一 次の説明文を読んで、右の問いに答えよ。

私たちは、生活していくなかで、意識的・無意識的に社会の支配的な価値観に合わせている。
それは、それとは異なる価値観を持つと社会から排除され、孤立することを無意識のレベルでも感じているからであると考えられる。
私たちは、支配的な価値観に自らを同化している限りにおいて、排除されることはないし、それどころか強者の位置に立つこともできる。
直接的には、高い賃金が得られ、生産・消費活動において自己を達成でき、社会的な承認を得られるのである。
このことは、1 (   )3・11以後の原発再稼働をめぐる学者や評論家たちの態度や発言を見ているとはっきりするだろう。
もちろん、異論や反論を行う者もいるが、いつの間にかその多くが大手メディアから消えている。さらにより明確な異論を行う者に対しては、バッシングが繰り返されることもある。
ここには、支配的な価値観への同化をめぐる〈承認と排除〉言い換えれば〈支配する者と支配される者〉の構造がある。
私たちは、排除されないように、経済成長や競争を是とする考え方を自ら進んで承認し、それに同化しようとする。
その結果、脱成長をとなえたり、金儲けなど二の次だという言説は排除されていく。この価値観に違和感を持つ者は、居心地の悪さを感じ続けるだけでなく、場合によっては居場所を失うことにもなる。
別にお金がなくてもよいとか、経済成長のほかにもっと大切な生き方があるのではないかという価値観は、支配的な価値観に同化しようとする者たちによって、非現実的であると2一蹴されてしまう。
そして、そのもとで排除された者たちには、見かけ上は支配的な価値観と対立するが、実はそれを補完するものとして用意されたナショナリズムが押し付けられる。
多様な人々の多様な生き方を奪う(一つの価値観に同化させる)ものとして。
成長・競争社会がもたらすものは貧富の無限の拡大であるという指摘は、すでに19世紀初めにヘーゲルによってなされている。
私たちは、〈成長・競争〉をいったん3 括弧にいれて、あらためてこの間何が失われてきたのか、何を再生させるべきなのかを考えていく必要があるだろう。
日本には他の多くの国に比べて、豊かな自然がある。 水資源も豊かであるし、森林や耕作に適した土地も多い。地方に行けば、どこにでも森林や農地を見出すことができる。
私たちが生活できる場所はどこにでもあるはずである。しかし、労働人口の都市への流出によって、地方では、高齢化と、人口減が急速に進んでいる。
そして農地だけでなく、長年培ってきた生活風習や文化も失われつつある。安心して暮らせる居場所が失われつつあるのである。
なぜなら、過疎化が進んでいる多くの地方は、成長・競争を優先する価値観からずれた所にあるからである。競争力のある企業もないし、仕事があったとしてもギリギリの生活を強いられる仕事である。
といって、そこの人々が支配的な価値観に合わないことをはじめたら、国から適切な支援が受けられる4 (   )は低い。
その結果、地方では、さらに若年層の流出が続き、競争力も落ち、疲弊していくという悪循環に陥っている。都市でも事態は深刻である。
人々は、さまざまな競争に耐えなければならない。雇用の流動化に伴う人件費の削減やグローバル人材(競争力を持った人材)養成の急速な推進は、
人間的な限界(失業・非正規の増加、社会的排除、精神シッカン・自殺の増加など)に達しているように思われる。
このことは、学校の中での排除や選別、あるいは引きこもりなどの問題にまで広がっている。
(   )、こうした形での経済成長は、自然環境にも深刻な影響をもたらしている。1972年のローマ・クラブの報告にあるように、地球は資源だけでなく、生態系として限界に達している。
東日本大震災をきっかけに起こった原発事故は、自然環境に対しても多大な被害を与えた。経済成長の原動力にもなった原発が引き起こした事故は、私たちに、経済成長社会の推進ではなく、
自然との共生を基礎に置いた別のライフスタイルや別の仕組み(相互扶助や分配や承認の仕組みなど)を構想するきっかけを与えることになった。
3・11とその後は、人間の無力さとともに、そうした人間がどうしたら互いに支えあう仕組みを作り出せるのかという問題を、私たちに指し示したはずである。
そして、支えあいの中ではじめて人間は自立できるという意識をもたらしたはずである。自然的な条件に左右されながらも、その条件とうまく付き合いながら、自然が与えてくれた資源を大切に使い、
さまざまな人間が互いに共存できる共同体を構築していくことが、現在の優先すべき私たちの課題ではないだろうか。その視点から、改めて成長・競争社会を捉え直さなければならない。
現在の成長・競争社会は、自然にとっても、人間にとっても、その成り立ちを崩壊させる地点まで来ているように思われる。人は、自然や他者との関係抜きに生きていくことはできない。
とくに人は、他者との関係の中で、人間性や社会性を身につけて、つまり人間になっていく。その関係の具体的な場は、単なる場所ではなく、人と人とが居合わせる〈居場所〉ということになる。
人は一人では生きていけない以上、その場において人が自分の弱さを自覚しながら、互いに支え合っていく。それがどんなに脆弱なものであろうとも、居場所とは、人が社会の中で、
落ちついていられる場、安心していられる場ということである。もちろん住む場所も含まれるが、自尊感情や自己肯定感、安心感や帰属感などが持てる空間である。
そうした場を一人ひとりがさまざまな仕方で持つことによって、人は安心して生きていけるのではないか。そしてこうした場が存在することが人に安寧を与えているのではないか。
これまでみてきたところからも明らかなように、競争を強制される成長社会(そして成長を支えるための管理社会・監視社会)は、人々がこのような〈居場所〉を持つことを困難にしているのではないかと、筆者は考えている。
なぜなら、居場所とは、一元的な価値のもとに成り立つ場はなく、人間同士の共感や異質な存在の相互的な承認に基づく時間的な場であると考えるからである。
仮に一元的な価値のもとに成り立つものだとしたら、その価値に合わせていくしかなくなり、そこから外れないようにする、あるいは外れたらどうしようという不安と恐怖に常にさいなまれることになるからである。
したがって、安心した〈居場所〉が生み出されるためには、支配的な価値観に対して価値観の多様性を認めていくことが必要であろうし、成長・競争以外の価値観を重視していくことが重要である。
人間は、どのような状況の下であろうとも、社会的存在として、何らかの形で自らの居場所を作り上げようとしてきた(たとえば若者のネット空間なども含めて)。
しかし、〈居場所〉を奪っていく成長・競争社会においては、そうした場を意識的に作り上げていかなければならないだろう。

(片山善博『〈居場所〉の喪失、これからの〈居場所〉』による)