平成十年度 卒業論文


「多様な解釈ができる詩の表現特性」

〜金子みすゞ詩作品の表現分析を通じて〜


指導教官  野浪正隆教官
大阪教育大学教育学部 小学校教員養成課程 国語専攻
学籍番号 952222 笹尾美香



目次

序 章      課題解明の方法
 第一節 課題設定の理由
 第二節 課題解明の方法
第一章  多様な解釈ができる詩の表現分析
 第一節 多様な解釈ができる詩の表現特性についての仮説
 第二節 読み手が詩を解釈する上で必要な叙述が不足している詩の分析
    第一項 登場人物の心理や作者の考えの叙述がなく、場面の叙述しかない詩について
    第二項視点のありかを示す叙述がない詩について
    第三項作者が読み手に疑問を投げかけ、その疑問の答えに関わる叙述が明示されていない詩について
    第四項リズム感を重視して音合わせをしているためか、表現が不適切で意味が曖昧になっている詩について
 第三節 読み手が詩を解釈する上で必要な叙述は不足していないが、叙述の伝達内容に含みがある詩の分析
    第一項読み手による個々の叙述に対してのウエイトのかけ方次第で多様な解釈が生まれる詩について
    第二項場面のある部分がクロ−ズ・アップで叙述されているとも読めることによりその場面の出来事に対する登場人物や作者の捉え方がかかれているともよめる詩について
    第三項指示語・代名詞が示す内容が特定しにくい叙述がある詩について
    第四項表記の仕方の使い分けにより、その出来事に対する登場人物や作者の考え方がかかれているとも読める詩について
 第四節   読み手が詩を解釈する上で必要な叙述は不足していないが、叙述の伝達内容が独特である詩の分析
    第一項読み手にとって聞き慣れない言葉が用いられている詩について
    第二項読み手にとって作者の表現意図が理解しにくい叙述がある詩について
 第五節   多様な解釈ができる詩の表現特性の分類
 第六節   多様な解釈ができる表現特性が複合している詩について
第二章  解釈が多様にならない詩の表現分析
 第一節   作品分析
 第二節   解釈が多様にならない詩の表現特性
終 章  まとめと今後の課題
 第一節   まとめ
 第二節   今後の課題
       資料・参考文献・参照文献
おわりに   

序章  課題解明の方法


第一節 課題設定の理由


 詩は、物事を正確で簡潔に伝達することを目的とした説明文や報告文と違い、物事の表現の仕方(例;叙述方法、構成方法など)を、作者・読み手がともに楽しみ味わい、また読み手がその詩を自分なりに解釈して楽しむという側面を持った文学であるといえる。叙述の仕方によっては、読み手がかわってもほぼ同じ解釈がなされる詩もあるが、読み手にはそれぞれ個性があり、違う感性をもっているのだから、作品と向き合う読み手によって解釈の仕方が異なることの方が一般的である。
 そこで私は、読み手によって解釈が多様になる詩にはどのような特性があるのかということを研究したいと考えた。解釈が多様になる詩の叙述は、詩を解釈する上で読み手の個性や感性が反映され得る要素を持っているはずである。その要素の実体を明らかにし、明らかにした要素の数々を分類したい。ある一つの詩について多様な解釈ができると判断するには、その詩の叙述における多様な解釈ができる要素を理解していることが必要不可欠である。というのは、多様な解釈ができる要素を理解していないならば、ある詩についてなされるいろいろな解釈を「読み手の個性や感性の違い」としてすべて受容し、読み手の明らかな誤読をも否定できない状況に陥ってしまいかねないからである。
 取り扱う詩作品は、『金子みすゞ童謡集・わたしと小鳥とすずと』(矢崎節夫編 1984JURA出版局)『金子みすゞ童謡集・明るいほうへ』(矢崎節夫編 1995 JURA出版局)に収められているものにする。金子みすゞの詩作品に限定したのは、私自身同氏の詩作品がとても好きであるということと、将来、教師になった時に現場で同氏の詩作品を数多く扱いたいと考えているからであり、その際の大きな参考となれば幸いだと思っているからである。

 第二節 課題解明の方法


 多様な解釈ができる詩と解釈が多様にならない詩の違いは、叙述の表現特性の違いによって生まれるのは言うまでもない。しかし、どのような叙述によって解釈が多様になり、また解釈が多様にならないかということは、曖昧模糊である。それを探るべく、作品分析を行う。作品分析によって、作品の表現特性をとらえ、その表現特性が与える読み手の解釈への効果を考えていく。

 まず、『金子みすヾ童謡集 わたしと小鳥とすずと』『金子みすヾ童謡集 明るいほうへ』(矢崎節夫編 JURA出版局)〈計120編〉から、多様な解釈ができる詩を探し出すところから始めた。
 第一章では、探した詩から多様な解釈ができる部分の叙述を取り出し、その部分に対する解釈例を可能な限り多く挙げ、次に、探した詩の全体を通しての解釈例を可能な限り挙げる。そして、多様な解釈が生まれる原因となる叙述の特徴を考え、いくつか挙がったそれらの特徴を整理し、分類していく。
 第二章では、二つの童謡集に収められている、解釈が多様にならない詩について解釈が多様にならない原因となる叙述の特徴を考えていく。
 そして終章では、第一章と第二章で分析した、多様な解釈ができる詩と解釈が多様にならない詩それぞれの表現特性を比較し、多様な解釈ができる詩の表現特性とその表現特性が読み手の解釈にどのように影響するのかについてまとめたい。

 この論文では『金子みすゞ童謡集 わたしと小鳥とすずと』(矢崎節夫編 1984JURA出版局)『金子みすゞ童謡集 明るいほうへ』(矢崎節夫編 1995JURA出版局)に収められている詩作品を取り扱っていくのであるが、これらの童謡集は子供向けに出版されているためか、部分的に原作品と違う表記(例;漢字が平仮名に改められている、旧字が改められている 等)をしている作品がある。分析をしていく上で、原作品と違う表記では支障があるので、取り扱う詩作品はこれらの童謡集に収められているものに限定するが、『新装版 金子みすゞ全集 TUV』(JURA出版局 1984)に収められている原作品を資料とし、分析していく。
 なお、便宜上『新装版 金子みすゞ全集 TUV』に収められている作品の配列順に番号を打ち、取り扱う詩作品の右下にその番号を併記しておく。例えば、「仲なほり」の詩作品の右下に‘U−145’と書かれていれば、『新装版 金子みすゞ全集U』の145番目の作品ということになる。


第一章 多様な解釈ができる詩の表現分析


第一節 多様な解釈ができる詩の表現特性についての仮説


 読み手は詩を読み深めていく中で、その詩に描かれている作品世界に自分自身を没入させたいため、その詩を解釈しようとする行為を自然と行う。しかし詩は、物事を正確で簡潔に伝達することを最大の目的とした叙述ではないので、読み手が詩を解釈する場合には少々不親切な叙述であるのが一般的である。
 この研究の手始めとして、研究対象の詩集である『金子みすゞ童謡集 わたしと小鳥とすずと』『金子みすゞ童謡集 明るいほうへ』の二冊に収められている、計120編を読み深めていった。と言っても、私自身の感性だけで読み深めていったのではなく、可能な限り多種多様な複数の読み手になりきって読み深めていった。すると、多様な解釈ができる詩もあれば、多種多様な複数の読み手を以てしてもほぼ一つの解釈におさまると考えられる詩もあった。
 数多くの詩を読み深めていく過程で、多様な解釈ができる詩とほぼ一つの解釈におさまると考えられる詩の違いは、その詩の叙述方法の、読み手にとっての不親切さ・親切さによって生じるのではないかということに気づいた。つまり、多様な解釈ができる詩は読み手がその詩を解釈する上で不親切な叙述であり、ほぼ一つの解釈におさまると考えられる詩は読み手がその詩を解釈する上で親切な叙述であると考えられるのである。

 ここまで私は、詩の叙述の違いを読み手にとって「親切」「不親切」という、感覚的な言葉で表してきた。一体、詩を解釈しようとする読み手にとって不親切な叙述とは具体的にどのような叙述なのか。不親切な叙述とは、多様な解釈のできる詩にみられる叙述のことである。現時点で大まかに考えられることは、

多様な解釈ができる詩にみられる表現特性

である。以後、この大まかな枠組みをもとに具体的に多様な解釈ができる詩の表現特性を解明していく。


第二節 読み手が詩を解釈する上で必要な叙述が不足している詩の分析


第一項 登場人物の心理や作者の考えの叙述がなく、場面の叙述しかない詩について

仲なほり
げんげのあぜみち、春がすみ、
むかうにあの子が立つてゐた。

あの子はげんげを持つてゐた、
私も、げんげを摘んでゐた。

あの子が笑ふ、と、氣がつけば、
私も知らずに笑つてた。

げんげのあぜみち、春がすみ、
ピイチク雲雀が啼いてゐた。

U−145


(a)「あの子が笑ふ、と、氣がつけば、私も知らずに笑つてた。」での「あの子」と「私」の心理状態はどのようなものであったか。

 (1)‘笑い’が‘仲直り’を暗示している…
    @「あの子」が仲直りの意味を込めて笑いかけたのに対し、それを承知する返事として無意識のうちに「私」も笑っていた。
→無意識的な仲直り
    A「あの子はげんげを持つてゐた、私も、げんげを摘んでゐた。」の二人ともがげんげを持っていたことと同様に、二人ともが笑っていた。二人が同じ行為をしているということに、二人ともが自発的に仲直りしようという気持ちが表れており、お互いのその気持ちが瞬時に通じた。
→意識的な仲直り
    B「あの子はげんげを持つてゐた、私も、げんげを摘んでゐた。」で、二人ともがげんげを持っているという偶然により、二人の雰囲気が和やかになり、自然と笑いが起こり、仲直りした。
→無意識的な仲直り
 (2)相手に親しみを感じている…
    C「あの子はげんげを持つてゐた、私も、げんげを摘んでゐた。」の二人ともがげんげを持っていたことと同様に、二人ともが笑っていた。二人が同時に同じ行為をしたという仲の良さに、親しみを感じた。

(b)「ピイチク雲雀が啼いてゐた。」はどのようなことを表現しているのか。

 (1)あの子と私が仲直りしたことを暗示している…
    @雲雀が二人を取り巻いてピイチク鳴いているという、和やかな様子を描写することによって、仲直りできた和やかさを暗示している。
    A「げんげのあぜみち、春がすみ、むかうにあの子が立つてゐた。」で、二人は向かい合って立っていると考えられる。向かい合って立っているということで、二人が喧嘩していることを暗示し、「ピイチク雲雀が啼いてゐた。」で、ひばりの鳴き声を二人一緒に並んで歩きながら聞いているという状況を推測させ、仲直りしたことを暗示している。
 (2)ただ単なる場面の叙述
    Bあの子と私を取り巻く状況のうち、雲雀がピイチク鳴いている様子に特別に焦点を当てて、場面を叙述している。

全体を通して解釈する上で不適当なもの
 (b)B…「ピイチク雲雀が啼いてゐた。」を、雲雀がピイチク鳴いているという場面のただ単なる叙述だと捉えると、詩の表現内容が収束しないので解釈として不適当だと考える。

◎作品全体を通しての解釈
(a)(b)解釈
@@…春霞がけむるげんげのあぜみちの向こうの方に、(私と喧嘩をした)あの子が立っていた。あの子はげんげを持っていて、私もげんげを摘んでいた。あの子が仲直りの意味を込めて笑いかけ、それを承知する返事として無意識のうちに私も笑っていた。春霞がけむるげんげのあぜみちで、私とあの子が仲直りできた和やかさを示すかのように、雲雀が二人を取り巻いてピイチク鳴いている。
@A…春霞がけむるげんげのあぜみちの向こうの方に、(私と喧嘩をした)あの子が(喧嘩中であることを暗示するかのように私と向かい合わせになるような位置で)立っていた。あの子はげんげを持っていて、私もげんげを摘んでいた。あの子が仲直りの意味を込めて笑いかけ、それを承知する返事として無意識のうちに私も笑っていた。春霞がけむり、ピイチク雲雀が鳴いているげんげのあぜみちを、無事仲直りできた二人は一緒に並んで歩いている。
A@…春霞がけむるげんげのあぜみちの向こうの方に、(私と喧嘩をした)あの子が立っていた。あの子はげんげを持っていて、私もげんげを摘んでいた。そして気がつくとあの子も私も笑っていた。二人ともが同じ行為をしているということによって、お互いに相手と仲直りをしたいと思っているのだということを感じ、瞬時に仲直りをした。春霞がけむるげんげのあぜみちで、私とあの子が仲直りできた和やかさを示すかのように、雲雀が二人を取り巻いてピイチク鳴いている。
AA…春霞がけむるげんげのあぜみちの向こうの方に、(私と喧嘩をした)あの子が立っていた。あの子はげんげを持っていて、私もげんげを摘んでいた。そして気がつくとあの子も私も笑っていた。二人ともが同じ行為をしているということによって、お互いに相手と仲直りをしたいと思っているのだということを感じ、瞬時に仲直りをした。春霞がけむり、ピイチク雲雀が鳴いているげんげのあぜみちを、無事仲直りできた二人は一緒に並んで歩いている。
B@…春霞がけむるげんげのあぜみちの向こうの方に、(私と喧嘩をした)あの子が立っていた。あの子はげんげを持っていて、私もげんげを摘んでいた。喧嘩をしていた二人ともがげんげを持っているという偶然により、二人の雰囲気が和やかになり、自然と笑いが起こり、仲直りした。春霞がけむるげんげのあぜみちで、私とあの子が仲直りできた和やかさを示すかのように、雲雀が二人を取り巻いてピイチク鳴いている。
BA…春霞がけむるげんげのあぜみちの向こうの方に、(私と喧嘩をした)あの子が立っていた。あの子はげんげを持っていて、私もげんげを摘んでいた。喧嘩をしていた二人ともがげんげを持っているという偶然により、二人の雰囲気が和やかになり、自然と笑いが起こり、仲直りした。春霞がけむり、ピイチク雲雀が鳴いているげんげのあぜみちを、無事仲直りできた二人は一緒に並んで歩いている。

⇒ この詩は、登場人物である「私」「あの子」の心理や作者の考えの叙述がなく、場面の叙述しかない。そのため、読み手の受けとり方が多様になり、以上のように多様な解釈ができるのである。
  どの全体を通しての解釈も、この詩の解釈として成り立つと考えられる。



第二項 視点のありかを示す叙述がない詩について


もくせい
もくせいのにほひが
庭いつぱい。

表の風が、
御門のとこで、
はいろか、やめよか、
相談してた。

T−32


(a)なぜ表の風が、庭に入ろうかやめようか、と迷って相談したのか。

 ○「表の風」の視点でかかれていると解釈する場合
    @表の風は良いにおいに包まれたいので入ろうか、においを追い出してしまうことは残念なので入らないでおこうか、と迷って相談している。
    A表の風は良いにおいを庭の外へ追い出すといういたずらをするために入ろうか、においを追い出してしまうことは残念なので入らないでおこうかと、迷って相談している。
    B表の風は庭の外に居る者にも良いにおいを分けてあげるために入ろうか、良いにおいを庭だけに留めておくために入らないでおこうか、と迷って相談している。
    C良いにおいに包まれたいので入ろうか、でも入ってしまうと庭から立ち去ることが惜しくなって、風としての“吹く”という役割を果たせなくなりそうだから入らないでおこうか、と迷って相談している。
 ○“庭に居る人”または「庭」の視点でかかれていると解釈する場合
    D門の所で、表の風が良いにおいに包まれたいので入ろうか、においを追い出してしまうことは残念なので入らないでおこうかと迷って相談している光景が見える。

作品全体を通しての解釈
@…庭はもくせいの良いにおいでいっぱいなので、表の風はとても入りたいと思っているが、風である自分達が庭に入るともくせいのにおいを庭から追い出してしまうことになる。良いにおいに包まれたいので入ろうか、においを追い出してしまうことは残念なので入らないでおこうか、と迷って相談している。
A…庭はもくせいの良いにおいでいっぱいであり、風である自分達が庭に入るともくせいのにおいを庭から追い出さすことになる。良いにおいを庭の外へ追い出すといういたずらをするために入ろうか、においを追い出してしまうことは残念なので入らないでおこうか、と迷って相談している。
B…庭はもくせいの良いにおいでいっぱいであり、風である自分達が庭に入るともくせいのにおいを庭から追い出さすことになる。庭の外に居る者にも良いにおいを分けてあげるために入ろうか、良いにおいを庭だけに留めておくために入らないでおこうか、と迷って相談している。
C…庭はもくせいの良いにおいでいっぱいである。良いにおいに包まれたいので入ろうか、でも入ってしまうと庭から立ち去ることが惜しくなって、風としての“吹く”という役割を果たせなくなりそうだから入らないでおこうか、と迷って相談している。
D…庭はもくせいの良いにおいでいっぱいであり、表の風に入られるとせっかくの良いにおいが庭の外に追い出されてしまう。門の所で、表の風が良いにおいに包まれたいので入ろうか、においを追い出してしまうことは残念なので入らないでおこうかと迷って相談している光景が見える。

⇒ この詩は、全体を通して視点のありかを示す叙述がない。そのため、読み手が勝手に視点を定めて読み深めることになり、詩全体の解釈が多様になるのである。
  どの全体を通しての解釈も、この詩の解釈として成り立つと考えられる。



 第三項 作者が読み手に疑問を投げかけ、その疑問の答えに関わる叙述が明示されていない詩について


薔薇の根
はじめて咲いた薔薇は
紅い大きな薔薇だ。
  土のなかで根が思ふ
  「うれしいな、
  うれしいな。」

二年めにや、三つ、
紅い大きな薔薇だ。
  土のなかで根がおもふ
  「また咲いた、
  また咲いた。」

三年めにや、七つ、
紅い大きな薔薇だ。
  土のなかで根がおもふ
  「はじめのは
  なぜ咲かぬ。」

U−22


(a)「はじめの」とは何を指すのか。
    @初めて咲いた薔薇のつぼみより前についていた、咲かなかったつぼみ
    A初めて咲いた時の薔薇の花
(b)「はじめのは なぜ咲かぬ」とはどういう意味か。
    @初めて咲いた薔薇のつぼみより前についていた、咲かなかったつぼみに対して、なぜ咲かなかったのかとただ単に疑問を抱いている。
    A初めて咲いた薔薇のつぼみより前についていた、咲かなかったつぼみに対して、なぜ咲かなかったのかと疑問を抱いている。二年目までは薔薇の花が咲いたことに喜んでいるが、三年続けて咲くと、咲くことがなかば当たり前になり、咲いた喜びが薄れたばかりでなく、以前の咲かなかった薔薇のつぼみに対して咲かなかったことへの不満が生じている。満たされていくとどんどん要求がエスカレ−トしてしまうという根の慢心を表している。
    B初めて咲いた時の薔薇の花はどうしてまた再び咲かないのか、と疑問を抱いている
 全体を通して解釈する上で不適当な組合せ
(a)(b) 
@B…「はじめの」が指す内容が、(a)は‘初めて咲いた薔薇のつぼみより前についていた、咲かなかったつぼみ’(b)は‘初めて咲いた時の薔薇の花’と、それぞれ違う。そのため、(a)(b)が含まれているこの二行を解釈することは、不可能であるといえる。
A@…「はじめの」が指す内容が、(a)は‘初めて咲いた時の薔薇の花’(b)は‘初めて咲いた薔薇のつぼみより前についていた、咲かなかったつぼみ’と、それぞれ違う。そのため、(a)(b)が含まれているこの二行を解釈することは、不可能であるといえる。
AA…「はじめの」が指す内容が、(a)は‘初めて咲いた時の薔薇の花’(b)は‘初めて咲いた薔薇のつぼみより前についていた、咲かなかったつぼみ’と、それぞれ違う。そのため、(a)(b)が含まれているこの二行を解釈することは、不可能であるといえる。
 全体を通しての解釈
(a)(b) 
@@…初めて咲いた薔薇は、赤くて大きな薔薇だ。土の中で根が「うれしいな、うれしいな。」と思っている。
二年目には三つ咲いた。赤くて大きな薔薇だ。土の中で根が「また咲いた、また咲いた。」と思っている。
三年目には七つ咲いた。赤くて大きな薔薇だ。土の中で根が「初めて咲いた薔薇のつぼみより前についていた、咲かなかったつぼみはなぜ咲かなかったのか。」とただ単に疑問を抱いている。
@A…初めて咲いた薔薇は、赤くて大きな薔薇だ。土の中で根が「うれしいな、うれしいな。」と思っている。
二年目には三つ咲いた。赤くて大きな薔薇だ。土の中で根が「また咲いた、また咲いた。」と思っている。
三年目には七つ咲いた。赤くて大きな薔薇だ。土の中で根が「初めて咲いた薔薇のつぼみより前についていた、咲かなかったつぼみは、なぜ咲かなかったのか。」と疑問を抱いている。二年目までは薔薇の花が咲いたことに喜んでいるが、三年続けて咲くと、咲くことがなかば当たり前になり、咲いた喜びが薄れたばかりでなく、以前の咲かなかった薔薇のつぼみに対して咲かなかったことへの不満が生じている。満たされていくとどんどん要求がエスカレ−トしてしまうという根の慢心を表している。
AB…初めて咲いた薔薇は、赤くて大きな薔薇だ。土の中で根が「うれしいな、うれしいな。」と思っている。
二年目には三つ咲いた。赤くて大きな薔薇だ。土の中で根が「また咲いた、また咲いた。」と思っている。
三年目には七つ咲いた。赤くて大きな薔薇だ。土の中で根が「初めて咲いた時の薔薇の花は、どうしてまた再び咲かないのか。」と疑問を抱いている。

⇒ 「はじめのは なぜ咲かぬ。」と、根が疑問を持ったままで詩が結ばれている。この部 分は、根の視点を通して作者が読み手に対し、疑問を投げかけていると捉えられる。し かし、その疑問の答えを読み手が考える上で必要な叙述(その疑問の答えに関わる叙述)が明示されていない。そのため、その疑問の答えを読み手が探ることになり、以上のように解釈が多様になるのである。
  どの全体を通しての解釈も、この詩の解釈として成り立つと考えられる。



第四項 リズム感を重視して音合わせをしているためか、表現が不適切で意味が曖昧になっている詩について


私と小鳥と鈴と
私が両手をひろげても、
お空はちつとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のやうに、
地面を速くは走れない。

私がからだをゆすつても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがつて、みんないい。

V−81



(a)「みんなちがつて、みんないい。」はどのような意味か。
@それぞれにできることとできないことがある。個性を認め、個性があることは素晴らしいのであり、みんな違っているからこそ、みんないいのである。
Aできないことがあっても、できることが必ずあるのだから、できないことがあっても気にすることはなく、みんな違っていてもみんないいのである。
Bできないことがある、できることがあるにかかわらず、それぞれ存在そのものが素晴らしいのである。

 ⇒「みんなちがつて、みんないい。」には、登場人物の心理や作者の考えの明示の補助の働きをする接続助詞が欠落しているため、接続助詞が入るべき場所の先行部分と後続部分との関係を促す叙述がない。だから、読み手が独自に接続助詞を補ってこの部分を解釈せざるを得ない結果、解釈が多様になるのである。

     「みんなちがつて、   みんないい。」
       先行部分      後続部分
    @「みんなちがう から、 みんないい。」
    A「みんなちがっ ても、 みんないい。」
    B「みんなちがっていて、 みんないい。」

◎作品全体を通しての解釈
@私が両手をひろげてもお空をちっとも飛べないけれど、お空を飛べる小鳥は私のように、地面を速くは走れない。私が体をゆすってもきれいな音はでないけれど、あのきれいな音の鳴る鈴は私のようにたくさんの唄は知らないよ。鈴と小鳥とそれから私、それぞれにできることとできないことがある。それぞれの個性を認め、それぞれに個性があることは素晴らしいことである。みんな違っているからこそ、みんないいのである。
A私が両手をひろげてもお空をちっとも飛べないけれど、お空を飛べる小鳥は私のように、地面を速くは走れない。私が体をゆすってもきれいな音はでないけれど、あのきれいな音の鳴る鈴は私のようにたくさんの唄は知らないよ。鈴と小鳥とそれから私、できないことがあっても、できることが必ずある。できるに超したことはないけれどできないことがあっても気にすることはない。みんな違っていてもみんないいのである。
B私が両手をひろげてもお空をちっとも飛べないけれど、お空を飛べる小鳥は私のように、地面を速くは走れない。私が体をゆすってもきれいな音はでないけれど、あのきれいな音の鳴る鈴は私のようにたくさんの唄は知らないよ。鈴と小鳥とそれから私、できないことがある、できることがあるにかかわらず、それぞれ存在そのものが素晴らしいのである。

⇒ 作者が詩にリズム感を持たせようとする場合に、音を強引に合わせてしまうことがあ る。この詩では、「みんなちがつて、みんないい。」の部分である。そのため、表現が不適切で曖昧になり、読み手の受け取り方が多様になる結果、以上のように作品全体の解釈が多様になるのである。
  どの全体を通しての解釈も、この詩の解釈として成り立つと考えられる。


第三節 読み手が詩を解釈する上で必要な叙述は不足していないが、叙述の伝達内容に含みがある詩の分析


 第一項 読み手による個々の叙述に対してのウエイトのかけ方次第で多様な解釈が生まれる詩について


げんげの葉の唄
花は摘まれて
どこへゆく

ここには青い空があり
うたふ雲雀があるけれど

あのたのしげな旅びとの
風のゆくてが
おもはれる

花のつけ根をさぐつてる
あの愛らしい手のなかに
私を摘む手はないか知ら

U−107


(a)「花のつけ根をさぐつてる あの愛らしい手のなかに 私を摘む手はないか知ら」で、 「私」は摘み取ってほしいと思っているのか、思っていないのか。
 (1)「花のつけ根をさぐつてる あの愛らしい手」の部分にウエイトをかけて解釈した場合
    @思っている…
「花のつけ根をさぐつてる あの愛らしい手」の叙述より、愛らしい手がいつも求めているのは美しいげんげの花なのであり、美しくない葉である私ではない。私だって、あの愛らしい手に求められるような存在になりたいと思っている。
 (2)「あのたのしげな旅びとの 風のゆくてが おもはれる」の部分にウエイトをかけて解釈した場合
    A思っていない…
ここのげんげ畑には、青い空があり、雲雀がうたっているというのどかさがあるけれど、摘まれて連れていかれる先にはいかなることが待ち受けているか全くわからない。私にとって「私を摘む手」は、「愛らしい手」なのではなく、いかなることが待ち受けているのかわからない所に自分を連れていく、いわば恐ろしい手なのである。だから、私は摘まれたくないと思っているのである。

   ⇒「私を摘む手」と「愛らしい手」は《私を摘む手=愛らしくない手(≒恐ろしい手》のように対比していると捉えることができる。
    B複雑な気持ちである…
「あのたのしげな旅びとの」の叙述より、摘まれたげんげは楽しげに見えるが、摘まれて連れていかれる先にはいかなることが待ち受けているか全くわからいという不安がある。しかし、「あの愛らしい手」が、美しくない葉である私に見向きもせずに摘み取ってくれないことに、さびしさも感じている。

◎作品全体を通しての解釈
@げんげの花は摘まれてどこへ行くのだろう。このげんげ畑には青い空があり、雲雀がうたっているというのどかさがある。あの摘まれて楽しげなげんげの花の、風の行く手がおもわれる。あの愛らしい手がいつも探し求めているのは美しいげんげの花なのであり、美しくない葉である私ではない。私だって、あの愛らしい手に求められるような存在になりたい。私を摘んでくれる手はないのかしら。あったらいいのになあ。
Aげんげの花は摘まれてどこへ行くのだろう。このげんげ畑には青い空があり、雲雀がうたっているというのどかさがあるけれど、あの摘まれて楽しげなげんげの花の、風の行く手がおもわれる。摘まれて連れていかれる先にはいかなることが待ち受けているか全くわからないからである。げんげの花のつけ根を探っているあの愛らしい手の中に、いかなることが待ち受けているのかわからない所に自分を連れていく、いわば恐ろしい手(私を摘む手)はないかしら。なかったらいいのになあ。
Bげんげの花は摘まれてどこへ行くのだろう。このげんげ畑には青い空があり、雲雀がうたっているというのどかさがあるけれど、あの摘まれて楽しげなげんげの花の、風の行く手がおもわれる。摘まれて連れていかれる先にはいかなることが待ち受けているか全くわからず、不安だけれど、「あの愛らしい手」がげんげの花のつけ根ばかりを探し求め、美しくない葉である私に見向きもせず摘み取ってくれないことに、さびしい気もするなあ。私を摘み取ってほしくない気持ちと摘み取ってほしい気持ちの両方の複雑な気持ちでいっぱいだなあ。
⇒ 「私」の心理がいろいろと叙述されているが、読み手によってそれらのどれにウエイ トをかけるかの違いが生じるため、以上のように多様な解釈ができるのである。
  どの全体を通しての解釈も、この詩の解釈として成り立つと考えられる。


 第二項 場面のある部分がクロ−ズ・アップで叙述されているとも読めることにより、その場面の出来事に対する登場人物や作者の捉え方がかかれているとも読める詩について

雀のかあさん
子供が
子雀つかまへた。

その子の
かあさん
笑つてた。

雀の
かあさん
それみてた。

お屋根で
鳴かずに
それ見てた。

T−17


(a)「お屋根で 鳴かずに それ見てた。」はどのようなことを表しているのか。
@雀のかあさんにとって、自分の子供が人間の子供に目の前で捕まえられ、その人間の子供の母親が笑ってそれを見ているという光景はいたたまれないものである。しかし雀のかあさんはそれをどうすることもできない。ただ黙って見ているしかないのである。雀のかあさんの心情を叙述するのに「鳴かずに それ見てた。」という部分をクロ−ズ・アップで叙述している。その結果、我が子が捕まえられているのを見ていながらそれをどうすることもできない悲しさ・やるせなさを表している。
→「鳴かずに それ見てた。」の部分がクロ−ズ・アップで叙述されていることにより、自分の子供が人間の子供に捕まえられた出来事に対する雀のかあさんの心情が表されている。
A雀のかあさんとその子供、人間の子供とその母親を取り巻く状況のうち、自分の子供が人間の子供に捕まえられる出来事を屋根で鳴かないで見ている雀のかあさんの様子に焦点を当てて、場面を叙述している。
→ただ単なる場面の叙述

◎作品全体を通しての解釈
@…(人間の)子供が子雀を捕まえた。その子(人間の子供)のかあさんは笑っていた。雀のかあさんはその様子を見ていた。雀のかあさんは、子供を助けるために何をすることもできない悲しさ・やるせなさでいっぱいの気持ちでその様子を見ていた。屋根で鳴かずにその様子を見ていた。
A…(人間の)子供が子雀を捕まえた。その子(人間の子供)のかあさんは笑っていた。雀のかあさんはその様子を見ていた。屋根で鳴かずにその様子を見ていた。

⇒ 「鳴かずに それ見てた。」の部分がクロ−ズ・アップで叙述されているとも読める ことにより、この部分に子雀が人間の子供に捕まえられた出来事に対する雀のかあさん の心情が表されているとも、ただ単なる場面の叙述だとも捉えられる。その捉え方の違 いが生じることにより、以上のように解釈が分かれるのである。
  どの全体を通しての解釈も、この詩の解釈として成り立つと考えられる。


第三項 指示語・代名詞が示す内容が特定しにくい叙述がある詩について


海とかもめ
海は青いとおもつてた、
かもめは白いと思つてた、

だのに、今見る、この海も、
かもめのはねも、ねずみ色。

みな知つてるとおもつてた、
だけどもそれはうそでした。

空は青いと知つてます、
雪は白いと知つてます。

みんな見てます、知つてます、
けれどもそれもうそか知ら。

T−164


(a)「みな知つてるとおもってた、」の「みな」は何を指すのか。
@「海」や「かもめ」のこと
A「海」や「かもめ」を含め、今見える世界全体
×B語り手を含めた世間一般の人々→一・二連で、語り手自身が(a)の@またはAの内容を知っていると思い込んでいた事実はいえているが、世間一般の人々も語り手と同じように思い込んでいたとはいえない。「みな知つてるとおもってる」であれば、Bも解釈の一例となり得る。
(b)「だけどもそれはうそでした。」の「それ」は何を指すのか。
@「海」や「かもめ」のことをきちんと知っているということ
A「海は青い」「かもめは白い」ということ
(c)「みんな見てます、知つてます、」の「みんな」は何を指すのか。
@「空」「雪」を含めた、実際に見たことがある他のどんなものもすべて
A「海」「かもめ」「空」「雪」
B「空」や「雪」のこと
C「空は青い」「雪は白い」ということ
(d)「けれどもそれもうそか知ら。」の「それ」は何を指すのか。
@「空」「雪」に限らず、他のどんなものに対しても、そのものの実際の姿をきちんと見て知っている、という認識自体→人間は、そのものの実際の姿をきちんと見て知っていると思い込んでいることがある。その思い込みは、“…は〜だ”いう通念を、その人が無条件に受容してしまっていることから生じる。
A「空」「雪」のことをきちんと見て知っているということ。
B「空は青い」「雪は白い」ということ

◎全体を通して解釈する上で不適当な組合せ
(a)(b)(c)(d) 
@A  …(a)(b)が含まれているこの二行を解釈しようとすると、
〈海やかもめのことをきちんと知っていると思ってた。けれども海は青く、かもめは白いということはうそでした。〉
となり、不自然である。
A@  …(a)(b)が含まれているこの二行を解釈しようとすると、
〈「海」や「かもめ」を含め、今見える世界全体のことをきちんと知っていると思ってた。けれども「海」や「かもめ」のことをきちんと知っているということはうそでした。〉
となり、不自然である。
  @A…(c)(d)が含まれているこの二行を解釈しようとすると、
〈「空」「雪」を含めた、実際に見たことがある他のどんなものもすべて見ていて、知ってます。けれども「空」「雪」のことをきちんと見て知っているということもうそかしら。〉
  となり、不自然である。
  @B…(c)(d)が含まれているこの二行を解釈しようとすると、
  〈「空」「雪」を含めた、実際に見たことがある他のどんなものもすべて見ていて、知ってます。けれども「空は青い」「雪は白い」ということもうそかしら。〉
  となり、不自然である。
  A@…(c)(d)が含まれているこの二行を解釈しようとすると、
  〈「海」「かもめ」「空」「雪」はきちんと見て知ってます。けれども「空」「雪」に限らず他のどんなものに対しても、そのものの実際の姿をきちんと見て知っている、という認識自体もうそかしら。〉
  となり、不自然である。
  AA…(c)(d)が含まれているこの二行を解釈しようとすると、
〈「海」「かもめ」「空」「雪」はきちんと見て知ってます。けれども「空」「雪」のことをきちんと見て知っているということもうそかしら。〉
となり、不自然である。
  B@…(c)(d)が含まれているこの二行を解釈しようとすると、
  〈「空」や「雪」はきちんと見て知ってます。けれども「空」「雪」に限らず他のどんなものに対しても、そのものの実際の姿をきちんと見て知っている、という認識自体もうそかしら。〉
  となり、不自然である。
  C@…(c)(d)が含まれているこの二行を解釈しようとすると、
〈「空は青い」「雪は白い」ということはきちんと見て知ってます。けれども「空」「雪」に限らず他のどんなものに対しても、そのものの実際の姿をきちんと見て知っている、という認識自体もうそかしら。〉
  となり、不自然である。

◎作品全体を通しての解釈

(a)(b)(c)(d) 
@@@@… 海は青いと思っていた。かもめは白いと思っていた。それなのに、今見るこの海もかもめの羽も、ねずみ色をしているなあ。海やかもめのことを知っていると思っていた。だけど海やかもめのことをきちんと知っているということはうそだった。
 空は青いと知っています。雪は白いと知っています。空や雪を含めた、実際に見たことがある他のどんなものもすべてをきちんと見て知っています。けれども、空や雪に限らず他のどんなものに対してもそのものの実際の姿をきちんと見て知っている、という認識自体もうそなのかしら。
@@AB… 海は青いと思っていた。かもめは白いと思っていた。それなのに、今見るこの海もかもめの羽も、ねずみ色をしているなあ。海やかもめのことを知っていると思っていた。だけど海やかもめのことをきちんと知っているということはうそだった。
 空は青いと知っています。雪は白いと知っています。海やかもめや空や雪をきちんと見て知っています。けれども空は青い、雪は白いということもうそかかしら。
@@BA… 海は青いと思っていた。かもめは白いと思っていた。それなのに、今見るこの海もかもめの羽も、ねずみ色をしているなあ。海やかもめのことを知っていると思っていた。だけど海やかもめのことをきちんと知っているということはうそだった。
 空は青いと知っています。雪は白いと知っています。空や雪をきちんと見て知ってます。けれども空や雪のことをきちんと見て知っているということもうそなのかしら。
@@BB… 海は青いと思っていた。かもめは白いと思っていた。それなのに、今見るこの海もかもめの羽も、ねずみ色をしているなあ。海やかもめのことを知っていると思っていた。だけど海やかもめのことをきちんと知っているということはうそだった。
 空は青いと知っています。雪は白いと知っています。空や雪をきちんと見て知ってます。けれども空は青い、雪は白いということもうそなのかしら。
@@CA… 海は青いと思っていた。かもめは白いと思っていた。それなのに、今見るこの海もかもめの羽も、ねずみ色をしているなあ。海やかもめのことを知っていると思っていた。だけど海やかもめのことをきちんと知っているということはうそだった。
 空は青いと知っています。雪は白いと知っています。空は青い、雪は白いということはきちんと見て知っています。けれども空や雪のことをきちんと見て知っているということもうそなのかしら。
@@CB… 海は青いと思っていた。かもめは白いと思っていた。それなのに、今見るこの海もかもめの羽も、ねずみ色をしているなあ。海やかもめのことを知っていると思っていた。だけど海やかもめのことをきちんと知っているということはうそだった。
 空は青いと知っています。雪は白いと知っています。空は青い、雪は白いということはきちんと見て知っています。けれども空は青い、雪は白いということもうそなのかしら。
AA@@… 海は青いと思っていた。かもめは白いと思っていた。それなのに、今見るこの海もかもめの羽も、ねずみ色をしているなあ。海やかもめを含め、今見える世界全体のことをきちんと知っていると思ってた。けれども海は青い、かもめは白いということはうそだった。
 空は青いと知っています。雪は白いと知っています。空や雪を含めた、実際に見たことがある他のどんなものもすべてをきちんと見て知っています。けれども、空や雪に限らず他のどんなものに対してもそのものの実際の姿をきちんと見て知っている、という認識自体もうそなのかしら。
AAAB… 海は青いと思っていた。かもめは白いと思っていた。それなのに、今見るこの海もかもめの羽も、ねずみ色をしているなあ。海やかもめを含め、今見える世界全体のことをきちんと知っていると思ってた。けれども海は青い、かもめは白いということはうそだった。
 空は青いと知っています。雪は白いと知っています。海やかもめや空や雪をきちんと見て知っています。けれども空は青い、雪は白いということもうそかしら。
AABA… 海は青いと思っていた。かもめは白いと思っていた。それなのに、今見るこの海もかもめの羽も、ねずみ色をしているなあ。海やかもめを含め、今見える世界全体のことをきちんと知っていると思ってた。けれども海は青い、かもめは白いということはうそだった。
 空は青いと知っています。雪は白いと知っています。空や雪をきちんと見て知ってます。けれども空や雪のことをきちんと見て知っているということもうそなのかしら。
AABB… 海は青いと思っていた。かもめは白いと思っていた。それなのに、今見るこの海もかもめの羽も、ねずみ色をしているなあ。海やかもめを含め、今見える世界全体のことをきちんと知っていると思ってた。けれども海は青い、かもめは白いということはうそだった。
 空は青いと知っています。雪は白いと知っています。空や雪をきちんと見て知ってます。けれども空は青い、雪は白いということもうそなのかしら。
AACA… 海は青いと思っていた。かもめは白いと思っていた。それなのに、今見るこの海もかもめの羽も、ねずみ色をしているなあ。海やかもめを含め、今見える世界全体のことをきちんと知っていると思ってた。けれども海は青い、かもめは白いということはうそだった。
 空は青いと知っています。雪は白いと知っています。空は青い、雪は白いということはきちんと見て知っています。けれども空や雪のことをきちんと見て知っているということもうそなのかしら。
AACB… 海は青いと思っていた。かもめは白いと思っていた。それなのに、今見るこの海もかもめの羽も、ねずみ色をしているなあ。海やかもめを含め、今見える世界全体のことをきちんと知っていると思ってた。けれども海は青い、かもめは白いということはうそだった。
 空は青いと知っています。雪は白いと知っています。空は青い、雪は白いということはきちんと見て知っています。けれども空は青い、雪は白いということもうそなのかしら。

⇒ この詩は、「みな」「それ」「みんな」「それ」と多くの指示語や代名詞が使われて いる。指示語や代名詞が示す内容が、読み手にとって特定しにくいため、読み手がその 指示語や代名詞が示す内容を独自に特定する結果、以上のように多様な解釈ができるの である。どの全体を通しての解釈も、この詩の解釈として成り立つと考えられる。

第四項 表記の仕方の使い分けにより、その出来事に対する登場人物や作者の考え方がかかれているとも読める詩について


お堀のそば
お堀のそばで逢うたけど、
知らぬかほして水みてた。

きのふ、けんくわはしたけれど、
けふはなんだかなつかしい。

につと笑つてみたけれど、
知らぬ顔して水みてた。

笑つた顔はやめられず、
つッと、なみだも、止められず、

私はたつたとかけ出した、
小石が縞になるほどに。

T−104


(a)「知らぬかほして水みてた。」と「知らぬ顔して水みてた。」でなぜ「かほ」と「顔」で表記の仕方が違うのか。
@一連の「知らぬかほして水みてた。」時点での「私」は、けんかした手前、決まりが悪かったから相手に対して知らん顔をしていた。そして、相手も自分と同じような心境で知らん顔をしていたのだと思っていた。だから、仲直りの意味も込めて「私」は、にっと笑いかけてみたのだけれど、相手は知らん顔をしたままだった。自分とは違って相手に仲直りの意志はなかったのである。一連・三連とも“知らん顔をして水を見ていた”こと自体に変わりないが、その行動が持つ意味やその行動から受ける「私」の心境は、全く違っている。表記の仕方を変えることで、その違いを色濃く表していると考えられる。

 * 一・三連それぞれの“知らん顔をして水を見ていた。”という行動が持つ意味の違いやその行動から受ける「私」の心境の違いと表記の仕方の違いの関係

 叙述行動の持つ意味私の心境表記の仕方
相手
一連 「知らぬかほして水みてた。」 「私」に対する何らかのわだかまりの気持ちの表れ

昨日けんかしたことへの決まり悪さの表れ

←←←

相手が知らん顔をしたのは、私と同じように決まり悪い気持ちの表れなのだ。

(勘違い)

→→→

平仮名で「かほ」と表記すると、漢字表記に比べて、やわらかい印象を読み手に与える。

相手との人間関係を修復する上での私の気持ちのゆとりを、平仮名表記により暗示していにより暗示している。
二連 「きのふ、けんくわはしたけれど、けふはなんだかなつかしい。」     昨日けんかはしたけれど、今日はなんだかそれが懐かしいという気持ちだなあ→仲直りしようという気持ちになっている。  
三連 「知らぬ顔して水みてた。」 一連と同じく「私」に対する何らかのわだかまりの気持ちの表れ

×

←←←

私は仲直りの意味を込めて笑ってみたのに、相手は知らん顔のままであったので、相手に仲直りの意志がないことに気づいた。

→→→

漢字で「顔」と表記すると、平仮名表記と比べて、かたい印象を読み手に与える。

相手との人間関係を修復する上での私の気持ちのゆとりがなくなったことを、漢字表記により暗示している

A特別な意図があって違う表記の仕方をしたわけではない。

◎作品全体を通しての解釈

@…お堀のそばで(昨日けんかした相手と)会ったけれど、昨日けんかをした手前、決まりが悪いのでお互い知らん顔をして(お堀の)水を見ていた。昨日けんかはしたけれど、今日はそれがなんだか懐かしい気持ちがするなあ。仲直りの意味も込めて勇気を出してにっと笑いかけてみたけれど、悲しくも相手は変わらず知らん顔で(お堀の)水を見ていたままだった。仲直りできたらいいなあと思って笑った顔はやめられず、そして悲しさのあまりつっと流れる涙も止められない。私は、道に敷きつめられている小石が縞のようになるぐらい、たったと駆け出さずにはいられなかった。
A…お堀のそばで(昨日けんかした相手と)会ったけれど、お互い知らん顔をして(お堀の)水を見ていた。昨日けんかはしたけれど、今日はそれがなんだか懐かしい気持ちがするなあ。仲直りの意味も込めてにっと笑いかけてみたけれど、相手は変わらず知らん顔で(お堀の)水を見てたままだった。仲直りできたらいいなあと思って笑った顔はやめられず、そして悲しさのあまりつっと流れる涙も止められない。私は、道に敷きつめられている小石が縞のようになるぐらい、たったと駆け出さずにはいられなかった。

⇒ 同じものを表現するのに、一連では平仮名で「かほ」と表記し、三連では漢字で「顔」と表記している。そのため、一連と三連での表記の仕方の使い分けにより、それぞれの“知らん顔をして水を見ていた”行動が持つ意味の違いやその行動から受ける「私」の心境の違いが暗示されているとも読むことができる。それを読み手が推測するかしないかの違いによって、以上のように解釈が分かれるのである。
  どちらの全体を通しての解釈も、この詩の解釈として成り立つと考えられる。


第四節 読み手が詩を解釈する上で必要な叙述は不足していないが、叙述の伝達内容が独特である詩の分析


第一項  読み手にとって聞き慣れない言葉が用いられている詩について


石ころ
きのふは子供を
ころばせて
けふはお馬を
つまづかす。
あしたは誰が
とほるやら。

田舎のみちの
石ころは
赤い夕日に
けろりかん。

T−97

(a)「田舎のみちの 石ころは 赤い夕日に けろりかん。」とはどういう様子を表しているか。
@自分のせいでまわりがどうなろうともいっこうに気にしない石ころの様子。
A自分のせいでいろいろなものを転ばせてしまうことに対し、自身の存在に負い目を感じつつも強がる石ころの様子。
Bいろいろなものが自分につまづいて転ぶことを楽しんでいる石ころの様子。
C小さなものでもこれだけ力があるのだということで、自身の存在感をアピ−ルし、自身を誇りに思っている石ころの様子。

◎全体を通しての解釈
@…昨日は子供を転ばせ、今日は馬をつまづかせる石ころ。その石ころに明日は誰がつまづき、転ばされるのだろう。しかし石ころを見ていると、石ころ自身は、自分のせいでまわりがどうなろうともいっこうに気にしない様子に見えるなあ。そんな様子で石ころは赤い夕日に照られているように見えるなあ。
A…昨日は子供を転ばせ、今日は馬をつまづかせる石ころ。その石ころに明日は誰がつまづき、転ばされるのだろう。石ころを見ていると、このことに対して石ころ自身は、自分の存在に負い目を感じつつも強がっている様子に見えるなあ。そんな様子で赤い夕日に照られているように見えるなあ。
B…昨日は子供を転ばせ、今日は馬をつまづかせる石ころ。その石ころに明日は誰がつまづき、転ばされるのだろう。石ころを見ていると、このことに対して石ころ自身は、楽しく思っている様子に見えるなあ。そんな様子で赤い夕日に照られているように見えるなあ。
C…昨日は子供を転ばせ、今日は馬をつまづかせる石ころ。その石ころに明日は誰がつまづき、転ばされるのだろう。石ころを見ていると、このことに対して石ころ自身は、こんな小さな自分でも子供や馬などの大きなものをつまづかせ、転ばせるほどの力を持っているのだということで自身の存在感をアピ−ルし、誇りに思っている様子に見えるなあ。そんな様子で赤い夕日に照られているように見えるなあ。


⇒ 「けろりかん」という読み手にとって聞き慣れない言葉(作者の造語とも思われる言 葉)が用いられているため、読み手はその言葉を理解することが難しく、読み手自身が 好む読みをしようとする。そのため、以上のように多様な解釈ができるのである。
  どの全体を通しての解釈も、この詩の解釈として成り立つと考えられるのである。


第二項 読み手にとって作者の表現意図が理解しにくい叙述がある詩について

ぬかるみ
この裏まちの
ぬかるみに、
青いお空が
ありました。

とほく、とほく、
うつくしく、
澄んだお空が
ありました。

この裏まちの
ぬかるみは、
深いお空で
ありました。

U−14


(a)「この裏まちの ぬかるみは、 深いお空で ありました。」とはどういう意味か。
@この裏町にあるぬかるみは、深いお空のようでありました。
Aこの裏町にあるぬかるみには、深いお空が映っていました。
Bこの裏町にあるぬかるみは、深いお空そのものでありました。

◎作品全体を通しての解釈
@…この裏町のぬかるみに、青いお空がありました。遠い遠い所に、美しく澄んだお空がありました。この裏町にあるぬかるみは、深いお空のようでありました。
A…この裏町のぬかるみに、青いお空がありました。遠い遠い所に、美しく澄んだお空がありました。この裏町にあるぬかるみには、深いお空が映っていました。
B…この裏町のぬかるみに、青いお空がありました。遠い遠い所に、美しく澄んだお空がありました。この裏町にあるぬかるみは、深いお空そのものでありました。

⇒ 「この裏まちの ぬかるみは、 深いお空で ありました。」は、読み手にとって作者 の表現意図が理解しにくい叙述である。“ぬかるみ=深いお空”とは理解しにくいため この部分を読み手自身がそれぞれ好む読みをしようとする結果、以上のように解釈が多 様になるのである。
  どちらの全体を通しての解釈も、この詩の解釈として成り立つと考えられる。


第五節  多様な解釈ができる詩の表現特性の分類


 今までの分析を通して明らかになった多様な解釈ができる詩の表現特性を三つに大別すると、

となる。これらを細分類してみると、

となる。

第六節 多様な解釈ができる表現特性が複合している詩について



 (a)(2)視点のありかを示す叙述がないので、読み手が視点を勝手に定めて読み深めることになり、作品全体の解釈が分かれる。
 (c)(1)読み手にとって聞き慣れない言葉(作者の造語と思われる言葉も含む)   が用いられているため、読み手はその言葉を理解することが難しく、読   み手自身が好む読みをし、作品全体の解釈が分かれる。
の二つの表現特性が複合している詩

◆『石ころ』を第四節第一項「読み手にとって聞き慣れない言葉が用いられている詩について」の作品例として分析したが、視点のありかを示す叙述がない詩でもあるので、再度「多様な解釈ができる表現特性が複合している詩」の作品例として、分析し直してみることにする。

石ころ
きのふは子供を
ころばせて
けふはお馬を
つまづかす。
あしたは誰が
とほるやら。

田舎のみちの
石ころは
赤い夕日に
けろりかん。

T−97


(a)一連の視点は誰か。
    @作者
    A石ころを見ている人
    B人間一般
石ころへの心理的距離に@>A>B>のような違いがあるが、@ABとも客観視点としては同類であり、全体を通して解釈する上ではあまり違いが生じないので、これら@ABをまとめて@’とする。
    C石ころ
⇒限定視点
(b)「田舎のみちの 石ころは 赤い夕日に けろりかん。」とはどういう様子を表しているか。
    @自分のせいでまわりがどうなろうともいっこうに気にしない石ころの様子。
    A自分のせいでいろいろなものを転ばせてしまうことに対し、自身の存在に負い目を感じつつも強がる石ころの様子。
    Bいろいろなものが自分につまづいて転ぶことを楽しんでいる石ころの様子。
    C小さなものでもこれだけ力があるのだということで、自身の存在感をアピ−ルし、自身を誇りに思っている石ころの様子。

◎全体を通しての解釈
(a)(b)全体を通しての解釈
@’@…昨日は子供を転ばせ、今日は馬をつまづかせる石ころ。その石ころに明日は 誰がつまづき、転ばされるのだろう。しかし石ころを見ていると、石ころ自 身は、自分のせいでまわりがどうなろうともいっこうに気にしない様子に見 えるなあ。そんな様子で石ころは赤い夕日に照られているように見えるなあ
@’A…昨日は子供を転ばせ、今日は馬をつまづかせる石ころ。その石ころに明日は誰がつまづき、転ばされるのだろう。石ころを見ていると、このことに対して石ころ自身は、自分の存在に負い目を感じつつも強がっている様子に見えるなあ。そんな様子で赤い夕日に照られているように見えるなあ。
@’B…昨日は子供を転ばせ、今日は馬をつまづかせる石ころ。その石ころに明日は誰がつまづき、転ばされるのだろう。石ころを見ていると、このことに対して石ころ自身は、楽しく思っている様子に見えるなあ。そんな様子で赤い夕日に照られているように見えるなあ。
@’C…昨日は子供を転ばせ、今日は馬をつまづかせる石ころ。その石ころに明日は誰がつまづき、転ばされるのだろう。石ころを見ていると、このことに対して石ころ自身は、こんな小さな自分でも子供や馬などの大きなものをつまづかせ、転ばせるほどの力を持っているのだということで自身の存在感をアピ−ルし、誇りに思っている様子に見えるなあ。そんな様子で赤い夕日に照られているように見えるなあ。
C@…昨日は子供を転ばせ、今日は馬をつまづかせた。明日は誰が通り、私(=石ころ)につまづいたり、転んだりするのだろう。(石ころの視点)
  石ころを見ていると、石ころ自身は、自分のせいでまわりがどうなろうともいっこうに気にしない様子に見えるなあ。そんな様子で石ころは赤い夕日に照られているように見えるなあ。(作者または語り手の視点)
CA…昨日は子供を転ばせ、今日は馬をつまづかせた。明日は誰が通り、私(=石ころ)につまづいたり、転んだりするのだろう。(石ころの視点)
 石ころを見ていると、このことに対して石ころ自身は、自分の存在に負い 目を感じつつも強がっている様子に見えるなあ。そんな様子で赤い夕日に照られているように見えるなあ。(作者または語り手の視点)
CB…昨日は子供を転ばせ、今日は馬をつまづかせた。明日は誰が通り、私(=石ころ)につまづいたり、転んだりするのだろう。(石ころの視点)
 石ころを見ていると、このことに対して石ころ自身は、楽しく思っている様子に見えるなあ。そんな様子で赤い夕日に照られているように見えるなあ(作者または語り手の視点)
CC…昨日は子供を転ばせ、今日は馬をつまづかせた。明日は誰が通り、私(=石ころ)につまづいたり、転んだりするのだろう。(石ころの視点)
 石ころを見ていると、このことに対して石ころ自身は、こんな小さな自分でも子供や馬などの大きなものをつまづかせ、転ばせるほどの力を持っているのだということで自身の存在感をアピ−ルし、誇りに思っている様子に見えるなあ。そんな様子で赤い夕日に照られているように見えるなあ。(作者または語り手の視点)

⇒ 一連での視点のありかを示す叙述がないので、読み手が独自に視点を勝手に定めて読 み深めることになり、作品全体の解釈が分かれるのである。また、「けろりかん」とい う作者の造語と思われる言葉が用いられているため、読み手はその言葉を理解すること が難しく、読み手自身が好む読みをする結果、作品全体の解釈が分かれるのである。そ のため、以上のように多様な解釈ができるのである。
  どの全体を通しての解釈も、この詩の解釈として成り立つと考えられる。



第二章 解釈が多様にならない詩の表現分析


第一節  作品分析


1.「お日さん、雨さん」の詩について

お日さん、雨さん
ほこりのついた
芝草を
雨さん洗つて
くれました。

洗つてぬれた
芝草を
お日さんほして
くれました。

かうして私が
ねころんで
空をみるのに
よいやうに。

U−53



◎全体を通しての解釈

 ほこりがついた芝草を雨さんが洗ってくれました。洗ってぬれた芝草をお日さんが干してくれました。こうして私が寝転んで、空を見るのに都合が良いように。

◎解釈が多様にならない理由

  この詩の解釈が多様にならない理由は、まず、読み手が詩を解釈する上で必要な叙述が不足していないからである。解釈する上で叙述が不足していないので、読み手は叙述から詩を一意に解釈できるのである。
  そして、解釈する上で具体的にどのような叙述が不足していないかということを、第一章五節〈多様な解釈ができる詩の表現特性の分類〉で細分類した“(a)の(2)”と比較して考えてみる。“(a)の(2)”とは、
 *視点のありかを示す叙述がないので、読み手が視点を勝手に定めて読み深めることになる結果、作品全体の解釈が分かれる。
 である。
 この詩には、視点のありかを示す叙述として「私」がある。そして、「ほこりのついた 芝草を 雨さん洗つて くれました。」の‘洗う’の動詞と「洗つてぬれた 芝草を お日さんほして くれました。」の‘ほす’の動詞に、‘くれる’という[話者に対してなされた他者の行為の下に付けて、その行為が好意的になされたり、こちらに利益や恩恵をもたらしたりするものであることを表す]補助動詞が付いている。この二つの叙述により、この詩は全連を通して視点を「私」に限定して解釈することができる。
 また、この詩は「私」の視点を通して捉えられた、‘ほこりが付き、洗ってぬれた’「芝草」と、‘寝転んで空を見る’「私」に対する「お日さん」と「雨さん」のやさしさや思いやりを主題としている。そのように一意に解釈することができるのは、先に述べたような視点のありかを示す二つの叙述があるからである。そのため読み手が視点を勝手に定めて読み深めることがない結果、作品全体の解釈が多様にならないのである。

2.「土」の詩について


こッつん こッつん
打たれる土は
よい畠になつて
よい麥生むよ。

朝から晩まで
踏まれる土は
よい路になつて
車を通すよ。

打たれぬ土は
踏まれぬ土は
要らない土か。

いえいえそれは
名のない草の
お宿をするよ。

U−27



◎全体を通しての解釈

 こっつん、こっつんと打たれる土は、良い畑になり良い麦を育てるよ。朝から晩まで踏まれる土は、良い道になって車を通すよ。
 打たれぬ土や踏まれぬ土は要らない土か。いえいえそれは名のない草のお宿をするよ

◎解釈が多様にならない理由

 この詩の解釈が多様にならない理由は、前述の1.「お日さん、雨さん」の詩と同様、読み手が詩を解釈する上で必要な叙述が不足していないからである。解釈する上で叙述が不足していないので、読み手は叙述から詩を一意に解釈できるのである。
  そして、解釈する上で具体的にどのような叙述が不足していないかということを、第一章五節〈多様な解釈ができる詩の表現特性の分類〉で細分類した“(a)の(3)”と比較して考えてみる。“(a)の(3)”とは、
 *作者が読み手へ疑問を投げかけているが、その答えに関わる登場人物の心理や作者の考えなどが明示されていないので、その疑問の答えを読み手が探ることになる結果、作品全体の解釈が分かれる。
である。
 この詩で作者が読み手へ投げかけている疑問とは、「打たれぬ土は 踏まれぬ土は要らない土か。」である。「土」は、他のものの比喩として用いられているのではなく、「土」そのものを意味していると考えられる。一・二連で「打たれる土」「踏まれる土」は人間のためになるとても有益なものとして捉えられている。それに対して「打たれぬ 土」「踏まれぬ土」は、人間のためにならないのだから要らないものなのか。「打たれる土」「踏まれる土」の人間にとっての有益さが十分に叙述されている後に、この疑問 が投げかけられているので、読み手はこの疑問に自分をより近づけて疑問に対する答えを考えていくことになる。
 しかしこの疑問のすぐ後に、この疑問の答えにあたる作者の考えが、「いえいえそれは 名のない草の お宿をするよ。」と明示されている。そのため作者によって投げかけられた疑問についての答えを読み手が探る必要がなく、また一・二連の十分な叙述により、自分をより近づけてこの疑問に対する答えを考えていた分、明示された答えが読み手の心に浸透する結果、作品全体の解釈が多様にならないのだといえる。

3.「蓮と鷄」の詩について


蓮と鷄
泥のなかから
蓮が咲く。

それをするのは
蓮ぢやない。

卵のなかから
鷄が出る。

それをするのは
鷄ぢやない。

それに私は
氣がついた。

それも私の
せいぢやない。

U−117


◎全体を通しての解釈
 泥の中から蓮が咲く。それ(=泥の中から蓮が咲くこと)をするのは、蓮ではない。〈何か違うものの力によって蓮は泥の中から咲くのだ。〉卵の中から鶏が出る。それ(=卵の中から鶏が出ること)をするのは、鶏ではない。〈何か違うものの力によって鶏は卵の中から出るのだ。〉それ(=泥の中から蓮が咲いたり、卵の中から鶏が出るのは何か違うものの力によるのだということ)に私は気がついた。それ(=泥の中から蓮が咲いたり、卵の中から鶏が出るのは何か違うものの力によるのだということに、私が気づいたこと)も私の力ではない。
◎解釈が多様にならない理由
 この詩の解釈が多様にならない理由は、読み手が詩を解釈する上で必要な叙述が不足していなく、また叙述の伝達内容に含みがないからである。解釈する上で叙述が不足していないので、読み手は叙述から詩を一意に解釈できるのである。
  そして、解釈する上で具体的にどのような叙述が不足していないかということを、第一章五節〈多様な解釈ができる詩の表現特性の分類〉で細分類した“(b)の(3)”と比較して考えてみる。“(b)の(3)”とは、
 *指示語・代名詞が示す内容が特定しにくいため、読み手がその指示語・代名詞が示す内容を独自に特定する結果、作品全体の解釈が分かれる。
 である。
 この詩は、「それ」という指示語が四度使われている。第一章第三節第三項で分析した「海とかもめ」のように、読み手にとって指示語や代名詞が示す内容が特定しにくければ、読み手がその指示語や代名詞が示す内容を独自に特定する結果、作品全体の解釈が多様になるが、この詩の場合、「それ」が示す内容を一意に特定することは容易である。どのように特定することができるかというと、すでに《◎全体を通しての解釈》で述べたが、
二連:「それ」… 泥の中から蓮が咲くこと
四連:「それ」… 卵の中から鶏が出ること
五連:「それ」… 泥の中から蓮が咲いたり、卵の中から鶏が出るのは何か違うものの力によるのだということ
六連:「それ」… 泥の中から蓮が咲いたり、卵の中から鶏が出るのは何か違うものの力によるのだということに、私が気づいたこと
 である。この詩は全六連で構成されており、一・二連、三・四連、五・六連ごとに場面がつくられているといえる。基本的に「それ」が示す内容は同じ場面にあると考えることができるということや、一つの場面がとても短いということにより、読み手は「それ」の示す内容を一意に解釈することができ、また作品全体の解釈が多様にならないのである。


第二節  解釈が多様にならない詩の表現特性


 第一章の分析を通して明らかになった多様な解釈ができる詩の表現特性と、第一節の作品分析をもとに、解釈が多様にならない詩の表現特性を三つに大別すると、
となる。これらを細分類してみると、
となる。


終章 まとめと今後の課題


 第一節 まとめ


 私は、自分が好きな金子みすゞの詩作品分析を通して、多様な解釈ができる詩の表現特性について明らかにしたかった。
 その結果、大まかに分類して三個の表現特性を捉え、またそれらを細分類し、十個の表現特性を捉えることができた。これらの表現特性が読み手の解釈の仕方にどのように影響するのか分析したまとめを、以下のように行う。

 第二節 今後の課題


 『金子みすゞ童謡集・わたしと小鳥とすずと』『金子みすゞ童謡集・明るいほうへ』に収められている多様な解釈ができる詩の表現特性については明らかになった。しかし、計120編という限られた数の作品しか取り扱っていないので、多様な解釈ができる詩の表現特性すべてを明らかにできたわけではない。そして、取り扱う詩作品を金子みすゞのものに限定したので、分析の結果明らかになった多様な解釈ができる詩の表現特性に、金子みすゞ詩作品そのものの特性も少なからず取り込まれてしまった感がある。
 また、詩をできるだけいろいろな読み手になりきって可能な限り多くの解釈例を挙げて分析したつもりであるが、あくまでも私個人が考え得る範囲で解釈したものなので、他にも解釈例がないとは言い切れないという不安もある。

 残された今後の課題としては、

  1. 真の意味で、多様な解釈ができる詩の表現特性を明らかにするために、作者を限定せず、いろいろな作者によってかかれた多様な解釈ができる詩作品について分析し、その表現特性について考察する。
  2. 数多くの多様な解釈ができる詩作品について分析し、その詩の表現特性について考察する。
  3. 分析したい詩作品の解釈の仕方についてのアンケ−トなどをとって、できるだけ多くの解釈例を入手し、客観性の高い分析や考察をする。
がある。これらを実践するためには膨大な時間と労力が必要であるのだが、本研究を通じてこの研究課題にますます興味や意義を感じているので、以後何らかの形で継続して研究していきたいと考えている。


資料

参考文献 ・ 参照文献


活用した辞典



おわりに

 研究の目的や論文題目を決め、研究を進めていくにつれて研究にどんどんのめりこんでいく自分に自分自身とても驚きました。正直なところ研究し始めた当初は、卒業論文を書き、卒業するための研究と割り切って取り組んでいた感がぬぐえませんでしたが、ある程度研究が形になってきた頃には、もっと掘り下げて分析したいと思いつつも論文提出日までの少ない残り時間で仕上げなければないという現実に、歯がゆい気持ちになっていきました。
 自分が卒業論文を書き終えてみて、何がわかったかというと、自分が何に興味があるのか、この先何を研究し、追求していきたいのかということです。書き終えた今、まだまだこの研究の入り口にしか辿り着けていないという実感が先にたつというのは、自分の努力のなさを痛感せざるを得ないことであります。
 多くの課題が残り、自分で満足のいく論文は書けませんでしたが、それらの課題にこれからも取り組んでいきたいという目的意識と、どうすれば満足のいくものが書けるのかということが朧げながらもわかったことが、この論文を書き終えて得た大きな収穫です。いろいろなことを考え、感じ、反省するという機会を与えて頂いたことに、感謝の気持ちでいっぱいです。

 そして、この論文を書く際にたくさんの方々に支えて頂きました。表現ゼミの皆様、時にはいろいろな誘惑に負けたり、論文とは関係ない話に盛り上がったりして研究がみんなして捗らなかったこともありましたが、今となってはそれも大切な思い出です。お互いに励まし合い、頑張ってこれた仲間はかけがえのない存在でした。
 そして、御指導して下さった先生方、お忙しい合間に丁寧に御指導して頂きました。特に、野浪正隆先生には、感謝の思いでいっぱいです。三回生の頃より迷惑ばかりおかけしていたのに、いつもあたたかく見守って頂き、また最後の最後にまで御指導して頂きました。
 本当にありがとうございました。

平成11年2月1日