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小説の冒頭部の機能について



野浪正隆

0. 冒頭部とは


時枝誠記『文章研究序説』に、冒頭の種類が挙がっている。
  1. 全体の輪郭、枠の設定であって、時、所、登場人物が提示される。
    昔昔、ある所に、おじいさんとおばあさんがありました。
  2. 作者の口上、執筆の態度を述べたもので、本文に述べられる事柄とは明かに次元を異にしてゐる
    男もすなる日記といふものを、女もして見むとてするなり
  3. 全体の要旨、筋書、概要を述べる。前項(2)の冒頭が、表現に対して異次元のものであるのに対して、この冒頭は、本文と同一次元のものである。
  4. 作品展開の種子或いは前提となる事柄の提示。
    行く川の流れは絶えずしてしかしもとの水にあらず、よどみに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しくとどまりたるためしなし世の中にある人と栖と又かくのごとし云々
  5. 作者の主題の表白
また、冒頭のない文章について
 素材や題材に対して読者の自由な判断や評価を求めようとする場合には、作者の立場や態度を、読者に最初からおしつけるということは好ましくないことであり、また避けなければならないことである。以上のような理由からであろうか、近代小説においては、特に無冒頭の表現技法が試みられて来てゐる。これは、作者を媒介とせずして、作中人物と事件とを、直接に読者に対せしめるという意味を持つてゐる。
例へば、漱石の『虞美人草』の書き出しは、
  随分遠いね。元来何處から登るのだ。
 と一人が半巾で額を拭きながら立ち留まった。
  何處か己にも判然とせんがね。何處から登ったつて同じ事だ。山はあすこに見えて居るんだから。
 と顔もからだも四角に出来上がった男が無雑作に答へた。
これは、『虞美人草』の書き出しではあっても、冒頭と云われるべきものではない。ここでは、読者はまだ「時」も「場所」も「人物」も何も紹介されてはいない。作者が「何」を「どのやうに」書くかも知らされてはゐない。読者はただ登場人物の行動に、ついて行くことだけが要求されてゐるに過ぎない。近代小説は一般にこのやうなかきだしになつてゐる。
と書かれている。これを仮に「時枝6 無冒頭の書き出し」としておこう。
 時枝の冒頭・書き出しの整理をバージョンアップするとしたら、どうなるだろうか。
 まず、叙述内容によって二分できる。

 1 表現主体を叙述しているのか
   時枝2 作者の口上、執筆の態度を述べたもの
   時枝5 作者の主題の表白

 2 作品世界を叙述しているのか
   時枝1 全体の輪郭、枠の設定であって、時、所、登場人物が提示される。
   時枝3 全体の要旨、筋書、概要を述べる。
   時枝4 作品展開の種子或いは前提となる事柄の提示。
   時枝6 無冒頭の書き出し

2には、異質なものが混在しているので、さらに分ける。
 2A 叙述内容が作品世界の時間軸上に並ばない
   時枝3 全体の要旨、筋書、概要を述べる。

 一つの時間が総叙された部分と細叙された部分とが並ぶ。繋がる時間が並んでいるのではない。一つの時間が叙述の密度を変えて二回述べられている。

 2B 叙述内容が作品世界の時間軸上に並ぶ
   時枝1 全体の輪郭、枠の設定であって、時、所、登場人物が提示される。

登場人物の恒常的事態が提示される。「おじいさんとおばあさんがありました」と。もし、行動の発端結末が提示される場合は、2Aに分類される。

   時枝4 作品展開の種子或いは前提となる事柄の提示。

表現主体にとっての「種子或いは前提となる事柄」であって、作品世界の時間と無関係ならば、1に分類される。表現主体としての「私」と、登場人物としての「私」とが密接である場合は分類が難しい。作品世界を優先させて、1に分類するより、2に分類するのが良いと思われる。

   時枝6 無冒頭の書き出し

時の順に並んでいることが必須ではない。物語世界の現在場面から始まって、回想場面につながっていても、作品世界の時間軸上に並んでいるのであるから。

 「作品世界中の事件から述べられているか」を加味して、最終的に次の分類になる。

1 表現主体を叙述している
時枝2 作者の口上、執筆の態度を述べたもの
時枝5 作者の主題の表白

2 作品世界を叙述している
2A 叙述内容が作品世界の時間軸上に並ばない
時枝3 全体の要旨、筋書、概要を述べる。
2B 叙述内容が作品世界の時間軸上に並ぶ
2B1 作品世界中の事件から述べられていない
時枝1 全体の輪郭、枠の設定であって、時、所、登場人物が提示される。
2B2 作品世界中の事件から述べられている
時枝4 作品展開の種子或いは前提となる事柄の提示。
時枝6 無冒頭の書き出し

時枝は、無冒頭の書き出しについて、さらに次のように述べている。
文章表現といふものは、畢竟、冒頭を免れることが出来ないものであって、それは文章の根本的性格である線条性、継時性ということに由来するのであらう。むしろ『虞美人草』の書き出しの如きは、むしろ破格の技法としてものと見るべきではないかと思ふ。

 冒頭部には、主題・話題という読み手が最終的に受け取るべき「内容」、表現主体の立場・執筆態度という「内容に対するバイアス」のいくつかが明示される。明示されない「書き出し」には、暗示されているのだと考えてみることにしよう。書かれてはいないけれど、読み手が推測しなければならないものとしてあるのだという考え方である。

 以下で取り扱う文章は、近代小説であるので、その多くは「無冒頭の書き出し」である。「無冒頭の書き出し」に、どのように冒頭部の機能が組み込まれているのかを分析する。


1 実際の冒頭部

 藤沢周平のいくつかの作品と、芥川龍之介のいくつかの作品の冒頭を使って、「無冒頭の書き出し」に、冒頭部の機能が組み込まれているのかを分析する。(行頭の数字は、便宜のために振った文番号である。形式段落を示すスペースを残している)

藤沢周平『邪剣竜尾返し』冒頭

  1.  赤倉不動は城下から南に一里半。
  2. 赤倉山の麓から二十丁ほど谷に分け入ったところにある。
  3. 女の足で城下から日帰り出来る場所である。
  4.  檜山絃之助は、日暮れに着いてすぐ祈祷を受け、お札をもらうとお篭り堂に入った。
  5. 例年矢尾がきてお参りして行くのだが、去年の秋、母が足を痛めて代りに来ると、その後絃之助の役目のようになった。

 1・2・3文は、赤倉不動の地理的説明である。城下との位置関係(方角・距離)と城下に住む者(特に女)との関係(気安く行き来できる場所)が示される。そのような場所に男である檜山絃之助がわざわざ日暮れに到着しお篭りすることによって事件がおこる。作品世界の空間の説明にさりげなく挿入された「女の足で」が、後の展開を暗示している。
 冒頭の分類では「2B1 作品世界中の事件から述べられていない。全体の輪郭、枠の設定であって、時、所、登場人物が提示される。」に含まれるが、全体の輪郭まで設定されてはいない。事件の発端となる場所が説明されているだけである。ただ、赤倉不動と城下との関係が、作品世界全体とゆるやかに連続している。

藤沢周平『鬼気』冒頭

  1.  徳丸弥一郎の木刀が、見事に相手の胴に決まった。
  2. 間合い一寸まで詰めてぴたりと止まっている。
  3. 「参った」
  4. 相手の斎田彦之進は、ふりかぶった木刀を置くと、軽く後に飛んで言った。
  5. 「それまで」
  6. 判じ役の加治五郎左衛門が宣告すると、見物の席からどよめきの声が挙がった。
  7. これで三年続けて、紅白試合は紅組の勝ちが決まったわけである。

 1・2文は、登場人物の行動が、木刀の静止した状態の描写によって描かれている。1文は「木刀が見事に……決まった」という木刀の状態に対する意味付けが述べられる。瞬時の事態に対する意味付けは、その場面に密着した視点からなされたと見るのが自然である。徳丸弥一郎か見物衆か判じ役かそれとも、その場に布置された客観視点かであろう。どの視点かは不定であるが、ともかくも、その場面に密着した視点に読み手は誘導される。そして、2文は、その視点から、木刀の静止した状態を見ることになる。
 「徳丸弥一郎の木刀が、見事に相手の胴の間合い一寸まで詰めてぴたりと止まっている。」を単に二文に分けたのではない。「見事に……決まった」が含んでいる意味付けが読み手をその場の視点に誘導し、「ぴたりと止まっている」木刀をとらえさせるのである。

藤沢周平『好色剣流水』冒頭

  1.  御供目付志賀善八の屋敷から、謡の声が洩れて来る。
  2. ――この世はとてもいくほどの、命のつらさ末近し、はや立ち帰り亡きあとを、弔いたまえ盲目の……。
  3. 曲は景清の一節らしい。
  4. 同じところを、それも大勢の声で繰り返し朗唱しているのは、稽古をしているのだ、と塀外を行く者は耳にとめながら通りすぎる。
  5. 梅雨もよいの暗い空に、志賀家の鬱うつと茂る樹木が、塀の外まで顔を出していて、謡の声は遠く篭って聞こえる。
  6. 「三谷」
  7. 不意に謡の声をとめて、志賀家の隠居平右エ門が呼んだ。
  8. にがい顔をしている。
  9. 「なにをそわそわしておる。みておると、さきほどから少しも稽古に身が入っておらんではないか」

 1文は、事態描写文。「謡の声が洩れて来る。」であって、「謡の声が洩れている。」や「謡の声が洩れて行く。」ではない。「洩れて来る謡の声」を聞いているのは、4文でやっと登場する「塀外を行く者」である。
 2文は、謡の声そのもの。会話描写と引用の中間。
 3文は、判断文。「塀外を行く者」の判断か、あるいは、語り手の判断。視点人物が誰であるのかが明示されない場合は、語り手の判断であると考えておくことが多い。ただし、「洩れて来る」のを聞く主体が誰とは分からないながらも、誰かなんだろうと考えておくこともある。
 4文は、移動文。やっと「塀外を行く者」が登場する。固有の人物でもないし、「塀外を行く人は全て」という一般でもない中間的な「塀外を行く者」である。(固有の人物であるなら、その固有人物の視点から先行叙述内容がとらえられていたということであるし、「塀外を行く人は全て」であるなら、語り手の視点からということになるが)
 5文は、聴覚描写文。1〜4文が聴覚描写本位であったのに対して、視覚描写本位である。聞こえ方に対する理由説明のようにも読める叙述である。「塀の外まで顔を出していて」であって、「塀の外まで顔を出しているので」でない。因果関係を明示しない叙述である。「梅雨もよいの暗い空」「鬱うつと茂る樹木」「篭って」と閉塞感につながる事態が一文中に三回使われている「わざとらしい」叙述である。誰かの「閉塞感」を表す心象風景描写であると読める。
 6文は、5文から一行空いての会話描写である。名前だけの。
 7文の「謡の声」、「志賀家」によって、1〜5文で掘外から聞いていた志賀家屋敷内の謡の稽古の場面に切り替わったことが分かる。映画・演劇に良く見られる場面切り替えである。1〜5文で想定されていた視点は、廃棄され、6文からの新たな視点(客観視点)に切り替わる。

 1〜5文は、6文以降の場面を設定するためだけに置かれたのではないだろう。作品全体とかかわるであろう「閉塞感」と、閉塞状況にありながらも外に「聞こえる」ことを暗示するために置かれたのであろう。冒頭の分類では、2B1の「全体の輪郭、枠の設定」の機能も併せ持つ 2B2「無冒頭の書き出し」ということになるだろう。

藤沢周平『おつぎ』冒頭

  1.  誰かに見られている、と思った。
  2. かなり酔いが回っていたが、その気配がわかった。
  3. 三之助は顔を上げた。
  4.  すると、酔ってざわめいている同業仲間のむこうからこちらに眼をむけていた女が、つと顔をそむけたのが見えた。
  5. 三之助を見ていたのはその女だったようである。
  6. ――おや?
  7.  眼を合わせたのは一瞬だが、小麦色の肌と勝気そうな眼に見おぼえがあるような気がして、三之助は首をかしげた。

 1文は、誰かの心理描写。「思った」主体に、視点が置かれることになる。読み手は、三人称限定視点であろうと推測することになる。
 2文も、誰かの心理描写。「かなり酔いが回っていた」という自覚、「その気配がわかった」という自覚が心理描写されている。1文の心理描写からの継続である。もし1・2文が「かなり酔いが回っていたが、誰かに見られている、その気配がわかった。」となっていたとしたら、緊迫感が薄れたであろうし、視点設定の強さも減じたであろう。
 3文で、視点人物登場。ところが、ここまでの叙述は心理描写であって、視覚描写ではない。この視点人物登場の遅延によって、

という効果を生じる。

藤沢周平『怠け者』冒頭

  1.  目ざす店が見えて来たところで、甥の佐吉は足をとめると弥太平を振りむいた。
  2. 「伯父さん、覚悟はいいね」
  3. 「なにがよ?」
  4. 「辛抱して、ちゃんと勤めてくださいよってこと。今度はウチの旦那の口ぞえももらってることだし、ひと月やふた月の勤めで、ふらふらやめられたりすると困るんだ」
  5. 「わかってるさ」
  6. と言ったが、弥太平はそいつは丸子屋に行ってみての話だと思った。
  7. 朝から晩までこき使うような店だったら、辛抱もへちまもありやしねえ。

 1文は、客観視点による人物の行動描写のように見える。行動主体である佐吉に焦点があるように見える。また、弥太平に視点があって、佐吉を見ているようにも読める。視点の位置は決まらない。
 2〜5文は会話描写。視点の位置の手がかりにはならない。人物関係が示されているだけである。
 6文での弥太平の心理描写によって、やっと視点の位置が弥太平に定まる。読み手は視点人物を贔屓目に見るものである。弥太平の立場から言えば、「そいつは丸子屋に行ってみての話だ」というのは当然だと受け取るし、「ひと月やふた月の勤めで、ふらふらやめ」たといっても、それなりの理由があってのことだろうと受け取る。ところが、7文の「朝から晩までこき使うような店だったら、辛抱もへちまもありやしねえ。」には、ちょっと引っ掛かる。当時そういう労働条件は普通なのではないか、弥太平は本当に怠け者なんじゃないかという疑惑である。これが、贔屓目と衝突する。

藤沢周平『追われる男』冒頭

  1.  足音をしのばせて台所に行くと、喜助は水を飲んだ。
  2. 家の中にひとがいる気配をさとられてはならないし、水を飲んだために小用が近くなっても困るのだが、喉がかわいて我慢が出来なかった。
  3. 渇きはうだるような暑さのせいでもあるが、半ばは恐怖からも来ている。
  4. この町に走りこむところを喜助は手先の一人にみられている。
  5. 名前は知らないが岡っ引与之助に使われている男だ。
  6. いまごろ与之助の手先たちは、虱つぶしにこの町を捜しまわっているに違いなかった。

 1文の喜助の行動描写から始まる。客観視点のように見えるが、「足音をしのばせて」という意思的で客観からは不可知な様態の叙述によって、喜助の視点である可能性もある。
 2文以降の喜助の判断が描写されていくことによって、喜助の視点に確定する。ただし、まったく喜助の視点だけかと言うと、3文の「渇きはうだるような暑さのせいでもあるが、半ばは恐怖からも来ている。」という解説は語り手の視点からであろうし、4文の「喜助は」も喜助視点からの叙述とはとらえがたい(喜助視点からならば、「喜助は」を省略するだろう。ただし、そうすると、主人公の「喜助」という名前は1文だけに出ることになり、冒頭部の人物設定という機能からはまずいことになる)。
 ともかくも、語り手視点は喜助を客観的に観察しようと言う視点ではなくて、喜助視点に随伴する視点だと考えられる。
 この冒頭部でのもう一つの特徴は、2文の「渇き感覚」による視点誘導である。

藤沢周平『禍福』冒頭

  1.  四月の七ッ(午後四時)下がりにしては、暑すぎる日射しだった。
  2. 幸七は歩きながら腰の手拭いを取って、顔の汗を拭いた。
  3. 汗は顔だけでなく、膚にもにじんでいた。
  4.  幸七は小間物売りである。
  5. 背に小間物の荷を背負って、小旗本や御家人の組屋敷がならぶ、南本所の武家町を歩いていた。
  6. 両側に板塀がつづく武家町の路地は、歩いているひとの姿もなく静まりかえって、時おり風が吹き過ぎると、塀の内の木々の若葉がひとしきり日をはじいてざわめくだけだったが、その風も生あたたかかった。
  7. ――まるで、真夏じゃねえか。
  8. 背中の荷をゆすり上げながら、幸七はそう思った。
  9. 不機嫌になっていた。

 1文「暑すぎる」という判断は誰のものか。場面に入り込んでいる語り手か、後に登場するであろう視点人物か。まずは、視点の位置不定のまま始まる。
 2文は、幸七の行動描写であり、3文は幸七の静態描写である。まだ、視点の位置不定のままである。幸七という視点人物になりうる可能性のある人物が登場したのであるが、2・3文が幸七視点からの描写であるとはとらえにくい。
 4文は、語り手からの解説である。(幸七は視点人物ではないのか?)
 5文も、語り手から幸七の行動を要約的に描写(記述)したものである。 6文「生あたたかかった」、幸七の皮膚感覚である。
 7〜9文、幸七の心理描写である。

 皮膚感覚描写から心理描写へという描写内容の質的変化によって、幸七視点への誘導が実現している。1〜3文の「暑すぎる」「汗」によって、不定ながら確保しておいた幸七視点に、やっと誘導されたことになる。
 ここでも、視点誘導に皮膚感覚描写が働いている。

 以上のような無冒頭の書き出しは、もちろん藤沢周平特有ではない。時枝の1〜5の冒頭の機能は、無冒頭の書き出しのいくつかの仕掛けによって充分にではないが実現されていることが分かる。さらに無冒頭の書き出しには、視点人物設定のための仕掛けが施されていることが分かる。登場人物の視点に、自然にスムーズに確実に強く読み手を誘導ための仕掛けである。これは、次に挙げる芥川龍之助の作品の冒頭と対比的である。

芥川龍之介『アグニの神』冒頭

  1.  支那の上海の或町です。
  2. 昼でも薄暗い或家の二階に、人相の悪い印度人の婆さんが一人、商人らしい一人の亜米利加人と何か頻に話し合っていました。

 1文は判断文。場所の提示である。「ここは」が省略されていて、「ここは〜です」という説明らしい文型にはなっていないが、語り手の視点からの説明であることには違いない。
 2文は、行動継続文。より詳細な場所の提示と、人物の提示である。「人相の悪い印度人の婆さん」「商人らしい一人の亜米利加人」と、語り手からの評価・解釈が含みこまれた、作品世界内部に布置された語り手の視点から行動が記述されている。
物語る視点による、冒頭である。
 「時枝1 全体の輪郭、枠の設定であって、時、所、登場人物が提示される。」という冒頭らしい冒頭である。
「2B1 作品世界中の事件から述べられていない」とは言えないかもしれない。「話し合っていました。」は、作品世界の事件の一部とも考えられるからである。ただし、行動の継続が状態として叙述されているので、事件が本来持っている動的な性格はない。「事件から述べられていない」を動的性格の欠如とするならば、この冒頭は2B1ということになる。

芥川龍之介『おぎん』冒頭

  1.  元和か、寛永か、とにかく遠い昔である。
  2.  天主のおん教を奉ずるものは、その頃でももう見つかり次第、火炙りや磔に遇わされていた。
  3. しかし迫害が烈しいだけに、「万事にかない給うおん主」も、その頃は一層この国の宗徒に、あらたかな御加護を加えられたらしい。
  4. 長崎あたりの村村には、時時日の暮の光と一しょに、天使や聖徒の見舞う事があった。
  5. 現にあのさん・じょあん・ばちすたさえ、一度などは浦上の宗徒みげる弥兵衛の水車小屋に、姿を現したと伝えられている。
  6. と同時に悪魔もまた宗徒の精進を妨げる為、或は見慣れぬ黒人となり、或は舶来の草花となり、或は網代の乗物となり、屡同じ村村に出没した。
  7. 夜昼さえ分たぬ土の牢に、みげる弥兵衛を苦しめた鼠も、実は悪魔の変化だったそうである。
  8. 弥兵衛は元和八年の秋、十一人の宗徒と火炙りになった。
  9. ――その元和か、寛永か、とにかく遠い昔である。

 1〜9文全て、語り手の視点による時代の設定を目的とした解説である。
「万事にかない給うおん主」の「あらたかな御加護」が、冒頭部以降と何らかの関係があることを読み手に推測させる詳しい解説である。

芥川龍之介『おしの』冒頭

  1.  此処は南蛮寺の堂内である。
  2. ふだんならばまだ硝子画の窓に日の光の当っている時分であろう。
  3. が、今日は梅雨曇りだけに、日の暮の暗さと変りはない。
  4. その中に唯ゴティック風の柱がぼんやり木の肌を光らせながら、高だかとレクトリウムを守っている。
  5. それからずっと堂の奥に常燈明の油火が一つ、龕の中に佇んだ聖者の像を照らしている。
  6. 参詣人はもう一人もいない。

 1文は、作品世界内部に布置された語り手の視点からの解説である。「此処は」によって、読み手は語り手の視点がある作品世界内部に誘われる。
 2・3文も語り手の視点からの解説である。
 『羅生門』の冒頭と、良く似ている。ちょっと寄り道する。

芥川龍之介『羅生門』冒頭

  1.  或日の暮方の事である。
  2. 一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。
  3. 広い門の下には、この男の外に誰もいない。
  4. 唯、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。
  5. 羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男の外にも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。
  6. それが、この男の外には誰もいない。

 「普段なら……なのだけれど、今日はこうである」という今日が特殊であることの解説のパターンである。
「4 その中に唯ゴティック風の柱がぼんやり木の肌を光らせながら、高だかとレクトリウムを守っている。」と「4 唯、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。」という事物描写も良く似ている。何文かの解説の後に事物描写を置くと言う「叙述のリズム」も似ている。「6 参詣人はもう一人もいない。」 と「6 それが、この男の外には誰もいない。」も似ている。

 ただし、『おしの』では、登場人物がいなくて、全てが語り手視点からの叙述で、南蛮寺が無人であることが述べられているのに対して、『羅生門』では、下人が登場していて、語り手視点から下人が一人であることが述べられているという違いがある。当然、『羅生門』では、その一人である下人が主人公の候補であると推測される。『おしの』では、題名で示されている『おしの』を冒頭部で登場させないことで、登場への期待を高めて、視点移入をスムーズにさせるという効果が狙われていると考えられる。

芥川龍之介『きりしとほろ上人伝』小序

  1.  これは予が嘗て三田文学誌上に掲載した「奉教人の死」と同じく、予が所蔵の切支丹版「れげんだ・おうれあ」の一章に、多少の潤色を加えたものである。
  2. 但し「奉教人の死」は本邦西教徒の逸事であったが、「きりしとほろ上人伝」は古来洽く欧洲天主教国に流布した聖人行状記の一種であるから、予の「れげんだ・おうれあ」の紹介も、彼是相俟って始めて全豹を彷彿する事が出来るかも知れない。

芥川龍之介『或阿呆の一生』冒頭

  1.  僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思っている。
  2.  君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知っているだろう。
  3. しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずに貰いたいと思っている。
  4.  僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしている。
  5. しかし不思議にも後悔していない。
  6. 唯僕の如き悪夫、悪子、悪親を持ったものたちを如何にも気の毒に感じている。
  7. ではさようなら。
  8. 僕はこの原稿の中では少くとも意識的には自己弁護をしなかったつもりだ。
  9.  最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知っていると思うからだ。
  10. (都会人と云う僕の皮を剥ぎさえすれば)
  11. どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑ってくれ給え。
  12. 昭和二年六月二十日  芥川龍之介
  13. 久米正雄君

 典型的な「1 表現主体を叙述している。時枝2 作者の口上、執筆の態度を述べたもの」である。次の『河童』も形としては同じなのだが、

芥川龍之介『河童』冒頭

  1.    どうかKappaと発音して下さい。
  2.  序
  3.  これは或精神病院の患者、――第二十三号が誰にでもしゃべる話である。
  4. 彼はもう三十を越しているであろう。
  5. が、一見した所は如何にも若々しい狂人である。
  6. 彼の半生の経験は、――いや、そんなことはどうでも善い。
  7. 彼は唯じっと両膝をかかえ、時々窓の外へ目をやりながら、(鉄格子をはめた窓の外には枯れ葉さえ見えない樫の木が一本、雪曇りの空に枝を張っていた)院長のS博士や僕を相手に長々とこの話をしゃべりつづけた。
  8. 尤も身ぶりはしなかった訣ではない。
  9. 彼はたとえば「驚いた」と言う時には急に顔をのけ反らせたりした。……

『河童』の語り手は二重になっている。

 冒頭の彼についての記述は、語り手によるものである。それは、作品世界中の語り手である「彼」の「作者の口上、執筆の態度」である。

芥川龍之介『開化の殺人』冒頭

  1.  下に掲げるのは、最近予が本多子爵(仮名)から借覧する事を得た、故ドクトル・北畠義一郎(仮名)の遺書である。
  2. 北畠ドクトルは、よし実名を明にした所で、もう今は知っている人もあるまい。
  3. 予自身も、本多子爵に親炙して、明治初期の逸事瑣談を聞かせて貰うようになってから、初めてこのドクトルの名を耳にする機会を得た。
  4. 彼の人物性行は、下の遺書によっても幾分の説明を得るに相違ないが、猶二三、予が仄聞した事実をつけ加えて置けば、ドクトルは当時内科の専門医として有名だったと共に、演劇改良に関しても或急進的意見を持っていた、一種の劇通だったと云う。
  5. 現に後者に関しては、ドクトル自身の手になった戯曲さえあって、それはヴォルテエルの Candide の一部を、徳川時代の出来事として脚色した、二幕物の喜劇だったそうである。

 この『開化の殺人』の冒頭は、「1 表現主体を叙述している。時枝2 作者の口上、執筆の態度を述べたもの」である。「本多子爵(仮名)」や「北畠義一郎(仮名)」が虚構か否かは問題ではない。(普通の読者には、分からない)

つまるところ、

主として担うのであろう。


2.おわりに

 『田舎教師』『城のある町にて』ともに、主人公の名前が明らかになるのは、冒頭から数文のちである。その数文を比較すると

田山花袋『田舎教師』冒頭

  1.  四里の道は長かった。
  2. その間に青縞の市の立つ羽生の町があった。
  3. 田圃にはげんげが咲き豪家の垣からは八重桜が散りこぼれた。
  4. 赤い蹴出を出した田舎の姐さんがおりおり通った。
  5.  羽生からは車に乗った。
  6. 母親が徹夜して縫ってくれた木綿の三紋の羽織に新調のメリンスの兵児帯、車夫は色の褪せた毛布を袴の上にかけて、梶棒を上げた。
  7. 何となく胸が躍った。
  8.  清三の前には、新しい生活がひろげられていた。

 1文は、判断文である。誰の判断かは分からない。語り手のなのか、後に明らかになる視点人物のなのか。(この不定状態は、8文まで続く)
 2文は、存在文である。しかし、存在の仕方について詳述されていない。
 3文は、状態文である。類型的な描写である。ひょっとしたら、季節を示すためだけの叙述かもしれないと思わせるような描写である。
 4文は、移動文である。反復された移動なので、要約的描写(記述)である。
これも、ひょっとしたら、田舎であることを示すためだけの叙述かもしれないと思わせるような記述である。
 6文前半には述語がない。補うとすれば、
  「母親が徹夜して縫ってくれた木綿の三紋の羽織に新調のメリンスの兵児帯(を着た私に)、
となるか。述語が省略されているほうが、羽織や兵児帯が見えやすい。(を着た私に)と補ったりすると、私でない客観視点からの描写になってしまって、登場人物の視点による描写という可能性を消してしまうので、まずいのだろう。ともあれ、6文は1〜5文に比べて描写らしい描写になっている。
 7文の心理描写とあわせて、語り手視点からの叙述という可能性は、消えた。
 8文で「清三」という人物名が示されて、清三が視点人物なのだろうと推測することになる。ただし、「清三の前には、新しい生活がひろげられていた。」という叙述は、抽象的である。

梶井基次郎『城のある町にて』冒頭

  1. 「高いとこの眺めは、アアッ(と咳をして)また格段でごわすな」
  2.  片手に洋傘、片手に扇子と日本手拭を持っている。
  3. 頭が奇麗に禿げていて、カンカン帽子を冠っているのが、まるで栓をはめたように見える。
  4. ――そんな老人が朗らかにそう云い捨てたまま峻の脇を歩いて行った。

 1文は、会話描写。誰の会話なのか、誰が聞いているのかは分からない。語り手が聞いているのか、後に明らかになる視点人物が聞いているか。(この不定状態は、4文まで続く)
 2文は、状態文。詳しい描写である。誰の姿なのか(1文の会話主体であろうが)、誰がそれを見ているのかは、分からない。
 3文は、視覚描写文。1〜2文の人物を誰かが見ている。そして、「まるで栓をはめたように」と判断している。
 4文は、移動文。老人の移動が詳しく描写されている。そして、「峻」という人物名が提示される。たぶん、視点人物なのだろうと推測することになる。 視点人物の候補が現れるまでに、

という違いがある。
より自然にスムーズに確実に強く読み手を、登場人物の視点に誘導するのは、梶井基次郎『城のある町にて』の冒頭である。無冒頭の書き出しといっても、いくつかのレベルがありそうである。

(のなみまさたか)


注記

時枝誠記『文章研究序説』 昭和35年9月1日初版発行 山田書院 p52〜p68
藤沢周平『邪剣竜尾返し』 文春文庫『隠し剣孤影抄』所収
藤沢周平『好色剣流水』 文春文庫『隠し剣秋風抄』所収
藤沢周平『おつぎ』 新潮文庫『龍を見た男』所収
藤沢周平『怠け者』 新潮文庫『霜の朝』所収
藤沢周平『追われる男』 新潮文庫『霜の朝』所収
藤沢周平『禍福』 新潮文庫『霜の朝』所収
芥川龍之介『アグニの神』 新潮文庫『杜子春・蜘蛛の糸』所収
芥川龍之介『おぎん』 新潮文庫『奉教人の死』所収
芥川龍之介『おしの』 新潮文庫『奉教人の死』所収
芥川龍之介『羅生門』 新潮文庫『羅生門・鼻』所収
芥川龍之介『きりしとほろ上人伝』 新潮文庫『奉教人の死』所収
芥川龍之介『或阿呆の一生』 新潮文庫『河童・或阿呆の一生』所収
芥川龍之介『河童』 新潮文庫『河童・或阿呆の一生』所収
芥川龍之介『開化の殺人』 新潮文庫『戯作三昧・一塊の土』所収
田山花袋『田舎教師』 新潮文庫『田舎教師』所収
梶井基次郎『城のある町にて』 新潮文庫『檸檬』所収

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