バックナンバー
  ←戻る counter

大阪教育大学 国語学講義
 受講生による 小説習作集

詩織

 
2016年度号

「Gの逆襲」 142109
「Lovers」 143909
「いつもありがとう」 142137
「おにぎり」 142202
「おやつ日記」 143907
「しおり」 142112
「それ」 142124
「ダブルス」 142203
「ともだち」 143911
「ふわふわわたげ」 143910
「ルビッシュのパン屋」 142107
「絢爛空言」 142204
「怨霊」 132105
「過去振り返り禁止法」 142201
「願い人」 142206
「行き先」 142207
「最善の治療」 132113
「私と娘の話」 132209
「視力」 160462
「手紙」 142211
「食パンの冒険」 142131
「雪月花」 143912
「知らぬが仏」 132121
「長靴をはいたら」 142126
「僕が手に入れたもの」 142111
「僕は世界を救えない」 142209
「夢」 142210
「羊」 142205

「Gの逆襲」
142109

 私は逃げる。全速力で、野を越え谷を越え山を越え、逃げ続ける。
 私は二、三日前に外出した。帰ってくるとそこは異様なにおいが立ち込め、仲間はみんな、ひっくり返って倒れていた。敵は強力だった。我々の顔はすでに敵に知れ渡り、巧みな罠を仕掛けては私たちを陥れる。聞いた話によると、散歩に出かけていたら地面が急にねばねばし始め、手足を取られてもがいているうちに動けなくなったという。他にも、とてもうまそうなにおいをただよわせているごちそうに出くわし、そいつにありつくと、急激に喉が渇き、水場に向かっている間に突然の痺れに襲われ行き倒れになってしまったとか。なんという残酷さだろう。考えられない。とにかく奴らは残忍で、血も涙もない生き物なのだ。
 私は逃げる。そして生き延びるのだ。いつか奴らに復讐するために。仲間を増やして軍を作り、奴らが寝静まった夜に大軍で攻め込むのだ。奴らに我々の力を見せつけてやろう。私は断じて戦う。そのために今は逃げるが、決戦の日は近い。待っていろ、人間。
 
 
 *
 
 
 ここは、日本のちょうど真ん中に当たる町。この町に住む後藤氏は、九割がた平凡なサラリーマンである。残る一割の非凡は、彼が近い未来ゴキブリに復讐される予定の人間であるところを配慮してのことだ。後藤氏が、他の人間と同じように退治したゴキブリが、たまたま虫という概念を超えるほどの執念深さを持つゴキブリであった。後藤氏は、部屋の大掃除を行った際、ゴキブリホイホイとホウサンダンゴを部屋の四隅に設置し、鎮魂歌を唱えながらバルサンを炊いたのである。これらの道具が余すことなく仕事を全うし、部屋にはびこるゴキブリたちに大きな痛手を食らわせた。普通ならこれで一件落着といくのだろうが、どうもそうはいかなかったらしい。これほど人間を恨むゴキブリはそういないが、これほどゴキブリに恨まれる人間もまたそういないだろう。言うまでなく、彼はこの事実について気づいていない。のうのうと生きている。
 後藤氏は朝起きるとまずテレビをつけ、聞き流しながら珈琲を片手にパンをほおばる。食事時にテレビをつけるというのは僕の子どもの頃からの習慣だ。一人暮らしで話し相手がおらず寂しいからとかではない。テレビ相手に相づちをうつこともしない。子供の頃からの習慣というのは厄介なもので、そう簡単に忘れ去ることはできない。他にも、賞味期限は匂いで判別するとか、何でもファブリーズをかけるとか、毎年の誕生日に祖母から小さなだるまが一つ送られてくるとか、あまり人には言えない習慣がいろいろある。その祖母の習慣のおかげか、僕は無類のだるま好きで、祖母からもらっただるまたちはちゃんと玄関に並べてある。
 朝起きてから朝食を食べるところまでを一気にすませると、あとは軽く身だしなみを整え出勤する。だるまたちに「行ってきます」とあいさつをし、外の世界へ。ここで、鍵をかけるのを忘れてはいけない。近頃の世の中は物騒である。今朝も、最近この辺りで妙な強盗事件が多発しているというニュースが流れていた。被害にあった人々はみな「天狗が」とうわ言のようにつぶやいているらしく、どうやら天狗が人を襲うらしい。世の中には時間の使い方がへたくそな人間は多くいるが、天狗もまた同じようなものなのだなとぼんやりと思いつつ愛車ジャスティス二号に乗る。一号はまだ僕が初心者ドライバーだったときに僕をかばって殉職した。悲しい過去である。そんなわけで僕はすこぶる安全運転で今日もいつもの道を行く。
 
 *
 
 
 ある一匹のゴキブリが壮大な決意をしてから、三ヶ月の月日がたった。一匹のゴキブリは三〇〇匹のゴキブリになり、野望は現実へ。どのゴキブリもそろいもそろって打倒人間の熱意に満ち溢れていた。
 三〇〇匹の軍を率いるゴキブリ隊長は軍を各班三十匹ずつの十班に分けた。隊長の作戦はこうだ。まず、一班から三班によるターゲット確保である。彼らは、速やかに後藤氏を降伏させるために後藤氏の周りを円形に包囲する重要な役目を担う騎士たちである。この包囲網をゴキブリサークルと呼ぶ。後藤氏をしっかりと包囲し、諸々の準備が整ったら、目覚めさせなければならない。寝ているままでは恐怖を味わわせることはできない。この任務は四班と五班が務める。
 六班と七班は部屋に散らばり監視兼連絡役を務める。実はもう一ヶ月前から配置済みである。残る八班、九班、十班にもそれぞれ任務は言い渡されているのだが、ここではあえて触れないでおく。後藤氏に起こるかもしれない悲劇を想像させるような野暮な説明はしないので安心していただきたい。
 
 
 *
 
 
 時を同じくして、ここにも何か良からぬことを考えるものがいた。とあるアパートの一室に潜む強盗グループである。彼らの獲物は独身のサラリーマンで、アパートの一階に一人暮らしをしており、朝と晩しか家にいない。ターゲットの勤め先は大手の企業でおまけに車はぴかぴか。強盗にとっては格好の餌食である。三人のうちの窓際の一人が言った。
「ターゲット確認。例の車で出勤だ」
「よし」
 部屋の真ん中の男が言った。
「計画はすべて頭に入っているか」
「ああ、奴は七時半に帰宅し、風呂に入り、食事を済ませ、大体十時半には寝る。我々は奴が寝静まるまでこの場で待機し、別々のルートから部屋の前で落ち合う。目立たないようにな」
 座っている男がすらすらと答え、真ん中の男がうなずく。
 計画を確認し終え、彼らは無糖の珈琲で乾杯した。しばらくの沈黙の後、まん中の男がおもむろに尋ねた。
「奴の眠りは浅いか」
「無論。一か月前から調査済みだ」
 窓際の男が言いながら、珈琲を飲み干した。
「そうか。ではいつも通り、簡易的かつ大胆かつ紳士的に」
 *
 決戦の日が訪れた。町全体が寝静まった夜半、
 ゴキブリ隊長率いるゴキブリ隊は、後藤氏を目覚めさせるため、四班、五班の隊員が配置についていた。廊下からつながる正方形の部屋に家具は少ない。部屋の左側には布団が敷いてあり、K氏が眠っている。部屋の右側のスペースにはちゃぶ台が置いてあった。ちゃぶ台の上にはテレビのリモコンと、リンゴほどの大きさのだるまが置いてある。隊員たちはそのだるまを取り囲み一斉に押した。ころんとだるまが転がる。ころんころんころんと机の端まで転がった時、隊員たちが渾身の力を込めて押し出した。ぽーんとだるまがちゃぶ台から跳ねる。三百の視線を一身に集め、赤らめながら宙を舞うだるまは、見事、後藤氏の鼻柱にクリティカルヒットした。
「あがっ」
 意味不明な声をだして僕は跳ね起きた。同時に、「無駄な抵抗はやめろ!」と高らかな声が響いた。「闇討ちか」僕は身体を固くした。じいんと広がる鼻の痛み。生理的な涙が出た。長い沈黙。緊張が走る。少しずつ、目の前に広がっていく光景の一つ一つを脳に理解させようとする。しかし、何が起こっているのかよく分からない。右を向けばゴキブリ、左を向けばゴキブリ、下を向いてもゴキブリ、そのまま視線を戻す。上もきっとゴキブリだ。油汗が出て脳からアドレナリンが放出する。まずはこれが夢であることを心の底から願って、念入りに頬をつねる。痛い。鼻も痛い。僕を囲むゴキブリサークルが目に入る。「ひっ」のどに短く空気を送る。僕は無慈悲に感じる痛みをこらえながら現実逃避するべく静かに目を瞑った。相手は僕に攻撃の意思がないと見たのか、「まあ、話し合おうじゃないか。」と毅然とした態度で声をかけてきた。何も見えない。何も言えない。
 
 
 *
 
 
 午前二時四十分、ゴキブリと人間による奇妙な会合が開かれた。生まれて初めて、僕はゴキブリに起こされた。いや、この場合はだるまに起こされたというほうが正しいのか。僕はぐるぐる回る頭を放置してしばらくぼんやりとしていたが、ここでいつまでも縮こまっていてもどうにもならない。とうとう僕は意を決して、しかし断固として目を閉じたまま現実から目を背けつつ当然ともいえる疑問を口にした。
「大勢でここへ何をしに来られたのですか」
 僕の目の前の空間からしゃがれた声が聞こえてきた。こいつが隊長だろうか。
「我々の仲間はみなお前にやられた。復讐のためにここに来た。我々は三ヶ月前から念入りに計画を練り、一ヶ月前からこの家にずっと張り込んでいた」
 思えばこの一ヶ月、いつも誰かに見られているような気配がしていた。想像したくもな
 い。
「復讐とはいったい何をなさるおつもりでしょう」
 僕はすこぶる丁重に尋ねた。
「愚問だな。お前を痛めつける」
 隊長は極めて粗雑に答えた。僕はいささかむっとした。
「まずは我々を痛めつけた道具をすべて回収する。お前を取り囲んでいるその優秀な騎士たちがどう動くかは、お前次第だ」
 おそらく、数か月前に仕掛けたバルサンやゴキブリホイホイ、ホウ酸団子のことだろう。誰がくれてやるか。世界平和のためにも、ゴキブリの進化の一歩に手を貸すつもりは毛頭ない。そうか、僕は今世界を救おうとしているのかもしれない。僕は決して悪になど屈しないぞ。
 しかし、こんな危機的状況を一体どう対処すればいいのだ。枕元には目覚まし時計、足元には煙草とライター、布団の上にはだるま。こんながらくたばかりでいったい何ができよう。僕は頭をフル回転させこの状況を打破する方法を必死に考えた。が、なにも思いつかない。半ばやけくそになって転がっていただるまをわし掴みにしたとき、玄関のチャイムが鳴った。一回、二回、三回。しつこく鳴り続ける。こんな夜更けに何用か。非常識極まりないがもしかするとこれは神が僕に与えたチャンスかもしれない。藁をもつかむ思いで僕はゴキブリに交渉することにした。
「お客が来た。出させてくれないだろうか」
「だめだ」
 闇の中から隊長の声が聞こえた。くそ、頭の固いゴキブリ野郎め。仕方ない、少々手荒な方法だが僕はこのチャンスを逃すわけにはいかない。
 僕はわし掴んでいるだるまをポケットに押し込み、ライターをカチカチさせ、ポケットをさすりながら言った。
「ここにあるバルサンが発動するかしないかは、君たち次第だ。」
 隊長はハッとして身をかがめた。
「お前、隠し持っていたのか。仕方ない、客人とあらばしばし休戦といたそう」
 僕はひとまず安心し、暗闇に向かって一喝した。
「一匹でもついてきてみろ、このバルサンが火を噴くぞ」
 僕は瞬時に煙草に火をつけ煙幕のごとく自分の体を煙に巻き薄目を開けてゴキブリサークルを飛び越え猛烈な勢いで玄関まで走った。
 
 
 *
 
 
 その姿を見届け、隊長がその優秀な軍隊に向けて言い放った。
「皆の者、恐れてはいけない。今更バルサンなどたいしたことではない。次に奴が部屋に足を踏み入れた時が勝負だ。問答無用で客人もろとも成敗してくれよう」
 ゴキブリ隊の士気が高まった。
 *
 僕は華麗に玄関までたどり着き、セルフボディチェックを済ませて奴等を身につけていないことを確認した。とっさに生み出したハッタリでも、意外と効くものである。悠々と、僕はなおも鳴り続けるチャイムを止めるべく応答した。さあ、神よ、僕を救ってくれたまえ。
「はい、はい、今出ますよ」
 扉を開けるとそこには天狗の面をかぶった男三人が立ちはだかっていた。はて、これはまた面妖な。状況を飲み込めずぼうっと突っ立っていると、真ん中の天狗が話し出した。
「我々は、近頃世の中をにぎわせる強盗である。かくなるうえは、貴殿の財産を頂きに参上した。おとなしく部屋を明け渡していただこう」
 なにやら銀色の物騒なものをちらつかせ、強引に部屋に押し入ろうとしてくる。そこでやっと思考が追いつき、以前見たニュースを思い出す。これが噂の強盗天狗なのか。僕は頭がふらふらとなった。眼前に三体の天狗、背後にゴキブリの山を携え、僕といういたいけな一人の人間はただ呆然とするばかりである。嗚呼、神よ、僕が一体何をしたというのでせう。
 そうこうしているうちに天狗たちが強引に部屋に押し入ろうとしてきた。
「な、何をするんですか」咄嗟に言うが、「おとなしくしていれば何もしない」と、天狗たちの歩みは止まらない。抵抗しようにも物騒なものに憚られ思うように道を防げない。じりじりと迫ってくる怪人たちを前に、僕は僕の運命を呪った。僕はここで今日死ぬのだろうか。このわけのわからない怪人にわけもわからないまま殺されてしまうのだろうか。否、弱気になってたまるものか。たとえ世界一卑劣な挟み撃ちをくらったとしても、僕には屈してはいけない理由がある。世界平和のために、このわが命捧げよう。天狗たちにぐいぐい押されながらも僕は決意を新たにした。試しにぐんと押し返してみるがいとも簡単に玄関を突破されてしまった。我ながら非力な腕力を恨みながら天狗たちの背中をにらんだ。
 抵抗もむなしく、天狗三体が廊下を突き進みしゴキブリルームに足を踏み入れようとした時、僕は玄関に飾ってあった小さな丸いだるまを廊下の先にいる天狗めがけて床にばらまき転がした。無数のだるまが天狗たちの足元をすくう。バランスを崩した二体の天狗がお互いの額を思いきりぶつけてゴキブリルームに倒れこんだ。
「おのれえ」
 仲間が倒れたのに気付き、残る一体の天狗がよろめきながらこちらに向かってくる。手には例の物騒な刃物を持っている。一か八か、やるしかない。僕は必死の形相でだるまを高らかに掲げながら大声で叫んだ。
「動くな!一歩でも動いて見ろ、この爆弾だるまが火を噴くぞ!」
 天狗の顔がだるまに向く。僕はその天狗の一瞬の隙と怯みを見逃さなかった。腕に渾身の力をこめ握りしめていた爆弾バルサンだるまを天狗の額めがけてお見舞いした。鈍い音と短いうめき声が聞こえ、天狗が後ろ向きに倒れていく。あわてて宙を掴もうとするが重力には逆らえず、そのままゴキブリルームへと堕ちていった。僕は急いで外に出て扉の鍵を閉め、つっかえ棒をセットした。これでしばらくは出てこれまい。今頃はいきり立ったゴキブリたちの反撃が始まっているはずである。部屋は阿鼻叫喚の地獄絵図と化していることだろう。ほどなくして、「ぎゃあ」という言葉にならない、驚愕のうめき声が響いた。
「なむなむ」
 僕はそっと扉に向かって合掌し、大急ぎで交番へと向かった。外界はもう明け方であった。
 
 
 *
 
 遡ること数分前、後藤氏と天狗たちが戦闘している間、ゴキブリルームの騎士たちは闇の中でひしめきあい、部屋は闘志で満ち満ちていた。彼らの戦いももう始まっているのである。隊長が隊員に呼びかける。
「いいか、もうすぐ夜が明ける。夜が明けるまでに決着をつけるぞ。敵は必ずこの部屋にやってくる。前衛の隊はこの陣地に少しでも敵の気配を感じたらすぐさま飛びかかれ。先手必勝だ」
「はっ」声をそろえて前衛隊が答えた。
 しばらくすると、隊長の耳にドタドタとういう音が届いた。
「来たか」
 隊長がつぶやくと同時に、陣地に何かが突入してきた。
「かかれッ!」
 隊長が怒鳴った。陣地にはたくさんの小さな赤い球とともに二つの大きな物体が倒れ込んできた。敵の多さに一瞬怯むが隊長は足を踏ん張って様子を伺う。赤い球はよく見ればさくらんぼほどの大きさのだるまで、どさっと音をたてて降ってきたその物体はなんと天狗であった。優秀な騎士たちは早くも闘いを始めたが敵はすでに気を失っている。
「敵に戦意はない!やめ!次の攻撃を待て!」
 隊長は号令をかけ、次の襲撃に備えた。
 ?程なくして、勢いよく今度は一つの大きな物体と一つの球が宙を舞うようにして降ってきた。今度はりんごほどの大きさのだるまと、またしても天狗である。
「やーっ!」
 騎士たちが果敢に迎撃する。天狗はしばらく身悶えしたあと「おのれ」と呟いて部屋の入口を仰いだ。しかし自分を取り囲むわさわさとした気配を察知するや否や「なんだっ!」と叫んで仰け反った。なかなか反応がはやい。ぶんぶんと振り回される拳に闘いを挑み立ち向かう。しぶとい抵抗に騎士たちはてこずった。長期戦になるかと思われた時、見張り隊員が隊長に呼びかけた。
「隊長、夜が明けます!」
 部屋に白い一筋の光が入り込む。闇に包まれていた部屋にカーテンの隙間から希望の朝の光が差し込んできたのだ。姿が見えてしまっては奇襲が意味をなさない。持ち越しか、体調がそう思った時、突然今まで手足を振り乱し大暴れしていた天狗の動きがはたと止まった。
「ご、ごき、ごき」
 天狗は意味不明な言葉をもぐもぐとつぶやいた後、「ぎゃあ」とうめいてぱったりと倒れてしまった。
 
「我々は今ここに勝利した!戦いは終わった!」
 隊長は全体に向かって高らかに言い放った。部屋全体が喜びの叫び声で溢れる。隊長は油断なく偵察班に部屋の外を偵察させた。
「隊長、この部屋の外はもぬけの殻であります。敵はこの者たちだけとみて間違いないでしょう」
「そうか、奴の正体は天狗だったのか。仲間を呼んで変化するとは姑息な奴よ」
 隊長は隊員が拾ってきたさくらんぼ大の大きさのだるまを見て思いだした。奴はこれの親玉をバルサンと言っていた。このようなバルサンはまだ見たことがない。これは天狗界に台頭した新たな兵器かもしれない。不安の芽はことごとく摘み取っておかねばならぬ。我らゴキブリたちの平和のために。
 隊長率いる三百匹のゴキブリたちは、バルサンだるまの脅威を危惧し、天狗の世界へと旅立っていった
 *
 僕が部屋を飛び出してから十分後、僕はコンビニ袋と警察官を連れて戻ってきた。部屋からは物音一つしない。必死で交番に駆け込んだものの、冷静になってみればこの部屋の中身をどうやって説明しようか。もし万が一僕の想像通りの世界が広がっていたとしたら、それは間違いなく僕の社会的立場をいとも簡単に崩し、警察官もろとも一生拭いきれぬトラウマにとらわれることになるだろう。ご近所さんからもゴキブリを家で飼いならす変態野郎だと思われることは容易に想像がつく。たとえ真実を訴えたところで、疲れ果てた若者の妄言だと思われるにちがいない。が、部屋に強盗がいると助けを求めてしまった以上致し方ない。僕は心を決めて駐在さんに鍵を渡した。しかし念のため勇気を振り絞って尋ねてみた。
「入る前にバルサンを十ほど部屋に投げ込んでよろしいでしょうか?」
「はい?」
 
 
 *
 
 
 ひと段落つき、恐る恐る部屋に踏み込むと、そこには奴らの黒い影はどこにもなく、二十六個のだるまに囲まれた三体の天狗がこの世の終わりのような形相をして伸びきっていた。奴らがいないのはどういうことだろうと不思議に思ったが、大方、僕と天狗を間違えたのだろう。今頃は意気揚々と田舎に帰っているかもしれない。哀れな天狗男達は無事にお縄につき、僕は一躍ちょっとしたスターになった。僕はゴキブリの侵略から世界を救ったと同時にこの町をも救ったのである。しかし僕がどうやってあの屈強な天狗たちを退治したのかというその真理は謎に包まれたままであった。時には知らなくて良いこともあるのだ。
 
 
 *
 
 
 かくして、彼らのヘンテコで不毛な戦いは幕を閉じたのである。
 

 

「Lovers」
143909

 雀の心地よいさえずりが聞こえ、自然と目が覚める。ベッドから降りてカーテンを開けると、窓の外には上半分は青空、下半分は桜のピンク色が広がっている。
 結城拓は大きな深呼吸をした。
 壁にかかっている新しい制服に目をやる。茶色のブレザーの左胸には、筆記体で「Saotome」と金色の刺繍が施され、まるで自分に着られるのを待っているようだ。拓はハンガーに手をかけ、袖に腕を通した。新鮮な気持ちで胸がいっぱいになる。ブレザーのボタンをすべて止めたところで部屋のドアの外から何度も聞きなれた声が聞こえた。
「拓―、今日は入学式でしょ。初日から遅刻するなんてことないように早いところ朝ごはん食べちゃいなさい。」
 母親の美和子は、今年45歳になる。市内の病院で看護師をしており、世話好きな性格である。
 拓は返事をして部屋を出た。1階へ向かう階段を降りる途中、母の得意料理であるみそ汁のいい香りが拓の鼻に入ってきた。台所のドアを開けると椅子に腰かけようとしている美和子と、会社員である父親の忠の姿があった。母親よりも5歳年上の忠は、眼鏡を曇らせながら母のみそ汁をすすっている。
「今パン焼けたから自分でバター塗ってね。」
「うん。」 
 椅子に腰かけバターナイフを手に取りバターを塗る。拓は大きな口を開けてほおばった。パンのメーカーもバターもいつもと何も変わらないはずなのに、今日はなんだかおいしい気がした。
「ごちそうさま。」
 椅子から立ち上がり洗面所へと向かう。鏡に映る自分の顔は15年間で一番明るかった。テレビで話題のラブソングを鼻で歌いながら歯を磨き顔を洗い、拓は新品の学校指定バックを持って玄関の扉を開けた。
「いってきます。」
 外へ出ると、春の温かい風が拓の頬を撫でる。これから3年間通い続ける学校へ登校する拓を後押ししてくれているようだった。
 だんだんと自分と同じ制服を着た人が増え、同じ方向へ歩いていく。やがて拓の目の前に大きな建物が現れた。入り口には早乙女学園高等部と書かれたプレートが取り付けてある。
 早乙女学園は初等部・中等部・高等部とあり、基本的に進学はエスカレーター式であるが、毎年外部からごく少数を一般入試で受け入れている。豊富な学食のメニューや自由な校風に惹かれ、毎年外部からの入学希望者も多い。しかし、一般入試の際、早乙女学園は偏差値75を超える。拓はもともと勉強がかなり苦手だが、家庭教師を5人雇い、血のにじむような中学生活を過ごし、死に物狂いで入試を突破した。そこまでして早乙女学園に進学を望んだのにも理由があった。
 豪邸のような華やかな校舎を見て、拓は目を輝かせながらつぶやいた。
「今日から“お姉さん”と同じ学校だ……!」
 嬉しそうに眺めていると背後から話しかけられた。
「おはよう、拓!改めて“奇跡の”早乙女学園入学、おめでと!」
「咲!…まあ奇跡ってのは間違ってねえけど。」
 早見咲は拓の隣の家に住んでいる幼馴染である。中等部から早乙女学園に入学した。表裏のない性格で思ったことを迷わず口に出すが、拓にとっては気の置けない友人だ。
「やっと、憧れの人に会えるんだね!」
「おう!」
 “お姉さん”−西川亜沙美。名前も調べた。早乙女学園高等部の生徒会長だ。拓は彼女に会うために命を懸けるほどの勢いで勉強したのだった。亜沙美との出会いは、3年前、拓が中学1年生のころにさかのぼる。
 ―3年前の秋、拓は2学期の中間テスト当日を迎え、参考書を見ながら通学路を歩いていた。解読不能な語句が並ぶ分厚い参考書を読み進めていた拓は前を向いて歩くことを忘れていた。前からやってくる自転車にも気づかない。
「危ない!」
 突然右腕を引かれ、体がよろけた。視界がぶれた拓は、状況を理解するのに時間がかかった。はっとして右を見ると目の前に茶色のブレザーが見えた。ローマ字ならなんとか読むことができる、金色の糸で「Saotome」の刺繍があった。見上げると漆黒の髪を2つに縛り眼鏡をかけた女子が立っていた。
「大丈夫だった?ちゃんと前を向いて歩かなきゃだめだよ。」
 心配そうに声をかけてくれた彼女の言葉を理解してはいたが、返す言葉がなかなか口から出てこない。艶やかな黒髪、透き通るような白い肌、眼鏡をかけていてもわかる大きくて優しそうな瞳、時間が止まったようだった。
「あ、あの…、俺…。」
「じゃあ、またね。テスト頑張ってね。」
 笑顔で言うと、彼女は拓の進行方向とは逆の方向へ歩いて行った。拓は口が半開きになったまま彼女の後姿を眺めていた。
 その日、学校から帰宅した拓は、かばんを置いてすぐに隣人のもとへとダッシュした。
「咲!!名前を教えてくれ!!!」
「今呼んだじゃない。あんた、とうとういくところまで来ちゃったのね…。」
「ちげーよ!」
 10時間前の衝撃はいまだに拓の脳裏に焼き付いていた。拓は朝に見た彼女の話を余すところなく咲に報告した。
「…なるほどね、それはきっと西川亜沙美先輩ね。私たちの学校にも憧れている人は多いわ。」
 ―にしかわ あさみ……拓は彼女にもう一度会いたいと思った。
「西川先輩に会いたいのなら、今から死ぬ気で勉強するしかないわね。」
 そして、ここから拓の血を吐くような受験勉強が始まったのだった。どれだけつらくても亜沙美に会いたいその一心で拓はペンを走らせ続けた。
 そして話は3年後の早乙女学園入学式に戻る。
 亜沙美に会えると胸の高鳴りを抑えきれないまま拓が一歩足を踏み入れた時―黄色の歓声が聞こえてきた。
「なんだなんだ?!」
 拓は驚いて周りを見た。しかし、咲は冷静に、
「今日も始まったわね」
 とつぶやいた。
「今日もって…なんだよそれ?」
 拓が尋ねたその時、
「はーーーーい、新入生のみんなーーーー!早乙女学園入学おめでとーーーーーー!!!」
 マイクの音声とともに、ようやく声の主の姿をとらえることができた。拓の部屋くらいの大きさの動くステージがやってきた。ステージの回りは学生が取り囲んでいて動かしづらそうだ。声が聞こえるが恐らく名前だということがなんとか聞き取ることができた。そしてステージの上には5人の女子高生の姿があった。その中の一人が続けて言った。
「私たちは、早乙女学園高等部生徒会にして、みんなの学園の秩序を守るもの、Loversです!」
 そう言った女子高生の顔を、拓は見たことがあると思った。さてどこで見たのかなと拓が思い出そうとしていると、
「あんた、なんでそんなに冷静でいられるの?!」
 興奮した様子で咲が言った。
「え、何が…」
「受験勉強で外に出てなかったからにしても知らなさすぎよ!教えてあげるから一回で覚えるのよ!」
 そして咲によるLoversのメンバー紹介が始まった。
 マイクでしゃべっている女子は霧島光。生徒会の副会長をしている。茶色で肩甲骨のあたりまで伸びた髪を上の方で2つに縛っている。幼いころから雑誌のモデルをしており、現在は女優業もこなす有名芸能人。最近はランニングシューズのCMにも抜擢され活躍している。拓はCMに出ていた人だ、と今ようやく思い出した。
 相原翔子。生徒会書記。ショートカットで前髪をセンター分けしている。彼女は世界的にも注目されるプロのカメラマンである。中学生の頃から写真集を何冊も出版しているという。
 九条渚。生徒会副会長で、頭のてっぺんでポニーテールをしている。あらゆる武道の達人で、世界大会で何度も優勝している。次のオリンピックの日本代表最有力候補だとメディアにも取り上げられている。
 矢吹舞。生徒会会計。肩のあたりまである髪の毛先は外にはねている。中学1年生でプロデビューしたマジシャン。世間からは天才と称され、世界講演もおこなっているという。
 咲によるメンバー紹介が4人まで終わったところで、拓の目線がステージ上の一人の女子高生にとまった。その目線の先には、3年間どれだけつらくても一度も忘れることのなかった早乙女学園高等部生徒会長、西川亜沙美の姿があった。ハーフアップにした漆黒の髪はさらに美しく艶やかで、透き通るような肌と優しそうな大きな瞳は、3年たっても何一つ変わってはいなかった。マイクを持った亜沙美が笑顔で言った。
「新入生のみなさん、入学式は10時より講堂にて行われます。遅れないように向かってくださいね。」
 その瞬間、拓はステージに向かって走り出していた。後ろから幼馴染の静止の声がうっすらと聞こえていたがお構いなしに拓は走った。
「お姉さん!!」
 ステージを突進で破壊するほどの勢いでやってきた新入生に、Lovers含め、全員が驚いた。数秒の沈黙を破ったのは現役雑誌モデルだった。
「すごい!!あははは!!君、新入生?いいねー!“お姉さん”ってあさみんのこと?」
 ようやくほかのメンバーも口を開きだした。
「光、あんた順応しすぎ…。」
「それが光のいいところだけどなー!」
「それにしても初日からここまで威勢のいい新入生が来たのは初めてじゃない?」
 メンバーが口々に言う中、生徒会長が口を開いた。
「新入生、よね?講堂の場所はわかる?」
 思っていた返事と違う答えが返ってくる。拓は不思議に思い、亜沙美に尋ねた。
「お姉さん、俺の事覚えてませんか?!3年前、自転車にぶつかりそうになったのを助けてくれましたよね。それで俺、お姉さんと同じ学校に行きたくて…」
 亜沙美は答えた。
「3年前……ごめんなさい。あまりよく覚えていないの。でもそんな理由でこの学校に着たいと思ってくれてうれしいわ。合格おめでとう。これからよろしくね。」
 憧れの人に覚えてもらえていなかったのは残念だったが、これはこれでうれしかった。拓はこれからの学校生活を楽しめる気しかしていなかった。
「何、あいつ。亜沙美さんに気安く話しかけすぎじゃない?」
 他の生徒の会話は、拓の耳に入ってはこなかった。
 入学式が終わり教室に向かう途中、ふいに咲が言った。
「まったく、あんたって何かに熱中すると本当に周りが見えなくなるよね。ちょっとはこっちの気持ちも考えてくれる?」
「いいだろ、別に。やっとお姉さんに会えたんだ。これがテンション上がらずにいられるかよ。」
 拓の頭の中は、次にいつ亜沙美に会いに行くかということで占められていた。入学式の時も亜沙美は在校生代表として生徒の前で挨拶をしたが、拓は挨拶の言葉など全く聞かず、3年ぶりの亜沙美の姿をじっくり脳内に取り込む作業に必死だった。挨拶後に沸き起こった拍手や歓声も、今の拓には馬の耳に念仏だった。
「ほんとに人の話聞かないんだから。でも気を付けてね。」
 気を付けて、と忠告された理由が拓にはわからなかった。
「どういうことだよ。」
 亜沙美が答える。
「さっきの歓声からわかったと思うけど、西川先輩は生徒会長で、学校のアイドルでLoversのリーダー、簡単に近づこうなんてできないわ。そんなことしたら、ファンのみんなが黙っていないと思う。」
「関係ねえよ。だって俺はそのためにこの学園に来たんだからな。そのくらいでビビるくらいならあんなに勉強してない。」
 決意は固かった。観念したように咲が言う。
「はあ…。私も自分で言っておいてだけど、拓ならそう言うと思ってたわ。でも何かあったらいつでも相談してきなさいよ。」
「おう、サンキュー。」
 その日の放課後、拓は押し寄せてくる部活動勧誘の荒波をすり抜けて生徒会室の前に来ていた。「生徒会室」と書かれたプレートの下にある扉は豪邸の扉のような立派な装飾が施され、今まさにつかもうとしているドアノブは金色に光り輝いている。…この部屋の中にお姉さんがいる。話したいことを頭の中で高速で整理していると、突然目の前の扉が開いた。
「おっと…、あ!朝の新入生だ!どうしたの?」
 自分を見た瞬間思い出したようにぱあっとはじける笑顔を見せたのは、霧島光だった。身長は165センチくらいだろうか。男の自分とさほど身長が変わらないことが分かり、拓は少しへこんだ。しかし、近くで見てみるとやはり雑誌モデルとあって手足はすらっと長く、髪はさらさらで、そのあたりの分厚い化粧で構築した似たような顔が並ぶアイドルとは違い、目や鼻や唇、顔のすべてのパーツが綺麗だった。
「お姉さんに会いに来たんだ。」
 拓はそれだけ言うと、中に入ろうとした。光が申し訳なさそうに言った。
「そっかー。今あさみんは旧校舎の方に用事で出ていて、ここにはいないんだ。ごめんね。」
 残念な気持ちになったが、用事なら仕方がない。また時間をおいて来ようと思い、教室へ戻ろうとすると、光が声をかけた。
「あ、でもね!あさみんのかばんはここにあるから絶対戻ってくるよ。時間あるんだったらここで待っとく?」
 絶対戻ってくる、絶対ここに来る、絶対亜沙美に会える、そのように変換した拓は迷わず生徒会室に足を踏み入れた。
 生徒会室は教室ほどの広々とした部屋で、机やソファなどどれもこれも高そうなものが置いてある。入り口の小さな机に置いてある過敏には黄色のチューリップの花が5本ささっていた。ソファに座り花瓶を眺めていると、
「そこの花瓶の花は毎回あさみんが生けてくれるの。この部屋に入ってくるといつもきれいな花が生けてあるから、今日も頑張ろうって気持ちになれるんだよね。」
 ティーカップとポットを乗せたお盆を持って、光がやってきた。
「ミルクティーでも飲んで待っててね。熱いから気を付け…」
「あっっっつ!!!」
 光の忠告もむなしく、拓は勢いよくミルクティーをすすった。
「わわっ 大丈夫?!水持ってくるよ!」
 光から水をもらい、ようやく気持ちが落ち着いてきた。どうやらいざ亜沙美に会えるとなってかなり緊張していたようだ。
「そういえば、名前なんて言うの?私は霧島光!」
「俺は結城拓。よろしくな。」
「拓か。じゃあ拓ちゃんだね!こちらこそよろしくね!」
 簡単に自己紹介を済ませ、拓は再びミルクティーが入ったカップに手を伸ばした。数分前の出来事を反省し、ふーふーと冷ましながら飲んでいると、光が言った。
「朝から思ってたんだけど、拓ちゃんってあさみんと知り合い?」
 拓は3年前の出来事を話した。話し終わる頃にはティーカップは空になっていた。
「なるほどねー。それであさみんに会いに来たってことか。」
 すると、生徒会室のドアが開いた。
「あら、光、まだ仕事に行かなくて大丈夫なの?…あなたは朝の。どうしたの?」
「うん。今日は夜からだから平気。この子は、」
「結城拓です!」
 光が言い終わるよりも前に拓は答えた。ふふっと笑って亜沙美は言った。
「結城君ね、これからよろしくね。」
 3年間憧れだった人に初めて名前を呼ばれ、胸が熱くなる。
「よろしくお願いします!俺、ずっとお姉さんに会いたかったんです。3年前に助けてもらって、それからもう一度会いたくて!」
 放っておいたら何時間でもしゃべりそうな拓の勢いを止めるかのように再び生徒会室の扉が開く。
「ふぁー、部活の集まりとか大変―!話し合いするよりも練習したほうが絶対効率良いって!」
「渚。年度初めに各部の予算を決めておくことはとても大事なことなの。今後の学園の運営にもかかわってくることなのよ。」
「しょーちゃんの言う通りだよ、なっちゃん。会計の私の身にもなってよね。」
 武道の達人の九条渚、一流カメラマンの相原翔子、プロマジシャンの矢吹舞だ。
 生徒会室の中を見て、誠が言った。
「あれれ、君は朝ステージに突進してきた子だ!良いダッシュだったね!一緒に運動しよーよ!」
「なっちゃん早速勧誘?でも新入生のあなたがどうしてここに?」
 舞の質問に光が答える。
「拓ちゃんはね、あさみんに会いたくてこの学校に来たんだって!」
 今、この部屋には女子が5人いて自分の周りを囲んでいる。しかし、拓の目にはっきりと映るのは唯一、亜沙美だけだった。その亜沙美が言った。
「さて、メンバーも全員揃ったことだし、生徒会の今後の仕事の確認をしていこうか。申し訳ないんだけど、結城君は外に出てくれる?」
「あ、えっと、俺…」
「ごめんなさい。規則だから。」
 半ば強引に生徒会室を追い出され、拓は肩を落とした。中から声は聞こえるが、何を話しているかは聞き取ることができなかった。しばらく生徒会室の前で立ちすくんでいると、咲が息を切らせながらやってきた。
「拓、やっぱりここだったんだね。先輩には会えた?」
「会えたけど話し合いだからって……。やっぱりもう少し話していたかったな。」
「拓、そのことで話があるんだけど」
 そういった咲の顔はいつになく真剣で、拓は少し緊張した。
「先輩に近づこうとするの、やっぱりやめたほうがいいと思う。」
「なんだ、そのことかよ。さっきも言ったけど俺はお姉さんに会いにこの学園に来たんだ。今日は忙しいみたいだけど、次は…」
「一人の生徒を特別扱いしない」
「え?」
 咲が続ける。
「Loversの掟なの。破ろうとする人にはほかの生徒から嫌がらせを受けるらしいの。実際それが原因で転校した人もいるって話よ。」
「嫌がらせになんか、俺は負けねーよ。大丈夫だって。」
「この掟を作ったのが西川先輩だって知っても?」
 咲の言葉を聞いた瞬間、頭の中に何度も焼き付けた亜沙美の顔が薄れていく。
「どういうことだよ、それ。」
「どういうこともなにも、それがすべてよ。暗黙の了解みたいなところがあったし、あまり言いたくはなかったんだけど、ここまで来たら教えるね。」
 咲は語り始めた。
 2年前の夏、高校1年生の亜沙美は図書館で勉強をするために外を歩いていた。その日は日差しが強かったため、大きな麦わら帽子をかぶっていた。すると突然強い風が吹き、亜沙美の帽子は空へ飛ばされてしまった。追いかけたが、帽子は運悪く高い木の枝にひっかかってしまった。足をかけられそうなところもなく、途方に暮れていると、一人の男子に声をかけられた。
「あれ、西川じゃん。どうしたんだよ。」
「春木君」
 同じクラスの春木悠だった。野球部に所属し、次期エース候補と噂されていた。
「春木君は練習?」
「おう。どうしたんだ…って、あの帽子か。」
「そうなの。風で飛ばされちゃって。」
「よし、ちょっと待ってろよ。」
 そう言って春木は靴を脱いで裸足で木を登り始めた。
「春木君!危ないよ。」
「大丈夫だって。俺に任せとけ!」
 時々滑りながら春木は登った。自分にもこれから練習があるのに、迷わず、汗だくになりながら帽子を取ろうとしてくれている春木の姿に、亜沙美は胸が熱くなった。
「よっしゃ。とれたぞ。」
 そう言って春木が降りてきた。顔は汗だくで、足は木の幹でこすれて傷だらけだった。
「ありがとう。春木君。」
 笑顔でそう伝えると、
「どういたしまして。大事な帽子なんだろ?良かったな!」
 暑さのせいなのか、少し赤い顔で春木も笑顔で言った。
「春木君、足怪我してる。ちょっと見せてね。」
「いいってこれくらい。」
「何言ってるの。エースになるんでしょ。少しの怪我でもちゃんとケアしておかないとだめだよ。」
 そう言って亜沙美はしゃがんで、持っていた絆創膏を春木の足に貼ってあげた。どのくらいの時間、そうしていただろう。春木が自分を見ていると思うと、亜沙美はなかなか顔をあげることができなかった。
「よし。できたよ」
 亜沙美は思い切って顏をあげた。
「おう!ありがとうな!」
 そこには日焼けのせいか、真っ赤な顔をした春木の笑顔があった。
 亜沙美も日焼けのせいか真っ赤だった。
 それから亜沙美と春木は学校でもよく話すようになった。授業のこと、部活のこと、亜沙美は春木になら何でも話せる気がしていた。
 しかし、楽しい時間はあっという間だった。
 秋の大会前に春木が怪我をした。右腕を骨折したという。学校には来なかった。亜沙美はすぐに春木と連絡を取ったが、彼の返事はいつも、
「大丈夫だ。心配すんな。」
 だけだった。亜沙美はその言葉を信じてまた学校出会える日を待っていたが、その日は2度とやってこなかった。
 春木は、怪我をしてから一度も学校に来ることはなく、県外の学校へと転校した。
 後でわかったことだが、亜沙美と学校でよく話すようになってから、春木は陰で暴力を振るわれていたらしい。亜沙美と仲良くするたびにそれはエスカレートしていったという。
 高校2年になり生徒会会長に任命されたとき、亜沙美は光、翔子、渚、舞の前で誓った。
「すべての生徒と平等に接する。絶対に一人の生徒を特別扱いしない。」
 咲の話を聞き終わっても、拓はしばらくの間呆然としていた。亜沙美の受けた心の傷の事を考えると胸が締め付けられた。
「これでわかったでしょ。西川先輩にはこれ以上近づかないほうがいいわ。朝の件でもう拓のことは知られているはずよ。入学したばっかりなのに、拓まで同じ目にあうのは…。」
 咲はそこまで言って言葉に詰まってしまった。拓は下を向いてしばらく黙っていたが、不意に顔をあげて言った。
「もう一度、お姉さんを春木さんに会わせてあげよう。」
 翌日、拓と咲は2年の教室にいた。
「光!!」
「拓ちゃん?!」
 拓はことのすべてを光に話した。光はうるんだ瞳を拓に向けて言った。
「拓ちゃん、ありがとう。すぐにみんなに声かけるね。」
 1か月後、亜沙美は家の近くの大きな木の下に呼び出されていた。
「結城君、いったい何の用かしら。」
 しばらくして、拓がやってきた。
「お姉さん!」
「結城君、どうしたの?こんな時間に、こんなところに呼び出して。」
 亜沙美は腕時計を見た。時刻は午後17時30分を指している。
「お姉さん、俺とかくれんぼしましょう。」
「え?何を言っているの。ゆう…」
「お姉さんが鬼ですよ!この木で10秒数えてから探しに来てくださいね。よーい、スタート!」
 そう言われ、反射的に亜沙美は木に顔をうずめて10秒数えた。
「(はあ…私、何をやっているんだろう…)」
 すると自分の後ろで人のいる気配がした。自分の後ろから動く様子もない。恐らく拓が数え終わった自分を驚かせようとしているのだろう。10秒数え終わり、亜沙美はあきれて振り返った。
「結城君、あなたはいったい何をしたい…」
 その瞬間、亜沙美は言葉が出てこなかった。しかし、目からは今まで抑えていたものがどんどんあふれてくる。
「久しぶりだな。西川。」
 待ち焦がれた、2年ぶりの再会だった。
 2人の顔が真っ赤なのは決して夕日によるものではない。
 大きな木から50メートルほど離れた草むらに今回の首謀者である6人の影があった。
「あの2人、何を話してるんだろう。」
「何でもいいじゃない。とてもうれしそうよ、2人とも。」
「それにしても舞、よくこういうシチュエーション思いついたよね。」
「マジシャンだからね、ドッキリは得意なの。」
「さすが矢吹先輩、尊敬するなあ」
「みんな、あんまり大きな声で話すと気付かれるからやめてくれよ…」
 翌日、放課後の生徒会室。透き通る白い肌をほんのり赤く染めながら生徒会長が言った。
「結城君、みんな、昨日は本当にありがとう。」
「え。何のことですか?」
「光、あんたそんな棒読みでよく女優もやってるわね。」
「しょーちゃんばれるよ!」
「もういいんじゃない?ばれてるようなもんだし。」
「ふふっ…いいの。私が言いたいだけよ。」
「お姉さんが幸せなら、俺も幸せですよ!じゃあ俺帰るんで、これで失礼します!」
 拓は生徒会室を出た。廊下の窓の外を見ると、運動部が声を出しながら活動している。
「お姉さんが幸せなら俺も…」
 不思議と心は晴れやかだった。
 後ろでドアが開く。
「拓ちゃん。良かった。まだいたんだね!」
「光。」
「さっきね、皆で話し合って決まったんだけど、例の掟、解禁しようってなったんだ!」
「掟?」
「うん。一人の生徒を特別扱いしないっていう掟だよ!」
 それが今の自分にどうかかわってくるのか、拓には理解できなかった。光が続ける。
「だから、拓ちゃんのこと、狙ってもいいかな。」
「……え?!」
 ゴールデンウイークも明け、新緑の若葉が学園を包んでいる。
 拓の学校生活はこれからが本番である。
 

 

「いつもありがとう」
142137

 彼はベッドである。しがないアパートの一室で、窓から差し込む光を浴びながら今日も考え事をしている。
「全く、いつもいつも窓から見えるのは同じ景色。夜の数時間仕事をしたら、昼間はめっきり暇になってしまう。」
 彼の考え事は、こんな風に文句ばかりだ。
「その夜の仕事だって、最近じゃあ六時間もない。昔は俺を使ってあんなに寝ていたのに、俺の持ち主も大きくなったもんだよ。」
 彼が今の持ち主のところへ来たのは今から十年も前になる。そろそろ現役を引退してもよい年齢だと思うのだが、彼自身にその気はないらしい。
「彼女の一人でも連れて来てくれたら、俺の仕事も少しは刺激的なものになるのに、あいつには全くその気配がない。」
 あいつと呼ばれた彼の持ち主は、どうもベッドを活用しきれてないらしい。それが彼の文句の原因になっているようだ。
「ばさっばさっ。」
 大きな音がしたので窓の外に目を向けると、向かいの家がベランダに布団を干しているところだった。
「おう、元気でやってるか。」
 そう声をかけると、
「いつも通りです。あなたの方は聞く必要がなさそうですね。」
 と答えが返ってきた。
「いったいいつまで元気に現役を続けるつもりなんですか。僕が初めてお会いした時から、まるで変わらない若さで今もいるじゃないですか。」
「おう、まだまだ引退するつもりはない。お前もこのぐらいの気合いがないと、すぐにぺったんこになって買い替えられることになるぞ。」
 そう、ベッドや布団にとっては寝心地こそが命。ベッドとしては長い現役期間を過ごせているのも、ひとえに気持ちでスプリングのバネを保っているからじゃないかと考えている。寝心地さえ保つことができれば、木製の体はパイプ製のそれとは違い、がっしりと強いので壊れる心配はない。
「そうですね、気持ちがしぼんでしまったら体までしぼんでしまいますよね。よし、たくさんの日光を浴びて、心も体もふかふかになります?」
「良い心がけだ。俺もお前がいなくなったら、暇潰しの相手がいなくなって寂しいからな。」
 そんな風に話していると、いつもよりは早く時間が過ぎていった。ここの辺りで布団を干す家は向かいの家ぐらいだから、ついつい色々なことをしゃべってしまう。やがて夕方にり、向かいの家の布団も取り込まれていく。それを見送りながら、そろそろあいつが帰ってくる頃だなとぼんやりと考えていた。
「ガチャガチャ、バタン」
 そんな音とともに、あいつが帰ってきた。けれども、きれい好きなあいつは、帰ってくるなりベッドに飛び込むような真似はしない。手を洗い、服を着替え、それからベッドに倒れ込む。やっと俺の出番が回って来たかと、少しマットレスに気合いを入れる。しかし今日のところはそれもつかの間、机に向かってパソコンをカタカタと叩き始めた。いったい何がそんなに忙しいんだ。もっと余裕を持って生活できないものか。なんてまた文句っぽい口調になるが、こちらから何かを伝えることはできない。いつものように、机に向かうその少し丸まった背中を見つめるだけだ。
「は〜、やっとレポート終わった。三回生やのにしんどすぎやろ。パッと飯食って寝よ。」
 あいつがそんなことを言って、ようやく俺の上で寝始めたのは、日付が変わってしばらくたってからだった。これで、起きるのは日が昇って少し後だって言うんだから、大変な生活だ。こんな睡眠時間で、大学の講義をしっかり受けることができているのだろうか。受けれてないなら、本末転倒だぞ。そんなことを考えながらも、自分は自分の仕事をこなそうと思うのだった。
 そんな生活が続いたある日のこと。梅雨空でただでさえ気持ちが萎えるのに、向かいの家の布団とも話せず何とも言えない気持ちでになっていたところのことだ。せっかくの土日を雨で潰され、家でふてくされていたあいつが異変に気付いた。
「うわっ、ベッドにカビ生えてるやん。」
 なんと、十年間一度も生えなかったカビが、俺の体に生えていたのである。例年よりも長く続く雨は、心だけでなく体までも蝕んでいたのだ。
「今までこんなことなかったのに、マジか。このタイミングかー。」
 あいつの言葉を聞きながら考える。カビが生えてしまうなんて、少し気合いが足りなかったか。ヤバい、このままじゃあ買い替えられて、俺はポイされてしまう。どうすればいいんだ。潔く諦めるか。いや、諦めたらどうにもならないだろう。しかし、諦めなくてもどうしようもないのが俺という存在だった。
「ベッドのカビってどうやったら取れるんや。長いこと使ってるし、できれば使い続けたいよな。」
 そんな事を考えていたので、あいつが言ったことを聞き逃しそうになってしまった。「使い続けたい」って言ったか?あいつのことだから、すぐに新しい物を買うと思っていた。まさか、カビ取りなんて面倒なことまでして…。
「ハイターでええんや。うちにもあるしちょうどやん。」
 そう言うと、あいつは次々とカビ取りの準備を進めていった。俺の体には思ったよりカビが広がっていて、マットレスも木製の本体の部分にも黒や緑の模様がついていた。それでもあいつは怯まない。薄めたハイターを用意する。それをいらない布に染み込ませて、まずはマットレスのカビを拭いていく。こすらないように、カビを取り除くような手つきだ。きれい好きなあいつには、カビ取りなんて酷な作業だろうに、丁寧にかつ慎重に作業を進めていく。三十分ほどたっただろうか。とうとう、マットレスが元の白一色に戻った。しかし、あいつの手は止まらない。そのまま、水拭きに入る。カビを取ったのに、ハイターが残ってしまっては意味がない。拭き漏らしがないように、隅々まで拭いていく。ようやくそれが終わったと思うと、乾拭きまでし始めた。あいつはここまで物を大切にするやつだっただろうか。
「ふう。やっとこさマットレス終わった。マットレスだけでこの時間やったら、本体はもっとかかるかもな。」
 そうだ。まだ、マットレスが終わっただけだ。今から本体の方がある。あいつにやりきることができるだろうか。
「本体やる前にちょっと休憩しとくか。疲れたままやって、作業が雑になってもあかんしな。」
 このパターンか。これは休憩が延々と続き、最後には面倒くさくなってやめてしまう流れだ。声に出してまで、自分に言い訳しているのが何よりの証拠だ。あいつが作業をやめると分かって、少し寂しくもあるがどこか安心したような気分になった。自分の中にあったあいつのイメージと、必死でカビ取りをするあいつがあまりにも違い過ぎて、少し不安になっていたのだろう。休憩し過ぎてしまうあいつの方が、俺的にはしっくりくる。しかし、そんな考えは良くか悪くか打ち砕かれた。
「よし。カビ取りの続きしますか。」
 と言って、あいつが作業を再開しに戻って来たからだ。嬉しいの半分、混乱するの半分で俺の気持ちはぐちゃぐちゃになってしまった。そんな俺の気持ちをよそに、あいつはカビ取りを始める。まずは本体から床板を外す。本体はマットレスと違いカビの範囲が広かったので、先ほどの薄めたハイターを霧吹きに入れ替えて、全体に吹きかけていく。それをいらない布で、力強く拭いていく。まるでカビ取りのプロのようだ。みるみる内に、緑と黒の斑点が消えていく。それと同時に、木製の体はハイターによって薄く変色してしまったが、カビの除去のためには仕方がない。我慢しよう。最後には、水拭きと乾拭きを忘れない。
「全部終わったー。」
 そんな言葉とともに、あいつはとうとう全てのカビを取り終えた。けれども、俺はまだ心の整理を終えることができない。
「しばらく乾燥させてっと。」
 そう言いながら、俺の体を壁に立て掛けていく。それが終わると、あいつは少し塩素くさい部屋を出ていった。
 体を壁に預けて、乾燥されながら思う。長い間あいつのベッドとして働いてきたが、あいつのことを誤解していた。いや、むしろ、長い間過ごす内に、あいつのことが分からなくなっていったように思う。それはいつからだったろうか。俺を使わなくなり始めてからか。もしそうなら、俺は気づかないうちに、あいつへの思いをねじ曲げてしまっていたのだろうか。次第に乾燥していく体と裏腹に、頭の方はどんどんもやがかかっていくようだった。
 
 カビ取りをしてから数日、体にはこれといった変化はないように感じる。ただ、カビが生えていることに気づかなかったこともあるし、注意は続けたい。変化がないものといえば、他にもある。じめじめとした天気は、いまだに終わろうとしない。あいつもあいつで、夜遅くに帰って来ては、朝早くに出て行く生活を続けている。いつもよりベッドで過ごす時間が増える、なんてこともない。なんだ、この言い方じゃあ、あいつがいつもよりベッドで過ごすことを期待してたみたいじゃないか。どうしたっていうんだ。カビをきっかけにあいつの何かが変わるなんてことはないだろう。どうもあれ以来、俺の心は俺にもよく分からん。変わらなかったものばかりの中で、心だけが変わったなんて癪なことを、どうやら認めなければならないらしい。
 けれども、癪なだけならまだましな方だった。さらにその数日後、俺の体にはまたもやカビが生えていた。結局、体にはガタがきてしまっていて、カビを完全に除去することはできなかったようだ。やつらは俺の体奥深くまで根を張り巡らせ、まるでゾンビのように倒しても倒しても生えてくるのだろう。そんなことを考えていると、
「またカビ生えてるやん。あんだけやってもカビ残っとったんかー。」
 と、あいつがカビを見つけて嘆くのが聞こえてきた。確かに、あれだけのことをしてもらったのに、またカビを生やしてしまうとは不甲斐ない。
「このベッドもそろそろかなー。でも、あんま金ないし。もうちょい使いたいよな。」
 あいつはそんなことを言って悩んでいる。いつも忙しいあいつのことを、俺の問題で手間取らせてしまった。悔しい気持ちは、何もできない無力感と相まって、どんどん大きくなっていった。
 一夜あけたが、降り続く雨も悔しさもどちらも晴れることはなかった。そんなどんよりとした空気のせいだろうか。俺もそろそろ潮時じゃないかと、嫌な考えが現実味を帯びて迫ってきた。俺としたことが、いつもの気合いはどこにいったんだ。向かいの家の布団に言った、威勢の良い言葉はどうしたんだ。カビぐらいなんてことないはずだ。そんな風に自分を励ましてみても、引退の二文字が頭から消えることはなかった。
 その日、あいつは帰って来たあとまたカビ取りをした。一回目よりは少し慣れた手つきで、作業を進めていく。しかし、俺にはそれが無駄な行為だと分かる。カビのやつらが張った根は、体の奥深くまで食い込んでいる。あいつがカビを取った部分からも、いまだにカビの感触がするのがその証拠だ。
 この二回目のカビ取りを通して、俺はようやく引退という現実を受け入れることができた。乾燥されている今も、体のあちこちが犯されていくのが分かる。こんな体じゃあ、仕事を続けていくのは無理だ。引退する時はもっと悲しくなるものかと思ってたが、案外穏やかな気持ちでいられる。不思議な気分だ。こんな気持ちになれるのは、あいつが丁寧に世話をしてくれたおかげだ。それなのに最近の俺は、あいつに対して文句ばっかり言ってたな。今なら、なぜあんなに文句ばかり言ってしまってたのか分かる。俺の文句は全部、もっと使って欲しい、もっとあいつの役に立ちたい、というような思いの裏返しだったのだ。その思いを素直に出せなかったのは、あいつと過ごす時間が減って、勝手な思い込みがエスカレートしていったからだろう。体がダメになって、引退を受け入れるまでそれに気づかなかったなんて、俺は本当にバカだ。今日、あいつが寝るときは、久しぶりにあいつのことをちゃんと感じてみよう。俺の上で立てる寝息が、いつもとは違ったものに聞こえるかもしれない。寝返りの一つ一つから、何かを感じ取れるかもしれない。そう思うと、雨やカビで小さくなっていた俺の気合いは、だんだんと大きさを取り戻してくるのだった。
 その日の夜、あいつはいつも通り遅くになってから眠りについた。いつもなら文句を言いたくなるような短い時間が、なんだかとても充実したものに感じられた。
 
 次の日の朝、あいつが目覚めてカーテンを開けると、まぶしい光が差し込んで来た。そう、長らく降り続けていたあの雨がやみ、太陽が顔を出したのである。
「ん〜っ。久しぶりの晴れやな。自転車日和やわ。」
 太陽の光を目一杯浴びて、寝覚めも良さそうだ。俺の方も、太陽が出たことに加え、昨日の夜充実した時間を過ごせたこともあって、久しぶりの清々しい気分だ。
「いってきまーす。」
 いってらっしゃいと、あいつのことを心の中で見送った後、最近ご無沙汰だった外の景色に目を向ける。やはり太陽の光はいいものだ。窓越しの光でも、心が軽くなって体がふかふかになっていくように感じる。こういう時は、考えることがどんどんポジティブになっていく。考えごと日和だ。
 さて、何を考えようか。さっきは考えごと日和なんていったが、こんな日は何も考えず、ただ過ごすのも良いものだ。…ボーッとしようとしてみるが、どうしてもあいつのことが頭に浮かぶ。大学までの自転車通学は、事故らずに無事着いただろうか。無事についていても、昨日の睡眠の様子じゃ講義は寝るだろうな。昼ご飯はちゃんと食べただろうか。あいつの場合は、むしろ食べ過ぎてないかが心配だな。こんな風に、次から次へと思いが湧いてくる。
 気がつくと、太陽はとっくに傾いていて、あれだけ差し込んでいた光も消えていた。おかしいな。俺はこんなにあいつのことが好きだっただろうか。いや、今なら素直に言える。俺はあいつのことが好きだ。そりゃそうだ、十年も一緒に暮らしてきたんだからな。悲しい時は枕を涙で濡らしていたし、楽しい時はいつまでたっても寝つけなかった。いろんなあいつを俺は知っている。それだけ知ってしまえば、自然と情が湧いてくる。簡単なことなのに、随分こじらせてしまっていたものだ。せめて、あまり先が長くないだろう俺の人生、できるだけあいつのためになるように生きよう。そう心に決めた。
 ほどなくして、あいつが
「ただいま〜、はあ〜疲れた〜。」
 と消え入りそうな声で帰って来た。今日も随分と、大学で絞られてきたようだ。ちょうどいい。今日からは俺が気合いに気合いを入れて、最高の睡眠を提供してやる。好きなだけ勉強して、好きなだけ疲れるがいい。どんな疲れでも、一日寝れば取れるような睡眠を与えよう。俺の体はぼろぼろかもしれないが、心は満ち満ちている。今なら何でもできそうだ。
 次の日、あいつはどこかすっきりしたような顔で目覚めた。俺が本気を出したのだから、当然の結果といったら当然だ。カーテンを開けると、今日も太陽がさんさんと 輝いていた。もうそろそろ、長かった梅雨にも終わって欲しい。この晴れが、一時的なものでないのを期待するばかりだ。
「ヤバっ、いつもよりなんかベッドが気持ち良くて、寝坊してもうた。」
 あいつが言い訳する声が聞こえてくる。優秀過ぎるのも困りものだな。なんて、俺はいつもより上機嫌だ。慌ただしく出ていったあいつを見送り、窓から差し込む光を浴びていると、
「ばさっばさっ。」
 という音が耳に飛び込んできた。そのどこか懐かしくもなった音に目を向けると、向かいの家の布団が干されるところだった。
「おはよう。」
 そう声をかけると、
「おはようございます。お久しぶりですね」
 と声が帰ってきた。しばらく振りに聞くその声は、少し弱々しかった。見ると、体もぺしゃんこになっている。
「久しぶり。全くひどい雨だったな。お前、すっかりやられてしまってるじゃないか。俺が前に言ったこと覚えてるのか?」
「覚えてはいるんですけど、あの雨じゃあ気合いも入るに入らなくて…。あなたはすごいですね。前に話した時よりも、むしろ元気になっているように感じます。」
 布団はそんなことを言う。それは当たらずとも遠からずといったところだ。
「偉そうなことを言ったが、実は俺もこの雨で体をやられてな。カビが生えてしまった。」
「えっ?嘘でしょ。だって、あのあなたがそんな…それに、むしろ元気になったように見えるのに…」
 布団はそんな風に心配してくれる。
「元気になったように見えるのは、引退を受け入れて、考え方がちょっと変わったからかな。あいつのために、残りの人生を使おうって決めたんだ。そしたら、心の奥底から元気が湧いてきてな。文句を言ってたころが嘘みたいだ。最後の最後に気づくなんてな、自分の本当の気持ちに。」
 布団は俺の長い語りにも、口を挟まず聞いてくれた。
「引退…。そうですか。色々言いたいことはありますが、まずは、お疲れ様です。十年もの期間働いた、偉大な先輩を持つことができて、僕は幸せです。」
 そんなことを言うものだから、柄にもなくしんみりしてしまった。こんなことじゃいけない。俺は残り少しの生を、明るく過ごさなければならない。
「恥ずかしいからよせ。まあ、残りどれくらいあるか分からないが、こうやってしゃべる時は、しんみりはなしにしよう。今まで通り接してくれ。」
「分かりました。」
 そう言うと、布団は本当に普段通り話を始めた。全く、優秀なやつだ。こいつがいてくれれば、俺も安心して次のやつに代替わりできる。次はお前が先輩になるんだ。気合い入れて行けよ。そんな思いを、そっと布団に託したのだった。
 それからの数日間、また雨が続いていたが、そんなことは気にならなかった。カビだって表面に出て来はじめていたけど、それも気にならなかった。考えていたのは、あいつに何をしてやれるのか。少しでも良い眠りにしてやりたい。ただそれだけだった。俺はあいつのことを考えながら四六時中過ごした。
 そんな風に過ごしていると、ふと、この家に運び込まれた日のことを思い出した。あいつはまだ小さくて、初めてのベッドにはしゃいでいた。自分の好きなおもちゃを集めて、わざわざ俺の上で遊んだりした。狭いだの他の色が良かっただの、色々なわがままを言ったりもした。それを聞いて、生意気なお子さまだと思った。けれども、その晩に一人で寝るのを怖がっているあいつを見て、俺が安眠させてやろうと思った。あいつを、俺が幸せにしてやろうと思った。こんなことを思い出すのは、やっぱりその時が近いからだろうか。いや、今それは別にいい。俺にできることを、最後までやり抜くだけだ。
 
 その日は突然やってきた。
「今日でお前ともお別れか。捨てるってなると、なんか寂しいよな。結構思い出詰まってるし。」
 あいつがそう言った。俺の知らないところで、次のベッドは決まっていたらしい。心構えはできていたし、しんみりするのも嫌だったからこういう別れがちょうどいい。
「今までありがとうな。」
 そう言って、あいつは粗大ゴミシールを俺の体へと貼った。
「こっちこそありがとう。」
 本当はそう言いたかったが、やっぱり俺はただ運ばれるだけだった。いいか、俺の感謝の気持ちは寝心地の良さで伝わったはずだ。そうだったと信じよう。
 粗大ゴミ置き場にやって来た。あれほど窓から見える代わり映えのしない景色に飽き飽きしていたのに、今はこの広い空を見ても何も感じない。むしろ、あの景色を恋しく思う。以外とそんなものか。やがて、ゴミを回収するトラックがやってきた。あいつとは違う、少し乱暴な手つきで荷台に積み込まれる。だからといって、嫌な気持ちにはならなかった。今の俺はもうベッドではない。ただの大きなゴミだ。そう思うと、悲しいはずなのに、不思議と穏やかな気持ちでいられた。トラックの荷台で、ある種の心地良い揺れに身を任せる。これで終わりか。もし生まれ変われるのなら、そうだな。またあいつのことを幸せにできるような存在になれたらいいな。まあ、普段の行いもあんまり誉められたものではなかったし、過ぎた願いだろう。この一度の生を、あいつのために過ごせたというだけで充分か。幸せだったなあ…
 
 
 彼はペットである。しがないアパートの一室で、窓から差し込む光を浴びながら今日も考え事をしている。
「今日はあいつをどうやって喜ばせてやろうか。」
 彼の考えごとは、こんな風に「あいつ」を幸せにすることばかりだ。

 

「おにぎり」
142202

 これは、数多のおにぎり職人がひしめく、ある時代のお話し。日本だけでなく西洋を初めとする世界各国までおにぎりの流行は留まることを知らない。ここ大阪でもおにぎりの魅力に魅せられた少年がまたひとり・・・
 
「お父さん、お母さん立派に育ててくれてありがとう。俺は世界一のおにぎり職人になるで。」
「米助・・・」
「四年後には日本代表になって、俺のおにぎりで東京オニギリンピックを制するんや。」
「米助! おにぎりを握るときは左手を主として愛を込めるんや! 右手は添えるだけや。忘れんなよ。」
 
 大阪は摂津市で育った米助(よねすけ)は、高校を卒業すると同時に親元を離れ、世界一のおにぎり職人になるために、修行の旅に出た。と言っても、この時代では高校を卒業してすぐにおにぎり職人をこころざし、修行にでることはよくあることだ。珍しい話ではない。特に、米助ほどの特別な人材となるとその道以外は考えられない。米助の父は米助が幼い頃からずっと「右手は添えるだけ」という言葉を送り続けた。米助の父はおにぎり界の伝説‐レジェンド‐とも言われる存在である。今では当たり前となっている、おにぎりを「握る」という表現は米助の父が力強くお米を握りこむ姿に由来しているとの説が有力である。信じるか信じないかはあなた次第である。そして、なにを隠そうオニギリンピックで前人未到の四連覇を成し遂げ、実に二十年近い長い間世界チャンピオンを守り続けたのも米助の父なのである。その息子である米助も、もちろん次の東京オニギリンピックに期待を寄せられるおにぎり職人の卵の内のひとりだ。そんな米助が親元を離れ、おにぎり修行に出るという話は瞬く間に全世界に広がった。米助を我が流派に入れたいと全世界のおにぎり職人が米助の動きに注目を寄せた。
 
「あてもなく家を出たけど、どこ行こうか。困ったな。」
「米助! 私を置いていくなんてひどいじゃない!」
 彼女は、米助の幼なじみである小麦子だ。
「ついてくんなよ。俺はおにぎり職人になるんや。パン職人の小麦子は邪魔なんや。」
「なによ!おにぎり職人がそんなにえらいの!」
「今の時代にパン職人なんか時代遅れやねん。ださいねん。」
 そう。この時代ではパン職人よりもおにぎり職人の方が職業レベルが圧倒的に高いのだ。
「なんと言われてもついていくからね。」
「・・・勝手にしろ。 足引っ張んなよ。」
 
 こうして旅に出た、米助と小麦子。この旅に不穏な空気がたちこめていることは、この頃のふたりには知る術がなかったのだ。
 
 
 行く当てもなく歩いていた二人の目に飛び込んできたのは一枚の張り紙だった。
 
 U20 おにぎりバトル開催! 賞金1000万円
 
「おにぎりバトルか・・・ 賞金1000万円!?」
「米助! これ出てみようよ!」
 各地でおにぎりバトルは開催されているが、賞金がここまで高額なものは珍しい。世界で通用するおにぎり職人になるために資金が必要だった米助にとってこれほどのチャンスはなかった。米助は迷うことなくエントリーすることを決めた。
 
「エントリー費が150万円です。」
「・・・150万!?」
 通常のおにぎりバトルのエントリー費と言えば1000円〜5000円程度が一般的である。150万円という莫大な数字に驚いたが、米助にはここで逃げる選択肢はなかった。1000万円を勝ち取る自信があったのだ。
「本当に大丈夫?」
 小麦子が心配するのも無理はない。ここで負けてしまうと二人は無一文の生活を強いられることになる。それに、いくらレジェンドの息子といえどもまだまだ突出した技術が米助にあるわけではなく確実に勝てる保証はどこにもないのだ。それでも米助は頑固である。一度出ると言ったら聞かないのだ。小麦子も米助の決断を尊重し、見守ることに決めた。一攫千金のチャンスであることも間違いがない。特にこれは二十歳以下の大会だ。西洋ならまだしも日本で名の通った二十歳以下のおにぎり職人などほとんどいない。間違いなく米助は優勝候補筆頭と言えるだろう。
 
 今回のおにぎりバトルはテーマに沿っておにぎりを握り、そのおにぎりの味はもちろん。見た目やアイデアの斬新さなどを総合的に点数化して勝敗を決める。テーマはまだ発表されていない。間もなく大会運営からのアナウンスがある。
「はい。大会の主催者です。今回のテーマは〈海鮮〉条件はただひとつおにぎりであること。おにぎりだと胸を張って言えるものをつくること。以上!」
「わお! テーマが海鮮とは、いきでいなせなテーマやネ〜」
 遠くから聞こえるあの声は。まさか・・・
「西洋からハルバル来た甲斐あったネ。このニギリ・シーサイドてっぺん獲るで〜」
 まさか、まさかこのおにぎりバトルに、ヨーロッパオニギリ選手権において若干十八歳で史上最年少優勝を成し遂げたシーサイドが参戦してくるとは。米助の優勝は危ういものとなる。なぜならシーサイドは海鮮握りを本職としているのだ。米助の本職は何を隠そう梅にぎりだ。海鮮とはかけ離れている。
「え〜、握り実演日は一週間後です。ね、それまでに、最高のアイデアおにぎりを考えてください。ね、それでは。」
 
 一週間でシーサイドに勝てるいいアイデアが浮かぶだろうか。
「お〜米助も出てるネ。ひよっこジャパニ〜ズじゃ勝てないネ。でも、お互いファイトですネ!」
「・・・何あの西洋人! 感じ悪いわ!」
「まぁ、何にせよ勝たなあかんから。あの西洋人にも負けられへん。」
 それにしても、西洋でも指折りのおにぎり職人が参戦しているとは。さすがの米助も動揺を隠しきれないようだ。しかし、いずれは倒さなければならない相手。東京オニギリンピックで優勝するためには誰にも負けられない。いいアイデアさえ浮かべば、シーサイドと技術に差はない。お題は奴の専門握りだが、絶対に負けるわけにはいかない。生活がかかっているのだから。
 …とは、言ったもののあれから五日ほど経ったが、全くいいアイデアが浮かばない。このままでは何の変哲もない鮭おにぎりで勝負をかけることになる。それは、危険だ。奴はきっとすごい握りを作ってくるに違いない…。どうすればいいのだ。
「米助。考えすぎよ。気分転換にご飯食べに行こ! 私、すし食べたい。」
 こういうとき、いつも小麦子の明るさには救われてばかりだ。腹ごしらえしてから考えよう…。
 
 やって来たのは、どこにでもある普通の回転ずし店。一皿一〇〇円という驚くべき安さが特徴である。お皿を五枚ためると、一度だけ当たればちょっとした景品が与えられるルーレットを回すことができるという娯楽システムつきである。このシステムには消費者もお手上げである。なぜならば、キリの良い五枚単位でその日の食を終えようとする、いかにも日本人らしい心理がフル稼働してしまうからである。例えば、十二皿を食べ終えた段階で満腹感が訪れたとすればどうだろう。なんとしてでもあと三皿食べきってもう一度ルーレットを回そうと考えるのが日本人であろう。そして、考えてみてほしい。気合いを出して三皿食べ終え、ようやく回せたルーレットではずれが出た時の気持ちを。あなたならどうだろう。辛い思いをして回したルーレットではずれが出たら、当たりが出るまで意地でもすしを食べ続けてやろうという気持ちになるのではないだろうか。これは、ごく自然の心理である。なにを隠そう、かくいう米助もこの状態に陥っていたのである。
「うわ、もう食われへん。限界や・・・」
「もう、あほなことしないでよね。」
「こうなったら、適量をはるかに超える大量のわさびをシャリとネタの間にかまして、すし本来の味をごまかして食すしか俺に未来はあらへんで・・・」
 米助は苦し紛れに多量のわさびを使用し、すしの生臭さをごまかし満腹の腹にすしを流し込む作戦に出たのだ。これには、小麦子も呆れるばかりであった。
 しかし、この多量のわさびをシャリとネタの間にかましたすしを食べた米助は
「これや! これしかあらへんで!」と一言。そして、何度回してもルーレットが当たることは無かった。
 
 数日後、ついにおにぎりバトル本番の日である。
「大丈夫なの? 私たちの生活がかかっているのよ?」
「大丈夫や! 心配せんでも大丈夫や。」
 小麦子には米助の自信が理解できなかった。だが勝負の時は来てしまった。もう後戻りはできないのだ。
 
「・・・さて、続いての挑戦者は西洋のニギリ・シーサイド選手です。」
「やだ、あの嫌な西洋人よ。どんなおにぎりを作ってくるのかしら。」
「わーお、わいの作るおにぎりはサーモンカルパッチョニギリやで〜」
「獲れたての鮭をパッション込めて調理したネ。日本人には無い斬新な発想で握ったヤデ〜。米はサーモンのカルパッチョに合うように、わざと冷や飯にしたデ〜。柔軟な発想やネ〜。発想だけやアラヘンデ〜。味も自信を持って補償するヤデ。隠し味も使ってるデ〜。隠し味やから〜何使ってるかゆわへんケドナ!」
 彼の作った「サーモンカルパッチョニギリ」は審査員からも大好評であった。
「なんとも斬新なアイデア。サーモンのカルパッチョをまさか冷ご飯で包み込むとは…」
「この海苔にも工夫が見られますね… 海の香りがする。この海苔からは海の香りがする。海の、海の香りがする!」
「うひょー。審査員の評価も上々やネ。当たり前やケドね〜。己のサイノウが怖いヤデ〜。一周まわってこわいヤデ〜。畏怖のココロが騒ぐ、騒ぎ立てるネ〜。西洋の味は日本人のココロもわしづかみやネ〜。将来は大和撫子と結婚して婿養子に入るデ〜。そしたら日本性を名乗るのヤ〜。しゃれた名前がいいネ〜。ミヤネとかいいやデ〜。そしたら、将来はミヤネ屋みたいな名前のおにぎり屋さんを姫路あたりにオープンしたいネ〜。」
 あの西洋人の評価は良かったようだ、奴の騒ぎようも無理は無い。奴の心の中では優勝と賞金の1000万円は自分のものになっているはずだ。しかし、米助のおにぎりはまだ披露されていない。
「米助。あの嫌な西洋人のおにぎり、すごく高評価だけど本当に大丈夫? ここで負けたら旅も続けられないし、おにぎり職人への夢は愚か、東京オニギリンピックの優勝、出場だって絶望的なものになるのよ?」
「…大丈夫や。黙ってみとけ。」
 この時の米助の背中は台風で大荒れだった翌日の大和川の流れのように強くたくましいものだった
 と言う。
「続いての挑戦者は、米助選手!」
 意外にも客席からは大歓声が起こった。そうだ、彼がレジェンドの息子であることを忘れていた。お客さんもレジェンドの息子には期待を寄せているのである。そして、やはり日本の国技と言っても過言ではないといえるところまで成長した、おにぎり文化で日本人が西洋人に負けるところは見たくないのである。
「俺の作るおにぎりはこれや!」
 皆の期待を背負った米助が作ったおにぎりは意に反して、普通に見えるおにぎりだった。
「ああ、普通のおにぎりよ… 私の旅も終わってしまうのね。」
 小麦子は米助の負けを確信した。さっきの自信満々な態度は不安の裏返しだったのか、それとも、負けを悟った開き直りだったのか。
 審査員も期待に反するおにぎりに米助への興味を無くしたようだ。
「レジェンドの息子と言っても人の子か。何の変哲もないおにぎりで勝負をかけてくるとは。少しがっかりな気もするな…」
 と言いながらも、審査員たちはおにぎりを口に運んだ。
「これは…!」
「なんと!」
 審査員は皆、驚きのあまり言葉を失った。見ている客や小麦子、シーサイドたち他の選手には何が起こったのかわからなかった。
「これは… わさび?」
 審査委員長が口を開いた。
「そう! よくお気づきで。俺の作ったおにぎりはまぐろのすし握りや!」
「すし握り…?」
 みなは状況を掴みきれない。
「ほう、具に使っていることはわかる、わさびは入っていないが…?」
「そうなんですよ。おにぎりにわさびは入れてへんねん。」
「では、なぜこんなにわさびの風味が?」
「秘密は米にあるんや。おにぎりの具としてまぐろを使うだけでは、ただのまぐろ握り。生のまぐろを使うから生臭さもあるし、良いものじゃないよな。やから、まぐろの生臭さを消すためにわさびを使うことを考えた。でもおにぎりの中でまぐろと一緒にわさびを包み込むと、わさびの味が一点に集中してしまう。それにまぐろの味をかき消してしまうねん。そこで考えたのが米にわさびの味と風味を含ませること。」
「…一体どうやって?」
「お米を炊く段階に秘密があるねん。通常米を炊く時って水で炊くやん? 日本って世界でも指折りの水道水がきれいな国やし、特に大阪なんか水道水の飲料水化に力を入れてはる。ほとんどの人が米は水道水で炊くはずや、うちも基本はそうや。でも、今回は考えた。わさび水で米炊いたろって。」
「「「わさび水?」」」
「わさび水ってのはそのまま。天然のわさびをすりつぶしたものを水に溶かしただけや。今回は水道水の代わりに、そのわさび水で米を炊いたんや。」
「なんて斬新な発想だ。水の代わりにわさび水を使って米を炊くことで、まぐろの味も殺さず、なおかつ、生魚特有の生臭さまでわさびの風味でおにぎりから排除してきたとは。そしてなにより程よい辛さがたまらない。これぞ、日本人の心を揺さぶる真の海鮮握りである。」
 そして、全出場者のおにぎりが披露された。審査委員長から結果発表がある。
「U20 おにぎりバトル。今回の優勝は…」
 
 ……ざわざわ…ざわざわ…ざわ…ざわ
 
「すし握りを披露した米助!」
「やった米助! 1000万円よ!」
「おーーう。いやあ、米自体にそんな仕掛けをしてくるなんてネ〜、いきでいなせな男やネ〜。敵ながらあっぱれネ。」
「おおおおおおお。よっしゃああ。1000万や!有意義な旅が過ごせるな! 小麦子!」
「米助! あの時、あのびっ○らポンをしてるときに、アイデアが思いついたのね!」
「おう。小麦子のおかげや。今回ばっかりはな。」
 
 と、このように米助の初のおにぎりバトルは米助の優勝で幕を閉じた。破格の1000万円の賞金を得た米助と小麦子はその後も賞金を使い旅を続け、各地のおにぎりバトルに出場し、その都度おにぎり職人としての腕を磨き続け、どんどんスターダムにのし上がっていった。
 
 
 ―2年後―
 
 
「いや、ここまで腕あげたら2年後の東京オニギリンピックも間違いなく優勝できるな、小麦子」
「油断しちゃだめよ。いつなにが起こるかわからないよ。」
 小麦子はこういうものの米助のおにぎり職人としての腕が上がっていることは確かなのである。レジェンドとまで言われている父の全盛期でさえもう超えているのではないかという声も少なくない。まさか、米助がここまでの男になるとは誰も予想していなかっただろう。なにせ、あれからバトルに何度も出場しているが、未だに米助は負けをしらないのである。誰か彼を倒すことができる人物が現れるのだろうか…
 
 しかし、米助たちの日常はいきなり崩れることとなるのである。
「最近台風が多いね。」
「ああ、稲作に影響が出ないとええけどな…」
 
 ―♪♪♪―
 
 テレビからニュースが流れる。
「非常に強い勢力を保ち北上を続ける台風18号ですが、恐ろしいニュースが入りました。北上を続ける台風18号を追いかけるように、台風19号が発生しております。加えて20号、21号、22号、……、7825号のおよそ8000近い数の台風が同時に発生しております。視聴者のみなさまは絶対に外出を避け、安全な場所で待機してくだい。」
「「は、は、8000?」」
 驚くの無理は無い、今まで台風がこんなに多く発生した前例がない。とにかく今は安全な場所に逃げるしかない。
「わたし、この近くの地下に核シェルターがあるのを知ってる。そこで隠れよう。」
 今はそうするしかないだろう。とにかく二人は核シェルターに隠れることにした。一週間もたっただろうか。全ての台風が日本を横切るように通過したのを見計らって二人は外に出た。外の世界は想像を絶するものだった。
 
「あれ? 本当に台風通った?」
 そう、8000もの台風が通ったことが嘘かと思えるほど町にはなにも変化がなかったのだ。
「台風の話、嘘やったんちゃう? いや、まず台風8000ってなんやねん。嘘に決まってるやろ。なんでそんなあほみたいな話信じたんや。」
「はよ、米買って、おにぎり握ろうぜ。」
 米を丁度切らしていた米助は米を買いに出かけた。
 …町の様子がおかしい。どこを歩けど、どこを探せど、米がどこにも売っていないことに気が付いた。どういうことだろう。
 そして、とうとう一日歩き回ったが米を買うことができなかった。
「どうなってるんや。米が売っていない。」
 
 ―♪♪♪―
 
「先日通過した8000近い台風ですが。非常に不可解な動きを見せました。世界中に不規則に散らばった台風は、世界中の田んぼを集中的に攻撃し、全世界の米農家に莫大な被害を及ぼしました。それ以外の被害は今のところ確認できておりません。この、不可解な台風により、米はほぼ絶滅したと言えます。」
 信じられないニュースが耳に飛び込んできた。
「そんなことあるんか? 信じられへん。え、え、え、ええ」
 米助はパニックに陥った。それはそうだ。このニュースと同時に米助は職も夢もすべてを失ったのだ。
 絶望。その言葉以外に米助の状況を表す言葉が見つからなかった。
「ねぇ、米助。」
「なんや! もう話しかけんな! 米の無い世の中なんて、山田孝○がいない俳優業界みたいなもんや!」
「話を聞いて!」
「…」
「私の職業覚えてない?」
「…あ」
「そう、私パン職人よ。今まではおにぎりがあったから、パン職人に需要がなかったのは確かよ。でも、こうなった今パンに頼るしか私たちに生きる術はないの。ニュースでも聞いたでしょ? 被害があったのは幸か不幸か米農家だけ。確かに、米、おにぎりに頼り切った今の日本。いや、世界は大パニックかもしれない。でも小麦粉があるじゃない。パンは焼けるの。ねぇ、米助。私と一緒にパンを焼こう?」
「そ、そうやな… ちょっと取り乱した。小麦子がパン職人なの忘れてた。小麦子には助けられてばっかりやな。うん。俺はもうおにぎりは握れないかもしれないけれど、俺達にはパンがある。小麦子が焼けるパンがある。」
「うん。ありがとう。落ち着いてくれて。」
「…俺が今まで。今まで、バトルで稼いだお金。パンを焼く資金にしよう。」
「え、いいの? オニギリンピックの夢は?」
「世界がこうなった今、オニギリンピックの開催は難しいやろう。今は俺の夢より生きることの方が大切なんとちゃうやろか?」
「うん。ありがとう。」
 前代未聞の台風被害により、崖っぷちに立った米助と小麦子であったが、ふたりの強い信頼によりこの危機を乗り越えることができた。確かに、米助は台風により夢を叶えられなかったかもしれない。でも、考えてみてほしい。本当に一流のおにぎり職人になって、東京オニギリンピックで優勝して、父の背中を追う人生が米助にとって最高の人生だったのだろうか。一番の幸せだったのだろうか。そうとは言い切れないだろう。人生に大小はないだろう。夢を叶えた最高の人生もあっていい。でも、夢が叶えられなくなったとき、米助の人生は不幸になったのだろうか、そんなことはない。違う幸せもあっていいのだ。ふたりのその後を覗いてみよう。
 
「米助! 起きて。もう仕込みの時間よ。」
「うわぁ、まだ外暗いで。パン屋の朝早すぎな。」
「文句言わない! 頑張って働かないと。お腹の中の赤ちゃんが私たちみたいに幸せな人生を送れるように。」
「…そうやな、よし。今日も頑張ろか。」
「ねぇ、米助。私とパン屋さん開いたの後悔してない?」
「あほか。一番良い選択やったし、幸せな人生やと思ってるで。」
「ほんと? もうおにぎりの夢は見なくなった?」
「おにぎりな… おにぎりがなくても。米がなくても、小麦子がいてパンがあれば、俺は幸せに生きていけるさかいに。」
「そうね。おにぎりが無ければ、パンを食べればいいじゃない。」
 
 
 
 ―完―
 

 

「おやつ日記」
143907

「牛乳きらい!」
 エッちゃんがこう言い出したのは、年長さんになって2ヶ月経った6月の頃。少し暑くじめじめとしていたその日に、事件は起きてしまった。
 おひさま幼稚園に通う5歳の女の子、エッちゃんはその日も元気に登園していた。意気揚々と登園したエッちゃんは、粘度遊びや文字のおけいこをしたり、友だちのチエちゃんと砂場でお城をつくったりして楽しく過ごしていた。昼食の時間になり、お腹がぺこぺこなエッちゃんがもりもり給食を食べていると、誰かがえーんえーんと泣いている声が聞こえてくる。どないしたんやろ?とエッちゃんは不思議に思い、泣き声のする方を見てみると、泣いている男の子は泣き虫サトルだった。エッちゃんはサトルに近寄り、顔を覗き込みながら話しかけた。
「サトルくん、どないしたん?なんで泣いてるん?」
 サトルはわんわん泣いており返事ができない。すると、サトルの隣に座っていたタケシが代わりに答えた。
「あんな、サトルくん、こぼしてもうてん。牛乳。ほら、ここ」
 そう言ってタケシはサトルの座っているいすの右側を指差した。そこには牛乳の水たまりができていた。
「ほんまやあ、サトルくんこぼしてもうてる」
 うわあと手を口にやりエッちゃんがこぼした牛乳をまじまじと見ていると、サトルの泣き声を聞いた先生が手にぞうきんを持ってやってきた。
「あらあら、サトルくん服に牛乳はかかってない?今拭くからね、大丈夫だよ」
 そう言うなり、先生はサササッと牛乳を拭いてしまうと、サトルをあやしながら隣に立っていたエッちゃんに話しかけた。
「エッちゃん、サトルくんを心配してきてくれたんやね、ありがとう。でももう大丈夫やからエッちゃんはお昼ごはん食べてき。」
 先生はエッちゃんに自分の席に戻るよう促したが、エッちゃんはこぼれた牛乳をあっという間に吸い込んでしまったぞうきんに興味津々で戻ろうとしない。
「せんせえ、そのぞうきんちょっと貸してえ」
「牛乳拭いてしもたから、洗ってからね」
 と言って先生は泣き止んだサトルの背中を一撫でし、ぞうきんを洗いに行こうとするがエッちゃんは引き下がらない。
「ね、ね、ちょっとだけでええから」
 そう言ってエッちゃんはぞうきんを持っている方の先生の手を引き、おもむろにぞうきんを自分の鼻元に近づけ、スンッとにおいを嗅いだ。
「くっさあ!」
 ぞうきんのあまりの牛乳臭さに驚いたエッちゃんは、急いでその場を離れ、鼻についたにおいをとろうとするようにごしごしとこすり、鼻が真っ赤になってしまった。
 昼食の時間が終わっても、エッちゃんの牛乳はなくなっていなかった。
 エッちゃんはその日から牛乳を見るたびにぞうきんのにおいを思い出すようになり、牛乳が飲めなくなってしまった。
 ぞうきん事件から実に3ヶ月という月日が経ち、9月になった。エッちゃんは未だに牛乳が飲めずにいた。牛乳は幼稚園でも週に3回は給食に出てくるし、小学校だと毎日のように出てくるだろう。そんな生活の中で牛乳が飲めないと、エッちゃんは辛い思いをしてしまうのではないだろうか、と危惧したお母さんは、牛乳が飲めなくなってしまった日からエッちゃんが牛乳を飲めるようになるようさまざまな工夫をこらしてみた。単身赴任中のお父さんやおばあちゃん、幼稚園の先生や友だちなどいろんな人に相談もしてみた。そうして得た情報から、ある時はエッちゃんの大好きなおやつのショートケーキと一緒に牛乳を出してみたり、エッちゃんの目の前でおいしそうに飲んでみたり、またある時はしばらくエッちゃんの前に牛乳を出さない、といったことを試してみた。しかし、そのどれもが効果はなく、エッちゃんは頑に牛乳を拒絶し続けた。そればかりか、「牛乳」という単語を聞くだけでエッちゃんは顔をしかめるようになっていた。何をしても牛乳を飲もうとしない、それどころか裏目に出てしまっているという事態に、お母さんは困り果ててしまった。
 万策尽きたと思われた9月2日の夜。お母さんはどうしたものか、と思いながらオムライスをおいしそうにほおばるエッちゃんを眺めていた。エッちゃんの顔を見て、お母さんは今日のごはんもうまくできたな、と思った。ウィンナー、たまねぎ、にんじん、苦手でも食べられるようにと細かく刻んだピーマンたちをバターと塩こしょうで炒めてごはんを加え、コンソメとケチャップで味付けしたケチャップライス。その上からふんわりするようにとほんの少しの牛乳を入れた卵に火を通し、ケチャップライスにのせていく・・・仕上げにエッちゃんの似顔絵をケチャップで描いて完成である。ちょうど良い味のケチャップライスとふんわりトロトロの卵が絶妙なバランスをとっている。自分でも合格点が出せる。そんなことを考えているところで、ふと、お母さんはある違和感を感じる。牛乳が飲めないエッちゃん・・・今日の晩ごはんはオムライス・・・もりもり食べているエッちゃん・・・オムライスの中には・・・・・・。
「エッちゃん、今日のごはんおいしい?」
「うん、おいしいよ!」
 満面の笑みで答えたエッちゃんは、またもぐもぐとオムライスを食べ始めた。
「そっか、ありがとうね」
 その返答を聞き、お母さんの中で違和感がひとつの考えにつながった。もしかしたら…とお母さんは、とあるアイデアをひらめき、次の日から早速“とあるアイデア”の準備を始めることにした。
 ひらめいた日から一週間経った日の夜、晩ごはんを食べ終わったエッちゃんに、お母さんは1冊のノートを手に持ち、エッちゃんの前に座った。
「エッちゃん、おやつ日記っていうのをお母さん作ってみたんやけど、明日からやってみいひん?」
 おやつ日記―それは通常のものよりも少し大きいA4サイズのノート。表紙には真ん中に、でかでかと可愛らしいポップな書体でレタリングされた「おやつにっき」の文字があり、その下にこれまた可愛らしい文字の「えり」という名前とエッちゃんの似顔絵が描かれている。「おやつにっき」と「えり」の周りには大きな花とショートケーキ、アイスクリーム、ドーナツといったお菓子が描かれており、とてもにぎやかで可愛らしい。エッちゃんはその可愛らしい見た目のノートに興味を抱き、目をキラキラと輝かせながらお母さんに訊ねた。
「なにそれなにそれ!なにをかくん?」
 お母さんは得意げな顔をしながらノートを広げて説明を始めた。
「エッちゃん毎日3時くらいにおやつ食べるやろ?このノートはね、その毎日食べるおやつを言葉や絵にしてかいていくノートやねん。」
 そう言いながらお母さんは広げたノートの日付や曜日、天気を書く欄も次いで説明した。何をかくか理解したエッちゃんだが、なぜこのノートをかくのか、その理由がわからず首をかしげた。
「けど、なんでこんなんかくん?」
 この質問に、待ってましたと言わんばかりのお母さんは楽しそうに話し出す。
「それはね、ノートをかいてたら毎日違うおやつを食べてるエッちゃんがどんなおやつが好きで、どんなおやつはあんまり好きじゃないのか、がとってもわかりやすくなるやろ?そしたら、お母さんまたエッちゃんの好きなおやつ作ってあげられるで。それに、お父さんがうちに帰ってきたら、エッちゃんがどんなおやつを毎日食べてるか教えてあげられるで。お父さん喜ぶやろなあ。」
 この言葉に、エッちゃんはわくわくとした様子でぎゅっと手を握りしめ、楽しそうに腕をふった。
「おかあさん、それ、めっちゃええなあ!エッちゃん、おかあさんのおやつめっちゃすきやで、おとうさんにもみせてあげられるように、にっきかきたい!」
「よーし、ホナとりあえず7日間やってみよっか。毎日続けられたら、ごほうびもあるからね」
 エッちゃんはごほうび、という言葉にさっきよりもうれしそうにわーいと両手を上げた。
 翌日、9月10日の木曜日。その日のエッちゃんは一日中、先生に心配されるほどそわそわ、わくわくといった様子だった。2時になり、降園の時間になるといつもの倍の速さで帰りの準備をし、着替えをすませる。すると、まるでエッちゃんが帰りの準備を速く済ませるのがわかっていたかのように、お母さんがいつもより早めに迎えにきた。帰っている間も、終始エッちゃんはお母さんの手を引き急かしていた。
 3時前、帰宅するとエッちゃんはおかあさん、はやくおやつ!と言いながら大急ぎで制服を着替えた。
「エッちゃん、楽しみなんはわかるけど、まずは手を洗ってうがいもしてきてね。」
 とお母さんは言うとエッちゃんは、はーい、と素直に洗面所に向かった。
 そしていよいよ、おやつの時間がやってきた。記念すべきおやつ日記の初日である。エッちゃんは、今日のおやつはなんだろう、と胸を躍らせながら座っていると、お母さんがキッチンからお皿を持ってやってきた。
「今日のおやつは、サクサククッキーやで。」
 待ちきれない、というようにニュッと手をのばしたが、お母さんに止められるエッちゃん。
「ちゃんといただきますしてね。」
 エッちゃんはしぶしぶ、けれどうれしそうにいただきます、と言ってから手をのばす。今度はゆっくりだ。クッキーを1枚手に取る。エッちゃんの手ほどあるその大きなクッキーは優しいクリーム色をしていて、表面にグラニュー糖がまぶされている。それを口に運び、サクッと一口。その瞬間、ホロホロとクッキーの欠片がくずれていく。そして咀嚼するたびに感じる、クッキー本体のサクサク食感と表面のグラニュー糖のザクザクとした歯触りがなんとも心地好い。さらに、ふんわりと口の中で香るバターのいいにおい。とても食べ応えのあるクッキーだ。
「おいしい!」
 なんて幸せなんだろう!とエッちゃんの顔が語っていた。まるで何かに取り憑かれたようにぱくぱくとクッキーを口に運んでいく。その様子はさながらクッキー消費マシーンだ。幸せそうなエッちゃんを見て、お母さんも幸せそうだ。食べ応え抜群のクッキーをエッちゃんはあっという間に2枚も平らげ、満足げに手を合わせた。
「ごちそうさまでした。あーおいしかった。」
 9がつ10にち もくようび おてんきはくもり
 おやつは さくさく くっきー
 まるくて、あまい さくさく
 とつてもおいしい
 (いびつな茶色い、丸いイラストが2つ。とても大きい。)
 9月11日金曜日。この日も給食に牛乳が添えてあった。もちろんエッちゃんは飲まずにそのまま残している。そろそろ昼食の時間も終わる、といった頃。エッちゃんの隣に座っていたチエちゃんは自分の牛乳を飲みながらエッちゃんを見ていた。
「なあなあエッちゃん、きょうもぎゅうにゅう、のまへんの?」
「のまへん!くさいし、おいしないもん。」
「ふーん。」
 言い返された言葉の勢いがあまりに強かったことと、大好きな牛乳をおいしくないと言われたことでムッとしたチエちゃんは、そっぽを向いてしまった。一方エッちゃんも、牛乳という単語が出たことで機嫌が悪くなってしまった。
 あまり良いとは言えない機嫌で家に帰ってきたエッちゃんだったが、おやつのことを思い出し、いつもの楽しい気分が戻ってきた。
「今日のおやつは、ふかふかホットケーキ!」
 そう言いながらキッチンから出てきたお母さんが持つお皿の上には、ほかほかあったかそうなホットケーキと、とろけたバターがのっていた。お母さんがお皿をエッちゃんの前に置き、のっているバターをホットケーキ全体に塗り、その上に少しだけメープルシロップをかけた。さあどうぞ、とお母さんがエッちゃんを見る。
「いただきまーす!」
 元気よく両手を合わせたエッちゃんは次の瞬間には、フォークを突き刺しがぶりとホットケーキにかぶりついていた。直径20cmはあろうかというお皿に堂々と鎮座しているよく焼き色のついた1枚のそれは、バターとメープルシロップの魅惑的な輝きを放っていた。キラキラと輝いていてなおかつふかふかのホットケーキをひと噛みしてみると、ジュワッとバターがしみ出してくる。メープルシロップによってしっとりとした生地は、まるでクリームのように口の中で消えていった。
「んんん!おいしーい!」
 エッちゃんは左手を頬に当てながら、バターとメープルシロップがいっぱいついたつやつやな口でとろけそうな笑顔をうかべた。
 9がつ11にち きんようび おてんきははれ
 おやつは ふかふか ほっとけーき
 とつてもおおきくて、あまい
 おいしくてほつぺがおちそう!
 (茶色く塗られた大きい円の真ん中に、ちいさいバターのような四角があるイラスト。)
 翌日のおやつはぷるぷるプリン。カラメルソースがたっぷりと、贅沢に注がれた底の深いお皿にぷるん、としたつやつやの黄色いプリンがお行儀よく座っている。頭の上には甘さ控えめのホイップクリームがちょこんと乗っておりなんとも可愛らしい。スプーンですくってみると、こそばそうに揺れている。ぷるぷるのプリンはのどごしが滑らかでとても心地好い。お皿の中はすぐに空になってしまった。
 9がつ12にち どようび おてんきははれ
 おやつは ぷるぷる ぷりん
 つめたくて、あまい
 ちやいろいところもおいしい!
 (歪んだ台形の黄色いプリンの上に、もこもこのホイップクリームのイラスト。周りが茶色く塗られている。)
 日曜日。エッちゃん家には毎週日曜日に、東京へ単身赴任しているお父さんにパソコンを使ってテレビ電話をかけて会話をする習慣があった。この日はおやつ時にお父さんに電話をかけ、エッちゃんは日々の出来事をお父さんに話していた。
「あんな、いまおやつにっきっていうのんやっててな、まいにちたべてるおやつのことこれにかいてるねん!」
 そう言いながらエッちゃんはごそごそとノートを取り出し、画面の向こうのお父さんにノートの表紙を見せた。お父さんは興味深そうに手をあごに当て、顔を画面に近づけた。
「へえ、おもしろそうなことやってるねんな。ちょっと、お父ちゃんに中身みせてくれへんか?」
 と言ったお父さんに、エッちゃんは少し意地悪そうな笑みをうかべてノートをひょいっと画面の外においやった。
「だめー。おとうちゃんには、かえってきてからみせたげる!」
 うししっ、とエッちゃんが笑っていると、ええ、なんでやあというお父さんの声とお皿を手にしてリビングにやってくるお母さんの声が重なった。
「なんや、楽しそうやね。さあエッちゃん、おやつができたよ。今日のおやつは、トロトロフレンチトーストです!」
 目の前に置かれたフレンチトーストに、エッちゃんはすぐに釘付けになった。おっうまそうやな、というお父さんの声はもう聞こえていない。
「いただきます!」
 前にパソコンを置いたまま、エッちゃんは手を合わせてフレンチトーストを食べ始めた。食べやすいようにさいころ状にカットされた小さめのフレンチトーストが、お皿一面に盛りつけられている。お皿の端には、プリンの上に乗っていたものと同じく甘さ控えめのホイップクリームが添えられている。湯気から香る甘い香りが鼻腔をくすぐり、それだけで幸せな気分になる。フレンチトーストの1つをフォークで刺し口に入れると、しっかりと卵溶液を吸ったパンが舌の上でトロトロととろけていった。ほかほかのあたたかい温度も絶妙で、口の中がお布団にくるまれているようだ。
「おいひいい!」
 エッちゃんは口にフレンチトーストをほおばったまま満面の笑みで叫ぶと、そのまま吸うようにフレンチトーストを食べきってしまった。エッちゃんの食べるスピードがあまりに速く、まさにぺろりと平らげてしまった様子を見てお父さんは思わずため息をついてしまった。
「エッちゃんはほんまにうまそうに食べるなあ。来年帰ったら、お父ちゃんにも食べさしてな。」
「ほな、エッちゃんがつくってあげる!」
「お、ほんまか、約束やで。」
 おやつを食べて幸せ顔のエッちゃんが画面越しにお父さんと仲良くゆびきりをしている様子を、お母さんは微笑ましげに見守っていた。
 その日の夜、お母さんはお父さんに今度は受話器から電話をかけていた。
「もしもし。エッちゃん、寝たんか?」
 少しねむそうなお父さんの声が聞こえる。お母さんは少し開いたふすまの隙間からエッちゃんをちら、と見て答えた。
「うん。ぐっすり寝てるよ。」
「そうか。で、おやつ日記計画はうまいこといってるんか?昼間の様子やと順調そうやけど・・・。」
「うん、今のところ順調順調。エッちゃん毎日、機嫌ようおやつ食べてるよ。エッちゃんのあのおいしそうな顔、見たやろ?あれを毎日見れるんやもん、私も幸せやわ。」
 受話器越しに、はははっという笑い声が聞こえた。昼間のエッちゃんのおいしそうな顔を思い出したのだろう。
「まあ、とにかくうまいこといってるようで良かった。じゃあ、また何かあったら連絡して。おやつ日記計画、あと3日、がんばって。」
「ありがとう、お父さんもお仕事がんばってね。」
 ピ、と電話が切れる。お母さんはもう一度エッちゃんを見て、明日もがんばろう、とつぶやいた。
 9がつ13にち にちようび おてんきはくもり
 おやつは とろとろ ふれんちとーすと
 あつたかくて、とろとろしてた
 あまくて、くりーむつけて、おいしい!
 (小さめの黄色い四角いイラストが6個。左下にはもこもこのホイップクリームのイラストも。)
 14日、月曜日。この日のおやつはつるつるパンナコッタ。プリンと形は似ているがやや小ぶりのパンナコッタは、真っ白でつるつるだ。白いパンナコッタ本体の周りには、イチゴのソースや小さくカットされたイチゴがちりばめられている。スプーンでつつくとぷるぷると揺れ、すくいあげて口に入れると生クリームの濃厚さとつるんとしたのどごしが後を引くおいしさだ。空になったお皿も、つるんとした輝きを放っていた。
 9がつ14にち げつようび おてんきはくもり
 おやつは つるつる ぱんなこつた
 ぷりんみたいだけど、ぜんぜんちがう!
 いちごがおいしくてかわいい
 (白い台形のパンナコッタに縦に赤く塗られたイチゴソースのイラスト。周りにはイチゴのイラストが3つ。)
 翌日の15日、火曜日のおやつ時。エッちゃん家に少し不穏な空気が漂っていた。
「・・・・・・。」
 エッちゃんは無言で目の前に置かれたお皿にのせられたアイスキャンデーを溶かさんとばかりに睨みつけていた。お母さんは心の中で冷や汗を流しながら、努めて冷静にエッちゃんに語りかけた。
「エッちゃん、どないしたん?アイス溶けてまうで?」
 しばらくしても、エッちゃんの視線はアイスキャンデーから離れず、顔は不機嫌そうに歪められたままだ。
「おかあさん、これ、ぎゅうにゅうちゃうん。なんかそんなにおいする。」
 お母さんの心臓はバクバクとうるさく動き続けているが、表には出さない。ここでバレたら、全てが無駄になってしまう。お母さんは自分で自分を叱咤激励し、明るく笑顔でエッちゃんを見る。
「何言うてるのん、バニラのにおいしかせんで。うそやと思ったら、食べてみ。」
 お母さんが笑顔で勧めてくるのと、アイスが溶けてしまいそうでもったいないのとで、エッちゃんはがっちりと握りしめられた手を、しぶしぶアイスキャンデーへゆっくりとのばしていく。アイスキャンデーの棒を持ったところで、お母さんをちらりと見て小さく、いただきます、とつぶやいてからさらにゆっくりと口に近づけていく。
 ぺろり。
 ん?と首をかしげ、もう一度ぺろり。
「おいしい・・・。ほんまや、バニラのあじする!」
 目を見開いて驚いた表情のエッちゃんを見て、お母さんはこっそりほっ、と息を吐いた。なんとか食べてくれた。十分である。
 溶けないうちに、と急いで食べたエッちゃんは不思議そうでかつ満足げな顔をしながら、おやつ日記を書いた。
 9がつ15にち かようび おてんきはくもり
 おやつは ひんやり あいすきゃんでー
 ぎゅうにゅうやとおもつたけど、ちがうかつた
 ばにらのあじでおいしい!
 (画面いっぱいの白い棒付きアイスキャンデーのイラスト。)
 おやつ日記をつけ始めて、一週間が経った。約束の期間の最終日である。エッちゃんは昨日の不思議な体験を思い出しながら、今日はどんなおやつが出てくるだろう、とわくわくしていた。最初はクッキー、次はホットケーキ・・・最後はなんだろう?もしかして、大好きなショートケーキ?と希望に胸をふくらませて待っていると、お母さんが持ってきたのは、コップに入った白い飲み物だった。エッちゃんが何かを言う前に、お母さんが先手を打った。
「エッちゃん、これ牛乳やと思ったやろ?実はね、これ牛乳じゃなくて、お母さん特製カルピスなのです!」
 自信たっぷり、というように胸をはったお母さんのキラキラした目がこれは自信作です、と告げている。お母さんの勢いにのせられて、エッちゃんはちょっとびっくりしながらもいただきます、と手を合わせてコップに手をのばした。しかし、あまりに牛乳に似た風貌に、コップを手に取ったはいいものの、飲むのをためらってしまう。その時、エッちゃんがふとお母さんを見ると、とても優しい表情で見守られていることに気づいた。少し安心したエッちゃんは、目を閉じてグイッと特製カルピスを飲んでみた。
「ん・・・おいしーい!」
 通常のカルピスよりも少しだけとろとろとした舌触りのそれは、とても濃厚で、カルピスを2倍3倍に甘くしたような濃さだった。濃厚でとても甘いが、いやになるほどではない。一気には飲めないのでちびちびと飲んでいると、いつもより時間がかかるのでお得感すら味わえる。ゆっくりと味わいながら飲み干した後、ごちそうさまでした、と言ってコップを机に戻すと、お母さんは本当にうれしそうな、ほっとした顔でエッちゃんの頭をなでた。
 9がつ16にち すいようび おてんきはあめ
 おやつは おかあさんとくせいかるぴす
 しろくて、ぎゅうにゅうみたい
 けどあまくて、おいしい!
 (大きなコップに白い飲み物がなみなみ注がれたイラスト。)
 おやつ日記最終日の夜、晩ごはんを食べ終わったエッちゃんに、お母さんが1冊のノートを手に持ち話しかけた。
「エッちゃん、おやつ日記7日間、よくやりきったね。」
 えらいえらい、とお母さんはエッちゃんをなでてから、実はね、と切り出した。
「お母さんもおやつ日記、つけてたんよ。エッちゃんの日記と、一緒に見ていこっか。」
 エッちゃんはびっくりしながらも、自分の日記とお母さんの日記を見比べ始めた。
 9がつ10にち もくようび おてんきはくもり
 おやつは サクサク クッキー
 小麦粉、お砂糖、ぎゅうにゅう、卵、バター、仕上げにグラニュー糖
 エッちゃんとってもおいしそうに食べてくれた。よかった、うれしい!
 9がつ11にち きんようび おてんきははれ
 おやつは ふかふか ホットケーキ
 ホットケーキミックス、ぎゅうにゅう、卵、バニラエッセンス、バター、メープルシロップ
 今日も全部食べてくれた。とっても幸せそうで、お母さんも幸せ
 9がつ12にち どようび おてんきははれ
 おやつは ぷるぷる プリン
 卵、お砂糖、ぎゅうにゅう、バニラエッセンス、カラメルのお砂糖、お水
 プリンを食べる姿がとっても楽しそう。後でわたしも食べよう!
 9がつ13にち にちようび おてんきはくもり
 おやつは トロトロ フレンチトースト
 食パン、卵、ぎゅうにゅう、お砂糖、バニラエッセンス、バター
 今日はお父さんも一緒に見ていた。本当においしそうに食べる姿に、お父さんも笑顔になっていた。
 9がつ14にち げつようび おてんきはくもり
 おやつは つるつる パンナコッタ
 生クリーム、お砂糖、ぎゅうにゅう、ゼラチン、お水、バニラエッセンス
 エッちゃんのお口の中でとろける様子が見えそう!イチゴにとっても喜んでいた。
 9がつ15にち かようび おてんきはくもり
 おやつは (ミルク)アイスキャンデー
 ぎゅうにゅう、練乳、バニラエッセンス
 エッちゃんがとうとう牛乳が入っていることに気づきそうになった・・・でもおいしそうに食べてくれた!よかったあ
 9がつ16にち すいようび おてんきはあめ
 おやつは お母さん特製カルピス
 カルピス、ぎゅうにゅう
「おかあさん!これ、ぜんぶ、ぎゅうにゅう・・・。」
 驚きと絶望を感じたような表情で、エッちゃんはお母さんの日記とお母さんの顔を交互に見た。お母さんは少し申し訳なさそうな顔をしつつも、笑顔でエッちゃんの手を握りながら語り始めた。
「そう、エッちゃんには言うてなかったんやけど、実は全部のおやつに牛乳が入っててん。だますようなことして、ごめんね。・・・エッちゃん、お母さんのおやつ、おいしなかった?くさかった?」
 エッちゃんはあまりの衝撃に開いた口がしまらなかったが、最後の言葉に、首を大きく横に振った。
「そんなことない!おかあさんのおやつ、ぜんぶおいしかったで!」
 お母さんは微笑みながらゆっくりうなずいた。
「ありがとう。お母さんも、エッちゃんがおいしそうに食べてくれてうれしかったで。
 7日間、エッちゃんは知らんうちに牛乳を飲んでたわけやけど、なんともなかったやろ?それどころか、牛乳はおやつをとってもおいしくしてくれててん。そんな牛乳って、魔法の飲み物やと、お母さんは思ってる。」
「魔法?」
 エッちゃんは魔法、という言葉に首をかしげた。牛乳って、そんなにすごい飲み物だったのか?もしかして、おいしいのだろうか?
「さて、おやつ日記を毎日続けられたエッちゃんには、ごほうびをあげなあかんね。」
 そう言ってキッチンに行き、戻ってきたお母さんの手にはコップに入った白い飲み物だった。お母さんは静かに、そのコップをエッちゃんの前に置いた。
「がんばったエッちゃんに、魔法の飲み物のごほうびです。」
 まじまじと牛乳を見つめるエッちゃんの表情は、以前の険しいものではなく、不思議な、素晴らしいものを見るようなものになっていた。しばらく見つめた後、エッちゃんは小さな声でいただきます、と言ってから牛乳をゆっくり飲み始めた。
 ごく、ごく、というエッちゃんののどの音だけが部屋に響いている。お母さんは固唾をのんでその様子を見守っていた。エッちゃんはついに牛乳を飲み干すと、ぷは、コップから口を離し、一言つぶやいた。
「・・・おいしいっ。」
 次の日、給食には牛乳が添えられていた。チエちゃんは自分の牛乳をごくごくと飲みながら、何気なく隣に座っているエッちゃんを見てみた。すると、そこには3ヶ月も飲んでいなかった牛乳を、とてもおいしそうに飲んでいるエッちゃんがいた。
 チエちゃんは牛乳を持ちながら、にっこり笑った。
 

 

「しおり」
142112

    1
 事の発端は今日の朝、靴箱の中に入っていた一通の手紙を読んだ時だった。二月の寒空の下、週明けで滅入る気分を引きずり校門をくぐる。上靴へと履きかえようとした時、異変に気付いた。靴箱の奥に、手紙らしきものが見える。僕は思わず周りを見渡して、周りに誰もいないことを確認してから靴箱の奥に手を伸ばした。
 それは一通の手紙だった。丸みを帯びた字で「末村有生様」と書かれた小さなクローバー柄の封筒の中には、「昼休みに屋上へ来てくれませんか?」とだけ書かれた手紙が入っていた。こういった話題には疎い僕でも、さすがにおおよその要件は察することができた。いつもの二倍は長く感じる授業を受け、そわそわする気持ちを抑えて昼休みに約束通り屋上へと向かった。
 屋上の扉を開けると、そこにいたのは同じクラスの上宮詩織だった。彼女は僕に気づくと、少し微笑んでこちらへと歩み寄ってきた。彼女がクラスで誰かと話しているのを見たことはなかった。当然、僕も彼女とはまともに会話したことはないから、こうして上宮詩織を前にするのは初めてだった。
「本当に来てくれたんだ」
「まぁね。それで、なにか用?」
 こういったことには不慣れすぎて、思わずぶっきらぼうな返事になってしまった。
「うん、実はお願いがあるんだ」
「何?」
 ドラマで見たような展開だ。僕は動揺と緊張を無理やり押さえ込み平静を保つ。
 数秒の沈黙のあと、彼女は僕の目をまっすぐ見て、口を開いた。
「私と、一週間だけ付き合ってくれませんか」
 ――一週間だけ?
「…えっと、一週間?」
 思わず聞き返してしまった。
「そうだよ?」
 彼女の目はいたって真剣だ。
 期間限定、ゲームじゃないんだから。意味がわからない。
「気を悪くしたならごめんね。でも、末村くんをからかおうとか、本気じゃないとか、そういうんじゃなくて、ちゃんと末村くんが好きだから、そこだけは信じて欲しいな」
 この女、さらっととんでもないことを言う。
「いや、でも、一週間とか…」僕はもごもご言いながら、しどろもどろに答える。
「…だめかな?」
 まっすぐな目で見つめてくる彼女。黒目がちの大きな瞳に見つめられると、なんだかそのまま吸い込まれてしまいそうだ。僕は思わず目を逸らした。
「いや、だめってわけじゃないけど……」
「ほんと?ってことはOKってこと?」
 まぁ…… 僕は声にならないような声を発するので精一杯だった。なんだか頭が回らない。一体どうしろというのだ。
 僕のうめき声のような返事を聞くと、彼女はふぅっと息をつき、その場にへたりと座り込んでしまった。
「よかったぁ。夢みたい」そう言うと、彼女は肩を震わせてすすり声を上げはじめた。
 ――泣いている?そんな大げさな…。
 僕はどうしたらいいか全く分からず、ただ「大丈夫?」と情けなく声を掛け続けることしか出来なかった。結局、昼休みが終わるまで彼女はずっと泣き続けた。その涙の本当の理由は、僕には分からなかった。
    
 2
「私、行ってみたいところがあるの」詩織は少しスキップしながら上機嫌で言う。僕はその後ろを歩いてついて行く。
 僕らはその日の放課後、一緒に帰ることになったのだった。冬の澄み切った空からこぼれる陽だまりが、ほんの少し温かい、高校二年生の冬。結局、事情もよく分からないままで、僕にとって初めての彼女ができてしまった。こんな大事なことですら、流されるがままで決めてしまうのか、と自分に嫌気がさした。そもそも、どうして詩織は僕のことを好きになったのだろう。それに、なにより「一週間だけ」の理由がさっぱり分からない。
 ああだこうだ悩んでいるうちに結構な距離を歩いていたらしい。「着いたよ」と言われて顔を上げると、そこにあったのは屋台のクレープ屋だった。
「一回ここに来てみたかったんだ」詩織は目を輝かせながらそう言って、店員にクレープを二つ注文した。
 詩織にこんな一面があったとは全く思いもしなかった。彼女はいつも教室では一人で本を読んでいて、誰かに話しかけているところも、話しかけられているところも見たことがない。なのに、今目の前にいる彼女は、表情豊かでちょこちょことよく動き回る。今も鉄板の上で薄く広がるクレープの生地を眺めるのに夢中になっている。まるでクラスにいる彼女とは別人のようだ。
 数分後、詩織は店員からクレープを二つ受け取ると、片方を僕に差し出した。「さ、食べよ?」僕は「ありがとう」と言ってそれを受け取った。作りたてのクレープからは、包装紙伝いに、ほんの少し温もりが伝わってくる。
 上宮はクレープを一口食べると「うわっ、どうしよう、すごく美味しい」と感想を述べ、残りのクレープもあっという間に平らげてしまった。すごい食べっぷりだ。僕は思わず彼女に目を奪われてしまっていた。
 食べ終えたクレープの包装紙を彼女はきれいに折りたたむと、「誰かと一緒に食べるクレープはこんなにも美味しいんだね」とこぼした。その横顔は、心なしか寂しそうに見えた。
 クレープ屋を後にして、僕らは夕焼けの中を歩いて帰った。しばらくお互い黙って歩いていたが、詩織が突然口を開いた。
「有生くん、今日はありがとう。とても楽しかった」
「こちらこそ」ぼくも答える。
「明日も一緒に帰ってもいい?まだまだやりたいことが沢山あるの」詩織はのぞき込むようにして僕に尋ねる。こうして上宮と目が合うと、なぜか断れなくなる。それに、正直に言うと、今日は僕も楽しかった。しかし、そんなことが詩織に言えるはずもなく、「まぁ、いいんじゃないかな」とだけ答えた。
 詩織は、よかった、と言って微笑むと、また二人で沈黙のまましばらく歩き続けた。
 もうすぐ詩織の家の近くに着こうかという所で、僕はどうしても気になることを率直に尋ねた。「ねぇ、どうしてあの時、一週間だけなんて言ったの?」
 詩織は少し微笑んで言った。「一週間じゃないと、だめなの」
 僕は「だめ」の意味が理解できなかった。しかし、詩織の微笑みの中に一瞬、悲しみの表情が見えたような気がして、それ以上のことは聞けなかった。
 
     3
 カラオケ、ゲームセンター、ペットショップ……。詩織は放課後になる度、色々なところに行きたがった。僕もいつの間にか詩織と放課後に帰るのが楽しみになっていた。
 金曜日、約束の一週間はあっという間にやって来た。
「やっぱり流行ってるだけあって良かったね。感動しちゃった」
 映画館からの帰り道、詩織はしみじみと語る。あのシーンは思わず泣きそうになったよ、なんて僕も言いながら、夕闇の中を並んで?いた。
 ふと、詩織が歩みを止めた。しばらく俯いたあと、パッと顔を上げて僕を見た。そして、笑顔で僕に語りかけた。
「有生くん、この一週間ありがとう。とても、楽しかった」
 僕は途端に現実に引き戻された気がした。??本当に、これで終わりなの?
「来週もまた遊びに行けばいいじゃん。一週間だけなんて言わなくても、毎日さ」
 詩織は少し微笑んだまま、小さく首を横に振る。
「そうだ、僕も行ってみたいところがあったんだ。来週行こうよ」
 詩織は黙ったままだ。
「…これで終わりなんて、嫌だよ」僕の声は、白い息となり、ふわりと舞い上がった後、スッと消えていく。まだ、詩織と一緒にいたい。
 しばらく沈黙が続いた。そして、詩織が口を開いた。
「だって、最初に言ったでしょ?一週間だけだって」
 詩織の声はとても儚く、消え入りそうだった。
 詩織は僕の目を真っ直ぐ見て、少し微笑んだ。そして、はっきりと告げた。
「もう、私に関わらないで」
 僕は頭が真っ白になった。気がつくと僕は、詩織に背を向けて走り出していた。
 この一週間は、詩織にとってはどんなものだったんだろう。もしかしたら、詩織にとっては、ただの遊びだったのかもしれない。きっと、来週になったら、何事もなかったかのように、いつもの日常に戻るんだ。まだ一緒にいたい、忘れられるはずがない。そう思っているのは、僕だけだ。
 それならどうして、僕にとどめの一言を告げた時、涙を流していたの?
 夕食もろくに喉を通らず、僕は明かりも点けずに、部屋で膝を抱えてうずくまっていた。思い起こされるのは、詩織の笑った顔、嬉しそうな顔、驚いた顔、そして泣いた顔。
 いつの間に詩織は僕の心に上がり込んで来たのだろうか。気が付くと詩織はそこにいて、僕の日常に彩りを与えてくれていた。だけど、どれだけ詩織のことを考えても、あの一週間に戻ることはできない。もう詩織と顔を合わせるのが辛い。月曜日が来なければいいのに。
 それでも時間は、いつも通りの正確さをもって進む。
 思ったよりも早くやってきた月曜日。重たい足取りで学校へ向かう。
 靴箱で上靴へと履きかえる時、上靴を手に取り、ふと靴箱の奥を覗き込んだ。先週はこの奥に手紙が入っていたっけ。今は何もない。空っぽだ。
 当たり前じゃないか。
 少し期待してしまった自分に対して腹が立った。もう終わったんだ。今日からまた、いつも通りの日常が始まるんだ。
 教室に入ると、僕の席のななめ後ろ、詩織の席に目がいってしまった。しかし、まだ詩織は来ていないようだ。詩織にどう接すればいいかわからなかった僕は少しほっとして、席についてただ静かに授業が始まるのを待った。
 一限が始まっても、詩織は教室に姿を見せなかった。どうやら今日は欠席らしい。もしかしたら、詩織も僕に会いたくないのかも知れない。
 詩織のいない学校はどこか無機質で、流れるように時間が過ぎた。僕は、詩織に会った時にどうしようかという事ばかり考えていた。
 ところが、次の日も詩織は学校に来なかった。その次の日も、さらにその次の日も。
 詩織が入院していると知らされたのは、詩織が学校に来なくなってから五日後だった。
 
    4
「来てくれるなんて思わなかったな」詩織は静かに言った。「先生には、絶対に内緒にしてくださいって言ったのに」
 詩織が学校に来なくなってから五日目、僕は居ても立ってもいられず、担任の先生に詩織が休んでいる理由を聞き出しに行った。表向きは家庭の事情となっていたが、「本当の理由を教えてください」と僕が何度も頼み込んだため、ついに先生が折れて、この病院の場所を教えてくれたのだった。
 一週間見ないうちに、詩織は明らかにやつれてしまっていた。詩織につながれた点滴が痛々しい。僕は、突然の事に言葉のかけ方も分からず、ただ詩織のベットの前で立ち尽くしていた。
 病室には、ただ、ピッ、ピッという機械音だけが流れている。まるで時が止まったみたいだ。
「私ね、明日手術するんだ」詩織が窓の外を眺めながら言った。「お医者さんは、心配しなくてもいいって言ってくれるの。でもね、分かるんだ。私はもう助からないって」
 詩織の言葉には妙な確信があった。まるで自分の目で確認してきたみたいな。
「私って本当に自分勝手だよね。突然告白しておきながら一週間で振って、勝手にこの世から去ろうとしてる」
 僕はようやく、詩織が一週間という期間を設けたのかが分かった気がした。
 ――詩織はこうなることが分かっていたのだ。もう自分の命が長くないことも。
「…本当に、自分勝手だよ」僕は、声を絞り出すのが精一杯だった。「それに、まだ助からないって決まったわけじゃない」
 詩織は僕の方を向いて、小さく微笑んだ。「決まってるよ。これは運命なんだよ。もう決まっていることなの」
「そんな運命、僕は信じない」
 しばらく沈黙が続いた。そして、詩織が口を開いた。
「私ね、有生くんと過ごした一週間、まるで夢を見ているみたいに幸せだった。私の人生を最期に色づけてくれた。だから、未練はないよ」
 詩織の瞳がこちらをまっすぐに見つめている。「最期」という言葉が僕の胸に突き刺さる。「最期」だなんて言わないで。
「最期になんかさせない。病気が治ったらまた遊びに行こうよ。だいたい、君は卑怯だ。自分から近寄ってきたくせに、『もう関わらないで』なんて言って、勝手に遠ざかって。あの一週間、幸せだったのは、僕に色をくれたのは詩織の方だ」僕は必死に詩織を繋ぎとめる言葉を探していた。
「だから、一人になろうとしないでよ。一人になんかさせない。だから――」最後の方は、ほぼ泣き声になっていた。
 詩織はただ、静かに涙を流していた。窓の外には粉雪が舞い、町を真っ白に染めていた。
 僕は神様なんて信じちゃいない。だけど、詩織が助かるなら何だっていい。何だってする。家の近くにある神社に立ち寄り、財布の中の全財産を賽銭箱につぎ込んだ。そして、手を合わせて必死に祈った。どうか、神様、詩織を助けてください。
 結局、その願いが届くことはなかった。
 次の日、詩織は静かに息を引き取った。
 
     5
 詩織がいなくなってからちょうど二週間が経とうとしていた。詩織がいなくても、当たり前のように日々は流れる。まるで詩織と過ごしたあの日々が嘘だったかのように。  
 僕に一通の届いたのは、ちょうどそんな時だった。三月のはじめ、桜もつぼみが膨らみ、少しずつ春の気配を感じるようになっていた。
 見覚えのあるクローバー柄の封筒には、差出人のところに「上宮詩織」と書かれている。僕は丁寧に封を開けた。その中には、詩織の、丸みを帯びた字で書かれた手紙が入っていた。
 
  末村有生様
  
  お元気ですか?私からの手紙が急に送られてきて、あなたはさぞかし驚いていることでしょう。実は、私がいなくなったら有生くんにこの手紙を送ってもらうように母に頼んでいたのです。
  突然だけど、有生くんにずっと隠していることがあります。実は私は、有生くんに告白する前に、一度死んでしまったのです。あなたは、何を言っているんだと信じてくれないかもしれないけど。
  私は以前から体が弱かったのですが、ある日、急に容体が悪化して入院することとなりました。週末に手術が決まり、私は、あぁ、このまま死んでしまうのかな、なんて漠然と思いながら白い天井を眺めていました。
  そして、手術の当日がやって来て、麻酔を受けて意識が遠ざかるとき、唐突に死への実感が押し寄せてきました。もしかしたら、このまま目が覚めることがのかも知れない。そう思うと急に怖くなりました。そんな時、思い浮かんだのは有生くん、あなたの顔でした。私はいつもあなたを席の後ろから眺めているだけだった。こんなことになるんなら、想いを伝えれば良かったな。逢いたいな。最期にもう一度、有生くんに逢いたい。薄れゆく意識の中で、私はその事ばかりを考えていました。
  有生くんは奇跡って信じますか?私もその時までは信じていませんでした。気が付くと、そこは病室ではなく、自分の部屋だったのです。なんだか夢を見ているような気分でカレンダーにふと目を向けると、日付が入院するちょうど一週間前になっていました。見覚えのある朝食、見覚えのあるニュース。信じられなかったけど、私は一週間前にワープしてしまったのだと気づきました。あなたに逢いたいという気持ちが、奇跡を起こしてしまったのです。でも、私は何となく分かっていました。時間が巻き戻ったからといって、私を待ち受ける運命には逆らえないことが。
  私が有生くんの靴箱に手紙を入れたのはその日です。あの時は驚かせてごめんなさい。一週間だけなんて、とんでもなくわがままだとは分かっていても、後悔したくなかった。正直いって断られるかも知れないと思ったけど、あなたは一週間、わたしのわがままに付き合ってくれました。
  約束の一週間はあっという間でした。私は有生くんに嫌われるつもりで「もう関わらないで」なんて言ってしまいました。私の最後のわがままに付き合ってくれた有生くんをこれ以上巻き込みたくなかったから。それに、一緒にいた分、別れが辛くなってしまうから。
  それなのにあなたは、私の病室にまで来てくれました。覚えていますか? あの時、あなたが私に『一人になんかさせない』と言ってくれたこと。すごく嬉しかった。たった一週間いっしょにいただけなのに、あなたは数え切れないほどの宝物を私にくれました。
  私はあの時言いました。「未練はない」と。でも、本当は、もっとあなたと色んな話をしたかった。色んなところへ行きたかった。もっと、有生くんと一緒にいたかった。
  最後までわがままばかりだね。
  私はいなくなってしまうけど、時々は私のことを思い出してくれたら嬉しいな。
 有生くんに逢えて本当によかった。
 さようなら。
 
                上宮 詩織
 
 溢れ出る涙を止めることはできなかった。ようやく、詩織の言葉の節々から感じる覚悟のようなものの正体が分かった。詩織はすべて分かっていたのだ。自分がもうすぐ消えゆくことを、自分にどれ程の時間が残されているのかを。
 詩織がいなくなってから数日間、詩織と会わなければ良かったのかな、なんて考えたりしたこともあった。こんなに辛くて苦しいなら、どうして詩織と出会ってしまったのだろう。
 詩織は時間を飛び越えて、僕のもとへとやって来た。そして、僕の心を優しくくすぐり、消えてしまったのだ。もう、詩織は帰ってこない。
 瞬間、突風が吹き抜けた。思わず僕は目をつぶる。ゆっくり目を開けると、僕の上に、ひらひらと桜の花びらが一枚舞って、詩織の手紙の上にふわりと着地した。この花びらは、もしかしたら詩織からのメッセージなのかもしれない。大丈夫だよ、ちゃんとここにいるよって。ただ、何となくそう思った。
 
 詩織がいなくても、新たな季節が始まろうとしている。四月のはじめ、僕は春の日差しを感じながら、学校へと向かう。詩織と過ごした日々は心の奥のいちばん大切なところにしまってある。詩織の仕草ひとつひとつを思い出すたび、心が温かくなる。
 詩織に会えて良かった。今なら、心からそう思える。
 桜が舞う校門をくぐると、靴箱へと向かい、靴を履き替えようと上靴を手に取った。

 

「それ」
142124

「やっと会えたね。」
 
 「それ」が初めて発した言葉だ。確か小学校を卒業してしばらくたったころだった。ある日部屋で起きたら突然話しかけられた。不思議と驚きはなかった。ただなんとなくそこにいるのが当たり前のような気がして、両親にも友だちにも話すことはなかった。気持ち悪いとは思ったが、別に害はなかった。ただ「それ」はいつも微笑んでそこにいた。
「いいじゃないか。似合っているよ。」
 中学校の制服の試着を見て、「それ」は言った。自分はあまり背が高くないので、学ランはあまりに合わないだろうと思っていた。その後同じように試着姿を見た母さんも同じようなことを言ってきたから、少しだけ自信がついた。
「いよいよだね。」
 中学校の入学式の日の朝、少し楽しそうな雰囲気で、「それ」は言った。父さんは私立の受験を進めていたが、母さんが中学校ぐらいは自由に選ばせてあげたいとのことで、結局友だちの多くが行く近所の公立の中学校に入学することになった。せっかく小学校でたくさんできた友達と別れるのは寂しかったので、母さんの気づかいはとてもありがたかった。受験勉強とやらをせずに済んだのもうれしかった。
「みんなと一緒になれてよかったね。」
 入学式の日の夜、「それ」は言った。一番の友達だった健太をはじめ、普段一緒に遊んでいる子たちのほとんどと同じクラスになることができた。一緒のクラスに慣れなかった子ももちろんいるので、それは残念だったけど、話し相手がいてくれてよかった。正直自分から話しかけるのはあまり得意じゃないので、新しい友達を作るきっかけが必要だ。
「部活はやっぱり野球部に入る?」
 今日、部活動についての説明と、入部届が配られた。小二から少年野球をやっていたので、
 中学でも続けようとは思っていたが、いっそ新しいことに挑戦するというのもありだとも思った。健太はきっと野球部に入るだろう。あいつは野球大好きだし、本気でプロ野球選手を目指しているらしく、努力量も実力もすごい。父さんは野球を続けるのに反対らしいが、母さんは好きにしていいと言ってくれた。どうしようか悩む。
「優しそうな先輩たちでよかったね。」
 結局野球部に入部した。初日は挨拶と簡単な体力測定みたいなものをやった。キャプテンも先輩方も歓迎してくれたし、監督も優しそうだった。これからはほとんど毎日練習になるけど、中学校生活がどんどん充実していく気がして、わくわくした。6月頭には一年生中心での試合もあるらしく、今から楽しみだ。
「やっぱり中学校にもなると勉強は難しいね。」
 なんとなく予想はしていたけれど、中学校の勉強は難しい。小学校の時は通信教育をやらされていたのと、成績が悪くなると野球をやめさせると父さんに言われていたおかげで、必死に勉強して、それ相応にいい成績だった。けど中学校の勉強は、最初の内はともかく、徐々に難しくなっていった。というよりも、小学校の時と比べて授業に集中できなくなってきている気がする。父さんは塾に通わせようと考えているらしい。母さんも特に反対ではないようだった。
「さあ、中学校で最初のテストだよ。」
 一学期の中間試験だ。とはいえ半分は小学校の時の復習なのでまだ簡単だ。ここと期末の試験を何とか乗り切って、父さんを納得させなければ塾に通うことになる。自由時間がどんどん減ってしまうのはあまりうれしくない。
「なんとかなったかな。」
 中間テストはいい出来だった。これなら父さんも納得してくれるだろう。けど油断はできない。この調子を続けなければ、父さんはすぐに塾に通わせようとするだろうし、野球をやめさせられてしまうかもしれない。
「久々の試合だ」
「それ」の声もはずんでいる。何しろ本当に久しぶりの試合だ。六年生の時の少年野球の引退試合以来だから、実に八か月ぶりに試合ということになる。しかし、元々野球を続けるかどうかさえ迷っていたほどなので、自主練なんか全然してなかった。この一か月半の部活動での練習で少しは感覚を取り戻しただろうとはいっても、流石に厳しいものがあるだろう。
「残念だったね。」
「それ」も少し落ち込んでいるらしい。案の定ろくな活躍ができなかった。それどころかミスばかりしてしまって、チームに迷惑をかけることになってしまった。これはもう少し真剣に練習しないと、野球部のみんなに申し訳がない。これからはもっと練習頑張ろうと感じた。ちなみに健太は四打数三安打一打点二盗塁一犠打の大活躍だった。守備ではファインプレーもして見せた。
「やっちゃったね。」
 やってしまった。中間試験が余裕だったからって、つい期末試験の勉強をおろそかにして、野球の練習ばかりに気をやってしまっていた。ものすごくひどかったというわけではなかったけれど、たぶん父さんは納得しないだろう。塾に通わされるに違いない。面倒くさいことこの上ない。
「なんとか一学期乗り切ったね。」
 ようやく一学期が終わった。ようやくとは言ったが、新鮮な中学校生活の日々は、すごい速さで過ぎ去っていった気がした。明日から中学校最初の夏休みだ。とはいえ、野球の練習ばかりになると思う。あと、どうやらこの夏休みに僕は塾に入れられるらしい。一学期の成績はそんなにひどくはなかったと思ったが、父さんは気に入らなかったのだろう。また成績が落ちたら野球をやめる約束をさせられた。
「塾の先生はわかりやすいね。」
 塾は個別指導だった。ほとんどマンツーマンでの授業なので、自分のペースで勉強できて分かりやすい。これなら二学期は一学期のようにはならないだろう。
「さすがにこうも練習続きだと疲れるね。」
 毎日朝か昼から半日の練習だ。夏休みには大会もあるので練習にも熱が入る。そして火曜と木曜、土曜には塾がある。休む時間が少なくて、疲れがたまってきているのがわかる。けど愚痴を言うわけにはいかない。そんなことが父さんの耳に入ればすぐさま部活をやめさせられるだろう。折角入ったのだから、辞めたくはない。健太と一緒に野球ができるのも中学校の内が最後かもしれないのだから。
「だいぶ授業についていけるね。」
 夏休みいっぱいで塾で予習しまくったおかげだろう。二学期がはじまり、始めは不安だったが、授業はとても分かりやすかった。塾と部活で完全に夏休みがつぶれて、遊ぶ暇がなかったのは残念だが、元々うちはお盆の帰省以外は旅行に行くこともない。友達に誘われたときに時間がないからと断るのはつらかったが、それだけの意味があったことが確認できた。
「運動会楽しみだね。」
「それ」は楽しそうに言った。確かに運動会は楽しみだ。僕は特別運動神経がいいというわけではないが、小学校から野球をしていたおかげで体力にはそれなりに自信がある。大活躍とはいかなくても、それなりの活躍ができそうな運動会は好きな行事だ。
「楽しい運動会だったね。」
「それ」の言う通り、満足のいく運動会だった。リレーや短距離走では相手にも恵まれて活躍できたし、ソーラン節も、前々から練習していた成果をしっかり発揮できただろう。見に来ていた母さんも、とてもいい踊りだと言ってくれた。
「試験何とかなってよかったね。」
 運動会の熱も冷めぬままに、中間、期末と試験が終わった。今回は塾のおかげもあって、いい成績を収めることができた。成績を見た父さんは何も言わなかったが、何も言わなかったということは納得したということだろう。よかった。
「冬休みも結局夏休みと同じだね。」
「それ」もよくわかっていたみたいだ。夏休みと同じように部活と塾の毎日だ。父さんは正月も仕事だし、正月の間は部活と塾で疲れた体を休めることのできる貴重な時間だ。友達からは久々に遊ばないかと誘われたが、あんまり気乗りしなかった。試しに遊びに行ってみたが、楽しさと引き換えに、とても疲れた。
「三学期だけど、あまりやることもないね。」
 一学期と二学期で大方の行事は終わってしまったから、もう部活と塾、試験ぐらいしかない。なんだかすごく早い一年だったような気がする。
 
 
「とうとう二年生だ。クラス分けどうなっているかな。」
「それ」も気になっているみたいだ。とはいえそうそう友だちみんなと離れ離れになることはないだろう。一年生の間にそれなりに新しい友だちはできた。部活の友達もいるし、入学式の時のクラス分けと比べると、とても気楽に始業式に向かうことができた。
「南部さんといっしょのクラスになれてよかったね。」
 珍しく「それ」の言っていることが理解できなかった。南部さんとは小学校の一緒だった女の子だ。六年間の内、一,二年生の時を除いて、四年間は一緒のクラスだったし、一緒に児童会にも入っていたので、確かに話す機会も多かったが、だからと言って同じクラスになることが特別うれしいかと言われてもよくわからない。
「だって南部さんかわいいじゃないか。」
 また珍しく「それ」と意見が合わなかった。僕は別に南部さんをかわいいと思ったことはない。別に何とも思ってない。
「部活もとうとう先輩になったし、ベンチ入りを目指さないとね。」
 たしかに。一年生は結構な人数が野球部に入ってきた。当然その中にはかなりの実力の子もいる。うかうかしていたらあっという間に追い抜かれてしまうだろう。もしかしたらもう追い抜かれているかもしれない。健太はこの夏に背番号をもらってベンチ入りするのがほぼ確定している。ともすればレギュラー入りもあり得るだろう。僕も頑張らないと。
「来週の試合は大事だね。」
「それ」も気合の入った声をしている。来週の試合の出来が、ベンチ入りの是非に大きく影響するだろう。監督は学年よりも、とにかく実力を重視するから、結果を出すことが何より大事だ。これだけは父さんにも言われ続けていたから何よりも理解している。結果を出すことができなければ意味がないのだ。
「残念だったけど、まだ秋があるよ。」
 結局練習試合では思ったような活躍ができなかった。特にミスがあったわけではないけれど、目立ったこともなかった。ちなみに健太は四打数四安打三盗塁二打点一ホームランで見事なアピールを見せていた。秋こそは何としても監督にアピールしてベンチ入りをして見せよう。
「いい感じに実力がついているじゃないかい。」
「それ」の言う通り、夏休みと二学期の頭はほんとに必死に練習した。おかげで初めて授業で居眠りをしてしまったが、練習での動きが明らかによくなっていた。この調子なら秋にはベンチ入りができるかもしれない。どっちにしても練習試合でのアピール次第ではあるのだが。
「いよいよ中学校生活のメインイベントの修学旅行だ。」
「それ」もはしゃいでいる。確かに修学旅行は楽しみだ。普段長期休暇でも旅行に行くことなんかほとんどないから、わくわくする。準備の間から、予定を立てるのが楽しくて仕方がない。
「どうするの」
「それ」が問いかける。同じ問いかけを何度も何度もしている。修学旅行で南部さんに告白されてしまった。予想もしてなかった事態だからほんとに頭が混乱している。自分がどうしたらいいのかがわからない。
「ほんとにわからない?」
「それ」がさらに問いかける。まるでこれから僕がどうするかわかっているかのようだ。
「どうしたいかわかっているでしょ」
 もはや問いかけですらなくなった。だけど、「それ」の言葉のおかげで、答えが出た気がした。
「秋は何とかベンチに入れそうだね」
「そいつ」もとてもうれしそうだ。練習でも練習試合でもアピールできたし、結果を残せた。これなら何とかベンチ入りはできるだろう。ちなみに、健太は秋の大会はレギュラーになれるかもしれない。
「選挙どうする?また立候補する?」
「そいつ」の問いにはもう答えが決まっていた。中学校に入学した時から、父さんに生徒会長にはなっておくように言われていた。幸い去年の選挙を見る限り、この学校はほとんど立候補がなくて、信任投票で選挙が行われるようだ。
「無事に会長になれてよかったね。」
 ほぼ大丈夫だろうとは思っていたけれど、内心はほっとした。これで万が一にも生徒会長になれなかったりしたら、父さんに合わせる顔がない。父さんは何も言わなかったが、なにも言わないということは満足しているということだ。よかった。
「文化祭が始まるね。」
 選挙も終わり、二年目の文化祭が始まる。一年生の時は学年全体で授業中に作った課題を展示するだけだったが、二年生では各々何か作品を作って展示する、もしくは披露することになっている。できれば得意分野を活かせるようなものがいいそうだが、僕は何か得意なことがあっただろうか?
「絵を描けばいいじゃないか。一時一心不乱に絵の練習をした時期があっただろう。」
 そういえば「そいつ」の言う通り、小学校の時やたらと絵の練習をしていたことがあった。健太あたりにモデルを頼んで人物画でも描いてやろう。ちなみに健太は目隠しキャッチボールなるものを披露しようとしたところ、当然のごとく暴投して窓を割って、監督と先生にこっぴどく怒られた。
「やっちゃたねえ」
「そいつ」も沈んだ雰囲気だ。修学旅行だの大会だので、またしても勉強をおろそかにしすぎてしまった。中間テストもよくはなかったが、期末テストがあまりにもひどすぎた。当然成績のほうもよくない。思っていた以上に父さんに叱られてしまった。はっきりとは聞いてはいないが、どうやら部活をやめさせて塾の時間を増やそうとしているらしい。折角ベンチ入りも果たして、来年にはいよいよ最後の大会だっていうのにここでやめさせられてはたまらない。何とか死ぬ気で頼み込んで、部活だけは続けてもいいということになったが、塾の時間は増やされた。おそらく次はないだろう。気を付けないといけない。
「三学期は何とかなりそうだね」
 久しぶりに必死に勉強した気がする。幸い冬は大会がないから、部活も緩い。何とか勉強するだけの体力を残して塾に回すことができた。おかげで二学期に比べるとはるかにまともな成績をとることができた。これで進路のほうも何とかなるだろう。父さんは何も言わなかった。
 
 
「とうとう三年生だね」
 何だかあっという間に三年生になってしまった気がする。この年は本当に大切な年だ。野球部の最後の大会もあるし、何より受験勉強が始まる。この受験勉強はほんとに本気で頑張らないと。
「進路はどうするつもりなの?」
 決まっている。というより決められている。父さんは僕に自分と同じ医者になってもらいたいらしい。そのためには高校選びも大切だ。おそらく父さんが良い高校を選んでくることだろう。僕はそこに受かるように勉強するだけだ。
「ほんとにそれでいいの?」
「そいつ」は時々よくわからないことを言う。いいに決まっているだろう。今までもそうやって来たのだから。
「僕はほんとに医者になりたいの?」
「そいつ」の問いかけに、僕は答えることができなかった。
「いよいよ最後の大会が近づいてきたね。」
「そいつ」もうきうきしている。三年間の努力が試される時だ。興奮しないほうがおかしいだろう。辞めさせられそうにもなったが、何とかここまで来たのだ。何としても結果を残さなければならない。ベンチ入りはできたし、レギュラーで安定することができた。ちなみに健太は四番でほぼ定着している。
「残念だったけど、できる限りのことはしたよ。」
 優勝することはできなかったが、全力で戦い抜くことができた。成績も満足のいく結果だったし、文句なしにいい部活生活だった。ちなみに健太は四試合でホームランを五本も打った。父さんはただ一言、これからは勉強に集中しろ、とだけ言ってくれた。
「いよいよ眼を背けていられない時期が来たよ。」
 二学期のはじめ、進路希望調査の紙が配られた。確定ではないが、先生たちはこの調査を基に進路相談や授業計画を固めるだろう。塾でも同じだった。父さんはS高校に行くように言った。なぜかその日、僕は調査票に「それ」を書くことができなかった。
 
 『お前進路希望出した?』
 『いや、まだ出せてないよ。健太はどうするの?確かD高校から野球で呼ばれているでしょ?』
 『いや、かなり迷ったけど、A高校受けることにしたわ。』
 『なんで?A高校って別に野球強くないでしょ?無理とは言えないけど、プロ野球選手になるならD高校行って活躍したほうが現実的じゃない?』
 『いや、俺もうプロ野球選手はいいかなって思って。』
 『なんで?あんなに言っていたのに。健太ならなれると思うよ。』
 『なれるかどうかじゃなくてさ、俺はプロ野球選手よりも料理人になりたいと思って。A高校ってそういう職人系の夢を支援する制度が確かあったから。』
 『なんで料理人に?』
 『いやまあ漫画の影響だけどな。そういうのもありだと思ってさ。お前も迷っているならA高校いっしょに行こうや。確か漫画家も支援の対象だったし。』
 『いや、僕は医者にならないといけないから』
 『あれ、お前こそ小学校の時に漫画家になりたいって言ってなかったっけ。何で医者なの』
 『それは・・・』
 
 
 健太の問いかけに、僕は答えることができなかった。
 
 
 確かに、僕は小学校のころ漫画家になりたかった。理由は今では忘れてしまったけれど、面白いものを僕も作り出してみたいとか、そんな感じの理由だったと思う。見よう見まねで絵の練習もたくさんした。たしか、父さんと母さんにも話したことがあったはずだ。
「けれど諦めてしまったよね。」
 漫画家になりたいといわれた時の父さんの悲しそうな顔は今でも覚えている。そんな職業では安定した生活ができない、と。もっと現実的に考えてくれ、と。普段はあまりしゃべらない父さんが、その時はすごく饒舌だったから、とても印象に残っているのだ。母さんは何も言わなかった。いつものように、好きにしろ、とは言わなかった。まるで僕の出方をうかがっているようだった。
「結局、しょせん小学生に過ぎなかった僕は、あっさり父さんの言うことを聞いてしまった。」
 だってしょうがないじゃないか。今までそうやって来たのだから。
 僕は「それ」以外のすべを知らないのだから。
「本当にそうだった?」
「僕」は僕に問いかける。今までほんとに「それ」だけだったのだろうか。「それ」だけで
 ほんとに満足していただろうか。
「この中学校に入れた時どう思った?」
 父さんの言った受験をしなくてすんでよかった。友だちと一緒にいられてよかった。
「運動会で活躍できた時どう思った?」
 野球で鍛えていてよかった。野球を続けていてよかった。
「修学旅行はどうだった?南部さんに告白されてどうだった?」
 とても楽しかった。南部さんと同じ中学校に来ることができてよかった。
「最後の大会はどうだった?」
 勝てなかったけれど、望んでいた結果とは違ったけれど、とても満足だった。二年生の時
 に、素直に辞めないでよかった。野球を続けていて、本当によかった。
「もう一度聞くよ。本当に『それ』だけだった?」
「僕」が僕に問いかける。僕はそれに面と向かって答える。
「『それ』だけじゃなかった。今の僕は『それ』以外のものを知っている。」
 僕の答えを聞いて、「僕」は満足そうに微笑んだ。僕もつられて微笑む。
「もう大丈夫だね。」
 僕は僕に問いかける。
「もう大丈夫だよ。ありがとう。」
 僕は僕に感謝する。
「もう僕は必要ないかな。」
 僕は寂しそうに微笑む。
「おかしなことを言うなよ。」
 僕は僕に答える。
「僕はいつでもここにいる。必要とか不要とかじゃないだろう。」
 僕は笑って僕に言う。
「僕は僕だ。本当に時間がかかったけれど。」
 
 
「やっと出会えたね。」
 
 
 父さんと母さんが僕の言葉を待っていた。
「僕はA高校に行きたい。漫画家になる勉強をしたい。」
 母さんが問いかける。
「本当に『それ』でいいのね?」
 僕はその目を見てうなずく
「そう。だったら自分の好きなようにしなさい。」
 母さんは微笑んで、父さんを見る。僕も一緒に父さんを見る。
 
 父さんは何も言わずに、ただゆっくりと頷いた。

 

「ダブルス」
142203

「お前はなんでそこであきらめるんだ。やる気がないならコートから出ろ。」
 また、いつものように小谷先生の怒号がグラウンドに響きわたる。みんなの視線が一斉に一コートに集まる。二コートで玉拾いをしていた私は「またか。」と思いながら、一コートの方を見る。怒られた先輩は今にも泣きだしそうな顔でコートの端に立ちつくしていた。
「もういい。お前ら全員走ってこい。」
 先輩の中途半端な態度が気に食わなかったのだろう。一年生の私にまで被害が及ぶ。小谷先生は怒るとすぐに部員を走らせる。近くに中央公園と呼ばれる一周一キロメートル以上の大きな公園があり、先生が「やめ」と言うまでその外周を走らなければならない。走るのは大嫌いだし、先輩が怒られるようなことをしたのに、私まで走らされるのは納得いかなかった。
「なんでこんな厳しい部活に入ってしまったんだろう。こんなはずじゃなかったのに……。」
 部活に入って一ヶ月、毎日そんなことを思いながら練習に参加していた。
 
 小学生の頃は、野球部に所属していた。女子部員は私一人。大会には出られなかったが、誰よりも必死に練習をした。嫌なことやつらいこともたくさんあったけど、野球をやれているだけで幸せだった。小学校の部活を夏に引退してからは、ソフトボールの練習を始めた。中学校でソフトボール部に入って、エースで四番になることが小学校四年生からの私の夢だった。
 小学校卒業を間近に控えた二月、とんでもない噂が私の耳に入ってきた。
「来年、ソフトボール部は新入部員を募集しないらしいよ。」
 絶望した。中学校に行く意味がない、とさえ思った。今まで顧問だった先生が異動となり、顧問がいない部活に新入部員を受け入れるわけにはいかない。これが、私がソフトボール部に入れない理由だった。
 
 中学の入学式を迎え、私は何の希望も目標もなく、中学校の門をくぐった。校門の前に列を作り、記念撮影をしているみんなの笑顔がとてもまぶしく感じた。
 数日後、部活紹介があった。一年生全員が体育館に集められ、部活動ごとにパフォーマンスをしながら、活動日や過去の大会成績などを紹介していく。私は絶対ないとわかっていても、ソフトボール部も出てくるのではないかと心の中で期待していた。
「私たち吹奏楽部は、部員七二名で毎日練習に励んでいます。毎年、全国大会に出場しているので、みなさんもぜひ一緒に全国大会での金賞を目指しましょう。」
「どうも〜、野球部です。……よろしくお願いします。」
 次々に部活動紹介が行われていき、結局ソフトボール部が出てこないまま部活動紹介が終わった。私の夢は叶えるチャンスさえ与えられなかった。教室に帰る途中、小学校も同じだった田中あゆみが後ろから声をかけてきた。
「りさ、何部入るか決めた。」
「え、あっ、いや〜、部活に入る気はないかな。」
「そうなの。なんか入らなきゃ中学校つまらなくなっちゃうよ。」
「別にいいよ。」
 私はソフトボール部に入れないことが確定した悔しさを押さえきれずに投げやりな態度をとった。でも、りさはそんなことを一切気にしない様子で続けた。
「私、ソフトテニス部に入ろうと思うんだ。りさ、野球はやらないの。」
 中学校でも野球部に入ることを考えなかったわけではない。でも、もう三年間練習だけで、大会に出られない部活をやろうとは思えなかった。
「うん、野球はもうやらない。」
「そうなんだ……。もったいないね。じゃあ、一緒にソフトテニス部に入ろうよ。たしか、テニス習っているんだよね。」
「うん。テニスは習っているけど、部活はね。まあ考えとくわ。」
 誘ってくれたことは嬉しかったし、テニスの経験もあったが、あまり乗り気にはなれなかった。
 
「ただいま。」
 家に帰ると、母がすぐに部活動紹介について聞いてきた。ソフトボール部がなかったことを伝えると、「そっか。残念だったね。」とだけ言って夕食の準備を始めた。
 夕食の時間、母が思い出したかのように口を開いた。
「りさ、何部にするの。」
 私は、この言葉が嫌だった。入ること前提かよと思った。
「多分入らない。」
 私が正直に話すと、母の表情が変わった。
「あんた、部活に入らないでどうするの。」
 どうするもこうするも、普通に中学校生活を送るつもりだ。別に母に心配させるような不良になるつもりはない。いや、なれない。外部のソフトボールクラブに入ることも考えていたが、言い出せなかった。
「どうするって、どうもしないけど……。」
「部活には入りなさい。」
「なんで?」
「なんでも。」
 強引な母をにらみつけほんの少し反抗をしてみたが、母は平然としている。これ以上話をしても無駄だと思い、黙って夕食を済ませ自分の部屋に戻った。ベッドの上で、いろいろなことを考えたが、「ソフトボール部に入れないなら、部活なんかやっても面白くない」と決めつけていた。
 
 
「今から、テニス部の見学に行くんだけど一緒に行かない。」
 次の日の放課後、声をかけてきたのもあゆみだった。
「うん。良いよ。ちょっとだけね。」
 部活に入る気はないが、断るのも面倒くさい。家に帰れば、また母が「部活に入りなさい。」と言ってくるだろうから、時間つぶしにはちょうど良かった。少しだけ見て、早めに帰るつもりだった。
 パコーン……パコーン…カッ
 パコーン……パコーン…
「あっ、ごめーん。」
「いいよー。」
 ミスばかりでお世辞でも上手だとは言えない。しかも、失敗を悔しがることなく笑いながらやっている。何が楽しいのかわからない。
「先輩、かっこいいね。」
 あゆみは、テニスの上手い下手など関係なく、テニスをしている姿に憧れているようだった。
 パコーン……パコーン……パコーン…………
 足元にボールが転がってきて、先輩がそのボールを拾いにこちらへ走ってくる。
「あっ、一年生? ソフトテニス部入るの?」
「はい。」
 隣であゆみが嬉しそうに満面の笑みで答えた。
「あなたは。」
 先輩の視線が私に向く。
「はい。……いや、迷っています。」
「ふふっ。まぁ、ゆっくり見ていって。できれば入って欲しいけど、他にもたくさん部活あるからゆっくり考えればいいよ。もし、練習に参加してみたければ、ラケットは貸してあげられるから明日体操服持ってきな。」
「はい。ありがとうございます。」
 先輩がコートに戻ると、あゆみは強めに私の肩をたたいた。
「ねぇ、練習参加できるんだって。明日、体操服を持って来よう。」
「う、うん。」
 あゆみのテンションの高さに押され気味で私は答えた。結局、一年生の完全下校時間である一七時まで練習を見学し、学校を後にした。帰り道今まで見たことがないほどあゆみのテンションは高く、今にもスキップをし始めそうな勢いだった。
 
「ただいま。」
「遅かったね。部活行ってきたの?」
「うん。」
「何部?」
「ソフトテニス部。」
「いいじゃない。あんたテニス習っているから、すぐレギュラーとれるんじゃない。」
 母は私が部活に行ったことが嬉しかったのだろう。冗談半分に上機嫌で話してくる。私には、それが気に食わなかった。
「いや、あゆみが行くっていうから一緒に見学してきただけ。部活に入る気はないっていうのは変わらないから。」
 わざとそっけない態度で接する。
「ふーん。何でそんな頑なに部活入らないって言うの。」
「別に。ソフトボール以外に部活やってもおもしろくないと思っているだけ。」
「そんなん、あんた次第でしょ。」
 母が突然怒り出したことに、私は驚いた。心のどこかで母だけはソフトボールができない悔しさを理解してくれていると思っていたから、もっと優しく励ましてくれることを心のどこかで期待していたのかもしれない。
「ソフトボール部に入れないことが悔しいのはわかるけど、それを言い訳に逃げているだけじゃないの。何か楽しめるものをみつけなさい。」
 母が言ったことは正しかった。何も言い返せず、自分の部屋に逃げ込んだ。
 
 次の日の放課後、あゆみと約束した通りソフトテニス部の練習に参加した。練習に参加するといっても、ラケットにボールをのせて走ったり、ラケットの上でボールをついたり、ボールに慣れることを目的とした、基礎中の基礎練習だった。テニス経験のある私には、簡単すぎて物足りなかった。あゆみは、失敗ばかりで何度もボールを拾いに走り回り、なかなか終わらない。
「りさ、やっぱりうまいね。」
「そんなことないよ、もっと肩の力を抜けば楽にできるよ。」
 あゆみが終わるまで、何度かアドバイスをしながら、暇を持て余して勝手に壁当てをしていた。
「おい、そこの一年、ちょっとこっち来い。」
「はい。」
 先生に呼び出された。「やばい……怒られる。さっそく目をつけられた……」そう思いながら急いでパイプ椅子に足を組んで座っている先生の前に立った。サングラスをかけているため、全く表情が読み取れない。
「すみま……。」
 とりあえず謝ろうとしたが、その言葉を先生は遮った。
「お前、名前は。」
「あっ、桑原理沙です。」
「あっくわはらりさっていうのか。」
 先生はそんな冗談を言って笑った。
「テニス経験は?」
「あります。硬式ですが、四年前から習っています。」
「やっぱりな。いい振りしてる。」
「ありがとうございます。」
「ソフトテニス部に入る気はあるのか?」
「はい。まだ迷っていますが……。」
「そうか、まあしっかり考えて決めなさい。」
「はい。」
 怒られなかったことにホッとする気持ちと、褒められたことの嬉しさが入り混じって、思わず笑みがこぼれた。気づいたら「この部活なら楽しいかも」と思うようになっていた。
 結局、仮入部期間は毎日あゆみとソフトテニス部の練習に参加し続けた。時間つぶしになるから私にとって都合がよかった。そんな軽い気持ちで毎日参加していたが、先生や先輩にも名前を覚えてもらい、部員の一員として扱われているような気がした。練習も楽で、先生も先輩も優しかった。しかも、今頃「入部しません」とは私の性格上言えない。相変わらず母も「部活に入りなさい」と毎日口癖のように言ってくることもあり、私は仕方なくソフトテニス部への入部を決めた。もちろんあゆみもソフトテニス部に入部した。
 
 入部が確定して、最初に行われたのはミーティングだった。今までとは明らかに先生も先輩も雰囲気が違った。
「この部活は、団体での県大会出場を目指している。」
 先生は本気でこの言葉を口にした。私は耳を疑った。「あのレベルで、あんな練習をしていて県大会なんて無理だ」内心でつぶやきながら、先生の話を真剣に聞いた。
「三年生はあとわずかだから、今まで以上に本気でやれよ。」
「はい。」
「じゃあ、Aチームは一コート、B・Cチームは二コート、残りの二・三年生は三コートでサーブ練習から始めろ。一年生はここに残りなさい。」
「はい。」
 二・三年生が教室から出ていくと、先生は一年生を席に座らせ二枚の紙を配った。
 一枚はこの部活のルールが書いてあるもの、もう一枚はどうやら目標などを書くものらしい。
「いいか。まずは挨拶や準備・片付けなど当たり前のことは当たり前にできるようにしなさい。」
「……。」
「返事。」
「はい。」
「さっきも言ったが、この部活は団体で県大会出場を目指している。県大会に出るためには、約七〇チーム参加する市大会で四位以内に入らないといけない。」
 私はどこか他人事のような気がして、頭に入ってこなかった。大会に出られるのもまだ先の話だろうし、まあ楽しくやれればいいや、くらいにしか思っていなかった。
「この部活では、毎月部内戦をやっている。そこでの順位によって、チーム分けを行う。一年生も二年生も三年生も関係ない。結果を残したものが大会に出られる。一年生は、七月から参加するから頑張りなさい。」
 私にもチャンスはある。とっさに私はそう思った。どうせ部活をやるなら大会に出たい。中学からテニスを始める子が多い中で、硬式とはいえテニス経験者の私は明らかに有利な状況だ。問題は、ソフトテニスがダブルスであるということ。つまり、ペアが誰になるかが問題だった。
「廊下に身長順に一列に並びなさい。」
「はい。」
 私はすぐにあゆみを探した。私たちは身長がたいして変わらないからだ。
「あゆみ、何センチ?」
「一五九.二。」
「じゃあうちの方が小さいな。一五八.九だわ。」
 一年生二十八人が順番に並び終えると、私が十四番目、あゆみが十五番目だった。
「ここでわかれるな。」
 先生は私とあゆみの間に入りこう告げた。
「桑原までが後衛、それ以降は前衛だ。後衛と前衛でペアを組め。七月の部内戦まではそのペアでいく。決まったら二人で目標を考えてプリントに記入し、提出しなさい。」
 あゆみは、私の方を見ていた。
「りさ、ペア……。」
 あゆみは私とペアを組もうと思ったのだろう。あゆみと組めば楽しくテニスができることはわかっていたが、私はどうしても勝ちたかった。あゆみには申し訳ないと思いつつ私は聞こえないふりをして、あおいを探した。あおいは仮入部で初めてできた友達だった。私と同じく硬式テニスの経験があるらしく、基礎練習も簡単にこなしていたため、ペアを組めば少なくとも一年生の中では最強ペアになることは疑う余地がなかった。
「あおい、ペアを組もう。」
「いいよ。」
 あおいはペアを組めれば誰でも良かったみたいだが、私は最強のペアを組むことができたことに満足した。
「目標だって……。どうする。」
「なんでもいいよ。」
 あおいはあゆみとは真逆の性格だ。何だか物足りなさを感じたが、試合で勝つことさえできれば良いと思った。
「部内戦で勝つ、でいいか。」
「う、うん。」
 あおいは勝つことに対してこだわりはなかったようだが、目標はそれに決めた。目標を記入して提出した。
 
 入部して一ヶ月。仮入部の時の優しさは何だったのかと思うほど先生も先輩も怖かった。決して笑いながらテニスをすることはなく、お世辞抜きで本当に上手だった。あとから聞いたことだが、毎年仮入部の時期は部員を集めるため新入生がいる間だけ楽しいアピールをするらしい。卑怯な手口で、「詐欺じゃないか」とも思ったが、一度入ってしまった部活を辞めることはプライドが許さなかった。
 練習も厳しかった。初日は中央公園を三周だったランニングは最低でも五周となった。その上、誰か部員が先生に怒られると連帯責任として走らされる。先生が怒らない日はめったにないから、毎日一〇周以上走っていた。一年生がラケットを持たせてもらえるのは二日に一回程度。それもほとんどが玉拾いや仮入部の時にやっていた基礎練習ばかりだった。唯一、コートに入って練習できるのは土曜日の一時間だけ。この時間だけがイキイキと活動できた。雨の日なんかは最悪だった。校舎の階段を片足や両足ジャンプでの昇り降りを繰り返し、それが終われば腹筋や背筋などの筋力トレーニングが延々と続いた。
 どんな練習よりもしんどかったのは、常にペアで行動することが義務付けられていたことだ。あおいは間違いなくテニスは上手だったが、性格は合わなかった。ペアではあったが仲が良いわけではなく、不満を口にすることもできなかった。あおいはほとんど無表情で声も小さかった。私たちペアが怒られるのは決まってあおいの声が小さいことが原因だった。しかも、連帯責任とされてペアで走らされることも少なくなかった。毎日のように「声出しいこう」と声をかけてみるが、小さくうなずくばかりで改善される兆しさえ見えなかった。テニスで勝てればそれでいい。先生の前以外ではペアで行動することはなかった。
 なかなかボールを打たせてもらえないことは想定していたが、こんなにもどかしい日々が続くとは思ってもいなかった。まして、毎日連帯責任とやらでこんなにも走らされることに納得がいかなかった。気づけば毎日のように「なんでこんな厳しい部活に入ってしまったんだろう。こんなはずじゃなかったのに……。」と考えるようになっていた。テニスの楽しさなんて感じることもなく、やりがいさえ見いだすことができなかった。あゆみも同じ状況であるはずなのに、入部当初よりも楽しそうに練習に参加していた。私はそんなあゆみが少しうらやましかった。
 
 六月になると、コートでの練習が増えた。三年生は最後の大会に向けて、一・二年生は部内戦に向けてペアでの練習が本格的になった。一年生の多くがサーブ・レシーブで苦戦するが、私たちはそんなこと一切なかった。技術的な面では部内戦まで充実した練習を行うことができ、一年生の中では一番になれる自信があった。しかし、相変わらず仲は深まらないまま、部内戦を迎えた。
 
 部内戦は、まず一年生同士の予選トーナメント戦が組まれていた。一年生は二十八人、十四ペア。そこで二位までに入ったペアが決勝トーナメントに進むことができる。予選トーナメントはくじ引きで決めたが、運よくシードに入ることができた。つまり、二回勝つことが決勝トーナメントに進む条件だった。部内戦のルールは三ゲームマッチ。二ゲーム先取した方が勝ちとなる。
 ウォーミングアップを終えるとすぐに部内戦が始まった。私たちの対戦相手は、田中あゆみ・後藤れなペア対高橋ももこ・平山ゆいペアの勝者だった。あゆみには悪いが、実力的におそらく高橋・平山ペアが勝つだろうと思いながら、一応試合を観戦していた。案の定、田中・後藤ペアはミスが目立った。それでも、二人は本当にテニスを楽しんでいた。ポイントを取るたびに高い声で「よっしゃ、ラッキー」と叫び、相手を圧倒した。テニスの技術としては高橋・平山ペアの方が高いレベルであることは誰が見ても明らかだったが、接戦の末田中・後藤ペアが二―一の接戦を制した。さっそく番狂わせが起こった。私は、負けるわけがないと自分に言い聞かせたが、負けたらどうしようと焦っていた。あおいとゆっくり話をする間もなく、私たちの出番となった。
「今から、桑原・石田ペアと田中・後藤ペアの試合を始めます。礼。」
「お願いしまーす。」
 私は緊張でガチガチだったが、あおいはリラックスした様子ですぐに前衛のポジションについた。
「三ゲームマッチ、プレイ。」
 審判のコールを合図に試合が始まる。私たちはサーブを選択したため、私のサーブからだ。さっきの試合を見る限り、ファーストサーブを入れることさえできればレシーブはほとんど返ってこない。つまり、このゲームを取ることができる。練習でのファーストサーブが入る確率は七割を超えていた。
 いつも通りトスを上げたつもりだったが、少し前にズレる。体勢を崩して無理に打ったサーブは、ネットにかかった。あおいがボールを拾い、何事もなかったかのように構える。
 セカンドサーブは無事に相手コートに入ったが、相手の正面だった。クロスに短いボールが返ってきた。私は全く反応ができず、一歩も足が動かなかった。
「よっしゃ、ラッキー。」
 相手の高い声がコートに響く。私が呆然と立ち尽くしていると、あおいはボールを拾って何も言わずに私に渡した。たった一ポイントを取られただけなのに、もう負けたような気がした。
 それからも、ファーストサーブは全然入らなかった。セカンドサーブは、相手の打ちにくいところを狙ったが、逆にたまたま当たった予測不能なボールばかりで苦戦を強いられた。ポイントを取っても喜びもせず淡々と試合をしていた。次のポイントを取られたら一ゲームを落とすという大事な場面を迎えた。サーブを打つ私の手は汗で濡れ、ラケットが滑るほどだった。手汗をふき、深呼吸をしてサーブを打つ準備を整える。いつも通りトスを上げ、思いっきりラケットを振りきる。打った瞬間、やっと入ったと思った。
「フォルト」
 審判のコールは入っていないことを意味した。「嘘だろ」と思ったが、文句は言えない。仕方がないのでおとなしくセカンドサーブを打った。油断したんだろう。無情にもネットにかかった。
「やったー。」
 相手の喜ぶ声が聞こえ、周りで見ていた部員のザワついていることはわかった。第一ゲームを終えて、コートチェンジを行う。私は、初心者ペアに、しかもあゆみに一ゲームを取られるとは思ってもいなかったため、現実を受け入れることはできず、明らかに動揺していた。
「桑原、早くしろ。」
 先生の怒った声が聞こえ、周りを見ると、他のメンバーはすでにコートチェンジを済ませていた。
「ごめん……。」
「うん。」
 すでに前衛のポジションについていたあおいに謝り、レシーブの構えをとった。
「ゲームカウント一―〇。」
 審判のコールで第二ゲームが始まった。相手のサービスは、ファーストもセカンドも関係なく山なりのサーブだった。私たちにとってはチャンスボールだったが、第一ゲームのミスを挽回するため、丁寧に返すことを心に決めた。
「入るよー。」
 あゆみのサーブは、れなの声に導かれ私のコートで弾む。慎重に、と思えば思うほど体が硬くなるのがわかった。相手のコートには入ったが前衛の目の前に山なりのボールが返った。私もあおいもスマッシュに備えて後ろに下がったが、れなのラケットに当たり損ねたボールは前に落ちた。
「ナイススマッシュ。」
「当たり損ねだよ。」
 相手は嬉しそうにハイタッチをする。
「ごめん。」
 もう私は謝るしかできなかった。申し訳なかった。
「いいよ。」
 あおいはそっけなかった。いつものことだが、なんとなく寂しかった。次のポイントは葵のレシーブが決まった。一―一。「次こそ決めてやる。」そう思ってレシーブの構えをとる。チャンスボールのようなサーブが入ってきた。とにかく思いっきりラケットを振った。ボールは返ってこない。審判の方を恐る恐る見るとインの合図。「やっと入った。」心の中でそうつぶやきながら、小さくガッツポーズをした。相手みたいにハイタッチをしたかったが、あおいはすぐにレシーブの準備をしていた。あおいはポイントを取っても取られても、淡々と試合をこなす。喜ぶこともなければ、下を向くこともない。第二ゲームは、最初の一ポイントだけ私のミスで取られたが、何とか第二ゲームをとり、最終ゲームに持ち込むことができた。
「ゲームカウント一―一。」 
 最終ゲームはあおいのサーブの番だ。ボールを拾いあおいに渡す。
「入るよ。」
 あおいは聞こえなかったのか、何の反応もせずトスを上げた。ファーストサーブが入った。「よし、決まった。」そう思ったが、私とあおいのちょうど中間にボールが返ってきた。私とあおいはお見合い状態だった。どちらかが声をかけるわけでもなく、取ろうとさえしなかった。あおいはすぐにボールを拾いに行き、言葉を交わすこともなくサーブを打つ準備を始めた。私はもうどうすれば良いかわからなかった。あおいはファーストサーブを確実に入れたが、なんとなくラケットに当たったようなボールが返ってくる。落ち着いていつも通りプレイすれば何ともないボールだが、気持ちが空回りして普通にプレイできる状況ではなかった。今までミスをしなかったあおいさえもミスを繰り返し、気づいたらゲームが終わっていた。
「ゲームカウント二―一、田中・後藤ペアの勝利、礼。」
「ありがとうございました。」
 
 まさかの敗退に気持ちの整理がつかないまま、先生のところへ走っていく。試合が終われば必ず先生のところへ行き、アドバイスを受けるのが決まりだった。
「お願いします。」
「お前ら、今まで何してきたんや。」
 正直、怒鳴られると思っていた。しかし、低い声で冷静に発せられたその言葉は、今まで怒られたものとは比べものにならないほど怖かった。
「俺が言いたいのは、テニスの上手い下手じゃない。今まで、何のためにペアで行動させたかわかってないのか。」
 考えたこともなかった。テニス経験者で組めば、負けるはずないと思っていた。だからこそ、ただ二人で練習をこなすだけで、励まし合ったり、指摘し合ったりしなかった。いつも練習がしんどかったのはそれも影響していたのだろう。他のペアがどんな練習でも楽しそうにしていたのは、お互いに助け合っていたからかもしれない。それに今日の試合は、完全に一人対二人、いや、一人対三人で試合をしている気分だった。
「もういい、俺から言うことは何もない。二人でゆっくり反省しなさい。午後からは決勝トーナメントに進む一年生をしっかり応援しなさい。」
 いつもだったら、「走って来い」と言われる場面だが、今日は違った。それほど、呆れているのだろう。
「ありがとうございました。」
 礼をして、あおいとその場を離れた。
「あおい、ごめんね。私のせいで……。」
「そんなことないよ。わたしこそ、ごめん。」
 あおいが謝ってくるとは思ってもいなかった。少なくとも、今日の試合は明らかに私のミスで負けた。
「なんで謝るの?私がミスばっかり……。」
「なんでいつも自分だけなの?ダブルスなんだからどちらかのミスも二人の責任なんだよ。」
 あおいは私の言葉を遮り、興奮した様子で言った。あおいはペアを組んだ頃からなんでも一人でやってしまう私の態度が気に食わなかったらしい。今日の試合でほとんど私の声に反応しなかったのも、一人ですべて決めようとする私に腹が立っていたからだという。私は結局自分が良ければすべて良かった。変に高いプライドを持ち、あおいとコミュニケーションを取ろうとさえしなかった。初めてお互いに思ったことをなんでも言い合った。周りのペアがうらやましかったこと、部活を何度もやめたいと思ったことなど同じ気持ちだった。そこで、私は提案をした。
「ねえ、目標立て直さない?」
「いいよ。」
「何が良い?」
「そうだなぁ。“楽しく”っていうのは入れたいね。」
「周りのペアからうらやましがられるペアになりたいよね。」
「楽しく勝てるペアってところかな。」
「じゃあ、“楽しくダブルス、目指せ、県大会!”でどう?」
「いいね! それを合言葉に頑張ろう。」
 あゆみに誘われ、仕方なく入ったソフトテニス部。嫌なこと、つらいことはもちろんたくさんあるけど、やっとソフトテニスの魅力を見つけられたような気がする。スタートダッシュには失敗したけど、笑顔でゴールできるように、あおいとともに走り抜けてみせる。
 

 

「ともだち」
143911

 やあ。ぼくの名前はるーらー。身長は約15センチ。この中では一番年長生きだ。うん。いったいここはどこだって?ちょっと待っておくれ。その前にぼくの仲間を紹介するよ。
 まず、ぼくの次に長生きしているやつが、アカエ。インドア派のマイペースな赤鉛筆だ。それから、鉛筆仲間といえば、チョウ。背高のっぽのHBの鉛筆で、緑のキャップ帽子をかぶっている。そしてここにはもう一人、タンという2Bの鉛筆がいる。身長は低いがなかなか力強いやつだ。多くは語らないがいつもどことなく冷静で、いざというときに頼れる存在だ。だが、その性格にはマッチしないピンクのハート柄の帽子をかぶっている、というかかぶせられている。そろそろお気づきだろうか。そう、ここは筆箱の中の世界だ。そしてぼくは長さ15センチの透明で透き通った無地のものさしだ。澄みきったぼくの心が外見にも表れているようだね。なーんて冗談はまあこれぐらいにしておこう。
 今紹介した3人以外にもたくさんメンバーはいるんだけど、ぼくはそのメンバーの中で一番昔からいるんだ。たとえ引越しをしてもその家、つまりはその筆箱についてきた。といっても、引越しについてくるかついてこないかは自分で決めることができるわけではない。この筆箱の持ち主に決められてしまうんだ。
 この筆箱の持ち主の名前は、ユキ。小学3年生の女の子だ。ゆきは明るくて元気な女の子なんだけど、少しがさつなところがあるから、筆箱の扱いもなかなかひどいんだ。かばんから筆箱を出して、そのまま投げるように机に放り出すし、よく床に落とす。筆箱に住んでいるぼくらにとっては、毎日大地震だ。たまったもんじゃない。でも、ぼくらはユキのことが嫌いなわけではない。たしかに、筆箱の扱いは雑だけれど、ユキは文房具が好きだし、かわいがってくれてもいる。とぼくらは思っている。実際、ユキとおしゃべりができるわけではないから、まぁたしかなことは言えないけどな。ユキはもちろん毎日学校に行くから、ユキが学校に筆箱を持っていくのを忘れない限り、平日は毎日ぼくらも一緒に学校に行く。土日は学校に行くことはないから、筆箱はたいがいユキの机の上置かれていて、ぼくらもまたその中で過ごすんだ。ユキは勉強が好きじゃないから、家で勉強なんてほとんどしない。だから、土日にユキが筆箱に用事があるのは、宿題をするときや何かメモを取るときぐらいなんだけどね。
 
 7月22日
 今日から夏休み。ユキはうきうきしている。学校の友だちとの会話を聞く限りでは、公園でみんなと遊ぶ予定もあるし、家族でプールに行く予定もあるみたいだ。毎年、お盆にはおじいちゃんおばあちゃんの家に行くから、今年もきっとそうだろう。親せきが集まって、みんなでわいわいご飯を食べながら、ユキは親せきたちにかわいがられるんだ。ユキにとって楽しい夏休みがスタートしようとしているけれど、ぼくらにとってはとても退屈な夏休みが始まる。夏休みが始まるまでは毎日ユキと一緒に学校に行っていたけど、夏休みになると約1ヶ月もの間ほとんど外出することはないし、ただただユキの机の上の筆箱の中で過ごすことになるんだ。ただし、ユキが宿題に焦り始めるまでは。ってことだけどね。だから、夏休みの最後の一週間はぼくらも大忙し。何時に起こされるか分からないし、夜遅くまでユキが宿題をする日はぼくらだって寝ることができない。さぁて、今年の夏休みはどうなることやら…
 
 8月12日
 案の定、夏休み前半は退屈だった。チョウやタンは、たまにユキに使われたりしているけど、ぼくとアカエなんて一度も筆箱から出されずに過ごしている。ただただ筆箱の中で過ごしているだけだ。仲間とおしゃべりすることは好きだけど、毎日同じ空間はさすがにあきあきしてしまう。そしてやっぱり今年のお盆も親せきが大集合するみたいで、ユキも親せきに会いに行くみたいだ。家族全員2日間は留守にするから、暇で暇で仕方がない。
 ぼくたち以外にもマーカー三兄弟のレッド、ブルー、イエローも暇そうにしている。長女レッドはしっかりもので頼りになる存在。三兄弟の一番下の弟イエローは優柔不断な性格。よくも悪くも他人に影響されやすくて、ふと気が付くと他人の色に染められていたりすることがよくあるんだ。兄弟の真ん中のブルーは見かけによらずフレンドリーな性格。この三人はユキのテスト前に大活躍するけど、それ以外はなかなか暇を持て余している。ぼくも普段そんなに忙しくないから、よくしゃべり相手になってもらうんだけど、三人の兄弟げんかに巻き込まれたらそりゃもう大変。やっぱり三兄弟はみんないつも出番を待っているんだ。ユキは先生が授業中に述べた重要なポイントにレッドを使う。だからレッドは自分が一番ユキに頼られていることに誇りを持っている。だけど、ユキが重要ポイント以外の数多くのポイントに使うのはイエローだから、一番よくユキに使われるということをイエローは自慢している。それからユキが自分で重要だと思った場所にはブルーを使う。ブルーは、ユキに一番気に入られているということに自信を持っている。それぞれ長所があるんだけど、やっぱりみんな競い合っているんだ。だから、「誰が一番すごい?」なんて聞かれると困ってしまうし、この兄弟げんかの板挟みになると憂うつで仕方がないんだ。 今日みたいに暇な日ほどみんなでおしゃべりするんだけれど、そんな楽しいおしゃべりタイムが気づけばケンカタイムになっていたりもする。そんな時は、うまい具合にこの筆箱の外に出られないかなぁ。なんて思うこともあるんだ。
 
 8月20日
「うわぁぁぁ〜〜いってきまぁぁぁすぅ〜〜〜」
 ガザガザ。ボトっ。ゴツン。
 始まった。ユキの夏休みの宿題の追い込みだ。みんなが筆箱を出入りして絶えず動いている。ユキは今まで計画的にやってこなかった宿題を焦ってやっている。国語の本読みと漢字練習ノートに、算数の計算ドリルと問題集プリント。国語と算数と社会と理科の4つの教科の問題が1冊になったワーク。アサガオの観察絵日記。それから毎日の日記。どれも最後まで終わっているものはまだないから必死だ。そのユキの忙しさとともに、筆箱の中も大忙しだ。
 ガチャっ。
「イッ、痛っ…。はぁ…ここはいったいどこ?」
「…ん?誰?」
 こんな風に忙しい時期には新しいメンバーに会うこともよくあるんだ。さぁ今日はいったい誰がこの筆箱世界にやってきたんだろうか。
「…あぁ、こんにちは。私、シャー子」
「こんにちは!」
 彼女はきれいな黄緑色のシャープペンシルだった。どうやらいつもはユキのペン立てに住んでいるけど、ユキが間違えて筆箱に放り投げたようだ。学校ではシャープペンシルを使うことは禁止されているから、筆箱には入れられずにペン立てに入れられるんだ。そしてどうやらユキは家で学校の宿題をするときはシャーペンを使っているみたいだ。どうりで最近、チョウとタンが暇をしていたんだ。そしてチョウは少し拗ねているみたい。…とその矢先にチョウが連れて行かれてしまった。まるで、チョウが拗ねているのをユキが感じ取ったのかと思うような絶妙なタイミングだったけど、もちろんそんなはずはない。ユキにはぼくたちの言葉は聞こえないし、なんにせよユキは提出期限に間に合わせるために必死に宿題をしているだけだ。
 そんな話をしている間に、今度は消しゴムのケシ子が出て行った。彼女はユキによく落とされるし、投げるように扱われる。身長はどんどん縮んでいくから、それ合わせてケース服もちょん切られる。自分の分身のケシかすは床に払い落とされる。そんな扱いに対してケシ子はたいていひとりでブツブツ文句を言っている。「まぁ、そう怒るなよ」と声をかけても「あなたみたいにあまり使われないやつには分かるわけないでしょ!!」と逆ギレされしまうんだ。たしかにぼくはあまり使われない。だからこのメンバーの中で一番長生きなんだけど、長生きしていることを少し誇りに思っていたから、それを打ち砕かれたようで悲しい気持ちになった。
 こうしているうちにも、さらに新入りがやってきた。クール系美女のアカミ美さん。美女だからみんなにもてはやされそうだけど、なんとなくちょっと嫌な予感がする。
 ユキの宿題には丸つけもやり直しもあるから、普段は暇そうにしているアカエも夏休みの最後はすごく忙しそうなんだけど、今年はなかなか出番が来ないなぁとアカエも少し不思議がっていた。でも実は、よく筆箱から外に出るメンバーからの噂によると、どうやら最近ユキの学校では赤鉛筆じゃなくて、先生みたいに赤ペンで丸つけをするのが流行っているみたいで、ユキも最近赤ペンを使い始めたみたいなんだ。だから、出番がこないことを不思議がっているアカエの側で、みんなは少し気にかけていたけど、だれもそのことを言えないんだ。ただ偶然にもアカ美が筆箱に入れられることがなくて、アカエとアカ美が対面することがなかったけど、ついに今日二人が出会ってしまった。
「あら、こんにちは!アカ美です。新人で少し緊張しているんだけど、みんなと仲良くなりたいと思っているのでよろしくね!」マイペースなアカエとは対照的で、ハキハキと話し、サバサバしている。その横で、ふだんから口数があまり多くないアカエがいつにも増して静かだ。悲しそうな顔をしているような、何も考えていないような、なんとも言えない表情をしている。きっと、最近の自分の出番が少ないことが、アカ美と関係あるのだと気づいたのだろう。ぼくの次に長生きしているアカエだから、そのプライドもあるだろうし、丸つけといえばワタシ!という自信もあったに違いない。今、そのポジションが自分だけのものではないと分かり、不安に思っているのかもしれないし、もしかしたらアカ美に腹を立てているのかもしれない。アカエが今何を考えているのか、僕には読み取りきれない。
 そしてさっき入ってきたばかりのアカ美は、またユキにつかまれて出て行った。それと同時に「ねぇ、アカ美さんのこと知ってた?」とアカ美はぼくに聞いてきた。とっさになんて返したらいいのか分からなくて、ぼくは黙ってしまった。するとアカエは、ポロポロと涙をこぼしながら「なんで教えてくれなかったの。」と、ぼくの前から逃げて行ってしまった。
 この筆箱に住んでいると、マーカー三兄弟の兄弟げんかの板挟みになったり、ケシ子の八つ当たりにあったり、
 アカエを悲しませてしまったり、つらいことや嫌なことがたくさんありすぎる。今までは、この筆箱で一番長生きしていることを誇りに思っていたけれど、この夏休みをとおして、なんだかこの筆箱でみんなと関わるのが嫌になってきた。そうは言っても、この筆箱から自力で脱出することはできない。ここで過ごすしかないんだ。
 
 そうこうしているうちに、夏休みが終わり、ユキもなんとか宿題の提出期限に間に合ったみたいだ。また、ぼくたちもユキと一緒に学校に行く日々がスタートした。暇な毎日からは脱出したけど、夏休みに色んなことに悩まされてからぼくはなんとなく毎日を楽しめていなかったし、一人の時間が欲しいと感じながら毎日を過ごしている。
 
 10月3日
 2学期が始まってもう1カ月がたった。ユキは週末に運動会があるから、ダンスや競技の練習に励んでいて、いつも以上に勉強なんてそっちのけ。だから、筆箱も中のみんなも少し暇な毎日を過ごしている。だけど、暇があればみんなおしゃべりをする。最近のぼくは、色んなものに巻き込まれて悩みたくないから、あまり自分から話しかけないようにしているんだ。でもやっぱり、話しかけてきてくれたら無視するわけにはいかないし、みんなとおしゃべりするんだけど、今までみたいに素直に楽しめないし、ここから何かが起こらないかといつもどこかで恐れている自分がいる。
「おはよっぴ!るーらー!ぼくね、今日ユキにいっぱい使ってもらったんだっぴ!だから今とってもごきげんだっぴ!」
 イエローがぼくに話しかけてきたけど、この会話がレッドやブルーの耳に入ったらまたケンカに巻き込まれるかもしれないと思いながら、話を変えようと頑張ることにした。
「やぁ、それはよかったね。ユキも運動会の練習を毎日楽しんでいるみたいで、ごきげんそうだね。」
「ユキが楽しそうならぼくも嬉しいっぴ!」
 人に流されやすいイエローとの話題を変えるのはそんな難しくなかった。
「わっ!」
 ぼくは急にユキにつかまれた。久しぶりに、筆箱の外の世界に出るから一瞬わけが分からなかった。
「あっ、るーらーいっちゃったっぴ。いってらっしゃいだっぴ!他の話し相手を探しに行くっぴ!」
 ぼくはそのままユキにつかまれて、よく分からない空き箱の中に入れられた。この空き箱には他に誰もいない。
「あ、ラッキー!」
 最近あまり外出していなかったし、ちょうど一人になりたいなぁと思っていたから嬉しかった。だれともしゃべることなく、ゆっくり自分ひとりの時間を過ごすことができる!!ぼくはウキウキしてきた。
 
 11月3日
 空き箱に移されてから1カ月がたった。ふだんから、活発に動くタイプではなかったし、ユキに使われることもそう多くはなかったから、特にこの生活が不便だとは思わない。むしろゆっくり過ごすことができて嬉しい。
 
 12月25日
 今日はクリスマス。ユキは毎年恒例になりつつある、友だちの家のクリスマスパーティーに今年も呼ばれて遊びに行っている。クリスマスパーティーでは友だち同士でクリスマスプレゼントを交換しあっているみたいで、その中にはかわいい鉛筆や消しゴム、ペンといった文房具が多いから、クリスマスになると筆箱に新しい仲間が増える。筆箱の中のみんなもそれを楽しみにしている。もちろん、そのタイミングで、もうインク元気がなくなってしまった仲間とはお別れをすることもあるから、そのときは筆箱の仲間みんなで新入生歓迎パーティーと送別パーティーが同時に行うのだ。そのことを考えると、ちょっぴりみんなに会いたい気がしてきた。だけど約2か月半前に筆箱にいたときは、みんな元気そうだったし、今日新入生歓迎パーティーがあったとしても送別パーティーはないだろう。そんなことを考えているうちに、クリスマスパーティーからユキが帰ってきた。
「ママ!今日のクリスマスパーティーで、筆箱をもらったの!!」
「まぁ〜!ステキね!!どんな筆箱なの?」
「最近はやっている、デニム生地の筆箱で、ユキのすきなハート柄なの!!」
「とってもかわいいわね!よかったわね!!」
「うん!!今すぐに使いたいけど、今使っている筆箱もお気に入りだから、今年のあいだは、今の筆箱を使うの!来年になったら新しい筆箱にする!!」
「いい考えね!」
 どうしよう…急に焦りだしてきた。今まで筆箱が変わってもぼくはその筆箱についてきたのに、ここに居続けたら新しい筆箱には入りそびれるかもしれない。もし、年内に筆箱に戻されたとしても、新しい筆箱に戻れるかは確実ではないんだけど、でも戻りたくなってきた…。しかも、もしぼくが居残れたとしても、誰かお別れの人もいるかもしれない…。そう思うと急にみんなに会いたくなってきた。ひとりでゆっくりすごしたい気持ちと、みんなに会いたい気持ちがまじって、自分でもどうしたいのかが分からない。でも、自分の意志では戻ることはできない。そう思うと余計に焦って戻りたくなってきた…
 
 その頃、筆箱の中でも新しい筆箱の話になっていた。
「ユキが新しい筆箱をもらったらしいっぴ!」
「え?!じゃあ私たちもお引越し?!」
「きっとそうだっぴ!でも年内はユキがこの筆箱を使いたいとか言っているみたいだっぴ。」
「そうなの?!でも話が急すぎて、びっくりだわ!!」
「でもそういえば、るーらーが全然戻ってこないね…どうしているんだろう。」
「元気だといいね…」
「そうだなぁ…」
 ぼくの知らないところでこんな会話が繰り広げられていた。
 
 12月30日
 明日で今年も最後。つまり、早ければあさってにはユキが新しい筆箱に変えるかもしれない。筆箱に戻りたい気持ちが日に日に強くなっている。でも、どうしても自分の力ではどうにもならないから、願うしかない。でも、久々に仲間にあったら、みんなはどんな顔をしてぼくを見るんだろう。そう思うとやっぱりこのままここにいることを願う方が自分のためなのかなぁ。でも戻りたい気持ちも大きいなぁ。そういっているうちにもう22時だ。ユキはもう冬休み気分で、今日は筆箱に手をつけることなくテレビを見ている。筆箱に戻れる見込みは薄くなってきた…
 
 12月31日
 ついに今年最後の日。昨日の夜はなかなか寝付けなかったし、今日もずっとドキドキしている。ユキは朝から筆箱に触れる様子もないし、もうダメだ…。でも、そうだよ、また筆箱に戻ってもそこでの生活が嫌になるかもしれないし、それならここで過ごしている方がきっとマシだ。もうすぐあの筆箱からいなくなって3カ月がたとうとしているし、そもそもみんなぼくのことは忘れているかもしれない。新しいものさしさんが新入生として入っているかもしれない。無理にでもそう思うことにした。でも、ユキがじぶんをつかみにこないかとどこかで期待しているところも実はあったりする。心のどこかではやはり焦っているのか、一日がとてもはやく感じられる。気づけばもう23時。今日は年越しをするからユキも夜更かしをしている。あぁ、もうダメだ、筆箱には戻れない。みんな元気でね…またいつか会えたらいいねぇ…
 
 1月1日
 年を越してしまった。みんなが今どうしているのかは分からないけど、もうそんなこと気にしても無駄だ。きっとみんなは新しい住まいで楽しくやっているだろうし、新居パーティーなんかをやっているかもしれな……
 わっ!!!……?!?!
 
「あ〜、ものさし入れるの忘れてた〜!今日から新しい筆箱!うれしいな〜!これでものさしも入れたし、入れかえ完了!学校に持っていくのが楽しみだなぁ〜」
 しばらく何事か分からなかった。どうやらぼくは、新しい筆箱に入れられたようだ。
 
「るーらー!!!おかえり〜〜!心配してたのよ!私だけじゃなくて、ブルーもイエローも心配してたのよ。」
「るーらー、ひさしぶりだな。元気でなによりだ。チョウは話し相手がいないって寂しそうにして、キミの帰りを待っていたんだぞ。」
「そうだっぴ!さみしかったっぴ!!」
「るーらー!元気でよかった。そういえば、夏休みはあなたに八つ当たりしてごめんなさい。今はね、アカ美さんと上手くやっているの。むしろとっても仲良しなの。」
 みんなぼくのことを心配して、帰りを待っていてくれたんだと思うと、嬉しさと申し訳なさで涙が出てきた。一人で過ごしたいと思ったこともあったけど、そんなことできっこない。みんなの優しさに触れてあらためてそう思った。まわりに友だちがいることが当たり前になってしまっていたけれど、友だちがいるからケンカだってできる。ケンカは嫌な気持ちになることもあるけど、自分を成長させてもくれる。色んな人をおしゃべりすることで色んな事を考えさせられる。でも一人でいると、考えが広がることもないんだ。これからもきっと、ケンカはするし、もめることだってあるだろう。もしかしたらまた、ちょっと一人になりたいって思うこともあるかもしれない。それはそれで大切なことなんだ。でも、仲間がいるからこそこう思えるんだ。これからは、仲間への感謝の気持ちを忘れずに持ち続けたいなぁ!
 
 よーし!今日から新しい住居だ!!タンもチョウも、アカエもアカ美も、レッドもブルーもイエローもケシ子もみんないる!そしてどうやら新しい仲間もいるみたいだ!新しい家は前より少し大きくてゆったりとしてるいる。せっかく仲間も増えたことだし、自己紹介と親睦を深めることをかねて、新居パーティーをしよう!
「みんな〜!新居パーティーを始めるぞ〜!!!」

 

「ふわふわわたげ」
143910

 ののちゃんは、おばあちゃんから大きなぬいぐるみをもらいました。ののちゃんが持っているぬいぐるみの中で一番大きなくまさんです。くまさんをベッドに置くと、ののちゃんの寝るところがなくなるほどの大きさです。それで、ののちゃんは夜寝るときには決まってくまさんをぎゅうっとだっこして寝るようになりました。ののちゃんのお気に入りのぬいぐるみはすぐにくまさんになりました。ほんとうに、いつも、ののちゃんとくまさんは一緒でした。ごはんを食べるときもくまさんはののちゃんの隣に座っていましたし、旅行にだって一緒に行きました。
 ののちゃんはくまさんにいつも話しかけるのです。
「くまさん、ふかふかしててきもちいいね。」ののちゃんは言っていました。
「・・・・・・・。」
「くまさん、わたしのことすき?」
「・・・・・・・。」
「くまさんはわたしのお友達だよね。」
「・・・・・・・。」
 たとえくまさんの返事がなくても、ののちゃんはいつもくまさんに話しかけていました。
「わたしのくまさんは話せるし、動くことだってできるのよ。」
 ののちゃんの自慢は、まるで人間のように話したり動いたりできるくまさんです。そうです。くまさんは話せるし、動くことまでできるようになったのです。
 もちろん、はじめ、くまさんは大きい普通のぬいぐるみでした。でも、ののちゃんとずっと一緒にいるうちに、ののちゃんと話したくなりました。
「ののちゃんとおしゃべりができたらなあ。ののちゃんに教えたいことがいっぱいあるのになあ。ののちゃんはかわいいし最高の友達だって言えたら喜ぶだろうなあ。ありがとうって伝えられたらどんなに素敵だろう。」
 くまさんはののちゃんにぎゅうっと抱きしめられて眠るとき、いつもいつもこう思っていました。
 ある晩、奇跡は起こったのです。まんまるのお月様が出ている夜でした。星がきらきらと輝いていて、いつになくきれいな夜の空をののちゃんにぎゅうっと抱きしめられながらくまさんは見ていました。すると、ひとつの星がチカチカとまたたき始めたのです。
「ほしさん、ほしさん、聞いているの?」
 くまさんはチカチカまたたく星にむかって思いました。
「ぼく、ののちゃんとどうしても話したいんだ。ののちゃんと一緒にお出かけしたいんだ。ののちゃんに運んでもらうんじゃなくて、自分の足で歩きたいんだ。たった3日でいいんだ。だから、どうか、お願いします。」
 くまさんの思いはとても強いものでした。
 チカチカまたたく星はくまさんの願いに気付き、くまさんの願いを叶えてあげたくなりました。しかし、星一つの力ではくまさんの願いを叶えてあげることはできません。そこで、星は夜空会議に提案することに決めました。
「わたくしに一つ提案があります。ぬいぐるみのくまに命を与えたいのです。3日間の命です。」星は言いました。
 議長である月が質問します。
「なぜそうしたいのかね。」
「議長、それは女の子にとても愛されているからです。二人はいつも一緒にいます。女の子はくまのことが大好きで、くまも女の子のことが大好きなのです。くまはその大好きという気持ちを女の子に伝えたいのです。一緒にいるのになにもできないなんて、かわいそうだと思いませんか。3日のうちにくまは女の子に気持ちを伝えるつもりなのです。」
 星は月を説得します。
「確かにそうだな。今日は満月だ。命を与えるためには、満月であるここと議会での賛成を得ることが必要だ。満月という条件はそろっておる。異論があるものは申し出たまえ。」
 星はどきどきしました。もし、誰かが反対すれば議会での賛成を得られないかもしれません。1分がとても長く感じました。
「・・・異議なし。」
 議長の月が言いました。
「地球のくまに今夜、命を与えることとする。」
 こうして、夜空会議でくまさんに命を与えることは決定されたのです。
 夜空会議で決まったことはすぐに行われます。月とまたたく星、その他の星たちはくまさんに向かって力を送ります。
「地球のくまに命を与えよ。ののちゃんのくまに3日間の命を与えよ。くまは話せ、動けるようになるだろう。」
 夜空会議のメンバーは力を合わせました。
 くまさんは何か、ふわふわしてきました。夜空から力が送られてきたからです。体の中に温かいものが流れてくるようでした。
「ああ、どうしたんだろう。まさか、ぼくが星さんに願ったから?」
 くまさんは思いました。星は相変わらずチカチカまたたいています。
 体の中が温かくなってしばらくたった後、くまさんはある異変に気付きました。なんと、腕が動かせたのです。
「ぼく、ののちゃんをぎゅうってできる!」
 くまさんはさらにびっくりしました。声が出たからです。もう、踊り出したくて仕方がありませんでした。でも、ののちゃんはスースー寝息を立ててぐっすり寝ています。
「ののちゃんを起こしちゃったらかわいそうだ。明日の朝、ののちゃんが起きてからたくさん話してたくさん歩き回ろう。」
 くまさんは眠ることに決めました。「あ、そうだ。これはきっと星さんのおかげだ。ありがとう、ほしさん。」
 ほとんど寝そうになっていたくまさんは、遠のく意識の中で星さんにお礼を言いました。
 朝日がのぼり、チュンチュンという小鳥の鳴き声が聞こえてきました。ののちゃんが
「うーーーーん。」と伸びをして目を覚ましました。目をぱちぱちさせながら、いつものようにののちゃんはくまさんに言いました。
「おはよう、くまさん。」
「おはよう、ののちゃん。」初めてくまさんは返事をすることができました。ののちゃんはとても驚いています。
「えっ。くまさん、おはようって言った?」
「そうだよ。ぼく、話せるようになったんだ。それにほら、体も動かせるんだよ。」と言ってくまさんはベッドの上でぴょんぴょん飛び跳ねました。
「うわあ。ほんとうだ。くまさん、すごいね!」
「でもね、ののちゃん、ぼくが話したり動いたりできるのは3日間だけなんだ。」とくまさんは心配そうに言いました。でも、ののちゃんはそんなこと気にしません。
「いいよ、そんなこと。だって、くまさんと3日間も話したり、おでかけしたりできるんだもの。くまさん、大好き。」
 ののちゃんはなんて素敵なのだろうとくまさんはいつものように思いました。でも、いつもとはちょっと違います。だってくまさんは話せるし体を動かすことができるようになったからです。くまさんはののちゃんをぎゅうっとしながらいいました。
「ぼくも、ののちゃんがだいすき。」
 くまさんが話したり動いたりできるようになって1日目、ののちゃんとくまさんは二人でひとつのようでした。ののちゃんがいくところどこにでもくまさんは一緒に行きました。公園の砂場、山登り・・・。気付くとくまさんは泥だらけでした。ののちゃんは毎日お風呂に入るけれど、くまさんはお風呂に入れません。すると、その日の夜、ののちゃんのおかあさんが提案しました。
「くまさん、洗濯機で洗ってみたら?」
 ののちゃんとくまさんは大賛成しました。
「くまさんがきれいになったら私もうれしい!」
「ぼく、きれいになってからののちゃんにもっとぎゅうってしたいよ。それに、洗濯機に入るなんてなんておもしろそうなんだろう。」
「いいなあ。くまさんは洗濯機で洗えて。」
 ののちゃんがうらやましがるほど、洗濯機で洗うことは魅力的なことでした。
「これを使うといいわ。」
 お母さんが洗濯用の洗剤を持ってきてくれました。
「このくらい入れて、ここを押して。そうすると洗濯ができるわよ。わかった?ののちゃん、あとはよろしくね。」
「まかせて。ほら、くまさん、洗濯機に入って。」ののちゃんが言うとくまさんは
「わかった。」と言って洗濯機に入りました。
 ののちゃんは得意げにさっと洗剤を入れます。
「じゃあ、いくよ。」
 洗濯スタートのボタンをポチッと押しました。
 ウィーーーン ウィーーーン ウィーーーン
 洗濯機がゆっくりと動き始めました。
「ひんやりするし、いいにおいの洗剤だし、気持ちいいや。」
 くまさんは楽しんでいました。ところが、洗濯機が突然スピードを変えたのです。
 ウィン ウィン ウィン ウィン ウィン
 ぐるぐるぐるぐる回ります。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ。」
 くまさんは叫びましたが、洗濯機の外のののちゃんには聞こえませんでした。
 
 ようやく洗濯機がとまりました。
「くまさーん。今開けるね。」と言ったと同時にののちゃんは洗濯機を開けました。きれいになったくまさんを見るのを楽しみにしているののちゃんとは反対に、くまさんはとても苦しそうです。
「目がまわってろくに歩けないよ・・・。ふらふらするよ・・・。それに、ぼくのからだ、とっても重いんだ。」
「たいへん。どうしよう。ちょっと待ってね、くまさん。」と言うとののちゃんは大きな洗濯ばさみを持ってきました。
「これだと大きいくまさんでも留められるわ。」
 その日の夜、くまさんは干させながら外で眠りました。
 しかし、朝になってののちゃんがくまさんの具合を見に来た時も、まだくまさんは湿っていました。
「くまさん、乾くまでにはもうっちょっとかかりそうね。」ののちゃんが言うと、
「そうだね。せっかく動けるのにこうしていないといけないなんて残念だな。」とくまさんはがっかりした様子で言いました。
「でも、わたし、くまさんとおしゃべりできたらそれだけでうれしいよ。」ののちゃんが明るく返しました。それからしばらく、ののちゃんとくまさんはおしゃべりを楽しみました。
 
 夕方5時になりました。
「ののちゃん、ぼく、もうからからだよ。」と、くまさんは家の中に入ってきました。しかし、なんだか様子が変です。ふかふかだったはずのくまさんのおなかがぺしゃんこなのです。
「くまさん、やせちゃったよ・・・。くびのところがへなへなしてる。」ののちゃんはびっくりして言いました。
「そうなんだ。なんだかぼくのふかふかのわたがしぼんじゃったみたいなんだ。どうしようもないよ・・・。」
「あらまあ。」ののちゃんのお母さんもびっくりします。
「くまさんのおなかをあけてまた綿を入れ直すわけにもいかないわね。だっていたいでしょう?」お母さんがくまさんに訪ねると、
「もちろんだよ。おなかを開けるなんてこわいよ。だってぼく、生きているんだもの。」くまさんは答えました。
 すると、ののちゃんがあることを思い出しました。
「わたし、ふかふかわたげの伝説を知ってる!」
「それって何なの?」わらにもすがる思いでくまさんは聞きました。
「ふかふかわたげはね、たんぽぽのわたげなの。普通のたんぽぽのわたげとは違うけど。ふれるとね、ふれたものぜんぶがふわふわになるの。でも、伝説なのよ。ほんとうにあるかなんてわからないの。」
「探しに行こうよ。」くまさんはやる気満々です。
「わかったわ。明日、行きましょう。わたしもくまさんにふかふかに戻ってほしいもの。」
 こうして2日目が過ぎていきました。
 
 いよいよ、ふわふわわたげを探しに行く時がやってきました。ののちゃんとくまさんは準備を始めました。まず、ののちゃんがリュックサックにイチゴ味のキャンディー5つ、魚型のビスケット6つ、きれいなピンクと白の花柄のハンカチ、水の入った水筒を入れました。くまさんはへなへななので、重いものが持てないので、ののちゃんがリュックサックを背負うことになりました。
「重たくない?」くまさんがののちゃんに尋ねたらすぐ、
「ぜんぜん重たくないよ。心配しないで。」とののちゃんは言いました。
 こうして二人は街に繰り出しました。
 
 ののちゃんが住む町はそれほど都会ではありません。田んぼや畑もあります。ののちゃんの町の田んぼや畑で働くおじいさんやおばあさんが時々ののちゃんが通っている保育園にお米や野菜を持ってきてくれます。とってもおいしいお米や野菜です。ののちゃんがおじいさんやおばあさんにおいしい贈り物のお礼を言いにいたとき、ふわふわわたげの伝説を聞いたのです。あるおじいさんが言っていました。
「わしはね、長年じゃもをつくっていてな、植物には詳しいんじゃよ。この町でな、一番珍しいと言われているのはな、「ふわふわわたげ」を持っているたんぽぽじゃ。このたんぽぽはな、触れたものをすべてふかふかにするのじゃよ。例えば、わしは昔、自分の布団をよくふかふかにしたものじゃ。昔はたくさんそのたんぽぽが生えていたのじゃがな・・・。今はとんと数が減ってしまって・・・。とても珍しいのじゃ。もし、ふわふわわたげを探す冒険がしたければ、わしを訪ねておいで。・・・ははは。」
 
 ののちゃんはこの記憶だけをたよりにふわふわわたげを探すのです。まず、はじめにおじいさんを探すことにしました。
「くまさん、じゃがいもを作っているおじいさんがね、ふわふわわたげがある場所を知っているの。だから、最初にそのおじいさんを探そう。」ののちゃんが言うと、
「わかった。町の人にきいてまわろうよ。そうしたらじゃがいも畑がどこかわかるかもしれないよ。」とくまさん。
「そうだね。」こうして町の人たちに保育園にじゃがいもをもってきてくれるおじいさんと畑を聞くことにしました。
 
 はじめに聞いたのは、ののちゃんと同じくらいの男の子でした。公園にいた男の子はなぜか寂しそうでした。
「あの、ちょっといいですか。」ののちゃんは男の子に声をかけました。
「うん。いいよ。」男の子は答えました。くまさんが
「保育園にじゃがいもを持ってきてくれるおじいさんを知らない?」と言うと、男の子が
「知ってるよ。いつもねこがいっぱいいる畑でしょ。ねこについて行ったらたぶんその畑に行けるよ・・・。」と教えてくれました。
「ありがとう。」ののちゃんとくまさんはお礼を言いました。すぐに立ち去ってもよかったのですが、ののちゃんとくまさんは寂しそうな男の子をかわいそうに思い、顔を見合わせました。そして二人は男の子に寂しいわけを聞くことにしました。くまさんは、
「いやだったら話さなくていいんだけどね、なんでそんなに寂しそうな顔をしているの?」と尋ねました。
「ぼく、ほんとうはみんなと遊びたいんだけど、なかまに入れないんだ。」男の子は言いました。
「どうして?」遠慮がちにくまさんが聞きました。
「勇気がないんだ。きっかけも。」と男の子。
「そうだっ!」とののちゃんが明るい声で言いい、リュックサックの中をごそごそし始めました。
「あった!」といってイチゴ味のキャンディーを5つ取り出し、男の子に差し出しました。
「これをみんなにあげてみたらどうかしら。わたしのお気に入りのキャンディーなの。」
 男の子はパァっとかおを明るくしてキャンディーを受け取りました。
「ありがとう。おじいさんが見つかるといいねえ。」3人はお別れをしました。
 
 男の子と別れた後、2人はネコを探して歩きました。するとそこに、小さい、カリカリにやせた子猫が現れました。ののちゃんとくまさんは、顔を見合わせて、子猫を驚かさないようにそっとついていきました。
 子猫が通る道は不思議な、細い道ばかりでした。ののちゃんが通う保育園の裏を通ったかと思うと、ぴょんっと塀の上にのぼりました。ののちゃんとくまさんはついていくのに必死でした。くまさんはへなへなになっていましたから、さらに大変でした。
「はぁはぁ。ねこさん、はやいね。」の乃ちゃんが言いました。くまさんが
「はぁはぁはぁ。ほんとだね。あ、今度は塀を降りて細い道に入っていくよ。」が疲れた様子で言いました。
「はぁはぁ。ゆうちゃんの家とまこちゃんの家の間よ。」
「はぁはぁはぁ。この道の向こうに畑が見えるよ。」
 ようやくジャガイモ畑に着きました。ネコは歩くのをやめ、ぺろぺろと毛づくろいしています。ののちゃんとくまさんは、またもやかわいそうな気持ちになりました。すると、今度も、ののちゃんが
「そうだっ!」と明るい声で言い、リュックサックのなかをごそごそしはじめました。
「あった!」といって魚型のビスケットを6つ取り出し、6つとも子猫にあげました。子猫は、
「ニャア」とひと鳴きしてぱくぱくビスケットを食べ始めました。ののちゃんとくまさんがしばらく子猫のうれしそうに食べている姿をみていると、おばあさんが通りかかりました。おばあさんの手は土で黒く汚れていたので、きっと畑で野菜を作っている人だと想像できました。
「おや、こんなところでどうしたんだい。」おばあさんが二人に尋ねました。
「わたしたち、ふわふわわたげを探しているの。」
「ぼくのぺしゃんこでへなへなのわたをふかふかにしたいんだ。」二人は答えました。
 するとおばあさんが、
「その話をしっているのはきっと、うちのおじいさんだわね。今は家にいるのよ。よかったらわたしと一緒に来る?」と言ってくれました。
「ありがとうございます。」と二人はお礼を言い、おばあさんについていくことにしました。
 
「ここがうちよ。」おばあさんが案内してくれて、おじいさんとおばあさんが住む家に着きました。おじいさんとおばあさんの家は昔ながらの木造の家でした。おばあさんが家に入る前に外の蛇口で手を洗っていました。畑仕事をしていたので、手が汚れていたからです。手を洗い終えると、おばあさんは服で手をふこうとしました。その時またもやののちゃんが「そうだっ!」とののちゃんが明るい声で言いい、リュックサックの中をごそごそし始めました。
「あった!」といってきれいなピンクと白の花柄のハンカチを取り出し、おばあさんに差し出しました。
「これ、おばあさんにあげる。おばあさんは手をいつも洗うから、ハンカチが必要でしょう?」とののちゃんが言うと、
「まあ、きれいなハンカチだこと。おばあさん、このハンカチで手をふくと幸せになれるわ。ありがとう。」といっておばあさんは微笑みました。
 
 そうしているうちに、おじいさんが家から出てきました。おじいさんは、
「おやおや、どうしたんじゃ。そこの女の子は保育園のののちゃんじゃな。横にいるのはくまさんかね。かわったお友達じゃな。」と言って快く二人を迎え入れてくれました。
「おじいさん、あのね、わたしたちふかふかわたげを探しているの。」とののちゃん。
「そうなんだ。ぼく、へなへなになっちゃったんだ。」とくまさん。おじいさんは、
「そうか。昔はたくさんふかふかわたげのたんぽぽがはえていたのじゃがな・・・。あの山に行ってみるといい。ただし気を付けるんじゃぞ。」と言っておじいさんとおばあさんの家の裏山を指さしました。
「ありがとう、おじいさん。」ののちゃんとくまさんはおじいさんにお礼を言いました。そして二人は何かお礼をしたいと思い、おじいさんに肩たたきをすることにしました。美味しいじゃがいもを作るために一生懸命働いているに違いないからです。二人は、ポンポンポンとやさしくおじいさんの肩をたたきました。
 
 いよいよ、山にのぼってふかふかわたげを見つける時です。二人は細い山道を登り始めました。のぼってのぼって、ようやくてっぺんにたどり着くと、ごつごつした岩のあいだにたんぽぽが生えているのを見つけました。
「あれじゃない?」くまさんが指をさしました。
「そうだよきっと。普通のたんぽぽより、わたげがふかふかしてるわ。」ののちゃんはうれしそうに言いました。さっそくわたげを取りに近づきましたが、はっとなってふたりは立ち止まりました。
「ふかふかわたげのたんぽぽを折ってしまったら、もうわたげができないんじゃないかしら?」ののちゃんは不安そうです。
「そうだね。じゃあ、わたげをフーって吹き飛ばすのはどうだろう。そうしたら、たんぽぽがたくさん生えると思うよ。」くまさんは提案しました。
 そうして、ふたりはたんぽぽのわたげをフーっと飛ばして、そのうちの一つをもらいました。それから、またののちゃんは、
「そうだっ!」と明るい声で言い、リュックサックのなかをごそごそしはじめました。
「あった!」と水筒を取り出し、わたげが落ちた所ひとつひとつに水筒の水をかけていきました。
「おおきくなあれ。おおきくなあれ。」ののちゃんとくまさんは願いを込めました。
 それから、くまさんは自分の体の中、布の網目の小さい穴にわたげをそっと入れました。すると、どんどんくまさんのおなかが膨らんでいきました。もとのふわふわのくまさんに戻ったのです。
 ふたりは、とっても喜んで、軽い足取りで家に帰りました。
 
 「ぼくの命は3日間だって言ったよね。とっても楽しかったよ。ふわふわにも戻れたしね。」とその日の夜、ののちゃんにぎゅうっとしかえしながら、くまさんは言いました。
 「わたしも楽しかった。ありがとう、くまさん。」ふたりは幸せに眠りにつきました。
 
 くまさんが命をもらって3日目の夜も、夜空に星がチカチカ瞬いていました。夜空会議です。
「議長、また提案があります。くまに期限のない命を与えてはどうでしょうか。地球の女の子とくまは、男の子や子猫、おばあさん、おじいさん、たんぽぽにさえ、思いやりの心を忘れませんでした。私は二人にもっと楽しい時間を過ごしてほしいのです。」と星が言いました。
「たしかにそうだな。ふたりは素晴らしい思いやりの心をもっているな。なくしてしまうのはもったいない。異議のあるものはいるか。」と議長。
「・・・・・異議なし。」
 こうしてくまさんは命をもらったのです。
 
 まるで人間のように話せて、動けるふかふかのくまさんはののちゃんの自慢です。

 

「ルビッシュのパン屋」
142107

序幕
「ルネ!今日もバケットを二つ頼む。うんと硬いやつを!」
 レンガの街を駆けてきた青年が大きな声で言った。
「もう!ジルったら、毎日毎日懲りずによく食べるわね」
 それに返したのはパン屋の若い娘だった。
「そりゃ、ルネのバケットは僕にしてみればお守りみたいなもんだからな」
 黒髪短髪でやや筋肉質な青年は、娘に代金を払ってこう続けた。
「仕事はいつ終わるんだ?」
「もう少し待って」
 娘はそう答えると、「シモーニベーカリー」と書かれた看板の奥に声をとばす。
「お父さん!ジルが来たから今日の店番終わっていい?」
 そう言って娘は看板の奥に走って行ってしまった。しばらくすると、似合わないエプロンをつけたおじさんが店の奥から現れた。それと同時に看板の裏手からエプロンを外した若い娘がやってくる。娘は、黒髪のセミロングで前髪がぱっつんに切り揃えられており、誰もが目をひくというわけではないが、それなりの整った顔をしている。いかにも看板娘といった容姿だ。
「ジル!お待たせ!じゃあ、お父さん、行ってきまーす!」
「ルネッタ、行ってらっしゃい。ジルベルトくん、ルネッタを頼んだよ」
「任せてください。シモーニおじさん!それでは、失礼します!」
 二人はおじさんの優しい笑顔に見送られて、シモーニベーカリーをあとにした。
 ここは、とある時代のとある小国ルビッシュ。豊かな国ではないけれど、平和でのんびりとした空気の流れる国だった。しかし、この国にも波乱の種が存在していた。つい先日、国王のミルコ・アメリアが若くしてなくなったのだ。死因は事故死。落馬事故で亡くなったのだ。突然の国王の死に、国民は悲しみ、国の上層部は混乱状態にあった。そんな中
「暗い顔をしていても仕方ない。国を挙げてお祭りをしよう!」
 このような命令が第一王子ロベルト・アメリアから発布されたのは突然のことだった。
 第一幕
「ジル!パレードだって、王子もいるらしいわよ!見に行きましょう!」
 ルネッタは小走りになってを急かすようにジルベルトの腕を引っ張る。
「っとと!?おい、こっちはバケット二つも持ってるんだよ!もう少しゆっくりと…」
 そういいながらもジルベルトは楽しくて仕方がないというような様子だった。レンガの家、三角屋根の並ぶ街並みをずんずん進む。祭りというだけあって、曲芸師やら歌唱団の人はお客さんを楽しませ、珍品屋やちょっとした食べ物屋さんは屋台のようなものをだしていた。やがて、二人はパレードの通り道の噴水広場までやってきた。
「ロベルト王子ってどんな人なのかなぁ?ジル?」
「なんだよ。やっぱりルネッタも白馬の王子様みたいな、なんというか、とりあえずそういうのが好きなんだな」
 そう言うとジルベルトはほおをふくらまして、そのほおの空気を入れたり抜いたりして、ペコペコさせた。
「そういうのじゃないけど…。だって、ジル。ロベルト王子はもうすぐこの国の国王になる人なんだよ」
 ルネッタがそういうと、二人と同じようにパレードを待っている人の一人が舌打ちをし、バカにしたような半笑いを浮かべて「国王になる人」とルネッタの言葉を繰り返した。そして、ひとりごとのように「あの愚かな王子が?」と呟いた。
 いや、ルネッタの言葉を聞いて言ったのではあるが、その人は完全にひとりごととしてそのような言葉を吐いていた。二人は唖然としながらも、よく聞けば周りの人の話し声の中にはロベルト王子を批難する声が多いことに気付いた。
「あの男は父である国王の死を喜んでいる。この祭りは、その祝いの祭りだ」とか「なんでも、国王を落とした馬って、ロベルト様の愛馬らしいよ。ロベルト様はその馬を処分せずに今回のパレードでも乗ってくるんだとか…」とか「あんなひょろひょろで低能なやつに国王が務まるわけねぇ!国王には第二王子のコラード様がなるべきだ!」などという言葉があちらこちらから聞こえてくる。ルネッタとジルベルトは苦笑いをするしかなかった。
 やがて、悪口が静かになり、軽快な音楽とともに鼓笛隊が現れた。しばらくすると、一際大きな馬に乗り、マスクを付けた細めの男が現れた。彼がロベルト王子である。その傍らには、ガチッとした体型で明るい笑顔を民衆に振りまく、いかにも好青年というような人物がいる。どうやら、コラード王子のようだ。すると、突然、一行は噴水広場で立ち止まり、鼓笛隊の音楽も鳴り止んだ。そして、コラード王子が前に進み、民衆に向けてこう言った。
「みんなぁ!今日は兄が突然言い出したのに、お祭りを開いてくれてありがとう!知っての通り、私たちの父でありルビッシュの国王であったミルコ・アメリアは先日不慮の事故で亡くなりました。私たちもとてもつらい。こんなときにどうしてお祭りなんてするのか疑問に思っている人もいると思います。しかし、国が暗いままでは何事もうまくいきません。これは、もうすぐ国王になられる兄のはからいです。さぁ!今日はつらい気持ちを力ずくで押さえ込んで、存分に楽しもう!」
 マスクとコラード王子は深々とお辞儀をした。唸る歓声と拍手は、コラード王子に対するものだろう。
 マスクが頭を上げたときに、なぜかじっとルネッタとジルベルトの方を見ていた。そして、大きな馬に乗ったマスクはすっと二人に近づいてくる。馬の歩幅が大きいからか、距離以上に早くマスクは二人の前にきた。
「それは、いったい何だ?」
 低く響く、優しい声だった。
「……?バケットですが。ロベルト様」
 ジルベルトが答える。マスクはハッとした様子で「そうだった」と呟くとジルベルトは、これがシモーニベーカリーのバケットで、横にいるルネッタが焼いたことを説明した。
「代金は?一ついただきたい」
 そういうと、マスクは銀貨を一枚出した。ルネッタはそんなに高くないと言ったが、マスクはお釣りはいらないと言い、ジルベルトは銀貨を受け取り、バケットを手渡す。ジルベルトはもともとは、二人で食べるつもりで買ったのだが、時期国王からの頼みを断れるはずもなく、一つのバケットを二人で食べればいいと思った。マスクはじっとルネッタを見つめた後、パレードに戻った。
 第二幕
「焼きたてのパンはいかがですか?」
 ルネッタがいつものように「シモーニベーカリー」でパンを売っていると。
「バケットを一つ下さい」
 そこには、一人の細身の若い男性がいた。やや長めの黒髪に、切れ長の目、眠たそうで気だるそうな表情、薄汚れたような布地の服を着ていたが、財布には金の刺繍細工が施されていた。
 その男性は、次の日も、また次の日も、そのまた次の日も「バケットを一つ下さい」とルネッタのもとを訪れ、すっかりシモーニベーカリーの常連となっていた。
 ある日、男性はまたシモーニベーカリーに訪れバケットを買っていた。この頃になると、すでにルネッタとその男性は多少の談笑くらいはするようになっていた。名前も名乗っていた。アミーというらしい。
「シモーニさん、この国はどうなるのでしょうね。時期国王ロベルト王子には、よくない噂を多く聞きますし…」
「そうですか、優しそうな方でいらしてたのに…」
「すみません。暗い話をしてしまいましたね。シモーニさんは、観劇などはなさられますか?」
「いえ、一度は行ってみたいのですが……」
 すると、男性はじっとルネッタの目を見てこういった。
「では、今度ご一緒しませんか?そのあとは、お茶でもしましょう」
「へっ!?アミーさん?あっ、別にかまいませんよ?いいと思います。楽しみですね!」
 すると、アミーはわざとらしくためいきを着いた。
「どうかしましたか?お身体の具合が悪いのでですか?」
 アミーはもう一度ためいきをついて、もう一度、今度は五秒くらい、じっとルネッタの目を見た。永遠のように感じれるほどの時間だった。
「シモーニさん、分かってますか?男が女性を一対一でお誘いしているのですよ」
 低く優しい声がルネッタの鼓動を狂わした。ルネッタは?を染めて言葉につまった。思い返せば完全にデートのお誘いである。ルネッタは、穴があったら入りたいと思うほど恥ずかしがり、その恥じらう顔は流れる風をも惑わした。
「ルネ!!バケットまだあるか?」
 そこに偶然ジルベルトが来た。というのは間違いで、実はルネッタに会うために偶然を装って通りかかったのだ。
「ジル!!」
 助け舟を得た。そう言わんばかりにわざとらしくジルベルトに接客をした。しかし、その助け舟には大砲が放たれる。
「あっ、すみません。そうでしたね。シモーニさんには彼がいらっしゃるんですね」
 アミーはすかさずカマをかける。二人は突然にそんなことを言われたものだから、びっくりして慌てて「ただの幼馴染だから」と否定した。すると、アミーはまるでそう言わせたかったかのように「ふふっ」と笑って。小さく「よかった」と呟くと、少し意地悪な顔で
「それなら、問題ありませんね」
 と言った。ジルベルトが少し眉間にしわを寄せながら、何の話をしていたのかをルネッタに聞く。
「へ、へぇ、よかったな。行けばいいじゃん」
 その後には、誰にも聞こえない声で「勝手に…」と言った。
 それから、アミーとルネッタは観劇と食事をした。その後もアミーは、度々シモーニベーカリーを訪れては言葉たくみにルネッタとデートの約束を取りつけていた。ジルベルトにはそれが面白くなかった。
 第三幕
 ある日、一通の豪華な金の刺繍細工の布に入った手紙が来た。それは、ルビッシュ王室からの手紙だった。なんとも、パレードで一目惚れをした時期国王のロベルト王子がルネッタ・シモーニを妻として迎えたいということが記されていた。そして、翌日にはロベルト王子が護衛を付けて直々にシモーニベーカリーにやってきた。あいかわらずのマスクであった。
 マスクはあの馬鹿でかい馬から降りると、ルネッタの父とルネッタに深々と礼をした。相手は王室である。しかし、ルネッタの答えは決まっており、その答えに父も賛成した。失礼のないように、断る。これがシモーニ家の答えだった。マスクは、ルネッタに歩み寄り「覚えているか、パレードで会ったときのこと」と言った。聞き慣れた低く優しい声だ。ルネッタは頭がクラっとした。そこにはアミーが立っていたのだ。アミーはファミリーネームのアメリアをもじった偽名らしかった。もうすでにルネッタには、アミーからのお誘いの断り方を知らなかった。ロベルトはルネッタにジルベルトとは恋仲ではないことをもう一度確認すると、さっさと婚約指輪も渡してしまった。
 次の日、ルネッタはただの幼馴染にロベルト王子と婚約したことを話した。
「よかったな。そうか!ルネ、王妃か、すごいなぁ!よかった!本当にすごい!えっ、あれか!玉の輿か!」
 苦しかった。ルネッタの左手の薬指が気に食わなかった。いまさら、何も言えない。相手は王室だ。もっと、早く、あのときに。そんなことは全部手遅れだと、もう分かっていた。くそっ。くそっ。
「うわぁぁーー!!何が王室だ!くそっ!あのもやし野郎め!僕から大事な。世界で一番大事な人を奪いやがって!!」
 ジルベルトは家の路地裏で、バケットを剣に見立て、そしてロベルトを空に思い浮かべ、その姿を何度も斬った。斬っても、斬っても斬っても、斬っても斬っても斬っても。あの優しくて、見透かしたような笑顔がよみがえる。
 一方、ロベルトの方は結婚式までの間、度々アミーとしてシモーニベーカリーに通い、ルネッタとデートを重ねていた。
「ルネッタさん、私は、ロベルトとしているときには、王子として、時期国王として振舞わなくてはいけないけど、やっぱりこうして控えめにのんびりと過ごすのが好きなんです」
 そんな、ロベルトにルネッタも少しずつ惹かれていった。しかし、それでも心のどこかに何か痛むものがあった。
「ルネッタさん、これね。王家に伝わる剣。ヴァルディオンというらしいです。一応、護身刀?みたいですよ。はは、バケットに似てますね。案外バケットソードも切れ味がいいんじゃないですか?」
 ジルベルトとは、あれから一度も会っていない。彼は元気だろうか。最近店番といっても、昼前までロベルトを待つ程度の時間になっていて、バケットを買いに来てくれているのかも分からない。
「玉座に、踏ん反り返らなくちゃいけないのかなぁ?ルネ。私に王が務まるかな。ルビッシュの中で、ルネにだけは偉そうに話さなくていいんだよ。私は。ありがとう」
 少しずつ、確実に結婚のときが近づいてきている。その日にロベルト王子の即位も行うらしい。その日に、私はロベルトの妻となり、ルビッシュ王妃となるのだ。
「私は案外嫌われ者でね、国民からも愚者だといわれ。お祭りだって、良かれと思ったんだけど…、不謹慎だって。愛馬のユタも、あっ、あの馬は一人の人にしか懐かなくてさ。そうだよ、父を落馬させたのはユタだ。でも、小さい頃から私を守ってくれたユタを処分することなんてできなかった。国の上層部では、コラードを時期国王にしようとする動きもあるんだ。でも、コラードはいい弟だよ。彼の方が王に向いてるかもね。ルネ。王妃として、私を支えてね?……………ルネ?」
 日が経つごとに、ルネッタはぼぉーっとするようになった。確かに、ロベルトへの気持ちは強くなっていた。でも、ジルベルト、物心ついたときから、こんなにジルと会っていないことなんて一度もなかった。自分の本当の気持ちに実はもうとっくに気づいていた。
 第四幕
 そして、ロベルト王子の結婚式、即位式前日。
「ロベルト王子!大変です。隣国の大国、同盟関係にあったパールドバルが急襲してきました」
 ロベルトとコラードはすぐに、ルビッシュの軍隊を集め、さらに、民衆からも志願兵を募集した。志願兵にはルネッタの父、そしてジルベルトも参加した。
 戦いは敗戦色が濃かった。ロベルトは、すぐに志願兵の解散を命じた。コラードの指揮は素晴らしいもので、志願兵が逃げきるには十分の戦いをした。しかし、一部の志願兵は正規軍に混じって戦った。ルネッタの父は戦いで死んでしまった。ジルベルトにも何度も危ない場面があった。そんな中、味方本陣から大きな馬が駆けてくる。ロベルトだ。
「ジルベルトくん、君はもどれ!君だけは生き残れ!!何としてもだ。新国王の命令だ!!」
 そう言い終えるとロベルトは、どこか悲しく、清々しい表情をほんの一瞬だけ見せた。そしてこれが、ロベルトの最初で最後の王としての命令だった。ロベルトは深呼吸をし、敵軍を正面ににらみ、何かを決心するように単騎突撃を開始した。正規軍は、王に遅れを取っては恥と言わんばかりにそれに続く。
 大地を鳴らす巨馬、乗りこなす王、それに続く兵。パールドバル軍は虚を突かれ、あるいは功に焦り、軍としての体勢が崩された。しかし、どこからともなく流れ来た一本の矢がロベルトの胸に刺さる。それでもユタは主人を乗せて走り続け、敵の中に消えた。コラードが率いる死兵となったルビッシュ軍にパールドバル軍は圧倒され、ルビッシュは多くの犠牲のもと奇跡的な勝利を収めた。翌日には、コラードが新国王として即位した。
 終幕
「シモーニさんは、確かあの辺りで…。ルネ、つらかったら来なくていい」
 ルネッタとジルベルトは、ロベルトと父を弔うために、戦場だった場所に来ていた。すると、一箇所に大きく土が盛られている場所を見つけた。
 『ルビッシュ国王ロベルト・アメリア。勇敢なるパン屋ミハイル・シモーニ。ルビッシュ王家の忠臣ユタ・アメリア。ここに眠る』
 お墓には丁寧に花も供えられていた。ルネッタは泣き崩れた。ジルベルトはただルネの側にいることしかできなかった。すると、後ろから
「ルネ?」
 聞きなれた、低く、優しい声だった。ロベルトは生きていた。ジルベルトはどのような表情をしていいのか分からなかった。何かとんでもない怪物を見たような、そんな顔になった。ルネも一瞬同じような顔になったあと、すぐにまた悲しそうな顔を作った。
「ロベルト……様!父の墓を、ありがとうございます…」
「あぁ、ルネ、泣かないで。お守りがわりに持っていた、君の焼いたバケットの一欠片が私を守ってくれたんだ」
 ジルベルトはもうつらくて仕方がない。「ロベルト様」そう言うと、ジルベルトはロベルトと正面から向き合った。
「どうして私を逃したのです?」
「私はもう王子ではない。だから、様はいらない。理由なんてわかっているだろう?」
「君は、私が死んでくれた方がよかったかい?」
「いや、それで僕が幸せになれても、お前の勝ち逃げになる。ロベルト」
「うん。そうだ。ジルベルト、いや、ジル。パンの焼き方、分かる?」
「多少は…。見てたからな」
「シモーニベーカリー、続けてくれるね?君にはいつか、バケットをもらったね。ついでにもう一つ頼みごと。これ、王家の剣、持つべき人に届けてほしい。多少の褒美をもらえるだろう。それと、私はもうロベルトではない、アミーだ。ルビッシュへは帰らない」
 そして、アミーはルネの方を向く。
「ルネ。こんなときに申し訳ない。私と、アミーと結婚してくれませんか?」
 こいつ。なんてやつだ!せっかく、物語が綺麗に終わりそうだったのに。
「ルネ!僕と、僕と一緒にシモーニベーカリーを続けよう!!もう逃げないからな!僕は、僕の本当の気持ちに!!」
 ルネは本当の涙を流していた。そして……ルネはやっとゆっくりと口を開く。
「ジル…あなたが、あなたこそが……」
 ルネはさらに涙の洪水をながした。そして、小刻みに頭を横に振った。
「違う!!私は、アミーと一緒になりたい!!!」
 アミーは黙って優しくルネに微笑み、その手を取り、舞台から真っ直ぐに体育館の外へ出て行った。ジルベルトはその場で立ち尽くすしかなかった。そして、大きな拍手の中、幕とじられた。
 前日
「綾!お昼休み終わったら、体育館で最後のシーンだけもう一回確認だってさ」
 学食の机に座るぱっつんの前髪が揺れてこちらを向く。彼女は僕と同じ二年三組の鷹山綾。
「あっ!そうなんだ!ありがとうね、灰谷くん!」
 僕はそういうと、綾の方へ歩く、綾の横にいる、髪が長めの眠そうな男子は三年生の平野勇斗先輩だ。その向かいには、またまた僕と同じクラスの小島政秋がいた。綾と小島と、平野先輩。ということは、演劇部で集まってたんだな。
「なんだ、小島もいたのか!ちょうどよかったよ!昼休みの終わったら、最後のシーンだけ確認するから!」
「ありがとう、圭太。でも、俺いらないだろ?最後のシーンなんて、ジルくんとルネちゃんしかいらないんだから」
 小島はそういうと、平野先輩チラッと見た。平野先輩はその視線に気付き、唐突に僕の方を向く。
「あっ、こんにちは。……えっと」
 平野先輩は、どこか空気の抜けたような人だった。
「部長!俺と綾と同じクラスの灰谷圭太です。綾からたまに聞いてるでしょ?ってか、何回か会ってるでしょ!」
 平野先輩はハッとして小声で「そうだった」と言った。
「あっ!ど、どうも。初めまして、俺は演劇部の部長の三年生の。あの、平野っていいます。あっ、下の名前は勇斗っていいます。って、初めましてじゃないね。こんにちは。灰谷くん。いつも、うちの綾と政秋がお世話になっているね」
 平野先輩は演劇部の部長なのだ。ちなみに、副部長は小島だったりする。でも、僕は平野先輩のこの薄い笑い顔が気にくわない。
「どうも、こんにちは」
 初対面ではないにしても、そんなに関わりのない先輩だ。この程度の挨拶にしておく。
「綾」
 僕は、綾を呼ぶ。明日、本番を迎える文化祭の練習の続きだ。
「うん、灰谷くん!一緒に行こう」
 綾は椅子から立ち上がり、平野先輩に一礼して、とことこと僕の方に来る。僕は一応、小島に「お前も体育館に来るか?」と目で合図を送る。答えなんて分かっているが…。
「俺はいい。後で行くよ」
 平野先輩と小島は仲良しなのだ。小島は本気で平野先輩を慕っている。慕っているだけだったら、綾も一応は平野先輩を慕ってはいるみたいだけど…先輩だから。
「綾…」
 平野先輩が綾を呼びとめる。
「あっ、練習、がんばれな」
 低く優しい声だ。横で小島が平野先輩に、「俺もロベルト役だし、圭太もジル役なんだけど」などと言っている。平野先輩はまた小声で「そうだった」と言った。
「あっ、綾も、政秋も、灰谷くんも!みんな!がんばって!」
 なんか、空気が狂うな。僕も綾も「はい」とだけ答え、体育館に向かう。
 終幕
「シモーニさんは、確かあの辺りで…。ルネ、つらかったら来なくていい」
 綾と僕は、一箇所に大きくダンボールが盛られている場所まで歩く。ダンボールには、プラスチック製の王家の剣ヴァルディオンが墓標みたいに刺さっている。
 『ルビッシュ国王ロベルト・アメリア。勇敢なるパン屋ミハイル・シモーニ。ルビッシュ王家の忠臣ユタ・アメリア。ここに眠る』
 書いてもない文字を読み上げる。綾は泣き崩れたような声を出した。僕は横で突っ立っていた。やがて綾が次のセリフを言う。
「っ!?でも、誰が。このお墓を」
「ルネ、下の方にまだ書いている」
 僕はダンボールの一点を見つめる。
 『あなた方の家族。コラード』
 そして、書いてもない文字を読む。
 綾は、思い出したような動きをして僕を見る。
「ロベルト様がおっしゃってたの。コラードはいい弟だって!・・・ロベルト様は、きっと私たちを護るために」
 僕は意を決したように綾を見る。
「ロベルト様、突撃する前にさ。僕を……僕を戦場から逃した。僕はね、逃げたんだ。また、逃げた」
「ロベルト様…。ジル、またって?」
 綾はしっかりとまだ泣いている演技をしている。
「僕は、逃げたんだ。君から。ルネから。ロベルト様が君にアミーとして、連れ出したときも、婚約を申し込んだときも!」
「それってどういう…」
「僕は!」
 綾がビクッとした。声が大きすぎたかな。驚かせたかな。綾、君は演技でやってるかもしれないけどさ、僕の気持ちだけは、このシーンだけは演技じゃないから。
「僕は、ルネのことが好きだ」
「ジル…。……ロベルト様はきっと分かってたのね。ジルの気持ちにも」
 少し間が空く。
「私の気持ちにも」
 驚くふりをしてみせよう。綾、さぁ!次のセリフを言ってくれ。願わくば、本心から!!
「私も、ジルのことが好き!」
 心が締まるのが分かる。苦しいけれど、心地いい。演技だと分かっていても…。
「情けないな。恋敵が死ななければ、気持ちを伝えることすらできないなんて」
 綾はいろいろな涙の表現をする。父と婚約者を失った悲しみ、両想いの喜び、若干悲しみの方が多いくらいの。さすが演劇部だ。
「でも、ルネ。これからはちゃんと、しっかりする。しっかりするって、そんなことしか言えないけど、ちゃんと僕がルネを守る。シモーニさんの分も………ロベルト、様の分も…。落ち着いたらさ、シモーニベーカリーを再開しよう。僕とルネ。二人で!」
 黙って綾がコクリとうなづくと、僕は彼女を抱擁する。と言っても、触れる程度です。はい。そして、彼女の手を引いて僕は体育館を後にする。
 最終練習後
「圭太!お疲れさん!いや、凄かったなぁ!俺と綾は演劇部だけどさ、はっきり言ってお前の方がすごいわ」
 小島がさっそく労を労いに来た。でも、なんだかんだこの演劇で一番長ゼリフが連発するのは、お前が演じるロベルトだからな。小島はそれを平気でこなすし、綾はセリフがなくても表情だけでいろいろ表現できてるじゃないか。と、心の中で言った。
「まるで演技に見えなかったよ!」
 そりゃ演技じゃないからな。と、心で言いつつ。
「そりゃ、演技じゃないからな」
「やっぱりか」
 小島?どういうことだ?
「そんな気がしてた」
 こいつ、まさか。
「こりゃ少しつらいな。俺の立場」
 つらいだと?いや、待て、それはない。それなら、あとに考えられるのは………そうか、平野先輩だ!!
「小島、実は僕さ」
「綾のこと好きって?さっき、聞いた」
「違う!明日の本番で。最後のシーン。抱きしめるとき、本気で強く抱きしめる。そして、綾に、気持ちを伝える」
 小島はあからさまに顔をしかめた。
「おい、圭太よせ。やけを起こすな。告るなら終わってからでもできる。本番でのイレギュラーはつきものだが、起こすものじゃない」
 そんなことは分かってる。でも、きっと、平野先輩も観にくるだろ?僕はジルベルトじゃない。逃げない。平野先輩の目の前で、平野先輩の手が出せないところで、僕は彼女に気持ちを伝える。
「演劇部では、たまにだが即興劇をうつことがある。でも、練習の域を出ない。綾ならうまくやれるとは思う。でももし綾が動揺したら?その場で即興劇が始まってしまったら?二人しかいない場所で、二人だけで『ルビッシュのパン屋』を終わらせることができるのか?綾もそんな舞台に立つことになるんだぞ。それができないなら余計なことはするな!」
 胸が苦しい。小島は正しい。僕は、綾のことを考えずに自分勝手に決めていただけかもしれない。でも、もう僕自身、彼女に気持ちを伝えてしまわなければ、そのためにメインキャストが演劇部で決まっていく中で、ジルベルト役に手を挙げたんだ。
「ごめん、小島。それでも僕は、綾に気持ちを伝えるよ。言ってくれてありがとう。さっきの言葉は、覚えておく」
「勝手にしたらいい。どうなって知らないからな。フェアに、やれよ」
 そういうと、演劇部に顔だしてから帰ると言って小島は行ってしまった。綾が来る。
「何か話してたの?劇のこと?」
「まぁ、たいしたことじゃない。帰る?綾」
「演劇部に顔出そうかなぁ…。まぁ、いいや。明日は本番だし、私も帰る!」
 そう言って二人で帰ろうとしたら……。
「綾?」
 平野先輩だ。何しに来たんだ。って、演劇部に向かってるだけか。
「あっ、ジル…、じゃなくて、灰谷くん。お昼はどうも。綾、僕はちょっと政秋に呼ばれてるんだけど、一緒に部活くる?」
 嫌な予感がした。綾、行くのか?
「灰谷くんと一緒に帰るので、部長は寂しく一人でいってらっしゃいさようなら」
 そういうと、綾はいたずらっぽい笑顔に前髪を揺らして「ジル!行こうっ!」と言った。僕も「そうだな。ルネ」と言いつつ、平野世話に一礼して綾と一緒に帰った。少し、いい気分だった、いや、かなりいい気分だった。明日の本番が楽しみだ。早く寝よう。
 当日
「小島が、ロベルトが。風邪で休み!?」
 担任の先生が驚きを隠せない顔でいう。そりゃそうだ。文化祭本番当日に準主役の長ゼリフたっぷりキャラの役者が休んだんだから。かくいう僕も気が気でなかった。昨日の小島との会話が思い出される。嫌な予感がした。
 結局、本番一時間前までクラス劇がどうなるのか、ロベルト役がどうなるのか、何一つ進展はなかった。そんなとき、小島から連絡が来た。「代役立てました」数分後に、代役がきた。
「灰谷くん、綾、今日はよろしく。政秋の分まで頑張るから。台本は大体覚えてる。政秋と綾の練習にも付き合ってたから」
 代役は、平野先輩だった。
 そうして、二年三組のクラス劇
 『ルビッシュのパン屋』は開演された。
 ……………
 本番後
「すみませんでした!」
 平野先輩は二年三組に謝った。最後のシーンに、お墓に剣が刺さってなかったときは、平野先輩が剣を刺しておくのを忘れてただけだと思ったが、まさか、あんなことになるなんて。先生もクラスメイトもかんかんに怒っていたが、劇自体はなんとかなったし、劇は観客からも絶賛だった。平野先輩も何度も謝るもんだからクラス自体は許すムードになっていた。。でも、僕は許さない!!綾だって、きっと怒ってるはず……
「気にしないでください!平野先輩!」
 なぜだ、綾は泣きながら平野先輩を庇ってるじゃないか。…もうだめだ。この空間にいれたもんじゃない。
「ちょっと、他のクラスの出し物見に行きたいんで…」
 そう言って僕はその場を去った。
 文化祭は終わった。夕焼けは綺麗に校舎を照らす。
「綾?劇でのことは気にすんなって、脚本通りに進まなかったのは…」
 平野先輩を悪く言えない。だって、平野先輩じゃなければ、僕だって…、僕が。
「平野先輩も急だったから。小島も体調崩したなら仕方ないしさ。誰も悪くない」
「うん、ちょっとびっくりしたけど、そこまで気にしてないよ。ありがとう、灰谷くん」
 夕焼けのなか、愛しい顔がこちらを向く。
「なぁ、綾、僕さ…」
 ピリリリン
「「あっ」」
 綾の携帯が鳴る。どうやらメールらしい。
「平野先輩が、『劇ではごめんね。お疲れ様、一緒にかえろう?』って!じゃ、お疲れ様!灰谷くん!」
 さすがにもう…ねぇ。僕の口から「待って」の一言は出なかった。僕はやっぱりジルベルトなのかな。僕は、平野先輩の決意にも、小島の肝っ玉の据わりようにも、綾の、綾の……。もう、何も考えられない。とにかく、僕の「ルビッシュのパン屋」は終わった。そうだ、この後バケットでも買いにいって、思いっきり振り回して、そのあとボロボロにして食べてしまおう。でも、今は無理だ。しばらく僕は、夕焼けの中で立ち尽くすしかなかった。
「こんなに難しい即興劇ってあるかよ」

 

「絢爛空言」
142204
魯菰裳児

 世の中は不平等だ。誰しも感じたことがあるだろう。どれだけ頭がよくても、どれだけ運動ができても、どれだけ性格がよくても、ブサイクだったら意味がない。そんなことは決してないという偽善者はだいたい顔が整っている。本気でそう思うのなら、だれかこの僕を受け入れてくれ。
 僕という人物の紹介から始めよう。今から15年前の2月25日、日本でも有数の会社の社長である父と誰もが認める美人の間に生まれてきた。大金持ちの美人のこどもである僕は一切の不自由なく生涯楽して生きていけるレールに乗るはずが、そのレールは一瞬にして崩れ、正反対の向きのレールに車線変更してしまった。原因はただひとつ顔がブサイクということである。美人の母とは似てもにつかない僕の顔を見た母は、自分のこどもではないと疑い、結局真相もわからないまま家を飛び出し行方をくらました。まだ僕が物心つく前のことである。しかしさすが社長だ。産みの母が消えてすぐに、新しい母ができた。彼女はとても優しく、ブサイクな僕にも十分な愛情を注ぎ育ててくれた。おかげでこのころの僕は自分がブサイクだと知ることもなく、幸せいっぱいの生活だった。だが幸せとはそう長く続かないもの。父の会社が倒産し、一気に貧乏家庭となり、優しかった母は急変した。ある日深夜に一階のリビングから荒げた声が聞こえてきた。僕は恐る恐るその声に耳をすませた。「お金がないのに、こんなブサイク育てるとかありえない。せめてあのブサイクをどうにかして。」と父に激怒しながら、嘆願している母の声だった。ブサイクを育てるのは、無償ではいけないのだろうか。父は血がつながっているのだから、僕が求める言葉を母に伝えるだろう。僕はそっと父に嘆願した。「しょうがない。施設に入れよう。」僕は何度も耳を疑い、いや、耳だけでなくこの出来事全て夢ではないかと疑った。次の日、僕は父と母と家を失い、ある施設で暮らすことになったのだ。
 どうだ。偽善者諸君。ブサイクで貧乏だとたった5年でこんなことになるんだ。同情するなら、このブサイクに金と愛情をくれ。
 施設で僕はもう誰にも捨てられないように、出来るだけの努力をした。勉強、運動はもちろん、どんな人にも平等に優しさを振りまき、施設内で一番のいい子となることができた。友達もたくさんできたし、小学校ではみんなの中心で、先生からの信頼も厚かった。そんな顔以外はほとんど文句ない僕にとうとう好きな子ができた。その子は勉強と運動どちらもできる人が好きと公言していたので、当時小学校内で顔以外何でも一番だった僕は絶対いけると確信していた。しかし後一歩の勇気が出ず、結局勉強も運動もさほどできない男の子と両想いになっていた。人生初の失恋はこんな感じだった。その後恋に落ちることもなく卒業し、僕は県内トップの中学校に余裕で合格した。そこでも成績は常に一番、入った陸上部でもいきなり全国大会に出場し、またまた人気者になったのである。そして二度目の恋に落ち、小学校での反省を活かした僕は、思い切って告白した。結果はもちろんイエス。と僕の想像通りには行かず、顔がタイプじゃないと断られた。何が足りないのだろう。顔以外どうしても見つからなかった。顔顔顔。努力しても治せないもの。ブサイクなのも自覚している僕は、人一倍、いや、人五倍ほど身だしなみには気をつけていた。髪型も服装も全て気を遣っていたのだ。なのになぜ。その疑問は、僕の予想を裏切らず解決したのだ。告白してから数日後、女の子たちがこそこそ話しているのが聞こえた。どうしてこうも地獄耳なのだろうか、せめて地獄顔だけにしてほしかった。内容は至ってシンプル。「顔がもう少しましだったらなー。」「他は文句なしなんだけど、一緒に歩くのはさすがにね。」残酷だ。予想していたが、他人に決定打をうたれもう笑うしかできなかった。そうして最低限の顔がないと好きになってもらえないことが判明したのだ。
 さすがに偽善者諸君も認めざるを得ないだろう。ブサイクは全てを無意味にするのだ。んん、肝心の僕の顔を見てないからわからないだって。それは想像にお任せしよう。
 施設は義務教育期間までという制限があったので、僕は高校進学を諦め、就職活動を始めた。正直その辺の大学生よりも確実に仕事はできる。顔は就職には関係ないと信じていた。しかし内定は0。このままでは野垂れ死ぬことが見えている、せめてバイトでも採用されたらと街を歩いていた。意外とバイト募集の紙がない。施設から出るのは三月、それまでに仕事を見つけなければ、焦る気持ちを洗い流すかのように突然大雨が降ってきた。急いで近くのビルに逃げ込む。そこには先客がいた。顔の綺麗な女性だ。と思っていたらその女性が声をかけてきた。「すいません。こういうの興味ないですか。」渡された紙には、自分のなりたい顔に今すぐ変身。気になったらこちらまで。と住所が書かれていた。この女性は僕がブサイクだから、渡してきたのか。根性あるな。と感心していると、「どうですか。」とダメ押しの声が聞こえた。一応話だけでも聞いてみよう。どうせこのままだと野垂れ死ぬんだし。「あ、お話だけお伺いしてもよろしいですか。」「もちろんです。」女性は満面の笑みで答えた。もちろん笑顔はさらに綺麗だった。
 雨があがり、女性の半歩後ろをついて行くと、明らかに古びれたビルの前に来ていた。「こちらの地下です。」女性の言葉のまま地下に降りると、緑色の看板に白い字で「江川クリニック」と書かれたドアのまえにたどり着いた。「さあ、どうぞ中へ。」なんとなくこの線を超えたらもう元には戻れない気もしたが、元に戻りたくない僕はその線を越えた。
 「おお、お客さんを連れてきてくれたのか、どうぞどうぞ。」女性の奥には45歳前後の背の高い男が立っていて、僕を招き入れる。クリニックなのに患者とかではなく、お客さんか。と少し疑問も覚えたが、元からそこまで信用もしていないので気にしないことにした。「今日はどのようなお悩みですか。」その男は続けた。「見ての通りこの顔を変えたいのですが、費用とかもちろんすごいですよね。」僕は一番きになっていた費用について聞いた。「あれ、眞鍋くんから何も聞いてないのかな。」あの女性はどうやら眞鍋というらしい。「すいません、伝えるの忘れてました。お顔での苦労話によって費用は大きく変わってきます。なにかありますか。」眞鍋さんが少し早口で言ってきた。僕は今までの苦労話を全て話した。「それはそれは気の毒でしたね。もう全額免除でいきましょう。」男にそう言われ、はじめてブサイクも得することがあることを知った。「具体的に変身とは整形のことで間違いないですか。」僕が聞くと、「そのお話は中でしましょう。」とさらに奥の診察室と書かれた部屋へ案内された。「さあ、お座りください。」その部屋は病院とほとんど変わらない様子で、診察室に眞鍋さんは入ってこなかった。ふと疑問に思って聞くと、「それも今からお話します。」と諭されるように言われ、少し顔が赤くなった。「少し長くなるので聞いてくださいね。まずわたしの名前は江川卓、63歳になる元医者です。」え、その顔で60代、元医者、いろいろと疑問も多いが、先のこともあったので、口を閉ざして耳を傾けた。「わたしは昔整形手術などをよくしてきましたが、来る人はお金持ちばかり、しかもそこまで顔で苦労されたとは思えない人ばかりでした。ではお金がなく、顔を変えたいという願う人々はその権利すらも与えられていないのではないかと気づき、45歳で退職し、このビルの地下でこっそりと整形手術を行ってきました。先ほど伝えたように費用は苦労度で判断し、独断で決める。そうして何十年も多くの方の変身を応援してきました。あの眞鍋もその一人です。今でもこの部屋に入ると昔の顔を思い出すようで入ってきません。」僕の疑問はひとつ解決し、江川先生も満足そうにこちらを見ている。「わたしは腕には自信があります。あなたのお望みするお顔にほぼ完璧に近づけることもできます。しかしいくつか条件があります。一つ目は決して口外しないこと。もうわかっていらっしゃるとは思いますが、確実に違法なので、絶対に世に知られてはいけないのです。そこはご了承ください。二つ目は注意事項です。一回目の整形は無料ですが二回目は費用が発生します。またおひとり様整形は二回までなのでお気をつけください。とはいっても基本二回目をお望みする人はいませんが、念のため覚えといてください。以上ですがなにか不明な点ございますか。」江川先生の説明はこれで終わった。僕は年齢のことなど気にはなったが、特に重要でもないので何も聞かないことにした。「それではいつ手術なさいましょうか。」僕はなるべく早くお願いしますとだけ伝え、江川クリニックを後にした。
 これが今までのブサイクな僕だ。偽善者など暴言を吐いたが許して欲しい。僕はもう生まれ変わる。ブサイクから卒業だ。やっと幸せのレールに乗れる気がしている。そして現在に至る。
 そして数日後、電話がかかってきた。江川クリニックだ。僕は顔に似合わない陽気な気分で足早にクリニックへ向かった。中には先生と眞鍋さんがもう待っていって、手術室へと入った。「でははじめますね。」
 目を覚ますと病室のベッドにいた。少し頭がぼんやりしている。「お目覚めになりましたね。ただいま鏡をお持ちします。」眞鍋さんは小走りで鏡を持ってきた。「どうぞ。」その鏡に写っていたのは、美青年だった。「これが、、、僕、、、。」こんなことがほんとうにあるとは。二重で大きくきりっとした目、つんと筋の通った高い鼻、全てのパーツが整っていて、全体のバランスもとても綺麗だった。「ありがとうございます。」僕はなぜか涙を流しながら何度も何度も頭を下げ続けた。さようなら僕。
 想像以上の顔を手に入れた俺は、幸せのレールに乗ることができた。内定も多くとれたし、ナンパされることもあれば、芸能事務所にスカウトされたこともあった。あえて彼女も作らず遊び呆けることもできた。そんな俺は4月から入社した会社でも着実に成果を残し、仕事のできるイケメンとして、一躍有名人になった。それから5年ほどその会社に勤め、十分な資金を貯めた俺は会社を辞め、独立することにした。女性はもちろん、慕ってくれていた後輩男性たちもついてきてくれ、俺の会社はうなぎのぼりで力をつけ、とうとう誰もが知る有名会社まで上り詰めた。急成長させた人物として、テレビや雑誌にも顔が載り、イケメン社長として世の女性を虜にした。そんなレールの上で順調に過ごしていた俺は、昔のことなどとうに忘れ、江川クリニックのこともすっかり忘れていた。街を歩くブサイクを見ては笑い、人前ではブサイクを庇う偽善者へとなっていた。僕が大嫌いな偽善者に俺はなっていたのだ。そして変身から10年、26歳になった俺に久しぶりの感情が芽生えた。それはもうほとんど会社を下に任せて、フラフラ遊んでいるときだった。今まで見たことないほどの女性が目の前に現れ、俺は気がつけば声をかけていた。俺になってから女性には困ったことがないので当然嫌がれることはないはず、という自信があったのだろう。その女性は長い髪をなびかせながら、振り返り、「何ですか。」と怪訝そうに訪ねた。真正面から見ると目が合わせられないほど美人で、俺はとてつもなく胸が苦しくなった。「あの、お時間ありますか。」俺は生まれてはじめてナンパをした。この顔があればいける、その自信は儚く散った。「すいません、彼氏がいるので。」女性は足早に立ち去っていった。そんなことがあるのか、この顔を断る女性の彼氏はどれほどのものなのか、もしかしたら彼氏はいないのでは、さまざまな思いが駆け巡り、俺はその女性の後をつけることにした。何分かつけていると女性は立ち止まり、携帯を開いた。ここで彼氏とやらと待ち合わせか、俺はこっそり身を潜め、獅子のようにそのときを待っていた。女性が手を振っている、その先にいたのはまるまる太ったブサイクだった。これには獅子も驚きを隠せず、その場を動くことすらできなかった。なぜ、あの男が、女性は偽善者なのか、いや、仲睦まじそうに腕を組む女性の顔は恋する乙女そのものだった。ブサイクのくせに、俺は許せなかった、この10年を否定された気がした。
 それからというもの、仕事は今まで以上に行かなくなり、女性とあのブサイクについて徹底に調べ上げた。お金は腐るほどあるのだ。そして二人の情報を得た俺はさらに怒りを覚えた、あの美人女性は中田結衣といい、俺ほどではないがそれなりの会社に勤め、お金に困っている様子もなく、不自由のないくらしを送っていた。しかしあのブサイク、高木真司は30歳手前になっても未だに定職につけず、バイトでギリギリの生活を送っていた。お金もないのに中田さんと付き合う、俺にはどうしても許せなかった。そして破局作戦が幕を開けた。まず高木がひとりのときにそれとなく声をかけた。もちろん偽善者モードで。「すいません、あなたの仕事ぶりに感激しました。我社で働いてみませんか。」高木は疑うこともせずに俺の話に興味を示した。「僕でいいのですか、、、。」「もちろんです。しかし条件があります。わたしと入れ替わってほしいのです。」「入れ替わる?どういうことですか?」「詳しくはあちらで。」と俺は我が社の客室に案内した。俺の作戦はほぼ成功した。この調子で俺と高木の顔を入れ替えて、俺は高木として中田さんと付き合う。だれにもばれるわけがない。どうやって入れ替えるか、そんなのは簡単だ、あの古びれたビルの地下に行けば。俺は仕事に疲れたなどと嘘で高木の同情を買い、結局首を縦に振らし、タクシーを捕まえ二人であの場所へと向かった。10年ぶりだがあの頃のまま、眞鍋さんと先生が二人で働いていた。高木を外で待機させ、俺はまたあのドアを開け、一線を超えた。「お久しぶりですね。どうかなさいましたか。」と先生は少しかすれた声で言った。あの頃と変わらぬ姿で、10年経って70代とは思えない。「すいません、お願いがあります、お金はいくらでもお支払いしますので。」先生に事情を話すと納得してもらった。「でもね、10年前の約束覚えていますか、おひとり様二回までですよ。しかもせっかくのイケメンをお捨てになって構わないのですか。」先生はとても不思議そうだった。「大丈夫です。」俺は食い気味で答えた。そうして高木に先生を紹介し、変身が始まった。目が覚めたらそこには俺がいて、俺は高木になることができた、もちろんお金はそこ尽きたが、関係ない、結衣さんが俺にはいるのだから。ここからが本題だ。高木として生きるために多くの情報が必要だった、いや生きるためではなく結衣さんにばれないために。元高木は馬鹿だった。社長という地位に心奪われ、俺として生きることに何の遠慮もなかった。なので結衣さんを手放し、どのように付き合っていたのかも全て話してくれた。情報はしっかり得た。もう顔を変えても幸せのレールの上だ、さようなら俺。
 そうして高木として生まれ変わった僕は、結衣との初デートを今か今かと待っていた。あれから毎日メールはしている。こんなに幸せでいいのか。ブサイクは幸せでないなんて誰が決めたのだろう。ブサイク万歳だ。しかも顔だけ入れ替えたのでスタイルはそのままでデブではない。結衣のために痩せたといえば大丈夫だろう。そして1ヶ月が過ぎ、とうとうデート当日。以前失望したあの場所で待ち合わせ。今までにない高揚感に包まれ、僕は結衣を待っていた。来た。結衣が。抑えきれない胸の高まり。目の前に来た結衣は僕よりも先に口を開いた。「お別れしましょう。」んん、僕は状況を掴めずにいた。頭をフル回転させて、体と心が理解するまでに、結衣はもう目の前にいなくなっていた。なぜだ。ばれたのか。いやそんなはずはない、どうしよう、あいつだ、高木、あいつに話を聞くしかない。俺はすぐにあの会社に訪れた、受付で高木を呼び出す、受付の社員は困ったように「アポがないのならお引取りください。」と追い払う。まさか俺が作った会社にも入れないのか、家だ。俺の家に帰ればと思ったが、高木は賢かった。もう俺の家はそこになく、引越ししていたのだ。どうすればいい、途方に暮れていた俺だがもう一つ真相がわかるかも知れない場所に気づいた。もちろんタクシーに乗るお金もないので俺はあの場所へと走った。
 そこにはまたあの二人がいた。「すいません、あの、高木のことなんですが。」俺は息切れしながら、二人に尋ねた。「何のことですか、わたしたちにはわかりません。」先生は今までとは異なり、興味のなさそうに答えた。その顔には一切の笑みもなく、これ以上ここにいては危険だと体が感じていた。そうか、もう俺はお客さんではないのか、先生たちにとって俺は金にならない存在、そんなことを考えていたら、体はその場から逃げ出すように走り始めていた。もう体が走れなくなったころ、俺は知らない場所に来ていた。ここは、どこだ、周りを見渡しても見たことないものばかり、いや、神様はこのブサイクに運を残してくれていた。そこには見覚えのある顔が、高木だ。今から走って問い詰めようと思ったが、走り疲れた体のおかげで頭は冷静だった。尾けよう。俺は高木の後を追った。
 何分か追い続けると、高木は俺もよく知っているビルに入っていった。なぜ、「江川クリニック」に、高木と先生たちはつながっているのか、恐る恐るビルに入っていたら俺は自分の目を疑った。そこには結衣さんがいたのだ。4人はまるで親友かのように笑顔で話し合っている。わからない、どうしてあの4人が繋がってるのか、いつから、その瞬間後頭部に激しい痛みが走った。え、。俺は気を失っていた。
 なぜ俺がこんなことに、これもブサイクに生まれたからなのか、こんなことなら、。
 目が覚めるとそこは病室だった。助かったのか、そこには5人の影が見えた。江川先生、眞鍋さん、高木、結衣さん、知らない男。「おい、俺がこいつに気づいてなかったら計画パーだったぜ。最後まで慎重にいかなきゃー。」男が話す。「正直、こいつは身寄りもないし、もうお金もないからばれたところで何もできないんだけどな。」先生は見たことないほど恐ろしい顔で話した。どういうことだ。まだわからない。「ほんとにばかだよねー。元からわたしたち5人は仲間で、あんたをはめていたのに、最後の最後まで気づかないなんて。」天使と思っていた結衣さんが、俺を見ながら吐き捨てた。全て罠だったのか、あの十年前から。なぜだ、ブサイクだからか、ブサイクは人権もないのか。許さない、どうにかして訴えてやる、俺はその病室から逃げ出した。殺されるかも知れない。できるだけ遠くに逃げるんだ。どのくらい走っただろう。誰も追いかけてきていないようだ。まだ俺は生きている。まず交番だ、運良く目の前の交番に警官が立っていた。おまわりさん、話を聞いてください。少し遠くから呼びかけてみたが聞こえていないようだ。とにかく早く伝えたい。俺は警官の前に立って今までのことを全て伝えたが、警官は「何を言っているのか、わからない。とりあえず中に入って話しを聞こう。」なぜわからないのだ、完結かつわかりやすく伝えたのに。もしやこいつも仲間か、中に入ってはやばい、何されるかわからない。ここで話をしたいのです。そう何度も何度も伝えても、その警官は「なんて言っているんだ、中に入ろう。」としか言わない。もう終わりだ、俺には何も信じれるものがない、誰も信じれない。俺はまたその場を離れ、気がつくとどこかの屋上にいた。もう疲れた、終わりにしよう、さようなら偽善者諸君、さようならブサイク共。さようなら俺。
 ただいま入ったニュースです。30代の男性が〇〇区の〇〇ビルの付近で倒れているとのことでしたが、ただいま病院で死亡が確認されました。被害者は歯と舌が取り除かれていて、飛び降り自殺に見せかけた他殺の疑いもあるとして、引き続き調査を進めていくようです。

 

「怨霊」
132105

むかしむかしのお話、でもなく現代の今日この頃。
 
 とあることころに魔の交差点というものがありまして、
 つまりは事故の起きやすい場所って訳です。
 そしてその事故は幽霊の仕業だとかいう、そんな噂がありました。
 実は私、そんな場所にいる幽霊だったりします。
 ひとつ断わっておくが、決して私自身なりたくてこうなったわけじゃない。
 ミュートにしてたって音が漏れるくらい、声を大にして言いたい。
 
 幽霊になりたいとかこれっぽっちも思ってなかったし、
 ていうか自分がその日、事故に遭うって分かってたら
 雨の日に白いワンピース着て、ずぶ濡れで自転車漕いだりしてなかったし
 いつかカットしに行こうと思ってた長い黒髪はばっさり切ってただろうし。
 つまり今現在、幽霊になってる私は
 白いワンピースに血がべっとりと付いてて髪が長く水が滴ってるという
 それはもうホラー映画みたいなノリの幽霊になってるけど、そんな予定なかったわけで。
 
 よく聞いて。今日び、かわいい服着た幽霊とかそこら辺うろうろしてるし
 ゆるふわな髪の毛だけど怨霊です!みたいな宣言してる幽霊もいるわけで
 私みたいな、いかにもって感じの昔ながらっぽい幽霊は本当に珍しいわけで
 ていうか私とか平成生まれなんですけど何でこんな昔ながらの怨霊になったのって自分が一番聞きてぇよ。
 いつしかこの交差点は誰も通らなくなった。
 幽霊のわたしが、生きてる人間をあちらの世界に引き寄せようとしてるって、
 そんな噂のせいらしい。
 私の姿は一般人、つまり霊感のない人間にも認知しやすいらしく、見えた人間は叫んだり腰を抜かしたりする。
 見えないものに向かって吠えまくる犬ですら、私を見た途端に黙ってどこかに行ってしまうくらいだ。
 いやあのね、私どんだけ酷い形相してるのか知らないけど
 そんなね、向こうの世界に誰かを引き寄せようとしてないってか
 そんな力すら持ってないし
 そもそも私が事故に遭う前から、この交差点は事故が多発してましたよ。
 ていうかあの世に逝けるなら、私自身とっくに成仏してるって。
 それになんでかは知らないけど、交差点のすぐそばにある電柱に私の足は鎖で結びつけられているらしい。
 どれだけ頑張っても鎖はほどけない。だからどこにも行けない。
 つまりは地縛霊というやつだ。
 いやそりゃあさ、この鎖さえなければ色んなところに行ってるよ私だって。
 自分が死んだ場所に居続ける意味分かんないし。
 今日も誰も通らない。
 犬も怖がって、マーキングにすら来ない。
 ちょっと寂しくなって思っていたそんなある日、
 この小さな交差点に、一人の若者がやってきました。
 すっごくイケメン。も、めちゃくちゃイケメン。大事だから二回言ったよ。
 ちょっとたれ目で、あんまり濃い顔じゃなくて、肌は綺麗だし髪さらさらだし。
 恋をした。私は一瞬で恋をした。
 なぜか毎日ここを通る彼、イケメンすぎる。
 しかも、私の方チラ見する。
 明らか見えてるよね私の事。ばれてるよね私の正体。それでも毎日来る。
 やばいどうしようこの人天然なのかもしれない可愛すぎるどうしよう恋した。
 好かれたい。世間一般的に見れば私は怨霊かもしれないけど、あの人に好かれたい。
 ちょっとこのバサバサの髪をどうにかしたい。でもクシとか持ってない。
 手でどうにかするしかないけど、からまってるから超痛い。
 お化粧直しもしたい。もうすぐ家だしもういいやって、雨の日にドロドロの顔してた自分を殴りたい。
 お洋服も洗いたい。血が取れない。お願いしますから誰か漂白剤持ってきてお供えして。
 すね毛一本だけ処理し損ねてるのもやたら気になる。あの人からは見えないかもだけど超気になるのよ。
 そういえば、なんで私は裸足だし。ああそうか事故った時にサンダル脱げたんだわ恥ずかしい。
 足に鎖が絡まってるせいでデートにも行けないけどそれ以前の問題じゃない。
 どうしようどうしよう、嫌われたらどうしよう。二度とここを通らなくなったらどうしよう。
 でも今日もチラ見されてるし。嫌われてないのかな、怖がられてないかな。
 声をかけたら迷惑かな。嫌われるかな。それでもちょっとでも近づきたい。
 
 …よし。
「あの、あの!私とお友達になってくださいぃぃぃぃい!!」
「うんいいよ」
 軽いよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!
 そんなこんなで、動けない私のために、
 彼は毎日電柱のそばまでやって来てくれるようになった。
 私が生きてた頃の他愛もない話とかして、何で死んじゃったのかも軽く説明した。
 雨の日は傘を持ってきてくれて、一つの傘に二人で入ってみたりした。
「もう真冬だけどさ、ワンピ一枚で寒くない?だいじょーぶ?」
 白い息を吐く彼。やっぱすごく好き。
「ところで、そのワンピースってすっげー独特の模様だよねー」
 なんでこんな天然なの大好き。
 けれど彼は日に日にやつれて、
 スレンダーだった身体は骨みたいになってるし、顔は青白いし。
 大丈夫だよって笑ってるけどきっと嘘だ。
 しかもその理由を、私は知ってる。
 ――知らない、気付いてないふりをした。会えなくなるのが寂しかったから。
 彼の事がすごく好き。だからこそ、私は離れるべきだった。
 なんだかんだ言っても、私は怨霊だったんだ。
 私にそのつもりはなくても、影響を及ぼしてしまうのなら。
「――あの、」
「なに?」
「私がもしも成仏して、生まれ変わったら、そしたら」
 付き合って、とか。言えない。から。
「……そしたら、またこうしてお話して下さい」
「うんいいよ約束する」
 やっぱ軽いけど、それでよかった。
 それくらい軽くしてくれないと、泣いてしまうから。
 軽すぎるって言われるかもしれないけど、私はこの人を好きになって、本当に幸せだった。
 次の瞬間足の鎖は外れ、私の魂は天に昇り、生まれ変わって、
「ワオーン!!ワンワン!!ワン!!」
 なんで犬になった。
 喋れない。せっかくまたお話して下さいって約束したのに喋れない。
 神様の馬鹿。意地悪。ドS。
 しかも、どうやって彼を探せばいいのか分からない。どうすればいいんだろう。
 私ってばまだまだ仔犬だし、室内飼いで動けないし、ついでに言うと兄弟たちがうるさいし。
 そうこうしてるうちに、里親になりたいという人が下見にやってきた。
 ゲージの中を覗き込んで、
「――あ」
 笑う。知ってる、その顔。
「俺この子がいい」
「え?ああ、その犬か。毛色はちょっと変わってるし、なんでかちょっと怖い顔してるけど、性格は温和だと思うよ」
「うん知ってる」
 私の身体を片手でひょいっとつまみ上げ、私の大好きな人は言う。
「久しぶり。相変わらず独特の模様してんなー」
 鎖の代わりのように首輪から伸びているリードは
 電柱ではなくて、彼と繋がっている。
 お喋りは出来ないけれど、彼と一緒に歩けるから、
 こういうのもありかなって、そう思った。

 

「過去振り返り禁止法」
142201

 昔話のお決まりの始まり方といえば? 
 それはもちろん、「昔々あるところに」がお約束で、誰もそれに対して疑問なんか持たないことでしょう。だって、「昔」話なのですから、昔の話をするのは当たり前じゃないですか。
 なんて考えていたら、それは大きな間違いですよ。あなたが、昔話が出来るのは、「昔」を振り返る権利があって、その権利を行使しているからなのです。
 そんなことを言えば、「昔を振り返るのに権利なんてあるわけないじゃないか。」と思うことでしょうが、それはとても幸せな思い込みだと言えるでしょう。なぜなら、あなたは自分のその素晴らしい権利を誰にも奪われたことがないということなのですから。
 いえ、本当はそれが当たり前なのです。この権利は普通、誰にも奪われることなんてないのだから、誰も持ってないことの想像なんか、するわけがないのです。
 でも、この当たり前の権利が、奪われたことが一度だけあるのです。その頃のことを思い出すと、なんともみょうちくりんな気分になります。当たり前が当たり前でなくなる感覚というのは、どうもうまく言葉に出来ません。なので、今からその時についての話をしたいと思います。
 ある日のことでした。テレビをつけると、とてもえらい政治家の生中継が行われていました。内容はこうでした。
「過去を振り返ることは、全くの無意味である。過去はすでに過ぎたものであり、どれほど努力したところで変えられるものなどではない。それをいちいち振り返ったところで、はたしてそれは国の利益となるのだろうか。それよりも、未来のことについて考える方が、よっぽど国のためになる。なぜなら、未来これから我々が創り出すものであり、国をより良い方向へと変化させることが可能だからである。なので、我々は新しい法案を提出させていただくこととする。それは『過去振り返り禁止法』である。」
 この法案は、すぐさま国中の話題となりました。だって、過去を振り返ることが禁止だなんて、誰も考えたことがありませんから。そして、徐々にこの法案は正しいと人々に考えられるようになっていきました。今まで気にせずしてきた過去を振り返るという行為が本当に無意味であるなら、今までの自分の生活は無駄に溢れていたということです。その時間をすべて未来のことを考えるのに使えば、自分の生活だってもっと良くなるということではありませんか。
 学者の先生たちも、とても複雑で難しい計算やグラフを使いながら、いかに『過去振り返り禁止法』が、国と、人々の生活を豊かにするのかということを発表しました。一人ではありません。毎日何人もの先生が、テレビで自信満々に言っているのです。『過去振り返り禁止法』を支持する人は、どんどんと増えていきました。
 この勢いは、他の政治家たちも無視できないものへとなっていきました。この法律によって国が良くなることはあっても、過去を振り返られないからといって、国に損はないのですから。むしろ、この法案の決定に反対するようなことになれば、自分が国民から嫌われることになってしまい、その方がよっぽど損です。このように、『過去振り返り禁止法』は国民全員が賛成という形で可決、施行されることになったのです。
 
 さて、『過去振り返り禁止法』が施行されてから国はどうなると思いますか? 
 まず、人々の会話から「た」が無くなります。別に「たぬき」が「ぬき」になるとか、そういう意味ではありません。『過去振り返り禁止法』では、法律で過去の話をすることが禁じられているのですから、会話の最後、過去を表す助詞の「た」を使う機会が無くなるということです。
 あなたはそのような経験がありますか? 無いのなら、ぜひ、一度挑戦をしてみてください。
 実は、私は今、あの時のことを思い出しながら、「た」を使わないで話してみているのですが、これが以外と難しいのです。当たり前なものが使えないという不便さを、ぜひここで感じていただきたいものです。
 ですが何度もいうように、あの時はそれが当たり前であったため、誰も、何の疑問も違和感も持たないまま、日々の会話を成り立たせていたのです。
 具体的にどのような会話をしていたかといえば、まず学校で友達とする話題として、定番中の定番である、テレビの話題です。ですが、その内容は昨日見たテレビの話なんてしません。たいていは、「今日は何見る?」「あなたの好きなあの俳優さんが明日のドラマに出るらしいよ。」なんていう、まだ見てもいないテレビのことを話すのです。
 そのテレビからは、ニュースが無くなりました。ニュースはその日に起きたことや、今までにあった出来事についてのことを、放送するものです。しかし、『過去振り返り禁止法』ができてからは、当然そのような振り返る行動が許されるはずもなく、かろうじてニュース番組と名前の付くものはありますが、その内容もやはり、今日はこの後何があるとか、来週にはこのようなイベントがあるとか、そんな内容になってしまいました。
 ニュースがそのような状態になってしまうということで、新聞も同じような状態になりました。新聞もニュースと同様に、過去について書かれているものですから、それらの記事を抜いた結果、新聞もこれからの出来事とテレビ欄、四コマ漫画程度しか残らなくなってしまいました。新聞配達の人はそれでも毎日新聞を配達し続けていましたが、朝刊なんかは新聞本体よりも、間に挟んでいるチラシの方がよっぽど厚みがありました。だから、新聞配達というよりも、チラシ配達と言う方が、よっぽどしっくりきたものでした。
 子どもたちにとっての変化として、例えば夏休みの宿題なんかでは、絵日記が無くなりました。そもそも、日記なんてものを書く人なんか、一人もいなくなりました。そのかわりとして子どもたちは、夏休みの絵計画を宿題として出されました。これは、今日あったことではなく、明日したいことの計画を、絵を沿えて書くというものです。これは、宿題を溜めてしまう子にとっては、とてもつらい宿題でした。だって、絵日記なら頑張って思い出しながら書けばいいですが、『過去振り返り禁止法』のあるその時では、過ぎてしまった計画を書くことなんて、絶対にしてはいけないことなので、どんな子どもでも、この宿題だけは一生懸命やり続けました。多分、一番つらい宿題であったことでしょう。
 このようにして、国中の人々が過去について振り返ることが無くなった結果、過去という存在にも誰も気を留めるようなことなど無くなりました。『過去振り返り禁止法』ができた後に生まれた子どもなんか、「過去」という言葉は知っていても、それがどのようなものなのか分からないことが普通になってしまいました。
 
 さて、『過去振り返り禁止法』ができた社会がどんなものだったかの話をしましたが、あなたも知っての通り、今はこんな法律は存在しません。では、何で『過去振り返り禁止法』は無くなったのだと思いますか? そのことを話すために、ある男の子について話をしようと思います。その男の子は先ほど言った『過去振り返り禁止法』ができてから生まれた子どもで、「過去」というものが何なのか知らない、普通の男の子でした。
 
 その男の子の名前はゆうたくんと言って、その年の春に小学校三年生になりました。三年生になったということで、近頃は友達の家に一人で遊びに行くことも増え、自転車で少し遠くへ遊びに行くことも増えました。
 そんなゆうたくんがある日、遊び終わって家に帰った時に、お父さんにある質問をしました。ゆうたくんにとってはちょっとした質問です。でも、それはお父さんにとってはちっとも、ちょっとした質問ではありませんでした。
「ねえねえ、お父さん。どうしてうちにはお母さんがいないの?」
 手を洗ってうがいも済ませてやってきたゆうたくんに、晩ごはんの準備の手を止めて向き合っていたお父さんの優しげな笑顔が、一瞬で強張りました。でも、お父さんは努めて笑顔をゆうたくんに向けました。
「……なんで、そんなことが気になるんだい?」
「あのね、みんなのおうちにはお母さんがいるけど、うちにはいないのなんでかなって思って。」
「えっとね、それはね……」
「ねえ、なんで?」
 お父さんは困ってしまいました。ゆうたくんのお母さんは、ゆうたくんが産まれてすぐに、病気で亡くなってしまいました。けれど、それをゆうたくんに上手く説明することができません。なぜなら、それを説明するということは、昔の話をしなくてはいけないということで、つまりは過去を振り返ってしまうことになってしまうからです。また、ゆうたくんは昔の話なんて聞いたことも、考えたこともないのですから、話したとして、それが正しく理解できるかどうかも分からないからです。
「お母さんは、今はいないけどお父さんはここにいるよ。それじゃだめかな。」
「だめじゃないよ。だめじゃないけど……」
「じゃあこの話はおしまい。さあ、ごはんにしようか。」
「……はあい。」
 お父さんはこの話はしたくないみたい。ゆうたくんは、お父さんの様子を見て気が付きました。けれど、やっぱりなんでなのか分かりません。その日はごはんを食べてお風呂に入って、もうその話はしないよとお父さんに伝わるように、さっさと自分の部屋に行って、早めにふとんに入りました。それでもゆうたくんの頭の中は、なんででいっぱいです。お母さんはみんなのおうちにはいるのに、自分のうちにはいないので、自分のうちが他とは違うような感じがして、ちょっと寂しい気持ちのまま、ゆうたくんは眠りにつきました。
 次の日、ゆうたくんは学校で、同じクラスのあみちゃんに、昨日お父さんにしたのと同じ質問をしました。本当はもう一度お父さんに聞けないかなと思ったのですが、やっぱりなんだか聞いてはいけないような気がして、お父さんには聞くのを我慢したのですが、やっぱり気になるので、あみちゃんに聞くことにしたのです。
 あみちゃんはゆうたくんの知っている中で、一番賢い小学三年生です。三ケタのかけ算なんていう、ゆうたくんをはじめ他の子たちには難しい計算を、あみちゃんは絶対に間違えないですらすら解いてしまうのです。漢字だって、ゆうたくんの知らない漢字をあみちゃんはたくさん読むことができます。それでいて、あみちゃんは絶対にそのことを他の子たちには自慢したりしないのです。友達がこまっていたら、自分からその子の所にいって助けてくれるような、とっても優しい子なので、ゆうたくんは、きっとあみちゃんなら助けになってくれると思ったので、あみちゃんに聞くことにしたのです。
 あみちゃんは、ゆうたくんの質問に困ったような顔はしませんでした。そのかわり、ゆうたくんと同じような、きょとんとした顔になりました。
「あみちゃん、なんでだと思う?」
「うーん、わたしもわかんないや。うちはずっとママがいるけど、なんでいるのかとか考えないもん。」
 あみちゃんはこのゆうたくんの質問にあまり興味がないのか、話を続ける気がなさそうです。けれど、ゆうたくんはまだ諦められません。
「でもさあ、うちだけお母さんがいないなんて、変なことじゃないのかなあ。普通はお父さんもお母さんもいるものなんでしょ?」
「そうだけど、逆になんでゆうたくんは気になるの?」
「う、だって……」
 そこでゆうたくんの言葉はつまってしまいました。もじもじとシャツの裾をつまみながら、いまいちはっきりしたことを言うことができませんでした。でも、あみちゃんは絶対に無理やり言わせようとはしません。あみちゃんは、ゆうたくんが自分の言葉を見つけるまで、じっくりと待ってくれていました。もしも、これが他の子であったら、ゆうたくんは焦ってしまって上手く言葉が見つけられなかったかもしれません。あみちゃんだったから、ゆうたくんは自分の言いたいことをしっかりと考えることができました。
「だって、ぼくだって、ぼくってお母さんに会いたいもん……」
 たった一言、ゆうたくんはしぼり出すように言いました。その言葉は、人の心を動かす力を持っていました。
「ゆうたくん……よし。」
「え、なんか分かる?」
「それはわかんないよ。考えてもわかんないもんはわかんないもん。それじゃあさ、ゆうたくんちでヒントになるものないか探そうよ。絶対なんかあるよ。」
 ゆうたくんは一瞬迷いました。おうちのなかを散らかすとお父さんに怒られるからです。でも、ゆうたくんはあみちゃんと一緒にヒント探しをすることを決めました。せっかくあみちゃんが一緒に探してくれると言ってくれたのです。今のタイミングを逃したら、二度とこんなことはないような気がしたから、ゆうたくんは、迷いながらも、あみちゃんの提案に賛成したのでした。
「じゃあ今日、学校がおわったらそのままゆうたくんのおうちに行くね。」
「うん、お父さんが六時にお仕事から帰ってくるから、それまでに見つけなきゃ。」
「分かった。ゆうたくんは今のうちに、どこらへんを探したらありそうか考えといて。」
 ゆうたくんとあみちゃんは誰にも聞かれないようにと、ひそひそと、放課後の計画を立てました。
 終わりの会が終わるとすぐに、二人はさようならを言うことも忘れてゆうたくんの家に向かいました。本当なら、家に帰ったらお父さんの用意してくれているおやつを食べて、学校の宿題をするのですが、今日はおやつになんか目もくれず、二人そろってランドセルを玄関で放り投げ、ゆうたくんが学校でずっと考え続けた、一番怪しいと思う場所、お父さんの部屋を探し始めました。この部屋に入ることをとがめられたことは無かったのですが、お父さんのお仕事に関係する本などがたくさんある部屋なので、ゆうたくんにとってはあんまりおもしろくない部屋だという印象でした。けれど、だからこそ、ゆうたくんに見られたくないものを置いておくには絶好の場所となるはずです。
 二人はまず、お父さんの部屋にある引き出しという引き出しを、一つあけてはひっくり返して元に戻し、ひっくり返しては元に戻すを繰り返しました。机やらクローゼットやらの引き出しを全部あけて、しかもひっくり返すのは二人にはなかなかの重労働でした。できればお父さんにばれたくないと思うゆうたくんが、できるだけ元通りにしておきたいと思ったので、作業はどうしても丁寧にならざるをえません。しかも、ヒントになるものの形が分かっていれば探しやすかったのですが、それがどんな形をしているのかも分からないんだから、あまり適当になるわけにもいかず、やっぱり丁寧になってしまいました。
 けれど、探しても探しても、ヒントになりそうなものは何も見つかりませんでした。
「ゆうたくん、本当にこの部屋のどっかにあるのかな。もうくたくただよ。」
「うん、ぼくもくたくた。けど、あみちゃん、お願い、もうちょっとだけがんばろ。」
「わかったよ、でも、引き出しは全部見ちゃったから、あとはどこ探せばいいんだろ。」
 それはゆうたくんにとっても一番困っていることでした。引き出しの中は全部見ました。扉になっているところの中や、箱の中もしっかり探しました。けれど、やっぱりどこにもヒントになるようなものはありませんでした。
「もしかしたら、この部屋じゃないのかも。ねえ、ゆうたくん、明日もう一回ほかのところ探そ? こうなったら私も見つかるまで手伝うよ。だって、私も気になってきちゃったんだもん。ゆうたくんのお母さんがなんでいないのか。だって、だれにだってお母さんっているはずだもんね。」
「ありがと……ありがとう、あみちゃん。」
 ゆうたくんは、やっぱりあみちゃんに聞いて正解だと思いました。これだけ探しても見つからなくて、ゆうたくんの胸の中は、とても不安でいっぱいになっていたからです。これだけ探しても無いだなんて、ぼくに本当はお母さんなんていないんじゃないか。ぼくの家族はやっぱり変なんだ、と不安がぐるぐるし始めていました。だけど、あみちゃんの言う通りです。お母さんがいない子どもなんて、そんなの絶対にあり得ません。きっと、ゆうたくんのうちにお母さんがいないのは、何か理由があるはずなのです。探すところだって、まだ一部屋探しただけです。うちは広いし、物置だってあります。
「そうだ、うちには物置もあったんだ。」
「物置? そこだよきっと。だって物置ってことはいろんなものがありそうだもん。ヒントだってその中にあるよ! ちょっと見に行こ!」
「あ、待って、物置はお父さんのもってる鍵が無いとあけられないから、ってうわっ。」
「え! ゆうたくんどうしたの!?」
 部屋から飛び出そうとしたあみちゃんを追いかけようとしたゆうたくんは、足を本棚のはじっこにひっかけて転んでしまいました。すぐにあみちゃんが助けに来てくれましたが、ひっかけたときの衝撃で、本が何冊か落ちてしまいました。中にはゆうたくんの頭めがけて落ちてきた本もあって、恨めしそうにその本を見つめていると、そこに何かが挟まっていることに、ゆうたくんは気が付きました。
「あれ? これなんだろ……写真?」
 ゆうたくんが気になって手を伸ばしたところ、それは一枚の写真でした。
「ほんとだ、本物の写真なんて、私はじめて見たよ。」
 あみちゃんがキラキラした目でゆうたくんの手の中にあるものを見ています。それも無理はありません。ゆうたくんたちにとって、写真というものはとても珍しいものなのです。
 今でこそ、写真は簡単に、それこそ携帯電話やスマホで簡単に撮れるもので、何の珍しさもありません。でも、写真というものがどんなものなのかを考えてみると、写真というものは過去の楽しかった思い出を残しておくものであって、見れば多くの場合でその時のことを思い出すでしょう。それはつまり過去を振り返るということです。『過去振り返り禁止法』が施行されたその当時においては、写真はどんどん姿を消していき、それを実際目にすることなど、特に施行された後に産まれたゆうたくんたちにとっては、まず無いに等しいものだったのです。
 そんな本物の写真がゆうたくんたちの目の前にあるのです。興奮せずにはいられません。二人はじっくりと写真を、そしてそこに写っているものを見ました。
 それは女の人でした。古いために少し色あせていますが、若い女の人が写っていることははっきりと分かりました。
「誰だろう。ゆうたくん知ってる?」
「ううん、知らない。でも、なんだかどっか見たことがある気がする。」
 ゆうたくんはその女の人をどこで見たことがあるのか、必死に思い出そうとしましたが、なぜか、まったく思い出せませんでした。優しそうな笑顔を浮かべていて、とてもよく知っている顔のように感じるのに、こんな女の人にはあったことがないのです。
 うんうんとうなっているゆうたくんをふと見たとき、あみちゃんはあっ、と叫びました。
「どうしたの?」
「私分かった。この人、ゆうたくんに似てるんだよ。」
 そう言われてみると確かに、目の形なんかがそっくりな気がします。目だけじゃない、顔の形とか、口の大きさとか、いろんなところがゆうたくんと似ていました。それに気づいたあみちゃんは、もっと大きな事実に気が付きました。
「分かっちゃった! この人だよ、ゆうたくんのお母さん! ぜったいそう!」
「お母さん、この人が……」
 お母さん。そう思うと、もうこの人以外にゆうたくんのお母さんと呼べる人はいないように思えました。いや、ゆうたくん自身、この人がお母さんじゃないわけがないと感じました。知らないはずなのに、とても、懐かしさを感じさせてくれる、そんな人です。そう思うと、胸の奥からじわりじわりと、なにかがこみ上げてくるような気がしてきました。先ほどまで感じていた不安などとはぜんぜん違う、なにか、とても熱いものです。
「ヒントなんてもんじゃないね。答え、見つけちゃったよ。」
「ほんとにね。どうする? これもってゆうたくんのパパのところに行けばいいかな。」
「そうかもね。でも、そしたら部屋中探してたことばれちゃうかも。あれ、そういえば今何時?」
「え? えーっと、今は、あ! もう六時すぎてる!」
「しまった!」
 二人が早く部屋から出ないとと思ったちょうどその時、玄関のドアが開く音がしました。二人は思わずかたまってしまいました。
「あれ? 誰か遊びに来てるのかな。おーい、どこにいるんだ? 遊ぶのはいいけど、ランドセルをこんなところに置きっぱなしにしちゃだめじゃないか。」
 そう言いながら、お父さんは二人を探しているようで、なんどもガチャガチャという音が聞こえてきます。そして最後に、二人のいるこの部屋のドアが開かれました。
「また珍しいところで遊んでるな。ああ、あみちゃんいらっしゃい。でもまたなんでこんなところで……」
 そう言いかけたところで、お父さんの目が大きく見開かれ、言葉は止まりました。その目線の先には、ゆうたくんが、いえ、ゆうたくんの手の中の写真がありました。
「どこで、それ見つけたんだ……」
「あの、本が落ちてきて、それで、その間に挟まってた。」
「そう、ゆうたくんが転んで、それで。」
 なんとかばれないように、と二人はしどろもどろになって答えましたが、お父さんはそんな二人を見て、ふっと笑いました。
「ゆうた、あみちゃん、探したんだろ。」
 二人はそれを聞いてびくっとしましたが、お父さんは相変わらず緩やかな笑みを浮かべたまま、ゆうたくんの手から写真を手に取りました。
「これな、探してたんだ。ずいぶん前に、ゆうたが産まれる前に撮った写真で、遺品整理の時に思い出したんだが、どこにしまったのか全然思い出せなくてな。そっか、ここにあったのか。」
 懐かしそうな、嬉しそうな、寂しそうな、色々な感情をぐるぐる混ぜたような笑みで、お父さんはぽつりとつぶやきました。
 それは初めて聞いた、お父さんの昔の話でした。
 初めて聞いた、「昔」の話でした。
「お父さん、ぼく、お母さんの話聞きたいな。」
 ゆうたくんは、勇気を出して、お父さんにそう言いました。お父さんは、すでに写真から顔をあげ、まっすぐゆうたくんの目を見ています。
「楽しい話ばかりじゃないぞ。むしろ、ゆうたには辛いかもしれない。」
「いいよ、知らないよりは、よっぽどいい。」
「そうか……」
 お父さんは写真を持っていない方の手を伸ばし、ゆうたくんの頭をぐしゃぐしゃにかき混ぜました。
「父さんもな、今日一日考えたんだよ。ゆうたが母さんのこと知りたがっているのを、本当に止めてもいいのか。でも、ゆうたがここまでして母さんのこと見つけてくれたんだ。これはもう、話してやらないといけないな。それと。」
 お父さんは、ゆうたくんもあみちゃんも視界に入れるようにして言いました。
「これは父さんのとても大切な思い出の一つだったんだ。だから、二人ともありがとう、この写真を見つけてくれて。」
 このようにして、ゆうたくんは、お母さんのことを知ることができたのです。
 実は、これはゆうたくんに限ったことではありません。何とも面白いことで、『過去振り返り禁止法』ができてから産まれた、過去という存在すら知らないような子どもたちが、このようにして過去と触れ合うという事例が数多く出てきました。
 気がつけば、『過去振り返り禁止法』なんて法律を守る人なんて、誰もいなくなりました。だから、今、私たちが生きているこの世界にはそんな法律は無いのです。
 だから、私たちは今も過去を振り返ることができるのです。

 

「願い人」
142206

 日本には、成長を祝う儀式が沢山ある。人生の節目を無事通過できるように行う儀式を、通過儀礼、人生儀礼などというが、一体一生のうちいくつの儀式を通過するのだろう。
 そして、その儀式のほとんどは本来の意味を知らぬまま私たちの間を通過していくのであろう。
 生後七日目に行われる「お七夜」。赤子に名前を付けて祝い、昔はこの日から家族の、社会の仲間入りをしたという。今よりも生まれたばかりの赤ちゃんの死亡率が高いため、節目の七日目にお祝いするのだ。
 そして、「お宮参り」。赤子の誕生の報告やお礼をし、成長を祈願する行事だ。生後男の子は三十一日目、女の子は三十三日目に行う。
「お食い初め」。平安時代から続くとされる、生後百日目に赤ちゃんに初めて食べ物を食べさせる儀式だ。
 この世に生を受けて一年足らずでこれほど多くの儀式に触れる。誕生前の安産祈願なども含めると、我々は意外と神を意識した生活を送っているようだ。
「だってさ。」
 路美は、ソファに横になりながら、「つつがない人生を願う通過儀礼」と題された記事を読み上げた。「つつがない」とはどういう意味だろう。路美は、すぐに「つつがない」と入力し、「筒がない、恙ない、恙無い」の変換候補の中から、とりあえず「恙ない」を選んだ。なんとなくそれらしい「語源由来辞典」をタッチする。意味は「無事である。問題がない。」だそうだ。「つつが」は「恙」と書き、病気や災難を意味する。
「へぇー、恙無いってそういう意味だったんだ」
 検索すればすぐに多くの事を知ることができるネット社会に生きている路美にとって、学校の授業時間よりもこうして家でネットを見ている時間の方が、よほど有意義な時間を過ごしているような気がしていた。勉強はあまり好きではないが、知りたいことはたくさんあった。毎日時間が足りないくらいだった。
「ねぇ、どう思う?」
 路美は、先ほどからせっせと台所で七草粥をつくる母親に、負けじとせっせと話しかけていた。
「ん?何が?」
 話をちゃんと聞いていたのか定かではないが、構わず続けた。
「現代にとって昔の儀式って意味があるのかな?お母さんは、お宮参りとかした?」
「たぶん。あまり記憶にないけど……」
 どうでもよさそうな返事が返ってくる。
「病気や災難にかからないようになんだって」
「それより、路美声ガラガラじゃない、体調良くないんだからもう話すのはやめておきなさい。」
「それより」という言葉が路美は嫌いだ。今までの話を全否定されたようで悲しくなる。母はいつもそうであった。何も分かっていない。体調を気遣ってくれるのは嬉しいが、自分の体調は自分が一番よくわかっていた。さほど無理もしていないし、これくらいなら大丈夫だ。恐らく冬休みの暴飲暴食と睡眠不足が原因だろう。それより、自分のする話をもっと興味をもって聞いてほしいのであった。「よく知っているね、すごいね」と、幼かった頃褒めてくれたように、たまには一言そう言ってほしいと路美は思った。 
    
   
 分かっていなかったのは自分の方であったと、路美は悔やんだ。あれから四日後に、交通事故で母を失った。信号が点滅している横断歩道を自転車で渡ろうとした母は、左折したてきたオートバイと衝突した。もともと体が弱く、長生きはしないだろうね、と冗談っぽく言っていた母であったが、こんなにも早く、突然に別れがやってくるとは思ってもみなかった。
 路美と母は友達のように仲が良く、毎晩修学旅行生のように話に花を咲かせた。しかし、そんな思い出と同じくらい喧嘩もした。母との最期は、学校に行く前、成人式に出るか出ないかで言い合いになった。本当につまらない喧嘩だった。
 お通夜では、まともに遺影を見ることができずずっと下を向いていた。時々顔を上げても見たが、涙で滲んでやっぱり見ることができなかった。
 長いお経の間、あの七草粥のことを思い出した。体調を崩していた私のために作ってくれた七草粥が、今まで食べた食べ物の中で一番美味しかったように思えた。
「七草粥できたわよ!」
「やったぁ!」
「七草粥ってどうして一月七日に食べるか知ってる?」
「知らない。」
「そもそも七草全部言える?」
「ナズナ……えっとなんだっけ?」
「ナズナ、ゴギョウ、スズシロ、ホトケノザ、ハコベラ、スズナ、一番最初に言ったのはナズナね。そしてセリ。」
「覚えられないよ。セリしか頭に残ってない。」
 二人で笑いながら七草粥を食べた。あの時の母の顔、温かいお粥、何とも言えない安心感がそこにはあった。
 結局、どうして一月七日に食べるんだっけ、こんな時に、いやこんな時だからこそ、路美は思い出そうとした。そうだ、七草を覚えられないといった路美に、母はこんな話をしたのだった。
 
 
 昔あるところに、民からも臣下からも信頼が厚い王様がいました。王様と言ってもまだ十六歳で、政治のこともなんとなくしか分かっていませんでした。しかし、正義感が強く、天真爛漫で優しい人柄だったため、将来は立派な王になると言われていました。
 しかし、たった一つ、いや二つ、自分の体調管理と予定管理が恐ろしいほど下手くそだったのです。食べ物に関しては好き嫌いが激しく、暴飲暴食をしてしまうこともありました。それは、夜遅くまで書物を読みふけっているせいでもあります。夜遅くまで起きていると、ついついお菓子が食べたくなるものです。当然、風邪をひくことも珍しくありません。
 予定管理に関しては、体調管理よりもさらにひどいもので、儒学者による講義の時間を忘れたり、臣下を呼んでおいて何の用だったか王様自体がお忘れになったり。
 それだけではありません。勝手に外出してはケガをして帰ってくることも日常茶飯事で、その度にお世話の者は大慌てでした。
 そんなことばかり言うと、本当に周りからの信頼が厚いのかと驚かれるかもしれませんが、最初にもお話した通り人柄のせいもあって、周りの者が多少のことは目をつぶろうと優しく見守ってくれていたのです。
 十八歳になった王は、セリという隣の国の女を妃として迎え入れました。セリは育ちこそ普通の家でしたが、優しく、気品があり崇高な人でした。そして、セリは動物が大好きで、生き物を殺生することを強く拒んでおりました。妃と結婚してから、王様が初めて狩りに出かける日には、このように言いました。
「どうして、狩りに出かけるのですか?」
「どうしてって、そういうものだから……。」
「そういうものだからという理由だけですか?」
「そうだな……。」
「私は、無意味な殺生をこれ以上見たくありません。」
 セリは、毅然とした態度で決して信念は曲げない人でした。王は妃の言葉を聞いて以来、臣下に強要される時以外は狩りに出かけなくなりました。セリと王様は、政治の話、学問の話、庭に咲いた花の話まで、色んな話をしました。元はといえば権力闘争の中で無理やり結婚させられた二人でしたが、互いに尊敬しあう夫婦になっていました。
 ある時、セリは思いました。王様のお傍で仕える優秀な臣下が必要だと。武官、伝令官、医務官、食事官、学術官、外交官にそれぞれ秀でた者を一名ずつ増員することに決めました。
「ゴギョウは武官に任命する。王様にケガのないよう心して努めよ。」
「スズシロは、王様の不安が溜まらぬよう相談役となり、伝令官として、お傍に仕えよ。」
「ナズナは、医務官として王様の健康保持に努めよ」
「ホトケノザは、僧だった頃の経験を生かし、ナズナと相談しながら胃の弱い王様の身体に合った献立を考え、料理人にお渡しせよ」
「ハコベラは、そなたの豊富な知識をもって、王様の後ろ盾となってくれ」
「スズナは、最近近隣の国の動きがどうも怪しいため、平和的方法をもって円滑に外交を進めよ」
「「かしこまりました、お妃様。」」
「よろしく頼むぞ、もう下がってよい。」
 そしてセリ自身も、王様の身の回りの世話に誠心誠意つくしました。きめ細かな心遣いは、歴代の妃で一番でした。
 ある日の夜のことです。妃は、王様との食事中、おもむろに話し出しました。
「私は知っての通り動物が大好きです。生き物がこれ以上死んでいくのが辛いのです」
「セリ、分かっている。私もどうにかしたい。」
「また、都では物騒な事件が続き、立て続けに人が亡くなっています。逃げ回る人を追いかけ命を奪う行為が許されましょうか。」
「許されるわけがない、決して許さぬ。」
「私は、同じ生き物として動物も同じなのではないかと思うのです。王様は身分で差別されてはいけないと普段からおっしゃっています。失礼だと承知の上で言わせてください。それは、偶然王として生まれたか、農民として生まれたかの違いだから、生まれた環境で差別されるのはおかしい、そうお考えですよね。私もまったくの同感でございます。同様に、動物たちも偶然人ではなく動物に生まれた。それだけのことなのではないでしょうか。」
 王様は困惑しました。セリの言っていることがよく分かるからです。なんの疑問も抱かぬ人が大半の世の中で、このような疑問を持った妃の苦しみも十分に理解しているつもりだったのです。王様も妃と出会ってから人以外の生き物に対し、愛情やそれ以上の憐れみを感じていました。最近では馬に乗る時でさえ、鞭を振り下ろすのが申し訳なく思っているほどです。
 しかし、どうすればよいのか王様は悩みました。悩んだ結果、急には変えられないと判断したのでした。妃の主張は、経済の混乱も招くからです。しかし、何とかしたいという気持ちから臣下にも相談するようになりました。
「スズシロはいるか。」
「はい、王様。お呼びでしょうか。」
「直ちに、出かける準備をしろ。」
 スズシロはすぐさまゴギョウに連絡を入れ、護衛の兵を用意させました。王様の一行は、動物たちの実態を知るため、視察に出かけたのです。
 
 王様の想像を超えるほどの数の動物が一日に死んでいました。王様はその夜、王宮に戻ると決心しました。
「スズシロ、セリの所に行く。」
「かしこまりました、王様。」
 セリの離れに行くと、スズナが来ていました。外交官であるスズナがセリに何の用かと不思議に思いましたが、妃が抱っこしていた犬を見て、王様の顔も思わずほころびました。スズナは、東の国から友好のあかしとして犬をプレゼントされたことを、動物好きの妃にまずは知らせようと報告に来ていたのです。
「どうしたのですか、王様。」
「セリ、余は決意した。今は師走のため、すぐにというわけにはいかぬが、来月睦月に試験的にやってみたいことがあるのだ。」
「それは、なんですか?」
「国全体で睦月一日は鳥の日、二日は犬の日、三日は猪の日、四日は羊の日、五日は牛の日、六日は馬の日として、その動物をその日は断じて殺生することを禁ずる。民も臣下も、我々王族も、動物をその日は必ず大切にするのだ。どうだ、セリ!」
「それはとても良いことをお決めになりました!」
「そうか!そして、七日は人の日だ。決してその日は人を刑罰にかけてはならないとする。もちろん状況に合わせ考慮する必要があるとは思うが。」
 このことは王命として、王宮ではもちろん、都全体に公布された。睦月より開始するため心得よとのお触書です。王命に逆らえば命はない世の中ですから、皆心して細心の注意を払いました。
 睦月。六日目の夜、王のもとに一〜六日までの現状報告が入り、その中身は疲れた馬を十分休憩させてから乗るようにした、など嬉しい報告が書かれてあり、王様は今すぐにでも妃に会いに行きたくなりました。
 しかし、王様にはやることがあります。妃の提案で、明日の「人の日」の準備をせねばならないからです。
「スズシロ、残りの下臣の長五名をここに連れて参れ。」
「はい、直ちに。」
  
「祭り?」
「はい、王様。七日目の人の日に、宴を開くのです。」
 王が最初に動物の日を定める話をセリの離れにしに行ったとき、妃は、七日目の人の日には宴を開き、宮廷や都、また村でも宴を開かせようと提案しました。しかし、王は不安だったのです。宴となれば、肉料理が出るものだと宮廷の者なら思うでしょうから。
「しかし、宴となれば当然料理には……」
「ただの宴ではありません。宴料理ではなく、お粥を出すのです。」
「なに、お粥をか。」
「はい、王様。お粥なら、子供から老人まで誰でも食べることができ、配給もしやすいでしょう。」
 「ただのお粥ではありません。」と笑顔で答え、そして最後にこう付け加えました。
「そのことで王様にも協力していただきたいことがあります。」
「全員集まったか。」
「はい、王様。」
 時刻は子の刻を過ぎていましたが、外ならぬ王様のご命令ですから、下臣たちは、嫌な顔一つせずやってきました。
「ナズナ、ホトケノザ」
「「はい、王様」」
「視察はどうであった」
 王様は、貧しい村の病院にお粥を配給するため、現地の視察を医務官と食事官にさせたのでした。医務官のナズナが言うことには、三日三晩何も食べていない子供もおり、胃が衰弱しているためお粥は最適だそうです。さらに、薬の代わりにもなる薬草を入れることで気力回復が期待できるとのことでした。食事官のホトケノザは、妃が書いた薬草の絵を手掛かりにその薬草を探し出しました。それぞれ「血圧を下げる」「風邪予防」「便秘解消」など様々な効果が期待でき、すでに味付けも指示してあると言います。
「ハコベラ、明日は無事決行してもよさそうか?」
「はい、王様。明日は一日晴れるでしょう。ただし、風が少し強くなる恐れがありますので、南の方の村は早めに宴を切り上げた方がよろしいでしょう。」
「分かった、スズシロは、各部署にそのように伝えよ。最後にゴギョウ。」
「はい、王様。」
「各兵を警備にしっかりとあたらせ、お粥を貰いに来た民全員にいきわたるようにしたい。その旨をしっかりと伝えつつ、米が足りなくなったら随時、宮廷に連絡を入れよ。王宮殿の米が少なくなっても構わぬ。」
「かしこまりました。」
「皆、よく準備してくれた。感謝するぞ。」
「ありがたきお言葉でございます、王様。」
 明日も早かったので、王様も下臣達も明日の宴の成功を祈りながら眠りました。
 
 
「鍋にご飯と水と塩を入れて火にかけ、煮立ってきたら弱火にして10分ほど煮る。えっと、それから細かく刻んだ七草を入れる。七草のかわりに青菜、大根の葉、小松菜などを使ってもよい…か。」
 冷蔵庫を開けると、買ったまま使っていなかった小松菜を発見した。少ししなびているが、まだいけそうだった。よし、これで作ろう。
 液晶に映るレシピとにらめっこしながら、路美は台所に立っていた。
 ひと煮立ちしたらできあがりだ。「かき混ぜすぎだらダメよ」と母の声が今にも聞こえてきそうであった。そして、あの時の七草粥のお話も。思えば自分は王様で、我が家という庭の中で好き勝手にのびのびと過ごしていた。母は私の臣下のようにせっせと働き、どんな時も守ってくれていたのだ。
「ただいま!」
 元気な女の子の声がした。ドカドカと足音が近づいてくるなり
「お母さん、先生から年賀状の返事きた!」とはしゃいでいる。
「おかえり、よかったね!」
「うん!」
 ソファに飛び乗ると、にこにこしながら年賀状を読んでいる娘を見つめ路美は思った。いつまでも健康で笑っていてほしいと。願いはただ一つ、それだけである。
「お母さん、何作ってるの?」
「七草粥よ。」
「え、何それ、草を食べるの?」
「本当の七草粥は、7種類の草を入れるんだけど、今回は小松菜を使って作っているの。」
「野菜苦手だけど食べれるかな?」
「きっと、大丈夫よ。ねぇ、七草粥はどうして一月七日に食べられるようになったか知ってる?」
「知らない。」
「それはね、」
 路美はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
 
 路美の娘は、七草粥を美味しいと言いながら完食した。二人並んで洗い物をしている最中、娘は言った。
「その7日目の宴は成功したの?」
「えぇ、そうよ。」
「その後はどうなったの?」
「え、その後?」
 路美は、予想外の質問に戸惑ったが、にっこり笑うと、すでに話すことが決まっていたかのように、続きを話し始めた。
 
 
 こうして、「無病息災を願う祭り」が睦月七日に毎年開かれ、庶民も王宮にいる人たちも皆、七種の草が入った粥を食べました。人々はこのお粥を「七草粥」と名付け、恵んでくださった王様にたいそう感謝しました。
 でも王様は思います。恵んだのは余ではなく、妃なのだと。高価でなくまた簡単に手に入る薬草が、こんなに美味しいとは、妃と出会うまではまったく知りませんでした。以前より野菜を好むようになった王様は、体も軽くなったようです。
 また、狩りには一切出かけなくなり、睦月だけではなく、定期的に貧しい民に食事を配給するよう命じたのです。王宮の食事は豪華すぎると、日頃から考えておりましたから。しきたりだからといって、続けなくてはいけない理由はないことを、妃から教わった王様でした。何事も自分自身で考えることが大切だと、ようやく分かったのです。
「はっは、セリと出会ってから余の体調はよくなるし、良いことばかりだ。礼を言うぞ。」
「王様がずっと笑っていられますように、それだけが私の願いです。」
「余もそなたが笑っていられるよう、この国を治めねばな。」
「セリ、」
「はい、王様。」
「セリは、余にとって本当に大切な人である。この思いは、日に日に強くなっていくのだ。そなたが一番余の健康を気遣い、考えてくれている。これからは、そなたに頼りっぱなしではいけない。余自身が自分で健康管理をしていかねばならんな。」
 その日も、王様と妃は笑いながら、そして今日一日の出来事を話しながら、楽しく食事をとりました。
「はい、おしまい。」
「セリも王様も良い人だね。」
「……うん。」
「ねぇ、七草粥に入ってる7つの草ってなんていう名前なの?」
「さぁ、またいつか自分で調べてみなさい。」
「えぇー教えてよ。」
 路美は、上を向いてから、娘に向かってほほ笑んだ。
「お母さん辛いの?」
「そんなことないわよ。早く片付けましょ。」
 洗い物が終わると、洗濯に掃除、することはたくさんあって、そうこうするうちに夕飯の支度が待ち受けている。路美たちの一日は、長くてあっという間だ。西日が差し込むリビングのカーテンを閉め、電気をつけた。
 (私も西向きのリビングは嫌だと思ってたんだけどなぁ…。)
 日本には、成長を祝う儀式が沢山ある。人生の節目を無事通過できるように行う儀式を、通過儀礼、人生儀礼などというが、一体一生のうちいくつの儀式を通過するのだろう。
 そして、その儀式のほとんどは本来の意味を知らぬまま私たちの間を通過していくのであろう。
 
 
 冷静な医務官の「ナズナ」は、「血圧を下げる」効果があって、い
 かにも強そうな名前の武官「ゴギョウ」は、「風邪予防」の効果あり。王様の悩みの解消は伝令官の「スズシロ」にお任せ。「便秘解消」の効果がある。僧の経験ありの食事官「ホトケノザ」は「胃を丈夫にしてくれる」。豊富な知識の持ち主で学問官の「ハコベラ」は、「栄養豊富」。悪そうな人たちとも円滑にことを進める外交官の「ナズナ」は「解毒効果」があって、それから……きめ細かな配慮で王の体調管理をする妃の「セリ」は「鉄分や食物繊維」たっぷり。
 一月七日の「人の日」の話はどこかで聞いたことがあるが、本当にその日に七草粥が食べられたのか、どこまで本当の話か怪しいものであった。でも、今更調べるのは野暮な気もしていた。
 路美だけが知っている七草の覚え方、七草粥の味。人に説明したら絶対笑われるけれど、絶対忘れたくない母との思い出であった。 
 何年経っても、昨日のことのように思い出される。
 「外交官は「ナズナ」じゃなくて、「スズナ」でしょ。」
 振り返ると、そこには母が立っていた。
「お母さん!」
「七草粥、上手にできた?」
「あの子は美味しい、って。でも私はお母さんの七草粥がもう一度食べたいの!」
「そう、じゃあ、また今度会ったらね。」
「うん。」
 今度会ったら、今度会ったら……
 (お母さん、こんなところで寝てたら風邪ひくのに……)
 洗濯ものに囲まれながら眠る路美に、娘はそっと毛布を掛けた。寝ているのにどこか嬉しそうな母の顔を見て、娘も嬉しそうに笑った。
 今度は本当の七草粥を作ってもらおう。それまでに、七草の名を調べて覚えるぞ、娘はひそかに思った。

 

「行き先」
142207

 気が付けば、妻を亡くしてからずいぶんと時間が経っていた。初めは覚束なかったひとりきりの生活にも、いつの間にか慣れてしまった。
 私が会社に勤めていた頃、家の中のあれこれは全て妻の仕事だった。毎日の料理も、洗濯も、掃除も、子育ても、妻は文句ひとつ言わず、丁寧にこなしていたように思う。思う、と断定できないのは、仕事の面白さを追いかけた私が、妻のことをこれっぽっちも顧みることが出来なかったからだ。子が巣立って、退職して、妻を亡くして、そして初めて、私は自分が何も出来ないということを知った。
 不慣れなうちは面倒くさくて仕方がなかった家事も、慣れてしまえば日常になった。初めは息子夫婦が手伝ってくれていた様々なことが、自分ひとりで出来るようになった。料理も、洗濯も、掃除も。ひとりきりの生活は、淋しく、しかし快適で、自由だった。
 そんなある日のことだ。
 耐震工事だかなんだかで、一時的にではあるが、この部屋を立ち退かなければならなくなった。部屋の荷物を全てまとめて、工事が終わるまでの間、息子夫婦の家に厄介になることになっている。
 夫婦ふたりで暮らした家をひとりで片付けるのは、なかなか骨の折れる仕事だった。毎日開け閉めしているような棚やテーブルから、久しく手を伸ばしていなかった箪笥や押入れの奥まで、整理して、仕分けして、段ボール箱に詰めていく。大変な作業だったが、これがまた楽しかった。押入れの奥から出てくる昔息子に買い与えたおもちゃや、妻の遺したちょっとした小物が見つかる度に、私はそれを眺め、懐かしい日々に浸った。
 おかげでちっとも進まないが、なあに、もともと私物は少ないほうだ。毎日少しずつでもこなしていけば、工事が始まるまでには終わるだろう。
 そう高を括っていたのだけれど、これがなかなかどうして終わらない。発掘した古い色褪せた本だとか、もう廃刊になった雑誌だとかをつい読み始めてしまうと、なかなかやめられないのだ。そうこうしているうちに、もうすぐそこに立ち退きの日が迫ってきていた。
 私はいささかの焦りを感じながら、寝室の押入れの奥の、長らく日にさらしていなかった部分をあばいていった。プラスチック製の大きなケースが二段積んで置いてある。おそらく、妻が若い頃に好んで着ていた服が詰まったものだろう。いつか着るかもしれない、誰かに譲るかもしれないと置いてあった、少々値の張るその衣装たちは、結局誰にも着られないまま、時代にも人にも置いていかれてしまったらしい。
 プラスチックケースの脇には、埃をかぶった何冊かのアルバムが置いてあった。赤い表紙の、シンプルで品のあるアルバムだ。
 ――ああ、懐かしい。こんなところにしまっていたのか。
 それは、何十年も前に妻と一緒に買いに行ったものだった。どうせ買うのならいいものを、とふたりでデパート中を探し、ああでもないこうでもないと言いあいながら選んだことを、まるで昨日のことのように思い出した。
 写真の類は、アルバムを購入して一緒に整理をして以来、一度も見ていなかった。アルバムは、結婚前の私の写真を集めたものと、結婚前の妻の写真を集めたもの、結婚後の写真を集めたものとに分けて収めていたはずだ。私はアルバムを一冊手に取って、布で埃を拭った。開いて見ると、中には懐かしい写真が並んでいた。それは、結婚前の私の写真を集めたアルバムだった。
 ぱらぱらとページをめくっていく。伴って、写真の中の私がどんどん成長していく。顔が完成していない幼少期、泥だらけになって遊んだ小学時代、身の振り方に悩んだ中学時代、趣味に打ち込んだ高校時代……。
 やがて現れたのは、何も知らないままに社会人になった私だった。写真の中の私と目が合う。彼は真新しいスーツを着て、俯きそうになる顔を必死で持ちあげているような、強ばった表情をしていた。隣には、にこやかな表情の嫌味な上司も一緒に写っていた。
 写真に写った私を見て、ふと思い出したことがあった。今となっては、夢か現かもあやふやなほど曖昧な、しかしきっと写真を見るたびに思い出すだろうほど鮮烈な、ある女性との出会いの記憶だった。
 当時の私は、臆病な男だった。失敗を、間違いを恐れていた。失敗によって引き起こされる欠落を恐れていた。誤解を恐れた。責任を恐れた。追及を恐れた。人を恐れた。時には、道を通る黒猫さえを恐れた。ことあるごとに不安にのまれ、震え、冷や汗をかいていた。
 また、当時の私は頭の要領も悪かった。まず、仕事の能率が悪い。時間の有効活用ができない。スケジュールの管理もできない。なにをするにも時間がかかる。二つ以上の仕事を同時に抱えるといつも何らかのミスをした。何をするにも人並み以下で、いつも誰かの足を引っ張っていた。そんな気がしていた。
 あの頃は、生きていることすらも申し訳なかった。自分がいないほうが世界は上手く回るような気さえしていた。だからといって自ら命を捨てる勇気があるわけもなく、毎日変わらず怯えながら暮らしていた。嫌々会社に向かって、ミスを繰り返しながら仕事をし、上司に怒鳴られ、時には殴られもしながら、私は必死に何かから逃げていた。
 当時の職場は、社長と社員が同じ部屋で働くような小さな会社だった。私はその数少ない社員の中でも一番の下っ端で、いつも面倒事や雑用を上司から押し付けられていた。人の顔色を窺うことしか能のなかった私は、丁度いいカモだったのだろう。
 その日も、私は上司から仕事を押し付けられていた。県外の顧客からきた苦情の処理だ。何やら、小さな不具合を大げさに誇張した電話がかかってきたらしい。直接謝罪に来て誠意を見せろ、というのが相手の主張だった。今でいうクレーマーである。文句をつけたいというよりも、文句をつけることで誰かの上に立ちたいという、自分の欲求を満たしたいがための要求だったのだろうと今となっては思う。
 しかし、何しろ小さな会社だった。それこそ、いつ潰れてしまうかもわからないような規模だ。風評のもたらす被害は計り知れなかった。もしも例のクレーマーが、この会社の商品は品質が悪いだの、この会社は顧客サービスが悪いだのという噂を広げようものなら、倒産の危機だと言っても過言ではなかった。
 苦情の処理はしなければならない。しかし、汚れ仕事はしたくない。そう考えた上司が目を付けたのが私だった。私は文字通りいつもびくびくしている男だったから、クレーマーの自尊心を満たすのにぴったりだとも考えたのかもしれない。なんにせよ、私に仕事を押し付けたことに変わりはない。厄介ごとを押し付けられたということは、誰の目から見ても明らかだった。
 私は昔から遠出が嫌いだった。公共機関特有の匂いや人ごみが苦手で、加えて体力もない。目的地に着くころにはすっかり疲れてしまっているから、たまの家族との旅行にもついていくのが億劫だった。だから、かわいい恋人と行くならまだしも、ひとりで、ましてや会社の命令でするこの遠出は、私にとって憂鬱でしかなかった。
 だからと言って断ることなどできるはずもない。私は半ば放り出されるようにして会社を出た。
 通勤してきた自転車で、静かな平日昼の住宅街を走り抜ける。車通りは少なく、公園ではしゃぐ子供もいない。もちろん、道を歩く会社員もいない。道路がいつもの二倍は広く見えた。私は、なんだか悪いことをしているような気持ちになりながら駅へと向かった。
 十分ほどで、あたりで唯一の駅に着いた。休日は人でごった返しているそこも、いつもとは違ってがらんとしていた。私の他には、あくびをかみ殺している駅員しかいなかった。
 券売機で切符を買い、駅員に領収書を頼む。面倒くさそうにちらりと私を見た駅員の目が――そもそもこれは駅員の業務であると理屈ではわかっていても――私を責めているように思われて、ホームに滑り込んできた電車に逃げるように乗り込んだ。その車両の中もがらがらに空いていて、乗客は私の他に一人しかいなかった。
 電車はやはり苦手だったが、案外空調が整っていたからか、想像していたほど不快には感じなかった。煙草臭い、あのオンボロの会社にいるよりは、幾分ましなようにも思えた。
 ――まもなく四番線、電車が発車致します。
 無機質なアナウンスと二小節ほどのメロディが流れて、ドアが閉まった。電車はゆっくりと前進を始め、どんどん加速していった。慣性に身を任せて身を揺らしつつ、私は思考を巡らせた。
 考えてみると、私はあまり地元から出たことがなかった。地元の高校を出てすぐに、実家から自転車で通うことが出来る距離にある会社に入った。通勤通学で電車を使った経験はない。休日も、電車に乗って行かなければならないような場所にはめったに向かわない。もちろん、外出嫌いであることがその大きな理由なのだが。つまりは、電車に乗る習慣がなかった。
 だから、特別読書家なわけでもない私は、移動時間に時間を潰せるようなものを持っていなかった。当時は今のように携帯電話やゲーム機なんかは普及していなかったから、なにかを読むか眠るかぐらいしか暇つぶしの手段がなかったのだ。
 駅の売店で新聞なり本なり買っておけばよかった、と後悔してももう遅い。試みてはみたものの、これから先への不安からか、眠ることもできそうになかった。手持無沙汰だった私は、なんとなしに車内を見まわしてみた。
 長い窓に沿うようにして、向かい合わせに長い座席が設置されている。その端の方に私が、私の向かいの席の真ん中あたりにもう一人の乗客が、それぞれ座っていた。もうひとりの乗客は、私が電車に乗り込む前からいた客で、他に乗客の姿はない。もうすでにいくつか駅を通過していたが、その間に車両に入った客も、車両から出た客もいなかったらしい。自然と私の視線は唯一の乗客に向かった。
 その乗客は、育ちの良さそうな女性だった。
 齢はおそらく二十歳前後、私とそんなに変わらない年齢だろうと思われた。丁寧に切りそろえられた長い黒髪は艶々きらめいていた。形のよい唇はきゅっと閉じられており、頬にはわずかに赤みがさしている。上品に召したブラウスとスカートには一寸の乱れもなかった。まぶたと前髪に隠されていて瞳はよく見えなかったが、美しい女性であることに間違いはなかった。日の光に照らされながら、身じろぎもせずに眼を閉じたその姿は、まるで映画の一コマか、はたまた、美術館に展示されている絵画の一枚かなにかのようだった。
 失礼だとは思いながらも、私は観察するように彼女を見つめることをやめられなかった。彼女は、じっとまぶたを伏せていた。電車はわりかし頻繁に揺れていたが、彼女の身体が大きく傾くことはなかった。彼女は眠っているわけではないらしいと、私は判断した。
 当時の私は、上手く会話ができない男だった。自分から話しかけることはおろか、顔見知りの人間が近くにいるだけでもどきどきして、向こうから話しかけられても冗談ひとつ返すことの出来ない、つまらない男であった。中でも女性とかかわることは大の苦手で、物心つく前から交流のあった幼馴染の女の子以外の女性とは、挨拶さえまともに成り立たなかった。例のクレーマーが女性ではありませんように、と願ってさえいた。
 だから、ふだん通りの私であれば、たとえにこにこした優しそうなご婦人だろうと、絵に描いたような美しい娘であろうとも、自ら女性に声をかけるなんてことはありえなかった。しかし、このとき私は――今考えてみても、どうしてだか全くわからないのだが――そんなことをすっかり忘れていたかのように、気が付けば、立ち上がって彼女の前に歩み寄っていた。
「どこまで、行くのですか」
 彼女にかけた声は小さく、しかも掠れてしまった。聞こえなかったかもしれない、と思うと途端に恥ずかしくなって、今すぐに彼女の前から立ち去りたいと思った。しかし私の心配は杞憂だったらしく、彼女はゆっくりとまぶたを持ち上げて、私をその澄んだ瞳に映した。凛とした、意志の強さを思わせる瞳だった。
 彼女はそっとつぶやくように、しかしはっきりと空気を震わせた。
「どこまででも」
 私は面食らって、彼女をじっと見つめた。私とそう変わらない年齢であるはずの彼女の声色に、なにか決意が秘められているように感じた。胸が震えた。私は長い間、ただじっと彼女を見つめていた。
 沈黙がふたりを包んでいた。私は彼女を見つめながら、次の言葉に迷っていた。自分から話をふっておきながら、まだ人生経験の少なかった私には、彼女にどう言葉を返せばいいのかわからなかったのだ。
 油断していたところをふいに電車に揺られて私はよろけた。その様子を目に留めたらしい彼女は、自分の隣の空席を私に勧めた。恥ずかしさでいっぱいだったが、またよろけることだけは勘弁願いたかったので、お言葉に甘えて、彼女の隣に腰かけた。
 電車が走る音だけががたんごとんと聞こえていた。ちらりと隣を盗み見る。彼女は眼を閉じてさえいなかったものの、まっすぐに窓の向こう側を眺めていて、こちらには目もくれなかった。またひとつ、またひとつと情けなさがつのっていく。
 ――どこまででも。
 胸の中でゆっくりと彼女の言葉を反芻した。
 どこまででも、と彼女は言ったが、やはりいつかは電車を降りて、どこかの地面を踏みしめるのだろう。彼女はどこまで行くのだろうか。私は、彼女のことが気になって仕方がなかった。
 学生なのだろうか、社会人なのだろうか。学校は、仕事は、どうしたのだろう。もしかしたら何かの都合で休みなのかもしれないし、今日は一日どこかに逃避行するのかもしれない。
 どんな家庭で育ったのだろうか。見るからに育ちはよさそうだが、いったいひとりでどこへ行くのだろう。ひとり旅だろうか。恋人にでも逢いに行くのかもしれない。何か用事があって、実家に顔を見せにでも行くのかもしれない。
 ――彼女はいったい何のために、この電車に乗っているのだろうか。
 今思えば、さらりと彼女に訊ねてみればよい話だったのだ。しかし、当時の私は本当にどうしようもない臆病者で、彼女にまた話しかける勇気を持っていなかった。きっと人生で今日このひととき限りであろうこの美しい女性との会話を、失敗で終わらせてしまうのだけは避けたい一心でいたから、それが枷となっていたのもあったかもしれない。
 行動をおこせず、胸中でぐるぐると思い悩んでいた私に、彼女は不意に声をかけた。
「あなたは」
 振り向くと、いつの間にか彼女は私を見ていた。表情はひとつも変えることなく、ただそのまっすぐな瞳を私に向けていた。
「あなたは、どこまで行くのですか」
 彼女の視線に圧されるように、私は少し身を引いた。そして、考えた。私は彼女に、会社にかかってきた理不尽な文句に対するお詫びに行くのです、と本当のことを言うことはどうしてもできなかった。彼女の行き先には到底釣り合わないと思ったのだ。臆病者の私の中にも確かにある塵のような微かなプライドが、私に誠実であることを許さなかった。
 しかし、当時の私は嘘をつけない男だった。物心ついたころから、嘘をついた記憶がなかった。嘘を吐くことも、嘘を吐いて責められることも恐ろしかったからだ。
 答えなくてはならないと思いながらも、言葉は出てこなかった。あたりは気まずい沈黙に包まれた。
 悶々と思考を巡らせ続けたが、ひとひらもつかむことができないまま言葉は思い浮かんでは消えていった。時間はただ残酷に過ぎてゆく。幾度目かのドアが開いた。私は降りなければいけない駅に辿り着いていた。
 ――まもなく四番線、電車が発車いたします。
 機械的に流れるアナウンスと発車メロディを背中で聞きながら、私は改札口を通り抜けた。
 結局、さよならも言えないままに彼女と別れた。ドアを出る瞬間、そっと振り返り見た彼女の瞳は、まだ私を見つめていた。もともとしぼんでいた気分はもはや修復不可能で、私は殆どただの人形と化してしまった。
 クレーマーは化粧と香水がきつい太った女だった。
 通された畳敷きの客間に私は正座した。そして上司に言われたとおりに説明と謝罪をして、女の苦情と説教を聞き続けた。女の説教は右から左に通り過ぎるばかりだった。私はただただ謝罪と相槌をくりかえした。やはり、女はストレスを発散したいだけだったらしい。弱々しい私の態度に満足したのか、気が済むだけ文句を言い散らすと私を追い返した。その時にはもう日が暮れかけていた。
 乗り込んだ復路の電車に、当然彼女の姿はなかった。行きとは打って変わって、車内は乗客で溢れかえっていた。席に座ることが出来なかった私は吊革につかまって電車に揺られた。扉が開くたびにだんだんと乗客が減っていく。車内の空間に余裕が生まれたころになって、私はまた暇つぶしの本を買い忘れたことに気がついた。
 地元に到着した頃には、もうとっくに定時は過ぎていて、辺りは暗くなっていた。――彼女と逢うことは二度となかった。
 その後、私はすぐに仕事を辞めた。電車で出会った彼女の言葉が忘れられなかった。どこまででも。私も、いつかどこまででも行けるような自分になりたいと思った。上司は嫌味を言いながらも案外あっさりと辞表を受け取った。最後の最後まで厄介ごとを押し付けられたが、終わりが見えている分辛くはなかった。辞表を出した後は、半分開き直ったのもあるだろう、なんとなく他の社員と話ができるようになっていた。彼女と出会って初めて私は、自分は臆病者で、卑怯者なのだと気が付いたのだった。
 それから数か月して新しい仕事に就いた。新しい仕事は楽しく、やりがいを感じられるもので、しかも上司が優しかった。すぐに私は仕事に夢中になり、会社に馴染んだ。信頼のおける友にも出会った。親に勧められて、結婚をしたのもその頃だ。相手は、気心の知れた年下の幼馴染だった。夫婦仲か良好で、結婚してすぐに子どもも生まれた。幸せな日々だった。
 今考えてみると、私の世界が好転したのは、彼女と出会ってからだと言っても過言ではない。もしあの時、彼女の一言がなければ、私の人生はどう違っただろう。もしあの時、彼女に何かを伝えられていたなら、私の人生はどう違っただろう。
 彼女のその後に思いを馳せた。彼女は、電車に乗って行き着いたその先で、いったいなにをしたのだろう。今、誰と一緒に、どこで、どんな人生を送っているのだろう。電車に乗っているのかもしれない。誰かと一緒に幸せに暮らしているかもしれない。もしかしたら、もうこの世の中にはいないのかもしれない。それでもいい、と思った。
 手元のアルバムの写真に写った、こわばった顔をした私を見つめた。この私はまだ彼女を知らない。もちろんこのアルバムのどのページにも、彼女はいない。しかし、私がこうして生きている限り、彼女は私の心のアルバムに生き続けるのだと思う。
 アルバムを閉じて、引っ越し業者のロゴマークの入った空き段ボール箱にしまった。押入れにはまだアルバムが残っている。一冊、手に取って布で埃を拭った。アルバムを開く。中には、懐かしい写真が並んでいた。目に留まったのは、仕事を退いた日に撮った写真だった。
 長年世話になった職場で、妻や同僚や後輩に囲まれて笑顔でいる私が、そこに写っていた。写真の中の私と目が合う。彼はなれたスーツを着て、満面の笑みをカメラに向けていた。アルバムをめくっていく。妻と二人で写っている写真も、結婚式の息子夫婦を写した写真もあった。愛すべき日常の風景が、そこにあった。これでいい。いや、これがいいのだ。
 アルバムを閉じて、段ボール箱の中に丁寧にしまった。他のアルバムも、埃を拭ってから詰め込んでいく。空だった段ボール箱はアルバムでいっぱいになった。ふたをしてガムテープでとめ、他の段ボールとまとめて置いた。持ち上げた段ボール箱は、とても重かった。
 ――さて、残りの荷物もまとめてしまおう。

 

「最善の治療」
132113

 この大学病院に勤めて3年になった。ロボットの開発が進み、ほとんどの仕事がロボットに変わった時代になり、今では医者が少なくほとんどの治療はロボットが行っている。ロボットが導入されてから、医療現場は劇的に変化した。ロボットによる治療はミスがなく、常に最高の治療を受けることができる。私たちの仕事と言えば、患者やその家族の治療について相談に乗ったり、治療に間違いがないか確認するぐらいだ。ロボットの治療は絶対だ、というのが医療現場の人々の見解であった。
 今日も医者たちはのんびりとした顔で他愛もない雑談を交わしながら院内を行き来している。一昔前の病院の切迫した医者たちの表情が嘘のようだ。私も仕事はほとんど片付いており、後は患者の容態を確認したり、必要な薬を投薬するだけである。私が担当する患者の中に、文枝さんという癌を患っている人がいる。発見が遅れたため、癌が全身に転移しており、完治は不可能であった。ロボットのおかげでなんとか延命できているのである。
  「もう投薬は止めてください!池沢先生!」
  いつも通り文枝さんに投薬しようと準備していると、急に後ろから声をかけられた。振り返るとそこには文枝さんを担当している看護師が切羽詰まった様子でこちらを見ていた。彼女はとても優秀で親身になって患者と接するため、患者たちからの評判は高い。
  「文枝さんは毎日痛みを訴えているんです!もう見てられません!」
  「また君か……。どの薬を処方するかはロボットが決めているんだ。看護師が口を出していいことじゃない。」
  「――でも、先生!」
  「いい加減にしなさい。しつこいですよ。」
  そう言って話を切り上げて、私は文枝さんの投薬を行いに病室へ向かった。
  病室の前に着きドアをコンコンっとノックする。すると病室から「どうぞ」と男性の返事があった。「失礼します。」と声をかけ病室に入る。するとそこにはベッドに横たわって眠っている文枝さんとその傍らに夫である孝文さんが座っていた。
  「こんにちは、投薬のお時間です。」
  「投薬……ですか。先生、本当にこのまま投薬を続けてもいいんでしょうか。」
  「孝文さん、以前にもご説明させていただきましたが、この薬は文枝さんを延命させるためには不可欠なものです。ロボットが文枝さんの容態から判断して最高のものを選びました。現に文枝さんは始め余命半年ぐらいと言われていたのに一年ももっているじゃないですか。」
  「たしかにそうですが……。しかし、投薬の副作用がきついのか腰が痛い、腰が痛いと本当に苦しそうで可哀想なんです。他に何か方法はないのでしょうか。」
  「今の投薬をやめてしまうと文枝さんは3ヶ月と持たないでしょう。少しでも長生きをしてほしいのであれば、投薬をやめることはおすすめできません。」
  「……わかりました。ありがとうございます。」
  投薬を終え、今日の仕事を終えた私は帰りの支度をしていた。「今日は投薬について色々と言われたな……。確かに文枝さんは苦しそうだが、これ以外に良い治療法はないはずだ。一日でも長く生きることが大切ではないのだろうか……。」などと考えていると、
  「よう、池沢!どうしたんだ、浮かない顔をして。」と声をかけられた。
  西野だ。彼は私の同期で今はこの大学病院の系列病院で働いている。たまに大学病院に来ては患者の受け入れなどの打ち合わせをしているのだ。
  「おう、西野か。いやちょっとな、患者について考え事をしていたんだ。」
  「お前が考え事って珍しいな。明日は非番だろ。俺でよければ相談に乗るから飲みに行こうぜ。」
  「助かるよ。」
  「よしきた。じゃあ俺はもう少しだけ仕事があるから、先にいつものところで待っていてくれ。」
  そう言って急いで病院に入っていく彼を見送りながら、私はいつも彼と飲みにいく居酒屋へと向かった。
 居酒屋について一時間ぐらいが経ったころ、
  「おまたせ!」
  と元気よく西野がやってきた。
  「遅かったな。何かあったのか。」
  「いやー、また大学病院側に無茶を言われてさ。まいったよ。」
  「いつもすまないな。こっちも患者が多くて大変なんだ。」
  「まあいいけどさ。それで考え事ってのはなんだ。」
  「いや、実はさ、今末期癌の患者を投薬治療しているんだが少し副作用がきついみたいでさ。ただロボットが選んだ薬だし、延命のためには必要なはずなんだ。実際に余命半年と言われていた患者がもう一年は持っている。ただ、今日看護師に投薬をやめるようにお願いされて、患者さんの家族にも他の治療法はないのかって聞かれて……。なあ、西野はどう思う。」
 「そうだな……。確かにロボットは延命のために患者に対して最高の治療を選択してくれる。そこに間違いがないのは事実だが、必ずしもそれが患者にとっての最善というわけではないと俺は思う。お前はその患者が本当にそこまで苦しい思いをしてまで延命したいか聞いたことがあるのか。」
 私は言葉が詰まってしまった。
 「いいか、必ずしも延命することが患者にとって幸せとは限らないんだ。お前はあまり認めたくないかもしれないが、延命を諦めて苦痛を和らげることに専念した“ホスピス治療”の計画を行うことだってできるんだ。ロボットの言いなりになるんじゃなくて、きちんと患者に向き合うことから始めたらどうだ。」
 「“ホスピス治療”か……。」
 大学病院では延命を諦めることは、病気に屈することと同じだということで“ホスピス治療”などは良しとされていない。
 「俺の知り合いに“ホスピス治療”などを専門としている病院で働いているやつがいる。もし患者が望むのであれば紹介してやるから、もう一度きちんと向き合ってみることだな。」
 「……わかった。」
 それから西野とほどほどに話をしてその日は解散した。私は帰宅してから次の当直までに“ホスピス治療”について詳しく調べてみることにした。
 次の当直の日、投薬の時間になる前に文枝さんに会いに行った。
 「こんにちは、文枝さん。お体はどうですか。」
 「ああ、池沢先生……。こんにちは。そうですねぇ……今日は久しぶりに気分がいいから散歩にでも行きたい気分です。」
 「わかりました。投薬までまだ時間がありますし、庭にでも出てみましょうか。」
 そう言って文枝さんを車いすに乗せ、病院の庭園まで連れていく。
 「ここは本当にきれいですねー。ここに来ると病気でつらいのも少し忘れられるわ。」
 「そうですか。それはよかったです。」
 「先生……。私はもう助からないんでしょう。」
 「……はい。正直に申し上げますと、現在の治療でも完治させることは不可能です。」
 「そうですか……。主人は何も言わないけれど、私も薄々そんな気がしていました。あの人は優しい人で、ずっと治るって励ましていてくれていたんです。そうですか、治りませんか。もし助からないのなら、もっと楽に死にたいわねぇ……。」
 私は何も言うことができなかった。
 投薬の時間になったが、その前に私は孝文さんと話をすることにした。
 「こんにちは、孝文さん。」
 「どうもお世話になっております。池沢先生。」
 「急に呼び出してしまって申し訳ありません。今日は大事なお話があってお呼びさせていただきました。」
 「はあ……。」
 「文枝さんのことですが、投薬をやめようかと思っているんです。」
 「なにを言っているんですか先生!延命には投薬が必要と言ったのはあなたじゃないですか!」
 「はい、確かにそうです。本当に申し訳ないのですが、私は今まで延命することが何より重要だと思っていました。ですが、文枝さんももう助からないことに気づいておられて、もう延命は望んでおられませんでした。知り合いの病院に“ホスピス治療”を専門としているところがあります。“ホスピス”治療とは延命を諦めて、できるだけ苦痛を減らしていく治療のことです。」
 「そうですか……。家内は気づいていましたか。わかりました、一度しっかり家内と話し合って決めたいと思います。」
 それからしばらくして文枝さん達は転院することになった。三か月ほどして文枝さんは亡くなった。安らかに眠るように亡くなったらしい……。
 「なあ、西野。延命を諦めて本当によかったのかな。」
 「……“クオリティ・オブ・ライフ”という言葉がある。むやみに延命を考えず、余命の質を向上させようという考え方だ。文枝さんはわずかな延命のために苦しむことより、より快適に余命を過ごすことを彼女自身で選んだんだ。その良し悪しを決めるのは俺たちじゃない。」
 「そうだな……。」
 「そういえばお前宛に孝文さんから手紙を預かってきたぞ。一緒に入っている写真はなくなる2日前のものだそうだ。」
 手紙を受け取り封を開けると、写真を見た。
 そこには文枝さんと孝文さんが笑顔で写っていた。

 

「私と娘の話」
132209

 私と娘のお話を聞いてください。
 
「うっさいねん。」
 いつからだろう。娘とはほとんど会話をしなくなった。いつもこのような言葉が返ってくる。怖い。話しかけるのが怖くなった。わかっている。自分の娘なのだから怖がっていても仕方がない。親に向かってそんな口のきき方をするなと叱るべきなのだろうか。できるはずがない。これを聞いたら周りは、反抗期って大変、娘さんも少し道を踏み外したい年頃なんじゃない、と私を心配するだろうか。反抗期?違う。娘は今もう大学生である。道を踏み外したい?違う。娘はしっかりと毎日を自分らしく生きています。違うんです。全部私の責任なんです。
 
 
 私と娘のお話を聞いてください。
 
 
「お母さん!お誕生日おめでとう!」
 小学校一年生になったばかりの娘がパソコンで作った手紙をくれた。
「ありがとう!どうしたんこれ!自分でつくったん!」
「あんな、お父さんと一緒に作ったん!このお花の絵な、あこが選んでんで!お父さんはちゃう花選んでたけど、あこがお母さんはこっちの花がいいってゆってんで!お母さんひまわり好きやから!」
 しゃべることが大好きで、明るくて、思いやりがあって、人を喜ばせることが大好きな娘だ。いつも、今日学校であったことを事細かに話してくれる。手紙だって誕生日だけじゃない。何もない日でもちょっとしたときに渡してくれる。私が仕事で遅いと言った日は、洗濯物をたたんでくれたり、おにぎりを作ってくれたり…。「おかあさんおしごとおつかれさま。おにぎりたべてね。」と愛情いっぱいの手紙まで添えて…。すべて私の喜ぶ顔が見たい一心だ。夫は郵便配達の仕事をしている。毎日夕方に家を出て朝方帰るという不規則な生活。私はというと、ブライダル関係の仕事をしている。おしゃれできらびやかな仕事に見られがちだが、実はかなりの肉体労働で、毎日へとへとになりながらやっている。フリーランスで働いているため帰る時間も遅い。つまり娘は幼いころから、いわゆる“鍵っ子”で、帰っても家に誰もいないという毎日を小学校一年生のころからずっと変わらず送っていた。晩御飯といっても私が夜中の一一時ころにコンビニのお弁当を買って帰るくらいで、帰ったら疲れてすぐに寝てしまう私は、夜娘としっかり話せる時間もない。それでも彼女は私が寝るまでの間、いつも全力でその日あった話をしてくれる。どうしてこんなに素直な子に育ってくれたのか、自分でもわからない。自慢の娘だ。
 
 それなのに。なくしてしまった。誕生日に娘がくれたあの手紙を、なくした。どこに置いたのか、まったく思い出せない。手紙を書いてくれた時の話を一生懸命聞かせてくれた娘の顔が、鮮明に思い浮かんだ。どこ???おねがい!出てきて!どこ!必死に探したが、見当たらなかった。後日、夫から聞いた。
 
「お前、あこからもらった手紙どこやってん。」
「え。」
「床にぐちゃぐちゃになってたって、あいつ俺んとこ持ってきよったぞ。何考えてんねん。あいつがどんな気持ちで作ったかわかってんのか。どんな考えしよったらそんなことになんねん。」
「ごめんなさい。」
「一番大事にせなあかんもんちゃうんか。あこに謝っとけ。」
「うん。ごめん。」
 
 苦しくなった。自分を心の底から憎んだ。床にあった手紙を見て、あの子はどう思っただろう。どんな顔でそれを拾ったんだろう。夫に持っていったとき、泣いていたのだろうか。聞けばよかった。いや、聞いたとしても同じだ。彼女のやさしさを私は一つ踏みにじった。
 
 
 家はごみ山だ。よくテレビで片付け番組をやっているが、あのごみ山の家が実際にある。私は家事をほとんどしない。いやまったく。さっきも言ったが、ご飯もほぼ毎日コンビニ弁当だ。優しい夫にも最近よく、そろそろいい加減にせいや、と言われる。しかし私は、毎日仕事で忙しいねん、疲れてんねん、と言い訳をし続けていた。今日もへとへとで夜中一二時頃に家に帰ると、たたみ終わった洗濯物がおいてあった。机の上には、一年生のときより漢字の増えた手紙が、変わらず置かれていた。小学四年生になった娘は、今も変わらず、私の代わりに家事をやってくれていた。感謝はしていた。本当に。しかしその時私の頭には、ありがとうよりほかの言葉が浮かんでしまった。そしてわざわざ寝ていた娘を起こして、
「なんで洗濯物置きっぱなしにするの!たたんだならちゃんと棚に戻しなさい!もう四年生でしょ!」
 と怒鳴った。疲れていた。でもそんなことは言い訳にすらならない。今まで自分は家事らしい家事をしたこともなかったのに。思えばいつも娘がしてくれていた。それなのに私は彼女にこの言葉しか言えなかった。言ってしまった瞬間に胸が締め付けられる思いになった。後悔でいっぱいになった。娘からの返事はなかった。リビングに戻り、今の瞬間だけ時間を戻したいと願った。私は娘にありがとうを言ったことがあっただろうか。私のありがとうを聞いて喜ぶ娘の顔が、思い出せない。もしかしたら娘はわざとリビングに置きっぱなしにしていたのかもしれない。
「ねえ、お母さん、気づいてよ。私のことちゃんと見てよ。」
 そんな娘の心の声を聞いた気がした。彼女のやさしさを、私はまた一つ踏みにじった。
 
 
 幼いころからどれだけ彼女は傷ついてきたのだろう。私の気づかぬところで、どれだけ涙を流したのだろう。
 
 
 中学校三年。受験シーズンまっただ中の十一月のある日。娘は塾から帰ってきた。いつものように洗濯物をし、洗い物も…してくれたと思う。(私はこれほどにまで、娘のことを見てあげれていなかったのだ。)そして自分で買ってきたコンビニのとろろそばを混ぜながら、テレビをつけた。このころには「ただいま」「おかえり」という一般的な家族には当たり前に繰り広げられている会話は、うちにはなくなっていた。彼女は、家に父親がいるときだけ「ただいま」を言うようになり、私とは一切口をきかなくなっていた。つまり、娘が帰って来てからまだ一言も口をきいていない。最初に沈黙を破ったのはいつも通り私だった。
「勉強すれば?もうすぐやで。試験。」
 いつもなら、娘は無視をする。しかしその日は違った。
 
「今帰ってきたところなんですけど。今日は帰るの早かってんな。さぞかしおいしいご飯があるんやろうな。そのご飯食べてから勉強するわ。」
「こっちも疲れてんねん。今日も仕事やってん。」
「へー。そっか。自分は疲れてるからなんもせん。人が疲れて帰って来て家事全部やって、それも見て見ぬふり。あげくのはてに勉強しろしか言わん。しんどいわ、もう。」
「勉強すんのは当たり前やろ!そんなんお母さんのしんどいと一緒にせんとって!」
「お母さんとか、軽々しく言うな。」
 娘に表情はなかった。そして手元にあったとろろそばを、私に向かって投げつけ、そのまま自分の部屋に静かに、気持ちを押し殺しすように入っていった。こんな言葉を言われたのは初めてだった。ショックだった。
 
 高校生になっても、私と娘の関係はこのままだった。周りの友達に娘とのことを聞かれることもあったが、うちの娘、反抗期が長くて、と説明した。
 
 
「離婚しよう。もう無理やわ。こんな家じゃ、あこの将来のためにもならへん。」
 娘が大学二回生になったとき、夫からこう告げられた。しかし私はなぜかすごく落ち着いていた。夫はよく、もうそろそろ限界や、どうにもならんのやったら覚悟はできてるで、と言っていた。しかし実際にそうなったことはなかったし、そう言っていても、次の日には普通に接してくれる。また今回もきっとそうだろう、と楽観的に捉えていた。次の日、娘の言葉を聞くまでは。
 
「お父さんについてくから。」
「え?」
「離婚するんやろ。お父さんと暮らすわ。」
 震えが止まらなかった。なぜかすぐに涙が出てきた。そして悔しかった。
「何それ。あんたはそんな簡単に決めれるん!」
 夫についていく、と当たり前のように言う娘に腹が立った。
「うん。」
 涙が止まらない。
「あんたには生んでもらった感謝とか、今まで育ててくれてありがとうの感謝の気持ちもないの!」
 自分でも驚くほどに声を荒げていた。声も震えた。しかし娘は無表情のままで、
「生んでもらったけど、育ててもらった覚えはない。もし今私の生活からあなたが消えても、何の変化もありません。私に何をしてくれた?」
 応えられなかった。幼いころから娘と遊んであげていたのはいつも夫だった。仕事がどれだけ不規則で忙しくても、時間を見つけては外でバトミントンをしたり、自転車に乗る練習に付き合ってあげたのも夫だった。夫は仕事に行く前、学校から帰って来た時の娘のために机におにぎりをおいていた。「だいすきなあこへ」という愛情たっぷりの手紙を添えて。
 ああ、そうか。今気づいた。娘のやさしさを育てたのは、全部夫だったんだ。あるとき夫に言われたことがある。
 
「あこが毎日、洗濯たたんでんの、知っとるんか。」
「知ってるよ。」
「なんとも思わんのか。、あいつも学校から帰ったら一人でさみしいやろに、お前が帰ったら疲れてるやろからって。なんとも思わんのか。あこが俺に言うてきよったわ。〈別にな、豪華なご飯なんかいらんのよ、でもな、あこがお腹すいてるやろからって、お母さんがあこを思って作ってくれたご飯が食べたい。洗濯だって、別にお礼言ってもらいたいんじゃないんよ、ないんやけどな、気づいてほしいんよ。〉って。お前、なんとも思わんのか。」
 
 私はこの時、きっとまた聞き流していたんだろうか。また自分の中にあの言い訳を持ち出して、適当にあいづちを打っていたのだろうか。
 
 私は娘に何をしてあげられたのだろう。私は娘の何になれたのだろう。
 
 
 ここまで書いて、手が止まった。明日でとうとう夫と娘と離れてしまう。この四日間、ずっと考え続けた。私があなたにしてあげられたこと。
 
 ずっとあこのそばにいれたこと
 
 あなたのためじゃないね。これはわたしのため。あなたのそばにいられてよかった。あなたのやさしさに触れて、あなたの素直さに触れて、私は本当に幸せでした。きっとあなたにとっては最低で、最悪の母親だったかもしれない。いや、そうだったよね。でもあなたのそばにずっといたからわかること。あなたは本当にいいお母さんになる。あなたなら自分の子どもを精一杯愛することができる。絶対に。でももし、子どもに腹が立ったり、子育てに不安になったら、私を思い出してほしい。せめて、あなたの反面教師になれたらいいなと私は思います。これが唯一わたしがあなたにしてあげられることだと思うから。
 
 今までありがとう。
 離れても元気でね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 なに、これ。
 子どもを幼稚園に送り出し、家に帰った。母親が死んだ四年前のあの日。そのときから、何も変えずに使っていた彼女の部屋は、一年前から娘の部屋になっている。大好きだった父親は、母が死んでから病気がちになり、入退院を繰り返していたが、ちょうど私の結婚が決まったと報告した次の日、安心したかのようにこの世を去った。今はこの家に、私と夫、娘の三人で暮らしている。
 
 今日は仕事が休みだから大掃除をすると決めていた。そしてなぜかふと母親のことを思い出していた。
「あの人の頭の中には、大掃除のおの字も頭になかっただろうな。」
 普段絶対に思い出すことなんてない母親のことを急に思い出し、少し戸惑いながら、無意識に娘の部屋にある、今は使っていない化粧台の引き出しを開けた。
 
 一冊のノートが出てきた。
 
 私と娘のお話を聞いてください
 
「え?なに、これ。」
 
 
 
 
 ―涙が止まらない。
 
 四年前のあの日、父が離婚を告げてからの四日間、母は一切自分の部屋から出てこなかった。しかし、家族全員が一緒の家で過ごす最後の夜、少し痩せた母が、今日だけは晩御飯作るから…、と言って部屋から出てきた。そして材料を買いに出かけ、そのまま交通事故で死んだ。
 
 
 何も考えられない。
「なんでもっと…なんでもっと早く…」
 わけがわからず、ただただ涙だけがあふれ出す。
「反面教師!?ふざけんな!そんなもんいらん。いらん。いらんから…」
 かえってきて、という言葉は出てこなかった。
 
 ―何時間そこにいたのだろう。
「ただいまあ〜」
「ただいまあ〜」
 夫と娘が帰ってきた。
 
「おかえり〜!ぱぱお迎えありがとう!あっちゃん!幼稚園どうだった?」
「今日な〜ともちゃんがな……」
 
 
 いっぱいいっぱいありがとうを伝えよう。いっぱいいっぱい話を聞いてあげよう。私にできることはそういうことなんだ。
 今なら呼べる。お母さん、次は私と娘の話を聞いてね。
 
 
「よお〜し!あとでぜ〜〜〜んぶ聞きま〜す!まずはご飯の準備!」
「はあ〜い!」
「はあ〜い!」
 
 
 

 

「視力」
160462

 三月も終ろうかというある日、二階の自室で大介はベッドに寝転んでいた。開けた窓では緩やかな風がカーテンを揺らしている。大介はカレンダーや机の上の教科書を見てはため息をついている。ヘッドホンで音楽を聴いているが、まるで耳に入ってこない。
 (もうすぐ三年生か……。)
 大介は中学二年生だ。というより、一週間後には三年生になる。三年生になれば、進路希望調査が始まるはずで、クラスの中でも進路の話がちらほらと出ていた。成績のいい連中は、高校のリストと模試の偏差値をつき合わせ、早くも合否のパーセントに一喜一憂し、部活に熱心なものは、誰先輩がどこそこの高校にスカウトされただの、何部ならどこ高校が強いだのとやかましい。
 しかし、大介はその手の話が苦手だった。勉強をしないから成績はたいしたことはないし、この二年間、部活は行ったりいかなかったりだ。所属は卓球部だが、顧問や先輩が熱心でないのをいいことに気が向いた時だけ練習に参加していた。といって、隠れてたばこを吸ったり、バイクに乗ったりしてる連中とも話が合わないので、こうして家でゴロゴロとしているのだ。
 大介が寝返りを打って、ふと窓に目を向けると、何かが入ってくるのが見えたような気がした。
 (あれ?何かいるのか?)
 と思い、目を凝らすとカーテンの隙間から、細長い尻尾のようなものが見える。
「へ、蛇だ!」
 慌てて体を起こし、枕元にあった雑誌を丸めた。
「どっから上ってきたんだよ?追い出してやる!」
 しかし、その蛇は大介に目を向けると(大介はそう感じた)、スルスルッと近づいてきた。そして、
「泉大介だな。」
 と言った。
「え?」
 大介は、それが蛇の発したものとは思えず、周囲を見回したが、誰もいない。一人で自室に寝転がっていたのだから当然である。
 (一階から?) 
 思わず、蛇のことを忘れ、部屋を出ようとしたとき、
「こっちだ、泉大介。」
 と、再び蛇が口を開いた。
「へ、蛇がしゃべった!」
 大介は、驚きのあまり床にへたり込んでしまった。蛇は、
「そんなに怯えることはない。私は神の使いで、ここに来たのだ。」
 とやや高いが、落ち着き払った声で言った。
「神?蛇が?なんで俺なの?俺が神?」
 大介は訳が分からず、質問を連発した。
「ずいぶん混乱しているな。まあ、いい。一つずつ答えてやる。まず、私は神ではない。神の使いだ。神は別に存在する。もちろん、お前も神ではない。ここまではいいか?」
「……」
 言葉としての意味は分かるが、理解や納得には程遠い。しかし、大介はなんとか首を縦に振った。
「神は常にこの世界を監視している。世界を正しい方向に導くため、それにふさわしい人間に私のような使いを出すのだ。」
「それが俺?」
「うむ。自分も周囲もそんなことはない、と思うかもしれんが、お前だ。」
「俺にどんな力があるっていうんだ?学力も運動も『中の上』が関の山だぜ?」
 そうだ、自分よりも成績がいい奴はごまんといるし、スポーツもしかりだ。特別に人望があるわけでもなく、むしろ友達は少ない方かもしれない。だから今も、春休みにもかかわらず一人でゴロゴロしているのだ。ただ、不思議と年下には人気があった。たまに行く部活動でもなぜか後輩が寄ってきたが、それを人望とは言わないだろう。大介は何かとよってくる後輩に悪い気がしないものの、「舐められている」に近いと思っていた。
「そんなことは私にはわからん。私は神の命に従ってここにいるだけだからな。しかし、これまでの経験から言うと、神の目利きに間違いはない。お前には何かがある。」
「何かがって……。で、どうするわけ?そんなことを告げられても、中学生に何かができると思えないんだけど。」
「まあ、待て。本題はここからだ。しかし、質問をしてきたのはお前だ。質問に答えなければ、お前も落ち着かんだろう。」
「それはそうだけど……。本題って?」
「うむ。簡単なことだ。神は、世界を正しい方向に導く力があるお前にきっかけを与える。つまり、お前の望みを何でも叶えてくれるから、それを今考えて言うのだ。」
「へ?」
 せっかく頭が整理されてきていたのに、またパニックに陥った。
「望み?欲しいものとか?総理大臣になるとか?」
「なんでも構わん。お前が欲しいと思うものを言えばよい。金をよこせと言えば、今すぐ金をここに用意するし、総理大臣になりたいと言えば、就任可能な年齢になればお前は総理大臣になる。」
 続けて、蛇はまっすぐ大介の目を見て言った。
「できないことはない。」
「時間を戻すことも可能なのか?小学生からやり直すとか…。」
 自分で言って子供っぽいと思いながらも、一人になるとつい考えてしまう、
 (もっと別の俺がいてもいいんじゃないか)
 という思いを口に出してみた。
「できないことはない。時間を戻すだけでいいのか?それならもう一度同じことの繰り返しだぞ」
「そ、それは…」
 それでは意味がない。
「小学生というのは六歳からか?六歳に戻って何がしたいんだ?」
 そう改まって問いただされると、返答に困る。何かしたいことがあれば、もう少し活発で覇気のある人間になっているはずだ。
「まあ、いい。私も時間に追われているわけではない。お前に付き合ってやろう。お前はどんな人生を送りたいのだ?将来の夢や目標はないのか?」
 と、蛇は学校の先生みたいなことを言ってくる。大介の最も苦手とする質問だ。これまでも学校で何度も受けてきたが、答えることができない。これと言って他者に秀でるものもないが、極端に劣っているものもない。習い事は全く続かなくもないが、それなりに続け、切りのいいところでやめてしまった。習字は四年、スイミングは五年でやめた。今は学習塾と地域ボランティアに参加しているが、特段の理由があるわけでも魅力を感じているわけでもない。塾は周りが行っているからで、ボランティアはそこの引率指導者をしている母の勧めである。返事に窮していると、
「では、質問を変えよう。大介、いわゆる有名人で『かっこいい』とか『すごい』と思う人物はいるか?」
 いつの間にか名前で呼ばれている。
「そういうのならいるよ。イチローとか、ホンダとか、最近ならウチムラとか…」
 スポーツ観戦やスポーツ誌を読むのは好きだ。さっき丸めた雑誌もスポーツがテーマのものだ。
「そういう方向でやり直してみるというのはどうだ?」
「スポーツか…。」
 悪くない。ナンバーワンを目指して、汗を流す自分を妄想した。知らずと頬が緩む。
「その様子だと、まんざらでもなさそうだな。」
「野球がいいな。」
「そうか。では、こういうのはどうだ?大介、お前は物心ついた時から野球を始め、小学校入学と同時に少年団に入る。生粋の野球小僧ってやつだな。ナンバーワン且つオンリーワンの選手を目指して日々鍛錬を続けるのだ。厳しい練習も強豪チームに入るのも全て自分の意志だ。」
「悪くない」
 今度は口に出していた。
「決まりだな。この後、お前はいつものように生活し、寝ることになる。が、朝目覚めれば大介は六歳だ。つまり一週間後には小学校入学というわけだな。そこから野球小僧の泉大介が始まるのだ。当然、私のことも忘れる。」
「わかった。」
 正直なところ、蛇の言うことを完全に信用できたわけではなかった。まあ、目が覚めて、いつも通りの明日が来ても、
 (そんな甘い話があるわけないよな)
 と笑えばいいだけのことである。
「では、私は神のもとへ帰るとしよう。」
 蛇は来た時と同じように窓から這い出ていった。大介は窓に駆け寄り、蛇の行方を追ったが、どこにも見当たらなかった。気づかぬ間に日は落ち、辺りは闇が広がっていた。まだ冷たい三月の夜気に体を震わせ、窓を閉めると、さっきまでのことに対する現実味が薄れ、夢かマンガの内容のような気がしてきた。母が階下で夕飯ができたことを告げ、いつもの生活に引き戻された。
 しかし、次の日の大介の年齢は六歳であり、来週から始まる小学校と小学校に入学したら入れるという野球少年団に胸を躍らせていた。昨日まで自分が中学生であったことも、奇妙な自称「神の使い」の蛇のことも全く記憶になかった。
 大介は小さいころから父からキャッチボールやバッティングをしこまれており、小学一年生でありながら、周囲の目を引く存在であった。入団直後から少年団の低学年の部でレギュラーとなり、走攻守三拍子揃った「天才少年」として名を馳せた。もちろんその活躍は、少年団の練習に加え、朝のランニング、バッティングセンター通い、夜の素振りとストレッチといった自主練習が支えていた。高学年の部に入るころには、自他ともに認める地域のナンバーワン選手であり、シニアリーグや私立中学の指導者がこぞって大介の試合を見に来ていた。
 小学六年生になり、最後の大会が近づいてきた。県内に大介の投げる球を打てる選手はおらず、大介を押さえることができるピッチャーもいなかった。また、チームは大介の投げるボールを受けることのできるキャッチャーを探さなければならないほど、大介の力は突出していた。こうなると、大介は自分の力が発揮しきれないことに苛立ちを募らせ、チームメイトに八つ当たりすることもあった。大介には誰よりも練習しているという事実と、誰よりも力があるという自負があり、それは誰もが認めざるを得ないため、ますますチームメイトとの隔たりは大きくなっていった。
 最後の大会は優勝で幕を閉じたが、味方のエラーやミスが多かったことに大介は納得できない。帰りのバスで、エラーした選手をなじり、上では通用しないとこき下ろした。バスの中は優勝チームとは思えない雰囲気となった。そんな中、一人の選手が
「あのさ、大介…」
 と言いかけた瞬間、「キキーッ!」という悲鳴にも見たブレーキ音とともに、大きな衝撃が大介を襲い、気が付いた時には、大介は病院のベッドの上で起き上がることもままならず、一生を車いすで生活することを余儀なくされていた。
 その後の生活は悲惨を極めた。野球中心の生活が続いたため、成績はさっぱりであり、野球のできない大介は「落ちこぼれ」である。これまで傲慢な態度でチームメイトと接してきたため、大介を助ける仲間はいなかった。教室で一人車いすに座り、雲を眺めるだけの日々である。もうすぐ始まる中学校生活には何の希望も見いだせなかった。眠る前に枕を濡らすことも珍しくなかった。そんな風にして眠りについたある日、夢にあの蛇が現れた。
「あっ!お前は…」
「どうだ?野球小僧の人生は。」
「何言ってんだ。もう、野球はできない。あいつらはさんざんプレーで足を引っ張った挙句、こうなった俺を助けようともしない…死にたいぐらいだよ…世界を導く力がある俺がなんでこんな目に合うんだ?」
 蛇はその問いには答えず、
「そうか。どうする?もう一度やってみるか?」
「できるのか?」
「もちろんだ。神にできないことはない。」
「それなら…サッカーだ。サッカーで国立、いやワールドカップを目指す。」
「野球はもういいのか?」
「野球は味方のミスが足を引っ張るからな。サッカーなら自分の力だけでのし上がれそうだ。」
「そうか。そう思うのならやってみるがいいさ。」
 含みのある言い方で、そう言うと
「明日になれば、また六歳の大介に戻っている。サッカー小僧の大介にな。」
 と告げ、蛇は消え去った。
 目が覚めると大介は、来週から始まる小学校と小学校に入学したら入れるというJリーグの下部組織に胸を躍らせていた。夢の中に現れた蛇のことは、全く覚えていなかった。
 大介は物心ついた時からサッカーボールを与えられており、Jリーグの下部組織に入ると繊細なボールタッチと卓越したステップで周囲を驚かせた。大介の技術と得点センスはあっという間に有名になり、天才少年として地域のテレビ番組で紹介されるまでになっていた。もちろんそれを支えているのは、日々のたゆまぬ努力であり、チームメイトが帰った後も、一人コートでボールを蹴り続けた。高学年になるころには、県の選抜となり、全国区の選手としてサッカー界では知らぬ者のない存在であり、他のJクラブや私立中学などの指導者が大介の試合を見に来ていた。
 小学六年生となり、最後の大会が近づいてきた。大介は有名であったが、チームの成績はいま一つであった。大介が徹底したマンマークにあうと、チームは手詰まりとなり、つまらないミスをきっかけに失点を重ねた。大介はチームメイトのミスをなじり、時には監督やコーチの戦術をも否定した。最後の大会もたいした成績を収めることができないまま幕を閉じた。帰る途中大介はチームメイトを馬鹿にし、コーチ陣を批判した。周囲は大介の努力と実力を認めてるので何も言わないものの、終わったことをしつこく責める大介に嫌気がさしていた。そんな中、一人の選手が
「あのさ、大介…」
 と言いかけた瞬間、前から来たバイクがハンドルを誤り、大介に衝突した。気が付いた時には、大介は病院のベッドの上で起き上がることもままならず、一生を車いすで生活することを余儀なくされた。
 その後の生活は悲惨を極めた。サッカー中心の生活が続いたため、成績はさっぱりであり、サッカーのできない大介は「落ちこぼれ」である。これまで傲慢な態度でチームメイトと接してきたため、大介を助ける仲間はいなかった。教室で一人車いすに座り、雲を眺めるだけの日々である。もうすぐ始まる中学校生活には何の希望も見いだせなかった。眠る前に枕を濡らすことも珍しくなかった。そんな風にして眠りについたある日、夢にあの蛇が現れた。
「あっ!お前は…」
「どうだ?サッカー小僧の人生は。」
「何言ってんだ。もう、サッカーはできない。あいつらはさんざんプレーで足を引っ張った挙句、こうなった俺を助けようともしない…死にたいぐらいだよ…なあ、もう一回戻れないのか?」
「またか?いいぞ、神にできないことはない。」
「それなら勉強だ。勉強で東大、いやノーベル賞を目指す。」
「スポーツはもういいのか?」
「へたくそに足を引っ張られるのはもうごめんだね。勉強なら自分の力さえあればのし上がれるはずだ。」
「そうか。そう思うのならやってみるがいいさ。」
 含みのある言い方で、そう言うと
「明日になれば、また六歳の大介に戻っている。ガリ勉の大介にな。」
 と告げ、蛇は消え去った。
 目が覚めると大介は、来週から始まる私立小学校に胸を躍らせていた。夢の中に現れた蛇のことは、全く覚えていなかった。
 大介は両親の教育方針から、早期教育に力を注がれていた。七田式、リトミック、英会話、野外保育など、先進性、話題性のある教育を一通り受け、そのどれもを高いレベルで理解・習得した。小学校も近隣で最も偏差値が高いといわれる学校の入学試験を受け、トップ合格を果たしていた。入学後も大介の学力はトップを走り続けた。もちろん、そこには大介のたゆまぬ努力があり、予習・復習はもちろんのこと、通信教材や読書など寝食を忘れて勉強に勤しんだ結果でもあった。
 小学校六年生となった大介は、すでに独学で中学校の学習内容を終えており、小学校の授業は全く必要のないものとなっていた。小学校のテストは授業を受けずとも常時百点であり、クラスメイトは愚鈍な馬鹿にする対象でしかなかった。教師の指導も低レベルに思え、指名されると「そんなつまらない質問は僕にはしないでください。」などと言い出す始末であった。
 しかし、そうなると周囲の大介に対する反発も日を追うごとに激しくなった。上履きや教科書を隠し、無視をした。教師も大介を煙たく思っていたので、それを黙認した。大介も傲慢な態度を改めず、テストのたびに周囲や教師を馬鹿にした。
 そんなある日、その日のテストも大介だけが百点であったので、他の児童を馬鹿にし始めた。
「こんなしょうもないテストで間違えるって、どういうことだ?教える方も教わる方も、恥ずかしくないのかよ?情けないったらありゃしない。俺以外は人生の負け犬確定だな。」
 言いたい放題の大介に対し、児童ではなく教師が逆上した。
「泉!いくら何でも言い過ぎだぞ!」
 両手で胸を突かれ、大介は後ろに飛ばされ、頭を激しく打った。打ち所が悪かったのか、目が見えない。なぜか、
 (またか…)
 という思いがよぎった。教師はさらに大介の胸倉をつかんで引き起こし、何やら喚いている。それを一人の児童が割って入り、大介を抱えながら静かに言った。
「あのさ、大介…。大介に力があるのはわかる。それは誰もが認めているんだ。でも、誰もが大介のようにはなれないんだ。大介には特別な力があるけど、ない人だっているんだ。いや、ない人の方が多いんだよ。大介ほどの力があれば、それを理解することができるんじゃないかな?」
 その声にも、どこか聞き覚えがあるような気がしたが、目の見えないショックとひどい頭痛で大介の意識は薄れていった。
 その日の夜、夢にまた蛇が現れた。
「ああ、また来たのか。」
「ご挨拶だな。その様子では目が見えないようだな。」
「なぜか、あんたの姿は見えるけどな。なあ、あんたはずっと俺の様子を見ていたのか?」
「そうだ。それも私の仕事だからな。」
「それなら、聞きたいことがあるんだ。こうなる前にいつも俺に話しかけようしたやつがいたような気がするんだけど、知らないか。」
「そいつは、いつも大介が馬鹿にしてたやつだ。野球ではエラーと凡打、サッカーではパスミスを繰り返し、テストもろくな点を取っていない。まあ、大介風に言えば『負け犬の遠吠え』ってところか。」
「そうか…」
「で、どうするんだ?もう一回やり直すか?今度はピアノや絵画はどうだ?芸術分野であれば、才能ひとつでやっていけるかもしれんぞ?」
「いや、いい。」
「どうするんだ?視力が失われたままで生きていくのか?」
「ああ、どうやら俺は自分の能力に覆われると、周りが見えなくなるようだ。今、視力が奪われたことで、あいつの言ったことが理解できるようになった。また、新たな能力を得れば、同じことの繰り返しになる。幸い、理解力や考察力・好奇心は失われていないようだから、視力がなくともやっていけるだろう。」
「どうやって生きていくんだ?」
「まずは、うちのクラスのやつらの学力をあげる。俺の学力に屈してつまらない仕返しをしていたが、そんなことをしている暇があるなら、勉強すればいいんだ。俺が勉強の仕方を教えてやるさ。先生たちにも俺が教え方を教えてやる。前々から学校の勉強ってのに不満があったからな。」
「そのあとは?」
「そっからは、あいつら次第だろう。俺だってまだ中学の学習過程を終えただけだ。これから学ぶことはいくらだってある。盲目の俺が努力する姿を見せ続ければ、やつらだって傍観してるだけではまずいと思うだろ?俺が率先垂範になることで、やつらの尻に鞭を打つってわけだ。」
「そうか。どうやら決意は固そうだな」
「ああ。なかなか面白い体験ができたよ。結局、俺が持つ『世界を導く力』ってのが何なのかわからずじまいだが、手持ちの力で生きていくさ。まずは、あいつに礼を言うことと、教室のやつらを変えることからだな。」
「そうか。では、私は神のもとへ帰るとする。元気でな。目が覚めれば、私のことは忘れることになる。」
「ああ。いろいろとありがとう。あんたには感謝しているよ。名前は?」
「神の使いに名前などない。」
 数日後、退院した大介は教室でこれまでのことを謝罪し、共にここで学ぶとともに彼らの教師役になりという旨を伝えた。クラスメイトも大介の失明という事実を前にすると、これまでのことを蒸し返すこともできず、大介とともに学習に邁進することを約束した。
 そんな大介の様子を、神の世界から見ていた蛇は、
「なんだか小さくまとまってしまったな。世界が大介に気づき、変わるとしてもずいぶん時間がかかりそうだ。まあ、いくら即効性があっても、あのチョビ髭みたいに勘違いしてぶっ飛んでしまわれては困るからな。」
 と、以前出会った画家志望の男を思い出しながらつぶやいた。
 大介はその後、盲目の教育者として世界に大きな影響を与えることになるが、それはもう少し先の話である。
 
 おわり

 

「手紙」
142211

 葛藤、悩み、不満。この世の中には負の感情があふれている。加藤園子は、いつもと同じ服を着て、いつもと同じ朝ごはんを食べている。薄くストライプの入った黒色のスーツ。もう四年はこれを着ている。この四年で、体重は変わっていないが体型は変わった。その体型に合うようにスーツは体になじんでいる。母の形見としてもらった箪笥は一人暮らしには大きすぎて中はすかすかだ。毎朝この箪笥からスーツをとり出して着ている。朝食は毎日変わらず白ごはんと味噌汁。健康的な生活を送ろうと心がけているが、実際は仕事の残業で日が変わる前に帰ってこられたらいいほうだ。朝食を毎日和食にしているのは、昨年亡くなった母の影響が大きい。母は昔から「健康第一」が口癖だった。「勉強できるに越したことない。でもみんなが健康に、安全に、毎日を過ごせたらそれが一番ええ。」周りの友達は、親に「勉強しなさい。」と言われることをわずらわしく感じている年齢であったため、うちの親はその子たちの親とは違ってよくわかっている、と羨ましがられたものだ。また、学生時代にはあまり怒られることがなかった。私がいわゆる「悪いこと」を目立つほどやらなかったこともあるが、母の気性のせいもあるだろう。怒鳴られた記憶は一度もない。母には昔から何でも話すことができた。学校の話、恋の話、友達関係の話、自分の夢の話。
「健康第一」を体現していた母だったが、私が病院についた時にはもう息を引き取っていた。母の作る朝ごはんは和食に決まっていた。もちろん和食以外が健康に悪いわけではないが、母はなぜか、健康にいいからと毎日和食を作ってくれた。白ごはんに味噌汁、焼き魚に納豆、漬物。私は朝からそれだけ豊富なご飯を作る時間がないが、せめて白ごはんと味噌汁だけは作るようにしている。私は母に数えきれないほどの話をしたが、母は私にどんなことを話していただろうか。毎朝ごはんを食べていると、ふと母の言葉が頭に浮かびそうになるが、途中で泡のように消えてき、言葉にはならず、頭の中に感覚として残る。思い出そうとしても、出てこないものは出てこない。頭の中の感覚に懐かしさを覚えながら、いつもと同じノートをいつもと同じ鞄に入れ、いつもと同じ靴を履いて会社に向かう。
 
 
 中小企業の事務。ひたすらパソコンに向かっている。ブルーライトが目に悪いなんて関係ない。上司から与えられる書類に目を通し、それをデータとしてパソコンに打ち込む。この作業は誰のためになっているのだろうか。こんなこと、何年後かにはロボットが担っているのだろうなとぼんやり考える。これが何のためになるのか、誰の役に立つのかなんて考えずに、それこそロボットみたいにこなしていれば時間が来て帰宅できる。昼休みに同僚とおいしいランチに出かけることもなく、仕事終わりに上司と飲みに行くでもなく、仕事が終われば直帰する、そんな毎日が過ぎていく。正直もう飽きた。でも、四年しか働いていない職場に対して飽きたと言えるほど私はこの会社について何も知らない。今こなしている仕事も完璧にできるようになったわけではない。ただ、退屈だ。甘えていることもわかっている。無謀なこともわかっている。でも。一層のこと辞めてしまおうか。就職してから何度も考えたことだ。頭の中で考えているだけで、口に出したことも何かに書き付けたこともない。もう一方の自分は、いやいや安定した生活を送ることができているのは、この仕事のおかげだ。辞めてどうやって生活していくのだ、と囁く。結局は、仕事を辞めてもその先に行く道がないのだから、このまま安定した生活を送ってこうという結論になる。母が亡くなってから、一人で生きていくということについてよく考えるようになった。小さいときには夢もあった。大人になってからも実はひそかに抱えている夢がある。小さいときには、可能性は広がっている、どんなことでも一度挑戦してみろ、失敗すればまたやり直せばいいさ、という空気が周りを覆っていた。失敗は許されるというよりも、今はたくさん失敗しておけという雰囲気さえあった。何も怖くなかった。しかし、大人になってからは失敗が許されない、ここで下手はできないという空気の中で戦うことばかりだ。周りがそのような雰囲気を作り出していると思っていたが、もしかすると自分で勝手に思い込んでいただけかもしれない。ただただ、失敗するのが怖くなった。
 
 
 大人になってからの夢というのは、世界を旅することだった。大の大人が何を言う、と馬鹿にする人ばかりだろう。だから言えない。小学生のころは世界なんてもってのほか、自分の住んでいる町が自分の世界の全てだった。中学生になり、高校生になり、自分の周りを取り巻く世界が広がった。自分の中で全てだと思い込んでいたことがだんだん打ち砕かれていった。日本の中でこれだけ違うのだから、世界に出たら驚くことはもっとたくさんあるだろう。ぼんやりと世界に出ていろんな人に出会いたいと思ったのは高校生の時であった。一歩踏み出す勇気が出ずに、結局今まで一度も日本を出たことがない。明確な目標やゴールが決まっていないため、このまま世界に出たとしても何も変わらないと自分が一番わかっているからだろう。大学を卒業してからはずっとこの職場で働いている。
 生まれてきてから今まで、自分で選択しなければならないことはたくさんあった。小学生になるとき、ランドセルは何色にしようか、中学生で部活は何に入ろうか、高校はどこを受験するのか、大学には進学するのか、するならばどんなことを専攻しようか。小さな選択から大きな選択まで様々あったが、「今」を生きている自分は、それらの積み重ねで成り立っているのだ。大きな選択を迫られた時には、Aを選べばどんな世界が開けているのか、Bを選べばどんな未来が待っているのかと想像し、選択してきた。あの時こうしていれば、あの時ああしていなければと考えることは山ほどある。しかし、必ずその時の選択は「今」につながるものであり、その選択をしたから「今」がある。死んでないだけましか、なんて考えることもあるけれど、たいていのことはやはりうじうじと考え込んでしまう。
 私は一か月に本を三冊読むことを決めている。一冊は新書、一冊は漫画、一冊は直感で読みたいと思った本を選ぶ。これは社会人になってからの習慣になっていた。毎月のこの三冊の本を選ぶのも一苦労である。表紙の絵や質感、帯から受ける印象、これらで一か月間の相棒を選ぶ。選ぶということが苦手な私は、どの本を買うかだけでも時間がかかる。なかなかピンとくる本に巡り合えず、本屋を五、六軒まわったこともある。職場の昼休みでは、ご飯を食べた後にこの三冊を読み進めることに全力を注ぐ。「本はいろんな世界へ連れて行ってくれる」。どこかの本屋で見かけたポスターに書かれていた。なるほど。いろんな世界か。私は毎日同じ日々の繰り返し。テレビでもよく取り上げられているが、刺激的で不安定な毎日と、平凡で安定した毎日。私はいつの間に後者を選びとっていたのだろう。
 家に帰ってからは、風呂に入り、すぐに就寝する。家で過ごす時間はほとんどない。休日も、平日の寝不足を調整するように午後まで寝て過ごす。至って平凡だ。人生山あり谷ありとはよく言うが、山も、谷もない人生である。そしてまた朝を迎える。
 ある朝、一通の手紙が郵便受けに届いていた。宛名のない手紙。差出人が書かれていない手紙。はて誰からだろうか。仕事を始め、一人暮らしをしてからは勧誘のダイレクトメールくらいしか届いたことがない。何も考えずに手紙を開く。
 拝啓
 あなたは毎日に疲れているのですね。
 身体はもちろん心も疲れている。
 
 休めるときには休むことも大切です。
 
 敬具
 なぜか親しみのわく文字で書かれた手紙から数分、目を離すことができなかった。ハッと気づくといつも家を出る時間を過ぎていたため、朝食を食べていた机の上に放り投げた。その日もいつもと同じように時間を過ごし、日が変わってからの帰宅であった。事務作業でずっと座っていられるから疲れない、わけはない。長時間パソコンと向き合ったために、目をつぶるとじわっと涙が出てくる。目の疲れからか頭も痛い気がする。足もむくんでぱんぱんだ。風呂に入って早く寝よう。
 次の日の朝、ご飯と味噌汁を食べていると、昨日の朝届いた手紙が目に入った。もう一度開いてみる。何度読んでも同じ文面だが、なぜか読んでしまう。これは私に宛てられた手紙なのだろうか。差出人も宛名も書かれていない手紙は初めてである。宛名が書かれていないということは、郵便屋さんが配達しに来たのではないことは確かである。新種のいたずらか。少し気味の悪さを覚えた私は再び封筒に戻してゴミ箱に捨てた。
 次の日の朝、郵便受けをのぞくとダイレクトメールに交じって一通の手紙が入っていた。おととい来た手紙と同じ封筒である。手紙を見た瞬間どきっとしたが、怖いもの見たさで勝手に手が開けてしまう。
 拝啓
 あなたは毎日に疲れているのですね。
 一度深呼吸をしてみなさい。
 今ある自分をちゃんと見つめてみなさい。
 敬具
 
 割と丁寧に書かれた文字とその言葉遣いで、読むとほっとする自分がいた。書かれている内容はおそらくほとんどの人に当てはまる。しかしどうしても、自分に宛てられた手紙だという気がしてならない。昨日捨ててしまった一通目の手紙を拾い出し、二通目といっしょに箪笥の引き出しにしまい込んだ。
 次の日の朝、期待して郵便受けを見るとやはりあの封筒が届いていた。
 拝啓
 あなたは毎日に疲れているのですね。
 疲れていることは自分で分かっているけれど、
 何に疲れているのかは分かっていない。
 一つ一つの行動をもっと大切にしなさい。
 敬具
 翌朝はこんな手紙だった。
 拝啓
 あなたは毎日に疲れているのですね。
 疲れていると感じるのは気持ちのせいもあるのです。
 背筋を伸ばしてしゃんと歩きなさい。
 敬具
 次はこんな手紙だった。
 
 拝啓
 あなたは毎日に疲れているのですね。
 昔のように外に出てみなさい。
 散歩するだけでもいい、もっと外に出てみなさい。
 敬具
 五回もこのような手紙が届くと、恐さはなくなっていった。差出人はだれかわからないが、こちらに害をもたらしてくるわけでもない。テレビでやっている星座占いのようなもので、私だけの占い、その日のアドバイスという感じで受け取るようになっていた。そうして手紙を見るのが日課になっていった。毎朝届く手紙で箪笥の引き出しはいっぱいになってしまった。最低限の服しか入っていない箪笥は、大きな大きな手紙箱といった方がしっくりくるほどだった。毎日欠かさず届く手紙の書き出しはいつも同じ「あなたは毎日疲れているのですね。」確かに疲れてはいるが、これだけ毎日疲れていると書かれるほどではないと思う。世の中にはもっと疲れている人がたくさんいるはずだ。
 園子は手紙が来るようになってから、よく外に出るようになった。手紙に「疲れている」と書かれていたことに対して、そんなに言われるほど疲れていないと自分に言い聞かせるためでもあった。休みの日は昼まで寝ているのが普通だったが、今では手紙が待ち遠しく、しっかり朝に目覚める。朝に起きると、今まで寝ていた時間が自由な時間としてあらわれ、散歩に行ったり少し遠いところまで自転車で買い物に出かけたりするようになったのだ。外に出てみると、通勤路にはない景色が広がっている。職場までは、三十分間満員電車に揺られ、その後通勤ラッシュの人込みを五分間歩く。人が景色と化している中で生活しているのだということが休日に外でのんびりしていると気付かされる。時間に余裕ができると心に余裕ができるとはよく言ったものだ。仕事の疲れを寝て取り除こうとしていた日々よりも、少し早起きして時間をたっぷり作り外に出る方が、自分にはしっくりくることが分かった。
 ある晴れた日の休日、いつものスーパーに買い物に行くのに遠回りして河川敷を自転車で走っていると、休憩にちょうどいい公園を見つけた。桜も散っていよいよ夏に近づいている。自転車をこいでいるだけでも少し汗をかく。この前散歩したときにはまだ上着を着ていなければ肌寒かったのが、季節の移ろいは早いものだ。周りを木に囲まれた公園には涼しそうな木陰が大きく揺れている。自転車を降りて公園に入り、ベンチに腰掛ける。住宅街から離れているからか、公園には子ども一人おらず、静かな雰囲気である。遊具はブランコと滑り台、シーソーが一つずつあるだけ。丁寧に手入れされており、きれいな公園という感じだが、果たしてここに人は来るのだろうか。あまり人の気配を感じさせない。頭でいろんなことを考えすぎてしまう性格は小さいころから変わらず、こんなところでもいろんなことを考えてしまう。目をつぶると最近の出来事が、何も思い浮かばない。変わりばえのない毎日。最近は仕事が上手く行っていないこともない。しかし仕事をしていて充実感や達成感を得ることがない。この仕事向いてないのかな。結局このことについて考えていても堂々巡りをするだけだとわかっているので、目を開けた。すると、隣のベンチに人柄のよさそうなおばあさんが座っていた。私が瞑想にふけっている間にやってきたのだろう。急におばあさんが現れたことよりも、この公園に人がやってくるのだということに驚き、自分だけの秘密の場所でなくなってしまったことに少しショックを受けた。何分くらいだろうか、二人は言葉を交わすこともないままそれぞれの時間を過ごした。しかし、園子はどうしてもおばあさんが気になり、話しかけてみることにした。
「こんにちは。いいお天気ですね。」
 するとおばあさんはにっこり笑って、
「こんにちは。」
 と答えてくれた。職場では無口だが、実はおしゃべり好きな園子は、おばあさんともっと話したくなった。
「実は私、今日ここを見つけて、来たの初めてなんです。この季節は木陰が涼しくて気持ちいいですね。ここにはよく来られるんですか。」
「私もここに来たのは初めてですよ。休むにはちょうどいい場所ね。」
「最近は人混みの中で生活していたものですから、こうしてゆったりした時間を過ごすといいものですね。」
「人間はせかせか働くのも大切だけど、こうしてゆっくりする時間は自分で作っていかないとね。私はもうこんな歳だから自然と時間はたくさんできてくるけれど、あなたのような年齢では自分で作り出そうとしなければこんな時間はできないでしょう。私は結婚してすぐに夫を亡くしてしまったの。まだ若かったものだから一人娘を育てるのは大変だったわ。でもやっぱりかわいいものだから、親はできるだけいい思いをして育ってほしいと願ってしまうものなのね。仕事も大変だったけれど、娘のことを思うと生きる活力が生まれてくるの。頑張らなくちゃって。今は娘も立派に大きくなったけれどね。」
「そうなんですね。私は去年母を亡くしてしまって、一人になってやっと母の偉大さが分かってきました。母には何でも話をしていて、よく相談にも乗ってもらっていたんですけど、相談相手がいなくなるってつらいものですね。自分のことを一番に分かってくれていると思っていた人がいなくなってしまった時、自分だけで自分と向き合う時間が増えてだんだんわからなくなってくるんですよね。自分が何をしたいのか、どのようになりたいのか。」
 園子はいろんな話をした。
「この仕事に就く前は、本当にこれがしたいのかって迷っていたんです。本当に自分がしたいことは何だろうって。でもそれはあまりにも非現実すぎてその時あきらめてしまったんです。今思えばその時挑戦していれば、何かが変わっていたんじゃないかって思うんですけどね。まあ、そんなに人生上手くいくもんじゃないですよね。きっと間違えて、失敗して、少しずつしか進めないんですよね。」
「そうだねえ。」
「人の成長は時間を単位としている気がするんです。一年でこれだけ伸びたとか、一か月でこれだけ増えたとか。一日の時間が二十四時間で、一年が三百六十五日と決まっているからそうなるけど、これが変わると成長の単位も変わるのかなとか。それとも時間を単位とするしかないのかなとか。成長するって何なんですかね。」
「そうだねえ。」
 おばあさんはほとんど「そうだねえ。」しか言わなかった。しかし、興味がなさそうでもなく、話を聞いていないようでもなかった。とても真剣に話を聞いてもらった。どんなことを話しただろうか。自分でも覚えていないくらい話した。最近の自分の悩みや普段考えていること、疑問に思っていること、答えが出ないような哲学みたいな話でさえもおばあさんは真摯に耳を傾けてくれた。おばあさんが自分の話をしたのは最初だけで、それからはずっと静かに私の話を聞いてくれていた。
 
 
 話にふけっていると、もうこんな時間になってしまった。スーパーが閉店してしまう。園子はおばあさんに別れを告げると、来た道を帰った。人とこんなにたくさん話をしたのはいつぶりだろうか。おばあさんの安心感ある存在と、気持ちのいい天気に誘われてついつい饒舌になってしまった。買い物をしに自転車を走らせたのに、買い物をしないまま家に帰ることになった。帰り道はいつにも増して自転車をこぐスピードが速かった。人通りの少ない河川敷で、遮るものは何もなかった。後ろからは追い風が吹き、風さえも私の見方になってしまったようだった。そして、行きと帰りでは見える風景がまた違った。同じ道を通って帰っているはずなのに、帰り道の方が明るく感じた。町は夕日に包まれて赤く染められていた。今まで自分の頭の中だけで考えていたことを言葉にして人に話すことで、こんなにも気持ちが楽になるのだ。一度自分で決めた道は、後悔していても変わらない。現状に満足できないのは、そもそも自分が精一杯やっていないからではないか。何でも帰り道にはまたいろんなことを考えながら自転車を走らせた。面倒臭いことを考えるのは変わらない。ただ、おばあさんに話をしてから今の自分を少し受け入れられるようになった。おばあさんの「そうだねえ。」は魔法の言葉のように感じられた。たった一度の出会いで、一日のうちのたった数時間で人の気持ちはこんなにも変わってしまうものなのか。
 
 
 フォームの始まり
 
 
 フォームの終わり
 家に着くと、いつもの癖で郵人受けをのぞいた。すると、一通の手紙が入っていた。いつもこの時間には新聞しか入っていないのにと、違和感で胸が高鳴った。毎朝届いている手紙の封筒と同じものだ。高鳴る気持ちを抑えるように手紙をゆっくり開けるとそこにはいつもの文字でこう書かれていた。
 拝啓
 もう一度あなたに会えてよかった。
 身体も心も大事にね。
 健康第一。
 敬具
 園子は走り出した。今戻ってきた道をさっきの何倍もの速さで進む。周りの景色や人混みなど気にもならなかった。ひたすらにあの公園を目指して全速力を出した。さっきの公園にはまだあのおばあさんがいるだろうか。淡い期待を抱きながら、しかしどこかでもう会えないことを悟りながらひたすら走った。案の定、お昼におばあさんが座っていたベンチに人影はなかった。ぼんやりと空を見上げ、ふと思う。あの手紙は誰が届けてくれていたのだろうか。差出人が分かったことで不思議になった。平凡で退屈な毎日を送っていると思っていたけれど、実は摩訶不思議な体験をしていた。考えても考えてもわからない謎だ。
 
 
 昼とは違い、夕闇の中で街灯が遊具を照らしている。ブランコが風に揺れている。遠くの空にはカラス一羽おらず、橙色と紫の混じり合った空が広がっている。胸の中には、もう二度と会うことができない悲しみと、これから強く生きていくのだという希望が広がっていた。さあ、家に帰って箪笥の手紙を確認しよう。

 

「食パンの冒険」
142131

 ここはとある町のパン屋さん。今日も朝からいい匂いが漂ってきます。あんまりいい匂いだから、小鳥たちも屋根の上でう〜っとり。(ダジャレじゃないよ)
 店の中ではパン屋さんがせっせとパンを作っています。おや、最初のパンが焼きあがったみたい。
「一番早起きクリームパン♪卵がたっぷりクリームパン♪一口食べればとろ〜りと 幸せクリームあふれ出す♪」
 そう歌いながら棚に並んだのは、この店自慢のクリームパンです。取れたての卵をたっぷり使って作られたクリームと、ふんわりとしたパンが奏でるハーモニーは、誰でも笑顔にしてしまいます。
「やあ、レディ。今日も可愛いね。」
 そう言ってクリームパンの隣に並んだのは、とびきりイケメンのクロワッサンくん。外見はサクッとしてるけど、一口食べれば濃厚なバターがじゅんわぁり。もう、メロメロです。
「ク、クロワッサンくんこそ…とってもハンサムだわ///」
「当たり前じゃないか、僕はフランスを代表するパンなんだ。マリー・アントワネットとの熱い恋愛が懐かしいなあ…」
 マリーは僕にメロメロでさぁ、…クロワッサンくんは、店中に聞こえるように自慢げに話します。
「おい、またその話かよ。」
「まあまあ、いいじゃないの。」
 ベーコンエピ君とメロンパンちゃんも焼きあがったようです。ベーコンエピくんは田舎育ち。クロワッサンくんのフランス話には嫉妬しているようです。
 メロンパンちゃんは、未だに完成形が見えないパンと言われていて、その神秘的なオーラでみんなからは一目置かれています。
 四人の…いや、四種のパンが話している間に、棚には次々と出来立てパンが並べられていきます。
 パンたちは一斉に歌い出しました。
「ほっくりおいしいアンパンに、かりっと大人なフランスパン♪フォカッチャ・クグロフ・ブリオッシュ 西洋生まれのおしゃれパン♪
 メロンパンにカレーパン チョコがたっぷりチョココロネ クリームパンもアンパンも
 日本生まれの兄弟さ♪」
 楽しそうな歌声が店の中に響きます。もうすぐ開店。今日はどんな人が買ってくれるのだろうと考えると、パンたちはワクワクしてもっと大きな声で歌います。
 そんな歌声を聞きながら、最後に焼きあがったのは五つ子の食パン兄弟。
「みんな、おはよう!僕たちも仲間に入れてよ。一緒に歌いたいな。」
 ところが、五つ子の食パン兄弟の声を聞いたとたんに、今まで元気よく歌っていたパンたちが急に静かになってひそひそ話し始めました。
「仲間に入れて欲しいってさ。どうする?」
「無理だよ、彼らには特徴がないもの。」
「歌おうにも、個性がないから歌えないよねぇ。」
 クスクス笑う声も聞こえます。食パン兄弟は悲しくてこらえきれなくなって、みんなからは遠い別の棚に並びました。
「ねえ、どうして僕たちには個性がないの。どうしてみんなみたいに自慢できることがないの。」
 末っ子の食パンが泣きながら言いました。
「クロワッサンくんはいいなあ。高級なバターたっぷりでサクサクだもんなぁ。」
「メロンパンちゃんだって羨ましいよ。おしゃれなクッキー生地の服を着てさ。」
 食パン兄弟は口々に話します。ため息をつくたびに、入っている袋が白くくもりました。
 
「いらっしゃいませー!!!」
 とうとうパン屋さんが開店しました。美味しそうな匂いに連れられて、たくさんのお客さんが店にやってきます。
「ここのクリームパンは一番だわぁ。」
「ママ、カレーパン買って!お願い!」
「すみません、クロワッサンが売り切れたんですけど…」
 お客さんは次々にパンを買っていきます。閉店の時間には、もうほとんどのパンが残っていませんでした。
「さあ、片付けるか…」
 そう言って、パン屋さんは一つの棚に目を向けました。食パンが並んでいる棚です。
「他のパンはあっと言う間に売り切れるのに、食パンだけは毎日残るなぁ。」
 パン屋さんは深いため息をつくと、ゴミ箱の傍に食パンを置いて帰っていきました。
 
「…今日も売れなかったね。」
 一番年上の食パンがぽつりとつぶやきました。
「僕たち、捨てられちゃうのかな。」
「誰にも食べられずに捨てられちゃうなんて、絶対に嫌だよ。」
「僕たちだって、美味しいパンなんだ。みんなを笑顔にしたいんだ!」
 そう叫んだ時、食パンたちは体がすうっと浮き上がるのを感じました。その途端、
「う、うわぁぁあああ!!!」
 パン屋の窓が開いたかと思うと、強い風が吹き込んできて食パンたちは外へ吹き飛ばされてしまいました。
「た、助けて!」
「みんなどこにいるんだ!」
 五枚の食パンたちは口々に叫びましたが、あっというまに空の彼方へ消えていってしまいました。
 
「ねえ!誰か倒れてる!」
「大変!助けなきゃ!」
 そんな声が聞こえてきて、一番年上の食パンはゆっくりと目を開けました。
「こ、ここは…?」
 あたり一面、白い景色が広がっています。
「あ、目を開けたよ!」
「よかった、気が付いたんだね。」
 小さくて、茶色い何かが口々に話しています。
「ひどく疲れているみたい。僕たちのおうちに運ぼうよ。」
「そうだね。みんなで運ぼう。」
 一番上の食パンは、茶色い何かに運ばれていきました。ひどく疲れていたので、食パンはゆっくりと眠ってしまいました。
 それからどれほど眠っていたでしょうか。ぐつぐつと何かが煮える音が聞こえて、食パンは目を覚ましました。誰かいるようです。
「あの…」
 食パンが声をかけると、誰かが振り向きました。はっきり見てみると、それはクッキーでした。
「あら、起きたのね。」
 クッキーは優しい声で言いました。
「子どもたちが、誰かが倒れていると言ってあなたをここに連れてきたのよ。ひどく疲れているようだったけど、何かあったの?」
 食パンは、今までのことをすべてクッキーに話しました。パンのみんなからひどいことを言われたこと。食パンだけ売れ残ること。急に風が吹いて、気付いたらここにいたこと…。食パンは、涙を流しながら話しました。
 クッキーは、何も言わずにただうなずきながら食パンの話を聞いてくれました。それからしばらく考え込んでいましたが、
「とにかく今日は疲れたでしょう。お風呂ができているから、ゆっくり入っていらっしゃい。」
 クッキーがそう言うと、バタバタと足音が聞こえてきました。
「僕も一緒にお風呂に入る!」
「僕も!」
 小さなクッキーたちが食パンに飛びつきました。
「あらあら、ごめんなさいね。子ども達と一緒にお風呂に入っていただけるかしら。」
 さっきぼくを運んでくれたのは、この子たちだったんだ。食パンは胸が熱くなりました。
「よし、一緒に入ろう。」
 食パンがクッキーの子どもたちを包んでお風呂にむかうと、子ども達はキャッキャと喜びました。
 クッキーの家のお風呂は、薄黄色でトロトロしていました。
「これは何?」
 食パンが尋ねると
「バター風呂だよ!」
 とクッキーの子どもが答えました。
「バター風呂は特別なお風呂なの!入るとツヤツヤになって、とってもいい香りがするんだよ!」
 食パンが入ってみると、なるほど、体の芯までバターが染み込んで、パサパサだった生地がしっとりツヤツヤになりました。
「あぁ、こりゃすばらしい。」
 バター風呂があまりにも気持ちよくて、食パンはとっても幸せな気持ちになりました。
 次の日、食パンはクッキーの子どもたちと外で遊びました。外は、雪が降っていました。その雪の、なんと甘いこと!
「今年も粉砂糖雪がふったねぇ。」
 食パンとクッキーの子ども達は、雪合戦をしたり、雪だるまを作って遊びました。食パンの体に、たくさんの粉砂糖雪が付きました。
 たくさん遊んで疲れた食パンは、なんだか眠くなってきました。
 食パンが眠ろうとしたとき、またしても強い風が吹いてきました。そして、一番上の食パンはどこかへ飛ばされてしまいました…
 
 
「トマトちゃんって、きれいな赤色をしているね。」
「やだ、食パンさんったら…食パンさんだって、大きくてフカフカで、とってもかっこいいわ。」
 二番目の食パンは、生まれて初めてかっこいいなんて言われたのでとても照れてしまいました。
 トマトちゃんとの出会いは突然でした。強い風に飛ばされたあの日、気が付くとトマト畑にいたのです。しばらく歩いていると、誰かの叫び声が聞こえてきました。
「きゃあ!!落ちる〜!!」
 びっくりして声がした方をみると、一つのトマトが茎から離れて、まさに地面に落ちようとしていました。
「助けなきゃ!」
 そう思うや否や二番目の食パンは走り出しました。
 ―落ちる!!
 トマトが目をつぶった瞬間、何かふかふかしたものに包まれました。
 恐る恐る目を開けると、そこには心配そうな食パンの顔がありました。その途端、トマトと食パンはお互いに恋に落ちたのです。
 二人はいつも一緒に過ごすようになり、お互いにいろんな話をしました。
「僕はパン屋さんで生まれたんだ。五人兄弟の二番目さ。僕は食パンに生まれたことを誇りに思っていたんだ。でも、他のパンは僕たちのことを認めてくれなかった。特徴がないって言うんだ。たしかに、メロンパンやクロワッサンみたいに華々しくないけれど…」
 食パンがここまで話したとき、トマトちゃんはそっとパンの耳をなでながら言いました。
「誰がなんと言おうと、私は食パン君が大好きよ。例え着飾っていなくたって、食パンくんには優しい心があるじゃない。それは、食パン君のとってもすてきな魅力だと思うわ。」
 トマトちゃんの温かい言葉を聞いて、食パンはこらえきれずにわんわん泣きました。今までの辛かったことと、トマトちゃんの言葉で胸がいっぱいで、涙が止まりませんでした。
 しばらく泣いたあと、食パンは決心して言いました。
「トマトちゃん、ぼくと…結婚してください。」
 トマトちゃんはさらに赤くなった。言葉はいらなかった。
 二人の間には子どもが生まれた。お母さんそっくりなミニトマトだ。
 ミニトマトが幼稚園に通うようになったある日、友達のピーマンちゃんとウインナーくんが家に遊びに来ました。
「あのね、私のパパすごいのよ!」
 ミニトマトが得意気に話しだしました。
「私、いつもパパのお腹の上で寝るんだけどね、とってもフカフカで気持ちいいの!!」
 それを聞いたピーマンちゃんとウインナーくんは、
「いいなあ!私もミニトマトちゃんのパパのお腹で寝てみたい!
「ぼくも!」
 と、目をきらきらさせて言いました。
 そこで、三人は食パンのお腹でお昼寝をしました。あんまりにもフカフカで気持ちよかったので、三人はすぐに眠ってしまいました。
 それを見ていたトマトちゃんは、ふふっと笑って、
「私も少しお昼寝しようかな。」
 と言って食パンに寄り添いました。五人は、温かいチーズのお布団をかぶって幸せそうに眠りました。
 と、どこからか強い熱風が吹いてきて、二番目の食パンはみんなを乗せたまま空の彼方へ吹き飛ばされてしまいました…
「こ、ここは…」
 三番目の食パンが目をこすりながら言いました。あたり一面、緑の植物が覆い茂っていました。隣を見ると、四番目の食パンもぐったりしています。
「兄さん、ここはどこなんだい?他のみんなはどこにいるんだ?」
 四番目の食パンがきょろきょろしていると、
「君たち、そこで何をしている!危ないだろう!」
 突然叫び声が聞こえてきたかとおもうと、丸くて白いものが食パンたちに体当たりしてきました。
「…!!」
 食パンたちは声を出そうとしましたが、口を押えられていたので話せませんでした。
 と、どこからかバサバサッという羽音が聞こえてきたかと思うと、食パンたちの真上を大きな黒い鳥が羽ばたいていきました。その顔の恐ろしさに、食パンたちは震えました。
 羽音が遠ざかると、丸くて白いものが食パンたちから離れ、話し始めました。
「すまない。でも、ああしないと君たちの命が危なかったからね。私の名はエッグ。この場所を守っている兵士だ。」
 エッグは続けて話しました。
「ここは、神聖なるレタス地帯。神様に捧げるための美しいレタスがたくさん育てられているところだ。ところが、最近闇の使者がこのレタス地帯を荒らすようになった。荒らすだけでなく、僕たちの仲間もたくさん食われて死んだんだ。さっきの黒い鳥を見ただろう?あれが闇の使者、カラスと呼ばれる鳥だよ。」
 食パンたちは、さっきの黒い鳥の恐ろしい顔を思い出して身震いしました。
「君たちがなぜここにきたのかは分からないが、そのままの姿でいたら確実に食べられてしまうだろう。僕が防備を貸してあげるから、ついてきなさい。」
 食パンたちは言われるがままエッグについていきました。
 エッグは、様々な防具を食パンたちの前に並べて説明を始めました。
「これは卵手裏剣だ。先祖代々伝わる僕たちの武器だよ。カラスが飛んできたら、この卵手裏剣を投げるといい。」
 食パンたちは、スライスされた卵手裏剣を身に着けた。
「これは、防弾ハム。相手が攻撃を仕掛けてきても、この防弾ハムを身に着けていれば衝撃を和らげることができる。」
 食パンたちは防弾ハムも身に着けました。しかし、エッグは困った顔をして言いました。
「君たちは体が大きすぎる。いくら防具を身に着けていても、その大きさじゃすぐにカラスに見つかってしまうなあ…」
 エッグはしばらく考え込んでいましたが、やがてポンっと手をたたくと
「そうだ。レタスで身を隠せばいい。神様にお願いして、神聖レタスを何枚かいただこう。」
 といいました。こうして、食パンたちは防具をつけたままレタス地帯に身を隠すことができました。
 その数日後、またカラスがレタス地帯を荒らしにやってきました。カラスは、四番目の食パンのすぐ近くに降り立ちました。四番目の食パンはあまりにびっくりして、
「ひいっ」
 と小さく叫び声をあげてしまいました。カラスは声のした方をにらみつけ、するどいくちばしでつつき始めました。このままでは危ない。そう判断した三番目の食パンは、カラスに向かって卵手裏剣を投げました。ところがカラスには当たらず、おまけにレタスで隠れていた体も見えてしまったため、カラスの標的は三番目の食パンにうつりました。
 カラス勢いよく三番目の食パンに食いつこうとしたその時、
「にいさああああん!!!」
 四番目の食パンが三番目の食パンに覆いかぶさりました。
 その瞬間、強い風が吹いてきて三番目の食パンと四番目の食パンは重なったまま空の彼方へ飛ばされてしまいました…
 さて、末っ子の食パンはどうなったのでしょう。彼は、とんでもないことに巻き込まれていました。
「僕がパン・オリンピックに出るだって!?」
「そうとも。我々はずっとオリンピックに出場する選手を探していたんだ。そうしたら、君がものすごいスピードでここに現れたんだ。あの速さはパンの限界を超えていたね。君は超人…いや、超パンだ。神様が我々に送ってくださったオリンピック選手に違いない!!」
 長いひげを揺らしながら、年寄りのコッペパンは食パンの耳を握りました。
「お願いじゃ、頼むよ!」
 コッペパンの切実な表情を見ていると、末っ子の食パンはそれ以上何も言えなくなりました。それに、「超パン」なんて言われたのがあまりにも嬉しくて、ついぼ〜っとしてしまったのです。気が付いたら、
「分かりました。僕がオリンピックに出場しましょう。」
 と返事していました。
 末っ子の食パンが出場する競技は水泳でした。パン・オリンピックにおいて水泳は、命がけの競技と言われています。生地に液体が染み込みすぎると体が重くなって動けなくなってしまいます。パイ生地なんかが泳いだら最悪です。表面からばらばらと生地がはがれていってしまいます。
 だから、本当に技術があって泳ぐのに適した生地のパンじゃないとゴールできないのです。
 最初の種目は、200センチメートルミルク泳です。末っ子の食パンは、勢いよくミルクに飛び込みました。すると、まるでボートのように体がミルクの表面を滑りはじめました。
 その泳ぎは誰よりも速く、また美しかったので観客席から拍手喝采が聞こえました。
 末っ子の食パンは、ダントツで一番でした。
 次の競技は、100センチメートル卵液泳でした。一番難しいと言われている種目です。ところが、これも食パンは難なくこなしてしまいました。
 スーパー選手の登場に、観客席の盛り上がりは最高潮です。たくさんの砂糖吹雪を浴びて、末っ子の食パンは黄金のバターメダルをおなかに乗せました。
「やはり君は選ばれしパンだった。水泳界のスーパーヒーローじゃよ。感動をありがとう…!」
 コッペパンは、線で描いたような目から大粒の涙を流しました。
 そのときです。末っ子の食パンのところにも強い熱風が吹いてきて、空の彼方へと飛ばされてしまいました…
 朝日の眩しい光で一番年上の食パンが目を覚ますと、そこには見慣れた天井が。
「パ、パン屋さんだ!」
 一番年上の食パンが叫びました。
 すると、二番目の食パンが「もしかして今の声は、兄さんかい?」
 と聞きました。あまりにも見た目が変わっていたので、誰だか分からなかったのです。
 食パンの五枚兄弟はみんな目を覚まし、お互いの姿を見てびっくり仰天してしまいました。
「い、一体何があったんだい!?
「お前こそ、体が真っ黄色だぞ!」
 口々に話し始めました。でも、真ん中のお兄さんがぽつり。
「僕たち、もう食パンじゃなくなっちゃったのかな。見た目も全然違うし、こんな姿じゃ食べてもらえないかも…」
 そんな不安そうな声をきいて、兄弟はみんな悲しい気持ちになってしまいました。
 そんな気持ちに拍車をかけるように、最初に焼きあがったメロンパンが叫び声をあげました。
「きゃあ!!あなたたち、何なの!!変なパンがいるわ!!」
 その声を聞いて、クロワッサンくんの顔も恐怖で歪みました。
「誰なんだ君たちは、本当にパンなのか!?」
 焼きあがったパンたちは、口々に叫びました。みんな、恐怖の目で食パンたちを見つめます。
 食パンたちはこらえきれなくなって、棚から落ちようとしました。
 その時です。
「なんて美味しそうな食パンなんだ!!」
 目を丸くしたパン屋さんが、食パンたちを見て言いました。その声を聞いて、パン屋さん全員が食パンの棚に集まってきました。
「こ、これはすごい!本当にあの食パンなのか!?」
 一人のパン屋さんが、一番年上の食パンを手にとって…ぱくり。
「!!!!????」
 パン屋さんは、声にならない叫びをあげました。それから、一筋涙を流すと
「すばらしい!すばらしい!バターの濃厚な香りが口いっぱいに広がって、砂糖の舌触りがほどよいアクセントになっている…!」
 他のパン屋さんも一口食べました。そして、あっという間に幸せそうな顔になりました。
「これはなんだ?」
 好奇心に満ちた目で、パン屋さんは二番目の食パンを手に取りました。
 …ぱくり。
 …そのままパン屋は動かなくなりました。いや、動けませんでした。
 口の中で、ハーモニーが聞こえてくるのです。
 『さっぱりピーマン フルーティートマト ジューシーパリパリウインナー♪ なんて幸せフカフカベット 食パンさんのふわふわベット♪』
 パン屋さんは、思わず踊り出しそうになりました。
 それを見ていた他のパンたちは、驚いた顔でその光景を見ていました。
「あれは、食パンたちだったのか!」
「全然気づかなかったわ。」
「それより見てよ。あのパン屋さんの幸せそうな顔。いいなあ…さぞかし美味しいんだろなあ…」
 うっとりした顔で食パンたちを眺めます。
 パン屋さんたちはそれぞれの食パンを食べ終わると、感動して叫びました。
「食パンはなんてすばらしいパンなんだ!!こんなにアレンジできるのは、食パンしかいない!!」
 食パンの前には、このような看板が立てられました。
 『当店自慢の食パンです!!シュガーバターパンに、ピザトースト。サンドイッチにフレンチトースト!どうアレンジするかはあなた次第です!』
 食パンたちは涙を流して喜びました。やっと、自分たちのいいところが見つかったのです。みんなを幸せにすることができたのです!
 そのパン屋さんは、食パンをアレンジした初めてのパン屋さんとしてたちまち有名になりました。テレビや新聞でも紹介されたので、食パンを買うために多くのお客さんが並ぶようになりました。食パンのアレンジ法を書いた本も出版され、世界中の人が食パンの虜になりました。
「ほっくりおいしいアンパンに、かりっと大人なフランスパン♪フォカッチャ・クグロフ・ブリオッシュ 西洋生まれのおしゃれパン♪
 メロンパンにカレーパン チョコがたっぷりチョココロネ クリームパンもアンパンも
 日本生まれの兄弟さ♪
 なんといっても食パンは アレンジ自在のスーパーパン 何でも変身できるから すてきなみんなの憧れさ♪」
 パン屋さんには、今日もパンたちの楽しそうな歌声が響いています。

 

「雪月花」
143912

「とまきち、急いで! 早く逃げるよ!」
 思わず声を大きくして、私は早くこっちへ来いと手を振り招いた。追いかけられるような悪いことをしていることくらい理解している。だからこそ、ここで捕まってはいけないのだ。
 「大丈夫、おいらなら逃げれるにゃん。ぷうきちのほうが足が遅いんだから早く行くにゃん!」
 私が小さい頃から一緒にいる、親友のとまきちは、人の言葉を理解し話すことができ、二足歩行もできる、私の背丈と同じくらいの大きい猫だ。大きいくせにやたらと身軽で、足が速いことは私が一番分かっている。それでも、今回も絶対に捕まるわけにはいかないのだ。毎回が命がけなんだもの。
 「つべこべ言ってないで! 早く!」
 そうして、私ととまきちは、追っ手を振り切って逃げることができた。
 
 
 「これが今日の分の薬だよ、母さん」
 「体の調子はどうかにゃ?」
 心配そうに、とまきちが粉末を母さんに飲ませる。これは、とまきちが乳鉢で薬を細かく砕いたものだ。母さんが眉を寄せる。きっととても苦くて美味しくないのだろう。
 「本当にありがとうねえ。この薬だって、そう安くないんでしょう? 本当にあんたたちに迷惑ばっかりかけちゃって……」
 申し訳なさそうに母さんがしょんぼりした。
 「大丈夫。薬のことは気にしないで。それより私たちは、母さんに早く元気になってほしいの。さ、薬も飲んだんだし、早く寝てくださいな」
 「そうにゃ。ママ上は寝ることが仕事にゃ。おやすみにゃ」
 「ありがとう。おやすみなさい」
 母さんが目を閉じ、寝たことを確認してから、私ととまきちは母さんの部屋を出た。
 
 「いつまでこんなことを続ける気にゃ? 今まではにゃんとか逃げきれてきたけど、これからもそうとは限らないにゃよ?」
 部屋を出て、決して座り心地がいいとは言えない椅子に座って一息ついているとき、とまきちが口火を切った。それも、私も口には出さないもののずっと考えていたことを。
 「そんなの分かってる。でもほかにどうすればいいっていうの? 他にいい考えがあるの? どうせないんでしょ。ならこうするしかないんだよ」
 「そうかもしれにゃいけど……」
 沈黙が部屋を包む。聞こえるのは雨のような音。どうやら雨が降り始めたようだ。この沈黙がとても重く感じる。ああ、とまきちに当たってしまった。とまきちは何も悪くないのに。むしろいつも手伝ってくれるのに。
 「ごめん、とまきち。別にとまきちに強く言うつもりじゃなかった」
 「大丈夫にゃよ。気にするにゃ。おいらはいつだってぷうきちの味方にゃ。何か食べようにゃ。おなかすいたにょ」
 「そうだね、何か食べよう。何があったっけ……」
 そうして立ち上ろうとした瞬間、私たちにとって、とても珍しい出来事が起こった。家の入口であるドアがノックされたのである。しかも、遠慮という言葉を知らないだろう強さで。この近所は誰も足を踏み入れない荒れた雑木林であるのに、人が近づく気配すら気づかなかった。きっと雨音のせいだ。
 そう考えているうちに、ノック――というのは相応しくないだろうが、ドアを叩く音が大きくなる。とんだせっかちだ。
 「ぷうきち、気を付けてにゃ」
 恐る恐るドアに近づき、そうっとそれを開いた。ドアの前には、私の背丈の3倍、いやそれ以上の、大きい男が、怖い顔でこちらを見下ろしている。
 「何の御用でしょうか」
 「君がぷうきち殿かね? おや、猫の姿が見えないが、部屋のどこかに隠れているのかね?」
 その大男は、私たちのことを知っているようだった。
 「あの、どちら様ですか? 私に何か御用でしょうか。夕食の準備をしようとしているのですが……」
 「ほう、それは済まない。では手短に用件だけ伝えようではないか。ホン村住民であるぷうきち殿。貴様を窃盗の容疑で逮捕する」
 サアっと血の気が引く思いがした。窃盗? まさかバレていたのか。薬を盗むときはいつも顔に布を巻いて、誰だか分からないようにしていたつもりだったのに。
 「窃盗……? さ、さて何のことでしょうか。人違いではありませんか? 私は何かを盗んだことなどありませんよ」
 動揺する気持ちをぐっと抑え、あくまで冷静にしらを切った。
 「ほう、そうか。私はこう見えても、心理学を勉強していましてな。嘘をついているか否かを見分けることなど、造作もない」
 大男が軽くうつむいた。そして顔を上げたと思った瞬間、私の額には大量の汗が溢れてきた。怖い。まるで猛獣に狙われているような気持ちがする。今すぐ逃げ出したい。この男の視線から外れたい。怖い。怖い。
 
 「まぁまぁ、そこまでにせんか。相手はまだ年端もいかぬ少女じゃぞ。たこはち」
 大男の後ろのほうから、優しそうな声が聞こえてきた。たこはち、と呼ばれた大男は、後ろを振り返り「分かりました」と言って下がっていった。助かった。怖かった。
 「ぷうきちや、大丈夫かね。おぉ、泣いているのか、たこはちの見た目は怖いからのう。ほれ、これで涙を拭うのじゃよ」
 淡い青色の手ぬぐいを差し出しながら近づいてきた人物。よく村内のお祭りで挨拶をしている……私の住む村の村長、ホンドウ村長だ。
 私は村長から手ぬぐいを受け取り、目から出てきた液体と、額に張り付いた汗を拭った。泣いてしまうなんて情けないなあ。
 「すまぬのう。怖がらせるつもりはなかったのじゃよ。ほれ、たこはちからも謝りなさい。怖がらせるつもりはなかった、とな」
 「……大人げなかったかもしれないな。済まなかったよ、ぷうきち殿」
 さっきとは打って変わって、この大男が小さく見える。村長がいなかったら今頃どうなっていただろうか。
 「ぷうきち! 大丈夫かにゃ!」
 とまきちが駆け寄ってきた。さっきとは雰囲気が変わり、出てきても大丈夫だと認識したからだろう。
 「おお、君がとまきち君か。初めて見るのう。なんて興味深い生き物なのじゃ。わしの言葉も理解しておるのかの?」
 ホンドウ村長がまじまじととまきちを見つめる。とまきちは狼狽えながら、「あ、当たり前にゃよ……」と呟いた。
 「ホホホ。ところでぷうきちや。本題じゃ。其方はここらで物を盗んでおるな? 村民から苦情が来放題なのじゃよ、怒らないから、正直に答えなさい」
 またここで嘘をつくべきなのだろうか。いや、嘘をついても、たぶん村長にはすべて見抜かれている。ここは正直に言うべきだと直感した。私は正直に答えた。
 とまきちが私の服を引っ張った感覚がした。でも、正直に言わないと、この状況は変わらないはずだ。
 「……そうか。よく正直に言ってくれたのう。ぷうきちや、物を盗むことは犯罪だと分かっておるかね?」
 「分かっています」
 「そうか。よろしい。では、悪いことだと分かりながら物を盗んでいるということは、それなりの理由がある。そうじゃな?」
 「…………」
 わたしは口をつぐんでしまった。また目から液体が溢れそうで、我慢するのに必死だったからだ。
 「ぷうきち、わしはお主の事情を分かっておる。母君が病床に伏しておるのじゃろう? その母君のために、いつも危険を顧みず薬を盗んでおる。村民からの被害報告に、薬が盗まれたとは聞くが、それ以外の物は盗まれたとは聞かぬからのう」
 私は大人しく村長の話を聞くことしか出来なかった。今にも目から零れ落ちそうだったからだ。
 「泣いてもよいのじゃぞ。そういうのは、我慢するべきじゃない。わしがいつでも受け止めてやるわい。ほれ、おいで」
 いつの間にか外は土砂降りになっていた。雨音が、私たちの家を包み込んだ。
 
 
 「すごいにゃああ! 海にゃ!」
 真横の席でとまきちが叫ぶ。とてもうるさい。初めて見る海に感動しているのはわかるけど、うるさい。
 「ほら、大人しく座って。あまりうるさくすると降ろされちゃうよ」
 私たちは現在、馬車に乗っている。村長から、おつかいを頼まれたからだ。
 「わかったにゃん。ところで、最初の目的地は、雪の国でよかったにゃ?」
 「そう、まず雪の国。次に月の国に行って、花の国に行けばおつかいは終わり。物を渡すだけでいいって言われたから、簡単よねえ」
 おつかいなんかで私たちの罪を許しちゃうなんて、村長も甘いなあ。ところでこの荷物の中身って何なんだろう。大きさもまちまちだし、重さも違う。どの国で誰に渡すかはメモを見れば分かるけど、この荷物なんて中身が入ってるのだろうか。
 「ママ上は元気かにゃあ。この海を見せてやりたかったにゃ」
 「そうね……」
 私たちが留守にしている間、母さんは村長が責任をもって看病すると言ってくれた。村長のことだから大丈夫だろうけど、母さんの手を離れて、遠くまで行くことは初めてだ。少しドキドキする。
 
 
 「お客さん。着きやした。雪の国ですぜ。まいど」
 馬を操っていたお兄さんに声を掛けられて、私は目が覚めた。どうやら寝てしまっていたようだ。朝早くに出発したからなあ。眠い。
 「お兄さんありがとう。これお代です。ほらとまきち、起きて」
 お金も払い、私ととまきちは歩き出した。あとは、村長から貰った地図を頼りに進むだけだ。雪の国とは名だけの、ぽかぽかした気持ちのいい気候だ。
 「ここ……だ」
 地図の通りに進むと、大きなお屋敷についた。まるで映画に出てきそうな、本当に立派なお屋敷だ。庭も広くて、噴水まである。きっとここに住んでいる人はお金持ちで幸せだろうなあ。
 門の前でしばらくしていると、庭の林檎を収穫していたおばさんがこちらに気づき、近寄ってきた。
 「あら、いらっしゃい。どちらさま?」
 「あ……私は、ホンドウ村長のおつかいで、荷物を届けに来た者です」
 「あらまあ! 遠路はるばるいらっしゃい! ちょうど林檎があるから、採れたて林檎のパイでもご馳走してあげる。ほら入って!」
 林檎のパイ……! 私ととまきちは涎が出るのを堪えて、おばさんの案内に従って屋敷に入っていった。
 屋敷の中は、外で見た時から予想がついていたように、豪華絢爛という言葉が相応しい様子だった。目がチカチカする。照明のくせに、我が家にあるものとは全く違う。椅子もなんてフカフカなんだ。
 「お待たせ! ほら、熱いうちに食べな!」
 目の前に艶やかな林檎パイが現れた。村を出発してから何も食べていなかった私たちは、むしゃむしゃと遠慮なく貪った。今までにこんなに美味しい食べ物を口にしたことがあっただろうか。
 「美味いにゃ!」
 「ふふ、美味しそうに食べてくれるわね。そうだ、受取人は桜子で合ってる? 呼んでくるわね」
 そうしておばさんは、部屋から出て行った。どうやら村長が話をつけてくれていたらしい。
 しばらくして、おばさんが帰ってきた。大きなタイヤのついた椅子に、私と同世代くらいの女の子を乗せて。あれは確か、車椅子というものだったか。
 「初めまして。桜子です」
 そう名乗った少女は、ふわっと微笑んだ。思わずドキッとしてしまうほど魅力的な笑顔だった。
 「あ、あの、桜子さんに荷物を届けに……。こ、これです」
 「ありがとう。でも、この荷物はあなたが開けるべきなのよ?」
 一瞬、桜子が何を言っているのか理解できなかった。困惑しながら、言われたとおりに荷物を開けた。中には、可愛らしいドレスが入っている。
 「まあ! 可愛いドレス! ほら、早くそれを着て踊って頂戴」
 「……!?」
 一体何を言っているのかさっぱり分からない。踊る? 誰が? 車椅子に乗っている桜子が? ……まさか私が?
 「桜子は、踊りを見るのが大好きなのよ。桜子の体はもう自分で動かすことはできないけど、踊りを見ると、自分の体も動きだしそうな気がするんですって」
 
 私は踊った。一応、母さんにダンスの基本を教えてもらっていたので、踊ること自体は苦ではなかった。私が踊っている様子を見ている桜子は、本当に幸せそうだった。
 
 
 「さっきの女の子、可愛かったにゃね」
 「そうね……。私、体を動かせない人って初めて見た。もし、自分が体を動かせなくなって、走れなくなったら、きっと絶望して死にたくなると思う。でも、桜子はすごくいい笑顔をして、楽しそうにダンスを見てた。桜子、幸せそうだったな……」
 「もしぷうきちが走れなくなっても、おいらが背中に乗せて走ってあげるにゃ!」
 ふふっと笑い、「ありがとう」と呟いてから、私は窓の外を見た。町が広がっている。そろそろ、次の国に着く頃だろうか。次は月の国だ。
 
 
 「お客さん。起きて下せえ。目的地に着きやしたよぉ」
 「ほあ?」
 また寝てしまっていた。さすがに日も傾き始め、辺りは薄暗くなり始めている。
 「さあ、真っ暗になる前に届けに行こう! そして出来れば泊めさせてもらおう!」
 「おうにゃ!」
 私たちは早足で歩み始めた。
 
 「まだ……まだ着かないの……ここはどこなの……」
 「足が痛いにゃあ。ぷうきち、おんぶしてにゃ……」
 月の国に到着してから二時間。ずっと歩きっぱなしだ。地図の通りに進んでも、それらしい建物が見当たらない。足もくたくただ。日も暮れ、真ん丸なお月様が現れている。さすが月の国。綺麗な月である。
 「もう無理だ。歩けないよ」
 私は道にしゃがみこんでしまった。足が痛い。もう歩きたくない。街頭はあるものの、暗いし少し寒い。お家に帰りたい。
 「そんなところにしゃがみこんで、どうしたんだい?」
 突然、頭の上から声が降ってきた。見上げてみると、少しくせっけの優しそうな青年が私を見下ろしている。俗にいうイケメンである。
 「あ、えっと、人探しをしていて……この地図の場所に行って、荷物を届けたいのです。名前は……、もみじさん」
 「もみじ……? ちょっと地図を見せてくれるかい。おや、この地図、方角を反対に書いている。僕の妻に荷物を届けに来る子って、君のことだったんだね。丁度良い。家に帰るところだったんだよ。一緒に行こうか」
 その男性と歩いている最中、今日の宿の話になり、泊めてもらうことになった。ラッキーだ。おつかいを果たせるし、宿も確保できた。天が私に味方したとしか思えない出来事である。それより、こんなかっこいい人と結婚できるなんて、その奥さんはさぞ美人なんだろうなあ。幸せな夫婦なのだろう。
 
 「着いた。ここが我が家です。どうぞお入りください」
 「お邪魔します」
 「にゃ」
 暗くて外観は良く見えなかったが、二人で住むには十分すぎるほどの大きさの家である。玄関を開けると、吹き抜けの天井があり、開放感に溢れている。素敵な家だ。
 靴を脱ぎ、居間に通されると、ロッキングチェアに一人の女性が座って、ゆらゆらとした動きに身を委ねている。
 「もみじ、帰ったよ。ただいま」
 「……」
 夫が帰ったのに、挨拶もしない。実は不仲なのか? と考えていると、その男性は、もみじさんに近寄った。彼女は立ち上がり、夫が帰ってきたことが嬉しいあまりか、夫に飛びつき、夫婦で抱きしめあっていた。
 「アツアツにゃ……」
 その夫婦の世界に入り込めない私たちは、ただ見つめることしか出来なかった。
 「おっと、ごめんよ。こちらが僕の妻、もみじです」
 そういうと彼は、壁にかけてあった小さいホワイトボードを手に取り、何かを書いて彼女に見せた。すると彼女は、こちらを向き、ぺこりと頭を下げた。
 「何を書いたのだろうか思ったかい? 実はもみじは、耳が聞こえないし、喋ることもできないんだ。だから僕たちはいつも、こうして筆談で会話しているんだよ」
 その言葉で、私が覚えていた違和感がすべて解決した。言葉を喋れないから、おかえりも言えないし、音が聞こえないから、愛する夫が帰ってきたことに気づかないのだと。彼が帰ってくるまでに、家で一人で過ごす時間はさぞ心細いだろう。伝えたいことも伝えることができないし、愛する人の声も聞こえないなんて、さぞ不幸だと感じるだろう。
 「さて、ではもみじへの荷物を渡してくれるかい」
 私はハッとして、もみじさんへ荷物を渡した。彼女がガサガサと包装を取る。荷物とは、もみじさんと、もみじさんが愛する人、そして村長が描かれた油絵だった。
 「わあ、すごい力作だ。さすがホンドウ村長だなあ。お上手だ」
 もみじさんはその油絵を、とても嬉しそうな笑顔で見つめていた。そして、大切そうにぎゅっと抱きしめた。
 「これは、僕たちが新婚旅行で、ホン村を訪れた時の絵だよ。ホンドウ村長は絵が上手というんで、油絵をお願いしていたんだ。もみじは絵がとても大好きでね。プレゼントだよ」
 もみじさんはホワイトボードを手に取り、『すごく嬉しい。ありがとう。小さな女の子と猫さん』と書いて見せてくれた。私は照れ臭くなった。そして私は、そのホワイトボードを受け取り、『ぷうきちと、猫のとまきちです。喜んでもらえて私も嬉しい』と書いた。
 その日の夕食は、もみじさんが作ってくれた。愛情たっぷりの手料理は、本当に美味しかった。そして、フカフカのベッドで、とまきちと身を寄せ合いながらぐっすり眠った。
 
 
 もみじさん夫婦に見送られ、私たちは朝早く出発した。次の国が最後である。案外、すんなりとおつかいできるものだ。
 「今日中に帰れたらいいにゃね。頑張るにゃ!」
 暖かい布団で眠れた私たちは、元気いっぱいだ。私も頑張るぞ。
 汽車に乗り、花の国へ向かう。花の国というのだから、お花がいっぱいの綺麗な国なのかな。――そんなことを考えていると、いつの間にか寝てしまっていた。外を見ると、なぜか見たことのある風景が広がっている。まるでホン村のような……。
 「次は、花の国。花の国入り口、ホン村です。花の国へ御用の方は、ここでお降りください」
 車内アナウンスが響く。ホン村って、花の国だったんだ。ずっと村から出たことがなかったから知らなかった。
 「帰ってきちゃったにゃね」
 「そうね……。ホン村って、花の国だったのね」
 気を取り直して、最後の荷物を届けに行く。受取人はそうきち。私たちの名前と似ている。どんな人なのだろうか。
 
 「あ、ここだ」
 昨日と違って、すぐに目的地に着いた。さあ、荷物を届ければ、このおつかいも終わりだ。
 「御免ください。お届け物を持ってきました」
 「おぉ、遅かったじゃないか。お入り」
 出迎えてくれたのは、まさかのたこはちだった。なぜここにいるのだ。たこはちがいるということは、村長も……?
 「ぷうきちや、よく帰ってきたのう。お疲れさまじゃ」
 いた。相変わらず優しい声だ。なぜ私がここに来るタイミングを知っているのだろうか。
 「さて、おつかいの最後の荷物が残っておるかの。早くそうきちに渡すのじゃ。そうきちは奥におるぞ」
 村長に言われ、私は当初の目的を思い出した。そうだ、荷物を届けに来たのだ。
 そうきちさん宛ての荷物を持ち、奥の部屋に向かう。一体どんな人なのだろう。
 「なんだかおいらたちと同じ匂いがするにゃよ」
 ギィ……とドアが鳴る。奥には、雪の国の桜子と同じ車椅子に乗った男性が一人いるだけだった。顔はこちらを向けているが、目は閉じたままだ。眠っているのだろうか。
 「ぷうきちや、驚いたか。彼は体を動かすことも、物を見ることも、喋ることも聞くこともできぬ。お主、自分の父親について、母君から話を聞いたことはあるか」
 「私がまだ小さいころに、出て行ったとだけ聞きました」
 「そうか。実はな、このそうきちは、お主の父親じゃ」
 私は自分で思っていたほど驚きはしなかった。なんとなく予想がついていたのかもしれない。
 「お主、雪の国や月の国で色々な人を見たろう。その人たちは幸せそうじゃったか」
 「幸せそうでした。体は不自由でも、すごく、すごく……」
 「そうじゃな。その人たちは、本当の幸せを感じておる。お主、母君を救いたい一心で、窃盗をしてまで薬を飲ませていたな」
 「……はい」
 「それは本当に母君のためになると思うか」
 「……」
 「ぷうきちなら分かっておろう。母君のために罪を犯してまでしたことは、本当に母君のためにはならない。それは偽りの愛情じゃ。わしは、お主に本当の幸せ、愛情について分かってほしくておつかいを頼んだのじゃ」
 私はとまきちを見た。真剣な表情で村長を見ている。
 「そうすけは、実は自分がこうなることを分かっておった。だからまだ体が動くうちに、わしの所へ来て、それからずっとここにいる。家族に迷惑をかけたくない一心で、家を飛び出してきたそうじゃ。ぷうきちや、その荷物を開けなさい」
 私は荷物を開けた。中には紙が入っている。そこには『家族四人で幸せに暮らしなさい。ぷうきちは、家族を支えるために村で働きなさい。母親の病気は、もう大丈夫』と書かれている。
 「……分かったか。お主が心配している母君は、わしが特効薬を飲ませた。元気になっとるぞ。今後はわしやたこはちが主ら家族をサポートする。心配するでない」
 私は、目の前が滲んで見えなくなった。私はいま、一四年間生きてきた中で、たぶん一番大泣きしている
 私は、涙を我慢することなど忘れて、ひたすら泣き続けた。

 

「知らぬが仏」
132121

(あ、もう一か月前に戻りたい・・・)
 この一か月何回この考えに至ったか数えきれない。一か月前の馬鹿で軽率な自分をできることなら殺してやりたく、一か月前に戻れるなら死んでもよかった。死んでしまっては元も子もないが、あと三か月後に控えた大学入試に失敗してこの辛い受験生生活が長くなっても、もうどうなっても良かった。とりあえず、一か月前に戻りたかった。
 今から約一ヶ月前。七尾高校三年生の私、松原佐紀は悩みに悩んでいた。
 その悩みの種の一つに、大学受験があった。受験勉強は全くうまくいかなかった。毎日4時まで勉強しているのに関わらず成績は伸びない。現状維持ならば、まだ大丈夫なのではないかという声もあるだろう。しかし私が成績を現状維持させている中、周りの友達たちは順調に成績を上げる。すなわち相対的に見ると私の成績は下がっているのである。実際今回の模試では、受かる可能性が0にちかいというF判定が出てしまった。ちなみにまわりにF判定の友達はいない。勉強のセンスがあまりにもないようだった。正直、人一番努力はしているはずだった。その努力が報われず、毎日十一時頃に勉強を終え寝る友達に、原宿や池袋に出て遊んでいる周りの友達に抜かされ、小学校からずっとずっと目指していた大堀大学から、どんどん遠ざかる気分はなんとも複雑だった。 
 試験の前には、今からエレベーターに閉じ込められて試験を受けなくてもいいようになってほしいな。試験中には特殊能力で試験中の答えが見えればいいのに。試験後には、透明人間になって間違った答えを書き直せないかな。そんなばかげたことを本気で考えるほど私は追い詰められていた。ま、そんなこと叶うはずがなく、毎日悶々としながら過ごすばかりであった。
 悩みはこれだけではなかった。人生はじめて高校生三年生で初めて好きな人ができたのだ。サッカー部の上島亮太。勉強はそれほどできるわけではないが、サッカーの実力はピカイチで一年生の頃からエースだったという。その事実は高校三年生になって初めて友達から聞いたわけであるが、友達の興奮した口ぶりからして彼女も上島君を好きらしい。なにより、上島君の素敵なところは常にあかるく誰にでも優しいところだ。うちの三年一組でも、やはり上島君は人気者であった。
 三年一組になってまもないある日、塾の行き道にある学校のグランドを通りかかった。するとたまたまサッカー部が試合をしており、そこで初めて同じクラスになった上島君を見かけた。もっと近くで見てみようと、自転車をとめ校内にこっそりはいってみた。するとそこには、光の速さで敵の間を駆け抜けていく上島君の姿があった。今まで、しっくりこなかった光の速さという例えが、上島君のおかげでなんとなく理解できた気がした。上島君の華麗なドリブルが、あまりにもかっこよかった。見ていると何故か恥ずかしさまで感じ、一目散にそこを去り自転車を全速力で漕いで塾までの道を急いだ。
 次の日、勇気を振り絞って上島君に見ていたことを伝えると
「えーはずかしいな。いたんなら声かけてよ」
 と太陽のように笑う上島君を見て、ドキッとすると同時に、どうして初対面の私にこんなにも無邪気に笑えるんだろう、とても不思議だった。一度気になってしまうと、人間とは不思議なもので自然と目で追うようにできているようだ。そこから惚れるまでは一瞬だった。知れば知るほど上島君は魅力的に見えた。受験勉強に集中せねばと気持ちを押さえようとすればするほど、はまっていった。
 しかし今までまともに恋愛をしてこなかった私にとってレンアイというものは大変難しかった。話したいと思えば思うほど、緊張して何も出来ない。メールを送るタイミングもつかめない。きっとうまくいかないだろうと思っていた矢先、私の何か月間の努力が功をなしてか、上島君が話しかけてくれたり、たわいもないメールが続いたり、ついには最後の引退試合に誘われもした。
 もしかして、もしかするとうまくいくんじゃないか。初恋は叶わないものだと誰かさんがいっていたが、私は初恋がうまくいく勝ち組なのではないか。受験の不安も飛んでいく思いだった。
 しかし、そう簡単に勝ち組になるはずもなく、引退試合に誘われはしたものの特に発展はなかった。むしろ時折、あんなに優しい上島君から冷たさを感じることもあった。そうなると上島君の心の内が、実際は私をどう思っているのか気になる。一時はうまくいくと思っていただけに、余計気になる。冷たくするくらいなら試合にも招待するなよと苛立った。しかし、告恋愛初心者の私には告白する勇気もない。上島君のホンネが気になって仕方がなかった。
 受験勉強に恋愛と二十四時間が足りないほど悩んでいた私であったが、もう一つ悩みのたねがあった。それは幼馴染 新井雪である。
 雪とは幼いころから、家が近いこともあり家族ぐるみで仲が良くよく一緒に旅行にいったりもした。急に遊びたい気分になれば、とりあえず雪に連絡した。晩の十時でも、どこか(その大半はコンビニであるが・・・)行こうと気兼ねなく連絡できた。そしてその一分後には会い、二人で出かけていた。先生にばれれば大目玉をくらっていただろうことも、雪と一緒にたくさんした。雪とすれば何でもワクワクして、楽しかった。特に何をはなすというわけでもないが、たわいもない話や無言の時間でさえ二人で過ごせば心地よかった。雪以外の友達と話したり、遊ぶのももちろん楽しい。実際、今まで雪とクラスが離れたこともあり、そんなときには他の友達と楽しく過ごした。いわゆる親友と呼べる友達もいる。雪も同じだ。やさしく、顔もかわいい雪のことだから私より友達も多かった。
 しかし、雪は親友とは違う。雪との関係性を親友というような言葉で表すと、どうしても安易な関係性になってしまう気がしてできない。いうならば、雪といるときのあの感覚は、疲れきった体で一日の終わりに布団に寝転ぶときのあの安心感に似ていた。なにかあれば雪を頼り、雪も私を頼りにしてくれていたし、お互いの家族もしらないような悩みを共有していた。とにかく、わたしにとって雪は特別だった。
 私は雪と同じ高校に通うことを約束した訳ではないが、どういうわけか二人とも七尾高校を受験し合格した。その時は、もう雪との運命を感じた。死ぬ時も、もしかしたら一緒だったりしてと雪と冗談を交わしたが、私はなかなか本気でそう思っていた。
 そんな雪が二か月ほど前から様子がおかしくなった。毎日の登下校を共にしていたはずが、寝坊したとか、先生に呼ばれているとかの理由で一緒に行けない・帰れないと断わられる日が多くなってきた。その時は何も感じず、ただただ信じていた。
 ある日の放課後、また同じように雪から雪の担任、太田先生と話すことがあり、一緒に帰れないとまた断られた。私は先に帰ろうとしたが私も三年一組担任、山本先生に引き留められた。壁の掲示物をはがすのを手伝ってほしいとのことだった。帰宅部かつ先生にも従順な方だった私はたびたび山本先生から頼まれごとをすることがあった。家に帰っても勉強以外に特にすることはないし、たまに山本先生が自販機で飲み物を買ってくれることもあり、よく手伝っていた。その日も、山本先生と雑談をしながら、いつも通りお手伝いをしていた。
 
「最近なんだか寒くなったわね。」
「そうですね。明日からセーター着てこようと思います。」
「そうよ。暖かくしないとだめよ。いまは季節の変わり目なんだから風邪もひきやすいからね。隣のクラスの太田先生も今日体調を悪くされて早退なさったのよ」
「あ、そうな…」
 あれ・・・おかしい。雪は今日の放課後太田先生と話すはずだったのでは・・・急に心拍数が速くなる。なぜ雪は私に嘘をついたのか。よくよく考えてみれば、最近おかしかった。
 そう思うと居てもたってもいられなくなり、私は気づけば雪の家の前にいた。いつもはなんの考えもなく押すインターホンが今日はあまりにも重く感じられた。
 (ピンポーン)
 日は沈みかけ、暗くなり始めた静かな住宅街にインターホンの音がこだまして聞こえた。雪はモニターで私を見たのか、インターホンに応答することもなく出てきた。
 「あ、佐紀どうしたの?今帰り?」
 雪はいつもと変わりがない。あまりにもいつも通りすぎて、力が抜けた。自分が一体何をしに来たか忘れるほどだった。いけない、いけないと気合を入れなおして探りを入れてみた。
 
「今日、太田先生とちゃんと話したの?」
「あ、うん。」
「なんの話?」
「あ、進路のことでね。」
 雪が嘘をついてるのは分かっているのに、あまりにも堂々としていて何も言えない。どうしたらいいのかも分からない。何を考えているのか全く読めない。悩んでいるのであれば話してほしい。怒っているのであれば起こってほしい。いつもなら何でも話してくれる雪が、話さなくても顔に全部出てしまう素直な雪が、あまりにも自然に嘘をついているのがもどかしくてたまらなかった。これ以上一緒にいると、雪との距離が離れ、溝ができてしまいそうで怖かった。動揺してそのあと雪に何を話したのか覚えていないのだが、なんだかんだ理由をつけて家に逃げ帰った。
 家に帰ると真っ先にベットに寝転んだ。頭がパンクしそうだった。何もかもうまくいっていない今の自分に嫌気がさした。こんなとき恋愛の一つでも上手くいけばなぁ・・本当なら雪に相談していたのに・・・雪は私のことが嫌いになったのか・・・・・・・
 
 みんな一体何を考えているのか・・・本当に分からない。
 
 悩みつかれて無理やり寝ようとしているのに次から次へと悩みが湧いてくる。どれほどベットで考えていたのか分からない。
 「佐紀!そろそろ塾行く時間でしょう。早く降りてきていきなさい。」
 あぁ、私は受験生だった。受験生には悩む時間も十分にくれないのか。だれか代わりにテスト受けてくれないかな。それができないならカンニングでもさせてくれないかな。涙がでてきた。悩みも分割してきてくれればいいのに、どうしてこうもまとめてくるのか。どうしても塾に行く気にはなれず、体温計を摩擦させて熱を出した。
 いつの間にか私は眠りについていた。どうやら私は夢を見ているようだ。夢から覚めかけのようで、完全に夢の世界にいるのではなく、現実世界の冷静な思考回路も持ち合わせている。夢の中の自分を現実世界の自分が天井に張りついて見ているようだ。そろそろ、夢から覚めて勉強でも再開しよう・・そう思い目を開けようとするが、なぜか開けられない。まぁ、いいや。夢でも見ておこう。そんなことを考えていると、夢の中で枕もとにおいてある幼稚園の頃買ってもらってからずっと一緒に寝ているくまの人形、ピピが話しかけてきた。
 
「やあ、佐紀ちゃん。うれしいよ。やっと話せるなんて。」
 (うわぁ、夢の世界ってなんでもありだな。)
 冷静に考えながらも、いくら夢とはいえくまの人形と言葉を交わしているという事実に興奮した。そして私は夢から覚めてしまわないように慎重にペペに話しかけた。
 「ペペ!喋れたのね。元気?」
 くまの人形とは、あいにく話した経験がなく、私はとりあえず元気かどうか聞いてみた。
 「あぁ、もちろん。元気さ。最近急に寒くなったけど、ぼくらは風邪とは無縁さ。そういう君は元気ではなさそうだね。ずいぶんと追い詰められて見える。」
 「うん・・まぁそんなとこかな。」
 十年以上大切にしてきたペペだったが、くまの人形に悩みを相談する気にはなれないし、相談したところで十分な人生経験もあるのかないのかわからないペペから、いいアドバイスが聞けるはずもなく、何となく濁しておいた。するとペペは
 「ねぇ、知ってるかい。ぼくたち人形は人間たちの心が読めるんだ。信じられないだろうけどほんとだよ。君の今の心をよんでみせよう。君は僕に悩みを相談したところでどうせ、ためになんてならないって思ったんだろう。」
 (うわ、すげぇ。)
 なんてよくできた夢なんだと感心しながら、もうそのころには夢なのか現実なのか分からないほど夢にのめりこんでいた。そんな私を気にすることもなくペペは続ける。
 「まぁ、君の考えるところは半分正解で半分不正解だね。確かに僕は君にアドバイスはできない。人形界と人間界は全く違うからね。正直人間界は複雑でよおくわかんないや。でもね、僕を十年以上大切にしてくれたお礼といってはなんだけど、君に特殊な能力をプレゼントすることならできるよ。」
「はぁ?」
 この目の前にいるくまの人形が何を言っているのか私には到底理解できなかった。人形に表情があるのかすら分からないが、ペペは表情一つ変えず、話を続けた。まるで私がいないかのように、マシンガントークを続ける。
 「だからね、僕がさ、さっき人間の心が読めるっていったじゃない?その能力を君にもあげることならできるよ。」
 「そんな能力あったってどぅ・・・」私が言い終わらないままに
 「どうするのだって?考えてみてよ。その能力さえあればね、テストで満点とることも可能だよ。クラスに学年トップの山崎君いるじゃない?その子の頭の中が見えれば東京大学も夢じゃないよ。大堀大学なんて百パー合格だろうね。それに君の大好きな上島君の心だって雪ちゃんの心だって全部丸見えさ。怖いものなんて何もないよ。」
 
 私は冷静さに欠けていた。夢だからなのか、悩みすぎて疲れ切ったからなのか、その能力がただただすごく魅力的に見えたのだった。
 「え、ちょうだいよ。その能力。そんなこと本当にできるの。」私は気になって気になって仕方がなかった。
 「もちろんできるとも。でもね一度、この能力を手にしてしまうと能力を消すことは出来ないよ。本当にいいんだね。」
 
 私はなんども確認するペペが疎ましく感じ始めていた。悩みが一気に解決しようとするのに、迷う必要はないじゃないか。
 
 「いいってば!早く頂戴よ!」
 「わかったよ。ぼくはいつでも君を応援しているよ。健闘を祈るよ。バイバイ」
 
 無表情のはずのペペがなぜか微笑んで見えた。しかし私は手にした能力のことを考えると、ペペの表情など全く気にならなかった。
 そして、睡眠術が溶けたかのように、私はすっきり目が覚めた。目が覚めてすぐ、ペペを探した。するとペペへいつもどおり私の横で寝ている。
 
 (あ・・・やっぱり夢だったのか。)
 
 現実世界が、そんなにうまくいくはずはなく寝落ちる前と何ら変わりはなかった。後味の悪い変な夢だったなと思いながら、何となくおなかが空いた。何か食べようと仮病がバレないよう気怠そうに1階に下りた。
 するとそこには、テレビを見てくつろぐお母さんの姿があった。お母さんは私が部屋に入ってくるなり、冷蔵庫にゼリーがあるから、おなかすいたのなら食べるように言った。お母さんはなんでもお見通しのようだ。「ありがとう。」と一言いい、冷蔵庫に向かった。すると
 
「勉強をしっかりしてもらわないと困るし、あとで病院連れて行かなくちゃ」とお母さんの声が聞こえる。
 病院にいったら仮病がばれてしまうと思い、
「私、病院ならいかないよ。」焦ってそう言った。
「あら、どうして私が病院連れて行こうかと考えているのが分かったの。」不思議そうにお母さんが聞く。
「え、だっていまお母さんが・・・」
 
 あっ・・・・・・・
 もしかして・・・・
 じっとお母さんを見てみると、お母さんの口は全く動いていないにもかかわらず、
「今人気の坂口正太郎かっこいいわぁ・・次の日起きたらお父さんが坂口君だったらいいのに」
 なんて聞こえてくる。
 
 やったあぁぁl
 
 私は有頂天だった、どうやらあれは夢ではなかったようだ。私はほかのだれにもない能力を手に入れたみたいだ。階段を駆け上がり、ペペのもとに行ってペペをギュッと抱きしめた。さっきとは違い、ペペは一言もはなさないが、今の私にはこの能力さえあれば全く関係ない。明日からの生活を楽しみにすべての悩みをパッと忘れて、もう一度深い眠りについた。
 
 
 ここまでが一ヶ月前のできごとだ。
 初めの二週間ほどは本当に幸せで毎日が楽しかった。
 小テストでは、ぺぺの言う通り山崎君の心の声を聞けば百点だった。
 あれほど気にしていた雪は結局、両親の不仲が原因で悩んでいたようだった。雪の両親は離婚調停中であり、放課後に今後について先生と話さなければいけない用も多かったようだ。また、心労がたたってか体調を崩し朝本当に寝坊してしまっていたという。ただ、家族ぐるみの付き合いがあった、私にはまだ言わないように両親から口止めされていたらしく、言いたくても言えなかったいうのが雪のホンネであった。
 雪の秘密は他の人にも、もちろん雪にも言わなかったが秘密を知ってしまった以上、全力でサポートした。話を聞いてほしい・そっとしておいてほしいなどの感情が全部見えるため、サポートがしやすくもあった。そうして雪との関係は元通りになっていった。
 このように、相手の気持ちがはっきりわかるというのは、労力も必要なく大変楽だった。もともと人の気持ちに敏感な方であったため、精神的に疲れることがおおかった私にはなおさらだ。また、相手が求めている答えを返せるため、以前には何の関わりもなかった友達から、意外に気が合うねと遊びに誘われることもあった。
 しかし、その反対ももちろんある。仲がいいと思っていた友達が心の内では自分のことをよく思っていないことを知ることもあった。そのうちの一人にいわゆる親友がいた。そのときは、あまりにもショックで息が苦しくなった。トイレに逃げ込み声を殺して泣いた。
 友達が完全に私を嫌っているということは、あまりなかったが、たとえちょっとしたことでも自分に関する批判的感情が全部オープンに私に伝わってくるというのは想像以上に辛いものであった。
 
 能力を手に入れて三週間ほど経つと、この能力に助けられる事より、このように苦しめられることが多くなってきた。
 受験勉強でもそうだ。小テストは山崎君の答えを移せば勉強しなくても百点であったため、なんの勉強もなしに模擬試験を受けに行った。そんなある日、事件は起きた。
 まず、同じ会場で試験を受けるはずだった山崎君が風邪で欠席したのだ。すごく焦ったが、機転を利かして、クラスの中でも賢い方の田中さんを頼りにすることにした。一安心したところで、試験が始まったのだが、田中さんの声が聞き取れない。なぜなら田中さん以外の周りの心の声も全部入ってきて、うるさくて田中さんの声が聞こえないのだ。教室内であれば、三〇人の声のなかから山崎君の声さえ聴けばよかったのに、今回の模試は訳が違う。一教室に一二〇人ほどいるのだ。あまりにもうるさく耳を防ぎたいほどだった。気づいたころには、あまりのうるささに耐え兼ね、気を失ってしまっていた。
 あ、ちなみに。上島君のことだが、上島君は実はいわゆるたらしだったようだ。毎週のように、目をつける女の子がコロコロ変わるのだ。その女の子とみんなが知らないところで付き合っていることもあった。それだけならまだよかったものの、みんなに優しいはずの上島君がホンネでは、そうではなかったということが私を苦しめた。誰かとはなしていれば(ブス)だとか(頭悪い癖に俺に話しかけるな)とかそんな心の声が聞こえる。今では偽善者上島君が怖くて話しかけられない。こんなことなら、なにもしらずにもしかしたらうまくいくかもと妄想していたハッピー野郎でいた方がよっぽど幸せだった。
 
 どうやら、知らない方が幸せなことがこの現実世界にはかなり多いようだ。しかし、もう後には引けない。耳をふさごうにも心の声は聞こえる。それに。なによりも私自身が心の声を確認しなくては不安になってしまった。あんなに信用していた雪が相手でも血のつながった家族が相手でも、自分の行動一つ一つに相手がどう感じているのか気になって仕方がない。嫌われないように、何もしなくても聞こえてくる心の声に耳を傾けに傾け、自分が批判されないように全力を尽くすようになっていた。
 絶えず耳に入ってくる声のため、誰かといると少しも休まらない。家に帰ろうと試験会場の最寄り駅にトボトボと歩いていくことにした。
 通行人の心の声が聞こえてくる。イライラする。だまってよと叫びたい気分だが、実際には誰も話さずにスマホやらに集中している。ないものねだりで非常に勝手ではあるが、こんな能力がない方が確実に幸せだった。もう一回ペペに会えないだろうか・・戻れたらどれほど一か月前に戻れたらどれほど幸せか・・・・・・。
 
 
 
 アッ!
 あまりに急すぎて何が起ったのか分からなかったが、どうやら車にひかれてしまったらしい。私を救出するために人々が必死になっている。焦った心の声が聞こえてくる。こんな状況で、当本人はなかなか冷静に状況を分析できているのが不思議だった。
 しかしなぜか起きようとしても起きれない。そうこうしているうちに、体がすごく痛くなってきた。頭を打ったからなのか、すごくボーとする。すると人々の焦った心の声の中に
 
 (信号無視したこいつのせいで会社に遅れそうじゃないか)だとか
 (腹立つなぁ)
 というような声がまじっていることに気付く。いくら信号無視をしたとはいえ苦しんでいる私を横に、そんなことを考える人々が恐ろしかった。
 私はなんの効果もないことを知りながら、残された力を振り絞り耳を防いだ。

 

「長靴をはいたら」
142126

 祖父母は、都心から遠く離れたところのいわゆる田舎町に住んでいた。お盆の時期だっただろうか。両親に連れられ、私は祖父母の家を訪れた。
 昔ながらの茅葺き屋根でできた家屋の戸を両親に続いてくぐり、靴を脱いで床の間へと上がる。足を踏み出すたびにギシギシと心地よい音が鳴る。振り返ると、来客を迎え靴の増えた玄関は、一気に賑やかになった。
 ふと、玄関の隅のほう靴箱の陰に隠れるようにしてひっそりと佇んでいる長靴が目に入った。その長靴はとても古ぼけている。紺色の塗装は褪せ、こびりついた汚れは、洗っても落ちないだろう。紐も先のほうがほつれ、生地は足を入れただけでも破れてしまいそうである。
 そんな今にも役割を終えようとしている長靴が、なぜか気になったのである。
 (おじいちゃんの長靴だろうか。)
 近寄って見ようとしたのだが、母に呼ばれたので急いで後についていった。
 祖母と会話を弾ませていた両親をよそに、私の頭の中はあの長靴のことでいっぱいだった。あまりにも長靴のことが頭から離れなかったので、祖母が出してくれた麦茶を飲みほし、
「少し出てくるね。」
 と言い残して、私は席を立った。
 部屋を出て縁側を歩いていると、祖父と出くわした。縁側に腰かけ、木桶いっぱいの氷水の中に足をつっこんで涼んでいる。祖父が私に気づいていないようなので、出くわしたというよりかは、私の行あく手をふさいでいるという感じである。
 私は祖父のことが好きではなかった。無愛想で口数も少なく、今回のように私や両親が尋ねてきても、自分から顔を出すことはない。たまに顔を合わせることはあったが、睨むような祖父の視線が、私にはただただ怖かったのである。
「なんや、挨拶ひとつもなしか」
 祖父は、急いで後ろを通り抜けようとする私を一瞥し、そう発した。どうやら、私がいることは気づかれていたようである。
「ひ、久しぶり…です。おじいちゃん……。い、いたんだね。」
 声をかけられると思ってなかった私は、怖々と返した。
「なんや、おったらまずかったんかい。」
「い、いや、そういうつもりじゃ……。」
 (やっぱり、おじいちゃんは苦手だなぁ。)
 と思う私に祖父は続ける。
「まぁ、ええわ。久しぶり。で、どした。そんな急いでからに。」
「…別に。何も、ないけど。」
「そか。引き留めて悪かったな。」
 そう言うと祖父は視線を家の外へと戻した。相変わらず無愛想な人である。
 長靴を見に行きたいと思っていた私は、早々に立ち去ろうとした。だが、そのとき、私の中にある疑問が浮かんだ。
 (見に行って、そこからどうしよう。)
 とりあえず長靴を見に行こうということだけ考えていたのだが、そのあとどうするのかはてんでさっぱりだった。祖父に話を聞いてみようかと思ったが、あの祖父のことである。聞いても応えてくれそうにはないだろう。でも、今長靴のことを尋ねられる人は、祖父の他にはいない。私はダメ元でもいいやと、祖父に尋ねることにした。
「あぁ。あの長靴のことか。なんや、気になるんか。」
 意外にも祖父は、すんなりと答えてくれた。
 (やっぱり、おじいちゃんは何か知ってるみたい。)
「うん。何でかはわからないけど……。おじいちゃん、何か知ってるの?」
「……ふむ、まあ、ええやろう。話したるから、聞きたいんならこっち来ぃ。」
 少しの逡巡の後、祖父は自分の隣を示しながらそう言った。思い切って聞いてみて良かった、と思う私だが、あの祖父の隣に座るのは少し勇気が必要だった。でが、祖父の話への興味が自然と私の足を動かしてくれた。ドキドキしながら祖父の隣に腰かけると、祖父はポツポツと語り始めた。
 幼いころの僕は活発で、虫を追いかけたり、原っぱを駆けて回ったりと何かと外でよく遊んでいた。家に帰るときにはいつも泥だらけで、玄関で迎える母の呆れ顔は今でも忘れられない。
 そんな僕には嫌いなものがあった。僕は雨が嫌いだった。雨が降ると外で遊べなくなってしまうから、雨は大嫌いだった。まあ、遊べないことはなかったのだが、ずぶ濡れになって母に大目玉を食らいたくはなかったので、雨の日は家でおとなしくしていた。そのため、雨の日はいつも退屈で、つまらなかった。だから、僕は雨が嫌いだったのである。
 そんな僕を知ってか、父が雨の日でも外で遊べるようにと、長靴とレインコートを買ってくれた。ピカピカした黄色の長靴と、フードの鍔がくちばしのように出っ張っているこれまた黄色のレインコートである。それらを着た僕はまるで、ひよこのようだった。
 雨の日が来ると、待ち望んだように僕は、長靴とレインコートを着て外に出かけた。
 普段は遊ぶことのなかった雨の中を走り回るのは気持ちがよかった。足元では長靴に踏まれた水たまりが、パシャパシャと滴を跳ね上げている。草むらに近づくと、雨に濡れた草のきつい匂いが鼻を通り抜けた。レインコートを着ているため体は熱かったが、顔に当たる雨の冷たさがなんとも心地いい。見るもの触るもののすべてが新鮮に感じた。
 だが、しばらくすると、少しずつ違和感を覚え始めた。頭が冷えてくると、徐々に違和感がはっきりとしてくる。どうやら、その違和感は足元にあるらしい。火照る体で僕は足元を見つめた。
 見た目には何もなかったので、片足を上げて、軽く振ってみる。長靴はいつもの靴と比べると少し重かった。それが原因か、何だか今日は走りづらかったのである。普段から外を駆け回っていた僕にとって、それはあまり好ましくなかった。
 それに何だか足だけが冷たく感じる。どうやら雨水が長靴の中に流れ込んでいるようだ。歩くたびに、ぴちゃぴちゃと水が足を跳ね回る感覚がある。この感覚も僕は苦手だ。冷たいし、何より気持ち悪い。急いで長靴を脱ぎ、逆さまにしてみると、滝のように水が流れ出てきた。その後も少し残った水が、いちいち気になって仕方なかった。
 雨の日の長靴は、確かに心強くはあったのだが、あまり満足するものはない。それが長靴に対する僕の印象だった。それでも度々長靴をはくことはあったのだが、これ以降新しく買うことはないだろうと僕は思っていた。
 
 
「けっこう昔のことから、話すんだね。なにか関係あるの。」
「さあな。とりあえず黙って聞け。」
「はい。」
 (にしても、おじいちゃんにも可愛い時代があったんだなぁ。)
 
 
 中学を卒業した僕は、地元の高校に進学した。自宅周辺が交通機関に恵まれていなかったこともあり、高校には自転車で30分ほどかけて通学していた。
 しかし、自転車で通学するにあたって一つだけ悩みがあった。雨である。雨が降るか否かでその日の都合が大きく変わるのだ。朝から雨が降ると雨具を準備しないといけない。傘をさしていけたらいいのだが自転車だと、風に煽われるわ、片手がふさがって危ないわでさしてなんかいられない。それに、傘だと間違いなくずぶ濡れになる。それはごめん被るので、すると、必然的に合羽を着なければいけなくなる。
 僕が着る合羽は、百均で売っているようなビニール製の半透明のもので、前をボタンで留めるコートとパンツで一セットになっている。合羽というものは、制服の上から着るとごわごわして、夏の時期なんてとても暑い。先にズボンをはいてからコートを羽織るのだが、制服の形が原因で、ズボンをはくときはいつも苦労していた。
 合羽を着た後に、荷物をゴミ袋の中に入れてようやく雨具の準備が終わる。荷物を袋の奥に入れるのには意外と手間がかかるので、一分でも惜しい朝には面倒だ。だが、濡れて中身まで被害が及ぶよりかは断然マシなので、渋々ながらも準備していた。
 家を出ると、ガレージに停めてある自転車のかごに、いつものように荷物を放り込む。そして、サドルに跨り力いっぱいペダルを踏みしめると、雨の中を切るように走り出す。
 こうして、何度も雨の中を走ったことはあるがやはり好きになれない。
 荷物が入っているゴミ袋は速度が増すにつれ、まるで犬のようにバサバサと体を震わせ、こちらに水滴を飛ばしてくる。あまりに袋が揺れるものだから、いつか穴が開くのではと肝が冷えるのだ。
 荷物だけではない。合羽をがっちり着こんでいるとはいえ、雨に濡れないわけではない。合羽を着ているところはマシだが、当然顔は雨に打たれる。自転車の速度が出てくると、フードは風にめくられ、無防備になった髪の毛も雨にさらされる。僕の髪は少し長いため、そこを伝ってくる水が襟元を濡らし、運悪く肌を伝った滴が服の中まで流れ込んでくる始末だ。
 自転車に乗っていると、ついつい頭や手が濡れることに気が回りがちだが、意外と足も濡れるのである。むしろ足のほうが、被害が大きいと言っても過言ではない。無論、靴にカバーなどかけていないのだから、雨ざらしにはなっている。そんな無防備な足に向かって、水は容赦を知らない。水たまりを通るたびに、タイヤの巻き上げた水しぶきが、足元に向けて襲い掛かってくる。未然に防ぐには、水たまりをよけるか、速度を落として通らなければいけないのだが、勢いに乗った自転車を減速するのは億劫なので、小さい水たまり程度なら、突っ切ることが多かった。
 また、僕の来ている合羽にも足が濡れる原因がある。ビニール製の合羽は水を弾くのだが、弾かれた滴は風に飛ばされるか、下に流れてくる。表面を伝って下に流れてきたその水の行き着く先が、足なのである。合羽は、足という犠牲のもとに、体を雨から守ってくれているのだ。靴に溜まった水は、ペダルを踏みしめるたびに、ぎゅむぎゅむと音を立てる。また、靴が傾くのに合わせて、水が流れる感覚がある。冷たいし気持ち悪いのだが、しばらくすれば慣れくる。
 だが残念なことに、これはまだ登校の話なのである。学校に着いたあと、まずは靴にたまった水を流しださなければいけない。その後は、上靴が濡れないように靴下も脱いで、裸足で上靴をはいたままに一日を過ごさなければいけないのだ。それだけではない。ようやく授業が終わったかと思うと、濡れた靴が下駄箱で待ち構えている。家に帰るためとはいえ、またあの濡れた靴に足を通さなければいけないと思うと、朝から気分が落ち込んだ。
 
「何だか、足が濡れることだけ気にしすぎじゃないかな。気持ちはわかるけど。」
「細かいこと気にすんなや。あと、一々口はさんでくんな。」
 (細かいこと気にしてんのは、自分のほうじゃん……。)
 
 家に帰ると、すぐさま靴を脱ぎ、靴下を洗濯機に放り入れる。部屋着に着替え、リビングに新聞紙を取りに行ったあと、玄関に向かう。夏にもなると雨の日が多くなり、靴を干せる日も限られてくる。何日も雨の日が続くと、いずれ学校にはいていく靴もなくなってくる。朝から生乾きの靴に足を通したくないので、丸めた新聞紙を靴に詰め込む癖がついてしまった。小学生のとき読んだある物語の影響を受けて試すようになったのだが、意外と翌日には水気が取れていたりする。母には、ごみ箱がいっぱいになるからほどほどにしてと言われているが、どうせ廃品回収で出すか、生ごみで出すかの違いだろうと、僕は母の言葉を聞き流してせっせと靴に新聞紙を詰め込んだ。
 だが、雨で靴が濡れることが、僕の悩みの種であることに変わりはなかった。だから、ある日に思い切って父に相談してみることにした。
「長靴履いたらいいやろ。」
 父はあっけらかんとそう答えたが、僕はその提案を聞くことはできなかった。子どものころのこともあったし、何より長靴なんてかっこ悪いと高校生の僕は思うようになっていた。学校に履いていったりなんかしたら、まず笑いものにされるだろう。だから、父には悪いが、提案を飲むことはできなかった。
 それからしばらくして、事件は起こった。夜のうちに靴を外に干しておいたのだが、朝起きてみると雨が降っている。天気予報で今日は快晴だと聞いていたから、この機会を逃すまいと、前日のうちに靴を干しておいたのだが、それが裏目に出たらしい。ついでに干していた、今日履いていく靴も当然濡れている。
 (今日履いていく靴がない。今から新聞紙詰めても間に合わないし、どうしよう……。)
 戸惑っている私のもとへ、父がやってきた。
「あーあ。こりゃ、全滅だねぇ。」
「お父さん、どうしよう。」
「どうしようも何も、濡れたもんはどうしようもないだろ。今も雨降り続けてるし、濡れた靴そのまま履いてけば?」
「やだ。濡れた靴、気持ちわるい。」
「じゃあ、俺の長靴履いてくか?」
「それもやだ。かっこ悪いし。」
「わがまま言うねぇ。じゃあ、どうするよ?」
「新しい靴おろす。」
「そういや、ここしばらく雨が続くって話らしいよ。今日靴おろしたところで、明日はどうすんの? 物は試しや今日一日履いてみぃ。」
 そこまで言われると、もう観念するしかなかった。背に腹は変えられないと思って、渋々父の長靴をはいていくことにした。樹脂でできた業務用の白い長靴はブカブカで、歩き出すときには、ちょっとだけコツがいる。
 家を出ようとすると、また父に呼び止められた。
「お前、そんな履き方したら長靴の意味ないやろ。」
 僕には父が何を言っているのかわからなかった。
「合羽の裾を長靴の中に入れとったら、足濡れるで。裾は中やなくて、靴にかぶせるようにせなあかん。」
 足元を見てみると、父の言う通りズボンの裾が長靴の中に入っている。
「えっ。ああ、ありがとう。」
 裾を直すと、ようやく学校に向かうことができる。外に出るといつものように、かごに荷物を放り入れる。靴がブカブカなので、サドルを跨ぐときに足が振られる。ペダルを踏みしめるときの違和感で、長靴を履いていることが意識させられた。
 長靴の感覚に慣れてくると、今度は、足が濡れていないかが気になってくる。長靴は水を弾いて流し、しっかり役割を果たしている。おかげで、長靴に守られた足は一切濡れていなかった。加え、足が風にさらされることもないので、全然冷えることもない。
 長靴のおかげで、水たまりも気にしなくていいから、スピードもどんどん出せる。足が濡れないというだけで、なんだか楽しくなってきて、荷物を入れた袋が音を立てるのも気にせず、僕は夢中でペダルをこいだ。風でフードがめくれるかもしれなかったが、今日は珍しく髪をまとめたので、服に流れ込むことはないだろうと、スピードも落とすこともなく、学校まで一気に駆け抜けた。
 学校の近くまで来ると、登校中の生徒がちらほらと増えてくる。私の長靴に対して奇異の眼差しが向けられていたが、ちっとも気にすることはなかった。それどころか、ずぶ濡れになって登校している他の生徒に、ちょっとした優越感があった。
 駐輪場に自転車を停め、合羽を脱いでいると、「おはよう」とクラスの男子に声をかけられた。挨拶を返すと、向こうは長靴のことが気になったようで、
「面白いもん履いとるね。」
 とからかってくる。
「今日履いてくるものがなかったから、お父さんから借りたんだよ。」
「なんか、それ履いとると業者の人みたいやな。競りとかやってそうやで。」
 言われると少し恥ずかしいし、あまりいい思いはしない。「ほっとけ」とだけ返し、靴箱に向かう。後ろからはびっちゃびっちゃとそいつのついてくる音が聞こえる。どうやら、そいつの足は雨にやられたらしい。仕返しのつもりで、
「おやおや、お宅はどうやら随分濡れたようで。」
 と言ってやると、
「いえいえ、業者の人に見えるよりかはマシでございます。」
 と減らず口を叩いてくる。
 さすがにムッとした僕は、気づいたらそいつに、長靴のいいところを語り始めていた。朝履いてきただけだというのに、どうやら僕は、長靴のことをたいそう気に入っていたみたいだ。
 
 家に帰る頃には、僕は自分用の長靴が欲しいと思うまでになっていた。それほどまでに今日の体験は、僕にとって衝撃的なことだったらしい。
 父が帰ってくると、早速相談してみた。父は相談に快く応じてくれたが、
「でも、若い子が好き好んで履けるような長靴っちゅうのは、中々ないで。」
 と言う。
 (合羽を着てるんだから、格好なんて今更気にしても仕方がない。)
 と、あまり気にすることもなかった。それどころか、
 (なぜ長靴が格好悪いと固執していたのだろうか。)
 と思うほどだった。
 休みの日に、父に連れられいくらか店を回った。父と同じ白い樹脂製の長靴でもよかったのだが、見分けがつきやすいようにと別のものを買うことに決めたのだ。しかし、中々思ったものを見つけることはできなかった。見た目にはあまりこだわりがなかったのだが、どうせ買うなら長持ちしそうなものがよかった。そうなると、当然値がはる。アルバイトもしてない、しがない高校生の僕に手が出せるものは、少なかった。
 また、僕の足に合うサイズのものが中々なかったことも原因である。僕は、同年代の子らよりも、背も体も発育がよく、もちろん足も大きかった。そのため、気に入った長靴があっても、足が入らないということがよくあった。
 収穫もなくどうしようかと悩んでいると、母が僕に、ある冊子を差し出してきた。受け取って見てみると、どうやら通販のカタログのようである。
「一応、こういうのにも目を通してみたら。もしかしたら、いいのがあるかもしれないよ。」
 と言うので、とりあえず表紙をめくってみる。
 いろんな靴があるものだなと、ページをめくっていくと、目に留まるものがあった。紺色の長靴で、靴底はオレンジ色でギザギザとしている。加え、口のところが紐を引っ張って締める構造になっているという非常にシンプルなデザインである。価格も手頃で、大きさもフリーサイズがある。一目見てこれにしようと決めた。
「けっこう実用的なものを選んだわね」
 と、母には言われたが、僕の決意は変わらなかった。
 注文してから数週間、ようやく待ち望んだものが届いた。箱を開き、梱包をほどいて、中身を取り出す。欲しかったものが、今まさに自分の手の上にあることが嬉しかった。すぐにでも足を通したかったので、家の中だが、試しに履いてみることにした。フリーサイズということもあり、僕の足でもまだ少し余裕がある。手で持ったとき以上の重さを感じたが、そのうち慣れるだろう。なんだか、雨の日が待ち遠しくなってきた。
 
「で、その長靴を、今でも履いてるもんだからな。すっかりボロボロになってもうたわ。」
「へぇ、あの長靴って、そんなに古いものなんだ。……ねぇ、あの長靴、履いてみてもいいかな……。」
「けったいなことぬかすなぁ。それやったら、ばあちゃんに聞いてみぃ。」
 何でおばあちゃんに聞くんだろう、と思っていたら、
「おや、二人そろって何の話をしているんだい。」
 とおばあちゃんがやってきた。おばあちゃんは、女性にしては背が高い。また、年老いてなお、背筋がまっすぐ伸びていることもあって、凛々しさえ感じる。
「ん。ああ、玄関に置いとる長靴のことや。」
 とおじいちゃんが返すと、
「僕の長靴のことかい。」
 とおばあちゃんが言った。
「ああ、こいつがお前さんの長靴を履いてみたいんだとさ。」
「はは、面白いことを言う子だね。あんなボロ靴履いてもしかたないだろうに。」
「えっ、あの靴おじいちゃんのじゃないの。」
 私は、驚きを隠せなかった。
「あれは僕の長靴だよ。」
「あれが俺の長靴やて、一言も言うてないぞ。」
 と続けて言う。そういえば、おばあちゃんは、自分のことを「僕」って呼ぶ人だった。
「でも、幼いころ、よく外で遊んだって…。」
「ああ、小っちゃいころは、よく外で遊んでいたよ。おかげで、男の子と間違われることもあったな。あと、女の子だから外で遊ぶのはおかしい、って考えは直したほうがいいよ。」
 どうやら本当に、あの長靴はおばあちゃんのものらしい。すると同時に、いくつかのことに合点がいった。レインズボンが履きにくかったこととか、髪が長いとか。父の長靴を倦厭したのも、年頃の女のならば当然だった。
「で、お前さん、どうすんの。あの長靴履かせたるんか。」
「やめておきな。長く使っているからね。あまりに古くなってしまったものだから、次は履いたら捨てようと思っていたのさ。そんなもの履くくらいなら、自分のを買ってもらったほうがいいよ。」
「ええー、残念だなぁ。ねっ、少しだけもダメ?」
「見るのは構わないけど、履くのはよしときな。」
 その後も、おばあちゃんがあの長靴履かせてくれることはなかった。
 それから数年後。おばあちゃんは天命を全うし、天に召された。告別式も終わり、棺の中はいっぱいのお花で埋め尽くされていた。足元の方を見やると、そこにはそっとあの長靴が入れられていた。おばあちゃんは、ついに、あの長靴を捨てることはなかったようだ。長い時をおばあちゃんと連れ添ったあの長靴もまた、その役割を終えようとしている。

 

「僕が手に入れたもの」
142111

 僕は、大人がきらいだ。大人は、僕たちのことを良い子、悪い子と言い分ける。なにを持って良い子になれるのだろう。なにを持って悪い子になってしまうのだろう。僕には、分からない。僕からみたら大人は全員悪いやつにしかみえない。あいつらは自分たちの勝手なものさしで僕らを測り、どうにかして自分の枠にはめ込もうとする。それだけでは気がすまず、あれをやれ、これをやれと命令してくるくせに、僕がこれしてほしいと頼んでも大人の事情とかなんだか言って逃げる。あいつらみたいになるのはごめんだ、僕は大人になりたくない、大人なんて大きらいだ。
 
 僕は、4人家族だ。厳格で伝統的な考え方をする父、自己主張のない母、毎日だらだら遊び呆けている兄、そして、僕。
 昔から父は、僕をかわいがってくれた。なぜなら、僕は、勉強なんてものをしなくても、成績は、常に全国トップレベルだからだ。そもそも、みんなが勉強と呼んでいるものの仕方がわからない。
 僕ができるのは、勉強だけじゃない。高いハードルだって飛べる。足の速さも1番。僕は、運動も、そつなくこなしてしまうんだ。それに加えて、クラスのみんなからには、宿題を見せてあげるもんだから、みんな宿題をせずに僕の周りに集まってくる。僕は、なんでもできる人気者だ。
 毎日、僕を囲う周りの大人からは、「お前は、優秀な子だ。」「これからも期待している。」そんな言葉ばかりを聞かせられながら生活している。兄が「出来損ない。」と冷たい目で見られていることも知っているので、僕は優越感に浸り、兄を兄と思わなくなっていった。兄は何をしてもダメで父からも見放されているかわいそうなやつだ。唯一のとりえはそんな兄でも毎日のように遊んでくれる人がいることくらいで、まあその人らも兄と同じくらいバカで使えないのだろうけど。そんなことを考えながら、今日もまた、眠りにつく。
 「おはようございます。とおるちゃん。」
 シャッとカーテンを開ける音が聞こえ、朝日が差し込む。目を覆っているまぶたもクシャっとなるほど、まぶしい朝日だ。今日も1日が始まる。
 「おはようございます。お母さん。」
 まだ寝ぼけている体に鞭を打って、ベッドを降りる。いつものように、洗面所へ向かい、顔をすすぎ、口をゆすぐ。ひんやり冷たい水で、ようやく目が覚めてきた。鏡をみると、先ほどよりも、はっきりと自分の顔が写っているのがわかり、今日も一日が始まることを感じる。いい匂いにつられながら、食卓へ向かうと、机には、「和」の朝食が並べられている。僕は、毎朝、この瞬間に1日の始まりをくじかれる。
 「お母さん、僕、和食はいやだよ。」
 僕が、和食が苦手なことを知りながら、毎食、食卓に和食を並べる母が嫌いだった。朝食が和食なのは、父の指示だった。僕は、和食が嫌いなことを一応、伝えはするが、駄々をこねたりしない。怒られるのはいやだ。耳がキンキンするから。その代わり、心の中で「チョコワを食べてみたいよ。」とつぶやいて、少し反抗してみたりする。食べるのは僕なんだから、好きなものを食べる権利くらいあるはずだ。これだから大人は。子どもに自由を与えず縛って何がたのしいのだろう。
 嫌いな朝食をかきこんでいる間、お母さんが僕の荷物をまとめていた。そうしてなんとか食べ終わり、荷物を持って家を出ようと玄関に向かう。ガチャ。僕がドアノブに手をかける前にドアは開いた。兄が帰ってきた。いつも通りの朝帰りで、いったい何をしていたのだろう。まあ僕には関係ない。「おい、とおる。今日も学校か。お前はえらいなぁ。気を付けて行って来いよ。」眠たそうに瞼をこすりながら、話しかけてきた。「うん。」本当は無視したいのだが、あれでも一応兄なので返事くらいはしておく。「とおるちゃん。今日は雨が降るかもしれないから、はい、これ。」母は兄に一目もかけず、僕に傘を渡してきた。「いらないよ。荷物になるし。」外は雲一つない快晴だ。母の言うことなんて聞く必要がない。「だめよ、持って行かなきゃ。」また始まった、余計なお世話。もうほっといてくれよと心の中では思いながらも怒られるのもいやだし、いうことを聞かない兄みたいと思われたくもないので、仕方なく傘を持って家を後にした。
 学校につくと先生に明るく挨拶する。挨拶さえしとけば、ばかな大人は喜ぶ。大人を喜ばせたいわけではなく、あくまで優等生として一応ふるまっておく。クラスに入ったらやかましい声がする。僕はその騒音から逃げるようにして自分の席に着く。今日は宿題がないので僕の周りに誰も来なかった。少しさびしい気持ちにもなるが、わざわざ騒音の中に入っていくのもめんどうなので、本でも読んで時間をつぶす。授業は聞く必要もないのだが、先生になにか小言を言われるのも癪なので、まじめにうけているふりをしつつ、難しい問題だけ手を挙げて答える。「さすが。」先生もクラスのみんなもそう言いながらほめてくれるので、悪い気はしない。給食の時間が来た。やっとご飯か。もっと早く食べたいし、お菓子も食べたいのに、ここでも勝手に献立が決められていて、僕らの選択の自由を奪い、大人の都合のいいものが出される。しかも家と違って自分たちで食器に入れて運ばなければいけない。それは大人のすることなのに、また僕らはむりやり働かされている。まあクラスのみんなは僕と違い、考えることが幼稚なので気づいてないだろうが。なんとか給食の準備が整い、いざ食べようとしたとき、僕は箸がないことにきづく。あれ、カバンの中を何度見ても見つからない。最悪だ。母が入れるのを忘れていたのだ。何してくれるんだ。みんなから完璧だと思われている僕が箸を忘れるなどありえない。どうしようか、先生に言って貸してもらおうか。いや、大人の手を借りるのはしんでもいやだ。「すいません、体調悪いので保健室行ってきます。給食いらないです。」さすが僕だ。この危機も機転のきいた行動でなんとか乗り切ることができた。母のせいで給食を食べられないのでおなかがすいてたまらないが、優等生のメンツを守ることができたのでいいとしよう。保健室で適当に嘘をついて僕はベッドに横たわることに成功した。そしていつのまにか下校時間になっていたので、空腹のまま家に向かって歩き出した。
 家に着いて、僕は母のもとに一直線で向かった。「お母さん、箸入れるの忘れたでしょ。そのせいで給食たべられなかったんだよ。」いつもより大きな声で母に言った。「そうなの、ならすぐに夜ご飯食べなさい。」母はそう言ってキッチンに向かった。大人はなんて汚いのだろう。自分のせいで子どもがご飯食べられなかったというのに、誤りもせず、夜ご飯でごまかそうとする。大人は自分のミスを認めない。そんなことを考えていると僕の前に夜ご飯が出てきた。「今日はとおるちゃんの好きなカレーですよ。」カレーかよ。僕はカレーが嫌いだ。子どもならだれでも好きだと思っているのが気に食わない。大人は勝手に自分の想像で子どもの気持ちをわかったつもりでいる。もう反論する元気もないほど空腹だったので、スプーンを持って食べようとしたとき、「手洗いうがいはした?」と母が僕の腕をつかんで言った。もう少しで食べられるというのに、なんで邪魔するんだ。「したよ。」僕は早く食べたいのでそう答えた。「うそでしょ。とおるちゃんさっきからここにずっといたじゃない。」わかっているなら聞くなよ。タイミング悪いな。このまま意地を張っていてはいつまでたっても食べられそうにないので、しぶしぶ洗面所に向かう。「うがいは5回以上よー。」ほんとにうるさい。ぼくはささっと手を洗い、うがいを5回すませてリビングに戻った。やっと食べられる。食事にありついた僕は無我夢中で食べた。カレーをおかわりしようとしたが、「お父さんの分も残しとかないとだめだからもうないの。」と母に断られた。母のせいでこんなに空腹なのに、なんで僕が我慢しないといけないんだ。おかしいだろと思いながらも、父のご飯を食べる勇気はないのでおとなしく食い下がった。「雨が降っているからお父さん迎えにいってくるね。」子どもじゃないんだから自分で帰ってこれるだろう。父の最寄駅はすぐそこだ。大人は無駄なことばかりする。「とおるちゃん、傘は?」あ、しまった、学校に忘れてきてしまった。「学校だよ。雨が降ってなかったから忘れちゃった。」僕がそう言い切る前に「なんで忘れてくるの、お父さんの傘がないじゃない。今から一緒に学校に取りに行きましょう。」だから僕は傘いらないって言ったのに。無理に持たせたのはお母さんなのに。僕の不満はもう限界だった。大人なんてそんなもんだ。いなくてもいいんだ。いないほうが僕はもっと自由に生きることができる。大人がいるから毎日がまんしなければいけないんだ。僕は母の言葉を無視して自分の部屋に走った。そして電気もつけず、ベッドに飛び乗って、天井に向かって叫んだ。「大人なんてきえてしまえーー!」むしゃくしゃした気持ちをどこへぶつけたらいいのかも分からず、僕は、しばらくの間、ベッドの上で力まかせに手足をばたばたさせた。きれいに整えられてあった、シーツがくしゃくしゃになる。どれくらいの時間そうしていたのであろうか。暴れ疲れた僕は、いつのまにか眠りについていた。
 気が付くと、窓からついさっき昇り始めたばかりであろう朝日が差し込んでいた。僕は、寝ぼけたまま、あたりを見渡す。そうか。僕は、昨日、むしゃくしゃしたまま寝てしまったのか。母の言うことを無視して部屋にきたのに、追いかけてこないなんて珍しいな。あ!いけない!まだお風呂に入っていなかった!歯磨きもしないまま寝てしまった!今日も学校に行かなければいけないのに、こんな状態のところを母に見られると、また怒られる。「急いで支度しなくちゃ。」時計を見ると、針は5時34分を指している。母が起きる時間は、毎朝6時と決まっている。起きてくる前に、お風呂にはいって歯磨きを済ませられれば、大丈夫だ。頭のなかで、流れを組み立てて、時間に無駄が出ないよう計画を実行していく。階段をそっとおりて、洗面所のドアをしめる。よし、順調だ。物音も最小限におさえられている。とっととシャワーを浴びてしまおう。僕は、そのあとも順調に計画をすすめ、なんなくシャワーと歯磨きを済ませられることが出来た。5時54分。よし、部屋へ戻ろう。洗面所へ来たときと同じよう、物音をたてないよう、抜き足、差し足で階段をのぼる。もうあと数分で6時になるので、少し、足を速める。無事、部屋へ戻ってくることができた。 
 「ふう。任務完了だ。」
 5時56分。一気に緊張の糸が解けた。部屋まで戻ってくると、怖いものは何もない。あとは、ベッドに戻って、母が僕を起こしにくるのを待っているだけだ。なんて簡単な世界なんだろう。どんな問題が起きても、僕の計画は、いとも簡単に成功してしまう。僕は、やっぱりすごいんだ。シャワーと、緊張で目が冴えてしまったが、母が僕を起こしにくるまで、まだ時間があるので、僕はもう少し眠って母を待とうと、床におちた布団を拾って、くしゃくしゃのベッドへダイブする。目をつむる。時計の針が、コツコツと時間を刻む。
 「ぐぅー。」
 だめだ、眠れない。昨日の夜は、ご飯を満足に食べられなかったので、大分、腹の虫が鳴いている。時計を見ると6時を過ぎていた。そろそろ母が起き始めるころだろう。今日の朝食も、また和食なのだろうか。憂うつだな。そんなことを考えているうちに、僕は、また眠りについていた。
 どれくらい経ったのであろう。体を起こし、時計を見ると、針は、8時を指していた。一気に目が覚める。「学校に遅刻する!」なぜだ。ありえない。どうして、母は、僕を起こしにこない?今まで、欠席、ましてや遅刻なんてしたことのない、この僕が、寝坊で遅刻だなんて、優等生の名にキズをつけることになってしまう。僕を起こしにこなかった母に、怒りを覚えた僕は、荒々しく階段を降りると、まっさきにリビングへ押しかけた。「お母さん!どうして起こしてくれなかったんだ!」
 返答がない。リビングを見渡す。電気はついておらず、朝食の用意もされていない。おかしいな、なぜ誰もいないのだろう。まさか、母も寝坊しているのではないのか。急いで叩き起こして、学校まで車で送ってもらおう。そう思った僕は、母が寝ている寝室へ向かう。ドアノブを回し、部屋をのぞくが、整えられたベッドには、誰もいないことが伺える。
 「おかあさーーーん。」
 このままだと、本当に学校に遅刻してしまう。家じゅうのありとあらゆる部屋をのぞいて、探し回る。けれど、母の姿も、父の姿も見つけることは出来なかった。どこに消えてしまったのだろう。今まで、こんなことは1度もなかったのに。そうだ、ゴミを出しにいっているのかもしれない。それなら、リビングにいたほうが、母が帰ってきたことが分かりやすいな。そう考えた僕は、もう1度、リビングに戻り、ソファで母を待機することにした。5分も経たないうちに、ゴミ収集車の音楽が近づいてきて、しばらくすると遠ざかっていくのが分かる。母は、もうすぐ帰ってくるだろう。
 おかしい。まだ帰ってこない。僕は、他の可能性を思いつく限り考えた。ご近所さんと井戸端会議をしているのでは。父が忘れた弁当を届けに出かけているのでは。けれど、どれにしても、僕の存在を忘れるはずがない。そのとき、昨日のことがふと思いだされた。 
 もしかして。
 「大人なんてきえてしまえ。」ベッドの上でさけんだ、あの言葉が本当になったのだろうか。そんな現実離れのことがあるのだろうか。そうだ!玄関にある靴を見れば、父と母は出かけているのか分かる!僕は急いで、玄関へ向かう。そこには、普段、父が会社へ行くときに履いているであろう革靴と、母が気に入っているヒールと、近所へ出かける用のクロックスが置かれていた。本当に消えたんだ。僕の言葉が本当になってしまった。
 正直、両親がいなくなったという不安や焦りよりも、やっと、僕が待ち望んでいた自由を手に入れることができたという開放感のほうが強かった。両親がいなければ、誰にも怒られることがない。学校にも行かなくていい。宿題だってしなくてもいい。あんな面白くない授業だって受けなくてもいいんだ。
 僕は、足を軽く弾ませながら、リビングへ戻り、とりあえず空腹を満たそうとキッチンへ向かう。途中で、ダイニングテーブルへ目をやると、机の上には、1万円が置かれていた。おこづかい制度がなかった僕には、大金だ。「よし、決めた!学校も行かない!今日の朝ごはんは、チョコワを食べよう!」そう決めると、早速スーパーへ自転車を走らせた。ずっとずっと食べたかったチョコワを食べることができる!親がいないって、こんなにも開放的でのびのびと自分の好きなことが出来るんだ。最高だ。
 チョコワを買った僕は、家へ帰ると、手洗いうがいもせずに、リビングへ向かい、封をあけた。自分の好きなタイミングでご飯を食べ、好きなものを食べることができる。そうだ!これからもなんでも自分の好きなようにすることができるんだ。
 そう考えた僕は、昼も夜も、今まででは絶対許されなかったお菓子やファストフードを食べ、宿題も勉強もせず、ゲームセンターへくりだし、好きなだけ遊んだ。好きな時間に家にもどり、お風呂だって自由だ。こんな生活がずっとできるんだったら、父も母も、帰ってこなくてもいい。僕は、今までなんでも出来てきたんだから、これからも一人で生きていくことなんて簡単なことだ。
 僕は、両親がいなくなったその日から、毎日、好きな物を好きな時に食べ、何に縛られることもなく、自由に過ごした。そんな生活が2週間ほど続いたころ、気づくと、僕の手元には、小銭が数枚程度しか残っていなかった。
 「どうしよう。もうお金がなくなってしまう。お金がないと、ご飯もまともに食べることができない。ゲームセンターで遊ぶことだってできないじゃないか。」
 それから、数日が経ったころ、ついにお金が尽きてしまった。そうだ。母が、どこかへお金を直しているはずだ。そう思いたった僕は、家じゅうを探し回った。けれど、お金は、見当たらない。仕方がない。とても腹が減ったが、今晩は夕飯抜きだ。探し疲れた僕は、夕飯を諦め、就寝の準備をし、ベッドへ入った。こんな空腹のときは、おとなしく眠って忘れるのが一番だ。さっさと寝てしまおう。そう思い、目をつむるが、空腹を忘れようとするほど、なかなか眠りにつくことができない。「だめだ。」空腹との戦いに負けた僕は、ベッドを出ると、リビングのソファへ向かい、テレビを見て、夜を過ごすことにした。テレビをぼーっと見ながら、この2週間のことを思い返してみる。思えば、まともな食事もとっていない。お菓子で空腹をつなぎ、ゲームセンターへ行くことが日課になっていた。 
 このまま先も、両親は戻ってこないのだろうか。僕は、このまま空腹のまま、栄養失調となり、餓死してしまうのだろうか。そんなことを考えていると、ふと涙がこぼれ落ちた。
 どうして涙が出るのだろう。悲しいのか、不安なのか。今まで、両親が消えたことを喜んでいたのに。楽しかったはずなのに。好き勝手に過ごした2週間は、中身のないものだったと今気付く。両親は、もうこの家に戻ってくることはない。心のどこかで、いつかはまた家に両親が帰ってくるだろうと思っていたのか。ようやく、両親が帰ってこないことを実感すると、不安やさみしさが涙としてなって溢れてきた。
 「もう自由なんて飽き飽きだ。」
 ぼそりとつぶやいた。すると、家のドアが開く音がした。もしや、両親が帰ってきてくれたのでは。僕は、慌てて玄関へ向かった。そこには、兄の姿があった。今は、午前2時。両親は消えても、兄は消えていなかった。そうか。兄は、まだ大人じゃないから。今まで、僕が眠っているころに家に帰ってきて、起きるころには、家を出て行っていた兄に僕は気づいていなかった。どうせ、毎日だらだらと遊びほうけていた兄だ。今日も、夜遊びしていたのだろう。全く。頼りにならない。
 「こんな時間まで遊んでいたの?お母さんもお父さんも2週間前にいなくなったんだよ。」
 「僕は、遊んでなんかいない。学校に行ってないから、バイト三昧の毎日だよ。いなくなっただなんて大げさな。ないない。」
 そうなのか。知らなった。兄は、遊んでいたわけではなく、朝の早くから、夜の遅くまでバイトしていたんだ。僕は、兄のように、お金を稼ぐことすらできない。あれだけ心のなかで馬鹿にしていたことを反省した。
 「とおるは今、お腹すいてる?今からご飯食べるけど、とおるの分も作ろうか?」
 僕は、照れくさい表情をかくして、こくりとうなずいた。トントントンッ。ジュ―。良い匂いだ。「いただきます。」コトンと机に置かれた料理を口にする。久しぶりに手料理を食べた。空っぽの胃に染み渡る。僕は、料理なんてしなかった。いや、できなかったんだ。けれど、兄は、サクサクと料理をこなしている。洗濯だって、掃除だって、よく見れば、部屋が荒れていないこと、自分の着た服がきちんと洗濯されていることにどうして気付かなかったのだろう。僕ができないことを、兄は、仕事をしながらもこなしてくれていたことにようやく気付いた。こんな自分ではだめだ。勉強ができたって、運動ができたって、それを出来ない人を馬鹿にして見下しては、いけない。その人は、僕のできないことを簡単にこなすことができるんだから。なんでこんな簡単なことに気付かなかったのだろう。
 母にとった態度も今までさんざんだった。自分がさも1番えらいかのようにふるまっていた。早く、両親に会いたい。会って、きちんと謝りたい。それから僕は、いつでも両親が帰ってきてもいいように、会って恥ずかしくない僕になれるように、兄を見習い、お手伝いをたくさんするようになった。

 

「僕は世界を救えない」
142209

 毎朝目を覚ましては、意識が朦朧としたままに時間は流れていき、再び眠りにつく。何を食べたか、何を話したか、何を見たかすらも記憶に曖昧で、憶えていることと言えば、自分がそれ以上でもそれ以下でもない自分であるということ。自分は高校生で、毎日同じ時間に、毎日同じ格好で、毎日同じ道を通って学校に向かうこと。そして、帰ること。そんな毎日の浪費に疲れ、たかだか十数年の人生に疑問を抱いていた。頭の中には、退屈の二文字を弱々しく漂わせながら、何かを探していた。例えば、自分は滅びた文明の遺児だったとか、研究所で噛まれた蜘蛛のアビリティを手に入れるだとか、あるいは、自分が熱中できるような何かを見つけるとか、そんな些細なことでも構わない。ただ、日常の中に、ほんの少しでも刺激が欲しかった。だが、現実は残酷だ。
「人は日常の中に非日常を求め、一度それを手に入れてしまうと、また日常を求めるようになる。」どこかの作家がこう呟いた時に、僕は生まれたのかもしれない。もしくは、もう半世紀早く生まれていれば、この言葉を初めに発したのは僕だったかもしれない。
 そんなことを考えながら、いつものように、学校から自宅への道を流されるように歩いていく。もう何百回も通ってきたこの道は、目を閉じたままでも、歩くことのできる勢いで、頭で考えることなく進む。今日も、見えざる力が働くかのごとく、足が止まることはない。しかし、次の角で、僕の足は止まった。どうやら別の見えざる力が働いたようだ。
「しばらく見ないうちに、大きくなったな。いくつになったんだ?」
 出合い頭にそんなことを言われたのは、近所に住んでいたはずのおじさんに、一か月ぶりに会ったからである。どうやら、腫瘍の摘出か何かで入院していたらしく、片腹を少し擦っている。その割に、彼は元気な様子で、僕の気持ちとは裏腹に、陽気に身の上話を始めた。適度に相槌を打ちながら、聞き流していると、今度は、彼は昔の話をし始めた。こうなると僕は話半分で聞きながら、最早、別のことを考えていた。「大きくなった。」確かにそうかもしれない。しかし、実際はものの一ヶ月で、見違えるほど身丈が大きくなるはずがない。成長期ならもうとっくに終わっているはずだ。彼がそのように感じたのには、もっと別の理由がある。心当たりがないわけではなかった。幼いころからの近所付き合いということもあって、もしかすると彼は、僕の体に起こった異変に気付いたのかもしれない。この人になら打ち明けることができるかもしれない。
「そういえば、いくつになったんだっけ?」
 淡い期待を抱いたが、やはり考えすぎであったか。そもそも「大きくなった。」というのは年寄りの常套句に過ぎない。
 PRRRRRRRRR!
 会話を遮るように、甲高い音を発した携帯電話は、この場から僕を救ってくれる助け舟のようだった。電話に出ると、母の声だった。夕飯に必要な材料をいくつか買い忘れたらしく、帰りに買ってくるように頼まれた。時計を見ると五時前を指しており、いつの間にか日は落ちかかっていた。上の空と言えど、こんな時間まで会話をしていたということに驚いた。時間はこうも早く過ぎてしまうのだ。
 「若いうちは、いくら時間があっても足りないように感じる。しかし、時間は誰の前にも平等なんだよ。」
 心の中を見透かしたかのような言葉に少しギョッとしたが、これは彼の経験による教訓らしい。僕は微笑しながら一礼をすると、スーパーへ向かった。いつもと違う帰り道。これもまた、僕が求めていた非日常なのだろうかと考えると、少し笑みがこぼれたような気がした。おそらく、引き攣った不器用な笑顔だっただろう。
 買い物を済ますと、再び家へと向かった。いつもと違う時間、いつもと違う道、いつもと違う風景、いつもと違う空気。長らく同じ道しか通ることのなかった僕にとっては全てが目新しかった。普段は車通りの少ない道を通っているので、騒音が耳にうるさかった。そんな道で僕は、うつむきながら歩くことしかできなかった。何度か人にぶつかりかけた。自分でもおかしいくらいに挙動不審であっただろう。とにかく、いつもの通りにたどりつくまでは、落ち着いていられなかったが、そこを通らない方が近道になることを僕は知っていた。母が待っていることを考えると、僕はそちらの道を選ぶしかなかった。いつもは通ることのない道だが、足は止まることはなかった。
 刹那、焦げ付くような嫌な臭いが鼻を掠めた。非日常の臭いだ。思わず僕は立ち止まった。どうやら、この臭いは僕の向かう方へと続いているらしく、追いかけるつもりもなく追いかけていた。胸騒ぎがする。
 いつもとは異なり東から家の方へ歩いていく。東から見た我が家の様子はいつもとはまた違っていた。我が家と言っても、賃貸で、三階建ての白い古びたアパートの一室である。次の瞬間、アパートの様子がいつもと違うのが、見る角度のせいではないことに気付いた。同時にそれは、非日常の臭いの元、胸騒ぎの元凶であった。眼前の三階建ての白い古びたアパートの一室は、黒煙を立ち上らせ、火を噴いていた。幸いにも自分の部屋ではなく、二階の部屋だった。火はアパート一体に燃え広がる勢いであったが、住民は避難し、一か所に集まっている。
 しかし、そこに母の姿はなかった。先ほど家の電話から携帯電話に電話があったばかりだ。いないはずはない。もう一度、見まわしたが、母の姿を確認することはできなかった。近くのコンビニにでも、夕飯の材料の買い忘れを買いに行っているのだろうか。
 すると、どこからか、聞き慣れたような、聞き慣れないような声が聞こえた。これは女性の叫び声だ。逃げ遅れ助けを呼ぶ母の姿に僕の呼吸は冷たくなった。すると、世界も僕に合わせるかのように、呼吸をするのをやめた。
 
 僕がその力に気付いたのは、一ヶ月も前のことだった。冬のある寒い日、僕は何かに怯えるかのように震えていた。寒い。凍える体を擦りながら、ホットココアを淹れながら、数か月前に見た地球温暖化のニュースを思い出した。その時は、熱心に見ていたものの、こうも寒い日が続くと、さすがに疑わずにはいられない。
 自分の部屋に閉じこもろう。そうすれば、いくらかは、この寒さがましになるかもしれない。部屋に入ると窓が開いたままになっていることに気付いた。机にカップを置き、窓を閉め、それから部屋の扉を閉めると、部屋の中はカカオの香りに包まれた。毛布にくるまり、手をこすり合わせるが、それでも体は冷えたままだった。震えた手をカップに伸ばす。
「あっっ!!」
 指がカップに触れたところで、思いのほかの熱さに、カップをひっくり返してしまった。このままでは、カップが割れてしまう。咄嗟に手を伸ばしたが、届くはずはなかった。
 ―――ゆっくりと目を開けると、カップは割れていなかった。それどころか、床にはシミ一つ見当たらなかった。そのまま少しずつ顔をあげ、目線を指先に移すと、マグカップが傾いたまま、宙に浮いていた。浮いていたのはマグカップだけでなく、中身のココアも重力に逆らっていた。何が起こったのか理解できなかった。
 恐る恐るカップに触れてみる。先ほどの熱さはなかったが、冷めたようではなさそうだ。思い切ってカップを両手で掴んでみた。掴むことはできたのだが、まるでそこに固定でもされているかのように、ビクともしなかった。固定といっても、そこにカップを固定できるようなものはなかった。中身のココアはというと、食品サンプルのように、固まっていた。
 静寂が部屋を包む。異変の正体に気付いたのは、それを見てからだった。秒針が止まっている。窓の外の雲や太陽の動きも止まっているのを見る限り、時計が故障しているわけではなさそうだ。
 僕の笑い声が、静寂の中に響いた。時間が止まったのだ。これが僕の求めていた非日常。この時だけは、自分が唯一の特別な存在であるかのように思えた。ひとしきり、それも思いっきり笑った後、ふと我に返った。せっかく時間を止めたのだ、カップが割れないようにどうにかしよう。そう思うと、再びカップに手を添えた。だが、カップがビクともしないことは知っていた。では、支えたままでもう一度時間を動かせばいい。
 ―――一体どうすればいいのだろう。有頂天になっていたのもつかの間で、僕は立ち竦んでしまった。その姿は実に間が抜けていただろう。時が止まった直後の同じポーズをしてみたり、念じてみたり、大声を発したり、知っている呪文を唱えたり、色々試してみたが、やはりカップはピクリともしなかった。腕が疲れてきたので、カップを支えるのをやめた。頬を抓ってみる。痛みが夢ではないことを伝えてくれた。カップを思い切り殴ってみた。ゴンッと鈍い音がしたが、鳴ったのは僕の拳の方だった。床に転がり悶絶しながら手を見ると、真っ赤に腫れていた。右手を押さえながら椅子に座り、落ち着いて考えることにした。自分が初めにした行動は何なのか。そのとき何を考えていたのか。もしかしたら、昨日の行動が影響しているかもしれない。何が引き金になったのだろうか、いくら考えても答えは出なかった。かれこれ、一時間は経ったであろう気がするものの、時計どころか太陽まで動いていないので、実際どれくらいの時間が経ったのかは分からなかった。
 もしかしたら、このまま一生動かないのかもしれない。一抹の不安が胸を締め付ける。そんなことを考えていると、たかがマグカップ一つのために、手を伸ばしたことを後悔した。こんな時に思い出したのは、近所の家の窓ガラスを割ってしまった時のことだった。いつもは口うるさいおじさんが、珍しく許してくれたので、その時のことは今でも憶えている。
「『形ある物はいずれ壊れる。』か。」
 ゴトッ
 床にココアが飛び散った。マグカップは割れてはいなかった。秒針がカチカチと時を刻む。窓の外の雲は風に流され、太陽は街を照らしながら沈んでいく。
 別のカップにもう一度ココアを淹れ直し、勢いよくそれを飲み干したが、震えが止まることはなかった。その晩、僕は深い眠りについた。
 次の朝、母の声に目が覚めた。親に起こされるのは何年ぶりのことだろうか。微かに手に残った痛みから、昨日の出来ことが、やはり現実であることが分かった。
 ガシャンッ
 マグカップを落としてみた。マグカップは、二つに割れ、ココアが飛び散った。
 「あんた、ずいぶん疲れてるみたいだねえ。昨日も晩ご飯も食べずに寝て・・。何かあったのかい?」
 何もなかったと言えば嘘になるが、僕は昨日起こったことを打ち明けることはできなかった。自分でも何が起こったのか理解できていないために説明できなかったのだ。
 「テストが近いんだ。」
 そういって茶を濁し、学校へと向かった。いつもと同じ時間に、いつもと同じ格好で、いつもと同じ道を通って。ただ、心持だけはいつもとは全く違っていた。僕の日常の中に、非日常が飛び込んできたのだから。
 昨日は突然のことに狼狽えてしまい、何もできなかったが、あの出来事が、もう一度起こらないかと僕は少し期待していた。もし、時間を止めることができたならば。煙たい倫理観を吹き飛ばして、色々なことを考えるのであった。しかし、昨日のマグカップのことを思い返してみると、どうやら止まった世界に干渉するのは難しそうである。そんなことを考えているうちは、時間が止まることはなかった。昼食を食べるもの忘れ、僕は珍しく屋上に行き、試行錯誤していた。時が止まった直後のこと思い出しながら、同じポーズをしてみたり、念じてみたり、大声を発したり、知っている呪文を唱えたり、色々試してみた。しかし、青空はそんな小さなことを気にする様子もなく、雲は悠々と流れ、世界は変わらず回っている。教室に戻ると、やはりそこも、いつもと変わらない様子だった。教室に僕がいるかいないかは、彼らにとっては、何の影響もない、些細なことに過ぎないのだ。
 席に着くと、やがてチャイムが鳴った。五限目がテストだということをすっかり忘れていた。内容自体は大して難しいものでもなかったが、その問題の量の多さのため、解答用紙はなかなかに埋まらなかった。残り時間は十分しかない。
 もし、今時間を止めることができたのなら。またその考えが浮かび上がってきた。しかし、昼休みの屋上の静けさとは違い、この張り詰めた沈黙の中で試せることは限られていた。いつものように念じてみたが、相も変わらず時計の針は進んでいた。手で印を結んでみたり、息を止めたり、知っている呪文を書いてみたり、指を鳴らしてみたり、時計を睨みつけたりした。しばらくすると、昼休みの自分も含め、大層滑稽に思えてきて、テスト中だというのに、周りからの嘲笑を受けているような感があった。秒針の音、ペンが紙を引っ掻く音、紙が何度も捲られる音の他にクスクスと笑い声が聞こえたようにも思えた。気を紛らわそうとペンを回していると、ペンが指の上を滑り、机の上で一度跳ねると空へと投げ出された。
 「はっ!しまった!!」
 ―――またあの静寂に包まれるのであった。あの優等生たちが、ペンを動かすのを止めたのはどうやら、解答用紙を全て埋められたからではなさそうだ。残り時間三分のところで、時計の針が止まった。投げ出されたペンは宙に留まっている。再び見ることのできたその不思議な光景に笑みがこぼれた。だが、昨日のように声を上げて高笑いすることはしなかった。出来なかったのである。
 この状況を元に戻す方法を自分は知らない。つまり、いつ世界が再び動き出すかが 全く分からないということだ。下手なことはできない。もし、その間に動き出そうものなら、僕は完全に頭のおかしいやつになってしまい、変人のレッテルを貼られることになるであろう。自分以外の何物も動けない中であったが、僕は何かを起こす気にはなれなかった。そして、冷静に自分の今の状況を顧みた。奇行を嘲笑われている中、ペンを落とした音でさらに注目を浴びるのは、嫌だったが仕方が無いと目を瞑った。
 カチャンッ
 先ほどまで寝ていた試験官はこちらの方を見た。秒針の音、ペンが紙を引っ掻く音、紙が何度も捲られる音の中、カツカツとこちらに歩いてきては、床に落ちたペンを重たそうに拾い上げると、僕の机の上において、また元の場所に戻っていった。
 今回は、思いのほか早く、世界が元に戻った。そのことに驚いていると、チャイムが鳴った。
 それから、二度のチャイムを聞くと、僕は帰路についていた。いつもと同じ時間に、いつもと同じ格好で、いつもと同じ道を通って歩き出す。僕の中で、何かが繋がろうとしていた。頭の中はそのことでいっぱいであるのに、どこか上の空であった。しかし、それでも僕の足は止まることはなかった。交差点に差し掛かると、錆びた金属音がした。
「はっ!」
 自転車が僕の方に突っ込んできているではないか。そう思ったころには、自転車は止まっていた。また時間が止まったのだ。僕は空を見上げた。これはもう三度目であるので、時が止まったことには驚きはしなかった。すぐさまその場から逃げ出して、自分の身に降りかかる危機を回避したかったが、動く気になれなかった。昨日今日のことを思い出すと、時間は止まっても、時間の流れには逆らえていない自分に気付いたからだ。もう試すまでもなかった。自分はこの自転車に轢かれるほかはないのだろう。自転車に乗った男のくしゃくしゃになった表情が焼き付いた。
 ガッシャーン
 数メートルは突き飛ばされただろうか。地面に叩きつけられると、やけに青い空と泣かんばかりに慌てふためく男の顔が飛び込んできた。自転車にぶつかった痛みに、僕は全てを理解した。
 世界の時間を止めたのは、僕だ。僕には時間を止める力がある。しかし、それは特別な力などではなかった。何らかの感情の高ぶり、例えば驚きや焦り、自分の想像しなかったことに直面したときのあの背筋の凍り付く感じが引き金になっている。つまり、僕が「はっ!」とすると、時間が止まってしまうのだ。そして、その感情の高ぶりが抑えられ、自分の中で状況が整理され、受け入れることで再び世界は動き出す。このちからが、僕を苦しめる呪いであるかのように思えた。
 それからのこと、幾度となく、僕の周りの時間は止まる。それは、自分のことでないことばかりだった。幾度となく、くしゃくしゃになった人の顔を見るとそのたびに色々なことを考えたしまった。すぐにその状況を受け入れられるはずはなかった。幾度となく、時間の止まった世界で人を助けようと試みたが、それはかなわなかった。僕のちっぽけな力ではどうすることもできなかった。止まった世界の物はピクリとも動かなかった。そして、僕の気持ち一つで、再び世界は動き出す。悲劇に向かうスイッチを押すのは僕なのだ。そう思うと、自分が見て見ぬふりをしているように思えて、僕の心は荒んでいった。幾度となく自己嫌悪の感にかられた。それなのに、世界は顔色一つ変えずに回り続けるのだ。どこか、世界に置いてきぼりにされているような孤独を感じたが、むしろ、僕が世界を置いてきぼりにしているのであった。時間が止まった空間の中でも、僕は動き続けているのだから。これが僕が求め続けていた非日常なのだろうか。
 
 世界を救うのは、いつだって特別な力を持った存在だ。光の速さで空を飛んだり、手から蜘蛛の糸を出したりして、弱きを助け、悪を挫くスーパーヒーロー。人々のピンチに駆けつけては、みんなを助けるのだ。この呪いも、確かに特別な力であることに違いはない。しかし、人々のピンチに何もできず、ただ指をくわえて結末を見送ることしかできない僕は、スーパーヒーローなんかではなかった。僕には世界が救えない。世界どころか目の前にいる一人さえも救うことができないのだ。
 しかし、今回に限っては、今まで見てきたどの悲劇より悲惨なものだった。すぐには理解できなかった。救えないという事実が分かっている渦中の人物が、自分の一番大切に思っている母親だということを理解したくなかった。僕の悲痛な叫びが、世界中に響き渡った。
 
 もうどれだけの時間がたったのかはわからない。しかし、世界は冷酷に依然と姿を変えずに、僕の前に立ちはだかる。黒煙を立ち上らせ、火を噴いている三階建ての白い古びたアパート、助けを求める母の姿を何度見たことだろうか。見るたびに胸を締め付けられる思いに押しつぶされ、何度も吐いては虚無感に襲われる。諦めれば世界を元に戻すことができることは知っている。この地獄のような世界から抜け出せることは知っている。ただ、その地獄から抜け出したところで、待っているのは、また地獄なのだから。どうしても諦めることはできなかった。
 弱々しく立ち上がると、アパートの方へと向かった。火災を鎮めるあらゆる方法を思いつく限り試してみたが、そもそもこの世界で僕は何もすることができないということを改めて思い知らされるだけであった。アパートの壁を思い切り殴りつけた。母を助けられるあらゆる可能性を考えたが、答えは出てこなかった。それでも、僕はあがき続ける。皮肉なことに時間はいくらでもあるのだから。その無限が僕の心をより一層苦しめた。
 
 今回だけは、どうしても諦めることなどできなかった。
 ?    ?    ?
 火災の原因は、二階の住人のタバコの火の不始末というありきたりの理由であった。火の元さえ全焼してしまったものの、通報が早かったこと、ほとんどの住民が素早く非難できたこと、消防隊の駆けつけるのが早かったこと、アパートが小さかったこと、要因は色々あるが、軽傷者は数名いたものの、火災による死者はゼロで、被害は最小限に抑えられた。 
 
 アパートから数メートル離れたところには、老衰した男の遺体が転がっていた。

 

「夢」
142210

 ジリリリリリ、毎朝毎朝鬱陶しい目覚ましの音で目が覚める。起きて顔を洗い、朝ごはんを食べて歯磨きをし、服を着替えて家を出る。電車に乗って高校に向かい、六時間の授業を受けて、また電車に乗り家に帰る。この繰り返し。なにも楽しい事はない。なんの変化もない、そんな毎日を過ごしている。私の通っていた中学校はこの辺でも有名なくらい荒れており、授業がまともに行われたことは一度もなかった。先生はというと、教壇に立ち、生徒が聞く聞かないどちらにせよ、淡々と勝手に授業を進めていく。何を思って授業をしているのだろう、なぜこんな仕事を続けることができるのだろう、いつもそう思う。数少ない優秀な生徒は、先生に気に入られようと媚びをうる。先生は単純で、そういう生徒が裏で何をしてようと、その生徒にはいい成績をあげる。本当にばかばかしい。そんな荒れていた中学校でいじめが起きないわけがない。いじめなんて日常茶飯事だ。机がなくなっていたり、教科書に落書きがされていたり、水をかけられたり、虫の死骸を机の中にたくさん入れられたり、それでも先生は見てみないふり。教師というのはこんな職業なのだ、教師ってそういうものなのだ、この頃からわたしは教師が嫌いだ。
 わたしの母も父も教師だ。毎日朝早くに出ていき、帰ってくるのも遅い。共働きなので家事や妹、弟の世話もわたしがする。両親共に教師なので、小さいころからわたしは教師になりなさいと言われ続けてきた。教師は安定した職業だから、結婚して一回辞めてもまた始めることができるから、普通にしておけば辞めさせられることはないから。こんなしょうもない理由だ。わたしは両親を尊敬していなかったし、親として失格だとも思っていた。わたしは自分が好きな、自分が興味を持っている、楽しい仕事がしたい。なのにそれが許されない。わたしは中学では常に学年一位の成績を取り、高校はこのあたりでは有名な進学校に合格した。両親にとっては自慢の娘であったに違いない。わたしは親に迷惑をかけないように、それだけを考えて生きてきた。
 高校三年生になり、大学を決めなければならなくなった。わたしは医者になりたい、小さいころからの夢だった。しかしその夢は叶わない。両親はわたしが教師になることを望んでいる。親には逆らうことが出来ず、担任の先生や友達が反対を押し切り、わたしは教育大学を目指すことになった。中学生のときから常に学年一位の成績を取ってきたので、教育大学に入ることは簡単だった。そして、四月、入学式を迎える。
 興味のない授業はほんとうにつまらなかった。毎日毎日同じような授業、聞かなくても教科書を読めば分かる授業、なにも楽しくない。成績だけ良ければ親はそれで満足なのだ。だから成績だけは取れるように頑張った。
 つまらない授業を受けて二年と少しがたち、わたしは三回生になった。一番わたしが嫌だと思い続けてきた行事、教育実習が始まる。わたしは自分の通っていた中学校に一か月、実習に行かなければならなくなった。荒れている中学校、あのとき、わたしが生徒だったときに見てきた教師、その立場にわたしがなる。そう考えただけでも気分が悪くなった。わたしの地獄の日々の幕開けだ…。
 「え?、今日から一か月、本学校には教育大学から、教育実習生が五人来てくださいました。教育実習生とはいえ、先生です。友達ではありません。先生として接するようにしなさい。まだ経験がないので、授業で失敗するようなこともあるかもしれませんが、暖かく一か月間見守ってあげてください。実習生は今回の実習でたくさんのことを学べるよう、自主的に行動するようにしなさい。これで話を終わります。」長い長い、集会での校長先生の話。誰が聞いているのだろうか。わたしは帰りたくて仕方がなかった。わたしが担当になったクラスは二年五組、運悪く二年生で一番荒れているクラスだった。集会が終わったあと、担任の先生に挨拶をしに職員室に行った。担任の先生は細谷先生という若い女の先生だった。細谷先生は右目が見えないと伺っていたが、眼帯をしており右目は見ることが出来なかった。「吉田綾さんですね。吉田さんは教師になりたいと思っているの。」細谷先生はわたしに尋ねた。「いえ、両親が共に教師で、小さいころから教師になりなさいと言われ続けてきました。なので、本当はなりたいと思ったことは一度もありません。むしろ、教師という職業は嫌いです…。あっ…。」わたしは言ってしまった後、今日から実習でお世話になる先生になんてことを言ってしまったのだろうと後悔した。しかし、細谷先生は、「そうなの、大変だわね。これから一か月間、しんどいかもしれないけど頑張りましょうね。少しでも吉田さんに教師と言う職業がいいなと思ってもらえたらいいなと思って指導していくわね。一つだけ忘れないで。ここではあなたは生徒ではなく先生という立場だからね。」とにっこり笑顔で話してくれた。わたしはこの時思った、この先生は今まで見てきた、わたしが知っている先生とは少し違う、なにかが違う、と。
 わたしは、細谷先生と一緒に二年五組へ移動した。廊下にはたくさんの落書き、たくさんのゴミ、窓ガラスは生徒が割らないようにもともとつけられておらず、むしむしとした外の風が入り込んできていた。私が中学生だったときと何も変わっていなかった。この風景を見ると昔を思い出し、いやな気分になった。教室に入ると生徒はプリントを丸めたゴミとほうきで野球をしたり、女子は化粧をしながら雑誌を見ておしゃべりをしたりと荒れ放題だった。細谷先生は生徒に向かって叫んだ。「遊びをやめて座りなさい。黙りなさい。」すると生徒たちは黙って席についた。そんなばかな。こんなことがあるのだろうか。髪の毛が金色の集団が席に座って前を向いている。私にとって異様な風景だった。なにかが違う、どうして、何が違う…。わたしにはこの訳が分からなかった。「今日からこの二年五組には実習生が一人来てくれました。では、吉田先生、挨拶をお願いします。」「え?っと…。みなさんこんにちは、吉田綾です。今日から一カ月間この二年五組を担当させていただきます。担当科目は国語です。よろしくお願いします。」「綾ちゃんか?。」「綾ちゃん彼氏はいんの?。」「綾ちゃん何歳なん?。」「どこ住んでんの?。」生徒たちは口々に質問してきた。「こら、綾ちゃんじゃなくて吉田先生です。実習生は友達ではありません。校長先生もおっしゃっていたでしょう。先生と呼びなさい。そして敬語で話なさい。」「校長の話なんて聞いてね?よ。」生徒たちは細谷先生の言うことは聞く、このときはこのことしか分からなかったが、わたしの知っている中学二年生ではなかった。この日はこれで終わり、家に帰った。
 ジリリリリリ、いつもの目覚ましの音で目が覚める。実習に行きたくないからか頭が痛く、なかなか布団から起き上がることができなかった。母にたたき起こされ、顔を洗い、朝ごはんを食べて歯磨きをし、服を着替えて家を出る。とぼとぼと歩いて中学校に向かった。雨が降る、どんよりした天気だった。学校につくと他のクラスの生徒からスリッパを投げられた。「だれやねんこの女?。」「先生、不審者です?。」と笑いながら女の子たちが去っていった。こんなことは慣れっこだった。これが中学校だ、昨日クラスで見た光景はわたしの幻想だ。あんなに素直な中学生がいるはずがない。あんな先生がいるはずがない。わたしはスリッパの型のついたスーツをはたきながら、職員室に向かった。「おはよう、吉田先生。今日は天気が悪いわね。頑張りましょうね。今日は一日、二年五組にいて、授業見学してからお弁当も一緒に食べてもらうわね。」「おはようございます。はい。わかりました。お願いします。」一日教室にいるのか…わたしは憂鬱な気持になった。「おはようございます。みんな席について、授業始めるよ。」細谷先生は昨日のように大きな声で叫んだ。生徒たちは、「え?。」と言いながらも席についた。「では、国語の授業を始めます。一昨日宿題で出したこの問題分かる人いますか。」「はい。」「はいは?い。」「は?い。」何人もの手が上がった。わたしは夢をみているのだろうかと思った。こんなに授業がちゃんと成立することがあるのだろうかと。昨日見た風景は夢でも幻想でもなかったのかと。チャイムが鳴って細谷先生の国語の時間は終わった。次は隣のクラスの先生の理科の授業らしい。わたしは細谷先生がいなくて不安だったがうしろから授業を観察することにした。チャイムが鳴って二時間目が始まった。まだ生徒たちは遊んでいる。先生が注意してもやめない。先生はまだ生徒たちが遊んでいる中で授業を始めた。誰も聞いていない、教師が前で話をしているだけの授業。わたしが知っている中学校の授業だった。一時間目の授業と本当に同じ生徒なのだろうか、と疑うくらい全く違った風景だった。その後の授業も二時間目と同様授業とは呼ぶことのできないものだった。昼休みがやってきた。生徒と一緒にお弁当を食べなければならない。「綾先生一緒に食べよう。」一人の女子生徒が話しかけてきた。北ありさ。髪の毛が金色の化粧がばっちり、どう考えても中学二年生には見えない生徒だった。膝にテーピングを巻いていて怪我をしているようだったが、いきなり聞くのはどうかと思いやめた。「うん、食べよっか。」わたしは気分が上がらなかったが北さんのグループでお弁当を食べた。生徒たちはいろいろな話をしてくれた。それでもわたしは早く帰りたい、その一心だった。五・六時間目も終わり、今日も一日が終わった。
 なんの気持ちの変化が起こることもなく、一週間が過ぎた。ただ、二年五組の生徒と細谷先生は、二年五組の生徒と他のクラスの先生、他のクラスの生徒と他のクラスの先生とは全く違う関係性だということがわかり、その理由だけが気になっていた。土日は飛ぶように過ぎ去り、また月曜日がやってきた。今日からはわたしが二年五組で授業をしなければならない。緊張と、うまくいくのかという不安で胸がいっぱいだった。「はい、みなさん席についてください。授業を始めます。」わたしは出来る限り大きな声を出した。しかしみんな遊びをやめない。ずっと喋っている。しかしわたしは授業を進めなければならない。教壇に立ち、ただ教師が話すだけの授業。わたしが中学生のとき一番嫌いだった授業。それを今わたしはやっている。授業が終わり、わたしは細谷先生のもとにかけよった。「とりあえず職員室に行きましょうね。」細谷先生は優しく笑いかけてくれた。「初めての授業はどうだった。」「もう、これは授業と呼べるものではありません。わたしが中学生のときの授業もこんな感じでした。生徒は何も参加せず喋って遊んでいるだけ、教師が前にたって一人で話しているだけ。わたしはこんな授業が一番嫌いでした。でも同じようなことをしてしまいました。本当にすみません。」「最初からうまくいくわけないのよ。他のクラスの先生の授業もみたでしょ。実際に今この学校で教師をしている人でも、今日の吉田先生のように前で教師が話をするだけの授業をする人が多いですよ。気にしなくて大丈夫。最初はわたしもこうだったの。生徒との関係性ができるまではね。生徒のことをたくさん考えて、生徒を思って行動していればいつか生徒はわかってくれるもの。この先生は他の先生とは違う。この先生の言うことは聞こうかなって。だから、吉田先生。諦めないで、全力でぶつかっていけば変わるはずよ。」生徒との関係性。どうやってつくっていけばいいのだろう。わたしにはわからなかった。
 そしてなにも変わらないまままた一週間がすぎた。土日はまたあっという間に過ぎていき、また月曜日がやってきた。学校につくとこの前の女の子たちが現れ、今度はバケツいっぱいの水を頭からかけられた。「うわ?きたな、びしょびしょやん、どうしたんですか?。」と笑いながら去っていった。「あんたたちなにしてんの。先生やで。先生にこんなことしていいと思ってんの。あほなん。」二年五組の北さんたちだった。「は?。なんか来たよ。偽善者や。前までもっとひどいことしてたくせになあ。何してきたか全部あげたろか。え?と、まずあれやろ、入学式になあ?。」「うるさい、過去のことはもういいやろ、わたしあ変わったんや。あんたらとはもう違う。こんなんして恥ずかしいってまだわからんの。」何があったのだろうか。わたしにはわからなかったが、過去になにかがあったことだけはわかった。「こら?。なにしてんの。ケンカはやめなさい。」細谷先生だった。「吉田先生大丈夫ですか。風邪ひきますよ。とりあえず着替えましょう。なにか服あるかなあ。」「先生わたしの体操服で良かったら貸したるわ。」北さんが体操服の入った可愛い袋を渡してくれた。「そうやなあ。今日は一日体操服で過ごしてもらいましょうか。北さんありがとう。」「ありあとう、北さん。」「いいよ全然。洗ったところやからいい匂いやで。」北さんはそう言って教室に向かって走っていった。わたしは聞くのをためらったが、気になって仕方なかった。「細谷先生、北さんは昔なにかあったのですか。あんないい子やけど。何があったんですか。」我慢できず聞いてしまった。「あ?、吉田先生、何か聞いてしまいましたか。」細谷先生は困った顔をした。「あ、いいんです。言えないようなことなら大丈夫です。」「うん?、そうね、もう少したってからお話するわね。」細谷先生の困った顔は初めて見た。余計になにがあったのか気になるようになった。
 帰り道、とぼとぼと歩いていると、朝水をかけてきた女の子たちの笑い声が聞こえてきた。また何かしているのかと思い、その笑い声に近づいて行った。すると、川に女の子が一人落ちていた。よく見るとそれは五組の北さんだった。北さんは足が悪かったはずだ。溺れてしまうのではないかと思い、わたしは走って駆け寄った。「こら、あなたたちなにしてるの。やめなさい。」女の子たちは、「あ〜なんか来たで。だる。帰ろ帰ろ〜。」と言って去って行った。「大丈夫。北さん。」わたしはなにも考えずに川に飛び込んでいた。わたしはこの時のことをあまり詳しくは覚えていない。ひたすら北さんを助けないと、と思って川に飛び込んだ。北さんを川から引きあげて、事情を聞いた。「今日朝にわたし言い合ってたやろ。そのことであのこたち腹立ったみたいで。わたしが歩いて帰ってたら急に後ろから押されえて。わたし足悪いからこけてしまって。ほんで川にそのまま落とされてん。先生助けてくれへんかったらわたしどうなってたかわからんわ。足悪いからうまく泳がれへんし。ほんまにありがとう。」「ううん。わたしのせいやな、ごめんね北さん。濡れたままやったら風邪ひくしはよ家帰ろっか。」そう言ってわたしたちは二人で歩いて帰った。
 次の日、またわたしは授業をしなければならない。もう正直、教壇にたって授業をするのは嫌だった。しんどかった。あと少し、頑張らないと、と自分を励ました。「はい、では今日の授業を始めます。教科書の四十四ページを開いてください。」相変わらず生徒たちは遊ぶことをやめなかった。「ちょっとみんな、先生困ってるで、聞いてあげようや。」北さんの声だった。「え、どしたん急に、昨日までありさもしゃべってたやん。」「まあ、気が変わってん。先生の授業もあと少しやしさ、授業きいてあげよ。」「まあ、そやな。聞いてあげよか。」「そやな、しゃ〜なしな。」そういってみんなは前を向いて座ってくれた。わたしは初めての状況に戸惑ったが授業を進めた。授業が終わってから、北さんにお礼を言いに行った。「そんなんいいで。当たり前のことしただけや。気にせんといて。」北さんは笑って答えてくれた。
「吉田先生、昨日何かあったの。」細谷先生に聞かれた。そして昨日のことをすべて話した。「なるほどね。北さんは吉田先生を信頼したのね。吉田先生が生徒のことを思っていることに北さんは気づいたのよ。こうやってね、子供たちとの信頼関係はできていくの。吉田先生、いい先生になれるわよきっと。じゃあ吉田先生、この前聞いてきたこと話すわね。わたしいつも眼帯をつけているでしょ。目が見えないの。これはね、北さんを守った時に目に金具が刺さってね、そこからなの。北さんが足にテーピングをしているの知っているでしょ。あのこ昔は本当に悪い子でね、いつも授業は受けない、中学二年生なのにお兄ちゃんのバイクを乗り回して遊んだりしていたの。いじめももちろんしていたし、万引きとかで警察に何回も呼ばれたわ。注意してもやめなかったの。わたしはあきらめなかったけどね。そんなある日、北さんが校舎の窓から飛び降りようとしたの。何を思ってかはわからないけど。あの子もいろいろと抱えていたのね。そこでわたしはその下で北さんを受け止めたの。幸いどちらも死ぬことはなかったけど、大けがだったわ。すぐ救急車で運ばれたの。わたしは目を失い、北さんは足が不自由になったの。でもこの日からね、北さんは変わったの。先生は本当にわたしを思ってくれている、そう感じたのかなとわたしは思っているの。次の授業から、北さんを筆頭にみんなちゃんと授業を受けてくれるようになったし、みんないうことを聞いてくれる素直な生徒になったの。わたしはね、本気でぶつかればその分、生徒も返してくれると思っているの。中途半端じゃだめで、本気でぶつかることが大切なの。思いは届くものなのよ。あきらめずに続けること、それが重要よ。」わたしは少しわかった気がした。そして教師という仕事に魅力を感じた。
 実習最後の日がやってきた。生徒たちはわたしに色紙にメッセージを書いて渡してくれた。わたしは今までにない気持ちで胸がいっぱいになった。あんなに憂鬱な実習だったのに。わたしは、この二年五組の生徒たち、そして細谷先生に支えられて、無事に一か月間の実習を終えることが出来た。この実習で教師という仕事が魅力的なものに思えた。教師というのは教壇に立って勉強を教える、そんな単純な仕事ではない。常に生徒とかかわって生活しなければならない。しんどいことの方が多い。しかし、喜びももちろんある。生徒たちに腹が立つことの方が多い。しかし、生徒たちは本当にかわいいものなのだ。常に体当たりだ。何事に対してもぶつかっていかなければならない。とてもしんどい仕事だがやりがいのある仕事だ。わたしはそう感じた。そしてわたしは両親に言われたから教師になる、そんな理由ではなく、自分がなりたいと思ったからなると言えるようになった。これから教師を目指して頑張ろうと思った。
 「吉田先生。わたしのね尊敬する先生を教えておくわ。わたしの中学校のときの担任の先生。わたしはこの先生に出会って教師を目指そうと思ったの。それはね、吉田あおい先生よ。」吉田あおい。それはわたしのお母さんの名前だった。「え、お母さん…。」「そう、あなたのお母さんよ。ほんとうにいい先生だったわ。よろしく伝えてね。」わたしは今まで、お母さんを尊敬したことはなかった。ただ、教壇にたって話をしているだけなのだろうと思っていた。でもちがった。この細谷先生が尊敬するせんせい。わたしはすこしうれしい気持ちになった。
 教師。それはわたしの将来の夢だ。今はこうはっきり言うことができる。
 五年後…。「はい。みんな座りや。授業始めるで。」わたしの大きな声が教室に響く。生徒たちはなにも聞かずにしゃべって遊んでいる。わたしの教師生活は始まったばかりだ。これからどんな試練が待ち受けていようとわたしには強い思いがある。細谷先生を超える先生になる、お母さんを超える先生になる、自分らしく自分らしく…。

 

「羊」
142205

 ブラインドの隙間から、空が透けて見えている。日に日に元気を失う太陽は、行くあてなく続く羊雲の先頭にあって、もうこちらのことなんて構ってもいられない様子だ。
 社内の空調は、いまだに二十五度を示している。
 脇役になってしまったのは、いつの頃からだったか。
 汗だくの同僚が大量の書類を抱え込んで、通り過ぎていく。ぼくはカーディガンを羽織った。
 ぼくの会社の終業時刻は六時だ。毎日五時三十分頃になると上司が一度声をかける。
「みんな頑張っているね。きりのいいところで、上がるようにしなさい。」
 頑張っているかと聞かれると、まだよくわからない。入社して以来六か月間、毎朝九時に出勤、退勤するまでずっとパソコンの前に座っているが、頑張っている実感はない。上司に言われるままに作業をこなし、よくわからないまま叱られ、よくわからないまま褒められたりして、「エェ、そうなんですか、ハァ、ありがとうございます」のように返す。
 決して意識が低いわけではない。仕事をなめているわけでもない。現に今も、終業時刻から一時間が経過しているが、パソコンの放つ青い光を浴び続けている。それなりに社会のことを理解してそれなりに行動しているが、頑張っているのか、と聞かれると、困ってしまう。ぼくの十本の指の先だけが、ただひたすらに汗水たらして働いている。
 ぼくはまだ定時で退勤したことがない。それはぼくが特別例外というわけでもなく、同様に上司や同僚も、終業時刻を大きくまわってしまっても、一生懸命に何か仕事をしている。ぼくは横目で辺りを見回した。定時上がりの人間なんて、この会社に存在するのだろうか。少なくともぼくの周りには見当たらない。ぼくはほんの少しだけネクタイを緩め、またすぐに締め直す。
 時計の短針が、ちょうど真上を指した頃、ようやくぼくは帰り支度を始めた。東京のいいところは、こんな真夜中になっても、たくさん電車が走っているところだ。社内にはまだ少しだけ社員が残っていた。同じく帰り支度を始めている同僚の背中に、何やらひとこと声を放り、会社を後にした。
 こんな時間でも窮屈な電車でゴトゴトと運ばれ、ようやくたくさんの人が降りていった駅で、ぼくも降りる。アパートについてネクタイを外し、座椅子に腰を下ろしたとき、なんとも形容し難い感じがする。
 そういえば今日は金曜日か。立ち上がり、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。金曜日の夜ひとり呑む酒がこの上なく美味いと感じるようになったのは、働き始めてからだと思う。
 ふんわりとしたような心地の中で、スマートフォンをカバンのポケットから取り出してきて電源を入れる。母さんからの不在着信が、三件ほど表示されていた。夜更かしの母さんでも、もうさすがにこんな時間までは起きていないだろう。明日の昼にでも掛け直すことにして、今はメールだけ送っておけばいいか。
 メールを送るとすぐに、着信音が鳴った。
「もしもし。母さんやけど。」
「起きてたんや。どないしたん。」
「東京の、中華料理屋さんがガス爆発して、二人ほど亡くなったって報道が、こっちでもされとったから、あんたのことが心配になってなあ。」
「ああ。今日の夕方そんな事故があったらしいな。同僚が噂してたわ。中華料理屋なんて、あんま行かへんし、生きてる。」
「ほんまや。じゃあちゃんと自炊してるねんな。」
「仕事が立て込んでるときは、コンビニ弁当ですましてもうたりもするけど、ほとんど自炊してる。心配いらんで。」
「よかった。あんたの身体だけが心配やから。じゃあ仕事もうまくやってるみたいやな。」
「もちろんうまくやってるで。この夏、新卒社員の社内プレゼンがあってんけど、おれのプレゼンはなかなかできがよかって、部長に声掛けられたりしてん。やっぱこっちの会社に入ってよかったと思うわ。本社で働いてる社員はみんな、一昨年行ったインターン先の関西支社の社員よりも意識が高くて、なんか知らんけどレベルの高いことばっかやってる。そういえば会社の人たちは、タッチパネルの操作やクラウドなんかについての知識は、全然ないねん。その点おれは大学でその手の学問を専攻してやってたから、上司にも質問されたりするねんで。仕事は毎日多くて、今日やってこんな時間まで残業や。残業手当は出えへんけど、自分で望んでやってることやから。何よりやりがいはあるなあ。」
「そう。頑張ってるねんな。」
「ああ頑張ってる。まだ七か月目やけど、この仕事はおれに向いてる、自分でそう思うねん。そうや、そういえばなんか年末年始はめっちゃ仕事が立て込んでるらしくて、帰省は大晦日の夕方くらいになりそうやわ。」
「わかった。年越し蕎麦も、そのつもりで予定しとくな。だんだん寒なってきてるから、身体にだけ気い遣って、無理せんように頑張りや。」
 通話を終了する。今夜はもう一本だけ呑もう。冷えた缶ビールの中身をグラスに流し入れると、大量の泡が立った。ぼんやり眺めているとたちまち消えて無くなってしまい、あとには少量の気の抜けた液体だけが残った。
 毎日通勤に使う中央線は、毎日同じところをせわしなく走っている。ぼくは今日も八時二十七分の電車に乗って仕事に向かう。今日は月曜日。またパソコンに向かい続ける一週間が始まる。
 会社に到着するや否や、上司とすれ違う。
「おはようございます。」相手の表情を伺いながら礼をする。
「君か。今日も頑張ってくれ。」ぼくはまた一週間ここで頑張ると思う。
 きっとぼくの人生はこれから先ずっとこのパソコン作業の繰り返しである。ぼくは時々、こんなことをやるために今まで生きてきたのかと疑問に思うことがあり、そしてその答えは自分でわかっている。わかっていても、どうしようもないことだってあるのだ。ぼくよりもっと苛酷な労働条件にある若者なんてこの現代社会にはたくさんいる。ぼくは恵まれているほうなのかもしれない。こうして生きていくのが賢明なのだ、そうやって自分を正当化せずにはいられない。
 昼食休憩の時刻を告げるベルが鳴り響く。ぼくは窮屈に伸びをして、今朝会社の近くのコンビニで買ってきていたレタスのサンドイッチを両手でしっかりと持ち、静かに屋上に向かった。
 秋空は高く広がり、どんどん力を失っていく太陽は、ぼくに背中を向けたまま、空の青色に埋もれて天低くのろのろと這っていく。今日も羊雲の群れは、先導者をまだ見つけていないのか、東京の空に張り付いている。ぼくは、本当の東京を知らないのかもしれない。
 昼食はいつも屋上に来てひとりで食べている。努力はしているがいまだに関西なまりの抜けないぼくは、きっと同僚に煙たがられているに違いない。
 東京に来てからというもの、友達と呼べる存在は、いまだにいない。もっとも今となってみれば、そもそも大阪に住んでいた頃に友達がいたかどうかさえ、わからない。学部学科の同期、サークルのメンバー、バイトの仲間、知り合いはたくさんいたが、四月から誰とも連絡を取っていないし、そんな学生時代の記憶はもう霧のように霞んでしまい、今ぼくの頭の中には、内定が決まってから一生懸命暗記したプログラミングコードばかりが張り付いている。
 そろそろ始業時間だ。まだ熱の残る十月の気温は、ぼくには少し寒く感じた。
 ◇
 相も変わらず暗黙のサービス残業をしている。ふと時計に視線をやると、時刻は二十三時を回ったところだ。今日はもうこれくらいにしておこう。
 金曜日の夜の中央線は、いつもより大勢の人間が利用する。今日はいつも以上に窮屈な夜だ。ぼくと同じようにネクタイをきつく締めたスーツ姿の若者が、吊革の下にぎっしりと詰め込まれ、電車は眠らない街をにらみつけながらゴトゴトと大群を運んでいく。ようやく停止し、扉が開いた瞬間、一人の若者が外に飛び出す。それについていくかのように他の若者たちも下車し、そしてぼくも下車した。中身がすっからかんになった電車は、また人間を運ぶために、汚い不協和音を鳴らしながら走り始める。煌々と光る車内に、ぽつり、ぽつりと残る人間を横目に見ながら、ぼくはゆらゆらと出口改札を目指す行列に紛れていった。
 アパートにつくと、ネクタイを外し、それから座椅子に腰を下ろす。両腕を振り上げ胸を大きく反らして深い深い呼吸をする。そして立ち上がり、冷蔵庫から缶ビールを取り出してくる。ぼくの一週間は、美味い酒で締めくくられる。
 こんな夢を見た。
 ゆとり教育が浸透し、郵政民営化が成立した後、ぼくは逮捕された政治家や、世界で起こる戦争や震災、何度も変わる首相の名前を、新聞で一生懸命に覚えている。世間がアイドルに染まっているときも、ぼくの家のテレビは絶えずニュースを流す。母さんはぼくにいつも、「ニュース見いや。」と言う。クラスメイトが話している、カードでモンスターを召喚して戦わせるアニメは、ぼくは見たことがない。
 毎朝必ず八時二十分、クラスのみんなより少し早めに学校につくと、真っ直ぐ職員室へ向かう。
「先生。おはようございます。」これでぼくの一日が始まる。
 職員室の入り口で深くお辞儀をして、学級日誌を取りに行くと、「毎日早いなあ、偉いやん。」と声を掛けられる。ぼくはこれが目当てでずっと学級委員長を続けている。小学生のぼくにとっては大人に褒められて認められることが何よりの快楽だ。授業時間は先生の話をきちんと聞きノートを取り、学業に専念し、休み時間は机に座ってしっかり休息を取ること、これは当たり前のことである。授業中も休み時間も際限なくアニメやゲームの話をして先生に怒られているクラスメイトとは、あまり気が合わない。当たり前のことを当たり前にこなせない子供たちと一緒に群れたくはない。
 水曜日の夜は、公民館に集まって、そろばんを習う。木曜日の夜は学習塾に通う。金曜日の夜は書道を習う。小学校の勉強は常に予習していて遅れを取らず、学校以外の時間はできるだけ周りの子供よりも多くのことを経験したい。そろばん教室や学習塾、習字教室には小学校高学年や中学生など意識の高い子供ばかり集まるため、とても気持ちよく過ごすことができる。母さんは、「今のうちに、いろんなこと、しとき。いつか絶対役に立つことばっかりやから。」と言う。きっとその通りだ。ぼくはその言葉を信じて、蒸し暑い日も、寒い夜も、一生懸命に習い事に通う。
 学校でぼくはさながらヒーローだった。先生たちはぼくのノートの綺麗さを称賛してみんなを叱り、ぼくの百点のテストを愛でる。周りの子供たちは呑気にぼくのノートを見に来ては、「ほんまにきれいやなあ。」「さすがやなあ。」と垂らした鼻水を服の袖で拭っている。ぼくはいつも妄想の世界の中で、自分をドラマや映画の主役にたとえては、監督に与えられた完璧な台本通り、必ず成功するオチが見え見えのストーリーの上を、間違いなく丁寧に歩んでいくのがぼくの人生なのだと信じていた。最後には究極のハッピーエンドが待っている、そのためならどんな努力も惜しまない。
 リーマンショックが起きた年、筆記試験と面接を難なく勝ち抜いて、地元から八駅離れた私立中学校へ進学したぼくは、相変わらず大人に褒められることを唯一の快楽としていた。クラスメイトに何を言われようと、何を思われようと、関係ない。ぼくはただ、目上の人間に認められることで、主役である自分という存在をひたすらに守りたいだけなのだ。
 理科室への移動教室の途中でふと廊下に貼ってあるボーイスカウトの隊員募集ポスターに目が留まる。野外活動能力の獲得、集団行動能力の向上、社会福祉貢献、「学校にいるだけでは絶対に経験できないスカウト活動」など。家に帰るとすぐにインターネットで検索した。あの有名な日本の宇宙飛行士や、海外の総理大臣も、もともとボーイスカウトに入っていたらしく、スカウト活動を推進するコメントを掲載している。これだ。
 さっそく母さんにお願いして、ベージュの制服上下と、深緑色のベレー帽子を買いそろえ、ボーイスカウトに入隊したぼくは、班長やコーチやリーダーに褒められようと、ロープ結びやテント設営、火起こしや救急法のマスターバッジを取得した。月曜日から土曜日は中学校で勉強、水曜日の夜はそろばん、木曜日の夜は進学塾、金曜日の夜は習字、そして日曜日は野外活動。量をこなしながら質も保ち続ける自分自身に、心の底からうっとりする。母さんは、おじいちゃんやおばあちゃん、おじさんやおばさん、隣のおばさん、そして噂好きな向かいのおばさんに、ぼくのことを自慢しているに違いない。もしかしたら、保護者面談のとき、担任の先生にも自慢しているかもしれない。そうだとしたらぼくは、とんでもないヒーローじゃないか。ぼくは少し照れくさくなった。
 ぼくの中学校生活は、学業と習い事で目まぐるしく過ぎて行った。夏休みは学校の補習講座に積極的に参加し、ボーイスカウトでは四泊五日のキャンプにも参加した。班員が嫌がる大阪城までの往復ナイトウォーキングや、一週間自給自足キャンプにも耐え、中学二年生が終わる頃には、隊員の中で最も栄誉あるバッジを取得することに成功した。
 東日本を大きな震災が襲った年、無事大阪で名高い私立高校に入学したぼくは、着実にエリートへの道を歩み始めていた。一年生の夏には偏差値の高さで志望大学をしぼり、日夜勉強に明け暮れていた。そろばんや習字は、ある一定のラインまで達したので辞めてしまい、今は実績のある進学塾に毎日通っている。中学一年生から続けているボーイスカウトは、今も続けている。ぼくは自分のサクセスストーリーをまだ頭の中に描き続けているのだ。主役になるためなら、どんな努力も惜しまない。
 母さんは、ぼくのことを広島に住んでいるおじいちゃんに自慢しているに違いない。おじいちゃんはいつも宅急便の段ボールの奥底に「応援しとりますけえ、頑張ってつかあさい。」とだけ書いた茶封筒を張り付けていて、高額のお小遣いをこっそりと忍ばせている。応援、頑張れ、こんな言葉はこの家ではぼく以外に結びつかない。これは絶対恥ずかしがり屋で堅物のおじいちゃんからぼくへのメッセージで、ぼくへの密輸に違いない。ぼくはおじいちゃんから宅急便が届いたことがわかると、野菜を冷蔵庫にしまったり、お米を運ぶ手伝いをすることを口実に、段ボールの中身を一番に確認する。奥底にセロテープで優しく張り付けてある茶封筒を丁寧にはがし、段ボール開封時にはがしたガムテープと一緒に手の中に握りこみ、ゴミ箱に捨てにいくふりをしてありがたく頂戴する。ぼくは母さんにはなんでも話しているが、このことだけは内緒にしている。母さんはおじいちゃんから届く野菜やお米の奥に、まさかそんな秘密があるなんてこと、きっと知らないだろう。ぼくとおじいちゃんの男同士の暗黙の絆が母さんにばれてしまわないよう、念には念を入れて、おじいちゃんに礼を言うこともしていない。ぼくは離れて暮らすおじいちゃんからも物理的に応援されている、そう決めつけていた。
 夢うつつの頭の中に、胸のあたりから振動が伝わってくる。
 二本の銀色の缶と、中にビールがまだ半分残っているグラスが目に入った。眠ってしまっていたのか。懐かしい夢を見ていた。
 低くうめくような音と、全身を伝う重い振動。胸ポケットでスマートフォンがぼくに着信を告げている。大阪の実家からの電話である。時刻は深夜二時。少し遅い気もするが、どうせ夜更かしな母さんからの近況報告電話だろう。
「もしもし、母さん?」缶の中身をグラスにひっくり返しながら通話する。
「父さんだ。」
「珍しいね。どうしたんだい。」
「母さんが死んだ。」
 瞬間、心臓がつぶれたような衝撃に襲われた。脳みそが凍り、眼球が浮遊する。全身の筋肉が冷たく麻痺して、皮膚の表面だけは燃えたように熱い。身体が痙攣しそうになる衝撃で知覚した。母さんは死んだ。
 電話の向こうで父さんは何も言わない。グラスの中で気の抜けきった苦いビールが、ほんのわずかな炭酸をめいっぱいシュワシュワとさせている音だけが響いていた。
 母さんの葬式は、ぼくと父さんとおじいちゃんとおばあちゃんで、小さく行われた。新幹線に乗っている間、食事している間、おじいちゃんの泣き顔と父さんの震える背中を初めて見たとき、ぼくは何を考えていたのだろうか。宙に消えていく母さんの煙は、あいにくの雨で全く見ることができなかった。十月下旬の気温は依然として肌に生ぬるくて、でもぼくにとっては冷たかった。
 葬儀の後、初めて母さんの部屋の机に腰を下ろす。両腕を振り上げ、大きく伸びをしたとき、横目で見た本棚にある分厚いノートに目が留まった。
 母さんの日記だ。心配性でまめな母さんの、あの綺麗な文字が、どのページにもびっしり詰め込まれていた。
 はらはらとページをめくっていくと、他のページよりも文字数が多い日があり、ページをめくる手を止めた。これはつい先週、ぼくと電話をした日の日記だ。
「今日はよく晴れていた。庭の金木犀の香りが、少しかすれてきている。今日、東京の中華料理屋がガス爆発し、何人かが亡くなったというニュースを見て、息子と電話をした。あんなにたくさんの人が住んでいる東京で、息子が偶然その数人に含まれている確率なんて、とてつもなく低いのだろうけど、つい心配になってしまう。大阪と東京は、近いようで遠い。何かあったときにすぐ助けてやれないのが、この距離の悪いところである。息子を東京になんてやらなければよかった、少しだけそう思う。
 息子は電話でも、本当のことを言わない。あの子は幼い頃から一生懸命な子で、何でも自分だけで解決しようとして物事を決めつけすぎるところもあるが、「偉いな、賢いな」と褒めたときのあの満足そうな笑顔は、幼い頃からずっと、今も変わっていない。
 私はあの笑顔を大切にしたかった。笑顔の少ない私と、同じ人生を歩ませてはならない、その思いで一生懸命教育に力を入れた。
 しかし、たまに不安になってしまう。私の勝手な教育方針が、彼のプレッシャーになってはいないだろうか、いつも心配だった。息子は私の前では強がって、本心を語ろうとはしない。それは私も同じで、彼の前ではこんな弱音は吐いたことがない。息子は根っから真面目で真っ直ぐなお父さんには似ずに、私に似ている。だから余計、私とは違う幸せな人生を歩ませたかった。あの子は今、幸せなのだろうか。
 良かれと思って小さい頃から、本当にいろいろなことを経験させてきたが、その経験は役に立っているのだろうか。いや、あまり生かされていないのではないだろうか。でも、何かを信じて毎日毎日休みなく頑張ってそろばんや塾やボーイスカウトに精を出すあの子の夢を、壊したくはなかった。私は彼に、「いつか絶対役に立つ」という便利な言葉をかけることしかできなかった。
 嫌なものは嫌だと、否定してほしかった。そうすれば、私と彼はもう少し通じ合えたのかもしれない。お互い自分が大切で、しかも、同じくらいお互いが大切だったのだ。
 ほんのわずかな人しか成功しない世の中である。息子が将来大物になるとは思っていない。でも誰でも幸せにはなれる。私はあの子が幸せなら何でも良い。たくさんの人が住みたがる東京には、幸せがそこら中に転がっているのだろうか。そうであればいいが。
 手が冷たくなってきた。明日はストーブを出そう。」
 ぼくは日記を閉じた。開いていると、落ちる涙で文字が滲んで読めなくなってしまうからである。
 母さんは幸せではなかったのだろうか。母さんが求めていた幸せとは何だったのか。
 ぼくにはずっと自信がなかった。だから今までずっと母さんを信じてここまでやってきたが、母さんにも自信がなかった。ぼくは確実に母さんの血を引いている、そう思うと、体があったかくなって、少し照れくさい。
 八時二十七分。今日も中央線で会社に向かう。
 十月に入ってからずっと生温い日が続いていて、ぼくには寒いくらいだったが、今朝は雲ひとつない晴天で、暑いくらいである。
 駅から会社まで歩く途中、歩道の隅に小さな黄色いものが散らばっているのに気づき、そしてしっかりと目でとらえた。近づいてみると、金木犀の花であった。もうほとんど花は落ちてしまい、しおれて少し茶色くなっていたが、まだそこら中にかすかに甘い香りが満ちている。
 東京に幸せは転がっている。