ウナギ文のような文は、コンテクストなしでその意味内容を相手に伝えることは難しい。何の文脈もなしに「僕はウナギだ」というと、「Iam an eel.」と解釈されがちである。しかし「何を食べる?」に続く「僕はウナギだ」であれば、「 I will have an eel.」という意味内容が、相手に容易に伝わる。このように、文脈は文を理解する上で重要なものである。そして文は文脈というつながりによって文章というまとまりになりうると考える。言い換えると文章は文脈によってひとつのまとまりとして成り立つと考える。
しかしこの文脈とはいったい何なのか。
たとえば、次の2文における文脈、文どうしのつながり、はどう考えられるのか。
@何とか卒論を提出できた今、一年前の自分をふりかえってみると冷や汗がでる思いがする。
A当時、偶然手にした本におもしろおかしく紹介されている内容にひかれて、卒論のテーマを決めてしまった。(弥島康朗「卒論をおえて」 『国語表現ゼミナール報告7』)
@文とA文は卒論に関することが述べられており、何らかの関係があると思われる。が、この2文並んでいるだけでは文と文のつながりがはっきりしない。ただ同じテーマについて述べられている文を、二つ並べただけで、文章というには何か違和感が起こる。
しかし次の2文ではどうか。
B何とか卒論を提出できた今、一年前の自分をふりかえってみると冷や汗がでる思いがする。C文に「からである」が伴うことによって、C文はB文の原因、理由を述べているということが明らかになる。
C当時、偶然手にした本におもしろおかしく紹介されている内容にひかれて、卒論のテーマを決めてしまった感が強いからである。
Dエレベーターに乗って、とうのてっぺんに近い第三てんぼう台に上がると、ひやっとする、すずしい風がふいていました。D文、E文ではこの並び方によってのみ、2文のつながりがわかる。これが、E、Dという並びであれば、
E明るい緑につつまれたパリの町が、遠くまではっきり見えます。(前川康男「エッフェルとうの足音」『小学国語4上』大阪書籍 平成五年二月十日)
E明るい緑につつまれたパリの町が、遠くまではっきり見えます。2文のつながりははっきりしなくなる。D、Eという並びによってのみ「第三展望台からパリの町並みがよく見える。」という関係付けを行うことができる。この文脈をとらえるという作業は言語力、つまり語彙力や文法力といったものとは異なる能力で処理しているのではないかと考える。文脈展開機能が文や文章にあるのではなく、「読み」を行う際に、読み手の側に文脈展開していく能力が求められているのではないだろうか。
Dエレベーターに乗って、とうのてっぺんに近い第三てんぼう台に上がると、ひやっとする、すずしい風がふいていました。
母国語話者は無意識のうちに同化吸収した言語体系についての知識を基準にして、ちゃんとした文を産出し理解する能力を備えている。チョムスキーは言語を理解するための出発点がその能力にあることを示したのであった。カラーはこの言語観が文学の理解にたいしてもつ意味を提起する。上に挙げたラマーン・セルデンが述べるように、無意識に読み手の側は、文脈を捉えて、いくつかの文を一つの意味のまとまりに、再構成している。これは、非母国語で考えてみると、より明確になる。次の文を考えてみる。
(『ガイドブック現代文学理論』ラマーン・セルデン著 栗原裕訳 1989.7 大修館書店)
F Now, I am gonna go pinch a loaf.Fの文章は文法的にも語彙的にも高度な英語でない。それぞれの一文の意味内容は容易に理解できる。しかし文脈を展開し、この文章全体の意味することは何かを考えるのは、また異なる文章力(適当なことばではないが、仮に用いる)が必要となる。
When I come back, this is all gone, all right ?
(トイレに行く。帰ってきたら、全部片づいている。いいか。)
(「ショーシャンクの空に」監督・脚本:フランク・ダラボン 松竹富士;'94・アメリカ)
G私が便所から戻るまでに片づけろ。と翻訳されていた。
現在のさまざまの型の批評は、多くの点で意見の相違はあるものの、テクストを産出するにはすでにそこにあるルールに従う必要があるという考え方を、例外なく認めている。つまり、英語を学びさえすれば、英語でどんなテクストでも作る力がつくという具合にはいかないということだ。言語を習得するとは複雑な文化環境にもぐりこむということである。それ自体がひとつの精神的な傷になることもあるだろうし、いずれにしても、知覚や認識に大きな影響がでるはずである。さらにある言語の内側でテクストを作るには、第二のレベルの文化制約を───特定の型の言説に許されている文体上の可能性をとりしきっているコードを受け容れなくてはならない。これにしても、ひとつの力を得るために自由を犠牲にすることなのだから、精神的な傷として機能するかもしれない。われわれはこの約束事をどこまで熟知しているのだろうか、また、どこまで自由な読みを可能にしているのだろうか。その現状を知るには限りなく膨大な調査を行わなければならない。それよりも、この約束事が飲み込めていないために、どんな読みの行為がなされているのか、また、約束事を習得した自由な読みとは、具体的にどんな行為なのか、といった、読みの実態が本論においての課題である。─略─特定の言説を───文学の解釈もそのひとつ───作り出す力を得るには、その言説様式のもつ約束事を受け容れる必要がある。私が今提起しているのは、要するに、文学を学ぶ学生がそれをなしとげる最善の方法は何であるかという問題なのである。
われわれが現在とっている教育方式が、この点についての知識と合致していないことは、歴然としている。ただ、テクストを読めば、あとは内省と直感によって解釈文を作れると言わんばかりのやり方をしているのだから。だが、実は、もっとはっきりと判っているのだ。内省も直感もすでにして陳述の産物だということが。(この点でも、実に多種多様な、相互対立をくり返す現代批評の各派が意見の一致をみる)。われわれは教えられたように読み、何かをさがせと言われるまでその何かが見えない。そしてまた───つねにそうなるし、やむをえないことでもあるが───すでに出会ったことのある書き方をモデルにして書いてしまう。批評と詩のいずれの言説様式を考えてみても、「創造する」能力はいきなり与えられるものではなく、約束事をすっかり飲みこんで、即興が可能になり、最後にもう一度自由がとり戻せるようになったときこそ、自分のものになるのである。
私がまとめの原理として使おうとしているのが記号論の枠組みだからである。これはロマーン・ヤコブソンによって広められた、コミュニケーション行為の明快な記述を基にした枠組みである。この記述は図式化することもできるのであって、ヤコブソンはそこですべてのコミュニケーション行為に含まれる六つの要素を区別している。文学のテクストの読解を説明するために、その図式に手を加えると、次の図のようになる。彼は、テクスト中心の理論と、読者中心の理論の間にある「中間地点」として、構造主義者によるコード重視の理論を、記号論的な文学研究の方法として、あげている。そして、そこでは、著作は「作品」ではなく、「テクスト」と捉えられている。
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今日のさまざまの型の批評理論は、少なくとも第一段階としては、この図の中のどの要素を強調するかによって整理することができる。すなわち、文学のテクストの読解を過不足のないコミュニケーション行為と見るならば、各々の批評型には読解過程を前にしていずれかの要素を───他の要素を犠牲にして───重視する傾向が見られる。さらに、その重視された要素に対してとる態度の違いとか、要素間の関係のつけ方とかによって、批評の型はいちだんと細かく分れる。─略─目下、作者中心の批評と読者中心の批評をおす立場が活発である。私が作者中心の批評というのは、テクストにおいて作者のもつ役割を重視し、テクストの意味を解く鍵として作者の意図を見いだそうとする解釈のことである。─略─もう一方の極には、読者に力点をおき、テクストに対する読者の反応を重視する批評がある。この型の批評の提唱者たちは、読者が意味を作るのであり、その心理的欲求に応じてテクストから意味を作りだす権利があるとする。この説では、秩序よりも無秩序が重視されるようにみえる。─略─しかしながら、文学の解釈を教えるときには、教育的な企図をすべて投げだしたような読者重視からくる無秩序と、創造力を窒息させかねない作者重視の権威主義との間に、何らかの中間地点を見いだせるはずである。
それにあたるものが確かにある。われわれはヤコブソンの図式の中央部に、その変種をいくつか見つけられそうである。
これに対してテクストは開かれた、未完の、自己充足性を欠くものとしてある。念のために言うならば、テクストとはいずれかの特定の著作の中にある特質ではなくて、そのような著作なり、他の記号の結合体をみるときのひとつの見方にすぎない。同じことばの組み合わせを作品ともテクストともみることができるのだ。しかしながらテクストとしての著作は、ある人物が(または、ある人々が)、人間の歴史のある特定の時点において、特定の言説様式を使って生みだしたものであり、個々の読者が自分に利用できる文法、意味、文化の各コードを使って行なう解釈行為からその意味を得るのだと理解されねばならない。ひとつのテクストはつねに他のさまざまのテクストを反映しており、他の可能性をおしのける選択行為の結果としてある。本論では、主に記号論の立場をとり、「テクスト」という考え方から、考察していきたいが、スコールズの言う、読み手がテクストを解釈する際に用いる文化コード、というものを範疇に入れることはできない。読み手一人一人が、これまで生きてきた環境のすべてを、調査の範囲に入れなければならないからである。けれども、文法、意味のコードについては、できるだけ扱っていきたいと思う。また、テクスト中心の理論と読者中心の理論の両者を取り入れ、その相互の関わりをも考えたいと思う。
私としては、「文学」ということばは、反復または復元の可能なコミュニケーション行為のうちのあるものをさすのに使うべきであると考えている。そして、彼はこの「反復または復元の可能なコミュニケーション行為」の一つに、書くという行為があり、これが基本的なフィクション形式だと考えている。書くことは反復または復元可能な状態にするために保存するだけでなく、感覚を通して直接に触れることのできる素材を、他の媒体に翻訳することにもなるという。―略―「反復または復元の可能な」という以上、文学と呼ばれる何かはある持続性を持つことが必要になる。つまりそれは、書かれたテクストとか、録音された声とか映画のリールとか、あるいは諺、冗談、神話、叙事詩のように口で伝達される何かのかたちをとるということである。口頭形式の場合には、普通同一のテクストが復元されるのではなく、同一であると確認できる構造が復元されるわけであって───「同一の」冗談や叙事詩が異なることばで語られる場合がそれにあたる───そこにある「同一性」によって、これらを先に定義した文学の枠内にいれることができる。反復または復元のできない話とか行為の成果とかは(たとえば忘れられた冗談や紛失した手稿)もともとは文学と言えたとしても、文学とは現在も入手のできる成果からなると考えるとすれば、もはや文学の一部とはみなしえない。─略─さきほどの文学の定義の中で使った「行為」ということばは、反復または復元の可能な発話が、感覚をもつある存在がある意図をもってなした営為であることを要求している。単なるミスは文学とは言えないのだ。しかし他の誰かがそのミスを演じてみせれば、それも文学になり得る。人間の身振りや発話のすべてを、意図的に他の発話の中にくみ込むことによって、文学にすることができる。
「文学的な」ものとは、コミュニケーション行為の中心となる機能のすべてを(読者の役割も含めて)変形する特質のことであると考えてみればよいのである───となると、話はまたロマーン・ヤコブソンに戻ってくる。コミュニケーション行為において、六つの要素のうちどれかひとつが単純性を失い、多層性か欺瞞性をもつようになると、文学性を帯びてくる。その変化が極めて複雑な要素が、メッセージである。アイロニー、曖昧さ、パラドックなどが、複雑に多義性、欺瞞性を帯びたメッセージである。また、コンテクストが文学性を帯びることについては、次のように述べる。
ヤコブソンの図式を通してよく知られるようになったコミュニケーション行為の要素とは、送り手、受け手、接触、メッセージ、コード、コンテクストの六つである。彼の考えによると、ある言語表現を文学的なものにする美的機能は、メッセージのかたちそのものを変形する点に求められる。文学的な発話はそれ自身の形式的構造を強調するので、それによって、そうではない発話と区別できる。この強調があると、われわれとしてはその発話を、ある種の密度と不透明性をもつ構造化された対象と考えざるを得なくなる。それは、われわれの考えを何らかのコンテクストとか行為とかに直接つなぐための透明な媒体ではなくなる。それ自体として観想すべき実体となる。この考えと密接な関連をもつものは他にいくつもあって、I・A・リチャーズや新批評家たちの考えがそうである。最終的にはこれは、美的な対象は目的性をもたないとするカント的な想定をふまえていることになる。
たしかにこれはあるところまでは有効な考え方であるのだが、私としては、いくつかの理由から反対せざるを得ない。まず、第一に、この考え方は散文小説や戯曲よりも詩に、特に定型性のつよい詩によくあてはまるということがある。第二に、この考え方をとると、文学性を「芸術」と呼ばれる無目的の行為のひとつのあり方とはせず、コミュニケーションのひとつの要素とすることによって得られるものの多くを捨てることになる。─略─その場合には、文学を芸術の要素の卑俗化したものと見るのではなくて、コミュニケーションの諸要素が洗練され、複雑化したものとみることがまず必要になってくる。─略─可能なかぎり単純化して言うと、コミュニケーションを構成する六つの要素のうちどれかひとつがその単純性を失い、多層性か欺瞞性をもつようになると、われわれはその発話の中に文学性を感じとると言うことができる。まず、いくつかのもっとも簡単な例から考えてみよう。ある発話を作った人間とそれを口にする人間の間にズレがあると感じた場合に何が起こるか、誰でもよく知っている。われわれはそういうときには、そのことばは作者の「ペルソナ」のことばであるという言い方をする。つまり「ペルソナ」ということばが暗示する通り、作者は仮面をかぶっていると考えるのである。あるコミュニケーション行為がそれを作った人間と口にする人間との違いを感じさせるときには、必ずわれわれの文学能力が発動されるのである。
文学性をもたない中性的なコンテクストは具体的で、現象的で、現前するということになる。つまり、所与のメッセージの送り手、受け手の双方にとってそのコンテクストは現前するのである。この意味でのコンテクストは現にそこにあって、双方に知覚でき、なるたけ記号論的なコード化を含まず、観念というよりもものに近い。文学性を帯びたコンテクストとは、メッセージの送り手、受け手の間で、「不在」であったり、「記号論的」であったり、「抽象的」であったりするというのだ。ということは、書物としての文学作品は、フィクションの空間に存在する世界であるため、常に「不在」なコンテクストを伴うと言える。そのため、メッセージの受け手である読み手は、不在なコンテクストを、現前するコンテクストにするために、フィクションの空間に自ら入り込まなければならない。不在なコンテクストを介したメッセージを、現前するコンテクストを介してメッセージに置き換えなければならない。ということは、文学性を帯びたテクストほど、受け手の仕事量が多くなると言える。文学作品を読む読み手は、他のコミュニケーション行為の受け手よりも、はるかに負担の多い仕事をしなければならない。書き手の意図でもって、複雑に成立した文学作品においては、読み手が作品に身を寄せて、主体性にテクストと向き合わなければならない。
文学の言述がそれ以外の言述と異なるのは「メッセージへの傾斜」を持っているところであると、ヤーコブソンは考えていた。読み手により、文学作品が現実化されるのだが、一方的に、読み手の主体性に頼っているわけではないようである。テクスト内のメッセージの開かれ方が、読み手の主体性にも影響を与える。読み手のテクストを現実化していく行為は、つまり意味を生産していく行為は、メッセージがどれだけ開いているかによって、複雑さを帯びてくるようである。開かれたメッセージ、閉じたメッセージとはいったい何なのか、それによって、読み手の意味生産過程はどう複雑になっていくのか、次の節で考えてみたい。─略─しかし、もし形式主義を拒絶し、読者あるいは享受者の展望を採用するなら、ヤーコブソンの図の位置関係全体が変わる。この角度から見ると、詩は読まれるまで、真の実在性を持たないと言うことができる。その意味は読者によって論じられるしかないのだ。われわれが解釈の相異を来すのは、われわれの読み方が異なるからである。ほかならぬ読者コード(それに則ってメッセージが書かれる)を適用するのであり、それによってそうでなかったらただ潜在的に有意味であるしかないものを現実化するのである。─略─受信者は完全に定式化された意味を受動的に受容する存在ではなくて、意味を生み出すことに能動的に行為する存在である。しかし、この場合、受信者の仕事がきわめて単純になされるのは、メッセージが完全に閉じられた体系内で述べられているからである。
このように見ると、受信者は完全に定式化された意味を受動的に受容する存在ではなくて、意味を生み出すことに能動的に行為する存在である。しかし、この場合、受信者の仕事がきわめて単純になされるのは、メッセージが完全に閉じられた体系内で述べられているからである。「閉じた」メッセージであれば、読み手は容易に意味を産出でき、メッセージをただ受け取っている。しかし、完全に「閉じた」メッセージ、「開いた」メッセージというものが存在しないことは明らかである。どのメッセージも、多かれ少なかれ、両方の性格をもっている。そして、文学におけるメッセージは、ほとんどの場合、「開いた」メッセージに近い状態で、読み手の前に出されると考えられる。
ファーブラとは、物語の基本図式、行動の倫理、登場人物たちの統辞法、出来事の時間的に秩序づけられた進行のことだ。それは一連の人間行動というのでもなければ、無機的対象に関する一連の出来事にかかわるのでもなく、観念にかかわるのでもない。これに対して筋とは、実際に語られるがまま、表層に現われるがままのストーリー、時間的な移動もあれば、先走りに後戻り(つまり予想とフラッシュバック)、描写あり、脱線あり、挿話的な考察あり、といったストーリーのこと。ひとつの物語テクストにおいて、筋は言述構造と同一視される。しかしながら筋を、言述構造にもとづいて読者が試みる最初の綜合、一連のより分析的なマクロ命題として理解することもできる。このファーブラが、読み手の行う予想可能なマクロ命題に対して、閉じている、開いているという問題が、開いたメッセージか、閉じたメッセージかという問題を明らかにすることになるようだ。エーコは次のような図を立てる。図(a)は閉ざされたファーブラを表わし、図(b)は多分に図式的なかたちで開かれたファーブラを表している。
蓋然性の離接のそれぞれにおいて、読者は思い切ってさまざまな仮説を立てることができる。言述構造が読者を、捨てるべき仮説の方へと意地悪く差し向けることも排除しきれないが、ひとつの、それもただひとつのものだけが、よい仮説であるのは明らかだ。ファーブラは、その時間軸にそって顕在化され配置されるにつれて、先取りされたことどもを検証し、それが語ろうとする事態に対応しないことどもを排除する。読み手は、読解過程において、ファーブラの展開に対して、後続の状態を予想しなければならない。予想するとは、相次ぐ諸状態を先取りして、さまざまな仮説を立てることである。読み手は、ファーブラを展開させていく中で、これら仮説を検証し、ただ一つの正答となる仮説に、縛り込んでいく。最終的に、辿り着くファーブラの展開のかたちは一つしかないということになる。これが、閉ざされたファーブラである。─略─このタイプのファーブラは、それが(最後には)いかなる選択肢も許容せず、可能なことどものめまいを除き去るかぎりにおいて、閉ざされている。(ファーブラの)世界は、あるがままのものなのだ。
その図は、図式的であるため、ファーブラの最終状態での開かれを示すが、もっと細かい分節された(それほど樹木的でなく、もっとリゾーム的な)図ならば、一歩ごとにこれらの開かれを生成させるストーリーを示すことができるだろう。開かれたファーブラにおいては、正答となりうる仮説が、想定できない。極端に言えば、存在しないのだ。いくつかの仮説が最後まで可能性を持ち続ける。ということは、立てた仮説を検証し、最終的な方向へと仮説を立てていっても、その展開されたファーブラのかたちは、いく通りにも作られる。いく通りにも枝分かれしたファーブラがあり、ある読み手は、ある枝を広げていくが、ある読み手は、違う枝を広げていく。読み手によって、さまざまな枝が、伸びていき、出来上がったファーブラが辿り着く先も、それぞれに異なる。─略─この種のファーブラは、最後にさまざまな予想的可能性を開いてくれ、そのそれぞれの可能性がストーリー全体を(なんらかのテクスト相互的シナリオと協和しつつ)整合的なものとしうるのだ。さもなければ、いかなる可能性も、ひとつの整合的なストーリーを再構成できない。テクストはといえば、それはそこなわれず、ファーブラの最終状態について断を下さない。テクストは、そのいくつかのファーブラを自力で作り上げられるほどに、共同作業的なモデル読者を予想するのだ。
最後に様々な予想的可能性を開いてくれ、そのぞれぞれの可能性がストーリー全体を(何らかのテクスト相互的シナリオと協和しつつ)整合的なものとなしうるのだ。さもなければ、いかなる可能性も、ひとつの整合的なストーリーを再構成できない。テクストはといえば、それはそこなわれず、ファーブラの最終状態について断を下さない。テクストは、そのいくつかのファーブラを自力で作り上げられるほどに、共同作業的なモデル読者を想像するのだ。
もちろん読者は、文章、テクストの指示に従っているだけではありません。読んでいる最中に意識することはあまりないかも知れませんが、自分自身の知識、自分の属する文化と時代のコードや規範を動員しつつ文意をとらえようとしているはずです。しかし、事実や出来事の記述や伝達、意見や判断の表明を行おうとするテクストでは語や文の意味および相互の関連は確定されているのが普通です。読む者に情報や意見が正確に伝わらなくてはなりません。しかも受け手によって違う内容が伝わるようでは困ります。ですからこの種のテクストでは、読者の自由な想像が介在する余地はできる限り生じないように工夫されています。受け手に正確にメッセージを伝えなければならないテクストは、閉ざされたメッセージを持つが、文学テクストの類は、送り手である書き手が、明確にメッセージを想定していない。正確に伝えようとするメッセージが想定されておらず、受け手である読み手は、メッセージを自由に現実化できる。受容理論においては、読み手はさまざまな読みを実現できる。ということは、開かれたメッセージにおいて、ひとつの決まったファーブラが存在しないことは、この受容理論で説明できそうである。
文学テクストの場合はどうでしょう。芸術作品においては、Unbestimmtheitsstelle(無規定箇所)が随所に散りばめられている、この無規定箇所を埋めながら、読者は作品をKonkretisation(具体化)する、とポーランドの哲学者ロマン・インガルデンは言っています。このインガルデンの考え方を修正して取り入れ、独自のRezeptionstheorie(受容理論)を展開したのがヴォルフガング・イーザー(Wolfgang Iser)です。インガルデンの説では副次的な意義しか与えられていなかった無規定箇所がテクストと読者とのInteraktion(相互作用)を始動させ継続させる要の位置に浮上します。読者はテクストから一定の規制を受けつつ、Leerstelle(空白箇所)を想像力を働かせ次々に埋めながら、関係が規定されていない各部分を相互に関連づけてひとつの意味を構成するのです。当然のことながら、個々人によって、あるいは同じ人物であっても時間的間隔をおけば、各部分の関連づけの仕方や各部分の意味づけに違いが生じますから、構成される意味は一定ではありえません。つまりテクストがもつ意味のポテンシャルのうちのひとつを、読者という行為は実現するのです。したがって唯一正しい具体化、解釈は、イーザーの理論では存在しません。存在するのは異なる読みです。
ここで第一に問題となるのは、テクスト全体は決して一時にとらえることができないという事実である。この点、テクストは物と違う。物は一般にその全体を眺めることができるか、少なくとも全体を想定してみることができる。ところが、テクストという〈対象〉は、読書の連続したさまざまな相を通してしか想像することができない。われわれは事物に対しては、その外におり、テクストに対しては、いつもその中にいる。従って、テクストと読者の関係は、事物と観察者との関係とは全く異なる。主体−客体関係とは違って、読者は自分がとらえようとするものの内部で、遠近法の視点をとりながら移動して行く。視点の移動によって対象をとらえねばならないところが、虚構テクストの特徴といえる。彼が言うように、テクストは、線条的なものである限り、空所を持たざるを得ない。一度にすべてのメッセージを伝えることは不可能であり、断片的にしか、伝達できないからである。そして、読み手は視点を動かしながら、事物を順次積み重ね、全体像を捉えていくしかない。そのために、読み手は、空所に対して予想活動を行い、つねにその時点において可能な修正を繰り返すことになる。―省略―テクストにおいては、どの文の相関体もなんらかの欠落部分(空所)をもっているために、次の相関体の予測を生み出し、また他方、先行する文が生み出した期待を充足する遡及的部分をもつことにより、前の文の背景となる地平を作り出す。従って、読書はどの瞬間をとっても、予覚と保有との弁証法ということができる。その過程では、まだ空白ではあるが充足をまつ未来地平が、充足はされたものの次第に影が薄くなっていく過去地平へと順次移行していく。つまり、読者の視点の移動は、つねにテクストの二種類の内部地平を開きながら両者を融合していく。この過程は、先にも述べたように、テクスト全体が一挙にとらえられないために、必然的に成立する。だが、通常の知覚行為と比較すると、不利としか思えなかったことが、じつは、読書過程の中でテクストの内部地平を絶えず細分化しては融合し、美的対象を生み出す一種の理解行為の特徴であることが明らかとなる。テクスト内の相関体相互の作用を確定するために、読者が依拠できる準拠枠はなんら与えられていないわけであるから、読書をするうちに生じる地平の変化は、構成行為になって行く。こうした構成行為は、伝達がもはや既存のコードによる規制をうけない場合に、必ず呼び起こされ、また自らまとまりを作り出す行為であるために、生産的な理解となる。
われわれは人物と事件の記憶にもとづいて、精神のなかにある種の期待を抱くけれども、テクストのなかを通過しながら期待はたえず修正され、記憶は変形される。読みながら把握するのは一連の移り変わる観点にほかならず、あらゆる地点で固定した十分に意味を持ったものであるわけではない。このように考えていくと、開かれたメッセージは、読み手に対して、空所の充足活動、さらに、予想活動を複雑に要求している。そして読み手の側も、この複雑化した予想活動を含め、テクスト生産、意味生産を複雑に行っていく。―省略―テクストから立ち現れるさまざまの観点のあいだの矛盾を解消する。あるいは、さまざまの観点のあいだのギャップをさまざまに埋める。それによって、読者はテクストを自身の意識のうちに取り込み、それを自身の経験とする。テクストがことばを繰り広げ、読者がそれにもとづいて意味を現実化するときに、読者自身の経験がその過程になんらかの参加をするのであろうと思われる。読者の既存の意識がある種の内部調整を施さなければならないのは、読みが行われているときにテクストが提示する異質な観点を受容し加工するためである。テクストの部分的に不確定の要素を受容し、処理し、実感した結果として、読者自身の世界観が修正されるかもしれない。こういう可能性を先の状況は生み出す。われわれは読むことによって何かを学ぶことがあるのだ! イーザーのことばを用いれば、読むという行為は「いまだ定式化されざるものを定式化する機会をわれわれに与える」のである。
受信者は常に、彼が出会う言葉ごとに、いわば辞書を開き、諸辞項の相互的機能を文のコンテクストにおいて認知するべく、先在する一連の統辞規則に依拠することのできる(かならずしも経験的でない)操作者として要請されている。そうであればこそ、あらゆるメッセージは、たとえそれが発信者にしか知られていない言語で発せられようとも、受信者の側での文法能力を要請するというのである───ただし同じ発信者により、可能な言語解釈は存在せず、せいぜい情緒的な衝突と言語外的な示唆しか存在しないと想定される言語状況は除くとして。読者の役割は、テクストを顕在化することであり、発信者である作者は、顕在化する受信者である読者に向けて、テクストを送っている。この伝達が成立しなくとも、テクストはすでに、作者から発信されており、読者に受信されるのを持つ状態にある。そして、この受信が、読むという、複雑な作業を伴った行為であり、この作業が実現するかどうかは、読者にかかっている。─略─しかしテクストは他の表現から、それがより複雑であるという理由で区別される。その複雑さの主要な動機となるのは、まさにそれが言われていないことを織り込まれているからだ(Ducrot,1972参照)。
「言われていない」とは表層において表現のレベルで表示されていないことを意味する。しかしまさにこの言われていないことこそ、内容の顕在化のレベルで顕在化されねばならないものなのだ。そしてこの点でテクストは、他のどのようなメッセージよりも決然と、読者の側の能動的で意識的な共同作業の動きを要求する。
─略─したがってテクストには充填されるべき空白箇所、隙間が織り込まれていて、テクストの発信者はそれらの空白箇所や隙間が埋められることを予想し、それらを二つの理由により空白のまま残したのである。まずなによりもテクストとは怠惰な(あるいは経済的な)装置だからだ。それは受信者によって導入される意味の剰余価値の上にたって生きる。そしてきわめて些細な場合とか、極度に教育的配慮を施される場合や極度に抑圧的な場合にのみ、テクストは冗長さといよいよ細かくなる規定とによって複雑化し、極限においては、通常の会話規則が侵犯されるまでになる。第二の理由として、テクストは、たとえそれが通常は一義性にみあうだけの余白によって解釈されるのを望むとしても、教育的機能から美的機能に移るにつれて、読者に解釈の主導権をゆだねようとするからである。テクストは何者かに助けられて機能しようとするわけだ。─略─しかしすぐにでも言わなければならないのは、テクストは、それ自身の具体的な伝達能力に不可欠なだけでなく、それ自身の記号作用の潜在能力にとっても不可欠な条件として、それ自身の受信者を要請するということだ。いいかえれば、テクストは、それを顕在化する何者かに向けて発信される───たとえこの何者かが具体的かつ経験的に存在することが期待されない(あるいは望まれない)としても。
テクストは読者の共同作業を自らの顕在化の条件として要請する。次のように言い換えたほうがよいかもしれない。テクストとは、その解釈の運命が自らの生成メカニズムに属するはずの所産なのだと。つまりテクストを生成させるとは、他者の動きの予想が組み込まれた戦略を顕在化させることを意味するのだ彼が言うように、テクストは、モデル読者を想定して成り立っていながらも、同時に、テクストを読んでいる者を、モデル読者になるように仕向けてもいるのだ。どちらが優位に働くかはそれぞれの場によって異なる。─略─そのテクスト戦略を組織するために、作者は、彼が用いる表現に内容を付与する、一連の能力(「コードの認識」というよりもっと広い表現)にかかわらねばならない。彼は、自分がかかわる能力の総体が、その読者がかかわるのと同じであると想定しなければならないのだ。したがって彼は、作者たる自分が考えていたとおりに、テクストの顕在化に共同作業しうるモデル読者を予想するだろう。このモデル読者は、作者が生成〔テクストの〕においてふるまったのと同じように、解釈においてふるまいうるものと予想されるだろう。─略─作者は一方で、そのモデル読者の能力を前提としながらも、他方で、それを創設してもいる。─略─したがって、自らのモデル読者を予想することは、それが存在すると「希望する」ことを意味するだけでなく、テクストに自らのモデル読者を構成するよう仕向けることをも意味するのだ。テクストは能力に依拠するだけでなく、それを生産するのを助けもする。
この概念は、相互に密接な関連をもつ二つの基本的な局面、すなわち、テクスト構造としての読者の役割と、行為構造としての読者の役割とによって規定される。どの文学テクストもなんらかの形で、(典型的である必要はないにしても)作者の世界観を表現している。テクストは決して現実世界の単なる反映や模写ではなく、利用できる素材を用いて独自の世界を構成している。この構成の仕方に、作者の遠近法が現われてくる。和田氏*13によると、読み手がどこに自分の視点を置くかという問題は、読み手がテクストから把握する情報に境界がある、ということを問題にする。─略─文学テクストは世界に対する一つの見方を表現するばかりではなく、それ自体さまざまな遠近法の構成体であって、作者の見方のあらましを示し、読者はそれをもとにさまざまな遠近法をとらえて行くことができる。これは、小説を例にとるとわかり易い。小説はさまざまな遠近法を組み合わせ、その作者に固有な視覚を伝える。通常は四個の相互にきわ立った遠近法、すなわち、語り手、登場人物、筋、虚構の読者が支柱となっている。こうしたテクストの遠近法の間には、重要性に応じた順位はあるが、そのうちのどれか一つをとらえれば、テクストの意味が同定できるというものではない。むしろ遠近法の分化は、ものの見方の基準点をどこにおくかという違いによっている。遠近法は相互に関連を保ち、共通点を指示するように組み立てられている。この共通点がテクストの意味といわれるものであり、読者は好むと好まざるとにかかわらず一定の視点をとる場合にのみ、テクストのさまざまな遠近法を統合して、一つの意味に焦点を合わすことができる。
読解過程において、私たちが構成してゆく世界は、何らかの境界によって限定されたり枠づけられたりしているのか、どうか。私たちが見る時に視野という限界を持っているように、読書において私たちの内に構成しようとする像にも限られた限界が有るのではないか、という推測がそこにはある。読み手は、テクストという膨大な情報の固まりから、メッセージの輪郭をすぐに抽出しなければならない。そして、多くの情報を捨てていかなければならない。この作業を、単なる経験や、知識によって行っている、と処理するのではなく、そこには規則性や原則があるのではないか。和田氏は、この境界を捉える方法には、「慣習の役割を重視する方向」と「不変的な規則を重視する方向」の2種類があるとする。前者は慣習的に、われわれの内にある把握の仕方、後者は生きる世界を維持していくうえで、不可欠なものを把握していく仕方である。さらにこの境界を捉える働きについては、次のように述べる。─略─心の中で出来事を構成してゆく時に、私たちが把握することのできる、注意する領域に限界があるという考えは、読書論で言えば、W・イーザーにも見られる主題と地平という重要な概念とつながっている。─略─この考えから、議論を進めるなら、絶えざる読書の中で、テクストの世界を一度に把握、構成できる私たちの能力が限られていることになる。ところで、視覚的な対象を再構成するには、非常に多くの情報量が必要となる。したがってそれに似通った印象が浮かぶということは、限られたその能力を無駄なく、集中的に用いることによってのみ可能になるだろう。つまり、その時私たちが作り上げる像が、よほど限定され緊密につながりあっていなくてはならない。分かりやすく言うなら、限られたファインダーの中に多くの人達がおさまるためには、写真に写る人達が身を寄せ合わねばならないということだ。
もしある情報とその情報との送り手に関する情報の間で私たちが安定させている言葉の信頼性に変更があれば、注意し、新たな信頼の度合いを、決定しようとする。これが境界の信号となるのではないか。つまり、読書において私たちが送られて来る言語の信頼性を一定に保とうとする傾向こそ、時間的、空間的にその情報を安定させようとする私たちの行為こそ、さまざまな境界を生成する基本的な働きとはいえないか。これを読みにおける確信度の問題と呼ぼう。読み手は、可変項を決定することで、語られた情報が、信頼できるものなのかどうか判断しながら、読み進めていく。そして、この信頼性が揺らぐときに、境界を感じ取り、信頼性を安定させようとして、新たに可変項を決定していく。読み手の役割は、この作業の繰り返しである。─略─読みにおいては、常にある情報に対して、いわば素性の洗い出しが平行して行われている。例えばある描写に対して、それを知ることのできる、描写できる位置を前後の文脈の流れの中で割り出そうとする。その言葉とその言葉を発することのできる位置との関係をとらえようとする。ただし、その位置に語り手とか作者とか登場人物が「いる」わけではない。その位置は、その情報の提供者としてその位置を占めることができると想定しうる人物(あるいはその役割)の集合といってよい。これを可変項と呼んでおこう。─略─この可変項の決定(分かりやすく言えば、誰が語っているのか)と、そのもととなった情報(語られたこと)との間の位置付け(直接見て言っているのか、伝聞か、過去のことか、確信をもって言っているか、など)の問題ととらえ直すことができる。つまり、見ている地点、立場の割り出しは、最終的にはこの位置付けの問題となり、その情報がどれだけ信頼できるか、あるいは受け入れるべきかどうか、といった判断の問題となる。この位置付けの問題を「確信度の問題」と呼んできたわけだ。
言語による言表行為の場合、言表がそれを発する者に関連すること、そして話者が何を語ろうとしているのかを決定しようとして言語コードに頼る以前に、話者が遂行する行為の性質について、さまざまな言語外的情報を受け取っていることは、十分明らかだ。ある命令を受け取っていることを知るために、\きみに…を命じる\という表現を言語学的にコード解読する必要はない。音調的諸要素、社会状況、身振りが事前に介入するかもしれないからだ。しかし時には、この行程が逆であるかもしれず、表現をまずコード解読してはじめて、状況の決定に合流するべき情報が受容されることもある。通常、この運動には揺れ動きがあり、一連の漸進的な調整をとおして、受信者は自らがどのようなタイプの言語行為にさらされているかを決定するのである。こうして、もしメッセージが指示行為として理解されるなら、受信者はすぐさま外延的作業のいくつかを遂行し、すなわち話者が共通経験の世界を指示していること、また彼が真実を語っているかどうか、なにか不可能なことを命令ないしは要求しているのかどうか、などを確定するものと想定されうるのだ。このようなテクスト生産の方法を決定しないままで、読み手が先の文へと読み進めていった場合、テクストと読み手の関係がどうなるのか、といった点についても、調査結果から、考察していきたい。─略─しかし書かれたテクストを読むとき、言表行為の状況への指示はほかにいくつかの機能をもつ。第一のタイプの指示は、内容のレベルで、次のようなタイプのメタ命題を暗黙のうちに顕在化することにある。《私がこの瞬間に読んでいるテクストを言表したひとりの個人がいる(いた)。この人は彼がわれわれの共通経験の世界について語っていると私が思いなすよう、要求する(もしくは要求しない)》。こういったタイプの顕在化は、テクスト「ジャンル」に関する直接的な仮説をも伴なうかもしれない。つまりそのとき、小説、歴史記述、科学などのテクストにさらされているかが決定され、それが新たに外延的決定へと跳ね返っていく。第二のタイプの指示は「文献学的」なタイプのもっと複雑な作業を伴う。つまり、現代から遠い時代に言表されたテクストについて、まさにどのようなタイプの百科辞典に依拠すべきかを知ろうとして、本来の空間的・時間的な位置を再構成しようとする場合が、それにあたる。
モデル読者は、相つぐ諸状態を先取りすることで、ファーブラの展開への共同作業を求められるのだ。読者による先取りはファーブラの一部となり、その部分は読者が読もうとする部分に呼応するはずだ。一旦読んだなら、テクストが彼の予想を確認するかどうか、わかるだろう。ファーブラの諸状態は、読者が先取りするファーブラ部分を確認するか否認する(真とするか偽とする)(Vaina, 1976, 1977)。このエーコの「可能世界」とは、和田氏のいう「境界」に近い概念ではないだろうか。読み手が、仮説により次第に形作っていく「可能世界」という概念と、言葉に対する信頼性と、その言葉から得る情報に対する信頼性を、安定させることで自ら浮かび上がる「境界」という概念。この二つの概念は、読み手が自ら意識的に作るものか、結果的に出来上がるものかの違いであると思われる。そして、読み手はこの両者の方法を用いて、「可能世界」や「境界」を構成しているのではないかと考える。たとえば、冒頭においては、「可能世界」が作られる。「境界」を浮かび上がらせるには、提示される情報が少なすぎるからである。信頼性を確認するほどの情報が、初めの数文では、得られにくい。そのような場合は、むしろ読み手は、「可能世界」を生成しようと意識的に読みを行っていると考えた方がよい。それが、後続文に進むにつれ、情報が集まってくると、読み手の出来上がった信頼性を揺るがす情報が、自動的に「境界」として浮かび上がってくる。このようにして、「可能世界」や「境界」の生成が、それぞれの状態に応じて、行われていると考えることが出来る。
ストーリーの終結部───テクストが確立したとおりのそれ───は、読者の最終段階での先取りを検証するだけでなく、もっと前の先取りのいくつかをも検証する。それは一般に、読み全体の流れをとおして読者が表わす予想能力に対して、暗黙の評価を下すのだ。
この予想活動は事実、解釈過程全体をつらぬき、他の諸作業との密接な弁証法をとおしてのみ展開しながらも、その間、言述構造を顕在化する活動によって、絶えず検証されていく。
次章で見るとおり、この予想する際、読者は、事態の進行様態に対して命題的態度(信じる、欲する、願う、望む、考える)を取る。そうしながら、彼は出来事の可能な進行あるいは可能な事態を形づくる───すでに述べたとおり、彼は諸世界の構造について、思い切って仮説を立てるのだ。─略─われわれはただ、物語テクストが関連する百科辞典的能力に照らして、またテクストがあらかじめ仕掛ける手に照らして、蓋然性の離接を予見するのが妥当かどうか、自問しなければならない。そうしてみると、予想者による命題の形づくるものを「可能世界」と呼ぶのが、もっともよいかもしれない。─略─テクストで、ラウールが手を上げるとき、読者は百科辞典によって、ラウールが手を上げて打とうとすることを理解するよう求められる。しかしこの時点で読者は、ラウールがマルグリットを打つのを期待する。この第二の動きは、第一の動きと記号論的に同質のものではない。第一の動きは言述構造を顕在化し、期待ではなく安心を生成させるのに対して、第二の動きは、ファーブラを先取りしつつ顕在化するよう試行的に共同作業し、緊張、賭、仮説的推論といった性格をもつ。
仮説を思い切って立てようとすれば、読者は、共通の、あるいはテクスト相互的なシナリオに依拠しなくてはならない。「通常、こうすればいつでも、他のテクストで起こるとおり、私の経験からすれば、心理学が教えてくれるように……」といった具合だ。事実、あるシナリオを活性化するとは(とりわけテクスト相互的なシナリオの場合)、あるトポスに依拠することを意味する。このようにテクストから外に出る(テクスト相互的な戦利品でいっぱいになってテクストに戻るため)ことを、推敲散策と呼ぶことにしよう。
主題目を示すこともなく、前置きもおかず、いきなり話を始める。ことさらに読者に「何が始まるのだろう」「何を言おうとするのだろう」と思わせながら、話に引き込んで行くのである。この破題法とは、描写文(談話文を含む)、引用文など、まだ登場していない視点人物を通して語られた文の形態をとる、書き出しのことである。視点人物自身が顕れるよりもさきに、視点人物にうつる事物が語られる。このため、読み手(聞き手)は、自ら視点人物を想定しなくてはならない。ということは、すぐさま、生産するテクストの大枠を成立させなければならない。冒頭文において、いきなりテクストへの信頼性を確保しなければならない。これが、読み手を「話に引き込んで行く」テクストの仕掛けになるのであろう。
「あくる朝の蝉」 冒頭部分 井上ひさし
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備考 | 空所 | 空所 | 空所 | 空所 | 空所 | 空所 | 人物の重要性 | 視点人物は? | どうした | なにを | どのように | 人物設定/その心理状態 | だれが | なぜ | どこで | いつ | |
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1.汽車を降りたのは二人だけだった。 | |||||||||||||||||
名詞文 | 「ふたり」とは誰なのか? | 視点人物はだれか? | 降りた | 汽車を | ふたりだけ→ふたりとは誰?誰の視点か | 汽車→田舎?(の駅)ふたりだけ | 汽車→昔か? | ||||||||||
2.シャツの襟が汗で汚れるのを防ぐためだろう、顎から手拭いを垂らした年配の駅員が柱に凭れて改札口の番をしていた。 | |||||||||||||||||
駅員は主人公なのか? | 垂らした/改札口の番をしていた | 手拭いを | 頚から/柱に凭れて | 年配の駅員/どんな駅員か?(重要か) | シャツの襟が汗で汚れるのを防ぐため | 手拭いを垂らし、柱に凭れていても構わないような小さな駅 | 汗→夏・具体的にいつ? | ||||||||||
3.その駅員の手を押しつけるようにして切符を二枚渡し、待合室をほんの四、五歩で横切ってぼくは外にでた。 | |||||||||||||||||
ぼくとその連れ | ぼくが主人公か? | ぼくが視点人物 | 渡し/横切って外へ出た | 切符を二枚 | その駅員の手に押しつけるようにして/ほんの四、五歩で | ぼくは駅に関心を持っていない | ぼく→視点人物:ふたりとはぼくとその連れ | なんの目的で来たのか? | 小さな駅 田舎 | ||||||||
4.すぐ目の前を、荷車を曳いた老馬が尻尾で蠅を追いながら通り過ぎ、馬糞のまじった土埃りと汗で湿った革馬具のえた匂いを置いていった。 | |||||||||||||||||
匂いについての丁寧な描写/匂いの持つ意味とはなにか? | 通り過ぎ/置いていった | 馬糞の交じった土埃と汗で湿った革馬具の饐えた匂いを | 尻尾で蝿を追いながら | 荷馬車を引いた老馬が | 荷車・老馬・蝿・馬糞・土埃・汗・革馬具の匂い→田舎・農業の匂い | すぐ(ぼくの)目の前を | |||||||||||
5.土埃りと革馬具のえた匂いを深々と吸い込んでいると、弟が追いついてきて横に並んだ。 | |||||||||||||||||
臭くても「深々と」吸い込む「匂いは」ぼくにとって重要なもの | この兄弟は何の目的で来たのか? | ぼくと弟 | 吸い込んでいると/追いついて来てぼくに並んだ | 土埃と革馬具の据えた匂いを | 深々と→「匂い」はぼくにとって親しいもの | (ぼくが)/弟が | |||||||||||
備考 | 空所 | 空所 | 空所 | 空所 | 空所 | 空所 | 人物の重要性 | 視点人物は? | どうした | なにを | どのように | 人物設定/その心理状態 | だれが | なぜ | どこで | いつ | |
6.弟は口を尖らせていた。 | |||||||||||||||||
尖らせていた | 口を | 弟の年齢は幼いのか? | 弟は | (なぜ?) ↓ | |||||||||||||
7.ぼくがひとりでさっさと改札口を通りぬけたことが、自分が置いてきぼりにされたことが不満なのだろう。 | |||||||||||||||||
置いてきぼりにされる弟→(捨てられる) | ぼくがひとりでさっさと改札口を通りぬけたことが、自分が置いてきぼりにされたことが不満なのだろう。 | ||||||||||||||||
8.「思い切り息をしてごらんよ」 | |||||||||||||||||
会話文 | してごらんよ | 息を | 思い切り | 兄は弟に対して悪気はない | |||||||||||||
9.弟はぼくに言った。 | |||||||||||||||||
↑ ↓ | 何故弟に息を吸わせるのか?→「匂いの」重要性大 | 言った | 弟に | ぼくは | |||||||||||||
10.「空気が馬くさいだろう。 | |||||||||||||||||
会話文 | 何故説明するのか→弟は「匂い」を知らないから→何故知らないのか | 馬くさいだろう | 空気が | ||||||||||||||
11.これがぼくらの生まれたところの匂いなんだ。 | |||||||||||||||||
会話文 | 生まれたところを教える→弟は生まれたところを憶えていない→生まれてすぐにこの場を出たのか? | →→→→ | 生まれた田舎に久しぶりに戻ってきた→何処から? | ぼくらの生まれたところの匂いなんだ | これが | ||||||||||||
12.弟はボストンバッグを地面におろし、顔をあげて深く息を吸い込んだ。 | |||||||||||||||||
地面におろし/吸い込んだ | ボストンバッグを/息を | 顔をあげて深く | ボストンバッグを持つ弟→ハイカラ(対田舎):兄を受け入れる弟 | 弟は | |||||||||||||
備考 | 空所 | 空所 | 空所 | 空所 | 空所 | 空所 | 人物の重要性 | 視点人物は? | どうした | なにを | どのように | 人物設定/その心理状態 | だれが | なぜ | どこで | いつ | |
13.どうだ、この匂いを憶えているだろう? | |||||||||||||||||
兄のセリフ | 「匂い」を共有しようとする兄の強い意志 | 憶えているだろう | この匂いを | ||||||||||||||
14.「ぜんぜん」 | |||||||||||||||||
弟のセリフ | 兄と弟の相反する反応 | 憶えていない | ぜんぜん | ||||||||||||||
15.孤児院のカナダ人修道士がよくやるように弟は方を竦めて見せた | |||||||||||||||||
特異な情報 | 「孤児院のカナダ人修道士」はどうゆう関係があるのか?→弟の周りの人:メディア・近所・孤児院にいるのか? | 竦めて見せた | 肩を | 孤児院のカナダ人修道士がよくやるように | 弟は | ||||||||||||
16.「別にどうってことのない田舎の匂いじゃないか」 | |||||||||||||||||
弟のセリフ | 兄にとって親愛的な匂いを否定する弟「ただの匂い」故郷に対する思いはない | 田舎の匂いじゃないか | べつにどうってことのない | 故郷とはかけ離れた弟 | |||||||||||||
17.この町を出たときは弟はまだ小さかった。 | |||||||||||||||||
幼くして故郷に出る事の意味は? | 幼くして親を亡くし、孤児院に行ったのか? | ←←←← | ←←←← | 小さいときに故郷に出る。何故出たのか?何処に行ったのか? | まだ小さかった | 弟が | この町を出たときは | ||||||||||
18.この匂いが記憶にないのは当然かもしれない。 | |||||||||||||||||
兄の心理 | 当然かも知れないが、兄には忘れられない匂い | 記憶にないのは当然かもしれない | この匂いが | 弟を理解しようとする兄 | (弟が) | ||||||||||||
19.でもぼくにはこの馬の匂いと生まれ故郷の町とを切り離して考えることが出来なかった。 | |||||||||||||||||
幼くして故郷を出ることの意味は? | 幼くして親を亡くし、孤児院に言ったのか? | 小さいときに故郷にでる→何故出たのか?何処に行ったのか? | まだ小さかった | | ぼくには | | | |
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さて、語り方に重点を置くという研究には、最初から二つの極性がはらまれている。登場人物の発言や思考、知覚について語り、伝え評価する主体が顕在化する場合と、むしろそうした語る存在が感じ取れなくなるという場合、という二極性だ。読み手に視点人物を想定させようとする語りは、語り手の仕事を読み手に課しているわけで、可変項が後退していることになる。可変項が読み手に直接語っているのであれば、視点人物を想定する必要はない。したがって、この作品においては、「伝達行為への注意」がなされず、そのため、汽車から降りた乗客ふたりを、第三者的に捉える視点をもつ人物を可変項として想定することになる。─略─ここで、私たちの理解過程自体に焦点をあてられるよう、この二極の方向性自体をとらえなおしてゆこう。一方の極は、読みにおいて、登場人物やそのかかわる出来事、光景について語り、伝え、判断する主体(可変項)が私たちの視界から後退し、私たち読者が、登場人物の行為し、知覚し、判断し、発言するテクストの中での「いま」へと身を寄せる場合、こうした場合を「伝達行為への注意」がなされないる場合とよんでおこう。もう一方は、可変項の顕在化する、つまり、その登場人物の「いま」について語り、判断し、あるいは思い出す行為を私たちがあらわに感じ取る場合。これを「伝達行為への注意」がなされる場合、というようによんでおこう。─略─「伝達行為への注意」が行われる要因について考えてきたとき、その主要な要因としてこれまでしばしば注意を引いてきた形態上の特徴として、いわば、「知の領域」といってもよい要因がある。「知の領域」というのは、例えば登場人物の見、聞き、知る範囲内で出来事が私たち読者に知らされるか、それともテクストの世界で肉体的な制約を負った登場人物によっては到底知ることのできない、その他の人物の思考や感情をも(推測や仮定の形を取らず)私たちが知らされているか、といった問題である。この領域が不安定であれば、知っていないことを知っている、あるいは知っているはずのないことを知らないように、つまりはその情報を絶えず出し惜しみしたり押し付けたりする語る主体があらわになるので「伝達行為への注意」がしばしば引き起こされる。
《能動的読みの活動》 |
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1997年10月7日(火) | 於大阪教育大学教員養成課程 | 「国語学概説」受講者60名 「小専国語」受講者55名 |
1997年10月14日(火) | 於小坂病院付属看護専門学校 | 「論理学」受講者54名 |
1997年10月 | 於大阪教育大学教員養成課程 | 文章表現ゼミナール4回生3名 |
1997年10月 | 社会人6名(28〜50才) | |
合計178名 |
行間読みに関する調査 |
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文章を読む時に、読み手が具体的にどのような作業を行っているのか、ということを調査したいと思います。みなさんがある文章(文学作品)を読むときに、具体的にどんなことを感じ、どんなことを読みとっているか、自分自身で確認できることを(簡略で構いません)書き留めてください。無理に書く必要はありませんので、何も感じていなければ次の文に進んでください。 学籍番号
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読みの作業 | その意図 |
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「あくる朝の蝉」 井上ひさし →タイトルからストーリーを予想し、読みの方向性をある程度決める。 | 全くストーリーを予想しないで読み進めるよりも、多くの情報をつかむことができる(読みの方向性が決まっているということは、何度も読むと、深く作品を読めるのと同じで、叙述から多くの情報をつかむことができる。)しかし、方向性が大きくずれてしまうと、間違った情報を得ることになる。 |
(1)汽車を降りたのはふたりだけだった。→「ふたりだけ」の「だけ」を強調する理由に注目。書き手の狙いは何なのかを探る。 | |
(2)シャツの襟が汗で汚れるのを防ぐためだろう、頸から手拭いを垂らした年配の駅員が柱に凭れて 改札口の番をしていた。 | |
(3)その駅員の手に押しつけるようにして切符を二枚渡し、待合室をほんの四、五歩で横切ってぼくは外へ出た。 →「ぼくは夏の昼ごろ、いなか」(2・3文より)に「汽車」(1文)に乗ってきたという大まかな様子を掴んでいる。 →また、「ほんの四、五歩で横切っ」た(3文)ことから、ここが小さい駅であることを捉える。 →また、「切符を二枚渡し」(3文)たことから、「ふたり」(1文)は、「ぼく」とその同伴者であるとフィードバックして、情報を補う。さらに、大人であれば自分の分の切符は自分で渡すだろうから、同伴者は「ぼくの子」か「年下の兄弟」と推測している。 | 数字に対して敏感に反応する。数字を境界の信号としている |
(4)すぐ目の前を、荷車を曳いた老馬が尻尾で蠅を追いながら通り過ぎ、馬糞のまじった土埃りと汗で湿った革馬具の饐えた匂いを置いていった。 | |
(5)土埃りと革馬具の饐えた匂いを深々と吸い込んでいると、弟が追いついてきて横に並んだ →3文での「ふたり」に対する推測が正しかったことを、確認している。 →「匂い」は場面をイメージするのに役立っている、と「匂い」がこの作品に於いて果たす役割について捉えている。 | ここにおいて、平和な風景と捉える。 田舎を平和なものとする。 自分の読みを、フィードバックして叙述に反映させているところから、自己の読みを修正する準備があることがわかる。 「匂い」がどんな匂いか、ということよりも、舞台設定の一つの道具であると捉えていることから、書き手の意図を意識した読みが行われている。 |
(6)弟は口を尖らせていた。 →口を尖らせている理由が、容易に<明らかに欠如している情報>として、疑問に思う。 →3・4・5文より、「ぼくはさっさと弟を放って歩いていたから」と「弟が口を尖らせていた理由」を推測している。 | 容易にブランクを感じ、それを埋めるような読みを、今後行っていく。 「境界」が十分に捉えられていると思われる。というのは、「ぼく」の視点からは、弟の口を尖らせる理由は理解可能なものであるため、当然ブランクを意識する。状況が十分に、自分の読みの中で、再現されているため、場面の脈絡から欠如した箇所を容易に埋めている。 |
(7)ぼくがひとりでさっさと改札口を通り抜けたことが、自分が置いてきぼりにされたことが不満なのだろう。 | 7文は、自分の読みを確かめるだけの文になっている。新たな情報を与える文にはならない。 |
(8)「思いきり息をしてごらんよ」 | |
(9)弟にぼくは言った。 →弟が気づいてない匂いをかがせてやろうとしてている、という「ぼく」の発言の意図を推測する。 | 「ぼく」の視点から場面を再現しいるので、「ぼく」の心理も理解可能な領域となる。従って、そこにブランクのスペースを作り、心理を推測する。 |
(10)「空気が馬くさいだろう。 | |
(11)これがぼくらの生れたところの匂いなんだ」 →場面の舞台であるこの田舎が、生まれ故郷であるという認識をもつ。故郷が都会と対極にある田舎である? →「ぼく」に対して、性格的に人物設定する。感情豊か、弟を放ってまで故郷を感じようとする、のんびりや。 | 生まれ故郷が「匂い」をもつ田舎であると認識する。 これまで述べられてきた情報の範囲内で、人物設定している。年齢や、社会的立場といった面での推測は避けている。テクストの内に読み手の視点はあり、外に出ることはない。 |
(12)弟はボストンバッグを地面におろし、顔をあげて深く息を吸い込んだ。 →「ボストンバッグ」から長期滞在を推測し、夏休みの里帰りの場面とする。 | これまでの「いなか」「饐えた匂い」などのイメージとは異質な「ボストンバッグ」に注目。そこに書き手が意図的に含めた情報があるだろうと推測する。 |
(13)「どうだ、この匂いを憶えているだろう?」 | |
(14)「ぜんぜん」 →ぼく=田舎育ち 弟=生まれてすぐに田舎を離れる(都会育ち) 故郷を懐かしまない | 「ぼく」と「弟」が反対の感情であることを捉える |
(15)孤児院のカナダ人修道士がよくやるように弟は肩を竦めてみせた。 →喩えにしては具体的すぎる「孤児院のカナダ人修道士」に、違和感を感じる。 | 限定した人物を、何の予告もなしに登場させるため、読み手は信頼感を揺り動かされる。しかし、その登場が、喩えに用いられるため、どこまでこの情報を切り捨てずに、留めておけるかが、読みの方向を分けることになるだろう。違和感を感じるが、どう処理するかは、明らかでない。 |
(16)「べつにどうってことのない田舎の匂いじゃないか」 →弟は兄とは反対の都会っ子であると認識している。 | |
(17)弟がこの町を出たときはまだ小さかった。 →幼いうちにこの地を出るということは、自分の意志では無理で、「弟」は親の都合により、この地を出たと推測する。 | |
以下未完了 (18)この匂いが記憶にないのは当然かもしれない。 (19)でもぼくにはこの馬の匂いと生れ故郷の町とを切り離して考えることは出来なかった。 |
読みの作業 | 作業の意図 |
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「あくる朝の蝉」 井上ひさし | |
(1)汽車を降りたのはふたりだけだった。 →「ふたり」に注目する。二人、あるいはその内の一人を中心に、ストーリーが展開していくのではないかと想定。 →駅の風景、ふたりに関する叙述を想定。 | 「ふたり」に注目するが、その推測を決定的なものにはしないで、修正の余地を保持したまま読み進める。 可変項を(1)文の場景が見える地点におけば、「ふたり」は風景の一部として処理できるが、二人の内の一人に視点を置く可能性も残しているため、場所か人物かという二択を設定する。 |
(2)シャツの襟が汗で汚れるのを防ぐためだろう、頸から手拭いを垂らした年配の駅員が柱に凭れて 改札口の番をしていた。 →終戦直後の山奥、小さな駅 | |
(3)その駅員の手に押しつけるようにして切符を二枚渡し、待合室をほんの四、五歩で横切ってぼくは 外へ出た。 →「ぼく」は視点人物であり、語り手の役割をも担うとする。 →「ぼく」は子どもであっても、そう幼くはないと推測する。 | 「ぼく」が語り手の役割を担うとすることで、「ぼく」の視界は多くのものを取り込むことができると想定している。従って(1)文において自らを「ふたり」という全知的視点で語ることも可能であると解釈する。 また、「ぼく」の年齢を推測することとは、作品世界に読み手が身を寄せているため、人物設定が行われている。 |
(4)すぐ目の前を、荷車を曳いた老馬が尻尾で蠅を追いながら通り過ぎ、馬糞のまじった土埃りと汗で湿った革馬具の饐えた匂いを置いていった。 →細かな描写文であるため、そこにブランクを感じとる。老馬を曳く人間は?荷台には何が? →「荷車」「老馬」から時代設定に関して現代ではないとする。 →山間の小さな駅の前で立っている男という、映像的な場面を想定している。 | 読み手は作品世界に身を寄せ、場面を映像的に再現しようとしているため、再現できない部分はブランクとして感じ取られる。 想像している場面は、登場人物を組み込んだ形で、映像的に再現している。 |
(5)土埃りと革馬具の饐えた匂いを深々と吸い込んでいると、弟が追いついてきて横に並んだ。 →弟の登場により、(3)文の読みにフィードバックして、二枚渡した切符の一枚は弟の分であったことを再確認する。 →ぼくと弟の人物設定に関する情報を求める。年齢差は?親、または親族は?ふたりの行き先は? →「ぼく」が弟の分まで切符を渡してやるような年齢差、つまり切符を代わりに渡してやらないと行けないような弟がいる「ぼく」は、歳の差があったとしても、大人ではないと推測する。 →「匂い」はふたりにとって嗅ぎ馴れていて、気嫌う匂いではないか、やはり臭い匂いなのか、「匂い」と二人の関係についてブランクを感じる。 | (3)文で「切符を二枚渡し」という情報を切り捨てていなかったことが分かる。自分の読みをフィードバックして再確認することで、枠の形成が関係的に行われている。 弟の登場によって、ぼくと弟は登場人物の中で重要な位置にあるとし、ふたりの人物設定に重要性を感じる。その結果、ふたりの年齢を推測し、そこから親の存在、家族構成に至るまで、情報を求めようとする。この読みが結果的に、ふたりが孤児院にいるという読みにつながるのであろう。 細かな「匂い」の描写から、ふたりにとっての「匂い」の重要性を考える。 |
(6)弟は口を尖らせていた。 →弟の口を尖らせる理由にブランクを感じる。 →弟の感情を露骨に仕草に出すことから、弟の年齢が、幼いと解釈する。 | 構文的なブランクであるが、そこから、「ぼく」も同じことに対して不満なのか、その理由ではなく、「ぼく」との関係に注目する。 |
(7)ぼくがひとりでさっさと改札口を通り抜けたことが、自分が置いてきぼりにされたことが不満なのだろう。 →弟を置いてきぼりにした理由、駅を出て待っていたのに何故不満なのか、といった「ふたり」の関係に注目する。 | 兄と弟それぞれの対応に注目している。ここでは、弟が不満に思う理由と読み手の常識との間にギャップが生じ、そのギャップを解消するような意味づけを求める。 |
(8)「思いきり息をしてごらんよ」 | |
(9)弟にぼくは言った。 →「ぼくに弟は言った。」との違いを感じ、書き手の意図することを探ろうとする。 | |
(10)「空気が馬くさいだろう。 | |
(11)これがぼくらの生れたところの匂いなんだ」 →「ぼく」が弟に匂いを教えているということは、弟は生まれたところの匂いを知らないからで、その理由は何かブランクを感じる。 →降りた駅は、ふたりの故郷の駅であった、とフィードバックして、関係づける。 | |
(12)弟はボストンバッグを地面におろし、顔をあげ て深く息を吸い込んだ。 →ボストンバッグの中身は何か?また、ぼくは荷物を持っているのか?といった疑問を抱く。 | ボストンバッグからギャップが生じ(田舎のイメージからは離れたイメージを持つ言葉であるため)、そこに重要性を持つ。その結果、鞄の中身に注目する。また、「ぼく」と弟を常に対照的に関係づけてきたことから、「ぼく」は「ボストンバッグ」に対する荷物を持っているのかという疑問につながる。 |
(13)「どうだ、この匂いを憶えているだろう?」 | |
(14)「ぜんぜん」 →兄は物覚えがつく頃、まだこの町に暮らしていたが、弟の方は物覚えがつく前にこの町を出たと推測する。そこから、二人のふたりの年齢差を強く求める。また、ふたりがこの町を去ってからどのくらいの時間が流れているのか、つまり「今」がいつなのか、舞台設定時間に注目する。 →降りた駅は、ふたりの故郷の駅であった、とフィードバックして、関係づける。 | ここでも、ふたりは対照的に関係づけられている。兄は、この町のことを覚えているのに対して、弟は憶えていないと対照的に位置付ける。 |
(15)孤児院のカナダ人修道士がよくやるように弟は肩を竦めてみせた。 →「孤児院のカナダ人修道士」と「ふたり」の関係にブランクを感じる。 | カナダ人修道士は、喩えに使われたものであるが、その存在を登場人物として捉え、二人との関係に疑問を持つ。 |
(16)「べつにどうってことのない田舎の匂いじゃないか」 →兄と弟の対立的な関係を想定する。 | |
以下未完了 (17)弟がこの町を出たときはまだ小さかった。 (18)この匂いが記憶にないのは当然かもしれない。 (19)でもぼくにはこの馬の匂いと生れ故郷の町とを切り離して考えることは出来なかった。 |
読みの作業 | 作業の意図 |
---|---|
「あくる朝の蝉」 井上ひさし →井上ひさしの作品から、おもしろい話と想定する。 | おもしろいとは滑稽の意。 |
(1)汽車を降りたのはふたりだけだった。 →駅に対する意味づけの必要性を感じる。 | 「だけ」が、駅の様子(乗客がふたりだけという閑散とした駅)を意味づけるものになると意識する。しかし、その様子を想定することはない。そして、「ふたり」はある情景の中の細部として、切り捨てる情報となる。 |
(2)シャツの襟が汗で汚れるのを防ぐためだろう、頸から手拭いを垂らした年配の駅員が柱に凭れて改札口の番をしていた。 →30年前ぐらいの平和な頃、田舎の木造駅舎を場面舞台として想定。 | 駅員が「番をしていた」などから、平和なイメージが想定され、そこから戦後という時代を設定。同時に田舎というイメージが木造の駅舎を想定。 |
(3)その駅員の手に押しつけるようにして切符を二枚渡し、待合室をほんの四、五歩で横切ってぼくは外へ出た。 →(1)の「ふたり」に、注目し直す。 | (1)で切り捨てた「ふたり」へ注目し直す。 |
(4)すぐ目の前を、荷車を曳いた老馬が尻尾で蠅を追いながら通り過ぎ、馬糞のまじった土埃りと汗で湿った革馬具の饐えた匂いを置いていった。 →何度も繰り返し読んで、文意を読みとる。何度も読むことで、描写されている情景を忠実に再現しようとする。 | 文の構成が複雑であり、かつ丁寧な描写のため、読みのリズムを狂わすことになる。その結果、読み飛ばされてしまう場合もあるが、ここでは、丁寧な読みを行うことになる。 |
(5)土埃りと革馬具の饐えた匂いを深々と吸い込んでいると、弟が追いついてきて横に並んだ。 →「ふたり」が「ぼく」と「弟」であるとわかる。「ふたり」が全くの他人であると考えていたために、修正をする。 →土臭い匂いを想像する。「匂い」に対して、意味づけを行うことはない。 | (1)において、場所に注目していたため、「ふたり」に関する想定が行われていない。ここではじめて、「ふたり」を意識し、読みの方向性が修正される。また、(3)の「切符を二枚」についても読みとられていない。これは、「ぼく」の登場という、最も重要な情報が提示されたために、細部の情報提示の言葉が、見過ごされているためである。 叙述の外側にある書き手の意図から意味解釈することはなく、叙述内のつまりテクスト内においてのみ、解釈がなされている。 |
(6)弟は口を尖らせていた。 →弟は怒って口を尖らせており、この地へやってきたことを不満に思っていると解釈する。また、口を尖らせるという幼い行動から、弟の年齢を想定する。 | 口を尖らせた理由は、文の構造上からも、ブランクとして意識されるものであり、その理由を推測する。しかし、これまでの文脈から、駅を降りた弟が怒っているとなれば、この地に降りたことが不満であると解釈する。明示された情報から作り上げられた文脈に則って、解釈がなされている。 |
(7)ぼくがひとりでさっさと改札口を通り抜けたことが、自分が置いてきぼりにされたことが不満なのだろう。 →(3)を読み返し、読みを修正する。 | 「改札口」が、(3)文での読みを修正させることになる。 |
(8)「思いきり息をしてごらんよ」 | |
(9)弟にぼくは言った。 →「弟がぼくに言った。」と誤読している。 →「ぼく(弟)」の発言に疑問をもつ。そして、読みは、いやな「匂い」を強調する方向へ進む。 | (5)の「深々と吸い込んでいる」を読みとっていないため、「ぼく」の発言は「匂いが臭い」と強調することになっている。 |
(10)「空気が馬くさいだろう。 | |
(11)これがぼくらの生れたところの匂いなんだ」 →この場所がふたりの生まれたところであると認識する。そして、現在ふたりが生まれ地に住んでいないと推測する。 | |
(12)弟はボストンバッグを地面におろし、顔をあげて深く息を吸い込んだ。 →弟の発言によって、弟が息を吸い込んでいることに、矛盾を感じ、(9)の読み違いに気づく。同時に、匂いの臭さも修正され、匂いが生まれた地を確認するものだという認識に変わる。 | 現在進行している枠造りに、何らかの矛盾が起こった場合に、その修正を行う。その矛盾は、ギャップの一つであり、枠造りの方向が向かっている軸上の情報と矛盾する情報が得られたために起こる。読み手の視界に入らない、つまり注目していない情報に対しての矛盾は読み落とされてしまう。 |
(13)「どうだ、この匂いを憶えているだろう?」 | |
(14)「ぜんぜん」 →兄と弟の生まれ故郷に対する執着の違いを認識する。 →弟はこの地へ来ることに、積極的ではないと解釈する。 | 「ぜんぜん」の素っ気ない言葉が、この地に来る事に対する素っ気なさと解釈する。 |
(15)孤児院のカナダ人修道士がよくやるように弟は肩を竦めてみせた。 →「孤児院のカナダ人修道士」がどう関係しているのか、また、その仕草の具体的な様子が分からない、さらに、何故肩を竦めるのかという疑問につながる。また、飛躍した喩えの情報を、読みの枠へ当てはめるように、意味づけを行うことはない。 | 喩えが、枠造りの視界から飛躍しすぎていて、その具体的な様子が理解できない。そのため、弟が「ぜんぜん」知らないと肩を竦める状態が、想定できない。 |
(16)「べつにどうってことのない田舎の匂いじゃないか」 →どうでもよい、という関心のなさは、この地に対するもので、それが派生して、匂いに対しても無関心であると解釈する。 →(2)における「田舎」という推測が正しかったとする。 | 匂いに対する無関心さを、これまでの解釈の枠組み上にのせて捉える。 場面舞台の決定が引き続き行われている。(2)文における推測は、確認を要する程度の確信を伴うものであった。つまり、推測は明示的な情報になるまで、確信を下されない、不安定な状態にある。 |
(17)弟がこの町を出たときはまだ小さかった。 →(13)(14)での推測を確認する。(町を出たときに弟は幼なかった)。 | (16)同様、これまでの推測は不安定な状態で持ち越されているため、その確認を行う活動を行うにとどまる。そのため、与えられた情報から、ブランクを設定して、言外の情報を得る活動には至らない。 |
(18)この匂いが記憶にないのは当然かもしれない。 →匂いとぼく、匂いと弟の関係を明示されたとおりに、再確認する。 | 言外の情報を得るという活動は行われない。 |
(19)でもぼくにはこの馬の匂いと生れ故郷の町とを切り離して考えることは出来なかった。 →「ぼく」の生まれ故郷に対する思いが深いと解釈する。 | 「切り離して」という言い回しが、故郷に対する想いの深さを感じ取らせているのだろうか。 |
読みの作業 | 作業の意図 |
---|---|
「あくる朝の蝉」 井上ひさし | |
(1)汽車を降りたのはふたりだけだった。 →「ふたり」が何をするか、どこに行ったかがこの先に書かれていると推測する。 | 「ふたり」に関する情報を期待する。しかし、推測は行わない。 |
(2)シャツの襟が汗で汚れるのを防ぐためだろう、
頸から手拭いを垂らした年配の駅員が柱に凭れて 改札口の番をしていた。 →終戦直後、いなか町 | |
(3)その駅員の手に押しつけるようにして切符を二枚渡し、待合室をほんの四、五歩で横切ってぼくは外へ出た。 →「ふたり」の内の一人が男である。 | 「ぼく」から男であることは明らかである。この明らかな情報は受け入れるが、「ぼく」から年齢を推測したりする事はない。明示された情報のみを受け入れる。 |
(4)すぐ目の前を、荷車を曳いた老馬が尻尾で蠅を 追いながら通り過ぎ、馬糞のまじった土埃りと汗で湿った革馬具の饐えた匂いを置いていった。 | |
(5)土埃りと革馬具の饐えた匂いを深々と吸い込んでいると、弟が追いついてきて横に並んだ。 | |
(6)弟は口を尖らせていた。 →口を尖らせた理由は何か疑問を持つ。 | 構文的にブランクが発生するため、疑問を持つ。 |
(7)ぼくがひとりでさっさと改札口を通り抜けたことが、自分が置いてきぼりにされたことが不満なのだろう。 | |
(8)「思いきり息をしてごらんよ」 | |
(9)弟にぼくは言った。 | |
(10)「空気が馬くさいだろう。 | |
(11)これがぼくらの生れたところの匂いなんだ」
→どこからか、生まれ故郷に帰ってきたことを認識する。 | どこからか生まれ故郷に戻ってきたとして、一体何処から戻ってきたのかその場所は限定されない。単に「どこからか」というその場所が存在することだけを想定する。 |
(12)弟はボストンバッグを地面におろし、顔をあげて深く息を吸い込んだ。 →ボストンバッグから、長い滞在を推測する。 | |
(13)「どうだ、この匂いを憶えているだろう?」 | |
(14)「ぜんぜん」 | |
(15)孤児院のカナダ人修道士がよくやるように弟は肩を竦めてみせた。 →喩えられる様子が分からない。 | |
(16)「べつにどうってことのない田舎の匂いじゃないか」 →談話描写から兄に反抗的な態度をとると解釈する。 →弟の年齢は、3〜5才ぐらいを想定していたが、 この談話から匂いが田舎の匂いだと判断できる年齢、つまりもう少し大きい子どもだと解釈する。 | このような発言は、関係がうまくいっているふたりの間でなされるものではない、という読み手の経験から、弟の態度が反抗的であると解釈する。 さらに、この発言が3〜5歳児からはなされないと判断する。これも、読み手の経験に関わるもので、読み手によっては、(12)文から、ボストンバッグを運ぶことのできる年齢として、弟の年齢を想定する場合もある。しかし、この読み手には、ボストンバックという情報は、弟の年齢を決定するものではなかった。しかし、ここにきて、弟の年齢に関して想定していた情報にギャップが現れ、推測を修正することになる。 |
(17)弟がこの町を出たときはまだ小さかった。 →弟がこの町を出た理由を推測することはなかった。あえて、想定すれば、弟は田舎臭さがイヤで、出ていったと推測する。その結果、弟はこの町は好きではなかったと想定する。 | 弟が町を出た理由は推測を求めるブランクとして、読み手の中には存在しなかったために、外的刺激から推測を求めた場合、その推測は一時的な埋め合わせになる。 |
(18)この匂いが記憶にないのは当然かもしれない。 | |
(19)でもぼくにはこの馬の匂いと生れ故郷の町とを切り離して考えることは出来なかった。 →弟と対照的に、兄は自分の生まれた町を誇りに思っているとし、ふたりの対立関係が成立する。そして、兄はこの町の良さを弟にも分からせようとしている、と解釈する。 | (16)文から(19)文までで、ふたりの感情の対立関係が成立する。それに伴い、この作品が、今後ふたりの対立を 解消していく方向に進むと想定してゆく。 |
読みの作業 | 作業の意図 |
---|---|
「あくる朝の蝉」 井上ひさし →井上ひさしの作品ということから、何か含みのある、まじめな作品だと推測する。 | 「含みがある」とは、テクストを生成するには、言語情報のみでは意味解釈できない、さまざまな読みの活動を強いられるものだと捉えている。 |
(1)汽車を降りたのはふたりだけだった。 →降りた乗客に対して、乗った乗客の情報を求める。が、語りの視点は、「ふたり」へ向けられていくことは、認識して、この先に「ふたり」に関する情報を期待する。 | 語りが焦点を合わせる境界の外を、常に把握しようとする思考が働いている。作者名に対する推測において、「含みがある」と感じているため、語りの視点に惑わさないで、より広い視界を保とうとする意志が見受けられる。 |
(2)シャツの襟が汗で汚れるのを防ぐためだろう、頸から手拭いを垂らした年配の駅員が柱に凭れて改札口の番をしていた。 →明治か昭和初期、夏、人気のない、汚い駅 戦前、きたない駅とは、テクスト内 の情報から得たものではなく、テクスト外に抱く、個人的なコードによるイメージから来るものであろう。 | |
(3)その駅員の手に押しつけるようにして切符を二枚渡し、待合室をほんの四、五歩で横切ってぼくは外へ出た。 →「切符を二枚」から、「ぼく」が「ふたり」のうちの一人で、もう一人に対して、主導権を握っている立場にあると推測する。 | |
(4)すぐ目の前を、荷車を曳いた老馬が尻尾で蠅を追いながら通り過ぎ、馬糞のまじった土埃りと汗で湿った革馬具の饐えた匂いを置いていった。 →描写の内容に対して、疑問を抱く。 →細かな描写から、強く田舎という印象を受ける。 | 描写される場景を再現する過程において、読み手自身の現在では再現不能な箇所に、疑問を抱いている。つまり、再現不可能なものに対しては、不信感を抱くことになり、受け入れを拒む。 |
(5)土埃りと革馬具の饐えた匂いを深々と吸い込んでいると、弟が追いついてきて横に並んだ。 →(4)より、「匂い」に対して、マイナスイメージを抱いていたため、「深々と吸い込」む行動に、疑問を憶える。また、その理由を、ぼくにとって懐かしい匂いであるため、と推測する。 | |
(6)弟は口を尖らせていた。 | |
(7)ぼくがひとりでさっさと改札口を通り抜けたことが、自分が置いてきぼりにされたことが不満なのだろう。 | |
(8)「思いきり息をしてごらんよ」 | |
(9)弟にぼくは言った。 | |
(10)「空気が馬くさいだろう。 | |
(11)これがぼくらの生れたところの匂いなんだ」 →ふたりは田舎に帰省している。弟にとっては、兄が弟に、ここが生まれた場所だと、教えていることから、初めて訪れる場所であると解釈する。 | 「いなか」を、「生まれ故郷」という意味と、都会に対する「田舎」という意味との両方を混在させて解釈している。これは、読み手と書き手の間で異なる意味生産が行われているためだと考えられる。書き手が意味する内容が「いなか」という言葉によって、読み手に伝達されていないことになる。読み手の中では、生まれ故郷とは常に田舎であるという自明の真理として、認識されている。そのため、「ぼく」の発言は、「ぼくらの生まれ故郷は田舎である」ではなく、「この地がぼくらの生まれ故郷である」という解釈になる。 |
(12)弟はボストンバッグを地面におろし、顔をあげて深く息を吸い込んだ。 | |
(13)「どうだ、この匂いを憶えているだろう?」 | |
(14)「ぜんぜん」 →ぼくと弟の匂いに対する記憶の違いが、ふたりの年齢差を意識させることになる。 | ふたりの「匂い」に対する心情に注目するのではなく、「匂い」に対する心情の違いから、人物設定へと目を向ける。 |
(15)孤児院のカナダ人修道士がよくやるように弟は肩を竦めてみせた。 →孤児院にいたのだろうかという推測がすぐさま働く。 | |
(16)「べつにどうってことのない田舎の匂いじゃないか」 →弟のことばからは、彼が生意気であるという印象を受けるものになる。 | |
(17)弟がこの町を出たときはまだ小さかった。 →(15)の推測より、孤児院に入るため、この地を去ったと解釈する。 →「孤児院」ということから、親の状況を求める。 孤児院=ふたりは孤児である、とい う解釈にはつながっていない。あるいは、孤児であったとしても、親の死因に関する情報を求めていると思われる。 | (15)の推測はかなり、妥当性の高いものとして、捉えられている。そのため、すぐさま、弟がこの町を去った理由を、推測する思考へつながる。 |
(18)この匂いが記憶にないのは当然かもしれない。 | |
(19)でもぼくにはこの馬の匂いと生れ故郷の町とを切り離して考えることは出来なかった。 |
<能動的読みの活動> |
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