次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。

 ぼくが、小学校の四年生か、五年生だったころのことだ。
 ふろからあがって、しばらくぼんやりしながら、天じょうからぶら下がっているうす暗い電球を見ていた時、ふと、こんな考えがうかんだ。――この電球は、丸くて、うす暗くて、だいだい色をしている。でもこれは、ぼくだけにそう見えているんじやないか。ひょっとしたら、自分以外の人には、全然ちがったふうに見えているのかもしれない。  もちろん、ほかの人にどう見えているかを、具体的に想像してみたわけではない。ただ、「自分に見えているものは、あくまでも、自分にそう見えているだけなのだ。ほかの人にも同じように見えている保証はどこにもない。」、そういう思いが、不意にわいてきたのである。その時、なんともいえず不思議で、心細い感じがしたことを、今でもはっきり覚えている。
 この体験は、ずいぶんあとになるまで、だれにも話さなかった。人に話すほどの意味があるとは、思えなかったからだ。
 だが、大人になってこの話をしてみたら、同じような体験があるという人が、かなりたくさんいるとわかっておどろいた。それどころか、哲学を研究する人たちの世界では、 @昔から大まじめに議論されてきた問題だったのである。
 a、あまみや痛みのような感覚は、すべての人に共通していると言えるか、という問題がある。
 きみと友達が、同じチョコレートを食べるとする。チョコレートを口に入れると、きみは独特のかおりとあまみ、そして苦みを感じる。きみが、「あまいね。」と言うと、友達も「うん、あまいね。」と言って、にっこりする。でも、きみの感じているあまみと、友達が感じているあまみが同じだ、と言いきれるだろうか。
 まず、きみよりも友達のほうがずっとあまく感じているかもしれない、というようなことが考えられる。つまり、あまみの「程度」がずいぶんちがっているかもしれない、ということだ。
 また、もっときょくたんなことも想像できる。実は、それぞれが、まったくちがった感覚をロの中に感じていて、ただ「あまい」という感覚だけが共通している、ということも考えられるのである。
 痛みについても、同じようなことがいえる。友達が、「おなかが痛いよ。」と言ったとき、きみは、自分が腹痛を起こした時の感覚を思い出して、「ああ、痛そうだなあ。大変だなあ。」と思う。でも、それは、あくまでも「自分」が経験してきた痛みの感覚でしかない。自分かこれまでに感じてきた痛みと、友達が感じている痛みが同じであるとは、証明できないのだ。自分か、他人の中に入りこんで、その人が見たり、感じたりしていることをそのまま体験できれば別だが、もちろんそんなことはだれにもできない。
 こんなように考え始めると、小学生のころのぼくが心細くなったように、なんとなく不安になってくる人もいるかもしれない。自分の感じていることと、ほかの人の感じていることが同じであるという保証はどこにもない、と思うと、一人ぼっちで置き去りにされたような気持ちがしてくるかもしれない。
 結局、わたしたちは、一人一人別々の心をかかえ、相手のことなどわからないまま生きていくしかないのだろうか。b、人と人は、永遠に理解し合えないのだろうか。
 そうではない、とぼくは思う。
 例えば、きみと友達が、好きなアニメについて夢中になって話しているとしよう。きみが、「あの登場人物は、こういうところがかっこいいよね。」と言うと、友達も、「そうそう、それにこういうところもいいよ。」と言葉を返してくる。きみが、「前回の話はおもしろかったよね。」と言えば、友達は、「あそこがよかったよね。」と返してくるだろう。そのように、二人で A「言葉のキャッチボール」 をしている時、きみは、友達が、きみと同じようにこのアニメが大好きで、うれしくて気持ちをはずませていることを、疑いはしないだろう。
 もちろん、相手がうれしがっているふりをしている可能性もあるが、二人で夢中になって話をしてもりあがっている時に、そのような疑いをもつことはない。疑いをもつとしたら、作り笑いの表情が見えたり、言葉のはしばしから、「あれ、変だな。無理しているみたいだ。」と感じたりした時だけだ。
 c、言葉のキャッチボールをしていると、自分と相手が同じように感じているところだけでなく、それぞれの感じ方のちがいに気づかされることもある。
 しかし、これは、おたがいがわかり合えない、ということではない.d、おたがいのちがいがわかった、ということなのだ。だから、もう少し相手の気持ちを知りたくなったら、「どうして?」とか「どんな感じ?」というふうにたずねてみればいい。たずね合うことで、わたしたちは少しずつ、おたがいの気持ちの細かいところもわかっていく。
 おたがいの心を百パーセント理解し合うことは不可能だとしても、言葉や表情をやりとりすることによって、わたしたちは、それなりに心を伝えたり受け取ったりしているのである。
 ぼくは今、あの「うす暗い電球事件」のことを、「自分には、自分だけの心の世界がある」という気づきから生まれてきたものだろうと思っている。
 わたしたちは、幼い時には、そういうことを特に意識していない。e、成長し、自立していくなかで、しだいに、親や周りの人々からは見えない心の世界や秘密をもつようになり、そのことを意識するようになる。そして同時に、ほかの人もまた、周りからは見えない、その人なりの世界をもっていることにも、少しずつ気づいていく。 Bそういう気づき が、ある時、「自分か感じていることと、ほかの人が感じていることが同じであるという保証はどこにもない。」という思いに発展していったのにちがいない。
 だれもがこんなきょくたんな思いをもつわけではないが、「自分だけの心の世界がある」ということ自体には、どんな人でも気づいていく。そしてそれは、「一人きりの自分」を知ることにもつながっていくだろう。自分の思いは、だれかに伝えようとしないかがり、だれとも分かち合えないし、だれにもわかってもらえない、こうした事実にだれもが直面するのである。これはさびしいことだが、だからこそ人は、心を伝え合うための努力を始めるのだと思う。