一 次の文章は「バスに乗って」の一部分である。これを読んで、右の問いに答えよ。

 (少年は小学五年生。長期間入院している母親を、一人でバスに乗ってお見舞いに行く日々を過ごしている。)
 
 夕暮れが早くなった。病院に行く途中で橋から眺める街は、炎が燃えたつような色から、もっと暗い赤に変わった。帰りは夜になる。@最初の頃は帰りのバスを降りるときに広がっていた星空が、いまはバスの中から眺められる。病院の前で帰りのバスを待つとき、いまはまだかろうじて西の空に夕陽が残っているが、あとしばらくすれば、それも見えなくなってしまうだろう。

 買い足した回数券の三冊目が―もうすぐ終わる。
 少年は父に「迎えに来て」とねだるようになった。車で通勤している父に、会社帰りに病院に寄ってもらって一緒に帰れば、回数券を使わずにすむ。
 「今日は残業で遅くなるんだけどな」と父が言っても、「いい、待ってるから」とねばった。母から看護師さんに頼んでもらって、面会時間の過ぎたあとも病室で父を待つ日もあった。
 それでも、行きのバスで回数券は一枚ずつ減っていく。最後から二枚目の回数券を―今日、使った。あとは表紙を兼ねた十一枚目の券だけだ。
 明日からお小遣いでバスに乗ることにした。毎月のお小遣いは千円だから、あとしばらくはだいじょうぶだろう。

 ところが、迎えに来てくれるはずの父から、病院のナースステーションに電話が入った。
 「今日はどうしても抜けられない仕事が入っちゃったから、一人でバスで帰って、って」
 看護師さんから伝言を聞くと、A泣きだしそうになってしまった。今日は財布を持って来ていない。回数券を使わなければ、家に帰れない。
 
 母の前では涙をこらえた。病院前のバス停のベンチに座っているときも、必死に唇を噛んで我慢した。でも、バスに乗り込み、最初は混み合っていた車内が少しずつ空いてくると、急に悲しみが胸に込み上げてきた。シートに座る。窓から見えるきれいな真ん丸の月が、じわじわとにじみ、揺れはじめた。座ったままうずくまるような格好で泣いた。バスの重いエンジンの音に紛らせて、うめき声を漏らしながら泣きじゃくった。
 『本町一丁目』が近づいてきた。顔を上げると、車内には他の客は誰もいなかった。降車ボタンを押して、手の甲で涙をぬぐいながら席を立ち、ウインドブレーカーのポケットから回数券最後のの一枚を取り出した。
 
 バスが停まる。運賃箱の前まで来ると、運転手が河野さんだと気づいた。それでまた、悲しみがつのった。こんなひとに最後の回数券を渡したくない。
 整理券を運賃箱に先に入れ、回数券をつづけて入れようとしたとき、とうとう泣き声が出てしまった。
 「どうした?」と河野さんが訊いた。「なんで泣いてるの?」―ぶっきらぼうではない言い方をされたのは初めてだったから、逆に涙が止まらなくなってしまった。
 「財布、落としちゃったのか?」
 泣きながらBかぶりを振って、回数券を見せた。
 じゃあ早く入れなさい―とは、言われなかった。
 河野さんは「どうした?」ともう一度訊いた。
 その声にすうっと手を引かれるように、少年はC嗚咽交じりに、回数券を使いたくないんだと伝えた。母のこともしゃべった。新しい回数券を買うと、そのぶん、母の退院の日が遠ざかってしまう。ごめんなさい、ごめんなさい、と手の甲で目元を覆った。警察に捕まってもいいから、この回数券、ぼくにください、と言った。
 河野さんはなにも言わなかった。かわりに、小銭が運賃箱に落ちる音が聞こえた。目元から手の甲をはずすと、整理券と一緒に百二十円、箱に入っていた。もう前に向き直っていた河野さんは、D少年を振り向かずに、「早く降りて」と言った。「次のバス停でお客さんが待ってるんだから、早く」―声はまた、ぶっきらぼうになっていた。