平成十一年度  卒業論文

 

「寺山修司の連作における母を扱った作品の主題と役割について」

―連作「地上」、「車輪の下」、「出生譚」を中心に―

 

指導教官 野浪正隆先生

大阪教育大学教育学部 小学校教員養成課程 国語専攻

学籍番号 962223   武田美幸

四百字詰原稿用紙換算 219枚

 


目次

序章 課題解明の方法

 第一節 課題設定の理由

 第二節 課題解明の方法

 第三節 句集『花粉航海』について

第一章 母を扱った作品が含まれた連作の各作品の解釈 

  1. 連作「地上」各作品の解釈」
  2. 連作「車輪の下」各作品の解釈
  3. 連作「出生譚」各作品の解釈

第二章 母を扱った作品が含まれた連作の主題

 第一節 連作「地上」の主題

 第二節 連作「車輪の下」の主題

 第三節 連作「出生譚」の主題

 

第三章 連作における母を扱った作品の主題と役割

  1. 連作「地上」における母を扱った作品「母は息もて竈火創るチェホフ忌」の主題と役割について
  2. 連作「車輪の下」における母を扱った作品「夏の蝶木の根にはずむ母を訪わむ」の主題と役割について
  3. 連作「出生譚」における母を扱った作品「蜻蛉生まる母へみじかき文書書かむ」の主題と役割について

 

終章 まとめと今後の課題

  1.  まとめ
  2.  今後の課題

 

参考文献・参照文献

 

おわりに


序章 課題解明の方法

 

第一節 課題設定の理由

 寺山修司は俳句に始まり、短歌、詩、戯曲や映画、演劇など、多ジャンルで活躍した人物として知られている。私が寺山修司に出会ったのは高校時代であり、彼の詩を中心に、その言葉の可能性に惹かれた。そこで寺山の「言語」をさぐりたいと考えているうちに、彼が初期に夢中になったという俳句に出会った。

 俳句は何を詠み、何を詠まないかという作者の選択を通して作品が出来上がる。寺山の言語を探るには、限定された形式の中で言葉を選んでいく俳句を見ていくのが有効であると考え、卒業論文に選んだ。

 寺山修司の俳句作品を見ていく中で注目したのが、母を扱った俳句である。母を扱った俳句は全995句のうち146句にものぼり、その多さは他のテーマの句数をはるかにしのぐ。そこで、寺山修司の俳句の中でも「母」を扱った作品に焦点を当てることにした。

 そして、最も俳句に熱中していた高校時代の作品や、他のジャンルを経てからつくられた後年の作品が巧みに編まれた句集『花粉航海』を読み解きたいという思いを持ち、『花粉航海』に収録された母を扱った作品、そして母を扱った作品が含まれる連作を研究することにしたのである。


第二節 課題解明の方法

 俳句は単独でも読むことができるし、句集などで連作として、主題を持ったまとまりとして読むこともできる。この論文では、母を扱った作品の主題を明らかにするために、その作品が含まれた連作の1句1句の解釈、そして連作の主題を見ていく。

 まず、句集『花粉航海』の中で、母を扱った作品とその連作を探した。その中でも、「地上」、「車輪の下」、「出生譚」に注目し、分析することにした。

 第一章では、連作「地上」と「車輪の下」、「出生譚」について、作品一句一句の解釈を行う。その際、なるべく解釈が一つに偏らないように、考えられる解釈を全て挙げるようにする。

 第二章では、第二章で明らかになった各作品の解釈をもとに、連作の主題を考察していく。

 第三章では、連作における母を扱った作品の主題と役割について考察する。

 終章では、第四章をもとにして、母を扱った作品の特性を考察し、まとめたい。


第三節 句集『花粉航海』について

 『花粉航海』は、1975年に深夜叢業社から出版された句集で、寺山自身が「第一句集」と銘打ったものである。この句集に収録された230句は、それまでに刊行された詩歌句集『われに五月を』および『わが金枝篇』に収録された117句と、未公刊句113句で構成されている。高校時代に俳句に熱中し、それから俳句を離れて他のジャンルで活躍していた寺山が、改めて俳句作品を編みなおしたのがこの『花粉航海』である。その意味で、『花粉航海』の俳句を研究することは、寺山修司の俳句をより横断的に見渡すことができると考えた。

 この論文で扱う連作「地上」、「車輪の下」、「出生譚」は、それぞれ十作品で構成されている。花粉航海に収められた連作は二三作あるが、そのうち母を扱った連作は十二作である。この論文では、上記の三作に注目し、それぞれの母を扱った作品の主題に迫りたい                                                                                                                                                                                                                                                                                  


第一章 母を扱った作品が含まれた連作の各作品の解釈

第一節 連作「地上」各作品の解釈

●連作の作品について

 句集「花粉航海」の連作「地上」の作品は次の通りである。

作品

小題

@

母は息もて竈火創るチェホフ忌

地上

A

朝の麦踏むものすべて地上とし

地上

B

二階ひゞきやすし桃咲く誕生日

地上

C

影墜ちて雲雀はあがる詩人の死

地上

D

色鉛筆を失くしたる子や秋まつり

地上

E

流すべき流灯われの胸照らす

地上

F

春星綺羅憧るゝ者けつまづく

地上

G

大揚羽教師ひとりのときは優し

地上

H

桃うかぶ暗き桶水父は亡し

地上

I

夏井戸や故郷の少女は海知らず

地上

以上十句である。この中で母を扱った作品は

@母は息もて竈火創るチェホフ忌

である。この作品の連作における主題と役割を明らかにするために、この節では

一句一句の解釈をする。


●各作品の解釈

@ 母は息もて竈火創るチェホフ忌

 

(1)季節について

 チエホフが亡くなったのは、一九〇四年の七月二日である(「集英社世界文学大事典2」より)。チェホフ忌は、つまり夏に当たる。

(2)竈火について

 竈火がある光景というのは、現在の日本ではほとんど見られなくなった。竈は台所にあって、上で鍋を置き、下は火をおこす。火は竹の筒を使い、空気を送りこむことによって火が大きくなる。母親はその竹筒を使って竈火に息を送りこんでいるのである。

 竈火を創るのは、家事をする母親にとっては日常的な行為である。竈火を創る、ということは、これから料理が作られるのである。料理を作る前の準備を母がしているのである。

(3)チェホフ忌について

 チェホフはロシアの小説家、劇作家である。その人物、作品が好きであるなら、文学者が亡くなった日は何ともいえない感慨があるであろう。ここで、句中の「創る」という表現が生きてくる。文学者のすばらしいのは、自ら作品を創造するという点である。一方、母親も毎日台所で「火」を創り出している。創り出すものは違うが、火を創る母親と、作品を創ったチェホフには、ものを「創り」だす、という共通点がある。

  

(4)作品の主題について

 竈火を創る母とチェホフの共通点がわかったが、その相違点を視点人物がどう捉えているかで解釈が変わってくる。

 1 母とチェホフは同等にすばらしい。

 母とチェホフは、ものを創る、という点で両方すばらしい。

 2 実は母もチェホフのようにすばらしい。(日常的な行為の偉大さを認識)

 母の行為は日常的で当たり前の事だと思っていたが、文学作品を創り出す事と同じようにすばらしい事である。

 3 母はチェホフよりもすばらしい。(文学よりも日常を支える者の方が偉大である)

 生活を支えている母は、実はチェホフよりももっとすばらしいものなのである。

いずれにしても、火を創り出す母親の偉大さを感じている作品である。

<解釈>

一 台所をのぞくと、母が竈に火を起こしている。そういえば今日はあのチェホフが亡くなった日だ。母は毎日火を創り出し、生活を支えている。チェホフも、文学作品を創った。母もチェホフもすばらしいなあ。

二 台所をのぞくと、母が竈に火を起こしている。そういえば今日はあのチェホフが亡くなった日だ。竈に火を起こすのは母にとってはいつもの行為だが、文学作品を創り出す事と同じくらいのすばらしさがある。母というのは、ものを創り出すことができる偉大な存在である。

三 台所をのぞくと、母が竈に火を起こしている。そういえば今日はあのチェホフが亡くなった日だ。竈に火を起こすのは母にとってはいつもの行為だが、文学作品を創り出すよりも、日常を支えていくことの方が大変なことであるかもしれない。母というのは、ものを創り出すことができる偉大な存在である。

 

 

A 朝の麦踏むものすべて地上とし

(1)「朝の麦踏むもの」について

○「麦踏む」について

 麦踏(みぎふみ)、という作業がある。これは霜柱で根が浮きあがってしまうのをふせぐため、というのと、いたずらにのびては株梁が悪く、収穫が少なくなるのを防ぐためである。麦畑を一踏み一踏みし、少しずつならしていく。この作業によって麦がよく育つのである。

 朝の麦という表現から、まだ夜が明けるか明けないかくらいの早い時間帯であることが想像される。もやのかかった、冷たい空気の朝。その朝に、麦を踏みしめて歩く。一人で広大な麦を踏んでいくのは大変な作業であろうから、複数で行われる。

○「もの」について

 「踏むもの」という表現があるが、この「もの」を「物」ととるか「者」と取るかで解釈が分かれる。

 ア 「踏むもの」は「踏む物」である

 「踏む物」であるから、今足で踏んでいる麦や地面などのことを指す。「今踏んでいる地面をすべて」という意味である。「人が踏む事により、そこに地上が現れる」のである。まるで自分が神であるかのような空想をして、それを楽しんでいる視点人物の様子がうかがえる。

 イ 「踏むもの」は「踏む者」である。

 麦踏みは複数で行うから、今麦を踏んでいる人を指す。「今麦を踏んでいる人がすべて」という意味である。

 

地上を創り出すのが誰であるのかによって、解釈が異なる。

A 視点人物

 「地上とし」というのは、視点人物がその足で踏む土や草すべてを地上であると「命名」しながら歩くということであろう。さながら神のように地上を創り出す。そんな自分自身を愉しんでいる。彼が踏むところ、踏むものはすべて地上になる。ただの土であったものが、彼の歩いたあとには生命力をたたえた「地上」に変わっていくのである。

 地上とは、「天地創造」ということばが示すように、神が最初に創ったとされるものである。朝は誰もいないので、その日はじめて地面を踏むのは視点人物である。「今朝はじめて私によって踏まれる土地」自らが小さな神になって、地を創り出す。

B 麦踏みをしている人

 麦踏みは到底一人でできる作業ではない。複数で踏んでいて、みんなが踏んだところに地上が現れると考えたのである。人間が地上を創り、麦を創りだすことができると実感しているのである。

 Aでは、麦踏みを自分一人の愉しみとしてとらえ、Bでは人間が地上を創り出すと大きく捉えている。

<解釈>

一 わたしは朝の麦踏みをしている。霜を踏んで麦が育つように。わたしは他の人と一緒に、一斉に麦を踏んでいる。寒い中、こうやって麦畑全てを踏んでいくのは、まるで人間が地上を創り出しているようである。わたしは地上を創り出す小さな神のようだ。この愉しみを感じているのはわたしだけなんだなあ。

二 わたしは朝の麦踏みをしている。麦が育つには大事な作業だ。わたしは他の人たちと一緒に、一斉に麦を踏んでいる。この寒い中、わたしたち麦を踏むものは、いま踏んでいる大地を創り出しているようだ。わたしたちが踏んだところに、地上が現れるのである。

 

 

B 二階ひゞきやすし桃咲く誕生日

 

 「桃咲く」とあるから、桃の花が咲いている。季節は春。桃の花が咲く季節に誕生日を迎えたのである。句切れは「ひゞきやすし」の後。

(1)「二階ひゞきやすし」について

 二階は地面から離れているが、そのぶん地のひびきが伝わってくる。

「ひび」くとは、

  音がひろがって聞えていく。鳴りわたる。

  余韻が長くつづく。

  反響する。

  震動が伝わって行く。

  世間に知れる。評判高くなる。

  騒ぎ立てる。

  こたえる。とどく。

  影響する。

などの意味がある。(広辞苑)

 音がひろがる、という意味と、震動が伝わって行くという意味が考えられそうである。

(2)「桃咲く誕生日」について

「桃咲く誕生日」という表現は、花が咲くようすと人が生まれた日を重ねて、「生」をより実感できるようになっている。花が咲くことから、めでたさも感じられる。

(3)主題について

 大地の響きを感じているというなら、大地からはなれていても大地の活動は感じられるということである。二階にいながら、大地の響きを実感している視点人物の様子が読み取れる。この場合の主題は「大地の生命力と桃の花の生命力を感じながら誕生日を迎える喜び」であろう。

 

<解釈>

 私の今いる二階は大地のゆれをよく感じる。今日はわたしの誕生日で、桃の花が咲いている。大地の揺れと、桃の花の生命力を感じる中、誕生日を迎える。

 

 

C 影墜ちて雲雀はあがる詩人の死

 雲雀は麦畑に巣をつくることから、麦畑のイメージがある。麦畑の広がる土地で、雲雀は空高く一気に上がっていく。

(1)「影墜ちて雲雀はあがる」について

 影というのは雲雀の影である。雲雀の影が地上におち、本体は空高く上がっていく。雲雀は一気に空に上がっていく。影はだんだん小さくなる。ここには、影と雲雀の対比がある。

 雲雀は空高く上がり、高揚感や元気で生命力にあふれたイメージがある。一方、残された影は逆におちていくイメージである。

(2)「詩人の死」について

 影がいずれ消えてしまうということか、いつまでも残るのかによって解釈が分かれる。

A 影はいずれ消えてしまうかなしいものである。

 雲雀の影がおちていくように詩人は死んでいく。「墜ちる」というのは単に上から下へ落ちていくというだけではなく、あがるべきだったものが上がらずに墜ちていく様子、そして人生で成功せず堕落していく様子などがイメージされる。影は雲雀が上がれば小さくなってしまう。その影のように詩人もいずれ忘れ去られてしまう存在である。

B 影はたしかに地上に残る。

 雲雀の影が墜ちていくように詩人は死んでいく。しかし、雲雀の影はいつまでも地上に残る。その影のように、詩人も確かに生きた証しをこの夜に残したのだ。

<解釈>

一 影が墜ち、雲雀は空高く上がっていく。雲雀が高く上がるのとは対照的に、詩人は死んでいく。それはまるで影が墜ちていくようにかなしい死である。影が小さくなるように、詩人もいずれ忘れ去られて行くのである。

二 影が墜ち、雲雀は空高く上がっていく。雲雀が高く上がるのとは対照的に、詩人は死んでいく。しかし、雲雀の影がいつまでも地上に残るように、詩人の作品も地上に残るであろう。

 

 

D 色鉛筆を失くしたる子や秋まつり

 

<考察> 

 秋まつりの句。秋まつりは「豊穣を神とともに喜ぶ」というところからはじまった行事である。まつりという何とも楽しげな日であるが、まつりが終われば本格的な冬が訪れる。穏やかな秋の季節が終わりをむかえているのである。

 そんな秋まつりの日に、子は色鉛筆をなくしてしまった。楽しいはずのまつりとはうらはらに、子どもは悲しみを背負う。

 色鉛筆の色に注目すると、色鉛筆は「楽しいもの、華やかなもの」の比喩だとも考えられる。また、子どもなら誰でももっているであろうものをなくした、ということから、他の子が当然もっているものを持っていないという寂しさを感じる。

 色鉛筆は一本でもそろっていないと何か物悲しく、落ち着かない。ここでも「失うもの」がよまれている。そろっているべきものがひとつ足りないという喪失感が漂う。

A 色鉛筆を一本なくした場合

 色鉛筆というくらいなので、何色かまとめて持っていたのだろう。そのうちの一本がなくなってしまった。子どもにとって色鉛筆は色とりどりで、きれいなものである。そして何よりも色鉛筆を使えばさまざまな世界を創り出すことができる。その中で一本がなくなった。

 

B 色鉛筆をすべてなくした場合

 全てなくした喪失感は大きいものであろう。この場合、色鉛筆をなくした哀しみという解釈と、「色を失った」という解釈ができる。

 すべてなくした、つまり「色を失った」ということである。色がなくなるというのは、雪が降ってあたりが真っ白になる景色を思わせる。秋まつりは楽しいが、次に来るのは色のない真っ白な冬である。子どもは冬の訪れを一足早く感じ取ってしまった。

 

<解釈>

一 子どもは色鉛筆を一本なくした。箱の中を見ても、一本だけ空いている。その様子は何とも悲しげである。今日は秋まつりというたのしい日であるのに。

二 子どもは色鉛筆をなくした。他の子ども達は色鉛筆を持っていて、秋まつりをたのしんでいるというのに、一人だけ色鉛筆をなくしたのである。

三 子どもは色鉛筆をなくした。色を失った子どもは、一足早く冬の訪れを感じたのである。冬には雪が降り、真っ白な景色が広がる。秋まつりが終われば冬がやってくる。         

 

 

E 流すべき流灯われの胸照らす

<考察> 

 盆の十六日の夕方、川や湖、また海へ灯篭を流す。その流すべき流灯が私の胸を照らす。夕方の少し薄暗い時間に、流灯を流すために川にやってきた。句切れは「流灯」のあと。胸を照らす流灯の炎。

この俳句も、地上にいて生きている人が持つ、死んでしまった人への想いである。

(1)「流すべき」について

 「べき」は助動詞「べし」の連体形。この「べし」にはいくつかの意味があるので、どの意味を取るかで解釈が変わる。

 「べし」には1当然、2推量、3可能、4命令、5意志・決意の五つの意味がある。

この句の場合、当然と、意志・決定が考えられる。

 

1当然   流さねばならない

2意志決定 流すつもりの    

(2)「われの胸照らす」について

 われの胸照らすというのは、

ア 名残惜しくて、胸に流灯を抱えている様子。

イ 亡くなった人がわたしに安心感を与えてくれている。

ウ 亡くなった人の思いを胸に抱いている。

の三通りが考えられる。

<解釈>

一 流さなければならないはずの流灯だが、名残惜しくて胸の前でもったままである。その流灯はわたしの胸を照らすのだ。

二 流すつもりの流灯を胸の前でもっている。すると、流灯のあかりが私の胸を照らす。なくなった人がわたしを支え、安心感を与えてくれるのだ。

三 流すつもりの流灯を胸の前に持っている。すると、流灯のあかりが私の胸を照らす。わたしの胸には、亡くなった人への思いがあふれているのだ。

 

 

F 春星綺羅憧るゝ者けつまづく

  春星というのは暖かさ、なつかしさなどをおぼえるものである。「綺羅」は星がきらきらと美しく輝く様子である。

 星に「憧るゝ者」は、夜空を見上げている。上を向いるので、足元には注意がいて払われない。そこで、石などにつまづいてしまったのだろう。

 「夜、星を見上げていて、つまづいてしまった」というのが表面的な解釈である。これだとなんだか滑稽な作品であるように思える。

 しかし、「けつまづく」という表現にどこか「人生に失敗する」、「墜ちていく」といったイメージを受ける。そう考えると、滑稽な中にも哀れさの漂う作品である。

星に憧れるというと、

A 手の届かないものに思いを向ける。

B 亡くなった人に思いを馳せている。

という解釈ができる。

<解釈>

一 春星が夜の空にきらきらと輝いている。あの星に憧れるものはけつまづくのだ。空を見上げて、足元を省みないとこのようにけつまづいてしまう。それはまるで人生のようなものである。人生も上ばかり見て生きていても失敗してしまうのである。 

二 春星が夜の空にきらきらと輝いている。あの星は亡くなったあの人であろうか。あの星に憧れるものはけつまづくのだ。空を見上げて、足元を省みないとこのようにけつまづいてしまう。亡くなった人ばかりを思っていても、つまづいてしまって前へ進まないのだ。

 

 

G 大揚羽教師ひとりのときは優し

 

(1)大揚羽について

 大揚羽は夏を代表する蝶で、その大きさ、美しさは人の目をひく。夏の暑い日、教師と視点人物がいる風景を、大きな揚羽が横切る様子を想起する。

(2)教師ひとりのときは優し

 そのままの解釈である。教師は大勢いるときは私にそっけないが、一対一の時は優しい。このことを視点人物がどう感じているかで句の主題が変わってくる。

A うれしいと思っている場合

 視点人物は、教師が一対一の時に優しいことをうれしく思っている。この場合、揚羽の飛翔や夏の暑さは、明るい景になる。明るさに包まれた作品。

B 教師への不信を感じている場合

 教師が一対一の時だけ優しい様子を、視点人物は快く思っていない。むしろ、場面場面で対応が変わる教師に不信感を持っている。大揚羽は、教師とふたりでいる様子を目撃する存在として描かれている。

<解釈>

一 大揚羽が飛んでいる。教師は、わたしとふたりきりの時は優しい。それはうれしいことだ。

二 大揚羽が飛んでいる。教師は、わたしとふたりきりの時は優しい。そんな教師は信用できない。 

 

 

H 桃うかぶ暗き桶水父は亡し

 なぜ桃が桶にうかんでいるのかというと、これは父のためであろう。父がいつ帰ってきてもいいように、桃を冷やしているのである。しかし、現実的には父は亡くなり、帰って来ない。帰って来ないのがわかっていてもいつまでも待っている家族の悲壮な思いが、「暗き」という言葉に象徴されている。桃を桶水に浮べる行為は、生前の父への愛情から出たものというよりは、父の死を受け入れられない家族の悲痛な思いが込められているように思う。

 桶水は毎日取り替えられ、新しい水になる。父のために桃を冷やしているのであるから、いつでもおいしく食べられるようにである。その水を替えるたび、父がかえって来ない哀しみがまた新たに感じられるのであろう。水はいくら替えても「暗」いままである。

 

(1)主題について

 父が亡くなった哀しみが静かに感じられる作品である。桃は家族の象徴で、いつまでも父を待っているのである。父の死を一日ごとに実感していく家族の様子も想像できる。遺されたものの哀しみを感じる作品である。

<解釈>

 暗い桶水に桃が浮かんでいる。桃は家族と同様、父の帰りを待っている。父は亡くなったというのに。

 

 

I 夏井戸や故郷の少女は海知らず

(1)「故郷の少女」から分かること

 視点人物がいま故郷にいなくて、遠くから故郷を思っていることが分かる。この「遠く」というのは空間的なものであるが、時間的な速さも表している。というのは、故郷というのは生まれ育った場所であり、その人の育った歴史も背負っていると考えるからである。

この少女は、記憶の中の存在であると考える。

(2)「夏井戸」と「海」の対比

 井戸は家の傍にあり、生活に近い場所にある。一方、海は海に近い土地でなければ生活とは遠いものである。少女は井戸のことは知っているが、青く大きな海を見たことがない。いつか海のことを知る時が来るだろうが、海を知らないという純朴さは永遠のものである。少女は少女のまま、作者の記憶にとどまっている。

 「夏井戸」と「海を知らない少女」の取り合わせにより、少女は井戸のようにちいさな世界のなかで生きているということが明確になる。

(3)作品の主題について

 視点人物は、「海」という当然知っているであろうものを知らない少女に驚きととまどいを感じていると考える。海という大きく区切りのないものを少女が知らないように、視点人物も少女の事を知らない。少女の存在は、視点人物にとって不思議で、またそれゆえにあこがれるのである。

<解釈>

 夏井戸がある。故郷の少女は海を知らない。そんな少女をどうしていいか分からない。少女が海を知らないのと同じくらい、わたしも少女のことを知らない。少女はわたしにとって謎で、それゆえにひかれる。 


第二節 連作「車輪の下」各作品の解釈

●連作の作品について

 連作「車輪の下」は次の十句で構成されている。

作品

小題

@

黒人悲歌桶にぽつかり籾殻浮き

車輪の下

A

燕の巣盗れり少女に信ぜられ

車輪の下

B

夏の蝶木の根にはずむ母を訪わむ

車輪の下

C

鉄管より滴る清水愛誓う

車輪の下

D

麦の芽に日当るごとく父が欲し

車輪の下

E

車輪の下はすぐに郷里や溝清水

車輪の下

F

崖上のオルガン仰ぎ種まく人

車輪の下

G

卒業歌鍛冶の谺も遠からず

車輪の下

H

牛小屋に洩れ灯のまろきチエホフ忌

車輪の下

I

黒髪に乗る麦埃婚約す

車輪の下

「車輪の下」には、母に関する俳句は一句含まれている。

B夏の蝶木の根にはずむ母を訪わむ

である。この作品の主題を探るために、この節では連作十作品を一つ一つ見ていく。

 

 


●各作品の解釈

@黒人悲歌桶にぽつかり籾殻浮き

黒人悲歌が聞こえる。桶には、籾殻がぽっかり浮いている。

(1)「黒人悲歌」について 

悲歌

1 悲しい気持ちを歌うこと。また、悲痛な調子の歌。哀歌。

2 死者をいたむ詩歌。エレジー。           (日本国語大辞典より)

 黒人悲歌というのは、黒人が奴隷として労働に従事していた事実を反映している。奴隷は過酷な労働で、来る日も来る日も働かねばならない。黒人悲歌は、自由を手にすることができないその状況を歌い、魂をそのままに表現したものである。奴隷制の中で生まれた「悲歌」であり、悲しいメロディの歌である。これが聞こえてくると、奴隷であった黒人達のそのままの悲しみと労働の様子が伝わってくるようである。また、歌は労働に従事している間に歌うものではない。一日の労働が終わり、その苦しみを歌う。あるいは過労や病気で亡くなったものを悼むため、またつかの間の休息を感じるために歌うのである。

 黒人悲歌を聞いて、視点人物はどのように感じているのであろうか。二通りある。

(ア) 苦しみやつらさを実感している。

(イ) 労働が終わった後の休息、憩いのひとときを実感している。 

 稲を刈ってからも農作業はまだ終わらない。籾を摺り、脱穀して玄米を作るまでの作業は朝から晩まで続き、過酷な労働である。その労働が黒人悲歌のもつ労働の苦しさ、そして仕事が終わった後の休息とつながる。

視点人物は、桶があり、籾殻がある光景の中で生活をしている。桶は水汲み、入浴、洗濯などに使われる。これは外での労働ではなく家庭の風景である。一方籾殻は、外での仕事であり、秋、稲の収穫の時期に行う労働である。稲を収穫した後は、、脱穀機を使って米を落とす。そして、筵でよく干してから、まだ殻のついた米を籾摺機にかけ、籾殻を取り除くのである。これは籾埃が舞い、大変な労働である。大変であると同時に、秋には欠かせない光景でもある。

(2)「ぽっかり」について

 辞書には

 軽く浮くさま。(広辞苑)

と表記されている。「籾殻が軽く水に浮いている」という意味になる。また、心にぽっかり穴があいたようだ」という使い方もあるので、「ぽっかり」という響きにどこか喪失感が感じられる。また、半濁音と促音から、やさしい響きがする。

(3)「桶にぽつかり籾殻浮き」について

 桶に籾殻が浮かんでいる。これはどういう状況であろうか。桶が使われる状況を考えると、

(い) 水汲み

(ろ) 風呂

(は) 顔を洗う。洗顔。

(に) 洗濯

 などである。視点人物は農作業に従事している人物であるので、労働の後の桶である。

労働の後に水汲みをするとは考えにくいので、この場合は(ろ)風呂にある桶、(は)洗顔のための桶、もしくは(に)洗濯の3つが考えられる。

<解釈>

一 黒人悲歌が聞こえる。今日の苦しい労働は終わった。脱穀機を動かし、籾埃で薄汚れたわたしの体を(ろ)風呂できれいにする。と、風呂桶に昼間の作業で出た籾殻が浮かんでいる。おそらくわたしの体に付いていたものである。ああ、(ア)今日一日の労働は大変なものであったなあ。 

二 黒人悲歌が聞こえる。今日のわたしの労働は終わった。脱穀機を動かし、籾埃で薄汚れたわたしの体を(ろ)風呂できれいにする。と、風呂桶に昼間の作業で出た籾殻が浮かんでいる。おそらくわたしの体に付いていたものである。ああ、今日もやっと仕事が終わった。(イ)風呂で一息ついているわたしのように、籾殻も水の中でほっと一息ついているようだ。

三 黒人悲歌が聞こえる。今日の苦しい労働は終わった。労働で籾埃まみれになった服を脱ぎ、(は)水の入った桶に入れる。すると、水面に籾殻が浮かぶ。(ア)ああ、今日一日の労働は大変なものであったなあ。

四 黒人悲歌が聞こえる。今日のわたしの労働は終わった。労働で籾埃まみれになった服を脱ぎ、(は)水の入った桶に入れる。すると、水面に籾殻が浮かぶ。(イ)やっと一息つけるのだなあ。

五 黒人悲歌が聞こえる。今日の苦しい労働は終わった。(に)薄汚れた顔を洗うと、桶水に籾殻が浮く。ああ、(ア)今日の労働も大変なものであったなあ。

六 黒人悲歌が聞こえる。今日のわたしの労働は終わった。(に)薄汚れた顔を洗うと、桶水に籾殻が浮く。やっと労働が終わって(イ)ほっと一息つけるのだなあ。

 

 

A 燕の巣盗れり少女に信ぜられ

<考察>

燕の巣は、現代俳句歳時記によると、

「三から五月に日本に渡来した燕は人家の梁や軒先などに泥や藁などで椀形の巣を営む。…(略)…古巣を利用するため、毎年同じ場所に姿を見せる。」

 とある。巣に燕がいるのは春先だが、巣は次の年も使うので、季節は春ではないと考えられる。句切れは「盗れり」の後で、中切れである。前半の燕の巣を盗ったことと、後の少女に信じられたこととのつながりがこの作品を解釈する上で要点となる。

(1)「燕の巣盗れり」について

 「取れり」、ではなく「盗れり」である。燕の巣は人家の軒先や梁にあるので、他人の家に作られた燕の巣を取ったのであろう。

「燕の巣」を「盗」った動機と、その時の心情は

  A 少女が喜ぶと思って、進んで。喜んで。

  B 少女に頼まれて、進んで。喜んで。

  C   〃     いやいや。

  D 少女に信じられて、進んで。喜んで。

  E   〃      いやいや。 

  

(2)「少女に信ぜられ」について

 「信じられ」というのは

  人間として信用された。

  燕を盗ることができる、ということを信じられた。

の二通りが考えられる。

 少女に信じられたときの視点人物の情は

  ア 喜び(うれしい。)

  イ 困惑(困ったなあ。)

   などが考えられる。

「燕の巣盗れり」と「信ぜられ」の関係について

「燕の巣を盗」ったという行為と、「少女に信ぜられ」たという状況の関係を考えると、次の4つの解釈が考えられる。

T 順接    わたしは燕の巣を盗った。だから少女に信ぜられた。

U 逆接    燕の巣を盗った。だけど少女に信ぜられた。

V 倒置+順接 少女に信ぜられた。だから燕の巣を盗った。

W 倒置+逆接 少女に信ぜられた。けれど燕の巣を盗った。

 

主題について

 燕の巣を盗る、というのは少年時代のいたずらと考えられる。それが、少女とのやりとりと関わってくる。「少年」と「少女」の、恋もしは恋以前の淡い感情がにじみ出ている。

 お互いに思いが通じているなら、思いが通じたその喜びが主題である。

 少女だけが少年を信じている、またはお互い思いがあっても幼いがゆえに気持ちがずれているという場合、少年と少女の微妙な心のズレが作品の面白さを生んでいる。

<解釈> 

一 わたしはA少女が喜ぶと思って進んで燕の巣を盗った。そして少女に信じられた。アうれしいなあ。(思いが通じ合った喜び)

二 わたしはB少女に頼まれて進んで燕の巣を盗った。そして少女に信ぜられた。アうれしいなあ。(思いが通じ合った喜び)

三 わたしはC少女に頼まれて仕方なく燕の巣を盗った。だけど少女に信ぜられた。イ困ったなあ。(お互いの気持ちのズレ)

四 わたしはC少女に頼まれて仕方なく燕の巣を盗った。だけど少女に信ぜられた。わたしは進んでやったわけではないのにイ困ったなあ。 (お互いの気持ちのズレ)

五 わたしは少女に信頼された。アうれしいなあ。そこでD少女のために喜んで燕の巣を盗った。(少女に思われた喜び)

六 わたしは少女に気に入られたくて「燕の巣を取ることができる」という嘘をついた。そうすると少女に信じられてしまった。イ困ったなあ。そこでE仕方なく燕の巣を盗った。

(お互いの気持ちのズレ)

 

 

B 夏の蝶木の根にはずむ母を訪わむ

<考察>

 季節は夏。夏の蝶は生命力あふれ、元気なイメージがある。そして大きい。その夏の蝶が木の根にはずんでいる。

 句切れは「木の根にはずむ」の後である。「夏の蝶木の根にはずむ」、というのが作者の眼前の光景。そして「母を訪わむ」が作者の心情である。蝶が木の根で飛びまわっている様子を見て、母を訪ねようという気になったのであろう。もしくは、母に逢いたい、という気持ちはあらかじめあって、蝶を見たときにその決心が固まったとも読める。

(1)「木の根」について

 木の根は木にとっては体を支えているとても大切な部分である。また土中から水分、養分を吸い上げる役目もある。つまり根は生命を維持する上で欠かせない重要な部分である。その根に蝶が飛んでいたということは、生命力の涌き出るさまを思わせる。木の生命力と、蝶の生命力が力強く感じられる。

 また根には「ことの起こり、起源、もと。根本。原因。」という意味がある。(日本国語大辞典より)生命は母の胎内で創られる。母もまた生命の起源である。自らもその生命の源である母のもとへかえりたいという思い。「木の根」「蝶」はいずれも母を恋しいと思う気持ちへとつながっている。母をいとしく思う作品。

 蝶は木の根で飛びまわっていた。すると作者の視点は下向きであることがわかる。下を向いているか、もしくは木の根が見えるところまでかがんでいる。下を向くという行為は、いとしいもの、自分より下のもの、手の届くものを眺めることになる。もし蝶が作者の目線よりも上を飛んでいたとしたら、尊敬するもの、手の届かないものを思うことになる。作者の心がはやっている様子がよくわかる作品になるだろう。この場合は目線が下にある。つまり、蝶を通して母に対するいとしさを強く感じさせる作品となっている。 

 また「はずむ」という表現により、心が母親の方へ向いている様子もわかる。

<解釈>

 夏の蝶が木の根で飛びまわっている。木の根は生命の源である。わたしもこの蝶のように心を弾ませて母の下へ会いに行こう。

 

 

C鉄管より滴る清水愛誓う

 

<考察>

 「清水」というのが季語である。その清涼感から一般的には夏の季語とされているが、清水は年中見られるものである。

 清らかな水が硬く冷たい鉄の管から一滴、二滴と落ちていく。その様子を見て愛を誓う人がいる。「愛誓う」の前に句切れがあり、「鉄管より滴る清水」が外的環境で、「愛誓う」が視点人物の行動ないしは決意であろう。

 愛を誓った場面に相手が居た場合と、いない場合が考えられる。

(1)「鉄管より滴る清水」について

 清水は地下から涌き出てくる水や岩の間から流れてくる水など、天然のきれいな水のことである。この作品では、人が利用しやすいように鉄管を使っている。

 考えられる景は、

(ア)山登りや農作業で山に登ると、岩場にさしている鉄管から水が滴っているのを発見した。 

 (イ)山の近くで農作業をしていて、山から引いている鉄管から水が滴っている。

である。

(2)「愛誓う」について

愛を誓うのは、

a 自分一人で、心の中で相手への愛を確認する。

b 二人で、お互いの気持ちを確認し合う。

の二通り考えられる。

(3)主題について

 この作品の主題は「清水」と「愛」の関係に集約される。清水は地下から滾々と湧き出る。その澄んだ様子と、絶え間なくあふれ出る様子から、「愛というものもこうでありたい。こうあって欲しい。」と考えたのである。愛のあるべき姿を清水に感じたのである。

<解釈>

一 わたしは一人で山に登っている。岩場に清水を利用するための鉄管がさしてあり、そこから清水が滴っている。清水は澄んでいて、そして絶えることなく流れる。わたしもあの清水のような愛でありたいなあ。彼女への愛を誓おう。

 

二 わたしは彼女と山に登っている。岩場に岩場に清水を利用するための鉄管がさしてあり、そこから清水が滴っている。わたし達は、その清水のように清らかで絶えることのない愛を誓い合った。

 

 

D 麦の芽に日当るごとく父が欲し

<考察>

 麦は10月、11月に種をまく。そして麦の芽が出てくるのは寒い冬である。麦の芽は寒さに耐えて成長する。その寒い日に日が当たる。寒いが、日が当たるおかげで麦は成長できる。麦をつねに照らして成長させる存在である。

(1)「麦の芽に日当るごとく」について

 景は「麦の芽に日当るごとく」から、春が近づく麦畑に、ほのかにあたたかい太陽の日が降り注いでいる様子が想像できる。この句を中村草田男は「青森よみうり文芸」(昭和二十八年九月度入賞俳句・秀逸)で次のように批評している。

「たとえ作者に父親があったとしてもこの叙情は通用する。『完全なる父性』の希求の声である。しかもごく特殊な心理的な句のようであって、視覚的な実感が、具体性を十分に一句に付与している無言で何気なく質実であたたかい―麦の芽に日当たる景はまさに『父性の具現』である。」

 麦の芽を自分にたとえ、日を父親にたとえているのである。麦の芽は日のおかげで成長し、やがて実をつける。息子も、父の下で成長し、成人していくのである。「わたしを成長させてくれる父親がほしい」ということで、単に父が欲しいというのではない。草田男のいう『完全なる父性』とは、「わたしを常に律し、成長させる父、あたたかく見守る偉大な父」である。

(2)句の主題について

 麦は日が当たることによって成長し、実をつける。日があってはじめて成長することができるのである。

 麦にとっての「日」のように、わたしにとっての「父」はなくてはならないものである。わたしを律し、育ててくれる父を望んでいる。主題の一つは、父の存在の大きさを実感するだとか、その父が欲しいという願望、つまり「父性の希求」である。

 また、この句は明るくあたたかい光景であるが、その裏にあるのは「父がいないことに対する不安」である。父が息子を律し、成長させるのに欠かせないものであるなら、なおさら父がいないことが「わたしはまっすぐには成長しないのではないか」という不安を呼ぶのである。「父性の希求」の裏に、「父性の喪失に対する不安」がひそんでいる。

<解釈>

一 麦の芽に日が当たるように、つねにわたしを照らしてくれる日のような父が欲しい。(それほど父は大きな存在なのである)

二 麦の芽に日が当たるように、つねにわたしを照らしてくれる日のような父が欲しい。(けれどわたしには父がいない。わたしは麦や父のいるほかの人のようには成長できないのではないだろうか)

 

 

E車輪の下はすぐに郷里や溝清水

 この車輪の下はもう故郷なのだなあ。溝には清水が流れている。

<考察>

(1)「車輪の下」について

 「車輪の下」という言葉からは、さまざまな乗り物が想像される。

車輪がついているものは

 ○速度の速いもの(すぐに止まることができない)

  ・道路を走るもの

  1. 自動車
  2. バス
  3. トラック
  4. オートバイ
  5. 自転車
  6.   ・その他

  7. 汽車

 ○速度の遅いもの(すぐに止まることができる)

 ・道路を走るもの

(キ)荷車

(ク)一輪車

 ・その他

(ケ)耕耘機

などが考えられる。

(2)「すぐに郷里や」について

 「すぐに」は、時間や距離に間のないことをあらわす副詞である。

  T 車輪の下にひろがる土地が、もうすぐ郷里にさしかかる。

  U 車輪の下に広がる土地は、郷里そのものである。

 の二つの解釈ができる。Tは、郷里にさしかかる瞬間の興奮がよくあらわれている。Uは、車輪の下が故郷であるという実感が込められている。

(3)「溝清水」について

 溝に清水が流れている。道路を走っている場合、道の横に溝があり、そこに清水がながれていると考えられる。また、耕耘機の場合は、田に水を引き入れるために田の横に作られた川と考えられる。速度の速い乗り物の場合なら、清水も速く流れているように見える。清水の澄んだイメージと、そのスピード感が句にさわやかさを与える。速度の出ないものであるなら、ゆっくりと流れる清水に、ほっと一息ついている。汽車の場合は実景ではないかもしれない。

 

(4)主題について

 どこか別の場所から故郷に帰ってきたなら、

故郷の土を踏んだ喜び

 が主題である。故郷にいるのなら、

故郷にいるという安心感、故郷のすばらしさを実感した

というのが主題である。

 また、郷里の土、水に注目すると、

郷里の自然のすばらしさを感じた

というのが主題になる。

<解釈>

一 わたしはア自動車に乗っている。Tあ、いま、郷里の土を踏んだ。この自動車の車輪の下には郷里の土地が広がっている。窓から外を見ると、道の端の溝に、清水が流れている。やっと郷里に戻ってきたのだなあ。(故郷に戻ってきた喜び)

二 わたしはア自動車に乗っている。この自動車のU車輪の下には郷里の土地が広がっている。車の窓から外を見ると、道の端の溝に清水が流れている。何とも涼しげな光景である。これがわたしの郷里なんだなあ。(故郷にいる安心感、故郷のすばらしさ)

三 わたしはイバスに乗っている。Tあ、いま、郷里の土を踏んだ。この自動車の車輪の下には郷里の土地が広がっている。窓から外を見ると、道の端の溝に、清水が流れている。やっと郷里に戻ってきたのだなあ。(故郷に戻ってきた喜び)

四 わたしはイバスに乗っている。このバスのU車輪の下には郷里の土地が広がっている。車の窓から外を見ると、道の端の溝に清水が流れている。何とも涼しげな光景である。これがわたしの郷里なんだなあ。(故郷にいる安心感、故郷のすばらしさ)

五 わたしはウトラックに乗って走っている。Uこの車輪の下は郷里であるなあ。道の端に見える溝には、清水がなみなみとたたえられ、清水も私を追いかけるように走っている。何とも涼しげな光景である。(故郷にいる安心感、故郷のすばらしさ)

 

六 わたしはエオートバイに乗っている。U今走っているのは郷里であるなあ。道の端に見える溝には、清水がなみなみとたたえられている。清水もわたしを追いかけるように走っているように見える。すがすがしいなあ。(故郷にいる安心感、故郷のすばらしさ)

七 わたしはオ自転車に乗っている。U今走っているのは郷里であるなあ。端に見える溝には、清水がなみなみとたたえられている。清水もわたしを追いかけるように走っているように見える。すがすがしいなあ。(故郷にいる安心感、故郷のすばらしさ)

八 わたしはカ汽車に乗っている。汽車のU車輪の下は郷里が広がっているなあ。家の近くの溝には清水が流れて、なんとも涼しげな光景である。やっと郷里に帰ってきたのだなあ。

(故郷に戻ってきた喜び)

九 わたしはキ荷車を押している。荷物を運んでいるのだが、この荷車のU車輪の下には郷里が広がっているなあ。 道の端の溝には、清水がゆっくりと流れている。ここはわたしの郷里であるなあ。(故郷にいる安心感、故郷のすばらしさ)

十 わたしはク一輪車を押している。農作業をしているのだが、この一輪車の車輪の下には郷里が広がっているのだなあ。道の端の溝には、清水がゆっくりと流れている。土も水も豊かな郷里であるなあ。(故郷の自然のすばらしさ)

十一 わたしはケ耕耘機を動かしている。農作業をしているのだが、この耕耘機の車輪の下は田で、この田が郷里そのものである。田の横には、田に水を引くための溝に清水がゆっくりと流れている。土も水も豊かな郷里であるなあ。(故郷の自然のすばらしさ)

 

 

F 崖上のオルガン仰ぎ種まく人

(1)崖上のオルガンについて

 「崖上のオルガン」というのは、

A 崖の上からオルガンの演奏が聞こえてくる。 

 崖の上には裕福な家庭があり、そこにはオルガンもある。その家の少女がオルガンを弾いているのであろうか。あるいは家の奥さんが弾いているのだろうか。耳から聞こえる音楽と、種や土の手触りを感じる。

 この場合、種まく人の心情は

  1 いい音色であるなあ、と思っている。労働のあいだの休息。憩い。

  2 崖の上の家族との距離を感じている。

  3 崖の上の家族にあこがれている。

  4 崖の上の家族の一人にあこがれている。(恋心)

 などが考えられる。 

B 崖の上に学校があり、オルガンの音が聞こえてくる。

 崖のうえには学校があり、オルガンの音が聞こえてくる。おそらく小学校である。学校と労働をしている視点人物の対比がある。

 この場合の種まく人の心情は

  1 いい音色であるなあ。

  2 学校に行きたい。(学校へ行けなかった)

  3 楽しそうであるなあ。

  などが考えられる。

C 崖の上に教会があり、そこのオルガンの音が聞こえてくる。

 崖の上の教会から、聖歌が流れてくる。

 この場合の種まく人の心情は

  1 いい音色であるなあ。

  2 教会に人が集う日にもわたしは働いているのだなあ。(労働の大変さ)

  3 教会に行きたいなあ。

D 崖の上にオルガンがある。

 種をまく人が崖の上にあるオルガンを仰ぎ見ている。

 崖の上にオルガンがあるという奇妙な光景である。

 「仰ぐ」というと、顔をしっかり天の方へ向けるという様子である。オルガンを見上げるわけだから、種をまく人の頭上にオルガンがみえるということであろう。

オルガンが種をまく人の頭上に落下するかもしれない、という緊張感がある。

(2) 「仰ぐ」について

 「仰ぐ」というのは上を見上げる行為である。目だけ上を見るではなく、顔をしっかり上へむける。その時、種まく人はもちろん種を蒔いているのではない。今まで種を蒔いていた手を休めて、上を向いているのである。それは

 つかれた腰を伸ばした。

 オルガンの音が聞こえてきたので休憩をして上を向いた。

というのが考えられる。

<解釈>

A 裕福な家庭から聞こえるオルガンの場合

一 種をまいている人が休憩をしていると、崖の上からオルガンの音が聞こえてきた。あれは崖の上にある裕福な家庭のオルガンの音である。いい音色であるなあ。(労働の間の休息を感じている)

二 種をまいている人が休憩をしていると、崖の上からオルガンの音が聞こえてきた。あれは崖の上にある裕福な家庭のオルガンの音である。あのオルガンの家は幸福なのであろうなあ。わたしはこうして懸命に種をまいているというのに。(崖の上の家と距離を感じ、自分の境遇に不満を持っている)

三 種をまいている人が休憩をしていると、崖の上からオルガンの音が聞こえてきた。あれは崖の上にある裕福な家庭のオルガンの音である。あのオルガンの家は幸福なのであろうなあ。うらやましい。(裕福な家庭にあこがれている)

四 種をまいている人が休憩をしていると、崖の上からオルガンの音が聞こえてきた。あれは崖の上にある裕福な家庭のオルガンの音である。あのオルガンを弾いているのは彼女であろうか。ああ、彼女に会いたいなあ。(崖の上の家の家族の一人にあこがれている)

B学校から聞こえるオルガンの場合

一 種をまいていると、崖の上からオルガンの音が聞こえてきた。あれは崖の上の学校のオルガンの音である。いい音色であるなあ。(労働の間の休息を感じている)

二 種をまいていると、崖の上からオルガンの音が聞こえてきた。あれは崖の上の学校のオルガンの音である。わたしは労働のためにほとんど学校にいけなかった。わたしも学校に行きたかったなあ。(学校にあこがれている)

三 種をまいていると、崖の上からオルガンの音が聞こえてきた。あれは崖の上の学校のオルガンの音である。何とも楽しそうに弾いているなあ。(子ども達の無邪気な演奏をほほえましく思うと同時に、労働の間の休息を感じている)

C教会から聞こえてくるオルガンの場合

一 種をまいていると、崖の上からオルガンの音が聞こえてきた。あれは崖の上の教会から聞こえてくるオルガンの音である。美しい曲であるなあ。(労働の間の休息を感じている)

二 種をまいていると、崖の上からオルガンの音が聞こえてきた。あれは崖の上の教会から聞こえてくるオルガンの音である。教会に人が集う日であってもわたしはこうして働いてているのだなあ。(休む間もない労働の大変さを感じている)

三 種をまいていると、崖の上からオルガンの音が聞こえてきた。あれは崖の上の教会から聞こえてくるオルガンの音である。わたしも教会に行きたいなあ。(なかなか教会にいくひまがない)

D崖の上にオルガンがある場合

 崖の上にはオルガンがあり、種まく人は労働の途中にそれを見上げている。オルガンは崖の端にあって、いまにも落ちそうである。オルガンは、種をまく人に落ちていくかもしれない。(上からの重圧に対する不安・恐怖感)

 

 

G 卒業歌鍛冶の谺も遠からず

 この作品は、視点人物がどこにいるかで解釈が変わってくる。 

(1)視点人物が卒業歌を歌っている場合

 卒業歌を歌っているのは視点人物である。つまり、視点人物は学校にいて、卒業するのである。春の光景。学校に鍛冶の音が聞こえてくるのである。

 この場合、

 A 鍛冶をしているのは視点人物の父親である。家の鍛冶の音が聞こえる。

 B 鍛冶の音を聞いて、これから自分が卒業して鍛冶をやっていく緊張感を持っている。

 C 鍛冶の音を聞いて、これから卒業して労働に従事する自分を感じている。

(2)「遠からず」について

 「遠くではなく近くの距離で聞こえる」と物質的な距離をよんでいるとも考えられるが、ここでは精神的に遠くではなく近くに、身近に感じる」ということである。

<解釈>

一 わたしは卒業歌を歌っている。今日この学校を卒業するのだ。あの鍛冶のこだまは遠くではなく、身近に感じる。あれは鍛冶屋であるわたしの父が、わたしの卒業を祝ってくれているのであろう。

二 わたしは卒業歌を歌っている。今日この学校を卒業するのだ。あの鍛冶のこだまは遠くではなく、身近に感じる。わたしはこれから鍛冶屋として働く。もうその時期がやってきた。今のわたしにとって、鍛冶のこだまは遠くのものではない。

三 わたしは卒業歌を歌っている。今日この学校を卒業するのだ。あの鍛冶のこだまは遠くではなく、身近に感じる。わたしはあの鍛冶屋のように、労働に従事していくのだ。鍛冶の音がわたしに緊張感を与えてくれる。

 

 

H 牛小屋に洩れ灯のまろきチエホフ忌

 「まろき」について

まろし 

 1 円形である。

 2 かどがたたない。おだやかである。

 3 欠けたところがない。円満である。(広辞苑)

(1)「牛小屋に洩れ灯のまろき」について

 「牛小屋に洩れ灯のまろき」、というのは

 A 牛小屋の明かりが外に洩れて、それが丸くおだやかに見える。

 B 牛を飼っている人の家の灯かりが洩れて、牛小屋をまるくおだやかに照らしている。

という光景が考えられる。

 Aの場合、夜にも牛の世話が残っていて、牛小屋の灯かりをつけていると考えられる。チェホフ忌は七月であるから、暑い日の夜の労働である。ただ「まろき」ということばが労働の苦しさやつらさを和らげていて、そのぶん穏やかさが感じられる。

 Bの場合、家族が円満である様子と、その家族に見守られて穏やかに暮らす牛の様子が想像される。灯かりの「まろき」様子が、家族の「まろき」状態を象徴している。

 どちらにしても、

(2)「チェホフ忌」について

 チェホフについては、第節の「地上」ですでに述べた。(P参照)チェホフ忌は1904年の7月2日であるから、夏の日の出来事である。句の前半との関係を考えると、洩れ灯は「チェホフの死を弔うもの」とも取れる。チェホフが亡くなった日も、穏やかに労働を行い、家庭は暖かいのである。

<解釈>

一 夜も牛小屋での仕事が残っているらしく、牛小屋に灯かりがついている。夜の労働は大変だが、あの灯かりはまるく、牛や家族の穏やかで幸せな生活をあらわしているようである。今日はチェホフが亡くなった日。

二 家の灯かりが洩れて、牛小屋をまるく穏やかに浮かびあがらせている。この牛小屋の牛は家族に守られている。この家庭は円満であるのだなあ。今日はチェホフ忌である。 

 

 

I 黒髪に乗る麦埃婚約す

 彼女の黒髪に麦埃が乗る。彼女は婚約をした。

(1)「黒髪」について

 黒髪とは、

 ア 女性の美しい髪。

 イ 視点人物の髪。

が考えられる。ただ、ここでは髪ではなくわざわざ「黒髪」と述べているため、その美しさを強調したかったのだと考えられる。それに、自分の髪についた麦埃は見えにくい。

(2)「麦埃」について

 麦埃とは、麦の穂を打ってをとり、脱粒させる作業のことである。筵の上に広げた麦を、穂打ち棒で打つ。(現代俳句歳時記より)夏に見られる麦打ちの光景。黒髪の人物は

ア 麦打ちをしている。

イ 麦打ちをしている傍を通った。

 「乗る」という表現からは、麦埃がそっと黒髪に乗る、という優しさが感じられる。

 

(3)「婚約す」について

 句切れは「婚約す」の前。婚約した人物は

A 黒髪の女性。

B 黒髪の女性と視点人物。

 の二通りが考えられる。Aの場合、視点人物が黒髪の女性に思いを寄せているかそうでないかで解釈が変わる。

<解釈>

一 わたしが麦打ちをしていると、黒髪の美しい女性が傍を通って行く。その彼女の黒髪に麦埃がそっと乗る。ああ、彼女は婚約をしたのだなあ。この村を出て行くのであろうか。

二 わたしが麦打ちをしていると、黒髪の美しい女性が傍を通って行く。その彼女の黒髪に麦埃がそっと乗る。ああ、彼女は婚約をしたのだなあ。麦埃が彼女の婚約を祝っているようである。

三 わたしが麦打ちをしていると、わたしのあこがれている女性が傍を通って行く。彼女の黒髪に麦埃がそっと乗る。ああ、彼女は婚約をしたのだなあ。彼女はこの村を出て行くのであろうか。寂しいなあ。

四 彼女は麦打ちをして、黒髪に麦埃がついている。労働をする彼女は美しい。そんな彼女は婚約をした。麦埃が彼女の婚約を祝っているようである。

五 彼女は麦打ちをして、黒髪に麦埃がついている。労働をする彼女は美しい。そんな彼女は婚約をしてしまった。寂しいなあ。

六 彼女は麦打ちをして、黒髪に麦埃がついている。労働をする彼女は美しい。そんな彼女はわたしと婚約をしたのだ。


第三節 連作「出生譚」各作品の解釈

●連作の作品について

作品

小題

@

螢火で読みしは戸籍抄本のみ

出生譚

A

長子かえらず水の暗きに桃うかぶ

出生譚

B

卒業歌遠嶺のみ見ることは止めむ

出生譚

C

恋地獄草矢で胸を狙い打ち

出生譚

D

二重瞼の仔豚呼ぶわが誕生日

出生譚

E

蜻蛉生る母へみじかき文書かむ

出生譚

F

鵙の贄うしろ手で書く伝記かな

出生譚

G

土筆と旅人すこし傾き小学校

出生譚

H

絹糸赤し村の暗部に出生し

出生譚

I

独学や拭き消す窓の天の川

出生譚

 

「出生譚」には、母をよんだ作品が一句ある。

E蜻蛉生る母へみじかき文書かむ

である。この作品の主題および連作における役割を明らかにするために、この節では一句一句の作品の解釈を行う。


●各作品の解釈

@螢火で読みしは戸籍抄本のみ

 螢火で読んだのは、戸籍抄本だけである。

(1)「螢火」について

「螢火」というのは

夜間、螢の放つ光。けいか。

埋火(うずみび)の小さく残ったもの。           (広辞苑)

の二つの意味がある。2は灰にうずめた炭火のことなので、戸籍抄本をよめるほどの明るさはない。ここでは1の螢の放つ光のことである。

 

(2)「戸籍抄本のみ」について

 戸籍抄本は、戸籍の一部の写しである。戸籍には戸主、家族の続柄、氏名、生年月日、性別などが記載されている。戸籍によって家族との関係、出生の事実がわかる。夜、かすかな螢の灯かりの下で戸籍抄本を必死に読む視点人物の姿が想像される。

 また、「のみ」と終助詞を使って、限定の意味をくわえていることにより、戸籍抄本が見たくてそれだけをじっと見つめている視点人物の姿が浮かぶ。

 戸籍抄本を読んだ視点人物の心情は、

ア 自らの出生を知りたいという欲求。

イ いくら眺めても戸籍は変わらないというあきらめ。

ウ 出生の秘密を知ってしまった衝撃。

 などが考えられる。

  

(3)主題について

 自らの出生を明らかにしたいという衝動から戸籍抄本を眺めているのであるが、その根底にあるのは家族に対する疑念や孤独感である。

 現在の家族に対する疑念、不満。(この家族は本当の家族なのだろうか)

 a きっと本当の家族じゃない。

 b 本当の家族であってほしい。

 自分の存在に対する不安。(自分は本当にこの家の子どもなのだろうか)

 c きっと子どもではない。

 d 子どもであってほしい。

などを視点人物は抱えていると考えられる。

 

<解釈>

一 わたしは夜家族が寝静まったあと、そっと外に出る。螢のかすかな灯かりをみつけた。螢火で読むのは戸籍抄本だけである。わたしは自分の出生を知りたかったのだ。この家族は本当の家族なのだろうか。きっとそうではないはずだ。

 

二 わたしは夜家族が寝静まったあと、そっと外に出る。螢のかすかな灯かりをみつけた。螢火で読むのは戸籍抄本だけである。わたしは自分の出生を知りたかったのだ。この家族は本当の家族なのだろうか。家族であってほしいのだけれど。

三 わたしは夜家族が寝静まったあと、そっと外に出る。螢のかすかな灯かりをみつけた。螢火で読むのは戸籍抄本だけである。わたしは自分の出生を知りたかったのだ。自分は本当にこの家の子どもなのだろうか。きっと子どもではないのだ。

 

四 わたしは夜家族が寝静まったあと、そっと外に出る。螢のかすかな灯かりをみつけた。螢火で読むのは戸籍抄本だけである。わたしは自分の出生を知りたかったのだ。自分は本当にこの家の子どもなのだろうか。子どもでありたいのだけれど。

五 わたしは夜家族が寝静まったあと、そっと外に出る。螢のかすかな灯かりをみつけた。螢火で読むのは戸籍抄本だけである。いくら戸籍抄本をみても、わたしの出生は変わらないのだなあ。私の家族は本当の家族ではないのだ。

六 わたしは夜家族が寝静まったあと、そっと外に出る。螢のかすかな灯かりをみつけた。螢火で読むのは戸籍抄本だけである。いくら戸籍抄本をみても、わたしの出生は変わらないのだなあ。わたしの家族は本当の家族なのだ。

七 わたしは夜家族が寝静まったあと、そっと外に出る。螢のかすかな灯かりをみつけた。螢火で読むのは戸籍抄本だけである。わたしは自分の出生の秘密を知ってしまった。

 

 

A長子かえらず水の暗きに桃うかぶ

(1)「長子かえらず」について

 「長子かえらず」にはいくつかの解釈がある。

 A 長子は死んでしまってもうかえらない。

 B 長子が行方不明のままかえってこない。

 C 長子が家出をしたままかえってこない。

 D 長子はもとの家とは別のところで生活をはじめていて、家を継いではくれない。

などが考えられる。

(2)作品の景について

この作品の景は「水の暗きに桃浮かぶ」から読み取ることができる。

 水は「桶水」や「井戸水」、「川の水」などが考えられるが、かえって来ない長子のために用意された桃だとするなら、「桶水」が適当である。川は水が流れるので、「うかぶ」という表現が合わない。

 「うかぶ」について考えると、他動詞だとするなら「浮かべる」で、自動詞とするなら「浮いている」である。

 ア 暗い場所に水の入った桶が置いてあって、そこに長子の家族が桃を浮かべている。

 イ 暗い場所に水の入った桶が置いてあって、そこに桃が浮いている。

 

 アの場合、いつ長子がかえってきてもいいようにという家族の思いが込められている。イは、長子が食べるはずであった桃が食べられるべき人を失っていつまでも水に浮かんでいる光景が想像される。

「長子かえらず」とあるから、桃も長い時間浮いていると考えられる。このまま長子がかえって来ないとすれば、桃は腐っていくことも想像される。

 また、桃は秋の果物である事を考えると、稲の収穫も終わり、冬がやってくる前の晩秋が想像される。

(3)作品の主題について

 主題は「暗き」と「桃」という表現から読み取ることができる。

 「暗き」というのは、場所の暗さもあるだろうが、これは長子を失った家庭の暗さを暗示している。長子が亡くなったり家にかえらないというのは、家を継ぐべき人をなくした、ということである。家を継ぐべき人を失った家族の哀しみは計り知れないであろう。「暗き」には家族の哀しみ、落胆した気持ちがあらわれている。

 そして「桃」はずっと置いておくと腐っていくことから、家が滅ぶという予感がする。

 この作品には、長子を失ったことによる家の崩壊が静かによまれている。

<解釈>

一 A長子は死んでしまってもうかえってこない。家のくらい場所に桶水が張られて、桃が浮かんでいる。家族の者が、長子のために用意しているのである。もう長子はかえってこないというのに。桃はいつか腐ってしまうだろう。この家も、長子を失ってしまったのだ。

二 A長子は死んでしまってもうかえってこない。家のくらい場所に桶水が張られて、桃が浮かんでいる。桃は食べられるべき人を失って、むなしく浮いている。桃はいつか腐ってしまう。もう長子はかえってこないのだ。

三 B長子は行方知れずになってからかえってこない。家族はいつかえってきてもいいように桃を水に浮かべて待っている。

四 B長子は行方知れずになってからかえってこない。桶水には桃が浮かんでいる。桃はかえってこない長子を待っているようである。

五 C長子は家出をしたままかえってこない。家族はいつかえってきてもいいように桃を水に浮かべて待っている。

六 C長子は家出をしたままかえってこない。桶水には桃が浮かんでいる。桃はかえってこない長子を待っているようである。いつかは腐ってしまうけれど。

七 D長子は家を出て行き、別のところで生活を始めてしまっている。家族は家を継いでくれるのを待って、長子のために桃を水に浮かべている。いつか腐ってしまう桃は、この家の行く末を暗示しているようである。

八 D長子は家を出て行き、別のところで生活を始めてしまっている。桃はかえってこない長子を待っているようである。いつか腐ってしまう桃は、この家の行く末を暗示しているようである。

 

 

B卒業歌遠嶺のみ見ることは止めむ

 卒業歌が聞こえる。わたしは遠嶺だけをみることは止めよう。

(1)「卒業歌」について

卒業歌は

 (a)わたしが卒業する。

 (b)学校から卒業歌が聞こえる。

 の二通り考えられる。

aの場合、卒業して別の新しい土地へ行くことも考えられる。その場合、故郷との訣別や新しい土地での決意が

(2)「遠嶺のみ見ることは止めむ」というのは

  「遠嶺のみ見る」というのは、

 ア 遠くに憧れている。

 イ 理想を夢見ている。

 という解釈が考えられる。

(3)主題について

 この作品は、「決意」がよまれている。卒業は人生の一つの節目である。その節目を感じて、遠嶺のみ見るのを止めよう、と決意するのである。遠嶺というのは、遠く、大きな存在を指していて、遠くへのあこがれや、理想ばかりを追うことをいっているのであろう。あこがれや理想ばかりを追うのではなく、一歩一歩着実に、誠実に歩いていこうという決意が込められている。

<解釈>

一 わたしは卒業歌を歌っている。卒業するのだ。いつもあの遠嶺ばかり見て遠くに憧れていたが、これからは目の前のこともきちんと見て、誠実に生きていこう。 

二 わたしは卒業歌を歌っている。卒業するのだ。いつもあの遠嶺ばかりをみて理想を夢見ていたが、これからは目の前の事をきちんと見て、誠実に生きていこう。

三 わたしは卒業歌を歌っている。卒業するのだ。いつもあの遠嶺ばかり見て遠くに憧れていたが、これからは本当にここを離れて遠くへ行くのだ。もう遠くばかりに憧れるのはやめよう。

四 わたしは卒業歌を歌っている。卒業するのだ。いつもあの遠嶺ばかり見て理想を夢見ていたが、これからは本当にここを離れて遠くへ行くのだ。理想に近づけるよう、新しい土地でがんばろう。

五 卒業歌が聞こえる。卒業の季節であるなあ。わたしもあの遠嶺だけを見て遠くにあこがれていたが、これからは目の前のこともきちんと見て、誠実に生きていこう。

六 卒業歌が聞こえる。卒業の季節であるなあ。わたしも遠嶺ばかりみて理想ばかりを追っていたが、これからは一歩一歩着実に進んでいこう。

 

 

C恋地獄草矢で胸を狙い打ち

(1)「草矢」について 

 「草矢」は子どもの遊びで、草を矢のようにして空や前に飛ばすのである。

 「草矢」から受けるイメージは、夏の暑い太陽、空気、そして草の青さと草のにおいである。それに、「矢」からはまっすぐな思いが感じられる。

 夏の暑い日、太陽の下で草矢を作り、思い人に気持ちを伝えるようにして胸を狙うのである。目の前に思い人がいるかいないかで解釈が変わってくる。

(2)恋地獄について

 「地獄」という言葉から、業火のごとく激しい恋心を感じる。恋焦がれて、押さえられない気持ちが「恋地獄」という言葉に込められている。

(3)「草矢で胸を狙い打ち」について

 草矢を恋の矢に見立てて、思いを相手に伝えるように矢を放つのである。考えられる景は、

 (a)目の前に思い人がいる。思い人といっしょにいた時の出来事。(近景)

 (b)見えるところに思い人がいる。(遠景)  

 (c)思い人は見えない。(空想)

    

(4)主題について

 ここでよまれているのは恋愛以前の恋である。恋地獄にいるのは成人ではなく、十代の少年ないしは青年であろう。恋は地獄のような情熱であるが、それは若さゆえの衝動的な思いとも取れる。彼女への思いを草矢に託してまっすぐ彼女に向けるのである。この作品の主題は、若い少年ないしは青年のまっすぐな情熱である。

<解釈>

一 わたしは彼女に恋焦がれ、恋地獄の中にいる。この気持ちはどうにも押さえられない。いまわたしは彼女と一緒にいて、草矢を作った。つくった草矢で彼女の胸を狙った。

二 わたしは彼女に恋焦がれ、恋地獄の中にいる。いまわたしは彼女と一緒にいて、草矢を作った。その草矢で彼女の胸を狙おう。彼女に思いが伝わるように。

三 わたしは彼女に恋焦がれ、恋地獄の中にいる。いまわたしは草むらで草矢を作った。遠くには彼女が見える。彼女の胸を狙って矢を放とう。私の思いが通じるように。

四 わたしは彼女に恋焦がれ、恋地獄の中にいる。夏の暑い日、草矢を作り、彼女の胸を狙って矢を放とう。私の思いが通じるように。

 

 

D二重瞼の仔豚呼ぶわが誕生日

 二重瞼の子豚を呼ぶ。今日はわたしの誕生日だ。

(1)「二重瞼の仔豚」について

 「二重瞼」というところから、かわいらしさや、おどけた様子が想像される。

 豚は家畜であり、誕生日のプレゼントでもなく、誕生日に呼ぶものでもない。しかしこの作品では仔豚を呼ぶ。仔豚は珍客である。誕生日に仔豚がくれば、みんなの視線は仔豚に注がれるであろう。誕生日にふさわしいとはいえないが、誕生日の日を楽しく陽気に過ごすにはいい招待客であるかもしれない。

<解釈>

 わたしは二重瞼のかわいらしい仔豚を呼ぶ。私の誕生日を祝ってくれる珍客として。今日はわたしの誕生日である。こんな陽気な誕生日があってもいい。

 

 

E蜻蛉生る母へみじかき文書かむ

 蜻蛉が生まれる。私は母へ短い文を書こう。

(1)「蜻蛉生る」について

 蜻蛉は成虫である。蜻蛉の幼虫は「やご」であるので、この場合の「生る」は「幼虫から成虫になる」という意味である。六、七月頃水中から出て、最後の脱皮をして成虫になる。成虫になったばかりの蜻蛉は白く、美しい。蜻蛉が生まれる様子はよく見られる光景で、秋の訪れを感じさせる。

 季節に注目すると、この作品は「遠く離れていても季節は共有できる」という実感を読んでいると思われる。

 また、脱皮というところに着目すると、蜻蛉が生まれた様子を自らの成長と重ねていると読むことができる。

(2)「母に文書かむ」について

 文を書くということは、母とは離れて暮らしているのである。手紙を書こうと思ったということは、しばらく連絡を取っていなかったのであろう。久しぶりに母へ近況を伝えようと思ったのである。

 母へ手紙を出そうと思った理由は、

A 蜻蛉が生まれた様子を、もう母は見たのだろうか。秋の訪れをいち早く離れた母に伝えたいと思った。

B 蜻蛉が生まれた様子に自らの成長を重ねて、遠く離れた母に成長した現在の自分ことを伝えたいと思った。

などが考えられる。

<解釈>

一 やごが最後の脱皮をして、蜻蛉が生まれた。そのまっしろな姿は美しいなあ。母もむこうで蜻蛉が生まれた様子を見ただろうか。この秋の訪れをを遠く離れた母に伝えたい。母に短い手紙を書こう。

二 やごが最後の脱皮をして、蜻蛉が生まれた。幼虫から成虫に生まれ変わる様子は、まるで人間が新しく見違える様子である。わたしもあのように成長したのかもしれないなあ。母にこのわたしの成長を伝えたい。母に短い手紙を書こう。

 

 

F鵙の贄うしろ手で書く伝記かな

(1)「鵙の贄」について

 鵙は肉食で、やや大型の生餌を捕食する。その餌をとがった枝などに刺し、食料を確保する。それが「鵙の贄」である。

「鵙の贄」は、「鵙の早贄」とよばれる。

図説俳句大歳時記によると、

 「モズは燕雀目モズ科に属し、やや大型の生餌を捕食するところから猛禽扱いされている。…鵙の早贄は秋深いころ少なくなった餌を捕え、とがった枝や、カラタチの棘や、有刺鉄線などに刺し貫いておくもの。古いものから順次食べつつ、新しい餌を刺しつづける。」とある。視点人物の目の前に、鵙の早贄で犠牲になった餌がみえるのである。

 鵙の贄に、

A  自分の姿を投影している。

B  同情している。

C  哀れさを感じている。

(2)「うしろ手で書く伝記かな」について

うしろ手とは

1 後ろから見た姿。うしろつき。

2 両手を背にまわすこと。        (広辞苑)

と二通りの意味があるが、「書く」とあるからAの意味である。うしろに手をまわして伝記を書く。「うしろ手で書く伝記かな」というのは、

ア 実際にうしろに手をまわして伝記を書いている。

イ 「うしろ手で」というのは比喩で、「束縛された状態」を指している。

ウ まともに書ける内容の伝記ではない、という意味の比喩。

エ うしろ手でも書けてしまうくらい内容が豊富で、どんどん筆が進む。

 アの場合、鵙の贄を眺めていて、伝記をかくペンをもったまま顔だけうしろを向いたと考えられえる。

伝記について

 伝記は視点人物が自らの伝記を綴っていると考えられる。

<解釈>

一 窓の外に鵙の贄が見える。私は鵙の贄を見るために後ろを向き、書いていた伝記をうしろ手で書くような姿勢になった。

二 窓の外に鵙の贄が見える。わたしは鵙の贄を見たまま、うしろ手で自らの伝記を書いている。あの鵙の贄のように、わたしもまた縛られた存在であるのだ。

三 わたしは鵙の贄を見たまま、うしろ手で伝記を書いている。うしろ手で書くくらい、いいかげんな内容の伝記である。

四 わたしは窓の外にある鵙の贄を見たまま、うしろ手で伝記を書いている。うしろ手でも書けてしまうくらいの勢いで筆が進む。

 

 

G土筆と旅人すこし傾き小学校

 

 土筆は春の植物。道端や野原に複数が固まって生えている。小さくて愛らしい植物である。

(1)旅人と視点人物の関係について(視点の違い)

 まず、旅人と視点人物が同一人物である場合と、そうでない場合を考えてみよう。

  a旅人は、視点人物である。

  b旅人は、視点人物ではない。

この二つによって、見えてくる情景は違ってくる。

 aの場合、視点人物が自らを「旅人」と称している。視点人物が見る目の前の情景には土筆があり、小学校がある。読者からすれば、視点人物が情景の中に登場してくると読める。

 bの場合は、視点人物が土筆、旅人、小学校のある景を見ている。その視点人物の目を通して読者は情景を思い浮かべる。

(2)情について

 傾き

「傾く」には、

1 斜めになる。

3 首をかしげて不思議がる。

4 衰える。(広辞苑)

という意味があり、3と4の意味によって句の解釈が変わってくる。

(3)主題について

 「土筆」や「小学校」という表現から、春の訪れを感じているというのが主題の一つである。

 また、「傾く」という言葉からも主題が読み取れる。

滑稽である。愛らしい。

人生にかげりを感じる。

の二通りに解釈できるので、主題は二つに分かれる。

<解釈>

一 旅人は、土筆を見つけて眺めている。土筆も旅人も、同じように少し傾いた姿勢で地に生え、立っている。その姿は滑稽で、愛らしさを感じる。近くの小学校からは、子どもの歓声が聞こえる。ああ、春の訪れを感じるなあ。

二 土筆と旅人は、同じように少し傾いた姿勢で地に生え、立っている。その姿は哀愁がただよう。近くの小学校からは、子どもの歓声が聞こえる。春がきたというのに、かなしい。

三 わたしは旅をしていて、道の端に土筆を見つけた。土筆もわたしも少し傾いた姿勢で立っている。近くの小学校からは、子どもの歓声が聞こえる。ああ、春がやってきたのだなあ。

四 わたしは旅をしていて、道の端に土筆を見つけた。土筆もわたしも少し傾いた姿勢で立っている。

 

 

H 絹糸赤し村の暗部に出生し

 

(1)「絹糸赤し」について

 絹糸は、丈夫でなかなか切れない。その絹糸が赤いのである。赤い絹糸は比喩であると考えられる。考えられるのは

 家族のつながり。

 血管。

  などである。

いずれにしても、糸から連想する「つながり」、その赤さから連想する「血」の二つへとたどり着く。

(2)「村の暗部に出生し」について

 「暗部」という表現から、自らの出生は明るいものではなかったことが想像される。村という小さな共同体の中で、暗い出生を持つことはつらいことである。この作品には、出生の不安があって、それが赤い絹糸のように切れないで続いていく不安がよまれている。

 

<解釈>

一 絹糸が赤い様子は、まるで切ることのできない家系のようでもあり、血のつながりをあらわしているようでもある。わたしは村の暗部に出生した。出生の不安をいまも抱えている。

 

 

I 独学や拭き消す窓の天の川

(1)「独学」と「天の川」の取り合わせ

 天の川は空気が澄んでいないとはっきり見ることができない。そのことから、澄みきった夜空の心地よさと静けさとが感じられる。これは「天の川」という言葉から受ける感覚であるので、実景でない場合でも通じる。また、「独学」という言葉からは学問に真摯に取り組んでいる様子、一人きりの孤独などが感じられる。「無限に広い星空の下でひとり」であるという、無限の広がりを感じる孤独である。

 「独学」と「天の川」という表現から、澄みきったイメージ、そして無限の広がりの中での孤独が感じられる。

(2)景について

 句から読み取れる景を考えた。

○「独学や」について

 独学ということから、窓に向かって一人で思想にふけっている視点人物の姿が浮かぶ。

○「窓の天の川」について

 まず、「窓の天の川」について考えると、

T「天の川」が実景である場合 

 (ア)「窓」の向こうに「天の川」が見える。

U「天の川」が実景でない場合

 (イ)「窓」に書いた「天の川」。

 (ウ)「窓」に書いた文字が流れて「天の川」のように見える。

 

 いずれも視点人物は家の中にいる。季節と時間帯とだが、(ア)は実景であるから秋の夜である。(イ)、(ウ)は、窓に天の川ないしは文字などを書くということから、窓がくもっていることが考えられる。ということは、季節は冬である。時間帯は、夜だと考えられる。透明なガラスの向こうに夜が広がっていた方が「天の川」のイメージがはっきりするからである。

 

(3)「拭き消す」について

(ア)の場合、

    窓を拭いて、窓の向こうに見える天の川を消そうとする。

この場合、手で窓を拭き消している。

(イ)の場合

曇った窓に指で書いた天の川を、手で消した。

    

(ウ)の場合

(ウ1) 曇った窓に書いた文字(や絵)が流れて、天の川のようになっている。それを手で拭き消した。

   (ウ2) 曇った窓に文字を書いて、それを拭き消したらしずくが流れて天の川のようになった。

この作品の景は(ア)、(イ)、(ウ1)、(ウ2)の四つが考えられえることがわかった。

(4)情について

 情が読み取れるのは「独学や」と「拭き消す」の二つの表現である。

○「独学や」について

 独学というのは、師につかずに独力で学問すること。

とある。

 独学に込められた情は

A 寂しいなあ。

B 高尚である。

C 一人きりである、という状況をあらわしただけで、とくに情は込められていない。

のどれかであろう。

 

<解釈>

一 わたしは一人で窓に向かって学問をしている。寂しい。窓の向こうには天の川が広がっている。この広い宇宙にわたしはたった一人きりの寂しい存在なのだろうか。天の川を消してしまいたくて、窓を手で拭いた。

二 わたしは一人で窓に向かって学問をしている。天文学を勉強しようと、くもった窓に天の川を書いた。けれどこれは本当の天の川ではない。独りよがりな学問に、思わずわたしは手で書いた天の川を消した。

三 わたしは一人で窓に向かって学問をしている。曇った窓に文字を書いていると、それが流れてまるで天の川のようだ。わたしはそれを手で拭き消した。

四 わたしは一人で窓に向かって学問をしている。曇った窓に文字を書いているが、手で拭き消した。すると、拭いたあとの水滴が垂れて天の川のようである。

 


第二章 母を扱った作品が含まれた連作の主題

 

第一節 連作「地上」の主題

 一句一句の解釈をもとに、連作の主題を見て行く。

T創る

 連作の一句目には、@「母は息もて竈火創るチェホフ忌」と竈火を創る母親、そして文学作品を創り出したチェホフがよまれている。続いて、Aでは「朝の麦踏むものすべて地上とし」と地上を創り出す人物の存在がよまれている。@、Aと続けて「創る」というのがキーワードとなっている。また、Cでも「詩人」が登場し、ものを創りだす存在がよまれている。

 連作のはじめの第一句と第二句、そして第四句から、

火を創り出す「母」

文学作品を創り出す「チェホフ」、「詩人」

何かを創り出す存在をよんでいる。

ことがわかった。

U生と死

 @、Aに続いて、Bの「二階ひゞきやすし桃咲く誕生日」では大地の響きや花が咲く喜びと合わせて誕生日がよまれている。誕生日はその人の生まれた日を祝うことから、生を肯定した行事である。人の生まれたことの喜びが感じられる。

 それに対して、C「影墜ちて雲雀はあがる詩人の死」では人の死がよまれている。連作「地上」では、母を扱った作品@を含む四作品が人の「死」または「死者」をよんでいる。@の「チェホフ忌」、Cの「詩人の死」、そしてE「流すべき流灯われの胸照らす」、H「桃うかぶ暗き桶水父は亡し」である。

 前の二句は「チェホフ忌」「詩人の死」ということで作品、特に文学作品を「創る」者の死を扱っている。

 後の「流灯」、「父は亡し」というのは、身内の死を悼んでいるのである。亡き人を思うのは、地上に残された人である。いずれも地上に残されたひとが死者を思っている作品である。

 連作のうち、五作品が生あるいは死を扱っていることから、

人間の「生」と「死」が巧みに編まれている。

ことがわかった。

V桃

 桃がよまれているのはB「二階ひゞきやすし桃咲く誕生日」、そしてH「桃うかぶ暗き桶水父は亡し」の二句である。Bは桃の花をよんでいて、季節は春である。そして誕生日がよまれている。Hは桃の実であり、秋の季節である。Bとは対照的に、今度は「死」がよまれているのである。春には人の「生」を祝っていたものが、秋になると「死」がやってくる。

桃が花から実へと変化を遂げるように、人の生と死が桃に重なるようにしてよまれている。

ことがわかった。

W空と地

 地上から空を見上げる作品が二句ある。

C 影墜ちて雲雀はあがる詩人の死

F 春星綺羅憧るゝ者けつまづく

である。

 Cでは雲雀が飛翔する様子を視点人物が見上げている。Fでは、春星を見上げている人の存在がある。地上から空を見上げ、その高さ、遠さを実感する。両方に共通するのは、空にあるものと地上に残るものの対比である。空にあるのは「雲雀」と「春星」であり、地上にあるのは「影」と「憧るる者」である。

 地上にある影は「墜ち」、また地上で春星を眺めるものは「けつまづく」。この二句からは、空を思えば思うほど地上に墜ちていき、地上でけつまづくという、マイナスイメージの「地上」が読み取れる。CとFの作品から、

空との対比として、マイナスイメージの地上がよまれている。

ことがわかった。

Y明るく輝くもの

 Eの「流灯」、Fの「春星綺羅」は明るいものである。「流灯」は胸を照らし、「春星」は憧れの対象である。明るく輝くものがE、Fと続けてよまれていて、連続的に作品が編まれている。

Z水

 連作の後半では、水に関するものがよまれている。Eの流灯、Hの桶水、Iの夏井戸、海である。流灯は川に流すもので、流れのある水である。Hの桶水とIの夏井戸は小さなところに貯められた水である。桶にはいっている水はおそらく井戸から汲んできたものであるので、桶と井戸は近い存在である。

[地上

 連作の小題は「地上」である。連作の中で最も小題を反映しているのは、地上をよんだAの「朝の麦踏むものすべて地上とし」である。この作品は、麦を踏んでいる人物が地上を創り出していくという、人が地上を創っていく発想をよんだものであった。

そこに人が立つことによって、はじめてそこが地上となる。

 また、Bの「二階ひゞきやすし桃咲く誕生日」は大地の響きを感じる作品になっている。

 AとBでよまれているのは、大地である。大地はどこまでも続く。Cでも影が墜ちるのは地上である。

 

これら十句の連作は、「地上」で起こった出来事がよまれているのである。

連作十作品を貫くのは、

地上の上で起こった出来事として、十作品がよまれている。

さらに、

人がそこに立った時、はじめてそこが地上になる。

ということである。

 


第二節 連作「車輪の下」の主題

一句一句の解釈をもとに、連作の主題を考察する。

T車輪の下

 連作の小題は「車輪の下」である。これはEの「車輪の下はすぐに郷里や」という表現の中にある。Eでは、車輪の下にあるのは郷里の土であり、郷里そのものであった。つまり、「車輪の下」という小題は「郷里」をあらわしているのである。「車輪の下」十作品は、郷里の風景、郷里での出来事である。

連作の小題「車輪の下」というのは、郷里を表している。

U大地が育むもの

 かつての日本では作物を育てることそのものが生活であり、生きていくことでもあった。稲作は夏から秋にかけて行われ、その裏作として麦が栽培される。

@(籾殻)は稲作、D(麦の芽)I(麦埃)は裏作の麦。またFの(種まく人)も麦のつながりで麦の種であると考えられる。秋、冬、夏と、休む間もない百姓の一年を感じさせる。そしてこれらは全て郷里での労働なのである。ここでは労働および「土」の力を感じる。土の力は自然の力である。郷里には自然の力がそなわっているのである。

農作業に従事する様子がよまれている。

 

W恋、そして愛について

 A(少女に信ぜられ)、C(愛誓う)、I(婚約す)、と三作品が恋、または愛をよんでいる。時の流れおよび作中人物の成長が感じられる作品である。少女に信じられた少年時代。恋人と愛を誓った青年時代。そして麦埃の中での婚約。これらはそのまま視点人物の恋愛とすることはできなくとも、視点人物の成長をあらわしているといっていい。少年時代、青年時代に恋愛は欠かせないものだからである。そこにはその時代の思い出が一緒に詰まっている。恋愛はそのまま郷里での経験であり、思い出である。恋愛を思い出すということは、郷里での生活を思い出すことにほかならない。

女性への恋心や愛情が、視点人物の成長をあらわしている。

 また、母を恋しく思う作品、父を思う作品も一作品ずつ編まれている。つまり、B「夏の蝶木の根にはずむ母を訪わむ」およびD「麦の芽に日当たるごとく父が欲し」である。木や蝶の生命力が母を恋しくさせ、麦を育む日が父を恋しくさせる。二作品に共通するのは、「生命を育てる力」である。それは父と母が持つ力であり、同時に自然が持つ力でもある。自然も父母も故郷にある。望郷というのは父を思うことや母を思うこととつながっているのである。

 

父、母それぞれを恋しく思う作品が1句ずつ編まれている。

X 清水

 C「鉄管より滴る清水」、E「溝清水」と、清水は十作品の中で二度登場する。清水は清涼感があり、清らかなイメージがある。そして、自然に湧きででくるものである。そこに自然の力を感じる。清水は、自然の力の象徴である。

清らかなもの、なみなみとたたえられるものとして清水がよまれている。

Y 文学

 労働の句の中に、「黒人悲歌」、「車輪の下」、「種まく人」、「チェホフ忌」という表現がある。「車輪の下」はこの連作では郷里を示すが、ヘルマン・ヘッセの小説の題名でもある。むしろ一般的にはヘッセの小説として知られている。ヘッセは車輪の下(つまり重圧)に押しつぶされる少年を描いていたが、この連作ではそのようなマイナスのイメージを持たせず、「車輪の下には郷里が広がっていて、そこには自然の力が備わっている。」とその無限の可能性を前に押し出している。

 また「種まく人」はゴッホの名画の題である。大地に種をまく人物を力強く描いた作品はこの連作に近いイメージを持っている。

 チェホフはロシアの文学者である。ヘッセにしても、ゴッホにしても、日本の文学者ではない。黒人悲歌も日本のものではない。このことからわかるのは、連作「車輪の下」は日本の情景とは限らないということである。「この作品は日本がよまれている」、「外国がよまれている」、などと決定することはできないが、日本にとどまらない連作の情景である。

10作品のなかに外国文学を連想させる表現が編まれている。

V労働について

 Uで挙げた稲作も麦作りも労働である。また、Gの(鍛冶)も労働であり、Hでも(牛小屋)での労働が描かれている。連作10作品のうち、労働に関する作品は六作品を数える。

郷里の光景は、そのまま労働の光景である。

 

 

○まとめ

 連作でのキーワードは

 「車輪の下」、「郷里」、「自然」、「労働」、「恋、愛」「文学」である。

車輪の下、つまり郷里はあとの四つのものを包括している。

「車輪の下」連作10作品には、郷里とそれを構成する四つのキーワードがあるということが明らかになった。

 


第三節 連作「出生譚」の主題

●連作の構成

連作の主題に迫る前に、連作の構成を分析し、それから主題を探ることにする。

T戸籍抄本−出生への不安−

 連作「出生譚」の第一句は「螢火で読みしは戸籍抄本のみ」である。この句の主題は、「家族や自分の出生に対する疑念、そしてそこから感じる孤独感」である。つづいて第二句では、「長子かえらず」と家を継ぐべき人がかえって来ない不安が描かれている。この長子というのは視点人物その人であるかもしれない。戸籍抄本には、自分が長子であり、家を継がねばならない事実が記載されている。家や家族への疑念から家を出て行き、かえってこない視点人物。第一句と第二句から、

第一句と第二句には、家や出生に疑念を持ち、家を捨てる視点人物がよまれている

ことがわかった。

U明るい作品

第三句から第六句までは、第一句第二句とはうってかわって明るい雰囲気に包まれた作品である。Bでは卒業歌を聞いて何かしら決意をする人物、Cでは恋心を押さえられない少年のまっすぐな思い、がよまれている。そしてDでは誕生日がよまれ、Eでは蜻蛉が生まれた喜びがよまれている。「草矢」、「誕生日」、「蜻蛉」と、生命力にあふれたものの取り合わせで、明るい作品群である。このことから、

連作の中盤四句は、明るい景に包まれた作品がよまれている。

事がわかった。

V仔豚、蜻蛉、鵙の贄−生から死へ−

 明るい景に包まれた第三句から第六句に重なるようにして、生き物がよみこまれている。つまり、Dの「仔豚」、「蜻蛉」、「鵙の贄」である。前の二作品は「誕生日」や「蜻蛉生まる」と生をよんでいたのに対して、第七句は死にゆく生物がよまれている。誕生への喜びが、一気に死にゆくものの哀しみへとすりかわっていくのである。

U、Vより、

第三句から第六句までの明るい景に重なるように、第五句から第七句まで生物が連続的によみこまれ、第七句で餌となる死んだ生物をもってくることで、明るい景を一気に不安なものに変えている。

ことが明らかとなった。

W村の暗部に出生し

  第七句から、再び不安を感じさせる作品がつづく。G「少し傾き」とあり、明るい景ともよむことはできるのだが、「傾く」ということばから、「衰える」様子も想像され、不安が感じられる。そして第9句「絹糸赤し村の暗部に出生し」は連作の中心をなし、ここで出生の秘密のようなものが明らかとなる。

 第七句から再び不安を感じさせる作品が続き、第九句で不安の根源が出生にあったことが明らかになる。

X孤独

 最後の作品I「独学や拭き消す窓の天の川」は「孤独」がよまれている。この句では孤独であることを哀しんだり、不安を抱いたりしていない。むしろ孤独であることを受け入れ、運命を甘受するような作品である。第九句までの不安と明るさを総括するような形で、「孤独」がよまれている。

第10句には、孤独な運命を受け入れる決意を持った視点人物がよまれている

 

Y一人の人物の出生をめぐって

 連作「出生譚」の小題の意味は、「出生の物語」である。第一句から第十句まで、一人の人物の出生と、それを背負って生きている様子を描いた作品ががたくみに編まれている。「戸籍抄本」、「長子かえらず」、「卒業歌」、「誕生日」、「伝記」、「出生」などがそうである。

一人の人物の出生と歴史が、出生の不安という主題をもって描かれている。

 

●連作の主題

 連作の主題は、最後の二句、つまり第九句と第十句に集約されている。第九句でよまれているように、この連作の根底にあるものは

出生の暗さからくる不安

である。 

 また、第十句を中心に孤独がよまれている。

孤独である運命を受け入れる

ことが終着点であるとして、連作は終わっていくのである。

以上二つが、連作「出生譚」の主題であると考える。

 


第三章 連作における母を扱った作品の主題と役割

 

第一節 連作「地上」における、母を扱った作品「母は息もて竈火創るチェホフ忌」の主題と役割について

 「地上」の中で、母を扱った作品は

@母は息もて竈火創るチェホフ忌

である。この作品の連作における主題と役割を探ることにする。

(1)連作における主題について

 一句一句の解釈を行った際、この作品の主題は、「日常を支え、家庭の火を創り出す母の偉大さ」というものであった。連作においてもこの主題は変わらない。

 

日常を支え、家庭の火を創り出す母の偉大さ

 

(2)連作における役割について

 ●連作における役割

 連作「地上」は、地上で起こった出来事として十句がよまれていた。しかも地上は人がいてはじめて地上となる。人が創り、人が立っているのが地上である。

 @、A、Cの俳句には、何かを「創り出す」存在がよまれ、この@「母は息もて…」も、火を創り出す母、そして文学作品を創り出すチェホフがよまれている。「創る」というのは連作のキーワードの一つであることから、

母もまた地上を創り出す人物の一人である。

ことがわかる。

 地上でものを創り出す人物として、「母」は大きな存在である。

 


第二節 連作「車輪の下」における、母を扱った作品「夏の蝶木の根にはずむ母を訪わむ」の主題と役割について

 「車輪の下」の中で、母を扱った作品は

 夏の蝶木の根にはずむ母を訪わむ

である。この作品の連作における主題と役割を探ることにする。

(1)連作における主題について

 一句一句の解釈を行った際、この作品の主題は、「木の生命力と蝶の生命力から想起する母への思い」というものであった。解釈が揺れることのない作品であるので、連作においても同様の主題になる。

 単独でも連作として解釈しても、主題は

木の生命力と蝶の生命力から想起する母への思い

である。

 

(2)連作における役割について

●連作の主題との関連

 連作「車輪の下」を貫く主題は、「労働」とそれを支える「郷里」である。「労働」は特に稲作や麦作など、農作業をよんだ作品が多く見られた。この母を扱ったB「夏の蝶木の根にはずむ母を訪わむ」は、労働という連作の主題には直接関係がない。

連作の主題である「労働」には直接関係しない。

 また、郷里での出来事を述べたほかの作品とは違い、この作品の視点人物は故郷にいない。しかし、郷里で働く母を訪ねたいという点で、「郷里」とのつながりができる。

  ほかの連作の作品は郷里での出来事をうたっているのに対して、郷里での出来事をうたっていない。

しかし、郷里の母を思っている点で「郷里」とつながる。

 

●連作における役割

 また、連作では恋や愛をよんだ作品が見られた。その中の一句であり、父を扱った一句と対になって「恋しさ」をよんだ作品である。

連作における役割は、

父の作品と対になって、親への恋しさをよんだ作品である。

ということがわかった。

 


第三節 連作「出生譚」における、母を扱った作品「蜻蛉生まる母へみじかき文書かむ」の主題と役割について

 「出生譚」の中で、母を扱った作品は

@蜻蛉生る母へみじかき文書かむ

である。この作品の連作における主題と役割を探ることにする。

(1)連作における主題について

この作品は、

A 蜻蛉が生まれた喜びと、秋の訪れを母に伝えたい。

B 蜻蛉の生まれた様子に自らの成長を重ね、母に成長した自分の事を伝えたい。

ということから、母への思いをよんだ作品であった。この作品の主題は、

蜻蛉が生まれたことをきっかけに想起する母へのまっすぐな思い

である。

(2)連作における役割について

 連作の主題は、「出生への不安」と、「孤独の甘受」であった。この作品は、第三句から第六句までの「明るい景の作品群」の一つであり、不安に貫かれた連作に明るさをもたらす。しかし、明るい作品があるために、かえって不気味さが強くなる。母を扱ったの作品は、

不安に貫かれた連作に、明るさをもたらす。

しかし、

 

不安を感じさせる作品のなかに置かれるために、かえって不気味さをもたらす。

このような役割があることがわかった。

 


終章 まとめと今後の課題

第一節 まとめ

 

 本論文でとりあげた連作「地上」、「車輪の下」、「出生譚」における母を扱った作品の主題は、それぞれ

(1)「母は息もて竈火創るチェホフ忌」(連作「地上」)

日常を支え、家庭の火を創り出す母の偉大さ

(2)「夏の蝶木の根にはずむ母を訪わむ」(連作「車輪の下」)

木の生命力と蝶の生命力から想起する母への思い

(3)「蜻蛉生まる母にみじかき文書かむ」(連作「出生譚」)

蜻蛉が生まれたことをきっかけに想起する母へのまっすぐな思い

といったものであった。(1)では家庭を支える母が、(2)、(3)では故郷にいるであろう母への思いが描かれている。

 (1)は、連作の主題と密接に関連した作品であり、連作の中で「地上」を「創」り出す母親が見えてくる。(2)と(3)は主題が類似しているが、連作の主題をながめたとき、全く異なった主題がそれぞれ明らかになるのである。

 (2)は連作の主題である「郷里」での出来事ではない。しかし、母は「郷里」にいると思われるので、主題に間接的に関連した作品となっている。

 (3)は連作の主題とは相対する作品である。連作の主題は「出生への不安」、「孤独」といったもので、この作品だけ見ても、そのような主題との関連はどこにも感じられない。しかし、主題に関連した作品の中では、明るいこの作品が逆説的に「出生への不安」を強めているのである。

 

 以上のことから、作品を単独で解釈した場合の主題と連作全体の主題との関連性からわかることをまとめる。さらに、連作の中では単独での見た場合の主題とどのように異なるのかをまとめる。

 (1)の作品は連作の主題と密接な関連性があるため、単独で見た場合の主題がそのまま連作においても通用する。さらに、他の連作と結び付いて、「母も地上を創り出す者の一人である」という新たな主題を加える。

 

(2)の作品は連作の主題と直接関連しない。そのために、連作の中で独立した作品のように見え、単独で見た場合の主題が連作の中でも変わらずに存在する。連作の主題によって母の居場所が明らかになり、その点で関連性が出てくる。

 (3)は連作の主題と相対する主題を持った作品である。だが相対するゆえに逆説的に関連性が生まれ、連作の主題を強調している。明るい(3)の作品も、連作の中では不安を強調する役割がある。

以上が母を扱った三作品のまとめである。

 


第二節 今後の課題

 句集『花粉航海』の連作「地上」、「車輪の下」、「出生譚」、のそれぞれにおける母を扱った作品の連作における主題と役割は明らかになった。しかし、それだけでは数が少なく、母を扱った作品の特性は充分には明らかにならない。また、花粉航海に収められた母を扱った連作はあと九作あり、これらの連作の主題、そして母を扱った作品の連作における主題と役割は明らかになっていない。これらを全て研究することができなかったことが悔やまれる。

 さらに、『花粉航海』に含まれた以外にも寺山修司の母を扱った作品は125句あり、それらの主題を解明する余地が残されている。

残された今後の課題は、

1、 句集『花粉航海』の母を扱った作品が含まれた残り九作を分析し、連作における母を扱った作品の主題と役割を全て明らかにする。

2、 他の句集『わが金枝篇』、『われに五月を』、『わが高校時代の犯罪』における母を扱った作品の主題を明らかにする。

3、 句集未収録の寺山修司の俳句作品で、母を扱った作品の主題を明らかにする。

 などがある。これら全てを行うには大変な時間と労力が必要であるが、大変意義のあることだと思われる。この卒業論文で関わったことをきっかけとして、これからも寺山修司作品を読み解いていきたいと考えている。


資料

○「寺山修司俳句全集・増補改訂版<全一巻>」あんず堂 1999年 初版発行

 

参考文献・参照文献

○「国文学 解釈と教材の研究」−特集 寺山修司の言語宇宙− 1994年2月号

○坪内稔典「寺山修司の俳句」(「短歌」1989年7月号 角川書店)

○栗坪良樹 「寺山修司−その俳句論−」(97年度青山女子短期大学紀要)

 

活用した辞典・歳時記

○合本現代俳句歳時記  角川春樹事務所 1998年

○図説俳句大歳時記 春 角川書店 昭和39年

    〃     夏  〃   昭和45年

    〃     秋  〃   昭和42年

    〃     冬  〃   昭和42年

    〃     新年 〃   昭和42年

○カラー図説日本大歳時記 講談社 昭和58年

 

○広辞苑     新村 出     岩波書店 昭和57年

○日本国語大辞典 日本大辞典刊行会 小学館  1974年

○「集英社世界文学大事典2」   集英社  1997年


おわりに

 「寺山修司を卒業論文で手がけたい。」という思いをもって取り組んでいましたが、気持ちばかりが先行してなかなか研究が進まない、ということがよくありました。寺山修司をやりたい、といっても、目の前にあるのは俳句作品です。俳句を本格的に鑑賞したのはこの卒業論文をはじめてからでしたので、まず「俳句」をどう扱えばいいのかも分からないなかでのスタートでした。俳句を分析し、解釈するというのは予想以上に困難なことでしたが、困難と同時に、俳句作品のおもしろさ、作品のすばらしさにも触れることができました。

 俳句は世界で一番短い文学であるといわれています。そのぶん解釈が多様になったり、主題に広がりがあるということを実感しました。一つ一つの表現にこれだけ意味を持たせる俳句の奥深さに、何度も深みにはまってしまい、抜け出すのに苦労した記憶があります。解釈がひとりよがりに偏ってしまうことも多く、そのたびに野浪先生にアドバイスをいただき、ああそうか、と新しい発見をすることもしばしばでした。 

 寺山修司と向き合うと同時に、俳句と向き合えたことは、わたしの中で大きいことでした。俳句は一生付き合っていくことのできる文学であると思いますので、これからも何らかの形で俳句に関わっていこうと思います。

 この論文を書く中で、表現ゼミの皆さん、院生の方にはたくさん迷惑をおかけしたと思います。今年度は完成できないのでは…という不安の中なんとかここまでやってこれたのはたくさんの人に支えられてのことでした。

 そして、ご指導してくださった先生方、お忙しい中のご指導ありがとうございました。誰よりも、野浪先生にはたいへんご迷惑をおかけしたと思います。けれども、最後まで見捨てることなく丁寧にご指導していただき、感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。

 

 

 

 

                                                    平成12年1月31日