物語の舞台は軽井沢である。主人公は、久保修平。彼は三四〇〇坪という広大な別荘を持つ布施家の別荘番の息子として生まれる。彼には足の悪い父と美しい母、そして二歳年上の姉がいる。この家族は、家と言うよりも、小屋と呼んだほうがふさわしいところで暮らしている。布施家の別荘は高い門柱と、真鍮製の特別誂えの門扉があり、苔と蔦が絡まっている。この別荘は名だたる財界人や政界人の別荘と比べても、ひけをとらないばかりか、その門の風情は、一種神秘的なたたずまいをこの広大な邸宅に与えているのである。
しかしこのおおきな別荘は同時に、背徳のドラマの舞台でもあった。別荘の主人が別荘番の美しい妻と関係し、さらに、その娘とも関係をもつのである。主人公の修平は十七歳の多感な年齢のとき、その秘密の大筋を知り、殺意を抱くのである。
主人公の修平は現在、三二歳。ある日、スナックで酔っ払いに絡まれ、みぞおちを強打され意識を失い、救急車で病院に運ばれてくる。膵臓破裂で緊急手術を受けたが、いまは、じきに退院できるまでに回復している。
ところで、殺人の時効は一五年である。時効が成立した翌日、修平はベッドの上で、雨が降っているために急遽軽井沢行きを取り止めた主治医の鍋野医師に「嘘か誠か判別しかねる、告白でもなく懺悔でもなく、ある種の郷愁に包まれた回想でもない、不思議な一夏の出来事」を話して聞かせるのである。
「ある日、その猫が自転車の上で、ひなたぼっこをしながら眠っていたので、彼はあたりを窺い、そっと忍び寄り、首根っこを押さえた。彼に殺す気は無かった。少々こらしめてやるつもりだったのである。しかし、一瞬のうちに、彼の手の甲の肉は幾筋も裂け、血まみれになった。それで、彼に本気の殺意が生まれた。ところがそれ以来、猫は彼を見ると、しっぽを太く膨らませ、素早く逃げ去ってしまう。彼はなんとか殺そうとしてあの手この手を使ったが、猫を捕らえることは出来なかった。『とにかく、ひどいひっかき傷だぜ。そいつ言ってたよ。俺がもう音をあげて、殺す気なんか毛頭なくなったら、猫のやつ、俺が傍を通っても知らん顔してひなたぼっこしてやがる。もうこりごりだって…。お前、仇をうってくれって言うんだ。口惜しくってたまんねえ。うまく仕留めてくれたら俺のギターをやるよ。そう頼まれたんだ。』」
「別段、青年は猫が飛び出さないように強く抱きしめていたわけではなかった。猫がその気になれば、自由に、差し出された飼い主の手に移ることが出来ただろう。けれども、猫は青年の腕の中から出ようとはしなかった。(中略)周りの人々に気味悪そうに見つめられたまま、青年は猫を落ち葉の敷かれた道にそっと置いた。飼い主夫婦が慌てて抱き上げようとした。ところが、猫は俊敏に身をひるがえし、森の中へ走ったのだ。」
「姉は、約束の金を受け取ると、どうしてその日のうちに軽井沢から離れたのであろう。そのことを不審に思うたびに、僕の心には、あの法外な懸賞金のかかったジョゼットというペルシャ猫の目が浮かび出るのだった。」