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大阪教育大学 国語学講義
 受講生による 小説習作集

詩織

 
2020年度号

「愛しの君」k182303
「雨」k182312
「あの夏が飽和する side流花」k182314
「夕立の君へ」k182315
「陽兄ちゃん」k182316
「ケビンと森の魔女改」k182317
「密室」k182322
「ベター・ウェン・アイム・ダンシン」k182323
「AI」k182326
「ぬいぐるみペン太の奮闘日記」k182328
「花にさそわれて」k182329
「春」k182333
「手紙」k182334
「めんどくさい。」k182335
「畠中自動車教習所」k182337
「好きなことを探して」k184101
「移された時間」k184102
「スクールカースト」k184103
「太陽」k184104
「コロナ離婚」k184105
「俺が生まれた日」k184106
「思い出」k184107
「ラフメイカー」k184108
「かわいいものがすき。可愛くなりたい。」k184110
「ふたり」k184111

左の目次の作品名をクリックしてください。

「愛しの君」
k182303

 ある日の放課後、私、風見舞華は学校の屋上に呼び出されていた。そのきっかけは今日の朝、下駄箱にあった一通の手紙だった。差出人は不明、そこには
「風見さんへ
 今日の放課後、話したいことがあります。一人で屋上まで来てください。待ってます。」
 とだけ書いてあった。
 その字はとても丁寧で綺麗だった。「こ、これはもしかすると………ラブレター?!」
 なんて一瞬思ったが、「好きです。」などと書いていないし、今までにラブレターなどもらったことがない。自分に違うと言い聞かせながら、淡い期待もしていた。でもどうせ違うだろうな。きっと何か皆の前じゃ言えないような相談があるのだろう。そんなことを考えながら授業を受け、ついに放課後になった。
 いつも一緒に帰っている隣のクラスの、小中学校が同じ私の親友の丹波麻衣には上手く誤魔化して先に帰ってもらった。麻衣は、美人で愛想も良くて、性格も頭も良い、学年一モテる女の子で、女の私から見ても彼女にしたいくらい素敵な女の子だ。同じ「まい」という名前であるが、自分とは全然違う。名前が一緒であることに少しコンプレックスを抱いているが、私は麻衣のことが本当に大好きだ。そんな麻衣に誤魔化すなんてことはしたくないけど、相手がどんな用事なのか分からないまま、言いふらすのも良くないし、自分が淡い期待を抱いていることにも気づかれたくないことから、麻衣にはごまかしたのだ。
 屋上に繋がっている階段の前まで来て気が付いた。私……凄い緊張してる。告白かもしれない。そう思うと緊張してしまう。こんなことじゃダメだ。いつまで経っても私は変われない。そう自分に言い聞かせ屋上のドアを開いた。
 そこには誰もいなかった。
 早く着き過ぎたかな。まだ授業が終わってから15分しか経ってない。
 さっきまであった緊張は緩んでいった。しょうがない。本でも読んで待つかな。私は本をカバンから出して、時間を潰すことにした……
 それからどのくらい時間が経っただろう。はっきりとは分からないが、思ったよりも読書に集中できて、思ったよりもページが進んだ。熱いくらいだった日差しは、太陽がすっかり沈みかけていて、綺麗な夕日を作り上げていた。
 すると、
 ガチャ………
 とドアの開く音がした。ドアのところには佐藤篤人君がいた。
 佐藤君は私のクラスメイト。
 そして、私の好きな人でもある。
 またあの緊張が蘇ってきた。佐藤君は顔を赤らめて下を向きながら近づいてくる。
 私の目の前で止まった。彼特有の柔軟剤のいい匂いがするほど近くまで来ていた。
 それから少し時間が経ち、中々口を開かなかった佐藤君が恥ずかしそうにしてこう言った
「………好き………なんだ。」
 私は、思考が止まってしまった。歓喜のあまり思わず声が出てしまいそうになった。
「え?」と聞き返すと、
「えっと、俺、丹波さんのことが好きなんだ。」
「……。」
「それで、風見さんに色々と協力とかしてほしくて。」
 頭が真っ白になり、脳内でリトル舞華が登場して情報を整理していく。
 えっと、つまり、佐藤君は麻衣のことが好きで、それを協力してほしいということ?
「……。」
「風見さん……?大丈夫?」
 要するに私の恋はあっけなく砕け散ったのだ。告白をするどうこうの前に相手から振られてしまったのだ。
「うん、多分大丈夫だと思う………。」
 こんなにも呆気無く終わってしまうなんて思わなかった………
 夕日が私を嘲笑っているように見えた。
「それで、もしよかったら協力とかしてくれる?」
 私の恋は終わってしまったが、好きな人が幸せになれる。それだったら……。
「うん!もちろんいいよ。」
 好きな人が幸せなら私も嬉しい。そんな綺麗事を考えながら、その場で泣くわけにもいかないので、バレないように笑顔を作ってそう言った。
「良かった!ありがとう。」
 佐藤君は私の大好きな笑顔を私に向けてくれていた。
 私はその笑顔を見れるだけで、もう、十分なんだ。
 もうそんなのでいいんだ………
「本当に大丈夫?元気がないような……?」
 そう言いながら佐藤君が心配そうに近づいてきて私の顔を覗きこんできた。
 佐藤君の整った顔が私のすぐ近くにあった。
 顔がだんだんと火照ってきて、顔を背けてしまった。
「全然大丈夫だよ!気にしないで!佐藤君の好きな人を知ってしまってびっくりしたんだよ〜。よーし二人の幸せの為に頑張るぞ〜!」
 私は応援するって決めたんだからこんなことじゃダメじゃないか。この気持ちが無くなるまで、佐藤君が幸せになるまでは、絶対にこの気持ちはバレてしまっていけない。心の中で自分に念を押す。
「そう。良かった……!でもほっとしたよ。これで相談相手ができた。心強いよ。本当にありがとう。」
 そう言いなら、ポケットから携帯を出して
「L〇NE追加してもいい?相談事とか、学校でしてたら気づかれてしまうかもしれないし……。」
 と言ってきた。私も
「もちろん!そっちの方が便利だしね。」
 と言いながらポケットから携帯を出して、お互いを友達追加した。佐藤君は、「よろしくね!」と可愛い犬が喋っているスタンプを挨拶代わりに送ってきていた。
 ずっと憧れていた佐藤君とのトークがこんな形で叶うとはね。そう思いながら、「佐藤君、可愛いスタンプだね。」などと笑顔で返した。
 気が付くと周りはとても静かだった。校庭で部活動をしていた生徒はいつの間にか帰っていて、カラスたちの鳴き声も聞こえなくなっていた。神秘的だなと風景を、佐藤君との二人の時間をかみしめていた。そしてだんだんと暗くなっていく空模様を見ていた。連絡先を交換し終え、佐藤君も暗くなってきたのに気づいたらしく
「もうそろそろ帰ろっか。」
 と言ってドアの方に歩き出した。
 私も頷いて歩いて行った……。校門まで二人で歩いていくと、
「風見さんって、帰り道どっち?」
 と佐藤君が聞いてきた。
「私は、電車だからこっち。」
 と答えると、「俺も!」と言って、駅まで一緒に行くことになった。
 今、私の隣には佐藤君が歩いている。今までだったらどれだけ嬉しいことか……。昨日までの自分には全く想像できないなぁなどと考えていた。帰り道は終始無言だった。多分その理由は私が暗い顔をして歩いていたからだろう。
 駅に着いたが、佐藤君が乗る電車は反対のホームで、駅前に用事があるらしく、改札のところで、
「じゃあ、後で連絡するね〜。今日はありがとう!」
 と佐藤君は言って、手を振ってきた。
「うん、待ってるね。」
 私はそれだけ言って手を振り返した。そして私はいつも通っている帰り道を通って家へと向かった。電灯の下で気付いた。喪失感で頭の中がいっぱいだった。心に大きな穴が開いていた。なんだか裏切られたみたいだ。なんて考えるけど、私が一方的に片思いをしているだけで、元々私だけの思いだっただけなのにな。そんなことを考えながら自分の家まで下を見ながら帰っていった。
 家に着いて、夕飯を食べ、自分の部屋に戻った。部屋に入って、すぐ私はベッドに潜り込んだ。さっきまで抑えていた感情が喉の奥から出そう。
 だが、出すわけにはいかなかった。
 今日は麻衣との電話の約束がある。
 泣いたりなんかして、鼻声がばれてしまったら、きっと心配してくるし、私の秘めてた思いも、佐藤君から麻衣への思いも麻衣にバレてしまうかもしれない。それは絶対にだめだ。
「もしもーし!あれ?舞華、今日は声が疲れているね。なんかあった?」
 麻衣はこういう時に妙に勘が鋭い。
「ちょっと眠たくってさ。」
 とだけ私は言って電話を早めに終わらせられるようにしようとした。
「もしかして、放課後一緒に帰れなかったことに原因がある?」
「…いや、違うよ……。」
 話題を変えようと思っていたが、そんな場合じゃなかった。
 このまま質問攻めにあったらバレる!
「その反応ってことは、やっぱりそうだったのね。」
「だから違うって。」
「じゃあ、何してたの?」
 ここは本当のことを半分言えばバレないだろう。
「佐藤君の相談にのってたの。」
 これでどうだっ!
「そうなんだ。ついに舞華も男子の相談にのれるくらい男の子に慣れてきたのね。」
 良かった。誤魔化せた!
 と思いながら、心の中でガッツポーズをしていた。
 その時、携帯が鳴ってL〇NEが来た。
 もちろん相手は佐藤君である。
「丹波さんに言ったりしてない……?絶対に誰にも言わないでって言うの忘れてたけど……。もし言ったり、バレたりしたら………どうなるか解ってる?(^^)」
 怖っっっ!!
 あそこでごまかせていなかったら明日、元気に学校に行くことは出来なかったのかな……。
 そして、また携帯が鳴った。
「ごめんごめん。怖かった?笑 でもバレてたら俺もう恥ずかしくて学校行けないから!
 で、本当のところ言ったりしてない?」
 さっきよりはいいけど、佐藤君と絶交なんて嫌だ。
 すぐに私は返信した。
「べ、別にバレてないし、言うわけがないよ!まぁ……バレそうにはなったけど……。でも、大丈夫だったよ!」
 うーん。これじゃあ、バレたけど隠してるみたいじゃないか。
 もう一回ちゃんと書こう。
 ……あっ、間違って送信してしまった。
 これは誤解されてしまうな……?どうしよう……。
 それからしばらくしてL〇NEが来た。
「本当!?そうなんだね。だったらよかった。心配し過ぎちゃった。笑」
 どうやら誤解されずに済んだらしい。
 そういえば佐藤君は、学校の寮に入居していると噂で聞いていた。でもあれ?今日駅前まで、一緒に帰ったのに……?どういうことだろう?気になってしまうと、夜も眠れなくなってしまうので、忘れないうちに訊いておこう。
「そういえば、佐藤君って学生寮に住んでいるって噂で聞いていたんだけど……。そうなの?」
 そう訊いて返事を待つ。前から思っていたが、SNSとかの連絡ツールは待ち時間多いからあんまり好きじゃなかったんだよね。でも今日はどんな返事が来るかと、待っている時間も楽しかった。そんなことを考えていると返事が返って来た。
「そうだよ〜。学校内にある男子寮に住んでるよ。同じクラスの高橋がルームメイト!
 こうして長い時間連絡とっていると俺と風見さんが付き合ってるみたいだね。なんてね。
 あっ、風紀委員の見回り来た。
 じゃあ、また明日!」
 風紀委員の見回り?
 確か学生寮で11時?とか遅い時間にからだったよな………ってもう過ぎてる!
 もうそんな時間だったんだね。
 って、やっぱり佐藤君は寮に住んでいたんだ!なのに、嘘をついて、駅まで一緒に帰ってくれたんだね。佐藤君優しいな……。そういう所が好きだな……いや、好きだったんだね……。
「やっぱり佐藤君は、学生寮に入居していたんだ!!なのに、今日は駅前まで一緒に帰ってくれてありがとう……!暗くなっていたから一緒に帰ってくれて助かったよ。
 私もこんなに長くL〇NEしたの初めてだったから楽しかった!
 じゃあ、また明日学校でね。」
 と返信して水を飲んでから寝ようと思って、部屋を出ようとすると、すぐに返事が返ってきて
「はっ!しまった!!何も言わずに女の子を送るっていうかっこいいことしたかったのに!笑 おやすみ!」
 と佐藤君からきっと焦って打ったのだろうと予想されるL〇NEが届いた。
 それを見て、ふふっと笑って部屋を後にした。
 誰もいないキッチンで、水を飲んで今日起きた出来事を頭の中で整理していた。
「佐藤君は、麻衣のことが好きで、麻衣と私は親友。私は佐藤君が好きで……。佐藤君の恋愛がうまくいくように、私は協力をする……か。」
 自分のことながら馬鹿なことをしたなと思った。自分のこの気持ちを消さなくちゃいけないのに、佐藤君に協力することでこれから、もっと佐藤君と関わる時間が増えていってしまうじゃないか……。こんなんでこの気持ちがちゃんと消せるのかな……?
 佐藤君との出会いは、この高校1年の春。クラス発表の時に自分の名前が見つけられなくて一人で困っていた時に、声をかけてくれて一緒に探してくれた、それが彼との出会い。その後も、朝の公務員さんや先生方にきちんと挨拶する姿や誰に対しても優しい人柄の良さ、周りをよく見ていて困っている子がいたらすぐに動くことの出来る行動力、運動神経も良くて体育でもよく活躍しているのを見かける。勉強はそんなに得意じゃなさそうだけど……。それに、お昼の時お弁当を食べる前に絶対に両手を合わせて「いただきます。」と「ごちそうさまでした。」を欠かさないのだ。
「そんな佐藤君のことが好きだったのにな……。」
 口に出してみると、今日の放課後から我慢していた我慢していた感情と涙が出てきた。急いで部屋に戻りベッドに入り、声を殺しながら泣いていた。
 気付くと、いつの間にか泣きつかれて寝ていたようで、朝になっていた。
 学校の準備をして、洗面所へ向かうと、そこには「昨日失恋して泣きました。」とでも書いているような、腫れた赤い目をした私がいた。
「最悪じゃん。」
 急いで蒸しタオルを作って目に当てて腫れを押さえ込んだ。少し残っているが、ましになった所でピンポーンとチャイムが鳴った。麻衣だ。少し待ってもらうように伝えて、慌てて家を出る準備をすませる。
「ごめんね。おまたせ!」
「大丈夫だよ〜!」
 いつもより少し遅れてしまったので早歩きをしながら駅まで向かう。なんとかいつもと同じ電車に乗れることが出来た。
 駅から学校に向かってとりとめのない話をしていると、麻衣から
「舞華さぁ、もしかして昨日泣いたりした?」
 バレている……。さすが麻衣だなぁ。でも、バレるわけにはいかない!
「あれ?分かっちゃった?昨日夜更かししちゃって、アニメを見て号泣しちゃったんだよね。高校生にもなってあんなに泣くとは思わなかったよ〜。」
 とバレないように返した。さすがにバレてしまうか?と不安だったが、
「あ!そうなんだ良かった。ちなみになんていうアニメ?」
 と麻衣から意外な返答が返ってきた。その返事に戸惑いつつも、最近人気の少年漫画がアニメ化した話で盛り上がった。昨日のことを思うと、今日の登校が憂鬱と感じていたが、麻衣と話ながら登校していると、そんな気持ちはいつのまにか消えていた。
 教室に着くと、佐藤君が笑顔で
「おはよう!」と挨拶しに来てくれた。入学当初は、朝の挨拶などを交わすような仲であったが、日が過ぎるにつれて次第に挨拶することもなくなっていた。佐藤君のことを意識してしまって、自分からはどうしても気恥ずかしくて挨拶できなかったんだよね。そんなことを思っていたので、急に挨拶されて「お、おはよう。」ととても驚いた顔で返してしまったと思う。佐藤君は
「なんでそんなにびっくりしてるの。」と朝から笑顔を向けてくれた。
 家を出るまでは、憂鬱な一週間がまた始まったと思っていたが、案外好きな人の相談役というのも悪くないのかもしれない。この気持ちは消さないといけないのは分かっているけど、二人が結ばれてしまうまでは、心の中でだけ自分で自分を許してあげよう。そんなことを思っていると、
「今日夜時間ある?電話してもいい?」
 と思いがけない言葉が佐藤君の口から発せられて私の耳に入った。
 急な誘いで驚きと、佐藤君との電話というのが嬉しくて頭がまともに回転していないことが自分でもわかってしまう。
「えっ、あっ、大丈夫……だと思う。多分。」
 頭が真っ白になって反射でそう答えてしまった。
「お!よっしゃ!じゃあまた夜に!」
 そう言って佐藤君は自分の席に行ってしまった。
 私はそれからその日の授業中はずっと佐藤君との電話のことを考えていた。
 うん。今日の夜は特に予定もないし、電話できる!ただ、麻衣のことでの相談なんだろうな〜。佐藤君と電話が出来るなんて、今までだったら絶対にすることがなかったし、男の子と電話すること自体が初めてだし楽しみだけど内容がな〜。好きな人から、恋愛相談されるっていうのは残酷と言うか。うーーーん。
 授業が1つずつ終わっていく度に、夜が近づいてきて緊張してきてしまった。
 楽しい時間は一瞬で終わるってよく言うけど、身をもって体験した一日だった。眠たいはずの日本史も起きていたし、古典文学を読んで面白いとさえ感じてしまった。悪いことでは無くむしろ良いことだが、普段と比べると異常すぎるのだ。
 つまり私は、残酷だなと思いながら電話を楽しみにしている気持ちの方が強いのかな?自分が浮かれていることに気付き、佐藤君の恋愛に協力しなきゃなのに!と自分に喝を入れる。よし!今日の放課後麻衣と一緒に帰る時に、恋愛関連の情報を聞き出すぞー!そう心の中で決意した私であった。
 決意した通り、麻衣に恋愛事情を聞き出そうと意気込んでいると、麻衣から驚愕の事実が告げられた。
「舞華、私ね、彼氏ができたの。」
 え???佐藤君がもう告白したの?いやでも、今日も電話で相談するのに?もしかして、違う人と???
 私が驚きのあまり頭の中で?マークを大量に浮かべて返事をしないでいると、
「舞華と同じクラスの高橋君とだよ。舞華も知っているでしょ??」
「え?」
 私は驚きでそれ以上口を開くことは出来ず、恥ずかしそうに報告してくれた麻衣をただ見つめることしかできなかった。
「舞華、驚きすぎだよ。」
 と麻衣に微笑みながら言われて我に返った。
「そうなんだね!全然気づかなかった!おめでとう!どっちから告白したの?」
「ありがとう〜!高橋君から告白されて、私も前から気になっていたって返事したの。」
 高橋君のことを前から気になっていたことも私は知らなかった。仲が悪いわけじゃないけど、小中高と同じ幼馴染だからこそ、恋愛の話題になることは少なかった。だからお互いの恋愛事情は知らなかったし、こんな報告が聞けるとは思ってもなかった。
「高橋君のこと気になっていたんだね!好きな人と結ばれるだなんて、本当におめでとう!幸せにね!」
「うん!本当にありがとう!あとね、まだ公にしていないから誰にも言わないほしいの。」
「おっけー!秘密は守るよ!」
 そんなことを話していると、家に着いたのでそのまま麻衣とは別れた。私の頭はまだ混乱したままだった。
 家に帰ってきて自室にこもり、一人で頭を悩ませていた。
 私は、麻衣と佐藤君との恋愛を協力しようとしていた。けど、麻衣には気になる人がいて、その気になる人もとい高橋君から告白をされて、めでたく二人はお付き合いを始めた。ちなみに高橋君と佐藤君は、同じ部屋のルームメイト……。こんなところかな。
 ええっと〜私はどうしたらいいんだ?佐藤君にこの事実を教える……?いやでも、麻衣と秘密にするっていう約束してしまったしなぁ。だから、このことは誰にも言えない。けど、佐藤君がもし何も知らないままで、彼氏のいる麻衣に告白するってなったら……?私と同じで、告白する前から結果が分かっているようなものじゃん……。教えてあげるのが優しさだけど、秘密は守らなくちゃいけない……。どうしよう。
 脳内を整理しながらそんなことを考えていると、L〇NEの通知が来た。
「今日の夜8時から電話できそう?」
 そうだった。今夜は佐藤君との電話があるんだった……!!!放課後の情報量が多すぎて、あんなに授業中考えていた電話のことがすっかり頭の中から抜けていた。戸惑いつつも私は、
「大丈夫だよ!先にご飯とお風呂を済ませておくね!」
 などと返し、宣言通り7時45分には、ご飯とお風呂を済ませておいた。
 夜8時になると、佐藤君からの電話がなった。
「もしもし?」
 電話になると普段よりも少し低い声になった佐藤君の声が携帯から聞こえてきた。
「もしもし」
 そう返事して、麻衣と話していたようなとりとめのない話や、今日の授業の話、テストの話などの雑談が繰り広げられていった。それはただただ幸せで楽しい時間であった。正直自分がどんなことを話したかなど全然覚えていないのだ。こんな時間がずっと続けばいいのになぁ。なんて考えていたその時に、
「うわっ!もうこんな時間か!相談の件なんだけど……。」
 と佐藤君が本題に入ってきた。私が返事をするまでもなく、
「実は、俺明日告白しようと思っているんだ。」
 と切り出してきた。
「えっ?明日!?」
 思わず驚きの声を上げてしまった。
「うん。あんまりもたもたしてられないなと思ってね。それで、お願いなんだけど、明日告白する前に緊張をほぐしてもらうために会ってくれない?」
 そんなお願いをされてしまった。
「緊張をほぐす為に私が活躍できるなら、もちろん力になるよ!」
 そんな返事をしてしまった私は、また、馬鹿なことを引き受けてしまったなと後悔している。
 次の日の放課後、佐藤君に指定された教室に行ってみると、佐藤君が教室の前の方でそわそわした様子で立っていた。
 あぁ、これから佐藤君は、麻衣に告白をするのか。止めてあげるべきなのかな?頭の中で葛藤していた。好きな人が傷つく所は見たくない。そう思って声を出したその時、
「あのさ!」
「あの……」
 声が被ってしまった。
「佐藤君先にどうぞ!」
 やっぱり言わない方が良いってことなのかな?そんなことを思っていると
「えっと、あの!ずっと前から好きでした。俺と付き合ってください。」
 佐藤君が麻衣のいない教室で私に向けて告白をした。佐藤君は顔を赤らめてそう言っていた。
「えっ……?」
 理解が追い付いていない脳でしっかりと考えたが、やっぱり理解できなかった。
「どういうこと?麻衣はここにいないよ?」
「丹波さんじゃなくて、風見舞華さんのことが好きなんです。」
「でも、この前は麻衣のことが好きだって……。」
「あれも本当は風見さんに告白するつもりだったんだけど、言った後で、急に不安になってしまって。それに仲良くもない俺から告白されても困るのかなって思ってしまって、つい嘘をついてしまったんだ。かっこ悪いよね。俺……。」
「そんな……。」
 思わず涙がこぼれてしまう私を見て、
「意気地なしでごめん。でも本当に風見さんのことが好きなんです。俺と付き合ってくれませんか?」
「はい……。私も佐藤君のことが好きです。」
 泣きながら返事をした私を見て、佐藤君は今までで一番の笑顔を私に向けてくれた。
 後日話を聞くと、佐藤君は高橋君と麻衣が両思いだったことも、付き合ったことも私よりも先に知っていた。麻衣から麻衣と高橋君は、佐藤君に協力していたことも聞いた。なんだ、私だけが知らなかったのか。変に遠回りしてしまったけれど、これからはあの笑顔を隣で見る事ができること、連絡も好きな時に取り合えるというこの関係性に幸せを感じている。
「本当に協力ありがとうございました! ちゃんと伝えられたのは二人のお陰だ!」
 風見さんとようやく付き合えることができた俺は、協力してくれた二人と放課後に感謝の気持ちを伝えるべく、パフェをおごりながら話した。
 夕焼けが綺麗なあの日、本当に馬鹿なことをしたなとずっと後悔して、それをルームメイトの高橋に打ち明けた。
「俺、風見さんに告白したんだけど、あと一歩のところで弱気になってしまって。丹波さんのことが好きだなんて言ってしまったんだ。」
「お前、馬鹿か? 風見さんっていう子に一目ぼれしたんだ!っていう言葉から「あの子は、朝の挨拶とかもしっかりして、皆の嫌がる仕事とか率先してやってて〜」とか力説していた上に手紙まで作って準備していたのに!?」
「うん。告白した瞬間変な沈黙ができてしまって、それで俺、耐えきれなくなってしまって……。あーーー!俺最悪だー!」
「落ち着けって。それでその後どうなったんだ?」
「丹波さんのことが好きだって言ったら、協力するよって言ってくれて……。やっぱりいい子なんだよな…じゃなくて!でも、そのおかげで連絡先をゲットしました!」
「それはおめでとうだが、何と言ったらいいか……。まぁとにかく風見さん今彼氏いないみたいだからここで仲良くなってもう一度ちゃんと告白しろよ!協力するから。」
「ありがとう。俺、頑張るよ。」
 あんな会話をしたのも、もう一年も前のことのように感じるくらい今が幸せだ。
「あの後、全部打ち明けたら風見さんは耳を真っ赤にして照れながら「あの日の夜めっちゃ泣いたんだからね!」って怒られちゃったんだよな。」
「あれは佐藤が100%悪いからなぁ。」
「そうよ。次舞華を泣かせることがあったら許さないからね。」
 高橋と丹波さんから釘を刺される。
「本当に反省している。意気地なしな俺が悪かった。けどもう泣かせたりしない! 約束する。」
「その言葉忘れないからね。」
 二人と別れて、寮までの帰り道で、あの日後悔しながらも見た夕日よりも綺麗な夕日を目にして、もうこれ以上泣かせることはないと決意を夕日に誓った。

「雨」
k182312

 自分の人生には敷かれたレールがあり、それに従ってただ1歩ずつ進んでいく毎日だ。
 私はそう考えて生きてきた人間である。人生を"運命"という名で形容するには、少々ロマンチックではあるが、どんな物事にも既に決まりきった時間の流れがあるという思考がこれだ。
 例えば、私が今目の前にあるコーヒーの入ったコップを右手で持ち、1口飲んだとする。それはそういう結果が予め存在していたということになる。
 例えば、今から19時頃まで時間があるので、誰かに「お茶でもしよう」と連絡を取ろうとしたとする。しかし、それをやめたとする。それは、連絡を取ろうとしたがやめたというところまでの結果が、元から決まっていたということになるのだ。
 この考え方を持つことで救われるのは、人生において失敗したときだ。
 何かを失敗したときにこの考えを持ち合わせていると、「そういうものだったのだ」と自分に示すことができる。過剰な内省を防ぎ、沈んだ心をある程度納得させるられる非常に便利な考え方の1つだ。
 普段からそんなことを考えているものだから、4月から新しく始まったキャンパスライフが2回目の4月を迎えても、私は何1つ馴染めずにいた。
 勿論、子供じゃあるまいしその場凌ぎのコミュニケーションや挨拶程度はこなして来たつもりである。
 しかし、はっきり言って第1志望の大学を落ちてからは何にも興味が沸かなかった。
 そんな私でも唯一、大学と実家の間にあるからという理由だけで受けた古本屋のバイトだけは、幾らお店が繁盛していなくても、店長が無駄なお喋り好きでも、パートのおばさんが変な人でも、好きな本を読んで過ごすことが出来たので(許されていたので)続けていた。
 今更身に付けたい知識があるわけでもない私にとっては、適当に棚を漁って、ジャケ買いならぬジャケ読みなどをし、本を通してあたかも自らの経験や考え方の容量を増やすような感覚が楽しかったのだ。
 その日は、数日前からニュースでよく取り上げられていた九州の方から発達してきた雨雲が、「まだ発散したりないのか」と言ってやりたい程の勢いで本州まで上陸し、酷く降っている日だった。
 4限が終わってバイトに向かうために第3校舎を出ると、傘を忘れた大学生の集団が「これはヤバイ!」と如何にも楽しそうにはしゃいでいる。
 彼らを横目に持ってきていた紺色の傘を堂々と差し、なるべく早足で駅に向かい出す。
 それでも駅に着いた時には靴とズボンの裾が絞れるぐらいには濡れていた。いつもなら絶対に買わない新発売というポップに釣られて自販機でリンゴ味の缶ジュースを買った。美味しくもなければ不味くもないジュースだったが最後まで飲み干し、雨のせいで数分遅れてきた電車に乗り込んだ。
 バイト先の古本屋に5分前に着くと、朝から入っていたパートのおばさんに「あんたいつもよりギリギリに来たな」と言われたので目だけ苦笑いしつつ無視をした。この人は自分がいつも3分前に着いていることをどうやら知らないらしい。
 "パート"と言えば、何故ある一定の年齢に達した大人たちは"バイト"と扱われるのを毛嫌いするのだろう。この古本屋に入りたての時、一度おばさんに向かって「ここのバイトいつからやってるんですか?」と聞いたことがある。するといつも陽気なおばさんが物凄く嫌そうな顔をしてから、「バイトじゃなくて、パートね。」と言ってその日は一切話してくれなかったことがあった。
 確かにバイトという言葉から連想できるのは学生だったり、何か具体的に必要な事のためにお金を稼ぐというイメージがあるのも分かる。
 その点、パートと言うと毎日出勤して会社で仕事といったことまではできないが、生活の片手間に働きたいという意思を感じられないこともない。どちらにせよ完全に納得のいく答えは見つからなかったが、あくまでも家事があるから社員として働けないだけで、学生がただお金欲しさにするバイトでは無く"パート"なのだというプライドみたいなものがあるのかもしれないなと、その日初めて知ることになったのだ。
 古本屋ではレジの前の座る部分が剥げて、スポンジが見えているパイプ椅子がいつもの私の定位置だ。
 レジに座っているだけで店内がほとんど一望できるぐらいの小さな古本屋さんなので、濡れたズボンの裾をタオルでピチピチと叩きながら暫くぼんやりしていた。
 平日の火曜日の夕方などお客さんは滅多に来ない。この店は商店街にあるが、所詮廃れた商店街の一角。もし誰かが来た時は、この人はどういう人で、どういう仕事で、家族構成は、なんて妄想をする時間も、私が古本屋のバイトを続ける理由の1つであり、趣味であった。
 22時に閉店するバイトだが、20時になったあたりで、1人の女性が来た。あの天候にも関わらず傘を持っていなかったのか、頭から足の先まで全身が雨で濡れている。
 彼女は顔に張り付いた髪の毛を弄りながら、鞄から出したハンカチで顔周りを拭き出した。
 さっきまでは気が付かなかったが、髪の毛が徐々に整えられていくうちに、どこかで見たことのある顔である。
 恐らく、1回生の時の何かの講義で同じだった女性であることはすぐに分かった。何故覚えていたのかと言われれば特に理由はなかった。しかし、人間の記憶というものはそういうものである。特に理由がなくても不思議と覚えていることがポツポツとあるものだ、そう思って生きてきた。
 彼女はある程度拭き終わると、肩に付きそうなくらいの黒い髪を1つに纏めて私の方を初めて見た。
 じろじろ見すぎたのかと冷や汗をかきそうになったが、彼女は軽く会釈をしてそのまま小さな古本屋の中を歩き始めた。
 こういった古本屋さんでは、あまりお客さんの方を見ないのが良いとされていると勝手に思っていたので、それ以上は彼女を見ないことにした。
 しかし、同じ大学であることが妙に印象を擽ってきたため、再びぼんやりしながら今日の晩ご飯を何にしようかと考えるフリをしつつ、8割は彼女を見かけたはずの講義のことなどを思い出すのに必死だった。
 それから何分か経った頃、「すみません」と言って彼女が数冊の古本をカウンターに置いてきた。
 急に現れたものだから少し驚いてしまったが、そもそも自分だけが彼女のことを少し知っている状況にも恥ずかしくなってしまっていた頃だった。
 もしかしたら彼女も何か思っているのかもしれないと薄ら期待をしながらも、彼女はお会計を淡々と済ませた。
 本を紙袋に詰めて渡そうとした時、彼女は「同じ大学の人ですか?」と聞いてきた。
 勿論気付いていたが、「あ、え、そうなんですか?」と私は咄嗟に言ってしまった。
「去年の講義で同じだったような気がして、、間違いならごめんなさい」
「あ?、確かに。そんな気がしてきました。もしかしたら、講義の中で話したこともありましたよね?」
「あ、確かにありましたね!グループディスカッションみたいなやつで」
「そうそう」
 お互いが覚えていたという事実と、記憶の一致に清々しい気分に浸りながら、
 彼女は「じゃぁ、また大学で会ったら」と来た時と同じように軽く会釈をしながら店を出て行った。
 廃れた商店街の一角にある古本屋で偶然会うということもあるのだなと、さっきまでの会話を思い返しながらまた私はピチピチと裾を叩き始めた。
 気が付けば、濡れていたズボンの裾は良い具合に乾いていた。
 次の日になると昨日までの悪天候は嘘のように晴れていた。嵐の後の清々しさとは正にこのことだと思ってしまうような具合である。2限を終えて、教室で手短に持参したコンビニ弁当を食べた。1人で食事をするという事に抵抗はないが、代わりに周りのグループで食べている人たちの会話が聞こえるというのもあまり好きではなかった。
 そういった理由から、いつもイヤフォンをして音楽を流しながら私は大学の昼食を取っている。今日は山口百恵のさよならの向こう側を流すことにした。山口百恵が引退ライブで涙を流しながら歌っていた映像を思い出し、心が丁度良いぐらいにしんみりしてきた時だった。
「古本屋の人ですよね」
 昨日の古本屋の彼女だった。すぐにイヤフォンの右側を外して、日清のカップラーメンに箸を突っ込み直した。遠くの方で山口百恵の低音で優しい深みのある声が聞こえてくるが、目の前の彼女が昨日とはまるで別人なことに気を取られてしまって殆ど聞こえない。
「あ、昨日の、」
「こんなに早く会うと思ってなかったですね」
「本当に同じ大学だったんだ、」
「昨日の今日で変な感じですよね、でもさっきまで講義があったし3限もちゃんとありますよ」
 覗かせた彼女のブランドバックのようなものには、確かにそれらしきノート類が見えた。そしてすぐに、
「友達待たせているので行きます。あ、また古本屋も行きますね」
 そう言って教室の扉で待っていた友達の所へ駆け寄って行った。
 私は彼女が去ってからも、暫く時が止まったように目の前のカップラーメンを見つめていた。どう見ても昨日の彼女とは異なるものがあった。強いて言えば雰囲気であったが、あまりにも一瞬の出来事だったため、それ以外で特に思い出せることはなかったが、確かに彼女でありながら彼女ではなかったのだ。
 カップラーメンが冷めてきていることに気が付いて急いでかき込みだした時には、徐々に山口百恵の歌声が耳に戻り、左耳にしかいない山口百恵がいつもより私の心の中を広く渡らせていた。
 それからというもの彼女が古本屋に姿を現すことはなく、大学で会うことも見かけることもなかった。私は本当に偶然が重なった2日間だったのだなと思うようになっていた。それでもなんとなくその偶然性というものに、運命的な要素を含まずにはいられないのが人間というものである。また何処かで会わないだろうかと思わない理由がなかった。
 季節が変わり、厚めのアウターを着なければ過ごせない季節になった。
 その日も4限の講義を終えて、時間通りにバイト先へ着いた。
 朝から入っていたおばさんが私が店に来るなり、「あんた今日休みやで?」
 と言ってきた。
「本当ですか?」
 と言いながら急いで店長が作った手作りのシフト表を見てみると、確かに今日はおばさんが夕番の日だった。
 朝から入っていたのではなく、お互いに今来たばかりだったのだ。
 バイトの勘違い以上に面倒くさいものはない。しっかりと確認をしなかった自分に悲しくなった。電車1本で家まで帰れる電車をわざわざ降りて、廃れた商店街の一角まで歩いてきたのだ。
「やってしまった、、、」
 と大きな溜息を付き、それならすぐにでも帰ろうとした時、
「あ、丁度良いわ、あんた入ってくれる?今日ほんまは見たいドラマがあってん」
 いつもは余計なことばかり言ってくるおばさんが、運良くナイスプレーをかましてきたのだ。
「良いですよ、少しでも多く稼ぎたいので!」
 と即答するとおばさんは、
「助かるわぁ、ありがとう!じゃぁよろしく?」
 とだけ言って、どこで貰ったかも分からないような地域の名前が度デカく書いてあるカゴカバーを付けた自転車に乗って、颯爽と帰って行った。
 どんなことよりも無駄なことや退屈なことをすることの方が嫌いな私にとっては、バイトをする時間よりも何もせずに帰る方が無駄だと考えていたので、おばさんには感謝の気持ちで一杯になった。
 しかも、今日はなんとなくバイトをしたい気分だったのだ。最近、インターシップの準備が続いていて、なかなかバイトに入れない期間が続き、何も考えずにただぼんやりする時間が欲しかったのかもしれない。
 知らぬ間にこの古本屋で過ごす時間も、私の中の生活の一部になっていることにその時初めて気がついた。
 今日も安定の静かな5時間バイトを終えそうであったが、18時頃、ゆっくりとドアが開く音がした。扉の方を見るとあの彼女が立っていた。そして私と目が合うなり、
「お久しぶりですね」
 と言った。
「お、お久しぶりです」
「最近外寒くなりましたね」
「長袖1枚は厳しいくらいには、」
 前回同様、急に話しかけられると戸惑ってしまう自分に嫌気をさしたが、それよりも彼女とまた会えたことに全神経が集中して混乱し始めていた。
 そんな私に対して、他愛もない会話を交わした彼女は店内を見歩き出した。
 ほんの数十秒の間に一瞬で全神経を使ってしまったことに身体が疲れたのか、今度は急に寧ろ落ち着きはじめ、歩き回る彼女のことを目で追いながら暫く眺めてしまった。
 すると彼女がレジに向かってきた。そして、
「あなたは殆ど赤の他人だから話してしまおうかと思ったのだけど、良いかしら?」
 と言ってきたのだ。
 確かに赤の他人も同然だし、日頃から他人の話を聞くことがない私にとっては無論新鮮であり、興味がないわけがなかった。
「赤の他人だから干渉はしないし、変な偏見がないし、お構いなくどうぞ」
 彼女は少し顔の表情を緩めて、両手をカウンターの上に置いてポツリポツリと話し出した。
「最近私の同級生が死んじゃったんです。まぁ所謂、突然死。その子のお母さんが夜に『おやすみ』って言って、次の日なかなか起きてこないなと思って部屋に行ったら、亡くなっていたらしいんです」
 正直、「赤の他人だから」とは言ったものの、亡くなった子が彼女だけでなく私とも同い歳だということを想像すると、少し怖くなる話であった。
 明日は我が身ではないが、普段は遠い存在である"死"というものが一気に身近なものになる感覚である。
 そして、それが自分だったとしても全くおかしくない話だと思うと、無意識にパイプ椅子を座り直してしまった。
 そして彼女はまた話し続けた。
「同級生なだけに、悲しいと同じくらい怖さもありますよね、人間の命って運じゃんって思ってしまう」
「確かに。同級生って考えると余計に」
「もっと変な話があって、その数週間後ぐらいに、最近また違う同級生の子が結婚したんです。大学に行かずにバイトしながら彼氏と3年ぐらい同棲して、この夏結婚したんだとか」
「そうなんだ、それもまた同い歳か、」
「そう。私は健気に大学に通ってる一方で、その子は素敵な人と出会って結婚しちゃうんだから変な話ですよね」
「たしかに。何が正解とかはないけど、同じ時間が流れているのに別世界みたいだね」
 そう平気そうに彼女に答えたものの、この件についても怖いとは似て異なる感情になった。
 自分が適当なコンビニ弁当を食べるために大学の講義を受けている間、結婚という大きな決断をした同い歳の子がいるという世界だ。
 平気だ、人それぞれだ、と言い聞かせても少しせ寂しくなるような話である。
「やっぱりそう思いますよね。周りと比べるのって良くないけど、朝起きた時には亡くなってしまった子もいれば、誰かと幸せに結婚する子もいて、私みたいな将来の目星もないただの大学生もいる。そう考えると凄く気持ちが悪いんです」
 彼女の「気持ち悪い」という言葉は言い過ぎではないかと思ったが、分からなくもなかった。正直、私も聴きながらモヤモヤした気持ちで一杯だったのだ。死と未来と現在が平行線の上に並んでいるような、絶対に離れていてほしい存在が一緒にいてしまっているような感覚なのだ。そして思わず、
「運とか、運命とか、考え出したら正直もう誰も何もできないよな。どれだけ予測外のことをしようとしてもそれも運命のなかの範疇というか」
 と気付いたら彼女に言ってしまっていた。
 何かに諦めているとかそういうレベルの話ではなく、心の底からそう思えてしまうのだ。
「こういう話を考えているとそう思いますよね」
「やっぱり人生の終わり方とかもう勝手に決まっているんだろうな。それが明日かもしれないし60年後かもしれないし。それでも、何かをしながら生きていかないといけないって何だそれってなる」
「ははは。でも本当にそうなんですよね、何もしたくなくなる」
「いや、本当にそうだよ、嫌になる。どんな結果も結局決まってるんだって思うと、やってもやらなくてもどうにもならないというか」
「分かります。でも最近そういう話を聞くようになって心的に悩んでしまった時があったから、自分の中を整理するために考えてみたんですよね」
「何を?」
「決められた結果があるんじゃなくて、決めたから結果があるって思うようにするってことです」
「、、、でもそれってさっきの話とか知ってしまうと余計に出来ないものじゃない?」
「だからこそ、そう思うようにする、そう思うようにしたいって話ですかね。例えば大きなミスを犯してしまった時に、そういう成り行きだったんだって思うよりも、自分がこうしてしまったからミスをしてしまったんだとちゃんと受け止める方が個人として豊かになる気がしませんか?」
「まぁ確かに一理はある」
「成功した時だとしても、運良くじゃなくて、自分がこう決めて、こうしたから成功したんだ!って思えることの方が、生きている人の特権な気がするんです」
「なるほど、」
「都合の悪いことまで全てそういう考えにする必要はないと思うけど、基本的にそう思えるようにするだけで、自己満足なのかもしれないけど、これからも生きていく中で満たされていくような気がするというか、」
 彼女がそこまで話した時には、来た時よりも表情が一段と赤みを増していた。彼女にも、さっきの話を含め取り巻く状況による色々な悩みがあったのだろうということが分かる程の変わりようであった。
 思えばかなり前に大学で初めて会った時の違和感は此処だったのかもしれない。自己を納得させながら生きたいと思う彼女と、現実はそうではないと知ってしまっている彼女のその不安定さを無意識のうちに私は感じていたのかもしれない。
 そして、彼女が環境によって変化した自己を満足させながら生きようとするという考え方は、私の中の奥に根付いている何かに対して、一気に真上から降り注いできた。不思議でありながらも、何処か落ち着くようなものであった。
 彼女の言葉を聞いただけで、私もそうでありたいと受動的に思えてしまえたのだ。
「それが1番良いと思う」
 気付いた時には名前も知らない彼女に対して賛同し、奇妙な体験をした気分になっていた。
 そして彼女は、
「急に変な話をしすぎましたね、」
 と少し笑いながらカウンターの隅で山積みになっている本のタイトルを見て、その中の1冊を手に取った。
 私はお会計の手続きをしながら、
「赤の他人も同然だから大丈夫」
 と答えた。彼女は、
「名前を教えてくれませんか?私は緑って言うの」
 と言った。
 それから私たちは閉店の時間までレジのカウンター越しに話し続けた。

「あの夏が飽和する side流花」
k182314

 なんだろう、声が聞こえる。この声はお母さんの声だ。ひとりごとではなさそうだし、お客さんでも来てるのかな。
 横になっていた身体を起こそうとする。睡眠の質がよかったのか、身体がとても軽い。自分の身体ではないみたいな感覚に少し違和感を覚える。
 お母さんの声ともう一人別の誰かの足音が私の方に近づいてきた。私に対してのお客さんなのかも。
「ここがあの子の部屋」
 お母さんがそう紹介する、紹介の仕方が少しおかしい。流花の部屋と言えばいいのに。そもそも、第一声があの子の部屋なんて紹介をするだろうか、私に声をかけるのが普通じゃないか。
「なに?お客さん?」
 お母さんに向けて声をかけるが返事は返ってこない。聞こえるくらいの声だったとは思うんだけど、聞こえなかったのかな、もう一度同じセリフを繰り返そうとしたとき、お母さんが話をしていた相手の姿が見えた。
「千尋!?来てくれたんだ!」
 さっきよりも大きな声で二人の方を見て話しかける。しかし、またしても返事は返ってこない。
「本当にここでいいの?」
 まるで私はこの世界には存在していないかのようにお母さんの口が動いた。話しかけた相手は私ではなく千尋だ。
 千尋の肩に手を置き、心配そうに見る。その顔には、疲れからか隈ができていた。
「・・・・・・大丈夫です」
「この部屋じゃなくても、別の部屋でもいいんだよ?そっちのほうが広くてくつろげると思うし、何より千尋君にとって辛いんじゃ?」
「大丈夫、この部屋がいい・・・・・・です」
 お母さんの言葉を遮り、さっきより強めの語気ではっきりと言った。するとお母さんは、諦めたのか、肩に置いていた手を僕千尋の頭に移動させる。
「何か食べ物を持って来るから少し待っててね、千尋君」
 お母さんはそう言って千尋の頭から手を離し、部屋を後にしようとする。
 部屋に一人でいることに少しだけ寂しいと感じたのか、千尋はお母さんの近くによって呼び止める。
「流花と同じように呼んでほしい」
 そばにいてようやく聞こえるか聞こえないかの音量でぽつりとつぶやく。お母さんは、その言葉に反応して振り向いた。
 意外そうな顔をしていたが、すぐに微笑んだ。
 恥ずかしくなったのか千尋は今まで上げていた顔を下ろし、目が合わないように俯いた。
「千尋、少し待っててね」
 さっきよりも明るい口調で言い直すと、お母さんは私の部屋を出ていった。
 頭の中が整理できない。
 どうして千尋が私の部屋に?
 どうしてお母さんは千尋を呼び捨てに?
 どうして私の声は届かない?
 どうすることも私にはできない?
 深呼吸して思考をリセットする。ここは間違いなく私の部屋だ。ベッドも、机も、本棚もその他どこを見ても、私の部屋に間違いない。
「ほんとに流花は帰ってきてないのかな。流花がいなくなってから数ヶ月経つけど、埃なんかがたまってるわけでもないし。」
 千尋がつぶやいた言葉に動揺を隠せない。
 数ヶ月経つ?今ってまだ―。
 驚いて机の上にあるカレンダーを見る。
  千尋の言った通り、私が思っているより何ヶ月も時が過ぎていた。
  届かない声、過ぎた月日。
  ここからある答えが導かれる。
「あぁ、私死んだんだ。」
  つぶやいた声はもう誰にも届かない……はずだった。
「流花は死んでない。」
  部屋の中にいる千尋の声。
「なんだ!聞こえてるじゃん!驚かせないでよ!」
  会話が成立した喜びから思わず声が漏れる。
 人を死んでいると思わせるなんてひどい冗談だ。しかもお母さんも一緒になってやるなんて。
 ただ、私の喜びの声に千尋からの反応はない。
「どこか見つからない場所に隠れているだけだ。夏が来たらきっと現れるよね。」
「隠れてなんかない!私はここにいる!」
「あの夏の日々は、君の笑顔と、君の無邪気さとともに、僕の頭の中で飽和していくのだから。」
 私が間に声を挟んでも、千尋はひとりごとを続けていた。
  やっぱり私は死んでいるのだろう。会話が成立したと思って興奮したからか、落ち着いて状況を受け入れられる。
  じゃあ私はどうやって死んだんだっけ。私の記憶があるのが夏頃まで。千尋もさっき夏という単語を口にしていた。
  ゆっくりと思い出していこう。あの夏までの出来事を―。
 中学校に入学してから初めての行事として、キャンプに行った。
 就寝時間は過ぎているのだが、眠ることができずにテントから出て外にいた。
  別にクラスの居心地が悪いとかそんなことは全くない。
  ただ、知り合って二月三月で比較宿泊行事というのは少し気が重くなる。心を許していない人もいる中で一緒に寝るのはどうなんだろう。大人たちは何を考えてこの行事を開催したのか。
 そんなことを考えて外に座ってると、ほかのテントから私と同じように出てきた子が目に入る。
 中学校に入学して隣の席になった男の子、確か名前は千尋君。
 隣の席になったから話しかけてみたけど、私の話をちゃんと聞いてくれた。他にも周りに困っている子がいると、真っ先に声をかけていた。周りに気を配れる、親切な男の子。
  千尋君には私のことがどんなふうに映っているのだろう。
  別に、しゃべったことがないわけではないし、自己紹介の時に気になってたことを聞いてみよう。
「千尋君って、両親がいないんだっけ?」
「はい、児童養護施設に住んでいます。」
  あまり間を置かずに千尋君が答える。自己紹介でクラスに向けて公表してるくらいなのだから、大して気にしていないのかな。
「そうなんだね、やっぱり寂しい?」
「両親がいる人のことをうらやましいと思ってしまうことはあります。ただ、寂しかったことはないかもしれません」
  寂しくないという言葉が私の胸に刺さる。
「そうなんだ、千尋君は強いね」
「強い?」
「私はお母さんしかいなくて。小学生の時に、お父さんは死んじゃったんだ。お母さんは元気なんだけど、前に比べると合わなくなっちゃったっていうか」
  なぜか口が動いていた。私の家庭環境なんて話すつもりなかったのに。千尋君が相手だとどうにもおしゃべりになってしまうようだ。
「お母さんが暴力とかってことですか」
 間髪入れずに千尋君が聞いてくる。夫がいなくなり、不安定になる妻がいるということは聞いたことがあった。そういうことが私の家族にも起こっているのだと考えたのだろう。
 表情と声色から千尋君の真剣さが伝わってくる。
「違う違う。そういうことは全くないんだ。ただ、お父さんがいなくなってからは、お父さんの分まで頑張ってくれてるから、話す機会とかが減っちゃってさ。だから寂しいんだ。あ、ちょっとだけね。」
  話をそらすように空を見上げる。両親と暮らしていない千尋君の前で、母親と暮らしている私が家族の愚痴をいうなんて千尋君の気分を害してしまうかもしれない。
「僕は両親に捨てられた身です。おそらくどこかで生きています。会いたいとは思わないけれど、会うことは可能です。 だけど、流花さんのお父さんはもうどこにもいない。会いたくても会えない。そんななか笑顔を絶やさず生きている流花さんはひとりごとを僕なんかよりもよっぽど強いです。」
「褒めすぎだよ。私は強くなんてないの。だから寂しくて、いつもすぐ眠ることはできないの。お昼はそんなことないんだけど、夜になるとなんか寂しくなっちゃってさ。だけどお母さんの頑張りは知ってるから、無理を言うこともできないし」
  私はどんな表情でしゃべっているのだろう。顔を見られたくなくて、ずっと空を見ながらしゃべっていた。
「僕がいます」
  隣で聞こえたその言葉に、私は顔を動かさずにはいられなかった。
 自分の表情を気にすることなんて忘れてしまっていた。
  千尋君の表情は少し動揺が見られるかな、くらい。
 千尋君自身、何を言ったのか、整理できていない感じだ。
「え、えっと、今日は僕がいるじゃないですか。だから、今日だけは寂しく思わなくてもいいんじゃないかなー・・・・・・なんて」
  千尋君の声量がどんどん落ちていく。我に返ると恥ずかしい言葉を連続していることがわかっているのだろう。言い切ることができないまま、中途半端に口を閉じてしまった。顔は真っ赤になっている。
「そうだね。今日は寂しがる必要はないね。はは、千尋君ってロマンチストだったんだね」
「ご、ごめんなさい」
「なんで謝るの?面白かったよ」
  率直な感想を伝える。
  千尋君は言葉を返すことができずに黙り込んでいる。
  そんな千尋君の手に私の手を重ねる。
「ずっと寂しくないでいられたらいいのに」
 ずっと。
 寂しくない。
 顔が熱くなるのを感じる。
 今、この瞬間がずっと。
 ずっと、誰かがそばにいてくれたら。
 重ねた手に熱が帯びるのを感じる。これは私の手の温度か、それとも―。
「流花さん」
「なぁに?」
「好きです。付き合ってください」
 時が経ち、私たちは中学二年生になった。
 千尋とは別々のクラスになった。
 学校内で一緒にいられる時間は減ったが、放課後は一緒にいられるし構わない。一緒にいられる時間は楽しかったし、千尋のおかげで寂しい思いをすることもなくなった。
 ずっとこのままならいいのに
 楽しかった日々はあっという間に過ぎ、梅雨を迎えた。
 今日はクラスメートの一人に放課後学校に残るように言われた。
 大して仲が良いわけではない。
 むしろ、いちいち私に突っかかってくる嫌なやつだ。
 靴を隠され、給食にごみを入れられ、水をかけられ、暴力をふるわれと色々された。
 世間一般ではいじめというやつかもしれない。
 興味がないやつにされることなんてどうでもいいのだけれど。
 ただ、いつもは一緒に帰っている千尋と、今日は帰ることができない。
 楽しい時間を嫌なやつに奪われるのは面白くないな。
 昼休みに千尋に一緒に帰れない子とを伝え、放課後を待つ。
 この際、強く言おう。
 もう私に構わないでと。
 私の楽しい時間を奪わないでと。
 放課後、言われた通り北校舎三階の踊り場に行った。
 人が来ることはめったになく、呼び出すには最適な場所だ。
 あいつはまだ来ていないよう。
 自分から呼び出しておいて遅れるのか、まぁどうでもいいけど。
 二、三分たったあとにやつが来た。
 さて、今日は何をしてくるのだろう。
 いつもは昼休みなんかに呼び出すことが多いのに、放課後なことを考えるといつもとは違ったことなのだろうか
「千尋君だっけ?」
 思いがけない人物の名前がでてきたことに、身体が反応する。
「あんた、仲いいよね。何?親がいない同士での傷の舐め合い?見ててイラつくんだけど。」
 こいつから千尋の名前が出てきたことなんてなかったのに。
 しかも開口一番悪口。
「あんた、何しても大して反応しないからつまらないんだよね。いっそ、千尋君を相手にした方が―。」
 聞き終わる前に身体が動いていた。
 目の前には浮いた身体。
 ゆっくりと下の踊り場へと落ちていった。
 白い地面に赤い色がつく。
 もう動かない。
 今まであんなに口を動かしていたのに、もうどこも動いていない。
「ははっ」
 私は濡れながら学校を後にした。
 家に帰るとどうなるのだろう。
 もう情報が伝わってるかもしれない。
 捕まるのかな。
 お母さんは泣いてるかな。
 もう私にできることは一つしかない。
 それをやる前にせめていつも楽しいをくれた千尋にお別れを言おう。
 私は公園を離れ、千尋の施設に向かった。
 施設で千尋をよびだしてもらいしばらく待つ。
 今はもう日付が変わっているくらいだろうか。
 長い。
 会いたい。
 暑い。
 寒い。
 時間としてはそんなに経っていないのだが、色んな思考がまとまらないからか千尋に会うまでがひたすら長い。
「流花?」
 やっと出てきてくれた。長かった。放課後も会えなかったから余計にその思いが強くなる。
「こんな雨の中じゃ風邪をひくよ。とりあえず中に入って。施設の人に許可をもらって―。」
「昨日人を殺したんだ。」
 千尋の言葉を遮り口を開く。
 許可を得ようと後ろを向いた千尋が、視線を私の方に戻す。
「もうここにはいられないから、どこか遠いところで死んでくるね」
 昨日の出来事、今までの出来事を簡単に伝える。
 昨日あいつから千尋の名前が出てきたことだけは伏せて。
 今までありがとう、千尋のおかげで寂しくなかったよ。
 私の口が動く前に千尋の口が動く。
「僕も連れてって」
「何を持ってきたの?」
 公園の茂みからでて、千尋に問いかける。
 僕は持ってきたものを無言で流花に見せ始める。
 財布、携帯ゲーム、まぁそんなものだよね。大方予想通りで特に驚いたりはしない。ただ、その直後に出てきたナイフには「うわぁ」と声が漏れた。
「自分たちの身を守るために、必要になるかなって」
「身を守るって、誰か刺すの?」
「そんな度胸ないけど・・・・・・、ナイフを見せるだけでも十分かなって。それに、万が一のことがあれば僕が?」
 私のためにそうつぶやいてくれる千尋の手を両手で握りながら言った。
「もし警察が捕まえに来たら、私が殺す。心配しないで。大丈夫。もう一人殺しちゃってるから。」
 私を思ってついてきてくれた千尋にまで罪を被らせることはできない。
 人を殺したんだ。もうここにはいられない。
 今となってその言葉に少しだけ重みを感じる。
 千尋は笑って手を握り返してきた。
「万が一が起こらないように、祈ってるよ」
 私は安心して千尋から離れ、近くに落ちていた木の枝を地面に立てた。手を離すと、枝は上を指して倒れた。
「最初はこっちに行こう。とりあえず気が済むまで」
 倒れた木の枝の方向をを指差して歩き出す。ナイフをかばんにしまい、後ろをついて来てくれる千尋に、公園の出口にさしかかったところで私は歩みを止めて尋ねる。
「流花? 」
 急に立ち止まったことに対する戸惑いだろう。私は千尋を見つめつぶやく。
「本当にいいの?」
 人を殺したことを告白したときのような重い空気を身にまとい、目から涙がこぼれ落ちる。
「去年告白したときに約束したよ。僕が一緒だ、ずっとそばにいる。寂しい思いはさせない」
 今まではどこか申し訳なさがあった。私のわがままに千尋を付き合わせてしまっている。
 ただ、この言葉を聞いてその考えこそ申し訳ないものであると感じる。
 そこまで言ってくれる存在が私の人生において何人いるのだろう。
 涙を拭い、笑顔で千尋の言葉に応える。
 千尋の手を握ることでありがとうを伝える。それに応えるように千尋も手に力を込める。
 その手にもありがとうが感じられる気がした。
 私たちはこれから長い旅をする。
 ここじゃないどこかで一緒に死ぬために。
 私は人を殺したという理由で。
 千尋は一年前の言葉通り、私に寂しさを感じさせないため。
 どこまで行けばいいのかなんてわからない。
 ここじゃないどこかへ、死に場所を求めて旅立つ。
 さぁ行こう。
「友達、一人もできなかった。」
 今まで来た道を振り返りながら、千尋がぽつりと口にする。
「友達ができる前に、殺しちゃった。」
 私は歩くのをやめて、道路の真ん中でそんなことを言った。自虐的に笑ってみるものの、言葉を繰り返す度に自分の犯した罪の重さが増してくる。
「早くこっちに。そこは危ないよ!」
 千尋は私に駆け寄り、手を引いて、道路の端に移動した。
 車も通っていないのに、私の言葉に危険なものでも感じたのだろうか。
 息を整えている千尋に、私は思わずデコピンする。
「いたっ」
 大した威力ではなかったはずだが、千尋は痛みを訴える。
「死にたいんだよ。忘れた?」
「心配してくれてありがとう」とか、「車来てないのに焦りすぎでしょ笑」などかける言葉は色々あった。ただ、口が勝手に動いていた。千尋はずっと私を見つめている。返す言葉が見つからないのだろう。
 混乱しているかもしれない。
「千尋が私についてきてくれたのは嬉しいよ。死んでもいいって思ってくれてるってことだもん。でもさ、少しでも生きたいっていう気持ちが残ってたら、私たちうまくいかないよ」
 口は動き続けた。
 笑顔を作り、何事もなかったかのように再び歩き始める。
 内心では自分の言ったことが正しいのかを考えることに精一杯だ。
 自分の必死さを悟られたくない。
 その思いだけで、千尋の方は見ずに前だけを見る。
 歩く。歩く。歩く。歩く。
 千尋に手を引かれ、ただひたすらに道を歩いた。
 歩き疲れた私は何度も「疲れた」を繰り返していた。
 私が全く足を動かさなくなって座り込むと、隣に千尋が座ってくれた。
 千尋はかばんの中からペットボトルを取り出し、私に差し出してくれる
「ありがとう」
 一口だけ飲み、千尋に返す。千尋もそのペットボトルの水飲んで、かばんの中にしまった。
「世界に二人だけみたいだね」
 私はおそらく笑っているだろう。それくらいその事実が嬉しかった。
 もともと住んでいた街だって電車はおろか、車も通らないほど田舎だったけれど、いくら歩いても景色が変わらないのは、このあたりの地域がいかに広くて過疎化しているのだ。
「千尋」
 突然名前を呼ばれて驚いたのか、慌てて顔を挙げる千尋。
「私たちは誰にも愛されなかったから?」
 千尋は真剣に聞いてくれる。
「そんな私たちで、愛し合っていこ。これから、最期まで」
 この言葉は本心なのだろうか。
 自分で自分に問いかけるが答えは出ない。
 頷いてくれる千尋を見て、確信する。
 そのとき、一台のトラックが私たちの座っていた道路を通り過ぎようと走っていく。
 身体が動く。
 すぐにその場から立ち上がる。
 疲れていて歩けなかったのに。
 追いかけようか迷ったが、来た道を戻るのは馬鹿馬鹿しい。
「二人の世界に入ってくるな!いいところだったのに!」
「いつ来るかわからない電車を待ちながら、線路の上に寝転んでいるのって、何かの映画のワンシーンみたい。もし今までの旅も、人を殺したことも作り話だったら、ドッキリだったら、笑えるのにね」
「ドッキリなんかじゃない」
「今までの旅が、君との思い出が全部ドッキリだったなんて僕は認めない。今がとても幸せで、生きてるって実感できるのにドッキリのわけがない。そんなこと認めない。許さない。」
「ははははははは、ははは。ははははははははは。
 認めない?許さない?死んだら何も残らないのに?今の気持ちも、生きてるって感覚も全部なくなるの。ただ死んで、消える、それだけ。私だって認めないし、私だって許さない。今の幸せが永遠に続くなんて、この旅の終わりに幸せが待っているなんて。」
「今更だけど、ごめんね」
「何に対して?」
「助けてあげられなかったことに対して」
「流花がいじめられることに気づいていたら、いじめを止めることができていたら、こんなことにはなってなかった」
「千尋は悪くないよ。私がいじめられてることを知ったのって、私があいつを殺したあとなんだから。仕方ないことだったんだよ。千尋は悪くない。」
「で、でも、気づけていたら」
「一年生に時と違って、クラスが違うじゃない。他クラスのいじめ状況まで把握するのは無理があるよ。いじめられてたことを知らなくてもしょうがないよ」
「それでも―。」
「私は後悔してないんだよ。あいつが死んだときも笑ってたんだ。解放されるとかそういう気持ちじゃなくて、ただなんとなくコメディ見たいって思って笑ってたの。」
「コメディ?」
「ちょっと肩を押しただけで、死んだんだよ?私を傷つけたことなんてなかったように。簡単に死んでったんだ。人ってあんな簡単に死ぬんだって、漫画の世界と一緒だって」
「・・・・・・。」
「今までの人生で、誰からも好かれるような主人公やみんなを平等に扱ってくれる神様なんていないことが分かったんだ。しあわせなんてものもなかった。でも、神様がいるならそれは千尋、あなただよ。私にとっての神様はあなた。人を殺して、償わないといけないのに、それすらもしあわせにしてくれたあなたなんだ。それ以外は全部ごみでしかないよ。」
 千尋はただ笑っている。
 私の意見に呆れただろうか。それとも驚いただろうか。
 この旅は私が提案したもので、千尋はそれに付き合ってくれている。
 怖くなったかもしれない。一緒に行きたくなくなったかもしれない
 それでも私からそれをいうことはしない。
 それは千尋に対する唯一の裏切りだから。
 それから何日も、何十日も千尋との旅は続いた。人を殺した罪も背負って歩いた私たちは、罪を増やしながら旅を続けた。
 外出するのを見計らって家に忍び込みお金を盗んだ回数はもう数えていない。お店に入って気づかれないようにものを盗ることにももうなれた。
 罪を増やしてることに関しての罪悪感などとっくになくなっていた。怖いという感情とともに。
 それどころか、僕たちは何も悪くはないとさえ思っていた。僕らが生きるために、僕らが幸せになるために行ったことだ。仕方ない。
 だけど現実はそうもいかなかった。
 警察に追いかけられて走っている私と千尋。
 なぜ追いかけられているのだろう。
 なぜ逃げ続けているのだろう。
 私たちは自分の幸せを求めていただけなのに。
 ずっともう死んでもいいと思っていたはずなのに。
 喉が乾き、視界が揺れる。意識がなくなりそうだ。セミの声だけがやけに大きく頭の中で響いている。
 このままじゃ捕まるだけだ。
 私の、私たちの幸せが奪われるだけだ。
 それは許されない。
 千尋の腕を取って引き寄せ、首に左腕を回す。
 千尋のかばんからナイフを取り出し、右手で首もとに突き立てる。
 今まで背中を向けていた警察に、今度は正面からと向かい合う。
「来るな!」
 千尋を人質に取り、これ以上近づいてこないように威嚇する。
 警察は一瞬動きを止めたが、再びすぐに私たちに近づき始めた。
 どうすれば、逃げ切ることができる。
 どうすれば、幸せを守れる。
 どうすれば―。
「もう諦めよう」
 小さな声が左の耳から入り、頭の中を駆け巡る。
「うるさい!」
 千尋に向けてつぶやいた。
 体が震える。
 涙が浮かぶ。
 それでも警察にナイフを向けて必死に叫んだ。
「折角得られた幸せの邪魔をするな!私の生き方に文句を言うな!私が描いた結末の障害になるやつは全部ごみだ!私の人生の最終回にお前らはいらない!」
 どこから道を間違えたんだろう。
 罪を増やし続けてしまったこと?
 旅に出ると決めたこと?
 人を殺してしまったこと?
 それとも―。
 やめよう、こんなことを考えても意味がない。
 今は現状に向き合う。それしかない。
 思考を巡らせる。頭の中がぐちゃぐちゃになる。
「もう終わりなんだ。
 僕たちは捕まってしまう。体力もお金も何もかもが僕らにはもうないんだ。
 君だってわかっているだろう?もう終わりなんだ。
 君も、僕も。
 だから、最後にお願いだ。
 君が僕を刺し殺してくれ。
 僕には両親もいない、友達もいない。そんな日々に戻りたくはない。
 だから、お願い」
 私に向かって淡々と言葉を並べる千尋。
 その言葉を聞いて、この度の目的を思い出す。
「そっか、それでいいのか。」
 人質に取っていた千尋をを地面に突き飛ばす。
 千尋は警察官たちに取り押さえられる。
 持っていたナイフを首にあてて切り裂く。
 千尋の叫び声がだんだんと小さくなっていく。
 これが作り話の世界なら、なぜか一命をとりとめ、罪は全部なくなり、幸せな生活を過ごすんだろうな。
 人生はコメディだ。
 最終回はハッピーエンドが望ましい。
 ならば最期は笑顔で迎えよう。
 僕は今までの日常に戻った。児童養護施設で暮らす日々、クラスメートとともに過ごす日々。
 ただ一つ違うところがある。
 流花、君がいない。
 どこに隠れてしまったのか、どこにも見つけることができない。
 僕は始まりの日、君が部屋の前に立っていた日のことを思い出す。
 あの時引き留めることができていれば、君は今でもここにいたのかな。
 君があの日僕に求めていた言葉、今ならわかる気がする。
「誰も何も悪くない。
 君は何も悪くはないから。
 もういいよ。
 投げ出してしまおう」
 流花を救えたかもしれない言葉、後悔してもしきれない。
 そのとき、僕の頭に彼女の最後のセリフがフラッシュバックする。
「千尋、ありがとう。
 千尋がいてくれたからここまで来ることができた。こんなに楽しい旅ができた。
 だからもういいよ。もういいんだよ。死ぬのは私一人でいいんだよ。
 千尋、あんただけは生きて。生きて、生きて、そして死ね」
 僕を突き飛ばす直前に、彼女が耳元で囁いた強がりのような言葉。
 流花と僕をつなぐ唯一の言葉だ。
 だからこの言葉の通りに生きようと思う。
 死ぬまでにどう生きればいいのか、そう問い続けることこそが、流花の存在証明になる。
 僕は君をずっと忘れない。
 僕は生きているんだ。
 死ぬとき死ねばいい。
 だがしかし、今は生きたい。

「夕立の君へ」
k182315

 急に降って、急にやむ。夕立は夏の日常に起こるアクシデントの代表だ。
 そしてあれは、夕立が運んできたアクシデント的なもの、だった。ぼんやりしていて、でもしっかりと僕に刻まれた鮮やかな、夕立の魔法だった。
 夏休みが始まってからというもの、クーラーの効いている自室にこもり、本や漫画を読んで一日を過ごす。これが僕の夏だ。一般的な大学生はバイトに遊びにいそしむのだろうが、僕は夏休みにはバイトしない主義の人間だし、特に遊びに出かけることもない。僕にとっての外出と言えば、近所のコンビニにアイスを買いに行くくらいだ。それゆえ、八月の真ん中頃には夏バテに苦しむ引きこもり大学生が完成するわけである。別に寂しくはない。むやみに外へ出て他人と関わるのが面倒なのだ。
 そんな夏バテ大学生に、生意気盛りの女子高生で軽音楽部所属、ギター担当、なんていうまぶしい青春を謳歌している妹はこう言い放った。
「お兄ちゃん、頼まれてくれない?」
 頼みごとをする時だけに出る少し高めの声だ。僕は瞬時に警戒モードに入る。
「なんだよ…中身聞いてから考える」
「ギターの弦切れちゃってさ、スペアの弦もないし」
「……」
「だから〜、この楽器屋まで弦張り替えに行ってきて?」
 妹はにこにこして、既に印刷済みの、店までの地図をひらつかせた。僕が断れないとでも思っているのか。僕は負けない。
「やだね、外は僕には暑すぎる」
「そう言わずに!ちょっと外に出てみたら友達できるかもよ?」
「それとこれとは全然関係ないだろ」
「関係なくないよ、ほら、何かあるかもじゃん、う、運命的な出会いとか?」
 後半部分、笑いをこらえながら言っている時点で本心ではないことがバレバレだ。僕は負けない。
「ていうか自分で行けばいいじゃん、なんで僕に頼むんだよ」
「わたしこれから舞と遊びに行くからさ、今日は張り替えに行けないの。で、明日の練習でギター使うから、弦切れてるのは困るの。頼むよ〜お兄ちゃん」
 僕と似て妹も負けず嫌いだ。両者一歩も譲らないまま見合っていると、キッチンから母親が兄妹の闘いに割り込んできた。
「あんたどうせ漫画読んでるだけなんだから行ってきてあげな!」
 致命傷だ。こういう時、上って不利だと思う。ただでは負けたくない僕は最後の抵抗を試みた。
「…無償で?」
 ただでは負けない僕の言葉に、妹は苦虫を噛み潰したような表情になり、渋々こう言った。
「…夏限定のあのアイス、最後の一個だったやつ…あげるから……」
「…よし、そういうことなら行こう」
 こうして重い腰を上げた僕は妹から地図とお金を受けとり、最低限の荷物とギターを背負った。妹から受け取ったメモには、弦の品番のようなものが書かれていた。
「丸眼鏡のおじさんがいたらその人が店長だから。あとは、そのメモ見せたらわかってくれる」
 僕は片手をあげて了解の合図をして、ドアを押し開けた。
 目的地であるその楽器屋は、家から徒歩だと30分くらいの距離にある。自転車は妹が使うようだし、引きこもり大学生の僕は運動のために徒歩を選んだのだが、これがまずかった。
 一歩外へ出ると、もはや熱風と言っても過言ではないような風が僕に向かって吹いてきた。三歩歩いて額に汗がにじむ。全身から滝のように汗が流れるまで、そう時間はかからなかった。
 空は酷い曇天だった。ぶ厚い灰色の雲は見ているだけで重たくて、ムッとした空気がのしかかるような感じだ。いや、実際のしかかっているのはギターだよ、と心の中でつっこみを入れて虚しくなった。
 しばらく歩くと川沿いの道に出た。さすがに暑いからか、河川敷にいる人はまばらだ。少し立ち止まってぼんやり河川敷に視線を送りながら、ああ、ここ何年振りに通っただろうか、と思った。なんで通らなくなったのか考えて、ずっと蓋をしていた過去を思い出した僕は苦い気持ちになった。ああそうだ、この河川敷こそ、あの日、僕を変えた場所じゃないか。いや、僕が、僕自身が、他人と深く関わるのを諦めた場所。
 誰かが走ってくる足音に、はっと我に返る。この川沿いの道は昔からランニングコースに使う人が割といる。しかしまあ、こんな暑さの中ランニングをするなんて、よほど走ることが好きなのだろう。走ってきたその人は、ぼんやりしていた僕を少し大回りに避けて軽快な足どりで走って行った。
 柄にもなく感傷的になっていた僕は、さっきの苦い感情を振り払うように、ふうと息をついて、再び歩を進めることにした。
 その後はひたすらに無心で歩いた。じめじめした空気がまとわりついて、背負ったギターはどんどん重くなっているように感じた。
 ようやく目的の楽器屋の看板が見えてきた頃には、僕は限界を迎えていた。とめどなく汗が流れて落ちていく。滝のような汗とはこういう汗のことを言うのだ。水筒を持ってこなかった自分を心底恨みながら、僕はなんとか楽器屋に辿り着いた。
 店内は外とは別世界のように涼しく、僕は冷房の偉大さを再確認した。いつもありがとう、冷房。大好きだよ、冷房。
「いらっしゃい。」
 店の奥から、ひょいと丸眼鏡のおじさんが顔を出した。妹が言っていた店長っていうのはこの人だろう。歳は三十代後半くらいだろうか。
「今日は何かお探しで?」
「いえ、あの、ギターの弦の張り替えをお願いしたくて」
「あー、張り替えね、はいはい。弦の種類にご希望は?」
「ここに書いてあるものでお願いしたいのですが」
 妹から預かったメモを見せるとすぐに理解したようで、店長は弦コーナーの在庫を見に行った。
「おっけ。在庫あるから今から張り替えするね。」
「ありがとうございます。お願いします。」
「ついでにメンテナンスもしておくし、30分くらいかかるけど外暑いし店内で待つ?」
「あ、そうさせてもらいます」
 即答した。疲れ果てていた僕は、外で時間をつぶすことよりも、狭い店内でも冷房の効いた部屋で過ごす方が断然よかったのだ。
「そこにある椅子座ってていいよ、あ、水でも飲む?」
「いいんですか!」
 まさにこれぞ神からの贈り物ではないかと思った。「ほれ」と渡された冷たい水を、お礼もそこそこに僕は一気に飲み干した。ぷはっと息を吐くと同時に、体中に冷たい感覚が染みわたる。今まで飲んだ水の中で一番おいしかったかもしれない。
「相当喉渇いてたんだな」
 と店長が笑った。折角出してくれた水を一気に飲み干したことが少し後ろめたくて、照れくさくて、僕は力なく「あはは」と笑い返した。
 椅子に座って改めて店内を見回すと、所狭しと様々なギターが並んでいた。シンガーソングライターが抱えていそうな、いかにも木製という感じのギターや、バンドの人がかき鳴らしていそうなスタイリッシュなギター、少し小さめの子ども用ギターなど、多種多様だ。近くにあったギターの弦に触れると、ベーンと音が鳴った。耳になじむ温かい音だった。ふと見た値札には0がたくさんついていて、僕は驚いて手を引っ込めた。かと思えば、僕の所持金で手の届きそうな値段のものもある。ギターの世界は僕が思っているより何倍も何十倍も広いのだな、とぼんやり思った。
「おーい、終わったよ、お会計こっちでお願いしたいから来てくれる?」
 店の奥から店長の声が聞こえたので、僕はギター観察をやめて席を立った。
 こぢんまりしたカウンターに移動して、銀のトレイに代金を置く。預かったお金がぴったりだったから、妹はここの常連なのだろう。
「相変わらず大事に使ってくれてるよ。妹さんによろしくね。」
 びっくりした。なんで妹のギターだとわかったんだろう。僕が驚きで目を丸くしていると店長が笑って言った。
「やっぱりお兄ちゃんだったか。このギターは俺が妹さんに売ったものなの。だから覚えてるし、君は妹さんより断然年上に見えたし。それに、ギターを見たらわかるんだよ。大事に使っているかはね」
「そう、なんですか」
「そうそう、ギターはね、大事に使ってると魂が宿るんだよ、これマジだから」
 ギターの話になって、店長はさっきよりも少し饒舌だ。懇意にしている客の家族とは言え、初対面の人間相手にここまで話せる店長のコミュニケーション能力が僕は少し羨ましくて、少し妬ましかった。きっとこの人は、たくさんの人と関わって、たくさんの人に囲まれて生きてきたのだろう。きっとこういう人は他人と関わるのを面倒だとか言ったりしない。
 ひねくれた考えを巡らせながら、僕は店長からギターを受け取り「ありがとうございました」と言って、店を後にした。
 相変わらず空は気が滅入るような灰色で、外の空気はじっとりと僕にはりつくようで、すぐにさっきまでの涼しさが恋しくなった。またここから30分くらい歩くと思うと気が遠くなる。
 黙々と歩くうちに、川沿いの道に出た。来た道を帰っていると、どこからかポロポロと心地よい音が耳をなでた。しばらく聞いていると、それがギターの音だと分かった。僕はそれが妙に気になって、辺りを見回して音の出どころを探した。どうやら、橋の下の日かげになっているところから聞こえてくるらしい。
 普段の僕なら、まっすぐ帰っていたはずだ。極力他人と関わらないように。しかし今日は違った。楽器屋の店長に少し毒されていたのかもしれない。僕は河川敷へおりて、橋の下へ向かった。
 橋の下を覗くと、女の人が地べたに座ってギターを弾いていた。歳は同じくらいだろうか。白のゆったりとしたノースリーブにジーパンで、髪は少し高めのところで一つにまとめられている。自然で、自由で、どこか儚い。僕はなぜだか彼女から目が離せなくて、しばらくの間見入ってしまった。彼女が奏でるギターの音色は、風にのって踊る花びらのように軽やかで、僕を魅了した。暑さとか、うんざりする曇り空とか、どうでもよくなった。今ここにある彼女の音が全てを洗い流していく。そんな感覚だった。
 はた、と音が止まって彼女が僕を見た。目が合って三秒。彼女は目をまん丸に見開いて、口をパクパクさせた。
「…った…やった……やったあ!!!!」
 彼女はギターを肩から掛けたまま、立ち上がってぴょんぴょん跳ねながら歓喜の言葉を連発した。僕はどうしていいか分からず、とりあえず立ちつくしていた。一通り喜び終えた彼女は駆け寄ってきて、興奮気味に僕にたずねた。
「ねえ君、私の音につられてきたの?」
「え、ええ…はい」
「うっわあ!やっと音が届いた!やっと見つけてもらえた!」
 彼女の勢いに圧倒されてしまって、僕はとりあえず「はあ」と相槌をうった。それにしても何だか不思議な言いまわしをする人だ。かくれんぼで最後まで見つけてもらえなかった子どもみたいだ。
 彼女は勢いを緩めずに僕に詰め寄って尋ねた。
「ねえ君、大学生?何年生?」
 相変わらずまん丸に開かれた目がきらきら輝いている。その視線が僕にはまぶしくて、目を逸らして「二年生」とだけ答えた。彼女は質問した相手に目を逸らされても全く気に掛けない様子で「そっか、そっかあ」と満足気にうなずいている。
「じゃあ趣味は?好きな色は?」
「趣味…趣味は本とか漫画を読むことで…好きな色は青、ですかね…」
 いつもの僕なら、「そういうの、困るんで」とかなんとか愛想の悪いことを言ってその場を立ち去る。しかし今日は彼女の勢いに負けた。なぜだか僕は答えてしまった。他人と深くは関わらない――そう決めていたのに、僕は彼女を振り払うことができなかった。夏が僕にいたずらでもしたのだろうか。
「青が好きなの私と同じだよ!ていうか、趣味は、音楽じゃないの?」
 彼女はがっかりしたように言った。僕は頷いた。
「だってギター背負ってるし…ギター弾くのかなって…」
「ああ…」
 なるほど、彼女は僕が背負っているギターを見て、僕が同士ではないかと期待していたのだ。
「あの、これは、妹のギターなんです」
「あー、妹さんのかあ。妹さんがいるんだね」
 合点がいった、というように、彼女はにっこり笑った。
「まあでも、君は心の底では音楽が好きだよね?だってわたしの音が聞こえたんだもん。だからね、君はわたしと仲良くなるし、君もきっと弾くよ、ギター。ほら、こっち来て!」
 彼女は元々座っていたところに走って戻っていき、ギターを抱えると「横に座って?」と地面をぽんぽんとたたいた。
「いや、僕は、もう帰ります…」
 彼女とこれ以上関わらないように立ち去ろうと僕が踵を返した時、灰色の空から耐えきれなくなったようにポツポツと大粒の雨が降ってきた。なんていうタイミングだ。
「あーあ、雨降ってきちゃったね?」
 いつのまにか僕の隣に立っていた彼女はにやにやとこっちを見ていた。
「ギターは水に弱いからなあ、君はなんとかなっても妹さんの大事なギターはどうだろうなあ?」
 小首を傾げてこちらを見ている彼女はほぼ勝ちを確信しているようだった。僕はもう何も言えなかった。
「ちょうどここは橋の下だから雨宿りには持ってこいだよ〜?たまたま暇つぶしになりそうな出会いもあったことだし、ね?」
 そう言うやいなや有無を言わさず彼女は僕の手首をつかみ、さっき座っていたところまで引っ張っていった。そして僕を自分の隣に座らせると、彼女は満足げに笑った。
「雨がやむまででいいから、ね?」
「…雨がやんだらすぐ帰りますから…」
 僕は観念して彼女の提案に乗ることにした。雨が止むまで。そう、黙って座っているだけでいい。
 彼女はギターを構えると、ポロポロとギターを弾き始めた。優しい音が僕の頬をなで、ザーッと降る雨になじんでいく。彼女の奏でる音楽は、雨音をもメロディーの一部にしている。すごく心地がいい。
「…あの、これ、何の曲ですか」
 僕はたまらなくなって問いかけた。黙って座っておこう、という少し前の僕の決意はいともたやすく破られたのだ。だってどうしようもなく気になってしまったのだ。聞かずにはいられないほどに。
「んー…この曲ね、何の曲かはね、わかんなーい」
 彼女は微笑んで答えた。
「…作ったんですか?」
「んーん、なんか思い出の曲?ってのかな。頭に残ってるんだよね〜」
「へへ」と、今度は少し寂しげに笑う彼女は今にも雨の向こうに消えてしまう感じがした。僕はそれ以上は聞けなくて、小さく「へえ」と相槌を打った。しばらく僕も彼女も口を開かなかった。ザーッと降り続ける雨の音に耳を傾ける。雨音が気まずさを紛らわしてくれる。少し強まった雨音にほっとしている自分がいた。
 おもむろに彼女が語り始めた。
「…でもこの曲さ、歌詞がないの。名前もない。メロディーは、すごく優しくてあったかくて、だけど、でも、この曲には歌詞も名前もないの。」
 彼女は静かに続けた。
「この曲、わたしは可能性が詰まっていると思うの。メロディーだけでももちろん大好きな曲だけど、歌詞とか名前がつけば、もっと輝く曲になると思うんだ、わたしは。この曲は不完全。でもすごい可能性を持ってる。君みたいに」
 彼女は少し力のこもった声で言って、「うんうん」と自分の言葉にうなずいている。僕はなんだかもやっとした。初対面の人間から遠回しに不完全と言われたのは面白くなかった。
「僕は別にメロディーだけの曲でもいいと思いますけど」
 僕のとがった言い方にも彼女は動じなかった。むしろ楽しそうだった。
「そういう見方もあるよねえ。しかし君とは意見がとことん合わないなあ」
「別に合う必要もないでしょ」
「えー、つめたーい」
 彼女は手をパタパタしながら「わはは」と笑った。
「君もさ、何かないの?ずっと頭に残ってる曲とか」
 そう言われて浮かぶ曲が一曲あった。大好きで、大嫌いな、あの曲。
「…『にじ』です。童謡の」
「おお!今の天気にぴったりじゃん」
 僕の複雑な気持ちをよそに、彼女は『にじ』を弾き始めた。
「ね!歌ってみてよ」
「いや、僕、歌は、ちょっと」
 僕の返事を聞かずに、彼女はギターを弾き続ける。
「歌わないですよ」
 静かに、でも強くもう一度言うと、彼女は手を止めてこっちを見た。
「なんでか教えて?理由が言えたら、君はきっと歌えると思うの」
 彼女はまっすぐに僕を見つめていて、僕は、この人なら、と思えた。他人にまっすぐに見てもらったのはいつぶりだろうか。僕はポツポツと話し始めた。
 
 『にじ』は、中学校の頃合唱祭のオープニングで歌った曲で、僕のトラウマだ。
 僕は小さいころから音楽が大好きで、隙あらば歌を歌っていた。合唱祭は何より楽しみな行事だったので、合唱練習のリーダーに立候補した。
 『にじ』はそんなに難しい曲ではないけれど、ハモリ次第で素晴らしい合唱になると先生が言った。それを信じて、僕は一生懸命リーダーの仕事をした。毎日クラスのみんなで練習して上達していくのが楽しくて、休み時間もみんなを集めて練習した。歌が好きで仕方なかった僕は、それをしんどいと思う人がいることに気がつけなかった。
 合唱祭の一週間前になって、僕は放課後にも河川敷で集まって練習しようと提案した。クラスメイトはおおむね賛成してくれた。しかしその放課後、いつまで待ってもクラスメイトは誰一人来なかった。河川敷には誰一人来なかった。そしてクラスメイトは、休み時間の練習にも来なくなった。「なんで来ないの?」と尋ねたら、「放課後まで歌の練習とか無理。みんな言ってるよ。」と言われた。「行くって言って行かない方が懲りると思ったんだけど」という言葉に僕はようやく気づかされた。みんな初めから来る気などなかったのだ。
 合唱祭のこの出来事を境に、僕はクラスで孤立するようになった。
 他人は簡単に離れていく。離れていって辛い思いをするなら、初めから関わらなければいい。初めから一人なら、傷つくことも、他人に嫌な思いをさせることもない。他人と関わると面倒なのだ。
 だから、河川敷は僕を変えた場所だし、『にじ』は大好きなのに大嫌いな曲なのだ。
 一連のこの話を、彼女は真剣に聞いてくれた。話し終わった後は少し考え込んでいるようだったが、顔をあげるとこう言った。
「君は、まだなんでもできるね」
 彼女の言っていることが理解できなくて黙っていると、
「とりあえず、一緒に歌ってみようよ」
 と言って、彼女は再び『にじ』を弾き始めた。そして歌い始めた。
「洗濯物が一日ぬれて〜雨があがって〜…」
 透き通った彼女の歌声は、優しく僕のトラウマを包み込んでくれた。
「「…ラララ〜虹が虹が〜空にかかって〜…」」
 気づくと僕は彼女と歌っていた。こんなに楽しく歌えるのが本当に久しぶりで、僕は夢中で声を出した。僕の心に居座っていたトラウマがさらさらと流れていく。
 歌い終えると彼女はくしゃっとした笑顔で「いいじゃん!」と言った。僕はずっとドキドキしていた。誰かと歌うこの感覚が、僕は大好きだったんだ。
「君、ギター練習してもっと歌いなよ。もう大丈夫でしょ?」
「…はい。もう、大丈夫です」
 それを聞いた彼女は優しく微笑んだ。
「音楽、好き?」
「大好きです」
「わたしのこと、好き?」
「すっ、ええ!?」
 唐突すぎて声が裏返ってしまった。彼女はいたずらっぽい顔で「冗談!わはは」と笑った。僕は小さくため息をついて、結局彼女の質問には答えなかった。ほんの少ししか一緒に過ごしていないけれど、僕は彼女に救われた。彼女と関わったことで、音楽と再会した。人とつながる温かさを知った。僕はたぶん色んな意味で彼女のことが好きだと思う。でもこんなことを言うのは照れくさいじゃないか。
「あなたに会えてよかったです」
「わたしも楽しかったよ。君がよければ、ギターもらってくれない?」
 彼女は抱えているギターを指でトントンと優しくたたいて言った。
「君といれたら、このギターも嬉しいと思う。もちろんわたしも」
「え、そんな、大切なものなんじゃ…」
「うん、でもわたしの音が届いたのは君だった。音が届いた人に渡すって決めてたの。お願い、もらって」
「本当にいいんですか」
「本当にいいの」
「…じゃあ、いただきます」
 彼女は小さく「ありがとう」と言って僕にギターを渡すと、空を指さして「あ!虹!」と叫んだ。雨はいつの間にかやんでいた。彼女につられて空を見ると、晴れ間がさした青空に虹が架かっていた。輪郭はぼやけて不格好で、不完全な虹。でも僕にはそれが新たな自分へとつながる架け橋のように思われて、わくわくした。はっと我に返って、彼女にお礼を言おうと視線を戻して茫然とした。
 そこにはもう、彼女はいなかった。
 辺りを見回しても見当たらない。帰ったとしてもそう遠くは行っていないと思い、近くを探してみたがやはり見つからなかった。夕立のような人だった。急に現れて、急にいなくなってしまった。
 結局彼女は見つからず、とうとう日が傾いてきたので、僕は諦めて家路についた。彼女にもらったギターは大切に抱えて持って帰った。雨は止んでも、僕の胸の高鳴りは止まなかった。
 夏の長い日が沈むころ、ようやく家に着いてドアを開けると、パタパタと足音を立てて妹が出迎えてくれた。
「おかえり!遅かったじゃん、ってなにそれギター?買ったの?」
「運命の出会いってやつかな」
「何言ってんの」
 妹はケラケラと笑ったけど、本当のことを言っただけだ。彼女との出会いは僕にとって運命の出会いだった。
 その後、僕は彼女との約束通りギターを練習して、何曲か弾き語りで歌えるようになった。大学でも弾き語りのサークルに入り、仲間ができた。最近は自分で曲を作ったりもしている。
 今の僕はもう、他人との関わりを面倒だなんて思わない。あの夕立の日、彼女が僕を過去から引っ張り出してくれた。音楽の楽しさを思い出させてくれた。
 しかし、あれから何度あの橋の下へ行ってみても、もう彼女に会うことはなかった。それなのに、ギターを弾いていると不思議と彼女が隣にいて一緒に歌っているような感覚になる。どこかで聴いてくれているのだろうか。「いいじゃん!」といって笑ってくれているだろうか。
 夕立の君へ。僕の音は、僕の歌は、届いていますか。

「陽兄ちゃん」
k182316

 僕は児童養護施設「クローバー」で育った。
 お金が無くて、食べ物は全部自給自足。放課後は、魚釣りや野菜の水やりに時間を費やす日々だった。
 それでも、施設のお金が足りないらしく、「オカネヲハラッテクダサイ」と繰り返す機械が毎朝施設の門までやってくる。本当に怖くて、どうしていいか分からなくて、部屋の隅で震えていたのを覚えている。
 それでも、僕らには陽兄ちゃんがいたから、毎日笑いが絶えなかった。
 3つ年上の陽兄ちゃんは、優しくて、強くて、なんでも僕らに教えてくれた。魚の取り方。野菜の切り方。難しい宿題。施設のみんなが学校でいじめられた時は怒りにもいってくれた。
 そして決まって、「俺はみんなとずっと一緒にいるからな。」と太陽みたいな笑顔で言うのだった。
 そんな陽兄ちゃんが、みんな大好きだった。中でも、僕と可奈、智、駿は、「陽兄ちゃん親衛隊」を組んで、いろんなことを学ぼうと、毎日陽兄ちゃんの後を追い回していたほどの熱烈ぶりだ。
 だから、まさかあんなことが起こるなんて、思ってもみなかったんだ。
 「陽兄ちゃん、もらわれていくんだって。すっげぇお金持ちの家らしいぜ。いいよな。陽兄ちゃんだけ。」
 「そんな訳ないよ。僕らとずっと一緒にいるって、陽兄ちゃんいつも言ってたじゃん。そんな嘘良くないぞ。」
 「嘘じゃないよ。そんなに疑うなら、本人に聞いてみればいいだろ。
 ぼ く た ち を う ら ぎっ た ん で す か。ってさ。」
 「聞くまでもないよ。嘘に決まってるさ。」
 本当の所、全く陽兄ちゃんを疑っていないわけではなかった。いつもは、僕が何かできない時、陽兄ちゃんは僕に代わってしていてくれていたのに、最近は、「こうやってやるんだぞ。覚えたか。」と確認してくる。それに、もう一度同じことを聞いても、自分でやるように言うのだ。
 ずっと変に思っていたが、陽兄ちゃんが、もしこの施設からいなくなるとしたらー
 これは辻褄が合うことになる。
 だからこそ、確認するのが、そしてもし、いなくなるのなら、それを認めるのが怖かったのだ。
 大好きだった陽兄ちゃんが、僕たちを裏切る、、?
 僕は、1週間も悩み続けて、ついに決心して陽兄ちゃんに聞くことにした。食事も喉を通らないし、宿題も何もやる気にならなくて、このままでは、いけないと思ったからだ。
 廊下を歩く陽兄ちゃんに駆け寄って、服の裾を掴んだ。ギュッと力が入る。
「よ、陽兄ちゃ、ん。あ、あのさ、。」
 声が震える。陽兄ちゃんは体ごと振り向いて目をまん丸にしてこっちを見ている。
 生唾を飲み込んで、やっとのことで聞いた。
「あ、の、陽兄ちゃん、ここからいなくなるって、ほんとなの。」
 陽兄ちゃんの目をじっと見つめる。
 陽兄ちゃんは、地面に目を落として何も言わない。
 長い沈黙の後、あの太陽のような笑顔を作って僕に言った。
「そんな訳ないだろ。俺はいつまでもみんなと一緒だよ。約束しただろ。」
 そう言うとすぐに、目を逸らして、また、廊下を歩いていってしまった。
 陽兄ちゃんは、やっぱり、施設からいなくなったりしないんだ。なぜかは分からないけど変な噂が流れたんだ。
 そう思うと、急に体の力が抜けて、その夜は久しぶりにゆっくりと眠ることができた。
 次の日から、また僕はいつもの調子に戻って、大好きな陽兄ちゃんに、サカナや花の名前、算数の宿題など、それはたくさんのことを陽兄ちゃんに聞いた。
 だけど、やっぱり、陽兄ちゃんが「こうやってやるんだぞ。覚えたか。」と確認することは変わらなかった。
 セミの鳴き声が減って、夜風が涼しくなってきた夏の終わり、僕たち全員食堂に集められた。前には、陽兄ちゃんが、パリッとしたジャケットに、シワひとつないズボンを履いて真面目な顔をして立っている。僕はいつもよれよれのTシャツに短パンでいる陽兄ちゃんが、急にかしこまったのをみて、笑いがこみ上げてきたが、周りを見渡すと真剣な顔をしていて、いつもとは違う空気を感じ取って、笑うのをやめた。
 全員が集まると、陽兄ちゃんは大きく深呼吸して、そして口を開いた。
「みんな。僕は、これから山本さんという新しい家族と暮らすことになります。とても優しくて、いい人です。僕も新しいところで頑張るので、みんなも頑張ってください。今までありがとうございました。」
 安井先生が、「みんな拍手しましょう。素晴らしい門出です」と満面の笑みで見本の拍手をしたのに続いて、他のみんなも拍手を送ったのを、僕は呆然として、ただ見つめていた。
 僕は、あまりにもよそよそしい「僕」という言葉と、ここ、「クローバー」で聴き慣れた定型句を繰り返す陽兄ちゃんの様子を見て、何も考えられなくなっていた。
「陽兄ちゃん、うそ、ついたんだ。。」
 部屋に帰ってからも、さっきの陽兄ちゃんの言葉が、ずっと頭から離れなかった。
「アタラシイオウチデクラスコトニナリマス」
 繰り返せば繰り返すほど、陽兄ちゃんに裏切られたのだという実感が湧いてきて、悲しくて、悔しくて、たまらなかった。
「ずっと一緒にいるって約束したのに。」
「僕たちを守るって約束したのに。」
「これから陽兄ちゃんなしで、どうやって生きていけばいいの。」
 陽兄ちゃんの言葉が、表情が、一緒に過ごした日々が、頭の中を駆け巡って、その日の夜は眠ることもできなかった。
 悪い夢だったらいい、そう思ったが、みんなの暗い表情を見ると、現実だと信じざるを得なかった。特に陽兄ちゃんと仲の良かった、可奈、智、駿は部屋からしばらく出てこなかったほどだ。
 こうして、何の会話もないまま、陽兄ちゃんは施設を去ってしまった。
 それから月日が経って20歳になった僕は、同じ施設で育ったみんなと久しぶりに会うことになっていた。何やら、あと少しのところで、取り壊される所だった「クローバー」が、存続どころか改装されるらしいのだ。
 今日はその改装祝いのパーティー。みんなで集まるのは、2年ぶりのことになる。
 夕方17時からということだったので、今日は有給も取ったことだし、施設の同期の仲間達と先にランチをしようということになった。待ち合わせ場所は、施設の近くにある、寂れたカフェ。この道50年というおじいさんがマスターの、落ち着いたお店だ。
 待ち合わせ時間の12時ぴったりに到着した僕は周りを見渡したが誰もいない。相変わらず、みんな時間にはルーズだ。五分待ってもこないので、先に中に入って待っておくことにした。
 心地よいクラシックに、色とりどりの電灯。何も変わっていない。窓際の席に腰掛け、マスターを呼ぶと、品の良い笑顔を向けながら、ゆっくりとこちらにやってきた。
「ご注文は何ですか。あれ、君、よく来てくれてきたね。久しぶりじゃないか。そういえば、前のクローバー、改装するんだってね。何やら莫大な寄付金があったとか。」
「えっと、ハンバーグセットと、ドリンクはオレンジジュースで。覚えていて下さったんですね。お久しぶりです。仕事を始めまして、最近この辺に来てなかったんです。クローバーが改装されるのには僕も驚きましたよ。僕がいた頃は取り壊し寸前だったんですからね。でも、いったい誰が寄付なんてしてくれるんだろう。」
「寄付は、あれじゃよ。えーと、山本銀行。何か、クローバーにお礼をしたいということなんだが。」
 山本財閥。どこかで聞き覚えがある。記憶を片っ端から探っていると、ピンと思いつくものがあった。そうだ、陽兄ちゃんが、「山本さん」と一緒に暮らすと言っていた。もしかして、、。
 僕は目の前に立っているおじいさんを跳ね除けて、店を飛び出した。
「すみません!僕、しないといけないことがあるんです。」
 10分遅れで店に入ろうとしていた可奈の事も気にせず、僕は、向かいのクローバーに向かって走り出していた。
 一気にクローバーの門まで進み、すっかりきれいに色が塗り直された建物の前にたった僕はインターホンを押した。
「何の御用ですか。あら、秋ちゃん。」
 先生が言い終わるか言い終わらないかという時に、僕は、あらん限りの声を振り絞って言った。
「先生!ここが、取り壊されずに済んだのは、陽兄ちゃんのおかげなの?」
 数秒間の空白の後、先生はゆっくりと、でもしっかりした口調で言った。
「ついに、秋ちゃんも知ってしまったのね。中にはいってらっしゃい。話はそれから。」
 先生は、ガチャリ、と鍵を開けて中に招き入れてくれた。軽く挨拶をしてから足を踏み入れ、玄関横の靴箱からスリッパを取り出して、履き替える。
 先生と一緒に中に入ると、空いていた奥の部屋を案内してくれた。
 椅子を引いて、先生と向かいに座る。自然と体が前のめりになっているみたいで、先生に指摘される。
 仕方ない。ずっと思っていたことが、ひっくり返るかもしれないのだから。
 そう思っていると、先生がやっと口を開いた。
「秋ちゃん、陽太はね、みんなにこのこと言わないでくれって言ってたの。みんな、止めるだろうからって。でも、知っちゃったなら仕方ないわね。」
 呼吸するのを忘れていたことに気がついて、深呼吸をする。
「あのね、10年前、山本銀行の御子息が亡くなって、後継者がいない状況だったのね。どうしようか考えあぐねていた時、インターネットでたまたま、クローバーの里親募集のサイトを見つけたらしいの。それで、1番年上でしっかりした子を養子として欲しいって電話をかけてきたのね。その後、陽太と何度か会って里親の話をしたらしいんだけど、一度は陽太、断ったんだって。僕はクローバーのみんなを守らないといけないので、って。それが逆効果で、余計に山本さんに火をつけてしまったみたいで。クローバーは経営難だから、このままでは施設は無くなってしまう。陽太が、養子になって、後継として立派になった暁には、巨額の投資をすると約束しよう。って申し出たの。それで、陽太は、みんなを守るために、山本さんのところに養子に行くことにしたのよ。それも、心配かけたくないからみんなには内緒でって。ほんとにかっこつけなんだから。」
 先生は、涙ぐみながら言った。
 僕はというと、現実としてすぐには受け入れることが出来ず、何度も先生の言葉を頭の中で反芻していた。
 陽兄ちゃんは、僕たちのために、、
 胸の中にあった蟠りが溶けていくような感覚がした。
 となったら、僕がすることは一つしかない。陽兄ちゃんを裏切ったと思って、最後の数日間無視したことを謝ることだ。陽兄ちゃんは、いつだって僕のことを思ってくれていたのに、それを信じることが出来なかった。今日は、クローバーの改装パーティーが開かれる。陽兄ちゃんも来るはずだ。
「先生、今日のパーティーには、陽兄ちゃんも来るの?」
「いや、来ないの。さっきも言い忘れたけど、、その投資の条件がもう一つあったの。それは、二度とみんなに会わないこと。山本さんは、陽太がどれだけみんなの事を思っているか知ってたから、お金を投資した後に、みんなの元に逃げるんじゃないかって心配してたのでしょうね。だから、陽太とは会えないの。」
 先生は目を下に落とした。
 「そんな。。」
 あんなに僕達を思ってくれた陽兄ちゃんに、もう会えないなんて。そんなの信じたくない。でも、それが約束なら、、
 僕はそれっきり何も言えなかった。
 沈黙が10分ほど続いた頃、僕の中に、あるひとつの考えが、思い浮かんだ。
 屁理屈かもしれないけど、、
 でも、やってみるしかない。
 「先生!」
 思ったより声が大きかったらしく、僕の声は部屋中に響き渡り、先生は目をまん丸にしてこちらに向けた。
 「先生。陽兄ちゃんは、僕達に会わないって約束したけど、僕達は陽兄ちゃんに合わないって約束はしていません。つまり、僕が、陽兄ちゃんに会いに行けばいいんです。」
 先生は、何をおかしなことを言うんだろう、という顔をしていたが、僕の中では、もうその作戦を実行することは決定していた。
 「先生、僕、行かなくちゃ。」
 言い終わるか、否かの間に椅子から立ち上がり、僕は山本銀行に走っていった。本社は、そう遠くはない、ここから1キロといった所だろう。こんなに近くにいたのに気がつかなかったなんて。大通りを抜けて、みんなと待ち合わせする予定だったカフェの前も通り過ぎようとした時、僕の様子に気づいた可奈が、大声で後ろから叫んだ。
 「ねぇ、どこに行くの。パーティーするんじゃないの。」
 「そうだけど、陽兄ちゃんが、、」
 説明している時間が惜しくて、そこまで言って、辞めた。
 「とにかく、僕は山本銀行に行かなくちゃならないんだ。また後で!」
 訝しげな顔をする可奈を背に僕は、まだ道路を右に曲がった。次の角を左に曲がった所にある。
 僕は一気にスピードを上げて、山本銀行まで走った。
 ドアをくぐり、中に足を踏み入れる。あと少しで陽兄ちゃんと会えるかもしれないと思うと、足が震えた。
 深呼吸して、受付の女性に尋ねる。
「すみません。やま、山本陽太さんは、いらっしゃいますか。」
 身分も名乗らず、急に投げかけた質問にも、
 受付の女性は、愛想のいい声で答える。
「山本陽太は現在こちらの応接間で打ち合わせ中でして、どのようなご用件でしょうか。お名前と連絡先を教えていただければ、また調整後ご連絡等も出来るのですが。」
 やっぱりここにいるんだ。鼓動が一気に早くなったような気がした。
「あの、昔、施設で同じだった、新川秋というものです。今日は、その、ただ、山本陽太さんにお礼を言いたくって。」
 僕がそう言った途端、受付が急にざわめいた。施設の人?連れ戻しに来たのかしら。等、いろいろとこそこそ話をしている。受付の愛想のいい女性も急に困った顔になって、そして答えた。
「えっと、今は仕事中ですので、私用となると、申し訳ありません。今お会いすることは出来かねます。」
 やっと、陽兄ちゃんに謝れるかもしれないんだ。ここで引き下がるわけにはいかない。
 僕は受付の前でとっさに土下座の姿勢を取った。
「お願いします。どうしても、会いたいんです。お仕事が終わってから、少しでいいから、山本陽太さんに会わせてくれませんか。」
 受付の女性は、仕事中というとは、断り文句で、そういう問題ではない、といった表情をしながら、こう言った。
「えっと、でしたら先に社長の方に許可を頂かないといけません。今からご連絡しますので、少しお時間いただいてもいいですか。」
「わかりました。」
「では、前の椅子に腰掛けて少しお待ちください。」
 30分ほど経って、社長から折り返しの電話があったようだった。
「新川さん。お待たせしました。山本陽太と直接お会いすることは不可能だということです。申し訳ありません。」
「そんな。じゃあ、社長さんとお話しさせてもらえませんか。話を聞いたら、きっと分かってくれるはずです。」
 受付の女性は諦めが悪い僕の様子を見て、ぶっきらぼうに言い放った。
「分かりました。一応社長には頼んでみますが、これで無理なら、お引き取り願いますよ。」
 本当は、本社から陽兄ちゃんが出てくるのを待ち伏せしようかと思ったけど、陽兄ちゃんが約束を破ったと思われて、酷い目に合うかも知らない。いろいろ考えると、社長に説得する以外の方法はなかった。
 さっきと同じように、椅子に座って待っているように促され、渋々席についた。が、一向に受付の女性は電話をかける様子はない。どちらが先に諦めるかの勝負になっていた。3時間ほど経った頃、ついに女性が折れて、社長には電話をかけた。電話は1分ほどで終わり、やっと呼ばれた。
「新川さん。今日の17時なら、空いているそうです。ご都合いかがですか。」
 今日のパーティーは、17時から。社長と会っても何も状況は変わらないかもしれない。でしも、それでも僕は、陽兄ちゃんと会える可能性に賭けたかった。
「分かりました。では、17時頃にまたこちらにお伺いします。」
 17時まで、あと1時間半。パーティーも行けないことだし、さっきのカフェに戻ることにした。中に入ると、思い出話に花を咲かせていた、可奈、智、駿が、待ち合わせ時間の3時間半遅れで到着した僕に一斉に目を向けた。
「今まで何してたのよ。」
「秋には珍しい、大遅刻だな。寝てたのか?」
「違うわよ。だって、秋ったら12時頃にこのカフェにいたのに、私が来るなり走っていっちゃうんだもの。驚いたわ。」
「ということは、何か事情があるんだね?」
 僕は陽兄ちゃんの事を話すか悩んだ。でも、陽兄ちゃんには、みんなに知られないことを選んだのだし、その選択を尊重することにした。
「いや、何もないよ。ただ、財布を忘れちゃってさ。無銭飲食になるだろ。だから急いで財布を取りに帰ったんだ。それで、気づいたら眠ってしまっててさ、今に至るわけ。」
 我ながら無茶苦茶だ。
 3人はなんだそれ、と笑って、また思い出話に戻っていった。
「そういえば、これ、話すか悩んだんだけど、陽兄ちゃんって何しているんだろうね。ほら、私たちの施設って小さかったじゃない。唯一、他のお家に行ったのか、陽兄ちゃんだから、ちょっと気になって。」
「そんなの知らないさ。自分だけいい思いしてるんじゃないの。僕らは借金取りに追われて毎日大変だったっていうのに、全くいいご身分だよな。」
「ほんと、俺ら信じてたのにな。」
 こんな話を聞いていて、僕はひとたまりも無くなった。僕たちの事を思っていなくなったのに、それを知らずに恨んでいるままじゃだめだ。ちゃんと説明しないと。
「あのさ、さっき、財布取りに帰ったって言ったけど、実は違うんだ。山本銀行に行っていたんだよ。」
 みんなが一気に注目した。
「山本銀行は、陽兄ちゃんが、養子に行ったところだよ。陽兄ちゃんは、僕たちを守るために、他の家族と一緒になったんだ。」
 周りは困惑した。
「どういうことだよ。」
 僕は、安井先生から聞いた事を、詳しく丁寧に説明した。
 多額の資金投資と交換条件で陽兄ちゃんは養子になった事。それは、僕らのためだということ。二度と僕たちには会わない約束をしたということ。
 さっきまで陽兄ちゃんの事を悪く言っていたみんなは気まずそうな表情をしていた。
 説明し終わって最初に口を開いたのは可奈だった。
「事情は分かったわ。で、秋は、その山本銀行に秋は何をしに行ったわけ?会えない約束なんでしょ?」
 可奈の早口で人を圧倒する喋り方は変わっていない。僕は口をモゴモゴしながら答えた。
「だから、その、陽兄ちゃんが僕らと会わない約束はしているけど、僕は陽兄ちゃんと会わない約束はしていないから。だから、会えるかなって思って。」
「屁理屈ね。で、結果はどうだったの?」
「陽兄ちゃんには会えなかったけど、社長には、会えることになった。会って、説得するんだ。陽兄ちゃんと会わせてくれるように。」
 僕は他の3人の顔を一人一人見ながら、しっかりとした声で答えた。
「社長が会うのを許してくれると思うか?」
 自称現実主義の智が言う。
「わからない。でも、しないで後悔するより、して後悔する方がいいだろ。それに、会ってくれるんだからチャンスはあると思っている。とにかく、今日の17時から、社長との話し合いがあるんだ。」
「まあ、確かにそうかもな。して後悔の方がきっといい。それに、俺だって、陽兄ちゃんに悪いことしたから、謝りたいって気持ちはあるんだ。だから、俺も行くよ。」
 智は虫が鳴くような小さな声で答えた。
 智はいつも自分の意見を貫く癖があるから、正直びっくりした。それほど申し訳なかったと思っているのだろう。
 1番難関だった智が、行くとなると、他の2人の中にも行かなければいけないと言う使命感が湧いてきた。みんな悪い事をしたのには変わりはないのだ。
「俺も行くよ。」
「私も。人数が多い方が、気持ちも伝わるでしょう。」
 そこにいた全員で、陽兄ちゃんと会えるように交渉しに行けることになった。なんと心強い事だろうか。
「よし、じゃあ決まりだ。絶対陽兄ちゃんにあって、あの時のこと、謝るぞ。」
 僕は弾んだ声で言った。
「お礼も忘れずにな。」
 そう言った智は照れ臭そうだった。
 そこから1時間程カフェでお喋りを楽しんだ後。ついに山本銀行に向かう時が来た。
 みんなは何という声かけもなく、静かに料金を支払い、先頭の僕に従って、後ろについてきた。
 話し声はなかったけど、いよいよだという気がみんなから溢れ出ていた。そして、緊張からかまるで兵隊のように揃ったリズムで1.2.1.2と行進をしながら、道路を右に曲がり、その先の角を左に曲がると、あっという間に山本銀行の入り口まで来た。
 今は16時53分、いいタイミングだ。
 ドアを潜り抜けると、受付の女性が、増えた仲間たちの様子を見てゲッとした表情をした。そんなバカたちが沢山いるのか、という、少し蔑んだ表情にも見える。
 そんなこともお構いなく、僕はそのゲッとした表情のまま固まった女性に話しかけた。
「あの、17時から社長とお話しさせていただくことになっていました、新川です。」
「わかりました。では、後ろの椅子に腰掛けてお待ち下さい。」
 女性は渋々電話をとって、社長に電話をかけた。全く諦めの悪い奴らだという顔をしている。
 3分ほど経って、受付の女性から声をかけられた。
「社長は、応接間でお待ちです。どうぞ中へお入りください。」
「あの、他の施設の仲間も一緒に来ているんですが、一緒に入ってもいいですか。」
 女性は下から上まで舐めるように見て、
「どうぞ」
 と、不機嫌そうな声で言った。
 中の応接間に入ると、机を隔てて、無機質なソファが二つ並んでいた。その片方に社長が座っている。僕らの姿を認めた社長は、
「よく来てくれたね。どうか座ってくれたまえ。」
 と、愛想のいい表情で行った。きっと、受付の女性のような反応をするだろうと思っていた僕らはすっかり拍子抜けしてしまった。席に座ると、例の受付の女性がお茶を入れて持ってきてくれた。
「さて、話を始めようか。君たちは、山本陽太に会いたくてやってきた。そうだな。」
「はい、そうです。」
 全員で声を合わせて言った。
「それはそれは、ご苦労。でもね、残念ながらそれは出来ない。なぜなら、私は、陽太と契約したからだ。つまり、」
 僕は社長の声を遮って言った。
「そのことは知っています。契約で、会えないんですよね。」
「じゃあ、なんで」
「陽兄ちゃんは、僕たちと会わないって約束しました。でも、僕たちは、陽兄ちゃんに会わないとは約束していません。陽兄ちゃんから、僕たちに会いに来ることはできないので、僕たちから会いにきました。」
 屁理屈を堂々と話す僕の姿に圧倒され、社長は目と口を開いたまま、固まってしまった。
「…なるほどな。では、君らに約束をさせるまで。君たちから陽太に会いに来るのをやめてくれないか。ここまで知っているなら、ご存知だろうが、クローバーに巨額の投資をする代わりに、陽太を養子として迎えたんだ。私達にとっても結構な出費でね、それで、君たちに陽太を取り返されるのは、分に合わない。そうだ、もし引き取ってくれるなら、一人10万円ずつあげるぞ?」
 人をお金と同等に扱う社長の態度に腹が立ったのか、駿は大声で言った。
「陽兄ちゃんは、物ではありません!お金と交換で、あなたのものになるわけは、もちろんありません。ただ、陽兄ちゃんが、これまで、あなたに反抗しなかったのは、僕たちを守るために、ずっと我慢してくれたのだと思います。あなたは、力やお金で人を支配して楽しいですか。」
 最後の方は、もう、涙ぐんでいた。
「はははは。力とお金で手に入れられないものは無いよ。人ももちろん例外では無い。実際、私の妻も、家の借金を請け負う代わりに、私との結婚を決めたのだ。みんなには、その力もお金もないから分からないかもしれないがな。」
 それを聞いた可奈が顔を真っ赤にして言った。
「分かっていないのはそっちじゃない。人は力やお金で支配するものじゃないわ。人は、心で繋がるものなの。あなたは、自分の奥さんや、陽兄ちゃんの顔をしっかりと見たことがある?きっと、寂しい表情をしているはずよ。お金で繋いだ人間関係なんて虚しいだけよ。」
 社長は、奥さんや陽兄ちゃんの表情を思い出しているらしく、黙り込んでしまった。そして、何かを考えるようにしてから、ゆっくりと口を開いた。
「私は、心の底から妻を愛していた。いつも献身的で、美味しい食事を用意してくれる。私が悩んでいたら話を聞いてくれる。そして、私自身も、妻の欲しがる物はなんでも買ってあげたし、望むところには連れて行ってあげた。それで、私は勘違いしていたんだね。妻と心が通じ合っていると。でも違った。妻が義父と電話で話しているのを聞いてしまったんだ。『ほんと、毎日くさいし、気持ち悪いけど、お金を貰ってるから我慢するしかないわね。早く死ねば、財産だけ手に入るのになあ。』と。それはそれはショックだったよ。だって、愛していたからね。それから私は、お金や力でしか人を繋ぐことができないと考えるようになったのだよ。」
 3人は、社長の話を聞いて、考え込んでしまった。自分たちも施設で育って、親と名乗る人が、生活保護受給や、児童手当ねらいで、まるで関係を修復したいかのように申し出てくることがあったからだ。小さいながら、人と人を繋ぐものはお金や力しかないと思っていた。それで、様々な問題も起こしたりした。沢山迷惑をかけた。だけど、安井先生が僕たちに一生懸命向き合ってくれたおかげで、少しずついい方向に変わってきたんだ。今度は僕らが、人を変える番だ。
「今からでも、変われますよ。暖かい人間関係を作る事はできます。僕たちも、色々これまで葛藤があって、上手くいかないこともありました。でも、今はほら、仲間がいる。もちろんお金や、力による関係なんかじゃない。」
 声を最初に発したのは智だったがみんな同じ気持ちだった。
「一緒に、1から始めましょう。」
 可奈が提案した。
 と、その途端社長は泣き崩れてしまった。
「今までどんなに富があっても、どんなに力があっても私は心が寂しかった。お金でしか、人をつなぎ止める手段がないと、心を閉ざしていた。でも、君たちがお金の申し出も断って、陽太とただ会いたいという思いに心が動かされた。陽太は、陽兄ちゃんはお返しします。」
 駿が社長の肩に手を置いて言った。
「その必要はありません。もちろん僕らが決められることではないけれど、陽兄ちゃんを取り返しに来たわけではないんです。ただ、僕たちは、陽兄ちゃんに会いたかった。そして、今まで自分だけ養子として裕福な生活を送っているだろうことを嫉妬して悪く言っていたのを謝りたかったんです。許してくれますか。」
 社長は涙を拭いて、そして顔を上げて言った。
「もちろんだ。」
 そして、ポケットから携帯電話を出し、陽兄ちゃんに電話をかけた。
「もうすぐ、この部屋に来るよ。好きなだけお話ししてくれ。」
 10分ほど経って、陽兄ちゃんが応接間にやってきた。
 そして、ドアを開けるなり目をまん丸にした。
「どうして、みんなが、」
 僕たちは陽兄ちゃんの元に駆け寄り、ずっと会いたかったこと、陽兄ちゃんが裏切り者だと思って、無視したことなどを謝った。
 社長がふと立ち上がり、陽兄ちゃんの元にやって来た。
「陽太、今までごめんな。もう自由になっていいぞ。大切なことを彼らが教えてくれたんだ。」
 社長は3人の顔を交互に見ながら言った。
「社長、そんなこと言わないでください。僕はあなたには感謝しているんです。みんなを守る選択肢をくれた事。そして、僕をここまで育ててくれたことに。だから、僕は、もしあなたが良いのなら、ここの後継として頑張りたいと思っています。ただ、このみんなと会えることを許してくれるならば、なんて素敵だろうとは思います。もちろん、仕事は疎かにはしません。これまで以上に頑張ります。どうか許してくれませんか。」
 陽兄ちゃんが頭を下げたのに合わせて、僕らも頭を下げた。
 社長は、陽兄ちゃんが後継を辞退すると思っていたようで、むしろ、そっちに驚いた様子だったが、やがて一つ咳払いをして言った。
「仕方ないな、仕事をサボったら、すぐ首だからな。」
 社長はもういつもの調子に戻っていた。でも、どこか、嬉しそうで、柔らかい口調だった。
 それから20年経って、ついに陽兄ちゃんは社長になった。業績も上場、順調なようだ。それと、もう一つ。クローバーの副園長にもなった。前社長たっての希望らしい。
「陽太は、強くて優しいから、子ども達に必要だろう」って。
 今日は、年に一度の、OB、OGまで集まる、クローバー集いの日。
 今年はみんなでBBQをするらしい。
 前社長も、美味しいステーキを携えてやってきた。早速、焼く準備に取り掛かる。
「おーい、ステーキ食べたい人、お皿を用意しとくんだぞ。」
 張り切った社長の声に、みんな、元気に応えた。

「密室」
k182322

「昨日のあれ見た?」「見た!」「まさかあの人が犯人だったとはね〜」「マジでびっくりしたよね!」
 この密室の中では、いつかのテレビの話、最近身に起こった話、そんなしょうもない会話しかない。そんなことを思いながら、私も「だよね〜」などというしょうもない相槌を打つ。顔には、仮面のように張り付いた作った笑顔を浮かべている。
 私は、毎日、決まった服で、決まった時間にこの密室に来ることを強制させられている。しかも、自ら大金を払い、志願し入室している。この密室では、私と同じように志願して入った者が、30人ほどいる。その中には、よりよい密室をと、争いを勝ち取り、この密室に入室してきた者までいる。密室ではおよそ30人が、決められた場所に座らされ、偉そうな人の話を、まるで経典のように聞き、写経させられている。また、密室は、上に横にといくつもあり、密室ごとに30人が入っている。さらには、密室1つにつき1人の看守がついており、この部屋の外に出ることは許されない。しかし、この部屋のルールに反することで、密室の外に出ることが可能になる。水の入ったバケツを両手に持たされる、という条件付きだが。この密室の説明はもういい。
 こんな密室どうやって好きになれと言うのだろう。この密室を楽しんでいるものなどいるのかとふと気になった。そこで私は、同じ密室にいる残りの29人にこの密室をどう思っているのかについて問うた。あわよくば、同じ考えを持ち、何か行動を起こす者を見つけてやろうなどという淡い希望を持ちながら…
 一人目、二人目は、最初の会話の人物、相田と加藤だ。
「この密室についてどう思う?」
 と、聞いた。相田はぽかんとした表情で答えた。
「どうしてそんなこと聞くんだ?」
 加藤も続いて言う。
「たしかに。なんでだよ。」
 私は驚いた。絶対に同調が帰ってくると信じており、どうしてそんなことを聞くのかなどと返されるなど全く思っていなかったからだ。
「な、なぜって、ただ単純にこの場所についてどう思っているのか気になって。」
 驚きのあまり、すこし言葉に詰まりながら答えた。そんな私に対し、相田と加藤は笑いながらこう答えた。
「どうって。なんにも考えたことないよな?」
「ああ、強いていうなら、もうちょっと部屋の温度下げてほしいくらいかな。」
「うわ、それわかる。」
「すぐ女子たちが、上げてくださいって言うもんな。」
「ほんとだりぃよな。」
「そうだね。ありがとう。」
 適当に相槌を打ち、はぐらかしながら質問を終わった。後半は、またしょうもない会話を聞かされただけだったが。気を取り直して、次に行こう。
 次は、一度もしゃべったことのない飯島を選んだ。飯島にも同じように聞いた。
「・・・」
 飯島は、何かを書くのに夢中で何も返してくれない。聞こえなかっただけだよなと自分に言い聞かせ、もう一度聞いた。
「・・・」
 飯島はまた何も言わずに、何かを書いていた。もういいと、こちらも何も言わずに近くを去った。せめてもの反撃として、少し乱暴に飯島の机にぶつかりながら、去ってやった。
 気を取り直して、四人目には、宇野に話を聞いた。
「どう思ってるか?変な事聞くんだね。」
「変かな?」
「変でしょ〜、私は楽しいと思ってるよ?」
「へ〜。」
「へ〜って、なに。楽しくないの?」
「楽しいよ。」
「じゃあいいじゃん。」
「ありがとう。」
 こいつも何も考えてなかったのか、そう思いながら話を終えた。
 次に、密室の後ろにたまっている奴らにも一応、話を聞いてやろうと思った。斎藤、山田、藤原、石井だ。服は着崩し、髪はカラフル、典型的なヤンキーってとこだろう。こんな奴らにも一応、話を聞いてやろう。そう思って声をかけた。
「ここについてどう思う?」
「は?うるせえよ」
「どっか行けよ」
「しゃべりかけてくんなよ」
「殴られてえのか?」
「ごめん…」
「分かったんならどっか行けよ。」
「まだなんかあんのか?」
「何もないよ。」
 何も話してくれないということに関しては、飯島と変わらない。ただ一つだけ違うのは、こいつらには小さな仕返しなんて、絶対にできないということだ。せいぜい何か不幸なことがあったらいいのに、と願うことくらいしかできない。看守に指導で呼び出されとけ、と考えていたときだった。一人が肩に手を回して、話しかけてきた。
「なんかみんなに聞いて回ってんだろ?何聞いて回ってんの?」
 こいつはたちが悪い。人気者気取りの服部だ。決して人気者じゃない、人気者気取りだ。ひたすらみんなの輪の中に入りたいだけ、チヤホヤ待ち、私が一番嫌いなタイプだ。
「いや、ただみんなが、ここについてどう思ってるのかな?って。」
「おれはね〜、こんなとこなかったらいいのにって思ってるよ。」
 いつになく真剣な顔で話し始めた。まさかこんなやつと同じ意見だとは。一応、理由も聞いてやろう、全く違う理由かもしれない、と思い、
「どうして?」
 と尋ねた。服部は、
「だってくだらないじゃん。」
 そう答えた。同じだ。私と同じ考えをしている。
「頑張ってみんなの中に入ったり、仲良くして見たりしたけど、なんも楽しくなかったよ。空虚だったんだ。」
「服部君がまさか、そんな風に考えてたなんて。」
 こちらの意図は全く悟られぬよう、こう返した。すると服部は、
「なんてね。うっそで〜す。」
 とおどけながら、言った。そして、また誰かの肩に手を回しに行った。しかし、分かる。
 私には、分かる。あいつは同じだ。ここで起こること全てに満足していないんだとわかる。しかし、まさか同じ考えを持つ者が服部だなんて思いもしなかった。思いたくもなかった。すこし服部は置いておいて、次に行こう、そう考え、坂田に話を聞いた。坂田はいわゆるガリ勉だ。だれとも話さず常に経典とにらめっこをしている。
「ここについてどう思うか? そんなもの考える意味もありません。ここにいる以上、するべきことはこの本を理解し、さらによりよい密室へ行くことです。それ以外にここに来る理由なんてありません。」
「ここがなくなったらどうする?」そう聞くと坂田は、
「ここがなくなったら、またどこかの密室で同じことをするまでです。」と答えた。私は、
「そ、そうだよね。」と答えるほかなかった。
 内心、意味が分からないと思った。どうしてここから出れたとしても、ここと同じことをするんだ?こいつに嫌だという気持ちはないのか?とさえ思った。
 次は、和田と大西に話を聞いた。
「ここについて?」
「え〜」
「めっちゃ楽しいじゃん。看守はいやだし、写経も面白くないけど、大西がいたら楽しいもん。」
「え〜、それわたしも思ってる〜。」
「だよね〜。」
「え〜、わたしさ〜、和田とならなんでもできる〜。」
「ほんと最高じゃん。」
「え〜、でしょ〜。」
「た、楽しそうで何よりだよ。」そう言って早々に切り上げた。こいつらにも話を聞いておこう、そう考えた数秒前の自分を殴ってやりたい。とんだ時間の無駄だった。
 そうこうしている間にまた、経典をひたすら読み聞かされる時間になった。またつまらない一時間が始まってしまう。とっさに思い付いたのは、
「すいません、お腹が痛いので、医務室に行かせてください。」だった。くだらないことをしたというのは、自分でも感じている。ただ私には、これしかあの拷問から逃れる方法はなかったのだ。私は、足早に医務室に向かった。
 医務室につくとそこには、女性の看守がいた。名前と症状を伝え、少し休んだ。いや、休んでいる自分を演じた。そんな時、ふとこの看守にも、この密室について尋ねてみようという気分になった。
「ここについてどう思いますか?」と、小さな声で尋ねた。すると女性の看守は、
「私は、ここがなかったら仕事がなくなっちゃうから、ここは好きだな。」
 好きっていうのかという言葉を飲み込み、
「え〜、そうなんですか。」と返した。さあそろそろ戻ろうと立とうとしたとき、反対に、女性看守の方から、
「君はここについてどう思っているの?」
 と聞いてきた。私は悩んだ。ここは嫌いだ、こんなところから逃げ出したい、と本心を言い、また説教じみたことを言われるべきか、それとも、いつものように適当に話を合わせ、優等生を演じて、褒められるべきか。悩みに悩んだ挙句、私は打ち明けることにした。
「こんなところなくなればいいと思っています。退屈で、窮屈で、くだらない施設だと思っています。」と伝えた。絶対に怒られると思いながら話した。しかし、女性看守から返ってきたのは、
「たしかに、君みたいな考えの子もいるね。」だった。
 私は驚きを隠せなかった。これまで生きてきて最も驚いたのではないだろうか。少なくとも、さっき飯島に無視されたこと、クラスの人気者気取りの服部がこの場所をくだらないと思っていたこと、そんなものよりははるかに驚いた。
 女性看守は続けてこう言った。
「いろいろな考えを持つ子がいるのがここだからね、私は否定しないよ。」
 私は、より分からなくなった。これまで私がこの考えをだれにも言わなかったのは、誰に言っても理解されない、または、言ったら怒られるのではないかと考えていたからだ。しかし、今初めてこの考えを肯定するものが現れたのだ、そりゃ驚きもするし、分からなくもなるだろう。
「でも、もし私がここをぶっ壊したら、あなたは悲しくなるんでしょ?ここが好きだから。」
「もちろん悲しいけど、分からなくもないよ、私も君くらいの年の時は、こんなところいきたくないな〜って思ってたもん。」
「へ〜、そうなんですか。」あからさまな同情には乗らん、そんな気持ちで適当に返してやった。
「じゃあ逆に、私のここが好きって気持ちも少しくらいならわかる?」今度は、向こうから仕掛けてきた。
「いや、全く。ここの何が楽しいのか、みんながここを好きな理由も分からないです。」
 女性看守は驚いた顔をしていた。
「え〜、もったいない! だまされたと思って何かここは好きってところを考えてみてよ。」
 あまりに嬉しそうに、楽しそうに、笑いながらそういうので、めんどくさいとは思ったが、探すことにした。適当に好きなところでっち上げを言ってごまかすか、と考えたが、
「あった?」と何度も私の顔を覗いてくるので、真剣に探してやった。
「しいて言うなら、この医務室は居心地がいいですね。ん〜、それくらいですかね。」
「え〜、それだけ?」
 まだまだ出せというのか。
「はい、それだけですね。他は何も楽しくないし、どの場所も好きじゃないです。」
「そっかぁ。じゃあずっとここにいな。ずっとここにいたって誰かが怒るわけじゃないし、君だって居心地のいいところにいたいでしょ?」
「それはそうですけど…」そんなことが本当に許されるのかはなはだ疑問ではある。
「よしっ、じゃあ決定!!」
 私の考えや発言などが気にされることもなく、僕の医務室通いが決定した。
 次の日から、僕は朝から医務室に向かった。それは決してどこかが悪かったり、ケガをしたりしたからではなく、昨日、強引に医務室の女性看守に、ここに通うことを決定されたからである。毎日決まって受けていた写経のような時間が訪れることもなく、密室内のくだらない話に耳を傾けることもない。
「暇だなあ。」
 思っていただけだったつもりが漏れていた。すると、それを聞きつけた女性の看守は、
「やっぱり?暇だなーって思うなら、あの部屋に戻ってもいいよ?」
 と声をかけてきた。確かにそう思うとあの密室も悪くないように思えてきた。しかし、あれだけあの部屋は面白くない、ここには楽しいことなんてない、といった手前、そう簡単に戻っては意志の弱い奴と思われてしまう。
「いや、戻ってもつまらないのでここにしばらくいます。」
 そう言って僕はそのままやることもないので、寝ることにした。
 目が覚めると、時計は、普段帰っていた時間をとうに過ぎた時刻を示していた。私は、そそくさと帰る用意を始め、
「さようなら。」
 と言った。思えばこの施設に来てから、初めてさようならなどと口にしたのではないだろうか。どうしてここに来て初めて言うようになったのだろう。頭ではそんなことを考えながら、体はもう医務室を後にしていた。
「明日も待ってるからね!」
 女性看守の声が僕の背中にかすかに届いた。仕方ない明日もここに来てやるか、と思った。
 そして、次の日だが、私は体の調子が優れず、家を出て、あの医務室に向かうことができなかった。やっとあの医務室の暇加減にも慣れてきたというのに。
 そんなことを考えながら、寝て、起きて、食事をし、また寝て、を繰り返す一日だった。そして、その日三回目の眠りにつこうとしたとき、家のチャイムが鳴った。誰だよ、うっとうしいな、そう思いながら、インターホンをとると、あの女性看守だった。
「樋口君のお家ですか。樋口君大丈夫ですか?今日来ていなかったので。」
 驚きと困惑と感謝とが、入り混じった気持ちになった。そこに、だるい、うっとうしい、という気持ちはなかった。
「はい、私です、樋口です。よかったら上がっていってください、何もご用意できませんが。」
「樋口君!大丈夫?」
 上がっていって、に対する返事などは全くなく、ただ私の体を心配する声が聞こえた。
「はい、調子悪くて行けなかっただけで、全然大丈夫です。」
「よかった、昨日、何も言わずに帰っちゃって、今日来てくれなかったからいやになっちゃったのかと思ったよ。」
「いやになったら、いやになったって直接言いに行きますよ。」
「そっか、あっ、上がらなくて大丈夫だよ、今日は樋口君が大丈夫かを尋ねに来ただけだから。
「そうですか。私は全然大丈夫です。また明日。」
「じゃあまた明日ね。」
 と、言ってインターホンを切った。切った後に、また明日という言葉も、施設に入るようになって初めて言ったことに気が付いた。今までなら、また明日なんて言わなかっただろうし、もし言ったとしても言った手前いかなければいけないのか、面倒くさいなあと思っていただろうが、今日はそんなことは全く思わなかった。
 次の日、私は回復し、あの医務室に向かった。
「おはようございます。」
 と勢いよくドアを開けたが、あの女性看守はいなかった。その代わりに、おばあちゃんのような女性看守が立っており、あの女性看守は、今日は当番ではないことを教えてくれた。その日は、いつもに増して暇だった。
 次の日も、またいなかった。月、火、水があの人の当番であることをおばあちゃん看守から教えてもらった。あの人の名前が、小松ということも教えてもらった。
 月曜日、いままで施設に行くときにはない高揚感をもって施設にいった。
「おはようございます。」
「あ、樋口君おはよう!」
 前におばあちゃん看守に聞いた通り、小松さんがいた。
「小松さんって言うんですね、おばあちゃん看守に聞きました。」
「おしゃべりなおばあさんにばらされちゃったか。」
「まだまだ小松さんのことが知りたくなりました。」
「え〜、最初の何も楽しくないってところからすると、だいぶ変わったね。」
「はい。先生のおかげで、だいぶここが楽しくなりました。自分でもよくここまで楽しめるようになったな、と思います。」
「お、やっと先生と呼んでくれるようになったか!じゃあ、ここにやっと慣れてきた記念に、質問していい権利をあげます。」
「じゃあ、普段どんな仕事してるんですか?」
「普段はここで、ケガしてここに来た人の手当てとか、しんどくなってここに来た人の看病と化してるよ。」
「楽しいんですか?」
「前も聞いてたよね、楽しいよ。いろいろな人としゃべるのも楽しいし、みんなが元気になってここを出ていってくれるのを見ているのも楽しいよ。」
「へー、そうなんですか。何か楽しく仕事しているの憧れますね。」
「いいでしょ。他は何か質問ある?」
「いつここに来たんですか?」
「え〜っと、たしか二年前くらいかな。」
「どうして、ここに来ることになったんですか?」
「実は、私ここの出身で、三年前にここでいじめがあったじゃん?それを見て、ここに戻ってこないと、私がここでみんなの心のケアをしないとって思ったんだよね。」
「そうだったんですね、まさかそんなことで来てたなんて。じゃあ、またどっか行っちゃうんですか?」
「実は、私、他のところに転勤することになったの。」
「え?」
 頭が真っ白になった。
「嘘ですよね?」
「ほんとだよ。」
「いつですか?いつまでここにいるんですか?」
「あと一週間くらいかな〜。」
「え。」
「どうしてですか?」
「この前、隣町でいじめがあって女の子が自殺したっていう事件があったじゃん?」
「はい。まさかそれを見てですか?」
「うん。なんか思っちゃったんだよね。私が助けに行かなければって。」
「なんかヒーローみたいですね。」
「でしょ?わたしもそう思ったからここにいちゃいけない、助けに行こうって思ったんだ〜」
「もう決まってるんですか?」
「うん、決意は固いよ。」
「そっか、やっと楽しくなってきたのに」
「うれしいな、そう言われたくてやってるみたいなもんだからね。」
 そう小松さんの顔は、とても嬉しそうだった。
「でも、まだ明日も明後日も来るから心配しないで!」
「分かりました。」
 今日は、そんな話をしているうちに終わってしまった。始まる前は今日も暇だろうなと思っていたのに。逆に今日がいつものように暇だったらよかったのにと思いながら、今日は帰路に付いた。
 次の日、私はまた体の調子が優れず、あの場所に行くことができなかった。しかし、私には、小松さんが家まで来てくれる、という謎の自信があった。そのまま夜になった、結果小松さんは、家には来なかった。どうしてなんだろう。あした会ったら、そのことについて聞いてみようと思った。
 そして、小松さんに会える最終日。
 あの場所に着いてすぐ、
「どうして昨日来てくれなかったんですか?」
 そう言いながら、ドアを開けた。そこには困惑の顔を浮かべたおばあちゃん看守がいた。
「どうされたんですか?」
「い、いえ、何でもないです。ところで小松さんは?今日は小松さんの当番の日じゃないんですか?」
「ああ、小松さんなら昨日、違うところに行ったよ。」
「え?」
 私は、小松さんに転勤を知らされたときと同じように、頭が真っ白になった。
 おばあちゃん看守は続けていった。
「あれ、聞いてなかったのですか?あなたが一番熱心にここにきてくれるって、小松さんから聞いてたから、てっきり何か言ってから行ったのだと思ってましたよ。」
「他には何か言ってませんでしたか?」
 なぜか何かあるという自信があり、こう聞いてしまった。今になって考えると恥ずかしい。
「んー、手紙は預かってます。たぶんここに急いでくるだろうから、渡してほしいって言われてます。」
 なんだあるんだとうれしさを感じると共に、別れを実感してしまい余計に悲しく、寂しく感じてしまった。
「見せてもらっていいですか?」
 手紙には、転勤が早まり、私の休んだ日にこの町を出ていかなくなってしまったこと、私があの場所に行くようになり楽しんでいたことが本当にうれしかったこと、などが書かれていた。そして、私が寝ている間に撮られていた2ショット写真が添えられていた。
「ありがとうございます。」
 気付けば手紙に向かってそう言っていた。
 時がたって今に至る。
「先生はなんでここの先生になったの?」
 そう聞かれた私は、
「高校生の時、私は高校が息苦しい密室に感じてました。でも、ある先生がそんな密室から私を救い出してくれました。だから、息苦しいと思っている生徒、いま楽しく思っていない生徒を救い出したいと思ったからです。」
「え〜、何それ〜。」
 あの急な別れの時から10年たって、自分も同じ先生という立場になった。いまなら小松先生が言っていた「助けに行こう」という気持ちが分かるような気がした。そして、私もヒーローになりたいという気持ちになった。
 あの時の自分みたいに学校をつまらない密室だと感じている高校生を救うヒーローに…

「ベター・ウェン・アイム・ダンシン」
k182323

 T
 今日も憂鬱な一日が始まる。余裕のない人々に囲まれながら、押しのけられながら、満員電車に乗り、行きたくもない会社に行って重労働を強いられる。お昼には決まってたいして美味しくもない(店主には失礼であるが)ラーメン屋に行き、また会社で大量のタスクを押し付けられる。帰るころにはすっかり夜は更けていて、一人出来合いの惣菜を食べる。これがろくでもない毎日のルーティンだ。学生時代の希望に満ちたキラキラした自分は消え、鏡を見ると落ちくぼんだ眼の自分がいるだけだ。聞く音楽も、いつの間にか暗いものばかりになって、世間を蔑むようになった。
「生きるためだから。」「人生ってこんなもの。」
 これが私の口癖になっていた。
 私を気遣ってくれる人なんていない。私の気持ちを分かってくれる人なんていない。
 そう思えば思うほど、本当にその通りになっていった。そういう風に思いたくないのに、思わずにいられない。「頑張っていれば報われる。」そう思っていた私は、社会の波にもまれていつのまにかどこかに消えてしまった。周りに話を合わせ、必要なときだけ声をあげる。笑いどころなんてわからない。みんなが笑っていればそれに合わせて笑うだけ。自我がなくなり、ロボットみたいになっていく自分が怖い。
「私は誰?」
 けれども、
「人生って波があってさ、良い時と悪い時が交互に来るんだよ。いまはきっとその時なんだって。こんなに頑張っているんだから、いいことはすぐにやってくるよ。」
 かつて私が落ち込んでいたときに、誰かが言ったその言葉。いつ落ち込んだのか、なぜ落ち込んだのか、その言葉をくれたのはだれだったのかなんて思い出せない。私の想像の世界での出来事だったのかもしれない。
 それでも、それだけが私の今の動力源だった。
 U
 いつものように、会社でしごきにしごかれ、大量のタスクを抱えたまま帰路につく。私のデスクが片付いてきれいになる日なんてくるのだろうか。「『できる』『できない』じゃない、『やる』んだ。」「いつやるの?今でしょ!いつかはないんだよ!」そう言った上司の顔が憎くて仕方ない。できないのはできないんだバカヤロー。は〇しおさむかふざけんなコノヤロー。
 今日は金曜日。スマホを見れば、みんなの浮かれて楽しそうな様子が映りこむ。私には休みなんてないけど。いや。私だって。たまには何もかも忘れて、少しくらいはっちゃけたっていいんだ。そう思うと足取りが軽くなったような気がした。ここから少し外れるとクラブ街だし、いっそクラブにでも行ってやろう。
「言うは易く行うは難し」とはよく言ったもので、通りに出た途端足が動かなくなった。
 第一私がこんなところに居ていいのだろうか。行きつけの店なんてもちろんないし、どの店がいいかなんてわからない。怖い人ばっかりなんじゃないだろうか。スーツ姿で立ちすくむ私の場違い感といったらなかっただろう。
 帰ろう。ターン。
 クラブでかかってそうな音楽を聴きながら、家に帰った。こんな曲かしらと思いながら曲を選びガンガンにかけながら聴くのは少し楽しかった。「いつか」行ってやろう。
 V
 月曜日。休日なんてなかった。寝たら月曜日が来た。当たり前だが。休日でも会社からの電話はかかってくるし、プレゼンのための資料作りに勤しんだり、残ったタスクを少しでも減らそうと必死だった。
 ベッドから出ていつもと同じ朝食を食べ、いつもと同じ満員電車に乗り、いつもと同じ会社でいつもと同じ仕事をする。今日も変わらないつまらない一日だ。
 昼休みになった。いつもと同じラーメン屋で昼食をとる……つもりだった。
「臨時休業」
「ああそうですか、」という気持ちになった。報われないのはいつものことだし、心の中で呟く。ここのラーメン味濃かったし、油まみれだったしな。心の中の悪魔が出てくる。仕方がないから他のカフェにでも入ろう、そう思って他の店を探すことにした。
 どうせだから普段行かないところにしてやれ。最近の私はチャレンジ精神が強いみたいだ。ズボンが擦れるのも気にせず、狭い路地を敢えて通った。狭い路地を抜けたその先には、普段目にしない景色が広がっていた。外国かどこかにあるような色鮮やかな家々が立ち並んでいる。なんて言ったっけ。アマルフィ?派手さの中にも趣があるその風景が私は好きだった。それに似た今見える景色は私の気持ちを少し浮つかせた。鮮やかな家々の中に、くすんだセピア色の看板が見えた。
「喫茶フェリチタ」
 看板には変わったフォントの青い文字でそう書かれていた。周りとの色の対比が、また一層私の心を引き寄せた。「OPEN」と書かれた札を見て、吸い込まれるように、私は店のなかに入っていった。
「いらっしゃい。」
 カランと鐘が鳴るとほぼ同時に、その人はそう言って迎えてくれた。服装は落ち着いていて、年はそこそこいってそうだが、見た目は若く綺麗な女性だった。優しい、包み込むような温かい声、口調だった。懐かしさを感じさせるほど落ち着いた声だった。
「よく来てくれたね。疲れたでしょう。お口に合うといいのだけど。」彼女はそういいながら、ホットコーヒーらしきものを出してくれた。
「あの、ご飯を食べに来たんですけど。」
 しまった、と思った。そんな棘のある言い方をするつもりなんてなかったのに。世間を信じないようになるうちに私はこんなにも優しくしてくれる女性にもきつく当たってしまうようになったのだろうか。
「お腹がすいているって顔に書いてあるものね。メニュー、お渡しするわ。」
 そう言ってくれたのに、
「カレーライス、ないですか。」
 メニューを受け取るより先にそう言ってしまった。どこまで横暴な客なのだろうか。これに気を悪くしない人なんていないだろう。申し訳なさを感じて目線を下げたまま立ち上がろうとしたとき、
「大丈夫、すぐ作れるわ。ちょっと待っててね。」
 優しく肩を叩いて、顔色を一切曇らせずに厨房へと入っていった。素敵なひとだなぁと心底思った。肩を持たれただけで、肩にあった重みがほとんど吹き飛んだように感じた。ホットコーヒーを飲んでみた。今まで飲んだどのコーヒーよりも美味しく感じた。というか美味しかった。甘み、苦みなどの味はもちろん、優しさ、ぬくもり、穏やかな気持ちや前向きな気持ちになる要素が沢山凝縮されていた。店にはあまり装飾物はなく、客も自分以外に居ず閑散とした雰囲気だった。しかし、情緒があり、居心地のよさを感じさせる雰囲気が店全体に漂っていた。
「おまちどうさま。」
 いいにおいを連れて彼女が戻ってきた。見た目はThe カレーだった。スプーンを持つと一気に口の中に放り込んだ。カレーじゃなかった。カレーというにはおこがましい、明らかにカレー以上の何かだった。食レポが上手いひとだったらこんなときなんて言うんだろう。甘さ、辛さだけでなく旨味があって、肉は大きいのにトロトロとけていって、二日目以降のカレーの味を引き出していた。とにかく、今まで食べたカレーの何よりもうまく、いや今まで食べたどの料理の一番かもしれない。「うまーい!!」とめちゃくちゃでかい声が出た。み〇がわだいすけばりに。それぐらいというかもうなんともほんとに語彙力がキャパオーバーするほど美味しかった。
 私が食べている間、お店の人は何もしゃべらずただ笑顔で見守ってくれていた。バブみを感じた。母のような暖かさでただ安心感をあたえてくれた。
「ごちそうさまでした!!」
 小学生の給食のように大きな声でそう言った。
「喜んでもらえて良かった。いまのあなた、素敵な目をしているわ。いつも頑張りすぎちゃうのね。」
 恥ずかしさとうれしさが入り交じった懐かしい感覚を感じた。お代を払おうとポケットから財布を出すと、その手をやさしくポケットにもどされた。
「また来てね。」
 こんな人がいるなら、もう少しがんばってもいいかもな。もう少し優しい自分になりたい。そう思った。会社に戻る時、足取りは重くなかった。
 W
 次の日、あの喫茶店に、また、訪れてみることにした。
「いらっしゃい。」
 今日も「待ってたよ、」と言わんばかりの優しい笑顔で迎えてくれた。本当じゃなくても……いや本当なんだろう、この人はそういう人なんだ、そう思える。ここにいると優しい気持ちになれる。
「今日はこんなことがあってさ〜。」「すごいでしょ。」
 話し相手になってくれるひとがいるだけでこんなにも気持ちが楽になるのだと感じた。今日は他にもお客さんが何人かいた。ここに来る人たちもこのオーナーの、このお店の雰囲気を求めてやってくるのだろう。彼女はなんでも聞いてくれる。どんな愚痴でも黙って聞いてくれて、共感してくれる。頑張りを認めてくれる。改善を提案する際も、うちの上司みたいに頭ごなしじゃなくて、誰もがそう思える客観的な判断で、いいところをほめながら提案してくれる。みんながそうならいいのにな。じゃなくても、自分がそうなれれば、もっと社会をよりよくしていけると思った。暗い気持ちになっている人たちを、元気づけられる自分になりたい。そう思った。
 私は、お昼休みにはいつもその喫茶店に通うようになった。
 X
 カフェには、様々な種類の人が集まってきているようだった。老夫婦やサラリーマン、学生らしき青年や子どもまでがそこにいた。オーナーはその誰とも親しい間柄のように見えた。彼女を中心に、皆の間柄も取り持っていたようだった。時には、彼女の一言がきっかけで、大勢で楽しく話をするようなこともあった。
 ある日、音楽が好きで、クラブに行ってみたいと話したら、DJをしている人を紹介してくれた。その場で取り次いでくれ、なんと来週末にクラブに連れて行ってくれることになった。半ば強引だとも思ったが、その場での私は心から、快く快諾していた。私はそんなに陽気なキャラクターではないのにと、後で少し後悔した。
 Y
 長い一週間を終えた後、クラブへ行く日が来た。駅で待ち合わせて、そこからクラブへと赴くことになっていた。喫茶店のオーナーは用事でいけないとのことで、DJの人と二人で行くこととなった。正直なところ「初対面で二人きりはキツいでしょ」と思ったがそれは言わなかった。ここにはどんな服装で着たらいいのかもわからなかった。結局無難な服を選んでしまった。もっと派手なものの方がよかったのだろうか。
 あれこれ考えていると、寸分しないうちに、声をかけられた。DJのその人は私と同じ女性だった。
「はじめまして!こんばんは。」「こんばんは。」
 名刺をもらった。名刺には「DJ Caramel」とあった。
 実際会ってみると、とても気さくで話しやすい人だった。すぐに打ち解け、仲良くなった。初めて会った気がしなかった。服装は黒パーカに黒ズボンと意外に普通だった。本人は、「今日は私も楽しむ側に回るつもりだから。」と言った。
 会場は駅から近かった。会場の熱気は相当なものだった。音楽がガンガンにかかっていて、皆が一体になりながらもバラバラに楽しんでいた。人がたくさんいて、人の波に飲み込まれそうになったとき、
「こっち!」
 DJの彼女は空いている方へと先導してくれた。ノリ方なんてわからない、そう思っていたけど、彼女や周りの人たちの楽しそうな様子を見ていると緊張がほぐれてきて、体がリズムを刻むようになっていた。時間を忘れて楽しんだ。途中彼女がドリンクを持ってきてくれたりと、いろいろ気遣ってくれた。怖い空間だと思っていたこの場所は、いつの間にか心地よい場所になっていた。
「思ってたより、良かったでしょ。」彼女はそう言った。
 Z
 帰り道、好きな曲の話になった。
「私、あの曲が好きなんだ。「ベター・ウェン・アイム・ダンシン」っていう曲なんだけど。DJにしてはちょっと静かめの曲なんだけどね。」彼女はそう言った。
「私は、踊ると元気がでるの。人によって元気を得る方法っていっぱいあると思う。私は私の好きなやり方で、周りの人を元気にしてあげたい。周りの人と「たのしい」を共有したい。」
 私は音楽が好きだったのに、最近は音楽を垂れ流すばかりで、真剣に音楽と向き合っていなかった。彼女の仕事に対する熱意が伝わってきた。私も負けていられないな、と思った。
 私は、私の仕事なんて何の役にも立たない、ただの構成員の一員でなんにもならないと思っていた。けれどもそれは違った。見えにくいだけ。確かに私が頑張ったことによってどこかで誰かが救われている。私自身も救われているかもしれない。
 気持ち次第で、どうにでもなるとわかった。気持ちがあれば、行動につながる。その行動が結果を生む。逆に、気持ちがとことん沈んでしまうと自力では立ち上がるのが難しくなる。そんなとき私は私のやり方で、多くのひとを元気づけたい。

「AI」
k182326

「兄さん、レイが目を覚ました」
 声をかけられた人物は、俺の声に一瞬遅れてふっと振り向いた。その拍子にいくつかのプレパラートがぽろぽろと机から落ちたけれど、彼はそちらを気にする素振りを見せることもなく、じっと俺を見ていた。ぱっちりした目が何度か瞬きをして、長い睫毛がはらはらとはためく。ぼんやり放心しているような、あるいは雷にでも打たれたような不思議な表情を、俺もまっすぐに見据える。
「わかった」
 いまいち形容しがたい表情はほどけるように笑顔へと変わった。ジョンがおもむろに立ち上がると、回転椅子がキィと控えめに回る。クリップボードに挟んだカルテを差し出すと、彼は「ありがとう」と微笑んだ。白衣の裾をなびかせて、広いその背中は俺の先をゆく。スリッパのぺたぺたした間抜けな音。はじめてレイがおつかいを頼まれたときに間違って買ってきたそれを、ジョンはいつまでもいつまでも履き続けている。
 衛生的な薄青色の蛍光灯が灯る廊下の最奥に佇んでいるのは、物々しい姿をした実験室の扉だ。どっしりと重たげな雰囲気を醸すステンレスに、ジョンと俺の影がぼんやりと浮かび上がっている。この扉を前にするとき、俺は研究者であるという自負、畏れ、倫理観念、その他諸々の余計な感情が肌の上から吹き上がっていくのを感じる。論理と感情はいつも混ざらない水と油のようで、そうだ、俺たちは水でできているけれど、レイの身体の真ん中には油が流れ落ちていることを、今まで忘れていたみたいに思い知るんだ。ジョンの横顔を斜め後ろから見遣る。変わらない穏やかな微笑を浮かべていた。
 人物認証が完了すると、機械音を唸らせながら重い扉は開いた。一歩を踏み出して扉を潜れば、長いあいだ馴染んできた油と薬品の匂いがふわりと漂って身体中に絡まる。ありとあらゆる機材の隙間を埋めるように観葉植物が並んでいるのは、ジョンの趣味だ。そのどれもが熱帯の植物なので、なんだかジャングルの一帯にでもいるような錯覚に陥る。だだっ広い実験室に置かれた機材の数々、そのプラグコードはすべて部屋の真ん中にある一つの実験台に向かって伸びている。プラグコードを避けるようにして、そちらへとジョンも俺も向かう。
 そこにはレイが綺麗に身体を横たえて眠っている。眠っている、は違った。正確には両目を開けている。すこしでも身動きを取ろうものならばプラグがぶちぶちと抜けてしまうので、一切動かないようにジョンからあらかじめ伝えてあった。不慮のバグが生じたときを除いて、レイはきちんとものごとを識別する。身体を動かせないかわりに、レイの瞳だけがふっと動いて俺たちを捉えた。それまで無表情を形成していた顔が、その瞬間にゆるやかな笑顔へと変化する。
「ジョン、クリス!退屈してたんだ」
「メンテナンスは終わりだよ。お昼にしよっか」
「もう、お腹ぺこぺこ」
 お腹が減る、という反応は厳密にはレイに搭載されていないが、レイはその言葉が気に入っているようでよく使う。遊び終えた後だとか、メンテナンス後だとか。使うべき場面をきちんと認識しているようなので、ジョンも俺も特別やめさせるようなことはしない。
 身体中のプラグを外す瞬間に、頭が冷えていく感じがする、とレイは言う。電子基板一億六千枚分の厚みから生み出される知覚の繊細さ、それを『感情』と読んでいいのか俺にはまだわからない。ジョンの研究において、最も砦となった部分はそこだった。
 より繊細で複雑な心を持つ機械を作るならば、プログラムの容量を増やせばいいじゃないか、というのはまさにばかの発想で(俺たち研究者の常識とやらに当てはめるならば)、そんなばかな発想で天才をはるかに超えてしまったのが、ジョンだった。電子基板八千万枚、がそれまで人工脳を作る上での限界枚数で、研究者の誰もが数を増やすより基板一枚の精度を上げることに腐心している。数を増やす、というのはあまりにもリスクが高い。一枚ずつの基板同士を繋ぐのでさえ、今の科学技術ではまだ針の穴に糸を通すことよりずっと難しいからだ。下手すれば脳は暴走して取り返しのつかないことになるし、まだ己の研究を残して死ねる覚悟のある科学者もいない。つまりジョンは、命をかけてレイを造り上げた。本人にその自覚がなくても、結果的に。
 ジョンは紛れもなく歴史に名を残すべき学者の一人だ。
 俺はレイに、ジョンの研究をその身でもって永遠に残してほしいと願っている。
「おまえなんか顔こわくねえ?」
 不意にレイの瞳が覗き込んできた。すべてのプラグが外された今、自由に身体を動かすこともできる。実験台から上体を上げて大人しくしているレイの身体を、ジョンがあちこち点検する。俺も首の後ろに触れてソケットをそっと閉じた。そのあとで軽くレイの肩を小突く。ゴツン、と固い感触と音。人工皮膚が張ってあるので、薄い弾力の下に鉄の感触。痛くなんかないくせに、痛がる素振りを見せて笑うレイ。
「おまえ、ぶっ倒れた時のこと覚えてないの」
「ん。あ、そっか。おれ倒れたからここにいるんだ」
 やっぱり。メモリが一部吹っ飛んでる。
 ずっと研究所に篭りきりで外の空気が吸いたかった俺は、レイを連れてふらふらと外へ買い物に出掛けたのだけれども、その帰りに川で溺れていた子犬を助けようとしてレイは飛び込んだ。レイには泳ぎ方のプログラムがインプット済みだったし、人工皮膚には防水加工もきちんと施されている。何も問題ないはずだった。俺が手を伸ばしてレイの身体を引き上げたとき、レイはもうすでにバグを起こしていた。どっかで脳を強く打ったんだろう。今度はずぶ濡れの子犬が心配そうにレイの頬を舐めるのを、俺はなにか不思議な気持ちでしばらく眺めたあとに、重たいレイを背負って研究所に帰った。
 そんなわけでバグったレイはジョンと俺とで修理、メンテナンスをした。前にも似たようなことが何回かあった。何もジョンの研究の成果が神掛かったものであるからといって、綻びが一切生じないわけではない。あくまでまだ俺たちの研究は現在進行形、発展途上のものだ。だから以前に一度、回路がショートして暴走したレイに殺されかけたことがあるのもおかしなことじゃない。不幸なことにレイにはその時のメモリが断片的に残っていて、二週間は自分の手の甲を噛んだままベッドの中から出てこなかったのだけれど。≪罪悪感≫というリアクトが作動したのか。あまりにも人間に寄りすぎると、今度はきっとレイがつらい。そんな風にまるで人間のように扱ってしまう俺は、研究者として決定的に間違っている。結局ジョンと相談を重ねた結果、メンテナンスの際にレイのメモリは消すことになった。あのときの不幸な記憶をレイはもう知らない。
「おれがコーヒー淹れるから、ジョンはフレンチトースト焼いてね」
 二人で来た廊下を、今度は三人で渡る。研究所と自宅は繋がっているので、ここに住む俺たちは毎日この廊下を往復している。もともとジョンと二人で暮らしていた頃は、だいたいいつもインスタントで済ませて料理なんて滅多にしなかったけれど、レイに料理のデータをインプットしたことで台所に立つことも増えた。二人が台所に立っているあいだ、俺は専らテーブルクロスを敷いたり、お皿を並べたりする。穏やかで単調な暮らしを案外気に入ってしまっているのが、この頃の俺のうっすらした悩みだった。
 毎日変わらない景色の中で、ゆるやかに下降線を転げていく。俺とジョンは一分一秒老いて、レイはレイのままで、いつか俺たちを看取ることになるだろう。その時までにレイを完璧にしなくちゃいけない。
 四角いテーブルを三人で囲う。コーヒーから立ち昇る湯気と、心をゆっくり撫でていくような深い香り。ときどき思うんだけど、コーヒーメーカーとレイの違いってなんだ?この二つは機械で、生身の『心』を持たない。レイがコーヒーメーカーに見えるほど俺はまだ狂っちゃいないけど、じゃあその二つがどう違うのか、うまく説明ができない。ただ今日もレイの淹れたコーヒーが美味い。寸分たりとも変わらない味だ、震えるくらいに。だって機械だから。ジョンのフレンチトーストもちょっと焦げてるけれど、あっという間に平らげてしまうくらいには美味い。レイだってそうだ。その体には食べたものを自動処理し分解する機能がついているけれど、まあ余計な機能だと思う。でもジョンが「一緒に食事をすることが何より大切だから」と言って譲らなかった。彼らしいと思う。フレンチトーストをあっという間に平らげるコーヒーメーカー?それはずいぶん間抜けなイデアだ。ある程度パターン化された意識を持つコーヒーメーカーならすこしは面白いかもしれない。疲れてる。コーヒーメーカーとレイ問題は要検討の難問だ。
 俺の知る限りでは最近、ジョンはほとんど眠っていない。仮眠室代わりにしている小さな物置部屋へやっと入ったと思ったら、十分かそこらで出てきてまたパソコンとにらめっこし始める。ジョンの二つの目元には、はっきりとクマが刻まれていて、目鼻立ちがくっきりとしているから余計に痛ましく見えてしまう。昔、俺が散々声を荒らげて、無理やりベッドに押し込んで(申し訳ないけれど睡眠剤もぶち込んだ)、強制的に寝かせていた時期もあったけれど、あんなのを毎回繰り返していたらお互いに身体も心も擦り減らすことに気づいてからは、ジョンも俺の気持ちを尊重してときどき仮眠室へと向かうようになってくれた。(すぐに出てくるのは感心しないのだけれども)
「兄さん、進捗はどう」
「んんーっ……わかんなくなっちゃった。俺進んでるの?戻ってるの?」
 こりゃだめだ。ふにゃっと彼は笑うけれども、だんだんとネジが外れてきたっぽい。
「ごめん、コーヒーもらってもいい?」
「今あんたに必要なのはカフェインじゃなくて、これでしょ」
 首の後ろに手刀を素早く振り下ろすジェスチャーをすると、ジョンは驚いた表情を作って見せながらけたけた笑った。これ、冗談じゃなくてマジなんだけど。
「兄さん、寝てよ。あんたが倒れたらレイが手に負えなくなるし、それに、もっと俺を頼ってよ」
「クリスには充分すぎるくらいに支えてもらってるよ。だって俺の研究に付き合ってくれること自体、ほんとうはありえないくらいのことなんだから」
 またその話か、と思う。ジョンの規格外すぎる研究に、周りの研究員たちは不可能だと口々に言い残して研究所を去っていった。残ったのは俺ひとり。弟である俺。俺がジョンの研究についていく理由を、ジョンは血の繋がりがそうさせるのだと勝手に思い込んでいる。そして兄弟であるばっかりに、クリスには厳しい道を歩ませてしまった、と本気で悔やんでいる。目の前の兄貴が大切だからこそ、そんな風に思うジョンのことを殴り飛ばしてやりたかった。そして、大切だからこそ、俺はいつも握りしめた拳を白衣のポケットにしまって堪える。ジョンの研究が成功の一歩を踏みしめたとき、俺は世の保守的な研究者連中や研究所を去っていった奴らに、ジョンの成功を知らしめてやりたかった。けれどもジョンは、異端であり続ける道を選んだ。自分が生きている間は、研究の一切は公にしないと。
 ジョンがいなくなってはじめて、その研究は歴史の一ページに刻まれる。俺より先に死んじゃいけないよ、と彼は俺によく言う。できる限り長生きをして、レイのそばにいてやってほしいと。あんただって、長生きするんだよ。俺と一個しか変わらないじゃんか。自分の死んだ後のことばっかり考えて、自分の死んだ後のことのために今を生きてる。ジョンは自分勝手だ。けれどもそれが俺たちの選んだ道だ。
「クリス?」
 その声にはっとする。無意識に下唇を噛んだまま呆けていた。クマの張りついた大きな瞳が俺を見上げている。オートマタ職人だった父の仕事部屋からゼンマイを拾っては、いつか心を持つオートマタを造りたいと語っていたあの頃の瞳と変わらない。
「クリス、ごめん。気を遣わせちゃったね。すこし寝てこようかな」
「そのほうがいい。明日はレイといっしょにピクニックする約束だったろ」
「レイ、張り切ってたね。サンドイッチ。人間みたいだ」
「うん、人間みたい」
 ジョンの瞳は俺を見ていなかった。きっと俺のブロンドの頭さえ透けて、その向こうに何か一つの未来を見たんだろう。俺にはわからない。それからジョンは、お気に入りのクッションを抱えて仮眠室へと入っていった。
 レイは窓の外をジッと見つめている。雨だった。レイは何度も何度も窓際へと向かって、その度にカーテンを開けたり閉めたりを繰り返していたけれど、やっぱり雨だった。レイの頭の中いっぱいに詰まった電子基板が緻密な計算を高速で行い、その結果としてぶすくれた表情を作り出す。見事だ。
 雨じゃあ仕方ない、延期にしようと優しく笑ったのはジョンで、「おれ、防水だからだいじょうぶ!」と食い下がるレイの姿に俺は思わず吹き出した。お前は大丈夫でも俺たちが風邪引くだろ。俺の一言ですっかり静かになってしまった。それからずっとレイは窓のカーテンを開け閉めしている。ジョンはすこし作業を進めたら今日はゆっくり休もうかな、と言っていて、俺もそれに賛成した。ピクニックのために無理やり作った休日だったから、それを無駄にしないほうがいい。リビングを去ってゆくジョンの背中を、レイはじっと眺めていた。こいつにとってはジョンが親なんだよな。しょうがないから親戚のおじさんかもしれない俺が相手してやる。
 コーヒーメーカーがぐるぐると機械音を鳴らしながら黒い液体を吐き出す。湯気がふわふわと舞い上がって簡単に解けてゆくそれを、テーブルに二つ置いた。窓の外を眺めるレイの背中を見遣りながら、いつもはジョンが座る椅子に腰掛けた。灰色の空はしとしとと濡れて、雨が部屋の中まで匂い立ちそうだ。窓を打つ不規則なリズム。不規則は不規則という規則性を持っているので、この世に規則性を持たないものはない、というのが俺の持論だけれど、不規則という規則性を持つものの中で最もままならないのは、何て言ったって、人間の心だ。あれは確かに脳から送られる電気信号に過ぎないけれど、人間は人間の心を完全に制御することはできない。隅々まで研究し理解はできても、それは到底扱いきれる代物じゃない。それでいて、一つの個体として人間は複雑な器官のさまざまが調和し、機能している。心を人の手で造りだすことを夢見ながらも、不可能に近いと誰もが最終的に匙を投げるのは、何も短絡的なことじゃない。普通は不可能なことだからだ。普通なら。わざわざレイの分のコーヒーまで淹れる俺を、誰が笑ったっていい。
「おれって神さまに嫌われてるのかも」
 雨が降るよどんだ空を見上げながらレイは不意にこぼした。さびしげな声色。レイのプログラムが≪かなしみ≫を形成している。その指令はどこから発せられている?心、まさか。雨でピクニックが中止になった。楽しみが消えた。喪失はかなしい。だから≪かなしみ≫のリアクトが起動した。そういう風にプログラムされているから。
「機械は管轄外だろ、神さまも」
 ぜんぜん慰めにならない言葉をその大きな背中に投げつけた。ぽんと放物線を描いて、それはレイの右肩あたりにぶつかって床に落ちる。レイはどんな反応を示すか。いや、レイのプログラムはどんな反応を示すか。俺は静かにそれを待つ。
「だってこないだ電子レンジがぶっ壊れたとき、ジョンが寿命だ、って言ってた。機械にも寿命があるんだよ。機械も死ぬ。死ぬ生き物には神さまがいる。神さまのもとへと帰る。だからおれにも神さまがいるだろ」
「おまえは生き物じゃないだろ」
「そうなの?」
 俺に聞かれても困るんだけど。それまで窓の外の景色に向かって話していたレイは、ハッとしたように振り向いた。「おれは生き物じゃないの?」もう一度繰り返す。生き物ではなくね?え、逆になんでおまえは自分を生き物だと思うわけ。ふつふつと湧き出た疑問は、声になることはなく頭の中を巡ったけれど、きっと瞳は雄弁だったんだろう。レイは俺の表情を見て一瞬怯んだ。
「……おれが生き物じゃなくても、機械だって死ぬんだろ。機械専門の神さまもいるのかも」
 ああ、そのアイデアはジョンが喜びそうだ。今すぐに教えてあげたい。きっととびきりの笑顔を浮かべてレイを褒め称えるだろう。仕事が手につかなくなるくらい、喜びで転げ回るかもしれない。
 それでも俺は、研究者の一人としてレイをジッと観察していた。コーヒーカップの縁に口をつけながら。俺の視線をまっすぐに見つめ返していたレイは、俺の正面に置かれたもう一つのコーヒーカップに視線を移して、こちらへとやってきた。正面の、いつもは俺が座っているところにレイが座る。コーヒーの黒い水面を見おろしている。
「ミルクは?」
「俺は好きじゃない」
「クリスが好きじゃなくても、おれが好きなの」
 あとジョンも、とレイは付け足した。頬杖をついて尚も俺は観察し続けてる。キッチンへとミルクを取りに行くのかと思ったら、意外にもレイは目の前の真っ黒なコーヒーを一口飲んだ。すこし驚いた俺の表情を、レイの艶々した黒い瞳が拾う。
「正直なとこ、味わかんないんだよな」
 当然だ。レイに味覚は搭載されていない。今ジョンと俺で人工味覚を開発途中だからだ。人間のような繊細な感知はできないけれど、ある程度のジャンル分けはできるようになる予定だ。
「でも、ジョンが好きなミルク入りのコーヒーなら、きっとおれも好きなはずだから」
 それはたぶん独り言に分類される呟きだと思う。俺に向かって発信されたというよりは、自分の内側に言い聞かせるような響きを持つ。ジョンも俺も、レイを人間みたいだと言うけれど、レイはまだまだプログラムの域を越えない。心は不規則という規則性を持つからだ。レイは電子基板から出力される正確な規則しか持たない。その壁を越えない限り、レイに心があるという証明はできない。一方で、暴走を起こしショートする危険性があるから、レイに心の決定的な芽となるようなデータを過度には与えられない。ジョンの研究が現在進行形にあるのは、こういった問題の為だ。心を持つオートマタを造りたいというジョンの夢は、まだ叶いそうにない。けれどもあと一歩のところにいるのは確かだ。それを目の前のレイが何よりも証明している。
「おまえとコーヒーメーカーの違い、おまえはわかるか?」
 正面のレイにコーヒーメーカーとレイ問題を投げかけた。「うーん」と即座にレイは考え込む反応を示した。眉間にかすかに寄るしわ。表情筋の役割を成す細かなアルミの繊維が、人工皮膚の下で緻密に美しく湾曲する。
「コーヒーメーカーより、親近感はあるからなぁ……でも俺コーヒー吐かないじゃん」
「そういう機能を付けたらおまえもコーヒー吐くよ。五分もあったら実装できる。試してみる?」
 レイはあからさまに嫌そうに顔を歪めた。この表情の形成から察するに、クリスくそいじわるだとかなんとか、そういう文句が電気信号として回路を駆け巡り、表情いっぱいにそれを表している。上等。
 この研究に携わってからずいぶんと長い間、俺とジョンは人間らしい生活から遠ざかってしまっていたから、むしろこの家の中でいちばん人間らしいのはレイなんじゃないか、とときどき思うこともある。それは小難しい理屈を抜きにして。レイを前にして、結局は俺の鉄壁の理論も、研究者としてのくだらない虚勢も、すべて意味のないものとして崩れ去ってしまう。案外俺やジョンよりもずっと、レイの方が外へ出ても上手く生きていけそうだな。そう、だってそのために俺たちは、レイを限りなく人間に近づけているのだから。コーヒーカップを置いて、改まって俺は両手の指を組んでテーブルの上に置いた。まっすぐにレイを見据える。
「ジョンの研究を永遠に残してほしい」
 レイはすこし驚いたような表情を作った。コーヒーカップを手にしたまま、しばらく考え込んでいる。複雑な計算を叩き出す人工脳から電気信号は発せられて、最善の答えを滞りなく編み出してゆく。
「わかってる。俺はそのために生まれたんだから」
 毅然としてレイはそう応えた。
 レイを完璧にすることが、俺たちにできる唯一にして最大の愛情表現だ。そしてレイはそれに応え、永遠の時間を生きてゆく。きっとたぶん、レイに神の迎えは来ない。そのために俺たちは命懸けでレイを完璧にするのだから。テーブルの上で固く組まれた俺の手の上に、レイがそっと手のひらを重ねた。冷たい。たとえこれが作り物だったとしても、人の感触と何も変わらない。二重幅の綺麗なレイの瞳がしっかりと俺を見つめ返す。唇を薄く引き結んで、大丈夫、と言っているようだった。

「花にさそわれて」
k182329

 カーテンをあけて、あくびをしながら一階のリビングに降りる。
 朝はねむい。自分でもなぜだ、、、と思うほど眠気がすごい。
 しかし今日はいつもの今日ではない。なんだか特別な一日になる予感がしている。
 私は都内の大学に通っているが、夏休みの間だけ、少し離れた町に住んでいるおばあちゃんのお花屋さんを手伝うため、家を離れている。わたしは小さいころから植物が好きで、若々しくて少しお茶目でお花の香りがする、かわいいおばあちゃんのことが大好きだった。
「えみちゃんは本当にお花が似合うわ!きっと素敵な出会いがたくさんあるわよ。」
 おばあちゃんの口癖である。私の名前は「咲(えみ)」。お母さんとお父さんが名前を決める時におばあちゃんからの助言があって、これにしようとなったらしい。由来を何度か聞き出そうとしたが、おばあちゃんは
「それはね、、、内緒!まだ言えない!」
 というばかりで、教えてくれない。
 特別な一日になる予感がしている、と言ったが、実は今日は私の20歳の誕生日なのだ。おばあちゃんは毎年私の誕生日になると、ある小さな鍵をプレゼントしてくれる。
「この鍵はね全部で20個あるの。20個目をプレゼントした時に、この鍵の秘密を教えてあげる。」
 と小さいころに言われた記憶がある。つまり鍵のプレゼントは今年で最後。鍵は何に使うのかよく分からないけれど、大好きなおばあちゃんがくれたものなので大切に保管してある。その鍵がやっと20個そろう日。おばあちゃんが鍵の秘密を教えてくれる日。だからきっと特別な日になる!
 朝ご飯を食べ、歯を磨き、かるくお化粧をして、お店のエプロンを付けようとしたとき、
「えみちゃんストップ!今日はお店のことは気にしないで。思いっきりおめかししなさい!」
 とおばあちゃんが明るく言ってきた。動揺する私を無邪気にそして強引に部屋に連れ戻し、
「さ!う〜んと可愛くするんだよ。」
 と言い残して店頭の方へ行ってしまった。お店はあと15分でオープンする。誕生日にお花を売るのも中々楽しそうだと思っていたけれど、おばあちゃんがそういうならまあいっか。私は自分ができる最大のおめかしをし、店頭とリビングのある一階へおりた。
 するとリビングのテーブルに、キキョウの花が置いてあってそのすぐそばに封筒が添えてあった。封筒を開けると中には一枚の手紙と鍵が入っていた。手紙にはおばあちゃんのきれいな字でこう書いてあった。
 『どうか、たのしんで!家の中で今まで一度も開けたことのない扉を開けてみてね。』
 私は鍵をもって自分の部屋に戻り、これまでの鍵と一緒にし、全部で20個の鍵をカバンに入れた。それからキキョウの花は、カバンのポケットに入れておいた。これから何がはじまるんだろう。鍵の秘密はなんだろう。ワクワクがとまらない。私は軽くスキップをしながら階段を降りようとした。
「、、、まてよ。」
 そういえば、今まで一度も開けたことのない扉ってどこだろうか。おばあちゃんの家には何度も来ているし、夏休みの間は住んでいる。開けたことのない扉なんて、あの玄関に飾ってある小さな家の置物の扉くらい、、、、、
「いやあそれはさすがにないかなあ。」
 いくらなんでも、それが本当ならおばあちゃんの遊び心が過ぎる。けれど、ものは試し。一回だけ、本当に一回だけ少し触って開けてみるか、、、。玄関は、おばあちゃんやお客さんからは見えない。笑われることはない。
 見えないと分かっていても少し怖いので、物音を立てずに玄関へ向かった。
「あった!」
 小さな家の置物があった。いつも目にしているはずだが、こうやってじっくり見たのは初めてだ。その小さな家は二階建てで、横に長く、一階部分の中央に扉が一枚ある。この扉は確実に開けたことがない。そもそもこの扉は動くものなのか?
 疑問を抱きながら玄関に突っ立っていると、お店の方から「いらっしゃいませ。」という声が聞こえてきた。開店の時間だ。私はなぜか焦りの気持ちが高まり、思わず小さな家の置物のドアノブをつまんだ。
 シャララララララスンスンスンホワンッ
 自分の身の回りで大きな音がなった。びっくりして閉じていた目を、ゆっくり開いた。
「え?」
 さっきまでつまんでいたドアノブを今度はしっかり握っていた。
「なんだ、おばあちゃんちのドアノブを握っているのか。」
 ちがう。明らかにドアノブの形が小さな家の置物のものである。
「うわああああ」
 私は思わずドアノブから手を離した。すると
 スンッ
 なんと今度はドアノブが豆粒くらいの大きさになっていた。もとに戻ったのだ。怖くなった私はもう一度そのドアノブをつまむ気が起きなかった。とにかくおばあちゃんに聞いてみよう。
 今店頭にいるおばあちゃんは、お昼ご飯の時に休憩に入る。それまで待っていよう。リビングに戻りお茶を入れ、ソファーにちょこんと座った。
「何が起こったんだろう。」
 さっき起きた出来事をもう一度整理しようと思ったら、お店の方から「こんにちは〜!」という聞き覚えのある声が聞こえてきた。その声が誰のものなのかほとんど確信しているが、念のため顔を確認しておこう。ソファーから立ち上がり、お店につながる扉をうっすら開けた。
「光(こう)だ!」
 _____________こうは中学校の時の同級生。中学1年生の時に同じクラスで、隣の席だった。私はそれまで男の子と話すのが苦手だったが、こうだけはなぜか普通に話せた。
「シャーペン忘れたからかして。」
 こうはよくシャーペンを忘れる。私は、なんでいつも忘れるのよ、と思いながらもどこか嬉しい気持ちがあった。こうと関われることが楽しかったのだ。
 その年に林間学校という宿泊行事があった。夜、部屋で女子会が行われた。
「えみちゃんは好きな人いる?」
 よくある質問だ。当時の私は恋愛などしたことがなく、何もわからなかった。
「いないよ〜!」
 我ながらつまらない答え方をしたと思う。話の流れは今好きな人がいるという子の方になった。みんなとても楽しそうである。私も話を聞くことは楽しかった。しかし、どこか自分には起こることのない無縁なものとして聞いていたのかもしれない。
 林間学校が終わって数か月たったころ、ある一人の子が私にこう言った。
「こうくん、えみのことが好きって林間で言ってたらしいよ。」
 顏と体が一気に熱くなった。動揺を必死に隠そうとして
「まさか!そんなのうそうそ!変な噂が流れたらこまるよ、、」
 と言ったが、友達は私の異変に気が付いた。私だけに聞こえる声で友達はこう言った。
「えみ、本当はえみも好きなんでしょ!」
 正直なところ、私は分からなかった。でも、こうを見るとさっき友達が言った言葉が頭に浮かんで、まともに話せなくなっていた。こうも、距離を感じたのか、だんだん私に話しかけなくなった。そして卒業するまで私はこうと話すことはなかった。
 高校生になって、私とこうは別々の学校に行くことになった。
「結局あれから一度も話せなかったなあ。」
 おばあちゃんの前で私は独り言を言った。高校生まではおばあちゃんの家の近くに家族と住んでいたため、頻繁におばあちゃんのお花屋さんに行っていた。
「なあに、悩みごとでもしたの?大丈夫。えみちゃんにはきっと素敵な出会いがあるわ。」
 そう言ってなだめてくれた。
 そんなある日、いつも通り学校が終わりおばあちゃんのお店の中でお花たちをながめていると、「こんにちは!」という元気な男の子の声がした。お店には優しそうな女のひとや老人夫婦などがよく来るため、珍しい声だ、と思った。見ると背の高い、けれど顔は見たことのある男の子が立っていた。
「こうくん!?」
 私は思わず声を出した。
「えみじゃん!!」
 こうは身長以外何も変わっていなかった。会うのは卒業以来。2年ぶりだった。察しのいいおばあちゃんは、私にこうの対応をするよう指示した。これが、私がお店を手伝うきっかけになった出来事である。お姉ちゃんの成人祝いにお花をプレゼントしたい、という要望に私は最適なお花を選んだ。帰る時、こうが私に
「えみがここのお店にいるとは知らなかったよ。これからも来ていい?」
 と言った。私はとてもうれしくなって、
「もちろん!こうくんの要望に応えられるようにお花の勉強するね。」
 と返事をした。
 それからこうは、頻繁にお店に来るようになり、名前の呼び方も「こうくん」から「こう」に変わった。私たちはたわいもない話で盛り上がり、中学生の頃のあの気まずい関係はすっかり消え、再び一番話しやすい友達になった。___________________
 そのこうが今日もお店にやってきたのだ。私はさっき起きた出来事をどうしても彼に言いたくなった。しかし彼はなにやらおばあちゃんと話し込んでいる。時々真剣な顔をしたり、笑顔になったり、一体何の話をしているのだろう。とても気になるが、何だか聞いてはいけない話のような気がして私はそっとリビングに戻った。
 かばんのポケットから入れていたキキョウの花を取り出した。きれいな紫色をしたかわいいお花だ。
「花言葉はたしか、、、誠実だったかな。」
 そんなことを思いながら部屋をうろうろしていると、いつの間にか玄関に立っていた。急に、おばあちゃんに相談しなくてもいい気がしてきた。もう一度扉を触ってみたい。
「よし。」
 私は覚悟を決め、小さなドアノブをさっきと同じようにつまんだ。
 シャララララララスンスンスンホワンッ
 さっきと全く同じ音が体全体を包んだ。私は勇気を出し、扉をゆっくりあけた。
 家の中は想像よりはるかに広かった。そして扉が横一列に沢山並んであった。その扉には番号がふってある。
「いったい何の扉だろう、、、」
 試しに『3』と書いてある扉を開けようとした。が、開かない。見るとドアノブの横にカギ穴があった。
「これは!あの鍵を使えば!」
 私はカバンの中から20個の鍵をジャランと出した。今まで気が付かなかったが、鍵一つ一つにも番号がふってある。きっと扉と同じ数字の鍵を使うに違いない、と思い、私は『3』の鍵をゆっくり鍵穴に差し込んだ。
 ガチャ
 鍵があいた。おそるおそる扉を押してみる。
「見覚えがある。」
 ここは間違いなく私の昔の家だ。私は家の前に立っていた。なんだかとても懐かしい気持ちになった。少し肌寒いから、季節は秋だろうか。家の中から小さな女の子が少しオシャレな格好で出てきた。見覚えがある。アルバムで見たことのある顔だ。おそらく3歳くらいの私だろうか。お母さんに手をつながれている。お母さんももちろん若い。
「なあにこれ。おもしろい。帰ったらお母さんに報告しようっと。」
 などと思っていると、ふととてつもなく懐かしい記憶がよみがえった。あの時もちょうど肌寒い秋だった気がする。公園で遊んでいる時に盛大に転んで、いつもなら大泣きするのに、通りすがりのお兄さんとお姉さんに優しく慰められて泣かなかった話。お母さんがよく話してたっけ。
 私は3歳の私と若いお母さんを尾行することにした。もしかしたらあの出来事が起こるかもしれない。
 予想通り、二人は公園に入っていった。このままでは3歳の私がこけてしまうので、早くあのお兄さんとお姉さんが来て、一緒に遊んでくれたりしないかなあ、と思っていると、公園にあのお兄さんが入ってきた。私はさりげなく声をかけてみようと思った。するとその時、
 ズザッ
 私の足元ぎりぎりのところで女の子がこけた。3歳の私だ。その小さな少女の顔がみるみる歪んでいく。このままでは泣いてしまう。
「大丈夫!?」
 気が付くと私は、お兄さんと同時に少女に話しかけていた。あまりにも同時でびっくりしてしまい、お互いが黙っていると、
 クスクスクス
 少女が笑っていた。お母さんが駆け寄ってきて
「あら?お兄さんとお姉さんがおもしろかったのかしら。全然泣かないわこの子!」
 と嬉しそうに言った。私は恥ずかしさと驚きでお兄さんと軽く会釈をし、その場を離れた。
「まさか、あの時のお姉さんって私だったの!?しかも聞いていた話と少し違う。」
 混乱しながらも、過去の出来事の新事実が知れて少し嬉しかった。思わず頬がゆるんだ。
 その時、目の前がネリネのお花でいっぱいになった。鮮やかなピンク色のネリネの花。そのお花が私の体の横をぶわっと通り、次の瞬間には『3』と書いてある扉の前に立っていた。戻ってきたのだ。
「なんでネリネのお花だったんだろう、、、。あ!」
 私はあることに気が付いてしまった。ネリネの花言葉は『また会う日を楽しみに』。そういうことだったのか。これまでの出来事を振り返って、鳥肌が立った。
 そしてもう一つ分かったことがある。それは、扉の数字は私の年齢を表しているということだ。さっきの少女の年齢からして、そう考えるのが妥当だろう。となると、次に開ける扉はどれにしよう。すると私の視界の端に『〜0』と書かれた扉がみえた。これはつまり、私が生まれる前のお話ではないか。おばあちゃんがずっと教えてくれなかった私の名前の由来が分かるかもしれない。期待と少しの不安を抱いて、私は『〜0』の文字が入った鍵をさし、扉をあけた。
 そこはおじいちゃんの病室だった。おじいちゃんは私が生まれる直前に亡くなったと聞いている。写真で顔は知っているから、今目の前にいる人はおじいちゃんだと分かる。そしておじいちゃんの横には優しく微笑んでいるおばあちゃんがいる。現在でもおばあちゃんは若くてきれいだから、昔はもっときれいだったんだろうな、と想像したことがある。今から20年も昔のおばあちゃんは、想像よりもはるかにきれいだった。私は病室の入り口に立っていたが、今回は私の姿は誰にも見えないようだ。さっき、病室にいた看護師さんが、私に気付かず通り過ぎていった。
「私はね、“咲”という字を入れたいわ!」
 おばあちゃんの声が聞こえてきた。どうやら私の名前を二人で話しているみたいだ。
「わしは絶対に“笑”という字をいれたい。笑顔が素敵な子になってほしいからな。」
 はじめて聞いたおじいちゃんの声は、低くて深くて優しい声だった。おばあちゃんは少し頬をふくらませてこう言った。
「それじゃあ両方言っておくわね。」
 言っておく、というのはおばあちゃんの娘、つまり私のお母さんのことである。ここまででは名前の由来はまだ分からない。しばらく二人の様子を眺めていると、目の前がキキョウのお花でいっぱいになった。キキョウのお花とくれば何が起こったか、すぐに分かる。今日もおばあちゃんが机の上に置いていた。私はポケットに入れたキキョウのお花を手に取った。
「キキョウのお花は、私の誕生花。つまり、私が生まれたんだ。」
 予想通りだった。そこには生まれたての私の姿があった。お母さんとお父さんとおばあちゃんが笑顔で私を囲んでいる。
「私、この子の顔をみて名前が舞い降りたわ。」
 おばあちゃんが急に真剣な顔つきをして言った。お母さんとお父さんがおばあちゃんに注目している。
「“咲”と書いて“えみ”と読むのよ。」
「どうしてそう思ったの?」
 お母さんが聞いた。おばあちゃんはとびきりの優しい目で赤ちゃんの私を見つめながら、
「この子はおじいちゃんの生まれ変わりのようなタイミングで生まれてきたでしょう。だからおじいちゃんの言うことを聞いてあげないといけない気がしたの。」
 続けてこう言った。
「今日の誕生花はキキョウ。花言葉は“永遠の愛”。この子から永遠に愛が奪われないように、キキョウの花を“咲”かせるの。そしておじいちゃんの望みである、笑顔が素敵な子に育つように“えみ”と読ませるの。どうかしら。我ながらさえてると思うんだけど、、、。」
 お父さんとお母さんが顔を見合わせ、微笑んでこう言った。
「この子は咲(えみ)だ。」
 ざあっと心地よい風が吹いて、気が付いたら私は『〜0』と書かれた扉の前にいた。
「名前の由来は、おじいちゃんが関係していたんだ、、、。それから、キキョウの花の花言葉は“誠実”だけだと思っていたな。“永遠の愛”か、、、。」
 私は二階に上がって、『13』と書いてあるドアの前に立った。実はずっと気になっていたこと。「愛」と聞いて真っ先に思い浮かんだ出来事。私は『13』の文字がある鍵を使い、ゆっくりと扉を開けた。
 そこは中学校だった。季節的にどうやら林間学校は終わっているみたいだ。まだみんな幼い。今からみるとこんなにも幼く見えるものなのか。その中に見覚えのある男子の集団が見えた。わちゃわちゃと楽しそうに話をしている
「な〜〜お前!はやくえみに告白しろよ!!」
 男子の中心には光(こう)がいた。会話的には、こうが私のことを好きだという噂は本当のようだ。私はあの頃を思い出して少し恥ずかしくなった。こうはなんて答えるのかな。
「まてまて!俺はお前らみたいに焦らないタイプだから!」
 こうは笑顔で男子たちに答えた。おもんね〜、と口々に言いながら、こうの周りを離れていく。その中に一人だけこうから離れない男子がいた。こうと特に仲のいい人だ。
「なあ、焦らないってどういうことだ?」
 その男子は私が今一番聞きたかったことを聞いてくれた。すると、
「俺はもう心に決めてる。あいつの20歳の誕生日まで待つんだ。」
 と、こうが少し照れながら言った。私は目を見開いた。13歳から20歳までなんでそんな長い間、、、。中学生の間はほとんど話せなかったのに。そして今日はその、こうが宣言している日。私の20歳の誕生日。いろいろな考えが頭をめぐって混乱していると、私の体をキンモクセイの花の香りが包んだ。とっさに
「キンモクセイ。花言葉は“初恋”。」
 と声が出た。そして気が付いたら『13』の扉の前にいた。一筋の涙が頬をつたった。あれが恋だったんだ。自分とは無関係な話だと思っていた。そして、こうがお店にいたことも思い出した。
「どうしよう。はずかしい。」
 直接会ったらまた中学生の時みたいに気まずくなるのかな。ちゃんと話せるかな。私は不安でいっぱいだった。すると、
 シャララララララスンスンスンホワンッ
 大きな音がして私は小さな家の置物の前にいた。置物はスンスン音を立てて、みるみるうちに小さくなり、しまいには消えてしまった。
 様々な気持ちを抱えながら、私はリビングにむかった。するとリビングの椅子に、こうが座っていた。
「こ、こう、、、!」
 緊張がいまにも爆発しそうな私に、こうはそっと立ち上がってゆっくり話しかけた。
「中学生の時からずっと、えみのことが好きです。僕と付き合ってください。」
 頭が真っ白になった。思わず下をむいてしまった。しかし、こうはそんな私を下から少しのぞき込んで
「どうかな、、、。」
 と、はにかみながら言った。
 私はこうの目を見た。そして小さくうなずいて
「よろしくお願いします。」
 と言った。
 二人とも恥ずかしくなって何も話せないでいると、お店から休憩にきたおばあちゃんが
「二人ともおめでとう!!やっぱりおばあちゃんの勘はあたるわねえ。」
 と顔を赤らめて言った。
「勘???」
 私は聞いた。
「そうよ。おばあちゃんの勘。私は絶対この子がお店に来てくれた時からずっと、えみちゃんのことを笑顔にしてくれる人だって思ってたの。しかも、偶然すぎるんだけど、彼の誕生花もキキョウなのよ。」
 おばあちゃんはにんまりした笑顔で、つづけて、
「こうくんが来てくれた時に勇気を出して聞いてみたの。『あなたえみちゃんのお知り合い?』ってね。そうしたら『はい。知り合いどころか、僕の好きな人です。』って言うんだもの。おばあちゃんびっくりしちゃって!」
 おばあちゃんの話を聞きながら、こうが照れている。
 そしてこうが、
「えみがおばあちゃんの孫だっていうことは、この時はじめて知ったんだ。その後えみとお店で会ったから、あの時のリアクションは演技ってことになるかな。」
 恥ずかしそうに言った。
 続けておばあちゃんが、
「『もし気持ちを伝えたいなら、迷惑でなければわたしが協力してあげるわよ!』って私が言ったもんだから、流れがそうなっちゃって。毎年渡している鍵をつかって二人で作戦を考えていたの。」
 と教えてくれた。
「そういうことだったんだ、、、!!!」
 私は想像以上のスケールの大きさのサプライズにびっくりして、頷きながらおばあちゃんとこうを交互に見たた。
 どうやら今日お店で話していたのは、この作戦のことだったみたいだ。
「たくさんのことが分かったでしょう。あなたは本当に沢山の人達から愛されている。その愛を笑顔で返しているのよ。これからもきっと良いことが沢山起こるわよ。これもおばあちゃんの勘!」
 私と、おばあちゃんと、こうは3人で笑いあった。
 おばあちゃんは思い出したかのように
「さあ!えみちゃん。今日プレゼントした20の鍵。あそこに、こうくんと行ってきなさい。」
 と、私とこうの背中をぐいぐい押しながら言った。
 私はその鍵の存在のことをすっかり忘れていたため、そういえば、鍵は20で終わりって言ってたし、こうと二人で行くってどういうことだろう??と思った。
 シャララララララスンスンスンホワンッ
 気が付くとこうと一緒に20と書いてある扉を開けていた。
 すると目の前には見覚えのある場所が。おばあちゃんの家のリビングだ。
「えみ、机になにか置いてあるぞ。」
 こうが教えてくれた。
 みると、机の上に、きれいなお花がいっぱい飾られていて、その中にまるでお花畑をそのまま絵にしたような、とっても美しい振袖が置かれていた。
 あまりの美しさに声が出ないでいると、こうが
「手紙もある。」
 と言った。
 みてみるとそこにはおばあちゃんの綺麗な字でこう書いてあった。
 ____ えみちゃん。 20歳のお誕生日おめでとう。記念に、おばあちゃんもあなたのお母さんも着た振袖をプレゼントします。鍵のプレゼントはもうないけれど、これからはえみちゃん自身が、あなたの大切な人と、あたたかい思い出を沢山つくっていってね。それはいつか扉になるはず。楽しみね。 おばあちゃんより______
「そういうことだったんだ、、、、。」
 全ての謎が解けて、そしてその真相を知って、私は嬉し涙を流した。
 こうがそっとハンカチを出してくれて、涙を拭いてくれた。
 気付いたら玄関に戻っていた。目の前には小さな家の置物がある。
 私はプレゼントしてもらった振袖を大事にかかえながら、
 沢山の人に愛され、また、沢山の人を愛せるような大人になりたいと、静かに心に誓った。
 そして、今度は自分がみんなを幸せにして、扉をつくる番なんだ、と意気込んだ。
 今日も、大好きなおばあちゃんのお花屋さんには、大好きなお花が沢山売られている。

「春」
k182333

 ふっと一息つき席を立つ。カーテンを開けると既に向こうの空が明るくなっていた。家を出るまで時間はあるがどうせ今からなんて寝れやしない。かといって、何かをする気にもなれず、パソコンを閉じ、だんだん明るくなっていく部屋の中、ベッドに寝転び、ただ時間が過ぎるのを待った。不思議と虚無感はなかった。心地よささえ感じた。
 しばらくして、ふと時間を見るといつの間にか時計の針は出発の時刻を指していた。どうやらいつの間にか寝ていたらしい。先程までのゆったりした時間はどこへやら。慌ただしく準備をし、机の上のものをテキトーに詰め込み、家を出た。
 駅に着くと人が、電車が忙しなく動いていた。これから自分もこの一部になるのかと思うと少し憂鬱になった。ただそんなことも言ってられないので仕方なくいつもの電車に乗り込む。電車の小刻みな揺れに身を任せ、うとうとしているとあっという間に乗り換える駅まできた。ドアが開くと同時に流れ出す人混みに紛れ、自分も電車から降りる。
 乗り換える先は、さっきまで乗っていた路線とは違い、人もまばらである。ガラガラの車内に1人座っていると何とも言えない感情になる。以前であれば、この電車に乗ると自分の横には・・・。以前と言っても、もう2年以上も前のことだ。高校に通っているときは、複数の路線が乗り入れるこの駅で合流し、一緒に通うのが日課であった。ただその後、自分は4年制の大学、彼女は短大にとそれぞれ別の道に進んだことから、そんな日課もなくなり、新生活に追われる毎日は互いの距離を知らないうちに広げていった。そして別れてから結局約1年半、彼女とは全く会っていない。
 ただ、ときどき喪失感を覚えるのだ。そして、きまってどうにもならないことを考える。もしあのときこうしていたら、もっと変わっていたかもしれない。今も横に彼女がいたかもしれない。そんなことを考えたところで今何かが変わるわけではないのは百も承知である。ただ、考えずにはいられないのだ。無機質なチャイムとアナウンスだけが響き渡るこの空間に1人いるとなおさらである。
 しかし、今日はそんなことは、考えられない。猛烈に眠いのだ。たかが十数分だが、長椅子の端に陣取り、手すりにもたれかかって早々に眠りについた。
 ふと目が覚めるとまだ電車の中だった。どうやら早く起きてしまったらしい。気を取り直してもう一度眠りにつこうとしたとき、自分の目の前の景色の異常さに気付いた。目の前には、毎日、一緒に学校に通っていたあの子と高校生時代の僕とが隣り合わせで座っているのだ。彼らは目の前の自分を気に止めることもなく、1つのスマホの画面を見ながらの会話に夢中である。何が何だか分からなくてもう一度目を閉じて数秒後に開けてみる。それでも自分の目の前の景色は変わらない。高校生の自分は、目の前に瓜二つの男いや、数年後の自分がいることに気づいているのだろうか。時折画面から顔を上げて周りを見ているが、彼は一向に目の前の自分には気づかない。そうこうしているうちに、アナウンスが流れた。次の駅は、高校の最寄り駅だった。彼らはやはりここで降りるのだろうか。そんなことを考えていると駅に着いた。ドアが開いた途端、制服を着た複数人の学生とともに2人は降りた。大学に行くにははこの駅からさらに何駅か先で降りなければいけないが、最早そんなことはどうでも良かった。2人の、いや、過去の自分がただ気になったのである。彼らの後を追いかけ、改札まで来たが、改札を出た後、彼らの姿はスッと消えた。何だったんだ今のは。さっきまで前にいたのに。ただ、高校生のときの自分とそのとなりにいたあの子は実に楽しそうだった。2人でいる時間をあんなに楽しんでいたのっていつ頃だろう。付き合いたての頃か、それよりも前か。そんなことを考えているうちに、あたりが暗くなった。 
 そして、明るくなって周りをみると、今度は全く違う場所になっていた。高校の最寄り駅の改札前にいたはずなのに。どうやら今は、図書館の前にいるようだ。ここは2人でよく自習に通っていたところだ。あたりを見渡しても、特に彼ららしき人影は見当たらない。彼らはどこに行ったのだろう。そして何でまた自分は図書館の前にいるのだろう。突如始まったこの不思議な世界に疑問だらけだが、だからといって聞くあてもない。そうしているうちにポツポツと雨が降ってきた。傘を持ち合わせてはいないので、図書館に入るしかない。中にいるのかと思い、見てみたが高校生の男女2人組がいる様子はない。なぜ図書館なんだ?と思っていると傘もささずに図書館の屋根の下に駆け込んでくる2人組がいた。彼らだ。濡れたシャツを気にもせずに笑う彼女に自らの上着をかける高校生の自分。図書館には通い詰めすぎて、こんなことがあったのかも覚えてはいないが、そんな2人の様子を見ていると、これも付き合い始めた頃のひとコマだろうと思った。そんなことを考えていると彼らが図書館に入ってきた。このままいくと自分とすれ違うではないか。彼らが自分に気づいたときの気まずさよりも好奇心が勝り、隠れるのではなく、そのまま、待ってみることにした。
 10m、5m、3m、2mどんどん近づいてきているのに一向に気づかない。そして、肩が当たるか当たらないかぐらいの距離でそのまますれ違った。彼らは何事もなかったように本棚の奥へ消えていった。もしかして、自分は彼らから見えていないのか。ならばと彼らの後を追いかけてみることにした。すると、奥の窓際の席に座り、借りたばかりであろう本を2人で開いて眺めているのを見つけた。そして、時折、肩を寄せて声を潜めて内緒話をしては顔を見合わせて笑っている。何がそんなに面白いのか、今の自分の状況であれば、近くに行って聞くことだってできるが何となくそれは気が引けた。しばらく時間が経ったが、彼らはなかなか席を立とうとしない。見ていると、高校生の自分の方がチラチラと外を見ることに気づいた。その方向を見ると図書館前のバス停にバスが停まっていた。雨はまだ降り続いている。そして、彼女が気づいた頃にはバスは発車していた。「?くん、バス行っちゃったね」「そ、そうだね」「まあいっか」彼は、あえてバスを見送ったのだろうか?でも、なぜ?と考えたとき、ハッと思い出した。この日は彼女を始めて抱きしめた日だった。でも、なかなかその決心がつかなかったから、それまでに雨が止まずに降り続くことを祈り、バスを見送りしていたのだった。結局、最後の最後になってようやく決心がついて抱きしめることができたもののタイミングが悪いだの力が強すぎて痛いだの笑われて終わってしまったのだった。そんなことを思い出した瞬間に再び、あたりは暗転した。 
 明るくなると今度は、周りは遊園地だった。雰囲気的には、入り口の方だろうか。今度は、最初から雨が降っていた。この場所で天気は雨、明確に思い出すことができた。初めて行く遊園地でのデートだったが、天気は予報を裏切り、まさかの雨。たしか、どちらが雨男、雨女かで言い争いながら、入場ゲートまで来るはずである。入場ゲートの方を見ているとすぐに分かった。
「?、雨男でしょ」
「それはないね、その言葉そのまま返すよ」
「『男』じゃありませーん」
「屁理屈じゃん」
 雨でまだ時間も早く、人の数もそれほど多くない中で、彼女の甲高い笑い声が一際響いていた。
 入場ゲートを抜けると、水たまりなんざお構いなしで、アトラクションの方へ走っていく彼女に腕を引っ張られ、水たまりを頑張って避けて行く自分の姿が側から見ると滑稽で笑えた。この日、ここでしたことはほとんど覚えている。どんなアトラクションに乗って、どんな料理を食べて、どんなものを買ったのか。自分の中で、それほど濃い1日だった。雨の中、傘もささないで乗り、2人ではしゃいだメリーゴーランドも、終わると彼女が半泣きだったジェットコースターも、きらめく街の灯を眺めた観覧車、そして傘をさす自分の腕に寄り添って歩いてくれた彼女も。彼らを追いかけることなく、1人フラフラと園内を歩き回り、あちらこちらに散らばっている思い出を拾い集めるうちに拾いきれなくなったのか、その分が、目から溢れてきた。薄暗くなってきた夕方頃に彼らが観覧車に乗り込むのを目にしたとき、また視界は暗くなっていった。
 次に明るくなったのは冬のある日、場所は、某百貨店の入り口前、日が差し、時計の針は11時を指そうとしていたが、冷え込みが厳しい。そんな中、今度は彼女が1人で現れた。待ち合わせが11 時なのだろう。ところが肝心の彼というか、過去の自分自身なのだが、あいつが一向に現れない。過去を振り返ってみるがこんなことがあったなんてまるで覚えていない。さっきとは大違いだ。我ながら一体何をしているのだろう。5分が過ぎ、10 分が過ぎた。彼女はしきりに携帯を気にしているが、それ以上に手に息をかけては擦り、かけては擦りを繰り返しているのが健気で、いじらしかった。代わりに自分が行ってやろうかとも思ったが、そもそも自分は彼女らの瞳には映らないのである。彼女のもとに行ったところで何かできるわけでもないし、自分自身を探しに行って見つけても何もすることができない。ただ過去の自分が来るのを待つしかなかった。
 彼女の待つ様子を見ながら、歯痒さや情けなさを感じ、さらに待つこと10 分。ようやくあいつが現れた。笑顔で手を振る彼女にちゃんと謝るのかと思いきや実にしれっとしている。
「ごめんごめん。ねぼー笑 じゃあ行こっか」
「うん・・・。」
 我ながらぶっとばしてやりたくなったが、今の自分だってこのときのことをすっかり忘れていたし、そんな怒りの感情をもつことができたのも彼女が文句1つ言わず、健気に待っている様子を見ていたからだ。こんなことは多分今回だけではないのだろう。彼女と一緒にいる時間が長くなるにつれ、その時間をなおざりに扱うようになってしまっていた自分がいたのだった。これが直接的な原因であるとまでは言えないが、お互いの受験勉強もあり、思えばこの冬ごろから2人の関係性は少しずつおかしくなっていった。2人の背中が人混みの中に完全に消えると、目の前が真っ暗になった。もう流石にこれらが夢であることは分かっている。次はどの過去に降り立つのだろうか。ただ今までのポイントが時系列で並んでいることからも良いシーンというものは望めないだろう。
 明るくなると、そこは自分の部屋だった。相変わらずの汚さである。彼はベッドの上で座って誰かと電話していた。彼女がいないところをみると、電話の相手はきっと彼女なのだろう。いや、違う。それにしては話し方が乱暴過ぎる上に話の中身が限りなく薄い。多分気のおけない男友達のいずれかだろう。数分後電話が終わった。その後、某無料メールアプリを開き、彼女とのやり取りを開く。そして、
「別れよ」
 そうか、ここだったのか。ここでのやり取りで別れたのは覚えているがその前後は全く覚えていない。ただ、今現在、第三者としてこの時の自分を見ていると、なぜ、こんな文字だけのやり取りで終わらせてしまったのか、友達と電話でバカ話してる暇があるのならなぜ電話で話さなかったのか、いやなぜ直接話そう、話し合おうとしなかったのかという後悔からくる自分への問いかけが溢れでてくる。
 何度かのやり取りの往復があった後、彼は、部屋の電気を消し、現実から逃げるように布団に入り、眠りについた。彼が勉強机の上に置いたスマホには、着信が数回入っていたが、通知がオフになっているため、そのときの彼には聞こえるわけもなかった。というよりも聞こうとしなかったのだろう。しばらくして着信も途絶え、スマホの画面からも光が消えて、部屋が完全な暗闇に包まれた。
 真っ暗な視界に光が入り込んできた。目が覚めたのだ。それと同時に電車のドアが開く。開いた先に見えたホーム、壁、自販機の様子からして全く見覚えのない駅だった。どうやら寝過ごしたらしい。慌てて降りて確認すると4駅ほど先の方まで来てしまったらしい。遅刻確定だ。
  4限の授業が終わり、帰路に着く。今日はなんだかついていない。電車で寝過ごして遅刻はするし、そんな日に限って出席をとられるし、ため息をつきながら朝に降りたホームと同じホームから電車に乗る。夕方も悠々と座ることができる。反対側を見ると、朝同様、夕方もサラリーマンや学生でいっぱいだ。座ってホッとしたのか徹夜した分の疲れがどっと出てきた。それに、朝の電車では珍しい夢を見た。自分の過去を俯瞰的に見ていたのだ。不思議な光景ではあったが、どことなく寝た気がせず、さらには寝過ごしてしまった。寝るという意味では、全く良い方に転んでいない。もうあんな夢は見ないだろう。そう思って目蓋を閉じた。
 今度は一瞬だった。途中の通過待ちなどの停車も含めた20分ほどの時間があっという間に過ぎて、気がつくと乗り換え駅に帰ってきていた。
 朝のことは、1日の終わりには頭の片隅に追いやられていて、考えることは帰ったら何しよう、今日の晩ご飯は何だろうといったようなことだけだった。電車から降りてホームを歩いていると、
「?くん?」
 不意に後ろから名前を呼ばれた。振り向くと思わず、「あ、、、」と言ったきり、言葉が出てこなかった。別れてから結局約1年半、彼女とは全く会っていない。それなのにこんなところでばったりまさか会うなんて。頭の中のどこかにいっていた朝の夢のことが一気に表に出てきた。無意識のうちに徹夜明けで無精髭が生えた口まわりを気にしていた。
 2人でホームに並ぶのはいつぶりだろうか。別に付き合っているわけでもなければ、ここから彼女と同じ電車に乗って同じ方面に帰るわけでもない。なのに一緒に電車を待った。沈黙の時間が流れる。当然気まずさは感じるものの何を話せば良いのか分からない。以前は何も話さずただ2人並んでいるだけの時間さえ心地よかったはずなのに。彼女は確か、いつもここで急行に乗り換えるのだ。ただ、こんなときに限って遅延しているのか、電車が時間になってもなかなか来ない。自分たちの周りだけ時間の流れがゆっくりに思えた。
 沈黙に耐えかねて「次の急行まだかな」とぼそっと口を開いてみる。返事は返ってこない。もしかしたら喧騒に紛れ聞こえなかったのかもしれない。誰にも拾われることなく、宙に漂った自分の声に嫌悪を感じた。ああ、今はぐらかしている自分の声が、どれほど君を傷つけたのだろう。何気なく発した一言のはずなのに自分の中で反芻し、胸の端っこで重くそして鈍く響いた。
  突然、「髪型変えたの」と横で声が聞こえた。ふと声の方を見ると少しうつむき、照れている君に焦った。自分と一緒にいたころの肩にも届いていなかった髪は、ずいぶんと長くなっていて、以前にはなかった大人っぽさを感じさせた。「だよな。すごい似合っ てる…。」 自然に言えた。 現在の恋愛事情とかも気にもなったけど、ふった僕に聞く資格なんてあるはずもない。少し大人びた彼女の横顔を見ながらそんなことを考えていると、時計の針は5時を回り、空は明るさと暗闇が入り混じったような色になって来た。人であふれ、様々な音が入り混じるホームにもその色が少しずつ下りてゆく。明るいような、薄暗いような、少し寂しさも感じる駅のホーム。『後悔』ってこういう景色なのだろう。
「そっちは変わらないね」とおどけた瞳で彼女が顔を覗き込み、そして視線をそのまま足下までやった。顔と顔との距離が急に近づき、ドキッとする。横顔や髪型から大人びたと感じていたが、近くで見ると、あの頃の顔そのままだった。「全然褒めてないだろ?」 二人で笑った。そのとき、今まで感じていた距離が少し縮まったように感じた。あのときはただの日常だと思っていたこんな他愛もないやり取りすら今となっては特別なものに思えた。
 人が、音が、光が混じり合い混雑する駅のホーム、自分たちのいるホームの向かい側を通過した特急列車の生暖かい風は春の匂いをかき消した。
  間違いのさよならを告げたいつかの自分。勝手な気持ちでここにいる自分。過去と現在の自分、何か変われているのだろうか。いや、乗るはずだった電車を乗り過ごしてまで何を考えているのだろう。迷わず歩いていくと、あのときに決めたはずなのに。
  急行列車が長い胴体を連ねてホームに入ってくる。沢山の人で溢れている。ドアが開くと同時にたくさんの人々がホームに雪崩れ込んできた。やはりみんな忙しなく生きている。自分たちの周りだけ時間が遅いというあの感覚はもしかしたら正しいのかもしれない。多くの人が出ていったが、その分の人々が忙しなく、またその箱に入っていく。自分たちだけの時空から抜け出し、彼女もそのかたまりの一部になってしまうのだろう。もう会えないような気がしてきた。はじめは、「じゃあね。」と手を振り、さらっと別れるつもりでいたのに。大人びた容姿の中にある、あの頃の幼さの残る変わらない眩しい笑顔を見ていると、たまらず、彼女の腕を引き寄せたくなる。
「電車は来たんだろ。なぁ早く乗ってしまえよ。」心の中で思う。
「じゃあね。」といつかのように別れを切り出すと 小さくうなずいた彼女が笑顔で一言「またね」と言って背を向けた。そのとき、間違え上手のこの口が不意に開いた。
「もう少しだけいいかな?話があるんだ…」
  電車の扉が閉まった。長い胴体を揺らしながら、急行列車は駆け抜けていった。さっきの喧騒はどこへやら。賑やかさが失われ、黄昏時を過ぎたホームに残された2人。一つのシーンを終えた舞台のようだった。

「めんどくさい。」
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「あぁ、めんどくさい。」
 かぶっていた布団を押しのけた私が、開口一番紡いだ言葉はそれだった。
 ベッドに手をついて、ぐぐっと身体を起こし、大きく伸びをする。弛緩する筋肉につられたのだろうか、大きなあくびもついでにでた。いや、これは夜更かしのせいだろうな。
 リビングから聞こえるニュースの天気予報に耳を傾けると、「さわやかな秋晴れ」だとかほざいている。知ったこっちゃない。秋晴れだろうが何だろうが、私にとってすべての朝は最悪以外の何でもないのだ。朝だけではない、この日常が、人生が、すべてが「かったるい」ものなのだ。そのかったるいとわかりきった日を始めなければならないこの「朝」という瞬間は、私にとってとりわけ面倒なものであった。
 しかし、面倒だとわかっていても動かなければならないときは来るもので、時計の針が七時半を指したことに気づいた梨沙は、Twitterをシュパシュパとスワイプしながら、のろのろとリビングへ向かった。
(あぁ、めんどくさ。)
 リビングの戸は開け放たれており、テレビの音だけがぼんやりと、それでいて騒がしく梨沙の鼓膜を揺らした。テーブルの上に目をやるとトーストとジャム、それとコップが目に入った。その向かいの席には、パンのカスが散らばったお皿。「いつもの」だ。足元には無造作に置かれた制服、下着、etc…これも「いつもの」だ。
 テレビには「段ボール兎ペロ」が映っている。特に面白いものではないが、とりあえず眺める。テレビは、「私がさみしいといけないから」と仕事に行く母親がつけっぱなしで出ていくのだ。
(まぁ、そんな気遣いが出来るなら、他のことに気を使ってほしいのだけどな。)
 と、足元の服を見て思う。年頃の娘の下着を無造作に散らかしておくのは如何なものか。どうせ出しておくなら、せめて上下は揃えてほしい。
 何はともあれ、この朝のミニアニメを眺める数分間は、私にとって、なんとなく母とのつながりを感じさせてくれるものだった。ニュースなんて、見てもわからないしね。
 この風景を見て、察しが良い人は気づくのかもしれないが、私の家は母子家庭だ。よく言えば自由、悪く言えば…いや、やめておこう。キリがない。シャワーを浴び、一通り身支度を済ませた私は、冷蔵庫から取り出した牛乳をコップに注ぎ、テーブルに座った。もちゃもちゃとパンを噛み、牛乳で流し込むようにして食べる。代り映えのない朝の風景。代り映えのない食事。味なんてしない。面倒な一日の、面倒な一部でしかない。
 母の食器と、自分の食器を流しに持っていき、ぐしぐしと歯を磨く。時計の張りが八時前を指したころ、堅苦しいニュースばかりを垂れ流していた画面から一転、軽快なメロディーとともに、今日の占いが始まった。
「どれどれ…てんびん座は…と」
「てんびん座のあなたは、1位!運命の出会いがあるかも!ラッキーカラーは青だよ!」
「運命の出会い…いや、ないな。」
 とりあえず今日の占いは信じないことにした。のだが、私も華のJK。運命の人と言われては気にならんこともない。ちらっとカバンに目をやったが、青いものはなかった。
「まぁ、そんなもんよね。」
 馬鹿馬鹿しい。何を期待しているのだろう。この時間こそ面倒だと早く気づけ。
(あっ、そういえば…)
 ふと思い出して、セーラー服の隙間から胸元をのぞく。
「お母さんもたまにはやるじゃん。」
 こんなことで母を少し見直してしまった自分が悔しい。
 自分にあきれながら、テレビを消し、玄関の戸に手をかけた。と、同時に携帯が鳴った。画面には「母」の一文字。さっとスワイプし電話に出る。
「あっ、もしもし梨沙―?起きてるー?、昨日夜更かししてたみたいね〜肌荒れるわよ〜。遅刻しちゃだめだと思ってかけたのよ〜」
 スマホを耳から離し、大きめのため息をついた後、答えた。
「ちゃんと起きてるって、ていうか今から家出るんだから、遅刻してたとしても今から電話したんじゃ遅いよ。」
「確かにそうね〜。じゃ、遅れないようにね〜。」
「はいはい。」
 と、言う間に、電話は切れていた。まったく、母の気遣いはどこかずれている。
(そんな気遣いが出来るなら、他のことに(略))
 
 家を出た私は、目の前にある通り慣れた川沿いの道を自転車でだらだらと進む。大雨が降ったらひとたまりもないな、と常々思う。代り映えのない道を通って、10分くらいしたころ、高校が見えてきた。ふと腕時計を見ると、8時20分、割とやばい時間だ。母の余計な電話のせいで時間をロスしたらしい。いつもギリギリにつく時間で登校している私にとっては致命的だった。なぜかって?授業までの待ち時間が面倒だからに決まってるじゃない。でも、不思議と足は動いてくれない。どうにもこの道はやる気が出ないのだ。
 この景色はどうも苦手だ。とても似ているのだ。あの日々の景色と。
 中学生の頃、私にはまだ父親と呼べる人物がいた。心優しく、自慢の父親だった。休みの日にはいろいろなところに連れて行ってもらった。行きたいところがあれば、時間を作ってくれた。職場でも人当たりが良かったらしく、社員と話したときは、皆、父のいいところをこれでもかと語ってくれた。
 そして、その優しさが仇となった。
 ある日、珍しく父は何かにおびえるようにして帰ってきた。母も私も何か異常なものを感じ取った。恐る恐る、
「どうしたの?なにかあったの?」
 と聞いたが父は、
「や、父さん仕事で失敗しちゃってな、疲れてるんだよ。」
 と答えた。
 それ以上何も言わなかった父を心配しつつも、私は床に就いた。
 翌日、得体のしれぬ怒号のようなもので目が覚めた。リビングに降りると、母に腕をひかれ、捕まった。
「梨沙は戻ってなさい。」
 いつになく強い口調だった。
 無理やり部屋に返されると、
「母さんがいいって言うまで出てきちゃだめよ。本でも読んでなさい。すぐ終わるから。」と、くぎを刺された。しかし、気にならないわけがない。私は庭に面した窓に耳をぴったりとくっつけ、時折窓から顔を出しては外の様子を伺った。どうやら騒ぎ立てているのは来客で、父はその対応をしているようだ。
「〜〜〜〜ボケ!」
「〜〜は〜〜どうするんや!!」
 よく聞き取れないが、客人が怒鳴っているのはわかる。父も何か言っているようだが、客人の声にかき消されてよく聞こえなかった。
 客人は二人組、風貌や振る舞いから、彼らが社会のはみ出し者だということは、梨沙にもなんとなくわかった。しばらくして、怒号がやむと、二人はあっさりと帰っていった。
「〜〜〜〜しとけよ!!」
 と去り際に叫んでいたが、これも聞こえなかった。
 これは後で母から聞いた話だが、客人は借金取りだった。父は同僚の借金の連帯保証人になっていたらしい。同僚が蒸発して、保証人である父に取り立てが来た、という寸法だ。しかも相手はいわゆる闇金。父になすすべはなかった。
 その日を境に徐々に父は変わっていった。酒の量が増え、休みの日はどこかしらへふらふらと出かけては、酒臭く、そしてたばこ臭くなって帰ってきた。(今思えばパチンコに行っていたのだろう。) それならまだよかったのだが、今度は母に手をあげるようになった。今までお酒を飲んでも口数が増える程度の父が、豹変したように、物を投げ、母を殴った。私は何もできなかった。ただ部屋でうずくまるしかなかった。そんな日々が半月ほど続いたころ、私は母方の祖父の家に預けられた。
 祖父は、少し悲しそうな顔をしながらも、
「いらっしゃい。ようきたねぇ」
 と、変わらず私を出迎えてくれた。祖父の家は居心地が良かった。幸い家が近かったので、中学校には転校することなく通えたのだが、今までの日々で疲弊しきっていた私にはそんな気力はなかった。そして、祖父も無理に行かせようとはしなかった。その分の時間を、私はネットに費やした。祖父は年に似合わず、パソコンが堪能だった。最高のおもちゃを見つけた私は、のめりこんだ。そうこうしているうちに、私は、15回目の誕生日を迎えた。ちょうどその日、祖父は私を連れ出し近所の家電量販店へと向かった。そこで私が出会ったのはペンタブだった。祖父に頼み込んで買ってもらった。
 試しに絵を描いてみると、祖父は、
「梨沙ちゃんは上手だねえ」
 と褒めてくれた。すこし気分が良くなって、Twitterにも投稿してみた。そこでも、称賛の言葉がもらえた。「いつも元気をもらえる絵」なんて声ももらえるようになった。そこから私は止まらなかった。自分の創作したキャラに『ナマケモノ同級生』なんて名前を付けて、時間を問わず描いては、ネットの海に流し、反応を貰うことに必死になった。
 時折担任が訪ねてきていたようだが、祖父と少し話すだけで帰っていった。そんな生活がしばらく続いたころ。母から家に戻るよう連絡があった。祖父に連れられ、私は家に戻った。
 おかしい。休日だというのに父の姿がない。いつもリビングにかかっているスーツもない。父がいた痕跡が、ない。
 ほどなくして、母が口を開いた。
「お母さんな、離婚したねん。」
 驚く暇もなく、母は続けた。
「そんでな、家のローンっていうのがあって、それをお父さんが払ってくれとったんやけど、いまはもう…。それに私ももうこの町にはおりたくないわ…。」
 と告げられた。この時の私は知らないのだが、近所の目というのは私が思う以上に厳しいものだったらしい。この日を境に父は、記憶の中だけの人物になってしまった。
 家に戻っても、私の生活はたいして変わらなかった。ネットにどっぷりの生活を続けた。徐々にコミュニティもできていった。Twitterのフォロワーが1000人を超えるころには、中学にいた友達(と呼べるのかわからない人たち)のことなどとうに忘れていた。
 だが、そんな私でも、何度か学校に行かなければならないことはあった。担任との面談、卒業式の予行…そのたびに私は保健室にこもり、窓からただただ流れる川の音を聞いていた。この川を見ると、その音を聞くと、学校に来たことを実感させられる。ただただ、疲れる場所。何を言われるのか、どんな目で見られるのか、怖くって仕方がなかった。そんなときは、保健室のノートをちぎっては思うままに絵を描いた。何度か大事な書類に落書きをして、保健の山井先生に怒られた。
 寒さが厳しくなり、世間はクリスマスムード。そして、受験生にとってはクリスマスというのは、戦いが最終局面に迫っていることを意味していた。そして、私も例外ではない。私は進学などどうでも良かったのだが、母は許さなかった。私から電子機器を取り上げ、代わりに分厚い問題集を手渡した。
(めんどくさい。)
 母に対する反発心が起こらなかったわけではないが、高校進学と同時に引っ越すといった母の顔を思い出すと、やらずにはいられなかった。この町を離れたいという母の気持ちを、潰すことはできなかった。
 幸い地頭は良かったので、それなりに勉強すれば遅れも取り戻した。そして、それなりの高校に進学することが決まった。
 高校入学と同時に、宣言通り私たちは引っ越した。私の姓は「名倉」になった。15年変わらなかったものが急に変わると困るもので、教科書には何度か旧姓を書いてしまった。
 あの時は自己紹介も面倒だったっけ…。そうだ、私はちょっと前まで「高山梨沙」だったもんな…「高山」かぁ…嫌いじゃなかったけどなぁ…。
「…ら。」
「…倉!」
「名倉!」
「はいいい!?」
 驚いて変な声が出てしまった。
 我に返ると、生徒指導の塚本先生(通称ゴリ先)が道をふさぐように立っていた。
「名倉、遅刻な。ったく、いっつもギリギリだからあぶねぇと思ってたが、ついにやったな。」
 しまった。私はいつもより遅く出たにもかかわらず、考え事をしていた。
(何が占い1位よ!)
 心の中で悪態をつきながら、遅刻者カードとやらを受け取る。
「それもって生徒指導室行って、理由をちゃんと書いてから教室行けよ。」
(あぁ、めんどくさい。)
 1日の始まりとしては最悪だった。
 遅刻の処理を済ませ、足早(のつもり)に教室に向かうと、担任はまだ来ていなかった。がやがやとうるさいクラスメイトを尻目に、席につき、突っ伏した。
(あーあ、今日もまた始まっちゃった。めんどくさいなぁ。学校なくならないかな。あ、学校と言えば…)
 昨日twitterでみたツイートをふと思いだす。小中学生の男子は、突如教室に不審者が入ってきて、それを撃退する妄想をするらしい。1万リツイートもされていたから間違いない。それってどんな感じなんだろう、やっぱりいきなり突入してくるのかな。こう、ドアがバーン!と…
「バーーーーーン!!!!」
「!??!?!?!」
 本日2度目のびっくりである。幸い悲鳴は上げなかったが、身体がびくっとはねた。どうやらそれは周りも同じようで、変に目立たたなかったことに梨沙は安心した。
 ドアに目をやると、知らない塩顔の男が立っていた。
(まさかほんとに不審者!?)
 と、その後ろから担任の栢木先生が顔を出した。
「ちょっと、みんなびっくりしてるじゃない。」
 栢木先生がたしなめるように言うと、男は、
「スイマセン…」
 とへこへこしていた。
 栢木先生が続ける。
「今日から教育実習に来てくれる、谷川先生です。みんなちゃんとあいさつしましょう。」
「谷川亮介です。よろしくお願いします。」
 と、さっきドアを開けたときとは別人のように落ち着いて挨拶をしていた。
 一時間目は、谷川先生の自己紹介と質問タイムで終わった。
「彼女はいるのー?」
「大学どこー?」
 と、口々に質問をしていた。プライバシーもへったくれもあったもんじゃない。
 初日から授業をするわけでもなく、二時間目・三時間目・四時間目と、谷川先生は教室の一番後ろに机をおき、何かを黙々と書いていた。
(この授業を見て何をそんなに書くことが…?)
 全くよくわからない。こんな授業、私なんか絵を描いて過ごしてるだけなのに。
 ただ一つ思ったのが、
(めんどくさそうだなぁ)
 という感想だけだった。
 谷川先生はほぼ一日ずーっと後ろの席で授業を一緒に聞いている。私としてはクラスメイトが一人増えたくらいの感覚だった。年もたいして変わらないだろうし。彼のことが気にならないわけではなかったが、休み時間はクラスの一軍女子に囲まれている。私が入るスキはない。
 五・六時間目は三年生のクラスに行っていたようで、谷川先生の姿は教室にはなかった。そのまま、何事もなく授業を受け、何事もなく放課後になった。いつもと変わらないめんどくさい時間を過ごした。この日は、テスト前で部活もなかったので、(あったとしても梨沙は帰宅部だが。)ホームルームが終わると、みんな一瞬で教室からいなくなった。梨沙もその人の波に続いた。
 しかし、この日梨沙は、運悪くカギ閉めの当番にあたっていた。それを下駄箱で思い出し、ぐだぐだと、半分重力に負けながら二階の教室へと戻ってきた。
(あー、めんどくさい!)
 施錠して、隣の教室の前を通って階段へと向かう。と、その時教室から聞こえてきたのは、三年の福山先生の声だった。
「それはだめだよなぁ。」
(え?誰か怒られてる?)
「谷川君、生徒のことはちゃんと考えないと。」
 栢木先生の声が続く。
(え、怒られてるのは、谷川先生!?)
 梨沙は、こっそりと立ち聞きを続けた。
「あんな無神経なこと言っちゃだめだよ。」
「あなたが高校生の時、そんなこと言われたらどう思うの。」
(あぁ、こりゃけっこう怒られてるな。でもどうして…?)
 聞いた内容を整理すると、谷川先生が三年の生徒に心無い言葉をかけたらしい。
(それで話し合いか。初日から面倒なことだな。)
 そんなことをぼんやり考えていると、教室の後ろのドアが開き、福山先生と、栢木先生が出てきた。驚いて後ろに飛びのくと、前のドアから出てきた谷川先生にぶつかった。
「バサバサッ」
 と、谷川先生の手からいろいろな書類のようなものが零れ落ちた。こちらに気づいた栢木先生は、
「あら名倉さん、それ、手伝ってあげて。」
 とだけ言い残して福山先生とともに階段を下りていった。
(なによ、めんどくさいな。立ち聞きなんてするんじゃなかった。)
 仕方なく、それらを拾い集めるのを手伝った。谷川先生は、
「ごめんねぇ。」と言いながら散らばった紙を拾い集めている。
「なにか話してたの?」
 何も知らないふりをして聞いてみた。すると、谷川先生は、ばつが悪そうに答えた
「三年生の子に、受験に関して適当なことを言っちゃってね…傷つけちゃったんだ。」
「こんなことなら、めんどくさいとか言わずに、ちゃんと高校生やっておくべきだったな…ハハ…。」
 谷川先生は、力なく笑った。
「それってどういうこと。」
 梨沙は聞き返した。またしてもばつが悪そうに谷川先生は答えた。
「不登校になって、それで高校やめちゃってさ…高卒資格を何とかとって、二年浪人して、やっと大学に入って、ここにいるんだよ。」
 梨沙は驚いた。学校の先生と言えば、真面目で勉強ができるいわゆるエリートで、自分のような不登校経験者など、いるわけないと思っていた。
「そうなんだ…」
 何と答えていいかわからず、梨沙は、そのまま書類拾いを再開した。
 中には「教育実習ノート」だとか、「授業の記録」だとか書かれた紙がたくさんあった。
(ふーん。授業中書いてたのはこれか。実習も大変ね。…ん?)
 たくさんの紙の中に一枚、見覚えがあるキャラが描かれた紙を見つけた。
「それって…」
 紙を指さして言うと、谷川先生は、パッと明るい顔をして、堰を切ったように話し始めた。
「あれ?もしかして知ってる!?『ナマケモノ同級生』!」
(知っているに決まっている。それは私が生み出したオリキャラだ!)
 梨沙は恥ずかしいやら何やらで、声が出なくなってしまった。やっとの思いでニコニコしている谷川先生に質問をぶつけた。
「何で描いてるの…」
「この絵、絶妙なタッチとゆるーいキャラがなんか元気を与えてくれるんだよね。『そんなにがんばらなくていいよー』って言われてるみたいでさ。ほら、先生になるための勉強って、めんどくさいし、頑張らないといけないことだらけだし。」
 梨沙は、絵についてはもう黙っておくことにして、適当に相槌をうった。でも、谷川先生の一言が引っ掛かった。
「なんでそんなめんどくさいのに、こんなこと…」
 口をついて出ていた。谷川先生はこう答えた。
「んー。今はめんどくさいけど、それが誰かのためになるからかな?」
(誰かのためのめんどくさい?なんだそりゃ。)
 谷川先生は続けた。
「ほら、この絵の作者だって、僕に元気を与えてくれたでしょ。同じだよ。僕も、誰かに何かを与えられる人になりたいんだ。たとえそれまでの道のりがめんどくさくてもね。」
 自分の絵が誰かにそこまでの影響を与えたことも、それが谷川先生の考えと同列に見られることも、梨沙には不思議でたまらなかった。
 書類を拾い終わると、谷川先生は、
「誰かのための『めんどくさい』も悪くないよ。明日からもよろしくね。」
 と、言い残し去っていった。
 しばらく呆然としていたが、腕時計を見て我に返った梨沙は、自転車置き場に足早に向かった。
 制服を脱ぎ捨て、リビングのソファにダイブした梨沙は、ぽつりとつぶやいた。
「誰かのための『めんどくさい』ねぇ…よし!」
 午後九時半。帰宅した梨沙の母が見たものは、いびつな格好をした卵焼きだった。
「どうしたの梨沙!いきなり卵焼き作るなんて、めんどくさかったでしょ。」
「うん。めんどくさかった!」
「なによニコニコして。変な子ねぇ。」
 数年後、、、
「バーーーーーン!!!!」
 と梨沙が勢いよくドアを開けた。教室がざわつく。
「おい、みんなびっくりしてるだろ。」
 後ろから、谷川先生がたしなめるように言う。
「すいません…」
 と、生徒と谷川先生に謝った後、黒板に『名倉梨沙』と大きく書く。
「今日から教育実習でみんなと勉強します、名倉梨沙です。美術担当です。よろしくお願いします。」
 私のめんどくさい日々は、まだ続きそうだ。

「畠中自動車教習所」
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 2018年6月4日(月)
 そろそろ梅雨の季節か、ジメジメしてきたな。普段なら大学から電車に乗って家に帰る。しかし、今日は途中の畠中駅で降りなければならない。今、友人の押野と好きな漫画の話で盛り上がっているのに嫌だな、などと思いながら理由を説明した。
「今日から教習が始まるんよ。やから、次の駅で降りるわ。」
「あー、前にちょっと言ってたな。成瀬、免許取るんか。」
「そうそう、合宿じゃなくて通いで取るわ。」
「そっかー、塾のバイトもあるのに大変やな。オートマかマニュアル、どっちを取るんや。」
「ちょっと高いけど、取っといたら大体いろんな車を運転できる方のマニュアルでするつもり。」
「なるほどな。まあ、最近の車はオートマばっかりやと思うけどな。がんばれよ。」
「確かにな。もう申し込んだし、しゃあない。がんばるわ。」
 会話の中にでてきた「オートマ」は「オートマチックトランスミッション」、「マニュアル」は「マニュアルトランスミッション」の略だ。前者はギアチェンジなどが自動でされる車に対して、後者にはクラッチペダルやシフトレバーというものが付いてあり、運転手が操作することが多い車であるため、一般的に後者の方が難しいと言われている。
 そんな会話をしながら押野に別れを告げ、畠中駅で降りた。背負っているリュックサックの中には大学で必要な物に加えて、教習所で使う「学科教本」と「運転教本」という教科書が2冊入っている。両親に「今のうちに免許をとれ。」と何度も言われたため通うことにしたが、これから毎週3回ぐらい大学の帰りなどに教習所に通わないといけないのか。めんどくさい。また、家には車がなく、幼い頃から知り合いの車やバスに乗るととても酔ってしまうのでそもそも車が好きではない。まあ、この大学1回生の間に免許を取っておけば、将来、どんな仕事をするにしても役立つかもな。
 そんなことを考えつつ、畠中駅から10分ほど歩くと、「畠中自動車教習所」と書いた看板が牛丼のチェーン店の向こうに見えた。この前、申込書を持って行ったときにしっかりと道を覚えておいて良かった。教習所に入って受付の上の方に掛けられている時計を見ると、16時28分だ。確か、教室で座学を受ける学科教習が17時から始まって、18時ぐらいからの技能教習で初めて運転するんだったよな。とりあえず、待合室で過ごすことにするか。
 受付を左に曲がり、廊下を進んでいくと待合室のガラスのドアが見えた。奥には何人か座っている。ドアをスライドして中に入ると、横2列で4脚ずつ並んでいるパイプ椅子と白いソファ、それらに座っている金髪の10代後半ぐらいの男性、スマホを見ている20代前半ぐらいの女性、ぼーっと窓の外の教習所のコースを眺めている40代ぐらいの男性がいた。意外と、教習所に通う人は大学生だけではないんだな。そして、右に視点をずらすと、漫画がぎっしりと詰まっている本棚があった。おお、これから技能教習とかを待つ度に待合室で漫画を読むことができるのか。見渡すと、ところどころ15巻や22巻などが抜けているものもあるが、10年前に少し人気だったような漫画が並んでいた。僕は、それらの中から昔にドラマ化もされた、有名大学の受験に向けて高校生の不良たちが努力する漫画『三月の桜』を手に取り、ソファに腰を下ろした。大体、25巻ぐらいあるから免許を取るまでには読み終わっているだろう。
 昔の絵だから少し読みにくいが内容はまあまあ面白いなと感じながら、1巻を読んでいると待合室の時計が17時前になっていることに気付き、急いで学科教習がある教室へ向かった。教室に入ると大学生ぐらいの年齢の人が数人、バラバラに席に座っており、スマホをしている者が多かった。どうやら、ギリギリ間に合ったようだ。そして、約50分間、車を運転する際に気を付けなければならないことなどについて途中、集中力が切れながらも授業を受けた。教官の説明は意外と分かりやすかったが、大学に行った後に再び授業を受けるのが単純に疲れる。
 あと5分経ったら、初めての運転だ。緊張してきた。運転教本で予習しよう。教本によると、エンジンをかけるためだけなのに、周りの様子やハンドブレーキの確認、クラッチペダルを踏む、ギアをニュートラルにする、キーを回すといった手順が必要らしい。覚えることが多すぎる。家に車がある者たちは自然と家族が運転しているのを見て分かっているのか。
 操作が意外と多そうなことに焦っていると、「成瀬さーん。」と自分の名前を呼ぶ明るい声が聞こえた。三井さんという40代ぐらいの女性が今回の教官らしい。三井さんは「早速、車に乗りましょうか。」と笑顔で言い、僕を助手席に乗せて教習所のコースを回り、真っ直ぐの道があるところで止めた。そして、互いの席が入れ替わり、車を発進させる練習が始まった。
 予想通りエンジンをかけるように言われたが、教官の説明と共にさっき予習していたことを何とか思い出しながらすれば意外と成功することができた。教官は笑顔で僕のことを褒めてくれた。
「お、ちゃんと理解してますね。」
「ありがとうございます。事前に教本を読んでいて良かったです。」
「おお、真面目でいいですね。じゃあ、そのまま車を前に進ませてみましょうか。」
「え、あ、はい。」
 やばい。前に進める方法はちらっと見ただけだ。教官の説明も聞きながらブレーキペダルやクラッチペダルを確認する。というか車のゲームではボタンを押すか、アクセルのペダルとブレーキペダルを踏むだけなのに、マニュアル車は3つもペダルがあるっていうだけで難しいな。しかもハンドブレーキとチェンジレバーの確認とか、アクセルペダルは踏むのにクラッチペダルは徐々に踏まないようにするとか、もう頭がこんがらがってきた。
 そのとき、「ガゴンッ!」という音が鳴り響いたとともに、全身に衝撃が走った。え、なんだなんだ、さっきめっちゃ頑張ってエンジンをかけたのに、エンジンが止まっている。教官は少し残念そうな表情で僕に言った。
「あちゃー、エンストしたね。ちょっと、アクセルペダルの踏む量が足りなかったみたいやね。」
 エンストってあれか、うまく操作しないとエンジンがいきなり止まるやつか。
「すみません。どうすればいいですかね?」
「もう一回、エンジンかけ直すところから始めよっか。さっきはアクセルペダルの踏む量が足りなかったからエンストしたけど、逆に、踏む量が多くなっちゃうと急発進になるから気を付けてね。」
 まじか。発進するだけなのに難しすぎる。その後、僕は車を動かす度にエンストをしてしまった。また、アクセルペダルを強く踏みすぎたり、ブレーキペダルをすぐに踏まなかったりして危ない場面が多かったが、三井さんはずっと落ち着きながら丁寧に教えてくれた。
 そして、1日目が終わり、約5日間、色々な教官に教えてもらいながら技能教習を受けていった。しかし、どれだけ予習をしても、どれだけ練習しても全く思い通りにいかずに補習として再度行うことが多いため、なかなか新たな練習には進めなかった。教官の話をろくに聞いていない不良ができることが、なんで自分はできないんだ。才能がないのか。どの教官も自分のことを「ダメな生徒」と思っているに違いない。辛い。
 2018年6月18日(月)
 今日で技能教習も7日目だ。なのに、本来なら3日目で終わるはずのカーブを曲がる練習をしなくてはならない。このまま電車で家まで帰りたい、と思いながら押野と話していた。
「成瀬はもう車は慣れたんか?」
「いや、全然慣れてないな。真っすぐな道は何となくできるようになってきたけど、カーブが難しいわ。」
「なるほどなー、教官はいつも違う人なんか?」
「そうそう、何人かの教官に教えてもらってから自分が良いと思った人を選んで固定してもらうんやけど、まだ選んでないな。」
「そうか、早めに選んだら、お互いにやりやすいと思うで。信頼関係も生まれると思うし。」
「うーん、せやな。じゃあ、今日までで選んでみようかな。押野は、車の免許を取る気ないんか。」
「俺は来年にでも取ろうかな。」
 そんな会話をした後、畠中駅で渋々降りて教習所に入る。今日は技能教習までとても時間があるし、待合室に行く前に学科試験の勉強でもしようと考えて、受付の隣にあるパソコンの前に座った。由来はよくわからないが「KOJIRO」という一問一答や本番用のテスト形式のものをすることができるものがある。まあ、昔から勉強は得意な方だし、技能教習は苦手でも学科試験の問題は別に大丈夫だろう。最初だし一問一答の練習でもしてみるか、と軽い気持ちで解いてみたところ、悉く不正解の表示が出てしまった。なんか思っていた以上に難しくないか。ただ安全な方を選ぶだけの問題は簡単だが、似たような標識多すぎだし、一つ一つの距離とか速度の数字を覚えるのが難しい。なんか屁理屈みたいな問題も多いな。結局、半分近くも間違えてしまい、合格に必要な9割には全く及ばなかった。技能に続いて打ちひしがれたが学科は頑張ればいけるはずだと、間違えた問題を一問ずつ教本と照らし合わせながら確認した。
 一問一答を解き始めて30分ほど経っただろうか。そろそろ、『三月の桜』の続きを読みたい。待合室に入ると、窓の向こうはすっかり暗くなっており、中には誰もいなかった。今日は遅めの時間しか空いてなかったから夜に予約したが、上手く運転できるか少し心配だな。まあ、いつも通り漫画でも読んで時間を潰そう、と思いながら『三月の桜』の5巻を手に取り、空いている席に座った。1日目からずっと、この漫画を読めるから教習所に通えている気がする。また、自分が塾講師のアルバイトをしているということもあり、『三月の桜』での勉強法は単純に参考になる。小学生の単元も厳しい不良たちが、優秀な教師によって少しずつ成長しているところが好きだ。自分が塾講師として教師の立場から読むことができるし、教習所での落ちこぼれとしての立場からも読むことができる。
 ふと時計を見ると、技能教習の10分前だった。よし、そろそろ今日の運転について考えるか。今日も前回の教習で不合格だったカーブを曲がる練習だな。発進や停止は慣れてきたから、最初よりは上達しているはずだ。教本には毎回の教習で自分が大事だと思ったことや反省点をメモするようにしている。自分は真っすぐ走るときは走行位置を崩すことないが、曲がると内側か外側に入ってしまうんだよな。教本を見ていると、やっぱり曲がる前にカーブの曲がり具合や道路の幅を確認して走行ラインを決めることが大切なんだろう。今日、合格したいな。
 技能教習の時間になり、今日の担当の教官を待っていると、50代ぐらいの男性の教官が来て気だるそうに僕に声をかけた。
「成瀬さんですか、今日担当する塚田です。じゃあ、車を発進してもらおうか。」
「あ、はい。分かりました。」
 何となく少し苦手なタイプの人だな、と思いながら、一つ一つ慎重に行動し、エンジンをかけて発進させる。すると、隣に座っている塚田さんが「じゃあ、あっちに見えるカーブを曲がって。」と無愛想に言った。えーっと、教本には遠くから事前にカーブの曲がり具合とか見るのが上手く走るポイントって書いてたな。しっかりと曲がれるだろうか。カーブが見えてきた。夜で少し見えにくいな。曲がり具合は緩いが道路の幅は狭いだろうか。緊張してきた。よし、曲がるイメージができた、いくぞ。僕が運転している車は一応、カーブを曲がることはできた。だが、塚田さんは僕に不満そうな表情で呟いた。
「ちょっと内側行き過ぎ。」
 うぐ、また補習になってしまう。
「すみません。」
 どうすればいいんだろう。教本の通りにしてもなんか上手くいかない。やっぱり、慣れが必要なのか。そんなことを考えていると、塚田さんが言った。
「じゃあ次のカーブ、曲がって。」
 よし、さっきは内側に行き過ぎと言われたから、今度はハンドルを緩く回そう。お、カーブが見えてきた。暗くて見えにくいが、急なカーブだ。これ、ハンドルをめっちゃ回さないとまずいんじゃないか。どうすればいいんだ。あ、まずい、間に合わない。また、僕の車は一応、曲がることはできた。しかし、塚田さんはやはり不満そうな表情で呟く。
「だから、ちゃんとできてないって。」
 もう、どうすればいいんだ。そもそも、運転席が車の右の方にあるから真ん中を走っているのかどうかが分かっていない気がする。苦手なタイプの教官だが、補習にもなりたくないし、質問するか。
「あのー、自分が道路の真ん中を走るとき、何を基準にしたら良いんですか。」
 塚田さんは少し考えてから無愛想に答えた。
「アクセルペダルに置いてある右足の延長線上が大体、車の右のタイヤ。で、フロントガラスの中心の延長線上が大体、車の左のタイヤやと思えばいい。」
「あ、なるほど。ずっと勘違いしていました。ありがとうございます。」
 意外と、質問してみるものだな。言い方は素っ気ないが、的確なアドバイスをもらえて良かった。
 そのアドバイスは思っていた以上に、僕が安定した走行位置で車を進めさせることを可能にした。その教習では他に5回ほどカーブを曲がったが、どれも今まで以上にうまくいくことができた。また、補習にもならずに次の練習に進むことができるのがめちゃくちゃ嬉しかった。だが、押野が話していた通り、そろそろ教官を誰にするのか考えないといけない。帰宅して、入浴しながらゆっくりと考えた。今日の塚田さんのアドバイスのおかげで何となくコツはつかめたが、結局、ずっと無愛想だったな。やっぱり、優しくて丁寧に教えてくれる三井さんにするか。
 
 2018年9月25日(火)
 秋は、暑くも寒くもなく最も好きな季節だ。担当の教官を三井さんに固定してから、交差点を渡る練習、坂の上り下り、とても狭くまがりくねっているS型コース、直角に移動するクランクコースなどの様々なことをして、数ヶ月が経った。やはり関わりやすい人を担当にすると気分が楽になる。しかし、自分の運転が下手過ぎてほとんど補習になっているのが辛い。まあ、良いこととしては「KOJIRO」を安定して9割以上取れていることだろうか。毎回、技能教習に来たときに50問ずつやっていたら、知識も付き、問題の難易度や傾向をつかめてきた。
 そして、今日からはついに路上教習が始まる。実際に教習所から出て、一般人の車が走行している道路で運転する練習だ。しかも、よりによって三井さんの予約が夜にしかとれなかったため、19時に初めての路上教習をすることとなった。
 時計を見ると18時になったばかりだった。路上教習が始まるまで時間があるな、『三月の桜』でも読むか。14巻まで進んでいて順調だ。有名大学を目指す主人公たちも、最初の辺りは毎日の勉強に耐えられなくなり弱音を吐いていたが、14巻のあたりでは慣れてきているのか、模試などに向けて努力している。自分もこの子たちのように頑張っていきたい。
 15巻まで読み進めると、教習の10分前になっていた。窓の向こうはすっかり夜となっていて、真っ暗だ。そろそろ路上教習が始まるが、やはり不安だ。いつもは教習所の中で運転しているため、周りの全員がマナーを守っているし、どの車にも教官が乗っているから事故が起きることもなく安全だ。しかし、路上では全く知らない者が乗っている車ばかりであり、どんなコースなのかも分かっていない。また、教習所と違って歩行者がいる。
 そんなことを考えながら教習が始まるのを待っていると、「成瀬さーん。」と三井さんの呼ぶ声が聞こえた。そして、いつものように明るい表情で言った。
「今日から路上教習ですね。初めて教習所から出て運転するの緊張してますか、頑張っていきましょう。」
「はい、とても恐いですけど頑張りたいと思います。」
「まあ、リラックスしてね。まずは、私が運転するから助手席に乗って。」
 そう言われて、とうとう教習所から出た。辺りは街灯がなく、狭い道で進みにくそうだ。そのため、ゆっくりとした速度で三井さんは大通りまで進んでいった。大通りでは、車やトラックなどがとても速い速度で走り、目の前を通り過ぎて行っている。自分がいつも歩行者として見ている光景と同じであるのに、妙に緊張感が走る。今から、この車たちの流れにのらないといけないんだな。三井さんは、目の前を走行していく車などに気後れすることなく、その中に入っていき、ギアチェンジをした。今まで止まっていた車が周りの走行している車に即座に合わせなければならないため、早く正確なギアチェンジが求められる。しかし、三井さんは落ち着いた表情で、2速、3速、4速へとスムーズに変えていった。僕にもできるだろうか。もし、できなければ後ろなどから他の車が衝突してしまい、事故になるだろう。
 大通りから外れた道を行き、また大通りに合流する地点まで来たときに、三井さんは僕の方を見て言った。
「んじゃあ、今のことをやってみましょうか。この時間は仕事帰りの人の車が多いから、全体的に速いよ。」
 え、もうするのか。しかも、どこか簡単な道から始めるのではなく、いきなり全体的に速い車が走行している大通りをするのか。僕は覚悟を決めて運転席と助手席を入れ替わり、集中した。たくさんの車のヘッドライトの光が暗い道路を右から左へ進んでいく。やっぱり、目の前を通り過ぎていく車がどこで途切れるのかを見極めるのが難しいな。自分の行きたいタイミングで行くこともできないし、頑張らなければ。そして、一瞬、車の流れが途切れているところがあった。「今だ!」と思い、アクセルペダルを踏むとともにクラッチペダルを少しずつ浮かしていき、ハンドルを左に切る。なんとかうまく入ることはできた。次は、即座にギアチェンジをしなければならない。集中しないと後ろから来る車と衝突してしまう。そして、クラッチペダルを踏んだり浮かしたりしながら、2速、3速、4速と一つ一つ速く正確にギアチェンジをしていった。
 そんな風に初めての路上教習は不安だったが最終的には良い結果となり、補習も免れた。また、その後の歩行者や自転車に乗っている者が信号を無視して自由に動くのにも何とか対応することができた。
 2019年3月12日(火)
 今日は、最後の運転の試験日だ。まさか、自分が6月から始めてこんなにも教習が長引くとは思わなかった。はっきり言って、運転自体は未だに好きではない。いつ、事故が起きるのかわからないリスクがあるからだ。だが、高速道路での走行や縦列駐車、応急救護処置など、様々なことを頑張ってきた。当然、何度も補習になってしまったが無駄ではなかったと思う。
 あと数分で始まる。手に持っている『三月の桜』も最終巻をさっき読み終えた。思っていた以上に、不良が努力を重ねて最終的に合格した様子は感動的で涙が出そうになった。自分もこのようになりたい。免許を早く取って、運転から解放されたい。
 そう思いながら、最後の試験が始まった。内容は教習所から路上に出て、決められたコースを走って帰ってくることである。教官は三井さんではなく、なんか厳しそうな男性だ。いつも通り教習所を出て、練習でも通ったコースを走る。慎重にいくぞ。信号見て、周りの車見て、頑張れ自分。よし、順調に走っている。もう教習所に帰る道だ。目の前の信号が赤から青になったらゆっくり行くんだぞ。
「ガゴンッ!」
 突然、頭が真っ白になった。まずいまずいまずい。これエンストだよな。落ち着け。落ち着いて行動しろ。何回もエンストにはなってるから対処法は分かる。落ち着け。よし、動いた。
 僕の運転する車は教習所に帰ることができた。流石に、エンストは不合格か。合否の発表の時間になり、合格者の名前が呼ばれる。頼む。エンスト以外は頑張ったから。
「佐々木さん、清水さん、武井さん……」
 教官の声が教室に鳴り響く。
 成瀬来い。成瀬来い。成瀬来い。成瀬来い。
「富田さん、長井さん、……成瀬さん。」
 よし、やった!よかった!やっと、解放される。どれだけ待ち望んでいたか。よっしゃ!泣きそう。
 僕は心の中で何度もガッツポーズをした。
 教室を出てふとスマホを見ると三月という字が目に入った。免許取るまですごく時間がかかったな。しかし、運転の恐さや自分が向いてないことを十分知ったため、残念ながらこれから運転する気はない。だが、教習所に通ったことで運転をしている人にとても感謝したり、車の危険性を知ったりすることができるようになった。また、挫折を何度もして克服する経験ができたことも本当に良かったと思う。教習所を出たところには桜が咲き始めていた。

「好きなことを探して」
k184101

「あなたの好きなことは何ですか?」
 バイトの面接で、店長さんにそう聞かれた。私は、バイトの志望動機や、自分の長所と短所などは考えていたが、好きなことは考えていなかった。
「えっと、私の好きなことは…。」
 そう言って、私はうまく答えられなかった。あんまり手ごたえがないまま、面接は終わってしまった。
 次の日。
 私が学校に行くと、つむぎに声をかけられた。
「おはよう、結衣!」
「つむぎー、おはよー」
「昨日何してたー?」
「バイトの面接行ってたけど…」
「けど?」
「いや、うーん上手くいかなかったなあ。多分落ちたわ。」
「ええー、何聞かれた?」
「志望動機と、長所短所と、あと好きなこと。」
「へえ、好きなことまで聞かれたんだ。珍しいね。」
「で、好きなことをうまく答えられなくてさ。」
「そっかあ。じゃあこれから好きなことを見つければいいんじゃない?」
「えー、見つからないよ。だって好きなことわかんないんだもん。」
「今はわかんないかもしれないけど、探せば見つかるかもしれないじゃん!一回探してみれば?」
「そっか、そうだよね。ありがとう。」
「あ、聞いてきて!昨日○○のアニメがあったんだけどね、主人公がめちゃめちゃにかっこよかったんだよ〜!」
 そんな風に話が変わっていった。
 つむぎは高校に入ってからの友達だ。今は高1の秋だから、約半年間の付き合いになる。短い間だけど、つむぎと話すのが好きだったし、楽しいなと思っている。つむぎはアニメが大好きなので、よくその話をしてくれる。何より、つむぎは自分と違って、前向きな性格だ。このときも、好きなことなんてわからないという私に励ましてくれていた。

 一限の授業が始まった。世界史の授業だ。
 始めは、前回の授業の続きだったが、ちょっとずつ脱線していく。
「今回の冬休みはね、○○に行く予定なんですよ。そこでその国の名物である食べ物を食べに行って、観光地のAを見に行って…」
 先生の話が例のごとく脱線しているので、みんなもわいわい話している。
 後ろからつむぎが話しかけてきた。
「ねー、糸川先生ほんとに授業脱線するよね。」
「そうだねえ。」
「それで毎回海外旅行の話してない?」
「まあよく海外旅行の話してるよねえ。」
 糸川先生は、こんな風によく授業で雑談をするんだけど、その雑談が海外旅行の予定とか行ってきたって話が多いのだ。こんなに楽しそうに、嬉しそうに海外旅行のことを話すのだから、糸川先生は海外旅行が好きなんだろうな。なんでこんなに好きなんだろう?

 授業が終わったので、家に帰った。家には、たぶんおじいちゃんがいる。母はフルタイムで働いているので、同居しているおじいちゃんが家にいる。母はあんまり好きじゃない。いつも、ああしろこうしろ、あれはだめ、これはだめって言ってくるからだ。でも、おじいちゃんは優しいし、私のやることにそんなに口は出さない。おじいちゃんの好きなことに関してはこだわりがすごく強いけど、私にとって好きな家族だ。
「ただいまあ。」
 私が声をかけると、
「おー、お帰り。」
 おじいちゃんは返事をしてくれた。何か作業をしているみたいだ。
 おじいちゃんは、またじょうろを持っていた。お花の世話をしているのだ。
「またおじいちゃん水やってるの?根腐れするからよくないよ。」
「いやいや。そんなことないで。お花にはたくさん世話してやらんとあかんねん。」
 おじいちゃんは、たくさんお世話をしたくなるくらいお花が大好きだ。一日に何回も水やりしているし、一日で太陽が動くから、お花にとって日当たりのいい場所になるように朝、昼で場所を移動させている。何回も水やりするのは、正直お花によくなさそうだけれど、
 まあそれだけお花の世話が楽しいんだろう。

 つむぎも、糸川先生も、おじいちゃんも、それぞれ好きなことがあってうらやましいな。私も、私の好きなことを見つけたいのに。好きなことがない人間、「私はこれが好きです!」って言えない人間ってなんだか寂しいもんなあ。誰か私の好きなこと教えてくれないかな。それか、好きなことが空から降ってこないかな。
 でもそんなことは起きない。私は気分転換に、と散歩に出た。

 家を出て、少し行くと遊歩道に当たる。そこは、木が多くたってあったり、鳥が多かったりした。私は、鳥って自由そうだなと思って、散歩しながら眺めることが多い。
 いつものように、散歩している。でも、今日はちょっともやもやしている。つい、独り言が出てしまった
「あー、私にも好きなことがあればなあ…」
「好きなことが欲しいのか?」
 突然、話しかけられた。結構低い声。誰だろう。後ろには誰もいないのに。私はあわててきょろきょろしてしまった。
「おーい、こっちこっち」
 よばれた方を向くと、真っ黒な鳥だ。からすだ。
「うわ」
 私は思わず身を引いてしまった。私はからすが苦手だ。というか誰でもからすは苦手だと思う。家に近くに、たまにだけれどからすがいたところがあるけど、こんなに近くで見たことはなかった。しかも何でからすがしゃべるんだ…?
「ねえ、なんでしゃべるの…?」
「なんでしゃべるのかって?俺ははかせだから当然だろう。言葉も自在に操れるよ。」
 このからすは何を言ってるんだろう…私はじっとからすを見た。
 からすが続いて話しかけた。
「こらこら、そんなに怖がるな。俺のことがそんなに怖いのか?」
「ええ、だって、真っ黒だし、悪いことしてそうなイメージあるし…」
「そうか。体が真っ黒なのはむしろ美しいし、からすはそんなに悪いやつじゃないんだけどな。」
「そうなんだ。からすはそんなに悪いやつじゃないんだ。」
「ああ、そうだ。ところで、君は何て名前だ?」
「ええ…結衣って言います。」
「そうか。結衣さん。私ははかせだ。」
「はかせ?」
「そうだ。俺ははかせだ。何てったて賢いからな。」
 からすって賢いのか…?でも、自分で自分のことはかせっていうのはちょっと怪しいけどなあ。
「ふうん。で、結衣さんは好きなことが欲しいのか?」
「はい。私も好きなことがあればなあって思って。」
「どうして好きなことが欲しいんだ?」
「バイトの面接で好きなことを聞かれて、答えられなかったの。それで、周りの人を見ていたら、好きなことがあって、楽しそうに見えて。それで、私も好きなことが欲しいなって思ったの。
「じゃあ、周りの人に聞いてみるのはどうだ?その、好きなことがある人に、なんで好きなのかとか、いつから好きなのかとか。」
「そっか、じゃあ聞いてみようかな。ありがとう」

 …初めて人に話しかけてしまった。
 いや、正確に言えば初めてではない。からすになってから、初めてというわけだ。俺は、人間だった。今は真っ黒なからすになっている。まあ、それも俺が悪いのだ。車を運転するときに、あるからすを轢いてしまった。そのからすを轢いたままにしてしまった。急いでいたということもある。次の日には、俺はからすだったのだ。
 人間時代は、人間心理を研究する博士として、日々研究していた。もうあの日々には戻れない。ずっと、人恋しかった。しかし、この姿では人間とはかかわることはできないと思い続けていた。
 今日、からすの姿で人に話しかけた。結衣さん、というらしい。なんだか気になる女の子だなあ、と思って、ついつい。結衣さんはずいぶん驚いていたが、まあちゃんと話も聞いてくれた。自分の名を名乗るときにうっかり「博士」といってしまったがよかったか…。
 まあ、いい。あの女の子の様子を少し見てみよう。

 また次の日。
 とりあえず、私はつむぎになんでアニメが好きなのか聞いてみた。
「つむぎ、つむぎはなんでアニメが好きなの?」
「えー?何いきなり。」
「ごめんごめん。いつも楽しそうにアニメの話してるから、ちょっと気になっただけ。」
「わたしは、アニメが面白いって思うから好きかな。だって、キャラクターがちょっとずつ成長していくのを見るのも、キャラ同士の掛け合いも面白いし。あと、何よりキャラクターがかっこいいんだよなあ。」
「なるほど、そういう理由かあ。」
 好きなことを好きなのにもやっぱり理由があるもんなんだなあ。
 授業終わりに、糸川先生にも聞いてみた。
「先生って、めちゃめちゃ海外旅行好きですよね?」
「いやあ、海外旅行も世界史の勉強のためですよ。」
「ええ、ほんとですか?あんなに楽しそうに旅行の話してるのに?」
「はは、うそですよ。もちろん、私が世界史の先生で、世界のことを勉強するため御有ります。ですが、それよりも私は新しい場所に行って、新しいことを知ることが大好きなんですよ。知らない場所に行って、写真じゃなくて実物を目で見ることも感動しますしね。
 だから、お金をかけて、計画して旅行に行っているんですよ。」
「へえ、素敵ですね。」
「如月さんも、将来行ってみると楽しいかもしれませんね。まあ、今は高校生だし難しいかもしれませんが、大学生や社会人になって、お金をためて海外旅行してみるのもいい経験になるのではないかと思いますよ。」

 家に帰って、おじいちゃんに聞いてみた。今度は、おじいちゃんは鉢を持っている。お花を日当たりがいい所に動かしているのだろう。
「ねえ、おじいちゃん、何でお花を育てるのが好きなの?」
「おー?結衣ちゃんもお花を育てたくなったのか―?」
「いや、ちょっと気になったの。で、おじいちゃんがお花を好きな理由は?」
 おじいちゃんはニコニコしてこう言った。
「お花はね、一つ一つ違う表情を見せてくれるんだよ。違う種類のお花ももちろん、同じ種類のお花でも一つ一つ違うんだな。それに、育てていくうちに愛着もわくし。だから、お花を育てるのが好きなんだよ。」
「へえ、そうなんだ…」
 私は、おじいちゃんはお花のことが好きだとは知っていたけど、こんなに理由がしっかりしたものだと思っていなかったので驚いてしまった。

 みんな、好きなことには理由があった。
 窓際で座っていると、コツコツと音がした。何の音だろう、と思いながら、私はおやつをとりにリビングへ出かけた。戻ってくると、まだコツコツと音がする。何だこの音は、と窓際に行くと、はかせがいた。ずっと、窓をくちばしでつついていたのだ。だから、コツコツ音がしたのか。
「あーもう、やっと開けてくれた。遅いぞ結衣さん。ずっと窓の外で待っていたのに。」
 はかせはちょっと怒っているらしい。バサバサ翼を揺らすもんだから、真っ黒な羽が落ちている。結構大きい。
「えー、だって窓の外にいても気づかないもん。怒られてもわかんないもん。」
「しょうがないなあ。まあいい。で、周りに好きなことの理由は聞いてみたのか?」
「うん!聞いてみたよ。学校の友達は、おもしろさやかっこよさを見つけてた。で、世界史の先生は、新しい物事を目で確かめて、体験するのが好きだからだって。おじいちゃんは、お花は一つ一つ違う表情を見せてくれるから楽しいて言ってた。」
「で、これから結衣さんはどうするんだ?好きなことは見つけられそうなのか?」
「とりあえず、みんなの真似してみようかなって思って。アニメで気になったのを見てみたり、旅行してみたり、あとはお花を育ててみたりしようかなと思ってる。」
「でも、旅行はどうするんだ?その、糸川先生って人は海外に旅行するんだろう?結衣さん、海外旅行できるだけのお金はあるのか?」
「うん、海外旅行はお金もないし、あとパスポートもないから、国内旅行にしよっかなあと。国内旅行なら、ためてる貯金で行けると思うし。」
「ああ、ちゃんと考えてるんだな。いいんじゃないか?」
「ね、いいでしょ?とりあえず試してみる!」

 私は、とにかく周りの人が好きなことを真似してみることにした。
 まず、アニメを調べて見てみた。つむぎがおススメしてくれたものや、自分で気になった物を見てみた。
 次に、旅行に行ってみることにした。○○県、××という所に行ってきた。景観がきれいなところで有名で、観光地を訪れたり、温泉地に行ったりした。ガイドブックやサイトなど見たものとは明らかに違っていた。私はカメラを持って行ったので、たくさん写真を撮った。一人で旅行するのは初めてだったので、わからないことも多かった。でも、自分で考えて解決したり、人に聞いてみたりすることができた。
 最後に、お花を育て始めることにした。ホームセンターでお花の苗を買ってきた。パンジーをいくつか。私が突然お花の苗を買ってきて育て始めたから、おじいちゃんはちょっと嬉しそうだった。
「なんや!結衣ちゃんもお花育てるんかー?」
「うん、育ててみようかなって思って」
「そうかそうかー。じゃあ、まずはお水をやらんとな!」
「あー、もう水やり終わったんだよ。だから今日は水やりしなくていいと思う。」
「いやー、お水はたくさんあげた方がいいねん!早く大きくなれるから。」
「もうー、今日はいいの!」
 おじいちゃんをどうにか説得しながら、お花を育てていった。パンジーは、淡い黄色、紫色、白色、あんず色の四色だった。苗で葉や茎だけの状態から、つぼみができ、花が開いていくのを見るのは楽しかった。特に、どんどん花が色づいていくこと、四色それぞれ違う色を見せるのが面白いなあと思った。

 全部やってみた。三つとも、それぞれに面白さがあったし、楽しいなと思った。つむぎや、糸川先生、おじいちゃんが好きなことが好きな理由がほんのちょっとわかった気がする。でも、これがわたしの好きなことだ!と考えるとしっくりこない。まだ周りの人の好きなことを真似しただけだし、自分で見つけたことではないからかなあ。これからどうしようかな。私は何をすればいいんだろう。そんな風にもやもや考えていると、はかせの姿が思い浮かんだ。そうだ。はかせなら。私が次にやるべきことを教えてくれるかもしれない。そう思って、私は散歩コースに出かけた。
 小走りして散歩コースについた。はかせと出会った場所に行ったが、そこにはかせはいなかった。からすだし、どっかお出かけしてるのかあと思ってしばらくはかせを探した。
「はかせー?いる?ちょっと聞いてみたいことがあるの!」
 でも、どこにもいない。なんでだろう。散歩コースも、公園も、家の周りも、はかせがいそうなところ、いてもおかしくないところにいって、探して、声をかけてみた。はかせはいなかった。
 私はいろんなところを歩き回って、声を出していたので、もうへとへとになってしまった。そのへとへとな状態で、家に帰った。それで、自分の部屋に行ってぐったりしていると、
 窓の外に真っ黒な鳥が見えた。もしかして、と思ったらやっぱりはかせだった。私は思わず窓を開けて、はかせに声をかけた。
「はかせ!」
 私が声をかけると、
「おや?結衣さん。」
 とはかせは返事をしてきた。私がこんなに探していたのに、はかせは涼しい顔だった。まあ私が勝手に探していただけだけれど。
「あのね、はかせにきいてみたいことがあるの。」
「そうか?今俺に聞くことなんてないと思うぞ。」
「そんなことないの。私ね、次に何をすればいいかわからなくて。で、何をすればいいかはかせに聞きたいの。」
「…そうか。んと、結衣さん、周りの人の好きなことを真似するのはやってみたのか?どうだった?」
「うん。とりあえず真似してみたよ。三つやってみたんだけれど、どれも楽しいなって思えるところがあった。あと、好きなことが好きな理由が少しわかった気がする。」
「うんうん。いいじゃないか。それで、やってみたことは好きなことになりそうか?」
「なんか好きなことにはならないかなという気がした。まあ、周りの人の真似だからしょうがないのかもしれないけど。」
「まあ、そうだな。で、結衣さんは次に何をすればいいと思うんだ?」
 はかせにそう言われた。いやそのことが分かんないから博士に聞いているのに、と思った。 でも自分で考えてみてってことなのかな。そこで、私はもう一度考えてみた。
「えーっとね…」
 私はそう言いながら考えた。
「自分だけの好きなことを見つけること、かな」
 私がそう答えると、
「その通りだ。自分だけの、自分にとって大切な好きなことを見つけるんだよ。」
 そうはかせに言われた。答えがあっていたのはまあ嬉しかったけれど、それよりも言いたいことがあった。
「でも、私自分で好きなことを見つけらんないよ。だから教えてほしいのに。」
 そう私が言うと、
「そうか。でも、俺が『結衣さん好きなことはこれだな。』とか教えて結衣さんに好きなことをさせても、それは自分だけの好きなことではないんじゃないか?それは、俺が考えた、想像した結衣さんの好きなことだから。」
 はかせはそういった。
「うん。そっか。そうだよね。人に言われたことをやるのではだめなんだね。」
「そうだ。」
「じゃあ、自分で好きなこと探して、見つけなきゃいけないのかあ。私見つかる気がしないなあ。」
「そんなことをいうな。見つけるのは難しいかもしれないが、きっと見つかる。じゃあ一つヒントをやろう。周りの人の好きなことをやってみて思ったこと、感じたことから好きなことをみつけるのもいいんじゃないか。」
「思ったこととか感じたことから?」
「そうだ。結衣さんはアニメを見ること、国内旅行をすること、お花を育てることをやってみただろ?それらをしてみて、思ったことから好きなことを探すってことだ。」
「そうか。難しそうだけど、私やってみる!ありがとうはかせ!」
「おう。がんばれ。」
 そう言ってはかせは飛び去って行った。

 私は考えてみた。アニメを見たときでは、キャラクターがかわいかったりかっこよかったり美しかったりして、見ていて楽しいなあと思った。国内旅行をしていた時は景観がきれいだったことをよく覚えている。山や植物、滝、空も全部きれいで、私はたくさん写真を撮っていた。お花を育てていた時は、そのお花の移り変わりが見ていて楽しかった。葉や茎の緑色から、淡い黄色、紫色、白色、あんず色に変わっていくのが見ていてわくわくした。これらから生かせることって何だろう?
 考えていくうちに、私はアニメのキャラクターも絵で書かれたものだし、景色も絵で書けるだろう。風景画ってことになるのかな。お花も、自分の気に入ったもの、きれいだと感じるものとして描くことができるんじゃないか。
 そう思いつくと、私はとてもわくわくした。そうか。私が好きなこと、と言うか好きになれそうなことって絵を描くことなのかもしれない。でも、絵を描いたことなんて学校の美術の授業くらいしかないのに、描けるものなんだろうか。どうしよう。一回挑戦してみたいな。挑戦してみて、だめだったり私には向いてなかったりしたらまた別のことを探せばいいわけだし。
 そう考えて、私は高校の美術部を見学したいと思うようになった。今部活には入っていないし、絵を描ける場所で身近なところって言ったら美術部が思い浮かんだ。
 二日後。
 私は放課後、美術室の前に立っていた。部長さんには連絡をしておいたから、私が見学に行くことは知っているはず。私はそっと美術室に入った。
「こんにちは。」
 私があいさつすると、
「あ、如月さん!こんにちはー」
「おお、新入部員?」
「いや、まだだよ、見学しにきてくれたんだよ。」
「あっそっか。ちょっと早かった。」
「如月さん、こっちおいで。」
 そういわれたので部長さんのもとへ行く。
「初めまして。部長の笹田です。如月さんだったね。」
「はい。如月です。今日はありがとうございます。」
「いえいえ。うちは部員が少なめだし、見学も大歓迎だよ。じゃあ作品置き場見に行こうか。」
 そういわれて、部長さんと二人で作品置き場という所に行く。
「ここが、美術部の作品置き場なんだよ。たくさん作品あるでしょ?これ、美術部員の作品なんだよ。もう卒業した先輩たちの作品もだいぶ混じってるから、私も知らない作品も多いんだけどね。」
「わあ、そうなんですか。本当にいっぱいありますね。」
「ふふ、そうでしょ。見てて結構面白いと思うから、見ていって。」
「はい。ありがとうございます。いっぱい見ていきます。」
 その作品置き場には作品がごちゃごちゃと並んであった。大きいキャンバスに書かれたものもあれば、小さいものもあるようだ。書かれているのは、人物や、自然、風景、動物、などがあった。一目見ただけでは何が書かれているのかわからない作品もあった。
 その後は、美術室にあった画材を借りて、少しだけ絵を描いた。水彩絵の具やパステルなど、やさしい雰囲気になる画材が使っていて楽しかった。
 家に帰って、部活のことを相談することにした。両親はあまり好きではないから、相談するのは気が重かった。でも、部活をするとしたら、帰りが遅くなるから、いずればれてしまう。今日は晩御飯のときに母がいたので、相談することにした。
「ねえ、私美術部に入りたいんだけど、いいよね。」
 私がそういうと、
「美術部?どうして?あんた絵なんて描いたことないじゃない。」
 お母さんにそう言われた。
「うん、そうだけど、好きなことを見つけたくて、絵を描くことをやってみたいなって。」
「好きなことを見つけたいって言っても、やったことがないでしょ?経験したことないことをやるよりも、ちゃんと学校の勉強を進めなさい。」
「うん、でも、部活もやってみたいよ。」
 私がそういうと、
「あんたそんな器用なタイプじゃないでしょ。ちゃんと勉強と部活を両立できるの?」
「わかんないけど、でも、やってみたいの。」
「わかんないなら、部活はやめた方がいい。高校で勉強していることが、絶対将来につながるのよ。」
 私はこれ以上言えなくなってしまった。悔しかった。
 一人、部屋で泣いた。ぽたぽたと涙がこぼれた。せっかく、せっかく好きになれそうなことを見つけたのに。
 窓際でコツコツ音がする。はっと顔を上げるとはかせがいた。
「泣いてるのか?」
 私は、お母さんに反対されて、そんなことをするより勉強しろ、と言われたと話した。
「で、結衣さんはどうするんだ?」
「わかんない。頑張りたい気持ちがなくなっちゃった。」
 私がそういうと、はかせはちょっと考えて、こういった。
「…そうか。一人で考えてみろ。」
 そういって、はかせは飛んで行った。ちょっと淋しかった。でも、自分で考えなくちゃいけない。私はその晩、ずっと考えていた。
 結衣さんはどうするだろうか。
 結衣さんは母親に部活をすることを反対された、といっていた。さっき見た様子だと、かなり諦める方向に向いている気がした。でも、美術部入部が結衣さんの見つけた好きなこと、好きになれそうなことなのに。
 正直、助言したい気持ちはあった。結衣さんに、好きなことを見つけて、経験してほしかった。でも、それは結衣さんが決めることなのだ。俺が結衣さんに助言してしまったら、結衣さんは成長できない。
 俺は、結衣さんを見守ろう。好きなことにたどり着いてほしいと願いながら。

 私は美術部に入部することを決めた。美術部を見学しに行って、やっぱり絵を描くのは楽しそうだし、私にも挑戦できそうだと思ったのだ。自分でも絵が描きたくなった。母には結局納得してくれた。私が、勉強もしっかりやるし、定期テストでもきちんといい点を取ってみせるといって説得した。その証明に二学期の中間で今までで一番いい点を出した。これで、ちょっと母は驚いたみたいで、美術部に入ることを許してくれた。その後、部活のことにはあんまり口を出さないけど、どう思っているんだろう。
 それからは、充実した毎日だった。美術部に通い、自分の書きたいものを決めて書いていた。一度、展覧会に作品を出させてもらった。展覧会に自分が出していいのかと思ったが、先輩によると誰でも出していいらしい。私は初めて展覧会に作品を出した。
 なかなか完成せずに、うまくいかないなと思った日もあった。でも、好きなことだから続けられたし、頑張れた。終わった後には達成感もあった。満たされた気持ちで、高1は終わっていた。
 充実した毎日の中で、時々、はかせのことを考えた。博士のことは最近めっきり見かけなくなった。はかせに、好きなことが見つかったこと、今充実していることを伝えたかった。でも、いないから伝えられない。充実して楽しい毎日だったが、ちょっと淋しかった。
 
 ある日、郵便受けをのぞくと、何かがこぼれ落ちてきた。真っ黒な羽が落ちている。結構大きい。ああ、はかせだ。そう思った。自分の羽を郵便受けに入れてくれたのかな。私のことを見ていてくれたのかな。だったら嬉しいな。私は真っ黒な羽を引き出しに入れた。

 春になって、新学期が来た。私は高2になった。クラス替えがあったので、新しいクラスメイトと出会う。始業式の日、私は後ろの席の子と話していた。その子は茉莉ちゃんと言うらしい。
「ねえ、結衣ちゃんの好きなことは何?」
 茉莉ちゃんにそう聞かれた。
「私の好きなことは絵を描くこと!」

「スクールカースト」
k184103

 奈美の場合
 チャイムが鳴る。スクールカースト底辺には一番きつい時間である昼休みがまた、やってくる。
 昼休みはみんな、思い思いに机を動かして友達とご飯を食べる。それはもう、これみよがしに教室の中に島が出来上がるのだ。大きい島、小さい島、賑やかな島、落ち着いている島……。そのどれもが全て、一人ぼっちの私を責め立てているように感じてしまうことがある。
「どこの島にも入れないなんて可哀想」
「谷口っていつからああいう風なんだったっけ?」
 人は思っているより他人に注意を払ってはいない、と言うけれど。みんな、そういう「自分ではない誰かが可哀想な話」は大好きだ。教室の、本当にあるのかもわからないそんな嫌な視線に耐えきれなくなり、奈美は教室を出た。
 向かう先は中庭の一番隅っこにあるベンチ。屋上なんてない、夢の名残もないような学校で私が見つけた場所だ。あそこなら教室方面から死角になる場所がある。あの視線を浴びなくて済む。
 気づくと早足になっていたのか、ふと気がついたときにはそのベンチにぼんやりと腰掛けていた。
「いつから、なんでこういう風になってしまったのかなんて、私が知りたいんだけどな。」
 スクールカーストという言葉をご存知だろうか?どこの学校にも少なくとも存在はする、アレである。
 正直、全くない学校なんてないと思っている。小学校でも中学校でも、それなりにカーストは存在してきた。それが緩いかきついかの違いはあったが。
 私は県内随一の進学校に通っている。明確な希望の進路があるわけではない。ただ、頭が良いところなら平和な日々が過ごせるだろうと思ったからだ。
 小学校は平凡に切り抜けた。中学校はカーストの片鱗が見え、群れることと騒ぐことが苦手な運動音痴の私は早速下のほうに追いやられた。しかし、底辺は底辺なりに友達がいたので、若干息苦しくても楽しい学校生活を送ることができた。
 高校は……見ての通りだ。カーストの餌食となり、一人ぽつねんと学校生活を送る羽目になっている。これでも最初は友達がいた。ただちょっとだけ口が過ぎてしまって、カースト上位の女の子に嫌な顔をされて、それで気づけば周りに人がいなくなった。
 カーストは恐ろしい。見えない壁が生徒の間にできてしまう。見えないけれど分厚く、ぶち破ろうとすれば最悪自分が最下層に放り込まれる。
 顔が良い・運動神経が良い・飛び抜けて明るい・トークセンスがある、など、カースト最上層の彼女らに認めてもらうには、それなりの才能が必要である。多くは天性のものなので、言ってしまえば生まれたときから学校生活での立ち位置はほぼ決まってしまっているとも言える。努力でなんとかできないこともないが、努力の終わりが学校生活の終わりになってもおかしくない。私たちを隔てる厚い壁は、入ることも出ることも難しいのだ。
 しかし、彼女らは違う。スクールカースト最上層、キラキラした高校生の代名詞みたいな彼女らは、あの厚い壁を物ともせず他人を引き上げたり、どん底に突き落としたりすることができる。例えるなら会社の人事部みたいなものだ。その人事異動が、言いつけられた側の人生を左右するかもしれない。しかしそんなことは考えず、いとも簡単に思い通りに他人を動かすことができる。特権階級である。
 本当に馬鹿馬鹿しい。奈美はため息をつく。馬鹿馬鹿しすぎる、こんなの。多分それは学校の全員が思っていることだが、誰も言い出せない。甘い汁を吸っているカースト最上層の彼女らには、誰も逆らえない。
 こんな学校生活、いつまで続ければいいんだ?何度も脳裏をよぎった解決しない疑問がまた浮上してきて、大好きな卵焼きをうまく喉を通らない。
 苦しい。
 優衣の場合
 また声をかけられなかった。教室から出て行った奈美の背中を虚しく見つめる。
「優衣ー、ご飯一緒に食べないの?」
 このクラスの女王様こと実香に声をかけられ、慌てて彼女らの元に戻った。
 私は一応、バレー部のエースだと言われている。特別顔が可愛いわけでもないし、性格はむしろ後ろ向きな方だが、「バレー部のエース」という肩書きだけでこのクラスの第一軍、つまりクラスカーストの最上位のグループにいることができているのだ。
 正直、カースト最上層は気持ち良い。ちゃんと女子高校生をやっているなという感じ、と言えばいいだろうか?大きな声で騒いで、スカートはうんと短くして、自分たちが楽しいと思えるようにクラスを動かせる。楽しくないわけがない。
 しかし、たまに息苦しくなる時がある。楽しいのに、息苦しい。トイレも好きなときに行けない。ご飯も同じメンバーでしか食べることができない。他の女の子と遊ぶことも何となく許されない雰囲気がある。別に言葉に出して禁止されているわけではないのだけれど。
 何なのだろうなあ、と思う。見えない壁に囲まれているような感じ。友達なはずなのに、その壁を誰かが破らないかどうか見張りあっているこの感じ。楽しいのに窮屈って同居するものなのだと気づく。
 その窮屈に耐えきれなかったのか、逃げ出したのが奈美だった。あの子は私たちがどうしても破れない壁をいとも易々と破って出て行った。
 あの日はいつだったろう。数ヶ月前の出来事だ。
 高校に進学して、最初に仲良くなったのが奈美だった。大人しい見た目で、お世辞にも明るく元気いっぱいという感じの子ではなかったけれど、話してみるととても楽しかった。ウマがあった、というやつだ。
 すぐに、二人で行動するようになった。教室移動やお昼ご飯、体育のペア決め。毎日ずっと一緒にいたけれど、全く話が尽きなかった。目立たない二人組ではあったと思うが、それでよかったのだ。
 事態が変わったのがちょうど一月前。いきなり、クラスでいつも騒いでいる「女王様」こと実香に声をかけられた。
「ねーねー、うちらのグループはいらない?」
「女王様」たる所以が放つオーラからわかる。自信満々で、自分の言うことになんて誰も逆らえないことをわかっている顔と立ち居振る舞い。派手な顔立ちと声の大きさで彼女はクラスを自分の庭として所有していた。
 実はそこにいたのは実香だけではない。いつも実香とくっついている由美と沙羅もいた。彼女らは本当に四六時中実香と一緒にいる。それはもう、びっくりするくらい。
 きっとあの二人は「実香と仲が良い」というステータスが生きがいなのだろう。可哀想といえば可哀想だが、そのステータスにしがみつきたくなる気持ちはよくわかる。
 学生なんてステータスや所属集団が命だ。自分の価値はそれらで決まるといっても過言ではない。どれだけ可愛くて頭と性格が良くても、見るからに根暗な子とつるんでいればそれだけでカーストは下の方になる。そうなれば学校内で死んだも同然なのだ。
 話が逸れたが、とにかく私たちは実香に何故か勧誘を受けた。どう答えようかと考えあぐねていた私をよそに奈美の答えた内容がまずかったんだ。
「私は実香たちと違って所属集団命!みんなのトップになりたい!みたいなこと思ってないんで。」
 次の日から奈美は明らかに避けられた。しかもクラスの全員から。
 私は助けたかった。とても気の合う友達だったから。でもできなかった。クラス内での地位を優先した。奈美を助けて自分の地位が落ちることを恐れてしまった。
 その日から奈美とは、話せないでいる。
 何度目かもわからない回想をしながらご飯を食べる。実香たちの笑い声が、あの日奈美を助けられなかった私を責めているように聞こえて、胸が苦しくなる。誤魔化すために、笑う。
 苦しい。
 奈美の場合
 一人での行動に他人の目を気にしなくなった頃、とあるニュースが入った。
「うちのクラスに転校生が来るらしいよ」
「え?マジで?男?女?」
「女子だってさ」
 なんと漫画みたいな展開。でも女の子か。奈美はひそかにがっかりする。男の子だったら、その人がどんなに素敵か想像を膨らませて楽しむことができたのに。
 でも、もし男の子だったとしても、こんなカースト最下層の女になんて近づきたくないか。カースト制度が酷いのは女子だけれど、男子だって逃れられない。自分の付き合う相手、好きな相手がどのあたりの層にいるのか、内心気にしているに違いない。身分を超えた愛なんぞ学生の間では存在しないのだ。多分。
 ひとしきり盛り上がったあと、ふと我にかえる。どんな女の子が来るのだろう?
 転校生というのは教室にとって異質な存在だ。しかもこんな時期に。カーストでいうとどこの層に入りそうな女の子なのだろう。
 転校生はその異質な存在故、だいたい最上位層か最下位層に行きがちな気がする。あくまで気がするだけではあるが、一度目立ってから中間層に溶け込むのはなかなか難しいものだ。きっと転校生が入ってきたら、まずは実香が偵察に行って、自分のグループにふさわしい人物かどうかを見極めるのだろう。良いと思えば絶対に引き入れるし、気に入らなければ捨てるだけ。実香に捨てられることは実際、クラス内での地位をがくっと落とすことを意味するため、最下位層にしか入れないだろう。論理的に考えても、転校生の居場所は実香側かこちら側にしかないような気がした。
 気の毒だと心から思う。全てはこのクラスに入ったのが運の尽き。いや、スクールカーストなんてどこにでもあるのだから、高校生であることがもはや運の尽きなのかもしれない。そう思えるくらい、カーストに傷つけられた自分がいた。
 転校生には悪いが、こちら側に来ますように。強がっていてもやはり、一緒にいる仲間が欲しい。
 チャイムが鳴る。始業の合図だ。担任が入ってきて、ゾロゾロとみんなが席に着く、いつも通りの朝。
「えー、みんなもう知っているとは思うが、このクラスに転校生が来ることになった。さあ、入って。」
 最後の一言をドアの外に投げかけると、見知らぬ女の子が教室に入ってきた。
 と同時に、私は神様の意地の悪さを呪った。やっぱりこうなるんだ。期待なんてしなければよかった。
 入ってきたその子は、当たり前のように可愛らしい顔立ちをしていた。可愛い顔をしているという自信に満ちた立ち居振る舞いで、これこそクラスカースト最上位に相応しいと思わせるような子だった。
 また実香のような子が増えるのか。もううんざりだ。歓迎なんてできやしない。
 対して実香は友達と何やらコソコソと話している。あの子をいつグループに引き入れるかの相談だろう。楽しそうな実香を尻目に、私はただただ期待した自分を呪うことしかできなかった。
「今日から一緒に勉強します、加藤麻里です。よろしくお願いします。」
 簡潔に挨拶して席に向かう麻里をじっとりと見つめる。その視線は、麻里が席に着くまで続いた。
 本当に世の中不公平だ。転校生なんて漫画的展開を作るなら、その子がすごく私に似てて仲良くなるというストーリーまで組み立てておいて欲しかった。神様は本当に、いつも何かが足りないんだ。
「はーい、授業はじめまーす」
 恨み節を頭の中でつらつらと並べていると、いつのまにか担任と入れ替わっていた数学の先生の声で我に返った。
「おねがいしまーす」
 号令の代わりに、小さくため息をついてやった。
 優衣の場合
 突如現れた転校生に驚いた。期待などしていなかったが、予想以上に可愛らしい見た目をしている。
 挨拶をしているときも、穴が開くほど見つめてしまった。こんな漫画みたいな展開、ありなの?
 けたたましく鳴いているセミも、眠たくなるような数式を唱える数学の先生も、この素敵な展開に勝てなかったらしい。しばらく、周りの音が耳に入るまではぼーっと、転校生のことについて考えていた。
 あの子は是非ともお近づきになりたい。もしかしたら、実香さえも超えてしまう新たな「女王様」が誕生するかもしれない。あの子についていけば、きっとこの1年間安泰だ。
 そこまで考えて、はっと顔を上げる。1年間の安泰......?
 そんなことのために私は転校生と仲良くなろうとしていたのか?それって本当に友達なの?色々な疑問が頭を巡る。
 私って、かなり最低なことを今考えていなかったか?
 悶々としたまま机に座っていると、いつの間にか4時間目まで終わってしまったようだ。チャイムがなり、みんなお弁当を取り出している。
「実香、ご飯食べよう」
 半分媚びるような言葉を紡ぎながら、実香の向かいに座る。
 いろいろ悩むことはあるけれど、やはりこのグループは楽しい。「女子高校生としてやりたいこと」を全て満たしてくれるからだ。それは他の人の上にクラスカースト最上層として君臨するからこそ得られるのだけれど。
 実香は興奮気味だ。
「ねえねえあの麻里って子、めっちゃ可愛くない?うちのグループ入れよう!」
「わかる、あの子は入れたい!」
「可愛いから最高よね。」
 お供の由美と沙羅は、本当に入れたいのか邪魔そうだから入れたくないのか、どっちなのだろう。うんうんと頷いている。
 きっとこのご飯を食べ終わったら、実香はお供を引き連れて勧誘にいくのだろう。馬鹿馬鹿しくはあるが、私もあの子と仲良くなりたいので見守ることにする。
 ご飯を食べ終えた実香は、お弁当をしまうのもそこそこに、早速麻里の元へ行った。
 麻里は初日だからかそれとも気にしていないのか、一人でご飯を食べている。実香が来ると、にこりと笑って言った。
「どうしたの?」
 実香がすかさず返した。
「あのさ麻里ちゃん、私らのグループにはいらない?」
 お供の二人も、勢いよく頷いている。やっぱり入って欲しい気持ちはあるのだろう。
 クラス内での大出世のチャンスかもしれないことを知ってか知らずか、麻里は首をかしげた。
「グループって、何をするの?」
「え、グループ知らない?グループっていうのはね、一緒に移動教室したり、ご飯を食べたり、トイレに行ったりするの!超、楽しいよ!」
「ふうん……」
 驚くことに麻里は、かぶりを振った。
「私、一つのグループにいるより、色んなグループや色んな人たちと色んな話がしたいな。だから今日はいいや、ごめんね、誘ってくれたのに。」
 相変わらずにこにこしながら話し終えると、お弁当箱を片付けて何処かに行ってしまった。
 恐る恐る実香の方を見ると、案の定プライドを潰されて悔しいやら悲しいやらで、顔を歪ませている。怒っているのだろうか。
 遠巻きに見ていた私のところに戻ってきた実香は、イライラしたような顔で言い放った。
「私の提案を受け入れない人がここにいるとか許せない。あんなの無視よ、無視。いい?」
 随分横柄なことを言っているような気がするが、ここでは実香が法律のようなもの。何を言おうが実香がそういえばそうなるのだ。
 本心を話して最悪の結果になってしまった。麻里は本当にかわいそうだが、だからといって何をどうするかと言われると何も思いつかない。
 これから麻里に降りかかるであろう身の災難を思い、私は小さくため息をついた。
 奈美の場合
 麻里が来てちょうど2週間が経った。
 初日に実香を突っぱねたのは正直とても気持ちが良く、あわよくばこちら側に来ないかとも思っていたが、そうはいかなかった。麻里は今も一人で、いろいろなグループを飛び回り、毎日とても楽しそうにしている。
 実香にいじめられるかと思いきや、麻里は実香にも何事もなかったかのように接するため、勢いが削がれたのか、何も言わなくなった。
 本当に不思議な子だ。そしてすごく羨ましい。私はそんなに器用になれない。
 麻里は私のところにも来る。最初に話したとき、特に盛り上がった記憶はないが麻里は私を気に入ったのか、1日に1回のペースで話しかけてくれるようになった。
 そして私は、こちらにくる麻里を心待ちにしてしまうほどには麻里を友達だと思っている。
 しかし麻里はなぜ、カーストを気にせず行動できるのだろう。私にはわからない。今はそのスタンスでうまく行っているが、いつ実香に目をつけられていじめられるか分かったものではない。そんな危険をおかしたいとは私には到底思えなかったのだ。だから、聞いてみることにした。
「ねえ、麻里」
 麻里はお弁当から顔を上げて、にこにこしながらこちらを見た。
「ん?」
「麻里ってさ、スクールカーストとか、怖くないの?」
 単刀直入。麻里は少し顔を曇らせ、そして真面目な表情をして言った。
「怖いよ。」
「じゃあなんで、カースト最下層の私とも仲良くするの?」
「カーストが嫌い。負けたくないから。」
「え?」
「前の学校もカーストが酷かった。私は偶然最上層にいることができたけど、所属集団を掲げてその名の下好き勝手する友達が正直大嫌いだったの。だから転校が決まったとき、決めたんだ。『私はカーストには従わず、仲良くしたい人と仲良くするんだ』って。」
 なおも真剣な表情で語る麻里は、とても嘘を言っているとは思えなかった。
 元々、前の学校でもカースト最上層に君臨していた麻里。楽しいはずなのに、自分に優位になるカーストに疑問を持てた麻里。「カーストには従わない」という思想を貫き通し、仲良くしたい人と仲良くする麻里。
 自分が恥ずかしかった。カーストなんて嫌いだという姿勢を持ちながら反抗できず、最下層に入ってしまったことを恨んで生きていた自分なんて、ちっぽけな存在だと思った。
 以前の自分なら抵抗なんて考えもしなかったし、きっと考えたところで麻里みたいに行動には移せなかっただろう。
 でも、自分の意見を持ち、カーストに立ち向かい、見えない壁を取っ払った本当の友情を育もうとする麻里は本当に強く、かっこよく見えた。
「私も。」
 いつの間にか、私の口から言葉が溢れる。
「ん?」
「私も、立ち向かう。いじけていないで、壁なんてぶち破って、仲良くしたい人と仲良くする。」
 言葉にするごとに、私の思いが形になる。
 そう、優衣。優衣は実香とのことで離れてしまい、それっきりだったけれど。私は自分のことに精一杯で、優衣のことを思い出すこともままならなかったけれど。
 でも、今なら優衣とまた、仲良くなれるような気がする。邪魔な壁や自分の卑屈な思考に惑わされず、優衣と話せるような気がする。話したい。
「ありがとう、麻里。」
「うん!」
 転校初日にはあんなに疎ましがっていた転校生が、私に現状を変える力をくれた。
 漫画のような展開が、誇らしく思えた。
 優衣の場合
 麻里がきて2週間、私も少しだけ麻里と話せるようになった。
 あの子はとても明るくて、いつもにこにこしていて、本当に良い子だ。妬ましくなるくらい。
 みんなと楽しそうに話す麻里が、私は正直苦手だった。自分の本当にやりたかったことを写す鏡のように思えて、麻里を見ると自分の卑小さに落ち込んでしまう。
 麻里なんて、と思った。麻里なんて、このクラスにいらなかった。
 ある日、いつも通り実香のところでご飯を食べていると、麻里と奈美が教室を出ていくところが見えた。手にはお弁当。外で食べるのだろうか。
 こんなことは数回あった。いつもなら奈美の背中を虚しく見つめるだけの状況。麻里を羨ましく、妬ましく思うだけの状況。
 しかし、今日は違った。なぜかはわからないけれど、追いかけなければいけないような衝動に駆られた。お弁当を包み、立ち上がる。
「ごめん、ちょっと職員室で先生に用事あるから!すぐ戻る!」
 半分言い捨てるような形で立ち上がり、教室を出た。ちらりと教室を見ると、実香がびっくりしたような顔でこちらを見ていた。
 なんだかそれだけで、少し嬉しかった。
 奈美たちを追いかけてどうしようという計画なんてない。何も考えずに来たので、いざ二人を見つけると隠れることしかできなかった。盗み聞きのような形で二人を観察する。
 不意に麻里の声が飛び込んできた。
「『私はカーストには従わず、仲良くしたい人と仲良くするんだ』って。」
 正直、ちゃんと聞こえたのはここだけだった。なのに妙に、その言葉が私の心を侵略していった。
 カーストをものともしない麻里のことは、正直鬱陶しかった。でも、鬱陶しいという感情に隠れて、自分もそうなって奈美ともう一度仲良くしたいという気持ちが潜んでいることに、私は気づいていた。
 今、麻里の言葉から、その隠れた気持ちが引っ張り出される。そして、やりたいならやればいいと背中を押してくれる。
「そうだね、私も。」
 小さな声で呟いてみる。私も麻里のように、強くなれるだろうか。
 いや、なってみせる。カーストが作る見えない壁なんて破ってみせる。麻里にできて、私にできないはずがないのだ。
 本当は実香が怖いけれど、それよりも私は、背中を押された気持ちに従いたい気持ちの方が強い。
 奈美が教室に戻ったら、私も後を追って教室に戻るんだ。そして、すれ違ったときに
「奈美!」
 と声をかけるのだ。私のこの一声なら、きっと壁を破れる。壁を破って、奈美まで届く。

「太陽」
k184104

 祈りにも近いような確信を持って、私は深呼吸した。
 十数年ぶりの日差しを背負いながら、ぼくはやっとの思いで坂道を上った。高校を卒業して家族と町を離れてから初めてこの町に、ここに、帰ってきた。港の傍に住んでいたじいちゃんは、去年見送ったばあちゃんを追うように今年亡くなった。ぼくは両親とともに遺品の整理に来たのだ。
 頂上の公園には、今でも大きな桜の木が植わっている。木陰に座ると海から昇る風が、熱くなった体を撫でていく。額の汗をぬぐい、ふっ、と息をつく。ここに来るまで、ぼくの頭のなかをぐるぐると回ったのは、遠い遠い夏の記憶だった。
  中学2年になってすぐ、いつもの教室、ぼくの隣に新しい机が置かれている。今日このクラスに転校生がやってくる噂は本当のようだ。でも、ぼくには少しの関心もなかった。窓の外をぼおっと眺めながら、ただ曇りががった町の景色を見ていた。
 担任の先生が転校生を教室に招き入れ、教室が少しにぎやかになった。ぼくもふと教壇に立つ転校生に目をやる。長く綺麗な髪がこちらを向いて黒板に名前を書いている。心が少しざわつくのを感じた。
「大石紗織です。よろしくお願いします。」
 彼女はクラスのみんなに挨拶を済ませると、ぼくの隣に置かれた机に向かって歩き始めた。ぼくの目は自然と彼女を追った。心が強く締め付けられる。その頃のぼくに、美人だとか容姿端麗だとかの概念はなかった。今になって思えば、彼女はきっとそういう類の女の子だった。それでもただ、「あいつはたぶん空から降ってきたんだ。」とか「夢でも見ているんだ。」とか思うばかりだった。彼女が席に着こうとした時、
「あの、・・・。」
 ぼくは思いがけず声をかけた。でも後に言葉が続かない。すぐに目を逸らし、窓の外を見た。
「よろしくね。」
「・・・うん。」
 彼女の言葉を背中で受け取り、ぼくは小さく返事した。
 その日、ぼくは彼女と話すことも、ろくに目を合わすこともできなかった。クラスの女の子たちに囲まれて楽しそうに話す姿を横目に、「他の子たちには失礼だけど、しかしこうも違うものか。」と心の中で呟く。話をしたいけど、切り出すだけの話題も自信もない。隣の席がやけに遠く感じる。
 そんな日がいくつか経った頃。その日は昨夜からの雨が朝になっても降り続いていた。家を出て少しの路地を歩いていると、目の前を、傘もささずに走り抜けていく女の子がいる。彼女だ。手には無残に形の変わった傘が握られている。風に吹かれて折れてしまったらしい。ぼくはとっさに声をかけようと思ったが、どうも今回は声すらも出ていかないようだ。雨の中を遠ざかる彼女の背中を見つめながら、ぼくは自分がひどくみじめに思えた。
 教室に着くと数人のクラスメイトと楽しそうに話しながら、濡れた髪をタオルで拭う彼女がいる。ぼくは意を決して近づいた。
「大石、なんでおまえびしょ濡れなんだよ。こんな雨の日に、よりによって傘忘れるなんてな。」
「歩いてたらものすごい風に吹かれて、傘壊れちゃったの。もう家に戻る時間もなかったしそのまま走ってきたの。」
「そっかあ、そりゃ残念だったな・・・。」
 はじめは精一杯に茶化してみせた。よく言えたものだと自分でも思った。唐突なぼくの発言にも彼女は照れながら笑ってくれた。いつもの通り思ったような会話にはならなかった。それでも、ぼくの中には、灰色の空から陽が差したような、妙な喜びが溢れていた。
 それからは彼女とまともに話もできないかわりに、柄にもない悪戯や変におどけてみせることに精進した。彼女のことを少しでも知るにはそうするしかなかった。彼女はいつでも笑って相手をしてくれた。家に帰って眠るたび、明日こそはと心に決める。でも、ふつうに話ができるのは夢の中でだけだった。朝目覚めるたび胸に痛みが走る。愛とか恋とかまだよく分からなかったぼくにはそれが何なのか見当もつかないのだった。そんな毎日を繰り返して、気づけば彼女と話すのに何の準備も仕掛けも必要なくなった。窓の外は相変わらずの雨。それでも確かに夏が近づいていた。
 ついにこの日がやってきた。七月七日。運命の日だと張り切って家を出た。彼女が隣の席にやってきてから約一か月、ぼくの願いは一つだった。もはや短冊を書いて祈る年ではなかったけど、何となく今回は心の中で七夕様にお願いしておいた。六時間目の総合の時間を使って席替えが行われる。学級委員の一人がくじを確認し、もう一人が黒板の座席表に名前を書いていく。一つずつ席が埋まり、彼女の名前が廊下側の最前列に入った。彼女の左はまだ空いている。ぼくは授業中の居眠りと内職を捨てる覚悟を決めた。誰に見られてるわけでもないのに、ぼくは心の祈りが顔に出ないように努めた。「頼む・・・、頼む!」くじを委員長に託し、じっと黒板を見つめる。でも、ぼくの名前が彼女の隣に入ることはなかった。
 席替えはあっという間に終わった。残りの時間なにをしていたかは覚えていない。チャイムが鳴ってはじめて、ぼくは自分がずっとうつむいていたことに気が付いた。ざわざわと掃除の時間が始まる。ゆっくりと立ち上がり、担当場所の掃除に向かう。あわただしく動く人ごみのなかで誰かに背中を突かれた。振り向くとそこには彼女がいた。ポケットから黄緑色の小さな紙を取り出してぼくに手渡した。
「えっ、なにこれ・・・。」
 いつもは明るく話してくれる彼女が、今回はうつむくだけで何も言わない。ちらりと一目合わせると、すぐに人ごみの中へと消えていった。ほんの数秒の出来事だった。ぼくは何が何だか分からなかった。とにかくできるだけ静かな場所を探して校内を走った。屋上に続く階段の踊り場で二つ折りになった紙を開く。「いっしょに帰ろう。」小さな丸い字が並んでいた。
 放課後、下足ロッカーの隅で彼女は待っていた。ぼくらは人目を避けながら門をくぐった。二人の帰る方向が同じだということは知っていた。でも一度も並んで歩いたことなどなかった。いつもの路地がちがう町のように見える。なんで自分が彼女と歩いているのか不思議でたまらなかった。学校から少し離れた人気のない通りに来ても、ぼくは何も言わずにただ彼女の隣を歩いていた。何だか初めて会った日に戻ったみたいで、どうやらそれは彼女も同じようだった。二人の間に沈黙が漂う。
「・・・席、離れちゃったね。」
 あの日彼女を見かけた路地で、彼女は不意に口を開いた。
「うん・・・。」
 ぼくはまた返す言葉を見つけられなかった。でもそこからは少しだけ他愛もない話ができた。この町に来るまでは、遠くの、海のない町に住んでいたこと。将来の夢は看護師になること。とか。さっきまでの沈黙が嘘のように、お互いの家に向かう分かれ道に来るまでの時間は瞬く間に過ぎた。
「じゃあわたしこっちだから。きみは?」
「うん、おれはこっち。」
「そっか。今日はありがとう。また明日ね。」
「・・・うん。また明日!」
 ぼくはまだ話していたかったが、別れを惜しむ間もなく、彼女は笑顔で帰っていった。どうしていっしょに帰ろうと思ったのだろう。大事なことは結局最後まで聞けなかった。長い髪をなびかせながら歩いていく彼女の向こうには、少し赤みがかった空と大きな白い雲が立ち昇っていた。
 次の日の放課後、彼女はまたぼくの所へやってきた。
「今日もいっしょに帰ろうよ。」
「いいけど・・・。」
「けど?」
 ぼくは彼女がぼくと帰りたがる理由を聞こうとした。でも何かにせき止められるような思いがして聞くのをやめた。なんとかその場をごまかして、また昨日と同じように歩き始めた。なにか大事な話をするわけでもなく、お互いの家に向かう道が分かれるまでをいっしょに歩いた。
 それからもぼくらはいっしょに帰ることが増えた。時間が合うときには学校に行くときもいっしょになった。相変わらず、話をするのはどうしようもなく些細なことだ。
 一つだけ変わったことと言えば、帰りに例の分岐路を彼女の家の方向に二人して進むようになったことだ。分岐を少し進んでいった先に、枝分かれするように一つ小道が通っている。車が一台通れるかどうかの狭いアスファルトの道。その先は徐々に傾斜がついていて、気づけばかなりの上り坂になっている。中学生のぼくらの足で十五分ほどかけて登る。するとそこに小さな公園が現れる。花はとおに散り、青々と葉をたくわえた大きな桜の木が一本と、ブランコが二人分備わっただけの粗末な公園。でも、そこから歩いてきた方を見るとぼくらの住んでいる町が一望できた。あんなに大きくて広く感じていた学校がミニチュアのように見える。隣町を挟んだ向こうにある日本海にもすぐにたどり着けそうな感じがする。
 彼女に教えてもらうまで、ぼくはこの場所のことを知らなかった。だから、きっと学校の誰も知らない場所なんだ。そう考えると、ぼくにとってはその小さな公園が限りなく特別なものに思えるのだった・・・。
 夏休みを目前に控えたある日の昼休み、隣のクラスの友人がぼくのところにやってきた。この友人というのが厄介な奴で、やけに他人のゴシップに詳しい。ぼくは他人の色恋沙汰などにはまったく疎く、彼の話を聞かされるのは時間の無駄だとさえ思っていた。今日もいつものしたり顔で近づいてくる。
「おまえ、大石さんと付き合ってるんだって?」
「・・・はぁ?なんだよ急に。」
 ぼくは自分が何を言われているのかまったく分からなかった。まさか自分のことを冷かしに来たとは思いもしなかった。
「だっていっつもいっしょに帰ってるんだろ?おまえら。この前もいっしょに歩いてるの見たって4組の奴が言ってたし。」
 あぁ、なるほど。彼女は人当りが良くて、いわゆる可愛い子でもあったから、誰かに野暮な噂を立てられたんだ。そしてこいつはその情報をいち早くキャッチして、ぼくの反応を確かめにきたというわけか。
「帰る方向がいっしょなだけだよ。同じクラスなのにわざわざ時間をずらして帰ることもないだろう?」
 ぼくは自分で言いながらおかしな気持ちになった。違う、そうじゃない。ぼくが彼女と並んで歩くのは、帰る方向が同じだからとか彼女が声をかけてくるからとかそんな理由じゃない。今までなんとなく彼女と話せるのが嬉しくていっしょにいただけなのに、何かもっと高尚な感情にぼくは突き動かされている気がした。
 そんなことを言われたおかげで、今日はなんとなく彼女と歩くのが気恥ずかしい。誰かに見られはしないかと、いつもより少し距離を取る。意識しまいと思うほどに彼女のことを意識してしまう。しかし考えてみれば、ぼくらの関係はいったい何なんだろう。同じ時間に同じ道を帰る仲・・・なのか。口は彼女との会話に応じつつ、頭の中は今のこの状況を今更ながらに理解しようとすることでいっぱいだった。いっそ、「きみはぼくの何なんだ。」とでも聞いてやろうか。いや、そもそもその質問の答えをぼく自身が持ち合わせていない。「クラスメイト。」と言われればそこまでだ。じゃあ、ぼくは、いったい何を望んでいるんだ・・・。
 あれこれ考えているうちにいつもの坂道を半分ほど登ってしまっていた。
「なんか暗くなってきたね。」
 彼女の一言を聞いてはじめて、辺りがやけに薄暗く、頭上に黒ずんだ大きな雲が覆いかぶさっていることに気が付いた。夕立だ。ぼくは瞬間的にそう思った。今すぐ引き返せば、彼女だけでも雨に打たれずに家に帰れるだろうか。それともこのまま雨が降らないことを祈ろうか・・・。
「雨が降りそうだ。大石、今日はもう帰ろう。」
 ぼくは案外、紳士的な男だったらしい。そう言って坂を下ろうとしたとき、まるでシャワーのような大粒の雨が降り出した。言わんこっちゃない。急いで来た道を戻ろうと駆けだす。けれど彼女の足音が続いてこない。スクールバッグを傘にしながら振り返る。彼女はさっきの場所から一歩も動いていない。
「何やってんだよ。早く帰ろうよ。」
 彼女は首を横に振り、頂上を指差した。
「上の桜の木で雨宿りしようよ!」
 彼女の提案は合理的だった。頂上までは走ればすぐの所まで来ている。お互いの家まで雨の中を走るくらいなら、頂上の公園で夕立が過ぎるのを待った方がいい。ぼくは彼女の提案に賛同した。
 そうと決まれば全力疾走。ぼくらは雨の中を目一杯に走り抜ける。やっとの思いで公園に入り、ぬかるんだ土に足を取られそうになりながら何とか桜の根元に逃げ込んだ。名案だと思っていたわりに、ずいぶんと雨に打たれてしまった。濡れたカッターシャツが地肌に引っ付いて気持ち悪い。傘代わりにしたかばんは雨を吸って重みを増している。彼女は隣で息を切らし、かばんからタオルを取り出した。
 桜の木は雨をしのぐには充分だった。重なった葉が屋根になってぼくらを守ってくれる。けれど、雨は一向に勢いを弱める気配がない。しだいに葉の隙間を少しづつ雨水が伝って落ちてくるようになった。彼女の向こう側に少しずつ水たまりが出来始める。時間が経つにつれ半歩、もう半歩、彼女がこちらに近づいてくる。彼女の濡れた袖がぼくの肘に当たる。思い返しても彼女とここまで近づいたことはなかった。ぼくの心臓はせっかく息を整えたばかりだというのに、またしても強く鼓動する。
「雨、やまないな。」
 ぼくは自分の動揺をかき消すために口を開く。
「こんなに降るなんて聞いてないよぉ。」
 彼女は怪訝そうに言う。続けて彼女が何か言おうとした時、空が一瞬明るくなった。3秒と経たぬうちに、耳を裂くような雷鳴が轟いた。ぼくは体をこわばらせる。ぐっと込めていた力を抜くと、右半身に違和感を覚えた。落とした目線の中にぼくの右手と彼女の左手が映る。彼女は目をつむったままぼくに体を預ける。心臓が張り裂けそうなほどに脈打つのを感じる。あれこれ考える間もなく、また次の稲光が空を走った。今度は何本もの閃光が落ちていくのが見えた。ぼくは再び体をこわばらせる。二度目の雷鳴が響いた。その時、彼女はじめてがぼくの手を握った。三度目、四度目と雷鳴は数回に分けて大地を揺らした。そのたびに彼女の手がぼくの手をぎゅっと握っていた。ぼくらはしばらくの間、町に降る雨を見つめていた。
「あのさ・・・」
 握った手をそのままにぼくは話し始める。初めて会った日に、どうして声をかけようと思ったのか。どうしていつも悪戯ばかりしていたのか。どうして彼女の隣を歩くようになったのか。これまで形にならなかった思いの全てを何とかつなぎ合わせて言葉にした。彼女は目に涙を浮かべながら笑った。
 ぜんぶ話し終わったとき雨はすでに止んでいた。今まで胸につかえていたものが全部消化された気がした。ぼくらの後ろには真っ赤な夕日が浮かんでいる。ふたり並んでいつものように坂道を下る。いつもと違うのは二人の影が一点でつながっていること。それがぼくには嬉しくてたまらない。ぼくは転がっていた石ころを蹴りながら、長く伸びた彼女の影をずっとずっと追いかけた。
 それからぼくらの関係は前よりも確かなものになった。でも、変わったことといえば彼女がぼくのことを名前で呼ぶようになって、ぼくが彼女のことを紗織と呼ぶようになったことくらい。
 夏休みには二人で公園から見える海を目指して旅に出た。制服姿じゃない彼女の姿を見るのはそれが初めてだった。きれいな白色の服がひどく眩しい。何度か電車を乗り継いで、真夏の暑さにも耐えながら、ぼくらはやっと海に出た。彼女の住んでいた町に海はなかったから、初めて間近で見る海に興奮しているのがよく目に焼き付いている。ぼくらは靴を脱ぎ、膝まで水に浸かって浜辺を延々と歩いた。いたずらに彼女がぼくの背中に水をかける。新調したばかりのよそ行きの服を汚すまいと、ぼくは必死で逃げ回った。どれだけ水浸しにされても、どうしても応戦する気にはならなかった。太陽の光に照らされながら楽しそうに笑う彼女にぼくは夢中だった。結局、ぼくの真新しいTシャツは泥だらけになってしまった。
 他にも二人で隣町の花火大会を見に行ったり、近所の盆踊りに参加したりした。なんの行事もないときには、いつもの公園でブランコに揺られながら毎日毎日、太陽が沈むまで話をした。
 夏休みも終盤を迎えた頃、ぼくらはいつものように坂の上の公園にいた。日が傾きだした夕方、ぼぉっと町の景色を見ていると、
「あ、トンボだ!」
 彼女が、ブランコの外枠にとまる一匹のトンボを見つけた。
「トンボは目をたくさん持っているから、こうやって指をクルクルすると目が回って捕まえられるんだよ。」
 彼女は自慢げに話す。でも、そんなことは知っている。それがほとんどの確率で失敗することも・・・。
「へぇ、じゃあやってみてよ。」
 ぼくはにやにやしながら言った。
「よぉし・・・!」
 人差し指をぴんと立て、彼女は張り切ってトンボに近づく。指をトンボの顔に向ける。ところが、指をクルクルさせる間もなく、トンボはどこかに飛んで行ってしまった。公園にはほかにも何匹かのトンボがいた。躍起になった彼女はトンボを追いかけては指を差し、逃げられてはまた追いかけてを繰り返した。そんな彼女をあざ笑うように、夕暮れになるにつれてたくさんのトンボがぼくらの周りを飛び交った。疲れ切ってしまったのか、彼女はうつむいたまま静かに坂道を下った。
 次の日の正午、母さんの怒鳴り声で目が覚めた。
「ちょっとあんた!女の子が迎えに来てるわよ!」
 何事だろう。今まで彼女を家まで呼びに行ったことはあったけど、彼女がぼくの家に来るなんて。急いで支度をして家を出た。扉の向こうには真っ赤に目を腫らした彼女が立っていた。
「ど、どうしたんだよ。」
「・・・話があるの。」
 今まで聞いたことのないか細い声で彼女は言った。
「私ね、&%$町に行くことになったの。」
 知らない名前の町だった。目の前が真っ白になる。昨日ぼくといるときにはトンボの話しかしなかったのに。どうして。
「ついこないだここに来たばかりじゃないか。」
 ぼくはそれ以上の言葉を紡ぎ出すことができない。
 彼女は震える声で、父親の転勤が急に決まったこと、あすの朝にはこの町を出ることを告げた。彼女が反対することを分かっていたから、ご両親は直前まで知らせなかったそうだ。ひとしきり事情を話し終えると彼女は、
「今までありがとう。さようなら。」
 と、一言だけ残して去っていった。ぼくはただ茫然とするばかりでもう二度と会えないかもしれない彼女を追うことさえできない。ぼくの中に今まで感じたことのない喪失感が渦巻いていた。あまりの衝撃に涙も出ない。母さんに連れられて部屋に戻ってからは手足がずんっと重くなり、一歩も動けなかった。何時間もかけて彼女と過ごした日々を思い返す。どんなときでも明るく笑う彼女の顔が瞼に浮かぶ。何度か母さんが呼んでいる声がしたが、応える気力もない。部屋に運ばれた食事もほとんど喉を通らず、その日ぼくは知らぬ間に眠ってしまった。
 次の日の朝、遠ざかっていく昨日の彼女の姿が夢に出てきて飛び起きる。時間は9時前。まだ間に合うか。ぼくはなりふり構わずに走り出した。せめて最後にちゃんとお別れを言いたい。彼女の家まであと少しの所で、引っ越し屋のトラックが通り過ぎる。その後ろに一台の乗用車が続く。ぼくは走りながら、横目で助手席に彼女の姿を見つける。両の目から大粒の涙を流しながら、確かに彼女は笑っていた・・・。
 二学期が始まっても、学校に彼女の姿はない。ぼくは窓の外を眺める。夏が過ぎても、太陽は変わらずそこにあった。
 
 けたたましい音楽と共にケータイが震える。ぼくは目を覚ました。母さんから何度も着信が入っていたようだ。あたりは茜色に染まり、ぼくはずいぶん長い時間ここに座っていたようだ。木陰から立ち上がり大きく伸びをする。そろそろ帰ろう。坂道を下りはじめたぼくのそばを一匹のトンボが飛んでいる。どこからともなくやってきたそのトンボは、ひらひらとぼくの周りを回って、またどこへともなく飛んで行った。今年も、夏が終わる。
 あの夏を最後に彼女の姿は見ていない。でも、彼女がこの町にいた数か月の思い出は、ぼくの中で輝き続ける。きみはぼくの太陽。

「コロナ離婚」
k184105

「千草、ちょっと話あんねや10分で終わる。」
 またやって来た。3週間ぶりに帰ってきたわが子におかえりの一言もない。それにどうしてこう、私が課題をやり始めようと思ったタイミングでやって来るのか。「ちょっとこっち来てくれ」ベッドから出ずともそこが父の部屋を指していることは見当がつく。「そっちは嫌。話ならこっちでして。」父の部屋は臭い。得体のわからない臭いで包み込まれたあの空間は3分とて耐えられない。あの部屋には一生入りたくないのだ。
「千草には今の状況を知ってほしいんや」勝手に話し始める父。何度目かわからないその言葉をベッドから出ずに聞く。2週間前と何も変わっていない。
 いつからだろうか。家にいることがしんどくなったのは。いや、家が好きだと思ったことはあるだろうか。さかのぼってもそんな記憶なんかなくて笑ってしまった。私は相当ひねくれているらしい。
 昔から喧嘩の絶えない家族だった。兄弟間はもちろん、一緒に暮らしている祖母と母の所謂嫁姑問題というやつもひどい。さらにはお世辞にも仲が良いとは言えなかった父と母の争いも兄弟間の争いの減少と反比例するかのように増加していった。私は家にいるのが嫌で休日はバイトや遊びに明け暮れる日々を過ごしていた。
 しかし、この自粛が叫ばれる世の中において、家にいる機会が増えてしまった。それは家族全員に当てはまり、さらに家のなかは険悪になっていった。だから「離婚」というワードが母の口から出ても驚きはなかった。寧ろ自然であった。「あぁ、これで全てが解決するんだ」そんな思いすらあった。
 しかし話はそう簡単には進まなかった。予想外に父が猛反対をしたのだ。「俺とばあちゃん二人じゃ生きていけない」そんな理由に思わず笑ってしまった。
 離婚話が全く進まないうえに、父が執拗に部屋に来るようになった。母のいない時を狙って。私には自分の部屋というものがなく、母と妹と共同で使用する部屋がある。
 勝手に部屋へやってきては、「千草には今の状況を知ってほしいんや」といい、母の悪口や自身の過去の自慢話を語る。どこが現状なのか全くわからない。さんざん母の悪口を言った後に「お父さんはまたお母さんとやり直したいんや」だなんてどの口が言っているんだか、聞いていて呆れる。父と話すのは精神的にとてもしんどい。ネガティブで嫌な話が多いからだ。私が何か応えてもすぐに否定する。そして同じ話を何度も何度も繰り返す。
 父は障がい者だ。何の障がいかは知らない。3年前に倒れて以降一切働かず、かといって家事をするわけでもなく、じっと自室にこもっている。障がい年金というものを自給し始めたのがおそらくその時期なのだ。日常生活に支障はなく、歩くことも話すことも食べることも考えることもできる。だから一層、家にいて働こうとしない、家事すらしない父に母は腹を立て、嫌気が差していったのだ。
 現在家計を支えているのは母である。早朝は24時間営業のスーパーで働き、その後すぐに別の場所で働いて夜に帰ってくる。そして家事もすべて母が担当している。母は我が家の絶対的権力者なのだ。母はまさしくザ・大阪人で、思ったことをそのまま言ってしまう。何も考えずに。また、感情を隠すことができず、態度にモロに表れてしまう。言葉遣いも荒く、頭にきたらその感情を抑えられず一言も二言も余計なことを言う。
 それに対し祖母は、穏やかな人物ではあるが何かにつけて大阪と京都を比較し、大阪人を野蛮だと批判する。母のように大声でまくしたてるような話し方はしないが、いい方は回りくどく、くどくどと嫌味を言う。そんな二人の相性がいい筈もなく、毎回喧嘩になる。
 今までは2世帯住宅で2階が祖母と祖父の部屋、3階が父・母・姉・私・弟・妹の住む階であった。キッチンもお手洗いもダイニングもすべて2階にも3階にもあり、分けられていた。祖母と共同で使用するものはふろ場以外には何もなかった。母が祖母と関わるのは寝たきりの祖父の介護や1階の仕事場だけであった。私の目に届かない範囲だ。しかし、中3で祖父が亡くなり、追い打ちをかけるように、子ども目線からもうまくいっているとは言い難かった自営業も立ち回らなくなり倒産した。倒産の際に父は自己破産を選択し、1階がオフィスであった2世帯住宅を引っ越さなければならなくなったのが私が高校2年生も終わりに差し掛かった春のことだった。
 引っ越し先は一軒家の賃貸住宅だった。2階建てであるがもちろんキッチンもトイレもダイニングも一つである。母と祖母は以前の家にいる頃よりもさらに顔をあわせる機会が増え、喧嘩が増えていった。また、この頃から家計を支えるようになった母はさらに態度が大きくなり、一層祖母に対して遠慮がなくなった。「あんのくそばばぁ、あいつはただの同居人や。家族じゃない」これが母の口癖になった。日に日にエスカレートしていき「ただの同居人、家族じゃない」というワードは本人を前にしても言うようになった。一言も二言も余計なことを言ってしまうようになったのはこの頃からだろうか。どうして我慢ができないのか私には理解ができない。平和主義で全てを穏便にすませたいと思うのは毎日こんな修羅場を見させられているからなのかもしれない。
 引っ越して1年間、私はほとんど家にいなかった。居たくなかった。私は受験生になった。バイトや塾に遅くまでいた。進学に親は猛反対だった。「どこにそんなお金があるんや」「ごめんやけど進学は諦めてくれ」当時の我が家の状況を鑑みるとそれは当たり前のことだったのかもしれない。だけど私は周りの人が当たり前のように進学を選択するのに自分だけができないことに納得できなかった。いや、本音を言うとまだ働きたくなかったのだ。特に学びたいものなんてなかった。ただ親に反対されたのが悔しくて、働きたくなくて、「絶対大学に行ってやる」という気持ちなった。とんだ親不孝者である。
 幸いにも私は高1から中々な頻度でバイトをして蓄えた貯金があった。そのお金で親の反対を無視して塾に通った。映像授業であったので最小限の講座だけをとり、毎日22時まで自習室に籠った。家には寝に帰るだけの日々である、はずだった。毎日祖母が待ち受けていた。どんなに静かにドアを開けても玄関に一番近い部屋の祖母にはばれてしまう。私のことを労わるふりをしながら毎日毎日母の愚痴を言う。ある時本当にしんどくて「私もう疲れてるから寝たいんやけど」というと、「そんなん千草ちゃんだけじゃないよ。皆同じやで。おばあちゃんだって疲れてるよ。そんなんなぁ言うたらあかんで。」と言われた。いつもなら気にしないような一言であるが、なぜかその時はひどく傷ついてしまった。何を言っても無駄だと悟った。今思えば家族のだれにも相手にされない祖母は寂しかったんだと理解できる。しかし受験生と余裕のない心理的状況の中、他人の愚痴を永遠と聞かされるのはとてもつらいものだった。自習室で勉強をしている方が何倍も楽だった。
 3年生も後半になると、私の努力を見てか、母が進学を応援してくれるようになった。相変わらず父は反対であったが。受験生になってもバイトは続けていたのでそのお金で受験料は自分で賄うことができた。といっても私は受験運がとてもよく、私立の公募で一回、国立推薦で一回、国立前期で一回の計3回分の受験料だけで済んだ。受験料だけで100万を超すと言っていた同じクラスの生徒の言葉を聞いては、羨ましいなんて思っていたが結果オーライだ。しかし入学金までは自分で賄えなかった。だが、母が私のために貯金をしてくれていたおかげでなんとか進学することができた。最後は結局親を頼らなければならない、自分では何もできない子どもだと思うと同時に親に感謝した。
 大学生になると、私はまたバイトと遊びに明け暮れるようになった。しかし、この頃は引っ越して1年以上が経過したためか、この生活様式にも慣れ、比較的平和であった。喧嘩はすれど大きな喧嘩はほとんどなかった。
 大きな出来事と言えば、弟が知的障がい者という認定を受けたことと父が脳梗塞で倒れたことくらいだ。
 弟は昔からあり得ないほど勉強ができなかった。運動もてんでダメだったが、私も同類なのでそこには触れないでおこう。中学の頃5教科で50点以上取れたためしはなかった。弟だけ塾に通っていたが、母曰く「金をどぶに捨てたようなもん」だったらしい。数学で12点を取って喜んでいる姿を見て私は呆れてしまった。しかし、家族のだれもが、弟が勉強ができないのは勉強をしないからだと思っていた。テスト前に弟が勉強をしている姿なんて見たことがなかった。テスト前でなくとも同じだ。机に座って熱心にしているものは決まってゲームだった。そんな弟のことをよく思う家族はいなかった。また、弟はいつの頃からかいじめを受けるようになった。妹も同様だった。理由なんてわからない。3つ子という割と特殊な兄弟構成だった。同じクラスにはならない。気づけば2人ともいじめを受けていた。いじめがよくないことなんて知っていた。2人がいじめられていることも知っていた。でも私はその問題から逃げた。次にいじめられるのは自分なんじゃないかと怖かった。学校では極力2人と関わらなかった。仲が悪いふりをした。人にもそう言っていた。言霊とはうまくいったものだ。本当に私たちは仲が悪くなった。心の底から家族が嫌いになった。2人を無視することに罪悪感なんてなかった。毎日無事に1日が終わることを願っていた。
 弟はどんどん荒れていった。すぐに癇癪を起すようになった。汚い言葉を大声で叫び、地団太を踏む。妹は自分の殻に閉じこもるようになった。
 そんな当時のことを思い出して父は「前の家にいたときは幸せだった」と言う。どこが幸せだったのかわからない。父は何を見ていたのだろうか。
 高校生になって、みんなバラバラの高校を選択しても仲が良くなることはなかった。友人から聞く数々の仲の良い兄弟話が現実のこととは到底思うことができなかった。
 しかし、弟が知的障がいだと認定されると感じ方が変わった。丁度そのころ大学の講義で障がいについて学んでいた。まさか身近にいるだなんて思いもしなかった。また、障がいが脳の病気であり、本人は何も悪くないということも知っていた。
 母から弟が知的障がいだと知らされた後、たまたまリビングで鉢合わせた弟が「俺知的障がいやねんて、やから俺全然勉強出来やんねん」とほっとした表情で言われたことは忘れられない。その時にやっと、弟がみんなのようにできない自分を不安に思っていたんだと知った。弟も一人の人間でちゃんと感情があるのに私はずっと冷たい、馬鹿にした態度で接していたことを反省した。そこから弟とちゃんと会話ができるようになっていった。弟が自分のことを理解し、また周りも理解することができたからだろうか、弟が癇癪を起すことはなくなり、出かけるたびに何かお土産を買ってきてくれるようになった。物言いもとても穏やかになり、本来の優しさがまたあらわれるようになった。
 妹も高校時代にためたお金で専門学校に通うことができ、自分の好きな「絵」を思う存分描き、活き活きとした毎日を送っている。妹の学校の最寄が大阪なので、たまに妹と大阪へ出かけるようになったのも私自身の大きな成長である。
 そんな中、父が脳梗塞で倒れた。幸いにも後遺症はない。「医者には90日間は入院しなさいって言われたけど、俺は4日で抜け出したんや。11人もいる看護師の目を盗んで病院から出たんや。」という話は父の武勇伝に加えられ、これから幾度となく聞かされることになる。家族のだれもがおとなしく入院してほしいと願っていたにもかかわらず。
 大学2年生も比較的穏やかであった。弟の就職先が決定し、姉が彼氏さんと同棲を始めた。
 弟はバイトをしても1か月と持ったためしはなく、最短で1日で辞めてきたこともある。要領が悪く、クビ宣告を2回受けたことがある。そんな弟が就職できるとは感慨深いものがある。弟は4年制の夜間高校を卒業してから職業訓練学校という所に入学した。高校の先生が勧めてくれたのだ。知的障がいの検査についても同様で、就職の幅を広げるためにということだった。結果職業訓練学校に入学でき、障がい枠で就職ができたのだから、高校の先生には頭が上がらない。就職して半年以上が経過する現在も順調に仕事を続けている。
 姉は友人の紹介で知り合った人と付き合い、同棲を始めた。「友人の紹介で知り合った」と本人は言っているが、私はマッチングアプリではないかと思っている。なぜなら、姉に彼氏さんができた頃に、やたらとマッチングアプリを勧めてきたからだ。(出会い系アプリというと怒られた)まぁ何はともあれ幸せそうで何よりである。夜中にリビングに行き、たまたま姉が彼氏さんと電話をしている場面に遭遇し、気まずい雰囲気になることもなくなるのだ。引っ越す直前の姉の表情は明るく輝いていた。
 そして訪れる3回生である。すべて授業がオンラインになり、バイト先も時間短縮、営業自粛である。友人との遊ぶ約束もすべて流れた。楽しみもなく、日に日に増えていく課題に押しつぶされないように躍起になる中で聞こえてくる言葉は、ひどいものばかりだ。妹の学校は4月こそオンラインだったものの、すぐに対面授業に切り替わった。「大阪(梅田)で対面できるなら、市外の大学も行けるやろ」なんて、こんなにも大学に行きたいと思えたのは初めてだ。
「コロナ離婚」という言葉がニュースで流れた。家も「コロナ離婚」なのだろうか。まぁどうでもいいか。
 最近母に姉から電話がかかってくる頻度が高くなった。姉はいつだって泣いている。「りんくんに幼稚園児以下だと言われた」「りんくんが元カノとよりを戻すって言ってくる」「りんくんが叩いてきた」日に日に内容はエスカレートする。その度に母は「家に帰ってきなさい」という。しかし姉が家に戻ってくることはない。「家に戻るとりんくんに捨てられる」「りんくんと一緒にいたい」姉は何時間も平気で泣き続ける。元カレと別れた際も毎日何時間も泣き続けた。「生きていく意味がない」「やり直したい」毎日毎日飽きないのかというほど泣き続けていた。姉は依存体質なのだ。粘着度高めの。恋愛をするとその人以外見えなくなってしまう。「軽度のパニック障害を持っている」母にそういわれたとき、私は驚いた。と同時に「また障がいか」とも思った。「障がいだから仕方ない」「そういう性質を持っているんだ」そう思うことしかできない。父に何を言われても「障がいだから仕方がない」姉が何時間も泣き続けるのも「障がいだから仕方がない」障がいとつけば何でも許さないといけないのだろうか。「障がいだから」そう思うことで何とか耐えることができるのも事実である。ただ障がいを持つ本人らが自身の特性とうまく付き合っていく方法を模索せず、他人にすべてをぶつけることに腹が立つ。どうして私ばかりが我慢を強いられるのだろうか。どうして早朝から働いている母に夜に何時間も泣き続ける電話ができるのだろうか。バイト上がりの午前3時。家路についていると母の姿が見えた。声をかけると「姉が病院に運ばれた。今から行ってくる」ということだった。そんな場に遭遇してしまっては「頑張って」と見送れるはずがない。眠い目をこすり「私もついていくよ」と言わざるを得なかった。車で30分ほど走るとその病院についた。車内で話を聞くと、姉はずっとお腹が痛いと彼氏さんに訴えていたが、彼氏さんが放置していたらしい。また「病院には行くな」とも言われたらしい。しかし最終的に姉を病院まで運んだのは彼氏さんだ。全くもって意味が分からない。何がしたかったのだろうか。病院につくと丁度姉の検査が終わったところだった。結果は異状なし。本当になんなんだ。「もしかしたら姉が彼氏さんから暴力を受けたのでは」なんて考えていた時間を返してほしい。何ともなくて喜ぶべきなのだろうが、そんな気力はなかった。
 そんなコロナ禍に母宛てに一通の手紙が届いた。母の息子からだった。母はバツイチだった。二人の子どもがいることはいつからかわからないがなんとなく知っていた。一生関わることはないだろうと思っていた。そんな人物から母宛てに手紙が届いたのだ。私は正直「もうこれ以上面倒ごとはよしてくれ」としか思わなかった。母もかなり動揺をしていた。様々な感情が渦巻いていたが、その中でも一番大きな感情は喜びであったようだ。そんな二人が親しくなるのに時間はかからなかった。毎週のように彼のもとへ出かけていく母に特別嫌な気持ちもいい気持ちも抱かなかった。「弘人があんたたちに会いたがっている」そんな会話が出るのも自然な流れだったのかもしれない。私は別に会いたいとも思わなければ会いたくないとも思わなかった。どっちでもよかった。母曰く姉なんかは弘人さんに会うのを楽しみにしていたらしい。「だって私のお兄ちゃんやろ」姉は小さいころからずっとお兄ちゃんが欲しかったらしい。私たちと姉は2歳しか違わず、私たちが生まれると両親は3つ子の私たちに付きっきりになった。それを見た姉が「お姉ちゃんは嫌。私もお兄ちゃんが欲しい」と泣いたそうだ。しかしそうはいっても20歳を過ぎてから登場した人物を今更「お兄ちゃん」だなんて思うことができるだろうか。私には無理だった。いくら血のつながりがあろうが彼は「他人」だ。どんなに優しく印象のいい人物であろうと「お兄ちゃん」になることは一生無い。
 そんな中、私の実習が迫っていた。実習先が遠く、私はウィークリーマンションを借りる予定だった。弘人さんはなんと私が住む予定の場所から車で10分ほどの場所に住んでいた。「困ったことがあったら何でも言ってね」そういう彼に私は「わかりました。頼もしいです。」と答えた。連絡なんてする気もないのに。彼の優しさは私にはどこか不気味に思えた。
 私は言い争いの絶えない家を後にして、一人暮らしを始めた。それは快適以外の何物でもなかった。幸いにもキッチンでバイトをしていたため、料理は得意だった。家事も自分の想像以上にできた。悲しいなんて微塵も思わなかった。ホームシックとは縁遠かった。「一人でも生きていける。」そんな自信がついた。同時に家にいることで想像以上に私自身が疲れていたことを知った。しかしまだ一人暮らしはできない。経済的に。「いっそのこと一人暮らしの彼氏を作って同棲してしまうか」そんな考えが頭をよぎった。だが私はこんな家庭環境で育ったためか、恋愛に希望が持てない。好意を寄せてくれた異性に対し嫌悪感が沸き上がってしまう。気持ち悪い。これをカエル化現象というらしい。仮に恋人ができたとしても長続きはしない。私は冷めているらしい。「なんか冷たい」「俺のこと本当に好きなのかわからない」「千草は何も教えてくれない」私がこんな風になったのは、誰かに依存してしまうことに恐怖を抱くのは姉のせいなのだろうか。
「プシュッ」ドラッグストアでいい匂いだと思って買い、部屋においてあった消臭センサーがなった。途端に鼻をかすめる匂いは元カレの部屋と全く同じだった。私は彼を好きではなかったのだろうか、わからない。プルースト効果というワードが頭の中をかけめぐる。エモーショナルな感情が押し寄せる。私は布団にもぐる。眠るということは私の自己防衛の一つなのかもしれない。「自分のことについて考えることができるのも少し心の余裕ができたなのからかもしれないな。」私は考えるのをやめた。
 
 実習の3週間はあっという間に終わった。私はまた現実に帰らなければならない。待ち受けていたのはさらにひどい現実だった。
「俺もばあちゃんもちゃんと子どもたちをしつけてきたよ。でも子どもたちはあいつにまともにしつけられなかったからしつけがなってないんや。」
「しつけがなってないって何?そもそも私はお父さんにもおばあちゃんにもしつけられた覚えなんかないけど。」
「千草も口調がお母さんに似てきてしまったなぁ」
「お母さんに似てきたって何?私だって毎日毎日家族の悪口聞かされて、何回も何回もお父さんの過去の栄光にしがみついた話を穏やかに聞いてられるほど器の大きい人間じゃない!」
 何かが切れてしまった。障がいだから仕方がない?じゃあ私はいつまで我慢しなければならないのか。
「そうや、何回も言うよ、俺は昔は普通の人じゃなかった。普通以上の人やった。」
「そうやって私が何か返事してもろくに聞かんとまた語り始める。」
「ちゃんと話は聞いてる。」
「聞いてない!お父さんは文の単語を拾ってるだけ。文の全体の意味なんか気にしてない!」
 口が止まらない。
「千草まで、なんで家族はみんなお父さんのことをいじめるんや。」
 この人には何を言っても無駄だ。そんなことはわかっている。
「この家に来てからすべてが壊れた。」
「前の家おったときも変わらんかった!ただ見てないだけ。弟と妹がいじめられてても知らんふりやった!」
「誰がいじめられてたって?」
 驚いた風に言う父。本当に呆れる。
「弟も妹も小中ってずっといじめられてた!」
「知らんかった。」
 何を今更。
「弟のことをカツアゲした人らが家に謝りに来たことも、弟の彫刻刀が窓から捨てられたことに対する謝罪の電話が家に来たことも学校からの連絡はいっぱいあった。知らんかったんじゃない、見ようとしやんかっただけや!」
「確かに前の家おったときはなんも知らんかったよ、俺は、お父さんは家族のために一生懸命働いていたから。」
 プツン、もう何も会話をしたくなくなった。
「今から課題するからもう出て行って。」
 時計を見ると14時前だった。10分で済むという話は1時間近くかかっていたらしい。
 父が部屋から出て行ってしばらくして、私はようやくベッドから抜け出した。お腹が空いた。私はリビングに行って昨日の余りであるビーフシチューを温めた。1口食べるとポロリと涙があふれ出た。何の涙なのかわからない。悔しいのか悲しいのか言いすぎてしまったことに対する罪悪感なのか。この得体のしれない涙は不気味だ。いつもなら何か泣きたくなったら感動する映画や本を読み、理由を作って思いっきり泣くが、今日はそんな余裕がないらしい。私はその両目から零れ落ちる涙に気づかないふりをしてビーフシチュ―を食べ続けた。流れる涙以外に異常はない。呼吸が乱れることもなければ嗚咽が混じるなんてことはありやしない。いたって普通の穏やかな私である。
 今日は一日寝て過ごすことになりそうだ。

「思い出」
k184107

  去年の大みそかはバタバタしていて、部屋の大掃除ができなかった。年が変わってからも、学校に部活にバイトに飲み会……なんやかんやと忙しい日を送り続けて、結局掃除はできていなかった。たった数時間しか家に居ないのだから、食べて、お風呂に入って、寝てしかできなくて、当然ながら掃除なんてやっている時間はない。もともと掃除自体が嫌いなんだから、なおさら。
 そんな生活もピークを過ぎると、段々と忙しさも減っていった。春になるころには何もすることが無くなって、今までの生活が嘘みたいに、突然暇になった。忙しい時は忙しい時で、しんどいとか休みたいとか、不満に思うことは多かったけど、そんなことを考えるよりも大量のやるべきことに追われていて、いちいち後ろを振り向いている時間なんてなかったものだ。「はやく、ゆっくりできる日が来ないかなぁ」と、叶いそうもない願望を抱きながら日々を過ごしていた。
 でも実際その願望が叶ってみると、思ったより充実しない生活が待ち受けていた。朝起きて、今日何をするかを考えることは、とても難しいことだと気づいた。だって今までは、ほぼ自動的にすることが決まっていたのだから、朝起きて何をするかを考えなくても、自然と体がそれに向かって動いていた。だけどそれが無くなった今、普段やり慣れていないことを突然やれって言われても、そう簡単にはできないものだ。だんだんと考えを巡らしていると気分が下向きになる。結局、忙しい自分の方が、人生を楽しんでいたのだろうか。やることづくめで毎日何かを考える間もなく奔走していた自分が一番輝いていたのだろうか。皮肉なことに、人間は忙しい時は暇を欲し、暇なときは忙しさを欲する。あ、でも人間みんながそうとは限らないから、ぼくは、と主語を小さくしておこう。
 こんなとりとめもない事を考えている自分にますます嫌気がさす。気分を紛らわすべく、LINEやInstagramに届いたメッセージに返信する。こういう暇なときに限って、誰かと話したいときに限って、一向に返信が来ない。いつもだったら、スマホを開いて「通知たまってるなぁ」と思いながら、1人ずつに返信していた。そしてしばらくしてもう一回スマホを開くと、ある程度の通知がたまっていて、それにまた返信する。この繰り返しだった。今は暇でスマホを開く頻度が高くなったから、なかなか返信が来ないことに気がいってしまうのかもしれない。それにしてもこんなに通知が少ないスマホのホーム画面を見るのは、中2で初めてスマホを買ってもらった日の、LINEの友だちが4人か5人くらいしかいなかったとき以来じゃないかと思う。これじゃまるで最近スマホを使い始めた78歳のおばあちゃんと同じじゃないか。
 実家暮らしだから、親と一緒に住んでいる。ところが親は朝早くから仕事に行くから、ぼくが起きる頃にはすでに家にいない。もともと、うちは1人親できょうだいもいないから、小学生のころから家に1人でいることが多くて、そんな生活にも慣れていた。ただぼくが大学生になると日々の生活リズムがそれまでよりも随分変わって、朝は親が起きるより早くに家を出て、夜は親が寝た後に帰ってくるというような生活がパターン化していった。2人しかいない家族なのに、その相手の声を1日に1回も聞くことがない、なんてことが何日も続くことだってあった。うちはなかなか珍しい家族だなぁと思いながら、今日も安定して親が家におらず、また1人話し相手を失ったことに気づき、いよいよ本格的にやることが無くなっていった。
 何をしようか、何をしようか、と同じことを何度も何度も繰り返し考えているけど、やっぱり何もやることが無い。ずっとベッドの上で寝ながら同じことを考えていても仕方がない、とりあえず朝ご飯を食べよう。食べているうちに何かすることが見つかるかもしれない。
 そう思ってベッドから降りた。そして自分の部屋を見回す。
「きったねぇな……足の踏み場もないやん。」
 ご飯を食べていたらやることが見つかるだろうと思っていたが、それは想像以上に早く見つかった。
 そうだ、大掃除をしよう。
 朝ごはんといってもかなり質素。もともと朝起きるのがそんなに得意な方ではなく、いつもぎりぎりまで寝てしまっている。朝は毎日、家を出るべき時間の10分前に起きて、歯磨きをして顔を洗って着替えを済ませて家を出る。時計を見なくてもこの1連の流れをきっちり10分で行うスキルが身についてしまった。こんな朝の過ごし方なので、当然ながら朝ごはんをちゃんと食べる習慣は無く、たいてい野菜ジュースとか、小さめのお菓子を朝ごはん代わりにしている。ぼくの友だちは、朝早くに起きてそれなりの朝ごはんを食べる人が多いから驚きだ。ぼくも小さいころから友だちみたいにきちんとした生活習慣を送っていれば、こんなズボラな性格にはなっていなかっただろうに、と反実仮想の現代語訳みたいなことを思ってしまった。
 ズボラな人はたいてい部屋が汚い。言うまでもなくぼくもその1人だ。普段から掃除をしなきゃしなきゃとは思っているのだが、忙しさを口実にしたり、見てみぬふりをしたりして、掃除の日程をどんどん先送りにする。だから足の踏み場もないような部屋が完成していくのだ。よく、「俺の部屋、足の踏み場もないくらい汚いねん」と、自嘲気味に言う人がいる。部屋が汚いことは、世間的には忌み嫌われるものだという認識から自嘲しているのだろうが、むしろぼくはこんなことを言う人に好感を持つ。自分と同類だから、きっとこの人と一緒に暮らしても絶対にうまくやっていけると、根拠の薄い自信を抱くのである。将来はズボラな人と結婚したい。そうはいってもずっと汚いままにしていると、ほこりがたまってしまったり、虫が湧いたりして、部屋の環境がどんどん悪くなっていく。親はこんな部屋が大嫌いで、たまに話すときには必ず部屋を掃除しろと怒ってくる。その時は、はいはいと適当な返事をして済ませるのだが、掃除を先延ばしにすればするほど怒りのレベルもアップする。さすがに今の部屋の状況はまずい。今度会って話すときには、尋常じゃないくらい怒られるだろう。今日はちゃんと掃除するから怒らないでね、お母さん。
 ズボラな人間にとって、掃除ほどつらいものは無い。こういう人間はたいてい、何から始めたらいいのかわからないのだ。数学がわからない人が、数学の何がわからないのかがわからないと言うのと同じで、普段全くしないことをやろうとしても、そのとっかかりがわからない。現に今、ぼくも何をしたらいいのかわからない。終わりのない作業が始まる感じがして、もう心が折れそうだ。せっかくの春休みなのに、どこにも出かけず、誰とも会わず、何の言葉を発することも無く、ただ唯一のやることが掃除だなんて……。今この時間は人生の中でもワースト10に入るくらいの過酷な時間だろう。こんなこと人に言ったら笑われちゃうかも。
 とりあえず床の上に散乱しているプリント類を整理する。全部大学の授業で配られたものなのだが、それを授業ごとのファイルに入れたり、何かに綴じたりして管理しないので、もうぐっちゃぐちゃだ。これは何の授業で配られたんだっけ……。ほぼ忘れかけている記憶を強引に頭から引き出しながら、何とかプリントを整理することができた。正確さは保障できないけど。本当はプリントなんて一気に捨ててしまえば楽なのだろうけど、「学校で使った教科書やプリントは捨てずに必ず手元に残しておきなさい」と、昔から厳しく言ってきたのはおばあちゃんだ。何故だか知らないがそれだけは着実に守っていて、小学校から高校まで、使ってきた教科書・ノート・プリントは全て捨てずに押し入れにしまってある。それが今までに役に立ったことは一度もない。だけど80年近く生きてきた人生の先輩であるおばあちゃんの言うことだから、何だか捨てられなかった。きっと、これからふとした時に「捨てなくてよかったぁ」と思う機会が現れるのだろう。「いつかまた会える日がやってきたらいいね」と、この大学のプリントたちに声を掛けて押し入れにしまった。
 プリント整理だけでかなり疲れるものだ。いったん休憩しよう。大掃除を初めてたった1時間しか経っていないのにもかかわらず、神経はかなりすり減らされている。なんとか見えた床のタイルの上にうなだれるように座ってぼーっとした。普段床の上に座ることなんてないから、今ここから見えている景色がなんだかとても新鮮に感じる。小1で身長がとっても低かったときは毎日この景色を見ていたのだけれど、どんどん身長が伸びていって、今はもう、鴨居に頭をぶつけるくらい高くなってしまった。いろいろあって小1に上がるころにこの家に引っ越してきた。今こうやって座っていると、その時のことがよみがえる。慣れない場所で生活すること、全く聞いたことのない小学校に入学することが不安で毎日のように泣いていたこと、入学式の日に早速友だちが出来て学校に行くのを楽しみに思っていたこと、友だちをこの部屋に呼んでゲームをしたりお喋りをしたりして盛り上がったこと。大学生になった今はもうそんなことはしなくなった。決して今が嫌だというわけではないのだけれど、時々幼いころに戻りたいと思う時がある。何を思うことも無く、夢中で毎日を楽しんでいたあの時。もっと楽しんでおけばよかったなぁなんて、今さら後悔しても遅いのだ。大切なものは、いつもいつも失くしてからその大切さに気付く。
 普段見ることのない景色を眺めていると、机の下の奥の方に、大きめの青い箱があることに気づく。この箱がこの部屋にあることは知っていたのだけれど、もう何年も目にしてこなかった。もはや何がこの中に入っているのかも忘れてしまった。恐る恐るそれに手を伸ばして、ふたの上に積もった大量のほこりを払った。ゴホゴホと咳が出てしまった口を左手でおさえて、右手でその箱を開けてみる。
 その中身は中学校の卒業アルバムだった。
 何年ぶりだろうか、これを見るのは。恐らく中学校を卒業してから1度も開いたことが無かったから、もう5〜6年ぶりくらいになるのだろうか。卒業アルバムの表紙には「Traveler of time」と書かれている。時の旅人。中学校の卒業式の日にこのアルバムをもらった時には、表紙にこの言葉が刻印されている意味がよくわからなかった。アルバムからは古本屋さんで感じるような匂いが漂っていて、ずいぶんお粗末な扱いをしてしまったものだと反省しながら、1ページ目を開く。中学校の校舎や運動場、教室の写真がところ狭しと載っていた。ぼくが通っていた中学校は、中2の時に新校舎に移転した。だから卒業アルバムには2種類の学校の様子が載せられているように思える。古いほうの校舎なんて今の今まで思い出したことが無かった。新校舎の方も今まで思い出したことがあるのかと言われればそういうわけではないのだけれど……。でも、中学生のぼくにとっては、多感な時期を過ごした学校はもう1つの家みたいな存在だった。写真を見れば見るほど、その時の記憶がよみがえってくる。この教室で毎日部活してたなぁとか、ここでいつもしょうもない遊びをやってたなぁとか、ここで先生に相談に乗ってもらってたなぁとか、まるで昨日の事みたいに思えてくる。
 アルバムの最後には「あなたがつくるページ」といった、何とも投げやりなコーナーが設けられていた。たいていの人はここにみんなから寄せ書きを書いてもらうのだ。1つ1つの寄せ書きを読んでいると、また更に懐かしい思いになってくる。
「この1年間めっちゃ楽しかったで!高校いってもFight!」
 たいていはこういう風に、「楽しかった」と、「高校行っても……」系が多い。寄せ書きに書く定番のフレーズだ。みんなに書いてもらった通り、ぼくは高校に行っても自分というものを崩さずに毎日を過ごした。部活も頑張った、勉強も頑張った。たくさん遊んだ。しんどいこともあった。色んな事を乗り越えて今大学生になっている。改めて考えると、今自分が大学生として居られることがなんだか壮大なことのように思えてきた。そしてそれはぼくだけではなく、他のみんなもそうなのだ。周りの人たちは何ともない様子で日々を過ごしているように見えるけれど、実はその中で大なり小なり、色んなことと戦っている。その戦いに勝つこともあれば、また負けることだってある。そんな紆余曲折を乗り越えて、今の生活が成り立っているのだ。「偉いぞ、よく頑張ってる!」と、自分で自分を褒め、また自分以外の全員のことも褒めてやった。
「長い間ありがとう。とても楽しかった。君との思い出はおもいで〜」
 くだらない。彼は中学生の時、毎日のようにダジャレを考えてきてはみんなに披露していた。でも「おおー」と感心されることはなく、「しょうもないねん」とツッコまれ、さらに罵詈雑言の応酬を食らうのだった。それでも彼はひるむことなくダジャレを言い続けていた。どうやったらそんなメンタリティが身につくのだろうかと不思議に思う。
 彼は小1からの付き合い。うちの校区はほぼ小中一貫のようなシステムで、小学校と中学校のメンバーはほぼ変わらない。だから「長い間」というのは9年間という、本当に長い年月のことを表すのだ。
 彼はよく泣く子だった。友だちとちょっと言い合いになっただけですぐに泣く。衝撃的だったのは小学校低学年のころ。彼は好き嫌いが尋常じゃないほど多く、毎日と言っていいほど給食には嫌いな食べものが出てきては、食べられないと言って泣いていた。担任の先生はそれを許すことなく、「食べ終わるまでずっと泣いとけ」とか平気で言っちゃってた。令和のこの時代にこんなことを言ったら、もしかしたらニュースになるかもしれない。彼はどうしても我慢できないくらい嫌いな食べ物があると、それを給食袋に入れて持って帰ろうとする癖がある。さらに彼は、固形の食べ物だけでなく汁物も給食袋に流し込んでしまう。パンプキンスープがどうしても食べられなかったみたいで、それを給食袋の中に入れる。しかし当然ながら袋の繊維の粗さで汁がぼとぼととこぼれだし、教室の床が汚れてしまった。先生は血相を変えて怒り、そして彼はまた号泣する。こんなことがあっても、またしばらく日が経ってしまえばまた同じことを繰り返す。やはり彼は昔からメンタリティが強かったのだ。
 そんな彼と今でもご飯を食べに行くことが時々あるのだが、彼の好き嫌いはほぼ克服されていて、出されたものを何でもよく食べる。ダジャレも言うことが無くなって、最近は将来について真剣に語りだす事だってある。あのころとは別人のようだなぁ、成長したんだなぁと上から目線ながら思ってしまう。
「あなたは良い人です。15年生きてきた中で一番です。本当に感謝しています!ありがとう。」
 これを初めて見たとき、どうしてこの人にこんなに感謝されているのかわからなかった。正直言ってこの人のことは苦手だった。本格的に話し出したのは中2のころからだが、思ったことを何の遠慮もなく言うような性格で、言ってはいけないことを平気で言ったりする。捉えようによっては、真っすぐな性格という風に良い感じに言い換えることもできるのだが、それでもその時の自分にとっては何となく付き合い心地の悪い相手だった。そんな彼はサッカーが大好きで部活でも活躍していたのだけれど、彼の「真っすぐさ」がわざわいとなって、チームワークが乱れることがあったようだ。それがどんどんエスカレートし、中3の初めごろには何人かの部員が退部してしまった。その時からだった、彼に対する無視が始まったのは。無視をするサッカー部の人たちの気持ちもわからなくはないのが正直なところだったが、明らかに孤立していく様子がいたたまれなかった。
 サスペンスドラマのラストで犯人の罪が暴かれていくシーン。ぼくはあれを見るのがとんでもなくつらい。それまでお高くとまっていた人間が化けの皮をはがされ、どんどん追い込まれていく様子がいたたまれなくなるのだ。こういうのを共感性羞恥というらしい。そしてサスペンスの犯人というのはやむにやまれぬ事情を持っている人が多いから余計見るのがつらくなるし、最終的には犯人に向かって「逃げろ!」と叫んだりしちゃうときもある。もちろん殺人を肯定するような思想を持ち合わせてはいないのだが、ついつい犯人を擁護してしまう自分がいる。
 こんなたいそうなものではないが、彼に対しても同じような感情を抱いてしまった。彼はいつもサッカー部の人たちとつるんでいたので、サッカー部の人たちから無視されてしまっては、教室でまともに話す相手もいない。椅子の上にじっと座っているだけだった。
 見るに堪えなかったので、ぼくは彼にちょっかいを出すようになった。明らかにやさしい態度を見せると、周りから偽善者ぶってると言われ、今度はぼくが嫌われるかもしれないと思って、懇切丁寧に接することはできなかった。後ろから彼に近づいてこちょこちょしたり、軽く頭をたたいたりしていた。もしかしたら嫌な気分になった時もあったかもしれないが、だんだんと打ち解けるようになって、他愛のないことを話すことも多くなった。その時の彼の話し方は、それまでの何倍も柔和だった。あぁ彼はきっと改心したのだとその時思った。昼休みには、ぼくと仲の良い友だちのグループでやっていたボール遊びにも彼が参加するようになったし、前よりも話し相手が増えたようである。そういう意味では「あなたは良い人です。15年生きてきた中で一番です。本当に感謝しています!ありがとう。」とアルバムに書かれた理由も少しはわかるかもしれない。ぼくって結構いい奴なんだなぁと、また自分を褒めた。
「今までありがとう。また俺ん家遊びに来いよ!ずっとこの関係続けよな。」
 親友からのメッセージだ。彼は小1からの知り合いだが、小学生の間はほとんど言葉を交わしたことがなかった。本格的に話し始めたのは中1の最初。もともと剣道部に入ろうと思っていたぼくを、強引に違う部活の体験に連れて行ったのがすべての始まりだった。最初は「そんなに話したことも無いのにグイグイくるなぁ」と暑苦しく思っていたのだが、それ以上に彼は他の人にはない優しさを持っていた。しょうもないことをして盛り上がりたいなぁと思ったときは、必ず明るい気分にさせてくれる。つらいことや悩み事があって落ち込んでいるときには、真剣に話を聞いてくれる。ぼくが行きたい場所を言ったら必ず一緒に来てくれるし、何ならちゃんとした予定まで組んでくれる。ご飯も何度一緒に食べに行ったかわからない。彼の家に遊びに行ったり、泊まったりすることもあった。こんなにずっと一緒にいると話題が尽きることだってあるのだが、もはや沈黙すら気にならなくなっている。
 彼は唯一無二の存在だと確信したのだが、中学校卒業が近づいたとき、この関係もどんどん廃れていくのかなぁと、漠然とした不安が押し寄せた。しかしそんな心配はすぐになくなり、高校生になってもこの関係は変わらなかった。大学生になった今、彼は車の運転にハマり、時々ぼくをドライブに誘ってくれる。この間は東京にまで連れて行ってくれた。会話の内容は中学生の時と同じで、全く成長は感じられないけれど、それがかえって落ち着いたりする。彼は本当に僕の親友だなぁとつくづくと思う。5年前のぼくたちに、この関係は今でも続いているよと、胸を張って言いたい。
 かれこれ1時間ほど卒業アルバムを眺めていた、ふと時計を見ると、さっき朝ごはんを食べたばっかりだというのに、もう少しで昼ご飯を食べる時間になってしまう。ぼくは時の旅人みたいに、5年前にタイムスリップしていたかのような気分になった。朝起きてから下向きな気分にしかなっていなかったけど、それが少しだけ上向きに傾いたような気がした。
 肝心の大掃除はまだ10分の1も終わっていないけど……。

「ラフメイカー」
k184108

 この街が、日本が、海の底に沈むなんてことは万が一にもあり得るのだろうか。庭に残った水たまりにスポンジを浸しながら、なんとなしにそんなことを考えていた。秋の陽射しが水たまりにキラキラと輝いている。
「おい、さっさと終わらしちまおうぜ」
 僕の手が止まっているのに気づき、増井がだるそうに言った。僕の隣で水たまりとバケツをスポンジで往復する作業に邁進している彼は、この世の平均をとって産まれてきたかのような男であった。体型は中肉中背、顔にも髪型にも、個性のカケラも見出すことができない。時折、僕も何をもって彼を彼と認識しているのか不思議に思うほどである。僕は黙ったまま、水たまりとバケツとの往復運動を再開した。この作業をしていると、中学生の頃を思い出す。梅雨や台風の時期になると、水捌けの悪いグラウンドには無数の水たまりが所狭しと作り上げられるのだ。雨を司る神様はどうも加減というものを知らないらしく、しばしばグラウンドの無数の水たまりを1つの巨大水たまりへと変貌させたりする。運動部に所属している生徒は、顧問の先生から巨大なスポンジを手渡され、翌日のグラウンド使用をかけた水抜きへと駆り出される。僕もそんな傭兵たちの中の1人だった。まさか大学生になってまた、戦場へ赴くことになるとは。増井は黙々と作業を続けている。手つきは彼の方が何倍も熟練っぽい。彼もまた、幼き頃に戦場へと駆り出された経験を持ち合わせているのだろうか。
「もうそろそろかね、ほれ、ごくろうさん」
 1人の老婆が、待ち望んだ言葉とともに玄関のドアから顔を出した。そう、我々2人の大学生は、この老婆によって使役されていたのだ。庭に残った水たまりの水抜きをせよという老婆からの命を受け、一心不乱にスポンジを振るっていたのだ。何を隠そう、この老婆こそ、ここアロエ荘の主であり、僕と増井にすみかを与えてくれている張本人、大家の藤原さんである。藤原さんは、すっかりぬかるんだ庭を見つめて、寂しそうにつぶやいた。
 「まさか、うちから発症者が出るなんてねぇ...」
 僕ら三人は示し合わせたかのように空を見上げた。ここ数日間、雨の降る気配すら無い気持ちいい秋晴れが続いている。
 
 今から2年前、ちょうど今日のような秋晴れの日だった。
 その日、人の涙は災害になった。突発性過剰流涙症(とっぱつせいかじょうりゅうるいしょう)。最初の発症者は、民放局のニュースキャスターだった。ニュースキャスターが突然異常な量の涙を流しはじめ、スタジオ全体が水没。周辺の交通にまで影響を及ぼす事態となった。ニュースの放送中の出来事であり、その様子は瞬く間に拡散、この特異な症状は全国に知れ渡ることになった。同日、政府から緊急声明が出された。ニュースキャスターを襲った涙の異常分泌は原因不明の症状であり、「突発性過剰流涙症」と名付けられたこと、原因の究明を急いでいることなどが発表された。涙が災害となる未曾有の事態に、国中が震撼することとなった。
 その後も発症者は断続的にあらわれ続けた。最初の1年間での発症者は7名、この1年間では14名の発症者が確認されていた。発症者の数はそれほど多くないものの、2年間で依然として増え続けており、その症状の特異性と周囲への影響の大きさから、国を挙げての対策が急がれているが、未だに症状の原因は分かっていない。政府は様々な対応策を講じているが、どれも成果は今ひとつである。そして今日、15人目の発症者が、ここアロエ荘から出てしまった。発症したタイミングには、僕はちょうどアロエ荘には居らず、増井も用事で外へ出ていた。これまでの症例から、人から人へと感染する類いのものではないことは分かっているが、やはり世間の目は厳しい。発症時にアロエ荘にいた人たちはみな、政府の管理下で数日間の経過観察をおこなうことになった。あふれ出た涙はアロエ荘の1階部分を容赦なく水浸しにし、庭に大きな水たまりを作った。経過観察を免れた僕と増井は、腰の悪い藤原さんの頼みで、庭の水抜きを手伝っていたというわけだ。僕と増井は二人とも1階に部屋を借りていたので、1階が落ち着くまでの間、涙の魔の手から逃れた二階の空き部屋を1室使わせてもらうことになった。
 その日の夜、僕と増井はテレビを見ながらカップラーメンをすすっていた。テレビでは最近流行りのお笑い芸人が見飽きたネタを披露している。増井はヘラヘラと笑っている。第何世代だとかなんとか言って囃し立てられてはいるが、僕に言わせればちっとも面白くない。
 「なあ、ラフメイカーって知ってるか?」
 突然、増井が聞いた。
 「ラフメイカー?」
 聞いたことのない単語だった。
 「ああ、なんでも、例の症状の発症者の元へ突然現れて、笑わせて涙を止めるらしいぜ。巷じゃ結構噂になってる都市伝説だよ」
 「なんだよそれ。というか、そんな簡単に涙が止まるわけないだろ」
 「そうかあ...だよなあ〜」
 増井は少し残念そうに納得すると、またテレビに視線を戻した。都市伝説なんて信じているのかこいつは。しかも政府が原因を突き止められない奇病を、笑わせて治すなんて。そもそも発症者に好き好んで近づくやつなんていない。いつの時代も、馬鹿げた都市伝説という者はどこからうまれてくるのだろう。増井は相変わらずゲラゲラと笑っている。まさかこのネタを初めて見たわけじゃあるまいし。世界の平均値である彼がこれだけ笑っているのだから、世間でもウケが良いのだろう。人の涙が世を滅ぼすなんて大層なことが叫ばれているこの時代に、彼らは何をしているんだろうか。本当に面白ければ、突発性過剰流涙症なんてもので迷惑を被る人はいなくなるはずじゃないか。僕はそんな心底冷めた目でテレビ画面を見ていた。
 「おまえサア、ちっとも笑わないよな」
 さっきまで一人で大爆笑していた増井が、つまらなさそうに言ってきた。
 「逆に何でこんなもんで笑えんだよ」
 「これが面白くなかったらおまえ、世の中のなにも面白くないだろ」
 「そのとおりだよ、よく分かってるじゃん」
 「おいおい、夢も希望もねえな!ちょっとは人生においての楽しみみたいなものを...」
 「あいあい、夢ね、希望ね、大事大事っと」
 カップラーメンの汁を飲み干すと僕は、講釈を始めようとする増井の前を横切り部屋を出た。湿気の匂いの充満する廊下を渡り、1階へ降りて庭へ出た。少し肌寒くなってきた夜風が、心地よく頬を撫でる。思えば、大変な1日だった。朝早くから大学の図書館へ向かい、課題の参考図書に指定されていた書籍を探したが、なかなか見つからず、散々探したあげく発見したのは良いものの、学生証を家に忘れており、結局借りられずじまいだった。昼近くにアロエ荘へと帰ると、すでに15人目の発症者は政府の役人によって保護されており、荘にいた住人たちは保護観察のための施設へと移った後だった。午後にもう一度図書館へ行こうと思っていたのだが、自分の部屋も水没していたため、もはやそれどころではなかった。藤原さんからの庭の水抜きの依頼は、そんな散々な1日のシメとしてはおあつらえ向きだったと思う。政府は基本的に、発症者が周囲に及ぼした影響の後始末をおこなわない。つまり、政府特製超高性能スポンジは登場せず、庭の水抜きもやってくれない。それどころか、浸水した1階部分の乾燥作業なども一切おこなわない。当然、それらの修理費用などの補償もない。政府はしきりに「原因の究明と対策に全力を注いでいる」といった内容のことをアピールするが、ニュースやなんかでも危機感が足りていないんじゃないかと言われている。実際、僕もそう思う。さっきのお笑い番組の前にやっていたニュースでも、政治評論家のセンセイが政府を批判していた。近頃では、流涙症被害者に対して差別を行う集団まで現れはじめたらしい。人は、未知の現象に対して恐怖を抱く。分からないことは恐ろしい。いつの時代も、未知なるものから何とか自分を守ろうとして、過激な思考や行動に走る人々は、一定数存在する。それもこれも、政府の対応の遅さが招いていることらしい。まあ、そんなことを言ってるニュースも、放送時間が終わればそのままさっきみたいな馬鹿げたお笑い番組が始まったりするから、結局官も民も似たようなもんなんだろう。1番被害を被っているのは僕ら一般市民だというのに...。なんてとりとめの無いことを考えていると、さすがに冷えてきた。そろそろ入ろう。2階の部屋からは、増井が性懲りも無くゲラゲラと笑う声が聞こえていた。
 けたたましく鳴り響くアラームの音に脳を揺すられ、眠りの世界から現実世界へと強引に引きずり出される。あらがうように腕を伸ばし、目覚まし時計の頭を叩…こうとするが、無い。目覚まし時計が、無い。寝起きの脳が、昨日自分の身に起きた非日常を認識するまでに、それからもうしばらくかかった。雨が窓を叩く音が、頭に響いた。増井はすでにおきており、朝飯の準備をしていた。朝飯の準備と言っても、トーストを(自分の分だけ!)トースターにセットしていただけだが。ぼんやりと窓の外を眺めていると、昨日の庭の水抜きが文字通り「水の泡」となったことに気付き、余計に気分が暗くなった。
 「おはよう釈迦地蔵!」
 増井の口から意味不明の文字列が飛び出した。Ohayoushakazizou?
 「な、なに??」
 「お・は・よ・う・釈・迦・地・ぞ・う だよ!なんだ知らねえの?」
 あぁ、理解した。昨晩のくだらないお笑い番組に出ていた、なんとかいうカタカナのコンビのギャグだ。
 「朝から気分が悪くなるからやめてくれ...」
 「気分悪くなるはねえだろ!人を楽しませて、笑わせるためのギャグだぞ。やっぱ人間、誰かを楽しませて生きていきたいよなあ〜」
 なんだこいつは。本気でこんなことを言っているんだろうか。本気で芸人を目指しているなんて言われそうで、僕はなんだかそら恐ろしくなってキッチンの方へ逃げた。増井はトーストをそのまま頬張ると、事前にまとめてあった荷物を抱えて「いってくるわ」の一言だけ残して家を後にした。トーストは1枚まるごと食べる気になれなかったので、半分にちぎってトースターにねじ込んだ。用意を済ますと、僕は雨の中、大学へと向かった。
 大学では、いたって普通の1日が過ぎていった。ある2点を除けば。僕にとってはそれほど大きな相違点ではなかったが、いつもとはどこか少し違うような感じがしたのだ。まず1点目は、周囲の反応が明らかに違った。思えば朝から少し違和感はあった。通学の電車が普段より少し空いているような気がしたし、教室でもいつも以上に周りに人がいなかった。その違和感は、昼飯の時間に決定的になった。僕が昼飯に選んだ食堂の唐揚げ丼大盛りをのせたプレートをもってテーブルに着くと、そのテーブルで昼食をとっていた女子三人が僕の顔を見て(ひそひそ何か話しながら)別のテーブルへと移動したのである!なんということだろう。そこからはもう明らかであった。明らかに、周りの学生が僕のことを避けているのである。理由は明白であった。昨日のアロエ荘の発症者から、なんらかのウイルスのようなものを受け取ったと考えているのであろう。僕は発症者と一度も顔を合わせていないというのに!彼らの幼稚さは知っていた。知っていたが、ここまでとは。一度も対面していない発症者からどうやってウイルスをもらうというのか。そもそも幼稚な彼らとは関係を築いていなかった僕には、この変化はほとんど実害のないものだったが、僕が保菌者扱いされるのだけは腹立たしかった。そして2点目の相違点。これは明らかだった。帰りに傘を持とうと柄の部分を見ると、そこには何やら緑色のスライム状のものがこびりついていた。
(なんだ...?)
 そう思いながら近づいて確認してみる。ガムだった。誰かが噛み、味わい、飽きたガムが僕の傘の柄に貼り付けられていた。こんなことなら肌身離さず持ち歩いておくべきだったな。後悔先に立たずである。もともとこの大学ではどういった訳か、傘の盗難がほとんどない。その上、玄関には傘立てまで置いてあるもんだから、みんなそこに傘を置いて構内へ入る。だから、まさかガムが傘の柄に貼り付けられているとは、驚きであった。ガムは幸い(?)長時間貼り付けられていたためにカチカチに固まっており、誤って手につけて更に気分が害されるということはなかった。誰がやったかは見当も付かなかったが、なぜやったかは大体見当が付いた。おそらく、保菌者であるらしい僕への当てつけ、いやがらせだろう。おかげで帰り道、傘を差しながら傘の柄をカリカリと削りながら帰るという高等技術を要求され、2・3度車にはねられかけた。
 雨の中、傘の柄にこびりついたガムをとろうと躍起になりながら、アロエ荘ヘと続く路地を歩いていると、ふと視界の隅に、道路にうずくまる黒い影が映った。初めはガムに集中するあまり全く気にとめなかったが、近づくにつれてそれが人であることに気がついた。
(こんな時間に酔っ払いか...?)
 人影まであと5メートルのあたりまで近づいて、ようやくその人影の正体と、いままさに尋常ならざることが目の前でおきていることを悟った。増井だ。増井が倒れている。僕は増井の側に駆け寄った。何度も呼びかけるが応答がない。冷や汗が雨と混じって額をつたうのを感じた。ぐったりした増井の体を何度か揺さぶってから気付いた。彼の腹部は真っ赤に染まり、そこから温かい液体がゆっくりと流れ出ていた。僕は無我夢中で救急車を呼んだ。それからどうしたかは、あまり記憶がない。どうやら、動転した僕は救急へと電話した後、アロエ荘に戻ったらしい。藤原さんは僕のただならぬ様子をみてすぐに何かがあったと分かったという。藤原さんは僕の気を落ち着かせた後、アロエ荘の玄関で僕を待機させて増井の応急処置に向かった。救急車はすぐに到着し、そのまま青くなった増井を病院へと連れ去っていった。
 その日の夜は眠れなかった。救急車の後を追って藤原さんとタクシーで増井の搬入された病院へ向かい、そのまま手術室の前のベンチから一歩も動くことが出来なかった。まず物理的に眠れなかったわけだが、おそらくベッドを用意されても、眠ることは精神的に不可能だっただろう。目の前に横たわる死の気配が、増井の体重に乗ってズシリと両腕にのしかかっていた。警察の話では、増井は何者かによって腹部を刺されており、犯人も動機もいまはまだ不明だということだった。大学での出来事が頭によぎるのを必死で振り払いながら、増井の無事を祈った。
 増井が死んだ。医師の話によると、病院へ運び込まれた時にはすでにかなり危険な状態だったという。夜通しでおこなわれた手術も甲斐無く、彼が再び目を覚ますことは無かった。それから2・3日、もはや大学へ行く気力は無く、部屋で増井のことについてぼんやりと考えていた。思えば、僕は彼のことを何も知らなかったのかも知れない。彼の年齢が僕と同じだと言うことから、勝手に僕とは別の大学に通っている大学生だとばかり思っていたが、本当にそうだったのだろうか。毎朝急ぎ足で家を出る彼は、いったい何処へ向かっていたのだろうか。そんなことを考えているうちに、僕は増井がいつか言っていた「ラフメイカー」の都市伝説のことを思い出していた。
 『なあ、ラフメイカーって知ってるか?』
 『例の症状の発症者の元へ突然現れて、笑わせて涙を止めるらしいぜ』
 いつからか僕は、もしかすると「ラフメイカー」は増井なんじゃないか、なんて馬鹿げたことを思い始めていた。彼はよく笑った。そして人の笑顔を大切にした。なんて、まさかな。藤原さんは彼のことがとても気に入っていたようだ。彼が死んでからの藤原さんは別人のようになってしまった。大家さん用の少し広い部屋からもめっきり出てこなくなってしまった。ゴミ出しの日にちらっと見かけたが、以前からふくよかな体型ではなかった上に今では一層痩せこけ、今にも折れそうな体をフラフラと揺らしながら歩いていた。
(もう二度と、元に戻ることは無いんだろうな、藤原さんも、増井も)
 そんなことを考えていると、心の中がだんだんと薄ら寒くなってくるような気がした。体の芯から、冷たさが、混み上がってくるような、と、その時、どこかで「プツン」と音がした。どこからだろう。周囲に音の発生源を探そうとして、すぐに悟った。他でもない、僕の体の中から聞こえたのだ。
(あっ)
 涙腺の奥から冷たい何かが込み上がってくるのを感じた。次の瞬間、せきを切ったように涙が溢れ出した。涙腺から溢れ出す異常な量の涙ですぐに視界を失った。その涙の量は僕に動かぬ証拠を突きつけた。突発性過剰流涙症の発症である。とめどなく流れ出す涙に止む気配はなく、部屋の床はもうすでに水で覆い尽くされているようだった。突然の出来事に困惑しながらもなんとか状況を確かめようと必死に手足を動かす。すると、くるぶしのあたりまで水に浸かっている感覚があった。止まらないとわかっていながらも、手で必死に目をかばおうとした。されど涙は止まらず。流れる涙の中でだんだんと諦めの心が芽生え始めるのがわかった。このあと自分はどうなってしまうのだろうか。増井のように、死ぬのだろうか。考えてみれば、発症者がどうなるのか、僕は考えたこともなかった。膝あたりまでが水で覆われている。もうこの涙が止まることはないだろう。あれほど身近に発症者がありながら、自分が1番の被害者だと考えていた。発症者のせいでいわれのない嫌がらせを受け、涙によって引き起こされた水害の後始末を押し付けられる。発症者の立場も、気持ちも、権利も、何も考えたことがなかった。これまでの発症者はどうなったんだろう。本当に政府によって保護されたのだろうか。溢れ出し続ける涙に、もはや抗う元気さえ残っていなかった。水で満たされていく部屋の中で1人、立ち尽くして初めて自分の幼さに気付いた。もうどうすることもできない。もうダメだろう。前の発症者と同じように、周りの人に迷惑がられて死んでいくのだ。藤原さん、ごめんなさい。せっかく乾きはじめていたアロエ荘を、もう一度台無しにします。唯一の生きがいを奪うような形で死ぬことを許してください。でもどうか、どうか生きてください。増井の願いもきっとそうです。どうか。ああ、最後に気付けて良かった。覚悟はできた。さあ、もう、どうとでもなれ。水かさはすでに首まで来ていた。一瞬、この街が、このまま僕の涙の底に沈んでしまわないか本気で心配した。秋の陽射しが涙で満たされそうな部屋に光の帯を投げかけた。その時、
 コンッコンッ
 ノックの音が部屋の中に転がり込んだ。こんな時に、どちら様だろうか。僕はもう死ぬんだ。すでに僕の中には助かりたい気持ちはなかった。代わりに覚悟があった。すぐにその気持ちは、怒りに変わった。誰だ、この死を邪魔する奴は喉元まで水で満たされながらなんとか声を出す。
「なんだよ、誰だ」
「名乗るほど大した名じゃないが…誰かがこう呼ぶ。『ラフメイカー』。あんたに笑顔を持ってきた。寒いから入れてくれ」
 冗談じゃない。そんなもん呼んだ覚えはない。構わず消えてくれ。ふと、僕の中に増井の言葉が浮かんだ。
 『やっぱ人間、誰かを楽しませて生きていきたいよなあ』
 その瞬間、僕の中に再びかすかな望みが生まれた。そうだな、どうせ生きるなら誰かを楽しませて生きたいかもな。生きていきたいかもな。水かさはすでに頭の高さまで来ていた。必死で手足を動かす。水中でもがきにもがいた。なんとか、天井間際の空気を。溺れそうになりながらドアの外の救世主に声をかける。
「ラフメイカー、今でもしっかり俺を笑わせるつもりか」
「それだけが生き甲斐なんだ。笑わせないと帰れない」
 よし、と決意し肺いっぱいに空気を吸い込む。これが最後だろう。意を決して水の中に潜った。目を開く。見える。いける。
 ドアまで泳ぎ、鍵を開ける。
 助かる。
 生きられる。
 これで……。
 どうしたことだ、ドアが開かない。ああ、溜まった涙の水圧だ。生死の間際で驚くほど冷静な自分の判断が、かえってこの状況の絶望を際立たせた。ドアを叩く。最後の力を振り絞ってドアを叩く。ラフメイカー。ウンとかスンとか言ってくれ。どうした。おい、まさか。
 ラフメイカー、冗談じゃない。今更俺1人置いて、構わず消えやがった。信じた瞬間裏切った。
 バリンッ
 窓の割れる音がした。部屋いっぱいに満たされた涙に水流が生まれた。空気だ。貪るように空気を吸う。肺まで満たそうとしていた涙が勢いよく逆流し、むせ返る。霞む視界の先に鉄パイプを持った男の姿があった。目が霞んでよく見えない。とにかく、息ができる。
 男は小さな鏡を取り出した。そして僕に突きつけてこういった。
「あんたの泣き顔、笑えるぞ」
 そこには生きるのに必死でなりもふりも構わなかったであろう、ぐちゃぐちゃな顔が映っていた。呆れた、これでラフメイカーか。ただ、そのおかしさからか、安堵からか、自然と笑みがこぼれた。
「なるほど、笑えたよ」
 そう言うと、僕は気を失った。
 
 アロエ荘で水浸しになって倒れていた僕は、藤原さんによって発見された。アロエ荘は大家さんである藤原さんの部屋を除き全ての部屋が水没した。政府の経過観察を終えた元住人たちは、藤原さんの紹介で別のアパートへと越していくことになった。短期間で2人も発症者を出したアロエ荘は、ウイルスがどうとか、呪われているだとか、噂されている。新しい入居者も、しばらくは入ってこないだろう。僕は今、藤原さんと2人で、アロエ荘の残された1部屋で暮らしている。当面の間はアロエ荘の後片付けで忙しくなりそうだ。あの日みた光景、あの日起こった出来事は、僕の妄想か、はたまた現実か。確実に言えることは、僕は今、生きているということだけだ。突発性過剰流涙症は依然としてこの国で頻発している。原因は未だ、解明されていない。あの日、増井を襲った犯人は、突発性流涙症を外国による陰謀論で語る過激派組織の一員だと判明した。その後過激派組織は警察によって壊滅にまで追い込まれ、犯人も無事逮捕された。あの日みた光景、あの日起こった出来事は、僕の妄想か、はたまた現実か。確実に言えることは、僕は今、生きているということだけ。そして、ラフメイカーもまた、都市伝説として人々の間に生き続けている。
 〜終〜

「かわいいものがすき。可愛くなりたい。」
k184110

 昔からかわいいものが好きだった。
 マカロン。パフェ。チョコレート。ぬいぐるみ。パステルカラー。みんなかわいい。
 小さな足。小さな手。高い声。ふわふわな髪の毛。くりっとした目。私もみんなかわいい。
 それでも服はいわゆる清楚系。お上品な服。かわいくても派手なのは好きじゃない。
 恋人もかわいくなきゃだめ。心が惹かれないんだもん。かわいかったら誰でも好きになる。
 お友達もかわいい人。特に幼なじみのエリコとは仲が良かったな。元がかわいいわけじゃないけど、かわいくなる努力をずっとしていたから。実際かわいくなったし。私に嫉妬して、かわいくない顔で、かわいくない言葉遣いで、かわいくなる努力をしない他の人たちとは違ったから、エリコのことは好きだった。
 私の幼なじみのマコは可愛いものが好きだった。
 口にするものも、部屋の中の家具も可愛かった。
 マコ自身も可愛くて生まれつきなのもあるが、ヘアスタイルもメイクも自分に似合うものを理解していた。服装もおしゃれでマコに合っていた。
 話し方も仕草も可愛くてずっとモテていた。それでいて彼女自身は強く、女子から嫉妬されていじめられそうになったときでも自分で撃退していた。
 私は生まれつき可愛いマコがうらやましかった。でもこれも運命と思って自分の容姿を受け入れて、マコにメイクを教えてもらって頑張った。だからか、マコは私と仲良くしてくれた。
「エリコ、今日は疲れた顔してるね。どうしたの?」
「聞いてよマコ〜。あの上司が姑みたいにチマチマチマチマ文句付けてきてさ。もう精神的に疲れたよ。」
 今日は月に一回のマコとの女子会。もちろん居酒屋じゃなくて可愛いバーで。小学校から大学までずっと同じで会社は別の道を選んだけど、それからもこうして一緒にお酒を飲んでいる。愚痴だったり美容の話だったり恋の話だったり……。
「また?エリコに気があるんじゃないの?」
 華奢な腕で私を指さしてくる。もう、可愛い。
「やめてよ〜。不倫とか絶対に嫌だし中年のおじさんだよ?ないない!」
「なあんだ。やっとエリコに春が来たのかと思ったのに〜。」
 そう返事したけど、実は本気で狙われている気がしている。自意識過剰とかじゃなくて、よく二人きりで飲みに誘われるし隙あらば二人きりになって話しかけようとしてくる。でも気のせいかもしれないし、決定的な証拠が出るまでマコには話さないでおこうと決めた。
「マコはないの?そういうの……。」
「新人くんが私に気がありそうだけどナシかな〜。かわいくないの。」
「マコのお眼鏡に合う人なんている?いつもそれじゃん〜。」
「かわいくない人と付き合うくらいなら一人でいいの。妥協は嫌なの。」
 こういうところがかっこいいなって思う。可愛いけど、自分のブレない芯を持っていてそれを貫いていく生き方。マコには本当に憧れる。私が可愛くなろうって思ったのもマコに憧れて近づきたかったから。
「エリコ、次もまた最終週の金曜日でいい?」
「うん、大丈夫。また一ヶ月後ね。」
 私たちは次の約束をしてから別れた。駅が逆方向だから大体いつもお店で別れる。ここからは一人の時間。
 今日のマコはメイクも服装も全体的にオレンジ色でまとまっていて季節を意識していたな。夏らしかった。ネイルもオレンジ色で控えめなデザイン。アクセサリーも付けすぎないでワンポイントのネックレスとシンプルなピアス。着飾った感じがしないけど、ちゃんと可愛い。しゃべり方にも隙がなくて汚い言葉なんて出てこない。些細なことにも気づいてくれて空気も読める。多分さっきの上司の話、本当に困ってるって気づいてるんだろうな。いいなあ。男だったら可愛くなって告白するのに。女だからなあ。
 結婚して子どもを産んで幸せになるのよ、と言われて育った。女の子はピンクのかわいいランドセルを、フリフリのレースがあしらわれた服を、そして勉強をして良い大学を卒業して良い会社に入りなさい。社内恋愛が多いから良い旦那さんを見つけて子どもを産んで幸せになるの。母にとって幸せとは子どもを産むこと。今のところ良い大学に入るまでは母親の人生観の通りたどっている。でも……。
 今日は月に一度のエリコとの飲み会。私のお気に入りのバーで。
 でもエリコの様子が変なの。仕事終わりだから疲れているのはそうだけど、笑顔が引きつってた。
「あの上司が……。」
 やっぱり。初めて上司の話が上がったのは三ヶ月前。その時は気のせいだと思ってたけど毎月聞かされるとただの部下いびりではないってわかる。上司は本気でエリコに近づいている。多分エリコの性格や相手が上司って立場なことからもなかなか強く抵抗できないんだろう。それに訴えても言い逃れされる程度にしか被害がないからずっと悩んでいるんだろう。エリコとは会社も違うし私が関わる事は難しい。上司が決定的なアクションをおこしてくれないと。
 かわいいエリコを助けてあげたい。助けてあげたいけどどうすることもできない。あの上司のせいでエリコが苦しんでいる。それに、かわいいことはいいことばかり起きないのはわかってたのに、そのことを考えないでエリコがかわいくなる手伝いをしてしまった。私のせいで。
 私の手で幸せにしてあげたいと思ってやったことが結果的に不幸にしている。どうやったら助けてあげられるんだろう。
 私にとって“かわいい”は“幸せになるためのツール”だ。自分が好きなもので自分も周りも満たしていたら嫌なことがあってもポジティブな気分になる。ネガティブな感情はどう転んでも幸せに繋がらない。だから私はかわいいものが好き。でも、エリコにとってはかわいいは幸せにつながらない。エリコの幸せってなんだろう。
 出社したくない。上司に会いたくない。関わりたくない。会社に行くために買ったお気に入りの靴がどんどん汚れていく。こまめにしていた手入れも最近はできていない。ずる休みをしない私を褒めてほしいくらいだ。
「おはようございます。」
 タイムカードを切って自分のデスクについたとき、早速上司が近づいてきた。
「おはよう、エリコくん。今日も可愛いね。」
「おはようございます、島安さん。」
「僕のことは隼人でいいって言っているじゃないか。じゃあ今日も頼むよ。」
 去り際に軽く肩を触って行った。こんなことがずっと続いている。特に用事もなく話しかけてきては肩や背中を触って去って行く。気持ち悪い。
「大丈夫?エリコちゃん。」
 隣のデスクのサヤちゃん。同期でよく昼ご飯を一緒に食べる仲だ。隣だからよくこういった場面を見られる。
「うん。ごめんね……。」
「いやいや、私の方こそごめん。なにもできなくて……。もう結構長いよね?はやく諦めたら良いのに。」
「そううまくはいってくれないもんだね。」
 業務に取り組んでいるとあっという間に終業時間になった。今日、上司は外に行く業務だったらしくあれ以来会わなかった。平和だった。朝は嫌だったけどこんな日が何日も続けばいいのに。
「お先に失礼します。」
 下矢印のボタンを押して一階から上がってくるエレベーターを待つ。今日はちょっと気分が良いからコンビニでスイーツでも買って帰ろう。ちょっとお高いカップ麺でもいいな。エレベーターの扉が開いて入ろうとしたら……。
「やぁエリコくん。今日はもう終わりかい?このままディナーでも行かないかい?」
「島安さん……。」
 最悪。
 スイーツもカップ麺もなしだ。
「おつかれさまです。あいにく今日は母が来ていますので。」
「そうか。残念だ。少し待ってくれれば駅まで送るよ。」
「いえ、お手を煩わせるわけにはいきません。それに急いでいますので、失礼します。」
 上司をかわすようにエレベーターに乗り込み見えないように閉まるボタンを連打した。
「ああ、お疲れさま。」
 不満そうな顔だ。でも知ったこっちゃない。
 母はもちろん来ないが一緒にご飯を食べる理由はない。追いついてこないように足早に駅に向かった。
 コンビニを通り過ぎて家に着いた。ソファに倒れ込んで静かに泣いた。
「ほんとあいつチョーシのってるよね。」
「マジウザい。男にちやほやされるからって。」
 今日も聞こえる醜い嫉妬に溺れる女子たちの声。
 かわいいものが好きで自分もかわいくなろうと努力した。見た目も中身も。別にモテたくてかわいくなったんじゃない。それに嫉妬してかわいそうな人たち。
「マコちゃんや。今日も可愛いですな。」
「エリコ、何そのしゃべり方。」
「今度の劇でおばあちゃん役になったんじゃよ。」
 今度はかわいいエリコの声。校則にふれないように制服を着ているのに清楚でかわいい雰囲気。多分シワひとつない制服とリボンの結び方、髪型がエリコをかわいくしているんだろうな。私は校則をちょっと破ってかわいくしてるけど、エリコは真面目だから自分の守りたいものを守りながら努力している。愛おしい。
「私のおばあちゃん“じゃよ”とか言わないから!!」
「演劇はイメージでできているの!だから本物が〜とかじゃなくて自分の思うおばあちゃんを創り上げるんだよ。」
 なんだかドキッとした。私の本質を見抜かれているようで。
「マコは強いね。悪口言われてるのにどうしてそんなに気丈に振る舞えるの?」
「だってただの嫉妬じゃない。私悪くないし、下手に絡んで喧嘩になったらどうするの。けんかなんてかわいくないことしたくない。」
「やっぱり基準はそこなんだ。」
 ケラケラって音が聞こえてきそうな笑い声。かわいい。世界がエリコみたいな子だけになれば幸せになれそう。
 この頃からエリコに惹かれてたんだと思う。ユーモアもあってかわいさもあって愛嬌もあって。
 わかってるよ。
 この恋は叶わない。
 思いを伝えて気まずくなるくらいなら。
 私の朝は早い。仕事に行くまでにしなければならないことがたくさんあるから。
 紅茶を作ってスコーンを焼いて、できあがるまでの時間で顔を洗って肌のお手入れ。このときに全身をマッサージしてむくみを取る。そしてテーブルに紅茶とスコーンを並べる。
 食べ終わったら服を選んでから化粧をする。このときに天候や季節を考えながら、トレンドも意識する。
 高校のときにはできなかったことが社会人になったらできるようになった。高校の時は軽いメイクしかできなかったし、塾にも行っていたから早起きができなかった。それがいまは自分でかわいい朝食を作り、かわいいメイクもして、思う存分したいことができる。
 そして今日もかわいいものを作るためにオフィスに行く。
 苦しい。
 もう自分が消えてしまいそうで。
 朝も起きれなくなって服もずっと同じもの。メイクなんてする気もおきない。ご飯を食べたら吐いてしまうから食べられない。会社に行きたくない。体がだるい。動悸もする。動けない。
 それでも生きるために会社に今日も行く。
「エリコ、エリコってば。」
「あ……、ごめん。」
「お昼休憩だよ。一緒にランチ食べに行こう。」
 もうそんな時間?全然気づかなかった。
「サヤちゃん、ありがとう。でも最近食欲なくて食べられないから今日はいいや。」
「何か少しでも食べた方が良いと思うけど。すごく美味しいフルーツジュースがあるお店があるから、そこ行かない?ジュースなら飲める?」
「うん。」
「じゃあ決定!」
 サヤちゃんがいなかったら多分会社に来れなくなっていただろうな。同僚にまで気を遣わせてしまって申し訳ない。
 会社から近いところにこんなおしゃれなカフェあったんだ。すごくきれいでおしゃれな空間。
「私パンケーキにしようかな〜。」
「私はフルーツジュースにするよ。良いお店だね。」
「でしょ!この前開拓しようと思って歩いてたら見つけたの〜。ずっと来たかったんだ。着いてきてくれてありがとう。」
「こちらこそだよ。」
 今日会社に来て良かった。ジュースもすごく美味しくて吐かなかった。
 次の日、相変わらず出勤日。
 食欲はやっぱりなくて朝ごはんは食べられなかった。ジュースなら飲めたから帰りに買っておこうかな。
 でも昨日ほど体はだるくない。動悸もしない。メイクも最低限だけどできた。
 あのジュースひとつでこんなに変わるなんて。会社に行く楽しみが必要だったのかな。
 こんな気持ちで会社に来たのは久しぶり。いつもより気持ちが軽い。
「エリコくん。この資料を倉庫に置いてきてくれるかな。」
「島安さん。わかりました。」
 この人さえいなければいい会社なのに。
「頼んだよ。」
 重い段ボールに入った資料をもって倉庫に入ったときだった。
 後ろで倉庫の鍵が閉まる音がした。
 倉庫がオートロックなわけがない。唯一の倉庫の鍵は私が持っている。誰かが中に入って閉めた?
「エリコくん。」
 え?島安さん?どうして?
 冷や汗が止まらない。嫌な予感しかしない。
「ねえ、気づいてるよね?僕の気持ち。」
「い……いや、なんのことか。」
 お願い震えないで声。動揺しているって気づかれたらつけ込まれてしまう。
「僕はずっと君のことが好きなんだ。」
 一歩ずつゆっくり近づいてくる。
 段ボールを置いて逃げれば良いのに足が動かない。
「妻とは別れるよ。だから僕と付き合わないか。」
 嫌だ。来ないで。近づかないで。触らないで。
「エリコ。僕はこれでも役職があるから楽な生活をさせてやれる。なあ。」
 嫌だ……。
 気がついたら病院のベッドの上だった。お医者さんには栄養失調だったところに過度のストレスが加わったことで気を失ったと説明された。
「マコ、来てくれたの?」
 ベッド横の椅子に涙ぐんだマコが座っていた。
「エリコ、ごめんね。こんな状態なんて思ってなくて。気づけなくてごめんね。」
「マコは悪くないよ。私が目を付けられたせいだよ。」
「やっぱりあの上司が原因なのね。大丈夫、さっき会社の人が来てたんだけど今回のことで調査が入るって言ってたから。もう大丈夫だよ。よく頑張ったね、エリコ。」
 せっかくのメイクが台無しになっちゃうよ。そんなに泣かないで。私も涙が止まらなかった。
 やっと解放されるんだ。もう苦しまなくていいんだ。今までため込んでたものがあふれ出した。
 病院のベッドで横たわるエリコは見る影もなかった。クマがすごくて見るからに先月よりも痩せている。顔色も悪い。ここまで追い詰めていたなんて。
 エリコが言ってくれるのを待とうと思っていたけど間違いだった。
 そう思うと悔しくて涙が止まらなかった。
 するとエリコが目を覚ました。
「ごめんね。」
 救ってあげられなくてごめん。かわいくしてしまってごめん。
「泣かないで。私、マコがいたからここまで頑張れたんだよ。さえないただの女の子だった私を可愛くしてくれたから自信がついた。人前なんて苦手だったのに高校では演劇部に入って舞台に立った。社会に出ても私と仲良くしてくれてとても嬉しかった。だから謝らないで。泣かないで。」
「ありがとう。」
 この子はどこまで私を励ましてくれるんだろう。
「エリコ。驚かないで聞いて。
 私、エリコが好きなの。」
 あれから一年経った。
 エリコは会社を辞めた。上司は左遷されたけどフラッシュバックがひどいから。
 今は私と一緒に住んでいる。
「おはようエリコ。」
「おはよ。」
 あのとき私の告白は受け入れられた。告白というより懺悔に近かったけど。
「エリコが好きなの。」
「え?」
「私、昔からエリコのことが好きで、かわいくなりたいっていうから全力で応援した。そしたらみるみるかわいくなって、その頑張りに私もとっても勇気付けられてますます惹かれていった。」
 言い出してしまったら止まらない。
「私にとってかわいいっていうのは、自分を構成しているもので、幸せになるためのツールだったの。だからエリコがかわいくなるってことは、エリコは幸せになるって思ってたの。でも違った。あんな上司に目をつけられてこんな状態になるまで追い込んでしまった。私が間違ってた。本当にごめん。」
 こんなのただの言い訳じゃない。エリコに許してもらおうとでも思っているのか。ここまでエリコを苦しめた原因の一つの私が許されようだなんておこがましい。もうエリコとは一緒にいられない。月に一回の女子会好きだったけどエリコを助けられなかった私が悪い。
「ちがうよ、マコ。私はマコが羨ましかったの。可愛くて芯のあるマコの性格も容姿も全部好きなの。だから可愛くなろうって、マコみたいに強くなろうって頑張ったんだよ。でも私は間違ってたの。私自身はかわいくなりたいって思っていなかった。ただマコみたいになりたかった。でもなれなかった。だから幸せになれなかったんだよ。」
 私に憧れて可愛くなりたいって思ってたの……?
「じゃあどうしたらエリコは幸せになれる?どうしたら好きなエリコを幸せにしてあげられるの?」
「あのね、私もマコが好きみたい。」
「えっ。」
 泣きながら俯いていたけどついエリコの顔を見てしまった。まっすぐに、私の目を見返してくる。
「女の子だから多分憧れとか友情だと思ってたんだけど、違った。私、好きって言われてすごく嬉しいかった。私はマコとずっと一緒に居られることが幸せだよ。」
 二人で病室でずっと涙を流していた。
 今はエリコと一緒に住んでいる。私がお金を稼いで、エリコが家のことをしてくれている。
 もう二度と会えないって覚悟で言ったけどこうして一緒にいることができている。不安で怖かったけど言えてよかった。
「エリコはいま幸せ?」
「とっても。マコは?」
「もちろん幸せだよ。」
 私にとってのかわいいは自分を幸せにしてくれるもの。自分の中から生まれるもの。
 私にとっての可愛いは好きな人に近づくためのもの。憧れる人から受け取るもの。
 何が私を幸せにしてくれるかは人それぞれ。私たちはお互いの幸せを手に入れた。

「ふたり」
k184111

 かなり冷え込むようになった秋の朝、普段なら稲刈りや果物の収穫やらで畑に出ている者たちが踏む土の音や、男たちの歌い声が響く騒がしいこの村も今日ばかりは雰囲気が違う。 
 村にはギィ――と枯れた木にとまるカラスの鳴き声だけが響き渡る。ツンと冷えた空気も肌に纏わりつく質量を持っていて息苦しい。異様な気が漂っている。
 ひとっ子一人見えない村だがある屋敷からふらりと出てきた深澤がぽつぽつとあぜ道を歩き出すとどこからか無数の視線と荒い息づかいを感じた。
 深澤が生まれ育ったこの村にはいつの頃か続く男児のみが受ける通過儀礼があった。「試験」と呼び習わされるそれは少年から青年へと成長する過程として10歳の時に一度、一人前の成人として権利を獲得し、村の一員として認められるために20歳の時にも一度受ける必要がある。
 深澤は今年が二度目の試験になる。
 試験の場は神聖な場所とされ一年に一度しか人が通らないためそこへと続く道は木々が鬱蒼と生い茂り足場が悪い。ただでさえ猫背で姿勢が悪いのを冷え込んだ空気から身を守るように背を丸めた深澤は、一歩ずつ慎重に歩を進めた。
 細い道を抜けると切り立った岩肌にぽっかりと大きな口を開けた洞窟がある。試験はその洞窟で行われる。
 ー7日間この洞窟の中で過ごす。ただし口にできるのは7つの果実のみー
 これが試験の内容である。習俗とはいえかなりの苦行であり耐え抜くことができた者のみ、その先生きていくことが許される。二度目の試験は穢れを払い、より強い男になるために受ける一度目の試験とは違う意味合いを持っている。
 昔から伝わる掟にしばられ、価値観やしきたりが絶対とされる村において個の存在などあってないようなもの。しかし二度目の試験を通過することで成人と扱われ、個人は初めて一人前の村人としての権利を獲得することができる。
 深澤にとっても大きな意味を持つ今回の試験、今年その対象となるのは深澤以外にもう一人いた、これが初めての試験になるリカルドである。
「ふっかさん、おはよう」
「あぁ、おはよ」
 背後から降ってきた挨拶に答えながら振り向くと無邪気に微笑みかけるリカルドと目が合った。
 リカルドはちょうど10年前この村の子どもになった。
 空が一日中灰色に覆われ陰鬱な天候が続く梅雨の最中、隣村との境になっている山の麓で女が倒れている、とたまたまそこを通りがかった村人が村の長の元へ取り乱した様子で走りこんできた。慌てて数人でその場に戻りその女を連れ帰ってきた。どこをどう歩きやってきたか分からないが突然やってきた女の噂はプライバシーもプライベートもないような小さな村で瞬く間に広がった。
「今まで見たことが無いような髪色と目を持ち言葉も通じず”身重”の女である」と。
 よそ者の存在を許さず排他的な村人たちであったが行き倒れている者を見捨てるほど非情ではなかった。しかし懸命な看病の甲斐もなく3日ほど臥せっていた女はある日突然産気づき、赤ん坊を産み落とすと同時にあっけなく息を引き取った。遺されたのは母親と同じく輝くような銀色の髪と青い目を持つ男の子だった。村人たちは突然のできごとに動揺しつつもその子どもに名前をつけ、村の子として育てることに決めた。
 それがリカルドである。
 当時子どもがおらず将来働き手になるものがいないからという理由で村上の家にリカルドは強引に押し付けられた。しかしリカルドが2歳になるころにはその家に男の子が産まれ、両親はリカルドのことをぞんざいに扱うようになった。初めは本当の親がいない子どもなのに引き取られた先でもそのような扱いをうけるなんてかわいそうではないか、と声を上げる村人もいたが、誰も代わりに育てると名乗りでる物はいなかった。
 月日は流れ、彼は端正な外見の少年になった。しかしその成長と共に村人たちとの差異が目立ち始めた。畑仕事のため男女ともに肌に土が浸み込み浅黒く日に焼けた村人たちの中でリカルドの陶器のような冷たさを想起させる白い肌と光を受けて輝きを放つ銀の髪はどこか儚げで不気味さすら感じさせた。
 村の大人たちは成長と共に主張を始めた彼の中に流れる異国の血を畏れるようになった。
 子どもは親の鏡とはよく言ったもので大人のそんな様子を見て育った子供たちはリカルドのことを遠ざけ、かかわりを避ける中、深澤だけは彼を可愛がっていた。
 リカルドと初めてであった時のことは今でもはっきり覚えている。深澤が15の冬、友人たちとの遊びに夢中になっていて気が付けば日はとっくに落ちており慌てて家に帰ろうと夜道を急いでいた。尖った空気が肺を突き刺し口から白い息を吐きだしながら必死に走った。
 家の明かりが見え始め母親になんと言い訳をしようか考えていため、地面にうずくまる小さな影に気が付かなかった。引っかかって派手に転ぶ。
「いっった…」
 ころんとそのまま転がった小さな影はよく見ると小さな子どもだった。
「いや、え、ちょっと大丈夫?」
 慌てて体を抱き起こし顔を覗き込むと端麗な顔立ちの少年と目が合い思わず息を飲んだ。透き通るようにきめ細かな白い肌に高い鼻、そぎ落とされたような輪郭に頬骨が突き出ている。うっすらとまぶたを開けてこちらを見てくる青い目はまるで海の奥底のようで気を抜くと吸い込まれてしまいそうだった。日本人離れしたその容姿にあぁ、この子が大人たちが噂している子かと気が付いた。
「リカルドくん…だよね」
「うん、そう。お兄さんは?」
「深澤雄一。みんなからはふっかって呼ばてる」
「あ〜じゃあふっかさん、だ」
 聞きなじみのない呼称にふっと空気が緩む。
「ん、それでいいよ。で、こんなところでどうしたの」
「え〜、と追い出されちゃった」
 えへへと笑いつつもどこか悲しそうな表情に自分の顔が引き攣るのが分かった。頬を腫らし棒切れのように細い手足、年相応の幼く舌足らずな話し方も不憫さに拍車をかける。先ほどまで全力で走り熱くなっていた体が急速に冷えていくのを感じた。こういう時はいったいどうしたらいいのか。腕の中で震えているこの幼い少年の頭に手を伸ばした。ふわふわとした髪が指に絡む。
「うち、来る?」
 気が付いたらそう問いかけていた。そして返事も待たずに少年を抱き上げ家へと向かっていた。
 こんな印象的な出会いは忘れようと思ってもなかなか忘れられるものではない。
「どうしたのふっかさん、ぼーっとして」
 当時の自分が腕の中に抱えた5歳の少年は今や深澤の背をとうに越し、頭一つ分高い位置に顔がある。こんなところでやはり彼に異国の血が流れていることを感じる。
「んー、ちょっと考え事してた。」
 あの時リカルドと出会ったのはある意味運命だったのかもしれない。
 試験の用意のため二人そろって洞窟の手前に建てられた藁ぶきの小屋に入る。ほこりっぽい小屋の中には2枚の白装束が用意されていた。つぎはぎだらけのリカルドの服が床に落ちるとぐりぐりとあばらの浮き出た体が目に入る。ろくに食事もさせてもらっていなかったリカルドはなぜか背だけは伸びたが身に肉はつかなかった。
 この試験に耐え抜くことは苦行ではあるが完全に不可能なことではない。事実、村の男たちはそれをみなくぐってきている。しかしそのためには事前の支度が重要になってくる。毎年試験に挑む者たちはその日が来るしばらく前から家に蓄えている米や肉を皆必死に腹の中に詰め込んでくる。
 だが村上の家にリカルドが飢えを凌げるほどの蓄えはないしあったとしてもあの家の大人たちは血のつながった息子のことばかり大事にしているため彼に食い物を与えたりはしていないだろう。
 
 これ、と深澤は自分の家で作ってきたリカルドの顔ほどの大きさのお握りを突き出す。
「食えなくても食え、死ぬ気で食え。食えなきゃ俺が死ぬ気で食わす」
 きょとりと深澤の顔を見つめ何それ変なの、と呟くとリカルドはお握りを受け取りもさもさと口に運び始めた。
 その様子を確認すると深澤も自分の支度に取り掛かった。ぱりりと糊の効いた白装束に腕を通すと、以前とはどこか違う気持ちに流れた10年の月日を感じた。
 ほんの気休め程度かもしれないリカルドの食事と着替えが終わり再びそろって小屋の外に出る。そこには先ほどまではいなかった村の祈祷師が立っていた。腰も曲がり骨と皮ばかりの老婆は自分の前に跪くよう二人に指示を出しぶつぶつと何かを唱え始めた。隣のリカルドは得体の知れない老婆に少し恐怖心を抱いているようだったが10年前とその容姿に何の変化もない様子に深澤は笑いがこみ上げると同時にどこか安心感すらおぼえた。
 念仏のようなつぶやきが止まり終わったか、と顔を上げる。しわだらけの老婆は黒豆のような小さな目で一点を見つめていた。その視線の先にはリカルドがいた。さすがに少し不気味に感じ二人で顔を見合わせる。
「え、と。なに…か」
 沈黙に耐えかねたリカルドが口をおずおずと口を開く。
「そうか、お前があの時の…大きくなったな。あれからもう10年か」
 少しでも強く握ると折れてしまいそうな細い腕でリカルドの頤に指をかけ上を向かせ、質問に答えるでもなくそう呟く。真っ白なリカルドの肌にかかる乾ききってしわだらけになった老婆の指はあたかも雪に刺さる枯れ枝のようだった。
 二人の戸惑った様子が伝わったのか再度口を開いた。
「そっくりだな、母親に」
 
 ヒュッと隣から息を飲む音が聞こえてきた。何か知っているんですかとリカルドは身を乗り出し有無を言わさない口調でそう問いかける。
 そう急くな、と彼を押しとどめ老婆は口を開き語り始めた。
「お前が産まれたときな、その場にいたんだ。私も」
 
 山の麓で行き倒れていたリカルドの母親を介抱していた際、何をしても目を覚まさずよくなる兆しがない様子に村人たちはお手上げ状態だったという。いよいよ危ないかもしれない、となり老婆をよび祈祷をさせた。1時間2時間と?りをささげても変わらない女の様子に諦めの空気が漂っていた時浅い呼吸を繰り返していた女が突然はち切れそうな腹を抱え苦しみ始めた。そこから男の子が産まれたのはあっという間だったそうだ。産んだ我が子を女は両手に抱きながら死んでいった、と。
 干からびた声で綴られる昔話は深澤にとっても初めて聞くものだった。隣のリカルドの様子をそっと伺うと大きな目を丸くさせ食らいつくように老婆の話に聞き入っていた。
 
 どれだけの時間がたったのだろうか。
「準備はいいか」
 と老婆に声をかけられ顔を見合わせた。はいと声が重なる。老婆が静かに頷き洞窟の入り口を顎でしゃくる。軽く頭を下げ二人で歩き出そうとすると強い老婆の眼が深澤を引き留めた。伺うように首をかしげるとしっかりな。一言呟いた。どこか含みを感じるその言葉に自分の背筋がすっと伸びたように感じた。
 ふと空を見上げると太陽には雲が厚くかかっており今から洞窟の中に籠る俺たちはさしずめ天照大神といったところか、なんて嘯き暗闇に足を踏み入れた。
 ごごごごごごと重たい音を立て洞窟の入り口が閉ざされた。扉の上部には空気穴と光を取り入れる小窓があるだけで中から開けることはできない。
 ひんやりとした静寂に包まれ重たい湿気のある空気は水の中にいるような圧迫感がある。暗闇に目が慣れてしまうとごつごつとした岩肌が目に入りそれにもまたどこか息苦しさを感じる。
 暗闇の奥に申し訳程度に置かれている貧相な布団の上に腰かける。
「ま、ゆっくりしようぜ。8日目の朝が来るまで何にもすることねぇし」
 所在なさげにうろうろする彼に座るようそう促した。
「なんか落ち着いてるね」 
 隣にすとんと腰をおろすと同時に空気を吐き出すようにリカルドはそう呟いた。
「そりゃ二回目、だし?この中にいる限りどうすることもできねぇんだから気楽にいこうぜ、体力も温存しておかないと後からくるぞ」
「それもそっか」
 二人で天井を眺めながらぽつりぽつりと会話を交わす。7日間続く試験は始まったばかりで先は長い。
 ふと目を開けると洞窟の中に光がさしていた。どうやら今日は晴天らしい。どうせなら俺たちが洞窟の中に入る前に綺麗な空を見せてくれてもよかったじゃん、損した気分だな、と呟く。
「へぇ、こんな風になってるんだ」
 いつの間にか起きてきたらしいリカルドが昨夜は暗くてよく見えなかった洞窟の中をしげしげと眺めていた。
「おはよう、どう?2日目の朝だけど」
「ん〜、なんかね全身が凝ってる」
「なんだそれ」
 首を傾げ肩をぐるぐると回すリカルドには年相応の幼さと愛嬌があった。
「ねぇこれ?食べ物入ってる箱って」
「おぉ、そうそう。開けてみな」
 隅に置かれていた木箱の蓋を持ち上げ、中の物を取り出す。うわぁ、とはしゃいだ声が聞こえてきた。見て見て!と中にあったものを大事そうに抱えてこちらに寄ってくる。
 棒切れのような体から伸びる細い腕に抱えられていたのは真っ赤に熟れた果実だった。艶々と光るその果実は薄暗い洞窟の中でとてもまぶしかった。箱から出しただけでこの空間に重たいくせに鼻を抜けていく芳香を放っていた。
 この7つの果実がこの試験の間の2人の命をつなぐものになる。
「食っていーよ、それ」
「なにそれ、半分こするの。はいこれ」
 深澤の発言が気に障ったのか口を軽く尖らしたリカルドが手にした果実を2つに割り、片割れを差し出してきた。割った瞬間生き物のように飛び散った果汁からさらに濃厚な香りが広がった。あ、おいし…と呟き顔をほころばすリカルドを眺める。
 この試験、特に10歳の時に受ける試験にはただの通過儀礼という名目のほかにもう一つの理由がある。この村で生まれたからには男で畑仕事ができない者はただの役立たずであり、厄介者だというのが村全体の共通認識である。そのため体が弱く外にあまり出られない者などそのまま成長したところで将来使い物になるはずもない。大きくなっても使い物にならない子どもを育てたとしても無駄。食い扶持を減らすためにこの試験が存在している。
 もちろん村人全員が同じように考えでいるわけではなくたとえ体が弱くとも手塩にかけて育てた息子を簡単に亡くしてたまるか、と試験の前に必死に食事をさせる家庭もある。
 しかし今回リカルドを送り出した村上の家は彼が今までと同じ姿のまま帰ってくるとは考えていないだろうし10年前に押し付けられた厄介者を手放すことができてきっと高笑いしているだろう。それはおそらくあの家の者たちだけでなく村全体がそう感じているだろう。
 深澤は人の命を軽んじるようなこの村の感覚や風習に我慢がならなかった。しかし20歳の試験を越えてもいない若者に異を唱える権利などない。
 10も離れた弟のように可愛がっているリカルドを目の前でむざむざと見殺しになど絶対にできない。彼は自分が必ず守りぬかなければならないと心に誓っていた。
 
 深澤の予想通りリカルドがぱたぱたと軽やかに洞窟内を動き回っていたのもしばらくの間だけだった。試験の日が折り返しを迎えるころには彼は目に見えて弱っていった。立ち歩くこともなくぼうっと天井を眺めることが多くなった。
「ふっか、さん、ぼくこれいらないから。ふっかさん、が、たべて…」と深澤が用意した果実をつき返してくるようになった。
「俺はいらないから。もしお前がコレを食べないって言っても俺はコレに手を付けない」
 首を横に振り頑として口を開かない彼を横目に手にした果実を壁に投げつけるそぶりをするとあっっと焦った声を漏らし手が虚空をつかむ。その瞬間を逃さず口に果実を無理やり押し込む。
 二人分の息遣いしか聞こえない薄暗い闇の中でただただ時が過ぎるのを待つ。
「ふっかさんさぁ…」
「ん?」
「いや、ね。ぼく、ふっかさんがいたからここまでおっきくなれたんだよな…って考えてたの」
「なんだよそれ、昔のことじゃなくって試験が終わってからのこと考えろよ」
 たどたどしく話しだしたリカルドの言葉に鼻の奥がツンと痛んだ。
「はじめて会った時のこと、おぼえてる?」
 当たり前だ。深澤の沈黙を肯定と捉えたのかリカルドはそのまま話をつづけた。
 ぼくね、はじめてだったんだ。あ、ふっかさんと会ったのが、じゃなくてね。人に優しくしてもらったのが。ぼく体も強くないしおばさんともおじさんとも血がつながってないでしょ?あたりまえだけど2人ともぼくのこと邪魔だと思ってるし。それはいいんだ、多分みんなそうだろうし。毎日のように叩かれてたしごはんもぼくのぶんだけ用意してもらえないなんてよくあることだった。外に放り出されるのもいつものことだったんだ。あの日もいつもみたいに殴られて外に出されてて、あぁ今回はいつ家の中にいれてもらえるのかなって考えてたの。だからふっかさんがね、ぼくの頭なでてくれてふっかさんのおうちに連れて帰ってくれたのめちゃくちゃ嬉しかったんだ。そんなこと今までされたことなかったから。はじめてで。えへへ。こんなこと改めて話すの照れちゃうけど。ほんっとにふっかさんに出会えてよかったなぁって。あれからぼくのご飯が抜かれたり外に出された時はいつもうちにおいでっていってくれて。ふっかさんがいなかったらぼく、ここでじゃなくてとうの昔にしんでたよ。
 
 昔を懐かしむような口ぶりでゆっくりと発せられるリカルドの言葉に深澤は心が締め付けられるようだった。しかし聞き逃してしまいそうになったが彼の最後の言葉に気が付いた。
「なぁ、ここでじゃなくてってどういうことだよおい」
「え?」
 深澤はいたずらっぽく笑うリカルドの横顔から目が離せなかった。
「みんな、みんなすごいよね。村の人たちみーんな試験、合格したんだもんね。ぼく、たぶんむりだなぁ。ほんとはこんなこととっくの昔から分かってたことだけど…」
「俺さっ、この試験が終わったらお前をつれてこんな村でようと思ってるんだ」 
 じっとりとすべてえお覆いつくそうとするような重たい空気を追い払うように深澤は声を張り上げた。
「こんな村って…」
「だってそうだろ?お前のことを勝手に畏れて邪魔者扱いして。お前のことを一人の人間として扱わないような大人しかいないこんな村。お前と一緒にでたいんだ。俺もこの試験を通過したら成人。やっとそう認められる。そしたらもう
 誰に何を言われることもなく自由になれる。だから…ふたりでっ」
 突然リカルドが体を反転させ目を合わせてきたため最後まで言い切ることができなかった。初めて出会ったときからずっと変わらない吸い込まれそうになるような青い目だった。洞窟の暗闇の中でも変わらない海の底の色だった。
 綺麗だ、そう思わず息をもらした。そんな深澤を知ってか知らずかリカルドがまた口を開く。
「この中に入る前さぁ、おばあちゃんが話してくれたじゃん」
「あぁ祈祷師な」
 唐突な話題転換に戸惑いつつも深澤は頷いた。
「初めてだったんだよね。ほんとのお母さんの話きいたの。そんなこと話してくれる人いなかったし、知りたかったけど自分から聞けるはずもないから。それでね、お母さん死ぬ前にぼくのこと抱きしめてくれたんだなって。それを知れてよかったなって、あっ」
 リカルドは途中で言葉を切った。
「そっか、そうだよね。初めてじゃないんだ。ふっかさんが」
「ん?」
「だからね、はじめてぼくを抱きしめてくれたのはふっかさんが初めてじゃないってこと、2番目だ」
 そう言って楽しそうにけたけたと笑う。
「ふっかさんはもうぼくのおかあさんみたいなものだよ」
 そう微笑みかけてくるリカルドを前に深澤はついに涙をこらえきれなくなり手を伸ばし彼を自分の腕の中におさめた。
「そうそう、こんなかんじ。」
 満足げに笑う彼が今にも消えてしまうのではないか。自分の元を離れて遠くへ行ってしまうのではなかと怖くなり腕に力をこめる。
「いままで、ありがとうねほんと」
「なあ、待てよ」
「ぼくがいなくなってもふっかさんはちゃんと大人になってね」
「なぁ待てって、お前も一緒におおきくなるんだよ!あと少しだから!なぁ!」
 深澤は溢れ出る涙をぬぐおうともせずゆっくりとまぶたを閉じるリカルドの名を呼びつづけた。
 7日ぶりに洞窟の重たい扉が開かれ光が差し込んだとき、冷たく硬くなった2人と手の付けられた様子のない果実がただ一つころがっていた。

「ケビンと森の魔女改」
k182317

 むかしむかし、とある村にケビンという少年が住んでいました。彼の父親は探検家で、村に帰ると旅先での冒険の話を聞かせてくれるのです。砂漠の遺跡を探検した話や荒波にもまれながらの大航海の話、吹雪吹き荒れる山に登頂した話など、どれもケビンにとって新鮮なものばかりでした。ケビンは父の話を聞くのが大好きで、父のことを誇りに思っていました。そしてケビンは父の話を村の他の子たちにも話して聞かせてやっていたのです。冒険の話は村に住む子にはとても魅力的で、みんな、ケビンの話を聞くのが大好きでした。
 ある日のことです。ケビンはいつものように父親の冒険話を子どもたちの前でし始めました。今回の話は彼の父親がすぐ近くの森で魔女に出会った時の話でした。ケビンの村の北には大きな森が広がっており、そのどこかに『魔女』が住んでいると言われているのです。
 父は以前、その魔女に会ったと話したのです。子どもたちは身近な場所にいるといわれる魔女の話を聞いて目を丸くしました。そして、「魔女はどんな顔をしているの?」「魔法は使えるの?」など、次々と質問を投げかけていったのです。ケビンが質問に答えていると、ある少年が遮るように言いました。
「お前の話はどうせ嘘に決まってる。この法螺吹きめ。」
 それはやんちゃもので有名なガイという少年でした。彼はケビンが話しているといつもいちゃもんをつけてくるのです。
 尊敬する父の話を馬鹿にされたケビンは腹を立てます。
「父さんが嘘をつくわけないだろ!」
「本当なら証拠を出してみろよ。お前があの森に行って魔女を連れて来いよ。どうせ魔女なんていないんだろうけどさ。」
 毎回のように文句を付けられ、ケビンの怒りはついに頂点に達しました。ケビンはガイにつかみかかり、取っ組み合いのケンカになりました。しかし、ガイの力は強く、すぐに手痛い反撃をくらってしまいます。しばらくすると村の大人たちがやってきて仲裁に入り、なんとかその場は収まりました。
 夕方になっても夜になっても、ケビンの怒りは収まりません。ガイに殴られた左ほほをさすりながら、ケビンはある決心をします。大好きな父をウソつきと呼ばれて、黙っているケビンではありません。
「絶対に魔女を見つけて父さんの話が本当だって証明してやるんだ。絶対にガイの鼻を明かしてやる!」
 ケビンは小さな体に大きなリュックを背負って、父親譲りの冒険心だけを頼りに、深く暗い森の中に進んでいくのでした…
 村の北にある森は村の人たちから「暗い森」と呼ばれていました。背の高い木がうっそうと茂り、日中でも光が地へ届くことなく森全体がひっそりと暗闇に包まれていたのでそう呼ばれていました。夜になるとまっすぐ立って歩けないほどの暗さになるのです。村の人々は不気味がって誰も近づこうとしませんでした。
 村の大人が言っていたように夜の森はとても不気味で、時々オオカミが鳴いているのが聞こえます。ケビンは震える足を無理やり前に進めていきます。
 父の話によれば、魔女は森のどこかの小さな家に住んでいるそうなのですが、どれだけ歩いても、それらしきものは見つかりません。ただ暗い闇が広がるばかりです。最初は元気いっぱいだったケビンも、やがて歩き疲れてとぼとぼとした足取りになってしまいます。
 森に入って一時間ほどした頃、ケビンはとうとう道に迷ってしまったのでした…
「本当に魔女なんているのかな…父さんの話もうそだったのかな…?」
 道に迷って心も体も弱ったケビンはついそんなことを考えてしまいます。
 魔女を探すのをあきらめて家に帰ろうにもどこからやってきたのかがわかりません。ケビンはなんだか泣きたくなってきました。
 すると、
「こんなところで何をしているの?…」
 ケビンは突然声をかけられました。びっくりして振り向くと、そこには黒いローブをまとった女の子がいたのです。髪はすらりと長く、右手には杖のようなものを握りしめていました。歳はケビンと同じくらいですが、どうやら村の子どもではないようです。
「あ、あなたは…?」
 こんな真夜中に森の中を出歩いている彼女を不気味に思いながら、ケビンがびくびくしながら尋ねると、こう答えました。
「…私はオリヴィエ。ここの森に住む魔女よ。」
 オリヴィエと名乗った女の子は、疲れた様子のケビンを自分の住む家へと案内しました。
 それはケビンが迷っている間、何度も通った道の途中に建っていて、なぜその存在に気づかなかったか彼は不思議でなりませんでした。
「普段は魔法でばれないように隠しているの。」
 オリヴィエは当然のように言うと、ケビンに暖かいスープを振舞います。
 当のケビンは、投げかけた疑問に答えてくれた彼女を気にも留めず、キョロキョロと家の中を見回しています。
 机の上の綺麗な水晶玉にはケビンの村の様子が絶えず写っており、本棚には見たことのない言葉で書かれた沢山の本が納まっています。釜の中では不思議な色をした液体が、ぐつぐつと泡をたてて煮だっています。
 それはまさにケビンが父から聞いた話のとおりの魔女の住む家だったのでした。
「父さんの話は本当だったんだ。」とケビンは喜びました。続けてケビンはオリヴィエに質問します。
「ねえオリヴィエ、僕のお父さんのこと知ってる?」
 オリヴィエは突然の質問に驚きながらも首を縦に振ります。
「ええ、私が10年前オオカミに襲われていた時に助けてくれたの。」
「お礼にスープを振舞ったら、生まれたばかりのあなたのことをとても自慢してくれたわ。」
 自分と同じぐらいの見た目をしているオリヴィエが10年前の昔話を話す姿には違和感を覚えましたが、魔女はきっと歳をとらないんだろうとケビンは自分で納得していました。
 そして、自分の事を知っているなら話が早いと、ケビンは自分と一緒に来て欲しいと切り出します。
 父の冒険譚が本当であると証明するために、ガイの目の前にオリヴィエを連れて行きたいと。
 ですが、オリヴィエは首を横に振って言います。
「私は昔からあの村の人々に不気味がられてのけ者にされてきたの。」
「だから、人前にはあまり出たくないわ。」
 オリヴィエは昔のことを語り始めました。
 今から約50年前オリヴィエは家族と共に村に引っ越してきました。突然やってきた黒いローブを身にまとった一家を最初は村人たちも不気味がって誰も彼女たちに近づこうとはしなかったのです。
 ある年、村は極度の日照りに悩まされました。何週間も晴れの日が続き村の作物は今にも枯れそうな状態になっていたのです。そんな状況を見かねた彼女たち魔女の一族は魔法の力で雨を降らせてやることにしたのです。今まで全く降らなかった雨が突然降り注ぎ、作物はみるみるうちに元気を取り戻しました。こうして村は不作による飢えを回避することができたのです。村の人々はオリヴィエたちの親切さに感動し心を開いていきました。一緒に農作業をしたり、時には魔法を使って収穫の手助けもしたりしました。オリヴィエも村の子供たちと一緒に遊んだり一緒にご飯を食べたりして楽しい時間を過ごしました。
 しかし、そんな楽しい時間は長くは続きませんでした。その次の年、村で新種の疫病が流行りだしたのです。その病にかかると咳が止まらなくなり、高熱も続きます。今までに見たことのない症状に人々は戸惑い、治療法もわからないため次々に人が亡くなっていきました。
 そんな時、ある村人が言いました。
「あの魔女の一家が村を乗っ取るために毒をまいて病を流行らせているに違いない。」
 そのうわさはすぐさま村中に広まりました。今まで仲良くしていた人たちも段々とオリヴィエたちを避けるようになります。ついに疫病の不安からパニックに陥った人々はオリヴィエたちを迫害し始めました。こうしてオリヴィエたちは逃げるように村を去っていったのです。
 それ以来、オリヴィエは水晶玉で村の様子を観察し、森を暗くして人々が近づかないようにしたのでした。
「そんなひどいことがあったんだ…」
 魔女と村人たちとの意外な事実にケビンは驚きを隠せませんでした。
「だからあなたも私には関わらないほうがいいと思うわ。」
 そう語るオリヴィエは、なんとも寂しそうなのでした。
 こんな森の中にたった1人で住んでいる理由がなんとなく分かった気がしました。
「じゃあ僕が友達になってあげるよ!」
「あなたが…?」
 ケビンはいつも村の子供たちにしているように父親の冒険話をし始めました。オリヴィエも夢中になってその話に耳を傾けていたのです。
 かれこれ2時間くらい話し込んでいたでしょうか。2人は時がたつのも忘れて楽しい時間を過ごしました。オリヴィエは50年前のあの楽しかった時に戻ったような心持ちがしました。
 ケビンは当初、ガイに父親の冒険話を証明するために魔女を連れて帰ろうとしていましたが、魔女を連れて村へ帰るのを諦めることにしました。
 オリヴィエはケビンの様子に拍子抜けします。
 もっと食い下がられるかと思っていたのです。
「ガイの鼻を明かす事はできなくなるけど、父さんの話がウソじゃないって分かったしね。」
 ケビンはとにかく、魔女の存在をその目で確かめることができ、何といっても魔女と友達になることができたのが嬉しくてたまらないのでした。
 オリヴィエはそれを聞いて、笑みをこぼします。
「あなたみたいな人ばかりだったら気軽に村に遊びに行くことができるんだけどね」
 ──ケビンはオリヴィエに村への帰り道を教わると、また会う約束をして魔女の家を後にしました。
 魔女の友達ができ、ケビンは思わずスキップして帰り道を辿っていきます。
 しばらくして森を抜け、ようやく村にたどりつくと、夜中だというのに何人もの村人たちが出歩いているのに気づきました。
 きっと村を抜け出して森に入った自分を探しているのだと思い、ケビンは青ざめました。
 怒られるが怖くて、こそこそと草陰に隠れます。
「……おい、いたか?」
「いや、どこにもいない。」
 心配をかけたことをどう謝ろうかと考えていると、村人たちの話し声が聞こえてきます。
「ケビンとガイはどこに行ってしまったんだ……」
 ──ガイ? 予想外の名前を聞いて、ケビンは思わず草陰を飛び出します。
 突然現れたその姿に、村人たちは驚きました。
 叱る言葉や安堵するため息が聞こえます。
 そして、ケビンが1人でいたのを知ると、再び村人たちの表情が曇ります。
「一体なにがあったの?」
 ケビンの問いに、大人たちは顔を見合わせてから言いました。
「どうやらガイも、1人で森に入ってしまったようなんだ……!」
 気づいた時にはケビンは、再び森の中に向かって走りだしていました。
 後から大人たちの止める声が聞こえますが、ケビンはそれらを振り払います。
 この真夜中の森に1人でいるとすると、ガイもきっと、先ほどの自分のように心細い思いをしているに違いありません。
 ガイが何故森に入ったのかは分かりませんが、そう考えると、いてもたってもいられませんでした。
「そうだ、オリヴィエの所に行ってみよう。」
 魔女である彼女ならきっとガイのいる場所を探してくれるはずです。
 来た道を辿ってオリヴィエの小屋に向かいます。
 ふと、走るケビンの耳に、けたたましい獣の声と男の子の叫び声が聞こえたのです。
 急いで声のした方に近づくと、そこには、大きなオオカミに襲われるガイの姿がありました。
「や、やめろっ!来るな!」
 ガイは青い顔で手に持った木の棒を振り回しますが、オオカミは気にもとめずに、じりじりと間合いを詰めていきます。
 そして、ついにオオカミがガイに飛び掛かったのです!
 ケビンはガイの名前を叫ぶや否や飛び出し、盾となる形で立ち塞がります。
 向かってくるオオカミの牙を見て目をつぶりました。
「父さん、母さん、ごめん…」
 ケビンがあきらめかけたその瞬間
 ──ガキンッ!突然鳴った大きな音のあと、あたりは打って変わって静かになりました。
 おそるおそるケビンが目を開けると、そこには……
 口を開けたまま立ちつくすオオカミの姿がありました。
 そして、鋭い牙ががらがらと音を立てて崩れていきます。
 オオカミは何が起こったか理解できないまま、一目散にその場を逃げ出しました。
 ケビンが呆気にとられていると、オオカミがいた場所と自分たちの間に見えない壁のようなものがあるのに気づきました。
 この壁がオオカミの牙を防いでくれたのです。
「全く、無茶なことをするもんだねえ。」
 突然背後から発せられたしわがれ声に、ガイが「うわあっ!」と情けない悲鳴をあげます。
 そこには黒いローブを着た老婆が立っていました。
「ま…魔女…!?」
 ガイは驚きと恐れで固まってしまいました。
 ケビンは見覚えのあるローブを着た老婆が自分に目配せするのを見て、その正体に気づきます。老婆はオリヴィエが魔法で姿を変えたものだったのです。
 オリヴィエはできるだけ“魔女”らしい姿で村に向かい、ケビンの望みをかなえようとしていたのでしょう。
 人前に出たくないと言っていたのに……
 オリヴィエの優しさに、ケビンは嬉しくなりました。
 唖然として固まったガイをみて目論見が成功したことを知り、老婆の姿のオリヴィエはにやりと笑います。
「ヒッヒッヒ……これから森に入る時は充分に気をつけるんだねぇ……」
 魔女らしい素振りをしながら森の奥に歩いていくオリヴィエに、ケビンは心の中でお礼を言いました。
 ーーとたんにあたりは静かになりました。
 まだ茫然としているガイに、ケビンは尋ねます。
「……なんでガイは森に入ったの?」
「ケビンが夜の森に入ったって聞いてさ……」
「おれが『魔女がいない』って言ったせいでお前に何かあったりしたら、寝つきが悪いだろ?」
 ぶっきらぼうに答えるガイの顔は、どこか気恥ずかしそうでした。
「お前こそなんでおれの身代わりになるようなことしたんだよ。」
 ガイがケビンに尋ねました。
「あれは身体が勝手に動いてて…」
 ケビンも気恥ずかしそうに答えます。
「……でも、魔女って本当にいたんだな。」
「ウソだなんて言って悪かったよ。」
 その謝る姿を見て、ケビンはもう怒ってないとガイを許してあげるのでした。
 それから、2人は肩を組んで村へと帰りました。
 村に到着すると、ケビンとガイは村の大人たちに大目玉を食らいました。
 涙が出るようなげんこつをもらいましたが、2人は何だか楽しくなって笑いあうのでした。
 ──数日後、村の広場に子供たちが集まります。
 またケビンが父の冒険譚を話しているのです。
「それじゃあ、今日は……父さんが冒険した砂漠の迷宮の話をしよう。」
 わくわくして話を聞く子供たちの輪のなかには、あのガイの姿もあります。
 ケビンとガイはあれ以来すっかり仲良くなり、ガイはケビンの話を楽しみに聞いていました。
 ケビンは得意げに話をしながら、友達を増やしてくれた魔女の女の子、オリヴィエにとても感謝していました。
 週末には、父から聞いた、とっておきのお話をお土産にしてオリヴィエの家に遊びに行くつもりです。
 彼女が楽しんでくれればいいなぁとケビンは思っているのでした。

「移された時間」
k184102

「ったく。人使いが荒いのよね。自分達はゆったりと画面の前に居座っちゃって!思い出したらまた腹立たしいわね!」
 ぶつぶつと呟く文句と共に、黒い影が近づいてくる。次々と、軽々と、それが当たり前のように時に建物を、電柱を足場にしながら。目の前まで飛んできたそれは、音もなく着地した向かいのビルから歩いてきて、目の前ですっと止まる。その顔は、心からの不快を張り付けているものの、かなり整った部類に入り、すらりとした体躯に長い手足、普通に街ですれ違えばどこぞのモデルかと、誰もが顔を上げるような容姿。そんな精巧な作り物のような男が、不服な表情のままこちらを見下ろしてくるのだ。あまりに理解の追い付か ない状況に置かれると、人は追いつかなくなった思考を抱えて、ただ馬鹿みたいにその突っ立ってその状況を見つめることになる。そしてやっと追いついてきた思考によって、それ相応の反応を示す。…はずなのだが、連日の無理な稼働を強いられたゆづき柚木はじめ壱の頭では、この異常事態を前に、だらしなく広げた口とぼんやりと向けた視線を向けることで精一杯であった。
「それで?アンタはいつまで、その顔でお客を迎えるつもりなのかしらね。」
 苛立たし気に腕を組み、こちらを見つめてくるその顔は、やはり何度見ても綺麗なもので、早朝とはいえまだまだ蒸し暑い中で、曲芸師もたまげる華麗なコンクリートジャンプを披露したにも関わらず汗の一粒も光らせず、事態に追いつけない焦りと気温のおかげで全身にじんわりを汗を纏う壱とは大違いである。
「ちょっと?聞こえないの?喋れないの?そんなはずはないんだけど?こちとらあんたのせいでブラックまっしぐらの早朝出勤してんのよ?」
 痺れを切らしたのか、それはますます目を吊り上げて詰め寄ってくる。
「いや、あっ、あのっ。すみませっ」
 条件反射で距離をとろうとして足を軽く後ろに引く。
 ゴッ
 鈍い音がして踵が何かにぶつかる。あまりの出来事に、自分の状況をすっかりと忘れてしまっていた。
(そうだ、私…)
「全く!朝っぱらから馬鹿げたことしてくれるわよね!おかげでこんな格好で出勤なんてしちゃって!乙女的になしよ!」
 思考を遮るようにまくしたてられ、慌てて壱は頭を下げようとする。しかし、その首元にはさっと手が添えられ、次の瞬間身体は宙を舞った。事態に追いつけなかった頭で、結局こうなるのかと、人が最期に見るという走馬灯に期待を込めて目を瞑る。
 ドンッ
 思いもよらない腰への衝撃と、追ってやって来る鈍い痛みに壱は低く呻く。
(いっ、…痛い?)
 不思議に思いながらも思わず閉じていた目をそっと開く。見慣れた屋上が、見飽きた太陽の光に照らされ始めている。
「は?」
「はぁ?何よその顔、見るに堪えない凄まじさよ。」
 相変わらずこちらを迷惑顔で見下していた彼は、「そんなもの見せないでくれる?」と呟き、しっしと手を振ると、近くにあった廃れたベンチの前で少し唸り始める。失礼極まりない言動に、何なんだと睨みつける。が、彼の方ではそんな壱にはもう用はないといった様子である。そればかりか、雨風にさらされて使い古されたベンチに顔を顰めつつも、ご丁寧にレースのハンカチを敷き、その上にそっと腰かけ、あろうことか取り出したポーチから次々と取り出すメイク道具やらで、身だしなみを整え始める。文句の一つも言ってやりたいが、整えられていく彼の姿は更に美しさを輝かせ、壱をだんだんと惨めな気持ちへと誘う。
(男の人なのに、私なんかより、ずっと、全然綺麗…。)
 悔しさに舌唇を噛み、壱は彼に背を向け、建物の中へと戻っていく。
―・―・―・―・―・―・―・―・―・
「何なのよ。私だって、好きでこんな…。」
 呟きながら、どんどん思い出したくもない出来事が脳裏に込み上げてくる。就職戦争に負け続け、やっと雇ってもらえた会社は名高いブラック企業だった、その名に違わず業務は酷く過酷で、右も左も分からない業界の、指導されたことも無い仕事では当然ミスが出る。
 しかし、そんな事に気をまわして心配してくれる人などこの会社にいるはずもない。それどころか、ストレスを限界まで抱えた上司達からは、これ見よがしに罵詈雑言を浴びせられる日々で、元々少なかった同期たちもみな転職してしまい、不満を共有することも叶わない。
 それでも、仕事のことだけならばまだよかった。同棲していたゆいぞめみお結染漂は、壱とは違って
 大手企業への採用を早々に決め、定時には家に帰り、家の事もすべて引き受けてくれていた。壱が帰るまでは寝ないで待っていてくれたし、愚痴にも嫌な顔一つせずに付き合ってくれ、時には壱と共に理不尽な上司達に怒ってくれた。早くに両親を亡くし、親戚の家では肩身の狭い思いをする他なかった壱にとって、漂の存在はとても大きかった。大嫌いだった「家」が大好きな場所になった。家に帰ることさえ出来れば心配してくれる人がいる。
 大丈夫だよと声を掛けてくれる。そう思えばこそ、なんとかギリギリで耐えてこられたのだ。しかし、どうやら幸せの女神は壱には微笑むどころかその顔すら見せないつもりらしい。
 三日ほど泊まり込みになってしまい、やっと帰宅できた家は、すっかり冷え切っていた。
(もしかしたら、今日も帰れないと思って先に寝てしまったのかな。)
 そっと寝室をのぞいてみても誰の気配もない。家中を漂の名前を叫びながら探し回る。彼はどこにもいなかった。テーブルの上に残されていた小さな小さなメモには、他に惹かれる人が出来たこと、壱には申し訳なく思っているということ、自分以外にもっとふさわしい人がいるということ、壱の体調をいたわり今後の幸せを願っているということ、が几帳面で優しい標の字で綴られていた。疲れ切った壱の頭は、この現実を簡単には受け入れなかった。急いで鞄から取り出した携帯電話で漂へ電話をかける。何度も何度も。明け方近くになっても、呼び出し音が止み、漂の声が聞こえてくることはなかった。既に乾ききった感情をむりやり水で流し込み、のろのろと身支度を始める。こんな時でも、身体が勝手に仕事へ向かわせるのだから、この半年で壱もしっかり社畜へと様変わりしたものだ。虚しく口元を歪ませ、あの会社へと戻っていく。
 この日から、壱の心は壊れていった。罵詈雑言に耐え、何となく帰りにくい家には中々帰る気にならず、仕事を自ら引き受け会社に寝泊まりすることが増えた。そんな生活を続けて一年が経とうとしている。身体も限界を叫び、久しぶりに銭湯の鏡で見た壱の姿は、身だしなみを整えられることもなく、自分でも驚くほどひどい有様だった。
(どうして、私は)
 いつも周りに合わせて必死に取り繕うしかなかった自分が嫌いだった。そんな自分では、就職のエントリーシートで特筆出来るようなところも無く、ありきたりな言葉を並べるばかりで、面接でのエピソードも全部就活サイトで見つけたそれらしい文章を借りたものだった。壱にお祈りメールを返した企業たちには、そんなこともお見通しだったのだろう。
 励まし続けてくれていた漂も、壱のアピールポイントには難しい顔を示し、壱は優しいし素敵な人だよと、困ったように笑いながら必死にフォローをしてくれていた。そうやって気を使われる自分が本当にどうしようもない人間に思えて、漂の優しさに甘えて、お節介だと余計なお世話だとあたってしまったことも少なくない。こんな自分では漂に愛想をつかされても仕方がない。ここまで見捨てられなかったことが奇跡のようなものだ。そう、頭では諦めても、拠り所を失った心の方ではそううまく対処出来ない。
「そんな陰気な顔で居られても迷惑なんだよ。女らしくもっと愛想よくは出来ないものかね。」
「使えないな。今は気分じゃ無いんだよ。周りの人に気を使って行動するとか、出来ないの?そんなんじゃ、いつまでたってもダメ人間だぞ。」
「柚木さん若いんだから。もっと見た目も気にしてさ、スーツもパンツじゃなくてスカートにしてみるとか、ね?」
 次々と浮かんでくる言葉が、壱の頭の中に響いてくる。
(逃げたい。聞きたくない。もう、無理…。)
 壱は響いてくる声を必死に振り払おうと階段を駆け上がり、気づけば屋上の柵をまたいでいた。そこからは、さっきの通りである。
「終わらせることも出来ないの?いつまでこのまま続けなきゃいけないのよ。」
「そりゃ、アンタがそのままでいる限り死ぬまででしょうね。」
 誰もいないはずの非常階段の踊り場で、壱がぽろりと呟いた泣き言に、呆れたような声が返ってくる。疲れ切った壱には、最早驚く気力もない。
「そのままって。私に出来ることなんて何もないし…。」
「はぁ?だからそれが駄目だって言ってるんでしょ?」
「でも…。」
「でもじゃなくて、まともに考えもせずに、自分は可哀そうだなんて感傷に浸っちゃって、どこのヒロイン気取りなのかしら?馬鹿馬鹿しくて見てられないってのよ、まったく。」
 心底面倒くさいといったその口ぶりに、壱は怒りをぶつけるように喚く。
「何なの?だってどうしようも無いでしょ!実際私には何も出来ないし、必死に出来ることをやってる今でいっぱいいっぱいで!第一、あなたに私の何が分かるわけ?急に訳の分からない表れ方して、こっちは大混乱よ!その上、人のことを馬鹿にして、見てられないって?別に見てくれなんて頼んでないし、なんなら見てなんて欲しくない!やっと終わらせられると思ったのに、それも邪魔されて!これ以上私に何を望むの?何も無い私に、何を求めるの!」
 いつの間にか流れていた涙を隠すように、壱は顔を覆って崩れ落ちる。そっと背中を擦る手は、ひんやりとしていて心地よく、壱はますます顔を歪めて泣きじゃくる。
―・―・―・―・―・―・―・―・―・
「…どう?ちょっとは落ち着いたの?」
 ぼんやりとした壱の視界に、少し高い彼の声が響いてくる。目元は冷やされているのかひ
 んやりとしていて、だんだんと手放していた壱の意識を呼び起こしていく。
(そうだ、私癇癪起こして泣きわめい…て…?)
 壱はごろりと体勢を変え、掛けられていたタオルケットを頭まで被る。
(いい大人が、恥ずかしすぎる。穴があれば埋めて欲しい…。)
 どうしたものだろうかと壱は、まだもやを被った頭で必死に考える。
(飛び起きて土下座でもするべき?それとも静かに謝罪と感謝でも述べて、もう大丈夫と伝えるべきなのかな?)
 あれやこれやと考えている壱の様子に、やれやれと言わんばかりの呆れ顔がため息を吐く。
「ねえ。アタシそんなに答えにくい質問したかしら?はいかいいえで答えられる簡単なものだと思うんだけど?」
 苛立たさを隠す気も無いらしい彼の声に、壱はどうしたものかと苦い顔をする。
(どう考えてもこのまま無視をきめる方が失礼極まりないんだよなあ。)
 壱は意を決して、そろそろとタオルケットから顔を出す壱に、呆れながらも大丈夫そうねと、少し安心した様子の彼は、さっと立ち上がり扉を出て、どこかへ行ってしまった。
 改めて、きょろきょろと辺りを見回す。
「ここ、どこ?」
 モノトーンでそろえられた、けれどどこか暖かさを感じさせる部屋は、観葉植物やらは多少あるものの不要なものはなく、整理整頓が行き届き、家主の几帳面で優しい様子を感じさせる。壱が寝かされているベッドも念入りに掃除されているのか、埃っぽさはなく、壱が寝ていた部分を除けばシーツの皺も丁寧にのばされている。放置されて埃まみれであろう壱の部屋とは大違いである。白と黒のストライプのカーテンからは、心地よい風が流れ込み、まだ少し腫れぼったい壱の顔を優しく撫でてくれる。壱は大きく息を吸いこむ。
(こんなにゆったりとした時間。いつ以来だろう。)
 ゆっくりと息を吐きだしながら、壱の頭を「仕事」の文字がよぎる。さっと顔色を変え、壱は扉の方へと駆け出していく。扉から続く廊下を進むと階段があり、下からは機嫌の良さそうな鼻歌が微かに聞こえる。1階はキッチンとリビングであるらしく、これまたお洒落なカウンターキッチンの奥に、壱は彼の姿を見つける。さっきから聞こえていた鼻歌はキッチンでカチャカチャとしている彼によるものらしく、顔には先ほどまでの呆れ顔の代わりにご機嫌な微笑みが見られる。下りて来た壱には目もくれない彼に、壱がそっと声を掛ける。
「あのぉ、えっと…。すみません。」
「何〜?」
 彼は視線は上げないものの、壱の声に言葉尻を上げつつ答える。声を掛けようとして壱は、まだ彼の名前も何者なのかも知らないことに思い当たる。
(私何も知らない相手に、あんな…。あ〜、今はそれどころじゃない。仕事を休むなんて、しかも何の連絡も入れてないし、後から何を言われるか分かったもんじゃない。)
 壱は、再び込み上げる恥ずかしさを、必死に上司への恐怖で押し込める。
「あの、私仕事に行かないと…。」
「あぁ、大丈夫よ。私の方で連絡は入れといたから。」
「連絡?」
「ええ。『家庭の事情がありますので、本日付けでそちらの会社を辞めさせていただきます。』ってね。よし!完成。どう?」
 どうやら、先程からの作業はスコーンの飾りつけだったようだ。ホテルのカフェなどでお目にかかれるような仕上がりに、壱は思わずすごいですと拍手を送る。そうでしょう?などと満足げな彼の様子に大きく頷き、壱ははたりと動きを止める。
(今、彼は何と言った?辞める?何を?誰が?)
 硬直する壱など気にも留めず、彼は着々とティータイムの準備を進める。ガラス製のお洒落なテーブルには白いクロスが敷かれ、お店やテレビでしか見たことのないようなお茶菓子セットに先程のスコーン。趣味の良いカップには、ふわりと甘い香りを漂わせるハーブティーと思われる琥珀色の液体が注がれていく。
「さっ!お茶にしましょ?ローニスペシャルティーセットよ!」
 すっかり気を良くした彼は、やはり綺麗な顔で壱を誘う。促されるままに着席したところで、壱の頭はようやく先程の言葉に追いついた。
「私、仕事辞める気なんて無いです!どうしてそんな勝手なことするんですか!私、これからどうしたら…。そもそも貴方は誰なんです?何者?あとついでに、男性でいいんですよね?」
 勢いよくテーブルに手をついて立ち上がり、壱は問い詰める。
(確かにブラックで酷い会社だけど、やっとのことで雇ってもらった会社だし、何も無い私を求めてくれる唯一の居場所だったのに。)
 あんな会社にも恩を感じる時が来たことに壱自身が驚く。しかし、単純に仕事が無くなれば壱は収入を絶たれてしまうことになる。新卒でも相手にされなかった壱が、今更途中入社でどこかへ就職出来るほど人生はうまく出来ていないことは、壱自身が一番よく知っている。彼はそんな壱の切羽詰まった様子などどこ吹く風といった態度で、ローニスペシャルティーセットを楽しみながら答える。
「仕方ないでしょう?アンタあのまま仕事続けててもまたあんな馬鹿しでかすだろうし、そうじゃないにしてもあのままいけば過労死まっしぐらよ?あと、アタシはローニで、所謂死神ってやつね。最後の質問はご想像にお任せするけど、正直そんなに大きな問題なのかしら?ってやだ、アタシ天才じゃない?パティシエにでも転職しようかしら。」
 自分のスコーンの出来に大満足とでも言いたげに目を丸めるローニは、こともなげに壱の質問に早口でさらりと答え、さっさと食べろと壱のスコーンを指す。しかし、今の壱にお茶を楽しんでいる余裕などないのだ。壱は肩を落として椅子へと腰を落とす。
「そんな…。私、これからどうしたらいいの?」
「ああもう、じれったいわね。そんなことどうでもいいから。ほら、早く食べて感想聞かせて頂戴よ。」
「そんなことって!……待って?今死神って言った?じゃあ、私はやっぱり死んだの?」  一大事をそんな事呼ばわりされ、壱はまた怒りを覚えたが、ふとさっきのローニの言葉を思い出す。確かに彼または彼女は自分が死神だと言った。死神とは、死者の魂を冥界へと導く存在だったはずだ。ローニが死神であるのならば、魂となる死者はもちろん壱ということになる。それに、見覚えのないこの部屋は使い慣れた様子からローニの部屋、つまりは死神の部屋となるので、既にここは冥界だということになると考えられる。
(そうか、あの不幸な日々から解放されたんだ、ぼろぼろになって、終わらせたくて仕方なかった時間を私はちゃんと全うしたんだ。)
 少し晴れ晴れとした表情で、壱はようやくローニお手製のスコーンに手を付ける。
「おいしい!すごいですこれ!スコーンはサクサクしてるのにふわふわで!ソースは甘酸っぱくて食べやすい!」
 目を輝かせてスコーンを頬張る壱に、うんうんと満足げなローニの方では、既に食べ終わっており、残りのハーブティを楽しんでいる。
「ローニさんって、女子力高めですよね。」
「あらそう?アンタが低すぎるだけじゃない?」
「ちょっと。確かにローニさんからしたら、地味で冴えないでしょうけど、私のこと馬鹿にしすぎじゃないですか?」
 小馬鹿にしたようなローニの返答に、壱はむっと顔を顰める。その顔をみて、ローニは更に馬鹿にしたように酷い顔よと、困ったように悪戯な笑顔を見せる。文句を口にする壱も、その顔には笑顔が浮かび、幸せなティータイムはゆっくりと、しかし確実に流れていく。
―・―・―・―・―・―・―・―・―・
「さてと、そろそろいい時間かしらね。」
「時間?あ、そういえば私この後どうなるんですか?」
 よいしょと腰を上げ、ティセットを片付けるローニを手伝いながら、壱は問いかける。すっかり時間を忘れてティタイムを楽しんでしまった壱だが、死んでしまったのであろうことは分かったものの、これからどうすれば良いのかはさっぱり分かっていなかった。閻魔という大王によって生前の罪を諮られ、天国や地獄へ行くというのはよく聞く話だが、ここは死神の家で閻魔らしき姿も見えない。オカルト的なことには疎かった壱にはこれからどうなるのかなど、見当もつかない。不安げに尋ねる壱に、ローニはあっけらかんとした様子で答える。
「どうって、もちろん帰るのよ。」
「帰る?どこに?」
「アンタの家に決まってるでしょ?まさか居候でもする気だったの?」
「えっ?でも私はもう…。」
 訳が分からないという様子の壱に、再び呆れ顔のローニは額に手を当てながら言う。
「死んでなんかないわよ。死なれちゃ困るからアタシは早朝ブラック出勤までしてアンタの自殺を止めたんだから。」
「そんな、でも、私仕事も無くて、私どうしたら…。」
 自分は死んだのだ、そう思ったから壱は安心してローニとのお茶を楽しんでいたのである。
(もうあそこに戻らなくていい、もう解放されたと思ったから、もう心配いらないと、それなのに実際はただ職を失っただけで、寧ろ前よりもっと酷いじゃない。)
 希望を見出してしまったお蔭で、壱は以前にも増して絶望する。そんな壱の様子に、流石に心配そうにローニが眉を落とす。
「ちょっと。大丈夫?顔色悪いわよ?」
 壱の中で落ち着いてくすぶっていた怒りが、再び燃え上がってくる。ローニが憎いのだと言わんばかりに睨み、壱が声を荒げる。
「全部、貴方のせいよ!貴方が勝手に私からすべてを終わらる機会も、仕事も、全部奪ったりしたから!死神何だったらあのまま私を死なせてくれれば良かったじゃない!どうして邪魔なんてしたのよ!」
「そりゃ、自殺何てするもんじゃないし、アンタはまだ死ぬ時じゃなかったのよ。アンタに生きて欲しいと思う人だっているかもしれないでしょ?それに、人間の魂の数を管理するのも死神の仕事の一つなのよ。」
 壱の剣幕に驚いた様子を見せながらも、ローニは淡々と答えた。
「死ぬ時じゃない?まだ私に苦しんで生きろって言うの?私を想う人なんてもうどこにだっていないの!魂の数何て知ったこっちゃないわよ!貴方だって言ったじゃない。もう限界だって。私はもう限界なのよ!どうして、どうして…。」
 壱は叫びながら、目頭が熱くなるのを感じる。
(これじゃあさっきと同じ。漂にあたってた時と同じ。私は何も成長していない。)
 心配そうにこちらを見つめるローニの姿がゆらりと歪む。その唇が何かを伝えようとしているが、壱自身の呻くような泣き声が頭の中に響いてきて初めには届かない。それに、壱はさっきからだんだんと意識が遠のいていくのを感じている。しゃくりあげて取り乱し、とうとう壱は意識を手放してしまった。
―・―・―・―・―・―・―・―・―・
「誰か落ちたぞ!」
「救急車だ!急げ!」
 意識を再び手にした時、壱は屋上にいた。薄汚れたベンチに寝かされ、顔の下にはご丁寧にレースのハンカチが敷かれていた。
(ああ、戻って来たんだ。)
 朝日が少しずつ辺りを染めて少し眩しい。
(ローニ、なんて言ったんだろう。)
 ぼんやりと霞む頭で、そんなことを考えながら、壱は再びフェンスをまたぐ。大小様々なビルの向こうに壱は目を向ける、もう黒い影は見えなかった。そっと目を閉じ、壱はふっと身体の力を抜いた。
「ローニ、ちゃんと迎えに来てくれるのかなぁ。」
 強く風を受けながら、壱は自嘲気味に呟く。強い衝撃と共に、壱の時間は終りを告げた。慌ただしく人が行き交う中、悔しそうに顔を歪めた麗人がそっと壱に近づく。その姿に気付く者はおらず、そっと壱の傍でかがむと、静かに呟いた。
「ごめん。」
―・―・―・―・―・―・―・―・―・
「…っ。私また駄目だったの?」
 壱が再び目を開くと、そこは病院の様だった。辺りを忙しそうに動き回る人が、黒い服装ばかりであることを除いて。どうしたものかと、壱は辺りをきょろきょろと見回す。
「アンタは、本当に落ち着きが無いわね。」
 聞きなれた少し高い声と、すっかり見慣れた呆れ顔。少し安心し、壱は口を開き掛けてローニが一人ではないことに気付く。寡黙で無表情な男は、ローニと違わず整った顔であるが、それ故に威圧感があり、今まで気が付かなかったことが信じられないと壱は目を見張る。気圧された壱が、おろおろとしていると、見かねたローニがため息交じりに男を紹介する。
「まったくもう!すぐおろおろしないの。こいつはイシイよ。イシイ、アンタもそんな怖い顔してないで、書類と説明はしっかり頼んだわよ。」
 ぴしゃりと言うと、ローニはさっさとどこかへ行ってしまった。二人にしてくれるなと、壱は咄嗟にローニの名前を呼ぼうと口を開いたが、さっそくと言わんばかりに無表情のまま説明を始めてしまったイシイによって阻まれてしまった。
「では、私の方から説明させて頂きます。まず、死神について簡単に説明します。死神とは、本来の寿命を全うすることなく命を絶った者が処罰として請け負わされる役割です。まあ基本的に壱さん同様に、自殺をした人が多いですね。そしてその業務の内容は、死者の魂の誘導と生者の魂の管理、天国社員と地獄社員の統率などが主です。基本的に最初の一年、生者の時間にして二日程度は指導員と共に死神見習いとして業務を行い、指導員から認められれば一人前の死神として、自分が全う出来なかった寿命分の時間働くことになります。壱さんの指導員は僕になります。あと、時間としては、えーっと…。」
 書類をぱらぱらとめくり、イシイは壱の寿命資料を一生懸命探している。その表情は必死でさっきまでの無表情が少し和らいだ様で、壱は少しほっとする。
(にしても、死神のシステムは初めて知ったけど、仕事内容は大体知ってる感じだしまあいいとして、まさか死んでまで労働を強いられるとは、死後の世界も甘くないなぁ。にしても、今の話でいくとローニも自殺者ってことじゃない。偉そうに自殺はいいものじゃないなんて言ってた癖に、自分だって。)
 そう思うと、壱は少しむっとしてしまった。その様子を見て、イシイが更に焦り、泣きそうな顔になって言う。
「す、すみません。僕、昨日やっと死神見習いを卒業して、あ、僕の指導員はローニさんだったんですけど、中々厳しくて。あの、不甲斐ないですよね、代わってほしいとかだったらあの、言ってもらえれば…。」
 どうやら自分がもたついていることに壱が、怒っているのだと勘違いしたのだろう。最初の威圧感も、緊張からきたものなのかも知れない。壱は慌ててしょんぼりとするイシイに訂正する。
「あの、そうじゃないんです。イシイさんに怒ってる訳じゃなくて、ローニさんに以前自殺はよくないって言われて、でも自分もそうなんじゃないか!って思ったらなんかイラっとしちゃって…。」
 そうだったんですか、と少し安心した様子のイシイは、少し険しくした顔を近づけて声を低くして続ける。
「あの、でもローニさんは自殺じゃないんですよ。確かに死神は基本的には自殺者に課せられる役割ですが、例外もあって、ローニさんは寿命を移したんです。」
「寿命を移す?」
 訳が分からないといった様子の壱にイシイは神妙な面持ちになって更に声を落とし、顔を近づけてくる。
「えっと、これはタブーな方法ですし、急に突飛な話になるんですけど、死神は人の寿命をある程度操作することが出来るんです。それで、生前のローニさんは当時ローニさんがお付き合いしていた彼女の先が長くないことをどうやってか知ったみたいで、彼女を担当していた死神に、自分の寿命を彼女に移して欲しいと持ち掛けたらしいんです。詳しいことは僕も知らなくて、申し訳ないんですけど、とりあえずローニさんは自殺じゃないんですよ。でも、そのお陰でローニさんはここから先一生、死神に一生というのはおかしいですね、えーっと、えいえん…、そう!永遠に死神として存在することになっているんだそうです。」
 早口で言いきったイシイは、そっと辺りを見回し他の人には聞かれていないようだとほっとした様子だ。あのローニにそんな少女漫画ばりのエピソードがあるとはと、壱は驚いて呆然としていたが、やっと資料を見つけたイシイの素っ頓狂な声に、我に帰る。ど、どうしたんです?イシイさん?」
 問いかける壱に信じられないという顔で、イシイが向き直る。そして、手元にあった資料をそっと示した。資料は寿命を表しているであろうグラフだ。始まりと終わりが一回ずつなのだから、そのグラフは半円を描くような山形になっているはずである。しかし、壱のグラフは違った。〇歳から登り始めた寿命は二十三歳の時点で確かに終わりを示している。これで終わりなのであれば何も問題はない、特に何の変哲もないグラフである。しかし、二十三歳で終わりを告げた壱の寿命はそこから再び登り始め六十四歳で再び終わりを示しているのである。現在壱は二十四歳。同棲していた漂が居なくなったのが二十三歳。もう疑う余地など無かった。壱は、ベッドから飛び出し、ローニが消えて行った方向へと駆け出す。どうして気付けなかったのかと、自分を叱咤し、どうして教えてくれなかったのかと、余計なお世話だとローニを、漂を責めた。
(違う。もう同じ失敗はしない。そんなことを言いたいんじゃない。)
 同じような黒服の中に、見慣れた顔を見つけ、走る壱の足に力が入る。
「漂!」
 辿り着くまでの距離がもどかしく。思わず彼の名前を呼ぶ。驚いたような彼の顔は壱が知る素朴な漂のものではない。けれど、困ったような笑い方をするその表情は紛れもなく漂のものだった。息を切らしながら二人は改めて再会を交わす。どう切り出そうかと、口ごもる壱の様子に、漂はたまらないという様子で吹き出す。
「ちょっと。なんで笑うのよ。ここは笑う所じゃなくて、もっとこう、もっと…。」
 今にも泣きそうな壱に、漂は驚いた顔で慌ててそっと抱きしめた。
「ごめん。お節介だった。」
「本当だよ。あんな演技までして、本当は漂でしたなんて、訳分かんない。」
「こっちがかなり意を決して渡して、挙句に念押しまでしに行った寿命をふいにしてくれた人も大概だと思うけどね。」
「全然嬉しくなかった。」
 漂が居なくなってからのことを思い出し、壱の目に再び涙が溜まっていく。そんな様子を察してか、漂も静かにごめんと言った切り、優しく冷たい手で壱の背中を擦ってくれる。向うからイシイが壱を呼ぶ声が聞こえる。慌てて涙を押しやり、壱はイシイの方へ手を振る。ローニの姿を見つけ、改めて驚いた様子を見せながら、イシイが書類を差し出す。
「あの、それで壱さんの任期は約四〇年となる訳ですが、死神業務を遂行することにご納得いただけたのなら、ここに署名と拇印の方をお願いします。」
 まだ署名を貰っていなかったのかと小言を言うローニに、すみませんと必死に謝るイシイが気の毒で、壱はそっとローニの腕を抓った。驚くローニを、壱がきっと睨む。
「何よ。」
「漂、あぁ違うな。ローニが悪い。」
「そうですよ!あんな一大事のことを伝えもせずに!そりゃあびっくりもしちゃいますよ!普段はあんな感じのローニさんが、そんな男前行動してるなん…。ひっ!すみませんでしたぁ!」
 日頃、言われるばかりであろう可哀そうなイシイもここぞとばかりに加勢する。が、ローニに睨まれるとすぐにしょんぼりとしてしまった。可哀そうなイシイ君である。
 そんな様子に、ふっと笑みをこぼし、壱はふと疑問を口にする。
「ねえ、どうしてローニなの?」
 急な質問に、ローニはイシイを睨むのをやめ、思い出すように答える。
「あぁ、これはね。結の口と染の木の横棒と、漂の示の最初の二画を取ってるのよ。因みに、イシイは生前の名前が依河佳だから、それぞれの編からとってあるのよ?」
 すっかり乙女口調へと戻ったローニに、もうよくないですか?と呟くイシイは、またローニに睨まれることとなった。やれやれと、首を振る壱は何とか注意を逸らそうと、ローニに提案する。
「じゃあ、私はどうなるの?」
「そうねぇ。トーヒ?ナーヒ?どれもいまいちね、ちょっと考えてみるわ。そんなことより、ねえ?またスコーンを焼いたのよ、今回は前よりもいい出来だから、食べに来ない?」
 これが漂なのかと、調子の狂う壱の様子にイシイが心配そうに声を掛け、またローニが睨んでしまう。そんなことを繰り返しつつ、三人はローニスペシャルティーセットを楽しむお茶会場へと歩みを進める。
 明日から、死神見習いとしてオトヒの忙しくともホワイトで幸せな業務が始まる。

「ぬいぐるみペン太の奮闘日記」
k182328

「あんた、忘れ物ない? 折りたたみ傘持った?」
「ちゃんと持ったって〜 行ってきまーす!」

 阿佐ヶ谷家のモーニングルーティーンとも呼べるやりとりが玄関先で行われているのを一階の部屋で聞き、今日も一日が始まったなと痛感する。
「さて、今日もお仕事頑張りますかね。」
 ぐーっと伸びをして身支度を始める。
 手編みのシャツに毛で覆われた自慢の腕を通し、寝ぐせでボサボサになった毛を子ども用の櫛で整え、女児向け月刊誌『きらきらぼし』の付録の小さなポーチを肩に担ぎ仕事に出かける。
 俺はこの阿佐ヶ谷家専属のペンギンのぬいぐるみだ。出身は城崎マリンワールドのお土産屋で六年前この家にやって来た。
 ぬいぐるみの世界では一人前の大人になるために十歳まで人間の家に居候し、人間の世界の中で生きる知恵を学ぶ。そのあとは一旦ぬいぐるみの国に戻り研究者になったり、人間の世界に愛着が生まれた場合は再び派遣を希望したりする。俺は今七歳だからあと約三年この家に世話になる予定だ。
 俺の主人の名前は阿佐ヶ谷環奈という中学二年生だ。この阿佐ヶ谷家の一人娘で市内の中学校に通っている。環奈とは彼女が友人家族と城崎まで旅行に訪れた際に出会い、当時人間に選び損なわれていた俺を可愛いと言ってこの家に迎え入れてくれた。あれから六年経った今でも大切にしてもらっていて、環奈には恩を感じるばかりだ。
 一階の環奈の部屋から今日の仕事場である台所へ向かう。
 『こんな良い天気で快適な気温の日でさえも仕事とはなぁ。外に出て他のぬいぐるみ達と遊びたいぜ?』
 秋から冬に移りかけるこの季節はペンギンの俺にとって最高の行楽シーズンなのだが、いかんせん今の仕事の出来が今後の出世に大きく関わるので手を抜けないうえに、ぬいぐるみが意思を持っていることを人間にバレてはいけないという決まりがあるので、俺が自由に動けるのは環奈の目が届かない今日のような平日の昼間か休日阿佐ヶ谷家が出かけたときだけなのだ。
 バレてはいけないという決まりは何かと不便で、俺の身の周りの物も環奈が昔使っていたであろう小物をこっそり拝借(さっきの櫛やポーチも環奈が昔使っていたものだ)してベットの下に隠しているし、俺の日課である人間の生活を調査する仕事もご家族の方に勘付かれてはいけない。何より一番大変なのは彼女が帰ってくるまでには朝と同じ位置にいてないといけないことだ。前に熱が出たと環奈が急に学校から帰ってきたときは冷や汗をかいた。
 今日の仕事は台所にある調味料の採取だ。ペンギンにとってどんな調味料が口に合うのか、健康的なのかを調査するのが目的だ。
 阿佐ヶ谷家の台所は一階奥のリビングに接続されているリビングダイニングキッチンという間取りで、今いる部屋から階をまたがないので向かうのにそこまで苦労しない。
 『最近は床がひんやりしてて気持ちいいんだよなぁ』などと感じながら台所に向かっていたところ、
「やあペン太。今日も仕事かい?朝から精が出るねぇ。」
 と聞きなじんだしゃがれ声に呼び止められた。
「おはようございますクマ江さん。今日は台所の調味料調達です。」
 この方はクマ江というクマのぬいぐるみで、毎日リビングのテーブルの端に座っている。俺が環奈と出会う前からこの家に住んでいて、どうやら若いころに他の家で乱暴に扱われていた際に足に怪我を負って、捨てられそうになった時にこの家のお母さんに拾われたらしい。
 クマ江さんにはこの家の構造や人間の世界で生きる知恵など、居候に必要な情報をたくさん教えてもらった。環奈とはまた違った意味で俺の隠れた恩人だ。
「調味料かい。人間は色々な調味料を料理に使っているから、調達にはどの調味料を採集するか取捨選択が必要だよ。」
「わかりました。ありがとうございます。」
 なんだかんだ面倒を見てくれるクマ江さんは俺にとって母親のような存在なのかもしれない。(かもしれないというのは、ぬいぐるみには親という存在がいないので環奈や環奈のお母さんを観察する中でクマ江さんを俺は勝手にそんな立ち位置においているのだ。)
 台所に到着すると、早速ポーチの中に入れておいた飛び道具≠取り出す。これは輪ゴムにタコ糸を結んだもので、高い位置に移動する際によく用いている。投げ縄の要領で台所の取手部分に輪ゴムを引っ掛け、糸を体に括り付けて糸を手繰り寄せながら上に登っていく。昔は苦労したが慣れてからは容易いものだ。もっとも、この登り方を教えてくれたのもクマ江さんなのだが。
 台所の頂上、ちょうどお母さんがまな板と包丁で調理を行う場所まで登りきると、辺りを見回し調味料の保管場所を探す。
 『この、半透明のカゴの中に陳列されている円柱状の入れ物の中に調味料が入っているのか??』
 これまで何度か台所を訪れたことはあったが、食材や器具の調査がメインで調味料がどのようなものであるのかいまいちピンときていない。
 『どうせならクマ江さんに調味料がどのようなものか聞いたら良かったかもな。』とも思ったが、それでは俺自身成長出来ないと無理やり自分を納得させる。
 とりあえずカゴに入っている一番手前の入れ物に手を伸ばしたとき、
 ピンポーン
 と家のチャイムが鳴った。すぐにパタパタと二階にいたお母さんが降りてきた音がして、
「いらっしゃーい! さあ遠慮せずあがってあがって。」
 と甲高い声が玄関の方から聞こえてきた。
「?゛え??」
 思わず情けない声を出してしまった。どうやら客人が来たようだ。この家は日中はお母さんが二階で在宅ワークをしていて、客人なんて滅多に来ることはない。
 不意を打たれた俺はあたふたと取り乱すが、何とか目の前のカゴの中の空いたスペースに隠れることに成功した。とは言っても身長二十センチ弱ある俺にとってかなり体制的に苦しい状況だ。
「この家に来るのは初めてよねぇ。」
 とリビングに招かれた客は中年小太りの男性で、お母さんと妙に親しそうにしていた。カーキ色のコートを手に持っているこの男が何者か気になるところだが、今は物音を立てずにやり過ごすことに徹しなければならない。
「コーヒー淹れるから、ちょっと待ってね。」
 そう言ってお母さんはおもむろに台所のほうに近づいてきた。幸い俺が隠れている場所はリビングからも台所からも死角になっており、見つかる心配はなさそうだ。
 『いきなりのイレギュラー登場で焦ったぜ??』
 無理な体制ながらも一息ついていたときだった。
「砂糖とミルクはどうする?」
 お母さんが男に質問をした。
 『さとうってなんだ???』
 聞きなれない単語に困惑する。コーヒーは人間が好んで飲む苦みの強い飲み物で、ミルクは牛の乳の事であることは知っている。しかし、さとう≠ニいうものは知らない。話の流れ的におそらく食べ物の一種だろうとは思うのだが、どんなものか語感からは検討もつかない。
 正体不明の名称に困惑していると、俺は更に状況が悪くなった事に気付いた。なんとお母さんが俺が今いるカゴの下の段にある同じ形のカゴに手を伸ばしてきたのだ。
 『いやマジか?? さとう≠チてのはなにか調味料の名前なのか?』
「最近急に太ってきてなぁ。今糖分は控えるようにしてるんだよ。」
 男が照れくさそうな、どこか面目なさそうな表情で返答する。
「あらそうなの。ならミルクだけにしとくわね。あなたも私と同じでブラックにしたら良いのに。」
 そう言いながらお母さんは台所の後ろへ振り返り、棚に陳列されている赤い蓋の瓶を開け、中の白い粉をスプーンでひとさじ取り出しカップへ入れた。
 混乱と九死に一生を得たような安堵感の中、二人の会話をヒントに俺はある仮説を頭の中で展開した。
 『仮にさとう≠ェ調味料だとしたら、おそらくそれを摂取したら太る原因になる、つまり成分は油分か糖分ということだ。そしてとう≠ニいう名前からおそらく後者なのだろう。』
 これは採取して調査する必要があると今日の獲物を決めた俺は再び二人の動向を注視した。二人は近況を報告しあったり、お母さんは環奈の事を話していた。男は聞き上手なようで、お母さんの話に相槌を打ちながらも話を広げるような意見を述べていた。
 居候のぬいぐるみにとって、人間の行動パターンの分析は仕事と並んで重要なことだ。人間が普段どのようにコミュニケーションを取っているか、どのように社会形成しているかは日々の仕事を行うにあたっての基本事項となり、またぬいぐるみの世界にとって大切な情報源となっている。
「それじゃ、僕はそろそろ帰るわ。」
 一時間ほど談笑し、男はお母さんに黄色い袋を手渡し席を立った。
 お母さんが玄関まで見送るわと同じく席を立ち玄関に続く廊下へ向かったのを見て、俺は手際よくカゴから抜け出し、先ほどのさとう≠採取するために下の段のカゴを引き出し、中に入っていた白いサラサラした粉を少量ポーチに入れた。少量なら拝借しても人間は気づかない。
 そして登ってきたときと同様に取手に輪ゴムをかけ俺の体にタコ糸を結びつけバンジージャンプの要領で飛び降りた。床に着地し、輪ゴムとロープをポーチの中にしまうと急いで環奈の部屋へと向かった。
 なんとか環奈のベットの下にたどり着き、どっと寝そべった。ひんやりとした床が背中の熱を奪っていく感覚が妙に気持ちいい。ぬいぐるみの背中の毛は熱を保温する性質があるので、今日のような運動をしたら妙に熱が籠るのだ。
「焦ったぜ?? まさか来客とは。クマ江さん、さては知ってたのに教えなかったなぁ。」
 クマ江さんは常にリビングに居座っているので、俺以上に家族の予定などに詳しい。おそらく今日の来客も知っていたのだろう。俺に言わなかったのは俺がとっさの状況にも対応出来るようになってほしいというクマ江さんなりの親切心なのかもしれない。
 『まったく、優しいのか厳しいのかわからない方だなぁ?』
 そんなことを考えながら、先ほどの戦利品をポーチから小さな瓶に移し、それを背負って環奈の部屋にある唯一の窓まで向かう。この部屋は環奈の帰宅まで誰も入って来ないため、多少物音を立てても気づかれない。
 窓を少し開け(この窓の鍵は窓枠の下側にあるので俺でも開錠しやすい)、ピーっと鳴き声の合図を送るとすぐに一匹のカワラバトが飛んできた。こいつの名前はエイジ。昔からぬいぐるみは鳩とパートナーを組み、鳩は人間の世界とぬいぐるみの世界との懸け橋となる変わりにぬいぐるみから食料を分けてもらうのだ。
「よおペン太。今日はいつもより合図が遅いじゃねーか。」
 自慢の灰色の翼に太陽光が反射して宝石のようにキラキラと輝いている。
「いやぁ、それがよぉ??」
 俺は先刻の仕事の詳細を話した。
「そりぁ災難だったなぁ。」
 エイジはクルックーと笑い声をあげながら俺が背負っていた瓶を受け取った。
「いつもの場所に届けてくれ。今日は報酬を準備する余裕がなかったからまた後日まとめて渡すわ。」
「了解。」
 そう言うとエイジはバサッと翼を広げ、一瞬宙に浮くと、くるっと向きを変えバサッと秋の空へ飛び立っていった。
 時刻は午後二時に差し掛かっており、俺にとっては昼寝の時間となっていた。ぬいぐるみは食べ物を摂取しない代わりに十分な休息を得ることによって生きながらえることが出来る。なので、人間に乱暴に扱われるぬいぐるみは十分な休息をとることが出来ずに病気になったり死んでしまうのだ。俺の場合とある理由で夜は十分な睡眠が取れないので、平日午後二時から四時まで昼寝の時間を設けている。
 俺の自慢の寝床は環奈のベットの上だ。環奈は中学校に入学する際に新しくベットを購入してもらった。新しいベットは羽毛を用いていて触り心地もふかふかでぬいぐるみの俺にとっても快適だ。(まあ、動物の羽毛を用いていると知ったときは一週間ろくに寝れなかったのだが。)それに、万が一昼寝の間に環奈が帰ってきても朝と変わらない場所にいることによってぬいぐるみに意思があると疑われる事もない。
 『今日は木曜日だから五時には環奈が帰ってくるな。』
 などと考えながら俺は眠りに落ちた。
「ただいまペンペン! 今日も疲れたぁぁ。」
 ベットに仰向けで寝ていた体をいきなり空中に持ち上げられ俺は目が覚めた。どうやら環奈が帰ってきて、俺を両手で持ち上げたようだ。環奈はベットに寝転がり俺を見ながら独り言のように語りかけてくる。
「ペンペン、今日は学校で抜き打ちテストがあって良い点数取れなかったよ。テストがあるってわかってたら昨日の夜に勉強してたのに??」
 どうやら今日学校であった不幸な出来事に対する愚痴を俺にこぼしているようだ。
 説明が遅れたが、俺は人間からはペンペン≠ニ呼ばれている。どうやらメスだと思っているようだ。確かにぬいぐるみにはオスかメスかを見分ける特徴はないが、オスの俺にとってはどうにかして自分はオスで名前はペン太だと気づかせたいところだ。環奈が学校の裁縫という時間に作ったぬいぐるみ大のピンクの服やスカートを着させられ、エイジに大笑いされたことは今でも恥ずかしい思い出だ。
「今日ね、家におじさんが来たんだって! これ、おじさんからのプレゼントなんだ〜」
 そう言って環奈は黄色の紙袋に梱包された四角い物を取り出した。
 『なるほど、昼間の男は環奈のおじさんだったのか。お母さんと親しい様子だったから、お母さんの兄弟なのだろう。』
 袋の中には本が入っていた。環奈はまず自分で中をパラパラと読んでからパアッと顔を明るくして、
「見て見て! ペンペンと同じペンギンの図鑑だよ! おじさん、私がペンギン好きって知ってたのかなぁ。」
 どうやら本の中にはペンギンの写真や説明が載っているようだ。環奈が俺をかいだ胡坐の上に乗せ、図鑑を見せてくれた。そこには大小様々なペンギンの写真が載っており、なんだか新鮮な気持ちになった。俺は人間の文字は読めないが、環奈の様子からきっと良いことが書かれているのだろう。
 暫く一緒に眺めた後、環奈はお母さんに夕食に呼ばれてリビングへ出て行った。図鑑は開かれたままだったので、もう少し眺めてみる。
 『暑い場所を好むペンギンや、人間くらいの身長のペンギンも世界にはいるのか。』
 俺の知らないペンギンの姿がそこにはあった。普段外に出る機会の少ない俺にとって、外界についての話は環奈の独り言か阿佐ヶ谷家内のやりとり、もしくはエイジから教えてもらうしか方法がない。本というものは人間が開発した最も偉大な財産の一つと以前エイジが言っていたが、なるほど確かにその通りだ。ぬいぐるみが人間の文字を読めたら更に膨大な知識を得ることが出来るだろう。
 そんなことを考えながら図鑑のページをめくっていたら、バタバタとこの部屋に向かってくる足音が聞こえてきた。
 『まずい!環奈が戻ってきた!』
 不意を突かれての帰還に急いで元のページに戻そうとしたせいで、図鑑がベットから落ちてしまった。
 『しまっ??』
 時すでに遅しとはまさにこのこと。ガチャっと部屋の扉が開いて、勢いよく環奈が入ってきた。
「早く続き読もっと〜〜♪???あれ?」
 目的の図鑑がベットから落ちていることを環奈が気づくのに時間はかからなかった。
 床に落ちている図鑑を右手で拾い上げベットに座って左手で俺を掴み、
「もしかしてペンペンが読んでたのかなぁ(笑) イケメンペンギンに夢中になってたのかも!」
 『いやそれはない。』
 と俺は心の中でツッコミをした後、そうは言ってもなかなか勘の鋭い環奈に肝を冷やされた。
 午後十時半、今日は早めの就寝だ。いつもは見たいテレビがあるからなどと言って十一時過ぎまで起きている環奈だが、今日は疲れが出たのか早めに自室に戻ってきた。
 好きなアイドルの音楽をCDコンポで流し、ボスっとペットにダイブして仰向けになるまでが環奈の就寝までの一連の流れだ。
 
 さて、俺にとってはここからが正念場だ。
 なんといっても環奈は寝相が悪い。寝返りを打つというレベルではなく、掛布団やら枕やらをベットの下に落とし、酷いときには自分もベットから落ちるのだ。俺もそんな寝相の餌食になっており、毎夜毎夜腕の下敷きになったりベットから放り投げられたりしている。当然十分な休息を得ることは出来ない。身の危険を感じたときのみ回避行動をとるが、俺のポリシーとして基本的には環奈の前ではただのぬいぐるみでいようと心がけている。
 さて、今日の寝相は如何様か??。
 環奈がベットに入って一時間後、まずは挨拶替わりと言わんばかりに寝返りに付随して左腕の裏拳が飛んできた。運よく直撃は免れたが、ベットが揺れて俺の体は大きくバウンドする。
 立て続けに環奈の上半身が俺の体の上に覆いかぶさってくる。流石にこれは避けられない。受け身を取って環奈の上半身とベットの間に何とか空間を確保する。ぬいぐるみにとって圧迫は引っ張られることと並んで体へのダメージが大きい。
 『相変わらずの寝相だな??。人間は皆この年になると寝相が悪くなるのか??』
 新たな調査内容が頭に浮かびつつ、頼むから早くどいてくれと爆睡中の環奈に懇願する。
 一時間半くらい経った後、環奈はようやく寝返りを打ち俺は事なきを得た。だが、安心するのはまだ早い。二時頃になると環奈は無意識のうちにぬいぐるみを掴む癖があるのだ。過去に何度かその掴み癖を回避したことがあるのだが、決まってその次の日の朝環奈は寝坊してしまい学校に遅刻してしまった。どうやらぬいぐるみを掴まないと寝つきが悪くなる体質があるみたいだ。
 掴まれるのは良いのだが、問題はそこから投げられることがあるのだ。真っ暗闇の中放り投げられる恐怖は未だに慣れない。ぬいぐるみとは言え鳥目である俺は暗闇に耐性がなく受け身が綺麗に取れない。
 『今日は災難が続いているから、用心した方が良いかもな??。』
 回避はせず環奈の手中に収められながらもそんなことを考えていた矢先、環奈が再び大きな寝返りを取り始めた。
 『これは、来るぞっ??!』
 身構えた矢先、先ほどと同様に寝返りに付随する形で腕がブンと弧を描き、丁度百八十度回転した瞬間に俺は暗闇に放り出された。平衡感覚が失われ、今自分が床に対して上下左右どの方向を向いているかわからなくなる。とっさに頭を両腕で覆い大怪我の回避を試みる。ドサッという鈍い音と同時に背中あたりからひんやりとした感覚が身体を走る。どうやら背中から床に落ちたようだ。幸い大事には至らなかったが、やはりこの恐怖には慣れない。
 だが、一度ベット外に放り出されると朝まで寝相の被害に遭うことはほとんどない。俺は何とも言えない脱力感と疲労感に見舞われながらも、ようやく睡魔に身を委ねることが出来た。
「ペンペンおはよう!」
 朝いちばんとは思えないくらい元気な環奈の声で目を覚ました。この声を聞くと昨晩の頑張りが報われた気がする。
「ペンペン、ベットの下に落ちてたよ〜。ペンギンだから暑い布団は苦手なのかな?」
 自分が原因だとは想像もしていないご主人の無邪気な表情を見て、今日も俺はため息に似た、しかしどこか達成感を含んだ息を吐いた。
「あんた、忘れ物ない? 折りたたみ傘持った?」
「ちゃんと持ったって〜 行ってきまーす!」
 それから一時間後、いつもの母子のやり取りを聞いてから、俺は身支度をしリビングの上に鎮座しているクマのぬいぐるみに会いに行く。
「クマ江さん、昨日この家に客が来ること知ってました?」
「あら、どうしてそう思ったの?」
「いえ、クマ江さんはいつもリビングにいらっしゃるので、ご家族の何気ない一言などから推測出来ていたのではないかなと思って。」
「うふふ。確かに私は阿佐ヶ谷一家のスケジュールをある程度把握しているけど、昨日の来客は想定外だったわよ。」
「あ、そうだったんですか。確かあの男は環奈のおじさんですよね。お母さんの弟さんですか?」
「さあ、私も初対面だったから素性まではわからないけど、環奈ちゃんにとって、今は親しいおじさんと呼ぶべき人のようね。」
「え???」
「阿佐ヶ谷のご主人が他界して十年余り。ご主人以外の男性がこの家にやって来ることなんてこれまでなかった??。環奈ちゃんに新しいお父さんができるのも、そう遠い話ではないのかしら。」
 阿佐ヶ谷家に居候して六年。どうやら俺の身近なところで全く想像していない大きな大きな変化が起こりそうだ。

「俺が生まれた日」
k184106

 ここはどこだろう。気が付いたら、暗い道の上に立っていた。街灯もなく、空にはまん丸とした月が見える。自分でもなんでそこにいるのか分からない。頭が回らない。というか、今は一体何時だ。回らない頭で腕時計を見る。時計の針が示す時間は、午前二時。深夜もいいところだ。自分にはこんな夜中に散歩する習慣なんてない。混乱していると、耳がある音を拾った。水の流れる音だ。その方向を見ると、草むらの向こうに川が流れていた。どうやら自分がたっている場所は、いわゆる河川敷のようだ。だが、自分が住んでいる街に川はない、ここはどこか相変わらず分からない。だが、その川を見て、あることを思い出した。そうだ、自分にはやらなきゃならないことがあった。頼む、もう少し、時間をくれ。

「あなたの長所はなんですか」
 そう聞かれて、「○○が長所です」と即答できる人間は、世の中にどのくらいいるのだろうか。多分、自分に自信がある奴なんかはそういうことが出来るんだろう。だけど俺は、それが出来ないタイプの人種だった。ざっくりいうと、自分に自信が持てない人間だ。いや、自身が持てないというかそもそもの話、本当に長所なんてない。運動、勉強共に平凡。いや、教科や種目によっては平凡以下だったりもする。高校一年生になって、自分のことを客観的に見てそんな人間だと分析していた。勉強も運動もさっき言ったとおりだし、性格も地味、普通だ。クラスで「いるだけ」の人種と言ってもいい。授業中に指名されても当たり障りのない答えを返し、特に注目されることもない。だが別にいじめられているわけでもなく、仲のいい友達だっている。ただ、俺は「平凡」なのだ。もちろん大層な夢なんてないし、日々をなんとなく生きてきた。ある休日、俺は公園のベンチに座りながら、そんなことを考えていた。理由はない。気付いたらベンチに座ってぼーっとしていたのだ。そんな俺の思考を、陽気な声が中断させた。
「ノボルじゃん!昼間っからこんなところでぼーっとしてどうしたんだよ、暇なのか?」
 声の主はタケシだ。こいつは俺とは正反対、勉強はそこまでだが運動神経は抜群、性格も明るくて友達からも先生からも好かれている、いわゆる「人気者」だ。そんな真逆な俺たちが並んで歩いているのは、俺たちが幼稚園からの付き合いになる、いわゆる「幼馴染」の二人だからだ。レギュラーと補欠ではあるが、部活も同じ野球部。もちろん親同士も知り合いだし、家も近い。来ている服装を見ると、タケシはどうやら、日課のランニングをしている最中に俺を見かけ、声をかけたようだ。というかこの公園、あいつのランニングコースじゃなかった気がするのだが。
「一応、暇・・・なのかな、なんとなくここに座ってた。」
「なんだそれ、じいさんみたいだな」
「うるさいなー・・・、どうせお前も暇だろ。」 
「まあな、けど、もう一人暇なやつを見つけたから話は別だ、どっか遊びに行こうぜ
 替えてくるからここで待ってろ!」
「え、俺は行くなんて・・・」
 俺が言葉を言い終える前に、タケシは家の方へと走り去ってしまっていた。あいつの背中めがけて伸ばした俺の手は、行き場を失って宙をさまよった。
「・・・で、どこ行くんだよ」
「わかんね!」
「はあ!?」
 そんなこんなで、戻ったタケシに連れられて、俺は街の方へと出ていた。だが、特にプランは決まっていないようだ。なんとも適当なやつである。
「いや!最後に行きたいところは決まってるんだけど・・・ちょっとそこに行きたい時間 があってさ、それまで暇なんだよね」
「なんだそりゃ・・・?ってかどこに行きたいんだよ」
「まあまあ。とりあえず適当にぶらつこうぜ!どうせ暇だし!」
「ええ・・・まあいいけどさ・・・」
 またまた適当なタケシの思いつきに従って、俺たちは地元の街を雑談しながら歩いた。二十分ほど歩いたタイミングで、タケシが提案した。
「腹減った!なんか食おう!」
「確かに腹が減って来たな。それ賛成。けど、どこで食べる?」
 何か食べる、という方針は決まったものの、何を食べるのかがなかなか決まらない。白熱した議論の末、近くのファミレスで済ませるという結論に至った。
 その後、数分歩いてファミレスへとたどり着いた俺たちは、休日のお昼時だったが特に待つこともなく店に入ることが出来た。店員の「おひとり様ですか?」という質問に「二人です」と返しつつ、案内された席へと向かった。そして俺の注文を聞いたタケシがまとめて注文してくれる。
「お前、熱いの苦手じゃなかったっけ?」
 猫舌のタケシがランチに付いていたスープバーのスープを全く冷まさずに飲んでいるのに少し驚いた俺が、そんな言葉をかける。
「ん?あ、いや苦手だけど、ここのはいける!てかそんなことよりノボル、お前一口も食べてなくないか?」
「え、あ、うん・・・。」
 タケシの言葉通り、注文したメニューが届いたにも関わらず、俺は全く手が進んでいなかった。いつも頼むメニューなのだが、何故か食べる気にならない。「何かが違う。」そう俺は直感していた。だが、そんな曖昧なことをいっても不審がらせるだけだ。
「ちょっと、食欲ない・・・っていうか、やっぱ腹減ってないかも。動いてないからかな・・・?お前代わりに食べない?」
「え、いいの?」
 俺のとっさについた言い訳を疑う様子もなく、タケシはどんどんメニューを食べていく。なんという食欲・・・、どれだけランニングしていたんだろうか。そして、食べ物に抱いた違和感は何なのだろうか。どの疑問も口に出さず、俺は結局何も食べないまま、タケシの大食いっぷりは引き気味に眺めていた。
 ファミレスを後にした俺たちは、地元のバッティングセンターへと向かうことになった。「体調が悪いなら身体を動かそう!バッセン行こう!」という何ともめちゃくちゃなタケシの発案によるものだ。だが、いい気分転換になるかもしれないと思った俺は、そのアイデアを承諾した。
 そしてバッティングセンターに着いてからある程度時間がたった頃。
「疲れた・・・なんでお前まだピンピンしてんだよ・・・」
「え、疲れるの早くないか?」
 バッティングに腕が疲れてきた俺に対し、タケシはまだまだ元気な様子だった。球速もこいつのほうが上の設定だから、打っている本数も多いはずなのだが、底なしのスタミナである。というか、汗一つかいていない。汗だくの自分とは大違いだ。「これが補欠とレギュラーの差なのか・・・?いやさすがにこいつが異常なだけか・・・?」等と考えながら椅子に座って休憩していると、タケシから俺の方に上着が投げられた。
「さすがに上着邪魔だわ!持っといてくれ!!」
 とのことだった。最初から脱いどけよ、と思わないでもないが、どうせ座っているだけなので荷物持ちに甘んじる。そしてフォームの整ったタケシのスイングを眺めていたのだが、あるところに目が行った。タケシの右腕に残っている傷跡である。
「懐かしいな、その傷跡」
「ん?ああ、これか。」
「小四の頃だっけか?お前が確かボールを拾おうとして・・・。」
「そうそう、懐かしいなぁ・・・。」
 その傷跡は、俺たちが小学校四年生のころに起こった出来事が原因で付いたものだった。当時、親父さんとキャッチボールをしていたタケシは、取り損ねたボールを取りに行こうとして車道に出てしまった。そして、一台の乗用車が、タケシを引いてしまいそうになった。その時、通りすがりの男性がタケシの元にとっさに飛び込み、彼をかばった。乗用車が元々小型のタイプであったこと、速度をそこまで出していなかったこと、他に車が走っていなかったこと等が重なり、タケシは腕を縫う程度の傷ですんだ。だが、タケシをかばった男性は車とモロにぶつかってしまったため、数ヶ月入院する事態になってしまった。その後何度もお見舞いに行った関係で、その男性とタケシは親しくなり、彼はその時期よく病院へと通っていた。なんでも、彼から「生き方を教わった」そうだが、詳しくは話したがらなかった、「男同士の秘密」らしく、その秘密は今でも守られているようだ。そのようなエピソードがあり、今でもタケシの腕には小さな傷跡が残っている。「車にひかれそうになった」というエピソードに少し引っかかったような気がしたが、きっと気の所為だろう。
「そういえば、あの時のおじさんとまだ関わりあるのか?」
「職場が変わったらしくて、遠くに引っ越したらしい。今でも年賀状は交換してるよ。なんでも、消防署の偉いになったらしい。」
「あ、消防士さんだったのか、ならあの時の行動にも納得がいくな。」
「いやほんとに、すごい人だよあの人は...。」
 なんて話している内に、二人ともバッティングの気分では無くなった。どちらが言うでもなく、バッティングセンターを後にした。そこで、違和感に気づいた。
「そういえば、いつもなら休みの日はウチの部員がいることが多いのに、今日は一人もいなかったな。」
「...まあ、そういうこともあるだろ、多分たまたまさ。」
 そう応えるタケシの口調はどこか、歯切れが悪かった。だが俺はあまり気にせず、「まあ確かに、たまたまか。」と呟いてバッティングセンターを出た。
「次はどこいくんだ?」
「うーん...今の時間だとどこがいいかな。」
 俺の言葉に、タケシが腕時計を見ながら答えた。どうやら、最後の目的地に行きたい時間まではまだ少しあるらしい。
「あ、んじゃ飲み物買いたいからコンビニに行きたい。」 俺がそう提案すると、何故かタケシは少し考え込んだ。
「いいけど、○○ストアにしないか?あそこの品揃え好きなんだよね」
「けど△△マートの方が近いし、あそこなら新しい・・・」
 そこまで言いかけて、俺の言葉が止まった。コンビニで、新しい、そうだ、新しいアイスを買おうとしたんだ。いつかの記憶がよみがえる。だが、いつの記憶かわからない。瞬間、頭に鋭い痛みが走った。
「ノボル!?大丈夫か!?」
「うん・・・、けど、俺たち、前に・・・?」
 意味をなさない言葉が、俺の口から洩れる。だが、それを聞いたタケシは、悲痛な顔をしていた。まるで、意味が分かるかのように。
 幸い、俺の具合はすぐに良くなった。軽く飲み物を飲んだ方がいいだろう、ということでそのまま近くのコンビニへと飲み物を買いに向かうことになった。タケシが行くのを渋った△△マートに行くことになったが、彼はそれについては何も言わなかった。
 コンビニに着き、買い物を済ませた俺は、「顔を洗いたい」とタケシに伝えて店のトイレへと向かった。具合はよくなったが、一度意識をはっきりさせたかった。
 顔を蛇口の水で洗った俺は、鏡に映った顔を見て驚いた。あまりにも疲れ切った顔をしていたから、ではない。「薄れていた」からだ。鏡に映った俺の姿は、半透明に薄れた形で映し出されていた。まるで、「半分程度しかこの世界にいない」かのように。それを見て、俺の頭の中で、今日遭遇した様々な違和感が浮かび上がった。だが、首を振り、もう一度顔を洗い、それらを頭から締め出した。今度は、鏡を見なかった。
 コンビニから出た俺はタケシと合流し、何も言わずに街を二人で歩いた。街には若者が少なく、老人が多かった。電気屋のテレビには星の名前が付いた歩き方が特徴なアーティストが映し出され、曲と共に踊っていた。他の番組では、殿様に扮した芸人が主役のコメディ番組が放送されていた。それらについて話すことなく、ただ無言で時間だけが過ぎていった。
「・・・もう時間だな。なあ、ノボル。」
「ん?どうした?」
「公園に戻ろう。」
「は??行きたいところはどうしたんだよ。」
「いいから、戻るぞ。」
 強引な口調、足取りで今まで通った道を引き返すタケシに俺は慌ててついて行った。そして、公園に戻った時には、すっかり夕方になり、夕日が辺りを照らしていた。いや、正確ではない。公園「だった」場所に戻った時には、か。俺の目の前には、信じられない光景が広がっていた。
 公園が、なくなっていた。小さな遊具がならんでいる馴染みのある公園はそこにはなかった。そこにあるのは、赤い花畑だった。真ん中には小さな噴水があり、そこから水が流れ、さながら小さな川のようになっていた。そして、昼間に俺が座っていたベンチだけが、元の公園の景色のまま残っていた。
「ノボル、座ろう。」
 呆気にとられる俺に、タケシはベンチに座るよう促した。言われるがままベンチに座ると、あることに気付いた。蝶がいる。赤い花畑には、きれいな青い翅をもった蝶がたくさん飛んでいた。花の赤と翅の青、そして夕暮れの色。それらの色が混じった公園だった場所は、不思議な雰囲気に包まれていた。
「キレイだろ。」
 タケシの言葉に、俺は頷いた。それを見たタケシは小さく笑い、人差し指を立てた。すると、飛んでいた蝶の一匹が、まるで誘われたかのようにその指に留まった。
「お前もやってみろよ。」
 言われるがままに、俺はタケシの真似をした。だが、どれだけ待っても蝶は俺の指に留まらなかった。それを見たタケシは、小さく頷き、悲しげに笑った。
「よかった。」
 いよいよ何が起こっているのか分からなくなった俺は、タケシに説明を求めようとした。だが、俺が言葉を発するより、タケシがしゃべる方が早かった。
「もう何となく気付いてるよな。」
 何に?俺が?疑問は、言葉に出なかった。
「俺たちの状況に。いや、俺の状況に、の方が正しいか?」
 いいや。気付いていない。知らない。知りたくない。それらは言葉にならない。口からかすれた息が出る。
「本当は、二人ともこっちにいれたら、なんて少し思ったりもしたんだけど。やっぱりお前は、まだあっち側の存在みたいだ。いや、良いことなんだけどさ。ま、しょうがないよな!」
 何を言っているんだ。体が震える。考えがまとまらない。いや、まとまらせまいと頭が動いている。
「俺はもう、し
「やめろ。」
 俺は、震える声でタケシの言葉を遮った。
「頼む、何も言わないでくれ。」
 心からの言葉だった。だが、タケシは首を横に振った。言葉を紡ぐ。
「もう、思い出せるはずだ」
 いやだ。
「あの日のことを」
 時は遡る。あの日、俺たち二人は、部活の練習を終えて一緒に家へと帰っている最中だった。他愛ない話をしながら、帰路を歩いていた。その最中、俺はある提案をした。「新作のアイスが出ているから、コンビニに寄らないか」という誘いだった。タケシは快諾し、いつもの帰路を逸れて俺たちはコンビニへと向かった。そして、目的地へと到着し、店に入ろうとしたとき、それは来た。周りから悲鳴や怒号が聞こえた。思わず俺たちも振り返った。するとそこには、まさに俺たちの方へと迫りくる巨大な鉄の塊があった。迫りくる危険に、俺は身体が固まってしまった。俺の最後の記憶は、俺の名前を叫びながら、俺を突き飛ばそうとする、タケシの姿。そう、俺たちは、トラックにひかれたのだ。
「そんな・・・・」
 全てを思い出した。体から血の気が引く。
「俺たちは、死んだのか。」
 状況から判断した考えが、思わず口から出る。だが、それは間違っている、頭のどこかで、そう呟く声もあった。
「いや。」
 そしてタケシは、俺の言葉を否定した。正確には、俺の答えを訂正した。
「確かに俺は死んだ。だけどノボル、お前は、帰れる。」
 タケシはほほ笑んだ。「帰れる」。つまり、俺は、生きている。喜ぶべきことだ。俺たちに突っ込んだトラックは大型だったし、速度もかなり出ていた。普通ならぶつかって人間が助かるわけはない。そう。「普通なら」。俺が最後に見た光景と、俺「だけ」が生きているという事実。これを照らし合わせると、いやでも一つの真実にたどり着く。そして、それは、耐えがたいものだった。
「なんで、俺なんだ。」
 その真実が、俺に言葉を紡がせる。
「俺みたいなしょうもない、どこにでもいるような、どうでもいい平凡な奴が生き残ってどうする!しかも、俺がアイスを食べようなんて誘ったせいで!!タケシ、お前は!?お前こそが生きるべきだったんだ!お前みたいに、色んな奴から慕われて、期待されて、結果も残して、いいやつで!なのに、なのになんでお前が・・・・!」
 心から、言葉が、気持ちがあふれ出す。うつむいた俺の顔は、涙でびしょぬれになっていた。
「なんだよ、それ。」
 声に顔を上げると、タケシは真剣な顔でこっちを見ていた。
「お前、自分のことそんな風に思ってたのか。どうでもいい奴って、自分のことを。」
 そして、言葉を紡ぐ。
「そんなわけないだろ。お前はお前だし、どうでもいい奴なんかじゃない。俺にとって、お前は一人しかいないノボルなんだよ!だから、自分のことをそんな風に言うなよ!」
 それは、俺の心に深く突き刺さった。
「それに」
 タケシは続ける。
「どうせ、絶対俺は助からなかった。あれはそういう位置関係だった。だが、俺が突飛ばせば、そうすればお前は助かる場所にいた。二人死ぬのと一人死ぬ。どっちがいいかなんて、言うまでもないだろ?ま、あの時はそんなこと考えてなかったけどさ。それに」
 タケシは袖をまくり、例の傷跡を見せた。
「この時俺を助けた人に言われたんだ。『礼はいい。どうしてもっていうんなら、君も誰かを助ける人になってくれ。それで十分だ。』ってさ。俺よりよっぽどけががひどかったのに、こんなこと言われたら、頷くしかないじゃん。だから俺は、命の恩人にこれでやっとお礼ができたんだよ。『男の秘密』をやっと果たせたんだ。満足さ。」
 言葉通り満足げに、タケシは笑う。
「でも・・・。」
「まだ言うのかよ、じゃあ、これならどうだ?」
 納得できない俺に、タケシは投げかける。
「どうしてもっていうなら、ノボル。お前は生きて、誰かを助けてくれ。それが、俺の生きた証になるさ。あ、あと、俺のレギュラーのポジションもお前がとってくれると嬉しいな!」
 この二つの願いが、俺に深く絡みついた。もう、俺がするべきことは、生き方は決まっていた。
「・・・・わかったよ」
 俺は呟く
「俺は、生きる。お前の分まで。お前の願いを背負って。」
「ああ。頼んだよ。」
 俺の言葉に、タケシは力強く頷いた。それと同時に、ある現象が起こった。
 噴水から流れる小川、その流れの向こうに、あたたかな光が生じた。
「もっと話したいけど、時間みたいだ」
「・・・あそこに行けばいいのか」
「ああ、そうすると向こうに戻れる。ここは、まだお前が来るべきところじゃない。」
 光を見ながら、俺たちは言葉を交わす。そして、最後の言葉を紡いだ。
「本当に、ありがとう。またいつか、会おうな。たまには、遊ぶに来いよ。」
「ああ、きっと会いに行く。だから、ここにはしばらく来るなよ。」
 俺たちは、そう言って固い握手を交わした。そして、俺は花畑を進み、小川の流れを越え、あたたかな光の中へと向かった。
 目を覚ますと、俺は病院のベッドの上に寝ていた。窓の外には、夕暮れが広がっていた。俺の意識が戻ったことを聞いて駆け付けた両親から、俺たちを襲った事故のことについて教えてもらった。飲酒運転でパトカーに追われた大型トラックが運転し、俺たちを巻き込んでコンビニに激突したということ。俺たちは二人とも救急車で病院に運ばれたということ。特にけががひどかったタケシは、懸命な治療を受けたが、日付が今日に変わって少ししたくらいに息を引き取ったということ。俺も意識が戻らなかったが、今日の昼頃から症状が回復しだしたということ。そして、亡くなる直前に意識を一瞬だけ取り戻したタケシが、家族に加えて、俺に最後の言葉を遺したということ。
「あのね、ノボル。タケシくんはあなたに。」
「言わなくていい。」
「え?」
「もう、聞いたし、受け取ったから。」
 呆気に取られる母のことは気にせず、俺は病室の窓から夕焼けを眺めた。目元からは一筋の涙がこぼれた。
「まずは、レギュラーにならなきゃ。それから・・・。」
 俺は、夕焼けの向こうに。そう語り掛けた。それに応えるように、少しだけ、夕焼けの輝きが増した、そんな気がした。

「手紙」
k182334

 拝啓 この手紙を読んでいる私は 前を向いて歩こうとしています。
 私は誰にも相談できない悩みを持っています。
 未来の自分はどんな自分ですか。
 未来の自分を信頼して素直に打ち明けてみようと思います。
 今とても孤独です。学校には、休み時間に恋バナをしたり授業中にこっそり回し手紙をする友達がいます。
 放課後には厳しい練習をともにやり抜く部活の仲間もいます。いつも笑わせてくれる先生だっています。
 家には、今日あったことを話したり、ご飯を一緒に食べたりする家族がいます。
 それでも私の心は今とても孤独です。
 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうです。
 苦しい中で今を生きています。
 今を生きているのです。
 拝啓 ありがとう 未来のあなたに伝えたいことがあるのです。
 自分とは何でどこへ向かうべきか問い続けてみたら、見えてきました。
 今日を過ごすことに精一杯です。
 それでも明日に向かって、明日の希望に向かって進もうと思います。
 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな時は自分の声を信じ歩き始めました。
 それが正解なのかわかりません。でも、自分をわかっているのは自分だと思うようにしました。
 未来の自分でも傷ついて眠れない夜があるのなら、いまの私にもあって当然だと思います。
 苦くて甘い今を生きています。
 人生の全てに意味があるのなら、いまの孤独な気持ちにはどんな意味があるのでしょう。
 まだ私には夢はないけれど、これから芽生える夢を育ててみます。自分を信じ続けてみます。
 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな私は誰の言葉も信じられません。ただ私の言葉だけを信じて歩いています。
 未来の自分にも悲しみがあるのならば、いまの私は孤独ではありません。
 笑顔を見せて 今を生きて生きます。
 今を生きて生きます。
 拝啓 この手紙読んでいるあなたが幸せなことを願います。
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 なんとなく過ごした中学校生活があともう少しで終わろうとしている。そして休む間も無く高校生になるのだろう。
 卒業式では『手紙 〜拝啓 十五の君へ〜』を歌う。学年の多数決で決まった。歌に興味はないし、なんでもよかった。br>  卒業式で何を歌うか決める時、クラスでこの曲で一番手が挙がっていたし、仲のいい友達も挙げていたから私も挙げといた。
 この曲との出会いはそんなものだった。というより、私の中学校生活は3年間こんな感じだった。
 特に自分の意見があるわけでもなく、“なんとなく”で毎日を過ごし、それについて深く考えることもなかった。
 これだけ聞くとなんの楽しさもないような印象だがそういうわけでもない。休み時間に恋バナをしたり、
 授業中に先生が板書をするタイミングを狙って回し手紙をしたりする友達がいる。
 もう引退したが、所属していた部活は学校内でも特に厳しいと言われていた。そんな部活漬けの日々を乗り切った仲間もいる。
 廊下ですれ違う時いつも挨拶に加えて一言面白いことを言ってくれる先生だっている。
 家に帰ると、これらのことを食卓を囲んで話せる家族がいる。こんな人たちに囲まれていたから決して楽しくなかったわけではない。
 でも、私にはふと孤独に感じる時がある。それは決まった時間や場所で感じるわけではないから、なかなか言葉で説明がつかない。
 だけど、そう感じるのだ。あなたには友達や先生、家族がいるじゃないかと言われればそれまでだ。何も言い返せない。
 “なんとなく”過ごすことが原因なのだろうか。深く考えないことが原因なのだろうか。自分でも分からない。
 だから周りに孤独という気持ちを伝えたことは一度もない。もっと言うと、伝えようと試みたことすらない。
 卒業式当日になった。3年間通い続けた学校がこれで最後だと改めて言われるとなんだか目頭が熱くなった。気がした。
 校長先生のお話が終わり、卒業証書をもらい、送辞と答辞を終え、私たち卒業生による『手紙 〜拝啓十五の君へ〜』の合唱の時が来た。
 親と後輩を目の前にして歌ってみると、中学校生活の思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
 この歌がいまの自分に宛てられているように感じた。
 卒業式が終わり、みんなと写真を撮り、友達と思い出話に花を咲かせながら最後の下校時間を楽しんだ。分かれ道まで来た。
 ここで友達とはさようならだ。一生会えないわけじゃないのに二人して涙を流して別れを惜しんだ。
 この時、あぁ私には涙を流してくれる友達がいたんだと感じた。そしてそれぞれの道へ歩き出した。
 一人になってから、卒業式で合唱の時に、中学校生活の思い出が走馬灯のように頭の中を駆け巡ったこと、
 あの歌詞が自分に向けられているように感じたことを思い出し、その記憶が消えないうちに家に走って帰った。
 家に着いて、制服のまま椅子に座り『手紙 〜拝啓十五の君へ〜』の歌詞を携帯で調べた。
 そして近くにあった紙を目の前に置き、ペンを握りしめ、この手紙に対する返事を書いた。ペンが止まらなかった。
 涙も止まらなかった。今までずっと抱えてきた自分でも分からない孤独の感情を、
 この手紙を書いてくれた誰かが気づいて私に寄り添ってくれているように感じた。
 そしてこの手紙を書いてくれた誰かとは本当に未来の自分なのかもしれないと思った。
 自分とは何で、どこへ向かうべきなのか、中学校卒業というゴールをして、高校入学というスタートが目の前にある今、
 考えてみるとなんだか前向きになれた。気がした。未来の自分が寄り添ってくれている気がしたから孤独にも感じなくなった。
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 卒業証書を受け取り、高校三年間を振り返ってみた。高校生は中学生の時よりも一瞬ですぎたように感じた。確か、中学生の時はなんとなく過ごして毎日を終わらせていた気がする。でも高校の私は違った。毎日が充実していた。自分のやりたいことは挑戦してみるし、積極的に行事ごとにも参加をした。
 高校の間に夢だってできた。その夢に向かって今できることをたくさん挑戦した。勉強は嫌いだけど、夢のためだと思ったらなんだかやる気が出てはかどった。そうやって夢を育てていたら、自分の行きたい大学に合格した。あの時は夢に一歩近付いたと実感した瞬間だった。
 高校生はあっという間だよ、だなんて耳にたこができるほど聞いた。自分が毎日全力で過ごしている時は一日がとても長く感じていたけど、振り返ってみるとあっという間だったし、いまは友達と高校生はあっという間だったね、なんて会話をしている。
 高校卒業というゴールをして、大学入学というスタートが目の前にあるいま、前向きに笑顔で歩いていける自信があった。
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 夢に向かって勉強する楽しさを感じながら大学生活がすぎている。授業中は回し手紙なんかもしている。確か、中学生の時もやっていた気がする。懐かしさがあってなんだか当時の淡い気持ちが蘇ったようだ。お昼は毎日友達とたくさんおしゃべりしながら過ごしている。授業後は所属するサークルに毎日顔を出し積極的に参加をしている。行き帰りは付き合っている彼と毎日一緒だ。家に帰るとお母さんが温かいご飯を準備して待ってくれている。お父さんが仕事から早く帰ってきた時はいつも“お土産”と呼んでいるお菓子を買ってきてくれて、家族三人で夜にお茶会を開いている。毎日大好きな人たちと過ごせる日々が本当に幸せである。
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 荷物詰めも終盤になってきた。あとは押入れの奥にあった段ボール1つを整理したら終わりだ。来月から社会人になる。22年間生活してきた実家を離れ、ついに一人暮らしが始まろうとしている。家族で過ごしていたのに突然一人になる孤独や寂しさに不安を感じている。お父さんとお母さんは私が一人暮らしをすることをとても心配している。私だって自分が心配で仕方がないから、お父さんとお母さんがそう感じるのも無理はないだろう。ちなみに、大学生の時付き合っていた彼とは、お互いの将来のために、という理由で別れてしまった。サークルの友達もみんな進路はバラバラで会うことは難しくなるのだろう。
 荷造りを一日中していたからか、水分がなくなってきた指で最後のダンボールを開けた。懐かしいものがたくさん出てきた。中学生の時の、授業中席が近い友達とよくした回し手紙や、部活の引退の時にもらった色紙、卒業式に面倒をよく見てくれた先生と撮った写真などだ。
 そこにまぎれて一枚ペラっと紙が挟まっていた。そこには私が中学生の時に書いたと思われる手紙らしきものが書かれていた。こんなの書いただろうか。全く記憶に残っていない。どうやら未来の私に宛てているらしい。ということは、いまの私に当たるのだろうか。十五の私は孤独だったらしい。いまの私も孤独になるのかと不安になっている。でも、十五の私は前を向いて、笑顔を見せてその時を生きていたようだ。ならば私もそうしよう。学生終了というゴールをして、社会人というスタートが目の前にある今、自分とは何で、どこへ向かうべきなのか考えてみよう。
 そうして荷造りは途中だが、いったん段ボールのふたを閉じた。
 そして近くにあった紙を目の前に置き、ペンを握りしめた。
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 拝啓 この手紙読んでいるあなたは どこで何をしているのでしょう。
 二十二の私は十五の私から誰にも話せない悩みの種を打ち明けられました。
 未来の自分、いわゆるいまの私を信頼して素直に打ち明けてくれたようです。
 今 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうになっていませんか。
 誰の言葉を信じ歩けばいいのか分からなくなっていませんか。
 大切な心がばらばらに割れて 苦しい中で生きていませんか。
 拝啓 ありがとう 未来のあなたに伝えたいことがあるのです。
 自分のことが分からなくなったら過去の自分を思い出し、未来の自分を信じるのです。
 今日を過ごすことに精一杯です。
 それでも明日に向かって、明日の希望に向かって進もうと思います。
 今 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうな時は自分の声を信じて歩いてみてください。
 十五の私は自分の声を信じて明日の岸辺へと夢の舟を進めたようです。
 二十二の私も傷ついて眠れない夜はあるけど
 自分の声を信じ、過去の自分を信じ今を生きています。
 十五で感じていた孤独には自分自身を成長させる意味があったと思います。
 芽生えた夢を育て、自分のことをいまも信じ続けています。
 だから未来の私も自分のことを信じていてください。
 二十二の自分にも悲しみがあります。だから未来の私も孤独ではありません。
 笑顔を見せて 今を生きて生きます。
 今を生きて生きます。
 拝啓 この手紙読んでいるあなたが幸せなことを願います。
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 いつの間にか社会人の生活に慣れていた。とはいえ、毎朝ぎゅうぎゅう詰めの満員電車に乗り、仕事をこなし、やっと帰れると思えばまたぎゅうぎゅう詰めの満員電車に乗る。そんな毎日が社会人の生活だ。
 そんな中でも新しい出会いがあり、結婚をした。数年前には新しい家族ができた。旦那と娘で過ごす生活はとても幸せだ。
 娘はもうすぐ小学生になろうとしている。この前まで赤ちゃんだったはずなのに、いつの間にかそんな年齢に成長していた。月日が流れるのは早いなと、和室の小さいお布団に寝転がって新芽が芽吹くように伸びをしている娘を見て思う。仕事仲間と昼間は切磋琢磨し、仕事が終わると娘が嫌というほどよしよしして、旦那が帰ってくれば今日会ったことを三人それぞれが報告し合う。そんな家族と過ごす生活が幸せなのだ。
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 娘はもうすぐ中学校を卒業する。この前まで赤ちゃんだったはずなのに、いつの間にかそんな年齢に成長していた。月日が流れるのは早いなと、病室の大きいベッドに横たわりながら窓越しの桜を咲かせる準備をしている木を見て思う。一人で何も考えないと孤独に感じるからいつも家族のことを考えている。
 一年前、体調を崩してから家と病院を行き来している。医者からはそう長くはないと言われている。だから、この前家に戻ったときに少し自分の部屋の片付けをすることにした。
 その時ふと引き出しの奥に手紙が二枚挟まっているのを見つけた。これは私が若いときに自分宛に書いた手紙だとすぐに分かった。実家を離れるときに一度この手紙を見つけて、自分でまたさらに書いたんだったっけ。何を書いたのかワクワクしながら読んでみた。
 若いときの私は未来の自分、いわゆる私を信じてその時を一生懸命に生きていたようだった。正直、病室のベッドに横たわって毎日を過ごす自分に自信なんてなかった。旦那や娘に心配をかけて、大変な思いをさせてばっかりだ。そんなことばっかり考えて孤独で打ちのめされそうになっていた。
 でも、昔の自分の手紙を読んでそんなこと言っている場合じゃないと思った。いまの私は昔の私にとって信頼されている人であり、きっと私自身だけじゃなく旦那や娘のためにも私が笑顔を見せて生きていかなくてはならない、そう思った。大好きな人たちと過ごせることが幸せであることを思い出した。
 予想外にも、若かりし頃の自分に勇気付けられた。
 手紙には、私のまだ知らない未来を生きる人に語りかけることのできる力があると感じた。そこで私は近くにあった紙を目の前に置き、ペンを握りしめた。
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 拝啓 この手紙読んでいるあなたはどこで何をしているのでしょう。
 いまお母さんはあなたに伝えたいことがあります。
 お母さんに宛てて書く手紙なら
 きっと素直に打ち明けられるでしょう。
 もし 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうになっていませんか
 誰の言葉を信じ歩けばいいのか分からなくなっていませんか。
 苦しい中で今を生きていませんか。
 今を生きていませんか。
 拝啓 ありがとう 十五のあなたに伝えたいことがあるのです。
 自分とは何でどこへ向かうべきか問い続ければ見えてきます。
 十五のお母さんもそうでした。
 悲しい時はお母さんにだってあります。
 でも明日の岸辺へと夢の舟を進めるのです。
 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうになったらまずは自分を信じなさい。そしてお母さんの声を思い出しなさい。
 お母さんにも傷ついて眠れない夜はあります。
 人生の全てに意味があります。あなたが持っている気持ちにも全て意味があるのです。
 あなたに夢はありますか。あるのなら恐れずにその夢を育てなさい。自分を信じ続けるのです。
 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうならば
 あなたを信じなさい。そしてお母さんの声を思い出しなさい。
 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は
 お母さんの手紙を何度も読んでみてください。
 いつの時代も悲しみを避けては通れないけれど、笑顔を見せて今を生きて生きましょう。
 今を生きて生きましょう。
 拝啓 この手紙読んでいるあなたが幸せなことを願います。
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 私のお母さんは先日病気で亡くなってしまった。最後まで笑顔でいるお母さんだった。あともう少しで中学校を卒業するのに、その姿を見るのを楽しみにしてくれていたのに、お母さん居なくなってしまった。悲しみに暮れる日々である。お母さんがいなくなってしまい、誰にも相談できない孤独を感じ、苦しい中で今を生きている。お父さんとも顔を合わせたくない、そんな気持ちになってしまい、一人で自分の気持ちに押しつぶされそうになっていた。
 少し気持ちが落ちついてきた頃に、お母さんの部屋を整理し始めた。引き出しを開けて整理をしていると、私の名前が書いてある少しふくらんだ封筒を見つけた。みたことのない封筒だ。でもその字は確かに私のお母さんの字だ。お母さんは私のあらゆるものに名前を書いてくれていたから、私にはその字がお母さんの字だとすぐに分かった。紙の重さに以上に重たく感じたその封筒を開けてみた。そこには3枚の手紙らしきものが入っていた。どうやらお母さんが昔、お母さん自身に宛てた手紙らしい。どうして封筒には私宛で書いていたのだろう。そんな不思議な気持ちを抱きながらその手紙を読み進めてみた。
 どれくらい時間が経っただろう。何度も何度もその手紙を読み返した。
 私宛に書いてある理由が分かった。気がした。偶然かもしれない、でももしかしたら必然なのかもしれない、3枚の手紙のうち1枚はお母さんがいまの私と同じ十五の時に書いたものだった。昔のお母さんといまの私はどこか似ている。それに安心した。自分一人で孤独を抱えているわけじゃないんだと思った。昔のお母さんも私と同じように思っていたんだ、ということに気がついた。そしてお母さんは、いまの私を予測して勇気付けられた自分の手紙を私へプレゼントしてくれたのだろう。孤独の感情を、この手紙を書いてくれたお母さんが隣で私に寄り添ってくれて消してくれているように感じた。
 私はおもむろに近くにあった紙を目の前に置き、ペンを握りしめた。
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 拝啓 この手紙読んでいるお母さんは どこで何をしていますか。
 十五の私はとても元気です。
 お母さんが未来の自分に宛てた手紙はいま娘である私の手元にあります。
 手紙を読んで私も素直に気持ちを打ち明けようと思います。
 さっきまで 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうでした。
 誰の言葉も信じられませんでした。
 苦しい中で今を生きていました。
 今を生きていました。
 拝啓 ありがとう お母さんに伝えたいことがあるのです。
 自分とは何でどこへ向かうべきか問い続ければ見えてきました。
 悲しみに暮れることもあります。
 だけど明日の岸辺へと夢の舟を進めようと思いました。
 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうでしたが、自分とお母さんの声を信じて歩いてみることにします。
 お母さんにも傷ついて眠れない夜があったのならば、いまの私にもあって当然だと思います。
 人生の全てに意味があるのなら、いまの孤独な気持ちにはどんな意味があるのでしょう。
 それは十五の私には分からないことです。でもきっと大人になったらわかるのでしょう。
 私には夢があります。恐れずにその夢を育ててみます。自分を信じ続けてみます。
 負けそうで 泣きそうで 消えてしまいそうだった私は
 私とお母さんの言葉を信じ歩いていきます。
 負けないで 泣かないで 消えてしまいそうな時は
 お母さんの手紙を思い出して歩いていきます。
 いつの時代も悲しみを避けては通れないことが分かりました。
 だから笑顔を見せて今を生きていきます。
 今を生きていきます。
 拝啓 この手紙読んでいるお母さんが幸せなことを願います。
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 『手紙 〜拝啓十五の君へ〜』を口ずさみながら、この手紙を新しい封筒に入れ、宛名を書いた。
 そうしたら、お父さんに何をしているんだいって聞かれた。私は自分が書いた手紙が入った新しい封筒をそっと後ろに隠して、お母さんが書いた三枚の手紙をお父さんに見せた。
 どれくらい時間が経っただろう。お父さんは何度も何度もその手紙を読み返した。
 どうやらお父さんも初めてこの手紙を読んだらしい。お父さんは大きな手で大粒の涙を拭っていた。お父さんがこんなにも涙を流しているのは初めて見た。お父さんも私の知らないところで傷ついて眠れない夜があったり、悲しみを通っているんだと思った。いつも笑顔のお父さんにも私と同じような気持ちになることがあるなんて驚いた。
 お父さんは手紙を机の上に置き、涙が乾いた頬をしわくちゃにして笑顔で私の頭を撫でた。そして部屋を後にした。
 お父さんが出て行ったのを確認した私はそっと隠した封筒を取り出した。まだ封をしていない封筒から手紙を取り出した。
 お母さんと書いてあるところに、お父さんも付け足した。封筒の宛名も「お母さん お父さん」に変えた。
 私が笑顔で過ごせるのはお母さんとお父さんのおかげである。と同時に、お母さんとお父さんが笑顔で過ごせるのは私の力もあるのかもしれないと思った。だから、もし、どちらかが笑顔にならなかったら私が助けなくてはならない。それはお母さんがしてくれたように、言葉で伝えることができる。そう思う。
 
 新しい封筒に封をして、お父さん書斎にこっそり入り、引き出しの隅っこに立てかけた。
 手紙には、私のまだ知らない未来を生きる人に語りかけることのできる力があると感じた。