一 次の文章は池谷 裕二の「笑顔という魔法」である。これを読んで、右の問いに答えよ。

楽しいから笑うのか、笑うから楽しいのか。この問いへの答えは明らかなように思えます。なぜなら私たちは日常の体験をとおして、楽しいことがあれば自然に笑みがこぼれることを、よく知っているからです。
 ところが、次のような実験が行われて、意外な結果が得られました。

実験 ペンを二通りの方法で口にくわえて、同じ漫画を読み、そのおもしろさを十点満点で点数をつける。
 方法@……ペンを縦にして、ストローのように唇でくわえる。
 方法A……ペンを横にして、歯でかんでくわえる。
結果 方法Aのほうが、漫画の点数が高かった。

 同じ漫画を読んでいるのですから、おもしろさは同じはずです。なぜこのような実験データが得られたのでしょうか。謎を解く鍵は表情にあります。ペンを横にくわえたとき、顔の筋肉の使い方は、笑顔を作るときと似ています。つまり、この実験結果は、笑顔に似た表情を作りながら漫画を読むとおもしろく感じられることを示しているのです。ただし、笑顔をまねるだけで、決して笑ってはいないことに注意してください。笑顔に似た表情を作るだけで効果があるわけです。
 このような不思議な現象が生じる理由は、脳の立場になって考えるとわかりやすいでしょう。自分が脳になったことを想像してみてください。なにか気づくことはないでしょうか。脳は頭蓋骨に閉じ込められていて、外の世界と直接にはつながっていません。脳は孤立しているのです。脳が外の情報を得るためには、体を通して感知するほかありません。手で触れてみる、耳で聞く、目で見る、手足を動かす……。このように、体を使うことで脳はかろうじて外部を検知することができます。
 例えば、ラジオ体操の動きを思いだしてみましょう。腕を大きく回す深呼吸の動きから始まって、さて、四番めはどんな動きでしょうか。目を閉じて頭の中だけで考えるよりも、実際に体を軽く動かしてみたほうが確実に正解にたどり着けるでしょう。体の動きや状態は、思考や心理にも影響を与えるのです。
 同じことが先ほどの実験にもあてはまります。脳は笑顔のような表情を作っている自分の姿をまず認識します。同時に、漫画を読んでいる自分の姿にも気づきます。笑顔と漫画、この二つをうまく結びつける説明はなんでしょう。「この漫画はおもしろいのだ」という解釈ではないでしょうか。どうやら脳はそんな推論を無意識のうちに行っているようなのです。
 こう考えていくと、最初の問いへの答えが一つではないことが理解できます。つまり、楽しいから笑うだけでなく、笑うから楽しいという側面もあるのです。これをさらに確認するための実験が行われました。次のリストを見てください。

   おいしい 死 親切 ほめる 負ける 笑う 失敗 暗闇 遊園地 ………

 これらの単語が「楽しい」と「悲しい」のどちらの感情に属するかを分類してみましょう。実験の結果、ペンを横にくわえていると、楽しい単語を「楽しい単語だ」と判断するまでの時間が、悲しい単語を「悲しい単語だ」と判断する時間よりも短くなることがわかりました。つまり、笑顔は楽しいものを見いだす能力を高めてくれるということです。
 魔法のような笑顔の効力を表すことわざは古くからあります。「笑う門には福来る」「笑顔に当たる拳はない」……など。笑顔は宝物です。進化の過程で、笑顔がどのように発生したのかは、まだ解明されてはいませんが、どうやら笑顔を作ることのできる動物はヒトだけのようです。私たち人類に備わったこの大切な能力。宝の持ち腐れにならないように、普段から笑顔を意識してみたらいかがでしょうか。