次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。

 テクノロジーとの付き合い方    池内 了
かつて「必要は発明の母」といわれた。、今や「発明は必要の母」となっている。
そもそも、「必要は発明の母」というのはどういうことか。「必要」とは、より安全で、より便利で、より小型で、より省資源・省エネルギーで、より手に入れやすくて、より能率的で、というような、人間が持つ欲望のことである。その欲望に突き動かされてさまざまな新製品がテクノロジーによって開発され、人々の生活に利便をもたらしてきた。その意味では、人間という知的好奇心を持つ動物特有の能力の一つがテクノロジーであることは確かである。その結果、手の延長としての道具、足の延長としての車や飛行機、目の延長としての望遠鏡や顕微鏡、脳の延長としてのコンピューターなど、人間の身体能力を格段に拡張することができた。A これによって、人間は文化という他の動物には見られない新しい可能性を獲得した。「必要」という感性が、「発明」という知的能力を駆動してきたのだ。
@ このように考えると、「発明は必要の母」となった現代においては、感性と知的能力の順序が逆転したことに気づく。テクノロジーという人間の知的能力が、人間の感性を支配し始めているのだ。B それがいっそう徹底すれば、人間が自然から切り離され、テクノロジーの中でしか生きている実感を持たなくなってしまうだろう。「ケータイ」が人々の私的空間を占領し始めている風景はその先取りかもしれない。
テクノロジーは、確かに人間の外的な身体能力を拡張したが、見方を変えれば、個々の人間が持つ内的な身体能力は衰えてきたことになる。自家用車の使用によって足が衰えただけでなく、糖尿病が増えたという見方がある。着物を縫い直したり、もみ洗いで洗濯したり、小刀で鉛筆を削ったり、ひしゃくで水をくんだり、というような手を使った労働をしなくなった結果として、手が持っていた能力も失っているのだ。エアコンで環境温度を一定にしたまま過ごす生活を続けていけば、寒暑に応じて体温を調節する能力も衰えていくかもしれない。そうなれば、気候環境の変化に遭遇したとき、人類は果たして生き残ることができるのだろうか。
A 人類学者の埴原和郎氏が述べているように、人類は、自然界に適応しながら生き残ってきた動物としての「ヒト」の側面と、テクノロジーをはじめとする文化の創造者としての「人間」の側面を持っている。この両面を調和させてきたがゆえに、長年にわたってホモ・サピエンスの歴史を紡ぐことができたのだ。、今、「(ア)」の側面が突出し過ぎて、「(イ)」の側面がそがれつつある。とはいえ、動物としての「(ウ)」が持つ自然への適応性は欠かすことができない。自然の恵みによって食料を得ており、廃棄物は自然による処理にゆだねねばならない、という事実はテクノロジーの時代になっても変わらないからだ。そのことを自覚すれば、「(エ)」と「(オ)」をいかに調和させるかが二十一世紀の大きな課題であることは間違いないだろう。
そのための一つのヒントは、新しいテクノロジーと付き合うとき、これを使えば自分の持つ身体能力の何が失われていくかを考える癖を持つことではないだろうか。便利になるということは、体のどこかを動かさなくなることだから、必ず「ヒト」としての能力の喪失につながるからだ。ワープロばかり使っていると、漢字を書く能力を失っていく。カーナビ頼りになると、全体的な方向感覚や土地勘が失われていくだろう。ロボットに家事をやらせるようになると、包丁の使い方を忘れ、舌は微妙な味を区別できなくなる。四百万年の人類の歴史で獲得してきた「ヒト」としての能力が衰えていくのだ。
無論、それによって新たな可能性がひらかれるならよいではないか、という考え方もある。その場合、やはり失われるかもしれない能力と新たに獲得できるかもしれない可能性をはかりに掛けて、得失を判断しなければならない。それも、長い時間の尺度で見通す必要がある。ある能力がいったん失われてしまうと、その回復には長い時間がかかることは、リハビリの訓練を思い出せば分かるだろう。B 失われた「ヒト」の能力は、「人間」が作り出したテクノロジーだけでは完全には代替できないのだ。