなかった。
 そして大金の存在は、先ほどまでの苛立ちを消すとともに、母親に対する新たな考えをたかしに植えつけた。
 そうだ。この金があるなら、母親がいようがいまいが一緒じゃないか。そこらのスーパーなりコンビニなりで飯を買えばいい。そう考えると、母親はなんて無用な生き物なんだ。いなくなってせいせいするくらいだ。飯以外の家事は自分ですることになるのが腹立たしいが、それくらいは問題ない。部屋の掃除は必要性を感じないし、衣服の洗濯は外に出る日だけやればいいだろう。ゴミだしは部屋が手狭になってきたらしよう。何も問題ない。「普通」の生活を続ける上で何の問題もない!
 途端にたかしは晴れやかな気持ちになった。階段を上り自分の部屋に戻ったたかしは、カップヌードルの袋をひっつかみ、いつも通り掲示板サイトを開いた。
『今週のジャンプの新連載ワロタwwwww』
 目に付いた漫画雑誌の感想スレッドをクリックする。
 今週のジャンプ見てなかったな・・・。明日漫画を買うついでに立ち読みしよう。
『どっかで見たことある主人公にありきたりな設定…ジャンプも終わりだな』
『打ち切り待ったなし』
『ファッ!? これワンピースのパクリやんけ!』
『ブリーチが最近きてる アンケだすやで〜』
 更新ボタンを押すたびにコメントが増えていく。起きてから予想外の出来事が続いているが、パソコンの中だけはいつも変わりない。ああ、これこそが俺の「普通」だ。理由もなく急いでキーボードを叩き、たかしもコメントを送信した。貪るようにパソコンを眺めるたかしには、窓の外で、不自然なスピードで消えていく家々の明かりに気付く由も無かった。

 次の日、例によって昼に起きたたかしは、空腹を感じて一階へ降りた。
 やはりそこに母親の姿は無かった。しかし、もはや母親の不在はたかしにとって「普通」を揺るがすものではなくなっていた。
 冷蔵庫をあけ、ベーコンを取り出してパンに挟んで食べた。気まぐれにテレビも点けてみたが、砂嵐のままだった。
 何も問題はない。今日の俺の「普通」は円満に進んでいる。
 昨日考えていた通り、たかしは散歩がてら漫画の新刊と立ち読みに出かけることにした。こればかりは夜に出かけるわけにはいかない。行きつけの立ち読みのできる本屋は閉まるのが早いのだ。部屋着を脱いで、多少なり世間の目を気にした装いに着替える。とりあえず不審者には見られないだろう。財布をズボンのポケットにねじ込み、玄関に向かった。
 靴を履いて玄関の扉を開けると、刺すような秋晴れの太陽光が目に飛び込んできた。昼日中に散歩に出るのは久しぶりだ。周囲にお節介なお隣さんの影も見えない。実に静かで爽やかな昼さがりだ。

しかし、秋風を満喫する間もないほどすぐ、たかしは自分を取り巻く空気に違和感を覚えた。
――――違う、静かすぎる。人の気配が、まるでしない。目の届く限り、通りには人は見当たらない。車も走っていないし、エンジン音すら聞こえてこない。隣の家の生活音、踏切の音、普段あるはずの音が聞こえてこない。これではまるで、この世界に自分しかいないような・・・
 たかしは自ら生みだしてしまった「普通」ではない考えを必死で振り払った。そんな馬鹿な話があるか。たまたま、人が出ていなかっただけだ。たまたま、車が走っていないだけ。隣の家の奴は、昼寝でもしているんじゃないか。踏切の音が聞こえないときなんていくらでもあるだろう。
偶然がたまたま重なっただけ、それだけだ。
 たかしは竦みかけた足を無理やり押し出すようにして、本屋へと急いだ。本屋には店員がいるのだから、俺は漫画の新刊を買って、立ち読みをするんだ。問題ない。何も影響はしない。
 人と出くわしたいと思うことなんて自分の人生で初めての感情だった。あえて遠回りをして、違う通りを歩いてみたりもした。しかし、どれほど曲がり角を曲がって新しい道に入っても、誰もいない静かな空間がどこまでも伸びていくばかりだった。踏切を渡るとき、少しゆっくり歩いてみたが、それでも踏切の音が鳴ることはなかった。電車が動いていないのだろうか。電車が大事故を起こして、街の人間はみんなそれを見物に行っていたりして…。
 見渡す限り動いているものは、自分と、風にそよぐ草木のみだった。誰もいない町に自分が一人。映画でみたような光景に、もしかしたら夢かもしれないと期待して頬をつねってみたが、頬は確かに痛かった。
 本屋はいつも通り空いていた。たかしは期待顔で中に入った。だが、そこに店員の姿は無かった。たかしは、いよいよ理性が理由の見えない不安感に押し潰され始めるのを感じた。もしかして本当にこの街に独りなんじゃないだろうか。理解できない、全く。なぜ自分以外の人間がいなくなったんだ? いつの間にいなくなったんだ?
 たかしには、もうどんなこじ付けも浮かばなかった。思考は脳みその容量をオーバーし、たかしは本屋の中でぼさっと立ち続けていた。
 誰もいない。街、いや世界に独りなのかもしれない。ああなんて事態だ。「普通」なんてもはや笑い話だ。「普通」の生活なんて誰もいないこんな世界でどうやって成り立つというのだ。これからどうやって生きていこう。これからいったい何をしよう。そもそも俺なんでここに居るんだっけ。

…あ、漫画の新刊と立ち読みだ。

 混線した思考回路の中で、突然明確な使命を思い出したたかしは、ふらふらと漫画コーナーへ入っていった。目当ての漫画はすぐに見つかった。漫画の単行本を小脇に抱えながら、次は雑誌コーナーで漫画雑誌を立ち読んだ。
 掲示板にあった新連載の漫画だ。…確かにつまらないな。『どっかで見たことある主人公にありきたりな設定』か。全くもってその通りだ。
 少し自分もおかしくなっているのかもしれないな。こんな状況下にあって、今自分はジャンプを読んでいる。俺以外に誰もいないというのに。「普通」の生活はもう送れないというのに…

――――待てよ、果たしてそうだろうか?

 漫画を抱えてジャンプを読んでいる今この時はまさに「普通」の生活なのではないか?そもそも俺の「普通」の生活なんて、誰とも関わりを持っていなかったじゃないか。世界に独りなんて、初めからそうだったようなものだ。何も問題ないじゃないか! 俺の生活に、一切何も!
 「異常」に囲まれた論理展開によって生まれた思考は理性か、狂気か。たかしはいつも通り雑誌を最後まで読み終わり、元の棚へ戻した。小脇に抱えた漫画の単行本を持って、いつも通りレジに向かった。店員はいない。たかしはいつも通り代金をカウンターに置いて、本屋を後にした。
 たかしはゆっくり家に帰った。いい天気だった。道中、コンビニに寄った。案の定店員はいなかったが、たかしはやはり代金を置いて弁当を買った。
 家に着いたたかしは弁当を食べながら、買ってきた漫画に読みふけった。家に入ってしまえば自分独りであることもあまり気にならなかった。漫画に没頭しているうちに、日は沈んでいった。だんだんと薄暗くなっていく部屋のなかで、たかしはただ横になっていた。
 漫画を読み終えたたかしは部屋の電気を点けた。充足感に満たされていた。世界に自分しかいなかったとしても、やはり問題ないじゃないか。
 たかしはパソコンを起動した。そういえば、掲示板サイトはどうなっているのだろう。やはり誰もいなくなっているのだろうか…。たかしにとって掲示板サイトに誰もいないのは、外の世界に誰もいないよりも大きな喪失だ。しかし、人がいないのはこの街だけかもしれない。
 ダメ元で掲示板サイトに繋いだ。そこには――――
 
 『この画像で笑ったら腹筋スレ part72』
 『頭文字Dの作者が描く女子高生ワロタwwwww』
 『台所でトンボが交尾してるんだが』
 
  いつもと変わらない世界があった。新しいタイトルのスレッドがいくつも立ち、更新をすればコメントが増える。外の世界の閑静さなど意に介さないかの如く、パソコンの中の世界はいつも通り賑やかで、そしてくだらなかった。
 たかしは安心した。俺の「普通」はやはり守られていた。コメントを打つ人間がいるということは、俺のほかにも人間が存在するということだ。誰と関わらなくても良い俺の生活だが、掲示板で少し呼びかけてみようか。
『俺の町に俺以外存在していないようなんだが質問ある?』 
 たかしはスレッドのタイトルを作成し、送信した。スレッドを立てるのには慣れているたかしだが、今回は少しばかり緊張していた。誰かからコメントを貰って情報を集めたい。そうすれば、この不可解な現象の真相を掴むことが出来るかもしれない。

 三時間経った。だが、誰からのコメントもつかなかった。
 まあ、もともとあまり期待はしていなかったし、この掲示板サイトが活動していただけでも僥倖だ。
 たかしは頭を切り換えて、だらだらと面白そうなスレッドを探すのに熱中し始めた。

 それからの日々、静まり返った世界の中で、たかしはただ「普通」な日々を全うした。朝起きて、パソコンを開きネットをしたり、漫画を読んだりする。腹がすいた時や必要なものがあるときは外に出て買いに行った。店員がいないのであらゆる店はいつも開きっぱなしで、好きな時に買いに行くことが出来た。何かものを買ったときは、律儀にも店員のいないレジスターに毎度代金を投入していた。たかしなりの「普通」の生活を全うするための規律だった。
 一つ発見があった。食物や雑貨、その他商品は全て必要な頃合いに新しく仕入れられているということだ。だから、コンビニも食べ物が切れることは無かったし、本屋の週刊雑誌も毎週仕入れられていた。たかしにとっては都合の良いことでしかなかったが、それでも店員もいないのに仕入れられているのは不気味なことだった。
 一度勇気を出して、週刊雑誌発売日の前日から、開きっぱなしの本屋に雑誌が入荷するまで居座ろうと考えたことがあった。だが、結果として、いつまで待っても雑誌が入荷されることはなかった。たかしが諦めて本屋を出た次の日、発売日を過ぎているものの雑誌が入荷された。俺がいるときは仕入れられないのかもしれない。そう考えたたかしは、何かの拍子で謎の仕入れが途切れてしまうのも怖いので、詮索するのを止めた。
 毎日毎日パソコンと漫画で時間を費やす、同じ日々を繰り返した。「普通」に異常なまでに執着したたかしだからこそ生きることが出来た、変化のない悠久の日々だった。
 
 三十年の日々が過ぎた。気が遠くなるような時間をたかしは相も変わらず「普通」の日々として過ごした。長い時間の中で目標もなく、ただ「普通」に生きることだけがたかしの幸せだった。常人なら気が狂いそうなほど壮絶な「普通」をたかしはそれだけで満ち足りて命を繋げてきた。
 だが、たかしの「普通」な生活も終焉を迎えようとしていた。金が尽きたのだ。もちろん店にいけば、いままでひたすら律儀に置いてきた金が山ほど貯まっているし、そもそも店員がいないのだから金を払う必要すらないのだが、齢五十九歳のたかしは今さら自分の「普通」たるための規律を犯してまで生き延びようとも思わなかった。これから先、俺はどんどん体が不自由になってくるだろう。老いた自分は、誰もいないこの世界で、只の生活すらままならない。金が尽きた時が自らの命の尽きるときだ。…そして、その時が来た。
 せめて楽に死にたいものだ、楽な自殺の方法でも掲示板で聞いてみようか。たかしはパソコンを起動して、掲示板サイトにアクセスした。
『アマゾンでコーラが一円で売られてるwwwww』
『そこらへんの野草で七草鍋作るンゴ』
『スシローの手を洗うとこで火傷したんだけど』
三十年間、パソコンの中の世界は何も変わらなかった。誰かは分からないが、このサイトの人たちには直接お礼を言いたいような気持ちだった。彼らがいてくれたおかげで、俺は「普通」の生活を全うすることが出来た。

『《急募》楽に死ねる方法教えてクレメンス』
たかしはスレッドを立てた。
すると、すぐにコメントが来た。

『死なせないンゴね〜』
死なせない?どういうことだろうか。
コメントは次々と送られてきた。

『たかしニキはワイらに生かされてるんやで。』

『他の人間は全員拉致したんですけどねぇ…(ゲス顔)』

『三十年前にワイらはこの星を征服したんやで。ワイらの星の科学力の方が地球よりも圧倒的に上やったけど、この星の文化は知っときたかったンゴ』

『せやから、どんな状況でも自分の生活を続けられる資質のあるたかしニキを選んで生かしたわけやね。なお、死にたがっている模様』

『たかし二キの生活を維持するのは大変やったやで〜。特に漫画なんか、わざわざ作者の脳みそひっぱりだしましたからねぇ…(震え声)』

『たかしニキから色々学ばせてもろたけど、まだまだ足りないんだよなぁ…』

『もうネタバレしてしまったし、脳から直接情報もらうンゴwwwwwwwwww』

――――部屋の扉が開いた。
 たかしは振り返った。
 瞬間、異形の生物が目に入った。だが、叫び声を上げる暇もなくたかしに麻酔銃が撃ち込まれた。
 
 遠くなっていく意識の中でたかしは走馬灯を見た。
 瞼の裏に写しだされた景色は中学生の時の自分だった。
 切り傷を聖痕だと思い込んだ当時の自分を想い、紛れもなく自分は「選ばれた人間」であったことを知った。

「Buddy」132204

 〈2015年12月8日〉
 島津晴人は久しぶりの休暇を自宅で過ごしていた。お気に入りのソファに腰かけ、リモコンを手に取りテレビをつけた。
「昨日、大阪府富田林市で連続強盗犯が逮捕されました。今回の事件もまた、あの警官たちが解決しました。この警官は…」
 ここ数年関西の事件は、この二人の警官によって次々に解決され、その名は国民ならほとんどが知っていた。国民はそんな二人のことを最高のBuddyだと評価し、ヒーローのように扱っていた。
 しかし、島津晴人は国民がそういった扱いをすることを好ましくは思っていない。警官が事件を解決するのは当たり前で、国民が騒ぎ立てることで捜査の妨げになると考えているからだ。
 プルルルルル…島津晴人の携帯電話に着信が入る。島津晴人は液晶画面に表示された名前を見て、ため息をついた。
「はい、もしもし。こんな昼間からいったい何ですか。」
「おい?清水聞いてるか?ニュース見たか?また報道されてたじゃねえか!まるでヒーローみたいだな!これはうまい酒が呑めそうだ。てことで、今日の一九時にいつもの店で!」
 電話の主はそれだけ告げると、無造作に電話を切った。
 島津晴人は思う。はじめに会話とはキャッチボールだと言った人に、それは間違いだと言ってやりたい。堀田正睦の会話はキャッチボールとはかけ離れている。あれは、壁に向かって一方的に投球しているのと同じだ。島津春人は堀田正睦に何度も注意をしたが、一向に直らないため注意することをやめた。島津晴人は堀田正睦の性格をよく理解している。今回の誘いも断ると面倒なことになるのを知っているので、仕方なく行くことに決めた。
「さて、今日も頑張ってくれよ。俺の胃袋君。堀田さんは見た目のでかさに比例しているみたいに、酒を呑むから付き合わされるこっちは大変だよな。」島津晴人は自分の腹を労わるようにさすりながら、ふとカレンダーを見た。
「ちょうど、今日であの日から4年経つんだよなあ」

Side S
〈2011年10月1日〉
 ピピピピピピピピ…
 アラームのけたたましい音で俺は目覚めた。この無機質な音の代わりに、誰かが優しく揺り起こしてくれたら、どれほど良い目覚めになるのだろうかと思ったが、そのとき川原智美のことを思いだして、なんとも言えない気持ちになった。
 夏休みの間に、川原智美と喧嘩をした。もちろん俺がふわふわしていたことも原因なのだが、倦怠期というのだろうか。そういうのがついに来てしまったらしい。
 河原智美は最後に泣き顔でバイバイと言ったきりで、連絡は来ない。今頃、何してるんだろう。
 ピピピピピピピピ…今度はアラーム第二陣がなり始めた。起きてるよ!と苛立ちながら俺は電源を消した。
 今日から、大学の後期の授業が始まる。俺は正直、今やりたいことが見つからない。もう三回生なのだから、そろそろ進路を考えなくてはいけないのだが、これという職業が見当たらない。この夏休みも、バイトをこなし友人と遊び、大学の課題を提出すると知らない間に今日がやってきていた。毎日が似たようなことの繰り返しで、刺激が欲しかった。
 大学に行くと、友人に会えるので行きたくないことはなかったが、できることならソファに座ってゆっくりテレビでも観ておきたいというのが本音だ。だが、親に金を払ってもらい、大阪に下宿して大学に通っている自分としては、サボることは出来なかった。
 仕方ない、行くかと思い、俺は準備を始め家を出た。
 俺の通う大学は大阪の端っこにある。通称山大学だ。なぜ山かというと、キャンパス内の至るところに昆虫がいたり、俺は去年の夏にはイノシシに追っかけられたほどだ。まあつまり、キャンパスが山の中にあるわけだ。
 大学には駅から続く坂道を登っていく。坂を上るとエスカレーターがあり、それに乗ってキャンパスへと移動する。エスカレーターを登り切り、教室に向かおうとした俺の肩を誰かが掴んだ。友人かと思い振り向くと、そこにあったのは見知らぬ顔、いやガッチリとした体だった。
 見上げると、短髪で髭面で目は意外にぱっちりとしていて、きちんとすれば二枚目かもとぼんやり思った。しかし、俺はこんな男は知らない。見た目はクマの様だ。
「よう。俺は堀田正睦。この大学の七回生だ。お前、良い目してるじゃねえか。俺の部活に入れよ」
 何を言ってるんだこの大男。ここで分かりました、入部しますという人間がいるなら、ぜひ見てみたいものだ。だいたい、良い目ってなんだよ。
「あの、俺もう三回だし、部活とかないです。それに、えーと堀田さんでしたっけ?何部なんですか?あと、七回生って…?」
「質問が多い奴だな。とにかく、俺が良いといえば良いんだよ。正解なんだ。」
「正解ですか…」何なんだこいつ、すぐにでも逃げたい。むちゃくちゃだ。
「とにかく、部室に来いよ。」
 冗談じゃない、適当に理由をつけて逃げてやる。俺は理由を考え、口に出そうとしたとき体がふわっと浮くのを感じた。なんだこの感覚。あれ、景色が変わっている…嘘だろ。大男が俺を抱えて歩いてやがる。
「待ってください?おろして?」
「うるせえなあ…」
 だめだ、この男、頭がおかしい、ここ日本だよね?俺どこに行くの?神様仏様お母様助けて。もちろんそんな願いは届かず、俺はクマに連れていかれた。
 
「さてと、さっきの質問に答えてやるよ。」いや、そんなのは良いからさっさと帰してくれ。こっちは授業があるんだよ。
「あのー、俺帰っていいですか?」
「あぁ?何言ってんだよ。まずは自己紹介からだろ?お前、名前は?」こいつはどうやら、日本語が通じないらしい。
「島津晴人です。」
「彼女は?」いきなりそこ聞くかよ。デリカシーのない奴だ。
「い、今は、少し喧嘩中で…」俺はとりあえず笑いながら言った。
「わっはは。そいつは気の毒だ」クマは手を大きく叩きながら、笑っている。こいつ、気の毒の意味わかってないだろ。さすがに俺もイラッと来た。だいたい、どうしてこんな話の通じないやつに馬鹿にされなければいけないのか。
「あの!いくらなんでも失礼じゃないですか?」そうだ、良いぞ俺!
「何怒ってんだよ。まあとにかく入部おめでとう。志賀野が部員第二号だ!」おい、冗談じゃない。入部おめでとうだと?今年一番おめでたくないよ。しかも俺で二人目?お前しかいないのかよ!あとさっきから名前間違えてるよ!
「俺、帰りますから!」俺は自分でも驚くような大きな声を出し、部屋を出ようと立ちあがった。
「おい、待てよ。悪かった。実はな、お前が刺激を求めてるって感じに見えてよ、それで声をかけたんだ。あ、もちろん良い目をしてたってのは本当だぜ。」おや、ちょっとは分かるやつなのか、このクマは。しかも、俺が刺激を求めてるって、なんでわかったんだ?俺は立ちどまって振り向いた。
「お、考え直してくれたか。ようこそ!なんでも屋部へ!」おいおい、何なんだそのネーミングセンスの無さは。そのままじゃないかとツッコみたくなったが、どうせ無駄だと悟り、黙ることを選んだ。
「お、お?無言の承諾か!いいね」しまった!そう来たか?仕方ない、適当にやり過ごそうと思い相槌を打ち、何とか三限目に間に合った。

〈2011年10月2日〜〉
 この日から、放課後になると俺のケータイが鳴るようになった。そう、智美と仲直りしたのだ。そんなわけもなく、相手はクマこと堀田だった。
 毎日、堀田に呼び出され話していくうちに、もしかしていい人なのかもしれないと思うことが増えた。しかし、そんなわけなかったと思う日の方が多かった。
 とにかく、俺が「なんでも屋部」に入部してしまったという事実からは逃れられないらしい。しかし、何なんだ。全く依頼が来ないじゃないか。
 堀田に聞いた話によると、まだ一度も依頼が来たことはないらしい。もう廃部にしましょうと何度も言いかけたが、そんな時決まって堀田は俺にこう言った。
「おい、島田。サプライズは好きか?人生ってのは、サプライズの塊なんだよ!もし、世の中からサプライズが消えてみろ?きっと何も残らないぜ?」そんなとき決まって俺は心の中で思う。「この部活が廃部になるサプライズをあんたにかましてやりたい」と…

〈2011年12月6日〉
 12月に入り、街もクリスマスに染まっていく中で、俺はまだ智美と距離を取ったままだった。世の中のカップルは皆不幸になれと心の中で思うが、これも身勝手だなあと自嘲した。 
 この日も放課後に堀田から着信があり、部室に来いと言われた。
 本音を言うと、すこしずつ部活は楽しくなってきた。もともと部活もサークルもやっていなかった自分に居場所ができたような気がした。
 部室の扉を開けると、見慣れない外国人が堀田と話していた。
「おう。そろったな。島野、こいつはアンダーソン。初の依頼人だ。」
「え?本当ですか!すげえ!いったいどんな依頼なんですか?」俺は依頼人が来たことに、自分でも驚くほどワクワクしていた。
「これをある場所に届けてほしいそうだ。な、そうだよな?アンダーソン君。まあこれは、あれだな。日米修好通商条約だな。」堀田は満足そうに白い粉の入った袋を振り回しながら言い放った。
「エエ、ソウデス。コレヲトドケテホシデス。タノミマス。ヨロシク。」
「うおお!すごい!本当に依頼だ!で、それは何なんですか?」
「んーなんだこれ?おいアンダーソン。ラムネか?」堀田が舐めようと袋を開けかけた。
「NO!!!You don‘t touch it」アンダーソンは気が狂ったように堀田から袋を奪い取った。これには、堀田も驚いたようで大きく目を見張っていた。
「スミマセン。コレハゼタイアケテハダメ。デモ、シカリハコンデクダサイ。」
「もしかして、それやばい奴じゃ…」俺は背中に肌寒いものを感じながら言った。
「ははは。んなわけないだろ!な、アンダーソン!」堀田は全く疑っていないらしい。
「ハイ、ソウデス。ゼンゼンアヤシクナイネ。トリアエズ、12ガチュ8ニチニ、ナンコウマデモテイテクダサイ。ジカンハ、マタメールキマス。」アンダーソンはそう言うと、逃げるように帰っていった。
「大丈夫なんですか!?そんなの引き受けて!やばいもんだったらどうするんですか?」
「大丈夫だろ。俺が大丈夫といえば大丈夫なんだよ。」いったいどこからこの余裕はやってくるのだろうか。
「しかし、この粉はいったい何だろうな。白いぜ。秘伝のたこ焼粉か?」俺は呆れて、家へと帰った。

〈2011年12月7日〉
 放課後、またも堀田からの着信があった。応答すると、例の依頼の詳細が分かったらしい。俺は急いで部室へと向かった。
「堀田さん!依頼どんな感じですか?」堀田の表情を見た俺は拍子抜けした。てっきり、依頼内容に燃えているのかと思いきや、堀田の表情はひどく暗かった。
「鹿野。これはちょっとやべえぞ。取引する相手、受け渡し人がやばい」
「どういうことですか!?」手に汗が噴き出す。
「サザナミグミって知ってるか?」
「それって最近ここらでよく聞く、あの漣組ですか?それとも、新発売のグミですか?」渾身のボケもむなしく空を切った。堀田の反応からして、おそらく前者なのだろう。漣組は最近ニュースでも話題になっている暴力団で、かなり手荒なことをするらしい。どうやら、さすがの堀田もまずいとわかったらしい。
「堀田さん!この依頼断りましょう!」
「そうしたい…」俺はこの時初めてこの男の判断は正しいと思った。
「ところだが、そうはいかねえみたいだ…」
「は?どういうことですか?やめたいなら、やめましょうよ!依頼なんてまた来ますよ!」
「清水、これ見てくれ…」堀田はそう言うと、俺にスマートフォンの画面を見せた。
「…嘘だろ…」俺は全身が凍り付くような寒気に襲われた。頭が真っ白になり、これ以上何も言えなかった。液晶に写っていたのは、拘束された智美の姿だった。
「酢水、本当にすまな…」気が付くと俺は堀田を殴っていた。自分でも止められず殴りつづけた。堀田は何の抵抗もしなかった。
「ほんとうにすまない」
「あんたの顔なんて見たくない。お前のせいだ」俺は、部室のドアを蹴って、外に出た。しばらく歩き回って落ち着く努力をしたが、怒りと不安でいっぱいだった。どうしたら智美を助けられるのか。
 いくら悩んでも答えは一つしかなかった。「ブツ」を届けるしかない。
 俺は再び部室にもどってきた。正直、堀田の顔を見たくはないが、奴のスマートフォンに詳細があるため仕方がない。
 ドアは空いていた。中には堀田の姿はない。机を見ると、紙が二枚とボールペンが置いてあった。
 一枚目には、取引の時間と具体的な場所、そして「すまない、俺はちょっとやるべきことがある。」という無責任なメッセージが残されていた。
 二枚目の紙には、取引相手からの命令が書いてあった。
 

1・警察には連絡しないこと
2・誰にも話さないこと
3・時間に遅れないこと
4・「ブツ」は本物であること
この4つが守られなかった場合は女の命はない。

 取引の時間は明日の0時。今が20時だから、あと4時間後ということになる。南港までは、ここから車で1時間ほどだから、それまでに堀田と合流し、向かわなければならない。とにかく堀田に連絡を取らなければ…

Side H

 車の速度を上げ、俺はあそこへと向かう。急がないと大変なことになる。何度もスマートフォンに着信が入るが、それどころではない。もう一度アクセルを踏み込み、さらに速度を上げた。
 高速道路を降り、料金所を通過してしばらく走ってから、倉庫の前で停車する。情報によると、ここが漣組の武器庫のはずだ。俺は侵入しようと試みるが、どこにも入れそうなところがない。そうこうしているうちに、後ろに人の気配を感じた。
 振り向くと、全身黒服でフードを深くかぶった大男が立っていた。気づいた時には、男に鉄パイプで殴られ意識が飛びそうになる。
 ああ、俺はこの後子どもになる薬でも飲まされるのかとぼんやり考えていたが、それどころではない。フードの男は漣組若頭である漣颯人の右腕として有名な男であることを思いだしたのだ。
 動けよ俺の体、頼むぜ、一生のお願いだと力をこめた。
 右ストレートが、フードの男にヒットした。フードの男は動かないと思っていた俺に不意打ちを喰らい、少し驚いたようだったがすぐに反撃してきた。
 やべえ、島津、あとは頼んだ。

Side S

 何度連絡しても、堀田は出なかった。仕方がない、こうなったら一人で行くしかない。俺はタクシーに乗り込み南港へと向かった。智美無事でいろよ、頼む。
 時計を見ると23時56分を示していた。約束の時刻まであと少し。
 これは現実なのだろうか。俺はもしかして夢なのではないかと、何度も確かめたがやはり現実であった。
 最後にもう一度堀田正睦に電話をかけてみるが、やはり応答はなかった。いったい、奴はなんなんだという思いが胸に広がった。俺と智美を巻き込むだけ巻き込んで、自分はトンズラするなんて、本当に最低な奴だ。
 もし、次に会ったらもっと殴ってやると思ったとき、次はあるのかという思いが頭を占拠した。俺は本当に生きて帰られるのだろうか。殺されるのではないか。だからこそ、こんな場所にいるのではないか。足元はガタガタ震え、立っていられるのがやっとだった。
 その時ライトが俺の顔を照らした。黒塗りのセダンが数台近づき停車した。一番前の車から、長髪の男が降りてきた。その横にはフードをかぶった大男がいる。
 長髪の男はフードの男になにか言うと、こちらを見てニヤニヤと笑みを浮かべている。その笑顔の不気味さに俺は、吐き気を覚えた。何とも言えない、その顔つきはべったりと俺の心をつかみ取り弄んでいる。
 フードの男はセダンから、智美を引きずりおろした。智美は猿轡をされており、声を出すことは出来ないが、その表情からどれほどの恐怖を抱いているかハッキリとわかった。
「智美!!すぐ助けてやるから!待ってろ」俺は震える声で叫んだ。智美はこくりと涙を流しながらうなずいていた。
「ひゅーかっこいいねえ。けど、お前わかってないよ」長髪の男は笑いながら言った。
「お前、かっこつけてる場合じゃねえよ。こっちにはこんなもんあるんだぜ。おい」長髪の男はフードの男に目配せをした。フードの男はセダンから拳銃を取り出し、長髪の男へ手渡した。
 おいおいまじかよ、さすがに本物の拳銃を見た俺は動揺を隠せなかった。が、勇気を振り絞り、「ブツはここにある。だから早く、智美を、その女を開放してくれ!」と叫んだ。
「お前、口の利き方には注意しろよ?まあいい。ブツは本物だろうな?」
「ああ、本物だ」
「持ってこい。」長髪の男は拳銃を構えながら言った。
 俺は一歩ずつ足取り重く、長髪の男の元に近づいた。
「よこせ。」
「これを渡せば、智美を本当に解放してくれるんだな?」長髪の男は目の前で見ると、恐ろしいオーラがにじみ出ていて、あやうく舌が回らなくなるところだった。
「そうだと言ってるだろ!よこせ」長髪の男は俺から袋を取り上げ、袋を開封し中身を舐めた。
「あぁ、この感じ、最高にハイになるぜ!確かに本物だな。」長髪の男の反応から、やはり例の粉は、麻薬の一種のようだった。しかし、今の俺に麻薬も何も関係ない。成功したんだ、一刻も早くこの場を智美と離れたい。
「智美を解放してくれ。」
「ははははっ。馬鹿かお前?本当にブツを渡せば帰れると思っていたのか?甘すぎる。ヤクザ舐めてもらっちゃ困るぜ。」長髪の男は笑いながら銃口を俺に向けた。ああ、俺死ぬんだな。俺の人生って何だったんだろう。何が人生はサプライズの塊だ。こんなサプライズいらねえよ、俺はそんなことを考えながら自らの死を待った。
「あばよ。」長髪の男が引き金を引いた。
 俺の目の前に飛び出したのは、鉄の塊ではなく万国旗だった。これは、サプライズの塊だ。
「サプラーイズ!」聞き覚えのある声だった。俺をこんな状況に追いやった元凶の声だ。しかし、堀田はどこにいるのか。
 あたりが一気に明るくなり、パトカーが包囲していた。気が付くとフードの男は、長髪の男を羽交い絞めにして手錠をかけているところだった。どういうことかさっぱりわからず、俺はただ座ったまま動けなかった。
「晴人!」智美が解放されていた。よかった智美も無事だったのだ。
 俺と智美はひとまずパトカーに乗せられ、安全な場所に移動した。何気なくパトカーの運転手を見た俺はぎょっとした。あのフードの男が運転しているではないか。奴はいったい敵なのか見方なのかどちらなんだ。
「驚かせてすまねえ。というか、ずいぶん危険な目に合わせちまったな。」フードの男、いや、この声は堀田だ。フードの男が堀田だったのだ。
 俺は堀田にどういうことかきちんと説明するように言った。堀田はもう一度謝罪し、ことの真相を話し出した。
「まず、俺は大学生だが、大学生ではない。つまり、俺は大学生に扮していたんだ。俺は大阪府警特別事件取締科の堀田正睦だ。学生に混ざって、秘密裏に行われている学生を使った麻薬の運送を取り押さえるのが俺の仕事だ。今頃、あのアンダーソンも牢屋にいるさ。で、お前はいろいろ聞きたいことがあると思う。何から話せばいいだろうか。」俺は驚きを隠せなかった。確かに大学7回生というのは意味不明だったが、この男が警官だったとは思いもよらなかった。
「あれが麻薬だと知っていて俺を巻き込んだだと?冗談じゃない。おまえはどうかしてる。なんでアンダーソンが来た時に捕まえなかった!?おかげで智美は危険な目にあったんだぞ!」
「ほんとうにすまない。アンダーソンをあそこで捕まえると漣組本体が捕まえられなかったんだ。ここで根元を絶たないと、また学生が殺されるんだ。」これを聞いて俺はハッとした。噂だったが、うちの大学の数名が行方不明になったというのを聞いたことがある。俺も本当なら漣に殺されていたんだ…
「そうだ!あの拳銃は?」
「実はお前に書置きした後、漣組の武器庫へと向かったんだ。そこで、この服を着た男と出会ってな、あれこれした結果、武器庫のカギを手に入れてフードの男になりすましてたってわけだ。そんときに拳銃もすり替えておいたんだ。とりあえず降りるぞ。」
 パトカーは警察署に停車した。
 智美は疲れからか、眠っていた。智美を布団に寝かせ、俺は再び堀田と話すことになった。漣組のこと、堀田のことを全て俺に話した堀田は、腹に手を当てて少しうめいた。見ると、出血しているのがわかった。深い刺し傷らしい。
 俺は急いで、他の警官に知らせ、堀田は病院へと運ばれた。どうやら、フードの男と交戦した時に刺されたらしい。俺は智美が眠る姿を見ようと、仮眠室を訪れた。急激な眠気に俺は意識が遠のいた。
 
 Side ?
 〈2011年12月8日〉
 ここはどこだろう。私は何をしていたのだろう。隣には島津晴人がいた。
 晴人とは2か月ほど前に喧嘩をして以来、会っていなかったため、顔を見るのは久しぶりだ。
 何かずいぶん怖い夢を見ていた気がする。いきなり、フードの男に連れ去られ、拘束されたときには私はもう死ぬんだと思った。
 でも、晴人が私を助けようとしてくれた。晴人かっこよかったな。私は最近の晴人が嫌だった。頼りなくて、なりたいものもなくて、もっと輝いてほしかった。出会った頃の晴人はもっとキラキラしてた。俺は警官になって人を守るんだって、いつも言ってたよね。あの時の晴人を見て素敵だなって思った。
 昨日、私を助けてくれようとしてた晴人は、あの時の晴人と同じ目をしてた。俺はやるんだって。怖かったけど、私安心したんだよ。
 また、晴人と一緒にいれたらいいな。晴人はやっぱり警官に向いてるよ。私は春人の寝顔につぶやいた。

Side S

 目を開けると、智美が微笑んでこちらを見ていた。俺は何も言わず智美を抱きしめた。心にあったもやが、すーっと溶けていった。
しばらく智美と話していると、ノックと共にクマが入ってきた。ずいぶん芸の仕込まれたクマだこと。もちろん、クマではなく堀田だった。
警官の制服を着ているせいか、本当に警官なんだなと俺は実感した。堀田は何か言いたげな顔でこちらを見ている。何をもじもじしているんだ。今までの雑な堀田はどこに行ったのだと思っていると、堀田が話し出した。「なあ、深津。サプライズどうだった?あそこで万国旗はびっくりだろ?」俺はしたり顔なクマを一発はたいた。
クマは「いてえ」と叫んだが笑っていた。隣を見ると智美も笑っていた。
「おい島津。これは真剣な話なんだが、俺と組まねえか?お前の正義心は絶対人を守れる。俺はお前とbuddyを組んで、事件を解決していきたいんだ!頼む」俺はうんとは言わなかったが、心の中で大きく何かが動き始めた。
そういや、初めて名前呼ばれたなぁとか考えながら、俺は笑った。     完


「Fly to the moon」 132203


   プロローグ

 真っ黒な夜空にぽっかりと空いた穴から黄色い光が差し込んでいる。もしかするとこの空の先には光の世界があって、月は二つの世界をつないでいる大きな穴なのかもしれない。なにを訳のわからないことをなんてことをのたまう奴もいるだろう。
 いいじゃないか、だってこんな想像でもしていなければ、人がこんなにも強くあの光に引き寄せられることに、他にどんな説明が出来るって言うのか。納得させてくれる奴がいるなら、お目にかかりたいもんだ。
 
   1
 
 2150年。地球上のあらゆる土地を開発しつくした人類に、残された道はもはや一つしかなかった。欧米諸国を中心とした宇宙への進出。はるか昔、アポロ計画によって成し遂げられた月への人類の着陸。
 しかしアポロ計画以降、人類の技術がどれだけ進歩しようと、再び月面にたどり着いた者はなかった。度重なる失敗に、アポロ計画の成功にすら疑念が生じた頃、日本でも静かに、「月」を目指そうとする動きが見られつつあった。
 
 七三分けをジェルでぴっしりと固め、スーツを見事に着こなした中年の男が、なにやら若い男を叱りつけている。若い男はうつむいて気怠そうにしながら、男の話を右から左へ聞いていた。
「吉村、どうしてお前はいつもいつもそうなんだ。やる気もないくせになぜお前のような奴がこんなところにいられるのか分からん。」
 中年の言葉には怒りと呆れが入り交り、このやり取りがもはや日常となっていることがうかがえた。吉村、と呼ばれた男がふっと顔をあげる。眠そうな目が中年を見据えた。
「なぜってそりゃ、「飛ぶ」意志があるからでしょうよ。あんたらみたいに机の上でごちゃごちゃやってる権力マニアとはそもそも思考回路が違うってことがはっきりしましたね。」
「上官に向かってなんだその口の利き方は…!」
淡々と告げた吉村に、中年は顔を真っ赤にし、拳を固く握り、振り上げた。ちょうどその拳が真上に携えられたときその動きがふと止まった。
「主任。部長がお呼びでしたよ。」
握りしめられた拳が少しずつ降ろされていく。
「おおそうか。連絡ごくろう田村。このバカの面倒を頼む。」
そうして静かに去っていく中年は吉村とすれ違いざまこう投げかけた。
「・・・次はないぞ吉村。」
吉村は顔色一つ変えることなく田村の方へと足を進めていった。
「またそうやって上司のことバカにしてると、いつか痛い目見るぞ。」
いつもどおりの状況。田村は子どもをなだめるように、吉村に言い聞かせた。
「いいんだよ。実際バカなんだからよあいつら。」
上司も上司なら吉村も吉村である。

 吉村楓と田村保は八つの頃からの付き合いだ。かれこれ十五年はお互いを親友として認め合ってきた。幼少期を孤児院で共に過ごし、同じ屋根の下で過ごしたにも関わらず、彼らの性格は対称的だった。自由奔放で、無愛想。知り合いも少ないが抜群の運動神経とセンスで、大体のことを卒なくこなし大人に嫌がられた吉村。几帳面で、人当たりが良く人望があって、頭の切れる田村。二人のこの見事なまでのデコボコ具合もまた、二人の関係性を支えていた。
 二人はいつも孤児院の屋根から園長にもらった望遠鏡で月を見ていた。吉村が星を見つけ、田村が星図と照らし合わせる。
「楓、保、月は人を狂わせてしまうから、あんまり長く見てちゃいけないよ。」
園長のそんな言葉とは裏腹に、二人はいつも月を眺めていた。寂しく、怪しげで、神秘的な月の光。その光に誘われるように、二人は月を目指すこととなる。いつか二人で月にたどり着く、そんな話をしながら十年が経とうとしていた。
 そして今、二人がいるこの場所こそが、日本が世界に誇る宇宙航空開発研究機構「JAXA」本部である。
 JAXAは二年前、大規模な月面着陸計画を発表し、作戦遂行の宇宙飛行士を公募で集めた。応募者は述べ一万人。一次の書類審査で百名の候補者が選ばれ、実技と筆記の二次試験によって三十名まで絞られた。吉村は実技をトップの成績で、田村は筆記をトップの成績で合格した期待の新人であったが、いまや二人の差は先ほどのやりとりからも明白なものとなっていた。
 
  2

 二年前から始まった今回の月面着陸計画は水面下で進められ、決行の時を静かに待っていた。
「今回君たちに集まってもらったのは他でもない。いよいよ宇宙船の発射日が決まった。」
朝のホールの雰囲気が一転し、ざわっとした独特の緊張感が新人飛行士たちを包んだ。吉村とはソリの合わない中年、教育主任の中澤は大ホールに集まった新人飛行士に矢継ぎ早に、淡々と、告げた。
「作戦の決行は一ヶ月後。君たちにはこれから一ヶ月さらなる訓練に励んでもらう。もちろんここにいる三十人全員が月に行けるわけではない。最終試験は決行の二週間前だ。そして・・・」
矢継ぎ早に語った中澤の一瞬の間に応じるように全員の視線が一点に注がれる。
「今回の作戦に参加できる宇宙船の乗組員は、二人だ。」
 鳴りやむことのない無音。無理もない。宇宙船に乗り込むことができるのはたった二人。その事実は、一年以上をともに過ごしてきた仲間が突如として敵となるということ。しかしその無音は、唐突に破られた。
「選考の基準は。」
吉村が淡々と口火を切る。今までとは全く異なる吉村の雰囲気を、その表情と声色が物語っていた。
「擬似無重力空間での各種実技試験、重大なトラブル対応及び宇宙全般に対する知識を測る筆記試験だ。」
「わかりました。」
そう言い終わるか終らないかのうちに、吉村は大ホールを後にした。田村も慌ててそれを追いかける。二人の退出をきっかけに、会議は終了となった。

 田村はちょうど吉村が自室に戻るタイミングで吉村に追いついた。
「最後まで話も聞かずに何してるんだ。」
たしなめるように問いかけられたが、吉村は迷いなく答えた。
「何言ってんだよ。月に行ける、その日取りが決まったんだろ。考えたって仕方ねぇ。俺はあの三十人から、最終選考の二人に残って月に行って見せる。もちろん、保も一緒にな。」
屈託のない眼差しに捉えられ、思わず田村はたじろいだ。吉村のこんな目を見るのはいつ以来だったか。少なくともあの一件以来こんな目はしていなかったはずだ。
「言いたいことはわかるが、それとこれとは別だ。これからは上司からの評価も重要になってくる。センスや感覚だけではどうにもならないことも考えられる。もう少し考えた方がいいんじゃないか。」
吉村は一瞬表情を曇らせたあと、半開きのドアに足を踏み入れながら、こう告げた。
「うるせぇうるせぇ。とにかく今は実行あるのみなんだよ。」
パタンという音とともに無機質に残された木目を、田村はぼんやりと眺めていた。

 その日の夜、田村はあの日のことを思い出していた。五年前のあの日、園長が殺されたあの夜のことを。

 ―――吉村と田村は、その日も園長の望遠鏡と星図を傍らに屋根に登ろうとしていた。その日は孤児院に月に一度ある礼拝の日だった。その日は決まって、子どもたちは20時には寝るよう、固く言いつけられていた。しかしその日はたまたま、数年に一度起こる、一ヶ月に二度の満月が見られるブルームーン。孤児院の最年長とは言え、好奇心には抗えない。
 屋根につづく梯子は園長室の先にある。二人にとっての大きな関門はそこだった。しかし、吉村と田村が自室から出ようとしたとき、事件は起こった。誰もいないはずの廊下から何人かの男の声が聞こえてくる。
「――――を――――使え。」
「あれは―――――なければ、――――ない。」
「ここの連中が―――――いのか。」
ドアの隙間から聞こえる微かな物音では、そのすべてを聞くことはできなかった。足音が過ぎ去ったあと、不審に思った二人が園長室に立ち寄り、半開きのドアを開けて飛び込んできたのは、荒らされた園長室と、腹部にナイフを突き立てられた園長の変わり果てた姿だった。
 子どもが目を覚まさないほどに静かでスピーディーな犯行と返り血を防ぐために腹部にあてられたタオル。これらのことから警察はプロの犯行として調査を進めたが、凶器からもどこからもその足取りは掴めなかった。奇しくも園長の言葉通り、「人を狂わせる満月」の日の犯行だった。
 それ以来、吉村の目から光は消えうせた。子どもとはいえ18歳。捕まえるまではできなくとも、あの時飛び出して暴れていれば、少しぐらいの手がかりは得られたかもしれない。それから吉村は一心不乱に自らを鍛え抜いた。勉学、はどうしても好きになれず、自分の身体をいじめ抜いていった。――――

 今の吉村はそうしてできている。その全てを知る田村は今日の吉村のあの目、昔のような屈託のないまなざしを見たとき、うれしさと、それとは別の感情がこみ上げてくるのを覚えた。だから今、田村はこうしている。暗い部屋でカタカタとリズミカルに音色を奏でるキーボード。その最後のエンターキーを叩き、田村は部屋を後にした。

  3

 翌日、JAXA本部の新人飛行士たちの間は、ある噂で持ちきりだった。
――昨晩誰かが本部のネットワークにアクセスして、機密データを持ち出したらしい――
 真っ先に疑いがかかったのは吉村だった。昨日ホールを飛び出してから、珍しく部屋で筆記の対策をしていた吉村は、いてもたってもいられなくなり、ちょうど機密データの盗まれた夜中、本部内をふらふらと涼んでいた。不運なことに、情報管理課の近くを吉村が歩いている映像が監視カメラに納められていた。
 無機質な音を立てながら、ドアが開いた。中からは教育主任の中澤と、見るからに不機嫌そうな吉村が現れた。
「どうだった。」
恐る恐る尋ねる田村に、吉村は吐き捨てるようにこう答えた。
「一週間の自室謹慎だってよ、この時期に。わけわかんねぇ。なんでやってもねぇことでこんな・・・」
「まぁそうかりかりするな吉村。今回ばかりは同情しよう。この時期だからこそ、波風たてるわけにはいかないんだろう。早い話がスケープゴートといったところだ。」
「納得いかねぇ」
誰がどう見ても納得のいかない顔をしている吉村に、続けて中澤はこう告げた。
「正直なところ、お前みたいなバカがうちのメインシステムに入ることなんかできやしない。だからこそ、今回私はお前を疑っていない。仮に疑うべき人間がいるならば」
中澤は、吉村に気づかれないよう、ほんの一瞬田村を一瞥し、
「もっと・・・頭のいいにんげんだろうなぁ。」
 このバカの面倒を頼む、とどこかで聞いたような台詞を残し、中澤は去っていった。
「大丈夫か」
「あぁまぁな。中澤も言ってたけど、本気で俺を疑ってる訳じゃねぇんだろう。納得はいかねぇけどな。」
「とにかくしばらくは部屋でじっとしてろよ。筆記の勉強もできてちょうどいいだろ。」
そう言って田村は、吉村の表情を一瞥すると、その場を足早に去っていった。

 吉村が自室謹慎中の一週間も、JAXAには普段通りのあわただしい日常が流れていた。最終試験に向けて訓練に勤しむ者、勉学に励む者、そして事件の真相を探ろうとする者。
 中澤はあの一件以来、教育主任として全体の観察をしながら、田村の動向をうかがっていた。あいつには何かがある、何かを隠している。証拠も根拠もないが、自分の長年の経験と勘がそう訴えかけていた。
 そうこうしているうちに一週間が経ち、吉村の謹慎が解かれた。普段何かと喧嘩っ早いところのある吉村は、こんな時ほど犯人探しに躍起になりそうではあるが、意外に落ち着いていた。
 「おつかれさん」
一週間ぶりに部屋から出てきた吉村に最初に声をかけたのは中澤だった。
「どうだ一週間部屋にこもってみた気分は。もう上司に生意気な口は利けなくなっただろう。」
この嫌味も一週間ぶりに聞いてみればずいぶんかわいいものに思えてくる。吉村はとりあえず、そうですねとだけ返し、まずは田村に会いに行こうとした。
「待て」
中澤は静かに吉村を呼び止めると、声をひそめてこう告げた。
「あの時盗まれたデータはどうやら今回の試験問題らしい。おそらく犯人は今回の試験の参加者の中にいるだろう。」
しばらく考えた後、わかりましたとだけ言うと吉村はその場を去っていった。

 試験までのこり一週間ほどとなったある日の夜。JAXA中央指令室では静かに何かが動き始めていた。指令室の影が、その動きを加速させていく。
「鍵は見つかったのか」
「いえ・・・身辺を調査してはいるのですが・・・」
ガシャンと何かをたたきつけられた。砕けた何かが小さめの影の方に転がっていく。再び静まり返った部屋に、男の声が響く。
「探し出せ、なんとしても。手段は選ばない。何十年も手間をかけられたんだ。失敗は許されない」
威圧的な声に気圧されるようにしながら別の影が答えた。
「では・・・強行手段に出てもよいということでしょうか・・・」
「あぁ、かまわん。鍵さえ見つかれば生死すら問わん。なんとしてもやつの残した鍵を回収するんだ。」
 月は必ず私が手に入れる。ひとり静かにそう言い残して指令室は空となった。机の上に取り残された一枚のファイルには、吉村楓の名が記されていた。
 
  4
 
 試験は実技、筆記と二日間にわたって行われる。昼からの実技試験が終わり、残すは明日の筆記試験のみとなった。
 吉村は、謹慎が解けてからのこの一週間ほとんど田村と話せずにいた。お互いに試験に向けての訓練が忙しかったというのももちろんあるのだろうが、それ以上に何か意図的に距離を取られているようなそんな気がしていた。
 じめじめと暑い夜。筆記の対策は謹慎中の二週間にしっかりと終えていた吉村は、ただ静かに明日を待つだけだった。だが、すべてが決する日を前にどうしても田村と話をしておきたいと思っていた。どうすべきか、悩む吉村の思考は、無機質な呼び鈴によって中断された。田村だろうか。ドアを開いた先には数人の男がいた。バチッという衝撃とともに吉村の意識は薄れていく。どこかで聞いたことがあるような、冷たく、重い声を耳にしながら、吉村は意識を手放した。
 
 翌日、試験十分前になっても、吉村は試験会場に現れない。不審に思った中澤が吉村の部屋を訪れると、先に田村が待っていた。
「何をしているんだ。もうすぐ試験だぞ」
なぜこんなときに彼がここにいるのか、いぶかしげに思いながらも吉村の部屋のドアを開けた時、中澤の疑念は確信に変わった。
「なんだこれは・・・」
荒らされた部屋、散らばった荷物。園長がくれた望遠鏡も、床に打ち捨てられていた。
「貴様か!」
中澤が声を荒げて田村に詰め寄り、胸倉をつかんだ。だが田村は顔を真っ青にして「なんてことだ・・・」とだけつぶやくと中澤を強引に振りほどき、望遠鏡のレンズを乱暴につかみ部屋を走り去っていった。
 田村が纏う緊迫感に一瞬気圧された中澤ではあったが、すぐに後を追う。今の反応はなんだ。あいつが部屋を荒らしたんじゃないのか。だとしたらいったい誰が、何のために。
 必死に後を追っていたがどこかの曲がり角で見失った。どこへ行った。流れ落ちた汗が静かに床を叩く。ロケットをイメージして円形にデザインされた本部で一度見失ったものを探すのは困難だ。どこだ、どこにいる。そんな中澤の耳に一発の甲高い破裂音が届いた。嫌な予感がする。中澤は破裂音が聞こえた方向、中央指令室の方へと駆けていった。

 こうなるような予感はしていた。あの眼は、あの眼をしている吉村は何も意図することなく、やっかいなことに巻き込まれてしまう。巻き込まれようとしてしまう。まっすぐに、何かをひたむきに追い求めてしまうから。五年前もそうだった。吉村は自分を責めたが、そうではない。すべての真実を手にしていたのは吉村だった。園長から「最後の鍵」を託されたのは吉村だった。
 あの一件以来、僕は調べ上げた。事件のこと、園長のこと、あの男たちのこと。そうしていくうちに僕は一つの事実にたどり着いた。
 園長は、JAXA本部の研究者であり、月面研究の第一人者だった。しかし、二十数年前ある研究の途中で自分に関するデータのすべてを持ち出し、失踪したらしい。僕はそのことを知ってから、星図に挟まっていた一枚のメモを手に、ずっとここに来ることを目指していた。吉村のように月に行きたいわけではなく、元研究者である園長の死とJAXAには間違いなく何かがある。園長の死の真相はきっとその中でしか知ることができない。
 そのときやってきた、新作戦遂行のための宇宙飛行士の公募の知らせ。園長の持つ技術、研究データを失ったJAXAがそれから二十年の時を経て推し進めようとする作戦。僕にとっても吉村にとっても、またとないチャンスだった。なんとか二次試験を合格し、ここに来られた僕は、暇さえあればここのことを調べた。
 そしてあの中澤から試験の日程が知らされた日の夜。僕は本部の情報管理課、そこに一台だけ残された旧式のパソコンを起動した。二十年以上前の、園長が使っていたパソコン。厳重にかけられたロックは、メモに記された数列が解除してくれた。そこには事件の真相と、園長が最後に関わった作戦のデータの鍵のありかが示されていた。
 データによって記されたものと、吉村が見せたあの眼。直感的に、僕は吉村に迫る危機を悟った。やつらと吉村を近づけるわけにはいかない。僕は去り際に試験データを抜き取り、監視カメラの映像をすり替えた。
 予想通り、吉村は一週間の謹慎処分とはなった。だがこんなタイミングで狙ってくるとは思いもしなかった。すべての鍵は今僕の手元にある。壊れた望遠鏡を片手に、僕は中央指令室のドアをこじあけた。

 訳がわからない。扉を開いた瞬間俺は誰かに襲われた。身体にはまだ若干の痺れが残っている。そもそもここはどこなんだ。俺は一体、どうなる。
 その時、ぱっと明かりがつけられた。誰かがいる、が、まだしっかり目を開けられない。
「よく来たね。新人飛行士の、吉村楓君」
次第に目が慣れてきた。視界がはっきりとすればするほど、思考はめまぐるしく展開される。なぜ。なぜこの人がここに。そこにいたのは、かつて俺に、月の魅力と、恐ろしさを語った人。
「園、長、、?」
俺たちを育てた園長が、目の前で笑っていた。

 ドアを開け、中央指令室にたどりついた田村が見たのは、呆然と一点を見つめる吉村と、その前で不適に笑う園長の姿だった。
「あのデータにあったことは本当だったんですね。園長」
園長は、田村の方に向き直ると、にこっとほほえみかけながらこう言った。
「君たちは本当によくやってくれたね。君たちを選んだ僕の目に狂いはなかったみたいだ。」
「どうして園長がここにいるんですか!あのときあなたは死んだ、俺たちもそれを見た。なのにどうして!」
未だ事態が飲み込めていない吉村が、園長に詰め寄る。
「近づくな吉村っ!」
田村が引き止めるのと、乾いた発砲音が鳴り響くのはほぼ同時だった。足を撃たれた吉村が地面にうずくまる。
「例の物は持ってきてくれたかい」
園長の声に暖かみは感じられず、無機質で冷たい声が淡々と用件を告げた。「これでしょう」そう言うと田村は壊れた望遠鏡を園長の下へ転がした。園長が手に取り、レンズを開けると、中から小型のマイクロチップを取り出した。投げ捨てられた望遠鏡は吉村の足下にコロコロと転がっていった。
「そう、これだよこれ。やはり君は昔からよくできる子だね」
男はマイクロチップをパソコンに繋ぐと、カタカタとキーボードを叩き始めた。田村は静かに吉村の手あてに回る。
「田村君、君はもうわかったかい。なぜ僕がここにいるか。」
この部屋には今、キーボードと三人の息づかいだけが存在している。田村は静かに答えた。
「一つ、僕が自信を持って言えるのは一つだ。園長は僕たちのことを‘田村君’なんて言わない。園長はいつも僕たちを‘楓、保’と呼んだ。」
吉村がはっと顔を上げる。田村は続けざまに言葉を投げた。
「園長が僕に残したデータには、園長がやっていた研究、その中でもクローン研究に関するデータが残っていた。ここに入ってきてあなたを見た瞬間、もしやとは思った。だけどそれは今確信に変わった。」
カタカタとリズミカルに鳴っていたキーボードの音が一瞬止む。
「あなたは本物の園長ではない。あなたは、僕たちの園長のクローン。そうですね?」

 銃声を手がかりに部屋に入ってきた中澤が見たのは、足を押さえてうずくまる吉村と、それを支える田村。そしてパソコンを操作する見覚えのない一人の男だった。
「ご名答。さすがだね田村君は。」
男は三人に背中を向けたまま話し始めた。
「だが少しだけ間違いがある。クローンは私じゃない。私はオリジナルなんだよ。」
 二十数年前、一人の研究者はある目的のために、月面研究とクローン研究を進めていた。
「世界は人々が知る以上にずっと複雑で、緊迫している。地球に居場所がなくなった今世界はどうすると思う?先進各国は競って月を目指しはじめたんだ。その中で一つの計画が動き始めた。要人のクローンを作成し仕事をさせながら、オリジナルを月に逃亡させる。天然の核シェルターとして、月に移住させるんだ。来るべき驚異に備えるためにね」
 研究も佳境にさしかかった頃、研究者のクローンが逃走した。研究資金のいくらかと、全ての研究データを持ち去って。
「しかし、問題が起きた。おなじDNAをもつクローンでも、どうやら性格までは同じではないらしい。これは大きな問題になった。クローンが自我を持つという問題。そしてそのうちの一体、ましてや僕のクローンが逃げ出した。データを持ち出してね」
 そしてクローンはその資金で孤児院を設立し、子どもを迎え入れ、育てた。クローンはいつしか子どもたちから園長と呼ばれ、幸福な時を過ごした。そして
「私のクローンの居場所がわかったのはそれから十年以上が過ぎた頃だった。平和的な解決を試みはしたんだけどね。彼は素直にデータを渡してくれなかった。いや正確には渡してはくれたんだけどね。」
 そして5年前の夜、園長はオリジナルに殺された。園長が渡したのは鍵がかかったファイル。そしてその鍵と、自らが知り得た情報は、自分が初めて迎え入れ、最も長い時を過ごした二人の少年に託した。
「そして君たちは、なんらかの力に引きつけられるようにしてここに来た。まぁ、君たちの住む町にビラをばらまいたのは私なんだけどね。誤算だったのは君たちが思った以上に優秀だったことだ。ここに君たちがいるのは自分の実力だと思っていい。いっそのこと君たちと一緒に仕事をしてもよかったかもしれないね」
 キーボードの音が鳴りやみ、男がゆるりとこちらに向き直る。手には銃が握られていた。
「なんにせよ、この場にいる君たちを逃がすわけにはいかないんだ。君たちにはここで殺されてもらう。」
男の指が引き金にかかる。
「やめろっ!」
中澤がそう叫んだのと、吉村が男に飛びかかるのとはほぼ同時だった。
「吉村っ!」
室内に煙の匂いが立ちこめた。銃声と、ドサッという音が空間に静かに流れた。

  5

 病院の一室で吉村は眠っている。あの時、吉村は無我夢中で足下にあった望遠鏡のレンズを掴み、男に飛びかかった。放たれた銃弾は確実に吉村の身体の中心を捉えていたが、握りしめられた望遠鏡に当たって軌道が少し逸れた。そのままもつれこむようにして男を押し倒し、中澤たちも駆けつけて男は捕らえられ、吉村は病院に担ぎ込まれた。
 急所はなんとか外れたものの、三日経った今も吉村の意識は戻らない。僕は園長に託された園長が集めた情報を今も持っている。クローンの軍事利用、汚い金の動き。男は理想を掲げていたが、ずいぶんと汚いこともしていたようだ。試験は再試験なども行われず、もちろん失格になったが、JAXAへの正式な就職が決まった。吉村の処遇についても意識が戻り次第何かあるのだろう。宇宙にはきっといける。そんな気がしていた。
 次に吉村が目を覚ますとき、彼は一体どんな眼をして、何を見るのだろうか。彼の眼がまたいつかの輝きを放っていることを静かに願いながら、僕は久しぶりに、本部の門をくぐった。

  エピローグ

 真っ黒な夜空に、大きく開いた穴から青い光が差し込んでいる。その光は緩やかに流れながら、白や緑を鮮やかに移ろわせていく。いつか見た光の向こうには、世界など存在しなかった。
 いいじゃないか、ここにも、光の向こうにも、何も無い訳じゃない。無いものは、作っちまえばいい。もしもごちゃごちゃ文句を言うやつがいるなら、黙って俺の前に出てきやがれ。俺が作る世界を、お前にも見せてやるからよ。

「ある夏の出来事」132136

「深瀬のことですよね?ええ、よく知っていますよ。」 
 そう微笑みながら語るのは、笑顔の素敵な阪本勝吾さん。彼と深瀬は保育園から高校まで一緒に過ごしていた幼なじみだそうだ。高校を卒業してからもよく飲みに行くほど親交が深かったようである。

「へえー。そんなところもあるんだ。」
 彼の隣でそう相槌を打っているのは、深瀬が舞台俳優をしていた時の仲間である高見将人さん。同じ養成所出身ということもあり、舞台で共演することも多く、非常に良きライバルであったそうだ。
 
「でもね、私が知っている彼はね。」
 二人に並んで深瀬について話している女性がいる。彼女の名は大石凛子さん。彼女は深瀬の元恋人であり、彼とは六年近く交際をしていたそうだ。彼を養成所時代から近くでずっと支えていた存在である。
 
 今、私はこの三人と共に深瀬について話している。このような状況になったきっかけは、三年前取材でとある舞台を観劇したことである。その舞台は、日本に住んでいれば誰でも一度は名前を聞いたことのあるほど有名なものであった。私の勤める編集社では、この舞台が再演される度に取材をして特集記事にするのだが、三年前は偶然にも私にその仕事が来たのである。そしてその時、俳優の深瀬陸翔に出会ったのである。チラシに大きく載っていたのは深瀬…ではなくその時日本だけにとどまらず、世界でも評価の高かった俳優であった。深瀬はというと、公演中一度だけ台詞があるだけで常に端のほうにいる村人の役をしていた。十人ほどいた村人の中で、私はなぜか彼から目が離せなくなってしまった。それはあるセリフを聞いた一瞬から始まった。
 
 「今という時間は戻らない。だからこそ後悔のないように生きようではないか。」

 このセリフだ。このセリフを言い放った彼はそれまでとは別人であった。凄まじい存在感を放った彼の虜になった私は、以降彼の出演する舞台はほとんど観劇するようになったのである。そして、数年に一人だけが世界で最も素晴らしい俳優と認められる賞を彼が受賞した今、彼についての本を出版するため彼を良く知る三人にインタビューをしているというわけである。

―まずは彼の幼少時代について。彼はどのような少年だったのでしょうか?
「深瀬はあまり活発な方ではなかったですね。なにかと消極的な方でしたから。」
 やはりこの質問に関しては幼なじみである阪本さんが一番初めに答えてくれた。
―それではあまりクラスメイトとの関わりはなかったということですか?
「いや、そういうわけではなかったんですよ。よくクラスメイトと話はしていましたから。」
という阪本さんの言葉に、凛子さんも続く。
「あ、学生時代のお友達の話は私も確かによく聞きましたよ。特に阪本さんの話が多かったかな。彼がよく阪本さんと小学二年生の時に、同じクラスになれて本当に良かった。って何回も言っていましたから。」


―二年生?お二人の間に何かあったんですか?
「ははは。あいつそんなに思っていたんですね。
 いや、実はね。さっきも言ったみたいに深瀬ものすごく消極的だったんですよ。だからクラスでも全然目立たなくて。でも一度話すとしばらく話していたいって思うほど、楽しいんですよ。言葉が多いわけではなかったのに。不思議ですよね。それをね、私は保育園の時から知っているわけじゃないですか。それに皆気付いていないことが悔しくて。だから勝手に推薦したんですよ。クラスの代表に。」
「そうそう!彼、人前に立つのが苦手だったらしくて、突然自分の名前を出されて本当嫌だったって。」
と、阪本さんも凛子さんも笑って言う。


―でも、阪本さんなら、彼が嫌がることも分かっていたのではないのですか?
「もちろん分かっていましたよ。でも彼の気持ちよりも、皆に彼のことを知ってもらいたい気持ちの方が強かったんです。今となっては本当に勝手なことをしたなって思いますけどね。」
「でも、嫌がっていてもあいつは結果的に良かったと思ったってこと?代表になってからあいつなんか変わったの?」
 確かに高見さんの言う通り、嫌な思いをしたのに良かったと思うのは難しい話である。阪本さんは高見さんの言葉に答えた。
「クラスの代表ってことで何かと深瀬は人前にたつことも増えたんですよ。だから必然的にそれまでより注目も浴びるわけで。それがきっかけで深瀬がクラスメイトと話す機会が増えたんです。それからですね、深瀬が少しずつ自分から発言するようになったのは。」
と、思い出すようにゆっくりと話す阪本さん。彼が消極的だったというのは驚きだ。私が知る限り彼は、積極的にオーディションを受け、俳優の仕事に取り組んでいた。もしかすると仕事に関してだけは積極的であったのかもしれない。


―彼が俳優を志したのはもしかしてその時からの変化に関係していたのでしょうか。
「さあ、どうなのでしょう。いつ動機を聞いても、なぜか私にだけは教えてくれなかったんですよね。」
「あ、それなら私知っていますよ。俳優を目指す決心をしたのは、私が高校生の時だったかな。えーっと、だから彼が大学生だった時ですね。その頃はまだ知り合って間もなかったんですけど、偶然チケットが手に入ったから彼をある朗読劇に誘ったんです。結構有名な朗読劇だったらしいんですけど私も彼も全く知らなくて。本当になんとなく行ったんですよ。いざ始まると、恥ずかしい話、私には全然分からなかったんです。高校生の私にはシェイクスピアは内容が難しかったのでしょうね。でも、ぱっと隣の彼を見たらとても真剣な表情をしていて、横から見ていても彼の目が輝いていることが分かりました。朗読劇が終わって、彼は人が変わったように話し出したんですよ。『あんなに言葉をきれいに話す人を初めて見た!』って。この朗読劇を見た時に舞台にたつ仕事がしたい、なんならあの人を超える存在になるのが自分の夢だって思ったそうです。」
と、頬を少し赤らめながら凛子さんは語る。


―彼がそこに行くのは運命だったんでしょうね。でも、その話なら阪本さんに話してもいいような気がするのですが…
「あ、それには理由があるんです。」
と、凛子さんは楽しそうに微笑みながら続ける。
「実は、この舞台を見に行って俳優になるって決めたらしいのですけど、もう一つ俳優になると決心した理由があるんです。それが阪本さんに関係しているんですよ。」
「え、私ですか?」
心底驚いた様子の阪本さん。
「彼に、音読の話したことないですか?」
という凛子さんの問いかけに少し考えてこう答えた。
「あ!もしかしてあれかな。一つだけ思い当たることありますね。小学校の時に国語の授業で音読する機会って多いじゃないですか。彼が音読してくれた時だけとても素直に物語が頭の中に入っていく感じがする。それを彼に、深瀬は本当に音読が上手い、言葉がとてもきれいだよな。というように伝えたことがあるんです。」
「そうそう。それが彼本当に嬉しかったみたいです。阪本も褒めてくれたから自信がついたって言っていました。」
「へー。昔から本を読むのが上手かったのか。」
と、阪本さんの話をうけて、高見さんが呟くように言う。


―学生時代から本を読むことが得意だったんですね。では高見さんにお尋ねします。養成所時代でも彼は本を読むことに対して注目されていたのでしょうか。
「ああ、舞台をするにあたって台本を読み合わせる本読みという活動があるんだが、あいつはずば抜けて上手かったように思うよ。なんていうんだろうな。あいつの想像している世界へ一気にひきこまれるようで、手に取るように世界が広がっていくんだ。だから純粋にあいつがいる時の本読みは楽しかった。でも同期として悔しいところでもあったよ。実際講師にもいつも言葉がきれいだって褒められていたからな。」
と、高見さんは笑いながらも時折悔しそうな顔を浮かべて話してくれた。この話を聞いた時、私は思った。彼の言葉を巧みに扱う才能に私は惹かれたのかもしれないと。彼の才能を語るには、初めて見たあのセリフを言い放つ彼の存在感は十分すぎるほどであった。それが証拠に彼が受賞した時の作品は彼が一人で行った朗読劇なのである。もちろんその舞台も見に行ったが、一人の人間とは思えないほどの圧巻の存在感を放っていた。


―言葉を扱う以外にも彼が得意としていたことはあったのでしょうか。
「あいつに言ったことはないんだけど、殺陣とかもそうだと思うよ。殺陣をする時って基本的に何人もいるでしょ。その中で目立つことが出来るのは中心にいる人であることが多いんだよ。でもあいつは一瞬にして目立つことが出来るんだ。それって本当にすごいことなんだよ。ただ目立つだけなら誰にでも出来るんだろうけど、あいつは必要な時にだけ一瞬にして存在感を放つんだ。恥ずかしい話だけど、何度か真似をしようとしたことがあったくらいだから。」
と、高見さんが言うように、殺陣を含む集団での演技の中で彼は一瞬にして主役かと錯覚してしまう程の輝きを放つ。一瞬で現れ、一瞬で去っていく流星のようである。
「でも、深瀬は子どもの頃から喘息で、運動が思いきり出来る体ではなかったんですよ。五十メートル走りきることも難しかったくらいですからね。殺陣ともなると相当な運動量があるでしょう?」
「殺陣は本当に体力がいる。言ってしまえば、殺陣に限らず舞台は全てにおいて体力がいるんだけどな。でもあいつが喘息だったなんて全く知らなかったよ。そういう素振りも見せずに相当な努力をしていたんだな。」
「そう、彼すごく努力家だった。養成所の頃から彼のこと見てきたけど、毎日家に帰ると何もせず、すぐに寝て体力を少しでも回復しようとしていたみたいです。自分の夢のためにまっすぐに走り抜けられる人だから。」
 この話のように喘息という役者にとっての大きなハンデを抱えながらも彼はそれを理由にせず、周囲と渡り合っていくための努力をしていたそうだ。彼は言葉を巧みに扱える才能を身につけていたとともに、努力で自分に足りないところを補い、自分の得意とすることをさらに磨いていた。役者としての鏡ともいえる存在なのではないだろうか。彼がこのまま俳優を続けていたらどのような存在になっていたのかそんなことにも考えがめぐる。


―彼は今回惜しくも俳優を引退してから、非常に名誉ある賞を受賞するという形になりましたが、それについてはどのように思いますか。
「嬉しくもあるし、ほっとする思いもあるという複雑な感じです。一人の俳優として世界で認められる存在になったという証拠である賞をいただけるほどの大きな存在になっていたということですから。それに彼はこうして世界で認められる存在になっても私にとっては、大切な友人です。そういった意味では友人として純粋に嬉しく誇りに思います。そして彼が俳優をすることに対する苦労も知っていましたから、それから解放されるといった意味ではほっとしているところもありますね。まずは、お疲れ様と言いたいですね。」
と、幼なじみであるからこそ得られる喜び、分かる苦労。そういったものを思い返すように阪本さんはゆっくりと彼への思いを語る。
 それに高見さんはこう続けた。
「俳優としてのあいつを一番良く知っているのは自分だったと思うし、それくらいと言っても過言ではないほどあいつのことを見てきた自信がある。世間では犬猿の仲だとかライバルだとか言われていたが、本当はそういうことではなく、純粋にあいつに対して憧れを持っていた。それほどあいつには俳優としての魅力があった。そんな素晴らしい俳優を失うことは悔しい。あいつの魅力を間近で見てきた俳優として、違う道に進むあいつの分も、誰しもに認められる俳優になりたいとも思う。深瀬のために。」
と、最も近しい存在であった俳優仲間として、彼への思いを告げるとともに自らの思いを強める言葉を語る高見さん。その目は、深瀬に一瞬にして宿る光と同じともいえる輝きを放っていた。
 彼らの言葉をうけて凛子さんはこう語る。
「とにもかくにも寂しいという思いでいっぱいです。俳優をしている時の彼は非常に輝いていてとてもかっこよかったです。そんな彼を見ることで勇気をもらっていました。彼をずっと支えているつもりだったのですが、いつのまにか彼のファンになっていたようで応援する気持ちでいっぱいでした。そんな彼の大好きだった姿をみることが出来なくなって本当に寂しい気落ちで、胸にぽっかり穴があいたようです。」
と、素直に寂しさを口にする彼女の表情は言葉通りとても寂しそうだった。

 彼に最も近い存在であると私が判断したこの三人から、彼の生い立ちや性格、俳優としての姿等の様々なことをインタビューという形で聞くことが出来た。
 この対談で明らかになった彼の情報を基に、彼についてまとめていこうと思う。


「よし。」
 しばらく向き合ってきたPCの画面を閉じると清々しい気持ちであった。原稿を書き終えたという充足感からくるものなのか、彼について書くことのできた満足感からくるものなのかは定かではないが。今からこの原稿を会社に持って行けばいよいよ出版か、なんて考えながらコーヒーに口をつける。この本が出来上がったら、出版することを快諾してくれた彼の両親と対談に参加してくれた三人には直接お礼をかねて渡しにいこう。
 
 ――出版予定は二〇一五年九月一〇日。
 この日は彼の三回目の命日なのである。


 彼について多くのことを知った今こんな言葉を思い出す。

「今という時間は戻らない。だからこそ後悔のないように生きようではないか。」

 彼は後悔のないように人生を生きることが出来たのであろうか。そんなこと誰にも分からない。しかしこれだけは言える。彼は死してなお夢に向かって走っていたと。

「いつもどおり」132103


 毎日同じことの繰り返し。男はいつもそう思う。
 男はいつもどおりの毎日に飽き飽きしていた。
 朝は6時に起きる。仕事のためだ。毎日6時に起きることには初めのほうは苦労した。遅刻しないようにたくさんの目覚ましを鳴らしていた時期もあったがもうとっくに慣れた。今では休みの日にさえ勝手に目が覚めてしまう始末である。目が覚めると聞こえるものは早朝から登山に向かう高齢者の雑談ばかり。それ以外には何もない。男がこの生活の場を選んだ理由の一つがこれである。
 静かなのだ。
 朝食は食パンとコーヒーである。朝起きた後は必ずコーヒーを沸かし、食パンを焼くことから一日が始まる。なんの変哲もない一日の始まりである。食パンもコーヒーもいつも同じメーカーのものを同じスーパーで買う。少し違うものを買おうとも思う時はあるのだがどうにも手が伸びない。
 7時には家を出る。静かで過ごしやすい代わりにとんでもなく通勤には不便な場所で、最寄の駅まで30分は歩かなければならない。音楽を聴きながら急ぎ足で歩く。急ぐのは好きではないが、これ以上早く起きるのは至極面倒なのだ。それに、起きてから少しの間布団に入っているあの「至福の時間」を無くすことは絶対にしようと思わない。
 面倒くさい。
 次は電車に乗る。最大の難関。痛い、狭い、息苦しい。この地獄のような時間を乗り切ればやっと会社の近くだ。会社までは後二分程度。
 仕事場に着くといつものように出勤簿にハンコを押し、机に着く。いつからこんなに汚くなったのだろう、と男は机を見て思う。男の机は散々に散らかっていた。あまりの光景に目を覆いたくなる。しかし仕事の重なっている今、机の掃除など悠長なことをやっている暇はない。こんな言い訳を頭の中で一通り繰り広げた後、仕事を始める。いつものことだ。
 30分もすると奴がやってくる。嫌味な上司。仕事場にはつき物だと働く前には聞いたことがあったが、これほどドンピシャで当てはまる人物がいると何だか自分がとてつもなく運が悪いように思えてしまう。
 「おはようございます」
 表面上だけの薄っぺらい挨拶をいつものようにする。
 「おはよう、石田君」
 野太い声が部屋全体に届く。男の名は石田といった。田中部長が続けた。
 「先週の件片付けたかね?」
 実は先週、取引先の会社への挨拶の際、後輩の社員が少し失礼をしてしまったようなのである。その謝罪を任されたのだ。「部長のあなたが行くべきでしょう」いいたいことは飲み込んで引き受けたがやはり謝罪というのはどうにも気が進まない。
 「明日の昼ごろにお伺いする予定です」
 「まだなのか、早めに頼むよ」
 どうしても嫌味な言葉に聞こえる。というのにも理由がある。少し間が空いた後、すたすたと自分の机に歩いていった。田中部長はこんな風によく仕事の話に事寄せて自分に話しかけてくる。
 仕事は毎日デスクワーク。とりとめもない資料を一つずつ確認しては入力する。見た目の割には骨が折れる仕事である。と、そんなことはどうでもいい。とにかく早く終わればいい。そんなことばかりを考えながら黙々とこなす。
 「おう、昼飯食いに行こうぜ」
 声に反応し時計を見るとなるほど確かに正午だ。伸びをしながら声の主のほうへ顔を向けると、裕也がいつものように微笑みながら立っていた。裕也は仕事もでき、明るく、同僚からの人望も厚い男である。自分とは比べるまでもないほど出来る男だと思う。この会社で数少ない心のそこから信頼できる人間である。
 「ああ」
 昼飯を食べる場所は決まっている。社内の食堂ではない。あそこは人が多すぎて落ち着いて食べることが出来ない。静かな場所が好きなのだ。裕也もこの考えに賛成だったらしい。初めて話したのもこの牛丼屋だったことははっきり覚えている。二人は会社を出て三分ほど歩いて牛丼屋に入っていった。いつもここでたわいのない話をするのだ。
 「田中部長は何で俺によく面倒な仕事を任せるんだろう」
 「期待されているからって思わないのか?気に入られているんじゃないのか?」
 「えっ」
 自分の思ってもみない回答が帰ってきたので一瞬フリーズした。だが石田には裕也のその意見を論破するだけの根拠となるできごとが思い浮かんだ。
 「でもな、あの部長は俺の大事なプレゼンのとき、責任者として同伴しないといけないのにプレゼンが始まる直前に家の用事か何か適当な言い訳をして帰っちまったんだぜ。始まる直前だ。考えられるか?どうせ大したプレゼンじゃなかったからどうでもよかったんだろうよ。それに気に入ってくれているのなら面倒な仕事なんてさせないと思うがな」
 裕也は口をつぐんだ。少し考えたようなそぶりをした後、
 「どうだろうな」
 と、簡単な返事をされた。勘定を済ませ、もときた道を戻っていく。
 午後からは仕事がもっと忙しくなる。といっても石田の所属する部署はそれほどつらい仕事の内容ではない。他にもっとしんどい仕事をしている人はいくらでもいるはずだ、と自分を納得させながら仕事に取り組む。
 仕事が終わった。
 仕事が終わるとぶらぶら家に帰る。帰りにつまみとビールを買って家で休憩する。しばらくして眠気がくると風呂に入る。風呂に入りながら今日あったことを思い出していた。確かにいつもどおりの一日だったが、たわいのない会話だったはずだったのに、裕也のあの言葉がやけに気になる。
 「期待されているからって思わないのか?気に入られているんじゃないのか?」
 少し考えた。この言葉だけはいつもどおりの会話には決して出てこないからだ。
 「……そんなわけないな。さあ、寝よう」
 独り言をつぶやきながら目をつむった。
 毎日毎日、遠い会社へ行き、しんどい仕事をして、おまけにそこには田中部長がいる。昼飯は裕也と食べるが、これも毎日同じ。変わるのはつまみの種類くらいなものだ。本当に嫌になる。
 石田は頭の中でこんなことを思いながら眠った。

 「いやー、疲れたな!」
 男にしては高い声が、社内の階段に響く。裕也の声である。今日はあの謝罪の日だった。
 もともとひとりで向かうはずだったのだが、裕也が手が空いているからといって付いてきてくれたのだ。二人で何とか相手先の会社に謝罪を済ませ帰ってきたところだった。
 「あー、疲れた」
 心のそこからの声だった。
 「まあ、でもこれでもう大丈夫だろう」
 裕也が自分の気持ちを代弁するかのようだった。
 そうだ。これでもう大丈夫だ。あの部長にまた自分で話しかけて報告しなければならないのが面倒だが……。そんなことをぼんやり考えていると階段の上に田中部長が現れた。ドキッとしたが、これでわざわざ会いに行く手間が省けたと思い呼びかけようとした。
 と、その時、田中部長がつまずき、こちらに向かって落ちてくるではないか。
 「うわー!」
 田中部長が悲鳴を上げる。
 やばい。
 分厚い背中が自分に近づいてくるのに恐怖する。両手を前に突き出し何とか支えようとした。が、何だこの重さは。たまらずそのまま二人して階段の下まで落ちていく。景色が二、三度回転した。
 ドン!
 石田は背中から倒れ、その上に田中部長が乗ってしまった。
 意識が朦朧とする中、
 「大丈夫か石田!」
 「大丈夫ですか!田中部長!」
 「誰か!救急車だ!」
と、裕也の声が何度も響いていた。
 そんなに大変なことになっているのか、と石田は思ったが、意識が遠のいていく。しばらくすると完全に目の前が真っ暗になった。

 目が覚めた。だれもいない。天国かとも一瞬思ったがそれは違った。周りを見渡すと、医者やナースが主人公のテレビドラマなどでよく見るような景色だった。
 そうだ。病院か。
 「ふう」
 思わずため息が出る。
 どこの病院だろう。そう思いながら窓をのぞいてみた。絵に描いたような秋晴れである。外では子どもたちがたくさん遊んでいる。赤と黄色のじゅうたんが向こうの山に広がっている。雲ひとつない。
 と、景色を楽しんでばかりもいられない。ここはどこなのだろう。
 部屋の外に出た。ナースがいる。目が合うと向こうから声をかけてきた。
 「どうされましたか、まだあまり動かないほうがいいですよ」
 「あ、すいません。ところで、ここはどこの病院なんですか?」
 「金森病院ですが」
 聞いたことがなかった。いや、少し聞いたことがあるような、ないような。
 「ありがとうございます」
 ここがどこなのかまだはっきり分かっていないが、まあいいだろうと安直に考えながらとりあえず部屋に戻った。
 なぜかぼーっとしてまだ頭が回らない。少しトイレに行きたくなり、歩き始める。
 「なんか、体重いよなあ」
 このときようやく体が不自然なことに気が付いた。おかしい。変だ。まず手だ。こんなにごつくはなかった。それに足。こんなに短くなかった。
 「え、なにこれ?」
 思わず声が出てしまう。自然と足早になる。
 「鏡、鏡」
 気が気でならない。なぜさっきまで気が付かなかったんだ。のんきに外なんて見てる場合じゃないだろうに。もう走っていた。病院の中ですれ違う人はみな物珍しげに走る男を見ていた。
 トイレに駆け込むと同時に鏡を見る。
 「だれだ?」
 思わず口をついた言葉がそれだったが、すぐにその言葉は正しくないと気づく。知っているのだ、その顔を。
 「田中……部長???」
 その時声までもが田中部長のものであることにようやく気づいた。
 冗談じゃない。
 なぜこのようになったのか分からない。というかこれは現実なのだろうかと自分の顔とは思えないようなぼこぼこの肌を触りながら考える。なぜこのようになってしまったのかということよりもこの現実が受け入れがたい。まだ26歳だ。一気に30年も年をくってたまるものか。これから結婚もするはずだし、家族が出来たら旅行にだっていく。まだまだ楽しいことはたくさんあるはずなんだ。石田は自分の未来が見えなくなり急に怖くなった。
 確かに、いつもどおりの毎日には飽き飽きしていたし何かしらの変化は欲しかった。
 「でもこれは違うだろう」
 思わず涙があふれて来る。他人の体に入り込むなんて状況、テレビドラマか小説の中だけの出来事だと思っていた石田はこの現実にまだ対応することが出来ない。
 何も分からないこの状況の中、あることが頭に浮かんだ。
 「俺の体は……?」
 そう、自分の体のことが思い浮かんだのだ。テレビドラマ、そして小説のなかの話のとおりであれば、ああなっているはずだ。そう思った石田は適当に着替え、自分の体を捜しに急いで病院を出て行った。
 
 走る。走る。走る。
 石田には自分の体のこと以外何も考える余裕がなかった。景色が次々と入れ替わる。しばらくすると自分が走っているスピードがとんでもなく遅いことに気が付いた。しかしそれでも走るしかないのである。
 都会の人ごみの中をひたすらに駆けていく。何事かと言いたげな視線が、50代ほどの走る男に向けられていた。

 「ふう」
 着いた。自分の家の近くの病院である。石田は自分が部長の、つまりこの体のクッションになったため、自分の体はもっと重症なのではないかと考え、ここに自分の体があるはずだと思ったのである。
 中に入り部屋を捜した。もちろん「石田」という名前の部屋である。二階にはなく、三階に上がってみると、見つけた。階段を上がってすぐ左の部屋である。
 中に入ると自分の体が横になっていた。予想していたとはいえ何と不思議な、いや気持ちの悪い光景だろうか。
 すると自分の体がむくりと起き上がりその目はこちらを見た。
 「石田、だな?」
 この人がこの事態に気づいていることに一瞬驚いたが、十分ありえることだと気持ちを切り替えて落ち着いて答えた。
 「はい、田中部長」


 そうだ、新しい生活だ。
いつもどおりに飽き飽きしていた石田にとって新しい生活はけっこう楽しみだった。もちろん体に不満はあるが。
 部長と会った後、石田は自分の病院に戻った。だから今日は病院から会社に出勤する。
 会社に着くと退院祝いだと社員たちが出迎えてくれ、いくつか土産までもらった。部長がここまで愛されていたのかと少し疑問を抱きながら机に着こうとした。
 いや、ここじゃない。
 思わず本当の自分の席に座りそうになったが何とか部長の席に着いた。社員はもちろん二人の体が入れ替わっていることには気づいていない。が、部長の不可思議な行動に少し驚いているようだった。石田は社員たちの隙間に自分の体を見つけ変な気分になった。

 あの日、部長と会ったとき、実は二つ約束事を決めたのだ。一つはこのことを決して他人に知られないようにすること。余計な混乱が生じてはまずいからである。もう一つはこの状況を元に戻す方法を探すということだった。そのときの部長は落ち着いていてとても頼りになる存在に見えた。
 
 その日は何とか家に帰った。やっとついた。何と部長の家はいつもの通勤時間の2倍もかかる遠い場所だった。そこら中からスズムシの音がする静かで空気のきれいな場所だ。辺りを見渡してみても背の高い建物など一つもない。家はなにやら少し古びた屋根瓦で、ごつごつした柱が二本、玄関の前に立っている。
 ドアを開けると部長の妻が出迎えてくれた。
 思わず目を見開いた。決して素敵とは言い難い外見の田中部長にこんなきれいな奥さんがいるなんて。
 「お帰りなさい」
 透き通った細い声だ。
 「お風呂沸いていますよ」
 帰ったら少し飲んでシャワーが当たり前だった石田にとって、お風呂がすでに沸かされているこの状況は天国のようだった。しかし決して裕福だとか高級だとかそのような感じは一切しない。少しづつ積み上げてきた部長の苦労の人生が目に浮かぶようなそんな家の雰囲気だ。
 「ん?」
 思わず声が出た。なぜだろう、この状況になってからどうも部長に対していい印象を持つことが多い。あれほど部長のことが大嫌いだったのに。
 「どうかされましたか?」
 「ん、いやなんでもない。風呂に入るよ」
 慣れないベルトをはずし、素っ裸になる。鏡を見るとやはり腹がぽっこり出てしまっている。あきれながら風呂に入った。
 風呂から上がると晩御飯。きれいに食器が並べられている。
 「どうぞ」
 奥さんが優しい声を発したそのときにはすでに箸は食べ物に向かっていた。
 美味い。美味すぎる。インスタントの日も少なからずあった石田はがっついた。


 食べているとき、奥さんがふとつぶやいた。
 「どうなの石田さんは?」
 思いがけない言葉に思わず食べ物をのどにつめる。なぜばれたんだろう。この中身が石田ということにどうして気がついたんだ。何かヘマでもしてしまったのか。ばれたらだめなんだという強い思いが正常な思考を麻痺させているようだ。
 「がんばっているんですか?」
 奥さんの声を聞きようやく初めの質問の意味を理解できた。なるほど、会社の部下である俺の様子を聞いているんだ。ばれちゃいない。でも、何でそんなことを聞くのか石田には分からなかった。ちょっと待て、がんばっている……?
 「ん、あぁ。そうだな。」
 奥さんは慣れた手つきで食後のお茶を入れている。
 「本当にまじめな方なんですね」
 「なんで?」
 思わず本音を口に出してしまった。なぜ部長の奥さんが俺のことをほめているのだろうか。
 「なんでって、あなたいつもいつも言っているじゃあありませんか。『あいつはまじめで仕事のできる奴だ。いつもがんばっているし、仕事を任せられる奴だ。』って」
 頭が混乱する。部長は俺のことを嫌っているのではないのか。いつも嫌みったらしく話しかけてくるのは俺の勘違いだったのだろうか。裕也の言葉が思い出される。
 『期待されているからって思わないのか?気に入られているんじゃないのか?』
 もし本当にそうだとしたらとんでもない勘違いだ。しかし石田の中にはもう一つ思うことがある。そう、あの日、プロジェクトのプレゼンの日無責任にも急に帰ってしまったあの行動は何なのだ。俺のことが嫌いだから、どうでもいいから帰ったはずだ。結局あのプレゼンは失敗した。自分が勝手に勘違いをしているのかもしれないと思った瞬間、どうしようもなく気が悪くなった。もう今日は寝ようと思い、お茶を飲むのをやめ、部長の部屋を探した。石田は部長の部屋を見つけると疲れていたのかすぐに眠ってしまった。
 
 「ん……」
 
真っ暗な部屋の中、目が覚めた。2時。暗闇の中、デジタル時計の文字が見えた。
 「ふう」
 どうにももう一度寝つくことが出来ずにぼーっとしている。
 体が入れ替わった後、こんなに落ち着いて時間を過ごすことは初めてだった。電気をつけてみる。と、辺りには本がたくさん読み散らかされた跡がある。どれも仕事関係の本ばかりだ。相当勉強をしているに違いない。そういえばいつも部長がくれたアドバイスは自分には嫌味に聞こえてはいたもののすさまじく的確なものだった。
 ふと、机の上にある日記に目が留まった。他人の日記を見るのには抵抗があったが、いまはその人自身なのだからと適当な言い訳を作りページを開いた。と、そこには信じられない文章か書かれていた。『石田は本当に真面目だ、俺も見習わなくては』、『出来る限り上司としていいアドバイスをしてやりたい』、『多くのことを任せて、もっと経験をつんでほしい』、『どうにも上手く話しかけれない。自分の不器用さにあきれる』
 胸が締め付けられた。これほど自分のことを気遣ってくれていた上司に対して、ひねくれた気持ちにしかなれなかったことが心底悔しいのだ。
 ゆっくりと、あの日のページを開く。そこにはこう書かれている。『本当に申し訳ない。妻が倒れたとはいえ、あいつにしてみたらとんだ迷惑だろう。妻が無事でよかったが。』いよいよ自分が情けなくなる。仕方ないではないか。一つの出来事だけでその人のことを決めつけてしまっていたことに気付く。
 「ふう」
 大きく息を吸い込み、深呼吸をした。
 石田は電気を消し、再び静かに眠った。
 6
 次の朝、部長の姿をした石田は会社の階段を意気揚々と上がっていた。石田は部長に少しでも恩返しをしようと考えた。そして、いつか身体が戻ったときのために部長の仕事を全力でこなして、楽にさせてやろうと考え付いたのである。幼稚かもしれないがこれくらいしか出来ることはなかったのである。
 すると、おとといまでの自分の声が近づいてくる。裕也と二人で歩いているようだ。すこし懐かしいような不思議な気持ちになる。と、その時、自分の姿をした部長がつまずき、こちらに向かって落ちてくるではないか。
 「うわー!」
 自分が悲鳴を上げている。
 やばい。
 思っていたよりも分厚い自分の背中が自分に近づいてくるのに恐怖する。両手を前に突き出し何とか支えようとした。が、何だこの重さは。たまらずそのまま二人して階段の下まで落ちていく。景色が二、三度回転した。
  ドン!
  部長の姿の石田は背中から倒れ、その上に石田の姿をした部長が乗ってしまった。
  意識が朦朧とする中、
  「大丈夫か石田!」
  「大丈夫ですか!田中部長!」
  「誰か!救急車だ!」
 と、裕也の声が何度も響いていた。
 
  目が覚めた。と、会社の中である。ぼやけた視界の中、部長の顔をとらえる。
  「ん?」
  おかしい。部長は俺のはずだ。もう一度目を凝らすと、今度ははっきり見えた。
  「石田!」
  「部長!」
  二人が同時に叫ぶ。信じられない。たった一日で元に戻ったのである。
 
 次の日の朝、石田はいつもの自分の部屋でコーヒーを沸かしていた。また、いつもどおりの生活が始まるのだ。石田はいつもどおりには飽き飽きしている。これから電車に乗って会社に行って、仕事をして、そして帰ってから少し休んでまた眠るのである。いつも通りだ。
 でも、なぜか気持ちはいつもより少し晴れやかだった。
 石田は会社に着くと自分の席に座った。机がきれいに整頓されていた。部長の仕業だろう。部長はまだ来ていない。30分するといつものように部長がやってきた。昨日までのことを何事もなかったように自分の席に向かっていく。近づいてくる。石田はぱっと立ち上がり、
 「おはようございます!田中部長」
 部長はびっくりしたようだったが、少し間が空いて、
 「おはよう」
 と嬉しそうに笑顔で答えた。
 石田も自然と笑顔になる。いつもどおりとは少し違った朝だった。

「カエル」 132206

 K大学のフットサルサークルRebelの飲み会はいつも荒れる。大学の近くのフットサル場を借りて二時間ほどフットサルを楽しみ、いつもの居酒屋で飲み会が始まる。昨日も例のごとくコールにコールが重なり、いじられキャラの俺はたらふく飲まされ途中からまったく記憶がない。どうやって家に帰ってきたのか見当もつかない。しかし、服は乱れているものの、毎回きちんと家のベッドで朝を迎えることはひとつの才能だと思う。Rebelに入ってから半年以上経つが、未だに路上で朝を迎えたことは一度もない。なにか胸糞悪い夢でも見たようだ。汗で体にシャツが張り付いている。今日も二日酔いをこじらせた重たい頭をフル稼働させ、二限目にある心理学の講義の発表の準備にとりかかる。
 大学に入るまではこんな生活がうらやましくて仕方がなかった。一年余分に勉強していた分その思いは積もりに積もり、大学に入ったら誰よりも遊んで大学生活を謳歌してやると意気込んでいた。そしてRebelに入部したのも自然な流れだった。合格が決まったその時から、あちこちのサークルの新歓イベントに顔を出し、飲み会という飲み会すべてに参加した。もう毎日がお祭りで、楽しくて仕方がなかった。特に、高校でサッカーをやっていたことからフットサルサークルの新歓イベントでは大活躍できた。ひとしきりサークルを回った後、ろくに考えもせず、かわいい子が多かったのと、一番飲み会が楽しかったという理由だけでRebelというフットサルサークルに決めてしまった。まさかあのような事件が起こるとも知らずに。

「K大学の一年生に大量の飲酒をさせたとして、同大学三年生五名を傷害致死、保護責任者遺棄致死の容疑で逮捕しました。また、同大学の・・・」
 朝から気分の悪いニュースがリビングから聞こえてくる。しかし、あわただしく朝の身支度をする者たちにとってはただのBGMにすぎず、誰も見ていないし気にも留めていない。アナウンサーの声がむなしく朝の喧騒に吸い込まれていく。
「またK大か。」
 発表の準備を終え、資料をかばんに入れながらひとり呟く。ふと、かばんに着けていたカエルのストラップがなくなっているのに気づいた。昨日居酒屋からの帰りにどっかで落としたかな。気に入っていたわけではないが、今まであったものが急になくなるとそれがどんなにくだらないものでも居心地か悪くなる。今日もくだらない講義を受け発表をこなす。そのためだけに電車を乗り継ぎ四十分かけて大学に向かう。特に何も変わらない、いつも通りの不毛な一日が始まる。ひとつため息をこぼし、リビングに向かって、いってきますと声をかけ玄関を出る。返事はない。なんてことはない、これもいつも通りのことだ。
 大学に着くとまず掲示板を確認する。その日の休講情報が掲示されているからだ。
「二限 心理学 休講」
 いつもならガッツポーズでもしてスキップで昼寝のできる食堂へ向かうところだが今日は違う。朝から二日酔いに苦しみながら資料を準備したあの苦労が全くの徒労に終わってしまったからだ。いらいらしながら和樹に電話した。
「お、おうハル、ど、どした。」
和樹こと山本和樹はRebelで出会った同期の奴で、学部は違うが馬が合うためいつも一緒にいる。俺のことをハルと呼ぶのもこいつぐらいだ。春川玄太という名前から、「玄太」ではなく「春」を取った物好きは和樹が初めてだった。Rebelや心理学科の奴らはもれなく玄太と呼ぶ。呼びやすさと覚えやすさを兼ね備えた素晴らしい名前だと思う。三限は出席を取らない一般教養の講義だったので和樹を呼び出して今後の日本について語り合おうと思い電話を掛けた。
「いや、昼寝だろ。」
 さすが親友。すべてお見通しだ。
「いいよ、付き合うよ。」
 こういうところが和樹を親友たらしめているところだ。ほかに友達がいないと言ってしまえばそれまでだが、基本的に人と群れるのが嫌いだし、和樹がいればなにも困ることはなかった。いや、むしろ和樹がいなければ今の俺はいなかった。酒も女遊びも和樹が教えてくれた。和樹はおれに大学生が大学生として生きるメソッドを教えてくれた恩人なのだ。和樹は俺とは真逆の人生を歩んできた。春川家には十一時の門限があり、家に帰ると医者の父が勉強の進捗具合を尋ねてくる。息子も医者になると信じ切っている父を裏切ることはできず、ただひたすらに勉強し名門のK大に入学した。対照的に和樹は、まったく勉強もせずに夜な夜な街を徘徊し、夜遊びに精を出しながらその天才的な学力で余裕釈釈、特待生でK大に入学した。俺が和樹に勝てる要素は一つもなかった。しかしひがむようなことは一切なく、むしろここまで人として差をつけられて気持ちがよかった。俺はすべてを受け入れた上で和樹と付き合っている。そのことを理解している和樹は酒の選び方からキャバクラの作法まで余すことなくいろいろと教えてくれた。俺にとって和樹が大学生の、男の正解だった。それはまだ半年間崩れることはなく、むしろ確信となっていった。
 いつもの待ち合わせ場所についても和樹の姿はまだなかった。しかしあいつが待ち合わせに遅れないことの方が珍しいためなにも不思議に思わなかった。ベンチに腰掛け、来る途中で買ったアイスコーヒーを飲みながら今日発表するはずだった資料を眺めていると、着信音が鳴った。和樹だ。
「どうした和樹、遅いよー。」
 返事はない。
「おい、和樹!今どこなんだよ!」
 少しの沈黙があって、和樹は答えた。
「なあ、ハル。なにかおかしいと思わないか。」
「なんなんだよ」もったいぶっている和樹に少し苛立ちながら答える。
「お前今日朝起きてから何人と会話した?」
 どこかいつもと違う和樹に違和感を覚える。
「変なこと聞くなよ。何が言いたい。」
「いいから答えろ。」
 いつもふわふわしている和樹がこんな風になるときは素直に従うようにしている。
「誰とも話していないよ。」
 確かに俺は今日朝起きてから誰とも会話していない。リビングにいる家族とは挨拶も交わしていないし、学校に来てからも電話で和樹と話しただけで誰とも話すことはなかった。いくら友達がいないからと言って掲示板のところで軽く挨拶を交わすぐらいの中の友達は何人かいる。言われてみれば確かに違和感は感じるが、しかし、別に気に留めるほどおかしいとは思わなかった。
 なぜこんなことを聞くのかと理由が気になった。
「やっぱりおまえもか。」
 和樹はそう答えた。友達が少ない俺とは違い、学内でもちょっとした有名人である和樹が誰とも話していないとなると確かに何かがおかしい。ただ和樹が電話の向こうで何を考えているのかが全く分からなかったので直接会って話そうと言った。
 ほどなくして和樹は待ち合わせ場所に来た。なにか神妙な面持ちでこっちに向かってくる。いつもの陽気な和樹ではない。和樹は俺の隣に座るなりおもむろに口を開いた。
「ここじゃだめだ。人が多すぎる。場所を変えよう。」
 有無を言わせぬ強い語気でそう言い放つと、足早に非常階段の裏に簡易的に作られた喫煙所へと入っていった。入るや否や睨み付けんとばかりにキッと目を見開いて俺に向き直った。
「お前、昨日のこと覚えてるか?」
 喫煙所には先刻までたばこをふかしていたであろう、誰かの煙がまだ立ち込めていた。Rebelの飲み会で死ぬほど飲まされたとこまでは覚えているが、それからは記憶がない、と答えた。
「実はさっき図書館で本を読んでいたら、ある噂が聞こえてきたんだ。Rebelで人が死んだって。」
 Rebelで人が死んだ?そんな情報は聞いたことがないし、昨日飲み会があったばかりだ。しかもRebelの奴からもそんな連絡は入ってきていない。
「何かの間違いだろ。ただの噂じゃないのか。」
 強いまなざしをこちらに向けたまま和樹は答えた。
 「今日の朝のニュース見たか?今日の朝早くに明が死体で発見されたんだ。居酒屋を出て駅と反対方向にある、鶴見川で。あちこちに刺し傷があったらしい。」
 明はRebel俺を誘ってくれた同期の奴で、サークルではいつも和樹と三人で遊んでいた。まったく予想だにしていないことだったため素直に受け入れることができなかった。
「そ、それが俺たちが誰とも会話していないことと、何の関係があるんだよ!」
 自分でも驚くほど大きな声が出た。
「昨日、飲み会が終わった後、俺とお前と明の三人で駅と反対方向に歩いて行ったのを見たってやつがいるらしいんだ。」
 なんだか笑えない状況になってきた。
「川で騒いでいる大学生の姿も確認されているらしい。」
 この後に続く言葉はもう大体想像できた。
「俺たちが明を殺したと思われてる。」
「俺たちが明を殺すわけがないだろ!」
 つい激高してしまった。しかし本心だ。俺たちが明を殺すわけがない。
 和樹の話では、明は誰かともみ合った形跡があるらしく、死んだ明の手にはカエルのストラップが握りしめられていたらしい。
 和樹の肩越しに大学職員と歩いている警察の姿が目に入った。何も考えていなかった。きつかるとまずいと思い和樹の手を引き、咄嗟に隠れてしまった。
「俺たちは明を殺してなんかいない!真犯人を探そう!」
これが俺と和樹の逃走劇の始まりだった。
 あれから家には帰らず大学にも行かず、カラオケやネカフェを転々とし身を潜めた。友達からも親からも電話やメールがたくさん来たがどれも無視した。警察の捜査の手から逃れながらも、事件の真相を探った。天才・山本和樹は警視庁の捜査ファイルにハッキングし、今回の事件のデータを抜き出した。これを和樹があっさりやってのけた時はさすがに震えた。犯罪すれすれ、いやもはや犯罪者である。
「被害者は沢井明。加害者は山本和樹と春川玄太。やはり警察は俺たちを犯人だと疑っている。」
 わかっていたことだが、いざ現実を突きつけられるとすこし堪える。そうだ、俺たちの姿を見た奴から話を聞けばなにかわかるかもしれない!
「目撃者は誰なんだよ。」
 和樹は少し間をおいてから答えた。
「徹だ・・・。」
 徹は根暗でフットサルがうまいだけが取り柄の、Rebelの中では少し、いや、かなり浮いている奴だった。フットサルを遊び程度に楽しみたい俺らにとっては疎ましい存在で、幾度となく小競り合いをしてきた。当然のことながら徹も俺たちを嫌っていただろう。徹に犯人に仕立て上げられたのかと思うと腹が立って仕方がなかった。
「徹の家に行こう。」
 おれは和樹に提案した。しかし、一瞬で却下された。
「むりだ、リスキー過ぎる。警察に通報でもされたらどうする。」
 しかし徹が俺たちを犯人に仕立て上げている可能性がある以上、あいつにパンチの一発でも食らわせなければ腹の虫がおさまらない。しかも徹が何かを知っている可能性もある。
 お前が行かないなら、おれは一人でも行くぞ。
 もう大学から帰っているであろう時間を推し測り、和樹がトイレに行った隙に徹の下宿先へと向かった。一度行ったことがあるだけだったが迷うことなく来ることができた。インターホンを押しても返事はなかったため、玄関先で張り込むことにした。少し経ってあたりはすっかり暗くなり、街灯に明かりが灯りだしたその時、誰かが俺の肩をたたいた。慌てて振り向くとそこには和樹が立っていた。
「脅かすなよ!」
 小声で咎めると、
「急にいなくなったのはお前の方だろ!」
 と小声で言い返してきた。
 和樹と物陰に身を隠し、徹の帰宅を待っていると少し酒に酔って上機嫌な徹が帰ってきた。
「くそ!俺たちがこんな目にあっているのにあいつはのんきに晩酌かよ!」
 つい心の声が出てしまった。
 徹が家の鍵を開け、扉をひらいた瞬間に二人は一斉に走り出した。扉が閉まる瞬間に和樹が足を挟み込んだ。すぐに徹は俺たちの存在に気づき扉を閉めようとしたが、その時にはもう和樹が徹を抑え込み、おれは鍵を閉めた。
「徹、よくもでっち上げてくれたな!」
第一声俺は叫んだ。すぐに和樹が続けた。
「徹、お前が見たことを全部話せ。」
和樹の声は脅迫的で、怒りですこし震えていた。
「な、なんでお前がここにいるんだよ!何しに来たんだよ!」
徹はおびえながら言った。
「いいから話せって言ってんだろが!」
俺は目の前で震える徹に対して怒りを抑えられなかった。
すると和樹はおもむろにカバンからサバイバルナイフを取り出し、こう言った。
「お前が見たことを全部話せ。その内容によってはお前を殺さなくちゃならない。」
俺は和樹が何を言っているのか訳が分からなかった。
「お、おい、和樹!なにも殺さなくてもいいだろ!」
和樹は何も答えない。すると徹が震えながら答えた。
「お前と玄太が口論しながら駅と反対側に歩いていくのが見えた。」
「続けろ。」
和樹は冷たく言い放った。
「変に思った俺は、そばにいた明と一緒にお前らの後についていくことにした。川についてしばらくお前らは言い争いをしていたが、急に玄太がお前に殴りかかった。劣勢になったお前はカバンからそのナイフを取り出した。その瞬間に明はお前らを止めに入った。明がお前にタックルしたときにはお前は玄太を刺してしまっていた。怖くなった俺はそこで逃げた。俺が見たのはそれだけだ!」
おれはもはや訳が分からなくなっていた。俺と和樹が殴り合い?和樹が俺を刺した?
「警察には何を話した。」
無表情のまま和樹が言った。
「面倒なことに巻き込まれたくなかったから、お前らが駅と反対方向に口論しながら歩いて行ったことしか言ってないよ!」
徹は一気にしゃべったせいか、酒のせいか、顔を真っ赤にして答えた。
「口論、というのは余計だったな。まあ見たくもないものを見てお前もさぞつらかっただろう。すぐに楽にしてやるからな。」
 そう告げると、和樹は徹の顔の前にナイフを突き出した。腰を抜かした徹を見て、そばにあったビール瓶で思いっきり徹の頭を殴打した。
「おい、和樹、な、なにして・・?」
俺は吐き気を催しトイレに駆け込んだ。初めて人が人を殺すところを見てしまった。ただでさえ徹の訳の分からない話のせいで頭が混乱していたのに。
トイレから出ると和樹はベランダから徹を落とそうとしていた。和樹の行動が全く読めず、必死に止めようとしたが間に合わなかった。力なく落ちていく徹を見てまた吐き気がした。
「おい、説明しろよ・・・。」
たくさん言いたいことはあったが、必死に押さえつけて和樹に言った。
和樹は何も答えず自分の腕にナイフを突き立て、あふれ出る血を刃に塗った。
「徹君は沢井明と春川玄太と山本和樹を刺し、罪悪感から飛び降り自殺っと。まあ悪くないストーリーだな。」
「和樹!答えろよ!」
もう我慢できなくなった。飛びかからんとする勢いで叫んだ。
「大きな声を出すなよー。さっき徹が話した通りだよ。俺はお前を殺した。明も俺が殺した。そしてたった今徹も俺が殺した。これで満足か?」
邪魔臭そうに答える和樹が俺にはわからなかった。
「邪魔だったんだよ。俺の人生に低次元の人間を関わらせたくないんだよ。わかるか?お前は口論になった理由も覚えてないんだろう。俺はお前に、自分の将来を親に決めてもらうような人間はクズだって言ったんだ。そしたらお前はカッとなって殴りかかってきた。図星だったんだよ。あの大学にはお前のような人間が腐るほどいる。親が医者だから、親が政治家だから。いずれみんな機械が今以上に精密に仕事してくれる時代が来る。そしたらお前らみたいな考え方してるやつらは何の価値もなくなる。仕事もなくなってのたれ死ぬのが運命なんだ。だからこの意見に歯向かう奴は早いうちに殺してやるのさ。この国がゴミで溢れないようにな。しかし、お前から電話が掛かってきたときは正直驚いたよ。まさか死んだ奴から電話がかかってくるなんて思わなかったからな。」
誇らしげに話す和樹が、もはや遠い存在に思えた。
「お前は、なんなんだよ・・・。」
「俺は、この国の王になる人間だ。」
和樹がそう言い放った瞬間目の前が真っ白になった。


 目が覚めると自分のベッドにいた。なにか胸糞悪い夢でも見たようだ。汗で体にシャツが張り付いている。そうだ、昨日はRebelの飲み会があったんだ。二日酔いをこじらせた重たい頭をフル稼働させ、二限目にある心理学の講義の発表の準備にとりかかる。
「K大学のバスケットボールサークルの飲み会で一年生に大量の飲酒を強要し死亡させたとして、同大学三年生五名を傷害致死、保護責任者遺棄致死の容疑で逮捕しました。また、同大学の・・・」
 朝から気分の悪いニュースがリビングから聞こえてくる。しかし、あわただしく朝の身支度をする者たちにとってはただのBGMにすぎず、誰も見ていないし気にも留めていない。アナウンサーの声がむなしく朝の喧騒に吸い込まれていく。
「またK大か。」
 発表の準備を終え、資料をかばんに入れながらひとり呟く。ふと、かばんに着けていたカエルのストラップがなくなっているのに気づいた。昨日居酒屋からの帰りにどっかで落としたかな。気に入っていたわけではないが、今まであったものが急になくなるとそれがどんなにくだらないものでも居心地か悪くなる。あれ、カエルのストラップ・・・。
「また同大学のフットサルサークルに所属する一年生沢井明君が鶴見川の川辺で何者かによって殺害されているのが発見されました。また、その下流で同じサークルに所属している一年生の春川玄太君の水死体が発見されました。二人の胸には刺し傷があり、何らかの事件に巻き込まれたものとして警視庁は捜査を進めています。」

「ステレオタイプ」 132131

 ステレオタイプ
登場人物
ゼウス・・・男1
セイ ・・・男2
シイ ・・・女1

 明転、ゼウス登場、舞台上を探し回る。

ゼウス  セイよセイはおらぬか!

 セイ、上手から顔だけ出して登場。客席に対してアピール。
 ゼウスはセイを見つけられない。

セイ   はい!ゼウスお父様!セイはここにいます!
ゼウス  セイ!そんなところに!こっちへ来い!

 セイ舞台中央へ

ゼウス  セイ・・・お前にはとことん失望しておる。
セイ   えっ、何のことで・・・
ゼウス  馬鹿者!ここへ座れ!よし・・・自分の行いを思い返してみよ。
     何も恥じることはないというのか?
セイ   恥じること?恥じること・・・うーむ・・・申し訳ありませぬゼウスお父様。
     セイは自分の行いを思い返してみましたが、恥じることは思いつきませぬ。
ゼウス  馬鹿者!よく考えてみよ。もっと深く考えてみよ。
     この世に生を受けてから現在に至るまで、全ての時を思い返してみよ。
     それでもお前の中に恥じるべきことは見つからぬというのか。
セイ   全ての時!うーむ・・・申し訳ありませぬゼウスお父様。全ての時を思い返してみましたが、セイの時の中にはゼウスお父様に恥じるべきこと、砂漠の砂一粒ほども思いつきませぬ。

 ゼウス全身を使って苦悩

ゼウス  大馬鹿者!ならばヒントをやろう。
セイ   デーデン!
ゼウス  ノリノリなのが非常に腹立たしいが話が進まん。今回は目をつぶろう。
セイ   ありがとうございます!ゼウスお父様!お返しにセイも目をつぶりまする!

 セイ両目を固く閉じる

ゼウス  馬鹿者!お前は目を見開いてわしの話を聞くのだ!

 セイ慌てて目を開きゼウスを熱心に見つめる

ゼウス  よし。ではヒントだ。セイよ、わしがお前に与えた仕事を覚えておるか?
セイ   ええ!それはもう!もちろんですとも!
ゼウス  よろしい。ではそれはなんであったか、下界に暮らす者たちにも聞こえるような大きな声で言ってみよ。

 セイ深呼吸

セイ   ゼウスお父様がセイに与えられた仕事!それは下界に住む者に「生きること」を与え、その道が曇らぬようこの天上の地から照らし続けることであります!
ゼウス  そうだ。それがお前の仕事であったな。
どうだ?何か思い当たることは無いか?
セイ   はい!ゼウスお父様!

 一呼吸置き無言で見つめあう二人
 ゼウスは困惑、セイは満足気

ゼウス  えっ。
セイ   はい?
ゼウス  いや、だから無いかって。
セイ   はい!
ゼウス  えっ。
セイ   はい!ゼウスお父様!
このセイ、心の底の底まで潜り思い当たることを探してみたものの、何も見当たりませんでした!
ゼウス  こいつ・・・
セイ   申し訳ありませぬ!ゼウスお父様!・・・教えてはもらえませぬか!
     このセイ、お父様から与えられた使命を精一杯果たしているつもりでございます!何が!このセイに何が足らぬのか教えてはもらえませぬか!
ゼウス  よかろう・・・これを見よ。

 ゼウス、セイに紙を渡す

セイ   下界アンケート?
ゼウス  そうだ。下界の者達、特に人間に対してとったアンケートじゃ。死後、自らの人生を振り返り、「満足した」「不満がある」の二通りで答えてもらった。もちろん無記名だ。
セイ   な、なんですかこの結果は!
ゼウス  うむ・・・わしもこの結果を見て驚いたわ。
セイ   「満足した」0%・・・
ゼウス  「不満がある」100%。これがわしが怒っておった理由だ。
セイ   しかし、ゼウスお父様!セイは下界の者達に「生きること」を与えるだけでなく、宇宙に光る満点の星のように喜びや楽しみまで与えております!何が、いったい何が、下界の者達には満足できないのでございましょう?
ゼウス  弱ったことにわしにもそれが分からんのだ。・・・すまぬセイよ、一時の感情に流されお前を怒ってしまったこと、ここに深く謝ろう。
セイ   いえ、ゼウスお父様。ゼウスお父様が謝ることではありませぬ。このセイがゼウスお父様から与えられた使命を果たせていなかったのです。
ゼウス  わしは良い息子を持った。誇りに思うぞセイよ。
セイ   ゼウスお父様。

 二人抱擁

ゼウス  さて、考えていかねばならぬのは下界の者達が何に満足していないかだ。
セイ   詳しいことは分からぬのでございますか?
ゼウス  うむ、実は今シイにそのことを調べてもらっておってな。
セイ   シイお姉様に!
ゼウス  もうそろそろ帰って来るのではないかと思うのだが・・・

 シイ下手から登場

シイ   地球っておかしなところね。みんな仲良く暮らせばいいのに。
ゼウス  おお!シイ帰ってきおったか!
シイ   ただいま。お父様。
セイ   お帰りなさいませ!シイお姉様!
シイ   ああ、セイもいたのね。ただいま。
ゼウス  疲れているところ悪いのだが早速本題に入ろう。シイよ、どうだったのだ?
     下界の者達が何に満足していないか分かったか?
シイ   ええ、直接色々見てきて分かりましたわ。
ゼウス  おお!
シイ   お父様、下界の者達は「死ぬこと」を求めております。
ゼウス  それは・・・真か?
セイ   シイお姉様、それはいくら何でも・・・
シイ   本当なのよ、本当なの。

 シイ、二人を見つめる
 ゼウス、セイ困惑

ゼウス  わしが地球を作り、その上に人間を作ってからどれだけの年月が経ったのだろうか。人間は常に「生きること」を求めてきおった。いや、人間だけではなく
     全ての下界の者達も。それが「死ぬこと」を求めておるだと・・・
シイ   いえお父様、違いますわ。
ゼウス  ん?何が違うというのだ?
シイ   下界の者達ではないの。人間だけなの。「死ぬこと」を求めているのは。
ゼウス  人間だけ。
セイ   人間だけ?
シイ   そう。人間だけ。
ゼウス  何故だ。何故人間だけ・・・
シイ   疲れたみたい。
セイ   疲れたとは!いったい何に!
シイ   「生きること」

暗転
明転、舞台上にはセイとシイ

シイ   ねえ、セイ。元気出しなよ。
セイ   しかし、お姉様、人間が「生きること」に疲れたと言っているのでしょう?
シイ   う、うん・・・
セイ   セイの責任です。ゼウスお父様だけでなく、シイお姉様にも迷惑をかけて。
シイ   そんなことないわ。セイは何も悪くない。
セイ   ゼウスお父様にも同じようなことを言われました。しかし人間たちが「生きること」に疲れたと言っているのです。これは誰が何と言おうとセイの責任ではありませぬか。
シイ   ううん。セイだけが悪いんじゃない。私の責任でもあるわ。
セイ   シイお姉様の?
シイ   ええ。人間が「死ぬこと」を求めていることに気付けなかったのは私の責任よ。
セイ   いいえ!そんなことありませぬ!全てはセイの責!シイお姉様やめてくだされ。
シイ   いいえ。私の責任。お父様から下界の者達に「死ぬこと」を与え、その最後の瞬間を後悔無きものとして見送るように言われていたのにそれができなかった私の責任。
セイ   シイお姉様・・・
シイ   だからね、セイ、元気出して。じゃないと私まで悲しくなってくるわ。

 うつむくシイとそのシイの様子を見て焦るセイ

セイ   シ、シイお姉様!分かりました!分かりました!セイは元気です!と、とりあえず、ゼウスお父様が評議会から帰って来るのを待ちましょう!何か良き対策を見つけ出してくれるはずです!

 シイ顔を上げる

シイ   セイ・・・そうね。待ちましょう。お父様なら・・・そうね。きっとそうよ。
セイ   ええ!あのゼウスお父様です。きっと大丈夫です。
シイ   セイは優しいのね。
セイ   何をおっしゃいます!シイお姉様こそ。セイはシイお姉様に何度励まされたことか。
シイ   そういうとこよ。
セイ   えっ?
シイ   そういうとこが優しいの。私が落ち込んでるといつもあなたは励ましてくれる。さっきだって、自分がどんなに苦しんでても目の前の私を元気づけようと・・・まるで太陽みたい。
セイ   いや、そんな!
シイ   そんなじゃないの!あなたは優しいのよ。認めなさい!
セイ   うっ・・・えっ、あっ、は、はい!
シイ   ふふっ、それでいいの。素敵よ。
セイ   シイお姉様・・・あまり褒めないでくだされ。照れまする・・・
シイ   あら、照れないでもいいじゃない。本当のことを言ってるだけよ。
セイ   本当のことと申しましても・・・
シイ   これだけ優しくて素敵なセイだもの。結婚する相手が羨ましいわ。
セイ   け、結婚など!えっ、セ、セイがですか?
シイ   あなた以外にこの場に誰がいるのよ。

 客席を見渡すセイ

セイ   たくさんの視線は感じるのですが・・・誰もおりませぬな。
シイ   ね!
セイ   しかし、シイお姉様、結婚などと・・・このセイにはまだ早ようございます。
シイ   そうかしら?
セイ   シイお姉様・・・やめてくだされ。
シイ   しょうがないわね。じゃあ好きな子は?それぐらいいるでしょ!
セイ   おりませぬ。
シイ   嘘でしょ。
セイ   嘘ではありませぬ!セイは嘘はつきませぬ!
シイ   あなたの場合、つかないんじゃなくてつけないんでしょ。
セイ   ぐ・・・
シイ   でも、もったいないわ。あなたほど素敵な夫なんてこの世界のどこを探しても見つからないのに・・・
セイ   そ、そんな、シイお姉様!これ以上からかうのはやめてくだされ!
シイ   あら、本当よ。私が結婚したいぐらいだもの。
セイ   シイお姉様!冗談でもそういうことを言うのはおやめくだされ!

シイ、セイを見つめる
セイ、困惑

シイ   セイ・・・
セイ   は、はい?
シイ   私のこと好き?
セイ   は、はい!もちろんですとも!セイはシイお姉様のことが大好きでございます。
シイ   どれくらい?
セイ   どれくらい!?それはもうこれぐらい、あ、あれぐらいでございます!
シイ   あれぐらいってどれぐらいよ。
セイ   えーっ、あ、も、もうやめてくだされ!シイお姉様!

 セイ下手へハケる

シイ   セイ!・・・

 ゼウス下手から登場

ゼウス  おお、シイ、さっきすごいスピードで走っていくセイとすれ違ったのだが、何があったのだ?あいつわしのことも気付かなかったぞ。
シイ   下界のことで忙しいみたいよ。セイも責任感じちゃってて。
ゼウス  ああ、悩ましい。だが、下界の者達も我が子であることに変わりはない。人間というのもまた我が子。わしの子どもたちが心を痛めているというのに・・・
シイ   お父様大丈夫?
ゼウス  うむ、子どもたちが苦しんでいるのを見るのがな・・・なかなか・・・
シイ   お父様はお優しいから。
ゼウス  ふふ、そうか?
シイ   ええ、とてもお優しい。
ゼウス  娘からそのような言葉をかけられるとは・・・嬉しいものだな。
シイ   このような言葉で喜んでいただけるのならいくらでも。
ゼウス  わしは良き娘を持った。
シイ   ありがとうございます。そういえば、評議会の方はどうでしたの?
ゼウス  うむ、難しいな。「生きること」ことが疲れたという人間に対し今以上に「死ぬこと」を与えよという意見もあった。しかし事はそう簡単ではないのだ。
シイ   そうですわね。私も「死ぬこと」を与えてきたから分かります。
ゼウス  どうすればよいのだ・・・
シイ   お父様・・・少しお休みください。
ゼウス  しかし・・・
シイ   お父様!その状態では良き考えも浮かびません。こんな時こそ心身共に休ませることが大切なのでございます。
ゼウス  ・・・そうだな。少し寝るとしよう。すまぬな。
シイ   いいえ、お父様が謝ることではありませんわ。
ゼウス  ふむ・・・してお前は来ぬのか?
シイ   嫌ですわ、お父様。休むと言ったじゃないの。
ゼウス  共に休もうぞ。
シイ   まったく、お父様ったら・・・

 シイ、ゼウス上手へハケる
 セイ、周りを警戒しながら下手から登場

セイ  シイお姉様ぁ〜・・・よし、いない!まったくシイお姉様のご冗談にも困ったものだ。しかし、何か無いものか。人間は「生きること」の何に疲れておるのだ・・・何故「死ぬこと」を求めておるのだ・・・考えよ・・・考えるのだ・・・

 その場で眠るセイ
 シイ、服を直しながら上手から登場

シイ  汚された!またまたまたまたまた!何!全知全能ってそんなに偉いの!私はアイツにこそ「死ぬこと」を与えたい!下界の者達に与える全ての「死ぬこと」をアイツに浴びせかけたい!この宇宙の全てのことを知ったつもりでいるアイツの苦痛に歪む顔が見たい!そのためにはどんな犠牲も払うわ!許さない・・・絶対に・・・

 シイ、眠っているセイに気付く

シイ  セイ・・・あなたは私の切り札。もう私の手の中なの。

 シイ、セイを起こす

シイ  セイ!セイ!
セイ  ん、ああ〜、寝ちゃってたのかぁ〜
シイ  セイ!

 シイ、セイに抱きつく

セイ  シ、シイお姉様!い、いったいどうなされた!
シイ  セイ!あなた言ったわよね!私のこと大好きって!
セイ  またその話ですか!シイお姉様、いい加減に・・・
シイ  アイしてる!
セイ  は、はい?
シイ  私あなたをアイしてる!落ちついて聞いて!
セイ  えっ、いや落ち着けって言われましても・・・
シイ  セイ!お願い!お父様を殺して!
セイ  は、いや、シイお姉様何を・・・
シイ   黙っててごめんなさい!私ずっとお父様にひどい目にあわされてきたの!お父様の手癖が悪いのあなたも知ってるでしょ!私ずっと我慢してきたわ!だけどもう限界!それにあなたをアイしてしまったの!私があなたのことをアイしているとお父様が知ったら・・・私何されるか・・・
セイ   シイお姉様!何か道が!
シイ   セイ・・・あなたしかいないの・・・
セイ   シイお姉様・・・
シイ   セイ・・・
セイ   ・・・

 セイ、腰の剣を抜き上手へハケる

シイ   ・・・・・・よねぇ。

 セイ、血を浴びて上手より登場

セイ   シイお姉様・・・
シイ   ああ、セイ!
セイ   ・・・

 崩れ落ちるセイ

セイ   この道しかありませんでした・・・
シイ   えっ?
セイ   私はセイお姉様も、ゼウスお父様もアイしていました・・・

 セイ、客席を向いてこと切れる

シイ   ・・・・・・よねぇ。

 暗転
 明転、舞台上にはシイのみ

シイ   人間が「生きること」に疲れたのはセイが様々なものを与えすぎたからです!
     人間から一切の娯楽と仕事を奪いなさい。これで人間は「生きること」に疲れることはないでしょう!

 シイ、舞台奥に少し下がる

シイ これで現実逃避もできなくなったわ。残ったのは疲れる人間関係のみ。特に愛ね。
   ますます「死ぬこと」を求めるでしょう。大忙しだわ・・・
   愛、五十音の初めの二文字に何の価値があるのかしら。
   男ってホント馬鹿よねぇ!

 暗転、終幕

「つながり」132109

 十五階立てのあるマンションの一室。そこには三人の親子が住んでいた。母親と父親、そして翔の三人家族である。母親は専業主婦で、翔は小学校に通っている。父親は夜遅くまで仕事があり、翔はいつも家に帰る時間にはもう寝てしまっていた。

 まだまだ朝には早い、時刻は深夜の一時ごろ。いつもは朝になるまでぐっすり寝ているはずの翔が目を覚ました。翔はもう朝かと思って窓を見るが、もちろんまだ外は真っ暗である。
  まだ朝になっていない。
そのことがわかった翔は再び眠ろうと布団をかぶった。布団をかぶりさあ寝ようと目を瞑った時、翔はふすま一枚隔てた向こう側から声が聞こえることに気づく。その部屋は、いつも翔たちがご飯を食べたり、テレビを見たりする部屋、いわゆるリビングであった。
  女の人と男の人の声が聞こえる。
その二つの声は、翔の母親と父親の声であった。
  お父さん帰って来てたんだ。
翔の寝る布団はふすまのすぐ隣にあるため、隣の部屋の音が聞こえてしまう。普通の声でもある程度会話の内容がわかるくらいに声は聞こえた。そのため、翔には二人の会話が自然と聞こえてくる。
「いちいちなんだ。俺は疲れているんだ。家に帰ってからくらいゆっくりさせてくれよ。」
「仕事で疲れているのはわかるけど、そんな言い方しなくていいじゃない。」
初めはそれほど大きくはない声であったが、声はしだいに大きくなっていった。
どんどん会話の内容がエスカレートしていく。
翔にその話の詳しい内容はわからなかったが、二人が険悪な雰囲気であることはわかった。そんな両親の言い争う声を聞きながらでは、瞼を閉じてじっとしていても眠ることはできずない。
しばらく二人の言い争う声が続いていた。そんな時、急にポツリと父親が言った。
「もう、ダメだな。」
その声は小さな声であったはずなのに、翔にははっきり聞こえた。
  何がダメなのだろうか。
翔には初め、その言葉の意味がよくわからなかったが、その言葉を似たような場面でテレビドラマの中で見たことを思い出した。それは、女の人と男の人が別れ話をしている時に出てきた言葉であった。
  もしかしてお母さんとお父さんは「別れる」のだろうか。
そう翔は考えたが、両親が別れてしまうことに対して特に何も感じなかった。
ただ、自分はお母さんと一緒に行く。それだけを考えて、父親がいなくなってしまうことに対しては別にいいやと思っていた。
 母親はいつも自分の話を聞いてくれたり、一緒に遊んだりしてくれる。けれど、父親は朝早くに家を出て、夜遅くに帰ってくる。翔がそんな父親に学校や友だちの話など聞いてもらうことはほとんどなかった。翔にとって父親とは、自分のことより他のことを優先する人。そんな父親は、別にいてもいなくても変わらないものだと思っていた。
 先ほどの言葉が出た後、二人の会話はなくなっていた。外で鳴いている虫の音が聞こえるくらい、静かになっていた。隣の部屋からはただ母親の泣く声だけが聞こえていた。
  お母さんを泣かせるお父さんは悪い奴だ。でも、大丈夫。
  これからは僕がお母さんのこと守ってあげるんだ。
  お母さんを泣かせるお父さんなんていなくてもへっちゃらさ。
 母親が泣いていることで、翔は父親を責めた。翔は、母親の元に行き、大丈夫だよと言おうとしたが、少しだけ空けたふすまの間から見えた母親の姿を見て止めた。
明日も学校だから早く眠らないと、そう翔は思い再び眠ろうとした。でも、目を閉じてじっとしているのになかなか眠ることができない。
  眠れない時は、そう、何か楽しいことを考えたらいいんだっけ。
  今日は、大地くんと遊んだな。
  最初は大地くんの家でゲームをして、その後駄菓子屋に行って、それから……。

翔が次に目を開けた時、翔の目の前には大地がいた。そして周りには、たくさんの親子連れがいた。少し向こう側にはクマのきぐるみが風船を持って、子どもたちに渡している。翔は遊園地のちょうど玄関を抜けたところにいるようであった。。
「おい、何ボーっとしてんだよ。早く行こうぜ。」
「え、あ、どこに行く?」
「初めはやっぱり定番のジェトコースターだよな。あれに乗ろうぜ!」
「え、いきなりジェットコースターはちょっと……。あ、あれとかいいんじゃない?」
「どれどれー。お、あれも面白そうじゃん。じゃあ、あれな!」
 翔はジェットコースターに乗るのが得意ではなかった。むしろ苦手で乗るのは避けたいと思っていた。というのも、今まで一度だけ乗ったことはあったが、その時怖くて泣いた思い出しかなかった翔にとってジェットコースターは乗りたくない乗り物第一位であった。そのため、ジェットコースターには乗らなくてもいいように大地を誘導したのである。
 二人は手始めに、翔が指を指した乗り物、コーヒーカップに乗ることにした。そのコーヒーカップは、赤、青、黄色とカラフルな色合いで、真中にウサギと帽子をかぶっている男がティーカップを持ちお茶会をしている様子の置きものが置いてある。そんな風景は某お茶会を連想させた。乗り物もコーヒーカップと言うより、ティーカップのようであった。
「俺コーヒーカップって初めて乗るんだ。でも、ちゃんと乗り方は知ってんだぜ。」
大地は、さも予習はばっちししてきたので何ら問題はないというように、自信たっぷりに言った。
  コーヒーカップってカップに乗って、くるくる回るのをゆったり楽しむ乗り物だよね。
  コーヒーカップに乗り方なんてあったかな。
 翔はその言葉に首をかしげながらも、じゃあ安心だなと適当なことを言っておいた。この後、もっと乗り方について確かめておけばよかったなと翔は後悔することとなる。
 では、スタートします。
説明があった終わった後に、開始のアナウンスが流れた。コーヒーカップが回り始める。
ゆっくりとコーヒーカップが回り始めたその時、大地は自分たちが乗っているコーヒーカップの中央にあった支柱のようなものを持った。翔も安全のためにその支柱を持っっていたが、大地は支柱を持ち、それを回転させ始めたのである。
「えっ、大地。な、何してるの。」
 翔はティーカップの中央部分にある支柱はただ持つためのものであると思っていた。しかし、実はコーヒーカップの種類によっては、中央にある支柱を回し、より回転を増やすことができるものがあった。そしてよりにもよってこのコーヒーカップはそのタイプ。その支柱を回せば、回すだけ回転数が多くなっていく。大地のいっていたコーヒーカップの乗り方とは、この回転数を増やし、コーヒーカップを勢いよく回しながら乗る乗り方だったのだ。
「何って回すんだよ。それがコーヒーカップの正しい乗り方なんだぜ。まあ見てなって。しっかりつかまっておけよ。」
  え、ちょ、まって!
 翔は状況が把握できず、とりあえず大地を制止しようとするものの、大地は勢いよく支柱を回し始めた。回された支柱とともに、コーヒーカップの回転数も増えていく。だんだんと、しかし確実に早くなっていく。周りにある他のコーヒーカップと比べ、翔たちが乗っているコーヒーカップだけが異様に回転していた。大地は勢いを増していく回転に気を良くして、もっともっとと回転を増やしていく。それに対して翔は、初めのうちは何とか止めようとしていたが、大地の勢いに負けてしまう。また、回転が増したコーヒーカップには遠心力がかかり、今迂闊に手を放したり、気を抜いてしまえば、翔は飛んで行ってしまいそうであった。
  回転が速すぎて、周りの景色もよくわからい。目も回ってきた。
 翔は何とか飛んでしまわないように必死にコーヒーカップのふちの部分にしがみついて、早く乗り物が止まることひたすら願った。
「いえーい!」
 大地は翔のそんな姿なんて見えていないかのように、乗り物が止まるまで心底楽しそうに、止まるまで回し続けた。

「いやあ、初めて乗ったけどほんと面白かった!もう一回乗ろうぜ。」
 大地がそんなことを言っていたが、翔はもう疲れきり、呆然としていた。口から何か出ていきそうであった。
「さっきはお前が決めたから、次は俺が決めるぜ。」
 次は……、あれだ!
 そう言って大地は少し向こうにあった、海賊船を指さした。その海賊船はゆったりと左右に揺れている。乗っている人も絶叫なんてしていない。
  これならいける。
 翔はそう思い、次はその海賊船に乗り込んだ。海賊船に乗り込み、前にあるバーを持つ。そして、安全バーをさげようとした。が、安全バーがついていない。
「え、安全バーがついていないよ。ベルトもない。場所変えてもらおうよ。」
「何言ってんだよ。もしかしてこれ乗るの初めだった?」
大地はそういうと、これは安全バーも安全ベルトもないまま乗るものだと説明した。
「そうは言っても、高いところまで上がっていたよ。落ちるよ!」
「これはこういうもんなの。俺落ちたことないし大丈夫だって。」
そんなことを言っていると無情にも開始のアナウンスが流れた。もう翔は腹をくくるしかなかった。乗り物が動いてから、翔は落ちてしまうのではないかと恐怖しながらも、申し訳程度についているバーをぎゅっと握り続けた。手から汗が出てきて、少し滑りそうになった時は泣きそうになった。
  後もう少しで終わる!
 翔はそう思いながら終わるのを待ち続けていたが、ある時、海賊船が垂直になった。それは、本当に垂直になったのではないが、翔には体感的に垂直に感じたのだ。それからだんだん低くなっていき、終わりを告げるアナウンスが流れる。翔はもう垂直になった時から呆然としていた。ただ、大地に声をかけられて終わったことだけわかった。翔にとっての恐怖体験が終わった。後は、降りるだけである。降りてから、とりあえずベンチに座ろうと歩いていくがなんだか気持ち悪い。海賊船に乗った時、お腹のあたりが何回かふわっとする感覚があった。その感覚が思ったよりも翔にダメージを与えていたようだ。
「おい、大丈夫か?」
翔は口を手で押さえながらベンチで座って落ち着くのを待った。
  もうこれには乗らない。
翔は心に決めた。苦手な乗り物が一つ増えた。
 
 翔たちはしばらくベンチで座っていた。すると、だんだん翔の体調も落ち着いてきたようだった。
「なあ、もういいか?次行こうぜ、次。」
 大地は、ずっとまだか、まだかと翔に話しかけていた。翔の体調も何のその、ただただ遊びたいという気持ちでいっぱいのようであった。
  もう大丈夫だが、まだ休憩しておこう。
 翔は大地の言葉なんて聞こえていないかのようにふるまい、ジュースを飲んだ。
「なあ、早く行こうぜ。早くー。」
「……そんなにいうなら仕方がないなあ。でも次は僕が決めるからな。」
「何でもいいよ!とりあえず遊びたい!」
  次は何に乗ろうか。
 翔は辺りを見渡すが、周りにはジェットコースターや急流すべりなど絶叫系ばかりが集まっていた。絶叫系は嫌だ。でも、下手に乗ったことのないものに乗ってもさっきみたいになってしまうかもしれない。
「あれはどう?」
 翔はそこから少しは離れているところを指さした。指をさした方には遊園地の定番と言ってもいい乗り物。メリーゴーランドがあった。メリーゴーランドは馬に乗ったり、はたまた馬車に乗ったりすることができる。比較的小さな子どもも楽しめて、大人もゆったり楽しむことのできる人気の乗り物である。
「メリーゴーランドに乗るのかよー。あれって子ども用だろ?つまんないよ。」
「じゃあ、僕だけで乗るから別に大地は来なくていいよ。」
「そんなこというなよなー。」
 翔が一人でメリーゴーランドに向かっていくので、大地は嫌そうにしながらもしぶしぶといった感じでついて行った。
 
「俺これがいい!これが俺の馬な!」
 先ほどまでの言葉はどこにいったのだろうか。子ども用の乗り物だと言っていたはずなのに、自分が乗る馬をはりきって決めている。
「おい、あんまりはしゃぐなよ。」
 一応声をかけるがあまり聞こえていない様子である。周りにいる人たちが微笑ましそうにこちらを見ていることに気づき、翔は恥ずかしくなって下を向いた。安全のためのアナウンスが流れ、メリーゴーランドがゆっくりと動き出す。特に激しい動きをすることもなく、ゆったりとした時間が流れた。馬が上下に動き、翔は本物の馬に乗ったこともなかったが、まるで本物に乗っているかのように感じた。今まで散々な目にあった翔はこのメリーゴーランドに乗ることができ、満足気であった。隣にいる大地は動き出してから、ますますテンションがあがり、騎士になりきっていた。
「さあ行くぞ!俺についてこい!」
「そんなこと言って、落ちてもしらないぞ。」
 翔は呆れながらも、自分も手綱を握って一緒に騎士になって遊んだ。

 それから、お化け屋敷に入ったり、迷いの迷宮と言う宝探しをするゲームをしたりと色んな乗り物に乗ったり、ヒーローショーを見たりした。
お化け屋敷では大地が大人しくなったり、ヒーローショーでは翔が本物のヒーローに会う事ができて感動したりといったことがあったりした。二人は時間も忘れて遊び回っていたが、とうとう太陽が傾き出し、辺りはすっかり夕日に染まっていた。
「もうこんな時間になっちゃったよ。そろそろ帰らないと。」
「えー。」
 まだまだ僕も遊んでいたいが、心配させてしまう。大地ももう少し遊びたいようであったが、二人で出口の方へ歩いて行った。出口の方へ歩いて行くと、段々人が多くなっていく。人が多くて通りにくい。
「何かあるのかな?」
「あっ!あそこでパレードやってるぜ。あれだけ見て帰ろう!」
大地はそう言い、僕をおいて人ごみの中へ走り出した。
「ねえっ、待ってよ!」
 僕ははぐれないようにと、必死に大地の後を追いかけた。大地を追って人ごみの中に入ったはいいものの、辺りには自分よりも背が高い人ばかり。人ごみに苦戦していてもおかまいなく、大地は上手に人と人との間をすり抜けていく。
 ついには大地の姿は見えなくなり、翔は人ごみに流されて見覚えのないところまで来てしまっていた。
 何とか体制を整えようと、とりあえず人ごみから抜け出す。しかし、人ごみから抜け出せたはいいものの、気が付けば知らない場所にいた。
  どうしよう。どうしよう。どうしよう。
 翔が不安になっているうちに、あんなにいた人ごみはいなくなっていた。翔はいつの間にか一人になっていたのだ。そのことに気付いた翔は不安に押し潰れそうになって、その場に座り込んだ。
  大地が気づいて探してくれるかな。
  もし、このまま気づいてくれなくて、遊園地にずっと一人きりだったりしたら。
  誰にも気づいてもらえず、家にも帰れなかったら。
 翔の頭には嫌な考えばかりが浮かんだ。そんな時、前にも似たようなことがあったことを思い出した。
  そういえば前にもこんな風に一人になった時があったな……。
  
 それは、翔の七歳の誕生日の日のことであった。その日は父親も休日であり、久しぶりに家族みんなで遊びに行こうということになった。そこで近くにある遊園地に遊びに行ったのだ。遊園地に行くことは、翔にとってその時が初めてであり、翔はめいいっぱい楽しんだ。メリーゴーランドでは母親と一緒に乗って、外から見守る父親に手を振ったり、コーヒーカップでは父親と母親と一緒に乗った。
翔にとってその日は家族とともに過ごした思い出に残る一日になった。
そんな時、事件が起こる。様々な乗り物に乗ったり、ショーを見たりと一通り楽しんだ後、両親は流石に疲れたようで、休憩のためにベンチに座っていた時だった。
父親が飲み物を買いに行き、母親が少し目を離した時、翔は向こう側にクマのきぐるみがいるのを見つけてしまう。そのクマのきぐるみの元に翔は走って行ってしまった。そのことに母親は気付かず、丁度パレードの時間であったらしく、その人ごみに巻き込まれてしまう。
しばらくして人ごみからは脱出することができたが、翔は母親たちがいる場所から離れたところに来てしまっていた。
「お母さん……。お父さん……。」
さっきまではクマのきぐるみや人ごみに夢中であったので気付いていなかったが、ついに翔は母親がいなくなっていたことに気づいてしまう。翔はその事実に、胸が不安でいっぱいになり、泣きだしてしまう。
不安から泣いていた時、翔は父親の言っていた言葉を思い出した。
「迷子にならないようにちゃんとお母さんの手を握っておくんだぞ。だが、もし迷子になってしまって、近くに建物がない場合はへたにその場から動いては駄目だ。その場でお母さんかお父さんがくるのを待つんだぞ。絶対にお前を見つけるからな。男の子なんだから泣いては駄目だぞ。」
その言葉を思い出し、翔は泣くのを我慢して、翔は父親の言葉の通り、その場でじっと両親が来るのを待った。
どれくらいの時間が経っただろうか。実際はそんなに時間は経っていなかったが、翔はとても長い時間が経ったように感じた。
今まで虫の鳴き声しか聞こえていなかったが、足音が聞こえた。その足音は段々近づいて来た。
足音はすぐ近くで止まり、翔は顔をあげた。
「翔!良かった無事で……。」
「お父さん!」
翔を見つけたのは父親であった。翔は安心して、思わず父親に抱きついた。
「僕、ちゃんと、お父さんの言うとおり、じっとして待ってたよ。泣かなかったよ。」
翔の顔には涙の跡がしっかりと残っていたが、父親はそのことに関しては何も言わなかった。服が湿っても何も言わなかった。
「……そうか、頑張ったな。流石男の子だな。お前が無事でよかったよ。でも、もう勝手に一人で行くんじゃないぞ。」
「…うん。もう勝手に行かない。」
それから翔は父親の手をそっと握った。それから言葉が交わされることはなかったが、二人はしっかり手を繋ぎ、母親の元へと歩いて行ったのだった。


  あの時はこうしてじっと待っていたら、お父さんが見つけてくれたんだっけ……。
  お父さんの声が聞こえた時、思わず安心して泣いちゃったんだよな。
 翔は遊園地であったことを思い出し、頭の中に今まで意識することもなかった父親と共に過ごした思い出が浮かんだ。母親に内緒でおいしいものを食べに行ったこと。父親の大事なコップを割ってしまった時には、怒らずに怪我はないかと心配してくれたこと。そして、父親と母親と一緒に水族館や買い物に行ったこと。
今はもうほとんど会話もできていないが、父親と翔の間には確かに楽しかった思い出があった。
  最近は土曜日や日曜日であったも全然一緒に遊びに行けていない。
  でも、そういえば、いっつも僕にごめんなって謝っていたな……。
 翔がある程度大きくなってからは、父親の仕事が忙しくなり、めっきり遊びに行くこともなく、話す機会も少なくなってしまっていた。しかし、父親は自分のことを見ていなかったわけではない。大切に思っていなかったわけではなかったのだ。
  お父さん……。
 父親の名を呼んだ時、目の前が真っ暗になった。

 翔は目を覚ましたが、周りはまだ真っ暗。朝にはなっていないらしい。
  とても怖い夢を見た。とってもリアルだった。
翔は先ほどまでの事が全て*イであったことに安堵した。
「……起してしまったか。すまない。」
ふと上から声がして翔は横を向いた。
隣には父親が座っていて、翔の額には父親の手が置かれていた。父親の手は、温かく、大きな手であった。
父親は起してしまったかと、額から手を離し、その場を離れようとしたが、翔は父親の手を掴んで言った。
「……怖い夢を見たんだ。僕が寝るまで、手を繋いでいてよ。」
翔は布団に顔をうずめ、父親の方はを向いてはいなかったが、その手はしっかり父親の手を握っていた。
「ああ、お前がもう怖い夢を見ないようにちゃんと眠るまで手を繋いでいる。安心して眠れ。……おやすみ翔。」
「……おやすみ、お父さん。」
翔はその言葉を聞き、親の手の温もりを感じながら目を閉じた。先ほどとは違い、今度はすんなり眠れる気がした。怖い夢なんて見ない気がした。
  今度は楽しい夢が見たいな。
  大地と遊ぶのもいいけど、お父さんとお母さんが出てきたらいいな。
  一緒に遊びに行く夢。
  次の誕生日は、一緒に遊びに行けるかな。また、前に行った遊園地に行きたい。
  今度は良い夢が見れますように……。
  
まだまだ朝には早い、時刻は深夜の三時ごろ。
十五階立てのあるマンションの一室。そこには三人の親子が住んでいた。

「ぼくのなつやすみ、わたしのなつやすみ」132126


1.健一


高校二年の夏休み。
俺は、田舎で民宿を営む祖父母の家へ向かった。

「こんにちは~…。ばあちゃん?」
カラカラ、と引き戸を開けてそおっと声をかけると、薄暗い奥からパタパタと小走りで近づいて来る音がした。
「あら〜!健ちゃん!よう来たね〜!!」
快活な声で俺を出迎えたのは、雅代おばさん。
母の姉で俺の叔母にあたる雅代おばさんは、夏休みを中心に大きな休みになるとこの民宿に泊まりこみで手伝いにくる。
こんな田舎だけど、一年を通して客が絶えることはないし、特に夏休み冬休みはじいちゃんたちだけじゃ到底回らないんだよな。
「疲れたじゃろ?さ、早く上がって荷物置いておいで。」
「あ、うん。」
健ちゃんのために部屋片づけておいたからね、とおばさんが笑ったとき、奥からゆらりと大きい人影が現れた。
「お、健一来たんか。」
「和彦!久しぶり!」
ヨレヨレのTシャツに半ズボンという格好で奥から出てきた和彦は雅代おばさんの息子、つまり俺のイトコ。
歳は一つ上だけど、全然先輩って感じがしない不思議なやつだ。
まあ、イトコに先輩も何もって感じだけど。
和彦は短く揃えた頭を掻きながら大きなあくびをした。
「お前の部屋、俺の隣やってよ。」
「そうそう。二階の奥の部屋ね。」
健ちゃんの昼ご飯用意しとくけん、荷物置いておいで、と再度促され、俺は靴を脱いで中に入った。


ぺたぺたと廊下を歩きながらぐるりと周りを見渡す。
少し薄暗い廊下はひんやりとしていて木造の床の感触が気持ちいい。
夏休みにしては珍しく、宿泊客の姿が見えないのが気になった。
「今ってお客さんどれくらいいるんだ?」
斜め後ろを歩く和彦にそう尋ねると、和彦はまた、ふわぁとあくびをしながら答えた。
「今週は少ないけんね。二組。来週はもっと増えるって聞いとるけど。」
「そうなんだ。」
「そういえば、珍しいお客さんが来ててな、」
和彦が続けようとしたとき、前の方の部屋のドアが開いて、中から俺と同い年か少し下くらいの一人の女の子が出てきた。
「こ、こんにちは。」
一応、俺も民宿側の人間だ。
あわてて挨拶すると、女の子も黒い髪を揺らして軽く会釈を返した。
「恵梨香サン、どっか行くんすか。」
ここに泊まって長いのだろうか、和彦が親しげに声をかける。
「ええ。ちょっと散歩にでも行こうかなって。」
涼しげな声だった。
それから恵梨香と呼ばれたその子は俺の方をちらりと見た。
「あ、俺、南健一です。ここには祖父母の手伝いで来てて…。」
「…斎藤恵梨香です。よろしく。」
「あ、えっと、よろしくお願いします。」
ぺこりとお辞儀をすると、斎藤さんはじゃあ、と玄関の方へ歩いていった。
「…な?珍しいじゃろ?」
「え?」
「恵梨香サン。一週間前から来とって八月いっぱいおるらしいんじゃけど、こんな田舎に一人で来とるんよ。」
訳アリそうじゃろ?と囁く声は好奇に満ちている。
「そ、そうなんだ。」
「まぁ、客の事情をあれこれ聞くわけにはいかんけどな。つーか腹減った。早く荷物置いて飯食おうや。」
そう言って先に進んでいく和彦を俺は慌てて追いかけた。
斎藤さんの黒い髪が妙に頭の中に残った。


斎藤さんに次に会ったのはそれから数日後のことだった。
「あ、」
「こ、こんにちは。」
「どうも。」
「…。」
「…。」
まずい、会話が続かない。
このままでは変な人と思われてしまう。
「あの、斎藤さん、」
「…その」
「え?」
「できたら名前で呼んでほしいんですけど。」
どういう意味だろう。
だけど、そういえば最初に和彦も名前で呼んでいたことを思い出した。
もしかしたら、自分の苗字があまり好きではないのかもしれない。
「分かりました、恵梨香さん。」
斎と…もとい、恵梨香さんはまだ何か言いたげな様子なような気がしたけど、もう何も言わなかった。
「恵梨香さんはまた散歩ですか?」
「そうですね。」
何がそんなに楽しいんだろう。
不思議に思っているとそれが顔にでたのか、恵梨香さんがくすっと笑った。
「良ければ一緒に来ますか?」
「え、」
「あ、いや、お暇なら、ですけど。」
「行きます!」
俺の勢いに恵梨香さんはびっくりしたようだったけど、なぜだろう、この人ともっと喋りたい、この人を知りたいと思ったんだ。


「え、恵梨香さん大学生なんですか?!」
「そうよ?」
宿を出て、田んぼを左にまっすぐ西へ進むと右手に一本の細い川が見えてくる。
石でできたガタガタの階段を下りると、拳ほどの石がごろごろしている中に短い草が所々に生えた川辺に下りることができる。
その川辺の木陰に座って恵梨香さんと話をすることにしたのだが、まさか恵梨香さんが大学生だなんて。
俺の反応が気に入らなかったのか、恵梨香さんは唇を尖らせた。
あ、その顔かわいいな、だなんて。
「なによ、そんなに子どもっぽく見える?」
「いや、そういうわけじゃ…」
「なーんね、よく言われるわ、童顔だって。だから、その反応も慣れております。」
そう言って恵梨香さんはおどけて言った。
「大学生なら、夏休みに一人で旅行するのも分かりますね。でも、家の人が心配しませんでした?」
いくら大学生とはいえ、未成年の、しかも女の子の一人旅だなんて俺が親なら絶対に反対する。
「親には友達のおばあちゃんちに行くって言っちゃった。」
そして続ける。
「本当はこんな遠くまで来るはずじゃなかったんだけど。」
「…恵梨香さんってどこから来たんでしたっけ?」
なんだか恵梨香さんの様子が変わった気がして俺は尋ねた。
「……ずっと遠いとこから。」
「え?」
「なんでもない!住んでるのは東京よ。」
「なら、俺と近いですね。俺も神奈川なんで。」
どこかであうかも、と俺が言うと、恵梨香さんもふふっと笑ってそうだね、と返した。

それからほぼ毎日俺たちはいろいろな話をした。
恵梨香さんがここに来た理由(大学で自然について研究しているらしい。ここ自然に囲まれているもんなぁ)や、アルバイトの話。好きな芸能人やよく見るテレビ、お気に入りの曲、趣味、特技といった一般的なことから、嫌いな食べ物、苦手なことまでも。
俺と恵梨香さんの好みは驚くほど同じで、他人とは思えないほどだった。(って言ったら恵梨香さんはなんとも言えない顔をしていた。)
そのおかげか、俺と恵梨香さんは急速に仲良くなった。
和彦からは「もう付き合っちゃえばいいんに」と度々茶化されて、そのたびに否定していたが、悪い気なんかもちろんしなかった。
むしろ本当にそうなればいいと思った。


そんなある日。
「あれ?恵梨香さんは?」
いつもなら起きているはずの時間に来ない恵梨香さんを不思議に思って尋ねると、雅代おばさんはひどく驚いた顔をしていた。
「恵梨香ちゃんなら、今日の朝早くにここを出たよ。」
「えっ?」
「あんたたち仲良かったからてっきり知ってるもんかと…」
嘘だ。
驚いて朝ごはんも食べずに恵梨香さんの部屋に走って行くとそこにはいつもあった荷物も恵梨香さんもいなかった。
そして小さな机の上に書置きが一つ。
『また、会おうね。』
寂しさが胸いっぱいに広がった。
「また、って…いつだよ…」 
泣きそうな声がぽつりと響いた。




























2.恵梨香

私のいる20××年では人間が自由に時間を移動する、いわゆるタイムリープができる機械が開発されている。
大学一年生の夏休み、私は過去へと飛んだ。
目的はそう、亡くなった父親に会いに行くために。


私の父親は私が高校生になってすぐ、病気で亡くなった。
父の死を受け入れたものの、もともと父親が大好きだった私は、どうしてももう一度父親に会いたかった。
そこで父親が生きていた5年前、私が中学生のころへ飛んだのだ。
しかし、ここで大きなミスが起こる。
機械の誤作動によって私は設定したよりも昔に飛ばされたのだ。
さすがに数十年で地名が大きく変わることはなく、自分のいる場所は把握できたが、ここが何年の世界か分からない。
近くの店で新聞を買って(新聞がこんなに種類があるなんて驚いた)、開くとなんと設定していたよりも30年ほど前の世界に飛んでしまっていたことが分かった。
しかも困ったことに、この機械の効果が切れる、つまり元の時代に戻れるのは約一か月後。来る時代を間違えたからと言ってそうそう簡単には戻れないのだ。
「どうしよ…」
5年前に父親が住んでいた場所なら分かる(私も住んでいたし)が、さすがに35年前に住んでいた場所は分からない。
しょうがないから今日はその辺のホテルにでも泊まってどうするか考えるか、と思ったとき、ふいに私の頭に浮かぶものがあった。
「そうだ…」
小さいころ、何度か行ったことがある民宿。
私の時代では和彦おじさんと光里おばさんがやっているけど、元は私のひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんがやっていたと聞く。
和彦おじさんは子どものころ、夏休みは何回もそこで過ごしていたと言っていたし、そこに行けば知っている人もいるかもしれない。
民宿だから、お金さえ払えば寝泊りの心配はしなくてもいいし、ホテルと違って三食食事付きだ。
行き方もなんとなく覚えているし、もし分からなくてもインターネットで調べれば大丈夫だろう。
インターネットが流通してる世の中でよかった。
「よし。」
そうと決まれば早く行くしかないと、私は田舎の民宿へ向かった。


「予約なしで、一か月お一人様ですか?」
受付のおばあちゃん(写真でみたことある、この人はたぶんひいおばあちゃんだ)が目を見開いて尋ねた。
「はい。あの…空いてないですか?」
もしかしたら予約でいっぱいなのかも…。
不安に思って尋ねるとひいおばあちゃんは帳簿を確認しながら答えた。
「いえ、一名様だったら、空いてます。でも…」
「でも?」
「一か月となると少し値段が上がっちゃうけど、大丈夫かねぇ?」
そう言って提示された金額は確かにとても安いとは言えない。
「大丈夫です。」
高校三年間バイトをしててよかった、と心から思った。


民宿にはいろいろな人がいた。
ひいおばあちゃんにひいおじいちゃん、話でしか聞いたことのなかった雅代おばさんに高校生の和彦おじさん。
みんなとても良い人でここに来てやっぱり正解だったと思う。


そんなある日、いつものように散歩に行こうと部屋を出ると和彦おじさんの横に見慣れない男の子が立っていた。
新しいお客さんのような気がするが、それにしては和彦おじさんが親しげな様子だ(和彦おじさんはだいたい誰に対しても親しげだけど)。
「こ、こんにちは。」
と、男の子が頭を下げた。
その顔になんだか見覚えがある。
まさか。
「恵梨香サン、どっか行くんすか。」
「ええ。ちょっと散歩にでも行こうかなって。」
そう返しながら、ちらりと男の子を見ると、男の子は慌てたように言った。
「あ、俺、南健一です。ここには祖父母の手伝いで来てて…。」
間違いない、この人はお父さんだ。
「…斎藤恵梨香です。よろしく。」
変な気分だった。
実の父親に向かってよろしくなんて。
「あ、えっと、よろしくお願いします。」
高校生のお父さんはまた慌てたように頭を下げる。
なんだか懐かしいような嬉しいような悲しいようなそんな気分で胸がいっぱいになって、逃げるようにその場を離れた。


なんとか気持ちに整理をつけて民宿に帰った数日後、私は再びお父さんと会った。
「あ、」
「こ、こんにちは。」
「どうも。」
「…。」
「…。」
高校生のお父さんと何を話したらいいのか分からなくて黙っていると、ややあって向こうが口を開いた。
「あの、斎藤さん、」
その呼び方にひっかかりを感じる。
“斎藤恵梨香”という名前はいわずもがな、本当の名前じゃない。
身内がしている民宿でまさか“南”の苗字を使うわけにもいかず、名前を書くときに咄嗟に使った偽名なのだ。
幸いここの人たちは若いからか、私のことを名前で呼んでくれるので(ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃん、雅代おばさんは完全に自分の子どもみたいに扱ってくれる)、呼ばれて困ることはないけど。
「…その」
「え?」
「できたら名前で呼んでほしいんですけど。」
そう言うと、お父さんは一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに元の顔に戻ってうなずいた。
「分かりました、恵梨香さん。」
私的にはさん付けも敬語も止めて欲しかったけど、客という立場上仕方ないのかもしれない。
そう思って、私は何も言わなかった。
「恵梨香さんはまた散歩ですか?」
「そうですね。」
こんなところ散歩して何がそんなに楽しいんだろう。
お父さんの顔にはそう書いてあって、あまりの分かりやすさに思わず笑う。
「良ければ一緒に来ますか?」
「え、」
「あ、いや、お暇なら、ですけど。」
「行きます!」
思ったよりも勢いよく言われたので驚いたが、形はどうあれ、お父さんともう一度ゆっくり話せると思うと嬉しかった。


「え、恵梨香さんって大学生なんですか?!」
「そうよ?」
宿から少し西に歩くと川がある。
夏なのに涼しくて私のお気に入りの場所だ。
その川辺の木の下にある石にお父さんと並んで座って話をすることにした。
左側に私、右側にお父さん。
いつもソファに座るときの並びと同じでなんだか少し懐かしく思う。
あんまりお父さんが驚くものだから、私はすねたふりをして唇を尖らせた。
「なによ、そんなに子どもっぽく見える?」
「いや、そういうわけじゃ…」
「なーんね、よく言われるわ、童顔だって。だから、その反応も慣れております。」
おどけたようにそういうと、お父さんは思わず笑みを漏らした。
「大学生なら、夏休みに一人で旅行するのも分かりますね。でも、家の人が心配しませんでした?」
その質問にぎくりとする。
「親には友達のおばあちゃんちに行くって言っちゃった。」
これは本当。
「本当はこんな遠くまで来るはずじゃなかったんだけど。」
これも、本当。
「…恵梨香さんってどこから来たんでしたっけ?」
私の様子が変なのに気づいているのか気づいてないのかお父さんは話を変えた。
「……ずっと遠いとこから。」
「え?」
「なんでもない!住んでるのは東京よ。」
「なら、俺と近いですね。俺も神奈川なんで。」
どこかで会うかも、とお父さんは言った。
なんて返していいか分からず、そうだねと呟いた。


それから私たちはいろいろな話をした。
私がここに来た理由(ある程度ぼかした)や普段やっていること、好きな芸能人、よく聞く曲、テレビの話、それから趣味、特技。
嫌いな食べ物や苦手なことも話した。(お父さんのピーマン嫌いが変わってないのを知って笑ってしまった。)
私はお父さんの影響をもろに受けて育ったので、お父さんと好みが似ているのは当然だけど、お父さんはすごく驚いたようで、他人とは思えない、と言っていた。
そりゃあ、他人じゃないもん。
そう言えたらどれだけよかったことか。
未来の人間が過去の人間に未来の情報を教えるのはご法度。
分かっていたことだけど、そのルールがすごく歯がゆく感じた。


楽しい日々はあっという間で、私が未来へ戻る日も近づいてきた。
タイムリープのことが言えない以上、お父さんがいない間にこの宿を出なければならない。
悩んだ末、私はお父さんがいつも起きてくる時間より前にでることにした。


そして出発の朝。
荷物をまとめて部屋を出る。
未来の情報を教えるのはご法度。
でも、
「このくらいならいいよね。」
そう呟いて書置きを残す。
『また、会おうね。』


次はあなたの子どもとして。

「悪夢」132207

 序章
 深いまどろみの中で彼はかつての忌まわしい記憶を思い出していた。それはあまりにも凄惨な記憶であった。血まみれで苦しそうにうなる父親の姿と同じく血まみれながらも全く動かない母親の姿が脳裏にこてで焼き付けられたように離れない。灰色の世界に血の赤のみが色濃く浮かびあがっている。彼は初め、その光景がまるでこの世のものではないように思えて呆然と立ち尽くしていたが、胸の鼓動がだんだんと激しく脈打ってくるのにつれて状況を飲み込み始めていた。
 ―警察を呼ばなくては―
 当時中学一年生であった彼にしては以外にも冷静な判断ではあったが、いざ人間はこのような状況になってみると、えてしてこのような判断ができるものである。
 しかし、決して冷静になったわけではなかった。その証拠に彼は電話越しに何を言ったのかを覚えてはいないし、その後すぐに駆け付けた警察官と近所のおばさんに何を言われたのかも覚えていないのである。
 頭がぐらりとして、目に少し光を感じたが、彼は目を開けるのが億劫で再び夢の世界へと沈んだ。
 やはり世界は灰色であった。
 彼の目に映るのは顔に白い布をかぶせられた母親の姿であった。その肌の色は布に負けないくらい白い。彼は左手で母親に触れた。アイスクリームよりも冷たい。彼は遊び疲れて家に帰るといつも出てくるアイスクリームと母親の笑顔を思い出していた。冷たい左手の感触とは逆に目から何か熱いものが流れているのに気づいた。涙を流すことは男として恥ずかしいことだと思っていた彼は必死にその熱いものを止めようと食いしばるが、そうすればそうするほど込み上げてきた。
 ふと頭に温かいものを感じた。目をそちらに向けると、ひどく疲れた顔の父親があった。父親は口をぎゅっと一文字に結んで何も言わずに彼を見ていた。彼は父親の意図が分からずに首を傾げた。それから自分が涙を流しているのを思い出して慌てて下を向いた。父親は少し頬を緩めてから思い直したように下を向いて何かを呟いた。彼は聞き返すことができずにただただ母親を見た。もはや赤もなくなった灰色の世界で彼は人の死を実感した。
 再び頭がぐらりとして、目に少し光を感じた。
「授業はもう終わったぞ。進。」
 聞きなれたやや低めの声を聴いて彼は目を開いた。そこには小学生からの幼馴染がいた。高島健吾。それがその幼馴染の名である。
「まだ寝ぼけてんのか。次の教室行くぞ。」
 健吾に言われて彼は机の上に出してある筆記用具をかばんにしまった。
「あれ進。泣いてるのか。」
 彼は目元に手をやると確かに濡れていることに気付いた。
「なんでもねえよ。」
 少し笑って見せて彼は健吾と共に教室を出た。

第一章
 帰りの電車の中で進は揺られていた。彼が通う大学は自宅から約一時間半のところにある。一限がある日は大変なのだが、下宿することは考えておらず、実家暮らしであった。    
 電車を二度乗り換え、すっかり人も少なくなった車内でほとんど埋まっていない座席に座りながら、何をするでもなくぼうっとしていた。
「おかーさん!きょうのばんごはんなにー?」
「そうね。ハンバーグにしようかな。」
「ハンバーグ!?やったー!!」
 買い物帰りだろうか。大きなスーパーの袋を持った母親と車のおもちゃを持った小さな男の子ががらんとした座席にぽつんと座っている。その二人のやり取りは陽だまりのように周囲の空気を暖かくしているようであった。
 ふと窓の外に目をやると、流れていく景色が見えた。ぽつぽつとビル立ち並ぶところを抜けていくのであまり色味がない。それと同じくらいに色味のない自分の顔が彼を見つめていた。
「ひでー顔だな。」
 久しぶりにあの夢を見たからだろうか。進は何となくけだるくなってあまり中身の入っていないリュックを抱き、顔を突っ伏した。
 
「進。ねえ、進。」
陽だまりのような声がした。
「そろそろ、ご飯よ。あなたの好きなハンバーグなんだから、はやくいらっしゃい。」
「うん。」
彼は重たい体を起こして目をこすった。眠気はまだあるがハンバーグと言われてしまっては起きるしかない。彼は手を引かれてダイニングルームに向かった。
「おう、進。やっと起きたか。」
夕刊を広げた父が笑いながらそう言った。丸い眼鏡から優しいまなざしが見える。この父はとにかく愛妻家であった。仕事が終わるとあまり寄り道せず、ほとんどまっすぐ家に帰ってきた。毎年結婚記念日にはプレゼントとおいしい食事を用意するし、会社ではのろけてばかりいるそうだ。もちろん、その愛情は息子にも注がれている。進むが何かを食べたり、遊んだりしているのを微笑みながら見ている。この日だって晩ご飯になっても起きてこない息子を思って声をかけさせたのである。
「今日は健吾君とたくさん遊んだから疲れたのね。」
ご飯の用意をしながら母はクスッと笑った。

「いただきます!」
手を合わせてから進は大好物のハンバーグにかぶりついた。特に母の味付けは進好みであった。しかし、進にとってよくないことがひとつある。母は毎回ハンバーグと一緒にサラダを用意するのである。野菜が嫌いな進にとってこれ以上に大変なことはなかった。
「ぼく、やさいいらない。」
進はサラダからぷいっと目を背けた。
「もう五年生になるんだからわがまま言わないの。」
「母さんの言うとおりだ。肉だけじゃなくて、野菜も食べないと強い男になれないんだぞ。」
「それでもいやだよ。」
いつも通りのやり取りだった。母は進の成長を理由に、父は男であるのを理由に、進は野菜が嫌いであるのを理由に言い合いをするのである。しかし、決して険悪な雰囲気になるわけではなく、むしろ仲のよさを実感できる暖かい雰囲気になるのだ。
 ふと、玄関のチャイムが鳴った。
 母と父は少し顔を見合せた。
「僕が見てくるよ。」
父は眼鏡を指で上げ、少し出ていた裾をズボンのなかにしまってから玄関へと向かった。
進は母を見て、誰が来たかを尋ねたが、どうやら母もわからないようで首をかしげた。
しかし、その来訪者は父の知り合いだったらしく、玄関から談笑する声が聞こえてくる。
誰だろうか、そう考えを巡らしている内にその訪問者は少しも遠慮をする様子もなく、ずかずかと入ってきた。
「初めまして。」
そう言って頭を撫でてきたのは、やけに色が白く痩せた男だった。
進がどうしていいかわからず氷のように固まっていると、父がその男の肩に手を置いた。
「こいつは俺の弟。つまり、進の叔父さんってことだ。」
ニコッと笑って父は母に促した。
「妻の玲子です。」
叔父は進から母の方へ向きを変えた。
「弟の晴次です。よろしく。」

第三章
 進の父、孝一は高校生になったばかりのころに両親を交通事故で亡くした。それ以来小学生の弟と二人だけで生活した。両親には貯金が少しだけあった。しかし、それだけでは足りず、バイトをしながら生計を立てていた。学業との両立が難しく、時には学校をさぼったこともあった。成績は下がらないように努めたが、徐々に下がっていった。孝一は大して気にしなかった。唯一残った小さな弟のためにお金を稼ぐことは彼にとってはもはや生きる目標となっていたのである。そのかいあって晴次は伸び伸びと育っていった。ゲーム機がないから、ケータイを持っていないから、毎日、服が同じだからという理由でいじめられることはなかった。晴次がねだったものを孝一が可能な限り買い与えたからである。また、食べ物も孝一は自分のものは最低限のものにして、晴次に回していた。その甲斐あってというべきか、そのせいでというべきか、晴次は伸び伸びと育っていった。
 
 頭がぐらりとして進は目を覚ました。最寄駅を知らせる無機質な声が、なんとなく耳に触って、半ば逃げるように電車を出た。外はもう夕日が沈みかけるころで薄暗くなりつつあった。飽きももう深まってやや肌寒い。進はポケットに手を突っ込み、肩をすくめながら歩いた。
 
 叔父はあれ以来たびたび家に来た。毎回毎回、進にお菓子を持ってきて、頭を撫でた。父もそのたびに嬉しそうにした。叔父も父に会えるのが嬉しいようで、父とお酒を飲みながら楽しそうに話していた。しかし、叔父は不思議なことに、あまり自分のことを皆の前で話さなかった。父が今、何をしているのかを問うと決まって上手にはぐらかした。だが、叔父は進と二人きりになると途端に饒舌に自分語りを始める。自分がいかに素晴らしい人物であるかを熱弁して、最後はいつも
「俺は神に愛されているんだ。欲しいものは何でも手に入る。」
と締めくくっていた。進は幼かったので単純にすごい人なのだなと思っていたが、その話をあまりにされるので退屈に感じていた。しかし、裕福な生活を送ってはいないようで来るたびに父にお小遣いをもらっていた。それに対して母が何度か父に苦言を呈していたのを覚えていた。父も決まって、
「あいつも大変なんだろう。俺のたった一人の弟なんだ。勘弁してやってくれ。」
と言うのだ。

 そういえば、いつからか全く叔父を見ることはなくなった。今考えてみれば、ふらふらした人だったのでどこか遠いところに行ってしまったのだろうと適当に結論付けて進は歩を進めた。駅から十五分ほど歩いたところで家に着いた。鞄から鍵を取りだして鍵穴に差し込んだ。そこであることに気付いた。鍵が開いている。ふと、寒気がした。父はまだ帰っている時間ではないし、他に家族もいない。泥棒かと思ったが鍵が壊されている様子がなく、かえって、それが不気味であった。進は気配を殺してゆっくりとドアを開けて中に入った。特に荒らされて様子ももちろんない。抜き足差し足で家を回っていると居間の方から話し声が聞こえてきた。さらに気配を殺して、近づいてみるとより鮮明に声が聞こえてきた。どうやら二人で話しているようである。さらに近づいて耳を澄ますと
「久しぶりだな。」
という声が聞こえた。
 父だ。
進はすぐに気が付いて居間のドアを開けた。
「進帰ってたのか。」
 昔と比べて表情の変化が薄くなってしまった父は無表情のまま驚きの声を上げた。牛乳瓶の底のような眼鏡を押し上げた。確かに今日は休講の講義があって、普段よりも早く帰ってきた。父が進の帰る時間を把握しているのは予想外のことであった。母が死んでからというもの父は進と距離を置くようになった。とは言っても育児放棄ということではない。きちんと食事もとらせてくれるし、都合が合えば授業参観にも来てくれる。はた目から見ると随分立派な父親に見えることであろう。しかし、進はそうは思っていなかった。寂しかったからだ。家の中での会話は必要最低限の情報の交換に過ぎなかったし、どこかへ遊びに連れて行ってもらったこともついぞなかった。その分父だけが出ていく時間が増えた。家にいることが少なくなった。また、不満を抱いていた。母が死んだあの事件の詳細を全く教えてもらえなかったからである。父が退院して家に戻ってからしばらくの間、新聞の契約を切った。テレビも壊した。裁判に行かせてもらえなかった。大人に事件のことを聞いても「お父さんに言うなって言われている。」という返事が返ってくる。そういう関係はあれから七年たった今も変わっていない。むしろ大人になっていくにつれて寂しさ、不満は不信感となり、嫌悪感になった。
「早く帰ってきちゃあ悪いのかよ。」
「ああ、都合が悪い。」
「ちっ。そうかよ。」
 かつての大らかな父はもういない。進は「男は強くならなきゃあいけないぞ。大事な人を守れないからな。」とほほ笑んで頭を撫でてくれた父を思い出しながら、なにかから逃避するように目を逸らした。その先にいたのは叔父だった。
「叔父さん。」
 叔父は返事をするわけでもなく、じろりとこちらを見ただけだった。叔父は昔と変わらず肌が白く、痩せていた。頭髪は少し薄くなっているようである。叔父はまるで自分がこの家の家主だといわんばかりの態度で椅子に座っていた。
「お前はもう帰れ。」
 父は聞いたこともないような冷たい声でそう言った。
「ちょっと待てよ」
「いいから帰れ!!明日あの場所に来い。」
怒号だった。進はその声ではっと目を覚ましたような気分になった。懐かしさとうれしさに似たような気持ちがわきあがった。父の怒声を聞いたのはいつ振りだろうか。思い出そうとしてももう思い出せないような遠い日々だ。
「わ、わかったよ。」
 叔父は心底驚いたようで目を見張っていたが、我に返るとあわてて外に出て行った。そういえばどうやって家に入ったのだろうか。おそらく、父が家に招いたのだろうが。そういえばあまりに頻繁に家に来るから、父が合いかぎを渡していたような気がする。父に聞こうと思ったが、なんとなくはばかられて進は何も言わずに自室に向かおうとした。
「進。」
「何だよ。」
「どこへ行く。」
「今日は疲れたからもう寝るよ。」
「学校はうまいこといっているか。」
「ああ、大丈夫だよ。」
「・・・そうか。それならいい。」
久しぶりに父とこんない言葉を交わしたような気がする。進は胸の辺りに何か熱いものを感じた。こんなささいな、とりとめのない親子の会話が進にはなかった。しかし、進は素直になれなかった。会話を続けようとしたが何を言っていいかわからず、再び体を自室に向けた。
「進・・・。じゃあな。」
「ああ、おやすみ。」
笑みが自然とこぼれた。父に背を向けているから、見られてはいないだろう。なんとなく見られるのが恥ずかしかったので、足早に自室に向かった。
 
 今日はなぜか昔のことを思い出す一日だった。自室のベッドに横たわった進は目を閉じた。もう二度とあの悪夢を見たくはない。良いことがあった後だから余計にそう思った。

第四章
 穏やかな昼下がり、進は幼馴染の健吾とともに昼飯を食べている。食堂で適当に買ったサンドイッチとコーヒーだが、何故かいつもよりおいしく感じる。それはおそらく、この陽気な天気のせいだ。そろそろ日中も寒くなってきそうな季節であるというのに、ぽかぽかした陽気な雰囲気が辺りを包んでいる。
「どうした。なんか良いことでもあったのか。」
 健吾がお弁当の卵焼きを箸でつまみながら尋ねてきた。父と話せたことが原因であろうが、恥ずかしいので、しらばっくれることにした。
「なんもねえよ。」
「うそつけ。何年友達やってると思ってんだ。すぐわかる。」
 そうだ。こいつとはもう十年以上も友達をやっているのだ。進のうそなどすぐに見破られてしまう。母が死に、孤独になったとき、無理して明るく振舞おうとしていた進の本心に気づき、救ってくれたのは健吾だった。
 「昨日親父と喋った。」
 正直の言うことにした。子どもみたいな理由だが進にとってこれがどういう意味を持つか、健吾なら分かってくれると思ったからである。
 健吾はくしゃっと笑って肩に手を置いてきた。
「よかったな。」
 こいつは本当にいいやつだ。進は自分の目の奥が何か熱いものでじんとするのに気がついた。

 昼休みを終えて、午後の講義に臨む。あの陽気な雰囲気に当てられてか、単純に腹がいっぱいになったからか、うとうとして教授の話が頭に入ってこない。必修科目でないし、もう寝てしまおう。講義の内容も学生が新聞記事の切り抜きにコメントするというものであるし興味がない。目を閉じるととたんにうとうとしてきた。
「十年に一家を襲い、母親を殺した犯人が刑期を終え、出所しました。こんなことが許されていいのでしょうか。」
 瞬時に目が覚めた。何だって。あらかじめ配られた資料に初めて目を通してみる。新聞記事をコピーした灰色のプリントだ。そこに写っているやけにやけに肌が白い男。
「叔父さん。」
 冷たい汗が背中を流れた。周囲の声が遠のき、うるさいくらいの静寂が進を包んだ。周囲が色を失ったように感じる。その中で昨日の父が頭に浮かんだ。
「いいから帰れ!!それは明日あの場所でだ。」
「進・・・。じゃあな。」
あの言葉の意味は・・・。進の中で一つの考えがまとまった。
「・・・進。」
横から健吾の声が聞こえた。
「行けよ。何かあるんだろ。俺が言い訳しといてやる。」
その瞬間、はじかれたように進は教室を飛び出した。

第五章
あの場所・・・昔、父が話してくれたことを進は思い返していた。
「父さんは、晴次と一緒に裏山のふもとの小さな公園で遊んでたんだぞ。滅多に人が来なくてな。いいところだった。俺もいい息抜きになった。」
きっと、あそこだ。進は確信した。息が上がって頭がくらくらする。だが、今は眠ってはいけない。だんだんと動きが鈍くなってきた体に鞭を打って、走る速度を上げた。もう、悪夢は見たくない。

何度か倒れそうになりながらも進は公園に着いた。実際に来てみると昼間でも何となく薄暗いし、人通りもない。高い木に囲まれて、遊具すら満足にないこの小さな公園にやはり二人はいた。父と叔父だ。
「進。どうしてここに。」
昨日とは違い本当に驚いた顔をしている。
「父さんこそ・・・」
いや、理由はわかっている。目の前で倒れている叔父、母を殺した男を見ると進は確信した。
「こいつを殺そうとしたんだな。」
きっと父はこうすることを決めていたのだ。おそらく母が死んですぐに。母を殺したこの男を殺して自分も死ぬか、刑務所に入るつもりだったのだ。そして、きっと。
「なんでだ。」
「玲子が死んだのは俺のせいだからだ。俺がこいつを甘やかしたからだ!!こいつが何故、玲子を殺したと思う。玲子が自分のものにならなかったからだと!!それだけだ!それだけの理由で玲子は殺された!!
こいつは捕まった後も全く反省していなかった!!自分は悪くないと主張し、それが真実だと疑っていなかった!!こいつをこんな屑に育てたのは俺だ!!だから俺が責任を取る!!そして、その後、俺も死ぬ。」
 きっと。これまでの父の対応もそのためなのだろう。進は今すべてを理解した。父は進を巻き込まないようにこの十年間進を遠ざけたのだ。嫌われようとさえしていた。けれど、嫌いになれるわけがなかった。 
「クソ親父!!」
 進は父の頬を力一杯殴った。父の怒りはもっともだ。それに進自身もくだらない理由で母を殺され、叔父に対して憎しみを抱いている。しかし、
「人殺しなんかしちまったら、親父もあいつと一緒になっちまう。それに、親父にまで死なれたら俺はどうすればいいんだよ。」
進は父を失うのが一番辛かった。
「俺は父さんを失いたくない!!何かっこつけて一人で背負い込んでんだよ!!俺達は家族だろ!!」
父ははっとした顔をした。自分がやってきたことは息子を思ってのことだった。それが最善だと思っていた。
「叔父を殺すために遠ざけるんじゃなくて、母さんの死を乗り越えるために一緒に歩けばいいじゃねえか。」
「進。」
悔いた。ただひたすら悔いた。こんな当たり前のことを、息子に言われねば気付くことができなかった。自分は戦っているのだと思った。今は息子に理解されなくとも、いつかはわかってくれると。しかし、逃げているだけだと気づいた。しばしの間、口を開くことができなかった。
なんとも言えない空気が二人を包んだ。
 それを切り裂くかのようであった。
「うあああああああ!!」
奇声と共にいつの間にか包丁を持っていた叔父が進に突っ込んできた。進は動けなかった。
「進!!危ない!!」
目の前が真っ暗になった。倒れたのは進ではなく父だった。
「父さん!!」
「あ、兄貴が悪いんだからな!!俺を傷つけるからだ。」
そういって男は去って行った。進は必死に声をかけながらも、救急車を呼んだ。




最終章
叔父はあの後、警察に捕まり、再び刑務所に入った。
 父の傷は見た目ほど重症ではなかったようで、入院したものの次の日には体を起こすことができていた。進は学校には行かず、ずっと父の傍にいた。
「進。」
「なんだよ。」
「夢の中に玲子が出てきたよ。叱られてしまった。あなた何をやってるんだってな。ははは。全く俺は何をやってたんだろうな・・・。」
自嘲気味に笑う父は真っ直ぐに進むに目を向けた。
「進、すまなかった。」
目の奥に熱いものを感じる。
「・・・今度、母さんの墓参りに行こう。もう何年も行ってないからきっと怒ってるよ。父さんのこともその時一緒に謝ってやる。」
「ああ、そうだな。」
きっと、やり直せる。これから一緒に色々なことを話したり、色々なことでぶつかったり、そんな当たり前の親子に戻れる。病室の窓からは暖かい日差しが差し込んでいる。部屋中を包み込み、二人の再出発を祝福しているようであった。
「ありがとう。」
二人の目の前には眩しいくらいの青空が広がっている。それは母のもとにまできっと続いているのだろう。

 深いまどろみの中で彼は夢を見た。
進の記憶よりももっと若い両親だ。母の腕には赤ん坊が抱かれている。
「この子の名前決めたの。」
母は赤ん坊の頭を微笑みながら大事そうに撫でている。
「どんなだ。」
父も牛乳瓶の底のような眼鏡を手で押し上げ、微笑んでいる。
「進、よ。これからどんな困難にあったとしても、挫けずに前に進んでいけるように、って願いを込めて。」
「いい名前じゃないか。」
父はその赤ん坊を覗き込んだ。
「お前は進だ。私たちの大事な宝物だ。」
母も覗き込んだ。
「進。私たちのもとに産まれてきてくれてありがとう。」

頭がぐらりとして、目に光を感じた。
「授業はもう終わったぞ。進。」
 聞きなれたやや低めの声を聴いて彼は目を開いた。いつも授業中に居眠りをしている進を起こしてくれる幼馴染だ。
「まだ寝ぼけてんのか。もう帰るぞ。」
 健吾に言われて彼は机の上に出してある筆記用具をかばんにしまった。
「あれ進。泣いてるのか。」
 彼は目元に手をやると確かに濡れていることに気付いた。あんな夢を見たからだろうか。とても暖かい夢だった。思い出すたびに涙と笑みが込み上げてくるようだ。
「ああ、いい夢を見たんだ。」
きっとこれからも悪夢を見ることはあるだろう。それでも、進は前に進んでいく。両親が自分の名に込めた願いを胸に抱いて。

「家族」132117

一、ぼく
 バシッ。
「あぁ!うっとうしい!」
 ママが、ぼくをたたいた。たたかれたところが、じーんとあつくなる。
 ぼくはわるい子らしい。だからこうしてたたかれる。きのうも、おとついも。きっと、これから先ずうっと。
「・・・」
 パパはなにも言わない。ちらっとぼくをみるけど、すぐにまたテレビの方を向いた。
 ぼくの名前は、トオル。五さい。パパとママのこども。
 こどもって、みんなこうやって、ママにたたかれたり、けられたりするのかな。わかんないや。ぼく、おうちの外にでたことないから。もっと小さいころにでたことがあるのかもしれないけど、おぼえてない。
 ガチャ。
「ただいまー。」
「あっ、おねえちゃんだ!」
 ドカッ。
「だれがしゃべっていいって言ったの?!」
 ママのおこる声とこわいかおに、ぼくはちいさくなった。けられたおなかが、きゅっとなる。ぼくは、はなすこともゆるされていない。
「っ・・・」
 いつのまにかリビングにはいってきていたおねえちゃんが、かなしそうな、くやしそうな目でぼくをみていた。だいじょうぶだよ。ぼくはだせない声のかわりに、目でつたえた。
 おねえちゃんの名前は、カスミ。十さい。ぼくとちがって、パパとママにあいされてる。だから、おうちの外にでられる。おねえちゃんは、がっこうっていうところにかよってる。いま、そこからかえってきたところ。
「おかえり、カスミ。きょうはがっこうどうだった?」
「・・・」
「カスミ?」
「・・・あ、うん、あのね、カオリちゃんがね、・・・」
 じっとぼくをみていたおねえちゃんは、ママの声にハッとなって、ママのいるキッチンに行った。
 ぐう〜。
 おなかがすいた。いいにおいがする。ママとおねえちゃんがごはんをつくってるんだろうな。ママはぼくにごはんをくれない。なくてもいいでしょって。つくってるのは、パパと、ママと、おねえちゃんのごはん。
 ぼくはリビングのすみっこから、うごかない。うごくと、ママが
「じゃまよ!」
って、たたくの。たたかれると、すっごくいたい。だから、なるべくうごかないようにしてる。
 キッチンから、ママとおねえちゃんのたのしそうなわらい声がする。ママはぼくにわらってくれない。おねえちゃんにはわらうけど。
「トオル。」
 パパが、ぼくをちいさい声でよんだ。うごけないぼくのかわりに、パパがぼくのそばにきて、
「ごめんな・・・」
と言って、ポケットからパンのかけらをだした。
 パパはいつもこうやって、ママがいないときにはなしかけたり、たべものをくれたりする。いつも、ごめんって言うんだ。パパはたたいたりけったりしないから、わるい子じゃないのにね。
 パパがくれたパンをたべおわると、パパはぼくのあたまをくしゃくしゃとなでて、またソファにすわった。ママにみつからないように。
「ごはんよー。」
 ママの声に、パパはまた立って、ダイニングに行った。
 いまごろ、おいしいごはんを3人でたべてるのかな。きょうのごはんはなんだろう。ぼくのぶんはないけど、どんなおいしいものをたべているのかかんがえながら、ゆかにねころんだ。
「トオル・・・トオル起きて・・・」
 おねえちゃんの声で目がさめた。いつのまにかねてたみたい。おねえちゃんはパンをもってる。
「おなかすいたでしょ?ママ、いまおふろにっはいってるから、いまのうちにたべな?」
 おねえちゃんはこうやっていつも、ママがおふろにはいってるときに、なにかたべものをくれる。こうして、ぼくはおなかがすいてもいきていられる。おねえちゃんとパパ、ほんとうにありがとう。
 パンをたべおわった。おねえちゃんはやさしい目でぼくをみながら、なでなでしてくれた。とってもあったかい手。すこし、あんしんできた。
「じゃ、おやすみトオル。」
 ぼくは、また目をとじた。
「あしたは、たたかれませんように・・・」
 かなうわけのないおねがいを、カーテンのすきまからみえる、おほしさまにねがいながら、ぼくはつめたいゆかで、ねむった。


二、わたし
「ただいまー。」
「〜〜〜!」
「誰がしゃべっていいって言ったの?!」
 トオルの声と、ママのどなる声がする。また、トオルをたたいてるんだろうな・・・。
 やっぱり。リビングに行くと、トオルはおびえた目でママを見ていた。
 十才になったわたし、カスミは、自分の家がおかしいことに気付いた。家っていうより、ママかな。五才のわたしの大切な弟トオルを、たたいたりけったりする。ぎゃくたい、っていうらしい。パパは見て見ぬふりだし。
 ママ、もうやめて。トオルがかわいそう。・・・そう言えたら、今ごろトオルはこんな悲しい目をしていないのに。でも、もしわたしがママに逆らったら、わたしが・・・そう考えると、とてもじゃないけど言えない。こわい。ママはわたしにはすごく優しい。だから、今度はわたしがたたかれるんじゃないかと思うと、ママには何も言えない。トオルを守ってあげられない、ダメなお姉ちゃんでこめんね・・・。
 トオルと目が合った。わたしがこわい顔をしてたみたいで、トオルは優しい目でわたしを見た。まるで、ぼくは大丈夫だよ、って言ってるみたい。少し、安心した。
「カスミ?」
 やば!ママに話しかけられてたのか!
「・・・あ、うん、あのね、カオリちゃんがね、・・・」
 返事をしながら、夜ご飯の用意を手伝うために、ママがいるキッチンに行く。トオルがぎゃくたいされない、きちょうな時間。トオル、ゆっくり休むんだよ・・・。
 「ごはんよー。」
 夜ご飯ができあがると、トオルはすやすやと寝ていた。かわいいな。
 夜ご飯を食べて、ママがお風呂に入っている時間。ランドセルから給食のパンを出して、トオルのところに行った。
「トオル・・・トオル、起きて・・・」
 トオルはゆっくりと目を開けると、わたしが持っていたパンに目を向けた。
「お腹すいたでしょ?ママ、今お風呂に入ってるから、今のうちに食べな?」
 パンを差し出すと、トオルは夢中でパンをほおばった。わたしがこうしてママの目をぬすんで食べ物をあげないと、トオルは死んじゃうもんね・・・。
 食べ終わると、トオルはわたしを優しい目で見ていた。トオルはたまにしか声を出さない。声を出すと、ママがうるさいって怒るから、小さいころからほとんど声を出さないようになっていた。だからわたしはこうして、トオルと目でお話するの。なんとなく、言ってることがわかるから。
「じゃ、おやすみトオル。」
 頭をなでてあげると、トオルは笑って、また寝た。
 神様、お願いだから、トオルを助けてください。このままじゃ、トオルがかわいそうです。お願いだから・・・。


三、私
「おはよう、トオル。いってきます。」
 声をかけると、トオルはうっすらと目を開けて、また閉じた。いつも通り。
 あれから、この家は何も変わってない。お母さんは相変わらずトオルに虐待を続けている。私に優しいのも、相変わらず。子離れできない典型的な過保護なお母さん。中学生のときに一度だけ、うっとうしいとキレて遠ざけたことがある。お母さんはそのショックと怒りをトオルに暴力でぶつけてるのを見てから、お母さんの過保護さを受け入れてきた。こうすることでしか、トオルを守ることができないから。七年経っても、何もできないお姉ちゃんなのが、本当に悔しい。
 トオルは十二歳になった。外にも出られず、まともな食事もできず、身体がどんどん弱っていって、起き上がるのがやっとみたい。だからと言って、お母さんの虐待が止まることはないけど。
 そうこう考えてるうちに、高校に着いた。
「おはよう、カオリ。」
「おっはよ、カスミ!」
 カオリは小学校からの同級生で、親友。中学生の時に、お母さんの虐待を相談してから、ずっと心配してくれてる。
「トオルくん、昨日はどうだった?」
「いつも通り。ご飯もあんまり食べなくなってるし、弱っていく一方だよ・・・」
「そっか。下手に何かして、お母さんの反感買っちゃったら大変だしね。お父さんは?」
「相変わらず、見て見ぬふりだよ。また昨日もお母さんと喧嘩してたけどねー。」
 中学生になってから気付いたことだけど、お父さんとお母さんは仲が悪い。特に最近はよく口喧嘩してる。内容はわからないけど、お母さんがそのストレスをトオルにぶつけていることはわかってる。
「お父さんが味方になってくれたら、どうにかできそうじゃない?」
「無理だよ。お父さんとあんまり話さないし。虐待を無視してるってことは、お母さんと同罪だよ。」
「まあ、そうだけどさー。」
 お父さんは、なんで見て見ぬふりなの。トオルが可哀想だと思わないのかな。話したいことは山ほどあるけど、お父さんとは小さい頃からあんまり話してないから、今更どう話していいのかわからない。口数が少ない人だから、何考えてるのかわかんないし。
「ま、いつでも相談乗るからさ。話聞くことしかできないけど。」
「ううん、ありがとうカオリ。」
 家にいるトオルが殴られてないか、体調を崩していないか、いろんなことを考えながら、今日の授業を終えて、家に帰った。
「ただいま。」
「おかえり!学校どうだった?」
「普通だよ。」
 お母さんの出迎えを軽く返事しながらトオルの様子を見に行くと、いつもの場所で眠っていた。しんどいのかな。
「勉強してくる。ご飯できたら呼んで?」
「わかったわ。頑張ってね。」
 自分の部屋へ行き、これからのことを考える。
「あ、携帯リビングに置いてきちゃった。」
 帰ってきて置いたんだった。取りに行こ。
 キッチンからはお母さんが料理をしている音が、リビングからはテレビの音が聞こえてくる。お父さん、帰ってるのか。お父さんの姿を確認しようとリビングを見渡すと、
「えっ・・・」
 お父さんは、トオルのそばにいた。何か話しかけてる?なんで?いつも見て見ぬふりしてたじゃん。トオルは、いつも私に向けてくれる優しい目を、お父さんに向けている。
 お父さんがトオルの頭をくしゃくしゃと撫でて、後ろを振り向いた。
「あ・・・」
 お父さんは私に気付き、しまった、という顔で私を見てる。もう遅いよ。全部見てたもん。
「・・・車で話そうか。」
「・・・うん。」
「お母さんに、出かけるって行ってくるよ。」
「うん。」
 キッチンへと向かったお父さんを見送ると、私はトオルの元に向かった。トオルは不思議そうな顔で私を見てる。
「お父さん、いつからトオルに話しかけてたの?私、ちっとも知らなかった。トオルの味方は、私だけだと思ってた。」
 トオルは、ごめんね、と目で訴えてくる。
「ううん、うれしいの。トオルの居場所は、この家にちゃんとあったんだね・・・」
 お父さんが戻ってきたので、二人で外に出て、車に乗り込んだ。
 お父さんとこうやってちゃんと話すのは、いつぶりだろう。もしかしたら、初めてなんじゃないかな。そう思うと、緊張してきた。
 車に乗り込んだものの、緊張してるのはお互い様なのか、お父さんも口を開かない。仕方ないな・・・。
「いつから?」
 静かな車に、声がよく通る。
「え?」
「いつから、トオルと話してたの?」
「・・・十年くらい前からかな。」
「そんなに前から?!気付かなかった・・・」
 十年前って、お母さんがトオルに虐待し始めた頃じゃん。最初から、お父さんは味方だったんだ。
「話しかけたり、パンやお菓子をあげたり。お母さんにバレないようにしてたら、偶然カスミにも気付かれなかっただけさ。」
「そっか・・・」
「カスミは、トオルの味方なのかい?」
「当たり前よ!だから、給食のパンを持って帰ってきてあげたりしてたの。私こそ、偶然お父さんに気付かれなかった。」
「そうか。お父さんは、カスミがお母さんの味方だと思っていたよ。」
 偶然というのは、本当にすごい。何年も、お互いが味方じゃないと思ってたせいで、まともな親子の会話さえできてなかったんだから。
 私は、一番聞きたかったことを聞いた。
「なんで、お母さんを止めてくれなかったの?」
 お父さんは少し考えたあと、口を開いた。
「お父さんとお母さんが最近よく喧嘩してるのは知ってるね?」
「うん。」
「喧嘩の内容はね、離婚についてなんだ。」
「り、こん・・・」
 今時、珍しい話じゃない。それは知ってるけど、まさか自分の両親がそうなるなんて、思ってもみなかった。
「トオルに虐待をし始めた頃から、考えてはいたんだ。でも、カスミがまだ小さかった。せめてカスミが中学生になってから切り出そうと思って、それまではお母さんを放っておいた。自分がしていることの愚かさに気付いてくれるんじゃないかと思ってね。でも、ダメだった。カスミが中学生になっても虐待は収まらない。だから、離婚を切り出したんだ。お母さんと別れて、カスミとトオルはお父さんが引き受ける、と。」
「お母さんは、何て言ったの?」
 お父さんはため息をついた。
「もちろん、反対。だからこうして喧嘩してる。カスミへの過保護と、トオルへの虐待をやめろって言うんだけど、全然聞く耳を持たない。」
「そう・・・」
「カスミは、なんでお母さんに言わなかったの?もうやめて、って。カスミには優しいから、聞いたかもしれない。」
 思わず、うつむいた。悔しさがこみあげてくる。
「・・・怖かったの。普段あんなに優しいから、もし私が反抗して、今度は私が虐待されたらって思っちゃって・・・。中学生の時、お母さんがうっとうしくて一度だけキレたの、覚えてる?」
「うん。」
「あの時のお母さん、私がキレたショックと怒りをトオルに虐待することでストレス発散してたの。それを知ってるから、お母さんの機嫌を損ねないようにするのが、私にできる唯一の方法だった。」
 何年も、どうすればいいのか悩んできた。何もできない自分が悔しかった。この家に帰ってくるのが嫌な日は何度もあった。でも、私が帰らなきゃ、トオルが死んでしまうかもしれない。帰って、こっそり話しかけて食べ物をあげるのが、私の使命だった。大好きな弟を、失いたくない。その一心で。
 気付けば、私はポロポロと涙をこぼしていた。
「つらかったな。ごめんな、何もしてやれなくて・・・」
 お父さんは、そう言って私の頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。さっきトオルにもしていたように。お父さんは、私とトオルを同等に見てる。それだけでうれしくなって、また涙が出た。
「カスミ、よく聞いて。」
 お父さんは真剣な顔で私の目を見た。
「警察に、相談しに行かないか。」

四、ぼく
 ガシッ。
「だいじょうぶ〜?いきてんの?」
 ママが、ぼくのあたまをつかむ。ぐらぐらとゆさぶられて、はきそうになった。
 たたかれたり、けられたりするようになってから、ずうっとながいじかんがたった。おねえちゃんはママにみつからないようにこっそりたべものをくれて、たくさんおはなししてくれて、パパもこっそりたべものをくれる。それはかわらない。
 かわったことといえば、パパとママがけんかするようになったぐらい。そのあと、ママはぜったいにぼくをたたいたりけったりするの。
「むかつく!むかつく!むかつく!」
って。
 ぼくは、さいきん、げんきがでない。たてなくなっちゃった。すごくねむいことがおおい。パパもおねえちゃんも、しんぱいそうにしてるけど、だいじょうぶだよって、目でつたえるんだ。
 ピンポーン。
 ・・・ん、だれかきた。
「はーい!」
 ママがげんかんにはしっていく。
「・・・どなた?」
「けいさつのものです。たなかけいこさんですね。」
「はい、そうですが・・・」
「あなたに、たいほじょうがでています。しょまでごどうこうねがえますか?」
「え、ちょっと!」
 けいさつ?たいほじょう?なんだろう。
 パパとおねえちゃんが、かなしそうな、あんしんしたような目で、つれていかれるママを見てる。
 あれ、なんだかねむくなってきたな・・・。
「・・・ン・・・」
 声、でない・・・。おねえちゃん・・・パパ・・・。

「ワン・・・」
「え、トオル?!」


“ニュースです。東京都に住む田中圭子容疑者四十七歳が、動物愛護法違反の罪で逮捕されました。十二年前から飼っていた、ミニチュア・ダックスフンドのトオルくんに対し殴る蹴るの暴行や食事を与えないといった虐待を繰り返し、トオルくんは田中容疑者逮捕の直後に衰弱死しました。逮捕された田中容疑者は容疑を否認していますが、夫の田中陽一さんと娘の佳澄さんが通報したことにより、事件が発覚しました。次のニュースです・・・”

「私を連れていって」132201

 スマホの液晶がパッと光った。なにか部活の連絡だろうか、と思ってスマホのほうに目を落とす。液晶に映った表示はラインの通知ではなく、天気予報のアプリの通知だった。その通知文をぼんやり眺めると、
「本日、関西地方の梅雨明けが発表されました。」
の文字が液晶には映っていた。スマホを手に取り、早速アプリを起動させ週間天気予報のページを開く。オレンジ色をした太陽のマークが一週間の予想天気を占めていた。地球温暖化の影響やらなんやらで毎年暑くなると騒がれているが、今年の夏もどうやら暑くなるらしい。
 (・・・今年もこの季節がまたやってきたのか。)
 心の中で、ふとそんな事を考えていると、1年前に手術した右肘がズキズキと痛む。あの夏の記憶が蘇ってくる。あれから一年経つが、一日もあの日のことを忘れたことはない。
あの夢の舞台に立っていた日のことを。


 ジリジリと照りつける真夏の太陽、真っ青な空に立ち上がる入道雲。チームカラー一色に染まったアルプススタンド。よく整備がされて足跡ひとつないきれいな黒土。その中で映える白線。両チームの選手がベンチの前で並び、審判の合図を待つ。試合前のなんともいえない高揚感、緊張が球場いっぱいに満ちている。張りつめた空気の中、審判団が姿を現す。
 「集合!」
 主審が右手を挙げ、大声で叫ぶ。両チームの選手が一斉に大声を上げながら走り出す。両チームが整列を終え、主審の礼の合図と共に脱帽し挨拶をする。挨拶を終え、守備につく清風館高校のナイン達。まだ誰の足跡も付いていないダイヤモンドの一番高い場所に立ち、胸に手を当て、大きな深呼吸をひとつする背番号1の背中を割れんばかりの声援が後押しする。投球練習を始めるその背番号1の姿を球場の観客は期待の目を向けながら見守っていた。それもそのはず、マウンドに立つ清風館高校の大畑昂はまだ1年生なのだ。地方大会から脚光を浴び、1年生ながらにしてプロの球団のスカウトも注目する本格派右腕それがこの甲子園のマウンドでどのようなピッチングをするか高校野球ファンなら誰もが楽しみにしているのである。
 「プレイボール!」
 主審のその一声で試合が始まる。打席には強打で有名な古豪、立花高校を引っ張るリードオフマンの向井優が大畑昂を威嚇するかのように大声を上げ、バットを構える。いきなりの名勝負がみられるこの場面、みんな息を飲み、見守っていた。大畑昂は左足をゆっくりと上げ、ピッチングフォームに入る。ゆっくりと上げた左足を踏み出し、体全身を使い、その右腕からボールが投げ出される。大畑昂から放たれたその白球は乾いた心地よい音を立てキャッチャーのミットに収まった。
 「ストライク!」
 審判のコールが響き渡る。それと同時に球場には歓声が沸き上がる。背番号1の背中にある電光掲示板のスピードガンが示した155の数字に球場がどよめいたのだった。
 「これだ、これだよ。」
 どこからともなく声が聞こえてきた。清風館高校の1年生エース大畑昂の持ち味はこのストレートなのだ。電光掲示板の数字など一切気にせず、次の投球動作に入ろうとする大畑昂を見て、向井優は慌ててバットを構え直す。2球目、大畑昂の右腕から放たれたボールは初球と同じコースだった。
 「2球同じ球を見逃すほど甘くはない!」
 心の中でそう思いながら向井優はフルスイングをした。当たればホームラン、というような強振も虚しく、バットは空を切った。それは一瞬ボールが視界から消えたかのように錯覚するほど落差のあるフォークボールだった。さらに大きくなる球場内の歓声。球場のボルテージが上がっていく中、勝負の3球目。キャッチャーが出したサインに頷き投球動作に入る。
 「ガシャン!」
 という音を立てるバックネット。大畑昂が放ったボールはキャッチャーの構えた場所とはかけ離れた大暴投となった。予想外の大暴投にキャッチャーであるキャプテンの田辺健一はもちろん、対戦バッターの向井優も驚いた顔を見せた。それ以上に驚いたのは大畑昂自分自身であった。キャプテンでキャッチャーの田辺健一が肩の力を抜けというようなジェスチャーをしながらボールを返球する。
(これが自分自身感じてはいなかった甲子園のマウンドのプレッシャーなのだろうか。)
 そう思いながら、大畑昂はもう一度胸に手を当て深呼吸をする。1ボール、2ストライク。4球目のサインに頷き、投球動作を始めボールを投げる。外角低めに決まったストレート。主審が手を上げ、ストライクのコールをする。甲子園で奪ったひとつ目のアウトは見逃しの三振。続くバッターも三振に打ち取り、初回からいきなり三者連続三振と最高のスタートを切った。その後、試合は緊迫したムードの中進んでいく。大畑昂が向井優に投げたあの3球目の大暴投など誰も気には留めずに…
 
 その後、試合は2対1と清風館高校が1点リードして8回表の守備を迎える。マウンドには依然として背番号1の姿があった。後6つアウトを取ればゲームセット。大畑昂の甲子園初白星が記録されることになる。8回表の立花高校の攻撃は 8番バッターから始まった。
 さすがの大畑昂も疲れが見えて来たのか、甘く入った初球を右中間に運ばれツーベースヒットを打たれてしまう。その後、9番バッターには手堅く送りバントを決められ、ここで4巡目の先頭打者、向井優に打席がまわる。3打数ノーヒットとここまで大畑昂に完全に抑え込まれていた向井優は雪辱に燃えていた。1アウト、ランナー3塁。今日一番のピンチを迎えることになった。1ボール、2ストライクと向井優を追い込んだ大畑昂。勝負の4球目。今日一番の勝負所に会場のボルテージは最高潮に達しようとしていた。大畑昂の右腕からボールが放たれる。球場をどよめかした初球のような乾いた心地よい音は聞こえてこなかった。大きく外れたボールはキャッチャーが捕ることのできない大暴投。記録はワイルドピッチ。大きく逸れた球を取りに行く間に3塁ランナーがホームベースへと帰ってきてしまった。さっきまで、雪辱に燃えていた向井優の目に映ったのは、右肘を押さえながらマウンドに倒れこむ大畑昂の姿だった。球場全体が何が起こったか分からず、しばらくの沈黙に包まれていたのだった。
 期待の1年生エースとして地方大会から連投を続けてきた大畑昂の肘は悲鳴をあげていたのだった。試合後、病院で告げられた事実は一年生であった大畑昂を絶望させるものであった。このまま野球を続けるとしても手術が必要であり、今までのようにピッチャーとしての全力投球などはできないとの診断であった。その医者の言葉をどこか遠くから聞いているような感覚に襲われた大畑昂は目の前の現実を受け入れることが出来なかった。


 大畑昂は一年前のあの夏の記憶を振り払うかのように頭を軽く横に振った。ふと机の上に置いてある時計に目を向けるといつも家を出る時間から5分が過ぎようとしていた。
 「急がないと、また今日もあいつにぶつぶつ言われてしまう。」
 そんなことを思いながら制服に着替え、清風館高校と刺繍の入った野球部のカバンを担ぎ、家を出る。
 「遅い、5分遅刻!」
 家の前に立っていた桜井奈々が大畑昂の姿を見るや否やそう言った。いつものようなやり取りを繰り返しながら二人は学校へと歩いていく。長い髪は邪魔になるからといって小さい頃から髪はショートヘア、大きい目に整った顔立ちの桜井奈々は他の男子からの人気も意外と高かったりする。昔から桜井奈々のことを知っている大畑昂からすればそんな他の男子のその言葉を聞くと毎回、怪訝そうな顔をする。確かに、元気に明るく笑う姿を見ると多少なりとも可愛いと思ったりしないわけでもなかったりして…
 天気予報のアプリにあったように今日からまた一段と暑くなるらしい。先週までのジメジメとした湿気は無くなり、朝早くだというのに太陽は今日も元気に輝いている。 
 一応、桜井奈々も女子ということなのだろうか、毎日部活をしているにも関わらず、大畑昂と比べると色が白いのは美には気をつけて日焼け止めを塗っているらしい。前にそのことを少しからかって言うと腹に強烈な一発を受けたことを思い出し、大畑昂は少し顔をしかめた。
 自分の贔屓のプロ野球球団のことを熱く語りながら歩く姿をみていると、
 (本当にこいつは野球が好きなんだな。)
 と大畑昂はそう思った。
 
 昔から桜井奈々は野球が好きだった。家が隣で親同士も仲が良かったこともあり、2人は小さいころからよく遊んでいた。桜井奈々の父が昔プロ野球選手(といっても万年2軍の選手だったらしいが…)だったことも関係して、よく3人で野球をして遊んでいた。桜井奈々の父は、自分の娘と同じくらい大畑昂のことを可愛がってくれた。自分の娘が野球をしてくれていることはもちろん、その友人までも野球の楽しさに気づいてくれたことが桜井奈々の父にとってはなにより嬉しいことであったようだ。そんな毎日が過ぎていく中で変化が現れてきたのは中学生になった頃であった。これまで桜井奈々に毎日
 「ちび昂、ちび昂。」
 と毎日バカにされていた身長も中学2年になるころには桜井奈々を大きく突き放すようになっていた。野球も今までは桜井奈々に全く敵わなかったが、投げる球も速くなり、バッティングでも桜井奈々が投げる球を打つことができるようになっていた。これまで野球では完全に自分が優位に立っていると思っていた桜井奈々は驚きの色を隠すことができなかった。
 「やるじゃん。」
 そう言いながら無理に強がって見せた少し寂しそうな笑顔を大畑昂は忘れることができなかった。
 
 いつものように2人は清風館高校の校門をくぐり部室へと向かっていく。
 
 
 
 (硬式野球部)
 とかかれた部室の中で昂は朝練の準備をしていた。夏の地方予選まで残り2か月。チームも大会に向け、メンバーを絞っていかなければならず、徐々にピリピリとしたムードになりつつあるのを昂自身も肌で感じ取っていた。先週にあった練習試合では、4打数2安打、打点1とまずまずの活躍をした昂ではあったが、自分自身ではまだ何か納得しないものが心の奥に残っていた。
 「もっと、このチームのためにできることを… この俺を見捨てることをしなかったこのチームにできることをしなければ…」
 そう心の中で静かに闘志を燃やしていた。清風館高校には去年、甲子園を沸かせた期待の1年生エースはもういない。
 今となっては新しい相棒となったファーストミットを脇に抱えながら昂はグラウンドに向かっていた。
 (女子硬式野球部)
 制服を脱ぎ、ユニフォームに着替えながら奈々は、去年の夏のあの場面のことを思い起こしていた。あの夢の舞台に立っていた。清風館高校背番号1のことを。
 アルプススタンドで声援を送っていた奈々は一瞬何が起こったのかわからなかった。球場に沸き起こる歓声が遠くに聞こえ、目に飛び込んできたのはマウンドで倒れこむ昂の姿だった。右肘のことを昂から聞いた時は、なんと声をかけてあげればいいのかがわからなかった。魂が抜けてしまったかのような昂を見るのはとても辛かった。奈々は散々考えた後、昂にひとつだけお願いをした。
 女子野球は男子に比べると予選が始まるのが1か月早い。迫る予選の日に向け奈々は今日も朝練のグラウンドに向かっていく。女子の奈々からすると少し大きめのサイズの良く使い込まれたグローブを手に持ちながら。


 初夏の季節も過ぎていき、朝早くから太陽は元気に照り付けている。朝の登校をするだけで体全身から汗が噴き出すような季節の中、女子の地方大会前日の日がやってきた。その日の帰り道たまたま練習の終わる時間が一緒だった昂と奈々はいつもの通学路を2人並びながら歩いていた。
 「いよいよ明日だな。」
 ふと昂がそう声を漏らした。
 「明日、見に来てね。」
 いつものように元気に明るく答える奈々の姿を見て、昂は安心した。それと同時に夕日が差し込む奈々の顔をみて、少しだけいつもと違った感情が湧き上がってきたが、昂はこの感情がなんなのか理解することはできなかった。しばらく無言のまま歩き、家の前についた時、昂は、
 「頑張れよ。」
と一言だけ言った。そんな昂の言葉を聞きながら、奈々は親指を立てて任せろと言わんばかりのポーズを取った。

 清風館高校女子硬式野球部地方大会予選一回戦、男子に比べると女子は参加チームが少ないこともあり、ベスト16からスタートする。初戦の相手は去年準優勝を果たしている海星高校だ。4番でエースの金沢美沙を軸とした攻守共にバランスの取れた強豪である。そんな強豪に対して自慢のコントロールでコーナーをついたピッチングで強力打線を抑えていくマウンド上の奈々。その奈々の背番号1の姿を昂は黙ってスタンドから見守っていた。
 あの甲子園を沸かせた清風館高校期待の1年生エースの姿はもう見ることはできないかもしれない。しかし、ここに、確実にあのピッチャーの思いを受け継いだ選手がいるのだという事は確かなことであった。奈々は昂の思いも受けながら、マウンドに立っていた。女だから…なんてこと今は全く関係なかった。
 
 (…自分がもし男だったら、)
 そう考えたことは今までに幾度もなくあった。女の奈々は甲子園に出られない。といった真実を知った時のあの思いを忘れることはできなかった。いくら予選で勝利して全国大会に進んだとしても、甲子園で試合をすることはできないのだ。今までずっと同じように昂と2人で野球をしてきた。2人で甲子園にいけると思っていたが、真実は残酷だった。期待の1年生エースとして周囲からも騒がれ、甲子園出場を決めた昂に向かって、素直に「おめでとう。」の一言も言えず、逆に、
「昂は男だからいいよね、周りからもちやほやされて。」
と八つ当たりをしてしまった。これまでずっと2人でいて甲子園にいけないという重みを1番理解してくれていたのは、昂だったのに…
 そんなわだかまりがあったまま、甲子園の初戦を迎えてしまった。
「この試合が終わったら、しっかりとごめんなさいを言おう。」
そう思って、あの試合を見ていると起こってしまったあの悲劇。そんな昂を見て私はひとつだけお願いをした。
 「わたしをもう一度甲子園に連れていって。」
 昂と私の仲だったからかもしれない。昂はその言葉を聞き、私の思いを受け取ってくれたのだろうか。彼のグローブを私に託してくれた。

 9回裏2アウト、3対2で清風館高校が1点リードしているものの、ランナー2、3塁のピンチを迎えていた。打席には海星高校4番の金沢美沙が入り、奈々と本日4度目の対戦となる。長打が出ればサヨナラといったこの局面、奈々は左手のグローブを見ながら大きく深呼吸をした。不思議と打たれる気はしなかった。この球場のスタンドのどこかで見ているであろう昂の事を思い出す。昂が背中を押してくれているようであった。2ストライク2ボールと追い込んだ5球目、サインの交換をして、投球フォームに入る。そしてキャッチャーミットから聞こえる心地よい捕球音。外角低めに決まったストレート、バッターの金沢美沙は手を出すことができずに、見逃しの三振。主審が右手を挙げ、
 「ストライク、バッターアウト! ゲームセット!」
 とコールする。清風館高校女子硬式野球部は無事に初戦を勝利で収めることができた。
 
 初戦を突破した清風館高校女子硬式野球部は勢いに乗り、その後も勝利し続けていった。後1勝すれば地方大会優勝というところまで駒を進めていった。
 野球部の練習が休みだった昂は女子野球部の練習を仲間たちと見ていた。昂の目線の先には、奈々の姿があった。他の仲間たちはそんな昂の姿を見ながら、
 「昂、桜井とは付き合わないのか?」と質問をした。
 予想外の質問をされた昂は、慌てながら、
 「そんなんじゃあないよ。」
 とだけ答えた。そう、そんなのではないのだ。上手く言葉にはできないけれど。たぶん付き合う、付き合わないといったような問題ではないのかもしれない。けれど、昂にとって奈々の存在が大きな物になっているのは自分でもわかりきっていることではあった。
 そんなことを考えている内に、練習は実戦形式のバッティングに進んでいた。チームでエースの奈々はこの練習ではピッチャーをせずに、ブルペンで調整を行う様子だった。昂は左手にはめられている自分のグローブを見ながら、やはり奈々の姿だけを見ていたのだった。そんな昂の姿を茶化すかのように見ていた他の連中らはバッティングの方を眺めていた。金属バットが硬球をしっかりと捉えた音が昂の耳にも聞こえていたとき、他の連中らはまわりで、
「危ない!」
 と叫んでいた。 
(何が危ないのだろう。)
 そう思いながら、ブルペンの奈々を見ていると昂の視界にも白球が飛び込んできた。飛び込んできた白い塊は奈々に直撃したのだった。ゆっくりと倒れていく奈々の姿を昂はただただ黙って見る事しかできなかった。倒れこんだ奈々の姿をみて、少しの間が経った後、昂の体は自然と奈々の方へと走り出していた。すでに周りには女子野球部の子たちが囲んでいて、奈々の様子を確認している。どうやら、頭に当たったわけではないらしい。昂がホッとしたのも束の間、奈々が押さえている場所を見て昂はなにか鈍い痛みが心の奥底でしたのを感じた。奈々は右肘を押さえていた。

 そわそわしながら机の上に置いたスマホにどうしても意識がいってしまう。さっきメッセージを送ったばかりですぐに返信が来ないことはわかっているつもりだったが、落ち着かず、無意味にスマホを触ってしまう。よく見馴れたラインの通知文が届いた時、昂の心臓は軽く跳ね上がった。通知に表示された(桜井奈々)の表示。勇気をもって開けてみた。
 (骨に異常はないみたい。軽い打撲だから大したことはなさそう!心配かけてごめんね。)という返信だった。ひとまず安心した昂は、
 (奈々は丈夫だからな!)
 と冗談混じりの内容で返信した。
 (それどういう意味よ、)
 といつもと変わらないようなやりとりをしている内に昂は笑顔が漏れていた。その後も他愛もないやりとりをした後に、
 (とりあえず、今日はゆっくりと休んで。)
 とだけ返信した。しばらくして返信がないのを少し寂しく感じながらも寝たんだなと思いながら昂もベッドに寝転がった。そしてそのまま眠りの世界へと落ちていった。

 次の日の朝、2人はいつもと同じように朝練へと向かっていく。奈々の様子を見る限り、昨日言っていたように特別問題はなさそうで、いつもと変わらない元気さだった。
 「男子の予選もいよいよだね。昂は最近調子どうなの?」
 奈々は昂の顔を少し覗き込みながら聞いた。
 「うん、いいと思うよ、最近はボールも良く見えてるし、しっかりとスイングすることもできてると思う。」
 唐突に、顔を覗き込まれた昂は少しもごついた。昨日から少しおかしいな、変に意識しすぎてるな多分、そう自分に言い聞かせながら学校へと向かっていた。
 「カキ―ン!」
 先ほど奈々に言った言葉は嘘ではなく、朝から昂のバットは快音を響かせていた。
 しかし、練習の合間合間にどうしても女子野球部の方に目がいってしまう。マウンドにいるであろう奈々の姿を自然と探している自分に気がついた。
 (練習中に何やってんだ、俺。)
 そう言い聞かせながらも、奈々の様子を見ていた。調整のためボールを投げる奈々の姿を見て、昂は様々な事を考えていた…

 その日の部活の帰り道、2人並んで歩いているときに昂は朝練の時から思っていたことを思い切って聞いてみた。
 「右肘、痛むのか?」
 昂は心配しながらそう聞いた。予想外の質問をされた奈々は驚きながらも、
 「大丈夫だよ。」
 とだけ答えた。それを聞いた昂はすぐにそれが嘘だということがわかった。昔からずっと奈々のことを見ていたのだ。いつもと違う投球フォームをみていつもと違うことはすぐにわかっていた。
 「今度の試合、投げるのか?」
 昂は聞いても意味のないとわかりきっている質問をあえてしてみた。奈々は間髪いれずに、
 「投げるよ。」
 とだけ返した。昂が予想した通りの答えがそのまま返ってきた。
 (なんで、よりによって右肘なんだろうなあ…)
 そう心の中で呟き、奈々の顔を見た。その眼には強い意志がはっきりと宿っているのがわかった。
 「俺が、奈々を甲子園に連れて行くよ。」
  ふと漏らした言葉に、奈々は
 「えっ?」
 とだけ返した。
 「俺が奈々を甲子園に連れて行く。だから代わりにお願いだ。次の試合、奈々は投げないでくれ。」
 「そんなこと―――」
 反論する奈々の言葉を遮り、昂は続ける。
 「奈々が苦しむ姿はもう見たくないんだ。今は大丈夫かもしれないけど。このままひどくなって奈々が投げられなくなることが俺にとってはなによりも嫌なことなんだ。ピッチャーの人生を奪われるのは俺ひとりで十分だ。」
 いつもとは雰囲気が違う昂の姿を見て、そしてこれまでの昂の野球人生を1番近くで見てきた奈々は、昂がこの思いをどのような気持ちで言っているかは痛いほどわかった。その思いをくみ取った奈々は渋々と
 「わかった。」
 とだけ答えた。そしてもうひとつ加えて、
 「私を甲子園に連れて行って。」
 そう付け足した。昂は何も言わず、ニコッと笑った。よく焼けた黒い肌に対照的に見える白い歯は夕日にあたり、一層キラキラ輝いていた。
 その日の夜、昂は今となって日課となった素振りを庭でしながら考えていた。
 (今度は、ピッチャーとしてではなく、バッターとして。これまで自分を見捨てなかったチームに対して。また、甲子園にはどれだけ頑張っても出られない奈々をもう一度あの甲子園に連れて行くために。)
 
 予選初戦の朝が来た。
 夏の暑さに目を覚ました昂はカーテンを開ける。夏の日差しが体中に突き刺さる。
 その時、机の上に置いたスマホが光る。桜井奈々の表示が液晶に出てくる。
  (いよいよ予選だね、負けたら許さないから。)携帯の横には奈々が作ってくれたお守り。新しい相棒のファーストミット、またこれまで使っていたあのピッチャー用のグローブも並べられていた。
                                     (完)

「平行世界2013年」132137

「ふざけんな、てめぇ」
「んだてめぇコラァ!」
今は昔と違って治安などという言葉は存在しない。街ではゴロツキ共が辺り構わず喧嘩をやり散らし、金のない者たちは盗みを繰り返している。
人々が優しさを失った地球、俺たちの住む星を、人々はそう呼び、嘆く時代。それが今。政府は権力を振りかざすだけのただの低脳な集団でしかなく、実際は我欲のみを肥やす横暴な貴族が支配する世の中だ。腐りきっている。
そんな中俺は、前を向き、大地を強く踏みしめ、味気ない灰色の日々を懸命に生きていた。
そして、今の俺は――
「テツ、何か甘いものが食べたい。」
とにかく、精一杯――
「何無視してんのよ!!テツっていったら、あんたしかいないでしょーがッ!」
ガコッ。おや、後頭部に鈍い衝撃。と思った瞬間に、激痛が走った。
「いってぇええええ!」


ようやく痛みが落ち着いてきたころに目を開けると、足元にコロコロと硯が転がっていた。どうやら痛みの原因はコイツが俺の後頭部にクリティカルヒットしたことらしい。ありえねぇよ!
頭を押さえてうずくまっている俺を仁王立ちで見下ろしている、硯を投げつけてきた張本人の、この我儘自己中女の名前は一条薫。生まれて一度も外に出たことがないのではと思うほどに真っ白な肌に艶やかな黒髪と涼しげな切れ長の瞳を持つ、口を開かなければ麗人と呼ばれる部類の彼女は、この四民平等の時代ですら没落せずにでっかいお屋敷に住んでいる超上流貴族様だ。
俺はというと、この薫様の世話係でもお屋敷の使用人でも何でもない、半年前からここで働き出したただのバイトの男子中学生で、名前は山本鉄之助。余談だけど、俺の家は母子家庭で、お袋の稼ぎだけじゃちょっと心もとねぇから俺も学校が終わってから働きにきてるんだ。もう一度言う、俺は住み込みの使用人でも執事でも爺やでも何でもない、一日2時間、庭の掃除をするという条件で雇われただけのバイトだ。それなのに、この腐れ姫さんにパシられ続けている。契約の労働時間なんていつもオーバーしてるし、そもそもパシられる契約じゃねぇ。理不尽過ぎるだろ!何でこんな目に合わなきゃなんねーんだ!!
俺は全部ひっくるめた非難の意味を込めて、腐れ姫さんをキッと見上げた。
「 何?その目。私に喧嘩を売ろうなんていい度胸ね?」
室内にバキボキと薫様が指の関節を鳴らす音が響く。ヤンキー漫画でよく見る光景だ。眉間に何本も皺を寄せ、綺麗な顔を歪めて思いっきり睨みつけてくる薫様。
お貴族様のクセに、その般若みたいな表情はその辺の下手な不良なんかよりも数百倍迫力があって恐ろしい。
「す、すいまっせんっしたー!」
俺は表面上だけでも取り繕おうと、ビシッと角度90度のお辞儀を決める。メチャクチャ鬱陶しいけどさ、逆らえないんだよ!メチャクチャ怖いんだよこの人!!
「え、えと、あああ甘いもの?じゃねぇや甘いものでございますか、ど、どういったものがいいんだ、えっとよろしいのでございましょうかっ?」
「何でもいいわ。それぐらいあんたが考えなさい。」
「は、はぁ、では何か適当なものを買って来させていただきますでございまするっ!!」
一刻も早く薫様の射る様な視線から逃れたくて、俺は這い出る様にその部屋から立ち去った。

結局ひとしきり悩んだ後、羊羹を購入した。確か薫様は洋菓子より和菓子の方が好きだったはずだ。何でパシられた上に買うものまで俺が決めなきゃならねーんだ、と考えるとため息が止まらないのだが。
げんなりした顔でお使いを終え、屋敷に戻ってくると、真っ直ぐに薫様の部屋に向かった。
純和風のこのお屋敷には襖しかないからノックなんてしない。スパーンと小気味良い音を立てて薫様の自室の襖を開くと、そこにいたのは布団に包まって横になっている彼女の姿だった。顔色は蒼白で、ゴホゴホと小さく咳き込んでいてとても苦しそうだ。どうしようかと逡巡していると漸く俺の存在に気付いたらしい薫様がこちらに視線を向けた。
「何だ、もう帰ってきたの。早かったわね……けほ、ごほっ」
言ってすぐに咳き込む薫様を前にして俺はどうしようか、とひたすらオロオロする。
ようやく薫様の枕元に置いてある湯呑が空なことに気づき、慌ててお茶を淹れ、差し出した。薫様はそれを何も言わずに上体を起こして受け取り、コクリと一口飲んだ。しばらくすると、顔色も戻り、大分と具合は良くなってきたようで少しホッとした。何というか、さっきまであれだけ元気にガンを飛ばしていた人が急にこんなに弱々しくなると心配する、というか寧ろ怖い。
そう。この人、普段の高飛車な態度に似合わず身体が弱いんだよな。確か呼吸器系の持病を持っているらしくて、よくこんな風に咳き込んだり、床に臥せったりする。
ところで、薫様は17歳で、俺は14歳。他の使用人たちに比べ、歳が近いから俺には遠慮なく何でも言ってくれている、というのは分かる。でも、まぁ、ここまで扱いが酷いと当たり前だけど、かなり腹が立つ。俺は何だ。お前の下僕か何かか?と思うことは多々ある、というか常に思っている。だが、こんな風に薫様が弱った姿を見せている時は、そんな考えはきれいさっぱり頭から抜け落ちてしまう。何というか、パシられても文句言えない気になってくるんだよ!薫様のために何か、俺にできることはないかな。なんて、ガラじゃないけど考えてしまうんだよな。
「甘味は……」
急に声を掛けられて俺はビクリと肩を揺らしたが、その声が弱々しいものだった
からつい、
「も、もちろん買ってきたぜ!えっと、羊羹!」
と変にテンションの高い声で返答してしまった。本当はパシられてムカついてた
のに。俺ってホント、情に流されやすい損な性格だよなぁ、なんて自嘲してみる。
「 そう。じゃあ、それだけ置いて今日は帰りなさい。」
「へっ?」
あの、今、なんて?
物思いに耽りかけていた俺は、急に薫様の口から発せられた言葉の意味が理解できなかった。
「……はぁ。もう一度言うわ、今日は帰りなさい。」
薫様はぐしゃりと前髪を掻き上げながら面倒くさそうに言い放った。
帰れ、だと?今帰れって言ったの?コイツ。お前のために嫌々甘いモン買ってきてやった俺にその物言いって。
前言撤回!!!
やっぱコイツ、物凄くムカつく!この腐れ自己中貴族が。さっきまでの俺の、思いやりの心を返しやがれ!!何が「はぁ。」だ!!こっちの方が百倍「はぁ。」なんですけども!?
流石にこれには俺もキレていいんじゃないかな。うん。正当な怒りだよね。貴族だからって調子乗ってんじゃねーぞ!人のこと家畜かなんかみてーに扱いやがって!いつまでもそうやって我儘し放題でいられると思ってんのか。世の中そんなに甘くねーぞこの野郎。今日こそガツンと言ってやる。 
脳内ではスラスラと薫様を罵倒する言葉が流れ出している。ただ、それはいつまで経っても俺の口からは出てこない。
「何、大口開けてボーッとしてるのよ。早く帰れって言ってんでしょ。」
「えっ、あっ!じ、じゃあ失礼します!」
最終的に俺が出来たことは恒例の90度お辞儀と快活な挨拶のみだった。俺は、情けなくて全速力で薫様の部屋を飛び出していった。俺のバカ野郎!!


薫様にパシられ、ご機嫌取りをするだけのこんな日々が何日も何日も続く。
一日が終わっても、どうせ大して変化のない次の一日がやってくるだけ。俺って一体なんなの。俺は元々足が早い方ではなかった。だけど、薫様に理不尽なパシリをさせられているせいで今では陸上部並みに足が速くなった。
今日も俺は薫様にパシられ街頭をひた走りしていた。ちなみに頼まれたのはコーラ。
あの腐れ姫さんは、最近タイムトライアルにハマりやがった。何分以内に帰ってこいとか何とか。間に合ったからといって何も褒美はないし、逆に間に合わなかったら口一杯文句を言われる。特に痛くも痒くもないけど、文句言ってる時の薫様が楽しんでるのはヒシヒシと伝わってくる。喜ばせるのがムカつくから俺は頑張って走っているんだ。マジムカつく。
心の中で口一杯腐れ姫さんへの文句を並べていた俺は、その時背後の気配に気づかなかった。
「おい、そこのお前。」
急に降ってきた背後からの声にえっ、と思い振り返ろうとした瞬間、何者かに殴られた。多分金属のモノで殴られたんだろう、頭蓋骨が割れたのではないかというほどの強い衝撃。
(薫様の、硯よりいてぇ……)
悠長にそんなことを考えている場合ではないのに。続いてけたたましく硝子の割れる音が響いた。
(あ、コーラが……せっかく、買ってきたのに……。)
ここで、俺の意識は途絶えた。


薄く目を開けると、眩しい光が入り込んできた。俺は紫色の皮のソファに寝転がっていた。あたりを見回すと、何処かの事務所のような場所で、壁は全面真っ白だ。
俺、何してたんだっけ。ゆっくりと頭が覚醒してくる。確か薫様にコーラ買ってこいって言われて、買いに行って、それから――
「やっと起きたか。死んだかと思った。」
何だか聞き覚えのある声が聞こえたな、と思った瞬間、俺の視界にいきなり、黒髪と瑠璃色の目を持つ見知らぬ人物がドアップで入り込んできた。
「うわあああ!?」
驚きすぎて跳ね起きると、頭に割れるような痛みが走った。
思い出した。俺、殴られたんだ。この声は意識の無くなる寸前に聞いたものと同じだから、恐らく目の前のコイツが殴りつけてきた犯人だ。
「加減はしたゆえ、一分程で起きると思ったんだが。」
何言ってんだコイツ。その口ぶりじゃ、気絶させることは確定事項だったのかよ。大体何でいきなり人を殴りつけなきゃなんないんだ。
「何だその目。俺に反抗しようなんていい度胸だな。……まぁいい、本題だ。俺とて鬼ではない。盗ったモノを全て置いていけば、今日のところはそれで許してやる。」
言っている意味が分からない。盗ったって何だ。俺はコーラ買いに行ってただけだ。
俺が黙りこくっていると、目の前の人物は溜め息を一つ零した。
「言わぬのなら、仕方ないな……」
目の前の奴はいつの間にか警棒を手にしていた。そしてそれを大きく振り上げた。
ヤバい、さっき殴られたのはこの警棒でだったんだ。またあの痛みがくる!
「俺、何も盗ってねぇよ!」
襲いくるはずの衝撃を覚悟し、咄嗟に目を瞑りつつも精一杯叫ぶと、今にも振り下ろされんとしていた警棒の動きがピタリと止まった。
「……やっと口を開いたと思ったら言い訳か。往生際が悪い。」
目の前の男はもう、うんざり。とでも言うようにまた溜め息を吐いた。
「本当に盗ってないんだってば!」
俺は全力で言い募った。だって本当に身に覚えがない。
「お前のようなみすぼらしい出で立ちの子供が、何やら慌てて走ってたら怪しいに決まっているだろう。ちょうど商店街で泥棒が出たと聞いていた。そこにお前が来た。それだけで俺がお前を捕らえる理由は充分。そうだろう?」
言われて、今の自分の格好を見返してみる。俺のTシャツはよれよれで埃っぽいし、靴だってサイズが合わないのに何年も履いているからクタクタな上、所々破けている。確かにみすぼらしいけど、だからってそれだけの理由で泥棒だと決めつけられるのは余りにも理不尽ではないか。
「本当に違うんだ。俺、バイト先の主人にお使い頼まれてたんだ。それで急いで
ただけなんだ!」
「バイト先……ふん、まだ認めようとはせぬか。で、どこなんだそのバイト先は。」
全く取り合ってくれない様子に流石に俺だって耐え切れない。
「一条様の家だ!」
思わず叫んだ。その言葉に男の瞳が揺れたのを俺は見逃さなかった。
「……今、何と言った」
おずおずと聞き返され、一条様の元に働きに出ている、と次ははっきりと答えた。男は黙り込んだ。何やら逡巡しているようだった。
「証拠はあるのか?お前が一条家で働いているという。」
言われて少し悩んだが、ふと思い出した。ポケットの中に手を入れ、あるモノを掴み出して見せた。
「これは…」
男の瞳が今度こそ見開かれた。
俺が取り出したのは一条家の紋が刻まれた赤い鈴だった。お使いに行く時に、薫様がいつも持って行けと言って渡してくるモノ。今まで何の意味があるのか全く考えたこともなかったが、こんな時に役立つとは。
「一条……」
男の瑠璃色の瞳が一瞬キラリと光を帯びた気がした。
「分かった。もう帰ってよい。」
先程まではあれ程しつこく問い詰めて来ていたというのに、あっさりと俺を解放する男に俺は意表を突かれた。一条家の名前にビビったというところだろうか。
「何をボーッとしている。帰らぬのなら俺の気晴らしに付き合ってもらうことになるが?サンドバッグとして。」
男は、ヒュンヒュンと音を立てて警棒を振り回し始めた。あ、目がマジだ。怖いんだけど。どうやらビビったというわけではなさそうだ。どちらかというと、自分の捕まえた相手が犯人ではなかったことに苛立っているだけのように感じた。
さっさと帰ってしまわないと本気で命が危ない。男に背を向けて帰ろうとドアを開けると、丁度やってきたガタイのいい男とばったりと鉢合わせしてしまった。
ひい、と出かかった悲鳴を何とか飲み込んだ。そのガタイのいい男は俺を一瞥するとすぐに警棒の男に視線をやった。
「斎藤さん、このガキはまたハズレっすか?」
「うるさい。お前が代わりにサンドバッグになるか?」
「おー、怖い怖い。」
このやり取りからどうやらこの2人の男は仲間らしい、と理解する。
「悪かったなぁガキ。うちの団長はすぐ手が出る上に意外にもおっちょこちょい
だから。」
ガタイのいい男に笑顔でそう言われたが、俺は返す言葉もなくはぁ、と頷いた。向こうからは団長と呼ばれた男の怒号が飛んでくる。早く帰りたい。
だが、ふと疑問が湧いた。今の時代には治安などという言葉は存在しないのだ。警察と呼ばれる組織も、あるにはあるが形骸化しており、貴族の言いなりになるただの狗状態だ。警察が積極的に犯罪者を取り締まる様子なんて見たことがない。
「なあ、お前らは何者なんだ。」
恐る恐る、ガタイのいい男に尋ねると、人の良い笑顔で話し始めた。
「俺たちは自警団だ。結成したのは最近だが、2年前に中学を卒業して進学してねぇ奴らが殆どだから皆若いんだぜ。人数は団長を含めて10人程だが、腕っ節に自信のある奴ばっかだからな、今のボンクラ警察組織なんかよりずっと治安維持に貢献してる。」
(自警団…)
俺は脳内でその言葉の響きを反芻させた。
「世の中は腐り切っているからな。自ら動かねば、街の風紀を守ることなどできぬ。」
団長と呼ばれた男がさりげなく呟いた。
「まぁ、団長も暴れまくって風紀を乱してる一人には違いないけどなぁ。」
その言葉にまたしても怒号が飛んでくる。変な奴らだけど悪い奴らじゃなさそうだ。そんなことを思いながら俺はその場を後にした。


「遅い!コーラ一本買ってくるのに何時間掛かってんの、あんたは!」
予想通りの薫様の声が上から降ってきた。ただ、その言葉を聞いた場所は薫様の部屋ではなかった。薫様のお屋敷から二キロも離れた路上だった。薫様は、いつも部屋で着ている寝着ではなく、薄紅色の着流しを着ていた。腕を組んで偉そうに仁王立ちしてはいるが、息が僅かに乱れていた。まさか、俺を心配して探しにきてくれた、とか。いや、まさか。
「薫様、なんでここに…?」
俺が驚いて思わず尋ねると、薫様はますます不機嫌そうな表情になった。眉間の皺が増えた。
「あんたがあんまり遅いから、自分で行った方が早いと思ったのよ!本当使えないわね、あんた。」
薫様はしれっと答えるけど、こんなに遠くまで来なくてもコーラなんて、もっと近くで売っている。自分で買いにきたっていう割には薫様の手にコーラはないし、やはり俺を探しにきてくれたんだと確信した。いつも涼しげな表情で俺のことをパシリまくって、からかっている薫様が息まで乱して。何だか嬉しくなって、自然と頬が緩んだ。
「何笑ってんのよ!このバカ!アホ面!」
薫様が小学生みたいな暴言を吐いてくる。全然怖くなくて可笑しい。この人って俺が思ってたような悪い人じゃないのかも。
「だって、嬉しくて。薫様がわざわざ俺のこと探しにきてくれるなんて。」
ポロリと思ったままを零すと、凛サマは一瞬豆鉄砲を食らったハトの様に目を点にし、その後にカッと音が出そうな勢いで赤面した。肩がプルプルと小刻みに震ている。
「さ、探してなんかないっ!自惚れんな!」
俺に向かって大声でそれだけ言うと、薫様はプイと顔を背けてしまった。意地になって否定する薫様は何だか幼い子みたいで可愛い。ただ怖くて自己中でムカつく奴だとばかり思ってたのに。本当は素直じゃなくて不器用で、でも優しい人なんだな。俺は今までこの人のことを見ているようで見ていなかったのか。
「薫様ぁ。」
心が軽くなっていく。家畜程度にしか思われてないと思ってたけど、俺はちゃんと薫様の中で人だったんだな。それも、下僕なんかじゃなく少しは大事にされていた。
「うるさい。能天気な声出してんじゃないわよ、このバカ。」
薫様は呆れたように髪をぐしゃぐしゃと掻き回しつつ、お屋敷の方向へと歩き始
めた。俺は慌ててその背中を追いかけた。
「後、前から思ってたんだけど、様付けはやめてくれない?堅っ苦しくて、好きじゃない。」
「えっ。薫様、今なんて…?」
独り言のように呟かれた言葉に俺は一瞬聞き間違いかと思い、聞き返してしまった。
「だから、薫様はやめろって言ってんの!呼ぶ時は薫、でいい。」
薫様は始め怒鳴っていたのが、徐々に勢いをなくし、最後の方になると完全に声は弱々しくなった。少し、照れているのかもしれない。だが、俺としてはそれどころじゃない。多少口は悪いけど仮にも良家のお姫様まだぞ。そんな人を呼び捨てなんて無理無理無理!
「そんなの無理っす!恐れ多すぎて!」
俺は千切れるほどの勢いでぶんぶんと首を振った。
「はぁっ!?私がいいって言ってるんだから呼びなさいよ!」
「いや、薫様がいいとかそういう問題じゃなくて俺が無理なんです。ホント勘弁してください!」
「意味わかんない!というか、あんたは別に敬語も使えてないんだから、呼び捨ても同じでしょ!?私が薫様は嫌だって言ってんだから素直にいうこと聞いたらどう!?」
もう限界だ、といった感じで薫様が振り返った。俺もズカズカと速歩きして横に並ぶ。
「だって薫様!」
「かおる!」
ムスッとした表情で薫様が訂正してきた。いや、俺間違ってないから。
「か、かおる様!」
「かおる!」
「かおる様!」
「かおる!!」
「かおる!!」
「かおる様!!」
2人の間に一瞬の沈黙が流れた。
「う、うわあああしまったああ!」
沈黙を破るように大声を上げたのは2人同時だった。。可笑しくて堪らない。何してんだろ、2人して。俺がゲラゲラと笑っていると、凛様も耐えきれずに笑い出した。すげー楽しい。こんなに笑ったの、久しぶりだ。呼び方は薫様がここまで言うから、恐れ多くも”薫さん”と呼ばせていただくことにしよう、と密かに思った。さすがに呼び捨ては無理だ。
だが、ひとしきり笑い終わった後、薫様は何かを思い出したように真剣な表情になった。
「で、一体何があったの。……怪我、してるし。」
一瞬何のことかと思ったが、すぐに何故帰りがこんなにも遅くなったのかについて聞かれているのだと理解した。薫様とのやり取りが楽しすぎて、先程の恐ろしい出来事は頭の中から立ち消えていたのだ。そっと頭に巻かれた包帯に触れてみる。自分で殴りつけてきたくせにその治療もきちんと行うなんて、あの団長と呼ばれた男はある意味律儀だ。
「えっと、実は……」
俺はさっきまでの自分の身に起きたことを全て話した。薫様は終始眉間を寄せ、難しい顔をして聞いていた。
「自警団の噂なら聞いたことがあるわ。何でも巷のかぶき者を狩りまくってるだの、盗みを働いた奴には直々に制裁を加えるだの、好き放題暴れ回ってる、寧ろ治安を乱す荒くれ者の集まりだって。」
薫様の言葉は確かに当たっているが、少し違う気がする。あの人たちはあの人たちなりに信念を持ってやっているのだと、あの短時間で感じられたのだ。
「あの、俺が思っただけかもしんねーけど、あいつら、多分悪い人たちじゃねーと思う。本気でこの世界のことを考えてるみたいだし、団長って呼ばれてた奴もすぐ殴りつけてくるし凶暴で怖いけど、いい人っぽかったし、何て言うかその……」
我ながら言葉がメチャクチャだ。何を言ってるのか自分でも分からない。こんなことでは、薫様はきっと今に眉間に皺を寄せて怪訝な表情になるだろう。頭を抱えたくなったが、意外にも薫様は落ち着いた面持ちで真剣に俺の話を聞いていた。
自警団にそれほどの興味を持っているのだろうか。
「その自警団の団長はどんな奴だったの。」
薫様に急に問い掛けられて、パニック状態に陥っていた頭を必死に回転させた。
事務所で見たあの男の特徴を脳内で再生する。ストレートの真っ黒な髪、狐のような吊り目に浮かぶ、日本人らしくない深海のような瑠璃色の瞳。そして、クールな見た目に似合わず内心に熱い思いを持っていて、ドジな部分がある彼。頭ではクッキリと像が浮かぶのにもかかわらず、口から出てくるのは拙い言葉だったが、短時間であの男に対して感じたことの全てを薫様に話した。
話を聞いている時の、薫様の瞳は揺れていた。だが、薫様の瞳が揺れている理由が何故かというのは分からなかった。というか、触れてはならないと感じさせるものがその瞳にはあった。
「私だけか。まだ、進めないままなのは。」
薫様の口から不意に零れ落ちた言葉は、タイミングよく吹き抜けたそよ風により青空にさらわれて消えていった。もしかしたら、幻だったのではないかと耳を疑う程の小さな声で紡がれた言葉だったのに、それは何故か俺の中で引っかかって何度も何度も木霊し、やがて意味を測りかねて行き場所を失った。
分からない。薫様は、今のこの瞬間、確かに俺の隣にいたけど、俺と同じ景色は見ていないのだと感じた。あまりにも違いすぎる立場がそうしているのか。それとも、ほかの何かなのか。
どこを見ていたの。どこにいたの。
俺はこの人の元で働くようになって半年だ。それなのに、俺は本当に、この人のことを何も知らない。勝手に自分の中のイメージを当てはめていただけで、知ろうともしなかったんだ。

「こほっ、けほっ。」
いつの間にか考えることに夢中で、自分の世界に入っていた俺は、隣から聞こえた咳き込みで現実に引き戻された。
「薫様!?」
 さっきまで元気そうだった薫様の様子が急に変わった。苦しげに眉を寄せ、口を手で覆って咳き込んでいる。いつもの発作だ。
当たり前のことだが、発作が起こってもいつもは薫様の部屋だから、こんな街中で薫様の発作が起こるのは初めてだ。早くお屋敷に戻らないと、俺にはどうすることも出来ない。
 「ばっか、はぁ、薫様って呼ぶなって言っただろ!けほっ」
いや、バカは薫様の方じゃねぇかな!今そんなこと言ってる間に発作酷くなってきたし!何というかこの人は結構よく分からない人だったんだな!強情なのか、はたまた天然なのかはしらないけどな!
 「分かったから薫さん、戻ろ。」
薫様の様子では、とても歩けそうではない。俺は薫様に背を向けその場にしゃがみ込んだ。その意図に気付いた薫様は特に文句を言うでも強がりを言うでもなく、素直に俺の背中に身体を預けてきた。ゆっくりと、薫様を背負って立ち上がる。
そして、その軽さに驚いた。この人は、こんなにも軽かったのか。
俺は走り出した。とにかく、速く、速く、止まることなく。
パシリに使われすぎて培われた脚力と体力が、こんな時に役立つってのは複雑な気もするけど、今はどうでもいい。


 一条家のお屋敷に到着した頃には、薫様の平常時は体温の低い身体が熱くなり、息遣いもかなり乱れていた。熱が出ているんだろう。
俺は勝手知ったる様子で薫様の部屋へ上がり、敷かれていた布団にそっと薫様の身体を横たえた。とりあえず、誰かを呼んでこなければ俺だけでは何もできない。
急いで廊下へ飛び出すと、偶然歩いてきた女性と鉢合わせした。その人は日本髪を結い上げ、鶯色の美しい着物に身を包んでいる。確か、この人は薫様のお母様だ。
「あなたは。確か薫の所によくきている子ですわね。」
「お、お邪魔してます。」
 慌ててぺこりと頭を下げる。薫様のお母様はニコリともせず無表情のままだった。重い空気が流れる。
「あの、街で薫様が発作を起こして、今は布団で寝てるんですけど、」
「そう。後はこちらで使用人たちにでも任せますから、あなたは帰っていいですわよ。」
その空気に耐えきれずに発した俺の言葉を遮るように言葉が被せられた。いきなりのことで困惑する。
「え、でも俺にも何か手伝えることがあれば。」
「お構いなく。間に合っておりますから。」
ピシャリ、と言われてしまってはもう何も言えなくなってしまった。俺がいることで却って邪魔になるかもしれない、とも思うと去るほかなかった。
「は、はい。では失礼します。」
俺は一礼するとくるりと踵を返して長い廊下を歩き始めた。
 「もう、うちには来ないでもらえるかしら。」
(――え?)
背後で吐き捨てるように言われた台詞に驚いて振り返ったが、もうそこには誰も立ってはいなかった。長い間、とはいっても実際は数分にも満たないかもしれないが、俺はその場に立ち尽くしていた。足が凍りついたように動かない。
 薫様に会うなってことか。俺のせいで、発作が起こったから。だけど、それは薫様が決めることなんじゃないのか。それに俺はもっと薫様のことを知りたいんだ。せっかく少しは仲良くなれたかもしれないのに。こんな、薫様のことを何も知らないままで終わってしまうなんて嫌だ。
 もう一度ちゃんと話をしよう。薫様のお母様と。
 俺は決心し、歩いてきた道を引き返した。薫様のお部屋の横に、薫様の両親の部屋がある。開こうと襖に手をかけると部屋から会話が聞こえてきた。俺は開けるのをやめ、そっと聞き耳を立てる。
「あの子は、一体何を考えているんだろう。思えば昔から正装を泥塗れにして遊んで帰って来たり、与えた半紙に鼠の絵を書いたり、よく分からない子だったが。」
 野太い男の人の声だ。話の内容から察するに、どうやら薫様のお父様であるようだ。
「近頃はあんな小汚い野良犬を部屋にまで上げて可愛がっていると聞く。野良犬ごときを構って発作を起こすなど、自分の身体のことは自分が1番分かっているだろうに。」
野良犬って。ああ、俺のことか。俺はこの人たちの中ではこんな風に思われてたのか。人間ですらない、しかも汚い野良犬。薫様は、俺のことを人間として扱ってくれてるって分かったところなのに。
聞き耳を立てている俺の存在になんて全く気付く様子もなく、会話は続行されている。そのうちに、お母様の声のトーンが上がり始めた。キンキンと耳障りな声質になってきた。
「平民とあのような街などに出かけるなんて、信じられませんわ!あんな子、名高き一条家の恥ですわ!平民に生まれるはずだった子が間違ってわたくしたちの元に来たとしか……せめて、男の子だったら……!」
「おい、薫に聞こえたらどうする。医者にかかろうかといった時も、もう長くないのだから好きにさせてやれと言ったのはお前だろう。」
――え。
息が詰まった。代わりに心臓がバクバクと脈打ち始めた。
(長くないって…薫様が?薫様のことを言っているのか?)
嘘だ。いつも俺が行った時には元気に振る舞っていた。散々人のことを口悪く脅して、パシらせて、硯投げつけて、とにかく楽しそうに。俺にはとても想像がつかない。
その前に、こいつ等何て言った。間違って生まれただって?崇高でお偉い一条様か何だか知らないけど何を言っているのか分からない。所詮、お貴族様の考えは俺なんかには分からないってことなんだろう。
 「そういえば、二条様の御子息はどうなさっているのでしょう。幼い頃は薫とも親しく遊んでおられたようですが、ここ数年お姿を見かけませんね。」
「ああ、健様か。彼の方といえば6つの頃に薫と蛙の子を取ろうと川で遊び、2人して濡れ鼠になって戻ってきたことを思い出すよ。」
「まあ汚らしい。」
「後、これは単なる噂なのだが、健様は二条の家を捨てなさったらしい。今はもう、どこにいて、何をしているのか。生きているのか死んでいるのかも分からぬ状況だとか。」
「あら、そうなのですか。そのような家出息子を持つなんて二条様も大変ですわね。それに、確か健様は養子でしたわね……異人の血を引いているのか、まるで鬼子のようなあの瞳の色を思い出すと鳥肌が立ちそうよ。蛙の子のことといい、薫があんな風に育ってしまったのは健様に影響されたのでしょうね。」
「無きにしも非ず、だろうな。まぁ、あまり人様の御子息のことをどうこう言うものではない。この話は終わりにしよう。」
「そうですわね。ところで、養子の件はどうするのです。女子とはいえ、正式な跡取りである薫が死んだらお家はお終いですわ。由緒正しき一条家を絶えさせるわけにはいきませんよ。」
(ああ、もう、聞いていられない。)
 こいつ等には人間の心というものが無いのか。自分たちの娘のことより、お家のことが優先か。そんなにお家が大事か。それ程の価値があるのか。たった一人の娘を差し置いて、守る程の価値が?
それに、”長くない”って、本当なの。
(薫様――。)
今にでも目の前の襖を開いて、口一杯言いたいことを言ってやりたかったが、あいにく俺にそんな勇気はない。心の何処かで、お貴族様にはやっぱり逆らえないと思っているのだ。俺はガンガンと痛む頭を押さえ、足早にその場を立ち去った。


 薫様の元に働きに行かなくなって一週間経った頃だった。 
母親に買い物を頼まれた帰りで俺は街にいた。相変わらず破けた布切れのような服を身に纏った風体の者がそこかしこに座り込み、柄の悪い不良みたいな風体の奴らがそこら中に屯している。目を合わさないように気をつけなければ。
ちょうど、向かいの高層ビルに貼り付けられたでっかいスクリーンでは、選挙の結果を報告する番組が放送されていた。人民による直接統治を唱った政党からの立候補者が、圧倒的な投票率を得たのにも関わらず落選し続けているという、なんとも胸糞悪い内容だった。
そんな時、不意に後ろから声をかけられた。
「テツ!」
この声が誰かなんて、考えるまでもなかった。
「薫……さん?」
「久しぶり。」
俺はパチパチと目を瞬かせた。俺が最後に見た薫様は顔が真っ青で浅い呼吸を繰り返していて、苦しそうだった。とても外出どころか立ち上がることさえできそうになかったのだ。
それが、どうしてここに。
「久しぶりに体調がいいから、抜け出してきたのよ。」
「えっ。」
確かに血色はいいようだけど、大丈夫なのだろうか。それに抜け出してきたということは、今頃お屋敷では薫様がいない、と大騒ぎになっているはずである。
「だ、大丈夫なのかよ?みんな心配してるんじゃ。」
 俺は薫様の横に並んで、行き先は特に考えることもなく歩き始めた。薫様は明らかに嫌そうに表情を歪めた。眉間に皺が寄ってる。
「平気よ。家の奴らなんて、上面だけで本当は心配なんてしないの。寧ろ私のことを邪魔だと思ってるんだ。」
「そ、そんなこと。」
否定しようとして俺は口を噤んだ。一週間前の薫様の両親の会話が脳内に蘇ったからだ。
「私はあの家が嫌いなの。」
薫様がポツリと呟いた。
「良家の跡取りらしく振る舞えとか、街に出るのははしたないからやめろとか。昔っからそんなことばっかり言われてきた。それに私は体が生まれつきこんなんだったから、外に出ることもそんなに許してもらえなかったし。」
薫様は話しながらも遠い空を見上げた。鳶が一羽、大空にゆっくりと円を書いている。
「私は子どもの頃から、父上が一条家の権力を振りかざして好き放題してるのを見てきた。地位を失うのが怖いから父上に反抗しようとする奴なんていないしね。国単位の決め事だって父上みたいな奴らの鶴の一声で決まってしまう。そいつらの言うことを素直に聞いて、付きしたがってれば楽に生きられるけど、そこに自分なんてどこにもいない。自由になんて生きられない。ホント、どうしようもない世の中。」
 俺は薫様の言葉をただただ黙って聞くことしかできなかった。
 貴族であれば、何事も思い通りになる世界だと思っていた。だけど、薫様は俺なんかよりもずっと自由じゃないんだ。
「だったら家を出ればいい話なんだけど。……実際にアイツは、私の幼馴染だった奴はこんな世界に嫌気が差してさっさと家なんて捨てた。でも情けない話、私は家を捨てる勇気もなかったんだ。体がこんなだから、いつ死ぬか分からないからってのを言い訳にして。」
 大空の鳶は、いつの間にか消えていた。今は、どこの空を飛んでいるのだろうか。あの鳥は、きっと俺たちの知らない、遠い遠い空を知っている。 
急に隣から小さな咳きが聞こえた。俺の顔からさっと血の気が引く。
「薫さん、やっぱ家帰ろう!マジで!」
「うるさい。問題ない!いつものことだし、帰りたくないし、誰かと話してる方が気が紛れるからいいのよ。あーあ。何だかくだらないこと話しちゃったから、次はあんたが何かおもしろいことを話しなさい。」
「はっ?俺!?面白いこと!?」
駄々をこねる薫様にいきなり話を振られたことに腰を抜かしかけたものの、我儘満開の薫様が懐かしく感じられて、嬉しくて思わず笑みが零れた。薫様も楽しそうに笑っていた。太陽みたいな笑顔だった。

 
この数日後だった。
風の噂で薫様が亡くなったということを聞いた。街に出ていた俺は、その先でたまたま人々の話を盗み聞きしたのだ。一条家では、葬儀が行われている真っ最中であるという。
俺は、何も考えずに薫様の元へ走った。
薫様が亡くなったということが、信じられなくて。行けば、いつもみたいな勝気な笑みを浮かべて、俺に我儘を言って、笑ってくれるはずだと思って。

 
それからのことはよく覚えていない。というより、記憶が断片的にしかないんだ。俺は、薫様に会うことが叶わなかった。同じ場所にいることすら叶わなかった。
ただ、これだけは忘れられない光景がある。一条家に着いた俺を、阻んだ肉の壁。薫様に会わせろ、と叫ぶ俺をいぶかしげな眼で見たその場の貴族ども。
(悪かったな、華やかなお前らと違ってみすぼらしい出で立ちで。)
冷たく一瞥した後、俺を連れ出すように使用人に命じた薫様の両親。
(平民のガキと知り合いだと思われちゃ、名高い一条家の名折れだからってか。ふざけんなよ。お前らに、俺が薫様に会うのを止める権利なんてねぇだろ。)
それでも尚、断固として動かずにいると、突如やって来て、俺のことを強引に取り押さえた黒服の奴ら。黒服の奴らは警察組織だ。
(何をやってるんだこいつら。俺をどうこうするよりお前らが取り締まるべき問題はもっと他にあるだろ。お貴族どもの狗でしかない下衆組織が。)

平民と貴族では天と地ほど身分が違う。ただそれだけで最期に会うことすら許されないのか。


 気づけば暗くてカビ臭い牢の中にいた。こんな中で何日過ごしたか分からない。ろくな食事も与えられず、やることもなくただ横たわっていることしかしていない。俺は何をしているんだ。こんなことをしている場合じゃないはずだ。貴族の狗に成り下がっている警察の彼奴らと同じで、俺だってやるべきことがあるはずだ。何をするべきなのかは、まだはっきりとは分からないけれど、それでも。


 ガシャン。
 前方から突然牢の開く音がした。俺はゆっくりと顔を上げる。そこに立っていたのは忘れもしないあの男だった。
「何だ、生きていたか。」
真っ直ぐな黒髪、今は濃紺に見えるが光が当たれば深い瑠璃に染まる瞳、そして常備された警棒。男の足元には気絶した看守が転がっており、右手には沢山の鍵が通されたリングがある。俺が呆気にとられて動けずにいると男は面倒くさそうにコキコキと首を鳴らした。
「何をしている、早く立て。ずっとここに居たいのなら別にそれでもいいが。」
何で、あんたがここに。声に出さずとも、目が物語っていたようだ。男は俺の意図を察していた。
「昔の友人にお前のことを頼まれた。面倒くさいからこれっきりのつもりだが。」

リン、と何処からか鈴の音が聞こえた気がした。

「あんた、まさか…」
男の両の瞳がじっと見つめている。そうされていると蒼い水底に吸い込まれるような感覚に侵される。
「いいから早く出るぞ。これ以上長居したら、五月蝿いのがくる。」
男はフッと目を閉じ、口元には淡い笑みを浮かべた。くるりと背を向け、振り返りもせずに歩いて行く彼を俺は慌てて追いかける。今はただ、この男に着いて行くことで何かが開けるような気がした。
俺たちが監獄から脱出するその間、本当に存在するのかも不明な鈴の音は、ずっと響き続けていた。




二年後、少年は青年へと変化を遂げていた。

「聞け、貴族ども!お前たちのせいで、この国は頽廃した。もうお前たちの好きにはさせない。これからは俺たちが自分たちの手で自分たちの世界を作る。生まれ変わってもまた生きたいと思える、誰もが自由に生きられる世界をな!!」

革命軍の先頭にいたのは紛れもない彼だった。その瞳は強い意志を秘め、揺るがぬ屈強な光を帯びている。もう、彼は迷わない。今の彼には、いくら阻まれようとも、虐げられようとも、正しいと思う道を貫き通す覚悟がある。もう、権威に怯えていた昔の彼ではなかった。
貴族たちは、そんな彼を恐れることはなく、小賢しい野良犬の遠吠えとしか思わず、未だに高みから見下ろし、あまつさえ微笑すら浮かべたままだ。だが、彼もそんなことは十二分に理解していた。ギリ、と奥歯を噛みしめるもののその表情は悔しさを物語っている訳ではなかった。

「薫さん。あんたの大っ嫌いなこの国は、俺たちのこの手でぶっ潰すぜ。」

赤い鈴をキツく握りしめ、彼は駆け出した。戦いはまだ、始まったばかりだ。

「未来からの贈り物」132205

 空を見上げると今日も雲一つない空が広がっている。少し冷たい風が心地いい。目の前には黄色やオレンジ色、赤色に染まり出した木々たちが広がる。夕方になればきれいな夕日、そして日が暮れたあとには、澄んだ空気の中で星たちが一斉に輝きだす…。季節の流れを感じる、そんな昼下がり。今日から大学の後期が始まる。
 
 「未央、何してんの?授業遅れる!」
「次の授業の先生厳しいらしいよ!急がないと!」
立ち止まった私に気付いた友だち二人の呼ぶ声が聞こえる。―――佐伯優花と松永葵だ。私、渡辺未央にとってかけがえのない、大切な友だち。
「うん!すぐ行く!!」
笑みを浮かべながら、私は二人のもとに駆けていく。友だちと他愛のない話をして笑い合う、そんな些細な毎日が、私にとっては何にも代えられない幸せなことなのだと身に染みて思う。

 「もう、秋か…。」
ふと、そんな言葉が出てしまうほど、季節はすっかり秋に変わっていた。暑すぎず、寒すぎないちょうどいい気温。木々の色付き。少し肌寒くなった帰り道、澄んだ空気の中でより一層輝く夜の星空を見上げたくなる、そんな秋が私は好きだ。

 そして、あの姉妹と出会ったのも、こんな季節だった。暗闇の中にいた私のもとに差した、希望の光。私の人生を変えてくれた二人に、できることならもう一度会いたい。
―――いや、いつか必ず会えるのだ。どんなに時間が経っても忘れることはない、未来と私をつなぐあの二人との、秋の日の思い出―――。



 私が彼女たちと出会ったのは、去年の秋だった。大学に入学して初めての夏休み。大学生の夏休みと聞いて想像していたのは、友だちと海や川に遊びに行ったり旅行に行ったり、サークルで合宿に行ったり…。毎日充実していて、寝る暇さえ惜しいくらいのものだと思っていた。しかし私はあのころ、思い描いていた大学生活とは全く遠くかけ離れたような、孤独な夏休みを過ごしていた。
 サークルに入ったにも関わらず、毎日居酒屋のアルバイトに働き詰め。家から電車で片道四十分ほど、大学への通学の途中で乗り換えをする駅に、私のアルバイト先はあった。駅の地下街の華やかなショーウィンドウのずっと奥、ほとんど人通りがなくなってしまったところにぽつんとたたずむ古びた居酒屋が、私のアルバイト先だった。
 六十歳近くの年齢であるように見えたアルバイト先の店長は、いつも無口で、お客さん以外の人と話している姿はあまり見たことがなかった。当然、私とはほとんど会話をすることはなかった。アルバイトをしているのは私以外に二人いた。私よりも二つくらい年上に見える男子大学生と、私よりも年下の女の子。しかしアルバイト仲間と仲良くなることはできず、アルバイト中に話すのはお客さんくらいだった。何度も辞めようと思ったが、任せられる仕事も増え始め、自分の存在が認められているような実感ができるのは、アルバイトだけだった。店長もアルバイト先の人たちも、会話こそないものの悪い人たちではないことは確かだ。そう考え、辞めることができずに毎日を続けていた。

 大学に入学して半年経っても、私はずっと一人だった。高校入学と同時に両親が離婚し、私は母方について住み慣れた田舎の町から、交通の便が良い都会へと引っ越した。引っ越し先の近くにある高校を受験し、運良く合格。全く知らない土地で始まる高校生活に胸を躍らせていた私だったが、高校生になってからの友だち作りは厳しかった。田舎の学校で幼稚園から中学まで顔見知りばかりが集い、ほとんどエスカレーター状態の進学だった私は、都会の高校で見ず知らずの土地に飛び込んで初めて、自分が人見知りであることに気付き自信をなくした。隣の席の女の子に声をかけることができない。前の席の男の子がこわい。中学時代と同様、吹奏楽部に入ったものの、同学年はもちろん先輩、後輩とも打ち解けることができず、一か月ほどで退部してしまった。私は高校の三年間を、ほとんど一人で過ごしてきたのだ。

 そして今年、大学に進学。孤独な高校生活から脱却するため、家から二時間ほどかかる名門私立大学を受験。高校時代に頑張ったことは大学の受験勉強だと胸を張って言えるほど、私は勉強に力を注ぎ、見事第一志望の心理学部への合格を果たした。しかし、今度こそは人見知りを克服し、たくさんの友だちをつくって充実した毎日を送るという希望をもって始まった大学生活は、やはりそう上手くはいかなかった。人に声をかけることに恐怖を覚えてしまっていた私は、フットサルサークルに入ったものの全く溶け込むことができずすぐに幽霊部員となってしまい、また一人ぼっちの生活を選んでしまった。私は、そんな中でアルバイトだけに力を注ぎ、夏休みをただ漠然と過ごしていたのだ。









 そんな夏休みの、とあるアルバイトからの帰り道。今日は、片付けの最中に手を滑らせ皿を割ってしまった。毎日何か一つは必ず失敗してしまう。頑張っても、報われないことばかり…。そんなことを考えながら、私は夜空を見上げていた。満点の星空だった。そんな星空が、涙でぼやけて見えなくなってしまう。私はこのまま誰とも仲良くなることができず、失敗ばかりを繰り返して孤独な日々を続けていくのだろうか…。満点の星空の下で、目から光るしずくがこぼれ落ちた―――。その時だった。



 「あなたが未央ばあちゃんね。」
背後から、突然声がした。さっきまでこの道には誰もいないはずだったのに、足音も何も聞こえなかったのに…驚いた私は後ろも振り返らず、一目散に逃げ出そうとした。
「待って!!!」
先ほどの声よりは少し高い声が耳に入った次の瞬間、私の目の前に見知らぬ少女が手を広げて立っていた。小学校低学年くらいであろうか、身長は私の胸あたりにも満たない小さな少女が息を切らせながら、私をじっと見つめて立っている。私は腰を抜かしてしまい、その場に座り込んでしまった。

「はあ、やっと見つけた。一安心やわ。」
「もう!お姉ちゃんが急に声かけるからおばあちゃんびっくりしてるやん!」
「しゃーないやん、上向いてるから気付かへんし。」
「でも、ほら、おばあちゃんびっくりして立ててないやん!」

二人の視線が一気に私へと移る。もう一人の少女は、先ほどの少女よりはずっと年上で、高校生くらいだろうか、落ち着いた雰囲気だ。「お姉ちゃん」と呼んでいたことから、先ほどの少女とは姉妹なのだろうか。そう言われてみると、どことなく顔つきが似ている気もする。ぱっちりとした大きな目に長いまつ毛、すっと通った鼻筋で、とても可愛らしい。違うところといえば、それぞれの髪型くらいだ。姉であろう少女は胸の下辺りまで伸びた真っ黒のストレートヘアであるが、妹であろう少女はおさげをさらに三つ編みに結び、栗色のような綺麗な茶色い髪をしている。
―――と、問題はそこではない。足音もせずに現れた二人は、一体どこにいたのだろうか…そして、どうして私の名前を知っているのだろうか…?記憶を辿ったが、この姉妹は思い当たらない。それに…私をおばあちゃんと呼ぶなんて、私はまだ十九にもなっていないし、あまりにも失礼すぎる。

「まあ何はともあれ、驚かせてごめんなさい。」
姉が謝る言葉に返そうとするも、腰が抜けた私は声を出すことができなかった。
「でもよかったね、お姉ちゃん、おばあちゃん見つけられて!
 桃香、明日にならんと無理やと思った!」
「一日で見つけるくらいの勢いなかったら、早く帰られへんからなあ。
 とにかく、私は早く仕事を終えてこの世界から出て行きたいねん。
 ほんまおばあちゃん、そのへん考えてほしかったわあ。」
―――全く理解できない。

「あの…えっと…あなたたち、誰…?」
しどろもどろになりながらも、やっと一言。
「あ!お姉ちゃん、自己紹介せな!」
桃香、と言っただろうか、妹がそう言った。
「あ、そうか、まだちゃんと言ってなかったっけ。
 私の名前は矢野桜、この子は妹の―――」
「桃香!!私、矢野桃香!私たち、おばあちゃんの孫でね、
 おばあちゃんに頼まれておばあちゃんの若いころにやってきたの!」
「…へ???」

今、私の姿を見ている人がいたら、絶対に頭に浮かんだはてなマークが目に見えていただろう。それくらい、意味がわからない。
私、夢を見てるのかな?これ、夢?そう思って頬をつねる。…うん、痛い、夢じゃない。まず、私がおばあちゃんって時点でおかしい、まだ結婚もしていないし、子どももいないし、第一、彼氏だって一度もできたことがない。それに、若いころにやってきたって…どういうこと?私、夢の中で夢を見てるのかな?今度は思い切り髪の毛を引っ張ってみる。…うん、痛い、夢じゃない。まったく理解ができずに混乱していた私に、姉の桜が話し始めた。



 二人は、五十年後の未来の世界から来たらしい。桜が見せてくれたiphone56sが、何よりの証拠だった。薄さはiphone6の半分ほどだろうか、非常に薄く、そして何よりありえないほど軽い。カメラにおいては3Dで、撮った写真は立体的に画面から浮き上がっていた。いつでも誰でもどんなところにいても絶対に目的の人や物を見つけることができるアプリを使って私を探そうとしていたようだが、時代が対応していなかったらしく、桜は「圏外」という言葉を始めて目にしたそうだ。そして肝心なところ、更に驚いたことに―――桜と桃子は、本当に、私の孫らしい。
 五十年後の世界で、私たちは一つ屋根の下で暮らしていた。いわゆる、二世帯住宅。私とその夫(結婚できているなんて、信じられない…)が一階で生活し、二・三階では私の息子一家が生活していた。
 
 夏休みが終わり、九月にある大型連休の初日。桜と桃花は、未来の私と三人で一階のリビングでお菓子を食べながら、テレビを見ていたそうだ。他愛もない話をしながら過ごしていると、突然私から、大切な友だちがいるのかと尋ねられた。たくさんの友だちの名前を挙げていく桃花とは対照に、桜は黙ってテレビを見つめて答えなかった。
 「桜ちゃん。桃ちゃんと一緒に、昔のおばあちゃんに会ってきてほしいの。」
昔の私のその言葉に、もちろん桜は理解することができなかった。
「おばあちゃん何言ってんの、そんなん無理に決まってるやん。」
「うそじゃないのよ、本当の話。
 おばあちゃんはね、大学生の頃までずうっと、一人だったの。
 だから二人に、大学生のおばあちゃんに友だちを見つけるお手伝いをしてきてほしいの。」

桜は私の話を信じることができなかった。おばあちゃんは毎日公民館に行って、近所のおじいちゃんおばあちゃんと楽しそうに過ごしている。家の近くのおじいちゃんおばあちゃんはほとんどがおばあちゃんとの知り合いで、おばあちゃんを慕ってよく家にも遊びに来るほどだ。そんなおばあちゃんが、一人ぼっちだったなんて…信じられない。
「桃花、若いおばあちゃんに会いに行くー!!」
全く信じようとしない桜とは裏腹に、幼い桃花はその話に食いついた。
「桃ちゃん優しいわねえ。
 でも一人じゃ心配だから、やっぱりお姉ちゃんにもついてきてもらわないと。」
「だから、ホントに、何言ってんのおばあちゃん…」
 
 そうして、未来の私は二人を五十年前の世界まで連れていくことを説明した。過去の世界に行って、私の友だち作りの手伝いをすること。期限は明日から三日間。もしその間に私に友だちができなかったら、未来が変わってしまうかもしれないこと。二人の姿は私にしか見えないこと。
「過去の世界にいる間はおばあちゃんの家にいればいいからね。
 まずはあなたたちが、おばあちゃんとお友達になってきてちょうだい。」

 次の瞬間、部屋に強い風が吹き抜けた。桜と桃花はその風に飲み込まれ、気付けばこの暗い路地にたどり着いていた―――。


「…というわけで、私たちは三日間で
 おばあちゃんの友だち作りのお手伝いに来たってわけ。」
「は、はぁ…。」
「桃花、おばあちゃんの友だちいっぱいつくるね!」
「う、うん…。」

まだ、二人の話を理解できたわけではない私は、曖昧な返事を繰り返した。大学に入って五か月が経ってもできなかった友だちを、たった三日でどうやってつくれというのだろうか。しかも、もし出来なかったら未来が変わるって…。それって、私に友だちができなかったら、彼氏もできなくて、結婚することもできなくて、子どもが産まれることもなくて…つまり、桜と桃花も生まれないってこと…?

「とりあえず、もう夜も遅いみたいだし、家に帰らない?」
「う、うん、そうだね…。」
桜がそう言ったので、私は二人を連れて家に帰った。家に着くまで、もし友だちができなかったら…ということが頭をよぎる。とんでもない窮地に立たされてしまった。私に友だちができなかったら、この二人が生まれないかもしれないなんて、どうしてそんな未来を背負うことになってしまったのか、全くわけがわからない…。桜と桃花が後ろで姉妹喧嘩をしている内容は一切頭に入って来ず、家に到着した。



 母はいつも通り「もっと早く帰ってこれるバイト見つけたら?女の子なんだから。」と言ってすぐに寝室に行ってしまった。本当に二人の姿は私以外にしか見えていないようだ。桃花は声を漏らさないように必死にこらえていた。

 部屋に入ると、はしゃぎすぎて疲れてしまっていたのだろうか、桃花は私のベッドの真ん中ですぐに寝てしまった。桜はそんな桃花を見て微笑みながら、
「なんでおばあちゃんは友だちつくれへんの?」
と私に尋ねた。いきなり核心をついてくる。口調は少し冷たいけれど、桜の目は真っすぐと私を見据えていて、その瞳は暖かい。冷たいように見えて、本当は、優しい子なのかもしれない。

「つくれへんのじゃなくて、つくられへんねん…。」
さっき出会ったばかりなのに、桜にはなんでも言えそうな気がした。私は桜に、全部話した。幼稚園から中学校からは友だちがいっぱいいたこと。大好きだったお父さんが突然いなくなってしまったこと。高校になってから、話しかける勇気が出なくなってしまったこと。今も、大学でもアルバイトでも、一人ぼっちなこと。桜は私の目を見て真剣に聞いてくれた。沈黙が続いたあと、桜が言った。
「とりあえず、明日から早速、友だち探さな、ね。」
「うん…。でも、たった三日でそんな人見つかるんかなぁ…。」
「大丈夫やって、おばあちゃんいっぱい友だちおるし、みんなから好かれてるんやで。
 ほんまに、おばあちゃんと同一人物って信じられへんくらい。だから大丈夫。」
「うん…。」
私はそんなおばあちゃんが信じられないけど…そう思いながら、眠りについた。



 一日目。私は桜と桃花を連れて学校に向かった。三人で電車に乗って向かったが、本当に二人の姿は私以外の人には見えていないらしい。幸い人がそこまでいなかったので、二人は車内やそこから見える景色を見渡しながら電車に乗っていた。五十年後、この景色はどうなっているのだろう…そんなことを考えていると、大学の最寄駅に到着した。
「お姉ちゃん!おばあちゃんの大学、めっちゃおっきいね〜!!」
「うんうん、ここなら、すぐに友だち見つかりそうやん。
 未央姉ちゃん、頑張って今日中に友だちつくるで。」
「…う、うん…。」

 授業中も二人は私の横に座って授業を聞いていた。教室が満席になるくらいの授業でない限り、私の隣の席はいつも空いている。なぜなら―――友だちがいないから。今日は必修科目の授業しかないので、学生の人数はさほど多くない。つまり、私の隣の席が空いている日だった。

「少ないならラッキーやって!
 誰でもいいからさ、とりあえず話しかけてみよ!」
授業が終わり、中庭のベンチに座って三人で昼ご飯を食べながら桜が言う。
「そうやでおばあちゃん!
 桃花やったら、すぐ誰かの横に座って話しかけちゃう!」
「それができてたら、今も誰かとご飯食べてるはずやねんけどなぁ…。」

そこに通りかかった学生二人組が、私を二度見してこそこそ話しながら立ち去って行った。…考えてみれば、二度見されてもおかしくない。今、周りの人から見れば、私は一人でご飯を食べて一人で話している、ちょっと変わった人になっている。このままだと、できるものもできなくなってしまうかもしれない―――。私は音を流さずにイヤホンをつけて、電話をしているふりをしながら二人と会話し、昼休みを過ごした。



 「ちょっと、トイレ行ってくるね。」
昼からの授業の教室に着いてから、私はそう言って二人を教室に残し、トイレに向かった。さっきの話が頭をよぎる。話しかければ、友だちはできるのだろうか―――。確かに、大学に入ってから、いや、高校の頃から、必要最低限でしか誰かに話しかけるという機会はなかったし、そうする勇気が湧かなかった。

 「渡辺さん、どうしたの?」
トイレの鏡の前でそんなことを考えながら突っ立っていた私に、後ろから女の子が尋ねた。
「あ……、さ、佐伯さん…。」
私と共に鏡にうつっていたのは、同じ学科の佐伯優花だった。明るく元気でいつも笑顔を絶やさない彼女は、私の憧れの存在だった。

「ぼーっと鏡見つめて突っ立ってるからどうしたんかなーって!
 体調悪い?大丈夫?」
「あ、全然大丈夫、です。
 ただぼーっとしてただけなんで…。」
同じ年代の女の子と話すことでさえ久々なのに、さらにその相手が憧れの存在だということに心臓の鼓動がさらに高鳴る。
「それならよかった!
 そう言えば話すの初めてやんな?
 ずっと未央ちゃんと話してみたいなって思ってたから声かけちゃった!
 私のことわかる?」
「えっ…あ、はい、もちろんです。佐伯さんですよね…?」
「そうそう!覚えてくれてたんや〜嬉しいなぁ!
 私佐伯…」
 
「優花まだ化粧してんのー?」

 優花を呼ぶ声に振り返ると、トイレの入り口で不機嫌そうに腕を組んで立っている人がいた。彼女は…松永葵。明るい優花とは正反対に、葵はあまり社交的ではない。二人とは授業がほとんど一緒だが、今のところ、葵が優花以外の人と話しているところを見たことがない。そんな対照的な二人がいつも行動をともにしているのはなんだか不思議で…うらやましい。

「あ、葵!
 待ってもらってたの忘れてたごめん!!」
「ほんま、化粧に何分かかってんの?」
「ごめんって、未央ちゃんに出会って声かけちゃって!
 ほら、同じ学科の…」
「知ってるよ、渡辺さんでしょ?」
葵の視線が私に向けられる。優花も葵も、私の名前を知ってくれていた。
「あ、そうです、えっとあの…ごめんなさい…。」
「あ、全然大丈夫、いつものことだから。
 じゃ、優花、そろそろ行くよ?」
「うん!じゃ、私たち授業行くね!
 未央ちゃんまたね〜!!」
「は、はい…。」



 緊張の糸がほどけた私は、学校から帰る頃になってもしばらく放心状態が続いていた。
「おばあちゃん、今日、同じ学科の人と話せたみたいやね。」
部屋に到着し、桜がそう言った。私は全然気が付かなかったが、桜と桃花はトイレでの出来事の一部始終を見ていたらしい。
「桃花も見たよ!
 おばあちゃん、友だちできたやん!よかったね〜!」
 桃花は眠そうな目をこすりながら、ベッドに横になってそう言った。一日慣れないところにいたために、疲れがたまってしまったのであろう、すぐに眠ってしまった。
「でも、せっかく話す機会があったのに
 緊張してうまく話されへんかったんよなあ…」
「次に話すときに頑張ったらいい話やし、今日話せただけでよかったやん!」
「うん…。」
確かに、誰かと話すことができたのは私にとって大きな進歩だった。二人のためにも、明日からはもっと頑張らなければならない。



 二日目は、一日中授業が詰まっていた。講義ばかりの授業だったため桃花は退屈そうだったが、桜は私と一緒になって真剣に授業を受けていた。二日目は大講義室での授業ばかりだったので、誰とも話す機会がなく授業を終えた。

「今日は誰とも話せやんかったなあ…。」
帰り道、私はため息をつきながらそう言った。一日中退屈だったからか、桃花は帰り道にあるレストランやカフェのメニューをあちこち走り回りながら見ていた。その姿を見て桜と微笑みあったその時、
「渡辺さん。」
そう呼ぶ声に振り返ると、そこには葵が立っていた。
「帰ってたら前におったから、声かけてみた。」
葵がぶっきらぼうに言った。今日はいつも一緒の優花とは帰っていないようだ。
「あ…あ、はい。
 えっとその…今日は一人なんですか?」
「うん、優花は今日バイトだから一人。
 渡辺さんはいつも一人?」
「あ、いえ、昨日から三人で…」
「…え?」
「あわわわわ、はい、ひ、一人ですいつもっ…。」
うっかり口をすべらせそうになった私は必死でごまかそうとした。葵は少し不思議そうにしたが、ふっと笑って言った。
「渡辺さんおもしろいやん。
一人でいるのもったいないよ。」
「…えっ?」
「ううん、なんでもない、独り言。
 …あ、じゃ、私電車やばいから急ぐわ。」
「あ、はい…」
葵は早歩きになって立ち止まり、振り返って言った。
「…また明日、未央。」



 家に帰っても、葵の最後のひとことがずっと頭の中をめぐっていた。
「桃花もその話聞きたかった!
 お姉ちゃんなんで呼んでくれへんかったんよ!」
「しゃーないやん、桃花が一人で先々行くから悪いんやろ。」
「でも…」
一人で早々と進み、ケーキ屋の前でずっとケーキを眺めていた桃花は、私と葵が話していることに気付かず不服なようだったが、桜にそう言われ渋々納得したようだった。

 優花以外の人と話しているところを見たことがなかった葵が、昨日初めて話した私を見かけたことで声をかけてくれたこと。そして、「また明日。」と言ってくれたこと。優花に言われるならまだわかるが、それが葵だったことが驚きだった。



「あのね、」
家に帰って少し経ったとき、桜が言った。いつもは家に帰るとすぐに寝てしまう桃花が、今日は珍しく起きていて私をじっと見つめている。
「私、葵さんの気持ちわかるかもしれない。」
「…どういうこと??」
「私もね、ほんとは、ひとりぼっちだったの。」
桜は話し始めた。



 桜は高校一年のころいじめを受けた。中心となったのは、いつも一緒にいた仲の良いはずだった親友だった。桜のさばさばとした態度がきっかけでケンカとなり、仲直りができないまま相手が周りを巻き込んで桜を無視し始めたそうだ。桜はそれから、誰にも助けを求めず一人で過ごすようになった。
 しかしそんなある日、桜に話しかけてくる楓という女の子がいた。楓はクラスの隅でいつも本を読んで過ごしているようなおとなしい子で、それまで桜は話したことがなかった。いじめられているのがかわいそう、というお情けで話しかけられるのがいやで、桜は楓に冷たく返した。それでも、楓は話しかけるのをやめなかった。次第に桜は楓に心を開き始め、今では楓と行動を共にするようになったらしい。



「葵さんって、私と似てると思うねん。
 性格的に冷たく見えてしまうんやけど、ほんとは気持ちを表すのがうまくないだけ。
 だからこそ、そんな自分をわかってくれる人を大切にしようと思ってる。」

 桜がそんな問題を抱えていたなんて、まったく気が付かなかった。自分の苦しみを前に出さず、私のことを精一杯考え支えてくれた。
 確かに、私も桜に初めて会った時は冷たい子だと思っていた。しかし、本当はそんなことはない。冷たく見える態度の中に、それをはるかに超えるような暖かさがあふれている。冷たく見えるのは飾らずにありのままを出している証拠で、自分の気持ちを表すのがうまくないだけなのだ。
 
 だからこそ葵には優花がいて、桜には楓がいる。それぞれがお互いのことを理解しあう、居心地の良い関係がそこには成り立っているのだ。
 
「私、優花さんと葵さんと仲良くなりたい…。
 もっと二人のことを知りたい!」

心からそう思った。何も知らない二人のことをもっと知りたい。私に気づいてくれた二人に、もっと私のことを知ってほしい。

「おばあちゃん、明日には友だちできるかな?」

桃花が笑顔でそう言った。桜は微笑んでうなずいた。

 その夜、私たちは三人でベランダに出て星を眺めた。満点の星空の中で、星が輝く。
「あ!流れ星!!」
桃花が叫んだ。そういえば、天気予報で今日は流星群が見えると言っていた気がする。空には何本もの流れ星が流れていた。
「ほんまや、私、初めて見た…」
桜の目から、光るしずくがこぼれ落ちた―――。











 三日目の朝。目が覚めると、そこには桜と桃花の姿はなかった。

でも、もう大丈夫。

今日は葵と優花に声をかけよう。

そして、今日から日記を始めるつもりだ。

未来で待っている二人に、今日の思い出をしっかり伝えられるように。

「夢の国(仮)」132116

「夢の国に連れて行ってあげる!」お母さんにそう言われて僕は連れ出された。何のことかさっぱりわからなかったが、「夢の国」という響きに胸を踊らせていた。今から僕が行くところは どれほどキラキラしていて、どれほどワクワクするところなのだろう。想像するだけで嬉しくて楽しくて仕方がなかった。「着いたわよ。」お母さんがそう言って足を止めた場所は、僕の想像していたような、キラキラやワクワクで溢れたところではなかった。街中にひっそりとたたずむただの雑居ビルだった。お母さんに文句を言ってやりたかった。が、お母さんは僕にそんな時間も与えずビルの中へ入っていく。僕は黙ってついていった。2階まで上ったところでお母さんが立ち止まった。そこには何の面白味もない「夢の国」とは似ても似つかない無愛想なドアがあった。中に入ると、知らないおじさんが四、五人いた。「名前と年齢を教えて下さい。」聞かれるがまま僕は答えた。その他にも、学校がない日はどうしてるのかとか、特技は何かとか、好きな女の子のこととか色々なことを聞かれた。僕はその全部に答え続けた。最後に真ん中に座っているいかにもお偉いさんのような人が「いいね、合格。」と呟いた。その後すぐにお母さんが入ってきて、「ありがとうございます。」とおじさん達にお礼をした。お母さんは嬉しそうにこっちを見て「よく頑張ったわね、これで夢の国に行けるよ。」と言って、僕の頭をこれでもかってぐらいになでた。まだ「夢の国」について何もわからなかったが、お母さんの嬉しそうで幸せそうな顔を見ているとどうでもよくなった。そして、僕も幸せな気持ちになった。僕は知らず知らずのうちに芸能事務所のオーディションを受けていたのだ。こうして僕は自分の気付かないうちに芸能界に足を踏み入れていた。
おばあちゃんが歌の先生をしていて、お母さんがピアノの先生をしている僕の家はいわゆる音楽一家だ。そのおかげで、僕も小さい頃から歌うことが大好きだった。小学校に入ってからはダンス教室にも通っている。運動は苦手でもダンスは楽しいし、気持ちのいい汗がかけるのでダンスも大好きだった。オーディションを受けた次の日からレッスンが始まり、毎日歌やダンスの練習をした。学校が終わって、走って家に帰り、すぐにレッスンに行く。そんな毎日が僕には嬉しかった。僕には友だちがいない。クラスでも話したことがあるのは数人で、その子たちとも挨拶を交わすくらいだった。小学校は正直つまらない。だけどレッスンはとても楽しい。僕が頑張ればみんな見てくれるし、先生やお母さんにもたくさん褒めてもらえる。それが僕にとってはとても楽しくて嬉しいことだった。毎日レッスンに打ち込んでいるうちに僕のところに自然と仕事が来るようになってきた。色んな大人が僕の頑張っている姿を見てくれていると思うとまた楽しくて嬉しい気持ちになった。テレビCMや雑誌のモデル、ダンスコンテストなど色んな仕事をした。僕の中では仕事というよりも遊びという感じだった。ただ大人の言う事を聞いて動けばそれでいいだけだし、それだけで周りの大人はいっぱい僕を褒めてくれる。僕は何も考えずに仕事をしていた。そうして月日は流れ、僕は高校生になった。小学生の時ほど仕事はなかったが、相変わらず僕は歌うこともダンスも大好きだった。レッスンにも毎日通っていた。そんなある日のことだった。「元気のない地元を一緒に盛り上げてみないか?」レッスンを見に来ていたおじさんが声をかけてきた。僕の住んでいる所は田舎ではなかった。しかし、芸能界で生きていこうとする人はみんな都会へ出ていった。そんな地元でも夢は叶えられるということを証明して、夢を追いかけるすべての人の希望になるようなグループを作りたいのだとそのおじさんは熱く語った。そんなこと僕にはどうでもいいことだった。ただ大好きな歌とダンスができれば何でもいいのだ。だから僕はすぐ返事をした。こうして僕は自分の知らないうちにアイドルになっていた。
地元を盛り上げるグループのオーディション番組があった。そこに集ったのは幅広い年齢の男達だった。最初は100人近くの人が集まった。歌やダンス、芝居の練習が毎日あった。僕にとってはそれほど過酷なものではなかったが、練習を重ねる度に人数が減っていく。グループとしてステージにも上がるようになった。記念すべき初ステージはグループができて一ヶ月後だった。電気屋さんの駐車場を借りてラジカセで音楽を流し、それに合わせて踊った。通り過ぎる人はたくさんいたが、足を止めて見てくれる人は誰もいなかった。僕は歌って踊ることができるのならなんでもいいと思っていた。それだけで僕は楽しくて嬉しい。それなのに、どうしてだろう。今日はとても寂しい気持ちになった。

「向日葵」132208

 太陽に向かって真っすぐに伸びる、輝かしい希望、夏の煌めき―――――。
 さながらそれは小さな太陽のようで・・・。
 そんな、夏の象徴。
 私にとって夏を彩るその花は―――――その花は、色々な意味で特別なのだ・・・。


 緑が青々と茂るこの季節。煌々と照り付ける太陽は、道行く人々の体力を奪っていく。この村でもそうだ。異様な重圧を放つ高層ビルや雑踏、コンクリート舗装された熱気帯びる道路といったものこそないが、太陽が同じように輝きを放っている、これだけは都会のそれと共通していた。
 ここは自然に囲まれた田舎村。周りはいくつもの大きな山で取り囲まれ、村のあちこちには米を作る為の田んぼが見られる。民家少数、勿論こんな山奥に住んでいるのは殆どが還暦を迎えようかという高齢者ばかり。村に市場などなく、皆、隣町にあるスーパーへ買い出しに行くか、自らの土地で収穫した作物を食べて生活をしている。広大な自然に囲まれた村と言えば立派に聞こえるかもしれないが、何分生活必需品は軽トラックを走らせて隣町まで行かねば手に入らないのだから、不便なことはこの上なかった。
 村では比較的若い世代に入る私は、もともとはこの村の住民ではなかった。とある事情で十五年程前一家揃って引っ越してきたのだ。当時の私にとって故郷とはまるで違う光景は子どもだった為かそう簡単に受け入れることが出来なかったが、父がこの地をいたく気に入りその職に専念できると高揚していた様を見てからは、渋々受け入れていく覚悟を決めた。何だかんだで若い家族は村の人々の人気者となり、抵抗を感じていた私も今やすっかり住人の一員としての誇りを持つまでになった。そんな私も、一昨年には妻をもらい、その妻と二人暮らしでこの地に住み続けている。
 
 「片岡さん、病院からお電話入ってますよ。」
 隣町、小さな印刷会社。勤務先の後輩、田代君からのコールがかかり、私の意識は呼び戻された。煌々と照り付ける太陽の光が窓から嫌というほどの熱気を帯びて直射してくるこの暑い中、エアコン一つない狭いオフィスにおいては、暑さでどうにかなってしまいそうな意識を保ち続けることは至難の業と言えた。扇風機の一つでも買えば良かろうものを、この小会社は電気代が何やらとかでそれをしようとしない。社員はハンカチーフないしタオルで常に汗を拭いながら、自らのノルマを達成すべく今にも落ちてしまいそうな自らの意識と常に戦い続けているのだ。
 私は田代君から受話器を受け取ると、電話口から聞こえてくるであろう一つの電報に耳を傾けた。内容はおおよそ見当が付く。もうすぐなのだ。
 「はい、片岡です。」
電話口の相手は慌ただしい声色で急かし立てるように要件を話し始めた。そろそろなのではないかと予想していただけに、事は私の中にそれほど大きな波紋を呼ぶことはなかった。
 「・・・分かりました。すぐに向かいます。あいつをよろしくお願いします。」
私の発した言葉に事の次第を察した上司が、無言のままに顎をついと上げて見せた。行って来い、という合図である。私は上司をはじめ職場の社員に不愛想に頭を下げ一礼すると、荷物をまとめ急いで勤務先をあとにした。
 会社横の駐車場に止めてある中古の白い軽トラックに乗り込むと、助手席に乱暴に荷物を投げ、かくいう私は荒々しく運転席につき、シートベルトもしめずに車のキーを回した。エンジンがかかると、私は今しがた連絡を受けた病院へ向けて車を発進させた。
 ところで、病院と言うのは私の村に隣接するこの隣町の更に隣の町にある病院のことをさす。これも本当に困ったことに、村から病人が出るとその家族は又隣の町の病院向けて車を出さねばならない。救急車など呼んでいては往復する時間が手間となるのだ。あおぞら病院というたいそうな名前のその病院は、付近の町村三つ分の患者を請け負っている病院になるわけだが、これがイメージに浮かぶ立派な白い病棟のそれとはまたえらくかけ離れており、コンクリートが普及したこの時代においても未だ木造建築のまま改装されないでいる。又隣の町は都会ほど灰色一色な重々しい町ではないが、それでも町の風景にその病院のくすんだ茶色は似合わず、異様な雰囲気を漂わせていることは確かだった。
 が、そんなお化け屋敷のような病院も、中の方は私が子どもだった頃からすると随分様変わりしている。昔は弟と二人で村周辺の山へよく出入りして遊んでいたため、擦り傷をつくるのは日常茶飯事だった。たまに大きなけがをして、心配して様子を見に来た父に、この軽トラックの荷台に乗せられ病院まで連れていってもらったものである。それを思えば、そんなたいそうな名前の病院にはもう何度世話になったことだろうか。傷を作っては度々やっかいになるものだから、当時から長年勤務している医師とは、顔見知りを通り越してもうすっかり友人のように親しい仲になってしまった。「今度は片岡さんの奥さんですか。」と、笑い話をしたのはつい一週間ほど前になる。
 病院までの道のり、ふと私はいつもの場所に目を奪われた。妻を乗せて病院まで行く時は、必ずその場所の光景に目を這わせるのだ。夏真っ盛りのこの時期、この場所は、まるでそこだけが異空間、異世界に迷い込んだかと錯覚させるかのように、照り付ける太陽の陽を受けて、黄金に輝くのだった。
 「そう言えば・・・。」
 忘れていたわけではない、が、そこで私はふっと思い出す。それは私にとって特別な光景であることを。


 昔、私がこの村に引っ越してきて三年ほど経った日だったように思う。母が倒れ、入院した。私が育った家庭は決して裕福とは言えないもので、両親は共働き。父は売れない作家、母はそんな父を支える為に毎日隣町の製糸工場にまで出稼ぎに行っていた。車の免許なんて持っていなかった母は毎日毎日歩いて山を超え、当時学生だった私と弟の学費や苦しい生活費の為、汗水たらして一生懸命に働いていた。ずっと家にいる父とは正反対に、母を家で見かけた時間はほんのわずかなもので、勿論のこと、十分にかまってもらった記憶も殆どない。酷い日には三日ほど仕事から帰ってこなかったという日もあった。しかし、働く父母の背中を見て育ってきただけあり、幼いながらに両親の苦労というものを理解していた私は、それ以上のものを望むこともなかった。今思えば出来た子どもだったように思う。母にこれ以上の苦労はかけまいと御近所に住むばあさんに料理の仕方を習い、小説を書く合間に父が手入れしていた庭の作物の世話も覚え、家族四人分の洗濯もこなした。学業も手は抜かなかった。これが今自分にできる精一杯の恩返しだと、そう思った。これで少しでも両親に、母にかかる負担が減らせればと。そう思う一心だった。が、そんな私の思いとは裏腹に過労が蓄積しすぎた母の体は、無情にも、とうとう悲鳴をあげた。
 “ごめんね、健ちゃん。母さんにちょっとお休みちょうだいね。”
病院の寝台の上、起き上ることもままならない状態だった母は、その目を天井に向けたままそんな言葉を呟いた。目の下に出来たくま、骨骨しい手。弱った声。いつの間にこんな姿になってしまったのであろう弱々しい母の姿は見る者の心を抉るような、そんな姿になり果てていた。そんな中で一際目立つ力強い目。体は衰弱しかかっているのに妙に力を帯びたその雄々しい目は、自分はまだやれる、これから先挽回して見せる、とでも言うように、ただただ真っすぐに天上の木目を捉えていたのだった。ああ、この人はまだ頑張る気でいるんだ―――。休むことを知らないんだなぁ―――。自分の頭の中にそういった言葉が無意識のうちに浮かんできて、そうしてそれは自分でも予想だにしていなかった言葉になって口外に飛び出した。
 “母さん、もう、頑張らなくていいよ。”
休んでほしいという思いは確かにあった。しかし自分の口から出たその言葉は、その言葉を口にした自分の態度は、精気を失っていない母のその目を否定しにかかったような、そんな印象を与えるには十分な効果を持っていたように思う。言葉を聞いた母の顔がゆっくりとこちらを向き、その大きな目はいつも以上に見開いていて、そうして私の姿をくっきりとその中に映して見せたのだ。
“健ちゃん・・・?”
“ま、まずは体を治すことが先でしょ。家事は僕が何とかするからさ、母さんはゆっくりすべきだってことだよ、きっと・・・!”
自分を捉える母の表情に、少し曇りが差したように思えた当時の私は、そう言って必死に取り繕おうとした。そう、自分は別に母のことを否定したいんじゃない、ただ、病気かってくらい仕事、仕事と口にする母に、少しでも休んでほしかっただけなんだ。
“そうだね、健悟の言う通りだよ。君が入院している間、僕も何か他の仕事をして生活費を稼ぐからさ。何も心配することは無い。君は元気になって、笑って戻ってきてくれれば、それでいい。”
言葉と同時に私の肩にごつごつした大きな手が置かれ、手の主の方へ視線を向けると、高いところからその人は穏やかに笑って見せた。母が倒れたとの知らせを受け急いでとんできたのであろう、歯には昼食に食べたと予想されるおにぎりの海苔がへばりついていた。私のすぐ横にいた弟はいち早くその事に気が付いたのか、私の服の裾を引っ張り、自分の歯を指さしてくすくすと笑い立てていた。なんだか可笑しくなって、私も弟と一緒になって笑い声を漏らすと、それにつられて母も、元気こそなかったが今できる最大限の笑みを浮かべて笑った。
“そうね、お言葉に甘えて、少し休もうかしら。でも心配だわ、歯もちゃんと磨けないなんて。健ちゃん、裕ちゃん、だらしのない父さんのことお願いね。”
“―――うんっ。”
 それからというもの、父は小説を書くのを暫くやめて、入院前母が通っていた隣町の製糸工場の方へと出稼ぎに行き、母は体調が良くなるまでの間、病院でお世話になることになった。この生活になってからというもの、平日は家事や勉学に追われる日々で毎日が慌ただしく過ぎていった。が、休日には必ず三人揃って又隣の町の―――母が入院している病院へ見舞に行くのだ。入院時より母の様子はだいぶ良くなった。あの頃のことを思えば随分回復しただろう。しかし、順調な経過を見せている一方で、すぐに終わると思われていたこの生活は、思いのほか長く続いた。母が入院したのは昨年の冬だというのに、今はもう季節が百八十度も回転してしまって、日々熱気を帯びていく太陽と毎日顔を合わせなければならない季節に入っている。行き交う人々の忙しない足音しか聞こえてこない季節は終わり、今では長い眠りから覚めた様々な生命の、命の叫びがこだまする。そんな季節だ。
 “見てくれ、途中に咲いていたから、早く元気になるようにって持ってきたんだ。祐一が見つけたんだよ。”
見舞いに行く病院への道のりの途中、祐一はそれを見付けた。半年前にはなかった光景だっただけに、こんな場所があったのかという思いもなくはなかったが、何よりもまずその眩しさに、私たち三人は言葉を失くしたのだ。美しい場所だった。まるで夏そのものがそこにあるかのような、そんな印象を受けた。いや、夏というよりはそこは太陽の着地点のような場所だった。私たちは車を坂の途中に止め、その光景に魅入ってしまったのだ。
“驚いたなぁ。病院に行くのに夢中で気付かなかったよ。本当に、小さな太陽でいっぱいだ。”
小説家の父らしい言葉だった。父はその花を太陽と称したけれど、文学の良さが分からない私の中にも、その言葉はすんなりと入って落ち着いた気がした。そう、それはまさしく太陽そのものだった。
 “それでね、入院中の君にも見せたいねって話をしていたら、祐一が、母さんにも太陽を分けてあげようって言うもんだから、頼み込んで分けてもらってきたんだよ。小さいけど、これで病室でもいつでもお日様が見られるねって。面白いことを言うだろう。”
父の手から手渡されたその花は、生けやすいようにと出来るだけ小さなものを選ってきた。太陽を受け取った母は、いつぶりに見ただろう、口角を上げて、頬を染めて、顔をくしゃっとさせて、そうして笑った。手元の太陽に負けない笑顔だった。そんな母を、病室の窓から差し込んでくる温かい光が照らした。
 あまりにも母がその花を喜ぶものなので、見舞いに行く日はいつもその陽だまりから光を分けてもらってから病院へ赴くようになった。毎週、毎週、時が過ぎるごとに光はその数を増し、いつしか病室が太陽の光でいっぱいになった。しかしそれでも母には一向に退院許可が降りず、いつしか季節は夏の終わりへと差し掛かっていた。
 “・・・父さん、母さん全然帰ってこないね。”
 いつだったか、祐一が父にそう話しているのを聞いた。入院当初はただの過労だろうと診断されていたため、さすがに一か月もすれば退院できるものと思っていた母は、祐一の言葉通り、一向に帰ってくる気配を見せない。やつれて目も当てられない状態だった頃から比べれば、様相は健康だった頃の母に戻りつつあるのに、それでも医師の口から退院の二文字を聞くことは出来なかった。何故母は帰ってこないのだろう。いつしかそんな疑問が頭の中を占めるようになって、私はとうとう父を問い詰めた。母が入院して年が明け、小学校を卒業した私は隣町の中学に入学。幾分か社会にも詳しくなり、物事の事情も理解できるまでには成長したつもりだ。
“もう半年過ぎそうだよ。僕もう何も知らない子どもじゃないよ。”
父さん何か隠してるだろう。自分を映す子どもの瞳に懐疑の色が染みだしていたのを察知したか、父は一つ大きな深呼吸をすると居間に私と祐一を呼び出した。
 外はもう暗い。街路と呼べるものも存在しないこの村では、民家からこぼれ出る光や満天の星空以外、この闇を照らすものがない。そんな田舎の家が所有している電灯なんてものは数が知れている。一家に一つあれば十分、二つあればこの村じゃ大層な大金持ち扱いだった時代だ。生活費をうまく遣り繰りする為にも父は夜以外は電灯を付けなかったが、その日だけは夜になっても部屋の中は真っ暗で、外の方がまだ明るいくらいだった。目視出来得る範囲で父と祐一の姿を確認し、私は父の口から紡がれた言葉を聞き洩らさまいと耳を傾けた。

 母さんね、病気なんだって。お医者さんが言うには、治すのが難しい病気なんだって。


 あれから結局母の病状が良くなることはなく、夏の終わり、光が消えていくのとちょうど時を同じくして、母は亡くなった。それからというもの、父は筆を置き、母に代わって私たちの為に仕事へ赴くようになった。車が運転できた分、身体にかかる負担は母よりは軽かったように思うが、いつの日だったか歯にのりをへばりつかせて笑っていた父の姿はもうそこにはなかった。高校に行くほどの余裕などある筈もなく、中学を卒業した後は私も隣町の酒屋で雇ってもらい、父と一緒になって生活費や養育費を稼ぐようになった。母が亡くなり、むさくるしさと忙しなさが増した片岡家からは、いつしか笑顔が消えていった。
 そうして弟が中学を卒業すると、緊張していた糸がぷっつり切れてしまったかのように、今度は父がこの世を去った。大した作品を書き上げることもなく、本当に無名作家のまま、父は母の元へと旅立っていった。その時私は、まだ十八だった。

 “兄さん、元気かい。手紙読んだよ。静さんもうすぐなんだってね。”
二十歳まで一緒に村に住んでいた祐一が都会の中小企業への就職を決めこの村を去って数年。つい先日、久しぶりに祐一からの電話を受けた。電話の向こうからは、多少機械で声質が変わってはいたが、幼いころから聞き慣れた懐かしい声が聞こえてきた。もう数年会っていない。が、手紙やはがきでのやり取りは度々行っており、先週出した手紙を受けて、急いで電話してきたのだろう。耳元に聞こえる祐一の声は僅かながら高揚しているように思えた。
“手続きはあおぞら病院でしたんだってね。兄さんもすっかりあの村の住人だね、不便なことこの上ないのに。病院へ行くの大変だろう。”
“何かと縁がある場所だからね。静とも途中ある例の場所にはよく行くんだよ。彼女も母さんと同じであの花を見ると喜ぶんだ。”
“そうか、だからそうしようと決めたのか。兄さん、母さんが死んですぐの時はあの花が母さんの元気を奪ったんだとか何とか言って凄く毛嫌いしてたのに。よくまた好きになれたものだね。”
そんな昔話を笑いを交えて話せるようになるまで、一体何年かかったのだろう。祐一の言う通り、母が亡くなってすぐの時、未だ病室一面に煌々として咲いているその花が、無性にいびつなものに見えて、良い印象を抱けなかったのは確かだ。日々衰弱していく母とは正反対に、その花はいつ行ってもきらきらと輝いていたのが、私にそう思わせた原因であろう。祐一が都会へ越して一人で生活するようになってからは、例の病院に通う機会も少なくなり、その場所を見ることもなかった。なかったのだが、有給休暇を使って赴いた場所で、偶然にも再び私は太陽との邂逅を迎える。そうして同じように、その場所で花の放つ光に目を奪われていたのが、今の私の妻だった。そのことを思えば、私は何かしらあの花との縁を感じざるを得ない。何せ、大好きだった母の最期でも、そうして最愛の妻との出会いでも、それは私の側にあって、惜しげなく花びらを開き、陽の光を受けて輝いていたのだから―――。


 「片岡です。妻は今どこに・・・」
「片岡さん、お待ちしておりました。奥さんは今集中治療室ですよ、前の椅子に腰かけてお待ちください。」
昔はなかった、病院の裏に新しく出来たそう広くもない駐車場に軽トラックを停車させ、私は助手席に放り投げた荷物を乱暴につかむと走って病院の扉を開けた。会社に電話をしてきた本人であろう看護師の声に案内され、私は視界にその背中以外を留めることもなく無我夢中で集中治療室の前まで歩を進ませた。まだ集中治療室という文字は赤く光ったままで、私を案内した看護師は「それでは。」と言い残すと颯爽にその場を去って行った。一人場にたたずんでいる私は、かすかに聞こえる蝉の鳴き声以外何も聞こえない、そんな空間でこれ以上ないという緊迫感に襲われながら、中から医師が出て来るのをただただ待った。待つしかなかった。
 ――――――――――。
 どれくらい待っただろう。ふとそんな言葉が頭に浮かんだ瞬間だった。蝉の声なんか吹き飛ばしてしまいそうな勢いの良い叫び声が、私の耳に飛び込んできたのだ。それと同時に治療室の扉が開き、中から数年来の付き合いの医師が飛び出してきた。
「健さん・・・、おめでとう。」
私の両手を包み込んだその医師はしわくちゃなその顔を更にしわくちゃにしてそう言った。言葉を理解するより、その表情から事の次第を察した私は、手術台に乗って運ばれてくる妻の姿と、その手に抱かれている新しい生命の姿とを確認すると、すぐさま二人の元へと駆け寄った。少々息を切らしてはいたが、やりきった感をのせた静の顔は、あの時の母と同じ―――――口角を上げて、頬を染めて、顔をくしゃっとさせて、そうして笑っていた。
「女の子ですって。さっきの産声聞こえたでしょう。とても元気な子よ。」
タオルにくるまれた生命は、視界で捉えることこそまだ出来ないが、初めて嗅ぐ外の匂いを、初めて体いっぱいに吸い込む息を、そうして初めて触れる親の指を、しっかりと確かめ、体いっぱいに体感している。小さいなりに、しっかりと地に足を付けようと、母の腕の中で動いている。その様子を見ると何とも言えなくなって、私は握りしめられた手をそのままに、初めて人前で泣き崩れた。

 我が家の表札に新しい名前が加わった。忌み嫌っていたその名が、今度は枯れることなく、私達家族をてらしてくれるだろう―――――そう希望を込めて。生まれた女の子は、【向日葵】と名付けられた。                       (8079文字)

「憧れの人」132106

「深瀬のことですよね?ええ、よく知っていますよ。」 
 そう微笑みながら語るのは、笑顔の素敵な阪本勝吾さん。彼と深瀬は保育園から高校まで一緒に過ごしていた幼なじみだそうだ。高校を卒業してからもよく飲みに行くほど親交が深かったようである。

「へえー。そんなところもあるんだ。」
 彼の隣でそう相槌を打っているのは、深瀬が舞台俳優をしていた時の仲間である高見将人さん。同じ養成所出身ということもあり、舞台で共演することも多く、非常に良きライバルであったそうだ。
 
「でもね、私が知っている彼はね。」
 二人に並んで深瀬について話している女性がいる。彼女の名は大石凛子さん。彼女は深瀬の元恋人であり、彼とは六年近く交際をしていたそうだ。彼を養成所時代から近くでずっと支えていた存在である。
 
 今、私はこの三人と共に深瀬について話している。このような状況になったきっかけは、三年前取材でとある舞台を観劇したことである。その舞台は、日本に住んでいれば誰でも一度は名前を聞いたことのあるほど有名なものであった。私の勤める編集社では、この舞台が再演される度に取材をして特集記事にするのだが、三年前は偶然にも私にその仕事が来たのである。そしてその時、俳優の深瀬陸翔に出会ったのである。チラシに大きく載っていたのは深瀬…ではなくその時日本だけにとどまらず、世界でも評価の高かった俳優であった。深瀬はというと、公演中一度だけ台詞があるだけで常に端のほうにいる村人の役をしていた。十人ほどいた村人の中で、私はなぜか彼から目が離せなくなってしまった。それはあるセリフを聞いた一瞬から始まった。
 
 「今という時間は戻らない。だからこそ後悔のないように生きようではないか。」

 このセリフだ。このセリフを言い放った彼はそれまでとは別人であった。凄まじい存在感を放った彼の虜になった私は、以降彼の出演する舞台はほとんど観劇するようになったのである。そして、数年に一人だけが世界で最も素晴らしい俳優と認められる賞を彼が受賞した今、彼についての本を出版するため彼を良く知る三人にインタビューをしているというわけである。

―まずは彼の幼少時代について。彼はどのような少年だったのでしょうか?
「深瀬はあまり活発な方ではなかったですね。なにかと消極的な方でしたから。」
 やはりこの質問に関しては幼なじみである阪本さんが一番初めに答えてくれた。
―それではあまりクラスメイトとの関わりはなかったということですか?
「いや、そういうわけではなかったんですよ。よくクラスメイトと話はしていましたから。」
という阪本さんの言葉に、凛子さんも続く。
「あ、学生時代のお友達の話は私も確かによく聞きましたよ。特に阪本さんの話が多かったかな。彼がよく阪本さんと小学二年生の時に、同じクラスになれて本当に良かった。って何回も言っていましたから。」


―二年生?お二人の間に何かあったんですか?
「ははは。あいつそんなに思っていたんですね。
 いや、実はね。さっきも言ったみたいに深瀬ものすごく消極的だったんですよ。だからクラスでも全然目立たなくて。でも一度話すとしばらく話していたいって思うほど、楽しいんですよ。言葉が多いわけではなかったのに。不思議ですよね。それをね、私は保育園の時から知っているわけじゃないですか。それに皆気付いていないことが悔しくて。だから勝手に推薦したんですよ。クラスの代表に。」
「そうそう!彼、人前に立つのが苦手だったらしくて、突然自分の名前を出されて本当嫌だったって。」
と、阪本さんも凛子さんも笑って言う。


―でも、阪本さんなら、彼が嫌がることも分かっていたのではないのですか?
「もちろん分かっていましたよ。でも彼の気持ちよりも、皆に彼のことを知ってもらいたい気持ちの方が強かったんです。今となっては本当に勝手なことをしたなって思いますけどね。」
「でも、嫌がっていてもあいつは結果的に良かったと思ったってこと?代表になってからあいつなんか変わったの?」
 確かに高見さんの言う通り、嫌な思いをしたのに良かったと思うのは難しい話である。阪本さんは高見さんの言葉に答えた。
「クラスの代表ってことで何かと深瀬は人前にたつことも増えたんですよ。だから必然的にそれまでより注目も浴びるわけで。それがきっかけで深瀬がクラスメイトと話す機会が増えたんです。それからですね、深瀬が少しずつ自分から発言するようになったのは。」
と、思い出すようにゆっくりと話す阪本さん。彼が消極的だったというのは驚きだ。私が知る限り彼は、積極的にオーディションを受け、俳優の仕事に取り組んでいた。もしかすると仕事に関してだけは積極的であったのかもしれない。


―彼が俳優を志したのはもしかしてその時からの変化に関係していたのでしょうか。
「さあ、どうなのでしょう。いつ動機を聞いても、なぜか私にだけは教えてくれなかったんですよね。」
「あ、それなら私知っていますよ。俳優を目指す決心をしたのは、私が高校生の時だったかな。えーっと、だから彼が大学生だった時ですね。その頃はまだ知り合って間もなかったんですけど、偶然チケットが手に入ったから彼をある朗読劇に誘ったんです。結構有名な朗読劇だったらしいんですけど私も彼も全く知らなくて。本当になんとなく行ったんですよ。いざ始まると、恥ずかしい話、私には全然分からなかったんです。高校生の私にはシェイクスピアは内容が難しかったのでしょうね。でも、ぱっと隣の彼を見たらとても真剣な表情をしていて、横から見ていても彼の目が輝いていることが分かりました。朗読劇が終わって、彼は人が変わったように話し出したんですよ。『あんなに言葉をきれいに話す人を初めて見た!』って。この朗読劇を見た時に舞台にたつ仕事がしたい、なんならあの人を超える存在になるのが自分の夢だって思ったそうです。」
と、頬を少し赤らめながら凛子さんは語る。


―彼がそこに行くのは運命だったんでしょうね。でも、その話なら阪本さんに話してもいいような気がするのですが…
「あ、それには理由があるんです。」
と、凛子さんは楽しそうに微笑みながら続ける。
「実は、この舞台を見に行って俳優になるって決めたらしいのですけど、もう一つ俳優になると決心した理由があるんです。それが阪本さんに関係しているんですよ。」
「え、私ですか?」
心底驚いた様子の阪本さん。
「彼に、音読の話したことないですか?」
という凛子さんの問いかけに少し考えてこう答えた。
「あ!もしかしてあれかな。一つだけ思い当たることありますね。小学校の時に国語の授業で音読する機会って多いじゃないですか。彼が音読してくれた時だけとても素直に物語が頭の中に入っていく感じがする。それを彼に、深瀬は本当に音読が上手い、言葉がとてもきれいだよな。というように伝えたことがあるんです。」
「そうそう。それが彼本当に嬉しかったみたいです。阪本も褒めてくれたから自信がついたって言っていました。」
「へー。昔から本を読むのが上手かったのか。」
と、阪本さんの話をうけて、高見さんが呟くように言う。


―学生時代から本を読むことが得意だったんですね。では高見さんにお尋ねします。養成所時代でも彼は本を読むことに対して注目されていたのでしょうか。
「ああ、舞台をするにあたって台本を読み合わせる本読みという活動があるんだが、あいつはずば抜けて上手かったように思うよ。なんていうんだろうな。あいつの想像している世界へ一気にひきこまれるようで、手に取るように世界が広がっていくんだ。だから純粋にあいつがいる時の本読みは楽しかった。でも同期として悔しいところでもあったよ。実際講師にもいつも言葉がきれいだって褒められていたからな。」
と、高見さんは笑いながらも時折悔しそうな顔を浮かべて話してくれた。この話を聞いた時、私は思った。彼の言葉を巧みに扱う才能に私は惹かれたのかもしれないと。彼の才能を語るには、初めて見たあのセリフを言い放つ彼の存在感は十分すぎるほどであった。それが証拠に彼が受賞した時の作品は彼が一人で行った朗読劇なのである。もちろんその舞台も見に行ったが、一人の人間とは思えないほどの圧巻の存在感を放っていた。


―言葉を扱う以外にも彼が得意としていたことはあったのでしょうか。
「あいつに言ったことはないんだけど、殺陣とかもそうだと思うよ。殺陣をする時って基本的に何人もいるでしょ。その中で目立つことが出来るのは中心にいる人であることが多いんだよ。でもあいつは一瞬にして目立つことが出来るんだ。それって本当にすごいことなんだよ。ただ目立つだけなら誰にでも出来るんだろうけど、あいつは必要な時にだけ一瞬にして存在感を放つんだ。恥ずかしい話だけど、何度か真似をしようとしたことがあったくらいだから。」
と、高見さんが言うように、殺陣を含む集団での演技の中で彼は一瞬にして主役かと錯覚してしまう程の輝きを放つ。一瞬で現れ、一瞬で去っていく流星のようである。
「でも、深瀬は子どもの頃から喘息で、運動が思いきり出来る体ではなかったんですよ。五十メートル走りきることも難しかったくらいですからね。殺陣ともなると相当な運動量があるでしょう?」
「殺陣は本当に体力がいる。言ってしまえば、殺陣に限らず舞台は全てにおいて体力がいるんだけどな。でもあいつが喘息だったなんて全く知らなかったよ。そういう素振りも見せずに相当な努力をしていたんだな。」
「そう、彼すごく努力家だった。養成所の頃から彼のこと見てきたけど、毎日家に帰ると何もせず、すぐに寝て体力を少しでも回復しようとしていたみたいです。自分の夢のためにまっすぐに走り抜けられる人だから。」
 この話のように喘息という役者にとっての大きなハンデを抱えながらも彼はそれを理由にせず、周囲と渡り合っていくための努力をしていたそうだ。彼は言葉を巧みに扱える才能を身につけていたとともに、努力で自分に足りないところを補い、自分の得意とすることをさらに磨いていた。役者としての鏡ともいえる存在なのではないだろうか。彼がこのまま俳優を続けていたらどのような存在になっていたのかそんなことにも考えがめぐる。


―彼は今回惜しくも俳優を引退してから、非常に名誉ある賞を受賞するという形になりましたが、それについてはどのように思いますか。
「嬉しくもあるし、ほっとする思いもあるという複雑な感じです。一人の俳優として世界で認められる存在になったという証拠である賞をいただけるほどの大きな存在になっていたということですから。それに彼はこうして世界で認められる存在になっても私にとっては、大切な友人です。そういった意味では友人として純粋に嬉しく誇りに思います。そして彼が俳優をすることに対する苦労も知っていましたから、それから解放されるといった意味ではほっとしているところもありますね。まずは、お疲れ様と言いたいですね。」
と、幼なじみであるからこそ得られる喜び、分かる苦労。そういったものを思い返すように阪本さんはゆっくりと彼への思いを語る。
 それに高見さんはこう続けた。
「俳優としてのあいつを一番良く知っているのは自分だったと思うし、それくらいと言っても過言ではないほどあいつのことを見てきた自信がある。世間では犬猿の仲だとかライバルだとか言われていたが、本当はそういうことではなく、純粋にあいつに対して憧れを持っていた。それほどあいつには俳優としての魅力があった。そんな素晴らしい俳優を失うことは悔しい。あいつの魅力を間近で見てきた俳優として、違う道に進むあいつの分も、誰しもに認められる俳優になりたいとも思う。深瀬のために。」
と、最も近しい存在であった俳優仲間として、彼への思いを告げるとともに自らの思いを強める言葉を語る高見さん。その目は、深瀬に一瞬にして宿る光と同じともいえる輝きを放っていた。
 彼らの言葉をうけて凛子さんはこう語る。
「とにもかくにも寂しいという思いでいっぱいです。俳優をしている時の彼は非常に輝いていてとてもかっこよかったです。そんな彼を見ることで勇気をもらっていました。彼をずっと支えているつもりだったのですが、いつのまにか彼のファンになっていたようで応援する気持ちでいっぱいでした。そんな彼の大好きだった姿をみることが出来なくなって本当に寂しい気落ちで、胸にぽっかり穴があいたようです。」
と、素直に寂しさを口にする彼女の表情は言葉通りとても寂しそうだった。

 彼に最も近い存在であると私が判断したこの三人から、彼の生い立ちや性格、俳優としての姿等の様々なことをインタビューという形で聞くことが出来た。
 この対談で明らかになった彼の情報を基に、彼についてまとめていこうと思う。


「よし。」
 しばらく向き合ってきたPCの画面を閉じると清々しい気持ちであった。原稿を書き終えたという充足感からくるものなのか、彼について書くことのできた満足感からくるものなのかは定かではないが。今からこの原稿を会社に持って行けばいよいよ出版か、なんて考えながらコーヒーに口をつける。この本が出来上がったら、出版することを快諾してくれた彼の両親と対談に参加してくれた三人には直接お礼をかねて渡しにいこう。
 
 ――出版予定は二〇一五年九月一〇日。
 この日は彼の三回目の命日なのである。


 彼について多くのことを知った今こんな言葉を思い出す。

「今という時間は戻らない。だからこそ後悔のないように生きようではないか。」

 彼は後悔のないように人生を生きることが出来たのであろうか。そんなこと誰にも分からない。しかしこれだけは言える。彼は死してなお夢に向かって走っていたと。

「夢の大冒険」132119

 みなさんは、私たちと同じようにものも心を持ち、生きているのだということをどれくらい知っているでしょう。あまり知らない人も少なくはないと思います。そんなみなさんに、これから一人の男の子、ゴームくんのお話をお聞かせしましょう。
 輪ゴムのゴームくんは、好奇心旺盛な男の子。いえ、旺盛どころの話ではありません。ゴームくんはとんでもなくいろんなことへの興味が強く、いつだって、みんなが集まる小さな箱の中で一人、天井に見えるまあるい穴を見つめては自分の力でそこを出る方法を考えています。
「いつかあそこをこっそり抜け出して、ぼくは、ぼくの生まれた場所が見たいんだ。」
これがゴームくんの口ぐせです。周りのみんなにも早くこの箱を抜け出して外の世界を見てみたい気持ちはありましたが、ゴームくんのように自分の力で出ようと思う者はいませんでした。
 しかし、そんなゴームくんの思いとは裏腹に、天井の穴を抜け出すというのはなかなか難しいことでした。毎日のように、一人また一人と穴から取り出される仲間たちを見て、ゴームくんの好奇心は掻き立てられるばかり。
 そんなある晴れた日、いつもと同じように天井に広がるまあるい穴を見つめていると、穴の外を何かが右から左へ素早く横切ったのをゴームくんは目にしました。
「なんだありゃ。」
ゴームくんは興味津々、目を大きく見開いて穴の外をさらによく見ようとします。と、また何かが穴の端から端へ横切りました。
「あれは、ゴワゴワさんだ!」
そう、穴の外を飛んでいたのは、かつてゴームくんとともにこの箱の中にいた先輩、ゴワゴワさんだったのです。ゴワゴワさんは、数日前に穴の外へと取り出され、そのときはゴームくんも別れを惜しんだものです。
「外の世界では、空も飛べるようになるのか。」
ゴワゴワさんの姿を見たゴームくんはそう思い、もう一度穴を見上げました。すると、今度は穴の向こうに人の手が二本伸びてきて、ゴワゴワさんを手に取り、両手で引っ張ったかと思うと、次の瞬間ゴワゴワさんは宙を舞ったのです。それを見たゴームくんは、思いついたのです。
「ぼくだって飛ぶことができれば、ここを出られるかもしれない!」
 ゴームくんは、箱の中の仲間たちに呼びかけて、自分のことを上に向けて引っ張るようお願いしました。始めは不思議がって協力しようとしなかったみんなも、ゴームくんの熱意に押され、ゴームくんの言う通りのことを手伝いだしました。
「もう少し右だ。」
「もっと引っ張れ。」
毎晩人が寝静まったころになると、輪ゴムたちの小さいけれど必死な掛け声が箱の中いっぱいに響き渡っていました。
 そして何日か経ったある晩、その時は訪れたのです。
「それいけ!」
研究を重ねて見つけ出した最良の角度です。みんなで一斉に引っ張り、ぱっとゴームくんがみんなから離れたと思ったら、ゴームくんはどこにもいません。そう、とうとう彼は小さな箱の中から抜け出すことに成功したのです。
「みんな、ありがとう!やった!やっとここへ来られたよ!」
ゴームくんは穴の中を覗き込んでみんなに向かって叫びました。穴の中からは、みんなの声援があふれ出ていました。
 初めて外の世界を自分の目で見て、ゴームくんは感動しました。
「なんて広い世界なんだ・・・。」
周りを見渡したゴームくんは絶句しました。目に見えるものすべて、今までに見えていたものとはスケールがまるで違います。
「ゴームくん!ゴームくんじゃないか!」
声のする方を振り向くと、そこにいたのはあの日宙を華麗に舞っていた先輩、ゴワゴワさんでした。しかし、ゴワゴワさんの姿はゴームくんの知っていた姿とは少し違っていました。ゴワゴワさんは二回り、三回り、いやかなり大きな円になっていたのです。それもそのはず、ゴワゴワさんはあの後もいろいろなところへ駆り出されました。おかげでもうすっかり伸びきって人たちからは干されている状態でした。
「ゴワゴワさん・・・なんでこんなことに・・・。」
ゴームくんは急に箱の中を出たことが少し怖くなりました。
「ゴームくん、ぼくはもうそろそろ捨てられてしまうかもしれない・・・。」
「捨てられるってどういうこと?」
「ここじゃない遠くの地へ行くということさ。でも、ぼくはこれまでにいろんな経験をすることができたんだ。悔いはないよ。」
この時ゴームくんが見たのは、伸びきった身体でも穏やかな顔をした先輩でした。そんな先輩の言葉をゴームくんは強く胸に受け止めました。
「ぼくもゴワゴワさんのように悔いのない人生にしたいんだ。ぼくは、ぼくの生まれた場所に行くことが夢なんだ。ゴワゴワさん、ぼくたちはどこで生まれたの?ここからどこへ向かえばいいの?」
「うーん・・・。ぼくにも確かなことはわからないがゴームくん、あそこを見てごらん。あそこに透明の板が張ってあるだろう?あれは人が言うに、まどと言うらしいんだが、どうやらあのまどからさらに外へと出られるらしいんだ。ぼくらの生まれた場所はここよりももっと遠くにあるに違いない。まずはあのまどから外へ出なくちゃいけないんじゃないかな。」
「え、また外に出るの?どうやって出ればいいんだろう。」
「手伝うよ。ゴームくんには夢を叶えてほしい。」
ゴワゴワさんはそう言いながら傷だらけの身体でゴームくんを支えました。
「さあ、飛ぶんだ、ゴームくん!」
「ゴワゴワさん、本当にいいの?ゴワゴワさんは大丈夫なの?」
「いいんだ、ぼくはもう捨てられてしまう身。それならば、かわいい後輩の役に立って終わりたいよ。ゴームくん、自分の生まれた場所を必ずその目で見てくるんだよ。」
ゴームくんはそう言ったゴワゴワさんの優しい顔を見て、涙を流しました。
「うん、わかった。ゴワゴワさんのためにも、ぼくは、絶対に夢を叶えるね。」
そして、前を向き、勢いをつけて窓に向かって飛びました。パチンという音がしてゴームくんの身体は宙に浮き、それと同時にゴワゴワさんがまた少し伸びたのが感じられました。しかし、飛ぶときに見えた先輩の優しい表情は、ゴームくんに何かを託したかのようで、ゴームくんの信念はより強くなったのでした。
 ゴワゴワさんの手助けによって窓の外へと飛んだゴームくんは、運がいいのか悪いのか、下を通る道を走っていたトラックの荷台にちょうど着陸しました。
「ここはどこなんだろう。」
不安になったゴームくんは、あたりを見回しました。すると、眼に入ってくるのは茶色い物体ばかり。しかもとてもかたい。実は、ゴームくんがいるのは、丸太を運ぶトラックの荷台だったのです。
「お前さんは誰だ。」
ゴームくんの下の丸太が尋ねました。
「ぼ、ぼくはゴーム。輪ゴムのゴームです。」
ゴームくんは驚きながらもなんとか答えました。
「輪ゴムの坊やがどうやって今ここへ落ちてきたんだい?」
今度は隣の丸太が尋ねました。
「さっきぼくは外へ出たくて窓から飛んだんです。それで気が付いたらここに。」
「お前さん、勇気があるんだねえ。でもなぜ、そんなにも外へ出たかったんだい?」
「ぼくは、ぼくの生まれた場所が見たいんです。それがぼくの夢だから!」
「そう、夢かい・・・。」
そう言った丸太は遠い目をしていました。ゴームくんは不思議そうに丸太の顔を覗き込みます。
「どうしたの?」
「いや、わたしにも夢というものが昔はあったなあと思い出していたんだよ。」
「今はないの?」
「ないさ。わたしらはこれから人のために使われて朽ちていくだけさ。だから夢なんて見たって無駄なんだよ。」
悲しそうな顔をして丸太は答えました。
「そんなぁ・・・。」
それを聞いたゴームくんもとても悲しい気持ちになりました。
「夢は誰だって持っていいとぼくは思います。いや、持つべきだと思います。夢があったほうが毎日を楽しく生きられる。夢のためにいろんなものを見ていろんな経験をして――それが生きるということなんじゃないかな。」
一瞬、荷台の中が静まり返ったかと思うと、さっきの丸太が口を開きました。
「坊や、あんたの言う通りかもしれないね。わたしらはもうほとんど生きることさえも諦めてしまっていたのかもしれないよ。でもわたしらはまだ生きてる。生きてる限り、ちゃんと生きなきゃいけないね。わたしらも夢を持っていいんだね。」
丸太たちは皆ゴームくんの方を向いて少し笑顔を浮かべました。希望の見える表情です。
「ありがとう、坊や。おかげでみんななんだか明るくなったよ。それで、このお礼と言ってはなんだが、何かわたしらにできることはないかい?あんたの夢のために。」
ゴームくんは考えました。
「こんなこと頼んでいいのかわからないけど・・・。」
「遠慮せずに言ってみな。」
「うん。あの、ぼくが生まれた場所がどこなのかを一緒に考えてほしいんだ。」
「わたしらで力になれるかわからないけど、中には遠くの山から運ばれてきている木や、長寿の木なんかもいるから、何か手掛かりになりそうなことを知っているかもしれないね。さあ、坊やの夢を少しわたしらにも分けてもらうとしようか。」
丸太はにっこりと微笑んで、荷台中の丸太たちに呼びかけました。丸太たちは一斉に話し出し、そして、その中のある年寄の丸太が有力な情報を教えてくれたのです。
「わしの経験からすると、お前さんもおそらく工場なるところで生まれたんじゃろう。工場というのは、新たに何かを生み出すところなんじゃ。」
「工場か。ぼくもそこへ行けば生まれた場所が見られるかもしれないんだね!」
ゴームくんは喜びました。今だったらどこへだって行ける気がしているのです。
「じゃあどうやって工場まで行くか考えなくちゃ。」
ゴームくんがそう言った途端、走っていたトラックが突然停止しました。夜も明ける頃、どうやら目的地に着いたようです。
「ここはどこだろう。」
「わたしらが使われるとこさ。」
何かの工場のようです。この丸太たちはここで新しい製品にされるためにはるばる遠くからこのトラックで運ばれてきたのでした。しかし、ゴームくんはもちろんのこと丸太たちでさえも自分たちが何に使われるのか、知りません。
「こういうところを工場というんだよ。坊やが行きたいと願う工場かどうかはわからないが、一度見に来るかい?」
「うん、ぼく行くよ。」
陽の光がゴームくんと丸太たちを温かく包みます。
ゴームくんは、丸太にしがみついたままなんとか工場の中に入ることに成功しました。
「すごい!」
そこではさっきたくさんいた丸太を機械にかけて樹液を搾り取っています。しかし、そう考えると、さっきのあの優しい丸太たちもこうして樹液を搾り取られてボロボロになってしまうのです。ゴームくんは少し悲しくなりましたが、今はもう夢を持った丸太たち。あの丸太たちなら形が変わろうとも前を向いてまた次の人生を送ることでしょう。そう思いながら、ゴームくんは工場の様子を観察し続けました。
? 搾り取られた樹液は、型に流し込まれて筒状の物体になります。色はゴームくんとよく似た黄土色です。今度はその筒を細く切っていくようです。
「ん!?あのフォルムは・・・!」
あの形、あの色、あの大きさ。あれは、まさしくゴームくんと同じ、輪ゴムではありませんか!
? そう、ゴームくんが辿り着いたこの工場、偶然にも輪ゴムの製造をおこなっている工場だったのです。ということは、あの丸太たちは・・・。もうお分かりのように、あの丸太たちは、ゴムの木ということになります。ゴームくんは、とんでもない出会いを遂げていたのです。
「ああ、あの丸太さんたちはぼくの元になっていたんだね。じゃあぼくはあの丸太さんたちがいた場所に行かなければならない。」
一人で輪ゴムの製造過程を見ていていろんなことに気づいたゴームくんは、また新たに明確な目的地ができました。
? そうとなったら、すぐに動くのがゴームくん。そこにあった機械のレバーに自分を引っ掛け、工場の窓から飛び出ました。すると、ちょうどまた出かけようとしていたさっきのトラックの荷台に再び乗ったのです。そのままトラックは発車、ゴームくんはまたトラックで旅立つことになりました。
「ありがとう、ありがとう!」
ゴームくんは精一杯の声で工場に向かって叫びました。
? トラックに揺られること数時間、ゴームくんは疲れたのか少し眠ってしまっていました。
目を覚ましたときには、見渡す限り一面が木でした。
「いったいどのくらい遠くへ来てしまったんだろう。」
ゴームくんは、とある山奥にいました。木々が風に揺れ、とても神秘的な雰囲気のある場所でした。
「もしかして、ここがあの丸太さんたちのいた場所――ということは、ここがぼくの生まれた場所なんだね!」
ゴームくんは、涙をいっぱい流しました。いっぱい流した涙は荷台の上で小さな水溜りとなり、ゴームくんの体を滑らせました。つるっと滑ったゴームくん、地面に落ちたかと思うと、再び飛ぶ力はもう残っておらず、その場でじっとしていました。それもそのはず、ゴームくんは三度の大ジャンプのせいでもうビヨンビヨンに伸びてしまっていたのです。しかし、ゴームくんは希望に満ちた明るい表情です。
「ぼくはやっとこの場所へ来ることができたんだ。夢を叶えることができたんだ。フォームの始まり」
ゴームくんはこの上なく喜びました。また、これまでの道のりを思い出し、助けてくれたみんなの顔を思い出してまた涙があふれ出ました。
「みんな!ゴワゴワさん!丸太さんたち!ぼくはみんなのおかげで夢を叶えることができたよ!ありがとう、本当にありがとう!」
ゴームくんがそう叫ぶと、どこからともなくたくさんの声が聞こえてきました。
「よかったね。」
「よくがんばったよ。」
「すごいじゃないか。」
それは、ゴームくんを取り囲むゴムの木たちの声でした。そして、ゴームくんは思い出したのです。自分も昔、ここでこの木々たちと一緒にずっと長い間立っていたことを。
 雨の日も風の日もひたすらそこに集まってただ立っていたあの日々。ある日突然やって来た業者の人たちがゴームくんの木と彼の仲間の何本かを切り倒し、さっきのようにトラックに積んで工場へ運びました。工場ではゴームくんが見た丸太さんたちのように、樹液として搾られ、そして今の形になったのでした。
 自分のルーツであるゴムの木々に囲まれて穏やかな時を過ごしていたゴームくん。しかし、ゴームくんにはまだやるべきことが残っていました。ゴームくんは、元いたところへ帰らなければならないのです。ゴームくんは思いました。
「ぼくが見たこと、思い出したこと、出会ったもの、全部あの箱の中の仲間たちに教えてあげなくちゃ。」
しかしゴームくんは自分の力だけではどうすることもできません。
 そのまま数日が経ったある日、半ば元いた場所へ帰ることをあきらめていたゴームくんの体が突然何者かによって宙に運ばれたかと思うと、すぐにとても狭い場所へと収められました。ゴームくんには何が起こったのかまったくわかりません。真っ暗な空間で、ゴームくんにはもうほとんど希望は残っていませんでした。
「またどこか遠いところに行ってしまうのかな・・・。」
そんなことを考えながらゴームくんは暗いその場所で眠りにつきました。深い深い眠りです。
「ゴームくん!!」
聞きなれたその声でゴームくんははっと目を覚ましました。そこには、かつてゴームくんとともに過ごしていた箱の中の仲間たちがいたのです。しかしここは箱の中ではありません。ゴームくんはみんなに聞きました。
「これはいったいどういうことだい?」
「ある日突然ぼくたちはみんな外に出されたんだ。それからというもの、毎日自由に暮らしているよ。あそこを見てごらん。」
仲間たちが指さした先を見たゴームくんは、涙を流して叫びました。
「ゴワゴワさん!!」
ゴームくんが見つめる先にいるのは、自分のことよりゴームくんのことを考えて夢をかなえる手助けをしてくれた先輩の姿でした。彼は相変わらずたるんだ円状の姿をしていましたが、以前よりも明るい表情でいました。
 ゴームくんは嬉しさでいっぱいです。みんなの元へ帰って来られたこと、自分を助けてくれたゴワゴワさんにももう一度会えたこと、そして何よりも自分が見てきたものをみんなに伝えられること。ゴームくんもゴワゴワさんと同じようにたるんでしまっていましたが、帰ってきたゴームくんの心には少しのたるみもありませんでした。それからもゴームくんと彼の仲間たちは楽しく自由に毎日を過ごしながら、人の役に立つ仕事を担っていきました。
 
 
 こうしてゴームくんたちが喜びでいっぱいのとき、もう一人笑顔を浮かべていたのが、タロ一くんという少年です。彼は、横書きで表記されたときに「たろうくん」と読まれ、呼ばれることが好きではありません。彼の名前は「たろいちくん」です。
 タロ一くんは山道で汚れた靴の泥を落としながらにこにこと幸せな気持ちでした。
「タロ一、探し物は見つけられたの?」
「うん!僕の大事な友達だからね。お母さん、山まで連れてってくれてありがとう。」
実はこのタロ一くん、輪ゴムを愛してやまない少し風変わりな少年でした。しかしなぜ彼は、ゴームくんをあの山まで取りに行くことができたのでしょう。タロ一くんにいったい何があったのでしょうか。
 タロ一くんは、いつも輪ゴムの箱の中を覗いては、輪ゴムたちが何を考えているのだろうとか、どんな会話をしているのだろうとか、あれこれ想像していました。
 そんなある日の晩、宿題をやっていなかったことを思い出して目覚めたタロ一くんがリビングに行くと、何やらすごくすごく小さい話し声が聞こえます。
「もしかして・・・!」
そう思ったタロ一くんは音を立てないようにして輪ゴムの箱が置いてあるテーブルの下に潜り込み、テーブルに耳をあててその小さな声を一生懸命聞きました。すると、なんということでしょう。輪ゴムたちが会話をしているではありませんか。
「今日も何人かの輪ゴムたちが使われたわねえ。」
「次は誰が使われに行くのかしら。」
極めて小さい声ではありますが、明らかに話し声はその箱の中から聞こえます。タロ一くんは心が躍るような気持ちになりました。そしてこんな声も聞こえてきます。
「ぼくも早く外の世界を見てみたいなあ!」
そこで、タロ一くんはいいことを考えました。
「このゴムくんの夢を叶えてやれないかな・・・。」
タロ一くんは、この“外の世界に出たい輪ゴム”を「ゴームくん」と呼ぶことにし、「ゴームくん脱出大作戦」を決行することにしました。
 それからというもの、タロ一くんはひたすら輪ゴムの箱の中を観察したり、夜中にこっそり起きてテーブルの下で輪ゴムたちの会話を聞いたりしました。そうしているうちにいろいろなことがわかってきたタロ一くんは緻密に作戦を練って、実験に実験を重ねて、とうとうある晴れた日、大作戦を決行する時がやってきました。
 トラックの運転手や工場、山で林業を営む人、いろいろな人にお願いもしました。あとは、この箱の真上で輪ゴムを飛ばすだけです。
「すべてうまくいきますように。」
それは、半分はゴームくんのためにという気持ちによるものしたが、もう半分はタロ一くん自身の好奇心によるものでした。
 この大作戦がどうなったかは、先ほどゴームくんが私たちに見せてくれた通りです。タロ一くんの作戦は、大成功でした。タロ一くんはこうして一生忘れられない経験をしました。
 
 タロ一くんはこの夢を一生忘れませんでした。フォームの終わり