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大阪教育大学 国語学講義
 受講生による 小説習作集

詩織

 
2019年度号

手紙172302
都心夜行172304
失楽園172308
サラリーマンとペンギン172315
風景172316
明日の自分(作成途中)172323
あたたかな、青172329
夕焼けの海172332
憧れ172333
ピットイン172335
恋や愛174101
小説174103
芸人交換日記174105
永遠に174106
100万回も生きたねこ174109
再会において174110
俺の勇者174112
ロングパス175011

左の目次の作品名をクリックしてください。

手紙
172302

今日もまたいつもと同じ一日が始まる。
「おはよう!」
私はいつも、グループの中で一番学校に来るのが遅い。
今日もチャイムギリギリで教室に入った。
「おはよう!夏実。一時間目英語だよ。課題やってきた?」
いつも一緒にいる春花が今日も笑顔で話しかけてきた。
「やってない!見せて!お願い!」
私の仲良しなグループは、私、茜、春花、優子の4人。
私は、毎日4人で楽しく過ごしている。
 
放課後は、みんなバラバラ。
茜はテニス部、春花は吹奏楽部で、毎日放課後は部活。
優子はバイトが忙しく、放課後はほとんど遊べない。
私は、部活もバイトもせず、暇を持て余している、17歳女子高生。
活動的な3人を見ていて、羨ましいな、と思うこともあるが、私には無理だなと思う。
そんな一番暇なはずの私は4人の中で一番学力が低い。
春花はとても賢く、学年でも上位。
茜と優子は普通。平均点は取れている。
それに比べ私は、赤点がいつも3つはあるような、留年危機組だと言われている。
もちろん将来の夢なんてものはまだない。
他の3人はそれぞれ目標や夢があって、それに向かって頑張っている。
どうして私は、部活やバイトなど夢中になれることがなく、勉強もできなくて、将来の夢や目標がないんだろう。
私は何のために生きているのだろう。
何か起きないかな。
今日もそう思いながら過ごしている。
 
「田中、放課後じ社会科研究室来なさい。」
朝、学校へ着くと、担任の先生である、山下先生からそう言われた。
何だろう。雑用かな。
放課後になり、社会科研究室へ向かった。
山下先生はいつも笑顔で優しい、でも生徒のことをしっかりと考えてくれる先生だから、
みんなから好かれている。
研究室に入るなり、山下先生は真顔で私に告げた。
「お前、このままだと留年するぞ。」
「え。」
「留年危機組って言っていただろ。」
「どうせ名前だけだと思ってました。そんなに私危険なんですか?」
留年危機組、とは言われていたものの、留年なんてしないと思っていたため、特に気にしていなかった。
「そんなわけないだろう。あと3回のテストをがんばらなければ本当に留年するからな。」
「ええ。」
私は驚いたが、どこか他人事のような気がしていた。
「田中は将来の夢とかないのか?どこの大学を目指しているとか。」
突然、そんなことを聞かれた。
「ないです。大学も行くかどうか迷っています。まあ、行けるかそもそもわからないけど。」
本当だった。大学へ行ったところでやりたいこともないから、行かずに適当に働こう、と安易に考えていた。
「そうか。何か勉強する目標があれば、もっと頑張れるのにな。まあ、今回は留年しないように勉強することだな。」
「はい、わかりました。」
研究室から出て、いつもの道で家へと帰った。
帰ってからも、いつもならすぐにお風呂に入ったら寝るが、今日は、勉強する意味を考えていた。
なりたいものがないんだったら、留年してもいいんじゃないか。
そもそも、高校を卒業する意味はあるのか。
そんなことまで考えていた。
まあ、いっか。
 
気づいたら朝になっていた。
いつもより寝るのが遅かったせいで今日は眠たい。
ダラダラ用意していたら、いつもは家をでている時間になっても用意が終わらず、遅刻確定になってしまった。
もういいや。
どうせ遅刻するなら、思いっきり遅刻していこう。
私は、ゆっくりと用意をして、遠回りをして学校へ向かった。
今日はいい天気だ。最近雨ばっかりだったからとても気持ちがいい。
いつもと違う道。歩いていると小さなお寺を見つけた。何の花かわからないが、一面ピンク色の花がたくさん咲いていた。
お賽銭を入れて、鈴を鳴らし、お願いごとをした。
「私に頑張るきっかけを与えてください。」
なんて、そんなお願い、叶うわけないけどね。
そう思いながら、お寺を後にしようとした時、
突然ビュっと強い風が吹いた。
私は風がやむのを少し待って、歩きだした。
「あれ?」
歩きだすと、目の前に小さな封筒が落ちていた。
「風で飛んできたのかな?」
私は、開けていいのかわからなかったが、大切な手紙かもしれないと思ったので開けることとした。
 
〈こんにちは。
悩む時期だと思いますが、よければお話聞かせてください。〉
 
メッセージカードに2文そう書いてあった。
「なにこれ。何かの宣伝?勧誘?」
私はよくわからず、でもなぜか捨てることもできず、ポケットに入れた。
 
携帯が鳴った。
「何してるの〜?はやく学校おいで!春花も優子も待ってるよ!!」
茜からのメッセージだった。
私は急いで学校へ向かうことにした。
 
「おはよー。」
「おそいよ!何してたの?」
「寝坊しちゃった!」
何となく、メッセージカードのことは言わない方がいい気がしたので、秘密にしておくことにした。
それからは、メッセージカードの存在を忘れて過ごしていた。
家に帰って、制服を干した時、
メッセージカードの存在を思い出した。
「忘れてた…。」
もう一度メッセージカードを取り出して、眺めていた。
一体誰が誰に書いた手紙なんだろうか。
もしかして大切な手紙だったのではないか。
明日、朝はやめにでてお寺によって置いてこよう。
そう決めて、眠りについた。
 
朝が来て、今日はいつもより早めに起きて、家をでた。
昨日来たお寺に着き、メッセージカードを落ちていた場所に置いて行こうとした時、
新たにもう一つ封筒が落ちていることに気が付いた。
「あれ?」
私は不思議に思い、封筒を拾った。
同じ手紙かな、と思い読んでみることにした。
 
〈拾ってくれてありがとう。
私はあなたの力になりたい。
よければ返事をください。〉
 
そう書いてあった。
どういうこと?私に向けて手紙がかいてあるの?だとしたら誰からだろう。
不思議でいっぱいだった。
 
今日も遅刻するわけにはいかないので、学校へ向かった。
いつもと変わらず、授業をうけたり話したりしていたが、ずっとメッセージカードのことが気になっていた。
「どうしたの?今日ぼーっとしてるよ。」
優しい優子は私の変化によく気づく。
メッセージカードのことを言ってしまおうか。
でも、言っても信じてくれないだろうな。
「ううん、何もないよ。昨日また遅くまで起きていたから、ねむたいだけ。」
そう言って笑ってごまかした。
 
私は放課後教室に1人で残って、メッセージカードの返事を書いてみることにした。
 
〈あなたは誰ですか?〉
 
そう一言だけ書いて、お寺へ向かうことにした。
どこに置いておけばいいかわからないので、だれにも拾われぬよう、お賽銭箱の裏に置いておくことにした。
返事を置き、そのまま家へ帰った。
「明日も念のために早くお寺へ行くことにしよう。」
そう決めて、眠りについた。
 
翌朝、今日も早くでてお寺へと向かった。
お寺に着いても、封筒は見当たらなかった。
やっぱり、いたずらだったのか。偶然だったのか。
そう思い、昨日私が書いた返事を回収しようとお賽銭箱の裏を見ると、
新しい封筒が置いてあった。
「あ!」
さっそく開けてみると、
 
〈私はあなたの力になりたい。
悩んでいることを話してみてくれませんか?〉
 
とだけ書いてあった。
私は、結局誰か分からず、がっかりしたが、知らない人との文通、という非日常にわくわくしていた。
さっそく放課後、返事を書くことにした。
 
〈私は、夏と言います。
私は今、退屈な毎日に嫌気がさしています。
勉強する意味がわからなくて、勉強する気がおきず、留年してしまいそうです。〉
 
本名を出すのは少し怖かったので名前を「夏」として、返事を書いて、お賽銭箱の裏へ置いた。
朝、またお寺へ来るとやはり封筒が置いてあった。
 
〈夏さん。じゃあ、私の名前は冬とします。
夏さんは将来の夢とかなくて困っているのではないですか?〉
 
私と冬さんの手紙のやり取りは何通も続いた。
 
〈冬さん。
そうです。私は将来の夢や目標がなく、何のために勉強をしたらいいのかわからないのです。〉
 
〈夏さん。
将来の夢や目標を見つけるのはきっと大変なことですよね。
でも、まだ高校生の夏さんには、何にでもなれますよ〉
 
〈冬さん。
私に向いている職業は何か教えてもらえたら、楽なのになあ。〉
 
〈夏さん。
仲の良い友達に、何のために勉強しているのか聞いてみるのもいいかもしれないですね。〉
 
冬さんの手紙のやりとりは楽しかった。
なんだか、冬さんはとても私のことを分かっていて、いつも温かく見守ってくれていた。
きっと冬さんはとても素敵な大人なんだろうなあ。
 
 
「ねえ、何で茜は勉強するの?」
ふと、冬さんとのやりとりを思い出し、私は茜にそう聞いてみた。
茜はびっくりしたような顔をした。
「夏実がそんなこと聞くの珍しいねえ。んーそうだな、私は、行きたい大学があるからかな。そこの大学には、テニス部があって、強いからそこに行きたいんだ。」
なるほど、そんな目標があったのか。
「じゃあ、優子は?」
「私は、将来、美容師になりたいから、専門学校に行きたいから、勉強してるよ。」
「春花は?」
「私は、弁護士になりたい。だからたくさん勉強しなきゃ。」
「みんな将来の夢があっていいなー。私も将来の夢とかあったら勉強もっとしようと思うのにな。」
「そんな焦らなくても大丈夫じゃない?」
「うーん。」
「珍しいね、夏実が勉強の話するなんて。」
「ちょっとね。留年しそうで…。」
「ええ!手伝うよ!わからない所とかあったらいつでも聞いてね。協力するから!」
いい友達を持ったなあ。
「ありがとう!」
 
何通か、冬さんと手紙をやり取りしていたが、お互いの情報は何もしらない。
冬さんは何歳なのかも知らない。
でも知らないからこそ、何でも思ったことを言える。
 
〈冬さん。
私の友達は皆将来の夢に向かって勉強しています。
でも私は将来の夢がありません。冬さんは将来の夢とかありますか?〉
 
〈夏さん。
将来の夢がないのであれば、たくさんの選択肢があって素敵ですね。
いろいろな将来の自分を想像するのも楽しいかもしれないですよ。〉
 
冬さんの手紙はいつも、私を肯定してくれるので、安心する。
私は私のままでいいんだと思わせてくれる。
 
〈冬さん。
でも勉強は結局しなければ、どの職業にもつけないですよね。
私は何を目指せばいいのでしょうか。〉
 
〈夏さん。
見方を考えてみてはどうでしょうか。
勉強しないと、と思うと、苦に思いますが、
勉強したら、将来の選択肢がたくさん増える。ととらえると
少しやる気がでてきませんか?〉
 
冬さんからこの手紙をもらい、私の勉強に対する見方が少し変わった。
この手紙は、冬さんとの手紙のやりとりをして、15通目であった。
将来の選択肢。
私は冬さんとの手紙のやりとりを初めてから、将来について考えることが増えた。
今までふらふらと生きてきたせいで、将来について考えるととても難しく重たいものに感じた。
 
「もうすぐ中間テストだねー。」
茜は教室に入ってくるなり、そういった。
「そうだね…。やばいよ私。」
「大丈夫だって!協力するから一緒にがんばろ!」
私はとりあえず、留年しないことが目標で勉強に励んだ。
目標があるだけでいつもより頑張れる気がした。
 
〈冬さん。
もうすぐ中間テストです。
まずは、留年しないことを目標にして勉強頑張ります。〉
 
〈夏さん。
どんな目標でも達成することで次のやる気がでてきます。
小さな目標と大きな目標を立てるといいですよ。
コツコツと小さな目標を達成していくことで、いつか大きな目標を達成することができますよ。
がんばってください。〉
 
冬さんとの手紙のやり取りは、私にとって、とても大切なものになっていた。
誰だかわからないけれど、私のことを見守って、いつも受け止め、的確なアドバイスをしてくれ、応援してくれる。
心の支えのような存在になっていた。
 
やり取りは1年続いた。
留年をしないことを目標にして取り組んだ定期テストは、良い成績というほどではなかったが、私史上一番良い成績であった。
がんばりは認められ、進級することができた。
 
「夏実頑張ってたもんね〜!本当におめでとう!」
「ありがとう!よかった〜」
「みんなで3年生になれるね!!」
「うん!」
「3年生になってもみんなよろしくね!」
 
〈冬さん。
留年回避することができました!
たくさんアドバイスしていただきありがとうございました!
これからもよろしくお願いします。〉
 
〈夏さん。
おめでとうございます!夏さんの頑張りの成果ですね。
今度の目標は何にしますか?〉
 
今度の目標…。
たしかに進級するという目標が達成されたおかげで次の目標も達成できる気がしていた。
だけど、目標が見当たらない…。
 
〈冬さん。
次の目標は何にしたらいいと思いますか?
留年回避という目標を達成したら次は何をしたらいいかわからなくなってしまいました。〉
 
〈夏さん。
新しいことを初めて見ると、自分のことをもっと知ることが出来るかもしれないですよ。
素敵な出会いがありますように。〉
 
 
春休みに入り、冬さんのアドバイス通り、私は新しいことをはじめようと、バイトの面接をうけた。
バイト先に選んだのはお花屋さん。
ここは、お寺に向かう道にある小さなお花屋さん。お花がたくさん咲いているお寺に行くようになって、このお花屋さんの存在に気づいた。
毎日きれいな花を咲かせ、皆から愛される素敵なお店。
 
「じゃあ、田中夏実さん。来週の月曜日からよろしくお願いします。」
「ありがとうございます!よろしくお願いします。」
バイトの面接は無事に終わり、月曜日から働くこととなった。
新しい挑戦に、私はどきどきわくわくしていた。
 
〈冬さん。
花屋さんでバイトをすることにしました!
そこの花屋では、今ガーベラがきれいに咲いています。
がんばります。〉
 
冬さんにさっそくバイトを始めることを報告した。
冬さんとの手紙をやりとりするようになってから、
毎日のように小さなお寺へと向かう。習慣となっていた。
 
〈夏さん。
お花屋さんですか。いいですね、素敵です。
ガーベラ、春に咲く花ですね。花言葉を知っていますか?
希望・前進です。
とても素敵な花です。〉
 
花言葉…。
ガーベラは飾ってあるだけで、ぱっとその場の雰囲気が明るくなるような、そんな花。
私は、ガーベラがとても好きになった。
 
花には一つ一つ、意味が込められている。
もっと知りたい。
私はそう思うようになった。
それから私は、花屋で働きながら、新しい花を見ると、その花の花言葉を調べるようになっていた。
バイトを始めて、数週間が経った。
明日から学校が始まる。ついに私も受験生だ。
 
〈冬さん。
明日から学校が始まります。
友達に会えるのでとても楽しみです。〉
 
〈夏さん。
とても充実した春休みを過ごしたようですね。
これからも充実した日々を送ってくださいね。〉
 
私の通っている学校は、3年間クラス替えがないので、いつもと同じメンバー。
しかし、学校が始まるやいなや、クラスメートたちは受験生モード。
もちろん、茜も春花も優子も。
ちょっと前の私だったら、みんなが勉強していることに焦るだけで、
結局できないままだっただろう。
だけど、今の私は少し違う。
花言葉を勉強するうちに、新しいことを知ることの楽しさを少し感じることができた。
将来の夢はやっぱりないままであるが、私は、
冬さんが言っていた、将来の選択肢を少しでも多くもてるように、勉強しょうと思った。
将来の夢を見つける、が私の大きな目標となった。
その目標をかなえるために、いろいろなことに挑戦したり、学ぶ、それが小さな目標である。
 
〈冬さん。
私の大きな目標が決まりました。
皆とは違うかもしれないけれど、将来の夢を見つける、ということです。〉
 
〈夏さん。
素敵な目標ですね。
その目標に向かって、たくさん小さな目標を達成していきましょう。
夏さんの目標が達成されますように。〉
 
 
 
私は、やっぱり高校生の間には将来の夢は決まらなかったが、目標を達成するために勉強をすることで、
国公立大学へ入学することができた。
私は大学生となり、自分が興味をもったことは、とことんやることにした。
ボランティア活動、サークル。様々なイベントにも参加した。
毎日がとても充実していた。
 
冬さんとの手紙のやり取りは、だんだんと少なくなっていた。
高校生の頃は、毎日交換していたのに、今では、週に一度あるかどうか。
私が書く回数が少なくなったのも少しはあるが、
ほとんど、冬さんからの返事がなくなっていた。
 
いつか、このやり取りは終わってしまうんだろうな。
そう感じていた。
 
それが現実に起こったのは、大学3年生の4月18日。
いつも通り、私はお寺へ向かい、お参りしてからお賽銭箱の裏を見た。
 
いつもは、白い封筒に水色のメッセージカードが入っている。
しかし、今日は、白い封筒と、ピンク色のガーベラの小さな花束が置かれていた。
私はすぐに封筒をあけ、メッセージカードを取り出した。
 
〈夏さん。
大きな目標達成おめでとう!
また、新たな目標へと進んでください。
もう夏さんは、大丈夫。〉
 
 
そう書いてあった。
大きな目標、それは、将来の夢を見つけることであった。
私は、驚いた。
 
どうして冬さんが私の将来の夢を見つけたことを知ってるの。
まだ、だれにも言ってないのに。
 
 
私はすぐに返事を書いた。
 
〈冬さん。
どうして知っているの?あなたはだれ?〉
 
もう、冬さんから返事が来ることはなかった。
 
大学を卒業し、私は高校の教師となった。
これが私の見つけた将来の夢。
きっと、私と同じように、目標や夢が見つからずにどうすればいいかわからなくなっている子がいる。
私は、そんな子を少しでも希望を与え、前に進めるよう勇気を与えられる人になりたい。
冬さんに助けてもらったように、私が次は助けてあげたい。
そう思い、将来は教員になることを決めた。
 
ガーベラの花言葉は、希望・前進。
ピンクのガーベラの花言葉は、感謝。
 
私は、冬さんに感謝している。
どうして冬さんは、私は教員になりたいとひそかに思っていたことを知っていたのだろうか。
結局、冬さんは誰だったのか。
 
私は今も分からずにいる。
そんな私も、今はもう35歳である。
結婚をして子供も2人恵まれた。
私は、今でも毎年、4月18日には、ピンクのガーベラの花束をもって、お寺へ行き、
お賽銭箱の裏に置いている。
 
いつか冬さんのような人になれるように。
そして感謝の気持ちを忘れないように。

都心夜行
172304

 最近の人たちは、夜を使いすぎだと思う。
 夜は有限だ。それだというのに、やれ残業だ、やれ呑み屋で一杯だと、夜の街はいつまでも明るく、騒々しい。明日の朝出すという約束の生ごみや、火の消えていないシケモク、コーヒーが半分くらい残っているペットボトル。見たくないものが、街灯に煌々と照らされる。ライトアップされる僕の街は、薄汚くて、きっとこの先何年住んでも好きにはなれないだろう。
 いつから夜が身近になったのか、考え込んでしまうときがある。平安時代の夜は、月の光。江戸時代の夜は、行灯の火。夜中に頼れる明かりが少ないからこそ、夜は未曾有の存在として、特別に扱われていたはずだ。何者が飛び出してくるかも分からぬ禍々しい闇を、人間は怯え、畏怖の念を抱いて避けてきたのだ。しかし、時代が移ろうとともに、夜は削られ始める。一体、人間に何の権限があるというのか。日本人特有の奥ゆかしさは、夜が夜らしさを失っていくとともに、徐々に消えていったのだとさえ思う。
 
 帰路につく足取りは重かった。亥の刻が過ぎようとするほどの時間。夜は更け、お気に入りのミュージックプレイリストも、一周が終わろうとしていた。イヤホンの音量を下げると、若者の騒ぐ声が遠くから聞こえる。こんな都市部、早く抜け出して故郷に帰りたい。果てなく続く田園の風景と、牛蛙による夜の合唱がひどく恋しい。
 今日もまた、残業だった。上司は厳しく、同僚も冷たい人間ばかりだ。皆が自分のことで精いっぱいになって、周りが見えなくなっている。入社して三年経つというのに、なかなか仕事の要領を掴み切れない僕も悪いが、もう少し優しく接してくれたっていいと思う。唯一、後輩の田所さんは僕を慕ってくれているが、それが真意なのかどうかも分からない。こうやって人間を疑うようになったのも、この街に来てからだ。
 就職してから、いいことなんて一つもない。目的もなく四年制の総合大学に通い、友達が就活を始めたから、自分もそれに倣っただけのことだ。思い返せば、そこにあった感情は、常に焦りと安堵が同棲しているような違和感のあるものだった。早く内定を取りたいという焦燥感と、自分は名の知れた企業に向かって就活をしているんだ、そこら辺の若者より有望株なんだという安心感の交錯である。そこに、「こういうビジョンを持っていて、そのためにこうありたい」というような、自分の意志と呼べるものは何一つなかった。
考えることを放棄して、流れに身を任せた結果、たどり着いたのがこの現状である。きっと転職したって、この根源的な後悔は無くならないだろう。
 明日もまた、僕は六時半にアラームの音で目覚め、新しい一日を始める。いや、僕の意志がなくたって、毎日はやってくる。新しい一日が勝手に始まる、といった表現の方が正しいかもしれない。
身体に染みついた、機械的なルーティン。不意に、記憶の奥底に眠るフォルダに仕舞い込まれた、何気ない思い出たちが引っ張り出される。脳はいつも無神経だ。ネクタイの色を変えることで、気分を盛り上げようとしていた新卒の頃の自分。朝食を食べるだけの時間と心の余裕があったあの時、食パンをかじりながら読んでいたバイクの情報雑誌。トリッカーズの革靴が欲しくて、少しずつお金を入れていたプラスチック製の貯金箱。大人びたファッション誌に影響され、自分の部屋にこだわってみようと購入した、ジャンルの不揃いな置き物の数々。そうだ、このフォルダの名前は「人間だった頃の自分」にしよう。

 人間を忘れそうで、夜が忘れられそうで。
 こんな寂しい僕の世界に、誰か牙を穿とうとしてくれる者はいないだろうか。他人任せだとはわかっているが、僕ではない圧倒的な「はみ出し者」に、どうかこの現状を打破してほしい。
 他の追随を許さない、信念と覚悟を貫く、そんな屈強な反逆者。否、救世主。壊してほしい。ただ、この今を、滅茶苦茶に壊してほしい。そして、彼に熱狂したい。

 夜風が吹く。酒の匂いがする。喧騒が響く。僕は、家に向かって独り歩いている。
「ああ、任せてよ」
 そんな声が、風に乗って聞こえた気がした。

 寝ているときの夢は、起きたら大抵さっぱり忘れている。もったいなく思うこともしばしばあった。夢裡だからこそ出来ることがいくつもあったからだ。ヒーローにだって、鳥にだって、真人間にだって、簡単に変身できる。まるで初めから自分がそうであったかのような、この世界の主人公として振る舞っているような、この特有の気持ちよさは最高だ。
 だからこそ、夢は忘れるように設定されているのかもしれない。なりたかった自分を味わってから、目覚めた後の現実を生きるとなると、人間はその落差に正気でいられるとは思えないからだ。実によく出来た仕組みだと思う。
 しかし、この仕組みに当てはまらない例外があった。僕には、寝ても覚めても忘れることのできない、とある場所があるのだ。
 夢の中に鎮座する、「はるひと帝国」である。
 帝国の呼称は、僕の名前、国木田(くにきだ)(はる)(ひと)に由来する。この国の名は小学校三年生の時に命名したため、短絡的な名付け方に対する異論は控えていただきたい。そして断っておくが、僕の名を冠しているものの、僕はこの帝国の国王でも何でもない。単なる住人の一人にすぎないのだ。
 夢の中のロケーションや人物、出来事はどんなのでも起きたらほとんど忘れて無くなってしまうが、この帝国だけは違う。僕が二十五歳になった今も、時々ふらっと現れては、驚くほど正確無比に再現されるのだ。建物から住人はもちろん、世界設定まできちんとなされている。その凝り方は異常で、恐ろしいのは、はるひと帝国は僕が前回訪れた時の続きから始まるのではなく、僕がいない間に勝手にその世界は回っている、というところだ。つまり僕は、自立した僕の世界に参加するという形になる。
 気持ち悪いほど細部まで完璧なこの帝国は、自分の深層意識だけで作ったとは到底信じられないほどだった。建物や住人、その他すべてが異形で、僕には想像のつかない風貌をしている。もしこれだけ緻密な世界観を完成させられる想像力が僕に眠っているのであれば、自分は映画監督に向いているのかもしれないとさえ思う。
 そして繰り返すが、僕は、この帝国の王ではない。夢の中だから、ある程度自由に世界を造りかえることは可能だ。しかし、登場する住人や、国王など、要の部分の構造はどうやっても書き換えられない。自分の夢の中ですら、全てを思い通りにすることが出来ないのだ。だが、僕は卑屈にはならなかった。
 はるひと帝国でしか会えない友達、「カブシ」がいたからである。
 カブシは異形の住人の中でも、まだ人間に見た目が似ている方だった。指が六本あるところ以外は、だが。
だからかもしれない。同種の生き物に出会えたと思った九歳の僕は、彼に声をかけた。
「ねえ、君も、人間?」
 カブシは、黒い実のなる黒い木に、黒い水をかけていた。グロテスクな風景に描き出される彼の容姿には、その美形の顔立ちも相まって、地獄の天使という造語がしっくりくる。
拙い口調の僕の問いかけに、彼は振り返ると、嫌な顔一つせず微笑んでくれた。
「違うよ。反対だよ」
 反対、という言葉が頭の中で反芻される。どういう意味、と訊こうとした時、彼の方が先に口を開いた。
「人間に見える?」
「うん、見える。人間にそっくり」
 その時、カブシは少し、悲しそうな表情をした。何とも言えない、切なさ、やりきれなさを孕んだ、そんな立体的な表情。
「そっか。でも大丈夫、僕たちはきっと、友達になれるさ」
 カブシって呼んでね、よろしくね。そう言って握手を求めてきた彼に、僕は喜んで右手を差し出した。六本ある指に、どうやって上手く手を絡められたかは覚えていない。
 これが僕とカブシの出会いだった。
 もう十六年も前の会話なのに、鮮明にやり取りを覚えているのもおかしな話だが、それだけではない。彼との別れの場面も、はっきりと記憶している。
 そう、僕はカブシと、もう五年ほど会っていないのだ。はるひと帝国には今も時々訪れるが、どこを捜しても彼はいなかった。
 
 
 目覚めは鈍かった。
 アラームを止めて、上半身を起こした形で、しばらくベッドの上に座り込む。そろそろ羽毛布団を用意した方がいいかもしれない。最近の朝は、かなり冷え込むようになってきた。ダニだらけだろうから、洗濯しなければいけない。また仕事が増えた。
 トイレへ行き、便座に腰を下ろす。そうしてぼーっとしながら、昨日の記憶を呼び戻し、鈍く回転する頭に油を差していく。出勤するまでには、本調子に戻さなければならない。
 一連の朝の決まり事を完了すると、カッターシャツに下着だけ、というみっともない格好でソファに腰かける。テレビを流しながら、スマホを開き、ゲームのログインボーナスをゲットする。この行為に理由はないが、何となく、音と光を摂取したかった。人工の刺激に慣れきって麻痺した身体が、ブルーライトで潤っていく。
「今日は午後からずっと雨、か」
声を出してみる。もちろん誰も返事はしないが、これでいい。僕に向けて言った、僕の台詞なのだ。こうして僕は、独りでいることを確認し、空っぽでいいと満足するのだ。
 手のひらの上で天気のニュースをスクロールしていると、号外速報、という赤い太字が目に入ってきた。うるさく点滅するその欄をタップする。見出しはこうだ。
『山間部の集落で、四十二名の男女が死亡』
 集団自殺か、と咄嗟に考えた自分が、時間差で怖くなる。いや、事故か自然災害に決まっているだろう。日本において、四十二名が何を示し合わせて自死する必要があるというのだ。
『昨夜未明、岐阜県太田村にて四十二名の遺体が発見された。これは一つの集落の壊滅を意味し、警察は原因の究明に急いでいる。すべての遺体に引っかき傷があったため、熊などの動物による襲撃の可能性も併せて――』
 熊が四十人以上の人間を殺せるものか。日本史に残る、最悪の獣害事件と謳われる三毛別羆事件ですら、亡くなったのは確か七名だったと記憶している。まあ、熊が大群で押し寄せてきたらあり得る事態かもしれないが、発想力がないせいか、どうもコミカルな場面を想像してしまう。
 まあ、悲しい事件だが、自分には関係ない。
 ここは東京だ。熊が走って岐阜からやってくるものか。もののけ姫の、とあるワンシーンが思い浮かぶ。
 引っかき傷があったのなら、頭の狂った猟奇殺人鬼集団が、鉤爪を模した武器で手当たり次第に人を殺したのだろう。そう思うと少し怖いが、大都会のど真ん中で実行するほど肝が据わっているとは思えない。
シリアルキラーの対処は、何にせよ警察の仕事だ。僕には僕の、やらなければいけないことがある。
昨日と同じ色の、青いストライプ柄のネクタイを締め、スーツに袖を通す。
「行ってきます」
僕は僕に向けてそう呟くと、何度目になるか分からない、鈍い光に包まれた現実へ足を踏み出した。

 しばらく歩いていると、いつもと違う街の雰囲気に、違和感を覚え始めた。主婦たちが家々の前に一定の数の集団を作り、ひそひそ声で何かを話している。それも何組も、だ。サラリーマンであろう、スーツを着た男たちが立ち止まり、熱心にスマホを見ては、不安そうにキョロキョロと辺りを見回している。そして何より、あちらこちらから聞こえるサイレンとくぐもった拡声器の音が、街に不穏な空気を垂れ込ませていた。
 街全体が一丸となって、僕に「ここで何か不思議な事件が起きましたよ」と、察しろと言わんばかりに押しつけてくる。自分には関係ない、と無視しようと思ったが、そうはいかなかった。
 角を曲がったところで、目の前の風景を一瞬認識できなくなったのだ。時間をかけて、今見ているものを、経験上知っているものと照合し、本当の意味で可視化していく。
無数に倒れている街灯と、崩壊した一軒家、アパート、マンション。
 蛍光色の服を着たレスキュー隊と、瓦礫の下から運び出される血まみれの遺体。
 夢中になってスマホで撮影する野次馬と、やめろと叫ぶ正義感の強い連中。
 倫理観とか平和とか、命とか将来とか。そういった類の言葉は、この光景の前には等しく意味を成さなかった。
 戦争があったのか、と思った。いよいよ日本でも徴兵制の採用か、なんてぼんやり考えた後、我に返り、自らの当事者意識の欠如に幾分失望する。
「何かあったんですか?」
 隣から聞こえてきたのは、中年の、どこか抜けている空気感を持つおじさんの声だった。着ている衣服や整っていない髪型と無精髭から、不潔とか無職とか、そんなワードが連想される。
 その台詞が僕に向けられたものだと理解するのに、数秒かかる。相手の表情から察し、「いえ、僕も分からないんです」、そう答えようとした時だった。
「昨夜、テロがあったんですって」
僕より少し年上くらいの、いかにもキャリアウーマンを意識したかのような、そんな身なりの女性がこちらを向いていた。かき上げた長い髪が揺れる。
「日本でテロですか、ああ、そんな時代になったんですな。おそらく、イスラム過激派かなんかの逆恨みといったところでしょう。あっちの国のやつらは、国民全員の頭がイカれてますからねえ」
 今までで見知っただけの情報で出来たパッチワークを披露する彼に、女性は苛立ちの表情を見せる。このタイプの話し方、考え方をする男に反応してしまった自分や、出勤の時間が差し迫っていること等、多方面に向けての怒りが混じり合っているのかもしれない。
「いいえ、特大の黒い野良猫が数匹出て、暴れまわったっていう話ですよ。私も信じられないんですが、何人もの目撃者が、さっきそう言ってました」
 なんで野良だと決めつけるんだ。首輪をつけないタイプの飼い猫かもしれないのに。
 つい、そんなくだらないことを考えてしまう。
 あくまで毅然とした態度で話す女性だったが、目線がちらちらと僕を捉える。どうやら、助けてほしいという事らしい。
自己責任だろう、僕には関係ない。
 そそくさと立ち去る僕の背中は、彼女から痛いほどの視線を感じていた。

 死者の数は、二百名を上回ったらしい。
 その晩、僕は残業で疲れ切った身体をお風呂で温めながら、スマホの画面をぼーっと見つめていた。ニュースキャスターの緊張感のある声が、バスルームに反響する。
 初めて少し、怖い、という感情が芽生えた。原因不明の連続大量殺人。家から数キロメートル離れたところで、そんな大事件が起きたのだ。毎晩イヤホンをして曲を聞きながら眠るせいか気づかなかったが、とてつもなく大きい音が聞こえていたに違いない。建物が崩れる音や、悲鳴、それこそ、猫の鳴き声とか。
 朝の光景を思い出す。多くの人間が走り回り、救命にあたっていた。崩れた家々と、折られた街灯。……少し、ひっかかる。
 なぜ、こんなに記憶の中のあの惨状に、やたらと「街灯」が出てくるのだろう。初めてあの光景を目の当たりにした時もそうだった。一番最初に気にかかったのは、倒れた無数の「街灯」だった。上空から見ると、きっと斑点模様のように破壊されたであろう建造物群。壊されていない建物は、実際いくつもあったのだ。それに引き換え、街灯だけは全て、綺麗さっぱり潰されていた。
 黒猫は、灯りを嫌うのだろうか。
 まとまらない思考を抱え込んだまま、僕は湯船の中で、いつしか深い眠りに落ちていた。
 

 気が付くと、僕は「はるひと帝国」に立っていた。あらぬ方向に曲がった、太く黒い大木の真下だ。赤ん坊くらいの大きさはあろういくつもの黒い実が、死神の骨ばった手から垂らされるランタンのように、鈍く光っている。僕の住む街の、朝と同じ色だ。
「久しぶりだね、はるひと」
不意に後方からかけられた、懐かしい声。
振り向くと、「カブシ」がいた。
相変わらず六本の指で器用にじょうろを持ち、真っ黒の水を、この大木の根にあたる部分へ注いでいる。もうその行為に意味は無い気がしたが、そのことを口にしてはいけないような気がして、僕は口をつぐんだ。別の言葉を探す。
「五年以来だ、カブシは元気にしてたの?」
僕はあくまで、焦っていない風を装った。そしておかしなことに、何故自分が焦っているのかは、僕にも分からなかった。
「もちろん、僕は元気さ。君の方が、いろいろと疲れているみたいだ。心身ともに、ひどく疲弊してる」
そう言って、カブシは乾いた声で笑った。この時点で、僕は察した。目の前にいる長髪の美青年は、五年前のカブシではない。見た目は同じでも、中身が大きく変容している。それも、良くない方向に。
何となく、この直感は間違っていない気がした。
「仕事が多くてさ。残業の毎日だよ。本当に、遊ぶ暇さえないんだ」
「ふーん」
つまらなさそうに返事し、カブシはこちらを見向きもせず、黒い木に水をやり続ける。
 目の前を、異形の住人が通り過ぎる。蜘蛛の頭に、内臓と外見が入れ替わったかのような、醜くグロテスクな体躯。大腸や小腸のような消化器官で構成された右腕で、頭をぼりぼりと掻いている。そこから落ちるのはフケではなく、大量の蜘蛛の幼虫であった。
「この果実、どんな味がすると思う?」
ふと、カブシがそう言って僕を見た。大きな瞳は緑色で、嘗め回すような鋭くねちっこい視線は、何となく、僕に「死」を想起させた。注文の多い料理店の一場面が浮かぶ。僕が客の猟師で、彼が化け猫だ。今にもその大きな口を開け、僕を丸呑みにしようとしている。
「果実って、この黒い木に成ってるやつのことだよね」
少し声が裏返ってしまう。駄目だ、落ち着け。
「そうだよ、この、美しく光る果実のことさ」
美しい光だとは思わなかったが、適当に相槌を打って賛同の意志を表明する。
「うーん、ジューシーでおいしい味、かな」
僕は心にもないことを言った。射抜くような眼光でカブシは僕をじっと見つめ、嘘だ、とも言わず、静かに微笑んだ。
 初めてカブシに声をかけた時と全く同じその笑みに、僕はあの日の思い出を汚された気がした。
「うん、おいしいよ。実際僕は、二つも食べてしまったんだ」
ふと辺りを見回すと、同じように実を結んだ黒い大木が、等間隔で無数に生えていることに気付く。カブシは、さながら庭園の管理人のようだった。
「この実って、なんていう品種のものなの?」
会話を途絶えさせては駄目だ。本能的にそう感じた僕は、無理矢理言葉を紡いだ。
「品種か、難しいな。でもまあ、強いて言えば――」
水をあげる手を初めて止め、カブシは愛おしそうにじょうろを撫でた。
「君たちの住む街、かな」
後ずさる。彼が何を言っているのかは分からないが、理解してはいけない危険な発言だと思った。
「僕の住む街を、食べるの?」
声が震える。深堀りしない方が得策なはずなのに、脊髄反射でそう口にしていた。
「そうだよ。僕は街を食べる。百鬼の中でも、そういう役目なのさ」
迷うことなく、凛とした声音で、カブシはそう答えた。
ずっと昔、彼とした話を思い出す。よくカブシは、「ひゃっき」と口にしていた。それが「百の鬼」という漢字だと分かるのは、もう少し先の話になる。
この世には二種類の生き物がいる。それは「現実」と「夢」なんだ、彼はそう言って、小さかった僕に色々なことを教えてくれた。
現実に寄生するのが人間で、夢に寄生するのが百鬼であるということ。
人間は朝に生き、百鬼は夜に生きていたということ。
昔、それこそ平安時代は朝と夜が平等で、人間と百鬼はお互いが干渉しないよう、一日を半分こずつにして生きていたこと。
だから世界には現実と夢が等しくあって、綺麗にバランスが保たれていたということ。
 でも人間が光をもって夜を削りはじめ、結果として百鬼の住むところが無くなってしまったこと。
 百鬼は「この世」にいられなくなり、夢の殻に閉じこもったこと。
 「この世」が現実に支配されてしまったこと。
 そして夢の殻には「この世」との窓口がいくつかあって、その窓口の一つが僕であるということ。
 

 百鬼は、追いだされたことで人間を憎み、窓口を介して「現実」を壊し、「夢」と立ち位置を入れ替えようとしていること。
 

 幼い僕は、カブシが何を言っているのかよく分からなかったが、真剣に語る彼を見て、何となく、この言葉は覚えなくてはいけないんだな、と感じていた。そして彼の悲しそうな表情とともに、彼の言葉を鵜呑みにして信じ込んだ。
 でも大人になって、夢の中の話を本気にするわけがない。夜が何となく好きになったのも、夜を削られることや、現実そのものに嫌悪感を抱いたのも、彼による影響は大きいと思う。
だから、僕の深層意識にカブシの言葉が深く刷り込まれていることは否定できないが、とにかく僕は、結果的に現実を選んだのだ。
夢を棄て、現実を拾った。
だから、カブシは僕から離れたのかもしれない。
 

「はるひと、夢に生きよう」
甘美な言葉だった。恐怖を孕むも、眩しいほどに輝いた言葉。
カブシは、あの頃の柔らかで純粋な瞳に戻って、僕を見つめていた。
「もうすぐ、夢の世界が訪れる。人間は贖罪を果たして、僕たちの世界がやってくる。ここに成る実をすべて食べ終えた時、現実は完全に消えてなくなる。時間の問題だ」
僕は、何も言えなかった。カブシの微笑みには、相変わらず安心感がある。
「はるひとは、『百鬼夜行』、という言葉を知っているかい。完全に現実を喰らい切ったとき、僕たちは、光が一切通らない静謐で神聖な世界を、堂々と行進するんだ」
 カブシの恍惚とした表情。僕は、自分自身ではなく、カブシに、言葉をぶつけた。
「僕は、現実を、生きようと思う」
初めて彼に声をかけた時のような、拙い口調。それでも、自分の意志を、簡潔に伝えられたと思う。
「なぜ?」
再び彼の眼に、邪悪が宿る。今度は、怒気をも纏って。
「分からないけど、夢の中を生きるなんて、やっぱり僕は嫌だ」
カブシが怒髪天の形相になり、じょうろを地面に叩きつける。飛び散った黒い水滴は、それぞれが猫の形になっていく。おそらくこいつらが、僕の住む現実を傷つけたのだろう。
「僕の方こそ分からない。折角、生き延びるチャンスを与えているんだ。心身ともに縛り付ける、がんじがらめの現実から解放されるチャンスだと、そう思わないのか?」
「現実は確かに酷いけど、でも、僕は夢の中で生きようと思わない。だって、僕は人間なんだ」
カブシの身体にみしみしという音が立ち、幾千もの細かいヒビが入る。やがてそれらが裂けると、そこから飛び出した黒いものによって、彼の容姿が変貌していく。夢に棲む魔物は、その本当の姿を現した。
 禍々しい姿は、譬えるならば、夜そのものだ。
「分からない、君が、はるひとが、僕を望んだくせに!」
 その発言に、妙に腑に落ちてしまった。虚を突かれた感覚。
 確かにそうかもしれない。幼い頃、友達が少なかった僕は、来る日も来る日も、親友が現れることを望んだ。そして今も、どうしようもない現状を誰かにどうにかしてほしくて、来る日も来る日も、救世主が現れることを望んでいた。
 カブシは、僕のその時のニーズに応じて、存在意義を変えているのかもしれない。もしそうだとしたら、彼は本当に優しい奴だ。
 でも、たぶん、それでは駄目なのだ。
夢の中で、他人に頼って願いを叶えたって、意味は無い。
 夢は、現実で、自分の力で叶えることで、意味を成すんだと思う。
「やっと僕は、人間を思い出せたかもしれない。ありがとうカブシ」
カブシは、その無数にある眼を、揃ってまんまるにした。ミリ単位で敷き詰められた牙で、その大きな唇を噛みしめ、血を流す。彼の眼からは、涙があふれていた。
「大丈夫、僕は、夜を忘れない。カブシのことも、絶対に忘れない」
ここは僕の夢の中だ。ある程度は、僕の思い通りにできる。
強く念じて、目の前の風景を歪ませる。黒い木々がことごとく折られ、黒猫たちがみゃーみゃーと鳴きながら、潰されていく。
カブシの身体が崩壊する。苦しそうな声を出し、必死に抵抗するも、僕の想像に太刀打ちできない様子だった。「はるひと、はるひと」と、繰り返し僕の名を呼んでいる。
僕は涙をこらえられなかった。なぜ泣いているかなんて、自分でも分からない。友との決別への悲しみなのか、単なるもらい泣きなのか。
いや、きっと、そのどちらでもない。おそらく僕は、自分のために泣いているのだ。 
空間が激しく歪み、周りのものが分解され、異なった形で再構築されていく。
 

さようなら、はるひと帝国。さようなら、カブシ。
そしてさようなら、古き、醜き国木田晴仁よ。
 

 

 

 

 

 

 

 

目が覚めると、僕は湯船の中にいた。

指先がふやけるほど、長湯していたようだ。

血圧がかなり上がったのか、頭がふらふらする。

きっと明日から、同じ毎日が始まる。機械的で、無機質なルーティンは止まらない。しかし、気分は今までにないほどに晴れやかだった。ただ気分がいいというだけではない、哀愁をほんのり含んだこの感情が、とても心地いい。

生まれ変わった気がした。

心のもやもやが吹き飛び、思考が冴えわたっていく。

シャツの上からジャケットを羽織り、夜の街へ出る。湯冷めなんて関係ない。僕は今、自分の意志で外へ出たいと思ったからこうしているのだ。

相変わらず若者はうるさいし、ところどころから漏れる人工の光は眩しい。星空は排気ガスで見えないし、道端には火の消えていないシケモクが落ちている。

こんな街だけど、少しは好きになってみようと思った。そうすれば、もっと夜を愛せるし、自分のことも愛せるはずだから。

 

五年前、カブシと別れた日のことを思い出す。

「ねえ、はるひと、僕はきっと、いつか君に牙をむくんだ」

珍しくじょうろを側に置き、真剣な表情でカブシはそう切り出した。

「僕は君と友達でいたい。でも、僕の先祖の百鬼や、父は、人間を狂ったように憎んで許さないんだ。だから、僕は、いつか人間を殺して、現実を奪わなければいけないんだよ」

二十歳だった僕は、震えるカブシを抱きしめたと思う。

「大丈夫、君はそんな奴じゃない。カブシは僕の友達だ」

カブシは涙を流し、僕の目を柔らかな瞳で見つめた。

「僕は、人間に見た目が似てる。きっと、百鬼だって、どこかでは人間と繋がってるんだ。だから、いつか、いつか、はるひとと一緒に二人で、いつまでも暮らせる世界になったらいいね」

だから、という接続詞の意味は分からなかったが、僕はそうだね、そうだね、と言ってカブシをよりいっそう強く抱きしめた。

 そして、指切りをした。また会おうね、いつか会おうねと涙ぐむ彼に、僕は察した。きっと、人間の僕と出会ったのが父にばれたりして、もう会えなくなってしまったのだと。

 この時、六本の指をどうやって絡ませたのかは、覚えていない。

 夜風が吹く。酒の匂いがする。喧騒が響く。ふと、百鬼夜行、という言葉を思い出す。

 なるほど、ならば僕はあてもなく、独り、都心を夜行しよう。

サラリーマンとペンギン
172315

 うだるような暑さの八月のある日、それは突然の解雇通告だった。クビである。二十年間ほぼ休まず勤務し続けた会社をだ。会社の新たな方針が発表され大幅な人員の削減が行われるのではないかと部署内ではひっきりなしに噂されていた。若くはないが世間的にはまだまだ働き盛りの私はどこか他人ごとのように感じていたが、今朝珍しく部長が私のデスクを訪問しブラックコーヒーをにこやかな笑顔とともに運んできた時点でなんとなく察してしまった。社長室へ呼ばれた私は、受け入れがく、当然反論の声をあげたが上層部は首を横に振るばかりであった。そこからの手続きは粛々と進み、その日付けで私はプー太郎になった。
 連れ添った会社と別れを告げぼんやりと歩いていた。外はまだ夕方であった。営業のサラリーマンだろうか。ジャケットを腕にかけ、シャツの袖を肘までまくり片手で電話をしている。忙しそうに私の来た道を歩いていく。オフィス街の中のその道は他にもたくさんの人がいた。誰もが忙しさに埋没しせわしない。みな、私を置いて歩いていく。ふとそんな感覚が私を襲った。そして改めて明日から働くことのない現実を突き付けられた。磨り減った革靴の靴紐は行き場を失ったようにほどけていた。


 ニート。そんな言葉が流行りだしたのはもうずいぶん前のことだ。冗談で「ニートだけにはなりたくない」だの「将来どうするつもりなんだ」だの面白がっていたのが、皮肉としか言いようがない。そんな生活も10日目に突入していた。幸い、少しずつ貯金を貯めていたため急に生活に困ることはなかった。だが、そんな生活も時間の問題である。いずれ金も底をつき飢え死にかホームレスになるしかないのである。それだけは嫌だ。誰がそうなるものか。いや、しかし、十分にあり得る。そんなことを思いながらも、今吉野家の牛丼特盛を食べているのだからまだ精神的には余裕があるのだろう、と客観的に分析をしていた。食べ終わり、会計を済ませ帰宅した。薄明かるい街灯に照らされたポストを見ると青い紙が挟まれていたので手に取ってみた。

 「ペンギンの飼育員…?」
 何でも二つとなりの駅の近くにある草ヶ部動物園にいるペンギンの飼育員を募集しているらしい。目に留まったのはペンギンが平然とバランスボールに乗っている写真である。こんなことができるのか。素直に感心してしまった。小さい頃に見た記憶が鮮やかに蘇る。よく親父に連れられ動物園に行ったものだ。ライオン、キリン、カバ、ゾウ、ペンギン、当時の私は幼かったが目に映る生命力あふれるもの全てに感動し憧れを持ったものだったが、それももう昔の話だ。ふっと笑い、広告を持ってマンションの部屋へと入っていった。
 毎朝起きて歯を磨く前にシャワーを浴びるようにしている。不思議と力が湧いてシャキっとし若返ったような自分が鏡に映る。気持ち悪いかもしれないがそんな自分と毎朝顔を合わせるのが

好きだったりする。だが、最近はどうも様子が違う。なんだか疲れている。しっかり睡眠をとっているはずなのに目の下にはクマができ白髪も何本か目立つようになった。理由はなんとなく分かる。二十年間も働き詰めだった毎日は多忙で休む暇は十分にはなかったがそれでも充実していた。少ない給料でも同僚と励まし合い補い合いながら働いてきた日々はとても輝いていたように思う。そんな日々が突然奪われたのだ。人はここまで変わるのかとニュースで取り上げられてもおかしくない。エネルギーに溢れた毎日が私を若く、エネルギッシュにしていたのだ。豹変ぶりを誤魔化すようにニベアクリームを顔面に塗りたくりかつての同僚と会うため電車に飛び乗った。
 いつもの高架下の居酒屋で集合だった。定期的に通る電車のガタガタうるさい音が店内に響くが、それをかき消すほど店内はいつも客の賑やかな声であふれていた。早く着いたので店の外で煙草を吸っていると、遠くから既に懐かしい声が聞こえてきた。
「おーい、坂上!」
足早に近寄ってきた近藤は相変わらずの様子で明るかった。
「待ってたよ。今日は会社終わりか?」
「そうだ、部長に残業を押し付けられそうになったけど逃げてきてやったぜ。」
近藤は唯一の同期で入社日は二人で挨拶もした。何でも話せる仲で昇進の野望や上司の愚痴を語り合ってきた。そんな近藤と会えば何かこれからのヒントが見つかるのでは思った。
 店内に入り奥のカウンター席へと案内された。ビールを注文しお手拭きで手を拭きながら近藤が口を開いた。

「なんだかやつれたな。」
「そうか?」
「ああ、まるで十歳くらい年老いたみたいな顔してるぞ。そのへんのホームレスと間違われてもおかしくない。」
冗談ぽく言っていたが少し衝撃を受けた。やはりニベアクリームではどうにもならなかった。
「お前の方はどうなんだ。前と何も変わらない様子だけど。」
運ばれてきたお通しの枝豆をつまみながら聞いた。
「どうも何も変わらないよと言いたい所だが、そうもいかないよ。ほら、この前の人員改革があっただろ。それ以降お前みたいに人が減って任される業務が倍になったよ。」
ビールを流し込みながら近藤は続けた。
「何より、今の会社はやりがいがない。誰もが個人の業績にとらわれてチームで動こうとしないんだ。ウチも他社に負けないよう社長がハッパをかけているんだがどうにもうまいくいっているようにも思えないし。働き方改革って言ってもねぇ。」
酒に強くない近藤は酔っているのか分からないが遠くを見つめていた。
「だから、不謹慎かもしれないけど、おれは今のお前が少し羨ましい。クビになったかもしれないけど、おじさんになってまた新しいことができるんだから。おれは妻も子どももいるし挑戦なんてできない。坂上、お前はいつだってチャレンジしてみろよ。俺だけじゃなくて他の人もきっとそう言うさ。」
明日出張の近藤は店を出た後、少しふらつきながらも駅の方へと向かって行った。そんな変わらない様子を嬉しく思いつつも見送り、私は一人帰路についた。夜の街を横目に数時間前の近藤の話を思い出していた。何か挑戦すること、あの日々を思い出す度に引っかかることが何か分かった気がする。家に着き、新聞の下に挟まっていた動物園の広告を手に取った。それを冷蔵庫に貼り、電話番号のところにマーカーペンで線を引く。冷蔵庫からペットボトルを取り出しコップ一杯の水を一気に飲み干した。

 二つとなりの駅といえど、降りたのは数回しかない。改札を抜けて少し歩いてみると駅前にはハンバーガーショップや出店が並んでいる。今日は土曜日ということで家族連れやカップルの姿が多く見られる。楽しそうだ。
 賑やかな雰囲気に囲まれながら、慣れない地図アプリを使い草ヶ部動物園へと向かっていた。昨日電話した時に案内してもらった持ち物や書類はすべて揃えてある。スーツなんて退社した日以来である。15分くらい歩くとオリジナルキャラクターの絵が描かれた看板と大きなゲートが見えてきた。家族連れが多い中スーツの私はいささか浮いていたため少し恥ずかしかったが、勇気をだしてゲート近くのスタッフに採用面接の旨を伝え中へ案内してもらった。
 事務所はゾウ小屋の奥の隠れた所にあった。ドアを開けると二十代後半くらいの男がパイプ椅子に座っていた。こちらに気づくと、ひょこっと立ち上がり挨拶した。

「あ、こんにちは。昨夜お電話頂いた坂上さんですよね?」
「はい、そうです。」
「お待ちしていました、狭い所ですがどうぞお掛けください。」
確かに狭い応接間のソファーに案内され向かい合って座った。
「改めて、今日はお越し頂きありがとうございます。一応私の方からまず業務の説明をさせて頂きます。当園では全25種類の動物たちを飼育しており、とても大きな規模とは言えませんがどの動物も人気で地域の皆様にも大変喜んで頂いております。ただ、一つ懸念材料があってペンギンたちが全く動かないのです。最初は物珍しいと人気を集めたのですが、ずっとあの調子なので次第に人が集まらなくなりました。飼育員も困っていて…。そこで、園全体で出した答えは外部からの新たな風を吹き込んでみてはどうか、となり今回の募集に至りました。」
途中女性がお茶を運んできた。電話対応してくれたのはこの人だったのかもしれない。
「なるほど、そんなことがあったんですね。でも、私は動物なんて飼ったことがないしましてやペンギンの飼育なんて、未経験の私に務まるでしょうか。」
「だからこそです。ペンギンと新鮮に向き合い接することで何かきっかけが与えられるのではないかと思っています。ある意味人と捉えて構わないと思います。」
「はぁ、そうですか。」
「とにかく、一度ペンギンたちに会いに行ってみますか。」
事務所を出て案内された。ペンギンたちは「南極エリア」の隅の一角に設けられていた。

「奥にいる二匹がコウテイペンギン、手前でいったりきたりしているのがオウサマペンギン、ずらっと並んでる5匹がイワトビペンギンです。」
久しぶりにじっと見つめたがどれも全員無表情だ。何を考えているのだろう。時々体を震わせたり頭を振っているがどんなことを思っているのだろう。徐々に興味が湧いてきた。
「分かりました、私でよければここで働きたいです。」
「ほんとですか!こちらこそよろしくお願いします。」
嬉しそうな男性スタッフの笑顔と対照的にペンギンたちは相変わらず無表情だった。
 次の日から早速来てくれということだったので出勤した。ペンギンの飼育の仕事は朝早くからということで朝の五時半に起きた。サラリーマン時代はもう少し朝にゆとりがあったため少々つらかった。事務所に向かうよう指示されていたので向かうと、昨日の男性スタッフともうすらっとした一人若い女性スタッフがいた。この前はいなかった。
「おはようございます坂上さん。こちらペンギンブロックを担当している持田さんです。今日は一日仕事の導入を行ってもらいます。」
「よろしくお願いします、持田です。」
若そうだがショートカットでキリッとした目、整えられた眉で飼育員というより教官のように感じられる。声も低くて私がペンギンならなんでも言うことを聞いてしまいそうだ。
「よろしくお願いします。」
「ではさっそく仕事に移っていきましょう。こちらです。」

 道を進んでいき、重そうな扉を開けた先には餌となる小魚が大量に置かれており調理場のようだった。持田さんは魚を仕分けペンギンそれぞれの量を配分するから、その餌をあげて欲しいと頼まれた。餌をあげすぎると健康に良くないらしい。人間と同じだ。慣れた手つきで小魚を分けて第一弾が運ばれてきた。小魚いっぱいのバケツには「ジョージ」と書かれていた。一番大きなコウテイペンギンのものだ。さっき餌をあげすぎてはいけないと話していたばかりなのに、なんだか変な感じだったので聞いてみた。
「あぁ、その子餌いっぱい食べないと全然動かないのよ。見にきた人もがっかりするでしょう?」
なるほど、機嫌取りということか。前の会社にもそういう上司がいたもんだ。
他のペンギンたちにも餌をあげた。初めて中に入ったが無表情のくせに餌を食べる勢いが凄まじくペンギン独特の匂いもあいまって彼らから野生を感じた。とても動物園のアイドルらしからぬものだった。
しかし、仕事を続けていく内に考えは変わっていった。彼らはアイドルではなかったが私たち人間と大きく変わらないのではないかと考えた。彼らは無表情であるが互いにコミュニケーションをとり狭い水槽のなかでも自由に泳ぎ生き生きとしている。言葉や表情を介さずに共生している姿はむしろ人間を超越していると個人的に驚いた。だが。しかし。人間に通じるものがあるとも思った。道行く人の顔はいつからかうつむき、どれも無表情で他人と干渉することもせずスマホや都会の雑踏に飲まれてばかりになっていた。かく言う私も先月購入したスマホの便利さに夢中になっていたのだが。顔を見なくても誰かと話したりつながったりできる昔では考えられないような時代になったがどこか寂しいのは私だけだろうか。両親はすでに他界し独身で会社をリストラされた私は少し感傷的になって、人の温もりを欲していたのかもしれない。

 清掃中ふとペンギンに目をやると面白い光景があった。一つの小魚の前に二頭のペンギンがいた。二頭は首をぶるぶる震わせながら立ち尽くしていたが、やがて一頭がなんとも言えない鳴き声で鳴き水中へ勢いよくダイブした。ここまでは気まぐれで潜ったように見えたが、なんと陸に残ったもう一頭は小魚の頭をくわえ水中へ消えた一頭の後を追いかけた。譲ったのだった。ペンギンなんて無表情で何を考えているか分からず気まぐれな動物だと思っていたが、そのシーンを見て私は分かりあいコミュニケーションをとったように見え衝撃を受けた。そして考えた。人間はどうだろうか。彼らのように思いやったり温かなコミュニケーションをとることはできないだろうか。
 そこから私のペンギン水槽の改革が始まった。彼らはバラバラに生きている。それは野生の本能なのだろうが、本来はひっつきあい集団で生活する動物だと持田さんから聞いていた。彼らのポテンシャルを信じペンギンショーの提案を園長と持田さんに行った。持田さんは今までにない新しいアイデアだと評価してくれたが、園長は渋っていた。

「ペンギンたちは自由すぎる。きっと規律がなくなってショーどころではないんじゃないか。」
しかし、私は普段の飼育やショーを行うことで生まれる相乗効果を具体的に説明した。このへんは会社員の営業時代に培われたものだ。結局私の熱意に押され一ヶ月の期間でペンギンたちをまとめあげるという条件で園長は折れた。
 そこから私の行動は早かった。まずペンギン間の親密さを高めるため、コンビネーションを高めるため少数匹のグループを作り狭い水槽で生活させた。ストレスが懸念されたが活発に鳴いたり固まって動いたり仲間意識が芽生えたようだった。それをローテーションした後また一つの水槽に全員を戻した。その後持田さんの協力を得ながらペンギンたちの訓練を行った。手を上げたらもぐる、足をとんとんと床にたたいたらごほうびの小魚など約束を覚えさせた。これがまた難しかった。なんせショーなどしたことのない素人ペンギンばかりだったので合図を記憶させるのには相当時間がかかった。それでも粘り強く続けるとようやくそれぞれのペンギンが規律をもつようになってきた。
 ここまでは順調である。家に帰り私はショーで行う演目について考えていた。頭をひねった結果、ウォータースライダーを思い付いた。倉庫を掃除していると奥のうほうに追いやられていた滑り台を見つけたからだ。

「もう捨てたと思ってたのに、園長ったらきっとめんどくさがったんでしょうね。」
と持田さんは推測した。はぁ、そうなんですねと言いながら二人で数時間かけたまった埃やこけを綺麗に洗い流した。これならペンギンたちが滑っても十分映えそうだ。見上げた空は快晴で、ニュースでは絶好の洗濯日和だと言っていた。
「来週も頼むぞ。」
誰かに聞こえるか聞こえないかの声量でつぶやいた。
 迎えた当日は多くの人が来た。直前の一週間でペンギンショーのビラ配りを駅前などで精を出してやったおかげだろう。普段は事務所でパソコンを叩いている事務員やスタッフをかり出されていた。まさに総力戦、草ケ部動物園始まって以来かもしれない。絶対に負けられない戦いがそこにはあるのだ。
 ショーの司会は前日に私に任された。ベテランの持田さんがやるもんだと思っていたが、ぜひにと園長と持田さんが言ってくれた。嬉しいが大役を任されたため緊張は拭えなかった。昨日も興奮して何度も寝返りをうったほどだ。
 しかし、大丈夫。お客さんに楽しんでもらえるようたくさん芸は練習したし、ペンギンたちともうまく連携できる。本番前の水槽にたちより、ペンギンたちを見つめそう思った。
「それではみなさん、大変長らくお待たせしました!復活!ペンギンショーの開幕でーす!」
元気なアナウンスとともに私はカーテンの裏から軽やかに登場した。

「みなさーん、こんにちはー!」
「こんにちはー!」
元気な声が返ってきた。客席はパンパンで見たところ子どもの数が多い。キラキラさせてる目が眩しかった。
「それではさっそくペンギンたちを呼びましょう!みんなー、おいでー!」
右手で招く合図をするとたどたどしい足取りでカーテンの裏からペンギンたちが登場した。客席から黄色い声が飛び交った。
「ではまず輪っかくぐりからいきましょう!」
と言い、ペンギンたちを右手を挙げ誘導し輪の前で停止させた。
「それではいきますよー、うまくいくかなー?」
一応進行の言葉だが私の本心も混じっていた。
「それ!」
勢いよく合図すると一匹、また一匹と一列に並んだペンギンたちは前に続いて輪の中をくぐり気持ちよさそうにプールの中へ飛び込んでいった。水から上がってきたペンギンたちは私のところへやってきてバケツの小魚を欲しがった。拍手が鳴り響いた。
 そしてその後もショーは続いた。時々ペンギンたちが自由に行動することもあったが機転を利かしてトークに生かしたりした。小粋なジョークも挟みつつ聴衆から笑いを誘った。 
 いよいよ最後の演目が近づいてきた。ウォータースライダーである。スタッフが大きなスライダーを用意し、当然の客席は期待感を込めたざわつきに変わっていた。ペンギンたちが、並び寸分と狂うことなく私の合図でスライダーに飛び乗り腹で滑っていくのだ。一つでもタイミングを間違えれば渋滞してしまい、ショーの魅力は半減してしまう。ナレーションの声は気づけば緊張で震えていた。ペンギンたちはやはり無表情で勢いよく小魚を食べている。そのいつも通りの様子がおかしくてつい笑ってしまった。そうだ、大丈夫。いっぱい練習したんだから。やり遂げよう、彼らと。

「お待たせしました、いよいよ最後の演目です!」
 
 駅前の居酒屋やレストランは週末のお客さんでいっぱいだった。ネオンがいつもより光って見え、いつもより人々の顔が明るく見えるのは今日のショーが成功したからだろう。最後のペンギンが勢いよくスライダーを滑り空中を舞ったあの瞬間、その日一番の割れんばかりの拍手と歓声が起こった。その時私は私自身のやりきったという達成感とともに、ペンギンたちの成長を実感した。あれだけ独立していて干渉もせずに生きていてた彼らは、一匹一匹がつながり一つのものを作り上げることができた。もちろん私の合図ありきだが。
 スマホを開け連絡帳を見る。久しぶりに飲み明かしたい気分だ。迷わず私は第二の人生の恩人である近藤に電話をかけた。

 その後私は水族館をやめた。お世話になった職場であり名残惜しかったが持田さんは園長は責めるどころか次のステップへ背中を押してくれた。 
 私は今教員をしている。あのペンギンたちのように、子どもたちを繋げ一つのことに向かって努力する、そんな姿勢を育てたい。

ただ、ペンギンたちの話はまだ彼らにはできないが。

失楽園
k172308

エピローグ 私

「私は孤独である。」こんなこと言うとみんなびっくりするだろうか。

ノートに「孤独」と書いてみる。そうすると、この二文字がまるで自分と首輪で繋がれているような気持ちになった。私はその二文字をさっと消した。

 

第一章 救世主

 今日も学校だ。

「眠いなあ」と言いながら健二はいつも通り目を擦る。父と二人暮らしの健二は今日も父と共に家をでる。

「今日の授業は英語からか。」

健二は英語が大好きだった。いや英語の田中先生がとても大好きだった。

「急がなくっちゃ。」

 

そんな時、電柱の脇に得体の知れないものを見かけた。猫の死骸だ。こんな神戸のど真ん中に仰々しさを強調するかのように、猫は美しく死んでいた。

「かわいそうだな。」

健二は思った。だがこの時健二はなぜか、まじまじと死んだ猫を見つめた。

死んだ猫にはハエがたかっていたが、健二は無言で猫のえぐれた腹わたを持ちながら、そっと草むらの端に猫を移動させた。ハエは猫の腹わたから一斉に離れた。

腹わたは衝撃で千切れ、健二の手は鈍く輝いていた。

 

「おはよう健二! うわどうしたの? シャツに血がついてるよ!」

そう言うのは健二の幼馴染みの智美だ。

「いやあ。 登校するときに、猫の死骸があってさ。」

「えっ! 猫の死骸!? その猫どうしたの?」

「ちゃんと道の端に避けてあげたよ。」

智美は驚いていたが、ほっと安心した様子でこう健二に呟いた。

「さすが健二。優しいね。」

「いやそんなことないよ。みんなびっくりしないようにさ。」

「私のハンカチ使って! 健二もうすぐ英語の授業始まっちゃうよ!」

「ありがとう。」

英語の授業始め。彼は田中先生の話を聴きながら智美のハンカチを使った。最後に鼻に付いた血を拭きあげると、たまたまハンカチの匂いを嗅いだ。

智美の匂いと血の匂いが混在していた。そのハンカチを見て彼はなぜか高揚感を覚え、ニヤリと笑った。

 

第二章 ハンカチ

猫の事件があってから二週間が経った。もうすぐ期末試験がある。夏休みに向けて健二は勉強した。

家に帰ってくると、当然父親は仕事だ。最近は父親も忙しいのか、健二が自分でご飯を作らなければいけない。

「ようやく数学の宿題が終わった。英語の音読でもしよう。」

健二は英語の中でも音読が好きだ。部屋に響き渡る音が、なんとなくいつも机に向かって勉強しているのを馬鹿馬鹿しいと思えるくらい音読が好きだ。

5回音読を終えたところで休憩しようとした時、ふと智美からもらったハンカチに目がいった。

「捨てるのを忘れてた。」

健二はハンカチに手をかけた。だがその時たまたま父親が帰ってきた。

「ただいま健二。」

「お父さんおかえり。」

「ご飯は食べたのか。」

「まだだよ。今日作る時間なくってさ。」

「そうか。じゃあ父さんが昨日作ったカレーの残りでも食べるか。」

健二はそっと自分のポケットにハンカチを入れた。

健二は母さんが死んだ後でも、父がいてくれるだけで幸せだった。母は膵臓癌で死んだが、痛みに耐えきれず安楽死を選んだ。

 

期末試験が終わった。健二の中ではなかなかの出来だった。数学は特にできた。

健二は期末試験が終わるとそそくさと家に帰る準備をした。すると智美が

「健二お疲れ様〜」

と声をかけた。健二はすぐさま

「おお智美か。お疲れ様。」

「なんだ健二疲れてんの〜? 素っ気無いなぁ。」

「そんなことないよ。5年も一緒にいりゃそんなもんだよ。」

「元気ならよかった。 テストどうだったの?」

「智美近いよ、、、」

智美は人と話すときの距離感が近いらしい。それは彼女のいいところでもあるのだが。

「ごめん〜」

「じゃあまた明日ね。」

「じゃあね〜。」

健二はそそくさと歩いて帰った。

 

健二は家に帰って部屋の片付けを始めた。

「いやあテスト期間中部屋ものすごく汚くしちゃったなぁ。」

健二はそう言いながら、部屋のノートの整理をする。

するとある一つのノートに手がかかる。昔「孤独」と書いたノートだ。

「そういえばこんなこともあったなぁ。」

健二はそう言ってノートを仕分けの箱に入れようと、ノートを投げた。

「がたんっ。」

そう言ってノートは箱を逸れた。ノートはひっくり返って、開いたまま落ちていた。

「あーあ やっちゃった。」

健二はそう言うとノートを拾い上げた。するとそこにはしわくちゃのズボンが落ちていた。

「そういえば、これ洗濯に出すの忘れてた。」

そう言うと健二はズボンを拾い上げた。そのズボンのポケットは少しもっこりしていた。

「あれ何が入ってるんだ?」

健二はそう言うとズボンをゴソゴソとあさった。ズボンの中には、智美から借りていたハンカチが入っていた。それには血がまだ付いていた。

「おっかしいな。ハンカチなんか入れてたっけ?」

健二は父とのやり取りでハンカチを入れていたのを忘れていた。

「懐かしいな。これで血拭いたな、、、」

少し健二はハンカチを見ると、なぜかあの時の様にハンカチを鼻に当てた。

健二はあの時の高揚感を思い出し、ニヤリとまた笑った。

 

第三章 喪失

期末テスト返却日。この日が一番億劫だと健二と友人の良太は語る。

「良太結果どうだった?」

「まあまあかな。でも数学がちょっとな〜」

「そうなんだ。俺数学はよかったよ。」

「まじか〜 健二は何か悪かった教科とかなかったの?」

「唯一英語がね あんだけ勉強したのに、授業でやってないところでちゃったら取れないよ。」

「そうなんだ! 俺いっつも英語30点代だから、今回もそんな感じ!」

「それは勉強しようよ。」

「あははは」

「良太はひょうきんなやつだなあ。」

そう健二は良太に言った。良太は相変わらず楽しそうだ。

そんなふうに話していると突然校内放送が流れた。

「中学二年生は六時間目が終わり次第体育館に集まりなさい。」

「おい健二。何が始まるってんだよ。」

「俺が知ってる訳ないだろ。とにかくいくぞ。」

 

体育館はとても賑やかだった。すると先生が急に、

「えーでは皆さんに報告があります。英語の田中先生が急遽この学校を去ることになります。二学期からは新しい先生が来ますので、心配しなくても大丈夫です。」

良太が健二の方を見た。すると健二は口を広げたまま呆然としていた。

 

「健二相当ショックだったっぽいよ。」

「健二が、、、心配だね、、、」

智美と良太は二人で話しながら帰宅する。

「田中先生だけがこの学校で信用できる先生だって健二俺にずっと言ってた。」

「確かに、健二とっても田中先生のこと大好きだったもの。」

「健二今頃何してんだろ、、、」

「心配ねえ、、、」

 

健二は泣いていた。涙が枯れるくらいに。

「ごほっ うえっ くすん。」

だが時は虚しく流れる。少し落ち着くと健二は帰ろうと言う意思を持たず家に帰宅した。

家に帰ると健二はご飯を食べようとキッチンに向かう。するとキッチンには一枚のメモがあった。

「父さんは海外出張のため、しばらく家にいません。お金を置いておくのでご飯代に使いなさい。すべて自分でやりくりするように。」

それを見た瞬間健二にはさらに大きな悲しみに襲われた。

自分はすべての人から見捨てられたのだと言う絶望にさえ襲われた。

「あああああああああああああああ。」

健二はそう言うと、泣きながら学校の鞄を持って家から飛び出た。

 

第四章 0

健二は泣きながら家を飛び出た。彼の中にある様々な憎悪という言葉では説明出来ないものが爆発したのだ。

「なんなんだよ。」

健二はそう叫びながら夜の公道を走る。すると道の脇に、すっとあるものが浮かんできた。

「猫か、、、」

健二はどことなくその猫に見覚えがあった。

「お前は、、、道端で死んでいた、、、!」

猫は当然何も答えない。

「おい、、、お前、、、待てよ!」

「おいってば!」

俺は必死に猫を捕まえようとした。こいつを逃したら、俺はすべて失う。

ズサーーーっ

猫は何故か俺の元から逃げようとはしなかった。捕まるのを待っていたかの様に。

俺は猫を抱きかかえると、猫の腹に傷があるのを見つけた。

その傷を見た瞬間に、俺はあの気持ちに駆り出された。

ゴソゴソッ

「あった!」

俺は何故かわからないが、猫の腹わたをハサミでえぐった。そしてあの高揚感がまた自分を覆った。何故かはわからないが。

 

第四章 愛

次の日健二は学校を休んだ。特に何をするでもなくただ家でぼーっとテレビを見ていた。

「昨日の感触がまだ残っている。」

「あれはなんだったんだ、、、」

すると良太と智美が学校が終わった日に健二の家にきた。

「健二〜 心配したんだよ!」

「ごめんって。 昨日は体調不良でさ。」

「まあ元気でよかったよな! 俺みたいに元気になれよ!」

「もう良太ったら!」

「何冗談言ってんだよ。 でも二人ともありがとう。」

「何臭いこと言ってんだよ!」

「気にしないで! 健二!」

健二は嬉しい気持ちになった。

 

次の日。健二は逮捕された。

 

第五章 混沌

「健二また学校来ないなー」

「昨日は元気そうだったのに、どうしたのかしら、、、」

良太と友美は二人で話す。すると担任の先生が深刻そうな顔をして教室に入ってきた。

えーみんな集まったか、、、

「先生どうしてそんな顔をしてるんですか?」

担任の佐藤先生はしばらく黙っていたが、すうっと大きな息を吸うと、ボソッとこう言った。

「えー先生も今日の朝聞いてびっくりしたんだが、結論から言うと、川口健二はもうこの学校に来ることはない。」

教室がざわざわとする。

「先生! なんで健二は学校に来ないんですか?」

智美がとっさに話す。

「川口は少し体調を悪くしてな。学校に来れなくなったんだ。」

「先生。それは嘘ですよね。」

良太がとっさに答える。

「嘘じゃない、、、本当に、、、」

教室中がざわざわとし始める。だが先生はこう言った。

「これ以上はもうこのことは話さない。みんなも川口が治ることを祈ってくれ。」

だが良太と智美には確信があった。健二の家に警察が大量に押しかけていたのを知っていたからだ。

 

「14歳の少年が、30代の田代まさしさんの腹部をハサミで刺し、逮捕されました。田代さんは現在重体で病院に搬送されています。」

このニュースはメディアで大きく報じられた。

「本当に健二なのかしら、、、」

「俺だって信じたくないよ、、、だってあの健二がだぜ、、、」

良太と智美は二人で話す。

「逮捕された、、、今でも信じられないわ、、、」

「いや、、、本当に逮捕されたのか?」

「逮捕されてなかったら、どうして健二の家にいっぱいカメラを持った記者が健二の家の周りを囲んでるって言うのよ!」

良太は黙りこくってしまった。

「ごめんなさい、、、怒ってしまって、、、」

「いやいいんだ。俺も変な質問してしまった。」

「もしさ、健二が釈放されたらどうする?」

「どうするって?」

「そのまま健二と付き合う?」

「いやわからない、、、でも健二は危険なやつだ、、、俺は、、、」

「でも健二は健二だよ?」

「そんなの俺だってわかってるよ!」

「お前だって次健二にあった時、ハサミで刺されるかもしれないんだぞ!」

「そんなこと絶対ないわ、、、」

「じゃあ健二に殺されたっていいって言うのかよ!」

智美は泣いてしまった。

「だって健二は健二だよ、、、 私たちが知ってる健二は、、、」

「そんなの、、、」

二人は黙りこくってしまった。これ以降二人は中学を卒業するまで話さなかったと言う。

 

第六章 ただいま

5年の月日が流れた。

「父さんただいま。五年ぶりに家に帰ったよ。」

「久しぶりの家はどうだ健二!」

「いい感じかな。でも神戸の家よりは少し狭いかな。」

「そりゃ俺一人で住んでたからな。 まあ住めば都ってやつだよ。」

「それならよかった。」

「中学の時のみんなは何してるのかな。」

「さあなわからん。みんな上京したりして、バラバラになったしな。」

「父さん。俺今度の日曜日、神戸に行ってもいい?」

「別にいいが、、、何をするんだ?」

「昔の家がどうなってるかなって見に行ってみたいんだ。」

「別にいいが、、、もう取り壊されてるかも知れんぞ。」

「それでも大丈夫だよ。」

健二はそう言うと、神戸行きのチケットを予約した。その時の感情は全くと言うほど無心だったと言う。

 

「久しぶりの神戸だなぁ。」

健二は驚きを隠せなかった。震災が起きてからそんなに経っていない頃に、逮捕されていた健二にとって、神戸という街は全く別のものになっていた。

「すごい。こんなに街が進化しているなんて。」

健二は何度も心で思った。

「えっと。 あったあった。 これだこれだ。」

「この電車に乗るのも久しぶりだなぁ。」

そう言いながら健二は自分の故郷に歩みを進めていき、地元に帰った。

「懐かしい。ここ周辺は全く景色が変わってないや。」

健二はそう言うと、帰巣本能の様に自分の家に歩みを進めた。

「そうか。 自分の家は無くなっているのか。」

健二は少し寂しそうな顔をした。するとふっと白い猫が健二の目の前を通った。

「そういえば。 このことも更生施設で色々言われたなあ。 お前はサイコパスだって。」

そう言うと何故か健二は、この猫がこの後どうするのかが気になった。いや何もなく暇だったからと言う理由もあるかもしれない。

「待ってよ。」

そう言って健二はこの猫を追いかけた。

「ここは。」

健二が猫を追いかけていると自分の通っていた中学校を通った。グラウンドの様子は変わらないが、校舎が工事中であり、自分が通っていた頃の面影は無くなっていた。

「懐かしいな。 良太と智美も元気にしているかな。」

すると猫はすうっと消えた。

健二は何もしたいと思わなくなり、再び神戸から新幹線で帰ることにした。

ただ一言「ただいま」と目を瞑りながら言った。

 

「健二。久しぶりの神戸はどうだった。」

「すごく変わってて、住んでいたときとは別物だよ。」

「そうだったのか。 ところで健二これからお前はどうするんだ。」

「真面目に働くことにするよ。」

「そうか。 頑張れ。 父さん応援してるから。」

健二は何故か「ありがとう」の一言が言えなかった。

 

健二は2ヶ月後、父の勧めで東京の化粧品の会社に就職することになった。

健二はバリバリと働いた。そんなある日のことだ。仕事終わり池袋で電車を待っていると突然一人の女性が話しかけてきた。

「健二くん?」

「すみません。私は健二という名前ではありません。」

「嘘つかないでよ。 この声は健二くんだよ。」

「私智美だよ。幼なじみの。まさかこんなところで偶然出会えるなんて思ってもみなかった。」

「智美。健二はその名前がすごいスピードでフラッシュバックした。」

「健二くん。私健二くんにここで会えたの嬉しいな。」

健二はただ黙ることしかできなかった。

「健二くん。私たちお友達に戻れるかな?」

俺はどきっとした。智美に人生の中で会うことも。こんな質問をされるのも。

「私健二くんは捕まってなんかないって今でも信じてはいるよ。だって健二くん優しい子だったもん。」

「智美、、、少し話をしよう。今日時間空いてる?」

俺はどうしても智美に話をしたかった。と言うよりかは智美以外そのことを受け止めてくれる人はいないと感じていた。

 

第七章 回顧録

俺は珈琲屋に入った。そこは木曜日の夜ということもあって空いていた。

「健二くん。話すって何を話してくれるの?」

智美は何かを悟りながらも、俺に聞いてきた。

「あの日、、、何があったのかをさ、、、」

俺は智美が何かいう前に語り始めた。

「俺はあの日、人を殺したのさ。」

「えっ、、、」

智美は言葉を失った。しかし俺は淡々と続けた。

「俺はあの時正気を失っていた。家族も大好きな先生も失って、もう何をしていいかわからなくなっていたんだ。」

「そして、俺は急に酔っぱらったおっさんに声をかけられたのさ。おっさんは酔っ払っていて、俺に因縁をつけてきやがった。」

「そして誰かを殺すことに興奮を覚えていた俺は、そのおっさんを衝動的に殺してしまったのさ。

そう俺は言うと、智美は悲しそうな顔をしながら俺に向かって言ってきた。

「分かってはいたけど、やっぱりかなしいな。」

「智美。でも今は更生施設に入ってなんとか化粧品の会社で働いているよ。」

「そう、、、それなら良かった。」

「智美、、、俺たちこれからどうしていけばいい?」

「そうね、、、私たち友達に戻れるかしら?」

「わからない、、、ごめん、、、」

しばらく沈黙が続いた。俺はこの沈黙が苦痛で仕方がなかった。

「でも、きょう健二くんに会えて良かった。健二くん連絡先だけでも交換しない?」

「そうか智美、、、ありがとう」

健二はそう言うと、その場から逃げるように立ち去った。

 

第八章 悪魔の誘い

「えーこちら池袋県警です。応答願います。」

良太は高校を卒業した後、警察になっていた。池袋で警察をしているそうだ。

「ただいま化粧品会社の幹部の取り押さえに向かいます。」

良太は取り調べ係だ。捕まえてからが彼の本番だったが、やはり捕まえる時にはドキドキするらしい。

「えー今回取り調べの対象となったのは川口健二という20代の男性です。」

男性か、、、と思いながら、良太は取調室に入った。すると、見慣れた顔が目に飛び込んできた。

「おまえ、、、健二か?」

「うん。君は良太だろ?」

「そうだ。こんなところで何してる。」

「化粧品の販売員だったんだ。うちの会社違法に売ってたみたいだね。」

健二は衰弱しているように見えた。

「健二、、、」

「俺はおまえとどう付き合えば良いのかな?」

「俺はおまえを友達だと思ってるんだけど、良太はどうかな?」

「健二、、、」

こいつは犯罪者だ。でも、友達だ。

良太には淡々と取り調べを進めることしかできなかった。

 

第九章 public

その後健二は智美と良太と会うことはなかった。智美も一切連絡することなく健二との関係性を保った。

そんな健二が本を出した。タイトルは「孤独」。これは健二によって決められたそうだ。世間からは批判と称賛がどちらも浴びせられる結果となった。

その中には中学時代の友人関係について健二によってこう綴られていた。

「俺には友達がいなかった。だが、俺のことを慕ってくれる人はいた。10年経った今になっても俺にとって友達の定義がわからない。」

「でも、俺は友達が欲しかった。中学校の時は友達と言える存在が欲しかったと。」

と綴られていた。そんな彼の本の背表紙には、血に濡れたハンカチと英語のテストの答案用紙の絵が描かれていた。

良太はその本を書店で読んだ。彼は何も言わず、本を閉じた。

智美はその本を買った。その本を買った彼女は、声を殺して泣いていたという。

 

第十章 終焉

終わった。これで全て終わったのだ。

俺は本を出版して、その収益を全て被害者の家庭の支援費にあてた。

「ようやく俺の旅は終わった。」そう呟き俺は安堵に浸った。

「はぁ。 これで俺の罪滅ぼしはある程度終わった。まだ俺の旅は続くのだ。」

「でも、これでよかったのだろうか。俺の罪滅ぼしって何だったんだろうか。」

そう思い健二は週間文秋のインタビューに応えた。とても冷静に応えていたと思う。

そうして健二はインタビューに応え終わり、週間文集の会社をでた。すると、

ドォン

俺は血が出ているのを確認した。そう。俺は撃たれたのだ。

胸から血が止まらない。俺はすぐさまポケットに入っているハンカチで止血をしようとしたが、血は止まらない。

血をタオルで止めようとしたときに、俺は血が止まらないと感じ、何故かとっさに血のついたハンカチで顔をふいた。

そのとき、あの時感じた興奮が自分を襲ってきた。あの智美が貸してくれたハンカチの時と同じような興奮が体全体を覆った。

「おかえり。」

そう呟いて、俺は深い眠りについた。

 

彼の葬儀が行われた。非常に慎ましく行われたという。

良太はとっさに呟いた。

「俺はあいつのことを守れなかった。警察失格だ。」

「そんなことないよ。良太はちゃんと健二と向き合ってたよ。」

「私こそ、健二に向き合えなかった。私こそ健二の友達失格よ。」

「いや。智美は友達として向き合おうとしていたよ。」

そう二人は言いながら、智美と良太の時間は、ゆっくりと流れて行った。

 

そうして彼の墓は神戸の学校の近くになった。彼の墓の近くには猫が住みつくようになったそうだ。理由はわからない。

明日の自分
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約1年前の冬。私は年明けに仕事を持ち越さないため、必死にデスクに向かっていた。私の働く学校は山の中に昔からある小さな学校で、つくりも古く、冬は本当に底冷えする。その日はいつもに増して寒い日だった。

肩をすぼめながら作業を進めていると、携帯の音が鳴る。母からの連絡だ。毎年のごとく、正月が近くなると母から今年の正月は実家に帰るのか、と連絡が入る。30を目前に、結婚話もない私のことを心配している母のせめてもの気遣いか、やたらと正月に作るおせちの準備のために人数を把握したい云々の話を持ち掛けてくる。作業に追われる私はその連絡にテキトウな返事を返した。

「年越しは友達と約束があるから実家には帰らないかな、多分。」

友達との約束なんてないのに。私はふぅ、とため息をついてまた作業に戻る。ここのところの私と言ったら、本当にだらしがない。毎日をただこなすだけのものになっているような。自分でもわかる。覇気がない。退屈でつまらない。(言い出したらきりがないが。)教師という仕事に憧れて、なりたくて目指した職業だったが、ここにきて何か見えない壁にぶつかっているような気もする。毎日同じ時間に起きて、同じ時間まで学校に残り仕事をして、家に帰って同じようなものを食べる。変わり映えのない日々が続いていた。目立った変化がなく、浮き沈みのない毎日にどこか安心しつつ、退屈ささえ感じさせる。もどかしい。いつからだろう、そんなことを思い始めたのは。何となく、29歳の私は家族に会いたくない、今の姿を見せたくない。そんなところだった。

職員室の時計の針は午後8時を回っている。そんな時、また携帯が鳴った。

「久しぶり!元気してた?いきなりだけど今年の正月久々に地元の子たちで集まらない?もちろん独り身だけで!(笑)今ね、3人くらいメンバーが集まってる!考えてみて〜。返事待ってる!」

高校の時に仲が良かった友人からの連絡だった。高校を卒業して別の大学に進むことになると、ぴたっと連絡をしなくなり、お互いの様子はSNSを通してみる程度のものだった。そんな彼女からの連絡にドキッとして思わず作業中の手が止まる。いつぶりだろう、彼女から連絡が来たのは。今までの私だったら久しぶりの友達に会うのも面倒だとか何とか理由をつけて、断っていただろうな。でもこの時の私は何となくいつもと違うことがしたい気分で、久々の友人からの誘いに乗ることにした。

「たまたま正月あいてる!行くね!集まり!」

勢いよく返事を返した。思わぬ形で母についた嘘が現実になったことに、不思議と少しほっとしている自分もいる。そんな感じで私の正月は、29歳も家族に会わぬまま過ぎ去っていった。

 

 

 

今年のお正月はどうしよう。去年のことを思い返しながら今年もやはり薄暗く、冷える職員室で作業をしながら悩む。実家に帰ろうか、どうしようか。

昔は家族そろって紅白歌合戦をみて、除夜の鐘をきいた後、おおきなエビの天ぷらが入った年越しそばを食べるのが当たり前だった。いつからだろうか。ここのところ家族そろって年越しをしていないし、年越しそばも口にしていない。というか、私がかれこれ3、4年くらいろくに実家に帰っていない。今年は私も30になる節目の年。大学卒業後、教師の道に進んだ私は、特に大きな変化もないまま、教師生活8年目を迎えようとしている。

大学2年生の時に親に反対される中一人暮らしを始め、結局今もそのまま一人暮らし。最初は家族と離れて暮らすことでホームシックになりさみしさや不安も感じる日々が続いたが、1人暮らし歴も約10年目を迎えるとなると、そんなことも感じさせなくなっている。それどころか、自由気ままに自分の時間が流れる今の暮らしに落ち着いている部分さえある。

 時計の針は去年のあの時と同じ、8時を回っている。そんな時に携帯が鳴り、母からの連絡があった。文面は去年と同じだった。

「この正月は、家に帰って来るの?」

何ら変わりない。いつも通り。思っていた文章が思っていたタイミングで、思っていた人物から送られてきた。来た来た。私はそう思ってやはり去年同様、どう返事するか考えた。しかし、何故だか今年は去年ほど単純に返事をすることが出来なかった。どうしてだろう。パソコンに置いた手はそう簡単には動かなかった。

ここ数年の私は退屈な毎日に嫌気がさしつつ、その平凡な毎日に甘えていたところがある。私はこれでいいんだ。そう言い聞かせていたのかもしれない。そして母からの連絡をもはや待っている自分がいるのかもしれないということにうすうす気づいていた。が気づかないふりをしていた。どうしてだろう。とおてももやもやする。

 

一人暮らしを始めたときに、家族には頼らないと宣言したものだから、家族には頼るにも頼れない数年が続ていた。金銭的な面ではもちろん、精神的にも自立しなければという思いがその当時から芽生えていた。小さいころから、日常で起こった出来事を家族に話すのが大好きだった私は、父や母に話を聞いてもらうのが1日の何よりの楽しみだった。しかし、1人暮らしを始めると自然と家族と話すことも減り、私が父や母と話すのはたまにメールでやり取りをする安否確認と、帰省する日程の確認程度。大学卒業後、東京の商社に就職が決まった弟も今は東京で一人暮らしをしていて、実家には定年を超えたがまだ再任用で働く公務員の父と、定年後趣味の裁縫や料理をのんびりと楽しむ母の2人が住んでいた。聞くところによると東京に住む3つ下の弟は、比較的実家に近い職場に通う私よりも頻繁に実家に帰っているらしい。

今年は実家に帰ろうかな。。特にこれといった理由は見当たらなかったが、何となくそういう気分だった。

「友達に誘われているけど、あんまり乗り気じゃないし、今年は実家に帰るね。」

素直に実家に帰りたいなんて言えない自分はまだまだ子供だ。でもそれが精いっぱいの表現だった。そしてすぐさま、誘われていた同僚に行けない旨を伝えた。

 

 

 

 駅について、外へでるとそこには懐かしい景色が広がっていた。夕方だったということもあってか、どことなく寂しさを感じさせる景色に心がじんとした。久々に見る地元の姿。中学生の時には毎週日曜日にクラブ活動が終わった後みんなで駅前へ出向き、プリクラを取って某有名ドーナツショップの可愛いドーナツを食べるというのがお決まりになっていたが、その建物は取り壊され、真新しいぴかぴかの建物に「1月 グランドオープン!」の文字が垂れ下がっている。変わり果てたその姿に、当時の面影はもうないのだと痛感させられた。

うちに帰るためのバスに乗り込み、父にそのことを報告した。バスから見る住宅や(田舎だったので)田んぼの様子はあまり変わっておらず、少し安心した。バスに揺られる20分間の間、必死に久々に会う両親との再会の言葉とやらを考えていた。どんな顔をしよう。どんなことを言えばいい?窓の外を見ながら自分で自分に質問を投げかけても、自分の顔が映るだけで何の解決にもならない。そんなこんなで私が下りるバスの停留所までの、最後の1本道に差し掛かる。駅からの道のりが今まで以上に早く感じられた。帰ってきたんだな。そう思ったころには降りる駅の一つ前の駅まで来ていた。ふとバスの前方の大きなガラスの向こうに目をやると、少し先の私が下りる駅に一人、バスを待つ人物がいる。私の乗るバスは、駅前から山のふもとまでを一周する循環バスだったから、こんな時間から駅前へ行く人がいるんだ、と少し驚いた。バスがまたゆっくりと動き始めるとその驚きは、バスが停留所に近づくにつれてだんだん増すことになった。停留所で待っていたのは、私の父だ。心臓がばくばくと動きはじめた。迎えに来てなんて言ってないのに。私、もういい年した大人だよ?一人で帰れるよ。ずっと待ってたの?いろんな気持ちがいっぱいになって自分の胸をぎゅっとしめつけたまま、停まったバスから降りた。

 「ただいま。」

 あんなに頭を悩ませて考えていたのに。想像していた久々の再開の言葉とは全然違う、まるでいうことを決めていたかのように、ありふれた言葉を自然と口にしていた。

 「おかえり。よう帰ってきたな。元気してたか?」

 バスの発車の案内とエンジン音が邪魔をしたが、それが久しぶりの再会に少し戸惑う私にとってはちょうどよくもあった。父の最後の一言に急にこみあげてくるものがあり、少し涙腺が緩んだ。

 「迎えに来てくれたん?びっくりした。」

 思ったことをそのまま伝えることしかできないくらいには私、戸惑っている。

 「あぁ。お母さんが今家でご飯を作ってくれているから。」

 なるほど。

「少し散歩をしないか?お前も久しぶりだろう。」

 久々に聞く父の声は前よりも少し細く、弱くなってもともと小さい声だったのに、ますます小さく聞こえた。

 父の提案で私たちは少し散歩をすることにした。家は山の中腹にあり、周りは木々に囲まれている。家を通り越して山の中へ入ってみる。

 「最近仕事の調子はどうだ。」

 唐突にそう聞いてきた父に、私のすべてを見透かされているような気がしてドキッとする。

 「頑張ってやってるよ。大変なことも多いけどね。こないだなんてさ!私、研究授業でお褒めの言葉を頂いたんだよ!先生たちから!」

 聞かれてもないのに自慢話みたいなことをしてしまった。何を焦ってんだろう、私。私が何とも必死に言った姿に、父は静かに微笑んでいた。昔からそうだ。父の前ではいつも見栄を張っていい格好をしたくなる癖がある。30歳になってもなお昔から変わらないことだ。

 私達は急な坂道をゆっくりゆっくり、たわいない会話をしながら進み続けた。その時何を話したかはっきりとは覚えていないが、父とこんなにゆっくり話すのは本当に久しぶりでとても楽しかったことだけははっきりと覚えている。今思うと、あの時どうして父が私を散歩に誘ったのかはわからない。

 子供の頃は近所の子たちと家の裏の山で走り回ったりしてよく遊んだが、こうして山に脚を踏み入れること自体本当に久しぶりのことで何となく新鮮な気分になった。山の中を進んだ先に昔からそのあたりに住む人たちの憩いの場のような存在になっていた小さな神社がある。父と当てなく歩いていたが、私達はその神社にたどり着いた。久々に見た神社は昔よりも少し汚れていた。ところどころに雑草が生えているのと、大きな石に苔がびっしり生えているのが目に入ってきた。この神社はちょっとした山の中腹の開けたところにあって、境内を超えるとここあたり一帯が見える見晴らしのいい神社だった。

 小さい時、父や母に怒られると泣き叫び家の中で暴れまわっては、勢いのままに家を飛び出しこの神社まではしっていくことがよくあったことを思い出した。

 「ちょっと奥まで行ってくる!」

 そういって私は背中に背負っていたリュックサックを父に預け、境内の奥まで走っていった。丁度夕日が沈む寸前だった。きれいなオレンジ色の光にきらきらに照らされた街並みはとてもきれいだった。駅前のビルや建物はところどころ昔と違ていたが、ここから見た景色は怒られて家を飛び出してみたときと何ら変わりなかった。が、当時とは何か違う気持ちが私の心の中で渦巻いていた。目を瞑ってここのところの自分を振り返ってみることにした。私、ちゃんと呼吸できたのかな。息苦しい毎日を送っていたな。出てくることはマイナスなことばかりだった。でも、ここにきて深呼吸をするとそんなことすべてを忘れられるような気がした。

 す〜、はぁ〜。

 大きな深呼吸をして、パッと目を開けると、オレンジ色の夕日はもうそこにはなかった。そしてその代わりにたくさんの家々と建物の明るい光がきらきらと輝いていて、私の眼がしらがきゅうっと熱くなった。

 私、自分で自分を苦しめていたんだな。

 ふとそんな思いが私の脳裏によぎった。変化のない毎日に安心していたなんて真赤な嘘だ。私は自分から変化のない毎日にしていたんだ。そういう選択をして、そういう日々を送って自分で自分に言い聞かせていた。本当はやりたいこと、やってみたいこと、言いたいこと、伝えたいこと、いっぱいあったのに、何かが変わってしまうことを恐れて、全部全部自分からやめていた。何やってんだろう、私。何年間を無駄にしてきたんだろう、私。情けないよ。後ろに砂利道を歩く足音が聞こえて父がこちらまで来ていることに気付いていたが、こみあげてきた熱いものが頬を伝っていたので、後ろを振り返ることが出来なかった。

 

変化することに恐れていた。小さなことにも、大きなことにも。自分自身が変わってしまうのではないかと思うと、たいそうなことはできなかった。自らの安定のために特に目立ったことは何一つ起こしてこなかったことを振り返る。あぁ、私が求めていたものはこれではなかったんだな。

私は変化を求めていた。自分を思い切り変えてくれるような変化を待っていたのだ。誰にも何も文句を言わせないような、そんな思い切った変化を求めていた。

しかしここにきて、昔と雄な場所に立って、馴染のビルがなくなっていた事実と、でも何ら昔と変わりない景色を見てようやく気が付いた。変化は待つものではない、ということに。ビルだってそう。変わったけれどそれはまた新しい駅前の憩いの場として活躍しているし、そこが変わったからと言って、何かが大きく変わったかというとそうではない。実際、ここからの景色は当時と同じくらい私の気持ちを落ち着けてくれていた。

思い返してみると、私が心から笑っていた高校3年間は目まぐるしいほどに変化に満ちあふれていたように思う。自分が変わることに恐れを感じていなかった。むしろ、さまざまな変化をして、本当の自分とは何か、を探していたのかもしれない。

そうか。私はどこかで間違えたんだな。どこかで本当の自分を見失って、そのままになってしまっていたんだな。あぁ、そうか。

変化は作るものだ。今だからはっきりということが出来る。

変化は待つものではなく、作るもの。自らの一歩で、変わっていくのだ。それがたとえ大きな変化ではなくても、小さな変化でも積み重ねることで、いずれ大きな変化になり得ることだってあるんじゃないか?なんとなく、今は自信をもってこう言い切れる気がする。

その時、サッと風が吹き、周りの木々がそよそよと揺れた。

 

後ろを振り返り、父に笑顔でこう言った。

「さ、早く帰ろう。お母さんがおいしいご飯をつくってくれているから。早く帰りたい!」

なんだか早く父と母にここ最近の出来事やらを聞いてほしくなった。昔とおんなじだ。昔と同じであることに今はもうなんとも思わない。またこうして1日1日を積み重ねるんだ。

とっても後ろ向きだった私はもうそこにはいなかった。

 

明日からの自分はどんなだろう。明日はどんな自分に出会えるだろう。

明日から始まる、新しい日々が心待ちになった。

風景
172316

 今年もまた、この木造アパートの一階から桜を眺めている。何度目かの、春。僕は何も変わらない。

 変わっていくのは、いつも風景だった。あの角にあったコンビニがつぶれたのは去年の秋のこと。週に2回はお世話になっていたパン屋が店を閉めたのは、確か3年前のことだったっけ。風景が変わり、人が変わっていく。季節は移ろっていく。僕は、何も変わらない。何も変わらないで、今日もこの部屋で絵を描いている。

 小さいころから絵が好きだった。理由は、皆が褒めてくれるから。母親も、友達も、小学校の先生も、他のことは何ひとつ褒めてくれなかったけれど、絵だけはいつも褒めてくれた。それが僕は嬉しくて、毎日ただ夢中で絵を描いていた。ラクガキだらけの算数や国語のノートたちは、なんとなく捨てる気になれなくて、いまだに机の引き出しの奥に突っ込んである。

 今となっては、僕の絵を褒めてくれるのは一緒に暮らしている彼女だけだ。皆が口々に褒めてくれた昔を懐かしんだりもするけれど、僕は今の暮らしを気に入っている。彼女が僕の絵を見て「素敵ね」って笑ってくれるのが堪らなく幸せで、彼女がいつも仕事に行く前に残してくれる置手紙が堪らなく愛しい。上品な桜模様の便箋。ずいぶんと見慣れた、少しクセのある筆跡。春のように穏やかな幸せ。気が付けば夜が明けていて、気が付けば日が暮れていた。気が付けば、冬が終わっていた。

その日、初めて絵が売れた。

「桜を、描いているのですか?」

 ふいに話しかけられて、僕は筆をとめた。顔を上げると、僕と同い年くらいに見える若い男性がひとり、こちらをのぞき込んでいるのが見えた。

「あ・・・はい、そうです。ここの桜が好きで」

その日は、いつもアパートの窓から眺めている桜の木のそばに小さな椅子を置いて、そこで絵を描いていたのだ。

「素敵な色ですね。本当にキャンバスいっぱいに桜が咲いているみたいだ」

「ありがとうございます・・・絵は、趣味で、描いているだけなんですけどね」

僕は褒められるのが無性に恥ずかしくなってきて咄嗟に目をそらし、ぼそぼそと答えるなり、口をきゅっと結んでうつむいた。

「いや、絵にここまで惹きつけられたのは初めてですよ。もともと、絵画を愛でる趣味もありませんし、知識も全くありませんし・・・でも、これだけは分かるんです。この絵は本当に、もうどんな言葉でも言い表せないくらい、素敵です」

「そんな・・・ありがとうございます」

「わたしは、奈倉と申します。あなたが描く絵を、もっと見たくなりました。もしよろしければ、他の絵も見せていただけませんか?」

そうして、僕は戸惑いながらも奈倉さんを部屋に案内することになった。今まで描いてきた何十枚、何百枚の絵を、奈倉さんは嬉しそうに、ときに神妙な面持ちで眺め、僕の絵が好きだと何度も何度も言ってくれた。そうして
ほうっと一息つくと、ゆっくりとこちらを見て、言いにくそうに、口ごもりながら話しはじめた。

「不躾なことを聞くようですが、この絵は、その、販売したり、は、していないのですか?」

「・・・販売、ですか」

考えたこともなかった「販売」という言葉に面食らい、しばし固まってしまう。

そんな僕を見て、奈倉さんは慌てて続ける。

「いや、どれも大切になさっている絵でしょうし、無理に売れというわけではないんです。ただ、わたしはあなたの絵がどうしても、好きで・・・手元に置いておけたらどんなにいいだろうと、思ってしまったんです。もちろん、安く買おうだなんて全く思っていません。相応の対価は支払います。だから、その・・・」

つっかえながら懸命に言葉を紡ぐ奈倉さんを見ていると、ここまで僕の絵を想ってくれる人の気持ちに応えたいという思いがふつふつと湧き上がってきた。そして、考えた末、意を決して奈倉さんに向き直った。

「わかりました」

「え・・・」

「そこまで、僕の絵を気に入ってくださったのなら。ぜひ、手元に置いてやってください。ただ、僕の絵で対価をいただくというのは・・・とても申し訳ない気がするのですが、本当に、いいのでしょうか?」

「もちろん、もちろんです!」

奈倉さんは頬を紅潮させて目を輝かせ、食い気味にこたえてくれた。その興奮した様子がなんだか可笑しくて、僕は思わず笑ってしまった。

「ありがとうございます。大切に、してあげてください」

奈倉さんは何度も何度もお礼を言って、絵を大事そうに抱きしめて帰っていった。

 

「今日、絵が売れたよ」

「・・・!」

その日の夜、夕食を食べながら彼女に告げると、彼女は目をまるくしてこちらを見つめた。

「売っちゃったの・・・?」

「うん。奈倉さんっていう人がね、僕の絵をすごく気に入ってくれて」

一部始終を話し終えると、彼女はにっこり笑ってこう言った。

「わたしも宏樹の絵が大好きだから、同じように大好きだって言ってくれるひとが現れて嬉しい。わたしは、宏樹の絵がきっと誰かの心を動かすだろうってずっと信じてたよ。信じてたこと、間違ってなかったね」

 

一週間後、古い木造アパートには人だかりができた。奈倉さんがご友人に僕の絵を見せて、話をしてくれたらしい。人々の笑顔と称賛の声に溢れる部屋の中で、僕は夢をみているようだった。

そんな僕の部屋は、次の月にはすっかり空っぽになった。所狭しと置かれていた絵が、ひとつ残らず売れてしまったのだ。絵を買ってくれた人からは、時々感謝の手紙が届いた。心が洗われたとか、生活が明るくなったとか、そんな大層な言葉たちは僕の絵には似合わなくてこそばゆかったけど、悪い気がするわけもない。そんな宝物みたいな言葉たちが、空っぽになった部屋に少しずつ溜まっていく。彼女が、僕の横で幸せそうに笑う。

「信じてたこと、間違ってなかった」

こんな日々が、いつまでも続いてくれたらいいのに。

 

「今日も、絵をすごく気に入って買ってくれた人がいたよ」

「それはよかった。宏樹、絵を描いてるときは前から楽しそうだったけど、最近はほんとに幸せそうに描いてるわよね」

「喜んでくれる人たちがいるからかな、描くのが本当に楽しくて仕方ないんだ。もっと、もっといい絵が描きたいな」

「もっといい絵、ね。もうじゅうぶん素敵だけど。宏樹が本当に描きたいものを描いたら何だって素敵よ、宏樹は今、どんな絵が描きたいの?」

「本当に描きたいもの、か」

僕は黙り込む。今まで改めて考えたこともなかった。僕が今本当に描きたいもの、それは、一体何なのだろうか。



考えている間、彼女はじっと待っていてくれた。長い沈黙の後、僕は顔を上げた。

 

「僕は今までずっと、目に写ったものを目に写った美しさのままでキャンバスに描き出そうとしてきた。あの桜も、あのヒマワリもそうだった。・・・そう、美しいもの。でも、そうじゃなくて、今度は醜いものを描いてみたい。目に写るものの、もっとずっと奥、深いところまで潜って、目には見えない、本当の、醜さを描いてみたい」

 

僕はずっと考えていたんだ。僕が描き出すもの、それは、いつも儚く逞しく、美しい自然たちだった。舞い散る桜、凛と咲くヒマワリ、真っ赤な紅葉、そして真っ白な雪原。四季が見せてくれる一瞬一瞬をていねいにていねいに切り取って、描き出してきた。なぜ、僕は人間を描こうとしなかった?なぜ、僕は自然の美しさばかりを追い求めていた?そのこたえに、僕はとっくに気づいていたのかもしれない。気づいていたのに知らないふりをして、ここまできた。知らないふりをしたままで、たくさんの人に褒められて、満たされた気になっていた。

目の奥に、灰皿と、割れたマグカップ、そして啜り泣く母の後ろ姿が浮かぶ。

「そうだ。・・・僕は、僕自身も含めて、人間ってやつが心底嫌いだったんだ」

僕の、3歳の誕生日。それは、親父が家を出ていった日。あいつは会社の女と不倫していた。親父の首筋に散った紅い跡。その腕に縋る若い女の、嘲るような瞳。近所のおばさんたちのひそひそ声。母の心が壊れていくのを、僕は傍で見ていた。幼すぎた僕には複雑な事情はよく分かっていなかったけれど、人間に対して不信感を抱くには十分過ぎた。幼心に親父を恨み、世間を恨んだ。そして知らず知らずの間に、母に何もしてあげられなかった自分のことも恨んでいたのだろう。絵を描く僕を見て優しく微笑んでくれた母、その母の顔から表情と生気が失われていくのを目の当たりにしたときのあの気持ちは、僕の心に固くこびりついて消えてくれない。

人間の醜さに嫌悪感をつのらせ、思春期には抱えきれなくなって目を逸らして、それからひたすらに美しい自然を描き続けた。いわば現実逃避だ。そうやって、自分の心を守っていた。そんな時に出会った彼女が、その美しい笑顔で「素敵ね」って褒めてくれたから、僕は現実逃避を続ける自分を肯定していられた。

でも、もう、やめよう。ちゃんと向き合おう。人間の醜さとも、現実から逃げていた自分自身とも、ちゃんと向き合おう。そして、全部描き出してやる。描き出してやりたい。人間は浅ましい生き物だと、そして僕もそんな浅ましい人間のひとりに過ぎないのだと、胸を張って言ってやりたい。

 

それから、僕はのめり込むようにして制作を続けた。思い出さないように蓋をしていた嫌な思い出たちを引っ張り出して、向き合った。悪意、嫌味、嫉妬、傲慢、色欲、虚構。ぜんぶ、ほんものだった。それが現実だった。心が荒みそうになるときは彼女がそばにいてくれて、僕はなんとか僕を保って、絵を描き続けた。そうやって完成した絵は、僕の中で「最高傑作」と呼べるものになった。

 

「素敵ね」

 

彼女がにっこり笑ってそう言ってくれた。

 

ところが、世間はそんなふうに受け入れてはくれなかった。今まで僕の絵に目を輝かせてくれていた人たちが、「最高傑作」を一目見ては眉をひそめ、顔を見合わせ、やれやれというように首を振って、去っていった。そして彼らはこう囁き合った。

「腕のいい絵描きだと思っていたのに」

「なんだ?あの絵は」

「醜い。汚らわしい」

「あいつは精神を病んでしまったんだ」

「かわいそうに」

「無能め」

 

その囁きは風に誘われて、僕の耳にも入ってきた。僕は指一本動かすことができず、ただ茫然としていた。この豹変ぶりは何だ?あんなにみんなして僕の絵を褒めそやしていたのに、気に入らないとなると一斉に手のひら返しか?彼らは僕を拒絶した。僕が表現したいと思ったものを、ありのままの僕の世界として受け入れてはくれなかった。今まで描いてきた美しい風景たちも、今回描き出した醜い人間の姿も、間違いなく僕の中に在ったものだ。それなのに。

 

僕には、もうそれ以上考える気力も残っていなかった。絵が好きだという気持ち、皆に喜んでもらいたいという気持ち、自分の描きたいものを描くのだという気持ち、どれもが跡形もなく、霞んで、滲んで、見えなくなってしまった。

 

抜け殻のようになった僕を見る彼女の目は、輝きを失い、瞳に暗く影を落としていた。幸せそうに笑うこともなくなった。そんな彼女を、僕はただ見ているだけだった。離れていく心が見えていながら、どうすることもできなかった。そうして、彼女は僕の前から姿を消した。

 

「信じていたよ」

 

彼女はそう言い残して去っていった。信じていた。僕の何を信じてくれていたのかも、もう僕には分からない。ただ、その信頼に応えることができなかったのだということだけが、確かな事実としてそこに在った。ずっとそばにいてくれた光を失ったことで、僕自身も僕のことが見えなくなってしまった。僕は彼女に生かされていたのだということが、彼女がいなくなってはっきりと分かった。

 

それから数カ月、何も手につかないままで、死んだように日々を過ごした。ただ息をする。虚空をぼんやりと眺めて、ため息をつく。そんな毎日に光が差すことなんて、もう二度とないと思っていた。

 

ところが「その日」は突然に訪れた。ふと目を遣った本棚の隅に、見覚えのある桜模様の便箋を見つけたのだ。僕の毎日を支えてくれていた便箋たちだ。大切に、大切に一枚いちまいしまっておいたのに、その存在すら、この数カ月は忘れてしまっていた。いや、敢えて見ないようにしていたのかもしれない。眩しい記憶に目が眩むのがこわくて、影が落ちるのがこわくて、知らず知らずのうちに視界から外していたのだろうか。なぜそのときふと目に留まったのかは分からない。それでもすうっと吸い寄せられるように、手を伸ばした。

 

見慣れた、少しクセのある筆跡。それを目にした途端、からっぽだった僕の中に熱いものが沸き起こって、こみ上げて、止まらなくて、あふれ出して、桜の舞う便箋に静かに雨を降らせた。

信じてくれていた。僕の才能なんかじゃなく、心を、信じてくれていた。今なら分かる。美しい絵が描けることなんかじゃなく、優れた技巧をもっていることでもなく、描きたいものを描こうとし続ける心を信じてくれていた。

「素敵ね」

彼女の笑顔が浮かぶ。

気に入らない一面を目にした途端手のひらを返して去っていった人々とは違って、彼女は僕をまるごと全部、受け入れてくれていた。他人からの評価に揺らぎ、描きたいという心を失い、描くことをやめてしまった僕はもう僕じゃなくなってしまったから、彼女は去っていったのだ。僕が僕で在るだけで、それだけで、全部受け止めてくれていたのに。

僕は、僕で在りたい。

滲む世界を拭って目を開く。今の僕自身に、彼女に、そして幼いころの僕に胸を張れるような僕で在りたい。そのために、描き続けなければならない。表現し続けなければならない。表現することをやめたとき、僕は僕でなくなるのだ。媚び諂いは表現ではない。僕は僕が描きたいものを描き続ける。

 

僕は再び筆を執った。ゆっくりと、自分の思うように、思いつくままに、描き続けた。金になるわけではない。褒めてもらえるわけでもない。それでも、一心不乱に描き続けた。

 

 気が付けば夜が明けていて、気が付けば日が暮れていた。気が付けば、冬が終わっていた。

 

 その日、久々に、絵が売れた。

 

 買主が誰なのかは分からない。手紙での依頼、匿名で、住所は僕のアパートから遠く離れている。不思議に思いながら発送処理を済ませ、二週間が過ぎた。

 

 その日の夕方、絵の買主から手紙が届いた。

 

 封筒から便箋を取り出してみて、僕は言葉を失った。そこには、桜模様の便箋に、ただ一言。

 

「信じてたこと 間違ってなかった」

夕焼けの海
172332

木村 鋼

 

「おう、じゃあな。頑張れよ」

 そう言って俺は携帯をとじ、ポケットに入れた。

 さきほどまで明るかった空も、すっかり暗くなってしまった。頬に吹き付ける風が冷たくて、おもわず目を閉じてしまう。

 体重を預けているベランダの手すりからは、金属らしい冷たさはとうに失われ、体と同じ温度になっている。

「じゃあな」

 そう呟いて、俺は手すりに足をかけた。

 

穂積 優

 

 友人の木村鋼が自室のベランダから飛び降りて自殺した。

 3限の講義中にかかってきた電話で警察からそう聞かされた後は、何を答えたのか覚えていない。こんな時間に電話をかけてくる非常識さに対する苛立ちや、電話が鳴って教室中からの注目を集めた気恥ずかしさなんてものは消えてしまい、死角から急に殴られたような気持ちがして、しばらく目の焦点が合わなかった。

 警察は事件性がないことを確認するためにかけてきたのだろうけど、僕の中では事件性がない方が不可解で、理解ができなかった。

 電話が切れた後、現実感のない頭で教室に戻って、荷物をとって教室を出た。講義はまだ続いていたけれど、今は耳に入らないことは分かっていて、今は一刻も早く落ち着いた場所にいきたかった。誰の声も聞こえない場所で静かにしていたかった。風の音すら煩わしかった。

 急いで家に帰り、窓とカーテンを閉め、ノイズキャンセリングのイヤホンで耳を塞ぐ。僕に作りうる最高の静寂。聞こえてくるのはほんの僅かな車の走る音。それでも頭の中はうるさかった。

 彼はなぜ死ぬ前に僕に電話をかけてきたのだろう。昼休み、急にかかってきた電話はいつも通りの調子で、僕は彼の話に耳を傾けて、相槌を打ち、適当に話をした。とても今から死ぬ覚悟をしているような感じはなく、その事実が僕を落ち着かなくした。   

 いつの日か、彼が言っていたことを思い出す。

「なあ優、人を殺してしまうときってさ、何が必要だとおもう?」

「というと?」

「いや、つまりな、人殺しってやっぱり人間とっては最大のタブーなわけじゃん。いくら計画を立てても、気持ちを整えても、一線を越えるのって難しいでしょ。そりゃサイコパスみたいに殺人をタブー視してないなら話はべつだけどさ。だから普通の人が殺人を犯してしまうのは何かきっかけがあるのかなってさ」

「なるほど、鋼はどう思ってるの?」

 意図を掴んだ僕は、彼に続けさせる。大抵、彼は答えを持ったうえで僕に話を振ってくるからだ。

「俺はな、衝動だと思う。強い怒りとか嫉妬とか、心の許容量を超えた一瞬の感情の高まり。少し待てばすぐに収まるような、そんな一瞬の衝動が原因だと思うんだ。飼いならした強い憎しみとかではなくて、生じてすぐ消える幻のような感情に振り回された結果、殺人を犯す。きっと深呼吸一つすれば殺人なんてできないと思う。」

彼は当たり前のような、斬新なようなよくわからない意見を語った。

 語っているときの彼の横顔はどんな風だったろうか。彼が自分を殺すことになった衝動とは何なのだろうか。わからないことだらけの頭の中は、相変わらずうるさかった。

 

木村 鋼

 

自分の部屋でベッドにうつぶせに寝っ転がって、今日の出来事を思い出す。

吹き付ける潮風と、波の音。

約60キロの肉の重み。

水に打ち付けられる肉塊の音。

興奮で麻痺して意外と冷静な頭。

人を殺すのに衝動などいるのだろうか。

俺は間違っていないはずだった。でも間違っているかもしれなかった。

 

穂積 優

 

 翌翌日、ひどく寒い冬の日、鋼の葬式が行われた。

 僕は鋼が死んでしまったことをまだ理解できないでいた。ニュースや話に聞く“死ぬ”という薄っぺらな言葉とは全く違う、リアルな重みを伴った現実は、僕の許容量を大きく超えていて、かみ砕くにも飲み込むにもまだ時間と労力が要りそうだった。

 結局、葬儀の最中は周りの人のまねをして行儀よくしているのが精いっぱいだったし、鋼の死体は先に火葬されていて、箱に入った骨だけだったのも相まって鋼の死を実感するような機会がなく、葬儀が終わっても僕はぼんやりとした虚しさを感じるだけだった。

 大学に行ったら、ふらっと鋼が現れるような気がしてならなかったし、そうであってほしかった。

 時折吹く風が、落ち葉をカラカラと転がしていた。

 

 

「すいません、穂積優さんですか」

何も考えずにぼーっと立っていた時に、突然後ろからそう声をかけられた。

「あ、はい、そうです」

「突然ごめんなさい、私、鋼の母の千鶴です。今日は息子のためにわざわざ来てくれてありがとう」

ああ、やっぱり。僕はそう思った。よそ行きの顔に少し悲しみを滲ませて、僕は振り向く。

「あのね、最後に鋼が電話してたのが、君だっていうから、話を、ききたくてね」

そう続けた千鶴さんの声は途中から震えていたが、気にならなかった。

「話、ですか…。改めて聞かれると難しいですね。すいません」

「曖昧だったわね、ごめんなさい。鋼が、最後にどんな話をしてたのか、どうしても知りたくて…」

千鶴さんはそう聞いてきた。葬式に呼ばれた時点で、聞かれることはなんとなく予想できていて、だから答えはちゃんと準備してきたし、それが無駄にならなかったことに安堵した。

「鋼が飛び降りた日の昼休みに電話がかかってきたんです。何か用でもあるのかと思ってたんですけど、ただ話をしてただけで、話の内容も昨日のバイトのこととか、変な人がいたとか、ゲームのこととか、いつも話すみたいな中身のない話でしたね。今思い返しても変なところはないです。本当にいつも通りの彼でした。」

「そう、ごめんなさいね、思い出させてしまって。」

千鶴さんは軽く落胆した顔で、お礼を言った。僕はこの葬式の山場を乗り切ったことを確信し、ほっとした。

「すいません、力になれずに」

「いえいえ、気にしないで。今日は本当に来てくれてありがとう。よかったらこれ、もらってくれる?」

 千鶴さんはそう言って紙袋を差し出してきた。

「あ、ありがとうございます」

「よかったら鋼のこと、少しは思い出してあげてくれる?忘れられるのはかわいそうだから…」

「もちろんです。忘れないですよ。僕の大切な友人ですから」

紙袋は見た目にしては軽くて、バウムクーヘンを期待していた僕は少しがっかりした。

 

 

 

木村 鋼

 

 あの日、俺はレンタカーを走らせていた。。

 冬も半ばだったが、寒さも、日差しの温かさも感じなかった。昨日の夜から動悸がおさまらない。

 運転しながら手元の絵葉書を見る。

 俺のお気に入りの、海と夕日の写真。

 海か山か、ひどく迷った。どちらが安心か、もうわからなかった。だから手元にあった写真の場所に、決めてしまった。

 自分が世間的に正しいことをしてるとは思えない。本来なら警察に行くべきなのだろう。それでも、これが俺にとっての正義なのだ。

 寝袋に詰めた死体が、トランクでごろんと動いた気がした。

 

穂積 優

 

 葬儀の翌日、僕は大学に行った。

 心の整理はついてないし、大学に行く気は起きなかったけれど、世界はいつも通り回っていて、自分一人の我儘には合わせてくれないことを痛感した。

 奇しくもその日最初の授業は、鋼と一緒に取っていた授業だった。いつも左端の前から3番目の席に彼と座っていたけれど、今日は教室に入ったときも、講義中も、僕の隣は空席のままだった。なんだかその事実も、彼の死を証明しているようで、僕は気が気でなかった。

 授業終わり、ふと鋼がいつも座っていた席を見ると、机の下の教科書などを置くスペースに、封筒のようなものが見えた。僕は鋼の置き土産のような気がして、遺書かもしれないと期待しつつ取り出したけれど、封筒に入っているのは何枚かのただの絵葉書だった。

 そういえば、先週、鋼が授業前に話していたのを思い出す。

「なあ優、この海と夕日のコントラストめっちゃ綺麗じゃない?」

そう言って見せてきたのはどこかの崖か岬から撮った海の写真の絵葉書で、とても綺麗だった。

「俺、今度ここいってみよっかな。実際に見てみたいし」

そう言ってる鋼は目が輝いていて、新しいことを思いついた少年のようで眩しかった。

 この絵葉書は、先週鋼が忘れていったものかもしれない。そう思って中を確認したけれど、鋼が見せてくれたあの海の写真は入っていなくて、少しがっかりした。

 彼は結局あの海を見に行ったのだろうか。死ぬ前に、自分の見たいものを見たのだろうか。

 僕は何となく封筒をカバンに入れて、次の授業へと向かった。

 

 家に帰り、カバンを整理していると、あの絵葉書が入った封筒を見つけた。すっかり忘れていたから、見つけたときに少し面食らったけど、思い返してもう一度絵葉書を眺めてみる。封筒には隣の県の港町の名前の刻印。十枚入りの文字。中を見れば、ごく普通の、町の風景の絵葉書。。九枚しか入っていなくて、もしかしたら鋼が見せてくれたあの写真はこの絵葉書集の一枚かもと思ったが、確かめる術はなかった。

 夕焼けの差し込む赤い部屋で、僕はあの夕日の海の写真を思い出していた。

 

木村 鋼

 

 山道を超えると、正面に海が見えてきた。まだ日は落ちておらず、少し到着が早くなりそうな予感がしたが、あまり気にならなかった。

 道すがらのそば屋で早めの夕食を済ませたのち、海沿いをしばらく走って、「緋護岬」という看板で海の方に曲がる。ぐねぐねした山道をゆっくりと登ると、前方から眩しい日光が差してきた。

 その光に目が慣れた時、俺の目に映った光景は、おそらく生涯忘れないだろう。

 オレンジ色に染められた海と、ところどころで反射して白く輝く波。その奥には真っ赤な太陽が、一部を海に沈めて周りを照らしていた。一瞬ごとに反射される光の加減が変わり、しかし太陽と海だけはそこにあり続ける。その光景に、言葉では言い表せない感動を感じて、俺は太陽が沈むまで動けないでいた。

 

穂積 優

 

 僕はバスに揺られていた。

 海に向かって、ちまちまと停まりながら進むバスは、急ぎすぎない感じがして心地よかった。

 目指すのはあの絵葉書の港町。鋼が嬉しそうに見せてくれたあの海の写真。特に理由はないけれど、鋼が見たかった風景、見たかもしれない風景を僕も見てみたかった。

 一度見た写真から場所を特定するのは難しいかもと思ったけれど、調べてみれば、あの小さな町にあんないい景色が見れるところなんて、一つしかなかった。多分、鋼が見せてくれたのもそこからの写真だろう。

 バスを降りると、空は晴れ渡っていて、潮風が少し寒かった。マップに従って海沿いの道を歩き、海側の道に入ってしばらく上ると、道が開けて広場のようなところに出る。柵も何もなく、ただ崖の上が開けているだけで、目印になるようなものは何もなかったけれど、鋼が見せてくれたあの写真の場所であることは分かった。

 今は昼間で、写真のように綺麗な夕日は出ていなかったけれど、海に立つ白波や、風に揺れる木々の音が、人間には作り出せないような五感に訴える美しさを生み出していて、これを感じるためだけでも、今日ここに来たかいがあったと思うほどだった。

 近場の岩に座り、目を閉じて、息をする。波と、風と、鳥の音を聞いて、無心でいる時間は、いつもの何かに追われている生活から抜け出して、少し休憩をしている気分がして、心が休まった。

 目を開いて周囲を見渡した時、ふと不自然なものが木の下においてあるのが見えた。道が開けてから、海の方にばかり気がいっていたせいか、全然気が付かなかったが、少ししおれた花束が、そこには置いてあった。置かれてから時間がそこまでたってなさそうで、せいぜい一週間前位に置かれたものだろうか。最近ここで死んだ人がいるのかもしれない。ここが僕と鋼をつなぐ場所のように感じていただけに、ここで誰かが死んだかもしれないという可能性は、この場所を汚す気がして気持ちが落ち着かなかった。

 苛立ちを感じたうえに、西の方から少し厚めの雲が迫ってきていたから、僕は夕日を見ることもなく帰ることにした。

 

木村 鋼

 

 写真で見た通りの、でも写真よりももっと綺麗な夕日は、俺の心を文字通り奪っていって、目下の問題すらも忘れてしまっていた。だから、あたりが暗くなって現実に引き戻されたときは、今からすべきことを思い出して、息が詰まった。胸が苦しくなるような、不安と恐怖が混ざって自分の内側を圧迫するような感覚が、体から何かを吐き出させようとしていたが、出てくるのは荒い息だけで、問題は何一つ解決せずにいた。

 しばらくそのままで、気持ちを落ち着けると、昨夜した決心が蘇ってきて、何とか身体を動かし始めることができた。周りに誰もいないことを確認し、トランクから寝袋を取り出す。寝袋を開いて中の死体を引きずり出し、崖の先まで持っていく。死体は酸っぱい臭いがして不快だ。約60キロのタンパク質の塊は同じ重さの金属よりも重たく感じる。急激に自分がやっていることの実感がわいてきたが、その気持ちを押しつぶして、身体を動かす。最後にもう一度、人がいないことを確認して、俺は崖から死体を落とした。

 どぼん、と音がして、その後には波の音だけが残った。

 願わくば見つからないことを。見つかるにしても時間が経ってからであることを。そう思って、俺は車に乗った。

 次の日は、雨だった。

 

穂積 優

 

 バスに乗って帰っていると、案の定雨が降ってきた。傘は持ってなかったけれど、バスを降りれば後は家に帰るだけだし、あまり気にならなかった。バスを降りて、雨の中を歩く。幸い、雨脚は弱まっていて、しとしとと降る程度だったから、あまり濡れずにすみそうだった。

 なんとなしに、帰り道は河川敷を歩くことにした。この川は第一級河川で、河川敷も広い。雨のせいで濁流の流れる川を横目に、川上に向かって歩く。時々、鋼とこの河川敷で酒を飲んでいたのを思い出す。僕は酒に弱くて、でも鋼は強くてよく飲むから、僕は負けじとたくさん飲んで、大抵記憶をなくしてべろべろになって鋼に連れて帰ってもらっていた。迷惑はかけるけど、鋼と飲むのは楽しかったし、外で飲むのは風情がある気がして、ついでに安上がりだから好きだった。

 もう、そういったこともできなくなったのか、と思うと、鋼の死がさらに近寄ってきた気がした。だんだんと近づいてくる鋼の死が、僕の人生をモノクロに変えていくようで辛かった。

 急に、ザー、と雨が強くなってきて、僕は急いで橋の下に避難する。しばらくはここで雨宿りをしなくてはなりそうだ。後ろではホームレスの残したであろう汚い段ボールが、風に吹かれてバタバタとなっていた。

 

 雨の弱まった隙を狙って急いで帰った僕は、お風呂に入って体を温めた。お風呂に入っている時間というのは不思議なもので、ついいろいろと考えてしまう。今日見た岬からの景色や、置いてあった花束、そして鋼のこと。考えると気持ちが沈むと分かっていても考えてしまうのは、やはり整理がついていないからか。

 しかしながら、僕は少し楽観的でもいた。鋼が死んでも何も変わらずに回っている世界は、時間をかけて僕をもとの生活に戻してくれるだろう。今はくよくよと鋼のことを考えているが、次第に考える時間は減り、そのうち思考の隅にすらのぼらなくなるかもしれない。時々ふと思い出すにしても、美化された、楽しい思い出だけが残るだろう。少し冷酷かもしれないが、僕はそんな風に考える。

 だから鋼の死を悲しんでいられるのは今だけなのだ。僕が世間に順応しなおすまでが、鋼を悼んでやれる時間だった。

 

木村 鋼

 

 俺はもう一度、あの岬へ行った。死体を投げ捨ててから二日後、今回は車ではなくバスで、少し小さめの花束を持って。

 バス停で降りて、前回は車で登った道を歩く。意外と険しく、そこまでだったかと思い返してみたが、よく覚えていなかった。それどころではなかったからだろう。道が開けて、景色が眼前に広がる。曇っていて、波も強かったから、前とは全く違う姿を見せていて、違う場所なのではないかと思うほどだった。あれほど美しい光景を前に見ていた分、ギャップが大きかったのだろう。あの時の美しさと、今の荒々しさ。広大な海にも二面性があることを知って、少し驚いた。

 海に背を向け、持ってきた花束を近くの木の下に置く。俺が投げ捨てた、見ず知らずのあの男に対するせめてもの謝罪の気持ちだった。

 俺はしばらく荒々しい海を眺めてから、山道を降りて行った。

 

穂積 優

 

 鋼の死から三年。

 僕は大学を卒業して社会に出て、可もなく不可もなく、といった生活を送っていた。

 思っていた通り、時間が経つにつれて鋼のことを考えることは少なくなった。何度か鋼のお墓にお参りに行ったが、ここ一年はもう行っていない。

 驚きだったのは、鋼の死から少したって、鋼に死体遺棄と殺人の容疑がかけられたことだ。どうやら僕があの時訪れた岬の近くで、首を絞められて死んだであろう男の死体が引き上げられたみたいだ。鋼は、死ぬ前にレンタカーを借りてあの岬を訪れていたらしく、ぴったりと時期が重なるらしい。最後に彼と電話していたから、という理由でまた警察に話を聞かれたが、心当たりはなかった。

 でも、僕はそれを聞いて納得がいったのだ。鋼が自殺する理由なんて、少しも思いつかなかったから。鋼が、何かの手違いで人を殺してしまって、それで気に病んで自殺したのだ、最後の電話もきっと頑張っていつもの調子でいたのだろう、最期に僕と話がしたかっ                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 たんだろう、と、そう思うことができた。

 彼との電話の最後の「頑張れよ」の一言は、自分の分も頑張ってほしいという意味だったのかもしれない。そう思っても、本当のところは分からなかった。

 結局、あの海の、あの夕日は見れなかったなあ、と思ったところで上司に呼ばれ、僕は仕事に戻った。

 

木村 鋼

 

 家に帰って、ベッドに横になる。急激な睡魔に襲われて、瞼が上がらなくなってしまう。心休まる時間がなかったからかもしれない。あの日から、俺は全力で走り続けてきたのだ。それも明日で終わる。だから、最期に、少しだけ休もう。次第に意識が遠くなっていくのを感じながら、俺は走り始めた日を思い出す。

 

 あの日、俺は大学終わりに優と酒を飲んでいた。時々やる、河川敷での飲み。冬の夜は凍えるほど寒かったが、酒を飲めば体は温まるし関係ない。室内じゃないから、バカ騒ぎしても誰にも何も言われない。金のない、騒ぎたい盛りの大学生には最高だった。二人しかいないのだが。

 その日はいつもより騒いでいたと思う。馬鹿話をして、ゲラゲラ笑って、きっと家でこんなことしてたら隣室から文句が来ていただろう。でもそんなことを気にするほど俺たちは大人でも、物分かりがよくもない。だからだろう、近くに人が来たことにも一切気づかなかった。

「おい、お前ら、うっせえんだよ!」

そう怒鳴られて、驚いて振り向いた俺たちの目に入ってきたのは、みすぼらしい身なりの中年の男だった。

「……え。いや、うるさいならどっか行ってくれや。なんでお前ごときに遠慮せにゃならねんだよ」

急に怒鳴られて、急には言葉が出なかったが、酒に酔ってるせいもあってこちらも大きな態度で出てしまった。優は何も言わなかったけど、俺の隣で険しい顔をしていた。

「お前なあ!黙ってどっか行けや!ぶっ殺すぞ!」

子供みたいな起こり方をして、激高した男がずんずん近づいてきて、俺の胸倉を掴んだ。そのときに、男の焦点のあってない血走った目を見て、俺はこの男がまともではないことを悟った。酒に酔ってるか、薬でもやってるのか、わざわざ俺たちに絡んできたのも納得だった。

 力任せに振り回されて、頭が激しく揺れる。俺は喧嘩慣れなんてしてないから、俺は両手をバタバタと振り回して抵抗したけれど、男は離してくれず、抵抗の激しさが増すばかりだった。状況は逼迫していたのに、男の酸っぱい臭いや、困惑してみている優の顔、流れる川の音がいやにはっきり分かるのが印象的だった。

 必死に抵抗していると、いきなり、ふっ、と男の手が俺の胸倉から離れた。揺らされる勢いのまま、後ろに倒れこんだ俺は信じられない光景を見た。

 優が、男の首を後ろから絞めていたのだ。

 頭をがっちりホールドして、力を一切緩めずに首を絞める優の顔は、恐ろしいほど無感情で俺はそれが空恐ろしかった。

 男から力が抜け、ぐたっとしてからも、優は男の首を絞め続けた。俺は突然の事態に対応できなくて、優を止めることもできずに呆然としていた。

 俺が我に返って、優を男から引き離した時、優はさっきと同じ無表情で、ぼそっと

「死んだかも」

といった。

 俺はそれが怖くてならなかった。人としてのタブーを、無表情で、特に衝動もなく犯したのだ。優はきっと、普通のようで普通ではないのだろう。俺はひとまず、ぐったりした男を橋の下に運んで、段ボールをかぶせた。ホームレスが寝ているように見えるように、一時的にでも隠せるように、と。

 優を家に連れていき、そのまま優の家で夜を明かした。彼は家についても、特に何か焦るような様子はなく、男が現れる前のように楽しそうにしていた。何事もなかったように。

 

 翌日の朝、優は何も覚えていなかった。喧嘩が始まった時点で相当酔っていたらしく、俺と話していたことも全然覚えていなかった。その時に、昨日のことを知っているのが自分だけだと知った。そして、もし俺が死体を処理してしまえば、誰も傷つかないと、優を守ることができる、と思った。もとはといえば、気がおかしくなって絡んできたあのオヤジが悪いのだ。

 だから優に黙って死体を捨てることにした。

 橋の下に行くと、男が昨夜と同じ態勢で寝ていて、触ると金属より冷たかった。ああ、この人は死んでるんだな、と思うと自分のやろうとしてることが酷くおぞましく感じたけれど、俺は持ってきた寝袋に死体を詰めた。

 この時は、俺は死ぬ気なんてさらさらなかった。優を守った英雄になれる気がして、少し高揚していたのも事実だ。

 でも、あの夕日を見て、死体を落とした時に気づいたのだ。自分がしているのは人助けではなく犯罪であることを。そしてこの死体が見つかった時に全責任を負うのは俺であることを。状況からして、俺は殺人の容疑までかけられるだろう。

 だったらもう、真実を知る人間がいなくなったほうがよい。優が余計な責任を負うこともなければ、自分が犯したかもしれない罪に悩むこともない。

 どうせ全責任を負う羽目になるなら、完全な形で負おう。そう思った。

 

 目が覚めたらもう昼前で、もうすぐ昼休みだった。優は今日も大学だろうか。死ぬ前に、俺の代わりに自由に生き続けるであろう友人と話をしたかった。それくらい許されるだろう。

 電話の内容は覚えていない。いつも通りの馬鹿話だったかもしれない。でも、最期の一言だけは覚えている。

「おう、じゃあな、頑張れよ」

心からの言葉だった。俺の分まで生きてくれ。あんな本性を持っていても、普通に生きてくれ。今回は俺が助けるから。

「じゃあな」

優にむけて、世界に向けて、小さくつぶやいて、俺は身を投げた。

憧れ
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はじめに 

この大学で、私のことを知らない人なんて1人もいない。なぜなら私は美しい外見を持っているから。

ここまで並外れた美しさを持っていると、誰にも嫉妬されないし、みんな私を気遣ってくれる。こんなに美しい顔をしているのだから、自分でも特別扱いされることぐらい当たり前だと思う。

もしも私を美しいと思わない人がいるとしたら、殺してしまいたい。

 

一年生 春

東京には、地方出身の私には想像もできなかった世界が広がっていた。SNSやTVで東京の街を見たことはあったけれど、高層ビルの多さには驚いた。大学の寮はとても狭いしお風呂とトイレは共同だけど、夢にまで見た東京生活。これからは、田舎のことは忘れて、都会の似合う大人の女性になるのだ。

私は田舎では、学校一賢かった。顔は地味だけれど、これといったコンプレックスがあるわけでもないし、派手な顔は下品だと親に言われて育ってきたから、自分の顔に不満はなかった。そんな田舎を捨ててきた理由は、大きく二つある。一つ目は、親とウマが合わなかったから。私は自分の賢さをいかして、働いて生きていくという夢がある。だけど親は、専業主婦になれない女は負け組だとか、早く結婚しないといけないから大学なんて行かないでいいだとか言うのだった。

親は、一人娘の私には、早く結婚して子どもを産んで欲しいとしか思っていないのだ。私は親のいうとおりに子どもを産んで田舎で暮らすつもりは全くない。あの人たちのいいなりになるのが嫌で東京に来た。

もう一つの理由は、なによりも憧れの俳優、中川翔くんが東京のS大学に通っているからである。中川くんの学部は法学部だけれど、S大学には私が興味のある社会学部もあったので、親の反対を押し切ってS大学に入学したのだ。実は、私は中川くんと一度だけ話したことがある。私の田舎にドラマ撮影に訪れていたのだ。「ずっとずっと応援してます。」と私がいっぱいいっぱいになりながら言うと、中川くんは頭を撫でながら、「また会おうね」と声をかけてくれた。私はもう一度、中川くんに会いにいかなければならない。そして、私は東京でOLになる。田舎には帰らない。そして中川くんともう一度だけ話してみたい。そんな想いを持ってここ、東京に出てきたのだ。

明日は入学式なので、お風呂上がりにサボンのボディークリームを塗って、メディヒールのパックをした。雑誌で売れっ子モデルが着ていた、買いたてのスーツを用意して、忘れずにメディキュットを履いてベッドに入った。お肌のためにも早く眠りにつきたかったが、これからの大学生活のことを考えると、ドキドキして全然寝付けなかった。

6時30分に目覚ましをかけていたが、5時に目覚めた。私はこういう大切な時に遅刻するようなドジな女ではない。早く起きた分、美容に時間をかけたい。私はサボリーノの朝用パックをして、ゆっくりとお化粧を始めた。用意していたスーツをきて、調べておいた電車に乗って、大学へと向かった。私の選んだ電車は入学式に行くには早すぎるくらいの電車だったけれど、意外とたくさんの新入生らしき人が見えた。まだスーツを着慣れていない様子から、すぐに新入生だとわかった。私も客観的に見るとああ見えているのだと思うと恥ずかしかった。売れっ子のモデルが宣伝していた私と同じスーツを着ている人は何人もいた。所詮私なんて東京に来れば量産型でしかない。

駅から大学まで歩いて行く道は、朝早いというのに、サークルの勧誘でいっぱいだった。否が応でもビラを渡され、大学に着く頃には辞書一冊分くらいのビラが集まってしまった。体育館に着いたが、入学式まで時間があったので、一枚一枚、入る気もないまま広告を見ていた。すると、一つのサークルの広告が目に留まった。

『S大 人数No.1サークル ひまわり みんなでテニスを楽しみませんか。』テニスなんてしたこともなければルールもわからないが、S大の中で人数No.1というところにとてつもない魅力を感じた。

田舎では、人間関係がなによりも大切であり、人脈を広げておいて損はないということは分かっている。私は、このサークルに入ることに決めた。このサークルに入って、中川くんとの連絡手段をどうにか手に入れられないだろうか。これからの大学生活についてあれこれ考えているうちに、入学式は終わっていた。入学式後に、社会学部だけでのオリエンテーションもあったが、60人の顔と名前なんて1人も覚えることが出来なかった。サークルで人脈を増やして中川くんともう一度お話をする。そのことしか考えられないようになっていった。

 

 

一年生 夏

7月になり、どんどん夏本番に近づいていった。東京にきて浮かれ気分だった4月の私と今の自分では、随分と心境が違っていた。親の言うことを押し切って東京へ出てきた私は、仕送りの少なさと東京の物価の高さに悩んでいた。バイトを3つ掛け持ちして、毎日毎日働いてもすぐにお金は無くなっていく。なによりもストレスでたくさんのニキビができてしまうことが一番気に食わなかった。

田舎ではそこそこ可愛かった私は、東京にきてしまえばただの地味な田舎者でしかなかった。ニキビまでできてしまえば、見てられるものでもなかった。社会学部の講義だって大変だった。初めて聞くような言葉を沢山暗記して沢山テストをする、その繰り返しだった。無理して私学にきたので、学費の関係で単位を落とすわけにはいかないので必死に勉強するしかなかった。講義、サークル、バイト、講義、サークル、バイト。毎日忙しくて疲れ切っていた。それでもサークルには毎回顔を出していた。そのおかげで、サークル内で仲の良い友達ができた。教育学部のたつきだ。私と同じ下宿生で、目立たないタイプだった。

いつものようにサークルが終わったある日のこと。同じバイトをしているたつきと居酒屋のバイト先に向かおうとしていたその時だった。「夏休みには、毎年恒例の夏合宿をしたいと思います。一年生の顔と名前をなるべく覚える合宿にしたいと思います。8月末の予定は開けておいてください。」

サークル長の言葉にハッとした。この合宿が勝負だ。それまでにニキビをなんとかしなければ。「佳代は合宿、いくの?」バイト先に向かう途中、たつきが聞いてきた。「行くつもりだけど。たつきは?」「行かないでおこうと思ってるんだ。合宿に行くのって、目立つタイプの人ばかりだって。それにお金も余裕ないしね。」私もお金に余裕はなかった。「でも、それだと、余計に先輩に覚えてもらえないんじゃない?目立たないからこそ行くべきだと思うんだけど。」「んー、、でも、、」私はもう合宿に行くことを決心していた。それに、たつきは来ない方がいいとさえ思っていた。その方が、今まで話したことのない人たちと話すことができると思ったからだ。「まぁ、無理していくのも良くないよね。」これで新しい友達ができる!と私は意気込んでいた。

夏休みに入って、講義がないので少し楽な生活になった。日雇いのバイトをして、お金にそこそこ余裕もできた。バイトばかりの生活を送っているうちに、すぐ合宿の日になった。たまったお金で合宿のために可愛いテニスウェアを買い、気合いは十分だった。集合場所には、張り切りすぎていないように見えるお洋服をえらんで着ていった。

集合場所の様子を遠くから眺めると、本当に目立つ子ばかり来ていた。サークルのメンバーの中でも、元々の顔が派手で可愛い女の子と、すらっと身長が高くて今時流行りの塩顔の男の子ばかりが集まっていた。私なんかが混ざってもいい場所ではなかった。この中で合宿に行っても、自分が惨めになるだけだ。私は集合場所に行かなかった。行けなかった。何も考えられなくなって家に帰った。

帰ってきてから何時間経ったのかも分からない。ずっとずっと鏡の前で震えていた。自分の顔を見ながら震えていた。和風で爽やかだと思っていた自分の奥二重も、よく見ると左右非対称な眉毛も、おとなしくて存在感のない鼻も、薄くて平凡な唇も、少し丸い頬も短めの顎も今までは全部全部ポジティブに捉えていた。地味だけど、自信のある顔だった。でももう全部全部気に入らなくなってしまった。田舎にいた時みたいに、みんなに可愛い、美人だねとちやほやされなくなっていることにも気がついた。都会の人は冷たいから何も言ってこないのだと思っていた。

しかし、私の顔は都会の本物の洗練された美人とは比べ物にならないということを思い知った。

 

何時間ふるえていたのだろうか。ハッと気がつくと、外はすっかり夜になっていた。真っ黒な空に満月が浮かんでいた。満月のクレーターを見ただけで恐怖感が襲ってきた。私の顔も周りからこんなにぶつぶつに見えているのではないか。ただでさえブスな顔で、こんな肌では見ていられない。

私は、肌を綺麗にする方法をとにかく探した。ネットサーフィンをして、たくさんの情報を追った。学費のために貯めていたお金を、美容液と美肌注射に使うことに決めた。さらに、来月には、もっとお金を貯めて、冴えない目を整形することに決めた。目頭切開と埋没法でぱっちり二重にすることを決めた。美容液と美肌注射は、たったの2万円しかかからない。たったの2万円で肌が綺麗になるのなら、しないという選択肢はない。しかし、目頭切開には250,000円、埋没法には30,000円と、合わせて30万円近くかかる。整形することをかたく決心した今、あとはがむしゃらに働くだけだった。しかし、毎日毎日働いても、30万を工面することは難しいということに気がついた。どうしたら良いのだろう、、、

一週間だけ、と決めて、ガールズバーで働くことに決めた。8時から17時まで派遣のバイトで働いた後、そのまま20時から26時までガールズバーで働くことにした。そうすると、派遣のバイトで10,000円、ガールズバーで12,000円と、1日で22,000円も稼ぐことができる。ガールズバーで働くために、居酒屋のバイトは一週間休むことになった。毎日のように居酒屋で働いていた私が1週間も休むとなると、居酒屋のバイト仲間はみんな心配した。特に、たつきは私のことを気にかけてくれていた。「佳代、合宿で何があったの?なんか変だよ、ずっと、暗い顔してる。」会うたびに声をかけてくれた。でも、その声かけさえも嫌になってきた。こんな冴えないブスと一緒にいたら、私までブスになってしまうのではないか。病的なほどの顔面コンプレックスに陥っていた私に、他人に構ってられる余裕は全くなかった。

「何にもないの。ありがとう」整形しようと思っていることは、誰にもいう気はなかった。「でも、元気もないし、居酒屋のバイトも、、一週間も休むんでしょ?お金、どうするの?」「たまには田舎に帰ろうと思って。」「でも、親御さん達と、うまく行ってないんじゃ、、」「もうほっといてよ。休むって言ったら休むの。」しつこいたつきにイライラして、挨拶もせずに帰ってしまった。

次の日、ガールズバーの面接に行った。安っぽくキラキラしたネオン街にあるガールズバーだった。山崎というオーナーとの簡単な面接があったあと、その日からすぐに働かせてもらうことになった。ガールズバーは、女の子がお酒を出すというだけでバーなので、居酒屋のバイトとすることは変わらなかったし、下ネタを言われたとしても、黙ってスルーしていた。自分もお酒を飲みながら接客することができるし、大人の世界の話を聞くことができることもあって楽しかった。

ガールズバーの仕事をはじめて1週間経った時にはもうすっかり仕事にハマってしまっていた。次の日には居酒屋のアルバイトのシフトが入っていたけど、飛んでしまうことにした。同じような仕事をしていたら2倍の時給が貰えるのだ。居酒屋で働きたい人なんていないに決まっている。

9月27日。夏休みの終わり。3つ掛け持ちしていたバイトは、ガールズバー一本に絞られていた。それでも前よりも稼ぐことができたし、9月の半ばには無事、目頭切開も埋没もして、大きな二重瞼になっていた。たつきとは全く連絡を取っていなかった。サークルは、夏休みには合宿以外の大きなイベントや練習はなかったし、居酒屋のアルバイトをとんでしまった罪悪感から連絡も返さない日が続いていた。二重瞼になって生まれ変わった自分で生きていこうと思っていた。

 

一年生 冬

気温が下がって、長袖の季節になっていった。二重瞼にしてからというもの、今まで話すことのなかったような派手な子達とも話すようになってきた。サークルでも、たつきとは目も合わせなかった。たつきは今でもまだ、少し連絡をくれるけれど、昔の自分が取り憑いているようで迷惑だった。派手であればあるほど金持ちの友達が多かったし、人脈も広かったので、中川くんに会うための手がかりも掴めそうだった。派手な子達とつるんでいると、私まで派手になれたようで気持ちが良かった。

それでも中川くんに会いたくて上京してきたことは誰にも言わなかった。本当の恋なのに、ミーハーだと思われてはいけないからである。サークル内に新しく友達ができた。法学部の、つぐみという子だった。たつきと比べたら整った顔立ちをしているが、茶髪に黒い眉毛、化粧で隠し切れていないクマなど、垢抜けない子だった。法学部なので、中川くんとの繋がりが強いと思ったから仲良くし始めた。最近見ているドラマの話から、さりげなく中川くんについて知っていることはないか尋ねてみた。

「こんなにサークルに人がいたら、誰か中川くんと知り合いの人とかいないかなぁ?」すると、つぐみはすぐに「中川翔のことすきなの?」と聞いてきた。「いや、別に気になっただけ。」つぐみの勘は鋭かった。「ほんと?中川翔と、同じゼミの先輩がサークルにいたはずなんだけどな」つぐみは私の様子を伺いながら、私にそう告げてきた。私は、中川くんとの距離が少し近づいたようで嬉しくてついにやけてしまった。「やっぱり佳代は、中川翔を追いかけてこの大学に来たんだ?そういう子、他にも多いみたいだよ。法学部にもいるし!」「んー、そうなんだけど、恥ずかしいからみんなには内緒にしてて。」私は、つぐみは使えるかもしれないと思った。

サークルが終わって、着替えているとつぐみが小声で声をかけてきた。「あの子、あのポニーテールに赤のウエアの子も、中川翔のこと追いかけてこの大学に来たらしいよ。」ポニーテールに赤ウエアの子を探して見て、驚いた。あの子は、自分に似合うのが何か知っている。茶色がかった透明感のあるさらさらの髪をポニーテールにしていた。長いまつ毛が大きい目をさらに大きく見せている。スッと鼻筋が通っているおかげで、横顔がとても美しく、赤のド派手なウエアまでもを着こなしていた。私は、このままではいけないと悟った。目は二重になったけれど、目以外は平凡なままだったから。このままで中川くんに会えたとしても、きっと自信を持って話すことなんてできない。

 

2回生 夏

「佳代、合宿行くの?」「行こうと思ってるよ。つぐみも行くでしょ?」「うん!楽しみだね!」つぐみとは相変わらず仲良くしていた。つぐみの顔のレベルで合宿に行っても楽しくないかもしれないが、私は春休みの間に鼻と唇にヒアルロン酸を入れて、自分でも満足するぐらいずいぶん綺麗になっていた。SNSもはじめて、自分の可愛い写真をあげたら、1.5万いいねきたこともある。客観的にみても、それだけ可愛いということだ。ガールズバーでも、とても稼げるようになっていた。私にお客さんがたくさんついているので、時給もさらに高くなったのだ。

今年は、合宿の集合場所に行くのだって余裕だった。去年は派手に見えた子だって、今の私が見れば大したことはない子ばかりだった。合宿でも、みんな私に話しかけてきた。人間は、整っている顔を見ていると安心するのだろうと思う。整形をしてから、みんなどこか私と話すのに緊張しながらも安心した顔で話しかけてくることが多いからだ。

2日目の夜、私は恐るべきことを耳にした。「佳代先輩って、ああ見えて中川翔を追いかけてこの大学に来たらしいよ。」「え、ほんとに?なんかちょっとださ。思ってたイメージと違うね。」一回生の子達が話していたのを聞いてしまったのだ。つぐみに違いない。つぐみ以外、私が中川くんをすきなことを知ってる人はいないはずだからだ。宴会が行われているため、わいわいしている宴会場へ向かった。つぐみは、法学部の先輩とわいわい話していた。私は物陰からずっとつぐみを観察して、部屋に戻るのを待った。1時間ほど経った頃だろうか。つぐみが法学部の先輩とともに部屋に戻っていくのを見た。二人ともウイスキーや梅酒をたくさん飲んで泥酔しているようだった。二人の後をつけてこっそりと部屋に入った。泥酔している二人が眠りにつくのはすぐだった。私はポケットからハサミを取り出した。つぐみのさらさらのロングヘアをつかんで、深呼吸した。つぐみがしっかり眠っていることを確認して、長い髪をザクザク切った。みんな酔っ払っているから、誰が切ったかなんて分からないだろう。犯罪だということは分かっていたが、笑いが止まらなかった。私との約束を破ったのだから、こうなることぐらい当然だとさえ思っていた。

自分の部屋に戻って布団に入ったが、つぐみが次の日どんな顔をして起きてくるのか、楽しみで楽しみで寝られなかった。この時すでに、いや、一年前に自分に対する大きなコンプレックスを抱いてしまったあの時から私は狂ってしまっているのかもしれないな、と少し考えたが、手鏡で自分の顔を確認してみると、美しい顔をしていたので内面なんてどうでも良いと思うことができた。

 

2回生 冬

夏の合宿の集合写真を見ると、私の飛び抜けて美しい顔が輝いていた。しかし、隣の子と比べると少しエラが張っている気がしたので、夏の間に7万ほどかけてエラボトックスをした。そういえば、合宿でつぐみの髪を切ったことがあった。つぐみは起きて悲鳴をあげて、絶対に犯人を特定して訴えてやると喚いていたけれど、みんな酔っ払っていたので、犯人が特定されることは無かった。

そんなことより、いよいよ、中川くんが卒業する冬が来た。つぐみに繋いでもらったサークルの法学部の先輩に話して、卒業式で中川くんとお話しする時間をつくってもらうことになった。今や大人気若手俳優である中川くんとお話しするのは一瞬になってしまうと言うことだったが、少しでも私のために時間をとってもらうだけで嬉しかった。

卒業式の日が来た。私は、体育館から中川くんが出てくるのをドキドキしながら待っていた。私の他にも、中川くんを一目見ようと集まったファンもいた。みんな中川くんに少しでも可愛いと思ってもらえるように精一杯のオシャレをしていた。でもみんな私の足元にも及ばなかった。きっと、中川くんは私を見て驚くだろう。こんなに美しい私が一言話したがっているのだから。

中川くんが体育館から出てきた瞬間、周りの女は大声を出した。黄色い悲鳴を浴びた中川くんは少し照れたような笑みを浮かべてみんなに手を振った。私のことを人目見ると、少しは驚いた顔をするだろうと思っていた。しかし、中川くんは、私への対応と、他のファンへの対応を全く変えなかった。こんなにお金をかけて努力して綺麗になった私と、他のブスとの対応が何も変わらないのだ。私は手が震えた。私を特別扱いしてくれない人なんて、殺してしまいたい。私は隣のファンが巻いていたマフラーを奪い取り、中川翔のもとへ走っていた。そして背後からマフラーを回し、力一杯首を絞めた。

ピットイン
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『ピットイン』

 

第一部 〜再起〜

 「ゴー―ル!!ルーキー蓮井高貴またしても一着!これでスーパーGT500、四連覇です!」アナウンサーの実況が響き渡る。

蓮井高貴、23歳。日本のモータースポーツをけん引する若きエースだ。幼少期から父親に連れられ、毎週のようにサーキット通いをしていた少年は、さっそうとウイニングランをしていた。

 モータースポーツとは、自動車やバイクによるレースのことである。そしてスーパーGTとは、国内最高峰の自動車レースであり、年間を通しての成績でその年の優勝が決まる。蓮井はそのうちのGT500クラスを戦いの舞台としている。スーパーGTでは、レース中のドライバー交代が義務付けられており、蓮井のバディであるドライバーは、橋本源次郎、45歳である。橋本は蓮井の生まれる前からモータースポーツの世界で戦っていた大ベテランである。

 蓮井のレースは常にフルスロットルで、後先考えずに突っ込んでいくスタイルだ。それでも、何度も優勝できたのは橋本の堅実な走りがあったからだ。橋本は決して華のあるレーサーではなかった。技術は高いがなかなかレースでは勝てずにいた。彼が評価されるようになったのは、蓮井と組み始めてからだ。橋本が順位を上げることはめったにない。しかし絶対に抜かれないという技術がある。蓮井が順位を上げ、橋本が抜かれず、燃料を節約したりタイヤの摩耗を抑えたりして、二人は勝ってきたのである。

 「源さん、俺世界に行きたいです。」

 「F1か。」

 「はい、子どもの頃からの夢だったので。」

 「そうか…」

 「だから、源さん…」

 「言わなくてもいい。大丈夫だ、高貴。俺もそろそろ限界だと思ってたんだよ。夢、叶えて来いよ。」

前人未到のスーパーGT500、五連覇を成し遂げた蓮井は、世界へと羽ばたこうとしていた。フォーミュラ・ワン、通称F1である。それを機に、橋本は引退。有終の美を飾った。

 スポンサーである山西重工は猛反対、社長山西権蔵は激怒する。

 「蓮井は誰のおかげで、ここまで来れたと思ってんだよ。勝手なことしやがって。」

 「山西社長、蓮井のことは悪く言わんでやってください。」

 「お前もお前だよ、橋本。何勝手に引退なんかしてくれてんの。しかもよりによって、ライバルの川口工業のチームの監督になるんだってな。」

 「私は元々、あちらの人間です。確かに山西重工さんには大変お世話になりましたが、あちらにも大恩があります。選手として微力ながら、こちらで優勝を目指させていただき、実際何度か経験することができました。今度はあちらで監督として優勝したいのです。」

 「この恩知ら…

「それに、あなたのような選手のことを顧みず、金のことしか考えていないスポンサーのもとには、これ以上いられません。先代には恩義がありますが、あなたにはありません。」

「お前!」

「若者の夢や挑戦を応援できない人に、未来はありませんよ。では。」

こうして、蓮井の挑戦が始まった。

 スーパーGTとF1は、同じモータースポーツであるものの、勝手は大きく異なっている。車格、操作、レギュレーション。しかし、蓮井は持ち前のセンスで難なくそれらに対応した。蓮井はいつしか、『日本のアイルトン・セナ』と呼ばれるようになっていた。

 蓮井のF1初レースは、スーパーGTに別れを告げてから、たった半年後に決まった。舞台はモナコ公国、モンテカルロ市街地コース。モナコGPである。モータースポーツ界に身を投じて一年半、F1参入半年の若者にとっては異例中の異例ともいえる大舞台だ。それが可能となったのも、蓮井の日本での活躍があったからに他ならない。世界中のモータースポーツファンが、日本の若きレーサーに注目していた。

 コースである、モンテカルロ市街地コースは、モナコ公国・モンテカルロにある公道コースである。全長3340q、モンテカルロの狭い市街地を、最速300キロ毎時で走り抜ける。

 レース一か月前、蓮井はF1挑戦の報告をして以来、約5か月ぶりに橋本に電話をかけた。

 「もしもし、源さん。蓮井です。」

 「おお、高貴。元気にしていたか?」

 「はい。実は初戦が来月にありまして…」

 「そうだったな、聞いてるぞ。ただ、残念なことにその日はうちのチームもレースがあるんだ。」

 「うちのチーム?」

 「ああ、言ってなかったっけか?実は俺、川口工業の監督してんだよ。」

 「すごいじゃないですか!頑張ってください!」

 「ああ、お互いにな。ありがとよ。」

 そしてレース当日。会場は異様な熱気に包まれていた。インディ500、ル・マン24時間耐久と並び、世界三大レースに数えられる、このモナコGPを見るために、世界中から観客が集まり、蓮井に注目していた。

 

 日本の若きエース、蓮井高貴の人生最後のレースはあまりにもあっけない幕切れだった。

 

 「さあ、全車一斉にスタート。ポールポジションはフランス、ヨハン・シューリッヒ、続いてブラジル、マリオ・ロドリゲス。日本の蓮井高貴は四番手につけています。日本、蓮井ぐんぐん加速していく!スタートに出遅れた三番手、イギリス、エリック・カールトンを抜き三番手に付けました!さあ第一コーナーに差し掛かります。各車減速していきますが、蓮井減速しません…おーっと!クラッシュです!蓮井、大丈夫でしょうか。日本、蓮井クラッシュです!」

レース開始直後、ホームストレートで一気に加速した蓮井は、第一コーナー『サン・デボーテ』にフルスロットルのまま突入。結果、大クラッシュ。その日は、音速の貴公子、アイルトン・セナがレース中のクラッシュでこの世を去った、5月1日であった。

 

 

 そのころ日本では、橋本が優勝の喜びに酔いしれていた。蓮井に優勝の一報を届けようとメールを送信した直後、橋本の耳にテレビニュースの速報が入ってきた。

「モナコGPにおいて、日本の蓮井高貴選手がクラッシュし、病院に搬送されました。現在意識不明の重体とのことです。」

「いやぁ、心配ですねえ。過去には死亡した例もありますし、無事を祈りたいですね。」

「引き続き、詳しい情報が入り次第お伝えします。」

橋本は、一瞬時が止まったような感覚に陥った。テレビの音が遠ざかり、気がつくと体中に汗をかいていた。いてもたってもいられなくなり、橋本は会場を飛び出した。

 

集中治療室のランプが消えたのは、事故から18時間後だった。蓮井は一命を取り留めた。下半身不随。それが事故の後遺症だった。蓮井のレーサーとしての人生は幕を閉じたのである。

事故から3日後、蓮井のニュースは日本中を駆け巡った。それは橋本の耳にも入った。その日以来、橋本は動揺からか、明らかな采配ミスを繰り返し、チームは勝てなくなっていた。

 

月日は流れ、蓮井は半ば自暴自棄になり、酒に溺れる日々を過ごしていた。もう、日本の若きエースと呼ばれていた頃の面影はなかった。

 

ある日、蓮井の元に一通の手紙が届いた。

「また、蓮井さんのレースを見たいです。僕が初めて見たレースは蓮井さんのレースでした。目の前を一瞬で駆け抜けて行く姿に心が震えました。またサーキットに戻ってきてください。待ってます。」

それは、レーサーの卵の青年からの手紙だった。

その夜、蓮井は橋本に電話をかけた。

「源さん、お久しぶりです。蓮井です。」

「おお、久しぶりだな。今まで何をしてたんだ?」

「源さん、また組みませんか。」

「組むったって、俺はもう引退しちまってるし、お前、、、」

「いえ、今度は、、、」

 

事故から5年後、山西重工のスーパーGT500新シーズン発表会が行われた。

「新シーズンの監督は、橋本源次郎、そして蓮井高貴。」

二人の名前が呼ばれたとき、会場は一瞬、静まり返り、そして、喚声が一気に上がった。一時は表舞台から姿を消した日本モータースポーツ界屈指のコンビが復活したのである。

 

時はさかのぼり、川口工業のチームを成績下降により解雇された橋本は、夜中の工事現場でアルバイトをしていた。家族を養わなければならず、その日暮らしの生活だった。しかし彼の闘志はまだ消えていなかった。

 

山西重工の山西権蔵は、社内での求心力を失い、失脚。新社長として息子の山西英雄が就任した。山西英雄は、まだ若いが人望もあり、社内で慕う人も多い。一時停滞していた業績を回復させた手腕も評価されている。

山西重工のモータースポーツ事業は、蓮井のF1挑戦と橋本の引退が引き金となり、暗礁に乗り上げていた。一時は撤退も考えられたが、山西英雄は起死回生の一手として、かつて山西重工を引っ張った若きエースを招へいすることに決めた。

そこにタイミングよく、蓮井から連絡があり、蓮井の監督就任が決定した。蓮井が監督に就任するにあたっての要望は、橋本との共同監督だった。こうして、蓮井・橋本の新たな挑戦が始まったのである。

 

第一部 〜再起〜 完

第二部 〜才能〜

 

 蓮井・橋本の監督就任は、瞬く間に世界中に広がり、一躍時の人となった。だが、彼らのチームは決して高く評価されているわけではなかった。前代未聞の共同監督ということで、二人のタイプの違いや連携面での不安など、スポーツ新聞各紙は好き勝手に書いていた。多くの苦楽を共にした彼らには、不要な心配だった。しかし、心配事が1つだけあった。彼らのチームにはエースと呼ばれるべき存在がいなかった。蓮井は新たな選手を獲得することに決める。

そこで白羽の矢が立ったのが、白河祐樹だ。白河は、まだ粗削りだが、非常にセンスのある若いレーサーだった。彼の走りは蓮井をほうふつさせるものだった。だが、蓮井はそれでは通用しないということを知っていた。自身の動かない下半身がそれを物語っていた。

速さに対する嗅覚は一級品。足りないのは堅実さだった。蓮井は橋本に個人的に白河を見てくれるよう頼んだ。もう二度と自分と同じような事故を起こさせないために、橋本の力が不可欠だったのである。

その当時、川口工業には仁科大翔がいた。仁科は、速さとテクニックを併せ持った、レーサーとしてはほぼ完ぺきの素質を持った逸材であった。山西重工の優勝を阻み続けた存在だった。この仁科を育てたのは、他でもない橋本だったのだが、まだ若い仁科を起用し続けたことにより成績下降、そして解雇された。橋本がチームを去ってから、仁科の芽が出始めたのだった。

「高貴、川口工業を倒さねえと優勝なんてできねえよ。」

「わかってるますよ、源さん。でもまだ俺らじゃかなわないんじゃないんですか。」

「まあ、今のままじゃ厳しいわな。秘策がねえってわけでもねえんだが。」

「ええっ、秘策って何ですか。」

「白河は出さねえ。」

「でも、うちのエースになるべきあいつにはできるだけ経験を積ませないと。」

「やみくもに走らせたらいいってわけでもねえ。仁科には俺の走りのすべてを叩き込んでる。見て学ぶことはたくさんあるんじゃねえか。」

「でも、今年は後2レースしかありませんよ。次じゃないっていうと、それじゃあ!」

「ああ、俺らが勝つのは次の筑波じゃねえ。鈴鹿だ。」

 

三重県鈴鹿市に位置する鈴鹿サーキットは、日本を代表するサーキットである。全長約6000mのコースを数十台のマシンが一気に走り抜ける。スーパーGTの他に、F1日本グランプリや8時間耐久レースなど様々なレースが行われる。

 

年内ラストレースとなる鈴鹿は、一年間の集大成ともいえる場である。ここでの優勝は、他のレースでの優勝以上に意味を持つ。川口工業は暫定で一位、山西重工は僅差での二位となっていた。山西重工の力を見せつける絶好の舞台である。蓮井、橋本、白河は、鈴鹿に向けて、猛練習を重ねた。筑波でのレースは川口工業がレギュレーション違反により失格。まだ山西重工にも優勝のチャンスは残されていた。

蓮井・橋本という日本モータースポーツ界のレジェンドともいえる二人に指導された白河は目に見えて成長しており、期待も高まっていた。

 

迎えたレース当日。予選を三位で勝ち上がった山西重工は三番手スタートだった。

 

「さあ始まりました。スーパーGT500最終戦鈴鹿。それではスタート順を紹介しましょう。予選一位、ポールポジションは川口工業、仁科大翔。続いて予選二位通過、藤岡製鉄、西川智治。三番手山西重工、ドライバーは峰義三。以下、西野金属、河内印刷所、東口建設の順に続きます。もう間もなくスタートです。」

 

白河とバディを組む峰は、長年スーパーGT300クラスを主戦場としていたが、二年前から500クラスに参戦、安定した成績を残している。

 

「白河、いよいよだな、いつも通りやれよ。」

「はい、橋本監督。」

「お前をスターターにしなかったのには理由がある。それは、ラスト10周で勝負をかけるためだ。」

「ラスト10周ですか。蓮井監督。」

「ああ、川口工業は110週を大体30週ずつで走る。仁科はそのうち最初と最後だ。最後はさすがに疲れが見えてくるだろうから、そこを狙う。うちは25週ぐらいで交代する。お前は大体25週目からと75週目からを任せる。」

「はい!」

 

いよいよ、スタートのときが来た。

 

「さあ、スーパーGT500鈴鹿、スタートのときがやってまいりました。実況は私、山寺雄一郎、解説は元スーパーGT500レーサーで、1999年度チャンピオンの山上新次郎でお届けします。山上さんどうぞよろしくお願いします。」

「お願いします。」

「早速なんですが、今回注目のチームはどこでしょうか。」

「そうですねえ。やはり川口工業でしょうか。今年も優勝は堅いでしょうね。」

「仁科ですか。」

「ええ、それとバディの原口も悪くないですし。」

「ライバル、山西重工はどうでしょうか。」

「エース白河次第でしょうね。センスはあるんですが、まだまだ粗削りで、川口工業の方が上手という印象を受けますね。」

「そうですか。白河は前回の筑波は出場していませんでしたよね。」

「はい、ケガでもしたのかと思いましたが、どうやら大丈夫そうです。」

「さあ、いよいよスタートです。全車スタートポジションにつきました。」

 

「さあ、全車一斉にスタート。先頭は川口工業。続いて藤岡製鉄、そして山西重工となっています。まずスタートは上々の滑り出しです。」

「そうですね。いいスタートを切れたんじゃないでしょうか。」

「第一コーナーに参りました。危なげなく抜けていきます。おっと、ここで16番手モリヤマ、早くもリタイアです。どうやらタイヤがバーストしたようです。」

「まだタイヤが温まり切っていない状態で負荷がかかってしまうと、このような状況が起きてしまうんですよね。立ち上がりは、いかに慎重になれるかが勝負を分けますね。6年前の蓮井高貴を見た時はびっくりしましたよ。大胆に攻めるのに、タイヤがバーストしないんですよ。負荷のかかり方まで計算した走りなんですよ。」

「なるほど。彼は今回、監督としてこの鈴鹿に参戦していますが。」

「いい選手がいい監督とは限らないですからね。彼がどのような采配をするのか楽しみです。」

「橋本監督は三年ぶりのシーズンですね。」

「彼は、うーん、あまり速いイメージがないですねえ。」

「私は負けないレーサーだと記憶してますね。

「確かに、彼が大きな失敗をしているのはみたことないですねえ。」

「そうですね。さあ、ただいま26週目ですが、山西重工がピットインするようです。一方の川口工業はまだしないみたいですよ。」

「川口工業の方は少しでも長く仁科に走らせたいのでしょう。」

「さあこの采配が吉と出るのか凶と出るのか。山西重工はここでエース白川を投入ですね。」

「こちらは後2,3回ピットインするでしょう。」

「山上さん、この白河というレーサーはどのようなレーサーなのでしょうか。」

「全盛期の蓮井にも劣らない走りをしますよ。ただ、先ほども言いましたが荒削りのところが多く、もう少し磨けばもっと完成された走りになりますよ。全盛期の蓮井と橋本の走りを一人で体現できるポテンシャルは秘めています。」

「この白河の指導は主に橋本監督がされているという情報が入っています。」

「そうですか、それは面白いですね。蓮井が橋本を誘ったという噂もありますし、蓮井は初めからこのつもりだったんでしょう。」

「なるほど、自身の足りない部分を補うために。」

「ええ、このレースでその成果が分かるんじゃないでしょうか。」

「なるほど。さあ、36周目に入りました。川口工業はここでピットインです。」

「少し遅めな印象を受けますが、これも作戦なのでしょう。」

「ドライバー交代しまして原口伸介です。このドライバーはいかがでしょう。」

「先ほども言いましたが、悪くない、いいドライバーだと思いますよ。安定しています。」

「そうですか。ただいまの順位は先頭、川口工業。そこに山西重工、藤岡製鉄が続きます。」山西重工が一つ順位を上げています。」

「29周目の第四コーナーですね。交代した直後の白河が藤岡製鉄をかわしました。」

「さすがですね。さあ、レース中盤に差し掛かりましたが、どのチームも大きな動きはありませんね。」

「まだ様子を見ているのではないのでしょうか。終盤に大きな動きがありそうです。」

 

「ナイスランだ、白河。」

「峰さんのおかげです。ぐんぐん追い上げていますし。」

「ああそうだな、あとは仁科だけだが…。お前にかかってるぞ、白河。」

「蓮井監督、俺に勝てますかね。」

「勝てるかどうかじゃない、勝つんだ。一ついいことを教えてやる。仁科は確かにすごい奴だが、まだ精神的に甘いところがある。そこを突け。」

「わかりました、頑張ります。」

「よし、そろそろ最後のピットインだ。行ってこい。」

 

「レースは終盤、83周目に入りました。順位は依然、先頭川口工業。続いて山西重工、そして大きく離れて藤岡製鉄となっております。トップ川口工業と二位山西重工の差はわずかとなりました。川口工業。仁科、山西重工、白河。両チームとも最後のドライバー交代をしており、この二人が優勝を争うものと見られます。山西重工は勝つと逆転での優勝が決まります。」

「蓮井監督はこれを狙っていたのでしょう。」

「というと?」

「相手の仁科よりも走る量を減らして、ラストスパートで一気に畳みかけるんですよ。そうすることで勝つ確率はぐんと跳ね上がりますし、何より、エースとしての伯がつく。」

「なるほど。白河、仁科にぴったりとついていますが中々抜けませんね。」

「これもまた作戦でしょう。仁科に心理的ダメージを与えて、ミスを誘おうとしているんですね。いやあ、蓮井監督はなかなかに策士ですね。」

 

(あと10周、ついていくのがやっとなのに、ここからどうしようか。)

白河のハンドルを握る手は汗でびしょびしょだ。

「おい白河。」

無線が入る。

「俺との特訓の成果、出てるじゃねえか。しっかりついていっている。」

「橋本監督。」

「これまでのことすべて忘れろ。」

「え?」

「スピードにすべて任せてしまえ。この勝負決めてこい。」

「わかりました。」

 

「おおっと、山西重工白河、一気にスパートをかけてきた!」

「ギアを入れなおしましたね。」

「しかし川口工業仁科も黙っては抜かれない。熱いデッドヒートが繰り広げられています。」

「どちらが勝つかわかりませんよ。」

「さあ、残り5周、ここで仁科コーナーで少し膨らんでしまった!そこを白河逃さない!白河トップに躍り出ました!」

「先ほどからの心理的揺動が効いたのでしょう。さあここからは立場が逆転しますよ。」

「しかし、白河、安定した走りですね。」

「橋本監督の効果じゃないでしょうか。」

「そして今、白河ゴールです。山西重工、シーズン最終戦にして逆転優勝!エース白河がやりました!」

 

この瞬間、ピットでは大歓声が上がった。

 

「さあ、チャンピオンのインタビューです。峰選手そして、白河選手です。優勝おめでとうございます。

「ありがとうございます。」

「白河選手、まずはこの喜びを誰に伝えたいですか?」

「家族に、と言いたいところなんですが、蓮井監督です。僕が子供のころからのスーパースターで、いつか蓮井選手と走りたいと思ってました。ケガをしたときはいてもたってもいられなくなり、手紙を書いてしまいました。あの時はまさか自分の監督になるとは思ってもいませんでした。こうしてまた、サーキットに戻ってきた蓮井監督のようなレーサーになれるようにこれからも頑張ります!監督!」

「それでは、続いて…」

 

ぼんやりとインタビューを聞く蓮井はぽつりとつぶやいた。

「もう超えてるよ。」

その眼にはうっすらと涙が浮かんでいた。」

あたたかな、青
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『あたたかな、青』

 

「ったまごおおぉぉ!」

……少し肌寒くなりだした夜のワンルーム、ベチャッと音をたてて卵は床に落下した。かわいそうなくらい盛大につぶれた。ついでに普段の自分からは想像もできないくらいの大声を僕は出した。すみません隣の部屋の人。

 まったく、僕らしくない。こんな失敗をするなんて。

『いや、まず「僕」らしいってなんだ。そんなものどうやったらわかるっていうんだ。』

うん、そうだよな……おっと、いけない。また思考がぐるぐるしかけてしまう。それよりも先に今ご臨終されてしまった卵さんを何とかしなければ。

料理をするには随分と狭すぎるキッチンの棚から、雑巾を出す。まだ新しい白い雑巾だ。念のために買っておいて正解だった。

『うわ、卵黄の部分、めっちゃべとべとしてるな……。。』

ああ、貴重な僕の食料が……。雑巾ではすべてを回収しきれない。仕方なくウェットティッシュも出してきて床をきれいにする。ゴミが増えた。

……疲れた。もう何か作る気が失せてしまった。もう、今日はいいか。キッチンに出していたボウルも片づけてしまう。一人暮らしのよくないところだ。なんでも自分の思い通りに怠けることができてしまう。

『おいおい。いいのかよ。』

部屋の隅に大学から帰ってきたまま投げておいてある黒いリュックの中から、クリーム色のポーチを取り出す。これは外出時いつも持っている。開けると色とりどりな包装がされた飴。たくさんお気に入りの飴を入れてあって、気分がのらないとき、疲れて脳が糖分を欲している時、おなかはすいているけれどご飯は食べたくない時なんかに口に放り込む。

なんとなく純粋な甘さを求めて、ミルク味の飴を手に取る。そう、ごはんを食べたくない、というのは僕の悩みの一つだ。食べることがニガテ……というより、胃に固形物を入れるのがどうしても苦痛な時がある。特に満腹感なんかはもってのほかで、腹七・六分目でしんどくなってしまう。原因はわからないし、そうなるきっかけもなく、小さいころからずっとだから、体重もなかなか増えない。でも腹自体は減る。なのでこうやって飴をなめたり、飲み物をよく口にしたりする。実家にいたときは、ばあちゃんや父さんが毎食きちんとしっかりした量のものを出してくれていたけど、食べきれずよく残してしまっていた。

大学に入って一人暮らしになり、食生活を心配されているが、自分で食べる量を調節できることは都合がいい。正直、実家で無理に食べていた時より体の調子がいい。家族には申し訳ないが、何事もコントロールが大事なんだと思う。

『自分勝手だけど、家を出て気づいたこともたくさんあるよな。』

うん、……そういえば。あのときもご飯を食べたくなくて、飴をガリガリとかじりながら口の中で遊ばせていた。

 

もう一か月も前のことだ。その日、僕は今日と同じように、この後の食事が億劫だーなんて思いつつ、イヤホンから聞こえる最近はやりの曲をBGMに、電車の窓から見える夕日を眺めていた。濃いオレンジと赤が混ざったような空、端の方からはじわじわと紫の夜が近づいてきている。

ふと、そんな時間が、すごく自分にとって虚しいものに思えた。こんな調子でずっと人生って続くんだろうか。大学では日々たくさんのことを学んでいる。人付き合いも苦手なりに頑張って克服しようとしているけど、ちょっとコミュ力が向上した程度だ。そういえば中三の時、担任の先生に「君は人と適切な距離を保つのがうまいね。」なんて言われたっけ。それってつまり褒めてないよね。人と一定以上のつながりを持ててないってことじゃないか。そういえば小学校時代の交換日記も苦手だったし、SNSなんかも苦手だな。できればどこか人のいない森の奥とかで暮らしたい。でもそれをしちゃうともう全然人間って言えない気がする。

恋人なんてこの先できなくったっていいけど、一生の宝物になるような関係に誰かとなれたら、とは思う。ああ、胸がなんだかキリキリ痛いし、手もしびれる……。心がどんよりしてるとこうなりがちだ。昼ごはんも結局めんどくさくて食べてないから、エネルギーが足りなくて余計そうなってるんだ。きっとそうだ。

『おい、何しょぼくれてんだよ。』

……突然声が聞こえた。

「え。」

『そんなことどうだっていいじゃねえか。どうせ過去のことなんだし。』

……おかしい。頭の中で声が聞こえる。低めでだるい感じの雰囲気の声だ。けど、なにか不思議な落ち着きがある。というか、自分のもっと内側から響いてくる感じか?結構な混乱とともに、とりあえず自分の周りをキョロキョロ見回した。今乗っている電車内に特に変わったところはない。というか乗客の中でおかしな動きをしているのはむしろ自分の方だ。

『ははは、面白い動きしてんな。まわりなんか見たってなにもかわりゃしねえよ。』

(……どういうことだ?)

冷静になれ自分。まわり見たってなにもかわりゃしないってことは、やっぱり自分の中?の声だ。

 目を閉じて一度車内と夕焼けの空を思考から追い出す。深呼吸、深呼吸。

……集中した先に視えてきたのは……真っ青すぎるくらいに澄んだ空、雲一つない。その下には空がそのまま映しだされ、重なったかのような濃い青の海、いや塩分が含まれてるかまではわからないけれど。そして、自分が立っているのは真っ白い平均台みたいなのがずっと続く板の上。

 思わず、一度目を開けた。普通にさっきの電車内だ。時間を確認してみた。午後5時ちょっと過ぎ。まだまだ下宿の最寄り駅に到着するまで時間がある。

 もう一度目を閉じた。集中。……やっぱり視える。見渡す限り景色はどこまでも続いている。足もと、ぎギリギリ両足でまっすぐ立てるぐらいの幅しかない。白い板から一歩踏み外したりしたら海?に落ちるぞこれ。でも、なんだか不思議と悪い気はしないし、怖いとも思わない。

『……おい。おい、聞いてんのか。』 

 目の前に広がるものに圧倒されて、しばらくぼーっとしていたら、自分の真後ろのあたりから、また声をかけられた。振り返ると、青い「何か」。「何か」ってなんだって感じかもしれないけど、そうとしか言いようがないんだから仕方がない。人っぽい形をしているけど、よく視えない。他の景色ははっきりしているのに、そこだけ曖昧、なのだ。全身に巻いている布っぽいものがひらひらとたなびいている。青は他のどの景色よりも澄んだ深い青だ。しかもところどころ薄いところと明るいところ、暗いところもあるようだ。青ばっかじゃないかって感じだけど、不思議と全部違う青だ。

『ああ、今の俺は、オマエにはぼやけて視えてんのか。まあ初めて気づいたばっかだししょうがないかな。』

なに一人で納得してるんだ。ていうか、さっきからちょっと言動がむかつくな。

(これはどういうこと?なんでいきなりこんな?君は誰なんだ?)

『どうどう。急に質問攻めにするな。そうだな……。結論から言うと俺は、オマエだ。そして、オマエは、俺。』

(はぁ?)

『まあまあ。俺もびっくりしたんだよ。いままでお前に話しかけることなんてできなかったのにさ、さっき突然できるようになってることに気づいたんだ。驚いたぜー』

(……なんかはぐらかされてる感じがするな。)

『なんかさー。さっき行ってきた城?あそこで、変な風が吹いただろう?あれが原因じゃねえかと思うんだけど。』

(風?ああ、あの。)

 今日、僕は遠出をしていた。目的地は日本三大山城に数えられている岩村城。岐阜県恵那市岩村町に位置していて、付近は霧が多く発生するため霧ヶ城ともいわれているんだ。

歴史では幕末が大好きな僕だけど、日本の城や歴史的遺産も興味深くて、気になるとつい行きたくなってしまう。今日行った岩村城は、城に登っていく手前の道沿いに、幕末期の高名な儒学者である佐藤一斎の銅像や碑文があって、大した下調べもなく行った僕はめちゃくちゃ驚いた。ここが地元の人だったのか。この場所にあった藩が『言志四録』を書き、たくさんの志士の行動の源たる言葉を与えた彼を生み出したのだと思うと感慨深い。おっと、しゃべり過ぎたな。

『そうだな(棒読み)。』

岩村城の近くには過去に行った兵庫の竹田城や、滋賀の小谷城なんかも山城として面白かったが今日行った岩村城はまたすごかった。

『確かに。他の行ったことある山城とは違って、本丸に着くまでの道がなんだかしっかりしてた。』

そうだ。何というか山のマイナスイオンとか、城がまだ建っていた当時の雰囲気みたいなものが他より強く感じられた。思っていたより荘厳で神聖な雰囲気の中、怖々本丸まで歩いたのだ。

 そして、本丸の城址に30分ほどかけてやっとたどり着いた。結構な山登りだった。本丸は複雑に組まれた高い石垣の上に位置していたらしい。結構な広さがあり、また景色もいい。観光に訪れているだろう人も数えるほどしかいない。

本丸を探索すべくスマホ片手にしばらくうろうろしていたら、『昇龍の井戸』と書かれた看板のある古井戸を見つけた。当然のごとくもう使われてない。蓋がされている。「昇龍」なんてめっちゃかっこいい命名だな〜、なんでだろう、なんて思いながら写真を一枚撮ろうとレンズを覗いた時、風が吹いた。

いや、風なんてどこでも吹くだろうと思うかもしれないけど、その時の風はいつもとちがった。ビュウッとちょっとした突風みたいだった。まるで、自分めがけて吹いてきたような……。体の外だけに風を感じるだけでなく内側をも通りぬけたような、さっき『俺』が言ったとおり変で奇妙な風だった。

まあその時は一瞬のことだったし、疲れてるのかな自分って感じで気にしていなかったのだが、どうやら、そうではなかったらしい。

そして今が、その帰りの電車内なのである。

(なるほど。もしあれで僕の体に何か起きてしまったのであれば、この状況に説明がつかないでもない……。)

『だろ?さすが俺でオマエ。』

 どこかのファンタジー小説みたいな、嘘みたいな話だが、今実際、自分の身にはっきりと起きている事象だ。……無理矢理にでも納得しないと、先に進めない。

(原因は何となく納得した。で、お前は何なんだ?) 

『だーかーら、さっきから何回も言ってるだろう?俺はオマエで、オマエは俺だって。』

(答えになってな……。)

『お、もう駅についちまうぞ!でもこの時間も結構楽しかっただろ?じゃーまたな!』

(あ、おい……。)

唐突に、青くて真っ白い世界から『俺』の気配がふっと消えた。なんとなくこれ以上出てこない気がしたので目を開ける。あ、ほんとだ。最寄りの駅についた。

謎の時間を過ごしていたので周りの様子が気になったが、外の景色はほんとに何も変わってない。いつもの日常だった。

 

……それが一か月前の出来事。あれから、今までの間にいろいろあった。

『俺』は不規則に僕の前に現れるようになった。まあ、全部僕の中の出来事だから本当は現れるもくそもないんだけど。たぶん。

『そうだぞ。』

ほら、今も聞こえてきてる。というか、実は僕が卵を盛大に落としたあたりからこっちにひょいひょいしゃべりかけてきてる。最初のころは話しかけてくるたび毎回びっくりしていたんだけど、今は適度にスルーしながら思考したりできるようになった。自分が大学で誰かと話している時なんかは特に話しかけては来ないし、どうやら、一人でちょっと深く考えている時なんかに狙って出没するようだ。

だけど、未だ『俺』がつまり何なのかということははぐらかされ続けている。答えは僕自身が見つけろってことなのかな……と聞くのは半分あきらめた。なんとなく『俺』とは感情がつながっているような感じがして、言葉が少なくても向こうが言いたいことはだいたいわかるのだ。

気づけば、舐めていた飴も3つ目に突入しかけていて、夜中といっていいだろう時間帯に差し掛かっていた。今日はまず、料理しよ……と思い始めた時点で結構遅い時間だったのだ。

『……もう寝るか。寝たら食欲も元気も出てくるかもしれないしな。』

(そうだね。)

『なんかあったかいもん飲んで寝ようぜ〜。ホットミルクか焙じ茶。』

(じゃあ間とってほうじ茶ラテだな。)

電気ケトルに水を入れスイッチを押す。お湯が沸くのを待つ間、棚からたくさんある飲み物ストックの中の(食べることは苦手だが飲むことはその分好きなので僕の食料の備蓄の中で一番充実している場所だ)ほうじ茶ラテのスティックを取り出し、お気に入りのマグカップに入れておく。

なんだかこいつと話してると不思議と心が凪ぐ。感情がささくれだって制御しきれず気持ちが落ち込んだときなんかに話すとちょっと助かるな、と思ってしまう。

『だろ〜?』

あ、しまった、こっちの考えは向こうに筒抜けなんだった。

 あ、お湯沸けた。マグの中に注いでいく。

『あ〜いい匂いだ。よく眠れそうだな。』

(ああ、そうだな。)

今日もまた一日が、終わる。

 

それからまたしばらくして、僕は大学である人と知り合った。

ぼくが所属する教育研究サークルに新しく入ってきてくれた人で、引っ込み思案な僕とは対照的にとても快活さがある人だった。顧問の先生は、全然タイプが違う僕らがうまくいくかどうか心配しているようなだった。なにせこのサークルは人数が少ない。3回生の僕らはサークルを引っ張っていくことにもなっているのだ。

学科は違うのだが、自分が彼と同じ授業を多く受けていることに僕は気づいていた。なにせ、向こうは授業中にビシッと手を挙げてバンバン発言するタイプなのだ。どうしてそんなに勇気をもって手を挙げられるんだろう?と僕は前々から思っていたし、印象に残っていた。

ファッションもなんだかギラギラしてるし、雰囲気から結構僕はビビっていたのだが、初めて対面で話してみると、二人ともかなり気が合うことに気づいた。ちょうど今日この教室に集まることができているのは自分たちだけ。昼飯を食べながら比較的ゆったりと話せた。当然、性格や趣味嗜好は真逆といってもいいくらいなのだが、これからの教育に対しての意見とか、子どもに対する熱意とか、なんというか人生観みたいなものが似通っている気がした……。

サークルの活動日が来るたび、僕たちは話した。他のメンバーは相変わらずほかのことで忙しいらしく全然来ない。

お互いがこれまでやってきたこと、思い出、家族のこと、地元のこと、身の上話……急速にお互いのことを知っていった。彼はあまりこんなことを他の人と話したことはなかったらしい。あとで先生から聞いた話によると、僕との時間を大事に思ってくれていたようだ。なんだかうれしい。

彼は自分の家族と生まれに悩みを持っていた。社会的には差別されることもまだあるかもしれない可能性があった。一方僕は、その差別事象を無くしていくべく中学校ぐらいから活動を続けている。世界には美しく、円滑に流れていてほしいのだ。

今までもそのようなことで悩む人たちに多く出会ってきたが、彼の話は今までの中で一番僕の心の近くまで迫ってきた気がした。きっと気が合うことが多かったからだろう。濃い時間を共有したからだろう。彼の悲しみや苦しみに、せめて寄り添えたら、と思った。

 ある日、彼が顔をひどく曇らせた状態で、ドアを開けてサークルの活動教室に入ってきた。僕はいつも元気な彼の普段と違う雰囲気に少し驚いた。が、彼がもし話したくないことだったら聞くべきじゃないと思い、いつも通り昼飯を食べだした。

彼もいつも通りご飯を食べながらしばらく談笑した。若干の彼の言動のぎこちなさが気になる。

しかし、ある時点で、

「実はさ……。」

と彼はきりだした。そして、ゆっくりと自分の身に起きたことを話し始めた。

 彼には恋人がいる。結婚を視野に入れているほどのもので、ゆくゆくは一緒に暮らせたら、と彼も普段からこぼしていた。僕も二人には幸せになってほしいと思っていたが、どうやらお互いの家族間でトラブルが発生してしまったらしい。その過程で、彼は無責任な差別を微力ながら受けた。

だが彼にとってそれは大きなことで、深く傷ついてしまっていたのだ。自分がもし彼と同じ立場だったらきっと同じようにショックを受けただろう。普段からそういったことを無くそうと活動しているのに、実際に現実を目の当たりにすることは相当心にきた。

いつでも、差別をするのは無知が根本的な原因だ。互いに歩み寄りあたたかなつながりをつくりだせていれば中々こんなことしようとは思わない。だが、人間社会において何人ともそういったつながりをつくるのは現実的にかなり厳しい。

僕は彼になんて言ったらいいのだろう。勇気を出して僕に悩みを話してくれたのだ。少しでもいいから、何か、返したい。笑顔が似合う彼に、戻ってほしい。

思えば、彼に助けられてきた部分もたくさんある。中々人が集まらないサークルで、熱意をもって毎回話に来てくれるのがありがたかった。僕は。いまいち代わり映えのしなかった無色の毎日が、少しずつ色をもってきているのを彼との話の中で感じていた。

何か、なにか言えないのか僕は。頭の中ではこんなに考えてるのに、言葉にして出すのが本当に苦手だ。だから、先生に「人と適切な距離を保つのがうまい。」なんて言われるんだ。

……違う、僕の本当にダメなところは勇気のないところだ。目の前の彼と僕の決定的に違うところだ。いつもいつも結局本当に言いたかったことは心の中にしまい込んでしまう。ああ、胸が痛い。手もなんだかしびれてきた。こんな自分が心底嫌になる……。

『おい、本当にオマエはそれでいいのかよ。』

ふと、聞こえてきたのは最近聞き慣れたあいつの声。自分の内側からだ。今は一人の時じゃないのに。

『本当にそれでいいのか?オマエはこのつながりを大事に思ってんだろ?』

(ああ、もちろん……。)

『じゃあ切ったらだめだ。ここでまた自分を裏切るのか?また後でむなしい思いをするのか?』

(今、僕は僕のためよりも、彼に言葉を送りたいんだ。言わなきゃいけない。いや、言いたいんだよ。)

『そうだろ。じゃ、しょうがない。厄介者の俺が少し手助けしてやろう。』

……あっという間の出来事だった。いつの間にか、僕は無理に笑いながら話を続けようとしている彼に、声をかけていた。

「……っあのさ。……僕は、君に会えてよかったと思ってる。世の中つらいこともたくさんあるし現実はしんどい。でも、出会いがある。君が素敵な恋人に出会えたみたいに。僕が君に出会えたみたいに。楽しいこともたくさんあったし、君と話すのは心が躍る。……君が僕のことをどう思ってるかはわかんないけど、僕ならいつでも話を聞くから。僕はいつでも君の味方で、なかまだ。」

 途中から泣きそうな声になってた気がしたけど、ばれてないだろうか。恥ずかしい。頑張りすぎて顔が赤くなってる気がする。

 目の前の彼の顔は……笑っていた。それもとても嬉しそうに。

「……ありがとうな。聞いてくれて。」

 うわ、心が通じるって、こんな感覚なのか……?こんな、こんなにもあたたかいものだったのか。そう、心の中の『俺』がふっと笑うのを感じながら、思った。

 

「ったまごおおぉぉ!」

……すっかり肌寒くなった夜のワンルーム、ベチャッと音をたてて卵は床に落下した。

『……またか。』

かわいそうなくらい盛大につぶれた。

 まったく、僕らしくない。こんな失敗を二回もするなんて。

『いや、まず「僕」らしいってなんだ。そんなものが「オマエ」らしいのか?』

そうだよな……おっと、いけない。また思考がぐるぐるしかけてしまう。それよりも先に今ご臨終されてしまった卵さんを何とかしなければ。

 かわいそうな卵さんを片付けながら、僕は最近前にも増してナチュラルに話しかけてくるようになったもう一人の自分に、声をかけた。

(おい。)

僕なりにあれから考えたことがある。

(お前、前に俺はオマエでオマエは俺って言ってたよな。)

『ああ、そうだな?』

(この前、僕があいつに頑張って声をかけようとして諦めかけたときに、出てきたろ?)

『ああ。』 

(あれで何となく気づいたんだ。お前は、僕の、「心の痛み」だな?)

『……。』

(いつも僕が心がつらくなってたり、葛藤してたり、独りになってるときに限って現れる。あの城で受けた不思議な風の力は僕の心の痛みに言葉を与え、そのイメージを視覚で捉えられるようにしたんじゃないか?お前はつまり僕の本当の心の声で、まぎれもなく僕自身の側面の一つだな。この前手助けしてくれたのも、心の痛みも僕の行動の原動力にすることができるからだ。違うか?)

 そういった僕から一呼吸おいて、『俺』は、言った。

『……さすがだな。まさに俺はオマエでオマエは俺……だ。だけど、それがわかったところで何になる?』

 にやついてるけど探るような声だ。

(いや、そういえばお礼を言いたいなと思って……さ。お前とこの先どれだけの付き合いになるかわからないけど、お前は僕にとって厄介者なんかじゃない。ちょっと乱暴だけど。これも、僕らしさだし、心の痛みだってその先の成長に絶対つなげることができるんだから。……だから、ありがとう。これからも、よろしくな。)

『……ああ、俺も言葉をもらえてオマエと話ができることが、心底楽しいぜ。いじりがいがあるしな。こちらこそ、これからヨロシク、だ。』

心の中の青が、キラキラと瞬いた気がした。

 

夜は、長い。卵もまた割ってしまったし、料理をする気もなくなった。今日もリュックから飴のたくさん入った袋を取り出す。今の気分は……そう、あたたかな青のサイダー味、だろうか。

 

 

 

恋や愛
174101


「恋と愛の違いって何だと思います?」
いつもの居酒屋で飲み始めて約三十分、俺はそう切り出した。
 「そんなこと考えても彼女はできませんよ?」
右隣に座っている直樹に茶化された。直樹は大学のサークルの、一つ下の後輩だ。
 「いや、これが分かったら西川にも彼女ができるかもね。」
正面の中田さんが言った。中田さんは同じサークルの一つ上の先輩である。
 「そうですね。もしかしたら西川にも中田さんにも彼女ができるかもしれませんね。」
俺の右斜め前に座っている貴大が言った。貴大も同じサークルだが、この場で唯一、俺と同じ学年である。
 今日は貴大に彼女ができたことを祝って、いつもの居酒屋に、いつものメンバーで集まった。このせいで、彼女が居ないのは俺と中田さんだけになってしまった。さっきの問いも、俺が彼女を作るための方法を話し合う流れから出たものだ。
 「恋と愛の違いね。たしかによく分からないな。」
中田さんが腕を組みながら言った。
「イメージとしては、恋は恋人、愛は家族に向けるものって感じがしません?」
貴大が言った。
「なるほど、じゃあ例えば、直樹が彩音ちゃんに向けてる感情は恋になるのか?」
俺は直樹に尋ねた。彩音ちゃんとは、付き合って一年半ほどの直樹の彼女である。
「いや、難しいですね。長いこと付き合うと家族みたいな感覚になってきます。」
直樹は続けて言った。
「恋愛感情が消えるって感じじゃなくて、一緒に居る状態が普通になってくるんですよ。たぶん貴大さんもそうなるんじゃないですか?」
「そんなものなのか。少なくとも俺が今彼女に向けてる感情は恋だと思うけどな。」
 「へえ、同じ付き合うにもその期間で感情が変わってくるんだ。」
中田さんが言った。今まで一度も彼女が居たことがない中田さんは、少し不思議そうな顔をしていた。
「けど逆に、彩音ちゃんに対しての感情が愛になるかと聞かれたら微妙ですね。恋って感じもします。」
その直樹の言葉を聞いて俺はふと思った。
「そもそも恋や愛なんて本当にあるのかな?」
俺がそう言うと、三人は困った顔をした。


 「とりあえず何かお酒頼みましょうか。」
直樹がそう提案したので、各々好きな酒を注文した。俺は日本酒の熱燗を頼んだ。オーダーを終えると、俺はまた話始めた。
「しかし何で貴大に彼女ができるんだ?」
と俺が言うと、貴大は褒められているとでも思っているのだろう、得意げな顔をした。
「その子は何が良くてでこんな奴と付き合ったんだ。そもそも好きって何なんだ?」
俺は本当に分からなくなってきた。異性として見る貴大にどんな魅力があるのだろうか。貴大を好きになるなんて感情は、いったいどこから来るのだろうか。
「全部所詮は性欲って説もありますよね。」
そう言った直樹に対して、中田さんが反応する。
「あり得るかもしれないけど、それってつまらなくないか?」
貴大も中田さんに同意する。
「そうですよね。例え賢者モードの時でも、俺は彼女のこと好きですよ。」
「まあそうですよね、僕も賢者モードでも彩音ちゃんは好きですよ。」
 ちょうどそのタイミングで、注文した酒が運ばれてきた。貴大と直樹はバツが悪そうな顔をしている。運んできた女の子は同じ大学の子だろうか、かなり可愛い。髪の短くて小柄な、中田さんが好きそうなタイプだ。
「可愛かったね。」
女の子が離れてから、中田さんは小さく呟いた。
「例えば、今西川はあの子と付き合いたいと思ってる?」
中田さんの問いかけに、俺は少し迷わずイエスと答えた。
「じゃあ性欲が全くない状態だったらどう?」
その問いかけには、俺は少し悩んだ。性欲がない状態となると、どうやら男はその人の内面的な部分を重視するようになるらしい。
 「性欲がない状態だと微妙ですね。あの子の内面が分からないので。」
すると直樹も頷いた。
「たしかにそうですよね。僕も普段だったら付き合いたいと思うかもですけど、たぶん性欲がないとそんなことは考えませんね。」
俺は直樹に突っ込みを入れながらも、浮気心は性欲から来るのかなと考えた。


 いつの間にか酒がなくっていたので、俺はまた熱燗を注文した。
「でも性欲関係なく内面を見て恋をするのって、人間ならではの気がしますよね。他の動物はフィジカルで配偶者を決めるのに。」
貴大は言った。
「ああたしかに、でも動物の恋愛って繁殖のためのものなので、人間とは違いませんか?人間は繁殖する気がなくても恋愛するじゃないですか。」
「なるほど、じゃあこういうのはどうだろう。繁殖までを視野に入れたのが愛で、恋はその前段階の感情なのかも。」
その貴大の意見に対し、中田さんが反応した。
「なるほど、そう聞くと愛は動物的で、恋は人間的な感情な気がするね。でも根はやっぱり同じで、繁殖に対する本能的な感情が、人間の恋の基になっていると。」
「そうです。もしかしたら恋は、繁殖に伴う感情を利用した遊びなのかもしれません。」
「どうゆうことです?」
直樹が質問した。
「ほとんどの動物は繁殖のために配偶者を決めるだろ?もしかしたらその動物はみんな、人間が持つ恋愛感情みたいなものを感じているのかも。」
「幸福感みたいなことですか?」
「うん。それを繁殖までせずに、幸福感だけを楽しんでいるのが人間の恋なのかも。」
それを聞いた中田さんと直樹は感心したような顔をした。しかし、俺にはまだ疑問が残る。
「なるほど、恋が愛の前段階というのは一理あるな。けど、結局愛って何なんだろう?」


 注文していた酒が運ばれてきた。まだ一時間ほどしか経っていないのに、全員少し飲み過ぎているように思える。 
「たしかに、結局愛が何かは分からないままだな。」
中田さんが呟いた。
「愛って恋に比べて守備範囲が広いですよね。配偶者だけじゃなくて、自分の子どもとか、ペットとか、他人にまで及びますよね。」
直樹がそう言ったので、俺はさらに付け加える。
「神様とか自分の国とかに対しても愛って言葉を使うよな。」
「自分の配偶者とか子どもに愛情があるのは理解できるよね。繁殖のためなんだから。特に人間の子どもなんてまともに動けるまで時間がかかるから、親が守らないと生きていけないだろうし。」
俺も同じことを考えていた。中田さんは続ける。
「でも他人とかへの愛って、繁殖のための愛とは別のベクトルだよね。なんか道徳的な感じがする。」
直樹が反応する。
「そもそも愛って種類が多過ぎますよね。性愛とか家族愛とか友愛とか、ちょっと乱用しすぎな気がしませんか?」
直樹はそう言うと、意見を求めるように貴大の方を見た。それに気づいた貴大は、しばらく間を置いてから口を開いた。
「別に向ける対象が違うだけで、要するに全部心からの思いやりのことじゃないかな。配偶者を思いやるか、家族を思いやるか、友達を思いやるかの違いなんじゃないか。」
貴大の意見に、俺は少し納得できた。
「結局愛は思いやりか。」


 また酒を注文した。今回で何回目だろう。泥酔というほどではないが、少し深く酔っているのが分かる。
「中田さん、思いやりがあれば俺たちにも彼女ができるかもですよ。」
「うーん、思いやりはいつも持ってると思うけどなあ。」
「俺たちは女の子に対して思いやりが欠けているんですかね。これ以上ないくらい思いやってるんだけどなあ。」
「好かれようと思ってやってるのが見え透いてるから駄目なんじゃないですか?無償の愛のつもりでいかないと。」
「無償の愛ねえ。」
中田さんはそう呟くと、グラスの酒を一気に飲み干した。何杯目かは分からないが、中田さんも相当飲んでいるはずである。
「でも無償の愛なんてあるわけないでしょう。思いやりなんて見返りがあるからするものに決まっているんだから。」
中田さんは続ける。
「思いやりが愛だとすると、性愛は繁殖のため、家族愛は配偶者と子孫を生き残らせるため、友愛は社会生活を円滑に送るためでしょう。全部自分に見返りがあるからするんじゃないか。もし本当に世間の女子たちが無償の愛ができる人間を求めてるなら、そんな人間はいないことを教えてあげたいね。」
「要するに打算的に女子を思いやることを責めるなってことですね。納得はできますけど、それを分かりにくくするのが大事なんですよ。」
直樹にそう諭され、中田さんは渋々納得したような顔をした。
「中田さんかなり酔ってますね。お水貰いましょうか。」
 直樹がお冷を人数分頼んでくれた。こういった気遣いも思いやりに入るのか。直樹がモテるのはこういうところなのかもしれない。
「でも無償の愛なんて、自己満足のためじゃないですかね。良いことをして気分が良くなりたいだけに俺は思えます。もしくは単純に人から良く見られたいか。」
貴大が言った。俺はそこに付け加える。
「人に良く思われたいのと、自己満足と、あとは宗教的な理由もあると思うな。」
「どうゆう意味ですか?」
直樹が聞いてきた。
「ほら例えば、聖書に『神様を愛しなさい』とか、『隣人を愛しなさい』とか書いてあるだろう。そしてキリスト教の人はそれに従って無償の愛をしたりする。それって天国に行ける、とかの宗教的な見返りを望んでいるんじゃないかなと思ったんだ。」
俺がそう言うと、中田さんがさらに付け加える。
「現世で徳を積んだら来世は良くなる、とかも同じことだろうね。」
「なるほどなるほど。でもどっちにしろ、無宗教の僕らにはできないことですね。」
「まあそうだよな。だから俺と中田さんは何か信仰したらいいのかもな。そうしたら自然な思いやりができるかも。」
「俺と西川が彼女を作るにはまず改宗が必要なのか。まさか彼女を作るのがこんなに大変とはね。」
中田さんのぼやきに、直樹が答える。
「良いじゃないですか。そうしたら彼女もできて、天国にだって行けるんですから。良いことばっかりじゃないですか。」
思わぬ方向に話が逸れてしまったが、たしかにそれもアリかなと思い始めた自分が居るのも確かである。
「けど良いことしたら天国に行けるとか、人間って何でそんなこと信じるんでしょう?ぶっちゃけ天国とか来世なんてないじゃないですか。」
貴大が元も子もないことを言い出した。しなし、そう言われればたしかに分からない。現代において、天国や来世なんて存在しないと思っている人間はかなり居るのではないか。
「何でヒトは存在しないものを信じるのか、ってことだよね?」
中田さんが貴大に尋ねた。
「そうです。聖書に従うとか、来世のために徳を積むとか、天国に行くために豚肉を食べないとか、何で人間はこんなに意味がないことをするんですかね。」
と貴大が言ったので、俺は素直に思ったことを述べる。
「一つは社会の秩序のためじゃないかな。人間が道徳的に過ごして社会がよく回るようにするため、宗教が有効なんじゃないか。」
貴大は分かりやすく納得のいかない顔をした。
「国とかを統治するのに便利ってことか。でもそれって、無宗教の人間目線で客観的に見た意見だろう。俺が言いたいのは、本気で神様とかを信じている人たちが何を考えてるかってことなんだ。本人たちは、社会秩序のためとかじゃなくて本気で神様とか天国を信じているだろう?なんでヒトの頭にはそんな機能が備わっているのかってことが不思議なんだ。」
貴大はそう言うと、急に立ち上がってトイレに駆け込んだ。知らないうちにかなり飲んでいたらしい。おそらく吐きに行ったのだろう。


 「なんでヒトは存在しないものを本気で信じれるのか。何のために信じるのか。難しい質問だね。」
中田さんが静かに呟いた。
「そう考えたらたしかに不思議ですよね。他の動物はたぶんそんなもの信じないのに、なんで人間だけがそんなことできるんでしょう。」
直樹が言った。
「専門家なら分かるのかもしれないけど、俺たちじゃ分かるわけないね。」
中田さんが言った。しばらく沈黙があった後で、また中田さんが口を開く。
「じゃあ考え方を変えよう。存在しないもの、例えば神様としよう。神様を信じることは人間にどんなメリットがあるのか。」
こうやって簡単に考えることをやめてしまわないのが、中田さんの良いところである。
「それはやっぱり、僕たちが死んだ後に対する不安をなくせることですかね。後はさっきも西川さんが言ったけど、道徳的に行動できることとか。」
「あと直樹に少し被るけど、よく人間にとって未知のものを説明するのに便利だからって聞きますよね。今は科学がとって代わってきていますけど。」
「うーん、未知のものの説明ね。よく聞く話だけど、やっぱりそこに落ち着くのかな。」
二人は一瞬黙り込んでしまったが、直樹が何かを思いついたように顔を上げた。
「あと、同じ神様を信じると仲間意識が高まりますよね。同じ宗教の仲間、みたいな感じで。」
少し面白い意見だなと思った。中田さんもそう思ったのだろう、小さく頷いた。
「面白い考え方だね。もうちょっと詳しく聞かせてよ。」
直樹は少し驚いた顔をした。中田さんの意外な食いつきに戸惑っているらしい。
「いや、ただ何となく言っただけで、そんなに大したことは考えてないですよ。ほら、同じ漫画のファン同士だと仲良くなりやすいじゃないですか。その最たるものが宗教なんじゃないかなって。」
「なるほどね。存在しないものを信じて団結するって面白いね。他の動物はそんなことしないもんね。」
中田さんは続けて言う。
「よく考えたら人間の集団ってめちゃめちゃ数が多いよね。何万何億って個体が居ても秩序が保てているのも、人間が存在しないものを信じれるからかもしれないね。」
俺はそれを聞いて考えた。存在しないものを本気で信じて従うのが人間なら、人間は他にも色々信じている。
「そうなると、神様以外の存在も人間は信じますよね。会ったことがない総理大臣に治められるし、存在しない法律に従うし、見えもしない国境は越えないじゃないですか。」
俺がそう言うと、中田さんが悲しそうな顔をした。
「じゃあ、恋も愛も見えないものだね。全ては人間の思い込みだったのか。」
すると、直樹がいち早く反応した。
「いや、それは違います。神様や法律と違って、恋や愛は感じることができます。恋や愛は、たしかに存在します。」
「なんか感動的な話をしてるなあ。」
 気づくと、貴大が近くに居た。
「ちょっと前から聞いてたけど、面白い話をしてますね。かなり納得できます。」
貴大は自分の位置に座った。俺は貴大にこれまでの会話の経緯を説明した。
「なるほどな。人間は存在しないものを信じることで発展したきたんだな。そして、空腹や恋や愛なんかの生理的な欲求はたしかに存在すると。」
「そんな感じだね。だから人間が信じているものの中で、存在するといえるものは、突き詰めると食事と排泄と繁殖くらいになるのかな。」
「それがこの世の生き物の使命ですね。」
俺は中田さんの意見に同意しつつ、何か引っかかるものを感じた。そのとか、直樹が口を開いた。
「ということは、全ての生き物はその三つの役割を果たすために存在するんですね。そこから派生して、僕たち人間のような文明ができたと。」
中田さんが反応する。
「そこまでいくと、その三つがホントに必要なのかも疑問だね。誰がそんな機能を設定したんだろう。」
何がなんだか分からなくなってきた。世の中のものが全て作りもののように思えてきた。
 飲み過ぎたようで、トイレに駆け込んだ。便器に盛大に吐いた。
「あー、もったいない。」
飲んだ酒も食べ物も吐いてしまった。先ほどの会話を思い出した。食事も排泄も繁殖も、全て設定された役割にすぎないなら、何がなぜそんな設定をしたのだろう。俺はしばらく考えた。


 急に答えが閃いた。これで全て説明できる。生物の役割や、恋と愛の違いどころではない。この世の全てを説明できる、概念かもしれない。
 そうなると、全てが恐ろしくなってきた。大学に行くのも、あの三人に会うのも、この個室から出るのも恐ろしく感じる。外から貴大が呼ぶ声が聞こえる。無理だ。誰かと会うなんて、絶対にできない。このままこの部屋に居たい。俺は床にうずくまり、なるべく動かないことにした。

k174102

二塁手

「我が巨人軍は永久に不滅です」と長嶋が言った次の日、俺は戦力外通告を言い渡された。今、思い返せば、父親は育成契約には最後まで反対していた。「108」、それが俺の背番号だった。一軍で、華々しくプレーする選手たちと違って、3桁の番号を背負う選手に引退セレモニーなんてのはない。無論、やったところで、客も集まらないのだが。

 芽のない二塁手でも、期待してくれる人もいた。東洋新聞の新美さんは、
「お前は、土井を超える逸材だ」と言って、4年間ほぼ毎日球場に来てくれた。
今でも、新美さんにだけは、申し訳ないと思う。

引退式は、新美さんと二人でやった。いつもの居酒屋だった。彼は、もっと豪華にやろうと言ったが、俺がここでいいといった。
「麒麟ラガー。グラス二つ。」
「いや、僕は。」
「いいじゃないか。今日は。」
新美さんは、先に俺のグラスにビールを注いでから、自分のを注いだ。
 「ご苦労さん」と俺の労を労ってくれた。それからは、思い出話なんかもしたが、どんな話をしたかはよく覚えていない。

 どうやって生きて行こうか。それを考えはじめたのは、貯金が底をつきてからだった。 
 はじめは、惣菜の万引きだった。マカロニサラダを、トレーナーの内側に隠して店をでた。上手くいってしまったものだから、癖になった。毎日昼の14時、やる気のない警備員に変わるタイミングに合わせて、店にはいった。
 でも、長くは続かなかった。9回目には、捕まった。子供が大きな声を出しやがった。
 駆けつけた警察官のまえで、悪態をつき、暴れた俺は、警察署に連れて行かれた。クスリをやってるんじゃないかとかなんとかで、結局3日も拘留された。

 「元巨人の選手 虚しくも万引き 麻薬常習か?」週刊誌にものった。恥ずかしいとも思ってない自分が余計に虚しかった。
 
 新美さんは、そんな俺にも電話を掛けてきてくれた。でも、出られるはずが無かった。  やっぱり、新美さんだけには申し訳ないと思う。そう思いながら、いつのまにか、また吸い始めていたラークを片手に、金曜日のアーケードの下を歩いていた。   
  おれは、いつのまにか、陽の当たる大通りをさけるようになっていた。
あれほど陽の光の下で、白球を追いかけていたというのに、いつの日からか、陽射しが皮膚を突き刺すようで、やけに痛く感じるようになっていた。
それに、 アーケードの下はいい。バットとグローブを持った野球少年たちに会うこともない。 
 戦力外通告を受けたあの日から、プロ野球中継も、近くのグランドでやってる草野球も見る気にならなかった。理由は分からない。ただ、何かは分からない何かを怖がっていた。
 でも、この日はいつものアーケード下の景色とは違っていた。新しくできたらしいゲームセンターのまえに野球少年たちが屯していた。
 久々にみるグローブとバットは、予想外にも光ってみえた。
 
まだ、未練があった。俺は、それをずっと心の奥底に隠して生きてきたみたいだ。
 気づいたら、俺は野球少年たちについて、グラウンドのそばのベンチに座っていた。
 「身体が開きすぎてる」
「捕球姿勢が高いんだよな」
「あいつは、いい振りをしてる」
 そんな独り言ばかり、つぶやいていた。

この日、俺は生きる道を見つけた。
野球しかない。
俺は、野球が好きなんだ。

この日から、俺は野球の指導者を目指した。
「教師になって、野球部を甲子園に連れていく!」
これが、夢になった。

 それでも、高卒。野球しかしてこなかった。大学に行かなければ。死に物狂いで勉強をはじめた。古本屋で、売れ残りの問題集を、ただ同然で掻き集めた。
 連立方程式には苦戦したし、一次関数なんか、ちんぷんかんぷんだった。
それでもやった。問題集を、買い足すため、バイトもやった。朝の新聞配達。スナックで皿洗いもやった。時給は、650円。その全てを勉強にあてた。
 1年目は駄目だった。
 2年目も駄目だった。
それも、覚悟はしていた。
三畳一間、風呂なし。トイレ共同。
それで、よかった。
夢に向かってる。
それだけで、たのしかった。
この頃から、新美さんにも連絡をとるようになった。
新美さんも、応援してくれた。
週に3日は、ご馳走してもらった。

石の上にも三年
3度目の正直
とはよく言ったものだ。
やっと、受かった。
到底、賢いとは言えない大学だった。
それでも、嬉しかった。
教員免許をとれるだけで、十分だった。
1番に、報告したのは、やっぱり新美さんだった。
いつかの、居酒屋で合格祝いを開いてもらった。
「おめでとう、よくやったな」
そういって、注いでくれた、新美さんの麒麟ラガーは、これまでで1番美味かった。
「おまえ、いくつになった?」
「もうすぐ24になります。」
「そうか、卒業して28。まだまだ若いじゃねえか。」 
「いえ、もう28ですよ。おっさんです」
「お前、若いうちに挫折しててよかったよ。おれなんか、もう60手前だよ。」
「でも、新美さんはいいじゃないですか、立派な新聞者務めて、奥さんも子どももいて、幸せでしょう。」
「いや、それがな。新聞者やめたんだよ。ちょっと色々あってな。」
「そうだったんですか、いまは?」
「フリーで記者やってるよ。取材いって、記事書くことしかやってきてねえからな。でも、大変だよ。フリーになったとたん、仕事なくなっちまったよ。」
「、、、」
「そんな、顔すんなよ、笑い話だよ。まあ、でもおれもお前も、これから再出発だな。」

なにも、おれの人生だけが、波乱万丈なんじゃない。みんな、なにかある。不意にそんなことを思った。

それから、4年間。
はじめての、キャンパスライフ。
友達は、出来なかった。
当然かもしれない。それでも、よかった。
夢に向かってる。その感覚が楽しかった。
充実した四年間だった。
そういえば、この4年間、新美さんにあうことはなかった。おれは、学費のためのバイトで忙しかったし、新美さんもフリーの記者として、色々大変だったんだろう。ただ、いつもの新聞の、スポーツ紙面に「取材:新美忠」を見ることはなくなったせいで、距離が遠く感じるようになった。これまでは、新美さんの記事を毎日のように読んでいたから。

新美さん、仕事順調にやってるのかな。自分に余裕ができたのか。
そんな、心配が頭にうかんだ。
まあ、新美さんは、上手くやってるだろうが。

そして、とうとう卒業して、教師になれた。  「先生」と呼ばれるのは、どこかこそばかった。 
赴任した、学校は野球部が強かった。
だから、思ってたのとは違ったけど、3年後には甲子園がきまった。

あの、野球少年と出会ってから、全てが上手くいっていた。
万引きのことも、戦力外通告も、もう全て忘れていた。 

思い出したくもないが。 


甲子園の、初戦前日。
目の前が真っ暗になった。
「万引きして、警察沙汰になってたんですね、先生」
週刊誌の写真を、校長に突き出された。
意味がわからなかった。
「どうして」
「タレコミがありました。甲子園には行かせられません。生徒たちに、どう説明するんですか。」

終わった。
全てが終わった。
学校はくびになった。
生徒たちは、泣いていた。
どうしようもなかった。
 「誰が、誰がいまさら。」
 怒りに満ち溢れていた。許せなかった。
思わず、新美さんに電話した。
「出ない。なんで。」
何度かけてもつながらなかった。

校長に突き出された週刊誌を、握り潰して、投げ捨てようとしたとき。

「ライター:新美忠」
 
気がつけば、目の前の家が燃えていた。
大理石でできた、「新美」の表札だけが、まだ燃えずにひつこく息をしていた。

小説
174103

向かい合う二人の男。

一方の男は身長201センチ、体重112キロ、歳は三十を少し超えたところか。色白で甘いルックスは昨今人気の二枚目俳優を思わせるが、その肉体は顔とは不釣り合いな程の筋肉に覆われている。腕、脚、背中、腹、胸、膨れ上がった筋肉がその男の強さを物語っていた。

対するは、身長187センチ、体重103キロ、歳は三十六、七であろうか。色白の男より少しだけ老けて見える。が、おじさんという言葉は彼には不適当であろう。飾り気のない黒い髪をオールバックにまとめたその男もまた、あらゆる雄が憧れるほどの肉体を誇っており、その男の鍛錬が想像を絶するものであることなど容易に理解できる。

二人の男は、その肉と肉、骨と骨とを激しくぶつけあう。色白の男が、不用意とも思えるほど腕を大きく振りかぶり正面の男の胸板に張り手を食らわせると、黒髪の男はそれを避けず、己の大胸筋を最大限に収縮させそれを迎え撃つ。破裂音が起こると、観客はリング上の二頭の雄達に割れんばかりの歓声を上げた。

 

***

 

プロレスリング。略してプロレス。圧倒的な巨躯の男たちが最強を求めて競い合う。打撃、絞め、関節、投げなんでもアリ。禁止されているのは、武器の使用、急所攻撃、握り拳での打撃のみである。四角いリングの各辺には落下防止のロープが三本ずつ横に張られており、プロレスラーはそれすらも己の攻撃に利用する。ずば抜けた才能と肉体を持つ者のみが入口に立つことを許され、そこから血の滲むような鍛錬を耐え抜いた一握りだけがリング上にデビューすることを許される。

そんな厳しい世界の中で、最強と呼ばれる1人のプロレスラーがいた。男の名は本郷。身長187センチ、体重103キロ。平均身長が185センチ程であるプロレスラーの中では平均的な数値である。黒い短髪をオールバックにまとめた姿は、昭和の時代を彷彿とさせた。ほど良く日に焼けた黒い肌が、幾重にも重なる筋肉を美しく浮かび上がらせる。

 

***

 

「本郷、少し話せるか?」

業界最大の団体「日本プロレス」、通称「日プロ」の社長に呼び出され、本郷は日プロの応接室に居た。社長は苦い顔をしている。

「何かあったのか?」

「この間、本郷から言われたことについてな、少し調べていたん   だ」

元プロレスラーの社長は、六十を過ぎ白髪混じりになった今でも力強い声で話す。

「この間の話と言うと…」

「お前この間、最近の選手の様子がおかしいと言ってただろう」 

その話か。たしかにここ数ヶ月、日プロの一部の選手達の様子が少し気になっていたのだ。今までぱっとしなかったレスラー達が急に強くなっている。それだけなら、彼らの努力がようやく実を結んだと喜ぶべきなのだが、本郷が気になっていたのは、彼らの内面の変化だ。急に強くなった彼らは、皆一様にどこか気性が荒くなっているのである。安定したファイトスタイルが売りだった北口も、荒々しい危険なファイトをすることが多くなった。

「それで、どうだった?」

「あぁ、最近うちの団体で"クスリ"が流行っているらしい。もちろん表立ったものではないがな」

「ドーピングか?」

「まあそんなようなやつだ。頭の中の身体機能を制御する部分を一時的に麻痺させるらしい。その他に、興奮作用、筋肥大効果、もちろん心臓への負荷も半端じゃない。」

「違法じゃあねえのか?」

「それがなぁ…」

社長の話は、薬の成分がどうやら南米原産のキノコから新しく見つかった成分とかで、現行の法律による規制は行われていない、というような内容だった。

「法律で禁止してないんなら、裁くことは出来ない。どうする本郷?」

「だからと言って許すわけには行かねえ。プロレスってのはたしかになんでもアリだが、そういうもんに頼っちまったらもうプロレスラーじゃねえよ」

「お前ならそう言うと思ったよ」

社長は机の引き出しから一枚の紙を取り出し本郷に手渡した。そこには次の対戦相手、調印式の日程、試合の日程が記されている。

次の試合は、IWCPヘビー級選手権試合。ただ1人、その時代に最も強いレスラーのみが所持することを許された、日プロの至宝であるベルトを賭けて行われる。対戦相手は、現IWCPヘビー級王者である佐々木翔吾。甘いルックスと2mを超えるその肉体、華のあるプレースタイルは観る者を魅了し、人気・実力共に今やトップのレスラーだ。

「翔吾か」

「あぁ、かなり慎重に調査をしたんだが、佐々木はクロだ」

本郷は、翔吾のことをデビュー前から可愛がっていた。以前は毎日のように稽古をつけ、何度も飯に誘ったりもしていた。最近の急成長も嬉しく感じていたところだ。しかし、言われてみるとたしかに、ここの所の翔吾は危険な技を仕掛けることが多くなっている。

プロレスの本質は受け身だ。プロレスにおいて、相手の技を避けることはほとんどしない。互いに攻撃を耐え抜いて、最後に立っていた者こそが強者なのである。そのため、トレーニングを重ねたレスラーは大抵の技なら安全に受けることが出来る。もちろん一歩間違えば大怪我なんてこともあるのだが。それにしても、最近の翔吾は対戦相手に怪我をさせることが多い。社長がその事に困っていたのは本郷もよく知っている。

「こういうのは師匠の役目だろう?」

社長は少し笑った。

「師匠なんて大層なもんじゃあない」

だが、あの翔吾が違法まがいの"クスリ"に頼っている。その事実に本郷はひどく落胆し、そして怒った。

「任せろ。あいつを正面から叩きのめして、"クスリ"に頼ったあいつのプロレスを完全に否定してやるよ」

試合は再来週の日曜日、両国国技館で行われる上半期最大の大会。それの第9試合、メインイベントである。

 

***

 

2週間後の日曜日、時刻は19時を少し過ぎた頃。両国国技館の選手控え室のベンチに本郷は腰掛けていた。怪我を防止する為の入念なストレッチと軽いウォーミングアップを終え、今は第8試合のセミメインイベントである北口対KENTOの試合をモニターで観戦しているが、その表情は穏やかではない。二人とも実力のある選手だが、北口がヒートアップし過ぎている。選手がヒートアップするにつれ、会場の観客達の熱も上がってくるのでプロレス興行としては悪くないようにも思えるが、本郷には確かな違和感があった。北口は本来、クレバーなファイトスタイルで、相手の隙を冷静に突くタイプだ。あそこまで激しくラフなファイトなど普段の彼とは正反対と言ってもいい。

本郷の怒りはさらに増していた。

先週の日曜日に行われた、次回の対戦の顔合わせでもある調印式を翔吾は欠席していた。それも、昔の翔吾なら考えられないことだった。

本郷の怒りは"クスリ"に頼っている選手達だけでなく、"クスリ"そのものにも及んでいる。このままでは日本プロレス全体がダメになってしまう。選手たちを蝕ばむ悪を看過することは出来ない。

セミメインイベントは北口のフォール勝ちに終わった。KENTOもなかなかに善戦していたが、最後は北口のパワーに押される形になり惜しくもスリーカウントを奪われてしまった。両肩がリングに付けられた状態でのレフェリーのスリーカウント。プロレスの勝敗は、  このスリーカウントかどちらかのギブアップによって決する。

KENTOのダメージは大きく、1人では立ち上がることができない様子だった。セコンドに付いていた他の選手の肩を借りながら退場している。

 勝敗を見届けた本郷は、入場用のガウンを羽織り控え室を後にした。

 

***

 

無数のスポットライトが、暗闇の中に四角いリングを照らし出していた。超満員札止めの観客たちがその周囲を埋め尽くしている。次の試合の予想を語り合う者、前の試合の感想を述べ合う者…。それぞれが皆、この空間を楽しんでいる。

「お待たせ致しました!」

その喧騒を切り裂くかのように、マイクを通した男の声が鳴り響いた。

「ただいまより、本日のメインイベント!IWCPヘビー級選手権試合 60分一本勝負を行います!」

進行役の男の一言が、会場のボルテージを一気に引き上げる。

専用の入場曲と共に花道から現れたのは、凄まじい威圧感を放つ本郷だ。ゆっくりと歩みを進めながら、踏みしめるごとに研ぎ澄まされていくその様はまさに獣の如し。

セルリアンブルーに染まるリングに上がった本郷は、一つ大きく呼吸した。

本郷の入場曲が消えると、会場の空気が一変した。張り詰めている。しかし、それは期待に満ちている。

次の瞬間、入場曲に合わせて色白の男が花道に姿を現した。2mを越す長身と全身を覆う筋肉が醸し出す比類無き存在感。せき止められていた水が溢れ出すかのように沸き起こる歓声。その姿を見るだけで人々は熱狂する。これが、現IWCPヘビー級王者 佐々木翔吾。最強のベルトをその腰に提げる男である。

佐々木はファンに手を振り、笑顔を振りまきながら花道を歩いていった。その姿からは"クスリ"の特徴である荒々しさなどは感じられない。スポットライトとファンの声援を十分に浴びて、佐々木は本郷の待つリングへと上った。

「青コーナー、187センチ103キロ。挑戦者(チャレンジャー)本郷ォォォォッッ!!!」

進行役の煽りに合わせて、会場も沸き立つ。

「赤コーナー、201センチ112キロ。王者(チャンピオン)佐々木ィィィィ翔ゥゥゥ吾ォォォォッッ!!」

会場のボルテージが一気に引き上げられる。観客たちは知っている。この王者の試合は、常に最高の試合になることを。

「お久しぶりです、本郷さん」

「よう翔吾、今日はよろしくな」

「こちらこそよろしくお願いします」

以前と変わらない会話。普段の礼儀正しい翔吾そのものだ。もしかしすると翔吾はシロなのか。先週の調印式を欠席したのも何か訳があっただけではないのか。本郷はそんなことを考え始めていた。

凶器などの持ち込みがないようレフェリーによる入念なボディチェックが行われると、いよいよ闘いが始まる。

「二人とも準備はいいな?」

最強と最強が正面から向かい合う。観客もまた、息をのみそれを見守っている。

「それでは………ファイッッッッ!!!」

レフェリーの合図に合わせて高らかに打ち鳴らされたゴングが、これから繰り広げられる死闘の始まりを告げた。

先制したのは、本郷。掴みかかろうとする長身の左脇を巧みにすり抜け背後を取ると、そのまま相手の腰に両腕を回す。背後から腰を制された佐々木は即座に右肘を本郷の頭に向かって振り抜いた。佐々木の肘打ちは空を切る。下に躱した本郷は左足を大きく踏み込み、右肘を振り抜いたことで上半身だけ捻るようにこちらを向いている佐々木の左頬に張り手一閃。モロに食らった佐々木は後ろへよろめきなんとかバランスを取った。

プロレスラーの鍛え上げられた肉体から繰り出される攻撃は、ただのビンタすら必殺の一撃になり得る。実際に、新日本プロレスに所属する棚橋弘至という選手は過去の試合で、左手のビンタ一発で相手選手の顎の骨を折ったという記録がある。

こんなものは挨拶がわりだというように、本郷は追撃を仕掛けずに佐々木の様子を見ていた。先程の張り手が少し脳を揺らしたのだろうか、翔吾はふらつきながら構えた。

「本郷さん、絶好調じゃないですか」

「そういう翔吾は少し不調か?」

からかうように本郷は返す。

「まだまだここからですよ」

会話の一瞬のスキをついた佐々木が、本郷の頭に左腕を回しヘッドロックを仕掛けた。本郷の首に体重をかけつつ、ギリギリとこめかみを搾り上げる。本郷の頭蓋骨が軋んだ。

「ウォォラァ!」

なんとか腕を振りほどいた本郷は、佐々木の背中を押して正面のロープへ走らせる。ロープの反動を利用して加速した佐々木をショルダータックルで迎え撃った。佐々木の体が仰向けに打ち付けられる。

本郷は、顔をしかめる佐々木の上体を無理矢理起こすと、尻もちをついたような姿勢の佐々木の胸へ鋭く右脚を蹴り込んだ。場内に鈍い音が響く。

本郷の流れるような攻撃は、佐々木に反撃の隙を与えなかった。

その後も、佐々木の攻撃を巧みにいなしながら、本郷が攻撃を加える一方的な展開が続いた。会場からは、本郷を応援する声と共に、佐々木コールも聞こえてくる。

本郷の激しい攻めに耐えかねた佐々木はリングの外にエスケープした。

場外へ出ることは本来反則ではあるが、近年のプロレスではほとんどの試合で見られる光景である。観客が盛り上がってのプロレスであるため、より観客に近いところで戦うこのスタイルをレフェリーも黙認しているのだ。

リングの下へ逃げた佐々木が、一瞬本郷の視界から消えた。

翔吾が逃げた方向へゆっくりと進みながら、本郷は息を整える。こういった場面での回復力も、1試合が30分を超えるプロレスでは極めて重要なものである。

リングの下に降りた本郷は佐々木を見失っていた。

「ッッッ!!?」

頭部に鈍い痛みが走り、本郷は思わず前のめりに倒れる。痛みに顔をしかめながら後ろを振り向くと、翔吾が笑いながら立っていた。手にはパイプ椅子を持っている。

翔吾は倒れている本郷にさらにパイプ椅子を振り下ろす。それを本郷はかろうじて躱した。佐々木はパイプ椅子を手にしたまま、追撃から逃れようとリング下を移動する本郷との距離をゆっくりと縮めていく。

まだ頭がくらくらする。足元もおぼつかない。振り返ると、血走った目で翔吾がこっちへ迫ってきていた。

佐々木はパイプ椅子を端へ捨てると、渾身の力で本郷を横の鉄柵へ叩きつける。 本郷の腰に鉄柵が食いこんだ。

佐々木は、手をついて前のめりに倒れている本郷を無理やり起こし何度も同じように叩きつける。鉄柵の軋む音と本郷の苦悶の声が場内に響き渡った。

腰を強かに打ち付けられ脚に力が入らなくなった本郷を見て、佐々木はようやくその手を止めた。

「腰、折れたんじゃないですか?」

うつ伏せで倒れる本郷を嘲りながら、翔吾は悠々とリング上へと戻っていった。

「ワン!ツー!」

リング上からレフェリーが場外カウントを始める。場外乱闘が一応認められているとは言え、無制限に許容されているわけではない。場外カウントが始まると、20カウント以内にリングの上へ戻ることが出来ないと、場外負けと判定されてしまうのである。

「スリー!フォー!」

カウントが徐々に進む。しかし、本郷は静かに呻くだけで、立ち上がる気配はない。

「イレブン!トゥエンティ―!サーティーン!フォーティーン」

観客から、焦りの色が出始める。もしかしたらこのまま立ち上がらないのではないか。あの本郷が?まさか、本当にどこかの骨が折れているのではないか。

「ほーーーんごう!」

場内の誰かが挙げた声。

「「ほーーーんごう!」」

このまま負けるわけがない。あの本郷が、ここで終わるわけがない。観客たちはすがるようにその声に同調し、それはやがて大きなコールへと変わる。

「「「ほーーーんごう!ほーーーんごう!ほーーーんごう!!」」」

本郷の腕に力が戻り、うつ伏せに倒れた身体を両の腕で押し上げた。

「セブンティーン!エイティーン!」

カウントが佳境に差し掛かる。本郷コールはさらに大きく、大満員の建物をビリビリと震わせた。

リングの縁をつかみ、なんとか立ち上がる本郷。カウント19で本郷がリングへと戻ると、割れんばかりの拍手と大歓声が沸き起こった。

「もう動くこともつらいでしょう。」

今の隙に少し息を整え回復した様子の翔吾が声をかける。ふらふらとよろめきながら立ち上がった本郷は、正面の男を観察した。

言葉遣いは変わりないが、その肉体は数分前とは雰囲気が異なっている。元々大きかった身体は一回り大きく、不釣り合いなほどに肥大していた。額や腕には血管が太く浮き上がり脈打っている。目は赤く充血し、瞳孔が開いている。

情報にある、薬を使った状態の特徴に酷似している。

「翔吾、やっぱりお前…」

目線の先で、男はにやりと笑う。

次の瞬間、大きく踏み込み間合いを詰めた佐々木は、左側に大きく振りかぶった右手を、本郷の胸板に叩きつける。高い音が鳴り響いた。

「全然効かねえなあ。」

黒髪の男は、一歩も足を下げない。

再度、大きく振りかぶった渾身の一撃を佐々木は叩き込む。しかし、本郷は全く動かない。薬によって歪に膨張した腕から、猛ラッシュが繰り出される。胸板への逆水平チョップ、顎を狙ったエルボー、袈裟切りチョップ。その全てを身体で受け止めながら、本郷は一歩、また一歩と前進する。

攻撃する側が少しずつ後退し、滅多打ちにされている側が相手を押していた。

佐々木は、焦り、そして向きになったいた。自身のスタミナを顧みない無茶な連打。明らかに息が上がっていた。

先ほどまで動くことすらままならなかった男に、恐怖心すら抱いていた。

攻撃のスピードが落ちていく。そこを本郷は見逃さなかった。振り下ろす翔吾の右手を左手で受け止めると、がら空きになっている顔面にヘッドバットをぶちかます。金属バットで殴られたかのような衝撃に、金髪の男は大きく後ろへよろめいた。すかさず正面から前蹴り。100キロを優に超える巨体が真後ろへ吹っ飛んだ。

復活した本郷に沸く声。一転、劣勢に立たされた翔吾を応援する声。観客のボルテージは爆発し、地響きのような歓声が起こる。それらは交錯し、地響きのような歓声へと昇華した。

「さっきまで死にかけみたいになってたじゃないですか…。そのまま寝てりゃいいんだよくそが!」

怒り狂った翔吾は、立ち上がると本郷に突進した。迎え撃った本郷と激しく衝突すると、さらにそのままボディーへ膝を繰り出す。モロに脇腹へ入ったその一撃に本郷の頭が下がると、背中側からその腰を抱えて、力任せに持ち上げた。逆さづりの状態になった本郷を無理矢理上に振り上げ、浮いた背中からリングへと叩きつける。余りにも乱暴なパワーボムに、場内はさらにそのボルテージを上げる。

リング上に大の字に寝転がった本郷に、佐々木は背中を向け、リングの四隅にあるコーナーの上へ上った。その高さ1・5メートル。ここから倒れた相手に向かってジャンプし、全体重をかけてのボディプレスが佐々木の必殺技なのである。これを食らって立ち上がることのできる選手はいない。

佐々木は、コーナーの最上段から本郷を見下ろしていた。奴はピクリとも動かない。先ほどのパワーボムには渾身の力を込めた。後頭部を打ち付け、脳震盪にでもなっているのだろうか。

佐々木は勝利を確信する。

ノーガードの本郷へ向けて飛び込む白い巨体。手と足を少し後ろへ反らし、全体重をその身体へ乗せて倒れている男へ落ちていった。余りの衝撃にリングが波打ち跳ね上がる。

あの本郷が負けた。

誰もがそう思った次の瞬間だった。

「ぐああああああぁぁぁぁァァ」

腹部を抱えてのたうち回ったのは、佐々木だった。ボディプレスを食らったはずの本郷はその脚を曲げ、佐々木の攻撃に合わせて相手の腹に膝を突き立てたのだ。まさに起死回生の一手である。

起き上がった本郷は、翔吾の頭を掴み引き起こす。

「歯ぁ食いしばれよ。」

本郷は後ろから翔吾の腰に腕を回す。人間離れした背筋に力を込めると、白い身体の足が地面から離れた。

「おおおおおおおお!!!」

雄たけびとともに、後ろ向きに翔吾の後頭部をマットに突き刺す。これぞプロレスの代名詞ともいえる大技「ジャーマンスープレックス」。

完璧に食らってしまった佐々木の身体はくの字に折れ曲がった状態で、両肩をリングに付けたていた。

本郷は翔吾の両肩をフォールして、レフェリーへ視線を送る。

「ワン!ツー!スリー!」

3カウント。本郷の勝利である。

「……全然効いてないじゃないですか。」

力なく翔吾は言った。その言葉には悔しさが滲んでいた。

「途中までは本気でやられるかと思ったぜ。」

「ここまでしても、やっぱり本郷さんには敵わないのか…」

「薬になんか頼るな。俺が強いのは…」

本郷は翔吾の目を見つめて言った。

「俺が強いのは、プロレスラーが強くいられるのは、ファンが応援してくれるその声だ。薬じゃない。」

それだけ言い放つと、まるでダメージを感じさせない様子で本郷は立ち上がった。レフェリーが右腕を掴み、上へと掲げる。

「23分18秒。勝者・本郷!」

アナウンスが本郷の勝利を告げると、場内のボルテージは最高潮に達し、二人の男の激闘を称えた。

花道を歩き場内を後にする本郷。控室の前に立っていた社長が静かに語りかける。

「ありがとな本郷。」

あぁ。そう一言だけ言うと、最強の男は控室へと入っていった。

閉められた扉の内側で、男は床に倒れこむ。ダメージは深く、中の椅子まで行くことは不可能だった。

 

再会において
174110


「僕のしたことは本当に悪いことです。けれど、少しだけ話を聞いてもらっても良いですか。」

 固く冷たいパイプ椅子に座らされた三十くらいの男は、目の前の机を見つめながら、一文字ずつ書いていくように丁寧に話していた。

「やっと話し出したと思ったら、何言ってんだい。あんたの話なんか聞かないよ。」

 男と向かい合って座る前掛け姿の女は、苛立った様子で答えた。

「許してもらおう、とかそういうんじゃありません。本当に、ただ聞いて欲しいだけなんです。」

「別に話してもいいけど、聞きゃしないよ。」

「ありがとうございます。では、どこから話し始めましょうか。まずは、友人について話しましょう。さっきまで友人に会っていたのです。――」

 男は、座り方を確かめるように椅子に座りなおし、記憶を探りながら話し始めた。女は、何かを諦めた様子で深く椅子に腰掛け、先程まで使っていた電話の子機を握りしめ、それを見つめていた。

 



 

 園田は、義務教育期間を共に過ごした数少ない友人でして、その日は久し振りに会ったのです。実に中学校の卒業式以来なので十六年ぶりでしょうか。今日に至るまで、連絡を取り合う事も、無論、直接会う事もありませんでした。これまで胸を張って友人と呼べる人が少なかったために、彼の噂を聞く事もありませんでした。かといって寂しさを感じる事もなく、ここまでだらだらと過ごしてしまったんです。別に仲違いをしたわけでも、一方的に嫌いになったわけでもないんですけれど。

 ですから、彼から突然連絡が来た時は大いに驚きました。しかし、そんな気まぐれな部分も含めて彼なので、驚きはすぐに落ち着き、支度をしました。朝のうちに連絡がありまして、夕方に落ち合う事になりました。

 

 僕は先に待ち合わせ場所の居酒屋に着いて、彼をしばらく待っていました。彼が早く来る事はまずありませんから、慣れたもんです。約束の時間から二十分程で彼がやってきました。僕を見つけ席に着き、手早く注文を済ませた後、特に話し出す事もなくただ座っていました。当時から何を考えているか分からない男だったので、別段、不愉快を感じる事も不安を覚える事もありませんでした。勿論、どうして今さら僕を誘ったのか気になる所でしたが、いきなり聞くものでもないと思い辞めました。かといって僕は積極的に話す方でもないので、こちらも同じように黙っていました。おそらく、園田も機嫌が悪いわけではなく、証拠に居酒屋の店員に余計な挨拶などをしていました。

 お互いに口が開かない時間は大変長く感じられました。しかし不思議と居心地がよく、ずっと此の儘でいられるような気もしていました。このゆっくりとした大きな時間は、自分の中に暮らす過去の自分を見つけ出す余裕を僕に与えてくれました。

 結局、席に着いてから園田は、無駄な動きなく十五分程黙り続け、手元の品書きをじっと見つめていました。一方で、僕は過去の自分と向き合うと同時に、今目の前にいる彼を眺め続けていました。彼の端正な顔立ちや、しなやかな骨格は見るに飽きませんでした。こんな風に、彼を目でなぞっている僕は、過去の僕そのものと言っていいでしょう。

 今日彼に会うまで、彼に抱いていた印象は、中学を卒業するまで野球に打ち込んでいたという事から、スポーティなものだったのですが、すっかり変わってしまっていました。お洒落には無頓着だったはずなのですが、無難な着こなしで、文化系の人間にも見えるような風貌でした。その服装は僕たちのいる大衆居酒屋には不似合いで、そんな彼を見ていると、なんだかくすぐったい心地がしました。あと変化と言えば、髪なんかも伸びていましたね。そりゃ十六年も期間が空けばこれくらいの変化はあるでしょう。むしろ、これくらいしか変化がないのが不思議なくらいです。

 しかしながら、友情というのは凄いもんです。二人の間の沈黙は初めの十五分だけで、すぐに砕けた空気の中で話していました。一つの元号が始まって終わるような長い年月を超えた再会でしたが、とてもそんな風には感じませんでした。彼と別れる頃にはもう外はすっかり暗くなっていましたから、おそらく四時間程話していたんじゃないでしょうか。僕が、あのような形で話を切り上げなかったら、もっと長い間話していたと思います。

 



 

「――そんなに見てくんじゃねえよ。」

「君が話さないからさ。そういや、野球はやめたのかい。」

「さすがに、この年までやってねえよ。高校卒業と同時にやめたんだ。余裕のある時間ができたんで、良かったと思ってるよ。」

 およそこんな事から、話し始めたと思います。なにしろ、長い沈黙の後ですから比較的よく記憶に残っているのです。

「今は何をやってるんだい。」

「今はな、もっぱら海外だよ。色んな所を回ってるんだ。俺が今まで出会ってきた面白い奴を超えるような連中が腐る程いるんだ。お前も行くといい。自分がどれだけ狭い所で生きてきたかを痛感できるぜ。」

「それは僕の性には合わないや。別のやつに声をかけてやってくれ。」

「まあそれもそうだ。お前みたいな痩型で色白の奴は家で絵でも描いてる方がずっと似合ってる。」

 彼は相変わらず気兼ねのない物言いで、僕と話していました。この物言いについては、一緒にいて腹が立たないか、とよく聞かれますが、僕はかえってそれが好きでした。嘘がないようで心地よかったんです。

「そういや、下市の奴はどうなってるんだ。どうせ碌でもないんだろうが。」

「下市は、高校を卒業してからずっとフリーターをやってたらしいよ。最近は女ができて就職したらしいけどね。」

「あいつにも女ができたのか。同じ女に十回も告白してたような奴なのにな。」

 下市は、僕たちの共通の友達で、中学生活の半分くらいは、園田と僕、そして下市の三人でよく遊んでいました。下市は、本当に碌でもない奴で、彼を好きな大人なんていませんでした。園田と同じように同窓生からは疎ましがられていましたが、それでも僕たちにとっては気のいい面白い奴でした。

「下市のあの話覚えてるか。」

「鍵がないから部屋に入れないって、ベランダ目指してマンションの七階まで壁を登った話かい。」

「結局落っこちて大怪我を食らってたけどな。それも傑作だが、それじゃねえ。『大計画』の時の話さ。」

「もちろん覚えているよ。とても興奮した。……とても興奮したよ。」

 



 

 ここでの『大計画』というものは、たかが万引きの事なんですが、中学二年生の僕たちにとっては大変大きなものでした。中学生の男児というのは誰しも悪に憧れるものでしょう。かつての僕たちも例外ではありませんでした。よく分からない羽虫を山ほど捕まえては人の家の庭に放ったり、立派な家を見付けては石垣に立ち小便をしたりなど、子供特有の不道徳なことばかりしていました。周りの奴らも負けじと色々の事をしていました。しかし、それも時間が経つほどに酷くなっていきました。ついには、僕たちの周りの奴らの定番は万引きになり、たくさんの奴が手を染めてしまいました。近隣一帯の店からすればたまったものではなかったでしょう。しかも、自己満足が目的ではないので、その犯罪を次の日に学校で自慢し合うような始末でした。

「大胆でスマートな方法を考えた。」

 確か、園田のこんな一言で僕たちの計画は始まったと思います。これまで僕たちは犯罪に手を染める事はしてこなかったんですが、後から聞くに誰かが園田を挑発したみたいで、それがきっかけでこんな発言をしたんでしょう。

「――もったいぶらんで早く教えてくれよ。」

 下市は当たり前のように乗り気でした。ですから、僕も参加せざるを得ませんでした。別に嫌な気持ちはしてませんでしたが、ある程度の背徳感を感じてはいました。

「いいか、よく聞け。河内長井へ向かう国道沿いに薬局があるよな。あそこでやってやろうと思う。」

「あそこは商品棚も高さがねえし、危なくないか。」

 下市の方が慎重でした。

「だからこそ自慢できるんだよ。だけどな、俺にだって策がないわけじゃない。店内を思い浮かべてよく聞けよ。……」

 あの時の園田の顔は今でも忘れません。恐らく今まで見てきた中で一番生きていたと思います。そして僕たちもまた生きていました。園田はほとんど使いもしない図面まで用意していました。きっと何かの役に入り込んでいたのでしょう。そして僕たちも普段とは違った言葉遣いで、彼の話を聞いていました。作戦自体は今思うと滅茶苦茶なものでしたが、当時の僕には何故かとても合理的なものに思えました。失敗なんて絶対にしないものだと思い込んでいました。

「これで大量に盗む事ができるはずだ。どうだ、いけそうか。」

 園田は、犯行計画の全貌と当日の役割分担を僕たちに伝え、大変満足そうでした。

「この計画の名前も考えてあるんだ。」

「――『大計画』だ。」

 当時の僕には、この台詞がこの上なく恰好よく聞こえました。思えば、園田への尊敬はこの頃から固まっていったのかもしれません。浅はかな理由ではありますが、僕にないものを持つ彼の姿は、僕の目には特別に映りました。そのうえ、その世界へ僕を連れて行ってくれるので、気づかぬうちに彼を敬愛していたのです。

 それから数日後、僕たちは『大計画』に取り掛かりました。

 計画は至って簡潔なものでした。まず、園田と僕が別々に入店し、それぞれが少しずつ買い物をします。店主を足止めするためです。小さい店なので、時間を選べば店主一人しか店にいないのです。そして、後から入店した下市が隙を見ながら商品棚のチョコレート菓子を盗むのです。勿論、『大計画』というだけのことですから、ただ盗むだけではありません。盗む商品と同じ空き箱を予め用意しておき、商品を失った棚に載せておくのです。こうして店主の発見を遅らせるのです。今になってみれば、中学生なりに工夫したんだろうな、と思います。しかし、僕には――少なくとも当時の僕にとっては大変魅力的な計画でした。周りには計画を立てて犯行に及ぶような奴がいなかったからです。

 

 約束の日の昼、僕たち三人は公園に集合して、作戦の確認を行いました。そこでもやはり、興奮は冷めませんでした。けれども、それでも何とか呼吸を整えていたのを覚えています。それから余計な言葉は交わさずに園田と僕は動き出しました。しかし、薬局に入ると何故か気持ちが嫌に落ち着いていて、かえって違和感を覚えた記憶があります。ふと前に立つ園田を見ると、彼はやはり堂々としていて、これから犯罪に手を染めるというのに、誰よりも正しい行いをしているように見えました。園田と僕は早々といくつかの商品を手に会計へ向かいました。記憶では、この辺りで下市も店に入ってきたと思います。園田より先に会計をしていた僕には下市の様子は見えませんでしたが、おそらく計画通りに動いていたと思います。僕は時間を稼ぐために、わざと手の中の小銭を落としたりなんかしていました。その小銭を拾おうとした丁度の時だったと思います。

「おじさん、あいつ万引きしてるぜ。」

 園田の声がしました。

 僕は落ちた小銭を拾っていたので、振り向くまでには少し時間がかかりました。

「あいつ俺の同級生なんだけどさ、すぐ万引きすんだよ。」

 園田はそんな事を続けて言っていたと思います。

 僕は小銭を拾い集め、ようやく振り向きました。その時の景色は忘れません。下市の顔は、筋肉の様子が分かるほど引き攣り、手にしていた菓子箱は握力のせいで変形していました。肝心の園田はというと、いつもと変わらない飄々とした様子で店主の方を見ていました。店主のこの後の行動を予想し、答え合わせをしているようにも見えました。そんな園田のことを見ているのが少し怖くなって、店主の方を見てみますと、下市の立ちつくす場所へ迷いもなく向かっていく所でした。店主の視界から園田と僕が消えた時、僕は視線を感じました。園田が、僕に微笑みかけていました。その微笑みが僕を震わせたのを鮮明に覚えています。その震えが僕にとって良いものだったのか、悪いものだったのかは分かりません。それから直ぐに下市は店の裏へ連れていかれ、園田と僕は会計口の前に取り残されました。店主に連れていかれる下市は、誰に向かってでもなく大きな声で何か訴えていましたが、内容は覚えていません。しかし、下市の狂ったとも言える様子が大きなショックだったのは確かに記憶しています。園田と二人になった僕は、どんな顔でそこに立っていればいいのか分からず、園田の方を見ていました。その時の僕の表情は、混乱のせいで酷いものだったと思います。しばらくすると、園田は筋の通った鼻から大きく息を吸い、口を開きました。

「大胆でスマート。」

 そう一言つぶやき、店の隅に置かれた菓子の詰められている未開封の段ボール箱を持ち上げると、徐に店の外へ出て行きました。その背中を見た時に感じた衝撃はとても形容しきれません。

 園田はずっとそのつもりだったのだと、園田だけに成功が見えていたのだと、色々な思いが雪崩れるように頭の中を巡りました。園田は初めから下市という犠牲を払い、大胆な万引きを行うつもりだったのです。犠牲者でない僕にすら、それを教えてくれなかったのです。園田は振り向く事なく去って行きます。その背中は、大きく輝かしく見えました。とても格好よく感じました。銀幕に生きるスターのようでした。もしかすると、園田もそのように演じていたのかもしれません。

 僕は五、六枚の小銭をよく確認することもなく会計口に置き、園田の後を追いました。

 

 次の日の学校は気まずいものでした。僕が学校に行くと園田の周りには軽い人だかりができていました。始業時間前から既に自慢を始めていたのです。一方で、下市は学校には来ていませんでした。それでも構うことなく、園田は自慢を続けていました。園田からの話を聞いた奴らは、僕の姿を見付けると僕の所へもやってきました。けれども、園田に騙されていた立場であるという事実や、下市に対する捨てきれない罪悪感のおかげで、僕はその時の事を自分の功績として揚々と話すことはできませんでした。ですから、僕はただただ園田を褒めていたと思います。褒めることは、本心にも背かないので幾分気持ちが楽ですから。しかし内心では、園田と同じ立場でいることを少しばかり得意気に感じていました。そのような僕をよそに、園田はずっと得意気でした。そして誰も園田の事を、それから僕の事を非難しませんでした。

 一日も半分を過ぎると、いよいよ僕の中にも下市への罪悪感はなくなってきていました。園田のあまりに得意気な顔や、周りからの賞賛に消されてしまったんだと思います。そこからは、僕も少しだけ得意気に話をするようになりました。そして、確か昼の休憩が終わって五時限目が始まろうとした時でした。下市が学校に来たのです。何事もなかったかのような顔をしていました。いつもと変わらないような顔をしていました。ただ、それは表情だけに限った話でした。瞼と涙堂は真赤で腫れぼったく唇のようで、頬には大きく青黒い痣ができていました。弱者としか言いようのない姿を見れば、下市に何が起こったかは概ね予想がつきました。僕の知らない所で怒鳴られ、打たれたのでしょう。僕は、下市が僕をどう思っているかを考えると怖くてたまりませんでした。それと同時に、あんな風になるのが僕でなくて良かったと安堵もしました。いずれにせよ、僕の気持ちは乱れていました。それ故、消えかけていた罪悪感は輪郭を取り戻しつつありました。僕は、自分の中に再び罪悪感が帰ってきている事への焦りを園田に向けました。助けを乞うように園田の方を見たのです。すると、彼は笑っていました。常識の底が抜けたように笑っていました。園田は、沸き上がる笑いを押し殺すこともなく、下市に何かを言っていました。何を言っていたかは思い出せません。けれど、僕の中に組みあがりつつあった罪悪感が再び解ける程、彼自身を正当化し、同時に下市を不当化する発言でした。

 それから、僕たち三人は一緒に遊ぶ事がなくなりました。学校で僕たちが脚光を浴びたのも一時的なもので、二、三日もすれば元通りになっていたと思います。

 



 

 このような思い出話を、破片を組み立てるように思い出しながら話していました。目の前に座る園田は、あの時よりは常識のある様子で笑っていました。僕も同じように笑っていました。おそらくこの話題が落ち着いた時には、落ち合ってから三時間を過ぎていたと思います。この頃には、園田がどうして僕を誘ったのかなんて気にもなっていませんでした。ただ、今話していることだけに集中していました。

「お前、今何やってんだ。」

 あまりに突然に聞かれたので、驚いたような記憶があります。

「中学の国語の教師をやってるよ。」

「いい仕事だな。」

 ここから少しの沈黙がありました。だから、僕の方から口を開きました。

「園田は、海外に行ってるって言ってたけど、何をしてるんだい。」

 すると園田は、輪郭のぼやけるような柔らかい顔をしました。

「それを話しにきたんだ。簡単に言ってしまえばボランティアなんだけどな、大学の二年の時に連れに誘われて、途上国に行ったんだ。まあビビったぜ。学校にも行けないなんて事がほんとにあると思ってなかった。だから、学校を立ち上げてやるんだ。来月には日本を出る。だから久しぶりにお前に会おうと思ったんだ。」

「よく分からないけどすごいな。わざわざありがとう。」

「色んな友達を回ってるんだけどな。」

「金はどうすんだ。」

「基本は投資だよ。便利な時代になったもんさ。色んなところから集められる。一応働いてはいるがな。」

「そうなんだ。」

「独り身じゃねえから、働かねえわけにもいかないしな。」

「結婚してるのか。充実してそうで良いな。」

「結婚も楽なもんじゃねえ。余計な気を使うからな。ただ、悪くは思ってないぜ。」

「立派になったもんだな。」

「お前は、どうなんだよ。」

「相手がいないから結婚の話も勿論ないよ。羨ましくは思うけれどね。」

「なんだったら紹介してやろうか。」

「そんなのはいいよ。僕はこれでいい。」

 

 ここから先の会話はあまり覚えていません。僕の中の違和感が無視できない程の大きさになってきたからです。今、目の前にいるのは勿論かつての憧れの園田で、十六年という長い年月が経ち十分に大人になっている。そして、当時の行動力や決断力は健在しており、今なお活発に動いている。何も変わったことはないのです。しかし、どうにも気持ちが悪いのです。この気持ちの悪さは今でも自分の胸に薄く広がっています。これをかき消す術はないのです。それから一時間程でしょうか、園田は話し続けました。勿論、僕だって返事くらいはしていたと思います。けれども、はっきりと覚えていないのです。もしかすると、一時間ですらなかったのかもしれません。それくらい僕は、入ることも出ることもできないような閉鎖的な世界に入り込んでいました。

 思えば、僕にとっての園田の存在は大変大きなもので、十六年間ずっと支えられてきたのかもしれません。当然の事ながら、僕を支えてきたものは他にもたくさんあります。それも事実です。しかし、園田の存在が大きな柱として僕の中に据えられていたこともまた事実なのです。そして、その原因は間違いなく、園田のあの不気味さなのです。人を貶め、迷いがなく、掴み所がないあの冷たさなのです。明瞭な目標を持ち、地平の先を見つめるような今の園田にはそれがないのです。今の園田には濁りが見えるのです。この事が違和感となって、僕を丁寧に蝕んでいくのです。

 

「僕はそろそろ帰るよ。」

 自分の中にある淀みの正体に目処がたった時、僕は席を立ちました。

「どうしたんだ、急に。用でもできたのか。」

 もう返事はしませんでした。

 僕は、少し余分に出した紙幣を机の上に置き、店を後にしました。

 



 

 暖かさを感じられないほど無機質な狭い部屋では、依然として女と男が机を挟み向かい合っていた。女は向かいの男を見つめていた。男はその視線を気にする様子もなく、ただ古い人形のように空中の一点に視線を集めていた。電話の子機を握っていた女の右手は、苛立ちから小刻みに揺れていた。

「丸山さん、じき警察が来るよ。」

 女に丸山と呼ばれた男は、黙って俯いていた。

「さっきまであんなに喋ってたのに、どうして急に黙っちゃったの。」

「園田とかいう奴のよく分からない話は終わったのかい。あんた結局何が言いたかったんだい。」

 女は言葉を続けた。

 丸山は、習いたての文字を読むかのようにゆっくりと言葉を吐き始めた。

「正直、この話が僕のしたことと関係してるかどうかは分かりません。話して何か意味があるのかも分かりません。ただ話さずにはいられなかったのです。それだけ僕の中に大きな揺れがあったのです。」

「話が噛み合わないねえ。」

 女は独り言のように吐き捨てた。

 丸山と向かい合う机の上には、未開封の菓子箱が一つ置かれていた。

k174111

奈良の香芝にはずば抜けて大きな岩山があります。その山の名前は屯鶴峯と言って、大昔に火山が噴火してできた山です。その形が何匹もの鶴が屯しているように見えるから、屯鶴峯と名付けられたそうです。

屯鶴峯はハイキングコースでも知られていますが、その中心に近づくとデコボコと岩が突き出たりへこんだりしていて、見応えはありますが少し危ない場所になっています。大人は、香芝に住む子どもたちに「屯鶴峯で遊んだらいけないよ」と良く言い聞かせていました。でも少し危ないモノや場所といえば、やんちゃな男の子たちの大好物でもあります。

大人にダメと言われたら、余計に気になってしまう子もいますね。

これから始まるのも、そんなやんちゃな中学生の男の子二人のお話です。

 仲西と中島は中学二年生。出席番号が近い二人は入学当初から不思議と気が合い、同じテニス部員として毎日一緒に行動していました。

「ニシ、日曜日に屯鶴峯に行くぞ。」

中島はいつもの部活終わり、仲西の肩を軽く叩きながら言いました。

「痛いって、シマ。先生とかに怒られるぞ。何しに行くんだよあんなとこ。」

ひょろひょろと背が高い仲西は細い肩をさすって言いました。丘の上にある中学校からは屯鶴峯がよく見えました。ニシとシマのクラスの担任の先生は理科が専門で、屯鶴峯の面白い地形についてよく話してくれました。それと同時に、あそこで遊んではいけないと何度も注意をされていました。

「あそこにレアモンスターがいるんだって、兄ちゃんが言ってた。」

「うわあ、それは行くしかないなあ。」

ニシとシマは今、モンスターを捕まえるスマホアプリにはまっていました。今まで何度も二人で出没するモンスターたちを捕まえに行きました。なかなか出てこない希少なモンスターが出没すると聞いたら、いつもは慎重なニシも屯鶴峯散策に賛成するしかありませんでした。

(なあに、すぐモンスターを捕まえて帰れば危険もないし怒られもしないだろう。)

二人ともそんな風に考えていました。

 さてその週の日曜日。ニシとシマは約束の13時に集合場所の郵便局で落ち合いました。

ここから屯鶴峯までは歩いて20分。普段ならば自転車で行くのですが、親から犬の散歩を頼まれてしまったニシが、飼い犬のクロを連れてきたため徒歩で行くことになりました。

「シマごめん、散歩断れなかった。」

ニシは申し訳なさそうな顔をして言いました。

「いいよ、危ないときはクロに守ってもらおう。」

「危ない時ってなんだよ、大丈夫だろ。」

確かにな、とニシとシマは笑って、出発しました。

屯鶴峯までは決して近くはありませんが二人ともレアモンスターのためなら、と意気込んで向かいました。

 

【屯鶴峯入口】と言う看板が見えてきました。

大型犬のクロに合わせて早歩きでやってきた二人はもう12月だというのに額に汗をかいていました。

「ニシ、着いたぞ。」

「そうみたいだね、モンスターはどこら辺にいるかな。」

ニシはスマホの画面を見つめます。近くにモンスターがいれば表示されるのですが、まだ何も表示されません。もう少し奥に入らないといけないようです。

「シマ、もっと中に歩かないといないかもよ。」

ニシは犬に水をあげながら言いました。本当はあんまり奥に行かずに帰ろうと思っていたのでニシは少し不安になっていました。

「よし、行くぞ!まだ日が明るいし大丈夫だ。」

「まあ、それもそうか。」

「なんだ、びびりだなあニシは。怒られるのが怖いのか。」

「そんな訳ないだろ。」

その馬鹿にしたシマの口調に少しムッとしたニシは犬を連れてどんどん山の中へ入っていきます。シマは慌ててついて行きました。

 山の中心に来ると木がなくなり、岩が剥き出しの開けた場所になっています。岩はみんな白っぽくて、大きなものばかりでした。

「大人なしできたの初めてだな。」

シマは近くの大きな岩によじ登ってそう言いました。岩の上からはいつも通っている中学校や香芝の町が見えました。

「確かにそうだな。シマ、落ちるなよ。」

ニシはあまり大きな岩には登らず、小さな岩に座って犬のクロにおやつをあげています。

 しばらく景色を見ていた二人は本来の目的のためにスマホで、モンスターゲームのアプリを起動しました。

画面を見てみると、近くにあまり出没しないモンスターが沢山います。

「やったなニシ!たくさんゲットするぞ。」

「よし、全部捕まえような!」

二人は夢中で岩場を歩き回りながら画面上のモンスターを次々に捕まえていきました。

あらかたモンスターを捕まえ終わった二人は岩の上で休憩することにしました。

「すごいな、今日だけで捕まえてなかったモンスターめっちゃ捕まえれたな。」

シマは嬉しそうに画面を見つめています。

「それはそうだけどお前、足元見なさすぎ。何回もこけそうになってたじゃん。」

「おう、死ぬかと思ったわ。」

そう笑って言いながらもまだスマホを触っているシマを見てニシは少し呆れました。

「それにしても寒くなってきたな。やっぱり冬の山は風が冷たいや。」

ニシは着ていたダウンジャケットのチャックを閉めてブルブル震えました。動き回っている時は感じなかった寒さが、急に戻ってきたのです。まだ昼下がりなのに雲が太陽を隠していて曇り空だったので余計気温が下がってきたのでしょう。

「確かに寒いな、爪先が冷え切ってる。そろそろ山を下りて俺の家に行こうよ。」

シマも暑くて脱いでいたダウンを着てブルブルと震えました。

二人と一匹が岩山を後にしようとしたその時、シマが「あっ!」と大きな声をあげました。

「なんだよ、どうしたんだ。」

ニシが尋ねるとシマは興奮した顔でスマホの画面を見せてきました。

「ニシ、見ろよ!!伝説のレアモンスターがいるぞ!!」

「嘘だろ!」

ニシとシマが画面を見つめると、確かに岩山の奥の方向にレアモンスターが出没しています。なかなか現れないモンスターの出没に、シマもニシも大興奮しています。二人は岩山の方に戻って、モンスターがいる方にどんどん歩いていくと、来た方とは反対側に出ました。目の前は木が鬱蒼と生えた森です。

「もう少し奥に行かないと捕まえられないみたいだな。ニシ、もうちょっと進んでみようよ。」

「いいよ、でもあんまり奥に行くようだったら引き返そうな。」

シマは意気揚々と森の中に入って行きました。ニシも犬のクロに前を歩いてもらいながら森の中に入って行きました。

2人はモンスターを追って、どんどん森の奥へと進んでいきます。

けれども、いっこうに画面にモンスターは現れません。木の枝が日の光を遮り、森の中は暗くて、ひんやりと冷たい空気が2人の体から体温を奪って行きます。

二人は黙って森の中を進みました。少し後悔し始めていたのです。もう直ぐ近くにいるはずなのに何故だかモンスターは現れません。

「シマ、もう帰ろうよ。さすがにこんな奥にはモンスターいないって。それにクロもくたくたに疲れてるよ。」

「うーん。そうだな。寒いし俺も帰りたくなってきた。戻ろう。」

ニシとシマがそう言って、来た道を戻り始めた時、クロがいきなり森の奥に向かって吠え始めました。

「え、クロ?どうした?怖いって。」

「なんかいるのかな、ニシ、早く帰ろ。」

ニシとシマが怯えてクロを宥めようとした瞬間、クロは勢いよく駆け出し、ニシの手からリードが離れてしまった。クロは森の奥へと走っていってしまった。

「うわ、待ってクロ!!戻って!クロ!」

飼い主のニシが叫ぶもクロの姿はもう見えなくなってしまいました。

「大変だ、連れ戻さなきゃ。」

「親に電話だけさせて、手伝ってもらおうよ。」

ニシが言いました。親に言えば二人ともひどく怒られるに決まっていましたが、そんなことも言っていられません。しかし、

「…圏外だ。」

二人は顔から血の気が引きました。

「とりあえず戻って、大人を呼んでこようよ。俺らだけで奥に行ったら危ないよ。」

「それもそうだね、一旦戻ろう。」

二人は急いで来た道を戻ろうとしましたが、何故だか、岩山がまだ見えてきません。どうやら道を間違えて、森の奥へ奥へ歩いてきてしまったようです。

「シマ、ここどこだろね。暗くなってきたしクロもいないしもう嫌だよ。」

「俺だって歩き疲れたよ。寒いしお腹空いたしどうしたらいいんだろうな。」

「とりあえず、このまま山を下ろうよ。」

「そうするかあ。」

二人はヘトヘトになりながら山を下って行きました。

すると、森の奥の方に灯りが見えました。

「あれ、ニシ見ろよ!灯りがあるぞ。建物だ!誰かいるんじゃないか?」

「本当だ!でもこんな山奥にある建物ってなんだろうな。」

二人は灯りの方へ走って行きました。すると1階建てで、一軒家ほどの大きさの建物が見えてきました。洋風な造りが森によくなじんでいました。

「なんだ、これ。」

「シマ、見て看板があるよ。」

【洋食レストラン ヤマネコ】

「へえ、こんなところに洋食屋があるんだ!聞いたことのないお店だな。」

シマはズンズンと門をくぐって建物の敷地内に入っていこうとします。

「待てよシマ、これに入るつもり?」

「お店の人に協力してもらおう。電話貸してくれるかも知れないし!」

ニシはこんなところにレストランがあるのはおかしいと思いましたが、クロのことが心配です。とりあえずシマに続いて建物の扉の方へ歩いて行きました。

「ニシ、なんか張り紙がしてあるよ。」

「え、定休日だったらどうしよ。」

「違う違う。ほら見て」

シマとニシはお店の青い扉に貼ってあった白い紙を見ました。

 

洋食レストラン ヤマネコ へようこそ。

どうぞどうぞ中へお入りください。

 

「中へお入りくださいだってさ、森の中にあるにしては気が効くね。」

「うーん。入ってみようか。」

シマとニシは開戸を引いて中へ入りました。閉じた扉には、

 

              若いお客様は大歓迎です。

 

と書いた紙が貼ってありました。

「若いお客様だって、俺らのことだな。」

「うーん、なんだかモヤモヤするんだけどなあ。まあいいか。」

お店の中は電気がついていて明るく、内装も思ったより新しそうでした。カランコロンと鈴の音が鳴りましたが、中から店員が出てくる気配はありません。

お店に入ると直ぐにカウンターがあって、そこには立て札が置いてありました。

 

いらっしゃいませ。

当店はオーナーが一人で営業しているため、あまり手が離せません。

お客様への注文が多くなりますが、ご了承ください。

 

「一人で営業だってさ、大変だな。」

「シマ、俺らへの注文が多くなるってどういうことだと思う?」

「さあ、セルフサービスとかそういう意味じゃない?」

シマは気にしてないように答えましたが、ニシはあまり納得していません。ニシが立て札をもう一度よく見てみると裏側に何か文字が書いてあります。

 

注文はずいぶん多いでしょうが、どうかこらえてください。

 

「シマ、なんかこういうお話国語の教科書で読んだことない?」

「お話?どんなの?」

「タイトル忘れちゃったけど、お店がなんかたくさん客に注文をしてくるお話。」

「なんだそれ。俺は知らないな。」

「シマ授業中寝てるからな、そりゃそうか。なんかこのお店そのお話に似てる気がするなあ。」

「考えすぎだろ。早く中に入ろう。」

(あのお話、結末はどんなんだったけ。)

思い出そうとするニシをよそに、シマはカウンター横の白色の開戸の方へ進んだ。

金色の装飾が施された扉には、白い紙が貼ってあってこう書いてあった。

 

中へ入る前に、靴についた泥を落として下さい。

 

「まあ山の中だもんな、そりゃあそうか。」

「シマ、やっぱりこのお店変じゃね?」

「なんだよニシ、早く助け呼ばないとクロがかわいそうだろ。」

そう言われるとどうしようもないニシは仕方なく扉を開けて、中へ入った。

扉の裏側にはやはり張り紙がしてあった。

 

当店は写真撮影禁止です。

携帯をこちらのカゴにお入れください。

 

「シマ、携帯入れなきゃダメだってさ。流石におかしくない?」

「預けるのは嫌だな、隠して持っておこうぜ。」

「そんなことしてばれたら怒られるぞ。」

「中学生だから持ってないって言ったら信じてくれるだろ。」

ニシとシマはコソコソしながらポケットにスマホを入れました。

お店の中にはテーブルがいくつか置いてあり、その中のテーブルの1つにだけ食器がセットされていました。

「あそこに座って、お店の人が出てくるのを。」

「シマ、やっぱり俺この流れは、お話で読んだのと一緒だと思う。」

ニシはシマの肘を掴んで止めようとします。

「大丈夫だって!」

シマは食器が置いてあるテーブルに腰掛けようとして、小さな声でニシを呼びました。

「ニシ!見ろよ、また立て札があるぞ」

 

お召し物を脱いでお待ち下さい。

 

「シマ、それの裏なんか書いてる?」

「え、裏?あ、書いてるぞ!【注文はこれで終わりです。あとは準備ができるまでお待ち下さい。】」

ニシはなんだか嫌な予感がしました。

「シマ、お店の人を呼びに行こう。僕ら、料理を食べに来た訳じゃないだろう。」

シマもそれに納得しました。二人で、奥の厨房らしいところまで行くと、ギーシャギーシャと金属を擦るような音がしました。

 

二人は顔を見合わせ、厨房を覗き込むと大きな背中の男がこれまた大きな肉包丁を研いでいました。

男は鼻歌を歌いながら、

「久しぶりのお客さんがやってきた。しかも若いのが二人も。どんな料理にしてやろう。」

男は楽しそうに包丁をギーシャギーシャと研ぎ続けています。

「ニシ、あの人に声をかけたらいいのかな。」

「シマ、静かに聞けよ。さっきいってたお話の結末思い出したんだけどさ。」

「なんだよ。どうなったんだよ。」

「お店からたくさん注文をされた男二人がさ、最後に気付くんだよ。」

「何を?」

「お店の主が自分たちを料理して食べようとしてることに。そのレストランの名前が確か【山猫軒】だったんだ。」

「おいニシ、このお店の名前って、【ヤマネコ】だったよな…?」

二人は顔が真っ青になりました。

とんでもないお店に迷い込んだかもしれないということにやっと二人は悟ったのです。

そして二人は気づきました。

さっきまで聞こえていた鼻歌が止まっています。

二人は厨房に顔を向けました。

髭だらけの男が、こちらを向いていました。歳は40歳後半くらいに見えます。男は包丁を右手に持ったまま、こちらへコツコツコツと歩いてきます。

「だめじゃないか、大人しく座っておかないと。」

しわがれた声で男は言いました。二人は突然のことに動けません。シマが絞り出すように声を出しました。

「あ、あの、電話を…」

男は大きな肉包丁を振り上げました。目がギラギラと光っているのが見えました。

「食材が、逃げてしまうといけない。」

二人は、この男が食材と言っているのは自分たちのことだと悟りました。殺される。逃げ出したいのに、二人は恐怖で足が固まってしまいました。

包丁を持った男の腕が二人目掛けて振り下ろされました。

(だめだ、殺される!!)

そう思って二人が目を瞑った瞬間、

「イダッ!」

という男の叫び声が聞こえ、犬の吠え声が聞こえました。

二人が目を開けると、逃げ出したはずのクロがおとこの脚を噛んでいました。

「クロ!!」

ニシが呼ぶと、クロは男の足を強く噛んでいたのをやめました。

男はまだ痛そうにうずくまっています。

「ニシ!!逃げるぞ!!!」

シマはニシの腕を掴んで立たせ、二人は転げるように出口の扉へと駆け出しました。

「待て!!待てえ!!」

男は起き上がって噛まれた片足を引きずりながら追いかけてきます。

「シマ、捕まったら殺されるぞ!!」

「はやく降りよう!!」

二人とクロは死に物狂いで山を駆け下り、住宅街に出ました。

通りかかった大人に声をかけて、親を呼んでもらいました。二人のあまりにひどいクシャクシャの泣き顔に親はびっくりしましたが、事情を聞くと怒り出しました。

「だから屯鶴峯なんかで遊ぶなと言っていただろう!」

二人の親は警察に連絡して、二人の証言通りに男と店を探してもらいましたが、【洋食レストラン ヤマネコ】の建物しか見つかりませんでした。けれどもその建物は二人が証言するものと同じとは思えないくらいボロボロで、もう何十年も使われていないようでした。

大人たちに、どうせ夢でも見たのだろうと言われてしまいましたが、シマとニシはあの恐怖が忘れられず、屯鶴峯に入ることは二度とありませんでした。

俺の勇者
174112


俺には幼馴染がいる。

俺の幼馴染は、勇者だった。

 

 

俺と幼馴染は、田舎の小さな村で生まれた。俺たちはすぐに仲良くなった。生まれた家が隣同士だったとか、親同士の中が良かったとか、同年代で生まれたのが俺たちだけだったとか、男同士だったとか、理由を挙げればきりがない。なにより幼馴染はすごいいい奴だったし、馬もあったのだ。

俺たちは毎日のように野山を駆け回って、木の実を食べまくったり、動物を追いかけまわしたり、隣の村まで行ったりして遊びに遊んで、畑を荒らしては怒られて、服を汚しては怒られて、勉強中に抜け出しては怒られていた。そんなバカみたいな毎日を、俺たちは一緒に笑って、一緒に泣いて、一緒に怒られて、ずっと一緒に生きていた。

そうやって一緒に過ごしていたから、幼馴染がすげえやつだって気付くのにそんなに時間はかからなかった。あいつは成長していくにつれて身長もぐんぐん伸びるし、笑っただけで隣村の女の子を落とすくらいイケメンになったし、足もあほほど速いし、狩りもうまい。それに加えて勉強もできるし、何なら歌もうまい。もうとびっきりのすげえやつなのだ。

 

そんな幼馴染を見て少し引け目を感じるときもあったのだが、あいつが相変わらずいい奴だったというのと、俺が自分は自分だと思い割り切ったのもあり、幼馴染との関係が悪くなるなんてこともなかった。遠く離れた王都では何やら魔王とかいうとんでもなく悪い奴があらわれて、そいつの部下の化け物が町を襲っているなんて話が飛び交っているそうだが、俺たちの村は結構な山奥にあったということもあり、そいつらが襲ってくることもなく平和な毎日を送っていた。

ある日俺たちが買い出しで少し大きな町に行くと、すごい人だかりができていた。なんでも魔王に対抗するための勇者を探しているそうで、選ばれた勇者だけが抜けるという剣を持って王都からお偉いさんが来ており、それを抜くためにこぞって人々が集まってきているらしかった。

 

ものは試しだ、と俺と幼馴染もその列に並んでみることにした。こんなの抜けるわけがないよな、と二人で笑いあいながら並んでいると、ついに俺たちの番が回ってきた。口ではあんなことを言っておきながら、やはり少しは期待していたのだろうか。剣がびくともしなかったときは少しがっかりしたが、まあ当然か、と思い「やっぱり抜けなかったぜ」などとへらへら笑いながら幼馴染に手渡すと、溶接されているのではないかと思うほど固かった鞘がするりと抜けて、幼馴染の手には抜身の美しい刀が握られていた。

 

あれほど大勢の人が集まり騒がしかった広場が一瞬で静まった。剣を握っている幼馴染は、なんというか、一枚の絵のような、あるべきものがそこに収まったような、そんな感じがした。周囲の人々は驚いた顔をしていたが、剣を持った幼馴染自身が一番驚いていた。俺ももちろん驚いており、伝説の剣ではなく、剣に映る俺の顔ばかりが目に入ってきた。

それからというもの、俺たちの周りはてんやわんやのお祭り騒ぎだった。王都から俺たちの村までよくわからない役人さんが来たり、村中を挙げてお祝いをしたり、幼馴染と一緒に魔王を倒す旅に出るという戦士や魔法使いがあいさつしに来たり、もう大忙しだった。

 そんなことをしているうち、幼馴染は王都にいる王様に呼ばれ、旅に出る前に一つ望みをかなえてやる、という話をされたらしい。するとあいつ、一生遊んで暮らせるだけのお金が欲しいとか、たらふくうまい飯が食いたいとか、そんなことを言えばよかったのに、何を思ったかあいつは、俺を旅に同行させることを望んだのだ。

 しかし俺たちの両親も、村中の大人たちも、勇者と旅をする予定の戦士や魔法使いも、最初は反対しようとしていた王様も、誰一人としてその願いを不思議に思うものは居なかった。それには一つの理由があったのだ。

 

 俺の幼馴染は天下無双、最強無敵の方向音痴なのだ。

 

 あいつの方向音痴っぷりといったらそれはもうとんでもないもので、目を離したら消える。後ろを歩いてると思ったら消え、前にいると思ったら瞬きの瞬間に消え、隣を歩いていたのに笑って肩をたたいた瞬間いない。何のホラーだとふるえたものだ。

生まれ育った村でも一人では家に帰れない。目を離せば野に消え、山に消え、川に消える。トイレに行ったら帰れない。風呂に行ったら裸で消える。

女にもてるのに長続きしないのはこれが原因で、まず待ち合わせ場所にたどり着けない。手をつないでいても消えるというからもはや怪奇現象である。

そんな幼馴染を見つけるのはいつも俺の役目だった。いつも一緒に遊んでいた俺も、最初は急に消えるものだからとんでもなく焦ったもんだが、しばらく一緒にいるにつれてなんとなく幼馴染のいる場所もわかるようになり、幼馴染がいなくなった時にはみんなが俺を頼るようになってきた。あいつは無駄に足が速いもんだから、たまにとんでもなく遠いところまで行くこともあり、それを探すにつれて俺の足もどんどん鍛えられていった。この健脚は俺が幼馴染にも負けないと自負している自慢の一つだ。

そのうち、幼馴染を見つけられるのは俺だけになってしまった。幼馴染も足が速いし、さっき曲がった角を曲がっても、追いかけたら消えているという状況で追いつけるのは俺だけになってしまったという。

 屈強な戦士も、高名な魔法使いもさじを投げた迷子の勇者捕獲係のために、足が速い以外何のとりえもない俺に白羽の矢が立ったのである。とんだとばっちりだった。

 旅は最初から難航した。なんせ、魔法使い、戦士、王子様、王子様の従者だけが旅のメンバーだったはずなのに、お姫様が船に紛れ込んでいたからだ。

 長い髪をバッサリ切ったお姫様が樽から姿を現した時は度肝を抜かれたが、俺は船から行方不明になった幼馴染を追いかけるために海に飛び込んでいてそれどころではなかった。

 

 正直旅の邪魔になるのではないかと一瞬不安になったのだが、まったくそんなことはなく、むしろ城で学んだらしい剣術で旅の道中に出てくる化け物をバッタバッタと倒していた。

 そうなってくると戦闘面において邪魔になってきたのはむしろ俺の方だった。なんせこれまで平和な村で暮らしてきたただの一般人だ。初めて化け物と向き合ったとき、剣を持つ手は震え、足はすくんで動けなくなり、もう少しで無様に泣き出すところだった。初めて見る化け物、魔物といわれる異形の存在は、俺にとって恐ろしくて仕方ない奴らだった。そんな俺の横を通り過ぎて、幼馴染は伝説の剣を片手に一瞬で魔物を切り伏せていた。それだけにはとどまらず、初めて魔物を相手にするとは思えない動きで魔物の死体の山を築いていた。

素人の俺が見ても気付くほど、その剣技は半端じゃなかった。きっと俺がどれほど努力してもたどり着くことのできないであろう領域に、あいつは剣を握ってほんの一週間ほどでたどり着いていたのだ。

 さすがにその時は心が折れそうになった。あいつがすごい奴だということはわかりきっていたが、ここまで違いを見せつけられるとさすがにこたえた。へらへら笑って「お前すげえな」と言ってやりたかった。「さすが俺の幼馴染だ、俺も鼻が高いぜ」と。でもその時はなぜかその言葉が出なかった。そんな顔を仲間に見せたくなくて、しばらくうつむいていると、幼馴染をほめていた仲間の声が、困惑の声に変わっていった。ふと前を見ると、さっきまで戦士にほめられていた幼馴染が忽然と姿を消していた。

その後全員で捜索して、三時間ほどたったところで舗装されていないけもの道をふらふらと歩いているところを俺が発見した。憔悴しきっているほかの仲間を見て、あ、だめだこれ、と。俺の存在意義とか気にしてる場合じゃない。そんなん気にしてたら、こいつ迷子になると悟った。俺がうじうじ悩む時間などなかったようだ。

 

戦闘でも旅の過程でも役に立てない俺は、他の人にメンバーにいる理由を聞かれたら迷わず「勇者の迷子係だ」と答えることにした。プライドなど気にしている場合じゃなかった。        

なんせ幼馴染はどこにいても消える。飯食ってても消える、しゃべってても消える、寝てても消える。旅先の知らない土地でそんなことされたらたまったものじゃない。野原を、町中を、山中を走り回って、見つけたらぶんなぐって仲間に頭下げさせるの繰り返しだった。

そんな日々の中、やっぱり戦闘では逃げ回るしかできない俺は、仲間にいつもごめんと謝った。すると仲間はきょとんと首を傾げたので、おれもきょとんとなる。

仲間たちは俺がいないと旅にすらならないと笑って俺の肩をたたいた。幼馴染も笑っていた。幼馴染は殴っておいた。

 

 

 旅の途中、魔物に俺がさらわれることもあった。

俺がいないと勇者を旅に連れ戻すやつがいなくなるとか、そんなことを言っていた気がする。幼馴染の方向音痴っぷりは魔物の間にまで知れ渡っているのかとあきれ返ったものだ。

幼馴染の方向音痴から俺たちの故郷の特産品まで知り尽くしていた魔物たちであったが、知らないこともあるのだな、と俺をぼこぼこにしている魔物の後ろから鬼の形相で幼馴染が走ってくるのを見ながら思った。

幼馴染はすぐ消えるし、手をつないでも縄でつないでも迷子になるのだが、不思議なことに俺がピンチになったときはすぐに駆け付けてきてくれた。チンピラに絡まれた時はいがぐりを投げて追い払ってくれ、がけから落ちてもおりてきて、雪崩に巻き込まれても洞窟まで連れて行ってくれた。

いつだって俺が困ったときは颯爽と現れて俺に手を差し伸べ、「一緒に遊ぼう」と誘ってくれる。

 

幼馴染は世界の勇者になる前から俺の勇者だった。

 

まあ、その手をつかんだ数秒後には迷子になっているから、お互い様である。素直に感謝しきれないのが困ったところだ。

 

魔物にぼこぼこにされた俺は、魔法使いの尽力もあり奇跡的に一命をとりとめた。目を覚ました時最初に見たのは、ぼろぼろと泣きながら俺の両手を握りしめる幼馴染の姿だった。俺が本当に死んでしまうと思ったそうだ。

意外なことに、魔法使いも泣いていた。普段から「使えない男はタイプじゃない」といっていた彼女は、俺が死んでもそこまで悲しまないだろうな、と思っていただけにその姿が俺の心に残った。

 

魔王の城は、過去最大の難関だった。

幼馴染が正門の前で消え、直線の廊下で消え、行き止まりで消え、四天王の前で消えた。

四天王との戦いが終わり、消えた幼馴染を探していると、魔王の首を持ちながらうろうろしている幼馴染を俺が確保した。

 

 かくして世界は救われたのである。

 

 王都に戻った後、幼馴染はその功績をたたえられてお姫様と結婚した。俺は魔法使いと結婚した。

 幸いなことに幼馴染の迷子係とともに城の雑務を与えられた俺は、子供も産まれ、忙しいながらも幸せな日々を過ごしていた。

 同じ時期に幼馴染にも子供が産まれた。魔王を討伐して以来、迷子になる回数が少なくなっていた幼馴染であったが、子供に迷子癖が遺伝するのを恐れていたようだが、どうやら母方に似たようで、幼馴染のようにいなくなることはなかった。

 幼馴染はほっとしたようで、俺の背中にぐったりとしてもたれかかってきた。重いぞ、と言いながら幼馴染の背中をたたいてやろうとしたら、いなくなっていた。気を抜くとこれだから、迷子係としての役割も健在だ。

 

そんなこんなで俺たちは毎日元気に過ごしている。幼馴染は迷子になり、魔法使いも、戦士も、姫様も、みんなで走ってあいつを探している。

俺も年をとっても健在の健脚で、迷子になった俺の勇者を探す日々だ。

 

 

俺には幼馴染がいる。幼馴染は世界を救いがてら俺の勇者もやっている。

 

俺の勇者は今日も元気に迷子だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

俺には幼馴染がいる。

 

俺には物心ついた時からソレが見えた。ソレというのは長く伸びる奇妙な白い手で、くねくねと動きながら俺に呼び掛けてくる。

『こっちにこい』

『そこはお前の場所ではない』

『お前は我々の王になるため産まれてきた』

と。年を重ねるにつれて、その手はどんどん増えていった。俺はその声にひかれて、どこかもわからずふらふらとどこかへ行ってしまうのだった。暖炉の前でお菓子を食べていたのに、気づくと俺は一人で裸足のまま外に出ていた。戻らなければならないと思うほど白い手は増えていき、視界が真っ白に覆いつくされる。ただ白い手と俺を呼ぶ声のする方へと歩いていく。手が、声が、俺の思考も視界も埋め尽くし、何も考えられなくなる。

 

 

「やっと見つけたぞ!この馬鹿野郎!」

 

 

手が、声が、消えていく。

視界も思考もはっきりしてきたところで、俺は幼馴染に殴られる。

「毎度毎度、どこほっつき歩いてんだこの馬鹿!」

そういう幼馴染は、俺を探すための労力や汚れた衣服について責め立てるのではなく、晩御飯の焼き肉を食べ損ねたことについてずっと俺のことを怒り続けていた。

 

俺が一人でいなくなると、幼馴染は必ず俺を見つけてくれた。俺自身でもどこにいるかわからないのに。ひどいときは一日中いなくなる時もあるのに、必ず見つけてくれたのだ。喧嘩をした時でも、俺がひどいことを言ってしまった時でも、いつだって。

また迷子になり幼馴染に見つけられたある日、俺はなぜいつも俺のことを探してくれるのか?と聞いてみた。

すると、ばつが悪そうに頭をかきながら、

「お前がいないとつまらねーからな」

と答えた。

 

そうか、幼馴染は俺がいないとつまらないのか、と考えると、戻る場所ができたような気がして、少し安心した。依然として俺を呼ぶ声や白い手は俺の周りに存在したけれど、ちゃんと戻らなきゃいけないな、とこのとき俺は初めて強く思った。

 

幼馴染と町に買い出しに出かけると、伝説の剣がどうとかで騒ぎになっていた。俺たちはふざけて参加したが、俺はその剣を抜き、勇者になってしまった。

俺は魔王を討伐するたびに出るよう言われたけれど、知らない土地でもきっと手や声があることを考えると、まともに旅を続けられる気がしなかった。

だから俺は王様に何か一つ願いを聞いてやる、と言われた時、何の迷いもなく幼馴染を旅に連れていく許可をもらった。後から幼馴染に一生遊べるだけの金をもらえばよかったのに、と言われたが、正直そんなことは考える余裕もなかった。

 

旅に出た後も予想通り俺を呼ぶ声や白い手は容赦なく俺を襲ってきた。旅の途中で出てくる魔物やまだ見ぬ魔王なんて怖くはなかったけれど、知らない土地に来て魔王の居城に近づくにつれて数が増えていく白い手や声には困らされた。白い手はその数を増やし続け、時には前が見えなくなるほど増えて世界を埋め尽くす。

でもそんなときでも白い手は幼馴染だけはさえぎらなかった。幼馴染がいる、それがわかっていたから俺はいつだって戻ってこれた。

 

一度、幼馴染が魔物に連れ去られた時があった。幼馴染がいなくなる、死んでしまう、そう思った瞬間、世界の音が聞こえなくなった。

このまま音が聞こえず白い手に連れ去られいなくなってしまうかもしれない、とも考えたが、怖くはなかった。それは困るな、と思っただけだ。

でも、怖かったのは、本当に怖かったのは、傷だらけで血まみれになっている幼馴染の手を握りながら目を覚ますことを祈っているときだった。この手を離せば、いなくなってしまうと思った。それが自分のことなのか、幼馴染のことなのかはわからなかったけれど、話してはならないことだけはわかったから必死でしがみついた。

俺がいなくなるのはしょうがないことだと、頭のどこかでそんな風に考えていた。でも、幼馴染がこの世界からいなくなってしまうというのは、どうしようもなく嫌だった。

 

魔王の城についたといわれたけれど、俺の目には何も見えなかった。白い手が何重にも重なり、波のようにうねっていた。

気付くと俺は、魔王の前に立っていた。

魔王は俺を傷つけようとする様子はなく、俺に話しかけてきた。その話によると、どうやら俺はこの世界の住人ではないようだった。本来別の世界で彼らの王になるべくして存在していた魂が、何かの間違いでこの世界で赤子だったころの俺に宿り、そのまま生まれたのだという。

そうか、俺はもともと人間ではなく、この世界の人間でもなかったのか。自分の常人離れした身体能力や、白い手と声を思い返すと、自然と納得した。

他の世界からこの世界を侵略しに来たのだという彼らは、いつまでたってもこの世界を滅ぼそうとしない俺を迎えに来たのだという。そう言い終えた魔王が俺を迎え入れるように両手を広げると、白い手が俺を包み込むように広がった。

このままもといた世界に戻るのも悪くないかもしれない、俺の本来の居場所はそこなのかもしれない、そう思ったとき、白い手は歓喜に揺れ動き出した。そのままその手が幼馴染と重なるイメージが脳裏によぎった瞬間、気づけば俺は魔王の首を跳ね飛ばしていた。

 

魔王を倒して活気づいている王都で俺は、今までとは打って変わって平穏な日々を過ごしていた。魔王を倒してからというもの、俺を呼ぶ声や白い手は少しは鳴りを潜めていた。気を抜けばまた知らない場所に立っていることもあったが、いつものように幼馴染が俺を探しに来て頭に拳骨を食らわせてきた。

俺は普通に遊んで、普通に飯を食べて、普通に寝て、普通に恋愛をして、短い髪の良く似合う王女と結婚した。幼馴染も魔法使いと結婚した。幼馴染と同じ年に子供も産まれた。

慣れない日々が続き、今まで背負うことのなかった他人の人生や人間関係に悩まされることもあったが、それを投げ出したいと思ったことは一度だってなかった。

手はいまだに俺をほかの世界へと誘おうとする。気を抜くと一人でよくわからない場所に立っていることもある。

でも、俺はこの世界で生きていくということを選んだ。捨てることのできない、何を慕って守りたいと思える大事なものもできた。俺はこの世界で人として生きて、人として死ぬのだ。今じゃ俺を呼ぶ声は幼馴染が俺を探す大声で、白い手は俺の頭に拳骨をくらわす幼馴染の手だ。

そうして、今日も日々は過ぎていく。

 

 

 

最近、また俺を呼ぶ声と手がひどくなっている。幼馴染は半年前、あっさりと死んでしまった。愛する妻や子や孫、ひ孫に囲まれて、毎日干されたいい匂いのするベッドの上で幸せそうに死んでいったそうだ。

俺の妻も一昨年死んでいった。先月はひ孫が結婚して顔を見せに来た。

もういいだろう、と思う。

俺はもうこの世界で十分幸せに生きることができた。白い手は俺の視界を覆いつくさんと動いており、声はもう遠慮はいらないとばかりに俺の頭の中で鳴り響いている。

きっと俺が死ぬと俺の魂に白い手や声が呼び掛けてくるだろう。

でも、俺はあまり心配していなかった。きっとその声や手は俺を別の世界に連れて行こうとするものではないと思うのだ。

 

『おい、何やってんだ馬鹿、早くいくぞ!』

 

その生涯を通してついぞ俺を探さなかったことは一度もなかった幼馴染の手が、方向音痴な俺をまた見つけて、拳骨を落として、自分たちと同じところに連れて帰ってくれるとそう信じている。

 

 

 

俺には幼馴染がいる。

 

幼馴染は俺を世界につなぎとめて俺を救った、俺の勇者だ。

芸人交換日記
174105

2019年4月1日 井川へ

今日はいきなりお前の部屋のポストにこんなもん入れて悪いな。

お前のアパートボロいボロいって聞いてたけどそうでもなかったわ。

駅からは遠いけどな。でもうちからめっちゃ近いわ!!

まさかお前の家のこんな近所に引っ越すとは思わんかったわ。街で会ったら気まずいな。

で、井川が今読んでるこれ!何やこれ?って思ってるやろ?

これはな、交換日記や!ボケやないで。

俺たち「イエロータイガー」が売れる為に、お互い思ったことをガンガン書いてこう。

コンビ結成15年目。今年がM-1のラストイヤーや。

絶対に優勝するために、この交換日記を通してコンビの絆を強くしていこう!

 

4月3日関本へ

嫌です。

 

4月4日井川へ

嫌だと言いながらこの日記をポストに入れてくれたことに礼を言いたい。ただこの日記はこれからずっと続けていくわけやから、わざわざ袋に入れて渡さんでもええで。ほんで何でTSUTAYAの袋やねん。自分がTSUTAYAでバイトしてるからってTSUTAYAの袋で渡さんでええねん!

けど、この日記はやらなあかん。

俺らが売れるために必要なんや!

だからやるぞ。

 

4月6日関本へ

嫌です。

 

4月7日井川へ

ほんまにお前は頑固やな。そういうとこ高校の時から一つも変わってないわ。

ええか、俺ら高校の時はお互いのこと何でも知っとったけど、今は全然知らんやろ?

こんな状態じゃ漫才もウケへんて。だから今日は俺のことについて書かせてもらう。

実はお前に秘密にしてたことが二つある。一つ目はずっと付き合ってる彼女がいること。恵理って名前やねんけど、1年前から付き合ってる。なんか照れ臭くてお前によう言わんかってん。

二つ目は借金があるということ。事務所に借りてるのと、先輩たちに借りてるの合わせたら50万ある。

これを返す為にも俺たちは売れないとあかん!

俺たちが売れることは皆の幸せにつながるんや!

 

4月10日関本へ

二つとも知っていました。て言うか嘘ついてるよね?

借金は200万でしょ?矢野さんから全部聞いてます。あと後輩にも借りてるよね?

変なプライドは捨ててください。

関本のそういうところ本当に直した方がいいよ。

 

4月11日井川へ

初めて自分の気持ち書いてくれたな!その感じでこの日記を活用していこう。

嘘ついたことはほんまにごめん。ただ、後輩からの借金は返すあてがあるねん。だから心配せんでも大丈夫や!

 

4月13日関本へ

別に心配している訳ではありませんが、返すあてがあるとは思えません。昨日、社長に頭を下げているところを見ました。更に膨れ上がらそうとしてない?

関本にもう金は貸せないと社長から僕にお叱りがありました。きちんと働いてください。

 

4月14日井川へ

もう俺の借金の話は止めにしよう。今度はお前の話を聞きたい。

最近恋愛の方はどうなん? お前のバイト先の山本さんめっちゃかわいいやん!

山本さんにアタックしろよ。

 

4月15日関本へ

バイト先に来て交換日記を直接渡すのは止めてください。周りから変な目で見られます。

あと、山本さんが関本のこと気味悪がっていました。じろじろ見てきてストーカーなんじゃないかと。もう店に来るのはやめてください。

 

4月16日井川へ

山本さんそんな風に思ってたんか。もう店には行かんようにするわ。ごめんな。

ただ、山本さんは本当に良いと思う。

思いを伝えるべきだ!

やっぱり手紙が良いと思うぞ俺は。メールやLINEよりも手書きの方が気持ちが伝わると思う。メールで殺すぞと脅迫されるよりも、手書きの殺すぞの方が凄みがあるやろ?

 

4月20日関本へ

僕が山本さんのことを好きという前提で話を進めるのはやめてください。あと、また店に来たよね?山本さんが店長に相談していました。もう金輪際来ないでください。あと手書きとメールの例え、なんか怖いです。

 

4月22日井川へ

俺はただ、お前の恋路を応援したかっただけなんや。そこだけは誤解せんといてくれ!

山本さんを怖がらせてしまったことは謝る。お前からも謝っといてくれ。

 

4月24日関本へ

もう僕のことはいいので仕事の話をしよう。今度の営業のネタは「学生時代」のネタでいきましょう。

 

4月30日井川へ

昨日の営業マジでクソやったな!だからパチンコ屋の営業嫌いやねん。全然ネタ見てくれへんし。てか一緒に営業してたグラビアアイドル、お前は笑えよ!!俺らのネタでクスリともしてなかったやん!

 

5月2日関本へ

パチンコ屋の営業は本当にきついよね。でも今はこういう仕事をコツコツやっていくしかないと思う。文句を言っても仕方ない。

それからあのグラビアアイドルの反応が悪かったのは、関本が出番前にかなりしつこく絡んでいたからだと思います。あれは良くないと思う。

 

5月3日井川へ

やっぱ、事務所変えるしかないわ。俺ら。

今の俺らの事務所って全然力ないやん。テレビの仕事も全然回ってけぇへんし。去年事務所変えた、「ユーティリティ」はあんだけテレビ出てるねんで?

あいつらネタ全然面白くないのに。腹立つわー。

 

5月5日関本へ

今の状態で事務所を変えても仕事は増えないと思います。それから「ユーティリティ」はちゃんとネタも面白いです。ネタが面白くて、今成と森越二人ともキャラがたっているのでテレビに呼ばれているんだと思います。

 

5月8日井川へ

キャラや!俺らにはキャラが無いから売れへんねん!

よっしゃほんなら二人で髪染めよ!赤髪と金髪でいこ!

 

5月11日関本へ

EXITがやってます。

 

5月11日井川へ

じゃあダブルメガネでいこ!

 

5月11日関本へ

おぎやはぎがいます。

 

5月11日井川へ

じゃあキモカワでいこ!

 

5月11日

アンガールズがやっています。てかキモカワは作れません。

同じ日にこんなにやり取りするならもうLINEでいいよね?

 

5月11日井川へ

手書きの重要性はこないだ言ったやろ?手書きじゃないとあかんねん。

てかお前も俺らのキャラの案出してくれや。

 

5月13日関本へ

もうキャラの話は止めよう。そんなにキャラが大事なら身長二メートルのオネェとでもコンビ組んでください。

それよりネタの話をしよう。そろそろ今年のM-1にかけるネタ決めたいんだけど、「マクドナルド」のネタでいい?

 

5月15日井川へ

身長二メートルのオネェなんかおらんわ!じゃあ改名しよう!

やっぱりコンビ名に「ン」が入ってないとあかんわ。

 

5月17日関本へ

「ン」が入ってないコンビでも売れている人たちはいるし、入っていても売れていない人たちはいます。コンビ名は関係ありません。

 

5月19日井川へ

実は矢野さんがやってるバーで占い師と知り合って、改名薦められてん。だから絶対に変えるべきや!今やで俺らの転機は。

 

5月21日関本へ

時間とお金の無駄です。もうその占い師とは関わりを持たないようにしてください。

あと、この間のライブでウケがあまり良くなかったので、「マクドナルド」をM-1にかけるのは止めようと思います。何かいい案ありますか?

 

5月22日井川へ

あの占い師ほんまにありえへん!散々占っといて人の前に立つ仕事は向いてないです、って何やねん!!ほんま腹立つわ!絶対売れて見返したんねん!!

 

5月23日関本へ

ネタの話をしましょう。

 

5月25日井川へ

ごめんごめん、M-1のネタやったな。どのネタがええかとかは分からんけど、一つ言えることがある。それは俺らのネタが古いってことや。これは致命的。若い子にもウケるように流行りも取り入れていかんと。

「学生時代」のネタのあるあるの部分とかもう共感せぇへんねんて。

 

5月26日関本へ

じゃあ関本がネタを考えてください。

 

6月3日井川へ

ごめん、死ぬほど考えたけど何も思い付かへん。

やっぱり俺らのネタは井川のネタ以外ありえへんわ。

 

6月4日関本へ

僕も意地悪なこと言ってごめん。ネタが古いのは自分でも感じてて、その焦りが出てしまいました。でも必死に頭抱えてネタを考えてくれていた関本の姿はすごく嬉しかったです。

絶対に売れよう。

 

6月5日井川へ

今回ネタを考えてみてそのような大変さが分かった。これからは俺も協力する。二人でネタを作るぞ!

やっぱりキャッチーさは必要やと思うねんな。ギャグとか入れてみたらええんちゃう?

 

6月8日関本へ

ギャグはいらないと思います。僕らの漫才はしっかり目のコントをするのでギャグを入れれる部分はないと思います。でも、ネタを一緒に考えてくれようとしてくれているのはとても嬉しいです。

 

6月10日井川へ

それなら漫才のスタイル変えてみたらどうや?

コントに入るんじゃなくて、しゃべくり漫才でいってみるのはどうやろうか?

 

6月11日関本へ

スタイルを変えるのは、面白い試みだと思うけど、しゃべくり漫才のネタを書ける自身がありません。ちょっと難しいんじゃないかな?

 

6月13日井川へ

そんなに難しく考える必要ないんちゃう?

ようは会話ですすめていけばいいんやから、この日記みたいに、何も考えんとつらつら書いたらええんちゃう?

 

6月16日関本へ

それだ!確かにこの日記を読み返してみたら、くだらなさすぎて笑っちゃうところあるもん。絶対面白くなるよ!!

 

6月20日井川へ

井川が書いてくれたネタ最高や!今までのネタの中でダントツにおもろいわ!!

今年はこれでいこ!

ただ一つ懸念なのは俺の滑舌や。今までと違ってセリフが多くなるから噛まへんか心配や。

大事なところで噛んだらどうしよう。

 

6月21日関本へ

その点に関してはボケ数を減らしたり、テンポを調節したらいいから問題ないと思うよ。

とにかくここからはネタ合わせだね。合わせてみて初めて気づくこともあるだろうし。うちからちょっと歩いたところにネタ合わせしやすそうな公園があるんだ。これからできる日は毎日そこでしよう。

 

6月22日井川へ

やっぱめちゃくちゃ良いよこのネタ。俺らに合ってるわ。別にキャラなんか作らんでも俺らに合ったネタをすればええねんな。こんだけ芸歴重ねてやっとこんな当たり前なことに気づけたわ。まだまだ奥が深いなお笑いって。

 

6月23日関本へ

今日の関本ほんとキレキレだったよ。急にアドリブ入れてくるからびっくりしちゃったけど、それもめちゃめちゃ面白かった!

この感じだったらもう少しボケ数増やしてテンポ上げても大丈夫そうだね。

それとも今のままの方がいいですか?

 

6月24日井川へ

もうちょいテンポ上げても余裕やろ!せっかくいいボケあるんやからそれ使わへんのはもったいないわ。俺の滑舌やったら心配せんでも大丈夫や!

これから死ぬほどネタ合わせしてたら絶対に噛むことなんかないから。

あと今日のお前のツッコミの間、マジで完璧!今日の出来やったらM-1決勝絶対いける!!

明日の事務所のライブもこの調子で行こうぜ!

 

6月25日関本へ

そうだよね。今の僕たちだったら全然問題ないよね。

そういえば、今日の事務所のライブのウケ方尋常じゃなかったよね!

最近事務所にプッシュされててテレビにも出てる「ユーティリティ」の次ぐらいウケてたよね。

 

6月27日井川へ

「ユーティリティ」よりも俺らの方がウケてたやろ!あいつらちょっとテレビ出てるからって調子に乗りやがって!今成なんか俺のことシカトしやがったからな!ちょっと前まで「関本さんのボケ参考にさせてもらってます!」とか言ってたくせに。絶対に許さん!

 

6月28日関本へ

それは確かに腹立つね。でもあいつらネタもしっかりしてることは確かだよ。M-1も決勝に絡んでくるんじゃないかな?

でも、社長は僕たちにも期待してくれてるみたいだよ。

ゴールデンのネタ番組のオーディション、事務所から二組出すんだけど、僕らと「ユーティリティ」が出るみたい。相当期待されてるよ僕たち!

絶対に結果出そうね!

 

6月29日井川へ

マジか!イエロータイガー結成以来の大チャンスやな!

俺ら今までネタは一定の評価されてきたからな。

ゴールデンでお茶の間に俺らのこと知ってもらって、一気に全国区なんてこともあるで!

それにしても全国区ってええ響きやなぁ。自分で書いててニヤニヤ止まらへんわ。今度という今度は絶対にチャンスモノにするぞ!

 

6月30日関本へ

今日のネタ合わせも完璧だったね。この仕上がりだったら絶対オーディション受かるよ!明日のオーディション頑張ろうね!

 

7月1日井川へ

やってもうた、あんだけ大事なオーディションやって話してたのに寝坊とかほんまサイテーやな俺。許してもらえる訳なんてないと思うけど謝らせてくれ。ほんまに申し訳ない。謝って済む問題ちゃうけど、謝ることしか俺にはできひん。

これからは酒も控えるし、心入れ換えて頑張っていくから。都合のええ頼みかも知れんけど、これからも俺と一緒に漫才してください。ほんまにお願いします。

俺には井川しかありえへんねん。

 

7月7日関本へ

一生許さないつもりだったけど、やっぱりダメだった。ほんの数日関本とネタ合わせできないだけでモヤモヤしちゃって、バイトも身が入らないよ。

おまけに見たことないぐらい神妙な面持ちで店の外を関本がうろうろしててもう仕事どころじゃないよ。

正直今回のことは僕たちにとっていい薬になったかもしれない。オーディション見たんだけど「ユーティリティ」めちゃめちゃウケてた。他の事務所のコンビもそれ以上にウケてた。僕たち上手く行きすぎててちょっと周りが見えていなかったのかもしれない。もっともっとネタを磨いていかなきゃM-1は勝ち上がれない。

オーディション受けれなかったのは残念だけど、もう一度漫才への向き合い方を見つめ直すいい機会かもだよね。これからも二人三脚で頑張っていこう!

 

7月8日井川へ

6日間も返事無かったからもう許してくれへんって思ってた。この一週間お前のバイト先と家のポストの往復やったわ。この生活があとどれぐらい続くのかすっげー不安やった。許してくれてありがとうな!

OA見たけど、全組めちゃめちゃおもろかった。正直今の俺らやったら敵わへんって思った。「ユーティリティ」も全然負けてなかった。認めるわ。あいつらはおもろい。

でも、あの中に割って入っていかへんとM-1決勝には行けへんねんな。

井川の言うとおりもっとネタを磨かなあかんな。

ネタ作るのはお前やから、俺にはできることないかもしれんけど、手伝えることあったら何でも言ってくれ!

 

7月9日関本へ

手伝ってくれるって言ってくれてありがとう。でも、関本はいつも通りで大丈夫。この日記のやり取りでもネタにつながることはいっぱいあるし、関本の先輩との関わりとかは正直すごくありがたい。

知ってた?最近色んな先輩たちが僕たちにアドバイスくれるんだよ。「シンクパンク」さんとか「へびぶどう」さんとか。関本のお酒の席での付き合いは無駄じゃなかったんだよ。(だからと言って飲み過ぎは良くないけどね)

僕はそういうの苦手だから、関本がそういう関係を築いてくれるのはめっちゃ助かってる。ありがとう。

 

7月10日井川へ

まさか、俺のお酒がコンビにとってプラスになる日が来るとはな。人生何があるか分からんな。

分かった。俺の役目はそういうことやな。

後、俺バイト始めたから。元々芸人やってはった葛城さんがやってはる居酒屋やねんけどな、そこめちゃめちゃ先輩来るねん!交遊関係も広がって一石二鳥やで!

だから、お前バイト減らせ。お前がネタ作ってる時間も俺がバイトで稼いだるから。俺がお前を養ったる!

 

7月12日関本へ

関本の言うとおりバイトを減らすことにしました。お前を養うって言葉ちょっと気持ち悪いけど嬉しかった。でも、それ以上に嬉しかったのは店長がすごく応援してくれたこと。

僕が芸人だってことは黙ってたんだけど、山本さんが店長に言っちゃってたみたい。

あ、言い忘れてたけど、僕と山本さんはこの交換日記を始めるもっと前から付き合ってました。黙っててごめん。

話変わるけど、この前のオーディションの件で、社長がすごく怒ってて事務所のライブに全然出してくれないんだよね。だからお客さんの前でネタをする機会は激減しちゃうかも。

 

7月13日井川へ 

サラッと衝撃の告白してきやがって!やたらと山本さんオススメしてた俺がアホみたいやんけ!

まぁええわ、とりあえずおめでとう。おめでとうで合ってるか?まぁそれはいいとして。

ライブのことは心配すんな。俺が他の事務所の先輩に事務所のライブに出してもらえるように頼むから。絶対大丈夫や!

 

9月1日関本へ

なんか最近ライブとかネタ合わせとかでしょっちゅう顔合わせるから、全然日記でやり取りできなかったね。関本のおかげでライブもいっぱい出れたし、ネタもいっぱいかけることができた。ほんとにありがとう!

明日はとうとうM-1一回戦だね!絶対決勝いこうね!

 

9月3日井川へ

M-1一回戦突破!

まぁ正直一回戦は通過点ぐらいにしか思ってなかったけど、会場トップ通過は嬉しいな!

この調子で決勝までノンストップで行くぞ!

 

9月15日関本へ

M-1二回戦突破!

今日も会場トップ通過だったね!

ツイッターのレポとか見てもめちゃめちゃ評価高いよ僕たち!

今年は絶対決勝いける!!

 

9月30日井川へ

M-1三回戦突破!

さすがに三回戦ともなるとまぁまぁ実績あるコンビも落ちていくな。

けど、次からはネタ時間4分やからな。俺らの良さもっと出していけるし、大丈夫やろ!

 

10月15関本へ

M-1準決勝進出!

ここまで順調に行くともうなんか怖いね。

ちょっと相談があるんだけどネタ時間少し余ったから、もう少しボケ足す?僕はこのままで大丈夫だと思うけど。

 

10月16日井川へ

ボケは足そう!

準決勝は一筋縄ではいかへんはずや!もっともっとパワーアップしたネタでいかなあかん!ほんで決勝進出や!

 

10月30日関本へ

準決勝ダメだったね。

ボケを足す提案なんてしなかったら良かった。完全に僕の責任だ。ごめん。

 

10月31日井川へ

井川はなんも悪くない。二ヶ所も噛んだ俺が悪いわ。アドリブも空振りやったし。

井川は最高のネタ作ってくれたのに。やっぱり俺が足引っ張ってるわ。

 

11月1日関本へ

まだ敗者復活があるんだから切り替えていこう!

「ユーティリティ」も森越がネタ飛ばしてダメだったみたいだけど。リベンジに燃えてるよ。僕らも頑張ろう!

11月11日井川へ

ごめん、俺もう無理や

11月12日関本へ

もう無理ってどういうこと?なんで敗者復活来なかったの?ずっと待ってたんだよ?何かあったんでしょ?電話も出ないし…事務所のみんなも心配してる。

今年はだめだったけど、来年もあるんだから!

せっかく今年コンビ組んで初めていいところまでいけたんだから、またここから一緒に頑張っていこうよ!

連絡待ってるから…

2020年5月1日井川へ

最近テレビでお前を見ない日はないってぐらい売れてんな!

お前と今成のコンビ最高やな!めちゃめちゃおもろいわ!

去年の敗者復活の時突然消えてもてごめんな。

でも、もう漫才できる精神状態じゃなかってん。また大事なところで噛んでもて、お前の足を引っ張ってまうんちゃうかって思ったら、上手く喋れんくなってもた。

そんな時に社長からコンビ解散してくれって頼まれた。井川と今成を組ませたかったんやって。それで今大成功してるんやから、すごいよなあの社長も。

今俺は居酒屋で正社員として働いてる。結婚もしてる。嫁のお腹のなかには赤ちゃんもおる。正直めちゃめちゃ幸せや。

でもふとした瞬間にお前とあの公園でネタ合わせしてたのを思い出してまう。俺やっぱり漫才が、お前との漫才が好きやったんやな。

でも、あのまま俺らがコンビでやっていっても、こんなにお前は売れてなかった。これで良かったんや。

この日記をお前が読むことはないと思うけど、書かずにはいられんかった。これからもお前の活躍を応援してる!

 

2035年12月13日井川さんへ

突然この交換日記をお渡ししに行ってしまいごめんなさい。私はあなたの元相方である、関本敦の娘です。

あなたと父の関係はこの交換日記を読んで初めて知りました。父が井川さんとコンビを組んでいたことを知り、とても驚きました。

今日は一つお願いがあって伺いました。

実は今父は大腸がんで入院しています。末期がんで先は長くないそうです。死ぬ前にもう一度父に会っていただけませんか?

 

12月20日関本へ

正直今この日記を読まされても思うことは何もない。突然お前が消えて、突然今成とコンビ組まされて、ここまで売れるのにめっちゃ苦労した。バッシングも受けた。俺は正直お前のこと許してない。お前ががんで苦しもうが関係ない。俺の相方はもうお前じゃなくて今成やから。

 

12月23日関本へ

やっぱりダメだ。嘘ついて強がってみたけど、思ってもないこと書くのはやっぱり心苦しいや。

関本はふとした瞬間にネタ合わせしたことを思い出すと言いましたが、僕はマイクの前に立つ度に思い出します。

今成は絶対に噛まないし、変なアドリブも入れてこなくて最高の相方です。

でも、最高の相方のはずなのに、ネタに満足することはありません。やっぱり僕は関本とのあの下らない漫才が好きなんだと思います。

今でももう一度関本と漫才をしたいと思っています。

僕の相方はあなただけです。

だから早く元気になってください。

またいつか一緒に漫才しましょう。

 

2036年1月16日井川へ

こんな俺のこと相方として認めてくれてありがとう。

またいつか一緒に漫才しよな。

先逝って待ってるわ。

 

永遠に
174106

 いつまでも続くと思っていた。出会いもあれば別れもあるんだね。

 

「はるこー、おはよう」

 振り返ると、かすみが笑顔でこっちに向かって走りながら手を振っている。

「おはよう。朝から元気だね。」

かすみは照れながら

「今日ね、りくにご飯いこうって誘われたの。」

「すごいじゃん。かすみ、ずっと好きだって言ってたもんね。」

「はるこはいいね。ずっとまさやくんとラブラブで。」

「まあね。」

そんな会話をしながら下駄箱で靴を履き替えて教室へと向かう。

 教室へ入るともうみんな来ていて私は最後らへんだったみたい。

「はるこ、おはよう。」

「あ、まさや、おはよう。」

今日もいつも通りまさやと教室であいさつをする。

 今日の授業中はかすみの朝の話で頭がいっぱいだった。かすみ、今日りく君に告白されるのかなあと考えると自分の事のようにうれしくなり、宙に浮くような気持になった。私がまさやと付き合った時が懐かしいなあ。

 もう三年も前のことだけど鮮明に覚えている。委員会で帰りが遅くなり、二人で帰ったあの帰り道の景色の、あの風のにおいも覚えている。はじめはまさやのことをただのまじめな奴としか思っていなかったけど、委員会で一緒に時間を過ごすうちに、こんな表情を見せるんだとかこんなこと話すんだとか自分の知らない新しい一面を見せるまさやにいつの間にか惹かれていった。いつもやさしく話を聞いてくれるまさやへの気持ちがどんどん強くなっていくのが自分でもわかった。

 

その日の帰り道、いつも通りの道でいつも通り会話をしていた。急にまさやが立ち止まって

「ねえ」

といった。

「ん?」

「はるこのこと好きなんだ。付き合ってくれない?」

急な言葉に私は動揺した。うれしいはずなのにすぐに返す言葉が思いつかない。そしてやっとのことで

「私も。私でよければよろしくお願いします。」

「ほんと?」

あのまさやの驚いた顔は今でも忘れられないなあ。

「うん、ほんと。」

「はるこのこと絶対に幸せにする。」

「照れる。」

「はるこのこと絶対に離さないから。」

まさやはいつにもなく真剣な顔つきで私の顔を見つめる。わたしは恥ずかしくなって顔をうつむけた。

「さ、帰ろう。まさや、鼻真っ赤だよ。寒いでしょ。」

「そうだね。」

 

それからまさやと一緒に帰ったり、休日には遊びに行ったりすることが多くなった。もうあれから三年たつが、やっぱり今でもまさやのことが好きだし、まさやも私のことを好きでいてくれる。

 まさやの好きなところを言い出したら本当にきりがない。優しいし、一緒にいて落ち着く、まさやはいつもいい匂いがして髪からふわっと香るあの優しいにおいが好き。いつも私のことを一途に思ってくれるところが好き。たまに嫉妬深くて束縛してくるところもあるけど、それは私の事好きでいてくれてるが故の事だから我慢するようにしている。

 でも最近その束縛がだんだんきつくなってきている。最初は男友達と二人きりでご飯に行かないでと言われた。だんだんその束縛はきつくなっていき、グループで言っても男がいたらいったらだめとか。男と連絡を一切取らないでとか。最近ではクラスの男子とは一切口をきいたらいけないと言われた。そんなことできるわけがない。

今日、クラスの中谷君と昨日のドラマについて話が盛り上がっていた。すると、何かの視線を感じ、その先を見てみるとまさやがじっとこっちを見ていた。私はきにしないで中谷君と夢中になって話をした。

 その日の帰り、まさやと一緒に帰る約束をしていた。まさやはいつものようにやさしく私の話をうなずきながら聞いてくれた。私は今日中谷君としゃべっていたことを怒っているかもしれないとびくびくしていたが、そんなことはなかった。いつものように私の話をやさしく聞いてくれている。

なあんだそんな気にすることじゃなかったじゃん。

そしてまさやはいつものように私の家の前まで送ってくれた。

「ありがとう。じゃあね、また……」

と言いかけたとき、まさやが急に私をかべに押さえつけて

「クラスの男子と一切口を交わすなといったよな?」

とおおきな声で言ってきた。その時のまさやの顔は今までに見たことのないような、冷たい目をしていた。私はまさやにこんなに怒鳴られたことがなかったので、一気に血の気が引いて、ぶるぶる震えていた。怖くて怖くて何も言えなかった。

「あ……。ごめん。はるこを怖がらせたかったんじゃないんだ。はるこのことが好きなんだ。許してほしい。」

いつものまさやに戻っていた。私はほっとした。気が付くとほほをツーっと涙が伝っていた。まさやはきっとストレスか何かがたまっていて、つい私に怒鳴ってしまったんだ。だっていつものやさしいまさやだもん。その時の私はそう自分に言い聞かせた。

 しかし。まさやはあれから何回か私を束縛し、その約束を守らなかったら私に怒鳴るようになった。学校で男の先生と話したり、まさやと一緒に行った洋服屋さんで男の店員さんと話しているだけで、まさやは恐ろしい目つきでこっちを見ていることが多かった。じっとこっちをにらみ、両手を握りしめ、歯をかみしめて震えているのだ。

私はだんだんまさやのことが怖くなって、好きという感情より恐怖を感じるようになっていった。

 ある時、またまさやが怒鳴ってきた。いつもは手を出してこないのにこの時は、私のほほをたたき、恐ろしい目つきで私を見ていた。そして、またまさやはいつも通り我に返り、やさしい声で謝ってくる。

私は我慢ができなくなり、ついに別れを切り出した。

「まさや、もう私これ以上我慢できないよ。別れよう。」

「はるこ?どうしたの?ごめんね。はるこが好きだからだよ。もう怒ったりしないから。だから別れようだなんていわないでよ。」

「ううん、まさやのその束縛が私を苦しめるの。だから、ごめん。もう別れてほしい。」

「束縛?束縛なんかしてないよ。はるこが大好きだからなんだよ。だから許してよ。絶対にはるこの事大切にするから。離さないから。」

私は、まさやの言葉が聞こえていたがそのまま振り返らずに、帰った。もうおしまいだ。もうこれ以上縛られるのはこりごりだ。これでいいんだ。

 

それから、まさやとはクラスが一緒だから毎日教室で会うが、一切口をきくことはなかった。

 まさやと別れたことはすぐに親友のかすみには伝えた。かすみは最初は驚いていたが、はるこが決めたことだもんね、と納得していた。そしてカラオケでもいこうと誘ってくれた。持つべきものは友だと改めて感じる。かすみのやさしさに私はいつも助けられてばかりだなあと思った。

 

ある日かすみが

「今日、合コンあるんだけどいかない?もうまさやくんと別れて五か月も経つし、そろそろ彼氏ほしいでしょ?」

「うん、まあ。でも合コンとかなんかこわいし……。」

「それは心配ないよ。私の中学の時の知り合いで、本当にいい人だから。ね?だからいこう?もし気にいらなかったら帰ったらいいし。」

「うーん、じゃあ。」

「よーし、きまりね。今日の放課後一緒に向かおう。」

あまり乗り気じゃなかったが、行くだけ行ってみようか。

 初めての合コンに行ってみると意外と楽しくて、みんなやさしいしおもしろいからすぐに打ち解けた。向かいの席に座っているたくみさんという人と特に仲良くなった。たくみさんはまじめでやさしくてすごく周りに気づかいのできる人だった。

 その日から何度かたくみさんとご飯に行くようになり、打ち解けた。ある日たくみさんが

「はるこにすごく惹かれてるんだ。付き合ってくれないかな。」

と言ってきた。私はすごくうれしくてすぐに、はい、と返事をした。

それからたくみさんといろんなところに出かけた、水族館や遊園地、京都など。どれもすごく楽しくてたくみさんといると、二人だけの世界にずっといるような感覚に襲われた。たくみさんといる時間がいつも幸せだった。

でも幸せはそう長くは続かないものなのかもしれない。

だんだんたくみさんが心なしか私と距離を置くようになった。私はそれを感じながらも、気づいていないふりをした。たくみさんと久しぶりに会っても、そっけない。顔をよく見ると傷があり、どうしたのかと聞いても転んだとしか返してこない。転んだような傷には見えないのに。

最近何かがおかしい。たくみさんは私に何かを隠しているような…そんな気がするのだ。でもそれを聞く勇気がなくていつも聞かずに帰る。

 今日は学校で居残り勉強をしていたせいで、帰るのが遅くなった。季節は真冬で空はもう真っ暗。乾いた冷たい風が私のほほをかすめる。なんか懐かしいやさしいにおいがする。風が運んできたのだろう。でもそれが何のにおいかは思い出せない。なんのにおいっだっけ、と考えていると急にケータイ電話が鳴った。誰からだろう。画面には「たくみさん」の文字が。出てみると、電話の向こうのたくみさんにはいつもの落ちつきはなく、すごく焦っている様子だった。

「どうしたの?」

「はるこ、ごめん。俺と別れてほしい。」

「嫌いになっちゃった?わたしのこと。」

「いや……。っていうか、はるこ、おまえ、まさやってやつ知ってるか?」

「うん、元カレだけど……。それがどうしたの?」

「あいつ、はるこのことが好きだとかなんだとか言って、おれのもとに何回もやってきたんだ。それで早く別れろって刃物で脅してきたり……。」

私ははっとした。たくみさんの顔の傷と結びついた。

「え……。なんで……。」

「とりあえず、おまえはやく安全なところへ逃げろよ。」

「え?」

「まさやってやつが今俺のところへ来たんだけど、もうはること別れるって言ったら、何を思ったか急に顔の形相をかえて、走っていったんだ。もしかしたらお前の所へ行ってるかもしれない。」

私は急に怖くなって、電話を切ることも忘れて、ただただ自分の家へと走った。走って走って走った。家についた。家の鍵を取り出して開けていると肩をトントンとたたかれた。ふりかえるとまさやがいた。まさやは私の肩をぎゅっとつかむと

「はるこ、俺言ったよな?」

「……。」

「はるこのこと絶対に離さないって。」

k174107


「宇宙のドコカで」



 

「俺、実は宇宙人なんだ。」



西日が差し込む部室の中で、その光に照らされた勇人は、何の脈絡もなくそう言った。ほこりっぽい部室には、勇人のほかにはもう自分しかおらず、制服に着替え帰る用意をしていた明は、その手を止めることなく返事をした。



「はぁ、何言ってるわけ。さっきのフライで頭おかしくなったのかよ。」



「違うよ。信じてもらえないとは思うけど、でも、俺は宇宙人なんだ。」



 勇人は意外にも真剣な顔で返事をしてくる。もうすぐ十一月になる部室はうっすらと肌寒かったが、ノックにティーバッティング、塁間ダッシュと、いつものように練習をこなした明の体はほてっていて、すぐに学ランを羽織る気にはなれなかった。それ以上に、勇人が言い出した面白くもないボケに、明はどう反応したらいいのか、考えあぐねていた。



「人間としてここ何年か問題なく生きてきたんだけどさ、なんか明にはほんとのこと言いたくなっちゃった。」



「勇人、ちょっと何言ってるかわからない。」



 勇人も好きだったはずの芸人のまねをしても、特に関心を見せる様子もなく、勇人は淡々と話を続けた。



「明は、さ、俺がみんなと同じ人間じゃなかったとしても、これまで通り友達のままでいてくれる?」



 思わぬ方向へ話が進み、いよいよ明は困惑した。



「マジで何言ってんの。おもしろくないって。マジで頭おかしくなったんじゃね。病院行けよ、ばーか。」



 先ほどからの落ちの見えない会話への多少のいらだちも込めながら、明は背後で着替えていたはずの勇人を顧みた。が、彼は特にこちらを見ることもなく、几帳面に脱いだ練習着をたたんでいた。その見慣れた姿からは、いつもと変わった様子も、ましてや宇宙から来たような違和感も感じられなかった。



 



 5時間目の社会のノートを取りながら、明はふと数か月前の勇人との奇妙な会話を思い出していた。結局あの後どうなったんだっけ。はっきりとは思い出せないけど、なんだか結局違う話題になった気がする。それか勇人にのって、何星から来ただの「ワレワレハウチュウジンダ」って言えだの、つまらないやり取りを続けたのかもしれない。しかし、今それを勇人本人に確かめることはできない。



 勇人は、三年に上がった時から学校に来なくなった。一学期の始業式を休んで、その次の日も、そのまた次の日も休んで、授業が始まっても、給食が始まっても、勇人が学校に来ることはなかった。学校には勇人のお母さんから連絡がきていて、担任の先生が教えてくれた話によると、勇人は学校に行きたくないと言っているそうだった。



それからの学校生活はなかなか気持ち悪いものだった。三年生の先生たちはいじめを疑って、勇人とよく一緒にいた人や、一、二年で同じクラスだった人が放課後に一人ずつ呼ばれて、生徒指導室で面談された。勇人のことで何か知っていることはないか、悩んでいるようなことはなかったか、大体みんなそんなことを聞かれたけど、勇人がなぜ学校に来なくなったのか、誰もわからなかった。



特に明は、相手を変えて何度も面談された。一回目は担任の岡本先生、二回目は勇人と同じクラスだった一年のときの担任の大西先生、三回目は野球部の顧問の井上先生。特に井上先生との面談は長かった。勇人とは、中学に入学したときからずっと、野球部で一緒だったからだ。しかし、そんな明でもわからないことを悟ると、先生たちは目に見えてがっかりした。そして、いつも苦笑いを浮かべながら明に、「先生たちも困っているんだ。」と愚痴をこぼした。そんなことを言われたって、明には、どうしようもないのに。



明は、おそらくこの中学校の中で一番勇人と仲が良かった。同じ団地に住んでいるため、小学生のときから、近くにある公園で一緒に遊んだ。家族どうしも付き合いがあり、よくお互いの家を行き来した。小三のときには、一緒に少年野球に入った。中学への通学も、なんだかんだで一緒になる。同じ野球部だから、帰りも一緒だった。二年でクラスは別れたが、三年はまた勇人と同じクラスだ。勇人が一日もいないクラス。勇人が所属したことのない、三年二組。勇人は自分が二組だってことを知っているのだろうか。いや、岡本先生が熱心に家庭訪問しているのだから、知らないわけないよな。もし、知らないんだったら、それは、ちょっとおもしろいな。



勇人はお笑いが好きだった。毎週火曜の夜10時にやってる「君にチューずでい」が特に好きで、水曜の朝はその話ばかりしてくる。自分の知らない芸人について熱く語る勇人の姿は、朝が弱い明にとってわずらわしいものでもあったが、同時に優越感に浸ることのできる時間でもあった。勇人がこんなにも自分の話をするのは、家族以外では明の前だけだったからだ。



勇人は影が薄い。影というか、キャラがない。よく学園ものの漫画なんかで三人組とかで主人公のうわさを言っている目が描かれない男子。それが勇人だった。とくに何かをするわけでもない。いてもいなくても影響が出ない。そんな人間が勇人だ。野球部でも、勇人のポジションは、ベンチだ。もし試合に出るとしても、勇人が本当に守りたいショートにはつかせてもらえない。せいぜいレフトあたりが精一杯だ。少年野球のときから、勇人はずっとそうだった。



“俺は違う” 明は、勇人を見るたびに、いつもそう思う。俺はいてもいなくてもいい人間じゃない。ちゃんとまわりに影響を与える側の人間だ。



明は、二年の夏にショートのレギュラーに選ばれた。三年が引退した新チームの、副キャプテンにも選ばれた。クラスでも、明はみんなの輪の中心か、イケメンで人気者の修人につっこむポジションにいることが多い。おもしろくて、顔もそこそこいい。勉強は良くいって中の下ぐらいだが、運動神経は抜群で、4月の体力テストのボール投げと反復横跳びは、毎回学年のベスト5には入っていた。



自分はクラスのほかのやつらとは、少し違う。明は、そんな感情を持ちながらも、それを表に出すことはしなかった。調子に乗ってはいけない。そんなことをすれば、これまで俺が積み重ねてきたものはすぐに無くなってしまう。でも、俺はそれをちゃんと分かっている。でしゃばらない。ミスらない。明は無意識にまわりを見下しながらも、その感情を忘れなかった。



しかし、唯一明がそれを表に表してしまう場所があった。それが勇人と二人のときだ。勇人はいつも、「明はいいなあ」と言う。なんのプライドもなく。「俺も明みたいだったらなあ」と。その言葉は明の心の奥底に住み着く。これが他のクラスメイトだったら、明は平静を装って、なんでもない風に「でも俺、性欲めっちゃ強いぜ」と言う。これが一番速く話題の変わる方法だと、一年の秋に気付いた。ただし、勇人の言葉だけは、そうはしなかった。黙っていても、強く当たっても、いじっても、何をしても勇人は「明はいいなあ」と言う。その無条件とも言える尊敬は、明の心に染み込んでいく。油断する間のない日常を送る明の心は、いつしか勇人の言葉を待ち望んでいた。明が自分でも気付かない、気付こうともしないうちに。



勇人がいない新学期が一週間を終える頃、休み時間のみんなの会話に勇人の話題が出てくることはほとんど無くなった。初めの方は明の周りには、勇人の情報が欲しい女子が溢れていた。それも3日が限界で、6時間授業が始まる頃には、みんな委員会や係の情報戦で忙しかった。



その辺りにはもう、勇人の机がある列のプリントは、何の違和感もなく一枚少なく回されるようになっていた。学校が始まってすぐのときは、よく勇人の机の中からは、乱雑に入れられた保健だよりや、『スマホの使い方』のプリントが見えていた。掃除の時間、机を運ぶときには、そのプリントがよく床に落ちて、たまにそれを近くのやつが踏んづけて、上履きの型のついたプリントが、また勇人の机の中に入れられた。それを見かねたのかは知らないが、先生が事前に集めておくシステムにしたらしかった。



 

運動部が次々に引退し、受験の話がされ出した頃、勇人の形跡は学校から完全に消えてしまった。もう誰も、勇人をいじった不謹慎なギャグで笑いを取らないし、先生が道徳の時間に不登校の話をすることもなくなった。勇人のことを覚えているのは、この学校で俺だけらしかった。俺だけが、存在の消えた勇人の影を見ていた。俺にしか見えない教室の隅の勇人の机。俺だけにしか見えない部室の勇人のロッカー。俺だけにしか見えない勇人の形跡は、俺の心に語り掛けてくる。



「明はいいなあ」



「俺も明みたいだったらなあ」



 5時間目の社会が終わってすぐ、明は家へ向かった。もう一人で歩くことに慣れすぎた街中、公園の横、近道の路地裏、勇人の家の前。何度も来ては、何度もそのまま通り過ぎた玄関。そのインターホンを、明は押した。



 勇人。お前は俺にはなれないんだよ。でも、お前はもう俺の一部になってんだ。お前は俺だよ、勇人。



 



 

「俺、実は宇宙人なんだ。」



「はぁ、何言ってるわけ。さっきのフライで頭おかしくなったのかよ。」



「違うよ。信じてもらえないとは思うけど、でも、俺は宇宙人なんだ。」



「人間としてここ何年か問題なく生きてきたんだけどさ、なんか明にはほんとのこと言いたくなっちゃった。」



「勇人、ちょっと何言ってるかわからない。」



「明は、さ、俺がみんなと同じ人間じゃなかったとしても、これまで通り友達のままでいてくれる?」



「マジで何言ってんの。おもしろくないって。マジで頭おかしくなったんじゃね。病院行けよ、ばーか。」



「明、俺さ。お前になるのがずっと夢だったんだよ。だって、お前さ……」




 「今日は『君にチュウずでい』の内容を変更してお送りしています。先週から行方不明の田中明君は…」 

 

 


k174108

『カインド・ストーリー』


これは、決して許されることのない二人の恋の話。
あるところに、とっても心の優しい青年が住んでいた。青年の名は、ユウタ。母親と二人で暮らしていた。


「母さん、キュウリがたくさん採れたよ!たくさん漬物が作れるなあ」
「ほんとね、さっそく漬物を作る準備をしましょう!」
「僕、漬け石持ってくるよ!」


 貧しいながらも、親子で手を取り合って楽しく生活していた。しかし、その生活は永遠には続かなかった。母親が体調を崩し、寝込んでしまったのだ。


「母さん、具合はどう?しんどい?」
「ユウタ、ごめんね....」


 ユウタは、献身的に母親を看病した。けれども、何日経っても、一向に良くなる気配はない。それどころか、どんどん症状は悪化しているようにも見える。高熱が下がらず、どんどん痩せこけていく母親の姿を見続けるのは辛いものだった。医者を頼っても、「原因不明」の一点張り。どうにかならないものかと、ユウタは頭を悩ませた。
 ある日、母親の病状について調べるために、図書館へ行くと、ある本を見つけた。


「西の島に、人魚あり。その人魚の心臓を手に入れたもの、願い叶うなり。」


 この記述を見つけた瞬間、ユウタの心臓はバクバクと激しく振動した
「もしこれが本当なら…」
 もちろん、この記述が本当という確信はまったくない。そもそも、人魚が存在するのかどうかも疑問である。しかし、どんなに看病しても、何回医者に診てもらっても、一向に回復しない母親。ユウタは、一筋の希望の光を見つけたように感じた。そして、人魚を探しに行くことを決めたのだった。





「あなたには、人魚であるという自覚がないわ。周りはみんな一人前の人魚になっているというのに…。いつまで落ちこぼれでいるつもりなのかしら。」
「ごめんなさい…」
シーラは、悩んでいた。人魚の世界では、18歳になると、人間の男の心臓を手に入れると一人前になれるというきまりがある。人間の男の心臓を手にしたものは、その勇気をたたえられるとともに、永遠に生きられるとされているのだ。その一方で、心臓を手に入れられんかった者は、永遠に生きることはできず、徐々に衰弱していく。さらには、おちこぼれのレッテルを背負って生きていくことになるのだった。しかし、シーラはもうすぐ19歳になろうとしているというのに、一向に心臓を手に入れられる気配がなかった。なぜなら、シーラは心優しい性格をしていて、人間を殺すということがどうしてもできなかったからだ。しかし、人魚の世界で生きていくためには、いやでも達成しなければならない。そういう決まりなのだ。周りの友達はどんどん一人前になっていく。自分だって、一人前になりたい。でも、心臓を手に入れるということは、人の命を奪うということ。使命と自分の感情の板挟みになったシーラは、決断することができず日々悩んでいた。けれど、あっという間に月日は流れてしまう。そして、ついに人魚界をまとめる王女から呼び出しをくらってしまったのだった。
「あなたはもうすぐ19歳になるのよ?いつまで甘ったれているの。19歳になるまでに心臓を手に入れるのことができなかったらどうなるか…あなた知ってるわよね?いい加減にしなさい。」
王女に諭されたシーラはついに、人間の男を殺す決意をした。





「母さん、行ってくるね。すぐに帰ってくるから。」
ユウタは、眠っているお母さんにそっと話しかけ、家を出ていった。人魚がどこにいるのかも、本当に存在しているのかもわからない。不安でいっぱいだった。しかし、女手一つでここまで育ててくれた母を救うためには、これしか自分にできることはないのだ。ユウタはそう言い聞かせ、震える手で船をこぎ、西にある島へと向かった。幸いにも、ユウタは、海が好きだった。泳ぐことも、船をこぐことも、小さいころからたくさんやってきたので、時間が経つと楽しくなってきた。「人魚って本当に尻尾があるのかなあ…」なんてのんきなことを考えながら、気づけばどんどん進んでいくのだった。
しかし、何時間が経つと、急に空模様が怪しくなってきた。
「こ、これはまずい... こんな小さい船、嵐が来たらひとたまりもない!」
彼の不安は的中し、波は荒れ、ゴーゴーと風が鳴る。
「う、うわあ!!!」
ついに、彼の船は転覆し、海に投げ出された彼の意識はなくなってしまった。





「よし、とりあえず、海を上がってみよう。」
 海に潜っていても、人間には会えないだろう。そう思ったシーラは、海面へ上がることにした。最近、海面に上がってなかったなとぼんやり思いながら、浜辺に上がると、横たわっている人の影が見えた。
 人間の男を殺すと決意したはずなのに、いざ人間を目の当たりにすると、足が震えだした。
「私はこの人を殺すの?」
シーラは自分の手でこの男を殺す想像をしただけでたまらなく胸が痛くなった。しかし、これは一人前の人魚になるチャンスである。とりあえず、遠くから様子を見てみることにした。
 男は一向に動く気配がない。寝ているのかと思ったが、呼吸しているのなら、少しは動きがあってもいいはずだ。しかも、船できたなら、船があるはずなのに、船は一艘も見えない。
「もしかして…!」
嵐で流されてきたのかもしれない、そう思ったシーラは、一目散に男のところへ駆け寄った。心優しいシーラは、自分の目的を忘れ、男を助けようとしたのである。男は意識がない。人魚は男を抱え、声をかけた。
「ねえ、ちょっと!ねえ!起きて!」





誰かの声がぼんやりと聞こえてくる。
「ねぇ・・・ねえってば・・・・!」
意識を取り戻したユウタが目を開けると、そこには長い髪の美しい女がいた。
「あれ、ここは・・・?」
「あなた、ここで倒れていたのよ!なにがあったの?」
ユウタは、西の島へ向かっている途中に嵐に見舞われて遭難してしまったことを話した。
「なぜこの島に?ここはあなたの目指していた西の島よ。」
女の言葉で、目的地に運よく流されたことを知った。そして、身体を起こしてみると、なんと、女には尻尾があった。
(もしかして、この人は人魚なのか…Hこの人の心臓を手に入れれば…)
しかし、ユウタは心優しい青年。自分を助けてくれた人魚をすぐに殺すことはできなかった。
「あ、えっと…。あの、その、この島に珍しいものがあると聞いてやってきたんだ。それがなにかは僕も良くわからないんだけど…」
ユウタは、とりあえず即座に考えた嘘でこの島にきた理由をごまかした。





シーラは、自分の目的を思い出した。そして、この島にやってきた男を不審に思った。なぜなら、この島にある珍しいものが自分たちのことであることを知っていたからだ。きっと自分たちを面白がって、この島にやってきたのだろう。そう思うと、少し腹が立った。しかし、この男を殺せば、一人前の人魚として認められる。これは絶好のチャンスだと思ったシーラは、腹をくくり、この男に近づき、殺すことに決めた。


「とにかく、助けてくれてありがとう。僕はユウタ。君は?」
「わたしはシーラよ。死んでいなくてよかったわ」
 
 ユウタは、船を失くしたことを理由に、シーラに援助をしてもらいながら、島で暮らすことにした。シーラは、地上に長い時間はいられないので、会う時間を決めて、二人は毎日会うようになった。最初は、二人ともお互いに相手を殺すタイミングをうかがっていた。しかし、日が経つにつれ、二人は惹かれあい、目的を忘れてしまった。
 ユウタは、船を手にし、村へ帰れるという状況になってもなお、帰ることをせず、二人は、何もかも忘れて、夢中で、愛を育むのだった。


 しかし、そんな幸せな日々が続くわけもなく、ある日、シーラの元に封筒届いた。
 そこには、手紙と謎の薬が入っていた。


「あなたはあの約束を忘れたのかしら?18歳の間に、男の心臓を手に入れないといけないというのに、あなたの19歳の誕生日まであと三日。もし自分の手で殺せないというのなら、この毒を使いなさい。いい加減目を覚ますのよ。」


王女からの手紙には、このメッセージが書かれていた。謎の薬は、ユウタを殺すためのもの。
 シーラの目からは涙があふれた。そして、自分が人魚であることを恨んだ。自分が生きていくためには、ユウタを殺さなければならない。しかし、ユウタは、シーラの愛する人。殺せるはずがなかった。


ユウタの寝顔を見ながら、シーラは悩んでいた。自分が生きていくために、愛する人を殺すことなんてできない。「なぜわたしは人間でなく人魚なのだろう。」この思いが、シーラを苦しめた。
 しかし、シーラは人魚として生まれた以上、この運命から逃れられないことも分かっていた。
「わたしは人魚だから、こうするしかないのよ…」
 シーラは覚悟を決め、寝ているユウタの口元に毒を近づけた。しかし、どうしても飲ませることができない。
「これを飲ませたら、わたしは一人前になれる…」
 けれども、何度ユウタに毒を飲ませようとしても、実行することができない。
 シーラは、自分のことよりもユウタのことが大切なのだと気付いたのだ。ユウタがいない世界で生きている意味はない。しかし、二人で幸せに暮らすことも許されない。ユウタを殺せないのなら、残された道はただ一つ。


「さよなら、ユウタ…」


 シーラは自ら毒を飲み、ユウタの隣に倒れた。そして、帰らぬ人となってしまった。





 目を覚ましたユウタは、いつものように横にいるシーラを抱き寄せようとした。
 しかし、シーラは、いつもみたいに抱きしめ返してくれない。心なしか、体温も冷たいような気がする。ユウタは飛び起きた。そして、シーラの青白い顔を見て、血の気が引いた。


「…シ、シーラ?」


 シーラはもう、息をしていなかった。


「な、なんでだ!シーラ!シーラ!」


 ユウタは、シーラを揺さぶりながら必死で叫んだ。そして、ジーラの横に落ちているなにかを見つけた。手紙と薬の入っていた袋だった。
 王女からの手紙を読んだユウタは、すべてを理解し、自分の愚かさを悔やんだ。人魚の世界にはこんなしきたりがあることも、シーラがずっと一人で悩んでいたことも、なにも知らなかった。
 
 僕が、シーラを守ってあげられたら・・・シーラのいない世界で生きていくなんて嫌だ!


 立ち尽くしていると、ユウタの脳裏にかすかな記憶がよぎった。
 布団に横たわり、苦しそうに寝込む女の人の姿....


「....か、母さん!」


 ユウタは、やっと自分の本当の目的を思い出した。この島にやってきたのは、母親を救うためだったのだ。しかし、シーラに夢中で、その目的さえも忘れてしまっていた。
 せめて、シーラの命を、母の命に代えなければ…。
 シーラを抱えて、急いで母の元へ戻った。




 しかし、時すでに遅し。家に入ると、もうそこには誰もいなかった。母は、すでに亡くなっており、葬儀も終えられていたのだった。


「か、母さん....」


 ユウタは、呆然とした。突然息子がいなくなり、一人で苦しんで亡くなった母親のことを思うと、辛すぎて、息もできない。


「僕は、なんて愚かなんだろう....」


 そして、悲しみに打ちひしがれたユウタは、母親とシーラにもう一度会うために、自ら命を絶つのであった。
 
 
 


100万回も生きたねこ
174109


私は100万回も死なない犬です。100万回もしんで、100万回も生きたのです。私はりっぱなしばいぬでした。



 100万人の人が、私をかわいがり、100万人の人が、私がしんだときなきました。



 私は、1回もなきませんでした。私は、死ぬことが怖くありませんでした。なぜなら、何度死んでも何度も生きたからです。私は、生きたいとも思いませんでした。生きても死んでまた生きるの繰り返しだったからです。 私は死ぬたびにあの世を経験しました。私の行く場所は毎回違う場所でした。



 

ある日、私は100万回も生きた猫の噂を聞きました。その猫は、ある日目を覚まさなくなったと聞きました。私は、もう生きかえることができなくなったその猫を哀れに思っていました。



 

 

 あるとき、私はとある頭の切れる知将の犬でした。私は、知将なんか嫌いでした。



 知将は戦がとても上手で、いつも戦をしていました。知将は、私の綺麗な毛並みをたいそう気に入っていたようで、毎日家来にブラッシングさせていました。私も自慢の毛並みを整えられてご機嫌でした。そして、知将は、私をりっぱなかごにいれて、戦に連れて行きました。戦では、たくさんの人が死にました。海でも山でも戦をしました。知将は、戦に勝つととても上機嫌でした。戦に勝つと、食事が豪華になるので、私もご機嫌でした。知将は、戦がうまくいかないといつも頭を抱えていました。私にはわからないプレッシャーがあったようでした。私は知将と一緒に、いつも高いところから眺めていました。知将は、いつも私をなでながら戦を眺め、指示をだしたりしていました。



 ある日、私は飛んできた矢にあたって、死んでしまいました。それは、いつものように知将の膝の上で、知将になでられながら戦を眺めていたときでした。知将は、戦をやめて、お城に帰っていきました。そして、お城の庭に私を埋めました。戦で沢山の人が死んでも泣かなかった知将は私を庭に埋めながら泣いていました。私は、知将の身代わりに死んだ犬として有名になっているようでした。



私ははその後あの世に行きました。そこには、戦争で死んだ人がたくさんいて、みんなが私を責めました。みんな、泣いていました。中には、残してきた家族のことをずっとぶつぶつとつぶやいている人もいました。みんな体だけでなく心が傷ついていました。ですが、私には他人事でした。そこは、生きていたころにみた景色とおんなじようにおもえました。



 

 あるとき、私は旅人の犬でした。私は旅なんか嫌いでした。



 旅人は、世界中の色々な場所に、私を連れて行きました。私と旅人はいつも2人きりでした。どんな危険も顧みず、紛争地帯やジャングルなど、旅人は世界中を旅してまわりました。旅人は、月の綺麗な夜になると私によく語りかけました。



「戦争で、妻を亡くし、子供は戦地に召集されていったきり連絡もなし、何年も帰ってこない、1人きりになった俺にとって、お前は唯一の家族なんだ。月の綺麗なあの夜、お前に出会えてなかったら、俺は今ここにいないかもしれない。」



私にはカゾクというものが分かりませんでした。だからただ、見知らぬ場所で月を見上げて、旅人の話を聞いていました。



 ある日、私は、地雷を踏んで死んでしまいました。旅人が靴ひもを結ぶためにかがんだときに、気づかず先を歩いていた時でした。私は大きな爆発音とともに、粉々になってしまいました。旅人は、私の欠片を拾い集めて、見晴らしのよう場所に埋めました。その日は月の綺麗な夜でした。



私は、またあの世に行きました。そこは広い広い海にうかぶ小さな島でした。そこには、私しかいませんでした。他にもおなじようなしまがあるようでしたが、みかけることはなかったので、それが本当かどうかも分かりませんでした。



 



 あるとき、私は、ひとりぼっちのおばあさんの犬でした。私は、おばあさんなんか大嫌いでした。



 おばあさんは、足が悪く、歩き回れないので、私を抱いて、小さな窓から毎日外を見ていました。私は、1日中おばあさんの膝の上で、眠っていました。おばあさんの膝の上は、陽があたりとても暖かく、私の特等席でした。私の立派な毛並みは、日差しを浴びるとキラキラと輝き、より一層美しくみえるので、いつも私は、そこに得意げに座っていました。おばあさんを訪ねる人はだれもおらず、いつも、私とおばあさんの2人きりでした。



 日向ぼっこをしながら、おばあさんは、ときどき私に昔の話をきかせました。でもその話は、とてもゆっくりで、前に話したことのある話を何度も繰り返したり、なんだかわからない話になったりするので、私は、いつも途中で寝てしまいました。おばあさんは、そんな私の立派な毛並みをなでながら、1人で話を続けたりしていました。



 そんな日々を何日も何日も繰り返しました。やがて、私は年を取って死にました。その日は、とても温かい日でした。よぼよぼのおばあさんは、よぼよぼの死んだ私を抱いて、1日中泣きました。おばあさんは、庭の木の下に冷たくなった私を埋めました。



私は、その後あの世に行きました。ほどなくしておばあさんにあの世で会いました。おばあさんは、家族や知り合いに再会できてとても嬉しそうでした。そんなおばあさんを見て、私には、そんな相手がいないことに気づき、少し寂しくなりました。



 

 

 あるとき、私は女優の犬でした。私は女優なんか大嫌いでした。私は、よくSNSに載せられました。私と撮ると反響が大きいらしく、いつもいろいろな格好をさせられました。芸能人は、お仕事に行くときも私を連れて行き、色々な人に私を紹介しました。次第に、私は、有名になり、私だけでドラマやCMに起用されるほどでした。私の写真集も出版されました。そして、そのどれもが大きな反響を受け、私は、沢山の人から可愛がられました。私は、一世を風靡し、1万年に一匹の才能持った犬だと囃されました。



 ある日、私は、チョコレートを食べて死んでしまいました。チョコレートは、犬が食べてはいけない食べ物だったのです。しかし、それを知らない芸能人が私にそれを与えたのです。私もそんなことをしらなかったものですから、食べてしまい、そのまま目を覚ましませんでした。目を覚まさなくなった私を抱いて、芸能人は夜通し泣きました。そして、私を広い庭の大きな木の下に埋めました。



目が覚めると私はまたあの世にいました。そこでは、誰も私に興味がありませんでした。前は、私がなにかするとすぐにSNSや雑誌を通して発信されて、私は毎日カメラや人前にいなければいけませんでしたが、ここでは、そんな必要もありませんでした。なんだかほっとするような気持ちがしました。



 

 

 私は、死ぬのもあの世にいくのも平気でした。ちっとも怖くもありませんでした。やっぱり何度も生きるからです。



 

 

 あるとき、私は誰の犬でもありませんでした。野良犬だったのです。私ははじめて自分の犬になりました。私は自分が大好きでした。私は、自由だと喜びました。



 私は、りっぱなしばいぬだったので、りっぱな野良犬になりました。また、100万回も生きて、沢山の経験をした私は、野良になっても困ることはありませんでした。しかし、野良犬の私を人間は怖がったりしました。それでも私は平気でした。100万回生きた経験があったからです。食べ物にも寝る場所にもこまることはありませんでした。



 またそんな私の話を、誰も彼もが、聞きたがりました。私が、話し出すと、みんな興味深く話をきき、みな感心した様子でした。それを見て私は得意げでした。人と違うことを誇りに思い、自分は違うのだと自負し、相容れようとはしませんでした。私は、誰よりも自分が好きだったのです。



 ある日、丘でいつものように自慢げに話していると、たった1匹、私に見向きもしない、美しい犬がいました。



 私は、その犬のそばに行って、



 「おれは、100万回もしんだんだぜ!そして、100万回もあの世に行ってるんだぜ。」



と言いました。



 犬は、



 「そう。」



と言ったきりでした。



 次の日も、次の日も、私は犬のところへ行って、これまで、生きてきた100万回のことを話しました。それでも、犬はつまらなそうでした。私は意地になって、



 「君はまだ1回も生き終わっていないんだろう。あの世なんてしらないんだろう。」



と言いました。



 彼女は、



 「そう。」



と、言ったきりでした。



 ある日、私は、彼女に言いました。



「みんな俺が死ぬと泣く。だけど、おれは、1度も泣いたことがないんだぜ。」



 彼女は、



「そう。」



と言ったきりでした。



 私は、毎日毎日、彼女に話しかけました。ある日、私は、彼女に再び言いました。



「おれは、100万回もしんだんだぜ!そしてあの世を体験したんだぜ。」



彼女は、



「100万回死んだの?じゃあ生きたのは?あの世を体験したの?この世を体験したのは?」



と聞き返しました。



 私は、



「そりゃあ、100万回だよ」



と答えようとしましたが、何故か言葉に詰まってしまいました。



「それは……」



 長い間沈黙が続き、彼女は何も言わず立ち去ってしまいました。



 

 それから、あの丘に行っても彼女に会えない日が続きました。私は、少し安心したような、しかし残念な気持ちになりました。私は、毎日毎日あの丘に足を運びました。どれだけ多くの犬に囲まれて称賛されても、考えるのはあの犬のことでした。すれ違いになってしまっているのかもしれない。私は、丘で1日中過ごすようになりました。夜になって、朝になって、また夜になって、朝になって、私は何日もあの犬を待ちました。



 朝になって、夜になって、ある日のお昼に、遂にあの犬に出会えました。



 私は思わず、あの犬に駆け寄っていました。そして、



「100万回生きたと思ってた。でも、君に言われてから考えた。君のそばなら初めて僕はこの世を生きられると思うんだ。いいかな。」



と、尋ねました。



 彼女は、



「ええ。」



と言いました。



 

 私は、彼女のそばに、いつまでもいました。



 彼女は、可愛い子犬を6匹産みました。1匹目は、少しわがままなとても頭のいい男の子でした。2匹目は、冒険が大好きなさみしがりの男の子でした。3匹目は、人を笑顔にするのが大好きな女の子でした。4匹目は、いたずら好きで家族想いの男の子でした。5匹目は、とても静かで穏やかな女の子でした。6匹目は、遊ぶことが大好きな明るい女の子でした。7匹目は、きらびやかなものが大好きな可愛い女の子でした。



 私は、お産を終えた彼女を見て、なぜかとても神秘的なものを感じました。それと同時に、とても彼女を抱きしめたくなりました。



 私は、もう、



「おれは、100万回も……。」



とは、決して言いませんでした。



 

 私は、家族を守るために、毎日出かけて行っては、色んなことをしました。100万回の経験は決して無駄になりませんでした。私は過去を振り返り、その時の体験談を話したりして、いろんなものをもらいました。そうして、私たちはなんとか物に困らずに楽しく暮らせていました。



ある日、私は歩いていると、1人の男の子におもいっきり木の棒で叩かれてしまいました。男の子は、お母さんに怒られてむしゃくしゃしていたようでした。なんとか自力で家までたどり着きましたが、そこから全く家を出ることができなくなってしまいました。食糧調達はもっぱら私の仕事でしたから、私たちは一気に困ってしまいました。そんなときに、彼女は、



「私が今度は家族のためにがんばる番ね」



そういって、毎日外に出かけては、食糧などを持って帰りました。彼女は、私と違って、特に芸ができるわけではありませんでしたから、どうやって手に入れているのか、不思議に思っていました。そこで、私は、



「どうやって、毎日毎日食糧をてにいれているんだい?」



と尋ねました。すると、彼女は、にっこり笑って、



 「やさしい人が分けてくれているんですよ」



と言いました。その笑顔があんまりに美しいものだから、私はドキッとしてしまいました。



それから半年が過ぎ、足の傷もだいぶ癒えたある日、彼女はぼろぼろで傷だらけになって帰ってきました。彼女の美しい毛は、泥や砂がたくさんついて黒く薄汚れ、ところどころにすり傷や打撲の跡が見られました。私は、驚いて、彼女に何があったのか尋ねました。



「帰り道に転んでしまっただけよ。心配してくれてありがとう。」



彼女は、そう答えたきりでした。しかし、彼女はそれからも度々、傷をつくって帰ってきました。私はついに心配でたまらなくなり、痛む足にむちをうって、彼女の後を追うことにしました。彼女は、私たちの住処を出、街に出、街を抜けた広い畑や田んぼの集まる場所に歩いていきました。そこで、私は、想像だにしなかった彼女の行動を目にしました。



彼女は、畑や田んぼの作物を、こっそり獲っていたのです。私にとって、彼女は天使のような存在でした。彼女は美しい毛が自慢でした。彼女は曲がったことが大嫌いでした。その彼女が、人目を盗んで、私たちのために作物を獲っていたのです。そこには、沢山の罠が仕掛けられていました。彼女は、一つ一つの罠に注意しながら、作物を獲っていましたが、農家の人に気づかれてしまいました。「あっ。」と思い、声を掛けようとしましたが、声は出ませんでした。



「また来たか、盗っ人犬めが。」



農家の人は、そう言って彼女に石を投げつけました。彼女は、作物をもって走っていきました。私も彼女の後を追い、全力で走りましたが、なんせひさしぶりに走ったものですから、足がもつれて転んでしまいました。起き上がると、彼女はもういませんでした。



私は、驚きと、彼女に対する感謝の念を感じると同時に、愛する彼女にそこまでさせてしまっている自分の不甲斐なさと彼女に対する申し訳なさでいっぱいになりました。私は、自分の存在意義を見失ってしまいそうでした。私は、自分が大嫌いになりました。



私が帰るより早く家についていた彼女は、私に、



「どこにいってたの?足の具合は大丈夫?」



と聞きました。私は、「ちょっとリハビリがてら散歩にね。だいぶ良くなったよ。」とだけ答えるつもりでしたが、彼女の足にある、石のあたったようなあざを見て、思わず、



「君にそんなことをさせてすまない。私は、君にそんなことをさせてしまっている私が大嫌いだ。」



と言ってしまいました。



彼女は知っていたのかと驚いた表情を見せましたが、すぐに優しい顔をして、私の目を見て言いました。



「私は、どんなあなたも大好きよ。謝らないで。私はあなたに感謝しているのよ。」



遠くから見ていた子どもたちも、私に駆け寄ってきて言いました。



「おとうさん、大好き!」



と。



 私は、再び私を好きになれましたが、私は、彼女とたくさんの子犬を、自分よりも好きになっていたことに気づきました。



これまでは、自分のやりたいことは我慢せずにやってきました。人からどう見られているのかなんて全くきになりませんでした。それで時には、人を困らせたりしました。これまでは、カゾクというものが分かりませんでした。私は、ただそこにいれば、人がなんでもしてくれました。私1人生きて行くのは簡単なことでした。



しかし、彼女と出会って、子どもができて、はじめて「家族」を知りました。私は、自分のことなんて気にならなくなりました。私は、家族になんでもしてあげたくなりました。彼女たちの我儘もダメなところも全部愛おしく感じました。私たちは、色んなところへ行きまいた。それは、とてもとても幸せな時間でした。ある日、長男が私に聞きました。



「ねえ、あの世ってどんなところなの?死ぬってどういうことなのかな?」



私は、不意の質問に驚いてしまいました。以前なら、自慢げに経験を話していたでしょうが、私には、出来ませんでした。



「それは、死ぬまでわからないよ。そして、死は尊いものだよ。みんな生きている時間を大切にするために死があるのかもしれないね。」



そう答えました。



 

 やがて、子犬たちは大きくなって、それぞれどこかへ行きました。



「あいつらも立派な野良犬になったなあ。」



と、私は満足して言いました。



「ええ。」



と、彼女は言いました。そして、私の毛並みを愛おしそうに撫でました。



 彼女は、少しおばあさんになっていました。しかし彼女は、出会った時より一層美しくみえました。私も彼女の毛並みを優しくそっと撫でました。二人の毛並みは、出会ったときに比べて、美しいとはいいがたいものでしたが、二人にとってはより一層輝いて見えたのです。



 私は、彼女と一緒に、いつまでも生きていたいと思いました。この時を大切にしたいと思いました。彼女を守りたいと思いました。



「死にたくないなあ。」



はじめての感情でした。初めて私は死を意識しました。



 

 

ある日、彼女は、私のとなりで、しずかに動かなくなっていました。



「もっと君と一緒に生きたかった。」



私は、はじめて泣きました。彼女は幸せそうな顔をしていました。それを見て、大きな声をあげて泣きました。夜になって、朝になって、また夜になって、朝になって、私は100万回も泣きました。



 朝になって、夜になって、ある日のお昼に、私はなきやみました。そして、私は彼女を土に埋めました。ふたりが出会ったあの丘のてっぺんに穴を掘り、彼女を埋めました。



「ありがとう。愛してた。」 



 私は、彼女のとなりで、しずかにうごかなくなりました。



 

 



 その夜、私はあの世にいました。そこには彼女がいました。彼女は優しいほほえみを浮かべ、「あの世はこんな素敵な場所だったのね。」と言いました。私は彼女の手を取り言いました。



「僕も初めて知ったよ。生きることを。そして、あの世というものを。」



 

私は、あの世で、これまでの人生で出会った人たちともう一度会いたくなりましたが、出会うことはありませんでした。100万回生きた猫にもあって話したくなりましたが、その猫にも出会うことはありませんでした。



 






 私はもうけっして生きかえりませんでした。


k175011

「わあああああああああああああああああああっ」

 

歓声が鳴り響く。

 

相手チームからボールを奪い、スティールに成功したみつると目が合った。相手チームの5番も必死にみつるのドリブルを追いかけている。

 

「6、5、4・・・」

 

カウントダウンが聞こえる。僕たちが普段使っている体育館2個分くらいあるこの県立体育館の観客席いっぱいに人がうまり、誰もが僕たちの試合をみているのがわかる。汗が止まらない。第4クォーターが終わろうとする今、コートに立っている僕は案外冷静で、ああ、これで最後なんだな、なんて思ってた。視界の端に入る相手チームの監督が立ち上がった様子や、うちのマネージャーが泣きそうになってるのなんかもわかった。ゲームボードには48と46の赤い文字が光ってる。僕らが勝つにはあと3点必要だ。

 

「3・・・」

 

「きょ、う!」声が届かなくてもその唇の動きとアイコンタクトでわかる。回転の強いボールをミートしたのは、スリーポイントライン。

 

「・・・2、1!」

 

残された行動は1つに決まっていた。

 

僕の手から放たれたボールは長く弧を描き、リングまで届く。

 

「わああああああああああああああああああああああっっ」

 

 

「ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピッッ」

とけたたましいアラームの音が鳴り響いた。薄く開いたまぶたの隙間から差し込む日差しが痛い。歓声に似ているようなこのうるさいアラームは、あの日を思い出させるようで顔をしかめて、時計を止める。

「またあの夢みたなぁ・・・。」

あの夢の続きは知っている。ゴールまで届いたボールは、リングにはじかれ入らないのだ。

 

あの3週間前のバスケの試合が僕達、東中学3年生最後の公式試合となってしまった。相手は顧問の先生同士が学生時代からの因縁をもった西中学校で、彼らはあの試合に勝って全国大会に進出した。

 

着替えてリビングに降りると、焼けた食パンのいい匂いがする。

「おはよう。」

卵焼きを焼いていた母さんが僕の声に振り向く。

「おはよう、響。最近は早起きね。」

「まあね。」

「そういえば、圭君。全国大会が終わって昨日帰ってきたらしいわね。引退試合いつだっけ。」

「明日だよ。」

 

多くの運動部では夏の公式試合を最後に引退するが、東中のバスケットボール部では、公式試合が終わっても引退はまだなのだ。僕達の最後の試合は明日。相手は西中で、この引退試合は2校の伝統らしい。ミニバスから一緒だった圭は、西中のキャプテンで4番を背負っている。162cmしかない僕とは違って、185cmもあり中学3年生にしてダンクも出来る。バスケセンスも抜群で、その背格好を武器としてゴール下での勝負を得意ともするが、コート全体を見渡す視野が広くリーダーシップがあるので、ポジションはポイントガードだ。ついでにいえば、優しくて顔も良くて、女の子にもモテる。

 

夏休みで学校はないので、朝は勉強し午後は部活に向かう。練習はハンドリングから始まり、最後はゲームだ。

 

「ありがとうございましたっ。」

監督の話をきき終え、今日の練習は終わりだ。残ったのは、自主練習を目的とした僕とみつる、明日の準備をしてくれるマネージャーの桜。

 

「今日の監督すごかったなぁ。熱はいりすぎ。どんだけ引退試合に気合入ってるんやって。」

いつものように関西弁で軽口をたたきながら、みつるがシュートをきめる。

「しょうがないよ、去年負けたから今年こそって思ってるんだよ。監督引退試合すごく大事にしてるもん。」

桜がそう答えるがもちろんそれだけじゃないことはわかってる。

 

あの日、みんな試合の後泣いていた。正確に言えば、僕とみつる以外は。僕は最後のスリーポイントシュートを外したことしか頭になくて、泣くことも出来ず呆然としていた。みつるはあの場では涙をこらえていたが、次の試合をみてくるといってから、控え室にいつも通り明るく戻ってきたみつるの袖が濡れていたのを僕は知っていた。

明日の試合は、リベンジマッチになるのだ。試合に勝ってももう全国大会に行くことは出来ないが、僕達にとってそれ以上に意味のある試合になる。

 

「明日で最後だね。そういえば私たちの学年って、高校いっても誰かバスケ続けるのかな…。」

3人しかいない体育館にさくらの高すぎない丁度いい声がよく響く。自主練習後のこの感じも今日で最後だ。

「弥生たちは続けないって言ってたな。みつるはどうするの。」

 

「俺は、続けるかな。」

そう言いながら、舞台上に置いたバッシュを片方片手に取り大事そうに見つめる。

「やっぱバスケ好きやし。つうか、これから先バスケの無い生活考えられへんかも、いまさら。」

「そっか。」

「響は。」

「僕は…、考えてる。」

そう言って曖昧に微笑むことしか出来なかった。

 

帰り道の途中で2人と別れ、みつるの言っていた「バスケの無い生活」という言葉を反芻していた。

 

僕は圭みたいに背も高くないし、みつるみたいに派手で自在なドリブルワークがあるわけでもない。バスケに向いてないことには気づいていた。

元々、バスケ漫画にハマって小2から始めたバスケ。僕の好きな漫画の主人公のシュートには、格好いい名前がついていて、そういうシュートが出来るものだと思っていた。でも、僕のシュートにはもちろん名前なんかつくわけなくて。練習だって、漫画のシーンにはないような吐くほど辛いものばかりだった。現実は全然甘くなくて、県代表をきめる最後の大事なシュートも外してしまう。あれがあの主人公ならきっと入っていただろう。

キャプテンに選ばれたのも、練習に休まず毎日参加していたからっていうのが大部分だ。でも、明日で4番を着るのも最後だ。

そんなことを考えながら、今日は携帯のアラームをセットして眠りについた。





 



 



「響君、やっぱりあの試合引きずってるよね。」

「まあな、気持ちがわからんでもない。まして、得意のスリーポイントじゃあな。」

響と別れ、誰もいないのに電灯で照らされた公園を横目にみつるは答えた。

 

「もったいないな。高校でもバスケ続けたらいいのに。」

「あいつは自信ないからなぁ。キャプテンに選ばれたのもまぐれかなんかって思ってる。あれだけ機転の利く選手そうそういいひんのに。」

 

桜の家に着いたところで別れを告げて、みつるも少し来た道を辿って帰る。

 

「明日で響とバスケ出来るのも最後かもしれへんなぁ。」

 

さっきもみた公園の象の滑り台にむかって呟いた。



 



 

「今日は引退試合だ。悔いのないように思う存分やってこいよ。」

監督の声は今日もよく響いている。

「お願いします!」

「お願いします!」

響の声にみんなが続く。

 

ウォーミングアップをしていると、圭が東中の方に向かってきた。何度も練習試合をしてきているので、響以外も圭とは知り合い程度である。

「響、今日で最後だね。負けないよ。」

「僕も負けれないよ。いい試合にしよう。」

 

「ピー――ッ。整列してください。」

 

上を見渡すと、観客が多い。伝統である東中と西中の試合ときいて、近所やОBの人々が見に来てくれたのだ。他にも選手の友達も来ている。

 

東中のスタメンには、4番と5番の背番号をつけた響とみつるが入っていて、もちろん西中のスタメンには4番の圭がいる。最初のボールは圭がはじき、西中がパスを回す。6番がインサイドエリアに攻め込み、シュートをうつ。

 

外れたシュートは、

「リバウンド!!」

両チームの応援席から声があがる。

 

とったのは、みつるで他の選手はもう逆サイドに戻っている。

 

「一本とるでー。」

初めの一本はなんとしても獲りたい。流れをもってきたい。両チームとも考えることは同じだ。

(やっぱり初めは…響やろ。)

響がディフェンスを離したタイミングを見計らい、ノールックでパスを出す。響がいるのは、アウトサイドエリア。スリーポイントライン周辺だ。

 

この流れは、東中にとってよくみられる攻撃パターンだ。初めに響がスリーポイントをきめて流れをもってくる。

「攻撃こそが最大の防御である」をスローガンとして掲げている東中にとって、2点しか入らない普通のシュートと違い、3点得点が入るスリーポイントシュートが初めに入ることで、士気がぐっと高まる。

 

響はボールを取ると、インサイドエリアに攻め込んだ。ゴール下で綺麗にゴールを決めると逆サイドへ走る。

 

「え。」

結果としてシュートは決めているが、これには東中だけでなく西中も戸惑いを隠せなかった。

西中も手の内を知っているからこそ、響に離されはしたがスリーポイントをうたせないようにディフェンスをつけていたし、東中もここで流れをつかむはずだった。

この場にいる誰もが思い出した。あの日の響のスリーポイントを。

 

みつるは思わず、ベンチにいる監督を見た。最後の試合なのに。こんな引けをとったプレイをしたら響は下げられてしまうかもしれない。

 

案の定ベンチでは、監督は次の選手に声をかけていて、

「難波、第2クォーターでるぞ。体あっためとけ。」

難波は、響達の一個下で次期エースだ。ベンチがざわついた。

「はいっ。」

 

「ピー――ッ。第1クォーター終了です。」

バスケットボールの試合は、10分間の競技を4回行う。この10分間の競技をクォーターと呼び、第4クォーターまで行う。

そのクォーターの間に休憩を挟み、作戦会議等を行うことが出来る。

 

選手たちがそれぞれのベンチに戻る。

第1クォーターでは、10対12。東中が勝っているとはいえ、流れはよくない。

あの後にも響がフリーになって、スリーポイントをうつチャンスはあったが、響はパスをするかインサイドでシュートをきめるだけだった。

冷静な響のプレイスタイルはいつもと変わらなかったが、いまいちどこかで攻めきらない響のプレイは、味方にももう一度前回の悔しかったあの場面を想像させてしまう。

 

「響がひっこんで難波だ。どんどん攻めていけ。」

「…はい。」「はいっ。」

すんでのところで「響っ。」となじりだしそうなのをみつるは我慢した。

響自身が悔しがっているのがわかったからだ。そして、交代の理由も本人が一番よくわかっている。

 

第2クォーターが始まる。

いつも東中は響とみつるが交代で司令塔となって、試合を回す。

難波もよく出来た選手だが、響に比べると心許ないのが正直なところである。

 

「取り返していくぞー。」

 

ポイントガードの圭がハーフラインを越えながら声を出す。

西中は全体的に体格の良い選手が多く、いつも出ているレギュラー5人のうち4人は180cmを超えている。

そのため、ゴール下のポストプレーを得意とし確実に点を獲っていくのが西中の攻めのスタイルだ。

圭のディフェンスについているのは、同じポジションであるポイントガードのみつるで、

 

「抜かせへんで。」

「それはどうかな・・・っと。」

 

すかさず空いたパスコースをみつけて、圭がゴール下にいるセンターにパスを出す。ワンバウンドしたボールをキャッチしたセンターはそのままシュートに持っていく。

「わあああああああああっ。」

ボールはボードに当たってリングに入った。西中サイドの応援席から歓声があがる。

 

みつるがボールを運び、今度は圭がみつるにディフェンスとして就く。ドリブルのスピードが不規則に変わる。

(きた。)

みつるがドリブルで左に切り込み、圭はすかさず反応しついていく。瞬間、みつるの手にはさっきまでつかれていたはずのボールがない。

「やられた!」

逆サイドを見るとボールを持って既にシュートモーションに入っている難波がいた。

「ビハインドザバックパスだったのかよ。」

みつるは左に切り込んだと見せかけて、背中側へボールを回し難波にパスを送っていたのだ。

難波のシュートはリングの上をくるくると2周し、リングの外に落ちた。

「なにやってん!!」「すんません!」

「リバウンド!!」

すかさず落ちたボールをとったのは、東中の7番。

「戻せ!」

司令塔であるみつるにボールが再び戻り、攻撃を立て直す。

 

「さーあ、今度こそ一本。」

 

ボールがみつるの手に吸い付いているようにハンドリングをする。

 

「ダン、ダ、ダン、ダンダーン。」

 

また、不規則なリズム音が体育館に響く。

そのリズムが緩まり、みつるが真っ直ぐリングを見据える。シュートをうつようにみえたみつるに圭がギュッと間合いを詰めようとした、瞬間、みつるは左にロールターンをし圭を抜く。

体が反転するより先にフロントコートに首を向け、ゴールへ視野は確保できている。

圭を抜いた先に、他のディフェンスがみつるにつく。

 

「がら空きやねんて。」

 

みつるが右コートに視線を向ける。

「おい!逆サイド!」

すかさず監督が叫ぶ。圭を抜き、ディフェンスが1人みつるについた今、逆サイドにフリーの難波がいた。さっきと同じようにビハインドザバックパスによって難波にボールが渡るのを恐れるのは当たり前だ。

みつる左腕を後ろに振り、体をひねる。追いついた圭がすかさずパスコースに入った。が、みつるはそのままステップに入り、レイアップシュートを決めた。

 

「うわああああああああああああっ。」

両チームが沸き立つ。

 

ディフェンスに戻りながら難波は興奮気味にみつるに話しかける。

「先輩!あれっすよね、ビハインドザバックパス、フェイク!フェイクしてレイアップするやつ。」

「そー。難波にボール回したら外れるでなぁ。」

「すみません、次は絶対入れます!」

「絶対やで。」

 

 

「ピー――――――――――――ッ。」

第2クォーターが終わった。競技は残り時間半分となる。

第2クォーターでは、みつると圭のワンオンワンで主にゲームが進み、点取り合戦のようになり、点差は大きく離れなかった。

 

西中のベンチでは、

 

「本当にあの5番はストリート育ちのまさにトリッキーな良いプレーをするよなぁ。」

 

「確かにトリッキーなパスは読めませんが、俺らのプレースタイルは質実剛健でしょ、監督。大丈夫、5番だけなら周りは完璧にはついていけてません。」

 

後輩たちにうちわで扇がれながら爽やかに圭は答える。

 

「圭の言う通り、5番だけならそろそろパターンも決まってくる。お前らはフィジカルだけじゃなくてメンタルも強い。強気でいけ。

後半は圭をポストにおろす。」

 

「はいっ。」

 

圭は、そのドリブルワークと視野の広さからポイントガードに抜擢されているが、後半はゴール下のポジションにつくことが多い。

体を張るプレーを必要とするゴール下は、ジャンプ力もありダンクをも得意とする圭にとって身体的な負担が大きい。しかし、ゴール下でのワンオンワンに強いセンターがいることはチームにとってそれほど頼もしいことはない。

 

 

一方東中のベンチでは、

「監督、そろそろきついねんけど。」

遠回しに響を出せと訴えるみつるを無視して、監督が後半の話を進めていた。

 

「難波、2本シュート外しただろ。次外したら筋トレ増やすからな。」

 

「はいっ!」

 

「桜ちゃん、スコア見してや。」

「うん。」

 

渡されたスコアを受け取り、横目で響を見る。

 

(やっぱ響のスリーは得点源やもんな。流れがこーへん。)

 

東中の得点欄を見ると、斜線の横には自分の背番号が多く書かれている。

 

「ひー、きっつ。」

 

そこで笛が鳴り、選手はコートに戻った。

 

後半は西中からの攻めで始まる。

 

「圭君ポスト来てるやん、おいおいどうすんねん。」

 

後半は、西中が優勢だった。

予想通り、圭がゴール下に来たことで、オフェンスではディフェンスに当たり負けしないその身体とステップを上手く使い、着実に点を獲っていった。

押し負けしそうな時も、ダンクで強引にねじ込み、その度に観客席から黄色い声が上がった。

ディフェンスでもゴール下のシュートはブロックされることが多く、フィジカル面だけでなくメンタル面でも東中は押し負けていた。

 

第3クォーター、残り3分。

西中のシュートが外れた。

 

「速攻!!」

 

東中の7番がリバウンドをとり、逆サイドの前を走る難波にロングパスが渡った。

前にディフェンスはいない。絶好のチャンスである。

 

「走れ!」

「走って!」

ベンチでは監督や桜、チームメイトが叫んでいる。

 

強くドリブルをついてゴールへ走る。

 

「ナイッシュー―――――!!!!」

 

難波が綺麗にステップを踏みレイアップをきめたのだ。

 

それは毎日の練習で動きが体に染み込んだステップとシュートフォームだった。

 

「ようやった!」

追いついたみつるが難波の背中を強く叩く。

「痛いっす!」

喚きながらも嬉しそうに笑っている。

 

 

そんなコート上の選手を眺めながら監督が座って前を向いたまま言った。

 

「なあ、バスケで大事なのはなんだと思う。」

 

「確かに、みつるのドリブルワークはとびぬけているし、西中の4番はガタイも良くてダンクも出来る。派手で格好良い。

華やかなとこばっかに目がいくけど、俺らが普段やってる練習はそんなんじゃねえ。

地味なハンドリングや、レイアップとかのシュート練、きっついフットワーク。

そんなんをこなしてつくのが基礎力だ。バスケは本来、そんなんで構成されてると俺は思う。

毎日吐くほど練習して、それを試合で発揮できるかはわからん。試合に出れない奴の方が多いくらいだ。

難波のレイアップは、ダンクに比べたら地味だが、同じ2点だ。

シュートが決まったら気持ちいいがそれも一瞬だ。

でもその一瞬のために毎日練習してるんだろ。」

 

 

第3クォーターも終わり、最後のインターバルに入った。

第3クォーターの前半では、ゴール下に入った圭によって点差をつけられていたが、難波の速攻によって少し流れを取り返すことが出来た。

 

「難波、よくやった!お前が流れを取り返した。」

 

「ありがとうございます!」

 

「監督、試合に出たいです。」

試合から引っ込められずっと俯き加減だった響が、発した言葉だった。

 

桜も目をはっと見開き、みつるも

「遅いねん!やっぱ難波じゃまだまだきついわ。」

冗談交じりに嬉しそうに言う。

 

「そんなぁ。」

とは難波も言うが、どこか嬉しそうだ。

 

「じゃ、ラストワンゲーム!いってこい!」

「はい!」

「はい!」

 

ベンチに背を向けた5人の4から8番まで揃った背番号を見るのも最後なんだと桜は目を伏せた。

 

戻ってきた響をみつけるなり圭はすぐに声をかけた。

「やっとか。遅かったね。」

「大丈夫、ちゃんと巻き返すよ。」

 

響が戻ったチームはまさに「攻撃こそが最大の防御である」を体現していた。

 

みつるの自在なドリブルによって、ゲームメイクは行われたのは変わらなかったが、そこに響が加わることで、パスの回りが格段に速くなり、パスコースも増えた。

 

みつるがインサイドに攻め込み、シュートモーションに入ると速攻でディフェンスがブロックに入る。

 

「ば、か!」

圭が叫んだ時にはもう遅く、

シュートフォームに入ったように見せかけたみつるはアウトサイド、スリーポイントラインにいる響にパスをだした。

 

ゴールを見据える響にもう迷いはなかった。



 



 

「6、5・・・」

 

あの時と同じだ。点差は2点。僕らが負けている。

勝つのに必要なのはあと3点。

 

あの時と違うのは、思考がクリアなこと。僕に今わかるのは、試合の残り時間と選手の状況。

 

速攻だ。相手のゴール下にはみつるがいて、僕はもうハーフラインまで走ってる。

 

「4・・・」

 

「きょ、うっ!」

 

追い詰められた状況でもコントロールされたロングパス。

 

会場は絶対にうるさいはずなのにみつるの声とカウントダウンしかもう僕には届かない。

 

「3・・・」

 

強くミートしたボールを後はゴールにシュートするだけ。

 

「2、1!」

 

「ピー―――――――――――――――――ッ!!」

 

ボードに強く当たったボールは今度はリングを通り抜けた。

k163911

「いってきます」

寝ている両親を起こさないようにそっと家を出る。朝の五時であるため外はまだ薄暗く、肌寒い。

こんな時間に家を出るのは、陸上部の朝練に行くためだ。朝焼けを見ながら誰もいない校庭を走るのが好きなのだ。

 

学校につき、ユニフォームに着替え、更衣室をでて校庭に向かう。すると、グラウンドの隅にぽつん、と黒い影らしきものが見えた。黒い、毛玉のようなものが落ちている。誰かがマフラーか何かを忘れたのか。陸上部の誰かの忘れ物だろうから、朝のミーティングのときに届けてあげよう。そう思ってその毛玉に近づいていく。すると、遠くから見ていたため小さな毛玉に見えていたが、近づくにつれその毛玉は大きくなり、目の前に来た時には二メートルを超えていた。

「―――――――――」

驚きのあまり声がでなかった。人は本当に驚いたときは声が出ないと聞いたことがあるが、今この瞬間、それが証明されたわけだ。

私はあんぐりと間抜けに口をあけたまま、その毛玉を見つめた。

よく見ると、毛玉は上下に動いている。そっと触ると、あたたかく、サラサラとしていて、気持ちいい。しばらく撫でていると、その毛玉からモーター音のような、ゴロゴロという音が聞こえてきた。驚いて飛び退くと、毛玉がもぞもぞと動き、丸い毛玉の形ではなくなっていく。

大きな黄色い目がふたつ、こちらを見つめている。まだ空が薄暗いからか、瞳孔が大きく開いている。ぴょこん、と生えた耳。頬のあたりから生える長いひげ。ゆらゆらと揺れるしっぽ。

猫だ。私が毛玉だと思っていたのは、二メートルもある巨大な猫だった。

その巨大猫は固まって動けない私のことなど気にもせずに、クアーッとあくびをした後、前足を前に大きく伸ばしておしりを後ろにひき、グーッとのびをした。

「あなた、撫でるのうまいですね。」

喋った。猫に見えるが、どう考えても猫ではない。これは、関わってはいけないものだ。

私はその問いには答えずに、何事もなかったかのように、その場から離れようとした。すると、ブオンと風を切るような音がしたかと思えば、巨大猫が自分に向かって、バットのようにしっぽを振りかぶってきた。私は反射的にそのしっぽを避けてしまう。すると、

「やっぱり見えているじゃあないですか。」

と声がして、にんまり笑う彼と目が合った。

「この姿では、はじめまして。実際に会うのは二回目ですが。」

そう言いながら《グート》と名乗ったその巨大猫は隙をみて逃げ出そうとしていた私を、自分のしっぽでするり、と捕まえた。モフモフである。

しかし、会うのは二度目、というグートの言葉がどういうことかさっぱりである。記憶を辿ってみるが、会うのははじめてのはずだ。というよりも、こんな大きな猫に会っていたら忘れるはずがない。

「覚えていませんか。ほら。あの時助けてくださったじゃないですか。」

新手の詐欺か何かか、と訝しげな顔をしていると、

「あなたが小学生の頃です。ケガをして動けなかった私を手当てしてくれた上に、美味しいごはんまで与えてくださったではないですか。」

そう言ってよく見ると、瞳の中はまるで夜空のようで、深い闇に光が反射してきらきらと輝いている。その瞳をみて、幼いころの記憶がフラッシュバックした。

「ノワール…?」

「そうです。思い出してくださいましたか。本当の名前はグートですが、あの時あなたがくださった名前も結構気に入っているのですよ。」

そう言ってにっこりと微笑む。しかし、どう考えてもおかしな点が一つ。サイズである。あの頃のグートは私の両手で包み込めるくらいの手のひらサイズで、こんなに巨大ではなかったはずだ。というより、こんなにも巨大な猫が存在していること自体が普通ではない。混乱する私の頭の中を見透かしたように、グートが話を続けた。

「もちろん、すでに私が普通の猫でないことはお分かりいただいていると思います。簡単に言えば、私は人間の善≠フ気持ちで大きく成長するのです。つまり、あなたが良いことをすればするほど、私は成長していくわけです。」

なるほど。わからない。

「逆に、あなたが善≠フ気持ちを忘れたり失ったりすれば、私も消えるわけですね。ここには生死の概念はないのでご安心を。また、信じられないかもしれませんが、天候や災害などこの世界の出来事は、すべて猫が管理しているんです。ただ、私たちの姿は普通人間には見えません。【尻尾、前足、頭、背中の順で触る】という条件を満たしたものにだけ、見えるようになります。」

訳が分からない。完全にキャパオーバーである。

グートはこのあとも、普通の野良猫や家庭で飼われているような猫が突然変異で善≠ネどの属性を持つ猫になることがあるらしい、ということを教えてくれた。グートもこのタイプで、普通の猫だったがいつの間にか善≠フ猫になっていたらしい。私が最初に出会ったときはまだ普通の猫であったため、触ることができたようだ。

 ここまで説明を聞いたが、まだ半分夢の中のようで、頭がぼんやりとしている。

「ですので―――」

そうしてまたグートが何かを言いかけた瞬間、耳をつんざくようなサイレンの音が響いた。

驚いて音がした方向を振り替えると、校門を出てすぐの消防署から出動する消防車が見えた。この辺の地域は乾燥が激しく、よく火事が起こる。そのため、他の地域よりも消防署が多めに設置されているのだ。朝早くからサイレンの音が鳴るのも日常茶飯事である。そのため、サイレンの音には驚くものの、頻繁に消防車が出動することに関しての驚きはなかった。

またか、と思い火事の現場に向かうのであろう消防車をじっと見つめていると、

「いい機会です、ついてきてください。」

と、グートが突然言った。

どうしたのだろうか。まさか、火事が心配とか。

「火事が心配なの?いつものことだよ。」

「いいから、ついてきてください。」

私は少しムッとする。人の話を聞いていないからだ。

「だから、いつものことだって。それよりも朝練しないと。今日はまだ走れてないし。」

そう。これではせっかく朝早くから来た意味がない。私は火事なんかにかまっている暇はないのだ。

すると、グートは済ました顔でまたしっぽを使い私を捕まえて、自分の背にのせた。そしてその直後、私が驚いてぽかんと口をあけている間に、スピードをあげて走り出した。慌ててグートの背中にしがみつく。あまりにも毛がサラサラで、気を抜いたら振り落とされそうである。

「ち、ちょっと!おろしてよ!」

「喋ると舌を噛みますよ。」

この野郎。モフモフの癖に。かわいくない猫である。しかし、振り落とされるのも困るので黙ってしがみついていることしかできない。

ところで、先ほどグートは【尻尾、前足、頭、背中の順で触る】という条件を満たした者しか、自分のことが見えないと言っていた。つまり、この条件を満たしていない人たちに、自分は今どう見えているのだろうか。

「まぁ、簡単に言えば中に浮いて移動している感じですかね。」

ふざけるな。今すぐおろしてほしい。

「だからこうして高速で移動しているんじゃあないですか。それとも、人から見えないような高いところにのぼりましょうか?電柱とか。」

これ以上何を言っても無駄だと思い、私は口をつぐんだ。

 

しばらく走り抜けたあと、徐々にグートのスピードが落ちていき、ピタリ、と止まる。毛に埋めていた顔をあげて前をみると、そこには見慣れた姿とはほど遠い、真っ赤な炎をあげて燃える山の姿があった。山≠ェ燃えている、と錯覚するほど予想以上に火が広がっている。

「あそこをよく見てください。」

グートが前足で示しているのは、火事の中心部だ。言われた通りじっと見つめると何かが動いている。

猫だ。炎と同化しているためわかりにくいが、猫がゆらゆらと動いている。

「助けにいかなきゃ!」

とっさに走りだそうとした私を、グートがしっぽで制止する。

「言ったでしょう。よく見てください。」

「何を!?早くいかなきゃ!どいて!」

私にキッと睨まれたグートは落ち着き払っており、澄ました顔でただ黙って炎の中の猫を見つめている。

その態度に苛立ちながら、猫をよくみると

「えっ」

助けにいかなければ、と思っていた猫は炎の中でぺろぺろと自分の前足を舐め、その足で顔をあらっている。しばらくそれが続き、一通りなめ終わったかと思えば、今度はごろんと寝転がってしっぽをパタパタさせ、くつろぎだした。

特徴的なのはその大きさである。助けなければと思った猫はよく見るとグートよりも大きい。また、山火事が広がるにつれて徐々に大きく成長している気がする。グートが善≠フ気持ちで成長するのと同じように、この子は火≠ナ成長するのだとわかる。

そこへサイレンを響かせながら消防車が到着する。

「お嬢さん、危ないから離れていてください!」

消防隊員の人たちはそれだけ言い残して、消化ホースを手に取り燃え上がる山に向かって駆け出していく。私はどうしていいかわからずにグートの方を見た。

すると、グートはまた前足で山の方を指す。その前足の動きにつられるようにして彼が示した方向を見ると、ちょうど消防隊員の人が火に向かってホースから水を噴射したところだった。咄嗟にねこは水が苦手なんじゃ、という思いが頭をよぎり、炎の中の猫が心配になる。すると、ホースから水が勢いよく出ると同時に、火の猫とはまた別の猫が、バッと火の中の猫に飛びかかるのが見えた。

急に自分の縄張りに他の猫が現れて驚いたのか、火の猫は毛が一気に逆立ち、シャーッという声をあげて飛び出してきた猫を威嚇している。飛び出してきたのはたぶん水≠フ猫だ。ホースから出ている水の量で体の大きさが少しずつ変化している。火の猫と同じように、水の猫も威嚇するが、広範囲に火が広がっているため、サイズは格段に火の猫の方が上である。このままでは水の猫が圧倒的に不利、そう思っていると消防隊員の人がこの量の水では火を消すのは不可能と考えたのか、ホースを追加して別方向から水を噴射した。すると、先ほど出てきた水の猫と同じサイズくらいの猫がまた飛び出してきた。これで、二対一である。そして、イカ耳での睨み合いが続いたあと、猫パンチの応酬始まった。

最初は火の猫が優勢に見えたが、やはり二対一なのは大きい。水の猫一匹を相手している間に、もう一匹が後ろから飛びかかるという連係プレーをみせる。

そうしているうちに、少しずつであるが消火されていく。

見慣れた山だからか、やはり早く火事が収まってほしいと思うのは当然だろう。そのため最初は水の猫を応援していた。しかし、火が消えるにつれだんだん弱ってくる火の猫をみて、可哀想だという気持ちが芽生え始めた。どんな理由で山火事が発生したかは知らないが、あの子はなぜ自分が生まれたのかも理解していないだろう。体は大きいが、まだ生まれたばかりの子猫である。ただ本能なのか、自分は火の中でしか生きられないということだけはわかっている様子だ。だから、あんなにも必死で水の猫に抵抗するのだ。

「グート、火さえあればあの子は生きられるのかな?」

「先ほども言ったように、彼に生死という概念は存在しません。火があるところに生まれ、火が消えれば彼も消える。そういう存在なのです。」

こうしてグートと話しているうちにも、どんどん火は消えていく。

「ただ、あなたが言うように存在していることを生きる、と表現するならば、焚火くらいの火があれば彼は生き続けていられますよ。」

それを聞いて、私はすぐに足元に落ちていた木の棒を拾い、ほとんど消えかけている火に向かって走った。消防隊員の人が何か叫んでいるが、今はそれよりも火の中心で消えかかっているあの子のほうが大事である。息を切らして駆けてきた私をみて、火の猫は不思議そうな顔をしている。私は火の猫に向かってそっと木の棒を差し出した。すると、それに火が燃え移り、火猫も何かを察したかのように、とん、と木の棒へ飛び移った。その直後、消防隊の消火により火が完全に消える。間一髪だった。

私が持つ木の棒の上に、小さな火の猫が乗っている。不思議と重さはなく、木の棒が燃えることによって出るパチパチという音が心地よい。消防隊員が私のほうへと近づいてくる。猫が見えない彼らにとっては、私はいきなり木の棒をもって火に突っ込んでいくというおかしな少女に見えているだろう。それを自覚した瞬間にいたたまれなくなり、グートに目配せで合図をして、私は学校とは反対側の道へそそくさと歩き出した。

 

 しばらくして到着したのは祖母の家である。風で火が消えないように、手で覆いながら玄関へと入る。祖母は寝室で寝ているのだろう、鍵もかけずに不用心だ。そのまま玄関を入ってすぐのリビングに向かい、リビング入り口正面にある暖炉の中の薪に、持っていた木の棒から火を移す。すると、木の棒に乗っていた火猫はトン、と暖炉におり、パチパチと緩やかに燃える火を見て満足げな顔をし、薪の上でくつろぎだした。

 私はそれを見て一安心し、暖炉前の床に座り込み、グートに問いかける。

「そういえば、この子はグートみたいに話せないの?」

「出現したての猫は、人間の赤ん坊と同じように話せません。言葉を学習すると、最初は単語のみなどの拙い言葉遣いしかできないですが、長くこの世界で過ごすにつれて、だんだん流暢に言葉を発することができるようになります。」

「つまり、流暢に話せるグートはずっと存在し続けてきたってこと?」

「そういうことですね。」

グートは、自分からは滅多に自分のことについて語らない。どこで生まれたか、何が好物で、何が苦手なのか。今も、自分が生きてきた詳しい年数については語らなかった。出会ってまだほんの少しであるが、グートについて知るのはかなり長い時間がかかりそうだ。

 気長に待つか、そう思いながら暖炉でくつろぐ火の猫に視線を向ける。そういえば、まだ名前を決めていなかった。いつまでも火猫と呼ぶわけにはいかない。何かいい名前はないかと、火っぽい名前を挙げてみるが、いまいちピンとこない。しばらく頭を悩ませていると、ぱっとある名前が浮かぶ。

「《フラム》なんてのはどうかな。」

それを聞いた火の猫は、満足げにグーッとのびをして

「ニャ!」

と一言、満足げに鳴いたのであった。

ロングパス
175011

「わあああああああああああああああああああっ」

歓声が鳴り響く。

相手チームからボールを奪い、スティールに成功したみつると目が合った。相手チームの5番も必死にみつるのドリブルを追いかけている。

「6、5、4・・・」

カウントダウンが聞こえる。僕たちが普段使っている体育館2個分くらいあるこの県立体育館の観客席いっぱいに人がうまり、誰もが僕たちの試合をみているのがわかる。汗が止まらない。第4クォーターが終わろうとする今、コートに立っている僕は案外冷静で、ああ、これで最後なんだな、なんて思ってた。視界の端に入る相手チームの監督が立ち上がった様子や、うちのマネージャーが泣きそうになってるのなんかもわかった。ゲームボードには48と46の赤い文字が光ってる。僕らが勝つにはあと3点必要だ。

「3・・・」

「きょ、う!」声が届かなくてもその唇の動きとアイコンタクトでわかる。回転の強いボールをミートしたのは、スリーポイントライン。

「・・・2、1!」

残された行動は1つに決まっていた。

僕の手から放たれたボールは長く弧を描き、リングまで届く。

「わああああああああああああああああああああああっっ」


「ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピッッ」
とけたたましいアラームの音が鳴り響いた。薄く開いたまぶたの隙間から差し込む日差しが痛い。歓声に似ているようなこのうるさいアラームは、あの日を思い出させるようで顔をしかめて、時計を止める。
「またあの夢みたなぁ・・・。」
あの夢の続きは知っている。ゴールまで届いたボールは、リングにはじかれ入らないのだ。

あの3週間前のバスケの試合が僕達、東中学3年生最後の公式試合となってしまった。相手は顧問の先生同士が学生時代からの因縁をもった西中学校で、彼らはあの試合に勝って全国大会に進出した。

着替えてリビングに降りると、焼けた食パンのいい匂いがする。
「おはよう。」
卵焼きを焼いていた母さんが僕の声に振り向く。
「おはよう、響。最近は早起きね。」
「まあね。」
「そういえば、圭君。全国大会が終わって昨日帰ってきたらしいわね。引退試合いつだっけ。」
「明日だよ。」

多くの運動部では夏の公式試合を最後に引退するが、東中のバスケットボール部では、公式試合が終わっても引退はまだなのだ。僕達の最後の試合は明日。相手は西中で、この引退試合は2校の伝統らしい。ミニバスから一緒だった圭は、西中のキャプテンで4番を背負っている。162cmしかない僕とは違って、185cmもあり中学3年生にしてダンクも出来る。バスケセンスも抜群で、その背格好を武器としてゴール下での勝負を得意ともするが、コート全体を見渡す視野が広くリーダーシップがあるので、ポジションはポイントガードだ。ついでにいえば、優しくて顔も良くて、女の子にもモテる。

夏休みで学校はないので、朝は勉強し午後は部活に向かう。練習はハンドリングから始まり、最後はゲームだ。

「ありがとうございましたっ。」
監督の話をきき終え、今日の練習は終わりだ。残ったのは、自主練習を目的とした僕とみつる、明日の準備をしてくれるマネージャーの桜。

「今日の監督すごかったなぁ。熱はいりすぎ。どんだけ引退試合に気合入ってるんやって。」
いつものように関西弁で軽口をたたきながら、みつるがシュートをきめる。
「しょうがないよ、去年負けたから今年こそって思ってるんだよ。監督引退試合すごく大事にしてるもん。」
桜がそう答えるがもちろんそれだけじゃないことはわかってる。

あの日、みんな試合の後泣いていた。正確に言えば、僕とみつる以外は。僕は最後のスリーポイントシュートを外したことしか頭になくて、泣くことも出来ず呆然としていた。みつるはあの場では涙をこらえていたが、次の試合をみてくるといってから、控え室にいつも通り明るく戻ってきたみつるの袖が濡れていたのを僕は知っていた。
明日の試合は、リベンジマッチになるのだ。試合に勝ってももう全国大会に行くことは出来ないが、僕達にとってそれ以上に意味のある試合になる。

「明日で最後だね。そういえば私たちの学年って、高校いっても誰かバスケ続けるのかな…。」
3人しかいない体育館にさくらの高すぎない丁度いい声がよく響く。自主練習後のこの感じも今日で最後だ。
「弥生たちは続けないって言ってたな。みつるはどうするの。」

「俺は、続けるかな。」
そう言いながら、舞台上に置いたバッシュを片方片手に取り大事そうに見つめる。
「やっぱバスケ好きやし。つうか、これから先バスケの無い生活考えられへんかも、いまさら。」
「そっか。」
「響は。」
「僕は…、考えてる。」
そう言って曖昧に微笑むことしか出来なかった。

帰り道の途中で2人と別れ、みつるの言っていた「バスケの無い生活」という言葉を反芻していた。

僕は圭みたいに背も高くないし、みつるみたいに派手で自在なドリブルワークがあるわけでもない。バスケに向いてないことには気づいていた。
元々、バスケ漫画にハマって小2から始めたバスケ。僕の好きな漫画の主人公のシュートには、格好いい名前がついていて、そういうシュートが出来るものだと思っていた。でも、僕のシュートにはもちろん名前なんかつくわけなくて。練習だって、漫画のシーンにはないような吐くほど辛いものばかりだった。現実は全然甘くなくて、県代表をきめる最後の大事なシュートも外してしまう。あれがあの主人公ならきっと入っていただろう。
キャプテンに選ばれたのも、練習に休まず毎日参加していたからっていうのが大部分だ。でも、明日で4番を着るのも最後だ。
そんなことを考えながら、今日は携帯のアラームをセットして眠りについた。


「響君、やっぱりあの試合引きずってるよね。」
「まあな、気持ちがわからんでもない。まして、得意のスリーポイントじゃあな。」
響と別れ、誰もいないのに電灯で照らされた公園を横目にみつるは答えた。

「もったいないな。高校でもバスケ続けたらいいのに。」
「あいつは自信ないからなぁ。キャプテンに選ばれたのもまぐれかなんかって思ってる。あれだけ機転の利く選手そうそういいひんのに。」

桜の家に着いたところで別れを告げて、みつるも少し来た道を辿って帰る。

「明日で響とバスケ出来るのも最後かもしれへんなぁ。」

さっきもみた公園の象の滑り台にむかって呟いた。


「今日は引退試合だ。悔いのないように思う存分やってこいよ。」
監督の声は今日もよく響いている。
「お願いします!」
「お願いします!」
響の声にみんなが続く。

ウォーミングアップをしていると、圭が東中の方に向かってきた。何度も練習試合をしてきているので、響以外も圭とは知り合い程度である。
「響、今日で最後だね。負けないよ。」
「僕も負けれないよ。いい試合にしよう。」

「ピー――ッ。整列してください。」

上を見渡すと、観客が多い。伝統である東中と西中の試合ときいて、近所やОBの人々が見に来てくれたのだ。他にも選手の友達も来ている。

東中のスタメンには、4番と5番の背番号をつけた響とみつるが入っていて、もちろん西中のスタメンには4番の圭がいる。最初のボールは圭がはじき、西中がパスを回す。6番がインサイドエリアに攻め込み、シュートをうつ。

外れたシュートは、
「リバウンド!!」
両チームの応援席から声があがる。

とったのは、みつるで他の選手はもう逆サイドに戻っている。

「一本とるでー。」
初めの一本はなんとしても獲りたい。流れをもってきたい。両チームとも考えることは同じだ。
(やっぱり初めは…響やろ。)
響がディフェンスを離したタイミングを見計らい、ノールックでパスを出す。響がいるのは、アウトサイドエリア。スリーポイントライン周辺だ。

この流れは、東中にとってよくみられる攻撃パターンだ。初めに響がスリーポイントをきめて流れをもってくる。
「攻撃こそが最大の防御である」をスローガンとして掲げている東中にとって、2点しか入らない普通のシュートと違い、3点得点が入るスリーポイントシュートが初めに入ることで、士気がぐっと高まる。

響はボールを取ると、インサイドエリアに攻め込んだ。ゴール下で綺麗にゴールを決めると逆サイドへ走る。

「え。」
結果としてシュートは決めているが、これには東中だけでなく西中も戸惑いを隠せなかった。
西中も手の内を知っているからこそ、響に離されはしたがスリーポイントをうたせないようにディフェンスをつけていたし、東中もここで流れをつかむはずだった。
この場にいる誰もが思い出した。あの日の響のスリーポイントを。

みつるは思わず、ベンチにいる監督を見た。最後の試合なのに。こんな引けをとったプレイをしたら響は下げられてしまうかもしれない。

案の定ベンチでは、監督は次の選手に声をかけていて、
「難波、第2クォーターでるぞ。体あっためとけ。」
難波は、響達の一個下で次期エースだ。ベンチがざわついた。
「はいっ。」

「ピー――ッ。第1クォーター終了です。」
バスケットボールの試合は、10分間の競技を4回行う。この10分間の競技をクォーターと呼び、第4クォーターまで行う。
そのクォーターの間に休憩を挟み、作戦会議等を行うことが出来る。

選手たちがそれぞれのベンチに戻る。
第1クォーターでは、10対12。東中が勝っているとはいえ、流れはよくない。
あの後にも響がフリーになって、スリーポイントをうつチャンスはあったが、響はパスをするかインサイドでシュートをきめるだけだった。
冷静な響のプレイスタイルはいつもと変わらなかったが、いまいちどこかで攻めきらない響のプレイは、味方にももう一度前回の悔しかったあの場面を想像させてしまう。

「響がひっこんで難波だ。どんどん攻めていけ。」
「…はい。」「はいっ。」
すんでのところで「響っ。」となじりだしそうなのをみつるは我慢した。
響自身が悔しがっているのがわかったからだ。そして、交代の理由も本人が一番よくわかっている。

第2クォーターが始まる。
いつも東中は響とみつるが交代で司令塔となって、試合を回す。
難波もよく出来た選手だが、響に比べると心許ないのが正直なところである。

「取り返していくぞー。」

ポイントガードの圭がハーフラインを越えながら声を出す。
西中は全体的に体格の良い選手が多く、いつも出ているレギュラー5人のうち4人は180cmを超えている。
そのため、ゴール下のポストプレーを得意とし確実に点を獲っていくのが西中の攻めのスタイルだ。
圭のディフェンスについているのは、同じポジションであるポイントガードのみつるで、

「抜かせへんで。」
「それはどうかな・・・っと。」

すかさず空いたパスコースをみつけて、圭がゴール下にいるセンターにパスを出す。ワンバウンドしたボールをキャッチしたセンターはそのままシュートに持っていく。
「わあああああああああっ。」
ボールはボードに当たってリングに入った。西中サイドの応援席から歓声があがる。

みつるがボールを運び、今度は圭がみつるにディフェンスとして就く。ドリブルのスピードが不規則に変わる。
(きた。)
みつるがドリブルで左に切り込み、圭はすかさず反応しついていく。瞬間、みつるの手にはさっきまでつかれていたはずのボールがない。
「やられた!」
逆サイドを見るとボールを持って既にシュートモーションに入っている難波がいた。
「ビハインドザバックパスだったのかよ。」
みつるは左に切り込んだと見せかけて、背中側へボールを回し難波にパスを送っていたのだ。
難波のシュートはリングの上をくるくると2周し、リングの外に落ちた。
「なにやってん!!」「すんません!」
「リバウンド!!」
すかさず落ちたボールをとったのは、東中の7番。
「戻せ!」
司令塔であるみつるにボールが再び戻り、攻撃を立て直す。

「さーあ、今度こそ一本。」

ボールがみつるの手に吸い付いているようにハンドリングをする。

「ダン、ダ、ダン、ダンダーン。」

また、不規則なリズム音が体育館に響く。
そのリズムが緩まり、みつるが真っ直ぐリングを見据える。シュートをうつようにみえたみつるに圭がギュッと間合いを詰めようとした、瞬間、みつるは左にロールターンをし圭を抜く。
体が反転するより先にフロントコートに首を向け、ゴールへ視野は確保できている。
圭を抜いた先に、他のディフェンスがみつるにつく。

「がら空きやねんて。」

みつるが右コートに視線を向ける。
「おい!逆サイド!」
すかさず監督が叫ぶ。圭を抜き、ディフェンスが1人みつるについた今、逆サイドにフリーの難波がいた。さっきと同じようにビハインドザバックパスによって難波にボールが渡るのを恐れるのは当たり前だ。
みつる左腕を後ろに振り、体をひねる。追いついた圭がすかさずパスコースに入った。が、みつるはそのままステップに入り、レイアップシュートを決めた。

「うわああああああああああああっ。」
両チームが沸き立つ。

ディフェンスに戻りながら難波は興奮気味にみつるに話しかける。
「先輩!あれっすよね、ビハインドザバックパス、フェイク!フェイクしてレイアップするやつ。」
「そー。難波にボール回したら外れるでなぁ。」
「すみません、次は絶対入れます!」
「絶対やで。」


「ピー――――――――――――ッ。」
第2クォーターが終わった。競技は残り時間半分となる。
第2クォーターでは、みつると圭のワンオンワンで主にゲームが進み、点取り合戦のようになり、点差は大きく離れなかった。

西中のベンチでは、

「本当にあの5番はストリート育ちのまさにトリッキーな良いプレーをするよなぁ。」

「確かにトリッキーなパスは読めませんが、俺らのプレースタイルは質実剛健でしょ、監督。大丈夫、5番だけなら周りは完璧にはついていけてません。」

後輩たちにうちわで扇がれながら爽やかに圭は答える。

「圭の言う通り、5番だけならそろそろパターンも決まってくる。お前らはフィジカルだけじゃなくてメンタルも強い。強気でいけ。
後半は圭をポストにおろす。」

「はいっ。」

圭は、そのドリブルワークと視野の広さからポイントガードに抜擢されているが、後半はゴール下のポジションにつくことが多い。
体を張るプレーを必要とするゴール下は、ジャンプ力もありダンクをも得意とする圭にとって身体的な負担が大きい。しかし、ゴール下でのワンオンワンに強いセンターがいることはチームにとってそれほど頼もしいことはない。


一方東中のベンチでは、
「監督、そろそろきついねんけど。」
遠回しに響を出せと訴えるみつるを無視して、監督が後半の話を進めていた。

「難波、2本シュート外しただろ。次外したら筋トレ増やすからな。」

「はいっ!」

「桜ちゃん、スコア見してや。」
「うん。」

渡されたスコアを受け取り、横目で響を見る。

(やっぱ響のスリーは得点源やもんな。流れがこーへん。)

東中の得点欄を見ると、斜線の横には自分の背番号が多く書かれている。

「ひー、きっつ。」

そこで笛が鳴り、選手はコートに戻った。

後半は西中からの攻めで始まる。

「圭君ポスト来てるやん、おいおいどうすんねん。」

後半は、西中が優勢だった。
予想通り、圭がゴール下に来たことで、オフェンスではディフェンスに当たり負けしないその身体とステップを上手く使い、着実に点を獲っていった。
押し負けしそうな時も、ダンクで強引にねじ込み、その度に観客席から黄色い声が上がった。
ディフェンスでもゴール下のシュートはブロックされることが多く、フィジカル面だけでなくメンタル面でも東中は押し負けていた。

第3クォーター、残り3分。
西中のシュートが外れた。

「速攻!!」

東中の7番がリバウンドをとり、逆サイドの前を走る難波にロングパスが渡った。
前にディフェンスはいない。絶好のチャンスである。

「走れ!」
「走って!」
ベンチでは監督や桜、チームメイトが叫んでいる。

強くドリブルをついてゴールへ走る。

「ナイッシュー―――――!!!!」

難波が綺麗にステップを踏みレイアップをきめたのだ。

それは毎日の練習で動きが体に染み込んだステップとシュートフォームだった。

「ようやった!」
追いついたみつるが難波の背中を強く叩く。
「痛いっす!」
喚きながらも嬉しそうに笑っている。


そんなコート上の選手を眺めながら監督が座って前を向いたまま言った。

「なあ、バスケで大事なのはなんだと思う。」

「確かに、みつるのドリブルワークはとびぬけているし、西中の4番はガタイも良くてダンクも出来る。派手で格好良い。
華やかなとこばっかに目がいくけど、俺らが普段やってる練習はそんなんじゃねえ。
地味なハンドリングや、レイアップとかのシュート練、きっついフットワーク。
そんなんをこなしてつくのが基礎力だ。バスケは本来、そんなんで構成されてると俺は思う。
毎日吐くほど練習して、それを試合で発揮できるかはわからん。試合に出れない奴の方が多いくらいだ。
難波のレイアップは、ダンクに比べたら地味だが、同じ2点だ。
シュートが決まったら気持ちいいがそれも一瞬だ。
でもその一瞬のために毎日練習してるんだろ。」


第3クォーターも終わり、最後のインターバルに入った。
第3クォーターの前半では、ゴール下に入った圭によって点差をつけられていたが、難波の速攻によって少し流れを取り返すことが出来た。

「難波、よくやった!お前が流れを取り返した。」

「ありがとうございます!」

「監督、試合に出たいです。」
試合から引っ込められずっと俯き加減だった響が、発した言葉だった。

桜も目をはっと見開き、みつるも
「遅いねん!やっぱ難波じゃまだまだきついわ。」
冗談交じりに嬉しそうに言う。

「そんなぁ。」
とは難波も言うが、どこか嬉しそうだ。

「じゃ、ラストワンゲーム!いってこい!」
「はい!」
「はい!」

ベンチに背を向けた5人の4から8番まで揃った背番号を見るのも最後なんだと桜は目を伏せた。

戻ってきた響をみつけるなり圭はすぐに声をかけた。
「やっとか。遅かったね。」
「大丈夫、ちゃんと巻き返すよ。」

響が戻ったチームはまさに「攻撃こそが最大の防御である」を体現していた。

みつるの自在なドリブルによって、ゲームメイクは行われたのは変わらなかったが、そこに響が加わることで、パスの回りが格段に速くなり、パスコースも増えた。

みつるがインサイドに攻め込み、シュートモーションに入ると速攻でディフェンスがブロックに入る。

「ば、か!」
圭が叫んだ時にはもう遅く、
シュートフォームに入ったように見せかけたみつるはアウトサイド、スリーポイントラインにいる響にパスをだした。

ゴールを見据える響にもう迷いはなかった。


「6、5・・・」

あの時と同じだ。点差は2点。僕らが負けている。
勝つのに必要なのはあと3点。

あの時と違うのは、思考がクリアなこと。僕に今わかるのは、試合の残り時間と選手の状況。

速攻だ。相手のゴール下にはみつるがいて、僕はもうハーフラインまで走ってる。

「4・・・」

「きょ、うっ!」

追い詰められた状況でもコントロールされたロングパス。

会場は絶対にうるさいはずなのにみつるの声とカウントダウンしかもう僕には届かない。

「3・・・」

強くミートしたボールを後はゴールにシュートするだけ。

「2、1!」

「ピー―――――――――――――――――ッ!!」

ボードに強く当たったボールは今度はリングを通り抜けた。