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大阪教育大学 国語学講義
 受講生による 小説習作集

詩織

 
2018年度号

きょうだん152211
所詮バクの餌153908
ボクのシューカツ日記153912
才悩162102
魅力162104
黒と見る世界162111
恋するウサギと不思議な池162112
うそつきな神さま162121
幸せ分配屋162123
どうでもいい162124
モザイク・ビジョン162128
きみの笑顔162131
しゃぼん玉162132
音と光162133
ちょっと変わった中溪さん162134
リンゴジュース162201
ダメ男製造機162202
162203
きろ162204
ヘラクレスの幼虫162205
1 春162206
夏の流星群162207
恋愛162208
大きくなったら162209
サ・ヨ・ナ・ラ162210

きょうだん
152211




25番、森山と申します。本日はよろしくお願いします。

……はぁ、家族の話ですか。それは今回の面接と関係するのでしょうか?いえ、はい、そうですね。少しばかり長くなりますが、ご勘弁ください。



両親は、宗教にたいそう、のめり込んでいいます。なんといっても、宗教関係のお見合いで結婚した似た者夫婦なのです。生涯における伴侶を、それで決めてしまったものだから、筋金入りでしょう。

そんな家に生まれた私も、もれなく洗脳、もとい薫陶を受けて育ちました。

人のために生きよ、と教えられて育った私ですので、誰かのために尽くすことが大好きです。ですので、この仕事に向いていると思っています。

……はい、△△市を志望させていただいた最大の理由は、両親が勧めたからでございます。私の信仰します宗教は、親の言うことが第一なのでございます。私は別の職に就きたかったのですが、親が言いましたので、こちらを志望させていただきました。

……自分の長所ですか。私の長所はどんなことにでも、感謝できることです。たとえば、私が就職活動の疲れからか、黒塗りの高級車に追突したとします。私はそんな時、「あゝ、よかった」と心から安堵することすら可能でしょう。なぜなら、その程度の事故で済んだのは、普段から私がまじめに信仰してきたからに違いないからでございます。もし信仰していなければ、と思うと背筋が凍ります。きっと、怖い人に乱暴されてしまうような未来が待っていたでしょう。しかし、私は篤く信仰をしているので、その様なことにはならないのでございます。よしんば、乱暴されたとしても、感謝することができます。なぜなら、もし信仰をしていなければ、きっと、命を奪われていたに違いないからでございます。どんな逆境にあろうと感謝することができる、それが私の長所です。

……はい、最後に、何か一言ですか。特には。ありがとうございました。失礼いたします。



「面接、どうだったの?」

「うーん、可もなく不可もなし。素直に受け答えはできたんじゃないかな。母さんの言う通り、嘘はつかないでおいたよ」

「きっと、受かってるわ。あなたはちゃんと言うことを聞いてくれる、イイ子だもの」

面接の結果は不合格であった。





……ええ、神さまが、結果的にいちばん良いようにしてくださると思いますので。はい。今回の就職先にいたら、きっと過労死してたか、精神を病んでいたに違いないんです。そう思うようにしております。

それはそうと、次は、どこを受けさせていただこうか相談したいのですが。引き続き、市役所を、なるほど。やはり、土日が休みで、残業のない職業が好ましいと。ごもっともです。そうでないと教会の仕事に取りかかれませんもの。はい、もちろん、教会を最優先に考えていきます。両親とも話し合って決めれば良いですか、そうですか。ありがとうございます。



「父さん、次なんだけど、地元の市役所はどうだろうか、アルバイトしていた経験もあるし、とても素敵な職場だった記憶があるんだけども」

「◯◯市かぁ、やめとけやめとけ、ここは財源がよくない。受けるなら□□市の方がいい。うん、それがいい」

「財源ですか……。分かりました、□□市を受けさせていただきます」

「そうか、聞いてくれるか。だったら大丈夫だ、きっと受かる。お前は、イイ子だからな」



まぁ、落ちた。



「残念だったなぁ。市役所は厳しいか」

「どうもそうみたいだね」

「一般企業とかはどうだ?」

「考えてもいなかったよ。言われなかったものだから」

「なに?お前は就活を気楽に考えているのではないか?お前の人生がかかっているんだぞ」

「……そうだね、ごめん、父さん。企業のほうも何か探してみるよ」

「ところで、周りの子たちはどうだ?みんな就職先を決めているのか?」

「うんにゃ、誰一人として決めていないよ」

「そうか、そうか、がんばれ」



一般企業は、多くが既にエントリーを締め切っていた。



「なにか、一般企業にはエントリーしたのか?」

「ところがどっこい、もうほとんどがエントリーを締め切っていたよ」

「そうか。お前、次の役所に落ちたらどうするんだ」

「そうだねぇ、特に決めてはいないよ」

「……特に決めてない、って?」

「ああ、特に決めてない。何も言われてないからね。それに、神さまがいちばん良い方向に進ませてくれるのでしょう?」

「それは、なにか、違うんじゃないか」

「言われた通りにやってきて不合格だったのだから、きっとそこに就職していたら、ノイローゼになっていたか自殺していたか、どうなっていたものやら検討もつかないよ。喜ばないと」

「…………お前からは、本気が感じられない。お前の人生がかかっているんだぞ。分かっているのか」



ああ、父さんよ。これはおかしなことをおっしゃられる!「私の人生」とは何を指しての言葉であろうか。私の望みどおりに生きようという思いは、一つ足りとも許してくれやしなかったではないか。

さぁ、あなたの言ったように、あなたが望むように、私は動いたぞ。これまでも「イイ子」を求められていたし、これからもずっと「イイ子」を演じてさしあげよう。

さぁ、どうしてくれる!



私は教師になりたかった。中学生の頃に同級生の可愛い女の子に褒められたのだ。教えるのが上手だね、と。私は天高く舞い上がり、エベレストを超越し、地球の青さを確認しながら、教師になることを固く決意した。

その子は、二週間後にクラスのイケメンと付き合っていたことが発覚した。私はマリアナ海溝の奥深くにて、静かに息を殺しながら、真っ暗な世界を茫洋と漂った。淡い想いはゾウ1600頭分の水圧に押しつぶされてしまった。南無三。

宿題を出さず、テストで100点を取り、わずか10人ほどに与えられる(当時は相対評価であったため、高評価を取れる人数は限られていた)栄光の「8」の評価を掠めとる私は、公立を目指す、自称意識高い系中学生から蛇蝎の如く嫌われていた。そんな人物のメンタルケアをしようと思う者はおらず、またそれが必要だと悟られるほどの友誼を結んでいないという、気づかなくてよかったことに気づいてしまった。

その後、傷心は海よりも深く、プライドは山よりも高い、自分なら友達になるのは遠慮したい控えめに言っても面倒くさい人格を形成した私は男子校へと進路を決めた。よって、私に新しい青い春は訪れず、心のかさぶたは三年という熟成期間を経て、何者も打ち崩せない、強固なものとなってしまった。

かくして、私に残ったものは教壇への決意だけとなった。



大学を選ぶときは、自称進学校に通っていたので、先生や両親が旧帝大のような高望みをしない絶妙な成績をキープし続けた。

そうして私は、家庭では親の望む「イイ子」を完璧に演じてみせた。そして一方では、オタクも野球部も垣根を超えた男子校という絆を結んだ益荒男たちと、子孫繁栄にはげむカップルを滅ぼさんと三日三晩祈りを捧げる二重生活を送る、世にも珍しい灰色の高校生活を歩んだ。

時として強固な絆は裂かれ、魔女狩りを彷彿とさせる「リア充狩り」が行われたが、我々はそれを「リア充狩り」と呼ぶことを是としなかった。

「リア充という名を使えば、それは必然的に我々を、非リア、と認めることに他ならない。我々は卑屈であってはならない。誇り高く、未だ責任も果たせぬ年でありながら子孫繁栄に励もうとする無責任極まりない浮かれた若者に、天誅をくだす存在でなければならない。」

かつてこう演説を成し遂げた男が、あわれ、その浮かれた若者となった暁には、みなで取り囲み、改心するまで平家物語を吟じてみせた。ついに男は改心し、我々の絆はより強固なものとなり、その男は益荒男の中の益荒男として、率先して浮かれた若者に天誅をくだす、「特攻隊長の富士原」として名を馳せた。

私は、この強固な絆を、教室全体に共有できたことに、ますます、自身の教師としての才能に確信を持つに至った。時折、悲しいかな、絆を裏切る浮かれ者も現れたが、私は決して見放すことなく、それらを徹底的に、一切の妥協なく改心させた。心を鬼にして、かつて友であり益荒男であった者どもに愛のムチを与えることに苦悩したが、私はやり遂げた。あゝ諸行無常の響きあり、盛者必衰のことわり。

こうして、私は教育大学へ通うこととなった。計画通り。私なら新世界の神となることも不可能ではないように思えた。

森山雅和、18の春である。



「教師ねぇ、さいきん、いい話聞かないよねぇ」

「ブラックな職場なんだって?教会で用事できるの?できないよねぇ」



私は一笑に付した。まったくもってくだらない。そんな世間の声など気にも留めていなかった。そんなものでは測りきれない魅力があるのだ。

最初は一週間に一度であった。それは次第に間隔を狭めていった。三日に一度となり、一日に一度となり、半日に一度となり、一時間に一度となり、十分に一度となり、しまいには一分に一度、忠告されるようになった。

認めよう。あゝ認めよう。想定していなかった状況だ。さすがに教育大学に通えばなし崩し的に教員になれると思い込んでいたとも。



くそっったれっ!!!



私は公務員を目指すことと相成った。非常に、非常に不本意ではあるが、次善の策を模索しなければなるまい。

私には幼馴染がいた。その幼馴染はなかなか見上げた女で、家計を支えるため、高校卒業と同時に国家の狗となった。さらにはそこで男を捕まえ、幸せに同棲生活を送っている。祝福すべきことである。



さてさて、このたび、その幼馴染から手助けを頼まれた。否はない。人を助けることは信条であり、神の教えでもある。さらには市役所という敵情視察も可能となる。一石三鳥のこの奸計に、天運はやはり我の味方。世界は私を中心に回っているのだと思った。



正直舐めていた。市役所という環境は思いのほか、快適である。同士を一つにまとめた己の教師としての才能は疑うべくもなく、私が教壇に立つことは、ひいては国家の益となることは間違いない、と確信している。しかしながら、それを差し引いても、市役所の職員として働く一生も悪くない、と思えるだけの魅力を持った職場であった。

不覚にも驚天動地となったのは、一本の電話である。

「もしもし!あっ、堀井さん?はい、はい。あっ、じゃあ午前休にしておきますね!午後からは寝坊せずに出勤してくださいよ」



衝撃である。正直参った。なんということであろう。寝坊したら午前休を取れるのか。それが許されてしまうのか。国家の狗などと言ったことは取り消そう。素晴らしくワークライフバランスが取れた職場である。



私は心機一転、地元の市役所を目指し、勉強を重ねた。これで、弁舌には自負がある。良かろう、市役所にて骨を埋めようではないか。



「父さん、次なんだけど、地元の市役所はどうだろうか、アルバイトしていた経験もあるし、とても素敵な職場だった記憶があるんだけども……」



かくして、現在に至る。ここに至るまでの記憶はおぼろげである。気づけば自分は職なしのプー太郎であった。何事にも気力が湧かない。

もう、どうでもいいという、益荒男に不似合いな不貞腐れた根性が、心の中心に巣くった。私は、これほど努力したのだ。私は、きっと笑われる。私は教員を志し、公務員へと道を曲げられ、それでもなお地元の市役所へと望みを託し、そらすらも、しごくあっさりと断ち切られたのだ。ああ、この上、私に望みたもうな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。私は負けたのだ。だらしが無い。笑ってくれ。



そうしていると、大学の恩師からお声が掛けられた。院にいってはどうか、という内容であった。私は目が覚めた思いであった。



「院に行こうと思っているんだけども」

「院?大学院?教育大学の?」

「……そのつもりだけれども」

「あんた、つぶしが効かないとこはやめて、旧帝大の院にしなさいな、うん。それがいい」



私は、旧帝大を訪れた。そして、目星を付けていた、試験の楽そうな文学研究科の見学をした。



「……現代美術、ですか。」

「ええ、それと映像」「……映像。」

「演劇も学べます」「…………演劇。」

「建築はこの教授に」「………………建築。」

「最後に舞踊です」「ぶよう。」



どうも、思い描いていたものと異なる気がする。しかし、この期に及んで贅沢は言うまい。国文学を取り扱いたかった気持ちが無いのか、と言われれば嘘になるが。嘘になるのだが。

いや、文学というものの、なんと懐の広いことであろうか。誰が想像したであろう。文学研究科にて、いっさい文学に関する素養を問われることなく、まさか舞踊とは!



現実は小説よりも奇なり、とは言うが、私の将来ときたらまったく、一歩先すらわからない。まさしく暗中模索である。そこに楽しみを見いだす狂気の性的嗜好を持った上級者も中にはいるのであろうが、というか「特攻隊長の富士原」であるのだが。彼はまったく難儀な性的嗜好を持つ益荒男であった。彼は益荒男でありながら、手弱女に手荒く扱われることに涅槃を感じていたようである。理解できない。



それはさておき、院への勉強と並行して、卒業論文というイニシエーションを進めなければならなかった。

そのさなか、知人からスクールサポートを頼まれた。否はない。人を助けることは信条であり、神の教えでもある。さらには、お金を稼げるのなら一石三鳥というものである。

と、スクールサポートに入る前日、恩師に事情を説明しようと、訪れた。



「……そういえば、明日からスクールサポーターとして学校にお世話になることになりまして」

「あなたは人の支えになっている場合ですかっ、まずは自分を支えなさいよっ!」



私は、スクールサポートに断りの電話をいれ、恩師に紹介していただいた私立学校の話を受けることになった。



教団と教壇。どちらも私を構成するものには違いないのだ。私は自律することにかけては負けるものがいないと思うが、自立できない弱い存在でもあるのだ。神にすがるしかない弱さを持っているのだ。私には、二柱の神を信じる強さを持てない。




「所詮バクの餌」
153908


スマートフォンのディスプレイを覗くと、「新しい3件の通知があります」の文字が見えた。今日もまずまずの成果だ。

俺の家から隣町の高校までは電車で30分ほどかかる。辺りを見渡すと、乗客はみな判で押したようにスマホを片手に無表情だ。俺もその真似をして自分のスマホに視線を戻す。こうしておけば、この狭い車両で、自分の世界に入り込むことができる。

ディスプレイに表示された文字を見て、中山さん、河本さん、江藤さんね。相変わらず女子ばかりだなぁなどと思ったその時、「新しい1件の通知があります」というポップアップが表示された。おかしいな。この時間にまだ見てるなんて、遅刻確定ではないか?タップすると、「奥山誠」の文字が現れた。なるほど、奴はうちのクラスの遅刻常習犯だ。また寝坊でもしたのだろう。

「まもなく、緑川、緑川です。お忘れ物のないようご注意ください。」

車内アナウンスの声に、周りの高校生がそわそわと降車の準備を始める。扉が開くと俺と同じ制服を着た集団がホームに流れ出す。そのまま人波に乗って階段を上っていると、肩を強くたたかれて思わず顔をしかめた。

「よぉ、海(カイ)。」

声の主は、自称俺の親友のキョータだった。坊主頭でスポーツバッグを肩にかけている。背ばかりひょろひょろと高いそいつは、同じクラスの高校球児だ。

「さっき電車の中でお前見つけてさ、スタンプ送ったのに気づかなかった?」

「え、まじ?」

スマホを確認すると、確かに俺たちがいつも使っているSNSアプリに、キョータからの通知が1件。さっきの奥山の通知とかぶったに違いない。

「ごめん、気づかなかった。」

「なんだよ、夢中でスマホ見てたくせに。」

キョータが不満げな声を発する。俺はさっき、SNSアプリを見ていたわけではないのだ。俺が見ていたのは「Dreamer」というアプリ。人間には使えないし存在も知らないだろう。つまり、それを使いこなす俺は人間ではないということになる。俺は、バクだ。

バクと言っても、たまに動物園なんかにいる白黒のアリクイみたいな動物のことではない。古代中国の想像上の生物、と人間は思っているが、ここに実在するので「想像上の生物」でもない。

バクが人の夢を食うという言い伝えについては、あながち間違っていない。人間の夢には、エネルギーがある。俺たちは人の夢を回収し、そこからエネルギーを得て生活している。夢を食われた人間のほうは、食われた夢のことは忘れてしまう。それがどんな幸せな夢であれ、恐ろしい悪夢であれ、なかったことになる。

ただ、悪夢を好んで食うもの好きは、まずいないだろう。悪夢は、苦くてまずい。わざわざまずい悪夢を食べてやる義理もない。「悪夢を回収し忘れさせることで、眠っている人間を楽にしてやろうじゃないか」という何とも志の高いボランティア団体がいるとは聞いたことがある。何しろ最近は、日常的に疲弊して悪夢にうなされる人間が随分増えているそうで、そういう人間を助ける活動らしい。確かに眠っているときにまでストレスを感じるなんて、可愛そうな生き物だ。それでは日中の疲れも取れないのではないか。

とはいえ、俺はボランティアなどやるつもりはない。悪夢というやつは、ドロッとして冷たくて、緑のような黒のような気味悪い色をしていて、味だけでなく見た目も触り心地もよろしくないのだ。できればずっと、綺麗な色をした、ふわふわで幸せな、甘い夢を食べたい。それが健全なバクというものだ。

古来、バクは眠っている人の枕元に出向いて夢を回収していた。俺もそうだった。夜風を切ってを飛び、狩りをするのは体力を使うがなかなかに爽快だった。

しかし近年、夢受信技術の発達はバク社会に革命を巻き起こした。夢を見た人間がいると、逐一教えてくれるアプリなるものが発明されたのだ。さらに、夢一時預かり所などという施設が誕生し、通知を受けた後日、そこに夢を受け取りに行けばよいというシステムが出来上がった。つくづく、便利な世の中になったものだ。よもや、夜空を駆け回らなくても狩りができる時代が来るとは思いもしなかった。

ただし、このシステムを利用するには一つの条件を満たさねばならない。それは、夢受信システムを利用する場合、自分が登場した夢しか回収できない、というものだ。つまり、人間が俺の夢を見てくれた場合のみアプリに通知が入り、その夢を回収できるというわけだ。最初のうちは、これがなかなか厄介者だった。



この条件を満たすために、日中の下準備が必要となったのだ。昼間、自分の存在を人間たちの記憶に刻ませ、眠ったときに俺が夢に出てくるように仕向けなければならない。夢というのは脳が記憶を整理している過程で見るものだから、まずは人間の記憶に残らないと。

政治家の選挙活動なんかと似ているかもしれない。とにかく自分の印象を強く残すのがポイントだ。というわけで俺は人間の姿をして人間と共に生活をし、人間の記憶に残るよう心掛けて生活している。

恋愛をしているときに好きな人の夢を見るのは、毎日その人の事ばかり考えているからだ。仕事が忙しいときは夢の中でまで働いている・・・なんてことも人間にはよくあることらしい。ちなみにバクは夢を見ないから、この辺は全て書物から得た知識なのだが。

「大杉先輩、おはようございます!」

「海、おはよぉ!」

「大杉君、おはよう。」

委員会の後輩女子、他クラスのギャル、クラス1の優等生女子。追い抜きざまの挨拶ラッシュもいつもの光景だ。

「なんで、海ばっかり女子から挨拶されるんだよ。」

キョータが面白くなさそうに言った。

「そりゃ・・・君と違ってモテるからに決まってるだろう。」

ふざけて言ってみたけど、実際俺はモテる。というより、そうなるように日々努力している。

恋する乙女は実に良質な夢を見る。みずみずしく、甘酸っぱくて幸せな味がする。エネルギー価も大変高い。こんな夢は毎日でも食べたい。だから俺はできるだけ多くの女子に好かれる努力をしている。笑顔と爽やかなルックス、さりげなく紳士的な振る舞い、そして少しの特別感。これが極意。今日も女の子たちの視線を感じながら教室にたどり着いた。

教室のドアを開けると、黒板に大きな字で何か書いてある。「進路希望調査票の提出は明日の朝礼まで」とのことだ。1週間前にそのようなプリントを配布していたな。

バクには夢も目標もない。勉強したいこともなければ就きたい職業もない。心底どうでもよいのだが、とりあえず適当に書いて出しておかなければ。

そう思って黒板から視線を外し、窓際から3列目、前から2番目の席に着く。その際、後方確認を怠らない。同じ列の一番後ろは北川鮎子の席だ。フレームの細い黒縁メガネをかけた、ショートヘアの少女が隣の席の女子生徒と会話している。

ああ、彼女は今朝、どんな夢を見て目覚めたのだろう。一つだけ確かなのは、その夢に俺が登場していないということだ。何を隠そう、俺はいまだ彼女の夢を回収したことがない。



北川鮎子と出会ったのは中一の時。日当たりの良いグラウンドの一角だった。

俺と彼女の通っていた中学校は部活動への入部が義務付けられていた。俺は走るのが得意だったし、球技のような難しいルールがないという点で、陸上競技部を選んだ。体験入部に参加し、初めてグラウンドに出て先輩方の歓迎を受けた日、彼女も新入部員としてそこにいた。

新入部員なのに、履き慣らした感じの黄色いランニングシューズを履いていたのが気になった。ほっそりとしているが、うっすらと筋肉の付いた足は、日常的にスポーツをしている人の足だ。切れ長の目に黒縁メガネをかけ、男の子のように短く切った髪の毛をしたその少女は終始無表情で、なんだか近寄りがたい雰囲気を持っていた。それが最初の印象だった。

隣町の小学校に通っていた彼女は、春休みにこの町へ引っ越してきたそうで、4年生の時から小学校の陸上クラブに入っていたと聞いた。

入部初日の練習中だった。唐突に、彼女に声をかけられた。

「あのさ、紅山小の大杉君だよね?」

とても、驚いた。ちゃんとした自己紹介は今週末、新入部員が出そろってからと言われていたから、俺は彼女の名前もまだ知らない。しかも隣町の子どもと、果たしてどこかで会ったことがあっただろうか。

「えっ、俺のこと知ってるの?」

「あの、合同陸上大会。リレーでアンカーだったでしょう?すごい速かったから覚えてた。」

合同陸上大会。それは近隣の町の小学校が集まって開催する陸上大会だ。大きな運動会のようなもので、1人1種目は必ず出場しなければならない。

俺は50M走のタイムが学年で一番良かったとかで、紅山小のリレーメンバーに選ばれた。走順はじゃんけんで決めたのだが、北川の言う通り、アンカーになった。しかもその日は他のチームの子を二人も抜かして1位でゴールし、ヒーロー扱いされたのを思い出した。

「陸上クラブの大会では見たことなかったのに、すごく早いから他のスポーツやってるのかなって思ってた。中学では陸上やるんだね。」

彼女はちょっと嬉しそうに笑って見せた。ああ、とても陸上が好きな子なんだなと思った。それに、自分も知らないところで自分の活躍を覚えてくれていた人間がいたことに驚きと、くすぐったいような嬉しさを感じて、顔が笑ってしまう。

しかし、彼女はそれから話しかけてくることもなく、俺もまた、あまり表情がなくておとなしい彼女に、接近できずにいた。用事もないのに、不用意に話しかけてはいけないような気さえしていた。

なんとなく彼女に近寄れないまま、中学2年になった。彼女はとにかく完璧な女の子だった。この前の定期テストだってそうだ。中1の3月何日だったかな。その日の終礼に、クラス担任は白い厚紙を二つに折ったものを30枚持って教室に入ってきた。

「学年末テストの成績表を返すぞー。出席番号順に廊下に来なさい。」

騒然とし始めたクラスメイトを横目に、担任は廊下へ出て行く。続いて出席番号一番の秋山秀一が教室を出て行った。この儀式はいつも突然にやってくる。うちの学校では、マンガみたいにテストの順位を廊下にでかでかと貼りだしたりしない。教室から少し離れた廊下で、担任はまるで人に知られてはいけない秘密を教えるように、一人一人の順位を教えてくれる。

 俺の前の番号の江藤さんが帰ってきた。おもむろに腰を上げて廊下へ向かう。担任は白い厚紙の表紙の成績表を渡しながら、

「大杉は、20番だな」

と言った。へえ、180人中20番か。まあまあじゃん。担任にぺこりと頭を下げてから教室へ戻ると、入れ違いに北川鮎子が出て行った。順位が貼り出されなくたって、誰がどれくらい勉強ができる、なんてことはだいたい分かるものだ。授業中、先生にあてられた時の答えだったり、噂話だったり。

数日後、早くも噂は回ってきた。

「今回の学年1位、北川さんらしいよ。やばくね?」

昼休み、俺の机に腰かけたキョータが言った。1位か、さすがに強烈だな。しかし、彼女は自分から成績をいいふらすタイプには見えないのだが、なぜこんなにも早く噂が回ってくるのだろうか。

「1組の内田に勝つとか、半端ねぇよなー。」

奥山誠が、さも羨ましそうに言う。1組の内田は、この学校きっての秀才と噂される男だ。なんでも予備校を掛け持ちして、有名私立高校の受験にそなえているとの噂だ。

「お前は毎日遅刻ばっかしてるから成績悪いんだよ。」

「遅刻は関係ないよ。1時間目の10分や20分、聞いてなくても変わんないし。キョーちゃんだってどうせ寝てて聞いてないだろ。」

「俺は部活で疲れてんの!ていうか、お前ほんとに朝弱いよな、365日寝坊してんじゃね?」

「そんなわけないだろ、キョーちゃんひどすぎるよ!」

キョータと奥田の他愛もない言い合いに、適当に笑っておく。ぽっちゃり体型で色白、下がり眉で困ってなくても困った顔をしているように見える奥田誠は、俺たちに笑われてものほほんとした顔をしている。

しかし、北川鮎子は1位か。秋の陸上競技大会でも、県大会で大活躍を収めたばかりじゃないか。彼女は1年生から3年生まで、かなり多くの選手が出場する100M走で、堂々8位入賞だ。陸上競技初心者の僕でも、100M走で1年生が入賞するのがどれだけ難しいことかくらい分かる。まず人数が多くて競争率が高すぎるし、1年生と3年生では筋力がまるで違う。我が部始まって以来の快挙などと言う声も聞いている。

それも当然と言えば当然。

「短距離ブロック、集合!」

「はい!」

「なんだ、今日も2年女子は北川だけかぁ?まったく、やる気がねぇな。」

白いポロシャツ、黒い長ジャージの、中年にしてはスタイルの良いおじさんがぼやいている。陸上部の顧問だ。一度目の病気をしてから、紫外線除けのサングラスが欠かせないらしい。

「今日は大会に向けて厳しいメニューを用意している。各自本気で、取り組むように。」

メガホンを片手に、「本気で」を強調して言うとメニューの紙を読み上げ始めた。

彼女はどんなにきつい練習でも、先陣を切って参加した。周りの女子が、足が痛いだのお腹が痛いだの言って筋トレ用マットの上で無駄な時間を過ごしているのを横目に、彼女は本当に本気の表情で走った。これだから、3年生の先輩を差し置いて入賞したって誰も文句など言えやしない。

おまけに学校では、2年1組の学級委員に推薦され、クラスメイトからの信頼も厚い。まるで隙のない女だ。

これだけ目立っているのに全く偉そうな素振りも見せないないときたら、当然ながら人気急上昇、彼女の周りはいつも人でにぎわっている。のかと思いきや、そうでもなかった。北川鮎子はいつも一人、もしくは決まった友達と一緒に教室の隅のほうに居た。



そのころから、俺は女子に人気があったしすでに多くの女の子に俺の夢を見させることに成功していた。熱烈に恋してくれる子もいれば、「気になる人」どまりの子もいるけれど、夢に登場できれば俺の勝ち。これはもう、俺にとっては一種のゲームのようになっていた。

しかし、彼女だけは絶対に俺のことを夢見なかった。入学当初から毎日顔を見ているし、挨拶もしている。おとなしいタイプの彼女とおしゃべりが盛り上がることはなかったけれど、彼女が重い道具を運んでいるときは代わりに持ってやった。なのにどうして、スマホのディスプレイに北川の名前が映らない?

ともかく、俺は彼女に話しかけることにした。校門で友達を待つふりをして、北川鮎子を待ち伏せした。夕方の冷たい空気と一緒に金木犀の甘い香りを吸い込んで、秋だなぁと切なくなる。顔を見れば何か話しかけることが思い浮かぶだろうと思ったが、彼女が2メートル先に来ても何も思い浮かばなかった。すれ違った瞬間にとりあえず呼び止めていた。

「あ、北川さん。」

彼女は驚いた顔をして、なに?と聞き返したが、実際は何の用もないのだ。どうしよう。

「北川さん、制服の衣替えって何日からだっけ?」

普段、口数の少ない彼女は、戸惑ったような顔で、ゆっくりと答えた。

「今が移行期間だから・・・来週の来週の月曜には完全に冬服に変わるんじゃなかったかな。」

「そうか、ありがとう!いや、俺、夏服の方が好きなんだよね。冬服のズボンの丈が短くなっちゃっててさ。」

そーなんだ、と言って彼女は笑ってくれたけど、我ながらなんてバカな質問をしてしまったんだと、嘆かずにはいられなかった。衣替えのタイミングなんて生徒手帳にしっかり記載してあるし、今、この場で知りたい情報でもない。しかも俺のズボンの丈の事情など絶対に言わなくてよかった。



それから目立った進展もなく、高校受験を迎え、今に至る。彼女はやっぱり何に対しても一生懸命で、いったい何のためにそこまで頑張ることができるのだろうと思ってしまうほどだ。陸上では、中3でついに全国大会に出場した。誰もが、北川を羨望のまなざしで見た。先生はみんな北川を誉め讃え、期待した。

もちろん勉強も例外ではない。俺は高校なんて別にどこでもよかったのだが、学年で1、2を争うほど成績の良い北川ならきっと隣町の進学校に行くだろうと思ったから、俺もそこを受験した。北川はまた陸上部に入ったから俺も陸上を続けることにした。一度でいいから北川に俺の夢を見てほしかった。もう少し時間が欲しかった。全く、どうかしている。



高校2年生の夏も終わろうとしている今、俺のスマホにはまだ、北川鮎子の名前が表示されていない。北川との仲は一向に深まらない。女子との関わりで、こんなことは今まで一度もなかった。これはもう、俺のことが生理的に無理とか、あるいは気づかないうちにものすごく嫌われるようなことをしたのではないかと、話しかけるのも少し怖くなったくらいだ。

 最近では、朝スマホを起動する時、いやに落ち着かない気持ちになる。ひょっとすると、今日こそは北川の名前が見られるのではないか。いや期待するな、がっかりするだけだ。どうせ来てないに決まってる。

でも、昼間少しでも北川との接触に成功すれば、「今日こそはもしかして…」と思ってしまうし、下手をすれば前の日の夜からソワソワする。そんな自分が馬鹿らしくて、早々にスマホの電源を落として布団に入ったりする。そうさ、俺はスマホなんてこれっぽっちも気にしてないからな。部屋には一人しかいないのに、誰にアピールしているんだか。

期待してはがっかりする、という繰り返しは思った以上にこたえる。学校も部活も休みの日曜日は北川って昼寝とかしないのかな、なんてことまで考えるようになった。うっかり昼寝して俺の夢見てくれるとか、ないかなぁ。でも相手はあの北川だ、完璧な休日を送ってるんだろうな。部屋で漫画読みながらゴロゴロ転がってそのまま昼寝、なんて姿は想像できない。いや、想像してはいけない。



秋晴れで空がどこまでも青かったある日、ある決心をした。ついに奥の手を試すことにしたのだ。前々からうっすらと考えては、実行を躊躇ってきた。俺にとってそれは、北川鮎子への降伏宣言とも言える行動だったから。

しかし、実際俺は打つ手をなくしている。スマホを気にしてソワソワするのにも疲れた。第一、俺はたかが女の子一人にいつまで手こずっているんだ、俺らしくもない。いつまでも回りくどいやり方に拘ることはやめよう。

今こそかつてのように夜空を飛び、彼女の枕元で、直接夢を回収してしまおうじゃないか。

これはコストパフォーマンスを重視した、合理的な対応だ。降伏などではない。などと言

い訳めいたことも考えはしたが、今の俺にとって、彼女の夢を回収するとこと自体はそれほど重要なことではないのかもしれない。いったい北川鮎子がどんな夢を見ているのかを、ただ知りたい。



ベッドに横たわると、俺は飛ぶ準備をした。幽体離脱のようなものだ。人間の肉体を眠らせ、バクの精神のみとなってターゲットの元へ向かうことができる。

体が眠ると、俺の目の下には寝静まった夜の街が広がっていた。成功だ。無機質な輝きを放つ満月のあまりの明るさと、久しぶりに夜空を飛ぶ高揚感で、胸がドキドキして内臓がきゅっと縮む感覚になる。

心の中でターゲットを呼べ。

「北川鮎子」

晩秋の冷たい空気の中で少女の姿を思い浮かべ、その名を呟くと、不自然に生暖かい夜風が俺を包み込んだ。次の瞬間、俺は彼女の部屋の窓辺にいた。彼女はまだ眠っていなかった。午前4時を回っているはずなのに、彼女の部屋からは白い光が煌々と漏れ出していた。何やら机に向かって時折スマホで何かを検索しつつ、紙に文字を書いてはすぐに消してしまう。手元のプリントには見覚えがあった。1週間前に学校で配布された進路希望調査票だ。

 俺は4本足の幻獣に姿を変えた。銀色の毛皮に覆われ、鼻は長く、象のようにも見える。手足には鋭い爪。

窓ガラスをすり抜けて入った部屋は、電気ストーブでじんわりと温められている。

バクが部屋の中に入ると、そこにいる人間は眠ってしまう。彼女はいつもの黒縁眼鏡をかけたまま机に突っ伏して眠りに落ちた。顔は白く、目の下はうっすらと黒くなっている。

あとは彼女の夢の中で、彼女と会えばいい。そうすれば、俺が彼女の夢に登場したことになる。鋭い爪で彼女の精神世界の膜に細く裂け目を作り、中へ入り込んだ。

そこは古びた雑貨屋のように見える。くすんだ色の背表紙や、輝きを失った金属の置物などがずらりと並び、棚は無限に高くそびえ立っている。彼女は床に座り込み、そこから本や箱を取り出しては、忙しく開けたり閉めたりしている。

「何か、探し物をしているの?」

思わずそう話しかけると、彼女は彼女らしくない疲れきった顔でこちらを見た。

「大事なものがないの。何か分からないの。でもどこにもないの。どうしよう。」

「それは、ないと困るものなの?」

彼女は小さく首を振って、浅くため息をついた。

「わからない。でもここには偽物しかない。ああ、時間がない。早く本物を見つけないといけないんだけど・・・。」

無秩序に物が並ぶ木棚へふらふらと歩きだす。ピアノの楽譜、使いかけの絵の具、あらゆる教科の教科書に参考書、そしてくたびれたランニングシューズ。

「全然だめ。もっと、私にぴったりのものがあるはずなのに。これもだめだ、もっともっと、本当に才能のある人じゃないとやっていけないに決まってる。」

彼女はぶつぶつとつぶやきながら探し物を続けている。俺は彼女が何を探しているのか分かった気がした。彼女はきっと、夢を探している。夢や目標を持つ者が圧倒的に支持されるこの世界で、彼女は懸命に夢を探しているのだ。

バクには夢なんてない。ただ毎日、己の本分を全うして生きて、死ぬ。バクは未来に夢など見ないのだ。

本当に?俺はあることに気付いた。俺はずっと、北川鮎子に俺の夢を見てほしい、眠るときに俺を思い出してほしいと思っていなかったか?俺は、北川鮎子に想われることを夢見ていた。恋という甘美で儚い夢だった。

彼女は難しい顔をしてまだ何かを探している。こうしていて見つかるものなのか、どうすれば解放されるのか、俺にはわからない。でも、彼女が早く苦しみから解放され、安らかに眠れますように。そう願って、この酸っぱくてまずそうな悪夢を回収して立ち去った。



ボクのシューカツ日記
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中学3年3月最初の日曜日。



ボクは私立高校の専願入試に合格し、早めの春休みを満喫していた。夕方、姉がノックもなしに部屋に入ってきた。



「疲れたー。」



そう言いながらベッドに勢いよく座った。埃アレルギーのボクは少し顔をしかめたが、そんなことには1ミリも気づかずに姉はごろりと寝ころび、近くに置いてあった漫画をぺらぺらと流し読みし始めた。姉は黒いスーツを身にまとい、前髪を7:3に分けていた。茶髪だった髪の毛は墨を塗ったようにやけに黒々としていて、ワックスで固められ黒光りする頭はまるで鬘をかぶっているみたいだ。



「就活よ!就活!」



シューカツ?姉は読んでいた漫画をベッドの上にぽいと投げ、やってられないというふうに床に黒い鞄を逆さにふった。中からどさりと紙が出てきた。小さな化粧品のサンプルが勢い余って部屋の隅まで飛んでいった。カラフルな広告や、白黒のプリント、冊子になったものなど、束ねたら月間コミックス1冊分くらいありそうだ。



「これあげる。」



飲料水におにぎり、ボールペンにメモ帳、それに携帯の充電器。500円のクオカードも入っていた。これをすべてただでもらってきたと姉は言う。すごい戦利品だ。シューカツってなんだ。



4月に姉は大学4回生になる。3月1日はシューカツ解禁日だそうだ。



「もうすんごい人なの。ゴミのよう。」



姉によると、今日は全国の学生がこぞって参加するシューカツイベントが各都市で行われる日だったそうだ。合同企業説明会、通称合説の中でも3月に行われるこの合説はシューカツ開幕を意味する超ビッグイベントで来年の春卒業する学生が一堂に集結するらしい。もう少しモラトリアム期間を延ばそうかな、なんて言っていた姉もひとまず参加してきたようだ。



この日集まった企業数はなんと1000社。それぞれの企業が小さなブースを出して、来春から社会へ出て働く学生に会社をPRする。人だかりのできているブースは知らない人はいないであろう大手の企業。人がほとんどいないようなブースは知名度の低い中小企業か、有名なブラック企業だそうだ。企業のブースの他にも、化粧品会社が女子学生向けに無料でメイクをしたり、飲料会社がエナジードリンクを配っていたり、外には焼きそばやアメリカンドッグ、かき氷などの祭りの屋台がずらりと並んでいたりと大賑わいだったらしい。シューカツに興味などなかった姉も、一応会場の入り口でもらったブースマップを見ながら聞いたことのある企業50社ほど目星をつけ、うろうろしていたらしいが実際に話を聞いた企業は30社くらいだったそうだ。



企業の人たちの話を聞いて、その上ただで食料や電子機器までくれるなんて。



しかも姉一人にではなく、何百人という他の学生にまで。



ボクも大学生に紛れて行ってみればよかった。



話し終わると姉はエナジードリンクを一気に飲みほし、



「今日はもう寝る。」



そう言い残して、ひとの部屋の床を散々ちらかしたまま缶を片手に出ていった。







中学3年3月下旬の祝日。



ボクは地元の公立中学校を卒業した。



卒業式のあと、そのまま帰ろうとしたボクを母が職員室まで引っ張っていった。



「息子がお世話になりました。これ良かったら・・・」



母は担任の先生やら進路指導の先生などお世話になった先生たちに、デパートで買ってきた栗まんじゅうの入った紙袋を配り歩いた。母たちが赤べこのようにお辞儀をし合っている間、ボクは話が長くならないよう、横でいい加減に相槌を打っていた。



ボクの相槌が功を奏したのか、挨拶はそれほど長引かず10分くらいで職員室を出ることができた。下駄箱までの廊下で一人の教師とすれ違った。ボクは会釈して通り過ぎようとしたが、そうはいかなかった。



「まあ、先生。姉の頃からお世話になりまして・・・」



姉の代にもいたこの古株の教師は姉の元担任。



中学3年間のうち一度もボクの担任ではなかったけれど、1年と2年のときに理科の授業を教えてもらっていたのでお互いによく知っている。母と先生の話には花が咲き、気づけば話題は姉に移っていた。



「お姉さんは元気?今日会えると思って楽しみにしていたのよ。就活?もうそんな年になったのね。大変だと思うけれど・・・」



卒業式には姉も見に来るはずだった。しかし、1週間前になって



「その日無理。就活だから。」



明らかに不機嫌そうな姉はすぐ部屋に戻っていった。



シューカツ?ああ、また何かもらってくるのだろう。



今度はお菓子かジュースか、もしかするとiPadとかもらってくるかもしれない。



ボクの期待をよそに姉は部屋でパソコンとにらめっこしていた。







高校1年4月最初の金曜日。



高校の入学式だ。



中学の時から仲のいい吉田も同じクラスだった。

入学式は午前中で終わり、帰りの電車の中で姉に似た格好の人を多く見かけた。あの人たちもきっとシューカツをしているのだろうと何となくわかった。髪をきっちりと束ね、黒いスーツにサラリーマンが持っているような黒い鞄を持っている。鬘のような髪型も見慣れているせいかそれほどおかしく感じなかった。熱心に資料を見ている人もいれば、携帯をいじっているひともいる。昼過ぎに帰宅すると、ボクと入れ違いに姉は出かけていった。全身黒ずくめのシューカツスタイルではなく、パーカーにジーンズというラフな格好にトートバックをもって出かけていった。4回生になると大学の授業はほとんどないと言っていたような気がなんとなくしたが小走りで駅に向かう姉の後ろ姿を見送った。



夕飯の最中、姉がこう言った。



「今日シューカツでさ」



一瞬疑念がよぎったが、姉の話に耳を傾けた。



姉の話によると、テストセンターというところで筆記試験を受けてきたらしい。大学に行ったのではないようだ。どうりで帰りが早いと思った。てっきり電車に間に合わず、駅前の本屋かどこかで時間を潰して帰ってきたのだろうと踏んでいたボクは妙に納得した。



今日のシューカツではテストセンターのパソコンで問題を解くという単純なもので、答えを入力すると、結果が自動的に企業へ送信される。その一度のテストでどの企業にもそのテストの成績が使いまわしできるという便利な仕組みらしい。テスト内容は国語と算数。中学校受験のような問題らしく、意外と簡単そうだなと思った。そんなボクの表情を見透かしたのか、



「これで人生決まるんだから」と言い捨て、姉は皿を片付け始めた。



テストはこの他にも性格を調べるものもあり、じっくりと考える時間はなく、制限時間内で100以上の質問に答えなければならない。



シューカツって面白そうだなと思ったが、また見透かされないように急いで味噌汁をかきこんだ。







高校1年5月上旬。ゴールデンウイークの中日。



ボクは連休明けに控えている中間テストの課題をしていた。高校生のテストは中学の時の期末テスト以上に科目数が多くて驚いた。中学まで化学、生物、物理は理科として1つの教科だったくせにそれぞれが堂々と独立して3教科分勉強しなければならず、少し腹立たしい。塾の自習室に行こうかとも考えたが、どこの高校もテスト前だから混んでいるだろう。同じ塾に通う吉田も来ていたら、帰りに駅のマックで時間を奪われかねない。今日は一日家に籠る決意をした。



集中力が途絶えてきたころ、スーツ姿の姉が部屋に来た。



普段着のように毎日来ているスーツは、4月に比べると少しくたっとしていた。



姉は部屋に入るなり唐突に言った。



「自己PR、1分でお願いします」



あっけにとられているボクに、姉は無言の圧をかけてきた。仕方なくボクは高校入試の面接を思い出しながら、自己紹介をした。姉は大したリアクションもせず、ただじっとボクの目を逸らすことなく無表情で聞いている。自己紹介が終わると姉は無駄に長いため息をつき、ボクの顔をまじまじと見つめ、冷たく言い放った。



「他にありませんか。」



少々イラッとしたが、ボクは自己紹介を続けた。



すると今度は、わざとらしいほどの相槌を何度も打ち、また小さな子供に向けるような作り笑いを浮かべ、時になるほどとかへえというリアクションを取って姉は聞いていた。自己紹介が終わると、間髪入れずに笑顔でこう言った。



「他にはございませんか。」



慇懃無礼という言葉はこういう時に使うのかと実感しつつ、面倒くさいのを我慢してもう一度自己紹介した。ボクなりに少しはアレンジを加え、姉も知らないであろうエピソードを盛り込み話した。しかし今度はボクの方へは目もくれず、途中まで解きかけていた物理の問題集を見ていた。自己紹介の間、もう飽きたのかそれとも意図的にそうしているのかわからなかったが、姉は一度たりとも目を合わせようとしなかった。テスト勉強の時間を割いてやったせっかくのスピーチを姉はさも興味なさそうに聞き、「ふうん」と言って部屋を出ていった。



ボクは開けっ放しにされたドアを少し乱暴に閉めた。







5月中旬。中間テスト後の土曜日。



ボクはテストから解放され、また昨日の徹夜がたたり11時まで布団にいた。



朝7時ごろだったろうか。姉がバタバタと出ていったような気がした。



リビングへ行くと誰もいなかった。土曜日の午前中、母は近所にできたヨガ教室へ通っていていない。テーブルの上にあったサンドイッチの残りを頬張りながら、テスト期間に録画していた深夜アニメを観ていると母が帰ってきた。姉は今朝早くシューカツへ行ったそうだ。



「今日は大事な面接の日なんだって。」



母はそう言いながら、サンドイッチを片付けキッチンへ行った。



夕方、姉が帰ってきた。



京都と大阪で面接があったらしい。1日に2社も受けてひどく疲れているらしかった。母は姉にあれこれ尋ねていたが、姉はそれに答えようとはしなかった。ただ一言、



「海外留学とかさ、しとけばよかった。」



姉は晩ご飯にろくに手も付けずさっさと部屋へ戻っていった。

海外留学か。そういえば、ニュージーランド研修という名の短期留学プログラムがうちの高校にはあったはずだ。確か、こないだ先生が希望者は職員室へ来いとか言っていたような気がする。吉田も誘ったら行くだろうか。

その夜、吉田からLINEが来ていた。早速テストの出来を知りたいようだ。手ごたえのいい時に限って聞いてくる。そんな奴だ。適当に返しながらだらだらと時間は過ぎ、話題はなぜかシューカツになっていた。

そうだ、海外留学の話から姉のシューカツの話になったのだ。

吉田は「兄貴も就活大変そうだったぞ」と返してきた。吉田の兄は確か国立大学の工学部を卒業したはずだ。研究所みたいなところで働いているのだろうか。文系の姉には縁のない職場だ。そのまま2,3回トークをやり取りしたまま、ボクは眠ってしまったようだ。





6月下旬の日曜日。



明日から学期末テストが始まる。前回、物理が赤点ぎりぎりだったためボクは少し気合を入れ、夜遅くまで問題集を見ていた。深夜、眠気覚ましにキッチンへ向かうと、ダイニングから激しく喚く声が聞こえた。声の主は姉だった。姉は情緒不安定なのか子どものように泣いたかと思えば、なにかぶつぶつと話したあと、最後に力なくこう呟いた。



「もう終わった。シューカツ。」



まだスーツ姿に鬘頭の姉はテーブルに顔を伏せている。黒い袖は涙と鼻水でぐっしょりと濡れていた。母は心配そうに姉の背中をさすり、助けを求めるような困った顔でボクを見た。シューカツが終わったというはどういうことなのだろうか。何か言おうかとも思ったが、とにかくいまは何をしても無駄だろう。姉は昔からそうだ。泣いたら手が付けられない。適当に慰めの言葉をかけると、すぐに激情して悪化するだけだ。そう思って、ボクは母を置いてキッチンで麦茶を飲みそのまま部屋へ戻った。



翌朝、姉は無言で食パンを食べ、自分の部屋へ籠った。

ボクは刺激しないように、小声で「いってきます」と言い、部屋を出た。

電車に乗ると、いつもの場所に吉田がいた。2両目の真ん中の入り口にもたれている。

昨晩の惨劇を吉田に話すと、単語帳に顔を向けたまま「そりゃシューカツだもんな」と言ったきり、黙った。知ったような言い方をする。お前はシューカツしてないだろと心の中で思いながら物理の問題集を開いた。

あの日以来、姉の口からも母の口からもシューカツの言葉はなく、姉が唐突に面接を始めることもなかった。





8月最後の月曜日。



2学期が始まった。高校は中学とは違って夏休みが短い。まだ8月だというのに今日はもう始業式だ。蒸し暑い体育館で校長先生と生徒指導の先生の話を聞き、教室で委員会決めのあと、10月の体育祭に向けて各種目の出場者を選出し、昼前に帰宅した。



昼過ぎに姉も帰宅した。久しぶりのスーツ姿だった。シューカツは終わっていなかったようだ。姉は聞いてもいないのに話し始めた。今日姉はハローワークで紹介された大手電子メーカーの面接へ行ってきたようだ。本当ならば、そんな大手のシューカツはとっくに終わっているのだそうだ。しかし、今年は売り手市場と呼ばれ、売り手である学生にとっては有利と呼ばれる年だったらしい。夏ごろから内定を複数もらっていた学生が本命以外を辞退するため、有名な企業であってもそこに欠員が生まれ、もう一度募集をかけるらしい。

来年はフリーターを確信していた姉は、興味のなかった企業ではあったものの、ハローワークの人に勧められるがまま、待遇がよく、名の知れた企業だという理由で面接を決意したようである。有休も多いし、ボーナスも5カ月分と姉は求人票を見せた。電子機器の営業職というのが文系の姉には不向きのような気がしたが、



「この際営業でも販売でもなんでもいい。」



そう言って早々とスウェットに着替え、ソファにごろりと横になった。





9月一週目の土曜日。

ボクの土曜日のルーティーンは平日に撮り溜めていた深夜アニメを一気見することだ。母がお昼ご飯にとスーパーでから揚げ弁当を買ってきてくれた。「姉の分は?」と聞くと、昨日夜行バスで東京へ行ったらしい。東京かあ…。



「シューカツなんですって。大変よね。」



東京=コミケを想像していたボクには一生かかっても結びつかない組み合わせだ。またシューカツ?わざわざ東京まで、シューカツのためだけに。まあいい。お土産は東京バナナかな。ボクは完全に明後日の方向をむいていた。母は「お母さんのころは就職ってできるほうがすごかったのよ。就職氷河期。バブルがはじけちゃってね・・・」から揚げ弁当を食べながら母のおしゃべりは続いた。



次の日の夕方、姉が帰ってきた。例の電気会社だ。本社は東京にあるらしい。姉はなんだか珍しく上機嫌だ。きっとついでに東京観光でもしてきたのだろう。夕食のとき、母がそれとなくシューカツの出来を聞くと、面接がとても盛り上がったらしい。他にも学生がいたらしいが、姉の面接が一番賑やかだったそうだ。珍しくシューカツがうまくいったようだ。

姉は「今までで一番自信あるかも」と言いながら、お土産の芋ようかんをお茶で流し込んだ。





9月最後の土曜日。

ボクは土曜日のルーティーンを楽しんでいた。お昼すぎ、姉宛に書留が届いた。

姉はボクから手紙を引ったくり部屋へ戻っていった。今日は母が夜いないため、姉と二人の晩御飯だ。カップ麺か残り物のカレーのどちらにするか聞きに部屋へ行くと、ただ一言「いらない」と言われた。





10月2週目の日曜日。

今日は体育祭だ。中学のときと比べ、保護者のすがたはほとんどなく、競技もダンスなどのパフォーマンスがあるわけでもなく、味気ない物だった。陸上競技を淡々とこなし、各クラスが何かしらの表彰状をもらい高校初めての体育祭は音もなく終わった。



体育祭の片づけをし、帰宅すると姉が家にいた。大学の夏休みも終え、後期の授業も始まったようだ。そういえばここ最近、シューカツという言葉を聞かない気がした。





12月2週目の月曜。

学期末考査の返却日だ。今回は手ごたえがある。吉田もそう言っていたから問題が簡単だったのかもしれない。

朝ごはんを食べにキッチンへ行くと、久しぶりにスーツ姿の姉がいた。あれ、シューカツ?ととっさに聞いてしまった。姉はボクをにらむような顔で「卒論の発表会。」と言い、すぐにキッチンから出て行った。





高校1年3月最後の日曜日。



姉は昨日カナダへ飛び立った。



ワーキングホリデー、通称ワーホリのために。結局姉はシューカツが上手くいかなかったらしい。姉は何度ももともとすぐに就職なんてするつもりなかったと強がっていた。

「やっぱり海外に行って語学力をつけないとね」そう言って姉はパッキングしていた。



出発する姉を大阪駅まで見送りに言った。姉は

「私の部屋も使っていいからね」と上機嫌で駅のホームへと消えていった。



帰って部屋を片付けていると、ベッドの下からほこりにまみれた化粧品のサンプルが出てきた。

才悩
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正直、俺には才能があると思う。今年で22になるわけだがここまでの人生全く困難なく生きてきた。小学校時代はかけっこもドッジボールもいつも俺が一番だった。中学校時代はバスケを初めて一年生でレギュラー。自慢じゃないがバレンタインデーには紙袋持ってこないと持ち帰れない量のチョコをもらっていた。高校は地元でも1、2を争う進学校へ行ったし、そこの定期テストでも特に勉強しなくても上位には食い込んでいた。大学ではサークルを二つ掛け持ちし、代表と副代表になっていた。ここまで語っただけでもわかるように、俺の人生はまさに順風満帆を絵に描いたようなものだった。

…だからこそ俺はこんなものではないと思うのだ。





「お前卒業してからどうすんの」

目の前でうどんをすすっている相模が問いかけてくる。こいつとは大学に入ってからの友達である。そのはずだが十年来の友人であるかのような慣れっこさだ。だからこそずっとつるんでいるわけだが。

「どうすっかなぁ。正直あんま考えてないんだよな。」

「流石にやばいんじゃね。もう4回も夏だべ?」

相模がうどんを頬張りながら半笑いでそう言う。汚い。

「あんま焦らす事言うなって。てか口に物入れて喋んなよ。」

実際、俺自身焦り始めてはいる。持ち前の才能で大概の仕事はこなせる気がするが今ひとつやりたいことが見つからない。いや違うな。俺にはもっとすごいことが向いている気がする。企業説明会には一応参加するようにしているが、そういう漠然とした思いがあるから今ひとつ決めかねているのだ。

相模がきっちりうどんを飲み込んで言う。こう言うところは律儀なんだよな。すぐ忘れるけど。

「じゃあ俺が決めてやるよ。ユーチューバーなんかどう?『世界に夢とドラマを与えるぜ!』的な。」

「バカにしてんだろお前…内定とってるやつは気楽でいいよなぁ。」

「えー、向いてると思うんだけどなぁ。」

相模は、俺ほどじゃないが才能を持っていると思う。そして何よりコミュニケーション能力がずば抜けて高く、よく笑う。相模がいるだけで場の雰囲気が変わるほどだ。こいつは持ち前のそれを活かして就職先をとうに決めていた。ちゃらけているように見えて、実はしっかり考えて行動してるのかもしれない。

「羨ましいだろ。」

「ちょっとだけな。」

「だろー!お前も早く決めてこっち世界に来いって。」

そう言ってケラケラ笑いながら大げさに手を差し伸べてくる。あ、肘が当たって醤油こぼれてる。

「昼まで寝て競馬しかするような世界なんてやだわ」

苦笑いしつつ軽く手を払う。

「つれないやつだな。」

「つれなくて結構。てかお前食うの遅いから先図書館行くぞ。」

鞄を持って席を立つ。前で「ちょ、待てよ」とか聞こえるが無視する。

「んじゃお先―。あ、言い忘れてたけど醤油こぼれてるぞ。」

「えっ、うそ、マジじゃん。これ昨日買った服なのに…」

うん。やっぱりこいつ何も考えてないわ。





その日の帰り道。昼間の会話を思い出しながらいつもの道を歩いていた。

「どうするかなぁ。」

無意識にため息混じりにそうこぼしてしまう。慌てて周りを見渡す。誰にも聞かれていないようで、今度は心の中で安堵する。暗い夜道を独り言を言いながら歩く男なんて不気味すぎる。そんなところを誰にも見られたくない。

そんなことを考えていると、いつのまにか家についていた。しかし1人で家にはいたくない気分だ。

「もう少し散歩でもしてから帰るか。」

そう呟いて、来た道とは逆方向に歩みを進めた。





夜は嫌いじゃない。特に夏の夜は涼しく頭がクリアになる。だから考え事をするときは夜風に当たるのが癖になっている。

「こんな道があったのか」

こっちの道はほとんど通らないので知らない道が多い。なんとなく探検している気分で楽しくなってくる。小学生の頃、当時のクラスメートと一緒に隣町まで遊びに行った時のことを不意に思い出した。当時は不安が全くなかった。それどころか「次はなにして遊ぶ』かに頭がいっぱいで明日が来るのが楽しみでしょうがなかった。そういえばあいつ、なんて名前だったっけな。当初とは全く違うことを考えつつ歩いていると一つの建物が目に入った。

「なんだこれ、やけにボロいな。ジム…か?」

張り紙が目に入る。加藤キックボクシングジム。なるほど、キックボクシングか。名前を聞いたことがあるという程度なので、特に気にもせず通り過ぎようとしたときもう一枚の張り紙が目に入る。なになに、

「いい汗ながして運気上昇!金運、結婚運に効果てきめん!頭痛腰痛肩こりにも!」

なんだよこれ。俺が知らないだけでキックボクシングってスピリチュアル的な何かだったのか…?てか後半はスピリチュアルにすら関係ないだろ。二郎じゃないんだから全マシマシにするなって。あまりにも想像とかけ離れた張り紙に笑いを必死に堪えつつ心の中でツッコミを入れる。成人男性が夜に住宅街で爆笑なんてしたら都市伝説にでも加わってしまいそうだからな。相模にも見せてやろうと思いスマホを向けていると

「お、どうした兄ちゃん。格闘技興味あんのか?」

不意に後ろから声をかけられる。振り返るとコンビニの袋を下げたくわえタバコのおっさんが立っていた。しかも酒臭い。変なのに絡まれた、散歩なんかせずに帰っておけばよかった。心底後悔しつつ言い訳を考える。

「いや興味っていうか、張り紙が斬新だったんで写真を撮ろうとしていたんですがまずかったですかね?」

「そうか興味あるのか!ここは俺がトレーナーしてるんだ。ぜひ見学して行ってくれ。」

そう言って肩に腕を回してくる。…このおっさん話通じない。このままだとわけのわからない壺とか買わされるんじゃないだろうか。早く逃げないと絶対やばいことになる。そう直感して

「いえ、もう終了してるみたいですし迷惑になりそうなので今日はこれで帰ります。また後日ということで…」

「終了も何もジム生が1人しかいないから、そいつが来てるとき以外はやってないんだわ。だから迷惑でも何でもない。」

門下生1人ってどうなってるんだ。ますます怪しいぞ。

「いえ、でも…」

「せっかくのビールが冷めちまうだろ。さぁ早く入った入った。」

半ば強引に話を決められてしまった。肩を組まれているので逃げるができない。これから何をされるのかの不安と酒臭さの不快感とで、最低の気分のまま足を踏み入れた。



おっさんに案内されたジムは「ありきたり」と言わざるを得ない設備であるように思う。未経験者の俺が想像していたそれと合致しているのだからそうなのだろう。設備の一つ一つはひどく年季が入っているように思うが、手入れはしっかりとしているようで埃一つない。意外としっかりしているようだ。人は見た目によらないのかもしれない。

事務所のようなところから椅子を出してくれたのでそこへ腰をかける。おっさんは正面のリングに腰をかけ缶ビールを差し出して来る。コンビニで買って来たのだろうなキンキンに冷えてやがる。。というより、こういう時にビールって何かおかしくないか。そんな俺を尻目におっさんは自分のビールを一口飲んでから口を開く。

「それで、どうだ。うちに入ってみる気にはなったか?」

「いや、全然興味ないんですって。」

この短時間でなぜ心変わりしたと思ったのだろうか。

「けど兄ちゃん結構いい体してるじゃねぇか。何かスポーツやってるって一目でわかる。トレーの目はごまかせねぇぜ。」

「体動かすの自体は嫌いじゃないんですよ。動かすって行っても軽くジョギングするのとジムで筋トレするくらいですが。」

「お、じゃあそこにうちのジム追加するくらいわけねぇな。よし決定。じゃあ契約書を…」

なぜそうなるんだ。油断も隙もないぞ。

「いやいや何でそうなるんですか。それに痛い思いはしたくないし何より就活中でこれ以上通ってる時間なんて作れないですよ。」

「お、就活なのか。その様子だとまだ決まっていないようだが…何になりたいんだ?」

プライバシーにズケズケ踏み込んで来るおっさんだ。別に答えてやる義理はないが、とにかく早く抜け出したかった。

「それがまだ決まってないんですよ。いろんな会社をみては見るんですがなかなかしっくりこなくて。」

「自分の才能をうまく使えるところが見つからないってところか。」

気持ちを言い当てられてドキッとする。何だこいつ、読心術でも使うのか?

「そう…ですね。時間もないし焦ってはいるんですが、なかなか。」

「なるほどな。」

おっさんは何か考えるような仕草をする。静かな空間が気まずい。早く帰りたい。よし、もう帰りますって言おう。追いかけられても逃げれば切ればいい。

「あの…」

「よし決めた」

俺の声はおっさんの決意の声にかき消されてしまった。そんなに大声で物事決めるやつなんて漫画でしかみたことないぞ。おっさんが言葉を続ける。

「お前の夢見つけるために一肌脱いでやるよ。将来のジム生のためだからな。」

彼の中では俺が入会することは確定事項のようだ。

「一肌脱ぐって、何をしていただけるんですか?」

「来週の土曜にうちの選手の試合があんだよ。それ観に行くからついてこい。なに、心配すんな入場料はとらないから。」

「かなり突然ですね。」

「人生には突然転機が訪れるもんなんだよ。18時に駅前集合な。」

正直全然行きたくない。いや、おっさんと一緒でなければ多少見てみたくはあるのだが。

「もし遅刻とか風邪とか引いちゃったらどうしましょう。」

一応、行かないという選択肢があるのかをそれとなく聞いてみる。

「そんときゃ家まで行ってやるから安心しろ。風邪ならまぁ気合いだな。」

わかってはいたが休めないようだ。家は絶対に知られたくないので行くしかにようだ。

「わかりました。じゃあ今日はこれで。」

とりあえず早く帰ろう。それで一旦寝てから考えよう。それにしてもせっかくの休日におっさんとデートか。今から気が重いな…





「おう、ちゃんと時間通りに来たな。」

今日まで必死に行かない言い訳を考えてみたが、何と言おうと跳ね返される気しかせず、結局行く羽目になってしまった。それくらい俺が受けた印象は強烈だったのだ。

「はい、約束ですからね。仕方ありません。」

「なんか気になる言い方だが…まぁ良い。じゃあ行くか。」

「こないだから思ってたんですが、会場はどこにあるんですか?」

「そういえば言ってなかったか。二つ隣の町にある会場だ。結構でかいから盛り上がるぞ。」

意外だった。小さいジムの1人しかいない選手がそんなに大きい会場でやるのか。公民館みたいな会場を想像していた。もしかしたら以外と有名だったりするのかもな。いやそんなわけないか。



駅から会場までは10分程度だった。会場に近づくにつれ目に見えて人が増えており、もしかしたらが現実味を帯びていることを感じた。

「もしかして今日ってかなり大きな試合なんですか?」

「あぁ、一応トーナメントの決勝だからな。それにあいつにはかなりファンがついてるからな。人通りも増えるだろ。」

なるほど、これは意外と楽しめるかもしれないな。来るまでの憂鬱な気持ちが多少和らいだ。



会場の入るとかなりの人が入っていた。格闘技ファンは男ばかりだと思っていたのだが意外と女子供が目に入る。おっさんは選手と打ち合わせをしてくると言ってどこかへ消えてしまった。明らかにアウェーな状況に携帯をいじることくらいしかできない。こういう時に堂々とできない自分が少し恥ずかしい。

程なくしてけたたましい音とともに会場のボルテージが一気に上がった。試合が始まるのだろう。これだけ盛り上がるというのはかなりすごいことなのではないだろうか。さすが決勝といったところだろう。

洋楽のよくわからない曲とともに、選手が入場してくる。その隣におっさんが並んで歩いている。なるほどあいつが唯一の選手なのか。悪いが全然強そうに見えない。身長は俺より低いくらいなのではないだろうか。対して相手側は威圧感が圧倒的だった。刺青も入れているしバランスが悪いくらい足の筋肉が発達している。もし賭けられるなら相手に賭けるだろうな。

程なくして試合が始まった。素人目に見てもこちら側の選手は不利。防戦一方といったようなところだった。すぐにやられてしまうのではないだろうか。しかしおっさんがあれだけ自信満々に連れて来たのだから決して弱くはないはずだ。これでこのままやられたりしたらめちゃくちゃに文句言ってやろう。

その時だった。相手の蹴りが直撃して倒れてしまう。これでやられたと思ったが、ファンの必死の応援に応えるように立ち上がる。そして向かって行く。だが、俺はどこか自分と関係ない世界の出来事のような気がしていた。向こう側は「やりたいことに本気で取り組む」世界だ。俺のような中途半端な奴とは違うのだ。だからだろうか、心の底から応援することができないという気持ちがある。自分の才能を受け入れてそのまま倒れてしまったほうが楽なのは決まりきっていることだ。目の前で行われていることが馬鹿らしいことにしか思えないのだ。



それからも彼は何度倒れても立ち上がる。わけがわからない。負けを認めるなんて簡単なことだろう。それなのになぜ戦い続けるのか。その時だった、敵のキックがクリーンヒットしまた地に伏す。今度こそダメかもしれないな。そう思ったがまだ立ち上がる。心なしか彼の口元が笑っているように思えた。会場が今日最大の盛り上がりを見せる。そうか、彼は今楽しくて仕方ないんだろう。自分の持てる才能を最大限使って見ている人たちを楽しませるのが。そう思うと俺の方までアツくなって来た。いけ、ここまで来たのだからこのまま勝ってしまえ。リングの上ではおそらく最後となるであろう攻防が始まっていた。



才能は使い方次第で周りを変えることができる。俺はこの興奮をとにかく誰かに話したかった。でないとこの気持ちを忘れてしまいそうだったのだ。会場を出て携帯を取り出し真っ先に思いついたのは相模だった。というかあいつしかこんなこと話せそうなのはいなかったのだが。電話をかけるとワンコールで出た。

「よー、どうしたこんな時間に。」

「俺さ、やりたいこと決まった。」

興奮冷め切らぬまま話す。

「いきなりだな。んで、何になりたいんだ?」

「具体的には分からん。けどいろんな人に夢とドラマを感じさせるような仕事がしたい。」

相模はケラケラ笑った後に言う。

「やっぱ俺の言った通りじゃん。ユーチューバーとか向いてるって。」

結局相模は最後まで何を考えているのか分からない奴だった

魅力
162104


僕は普通の人間ではない。精神に異常を抱えているというような意味ではない。僕は普通の人間でたとえるならば、いたって健康である。

俺の異質性は俺の持っている特殊な能力がかかわっている。

僕は、「1日に1度、15分間だけ、誰もが二度見してしまうほどのイケメンになることができる」という力を持っている。

といっても1日に15分だけというなんとも使いどころのない力だ。

1日中イケメンになれるのであれば、今頃女の子とキャッキャウフフな生を謳歌できていたのだろうが、15分だけではそれもかなわない。

加えて力をつかっていないときの僕の姿は本当に取り柄がない。唯一の自慢は母譲りのダークブラウンの髪だろうか。

ただ、僕の能力は姿を変えるだけのものではない。

みんな考えてほしい。顔だけイケメンで後のことは底辺レベルの人間をイケメンと呼ぶだろうか。 察してくれた人もいるだろうが、僕の力は自身の能力を底上げする。たとえば学力は15分だけかなり賢くなることができる。身体能力もかなり上がる。それこそ、セパタクロー未経験者の僕がセパタクロープレイヤーに混ざって一緒にプレイできるほどには上がる。

面白い能力だと思わないか。まあ、使うタイミングがないと言われればそれまでなんだが。



少し話しすぎてしまったようだ。これはちょっとよろしくない。学校に遅刻してしまう。普通に登校してたのでは間に合わない。

少し走ったぐらいでもちょっと厳しいだろう。

というわけで、ちょっとイケメンになって学校まで駆け抜けるか。

少しばかりイケメンの身体能力を拝借するというわけだ。

僕は食パンをくわえて家を飛び出し、人気のないところでイケメンになった。

「っふう‥ やっぱりこの状態の俺ってホントにかっこいい」

一人でつぶやいて俺は駆け出した。爽快である。



タッタッタッタッタ…

普段のじぶんではこれほどまで、ほおから耳へと流れる風を感じて走ることなどできない。

ここまで軽快に走ってきた俺は、曲がれば学校が見えるようになる見通しの悪いT字路に差し掛かった。

勢いを止めずに曲がる。

その時!

「キャッ!!!」

何かとぶつかった。

世界が反転し、カバンの中身が宙を舞ったかと思うと、食べかけの食パンと一緒に俺の体に落下してきた。

「いててて。」

何かが俺の体に触れた。

気が付くと、目の前に黒の長髪でわりとスタイルのいい落ち着いた雰囲気の女の子が倒れていた。そばには、厚めのレンズの眼鏡が落ちていた。黒縁だ。



しばらく僕は彼女から目を離すことができなかった。



うちの学生か?!こんな子うちの学校にいたっけか。

すこし、いや、かなり興奮してしまった。

しかしひとまずここは冷静に、深呼吸して、熱を冷ます。



‥よし。



「おい…大丈夫か。すまん。」僕は何の気なしに手を差し出した。

「あ、ありがとうございます。こちらこそごめんなさい。曲がり角でじっとしていると危ないですよね。」

「いやいや、俺がぼーっとしていたのが悪いんだ。早くしないと遅刻しちまうぜ。」

そう言いながらさりげなーく彼女の散らかった荷物を鞄の中に戻してあげた。

イケメンなら聞ける!とりあえず学年とクラスのチェックだ!!

「見ない顔だね。何組?」学年は名札の色で分かる。僕と同じだ。青色だ。

「内緒です♪」

そう言って彼女は走って行った。

「待っ…」

僕は、彼女の荷物を直して自分の荷物を戻せていなかったことに気がついた。

ただ走り去る彼女の背中が見えなくなるまで見つめ続けて遅刻した。



今日一日、朝ぶつかった彼女のことで頭がいっぱいだ。

たまたま、彼女が去った後手帳の落とし物を見つけたからてっきり彼女の物だと思って手帳に書いてあった名前を頼りに彼女を訪ねたのに、彼女とは似ても似つかない地味目の女の子の落とし物だった。

その後もすれちがうこの顔を必死に確認していたのに全然見つけられなかった。

明日こそは…、心に決意して一日が終わった。





「さて、今日も一日頑張りますかあ」

昨日はついぞ彼女を見つけることができなかったけど、今日こそは見つけて声をかけたい。  完全に恋に落ちてしまっていた。

今日こそは、絶対に声をかけてやる!!

「いってきます!」かつて無いほど胸を高鳴らせて学校へ向かった。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

私は普通の人間じゃない。嘘じゃない。

みんな私のことなんて見やしない。だって私は地味だから。そんなことは分かっている。

でも、私は普通の人間じゃないの。だって不思議な力を使えるから。

私はついこの間その不思議な力を使えるようになった。

そう、それはいつものように1人で登校していた時のことだった。あの日だけはいつもとは違っていたの。中学校の時私のことをいつもいじめていた子たちが反対側からこちらに歩いてきていたの。その子たちから離れるためにわざわざ家から遠い学校に通うことにしたのに、私は本当に顔を合わせたくなかった。何をされるか分かったものじゃない。

私はT字路の陰で願った。

「私に気づかず通り過ぎて!!どうか」

そんな願いもむなしく、私はあの子たちと目が合った。

「っ!」

…私に何の反応も示すことなくとおりすぎていった?

想定外のことが起こり、脳内はパニックだった。

「どういうこと?あの子たちが私を見て何も言わないわけがない。おかしい。おかしい。」

声をかけられなかったという事態に困惑しているとき、カーブミラーに目がうつった。

「これは、だれ?」

そこには思わず二度見どころか三度見してしまいそうな、ヴィーナスもアフロディーテもかなわないくらいの女性がうつっていた。

すぐにそれは自分だとわかった。

自分で言うのもあれだが、いま、わたし、かわいい。そう思った。

わたしはこの日かわいくなる力を使えるようになった。



私が初めて力を使った日、なんか私と同じような地味な男子とぶつかったけど、彼も私に好意の目を向けていた…気がする。

どうやらこの力は15分程度しか使えないみたい。



「キーンコーンカーンコーン」



そんなこと考えていたら授業が終わった。

今から休み時間だ。続きが読みたくて読みたくて仕方ない本があったので迷わず取り出す。

私が小説に熱中していると少し回りが騒がしくなってきた。

「だれ?!だれ?!」「え、かっこよくない?どこのクラス?」

キャーキャーキャーキャーうるさいな。  

んん?なんか近づいてきてないか?は?

ちょっと待て、なんかこっちきてないか。

…おい、なんで私の前で止まるねん

「何でしょうか。」とりあえず聞いておこう。

どうやら私の手帳を届けに来てくれたようだ。

たぶん、今朝男子とぶつかったときに落としたんだろうな。



…なんだ?かわいい子との出会いでも期待していたか?悪かったな。地味な女子で。

表情にだすな、表情に。あからさまにがっかりしないでくれ。期待してなくても傷つく。

ん、私が不機嫌になったのを察したか。くそイケメンめ。

こういう女慣れしているようなやつは本当に嫌いだ。どうせ私をその辺のチョロい女と同じように見ているんだろう。

まあいい。とりあえず手帳を届けてくれたことには感謝しておこう。

そして、二度と目の前に現れないでくれ。

やはりイケメンは合わない。たぶん私にはもっと私に適した男が居るはず。私と同じようなさえない男でも優しければそれでええんじゃ。



休み時間が終わった。くそイケメンのせいで本は読めないし最悪だ。

そういえば今朝ぶつかった男子、ちょっと気になるな。怪我してないかな。

明日、力使って見に行こうかな。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「はああああああああああああああああああ」

昨日のめちゃくちゃかわいかった彼女に全然会えない。手がかりないし、、、

「はああああああああああああああああああああ」今日一番のため息だ。

「でっかいため息だなあ、幸せが蜘蛛の子散らして逃げるぞw」

「蜘蛛の子散らしてって、どんなたとえだよ。」

彼は僕の友人のトンカツだ。クラスの自己紹介の時に好きな食べ物はトンカツだと言っていたからトンカツだ。

「そういえばさあ、おまえがこないだ言っていた女の子とは会えたのか?」

こいつは考えなしにこんなことをきいてくる。僕の恋愛事情になるといつも目を輝かせる。

「いや、さっきのため息は会えてない悲しみから出てきたものなんだけど。」

「わはははは!それは!おもしろいな。俺も会ってみたいな。」

これでも良いやつだから嫌いになれない。

「会ったときはクラス調べといてくれよ。まじでな!」

僕がそう頼んだとき、担任の豆電球が教室に入ってきた。

「ん。おまえ先生に呼ばれてっぞ。」

「なんだろう、ちょっと行ってくる。」

…あの先生、僕が頼まれごと断れないやつだと分かっていて声かけたな。くそう。めんどうなお使いを頼まれてしまった。

休み時間は昨日の彼女を探したいなーって思っていたのに。

とりあえず、早急に頼まれた仕事をかたづけようか。

「まずはこの教材を職員室に持って行かないと、,,」

僕がひとりで教材を職員室に運ぼうとしていたとき、

「あのう…」

いきなり声をかけられた。僕は振り返って見て驚いた。

そこには昨日の彼女が立っていた。緊張しすぎて頭働かない…。

「え、ええええ、あ、あの、どうかしましたか?」

「きのう朝に私とぶつかられた方ですよね? 昨日はごめんなさい。遅刻しちゃうなあと思って我先に登校しちゃいました。怪我とかしてないですか?」

ええええええええええええええ、なんで今話しかけられるんだ?!

僕はあの日変身していたはず。イケメンになっていたはず。イケメンじゃないときの僕は、彼女に一度も会ってないのにどうして??

まさか、ぶつかった衝撃で変身がとけていた?わからないわからないぞ。

とりあえず考えるのは後だ。

とりあえず、さりげなく情報収集だ。

「えっと、どこかでお会いしましたっけ。けが?」

「ええと、昨日の朝にあなたとぶつかったと思うのですが、人違いでしたか?」

‥どうやら、今の姿でぶつかっていたようだ。理解した。

「そういえばそんなこともありましたね。あの時はすぐにあなたが駆け去ってしまったので、言われるまでわかりませんでした。」

「あはは、、あの時はごめんなさい。とにかくあわてていて。」

「ぜんぜんいいですよ。怪我なんてしていませんし。そちらこそお怪我はなかったですか?」

「ええ、大丈夫です。それにしてもあの日とは全然違った口調でお話しされますね。」

ギクッとした。多分あの日はイケメン気分で会話していたんだろう。はずかしい。

「はは、恥ずかしいですね。こっちが素ですから、気にしないでください。」

恥ずかしいから、何とか話題を変えたい。‥クラス聞くか。

「そういえば見かけない顔ですけど、学年同じなんですね。何組で…」

「あっ、そういえば用事を忘れていました。怪我がなさそうでよかったです。じゃあ、失礼しますね。」

「ちょっ、あっ…」

またクラスを聞きそびれた。…何をやってるんだぼくは、、、

彼女もかなりあわてた様子だったし、急ぎの用事があったんだろう。それにしても、なんてタイミングの悪い。

また、会えるだろうか。そう思うほど優しさを感じさせられる女性だ。きっと根がいい人なんだろうな。

そもそも、自分には釣り合ってないであろう女性だ。

冴えない僕がそんなに長いこと相手にしてもらえるということもないだろう。

次に会ったときは変身した姿で会話してみよう。



そうして、その後も先生に頼まれた仕事を黙々と消化した。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

「あぶなかった…。今の流れはクラス聞かれていた。絶対そうだ。」

普段は地味な姿なんだから、あの姿でクラスとか名前を教えるわけにはいかないじゃん。

自分のことながら、脱兎のごとく逃げ出せたことに感心している。

それにしても、彼はおそらく力を使っている私のかわいさに囚われている。

それは、彼の反応でわかる。

個人的に彼の私に対する態度はこちらから見ていておもしろい。というかかわいい。

妙に好感が持てる。普通にお友達になれそうだな。と思う。

ただ、、

「この姿の私とは繋がりがないんだよねえ…」

力を使わなければ彼と会話ができない現実と向き合うと悲しくなってきた。

今後もこの力のお世話になりそうだ。



あ、そういえばこの間買った本は全部読んじゃったし今度の日曜日に新しい本を探しに行こうかな。そうしよう。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

日曜日を迎え、私はかねてより計画していた新しい本探しのために街へ繰り出すことにした。

といっても私が向かう書店は決まっている。今歩いている大通りの突き当りだ。その書店に向かってまっすぐ歩くだけだ。

手元のスマートフォンで流行の本をググっていたけれど、どれもピンとこなかったのでググるのをやめた。



ふと、私が先を見通した時、なにやら見覚えのある顔が見えた。

「彼だ。」つい、言葉に出してしまった。

ちょっと退屈していたし、力を使ってお話ししようかな。

そう思って私は裏路地に入った。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

今日は待ちに待った日曜日だ。

今日は僕がずっと読み続けているライトノベルの最新刊の発売日だ。

『○○○荘のペットな彼女』はタイトルこそ他人には見せられないが内容自体はかなり胸の熱くなる良作だと思っている。前巻の終わりが良かっただけに続きが気になっていた。

もう、今は早く家に帰ってこれを読みたい。



…おや、ふと道の先を見たとき、彼女がいた。

すこしお話ししたいと思った。

変身したい、どこか、変身できそうなところ、、、

僕は変身するために裏路地に入った。

、、、、が、遅かった。彼女に見つかっていた。変身する前に声をかけられてしまった。



「今、私見て逃げたでしょ〜(怒)」

…これは失敗した。怒ってらっしゃる。多分。なにか、言い訳、、ラノベ。

どうせ僕が本気で相手にされることはないんだし、いいや。

「ええっとですね、実は、この本のタイトルを見られたくなかったもので…。お恥ずかしい。」

このタイトルだし、どんな反応されるだろうか。「きもちわるい」とか言われたらさすがにこたえるなあ。と心の中で悲しみに浸る。

すると、意外な答えが返ってきた。

「『○○○荘のペットな彼女』!!私も読んでたよ!!ってあれ?それ最新刊?」

本当に驚いた。まさか、彼女もラノベを読むような人だったのか。

そこからはラノベの話に火がついた。

お互いに好きな本の話だ。盛り上がって止まらない。話の内容はアニメから自費出版本にまで及んだ。

10分ほど話をしただろうか。楽しい時間とは存外早く過ぎる。

彼女が口を開いた。

「ああ、私これから用事があったんです。ではまた、」

…まずい、このままだと次いつ会うことができるか分からない。

考えるよりも先に体が動いていた。改めて声をかけてまで話をする用事も無いのに、夢中で彼女を追いかけていた。



彼女が見えてきた。

よかった、まだそんなに遠くに行ってはいなかった。

「すみませーん」

そう声をかけたとき、辺り一面が光に満ちあふれる。

僕は慌てて彼女を見る。

彼女の顔ははじめはいつものかわいい姿だった。

だが、見ていると少しずつ違和感を感じ始めた。かわいい彼女の顔がペリペリと剥け始めた。

気がつけば彼女はいつか見た地味目の女の子に変わっていた。

その瞬間僕は察した。

彼女もまた、僕と同じ能力の持ち主だったのだ。

僕に見られたことでひどく慌てている。ので、僕も同じ能力の持ち主であることを教えてあげよう。



彼女とは趣味が合う。きっと仲のよい友人になれるだろう。

そう思った。俺の口は自然に開いた。

「この姿に見覚えはないか?」

黒と見る世界
162111


人工芝のグラウンド







いつもの教室、いつもの座席。いつもと違うのは…。





俺はグラウンドに目を向けた。人工芝が敷かれている。ちょうど去年の今頃に敷かれた。授業の終わりを告げるチャイムが鳴ると同時にため息をついた。三年生で唯一の補欠である俺は、部活の時間が苦痛で仕方なかった。

「なんであいつがスタメンなんだよ。」

小声でぼやいた。

「え、何か言った?」

文子の声だ。文子はマネージャーをやっている。俺の気持ちに気づいているかは知らないが、最近妙に関わってくる。ちょっとうざい。

「何も言ってないけど。」

突き放すように言った。強く言いすぎたなと思ったが、訂正しなかった。

「ならいいけど、最近元気ないじゃん。」

「なんにもねぇよ。」

「本当に?」

「しつけぇなぁ!」

俺は軽く突き飛ばした。文子は後ろに倒れた。軽く頭を打ったらしい。俺は知らんふりをしてグラウンドに向かった。





私は最近元気のない晃一のことが気になっていた。つい気にしすぎてかまってしまう。悪い癖だ。晃一は幼馴染だが、私には何も話してくれない。かといって何かを話せる仲のいい友人もいない。晃一唯一の友達はサッカーと言ってもいいくらいだ。晃一がスタメンから外れてそろそろ一年になる。ちょうどあの人工芝と同じくらいだ。去年、人工芝が敷かれて初めての練習で足を取られて転んだ。その時に腕を折り、晃一は2週間練習に参加できなかった。ちょうどそのころ1年間留学に行っていた康平が帰ってきた。そこから晃一は変わっていった。人工芝での練習は、初日のけがのせいでおもいきりすることができない。康平は、海外で人工芝になれたのか、どんどん上達していく。ほかの仲間たちとの差もどんどん開いていった。一年生の頃からベンチにいるほどの実力のあった晃一だったがあの出来事が原因で三年生になってもベンチだった。それがどれほど彼を傷付けたのか、私にはわからない。でも、授業の終わりのチャイムのたびに、人工芝の敷かれたグラウンドを見てはため息をつく晃一を見ているのがつらかった。高校に入ってからサッカーを始めた康平がスタメンなのも気に食わないらしい。たまにぼやいている。聞こえていないふりをしているが、全部聞こえている。突き飛ばされたのは驚いたが、こういう扱いをされるのは慣れている。私は立ち上がり、人工芝の敷かれたグラウンドに向かった。





悪いことしたかな。いや、無駄に関わろうとしてくる文子が悪い。人工芝が目に入ってくる。1,2,3… 俺以外全員いるようだ。

「神田ぁ! なにしてんだ、おそいぞー!」

顧問の声だ、わかってるよ、言われなくても。俺は小走りで向かった。またなにやらうじうじ言われたらたまったもんじゃない。

「今日は次の試合のスタメンを発表する」

俺は耳を閉じた。どうせ呼ばれることはない。

「…以上11名だ。試合は3日後、今回の会場は初めて行くところだから分が悪い。しっかり準備していくぞ。」

かすかな期待をして聞いてはみたが。やはり俺の名前が呼ばれることはなかった。名前を言い終わったころに文子は来た。またなにか言われるんだろうなと思うと、イライラしてきた。今日はどこかに寄り道して帰ろうかな。文子はなにやらそわそわしてる。便所ならそこにあるだろ。これから練習が始まる。億劫だがうじうじ言われる方が面倒なので真剣にやってるふりをしている。引退も近い。もうすぐ終わりだと思うと少しは我慢できた。そうこうしているうちに後輩たちがボールを持ってきた。アップから始めるか。体が勝手に動き出した。





私が人工芝の敷かれたグラウンドに着いたのは、次の試合のスタメンが発表された後だった。かろうじて康平の名前だけは聞くことができたが、晃一が呼ばれたかどうかはわからない。晃一の表情から、今回も呼ばれていないだろうとは思うが、気になる。誰に聞こうかとうろうろしていると練習が始まった。マネージャーとしての仕事もあるので、後で聞こうと切り替えて道具を取りに走った。





晃一、お前、このままでいいのかよ。





試合当日、俺はなぜかいつもより早く起きた。試合に出るわけでもないのに。早く起きたが家にいても仕方がないので、いつもより早く家を出た。試合会場へは学校からバスが出る。毎度のことだ。なんで日曜日なのに制服を着て学校に行かなければいけないんだ、試合に出るわけでもないのに。俺はずっと思っていた。けがをして、スタメンから外れたあの日からずっと。練習の日も試合の日も、毎日思っていた。学校につき、人工芝のグラウンドへ向かう。ボールの音。こんな早くにだれだろう。近づいてみると康平がいた。康平は留学で人工芝になれたわけではなかった。毎日毎日ここで練習をしていたのか。俺は恥ずかしくなった。

「晃一、早いな。今日は頑張ろうな。」

俺はうつむきながら

「俺は出ねぇよ。頑張れよ康平。」

「何言ってんだよ、ベンチでもチームだろ。」

俺は何も言えなかった。見下されている気持がした。康平はそんな奴じゃないことも知っていたが、どうしてもそんな気がした。気まずくてその場を立ち去った。どこに行ったのか、何をしてたのかあまり覚えてないが、集合時刻まで戻らなかったことははっきり覚えていた。文子が心配そうにこちらを見ているが知らんぷりをする。バスの中では寝ることもできず、ただただ空を眺めていた。





 私が人工芝の敷かれたグラウンドに着いた時にはまだ晃一は来ていなかった。もしかしたら今日は来ないのかもしれないとも思った。ただ、遅刻ギリギリで来るのがいつもの晃一だ。少し待っていると晃一はやってきた。焦っている様子はない。遅刻しそうだった自覚はないのだろうか。なんだかいつもと違う気がした。そう思いながら見つめていても知らんぷり。いつもの晃一だ。バスは選手とマネージャーで席が離れているので何をしているのかは全く見えなかった。おそらく寝ているのだろうな、晃一はいつもそうだったから。





 「土だ。」康平が言った。試合会場のグラウンドは人工芝ではなく、土だった。去年までの学校のグラウンドと大きさや質も似ているように見える。まぁ、ベンチの俺には関係ないんだけどな。相手校が来た。聞いたことのある名前、強豪校だ。俺の学校もそれなりには強豪校だ。県大会ベスト8は常連と言ってもいい。ただ相手校は決勝までのこらない方が不思議なくらいの強豪校だ。かなり厳しい試合になるだろう。今回の大会はもともと強豪ぞろいの大会だが、こんなに早くにあたるなんて運が悪い。これが引退試合かもな、ベンチだけど。周りの連中は慣れないグラウンドにビビってる。対戦相手にビビれよ。たった1年土踏んでないだけじゃん。すぐ感覚取り戻すって。なんにせよ分が悪いな。そうこうしているうちに試合開始のホイッスルが鳴った。





「土か。」人工芝に慣れるために毎日暇があればグラウンドを踏み練習してきた。1年間晃一との差が顕著に出てしまった。あいつはおれの練習には気づいていなかった。必死に追いつきたくて、毎日努力してきた。ついに追い抜いておれがスタメンになった日、あいつは悔しそうな顔をしなかった。今でも覚えている。やっとの思いで追いついたのに、ライバルだと思っていたのに、あいつはおれをライバルだと思っていなかった。勝てない相手だと思っていた。それでもおれは負けたくなくて、練習を続けた。差は開いていく一方だったが、あいつがいつかおれの背を追いかけ始めたときに、堂々と待っていられるように。今日、おれはひさしぶりに土を踏む。少し緊張してきた。いつもと変わらぬチームメイト。試合開始のホイッスルが鳴った。





前半が終わった。相手は選手を変えながら3点取った。こちらはまだ点を取っていない。選手も消耗しきってる。この試合、1点とれればいい方じゃないだろうか。俺はそう思いながら後半開始を待っていた。なにやら顧問の声が聞こえる気がする。誰かを呼んでいるようだ。おい、呼ばれてるんだから返事しろよ。

「おい、神田! 聞こえてないのか? おい。」

俺はとっさには反応できなかった。まさか呼ばれるなんて思っていなかったからだ。間抜けな返事をした。

「木下がお前を出せと言ってきかないんだ。最近練習も怠っていたお前をだ。でも、あいつの言うことだから勝算があるのだろう。」

俺は驚いた。まさか康平がそんなことを言うなんて思ってもみなかった。俺は自信がない。

「いや、俺は今まで練習も手を抜いて…」

「それでも、木下はお前を見てそう言ったんだ、1年間のお前の様子を見て、そういったんだ。」

「でも…」

俺は顧問の言うことが全く理解できない。康平が仮に俺を出してくれと言ったとしても、俺を出そうとは思わないはずだ。それどころか毎度毎度ベンチにいる。なんでなんだろう。まったくわからない。でも、康平の期待だけは裏切りたくなかった。

「本当に康平が、俺を出せていったんですか。」

「ああ、木下が前半が終わってすぐに私のところへそう言いに来た。」

「なら…」

心は決まった。

「俺、出ます。ここ、土なんで、思いっきりプレーできます!」

俺はそう言って土のグラウンドにかけだしていった。





 後半が始まってすぐ、俺と晃一はパスを回しながら逆転ののろしを上げるために攻め込んだ。相手は格上なだけあって手ごわかった。だけど、後半はじまって10分。初めて点が入った。俺のアシストに晃一が見事に合わせてきた。やっぱり思ったとおりだ。こいつとなら日本一も狙えるんじゃないかな。そんな気がした。1点入れたら相手の猛攻が始まった。まだ2点差もある。相手は油断してくれない。晃一はきれいにスティールを決めた。そのまま走る。4人に追われている。ゴールは狙えない。そう思って追いかけていると足元にボールがあった。あいつはあの状況から俺にパスを出した。信じてくれているんだ。そんな気がした。俺はその期待を裏切ることなくシューと絵を決めた。あと1点で同点になる。俺は勝利を確信していた。





後半、俺は2本のシュートを決めた。康平も2本のシュートを決めた。結果は逆転勝利。俺らのチームはあの強豪校に勝ったのだった。こらえきれずにあふれ出した涙。誰にも見られたくはない。康平が寄ってくる、汗をぬぐうふりをして涙をふく。

「ありがとうでてくれて」

康平はそう言った。俺は康平が何を言っているのかすぐには理解できなかった。

「ありがとうよんでくれて」

絞りだした声で答える。俺たちは熱い抱擁を交わした。それを見ていた文子は涙を流していた。なんでお前も泣いてんだよ。心の中でつっこんだ。その日から俺もスタメンに戻ることができた。あの時シュートを決められたのは康平のアシストがあったからなのにな。それはあの場にいた二人にしかわからない。ただ、康平とずっとプレーがしたい、そう思った。バスで学校に戻り、人工芝の敷かれたグラウンドに出た。康平が呼んでいる。足が勝手に走り出していた。





清々しい朝、康平と自主練をしてから教室へ向かう。いつもの教室に向かう。いつもとは違う、晴れやかな気持ちを胸に。

「恋するウサギと不思議な池」
162112


不思議な逆さまの虹がかかる、『不思議な虹の森』。

なぜ虹が逆さまにかかっているのかは誰にもわかりません。



 この森にはには、あらゆる森から、いろいろな動物たちが訪れます。



 彼らは、他の森ならいがみ合う動物同士でも、不思議な虹の森の中では決して争いません。



 暴れん坊とみんなから恐れられている、アライグマでさえも、です。



 なぜなら、不思議な逆さまの虹が、みんなを穏やかな気持ちにさせてくれるからです。

 そして、もしこの森で誰かが争えば、この『逆さ虹の森』は消えてしまいます。





 そんな不思議な虹の森を訪れる動物たちの中に、一匹のウサギがおりました。

 彼女は、森の中に住む、お人好しのキツネに恋をしています。



 この森の外に住むキツネは乱暴と有名で、ウサギも何度もひどい目に遭ったものですが、

 不思議な虹の森に住む、お人好しのキツネはとても優しく紳士的で、

 ウサギがオンボロ橋の床板を踏み抜いて落ちそうになった時など、一番に駆けつけて、引っ張りあげてくれたほどです。





 ウサギは、けれども「ありがとう」というお礼も、「好きです」という愛の言葉も伝えたことなどありません。



 なぜなら……



 ウサギもキツネも、

 アライグマもリスも、

 クマもトリも、

 みーんな、

 森の動物たちはそれぞれの言葉で話し、同じ言葉ではないからです。





 ウサギの言葉で「愛しています」と伝えても、もしかしたらキツネには「大嫌い」と聞こえるかもしれません。





 でも、どうしても気持ちを伝えたいウサギは願い事をしようと決めました。



 ドングリを投げ込んで願い事をすると、叶うという噂がある、ドングリ池に。





「どうか森のみんなが同じ言葉を話しますように」

 と。





 さっそく、ウサギはドングリ池を探し始めました。

 なぜなら、同じ青の森にすむ仲間も、隣の緑の森にすむ仲間も、ドングリ池の場所を知らなかったからです。



 ウサギはまだ行ったことのない場所を、やみくもに駆け回りました。





 すると、美しい鳥の歌声が聞こえてきます。



 森で一番の歌声を持つ、コマドリの鳴き声です。



 その鳴き声につられるように進み続けると、やがて澄んだ美しい池のほとりに出ました。



「きれい。きっと、これがドングリ池だわ」



 ウサギは持っていた1番大きなドングリを、ぽちゃん、と池に投げ入れました。



「ドングリ池さん、どうか森のみんなが同じ言葉を話しますように」





 すると、どうでしょう。



 懸命に祈っているうちに、コマドリの歌声が、歌うような言葉に聞こえてきたではありませんか。







 今日も不思議な虹の森で歌うの

 空は晴れて

 空気は澄みわたり

 私の美しい声が遠くまで届くから



 さぁ、みんな聞いて

 私の歌を

 不思議な虹の森と歌う歌



 さぁ、みんな聞いて

 私の声を

 明日も明後日も

 ずっと森が穏やかであるように







「聞こえたわ、コマドリの声! 歌、言葉が! なんて素敵な歌なの!」



 ウサギはとっても嬉しくなって、あたりを跳ね飛び回りました。





 ああ、けれど、こうしてはいられません。

 なぜなら、ウサギは想いを伝えられるようになったと気づいたからです。



 あの時のありがとうと、大好きだという気持ちを届けなくては。



 ウサギは急いで走り出しました。

 キツネは、きっと大楠の木の下にいます。

 そこが彼の一番のお気に入りだから。



 ウサギは急いで走り出しました。

 もっともっと、と自らの足を急かしながら。

 こんなに走ったのは、いつ以来でしょうか。

 藍の森にすむオオカミに追われたときぐらいでしょうか。



 あの時も、心臓はバクバクと痛くて、張り裂けそうでした。

 けれども、今日の痛みは、何となく暖かく感じて心地がよいのです。





 やがて、大楠の木の近くに到着しました。

 やっぱりキツネは、思った通り、そこにいました。



 ですが、キツネはひとりではありませんでした。

 怖がりのクマと、知恵のあるフクロウと一緒に話し込んでいました。



「森がおかしい」

「種族の違うものの話がわかる」

「そうだ。さっきまでなら、こんな風にクマとキツネとが話しなんぞ、できなかった」



 ウサギは嬉しくなりました。

 森のみんなの言葉が、愛しいキツネの言葉がわかるからです。



 今すぐ飛び出したいけれど、我慢しました。

 まだ、三匹の話は続いていたからです。



「これはまずい。なぜ、こんなことになったのか」

 フクロウが羽で顔を覆い、ため息をつきました。



「ぼくは嬉しいよ。キツネと話をしてみたかったから」

「私もだよ、クマ君。この森に住むものはみんな、そう思うものだ」

 キツネとクマの言葉に、ウサギがうんうんと頷きます。



 しかし、フクロウはゆっくりと首を振りました。

「けれどもダメだ。この森を訪れるものは、この森にすむものほど穏やかじゃないんだ。もしもちょっとしたきっかけで”口喧嘩”が起こりでもしたら……」



 キツネとクマは息を飲みました。







「『不思議な虹の森』が消える」









 ウサギは、背筋がゾッと寒くなりました。



 この、穏やかで優しい、不思議な虹の森が消える? 



 しかも、私のの願いのせいで…? 



「そんな、私、、私は、、、、」







 だけども、追い討ちをかけるようにウサギに、もっと残酷な現実が襲いました。







「ぼく、黄の森のパパとママに知らせてくるよ! 不思議な虹の森にむやみに入らないように、みんなに知らせてって」

 クマが立ち上がって、黄の森に体を向けました。

 それを見たキツネは頷くと、



「私も赤の森の仲間に伝えよう。特にアライグマに。彼と藍の森のオオカミが出遇いでもしたらと思うと! ああ、妻と娘が心配だ!」



 と、言いました。







 ウサギは、





 全身の血がなくなってしまったような気がしました。



 もともと白い毛が、さらに白くなって、透明になって消えてしまうかと思いました。





 キツネには、愛する誰かがすでにいたのだと、はじめて知りました。





 ウサギはガクガク震えました。

 大粒の涙が溢れだして、ボタボタと落ちましたが、決して拭いなどしませんでした。







 大楠の木の下には、もう誰もいませんでした。





 ウサギは、震える体を無理やり走らせました。



 転がるように。



 逃げるように。



 一目散に駆け出して。





 やがて目にひとつの影を映し出しました。







「待って、待ってください!」



 弾む息を、震える喉から絞り出して、掠れたような音で呼び掛けます。



 影は、止まってくれました。







「……なんだい、私は急いでいるんだが」



 キツネです。



 赤の森に駆け出していたキツネを、ウサギは呼び止めて、なんとか息を整えようとしました。



「お……お伝え……お伝えしたいことが、あります」



 不審げに、目を細めるキツネの表情を、ウサギは初めて見ました。



 キツネはいつも、穏やかに笑っていたものです。



 不機嫌そうにふぁさふぁさと、揺らぐ尻尾を見たのも初めてです。



 こんなのを見たくて、私は願いを言ったんじゃない。



 ウサギはまた、涙が溢れそうになるのを堪えました。





 言わなきゃ、どうしても言わなきゃ。

 そうでなければどうして、こんな思いまでして、ここに来たのか。



 ウサギは、ゴクンと喉を鳴らしました。





「あの」



 首をかしげる不審げなキツネ。





「森のみんなが同じ言葉を話せるようにと、願い事をしたのは私です」





 次の瞬間、ウサギは地面に引き倒され、キツネに喉笛を切り裂かれんほどに睨み付けられました。



「なんてことをしてくれた! お前のせいで、この森が消えるのかもしれないんだぞ!」



 ウサギはポロポロと涙を溢しました。

 自分を引き倒す、そのキツネの姿は以前自分を追いかけたキツネたちより余程恐ろしい姿をしていたからです。



 けれども、ウサギはちっとも怖くありませんでした。

 なぜか、そんな姿のキツネさえ、愛おしくてたまらなかったのです。





「キツネさん、私、あなたが好きです」





 ウサギは言いました。



「だから、お話ししてみたくて願い事をしました。こんなことになるなんて思いませんでした。ごめんなさい、ごめんなさい」



 ウサギは、もう喉を切り裂かれてしんでもいい、と思い、ギュッと目をつぶりました。



 けれども、痛みはやってこず、代わりに体にのし掛かっていた重みが消えていきました。



 目を開けたウサギの傍らで、キツネはため息をついています。





「はぁ、私はなんてお人好しなんだろう。そんな風にされて、襲ったりできるわけがないじゃないか。それに」



 キツネは森を見上げます。



「私の手で不思議な虹の森を消し去るところだった。ここは、赤の森との境。ギリギリ範囲外だったようだねぇ」



 決まり悪げに頭を掻くキツネに、ウサギは呆然としました。



「言っておくが、私には家族がいる」

「はい、ついさっき知りました」



 キツネはさらに決まり悪気な顔をしましたが、やがて手を差し出すと、ウサギの手を取り、引っ張りあげました。

 ウサギはオンボロ橋で助けられたことを思い出して、ほほを赤らめました。





「ただのウサギの小さな願いが、こんな風に叶うわけがない。君、他に何かしたね?」



 ウサギは頷いて、ドングリ池の話をします。



「ドングリ池を見つけたのか。けれど、単にドングリを投げ入れただけじゃ、願いは叶わないと聞いたけど……」



 キツネは首をかしげています。

 ウサギも、一緒にかしげました。

 ウサギはドングリを投げ込んで願いを言っただけ。他に何も特別なことはしていません。



「これは、フクロウに聞こう。確か、森中のトリたちに呼びかけをしているはずだ」



 行こう、というキツネのあとを、戸惑いながらウサギは追いました。







 トリたちに聞きながら、フクロウのもとにたどり着くと、呆れたようにドングリ池のことを教えてくれました。



「ドングリ池の願いを叶えるには、心の中から強く願う思いと、特別なドングリが必要だ。どんなドングリだったか覚えているかな?」



 ウサギはうんうん唸りながら思い出します。



「見つけた中で、一番大きいのよ。帽子が緑で、ドングリが茶色いの。ほどよく長細い、美味しそうなものだったわ」



 それを聞いて、キツネとフクロウは考え込みます。



「そんなドングリが、すぐ見つかるだろうか」

「トリたちを総動員して探せば、と思うが、すぐには難しかろう」



 キツネとフクロウが首を捻り、フクロウは捻りすぎて一回転させてしまいました。

 しかし、おかげで名案が出たようです。



「ふむ。ドングリのことはリスに。彼女に聞いてみよう。きっと思い当たる何かがあるはずだ」



 それを聞いて、ウサギとキツネは目をぱちくりさせました。



「あの、イタズラ好きのリスですか?」

「素直に協力してくれますかね?」



 確かにイタズラばかりのリスが大好物のドングリを寄越すとは思えません。

 けれどもフクロウは自信たっぷりに言いました。

「きっと、こう言って協力してくれるさ。「不思議な虹の森がなくなったら、イタズラしても逃げる場所がなくなるじゃないの!」ってね」









 キツネとウサギはドングリ池の前にやって来ました。

 キツネの手には、あのときウサギが持っていたのとそっくり同じドングリが握られています。

 リスの秘蔵のドングリは、きっと森を元通りにしてくれるに違いありません。



 ウサギは、池のほとりから一歩、うしろに下がりました。

 そして、キツネがドングリを投げる前にそっと手を合わせて、願い事が叶うようにと祈りました。



「ウサギさん」



 キツネが言葉をかけてきます。



「君にひどいことをした。すまなかった」



 ウサギは目をぱちくりさせて、首をかしげました。

「何か、されたでしょうか? 私はいろいろご迷惑をかけましたが」



 キツネはくすりと笑って、ぽーんと池にドングリを投げ入れました。

 ぽちゃん、と音を立ててドングリが沈んでいきます。



 そこにキツネの穏やかな声が、染み込むように響き渡りました。



「私は『不思議な虹の森』が好きです。穏やかで優しい森。同じ言葉を話さない者同士でも、笑って暮らせる、この森が好きです。

 話ができれば、もっと素敵な出会いもあるかもしれない。けれど、余計な争いも、呼ぶかもしれない。

 今はどちらが正しいのかわからないけれど、ただまだこの穏やかな時間が続いてほしい。



 だから、お願いします。

 ドングリ池よ、この森を元通りに戻してください」





 ウサギはその声が、池に吸い込まれるように消えていくのを感じました。

 どこか、遠くからトリの鳴き声がします。



「あの…」



 しばらくしてから、ウサギはキツネに声をかけました。

 キツネは振り向いて、何かを言いました。



 でも、何と言ったのか、ウサギにはわかりませんでした。



 けれどもキツネは軟らかくにっこりと笑ったので、ウサギは同じようににっこりと笑ったのです。

 ウサギは、言葉がなくても、心が通じることを知りました。





 そして、また、森の動物たちはみんなそれぞれの言葉で話しはじめました。















 不思議な逆さまの虹がかかる、『不思議な虹の森』。



 そこには、今日も様々な森から、いろんな動物たちが訪れます。

うそつきな神さま
162121


あるところに、盲目で 有名な ピアニストが いました。
「ああ、もし目が見えたら、楽譜が 読めて、もっと たくさんの 曲が 弾けて、もっと 有名に なれるのになあ」

「それなら、僕の 目を あげよう」
そう言って、とつぜん 現れた 神さまは、彼の目を 有名な ピアニストに あげました。
「大丈夫、僕は不死身だから、すぐに回復するさ」

?

あるところに、難聴の 裕福な 女性が いました。
「ああ、もし耳が聞こえたら、もっと たくさんの いい話を 知ることができて、もっとたくさんの お金を 手に入れられるのになあ」

「それなら、僕の 耳を あげよう」
そう言って、また現れた 神さまは、彼の耳を 裕福な 女性に あげました。
「大丈夫、僕は不死身だから、すぐに回復するさ」

?

あるところに、喋れない とても頭のいい 男が いました。
ああ、もし喋れたら、僕の 考えたことを みんなに 教えて あげられるのになあ。

「それなら、僕の 声を あげよう。大丈夫、僕は不死身だから、すぐに回復するさ」
そう言って、またまた現れた 神さまは、彼の声を、とても頭のいい男に あげてしまいました。

?
神さまは、神さまなのに、とてもうそつきでした。
神さまは、不死身ですが、けがを 治すことなんて できなかったのです。
小さなけがなら、治りますが、なくなった 耳や目や声を 治すことなんて 神さまでも できなかったのです。

神さまの世界は、真っ暗で、なにも聞こえなくなりました。

でも、僕は 寂しくないよ。だって、あげた目が 見た光景を、僕は知ることができるから。
僕は かわいそうではないよ。だって、あげた耳が 聞いた音を、僕は知ることができるから。
僕は 幸せだよ。だって、あげた声が 何を伝えたのかを 知ることができるから。
僕はきっと とても いいことを したんだ。

神さまは、とても優しくて、とてもうそつきでした。

?

あの有名な ピアニストは 実は あまり上手な ピアニストでは ありませんでした。
「目が見えないから、すごかったのに、目が見える今は、あまり上手じゃないから、ちがうひとの 演奏を 聞きに行こう」
そう言って、お客さんたちは 離れていってしまいました。
「目なんて 見えなければ 良かったのに」
ピアニストは とても悲しんで 神さまの目を つぶしてしまいました。

あの裕福な 女性は いい話に だまされて いつの間にか 借金だらけに なっていました。
「耳さえ 聞こえなければ こんな話に だまされることなんて なかったはずなのに」
女性は とても悲しんで 神さまの耳を 切り落としてしまいました。

あの頭のいい男は 頭の良さをいかして 詐欺師になっていました。彼に だまされた人たちは ついに 彼をつかまえてしまいました。
「こいつに、だまされてしまう ひとが もういなくなるように、舌を 引っこ抜いてしまえ」
怒り狂ったひとたちは 彼の舌を 抜いてしまいました。
頭のいい男は 神さまの声を 失ってしまいました。

?

僕は寂しくないよ。僕はかわいそうではないよ。僕は幸せだよ。
だって、きっと、僕はいいことを したんだよね。

神さまは とても うそつきでした。
うそつきな 神さまは 真っ暗な 世界で 眠っています。
神さまの 顔に ぽっかりあいた 2つの穴からは 少しだけ 水が 溢れていました。





神さまはとても優しくてうそつきです。

神さまは、うそをついているのかもしれません。

あげた目が 見た光景を、神さまはは知ることができるのでしょうか。
あげた耳が 聞いた音を、神さまはは知ることができるのでしょうか。
あげた声が 何を伝えたのかを、 神さまは知ることができるのでしょうか。



それは 神さまにしかわかりません。



神さまは今日もまだ、眠ったままです。



幸せ分配屋
162123


 ―現在(神田)―

 携帯の着信音が鳴り、びくりとする。ディスプレイを確認すると、「前田」と表示されている。それなりに世話になっている男からだ。仕事中のため作業を中断してまで出たくはなかったが、ずっと着信音を鳴らし続けるわけにはいかないし、恐らくそれほど長くはならないと思ったので出ることにした。

「もしもし、神田さん」

「前田さん、今仕事中なんだが」

「ああ、ごめんね。依頼された件についてなんだけど後の方がいいかい」

 依頼と聞いて前田に調査を頼んでいたことを思い出した。

「いや、大丈夫だ。今聞かせてもらいたい」

 向こうで、紙をめくる音が聞こえる。見回して人がいないことを確認する。

「ちょうど半月前だったかな、三人ともだったよ。警察も事故って判断したらしいし、間違いないだろうね。まあ、頼まれたことしか調べてないから、詳しいことはよくわからないけど。あともう五万入れてもらえると頑張るよ」

まだ紙をめくる音が続いている。おそらく入金履歴かなにかを眺めているのだろう。これから振り込まれる金と合わせて、いくらになるか計算しているのだろう。

「いや、大丈夫だ。」

「だけど神田さんも色々考えることが多くて大変だね」

「別に趣味みたいなもんだからそれほどだよ。とりあえず助かった。代金は振り込んでおく」

 彼に依頼した内容と少し前の仕事の記憶とを結びつける。大変といえばそうなのかもしれないが、別にそれが苦にはなったことがなかったのでそのまま伝えた。

「僕も最近、神田さんの件と同時に一つ仕事していてね……大変だったんだよ。どう、神田さん僕のとこでバイトしない?」

「そういえば、浮気調査がどうとか言っていたな。まあ調べるのは慣れているが、人に頼まれて働くのは性に合わないんだ」

通話終了のボタンを押して中断していた仕事に戻る。

 

ガチャリ。

 心地よい音が耳に響き思わず顔が綻ぶ。ドアノブを静かに捻って扉を開けると、異常にひんやりとした空気が流れてきた。

 十二階建てのマンションの七階707の部屋からは、まるで別世界のような冷えた空気が暑すぎる外に吹き出てきた。空調を動かしっぱなしなのか、それとも……この時間に住人がいないことは確認済みであったが、警戒から体がこわばる。玄関に靴が散らばっている。二人暮らしであったはずだが、靴の数だけ見ると大家族である。

人の気配は感じられない。これほど空調をかけて出ていったのか。金持ちの思考は全くもって分からない。

中に入ると、ブランド物の靴やカバン、衣類が床に散乱しており、すぐそばには雑に開けられた箱や紙袋が置かれている。口を開いた入れ物から出されたそれらの姿は、まるで自由を求めた命からがらの脱獄である。

 しかし悲しきかな、これらは神より授かった命(めい)を全うすることなく自らの命をただ忘れられながら削ることになる。

ここの住人は元々三十代前半の夫婦の二人暮らし。旦那は広告代理店勤め、妻はキャバクラで働いており、生活水準は非常に高い。しかし旦那の帰ってこない日が多く、ほとんど妻の一人暮らし状態である。金があれば愛はなくなるのか、調べてみると旦那は別の女と会っていた。妻がそれに気づいているかはさておき、妻は妻で、店の客と思われる別の若い男とよろしくやっている。いわゆるダブル不倫だ。お互いさまというところか。

妻の買い物の内容や量、夫妻の互いの行動から考えるに、この夫婦という名前を与えられた男女しかここには住んでいない。まあ、もし私がこの家の子どもとして生まれたならば間違いなく出て行くな。離乳食の前には出て行く。

しかし、みれば見るほど三十代前半のものとは思えない贅沢な生活だ。あまりに贅沢すぎる生活だ。

こういう生活を見ると「他の人にも分けなければ不公平だ」と、私の中の共産主義の精神が叫んでしまう。その心の叫びを鎮めるために、まずは、この私に分けてもらうことにするのだ。

扉を閉めて靴を履き替える。廊下の先の開けっ放しにされたドアを眺める。冷気の出どころはどうやらこの先である。嫌な感覚にとらわれながらも、足を動かせる。

先ほど前田から聞いた情報が頭から離れずにいる。





―二週間前(神田)―

一つ前の仕事が非常に早く終わった。久しぶりにひと月で二軒回れそうだ。どこに入ろうかと品定めしていると、立派な一戸建ての木造建築が目に飛び込んできた。表札に「小森」と書かれたその家は、人の侵入を拒むような雰囲気がある。だが、観察すれば特に問題ない。結局は「家」だ。

観察していると小森家には全く人の出入りがなかった。二日間来客が入ることもないし、ましてや住人が買い物に出かけることもない。ただ存在はしているらしく、家の前を通る人間はちらちらと見ている。どうも怪しいにおいがしてくる。

「これは明日訪問観察しなければならないか……制服を持ってこないといけないな」



翌日、愛車のハイゼットカーゴを路上駐車して小森家の前まで来た。とりあえず水道管工事の連絡という体(てい)で小森家のインターホンを鳴らす。服は以前干されていたのをいただいたものだ。

庭を覗くとどうも手入れがされていないようで、雑草が地面を覆いつくしている。建物に目をやると、窓はブラインドで遮られており中の様子は見ることができない。

それにしても全く住人が出てこない。いくら何でも遅すぎる。カメラから見て怪しいと思って出てこないのか……それならこの訪問は大失敗なのだが、見回してもカメラらしき物体はない。

「とりあえず中に入るか」

中に入ろうと、門を押してみる。が、ビクともしない。ため息をつく。

跳び越えることにした。門に手をかけて跨ぐようにして門の内に跳んで入る。敷地内に入ってから、辺りを見回すと通行人もいなかったので安心して歩を進めた。玄関が正面に見える位置まで来た。玄関の鍵は意外にもノーマルな型で、ものの二分もあれば開けられるものだった。

だが、さすがに情報がない状態で正面から入るわけにはいかない。右に回ると窓を見つけたが、やはりブラインドに遮られていて中は見えない。期待はしていなかったが、がっかりだ。

同じように反時計回りに歩きながら家の様子をうかがっていると、ちょうど玄関の反対側に来た辺りで少し高い位置にまた窓を見つけた。よく見るとブラインドもカーテンもなく、中の様子が覗けそうだ。近づいて見ると、窓は背伸びをしても届きそうになかったが、台かなにか乗ることができるものがあれば覗けそうな位置にある。周りを見ると、ビール瓶のケースが転がっていたので中を空にして乗った。

物置部屋であろうか、何やらごちゃごちゃとしており、奥には出入口が見える。

さすがに開かないだろうと思ったが、予想はうれしい方向に裏切られた。窓を引くと、軽やかな音を立てて開いた。少しここから様子をうかがってみるとする。

 覗いていると、住人の話し声が聞こえてきた。

「留守じゃないのか」

 もし正面の玄関から入っていたらと想像してみると、なかなか間抜けな画が出来上がり笑ってしまう。

じっくり話し声を聞いていると、どうやらそれは男の声であり、歳のいった老人のしゃがれた声であることが分かった。どうやらこの部屋と住人のいる部屋とは遠くないらしい。

声にはところどころ嗚咽が混じっている。

「まだ泣くようなことはしていないんだがな」

老人の嗚咽の原因を疑問に思っていると、足音が聞こえてきた。向こうから聞える男の声の大きさは変わっていない。ということはもう一人住んでいるのか。さしずめ妻あたりだろう。

足音が徐々に大きくなってきた。こちらに近づいてきているように思い、ほんの隙間を空けて窓を閉めた。ぎりぎり部屋を覗けるくらいに体を隠して、奥の出入口をじっと見つめる。すると、顔に生気の宿っていない老婆がふらふらした足取りで部屋に入ってきた。一目で分かる異常さだ。

「ここかい、ユウト?……あれ、ここにもいないのかい」

老婆はぼそぼそと「ユウト」と繰り返しながら、物置部屋を見回している。がさがさとそこら中を漁っては、何かを探している。

「もうやめろ!何べん言ったらわかるんだ!」

力強い怒鳴り声が向こうの部屋から飛んできた。それを聞いても老婆はぽかんとしており、部屋を出るとまた「ユウト」と繰り返しながら歩き始めた。

「頼むからもうやめてくれ……」

今度は力のない声だった。

嗚咽交じりに何かを話す旦那と明らかに異常な妻……さすがにおかしい。旦那の会社が倒産したのか、一方の介護にもう片方が疲れてしまったのか、それとも借金か。普通ならそう考えるが、どうにもあの「ユウト」というおそらく人の名前が引っ掛かる。

すでに老夫婦への疑問で頭がいっぱいになっていた。これからどれほど居留守を決め込むかは分からないが、しばらくお邪魔させてもらえるとは到底思えない。しかし気になる。

普通ならここで仕事は終えて次の仕事場を探すが、この家への興味は尽きない。特例である。



門を飛び越して、携帯の連絡先から「前田」の文字を探す。三回目のコールで前田は出てきた。

「どうしたの、神田さん。浮気調査?」

「なんだそれは」

 訳が分からず思わずむっとする。

「いやね、今さっき浮気調査の依頼を受けてさ」

「そんなことざらにあるだろう」

「いや、依頼者がヒステリック気味というかね、あれは異常だね、うん、異常女さ」

 「異常」という言葉に自分の用件を思い出す。

「それは別にいいとして、調べてもらいたいことがあるんだが」

「いくら分?」

 真っ先に金の話をするのは相変わらず汚いが、それだけ信頼できる証拠だ。すぐに代金の話をするのはどんな仕事もやり、すぐに取り掛かれる証であり、金によって仕事の質を変えられるのは力があることの証である。慣れてしまえば、ありがたい限りである。

「五万分で頼む」

 名前に住所など基本情報を伝え、依頼内容を伝える。

「また変なことに興味持ったね」

「意外に色々考える職業なんでね」

「また終わったら連絡するよ」

 携帯をポケットにしまい、車に乗り込む。もしものために、別の一軒も探しておこう。



―現在(神田)―

 廊下を進むと左右に向かい合ったドアがあった。左手は便所だったので、右はさしずめ浴室だろう。一応、帰りにでも確かめてみるか。

 開けっ放しにされたドアを通ってリビングに入ると、やはりかなり冷えていた。別に薄着だったわけではないが、それでももう一枚羽織りたいと思うほどだ。

 部屋の中を見回すと、ひどく散らかっている。服は脱ぎ散らかされ、洗濯物はアイロンもかけずに山のように積まれている。食器は洗いもしていない。加えて、部屋中に鼻の感覚がおかしくなりそうな程に香水のにおいがする。ほとんど別居状態のようなものなら仕方ないのかもしれないが、もしも自分に妻がいて、これだったら、と思うとぞっとする。

時間も鼻も限界もあるので、早速金庫を探す。相場寝室だろうと思い、リビングを見渡してみると右の部屋に大きなツインベッドの置かれた部屋を見つけ、一直線に向かう。

部屋の中はより一層香水のにおいが充満している。早く見つけて出ていきたい。クローゼットを躊躇なく開けると、かなり立派な金庫がそこにあった。その立派さが中にあるものの大切さを物語っている。

道具をカバンから出して、早速始める。金庫は立派だが、結局はダイヤル式。私の方が立派だ。音を聞きながらダイヤルを回すと、すぐに開いた音がした。この瞬間の喜びは何物にも代えられない。

金庫を開くと旦那の仕事の資料だろうか、リストのようなものが束になって入っていた。欲しい人間にはかなりの値で売れるのかもしれない。が、生憎私が用のあるのは「別の」紙だ。

「もっと別の物があるだろ」丁寧な手つきで中を探る。

 目当ての物を見つけた。カタカナで「ミヤウチ トモユキ」と書かれている。旦那の通帳か家庭の通帳かは分からなかったが、中身を開くと家庭用であると思われる額が入っていた。やはりこの家には分配の義務がある。

 一枚紙が落ちた。見ると四桁の数字がメモされていた。

 恐らく通帳の暗証番号を覚えていないのだろう。通帳に旦那の名前が書かれているところからも大体想像できる。それにしても、ではあるが。

「さすがに不用心だろ」その紙をポケットに突っ込む。

 金庫の中を元に戻し、丁寧に閉めて立ち上がる。廊下を通りぬけるときに便所の向かいのドアを確認していなかったことを思い出した。

 どうせ大したものもないだろうが、仕事も済んだので確認してみることにした。もしかすると誰かいるかもしれないと思い、一応用心しながらドアを開けると洗面所になっており、もちろん誰もいなかった。棚には化粧水やら乳液、正体不明の謎のオイルやら、恐らく美容に関するものばかりがお世辞にも綺麗とは言えない状態で並べられている。

右を見るとまたドアがある。浴室だろう。白いタイル張りの壁が広がっており、広い浴槽には薄橙色の物体が転がっていた。ぎょっとして固まっていると、その物体はこちらに顔を向けてきた。いや、もともと向いていたのかもしれない。

その薄橙の物体、もとい裸の赤ん坊は細い腕を胸の中で抱いて浴槽でうずくまっている。あの夫婦の子どもなのか、ならばどうしてこんなところにいるのか、泣きはしないか、泣いたら非常に面倒ではないか、あまりに細くないか、さまざまな疑問が浮かんできた。

一度落ち着くために浴室の天井を仰ぎ、そしてもう一度赤ん坊の方の方を向いた。赤ん坊は、こちらを向いたままだ。「早く助けろ」と言っているのか、「さっさと出て行け」と言っているのか、とにかくじっとこちらを見つめていた。泣きもしない。それが逆に自分の運命を知って望みも何もかも捨てているようにすら思える。

 一体どうしようか。こういうことはさすがに今までなかった。これまでしてきた仕事を思い出してどうするべきか考えてみる。

 「あっ」

一つ“win-win”の形、いや正確には“win-win-lose”の形に持っていくことができる。

 赤ん坊は泣きもせずに、ただこちらを見つめている。





―現在(宮内真理)―

すっかり暗くなってしまった。もっと早くに帰ってくるつもりだったのに。

鍵を開けて、玄関に入る。ハイヒールを脱ぎ捨て、カバンを床に投げる。廊下を歩きながら、胸元のざっくりと開いたワンピースを脱ぎ、リビングの椅子に掛ける。

洗面所に行き、下着姿で手を洗う。鼻歌交じりに自分の姿を眺め、自分の美が維持されていることに安堵する。今日過ごした男は羽振りの良い男であったため、それも加えて気分は非常に良い。

「あ、あれ見ないと」

楽しいひと時が泥に汚れる感覚が起こり、鼻歌が思わず止まる。嫌々ながらも、風呂場に向かう。

産みたいわけではなかったが、あの男が「子どもが欲しい」って言い続けるから仕方なしに産んだようなものだった。なのにあいつは他所で女を作って、子育てにも家事にも関わろうとしない。終いには嘘までついて女と泊まる。全て知っている。探偵に依頼してあいつの行動は全て知っている。その腹いせから、仕方なくしているのだ。

「一応、確認はしとかないとね」

ドアを開けると、白い壁が目の前に飛び込んできた。その白く美しい壁には毎度感動する。

「この感動もあれを見ると萎えちゃうのよね」思いながら浴槽に目を移す。空っぽであった。

「え、いないじゃん」

浴室を見回してもどこにもいない。移した覚えはないが、洗面所にも廊下にも便所にも、リビングにも寝室も探す。やはりいない。家中探し回っても見つからない。今朝出るときは確かにいたはずなのに、なんで。どこに行った。いや、どこにも行けないはずよ。

しばらく焦っていたものの、次第に落ち着いてきた。別の考えが浮かんだ。

「まあ、どうせ処分に困っていたし……いいか」

 「あれ」がいない焦りと「あれ」を処分する悩みとが同時に消し飛び、思わず鼻歌を歌ってしまう。さっきはどこまで歌ってたっけ。心の荷が下りたような感覚に見舞われる。が、数秒後には再び鼻歌は止まり、心にはさらに大きな焦りが現れた。

「あいつ、どうやってどっか行ったの」

 あんな状態で歩けるわけない。そもそも年齢的に考えて無理でしょ。じゃあ、誰か入ってきたの……誰が?

 携帯電話を夫に発信しながら握りしめる。もう一方の手は、武器になりそうなものを探す。シンクに包丁が置かれていたのでそれを握って身構える。体は震えている。

「誰?誰?一体誰が入ったのよ!」

 携帯はコールし続けている。





―現在(神田)―

愛車のハイゼットカーゴから、降りる。門を飛び越える。時刻は午後十時ということもあり、通行人もいない。今回も直進して玄関まで行き、静かに解錠を開始する。安易なタイプの鍵のため、それほど時間もかからない。ものの二分で解錠は終わった。

扉を静かに開くと、ここからでもしゃがれた声が聞こえてくる。玄関から声の方をゆっくり覗くと、痩せた老人が背中を小さくして仏壇に手を合わせていた。仏壇には三枚写真が立てられていた。いったい一日どれくらいの間、ああしているのか。

老婆の姿は見えないが、またふらふらとさまよっているかもしれない。何度かあの窓から覗いたがこの時間でもよく歩き回っていた。ここもじきに通るだろう。

眠っているのを起こさないように、毛布に包まれたままそっと床に置く。カバンから手紙を取り出して赤ん坊の胸に抱かせ、養育費と書いた封筒をその隣に置く。

「養育費にしてはあまりに少ないけどな」

回れ右して玄関から出る。門を跳び越えて、ハイゼットカーゴに乗りエンジンをかける。

次はどこから幸せをいただこうか、品定めをしながら走り出した。





―現在(小森家)―

「ユウト……ユウト……」

「やめてくれ……」

「ユウト……あぁ、ユウトが帰ってきた。帰ってきたよ」

「悪い冗談は、もういい加減によせ!」

旦那が声を荒げて玄関に飛び出すと、妻が赤ん坊を抱いている。

「おい、その子どうしたんだ」

「ユウトが帰ってきた。えらく小さくなってしまったけど帰ってきた」

 旦那が問いかけても、妻は上の空で赤ん坊を抱き揺らしている。妻の足元に手紙と封筒が落ちている。旦那はそれらを拾うと、まず手紙を開けた。

「幸あれ」三文字だけしか書かれていない。

 怪訝に思いながら封筒を開けると、札束が入っている。警察に連絡だ、とは思ったが赤ん坊の痩せ方を見て病院が先だと考える。

「病院に連絡する」

届いているのかいないのかはさておき、孫の名前を別の赤ん坊に呼び続ける妻に伝えて、固定電話のある部屋へ向かう。

赤ん坊がか弱く泣いている。妻は両手にその子を抱いて揺らし続けている。

「誰かが幸せをくださったんだね」

『どうでもいい』
162124


 男はエリートサラリーマンだった。仕事に生きがいを感じ、毎日夜遅くまで仕事をしていた。一人暮らしのため家に帰ったからといって、奥さんが温かい料理を作って待っていてくれるはずもない。もっとも、今時夫が家に帰ったからといって温かい料理を作って妻が待っているというのは幻想だろう。

「冷めていてもいいからご飯を作っておいてください。お願いします」

というスタンスの夫が多いことは安易に想像できる。男は妻や子どもは仕事に邪魔なものだと考えていたため、結婚したいと思ったこともなかった。ただ、なぜか女性にはもてた。ある日彼女に、

「私と仕事とどっちが大事なの」

と聞かれたことがあった。ここで気の利く男性なら、

「君のことが大切だから、頑張って仕事をして、君に楽をさせてあげたいと思っているんだよ」

ときざな言葉のひとつでもかけておけばいいものを男は、

「仕事に決まっているじゃないか」

と言うから具合が悪い。そうして男は振られるのだ。上司は全員男であるため、職場では上司の機嫌を取りつつうまくやっている。女性が社会進出して女性の上司が現れれば、そうも言っていられなくなるだろう。そんな事はまだまだ先の事だと男はいっこうに気にしてはいないが。

 男には妻や子どもはいないが、愛してやまない飼い犬が一匹いた。仕事帰りに拾ったのだ。醜い姿をした犬だった。最初は無視していたが毎日同じ場所にいて男がそこを通ると必ず目が合う。次第に愛着がわいてきて家に連れて帰った。首輪はしていなかったので飼い犬ではないのだろう。体中泥まみれだったためまず風呂に入れてみると、醜い顔という点では違いはないが、なんとなく凜々しい姿をしている。これが色眼鏡というやつだろう。一人暮らしが犬を飼うと結婚できなくなるなんて言うが、男には関係のないことだ。男は犬に名前をつけた。その名も権三郎。人が聞いたら思わず吹き出してしまうような名前だ。由来は好きな時代劇の登場人物。



 毎日、男は懸命に働いていたがある日、徹夜続きで注意が散漫になっていたため、間違って取引先のデータを消去してしまった。「眠気が覚めてよかったね」なんて馬鹿な考えが男の脳裏をよぎるが後の祭り。上司に報告すれば、怒られて減給処分程度で済んだのかもしれないが、男はそれをしなかった。もともとプライドの高い性格のため、自分で何とかしようとした。しかし、それが取引先にばれてしまい、上司にも知られてしまった。こういうとき、人間というものはつくづく冷たい生き物だと思う。一生懸命働いてきた頼れる部下をひとつのミスで解雇してしまうのだから。もっとも、会社の方は取引先に見限られかなりの損害を受けたのだから、男にばかり同情するのもどうかと思うが。

 

 というわけで、男はフリーターになった。社会から自分だけ疎外された気分だ。平日の昼間に外出してみると町は人で賑わっている。人々は皆幸せそうだ。もっとも、町を行き交う人々が幸せか幸せじゃないかを考えたり、観察をしたりする気も余裕も男は持っていないのだが。

こういうときに、誰か頼れる人がいれば、男の沈んだ気持ちも少しはましになるのだろうが、男にはそういう人物はいない。結婚していないため妻や子どもがいないのはもちろんだが、両親も男が幼いときに交通事故で死んでしまった。親戚に引き取られ育てられたが虐待され、高校を卒業するとすぐに家を出た。それからは連絡をしたことがないし、したくもない。会社に損害を与えたため、男は会社では犯罪者のようなものだ。とても同僚を頼ることもできない。学生時代の友人にはこんな情けない姿を見せたくない。プライドの高い彼がそんなことを潔しとするはずがなかった。自分に絶望し死にたいと考えるようになった。

 それでも男は死ねなかった。男が死ねば権三郎は生きてはいけない。だが、ある日権三郎は病気になってしまう。仕事のない男にとって権三郎を動物病院に連れて行く事は決して簡単な事ではないが、男にとってその程度の出費はどうって事はなかった。

 動物病院で知らされたのは、権三郎は原因不明の病で手の施しようがないということだった。その後、大きな動物病院でも同じことを言われた。万策尽きた男は仕方なく権三郎を家へ連れて帰り、最期を看取ることにした。

「ごめんな。俺がもっと早くにお前の異変に気づいてさえいれば、お前は助かったかもしれない。本当にごめん。俺なんかに拾われなければ、お前は病気にならなかったかもしれないのに」

 それからまもなく権三郎は息を引き取った。それからというもの、男は抜け殻のようになってしまった。もう男に生きている理由はない。

「早く死にたい」



 それから男はどうすれば死ぬことができるか調べるようになった。死ぬ方法ならいくらでもある。ビルから飛び降りればいいし、手首や首をナイフで切ってもいい。首を吊っても死ねるだろう。電車に飛び込んで、周囲に迷惑をかけて死ぬのもおもしろそうだ。ただ、こうした死に方は死後、醜態をさらすことになる点が男には不満だった。

 そこで、男は見苦しくない死に方ができるように、服毒自殺することにした。睡眠薬ならどこででも手に入るし、怪しまれることもない。怪しまれないように細心の注意を払って、いくつかのドラッグストアで睡眠薬をわけて買い夜を待った。

「鍵もかけたし、こんな夜中に俺の家を訪ねてくる人なんているわけがない。あとは睡眠薬を飲むだけ。一ヶ月もしたら誰かが発見するだろう」

男は睡眠薬を飲んだ。最初は眠気が襲ってきたが徐々に頭痛と吐き気が増してきて、男は苦しみもだえる。司会は徐々にぼやけて、目が回り始まる。男は意識を失った。



 男は目が覚めた。死んだのだから目が覚めたという表現は適切ではないのだろう。

「ここは天国か。少し頭がズキズキするが気のせいだろう。死人は痛みを感じるはずがない」

意識がはっきりしてきてあたりを見渡すと男は驚いた。男は家の中にいたのである。あの狭い部屋に見慣れた壁紙。まちがいない。なんと男は生きていたのだ。

「俺は何で生きているんだ。たしか、昨日の夜に睡眠薬を飲んで、眠くなった後に急に頭痛がしてしんどくなって。でもこれで死ねると思うと嬉しくて。なんで生きているんだ」

男は動揺した。男は確実に死ぬはずだったのに生きている。動揺するのは当然だ。ふと、台所に目をやると確かに自分が飲んだ睡眠薬の空ビンが置かれていた。

「何が何だかわからないが、俺は昨日薬を飲んだのは確かなようだ。もしかして、無意識のうちにベッドで寝てしまったのかもしれない。生きているのは薬の量が少なかったからだ。頭が痛いのはその後遺症。そうに違いない」

男は無理矢理納得して、睡眠薬を昨日の倍の量買って夜を待った。夏だというのに、風は妙に涼しい。

「今回こそは死ねるはずだ。こんな量の睡眠薬を飲んで生きていられる人間なんているはずがない」

 男はそう考え睡眠薬を飲んだ。昨日よりも激しい頭痛と吐き気に襲われる。男は意識を失った。



「死なないでください」

 誰かがそう言っている。これは走馬燈だろうか。だとしたらやっと死ねるのだと男は嬉しくなる。しかし、いったい誰だろうと男は不思議に思い声をかける。

「お前は誰だ」

 しかし声の主は答えなかった。声の主は姿を現すことはなく、霧の中に消えてしまった。



 男は目が覚めた。昨日よりも激しい頭痛とめまいに襲われたが、またも生きのびたのだ。

「また生きている。どうして俺は死ねないんだ。どうすれば死ぬことができるんだ。この世で生きていても何もいい事などないのに。そうだ、俺は睡眠薬にかなりの抗体があるから薬が効かないんだ。そうに違いない。それにしても何か夢を見た気がするが思い出せない」

 確かに男は、子どもの時から薬が効きにくい体質だった。しかし、男はなんというひねくれ者だろう。普通、人間は九死に一生を得るということがあれば、特別な使命があると感じて世のため人のためになる生き方をしそうなものだが、男は二度も生き延びながらまだ死ぬ気のようだ。



 ある日、家で窓やドアをガムテープで密閉し練炭自殺をしようと試みたが、気を失って目が覚めても意識が朦朧としているだけでやはり生きている。だからといって誰かが助け出してくれたわけではなく、窓やドアは確かに密閉されている。部屋の中は密閉されているため、蒸し風呂のようだ。ドラマでよく密室殺人が行われるがこれはその逆だ。密室蘇生とでも言うべきだろうか。ただ、密室殺人の場合は、誰かしら犯人がいるが、この場合は完全に密室なのだ。そもそも男は一度死んだのかさえわからない。男は自分が恐ろしくなってきた。

「俺はもしかしたら夢遊病なのかもしれない。意識を失った後で無意識に窓やドアのガムテープを外し、新鮮な空気を部屋に入れた後、もう一度窓やドアをふさいだんだ。そうに決まっている」

 男は病院に行こうとしたが思い直した。もし血液から薬品が発見されたら、強制入院させられ自殺どころではなくなる。

「そうだ。外で死ねば密室かそうじゃないかなんて事はどうでもよくなる。醜い死に方は嫌だとかそんなことを言っている場合じゃない」

 男は夜になるのを待って外へ出た。少し歩くと十階建てのマンションがあるので、そこから飛び降りることにしたのだ。

「ここはマンションの十階。こんなところから飛び降りて助かったなんてやつは聞いたことがない」

誰も見ていないことを確認し飛び降りる。重力により加速し、男は高速で落下する。

 男は気を失うがやはり生きていた。血も全く出ていない。全身が痛むが傷はひとつもない。これほどまで痛むのは今回が初めてだ。だが、男にそんな事を考える余裕はない。風は男の肌をなでるように通り過ぎていく。

「これでも俺は死なないのか。もしかしたら俺は何をしても死なない身体になったのかもしれない。しかしなんて不運なんだ。死にたいのに死ねないなんて。よく死は易く生は難しなんて言うが、俺にとっては死も生も同じく難しだ」

 男はその日、失望し家に帰った。もう何をしても死ねない事はわかっていたが、男にはひとつ気になる事があった。

「最初、睡眠薬で自殺しようとしたときはほとんど身体に異変はなかったが、今回マンションから飛び降りたときはかなり身体が痛む。もしかしたら、着実に身体に負担が蓄積してきているのかもしれない。よし、もうひと頑張りで俺は死ねるぞ。ゴールはもうすぐだ」

 死ぬためには普通の人の何倍もの痛みを味わわないと死ねないなんて地獄のようだが、男は死ねる嬉しさでそんなことは考えられない。その日は少し上機嫌で寝た。



「死なないでください。私はあなたに生きていて欲しいんです」

夢の中で誰かが男の事を呼んでいる。今回は前と比べてより鮮明に聞こえる。

「お前はいったい誰なんだ。どうして俺の夢に出てくる。それに俺はやっと希望が出てきたんだ。だからもう二度と俺の夢に出てくるな」

 

 次の日、男は目が覚める。

「それにしても変な夢を見た。誰かが俺に死ぬなと言っていたが余計なお世話だ。こっちは死にたくても死ねないのに。人の気も知らないで勝手な事を言いやがって」

 男は、夢の事はまるで気にもせずに外に出た。

「今日はどういう死に方を試してみようか」

ふと前を見る電車が走っている。

「よし、電車に飛び込んでみよう。今まで電車に轢かれて生きていたやつなんて聞いた事がない。それに身体が木っ端みじんになればいくら不死身といえど生きられないはずだ」

 男はホームに着いた。ここから足を一歩踏み出せば確実に死ねる。今までは死ねないと半分思っていたが、今回は確実に死ぬ。少し感慨深い。何が感慨深いか男にもわからないが、なんとなく感慨深い。風は男を抱き留めるがごとく、男の行く先、死路をふさごうとする。

「まもなく一番ホームを電車が通過します。危険ですので白線の内側までお下がりください」

電車が男の少し前に来たとき、男は意を決して飛び降りた。







 誰かが男を呼んでいる。夢の中で聞いた事のある声だ。今回は今までで一番鮮明に聞こえる。

「答えろ。お前は誰なんだ」

「私は天使です。あなたに恩返しがしたくてあなたの夢に現れたのです」

どうやら天使は男の目の前にある霧がかった辺りから話しかけているようだ。

「天使だと。あいにく俺は天使に助けられるような事はしたことがない。人違いだろう」

「いえ、間違いではありません」

「ならその証拠を見せてみろ。俺がお前に恩返しされるべき人間だという証拠を」

「天使が恩返しをすると言っているのに上から目線ですね。わかりました。では、私の姿をお見せしましょう」

霧の中から何かが現れる。意外と小さい。人ではないようだ。霧の中から現れた天使を見て男は目を丸くした。権三郎なのである。

「これで信じていただけますか」

「権三郎がしゃべっただと。信じられる訳がない。これは夢だ。そうに違いない」

「はい。これは夢です。夢の中であなたに話しかけているのですから」

「そうか夢か。なら安心した」

男は少し間を置いてからさらに驚いた。

「夢だと。ということは俺はまだ生きているのか。ありえない。電車に轢かれて生きていられるはずがない」

「まだ気づかないのですか。私があなたをお救いしたのです。本来は肉片となるところです」

「ありえない。権三郎は犬だ」

「私は天使です。天界で罪を犯した私は、神により醜い犬に姿を変えられました。天界に戻るための条件は人間から愛を受けること。醜い姿の私に誰も見向きもしませんでしたが、あなたはこんな私に愛情を持って接してくれました。私が死んだのは神様が天界に戻ってもいいとお許しになったためです。下界の医術ではどうすることもできなかったのです。気に病まないでください」

「そうだったのか」

「ひとついいことをお教えしましょう。私は犬の姿をしていたときは雌犬だったのですよ。それを権三郎って。笑いをこらえるのが大変でしたよ。犬は笑えないんですけどね」

「お前、意外と口が悪いな。口の悪い天使なんて初めてだ」

「天使をお前呼ばわりする人間も初めてですけどね」

「権三郎は犬だ」

「天使です。でも、私に愛情を持って接してくれたことは感謝しています。こうしてあなたと会話できることは嬉しいのですが、正直複雑な気持ちです」

「なぜだ」

「私は天界の者。私と会話できる者は天界の者かそれに近い者。つまり死にかけている人間ということです。最初かすかだった私の声が鮮明に聞こえるようになってきたのは、あなたに死が近づいてきた証拠だったのです。私はあなたに生きていて欲しかったため、力を使いあなたを助けました。しかし、私の力にも限界があるため、徐々にあなたの身体に目に見えない傷を蓄積させてしまいました。私の力が尽きかけているため、恐らくあなたを助けてあげられるのは今回が最後になるでしょう。それに、助けてあげられたとしてもあなたの身体には深い傷が残ることになります。今までは私の勝手であなたを助けてきました。その結果、あなたにひどい傷を負わせてしまいました。ですから今回は、あなたが死を望むなら私は力を使いません。どうしますか」

「権三郎。俺が知らないときにそんなことをしていたとは。ごめんな。お前がそんなに俺のことを思っていたなんて知らなかったんだ。だから死んでお前のところへ行こうとした。だけどもう吹っ切れた。俺は生きてみせる。仕事を見つけてもう一度人生をやり直してみせるよ」

「わかりました。ありがとうございます。私のわがままを聞いてくれて。頑張ってください。私はいつでもあなたを見守っています」







 男は目が覚めた。目を開くと白い天井が目に入る。横を見てみると点滴があり、病院だと気づく。男のベッドの隣には医師と看護師がいた。医師と看護師が何か会話をしているようだ。意識がはっきりするにつれ聞き取れるようになってくる。

「それにしてもこの患者さん。気の毒ですね」

「ああ。電車に轢かれて生きているなんて奇跡だが、脊髄が損傷して首より下は全く動かないし、喉も潰れてしまって声も出せない。食べ物ももちろん食べられないし、患者にとっては生き地獄だろうな」

モザイク・ビジョン
162128


 ぬるい。頼んでいた紅茶が冷めてしまうほどに時間を無為に過ごしていたことに気づく。くもり硝子の窓を通して外を眺めていた。街を行く人々の往来はなんだかぼんやりとしていて、実体を捉えることができない。モザイクのようになった人々のシルエットが波のようにうねる。その波を見ていると、彼女と海に行った日のことを思い出した。波の音や彼女の声が遠くに聞こえてくる。そうだ、あのときもこんな風に波を眺めていたのだ。


 もうすぐ、わたしの誕生日ね。彼女はことあるごとに私に確認をした。毎年恒例のことで、楽しみなのが隠し切れない彼女をどう喜ばせようか考えるのが私も楽しみだった。言われなくともとうに織り込み済みで、当然プレゼントも用意していた。プレゼントを渡すきっかけにしようと、私は彼女を海へ遊びに誘った。夏の盛りで、日差しがまぶしかった。一日中、子どものようにはしゃいで、すっかり疲れきった私たちは砂浜に座り込んで海を眺めた。夕焼けがきれいだった。私は、彼女の誕生石であるルビーの指環を渡して、思いのたけを伝えた。私の人生初のプロポーズだった。彼女は感激してくれていたようだったが、今となってはそれも本当にそうだったのだろうか。あのとき、あそこに愛はあったのだろうか。



 結婚式の日取りなどどうしようかと考えていた矢先、彼女から別れを切り出された。衝撃的だった。何より理由が全くわからない。いくら理由を聞いても彼女は何も答えてはくれなかった。あまりの理不尽さについ感情的になり、彼女に強い口調で言葉をぶつけてしまった。それならもう私たちの関係は終わりだ。行きたければどこへなりと行けばいい。あの指環は私に返さずにもう捨ててくれ。これ以上私を苦しめる前に早く消えてくれ。一方的にまくしたてて、彼女を喫茶店から追い出した。彼女は去り際にただ一言、ごめんなさいと言った。去り行くベージュのコートを着た彼女はくもり硝子のモザイクに紛れて見えなくなった。もはや彼女の姿も、心も、モザイクの波に溶けてしまって、何をも捉えることはできない。引き留めてもう少し話し合えば、何か変わっただろうか。悩みでもあったのだろうか。私のことを愛してくれていたなら相談してくれてもよかったじゃないか。言ってくれなきゃ、伝えてくれなきゃ、何も、わからないじゃないか。とめどなくこんな考えばかりが頭を駆け回る。私はぬるくなった紅茶を飲み終えると、会計を済ませて店を出た。



 彼女と別れてから、何年経っただろう。私の中では、彼女の姿形も声も、もはや正確には思い出すことができない。思い出の中の彼女は、モザイクになって、私とは関係のない大勢の「他人」の中に溶けていってしまいそうだった。別れたあの日に彼女が着ていたコートのベージュと、私が贈ったルビーの指環の鮮烈な赤だけが私の脳裏に焼きついている。

 仕事も順調であるし、新しい恋人もできた。私は決して不幸ではない。街を歩いているとき、不意にすれ違ったベージュのコートの女性が目に入って、振り向いた。再び歩きだす。女性の指にルビーの指環はなかった。

きみの笑顔
162131


街から少し山の方へ行ったところに、ぽつんとカフェが建っている。こぢんまりとしていてそんなに新しい建物というわけではないけれど、インテリアには気を遣っている。それに、いつでも新鮮な季節の野菜を使ったあたしの日替わりメニューと、誠司さん特製のジャムが添えられたパンケーキはうちの自慢だ。今日は、そんな私たちについて話していこうと思う。





あたしがこのカフェのことを知ったのはもう6年近くも前になる。その頃あたしはまだ17歳で、勉強や部活と忙しない高校生活を送っていた。そんなある日、晩御飯を食べているときお母さんがそうだ、と思い出したように問いかけてきた。

「ねぇ英美、むかぁしお隣さんだった誠司くんって覚えてる?」

「え?う、うん。それがどうかしたの?」

誠司くん、というのはあたしが小学校に上がる前に引っ越してしまった8つ上のお兄さんで、お母さん同士が仲良かったからよく遊んでもらっていた。引っ越す前の日はあたしがかなり泣いて迷惑をかけた…らしい。あたしはうすぼんやりと初恋の人、としか覚えていないけど。なんでいきなり誠司さんのことを聞いてきたんだろう。お母さんはいつも唐突にこういうことを言うから慣れてはいるけど、発言の意図が読めない。

「今度、誠司くんがカフェを始めるんですって。英美、バイトがてら手伝ってあげたら?」

「え〜…どんなとこなの?」

「オープン前に一度遊びに来てって誘われてるから、一度行ってみましょうよ」

そうしてあたしは、そのカフェへと足を運んだのだ。



「いらっしゃい、待ってたぞ」

カフェの扉を開けたのはかなり大柄の優しそうな人だった。

「まぁ誠司くん、ありがとう。ひさしぶりねぇ」

「えぇ、ご無沙汰してます。英美、おおきくなったなぁ」

ふわり、とほほ笑まれて、思わず頬が熱くなった。誠司さんはむかぁしに見た学ランのお兄さんではなくて、たくましい大人の人になっていた。

「こ、こんにちは、誠司さん。今日はよろしくお願いします」

「自分に敬語なんか使わないでくれ。手伝いをしてくれるならむしろこちらが頼む立場になるからな」

お手伝いをするかもしれないし、と思ってできるだけ礼儀正しくしたけれど、誠司さんは笑って頭を撫でてくれた。…誠司さんの中ではあたしはまだ泣き虫の幼稚園児のままなのか。ちょっと悔しいと思ってしまった。

「さ、こっちの席へどうぞ。今日は俺の腕を振るって作るんで、楽しみにしていてください。」



結論から言うと、誠司さんの料理は本当においしかった。近くの畑で採れたという野菜を使ったパスタが特に美味しくて、これなら少し遠いけど普通に食べにきたい、と思えた。

「誠司さん、ごちそうさまでした!ほんっとうにおいしかった!」

「ははっ、それはなによりだ。そこまで喜んでもらえたら、料理人冥利に尽きる」

帰り際、お料理の感想を伝えると誠司さんはほっとしたように笑っていて、緊張していたのかな、なんて思った。ほう、と誠司さんの笑顔に見とれていると、背中をつつかれる。ばっと振り返ると、お母さんがにやにやと笑っている。…お母さんにはあたしの考えていることがお見通しらしい。

「それから…土日だけでもいいから、お店のお手伝いさせてほしいんだけど」

「…いいのか?部活とかあるんじゃないか?」

「ううん、活動は平日だけだから大丈夫。だめかな…」

「いや、英美が手伝ってくれるなら助かる。これから、よろしく頼む」

にか、と笑った誠司さんは片手を差し出していて、私はあわててその大きな手の握手に応えたのだった。





そんなこんなで誠司さんのカフェ『Pieceful』でアルバイト代わりのお手伝いを始めて数か月がたった。初めは皿洗いや店内清掃、その次は接客。最近は店が終わった後の仕込み作業も手伝うようになった。お客さんが嬉しそうにご飯を食べる姿を見る誠司さんは本当に素敵な笑顔をしていて、こちらまでうれしくなってくる。その顔を見るためなら、もっと手伝ってあげたい、と思ってしまうのだ。『Pieceful』はおかげさまで、ランチタイムはそこそこ忙しい。午後2時ごろ、ようやく忙しさがひと段落すると、片づけをしながら私の学校の話や誠司さんの友人の話、会わなかった期間のことなど、いろんなことを話すのが習慣になっていた。誠司さんは優しい笑顔で聞いてくれて、いつも

「英美は本当に楽しそうに話すなぁ」

と笑っている。私からすれば、誠司さんがお友達のことを話すときも随分とたのしそうな顔をしているけど。そうしていろんなことを話すうちに、私の『Pieceful』へ通う目的は、誠司さんの料理から誠司さん本人へと変化していった。話を聞いてくれるだけじゃなく、定休日には勉強を見てくれたり、あたしがテストで良い点数を取れたらすごく褒めてくれるし、こんな面倒見がよくて優しい人、好きにならない訳がなかった。

「さて、ひと段落したし軽食でも作ろうか」

今日もお客さんは結構来てくれたし、忙しかったのでお昼をとる暇もなかった。誠司さんのまかないはどれもおいしいのでそれを楽しみに今日の忙しさを乗り切れたと思う。

「今日のお昼はなんですか〜誠司さ〜ん」

「サンドイッチですよ〜英美さ〜ん」

ふざけながら誠司さんの背中に飛びつくと、苦笑しながら答えてくれた。誠司さんは趣味で鍛えているらしくて、あたしが飛びつこうともびくともしない。

余った具材で作ってくれたサンドイッチをもって席に着いた時、誠司さんの顔は先ほどとうって変わって少し暗かった。

「誠司さん、あたしなんかしたかな。…ごめんなさい」

「ああいや、そういう訳じゃない。その…英美、来年は受験生だろう?無理にここへ手伝いをしに来る必要はないんだぞ」

…そういうことか。あたしはもう高校2年生の後半に差し掛かっている身で、受験に向けて頑張らないといけないのはわかっている。でも…将来、何になりたいとかそういう明確な目標がないから、何をしていいのかわからない。あたしはただ、誠司さんのカフェでお客さんや誠司さんの笑顔を見ていられたら、それでいいのに。

「無理はしてないよ。…ただ、将来の目標が見つからないの」

「そうなのか?」

「うん。あたしは、この店で誠司さんが楽しそうにしているのを見るのが今は一番好きなの。誠司さんのそばにいたいから、だから、せめて3年になるまではお手伝いを続けさせて」

『Pieceful』に来れなくなるのは困る、と慌てて誠司さんに訴えたけど余計なことまで言った気がする。誠司さん、察しがいい人だからこんなこと言えば絶対にあたしの気持ちに気づくんじゃ…。目線をあげて誠司さんの顔を見ると、耳まであかくした誠司さんが、あたしから目をそらしていた。やっぱり、ばれてる。誠司さんくらい素敵な人だ、絶対恋人とかいるしそもそも高校生のあたしなんかが相手されるわけがないし。そう思うと泣きそうになって、ぱっと下を向いてしまった。

「ご、ごめんなさい!あたしの気持ちが迷惑なのはわかってるから。人手が足りないんだから、ただのアルバイトとして置いといてくれるだけでいいの!」

目の前がぼやけて、頬を熱い雫が伝っていくのが分かる。泣いたら誠司さんを困らせる、と思っても涙は止まらないし、喉は勝手にひっ、ひっとしゃくりあげている。これで誠司さんに手伝いを断られたりしたら、あたしはもう会いに来る勇気はない。せめてちゃんと告白したうえでフラれたかったな、とへこんでいると誠司さんの大きな手が視界に入ってきた。あたたかい手が頬に触れ、涙をぬぐってくれる。

「泣かないでくれ、英美…。勝手に悪い方向に考えるのは、お前の悪い癖だな。俺も英美の笑顔が好きなんだから、笑っていてくれ」

「…でも」

「こんなことを大人の俺から言っていいのかわからないが…俺にとっても、英美は大事な人だし、そばにいてほしいと思っている」

顔が赤いままの誠司さんが、いつもの優しい顔をして、あたしの頬を両手で包む。…いま、なんて言ったの?あたしの都合のいい妄想とかじゃないの?

「はじめは、妹みたいに思ってたんだが、あんなに一生懸命手伝ってくれて、本当に楽しそうに笑うお前を見ていて…好きにならないはずがなかったんだ」

「…ほんと?」

「あぁ。だから、英美さえよければこれからもこの店を手伝ってほしい。それに…将来に悩んでいるなら、この店を理由になにか探せないだろうか」

驚きの余り泣き止んだ私の頭をぽんぽん、と撫でてくれる。…うそみたい、あたしのこと、好き、だなんて…。

「あたしも誠司さんのこと、好き…これからもお手伝いしたいし、そばにいたいから…がんばるから」

「あぁ」

そういってあたしが顔をあげると、誠司さんは少し笑って、あたしの手を握ってくれた。初恋はかなわない、なんてよく言われるが、あたしはもう一度恋をして10数年ごしに初恋をかなえたのだ。

「…そういえば、あたし誠司さんが初恋だったんだよ」

「知ってる知ってる。引っ越すときにお前、『せいじさんとけっこんする〜!』って言ってたからなぁ」

「え、なにそれ覚えてない!はずかしいからやめてよ!」

言わなきゃよかった、と思ったけど、幸せだからいっか。





それからあたしは、調理師免許を取るべく専門学校に進学した。料理に興味もなかった娘が調理の専門学校に進むと言ったもんだから、誠司さんとの関係はすぐにばれた。けれど、お母さんもお父さんも誠司さんなら、とあたしたちの関係をあっさり認めてくれた。それから必死に勉強して専門学校に入り、無事に資格を取ってからはずっと『Pieceful』で働いている。何年もそばで見守ってくれた誠司さんは、英美も素敵な大人になったな、なんて言ってくれるが、誠司さんにはかなわない。

両親や常連のお客さんからはいつ結婚するのか、と思われているのを知ってるけど、そこはもう少し恋人気分でいさせてほしい。誠司さんもいまはお店が忙しいし、あたしもお店で働くのたのしいし。

『Pieceful』を笑顔であふれる空間にしたい。それが、今のあたしと誠司さんの目標だ。

しゃぼん玉
162132


その日は美しい秋の空が広がった日であった。すんだ雲がふわふわと浮かんでいた。



 私とさとしの目の前に座った年配の女性が、目を細めて私たちを交互に見てきた。
「お姉ちゃんは高校生になったんやね。ボクはいくつになったの?」
 まるまる太った年配の女性は、今度はさとしの方にぐっと身を乗り出した。その迫力に、弟が受け答えできるか心配になり、ちらちらと横目で様子を見てしまった。
 しかしそんな心配は必要なかったらしい。さとしは大きな声で答えた。
「ぼくは6歳になったよ。」
「立派やね。このお菓子たべな。」
「やったあ!」
 さとしは、母からの『あまり食べるな』の忠告をすっかり忘れて、机の上のお菓子の包み紙を開けた。

「こら、さとし。お母さん言っとったやろ。後でご飯食べれやんくなるよ。」
「でも食べていいっておばあさんに言われたもん。」
 手にしたせんべいを口に運ぶ寸前で止められたさとしは、とてもしょんぼりした様子だった。
「まぁまぁ、一個ぐらい平気やろ。ほら、お姉ちゃんも食べな。」
 おばあさんにさとしと同じせんべいを手渡され、私たちは目を合わせた。さとしが満面の笑みで見てくるので、「食べてしまえ。」とせんべいを頬張った。

おばあさんは「トイレに行ってくるね。」と誰に言うわけでもなく呟くと、おもむろに席を立った。
 私はそんなおばあさんの背中を、見えなくなるまでぼんやりと見送った。
 いったいあの人は誰だったのか。顔からして、母方の親族だとは思うが、それでもはっきりと思い出せない。こんな時に両親は、他の親族と会話をしていて、私たちのことなんか気にも留めていない。
 いつもこうだ。私と弟のさとしは10以上も歳が離れているからか、母からさとしのお守りを任されることが多かった。


「なぁ、ねえちゃん、あのおばあさんでぶやったなぁ」
「静かにしな。」
 慌てて隣を見ると、さとしの手には二つ目のせんべいが握られており、私はさらに慌てることになった。

「さとし、一個だけ言ったやろ!」
「いやや、まだ食べるもん」
「あんた、後で叱られるよ」
「ちゃんとお昼も食べれるもん」
 頑固なさとしは、そう言うとせんべいを全て口の中に入れた。ここまでくると手に負えない。
「私は知らんからな。」
 さとしにそう告げると同時に、室内にアナウンスが響いた。

私たちはぞろぞろと連なって歩き、案内されるがまま、ある部屋へと入っていった。



 さっきの部屋よりも、少しばかり空気が冷たい気がした。しかしそう感じたのは一瞬のことで、部屋の真ん中に台車が運び込まれると、むわっとした熱気が漂い、なんとも言えない匂いが鼻に入ってきた。
 私たちは言われるまでもなく、台車をぐるりと囲む。説明を聞く最中、さとしがなんとか台車を覗き込もうと背伸びをしたが、やがて諦めて辺りを見回し始めた。そのまま歩きだそうとしたので、慌てて手を引っ張る。

 その様子を見た親族の一人が、ひょいとさとしを抱き抱えた。
「きみにはまだ難しい話やわな。」
「おれ、チビやないよ。もう小学生やで。」
「はは、そうか。ほら、見てみ?」

 おじさんがさとしを台車に近づけた。さとしは目を真ん丸にして「なにこれ。」とこぼした。

「おばあちゃんの骨やよ。」
「ほね?」
「そうや。めっちゃ小さなってしまったな…。」
「なんで? おばあちゃん、どこ行ったん?」
「燃えて煙になって、お空に行ったやで。」

「お空……」
 さとしはそう言うと、制服のポケットをぎゅっと握った。


大人たちは順々に、骨を骨壷に入れていった。母がハンカチで目を抑えながら骨を収めると、私にも箸を渡してきた。
 少し力をいれてつかむと、崩れ落ちそうだったので、私は慎重に運んだ。数時間前まで祖母の体の中にあったとは到底思えないくらい、それらは脆く、無機質だった。
 

次は父の番だ。父は憔悴した顔で骨を骨壷に入れた。そんな父の背中を母が撫でる。
「さとし」
 父は、さとしを名指しした。当の本人はオジサンに抱かれたままきょとんとしていた。
「お前の番や」
「おれもやっていいん?」
 さとしは目を輝かせると、父から箸を受け取った。


「どれ取ればいいん?」
「一番近いところでいいよ。」

 オジサンに言われるがまま、さとしが手を伸ばす。普段使っている子供用の箸より随分長いものを、さとしが使いこなせるのか心配だった。
 途中で骨を落とすのではないかと思ったが、さとしは器用に箸を使って、無事に終え安心した。



係のオジサンが骨を整えた。その軽やかな音がこの重苦しい空気と相反して、気持ち悪かった。最後の作業が行われ、蓋がされる。
 こんなに小さな壷に、祖母が入ってしまった。
 『ご飯食べていき。』が口癖。死ぬまで自分の足で歩くと、毎日散歩を欠かさない。早くに死んだ祖父の分まで、私たちを可愛がってくれた祖母…。

 祖母との思い出がいくつも浮かんでくる。思い出の中の祖母と目の前の壷が関係あるとは思えず、涙は一滴も出なかった。現実だとは思えなかった。
 本当はこれは夢で、目が覚めたらまたいつものように、祖母が笑顔で「おかえり」と言ってくれる気がする。
 箱の中にしまわれ白い布が被さった骨壷は、本当にもう何なのかわからなくなって、余計に私にそう思わせた。



「ねえちゃん、だいじょうぶ?」
 いつの間にかオジサンにおろされたさとしが、私のスカートの裾を引っ張っていた。
「ん、なんで?」
「ねえちゃん、痛そうやったから。どっか痛いん?」
「痛ないよ。なんでもない。あ、ほら、行くよ」





大人たちに続いて部屋を出る。そのまま係の人と話をする父を残し、私たちは外に出た。
 冷たい風が頬に当たる。ふと上を見ると、美しい秋の空に澄んだ雲が浮かんでいた
「なぁ、もう帰るん?」
 さとしが側に転がる石ころを拾いながら、訊ねた。
「まだよ。お母さん言っとったやろ? 今からあっち戻ってみんなでご飯食べるんよ。」
「ええー、いやや!」
 さとしはそう言うなり立ち上がると、手に持った石を乱暴に投げた。その一つが私の足に当たる。
「なにしてんの! 行儀悪い! もうちょっとやから我慢して!」
 ペチンと頭をはたくと、さとしは下唇を突き出し、私を睨んだ。

「だっておれ、お腹へってないもん……」
 消え入りそうなその声を、私は聞き逃さなかった。
「だから言ったやろ! お昼食べやんくなるって。私は知らんよ。」

 突き放すようにそう言うと、さとしは私を睨むのをやめ、下を向いた。しばらくそのまま動かなかったが、次第に肩が震えだし、とうとう鼻水をすする音まで聞こえてきた。
 このままだと怒られるのは私だ。仕方ない、としゃがみ込んだその時、目からあふれ出すように涙をこぼすさとしが、ぽつりと言った。
「おばあちゃんに会いたい……」



『おばあちゃんに会いたい』と、さとしはハッキリそう言ったのだ。こういう時になんて言えばいいのかわからなかった。
 私は大人たちの言葉を思い出し、こう言った。

「おばあちゃんはお空に行ったんよ」
「お空にどうやって行くん? おれも行きたい」
「さとしは行けんよ」
「なんで?」
「なんでって──」

 言葉に詰まる。何か子供を黙らせるいい案はないかと考えを巡らせた。けれども特に何も思いつかず、相手にするのも面倒になってきた。
「とにかく、会えやんもんは会えんのや。わがままいわんといて。」
 怒った言い方になってしまい、それを察したさとしが驚いたように体を震わす。

「なんで……」

 次から次へとこぼれ落ちる涙を、さとしは拭おうとはしなかった。その代わり、制服のポケットをぎゅっと握る。そして大きく息を吸い込んだかと思うと、私の目を真っ直ぐに見つめた。

「おれ、おばあちゃんに会いたいもん! なんでねえちゃん、そんなひどいこと言うん? なんで! なんで……!」

 さとしが真っ赤な顔をして叫んだ。周りで話していた親族も、一斉にこちらを振り返る。

「ごめん。ねえちゃんが悪かったよ。だから泣かないで……」



 なだめようと肩に置いた私の手を振り切って、さとしが急に走り出した。屋根のない所まで出ると、ポケットからなにかを探していた。
「勝手に飛び出したらいかんって−」
 追いついて腕を掴むと、その手に何か握られていた。よく見るとそれは、さとしがいつも遊んでいたしゃぼん玉のキットだった。

「さとし……なんでこんな物持ってきたん? 遊ぶ場所じゃないって言ったやん。」

 さとしはしゃくりあげながら、私の言葉を無視するかのように、専用のストローをしゃぼん液につけた。そしてそれを空に掲げると、ゆっくりと力強く息を吹いた。
 大小様々なしゃぼん玉が、風に吹かれて飛んでいく。七色にキラキラ輝いて、秋の空に飛んでいく。ゆらゆらと、ゆらゆらと空へむかっていく。

呆気に取られてそのままぼんやり見ていたら、気づいた時には辺り一面しゃぼん玉だらけになっていた。



「さとし……!」
 騒ぎに気づいた母が、さとしの元へ駆け寄った。
「あんた何してんの! 遊ぶ所じゃないよ。」

 しかしさとしはそんなのお構い無しで、吹くのをやめようとはしない。母がやっとの事で口からストローを離すと、 涙を目一杯に溜め込みながら、周りを睨んだ。

「おれ……おばあちゃんに会いたいもん。今日会えるって言ったから、おれ、しゃぼん玉持ってきたんやもん。おばあちゃん、おれとしゃぼん玉で遊ぶの好きやって言ってたもん。だからおれ…」



 たどたどしい言葉は、けれども私の胸に深く突き刺さった。
 そういえば、私が忙しくなってさとしの遊びに付き合わなくなった代わりに、祖母が遊んでいたんだっけ。

 ふと、ある日の学校帰りの光景を思い出す。まだ元気だった祖母が、家の前でさとしとしゃぼん玉を吹きあっていた。「何がそんなに楽しいんだか」と言ったら、「おねえちゃんは大人になっちゃったんやねぇ」と祖母に笑われたんだっけ。

「行け、行け!」
 さとしは今度は、空に向かって声をあげた。
「頑張れ、頑張れ!」


空に漂うしゃぼん玉一つ一つに向けて叫んでいる。しんと静まり返った空間に、さとしの必死な声だけが響いた。
「おばあちゃん、お空にいるんやろ? おれ、お空までしゃぼん玉とどけたいんや。われたらだめや。お願いします…。」


 いつの間にか、私もそう願った。さとしはしゃぼん玉キットを胸の位置で、大切に大切に握りしめていた。
「頑張れ、しゃぼん玉、負けんな!」
 さとしの声と一緒に、私も心の中で叫ぶ。

 けれども、しゃぼん玉は一つ、また一つと割れて消えていく。あちこちで割れていく。
「なんで? なんで消えてしまうん? しゃぼん玉、おばあちゃんのところまで行かへんやん……」
 徐々に弱々しくなっていく、さとしの声。とうとう空には、一つのしゃぼん玉もなくなってしまった。
 しゃぼん玉は全部消えてしまったのだ。秋の空に、あの美しい澄んだ秋の空に消えていった。


さとしはじっと、空を見ていた。その小さな背中は、とても寂しそうだった。
 立ち尽くすさとしに寄り添うように、そっと隣に立つ。気の利いた言葉なんか思いつかないが、私は思ったことを口にした。

「さとし……しゃぼん玉、おばあちゃんに届いたよ」
 その言葉に、さとしが驚きこっちを見た。

「なんで…?ぜんぶ、ぜんぶ、われたよ…。消えてしまったよ…。」
「ちがう」
 思ったより大きい声が出た。さとしが不思議そうに私を覗き込む。体から全ての水分が出尽くしたかのように、目には涙はなかった。
「ちがうん…?」
「ちがうよ、さとし。しゃぼん玉は消えたんじゃない。しゃぼん玉は…。」

 私はさとしの手をそっと握った。温かい子供の体温が、私の中の何かを溶かしていくようだった。私たちは揃って空を見上げた。空の、もっと上の方にいる、祖母を見上げた。
 私の頬に涙が流れた。




わたしは一生忘れることができないだろう。
 あの美しい秋の空に浮かんだしゃぼん玉を…。

音と光
162133


 中学生くらいからだっただろうか。私―音無琴葉―は人の心の声を聞くことができるようになっていた。といっても、範囲はせいぜい教室の隣の子の席までくらいで、意識を向ければ一人分が聞こえてくるくらいの、ほんの少しの能力。でも、たったこれだけでも、思春期の女の子の、ナイーブな心を閉ざすのには十分だった。

 初めは、その能力に優越感さえ持とうとした。テスト中に分からないところを覗いたりできるとか、じゃんけんで負けなかったりとか。他には…簡単な心理ゲームでは負けなかったりとか。思いつくことは、ほんの簡単なことばかりなのに私は、この力があれば私の世界を思い通りにできるんじゃないか、などとも考えようともした。

 でも、そんな理想は、それ以上に簡単に崩れていくのだった。少し覗けば聞こえるのは、他人への恨み。つらみ。嫉妬。打算。私が友達だと思っていた子も、親切にしてくれる先生も、…初めて素敵だと思った、あの人も。誰一人として対等な関係なんて求めていなかった。シーソーはいつだって、釣り合うことがなかった。

私の能力は、たった私一人ですら幸せにすることができなかった。

気が付けば、私は誰にも興味を持たなくなっていた。意識を向けさえしなければ、心の声が聞こえることはない。この先もそうやってずっと殻に籠っていれば、少なくとも自分だけは守れるから。

だから、この地元から遠く離れた高校に進学した。私のことを知る人から、出来るだけ離れるために。朝は人が増えてきたあたりで静かに登校して、教室では黙々と授業を受け、休み時間は本を読んで、することがないなら何もないところを見て、誰もいない校舎裏のベンチでお昼を食べて、運動もテストも普通くらいにこなして、連絡と挨拶が終われば静かに帰る。こんな日々の努力の甲斐もあって、高校一年生はほとんど誰からも話しかけられることなく、望んだとおりに終えた。

四月、本当は二年生の新しいクラスでも、同じようにするつもりだった…のに。ほんの一つだけ、私が癖のようにとった行動が、殻に大きな穴を開けた。



「では、時間が来たので今日はこれくらいにしておこう。次回はこの続きから。」

数学の先生がお決まりのように次回へと単元を引き伸ばし、黒板も消さずに教室からそそくさと出ていく。私は書き終わったノートを閉じ、帰るための準備を始める。あとはいつものようにどこに、目線を向けるでもなく、ただぼーっと、意識を宙にさまよわせてどうでもいい連絡を聞いて帰るだけだった。

その時、さっきまで寝ていた隣の男の子が金属のペンケースを落とした。金属の軽快な音が教室に響く。男の子は顔をしかめてこう言った。

「ぐわっ、うるせぇ。あ、でもラッキー中身ちょっとしか落ちてね。」

私は一瞬だけ意識を彼に取られた。しかし、一瞬で十分だった。私はまたすぐに視線を宙に投げようとした時、ペンケースを拾おうとする彼の心の中が私に少し、流れ込んできた。

《♪I don’t know Or understand You say it’s hard right now…》

彼はどうやら、頭の中で歌を歌っていたらしい。あ、でもこの曲…私の好きなやつだ。

 何を思ったのか、無意識のうちにその歌を、軽く口ずさんでしまった。

すると突然、男の子は眠気を忘れたように一瞬にして元気になり、私に向かって叫んだ。

「えっ、俺もいま全く同じ曲、考えてたんだけど!てかこの曲知ってるやつに初めて会ったぜやっほーい!」



これがほんの少しの、そして最大級の失態から始まった彼との出会い。







気がつけば私はカラオケボックスにいた。

ちょっと待って。私はさっきまで教室の後ろでいつものように日常を送っていたはずだ。私はここに来るまでの経緯を思い出してみた。

 隣の席の男の子は、どうやら郷田君というらしい。その郷田君が私の鼻歌に反応して急に元気になったかと思うと、挨拶もそこそこに、そのまま私をここに連れてきたのだ。

いや…どう考えてもおかしい。今日初めて話した女の子を、いきなり二人きりのカラオケになんて誘えるものなのだろうか。そんなに悪い人には見えなかったが、もしかして彼は、女の子をそうして侍らせるような人なのだろうか。

いや、どんな悪意を隠し持っていようと、私には意味がない。少し意識を向けて、少しでも下心が見えようものなら、すぐに出ていけばいいだけだ。幸い、限られてはいるものの、人の目もある場所だ。大丈夫だろう。

 「やぁやぁお待たせ!テキトーに入れてきたからどっちがいいか選んでよ!」

そんなことを考えていると、彼はジュースの入ったコップを二つ持って部屋に戻ってきた。

私は変わらず、彼に意識を向けないようにしながら、オレンジジュースらしい方を選んで受け取った。

「いやー、まさか同じクラスに、それもまさか隣の席にGemini clubなんてマイナーなユニットを知っている人がいるなんてな!俺すっげぇ好きなんだよー。えーと…」

「…音無。音無琴葉。自分から声を掛けたくせに、人の名前くらいちゃんと覚えてよ。」

「そうそう音無さんよろしく!俺は郷田明仁!いやー、興奮した勢いでそのままここに連れて来ちゃったけど、マイナーだからどこにも一曲も収録されてないことすっかり忘れてたよ。」

彼の言葉だけを聞きながら、私はオレンジジュースを一口飲む。…なんというかこの人、言動のどれを取っても年相応に感じられない。思ったことがそのまま出る、言ってしまえばアホの子のような気がする。今までにはあまり関わったことのないタイプの人だ。この人は、私のことを受け入れてくれるのだろうか。

いや…信じられるかどうかは別だ。今までに私はこうやって何度も人と関わっては、何度も裏切られてきたんだ。どうせ少し心を覗けば、この幻想からもすぐに解放されるだろう。

「でも、誰とも共有できなくて寂しかったものを共有できるってすっげぇ嬉しいよな!俺はこうやって音無さんと趣味が一緒だって知ることができてすげぇ嬉しい!」

しかし、彼から聞こえてきた心の声は。

《嬉しい、こんなに幸せに感じられて、音無さんと知り合えてよかった!》

私の心を簡単に楽にしてはくれないようだった。



そこからは本当に普通に、普通のカラオケだった。お互いに曲を入れて、交互に歌うだけ。

郷田君はお世辞にも上手いとは言えなかったけれど、本当に楽しそうに歌っていた。私が曲を入れて知っている曲なら全力で喜ぶし、体を横に揺らしたり手を叩いたりする。

そして、彼から発せられる声は、

《あー!その曲知ってる!これもみんな知らない曲なのに!他にはどんなのを知ってるのかな?》

《音無さん歌上手いなー。まぁ俺も上手いんだけどな!》

そのどれもが、喜び、期待、自信といった、正の感情に満ち溢れていて。

それを聞くたびに私も自然と笑顔が零れるようになっていて。

《あ、音無さん笑った。笑ってる顔可愛いなぁ。》

長く凍ったままだった私の心がだんだんと溶かされていっているような気がして。



 でも、彼の明るい感情に触れれば触れるほど、逆に追い詰められている私が、どんどん大きくなっていった。

彼が持っているまっすぐな感情を見るほどに、私が抱えている感情に対して気持ちが落ちていく。彼が見せる心からの笑顔を見るほどに、私が作る笑顔が嘘になっていく。

そして、こうして彼の感情や笑顔に触れられるのは何故だろうか。全て盗み聞きしているようなものなのに。こんな汚い方法で彼の感情に触れて、こんな私が笑顔になって、一体誰が幸せになるのだろうか。

気がつけば、温かく感じていたはずのこの時間が、再び冷え切ったものに戻っていた。この短い時間の間に彼が私に見せた感情はあんなに明るいのに、どうしてこんなことになるのだろう。いろいろな感情が渦巻いて、とても歌える気分ではなくなってしまった。



「さすがに二人だと喉がつらいな、少し休憩しようか。」

相変わらずの笑顔で言う彼の言葉には全くの裏表がない。気が付けば私は荷物を全て纏めて立ち上がっていた。

「…ごめん、私、帰るね。」

「あれ、もしかしてこの後用事があったりした?申し訳ないことをしちゃったな、いきなり連れてきてごめん。」

「…ううん、ちゃんと、楽しかったよ。二人分のお金置いておくから、もう少し歌ってから帰りなよ。」

「え、そんなの悪いし、俺も一緒に出て送っていくよ。」

初めて彼の気持ちが揺れ動いた。でもそれも、純粋な心配の気持ちだった。

「いいよそんなの。気持ちだけ受け取っておくから、一人で帰らせて。」

彼の温かい感情を見るたび、私がどれほど嫌な人間なのかが明らかにされていくようで。

たまらずドアノブに手をかけた私に、彼がすこし声を大きくして言う。

「いや、ここら一帯は割と危ないし、せめて途中まででも。」

荷物を急いでまとめる郷田君が続けて言う。しかし、その言葉は今の私には重すぎた。



「だって、女の子一人だと不安だろ?」



 彼のその言葉を聞いた瞬間、私の中の感情が弾けた。

「私は不安なんかじゃない!私は一人でも不安なんか感じていない!私は…私は!」

彼が言ったのはそういう意図ではないことくらい私にも痛いくらい分かっていた。でも。一人。不安。それは私が痛いくらいに抱えていた思いで。彼が口にした言葉を聞いたら、なんだか、私の心を彼に見られたような気がして。

「…っ!」

私は部屋を飛び出した。これ以上は耐えられそうになかった。追いつかれないように、裏路地をくぐりながら走る。





 家に着いた私は、荷物を部屋に乱雑に投げ捨てた。ふと横の鏡を見ると、目元が真っ赤になっている。夢中で走っていたから気が付かなかったが、どうやら帰りの間ずっと泣いていたらしい。

 何度か顔を洗い、拭いたタオルを洗濯機に投げ込んで、私はベッドに飛び込んだ。考えたくもないのに、自身の言動が次々と思い出される。

 本当は全て分かっているのだ。悪いのは全て私なんだって。彼が今日私に見せたのは、よく知らない私のことすらを気にかけてくれる優しさ。心からの笑顔。そして自信。まるで幼い子どもみたいに、私の心に踏み込んでくる。対して、私が見せたのは何だったのだろう。素っ気ない態度ばかりで、挙句の果てには、急に不安定な感情を吐き出して逃げた。一つも自分のことを明かそうともしないで、勝手に人の明るさに触れて。そしてその眩しさから目を逸らして、相手の言葉のせいにしている。

 再び涙が零れる。本当は一人でいたくなんかない。本当は不安で不安で仕方がないんだ。

でも、この力を受け入れるだけの心を持っていない私は、他人との関わりを絶つことでしか、自分を守ることができなかった。







 私が中学生になりたてのころは、まだこの力は持っていなかった。普通にクラスの子と仲が良かったし、合唱部に入って部活にも打ち込んでいた。友達とケンカなんてしたこともなかった。パートは違っても私のことをよく気にかけてくれる、バスパートの憧れの二年生の先輩…蓮って名前だった…もいて、毎日が充実していた。

 一年生の夏のコンクール、結果は予選で銀賞。先輩たちは涙ながらに引退し、受験勉強に専念していくことになる。でも、まだ中学一年生の私にとっては遠い話だったし、三年生の先輩なんてたかが四ヶ月くらいしか関わっていなかったから、別段淋しい、悲しいなんて感情もなかった。第一、その頃の私は蓮先輩ばかり見ていたから。むしろ、人も少し減ったぶん、今までより私のことを見てくれるんじゃないか、なんて期待したりしていた。

 そのうち、私の気持ちは溢れて抑えきれなくなっていた。内向的だったわけでもない当時の私が、この気持ちを蓮先輩に伝えよう、そう決心するまでにそう時間はかからなかった。

部活が終わった後、私は校舎から出る前の先輩を呼び止めた。いつもと変わらない様子で私を見る先輩のことを直視できなくて、私は意識を下に向けたまま彼に想いを伝えた。その時に何て言ったのかはもう覚えていない。全然まとまらなくて、何回も詰まって、関係なさそうなエピソードなんかも適当に口走ったような気はする。でも、私が秘めていた想いは、それくらい深く複雑に絡みついていたんだ。私はそれをなんとか解いて、ただただ一生懸命に紡いだんだ。私は先輩のことを見ることもできず、ただ下を向いて返事を待っていた。先輩は長く沈黙したままだったが、やがて話し始めた。

「…いいよ。付き合おう。」

私は変わらず下を向いたまま、目を大きく見開いた。

「琴葉ちゃんがそんなに俺のことを思ってくれていたなんて知らなかったよ。実は…俺も前から気になっていたんだ。今こうやって伝えてくれたことで、俺も自分の気持ちに正直に向き合うことができたよ、ありがとう。こんな俺でよければ、よろしくお願いします。」

私はその言葉を聞いた瞬間、息を大きく吸い込んだ。私の中のどんな感情も全て舞い上がって、今にも飛んで行きそうだ。そんな浮遊感と共に、私は跳ね上がるように顔を上げ、ここで初めて先輩に意識をまっすぐに向け、彼の顔をまっすぐに見据えた。彼は笑顔を私に向けていた。

その時だった。

《やったぜ、前の彼女と見切りが付きそうだったから、前々から優しくしといてよかった。》

《正直全然どうでもいい存在だけど、次への暇つぶしには丁度いいくらいだろ。》

先輩の声で、そんな言葉が降ってきた。私は変わらず目を大きく見開いたまま、眉をしかめて、聞こえてきた言葉の一部を、思わず口に出してしまった。

「…暇つぶし?」

そして、私のその言葉を聞いた瞬間、先輩の表情から笑顔が消えた。

「え、いま先輩、暇つぶしが何とかって…言いませんでした?」

その言葉に対して先輩はまた笑顔になった。

「言ってないよ、どうしたの、急にそんなこと言い出して。」

その先輩の言葉を聞いて、私はそうだよね、気のせいかな…と流そうとしたのだが。

《やべぇ、俺ぼうっとして考えていること思わずどこかで口走ったか?いや、そんなはずはないと思うんだが…》

また私に向かって声が降ってきた。今度はさっきよりもはっきりと、間違いなく目の前の先輩の声で。

考えていること?思う?その言葉は、どれも目の前にいる私には決して伝わることのないはずなのに。

先輩を見ると、変わらない笑顔を浮かべて私を見ているのに、数々の不安、恐怖、焦りを表す言葉が次々と降ってくる。どれも目の前の、今まで私が好きだった憧れの先輩からは想像もできない言葉で。

「…すみません、急用を思い出したので、また今度、改めてお返事を聞かせてもらっても、いいですか…すみません。」

私は告白の返事を貰ったにも関わらず、適当な言い訳をして先輩から目を背けた。

「あ、あぁ…うん、また明日。」

そして思わず、家に帰る道に向けて駆け出したのだった。

この時、どうやら私は他人の心の声が聞くことができることに気がついた。本当に脈絡もなく訪れたその力は本物の超能力で、家に帰った私はその凄さに少し感動した。しかし、この力で先輩への恋心は一瞬にして幻想となって消してしまったのだ。それ以上に大きな喪失感を覚えながらも、私はこの力の有効的な扱いについて考えていると、知らないうちに眠ってしまったのだった。

そして、翌日学校に行った私を迎えたのは、手厚い奇異の視線の数々だった。私の昨日の告白の様子を怪しく思った蓮先輩が、私に関する噂を広めたらしい。それでも変わらず接してくれる友達もいたが、そんな友達からも、想像したくなかった数々の心の声を聞いた。そしていつからか私は周りから拒絶され、いつからか私も周りを拒絶するようになっていったのだ。







顔に当たる日で目が覚める。私は枕元の時計を確認すると、午前6時半を指している。どうやら、あの夜と同じように、知らないうちに寝てしまっていたらしい。それに、昔のことを夢に見ていたようで、ゆっくり寝たはずなのにいまいち体が重く感じる。私は顔を洗って制服に着替え、お弁当を作りながら、昨日夕飯を食べずに寝てしまったぶん少し多めの朝ごはんを一緒に作って食べる。そして家を出るまでの間に、昨日の出来事をぼんやりと思い出す。

私は歌が好きだ。歌っている間は意識を人に向けることなんてないから。でも、誰かと一緒にカラオケに行ったのなんかは本当に久しぶりで、それは本当に楽しい時間だった。だからこそ、自身の感情を抑えきれずに叫んで出てきてしまったことがなおさら申し訳なく感じられる。

《郷田君には悪いことをしたとは思っている。でも私が連れて行って欲しいって行ったわけではないし、むしろこれで私から離れてくれるだろう。…本望だ。》

そうやって自分に言い聞かせて、私は鞄に必要なものを詰めて家を出る。いつも通りの道を辿って行く、いつもと何も変わらない日常。それなのに、どうして胸につっかえたこの不快感はまだ消えない。



 お昼になり、いつものように人気のないベンチでお弁当を開いたその時。

「いつもこんなところで昼飯食べてたんだな、音無さん。」

まだ耳に新しい声が私の頭に響く。私から少し離れたところに郷田君が笑顔で立っている。この距離だと心はかなり集中しないと読めない。

「…後をつけたの?褒められたことじゃないよ。」

私は慣れたように郷田君から意識を上手く外して話す。

「それはごめん、謝るよ。でも、昨日のことも謝りたくて。」

私は彼の言っていることがどこか気に入らなくて、僅かに眉をしかめて答える。

「…謝る?なんで郷田君が私に謝るの?昨日のことで悪いのは全部私だよ、ごめんなさい。もういいかな。」

でも、それに対して彼は一つも表情を崩すことなく答える。

「ううん、いきなり連れて行ったりしたのは俺だし。傷つけることを知らないうちに何かしちゃったんじゃないかって。ほら、俺バカだからさ。」

そして、彼は深く頭を下げた。

「本当に、ごめんなさい。何か悪いことをしたのなら、教えてほしい。」

本当に子どもみたいに真っ直ぐな人だ。自分の悪いことを素直に謝れる、立派な才能。でも、だからこそそんな貴方には、こんな私と関わってはいけない。私は精一杯彼を突き放すような、低い声で答える。

「うん、もういいよ。だからさ、悪いと思っているなら、早く教室に戻って、今後私には一切関わらないでくれるかな。お昼ごはん食べなきゃいけないし。」

これでいい、これでこれから彼も…私だって、傷つくことはない。そうやって私の意識から完全に彼を締め出そうとした時。

「それは!絶対に!!嫌だ!!!」

突然目の前の彼が叫ぶ。驚いて手に持った箸を落とす私を尻目に彼は続ける。

「俺はここで簡単に引き下がったりなんかしない。昨日音無さんが見せてくれた笑顔を、俺は忘れたくなんかない!せっかくこうやって知り合えたのに、これでさようならなんて絶対に嫌だ!」

私はその勢いに押されて一瞬彼のことを見たが、すぐにまた目をそらす。どうも彼が子どもらしいのは芯からのようで、思い通りにいかなくても簡単に諦めないようだ。しかし、ここで諦めてもらわなければ、結局困るのは彼で。こうなったのなら、と私は決定的な一言を放つ。

「いいえ、諦めて。私は人の心を読むことができる化物だから。」

続けて私はまくし立てるように言葉を紡いでいく

「関われば必ず貴方が不快な気持ちになる。不幸になる。最初に私がSparklersを口ずさんだのは、貴方の心を読んでたまたま知っていて思わず歌ったから。その後カラオケにいる時だって、私は貴方の心を全部読んでいたの。…怖いでしょう?自分の考えていることが全て知られているのよ。それが分かったなら、早く私の前から消えて。目障りだから。」

ここまでを言い終えると私は一つ息を吸い込む。これでいいだろう、これでこの厄介な彼も…今までの、あいつらと同じように、私を拒んでくれる。

しかし、彼の表情は一つも揺らがず、むしろ笑顔を軽く浮かべて

「…もしかして音無さんって思ったことがそのまま口に出ちゃうタイプなの?それってなんか小さい子どもみたいでなんか可愛いな!」

私の脅しに一つも怯えた様子もなくこう言ってくる。

 なんで?どうして私のことを拒まないの?私のことが怖くないの?私は彼の心を読めるはずなのに、彼の心が一つも分からない。

そして彼は、私のことを真っ直ぐに見つめて、

「それに、俺が見た感じでは、すごく無理してるように見える。いま音無さんが言ったことって、言い方はキツかったけど、全部俺のことを心配してくれてたよな。そんな優しい音無さんが…化物のはずないじゃないか。」

「…っ」

私が考えていることなんて一つも気にならないという様子で言い放つ。

「でも…私が心を読めるのは本当なんだよ。私といると、自分だけの秘密なんて絶対にありえない。聞かれたくないことまで全部筒抜けになって…それって…。」

途中で言いよどむ私の言葉を受けて、郷田君は宙に視線を向けて、ゆっくりと話し出す。

「うーん、でも俺は正直思ったことが全部表情と言葉に出るって言われるし、隠し事とかも特にないし。それに…。」

そういうと彼は私に近づいてきて肩をつかみ、私の目をじっと見つめて、



《俺、郷田明仁は、音無琴葉と仲良く、なりたいです》



「…!」

「…口に出すと恥ずかしいことも、こうするだけで伝わるって、すごく素敵なんじゃないのかなって、俺は思うよ。」

私に向かって、心の声を飛ばしてきた。その瞬間、私の視界は水の中に落ちた。泣くのなんていつぶりだっただろうか。私は何も考えず、ただひたすらに肩を借りて泣いた。





しばらく経って落ち着いた後、郷田君はおもむろに口を開いた。

「ところで、さっきの言葉に返事はくれないのかな。」

私は何のことか分からなかったが、

「さっきの返事…」

本当に仲良くなんてなれるのだろうか。でも。

しばらく考えたあと、私は相変わらず目線を逸らせたまま、でも、意識はほんの少しだけ彼に向けながら、



「…これから、これから貴方と仲良くなるために、えーと…もう一度、私と、今度はちゃんと、本当にちゃんとした、友達に…!」



精一杯、出せる限りの言葉で紡いだ。







固く閉じた殻の中で音のなかった一つの小さな世界がこの日、大きな明かりと心の言葉に照らされた。

ちょっと変わった中溪さん
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 一目惚れというわけではないが、なぜか気になる人がたまにいる。例えば、名字や名前が自分と同じだとか、使われている漢字が一緒とか。そういったときは無意識に目がいくし、フルネームだって覚えてしまう。もちろん顔と名前の一致もお手のものだ。親近感だって妙にわくし、勝手に名前の由来を考えてしまうこともある。

 結局、中学校の三年間と偶然にも同じだった高校の三年間、計六年間一度も同じクラスにならないまま、特にこれと言った接点もなく高校最後の年を迎えてしまったわけだが、そうやって記憶してきた人物の一人が、コ永さんだ。彼女はちょっと変わっている。



 コ永さんはよく家族で俺のバイト先に食事をしに来る。友人はおろか、知り合いの誰一人にも会いたくないという理由から、地元より少し離れたこのファミレスをバイト先に選んだわけだが、どうやらコ永さんも同類なのかもしれない。家族の前で無邪気に笑うコ永さんからは、普段の学校での表情とはまた違った印象を受ける。それはどこか堂々としていて、大人しくて真面目というよりかは、自己主張の強いギャルのようにも見えた。コ永さんの意外な一面を覗き見ることができて、なんだかとても得をしたような気分になったが、コ永さんはやっぱりコ永さんなのである。俺がバイトの最中に盗み聞きした会話や珍行動の数々は、学校のそれとは比にならなかった。
 例えば、コ永さんはドリンクバーのジュースを飲むときに、ジュースの色に合わせてストローの色を変える。オレンジジュースは青色のストロー、イチゴオレは緑色のストロー、抹茶ミルクは赤色のストロー。山葡萄ジュースは若干悩んだ後、緑色のストローを選んでいたっけ。コ永さんのことだから、これには何らかの法則があるんだろうけど、庶民の俺には考えもつかない。

 それから、コ永さんは必ずストローをSの字に曲げる。あの蛇腹のようになっている部分を器用に折り曲げながら小さなSの字を作っていく。最初はそれなりに難しかったが、慣れてくると不器用な俺でも簡単に形を整えられるようになり、それがコップの縁にピッタリとはまって意外と便利なことに気づく。実際にやっている人はコ永さんの家族以外見たことがないけど、都会のおしゃれなカフェでモデルなんかがやったときには、きっと流行るに違いない。

 そして極めつけは、コ永さんはアイスコーヒーなどに入れるガムシロップのことを魔法の液と呼んでいること。これは「まるで魔法にかかったかの如く甘い液」というコ永家の共通認識らしく、ちょっと変わった家族ルールなのかもしれない。ちなみに、コ永さんはホットカフェオレにも魔法の液を大量投入していたことから、かなりの甘党だと思われるが、テーブル上に綺麗に積み上げられていた魔法の液のカップタワーから推測しても、その領域は次元を越えている。これには氷砂糖を愛してやまない流石の俺も絶句した。

 もしかしたら、「コ永」という名字の人はみんな変わっているのかもしれない。



 俺の中に初めてコ永さんが現れたのは、中学一年生の五月だった。初めての制服。初めての人間関係。初めての部活動。そんな初めてだらけの日常に少し慣れかかってきた、そんな頃だった。俺がもうたぶん二度とないかもしれないほどの、強すぎる初めてに出会ったのは。

 俺が通っていた中学校は三つの小学校から編成されていて、一クラス四十人一学年六クラスのわりと大きな学校だった。だから、一度も話さず終わった同級生はかなりいるし、その中の数人は顔と名前が一致しないまま卒業を迎えたなんて話は、特に珍しいものでもなかった。特にコ永さんは、小学校卒業間際にどこかから引っ越してきたらしく、同じ小学校出身者とも距離があったことから、クラスの数人の女子としか話しているのを見たことがなかった。ただ、人見知りとか男嫌いとかいうわけではないらしく、話しかければ普通に答えてくれたらしいが。しかし、だからといって、何の接点もない俺がいきなり話しかけるなんてことは、どう考えたって不自然すぎる。

 そんな事情もあって、結局俺は、中学時代にコ永さんと言葉を交わすことはなかった。しかし、当時からコ永さんのことが気になっていた俺は、密かにコ永さん観察日記なるものをつけていた。その中から俺が厳選したコ永伝説を少し披露するとしよう。



 例えば、コ永さんは成績が良い。と、みんな思っている。実際は知らない。そんな噂もない。ただ、誰もがそう思っている。疑うこともなく、まるで自然の摂理のように。何でも、小学生のときは学年で一、二を争うほどの実力だったらしい。このことは同じ小学校の出身者が何人も証言しているので間違いないだろう。しかし、現在の成績となると、コ永さんが誰にもテストの結果を教えない以上真相は闇の中だ。まあ、小学生のときは賢かったんだけど……なんて話はよくあることだから、コ永さんがたとえそうだとしても何ら不思議ではない。むしろ、先生たちのコ永さんに対する接し方を見ていると、本当にそのような気さえする。まあ、授業中の様子を知らないので断定することはできないが。しかし、問題はそこではない。コ永さんが本当にすごいのは、誰も知らないことを学年中の共通認識にしているということだ。一体どういう風に生活すれば、そんな印象がつくのだろう。何もせずして秀才枠に入れるなら、一度でいいから入ってみたい。なんて考えながらテスト勉強そっちのけで机の上の片付けをしている俺は、そもそもコ永さんの秀才説を信じていないのかもしれない。



 それから、コ永さんは授業中によく手紙を書いている。なぜそんなことを他クラスの俺が知っているのかというと、休み時間のたびにコ永さんが俺のクラスの女子にその手紙を渡しに来るからだ。ルーズリーフやメモ帳などに書かれたそれは、いつも丁寧にかわいらしくデコレーションされていて、手紙の折り方にそんなに種類があったのかと驚くほど、毎回違う形に折られていた。そういった一面はいかにも女子そのもので、初めて目にするコ永さんの女子力に、なぜか胸が熱くなったのが懐かしい。



 そういえば、コ永さんは副教科のことを芸術四教科って呼んでたっけ。音楽や美術が芸術に値するのはわかるし、家庭科ももの作りという意味では芸術に含まれてもまだ許せる。だけど、体育だけはわからない。そもそも、体育に芸術的要素ってあるのか? コ永さんの思考にどうにか追いつこうともがいてはみるものの、やはり俺はまだそのレベルに到達していないらしい。うーん、わからん。頭の中で、まち針を持ったミケランジェロとダビデ像たちがトルコ行進曲にのって次々と踊りだす。そのなんと緩いこと。まるでお花畑にでもいるかのように、目に見えるものすべてがパステルカラーに染まっていく。そんな中、ひときわ異彩を放つダビデ像の腹筋。

……あっ、でも。

俺の頭の検索システムに、つい最近習ったばかりの真新しい知識がヒットする。古代ギリシアの古代オリンピック。つまり、肉体美。ほぼ全裸に近いボディビルダーのような色白の男たちが、トルコ行進曲の輪に加わった。

……一応、ありだな。

それが本当に正解なのかはわからないが、俺なりの答えは導き出すことができた。しかしそれと同時に、今回もレベルの差というものをまざまざと感じさせられる結果になってしまった。主要五教科じゃないことから、NO主要、脳腫瘍……なんてくだらない言葉遊びを必死に考えていた自分が恥ずかしく思えてくる。コ永さんってやっぱりレベル高けぇ。



 そうそう、コ永さんといえばポニーテールだ。いや、正確にはポニーテールだった。髪が長いと邪魔なうえに暑いという理由から、いつもあの髪型にしていたらしいが、それを急にショートカットにした。俺はその光景を見たとき、まさか失恋でもしたんじゃないかと思い取り乱してしまったが、盗み聞きという名の風の便りによると、なんでも部活を引退したからだとか。運動部に入部するから髪を切るという女子は山ほどいるだろうが、それに真っ向から逆らっていくのが、コ永さんが後輩の女子から告られるほどかっこいいコ永さんたる所以だ。



 ここまでの話を聞いていると少し驚くかもしれないが、コ永さんは生徒会に入っている。もともと生活態度に問題はなく先生受けも良かったことから、教員推薦という形で華々しく生徒会デビューをしたわけだが、何でも実際は友達の付き添いで生徒会の説明会に参加したら、立候補者の欄に勝手に名前を記入されたとかなんとか。良くも悪くも、みんなからのコ永さんへの評価は驚くほどに高い。しかし、そんな裏工作によって生徒会に入ったものだから、コ永さんに生徒会としての自覚はない。そこまで飛び抜けて目立っているわけじゃないが、スカートの丈は短いしブレザーだって少し改造している。許容範囲と言われればそうなのかもしれないが、生徒会としては完全にアウトだろう。まあ、そんな声を知ってかどうか、生徒会が制服違反についての声かけ運動をしているときに限って必ず不参加なのは、遅刻するたびに匍匐前進で教室に入ろうとする俺とは違い、ある意味筋を一本通していてとてもコ永さんらしいと思うが。


 この他にも、コ永さんは貝合わせの貝が宝物だったり、誕生日に竹の虫かごを欲しがっていたりと、やはりどこか変わっている。好きな食べ物を聞かれれば、甘酒とみょうがとコンデンスミルクという、いったいそこから何が生まれるのか想像もしたくない組み合わせを答えるし、友人がふざけて買ってきたお土産のこけしを本気で喜んでいたこともあった。なんでも理想のプロポーズは、ハートや幸せをイメージして作られたからくり箱に入った婚約指輪をもらうことで、将来の夢は子どもの十歳の誕生日に十年日記をプレゼントするような素敵なお母さんになることらしい。もはや貴族の発想としか思えないコ永ワールドに、庶民の俺は天晴れとしか言いようがなかったが、それでも純粋に感心してしまうんだから、コ永さんは侮れない。まあ、そんなコ永さんの最近の心配事が、唯一食べることのできるある会社の甘口カレーのルーがいつか販売停止になるんじゃないかとヒヤヒヤしていることだと知ったときには、悪いが全力で笑わせてもらった。甘口カレーのルーの心配とか、かわいすぎるだろ。



 瞬間、重力に従うように、頭が首の可動域だけ急降下する。ふと目を開けると、そこは学校の教室だった。目の前で行われているのは、もはや理科なんてかわいいものではなくなった物理の授業。開いている教科書のページが俺だけ違うということは、このページ分だけ俺は眠っていたということだ。なんだか懐かしくて気持ちのいい夢を見ていた気がするが、詳しい内容は何も思い出せない。いつも一番いいところがわからない。夢なんて所詮そんなものだ。俺は背中を椅子の背もたれに目一杯押し付け、小さく伸びをする。何とかこっちの世界に戻ってこれそうだったが、午後からの授業は気持ちがだれる。誰しもが経験したであろう、昼食後の満腹感と暖かい日差しが再び俺を夢の世界へと誘おうとしていた。

 別にこのまま素直に寝落ちても何ら問題はないのだが、ふと窓の外に目をやると、どこかのクラスがソフトボールをしていた。小学生の頃から野球チームに入っていた俺にとっては、体育での野球やソフトボールほど、ヒーロー気分を味わえるありがたい時間はなかった。

……あの女子、ティーバッティング下手くそすぎ。
男子が試合をしている間、女子は打撃や守備の練習をしているのだが、その女子は何回バットを振っても一向にボールに当たる気配がない。むしろ、ボールが見えているのかと疑いたくなるほど、バットはバッティングティーめがけて一直線に振られる。
完全にバットに振られてるわ、誰だよあれ。
腰も何も入っていないスイングに、呆れを越えて若干苛立ちつつも練習風景を眺めていると、男子の試合が終わったのか女子たちが道具を片付けだした。
今度は女子が試合か。どうせつまんないことになるんだろうな。
ストライクが入らないピッチャーに、ゴロが捕れない野手。極めつけは、打った瞬間三塁に向かって走り出すバッター。いくらルールを知らないといっても限度ってものがあると思う。俺は窓の外にあった視線を教室の中の黒板へと戻す。人間の苛立ちというものは、眠気にも勝る力を持っているらしい。
おかげで目が覚めた。これでこの授業は後からノートを借りなくてすむ。
 カリカリというシャーペンが文字を書き出していく音と少しばかりの話し声、そして微かに聞こえる安らかな寝息。真面目にノートをとること十数分。俺は再び窓の外に目をやる。
さぁ、どうなってるかな。
試合のスコアや詳しい状況はわからないが、想像通りのぐだぐだな試合だということはすぐにわかった。
おいおい、ピッチャーが投げるときも野手棒立ちかよ。ライナー飛んできたら怪我するぞ。ピッチャーもピッチャーでストライク入んねぇし、ボール何球目だよ。あっ、もしかして四球制度なくなってる? だから走者が一人もいないんじゃ……。
そう思った瞬間だった。バッターがバットを振る。腰も何も入っていない、どうしようもないスイング。その証拠に、バットを振りぬいた後、ヘッドがどんどん地面に近づいていく。しかし、そんなスイングとは裏腹にボールは外野の頭を越えていった。

……え、嘘だろ。あのスイングって。
俺が必死に記憶を呼び起こしている間に、バッターはファースト、セカンド、そしてサードベースを蹴って返ってくる。ランニングホームラン。ホームベースを笑顔で踏んだその人物を俺はよく知っていた。
……あれ、コ永さんだったんだ。あんなスイングでよく打てるよな……。もしかしてまぐれとか? いや、でもコ永さんは運動神経良いって誰かが言ってた気がする。遠心力にやられて走り出すのワンテンポ遅かったけど、ダイヤモンド一周するのは割りと速かったし。
人間は自分の持っていた情報と食い違うことが目の前で起きると、それの整理に時間がかかるらしい。俺は板書を書き写すのを途中で止めると、ノートにコ永さんのスコアブックを付けだした。

 試合終了。授業も終了。結果は、コ永さんが希代の十割打者であることを示していた。俺は自分のノートをもう一度よく見直す。すると、あることに気がついた。

全部一発で仕留めてる……。

明らかなボール球だけを見送り、打てそうなものはすべてヒット。一度も空振りをしていなかった。それだけでも十分すごいのだが、コ永さんが本当にすごいのは、それをなかなかストライクにボールが入らないピッチャーの球でやったということ。

あり得ない……。どんな技術してんだよ。

あまりの出来事に気を取られてしまい、そのときの俺は気がつくことができなかったが、そこにはもう一つコ永さんの神業が隠れていた。それは、止まっているボールは動いて見えるけど、動いているボールは止まって見えるということ。もちろん、コ永さん自身に確認したわけではない。しかし、あの練習中のティーバッティングの様子を見ている限り、そうだとしか思えない。まったく、普段は鈍くさいくせに、いざとなったら頼りになる少女漫画のイケメン幼馴染かよ。やっぱり、コ永さんはふざけてる。



 中学のときよりかはその頻度が少なくなったものの、高校でも変わらずコ永さんに注目していたある日、俺は図書室で一冊の手帳を見つけた。本棚に並べられている本と本の間に、まるでそれも図書の一部であるかのように平然と置かれている。

どうやったら、こんな場所に自分の手帳忘れられるんだよ。

個人情報の塊と言ってもおかしくない手帳を、誰かに見られる可能性のある場所に置いて、しかも忘れて行くなんて、俺には考えられなかった。驚き呆れつつも、俺はその手帳を手に取ると、少し考えてからパラパラとページをめくりだす。自分の手帳では絶対にあり得ないが、他人の手帳なら話は別だ。

こうやって見られるかもしれないから嫌なんだよな。まあ、忘れて行く方が悪いし。ちょっとくらい大丈夫だろ。

手帳というトップシークレットのような存在を目の前にして自分を制御できるほど、俺は人間ができていなかった。心の中で謝罪の念を叫びつつ、中身に目をやる。そこには予定がぎっしりと書きこまれており、見やすく色分けされていた。今日より以前の予定はすべて二重線で消されている。おそらく完了した予定はすべて消しているのだろう。

まるでサラリーマンみたいな使い方だな。字もきれいだし、なんかしっかりしてそう。あっ、でも同じ予定を何回も繰り返し書いてるところもあるし、意外と実行力なかったりして。

俺が絶対に他人に手帳を見られたくない理由の一つが、こうやって勝手に人物像を作られていくからだ。俺はありもしないことを誰かにとやかく言われたくはない。

まあ、今現在それをしている俺に言えたことじゃないんだけど。

これ以上中身を見ることは許されないような気がして、俺は手帳を閉じると元あった場所に戻そうとした。すると、手帳の隙間から折りたたまれた一枚の紙が床に落ちた。

なんだこれ。

俺はその紙を拾って広げてみる。ほんの数秒前に、勝手に人のものを見ることに対して罪悪感があったはずなのだが、好奇心には何物も勝てなかった。紙の上部には太い文字で、進路希望調査書と書かれていた。

この紙、俺ももらったわ。じゃあ、この手帳の持ち主は俺と同期の三年ってことになるのか。

意外な形で持ち主についての情報を得てしまった俺は、なんとなく拍子抜けする。それはまるで、不可思議な謎のトリックを誰かにばらされてしまったときのような、そんな喪失感に似ている気がした。

あっ、もう第一志望決まってんだ。へぇ、私大か。この大学なら頑張ったら俺でも行けたりするかな。ていうか、進路どうしよう、俺。

特にこれといってやりたいことがなかった俺は、一つの参考にしようと思い、あまり何も考えず名前欄に目をやった。

誰ぐらいのレベルでこの私大狙えんのかな……って、コ永さん!

俺は思わず叫びそうになった。

え、まじかよ。コ永さん私大希望なんだ。

動揺を隠しきれない俺は、それ以外のことが何も書かれていないことを確認してから、その紙を手帳の中に元通りしまい、そのまま本棚に並べておいた。

そういえば、いつか風の便りでコ永さんの志望動機について聞いたことがある。確か、その大学にある部活が目当てだとか……。これはさすがにあり得ないと思ってたけど、今の紙にも第一志望の欄に私大書いてたし、あながち本当なんじゃ……。でもそしたら何部なんだろう。あの大学にしかない部活とかあったかな。

しばらく自分の知っている大学の部活動を思い出してみたが、これといって珍しい部は見当たらなかった。それにしても、推薦でもないのにそんな理由で第一志望を決めるか普通。最終学歴が少しでも偏差値の高いブランド大学になるよう必死に悪あがきしてる俺がばかみたいじゃないか。まったく、欲がないというか素直というか、本当、コ永さんらしい。



 数日後、俺は担任と進路についての二者面談をするため、進路希望調査書を持って廊下を歩いていた。

ああ、やっぱりまじめに考えろって怒られるかな……。何だかんだで、うちの担任厳しいからな……。こういうの、ふざけてるって思われたら、反省文とか書かされんのかな。それだけは、まじで面倒くさい。

昨日の夜、何とか決めた志望大学。いたってふざけているつもりは微塵もないが、この内容が担任の目にどう映るのか。それだけが心配だった。

……もう、うじうじ悩んでてもしょうがない。どうとでもなれ!

半分やけくそになりながらも、職員室に近づきようやく覚悟を決めた俺は、まるで弾みをつけるかのように廊下の角を直角に勢いよく曲がった。瞬間、誰かとぶつかる。

「痛って!」

向こうも走っていたのか、全力で俺の胸に相手の頭部が直撃した。

なんなんだよ、廊下は走るなって小学校のとき先生に教わらなかったのかよ。ていうか、どんだけ石頭……。

俺は胸を押さえつつ、落とした進路希望調査書を拾おうとした。すると、
「第一志望、私立大学なんだ。また私とおそろいだね」
ふふっと笑いながら俺にそれを拾って差し出したのは、紛れもなくあのコ永さんだった。

え、嘘。コ永さん……。

誰よりも彼女のことが気になり、誰よりも彼女のことを見てきたはずなのに、いざ本人を目の前にすると、緊張で何もしゃべれない。急に固まった俺を少し不思議そうに眺めた後、彼女は俺の進路希望調査書をヒラヒラと振りながらこう言った。
「でも志望動機が、面白い人がいるから、なんて本当に昔から変わってるよね、コ永くんって」

リンゴジュース
162201


指摘をいただいた中から、

 ・土や雨の「におい」についての表現

 ・「僕」の気持ちを掘り下げること

 ・入社して忙しい時期の情景描写

 ・電話の部分を掘り下げる

  という項目を加味し、修正しました。

 できるだけ少ない材料から、二人の像を読者に創ってほしかったので、終わりをのばしたり、関係性の設定に大きな変更は加えませんでした。二人の過去と現在をうまく結びつけるのが難しかったです。



(ここから本文)



カーテンが、春風に揺れている。

 東京のアパートは、駅から少し離れていても、地元の倍くらいの値段だった。就活が周りより遅く終わり、急いで見つけたアパートだったが、面している通りには桜がたくさん咲いていて、窓からは小さくだが東京タワーも見える。思いの外悪くないじゃないか、と越してきてから感じている。荷ほどきは面倒だけど。

 ここで新しく、日々が始まるのだ。はじまりの希望の奥に、別れのもの悲しさを潜ませながら。

 越してきて一週間、やっと土地の様子や最寄駅周りをさらったぐらいから、もう仕事がはじまった。配属されたのは営業部だった。外回りの仕事が中心で、ザ・サラリーマンという感じだ。最初の内は専ら先輩について回るのが通例だそうで、オフィスから外回り、外回りからオフィス、次から次へと目まぐるしく場所が変わり、気付けば家の玄関に倒れ込んでいる。そんな日々が続いた。

 新生活、気合いを入れるため買った「やる気の出る365の言葉」カレンダーも4月半ばでとまっている。まだダンボールが残った部屋を横目に、今日もあわただしく玄関のドアを開ける。

 入社して数ヶ月が経った頃、部長から声がかかった。

 「そろそろ、仕事の要領はつかめてきたか?」

 「ええ、まぁ、どうにかこうにか……」

 「君に任せたい仕事があるんだが…」

 「えっ、僕個人に、ですか」

 後に聞いたが、これはこの部署に代々伝わる新入社員に対する洗礼で、へまをしても実はそれほど甚大な被害は及ばないのだが、表向きは大切な顧客で失敗は許されないように見える仕事を、部長が厳選して任せるというものだった。

 この仕事で、僕はまんまと洗礼を真っ向から浴び、ミスをすることになる。

 しかも、書類を紛失するという、超超凡ミスだ。我ながら何というか本当に、ダサい。

 書類はそれほど大事な内容ではなかったものの、打ち合わせ時間に再発行が間に合わず、相手様に迷惑を掛けることとなった。先輩が一緒に頭を下げてくれた。

 思えば、毎日毎日、動いて、動いて、夜は帰ってきて、飯を食って寝るだけ。そんな生活を続けて2ヶ月ぐらいが経っていた。目まぐるしいようで、割と冷静に見ると同じ事の繰り返しな日々だったことに、今日怒られた瞬間はじめて気付いた。

 先輩につきそって、仕事をひらすら覚える日々だったから、まともに叱責されたのは今日が初めてだった。

 一旦冷静に自分の生活を見つめ直すと、いつもの帰り道を歩いていても、今まで目に入らなかったものがいっぺんに視界に飛び込んでくるようになった。

 あ、こんな路地にラーメン屋がある。今度寄ってみようか。

 ここの細い道って、もしかして近道なんじゃないのか。

 そんなことを考えながら帰り道を歩いて、駅へとたどり着いた。

 ふと、ホームの端に、古い自販機があるのに気がついた。

 「あ、これ、地元にあったやつと似てる」

 そう思った瞬間、少し昔のことが、鮮明に目の前に浮かび上がってきた。夜だったホームは、夏の真昼間、あの景色へと変わる…

 「じゃん負けで、大岩井ジュースおごりやよ!」

 懐かしい声が俺に向かってかけられる。最後に話したのは、上京する少し前で、ほんの最近のことなのに、こんなにも懐かしい。

 元気にしているだろうか…

 明るい景色が遠くなり、気付けば僕は真夜中のホームに立ち尽くしていた。

 背後から電車の発車する音が聞こえる。

 「あっ…」

 という間にドアが閉まった。と同時に、

 ガコン。

 振り返ると、大岩井リンゴジュースが飲み物受け取り口に落ちていた。それも、2つ。

 あいつと僕は、幼なじみというやつで、小さい頃からよく一緒に遊んでいた。お互いが隣にいるのが当たり前で、高校に進学しても、一緒に帰ったりしていたから、周囲に散々冷やかされて、それからあまりあいつとは一緒にいなくなった。

 そのうち、同性の友達が増えて、お互いが隣にいないことが、自然になっていった。

 雨のにおいと、少しの頭痛。関東に梅雨入り宣言が出された。三日前から、くもったり小雨が降ったり、傘を持っていくか迷うような鬱陶しい日々が続いていた。

 だが、その日は昼から、バケツをひっくり返したような土砂降りになった。僕は先輩と、同僚2人と外回りに出ていた。昔から、土砂降りの日は傘と合羽の併用が基本だったから、ためらわず装着すると、同僚2人がなにやらにやにやこちらを見てくる。

 「今時合羽とか、田舎くせえなあお前」

 「いよっ、さすが田舎出身!」

 からかいつつも、2人はびしょ濡れで、鼻をグスグスいわせている。そんなことを言っていたら、風邪引くぞ…

 と思ったが矢先、次の朝部長から呼び出しがかかった。

 「おはよう。すまないが、〇〇くんと××くんが体調不良らしくてね。代わりに資料整理やってくれるかね、今日中に終わらせてもらわないと困るんだ、頼んだぞ」

 最悪だ。なんでしわ寄せが僕に…

 とりあえず、情報共有のため、同僚たちの連絡先を呼び出す。アドレス帳を開いて、名前を探していると…

 あいつの名前があった。

 「東京行っても、関西弁忘れたらあかんよ?標準語なってないか確認したるから、落ち着いたら連絡頂戴よ!」

 そんなこと言われたんだっけ。

 なんだかんだ、高校大学と進んでからも、僕のことを気にしてくれていた。

 「今夜、電話してみようか…」

 案の定作業は長引いて、残業になった。暗い部屋に明かりをつけ、ベッドに腰を下ろす。

 携帯を開くと、アドレス帳を開いた痕跡が残っていた。

 しばらくぼーっとしていた。気付いたら、通話ボタンを押していた。

 このところ、こんなことが多いような気がする。頭より身体が先に動いて、気付いたら思いも寄らぬ行動をしている。

 「もしもし。」

 数回のコールの後、声が聞こえた。懐かしいあの声。

 「あ…もしもし久しぶり」

 「ほんまによ。全然連絡くれへんから、心配しとったんよ?」

 相変わらず、お前は母ちゃんかよ。

 「……元気?」

 「まあね。大阪って行っても端のほうは田舎やねんなあ。楽そうやから大学の事務にしたのに、大学がめっちゃ山の上にあってさ、駅に着いたら徒歩で山登りやで。通勤大変すぎてもうヘロヘロやわ。そっちはどうなん?」

 相変わらずだ。こちらの問いかけが1ならば、10ぐらいのボリュームで答えが返ってくる。

 「まあまあ」

 「まあまあってなんやねん」

 驚くほど言葉が出てこず、うろたえる。

 気まずい沈黙が続く。何か、しゃべることがあるだろう。東京は電車が複雑すぎるとか、最近見つけたラーメン屋がまずかったとか、初めて契約をとれたこととか。しゃべるんだ、俺。

 「じゃあ、また連絡するから…」 

 「あ、ちょっ…」

 そういって、電話を切ってしまった。

 あの夏の日が脳裏を過る。りんごジュースを僕が2本買った後、地元の花火大会に行ったこと。学校のやつらを見つけて、なんとなく避けるように遠回りをしたこと。人ごみで、おしゃべりなあいつが躊躇いながら何か言おうとしていたこと。今みたいに、結局その言葉は聞けずじまいだった。

あの時、あいつはどんな顔をしていたっけ…。

 もうすぐ夏が、くる。

 7月後半だというのに、朝は随分と涼しいな…そう思っていると、

 「今年の夏は、数年ぶりの冷夏となりそうです」

 テレビから声が聞こえてきた。画面の中で、農家のおじさんが困ったような表情を浮かべている。

 『季節はね、大事にせなあかんのんよ』

 母親の声が聞こえてくる。田舎育ちで、実家が農家の僕は、季節に対して人より敏感なのかもしれない。おかげで、物心ついてからまともに風邪というものを引いたことがない。

 僕の家にはエアコンがない。夏は開け放して風通りを良くしたり、打ち水をしたりしてやり過ごす。冬は炬燵と、今時珍しい火鉢で冬を過ごしている。昔から、季節をありのまま受けて入れて過ごしてきたのだ。

 夏は、風向きによって土のにおいと一緒にこやしの臭いが漂ってきてうんざりしたものだが、今ではそのにおいが少し恋しい。

 こういう話をすると、また同僚に田舎臭いと笑われそうだが…

 僕は相変わらず季節に敏感にいたい。そう思う。

 今日も重い腰を上げて、会社へ向かう。

 今日は上司が来客の相手をしているため、珍しく外回りはなく、一日会社で事務作業だった。

 昼飯から帰り、廊下を歩いていると、同僚に呼び止められた。

 「おい、今、久留里商事から来客があるんだが、なんでかお茶が切れてるらしいんだ。お前、買ってきてくれよ」

 「なんで俺が…」

 「俺も今急ぎでコピー頼まれてんだよ。ペットボトルのお茶、湯のみに移し替えるだけでもいいそうだからさ。よろしくな。」

 肩を軽く叩いて、同僚は颯爽とコピー室へ消えた。なんだかなあ。いっつもタイミング悪いよなあ…

 1階の自販機コーナーへ向かう。えっと、お茶は…

 その時、ふと目にあのパッケージが飛び込んできた。

 「あ…大岩井ジュース…」

 あいつはじゃんけんが絶望的に強かった。しかも買うのは毎回大岩井のりんごジュースで…。

 中学生のころ、僕らは無垢だった。なにも知らずにただ笑っていられた。

 いつからだろう。周りを気にするようになったのは。

 「おい、まだそんなとこにいたのか。何してんだ急げ!」

 同僚の声でハッ我に返り、急いでお茶を買う。

 会議室へ走りながら、

「また、今夜電話してみようかな…」

 と思い立った。

 君と上手く話せるだろうか。

 上手く話せなくなったのはいつだろう。

 この前、電話を切ったのは、本当は言ってしまいそうだったんだ。

 君がいない毎日はきっと

 「すごく辛くなるんだろうな。」

 君がいないこと、君とうまく話せないこと。

 甘くて、少し酸っぱいこの気持ちに、少し名前をつけるならば…とか、ええ年して何言うとんねん、僕は。

 思いを巡らしながら、僕は廊下を駆ける。

 右手にお茶を、左手に大岩井のジュースを抱えて。


「ダメ男製造機」
162202


「ダメ男製造機」。「製造機」とあるのでそういう機械なのかと思うが、正確に言えばそういう人間のことを指す。交際した相手が、最初はすごく“いい人”だったのに、気づかぬうちにダメ男になっていた。しかもその原因は彼氏自身にではなく、なんでも「いいよ。」と許してしまったり、優しく尽くしてしまう彼女の方にあった。しかも過去の恋愛を振り返ると、なんだか毎回同じようなパターンでダメなやつと付き合っている気がする。こういう彼女のことを世の中では「ダメ男製造機」というらしい。なんと残念すぎる機械なのであろうか。



 そして私も、どうやらその「ダメ男製造機」の一員らしい。







 「いや、だから何でこの感覚がわっかんないかなあ。どう考えても気分的には蕎麦じゃなくてうどんでしょ。」

…またである。またこんなしょうもない喧嘩をしている。「今の気分完全にうどんです宣言」をされた彼女は、いつものように自分の提案に対して文句を言ってくる僕に対して不服そうな顔をする。この顔も、もう何度見ただろうか。正直この顔が一番可愛いな、と心の中でつぶやく。本人には絶対言わないけれど。



 彼女の名前は石田恵美子。交際2年目になろうとしている僕の彼女である。大学1回生の頃のあるサークルの新歓行事で僕が一目ぼれして、少しずつ話せる機会が増えていくうちに、頑張って彼女を振り向かせようと決意するに至った。それから、何度かご飯に誘ったし、ご飯に行くだけではダメだと思い、彼女が好きだという水族館へのデートにも誘ったりした。多分、僕の過去の恋愛において、ここまで自分が好きになった人に必死になったことはない。今思い返すと恥ずかしいくらいである。そして、彼女と出会って3ケ月が過ぎた頃、自分の気持ちを彼女に伝え、その日から交際が始まった。でも彼女がどうして僕と付き合ってくれているのかは未だに謎である。僕が彼女と付き合うまでの期間で、彼女にとって印象的なかっこいい行動や発言をした覚えはない。ご飯のときになるべく自然に聞いた、彼女の「理想の恋人像」といえば、「博識な人で、木村〇也みたいな人」である。これを聞いたときは、僕なんか門前払いではないかと本気で悩まされた。本当に、どうして彼女は僕なんかと付き合ってくれたんだろう。そういえば自分から聞いたこともない。



 「絶対蕎麦がいいとは言ってないじゃん。夜ご飯の一つの提案として挙げただけなのに、そんな結ちゃんの気分まで分かるわけないよ。」

恵美子が僕に言い返す。

「お前、もうすぐ付き合って2年になるんだから、それくらい察知できるようになれよ〜。しかも蕎麦って。OLと部長のランチタイムかよ。」

「…。」

 こんな喧嘩は日常茶飯事だし、というか、こんなの喧嘩とも言えないであろうから、いつものことだと思って僕自身は何も気にならない。むしろ言いたいことを何でも言える関係性であるのが誇らしく感じるほどである。

「じゃあちょっと材料買ってこようかな。……結ちゃんも行く?」

上着を羽織りながら、恵美子は僕の顔をチラッと見た。

「いや、留守番してる。気を付けていってらっしゃ〜い。」

彼女の下宿先の床に寝ころびながら、僕は彼女に手を振って見送った。窓から外を見るとなんだか雲行きが怪しい。恵美子、傘持ってたけな。今日の朝の天気予報で夕方から夜にかけて雨が降るとか言ってたなあ。そういえばあの天気予報士さん、顔がすっげータイプだったなあ。

そんなことを考えているうちに僕は眠りについてしまっていた。









「あ〜お腹すいた。もう18時半か。」

結ちゃんがクアアッと大きなアクビをしながら言った。本当だ。ダラダラしていたらもうこんな時間だ。

「夜ご飯何にしよっか。蕎麦とかどう?美味しい具材のっけてさ。具だくさん蕎麦的な!」

我ながら良い提案。俄然、蕎麦を食べる気分になってきた。

「いや、だから何でこの感覚がわっかんないかなあ。どう考えても気分的には蕎麦じゃなくてうどんでしょ。」

…。まただ。「僕の感覚理解できないの?」アピール。アピールというか皮肉のつもりなのだろうか。

「絶対蕎麦がいいとは言ってないじゃん。夜ご飯の一つの提案として挙げただけなのに、そんな結ちゃんの気分まで分かるわけないよ。」

「お前、もうすぐ付き合って2年になるんだから、それくらい察知できるようになれよ〜。しかも蕎麦って。OLと部長のランチタイムかよ。」

「…。」

いや、分かるわけがない。彼女だからって、交際2年目になろうとしてるからって、恋人が今食べたいものをドンピシャで当てる能力なんて身につくはずがない。しかも、結ちゃんは好き嫌いが無いからいつも「何でもいい」ばっかりじゃないか。そのおかげで私は2年経っても結ちゃんの好物とか知らないし。なんなんだコイツは。何様のつもりだ。



 結ちゃんとの出会いは大学1年生の春。結ちゃん曰く、

「一目見たときにビビッきたんだよ、恵美子に。」

らしい。他の子みたいにオシャレでも可愛くもない私なんかになぜにそんな運命的なものを感じたのかは謎だが、ご飯に誘ってくれたり、いろんなことを話しているうちに、私が結ちゃんに惹かれたのは事実である。女の子と話すのに慣れている感じでもないし、今まですごくモテてきたんだろうなあというタイプでは無さそうだったが、いろんな感情を、飾らずにしっかり言葉で伝えてくれる、そんな結ちゃんを好きになった。でも最近は……たぶん結ちゃんには全く悪気は無いのだろうけれど、思ったことを何でもそのままダイレクトに伝えてくる感じがある。別に私自身そんなちょっとやそっとで傷つくようなガラスのハートを持っているキャラでもないが、さすがに「彼女のくせに未だに彼氏のことも理解出来んのか」みたいな発言にはグサッとくる。だから、このウドンと蕎麦みたいな日常的な言い合いでさえ、個人的にはかなりダメージを受けているのである。そんなこと、結ちゃんには言えないけど。

「じゃあちょっと材料買ってこようかな。……結ちゃんも行く?」

気を取り直して、近所のスーパーに誘ってみる。

「いや、留守番してる。気を付けていってらっしゃ〜い。」

……ですよねえ。最近はスーパーにすら一緒に行ってくれなくなったなあ。食材でいっぱいになった袋を2人で片手ずつ持ちながら帰るあの時間が好きだったのに。



「ダメ男製造機」。以前友達に結ちゃんとの関係を話したときに、そう言われた。

「あんたが何でもかんでも彼氏の行動や発言を許したりしちゃうから、彼氏もそんな風になっちゃったのよ。どうせあんたのことだから、言いたいことも自分が我慢すればいいや、とか思ってるんでしょ。」

その時は、いや、まさか私のせいなの?と反論したのだが、こんな感じになっちゃったのは、友達の言う通り、本当に私のせいなのかもしれない。

そんなことを思いながら、手を振ってくる結ちゃんに背を向け、私は無言で家を出た。



 スーパーで買い物を終え、結ちゃんのリクエスト?通りにウドン玉と具材を袋に入れたものを手に提げて外に出たら、雨がザーザーに降っていた。ほんの30分で、こんなに天気って変わるものなのか。家とスーパーの距離は近いが、これは傘がないと厳しい。確かに、今日の天気予報で19時頃から雨が降るって言ってたなあ。仕方ない、結ちゃんに傘を持ってきてもらおう。そう思って、結ちゃんに電話をかけた。……繋がらない。あいつ、絶対寝てるな。しかもスマホもマナーモードなんだろうなあ。心配するとかそういう考えすら無いんだろうなあ。なんだか今日はちょっとのことで感傷的になる自分を、自分自身でポジティブにしてあげる気力も湧かず、大雨の中、走ることもせずにトボトボと家に帰った。









 「結ちゃん。ご飯出来たよ。」

恵美子に肩を叩かれて起きた。まじか、寝てたのか…。恵美子が帰ってきていたことにも気付かなかった。寝ころんでいた床から食卓机の方を見ると、美味しそうに湯気をモクモクさせている丼鉢が見えた。この匂いは…おそらくウドンだな。蕎麦を提案してたのに、スーパーで「しょうがないからウドンにしてやるか」みたいな顔をしながら買い物をしてくれたのであろう彼女を想像すると、なんだか愛おしくなった。



 体を起こして、食卓に着いた。キツネウドンにワカメがトッピングしてあった。ワカメか…。そう思いながら彼女と向かい合わせになったときに、驚いた。彼女の髪がかなり濡れている。着ている服も変わっていた。もしかして…。

「雨降ってきてたの?」

「うん。スーパーを出たときにはもう降ってた。結構ザーザー降りだった。」

いつもより、返事がそっけない気がした。

「傘は?」

「持って行ってなかったから。濡れて帰ってくるしかなかったの。」

「買って帰ってこれば良かったのに。あのスーパーならビニール傘くらい売ってるだろうに。ていうか雲行きも悪かったんだから折り畳み傘くらい入れときなよ。それくらい予測しとかないと。それに、帰ってきてすぐ風呂でも入ればよかったのに。あと、ワカメじゃなくて、トロロなら完璧。」

思ったことをかなりグチグチ言ってしまったなと、言い終えてから気付いた。娘を心配して小言を言う、オヤジみたいになってしまったな。

「…。」

彼女は少し黙ってから、

「傘はもう売り切れてたの。天気予報は朝見てたけど、家を出る前は考え事してて、空なんて見てなかったし。それに……結ちゃんがお腹すいてるって言ってたから、早くご飯作った方がいいだろうなって思ったの。」

と小さな声で呟くように言った。それから彼女は食べ終わるまで一言も話さなかった。



 その後から、恵美子があまりにも必要最低限のことしか話さないので、どうしたらいいのか分からず、僕はとりあえず「シャワーを浴びる」という逃げ道へと足を向かわせた。シャワーが終わって部屋に戻ると、彼女は洗い物を済ませてくれていて、ぼーっとテレビを見ていた。そして僕の存在に気付いたのか、のそっとその場を立ち、何も言わずに風呂場へと向かっていった。



 おかしい。明らかに彼女がおかしい。何かしたんだろうか。いや、僕が何かしたんだろう、それ以外に何がある。自分が鈍感なことには前々から気付いていたが、分からないものは分からないしなあ。そう思ってスマホを見ると、一件の着信が入っていた。恵美子からだ。時間は…彼女がスーパーに行ってくれていた時間である。

「……あああああああ!」

そうか、多分僕に傘を持ってきてもらおうとしてたんだよな、恵美子は。僕が電話に出ないもんだから、ビショ濡れで帰ってくるしかなかったのか。それは悪いことしたなあ。しかもこんなグータラ寝てただけの僕のために、風呂にも行かずに先にご飯を作ってくれたのに、「トロロが良かった」とか言っちゃったし。さすがの僕でも自分の発言が失態まみれなのが分かった。恵美子に悪いことしたなあ、そりゃあ彼女も怒るわけだ。全く、こんな男とどうして恵美子は付き合ってくれているんだろう。意味が分からん。この気持ちをどこにもぶつけられないので、とりあえず落ち着くためにも茶でも飲むかと思って冷蔵庫を開いた。茶瓶を手に取ろうとした瞬間目に入ってきたのは、明らかにさっき恵美子が買ってくれたのであろう、僕の愛してやまない○△製菓のシュークリームだった。もう……ほんとこいつは何ていいやつなんだ。蕎麦に文句言ってた僕にデザートまで買ってきてくれちゃうんだから。なんであいつはこんな僕みたいな男と付き合ってるんだ。博識も無けりゃあ、木村〇也でもないし。もう彼女には感謝してもしきれない。



僕は、シュークリームと茶瓶を両手に持ちながら、風呂場の方向に向かって一礼し、

「恵美子、ありがとおおおおおおおおおおおう!」と叫んだ。









 トロロが良かったとか…。いやもうここまでくると結ちゃんの言葉一個一個にテンションを落とすのも悔しくなってきた。シャワーを浴びながら、付き合った当初の楽しかったいろんな思い出と、今日の出来事を比べて悲しくなった。私って、結ちゃんとは実は合わないのかも。結ちゃんは私にビビッときたって言ってくれたけど、それも何かの間違いだったんじゃないかな。それとも、今までなんでも許してきちゃった「ダメ男製造機」の私のせいで、結ちゃんが感じた運命も、運命じゃなくなってきたのかも。確かに、結ちゃんに明らかに非があることでも、私がなぜか謝って解決したこともあった。何か嫌なことを言われても、自分が我慢すればいいだけだからと思って笑ってその場をやり過ごしていた。昔は私のつくったご飯を「美味しい」と笑顔で食べてくれていたけど、最近は一口目、いや食べる前からダメ出しばかり喰らう。こんな状態の私たちって、もうダメなのかなあ。



 そんなことを思いながら、ドライヤーを済ませて部屋に戻ると、結ちゃんはもう布団の上にダイブしてグースカ寝ているところだった。あー、私が機嫌悪いとかも気にならないというか、気付いてないんだろうなあ。そう思って机の上を見ると、私がスーパーで買ってきた○△製菓のシュークリームが置いてあった。あれ、冷蔵庫に入れてたはずなんだけど、なんで机の上に?…よく見ると、シュークリームの横にメモが置いてあった。そのメモには



「食べたらトロロよりワカメの方が合ってた。恵美子いつもありがとう。好きだよ!!!!!!!」



と書かれてあった。その隣に折り畳み傘も置いてあった。私からの着信に気付いたのか。今傘なんか置かれても遅いわ!!!ってか「!マーク」多すぎだわ!心の中で結ちゃんからの言葉にツッコミながらも、そんな結ちゃんの言葉に笑っている自分がいた。



 そういえば、結ちゃんとの3回目のデートで水族館に連れていってくれたとき、薄々結ちゃんの気持ちに気付き始めていたので「もしかしたら告白されるかも」なんて思っていた。まあ告白するとしたら、あの水族館なら近くに観覧車があるし、夜は夜景が綺麗だし、なにかそういう絶景スポットとかで、一生懸命考えてくれた言葉を言ってくれたりするのかな。勝手にそんな妄想を膨らませていたのも事実である。でも驚くべきことに、結ちゃんは私の想像のかなり斜め上をいっていた。水族館の終盤に、タッチプールがあり、そこではヒトデといった海の小さな生き物に触れ合える場所がある。テンションが上がりまくっていた私は、正直結ちゃんの存在すら忘れて、ヒトデと触れ合うのに必死だった。すると、私の頭上から、

「恵美子ちゃん…。僕…恵美子ちゃんのことすっごく好きだわ。」

という言葉が降ってきた。

「え?」と思い、振り返ると顔を真っ赤にした結ちゃんが「いや、完全に今言うときじゃないでしょ」という感じで立っていた。ちなみに、結ちゃんの横に立って、自分の子どもがタッチプールではしゃいでいるのを見守っていたお父さんらしき人の顔は、結ちゃんより真っ赤になっていた。後から、なぜあのタイミングで告白したのかを聞いてみたら、

「楽しそうにしてる恵美子を見てたら、なんかポロッと口から言葉が出ちゃったんだよね。」

と言っていた。



こんなに、どストレートに言葉を作らず、「好きだよ」と伝えてくれる結ちゃんが結局私は大好きなんだよなあ。告白してくれたあの時も、2年経った今でも。やられた。あんなに感傷的だったのに、この言葉で全部ひっくり返されてしまった。ベッドの上でグータラ寝ている結ちゃんにバチンッと一発デコピンをして、

「私もだよ。」

と呟いた。結ちゃんは目覚めなかったけど、なんだか顔が嬉しそうな気がした。



 私は多分「ダメ男製造機」だ。でも、それでも、ダメ男になっちゃた結ちゃんと、大切な言葉をストレートに伝えられる結ちゃんと、これからも一緒にいてあげてもいいかな、なんて思いながら、シュークリームを冷蔵庫に戻した。



162203


「今日何の日か覚えてる?」というと、

恭太は「もちろんだよ。結婚記念日だね。」と返事を返す。

二人が出会ったのは、ちょうど十年前の今日だ。



あの日、結衣の勤め先であるファミリーレストランに、黒縁眼鏡をかけたスーツ姿の男性が一人で入ってきた。

親子連れや、女子高校生で賑わう店内で、彼は異彩を放っていた。

彼は、その日から頻繁に店に通うようになっていた。

「初めて出会った時から好きだったんだよ。ずっと視線送ってたのに気付かないんだから、ほんと鈍感だよな結衣は。」と恭太に後に言われたが、結衣はそんなこと夢にも思わなかった。

恭太がいうには5回目だったらしいが、彼がまた店にやってきた。結衣が注文を聞きに行ったとき、「何時あがりですか?」と聞いてきた。急な質問に驚きながらも、結衣は「22時です。」と答えた。

22時すぎに、店を出ると彼は店前で待っていた。

「清水さん、ですよね。初めて話すのに勝手なこといいます…ずっと好きでした。僕と付き合ってください。」と彼は照れながらも、はっきりとした口調でそう言ってきた。

唐突すぎる告白に、結衣は吹き出して笑ってしまった。二人は顔を見合わせて笑った後、

「まずは食事にいきませんか?」と結衣の方から切り出した。その後、交際に発展し、順風満帆の日々を送ったのちに結婚した。

恭太といると、結衣はいつでも幸せだった。結衣の誕生日には毎年凝ったプレゼントとサプライズ、プロポーズには100本のバラを贈ってくれた。恭太は、こうやって結衣への愛を素直に表現してくれる。結婚して今日で7年になるが、彼は変わらない。愛されてるな、と結衣はいつも思う。

一昨年には、子どもが生まれて、二人は親になった。結衣は、周りの友人から散々、「子どもが生まれたら夫婦関係は終わりだよ。」と聞かされていた。友人の話によると、仕事ばかりで育児を任せきりにされるストレスから夫への愛情が覚めてしまうらしい。結衣も、そうなってしまうのかと思っていた。

でも、そんなことは全くなかった。恭太は、仕事から帰ってくると子どもと遊んだり、休日になると「今日は家のことは任せて。」と、結衣を自由にさせてくれたりする。結衣がストレスを抱えているときは、なぜか気づいて優しく話を聞いてくれる。恭太は自分にはもったいないくらい素敵な人だと思う。



「今日何の日か覚えてる?」

「もちろんだよ。結婚記念日だね。」

「たまには、好きって聞かせてよ」と言うと、

恭太はクスッと笑い、「最近言ってなかったね、好きだよ。」と答える。いい年してなんだよ、と彼は笑う。

そう、恭太はこうだ。いつもこうして私を満たしてくれる。包み込んでくれる。

でも、こうして恭太が私を安心させてくれるたび、思い出す記憶がある。こんな幸せな日でさえも思い出してしまう。青くて甘くて苦い記憶だ。よく世間で言われるが、本当に、結婚相手は二番目に好きな人なのかもしれない。さっきまでの大雨が上がった雲を見上げると、うっすらと虹がかかっていた。部屋の窓を開けると、外から雨上がりの湿った匂いがした。







「ねぇ、だからはやく帰る用意してよ!遅いって!」

「結衣はせっかちだな。そんなに急がなくてもいいやん。」

 かれの帰る用意ができるのを待って、二人は駅まで走ったが、走っている途中の道から、発車する電車を見て取れた。

ほら、乗るはずの電車を逃した。はぁイライラする。かれは、本当にだらしない。

今日、火曜日は、大学から二人で一緒に帰る日になっている。二人は、四時間目に同じ授業を取っていて、その流れで一緒に帰るという習慣がついていたのだ。私は、密かに二人で下校できるこの火曜日を楽しみにしていた。お気に入りの服を着て、髪の毛を可愛くして、化粧を濃くするのも火曜日だ。月曜日の夜は、ワクワクしすぎて眠れなくなることもある。でも、一緒に帰るといっても、約束をしているわけではない。そもそも、そんな約束を取り作れるような関係性ではない。そう、私たちは、恋人同士ではないのだ。いわゆる友達以上恋人未満という感じだ。でも、私はかれのことが好きだった。

私とかれは、大学一年生の時に同じ学科で出会った。はじめは、かれのことが苦手だった。容姿がチャラチャラしていたからだ。かれと出会うまでの私は、人と関わることが苦手だった。というのも、色んなことがあって対人関係に飽き飽きしていたからだ。かれのような、いわゆる一軍っぽい人は特に関わらないようにしていた。でも、「清水」と「鈴木」という苗字のせいで学籍番号が隣だったから、何かと話す機会が多かった。かれは、私の心にズカズカと踏み込んできた。馴れ馴れしいかれを初めは敬遠していたが、話すうちに彼の人柄がわかってきた。私の緊張を解くためにそうしていたこと、そして実は内気で、私に嫌われないかと不安になっていたことを後で知り、変なやつだなと思うようになった。まじめで心優しい性格をしている、でも天然でバカな一面もあった。気付いたときには、私はかれに会って話せる日常が好きになっていた。大学四年生になった今では、いつも一緒にいるくらい仲良くなっていた。周りから、付き合っているのではないかと勘違いされるくらいだったほどだ。



「あーあ。ほら電車乗れなかったじゃん。」と私が言うと、

「別にいいやん。」とかれ。

「よくないし。あと20分も待たなきゃじゃん。」

私が拗ねていると、

「怒ってる?ごめんね。」と笑顔で言ってくる。ずるい。

この笑顔に私はどれだけ屈してきたのだろう…。むかつく。でも、やっぱり憎めない。

かれは、よく私をイライラさせる。大事な約束を忘れたり、私のことを冷たくあしらってきたりする。でも、なぜだろう。どれだけ腹が立っていても、かれの顔を見ると「まあ、いいか。」と思えてしまう、不思議な人だ。

私は、かれと他愛もない話をするのが好きだった。話といっても、お互いをバカにしたりふざけあったり、中身のない会話ばかりだった。でも、周りに気を遣って生きてきた私にとって、かれといる時間だけは自然体でいられた。かれのおかげで、人に心を開いてみてもいいかなと思うようになれた。家族のこと、友達のこと、好きなもの、嫌いなもの、なんでも話せた。こんなに好きな人にこれから先出会うことはないだろうなと思っていた。でも、「好き」なんて言えなかった。この関係が壊れてしてしまうのも、かれを困らせてしまうのも怖かったから。そんなことになるならこのままでいい、ずっとそう思っていた。一方で、かれの方も本当に何を考えているのかわからなかった。ただの友達としか思っていないんだろうな…。



その時、突然雨が降ってきた。空を見上げると二人の待つ駅のホームの上だけ、黒い雲に覆われていた。局地的な豪雨だ。屋根のある駅のホームにも、雨が強く音を立てて注ぎ込んできた。

私たちは、急いで待合室に駆け込んだ。待合室に入った時には、お互いにびしょ濡れになっていた。

「もう、なんて災難なのよ…」とタオルで身体を拭きながら私が言うと、

「風邪ひかれると困るから。」と、かれは自分の上着を私に渡してくる。

そうやっていつも、私のことをドキドキさせてくる。無意識にこんなことするのだろうか…。

「勘違いさせるようなことしないでよ。」と私が冗談交じりに言うと、ふたりを沈黙が包んだ。気まずい…。私、なんでこんなこと言っちゃったんだろう…。

気まずい雰囲気に耐えかねて、窓の外を見ると、いつの間にか雨が上がっていた。

「雨止んでるよ…!」

私のつぶやきをきっかけに、私たちは外に出た。

するとさっきまでの雨が嘘のように、眩しい太陽が顔を出し、空は晴れわたっていた。

そして、その空には七色の大きな虹がかかっていた。

私は無意識に、「虹が綺麗だよ。」と呟いた。

すると、しばらく沈黙が続いた後で、

「いや、お前のほうが…」という声が背後で聞こえた。

ハッとして私は耳を疑った。時間が止まった気がした。

ただ、自分の顔が火照っている実感だけがあった。

どんな言葉を返せばいいか分からずに、

「え…?」とふり返ると、かれは照れ臭そうに虹を見上げていた。

私は、そんなかれを見て、すぐにまた虹を見上げた。

あの日、私たちは初めて繋った気がした…。

あの日の、かれの上着の甘い香り、湿気を帯びた空気、あの虹、そこにあった全ての記憶が今でも私の身体に沁みついている。







今日の僕は絶望のふちだ。どうにかなってしまいそうだ。

外の天気も僕の気分と同じように土砂降りだ。

遺骨姿で再会だなんて、そんなことあるかよ。

式場で挨拶をしている人の姿を見ながら、あぁ、あれが結衣の両親か、あいつが夫か、と思った。あの子が結衣の子どもなんだろうな、結衣に目元が似ているな、と思った。

彼らの顔を見ていられなくなり、僕は葬儀場の外へ出ようとした。

そこで「あれ?鈴木くんだよね?鈴木良介くん?」と話かけてきたのは、大学の頃の同期だった。

確か、結衣の幼馴染の女の子だった。卒業後も結衣と仲良くしてたのだろうか。結衣は、大学を卒業してからどんな毎日を送っていたのだろうか。

「なんで結衣がこんなことに…。なんで結衣だったの…。」と彼女は涙を流していた。

結衣が死んだ、という知らせを受けたのは一昨日だった。交通事故だったらしい。帰宅途中、信号無視をして歩道に突っ込んできた車にはねられたらしい。全身を強く打ち、病院に運ばれたが、手遅れだった。

僕は、そう言う彼女の肩をさすることしかできなかった。僕も僕でいっぱいいっぱいだ。

僕は彼女の側から立ち去ろうとしたが、「待って。鈴木くんに言わないといけないことがあるの。」と、彼女は僕を強い声で呼び止めた。そして、彼女は話を始めた。

「結衣はね、大学卒業後、しばらくはバイトをしていたファミリーレストランで社員になって働いていたの。そこで、恭太さんに出会ったんだ。そしてとんとん拍子で、結衣は恭太さんと結婚した。28の歳だったかな。慎重派の結衣だから、こんなに早く結婚するなんてびっくりした。それから、俊くんが生まれたわ。結衣は、本当に幸せそうだった。たまに一緒にお茶してたんだけど、家族の思い出話をたくさん話してくれたわ。」

ここまで話すと、彼女は呼吸を整えて、すこし間をとった後にこう続けた。

「鈴木くん、結衣はあの頃、あなたのことをすごく好きだったんだよ。結衣は、気持ちを伝えられなかったことをずっと後悔してた。鈴木くんが、結衣のもとからいなくなっても、結衣はずっとずっと想っていたよ。結衣は確かに、素敵な人に出会って、愛する家庭を築いた。それは結衣にとって幸せな毎日だったと思う。でも、結衣は悩んでいた。『ふとした瞬間に昔を思い出してしまうんだよね。情けないよね、私。』って言って笑うの。それは、あなたが結衣の心につっかえていたからだと思う。私は、大学生の頃から、結衣の想いを知っていた。結衣がこんなに人を好きになるなんてって、正直驚いた。結衣にはね、中学校のころある事件があったんだ。中学二年生だったとき、結衣に告白してきた男子がいた。でも、その男の子のことを好きな女の子がいてね、その女の子はクラスのリーダー的存在だった。結衣は彼女に目をつけられて、あらぬ噂を流されて、クラス全員から冷たい目で見られるようになったの。その事件以来、結衣はクラス全員、そして他クラスの人にも恐怖心を抱き、人を信じられなくなったの。心を塞ぎこむようになってしまった。そんな結衣の心を救ったのは、あなただった。あなたと出会って結衣は変わった。結衣の想いを、私が代わりにあなたに伝えておくべきだと思ったから。」

 そう言って、彼女は、友人らしき集団のもとへ去っていった。

僕は、その場に呆然と立ち尽くした。無意識に大粒の涙が溢れ出していた。結衣の存在が、急に身近に感じた。結衣にもう一度会いたい、会って伝えたいことがある。



あの頃、僕は結衣に恋をしていた。結衣は、僕にとって特別だった。結衣は、僕の人生を色づけてくれた。僕は、自分で言うのも何だが容姿は良い方でそれなりにモテたし、不自由なく楽しい生活を送っていた。でも、どこかいつも寂しかった。自分を素直にさらけ出せる人はいなかったのだと思う。大学生になって、髪の毛を染めて、流行りの服を着て、好きでもない相手と遊んだりもした。そんな時に、結衣と出会った。出会った瞬間、僕は結衣に何か運命的なものを感じた。周りのみんなは、僕に壁なく接したが、結衣だけは一筋縄ではいかなかった。警戒心が強く、引いた態度をとる結衣のこと次第に放っておけなくなった。結衣という人間を知りたい、向き合ってみたいと思った。仲良くなるにつれて、初めて感じた感情は確信に変わった。結衣は、今まで出会った誰よりも居心地がよかった。うまく言葉にできないけど、結衣には僕の弱さを包み込んでくれる安心感と、優しさがあった。心で通じ合える人だった。苦しいとき、辛いとき、楽しいとき、うれしいとき、いつでも結衣は僕の側にいてくれた。そして、眩しい笑顔で僕を癒してくれた。

でも、あの頃の僕は、その優しさに素直に向き合うことができなかった。愛情が空回りして、冗談を言って傷つけたり、わざとつれない態度をとったりもした。肝心な時に妙なプライドが前に出てきて、結衣を怒らせることもあった。結衣との何気ない日常がたまらなく大切で、でもどこかもろくて、自分の一部で、なくしたくなかった。仲が良くなれば良くなるほど難しいものだ。言う機会はいくらでもあったのに、「好き」の一言がどうしても言えなかった。

でも、心のどこかで結衣はいつまでも僕の側にいるものだと思っていた。しかし、そんなことは無かった。

大学卒業後、就職したあと、環境が僕たちを隔てていった。僕らを結び付けておくような名前を持つ関係ではなかったから。東京へ就職が決まったときも、結衣には言えなかった。結衣の顔を見たら、離れられなくなると思ったから。結局、結衣に別れも告げず、一人で上京した。これが、結衣との永遠の別れになるとは知らずに・・・。

でも、僕には後にも先にも、結衣だけだったんだと今になって思い知る。就職して、大人になってそれなりに恋愛はした。結婚しようと思った相手もいた。でも、できなかった。結衣のことが頭から離れなかった。失ってはじめて、自分の中の結衣の存在の大きさを実感した。いっそ、結衣のもとを訪れて、連れ出してやろうかとも思った。

しかし、そんな時、結衣が結婚したという知らせを聞いた。僕は、なんとも言えない感情に襲われた。そうか、結衣は、結衣の人生を生きているのだなと思った。結衣と僕は、もう決して交わることのない人生を生きていくのだと思った。もし、あの時、想いを伝えていたら。僕らの人生はどう変わっていたのだろうか。

40歳手前になって昔のことを嘆くのは情けないが、どうしても考えてしまう。あの頃僕は、何に迷っていたのだろう。失いたくないものは、結衣だけだったはずなのに、どうして向き合わなかったのだろう。どうして素直になれなかったのだろう。昔の自分に、無性に腹が立った。蓋をしていた結衣との思い出、その面影が走馬灯のように頭をよぎる。

僕は溢れる涙を拭うこともせずに、外へ出た。



すると、さっきまで降っていた雨が上がり、空には綺麗すぎる虹がかかっていた。

鳥肌が立った感覚があった。あの時の、あの火曜日の記憶が切り取られて、僕の前に鮮明に現れた。今、僕の隣には、結衣がいるような気がした。あぁどうして、あの時僕は言えなかったのだろう。好きの言葉が言えなくても、これくらいちゃんと言えばよかった。

「虹が綺麗だよ」

「いや、お前のほうが。虹より君は綺麗だ。」

そう呟いた瞬間、空から一筋の光が差し、太陽が顔を覗かせた。

きろ
162204


僕は長い長い道のりを歩いていた。どこへ行くでもないこの暗く長い道を。この道はどこへ続くのだろう、ここはどこなんだろう、それすらわからない。



ふと、足が止まる。明かりが見える、電灯とかそういう代物ではない。



―――家だ。



周りには何も無い、今まで何時間何日と歩いてきた僕が言うんだ、間違いない。何でこんな所に家が・・・その頃には既に僕の頭の中から道の先に対する好奇心はすっかり消え失せていた。



窓から家の中を覗きこむ。中には誰かいるのだろうか。



中には老婆が一人たたずんでいた。老婆は一人でシチューのようなものを食べていた。体格はいいものの、年齢のせいか腰を大きく曲げていた。昔ながらのおばあさんといった感じで、割烹着に身を包んでいた。



よほど間抜けな顔で見ていたのだろう、老婆はこちらに気付くと微笑んで、ゆっくりと近づいてきた。しまったと思いながらも僕はその場から動けなかった。僕の怯えた表情を見て少し悲しげな顔をする老婆。



窓を持ち上げると老婆は目を細めながら言った。



「丁度シチューを作りすぎちゃったの、一緒に食べない?」











僕は老婆と机を囲んでいた。天井にある暖かな明かりのせいか料理が特別美味しそうに見える。



「バケットはお好き?いつもバケットと一緒に食べてるのよ。」



僕は首を縦に振った。



「そう、それは良かった。」



老婆はお皿を机の上に置くと



「ほら、冷めないうちに食べちゃって。」



とにっこり微笑んだ。僕は遠慮しながらそっとスプーンを口に運んだ。



「どう?お味は・・・・・・って聞くまでもなさそうね。」



目の前のお皿はいつの間にか空っぽになっていた。老婆は嬉しそうに



「気に入ってもらえたようで何よりだわ。」と言った。











「とりあえずお風呂に入りなさい。今のままじゃ、気持ちが悪いでしょう。」



老婆は僕に勧めてきた。僕はこの老婆の好意に甘えて入浴することにした。



 シャワーを浴びていると時折ズキっと鈍い痛みが体中を駆け巡る。痛みを感じた辺りを見てハッとした。そこには夥しいほどの痣や傷があった。あんまり長いこと見ていたくなくて、僕はさっさと入浴を済ませた。



 お風呂から上がると老婆は



「まぁ、とっても綺麗になったわね、清潔感があってとっても男前よ。」と言いながら笑いかけてくれた。











あれからしばらく家に居させてもらっているのだが、老婆は特に働きに出ることもなく、ただただ僕に笑みをこぼす。来訪客がよほど嬉しかったのだろう。



「行く場所がないなら無理に出て行く必要は無いわ。」



「お客さんなんて久しぶりだから嬉しいわ。」



「ずっとここにいてもいいのよ。何も気にする必要はないわ。」



老婆は常に笑顔を絶やさない。















ある日、僕と老婆がいつも通りに食卓を囲んでいた。明かりはぼんやりと食卓を照らすばかりで、僕はいつも通り老婆が作ってくれた晩ご飯をほおばり、そんな姿に老婆は笑みをこぼしていた。



僕が最後の一口をほおばろうとすると、突然扉が開いた。



「ちわ〜っす、郵便です。」



「あらあら、いつもありがとうねぇ。」



僕は少し驚いた、長いとも言えないがこの何日間、郵便の配達とはいえ、僕以外にこの家を訪れる人なんていなかったからだ。



「何ヶ月かに一回あぁやって郵便屋さんが配達しに来るのよ。」



「そうじゃないと、外で何が起こっているのか私、分からないから。」



なるほど、この老婆はそうやって外とのつながりを保っているのか、一人うなずいていた。











どのくらいの日が経ったのだろう。僕はすっかりこの老婆との生活に慣れていた。僕がどこに向かおうとしていたのか、そんなことはもうすっかり頭から消え去っていた。僕はこの老婆との生活に今までに感じたことのない温かさを感じていた。



まばゆい明かりの下で僕が老婆と二人でシチューを食べていると、窓に人影が映った。



「あら、誰かいるわねぇ。」



老婆はいつも通りにっこり微笑むと、「いらっしゃい、丁度晩ご飯を食べていたところだったの。」と、突然の訪問客を受け入れた。



訪問客はひどく怯えた様子だったが、老婆の様子はいつもと変わらない。



訪問客は最初に来たときの僕と同じような様子で、服はぼろぼろだし、髪の毛もぼさぼさだった。



「久々にシチューを作っていたら、またお客さんが来るなんて、毎日でも作っちゃおうかしら。」



前言撤回、老婆はいつもより嬉しそうだった。



差し出されたシチューを怯えながらもその訪問客は口に運んでいた。その訪問客は段々と元気を取り戻したのかシチューにがっついた。



「最初に来たときのあなたもあんな感じだったわ。」老婆が微笑みながら言う。その様子を見て少し恥ずかしくなった。



「行く場所がないなら無理に出て行く必要は無いわ、ずっとここにいてもいいのよ。」老婆はいつもの調子で微笑んで訪問客に語りかけた。



 訪問客がシチューを食べ終わると、老婆は僕に言ったように



「とりあえずお風呂に入りなさい。今のままじゃ、気持ちが悪いでしょう。」と言った。











僕と老婆と訪問客の三人の共同生活はしばらく続いた。とはいっても僕と訪問客はお互いにぎこちなくて、円満とは言えなかった。お互いに相手のことを知ろうとはしなかったし、それで十分上手く生活できていた。



老婆は相変わらずといった調子で僕らがどんなことをしても常に笑いかけてくれた。ただ、当たり前と言えば当たり前の話なのだが、老婆は決して自分に届いた郵便物を読ませようとはしなかったし、郵便屋が送ってくる外の情報を一切教えてはくれなかった。別段僕たちも外の情報に興味があったわけではないし、それで何か不都合があるわけでもないので無理に聞こうともしなかった。僕は半ばここでの生活を受け入れ始めていたし、本当にずっとここに居たいとも思った。











ある日の晩、僕たちは食卓を囲みシチューを食べていた。食卓を照らす明かりはゆらゆらと揺らめいていて、静かに僕たちを照らしていた。食事のときはいつも静かで誰も口をきかなかった。強いて言うなら僕たちをみて老婆が「フフっ」と笑う程度だった。



―――この日までは。



訪問客はシチューを一口、二口頬張ると恐る恐る、



「ずっと聞きたかったことがあるんです。」



「ぼ、僕は・・・どこからやってきたんでしょう。」



「ここはどこなんですか?」



矢継ぎ早に質問を重ねた。



老婆の表情は変わらなかったが、ゆっくりとスプーンを机の上に置いた。



そして、にっこりと微笑んだ。











僕は、一瞬たじろいだ。思えばここにたどりついてからここがどこかなんて、そんなこと思いもしなかった。老婆は微笑みながら、



「今更どうしたの?今まで仲良く暮らしていたのに、そんなこともう気にする必要は無いのよ?今までだってそれで上手く暮らしていけてたんだから。」と言う。



僕は身震いした、今まで安らぎのために投げかけられていたその言葉が今となってはなんだか呪いの言葉のように感じられた。



「僕、ここに居ちゃいけない気がするんです、なにか忘れてる気がして・・・!」



背筋が震えた、僕がここに来たときに覚えていたこと、今は何も覚えていない。思い出そうともしていなかった。ここに何故来たのだろう、どうやって来たのだろう、今後どうするつもりだったのだろう。



―――僕はダレダ。



「おやおや、大丈夫かい?」



そんな心配した声が遠くに聞こえる。



「困ったねぇ、怖がらせるようなこと言わないでもらえるかい?」



もはや老婆の真意が読み取れない、一体いつから・・・



ふと気付く、この老婆、何者だ?



「こんなんじゃおちおち晩飯も食べられやしないね。」



全ての老婆の言葉がゆっくりに聞こえる。今ではあんなに穏やかに見えた、老婆の姿が山姥のように見える。我ながら感心する、なるほど、その笑みは餌でも来るのを待っていたかのようだ。



思わず老婆へ質問しようとしたそのときだった。



「ちわ〜っす、郵便です。」



またもや突然の来訪。



「あら、郵便屋さん。」老婆の声が弾む。



老婆は観念したのか、少し目を伏せると



「じゃあ良いわ、教えてあげる。」











外はすっかり白んでいて、家の明かりはついてはいてもその意味を成してはいなかった。途中まで手がつけられたシチューはすっかり冷めてしまっていたが、誰も食事を続けようとはしていなかった。



僕たちはいろいろと説明された。ここはいわゆる僕たちの生きている世界ではないこと。老婆はここで生死の境を彷徨う者のいわゆる休憩所、の管理人のような役割を果たしているのだという。



郵便屋はいわゆるこの世とあの世の連絡係のようなものらしい。



「ずっと黙っていてごめんね、私も寂しいのよ。」



老婆は笑っているが、どこか本当に寂しそうだった。



「こんなところで一人ぼっちだとねぇ。久しぶりのお客さんが嬉しいのよ。これは本当よ?」



老婆は僕たちに訴えかける。



僕も多少は同情はするものの、完全に疑念が晴れたわけではないし、勿論全ての話を鵜呑みにするわけでもない。ましてやそんなおとぎ話みたいな話誰が受け入れられるのだろう。



それに何もかも知っていたのに名前すら教えてくれないだなんて、意地悪なんじゃないかとすら思う。



「私がなんで何も聞かないかって?それはね、思い出させないためだよ。」



老婆はにっこり微笑んで言った。まるで僕の考えが見透かされているみたいだ。



「ここは生死の狭間、なんでこんな所に来てしまったのか、思い出したくない人もいる。勿論ここで過ごす中で思い出す人もいるわよ?ただ私から無理に思い出させることはしないわ。」



なんでも老婆の言うことにはここに来る人は特に、母性愛に欠けていたり、周りからのいじめを受けているもの、つまり、十分に愛を受けてこなかった者が多く来るらしい。



「私は家族の代わりになんてなれない、こうやって食卓を囲んであげるくらいしかしてあげられないのよ。」



「私の役割はあくまで決断を促すこと、きちんとあなたたちが満足できるような選択ができるように待つこと、それが私の役割よ。」



「でもね、私、あなたたちと過ごした何日間、本当に楽しかったわ、別に騙すつもりでもなかったしそこはちゃんと謝るわ。」



「本当に楽しかったわ・・・本当に・・・。」



老婆の目からは涙が伝っていた。元から大きく曲がっていた腰がさらに曲がる。



 ふと、訪問客が郵便物に目をやる。



「これは・・・」



「僕の写真?」



訪問客が言う。その表情は驚きを伴っていて、まさしく息をのんでいた。



「ここにはね、今のあなたたちの様子が届けられる、もちろん、生きている方のね。私はその様子を見ながら今後をきめてもらうのよ。」



今後?僕は眉をひそめる。



「言ったでしょ?ここは私は待つだけ、今後どうするかは、あなたたちが決めるのよ。」



空はすっかり白んでいて、もう食卓を照らす明かりも必要ないようだ。











どちらの道を行くか、決断の時は近い。この話を聞いた以上、長くはここに留まれない気がした。



「私としてはずっとここにいてくれて構わないんだけどねぇ・・・。こうなった以上はそれも無理だろうねぇ。」



どうやら老婆も同じ気持ちらしい。



「僕、いきます。」



「僕、全部思い出せたわけじゃないけど、それでも決めました。」



「そうかい、決めたんだね?」



「はい、シチュー美味しかったです、取り乱してすいませんでした。」



「いいんだよ、突然こんなところに来たら戸惑うのが当然さ。」



「ありがとうございました。」



小さく一礼すると晴れやかな表情で彼は出て行った。彼はすたすたと家から出て行くとあっという間に見えなくなった。



「いってしまったねぇ・・・。」少し寂しそうだ。



「彼が初めてだよ。こんなに速く出て行ったのは。」



彼の「いきます」にどんな意味が込められていたのか、それは分からない。しかしながら、ここに来たときには想像もできないほどの晴れやかな表情を浮かべていたのだ、彼の決断に後悔は無いのだろう。



老婆は彼が手をつけたシチューを片しながら少し寂しげに



「さて、あなたはどうする?」と僕ににっこり問いかけた。











彼のシチューを片し終わると、老婆は手を拭いて、郵便受けの中からすっと何かを僕に差し出す。見ると、そこには僕の現在が写し出されていた。病室で横たわる僕が。



意識不明の重体―――。それが僕の現在らしい。



「ひどい暴行を受けていてね。」老婆は今までに見せたことにない神妙な面持ちでゆっくりと語った。



「親からの暴行でね、日頃のストレスをあなたで発散していたみたい。」老婆はゆっくりと語る。



「現在あなたの親は捕まってるわ。かといって今あなたが戻ってもそれがあなたの幸せになるのか、私にはわからないわ。」老婆は心配そうに語る。



 そんな顔されてもたまったもんじゃない。僕はあくまで被害者だ。生きていても暴行を受け、こちらにきてもずっと騙されていたようなものだ。



今日の出来事は突然のものであったし、現在でもまだ受け入れられない部分はあるものの、それでも僕に選択を迫るには十分だった。どちらにせよ、僕の願った純粋な幸せは崩れていたのだ。僕が思っていた幸せな生活とは幻だったのだ。このまま老婆と過ごそうと、現実に戻り、寝たきりになろうと。僕の現在を見ながら、僕は泣き出しそうになる。



しかし、そこに写るあるものに気付く。千羽鶴だ。



「あなた、友達は多かったみたい。しかもみんなから慕われてたみたいよ。だからかしらね、あの子もすっごく懐いていたじゃない。」老婆は申し訳なさそうに、しかし、ほんのわずかに口角を上げて言った。



 老婆が言う、懐いていた、という言葉には果たしてそうだったのか、という疑念はあるものの、その千羽鶴は確かに僕に希望をくれた。



僕を待っててくれる人がいる。



確かに、僕の待っててほしかった人や、僕の手に入れたかったものは手に入らないのかもしれない。それでも僕を待っていてくれる存在がいる、それはとても幸せなことなのかもしれない。



「僕―――決めました。」



 家の明かりはもはや消えていた。











老婆は何も言わず僕を送り出してくれた。その表情はとても寂しそうにも見えたが、最後にはいつもの笑顔でゆっくりと手を振ってくれた。



明るい道が続く、来たときとは大違いだ。僕の表情もとても晴れやかなものなのではないかと思う。きっと彼もこんな気持ちだったのだろう。



僕は歩く、この長い長い道のりを。未来に続くこの明るく長い道を。この先に何があるのだろう。それを考えるとわくわくする。



ふと、足が止まる。振り返ろうとする自分にブレーキをかける。あの家の明かりはもはや消えてしまったのだ。今はこの目の前の光を頼りにしていくほかない。



僕の未来が明るいものでありますように。僕はまた歩き出す―――。











―――ザッ。――ザッ。―ザッ。



私は長い長い道のりを歩いていた。どこへ行くでもないこの暗く長い道を。この道はどこへ続くのだろう、ここはどこなんだろう、それすらわからない。



ふと、足が止まる。明かりが見える、電灯とかそういう代物ではない。



―――家だ。



私は家の扉を開けて中を覗きこむ。中には老婆が一人で食卓を囲んでいた。



 老婆は私に気付くとにっこり微笑んで言った。



「あらあら、いらっしゃい、丁度シチューを作り過ぎちゃったの、一緒に食べていかないかい?」

ヘラクレスの幼虫
162205


知識のアウトプットが大事だとよく言われますが、小説創作によって文学的テクストの学びを、アウトプットできたように感じます。

特に首尾照応を意識しました。

これを学校現場に還元できるようにしたいです。







ヘラクレスの幼虫

  T



春日はようやく私を見ると、言った。「それは大森の思い込みやで」

帰宅途中の車内には、電車が線路をこする音や、雨が電車を叩く音、乗客がささやくように話す声や、イヤホンから洩れるロックバンドの低音などが混ざり合っていたが、私には春日の言葉しか耳に入ってこなかった。

「思い込みはあかん」

「思い込みかもしれないけど、推理だから良くない?」

「推理やからこそやん。思い込みは主観的であって、推理は客観的やねん。思い込みは推理を邪魔する。だから推理に思い込みを持ち込むのはご法度。今大森が展開してくれたお話は興味深かったけど、それは推理ではなくて思い込みや。思い込みで罪を咎めることは冤罪につながるやろ?」

春日はそう捲し立てると、勝気な表情になった。いつも通り、論破してやった、と満足しているのだろう。

春日はそういう人間なのだ。

些細な議論で屁理屈をこねたり揚げ足を取ったり、とにかく論破して人よりも優位に立とうと躍起になっている。それはどんな人間にも吠えかかる臆病な番犬のようだ。並べる理屈は大人でも、考え方は幼い。

「――やと思うねん。なあ、聞いてる?」

「あ、ごめん、聞いてなかった」

「なんでやねん、大森から話したくせに」春日はチッと舌打ちをした。私が嫌いな癖の一つだ。

「その舌打ちする癖、やめたほうがいいと思うけど」

「なんで? お前に関係ないと思うけど」

「聞いたら嫌な気分になるから」

「こっちも嫌な気分のときに舌打ちしてるわけ。嫌な気分にさせるそっちが悪い。こっちだけ嫌な気分を我慢するのは不公平やろ?」そしてまた、チッ。

私はため息を一つついた。ああ、話さなければよかった。

昔から、春日と話すといつも後味が悪かった。それは私に限ったことではなく、春日と関わった人はもれなくイライラするようだった。春日は人を嫌な気分にさせる天才なのだ。

だから私は、昨日のバイトで起きた話を春日にするべきではなかった。春日に共感を求めたわけでもないし、ましてや叱責を求めたわけでもない。ただ私が話したかっただけで、聞いてもらう相手はだれでも良かった。いや、だれでも良くはないのか。適度に相槌を打ち、聞き終わったら二三質問し、気持ちよく聞いてくれるような人が良かったんだ。その点で、私は最悪の人選をしてしまったわけだ。同じ中学校出身で、同じ高校に通っていて、同じ電車で帰って、同じアルバイト先で働いているだけの春日に話すべきではなかった。

だけどどうしてだろう。そうわかっているのに、私は春日にいろんなことを話してしまう。そしてそれも私に限ったことではないようだった。

「そういう場合は慎重に判断して行動せなあかんで」

「普通に考えて、同じシャーペンがカバンから大量に出てきたら怪しくない? しかも中学生くらいだよ? 万引きを疑っても無理ないよ」

「だからその万引きっていう発想が思い込みやねん。盗む瞬間見たか?

まず普通に考えてって何? どういう基準で普通と異常は違うわけ?」

「まず思い込みって何? どういう基準で思い込みと推理は違うの?」

「……主観的か客観的か。さっき言ったやろ」春日は絞り出すように答えた。

私の反撃は、予想以上に春日に効いたようだった。舌打ちをしないのは動揺したと悟られたくないからだろう。春日は右手に持ったハンバーガーを不自然に食べ始めた。ジャンクなにおいが車内に充満する。

「ていうか、論点をずらすな。自分が先に普通と異常の違いを訊いてんねんから、それに答えて」

私はついついため息をついた。「答えられないです」

春日は安心したように頬を緩めた。また論破したと感じている表情だ。

春日の一人称が「自分」ということもいちいち癪に障る。社会人ならまだしも、高校生で「自分」と呼ぶなんて気取っている感じがする。自分のことを下の名前で呼ぶ女子や、あえて「僕」って呼ぶ男子も気になるけれど、「自分」のほうがよっぽど変だ。高校生なら女子は「私」、男子は「俺」で良いはずだ。

「――やと思うねん。あ、また聞いてないやん」続けてチッ。

「聞いてるよ、うるさいなあ。ほら、もう弥刀駅。私は今日は近鉄八尾に用事があるから、先に一人で帰って。じゃあね、ばいばい」

そう言って私は、春日の背中を強引に押した。春日は何か言おうとした様子だったけど、電車のドアがそれを遮った。私は極力笑顔を心がけて手を振った。男は度胸、女は愛嬌。

電車が動き出し、風が春日の長い髪を揺らした。それを鬱陶しそうに手で押さえている。たしかに長い髪の毛が似合う人はいるけれど、春日は絶対に短い髪型のほうが似合うのに、何度アドバイスしても「お前には関係ないやろ」の一点張りだ。ああ、またイライラしてきた。

私はまた一つため息をついた。

春日の嫌なところを挙げればきりがない。電車で飲食するところ。苦手な食べ物を平気で残すところ。スナック菓子を掴んだ手でスマホを触るところ。回転寿司なのに素手で掴んで食べるところ。夏でも長ズボンを履くところ。どれだけ仲の良い人でも苗字で呼ぶところ。そして、くだらない議論に躍起になって論破しようとするところ。

率直に言って、春日は人の心を汲むことができない。空気を読むことができないのだ。いや、できないのではない。しようとしない。いつでも自分のルールで、自分の都合の良い理屈をもって、自分のことだけを考えて行動して、他人のことは二の次三の次。関わるこっちが苛つく。

かといって、私は春日と絶交したりはしない。それは好きだからとか、春日が可哀想だからとかではない。ちゃんとした理由があるわけではないけれど、どうしてだか私は春日と一緒にいる時間が多かった。

こうやって気づく。ほら、私、また春日のことを考えてる、って。



  U



電車を降りても雨は止んでいなかった。雨の日は髪がぼさぼさになるし、低気圧だからか身体は怠く、気は立つ。春日もそうだったのかな、と考えたけど、春日はいつもあんな感じだ。

ショッピングモール、アリオの多くの洋服店は既に夏服を販売していた。六月はいったい春なのか夏なのか。梅雨は季節に分類されないのか。次に夏が来るから夏服を売ってるんだろうけど、どこか釈然としない。

だけど、夏用のショーパンを買いに来た私にはその販売戦略は好都合だった。

オシャレな洋服店が立ち並ぶ通りを歩いていった。店の中に入ると、長くて面白くもない話を持ち掛けてくる店員さんの相手をしなければならない。春日みたいに「真剣に選びたいから話しかけてこないで」って言えたらいいけど、私にはそんな度胸は持ち合わせていない。女は愛嬌があれば大抵のことは乗り越えられる。

残念ながら私はその愛嬌を持ってしまっているので、なるべく店員さんと関わりたくなかった。店外から商品に目星をつけて、店員さんが見ていない隙に商品に近づき、じっくり念入りに調べる。常に店員さんの視線から避けて商品を選ばないといけないのはすごく窮屈だ。

店先で挨拶をしてくる店員さんには目もくれず、足早に歩いていく。店員さんが別のお客さんの応対をしていることを確認して店に入ると、別の店員さんが寄ってきた。ああ、また逃げなきゃ。こういうお客さんはむしろ愛想がないのではないか、ということは考えないようにした。

気がつくと、私は広いモール内を二周していた。店員さんとの心理戦を攻略できず、ろくに服も選べず、一人で来たから話しかけられるのかな、と後悔をし始めていたころだった。

ゲームセンターの近くを通ると、目が何かに反応した。

あれは春日だ。

なんで? どうして? 

春日がアリオにいるんだろう? さっき弥刀駅で別れたはずなのに。アリオに来る用事があるのなら言ってくれたらよかったのに。どうせ、大した用事でもないんだろうな。現にゲームセンターにいるんだし。でもラッキー、店員さんの蚊取り線香要員として、春日を誘おう。

足はゲームセンターに進んでいた。さっき春日に対していら立っていたことももうすっかり忘れていたし、春日が誰かと一緒にいるなんて一切考えていなかった。

近づくにつれ春日の姿は大きくなり、近くにいた人もはっきりと見えるようになった。春日の隣に人がいる。春日はその人と話している。あれ、一人で来ていたんじゃなかったの? しかもその話している人って。

美咲だ。清水美咲だ。

あれは間違いない。美咲の美貌は同級生の中でもダントツで、すれ違う人はさることながら、遠くからでも二度見する人がいるくらいだ。それは、私たち女子が嫉妬というより羨望の対象として見るほどで、むしろ美咲の弟くんに嫉妬するのが順当にも思える。

そんな美咲が。

なんで? どうして?

あんな冴えない春日と一緒にいるんだろう? 学校で見る限り、特別仲が良いわけではないし、むしろ同じグループでもない。たしかに美咲は誰とでも仲良くなれるけれど、校外で会うとなるとそれは話が変わってくる。

何かいけないものを見てしまったような気がしてきて、その場を去ろうと思った。誰にだって秘密にしたいことはあるだろう。詳しく訊くとしてもそれは明日でいい。今じゃなくていい。

踵を返すとなぜか動悸が激しくなった。

この胸騒ぎは何に因るものなのだろう。

何か引っかかるものがある。

オシャレな美咲と、ダサい春日。

そのアンバランスな組み合わせ。

この動悸はその違和感が原因なのか?

「大森やん」突然後ろから大きな声で呼ばれ、思わず「わあっ」と声を上げてしまった。周りにいる人が不審に見てくる。

振り返るとおなかを抱えて笑う春日がいて、美咲は笑顔で近づいて来た。小さな顔に不釣り合いな大きい目と高い鼻は、漫画のキャラクターみたいだ。陶器のような白い肌とは対照的な艶のある黒髪は、清楚以外の言葉で形容できない。凛とした背筋と高身長は、自信と謙虚さで様になっていた。

改めて、綺麗だな、と思った。

「真奈ちゃん、一人? 一緒にプリクラ取りに行こ!」

それに加え、美咲はとにかく気さくだ。どんな人に話しかけられても笑顔で接するし、自分からも誰にでも積極的に話しかける。頭の回転が良く、会話は楽しい。

「え、二人で遊んでたんじゃないの?」

「うん、二人で遊んでたよ」そして続ける。「で、今から三人で遊ぶ」

「いいの?」

「うん、そのほうがいいよ、絶対に」

「邪魔じゃないの?」

「邪魔じゃないよ!」

そして美咲は私の手を引いてプリクラのほうに歩いていく。大森にだけは見られたくなかった、というばつの悪そうな春日の顔が見えた。

 

  V



「なんで二人でアリオにいたの」

美咲がトイレに立った隙に、正面に座る春日に尋ねた。

「別に何でもいいやん」春日は母親に詮索されたときの男子中学生のようにぶっきらぼうに答えた。「そっちこそなんで?」

「私が先に二人でアリオにいた理由を訊いてるんだから、それに答えて」

春日はまざまざと舌打ちをした。「答えられないです」

眉間に皺が寄っていく感覚がした。何が答えられない、よ。答えたくないんでしょ。まったく都合が良い人だな、この人は。

「アリオに用事があったんなら、そう言えば良かったのに」

「お前が無理やり電車から降ろしたんやろ。自分も八尾に用事あるって言ったのに」

「あのとき何か言ってたのはそれだったんだ……。それはそれとして、なんで春日が美咲といるの」

「だからそれは」

そのとき美咲がトイレから戻ってきた。「何の話?」美咲が興味深そうに訊いてくる。美咲に訊くのはなんだか気が引けた。この話は一旦中止。

「何でもないよ。バイトの話」私は誤魔化した。春日は安心したように頬を緩める。まったく都合が良い人だな、この人は。

安いファミリーレストランに美咲がいるのは場違いのように思えた。まるでその店のCMを見ている気分だった。可愛らしいなんちゃって制服が余計にそう感じさせた。

「そっか、二人はバイト先も同じかあ。仲良いねえ」

「良くないよ」二人の声が重なった。同時に同じ返答をしてしまった。

「やっぱり」美咲はけらけら笑っている。

「私が先にバイト始めたから、悪いのは春日」

「先にって言っても一週間しか変わらんやん」

「たかが一週間、されど一週間」

「そんなん誤差の範疇。それに、別に悪いことではない」

「しかも私が『花バター家』でバイトしたいって知ってたはずなのに」

「だからそれはそっちの都合で、自分には関係ないやん」

「それなら私が始める前に始めたら良かったのに」

「時期的な事情があったから仕方ないやろ」

会話中、美咲はずっとけらけら笑っていた。「仲良いよね、絶対に」

「良くないって」再び二人の声が重なる。

この子なら、春日の屁理屈にイライラすることもないだろうし、そもそもこういった喧嘩のような議論は始まらないだろう。口論とか、言い争いとかとは無縁のような存在だった。

「それに、花バター家は似合ってない」

春日は、女子のバイト七人に対して男子一人のケーキ屋さんで働くような人間ではなかった。

「失礼やな。じゃあ何が似合うと思う?」

「うーん……、スポーツショップとか」

「あー、それわかるかも」美咲も賛同する。

「だよね。ソフトボール続けたら良かったのに」

「ソフトボールしてたんだ。かっこいいなあ」

実際にプレーしている春日を見たことはあったけど、たしかにかっこよかった。決して上手というわけではなかったけど、あの頃は髪が短くて爽やかだったから、そのプレー姿を見て噂する人が何人かいたらしい。普段の春日を知らない後輩に限定されてはいたけれど。

「部に入ってただけで、上手くもなかったし続けるなんてありえない。それより、ミラノ風ドリアを食べたらミラノ風うんこが出ると思う?」

都合が悪くなったら話題を変える。これも春日の癖だった。近くを通ったバイトの店員さんが睨むように春日を見ていく。

「何言ってんの。店員さんにも聞こえてたよ」

「あ、そうそう、さっき話してた昨日のバイトの話、清水にも話せば? 思い込みって一蹴されるのが関の山やろうけど」

いつも一言多いな、と思いながら、私は聞いてほしい気持ちでいっぱいだったから、花バター家で見た万引き容疑少年の話を始めた。



  W



翌日も陰鬱な雨だった。電車内はじめじめと湿度が高く、温度も高い。ビニールハウスで栽培される野菜の気持ちがよくわかる。気がする。

そんな環境をもろともせず、春日は立て板に水のように喋り続けていた。

「ヘラクレスオオカブトって、カブトの王様って言われてるくらい、世界で一番大きくてかっこいいカブトムシやねん。カブトが好きな人間はみんな憧れる。みんな欲しがる。でも世の中ってよくできてるねんな、みんなが欲しがれば値段が上がる。しかも大きければ大きいほど値段は上がって、高いやつで一匹十万円する。十万円やで? ベンツ買えてまうで」

「買えないよ」

「だから幼虫を買うねん。世の中ってほんまによくできてて、手間がかかるものは安い。一匹千円や、千円。成虫の百分の一やで? 九十九パーセントオフ。一万円のコートが百円で買えるんや。そんなもん買わへん手はないやろ?」

「私だったら買わないけどな」

「大森は何もわかってないな」

「なんかカブトムシってゴキブリみたいだし」

「それはカブトムシにもゴキブリにも失礼や」

「なんでゴキブリにも? カブトムシに間違われたら光栄じゃない?」

「もし大森が、オードリー・ヘプバーンに似てるって言われたらどう? オーヘプは当然不愉快に思うやろうし、大森も馬鹿にされた気するやろ?それと同じや。誉め言葉っていうのは控えめに言うのがちょうど良くて、度が過ぎると嫌味になってしまう。それは嘘になるからな。嘘つきは泥棒の始まりや」

「オーヘプって呼ぶな」

春日は昔から昆虫が好きだったらしい。小学生までは特に気にもならない趣味だけど、高校生にもなって昆虫採集が趣味っていうのは変だ。高校生だったら、音楽鑑賞とか映画鑑賞とかでいいはずだ。他人に趣味として言うのなら、当たり障りのないもののほうが好ましい。昆虫採集が趣味だったとしても、それをわざわざ公言しないほうがいい。

こういうことを春日に言っても、「自分が好きやからいいやろ」の一点張りで耳を貸そうともしない。趣味というのはコミュニケーションのきっかけ作りに過ぎないと思っている私にとって、春日の考え方は受け入れられなかった。

春日は尚も喋り続けている。

「自分たちはまだヘラクレスの幼虫に過ぎひんねん。いつか羽化できる。そのためにどんな辛いことだって耐えなあかんねん。自分はそういうことをオーヘプから学んだわ」

「オーヘプ?」

「飼ってる幼虫の名前。今名付けた」

やっぱり春日の趣味はわからない。



  X



その日のバイトは春日と同じシフトだった。

『花バター家』は、ケーキ屋に喫茶店が併設した店で、春日は主に喫茶の接客を、私はケーキの店頭販売と喫茶のどちらも担当していた。ケーキ販売のほうが覚えることが多く、デリケートな仕事なため、不器用な春日は担当することがなかった。

比較的簡単な喫茶のほうでも仕事ができず、我が強い春日は、お客さんと揉めることが少なからずあった。そのたびに店長やほかのバイトが謝りにいくが、当の春日本人が全く反省した様子を見せないから、逆効果になることもしばしばあった。

「大森さん、今日はお客さんを万引き呼ばわりしないでね」

「はい、今日は販売だから大丈夫です」

納得はいかないけれど、店長に釘を刺されると何も言えない。春日に注意するときのように、あご髭を触りながら言われたのだから尚更だ。春日はいつもこういう気分だったのかと考えると、少し同情してしまった。

「そうやで、大森。思い込みで物事を判断したらあかん。いくら怪しいからって、決定的な証拠が無い限り決めつけたらあかんねん。中学生のとき社会の授業で習ったやん。『疑わしきは罰せず』って」

「わかった、わかったよ、うるさいなあ」

「いや、わかってない。自分たちは一介のバイトやねんから、客のプライベートにまで干渉したらあかんねん。注文受けて、店長に伝えて、料理やサービスを提供するだけでいいねん。客は自分たちにそれを求めてるし、それ以上のことをする必要はない。いくら同じシャーペンがカバンから大量に出てきてもな」

前言撤回。同情なんてするんじゃなかった。春日だってお客さんに口出ししてよく揉めてるくせに。

「だからと言って、仕事をサボるのはダメですよー。ほら、お客さん来た、注文取りに行って」

店長のおかげで口論は途切れ、春日はぶつぶつ言いながらその場を離れた。私は店長に訊きたくてたまらなくなった。

「店長、前から訊きたかったんですけど、なんで春日を採用したんですか? 全然愛想ないのに。私はウエイトレスに必要な愛想は持ってるって自負してるけど、春日は自他ともに認める無愛想なやつじゃないですか」

「なんでだろう。面接のときだけ繕ってた、ってふうでもなかったし、騙されたって感じでもないし。生意気で腹立つときもあるけど、なんか憎めないというか、楽しいんだよね。魅力、なのかな。その魅力に惹かれた」

「魅力、ですか」

「魅力、ですね」

その何とも理解しにくい曖昧な言葉が、耳に残った。

「ほら、販売にお客さん来てるよ」

あ、すみません、そう言ってショーケースに向かう。



魅力って何だろう。

何人かのお客さんを対応しながら、魅力について考えた。店長は特に深い意味を込めて言ったわけではないだろうけど、妙に引っかかった。

春日に魅力という言葉はしっくりくるように感じられたし、似合わないようにも感じられた。そのしっくりくる理由は何で、似合わない要因は何で、結局しっくりくるのか似合わないのかどっちなんだろう。

単純に考えて、容姿端麗で社交的な美咲のほうがよっぽど魅力的だ。一方で春日のそういった強みは思いつかない。強みの有無は関係ないのだろうか?

お客さんも店長も見ていない隙に、こっそりスマホを取り出してインターネットで「魅力」を調べてみる。WEBにはネット辞書が一番上に表示され、次に「魅力的な人になる方法」というコラムが載っていた。

まず、辞書には「人の心をひきつけて夢中にさせる力」とあった。抽象的な定義だ。わかりそうでわからない。わからないようでわかりそう。

人の心をひきつけて夢中にさせる力。

これらの言葉が指す意味はわかる。ひきつけられる、夢中になる。それらは人間の本能的なツボを刺激することだ。「好き」を超えたところにある感情に近い。

ときには自己コントロール不能で、人によっては自我を失うことだってある。そう考えてみると、魅力というのは良いことだけとも限らない。悪いことだって、人の心をひきつけて夢中にさせることもある。違法ドラッグやダイエット中のスイーツも魅力がそうさせている。一昔前に世間を騒がした宗教団体だって、人の心をひきつけて夢中にさせた例だ。

じゃあ、その魅力の具体的な力はいったいどんなものなのだろう。春日が持っているどの力が、あるいはどの力達がそれに該当するのか。それとも春日が持っている全ての要素を合算した結果見えてくる結晶体こそが「魅力」なのか?

考えれば考えるほどわからなくなってきた。

そうだ、コラムだ。コラムを読もう。「魅力的な人になる方法」を読めば、自ずと答えは見えてくるはず。

そう思って、ポケットからスマホを取り出したそのとき、店長から「大森さん、ちょっと」と声をかけられた。

ついにスマホが怒られるのかな。よく触ってるところばれてるし。私が悪いんだけど。

店長のもとに向かうと、呆れたような表情をしていた。先に謝ったほうがいいよね。ついついため息を一つついた。

「すみませんでした! 注意が足りませんでした。もう二度とこんなことがないように気をつけます」

頭を下げると、後ろで結んだ髪が垂れてきて首元を撫でる。情けないなあ。春日にはこんなところ見られたくない。馬鹿にされるに決まってる。店長、早く何か言ってよ。

「そうそう、わかってるね。じゃあ、そんな感じで行きましょうか」

そんな感じで行きましょうか? どこに? 違うか、その意識で働け、ということ?

店長の顔を見上げる。あご髭を触っている? あれ、この表情は……。

「今日はどんなトラブルですかね。許してくれたらいいですけど」

店長は喫茶のほうに向かった。急いでついていく。また春日が何か問題を起こしたんだ。これのどこが魅力というのだ。



四角テーブルの上には大量の整髪料、ワックスが転がっていた。四人の男子中学生(推定)が眼光を光らせてこちらを睨んでいる。四つ並んだ形の悪い坊主頭は、シュークリームに見えて仕方がなかった。こんなシュークリームにこのワックスを塗る意味は何だろう。

「なに? こっちは客なんだけど」

「申し訳ありません、うちの従業員が無礼を致しまして」

「ほんと、勘弁してくれよ」

店長が頭を下げる姿は、何度見ても気持ちの良いものではなかった。それを視界から消すために、私も頭を下げる。すると、店長が春日の足を踏んでいるのが見えた。トラブルメーカー春日は、人に頭を下げさせるだけで、自分は頭を下げていなかったのだ。どこまで図々しいんだ。私はもう一方の足を踏んだ。

「痛いな、足踏むなよ」

「(いいから頭下げなって)」

「今回に限っては自分は悪くないから」

「(文句は後で聞くから今は謝って)」

「万引き犯やでこいつら、万引き犯」

「しつこいな、万引きなんかしてないって。なんだよこの店」

リーダー格の子が机を叩く。つられて私は頭を起こした。周りのお客さんも私たちのことを見てくる。

「嘘ついてる。さすが泥棒」

「だまれ! どうなってるんだよこの店。警察行くよ?」

「どうせ行けないくせに」

「は? 行けるし」

「むしろこっちが警察を呼んでもいいくらい」

「なんで? 万引きは現行犯でしか捕まえられないの知ってる?」

「現行犯でしか捕まえられないのは、万引きは証拠を提示しにくいからで、防犯カメラに写ってたらそれが証拠になるって知ってる? 証拠があれば逮捕。窃盗罪だからな、けっこう罪は重いよ」

それを聞いた少年たちは少し焦り始めたようだった。一番背の高い子が特に焦っている。整った顔立ちに見覚えがあった。目をきょろきょろと泳がせ、リーダー格の子に耳打ちした。

「レオ、まずいって。帰ったほうがいい」

「お前、覚えとけよ。二度とこんな店来るか。おい、お前ら行くぞ」

そう言って机の上のワックスを急いでカバンにしまう彼らはひどく間抜けで、滑稽だった。

風のように去る彼らのせいで、伝票がテーブルから落ちた。食い逃げだ。

「警察行きましょうよ、店長」

キッチンに戻ると、春日が開口一番にそう言った。「食い逃げですよ」

「いいんですよ、これ以上ことを荒立てたくないですから。ほら、洗い物をしてください」

店長の指示通り、二人で洗い物を始める。雨脚はますます強くなっていた。それに比例するように客足は少なくなっていた。もっとも、それは雨のせいだけではないように思われた。

「あんなに大騒ぎしたらだめでしょ。ほかのお客さんも帰っちゃったし」

「騒ぎ出したのは向こうや。自分は罪を咎めただけ」

「そもそもあの子たちは万引き犯なの? 思い込みじゃない? 昨日自分で言ってたじゃん、思い込みと推理が云々って。決定的な証拠はあったの? 一昨日私が見たのと同じ状況じゃなかった?」

「クエスチョンマークを並べるのやめて」流れるように舌打ちをする。

「責めるつもりはないけどさ、あまりに状況が同じで興奮しちゃって」

「興奮するな。こういうときこそ冷静な判断が必要や」

「春日こそ、さっき興奮してたじゃん」

「してないわ」

「いや、してた」

「してないって」

「してたよ」

「してないって言うてるやろ」春日は声を荒げる。

「ごめんごめん、興奮しないで」

春日はまた舌打ちをした。蛇口から出る水の音は大きい。舌打ちの音はそれにかき消され、そのまま排水溝に吸い込まれていくようだった。

「一昨日私が見た万引き少年も、あの四人の中にいたよ」

「そいつ、懲りずによく来たな」

「そうだよね、一度疑われたのに。でももう来ないって言ってたよ」

私はあのときの、少年たちの焦燥を思い出していた。「逮捕」という言葉を初めて意識したのだろう。特に焦っていた彼は、一昨日私と揉めた少年に違いなかった。

春日は少し考えたあとで言った。

「どうだろうな」

「え?」春日を見た。春日は気だるそうに洗い物を再開している。

「来ないでしょ。居心地悪いだろうし。次来たらまた咎められるって感じているだろうし」

「また咎められる、ねえ」

そこで春日はだんまりを決め込んだ。何かを深く考えてるようでもあったし、何も考えていないようでもあった。そうまでして考える何かがあるだろうか。私もその何かについて考えなければならないはずなのだろうか。

春日を見た。その無愛想な横顔は、なんとなく魅力的にも見えた。



  Y



「春日、今日も休みだね」一時間目の数学が終わると、美咲が話しかけてきた。今まではあまり話さなかったけれど、アリオで会って以降少し話すようになった。

「うん。二日連続で休むなんて珍しいよね」

「変なものでも食べたんじゃない?」

「食べてそう。栄養補給に良いから、とか言って」

「ありえるー。虫みたいなやつとか食べそう。絶対に」

虫。そういえば春日、カブトムシの幼虫を買うとか言ってたっけ。ゴキブリに似てるとか言っちゃったけど、怒ってないかな。好きなものを侮辱されたら誰でも気分良くないし。

春日は、花バター家での騒動後二日間、学校に来なかった。この欠席があの騒動のせいじゃなければいいけど。あのとき、何を考えてたんだろう。

「真奈ちゃん? おーい。大丈夫?」

「あ、大丈夫。春日、何か言ってなかったか思い出してただけ」

「それならいいけど。虫って聞いて気分悪くしたのかと思った」

「それはないよ」私は努めて笑って答えた。

美咲から見て私はどう映っているんだろう。

春日の友達? 一クラスメイト? 友達?

春日がいなかったらこうやって話すこともなかったのかな。

「今日のお昼、一緒に食べない? ちょっと話したいことがあって」

「話したいこと? うん、いいよ。一緒に食べよ」

「たいしたことじゃないけどね。じゃあ、そういうことで、真奈」

そう言って美咲は自分の席に戻る。美咲の席の周りには何人か人がいた。春日の席を見ても、誰もいない。

そのあとの授業は集中することができなかった。

話したいこと? いったい何だろう。

私はいつも一緒にお昼ご飯を食べている三人に、今日は一緒に食べられないと伝えた。快く受け入れてくれたけど、面倒くさい説明をしなくて済む反面、少しは残念がってほしかったなとも思う。

きっと美咲は友達に惜しまれながら抜けてくるんだろうな。

そこまでして話したいことって何なんだろう。

春日に関すること? 私と美咲の接点と言えば春日くらいしかないよね。

そういったもやもやした気持ちで授業を受けていると、あっという間に四時間目が終わった。



「こういうとき屋上が開放してたらいいのにね」

目の前にいる美咲は唇を尖らせながら呟いた。そんな姿さえも可愛らしい。

「学園ものの小説とか映画とかって、必ず屋上は開放されてるんだよね。ずるいよ。現実の世界では閉鎖されてるのに虚構だと開放されてる。そういう作り物って、都合良く作られるよね。現実感とリアリティって違うんだろうな、絶対に」

箸で卵焼きを掴んで口元へ運ぶ。オレンジ色の美咲の弁当箱の中身は色鮮やかだった。

「言われてみたらそうかも。作り手の都合に合わせて作られてる」

「ね。でもそんなことを気にしてたら、文学っていうのは楽しめないんだろうな。騙されることも時には楽しい」

広い食堂の中で、私たちは向かい合って昼食をとっていた。

周りからの男子の視線が鬱陶しい。美咲と一緒にいるだけでこんなに見られるのか。美人は美人で大変なんだ。美咲はそんなことを気にすることなく箸を動かしていた。

「この間、アリオで会ったときのことなんだけどさ」

脈絡もなく美咲は話し始めた。話したかったことというのはこれだ。

「うん。偶然会ったからびっくりしたよ。まあでもアリオなんてみんな行くし、驚くことでもないか」

「でね、そのあと行ったファミレスで、真奈が話してくれたじゃん、万引き少年くんのこと。あれ、もう少し詳しく聞かせてほしいなと思って」

「ああ、あれ? あのとき話したことがほとんどだよ」

「うん、でももう一回聞きたくて。私がバイトしてる本屋さんで万引きされたら面倒だし」

「そうだよね、うちは喫茶店だから直接被害に遭うことはないけど、本屋さんだとね。しかもシャーペンだったし。

たぶん中学二年生くらいだと思う。一人で来たよ。野球部なのかな、坊主頭で日に焼けていて、イケメンだったよ。ブルーマウンテンを注文されたこともあって、印象的でちらちら見てたの。今考えたら、ブルーマウンテンを飲めるのになんで万引きなんてしたんだろうね。本当に万引きじゃなかったのかな」

そこで美咲は顔を顰めた。

「そうしたら、緑のトートバッグから次々にシャーペンを出し始めたの。なんか変だな、と思った。シャーペンなんて買っても二、三本じゃない?それが十本くらい出てきたから。しかも結構良いやつで、名前は忘れたけど一本千円弱するやつ。しかもトートバッグの中から直接出しててさ。普通買ったらビニール袋に入れられるよね? さすがに文房具にエコバッグは使わないでしょ。しかも中学生だし。で、そのあと、そのシャーペンの封を開け始めたの。全部。証拠――パッケージ――を隠滅しようとしてるんだと思っちゃって。もしかしたらうちの店が巻き込まれるんじゃないか、そうなったら面倒だなと思ったときにはもう声かけてたね」

美咲は大きな目をこちらに向けて真剣に聞き入っていた。そんなに見られると惚れてしまいそうになる。その表情は事件の情報を集める警察官のようでもあり、我が子を案じる親のようでもあった。

「そのシャーペンって、これ?」

美咲はポケットの中から一本のシャーペンを取り出した。上下対称のデザインが特徴的でパステルブルーの太いペンは、まさしくあのとき見たシャーペンに違いなかった。

「そう、それ! ドクター・グリップだ! 八百円くらいするよね?」

「うちの店では七百円弱かな、でも決して安くはないよね」

「なんでそれってわかったの? もしかして美咲のお店が被害に遭ったとか?」

「どうだろうね」美咲はぺろっと舌を出した。

「あ、ごめん、失礼なこと訊いちゃった」

「別にいいよ、そんなこと。これ人気だもんね」

美咲は見たところ気にしてない様子だったけど、本当は嫌な気持ちになっていないだろうか。長いまつ毛に隠れた瞳は俯いている。なんとか美咲に協力してあげられないだろうか。

「で、声かけたらどうなったの?」

「『ねえ、そんなにいっぱい買ったの? まさか盗んでないよね?』って訊いたの。ほかのお客さんもいたから、少年にだけ聞こえるような小さな声で。そうしたら、虚を衝かれたように焦り始めた。それを見て確信したよ。本当に買ってたらあんなに焦らないもん。

『買いましたけど?』って絞り出したような声で言うと、『客を万引き呼ばわりするんですか?』と今度は大きな声で言ってきた。それを聞いた店長が急いでやってきて、一緒に謝ることになったの。で、代金はとらずに帰した。ブルーマウンテンだったのに」

「大変だったね。でもそれだと、また万引きするよ、絶対に」

「わあ、鋭い! 美咲、ちゃん、とアリオで会った次の日――だから一昨日だね――にまた店に来たよ。今度は四人組で。あの子もいた」

「そうなんだ」

「その日は春日が喫茶の担当で、だから私は後で聞いた情報しか知らないんだけど、春日がその子たちを追及したの。騒ぎになってたから店長と急いで駆けつけて謝ったんだけど、そのとき春日が少し脅したの。窃盗罪は罪が重いって。そしたらあの子たち、堰を切ったように焦り始めて、帰っちゃった。お金も払わずに。今度もブルーマウンテンだったのに」

「食い逃げだ」

「そう。中学生のくせに粋がっちゃって。そもそも坊主なのにワックスなんて盗んでどうするの」

「ワックス?」美咲は驚いた様子だった。

「あ、そうそう、一昨日はワックスだったの。びっくりした?」

「うん、びっくりした」美咲は続ける。「坊主だって聞いてたから」

「四人とも坊主だったよ。誰が使うのかな」

美咲は少し何かを考えていた。春日も美咲もよく考える。

「売る、とか?」

「なるほど、仕入れはタダだもんね、売値が全部利益になるのか」

「四人とも野球部だったの?」

「野球部なのかはわからないけど、坊主だった」

「そのイケメンくんは背は高かった?」

「うん、高かった、中学生にしては。一七〇センチ後半くらいかな」

「ほかに何か特徴あった? 声とか、持ち物とか」

「声? そういえばちょっと高かったような気がする。声変わりしてない感じの声。なんで? 誰か思い当たる人がいるの?」

「ん? ああ、本屋でそんなお客さんがいたような気がして……」美咲はスマホを手に取る。「それって一昨日だったよね」

「うん、一昨日」

そのときチャイムが鳴った。昼休み終了のチャイムだ。五分後に五時間目開始のチャイムが鳴る。食堂にいた人は足早に教室に戻って行った。

美咲はスマホを触っている。

「美咲、ちゃん、もう教室戻らないと授業遅刻しちゃうよ」

「本当だ。次、豊田先生じゃん。早く戻らないと怒られるよ、絶対に」

美咲は緊張していた顔を綻ばせると、笑顔で立った。

「あと、美咲、でいいからね」

私は教室に走っていく美咲の後ろ姿を眺めていた。食堂を見渡しても、誰もいない。



  Z



暦上では梅雨は終わろうとしているけれど、まだまだ夏は訪れない。毎日がどんよりとした空気で、気分までもどんよりとしてしまう。いくらお気に入りの傘を差したとしても、気分は晴れない。

だけど雨の音を聞いているとどこか落ち着く。鬱陶しいとは思いながらも心は惹かれている。これが雨の魅力なのかもしれない。

万引き少年たちの騒動から約二週間が経過していた。以降、彼らは花バター家に姿を現さなかった。もう二度と来ない、とは言っていたけれど、それはこちらとしても好都合で、わざわざ追い返す手間が省けて良かった。

店長とも春日とも、彼らの騒動が話題に上ることはなかった。それは自然なことのようにも思えたし、不自然なことにも思えた。店長は面倒事を避けるためか、腫れ物に触るような緊張感を漂わせていた。春日は春日であの日から引き続き、胸に一物ありそうな様子を醸しだしている。

「またモンブラン食べてるんか」

「別にいいの、今日も一日頑張ったんだし」

バイトの閉め作業が終わると、余ったケーキを事務所で食べてもいいことになっている。これがこのバイトの特権だというのに、春日はめったに食べない。

「そろそろ懲らしめなあかん。むしろ助けてあげるという表現のほうが正しいかもしれない」

「どういうこと? 意味わかんない」

春日は婉曲的で、こちらが訊かなければ真意が読み取れないように言う。

「例の万引き少年や。あいつら、まだ懲りずに万引き続けてる。奴らをとっ捕まえる。自分らが店で更生させてあげられへんかったのが原因や。窃盗癖は病気。病気を救ってあげる責任が自分らにはあるねん」

「ないよ」

「あるわ」

「あったとしても春日一人でやってよ。私は関係ない」

「事の発端は大森やん。お客様を万引き呼ばわりして。自分もあの一件がなかったら先入観持たずに接客できたのに。色眼鏡かけて見てしまったから、彼らの罪を検知してしまったに過ぎず」

「それは」

「おーい、ちょっと手伝ってもらえるかー?」

店長からの呼びかけで、いつもの口論は中断した。春日の顔にはいつも通り勝気な表情が浮かぶ。

声は喫茶のほうから聞こえてきた。見ると店長が脚立の上に立っている。

「電球を換えようと思って」

電灯のカバーを手渡される。随分埃がたまっていて、手に触れたところだけ表面が見える。

三人で協力して(春日はモンブランの悪口を言うことしかしていなかったけど)電球を取り換え終えると、店長は結婚指輪をはめ直した。

「感電防止ですか?」

「ああ、ないとは思うんだけどね。念のため」

「何かが起きてからじゃ遅いですもんね」

「そうそう、何事も準備が肝心。この電球だってまだ切れてないんだけど、もうすぐ切れそうだったから」

「たしかに営業中に切れても換えるタイミングないか」

「そうそう。火事が起きないように前もって火の元を確認しておかないと。消火のほうがよっぽど面倒。放っておいたら周りにも迷惑がかかる」

「そうだぞ、大森」

春日が言わんとすることはわかったけれど、店長がいる手前、迂闊に反論できない。春日は姑息だ。



「このカルボナーラの小サイズお願いします」

「大森っていう苗字のくせに小盛りか。恥ずかしくないんか」

「さっきモンブラン食べたから。そんなこといいから早く注文しなよ」

私たちは国道沿いのファミレスに来ていた。午後九時半を迎えようとしているのに、十人程度の中学生グループが近くの席で騒いでいる。無意識にあの万引き少年たちがいないか確認してしまった。一時間前に春日が彼らのことを話したからではない。私は最近、ヤンチャな中学生を見ると、彼らのことを連想してしまうのだ。

「ピラフセットっていう名前やのに、こんなに大きいハンバーグがついてくるんや? もうハンバーグがメインやん。それでピラフセットっていうネーミングはおかしい。ほら、ピラフ単品は三五〇円やのにピラフセットでハンバーグを付けると七二〇円になる。ハンバーグのほうが高いやん。サブがメインを超えたらあかんやろ。主人公より強い脇役なんて興ざめや」

「わかったから早く選んで」

「ほなピラフセットを一つ」

「結局ピラフセットじゃん」

春日は何かを確かめるように二三度頷いた。

店員さんはさぞ迷惑そうな顔でハンディを操作し、下がっていった。申し訳ない気持ちになりながら、さすがに無愛想すぎないか? と思った。

「なんで急にファミレス行こうなんて言ったの?」

「そんなもん作戦会議に決まってるやん」

「作戦会議? 何の?」

「話聞いてなかったんか? 例の万引き少年をとっ捕まえるんや」

「いや、だから協力しないって」

「店長も言ってたやんか。前もって防止したほうがいい」

「前もって、って言っても既に万引きしてるんだから手遅れだって」

「放っておいたら誰かに迷惑がかかるねん」

「春日一人でやってよ。私には関係ない」

そう言ったとき、私の頭に、ある顔が浮かんだ。

美咲だ。

二週間前の金曜日、美咲にお昼ご飯を誘われたことを思い出した。あのとき、美咲は困っていなかったか? 自分が働く店が万引きの被害に遭って、うんざりしていなかったか? 少しの情報から問題解決の糸口を掴もうとしていなかったか?

私には関係ない? 美咲は私にしか相談できなかった。私は美咲から頼られたんだ。長いまつ毛に隠された瞳を、前に向かせることができるのは、私しかいない。

「――やねん。なあ、聞いてる?」

「え? ああ、聞いてる、聞いてる。ねえ、それって私にしかできないよね?」

「こんなんできるのは大森しかおらん。救えるのは大森しかおらんな」

そんな言い方をしないでほしい。そんな言い方をされたら断れない。

気づけば私は首を縦に振っていた。



  [



作戦会議は続いていた。

春日は美味しそうにピラフセットを頬ばっている。このピラフがあってこそこのハンバーグが活きるんや、とか言いながら。

私は春日に美咲のことを言うべきかどうか迷っていた。同士だから、情報は共有しておいたほうがいい。でも、美咲は私にしか話さなかった。私にしか話そうとしなかった。春日と美咲との関係は未だに掴めないままだったけれど、たとえ二人がいくら親しかったとしても、知ってほしくないことだってあるだろう。せっかく信頼してくれた美咲を裏切るようなことはしたくなかった。

「オーヘプもどんどん大きくなっていくわ。安いから幼虫を買うとか言ってたけど、あれ間違いやわ。幼虫から一生懸命育てたほうが愛情も湧くし、楽しい。こんなことなら成虫が千円で幼虫が十万円でもいいくらいや。それくらい値打ちがある。価値あるものにはそれ相応のお金を支払うべきや」

「だから万引きはしたらだめって言いたいの?」

「よくわかってるな」

「具体的な作戦は決まってるの? そもそも、いつ、どこで次の万引きをするのか知ってるの?」

「知ってるわけないやろ」

「なんでそんなに怒るの」

時刻は二十二時を過ぎようとしていた。近くの席に座る中学生はまだいた。相変わらず周りの迷惑を考えずに仲間内で騒ぎ合っている。未成年はこんな遅くまで外にいてはいけない。というお節介は自分たちにも向かってくる。

「でもなんであの子たちがまだ万引きしているって知ってるの?」

「見たからや」

「見たって、あの子たちを?」

「あいつらがまた万引きしてる現場を」

「え」春日はメニューのデザート欄を眺めている。「現場を?」

「そう。万引きをしようとしてる現場を。一週間前かな、国道沿いのドン・キホーテに行ったら、あの四人と新顔二人に遭った。人数も違ったし顔もそこまで覚えてなかったから、初めはなんか見覚えあるな、って感じただけやったけど、あの背高かった一人が妙に印象に残ってたから思い出してん」

「あの声の高い」

「声は知らんけど」

「たぶんあの子だ。私が声をかけた子だよきっと」

「別にそれはええねんけど」

美咲の本屋さんでシャーペンを盗んだ子に違いなかった。春日が咎めたとき、一番焦っていたように見えたけど、懲りずにまだやってるんだ。

「でもまあ、そいつがきっかけで様子を見ることにしたんやけど、そいつずっと一番後ろにおるねん。背が高いからちょっと見にくかった。多分、見張り番とか自身が陰になって仲間をサポートする係なんやろうな。チームプレイが見事やったで。さすが野球してるだけあるわ」

「最低なチームプレイ。野球でいったい何を学んでるの」

「でも、しつこく付きまとってたからか、そのノッポ君は自分が尾行してることに気づいたっぽいねん。ノッポ君は自分の顔を覚えてたんかな、ちらちらと自分のほうを見てくる」

「ノッポ君って呼ぶな」

「それでも構わずに付いて行ってたら、気づけばそいつだけになってたんや。仲間はどこにもおれへん。上手に巻かれてしまったんや」

「え」堂々とした口調だったため、一瞬春日が何を言ったのかわからなかった。「巻かれた?」

「やつらは相当慣れてるみたいやで」

「感心してる場合じゃないでしょ。それじゃあ、万引きしたのかわからないじゃん。決定的な証拠は? それって思い込みじゃない?」

「違うわ。ノッポ君が万引きをサポートしていたっていう証拠をこの目でしっかり確認したから」

「うーん、なんか納得できないけどまあいいや。

それで、どうやってとっ捕まえるっていうの? 警察に言う?」

「警察はあかん。警察は事が起こってからじゃないと動かない」

「事は起こってるのに。この前、防犯カメラが云々って言ってなかった?」

「あれはあかん。あのワックスにしろ、シャーペンにしろ、どこで万引きしたのかわかれへんから、まずそこから探さなあかん。しかも、自分らみたいな高校生に店が簡単に見せてくれるとも限らへん。それに、もし店を特定して証拠を提示したとしても、それは自分らがとっ捕まえたことにはならへん」

春日はすらすらと話す。まるで台本を読んでいるみたいだった。それは自分の中で既に答えが出ていて、その答えに導こうとする口調でもあった。

「春日の言い方だと、もう私たちが現行犯で捕まえるしか手はないみたい」

「よくわかってるな」

「でもそれだと、いつ、どこで、万引きするかわからないし、春日の顔が割れてるのなら、監視しているのがバレないようにしないといけない」

「優秀や。そこまで考えられる力はあるんやな」

「失礼な。でもその後が思いつかない」

「それは自分もや。だから作戦会議を開いたんや」

「何よそれ」私は拍子抜けした。つまり、偉そうに言っておきながら春日の考える力は私と同じらしい。

「ドン・キホーテでは何を盗んだのかはわからないんだよね?」

「盗む瞬間は見てないけど、スマホの関連機器コーナーによく行ってた」

「スマホ関連かあ。イヤホンとか、充電器とかかな」

「おそらく。シャーペン、ワックス、スマホ関連か。これらに統一性はないな」

「場所も特定はできないよね。シャーペンは本屋で、ワックスはドラックストア、そしてドン・キホーテ」

「ん? 本屋? どっちかというと文房具屋じゃないか?」

あ、そうだった。春日には美咲のお店のことを言ってなかったんだ。

「そうだね、ごめんごめん。あと、男子中学生が欲しがりそうな物ではあるよね。ほかの世代でも欲しがるかもしれないけど」

「だんだん盗む物の値段が上がっていってる。シャーペン、ワックス、スマホ関連。もちろん自分らが見たものが万引きの全部ではないやろうけど、エスカレートしてるな」

「たしかに。でも次の予測はできない」

現行犯でとっ捕まえるにはその場にいなければならないし、そのためには場所を予測しておかなければならない。私たちが今していることは、事実の確認に過ぎない。

春日は舌打ちをした。私はため息をついた。

春日は店員さんを呼んだ。メニューはデザートの欄を開いている。

「うずまきソフトクリームを」

「二つ」

例の中学生たちは、未だ騒いでいた。



  \



「あの子たち、あれからお店に来た?」

美咲は少し疲れた表情で尋ねてきた。けれどそれは美咲に限ったことではなく、クラスメイトみんながそうだった。

七月も中旬に入り、蝉時雨が私たちに降りかかってくる季節になった。ただでさえ暑いのに、蝉の声はより一層私たちを暑くさせる。その夏バテに加え、期末考査真っただ中の今は、身体的にも精神的にも疲労が溜まる。電車内もぐったりとした空気が漂っていた。

「ううん、あの騒動以降一度も来ていないよ」声を潜めて訊いた。「でもどうして? もしかしてまた?」

「またって?」

「ほら、美咲が働いてる本屋さん」

「ん? ああ、えっと、そうそう」

美咲は周りを一瞥した。やっぱり話題に上げるべきではなかったかな。ましてや、たとえ寝ているといっても春日がすぐ隣にいるこの状況で。

「そうなんだ。実はね、私たちもあの子たちはまだ続けてると睨んでるんだよね」言うか迷ったが、続けた。「万引きを」

「うん、あの子はまだ続けてるよ、絶対に」

「美咲もそう思う?」どうしてそう断言できるのか疑問だったけれど、美咲はいつも断定的だ。

「じゃあやっぱり読みは外れてるのかな」

「読み?」

「うん、ちょっとね」独り言のように言ってみたけれど、美咲は少しは興味をもってくれたみたいだ。「私と春日とで、あの子たちをとっ捕まえよう大作戦を計画・実行しているの。本気で取り組んでいるのはもちろん春日だけなんだけど」

「とっ捕まえよう大作戦?」

「そうそう。このまま彼らを野放しにするのは、彼らにとっても私たちにとっても良くないからさ。だからと言って、警察に提示できるような証拠もないから、思い切って私たちが現場を取り押さえようっていう魂胆」

「そうなんだ。それで、読みっていうのは?」

「私たちが見た情報の中での話なんだけど、シャーペン、ワックス、スマホ関連機器、という順に、盗む対象の値段が上がっていってるの」

「スマホ関連機器って、もしかしてイヤホンとか?」

「うん、イヤホンとか。それで、現場を押さえるといっても、いつ、どこで、どうやって、盗むかなんてわからないからさ。私たちは考えたの。彼らにとっての最上価格は何か。それは野球用品じゃないかと」

「なるほど。絶対そうだよ、絶対に」

「だから最近スポーツ用品店で張り込みをやってるんだけど、美咲の本屋がまた被害に遭ったのなら、その推理は間違っていたことになるよね」

美咲はぼんやりと目をまっすぐ前に向けている。こんな人形みたいな横顔が目の前にあることは今でも信じられなかった。多くの男子がそう思うように、これを毎日見られる美咲の弟くんが羨ましかった。

「うちの店、被害に遭ったわけじゃないよ」

「あ、そうなの?」私は少し拍子抜けした。

「うん、気になったから訊いてみただけ」美咲は尚もまっすぐ前を見ていた。「スポーツ用品店ってどこの?」

「『ゼビオ』だよ」

「そうなんだ。その作戦、成功するといいね」

美咲はそう言うと、ちょうどドアが開いた長瀬駅で降りていった。

開いたドアからは、夏の湿った熱気と、蝉の鳴き声が入ってきた。



  ]



「蛹化っていうのは、蛹に化けるって書くねん。うちのオーヘプもついにサナギになったんや。感慨深いで」

「サナギから成虫になるのはどのくらいかかるの?」

「羽化やな。一般的にヘラクレスは一ヶ月から一ヶ月半って言われてる。ヘラクレスは暑さに弱いから常に冷房の効いた涼しい部屋で飼育せなあかん。しかも蛹室はデリケートやから、サナギの間は触ったらあかん。まったく手のかかる子やで、オーヘプは」

「とか言いながら楽しそう」

春日は例によってジャージ姿で歩いていた。ゼビオで張り込みを始めてから春日のジャージ姿は、もはや制服姿のようになっていた。

中学生時代に培った日焼けはまだ顔に残っており、髪が長くても依然アスリートという印象は強かった。そんな春日がジャージを着てゼビオにいれば、ゼビオの店員さんに見えなくもない。こうすることで、もし万引き少年たちがゼビオに来たとしても、春日だと気づくおそれはうんと減る。

しかし、それだと春日が店員さんだと思い込んで警戒してしまうかもしれない。だから、春日から離れた場所で万引きを働いたところを、私が捕まえる。これが私たちが出した作戦の結論だった。

何せ私は人目を盗んでめあてのものを見るというスキルが優れているから。服を選ぶときの癖が、まさかこんなところで役に立つとは思ってもいなかった。

明日もテストがあるけれど、科目が現代文と英語だから何を勉強すれば良いのかわからない。という言い訳をして、私たちはゼビオに向かった。

作戦を決行してから十日が経っていた。

十日間も毎日ゼビオに行っていたら、むしろ私たちのほうが怪しまれるのではないか、と思い始めていた。それでも継続しているのは、必ず捕まえられるという確信と、作戦自体が楽しくて仕方なくなっていたからだ。初めはこんな作戦に乗るつもりではなかったのに、春日と一緒に――バイト等でどちらかが無理な日はあるけれど――作戦に取り組むことが、楽しくて仕方なくなっていた。春日をバイトとして採用した店長の気持ちが、ようやくわかったような気がする。

ゼビオの自動扉をくぐると、人工的な冷気が私たちを包んだ。ヘラクレス同様、もはや私たちも冷房の効いた環境での生活を強いられている。

「大森、あれ……」

春日は真正面を見つめながら呟いた。手は固く握られている。春日の視線の先をたどってみる。すると、私の焦点も入口を入って奥にある野球用品コーナーを捉えた。

「え、あれってもしかして」

「うん、多分な」

思わず手を握ってしまった。

この胸騒ぎは何に因るものなのだろう。

作戦決行十日目にして、初めて動きがあった。「どうして美咲がここに?」



「なんで言ったんや。しかもそんな中途半端に。言うなら言うで、ちゃんと仲間にせなあかん。何が起こるかわからんねんから。今回みたいに」

一旦トイレに引き上げて、私たちは今日の動きを考えていた。

「まさか来るとは思ってなかったもん。しかも別に来ても良くない?」

「あかんわ」

「なんで?」

「あかんもんはあかんねん」

春日は苛立っていた。元々怒りっぽい性格だけど、春日が苛立つときは必ず理由がある。それを捲し上げるのが常だった。だから、今みたいな、校則を守らせる生徒指導の先生みたいな文言は、春日らしくなかった。

美咲に作戦を話したことを春日に話した。どうして美咲がゼビオに来ているのか、思い当たることはそれくらいしかなかったからだ。だけど、私はそれを信じたくなかった。

「たまたまゼビオに用事があったのかもしれないよ」

「ダンス部の清水が野球用品コーナーに何の用があるっていうねん」

「それは知らないけど。声かけて一緒に張り込みしたらよくない?」

「清水はこの騒動に何の関係もないやろ。作戦に参加する権利がない」

「あるよ。だって美咲の……」そこまで言って、なんとか言い止まった。春日には、美咲の本屋さんのことを話していない。言ったら納得してくれるかもしれないけど、それは美咲の望んだことではない。

「清水の何?」

「いや、何もない」

「なんやねん」チッ。春日はわざとらしく舌打ちをした。「今日の張り込みはナシや。帰ってテスト勉強」

「なんでナシ? しかも勉強すること無いし」

「現代文と英語ほど勉強が必要な科目は無い」

一度言い出したら聞かない春日だ、今日は諦めて帰ろう。あの子たちが今日ゼビオに来る確実性もないし。

私は早歩きで春日の背中を追った。腕時計を見る。時刻は十二時五〇分。昨日買った漫画を読んで、溜まったドラマを見る時間は充分ある。昼寝する時間さえある。

そこで何かにぶつかった。春日の背中だ。

「痛っ。急に止まらないでよ、何?」

春日は遠い真正面を見つめていた。その横顔を見るのは今日は二回目だ。さっきと同様に手が握られている。その視線の先をたどる。

動悸が激しくなった。

いよいよか。

十日も待った甲斐があった。

ノッポ君が私たちの視線を横切って行った。



  ?



「いいか? この前確認した通りや。何を盗んだかを指摘できなかったら冤罪を主張される。確実に見て、店を出た後に声を掛ける。いいな?」

春日は幼児に諭すように優しく、しかし厳粛に言った。

「わかった。任せて」

「自分はタイミングを見て、店の外に出とくから、挟み討ちや。ラッキーやな、今日はノッポ君だけや。くれぐれも清水を巻き込むなよ」

そう言って春日は店内に駆けて行った。信じられないほど愛想良く「いらっしゃいませ」と言う春日は、誰がどう見てもゼビオの店員さんだ。

ノッポ君はあのときと同じ緑のトートバッグを持っていた。見たところ中は空っぽだ。あのカバンの大きさだと何を盗むんだろう。

堂々としているようだけど、時折周りをキョロキョロと見る彼は、挙動不審と言えた。振り返っても気づかれない距離を保ちながら尾行する。

ノッポ君は野球用品コーナーに入って行く。やっぱり私たちが読んだ通りだ。犯罪はどんどんエスカレートしていく。初めの慎重さは知らぬ間に消え、ますます大胆になっていく。それに従い、リスクは増大する。一度痛い目にあわないと、やめられない。私たちは、彼に鉄槌を下すんだ。彼を救ってあげるんだ。

ノッポ君は手袋を触ったり、ユニフォームを触ったりしていたけれど、実際に商品の詳細を調べている様子はなかった。どれを盗むんだ。手に取る商品全てを把握しなければならなかったので、かなりの集中力を要した。

遠くで春日の「いらっしゃいませ」が聞こえる。万引きを確認したらラインで知らせることになっている。本物の店員さんに怪しまれないためにも、ノッポ君には早く実行してもらいたい。

そのとき、あれ? と思った。美咲はどこに行った?

そう考えると無性に気になった。見える範囲で探してみる。野球用品コーナー、スニーカーコーナー、レジ、出入り口。けれど、いっこうに姿が見えない。帰った? 本当にたまたま来ただけだったの?

もしくは春日と遭遇して、春日が何か指示したのかもしれない。

とにかく私は自分の役割を全うするだけだ。再びノッポ君を観察する。ノッポ君を。あれ? ノッポ君は?

野球用品コーナーにはもういなかった。辺りを見回す。すると、ジャージが吊られているラックコーナーの上からノッポ君の頭が飛び出していた。ノッポ君は早足で出入り口に向かっている。しまった。緑のトートバッグは膨らんでいる。

何を盗んだかわからない。

けれど、逃がすわけにはいかない。

急いで春日にラインして、急いでノッポ君を追いかけた。

ノッポ君は、出入り口に設置された万引き摘発用の白いバーより高い位置でカバンを通過させ、外に出た。

やばい、逃げられる。

私も走って扉をくぐると、そこには春日が立っていた。

良かった、間に合ったんだ。

「お兄さん、まだお金支払ってない商品あるんちゃう?」

「は? ないですよ」

「私見てたんだから」

「何を」

「カバンに入れるところ」

「だから何を?」

「それは……」

「ん? 大森?」春日は怪訝そうに私を凝視する。

「春日、ごめん」私はもはや泣き出しそうだった。

「いやいや、お姉さんたち、言いがかりは良くないっすよ」そのとき、花バター家で遭った少年が現れた。レオと呼ばれていた子だ。その後ろに四人の坊主が並んでいる。「証拠がないとダメなんじゃないの?」

レオは薄ら嗤っていた。人を挑発する嗤い方だ。

その間に、四人の坊主は私と春日の周りを囲みだした。動悸がますます激しくなる。さっきとは質の異なる動悸だった。

「春日、どうしよう」

「……、無理や。女二人じゃどうすることもできない」

春日の言う通りだ。こんな場面では私たちの愛嬌は通用しない。

「証拠ならあるよ」

震えを含んだ声が、不意に聞こえた。突然耳に入ってきたものだから、その声が指す意味がいまいちわからなかった。しかし、声の主はわかる。

美咲だ。

反射的に振り向くと、自動扉の付近に美咲と店員さんが立っていた。

なんで? どうして?

美咲が店員さんと一緒にいるんだろう? 証拠はある、というのはいったい何を指すのだろう。美咲の右手に握られたスマホのカメラからは、赤い光が点滅していた。

八方塞がりで打つ手がなかった私たちにとって、美咲と店員さんは正義のヒーローに見えた。しかしそれは、少年たちには違ったように見えたのかもしれない。ノッポ君はみるみる表情を曇らせていく。

「直樹、こんなことしたくなかったけど、こうするしかなかったの」

直樹? ノッポ君は俯いている。なんで美咲はノッポ君の名前を知っているの?

「姉ちゃん、ごめん」

ノッポ君たち、改め直樹君たちは店員さんに連れられ、事務所に向かっていった。

いつもの美咲の笑顔はそこにはなかった。



  ?



一学期の終業式は蒸し暑い体育館で開かれていた。そこにいる全員が、汗だくだった。四〇度はとっくに超えているであろう体育館は、いつ熱中症の生徒が出てもおかしくなかった。

中でも舞台の上に立たされている私たち三人は、何かの刑罰のようだ。

しかし、実際は表彰という誉れ高い儀式のためだった。

目の前の校長先生の額が眩しい。

「感謝状。大森真奈殿、あなたは平成三〇年七月十二日午後一時二〇分頃SUPER SPORTS XEBIO久宝寺店で発生した窃盗において、自身の危険をも顧みない勇気ある行動で犯人逮捕に協力されましたその勇敢な行動は称賛にあたいします。よってここにその勇気ある行動に深く感謝の意を表します。平成三〇年七月二〇日。大阪府警察」

こうやって全校生徒の前で表彰なんてされたことないから、なんだか照れくさいような、誇らしいような、高揚した気分だった。

感謝状を受領し、一歩下がる。先生にさっきそう指示された。こういうことまでマニュアル化されているのは、少し野暮な気もする。

美咲が一歩前に出る。すると、舞台下の生徒たち(主に男子)の野太い声が床を響かせた。美咲自身、弟を犯罪者として取り押さえたのだから、こうやって表彰されるのは複雑な気分だろう。

「感謝状。清水美咲殿、以下同文です」

実際のところ、美咲が録画していた動画が直接の証拠になり、逮捕に至った。だから、私と美咲の感謝状が同じ文面だと、お互いにすっきりしないところがあるだろう。けれど、美咲は気丈に振舞っている。校長に笑顔をも見せている。

美咲は、本当に魅力的な女性だ。

ピンと伸びた背筋で感謝状を受領し、一歩下がった。その一挙手一投足全てが様になっていた。

春日は面倒くさそうに一歩前に出て、長い髪を掻き分けた。暑い、と呟く声が聞こえる。

「感謝状。藤川春日殿、」

春日の舌打ちをマイクが拾った。「それ、カスガって読むんじゃなくて、ハルヒって読むねん」

「これは失敬」校長の額に汗が滲む。

春日は「思い込みはあかん」と呟く。

美咲は「絶対にね」と答える。

私はため息を一つつく。



エピローグ



今でこそ涼しく感じるこの風も、数週間すると寒く感じるのだろうか。秋という季節は、一つの形に留まることはなく、姿を徐々に変えていく。一口に秋といっても、明確な秋の形があるわけではない。夏直後の秋は暑いのに、冬直前の秋は寒い。秋が人気の理由は、夏ほどに暑くなく、冬ほどに寒くなく、春ほどに花粉も酷くなく、その人が過ごしやすいと感じる秋の側面を取り上げてこそだろう。こういった様々な姿の集合体が、秋の形なのかもしれない。だから、秋は捉えどころがない。

捉えどころがないものに、人は惹かれるのかもしれない。

長いようで短い夏休みが終わり、まだまだ休み気分で学校に通う。夏休み後半の二週間は里帰りしていたために、通い慣れたはずの学校も、花バター家も、郷里を訪ねる感覚になっていた。

「メスや、メス」そう言いながら、春日は出勤してきた。

突然「メス」と言われても、私には何のことかさっぱりわからなかった。

「何? メス?」

「オーヘプや。羽化したのはいいけど、メスやったわ。なんでやねん。ふざけんなよ。ヘラクレスって言ったらツノがかっこいいオスやろ。オスとメスじゃ大違いや。別物や、別物」

「ふーん、オスって思い込んでたんだ?」

「ヘラクレスって聞いて誰がメスを想像する? 普通に考えてオスやろ」

「普通に考えてって何? どういう基準で普通と異常は違うの?」

春日は舌打ちをした。「大森も言うようになったな」

「それより聞いた? 美咲の弟君のこと。結局、同じ野球チームの子たちに万引きさせられてたらしいね。ダメなことはダメだけどさ」

「いや、興味ない」

「興味ないって……。いちおう相談されてたんでしょ? あのときアリオで二人でいたのもその相談のためでしょ? 弟が万引きを繰り返してるかもしれないって。だからとっ捕まえよう作戦まで考えたんじゃないの?」

「違うわ。面倒くさい恋人みたいな詮索するな。自分は単純に面白そうやったから考えただけや。清水は清水で、あいつのことを窃盗癖という病気やと思ってたらしいから、その病気を治すために一役買って出ただけ。自分たちにさせずに、清水本人が手を打ちたかったってさ。だから自分は、何もしてないし何も関係ない」

「万引きは重い罪っていうことをあの子たちに諭したり、私と美咲が話すきっかけ作りに学校休んだり、私から犯人の特徴を聞いて確認させたり、万引き現場を録画させたりしたのに?」

「録画させたのはその場で考えただけや。まさか来るとは思ってなかったから。結論から言うと録画させて良かったけど。誰かさんのせいで」

「はいはい、私のせいですよ」

「大森さん、藤川さん、開店の準備してくださいね」店長が声をかける。

春日は論破してやったという勝気な表情を作った。

私はため息を一つついた。ああ、話さなかったらよかった。

春日と話すといつも後味が悪い。春日は人を嫌な気分にさせる天才なのだ。そうわかっているのに、私は春日にいろんなことを話してしまう。

これが春日の魅力なのかもしれない。

1 春
162206


「次は、西日暮里、西日暮里、お出口は右側です。地下鉄千代田線と、日暮里舎人ライナーはお乗り換えです。

 The next station is...」





 ついに来た、来た、来た。

 これが東京だ。電車でどこにだって行ける。新居は次の駅からたしか、10分くらいのところ。

 ちゃんと内見はしてないけど、写真で見た感じよさげだった。お、もう着くぞ。





 実感はわいてないが、東京に来た、という証拠だけ目からわんさか入ってくる。長い移動でだいぶ疲れたはずなのに、眠気とかも一切来なかったのはおそらくこのせいだ。でも、いい。なんたって東京に来たんだもの。

 西日暮里で降りて、これからの家へと向かう。歩く途中でスーパーも見つけた。よくやった、私。よく「東京はビルが高いから、空が低く感じる。」なんて聞くけれど、むしろ「私が大きくなったから、空が低く感じる。」のではないかと真剣に考えてみた。どっちでもいいや、と結論が出たところで「たぶんここだと思うんだけど…」という場所に着いた。





 部屋番号は、たしか205だ。ポストを見てみると、鍵が入っていた。やっぱりここだ。さあ、いざ、新居へ。

心の中でカウントダウンをする。



3・2・1、よし!おじゃまします?ただいま?



ガチャ。締まらないまま部屋を開けた。お、5.5帖は割とシビアだなあ。荷物は明日届くので部屋はきれいさっぱりしているのだが「一人が暮らすので精一杯です」と無言で伝わってきた。

 明日までに必要な荷物は持ってきている。座ったとたんにどっと疲れが襲ってきたので、とりあえずブランケット2枚を広げた。ベッドは明日届くようにしたので、今日はこれで夜を過ごさねば。もうお風呂は明日でいいや。あ、化粧だけは落とす、、、、、、。









 昨日化粧を落とさなかった罪悪感で目覚めた上京2日目。

顔を洗いながら、今日は何をしなければならないのか考える。まず、お隣さんに挨拶。次に、荷物が届くのを待って、荷ほどき。それから昨日見つけたスーパーにも行ってみたいな。

 最低限のメイクとおしゃれをした後、お隣さんに挨拶に行く。東京の人に、田舎者だって思われないだろうか。やっぱり、少しメイク濃くしよう。地元で買ってきたお菓子を手に、いざ。





 部屋の前に立ったが、恐ろしく緊張している。インターホンを押したら、どんな人が出てくるのか。怖い人じゃないかな、面倒な人じゃないかな…。こうなったときは、勢いでいくのが、私のモットーだ。それまで考えていたことを全部消し、インターホンを押して待つこと数秒、「はい〜?」と実家近くでも見たような女の人が出てくる。女の人は私の顔を見て、少し驚いていた。変な顔してたかな?

 

「昨日から隣に引っ越してきました、よろしくお願いします。これ、つまらないものですが…」

 つまらなくなんかない、私の大好きなお菓子だ。

 「そうなの、よろしくね。お名前は?」

 やらかした。急いで「佐藤美咲です、すみません」と付け足す。よろしくね、と言われあっさりと終わった。



そういえば緊張しすぎてどんな人なのか見れなかったな。そんなに怖そうな感じはしなかったけど…。





 ほかのお隣さんも、なんだかあっさり終わって拍子抜けした。怖そうな人は誰一人としていなかったから、一安心だ。気が付くともうお昼だったので、昨日見つけたスーパーに弁当を買いに行こう。



 駅の近くにあるので、家からは歩いて10分くらいの場所だった。いま何を食べたいかだけ考えているこの時間が、なぜかとても幸せに感じる。昨日は晩ご飯も食べずに寝たから、とてもおなかが減っている。新居で記念すべき初ご飯なんだから、甘いものとかも買って豪華にしようかな、いや、節約だ。東京はいろいろ高いってよく聞くし…。

 

パックのお寿司を買って店を出た。580円。出てすぐ、駅が目に入る。地元とは比べ物にならないくらい大きな駅だ。東京駅なんか、もう一個の町だったし。駅にいる人もなんだか全員洗練されたエリートに見える。そういえば、昔君と2人で旅行した時のことを思い出した。都会に行こうとか言って電車に乗ったくせに、改札が手動じゃなくて戸惑ってたときから、もうどれくらいだっけな。

 

お、早く帰らないと荷物が届くぞ。















「次は、西日暮里、西日暮里、お出口は右側です。地下鉄千代田線と、日暮里舎人ライナーはお乗り換えです。

 The next station is...」

 



 終わった、今日も一日よく頑張ったぞ、私。

 仕事に慣れるにはもうちょっとかかるかな、仕事以外は、まだしばらくかな。

 あ、帰りにお肉買わないと…安いのあるかなあ…







 東京に来てから、数週間がたった。少しずつだが、はじめはわからなかったことがわかってくる。地元よりもお隣さんとの距離が大きい気がするから、初めは不安だったけど、地元から東京に来た子たちと連絡を取り合ったりして、なんとかここまで大きな問題はなくやっている。えらいぞ私、上出来だ。

 

ひとつ困るのは、やっぱり東京はいろいろ値段が高い。しかも、どこもかしこもオシャレ。オシャレなとこ、行きたい。オシャレなとこ、高い。お金、ない。幼稚園児でもわかるような理由で金欠に陥っている。この時間に自炊をしなければならなくなったのも、今日の晩御飯の残りをあしたのお昼ご飯にするためだ。ランチなんか行っている余裕ない。行きたいんだけどね。前まではお昼を誘ってきてくれた子も、最近は察してくれて誘ってこない、ありがたい。また来月こっちから誘おう。



少し、勢いでいっちゃうの、直さないといけないかな。





 お、かなちゃんからLINEがきた。お互い東京に出てきて、よくわからないこととか相談しあったなあ。なんだかもうずいぶん前の話に感じる。そういえば明後日の夜、お互いお休みだから夜にご飯行こうって言ってたんだっけ。ありゃ、お金あるかなぁ。



 「ごめん、ちょっと体調くずしちゃって」

 「ご飯、また今度でいい?」

 細切れの文章がいくつかポポンと流れていた。ご丁寧に最後にはかわいいのかかわいくないのかよくわからないクマのスタンプ付きだ。私にとっては、正直願ってもないことだ。かなちゃんとはまたいつでもご飯行けそうだし、そんなに焦る必要もないだろう。

 「わかった、また今度にしよう!」

 「はやくカゼなおすんだよ!」

 気づいたら私も細切れの文章と、たぶん落ち着いて見たらかわいくないトリのスタンプを送っていた。







 ご飯食べたら、ちょっと君に電話しようかな。今何してるんだろ。

 「いまなにしてんの」

 「ひましてる」

 なめてんのかこいつ、でも好都合だ。

「電話してやる、暇じゃなくなってよかったな」

「ご飯食べるからまっとけ」

 飛び跳ねたトリのスタンプを送る。さ、はやくご飯を食べよう。











 君のいない町で私はなんとかやっていけてるのかな。

 今は空がとても高く感じる。

 いろんなことを話したかったけど、いつものどうでもいい会話でおわっちゃった。

 なーにが「金属バット、やばい」だ。いつもお笑い見なかったのに、M1見てから通ぶるんじゃねえ。

 電話おわってから見ちゃったじゃんか。私にはよくわからなかったよ、ごめんね。

 君も大変そうだね、いつもの声じゃなかったよ。ご飯はちゃんと食べなよ。

 君に言われるまで、そっちの桜、忘れてた。今年は満開だったんだね。























2 春





今日のランチは当たり。オシャレだったし、豆腐メインの料理もおいしかった。何よりヘルシー。最近太ったわたっしにとって、最重要事項はそこだ。みんなと店を出て、ワイワイしながら帰る。心地よい風が吹いている。足取りが、少し軽くなる。

 「この分だと、今年の夏はそこまで暑くならないんじゃないかなあ。」ふと、つぶやいた。季節に敏感なことは、私の一種の特技だ。地元では割と当たったんだけど、こっちではどうかな。みんな、そんなことは株価がどうとか、外国同士がどうとかと似たようなもので、それよりも檻の中に入れた自分の顔を少しでも自分じゃなくするのに必死だ。



 

 あ、飲み物。みんなに「先行ってて」と念のため吐き捨て、コンビニに向かう。早くしないとお昼休みが終わってしまう。

 買うものは決まっている。にこちゃんのリンゴジュース。別に毎回買うほどおいしくはないんだけど、君が決まってこれを買うから。ちょっと、声が聞きたいな。





 君のアイコンのデブ猫をタップして、電話しようか迷う。今なにしてるんだろ、でてくれるかな。

 そっとデブ猫の右の、バツ印をタップした。まぁ、いいや。忙しいかもしれないし。あー、今日の帰りまでもやもやするんだろうなぁ、でも出ないよりはマシ。勢いでいかなくなった。



 「夜、でんわ」

 「おっけー」

 こういう時も返事が早いとこ、さすがだぜ。あ、「見取り図」は面白かったって言わないと。



 

 やばい、早く戻らないと。少し駆け足で進む。今は、しっかり踏みしめている。

 東京の空は、地元と同じくらい青い。

夏の流星群
162207




ちかちかと眩しい光で目が覚めた。うすい水色のカーテンの隙き間から差し込む光は、朝を告げていた。なんだか海面に反射する光みたいできれいだな、なんてぼんやり考えたが、頭はぼうっとまどろんだままだった。

「姉ちゃん、まだ寝てたん? 遅刻するで」

「ん・・・」

ノックもせずに入ってきた弟が小馬鹿にするようにそう言って、初めて私は時計を見た。時計の針が指すのは7時55分。てことは、えぇと…?

「あと5分しかないやん!」

がばっと起き上がって、布団を蹴飛ばした。弟は呆れた顔をしていて、リビングからは美味しそうな匂いがしている。いつも通りの一日が始まった。



顔を洗って、適当に髪を梳かして、制服を着て、とにかく家を出た。お気に入りの自転車にカギをさせば、朝の慌ただしさなんてすっかり忘れてしまった。半袖のセーラー服から伸びる腕をじりじりと焼き付ける太陽も、私の味方をしてくれるような気がする。重いかばんを自転車のかごに入れて、ペダルを漕ぎ始めた。

私はこの島の夏が好きだ。一番好きなのは、自転車に乗っているとき。

海も、山も、空も、私が息を吸い込めばぜんぶ私の一部になる。

山も海もすぐそこにあって、自然だけは豊かにあるこの町は、夏になると蝉の鳴き声が耳をつんざく。それを嫌がる友達もいるけど、波の音と蝉の声が合唱するのを聞くと、やっと夏が来たんだなと感じられて好きだ。

家から坂をぐんと下っていくと目の前に海が見える。テトラポットに囲まれた、釣り堀のある海岸に沿って走れば学校はすぐそこだ。

「あ、透ー!」

不意に目の前に現れた同じ制服を着た子に呼ばれて、自転車を止める。見慣れた顔、見慣れた声。那美だ。

「どうしたん、那美にしては遅くない?」

「そうなの。透とは違って、『めずらしく』寝坊しちゃって。自転車乗せてくれない?」

「はぁ? そんなこと言うやつは、私の愛車に乗せませんー」

「まぁまぁ、そう言わず」

那美ははにかみながら、私が許可する前に後ろに乗ってきた。そんな姿にに抗議しつつ、いつものやりとりになんだか嬉しくなった。私は、さっきよりも重くなったぺダルを、力強く踏み込んだ。

「あはは、透、頭のうしろ寝ぐせついてるよ」

「うっさいなあ、もう」





二時間目が終わって、休み時間が始まると、廊下がざわつき始めた。

中学三年生になって、先生たちが「高校受験を意識して…」なんて言い始めても、根本的に私たちの生活は変わらない。授業なんてどうでもいいし、学校には友達と会うために来てるし、将来なんてどうとでもなるって信じてる。先生たちは分かってない。今しかできないことがあるってこと。今しか行けない場所や今しか出会えない出来事があって、夏にしか見られない景色があるってこと。私たちの制服は、「今」を着飾るためにあるってこと。

「透、三時間目って移動だよね? 理科室ってどこだっけ」

 私が頬杖を突きながら廊下を見ていると、那美が話しかけてきた。

「まだ覚えてないん? 二階やで」

 私が馬鹿にした口調で、手早く理科の用意を持って立ち上がると、那美が隣に並んだ。

「だって仕方ないやん、私は今年から入ったのに…」

「あ、方言うつってるやん」

 はっと気づいた那美は何だか恥ずかしそうにして、取り繕うように「ちょっと間違えただけ」とか「いつもはこうじゃない」とかあれこれと言い訳をしていた。

那美は、私たちが三年生に上がるのと同時にうちの学校に来た転校生だ。話を聞いてみれば、親の都合で引っ越すことが今までもあったそうだ。東京から引っ越してきたらしく、標準語で話しているし、この学校で一番のおしゃれさんだし、この島の田舎臭さには似合わない雰囲気があって、那美はただそこに居るだけで目立つ。かといってみんなと距離がある訳ではなく、那美はこの島のことにいつだって興味津々だし、私たちだって東京に興味があるから、自然と那美は人気者になった。

 私たちが仲良くなったのだって、何気なく私がこの町の絶好の天体観測スポットについて話していたら、那美が「私もそこ行きたい! 連れて行って!」って目を輝かせたことがきっかけだ。那美は、いかにも都会人に見えて、実は田舎者の才能があるのかもしれない。

「那美、今日の放課後ひま?」

「うん、何もないけど」

「じゃあさ、前に星見たところ行かへん?今日の晩。9時から流星群が見えるんやって」

「え! 行きたい! 行こうよ!」

 そう言うと那美は、顔をぱあっと輝かせて喜んだ。花が飛ぶような笑顔に、思わずこちらも笑ってしまう。それを見た那美が眉を寄せた。

「また馬鹿にされてる?」

「してへんって」

 夏休みは、すぐそこまで近づいていた。





 ピンポーン。

 インターホンが鳴るのが聞こえて、カバンを手に取った。スマホと自転車のカギしか入ってないショルダーバッグに、半袖短パンの身軽な恰好で玄関に向かう。すると、リビングから叫ぶようにして声が聞こえてきた。

「透、気をつけて。ちゃんと虫よけして行きよ」

「はーい」

「お父さんの望遠鏡持ってくか?」

「重いからいらんよ。それに今日は肉眼で見えるし」

 お母さんとお父さんの声を背中に受けながら、山に登るとき用のスニーカーを履く。暑いから窓が開いてるのに、そんなに大きな声で話したら外にいる人に聞こえるんやけどなあ、なんて少し恥ずかしく思いながら「いってきます」と告げる。

「那美ちゃんによろしくねー」

「はいはい」

 玄関を開けると、薄く笑いながらすでに私の自転車に跨っている那美の姿があった。

「だって、那美」

「うん、聞こえてた」

 やっぱり。窓を開けてるときは大きな声出さないように言っておこう。那美がぴょんと跳び下りたので、自転車のカギを開けて門の外にだして、前輪を坂の上のほうに向ける。那美と並んで歩きながら自転車を押した。急な坂の途中にある我が家は、下れば海、登れば山という立地にあるのだ。自然が大好きな私にとっては、うってつけの場所だ。



自転車の車輪をカラカラと鳴らしながら15分ほど歩くと、山のひらけたところに着いた。砂利に交じって薄く雑草が生えていて、寝転んで空を見上げやすい。ここが私のお気に入りの天体観測スポットだ。私の昔からの秘密基地で、今は那美と二人の秘密基地。

「あ!」

那美が上を指さして明るい声を出した。この辺りには街灯も無いから、那美の表情は見えにくかったけど、声だけで花を飛ばすように笑っている様子が想像できた。

「今の見た? 流れ星!」

「え、見逃した」

 慌てて自転車を置いて、地面に寝そべる。初めてここに来た時には服が汚れてしまうと戸惑っていた那美も、今では何の躊躇もなく私と一緒に寝そべって空を見上げるようになっている。

 キラッ、と一筋の星が流れた。続いてもう一筋、一筋、一筋…。

「おぉ…」

「すごいね! 私、流星群って初めて見たよ!」

 那美が星も見ずにこちらを向いて興奮気味に話すのが嬉しくて、今日誘って良かったなと顔がほころんだ。

「あ、特大の流れ星」

「え! どこどこ」

慌てて空を見る那美にくすくす笑いながら「嘘やで」と言うと、恥ずかしがって肩を叩いてきた。

私たちはそれから、数分間、ただ星を見ていた。瞬きしたら見逃してしまうような、一瞬の輝きを、二人で見ていた。

「今日、誘ってくれてありがとうね」

那美がぽつりとつぶやいた。

「この島に来てよかったよ。今まで暮らしたことのある場所に比べたら、この島は別世界みたい」

「そりゃ、東京に比べたら田舎やしなあ」

「ちがうの。東京より田舎のところにだって住んだことあるけど、この島みたいに…なんていうか、ワクワクしなかったよ」

ワクワク、か。と反芻して、ふと自分を振り返る。この島は、映画館だって小さくて古ぼけたところが一軒あるだけだし、おしゃれなお店なんか一つもない。家も少ないから、近所の人の顔なんてすぐに覚えてしまう。そんな、狭くて窮屈な島だ。その筈なのに、植物の住む世界にも、魚の住む世界にも、星の住む世界にだって近い。この島には、どの街よりも広い世界が広がっている。……それに気づいている人は少ないけれど。

小さい頃は、周りの人だって同じ気持ちだった。知らないものも、知りたいこともいっぱいで、それに少しでも近づいてみたくて、私たちは馬鹿みたいに一生懸命自転車を漕いでいた。この場所だって何度もみんなで訪れた。それなのに、最近は私一人で訪れるばかりだったなぁ。那美がこの島に来るまでは。未知の世界に触れるときの「ワクワク」を思い出させてくれたのは、那美かもしれない。

「那美ありがとうね」

「え、何が?」

「あー…ううん、なんもない」

慣れないことを言ってしまうところだった。



三十分ほど星を見ながら色んな話をした。じっとしているだけで汗がにじんでいるのに気づいて、私たちは帰路についた。私がハンドルを握って、那美は私の後ろに座って私の腰に手を回す。ここからの下り坂は、登るときとは打って変わって、アトラクションみたいなものだ。坂を下って、私の家を横目に下り続けると、海岸に突き当たる。そこを右に曲がって少し行くと那美の家だ。5分もすれば着くことができる。

坂を下り始めると、涼しい風が吹いて、夏のにおいがした。

「透、あのね」

耳の横をびゅうびゅうと通り過ぎる風の音に混じって、那美の声が聞こえた。

「私、将来の夢があるんだ。聞いてくれる?」

「えっ」

今まで聞いたこともなかった話に、私は驚いた。先生は将来の事ばかり話すけど、誰もそんなこと真剣に考えていないと思っていた。

「私ね、設計士になりたいの。家とか、家具とかデザインするの。かっこよくない?」

背中越しに那美の声を聞く。顔は見えないけど、その弾んだ声に、本気で憧れているんだろうなと感じた。

「かっこいいなあ」

設計士という仕事もかっこいいけれど、そうやって夢を持っている那美が、かっこいい。私は何も考えずに、今やりたいことだけを追いかけていたけれど。考えなければいけないのかな。私は将来、どこで、誰と、何をやっているんだろう。今日みたいに、ワクワクしてるのかな。

「私は…」

「何? なんて?」

私の声は、風の中に消えていった。

那美の家まで送り届けて、一人で坂を登った。その時には、流星群のことは忘れて、那美の言ったことや自分の将来のことばかり考えていた。

明日は、終業式の日だ。





いつも通り寝坊して、遅刻寸前の時間に滑り込んで登校した。教室には既に、クラスのほとんどの子が揃っているようだった。友達に挨拶しながら自分の席に着くと、違和感があった。教室の中で一つだけ、誰も座っていない席があったからだ。

「那美はまだ来てないん?」

後ろの席の子に聞くと、見ていない、と首を振った。那美が二日連続遅刻なんて、と不思議に思いながら、頬杖をついた。

しばらくして、担任の先生が朝の連絡をしているときに、ドアがガラッと開いた。那美だ。先生が那美に話しかけると、ぼそぼそと理由を話しているようだったが、私には聞こえなかった。どうしたんだろう。



「那美、今朝どうしたん。昨日も遅かったやん」

終業式を行う体育館に向かうとき、話しかけた。

「別に。何でもない。気にしないで」

へたくそな笑顔を浮かべて、那美は言った。何でもない顔じゃないのは明らかだ。思わず不安になって、昨日何かしたんじゃないかと思い返す。帰り道には夢を語ってくれて……その後何かしたかな。私、ぼうっとしちゃってたからかな。なんて聞いたらいいのかな。

どうすればいいか分からず、隣を歩きながらおろおろしていると、それに気づいた那美が「大丈夫だよ。透のせいじゃないよ」とぶっきらぼうにつぶやいた。それでも、昨日の夜の弾んだ声とのギャップに胸がざわついた。

式の最中、那美のほうばかり見て、先生の話なんて頭に入らなかった。

そうして、中学三年の夏休みが始まった。





一学期最後の日に、那美と微妙な別れ方をしたから、夏休みの間連絡を取るのが何となくためらわれた。どう話しかけたらいいのか分からなかった。那美に会わない間、家族と出かけたり他の友達と遊んだりしたけれど、星を見るのも、海に行くのも、一人だった。

そうこうしているうちに、あっという間に八月の半ばになった。夏休みもあと二週間ほどだ。

あんなに毎日一緒に居たのに、全く会わなくても生活できてしまうなんて不思議だ。それでもやっぱり、一人で見る空や触れる海は広すぎて、少し、寂しかった。

……那美に連絡してみようかな。

自分の部屋のベッドで仰向けになりながら、スマホでLIMEを開いた。

『久しぶり! 元気しとう? 久々に星を』

数日前、那美に連絡しようと試みたときの文面が残ったままだった。それを読み返して、「那美のほうから連絡してこないのにも理由があるんじゃないか、私が今連絡していいのか」なんて不安になる。当たり前のようにいつも一緒に居たけれど、その「当たり前」が崩れてしまうのは、なんて簡単なんだろう。

そのとき、突然スマホが振動した。

わっと言って手を滑らせ、重力に従ったスマホは私の顔面に直撃した。痛みが走る鼻を押さえながら慌ててスマホをのぞき込むと、那美ではない、クラスの友達からだった。

『透聞いた?』

『那美ちゃんのこと』

『二学期からまた別の学校行くらしいな』

一気に届いた三件の通知を見て、しばらく唖然とした。時間が止まったみたいだった。

「え?」

だって、そんな話一言も聞いてない。なんで。ずっと一緒に居たのに。知らない。本当に?

LIMEを返すことも忘れて、私は家を飛び出していた。



急に飛び出す私にお母さんが声をかけたが、耳に入らなかった。慌てて握った自転車のカギを自転車にさし、坂を下りていく。もうすぐ日が暮れるころだった。青や橙色に染まった空が眩しく自転車を照らしていた。長細くなった影を踏みつけながら、どんどん進む。風が耳をふさいで、カラカラと鳴る車輪の音だけが振動で伝わってきた。夕日を反射してちかちかと瞬く海が、次第に近づく。もうすぐ海岸だ。早く。早く那美に会って、聞かなきゃ。本当なのって。なんで教えてくれなかったのって。まだまだ一緒に見たい景色がいっぱいあったのにって。

風が目にしみて、涙がにじんだ。

那美の家に辿り着いて、インターホンを鳴らす。数秒ほど空いて、那美の声がした。

『えっ、透? ……今出るね』

何を言えばいいかわからなくて、口をはくはくと開け閉めしている私を見て、那美がそう告げた。

那美が出てくるまでの時間がもどかしかった。脈拍が落ち着かないまま、意味もなく那美の家を眺めていた。ふと、ピカピカと眩しく輝くものに目が留まった。金属でできた表札が、夕日を反射して輝いているのだ。それも、淡い虹色に、輝いていた。えっ、と声を漏らして夕日のほうを振り返った。ここから、私の家の方角だ。

「透、おまたせ。急にどうしたの…透?」

那美に背を向けて、夕日のほうを見たまま、言う。

「那美、あれ何やと思う?」

空を指さすと、那美が門から出て私の横に並んだ。

私の指は、虹色の雲を指さしていた。その虹色の雲の隙間から夕陽が顔を出し、島全体を照らしていた。淡く虹色がかったその光は、スポットライトのように放射状にどこかを照らしている。

「何あれ。虹色の夕日……?」

「那美、近くで見に行こうよ! 陽が沈む前に! 山に登ったらもっと見れるかも!」

自分でも頬が引きつっているのが分かった。不安や焦りでぐちゃぐちゃになっている感情をうまく伝えることができなくて、それでも一緒に居る口実が欲しくて、とっさにいつも通りの誘いが口に出た。那美は、驚いたように私の顔を見ていた。

「…分かった、すぐ行こう。陽が沈んじゃう」

何かを察したのか、那美は私の知っている笑顔を浮かべて、そう答えると、すぐに自転車の後ろに乗った。



「透! もっと早く漕いでよ! 沈んじゃう!」

私の肩を掴んで、後輪のホイールの中心部に足をかけて立ち上がっている那美が言う。

「那美が重たいんやって!」

「重くない!」

「そう言うなら変わってよ、もう」

聞き慣れたやり取りに嬉しくなって、噴き出して笑った。

私たちの右側で瞬く海は、橙色に照らされていて、幻想的だった。夕日の眩しさと、夏の暑さと、海のにおいと、私たちの笑い声、そのすべてが尊いものに感じた。

「やっぱりまだ虹色に光ってるね! 変なのー」

「宇宙人が侵攻してきてるんじゃない?」

「宇宙人!?」

そう言うと那美は一層声を高くして、虹色の雲の方角を指さした。

「えー、本日は、透調査員とともに謎の光の真相を解き明かしに行きたいと思います。果たして、光の正体とは何なのか!? そして、地球の未来はどうなってしまうのかっ!? 宇宙人との邂逅を、乞うご期待!」

「あははは! 何それ。もうやめてよ、お腹に力入らんわ」

むせかえるほど笑いながら自転車を漕ぎ続ける。

「ほら、早く早く!」

そう言って急かすように肩を叩く那美は、どんな表情をしていたんだろう。

私たちは、きっと分かっていた。お互いが、空元気で笑っていること。本当は光の正体なんて口実に過ぎないこと。夏が終われば、こんなふう一緒に自転車に乗ることもできなくなること。

だからこそ、自転車を漕いだ。何かから目を背けて、秘密基地に向かった。あそこなら、私たちはきっと大丈夫だから。

道を曲がって、急な坂を登る。光は坂道の向こうに隠れてしまった。もうすぐ虹色が沈んでしまう。でもきっと、あそこからならまだ見えるはず。

「那美降りて。走ろう!」

「うん!」

絡まりそうになる足を無理やり動かして、目的地へと急ぐ。自分でも汗か涙か分からなくなった顔の水滴を、ぐいっと肩口で拭って走る。永遠に続くんじゃないかと錯覚するほどの長い坂道を駆け上がる。息が上がって、ふざけるように話す余裕もなくなってきた。感覚が麻痺して、横腹が痛むのも分からなくなる。だんだんと坂がなだらかになって、いつもの場所に辿り着いた。

そこは、何度も来たことのある場所のはずなのに、今までで訪れたどの場所よりもキラキラと輝いていて、胸が躍った。ひと時も目を離したくない、と思った。

「ほんと、ワクワクする島だね!」

息を荒げた那美がそう言って笑った。

私もつられて笑って、「そうやね」と言った。



「夏休みも、すぐ終わっちゃうね」

しばらくしてから坂道を降りているときに、那美は言った。その声は少し寂しそうだった。

「そうやなあ」

海に突き当たって、道を曲がる。行先はもちろん那美の家だ。あたりはもうすっかり暗くなって、海の色も穏やかになっている。日中とは違う、やさしい風が吹いていた。

「涼しくなったなあ」

そう言った自分の声に、また寂しくなってしまった。

「……夏休みが終わっても、絶対また会おな」

「あ。やっぱり誰かから聞いたんだ」

「うん」

「ごめんね。ずっと黙ってて。本当は、透に最初に伝えたかったんだけど……」

そう言うと少し那美の声が震えた。ペダルを漕ぐスピードを緩める。

「うん、また会おうね」

那美と過ごした夏は、今までのどの季節よりも輝いていて、鮮やかだった。那美にとっては、どうだったのかな。何年後かに思い出しても「ワクワクした」って言ってくれるのかな。

「前に那美がさ、設計士になりたいって言ってくれたやんか」

「あぁ、うん」

那美は、私が急にその話をしたことに驚いているようだった。

「私は今まで将来のことなんて考えたことなくてさ。夢なんかないし。適当に生きててもたぶん何とかなるやろって。今やりたいことをやってるだけでいいやんって思ってて」

「うん」

「でも、夢を語る那美、めっちゃかっこよかったよ」

「あはは、うん」

「実はな、私にもやりたいことあってん」

え、何?と言って、私の腰をつかむ那美の手の力が強くなる。こんなこと誰にも言ったことがなかったから、恥ずかしくてのどの奥で言葉がつっかえる。

「なんていうか、ずっと星を見ていたいねん。天体の研究者でも何でもいいんやけど、ずっと星を追っかけていたい」

「研究者!? かっこいい! いいじゃん」

「あっ、もう、揺らさんとってよ!」

那美が私の後ろでじたばたと揺れて、自転車が揺れる。かっこいい、なんて言われて少し恥ずかしくなった。那美は、透ならきっとなれるとか、絶対向いてるとか、興奮気味に持て囃した。

これから、どんな季節に出会うんだろう。また虹色の島が見られるかな。あの場所で、何度も星が見られるかな。

一瞬しかないきらめきは、きっと未来にも続いている気がした。

涼しい風が、海の横を走る私たちを通り過ぎていく。すっかり日が暮れた海は、静かに波音を鳴らしていた。


『恋愛』
162208


     1



 元希は、腹を抱えて笑った。レモンサワーを片手に、彼は周囲の男とひたすら話し続けている。テーブルには、梅酒ソーダやカシスオレンジ、ピーチフィズが並んでいる。

「ところで元希、大学で彼女できたん?」

「あー、できたできた。入学して早々にできたわ。」

「うそやろ!? 写真見せてや。」

「うん、いいよ。」

 スマホの画面には、両手にダンベルを持つ元希の姿。

「おい! それ高校の時からずっと彼女やろ。」

「俺に彼女なんてできるわけないやろ。」

「やんな。まあ俺には彼女できたけどな。」

 スマホの画面には、ニンテンドースイッチ。



「え! 拓哉君の彼女かわいい! 彼女からなんて呼ばれてんの?」

「たっちゃんかな。」

「きっかけは?」

「まあ同じ学科やねんけど、一緒にしゃべってるうちに仲良くなって、気づいたら付き合ってた。」

 後ろのテーブルは、恋愛話で持ちきりだ。日本酒や焼酎、ワインが並んでいる。当たり前のように、彼氏や彼女がいることを前提として男女が話を進める後ろのテーブルをちらりと見た元希は、持ってきていた鞄を自分の体の後ろに置いた。よく恋愛なんてできるな。お互い好きになったっていつかは冷めるのに。さっきから拓哉の彼女をほめながら酔ってベタベタと拓哉に触る女子はなんなんだ。自分の彼氏に対する愚痴もとまらないし、拓哉を今の彼女から奪おうとでも思っているのか? ばかばかしい。やっぱり恋愛は俺とは無縁のものだ。

 少し前から、元希は近くにいた香織の視線に気づいていたが、それに構うことなく、同じテーブルの男子数人を引き連れて、一旦店の外へ出ることにした。

 今日は、元希が通っていた高校の3年生のクラスの同窓会。比較的仲が良いクラスであったため、出席率は高かった。長テーブルが二つの個室であることは当日になるまで幹事以外知らなかったが、特に時間がかかることなく全員が席についた。最初に個室を見て元希が想像した通り、面白い話で盛り上がる男ばかりのテーブルと、恋愛話で盛り上がる男女のテーブルとに分かれた。

 昨日ははっきりと見えていた月も、今日は雲に隠れて全く見えない。元希はほっと吐息をもらした。男と話すのは本当に楽しい。そういえば、いつから俺は恋愛をばかばかしいと思うようになったのだろう。もしかしたら、高一の頃にあんな出来事が起こっていなかったら、今日男女のテーブルの席についていたのかもしれない。彼は、酔いが冷めるまで、引き連れてきた数人の男子にその出来事を話すことにした。



      2



 元希は、中学生の頃勉強を頑張り、見事第一志望の高校に合格した。偏差値が非常に高い進学校で、学年トップクラスの成績を誇る彼でも合格するのはそう簡単な話ではないと言われていただけに、喜びもひとしおだった。そして高校では、中学生時代にあまり力を入れられなかった部活を頑張ったり、経験しなかった恋愛を楽しんだりしたいと思っていた。入学してすぐに、その高校でサッカー部に並んでハードな部活として知られていたラグビー部に入り、彼女をつくるためにクラスのたくさんの女子と交流を図った。

 5月に入ると、4人がクラスの中心人物となった。元希、拓哉、美咲、優美である。4人で遊ぶことも多くなった。



「あ、ごめん、私急に帰らないといけなくなっちゃった。」

 さっきまで笑顔で話していた美咲の顔が、急にこわばった。スマホの画面をタッチする動きがいつもよりやけに速い。今日は、4人で高校の近くのイオンモールで晩ご飯を食べていた。

「駅まで送ろうか?」

 拓哉が自転車で来ていたことを思い出した元希は、拓哉の許可も得ずにとっさに言ってしまった。拓哉と優美が、にやにやしながら元希を見ている。美咲の顔は少し赤くなっていた。

「ありが、とう。」

 二人乗りを一度もしたことがなかった元希であったが、後ろの重みに戸惑いながらも懸命にペダルを踏んだ。上り坂で自転車はふらつき、美咲はくすくすと笑いながら元希の腰にそっと手をまわした。初めての温もりに興奮する元希。雲一つない空に、満月が浮かんでいた。

 5月の終わり頃になると、4人で同じ空間にいても、気がつけば元希が美咲と会話し、拓哉が優美と会話していた。拓哉と優美は会話しながら、時折元希と美咲を見てにやにやしている。元希と美咲が気づいていないだけで、拓哉と優美が意図的にこの状況をつくり出しているのかもしれない。元希と美咲が二人で遊ぶことも多くなった。



「今日は、ちょっと大事な話があんねん。」

 ブランコに座る元希が、足元の雑草をむしりながら美咲に話しかけた。さっきまでブランコではしゃいでいた美咲も、元希の真面目な態度に気づいたのか、急に静かになった。

「俺とさあ、付き合ってくれへん?」

 元希は一切美咲の顔を見ない。相変わらず雑草をむしり続けている。

「はい。お願いします。」

 美咲の声で、ようやく元希は顔をあげた。彼の足元だけ、土がはっきりと見えていた。満面の笑みで口を開こうとしない元希に、美咲はくすくすと笑っていた。

「帰ろっか。」

 こうして、二人は付き合うこととなった。帰宅を催促する母からのラインに、塾の自習室で勉強していたと元希は返した。

 6月の半ば、放課後の部活を終え、目が開いているのか開いていないのか自分でもわからないまま、元希は一人、歩いて塾へと向かっていた。分厚い雲が満月を覆い始める。ラインの通知に気づいた元希は、一度全て確認しようと足を止めた。同じクラスの男子で時々話す裕太から、動画が送られていた。それを再生した元希は、目を見開いた。動画の上に裕太のメッセージがあるが、彼は気づかない。放課後の教室で二人、美咲と拓哉が一緒に勉強していた。拓哉が美咲の顔を優しく触り、美咲が微笑む。二人の距離間は本当に近かった。動画を見終わった直後に、裕太から画像が送られてきた。美咲と拓哉が、手をつないで一緒に帰っていた。元希は、付き合い始めてからまだ一度も美咲と手をつないだことがなかった。

 俺と美咲の関係はもう終わっているんだ。どうりでここ最近誘っても一緒に帰ってくれないわけだ。そりゃそうだよな。泥まみれのラグビー部よりも、さわやかなサッカー部の方がかっこいいよな。そもそも俺に恋愛なんてむいてなかったんだ。付き合い始めて2週間。手もつなげないような俺にがっかりしたんだ。付き合い始めてから4人で遊ぶ時は、照れ隠しで俺は優美と話すことが多くなっていたけれど、その間に美咲と拓哉の仲は深まったんだな。普段から複数の元カノの話をする拓哉が恋愛上手なことは分かっていたけど、まさか美咲を奪われるとは。いや、俺が勝手に奪われたと思っているだけで、拓哉は最初からこうなることを見越して美咲と付き合うつもりだったのかもしれない。恋愛下手な俺を一度美咲と付き合わせて、美咲が俺にがっかりした頃に口説く魂胆だったんだ。ああ、恋愛なんてばかばかしい。くだらない恋愛なんかしてなかったら、もっとラグビーがうまくなっていたかもしれない。恋愛なんて、ばかばかしい。

「森永君、この確率は何になるかな?」

「え?」

「え?って。こっちがえ?だよ森永君。塾来ていつも寝てるのに今日はしっかり目開いて授業受けてるから聞いてみたらこれだよ。」

 周囲の生徒がくすくす笑っている。我に返った元希は、目が痛いことに気づいた。そして目を閉じ、またいつものように眠り始めた。

 7月に入ると、元希は男子としか話さなくなった。彼を複数の男子が取り巻き、女子が寄ってくることはない。あの動画が送られてきた翌日には、学年中で噂になっていた。拓哉も噂に気づいたのか、その二日後には美咲と別れ、新しい女子に手を出し始めた。もう4人で遊ぶことはない。優美から心配されていたが、優美と話す元希の姿を見た複数の男子が、次は優美かと噂するようになったので、ラインを含め優美ともコミュニケーションをとらなくなった。少し前までクラスの中心人物だった元希であったが、気がつけば多くの男子にいじられる日々を送っていた。ものの2週間で美咲を拓哉に奪われた話を自虐ネタとして用いながら、多くの男子と仲良くなっていくほど、彼の中で恋愛を憎む気持ちは一層強くなっていった。



      3



 センター試験まであと2か月。2週間前に現役を引退したばかりの元希は、部活で遅れをとった勉強を懸命に頑張っていた。学校の授業中、ふと自分の18歳の誕生日が迫ってきていることに気づいた元希は、その日の夜香織に、誕プレちょうだいとラインでメッセージを送った。高校3年生で初めて同じクラスになった香織は、4月から多くの男子に話しかけていた。元希は相変わらず男子としか話していなかったが、ぐいぐい話しかけてくる香織に根負けし、香織とはコミュニケーションをとるようになった。もう元希の過去をネタにする男子はいない。香織に何がほしいのか聞かれた元希は、ケーキのスタンプを送った。今そんな余裕あるわけないやろという返信に、元希はふっと笑った。

 11月21日。終礼前、数人の男子が、元希おめでとうと自動販売機のジュースを持ってきた。笑いながらありがとうと言う元希は、香織の視線に気づいていたが、すぐに終礼が始まった。なんとなく香織のことが気になり、終礼後に彼女のもとへ行った。

「おつかれ、ばいばい。」

「ちょっと待って。」

 香織は元希の腕をつかんだ。そして、鞄から小さめの紙袋を取り出した。

「これ、プレゼント。誕生日おめでとう。」

 香織の頬は少し赤くなっていた。

「ありが、とう。」

 香織と目を合わせずにお礼だけ言った元希は、紙袋を持ってそそくさと塾へ向かった。

 塾の授業が終わり、歩いて駅へと向かっていた。雲から、月が少し顔を出している。一度足を止め、紙袋の中をのぞいた。手作りのチーズケーキが一切れ入っていた。そして一口食べた。おいしい。本当においしい。センター前で忙しいのに、わざわざ俺のために作ってくれたのか。しかも俺の大好きなチーズケーキを。ケーキのスタンプを送っただけなのに、俺がチーズケーキを好きなこと覚えてくれてたんだな。だめだ、好きになってしまう。あの過去を忘れたのか、元希。またつらい思いをするぞ。元希、好きになってはいけない。

 チーズケーキは、彼の心の中にある鉄の壁を少しずつ溶かしていった。

 12月25日。元希は小さめの紙袋を持って登校していた。中にはクッキーが入っている。前日、母親に協力してもらいながら作ったものだった。



「センターまであと2週間やっていうのに、なんでクッキーなんか作るの! 既製品あげたらいいやないの! お菓子手作りするようなタイプじゃないのに急にどしたん? このタイミングで彼女でもできたん? これでセンターの点悪くてもお母さん知らんからね!」

 文句が止まらない母親にイライラしながらも、元希は、不明瞭な感情に突き動かされながらクッキーを作った。それがおそらく恋愛感情であることに彼は気づいていたが、とにかくクッキーを作って香織に渡さなければ勉強に身が入らないことも分かっていた。

 どうやって渡そうか。放課後人目のつかないところに呼び出して、クッキー渡しながら告白しようか。いや、俺の勘違いかもしれない。そうだ、香織は俺だけじゃなくて他の男子とも仲良くしてるじゃないか。他の男子の誕生日にもきっとなにかプレゼントをあげているにちがいない。香織は優しいんだ。それに、万が一香織と付き合えたとしても、またあの時のようにしばらくしたら他の男子に移ってしまうだろう。

 終礼後、紙袋を片手に元希は立ち上がった。

「これ、あの時のお礼。チーズケーキありがとう。」

 香織と目を合わせずにそれだけ言った元希は、そそくさと塾へ向かった。

 塾の授業が終わり、いつものように歩いて駅へと向かっていた。ラインの通知を確認するついでにツイッターのタイムラインを見た。雲が月を覆い始める。香織のつぶやきに、元希は微笑んだ。



 「もうちょっと渡し方考えてほしかったな。」



 そりゃそうだよな。やっぱり俺は恋愛にむいてない。香織に対する恋愛感情はなかったことにしよう。明日からも友達。これで勉強にも集中できる。よかったよかった。



      4



 相変わらず、月は雲に隠れて全く見えない。

「今日香織いるけど、告白しとく?」

「なんでやねん、あほか。さすがに今香織に対する恋愛感情なんて1ミリも無いわ。ちょっと寒なってきたな。戻ろか。」

 ちょっとしゃべりすぎたな。適当に話題を変えながら、男子数人を引き連れて男ばかりのテーブルに戻ってきた。

「来週の日曜、8年越しの花嫁観に行こな。」

「あほか。なんで男のお前と観に行かなあかんねん。」

「え? じゃあ彼女と観に行っていいよ?」

「まあおらんからお前と行くけどさ。」

 まだこんなくだらない話してんのかよ。男ってばかだな。でも、だからいい。男と話すのは本当に楽しい。



「拓哉君、こんど私とデートしよ!」

「いや、俺彼女いるからさ。」

「えー。内緒で一回だけ!」

 結局こいつは拓哉のこと狙ってんのかよ。彼氏がかわいそうだ。いつかは俺と同じつらい思いするんだろうなあ。彼氏も早く気づいたらいいのに。恋愛なんてばかばかしいって。ま、俺には関係ないか。勝手にどうぞ。

 元希は、再び持ってきていた鞄を自分の体の後ろに置き、男と話し始めた。香織の視線に気づく。腕時計を見て11時をまわっていることに気づいた元希は、翌日にもう欠席できない授業が1限にあることを思い出した。

「久しぶり。大学でラクロスやってるんやって。」

「うん、ラクロス楽しいで。練習大変やけどなあ。でも女ラクのメンバーおもろいし、頑張れんねん。」

「へー。そうなんやー。」

「森永は大学でもラグビーやってんの?」

「うん。高校の時と違うのは周りのレベルの高さ。でも、アホなやつばっかなんは一緒。」

 香織は楽しそうに笑っていた。もう店を出なければ終電に間に合わないことに気づいた元希は、帰りのルートがほとんど同じである遼太を連れて立ち上がった。

「じゃあな、香織。元気で。」

「うん、森永も元気で。」

 香織のさみしそうな表情を見て見ぬふりをした元希は、遼太を連れてそそくさと店を出た。



「ごめんな遼太。まだ店いたかった?」

「いや、元希。おれ明日1限あんねん。しかももう休めへんやつ。」

「俺もやねんなあ。」

 数えるほどしか乗客がいない電車の車両で、二人は笑い合った。

「なあ、遼太。遼太って彼女いたっけ?」

「実は・・・」

「うそやろ!」

「いません。」

 二人は笑い合う。男ってばかだ。でも面白い。男と話すのは本当に楽しい。

「いやあ、元希。彼女もいいけどさあ、やっぱ男子といる方が楽やで。それに何より楽しい。」

「そうやんな! ごめんごめん。聞いた俺が悪かった。」

 茨木駅の到着を告げる車内アナウンスが流れる。

「じゃあ、元希。今日はありがとう。またいつか。」

「ありがとう遼太。また。」

 遼太は降りて行った。乗客の少ない車両で、扉の閉まる音が鳴り響く。元希はうつむき、静かに微笑んだ。

「大きくなったら」
162209




「え、まじで?」



 もち、と楽しそうに答えながら、諒はチャリの荷台にまたがった。日中、太陽が照らし続けていたということが自転車のサドルの持つ熱から伝わってくる。放課後。もう太陽も1日の仕事を終えて家路につくように、街を赤く染めながら山際に体を半分隠していた。



 「お前がヌメロン1勝もできひんかってんから、チャリくらいこげや」



諒はすでに地面から両足を離している。おれは慣れない諒のチャリのサドルの高さに苦戦しながらもぐ、と力を込めてペダルを踏んだ。







おれたち陸上部は、テスト期間で部活がない間は放課後部員全員で学校に残って勉強をするように顧問の先生から言われていた。仲間意識を高めるとかどうとか。でも、おれと諒は教科書を開くことはなく、ひたすらヌメロンという相手の3桁数字を当てる推理ゲームをしていた。



「1イート1バイト」



自分が持っている3桁の数字と相手がコールした数字を比べて、場所も数字も合っている場合はイート、場所は違うが数字だけ合ってる場合はバイトとコールする。イートは食べるでバイトはかじるだから、なんとなく分かる。自分が持っている数字が506で、相手が156とコールしたなら、6は場所も数字も合っているのでイート、5は場所は違うが数字は合っているのでバイト。つまり1イート1バイトとなる。先に3イートと言わせた方が勝ちというわけだ。



それにしてもイートとバイトの響きが心地いい。







 2人乗りは校則で禁止されているので、校舎の裏側から学校を出る。ナイター照明を灯し始めた野球部の練習グラウンドから野太い声が聞こえてくる。



「野球部はいいよなー。テスト期間でも練習できるんだぜ」



「ほんと野球部だけ特別待遇だよな」



 諒がいつものように右手で髪の毛をくしゃくしゃと整えているのが、見なくても感覚で分かる。



「てか、あの修平が奈穂と付き合ったらしいぜ」



「修平って野球部のキャプテンの?」



「そう、んで奈穂ってダンス部で1番かわいいって有名な」



まじかよー。奈穂のことは特に好きでもなかったが、そこまでカッコいいとは思ってなかった修平にダンス部1の美人を取られたのがなぜか悔しかった。上り坂にさしかかり、おれは立ち漕ぎでぐ、ぐ、と体重をかけてペダルを踏む。



「どこまでしたんだろうな」



「言ってもまだ付き合って1か月も経ってねーからなぁ」



「そんな最近なん」



 諒は交友関係が広く、この類のゴシップは誰よりも知っていた。そんな諒と仲の良いおれは他の生徒に比べると知っている方だったが、情報源は諒しかなかった。



「おれも陸上部のキャプテンになれば良かった。そしたらモテたのになー」



「キャプテンでもモテてねーわ、ばか。」



諒は本当に何でもできた。勉強もおれとヌメロンばかりしているのに、学年順位はいつも一桁だった。陸上も県選抜に選ばれるほど足が速かった。ヌメロンもめちゃくちゃ強かった。そんな諒に彼女がいないのが、不思議でしかたなかった。



「2組の小野田さんとかどうなん?諒の好きそうなタイプちゃう?」







坂を上りきって今度は長い下り坂なのでおれはサドルに腰を下ろした。坂の頂上から見る景色は、さっきまでの赤く染まった街並みではなく、薄暗くところどころに明かりの灯るだけのどこか寂しい街並みに変わっていた。サドルに残っていた太陽の熱ももうどこかへいってしまっていた。



「なあ、聞いてんの?」



下り坂でチャリを漕ぐ必要がなくなったため、おれには後ろを振り向く余裕ができていた。諒は右耳だけにイヤホンをさしこんで音楽に浸っている様子だった。



おいー。がんばってチャリを漕いでやってるのに、後ろで音楽を聴いてくつろぐとは。諒らしいけど。わざと自転車を左右に揺らし、音楽の世界から現実世界へと諒を引き戻す。



「おい、ふざけんなよ、落ちるやろ」



おれは諒と毎日一緒にいた。車の左車輪と右車輪のように、片一方がなくなればそれ自体機能しなくなるくらいに、行動を共にしながら毎日を生活していた。クラスも部活も同じだし、家も近かった。部活がオフの日も必ず一緒にいた。一時期、おれと諒がデキているという噂まで流れたくらいだ。そのせいで諒には彼女ができないのかもしれない。



「てゆーか、諒の自転車のブレーキ効かなくね?」



「ああ、左ブレーキはぶっ壊れてる」



「それ、左利きのおれにとってはだいぶデカくね?」



「知らねーよ、右でブレーキかけろよ」



徐々に自転車が速度を上げていく。秋と冬のちょうど間くらいの外気が風となって学ランの襟の隙間を抜けていくのが気持ちいい。おれは左手だけで自転車を操作し、なるべく風を全身で感じていた。



「おい、イキって片手運転なんかすんなよ」



「うるせえなぁ」



「あ、そこの角を左な。」



「え、ここ?」



不意に言われたので、かなりのスピードのまま左手だけでハンドルを握ったまま角を左に曲がった。



 気付いた時には無機質な病室の天井を眺めていた。



















左利きというは本当に不便だ。はさみ。包丁。駅の改札。どこだって右利きにとって便利なように作られている。お前なんか社会には必要ないよ、と言われているようでイチイチ刺さる。







事実、おれは自分をそう言われてもおかしくない人間なのかもしれない、という自覚がある。何をやっても上手くいかない。勉強もできなければ、運動神経もイマイチ良くない。自慢できる特技は1つもない。かろうじてとりえだったのが中学高校と続けてきた陸上だが、かんばしい結果を挙げることは1度もなく、高校の最後の大会はと言うと、その1週間前に左足首を捻挫しトラックに立つことすらできなかった。大学ではバイクで事故を起こし左腕を複雑骨折。自らの手術費と相手への慰謝料とで、身体的にも金銭的にも大きなダメージを受けた。就活でも100社以上にエントリーしたがどこにもひっかからなかった。本当に、親に申し訳なるくらいにダメな人間だ。



そして何よりもダメなのが、高校2年の秋に自転車の事故で友人を殺してしまったことだ。あの日からおれの人生のなにもかもがダメになってしまった。







 今日もアルバイトに行くために朝7時に起きる。週6で8時間以上働いているのだからいい加減正社員にしてくれてもいいのに。アルバイトとして何年働いても正式な手順を踏まないと正社員になれないのがこの国らしい。



 朝の支度を済ませる。しわしわのシャツ。賞味期限の迫った食パン。週6で履いている黒のスニーカー。おれの身の回りの全てがダメな俺を象徴しているように思える。かかとを踏みながら玄関を出る。俺の生活の中には輝かしい要素は1つのない。



「いってきます」



とつぶやいてみる。1人暮らしだからもちろん返事はないが、昔お母さんが家を出るときは必ず「いってきます」と言いなさいといつも言っていたし、そうつぶやかないと何も話すことなく1日を終えてしまうので、「いってきます」だけは意識的に言うようにしている。そうでもしないと、言語というものを忘れてしまうのではないかと少し不安になっている。







高校2年の秋のあの日から、ぐんと口数が減った。大学も行くには行ったが、ろくに友達も作れなかった。今は1人暮らしだし、アルバイトもショッピングモールの清掃員だから誰かと話す必要がない。なるべく人と話したくないからこの仕事を選んだ節もある。



何をするにもダメ。生きがいというものが本当になかった。おれはおれ自身の右車輪をなくし、左車輪だけで無様に進んでいる。片一方の車輪だけが残す轍には、美しさの欠片もない。







左耳にだけイヤホンをつけ、駅まで音楽を聴きながら歩く。両耳にイヤホンをつけると、どうも落ち着かないのだ。周りの音が遮断され、自分にだけ別の音が流れている。それが、自分がこの社会から除外された存在だということをリアルにつきつけてくるように感じる。   



それにしても、どうしてシャッフル再生というのはこんなにも空気が読めないのだろうか。いつも聴きたい曲を流してくれない。スピッツの「ロビンソン」なんて通勤時にかけないでほしい。勢いが出ない。なにより前奏が長すぎる。結局、ポケットからスマホを取り出し、自分で今の気分に合う曲を選ぶことになる。これでは、シャッフル再生の意味がない。スマホのシャッフル再生という機能までも、おれの味方はしてくれないのか。







 今ではおれの味方をする人など誰もいなくなった。正義の味方なんてこの世には存在しない。もし存在したのなら、すぐさまおれのことを助けにくるだろうから。



 幼いころは大きくなったらヒーローになりたいと思っていた。恥ずかしくて口には出さなかったが。誕生日やクリスマスのプレゼントには、ヒーローもののベルトや剣などを買ってもらっていた。ヒーローもののマントを着れなくなった古着をつなぎ合わせて作ったこともあった。そして、いつか誰かを邪悪な敵から救うために、家の前にあった石段を使って、飛び蹴りを何度も繰り返し練習した。そうだ、強いて言うならば俺の特技は飛び蹴りだ。ただ、その飛び蹴りも誰かのために使うことはないまま大きくなり、いつを境にかもう夢すら見なくなった。







 姉は俺と違って成功した人生を歩んでいる。幼いころから運動神経が良く、男の子に交じってソフトボールに汗を流していた。高校の時は全国大会に出場し、大会NO.1右打者と呼ばれるほどバッティングに長けていた。勉強も良くでき、国内有数のエリート大学の右澤大学医学部に入学した。そこで知り合った同級生と結婚し、今は一軒家で3歳の娘と3人暮らしをしている。ちなみに、姉は右利きだ。同じ遺伝子を受け継いでいるはずなのに、どうしてこうも違ってしまうのだろうか。



 この間、姉が3歳の娘に「大きくなったら何になりたいの?」と質問していた。「女優さん。」間髪入れずに娘が答えた。その自信満々の返答を聞いた瞬間、なんかきっと簡単になってしまうのだろうなと思った。



 おれが今こんな質問をされたら、何も答えなれないな。



おれも幼いころから「ヒーロー。」と口に出していれば、今頃誰かを救えていただろうか。











 通勤ラッシュ。近鉄大阪線の区間準急。ほぼ満員の車内。身動きが取れないわけではないが、知らない人のリュックやカバンが非情に体にぶつかってくる。右側の車窓から、眠気を覚まそうとしているように、朝日が通勤する乗客の顔を照らしている。俺はいつものようにリュックの前ポケットからイヤホンを取り出し、右耳だけに差し込んだ。



しばらく音楽を聴きながらTwitterを眺めていると、右隣に立っていた女性の息が少し荒いのに気が付いた。目をやると女性はスマホを見ていたので、気にせずにTwitterに視線を戻そうとした時、女性のしりのあたりを男性が右手でそっと撫でているのが目に入った。



痴漢だ。そう思った瞬間、おれはその男性の右手首を思いっきり握り、そのまま男性を車内に押し倒した。「まもなくOO、OOです。右側の扉が開きます。ご注意ください。」車内に次の駅の到着を予告するアナウンスが流れる。男性は抵抗する様子もなく、諦めた表情で脱力している。電車は徐々にスピードを緩め、駅に到着した。



男性の右手首を強く握ったまま電車を降り、駅員に事の旨を伝えた。被害にあった女性も同じ駅で降りてくれ、駅員に被害状況を説明してくれたので、駅員はすぐに理解をし、男性を引き取ってくれた。その後すぐに女性が近寄ってきて、感謝の気持ちを伝えてくれ、ご飯でもご馳走したいと言ってきてくれた。差し出された右手のスマホには、LINEのQRコードが表示されていた。



といったような夢を見た。







 午前7時35分。現実とはかけ離れた夢から覚めた朝は気分が悪い。電車の時間まで20分しかない。朝飯を食べている時間はない。だるい体をなんとか動かしながら、着替えと歯磨きだけを済ませ、黒のスニーカーのかかとを踏む。







左耳にだけイヤホンをつけ、駅まで音楽を聴きながら歩く。左耳でスピッツが「ロビンソン」をイントロを演奏し始める。どうして、ダウンロードしてある曲が400曲近くあるのに、2日連続で同じ曲が流れるのか。どこかの数学者に確率を出してほしい。シャッフル再生という機能にも理性が備わっていて、おれに対して嫌がらせをしているとしか思えない。



あえて、バラードを1曲聞いてみることにした。いつも腹を立てて曲を変えるから、シャッフル再生も気を悪くしていつも空気を読まない曲をかけてくるのだと思ったのだ。後奏が静かにフェードアウトし曲が終わった。駅までの道を歩きながら、左耳に期待を込める。



「ツッ」思わず舌打ちが出た。今度は森山直太朗がおれの左耳にハミングをし始めた。今は冬だ。「夏の終わり」なんて季節感がなさすぎる。







 通勤ラッシュ。近鉄大阪線の区間準急。ほぼ満員の車内。身動きが取れないわけではないが、知らない人のリュックやカバンが非情に体にぶつかってくる。左側の車窓から、眠気を覚まそうとしているように、朝日が通勤する乗客の顔を照らしている。俺はいつものようにリュックの前ポケットからイヤホンを取り出し、左耳だけに差し込んだ。



しばらく音楽を聴きながらTwitterを眺めていると、左隣に立っていた女性の息が少し荒いのに気が付いた。目をやると女性はスマホを見ていたので、気にせずにTwitterに視線を戻そうとした時、女性のしりのあたりを男性が左手でそっと撫でているのが目に入った。



痴漢だ。そう思った瞬間、その場から逃げるように自分のスマホの画面を凝視している自分がいた。「まもなくOO、OOです。左側の扉が開きます。ご注意ください。」車内に次の駅の到着を予告するアナウンスが流れる。電車は徐々にスピードを緩め、駅に到着した。まだ目的の駅ではなかったのに、反射的に開いた扉から駅のホームに足を踏み出していた。見て見ぬふりをしてしまった。逃げてしまった。やっぱりダメだった。



自分の情けなさにひどく吐き気を覚え、何度も嗚咽した。







古びた時刻表。改札までの上り階段。2つしかない改札。イタイ人間を見る目で駅員がこちらを見ている。知らない駅の改札を出た通りは、平日の朝8時過ぎだというのに眠ったように静かだった。



もうこんな自分を、こんな人生をやめようと思った。あまりに遅すぎた。本当は高校2年の秋の時点でこの決断を下すべきだった。痛みを感じないままにいけるような高さのあるビルを探しておれは歩き出していた。両耳にイヤホンをねじ込む。周りの音を遮断して、これから実際に自分をこの社会から除外しにいく。



シャッフル再生がバラードをかける。お。さすがにこんな時は、空気を読んでくれるんだな。朝日が温かくおれの全身を照らして、風が優しく頬を撫でた。歩道には小さな花が美しく咲いている。目に映るもの耳に聞こえる音、全てが今までのおれのダメながらに頑張って生きてきた人生を讃えてくれているみたいだ。よく頑張った。お疲れ様。ゆっくり休んでね。そう言ってくれているみたいだ。周りに音は何もなく、体内に流れるやたらと長い前奏も今は感慨深く聞こえ、悲しくないのに涙が出た。







前奏もあと2小節程度で終わるという時だった。周りの音は聞こえないはずだったのに、体の外で微かに子どもの泣き声が聞こえた。左右に首を振り、その泣き声を探した。すると、数メートル先の歩道に腰を下ろして泣いている女の子がいた。



おかっぱ。小さな赤い靴。黄色い幼稚園カバン。泣きじゃくる女の子は姉の娘によく似ていた。



「どうしたの?ママは?」



久しぶりに他人に向けて発せられた言葉は、がすがすで滑舌も悪く、かろうじて聞き取れるレベルだった。というか、声をかけるつもりはなかったのに。自分で自分に驚く。



「ママにいうこときかないんだったら、でていきなさいっていわれた」



そう言って、さらにわっと泣き出した。



「お家に帰ろう」



「おうちわからなくなったの」



どうやら、お母さんに怒られて家を飛び出してきたら迷子になってしまったらしい。



「じゃあ、おじさんと一緒にお家を探そうか」



次々と思ってもない言葉が出る。でも、どうせじきに死ぬんだから、少しくらいの時間はいいか。女の子は少し泣き止んで、小さな右手でおれの左手を握ってきた。



女の子との会話はあまり弾まなかった。というよりは、会話が弾む前に女の子を探していたお母さんと出会うことができたのだ。



お母さんは何度もお礼を言ってくれた。お家に上がってお茶でもどうですかとまで言ってくれた。こんなに人から感謝されたのは、いつ以来だろうか。初めて、自分の存在価値を認められた気がした。



気付いたら、膝をつき声を出して泣いてしまっていた。



女の子をおれの頭を撫でながら「大丈夫だよ。おじさん」と優しく笑ってくれた。こんな小さな女の子に慰めてもらうなんて、どこまでも情けない。でも、そんなことはどうでもいいと思うくらいに、誰かのためになれたことが嬉しかった。こんな自分を初めて誇らしいと思えた。



おれの気持ちが落ち着くまでの数分間、女の子はずっと両手でおれの頭をポンポンしてくれていた。



「少し散歩でもしましょうか。お天気もいいですし。」



女の子のお母さんが気を利かせそう言ってくれた。



おれの左手を女の子の右手がしっかりと掴んでくれている。小さな腕のかたち通りに朝日が透けて産毛が光る。なぜだか分からないけれど、今まで上手くいかないことだらけだったおれの人生が、あの日から光を失ったおれの人生が、今日から先は少しましになるようなそんな気がした。



「大きくなったら何になりたいの?」



いつか姉が娘に訊いていたことを思い出し、ふと、おれは訊いてみた。



すると、女の子は髪入れずに



「パン屋さん」



と答えた。こんな心優しいパン屋さんなら毎日通うなと思った。



「おじさんは大きくなったら何になりたいの?」



想像もしていないことを聞かれて、おれは数秒間黙ってしまった。けれど、おれの両足はしっかりと大地に立ち、心は前を向いていた。



「おじさんはね、ヒーローになるんだ。」



どんなに情けなくてもいい。どんなにかっこ悪くてもいい。少しでも誰かのためになれるような人間になりたい。そのために、諒、おれもう少しがんばって生きてみるわ。

サ・ヨ・ナ・ラ
162210


0、プロローグ

―ある夏の終わりの夕暮れ、男が一人、海辺にたたずんでいた。ゆっくりと日が沈むなか、男はあの過ぎ去った日々を思い出していた。―





1、

わたしは、自分自身の気持ちに背を向けていた。

見ないようにすれば、きっと傷つかずに済むから。

私自身の弱い部分を、そうやってなにか薄いベールのようなもので被いかぶせて。

だから、それ自体を目の当たりにしたとき、がんっとなにか鈍器で殴られたようなショックで、そしてそのあとから湧いてくる怒りや悲しみとが渦巻いて、やりきれない気持ちになった。

理性を失った行動は、自分自身に、より深い傷を、一生消えない傷を与えてしまっただけ。

思い出して、振り返れば、愚かだと失笑するしかない。

その自分自身の過ち、その過去の傷を忘れて、忘れようと生きてきたつもりだった。

それでも、自分自身の中でどこか忘れられないのは、引きずっているのはなぜだろう。



「久しぶりだな〜」

行きかう人々。わたしは荷物を下げて、駅のホームへとむかう。

今日は、フォロワーの「らいと」と会う日。

郊外で会うことに、少し、ためらいの気持ちはあったが、なんどもやり取りしている仲だ。

まあ、いいだろうと了承した。

普段は、都会のこみごみした中を行きかい、満員電車に揺られる日々を送っているので、電車に揺られながらのんびりと外の景色を楽しんでいる今、どこか懐かしさと郷愁が、自分の胸にこみ上げてきた。



「らいとさん、どんな人なんだろうな」



連絡がないか、スマホを確認しては、想像を巡らせる。

口は多少悪いが、優しそうな人。

会話の内容や、雰囲気からして、年齢は同じくらいだろうか。

素性はよく知らないし、みき自身もあまり明かしていない。

会いたいと思ったのは、もちろんいろんな人と知り合いになりたい、という気持ちや単なる興味もあったが、それとは違う感情も、彼女自身の中に確かにあった。

みきにしては珍しく、心がほだされる、温かい気持ち。

それを彼とのやり取りの中に感じていて、気持ちがいい。

何かしたいのでもなく、ただ「会ってみたい」。

そんな風に、思ったことは、みきにとったらもしかしたら、初めてのことだったのかもしれない。



「あ、そういえば、車いす乗ってるって言ってなかったかも」



まさか、こんな遠くまで来た待ち合わせ人が、車いすに乗っているなんて思ってもいないだろう。

それで引くような相手ではないとは思うが、会ったときにもしかしたら驚かせてしまうかもしれない。



時計を確認すれば、もうすぐ待ち合わせの時間だ。



あったときに、どんな話をしよう、そんなことを考えながらみきは待った。



「あまいものがすきって言ってたな、お土産よろこんでくれるかなあ」

うきうきした気持ちと、どきどき、そわそわと不安な気持ちが、混ざり合う。

正直緊張している。

はじめて、みきにとって、。

自らそれを望んだことが。





「友達に」「ともだちに、なれるだろうか。」



いい友好関係を築きたいと、それを壊したくない、崩したくないと思った相手が、初めてだった。



「はあ、」



みきは、ため息をつく。

時計を、もう一度みると、

待ち合わせの時間がもうすぐだ。

そろそろ連絡を入れておこうと、みきはツイッターを開く。



「待ち合わせ場所着きました。」



DMを送ると、その返事は、相も変わらず、すぐに返ってきた。

らいと「あ、今行きます。どのへんにいらっしゃいますか?」



みきは、どきりとする。

格好。確かに。

確かに、初対面相手に何の情報もないとわからないだろう。

まして、自分は車椅子だ。

やはり、そのことも伝えたほうがいいだろう。



みき「えーと、駅出てすぐのところにいます。花柄のワンピースをきています。言ってなかったのですが、車椅子に座っているのが私です。」

らいと「わかりました。もうすぐつくとおもいます。そのあたりに、いるとは思うんですが、、」



え、どこにいるんだろう。

みきは、きょろきょろとあたりを見渡した。

ほかに、待ち合わせで待っている人はちらほらいるが、どうやら、らいとではないらしい。



みき「どこですか?」

らいと「待ち合わせ場所には、着いているんだと思うんですが、、じゃあ、電話番号教えるので、電話してもらってもいいですか?」

みき「わかりました。」

DMのメッセージの最後には、電話番号がかかれており、みきはそこに表示されたリンクボタンを何の迷いもなく押した。

せっかく、互いに待ち合わせ場所についているのに、迷いあっていては話にならない。

初めての電話に緊張もあったが、まずは、あうことが先決だ、、



「え?」



一瞬見間違いかと思った。



まさか、そんなはずはない。久々に見る文字の羅列。

まだ、消していなかったことに自分自身もおどろいた。

が、もしかしたら、登録したこと自体、忘れかけていたのかもしれない。



「吉田 光」

スマホの画面には、そう表示されている。

『もしもし?』

「、、、、、、、、、、、もしもし」

『あ?みきさん?らいとです。』

「、、、、、、、、、、、らいとさん、」

『みきさん、どこにいますか?』

「出口を出てすぐの、柱の前です。」

『わかりました、電話、切らないでくださいね。』



何も、考えられない。

なにも、考えたくない。

なにも、感じたくない。

やめて、やめて。



だけど、思考はぐるぐるとめぐってしまう。

らいととの、今までのやりとりや、みきがあの町にいた、あのころのことが、頭の中を駆け巡る。

うそだ。

まさか、まさか。

ありえないなんて、ことはありない、とは誰が言ったか。

事実であっても、すぐに、それを受け止められない。

「あの。」

『あ』

「え、」

『見つけました』

「、、、、、、、、、、、、、、、」

『やっと、見つかりましたね、やっと』

前を見れない。その姿を見たくない。いや、本当は見たいのかもしれない。

震えがとまらない。うまく言葉にできない。わからない、なんで、どうして。

彼は、彼はなぜ、なぜ、怒らないのだろう。

怒らない理由があるとするならば、と、みきは今までのらいととのやりとりを思い出す。

まさか。

「、、、、、、、知ってたの、、?、、、」

『見つけられなくなって、しまったな、昔はあんなにすぐにわかったのに』

「、、、、、、、、、、、、、、、、いつから?」

『なんか、むかしも思っていたけれど、なんか小さくなったな。』

「ん??」

みきは、うしろから、抱きしめられた。

『みき』

どうして、どうして、

なんで。

そんなことを考えることもなく、みきは振り向きはせず、声を震わせた。

「、、、、、、、、、、、、、、らいとって、なるほど、そういうことね。あんたが考えそうなことだ。わからなかったわたしも、馬鹿だったってわけ。」

『やっと、会えたな』

「わたしを、だまして楽しかった??」

『まあね』

「へえ、やっぱり悪趣味なやつ。光がそんなに性格が悪かったって、知らなかった。」

『でも、まあ、直接顔見ないとな』

「わたしは、光の顔なんか、」

『会いたかったんだろ??』

「あいたいわけ、」

『俺は、会いたかった。』

みきは、思わず、振り向いた。

すると、そこには、やさしく微笑む彼がいて。

自分には絶対向けることのないと思っていた顔で。

みきは、出掛かっていた言葉を失った。

「あいたくなんて、なかった。」

『へえ??DMしてるときは、素直でかわいかったのにな。』

「あれは、わたしじゃない」

『お前だろ』

「うるさい、、、、なんなの、らいとって」

『それは、光から、、、、』

「そんなこと聞いているんじゃない」



かろうじて、口から言葉は発せられているものの、動揺を隠せている自信はない。

ずっと、避け続けていた相手。

もう、一生会うことはないだろうと思っていた相手。

相容れない相手で、嫌いで、憎くて、仕方ないと思っていた相手。

その彼が、いま、背後に立って、逃すまいと自分を抱きしめている。

この状況は、

いったい

なんだろう?、、、、、、、

「あのさあ、」

『怒ってないから』

「え??」

『もう、怒ってないから』

なにを、なにを言っているのだろうか。

彼を捨て置き、彼の前からいきなり消えたのは、私なのに。

再会なんて、望んでなかった。

まして、こんな形なんて。最も自身のテリトリーに入ってきてほしくない相手に、手のひらで踊らされていたのだ。

そう、思うと怒鳴らずにはいられなかった。



「なに、なに言ってるの」

『だから、怒ってないんだって』

「はあ????わたしが、そんなことを気にしているとでも????ああ。だから、あんな話を。光は、光と私の間に起こったことをやたら聞いてきたのは、わたしがどんな心境か知りたかったんでしょう????わたしだとわかって、そうやって、わたしが光の正体に気づいていないのを見て、あざ笑っていたんでしょう??」

『笑ってなんか、いなかった』

「うそ、うそ。ならどうして、わたしとDMなんかしてたの。あんなに長いやり取り。何の意味があったの。光とわたしの関係なんて、もうとっくの昔に、終わってたじゃない。それを、なんで。なんであんな形で。ただ、表面上の付き合いがしたければ、会わなければよかったじゃない。あえば、こうして壊れるんだからね。それを、それをこうして会う約束をこじつけたのは、光、あなたじゃない!」



とまらない。とまらない。

あふれてくる。

口から出る言葉が、彼を傷つける言葉が、たとえ彼を傷つけるものだとしても。

苦しい。苦しかった。

彼と出会って、別れて、ずっと、ずっと苦しかった。

それを足の痛みとともに、ごまかしてきた。

見ないようにしてきた。

彼のことを思い出さないように、していた。

それでも、どうしても忘れられなくて、心が痛んだ。



吐きそうだった。

ずっとずっと、ずっと、ずっと、、、、

吐き出したかった。でも、行き場がなかった。

吐き出したところで、むなしさしか、残らない。

だが、一人になると思い出してしまう。

そんななか、いつの日から始まった、「らいと」とのDM。

やりとりを続けていくうちに、彼のことを考える時間が減っていた。

ひとりになると、いつも相手をしてくれた。

その彼が、まさか。



「、、、、、、、、どっか、行ってよ。」

『行かないよ』

「行ってよ」

『いかないよ。行くわけないだろ。どれだけ会いたかったと思ってるんだ』

「どうして???」

『俺は、会いたかったんだよ』

「なんで????わざわざ、」

『だからさ、』

「だから!!もう、言いたいことがあるなら言ってよ。そうか、そうか。あのときの、愚痴を言いにきたの??ねえ、ねえ」

『だから、違うって言ってんだろう!』

「だったらなに??」

『好きなんだよ!!』

「、、、、、、、、、は??????」





開いた口が、ふさがらない。今、なんと言ったのだろうか。

背後にいる男は、なんて、何ていったのだろうか。

決して、自分には、もう言われるべき、言葉ではなかった。

脳内処理が追いつかない。



『あ?????、、、、なるほど、わかったわ。そうか。口にして、やっとわかったわ。』

「は?なに、なに言って」

『そうか。俺の気持ち、やっっとわかった。』

「冗談はやめて」

『冗談じゃないって』

『なあ、いいかげんこっち向けって』

「見たくないから、こうしてるんでしょ」

『無理やり振り向かせるぞ』



いやだ、いやだ。見たくない。

思い出してしまう。認識してしまう。

たたでさえ、消えないのに



「はあ、、、、、、相変わらずだね、光。」



折れる気はなかったが、少しこの自分の気持ちに、向き合ってみてもいいのかもしれない。

そんな気に、みかはなってきた。

口に出してみて、より彼を実感する。

忘れたかったのに。

忘れようとしていたのに。

懐かしい言葉の響き。

どうしようもなく、大嫌いな、彼が目の前にいる。

なのに、なぜ、話せば話すほど以前のように、憎しみがわきあがってこないのだろう。

自分も弱くなったのか、それとも感化されたのか。

ちょっぴり、悔しくて、ちょっぴり、不思議な感情。

心のおくが、じんわりする。



『、、、どうした???みき。』

「うーん。なんか、なんでもない。」「なんか、もうよくなってきちゃった。」

『あ、、、、、、みき』

「いいよ、そのかわり、おいしいいもの食べさせてよ。それだけなら、つきあってあげてもいい。」

『、、、、、、、、、、、、、、、』

「なに。急に」



光は、笑った。

満面の笑みで、

『やっぱり、好きだ』

「、、、、、言わないで」



みきは、そっぽを向いた。

顔が熱い。

すきか、嫌いかなんて。

「絶対、好きになんか、もうならないよ。」

『へえ、そう。』

「うれしそうに言うな、、、」



自覚してしまった。

それこそいまさら過ぎる。

いまさら過ぎて、口にできない。



「もう、きらい」

『はいはい。じゃあ、いくか』

「なにそれ???ていうか、車椅子!勝手に押さないで!」





どこまでも、わたしのペースをみだしてくる、いやな相手。

今度は、今までとはまた違う、憎らしさが、芽生えてきそうだ。

これ以上、かき乱されたくない。

新しい、関係なんて、築けるとは思えない。

そう、否定の声をならべて、冷静さを保とうとする。

それが、すでに、彼の手中に転がされていることには、気づかないようにして。





みきは、彼の名前を呼んだ。



2、

あれは、波の音が、微かに響いている夏の夜だった。

『なあ、そういえばさ、お前はあの日何で、あんな夜海岸を歩いてたんだよ。』男は振り向きながら、窓辺にたたずむ女に話しかけた。

この男は、この町に幼い頃から住む漁師の息子だ。今は、スキューバダイビングのインストラクターや、夏にはライフセーバーも引き受けている。

―ミ―ンミ―ンミ―ン・・

「なに?あなたは、そんなに何が気になるの?たまたま散歩しようと思って、ふらっと外に出ていただけよ。」

『悪かったよ。ただ、あの時間にあの辺を歩くことは俺の知り合いにはあまりないから気になっただけさ。』

女は、「ふーん、そう。」といい、白いサマーワンピースの裾をふわっと風にあおがせながら、振り返った。

『おれさ、』『あなたのことが好きだ。』男は言う。

微笑む女。「ありがとう、私もよ。」

『だから、おれと・・』

だんだんと大きくなる、セミの音。その音は、闇夜に静かにこだましていた。





花火大会のある夜、2人は見晴らしのいい丘の上から、花火を眺めていた。

「綺麗だね。」 微笑みながら女は言う。「私こんなの見たの、初めてだな・・。」

『本当?じゃあ、来年も、また二人でこような。』

花火の上がる音が、だんだん小さくなっていく。

夜の静けさの中に、どこからか鳴く虫の音だけが響いている。2人は、夏の夜の夢の中に消えていった。



―夕方のニュースをお伝えします・・

夕方のニュース番組を見ようとソファーに腰かけた男は、信じられないものを聴いたかのように、聞き返した。

『え、今なんて』

「だから、私、もうすぐしたらあなたの元を離れるって言ったの。」

女は、少し俯きながら言った。

『ごめん、ちょっと一人にさせて、外出てくるわ。』

踵を返して、出ていく男。その背中をただじっと見つめる女。

ある夏の終わりの夕暮れ、2人の若い男女が話をしていた。





『もう、おわりにしよう。』男が俯きながら言った言葉に、

「ええ。お互い、一緒じゃないほうが幸せになれると思うの。この夏は楽しかった。」「さよなら。」

踵を返して、去っていく女。その眼に涙がこぼれていたことに、男は気づいていた。

『さよなら。』『大すきな人。』

男は、去っていく女の背中に向かってつぶやいた。

波の音だけが、静かな海辺に響いていた。

―ツクツクボ―シ・・ツクツクボ―シ・・

セミの音が、遠くから聞こえる。

男は、カレンダーを眺めていた。

チクタクという音を立てながら、掛け時計の時は進んでいく青い夏の終わりの空に、夏が終わるのがつくづく惜しい、というセミの声が、響いていた。

遠くから、どこかさみし気な波の音が、響き渡っていた。



3、―これは、ある物語の一部。

女は、海の中に住む、人魚であった。

「あれ、わたしのイルカがいないんだけど・・」女には、大切にしているペットのイルカがいた。彼女とそのイルカは、まるで兄弟のように共に過ごしてきた。

「それなら、さっき向こうの方に泳いでいくのが見えたけど。」母は言う。

「そんな!あっちには、最近漁師たちが網を張っているから危ないから近づくなって言われているのに・・」

女が探しに行くと、定置網に引っかかっているイルカが見えた。しかし、それよりほかにもう一つに影が見えた。

「あーあ、引っかかってるじゃん。・・ほら、できた。もう、こっちくんなよ〜。」

男は、笑顔でイルカを網から解放していた。

―ブクブクブクブク・・

「あの人は、本当に命の恩人です。本当は、あの場でお礼が言いたかったのですが・・」

イルカは、しょんぼりしながら話す。「話す動物なんて、あの人びっくりすると思って。」

女は、考えあぐねていた。お礼したい気持ちはやまやまだが、どうすればいいのか・・

「ねえ、お父さん。」女は、父に何げなく話しかけた。

「なんだ。」

「人間になるのって、難しいの?」

少し難しい顔をした後、彼は言った。

「難しくはない。ただ、」

「ただ?」

「こちらの世界に帰ってこられなくなるものが多いというだけだ。」

「それはなぜ?」

「あちらの世界に、未練が残るからさ。抜け出せなくなるんだよ。」

「期限とかあるの?」

「1か月さ。」

女は、少し考えたあと、父に向かってこう言った。

「わかったわ、わたし、地上に行ってくる。」

「なんだって?」

「そのかわり、」「きちんと1か月で戻るわ。約束する。」



4、プロローグ

『で、何でこの物語を??』

「なんでかって???うーん・・・簡単に言えば、私の気持ちかな〜」

『へえ、よくわからないけど、まあ、いいや。』

「よくわからなくないでしょ???あの人魚姫は、どう考えてもわた、、、」

『はい、みきちゃんそれくらいにして行こうね〜』

「はあ???だからさ・・・・・・」





【でも、人魚姫は、愛する王子を殺すことができませんでした。・・・人魚姫は、だんだんと自分の体がとけて、泡になっていくのがわかりました。そのとき、海から上ったお日様の中を、透き通った美しいものが漂っているのがわかりました。・・・人魚姫は、自分の目から涙が一滴落ちるのを感じながら、風とともに、雲の上へとのぼっていきました。】