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藤沢周平『蝉しぐれ』における剣技の描写について

野浪正隆

0. はじめに

 物語世界で起こる出来事をリアルに感じさせるために行動描写がどう書かれているのかを、藤沢周平『蝉しぐれ』の剣技の描写を分析することで明らかにする。剣技の描写に限定したのは、剣技が瞬間的な動きであることと日常にない動きなので、描写の性質が表れやすいと思うからである。

1.0 分析の順序

 藤沢周平『蝉しぐれ』は、

「朝の蛇」「夜祭り」「嵐」「雲の下」「黒風白雨」「蟻のごとく」「落葉の音」「家老屋敷」「梅雨ぐもり」「暑い夜」「染川町」「天与の一撃」「秘剣村雨」「春浅くして」「行く水」「誘う男」「暗闘」「罠」「逆転」「刺客」「蝉しぐれ」
の21章でできていて、そのうち剣技の描写があるのは、
連番章タイトル形式段落誰対誰状況
1朝の蛇1〜2牧文四郎 対 矢田作之丞道場での稽古
2落葉の音1〜14牧文四郎 対 犬飼兵馬道場での練習試合
3梅雨ぐもり1〜10牧文四郎 対 架空の敵道場での一人稽古
4梅雨ぐもり24〜33牧文四郎 対 石栗弥左衛門道場での稽古 道場主の特別レッスン
5梅雨ぐもり37〜41牧文四郎 対 石栗弥左衛門道場での稽古 道場主の特別レッスン
6梅雨ぐもり16〜17牧文四郎 対 大橋市之進道場での練習試合
7暑い夜13〜32牧文四郎 対 布施鶴之助羽がいじめ
8天与の一撃1〜24牧文四郎 対 興津新之丞御前試合 二本目
9天与の一撃1〜24牧文四郎 対 興津新之丞御前試合 三本目
10誘う男64牧文四郎 対 犬飼兵馬道場での練習試合
11暗闘10〜12二人の男たち 対 数人の男たち夜の街中
12逆転66誰か 対 誰か屋敷の外
13逆転23〜39牧文四郎・布施鶴之助 対 村上七郎右衛門その他8人 屋敷内
14逆転1〜17牧文四郎・布施鶴之助 対 村上七郎右衛門・犬飼兵馬その他 屋敷内
15逆転42〜44牧文四郎 対 忍びの男街路
16逆転21〜24牧文四郎 対 小柄で敏捷そうな身体つきの男里村の屋敷
17逆転44〜47牧文四郎 対 里村家老里村の居室
18刺客31〜34牧文四郎 対 三宅藤右衛門街路
の18場面である。
 剣技の描写を
の3つに分けて、それぞれを検討する。

1.1 他者同士の立ち会いの剣技の描写

 1.1.1  暗闘 三 10〜12 

(1) 逸平がそう言ったとき、前方に見えている町の出口のあたりに、突然数人の人影が現れた。
(2) 黒っぼい姿の武家の男たちだった。
(3) 男たちは走っていた。
(4) そして町の出口を横切る形で左から右に移動したと思うと、そこで急にもつれ合い、二人がころんだ。
(5) だが、そのときには文四郎にも逸平にも、前方で何が行われているのかがわかっていた。
(6) 男たちがもつれ合って走ったとき、遠い灯に光ったのは白刃である。
(7) 声は聞こえなかった。
分析

 文四郎の視点から、逸平の発言を聞きながら、やや離れた街の出口で起こっている事態を描いている。
(1)「あたりに」(2)「黒っぽい」という不確定さが、男たちの行動する場所と文四郎が見ている場所との物理的距離を感じさせる。

(1') 逸平がそう言ったとき、前方に見えている町の出口に、突然三人の人影が現れた。
(2') 黒い姿の武家の男たちだった。
対象の描き方が確定的になることで、離れ具合がより縮まるようである。
(2)「黒っぼい姿の武家の男たちだった。」、(3)「男たちは走っていた。」は、男たちの行動を単文(1行動主体+1行動でできた文)で描いている。緊迫感や出来事の展開の速さを感じさせる描き方である。
(2)「黒っぼい姿の武家の男たちだった。」は、ウナギ文として「黒っぼい姿の武家の男たちガアラワレタ」と読み替えるだけではなく、文四郎の判断結果を示した心理描写としても読むことができる。
(6) 「男たちがもつれ合って走ったとき、遠い灯に光ったのは白刃である。」を「男たちがもつれ合って走ったとき、白刃が遠い灯に光った。」の強調表現とすると、光ったときに「白刃」を認識したという発見性が消えてしまうので、文四郎の判断結果を示した心理描写として読むのであろう。見えるもの聞こえるものを描きながら、現象文では書かずに判断文で書くことで、視点人物の判断を表す「心理描写」としての働きを持たせる叙述法である。
下線部は、文四郎に視点があることを示す働きを持たせることで、男たちの行動と文四郎を心理的につなぐ働きをしている。

1.1.2  逆転 一 66

(1) 磯貝がそこまで言ったとき、突然に外の方で重い物が倒れるような物音がした。 (2) つづいて鋭い叫び声が上がり、その声に紛れもなく刀を打ち合う音がまじった。
分析

(1) 〜ガ言ッタトキ、ナニがドウシタ
という構文は、
 1.1.1  暗闘 三 10〜12
(1) 逸平がそう言ったとき、前方に見えている町の出口のあたりに、突然数人の人影が現れた。
と同じ。藤沢周平作品における場面転換のひとつの方法なのであろう。
また、「外の方で」「物が倒れるような物音」という不確定さが、誰かが行動する場所と文四郎が聞いている場所との物理的距離を感じさせる。
(2)「紛れもなく」という判断は、文四郎の心理描写であり、推測が確信に変化したことを、行動描写のなかに埋め込んでおく叙述法であると言える。

まとめ

以上二つの剣技の行動描写から、

という機能を持たせていることが分かった。

1.2. 文四郎と他者の立ち会いの短い剣技の描写

 なにをもって短い剣技の描写と考えるか。分量だけでなく、その部分の叙述上の違いがあるはずである。

1.2.1  朝の蛇 二 1〜2

(1a) 踏みこんで打ち合ったとき、
(1b) 矢田作之丞の竹刀は文四郎の肩にあたり、
(1c) 文四郎の竹刀は矢田の面を正確に打った。
(2a) 文四郎の竹刀がわずかにはやく、また打撃も強かったので、
(2b) 矢田は「おっ」と声を出してうしろにとぶと、鉢巻の上から打たれたところをおさえた。
(3) 石栗道場では、竹刀稽古のときに籠手をかばう手袋と、なめした獣皮で真綿をつつんだ鉢巻を用いる。
(4) いまの文四郎の打ちこみは、どうやら矢田の鉢巻の下までひびいたらしかった。
(5) 「よし、これまでにしよう」
(6) 矢田が言って竹刀をひき、ついで手袋と鉢巻をはずした。
(7) 見ると額が赤くなっている。
分析

(1a)(1b)(1c)は、重文(1)を動作主によって切り分けたものである。

文四郎と矢田 (1a) 踏みこんで打ち合ったとき、
矢田     (1b) 矢田作之丞の竹刀は文四郎の肩にあたり、
文四郎    (1c) 文四郎の竹刀は矢田の面を正確に打った。
 前節のまとめの「○ 単文の連続によって緊迫感や出来事の展開の速さを感じさせる」からいえば、緊迫感や出来事の展開の速さをやや感じさせにくい叙述になっている。しかし、出来事が同時に起こっているのだから、このような重文で書くのだろう。
(1a') 踏みこんで打ち合った。
(1b') 矢田作之丞の竹刀は文四郎の肩にあたった。
(1c') それより早く、文四郎の竹刀は矢田の面を正確に打っていた。
と変えても、緊迫感や出来事の展開の速さを感じさせることが出来ているとは言えないし、「それより早く」などの説明を入れなければ行動の前後関係が分かりにくくなってしまう。また、説明を入れることで、描写性は落ちてしまう。
 (1a)から(2b)までで、剣技を描写しておいて、(3)で石栗道場で使う道具の説明をする。(4)の「いまの文四郎の打ちこみは、どうやら矢田の鉢巻の下までひびいたらしかった。」という判断は文四郎の心理描写。心理描写は(4)のみで、剣技終了後の推測である。この部分全体が「こういう意図でこういう行動をして」という形になっていないところから、文四郎の面打ちが「まぐれ」とは言わないものの、今伸びようとしている少年剣士に起こった僥倖か、あるいは、無意識のうちに効果的な剣技が使えたこととして読めるように描いたと考えることができる。

1.2.2  梅雨ぐもり 二 16〜17

(1) しかし立ち会いをつとめた丸岡俊作が、一本とした判定をくずさなかったので、不満げに試合にもどったのだが、事件はその直後に起きた。
(2) 二、三回竹刀を合わせたあとで、文四郎の竹刀がぴしりと大橋の額を打った。
(3) 文句のない面打ちだったが、文四郎は丸岡の一本の声を聞きながら、つづけざまに電光のような一撃をはなった。
(4) 同じ場所を連打したのである。
(5) 額が裂けて、大橋は昏倒した。
(6) むろんそのことで、文四郎は丸岡俊作に強く叱責され、当日は居合わせなかった師範代の佐竹にもあとで叱られている。
(7) その話が師匠にとどいていれば、あるいはそれで叱られるかも知れない。
分析

(1) は、事態の記述「ので」「だが」という接続助詞を用いて、事態の因果関係を表している。
(2) は、剣技の描写。重文でやや描写性が低い。
(3) は、文四郎の心理の記述「文句のない面打ちだった」に続けて、文四郎の知覚描写「丸岡の一本の声を聞きながら」に続けて、剣技の描写。行動主体を文四郎で統一していて典型的な重文ではないけれど、三つの要素を一文に盛り込んでいるので、やや描写性が低い。
(4) は、(3)の換言。接続詞をつけるなら、「すなわち」が適当だろう。説明的である。
(5) は、大橋の行動描写。「剣技の直後の結果」である。
(6) は、事態の記述。これも「剣技の結果」である。
(7) は、文四郎の心理描写。「剣技の結果」から未来の状態を推測している。

まとめ

短い剣技の描写では、

という傾向が見られた。
 とすれば、長い剣技の描写では、
という傾向が見られるだろう。
 また、1.2.2  梅雨ぐもり 二 16〜17に現れていた「剣技の結果」や、現れてはいないが当然ありそうな「剣技を振るうに至る事情」という剣技の前後にある出来事を描くことで長くなるだろう。
 剣技の最中の思考が描写してあると、 などが可能になって、読み手が物語世界をよりリアルに感じることに繋がるだろう。
 さて、実際は上記の推測通りになっているだろうか。

1.3 文四郎と他者の立ち会いの長い剣技の描写

21文の 梅雨ぐもり 一 1〜10
53文の 落葉の音 一 1〜14
32文の 天与の一撃 五 10〜20
と長さが違うものを対象にして、引用本文に分析を付け足していくことにする。

1.3.1 梅雨ぐもり 一 1〜10

【行動記述】(1) 文四郎は、誰もいない道場にただ一人居残って、稽古用の木剣を揮っていた。
【行動描写】(2) 八双に構える。
【心理描写】(3) 打ち込んで来る敵を想定していた。
【心理描写】(4) 仮想の敵は文四郎の左肩、左拳を狙ってきびしく打ち込んで来る。
【行動描写】(5) わずかに足を送ってかわしたつぎの瞬間には、文四郎は腰から踏みこんでいた。
【談話描写】(6) 「えーい」
【事物描写】(7) 木剣はうなりを生じて、敵の頭蓋を打ち据えた。

仮想の敵に対する剣技である。長い時間の出来事を要約的に示す記述(1)で始め、あとは行動と心理を単文の描写の連続(2)〜(7)で示している。

【行動記述】(8) 同じ型を十度、二十度と繰り返すうちに、汗は身体だけでなく髪の中にも湧いて、顔面を滴り落ちる。
【行動・心理(感覚)記述】(9) 腕は疲れて、木剣が鉛の棒を振るように重くなって来た。
【行動描写】(10) どっと膝をついて、文四郎はひと息いれた。
【行動・事物描写】(11) 頭を垂れていると、顔から落ちる汗が木の床に滴った。
【行動描写】(12) 腰の手拭いで顔をひと撫ですると、文四郎はまた立ち上がった。

 (8)(9)で行動を記述で要約的に示した後で、行動を描写(10)〜(12)で示している。(11)の「顔から落ちる汗が木の床に滴った。」で、汗と木の床という事物の描写を挟み込み、視点人物がいる場所を「ひと息いれた。」タイミングで示している。頭を垂れている視点人物の視野にあるのは、汗と木の床である。
 下線を施した比喩や副詞が抑制的に用いられていて、動作のリアルさを増している。何が「抑制的」か。比喩は説明であるし、副詞もものによっては説明的である。描写の中に説明を嵌め込むと描写性が落ちて説明的になりがちである。藤沢周平の比喩や副詞の使い方は、描写性が落ちないだけでなく、出来事の様子「どっと膝をついて、」や、ものごとの感じ方「木剣が鉛の棒を振るように重く」を実感的に描くことに成功している。(比喩を使って説明するなら、省略を利かせつつ繊細に書かれた墨の絵に、紅や緑や青を薄く部分的に使ったような比喩や副詞の使い方である。)
 輪郭の描き方がリアルであるから、追加する要素が最小限でも、よりリアルにするという効果をあげているといえる。

【行動描写】(13) 構えを変え、今度は左足、右足を前後逆に踏みかえる。
【行動描写】(14) その構えで襲って来る敵を待つ。
【心理描写】(15) 敵は今度は胴を打って来た。
【行動描写】(16) 文四郎はすばやく足をひいたが、八双の構えは微動もしない。
【行動描写】(17) つぎに足はすべるように前に出て、深く踏みこみながら木剣を振りおろした。
【談話描写】(18) 「えーい」
【事物・談話・行動描写】(19) 森閑とした道場の空気を裂いて気合の声がひびき、文四郎は残心の構えからゆっくり体を起こし、木剣を引き上げる。
【行動描写】(20) と、文四郎は物に襲われたように体を回し、木剣を構え直すと一歩、二歩後にさがった。
【他者の描写】(21) うす暗い道場の隅にひとが立っていた。

 行動を単文の描写(13)〜(20)で示している。仮想の敵は視点人物の心理(15)の中に存在する。
 (19) 森閑とした道場の空気を裂いて気合の声がひびき、は、(11)と同じく、視点人物がいる場所を示している。違いは「汗」と「声」である。汗は滴り落ちて木の床を描き出し、声は道場の空気を裂いて静寂と空間の広がりを描き出している。長い剣技の描写は「空間の描写」を可能にするといえる。
 (17)で「木剣を振りおろした。」相手の敵は消えてしまい、剣技の結果(19)は不完全な形であって、そこに別の剣技の結果(20)(21)が示される。サスペンスの発生を行動描写で、解消を【他の人物の描写】で示している。
 (16)〜(20)は物語世界内に布置した語り手の視点から文四郎を外から描いているが、(21) は他者の行動を文四郎の視点から描いたものとして読める。語り手の視点から視点人物に視点を移動させるときには、知覚描写「うす暗い道場の隅にひとが立っているのが見えた。」とするのがよくある書き方である。知覚描写の橋渡しなしに【他者の描写】を行うと、視点のありかがどこなのかがわかりにくくなるが、ここではうまくいっているし、「うす暗い道場の隅」とあいまって不気味さが表せている。

1.3.2 落葉の音 一 1〜14

【自他行動描写】(1a) 文四郎と犬飼兵馬が練習試合をはじめると、
【状況描写】(1b) まわりの竹刀の音が次第にやんだ。
【心理描写】(2) いつものように、二人の試合ぶりを見物するつもりだろうと思われた。
【心理描写】(3) その気配は文四郎にはわかったが、気にはならなかった。
【心理描写】(4) 気持ちは竹刀をにぎってむかい合った瞬間から、相手の動きにひきつけられている。
【心理描写】(5) どんな小さな動きにも、とっさの変化にも対応出来るように、四肢をやわらかく撓めるように保ちながら、様子を窺う。
【心理描写による他者の表情の記述】(6) しかし犬飼兵馬の表情ほど読みにくいものはなかった。
【心理描写による他者の表情の記述】(7) もともとが青白くて肉のうすい顔立ちなのに加えて、兵馬の眼はほとんど喜怒哀楽を映すことがない。
【心理描写による他者の表情の記述】(8) 視線をかわす相手がたじろぐほどに、ひややかに乾いている眼は、竹刀をとってむかい合うといっそう何を考えているかつかみかねる眼つきに変わる。

 行動描写(1a)(1b)で場面が始まると、すぐに心理描写(2)〜(8)によって、まわりの思惑を推測し、犬飼兵馬の表情を記述する。犬飼兵馬の表情は、眼前のものではなくて、文四郎の記憶の中のものを含んでいる。「いつもの」犬飼兵馬の表情を思い出しているのである。

【行動描写】(9) 文四郎は、八双の構えのまま、つま先で床をさぐるようにして右に回った。
【心理描写・他者行動描写】(10) 兵馬の変化を引き出すための誘いの動きだったが、兵馬は動じなかった。
【他者行動描写】(11) 軽く動きを合わせて、やはり体を右に回しただけである
【他者行動描写】(12a) 兵馬も流派の基本型である八双に構えていたが、しかしその構えには拳のにぎりの位置、足のひらきなどに空鈍流とは異なるものが現れていて、
【心理描写】(12b)つぎの変化を予測しがたい無気味な感じがあった。
【心理描写】(13a) さきに何流をまなんだのかは知らないが、
【心理描写による他者の行動の記述】(13b) 兵馬の八双の構えは修行した以前の流派の影をひいている。

文四郎の心理描写が連続していて、集中できていないと感じさせる。

【他者行動描写】(14) と、音もなく兵馬が踏みこんで来た。
【他者行動描写】(15) 鋭い踏みこみで、ぬっと頭上にのびて来る竹刀には迫力があった
【行動描写】(16) 文四郎は避けずに、こちらも踏みこんでその竹刀をはじいた。
【他者行動描写】(17a) 兵馬がわずかに体勢を崩した
【行動描写】(17b) ところにつけこんで、すばやく籠手を打ったが、
【他者行動描写】(17c) 相手は引き足はやく、するすると三間ほどもうしろにさがった。
【心理描写による他者行動評価】(18) 腰の定まった見事な引き足だった。

 描写の中に、文四郎の犬飼兵馬に対する評価が混じっている。

(15)迫力があった。(18)見事な引き足だ
 他の部分では目立たなかった副詞((15) ぬっと( 17c) するすると」による他者の行動の描写を使っている。

【行動描写】(19a) 文四郎が剣を八双に引き上げると、
【他者行動描写】(19b) 兵馬も応じて八双に構えた。
【行動描写】(20a) 双方からじりじりと間合いをつめ、
【行動描写】(20a) 今度は文四郎が打ちこんだ。
【心理描写による行動説明】(21) 兵馬との打ち合いの間合いに入る寸前の攻撃である。
【行動描写】(22) 踏みこんではげしく肩を打った。
【他者行動描写】(23) 兵馬はその打ち込みをかわした。
【他者行動描写】(24) 足と肩をひいてかわしながら、竹刀は流れるように受けの形に変わっている。
【他者行動描写】(25a) その受けに引いた竹刀が、そのまま攻撃のための左八双に変わったのが
【心理描写による他者行動評価】(25b) 犬飼兵馬の非凡なところだった
【他者行動描写】(26) 風をまく打ち込みが、文四郎の胴を叩きに来た。
【心理描写による他者行動説明】(27) 下がれば肋骨が折れるほどに打たれたに違いない。
【心理描写による行動説明】(28) だが文四郎の打ち込みには、つぎの用意があった。
【行動描写】(29) 肩を打ったその位置から、瞬時につぎの攻撃に移ったのである。
【行動描写】(30a) 兵馬の打ち返しと相討ちの形になったが、
【行動描写】(30b) 二段打ちの文四郎の竹刀と踏みこみの速さがわずかにまさった。
【行動描写】(31a) 文四郎は胴をかすられたが、
【行動描写】(31b) その前に兵馬の眉間をぴしりと打ち据えていた。
【心理描写による行動説明】(32) 生前の矢田作之丞も閉口したほどの、鋭い面打ちである。
【心理描写】(33a) かなりこたえたはずだが、
【他者行動描写】(33b)兵馬は顔いろもかえなかった。

 描写の中に、文四郎の犬飼兵馬に対する評価が混じっている。

(25b) 非凡なところ
他の部分では目立たなかった副詞による行動の詳細の描写が使われている。
(31b) ぴしり
この「ぴしり」は、朝の蛇 二 1〜2 では、
(1c) 文四郎の竹刀は矢田の面を正確に打った。
と「正確に」という評価を示す副詞であったのが、擬音語に換えられたものである。

【他者行動描写】(34) 「まだだ」と言うとすぐに竹刀を八双に引き上げた。
【行動描写】(35) 文四郎もすばやく八双に構えをもどした。
【知覚描写】(36) 慎重に兵馬の眼のいろをさぐる。
【知覚描写】(37) 依然として表情を読みがたい顔だが、その顔を注視しているうちに、文四郎の眼に相手の左肩にある隙が見えて来た。
【心理描写による事物説明】(38) 見直すまでもない、小さいが歴然とした隙である。
【心理描写】(39) 眼の隅に映っているその隙を打つのはたやすいことのように思われた。
【知覚描写】(40) 文四郎はなおも慎重に兵馬の表情を窺い見た。
【他者行動描写】(41) 平然と相手は構えている。
【知覚描写】(42) ちらと左肩にある隙に眼が走った。
【心理描写】(43) つぎの瞬間、文四郎は罠に落ちたのを悟った。
【他者行動描写】(44) 眼にもとまらぬ兵馬の打ち込みが襲って来て、文四郎は肩を打たれた。
【心理描写による他者行動評価】(45) 思わず竹刀を取りおとしそうになったほどの、強い一撃である。
−−−− 後略 −−−−
(35) 文四郎もすばやく八双に構えをもどした。
の「も」が示すのは、文四郎の構えが犬飼兵馬に後れを取っているということである。そして、この部分における文四郎の行動の描写は、この(35)だけで、心理描写や知覚描写が主になっていて、剣技の描写としてはおかしな形である。
 描写の対象を心理中心にすることで、心と体のバランスが取れていないことを表しているのである。
 心と体のバランスが取れているときの剣技の描写はどうかというと、

1.3.3  天与の一撃 五 10〜20

【行動描写】(1) 文四郎は、八双の構えを改め、四肢にのびやかな気を伝えようとした。
【心理描写】(2) そしてつとめて虚心に、興津の動きを待つ気になった。
【心理描写による行動説明】(3) 応じて変化する道をえらんだのである。
【知覚描写】(4) やや無我に近寄ったかと思われる文四郎の気に、興津のかすかな身じろぎが映った。
【他者行動描写】(5) 興津は足を踏み直した。
【知覚描写】(6) 眼は鋭く、表情を消した顔に血のいろが動いたようでもある。
【知覚描写】(7a) と思ったとき、
【他者行動描写】(7b) 興津は猛然と疾走して来た。
【他者行動描写】(8) 竹刀はやや右肩に担ぐような上段に上がっている。
【行動描写】(9) 文四郎も地を蹴って前に走った。
【事物描写】(10) 文四郎の竹刀も、強風を受けた葦のように右肩の上に傾いている。
【自他の行動描写】(11) 五間の距離を一気に走り寄った二人は、試合場のほぼ真中で、はたと竹刀を打ち合わせた。
【自他の行動描写】(12) そして一度は熱い物に触れたようにとびはなれたが、つぎに打ち合ったときには、興津の動きがわずかにはやかった。
【他者行動描写】(13) 踏みこんで、興津は文四郎の肩を打って来た。
【行動描写】(14) 文四郎は体をかわしながらその竹刀をはらった。
【知覚描写】(15) しかし今度は文四郎は、はらわれて下段に流れた興津の竹刀が、そこから鞭のようにしなってはね返ろうとしているのを見た。
【他者行動描写】(16) 興津の踏み足は、すでに文四郎に爪先をむけている。
【心理描写】(17) ――これか。
【心理描写】(18) おののきが文四郎の背筋に走った。
【他者行動描写】(19) 肩を打ち、つぎにその竹刀を返して低い位置から籠手を打ち、または胴を打つ。
【心理描写】(20) 興津のその技が、連続技というよりも、それ自体がひとつの刀法であるのを見破ったと、文四郎は思っている。
【心理描写による行動説明】(21) 攻撃の比重はあとの一撃にあった。
【心理描写による行動説明】(22) 肩を狙って来るはじめの一撃はむしろ虚で、下段から襲いかかる切り返しが実である。
【心理描写による行動説明】(23) 返しの竹刀が神速を帯びるのはそのためだ。
【行動描写】(24) 文四郎は、ためらわずに見えている興津の籠手を打った。
【自他の行動描写】(25) 二人は同時に気合を発して打ち合い、すれ違って前に走った。
【心理描写】(26) ――間に合ったか。
【行動描写】(27) 文四郎は総毛立つ思いで踏みとどまり、うしろを振りむいた。
【心理描写による行動説明】(28) 自分が打ったのか、それとも興津の返しの竹刀に打たれたのか、自分でもよくわからないほどのきわどい勝負だったのである。
【知覚描写】(29) だが振りむいた眼に、審判の小野喜玄が白扇でこちらを指しているのが見えた。
【知覚描写】(30) そして文四郎は、こちらをむいて立っている興津新之丞が、小野が文四郎の勝ちを宣告すると同時に、ぼとりと竹刀を落としたのも見た。
【状況描写】(31) 見物の人びとの口から、おう、というような嘆声が洩れ、それが波のように境内にひろがった。
【他者行動描写】(32) そのぎわめきにつつまれながら、興津はひどく緩慢な身動きで竹刀を拾おうとしている。

 32文中、文四郎の心理描写は9文、知覚描写は6文、行動描写は4文。
心理内容は、(2) 虚心に、、(4) やや無我に近寄った というもので、迷いがない。
(17) 「――これか。」から(23) 「返しの竹刀が神速を帯びるのはそのためだ。」までの心理描写による奥津の剣技の説明は、物語の時間の中では一瞬の出来事であるから、事実としては無理である。リアルではない。小説という虚構の中でのリアルである。今まで興津の剣技が把握できずに不安を抱えて対峙していたのが、見破ることができて、(24)「ためらわずに」剣技をふるえるようになるために必要な説明である。説明によってリアルさが減じたとしても、後は描写によってリアルに展開できるし、前後を連続した描写に挟まれたこの説明部分がスローモーションやストップモーション的な効果を生んでいる。
 思いすぎ考えすぎて犬飼兵馬に打たれた落葉の音 一 1〜14と比べると、発見し整理した後はためらわない文四郎の心理を描写している。

まとめ

 剣技の長い描写では、

2. おわりに

 剣技の描写を、視点・心理描写を中心に分析して、構成要素を拾い上げた段階である。行動描写そのものに迫れていないので、次回は、体の動き(身体全体・腕・足など)と物の動き(刀・竹刀)を詳しく見て行こうと思う。動きの遅速と描写文の文長に相関があれば面白いだろうと思う。
 行動描写の対象を拡げると、スポーツコラムやスポーツ小説が分析対象に入ってくる。なかなか興味深い領域だと思う。

(のなみまさたか)
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