一 次の文章は「海のいのち」のお全文である。これを読んで、右の問いに答えよ。

 父もその父も、その先ずっと顔も知らない父親たちが住んでいた海に、太一もまた住んでいた。季節や時間の流れとともに変わる海のどんな表情でも、太一は好きだった。
 「ぼくは漁師になる。おとうといっしょに海に出るんだ。」
 子供のころから、太一はこう言ってはばからなかった。
 父はもぐり漁師だった。潮の流れが速くて、だれにももぐれない瀬に、たった一人でもぐっては、岩かげにひそむクエをついてきた。ニメートルもある大物をしとめても、父はじまんすることもなく言うのだった。
「海のめぐみだからなあ。」
 不漁の日が十日間続いても、父は何も変わらなかった。
 ある日父は、夕方になっても帰らなかった。空っぽの父の船が瀬で見つかり、仲間の漁師が引き潮を待ってもぐってみると、父はロープを体に巻いたまま、水中でこときれていた。ロープのもうー方の先には、光る緑色の目をしたクエがいたという。父のもりを体につきさした瀬の主は、何人がかりで引こうと全く動かない。まるで岩のような魚だ。結局ロープを切るしか方法はなかったのだった。
 中学校を卒業する年の夏、太一は与吉じいさにでしにしてくれるようたのみに行った。与吉じいさは、太一の父が死んだ瀬に、毎日一本づりに行っている漁師だった。
 「わしも年じゃ。ずいぶん魚をとってきたが、もう魚を海に自然に遊ばせてやりたくなっとる。」  「年をとったのなら、ぼくをつえの代わりに使ってくれ。」  こうして太一は、無理やり与吉じいさのでしになったのだ。
 与吉じいさは瀬に着くや、小イワシをづリ針にかけて水に投げる。それから、ゆっくりと糸をたぐっていくと、ぬれた金色の光をはね返して、五十センチもあるタイが上がってきた。バタバタ、バタバタと、タイが暴れて尾で甲板を打つ音が、船全体を共鳴させている。太一は、なかなかつリ糸をにぎらせてもらえなかった。つリ針にえさを付け、上がってきた魚からつリ針を外す仕事ばかりだ。
 つリをしながら、与吉じいさは独り言のように語ってくれた。
 「千びきにーぴきでいいんだ。千びきいるうちーぴきをつれば、ずっとこの海で生きていけるよ。」
 与吉じいさは、毎日タイを二十ぴきとると、もう道具を片づけた。季節によって、タイがイサキになったリブリになったりした。でしになって何年もたったある朝、いつものように同じ瀬に漁に出た太一に向かって、与吉じいさはふっと声をもらした。そのころには、与吉じいさは船に乗ってこそきたが、作業はほとんど太一がやるようになっていた。
 「自分では気づかないだろうが、おまえは村一番の漁師だよ。太一、ここはおまえの海だ。」
 船に乗らなくなった与吉じいさの家に、太一は漁から帰ると、毎日魚を届けに行った。真夏のある日、与吉じいさは暑いのに、毛布をのどまでかけてねむっていた。太一はすべてをさとった。
 「海に帰リましたか。与吉じいさ、心から感謝しております。おかげ様でぼくも海で生きられます。」
 悲しみがふき上がってきたが、今の太一は自然な気持ちで、顔の前に両手を合わせることができた。父がそうであったように、与吉じいさも海に帰っていったのだ。
 1ある日、母はこんなふうに言うのだった。
 「おまえが、おとうの死んだ瀬にもぐると、いつ言いだすかと思うと、わたしはおそろしくて夜もねむれないよ。おまえの心の中が見えるようで。」
 太一は、あらしさえもはね返す屈強な若者になっていたのだ。太一は、そのたくましい背中に、母の悲しみさえも背負おうとしていたのである。
 母が毎日見ている海は、いつしか太一にとっては自由な世界になっていた。いつもの一本づりで二十ぴきのイサキを早々ととった太一は、父が死んだ辺りの瀬に船を進めた。いかりを下ろし、海に飛びこんだ。はだに水の感触がここちよい。海中に棒になって差しこんだ光が、波の動きにつれ、かがやきながら交差する。耳には何も聞こえなかったが、太一は壮大な音楽を聞いているような気分になった。とうとう、父の海にやって来たのだ。
 太一が瀬にもぐリ続けて、ほぼ一年が過ぎた。父を最後にもぐリ漁師がいなくなったので、アワビもサザエもウニもたくさんいた。激しい潮の流れに守られるようにして生きている、二十キロぐらいのクエも見かけた。だが、太一は興味を持てなかった。
 追い求めているうちに、ふいに夢は実現するものだ。太一は海草のゆれる穴のおくに、青い宝石の目を見た。海底の砂にもりをさして場所を見失わないようにしてから、太一は銀色にゆれる水面にうかんでいった。息を吸ってもどると、同じ所に同じ青い目がある。ひとみは黒い真じゅのようだった。刃物のような歯が並んだ灰色のくちびるは、ふくらんでいて大きい。魚がえらを動かすたび、水が動くのが分かった。岩そのものが魚のようだった。全体は見えないのだが、百五十キロはゆうにこえているだろう。
 興奮していながら、太一は冷静だった。これが自分の追い求めてきたまぼろしの魚、村一番のもぐリ漁師だった父を破った瀬の主なのかもしれない。太一は鼻づらに向かってもりをつき出すのだが、クエは動こうとはしない。そうしたままで時間が過ぎた。太一は、永遠にここにいられるような気さえした。しかし、息が苦しくなって、またうかんでいく。もうー度もどってきても、瀬の主は全く動こうとはせずに太一を見ていた。
 おだやかな目だった。この大魚は自分に殺されたがっているのだと、太一は思ったほどだった。これまで数限りなく魚を殺してきたのだが、こんな感情になったのは初めてだ。この魚をとらなければ、本当の一人前の漁師にはなれないのだと、太一は泣きそうになりながら思う。  水の中で太一はふっとほほえみ、ロから銀のあぶくを出した。もりの刃先を足の方にどけ、クエに向かってもうー度えがおを作った。
 「おとう、ここにおられたのですか。また会いに来ますから。」
 こう思うことによって、太一は瀬の主を殺さないですんだのだ。大魚はこの海の命だと思えた。
 やがて太一は村のむすめと結こんし、子供を四人育てた。男と女と二人ずつで、みんな元気でやさしい子供たちだった。母はおだやかで満ち足りた、美しいおばあさんになった。
 太一は村一番の漁師であり続けた。千びきにーぴきしかとらないのだから、海のいのちは全く変わらない。
 巨大なクエを岩の穴で見かけたのにもりを打たなかったことは、もちろん太一は生がいだれにも話さなかった。