一 次の文章は「川とノリオ」の全文である。これを読んで、右の問いに答えよ。
町外れを行く、いなかびたひと筋の流れだけれど、その川はすずしい音をたてて、さらさらと休まず流れている。
日の光のチロチロゆれる川底に、茶わんのかけらなどしずめたまま。
春にも夏にも、冬の日にも、ノリオはこの川の声を聞いた。
母ちゃんの生まれるもっと前、いや、じいちゃんの生まれるもっと前から、川はいっときの絶え間もなく、この音をひびかせてきたのだろう。
山の中で聞くせせらぎのような、なつかしい、昔ながらの川の声を―――。
早春
あったかい母ちゃんのはんてんの中で、ノリオは川のにおいをかいだ。
母ちゃんの手が、せっせと動くたびに、はんてんのえりもともせわしくゆれて、ほっぺたの上のなみだのあとに、川風がすうすうと冷たかった。
川っぷちの若いやなぎには、銀色の芽がもう大きかった。
赤んぼのノリオのよごれ物を洗う、あったかい母ちゃんの背中の中で、ノリオは川のにおいをかいだ。
土くさい、春のにおいをかいだ。
すすきのほが、川っぷちで旗をふった。
ふさふさゆれる三角旗を。
すすきの銀色の旗の波と、真っ白いのぼりに送られて、ノリオの父ちゃんは、行ってしまった。
暗い停車場の待合室で父ちゃんのかたいてのひらが、いっときもおしいというように、ノリオの小さい足をさすっていたっけ。
父ちゃんを乗せていった貨物列車の、馬たちの飼い葉のすえたにおい。
すすきはそれからも川っぷちで、白くほほけた旗をふり、――母ちゃんとノリオは橋の上で、夕焼け空をながめていた。
暮れかけた町の上の広い広い空。
母ちゃんの日に焼けた細い手が、きつくきつくノリオをだいていた。
ぬれたような母ちゃんの黒目に映って、赤とんぼがすいすい飛んでいった。
川の上をどこまでも飛んでいった。
また早春
(おいで、おいで。つかまえてごらん。わたしは、だあれにもつかまらないよ。)
川の水がノリオを呼んでいる。
白じらと波だって笑いながら。
ノリオの新しいくりのげたが、片一方、ぷっかりと水にういた。
じいちゃんの手作りのくりの木のげた……。
げたは、ぷっかぷっか流れだす。
くるくる回って流れていく。
ノリオの知らない川下さして。
ノリオはもう片方のくりのげたも、夢中で川の上に投げてやった。
げたは、新しい裏を見せて、仲間のあとを追っかけていく。
くるくる、かっぷりことうかんだまま。
(おいで、おいでよ。おまえもおいで。わたしは、だあれにもつかまらないよ。)
川はますます白い波をたてて、やさしくノリオに呼びかける。
ノリオのはだしの片足が、ボチャリとすきとおった水に入る。
ひやっと冷たい三月の水。
冬ズボンのすそをたくし上げて、ノリオは川をわたりだす。
三月の川の冷たさに、キャッキャッと一人笑いながら。
川はいつのまにか笑いをやめて、(a.)とノリオを取り巻いた。
あとからあとから流れ寄せる銀色の水のまん中で、ノリオは、はっと立ちすくむ。
、(b.)とおし寄せてくるこわい川。
川は今ノリオをおし流して、川下へさらっていくのではないか。
ノリオのくりの木のげたのように。
おびえてわあっと泣きかける時、だれかの手がノリオの体をひっとらえ、安全な川っぷちの砂の上に、ノリオは無事に引き上げられる。
流したはずのくりのげたも、ちゃんと二つ、川から取りもどされ、ノリオは小さいおしりのはたに、母ちゃんのおしおきをうんともらう。
(ノリオ、ノリちゃん、この悪ぼうず。今度川へなんぞ入ったら、このおしりにやいとをすえてやろ……。)
川はしばらくだまっている。
泣いてる子供なんか知らないよ、というように、大根のかれっ葉をうかべながら、すましこんで、(c.)流れていく。
母ちゃんは@「ハイキュウ」に呼ばれていった。
ノリオは、塩っからいなみだのつぶを、ひりひりする手のこうでふいてしまった。
川はまた、、(d.)笑いだす。
笑ってノリオにさそいかける。
(おいで、おいでよ。つかまえてごらん。おまえのげたのふね、流してごらん。)
げたはまた、くるくる流れていき、もう一度川の中に立ちすくんだノリオの体は、不意にまた現れた母ちゃんの手で、川っぷちの砂の上に連れもどされる。
おしりのはたのおしおきも、もう一度。
川と、ノリオと、母ちゃんの、こんなひと続きの「追いかけっこ」は、戦いの日の間続いていた。
母ちゃんは日に日にやつれたが、ノリオは何も知らなかった。
あったかい春の日ざしを浴びて、川と一日じゅう遊んで暮らす、ノリオは小さい神様だった。
金色の光に包まれた、幸せな二才の神様だった。
夏悲しそうな役場のサイレンが、とぎれとぎれにほえだすと、この町にはなにごともなくっても、ノリオたちは穴倉に入らなければならない。
せみの声も川の音も閉こえない、しめっぽい防空ごうの暗やみで、ノリオは出たいと、ぐずって泣いた。
ふとおしつけた母ちゃんのむねが、とっきんとっきん、鳴っていたが、ノリオは穴倉の息苦しさに、暴れて出たいと泣きたてた。
母ちゃんと、やっと出て見た青空には、不思議なものが生まれていた。
キラリ、キラリ、遠くなる光の点。
そのあとに、せんに見た父ちゃんのたばこのけむりのような、白い筋がスルスルと生まれていた。
さざ波のあとのようにいく筋か、空の果てに並んでいるのもあった。
「B29・・・・・。」
小声で母ちゃんが言う。
ノリオは空の不思議な雲と、頭きんの中の母ちゃんの引きしまった横顔を見比べていた。
なぜかせみの声はやんでいて、川の音だけがはっきりと聞こえていた。
母ちゃんが、お米一しょうとかえてきたノリオの里いゴムぐつを、川はたぶたぶ流していった。
ノリオのまっさらの麦わら帽子も、川はぷかぷか流していった。
ノリオの黒いパンツまで、川は流してしまったが、すぐにそんな物を取りもどして、ノリオのおしりにおしおきする母ちゃんが、今日は、来なかった。
黒いゴムぐつは帰ってこない。
麦わら帽子も帰ってこない。
黒いパンツも行ったきり・・・・・ノリオは遊びつかれていた。
朝のうち、ドド……ンとひびいた何かの音に、一ぺんだけじいちゃんに連れもどされたほかは、一日じゅう川の中にノリオはいた。
ねむたく、暗いような目の前に、赤や青の輪がぐるぐるする。
夕暮れの川はまぶしかった。
ノリオは生ぬるい水の中を、つかれはててジャブジャブわたりながら、ザアザア高まる川音の中に、ただ、母ちゃんを待っていた。
なにもかも、よくしてくれる母ちゃんのあの手。
ぴしゃり、とおしりをぶつ、あったかいあの手……夜が来て、ノリオは家へ帰ったが、母ちゃんはもどってはいなかった。
近所の人が、せわしく出入りする。
おそろしそうな、人々のささやきの声。
ノリオの家の母ちゃんは、この日の朝早く汽車に乗って、ヒロシマヘ出かけていったという。
黒いきれを垂らした電灯の下に、大人たちの話が続いていた。
じいちゃんが、夜おそく出かけていった。
おぼんの夜(八月十五日前に死んだ、ばあちゃんの仏だんに、新しいぼんぢょうちんが下がっている。)
じいちゃんはきせるをみがいている。
ジユーツと焼けるくさいやにのにおい。
ときどき、じいちゃんの横顔が、へいけがにのように、ぎゅっとゆがむ。
ごま塩のひげがかすかにゆれて、ぼっとり、ひざにしずくが落ちる。
母ちゃんのもどってこないノリオの家。
じいちゃんがノリオのぞうすいをたいた。
ぼうっと明るいくどの火の中に、げた作リのじいちゃんの節くれだった手が、ぼしゃぼしゃと白くなった、じいちゃんのかみ。
ノリオは、じいちゃんの子になった。
たばこくさいじいちやんにだかれてねた。
また秋あらしが過ぎた。
川っぷちの雑草のしげみのかげで、こおろぎが昼間も、リリリリと鳴き、すすきがまた、銀色の旗をふり、父ちゃんが戦地から帰ってきた。
父ちゃんは小さな箱だった。
じいちゃんが、う、うっと、きせるをかんだ。
川がさらさらと歌っていた。
冬こおりつくようななまり色の川。
川っぷちを走る空っ風が、ひびにしみる。
電線はヒューンと泣いているが、ノリオの家のあひるっ子は、元気だぞ。
ノリオの家の白い二羽のあひるは、川の中で泳ぎの競争だ。
なまり色の中の生きた二点。
じいちゃんは工場へ通っている。
弁当を特って、毎日、空っ風の中を。
川っぷちにはもう青いいぬふぐりがさいて、タカオが父ちゃんと自転車で通る。
タカオは自転車の後ろで笑ってたぞ。
大きな、たのもしそうな、タカオの父ちゃん。
ノリオは、川っぷちのかれ草の中で、もうじき来る春を待っている。
また、※(あの日)が来る
さらさらとすずしいせの音をたてて、今日もまた川は流れている。
川の底から拾ったびんのかけらを、じいっと目の上に当てていると、ノリオの世界はうす青かった。
ギラギラ照りつける真夏の太陽も、銀色にキラキラ光るだけ。
Aいくたびめかのあの日がめぐってきた。
まぶしい川のまん中で、母ちゃんを一日じゅう、待ってたあの日。
そしてとうとう母ちゃんが、もどってこなかった夏のあの日。
ドド……ンという遠いひびきだけは、ノリオも聞いたあの日の朝、母ちゃんはヒロシマで焼け死んだという。
ノリオたちがなんにも知らないまに。
じいちゃんが、母ちゃんを探して歩いた時、暗いヒロシマの町には、死がいから出るりんの火が、いく晩も青く燃えていたという。
折り重なってたおれた家々と、折り重なって死んでいる人々の群れ……。
子供を探す母ちゃんと、母ちゃんを探す子供の声。
そして、ノリオの母ちゃんは、とうとう帰ってこないのだ。
じいちゃんも、ノリオもだまっている。
年寄りすぎたじいちゃんにも、小学二年のノリオにも、何が言えよう。
ノリオは青いガラスのかけらを、ぽんと川の水に投げてやった。
すぐにまぶしい日の光が、ノリオの世界に返ってきて、ノリオは仕事を思い出す。
じいちゃんの工場のやぎっ子の干し草かりが、ノリオの仕事だ。
青々しげった岸辺の草に、サクッ、サクッとまたかまを入れだすと、桜の木につないだやぎっ子が、ミエエ、ミエエとノリオを呼んだ。
母ちゃんやぎを呼ぶような、やぎっ子の声。
草いきれのひどいかり草の上で、ノリオはやぎっ子と、取っ組み合う。
上になり、下になり、転げ回る。
青い空を映しているやぎの目玉。
B白い日がさがチカチカゆれて、子供の手を引いた女の人が、葉桜の間を遠くなった。
ザアザアと音を増す川のひびき。
ノリオは、かまをまた使いだす。
サクッ、サクッ、サクッ、母ちゃん帰れ。
サクッ、サクッ、サクッ、母ちゃん帰れよう。
川は日の光を照り返しながら、いっときも休まず流れ続ける。
※(あの日)部分は問題作成者により改変