大阪教育大学 国語学講義
受講生による 小説習作集
幸せのかたち | 152126 | |
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僕には不思議な兄がいる | 152204 | |
松任谷由美 ルージュの伝言 | 152122 | |
トイレの神様 | 152117 | |
ある男の話 | 152210 | |
河童事件簿 | 152209 | |
「想い込み」 | 152206 | |
『三日月』 | 152205 | |
「車輪の唄」 | 152202 | |
GReeeen 『またね』をもとにした物語 | 152116 | |
『俺の仕事』 | 152208 | |
「Million Films」 | 152102 | |
僕とレモン | 152207 | |
虹 | 152125 |
T 私の幼馴染
私には、幼馴染がいる。
生まれた時からずっといっしょだった。親同士が仲良かったのもあってお互いの家を行き来するのは当たり前、お泊りもよくあった。幼稚園、小学校と成長していってもずっと隣にいてくれた。周りの男子からからかわれて、一緒に遊ぶことは少なくなったけどそれでも夕ご飯を一緒に食べたりすることはいつもと変わらなかった。
中学校に入ると部活動が始まってお互い忙しくなった。君はサッカー部、私は吹奏楽部。いつも教室から君がボールをける姿を見つめていた。とてもかっこよかった。
「あ、また悠人君のこと見てたでしょ」
「ち、ちがうよ・・・」
「悠人君かっこいいもんね。見とれる気持ちもわかるよ」
「だから違うってば・・・」
「けどね、早いとこ気持ち伝えないと誰かにとられちゃうよ。悠人君のこと気になってるっていう女の子けっこういるみたいだから」
「だからそういうのじゃないよ。悠人はただの幼馴染だから」
「ふぅ〜ん。ま、優衣がそういうなら私はこれ以上何も言わないけど」
恋人にならなくても幼馴染のままずっと隣にいられると思っていたし、悠人は私のことが好きでいてくれていると勝手に思っていた。
そんな思いを抱えたまま、私と悠人はM高校に進学することになる。
まだ朝は肌寒い。春眠暁を覚えずなんてどこにいったんだろう。眠い目をこすりながらリビングに降りていく。
「おはよう」
「おはよう優衣。今日から高校ね。悠人君ともまた一緒でよかったわね」
「まあ知り合いが同じ高校にいるっていうのはちょっと安心するよ」
「あらあら、それだけじゃないでしょう」
お母さんがにやにやしながら私を見てくる。
(私だってそれぐらいわかってるよ。うれしくて仕方ないんだから)
「三年間あるわけだしまだどうなるか分かんないよ」
「そうね。とにかく三年間頑張ってきなさい」
「うん。いただきます」
真新しい制服にそでを通し、準備をする。「うん。やっぱり高校の制服はかわいいな」
私たちが住んでいるH区からは歩いて十五分程度でついてしまう。電車通学にあこがれはあったけど、学力的にもちょうどよかったのはM高校だった。
「いってきます」
玄関のドアを開けるとそこには見慣れた顔が立っていた。
「おはよう優衣。今日からまたよろしくな」
「おはよう。こちらこそよろしくね」
これから三年間ともに歩むであろう通学路をはじめて進んでいく。
「ねえねえ、悠人はさ、部活何か入るの?」
「そうだなあ。部活は中学までで十分かな。高校でしかやれないこともあるだろうし今はそっちのほうが楽しみなんだよな」
(なんだ・・・。サッカー部入らないのか。もっと見たかったのにな)
「優衣の方こそどうなんだよ。吹奏楽続けんの?」
「うーん、私もいいかな。料理とかお母さんに教えてもらいたいし遊びにも行きたいしね」
「そっか。じゃあこれからは行きも帰りも一緒にいられるな」
「そういうことになるね」
十五分というのはあっという間だ。話が進んでいくうちに私たちは校門の前にいた。
「何組になったんだろうね。一緒だったらいいのにね」
「まあそんなにうまくいかないだろ」
「もう!ちょっとぐらい期待してもいいじゃん」
「はいはい。んで、クラス分けはと・・・」
私は一年一組、悠人は一年三組だった。
「なんだ、離れちゃったのか。まあ仕方ないよな。じゃあな、一組で友達つくれよ」
「悠人こそひとりぼっちにならないようにね」
「はいはい、って・・・」
「どうしたの?」
「いや、いま三組に入っていった女の子がめちゃくちゃかわいかった」
「そうなんだ。よかったじゃん。せいぜい頑張ってね」
このクラス分けが神様のいたずらなら、なんて性格の悪い神様なんだろう。悠人が一組だったら、ううん、悠人が三組以外だったらあの子と出会うことなんてなかったのに。
U 俺の妹
俺には双子の妹がいる。
当然のことだが、産まれたときから一緒にいた。幼いころの写真なんて性別が違うのにどっちがどっちか見当もつかない。小学校では俺の後ろにくっついて離れなかったくせに中学校ぐらいになればお互いの交友関係も随分違っていた。俺はそれなりに友人はいたが、一人でいることが元来、苦痛と思わない性格だったし好んでつるむようなことはなかった。だが、妹は違った。家族の俺から見ても妹は可愛かったし、人に好かれるような性格をしていた。妹も俺の後ろにくっついていたぐらい人懐っこいからあいつの周りにはいつも必ず誰かいた。
「なあ康平」
「なんだよ」
「ほのかちゃんって彼氏とかいるの?」
「知るかよ。気になるなら本人に聞いてみろよ」
「なんだよ冷たいな〜。双子なんだからそんな話ぐらい家でするだろ?」
「あいつののろけ話なんて聞いたことねえよ。あ、でも告白をOKしたことはないって言ってたな」
「マジ?じゃあ俺にもチャンスあるんじゃね」
「はいはい、頑張ってこい」
俺の友人ですらこのありさまだ。とにかく妹はモテていた。いちいちこんなことを聞かれる俺からしたら早いとこ彼氏を見つけてほしかったのだが、結局ほのかは中学で付き合うことはなく俺と同じM高校に行くこととなる。
M高校までは電車で一駅だ。過保護の親のせいで朝だけは一緒に行かされることになる。
「ねえ康平、高校楽しみだね。友達出来るかな〜」
「お前に友達できないわけねえだろ」
「むう、なんか褒められたようなそうでないような。それより康平こそ友達出来るの?」
「まあそれなりにはできるだろ」
「もう、そんなんじゃ青春を謳歌できないぞ。もっと楽しもうよ」
「はいはい」
ほのかはまだ何か言いたげだったが、これ以上言っても意味がないと分かっているのはさすが妹だ。
一駅なんてたかが知れており、気づけば学校の目の前だった。
「クラス分け、といっても一緒になることなんてまああり得ないしね」
「だな。さて俺は・・・あったあった一組か」
「見つけるの相変わらず早いね。私は・・・三組だ」
「んじゃあな。もし一緒に帰るのなら連絡くれよ」
「了解」
ほのかが教室に入ったのを見て一組に向かおうとしたとき、男女の会話が聞こえてきた。
「どうしたの?」
「いや、いま三組に入っていった女の子がめちゃくちゃかわいかった」
「そうなんだ。よかったじゃん。せいぜい頑張ってね」
(はいはい、俺の妹ですよ。ったくこれじゃ中学と大して変わらねえよ)
このときの二人組が俺の高校人生に大きくかかわってくるなんて張本人の俺ですらこの時は夢にも思わなかった。
V かなわない初恋
悠人が可愛いと言っていた女の子はすぐに人気が出た。三組のほのかちゃん。一組の男子もしばらくは彼女の話題で持ちきりだった。ただ一人を除いては。
「ねえ、康平君はほのかちゃんのこと気にならないの?」
気づけば私は話しかけていた。(どうしよう。急にこんなこと言われても迷惑だよね)
「ごめんね、わすれ・・・「別に気にならないよ」
(あっ、よかった。返事してくれた)
「そうなんだ。クラスの男子みんなあの子のこと可愛いって言ってるのに康平君だけどうでもよさそうだったから気になって」
私がそう言うと、康平君は少し考えたような顔していた。
「実はな、俺とあいつは双子なんだ。だから気になる気にならないの次元の話じゃねえんだよ」
「えっ、確かに名字は一緒だけど・・・」
「あいつがモテるのも、周りが俺とあいつが双子って知った時の反応ももう慣れたよ」
そう言うと康平君は行ってしまった。
悠人は帰りの十五分もほのかちゃんのことばかり私に話してくる。よほど気に入ったんだろうな、十五年隣にいる私が今まで見たこともない幸せそうな顔をしていた。
(悠人幸せそうな顔してるな・・・。私が入り込むすきまはないのかな)
「みんなほのかちゃんのこと狙ってみたいだけど悠人はどうなの?」
「そりゃ、あんな可愛いんだぜ。付き合いたいに決まってんじゃん」
「ふう〜ん」
「なんかいい方法ないかなあ・・・」
私たちの通学路の間には駅がありM高校に通う生徒は大体それを使うのだが、私たちの数メートル先にあの子が歩いていた。
「噂をすればほのかちゃんだ!やっぱりかわいいなあ」
(やっぱり、だめだ・・・。悠人の目には私は映っていない)
悠人がほのかちゃんに見とれている間、私は彼の横顔を黙ってみていることしかできなかった。
その晩、私は悠人とほのかちゃんのことが頭から離れなかった。
(あの二人付き合っちゃうのかな。それに康平君・・・。知られるの嫌がってたみたいなのになんで私にだけ教えてくれたのかな)
しばらく悶々として寝付けなかった私はある決心をする。
(悠人が私といるよりあの子といたほうが幸せになるなら、私は悠人の恋を応援する)
W 康平の思い
ほのかはすぐに学年で人気者になった。いつものことだから特別気に留めていなかったが。
「ねえ、康平君はほのかちゃんのこと気にならないの?」
ボーっとしているときに話しかけられたからうまく返せなかった。
(えーっと、こいつは優衣だっけ?)
「ごめんね、わすれ・・・「別に気にならないよ」
優衣は何か言いかけたようだが遮った。
「そうなんだ。クラスの男子みんなあの子のこと可愛いって言ってるのに康平君だけどうでもよさそうだったから気になって」
俺が返事をしたのにほっとしたようで、話しかけた理由を言ってきた。
(ま、妹だからどうでもいいことはないんだけど。こいつはどうしたもんか)
「実はな、俺とあいつは双子なんだ。だから気になる気にならないの次元の話じゃねえんだよ」
ちょっときつい言い方になったかな。俺がそんなことを考えていると
「えっ、確かに名字は一緒だけど・・・」
(突っ込むのそこかよ!)俺は笑うのをこらえて
「あいつがモテるのも、周りが俺とあいつが双子って知った時の反応ももう慣れたよ」
そう言って俺はその場を離れた。多分あのままいたら笑いが止まらなかっただろう。
(優衣か・・・。あいつ面白いな)
電車で一駅といっても、高校から駅までは十分程度歩かねばならない。ほのかは友達と帰ると言っていたから俺は一人で帰っているのだが、こんな日に限ってイヤホンを忘れてしまい音楽を聴くことができない。仕方なく帰っていると、すぐ前にほのかの姿を見つけた。そしてその少し後ろには優衣の姿もある。その横には同級生らしき男もいる。
(後をつけるみたいになるのもな・・・。かといってほのかに声をかけられるのも面倒だし)
「みんなほのかちゃんのこと狙ってみたいだけど悠人はどうなの?」
「そりゃ、あんな可愛いんだぜ。付き合いたいに決まってんじゃん」
「ふう〜ん」
「なんかいい方法ないかなあ・・・」
優衣と男の会話が聞こえてくる。どうやらこいつもほのかに気があるようだが、その話を聞いている優衣がとてもつらそうな顔をしていた。しばらく歩いていると、その男も前を歩くほのかに気づいたようだ。
「噂をすればほのかちゃんだ!やっぱりかわいいなあ」
(ったく、人の気も知らないで。優衣の気持ちには気づいてねえのかよ)
俺は生まれてこの方、恋愛なんてしたことはなかったが、ほのかのことを見る男子に散々会ってきたおかげで表情でなんとなく恋愛に関してはわかるようになっていた。
(このままじゃ、優衣は確実に損な役回りになってしまうな・・・。けど、俺に何ができるんだ?)
その晩、思い出すのは優衣のことばかりだった。こんなことは初めてだったから俺自身驚いた。
(やっぱり、俺にはどうすることもできねえ。とにかく今は様子を見るしかない)
X運命の日
この日の予報は雨だった。悠人は「降ってもたかが十五分濡れるだけだし大丈夫だって」と言っていたがやはり不安なので私は学校に持って行った。予報は的中。十五分だけでも風邪をひきかねない雨の量だった。
「うー、まさかこれほど降るとは。なあ優衣、帰り入れてくれよ〜」
「だから言ったじゃん。はい、入れてあげるから傘持ってね」
「まじ?サンキュー!やっぱり持つべきは幼馴染だな」
(幼馴染か・・・)
「てことで、早く帰ろうよ」
「おう、そうだな・・・ってどうしたんだよ優衣?」
私は見てしまった。見つけてしまった。あの子が雨宿りしているところを。ここで悠人が傘を持っていけばきっと二人はうまくいくだろう。でも・・・
(悠人の幸せは私の幸せ。応援するって決めたもん・・・)
「ほら悠人、あそこにほのかちゃんいるからその傘持って駅まで送ってあげて。そしたらきっとうまくいくよ」(お願い、行かないで)
「え?お前の気持ちはうれしいけどいいのかよ?」
「私は大丈夫だから早く行ってきてあげて」(お願い、行かないで)
「分かった。サンキューな!」
悠人は行ってしまった。私の傘をもってあの子のもとに。
(結局私は雨に降られ続ける人生になっちゃうのかな・・・)
「帰ろ・・・。十五分我慢すればいいだけだもんね」
濡れて帰る覚悟ができた私は学校を出た。
(結局私は雨に降られ続ける人生になんだな・・・)
けれど、私の身体に雨粒が当たることはなかった。
Y 恵みの雨
この日の予報は雨だった。ほのかは慌てていたらしく傘を忘れてきたようだ。
「ね、康平。お願いだから待っててね?」
「分かったよ。けど、お前も早く降りて来いよ。いつも遅いんだからな」
「むー、ちょっとぐらいいいじゃん、ケチ」
(ま、こいつに傘だけ渡してやむまで時間つぶしときゃいいか)
今日はほのかの方が終わるのが早かったようだ。俺が下に降りるとすでにほのかは待っていた。そして優衣とあの男の姿も。
(また面倒なことになるなよ・・・)
「うー、まさかこれほど降るとは。なあ優衣、帰り入れてくれよ〜」
「だから言ったじゃん。はい、入れてあげるから傘持ってね」
「まじ?サンキュー!やっぱり持つべきは幼馴染だな」
(幼馴染ねえ・・・。やっぱこいつ優衣の気持ちには気づいてねえのな)
「てことで、早く帰ろうよ」
「おう、そうだな・・・ってどうしたんだよ優衣?」
優衣はほのかが雨宿りしているのを見つけたようだ。
(ちっ、一足遅かったか。けど優衣はどうするつもりなんだ?)
「ほら悠人、あそこにほのかちゃんいるからその傘持って駅まで送ってあげて。そしたらきっとうまくいくよ」
「え?お前の気持ちはうれしいけどいいのかよ?」
「私は大丈夫だから早く行ってきてあげて」
「分かった。サンキューな!」
そう言うと悠人という男は、ほのかのもとへ行ってしまった。ほのかも嬉しそうに奴の傘に入っている。
(優衣は完全にあきらめたのか・・・)
「はあ、ほのかに振り回されるのはいつも俺か・・・」
気づいたら俺は優衣を傘に入れていた。
Z 雨ノチ晴レ
私の身体に雨粒は当たらなかった。誰かが傘に入れてくれたんだ。
「なあ優衣、お前はほんとにそれでよかったの?」
声の主は康平君だった。
(よかったわけないじゃん。私だってほんとは・・・)
「うん。悠人の幸せが一番だから」
「そっか。けどお前自身の幸せはどうなんだよ」
「私自身の幸せ?」
「お前自身の幸せが見つかるまで俺が隣にいてやるから頑張れよ」
「うん、ありがと」
駅から足を踏み出すと、全身が冴えるような風がコートの中に吹き込んできた。
「うー、寒っ!」
慌ててコートの襟をそろえ、それを手で押さえながら歩き出す。背が低い僕にはあまり似合わないロングコートが、風にはためいてパタパタと音を立てた。
長く続いた打ち合わせも今日で終わり、あとはこの寒い帰り道を乗り越えて明日を待つだけだ。マフラーに顔をうずめながら視線だけをあげると、灰色の空から漏れる鈍い光が目に注ぎ込まれる。その妙な静けさに、嫌な予感が胸をよぎった。
「明日、雪とか降らなきゃいいけど……」
歩きなれた道をたどりながらそんなことを呟いてみた。もちろん、全く意味なんかない。もし、僕が願をかけたぐらいで天気が変わるなら、その能力で一生食っていけるだろう。そんなことができたら一件いくらで受けてやろうか、と下世話なことを考えていると、やっと自宅が視界に入った。もう少しで暖房と温かい飲み物にたどり着ける。つまらない想像を頭からかき消し、足を速めた瞬間、目指すべき扉の前に人影があることに気が付いた。一瞬息を呑むが、目を凝らしてすぐに安心する。彼女は、僕を今日まで育ててくれた、育ての親の雪乃(ゆきの)さんだ。
「雪乃さん! お出かけですか?」
早足で近づき声をかけると、長い髪を揺らして振り向いた彼女と目があった。少し息が上がっている。なんだか焦っているようだった。
「氷(きよ)照(てる)君! やっと帰ってきてくれた! あのね、氷雨(ひさめ)君がどこいったのか知らない?」
「げ……。まさか、また兄が何かやらかしました?」
安堵に溢れた雪乃さんの言葉に本日二度目の嫌な予感がした。こんなことは決して珍しくはない。ただ、よりにもよってこのタイミングか。やっと暖をとれると思ったのに。その気持ちが顔に出ていたのか、雪乃さんは、僕の方を見ると、言いにくそうに目を逸らしながら呟いた。
「えっと、氷雨君のお仕事?の偉い人?が来てて、打ち合わせに来たって言うんだけど、氷雨君はいないし、私じゃ全然わかんないし……」
「やっぱりか……!」
思わず天を仰ぎたくなる。しかし、ここが公衆の面前であることを思い出して止めた。さようなら暖房。僕は、マフラーを整えると、自宅に背を向け、足を踏み出した。
「氷照君? どこいくの?」
「兄を探しに行きます。どこにいるかは大体わかるから」
「え、でも、明日は大切な日なのに」
雪乃さんの言う通りだが、このまま放っておいても兄は帰ってこないだろう。それに、折角ここまで来てくださっている方にも失礼だ。
「すぐ連れ帰ります。待っててください」
僕には不思議な兄がいる。
名前は氷雨、兄と言っても双子の兄なので、歳は僕と同じだ。そして、職業は氷彫刻専門の彫刻家である。それも、中卒で彫刻の世界に入ってから今に至るまで数々の賞を受賞してきた天才彫刻家である。双子なのに手先が不器用な僕からすれば、羨ましいという言葉をいくつ重ねても足りないぐらいだ。
しかし、多くの芸術家と呼ばれる人達がそうであるように、兄もまた、彼だけの独特な世界を持っていた。それだけならまだいい。兄には彫刻のモデルになりそうなものや面白そうなものを見つけると、約束や仕事をすべて放り出して、脱走してしまう悪い癖があるのだ。
「そして、そのたびに僕が迎えに行くんですけどね」
投げやりな独り言を零しながらたどり着いたのは、近所の森林公園だ。自然がたくさんあるここは、兄の興味を引き付けるものの宝庫と呼んでもいい。辺りを見回しながら、公園内を進むと、走ったせいで少し霞んでいる視界に、見慣れた後ろ姿が映った。灰色の長袖一枚。この季節では考えられないほどの薄着だ。気づかれないように近づいてみると、首から右肩にかけて刻まれた大きな傷がボートネックから覗いているのがわかる。よかった。今回は一か所目であたりを引いたようだ。
「兄さん!」
腹から声を出すと、人影は焦る様子もなくゆっくりとこちらに振り向いた。大きく見開かれた瞳が僕に向けられる。
「あれ、氷照。どうしたの?」
「どうしたもこうしたもない!」
ズカズカと兄の方へ歩を進める。なんでこの人はこんなに呑気なんだろう。誰のためにここまで来てやったと思ってるんだ。そんな文句が喉まで差し掛かったが、目の前の兄が口を開く方が一瞬早かった。
「今日は明日の打ち合わせに行くって言ってたことない?
あ、終わったから遊びに来た?
池見に来た?」
普段は口数が多い方でもない兄だが、こういう時だけ饒舌だ。彼は気の抜けた笑顔を浮かべたままふらふらと柵にもたれかかるとその下を覗き込んだ。この時、僕ははじめてそこに池があることを知った。
「冬の池って不思議だよね。春や夏はあんなに賑やかだったのに、全然生き物の気配がしなくなる。でも、よく聞いてると命の気配が底に流れてるのがわかるんだ。僕は好きだよ」
兄のうっとりとした横顔を視線だけで盗み見る。再び池に視線を戻すと、風にそって模様が変わる水面が目に入った。この静けさは見ていて気分が悪いものではない。公園で遊ぶ子供達の声が遠ざかり、意識がだんだん内へ閉じこもっていく。外の煩わしいことは皆自分から離れていき、目の前にあるのは水面に映る自分の姿だけ―――。
「って、そうじゃなかった!」
慌てて池から目を離して首を振る。危ない。完全にのまれるところだった。
「兄さん、帰るよ。仕事先の人がうちまで来てるんだって!」
「え、仕事? そんなのあった?」
「あったから来てるんだ!」
兄の腕をとり、そのまま家に連れて帰る。これも何度繰り返したかわからない。おかげで兄も学習してくれたのか、病的なほどに細い腕は、無駄な抵抗はしなかった。
「急ぐよ。結構待たせてるんだから」
後ろの兄のことを見ずに足早に出口を目指す。成人男性一人を引きずるように歩く姿は周りからみると不気味なのか、なんどか通行人の視線が心に刺さった。これからしばらくこの公園には来られないだろう。
周囲の白い目を極力思い出さないようにしながら、公園を抜けた瞬間、順調に進んでいたはずの身体が突然後ろに引っ張られた。伸びきった腕の痛みに思わず振り返る。兄が腕を握られたままの状態で、空を見上げて立ち止まっていた。
「ちょっと、止まらな―――」
「氷照」
「何!?」
「……雪だ」
口の中だけで呟かれた言葉は、そのまま白い息となって虚空に消えていった。つられるように空を見上げると、灰色の空から白い結晶がふわふわと降りてきている。明日どころかもう降り始めてしまったらしい。それも、みるみるうちに勢いが増してきている。
「どうしよう、傘持ってないや」
打ち合わせに持っていっていた鞄を漁っても傘は入っていなかった。しかし、ここから家に帰るまでの距離は濡れて帰るにはいささか遠すぎる。
「兄さん、傘持ってたりしないよね?」
念のために兄にも聞いてみるが、雪に見とれている彼はどう見ても完全に手ぶらなので、期待できそうもなかった。
「持ってはないけど……あ、今から作るよ」
そういうやいなや、兄は空いていた左手を身体の前に出す。その瞬間、どこからか雪を伴った風が僕の頬を打った。
「―――!」
声にならない悲鳴と共に顔を両腕で守る。腕の隙間から兄の姿を覗き込むと、何もなかったはずの彼の手のひらの上に、小さい氷の塊が出現していた。
それを確認した瞬間、もう一度全身を雪が襲う。今度のはもはや突風と呼んだ方がふさわしいほどの強い風であり、コートが吹き飛ぶような心地がした。目の前では、兄の僕より少し長い髪が風にたなびいて、彼の顔を隠している。
それと同時に、小さな氷の塊が周囲の雪を張り付けたようにどんどん大きくなり、形を変えていく。まずは細長い棒状に変化し、次に棒の先が八つに分かれ、それぞれが円を描くように等間隔に広がってゆるやかに弧を描いた。
「……すごい」
いつの間にか、僕は寒さも忘れてその光景に見とれていた。吹き付ける雪の中、髪の隙間から見える兄の瞳は、ぞっとするほど冷たく澄んでいる。その人間離れした姿に圧倒されていたのかもしれない。
すべての弧と弧の間にピシシッと音を立てて、氷が張られると、風は今までの激しさが嘘だったように静かにおさまった。
吹きすさんでいた雪も、風がなければまっすぐ下りてくるだけだ。おだやかな雪景色の中心で、顔にかかった前髪を払った兄が優しく微笑む。
「はい、明日は大切な日なんだから、濡れないようにね」
差し出された手には、曇天を閉じ込めたような色の、氷の傘が握られていた。
不思議な兄の最大の不思議。
それは、彼がいわゆる超能力者であることだ。
兄によると、空気中の水分を凝固させ、かつそれによってできた氷の形状を変化させるのが彼の能力らしい。公にはされていないが、兄が作る氷彫刻は、この能力によって生み出された氷でできている。ただし、変化させる能力には限界があるので、細かい部分は兄自身が手作業で彫っている。
どうして兄にそんな力が宿ったのか。どういう仕組みで発動しているのかは兄自身にもわからないらしい。ただ、物心ついた時には使えてたというのだから、生来のものなのだろう。
そして、これは家族にしか話していないことだが、実は、僕にも同じ能力がある。
ただ、同じといっても、兄の力には遠く及ばない。僕が生成できる氷はせいぜい直径五センチまでだし、形も円盤型しか作れず、形状変化は使えない。兄に比べれば、無といっても差し支えないレベルの能力だ。
その後、僕達は兄作の氷の傘を差しながらだらだらと自宅を目指した。見た目のわりには軽い傘は、傘としても優秀だと言わざるを得ず、いつか溶けてしまうのがもったいないぐらいだ。
扉を開け、ようやく自宅へ足を踏み入れる。暖房の風が全身をなで、凍っていた身体が生き返っていくのを感じた。
「おかえりなさい」
音に気が付いたのか、部屋から雪乃さんが姿を現した。彼女は兄の方を一瞥して、安堵の息をつく。
「よかったあ。さすが氷照君、見つけるのが早い!」
「あっという間に見つかってしまいました」
「いつまでたっても帰ってこないから困ってたのよー?」
雪乃さんと兄の笑い声が響く。いつものことだが、どうしてこの二人はこんなにのんびりしてるんだ。いくらなんでも危機感がなさすぎるだろう。
「そんなこと言ってる場合じゃないよ。ほら、兄さんは早く仕事行く!」
呑気な笑顔を浮かべている兄の背中を部屋の中へ押し入れる。おそらく、しばらくリビングで打ち合わせになるだろう。邪魔にならないように、二階にある自室に戻ろうとしたとき、後ろから雪乃さんの声が響いた。
「ありがとう氷照君。明日、風邪ひけないんだから、手洗いうがい、きちんとね」
小さい子供に話しかけるような口調に、小学生じゃないんだからと心の中で突っ込みを入れる。多分、雪乃さんの中では、僕は今でも小さい氷照君のままなのだろう。
なんだか照れくさいが、逆らう理由もないので、そのまま洗面所に向かい、蛇口をひねる。勢いよく流れている水に指先を差し込むと、痺れるような刺激が全身を走った。
「冷たっ! なにこれ!」
慌てて手を引っ込め、蛇口を確認する。ここの洗面台は、蛇口の向きによってお湯と水を切り替えることができるが、今は冷水がでる設定になっているようだった。
「これ、兄さんが先に使ったな」
この季節に、冷水で手を洗おうなんて考える人間が兄以外にいるはずがない。震える手で蛇口の向きを変えると、やっとお湯にありつくことができた。
手が冷えすぎたせいで大して温かくは感じないが、水よりはよっぽどましである。何年か前に、兄にもお湯で手を洗う事を勧めてみたが、あろうことか、彼は流れるお湯に手を入れた瞬間、先ほどの僕のように飛び退いたのだ。その後、水で手を冷やす姿を見た時は、やはり、兄の感覚はわからないと思ったものだった。
わからないというか、兄の体質は少し異常なのだと思う。簡単にいうと、冷たさや寒さを好み、逆に熱や暑さにはひたすら弱いのだ。そのため、兄は冬でも長袖一枚で外出できる。ただその反面、暑い空間にいると、すぐに倒れてしまうのだ。しかも、それは夏や屋外に限らず、冬の暖房の効いた部屋などでも体調を崩すのだから、本当に不便な体質である。
兄は、原因が自分の能力にあるのではと言っていたが、僕にはそのような傾向はない。やはり、兄の方が強力な力を宿している分、身体への影響も大きいのかもしれなかった。
「まあ、僕も夏は嫌いだし、少しその気があるのかもね。冬も苦手だけど」
鏡に向かって語りかけると、向こうも自分と同じように苦笑いを浮かべた。外に長時間いたせいで少し顔色は悪いが、すぐに治るだろう。これなら明日にも影響は出なさそうである。
温かくなったお湯を止め、近くにあったタオルで手を拭く。その後、簡単にうがいをすませてから洗面所を出ると、リビングでの会話が耳に入った。
「でね、ここからはちょっとお願いなんだけど」
知らない男性の声に、リビングを少し覗き込む。すると、普段、家族で食事をとっている机に手を置いて話すスーツ姿の男が目に入った。歳のころが五十代近くに見えるので、どこかの要職についている人なのかもしれなかった。
「今日突然、出版社から連絡が入ってね。どうも君を取材したいっていう人がいるんだって。しかも、急な話なことに、明日伺いたいとか言うんだよ。断ってくれても構わないが、どうする?」
明日。その単語が頭に突き刺さる。そうだった。兄はあんなのでも売れっ子の彫刻家なのだ。いつ仕事が入ってもおかしくない。それを僕の都合で邪魔するわけにはいかないだろう。少し残念だが諦めるしかなさそうだ。それに、いくら身内とはいえ仕事の話、このまま聞き耳を立て続けるわけにもいけないので自室へ退散しよう。そう考えたが、兄の声が僕の足を止めた。
「取材は受けます。でも、明日は駄目なんです」
柔らかいが、意志のはっきりした声が響く。いつもはふにゃりと笑う兄だが、こういう時だけ格好いいのだ。つくづくずるいと思う。なんだかこれ以上は見ていたくなくて、僕はリビングに背を向け、自室へつながる階段に足をかけた。
「そっか。じゃあ、別の日なら応じてやるって連絡しとくよ。ところで、これは個人的興味なんだが、明日何かあるのか?」
「ああ。明日は弟の結婚式なんです」
自室の床に横たわると、大量のダンボールが塔のように連なって見えた。それは、僕の周囲を一周するようにそびえ立っており、その他の家具は目に入らない。つまり、今、この部屋にはダンボール以外には何も存在しなかった。
僕は明日結婚式をあげて、この家を出る。改めてそう考えると寂しさもあるが、これは、かねてからの僕の願望でもあったのだ。
僕は自分を生んでくれた両親の顔を知らない。今、一緒に暮らしている、雪乃さん夫妻は、二人とも育ての親だ。彼女達との思い出はたくさんあるが、実の両親との思い出を僕は全く持っていなかった。
それどころか、僕の記憶は、七歳の時にこの部屋のベッドで目覚めた時から始まっていて、それ以前のことは何一つ、小さな断片すらも思い出せない状態だ。
ここに来る以前のことを雪乃さんに尋ねても「あなた達は、雪の日に、突然私達の前に現れたの。きっと天の神様からの贈り物なのよ」の一点張りであり、それならと兄に尋ねても「思い出せないならその方がいいよ」と優しく微笑まれるだけだった。
この質問をした時は二人の言葉をそのまま信じたが、もうそこまで子供ではない。今なら、特殊な能力を持って生まれた僕達双子が、大多数の人間からどう思われるかなどは頭を働かせなくてもわかる。きっと、兄の首から肩にかけて刻まれているあの傷も、そういうことが原因でつけられたものなのだろう。
しかし、そんな僕達を雪乃さん達は無限の愛を持って受け入れてくれた。だから、今までの人生で、苦しいことや悲しいことはそれこそたくさんあったが、人生に絶望するような経験は、少なくとも僕の記憶の中ではしていない。だから、いつか大人になった時にはなるべく早く自立して、雪乃さん達に迷惑をかけないようにしようとずっと昔から決めていたのだ。
いろいろな人に援助してもらいながら、四年制大学を出て一年。自立のきっかけが結婚になったのは嬉しい誤算だったが、やっと人生のスタートラインに立てたような気がする。もちろん不安もある。ただそれ以上に、このダンボールだらけの部屋から始まる新しい人生に心が昂っていた。
「いよいよ明日だ」
自分に言い聞かせるように呟いて、部屋の窓にかかっていたカーテンを開ける。夕暮れが近づいた町は薄暗さに包まれ、見慣れた景色が少し物悲しい雰囲気を醸し出していた。
「この町とももうお別れだね」
ゆっくりと窓に手を当てた瞬間、ふあっと冷たい風が頬を撫でる感覚がした。それは、ドアを閉め、暖房をかけているこの部屋ではありえない感覚だったが、慌てることはない。僕はこの感覚をよく知っている。
「兄さん、仕事終わったんだな」
おそらく、仕事を終えた兄が、隣の部屋に戻ったのだろう。時々、気配とは違う感覚で兄の存在を感じることがある。そしてそれは逆も同じであるらしい。つくづく双子とは不思議な生き物だと思う。
僕は、カーテンを閉めて雪が舞う町の風景を閉じると、扉にかけているコートをはおい、手袋とマフラーをつけた。しかし、これだけでは足りない。最後に、ダンボールの上に置いてあったニット帽を手に取って、真冬の重装備の完成だ。先ほど外に出ていた時より厚着だが、これくらいしないと今から行く場所では耐えられない。
自室を出ると、右手の方に特殊なドアノブがついた部屋が目に入る。部屋の空気を逃がさないように設計されている扉は、そのドアノブを上げるだけでも一苦労だ。それでも両手を使って、扉を開けると、冷たい冷気が全身にかぶさるように襲い掛かって来た。
「う、ううぅぅ」
もはや、もう何も言えない。ガタガタと震えながら部屋の隅にかかっている温度計を見ると、零度を余裕で突破している数値が目に入った。この部屋の温度に比べたら外の気温なんて可愛いものに思えてくる。
「あ、来たんだ。扉は閉めておいてね」
蹲って歯をならしていると、部屋の奧から呑気な声が聞こえてくる。言われた通り重い扉を閉めると、空気が抜けて、部屋が密閉される音がした。
「……あ、相変わらず、凄い部屋だね」
全身の先から凍っていくような錯覚に陥りながら声を絞り出す。
床にまで散らかる大量の書類と見たこともない機械で溢れているこの部屋は、兄の自室兼アトリエだ。初めこそ僕の自室と同じ間取りの部屋だったのだが、兄は仕事が軌道に乗ってきたころに、自らの作品の売り上げをつぎ込んで、自室で氷彫刻が作れるように部屋を改造してしまったのだ。そのため、今では、年中極寒の氷の部屋となり果てている。
「どうしたの、何か用?」
机の裏から姿を現した兄は、さっきまで着ていた灰色のシャツに、黒いカーディガンを一枚羽織っただけのまるで春先のような服装だった。襟から覗いた傷が寒々しいが、もはや突っ込む気力も起きない。僕は、なるべくその傷を見ないように目を逸らしながら、床に置かれた座布団に腰を下ろした。これは、兄がこの部屋を改造した際に、こんな冷たい床なんかに座ってられるかと僕が持ち込んだものだ。
「何か用って……。自分の家を移動するのに理由がいる?」
なるべく身体を丸めた状態でしゃがみ込む。せっかく用意した座布団もこの部屋の冷気にあてられて冷たい。
せめて摩擦熱だけでも得ようと思い膝の上で手を滑らせていると、正面の床に兄が座るのがわかった。
「君が、理由もなしにこの部屋に入ってくるわけないよ」
そんなに厚着までして、と兄は僕のコートを指して笑った。どう考えても僕の服装の方が正当なのだが、それを兄に言っても仕方がないので代わりにわざとらしく息をついてやる。
「……まあね。今日が最後だから挨拶しとこうと思っただけだよ」
「挨拶かあ。なんか改めて言われると恥ずかしいね」
兄は少し目を細めると、すくっと立ち上がり、大量の書類がのせてあるボックスの扉を開いた。見ると、どうやらそれは冷蔵庫だったらしく、中にはペットボトルのお茶が入れられている。兄はそれを一瞥すると、僕の方に向き直った。
「緑茶と麦茶どっちがいい?」
「ごめん、冷たいのはいらない」
「えー、この部屋より暖かいのに」
兄は冷蔵庫の中に手を入れながら口を尖らせたが、そんな顔をしても無駄である。第一、冷蔵庫より冷たい部屋ってなんなんだ。そして、そんなところで冷たいお茶を勧めてくる感覚はもっと理解に苦しむ。その後も兄は何度か聞き返してきたが、そのすべてを断ると、やっと一人分のグラスに緑茶を入れて、冷蔵庫を離れてくれた。
「そうだ、仕事の打ち合わせ終わったの?
さっき、取材がどうとか言ってたけど……」
「取材の日程はずらしてもらったよ。明日は氷照の晴れの日だからね。仕事なんてしてられないよ」
「いや、仕事はしなよ?」
当たり前のように答えられて思わず体を乗り出したが、当の兄には全然堪えてないようで、文句ありげな視線をこちらに向けてきた。その姿は、どう見ても反省しているようには思えなく、ため息が漏れる。
「とにかく、これからは締め切りが近づいたからって脱走とかしないでね。もう探しに行けなくなるんだから」
もう僕には、脱走した兄を探しに行くことはできなくなる。明日になれば、僕はここから離れた場所で彼女と共に暮らすことが決まっているからだ。そのことはずっと前から理解していたはずなのに、いざ口にすると言葉にできない感情が胸を締め付けた。
もし、兄が大事な展覧会へ出席することを忘れていたら、誰が彼を会場に連れて行ってくれるのだろう。もし、それに出なかったせいで兄の彫刻家としての立場が危うくなったりしたらどうするのだろう。それどころか、今日延期された取材にすらきちんと行ってくれるか不安になってきた。
「あー、不安だ……。兄さんが脱走癖のせいで職失ったりしたらどうしよう……」
「氷照? なんか失礼なこと言ってない……?」
信じていたものに裏切られたような表情の兄が何か言っているが気にしない。まあ、脱走癖については、いくら注意しても治らなかったのだから気にしても仕方がないのかもしれない。どうせ、僕の言葉の力なんかで兄の行動を縛ることなどできないのだ。
「それに、今までなんだかんだで成功してるし、なんとかするでしょ?」
「え? あ、うん?」
釈然としない表情で頷く兄は、きょとんとしたままお茶を喉に流し込んでいた。よく見るとすでにシャーベット状になっているそれを時間をかけて飲み込むと、遠くに視線を向け、感慨深げに呟いた。
「いよいよ明日だねえ。蕾(つぼみ)さん元気?」
「うん、明日の作品楽しみにしてるって」
「そうか。そう言ってもらえると気合い入るよ」
蕾というのは、僕の彼女の名だ。蕾は兄の作品の熱烈なファンで、僕との出会いも兄の展覧会がきっかけだった。ちなみに、明日の結婚式では、彼女の要望で兄が作った氷像を飾ることになっている。しかも、その像が溶けにくいように、わざわざ雪降る冬の挙式を希望したのだから、彼女も相当の変わり者だと言えるだろう。類は友を呼ぶのかもしれなかった。ただ、そういうと僕もその一員のような気がしてきて、なんだか複雑な気分なのだが。
「氷像はもうできてるの?」
「あ。いや、まだだよ」
おっとりした瞳に少しだけ鋭い光が灯る。今までの頼りない雰囲気を消した兄は、部屋の隅にある大きな台の方へ視線を向けた。
「ああいうのは作り置きできるものじゃないからね。今日の夜、一気に彫り上げるつもりだよ」
確かに、氷でできているのだから長持ちしないのはあたりまえだ。いくらこの寒い部屋でも、人間が暮らしている中で何日も氷像を保管することは難しいだろう。短い時で作ったものを限られた時間で鑑賞する。おそらく、そこには絶えずタイムリミットが設定されていて、それが氷彫刻の魅力なのかもしれない。そう思うと、ますます明日が楽しみになる。
「それでも、さすがにデザインは決まってるんでしょ?」
「まあね。でも秘密」
高揚を閉じ込めた声と共に、いたずらを隠す子供のような笑顔が向けられる。とても気になるが、そんなことを言われる気もしていたので、これ以上追及することはやめることにした。
「そうだね。明日を楽しみにすることにするよ」
「任せて。……あ、でも、夜中に少し音がするかもしれない。なるべく静かにやるようにはするから」
ごめんと頭を下げられて思わず慌てる。兄さんが改造したおかげで僕の部屋とこの部屋の間の壁はかなり厚くなっているので、お互いの部屋の物音が響きあうということはまずないのだ。そのため、騒音の面での心配はなかったが、夜中に作業をするとなると代わりに他の不安が胸をよぎった。
「音は平気だけど、徹夜で作業なんかして大丈夫なの?」
僕の記憶の限りでも、兄さんが出先で倒れた回数は十回では足りないし、熱を出したり体調を崩したりした回数はもう数える気もおきないほどだ。そんな彼に徹夜をさせても途中で力尽きるような気がしてならない。
「頼んだ僕に言う権利はないけど無理はしないで。兄さん、身体弱いんだから」
僕の言葉に、兄は目を見開いて、大きく瞬かせた。一瞬の沈黙のあと、小さく息が吹き出される音が耳に入る。
「はは。この部屋で作業するから倒れたりしないよ。僕は暑いところに行かない限り体調崩さないんだから」
珍しく声をあげて笑う兄を見ていて気が付く。そうか、彼にとってはこの極寒の部屋だけが安全地帯なのだ。おそらく、ここから一歩出た瞬間に広がる世界は、彼にとってはとても生きづらいものなのだろう。それでも、そこで窒息しそうになりながら生きているのが今の兄なのだ。それは、双子としてずっと隣にいた僕にはよくわかる。
「そうだよね。この部屋にいれば、ね……」
冷たい空気に包まれた部屋を見回す。兄を受け入れる世界は、こんなにも狭くて寂しい。命が死に絶えるこの場所で、これからも、兄は一人で生き続ける。
もし、僕らの能力が等分されていたら、兄の体質はもう少し改善されていたかもしれない。兄が能力の大半を背負ってくれているから、僕は何事もなく外の世界で生きていくことができている。僕は生まれた時からずっと兄に守られていたのだ。そんな単純なことに今まで気づけなかった自分が恨めしかった。だって、今更気づいてももう遅い。明日には僕はこの家を離れてしまう。
「……ごめん、兄さん」
「え? 急にどうしたの?」
兄の笑顔が冷たい部屋に浮かぶ。その表情がなぜか無理をしているように見えて、心が締め付けられるように痛んだ。
「僕達は、生まれてから今までずっと一緒だったでしょ?
それなのに、僕は、兄さんをこの部屋に置き去りにしてしまう」
何度も確認しながら胸につかえていたものを吐き出す。僕は自分以外の人間が兄の部屋を訪れるところを見たことがない。もしかしたら、明日が来たら、本当に彼は一人になってしまうのではないだろうか。冷たい何かが胸に込み上げてきたが、それはすぐに喉を鳴らす音にかき消された。
「くくっ……あ、ごめん。あまりに面白かったからさ」
その時、僕がどんな表情をしていたのかは自分でもわからない。ただ、兄が謝りを入れたところを見ると、相当険しい顔をしていたのだろう。
「あのね、氷照の言う通りだったら、僕達はどちらかが死ぬまでずっと一緒にいなければならないことになるんだよ?
それってどれだけブラコンなの」
兄は今にも爆笑しそうな状態で笑いを堪えている。世間に疎いはずの彼の口からブラコンなんて言葉が出てきたことには驚いたが、今の僕はそれを笑えるような精神状態ではなかった。
「死ぬまでとは言わないよ!
でも、僕にとって兄さんは唯一の血の繋がった家族だ。やっぱり気になるんだよ!」
きっと、僕が覚えてない過去でも僕達は一緒にいた。そして、そこでも僕は兄に守られていたのだろう。傷の無い首筋がそれの証明だ。それなのに、僕は何一つ返すことができないまま、簡単に彼を振りほどいてしまう。せめて、兄が安心して共に暮らせるような人を見つけるまでは、彼のそばにいた方がよかったのではないだろうか。
やりきれない思いに息がつまり、僕はその場で拳を握る。手袋をつけているため、爪が皮膚に刺さる痛みはなかったが、代わりに布が指を締め付けるのがわかった。そのまま、膝の上で引き伸ばされている手袋を見つめていた僕は、ふと肩に軽い衝撃を感じて顔を上げる。すると、兄が僕の肩に手を置いていた。
「兄さん?」
「氷照、勘違いしたら駄目だ」
目の前の兄は、いつもの笑顔を浮かべてはいなかった。口もとは固く結ばれ、瞳はいつかのように冷たく澄んでいる。目の前の兄は決して怒ってはいないが、彼の鋭い視線が僕の心臓を掴んで離さない。嫌な汗が背中を伝うのを感じた。
「僕達は双子だけど、二人で一つじゃない、一人一人の個人だ。だから、君がここを出たら僕は君を助けないよ。もちろん、君が僕のことを気にする必要もない」
そこまで言うと、僕を捉えていた冷たい瞳が、ふっと緩みを見せた。いつもの通り気が抜けた笑みを浮かべた兄がそこに現れる。
「でも、本当に困ってる時は別。いつでも頼ってよ」
コート越しでも冷たく感じる手が、肩から離れていく。その時の僕は、その冷たさを恋しく思う反面、なぜか背筋が伸びるような心地を感じていた。
兄は、僕には絶対できないような大人びた表情でこちらを見ている。今まで脱走した彼を連れ戻すたびに自分が世話を焼いているような気分になっていたが、本当に甘えていたのは僕の方だった。弟という立場に甘んじて、兄に依存し続けていたのだ。これでは、兄が言う通りただのブラコンでしかない。
「うわー。この年になって自分がブラコンだって自覚したの辛い……」
「んー、別に落ち込むことでもないと思うけどなあ」
確かに、ブラコン自体は悪いことではないが、やはり、これからずっと兄を頼って生きていくというのも情けない。それに、自分は一人の個人だということを意識すると、なんだか世界が広く見えるような気がするのだ。弟という立場を捨てて生きる道は、もしかしたら今よりずっと厳しいものなのかもしれない。それでも、なぜか気がめいることはなく、むしろ、これから起きることへの期待の方が大きかった。
「いい顔つきになったね」
「え?」
兄に指摘され慌てて窓を見る。うっすら映った自分の表情はいつもと何も変わらない。しかし、こちらを面白そうに見ている兄の目には、僕の考えていることなどお見通しなのかもしれなかった。まあ、よくわからないが、彼が言うならそうなんだろう。僕は兄の方に向き直り、姿勢を正した。
「ありがとう兄さん。やっぱり、最後にちゃんと話ができてよかった」
兄に言葉をもらえなければ、僕はずっとぐずぐずに甘えているだけの人間だったに違いない。同じ年数しか生きていないはずなのだが、やっぱりこの人には敵わないと思う。
「どういたしまして。僕からも今までありがとう。氷照がいなかったら、仕事もこんなにうまくいかなかっただろうし」
「うん、これからはスケジュール管理きちんとしてよ」
「わかってるよ」
了承を意味する言葉も、ここまでふにゃりとした笑顔で言われると余計に不安を煽るだけだ。なにより、今日の予定を忘れていた兄がいきなり変わるとも思えない。やっぱり雪乃さんに監視をお願いしといた方がよさそうだ。
「僕、なんか変なこと言った?」
「いいえ、なんでもありません」
純粋な疑問をぶつけてくる兄に投げやりな返答をすると、僕はその場で立ち上がった。机に置かれている時計がもう夕方を指していることに気が付いたからだ。
「じゃあ、僕、もう戻るね。雪乃さん達にも挨拶したいし」
それに、兄と話しているうちに慣れてしまっていたが、この部屋は人間が活動できる範囲をはるかに超えた気温に設定されているのだ。あまり長時間いると、僕が風邪をひいてしまう。
「そうか。じゃあ、僕は氷像の準備をさせてもらおうかな。夕飯までにせめて部屋は整理しとかないと」
苦笑いを浮かべながら、兄は書類が散らかる床を手で指した。確かに、この状態では氷を置くこともできないだろう。
早速、書類を拾い出した兄の邪魔をすることもないので、ドアノブに手をかける。力をこめてそれを動かそうとした瞬間、兄の声が部屋に響いた。
「氷照」
意識するより早く身体が動いた。兄の透明な瞳がまっすぐにこちらを見つめていた。兄はいつも通りの綺麗な笑顔を浮かべているようにみえたが、僕には、彼が唇を噛んでいることがわかってしまった。ということは、きっと今、僕が感じているこの複雑な気持ちも兄には伝わっているはずだ。僕らの間では一生隠し事はできないだろう。
「じゃあ、ね。今日はありがとう」
後ろ髪を引かれる思いを断ち切って兄から視線を逸らす。目の前にそびえ立つ灰色のドアがなぜかにじんで見えた。
「氷照なら大丈夫だよ。お幸せに」
誰よりも耳に馴染んだ声が、扉が閉じる音とともに消える。最後の表情は見えなかった。けど、兄も僕と同じ顔をしていたのではないだろうか。
だって、僕達は一人の個人といっても双子なのだから。
目の前のモニターに映し出されている資料がひと段落を迎えたので、一度パソコンを閉じた。凝り固まった身体をほぐしながらのびをすると、机の端の写真立てが目に入る。そこには、これ以上ない幸せに微笑む新郎新婦と、翼を広げた鳥のつがいの氷像が映っていた。仲睦まじげに寄り添う二羽が、新たに結ばれた二人を見守っているように見える。
あの日から十数年がたったが、今でも、式場で慣れないダークスーツを苦しそうに着ていた兄の姿を鮮明に思い出せる。あんな暖かい場所で、兄にとっては厚着にあたる格好をさせていては、絶対に体調を崩すと思っていたのだが、案の定、披露宴が始まる前に控室に来た兄は、熱出したから帰る、と言って、すぐに帰ってしまった。未練もなく歩き去る姿は、明日の朝にでもすぐ会えると言っていそうなものだったが、結局それが、僕が最後に見た兄の姿だった。
「はあ……目が、痛い……」
「パパー!」
ドアが開く音と共に、耳を貫くような高い声が響いた。身体は疲れていたが、この声の持ち主だけにはだらしない姿を見せられないという思いが、僕の姿勢を正す。あの祝福に包まれた結婚式で一人の女性の夫になった僕は、今、一人の娘の父となっている。
「おかえり、買い物どうだった?」
椅子ごと振り返ると、買い物袋を持った娘が満面の笑みを浮かべていた。本人の頑なな意志で伸ばし続けている黒髪が元気よく揺れる。
「ママにお洋服買ってもらった!
見せたげる!」
そう言って目の前ではしゃぎながら着替え大会を始める娘を見ていると、僕も、やっとここまで来ることができたのだという感慨が込み上げてきた。
雪乃さん達から自立したことで、借金から始まった結婚生活はなかなか過酷だった。しかし今では、娘に欲しい服を買ってあげられるぐらいには余裕のある生活を送れている。それもこれも、ここまでともに歩んでくれた妻のおかげであり、彼女とのつながりは愛とか絆を通り越してもはや連帯感に近いものになっていた。
「どう? 似合ってる?」
「うん、ママにありがとうって言いなよ」
「もう言った!」
可愛らしい笑みを零しながら、着替えが終わった娘は僕の部屋で走り回っている。どこかの誰かに似て寒さに強い彼女は、真冬だろうが外で遊びたがるお年頃だ。しかし、寒さに強いといっても、娘は僕のような特殊能力は持っていなかった。それを幸いと判断していいかどうかは僕にはわからない。
妻が妊娠した年のある日、疎遠になっていた実家から届いた知らせは、兄の訃報だった。三十歳での早世、ある意味、兄の体質を考えれば当たり前のことだったのかもしれない。
その時の雪乃さんの話によると、兄はあれからもずっと一人で彫刻の製作を続けていたらしい。そして、とても自然に、まるで雪が水に還るように眠りについたのだという。兄があの部屋に何を見ていたのか、なぜ脱走をくり返していたのか。結局、彼についてわかったことなど何一つない。残っているのは、僕の中にある思い出だけだ。
「ねえパパ、お外行きたい!」
はしゃいでいた娘が、ついに予想通りの言葉を発した。おそらく、新しい服を外の世界にお披露目したくてたまらないのであろう。きらきらした目がそれを物語っている。
「ええ、外? 寒いのに?」
「はやくはやく!」
一瞬顔を顰めた僕のことなど気にすることなく。薄着で外へ飛び出す娘を見ていて思う。
いつかこの子にも教えてあげようか。
聞きそびれたこともたくさんあって、僕にも結局すべてはわからなかったけど。
僕には不思議な兄がいたことを。
夕方
カンカンカンカンカン
夕日の見える車窓から踏切を数えていた彼女はこれが六個目の踏切か七個目かわからなくなったので数えるのをやめた。車内の天井の明かりは薄暗い蒼白い色を放ち彼女を照らしている。昨年買った白のパンプスはすっかりくすんだ色になっている。その汚れが気になって彼女は足を組んだ。
彼女が電車に乗り込んだ時座席の前には眼鏡をかけた年配の男性が座っていたが、いつのまにか和服姿の女性に変わっていた。品のよさそうな女性は熱心に本を読んでいる。こちらには見向きもしないで本を読みふけっているので、彼女も自分のカバンの中身をあさってみたが、財布の他には携帯しか入っていなかった。再び車窓から外の景色を見ようとすると
ピロリン
彼女のカバンの中に入っていた赤色の携帯が鳴った。彼女はすぐさま携帯を取り出し、内容を確認した。
「康太のママ 『気を付けておいでね』」
携帯のディスプレイに表示されたその文字を見て、彼女は涙ぐんでいた。読み終わり、携帯の電源を切ってまたカバンの中に戻す。そして彼女はまた車窓の外の景色をとらえた。もうすっかり日も落ちて、外の景色はきれいな夕日に変わっていた。手の中の携帯の冷たさを感じていた。
今朝
彼女は携帯のアラーム音よりも先に、自分の家のドアが開く音で目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む光はいつもより弱く、部屋は薄暗い。枕元のスイッチで部屋の明かりを点け、ベッドから降りてカーペットの上に座った。
「ただいま」スーツ姿の彼が、眠そうに部屋に入ってきた。もう何度目の朝帰りよ、と彼女は内心思っていたが、それでも不動産関係の仕事をしている彼は忙しいから仕方ない、と自分に言い聞かせていた。
「昨日も仕事?」
「あぁ、残業がたまっていてね、そのまま会社に泊まったよ。あんまり寝てないからひと眠りするわ。」
その言葉を聞いて彼女はため息をついた。カレンダーの8月10日のところには大きな花丸がついてあった。先月彼の休みの日と彼女の休みの日が被ったことがわかり、すぐに花丸を付けていた。久しぶりに二人の休みが被る日だった。だから二人で遠出しようと約束していたのに。不動産の仕事は土日出勤が多い。彼女は教師なので、土日は休み。そんなことから二人の休みが被ることはほとんどない。彼女の悲しそうな表情がだんだん怒りの表情に変わっていた。
「今日休み被ったからドライブに行こうって言ってたじゃないの」
少し強めの口調で彼を問い詰めた。
「…そうだっけ…すまん!一休みして、夕方からいこう!」
「夕方?それじゃどこにも行けないじゃないの、楽しみにしていたのに」
「仕事だったんだらしょうがないじゃないか」
それを聞いて彼女は何も言い返せなかった。確かにそうか。
「そうよね、ごめんなさい」
「いや、いいんだ。とりあえず寝てくるわ、それからシャワー浴びるよ」
そういって彼はジャケットを脱ぎ捨てベッドに潜り込んだ。
夕方
車窓から見える景色はすっかり変わって、真っ暗だった。ときおり明かりが見えたがそれが家の明かりなのか、汽車の火花なのか彼女にはわからなかった。真っ暗な車窓の景色の代りに窓には自分の姿が映っていた。真っ赤にしてこちらを見つめる目。髪はどことなく乱れている。隣に座っている女性はもう本を読み終わりそうだった。彼女にまだ降りる気配はない。グー、彼女のおなかが鳴った。そういえば昼から何も食べていない。昼間作ったカレーを思い出しながら彼女はおなかをさすった。
昼過ぎ
ガチャン
買い物袋を二つも抱えて彼女は家の扉をあけた。玄関先に買い物袋を機、天井を仰ぎながらフーと息を吐いた。ニンジンや玉ねぎ、鶏肉を買い物袋から取出し、彼女は料理を始めた。疲れている彼のためにおいしいものを食べてもらおうと考えたのだ。手際よく料理をし、カレーのルーを入れて煮込んでいつ時に、ふと彼がさっき脱ぎ捨てたジャケットが目に留まった。しわがついてはいけないと、ハンガーにかけておこうと思い、ガスの火を弱めて、ジャケットを拾い上げた。
コロン、ジャケットの中から小さな塊が落ちた。よくみてみるとピンクのルージュだった。彼女は、ルージュをしばらく眺めていた。すっかり使い古された見覚えのないルージュ。そのルージュが落ちたのと同時に、なんともいえない強い花のようなにおいが彼のジャケットから漂い始めた。彼女はしばらく考え込んでいたが、ぐつぐつ煮えるカレーの音で我に返った。ピンクのルージュをもったまま、ガスの火を止めにいった。カレーを見て彼女は泣いていた。カレンダーに書かれた花丸の印、スーパーに行ってたくさんグザイを買って料理したカレー。泣きながら彼女は作りかけのカレーをそのままシンクに流した。カレーが飛び散り、彼女の服の袖口が茶色に染まり、シンクには具材とカレーのスパイスの香りが彼女を包むようにして広がった。袖口についたカレーを見て、彼女はバスルームに向かった。バスルームについて袖口についたカレーを落とそうと、蛇口をひねり、いっぱいに水を出した。何度こすっても一度ついたカレーはしつこくなかなか取れない。ため息をついて彼女が顔を上げると、鏡には泣きはらした真っ赤な目をした自分がこちらを向いていた。鏡に映った自分の手にはピンクのルージュがあった。そのルージュに目を向けると、勢いのまま鏡にむかってルージュで殴り書きをした。泣きはらした自分の顔もピンクのルージュの文字と一緒にかき消した。
夕方
隣に座っていたはずの和服の女性はいつの間にかいなくなっていた。彼女は大きく深呼吸し、カバンのチャックを閉めた。電車内のアナウンスは終点を告げていた。
バスルームを後にした彼女はすぐに簡単な荷造りをし、家を飛び出した。さっきカレーで使う具材を買いに来たスーパーを素通りし、駅までの道を急いだ。コンクリートの道路を歩くとすぐに汗ばみ、彼女の肌を灼熱の太陽が照り付けていた。コンクリートの道路のそばに生えている木々は青々と生い茂り、その陰からセミの鳴く声が聞こえてきて、彼女のすすり泣く音はかき消されていた。震える手で彼女は携帯を握りしめ、メールを打った。
「康太のママへ 話したいことがあるの。いまからいくね。急にごめんなさい。」
すぐに送信ボタンを押し、駅への道のりを急いだ。返事のメールの見ていないのに目的地を決めている彼女の眼には強い意志が見える。今から向かっても家に着くのは遅くなるだろうことは彼女にもわかっていたが、それでも彼女は飛び出していた。メールを送信してからか、彼女の足どりは先ほどよりは緩まっていたが、それでも表情は硬かった。すれ違った女の人も何事かと彼女をじろじろと見つめていた。そんな人には見向きもせず、彼女は駅に向かって歩いていた。コンクリートの道からレンガに舗装された商店街に入り、人の声も往来してきた。今の俊は夏ミカンだからか、甘酸っぱいにおいが彼女の周りを包んでいた。商店街を抜けるとようやく駅に着き、片道の切符を買って電車に乗り込んだ。
終点の駅に着き、切符を駅員さんに渡して改札を抜けた。昼間の暑さはみじんも感じられないほど、涼しくなっていて。彼女はまくっていた袖をもとの長さに戻した。改札からすぐのところにその家はあった。大きな日本家屋は時代劇に出てくる家を思い出させるほどだった。家から駅までの間にはコンビニも、タクシーすらない。こんなところでも家から駅が近いのだけが救いだった。
インターホンを鳴らすとなかから物音がして、穏やかそうな女性が扉を開けた。歳は50代後半だろうか。彼女を見ると笑顔になり、
「遠かったねえ、だいじょうぶかい、なかにおはいり」
といって彼女を出迎えてくれた。彼女はその言葉を聞いて言葉に詰まってしまっていた。
家に入ると、玄関には康太の思い出の写真がたくさん置いてあった。幼稚園で泥んこ遊びをした写真や、小学校の入学式、修学旅行の写真で友達と一緒に笑っている写真。その隣には先月婚約した時に彼女と撮った写真も飾ってあった。自分たちの写真に目を止めた彼女はしばらくその写真を見つめていた。
「紅茶かコーヒーどっちがええな」
お母さんがそう声をかけてくれて彼女は、「紅茶がいいかしら」と言って写真から目を離した。土間の玄関で白のパンプスを脱ぎ、スリッパに履き替える。スリッパで歩く音が天井まで響いた。天井には時代を思わせるおしゃれな神の灯篭がともっている。そのオレンジ色の光に癒されながら彼女はいつもの居間に入っていった。今には大きな木の机と座布団が敷かれていて、彼女はその紫色の座布団の上にちょこんと座った。
しばらくするとお母さんが紅茶を入れて持ってきてくれた。
「それでなにがあったんね、急に連絡してきてさ、びっくりしたよね」
心配そうに見つめるお母さんの目にはうつむいた彼女が写っていた。
「今日、ほんとはね康太とドライブに行く約束をしていたの。」
「ほう」
「でもね、康太ったら残業で朝帰りだったの。」
「それで怒ってるのかい。それはわたしれいちゃんの味方してあげられないかもしれないね」
「ううんちがうの、それでね、仕事だから仕方ないって思ったんだけど、康太が脱ぎっぱなしにしたジャケットを片づけようとしたら、ジャケットから女のひとの香水の匂いがしてね、それからピンクのルージュがでてきて。」
そこまで言って、彼女は言葉に詰まった。なんだかのどが苦しくなって喋れなくなったようだ。その様子を見かねたお母さんもしばらく黙って彼女を見つめていたが、口を開いた。
「そういうことかい。そのルージュはれいちゃんのじゃないんだね。」
「あたし、あんなまっピンク使わないもん」
彼女は口をつぐんだ。
「なるほどね、それでわかったよ、れいちゃん康太に手紙書いてきた?」
彼女ははっとした表情をした。
「なんでそれしってるの。」
「さっき康太から電話があったんだよ。れいかがそっちに行ってないかって。起きたらいないからどうしたものかってね。とりあえずきてないよってつたえたけど、康太えらい焦ってたよ。そろそろ連絡入れてあげたらどうかね、かなり心配してるよあれは」
あははとお母さんは笑いながら紅茶を飲んだ。
「それで?康太は言わなかったけど、なんて書いてきたんだい。」
いたずらな笑みを浮かべながらお母さんは彼女を見つめた。
「…ばかやろうってそのピンクのルージュで書いてやった。」
彼女がぼそりとつぶやくと、お母さんは目を大きく見開いて彼女を見つめた。
「あーらほんとに。それで康太あんなに焦ってたのね。ルージュのことには気づいていないと思ってたんだけど、それでわかったわ。」
謎が解けたような顔をしてお母さんは再び紅茶に目を落とした。
「今日は遅いから泊まっていくといいよ、康太に連絡してないから心配してるみたいだし、めーるだけいれといておやり。」そういっておかあさんは居間から出ていった。電車で電源を落としてから携帯を見ていないことに気づいた彼女は、電源を入れなおした。ここにくるまで五時間ほどかかったからながいことみていなかったなあとおもいながら、最初の画面が表示されるのを待っていた。
彼
今日は仕事も早くおわり、金曜日の夜ということで、会社の先輩と居酒屋に入っていった。先輩は結婚二年目でいまでも夫婦仲が良い。二人とも一杯目に生ビールを注文し、乾杯した。
「康太ももうすぐ結婚か。彼女はどんな人だっけ。」
お酒の弱い先輩はもうすでに顔が赤くなっている。この居酒屋は会社帰りのサラリーマンが多く、同じ部署の顔見知りの人もちらほら見える。向こうの席にも今年入社した新人の女の子が他の部署の男の先輩に誘われて飲んでいる。天井から壁にかけてびっしりと貼られたメニューの多さと価格の安さに初めて来る客は目を丸くする。
「大学生の時に知り合ったんです。背が小さくて可愛らしい感じの子です。」
少し照れながら彼は答えた。
「いいよなあ、俺も結婚前が一番楽しかったよ。結婚したらほんとに遊べなくなるからな。」
そういいながら先輩はかなり酔っぱらったのかうつらうつらしながらいままでの奥さんとの思い出話や結婚前の武勇伝を語り始めた。先輩の思い出話を聞きながら、彼は向こうの席が騒がしくなるのに気が付いた。
先ほどの新人の女の子が男の先輩に無理やりお酒を飲まされようとしているのか、嫌がりながら持ってこられたグラスを断っているが見えた。その様子を見かねた彼は、先輩と一緒にその席に向かった。
「お疲れ様です。一緒にどうですか。」
先輩はすでに酔っぱらっていてすぐにその集団の席に座ってしまった。
「おお、山口君じゃないか。一緒に飲もう、飲もう。」
さりげなく新人の女の子のそばに座り、お酒がその子に回らないように壁を作ってやった。先ほどまで新人の女の子に飲ませていた先輩も、彼らが加わったことに気を良くしたのかもうその女の子にお酒を回すこともなくなっていた。そのままカラオケに行こうということになり、二次会の会場に足を進めた。居酒屋を後にし、飲み屋街を抜けていると、先ほどの新人の女の子が彼のもとに近づいてきた。
「さっきはありがとうございました。山口さん、でしたよね。私今年入社した和田です。」
そう言ってその子は彼にお辞儀をした。長い髪が揺れ彼のもとにその長い髪を伝って女の子の香水の匂いが広がった。顔を上げた女の子はとてもきれいな顔だちをしていて、口につけているピンクのルージュがよく似合っていた。
「いやいやそんなつもりはなかったよ」
と彼はまんざらでもなさそうな表情のまま答えた。
「山口さんってやさしいんですね、そんな検挙で気の利く人ほんとに素敵だと思います。私もそんな人に出会いたいなあ。」
上目遣いでこちらをみてくる女の子におどろき、かれは頬を赤くしながらも目をそらした。カラオケ店に行く間中もずっと彼のそばを女の子は離れなかった。彼の横をしっかりついて歩き、片時も離れようとはしなかった。ときおり手が触れそうになりながらも彼は足どりを早めることはできなかった。
カラオケ店につくと、今度は女の子が彼の近くに座ってきた。
「山口さんって彼女とかいるんですか。」
女の子は唐突に聞いてきた。彼は目を丸くして女の子を見つめたが、
「大学時代から付き合っている彼女がいるんだ。」
とだけ答えた。すると女の子はまじまじと彼を見つめてきた。
「そうなんですね。山口さんみたいな人にいないわけないですよね。いいな彼女さんがうらやましい。」
と話してきた。彼はそのまま聞こえなかったふりをしていた。
女の子は彼がカラオケを歌っている先輩に夢中になり始めた時、自分のルージュをそっと彼のジャケットのポケットに忍ばせた。
そのまま今夜はお開きになったが、彼が初めに一緒に飲んでいた先輩が酔いつぶれてしまったので、家までタクシーで送った。タクシーの運転手さんに先輩の家のおおよその場所を伝えると、運転手さんは何も言わないで発進した。窓の外を流れる景色はいつもより澄んでいた。先輩を家まで送るのは時間もかかるが、今日は久しぶりに彼女以外の女性と話ができたことを思い出して彼の口元はほころんでいた。先輩の家のマンションにつきインターホンを鳴らした。先輩の家はマンションの十階だ。インターホン越しに奥さんの声がして、オートロックを開けてもらい、中に入った。先輩は彼に寄りかかり、ほとんど寝ているような状態だった。先輩の奥さんが出てきて、先輩を抱えてくれた。
「本当にうちの主人がご迷惑をおかけして、すみません。山口さんですよね。いつもお世話になっております。」
とてもきれいな奥さんは丁寧にお礼を述べてくれた。
彼が帰ろうとすると、
「タクシー代もまたかかってしまいますし、あいにく持ち合わせがないもので、始発まで家でゆっくりしていってください。」と言ってくれた。
ここから彼の家まではかなり距離があるので彼はご厚意に甘えて、始発まで横にならせてもらった。
始発の時間になるとすぐに帰り、ようやく家路についた。
ドアを開け家に入る音で彼女が目を覚ましてしまった。
「ただいま」そういうと彼女はこちらを見つめて、
「昨日も仕事?」
と答えた。なんて答えようか迷ったが、飲み会と先輩のお世話は仕事だろうと考えた彼は、
「あぁ、残業がたまっていてね、そのまま会社に泊まったよ。あんまり寝てないからひと眠りするわ。」
と言った。先輩の家で横になれせてもらったものの、あまり寝付けてはいなかった。
「今日休み被ったからドライブに行こうって言ってたじゃないの」
彼女が怒こりながらそう答えたが、すっかり忘れてしまっていた。
「…そうだっけ…すまん!一休みして、夕方からいこう!」
「夕方?それじゃどこにも行けないじゃないの、楽しみにしていたのに」
「仕事だったんだらしょうがないじゃないか」
彼女が強い口調で問い詰めたので、彼もつい言い返してしまった。すると
「そうよね、ごめんなさい」と彼女が謝ってきた。彼女の顔はとても悲しそうだった。彼も困惑したが、
「いや、いいんだ。とりあえず寝てくるわ、それからシャワー浴びるよ」
そう言って、部屋を後にした。
目が覚めたのは夕方の五時だった。すぐに顔を洗おうと、バスルームに向かった。部屋の中はカレーのにおいが充満していた。彼女の姿はなかったが、彼はそのまま洗面台に向かった。するとそこには
「ばかやろう」とピンクのルージュで描かれた文字が写っていた。洗面台の中にはピンクのルージュがあった。全く身に覚えがないが、とりあえず彼女を探しに部屋中を探し回った。キッチンに行くと、カレーのにおいがきつくなっていったが、そのカレーは鍋の中ではなく、シンクに流されていた。
彼はとりあえず彼女に電話を掛けたが電源が入っていないらしくかからない。部屋中を歩き回って、彼は昨日から今朝にかけて起こった出来事を思い出していた。昨日確かに女の子と話したが、それを彼女は知らないはずだ。それに今朝の彼女は怒るというよりも悲しい顔をしていた。彼は彼女が行きそうなところを考えた。彼女に実家に電話を掛けたがいなかった。電話では彼女のお母さんが心配そうに事情を聞き出そうとしていたが、彼は心配はいらないとだけ伝えて電話を切った。彼の母と仲がいいので母にも電話をかけてみたがいなかった。彼女の携帯にもそのあと何度も書けたがつながらなかった。
二時間ほどたって、彼女からの折り返しの電話がかかってきた。
「なに」
その声には感情は感じられなかった。
「どうしたんだよ、急に出て行って、いまどこ」
「康太の実家。さっきついたの。あたしに隠してることあるよね。」
「あのピンクのルージュのことだろう?俺もわからないんだ帰ってきて話そう。」
彼はすがるように形態を握りしめ彼女に話しかけた。
「今日は帰らない。言い訳なら聞かないよ。でも康太のお母さんと話して落ち着いたから明日なら帰ってあげる。ほんとのことしっかり話してね。それじゃ。」
そういって彼女は電話を切った。
彼はこのピンクのルージュを見つめた。昨日やましいことは何もしていない。確かに女の子をかわいいとは思ったが…あのおんなのこ。
彼は思い出した。ピンクのルージュと女の子の顔をフラッシュバックした。とりあえず彼女にありのままを話そうと考えた彼は、再びバスルームに向かい、湯船につかった。湯船の向こうにシミができていたのを見つめながら明日のことを考えていた。
電話を切って、彼女はお風呂に向かった。彼女の家とは異なるがここも彼女のお気に入りだった。湯船につかり、顔までお湯につけて、しばらく一点を見つめていた。
あの頃の私は小学三年生だった。私は勉強よりも運動が得意な女の子だった。私はお母さんとかお父さんも好きだったけど、誰よりも優しいおばあちゃんのことが大好きだった。そんな私は家族と過ごすよりもおばあちゃんと過ごすのが大好きだった。だからおばあちゃんの家にずっと泊まっていた。おばあちゃんの家は私の家のすぐ隣だったのに。おばあちゃんの家では私はいつもおばあちゃんのお手伝いをしていた。お皿もたくさん洗ったし、料理のお手伝いだってした。お手伝いが終わったらおばあちゃんと楽しい五目並べの時間。よく考えたらおばあちゃんはいつも手加減してくれていた。どんなに私が負けそうになっても、最後には私が勝っていた。おばあちゃんは私をめったに叱らない。おばあちゃんの大事にしている植木鉢を割ったときも怒らなかった。途中でテレビに夢中になって、おばあちゃんが大切にしてるお皿を割った時だって。でもそんなおばあちゃんに一度だけしかられたことがあった。いつもおばあちゃんのお手伝いで掃除とかしていた私だけどトイレの掃除だけは嫌いだった。だってにおいが気になるし、手だって汚れちゃう。いつもトイレ掃除は嫌いだったから後回しにしていた。全部のお手伝いが終わって、残りがトイレ掃除だけになるとすごく憂鬱だった。いつも適当に水だけ流して、それで終わりにしていた。ある日私はあんまりトイレ掃除がいやだったから、掃除したふりだけして遊びに行った。嫌なことを投げ出して遊びに出かけるのはちょっと悪い気もしたけれど、楽しかった。家に帰るとおばあちゃんは珍しくまじめな顔して私を呼び出した。何だろうと思っていってみると、そこには私が掃除をサボったはずのトイレがピカピカになっていた。おばあちゃんはきれいになったトイレを見て、顔を真っ赤にして初めて私をしかった。いつも私たちを見守ってくれているトイレをぞんざいに扱ったらいけないって。道具は大切にしないとばちが当たるんだって。初めておばあちゃんに怒られたものだから私は大泣きしてしまった。そんな私を見て、おばあちゃんは私をぎゅっと抱きしめてこういった。
「トイレにはそれはそれはキレイな女神様がいるんやで。だから毎日キレイにしたら女神様みたいにべっぴんになれるんやで。」
それから私はトイレ掃除も嫌がらずにするようになった。今まで適当にやっていたけれど、隅から隅までピカピカにして、おばあちゃんも私も毎日気持ちよく使えるように。それに絶対べっぴんさんになりたかったから。毎日毎日一番時間をかけて、一番嫌いだったトイレ掃除を頑張った。嫌になりそうな時もあったけど、掃除が終わった後に頑張ったねって、抱きしめてくれるおばあちゃんが大好きだったから辛くたって頑張れた。
大好きなおばあちゃん。楽しいときも悲しいときもずっと一緒だったおばあちゃん。お買い物に出かけたときは二人で鴨なんばを食べた。正直鴨なんばは別に特別好きな食べ物ってわけじゃなかったけれど、おばあちゃんが勝ってくれた鴨なんばは特別に美味しい気がした。二人で食べたあの味は今だって忘れてない。悲しいときって言えば、私が大好きだった新喜劇をおばあちゃんが録画し忘れたとき、私は泣いておばあちゃんのことを責めた。どうして録画してないの、おばあちゃんのバカって。今思えばすごく子供らしいことでおばあちゃんを困らせてしまっていた。おばあちゃんは泣いてる私にずっとごめんねって言っていた。困ったおばあちゃんの胸に私は飛び込んでいつまでも泣いていた。今思えばそんな思い出だって笑って思い出せることだった。楽しいことも悲しいことも全部おばあちゃんと一緒に過ごした時間だったから。
ちょっと大人になった私は、おばあちゃんとはもう暮らさなくなっていた。いつからだっただろうか。勉強についていけなくなって、そうしたらいつの間にか友達関係も悪くなっていって、私は学校で浮くようになってしまった。学校に行くのが嫌になって、日増しに学校に行く時間が少なくなった。それなのに引きこもったりするわけじゃなく、夜は町に出て、年上の彼氏と遊んだりしていた。そんな私を見かねてお母さんやお父さんは口うるさく私をしかった。なぜ家に帰ってこないのか、いったい外で何をしているのか、口酸っぱく聞いてきた。でも当然私の心にそんなお説教は入ってこない。次第にお母さんもお父さんも私がどれだけ遅くに家に帰っても、どれだけ帰ってこない日が続いても何も言わなくなった。それどころかいつしかほとんど口をきいてくれなくなってしまった。家に居場所をなくした私は、次第に家にも帰らなくなってしまった。いつも何かと理由をつけて外で遊んでいた。いつだって親に会いたくなかったから彼氏の家に転がり込んで、自由きままに暮らしていた。彼氏は何でも買ってくれたし何をしても怒らなかった。学校には行っていなかったけど自由があったし、それなりに楽しかったと思う。でも、なぜか心にはぽっかり穴が空いていて、たまにつらくなって一人で公園で泣いていた。そんなときにトイレに行くとおばあちゃんのことを思い出して余計につらくなる。昔だったら悲しいことがあったらおばあちゃんが抱きしめて、笑顔で大丈夫だよって言ってくれたのを思い出す。でも今はどんなに辛くたって、もうおばあちゃんに抱きしめてもらうことなんて出来ない。私がそういう道を選んだんだ。まず両親が嫌になって、それからおばあちゃんのことも嫌になって。あの頃は親っていうより大人のことが嫌いだったんだと思う。おばあちゃんと二人でした五目並べも、二人で食べた鴨なんばも、次第に二人の思い出から消えていってしまった。
どうしてなんだろう。人は人を傷つけて大事なものをなくしていく。友達だって、親だって。自分の思い通りにならないから嫌になって捨ててしまった。私がどんなになっても、親にしかられても味方で居続けてくれたおばあちゃんのことだって嫌になって捨ててしまった。失ってからどんなに後悔したってもう戻ってこない。あんなに一緒だった大好きなおばあちゃんを残して私は一人で家を離れた。
それから私は一人で上京した。とにかく親の近くにいたくなくって、反対を押し切って東京にやってきた。でも別にやりたいことがあるわけじゃない。とにかく上京して、仕事を見つけて一人前になれば、今まで私を見放してきた人たちを見返すことが出来る。そう思ってやりたいこともないのにむやみに上京してきた。当たり前だけど上京してからは苦労の連続だった。何とか仕事を見つけて家計をやりくりしようとしたけれど、私には向いていない。私が質問したってみんな自分で考えろって言う。自分で考えるよりも先に、なんでこんな難しいことさせるんだって文句ばかり言っている私には向いていない。ここには料理の仕方や掃除の仕方を易しく教えてくれたおばあちゃんはもういない。私を助けてくれる人はここには誰もいない。そう考えると、自分だけで頑張らないといけないんだと思えてきた。どんなに辛くてどんなに苦しくても、私しか私を助けてあげられる人はいないから。そう思って嫌だった仕事もやり方を勉強して何とかできるようになった。仕事ができるようになると、自然と職場に友達が増えていった。足手まといじゃないと分かったからだろう。今までだったらそんな友達自分から突っぱねていたけれど、少しだけ大人になった私はその人たちとも友達になった。こうして私の生活は少しずつだけど徐々に安定していった。
上京して二年が過ぎたころ、初めて実家から電話がかかってきた。もう私のことなんて忘れていると思ってたのに、何の用事だろうか。とりあえず電話に出てみると懐かしいお母さんの声。電話越しのお母さんの声はどこかホッとしたような雰囲気を持っていた。もしかしたら私がとっくに餓死しているとでも思ってたのだろうか。昔だったら口をきくだけでしょっちゅうケンカしていたけれど大人になった私は自分でもびっくりするくらい冷静にお母さんと話をすることが出来た。反対を押し切って上京したことや、ほとんど家に帰らなかった学生時代のことをア余ることが出来て、ほんの少しだけど、気持ちが軽くなった気がする。そうしてお母さんと他愛もない話をいくつかしていると、お母さんの声が急に低くなった。お母さんの声が低くなる時は大抵大切な話があるときだ。私は先ほどよりも意識をより耳に傾けた。するとお母さんの口から、おばあちゃんが入院したとの話を聞かされた。私は気が動転して、つい受話器を床に落としてしまった。漫画みたいだけど、人間驚きすぎると意外とベタな反応をしてしまうものだ。お母さんに詳しい話を聞くと、入院したのは先週で身体のいたるところにガタが来ているらしい。おばあちゃんのことが大好きだった私だから、お見舞いに来てほしいから電話したそうだ。それっておばあちゃんが長くないって言うことかと私が聞くとお母さんは黙ってしまった。お母さんは極まりが悪いとすぐに顔を背けて黙ってしまう。お父さんと話していた時によく見ていた光景だ。きっと今も受話器越しに顔を背けているのだろうか。
おばあちゃんが入院していることを聞いた私は二年ぶりに実家に帰ることになった。正直どんな顔をしておばあちゃんに会えばいいのかわからなかったが、おばあちゃんのことがあまりに心配だったから、そんな不安はすぐに消え去った。駅について、すぐに病院へと向かう。受付でおばあちゃんの部屋の番号を聞いて、いざ部屋に入ると、そこには私が知っているときよりもはるかに痩せて細くなったおばあちゃんがいた。私は目の前が真っ暗になって、どうしたらいいかわからなくなった。大好きなおばあちゃんと二年ぶりに会ったっていうのに、手放しで喜べるような状態じゃなかった。おばあちゃんはどちらかといえば肉付きが良くって、ふとっているとまではいかないけど、それなりにお肉はあったのに、今では頬はこけて、髪は全部真っ白で、腕は掴めば折れそうなくらいに細くなっていた。そんなおばあちゃんの姿を見て正直涙が出そうになったかで、一番つらいのはおばあちゃんだから、おばあちゃんをこれ以上悲しませたくなくて無理やり笑うことにした。
「おばあちゃん、ただいまー!」
って、わざと昔っぽくいってみた。おばあちゃんが少しでも昔の私を思い出せるように。おばあちゃんを突き放したあの頃よりもうちょっと前の、二人で過ごしたかけがえのない時間を思い出せるように。それからおばあちゃんと少しだけ話をした。今の仕事のこと、黙って家を出ていったこと、ちょっとだけお話ししただけなのに、おばあちゃんはもう帰りって、私たちを部屋から追い出した。まだまだ話したいことがいっぱいあったのに、もしかして凄く疲れていたのかな。なら仕方ないと思ってその日私は実家に帰って二年ぶりの家族団らんの時間を過ごした。
次の日仕事の疲れが溜まっていて、昼頃私が起きてみると、お母さんが泣いていた。どうして泣いているの。子どもの頃だったら間違いなくそう聞いているくらい大きな声で泣いていた。子どもの頃だったら絶対分からなかったのに、今の私だったら分かってしまう。でも、不思議と涙は出てこなかった。だって昨日まで元気に話していたから、もしかしたら病院で今日ももう帰りって言われるくらいまではお話しできるかもしれない。そう思って私はお母さんとお父さんと病院に向かった。おばあちゃんの病室に行くと、おばあちゃんの顔には白い布がかぶせられていた。もうわかっているんだけど、なぜかこの時の私は布を外したらおばあちゃんがお帰りって笑いかけてくれる気がしてならなかった。私が布を外すと、そこにはすごく幸せそうに眠っているおばあちゃんの顔があった。その顔は死んだ風にはとても見えなかった。私には昔見ていたおばあちゃんの寝顔にしか見えなかった。だから私はおばあちゃん起きてって身体をゆすってみた。でもおばあちゃんは返事をしてくれなかった。優しかったおばちゃんは私が呼びかけたら絶対返事をしてくれていた。そこで初めておばあちゃんがいなくなったんだって実感がわいてきて、涙が止まらなくなった。お医者さんに聞くと一昨日から病状がすごく悪くなって、いつ死んでもおかしくなかったらしい。起きてる時も寝ているときもすごく苦しそうだったようだ。でも、私が来たときはやせ細っていたけれどいつものおばあちゃんだったと思う。きっと私が来るのを待ってくれていたんだ。私の前で苦しい姿を見せたくないからもう帰りって言ってくれたのだろうか。今までずっと育ててくれて、ずっと見守ってくれた。それなのに恩をあだで返して、味方してくれたおばあちゃんさえも払いのけて、いい孫なんかじゃなかったのに、おばあちゃんはずっと私のことを待っててくれたんやね。
振り返るとおばあちゃんとの思い出が昨日のことのようによみがえってくる。いつも優しかったおばあちゃん。夜中にトイレに一緒についてきてくれたおばあちゃん。運動会の日には食べきれないくらいのお弁当を作ってきてくれたおばあちゃん。いっしょに遊んだ五目並べも、一緒に食べた鴨なんばの味も一生忘れることなんて出来ないだろう。べっぴんさんになって、気立ての良いお嫁さんになりたかった私は、おばあちゃんに叱られたあの日からトイレ掃除だけは欠かしたことがない。家に居なかったときはしてなかったけど、上京してからの二年間も毎日トイレだけは無意識に掃除してピカピカにしていた。
「トイレにはそれはそれはキレイな女神様がいるんやで。だから毎日キレイにしたら女神様みたいにべっぴんになれるんやで。」
今でもおばあちゃんのこの言葉が懐かしく思い出される。今思うと私が無意識にトイレ掃除を毎日していたのは、べっぴんさんになりたいからじゃなくて、おばあちゃんに褒められるのが大好きだったからかもしれない。私がお手伝いをすると、どんなことでもおばあちゃんはよろこんでくれていたけど、トイレ掃除をきちんとしたときはいつもよりも格別に喜んでくれて、たくさん褒めてくれたから。そんなおばあちゃんの喜ぶ顔がみたくて毎日トイレ掃除頑張っていたんだ。大人になって、おばあちゃんと会わなくなってしまっても、その気持ちだけは変わらなかったのかもしれない。どんなに仕事が辛くても、苦しくてもトイレ掃除をすればあの頃のおばあちゃんの顔が懐かしく思い出されていたのだろうか。
今でも私は毎日トイレ掃除をしている。少しでもおばあちゃんに喜んでもらえるように。少しでもおばあちゃんのことを思い出せるように。そうだ、あの子が大きくなったら一緒にトイレ掃除をしよう。そうしてあの子にもおばあちゃんの言葉を教えてあげよう。残念ながら、あの子をおばあちゃんに会わせることは間に合わなかったけど、おばあちゃんの教えを、トイレには神様がいるってことを後世に伝えていこう。そうすることがあの頃出来なかったおばあちゃんへの恩返しになると思うから。おばあちゃん、喜んでくれるよね。おばあちゃん、おばあちゃん、ありがとう。おばあちゃん、ホンマに、ありがとう。
今ここで僕の犯した罪について懺悔しようと思う。僕にとっては本当に苦しい罪だったが、君たちにはよくある話、どうってことのない話のように思えるかもしれない。なにせ、好きな女の子に告白しただけの話なんだから。話半分に聞いてくれ。本当にあった話だとは思わないでくれ。僕だって思い出したくないことの一つや二つはあるんだから。
「ごめんね、別れよう。」
ある冬の夜、僕の大切に大切に育てていたはずの恋心は、相手のこの一言によってガラガラと崩れ去った。
立ち直る事も出来ずに、気づいた時には雨の夜の空港にいて、滑走路を走る飛行機を眺めていた。濡れた路面に反射する光はキラキラと美しく光って、なんだか皮肉なものに思われた。僕の彼女に対する恋心も、彼女に尽くすという形をとって発露していた。けれど彼女にとってはそれが辛かったらしい。僕の想いは重過ぎると遠回しに言われた。帰りに近くのコンビニに寄った。これ以上泣いていてもいろんなことを思い出してしまって余計辛いだけだし、第一どうしようもない。それなら体の中にアルコールでもいれて泥のように眠って、そのまま起きなければよいと思った。
年甲斐もなく泣き腫らした目は、明るいコンビニの中ではとても痛かった。目が赤いのは分かり切ったことだが、それでもできるだけ澄ました顔して適当に度数の高そうな酒をいくつか掴みレジに行く。
レジにはなんだか無表情の女が立っていた。いつも通りの決まり文句を聞き流して財布の中から小銭を取り出す。買った酒が袋に入れられていくのを見てつまみも買えばよかったかななんて思いながら、ぼうっと店員の手を見ていた。
別れた彼女の方が華奢な指をしているなと頭の中に浮かんで、まだ僕の心の中には彼女がいることに気づいてまた泣きたくなった。ぐっとこらえてみるものの壊れてしまった涙腺は僕の意思とは無関係にゆるゆると涙を外に出した。視界が揺れる。一刻も早くレジから離れたくて商品を入れてもらった袋を受け取った。けれど店員は袋から手を放さなかった。何を意図しているかわからず店員の顔に視線を向けると、女も僕の顔をじっと見ていた。そうしておもむろに口を開く。
「貴方は、きっと笑顔が似合うはずです。」
僕の目を、僕の内面を真正面からじっと見つめて、ゆっくりと、しかしはっきりと僕の鼓膜を震わせた女の声は、そのぶっきらぼうで無表情な愛想のない様子からは予想もつかない、ころころと鈴が転がるような声だった。
突然のことにどう反応してよいかもわからず、もっと正直に言えば何が起こったかもわからなかった僕にふと目をそらして「初対面なのに偉そうなこと言ってすみませんでした。ご利用ありがとうございました。」と先程とは打って変わった機械のような声でそう言った。僕が我に返り何か言おうとした時には店員はもう別の仕事をしていた。これ以上何か言うのは変かと思ってそのまま店を出た。
次の日、頭がずきずきと痛むので目が覚めた。昨晩はそれはもう想像を絶するぐらい飲んだらしい。そこら中に空いた瓶や缶が転がっている。だるい身体を起こして昨日の出来事をゆっくりと反芻する。別れの言葉を発した彼女の唇、うつむき加減で涙で濡れた豊かな睫毛、ふわふわとねこっけのあるキャラメル色の髪の裾。どれもこれも最後の最後まで美しいと思った。彼女が僕の手から離れていくなんて思ってもみなかった。僕と彼女はずっと一緒だと、本気でそう思っていた。なのに、そんな僕のささやかな幻想は、儚くも一瞬の花火のように消え去った。 ――やめよう。不毛だ。
そう思ってだるい身体をもう一度ベットに倒した。どうやったってもう彼女とは会えないのだから。見慣れた天井の染みがどうしようもなく腹立たしい。また涙が出てきた。感情のコントロールがうまくいっていないんだなと頭の片隅で考えながら目を閉じた。
ぽつぽつと何かが地を打つ音が聞こえた。どうやらまた眠ったらしい。頭痛はなくなっているが、その動きはあまり良くない。ゆっくりと目を開けて窓の外を眺めると雨が降っていた。昨日の朝のニュースでは天気予報士が今回は雨の日が2、3日続くだろうと言っていた。彼女と会う身支度を整えながら、まぁ映画なら雨でも大丈夫だろうと一人納得して支度の続きをした。本当は今日彼女が行きたがっていた映画に行く予定だった。映画を見てそのままいつもの喫茶店に入って、僕はいつもどおり温かい珈琲、彼女はお気に入りのミルクティーとミルクレープを頼んで映画の感想なんかを言い合いながら二人で笑っているはずだったのに。雨が冷たいねって彼女の華奢な手を握っていつもの専門店街で人の流れに流されまいと二人でこっそり寄り添いながら買い物をしているはずだったのに。
ぼうっとどこを見ているともなく機能していなかった視線が、昨日飲み掛けの缶ビールを捉えた。手を伸ばし一口流し込む。アルコールは抜けてただただ苦かった。昨日この缶ビールを飲んでいる途中でもう何も考えたくなくて泣きながら目を閉じたのだった。手で感をもてあそびながらふと昨日のコンビニの店員の指を思い出した。店員の指と彼女の指だったら彼女の指の方が華奢だと思ったが、僕の指と比べるとやっぱり僕の指の方が無骨だ。あの店員も女だったなと当たり前なことを思いながら昨日の店員とのやりとりを思い出した。どこか僕の内側さえも見透かしているような、まっすぐと僕を見据えるその視線、ゆっくりと遠慮がちに、でも強い意志をもって動く唇、遅れてやってくる鈴が転がるような綺麗な音。何を言われたかははっきりと思い出せないが、店員は僕のことをひたすらまっすぐに見てくれていた。
夜。昨日と同じぐらいの時間、僕はまたあのコンビニの前にいた。雨はまだ降っていて、ビニール傘に落ちた雨粒が街灯の光を反射する。僕の後ろを車のヘッドライトが左から右へと移動していった。ゆっくりと深呼吸した息が白く光った。あの店員にお礼が言いたい。話がしたい。昨日は声を掛けそびれた。必ず今日行かなければ。そう思いたってここにいるが、やはり声を掛けるのは気が重い。第一勢いだけで出てきたが、あの店員が今日もいるとは限らない。自分の思考の至らなさに眩暈さえも覚えつつ、店の前で突っ立っててもただ不審者にしかならないからと適当に理由をつけて店内に入った。
店の照明は昨日のように目に痛くはなかった。横目でレジの方を伺いながらゆっくりと奥へと入っていく。昨日の店員はレジにはいなかった。あの店員がいなければもう何も用事はない。店を出ようと踵を返した時、ちょうどドアの向こうからちょっと濡れたあの店員が入ってきた。僕の方には目もくれないで通り過ぎ、レジにいる先輩と思われる店員と話をしている。どうやらごみを捨てに行っていたらしい。思ったよりも身長は高くなかった。あの鈴の転がるような声が聞こえる。僕の胸は高鳴った。僕はまた店の奥に戻って缶珈琲を選ぶふりをして店員の様子をうかがった。
15分ぐらい店の中をうろうろしながら店員の声に耳を傾けていたと思う。さすがにそろそろ帰らないとこれも不審者扱いされると思って適当に缶珈琲をひったくってレジに向かった。ちょうどレジにはあの店員と僕しかいなかった。目を合わすことはできない。また店員の指を見ながらどうやって声を掛けるべきか考えあぐねた。
「今日はアルコールではないんですね。」
店員の声が真正面から聞こえてどきりとした。ぱっと顔を上げると少し困ったような顔をして笑っている店員と目が合った。僕はいざとなって何も声が出ずに、頷くしかできなかった。店員はまた何事もなかったかのようにレジ打ちの続きをし、「130円です。」と淡々と述べた。カバンの中から財布を取り出し、小銭を出した。店員が缶珈琲を店のロゴが入った小さな袋に入れているのをぼうっと眺め、僕は店員の名札を見た。川越と印字された名札には小さな初心者マークがついていた。どうやらバイトを始めたところらしい。レシートとお釣りと商品を渡されて、また何か一言あるかと期待したが、今日は何もなかった。ただ素直にそれらを受けっとった。機械的なありがとうございましたを聞きながら、僕は店を出た。
家について缶珈琲を開けると、間違って買ったのかやたらと甘かった。レシートを見て商品名を確認するとやはり間違って買っている。僕は前の彼女と喫茶店に入るときも決まってプラックを飲んだ。缶珈琲だってそうだ。甘い珈琲なんて何年ぶりだろう。レシートをゴミ箱に投げ捨てようと思ったとき、川越という文字が目に入った。あの店員は今日も僕に声を掛けてくれた。しかも昨日のことを覚えていて声を掛けてくれた。川越という名前も偶然知ることになったが、僕はあの川越さんに会って少なからず悲しみから気がそれている気がする。本当に偶然の出会いではあるが、僕は川越さんに感謝した。昨日川越さんがあのコンビニにいてくれたおかげで、僕は救われた。川越さんがいなければ僕は今日にでも死んでいたかもしれない。今日僕が生きていられたのは、また川越さんに会って昨日のお礼を言いたかったからだ。僕は、川越さんに救われた。
あの日から僕は毎日あのコンビニに通った。まずいと思った甘い珈琲も川越さんと出会った証だと思うと何とはなしに毎日飲んでいる。あの日から川越さんが僕に声を掛けることはなかった。僕も勇気が出なくて毎日同じ缶珈琲を川越さんのレジに持っていくことで精一杯だった。コンビニに通い続けると、川越さんが先輩バイト店員と話す内容から、いろんなことが分かった。バイトは掛け持ちしていること、母親と二人暮らしで父親は出張中であること、大学の課題は最後の最後まで残しがちなこと、サークルでは園芸をしていること、下の名前はアヤコであること。僕は持ちえた情報を使ってSNSで川越さんのことを探した。川越さんのことを少しでも知りたかった。何か知ることができれば声を掛けるきっかけになるかもしれない。探すのは簡単だった。川越さんの友達が川越さんもうつった写真をアップしていた。そこから芋づる形式に川越さんのアカウントを見つけ出した。過去をさかのぼってみてもあまり更新頻度は高くないようだが、更新される一言一言が彼女の人柄を表しているような優しい気持ちになれるものばかりだった。ついでに川越さんと仲の良いらしい友人のアカウントも見つけた。こちらは更新頻度が高く、川越さんと友人が何をしたのかどんな写真を撮っていたのかがすぐにわかった。僕は毎日コンビニに行く前に必ずSNSをチェックした。今日どんな風に川越さんが過ごしたのか、どんなことを経験したのか知りたかった。もしできることならそんな話もしてみたかった。けれどそうやって自分のSNSを顔見知り程度の男にチェックされているなんて知ったらきっと川越さんは気持ち悪がるだろうから、黙っていた。新しく買ったお気に入りの髪留めをSNSに投稿し、バイトにもそれをつけてきたときには「似合ってるね」なんて声を掛けたかったが、それもやめた。
川越さんは本当に僕に声を掛けてくれなかった。きっと僕と同じでなんて声を掛けていいのか分からないのだろう。それでも僕は毎日通った。毎日毎日同じ缶珈琲だけを買って、店を出た。声を掛け合うことはなくても顔見知りにはなっているはずだと、毎日川越さんの打っているレジに並んで会計をしてもらう時には会釈した。最初の頃の緊張感はなくなってゆっくりと川越さんのことを見られるようになった。街中でも川越さんに似た人を見かけると少しどきりとした。毎日のSNSチェックで得た情報から、川越さんが出かけそうなところへはできるだけ出かけるようにした。偶然を装って川越さんに会いたかった。そうしたら声を掛けるきっかけもできるだろうと思った。それでも川越さんには会えなかった。
ある日、日課になっているSNSをチェックすると、川越さんが男とツーショットを撮っている写真がアップされていた。とても仲が良さそうで、優しそうな男のそばで川越さんは幸せそうな顔をしていた。僕はその写真を眺めながら鈍器で殴られたような衝撃を受けた。思う所はたくさんあったがどれもこれも声にならなかった。川越さんには彼氏がいるかもしれないなんて想像もしていなかった。川越さんには僕だけしかいないなんて勝手に思い込んでいた。もしこの写真に写っている男が川越さんの彼氏であったら。僕の今までの行動はただの一方通行逢瀬ごっこにすぎなかったのだと、そこでようやく気が付いた。その日僕はまた泣いた。それから毎日コンビニに通うのはやめた。それでも川越さんに会いたくて三日に一度はコンビニに行った。同じ缶珈琲を買って同じだけお金を払って同じように店を出る。ただ確実に僕の顔はこの前よりも暗かっただろう。
いつもの缶珈琲を片手に列に並んでいると、レジの横に新発売とポップアップの可愛い宣伝がなされた飴が陳列されてあった。ぼんやり眺めているといつの間にか僕の番になっていていつものように会釈をして珈琲を渡した。ただ、その日はどうしたことかその飴が無性に気になって今まで2か月間毎回同じ缶珈琲だけを買っていた僕が、初めて他のものもレジに通した。
「あの、これも一緒にいいですか。」
おずおずと差し出す僕に意外そうな顔をした川越さんは、かしこまりましたと定型句を述べて飴もレジに通してくれた。レジに表示された料金はこれまでと違っていて、どこか新鮮だった。
「この飴、」
予想もしない時に聞きたくて聞きたくて仕方がなかった鈴の転がるような声が聞こえた。
「すごく甘いんですけど、私好きなんです。珈琲だけじゃないって珍しいですね」
人間とは欲深いものであるとはよく言ったものらしい。この前までは、僕の顔を知ってくれていればいいと思っていただけなのに、一度声を聞いてしまうともう一度聞きたいと思ってしまった。彼氏がいるかもしれないということを棚に上げても、川越さんと話がしたいと思った。僕のこの思いを伝えないといけないとさえ思った。たとえ彼女が僕のことをどう思っていたって僕のこの思いだけは本物だったから。
そうと決まれば行動は早い方がいい。僕は次の日彼女に会いに行くことを決意した。これまで本当にストーカーになってしまうと思ってやらなかった彼女の家を探し出すことにした。これっきりだ。本当に僕の思いだけを伝えたらコンビニに通うのもやめよう。川越さんのことを考えるのもやめよう。僕はこの思いを断ち切るのだ。
川越さんの家は簡単に見つかった。例の日課をしている間にもある程度の見当はついていた。僕は手紙を書くことにした。もちろん差出人名は書かない。郵便局を通すこともないから切手も貼らない。一度読んでくれさえすれば捨てられてもいい。びりびりに破かれてもいい。どうにかして僕の気持ちを知ってほしかった。僕はできる限りの綺麗な字で手紙を書いた。真夜中にさしかかっても満足のいく手紙は書けなかった。何度も何度も書いては破り書いては破りを繰り返した。
目の下に隈をこさえながらなんとかできた僕の人生初の恋文と、昨日川越さんが好きだといった飴を1つ手にして、僕は朝家を出た。冬の朝とはいえ、そろそろ春も近づこうかという時期に、僕の吐いた息は川越さんに再会したあの雨の日の夜と同じように、白く光っている。川越さんに初めて出会ったときも、それからコンビニに通うようになっても、川越さんに会うのは必ず夜だった。朝に川越さんの顔を見られるかもしれないと思うと、なんだかこそばがゆい気持ちになった。川越さんは僕のことを全く知らないだろう。僕は姑息な手を使って彼女の個人情報を盗み見た。川越さんは僕の手紙を見てどう思うだろうか。きっと怖がらせてしまう。僕の存在なんて知らない方がいい。けれども僕はどうしても彼女に僕の気持ちを伝えたかった。下調べをした道をただひたすらに歩いていく。すれ違う人々は今日一日の明るい未来を見据えて歩く足取りが軽いようだ。僕はこれから自分の恋心を粉々に潰しに行く。気は重い。比例して足取りも重い。明るい朝にふさわしくない真黒なジャンパーのフードを被った僕は、この世界とはどこかかけ離れたような雰囲気さえあるだろう。一歩一歩踏みしめて僕は恋心の破滅へと歩いて行った。
どれぐらい歩いたかわからない。どうやら川越さんの家のある通りについたようだ。通りの家々は平日の朝の支度に忙しいらしく、どの家からもあたたかそうな明かりがともっている。僕はまたゆっくりと1つ1つの表札を見ていった。通りに入って5つ目の家にようやく川越さんの家をみつけた。これ以上ない胸の高鳴りを感じる。泣きそうになった。急に逃げ帰ってしまいたい衝動に駆られた。僕はぐっと我慢して、僕の手にある想いを、郵便受けに差し入れた。指が、手が震えた。僕は手からその手紙を離せなかった。呼吸が荒くなり本格的に泣きそうになった。この手紙を離すと僕はもう二度と川越さんに会えなくなる。もう二度とあの指を見ることも、鈴の転がるような声を聞くことも、レジで会釈することもなくなってしまう。これを離したら本当に僕の恋は終わってしまう。ごちゃごちゃと頭の中をいろんな考えが巡っていった。僕は一本ずつ指を離していった。最後の一本になった時、家の中からバタバタと足音がして、遅れてあの鈴の転がるような声が聞こえた。僕はびっくりして心の準備のないままに最後の指を離してしまった。慌てて通りの向こう側に隠れた。
じきに川越さんが家から出て生きた。どうやら朝刊を取りに来たらしい。僕のあの手紙はしっかりと郵便受けに入っている。川越さんは少し寒そうなそぶりを見せながら朝刊と僕の手紙を持って家の中へと入っていった。
そこまで見届けて、僕は満足した。涙がこぼれた。さようなら僕の恋心。僕だけが勘違いしていた恋心。彼女はきっと僕のことなんて何とも思っていないさ。それでも僕は彼女に僕の思いを伝えた。恋人がいる彼女へは僕の思いはきっと届かない。むしろ彼女を怖がらせてしまうかもしれない。それでも僕の彼女への思いは本物だった。ああかわいそうに。こんな僕に思われてしまった川越さん。こんな僕のもとで育っていってしまった恋心。こればっかりはどうしようもなかったんだ。理解してくれとは言わないさ。けれども僕が君のことを本気で思っていたことは許してくれないか。もうこれ以上君を怖がらせるようなことはしない。僕は君の目の前から姿を消そう。毎日のように通っていたコンビニももう行かないさ。これでお別れ。本当にありがとう。君は僕の救世主だった。僕は君に助けられたのだ。ああさようなら、僕の大切に思った人。どうか僕のことを忘れてくれ。
ぽろぽろと落ちていく涙とこぼれだす嗚咽。全く朝にふさわしくないとはこのことだ。僕は持っていた飴を口の中に放り込んだ。これで本当に最後。この飴が溶けてなくなる時には僕はきっと彼女への想いを断ち切ろう。含んだ飴は甘すぎて苦かった。僕は来た道をひたすらまっすぐに歩いて帰った。
――全部嘘だよ。話半分に聞いてくれって言ったじゃないか。第一、こんな気持ち悪い話、あるはずないだろう?
僕は甘い缶珈琲を一口、飲んだ。
岩手県、遠野。柳田国男著である、『遠野物語』には遠野の村にまつわる河童の言い伝えがまとめられている。
遠野は江戸時代に飢饉の被害が特に酷かった土地であった。人は子孫を残すために、強いものを生かすという選択を行った。最初に命を落とすのは、小さい子供や高齢者である。一説には、河童は間引きされて「川にお返しした」子供の化身とも言われている…… 河童にまつわる本を片手に、高校2年生のノブユキはバスに揺られていた。仙台から3時間かけてバスが向かう先は、あの河童伝説が語られる地、岩手県遠野である。高校生が1人遠野に向かう理由とは。ノブユキが特別な河童伝説マニアか何かかと言われると、そうではない。むしろ、ノブユキは嫌々ながらに遠野行きのバスへ乗り込んだのである。ノブユキは疎ましげに財布の中から取り出した1枚のカードを見つめる。そのカードには、「カッパ捕獲許可証」と記されている。「馬鹿馬鹿しい……」ノブユキはため息と共にそう呟いた。
2ヶ月前、その伝説の生物は突如として現代に姿を現した。始まりは、遠野の観光地の一つでもあるカッパ淵にて人間の水死体が発見されたことであった。ただ水死体が見つかったというだけなら、河童伝説を模した殺人とでも解釈するのが妥当であろう。しかし、その日を境に、遠野に流れる川の至る所で河童の目撃証言が多発したのだ。緑色にくすんだ身体、3本の指に水掻き、背中に背負った甲羅、証言から察するにその姿は、言わずもがな伝説の中のそれである。口頭による目撃情報だけならまだしも、奴はいよいよメディアにも姿を公開した。夜の小川に二足歩行で立つその写真は、暗くてはっきりとはしないものの、それらの特徴を押さえたものであった。そのあたりからだろうか。日本では、河童が蘇ったと大騒ぎになった。どのニュース番組も河童、河童。河童の話題で持ちきりである。初めに発見された水死体のことなど忘れ、日本中は未知の存在に心を踊らせていた。が、しかし、その後、河童報道は恐怖の対象として世間を賑わすことになるのだった……なぜなら河童によるものと見られる人間の溺死が急増したからである。テレビでの報道はそれまでとは打って変わり、キャスターやコメンテーターが神妙な面持ちを浮かべるようになった。日夜、特別番組が組まれ、胡散臭い怪奇現象の専門家達がああでもない、こうでもないと論争を繰り広げていた。死者数が2桁を超えた当たりからのことだ。いよいよ国が総力を挙げて、河童の殲滅作戦に乗り出そうとした。しかし、その作戦が決行されることは無かった。国の作戦に反対する組織が現れたからである。それが「遠野市観光協会」であった。
「遠野市観光協会」は、河童騒動が始まるまでもずっと、市のアピールポイントとして河童を大切にしてきていた。その中で、市の取り組みとして行ってきた事業があった。それは、「カッパ捕獲許可証」の免許交付である。カッパ捕獲許可証とは、その名の通り、遠野にて取得できる、河童を捕獲することが許される免許のことである。遠野に観光に来た人々が記念として取得していくことが多く、毎年一万枚以上が発行されているのだとか。「カッパ捕獲許可証」の表面は、車の免許証に非常に似ている。取得者の氏名、住所、交付月日等が記される。そして裏面には、「カッパ捕獲7箇条」と題して、河童を捕獲するにあたる心得が記されていた。
この世界は思い込みでできている。本音や真実、そんなものは言葉でそう表されているだけで、本当にそうなのかは誰にもわからない。人は自分の都合のいいように解釈し、それが真実かのように思い込んでいる。とは言っても思い込んでいる人にとっては、そのことは真実でしかないが。ここはそんな世界だ。
今年の夏は近年稀にみる酷暑続きだった。卓也は夜になっても蒸し暑いこの品川の土手沿いを、ぼろ雑巾のようなタオルで汗をぬぐいながら家へ向かって歩いていた。
「なんて暑さだよ…。」
左手にはコンビニで買ったビールとおつまみが入った袋。暑さでふらふらになりながら、やっとのことで卓也はアパートの二階、203号室へ倒れこむようにたどり着いた。
「うあー、エアコンつけていきゃ良かった。」
東京の中でも比較的落ち着いた土地であるこの地域に、卓也が越してきたのはもう10年も前、20歳になったときのこと。当時はこじんまりとして最高な住まいだと感じていたこの家も、今では嫌なところだらけである。コンビニが遠いのも、その一つだ。
「とりあえずビールビールっと。腹減ったなあ。」
晩御飯はほぼ毎日、カップラーメンかコンビニ弁当だ。コンビニ弁当に飽きるとカップラーメン、カップラーメンに飽きるとコンビニ弁当、という不健康に不健康を重ねたような食生活を続けていた。
そんな卓也が彼女と出会ったのは、ようやく夏が終わりに近づいた10月の半ば。めったに外食をしない卓也が珍しく近所の居酒屋に立ち寄ったときのこと。というのも、大事な取引先を1つ失ってしまうような大きなミスをしでかしてしまったのだ。
「おい!藤森!なんてことをしてくれたんだ!」
そのミスを忘れようと居酒屋に来たのだが、どれだけ強いお酒を飲んでも、普段からお酒に溺れていて麻痺した五臓六腑と、耳にこびりついた部長の甲高い怒鳴り声のせいでなかなか酔うことができなかった。
「くっそ。大体あの○○商事のくそ野郎。あいつのせいだ。あいつがこっちの話をちゃんと理解してないからこんなことになるんだ。それで取引中断ってなんなんだよ。俺はなにも悪くねえんだってんだよ。」
一人でぶつぶつと恨み言を吐き出しながら、3杯目の生ビールを手に取ったその時。卓也の頭は思考することをやめた。頭にピンクのバンダナを巻いて、せわしなく机を拭く彼女が目に入ったからだ。卓也はお酒で少し湿った口を、しばらくの間閉じていなかったことに気付いた。卓也は、彼女に恋をしたのだ。
彼女の名前は夏妃というようだ。居酒屋の制服にはご親切に名札がついている。卓也の人生は、夏妃に出会ってからまるで変わった。変わってしまった。卓也はこれまでのコンビニで買う晩御飯を忘れてしまったかのように、毎日その居酒屋に通った。夏妃はなかなか卓也の方を見てはくれない。が、卓也にはそんなことは気にならなかった。
「夏妃は恥ずかしがり屋だからなあ。そういうところも良いなあ。」
卓也は夏妃を見ているだけで胸がいっぱいになる。それだけでビールがすすむ。卓也の夏妃への思いは独りでに膨らんでいった。
ある日、卓也は仕事帰りにいつも通り夏妃のいる居酒屋に行った。そしていつものように生ビールを頼む。毎日こんな風なので、お金がどんどん減っていく。だが卓也にとっては、夏妃のためにお金を使うなんてことは全く苦しくない。むしろこの上ない幸せであった。
卓也は夏妃を見つめながら生ビールを飲む。卓也はもはやビールの味を認識していない。頭の中には夏妃のことばかり。生ビールだと言って冷水を出されても気付かないのではないだろうか。
「お、夏妃がこっちを見てる!」
夏妃は卓也の方をチラッと、しかし確かに卓也を見た。卓也は夏妃に見られたということがたまらなく嬉しかった。夏妃はそのあとも何度か卓也の方をチラチラと見ているようだった。そのたびに、卓也はこう思った。
「夏妃も僕のことを想ってくれてるんだ。」
またある休日のお昼、卓也は居酒屋に行く時間でもないのでぶらぶらと街を歩いていた。世間の人たちはパーカーやジャケットなど、秋の装いにくるまれている。卓也は薄い生地のフリースのため、風が吹くたびに身を縮こませる。そうしてあてもなく歩くことに疲れて、帰ろうかと思ったとき、眼前10メートルに彼女の姿を見とめた。
「夏妃だ!何をしているんだろう。」
夏妃はどうやら男の人と一緒にいるらしい。それだけでも卓也からすると気分のいいものではなかったが、よく見ると何か口論をしているようだ。
「ははーん、さてはナンパかなにかだろう。よし、僕が守ってあげるよ。」
卓也はまさに自分がヒーローであるかのように、夏妃のところへ駆け寄りこう啖呵を切った。
「おい、彼女が嫌がっているじゃないか。早く離れろ!」
自信満々に叫んだ卓也とは違って、夏妃と男は茫然とした様子でしばらく何も言えなかった。夏妃は、卓也の顔を見ると驚きと不安、恐れの入り混じった表情を浮かべた。しかしそんなことに卓也は気付かない。男がようやく言葉を発する。
「なんだよ急に。俺がこいつと話してることにお前が関係あんのかよ。」
男は不機嫌そうに卓也に詰め寄る。どうやらこの男と夏妃は知り合い、というより卓也が望むような関係のように見える。恋人同士のささいな言い争いだったのだろう。そんなことには気づかない卓也は少し怖気づいたが簡単に引き下がるわけにはいかなかった。
「関係あるさ。夏妃が嫌がっているんだから関係あるに決まってるだろ。」
夏妃という名前で呼ばれたときの、彼女の表情は言い表すことができないほどに慄いていた。男も卓也の異様さに気が付いたため、より威嚇的に言った。
「うっせえなあ!誰だかわかんねえけど引っ込んでろよ!」
さすがに卓也はひるんだ。
「おい、夏妃、行くぞ。早く!」
卓也がひるんでいるうちに、男は怖気づいた夏妃の手を取り、足早に人込みの中に去って行った。卓也は夏妃を守れなかったことをひどく悔やんだ。
そしてその日は来てしまった。
卓也が夏妃を守れなかったと思い込んでいた次の日。その日は少し遅れてきた秋雨前線の影響で一日中大雨だった。卓也は昨日のことを夏妃に謝りたかった。居酒屋ではそのチャンスがないであろうことは、毎日通っていた卓也にはなんとなく想像がついた。そこで、居酒屋を出て夏妃がいつも帰る道で待っていることにした。
「昨日は本当に守れなくてごめん。嫌いにならないでほしい。」
一晩考えた謝罪のセリフを、彼女が居酒屋を出るまでの時間、ずっと繰り返して練習していた。卓也は真剣だった。
時間は23時半大雨のこともあって、夏妃の家へ向かう道に人はほとんど見られない。夏妃の家へ行くには大通りにかかる歩道橋を越えなければならないが、その大通りにも人っ子一人見当たらない。見えるのは歩道橋の麓で夏妃を待つ卓也だけだ。そこに、赤い傘を差した人影が近づく。夏妃だ。夏妃は時折後ろを振り返ったり、キョロキョロと辺りを見回したりと何かを警戒している様子だ。だが、大雨のせいで歩道橋の陰にいる卓也の姿が認識できていない。
「夏妃!」
突然の声、聞きなれたくはないが聞き覚えのある声が夏妃の全身を震わせた。一瞬足を止めたが、人間の本能はすごいもので、頭で考えるよりも前に夏妃は走り出していた。
「待ってくれ!怒っているのはわかる!」
卓也は歩道橋を全力で駆け上がる夏妃を追いかける。どれだけ人間の本能の速さがすごくても、一般的な女性が男性に走りで勝つことは難しい。歩道橋の階段を上り切ったところで、夏妃は逃げられない魔の手に捕らえられてしまった。
「やめてっ!離して!お願い!」
夏妃は大雨の中でもはっきりわかるほど目から涙を流していた。恐怖で顔はゆがみ、寒さとは違う魂の根源からの震えを身に纏っているようだった。
「違うんだ。聞いてくれ夏妃。俺は君だけを想っている。昨日だって守りたかった。君も僕のことを想ってくれているんだろう?」
卓也は卓也であれだけ練習したセリフとは違うことを叫ぶように発している。夏妃はもう聞きながらなにを言っているのかわからず錯乱状態だ。
「夏妃。僕は君を愛してる。君のすべてを知っているんだ。」
そう言って、卓也は歩道橋の階段から夏妃とともに飛び立った。
翌日、卓也が朝日を浴びながらまどろんでいると、ボロアパート特有の低音のチャイムが2,3度鳴った。テレビからは近所で発生したらしい殺人事件のニュースが流れている。卓也は足をひきずりながら玄関へ向かい、ゆっくりとドアを開けた。しかし、そのドアを開けきる前に、向こう側から勢いよくドアが引っ張られた。
「警察です。藤森卓也さんですね。お話をお伺いしたいので、署までご同行お願いします。」
卓也は心から、何を言っているのだろうと思った。
「すみません、なんのことですか。」
卓也はいたって真面目に聞いているつもりだ。だが、見るからに警戒心をむき出しにしている警官たちは、露骨に怒りと呆れを顔に出した。
「あなたね、とぼけないでください。逮捕状だって出てるんですよ。ほら。」
そう言って警官は、A4サイズの紙を突き付けた。まだ警戒しているようで、左手は警棒を挿しているのであろう腰にずっと添えられている。そんな緊迫した場面でも、卓也は、テレビドラマみたいだな、とぼんやり考えていた。
「いったいなんの罪で僕が逮捕されなきゃいけないんですか。全く身に覚えがありません。」
「ストーカー殺人の容疑です。本当に白を切るんですか。あなたはずっと付け回していたでしょう、松村夏妃さんを。」
卓也は夢をみているのだと思った。ストーカー?僕が?僕は夏妃を愛している。もちろん夏妃もそうだ。こいつはいったい何を言っているんだ。
「彼女に確認してください。夏妃なら僕のことをちゃんと説明してくれる。」
警官は先ほどより呆れを強めた顔になっている。
「だからね、その彼女を君が殺したんでしょう。彼女は君のストーカー行為に悩んでいるって友達に相談してたんだよ。ほら、言い訳なら署でゆっくり聞くから。」
卓也は警官に強く腕を引っ張られた。
「嘘だ!僕は彼女のすべてを知っている。僕の夏妃への愛は永遠なんだ。」
卓也はつかまれた腕を渾身の力で振り払い、台所へ走った。
「夏妃が死んだってのが本当なら、僕はどんな苦しみにも耐えて追いかけよう!」
そう言って、警官が止める間もなく卓也は包丁で自分の胸を突き刺した。
卓也の起こした事件の詳細はすぐにワイドショーで国民に知らされ、特にこの地域に住む女性たちを恐怖に陥れた。テレビの中ではコメンテーターと呼ばれる、本職もわからないような人たちがあれやこれやと事件について言い合っている。
「今や君は世間の注目の的さ。罪から逃れようと自殺しようとするなんてね。しっかりと罪を償うんだよ。」
警察病院で寝かされている卓也に会いに来た警官の言葉だ。でも、卓也にはまだ意味がわからない。僕はなんの罪を犯したのか。早く愛している夏妃に会いたい。僕は彼女のことをすべて知っている。そんなことを考えているとき、ふと逮捕されるときのことを思い出した。
夏妃の苗字、松村っていうのか。
第一章 夜道
時折聞こえる虫の音。なんていう名前の虫なんやろ、と綾子は考える。別に虫に興味があるわけじゃない。ただ、私と彼を包むこの世界のすべてを知りたい、と思うだけだ。ジジジ…とたまに切れかかる街灯に照らされる夜道を、手を繋いで歩く。二人は、コンビニにアイスを買いに行った帰り道を家に向かってだらだら歩いていた。少し前に流行った穴にピンでアクセサリーを付けるタイプのサンダルの裏が、日中暖められたコンクリートにずる音がする。機嫌の悪い街灯は一瞬消えるが、世界は真っ暗にはならない。今日はきれいな三日月の晩だから。上弦の月、というのだろうか。それとも下弦の月だったか。いずれにせよ、くっきりと出た月はつい見上げたくなる。テレビのお天気お姉さんは、もう夏の終わりで秋もすぐそこですね、なんて言っていたけれど、湿気た空気はまだ夏は終わらないぞ、と主張しているみたいだ。
クーラーをつけるほどじゃないけれど、なんとなくうだってアイスを買いに出たのだった。最後の一舐めの後、一本六十四円の国民的アイスの棒にあたりがついていないことを確認して自販機の横のごみ箱に駆け寄る。
「缶、ビン、ペットボトルやろ。」
と、彼がたしなめる。
「だって捨てるとこないねんもん。」
彼は、いつも「ちゃんとしっかり」している。たまには肩の力抜かないとぺちゃんこになってしまうんじゃ、と心配になるくらい。そういう綾子も、ポイ捨てはできない程度に「しっかり」しているのだが。綾子は、アイスの棒を捨てるために離した彼の手を再びぎゅっと繋ぐ。もうこの手を二度と離さないぞ、というように。急に飛びつかれた彼はちょっとよろめきながらも、やはり微笑んで手を握り返す。繋いでいない左手にはアイスの棒をもったままだ。ちなみに彼のアイスの棒にもあたりの文字はない。
また、静かになる二人の世界。時折聞こえる虫の音がその静寂を破る。いや、だからこそ静かだと感じることができるのだろう。静けさは音を聞いて、幸せは傷付いて初めて気付くものなのかもしれない。
転職
彼は、綾子より三歳年上の二七歳。紺色ストライプのスーツがよく似合う。一浪して大学に入ったから、社会人四年目ということになるが、この春、彼は人生最大の決意をした。転職だ。三年半務めた会社では、ずっと企画部を希望していたが、年功序列というやつで先輩の希望から順に席が埋まっていくのだ。向いていない営業部で、なかなか業績も上がらず上司からは厳しいことを言われる。ヘラヘラしていて定時で帰ってしまう同僚の方が良い業績を上げていることに彼は耐えられなかった。惨めだった。自分には才能がないからか、向き不向きでなく自分の努力が足りないのか、と真面目な彼は思い悩んだ。だがどうやらそうではないらしいことに気づき、転職活動を行っていたのだ。真面目で努力家、意欲も十分な彼は、この秋から東京の新しい会社に中途採用されることになった。夏まで綾子と同棲していた大阪からは新幹線で2時間かかる。結婚を前提に同棲を始めたが、自分の希望通りの職に就けることは彼にとっては同棲よりも大事なことだった。
そして、三日月の晩、はずれのアイスの棒を左手に、彼は綾子に転職先が決まったこと、東京に行くことを伝えた。自分をいつも応援してくれる綾子だから、当然喜んでくれると思っていたが、綾子は少し困ったような顔をして一言「よかったやん」と小さな声で言い、そっぽを向くだけだった。繋いだ手を握る力も心なしか弱くなってしまったようだ。一緒に東京に行けへんか、声にならない声を飲み込む。
第三章 幻想振動症候群
いつだって世界は同じスピードで流れていく。こけたり泣いたりしていても、優しく引きとめてくれたり時間を早回ししてくれたりなんかしない。
綾子は綾子で忙しかった。梅田の若者向けの服屋の店員として店先に立ち二年になる。アルバイトの女の子たちをまとめ、店長の補佐をする立場だ。ただでさえ気だるそうな女の子たちをなんとかなだめながらシフトを組むが、九月というのは学生にとっては夏休みだ。海に旅行に飲み会だと言ってシフトが回らない。最近雇ったフリーターは、時間はあってもレジのお金をきっちり数えられない。おかげで綾子は今日もオープンからクローズまでみっちり働く羽目になっている。クローズ後は、なぜかレジのお金が売り上げと合わないと嘆く使えないフリーターを返して、溜息をつきながら売り上げを数えた。二十二、二十三…合っている。なんのために小学校で足し算教えとんねん、電卓も使えないなんて親の顔が見たいわ、だいたい労働基準法ってなんのためにあんねんな。とぶつくさ言いながら店を閉める。家に着くころにはもう深夜を回っていた。腕に下げたお酒とおつまみの入ったコンビニの袋が邪魔してうまく鍵を開けられない。イライラしながら乱暴にドアを開ける。靴箱の上の鍵ホルダーには赤と青の星型のシールがついたままだ。綾子のカギには赤い星がついている。鍵ホルダーにちらっと目をやるもひっかけずにその前に適当に鍵を置いた。ガチャッと質量を感じさせる金属音が静かな部屋に響く。
大人が二人で暮らしていた部屋は、綾子一人には広すぎる。ソファにどかっと腰かけてパンストを脱ぐ。この間新しくおろしたばかりなのにもう電線している。三枚で五百円はダメやったか。服と一緒に、流れるように仕事の気持ちも脱いでいく。ふぅっと一息ついてプルタブを開けようとした手をとめて、そのまま冷蔵庫に入れた。シャワーを浴びてから飲むお酒はうまい。
十五分後。脱衣所ではラフな格好で眉毛の薄い女が一人、頭からタオルをかぶって立っていた。綾子はドライヤーが苦手だ。両手がふさがるし、肩が痛い。それになんといっても時間もかかる。放っておいたら勝手に乾くものをわざわざ乾かす必要もないではないか。そう屁理屈をこねてタオルドライで終わらす。彼がいたら、湿った頭を引き寄せて髪の毛に悪いで、とドライヤーしてくれるのだが。
冷蔵庫に入れておいたお酒はいい感じに冷えている。おつまみも持ってベランダにでると秋の夜のにおいが鼻孔をくすぐる。すぅ、と深呼吸しプルタブをあける。
あの日以来、彼とは少し気まずくなった。同棲を解消しただけで、関係に変わりはないのだけれど。やっぱり私より仕事をとったんか、と悲しく思う反面、彼の努力の成果をうれしくも思う。でもやっぱり恨めしかったりもする。どうして彼の一番近くにいるのに素直に喜べへんねやろう。彼は私を大事に思ってないんかもしれへん。それとも私が彼を大事に思えてないんかな。一人でいるとぐるぐるとまとまらない感情が渦巻く。夜風にふかれて濡れた髪がつめたい。…くしゅん、だめだこのままだと風邪をひいてしまう。考えたってわからないものはわからない。よし、今日は飲むぞ、と残りを一気に流し込んだ。もやもやした気持ちも一緒に飲み込む。部屋に入って窓をしめ鍵をかける。バタン、カチャッ。静かな部屋に物音だけが響く。サッとカーテンを勢いよくひいてソファに寝転がる。ブッと振動した気がしてスマホのロックを解除するが、着信はなかった。ふっと溜息をつく。溜まっていたダイレクトメールを削除していく。削除、削除…。
また溜息がでる。今日は何度溜息をついているのか。溜息つくと幸せが逃げるよ、と彼はよく言っていた。目をつむると、彼が引っ越す前に、一緒に繁華街で遊んだ日のことが思い浮かぶ。朝から一日中遊ぼうと言っていたのに結局二人とも寝坊して苦笑いしたこと。お昼を食べようと人気のラーメン屋に行ったが、長蛇の列で諦めたこと。近くの寂しい雰囲気の定食屋のランチセットがびっくりするほど美味しかったこと。目的もなくただぶらぶら歩くだけでも、手をつないでいるだけで幸せだったこと。他の日も、どの日も思い返せばいつも彼が近くにいた。今度いつ会えるんだろう…。
第四章 私だって
目を開けて、スマホをもう一度つける。時刻表示が思ったより進んでいる。ついうたたねしてしまったようだ。高校時代の友人から今度の休み遊ぼうよ、とメッセージがきている。どうせ彼忙しいんやろ?(笑)文末の括弧笑いが悪気はないと分かっていてもズキンと心に刺さる。この子は高校時代からずっと続く数少ない友人のひとりだし、彼のこともいろいろと相談してきた。同棲解消後すぐの頃は、ほかの地元の友達と連日遊んで気を紛らわしていたが、どうも近頃はそんな気分ではない。誰と楽しく喋ったり遊んだりしていても、そして一人でいればなおさら彼のことが心に浮かぶ。今頃何をしているんだろうか、私の知らない世界に行ってしまった彼に私のわがままは邪魔になるだろうか、と気にしてしまう。今までならどうでもいい内容のメッセージを送ったり夜中に急に電話をかけたりしていたけれど、今はもうそんなことはできない。物理的な距離が離れるということは、精神的な距離が離れることの要因なんだろうか。そういえば遠距離恋愛に失敗した女友達が言っていた。「遠距離っていい意味でも悪い意味でも放置なのよね。本当に私のことを愛してくれているっていう信頼があって、相手にも私があなたを愛しているってことがちゃんと伝わってないとだめなのよ。」伝わっていないということは、愛していないのと同じらしい。でも、と綾子は考える。実際問題、愛していることの証明なんてできないし、愛されていると受け取ることができるのは、気持ちに余裕があるときで、愛されていないんじゃないかと不安になるのは、気持ちに余裕がないとき。要するに、自分に余裕がないから彼に求めたり、不安に思ったりするんだわ。きっと。
ソファに寝転がったまま目線を右にずらす。適当に閉めたカーテンの隙間から三日月が顔をのぞかせている。
第五章 日常
チュンチュン…とかすかに鳥の声が聞こえる。ベッドに行かずにソファで朝を迎えてしまった。。こわばった体をうんと伸びをしてほぐす。テーブルの上には転がった空き缶と食べかけのおつまみが乗っている。ソファで寝たばっかりに変な筋肉が痛い。もう体の痛みの治りは遅くなっていることを実感する年頃だ。腰に手を当てながら洗面所へと向かう。鏡に映るぼさぼさ頭の女の目は腫れぼったい。泣いた記憶が蘇る。昨夜は、同棲解消後初めて泣いた。自分でもなぜかわからなかったが、これまでのこと、これからのことを考えると無性に不安になってどうしたらいいかわからなくなってしまったのだ。髪をバンドでとめてばちゃばちゃと顔を洗う。今日は遅出だからメイクは昼にすればいい。タオルで顔を拭いて寝巻のまま食パンを焼く。
どうでもいい政治家の不倫やスポーツ選手の薬物騒動のニュースを聞き流しながらスマホを操る。彼からの連絡はない。結局昨夜はお互い何も連絡をしなかった。忙しいだけ、余裕がないだけとわかっていても不安な気持ちが首をもたげる。ミルクを入れたコーヒーで慌てて打ち消す。
午前中はいつにもなくゆっくり過ごせた。自分の店のトップスとそれにあうひざ丈のスカートを用意する。仕事用のメイクも完璧だ。いつもより気分を上げるために、いつもより一段明るいリップをつける。
テレビを消し、戸締りを確認し、小さな声で行ってきますと鍵を閉める。小さいころからの癖なのだ。最寄駅まで歩く道中が綾子は好きだ。考え事をしたり、逆に何も考えずにぼーっと歩いたり。決まった道というのは、足が勝手に道案内してくれるから楽だ。少し前向きに、気持ちを持ち直してまたいつものような毎日が始まる。
第六章 似ている人
・・・と思っていた。
概して女という生き物は、弱っているときに優しくされると流されてしまうものだ。特に相手が離れた場所にいる彼に似ていたらなおさらだろう。
綾子は昼過ぎにタイムカードを押し、店に立った。客の入りはまずまずといったところか。午前中の売上を確認しようとレジを開ける。今日のレジはあの使えないフリーターだ。何かやらかしてないやろか、とやや疑いをもって確認する。と、思った通り怪しい履歴が見つかった。クレジットカードの利用でエラー表示が出ている。本人を捕まえて事情を聞いてみると、やはりカードを切った際にエラーが出て、もう一度切り直したらしい。クリアを選択したと言い張っているが、レジでは二重決済になってしまっていた。これは、まずい。急いで店長に電話をかけ指示を仰ぐ。店長は大きな声こそ上げなかったものの、苛ついているのは声色だけでわかった。はい、と答える綾子の声も自然と硬くなる。隣で涙目で立ちすくんでいるフリーターを横目で見ながら、こいつには対応は無理やな、と判断した。
「とりあえず、下の催事場で菓子折り買うてきてくれる?あとは私が何とかするわ」
「はい、ほんとにすみません。すぐ行ってきます」
手渡したお札を片手に走っていく背中を見ながら、綾子は次の行動を考える。本部への連絡は店長がしている、私がすべきなのはお客様への謝罪やな。菓子折りを待ちながら、綾子は電話のボタンを押した。プルルルルと短いコールのあと、もしもし?と若い男性の声がする。訝しげな声に、綾子は姿勢を正し名乗りだした。
「・・・というわけでこの度は私どものミスで山本様に大変ご迷惑をおかけしまして、誠にすみませんでした」
「あぁはい。そういうこともありますよね」
「いえ、本当に申し訳ありません。気持ちばかりですが、お詫びの品をお送りさせていただきます。ご迷惑でなければどうかお受け取りください」
「えぇ、わかりました」
「今後このようなミスのないように従業員教育を徹底して参ります。お忙しいところすみませんでした。」
「はい、では」
まだ涙目の彼女に、分からないことがあったら必ず他の人に確認するように厳しく言い、レジの処理の仕方を丁寧に教える。
「もういいわ。店長に話ししてくるから、店出といてな」
蚊の鳴くような声のはいを後ろに聞きながら、バックヤードで電話をかける。店長からはおつかれと声を掛けてもらったが、お客様トラブルほど疲れることはない。
三日後、朝から出勤していた綾子が服を畳んでいると、背後に人の気配がする。振り向きざまにいらっしゃいませ、というのと背の高い男性がすみません、というのが同時だった。
「はい、なんでしょうか」
綾子が尋ねると、男性は綾子のネームプレートに目をやり、先日お電話頂いた宮本さんですか、と言った。電話・・・と聞いてハッとする。
「あ!山本様でしょうか。先日は大変申し訳ありませんでした!」畳み掛けの服を手に持ったまま、勢い良く頭をさげる。あまりに勢いが良すぎたせいで八センチのヒールがよろける。山本が咄嗟に手を伸ばし綾子の腕を掴んだ。
「あ、すみません・・・」
顔をあげた綾子は山本を見て驚いた。似ているのだ、彼と。
綾子が山本の顔に見とれていると、山本は焦ったように手をはなし体の前で横にふる。
「あっ、すみません!そういうつもりじゃ・・・」
綾子も慌てて手をふる。そしていつもの営業モードに戻る。カードの件で何かまずいことがあっただろうか、と自分の言動を思い出しつつ聞いてみる。
「そういうことじゃないんです。ぼく、ここの服が好きで何回か来たことがあって。それで宮本さんのことも見たことがあって。その・・・」
山本は目を左右に少し泳がしてこう続けた。
「少しお話したいな、と思ってきました。迷惑ですよね」
「そんなことないですよ。いつもご利用いただきありがとうございます。お客さまからそう言っていただけて嬉しいです。」
こうして綾子のいつものような毎日は少しずつ変わりだした。
第七章 揺れるユレル
山本が店に来てから三週間。二人の関係はすでにただの店員と客の範疇を超えていた。山本の家は綾子の勤めるショッピングモールの近所で、勤め先は綾子の家の最寄り駅から徒歩五分にある小中学生向けの塾だという。そんな共通点から二人は急接近することとなったのだ。
綾子は自分の心が山本に動きつつあるのを感じていた。東京の彼には自分から連絡をすることがなくなった。彼から今度の連休は休めそうだからそっちに行ってもいいか、と連絡がきたが、それはもう嬉しい連絡ではなくチクッと心を刺す痛みを伴っていた。
塾は午後からの仕事のことが多く、山本は午前中に店に来たり綾子が遅出の日は一緒にランチに行ったり、そして夜は山本が仕事帰りに綾子の家に泊まったりすることもあった。このことを綾子は彼にはもちろん言っていない。
第八章 ただいま
そうこうするうちに今日から連休が始まる。土日祝に社員が連休をとることなんてできないが、今回は一日半の休みがある。月曜の有給申請すると店長がにやにやしながら日曜の午後から休みをくれたからだ。
「あの人背高いし、顔も宮本好みやもんな」
「違いますよ、やめてください」
「そんなん言うて顔赤いで?ま、楽しい連休をお過ごしください。私は三連勤やのになー」
「すみません、お休みありがとうございます」
店長に言われた言葉を反芻する。顔が好み?というかそれは彼に顔が似ている、ということではないか。彼がいなくて寂しい気持ちを、山本は埋めてくれる。ということは山本は彼の代わりなだけで、私は山本、という人の何が好きなんやろう。その答えはでないまま、ついに土曜日の勤務を終えてしまった。
彼は今日の夜八時半に新大阪に着く予定になっていた。綾子がタイムカードを押しスマホを見ると、彼からメッセージが来ていた。
仕事おつかれさま。ごはん作って待ってるから。
スマホを見る綾子の頬は自然と緩んでいる。それに気づいて綾子は左手で顔に触れる。やっぱり彼に会える、ということは嬉しいことなんだ、と独りごちてうなづく。彼にすべてを話そう。それで嫌われてしまったらそれでもかまわない。黙ったままでいるよりマシだ。
鞄から鍵を出し、回す。ただいま、といつものように呟く。と、奥の戸が開き彼が出てきた。
「おかえり」
久しぶりに聞く彼の声、久しぶりに見る彼の顔。綾子は玄関に鞄を放り出して小走りに彼に駆け寄った。
「ただいま」
ぎゅっと抱きしめられ彼の胸に顔があたる。久しぶりに嗅ぐ彼のにおい。大きな手が綾子の髪を撫でる。綾子は思った。私には彼しかいない。そして声を上げて泣き出した。
第九章 いってきます
日曜の午前勤を終え、綾子は迎えにきていた彼と遅めのランチに出かけた。彼がここよくない?と言った店を綾子はうーんと流す。山本との思い出がある店には行きたくない。
どこにでもあるチェーン店のパスタを食べながら、彼が楽しそうに明日の予定を話しているのを無理に笑顔を作って聞く。目の前の和風パスタはフォークでぐるぐる巻かれるだけで一向に減らない。
お腹すいてへんの?体調悪い?彼が心配してくれるが首を横に振る。そして意を決してこう言った。
「あんね、話さないとあかんことがあって」
彼は不思議そうに首をかしげる。なに?
綾子は彼が東京に行ってからどんな気持ちで毎日過ごしていたか、言葉に詰まりながらも、素直に話した。うんうん、と相槌を打ちながら彼は聞いている。話が時間を追うごとに綾子の目線は下がっていく。
「それでね、店のお客さんと仲良くなって。それで、家にも来て、それで・・・」
「待って」
初めて聞く彼の強い声に綾子は顔を上げる。綾子の涙で潤う目を見ながら彼は言った。
「聞きたくないから。そんなこと聞きたくない。綾子が、今、大事にしたい人は誰?俺?」
うなづいた綾子を見て言葉を続ける。
「なら、いいやんそれで。ほんまは明日言おうと思ってたから、家においてきてしもたんやけどな・・・結婚しよう」
「いいの、私で?」
「俺が大事にしたいのはお前だけやから。」
泣き出した綾子に、いつもの優しくて少し気弱な声でハンカチを渡す。店を出て、そのまま家に向かう。一言も話さずに。でも手はしっかりと繋いで。東京行きを切り出したあの道もすっかり秋の装いで、虫たちは冬眠の準備に忙しい。
彼が玄関を開け綾子を中に押し入れる。後ろ手に鍵をかけ、綾子に口づけする。好きだよ。指輪は少し大きかったから、東京でサイズ直しをしてもらう。
この部屋とも大阪ともお別れの時がきた。いってきます。荷物を運び出したがらんとした部屋に綾子は声をかけ、鍵をかけた。
さび付いた車輪が悲鳴を上げて、昨日卒業式を迎えたばかりの僕とトモコを駅へと運んでいく。ペダルを漕ぐ僕の背中に寄りかかるトモコの温もりが伝わる。線路沿いの上り坂を一生懸命ペダルを漕いで上っていると後ろから「もうちょっと、あと少し」という楽しそうな声が聞こえてくる。明け方の町はとても静か過ぎて聞こえてくるのはトモコの声と車輪の音だけ。僕は「世界中に二人だけみたいだね」と小さくつぶやいた。
しかし、その後僕はすぐに言葉を失った。坂を上りきったときに迎えてくれた朝焼けがあまりに綺麗だったのだ。トモコは「わー、きれい!」と笑っている。しかし僕は振り返ってトモコの笑顔を見ることができなかった。僕は涙が止まらなかった。楽しそうなトモコにこんな顔は見せられないこんなに泣いているのは僕だけか、と少しがっかりしながら景色に見とれているふりをして静かに泣いた。
駅に着くと、トモコは券売機で一番端の一番高い切符を買った。その切符が連れて行く町を僕はよく知らない。そんなトモコに対し僕は一番安い切符を買い、すぐに使うのに大事に財布の中にしまった。
トモコは一昨日買ったばかりの大きな鞄を持って改札を通ろうとした。僕も改札を通ろうと思い、さっきしまった切符を取り出そうとした。するとピコーンと改札が閉まる音が聞こえた。音の鳴った方を見ると、大きな鞄が改札に引っかかって通れずにいたトモコが、僕の方を見ていた。僕はトモコを引き止めたいという気持ちを抑えこむために、トモコの顔を見ずに黙って頷いた。そして引っかかっている鞄の紐を外そうとするが、なかなか外れない。大きな鞄はこの町での思い出がたくさん詰まっているようで、この町から離れたくないと言っているようだった。
中学2年生のある日、僕が家に帰るとお客さんが来ていた。お客さんに挨拶をするのが苦手な僕は静かに家に上がった。するとお客さんと僕の母さんの会話が聞こえてきた。
「旦那が会社リストラされちゃってね、そのストレスからお酒ばっかり飲むようになっちゃって。それから酔うと必ず私とトモコに暴力を振るうようになっちゃったの。」
「そうだったのねえ。あんなに仲良さそうだったのに。大変だったのねえ、あなたもトモコちゃんも。でも、こうやって久しぶりに近くに住めることになったっていうのが私は嬉しいわ。」
僕はこの二人の会話から、自分の母さんの友人がやって来たこと。その人とその子供が辛い思いをしてきたことが分かった。
次の日、僕のクラスに転校生がやってきた。トモコという名前を聞いてぴんときた。僕の母さんの友達の子だ。確か父親に暴力を受けていたとかなんとか……。僕がいろいろ考えている間に、この田舎の学校に転校生が来ることは初めてで、クラスの女子達はトモコの周りに集まった。
「どうしてここに引っ越してきたの?」
誰かが聞いた。
「おばあちゃんと一緒に住むことになったから。」
トモコは少し戸惑いながら答えた。するとまた別の子が
「家族全員で?すごいなあーすごい仲良しな家族なんだね!」
と言った。その言葉にトモコの顔が歪んだ。僕は事情を知っているのは僕だけなんだと思った。でも何も出来ない自分が歯がゆかった。
その日の夜、母さんから
「お醤油買ってきて。」
とおつかいを頼まれた。スーパーにむかっていると、前から女の子が走ってくる。トモコだ。声をかけようとして驚いた。泣いているのだ。よく見ると頬から血が出ている。
「どうしたの!?」
声をかけるとトモコは震えながら「助けて。助けて。」
と繰り返している。その様子を見てはっとした。
「もしかして、お父さん……?」
なぜ知っているの?と言いたそうな表情をしながらもうなずいたトモコを見て僕はいてもたってもいられなくなった。
トモコの家に着いた。酒臭い。周りを見渡すと倒れているトモコの母さんの姿と、父親らしい男がいた。
「ト、トモコ……?逃げなさい。早く……。」
「お母さん!」
「なんだトモコ。ん?誰だそのガキは。いっちょまえに男連れてるのか。調子のるんじゃない!」
そういうと男はトモコに近づいてくる。やばい。
「やめろよ!」
この子を守らないとだめだ。男の僕がこの子を守るんだ。その気持ちでいっぱいだった。
「なんだお前は。部外者が入ってくるな!」
初めてだった。こんなに力いっぱい殴られたのは。だけど、今まで実の父親に殴られたトモコの痛み、自分の愛した人に殴られたトモコの母さんの痛みに比べたらこんなものどうだってなかった。正直、今思うと、この家族とは出会ったばっかで僕がここまでする必要はないのかもしれない。だけど、この時は守りたいという気持ちを抑えることができなかった。
「うおーーーーー!」
全力で立ち向かった。何度も戦いに行った。しかし中学生と言えど、大人の男には適わなかった。もう立てない。もうだめだと周りを見渡すとトモコの姿がない。トモコの母さんは倒れたままだ。母さんに近づく男。トモコの母さんを守らないと……。しかし体に力が入らない。やばい。そう思ったときだった。
「なにしてるんだ!」
「そこから離れろ!」
声のする方を見ると、警察がいた。警察は強い。僕には歯の立たなかった男をあっという間に捕まえた。その様子を見届けると、だんだん周りが真っ暗になっていった。
目がさめると病院にいた。
「大丈夫!?」
そこには僕の母さんが心配そうに僕を見ていた。
「お醤油のお使い頼んでから、全然帰ってこなくて心配だったのよ。警察から連絡来て驚いたわ。でも、よく戦ったわね。ケンがあの親子を守ったのよ。よく頑張ったわ。でもね、これからは自分のことも大切にしてちょうだいね。わたしの大切な息子だもの。やっぱり傷ついてる姿を見るのはお母さん辛いわ。」
そう言って僕を抱きしめた。痛い。だけどその痛さは愛情に溢れていた。
コンコン。病室のドアを誰かがノックしている。
「どうぞー。」
ゆっくりドアを開けて入ってきたのはトモコだった。
「こんな大けがさせてしまってごめんね。」
今にも泣きだしそうだった。僕はさっき母さんにそうしてもらったように、トモコを抱きしめた。
「僕が守りたいって思ってやったことだから謝らないで。無事でよかったよ。」
「ありがとう。」
そう言ってトモコは泣いた。
これが僕達の出会いだ。それから僕達はいろんなところに遊びに行き、色んなものを食べ、たくさんの思い出を共有してきた。
高校3年生の春、いつもの帰り道でトモコと僕は夢を語った。
「わたしね、将来、児童福祉士になりたいんだ。児童福祉士になってね、わたしみたいに家族のことで辛い思いをしている子ども達を助けたいの。私にはケンがいたけど、世の中には誰の助けもないまま苦しんでいる子がたくさんいる。そんな子の力になりたい。」
後ろから凛とした声が聞こえてくる。
「この夢を叶えるためにこの町を出てくの。」
「えっ……」
僕は言葉を失った。トモコも僕が目指している地元の大学を受験するとばかり思い込んでいた。返す言葉がない僕は車輪の音を聞きかながら呆然とする。
「ケンは?将来何になるの?」
「ぼ、僕?僕は建築家になるんだ。建築家になって、早く帰りたい、居心地がいいって思ってもらえるような家作るんだ。家族みんながそろう場所だよ。素敵な場所を作りたい。僕は地元の大学の建築科に行くつもり。」
トモコの夢を邪魔したくないし、僕も自分の夢を叶えたい。切ないがこれは仕方のないことなんだと自分に言い聞かせた。
「うん。」
とトモコは笑った。
少しキーキーなる自転車にトモコを乗せ、帰路につく。夕日が僕たちを照らしていた。
トモコとの思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。この鞄を外してしまうとお別れだ。今まですぐに会える距離にいたのにこれからは全く会えなくなる。離れたくない。しかし、その鞄を外してしまったのは僕の手だった。
ついに、トモコが乗る電車がやって来た。二人の時間の最後を告げるベルが響く。そしてトモコだけのドアが開く。トモコは何万歩よりも距離のある一歩を踏み出してこう言った。
「大学生活はお互い、夢を叶えるためにがんばろうね。自分の夢を叶えられたら会いにくる。だから、ケンも自分の夢を叶えられたら会いにきてね。約束だよ。必ず、いつの日かまた会おうね。」
そんなトモコの言葉に僕は応えられずに俯いたまま手を振る。そして電車は発車した。
僕は線路沿いの下り坂を必死に漕いだ。風よりも速く漕いだ。トモコに追いつけ。そう思いながら必死に漕いだ。今朝と同じように、さび付いた車輪も悲鳴を上げながら走っていく。精一杯電車と並ぶけれど、ゆっくりゆっくりと、その距離は離されていく。
その時、僕は別れ際のトモコを思い出していた。
「約束だよ。必ず、いつの日かまた会おうね。」
トモコがそう言ったとき、僕は俯いたままだったが、トモコが泣いていたことに気づいていた。トモコの声が震えていたのだ。顔を見なくても気づいていた。二人別の大学に進学することが分かった時も、今朝もトモコは寂しそうじゃなかった。いや、僕が気づかなかっただけだった。泣いていることに気づいて初めて今まで彼女は強がっていたのだということが分かった。だから必死に漕いだ。追いつけ、追いつけと。
気持ちが自転車に追いつかずこけてしまった。僕はすぐに立ち上がり、どんどん離れていくトモコに見えるように大きく手を振った。
「約束だよ。必ず、いつの日かまた会おう。」
あの時、応えられなかったが、トモコに届けと念じながら、何度も何度も見えなくなるまで大きく手を振り続けた。
トモコを連れ去った電車が見えなくなり、僕もゆっくり自転車をこぎ始めた。だんだんと町は賑わいだし、さび付いた自転車の車輪の音も周りの音にかき消されていた。
僕は「世界中に一人だけみたいだなあ。」と小さくつぶやいた。
『またね』「ピンポーン」とインターホンが鳴り熟睡が終わった。目をこすりながらパジャマ姿でインターホンまで行き、少し機嫌の悪い声で「はい。」と答えると、向こうからは「宅急便です。」とまるで私の睡眠を邪魔したことなどつゆ知らずという元気な声が聞こえた。のっそりと扉を開け「ありがとうございます。」と言い荷物を受け取った。荷物をもらい扉を閉めようと考えたが、ついでにポストも見ておくかという気になり、ポストを開けた。すると、中には一枚の手紙が入っていた。手紙を見ると、山下由紀という差出人からだった。一瞬見覚えのない名前だと思い首をかしげたが、文面を見ると誰からの手紙だったのか、一目で分かった。橋本由紀。私の高校時代を彩った人からの手紙だった。
「キーンコーンカーンコーン」とチャイムが鳴り二時間目の授業が終わった。「ふぅあ」と不意にもあくびが出てしまった。昨日佐々木の家に泊まり遊び続けてほとんど寝ていない。さっきの一時間目の休み時間に少しでも寝たいと思い机に突っ伏していたら、二時間目が始まる時に先生にたたき起こされた。三時間目は理科室で実験だ。さっきみたいに寝ることもできないと思いあくびの後にため息も出た。重たい体を起こし理科室に移動しようとした時、僕の目の前に彼女がいた。橋本由紀。眠い状態で無防備だった僕の前に彼女が急に現れたので一瞬ドキッとしたが、眠たくて機嫌悪そうな声でとっさに「なに?」と言って彼女がいて焦ったことを何とか誤魔化した。
「あのさ、ちょっといい?」
「どうしたの?」
「ちょっとここだと話しづらいから、屋上で話したいんだけど…」
「はぁ。分かったよ。手短にね。」
少しめんどくさそうな態度を装った反面、橋本と話すことができたことにホッとした自分がいることに恥ずかしくなった。他の人に聞かれたくない話…。まさかとは思ったが本当に話がそのまさかだったら良いなと期待も胸にこもった。「ねぇー、早く来てよー。」と教室の外に出ようとしている彼女の声に我に返った。「うん!行く行く!」と返し慌てて席を立った。教室から出ていこうとした時に、「翔―!理科室行かねーの?」と佐々木に聞かれ、「いや、行く!先に行っといて!」とバタバタしながら返事をした。
屋上にもう橋本はいた。「遅れてごめん、で話ってなに?」と笑いながら声をかけた。
「次授業だから手短に話すね。」
「うん。」
彼女の緊張した表情を見た途端、急にさっきの自分の期待が現実になりそうな予感がして、こっちまで緊張した。
「実は…私今好きな人がいて…」
「うん…」
「その人が名波の良く知る人なんだよね。」
一瞬声が出なかった。さっきまで自分がしていた期待が本当に馬鹿で恥ずかしい。と同時に自分の彼女への想いは一方通行なものだったという現実が目の前に突きつけられた。
「えっ、マジ?橋本好きなやつとかいたんだ! ほんとにびっくりした。でその好きなやつって誰?」
「……佐々木なんだ。」
「あっ、そうなんだ!へぇー」
「あんたなら佐々木とも仲いいし、わたしとも仲いいでしょ?佐々木の友達でこんなこと話せるのあんたぐらいしかいないの。」
動揺を隠すために言葉を重ねた。彼女の中で僕は友達として位置づけられていた。そんなことは目に見えていたはずなのに、どこかで期待してしまう自分が何度もいた。僕は彼女にとって友達以上恋人未満の関係であることを彼女の口から、逃れられない事実として聞かされた気がした。
気が付くと自分の席に座っていた。ハッと時計を見ると、もう三時間目が終わり休み時間になっていた。三時間目の理科の授業は一ミリも頭に入ってこなかった。自然にはあっとため息が出る。一時間前は睡魔とどう戦うかなどと今と比べると本当にどうでもいいことで悩んでいた自分が羨ましかった。ふと僕が彼女にかけた言葉を思い出した。「何でも言ってくれよな!いつでも相談にのるから!」繕った自分が振り絞った言葉だった。橋本と話せると思い軽い気持ちでのった相談。聞かなければよかったという後悔もあれば、彼女の想いを知らなければ、この先実現することのない期待を何度も抱くことになっていただろうと思うと心が痛くなった。
「キーンコーンカーンコーン」と六時間目の終わりのチャイムが鳴り、クラスの奴らはそのまま家に帰る者もいれば、部活だと大声で叫んで教室を出て行く者もいる。僕は前者で今日みたいな日はそそくさと家に帰ってやりたい気分だ。鞄に教科書を入れて帰ろうとした時、またも僕の前に橋本がいた。
「また明日ね!」
そう笑って元気に走っていく彼女の背中に「うん。また明日。」と声をかけた。
今日彼女の気持ちを知った。だけど、あの屈託ない笑顔を曇らせたくないと思った。彼女の相談にのる前に、僕の気持ちを打ち明けられたらどんなにいいかと。でもそれをしても結果は見えてるし、彼女がせっかく僕を頼りにしてきたのにその思いに応えられなくなってしまうことの方が嫌だ。そう思った時、僕はある覚悟を決めた。彼女の想いを応援しよう。彼女にとって一番頼れる友達以上恋人未満の関係でもいい。覚悟が決まると不思議と心が軽くなった。
次の日、いつものように支度を済ませ、家を出た。すると、そこにはいつものように佐々木が僕を待っていた。
「おせー」
「ごめんごめんー」
このやり取りが毎朝行われる。佐々木とは中学からの仲だ。二年の時に同じクラスになってから不思議と気の合ったこいつとは、同じ高校に進学してから、毎朝一緒に学校に行く仲になった。ふあっとあくびをする佐々木を見てこいつは僕の気持ちも知らずにのんきだなと思いふっと笑ってしまった。
「おい、なに笑ってんだよー」
「お前があまりにのんきだったからさ。」
「なんだそれ。」
橋元が佐々木のことを好きと言った時、もちろんショックだったが、こいつならなんだか許せる気になった。今はもう橋本の一番の協力者僕は橋本の頼みを思い出し、佐々木にこう切り出した。
「そういえば、あんまり聞いたことなかったけど、佐々木って好きな奴とかいんの?」
「えらい急だな。そう言えばあんまりお前とそういう話したことなかったよな。」
「まあ高校二年生にもなったんだし朝からこういう質問もありかなと。」
唐突すぎたかと思いすかさず自分で自分の言葉をフォローした。
「そんなん聞いてくるってことはお前はどうなの?」
いつものんきな佐々木でもたまにドキッとする質問を投げてくる時がある。ただ、ここでひるんでは大事なことを聞けずに終わってしまう。何とか話を続けなければ。
「まあ、そりぁいるよ。」
突っ込まれる覚悟で自分のことを言った。しかし以外にも佐々木は「ふぅん。」とニヤニヤして僕の方を見るだけだった。
「佐々木はいるのか?いないのか?」
「そんなこと翔が聞いてくると思わなかったけど、うん。いるよ。」
さっきまでのニヤニヤした顔が少し照れくさそうな顔に変わった。僕は佐々木が好きな人は誰なのかすぐさま聞きたかった。けど、佐々木は僕の好きな人が誰なのか突っ込んでこなかったということは、自分も好きな人がいるかいないかは教えるが誰までかは詮索してくるなという意味に捉えられた。
僕も佐々木と同じように「ふぅん。」とニヤリと笑って佐々木を見ることしかできなかった。
昼休み、また橋本が僕の前に来た。
「ちょっといい?」
橋本はもうなんの話をするか分かってるよねとでも言いたそうな顔で話しかけてきた。
「はいはい。」
僕たちはまた屋上に向かった。正直どんな形であれ橋本に話しかけられるのはやっぱり嬉しいなと思った。
「昨日言った話だけど、名波には佐々木に好きな人がいるかどうかを探ってほしいの。」
「え、うん。だけど、名前はいいの?」
「うん。それはいい。そこまで知ってから告白しても面白くないでしょ?もし佐々木に好きな人がいてそれが私じゃなかったとき、名波も私に言いづらいし、私も告白するのを躊躇してしまうでしょ?それじゃダメなんだ。この想いは必ず伝えたい。」
彼女の佐々木への想いは僕が思っていたより大きかったことに驚いたが、その前に今日朝に佐々木から聞いた話を彼女にしなければと思い、返事をした。
「ちょうど僕からも橋本に言いたいことがあったんだ。今日朝学校に来る時に佐々木に聞いたんだ。好きな人がいるかどうか。そしたらあいつ、いるってさ、好きな人。」
「そうなんだ。」
橋本の顔を見ると誰なのか聞いたそうな顔をしていたが、それはやはり聞いてこなかった。
「うん。聞いたんだけど、好きな人がいることしか分からなかった。誰かは聞いてない。あいつと今までそういう話したことなかったからさ…」
「そうなんだ。ありがとう!まさかもう聞いてくれてると思わなかった(笑)良い味方ををつけたなと思いました。」
そう言って彼女はまた屈託のない笑顔を見せた。そして、応援すると決めた手前、また彼女に惹かれてしまっていることにも気づいてしまった。
それから一か月が過ぎ、彼女と僕の関係は続いた。この間柄になってから、彼女は帰り際に必ず僕の前に来て「また明日ね。」と笑って去って行く。僕にとってそれが一つの楽しみにもなっていた。今日も笑いながら「また明日ね。」と言い走っていく彼女の姿を目で追いかけた。
屋上に行き彼女の進展具合をこの一か月聞いてきた。二人はもともと一年の時にクラスが一緒で二人で体育委員をして体育祭を盛り上げた。そして橋本が今久しぶりに一年のクラスで遊ぶのを一緒に企画しようと佐々木に連絡し、それが今も続いている状態だ。これといった進展を最近聞いておらず、僕は少し心配していた。
ピロンと携帯が鳴り、画面を開くと橋本からのメールだった。メールの内容は何となく予想はできたが、それでも彼女からメールが来ることが嬉しかった。
『今度三組で集まることになったんだけど、そこで佐々木に気持ちを伝えようと思うの。』
いつかは彼女が気持ちを伝えることなんて分かっていた。しかし、いざその報告をされるとなんともやるせない気分になる。僕自身彼女を応援しているこの一か月間、彼女への想いを何度も忘れようとした。けど出来なかった。忘れようとする思いとは裏腹に彼女への想いが大きくなっていた。
彼女からのメールを見て、僕はある決心をした。彼女に想いを告げようと。たとえ、佐々木と付き合うことになっても、僕は彼女に伝えたいと思った。
三組の集まりのある金曜日、またいつもの屋上に呼び出された。
いつものように佐々木とのメールの話をするのかと思いきや、彼女は僕が来てもあまり多くを話さなかった。
「緊張してるの?」とからかうように問いかけた。
「うん。だいぶね。」
いつものように笑う彼女の顔はどこかぎこちなかった。
今日が終われば橋本が僕を屋上に呼び出すことはない。それは少し寂しいが僕が踏み出すためには必要なことだと何度も自分に言い聞かせ彼女に「頑張って」と一言かけた。
学校から帰り、彼女からの連絡をまだかまだかと待っていた。時計を見ると、もう十二時を指していた。連絡がこないのは、うまくいったからなのか、とソワソワしていると、ピロンと携帯が鳴った。飛びつくように携帯を手に取ると、画面には橋本の名前が出ていた。急いでメールを開くとそこには『×』とだけ書かれていた。
休みが明け月曜日の朝、僕はいつも通り準備し、外で待つ佐々木と会った。聞きたいことは山ほどあったが、佐々木はいつも通りのんきそうにあくびをして眠たそうにしていた。
「橋本のことなんだけど…」
「あ、それな。橋本が翔に相談してたって言ってたっけな。」
佐々木は僕に橋本のことを聞かれると、そういえばというような顔をして答えた。
「フッたんだろ?」
「うん。なんでかは聞くなよ。前の話から何となく分かるだろ?」
佐々木は僕に好きな人がいると言った。しかしおそらくその人は橋本ではなく、違う誰かだったようだ。橋本をフッた理由はそれが全てだった。
僕は少し黙って歩いた。佐々木も僕が考えていることを察したのか何も話しかけてこなかった。
学校で橋本と会った。
「おはよう!」と笑顔で話しかけてきた。僕はもっと沈んでいるものだと勝手に思い込んでいたがふたを開けたら案外気にしていないようだったのでホッとした。
昼休み、橋本が来るのかなと思っていた僕は席に座っていた。しかし、彼女は来なかった。
放課後、橋本を見つけた。今度は僕が「ちょっといい?」と聞くと彼女は小さな声で「うん。」と言った。
放課後の屋上はいつもの屋上とは違い、夕陽が差し込んでいた。屋上に上がれば彼女から切り出してくると思っていたが、彼女は遠くの方を見ているだけだった。しびれをきらした僕から切り出した。
「どうだったの?って聞くのも違うと思うけど。まあ、元気…出してよ。」
恐る恐る発した言葉に彼女はうなずいた。朝元気そうに振舞っていたのはやはり無理をしていたのだと悟った。
少し沈黙が流れてから彼女が
「ごめんね。せっかく協力してくれたのに。ダメだった。」
ニコっと笑う彼女の笑顔はどこかぎこちなかった。その笑顔を見るとたまらなく苦しかった。何か気の利いた返事はないかと必死で考えていた時、彼女の頬が夕陽に照らされて濡れいているのが分かった。それを見た時、僕が今彼女にしてあげられることは友達として気の利いた言葉をかけてやることしかできない。今のままではだめだ。変えるんだ。友達以上恋人未満の関係を。
「あ、あのさ、、、」
思い切って振り絞った声は空に響いた。
「結婚しました。名波は元気?」と書かれた手紙の横には幸せそうに微笑む彼女の写真が貼られていた。隣には彼女と同じようにはにかむ人のよさそうな男性がいた。橋本由紀が山下由紀に変わるのはぎこちない。そんなくだらないことを考え、彼女の幸せそうな様子を見て、「おめでとう。」とつぶやいた。
「カギの大原」と大きくプリントされた灰色のつなぎ、それと同じ色の帽子、手には工具箱。これが俺の仕事スタイル。
今日もあるマンションに仕事をしにやってきた。
空は曇っていて、昼下がりだというのに薄暗い。暑くもなく、寒くもない。実に仕事日和だ。
「あら、ご苦労様です。」
一階の通路を通った時、ふいにすれ違ったマンションの住人らしき年配の女性から声をかけられた。仕事柄、住人に声をかけられることは珍しくない。
「どうも〜。」
俺は帽子のつばをほんの少し上げ、挨拶を返しながら通り過ぎようとした。
「雨、降り出しそうね。」
おいおい、二言目とは予想外だぞ。
女性はそのまま通り過ぎてはくれず、曇り空を見上げながらそう続けた。
「そうですね。では。」
しまった。少しそっけなくなってしまったか。
顎を少しだけ上げて女性の様子をうかがうと、女性はこちらを見て微笑んでいた。俺は女性が首に巻いている薄紫色のスカーフからさりげなく目をそらす。
「お仕事、頑張ってね」
ぺこりと一つ会釈をしてその場を立ち去る。角でもう一度女性を振り返ると、女性はまだ灰色の空を見つめていた。湿った風に紫陽花色のスカーフが揺れている。
不思議な人だ。
なぜ不思議だと感じたのかはわからない。
とにかく思わず一瞬目が離せなくなってしまったが、気を取り直して非常階段を目指す。この仕事を始めてから、エレベーターは使わないようにしているのだ。カンカンと階段を上り、今日の仕事場である4階を目指した。
南向きの角部屋、「408」と刻まれたプレートを確認する。その下の表札には油性マジックで「柏原」と書かれている。この時間、この家に人がいないことは知っていた。鍵穴の前でしゃがみ、慣れた手つきで工具箱を床に広げる。
カギはパターンだ。よほど重要な扉以外のカギは、たいていよく似たパターンでできている。ちょうど一発屋のシンガーソングライターが、同じ曲をアレンジして再発売するようなもの。聞き手は同じものを聞かされても飽きるだけ。
俺の仕事は、そんな仕事だ。
最小限の物音で鍵を開け、ドアノブに手をかけた。丸く、手にぴったりとなじむのに、触るとひんやりとして俺の体温を奪う。ドアノブは家族に似ている。
「お邪魔します。」
挨拶は、こんな俺のせめてもの礼儀である。仕事を始める合図ともいえるだろうか。
ここから先は「カギの大原」という言い訳は使えない、と自分へ言い聞かせているような気もする。
経験上、目当ての物は大概、リビングかダイニングの引き出しに入っている。できるだけ物を荒らさないように、証拠を残さないように、そっと目星をつけた小さな引き出しに近寄った。
裕福な家庭が、俺のような奴に狙われやすいわけではない。むしろ金のある家はセキュリティが固く、入りにくい。仕事をしやすいのは、この柏原家のような中流の家庭だ。また、家があまりに広いと中を探しにくいから、その点マンションはいい。
もっと言えば、最も狙いやすいのは独り暮らしの老人だが、俺が仕事をするのは子供のいる家庭と決めている。それはこれが「俺の仕事」だからだ。
そして引き出しに手をかけた時、背後でドアの軋む音がした。
「ママ・・・、もう帰ってきたん?」
か細く、少しかすれた声に絶望を感じながら、ゆっくりと振り返ると、そこには、寝間着姿の少女が立っていた。小学一年生くらいだろうか、額には冷却シートを貼り、少し眠そうな目をしている。
「おっちゃん、いや、お兄ちゃん・・・、だれ?」
だれ?という一言がこんなに怖いとは思わなかった。
なんと説明すればいい。どうすればいい。
居直り強盗、という言葉が頭をよぎった。少女に力で負けることはない。まず長い髪を引っ張って床に押し付け、馬乗りになって拳を・・・。
「わかった!かぎ屋さんやろ!わかるで、だって『かぎのおおはら』って背中に書いてるもん!」
少女は、俺に駆け寄って、誇らしげに背中のプリントを指差した。
「ミクな、漢字も読めるねん!これ『おおはら』ってよむやろ!・・・間違ってる?」
この世の終わりみたいに不安そうに見上げる「ミク」に、恐る恐る首を振って見せると、「ミク」はまた花が咲いたように笑った。
「お兄ちゃん何しに来たん?ミクはな、風邪で学校休んでるねん!ママもパパも仕事やからな、泥棒こやんように一人でお留守番してるねんで!」
泥棒の真似をしながらハイテンションに説明し時々咳き込む「ミク」を、まさにその泥棒が見ている、という何とも不思議な空間になってしまった。とにかく彼女が全く俺を警戒していないことは一目でわかった。
「正解、お兄ちゃんは鍵屋さんで、昼間に窓の鍵を修理しておいてください、ってママに頼まれて仕事をしにきたんだよ。」
「窓のかぎ、壊れてたんや!なあ、ミクお兄ちゃんの仕事、見てていい?」
「い、いいよ。」
工具箱をまた開け、壊れてもいない窓の鍵をいじくる。
困った展開になった。「ミク」は床にぺたりと座って、興味深そうに仕事を後ろから伺っている。人は目を見られるより背中を見られている方が居心地の悪い生き物である。
俺は振り返って「ミク」に向き直った。そうだ、仕事が終わったといって、さっさと帰ってしまおう。そう考えた時、
「お兄ちゃん、ほんまは泥棒さん?」
心臓が飛び跳ねた。
気づかれた。頭が真っ白になる。
「だってな、おにいちゃんずっとミクのこと怖がってビクビクしてるやろ。さっき台所の引き出し開けてたのも、お金探してたんやろ?」
なんだこの少女は。何も考えていない無邪気な子供かと思いきや、俺の挙動を敏感に察知していた。先ほどまで油断していた相手に突然噛みつかれたような感じだ。大きい黒目から目が離せない。
逃げるか、この少女をどうにかしてしまうか。今俺が考えるべきことはその算段であるはずなのに、全く頭が回らない。泥棒だとわかってなお、恐怖や焦りなどの感情が一切にじんでいない少女の目を見ていると、何も考えられなくなってしまっていた。
「でも、お兄ちゃん髭はえてないし、風呂敷ももってないから、違うか。」
「泥棒、です。」
どうして正直に答えてしまったのかと、自分で口走っておきながら戸惑う。
『パパ、嘘は一番あかんことなんやで。嘘つきは泥棒の始まりやってママも・・』
いつの日か聞いたセリフがぼんやりと浮かんでくる。こんなことを思い出すのは「ミク」が少し彼女に似ているからだろうか。そよ風に踊りそうな細い髪も、恥ずかしげに時おり顔を出すえくぼも、似ている。といっても、彼女は今頃もう高校生になっているはずなのだが。
「あははは、正直な泥棒や!」
俺の仕事は、他人の家の大事なものを持ち出すこと、それだけだ。ものを手に入れれば、長居は無用。そのはずなのに、ここにいたい、この少女を見ていたいと思ってしまう自分がいる。
驚いた。俺の中にも、まだ父親らしい感情が残っていたのか。
壁に飾られている、「ミク」が書いたであろう家族三人の絵が目に入った。
「お兄ちゃんは、家族おる?」
「いないよ。今は」
「なんで?どっかいっちゃったん?」
「うん、いっちゃった。」
「ミク」の目がじわりと少しにじんだ気がした。
「そうなん、さみしいな」
「いや、大丈夫だよ、もう慣れた。」
「ううん、そうじゃなくて、」
俺の横にくっついて、少しうつむく「ミク」を見つめる。
「お兄ちゃんの家族、さみしいやろなって。」
まさかの返答に、言葉がつまった。一般的に考えて、さみしいと感じるのは俺の方ではないのか。
「・・・どうして?」
「ミクがママに怒られて、家出した時な、ママなんか大っ嫌いって思った。でもな、しばらく経ったら、お家に帰りたくなった。ママがみつけてくれたとき、大好きって思った。だから、出て行ったとき、だれも追いかけて見つけてくれへんかったら、さみしいやろなって」
二人が追いかけてほしいと思っている?そんなことは考えたこともなかった。
あの時俺が追いかけていれば、いま一緒に家族三人、笑っていられたのだろうか。
「家族、おいかけへんの?」
「・・・。」
その時だった。玄関のドアがカチャっと鳴る。
ゆっくりと流れていた「ミク」と俺の空間が、一瞬で緊張に包まれた。
「ママ、かも」
目を真ん丸に見開いて、「ミク」口をパクパクとしている。母親の足音は徐々に近づいている。
「お、お兄ちゃん、隠れんでいいん?」
追いかける、か。今でも遅くないだろうか。
「お兄ちゃん、聞いてる!?」
そうだ、大丈夫、きっと二人も受け入れてくれる。
「なあってば!!!」
さあ、逝こう。
素早く台所にあった包丁を手に取り、自分の胸に突き刺した。
「今いくよ、美樹、美咲。」
ミク・・・?
かすんでいく視界で、最後に見えたのは、ミクの緩んだ口元だった。
キャーーーーー
女の悲鳴がマンションに響き渡る。雨がぽつぽつと降り始めている。
紫陽花色のスカーフを風になびかせ、女性は微笑んだ。
「これが私の仕事。」
1
夕暮れ時、二人の男女が信号待ちをしている。二人の手にはスーパーの買い物袋が握られていた。信号が青になった。真っ赤に染まった煉瓦道を歩き出す二人の横を自転車が颯爽と通り過ぎていく。
ヨウスケが二人の間の買いもの袋を覗き込む。
「今日の晩御飯何?」
「ひみつ。」
ハルカはおしえてくれない。まあいい。ハルカの作る飯はなんでもうまい。ヨウスケは自分に内緒で選ばれた晩御飯のメニューがなにかあれこれ考えていた。すると不意にハルカの顔が目の前に現れた。ヨウスケは驚いた。ハルカは不機嫌そうな顔をしている。
「なに??」
とヨウスケは尋ねた。
「どうして黙ってるの??」
どうやら二人で歩いているのに何も喋らなかったことに怒って拗ねているらしい。
ハルカは拗ねている顔もかわいい。
「違うよ。君のこと考えてた。」
「ほんとに??」
「ほんとだよ。」
ハルカはしばらく疑いの目をヨウスケに向けていたが、しぶしぶ納得したようで
「ふーん。」
とつぶやいていた。
「でさぁ、今度の旅行どこ行く??」
何気ない、いつもの会話だ。
2
「ただいま」
だれもいない家にむかって二人は言う。
「おかえりー」
隣でハルカが嬉しそうに答えていた。
「晩御飯つくるね。」
そういってハルカは買い物袋を持ったままキッチンへ向かっていった。家事に関してはまるっきりダメなヨウスケは、買ってきたものを冷蔵庫に入れた後、リビングに寝っ転がって、晩御飯ができるのを待つしかなかった。
ふとヨウスケは押入れの上のほうに古いアルバムを見つけた。そうそう、そういえばここにアルバムをしまっていたんだ。ヨウスケはむくりと起き上がり、手を伸ばして、いくつかあるアルバムの内1つを取った。ハルカのアルバムだった。ヨウスケはたったまま表紙をめくる。そこにいたのは大学生のハルカだった。ヨウスケはページをめくる。友達と並んだハルカが楽しそうにこっちを見ている。次のページも、また次のページもそうだった。こっちまでつられて笑ってしまいそうな笑顔である。
ページをめくり終えたヨウスケは、最後のページのポケットが膨らんでいることに気がついた。
「なんだこれ」
そう言いつつヨウスケにはそれが何なのか、おおよその見当がついていた。
「今更ヤキモチもないだろう」
と、胸騒ぎを抑えながらヨウスケはポケットの中身を抜き出した。ポケットの中に入っていたのは写真だった。ハルカがすこしゴツ目な彼の腕に、おどけてつかまっている。
分かっていたはずだった。今はもう関係ない。ずいぶん前に割り切ったつもりだった。時間がたてば気にならなくなる。そんな気がしていた。しかしヨウスケには、カメラの方を向くハルカの瞳がやけに切なく、胸が熱くなるのだった。
ヨウスケはそっと写真をしまう。気を抜くとあふれてしまいそうな涙をこらえ、ハルカに向かって言う。
「ごはんまだー?」
いつもと変わらない。
3
「今日の晩御飯は親子丼です!」
ハルカは得意気な顔でそう言った。
どうやら内緒で作っていたのは親子丼だったらしい。なるほど。親子丼は大好物だ。
「どうしたの?なにかいいことでもあった?」
ヨウスケは尋ねる。
するとハルカは一瞬不思議そうな顔をしたあと、少し考え、次の瞬間にはしかめっ面になっていた。
「なんで親子丼にしたのかわからないの!?」
ハルカはしかめっ面のままそう言った。
ヨウスケは一瞬驚いた後、頭を悩ませた。なんだろう。自分の好物を作ってくれるなんて、今日は何か祝われるようなことがあっただろうか。いや誕生日でもない。最近めでたかったことでも、何かはるかに話しただろうか。様々なことが頭を駆け巡った。しかしヨウスケにはわからなかった。
「ごめん。わかんない。」
ヨウスケが謝ると、急にハルカが、にへらとわらいだした。ヨウスケは突然のことに驚いたが、なぜだか嬉しそうなハルカにを見ているとつられて笑ってしまいそうになるのだった。
「わかってないなあヨウスケは。答えは私が食べたくなったからに決まってるじゃん。」
「そんなのわかるわけないじゃん!!」
まったく当たるはずのない質問だった。まったく、してやられたものだ。ヨウスケは、騙されたぁーなんていいながら文句を言う。しかしその口元には笑みがこぼれているのだった。
4
「お風呂先にはいっていいよ」
ハルカにそう言われ、ヨウスケはお風呂に入っていた。久しぶりにのんびりとした一日だった。普段はシャワーですませてしまうヨウスケも今日に限っては、湯船につかりながらゆっくりとハルカとの一日を思い出すのだった。特に何かをしたわけでもない。どこかに行ったわけでもない。朝起きて、二度寝をして、洗濯物をたたんで、買い物に行き、ご飯を食べただけだ。そんな一日がもう終わりかけていることを考えると、ヨウスケはなぜだか寂しくなった。
5
ヨウスケがお風呂から上がると、ハルカがすすり泣いていた。ヨウスケは驚いて声をかける。
「どうしたの?」
しかしハルカは黙って泣くばかりで何も答えてくれない。
「なにがあったの?」
ハルカは首を横に振るばかりだ。
「とにかくお風呂はいっておいで」
言いたくないのならもう聞かないでおこう。ヨウスケはそれ以上追及しないことにした。
その夜、ヨウスケが布団に入るとハルカが寄ってきた。
「ごめんね」
目が涙ぐんでいる。なにがごめんねなのだろう。
「あのね、わたし、ヨウスケがまだ見てない録画、間違って全部消しちゃった。ごめんね。」
ハルカはそんなことで泣いていた。謝りながら、いまにも泣き出しそうだった。
「そんなの気にしなくていいのに。」
ハルカは小さなことでも気にしてしまう。今日みたいに泣いてしまうこともしょっちゅうだ。でもヨウスケは泣いているハルカには申し訳ないなと思いながらも、そんなハルカがかわいいといつも思ってしまうのだった。
6
「よかった。」
本当に安心した様子でハルカはつぶやいた。泣くほど気にしていたのだ。安心もするだろう。しかし、そんなに気にしなくてよかったのに。許すに決まっているのに。そんなことをヨウスケが考えていると、隣から寝息が聞こえてきた。ほっとしたら急に眠気が襲ってきたみたいだ。ハルカはいつのまにやらぐっすりと眠っている。ちょっと不細工な寝顔を見ながらヨウスケは部屋の電気を消し、そしてお決まりの言葉を言う。
「おやすみ」
7
ぱたん。ヨウスケはアルバムを閉じた。外では竜胆の花が雨に揺れ、透明な雨傘に当たった雨粒は、ぽつぽつと音楽を奏でている。
アルバムを少し開けばこんなにたくさんの想い出があふれ出してくる。
「こんなにたまったんだな。」
ヨウスケはずいぶん分厚くなったアルバムをさすりながらそう言い、横でロッキングチェアに揺られながら眠るハルカに目を向けた。さっきまでアルバムを覗き込んできていたのに。夢中になりすぎてしまったかな。
最近はハルカも寝ていることが多くなった。ヨウスケはしわくちゃになったハルカの寝顔をもう一度見る。全然変わらないな。あの時の、安心しきった寝顔と変わらない。すこし不細工なところもそのままだ。
ヨウスケも目を瞑った。するとそこには焼き付けられたみたいに、ハルカの笑い声が、泣き顔が、寝息が、鮮やかに写りだす。100万枚撮りのフィルムでも撮りきれなかった想い出が、次々と積み上げられていく。何気ない日の一瞬を、何気ない言葉のひとかけらを。そんな想い出を集めた、二人だけのMillion Films
おしまい
僕がこの街に引っ越して来てからもう2年が経った。2年前の3月にこの街にある大学へ通うためにそれまで住んでいた故郷からこの街へやってきたのだ。今はお世辞にも広いとは言えないマンションに住んでいるが、それまでは田舎でのんびりと生きてきたのだ。故郷は村と呼べるようなところで、自然豊かでなにかと広かったが、この街には自然があまりなく下宿しているマンションもとても狭く感じられた。だんだんと都会にも慣れてきて、勉強にというよりも、遊びやアルバイトに必死になってしまっていたので、故郷のことを思い出すことが少なくなってきていた。しかし、最近故郷のことを考えることが増えている。それは、家の前にレモンが置かれるようになったからだ。
僕の故郷はレモンが名物だった。故郷ではいたるところにレモンの木が植えられていた。5月ごろになると白い花が咲き、10月を過ぎてくると黄色くて大きなレモンの実がなっていた。もちろん僕の家の畑でもレモンを育てていた。どの家でもそうだったが、僕の家でもレモンを使った料理がよく出てきた。僕が好きだった料理はレモンを使ったケーキだ。母がよく焼いてくれていた。柔らかくて、レモンのいい匂いのするケーキだった。そんな故郷のことは大学に通うようになって頭の片隅に追いやってしまっていた。この街へ来てから、はじめの間は電話をかけたり、手紙を送ったりしていたが、だんだんと回数も少なくなり、夏休みに入ってからは連絡をとるのもやめてしまった。めんどくさいので、何かと理由をつけて連休や年末にも家に帰らずにいた。新年の挨拶として4ヶ月ほど前に電話をかけてから家族とは連絡をとっていなかった。
そんな故郷のことを考えるようになったのは2週間ほど前からだ。ちょうど4月に入って春休みが終わり、講義が始まったころのことだった。大学に行こうと家を出ると、扉の前にカゴが置かれていた。その中にはレモンが2、3個置かれていた。
はじめてカゴに入ったレモンを見たときにはいたずらか間違えて置いて行ったのか、なぜ置いているのかわからなかったので触らずに放っておいた。レモンが置かれてから1週間ほど経った休日、ふと扉の前に置かれたカゴを見てみると、「良かったら食べてください」というメモと新しいレモンが入っていた。周りを見渡すと、廊下には同じ様にカゴが並んでいた。レモンが入っているものもあれば、空になっているものもある。食べている人がいるのだろう。僕はそのままにしておくのはもったいないと思い、レモンを手にとった。誰が置いていったのかわからないが、スーパーで売られているものとは違って、実の色も、匂いもとても良いものだ。おそらく、置いて行った人がじっくり時間と手前をかけて育てたのだろう。思っていたよりも良いレモンだったので、昼食にとレモンを使った料理を作った。最近は外で食べるか買って来たものを食べることが多かったので、時間をかけても簡単なものしか作れなかったが、久しぶりのレモン料理はとてもおいしかった。長い間食べていなかった母の料理や帰っていない家の畑のことを思い出していた。そして、母が作っていたレモンのケーキを食べたくなった。久しぶりに食べたおいしいレモンが僕に故郷を思い出させたのだ。今は大学の講義があるので帰ることはできないが、電話でレモンのケーキのレシピを聞くことにした。久しぶりにした電話、そこで聞こえてきた母の声はとてもあたたかいものだった。レシピを聞いた僕は、長らく故郷に帰っていないことを恨みながらケーキを作ることにした。あまりにレモンが良いものだったので、どうしても食べたくなっていた。材料を買って調理器具を揃えているともう夕日が沈みかけていた。ケーキが出来上がったころにはもう夜になっていた。夕食には昼間に作ったものの残りを食べて、食後のデザートとしてケーキを食べた。母が作ってくれていたケーキには全然及ばないケーキであったが、今の自分の飢えを満たすには充分だった。あれだけめんどうだと思っていたのに、早く故郷に帰って母に会いたかった。そして、こんないいレモンを届けてくれた人は誰なのか興味が湧いてきた。そこで僕は次の週にレモンを届けに来た人にレモンのケーキを渡すことにした。こんなにもおいしいレモンを作る人だから、きっとケーキも喜んでくれるだろう、と来週が楽しみになった。
レモンが置かれ始めてから2週目の金曜日の夜、僕はまた家の前に置かれていたレモンを使ってケーキを作った。そして、おそらく来るであろうレモンを届けてくれる人に会うために目覚まし時計をかけて寝た。
とうとう今日が来た。いつもはまだ起きていることもあるような時間に起きた。それなのに、普段よりもずっと良い目覚めだった。昨日作ったケーキを用意して扉の前で聞き耳を立てていた。なかなか誰も来ないので、少し暇を持て余してきたころ、かすかに人の歩く音がした。僕は扉にあるドアスコープから外をのぞいた。まだ僕の家には来ていないのだろう。姿が見えなかった。そこで僕はケーキを持って外に出た。周りを見渡すと、廊下には1人のおばあさんがいた。腕にレモンがいっぱい入ったカゴを下げて廊下の端の扉からレモンを配っていた。
「おはようございます。いつもおいしいレモンありがとうございます。」
僕は声をかけた。おばあさんは少し驚いた顔をしてから、とても優しい笑顔になった。
「おはようございます。いえいえ、私では食べきれないのでお配りしているんです。」
おばあさんはそう答えた。それから僕はレモンを配るのを手伝うことにした。おばあさんはこのマンションの近くに住んでいるらしく、家の庭でレモンを育てているそうだ。せっかく育てたレモンだが、1人では食べきることができないので、近所の人に配っているらしい。最初は僕のように食べてもらえないことも多かったけれど、だんだんとみんな使ってくれるようになっているようだ。配っていても空になっているカゴやその中にちょっとした手紙やお菓子など入っていることもあった。そんなカゴがあるとおばあさんはとてもうれしそうに笑って、とても大切にその手紙やお菓子を持っていたカゴに入れている。僕はケーキを渡すのがますます楽しみになった。
おばあさんが持っていたレモンを配り終わると、「お茶でもどうですか」とおばあさんが僕を家に招待してくれた。普段なら家にお邪魔することはないだろうが、ケーキを作っていたので、厚かましく家に上げてもらうことにした。そして、お茶を出してもらったときに作ってきたケーキを出した。母から教えてもらったレシピをおばあさんからもらったレモンで作ったケーキだ。おばあさんは初めて声をかけた時よりも驚いた顔をして皿とフォークと包丁を持ってきた。僕はおばあさんが想像以上に驚いていたので、少し不安になった。さらにおばあさんはケーキを食べてから涙を流し始めた。僕はさらに不安になった。おいしいと思っていたのだがまずかったのだろうか。
「おばあさん。ごめんなさい。僕のケーキはおいしくなかったですか…?」
「違うのよ。本当においしくて…少し前のことを思い出してしまったのよ…」
おばあさんは涙を拭いて落ち着いてから自分のことを話してくれた。
「私は1年前まで旦那と暮らしていたの。この家の庭が広いのも、広い庭にレモンの木が植えてあるのもあの人がそうしたからなの。あの人の故郷はレモンの木がよく植えられているところで、あの人は本当にレモンが好きだった。育てるのも、食べるのもどちらも好きだったわ。この街に来てからもレモンを育てたいといっていたわ。若いころには仕事もあったし、お金もなかったからレモンを育てることなんてできなかったの。でも、2人とも働かない年になって時間もお金も余裕ができたから、この街で広い庭のある家でレモンを育てることにしたの。あの人はとても真面目な人だったわ。本当に一生懸命、レモンを育てていたわ。育てたレモンを売るわけでもなく、いろいろな料理に使っていた。それでも食べきれないときには、私のように近所の人に配っていたの。私のようにいっぱい配っていたわけじゃないけどね。」
おばあさんはその優しくて悲しい目を、僕の目からレモンのケーキに移した。
「あの人の得意料理はレモンのケーキだったの。私も一番好きだったわ。あなたがケーキを作ったと言った時には驚いたわ。あなたのケーキを見るとあの人が作っていたものとそっくりだったの。見た目も、香りも、味も、あの人のケーキとそっくりなの。それで、思わず涙を流してしまったの。ごめんなさいね。驚かせてしまったでしょう。」
僕は動揺していた。ケーキを作ったことでまさかこんな話を聞くことになるとは思ってもいなかった。こちらから詳しく話を聞いても良いものかと悩んでいたが、気になることがあった。僕の作ったケーキとおじいさんが作っていたケーキがそっくりだったことだ。おじいさんの故郷も僕の故郷と同じようにレモンがよく植えられているということもひっかかった。
「実は僕の故郷もレモンの木がよく植えられているんですよ。このケーキは母がよく焼いてくれていたもので、僕が母の作るレモン料理の中で一番好きだったものなんですよ。」
そうして、僕はおばあさんとレモンのケーキを食べながら、故郷とおじいさんの話をした。おじいさんは僕と同じ故郷の出身だった。どうやら故郷にいる間にこのレモンのケーキを作って、家の周りの人に配っていたようだ。「僕の母もおじいさんからこのケーキを貰って、作るようになったのかもしれない。もしかしたら美味しかったので作り方をならったのかもしれない。おばあさんがあまりに似ていたので泣いてしまうほどだったのだから」、などと考えながらたくさん話をしていた。おじいさんが故郷から出て行ったあとでもまだまだ村にはレモンがたくさんあることや、村ではレモンを使った料理がよく作られていること。
そんなことを話している内に、僕はあることに気が付いた。おじいさんが亡くなったのにどうしてまだレモンが育てられているのかということだ。今2人で話をしている部屋からも外の方に目をやれば黄色くてつやのいいレモンが見える。冬の間に収穫されなかったものだろう。少し大きい。そうして庭のレモンを見ていると、おばあさんが言ってくれた。
「あのレモンは私が育てたんですよ。あの人がいなくなってから抜いてしまおうかとも考えたんだけど、なんだかあの人も一緒にどこかへ行ってしまうように感じてそのままにしておいたの。あの人が言っていたことをなんとか思い出して育ててみたんだけど、なかなかうまく育てられたと思うのよ。こんなにおいしいケーキができたもの。」
おばあさんは嬉しそうにレモンの木を自慢していた。僕もこのレモンはとても良いものだなと思った。家で育てている売るために作ったレモンよりもあたたかくておいしかった。それから僕はレモンを育てるのを手伝う約束をしていた。家にいるときにはめんどうだったレモンの世話も今はなんだかやりたくなっていた。はやく故郷に帰りたいとも思う。故郷でもレモンの世話をしよう。ケーキの話をしよう。
おばあさんの家に行くようになってからしばらくして、レモンを手渡しでもらえるようになったので、カゴがいらないことに気付いた。
「このカゴありがとうございました。」
「いえいえ。ああ、レモンの入れもんね。」
そうして2人で楽しく笑いました。
「あーあ、またやってしまった・・・」
9回2アウト一打逆転のチャンスで代打に送られた勝田翔太はガクッと肩を落とした。結果は低めの変化球に手を出してしまってのピッチャーゴロ。夏の大会のメンバーを決める大事な練習試合。せっかくアピールする場をもらったっていうのに、何をしてるんだ、俺は。
「ドンマイ、翔太。」
慰めの言葉をかけてくれる仲間の声も、今は耳が痛い。春先まではレギュラーを狙える位置にいた翔太だったが、新しく入ってきた新入生たちに、あっという間に追い抜かされていった。もう三年生。高校最後の大会だっていうのに、このままではグラウンドに立つこと、いや、ベンチにすら入れるか分からない。
試合後、監督に呼び出された。
「失礼します」
「勝田か、入っていいぞ。また駄目だったな。もっと腰を・・・して、手首をだな・・・」
監督は、熱心に翔太に指導する。でも、その声は翔太の耳にほとんど入っていない。最初は監督の指導に耳を傾けていた翔太だったが、毎回同じことを指導してくる監督に、飽き飽きしていた。
(監督の言うとおりにずっとやってきたけど、何も変わらないじゃないか・・・)
自分のために熱心に指導してくれる監督に、感謝する気持ちは確かにあった。でも、本当に自分のプレーを見てくれているのか分からないほど毎回同じ指導と、結果が出ないことに、イライラしていた翔太は、ついに監督室を飛び出した。
「おい!勝田!」
監督の大声にも翔太は振り返らず、一目散に走ったのだった
「ハア、ハア、ハア」
家の近くの公園まで走った翔太は、ベンチに腰を下ろした。
「もうどうしたらいいか分からねえよ・・・」
翔太は今までの自分を、思い返していた。少年野球、中学の部活、そして今とずっと野球漬けの日々だった・・・
翔太はハッとした。今まで、ずっと監督、コーチの言うことを聞いて実践してきたが、自分で気づいたことや、本当にやりたかった方法を試したことが無いのではないか。大人の言うことを聞くという常識に縛られすぎなのではないか。心の底から湧き出してくる自分のやりたい本当の気持ちに正直になるべきなのではないか。
コーン・・・コーン・・コーン
「なんだ、この音は」
テニスコートのほうから聞こえる音に翔太は気が付いた。もう八時になろうとしている。ボールももう見えない時間だから、テニスの練習なんてできるわけがない。
「いってみるか」
翔太は恐る恐る音のするほうへ近づいて行った。どうやらその音はテニスの壁あてをするところから聞こえているらしい。物陰に隠れてそっと覗いてみると、一生懸命にバッティング練習をする優介の姿があった。
優介は翔太の幼馴染で、チームメイトで、ライバルである。家が近かったこともあり、小さい頃からいつも一緒に遊んでいた。二人とも野球が好きで小学校に入学すると同時に少年野球チームに入った。翔太がショート、優介がセカンドになり仲がいい二人の二遊間のコンビネーションはずば抜けていて、「鉄壁の二遊間」と言われるほどになった。
そのまま中学校にあがり、県大会ベスト4の成績を残した翔太と優介は、推薦組がひしめく野球の強豪校、桜高校に入学したのだった。
「俺とお前で、高校でもコンビ組もうな」
入学当初はそう言っていた翔太だったが、優介や周りのライバルたちがメキメキと力をつけていくのに対してなかなか力は伸びていかなかった。
一方の優介は、二年生からレギュラーに定着し、チームには欠かせない存在になっている。
時折ボロボロになったノートを見返してぶつぶつ言いながら黙々と練習に取り組む優介。翔太は声をかけられなかった。それと同時に恥ずかしさを覚えた。
「努力もしないで、文句言うだけじゃ、何も変わらない・・・」
心の中で(ありがとう)と呟き、翔太はゆっくりと家に向かった。
そこから翔太の特訓が始まった。
毎日誰よりも早くグラウンドに行き、走った。泥にまみれながらも、がむしゃらに走った。
授業中は握力グリップを握り続けた。
休み時間は体力温存のため、熟睡した。
昼食はバランスのとれたお弁当をたくさん食べた。
練習はもちろん誰よりも大きな声を出した。
練習後は練習のことをノートに書き留め、できなかったことを公園で試した。
朝が早いので、夜更かしはせず早く寝るようにした。
そんな生活を続けた翔太は、誰にも負けないスピードで成長していった。
・・・三か月後・・・
「さあ!甲子園をかけた決勝戦!先ほどまで降っていた雨が上がり、太陽も顔を出してきました!桜高校対悪餓鬼高校の一戦は、悪餓鬼高校一点リードで九回裏、最後の守りを迎えています!2アウト満塁のチャンスで打席に入るのは7番、勝田翔太君、三年生です!しかし、今日は当たっていませんねえ・・・。おや・・・虹?」
球場の雨上がりの空には虹がかかっていた。何かを祝福しようとしているように。
「ピッチャー第一球、投げました!」
今までの思いが全部詰まったフルスイング。
(虹まで届け・・・!)
たくさんの歓声が、空に響き渡った。