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大阪教育大学 国語学特論2
受講生による 小説習作集

詩織

1994年度号
少年の視点 田中規与子
歪曲した月 東口昌央
同窓会 仲慎一郎
夢の続き 中西祥子
進め!ススム 宇野浩
挑戦 川那辺顕
ある名士の悲劇 今井智子
台風 山本幸代
妊娠 宮本篤子
宮本篤子
習性 徳原綾乃
海辺のレストランにて 小谷珠絵
父親 近藤泰子
編集後記 野浪正隆
 

「少年の視点」

田中規与子

「動くな言ってんのが、わかんねぇのか!」
 鋭く光るナイフを突き付け、男は叫んだ。
「シャッターを閉めろっ、早くっ!」
 ゆっくりとシャッターが降ろされ、銀行の中が雲で覆われたように暗くなった。

―――だから嫌だって言ったんだ。いくらここが涼しいからって、市場に行くたびに寄らなくたっていいじゃないか。そのまんま家に帰ってかき氷食べながら高校野球…そうだ!かき氷買ってもらったのに、このまんまじゃ溶けちゃうよ。」

「お、お金なら、用意致しますから、ナ、ナイフをむけないで…」
 行員が、胸のバッチをキラキラさせながら、ふるえる手で黒縁メガネをあげつつ、奥にある金庫へとにじり寄った。
「何度言えばわかんだ、動くじゃねぇ!ちょっとでも動いたり、しゃべったりしてみろっ、おめぇらみんな、ぶっ殺してやるぞ。」
 裏返る声が響く。男は、少しうつむいて、独り言のようにつぶやいた。

「金なんて、どうだっていいんだ…」

 この銀行は、市場通りに面していることもあって、昼間はスーパーの袋を片手に持った主婦たちで賑わっている。銀行の前には大きな木が何本もあるせいか、蝉時雨が主婦の声に負けじと降りそそぐ。しかし、今は中の事情を察してか、時が止まったように、静か、だ。

「健太、大丈夫、大丈夫よ。お母さんがいるんだから。声を出しちゃだめよ、いいわね。」

 そう言って美恵子は縫いぐるみを放さないこどものように、健太を引き寄せた。

―――お母さんの腕、すごく汗かいてる。でも、なんだかこうしてると気持ちいいや。あのお兄ちゃんの顔すごく恐いな。ちょっと二組の先生に似てるかも。…あれ?なんであのお兄ちゃん顔を隠してないんだろう。

 健太は昨日の夜に見た刑事ドラマを思い出していた。じっと見ていたいと思いつつも、人が刺されたりするシーンでは、音も、したたる血の色も、やけにリアルなので、最近父親に買ってもらったプラモデルをいじりながら、母親の背中に隠れるようにして、そのテレビを見ていた。そこに出てきた銀行強盗は、顔半分が隠れるほどサングラスをしていたはずだ。そして若い女性の行員に、ナイフを突き付けて鋭い声で言った。

『金を、この鞄につめろ!』

―――そうだ。昨日のテレビで見た人は、ナイフをもってるのは同じだけど、顔を隠してたし、お金だって「出せっ」て言ったんだ。でもこのお兄ちゃんは顔隠してないし、さっきなんか「金なんてどうだっていい」って言ってた。なんでだろう…。
 健太はあらためて男の顔が見たくなって、ゆっくり、振り返ろうとした、そのとき、見慣れた顔が健太の目に映った。

―――ちぃちゃんだ。ちぃちゃんも来てたんだ。

 健太は団地の三階に住んでいるのだが、ちぃちゃん、千里はそのちょうど真下にあたる所に住んでいる、一才と七カ月になる女の子だ。
 団地には同じ小学校に通うこどもがたくさんいて、いつも近くの公園に行っては、野球やサッカーをして遊んでいた。しかし最近はどこのこどもも塾に行くようになり、早く行かなければ遊ぶスペースがどんどん狭まってた公園も、健太たちだけでは広すぎるほどになった。そのうち健太といつも公園で走りまわっていたこどもたちも、週に二日はテキストがいっぱい入った重い鞄をもって、駅へと向かった。健太はやけに「自由」になってしまったこの二日を、自分よりうんと年下のこどもたちと遊ぶようになった。その中に千里がいた。千里はまだ二才にもならなかったから、遊ぶといっても野球はもちろんの事、かくれんぼもできなかった。けれど、健太が「ちぃちゃん」と言ってにっこり笑うと、千里は「てーた」と言ってその何倍もの笑顔をかえしてくれた。
 千里は小さな体をさらに小さくして、母親にしがみついていた。男が大声を出したからだと思ってか、母親はかすれた声で
「怖くない、怖くないからね、ちぃちゃん」
と、背中をさすりながら言っていた。
 時計は、今、三時を指している。いつもなら、千里はちょうど昼寝の時間だ。決まって二時半頃から昼寝をしたあと、四時に起きて、アニメを見ている。それなのに今日は…。千里はまだ二才にもならないのだから、この非常事態を理解しろと言うほうが無理だなのだろう。

 男はどこか思い詰めたような顔をしていた。脅かしているのは男の方なのに、ひどく脅えた目をしていた。そしてポケットから何やら取り出したかと思うと、それを口の中に二、三粒投げ込んだ。それはほんの少しの間のことだったけれど、彼の動きをつぶさに見定めようとしている人々にとっては 、とても長く感じられた。しかし、男が別段奇行に走る様子もなかったからなのか、人々はほっとした表情を見せた。が、次の瞬間には、またもや「長い一瞬」に身を投じられることになった。

 千里は、今にも泣きそうだった。
 緊張と不安が銀行内の空気を凍りつかせた。冷房が肌に刺さる。誰もが千里に呼吸を合わせようとするかのように、息を殺して千里を見入っていた。その中に健太もいた。

―――大変だ。ちぃちゃん、お昼寝がしたいんだ。ちぃちゃんはいつもお昼寝がしたくなったら、ぼくにしがみつくんだ。寝られないときは、おもちゃなんて全部投げて、泣いちゃうんだ。このままじゃきっと、お昼寝もできないし、いつもお昼寝の後に見る『ミラクルマン』も見られないかも。…だめだ!もしちぃちゃんが泣いちゃったら、あのお兄ちゃん、泣くなって言って怒るかもしれない。ちぃちゃんのことを、叱ったら、ちぃちゃんがかわいそうだ。
 母親の、千里を抱く腕が堅くなる。
「ちぃちゃんはいいこなんだから、いいこなんだからね…。」
 なだめる声も、細く、細くなっていく。千里は、棒付きキャンディーを投げ捨て、その小さな顔を、大きな口にした。

 ――――泣かないで――――

「♪ 行けー行けー つーよいぞ
   みんなの ミーラクルマンッ ♪」
 健太の声が、銀行内をかけめぐった。
「てーた!」
 千里は、まるでひまわりの花がぱっと開くように、とびっきりの笑顔を健太に向けた。ちっちゃな手とちっちゃな足をばたつかせて、「ご挨拶」している。ちいちゃんが泣かなかったので、みんなはほっと…するわけがなかった。男は健太の方に近づくと、ナイフを突きつけて言った。
 「お、おまえ、何してんだ。なんで歌なんか歌ってんだ。ばかにしてんのか?俺を。」
 「け、健太、こっちに来なさい。」
 美恵子は、健太を引き戻そうと必死だった。

―――良かった、ちぃちゃん笑ってる…

 健太は、千里の笑顔にこたえたあと、男の方へ歩み寄って、言った。
「ちぃちゃんはお昼寝の時間なんだ。お昼寝が終わったら、『ミラクルマン』の時間になるんだ。お兄ちゃんは、どうしてぼくたちに動くな、なんていうの?お兄ちゃんはどうしてここにいるの?‥‥そりゃ、ぼくのお母さんだって、別に用事はなくて、涼しいからここに来てるだけだけど……。そうだ、ぼく、昨日テレビで「ぎんこーごーとー」見たんだけど、ナイフもってて、黒いメガネかけてて、すっごく怖かったんだ。「お金出せ」っておっきな声で言うし。でもお兄ちゃんはさっき「お金なんて、どうだっていい」なんていってたでしょ?お兄ちゃんは、「ぎんこーごーとー」じゃないんでしょ。じゃあ、どうしてここにいるの?」

 男は、深く息をはいた。そして健太をなつかしいものを見るような目で 、見つめると、落ち着いた声で言った。
「おれは、あと少ししか、生きられないんだ。」

 通りは、すこし日差しが弱まり、空もうっすらと朱く色付いていた。夕飯の買い物を急ぐ主婦や、塾へと向かう子ども、会社帰りの人で一段と活気づいていた。銀行の周りも、だ。銀行のシャッターがいつもよりも早く閉まっているのを不審に思った主婦が、何人も群がっていた。そして、そのざわめきを聞き付けたパトカーが、警戒したのか、サイレンを鳴らさずに一台、二台、三台、と銀行を囲んだ。

「今日、病院へ行って来たんだ。会社を、休んで。昨日から頭はぼーっとしてるし、食欲はないし、なのに、吐き気はするし。まぁ、でもどうせ風邪か何かだろうって思ってた。でも朝になっても、やっぱりおかしいから、病院に行ったんだ。長い間、いろんな検査して、長い間、待された。やっと呼ばれて椅子に座ったとたん、あの医者、レントゲン見せて、淡々とした声で『無理だな、一年もつかどうかだ。』なんて言いやがるんだ。俺、そんなに頭良くないから、大学に入るのも、今の会社に入るのも、けっこう必死だった。でもその分これから好きなことできるんだって、楽しく生きていけるんだって、思ってた、思ってたんだ。‥‥‥病院って真っ白なんだよな。あんなに人がいるのに、病室も、廊下も、何もかも、真っ白なんだよな。あんなところで、俺、白いベッドで青白い顔して一年‥‥‥。」
 男は、ナイフを握り直した。
「たった一年生きて何になるんだ。何ができるんだ。もう、何もかも、どうでもよくなった。どうにでもなっちまえって思った。でも、病院を出てこの通りを歩いてるうちに、俺はこんなに辛い目あってるのに、周りは何ひとつ変わってないんだって思ったら、だんだん腹が立ってきて…。気付いたら、ナイフ持って、ここに来てた。‥‥‥誰かに聞きたかったんだ。俺の、今までは何だったのかって。たった一年、生きたって無駄なんじゃないかって。」

 カシャーン――男の手から落ちたナイフが、磨かれた床の上をくるくる回って止まった。いつの間にか、男の目からは涙が溢れていた。男はその涙を拭おうともせず、ただ立ち尽くしていた。
 健太はそんな男の姿をじっと見ていた。そして、ゆっくりと男に近付き、目になみだを浮かべて言った。

「ちょっとの間じゃ、生きたって無駄なの?」

 三台のパトカーから次々に警官たちが降り、やじ馬たちが詰め掛けないようにロープを張ったり、そばにいた人達に事情を尋ねたり、銀行の裏手に回って様子を探ったりしていた。怪我人を予想したからか、救急車まで駆け付けた。辺りは騒然とし始めた。その建物は、赤い光に包まれて、いかにも恐ろしい出来事に巻き込まれた、というような風体をさらしていた。生ぬるい風が吹いている。

「どうして一年、生きるだけじゃ無駄なんて言うの?ぼくは、少し前ぐらいからちぃちゃんと遊ぶようになったんだけど、ちぃちゃんはもうすぐ二才なんだけど、まだ八月だから一才で、でも一才だけど、一緒にいるととっても楽しいんだ。学校で嫌なことがあっても、ちぃちゃんが笑うと、ぼくも笑ってしまうんだ。ちいちゃんはまだちっちゃいから、ぼくは健太なのにてーたって呼ぶし、しゃべったりもできないけど、ちぃちゃんは歩くのはいつもすごくふらふらしてるんだけど、いっしょーけんめーだし、ご飯もたくさん食べるし…。でも、ちぃちゃんの一年は、無駄になっちゃうの?」
「いや、どう言っていいのか、分からないけど、うん、そんなことはないと思う‥‥‥無駄なんてことないって思う。」
「じゃあ、どうしてお兄ちゃんは一年、生きるの、無駄だって言うの?」

「‥‥‥‥怖いんだ」
「何が怖いの?」
「‥‥‥‥怖いんだ」
「わからないよ、お兄ちゃんの言ってる生きるって何なの?どうすることなの? どうして怖いなんて言うの?」
「一年っていうことが‥‥‥」
 ドッガーーン。銀行の裏の出入口の扉が、鈍い音を立ててぶち破られた。そしてそこから警官が何人も、何人も、入って来た。“お兄ちゃん”はその黒い塊に吸い込まれるように消えて行った。飲み込まれるように、消えて行った。
 健太たちが、銀行を一歩踏み出すと、たくさんのフラッシュの光が目に飛び込み、健太は慌てて、手で目をおさえた。。新聞記者や、報道陣が詰め寄って来ている。
「あ、ただ今、人質の子どもが救出されました。ひどく脅えている様子です。早速インタビューしてみたいと思います。大変だったわね。かわいそうに、怖かったでしょう?」
「犯人にひどいことされなかったの?」
「一才ぐらいの赤ちゃんも人質だったようです。悪質ですねぇ。」
 我先にと、マイクが突き付けられる。
―――泣いちゃいけない。今泣いたら、お兄ちゃんのことが、怖かったと思われるんだ。お兄ちゃんが悪い事をしたと思われるんだ。

 それでも、健太の頬を涙がつたう。熱くなった手の甲で、何度も拭っても、次から次から流れ落ちた。
「怖くなんか、なかったんだ。本当に、お兄ちゃんは、怖くなんか…。」
 つっかえる声で、繰り返した。光が、健太を覆った。

「健ちゃんも、一緒に塾に行ってたら、あんな目にあわなかったのになあ。」
 学校の帰り道、あの「事件」を知ってる子どもが、健太を取り巻いた。
「おばちゃんに頼んで、健ちゃんも塾に入れてもらえよ。」
 健太は、小石を蹴りながら、あの時のことを思い出していた。そして不意に立ち止まって、隣にいた拓也に聞いた。
「拓っくん、生きるってどういうことか分かる?」
 拓也はきょとんとした顔で、健太を見つめた。一志が、後ろから二人の背中をたたいて、笑いながら言う。
「健ちゃん、塾の問題はそんなんじゃないんだよ。先生は『君達がこれから役立つ問題ばかりだから、大丈夫だ』って言ってたし。」
「ふーん。役に立つってどんなふうに?大丈夫って何が大丈夫なんだろ?」
 一志は拓也と顔を見合わせ、首を傾げた。そしてどちらからともなく、
「じゃ、健ちゃんぼくたち塾に行なきゃいけないから。」
「電車に間に合わなくなるし。」
 と言って、駆けて行った。

「ただいまー」
「あー、おかえりなさーい。」
 美恵子はベランダで洗濯物を取り入れているようだった。母親の声を聞くと、健太はランドセルを机の横において、すぐにまた玄関に向かった。
「ちぃちゃん家にいってくるね」

「てーたっ」
 行くと、千里はまるで健太は来るのが分かっていたみたいに、玄関で出迎えてくれた。「あら、いらっしゃい、健太ちゃん。ちぃちゃんねえ、健太ちゃんのこと待ってたのよ。」
「ありがとう。ちぃちゃん。」
「てーた、てーた」
 千里はよほど嬉しいのか、とびきりの笑顔でピョンピョン跳びはねて、健太の名前を、歌うように口ずさんでいた。
 健太は、お兄ちゃんのことを思い出していた。お兄ちゃんが言ってたことを、何度も頭の中で繰り返していた。

―――きっとお兄ちゃんは、ちぃちゃんのようにもっと、もっと生きたかったんだよね。そうだよね。

 健太には、千里の手がいつもよりも、ずっと、あたたかく感じられた。

「歪曲した月」

東口昌央

 冬の真夜中の張り詰めた空気のなか、僕はひとりで彷徨っていた。月明かりは騒々しいネオンにかき消されて、眩いばかりの電光都市。人々の頭で黒く塗り潰されている歩道。その中を、僕も黒い頭となって、人の流れに流されていた。
 そのような身体状況に反して、人々の楽しげで浮ついた喧騒に流される事無く、僕の意識は息苦しさを感じながら盛場を歩き、根拠のない孤独と虚しさに苛まされていた。そして、僕は僕のなかに深く沈み込んでいった。 人で溢れている都市の中で、特に人が集中する盛場。楽しげに歩く人々やアルコールで上気した顔を見ていると、僕は、自分のいくべき場所を失ったような気がした。僕独りが、この現実の中で、孤独な悲しみを抱えているような感情が沸き上がった。こんな感情は、ただのセンチメンタルなものであるのも、自分では充分わかっていたつもりだった。
 しかし、僕はやりきれなかった。
 精神は、静寂を求めていた。僕は、ひとりでこの感情を僕のなかで増幅させるために、この喧騒から逃れ、街灯もない寂びれた海岸に向かっていた。その途中のことだった……。
 S川の流れの傍らに、二十数階立てのマンションが数棟あり、閑静な住宅街の中に一際高くそびえ立っている。間隔の広い街灯の灯りが、今日の月が満月である、と教えてくれる。光までもが騒々しい街の中では、決して気付くことはなかっただろう。
 暗闇のなかで、恒常的に照らす月の明かりと、集中的に暗闇を押し殺す薄黄色の灯り。そのコントラストが、妙に僕の心のなかに美しく、また寂しげな様子で何かを訴えかけてくる。それは、人工と自然の対比でありながら、見事に調和の取れたものであった。月明かりに浮かぶマンションは、僕にバベルの塔を思い出させた。人間が神の国に近付くために天に向けて放った人間の傲慢として、神は怒り、バベルの塔を完成させることを許さず、彼の地の人々を追放した。
 そういう過去の歴史があるにもかかわらず、いくつもの高層建造物を造り、自分たちの世界を広げていき、空を越え大気圏から脱出して、宇宙にまで進出していっている現代人を、神は罰することなく今に至っている。神の裁きはいつなのだろうか?
 僕はそんなことを考えながら、そのマンション群を見上げながら静かな海岸へと歩いていった。聞こえてくるものは、風にそよぐ枯れて散り遅れた銀杏の葉の音と、その落葉を、時々カシャックシャッと踏んでいく、僕の力弱い足音だけだった。
 僕は、寒さが体の芯にまで伝わってくるのを感じた。厚手の皮のコートの表面は、寒さで冷たくなっている。ジーンズから伝わってくる寒さは、この冬の厳しさを物語っている。人々の喧騒の中から離れて歩きだし、静寂を求めて海へと迎う僕には、その寒さがより一層の寒さを伴っているように感じられた。それは、人込みを離れたことが原因であるだけではなかった。張り詰めた冬の空気を、掻き分け、藻掻きながら彷徨う、空虚な僕。孤独という絶対的に人間の肩にのしかかる現実に対して、僕はなす術もなく、感傷に支配されていった。
 深く漏らした息は、白く曖昧に分散していき、煙草の煙が力弱く吐き出されたかのようだった。僕は、コートのポケットから、真っ赤な煙草のパッケージを取出し、中身を確認した。残りは一本だけだった。僕は、立ち止まって、その一本を取り出して、火を点けた。カチッという音と燃えるオイルの匂い。僕は一息、深く静かに吸って、溜息をつくように煙を吐き出し、その行方を見守った。そして、空になったパッケージを握り潰した。満月が、紫煙の向こうにぼんやりと見えた。
 いくつかの街灯の先に、自動販売機の明かりが見えた。まだ煙草がいるなと、僕は思った。そして、口から煙を吐きながら、再び歩きだした。

 ちょうどその時だった。なにかが僕の背後に落ちて来た音がした。小さく軽いものの落ちてくる音ではなかった。ドサッという音。静寂を、鈍く突き破るその音に、僕は驚いて没入していた一人の世界から引き戻された。僕は、後を振り返って、一体何が落ちてきたのかを確認しようとした。
 薄い街灯と満月の光。その狭間に見える、横たわった塊。その塊の影が、暗闇の中にあるにもかかわらず、より一層黒い影を、遠くに投げ掛けている。
 僕は、背筋に寒いものを感じながら、その塊の方へと戻っていった。近付くにつれて、塊の影はより濃くなり、僕を強く引き寄せているような感覚に捕われた。
 数メートル先に、その塊が見えるところまで来たときに僕は、厄介なことに関わり合いを持つのではないか、という危惧を抱いた。そして、ふと足元を見詰めた。どこからか流れ出てくる液体が、月明かりのなかで、ぼんやりと、僕の靴底に纏わり付いていた。凍てつく冬のなかに、凍ることなく、広がっていく液体。雨の気配もないこの夜に、この液体はどこから流出してきたのだろうか?この閑静な住宅街から、何処からともなく液体が流れることがあるのだろうか?
 そう考えつつも、僕は、その液体の正体が何か想像がつきかけていた。薄明りのなかで見えるこの塊は、紛れもなく死体だと感じた。そして、この液体こそ、彼あるいは彼女の、生と死との狭間にある物体としての証明に他ならないと感じた。
 僕は、その死体に触れることが出来るぐらいにまで近寄り、その死体の様子を見ようとした。死への恐怖と、野次馬根性を多分に含んだ、ある種の好奇心のために、僕はその死体に、屈みこんで、死体の首筋を髪の毛ごしに触れた。
 死体は俯せになっていて、まだ温もりを保っていた。先程までは死とは縁遠い存在として呼吸していたのだろう。長い髪の毛は、先に軽くパーマが当ててあり少し濡れていた。軽く広がっている両腕。か細い左手首には深い古傷が刻み付けられていた。その腕を覆う真っ白なブラウスと、軽く羽織っただけの黒いカーディガン。そして、裾の長い真っ黒なスカートと、素足。その素足は細く白く、リアリズムで以て、僕にこの死体が女性であったという事実と、彼女が何たるかということを強烈に意識させた。
 顔ははっきりとは見えなかった。しかし、黒く長い髪の間から見える、透けるように白い首筋がなぜか僕の性器は硬く膨張させ、僕の性欲を強く刺激した。僕は、自分の性欲にクラクラしながら自分の欲求不満を嘲笑い、彼女を見守った。彼女は、薄明りのなかで、俯せになって寝ているようにしか見えなかった。それが、幻想なのは解っていた。なぜなら、夜の闇のなかで覆い隠された真実がそこにはあるからである。
 その真実とは、彼女がすでに、生から抜け出た死者という存在から、死骸という物体へと移行していく過程にあった。暗闇のなかでは、僕の視覚にはっきりとは捉えられることの無い血の海に、彼女が漂っているだろうことが解っていたからである。
 つまり、そのような彼女に欲情し、それを満たしてしまえば、僕はただの死体愛好家となり、グロテスクな世界へと一人で埋没していき、その世界から抜け出られなくなってしまうであろう。やはり相手の反応がなければ、性欲を満たすことも虚しい行為であろう。性交の甘美な魅力は、相手とともに汗を流しながら、お互いの体温を感じ、お互いの喘ぎ声を聴きながら、絶頂に向けて求め合うという点にあるのだから。そして、仮に死体となった彼女の性器に僕の性器を挿入してしまったとすれば、それはダッチワイフに挿入するのと同じ行為の延長にありながら、全く内包する意志が異なるのである。ダッチワイフとの性交はただの自慰行為に耽る欲求不満の姿として、現実にに留まることが可能であるが、死体との性交はこの現実を超越したものとなるのである。
 僕は、もう一度、彼女の死体を見た。「死体としたいか?」僕は、頭のなかで下らない語呂合わせをした自分が、恥ずかしかった。彼女は笑ってくれるだろうか?馬鹿らしい。 内的な思考に奔った僕は、ここで現実に立ち返った。とりあえずこの場を離れなくてはならない。警察に質問をされて時間を潰されたり、煩わしい問題に関わる前にここを離れるべきだ。僕は立ち上がり、周りを見渡した。どこにも人影はなかった。僕が立ち去った後で、好奇心旺盛な野次馬たちが、偽善者気取りで警察に通報してくれることを望んだ。彼女には悪いが、僕にはこんな煩わしいことで時間を奪われるのには、我慢が出来なかった。気掛かりなのは、ただ、彼女がそのような野次馬たちの晒し者にされてしまう事だけだった。
 僕は、彼女に背を向けて立ち去ろうとした。しかし、僕は、足が何かに捕われているような感覚に襲われた。それは、先程の気掛かり以上に、ぼくの深層意識の奥底を捉えて放さなかった。僕は立ち止まりその「何」かを考えてみた。
 ……僕の「孤独」? 僕の「苛立ち」? 僕の「欲求不満」?……
 そのどれでもなく、また、その他のものでもない気がした。まだ何かが欠けている。解答は、僕の心のなかにはないことだけは確かだった。
 これを解決するためには、何が必要なのか?「行動」しかないだろう。いや、
「衝動」というべきか?僕の脳裏に一瞬受かんだ、彼女を連れてどこか遠いところに向かうという考え。この考えの動機はなんなのだろうか?
 僕の頭のなかで増殖していく疑問符が僕を混乱させていった。
 僕はもう一度、彼女の側に戻り、屈みこんで彼女の様子を確かめた。彼女の温もりの残っている手を取り、彼女の生きている証である血液の流動を感じることが出来るかどうか確かめてみた。
 やはり彼女は、生きてはいなかった。さっきよりも、彼女が浮かんでいる血の広がりはさらに勢力範囲を広げつつあった。彼女は物体へと向かう道程にあった。僕の力ではこのような彼女を、生きた人間に引き戻すことは出来ないのは解っていた。僕には、彼女が死へと旅立ったのを、確認するだけしか出来ない。

 ……彼女のことをもっと知りたい……。

 僕のなかで自覚された、突如として浮かび上がったこの考えは、一体何に起因するのだろうか?しかし、僕を突き動かす衝動は力強く、僕の腕に伝令を与え、僕はそれを抑えることが出来なかった。
 気が付くと、僕は、彼女の体を抱き起こしていた。頭骸骨からあふれ出てくる血の流れは、予想よりも少なかったが、ジワジワと一定のリズムであふれてくる血液は、止まることを知らぬかのようだった。僕のコートに付着していく、彼女の血液。この薄明りのなかでははっきりとはしないが、きっと、黒のなかに馴染むどす黒い赤色を塗り付けていることであろう。
 彼女は、色の白い顔を彼女自身の血の色に染めていた。僕は、その血塗られた彼女の顔をじっと見つめた。そして、ポケットの中から、真っ赤なバンダナを取り出し、彼女の顔に塗りたくられた彼女自身の血を拭った。真っ赤なバンダナに染み込む、彼女のどす黒い血液。バンダナは次第に重さを増し、僕の手にも彼女の血液を遷していく。僕の手に、彼女の血がしっかりと付着してきた。僕の掌で、血液のなかの血漿成分が乾燥し、血小板が固まっていく。僕の掌に、こびり付いていく彼女の血液。まるで、僕自身が彼女の血液によって、彼女の死を、共有するかのように……。
 そして、僕は彼女との絆が強まっていくように感じながら、バンダナを血染めにして、僕は彼女の顔を拭っていった。バンダナは、もう彼女の顔に付いた血液で飽和状態になってしまった。すでに役に立たないバンダナを、僕は再びポケットの中に戻した。
 血塗られた層が、僕の手によって剥がされると、彼女の、俯せになった姿から垣間見えた、同じ白さの肌を持った、彼女の顔が僕の視界に入ってきた。
 僕は、彼女の顔に見入った。安らかな死に顔だった。目を軽く閉じ、口元に涅槃像のような微笑みを湛えていた。しかし、少し痩せ気味の頬に、彼女の生きていた時間の苦しみが顕れているように感じられた。はっきりと目の上に描かれた眉と長めの睫に、彼女の血がこびり付いていた。彼女の死は、彼女のこんな些細な部分にまでその存在を主張し、彼女が僕とは違う世界に存在するということと、彼女が僕の世界では、すでに「物」となってしまったということを教えてくれた。僕は、はっと我に返って周りを見渡した。人影も、人の気配も感じられなかった。僕は、この、彼女との二人だけの時間を続けることが出来ると実感し、幸福を感じた。この時僕は、僕が彼女に何を求めていたのか、はっきりと分かってきていた。

 それは、「愛」だった。どのような形でも関係なかった。僕にとっては、それが「愛」であった。「愛する人」が、僕にとっての「愛する対象」があれば、それで良かったのである。これこそが、僕の孤独を打ち消し、僕の空虚な心を埋めていき、僕の苛立ちを和らげて、いずれは優しさだけが、僕の心を満たしてくれる。結局、それが僕に生きるうえでの力を与えてくれるのである。
 僕は、彼女の死体の肩を抱きながら幸せな気分に浸った。この幸せが、このまま続くことを祈りながら……。
 僕は再び、周りを見渡した。視野に入るのは、街灯に照らしだされた部分だけが、闇に反発する道路。そこだけが、暗闇のなかの落し穴のように口を開いていた。そして、太陽の光を吸収して、その光を反射してこの世界に投げ掛ける、満月だけだった。
 僕は、彼女の顔をもう一度見つめた。月の光に白さを増しているような彼女の顔は、美しかった。青白く輝く彼女の顔。何物をも受け入れる事無く、いや、すべての事象を自己のなかに内包したまま、やがて、「物」としての運命を全うしていくだろう、彼女の存在自体に、僕は麻痺していた。
 僕は、右手をのばして、彼女の頬に軽く触れてみた。彼女自身の崩壊のためか、この冬の寒さのためか、暖かかったと思われる彼女の血の通っていた頬に、冷たさが、忍び寄ってきていた。いつも冷たく堅い僕の手にも、この彼女の冷たくなっていく肉体の変化は現実のものとして、感じられた。
 僕はもっとそばに彼女を引き寄せた。彼女の体からは、一切の力が抜け切った筋肉の弛緩した重さが、純粋に僕の両腕にのしかかってきた。僕は、左手を彼女の足の方にもぐらせて、彼女を抱きかかえ立ち上がった。一瞬彼女の弛緩した筋肉の全重量が、僕に掛かったために僕は少しよろめいたが、両足に力を入れて体勢を立て直した。
 彼女の腕は、僕の首に絡み付くこと無く、肩から地面に向かって垂直に垂れ下っていた。そして、頭の重みのために、首を可能なかぎりに仰反らせていた。僕の目の前にある、その首は、月明かりによって幻想的な青白さで迫ってきた。
 僕は、彼女のその首に、接吻をしたくなった。どこか、反道徳的なものと倒錯的なものを、僕は感じながら、彼女の白さを深めていくような首を見つめた。
 しかし、僕は彼女の同意を得れるはずもないのだから、そのまま自分の欲望を満たすことが出来たのだが、脳裏に浮かび上がった、その欲望を押し殺した。
 僕は、顔をあげて、前を見据えた。どこまでも続くかのように見える、満月に照らされる黒々とした道。ほぼ等間隔に設置された街灯の、白黄色の光の降っているところだけが、ほぼ完全に黒から脱出することに成功していた。人影はないまま、僕と彼女を二人っきりで過ごすことを許してくれている。

 海へ行こう。彼女を連れて。僕は、彼女と出会うまで考えていた通りに、海へと足を運ばせていくことに決めた。
 彼女の重みは、僕の腕に重くのしかかる。一人で歩いていったならば、こんな肉体的な苦痛を味わう必要はないのだが、彼女の存在の重みがずっしりと掛かるこの両腕に、僕は、幸せを見出だした。これが、二人で過ごす上での苦労ならば、一晩休めば回復するのだから、簡単なものだ。今まで、僕が愛した人たちは、僕に回復不可能な傷を付けては去っていった。僕のセンチメンタルな気分は、そのために、より一層増幅されていった。
 そのためか、僕は、彼女こそ、僕の求めていたものを持っている女性だと感じた。決して僕に、そのような傷を与えられないのだから……。
 しかし、冷静に考えれば、彼女はすでに死んでしまっている存在であり、僕が何をしようとも、それに対して、何の反応も起こさないのは当然である。錯乱しているのかもしれない。あるいは、精神医学や心理学的な見地に立つと、このような僕の行動は、異常な行動であり「正常」な人間のするべきことではないだろう。僕は狂ってしまったのか?いやしかし、僕は今まで通りに感じているし、正確な判断を繰り返してきているつもりだ。それが、本当に正しいものかは解らないが……。もし、僕が狂っているとするならば、何を以て狂っていると判断するのだろうか?それは、曖昧な存在である人間の中で、権威とされる怠惰な人々により為されるのだろうか?あるいは、自らを「普通」という言葉の檻の中に入れることで、安心し、満足しきっている人々により為されるのだろうか?
 僕は、混乱してきた。僕の中で膨らんでくる疑問符。僕は、一人孤独に思考の深い渕に、混沌とともに投げ込まれた。

 僕は、彼女を抱えたまま歩き続けた。

 僕は、時間が気になったが、僕の両腕が彼女のために使われているために、時計を見て時間を確認することが出来なかった。一体今は何時だろう?とても長い時間が、彼女と出会ってから過ぎてしまっているのではないのだろうか?僕は、彼女と過ごす時間が、過ぎていくことに耐えられなかった。そして、僕がどれぐらいの時間、彼女のことを忘れて、一人で孤独な思考に浸っていたのかが気になった。
 しかし、僕は先ほど填まり込んでしまった思考に、再び憑りつかれた。
 僕は、なぜ彼女を愛せるのだろうか?なぜ彼女を愛していると感じるのだろうか?なぜ彼女を求めるのだろうか?なぜ彼女に欲情するのだろうか?僕は、人間として破綻してしまっているのだろうか?自分が錯乱していることに気付かずに、このような行動に及んでいるのだろうか?僕は、ここから何処へ行き着くのだろうか?そして、僕は、一体何者なのだろうか?

 僕は、答えの見つからない問いの洪水に巻込まれた。僕の意識は、深く激しい洪水の中で、窒息してしまうほど、藻掻き苦しんでいた。これらは、僕の意識のなかで繰り広げられる苦しみであるがために、僕は自分自身の手で片付けなくてはならなかった。
 そして、僕は、彼女との出会いにまで疑問を感じた。彼女と出会った時の幸福感が一体何だったのだろうか?彼女の顔は、月明かりに照らされて青白く光り、弛緩した体は、僕の両腕に容赦なく重みを与え、僕の歩みは何時の間にかに遅くなっていた。
 しかし、僕は彼女のことを煩わしく感じることが出来なかった。彼女の顔を見詰めていると、僕の心のなかに、光るものが芽生えてくるのだった。僕は、自分のセンチメンタルな気持ちに苦笑いをしてしまった。孤独を感じていた僕の感情は、彼女といることで寂しさを消し去られ、優しい気持ちになるのだった。
 「愛、か……。」僕は呟き、彼女の顔を見て微笑んだ。
 この時、僕は、はっとした。彼女に出会う前に、僕が悩んでいたのはこのことだったのである。僕という存在についてだったのである。僕は、答えのない、僕の「生」という憂欝な湖に浮かび、時には沈み、溺れまいと藻掻き苦しみながら、決してそこから陸にあがることなく喘いでいたのだ。しかし、今、僕の腕のなかに彼女がいる。結局僕は、孤独のなかで漂っていただけであった。
 僕は、自分が悩んでいたことを馬鹿らしく感じた。この人が傍にいるということだけに今は満足し、この人のことだけを考えて過ごそう。僕は、凍てついた心が解かされた、温かな気持ちの中を漂いながら歩みを進めた。
 見上げれば、そこには、何時の間にか黄金に輝く満月。その反射光は、僕達を優しく包む。冬の寒さは、徐々に僕から遠ざかっていった。僕は、歩みを止め、彼女を見つめた。そして、右腕を、彼女の後頭部に回していった。彼女の顔は、月明かりで優しくそして冷たく、僕の瞳に映った。僕は、そのまま、彼女の唇に、僕の唇を押しあてた。
 彼女の唇は、冷たく、そして硬かった。

「同窓会」

仲慎一郎

 “バシッ”
「いたぁ」驚いて振り向くと、「久しぶりやなぁ、元気にしとったかぁ。」と大きな口を開けて笑っている斉藤多佳子がいた。
 森田遼平は、一瞬びっくりしてから苦笑して「おまえかぁ、何すんねん、痛いなぁ。」と言った。
「遼平、そんなん言うてる場合やないで。もう五分も遅れてるやん、急ぐで。」
と多佳子はさっさと歩き出す。また苦笑して、遼平も歩き出した。
 森田遼平は21才、大学三回生である。今日は、高校の時の同窓会が開かれるのでそれに向かう途中だった。斉藤多佳子は、短大を出て保母さんをしている。そのことは遼平も風の噂には聞いていた。
 多佳子はTシャツにジーンズというラフな服装だったが、久しぶりに見る多佳子の顔は化粧のせいか、昔の感じとは大分変わって見えた。自分がひどくガキっぽく思えて少し恥ずかしかった。
 同窓会の会場は、高校の時に良く使われた居酒屋だった。
「森田で予約していたものですが……」と店員に聞くと「みなさん、もう入られてますよ。こちらです。」と案内してくれた。
「おいおい、遅いんちゃうかぁ。お前も幹事やろ。」と岡山健一が声は怒っているが、顔は笑いながら寄ってくる。
 岡山とは、今でもよく飲みに行ったりしている。ボトル一本空けても、ケロッとしているほどの酒豪である。
「岡山君、久しぶり。格好良くなったんちゃう」と多佳子が言った。
「何言うてんねん。おれは昔からかっこええぞ、斉藤。」と岡山が調子に乗る。
「こっちに二つ席取ったあんねん。おれと同じテーブルや。」と岡山が連れて行ってくれた席に多佳子と座る。
 そのテーブルには、もう一人、松本小夜という岡山の彼女がいた。
「二人とも相変わらずやなぁ。時間にル−ズなとこなんか全然変わってへんやん。」
と松本がからかってきた。
「あほぉ、こんなんと一緒にするなよ。」
「それはこっちのセリフやわ。私はもう大人なんやで、こんなガキと一緒にせんといて」「お前はオバハンなだけやんけ。おれはまだまだ若いからな。」
「そんなやり取りも全然変わってへんと思うんやけど。あんたら二人は昔からあやしかった割りに、何も無かったからなぁ。」松本がドキッとするようなことを言い出した。
「そうやろぉ、私は遼平のこと好きやってんけどなぁ。遼平は私のこと友達としてしか見てくれへんかってん。」今度は多佳子が問題発言をぶっ放した。
「まあ、おれは全世界一億の女性ファンがおるからお前なんか相手にしてる暇は無かったし……」遼平は何とか冗談で返すことができたことにほっとしていた。
「そんな冗談言うてるけど結構色々あったんちゃうの……」とまだ松本が突っ込もうとしているところに、
「それでは、全員揃ったところで乾杯の音頭を先生の方から。」という岡山の言葉でその場はそれきりになった。

 同窓会はみんな久しぶりに会ったということもあって、結構盛り上がりを見せていた。遼平は、久しぶりに会った友達や恩師と思い出話などで盛り上がりながらも多佳子の言葉が頭から離れなかった。
 確かに、遼平と多佳子は高校時代、他人から見れば恋人同志に見えるぐらい仲が良かった。事実、遼平は多佳子に対して他の女の子に対するものとはまるで違う感情を抱いていた。
 多佳子は目がクリッとしていて、美人とは言えないが、なかなか愛敬のある顔だちをしていた。お祭りごとがめっぽう好きで、いつもリスのように学校中を走り回っていた。そうかと思うと、急に黙りこくってみたり、寂しげな表情を見せたりもした。遼平はそんな時の多佳子に不思議な魅力を感じ、惹かれるものがあった。しかし、惹かれていたといっても、男と女のそれとは少し違う、そんな惹かれ方だった。遼平は高校卒業間近まで、多佳子に対するその想いは友情だと本当にそう思っていた。かといって遼平が恋や異性に対して興味がなかったわけでも奥手だったというわけでもなかった。高校時代、遼平は二人の女の子との交際を持った。その交際の全てがプラトニックというわけでもなかった。しかし、遼平は付き合ってきた女の子たちと多佳子はまるで違うと感じていた。まるで違う、とは感じていたが遼平自身、その感情が何なのか理解できなかった。遼平はその不可解な感情を男の親友に対するものと同等の友情だと自分では考えていた。だからこそ、遼平は多佳子という存在がありながらも二人の女の子とつき合い、それでいながら多佳子との仲も変わらずに続けていけた。
 遼平は二人がよく似た一面を持っていることに気づいていた。多佳子とはわかり合えていると感じていた。多佳子が男だったら、二人はきっと一生つき合っていけるような親友同士になれたに違いないと感じていた。そして遼平は多佳子が女であることを意識しないことを、いつの日か決めていた。そして、そのことは多佳子が遼平の恋愛対象から完全に消えたことを示していた。
 しかし、卒業を間近に控えた頃、そんな遼平の考えを根底から覆すできごとが起きた。それは二人で飲みに出かけた夜のことだった。遼平は酒は強い方ではなかったが、酒を飲んで酔っている自分が好きでよく飲みに出かけていた。多佳子と飲みにでかけるのも珍しいことではなかったが、その日は珍しく多佳子の方から飲みにいこうと誘ってきていた。多佳子の方は女の子にしては珍しく、日本酒、ウイスキー、バーボンと何でもござれの酒豪で、二人で飲みに行くと遼平の方が先に酔ってフラフラになることもしばしばあった。
 「何かあったんか?お前の方から誘ってくるん久しぶりやんけ。」と遼平が訊いた。
「別に。遼平と飲みたくなっただけ。」と多佳子が答えた。
「そうか、そしたら今日は久しぶりに飲みまくろか。」
「うん、飲も飲も。今日は飲むぞぉ。」と言って、多佳子はジョッキをあおった。
 その日の多佳子はどことなくおかしかった。別に取り立ててどこがおかしいというわけではなかったが、何かいつもの多佳子と違うと、遼平は感じていた。

「私等もうすぐ卒業やな。遼平は大学いくんやろ、私は短大やし、離れ離れになるんや、寂しくなるなぁ。でも遼平人見知りするから友達出来ひんやろ、いつでも私が遊んだるからな」多佳子は酔いがまわってきたのか、目元がトロンとして、舌回りも幾分怪しくなってきていた。
「そやなぁ、卒業かぁ。三年なんかあっという間やな。この前入学したとこのような気がすんのになぁ」
「うんうん。そういえば遼平とも入学式の日に初めて会ってんやっけ。」
「そうや。俺が入学式に遅刻して駅から学校まで走ってたら、隣に同じように必死になって走ってる女がおってんや」
「そうそう。私も仲間おったぁってホッとしたもん。そうかと思ったら、同じクラスやってんもんなぁ。不思議なもんやね、あれからもう三年も経ってんねんでぇ。遼平との付き合いも、もう三年も経つんやね。」
「早い言うてもいろんなことあったよなぁ。楽しいことばっかりやった。」
「遼平はいつもあほな事ばっかりやってたなぁ。」
「格好ええ男はどんなことやっても格好ええからいいねん。」
「そやけど、遼平って何かようわからんけどもてんねんもんなぁ。こんなんのどこがいいんかわからんけど。私知ってんねんでぇ、遼平がようけ女の子泣かしてたん。」多佳子はいきなり怖い目つきになって言った。
「いきなりなんでそんな話になるねん。びっくりするやんけ。」
「遼平は何も考えへんからなぁ。遼平のために何人の女の子が泣いてきたことか。今まで付き合ったあの子らかって絶対泣いてたはずやわ。」
「何言うてんねん。二人とも俺がふられてんやんけ。泣いたんは俺の方や。」
「そう思てんのは遼平だけやで。別れを言い出したのは向こうの方でも実質ふッたのは遼平の方やった。自分でも分ってんちゃうの?」
「俺が悪かったとは思ってんねんけど……」
「まあ男と女の関係にはどっちが良いとか悪いとかそんなもんはないとは思うけど、どっちかが悪者でどっちかが被害者なんてことは所詮綺麗事やわ。男と女が終わる時ってゆうのは両方に責任があるもんやから。」
 遼平は急に多佳子が真顔で話し出した事に驚いていた。多佳子は今まで遼平の女関係についておどけた感じでからかってくる事はあっても、こんなふうに触れてきた事はなかった。遼平も自分からそんな話をしなかったし、それが二人の暗黙の了解となっていた。多佳子は遼平とのそういった暗黙の了解に対してはきっちりと守る女だった。
「やっぱりなんかあったんか?お前今日ちょっとおかしいで。」と遼平が訊いた。
「おかしいことなんかない。私こんなんやもん、何で分かってくれへんの。」多佳子は興奮気味に答えた。
 それからしばらく沈黙が続いた。二人の酒のペースだけが上がっていった。遼平は動揺していた。多佳子と口論になることはあっても、今回のように多佳子が取り乱すことはなかったからであった。今日の多佳子はどこかおかしい、その思いが遼平の中で渦巻いていた。三年になってからクラスも離れてしまって、普段学校にいる時には昼休みぐらいしか会うこともなくなり、自然と電話でしか話すこともなくなってきていたが、それでも多佳子という人間は自分なりに理解しているつもりだった。それが今、根底から揺らいでいる感じがしていた。遼平はかなりアルコールのまわってきているのを感じながら、いつもと違う多佳子に対してどう接したらいいものか考えていた。
「ごめんな、遼平。せっかく二人で飲みに来たのに、私最近ちょっとおかしいねん。気にせんといて。」多佳子が沈黙を破って切り出した。
「どないしたんや。多佳子らしくないで。何でも聞いたるから言うてみろよ。俺、何の役にも立たへんかもしれへんけど、それでも俺ら友達やんけ。何でも言うてくれよ。」遼平は本気でそう思っていた。
「大丈夫、何でもないねん。もうすぐ卒業やなって思ったら寂しくなって、それで……もうこんなんはやめやめ。どうしたんやろ、私としたことが酔ってもうたんかなぁ。ふふっ、らしくないやんな。」多佳子は微笑んで言った。その笑顔は無理をしているように見えた。
「おい、無理せんでええねんぞ。俺の前で無理すんなよ、そんな仲やないやろうが。」 「そしたら、どんな仲なんよ。私らって一体どんな仲なん?遼平そんなん考えたことあんのん?私がどんなふうに遼平のこと思ってきたとか、考えたことあるん?」溜っていたものが吹き出したように多佳子はまくしたてた。
「ごめん、出よう。」多佳子は目を伏せて席を立った。遼平は、何が何だか分からないままに席を立った。

 店を出ると多佳子は黙ったまま歩き出した。遼平も黙ったまま歩き出した。気まずい時が流れた。そんな二人の気まずさなどお構いなしに繁華街は活気に溢れていた。ネオンは光り輝き、人々の笑い声も絶えることがない、そんな空間の中を二人は歩き続けた。
 沈黙を破ったのは多佳子の方だった。
「遼平ごめんな、いきなり変な事言い出して。びっくりしたやろぉ?でも、全部ほんまの事やから、さっき言った事丸ごと全部私の気持ちやから。」と多佳子はうつむきながら話し出した。
「こんなん言うつもりじゃなかってんけど、なんか、遼平見てたらだんだん腹たってきてん。私はめっちゃ悩んだりしてんのに遼平って何も考えてなさそうな顔で『何でも言うてみろよ』とか言うから……」多佳子は話し続けた。
「今日飲みに誘ったんかってそんなつもりで誘ったんじゃなかってん、ほんまやで。こんな〃告白〃みたいなん、私らしくないのんわかってるもん。そんな事恥ずかしくてできるかぁって思ってたのに……」多佳子がそこまで続けた時、初めて遼平はさっきからの多佳子の不可解な言動の理由が分かった。しかし、多佳子の言動の理由を理解したはいいがそれに対してどう対処したら良いのか、遼平には分からなかった。多佳子がこんな事を言い出すのはよっぽどの事だ、という思いと、三年近くもの間友達として付き合ってきた女から想いを告げられた事に対する動揺が入り交じって、遼平は混乱した。
「遼平、迷惑?」多佳子が訊いてきた。
 遼平はどう答えたら良いものか迷った。長い間多佳子をそういう対象として見てこなかったので、急にはどう答えたら良いのか分からないというのが正直なところであった。
 その数秒かの迷いは多佳子を落胆させるのに十分だった。
「やっぱりあかんねんや。やっぱりなぁ、無理せんでええねんで、遼平。」多佳子は笑って言った。
 遼平はその多佳子の笑顔が意地らしく思えて
「そんな事ないで、俺も多佳子のこと大事やと思てるし、嬉しいに決まってるやん。」と答えた。
「大事に思てるっていうのと、好きっていうのとは違うんやろ?いくら私があほやからってそれぐらい分かるで。遼平変なとこで優しいからなぁ。そういうところは直さなあかんで。」
「違うて、俺多佳子のこと好きや。それはお前が望んでるような〃好き〃っていうのとは違うかもしれへんけど、俺はお前のことが好きや。お前は俺にとって特別な女なんや。」遼平は本気でそう思っていた。
「ありがとう、特別な女やって言ってくれて。それで十分、もうええわ。こんなしんみりしてんのん私らに似合わへんやんな。やめよやめよ。」と言って多佳子は笑った。

 いつの間にか繁華街の端の方まで歩いてきてしまっていた。通りはこの辺りから雰囲気をガラッと変えていた。ネオンは怪しげな光を放ち始め、RESTやSTAYといった文字がやたらと目についた。二人は何となく会話がとぎれとぎれになっていった。
「えらい怪しげなとこまで来てしもたなぁ、ひきかえそか。」と遼平は立ち止まって言った。多佳子はやはり照れくさいのだろうか、目を伏せて黙っている。遼平も気まずそうに周りを見回した。「ひきかえそうや。」と言って遼平が歩き出そうとした、その時だった。
「入ってみよか?」多佳子が言い出した。
「えっ」遼平は耳を疑った。
「入ろう」と言って多佳子は遼平の腕を取り、まっすぐに入口に向かって行った。
「ちょっと待てや、多佳子、何考えてんのや、冗談やろ?」遼平は動揺を隠し切れないままそう訊いた。しかし、多佳子は何も答えなかった。多佳子の目は何かを決心したようにまっすぐ前を見ていた。
 部屋に入ると、多佳子は大きく息を吐いて、
「緊張したぁ、こんなとこ入んのん初めてやから。」と言った。
「緊張した、とかいう問題やないわ、どういうつもりや。」遼平は多佳子をにらんで言った。
「遼平は初めてとちゃうねんやろ?」多佳子が訊いてくる。
「今そんなん言うてるんとちゃう、どういうつもりやって訊いとんねん。」遼平は少し声を荒げて言った。
「ごめん、遼平、怒ってんのん?でも私ふざけてこんなことしたんとちゃうで。本気やねん、遼平とやったらそうなってもいいと思てんねん。さっき私のこと特別な女やって言ってくれたやん、だから……」多佳子は思いつめたような目でそう言った。
 遼平は動揺していた。多佳子のまっすぐな目に圧倒されていたのかもしれない。それからは何も言えなかった。頭ではこの行為が許されることではないことは理解していながらどうすることもできなかった。そして遼平の頭の中でもそれが肯定されかかった時、多佳子の白い肩がのぞいた。その瞬間遼平の中に理性が帰ってきた。
「やっぱあかん、こんなんあかん、帰ろう。」そう言って遼平は多佳子を見つめた。多佳子は何も言わなかった。しかし、多佳子は黙ったまま服を直し始めた。
 それから駅で別れるまで二人とも何も言わなかった。別れ際にも、遼平は「そしたら、またな。」と言うのがやっとだった。多佳子はちょっと微笑んで何も言わずホームに向かって歩き出した……

 あれから三年以上の時が過ぎていたが、その間遼平と多佳子が会うことはなかった。それだけに遼平は久しぶりに会った多佳子の変わらない対応が嬉しかった。あの事件以来遼平は多佳子を一人の女として見るようになったし、それまでの付き合いをその視点から見直してもみた。そんな中で遼平は多佳子に対する自分の気持ちの変化に気付いていた。
「遼平、飲んでるかぁ。」多佳子が話しかけてきた。多佳子はかなりのピッチで飲んでいたのにまだまだ大丈夫そうである。
「多佳子、久しぶりに勝負しよか?」遼平が言った。
「おっ、私に勝てると思ってんの?久しぶりにゲロ吐かしたろか。」多佳子は笑って言った。
「俺も大学でちょっとは鍛えられたんや、昔の俺とは一味ちゃうで。」
 それからの二人は三年間の空白を埋めようとしているかのように話し続けた。この三年にあった嬉しいこと、苦しかったこと、全てを話そうとしているかのようだった。居酒屋を出て二人で二件目に行ってもそれは変わらなかった。遼平は高校時代に戻ったような感覚さえ覚えた。
「そろそろ電車なくなるわ、帰らな。」多佳子が言い出すまで遼平は時間に気付かなかった。
 店を出ると夜風がほてった頬に心地よかった。高校の最寄り駅の近くにあるその店の周りは終電が近いこともあって人通りも少なくなってきていてやけに静かに感じた。二人はその静けさの中を何となく黙ったまま駅に向かい始めた。
 先に口を開いたのは遼平の方だった。
「今日は楽しかったなぁ、こんなふうに多佳子と飲めるとは思わへんかった。」
「遼平全然変わってへんねんなぁ、嬉しかったわ。」
「おまえも変わってへんやんけ。」
「私は変わってしもたわ、もう昔とは違う。今日は高校の時に戻ったみたいな気がしたから……」多佳子は寂しそうに笑って続けた。
「あの時以来やなぁ、遼平と会うのは、もう会われへんと思ってたわ。私が変なことしてしもたから……」多佳子は目を伏せた。
「多佳子、聞いて欲しいことがあんねん。」遼平は思いきって切り出した。
「あの時多佳子は特別やって言うたけどやっぱり特別な女やった。いろんな女がおるけど多佳子と一緒におる時が一番楽しかったってわかってん。これからも俺のそばにおってくれへんか?」
 遼平には多佳子が一瞬笑ったように見えた…………

 ジリリリリリリッ目覚ましが響いた。遼平は枕元を手で探り、目覚ましを止めて起き上がった。同窓会の日からは一年ほどが過ぎていた。遼平は歯を磨きながら机の上を見ていた。机の上の写真立てには照れくさそうに笑っている遼平とその隣には……

「夢の続き」

中西祥子

 午後四時。
 夕日の傾きかけた秋の終わり、オフィス街の中心から少し西に外れた五階建てビルの四階で波野沙枝はデスクに向かっていた。
 退社まであと1時間あまり、取引先の富士武書店の書類を整理していた。
『あと一時間ぐらいか……  今日もたいして何事もなく一日が終わる…』
沙枝がそう思ったときだった。
「波野君、ちょっと来てくれるかな。」
ちいさなオフィスに中島課長の声が響き渡った。
「あ、はい。」
沙枝は中島課長のデスクに向かいながら心の中で思っていた。
 『中島課長、そんなに怖くはないんだけれど、けっこうねちねちうるさいからな……』
 周りにいる先輩や同僚たちも同情のまなざしを向けている。
「波野君、君の取引先の富士武書店から今日苦情の電話があってね…」
 『ほうら始まった。どうせ電話なんてわたしに対する苦情じゃなくて会社に対する注文に決まってるのに……もう、うんざりしちゃう。……今晩は何食べようかな、何のテレビ見ようかな……』
心の中でそんなことを思いながら、沙枝は中島課長のデスクの横で神妙な顔を浮かべて突っ立っていた。

 繁華街の中、沙枝は一人、どのお店に入るともなくブラブラ歩いていた。
 夕方、中島課長にああもこってりしぼられてはだれかに話でも聞いてもらって発散させなければやってられない、とばかりに、同僚の筒井和乃を誘った。しかし返事はNO。
 最近、筒井和乃は、あまりつきあいがよくない。入社したての頃は新入社員の女の子が二人だけだったこともあって、会社帰りによく寄り道をしたものだった。和乃も沙枝と同じ下宿生活だけれど、和乃の実家が会社から割合近いということもあって、実家に泊めてもらったこともある。けれど、二年目も終わり頃から和乃は急に忙しい、忙しいを繰り返すようになり、実家に帰ることも多くなった。
 今までは、忙しいのは仕方ないし、それなりの用事があるのだろう、とそう疑いをもったこともなかった。しかし、こんな憂鬱な日に一人でこのにぎやかな町を歩いていると、妙な孤独感が沙枝の中に押し寄せてくる。
 『こんなくらい気持ちじゃだめだ、たかが課長に少し怒られたくらいで。何をそんなにこだわっているのっっ』
 そう自分に言い聞かせてみる。しかし、さみしい思いを振り払おう、振り払おうとすればするほど、次から次へとさまざまな疑惑が沸き起こってくる。
 『そういえば、和乃は最近正代先輩と特に仲良さそうではなかった?この前なんかこちらの方を見ながら二人で笑っていたような気がする。あれはわたしのことを笑っていたのかな……そういえば、今朝廊下で和乃を呼んだとき振り向かなかったのは、気が付かなかったんじゃなくてわざと振り向かなかったんじゃないのかしら?
……いけない、いけない!!』
 沙枝は、自分の中に生まれそうになった和乃への疑いの気持ちを打ち消すかのように、小さく首を振った。しかし、一度現れた疑いの気持ちは振り払っても振り払っても沙枝を容赦なく打ちのめす。
 『家庭内にいざこざがあって忙しい、というのは和乃のいいわけではないのかしら。和乃は性格もいいし、だれからも好かれている。もしかしたらわたしのことなんてもうどうでもよくなって、断る理由としてわたしを一番傷つけないように家庭を持ち出してきているのではないのかしら。』
 沙枝は考え出せばきりのない疑惑の渦に押し潰されそうになってしまった。
 『和乃に直接確かめよう。』
そうして目の端にちょうど止まった緑電話の前に立つと、押し慣れた番号を一つ一つ確かめるようにプッシュした。
 トゥルルルル トゥルルルル…… ガチャッ
 しかし、沙枝の左耳から聞こえて来たのは、沙枝を満足させる音ではなかった。
「もしもし、筒井です。せっかくお電話くださいましたが、ただ今留守です。メッセージ、よろしくお願いします。         ピーッ……」

 そこからどうやって家まで帰ってきたのか記憶は定かではない。気が付くと、沙枝は家で高校時代のアルバムを見ていた。
 『なつかしい……』
アルバムの中の沙枝や同級生は、そしてあこがれていた先生も、みんな笑っている。沙枝をとりまくようにみんなが笑っている。懐かしさがこみあげ、沙枝は思わずほほ笑んでいた。
 高校一年のとき、沙枝は体育大会で応援団に入った。毎日毎日暗くなるまで練習した。先輩から注意を受けたりしたことも数え切れないくらいあったけれど、同級生同士励まし合って、なんとか頑張った。そうして迎えた体育大会当日。午前中は快晴だったのにお昼を食べるころから急に曇りだし、応援団一番の見せ場は大雨で結局お流れ。何のためにこれまで頑張ってきたのかとみんなで悔しがったけれど、今になればそれもいい思い出だ。 二年生になって、英語のリーダーの先生に憧れた。「私、先生のお気に入りになるのよ」と友達に言いふらし、リーダーの授業は頑張った。宿題だってきっちりしたし、授業中の居眠りだって一度もなかった。こうして二月、バレンタインにはどんなチョコレートをあげて、どんなことを言おう、と考えていた矢先だった、先生が結婚するって事を知ったのは。張り切っていた沙枝を知っていた友達は大笑いするし、沙枝は沙枝で、現金なもので、「また次を探すゾ」とコロッと気が変わったものだ。
 三年生の一番の思い出、といえば、毎日遅くまで図書館に残って勉強したことだ。これまで生きてきた二十一年間の中で、この時ほど勉強することがそれほど苦にならなかったときはない。ずっと続けていたバイトもやめて、毎日毎日学校から一番近い図書館に通いつめた。机に向かうとすぐ眠くなる沙枝があれほど頑張れたのは、他でもない。周ちゃんがいたからだ。

 周ちゃんーーーーー。
 高校三年の夏前、以前から仲良くはしていた隣クラスの岡部君から告白された。 それ以来、つい二週間ほど前までずっと一緒だった。
 周ちゃんはいつでも優しかった。高校卒業後、周ちゃんは四年制の大学へ進学、沙枝は一般企業へ就職、と進む道は違ったが、周ちゃんはいつでも沙枝の一番のよき理解者だった。そして今も良き理解者……のはずだった。そう、つい二週間くらい前までは …… 「ちょっと距離を置いてみないか?」
彼からそう言われたのは先週の日曜日だった。別れるというのではない。ただ沙枝との関係をもう一度見つめ直したい、と言うのである。

 周ちゃんーーーーー。
 高校時代のことを思い出していると、沙枝は声が聞きたくなった。
 『そうだ、ちょっとだけ電話しよう。』
いさんで受話器を取り上げる。ここ数日、何度も押しては途中でやめた番号を押す。夕方のいやな音が、沙枝の左耳によみがえってくる。沙枝はふるえる手で押し続けた。
 トゥルルルル トゥルルルル トゥルルガチャッ
「はい、岡部ですが。」
今度は左の耳からなつかしい声が聞こえてきた。周ちゃんだ。
「…もしもし?」
「あっ、わたしっ、…沙枝ですっ。」

「……あ、おまえか……」
「うん……」
「……ごめんっっ」
「え?」
「おれら、やっぱり合わないよ。こっちから連絡せないかんことだったのにずっとしてなくてごめん。やっぱり、…やっぱり別れよう。」
「……どうして…」
「ずっと思ってきたけど、そしておまえも感じてただろうけど、俺たちの住む世界は違い過ぎると思う。おまえは社会人。俺は大学生。生活のリズムも違うし、考え方とか、世間に対する責任とかも全然違うだろ?そのことで何回も衝突してきたし、おれはそんなことで同じことをうだうだ繰り返すのはいやなんだ。」
「…だけどっ、それはもうお互い様って、それは周ちゃんが社会に出れば解決することだからって、そう納得したじゃない。」
「そこなんだけど……俺、来年就職しないかもしれない。」
「どうして?」
「俺、もうすぐ就職活動しなきゃいけないだろ?それで企業のこととか、経済の仕組みとか、少し調べるだろ? 俺もまあ、人並みには調べてみたんだ。だけど俺、そのときに社会の矛盾とか企業の金儲け主義とか、いやな面がいっぱい見えちゃってさ、いやになったんだ。それで、そのなかで生活している沙枝とも合わないんじゃないかって思ったんだ。」「周ちゃんは甘いよ、甘えてるよ。社会はそんな甘くない。周ちゃんが社会に出てみれば分かることだと思うけど、みんな生きて行くことが大変なんだよ。もちろん周ちゃんの言ってること正しいけど、、、でも結局それはきれいごとでしかないんだよ。」
「それはわかってる。俺もそう思う。でも、何にも疑問持たないまま会社人間にはなりたくないんだ。」
「……分かったわ、周ちゃんの気持ち。でもわたしと別れたいって思ったのはそれだけが理由じゃないでしょ?教えて。」
「うん……これもずっと言ってたことだったけど……俺に対して、『自分も他の男の人とは遊びに行かないから、俺もほかの女の子とは遊びに行かないでほしい、』と言ってただろ?やっぱりその考え方に俺はなれない。」
「……」
「いつも言ってたけど。俺にとっては女友達と彼女は違う。それに友達と遊びに行くのだって、俺と行くか他の奴と行くかを決めるのはその友達の決めることだと思うんだ。俺が行く、行かんを決める権利はあっても、相手に行く、行かんを強制する権利はないと、やっぱり思うんだ。沙枝の言いたいことは分かるし、もっともだと思うんだけど、やっぱり俺の考え方とは違うし、、、」
「分かったわ。……周ちゃんがどれほどわたしと別れたがっているかってことが。」
「いやそんなつもりはない、ただもうこれ以上は続けられないと思うって事だけ言いたくて、、」
「もういい、もう聞きたくない。」
「沙枝……。でも……今の俺には終わりにしようって事だけしか言えないから。」
「……」
「いいか…?」
「……ん。」
「うん、じゃあな。」
「ん……」

 「…もう終わりにしよう」
そう言って電話を切った周一の言葉の意味がようやく分かったのは、沙枝の左耳が通話中を表すツーツーツーの音をとらえはじめてしばらくたってからであった。
 『いやだ、周ちゃんを失うのは絶対にいやだ!!』
我に返った沙枝は、もうがむしゃらに周一の家の電話番号を押し、受話器に耳を押し当てた。聞こえにくい。もっと、もっと、と、沙枝は耳が痛くなるくらい、押し当てた。
 トゥルルルル  トゥ ルルルル  トゥ ルルルル  トゥ ルルルル ……
 ……………………………………………………………
 …………トゥ ルルルル
        トゥ ルルルル
はっ。。。

 目が覚めると、朝だった。沙枝を起こした音は、いつもどおり朝6時30分を知らせる目覚まし時計の音だった。沙枝はガバッとはね起きた。なぜだか、手を見てみた。涙だか、汗だか、よだれだか、 なんだかついているような気はした。だが、いつも通りの朝である。いつも通り、沙枝のベットの上であった。
 『……夢か…』
 なあんだ、夢か。
そう思うと沙枝は急に力が抜けてしまった。
 しばらくの間放心していたが、少し余裕が出てくると、『どんな夢だったんだろう。』と回想してみる。
 『課長に呼ばれたことは……最近仕事はそこそこうまくいってるからあれは 夢だったんだ。 和乃は……確かに最近あんまりしゃべってないからそれで あんな夢を見たんだわ。 周ちゃんは……』
キョロキョロとあたりをみまわしてみる。枕元に置いてある周ちゃんの写真が倒れている。これは日曜日、言われた後に倒したのだ。 『これは夢じゃなかったのか……』
しかし、現実に別れよう、と言われた訳ではないのだから、と沙枝は自分に言い聞かせた。「ゆめでよかった」
いちおうつぶやいてみて、沙枝はベットからはいだした。そうしていつもどおり顔を洗い、服を着替え、いつも通り満員の電車にゆられ、いつも通り出勤した。

 午後四時。 夕日の傾きかけた秋の終わり、オフィス街の中心から少し西に外れた五階建て ビルの四階で、沙枝はデスクに向かっていた。
 退社まであと1時間あまり、取引先の富士武書店の書類を整理していた。
 『あと一時間ぐらいか……  今日もたいして何事もなく一日が終わる…』 沙枝がそう思ったときだった。
 「波野さん、ちょっと来てくれるかな」
ちいさなオフィスに中島課長の声が響き渡った。
 「あ、はい。」
 沙枝は中島課長のデスクに向かいながら、ふっと今朝の夢を思い出していた。
 『自分の疑い深い性格が、あの夢を見させたのだろうか。周ちゃんに対するわがままや、和乃に対するうらやみが、あの夢を見させたのだろうか』と。『反省すべき生活が自分の中にあるのかもしれない』と。

 「波野君、君の取引先の富士武書店から今日苦情の電話があってね……」 中島課長の声を聞きながら、沙枝は考える。
 『もし、わたしが今朝の夢のように友情も恋も失いかけたとしても、相手を信じる気持ちだけは忘れないようにしよう。話し合えば実はつまらない誤解だったってこともあるし、裏切られたつもりでいても実は自分が裏切ってたって事もあるかもしれない。受け止めてもらおうって思うんじゃなくて、受け止めよう、と思って自分を信じて出せば、きっとなにか打開策が生まれてくるはず……』

妙に晴れ晴れとした心もちで、沙枝は中島課長のデスクの横で神妙な顔を浮かべて立っていた。

「進め!ススム」

宇野 浩

 『では、次のニュースです。いま入りました知らせによりますと、今日午後三時ごろ、京都府和知町の山中で大学生一人と小学生一人が行方不明になっております。この二人は今日始まった丹波縦断キャンプに参加していました。大学生は京都府宇治市に住む高山直行さん二〇才、小学生は大阪市内にすむ土橋進くん一二才です。高山さんはスタッフとして参加者の土橋進君と一緒に歩いていた模様です。付近の山中は地形が険しいため捜索が難航しております。』

 太陽が山の稜線にかかりはじめるとヒグラシが一斉に鳴きはじめた。ヒグラシをさかいに山は夜の顔を見せはじめる。
「もう日が暮れるやん。いったいどうすんねんなあ。」
「そんなこと俺に聞いても知るか。おまえがとっとと歩かへんからこんなことになってしもたんやぞ。」
「でもな、ポスト、自分スタッフのくせしてなんで道知らへんのん。なんとかしてや。もし、遭難したら責任とってや。」
 もう何時間歩いただろう。どこまで歩いても、けものみちをたどるばかりで、道らしき道に出くわさない。今となっては道を間違えたことは決定的だ。
 ポストと呼ばれた背の高いひょろっとしたにいちゃんは返す言葉もなく険しい顔で細い山道を歩き続ける。その色白の顔は西日に照らされ、乾いた汗がぎらぎらしている。その後ろには青年のわきのしたあたりの背丈の丸々とした少年が、口をとがらせ、ほおをぷっと膨らませて歩いている。
 山のなかでは日が落ちるのが早い。急に足元の石が見えにくくなった。つい今までシャワーのように鳴いていたひぐらしの声もいつのまにか消えていた。山のなかでは日が落ちると急に寒くなる。Tシャツの背中がひんやりしてきた。ポストがついに立ち止まった。「ススム、とりあえずここらでストップして、なんか食べよう。今日はこれ以上歩かれへんわ。」
「これからどうすんの。こんな山のなかで野宿すんの絶対いやや。みんな今頃大騒ぎしてるで。」
「ああ、ひよっとしたら警察に捜索願いがだされてるかも知れへんな。」
「ようそんなのんびりゆうてられるな。こんなことになってしまったんもみんなポストのせいや。ポストが道知らんからこんなことになってしまったんや。」
少年は野球帽の下からどんぐり眼をくりくりさせて抗議する。
「おまえな、寄り道しようとゆうたんはどこの誰や。責任だけ俺にかぶせるな。それに、こんな暗くなってしもたら動いたらあかん。ますます助かりにくくなるんや。」
「ポストのせいや。」
 空は曇っていて星がひとつも見えない。北極星が見えればなとポストはつぶやく。その時、鹿の鳴き声が山に響いた。

 リリーン、リリーン、野外活動センターの電話が鳴り響く。
「はい、奥谷ですが。あっ、寺藤さん。二人は見つかった?ああ、そうか、いないか。よし、わかった。」
 カウンターの前にはスーツに身を包んだ女性が奥谷氏を待ち構えている。
「いったいうちの子はどうなったんですか。まだ見つからないんですか。どうしてくれるんです。」
「いま、警察も地元の消防団のかたもうちのセンターの職員も捜索しています。申し訳ありませんがもうしばらく待ってもらえませんか。それに、ススム君にはうちのスタッフが一人ついていますからそんなに心配しないでください。」
「うちの子はそそっかしいし、おっちょこちょいだし、調子のりやから、本当に心配なんです。」
「お母さん、冷静に待ちましょう。」
 ……ポストがついていたらまず大丈夫だろう。でも、奴は前へ進む分には強いが、我慢して待つのは苦手だからな。子供がばてなければいいがな。……
 奥谷氏はこう考えながら、煙草に火をつけた。

 そもそもススム少年とポスト青年はなぜこんなことになってしまったのか。話は二ヵ月ほどさかのぼり、六月中旬のことになる。ススム少年は大阪市内に住む小学六年生である。身長は一三八p、体重は五六sである。なかなかの巨体である。貫禄は充分なのだが、忍耐力、持久力に欠けるのが難であった。いつものように学校がおわるとススムは家に帰ってきた。カバンをどさっとおろすと、台所からスナック菓子のビッグサイズを取ってくるや、大仏さんのように座り込んだ。塾の時間までスーパーファミコンだ。その時、母親が仕事から帰ってきた。
「ススム、ファミコンばっかりしてんと、外で運動してき。」
「いま始めたとこ。それに俺、体動かしたくないの。」
「何ゆうてんねんな。そやそやいまてっちゃんのお母さんにあったんやけどな、てっちゃんな、夏休みにキャンプ行くんやて。京都の山の中を歩くそうやわ。あんたも一緒にいって、体引き締めてき。」
「キャンプ、そんなもんだるいゆうねん。何でそんなもんに行かなあかんねん。おれは体動かしたくないんや。夏はアイスクリーム食いながらクーラーつけて寝るんがいちばんやねんて。」
「そう言うんならしょうないな、キャンプの代わりに塾の夏期講習にいくか。」
「ちょう待ってや、いくら何でもそらないやろ、それやったらキャンプ行くって。」
という経緯があり、進は結局友人の哲也と八月一七日から四泊五日のキャンプに参加することになった。だが、直前になって哲也が風邪を引いて寝込んでしまい、進は一人で参加することになってしまった。

 スイーッチョン、スイーッチョンと虫の音が聞こえてくる。下界が大騒ぎになっていた頃、山のなかの二人は火を囲んでいた。ポストはリュックに残っていたカロリーメイトをかじっている。ススムの腹がグルルーとなる。
「ススム、おまえも食べろよ。食わなもたんぞ。」
「あーあー。何でこんなことになってしもたんやろ。お母さんもお父さんも心配してるやろな。学校の宿題も塾の宿題もむちゃ残ってるのにな。ほんまはクーラーついた部屋でアイスクリームたべてるはずやのにな。」
「まあ、ぶつくさいわんと食えや。」
ポストがカロリーメイトを手渡した。ススムははらいのけるように投げすてた。
「ええ加減にせーよ。下界と違って、食い物はこれしかないんやぞ。かってに飢え死にせえ。」
ポストはリュックから新聞紙を取り出すと、リュックを枕にして新聞紙を被って眠りはじめた。ススムはあぐらをかいたまま火をじっと見つめている。

 体の節々が痛い。一体ここはどこや。ポストは目を覚ますとあたりを見回した。熊笹の葉についた夜露が朝日を受けてきらきら光っている。朝日が眩しい。燃えつきたたきびのそばでトドのように寝そべっているススムを発見した。あっそうか、昨日みんなからはぐれて山のなかに迷い込んだんやった、と自分のおかれている状況を思い出した。ススムがはらいのけたカロリーメイトの箱は空になっていた。
 ススムも目を覚ました。ふたりはさっそく出発する。とにかくふもとにつながる道にでなければならない。ポストの頭の中には、道にでることしかない。今日はススムのあしどりが昨日にもまして遅い。がにまたにぺたぺた進んでいく。とにかく、山を下っていくしかない。だが、下には深い谷が広がっていて下りていくことができない。心なしかポストの顔が青ざめている。首筋を汗が伝っている。喉が渇く。だが、水筒の水を少しずつ飲むしかない。早く谷川を見つけたい。まわりはうっそうと木が繁っていて視界がきかない。道はますます細くなっていき、薮をかきわけているような状態だ。
 カサカサカサ。足元を紐のようなものが素早く横切った。茶色のその物体は五円玉のような斑点を体にまとっていた。マムシだ。ポストの足が急にとまった。
「ススム、マムシや。動くな。」
ススムの足がぴたりととまる。マムシはこちらを向いたままピクリともしない。二人は石像のように凍り付いたまま息を圧し殺している。この時ポストの頭のなかは大パニックであったがある思考が頭のなかを占拠していた。“確か、マムシは半径三メートル飛べるんやったよな”いま二人とマムシの距離は二メートルである。ススムはいつのまにかポストの手をかたく握り締めている。
 どれぐらい時間が立ったのだろう。おそらく五分も経っていなかっただろう。でも二人には二時間ぐらい経ったように感じた。マムシはするすると岩陰に入っていった。二人は空気のぬけた風船のようにぐったりした。
 二人は再び歩き始めた。しばらく歩くと、谷川につきあたった。
「ああ、水や。」
ススムがここぞとばかり駆け出す。澄んだ水が岩の間を縫うように流れている。
「水ってこんなうまいもんやったんやなあ。」
ポストがほっと一息つきながら言う。だが、ふもとへの道をめざしているはずが、まったく方向がわからなくなっていた。さすがにポストも疲労の色が隠せない。目のまわりは黒くなっている。
「なあ、ポスト、おれ、膝痛いし、もう動けへん。」
 ススムが、がばっとへたりこんだ。ポストは今日歩き始めてからほとんど休憩していないことに気付いた。ススムの体調も心配だ。
「ほな、今日はここらで野営しよか。」
「おれ何でもええからこれ以上動きたくない。」
 谷川のそばに少し開けた平地があり、そこにテントを作ることにした。水は確保できた。次は食料である。
「ポスト、食料何とかしてや。おれ、もう疲れたから。」
ススムはしゃあしゃあと言ってのける。カチンときたポストは、
「あほか、こんな時は二人で協力して手分けするもんやろ。」
とまくしたてる。
「とりあえず、川に入って魚捕まえるぞ。」
食料はススムにとっても大問題である。何でおれがこんなことせなあかんのんやと思いつつも靴を脱ぎ川のなかに入っていく。
「赤とんぼや。まだ八月やのにな。」
ススムがアキアカネを見つけた。九月になるとふもとでみられるアキアカネも、まだ山の中でふわふわ飛んでいる。澄み切った水が蒸しかえった足に心地よい。ススムはさっきから少し大きめの石をひっくりかえす事に熱中している。ポストはさかんに岩の間に手を突っ込んでいる。一時間ほどして二人は川からあがった。ススムの持つビニール袋の中にはサワガニがうじょうじょしていた。
「ススム、なかなかやるやんけ。サワガニが食えることようしっとったなあ。」
「へへへ、これぐらい常識やな。おれ図鑑で読んだことあんねん。」
「よしこれで晩飯が調達できたな。おれのほうも何とか小魚捕まえてきたしな。」
ポストのもつビニール袋の中には一〇センチほどの魚が四、五匹泳いでいた。
「この魚食えんの」
ススムが疑問をぶつける。
「さあ、食って食えん事はないやろ。魚なんやから。うまくはないかもしれんけどな。」「俺は絶対食わんとこ。」
ススムはつぶやく。
 暗くならないうちにテントを作っておくことにした。支柱となる木を二本地面に埋め込み、横木をわたしてロープでくくりつけた。その横木に細長い枝を立て掛けていった。作業が進むにつれてススムの手つきも慣れてきた。枝にかぶせる葉っぱを見付けるために自分から山の中に入って、葉っぱの付いた枝を引きずってくる。完成すると結構立派なものになった。テントのなかにリュックを入れるとさっそく火をおこしにかかった。ススムが枯れ木を引きずりながら集めてくる。

 ところで、蟹をどうやって食べるかが問題になった。
「ポスト、蟹どうやって食べんの。」
「まあ、塩付けて焼くんやけどな。塩ないよな。しょうがないからそのまま焼いて食うしかないんちゃう。」
「うわあ、最悪や。無茶まずいんちゃう。それに寄生虫とかおるんちゃう。やばいで。」「でも食わんことには生きていけんしな。」
「これどうやって焼くん」
「くしで刺して焼くんや。」
「ひょっとして生きてるまま突き刺すん」
「当然やな。ぐさっと一思いに突き刺すんや。」
ポストは枝の先をナイフで尖らせると、一気に蟹を突き刺した。普段へらず口をたたいているススムも、うっ、と声を詰まらせる。次はススムの番だ。腰が引けている。今にもおしっこをちびりそうな表情だ。何度も突き刺そうとするが、肝腎のところで力が抜けてしまい、甲羅をすべるばかりだ。
「何をとろとろしとんじゃ、一気にやってしまえ。」
ポストに脅かされて、切羽詰まったススムは、えい、と目をつぶって突き出した。くしの先にはつきささった蟹がまだ足をばたつかせていた。ススムはまんまるになった目をパチパチさせている。
 こんがりと蟹が焼ける。この丸一日晩朝昼とカロリーメイトしか食べてない。あったかい食事は久しぶりだ。待ちきれないポストがくしに手をのばし、足をかじる。
「おお、結構食えるぞ。うまいうまい。」
不精ひげのはえた顔がほころぶ。気味悪がっていたススムも空腹には勝てず、くしにおそるおそる手をのばし、口に運ぶ。
「うっ、きしょ。これくさいって。こんなん絶対よう食べんわ。」
やはりまだススムには抵抗があるようである。が、丸二日まともに食事をしていないので、空腹には勝てない。結局、ススムは鼻をつまみながら蟹を平らげた。ススムが神妙な顔でつぶやく。
「どうやったら家に帰れるんやろ。」
「とりあえず、いまここがどこか知りたいな。京都府内の山中やということはわかってるんやけどなあ。」
「なあ、ポスト、この谷川沿いに下っていけばふもとにでられるんちゃう。」
「出れたらええんやけどな。出られへんかもしれんし。賭けやな。」

 今日も朝から鳥がさえずっている。遭難生活も三日目を迎えた。当然のことながら、風呂にも入らず、着替えもせず、歯も磨いていない。体はとても臭いはずだ。だが不思議と気にならない。ススムも気にする風もない。荷物を準備すると、テントも撤収し、野営の跡形をなくしてしまう。さっそく谷川沿いを下っていく。なるべく靴を濡らさないように足元に気をつけて石を選んで踏み進んでいく。そのときだ。
ドボーン
ポストの背後から派手な水しぶきが飛んできた。
「ススム、大丈夫か」
「うっひょー、最悪や。」
ススムはカバのように口から水をブハッと吹き出す。立ち上がると岩場に戻り服を絞り始めた。服を絞りおわるとまた出発だ。
「なあ、ポスト。服濡れたらむっちゃきもちええで。体中ひんやりするわ。」
ススムは濡れた頭をぶるぶるさせながら、目を輝かせている。
「へえ、風呂入ってへんしちょうどよかったな。」
「なんかおもろーなってきたわ。こんな経験って普通にキャンプしてたら絶対できんよな。」
「でもみんなに迷惑かけてるからな。下界では大騒ぎやろな。進の両親もたぶんやつれてはるんちゃうか。新聞やテレビでも報道してるかもしれへんな。」
「ほな、俺らもし帰ったらワイドショーとかにでて、『奇跡の生還』とかいわれて有名人になるんちゃうん。」
「その前におれは奥谷さんにこってりしぼられるのは確実やな。」
 頭上の高い木の梢から木漏れ日が落ちてきた。二人の体は汗でびっしょり濡れているが、気温があがってきたような気もする。二時間ほど歩いたろうか、二人の目の前を相変わらず岩場が続く。だが、だいぶん川幅が広がってきた。ススムが興奮した声で叫んだ。
「なあ、ポスト、人や。」
前方には柴を担いだ老人が見えた。
「おーい、おーい」
二人は声にならない声を叫びながらかけだした。
 きっと二人は自分たちがどれほど、この老人を驚かすかわかっていない。

「挑戦」

川那辺 顕

 時速138マイル、電光掲示板にそう出ると観客は沸き上がった。その心地よい歓声の中、俺は得意満面で左こぶしを突き上げていた。ネット際にいたベルも俺の方を向き、少し口元を緩めた。時速138マイル、つまり時速220kmを越えているのである。サ−ブだけなら世界一だと自負している。俺の名前はクリフ・ロバ−トソン、生まれはヒュ−ストンで、もう28になる。両親は俺が5つの時離婚し、父にこの歳まで男手一つで育てられた。世界ランクは18位で世界のトッププレイヤ−だ。しかし良績はダブルスに集中していて、シングルスではどうも調子がでない。よくコ−チや他のテニス関係者から、サ−ブは確かに速いのだが確率が悪すぎるだとか、フォ−ムがバラバラだとか、もっと練習すべきだなどと口うるさく言われる。しかし何を言われようが俺は聞く耳を持ち合わせていない。なぜならテニスはセンスがすべてであり、俺にはそのセンスが満ちあふれているからである。俺はあまり他人のことをほめたりしないが、相棒のジェラ−ル・ベルモント、ベルだけは別である。ベルは俺より4つ年下で、まだ24と若い。世界ランクもまだ32位であるが、去年までは50位にも入らない選手だったのに、最近めきめきと力をつけてきた。あいつにはこの俺以上にセンスがあるのだ。俺の武器はサ−ブだが、ベルの武器はボレ−である。ベルもネットプレ−だけなら世界一であろう。しかもベルはボレ−が上手いだけでなく、すべてのプレ−においてショットが正確である。だからシングルスでもそこそこ活躍している。あとはスタミナがついてくればトップ10入りは間違いない。生まれはチェコだが、10歳でこの国に母親と二人で亡命して来、いまではアメリカ国籍も取得した。しかし幼い頃父親を病気で亡くした上、母親も4年前過労で亡くなったらしい。
 そんなあいつと俺が知り合ったのは、もう5年も前の事になる。オ−ストラリアのメルボルンで開かれていた中規模のト−ナメントであった。2月の半ば、最も暑い季節である。空はどこまでこの青色が続いているのか見当もつかないほどであった。コ−ト上の気温は50度をゆうに越えており、太陽が普段見ているそれよりも何倍も大きく見えた。体中の水分がどんどん大気中に蒸発していくのが手に取るように感じられた。そんな中俺とあいつは準々決勝で顔を合わせた。あいつも俺と同じ左利きであった。俺の調子は悪くなかったが、それ以上にあいつが絶好調であった。ファ−ストセットは4−6で落とし、セカンドセットも1−5でリ−ドされ、あきらめかけていた折、あいつのスタミナが切れてきた。そこから俺は一気にまくりそのセットを7−5でものにした。しかしファイナルセットにもつれこむと、あいつも息を吹き返し、お互い一歩も引かない大接戦となった。結局タイブレ−クにまでもつれこみ、最後には俺がパワ−でねじ伏せた。俺は久しぶりに、勝ち負けなどどうでもいいほどの心地よい試合をやった。どうやらあいつもそのようで、俺達はすぐに意気投合した。二人は全く逆のタイプの人間であったが、何かひかれ合うものがあった。

 今日も俺達はダブルスのト−ナメントにでていた。長い間ペアを組んでいるが、でかいタイトルはまだひとつもない。前評判も高く、いつもいいところまでいくのだがなぜか勝ち切れない。俺はなんだかんだいってもうかなりベテランである。あと5年でも10年でもやり続ける気力は十分にある。しかしながら体が言うことを聞いてくれそうにもない。俺は少しでも早くでかいタイトルが欲しかった。今回の大会もでかいタイトルのうちのひとつである全豪オ−プンだ。このコートとは相性がよく、毎年ベスト8には名を連ねている。さらに今回は、1セットも落とすことなく順調に決勝まで駒を進めた。決勝の当日、普通の雨雲よりさらに黒みがかった分厚い雲が上空を覆い、コ−ト上にもじめじめした空気が漂っていた。体調は悪くはなかったが少し体が重く、肩に少し張りがあった。昨日の疲れが残っているのだろうか。若い頃は何連戦しても疲れなど微塵も感じなかったのに、やはりもう年なんだろうか、いやそんなことはない、衰えなど絶対に認めない。今日勝って、未だ衰えずというところを証明してみせてやる。俺は意気込んでいた。ベルは変わりなく順調そうである。朝から軽く練習したときも、相変わらず正確なショットをコーナーにきめていた。今日の相手は、地元オーストラリアの新鋭ジェフ・ウッドフォードと、ビクトリア・ジャクソンである。彼らはともに2年前にプロに転向したばかりの20歳であるが、すでにいくつかのトーナメントを制し、かなり名をあげている。若いだけに、一度勢いにのったら止まらない。どうやら今大会でものっているようだ。しかしそんな若造どもに負ける訳にはいかない。試合が始まると、案の定相手はのっていた。ネットにかけてミスになってもおかしくないようなボールが、ネットインしてこちらのコートに落ちることが少なくなかった。しかしながら俺のサーブも、朝の肩の張りが嘘のように絶好調であった。エースを次々にきめ、その度に、こんな天候にもかかわらずつめかけた満員の観客へ、どうだといわんばかりにアピールしていた。ここはむこうの地元なので、俺たちを応援しにきた客などほとんどいなかったであろうが、俺はサーブで沸かせ続け、ついに客を味方につけた。これはいける、俺ははっきりと確信した。その確信どおり俺たちはファスートセット、セカンドセットともに6−4で奪った。この時点で俺たちは初のビッグタイトルに向かって一歩も二歩も前進したはずであった。しかし俺の中では全く前進していなかった、前進したというよりむしろ、後退したといってもよかった。なぜなら俺の肩に再び朝の張りが感じられるようになったからである。張りが感じられるようになったばかりではなく、関節まで激しく痛みだした。セカンドセットの最後のゲーム、こちらのサービスであったが何度もデュースでねばられていて、俺のいらだちがだんだんつのってきた。それをいち早く感じとって、ベルがサインを送って来た。前で構えているベルは右手を後ろにまわし、親指と小指を突き出した。このサインは“この一本集中して必ず取るぞ”という意味である。このサインをどちらかが出すと、不思議とほぼ確実にポイントを取る。ある程度ジンクスみたいなものである。俺はジンクスなど信じないが、これだけは別である。だからこの時も早くセットを取りたいのと、ジンクスを壊したくないのとで、俺は渾身の力を込めてサーブを打った。そのときだった、ボールをたたくインパクトの瞬間肩が割れるような痛みが走った。それでもボールは相手のコートにつきささり、結局このセットをものにした。痛みは、肩に血液ではなく痛みを送り出す心臓があるかのように、ドクドクと骨の髄からあふれてきた。だれにも気づかれてはならない、気づかれないうちに早く試合を終わらさねば。サードセットが始まると、何事もなかったかのように俺はいつも通りのショットを繰り出したつもりだった。この会場の誰もが気づかなかっただろう、あいつをのぞいては。ベルだけには隠し切れなかった。すぐに駆け寄って来て、どこか痛めたのかと聞いた。俺はあくまでも隠し通そうかと一瞬ためらったが、すぐに観念して全てを話した。ベルはすぐにでも棄権しようと言って来た。ベルの口調が珍しく荒かったが、俺も猛烈に反対した。今までプロで10年間やって来たが、一度も棄権などしたことがない。そんな中途半端なことは絶対にしたくない。しかしベルも引き下がらなかった。俺の頑固さを十分に知っている上でなお引き下がらなかった。審判が早く試合を再開するよう求めて来た。俺は100歩譲って、このセットが取れなかったら棄権することを約束し、試合を再開した。湿気をたっぷり溜めこんで、必死で雨粒を落とすのを耐えていた雨雲が、ついにこらえ切れなくなったようで、観客が雨合羽を身につけ始めた。俺は肩のハンデをカバーしてなお有り余るほどの気力をふりしぼり、必死でプレーした。しかしその気力をあざ笑うかのようにサーブの威力は落ち、ミスも連発した。30分も経たない内に、サードセットを1−6で落とした。俺はラケットをたたきつけた。ラケットはフレームが折れ、折れた部分のガットがたるんでいた。屈辱だった。自分が情けなくて、顔を上げることができなかった。肩以上に、観客の哀れむような視線が痛かった。

 すぐにスポーツ医学の権威と言われている医者に診てもらうと、もう関節がうまく機能しないらしい。直すには手術が必要だという。さらには手術をしても成功する確率は50%で、たとえ成功したとしても、完治するまでリハビリにまる1年を要するというのだ。6歳の時親父に教えてもらいテニスをはじめた。小学生でも体のでかかった俺は、その辺の中学生にも負けなかった。中学に入って専属のコーチをつけ、ジュニアの大会で優勝したこともあった。高校ではエースとして活躍し、全国制覇を成し遂げた。プロに入っても常に脚光を浴び続け、表舞台から下りることはなかった。初めての挫折だった。どうすればよいのかわからなかった。手術を失敗して惨めな姿をさらすよりも、このまま惜しまれながら引退するほうが格好はつく。引退してもコーチとして十分やっていけるだろう。そう考えながらも、何かしらもやもやとしたものが心の中から消えず、決断しかねていた。医者に相談しても、君の判断に任せるとしか言わない。他の誰に聞いてみても皆同じようなことしか言わなかった。確かにその通りなのだ。しかし誰かに頼らずにはいられなかったのだ。自分の力だけを信じてきた俺が……情けない話だ。もう頼れるのはベルしかいなかった。ベルならなにか良いアドバイスをしてくれるはずだ。そんな期待を抱きながら俺はベルに相談をもちかけた。しかし俺の期待とは裏腹にベルも他のやつらと同じように、ロバートが考えるようにすればいい、俺の決めることじゃないとしか言ってくれなかったが、そう言ったベルは思い詰めたような、もどかしそうな、また少し悲しげな顔をしていた。俺はあきらめて帰ろうと、顔をうつむけながらベルに背を向けたそのとき、今まで活動を停止していた休火山がいきなり爆発したように突然に、しかし少し静かな語調で言った。

“AT LEAST TRY”

しばらく時間が止まったように感じられた。全てが停止している中で、ベルの言葉だけが俺の体中を所せましと駆け巡っていた。我にかえると、世界が蛍光灯でもつけかえたかのように明るく見えた。俺は今まで何事にも挑戦し、立ち向かい、乗り越えて来た。それをこんなことであきらめてどうするんだ。また、俺は手術が失敗したときのことばかり考えていた。50%の確率で失敗することは確かだが、同じ確率で成功することも確かなのである。そして何よりも、俺が俺であることを証明してくれるものはテニスしかないのだ。わかってみれば単純なことだが重大なことだった。それをわからせてくれたベルに感謝した。面と向かって礼を言うなど俺には照れ臭くてできないので、ベルに背を向けたまま、聞こえるか聞こえないかの声でありがとうと言った。

 すぐに手術する意志があることを医者に伝えた。医者は、最善を尽くしますと決まり文句を言っただけだが、信用するよりほかなかった。手術の日程はちょうどその日より一週間後と決まった。もう覚悟を決めていたので、手術までの一週間は意外と気楽なものだった。前日から入院して様々な検査を行い、次の日の手術に備えた。その晩もいつもと変わりなくよく眠れた。朝目覚めるとまだ6時過ぎであった。手術は10時からでまだ4時間もある。もう一度眠ろうと試みたが、よく寝たせいか、それとも手術当日のせいか、いくらがんばってみてももう眠れなかった。窓からは、今日も暑くなりそうなことがたやすく想像できるほど強い日差しが、早朝にもかかわらず差し込んでいた。その日差しが俺の足元の真っ白いふとんの上にあたり、ほのかにあたたかかった。俺はいつのまにか手術のことを考えていた。すでに腹をくくっているつもりだったが、さすがにあと数時間に迫っていると思うと、鼓動が少し速くなった。そんなことでびびっていても仕方がないので、成功した後のリハビリについて考えることにした。やるべきことは山積していた。8時になると看護婦が検温にやって来た、おはようございます気分はどうですか、朝っぱらからこれでもかというぐらいのさわやかさである。低血圧の俺には信じ難いほどだ。そうはいってもなかなかに美人で、退院したら食事にでも誘おうと思った。ほどなく朝飯が配られて来た。パンにミルクそしてハムエッグ、なんて典型的な朝飯なんだろう。そんな不満めいたことを考えながらも、あっさりと全部たいらげた。食べ終わると満腹になり、また睡魔が襲って来た。我ながらなんて楽天的なのだろう。医者が入って来てやっと目覚めた。そろそろ始めます、心の準備はよろしいですか。医者が聞いて来た、そんなことは今まで眠りこけていた患者にする質問ではない。しかしいざ手術室に向かうことになると、再び鼓動が速くなった。今度は前回のそれよりもさらに速くなっていた。成功すると信じていてもやはり不安なものである。手術室の前に来ると、そこにはベルが立っていた。ベルは真一文字に結んだ口を少し開け、白い歯を少しのぞかせながら、右手の親指と小指を突き出し俺に示してきた。俺も同じサインを、えらそうに笑いながら送り返した。もう手術が失敗することなど考えられなかった。麻酔で意識を失っていた俺が気がつくと、そこは病室のベッドの上だった。もう夕方であるらしく、辺りは薄暗かった。すぐさま左肩を見ると物々しい包帯が巻かれており、肘の内側には点滴の針が刺さっていた。俺がきょろきょろしていると、気がついたかと言う声が足元から聞こえた。ドアのすぐそばにある椅子にベルが腰掛けていた。ベルは目を大きく開け、鼻をふくらませながら、おめでとうと言った。

 手術後二週間してやっと退院できることになった。肩に負担をかけないように、リハビリは時間をかけて徐々に行うようにと、医者の口はすっぱくなるほど、俺の耳にはたこができるほどにしつこつ言われた。俺はせっかちで、どうしてもそれを守れそうにないので、今までのコーチとは別にフィジカルコーチと、メンタルコーチをつけることにした。フィジカル面では初めは走ることもできず、歩行運動などからやらなくてはならなかった。メンタル面ではビデオ等を見、イメージトレーニングを毎日やった。俺は、こんなまどろっこしいことは今までやったことがない。しかし手術をすると決めたときから、今までのプライドや建前をすべて捨てて、復活に必要なことならどんなことでもやると心に誓った。同じメニューを淡々とこなしていく日々が続いた。一週間たっても二週間たってもメニューは変わらなかった。少しずつでも、回復に向かっているのかどうかさえ疑問に思えた。
 週に一度は病院に通っていたが一カ月経っても、順調に回復しています、の一点張りである。しかしこの程度のことでやけをおこすわけにはいかなかった。なんせベルが、やろうと思えばいくらでも自分の練習ができるのに、わざわざ毎日まどろっこしい練習につきあってくれているのだから、これくらいでやけをおこしては合わせる顔もない。

 手術からちょうど三カ月経った頃、やっと軽いランニングの許可が下りた。ランニングなど、俺が最も嫌いとする練習のひとつであったのに、今ではここまで嬉しく感じられるものかと不思議であるほどの喜びであった。それからというもの、初めの三カ月の地道なリハビリが効いてか、病院に行く度に走ってもよい距離が延び、脚力アップのウェイトトレーニングまでできるようになった。毎週病院に行くのが楽しみでしょうがなかった。嬉しそうに病院に通う俺を、昔の俺が見たらさぞばかにすることだろうと思うと、また顔がにやけてきた。

 それからまた三カ月ほど経つと、もうほぼ全力で走ってもいいぐらいに回復した。しかし人間の欲望は尽きないものである。今度は早くラケットを握り、ボールが打ちたくて仕方がなくなってきた。ベルは俺がこうしている間にも、既に二つのトーナメントで優勝して、ランキングもぐんぐんあがり12位である。しかしベルはその間中、一度たりともダブルスのトーナメントには出場しなかった。俺は焦った。焦りを抑えようとしても、次々と湧水のようにあふれてきた。また、俺以外の奴と組んでも十分上位をねらえるのに、何か自分が申し訳無いことをしているような気がしてならなかった。しかしながら、そんなことで思い悩んでいることのほうがよほど申し訳無いと考え直し、再びリハビリに専念すようになった。

 まもなくラケットを握ることができるようになった。初めは懐かしい気持ちで確かめるように手の平で2、3度回してみた。ラケットがかなり重くなったように感じられた。それでも嬉しいことには変わりなく、やたらと頬の肉が緩みっぱなしであった。さすがにいざ打つとなるとえらく不安であった。とりあえずボールがネットを越えるのかどうかでさえ不安であった。しかしそんな不安とは裏腹に、ごく自然に打つことができた。毎日のランニングやウェイトトレーニングのせいか、以外と体もよく動いた。さらにはインージトレーニングのおかげか、球勘もすぐに戻った。さらには脚力がアップしたことにより下半身が安定し、ショットが正確になり、以前ではとれなかったようなボールにも追いつけるようになった。それからは順調そのもので、医者も回復力に目を見張るほどであった。

 手術から10カ月余り経った頃、ついに予定よりも2カ月も早く、全力でサーブを打ってもいいまでになった。サーブを試す当日朝7時、いつものようにランニングにでかけた。もう朝日がでていたが、一向に暖かくなろうとする気配が感じられなかった。冬の太陽は弱々しく、夏のあの焼けつくような赤橙色が薄くなってしまったようだった。散歩中の犬のはく息も白かった。サーブを試すのは10時からであったが、10時になってもまだ到底上着が手放せないほど冷え込んでいた。コートにはベルの他にコーチ陣や医者も呼んでおいた。入念なストレッチを行い、ベルと軽いアップを済ました後、いよいよサーブを試す時がやってきた。正直言って怖かった。ラケットを持つ手が震え、その震えはラケットヘッドまでもゆらすほどであった。もし元のサーブがもどらなかったら、そう思うとなかなか打てなかった。ネットの向こう側にはベルが既にレシーブの態勢を整えずっと待っていた。ベルはこちらをむき大きくうなずき、手のひらを仰向けにし、くいくいと手招きをした。俺は深く息を吐き出し、口の中のありったけの唾液を飲み込んだ。コーチや医者の唾液を飲む音も聞こえてきそうなほど空気が張り詰めていた。ゆっくりとボールをつき、恐る恐るながらもトスをあげ、渾身の力でボールをたたいた。ボールはコート上で大きく跳ね上がり、ベルのラケットに触れることなくバックネットに当たり、小気味よい音をたてた。コーチと医者は満面の笑みで握手を交わし、お互いに礼などを言い合っていた。しかし俺とベルの気難しい顔を見て、不思議そうに顔を見合わせた。確かにそこそこ速いサーブであったが、所詮そこそこである。そこには以前のような速さも威力もなかった。ベルもそれが十分わかっているようであった。続けて何本も打ってみたが、変わりはなかった。もう戻らないそう思うと愕然とした。今までやってきたことは何だったんだ、全てが無駄だったのか。

 俺はやけを起こし、ひたすら打ち続けた。そうしているうちにあることに気が付いた。絶望の暗闇の真っ只中にいた俺にひとすじの光明が見えた。あれだけ確率が悪かった俺のサーブがほとんど入っているのだ。しかも以前はコースなどねらってもその通りいったことなど皆無に近かったのに、いまでは思いどおりのコースに決まっている。かったるいビデオを毎日見、科学的な集中力アップのトレーニングが実を結んだ。そうだ、何も速くて威力があるサーブだけが有効なのではない。もうすでにプライドも建前も捨てたのだから、昔のプレースタイルにこだわる必要もない。少々スピードが落ちてもこれで十分通用する。体中の血液が温度を上げ、倍の速さで巡りだしたように感じられるほどに興奮した。いつのまにかもう昼前で、かなり暖かくなっていた。復帰第一戦は因縁の全豪オープンと決めていたので、まだそれまで二カ月足らずの余裕があった。二カ月は調子を上げていくのに有り余るほど十分な時間であった。

 肩には何の異常も出ず、順調に二カ月が過ぎ去り、ついに来るべき時がやって来た。今年もオーストラリアは猛暑であった。俺たちは第2シードで、第1シードは去年の忘れもしないあの試合の相手、ウッドフォードとジャクソンである。何としてでも決勝までいき、雪辱を晴らさなければ気が済まない。気合が体中に満ち、今にもあふれだしそうであった。初戦は久しぶりの実戦とあって、さすがに少し不安だったが、始まってみれば二人ともまさに状態は絶好調で、不安を吹き飛ばす快勝をおさめることができた。その後も去年と同じように、1セットも落とすことなく決勝まで勝ち上がった。当然のようにあいつらも順当に勝ち上がって来た。決勝当日は、初めてベルに会った日のように晴れ渡っていた。雲は、太陽を覆い隠すには遠すぎるところに少しあるだけであった。珍しく湿度も高く、じっとしていても粒状の汗が滲み出てきて、気が遠くなるような暑さだったが、その強い日差しも不思議と心地よく感じられた。初戦から絶好調であったが、さらに一戦ごとに調子が上がり、今日は最高の状態であった。ただ肩にあのいやな張りが少しでてきたことが、唯一の不安材料だった。だから試合前の練習も早めに切り上げた。ところがスタミナがあまりないため、いつも軽いアップしかしないベルが、汗でウェアの色が変わるほど練習するのである。あいつもこの試合にかける意気込みは俺と変わらなかった。いざセンターコートに入場するとわれんばかりの歓声であった。満員の観客は老若男女さまざまで、ほとんどが帽子をかぶり、サングラスをかけていた。緊張はしていたがあがってはいなかった。頭の先から足の先までピリピリと張り詰めた、いい緊張感があった。俺たちはトスで勝ち、サーブを選んだ。俺のサーブでついに試合が始まった。いつもスロースターターであるベルも念入りなアップの甲斐あって、でだしから得意の鋭いボレーを連発した。俺も負けじと、コーナーに正確なサーブをたたきこんだ。しかし相手も強かった。去年はある程度運が味方していたようなプレーであったのに、今年は紛れもない実力である。決勝までの試合を見て、上手くなったなとは感じたが、実際にやってみると想像以上だった。それでも気迫では完全にこちらが勝っている自信があった。その気迫でファーストセットを6−2で押し切った。そのままの勢いで、と思ったが、相手も徐々に気力が充実してきたのか、セカンドセットは2−6で逆に奪われた。サードセットになると相手はますますのってきた。こちらとしても絶対に落とす訳にはいかず、タイブレークにまでもつれこんだが、そこでタイミング悪く俺のガットが切れた。新しいラケットになかなか馴染めず、とうとうサードセットを6−7で落としてしまった。追い詰められた。俺の肩の張りはいやな感じを増していた。しかしそんなことは気にしていられない。もうあとがないのだ。ベルのスタミナもそろそろ切れてくる頃である。そう思いベルの方に目をやると、以外にも元気である。そういえばベルは俺のランニングに毎日つきあってくれていたのだ。スタミナがついて当然である。いける、直感的にそう思った。その直感通りフォースセットをむこうの油断もあってか6−1で簡単にものにした。ついにファイナルセットまできた。俺はその日5枚目の新しいウェアに着替えた。肩は張りを通り越して少し痛みまで出てきだした。疲労もピークに達してきた。それでもなお、勝ちたいという強い気持ちからか、全身に力がみなぎっていた。むこうも再び気を引き締めてきたので、一瞬たりとも気が抜けなかった。むこうのサービスゲームを破るチャンスは何度かあったが、いずれも逃してしまった。こちらのサービスゲームも簡単にはキープさせてくれなかったが、なんとか耐え抜いてキープした。結局双方サービキープを続け、またもタイブレークとなった。肩の痛みが増してきた。医者にはもう一度肩をこわせば手術しても直らないと言われていた。しかしそんなことはもうどうでもよかった。どんなことになろうとも、とにかくこの試合だけには勝ちたかった。タイブレークになっても一進一退の攻防が続いた。守りにいっては負けるので常に攻め続けた。ポイント5−5でむかえた、相手のサーブ、ファーストをはずしセカンドを慎重に入れにきたところを俺がたたいた。リターンエース、ついに待ちに待ったチャンピオンシップポイントである。俺のサーブだ。ゆっくりと構えに入りボールをついていると、手術やリハビリ、いままで苦しかったことが次々と頭に浮かんできた。前で集中力を高めていたベルがいつものように、右手の親指と小指を突き出してきた。俺は大きく息を吐いた、そしてまた大きく吸い、トスを高々とあげた。ボールが頂点に達したとき、残り得るすべての力を振り絞り、ラケットを振り抜いた、と同時に肩にまたあのときの激痛が走った。俺はうずくまってしまった。ボールはかえってこなかった。歓声が沸き上がった。それが俺たちが優勝したことに対する祝福だという、自信はなかった。俺にもう一本サーブを打つ力は残っていない。もしサーブがはずれていれば、そう思うとなかなか顔を上げられなかった。まもなくベルが歩み寄ってきた。ゆっくりと顔を上げると、ベルが顔をくしゃくしゃにして泣きながら笑っていた。すぐに俺の目からも涙があふれてき、頭の中ではあの言葉が何度も周回していた。

“AT LEAST TRY”

「ある名士の悲劇」

今井智子

 手にした杯に揺れる、妖しいきらめきを彼はじっとみつめる。一杯の酒を干すにしては、深刻な表情だった。やがて、その表情は、哀しげな微笑と取って変わる。しかしその様はいかにも寂し気だった。………

1, 九錫の礼

 …………………。
 「なりませぬ、殿! 九錫の礼など、とんでもない暴挙にございまする…!」
 居並ぶ群臣たちのざわめきを背に、彼、荀或(じゅんいく:「いく」の本当の字は、もう二本袈裟掛けが必要だが、第二水準にないので「或」で代替した)はそう言い切っていた。

 建安十七年、正月。
 今を去る千八百年の昔のことである。
 中国大陸に史上稀にみる大帝国を築き、栄華を誇った漢王朝も、創始以来四百年。
 いまや、昔日の繁栄の面影はない。
 反乱は度重なり、豪族たちはその鎮圧に奔走した。しかし、彼らはやがて互いの勢力拡大のために相争うようになってゆく。時代は、群雄が割拠する戦国の世となっていたのである。
 それらを抑え得る実力も、もはやこの王朝には無く、その威信は既に有名無実と化していた。
 国家に君臨するはずである皇帝は、当時最高の実力を誇る豪族の一人曹操孟徳のもとに、捕らわれるが如き待遇で擁されているという有り様であった。
 この大きく動く時代のなかで、人々は次なる時代へ向けての、あらゆる模索を余儀なくされた。―そうしないと生きられない時代だったのである。
 さまざまな人生を選んだ男たちがいる。
 どれが正しいとか、間違っているとか、あれこれ批評する権利は私たちにはない。ただ、その懸命なる人生の軌跡を、物語なり文献なりで偲ぶ―私たちに許されるのは、それぐらいのことであろう。
 ここで取り上げる荀或という男の生きざまも、時代に大きく翻弄された、というべきであろうか。
 否、荀或のみならず、これは三国時代を駆け抜けた数多の星たちに共通のことであろうが…

 「…殿は、下は民の為、上はこの漢王朝の為に、これまで進まれてきたはず…!それを、皇族にしか許されぬ九錫の礼を、臣下たる身でお受けになり、恥ずかしくも魏公を名乗ろうとは、これまこと義の道にはずれた行い。世人が何と申しましょう!」
 衣の裾を翻し、沓を鳴らして進み出た一人の男があった。
 荀或、字を文若。幕下随一の逸材で、その主曹操に、最も信頼されてきた参謀の一人である。

 ―中国大陸の大部分を、既に手中に収め、いまこそは覇王たらんともくろむ曹操。
 いずれは傀儡の献帝を廃し、自らが皇帝たらんという野心があった。―彼の提案する“九錫の礼”とは、宮中及び国中に於ける各種特権のことで、それを受け、魏公として国土を賜るというのは、とりもなおさず帝位を窺い得る位置に自らを置くということに他ならない。
 単に、宮殿内を優雅に歩けるとか、立派な屋敷に住めるとか、そういった、言ってみればどうでもいいようなうわべだけの権威を欲したのではない。曹操は、漢王朝を廃して自らの国家を建てるという、要するに謀反の意志をあらわにしたのである。

 「…なりませぬ!人には、越えてはならぬ一線というものがございまする!殿、お考え直されよ!」
 一寸の躊躇もないその厳しい口調に、一座はしん、とした。荀或の表情には、死をも辞さぬ、悲壮な覚悟が窺えた。―曹操に真っ向から逆らうなど、実際命知らずな行為だったのである―居並ぶ群臣たち、皆、息をのんだように言葉を発する者とてない。荀或が進み出るその瞬間まで、賛成の色をあからさまに浮かべ、はや、祝いの言葉まで用意していたかの如き輩も、さすがにしわぶき一つ、しなかった。
 そんな群臣たちには頓着する風もなく、荀或はさらに一歩進み、こわばった貌から、射るような視線を曹操に注ぐ。―彼にとって、この場は群臣対曹操などではない。自分は群臣どもの一人などではない。己と、主。彼の目に映るのは、それのみである。
 「…荀或。」
 その視線をじっと受けとめ、そのしぐさのひとつひとつを、半ば呆然とみつめていた曹操は、やっと一言そう言った。なに故?といった当惑の色は隠せない。彼、荀或はそれまでも、めったと感情をあらわにしたことがない。穏和な人物であった。…いま、眼前で何かに憑かれたように口を引き結ぶ男は、一体何者なのか?
 唐突に、曹操は席を立った。
 儀礼は終わった。
 対峙していた相手が、突然消え、取り残された荀或は、今や空席となった座を凝視している。息をつめて、なりゆきを窺っていた群臣たちは、魔法が解けたかのように、はっとし…やがて三々五々と立ち去ってゆく。―彫像のように動かない同僚の背中に、ある者は冷笑を、またある者は気の毒げな視線を投げて。最後にぽつりと、荀或だけが残った。
 誰もいなくなり、がらんとした広間で、彼は目を閉じ、独りごちる。
 (…これで、いいのだ。)

 荀或文若―。この魏の主席幕僚長。主の覇業を支え、たすけてきた、文字通り曹操の片腕。普通なら、曹操の魏公就任に、最も賛意を表す立場をとって、しかるべきである。
 そんな彼が、この期に及んで、何故に、この傾ききった漢王朝に肩入れするのか―。
 謎と言えた。
 説は説を生み、噂は噂を呼んだ。
(に、しても、よくも無事で居られたものですな…。)
 人々はひそやかに言い合った。
(荀或殿だからでござるよ。なにせ、この魏の大功臣ですからな…。)
(かりに、あれが他の者だったとすれば…)
ひそひそと語り合う文官たちは、顔を見合わせる。そのうちの一人が、片手をそっと喉元にあてがい、すうっと横に引っ張る。
(ばっさり、でしょう。)
(…しかし。)
 一人が腕を組む。
(いくら、荀或殿でも、ああまで言っては、まずいんではないかな。)
(…殿は、合理的ですからな。)
 誰かが皮肉めいた口調で言った。
(…邪魔と思われたら、最後、というわけですかな?)
(‥しっ、滅多なことを!)
 …………………。
 確かに、曹操は合理的といえた。
 邪魔になったものは、人であれ、物であれ、取り除く。これが彼のやり方である。
 …今、彼は九錫の礼を受け、魏公となることを目的と定めている。その行く手に、思わぬ障害物が立ちはだかった。それが、あろうことか己が最も信頼し、優遇してきた荀或だったのである…。

2,

 灯火の明かりが、ぼんやりと辺りを照らす。
 卓の上に紐解かれた書物の項は、時を止めたままだ。
 彼は、もう幾日もそうしていた。
 ただでさえ、やせた身体が、やつれて痛々しげに見えた。
 その双眸は、深い苦悩を沈め、その口元は、堅く引き結ばれたきりである。
 (わたしは……)
 荀或は、独りごちた。
 ここ数日、彼は己が人生と、正直に向き合う機会を得た。―否、望むと望まざるに拘りなく、そうなったと謂うべきか。
 …他人も羨む人生のはずである。溢れる才知と、類希な美貌に恵まれ、位も人臣を極めた。
 それに加えて。
 「荀…。」
彼は、己が姓を、音読してみた。…そして自嘲的に笑う。
 (…荀家。私の人生のなかで、なんと強力な切り札であったろう。)
 …だが。
 (同時に、なんとこいつに縛られてきたことだろう…。)
 ほろにが気に眉をひそめる。灯火がわずかに揺らめく。
 ―頴川の荀氏といえば、世の清流派を代表する、かくれもなき名家である。頴川には、この他、清流派名士の家柄として、陳氏、鐘氏があったが、いずれも荀氏とは家族ぐるみのつきあいであり、官僚としては超エリートであった。
 清流派―宦官勢力の金権腐敗政治に、憤りを覚える名士たちのことをこう呼ぶ。
 後漢末期、桓帝、霊帝の御世は、ほとんど宦官たちの世であった。幼くして帝位についた帝に取り入り、政界の黒幕として、あらゆる悪逆を凝らす。―金、金、金、どこへ行っても、何をするにも賄賂であった。そして吸い取られた黒い金は、宦官たちの懐に収まる。もちろん、官吏の任免も、彼らの思うがままである。賄賂を払わなかったがために、不当な扱いを受けた者は、それこそ山のようにいた。―当然、こんなことが続けば、政は無茶苦茶である。実際、国勢はとみに衰えていた。これらの状況を憂え、憎むべき宦官勢力を撲滅せんと唱える人々を、宦官の「濁流派」に対して「清流派」と呼んだ。
 もちろん、「清流」と称するからには、行い清廉潔白でなければならなかった。いうまでもなく、当時に於いての清廉潔白とは、儒教的モラルを身につけているということを多分に意味する。だから、当時の清流派名士たちは、基本的に‘尊皇’の立場をとった。この場合、‘尊皇’とは、漢王朝をもり立てることに他ならない。
 もちろん、こういう時代であったから、建前は建前として、上手に状況を切り抜けてゆく者も多かったが、そうしない者も、そう出来得ない者もいた。
 荀或は、この場合、後者と言えよう。世間の清流派の代表としてのプレッシャーもあったろうし、彼は宦官の養女を妻としていたのだ。―宦官。憎むべき、諸悪の根元にして「濁流」。儒教に於いて最も大切なこととされる「先祖の祀」をすべき子孫も残せぬ、軽蔑すべき人種。
 清流派の代表たる自分が、何故よりにもよって。たとえ、政略結婚で己の意志ではないにしても、卑しむべき宦官の娘を妻にしてしまったとは。…が、妻を責めることは出来ない。妻自身に罪はない。それにあたることは、この場合、匹夫の振る舞いとなろう。だが、それ故に、憎むべき、軽蔑すべき宦官の一味に、安心して正論によるそしりを吐くことができぬそれ故に、このことは、荀或の心のなかに深い屈折したコンプレックスを形作ったに相違ない。そして、そのコンプレックスこそが、彼をして、より‘清流派’らしい態度をとらしめたということは、推理に難くない。
 (わたしの人生は…)
 彼は、胸苦しさを覚えた。
 (君は余の張子房だ!)
 ―張子房。漢王朝の始祖、劉邦が参謀にして、希代の名軍師。
 かつて、曹操が自分を見て驚喜したことを思い出す。…思えばあれから、数々の献策をした。帝を擁するなどという、およそ、清流派らしくないことも、敢えて勧めた。…いくら衰えたりといえども、やはり帝は切り札になる。帝の元、―すなわち、それを擁した者の元―から出された命令は勅命なのだ。逆らう者は、逆賊となる。それ故、帝を擁し、奉ることは周囲の諸侯を大きくリードすることになる。そういう存在を、とうてい天下を窺えぬような器量の狭い者どもにみすみす与えてしまうことは、世の為にも危険きわまりない。弱小勢力が、帝を得たがために、中途半端に力をつけたのでは、いつまでたっても、戦乱は収まらぬ。それぐらいなら、己が主曹操にとらせ、彼に力を加えてやったほうが、よっぽど良いと判断した。そしてそのとおりにした。これについて、一部の清流派名士から非難を受けたが、自分では間違っていなかったと思う。今の世が、こんなに乱れているのは、天下を統一出来得るほどの、強大な力がないからなのだ。
 (だが。)
 その後。見事曹操が天下を統一した後、漢王朝は、どうなる?
 (…私は、どんなことがあっても、漢を裏切ることはできぬ…!それは許されないのだ…荀家の人間として…!)
 彼は、唇を固く結んだ。
 (が、)
 彼は、その奮闘が所詮、時代の流れに逆行する、蟷螂の斧に過ぎないことも、よく解っていた。
 …乱世を終わらせ、民を安んじることこそ、己が使命であると心得てきたし、丈夫たるものの務めであると思ってきた。そして、それを実行するには曹操に仕える必要があった。
 しかし、その使命を完璧に遂行するなら、漢の忠臣とはなり得ない。彼の悲劇は、そんな世に生を承けたことにある。 人物鑑定眼には定評のある彼である。曹操の野望を見抜けぬはずはなかった。自分がいずれ、この苦しい二者択一を迫られるであろうことは、とうの昔から、予見していた。分かっていながら、ここまで来てしまった。だが、こうする以外に、どんな道が残されていたといえよう?
 (わたしは、最後には偽善者となり果てるのではないか…!)
 漢王朝の為、と心に思い、口にしながら、結局は、それを潰すことに力を貸す…。
 後の世の者が、なんと評しよう。魏の功臣にはなろうが、漢にとってはまぎれもない逆臣。代々禄を食み、恩を承けた王朝に、わたしは、弓を引く逆賊となるのか!
 そんな思いが、常に心のどこかにあった。
 栄光に包まれていたかに見える彼の人生も、実は余人の思いもよらぬ苦悩に彩られていたのである。

3,

 荀或の姿を見た荀攸は、思わず息を呑んだ。
 「…文若殿、そのお姿は、いったい…。病気で出仕しないというのは、まことだったのですね…」
 荀或は、哀しげに首を振った。
 「私は、病などではない。」
 「でも…」
 何か言おうとする荀攸を、荀或は遮った。
 「…殿は、何と言ってこられたのだ?」
 先に切り出されて、荀攸はわずかに狼狽した。
 「なにか、密書でも携えて来られたのだろう?」
 …ああ、さすがは、文若。荀攸は密かに感嘆の吐息を漏らした。
 「…貴殿にかかっては、この私など、形無しだ。…お察しの通り。」
 荀攸は、懐中に忍ばせた曹操直筆の書状を、手にした。

 …一瞬のためらい。
 催促するような荀或の視線。
 「…叔父上。」
 その瞳に向かって、荀攸は苦しげに呟いた。
 「愚かに、なっていてくれ。…せめて今回は…。」
 荀或の表情が、すうっとこわばった。
 「…見せていただきたい。」
 荀或は、書状を広げた。…やがて、そのこわばった表情のまま、瞳を上げると、不安気な荀攸と目があった。
 「…出陣、してくれ。文若。」
 ほとんど哀願するように、荀攸は言った。
 ―今回の南征には、お主にも従軍してもらいたい…。
 曹操の手紙はそう述べていた。すなわち、命令だった。 
 「…今回の、戦は、さように参謀が不足か?」
 (私は、常に殿の留守を預かってきた。それを今になっていきなり戦場に出よとは、解せぬ。)
 ―生きては、帰れぬかも、知れんな…
 「貴殿は、私が、お守りする…!文若殿…!」
 この年上の甥は、言った。
 「従軍されれば、私がつくことが出来る。だが、ここに残られたら…」
 ―死。
 その言葉を荀攸は飲み込んだ。

 重い沈黙が、流れた。
 やがて、荀或は歯切れ悪く、こう言う。
 「…私は、病気だと、殿にはお伝えしてくれ。」
 「文若殿…!!」

 「…そうか。荀或は、来ぬか。」
 曹操は、重く呟いた。
 その耳に、董昭が、ささやく。
 「これで、荀或殿のお気持ちが、はっきりしましたとは、言えないでしょうか?」
 董昭。彼こそ曹操に九錫の礼を勧めた張本人である。
 が、そのにやついた顔は、次の瞬間泡を喰ったようになる。
 「そのようなことは、わしが決める! お主は下がっておれ!!」
 予想外の展開に、董昭はほうほうの体で、その場を辞した。…元々お太鼓持ちの佞臣である。つまらぬことで、主人の怒りをかうのは損だ、とでも考えたのであろうか。
 (…しかし。)
 曹操は、考える。
 (荀或が、真に病であるとは思えぬ。)
 あんなことが、あった後である。
 (…荀或、お前は、もうわしにはついて来んと謂うのか?)
 (…殿、お考え直されよ!!)
 悲愴な面もちでそう言い切った荀或の姿が、脳裏をよぎる。
 (お前は…それが誠に、お前の本心なのか?)
 曹操は、眉根を、かたく寄せた。
 (ならばこれまで、何故、かくも忠義に、仕えていてくれた。この孟徳に…!)
 彼の脳裏に、これまでのあらゆる場面の、荀或が、甦る。ひどく生々しく。…そしてそれらの記憶を辿るにつけ、曹操には、荀或が己を欺き、偽って来たなどどは思えぬのだった。

 (お前は、何の為に、死のうとしているのだ…!)
 …命令に背く者は、斬らねば、ならぬ。
 (それがたとえ、荀或であったとしてもか?)
 曹操は自問する。…しかし、答は決まっている。信賞必罰は、人を治める上での大原則だが、特に曹操の場合は徹底していた。
 (…荀或、従軍してくれ…!)

4,

 朝服を揺らめかす文官が、絹ずれの音とともに現れた。
 「只今戻りましてございます。」
 男は慇懃に拱手する。
 「…どうであった。」
 曹操は片頬をかすかに歪めて訊ねる。
 「はい…。」
 瞬間使者は答えに窮した。やはり、といった奇妙な納得が、曹操の胸をよぎる。
 やがて長すぎる間のあとに、使者は口を開く。
 「…もうしわけございません。荀或殿は…」
 言いかけるその台詞を遮るように、曹操は言う。
 「病気、と申すのじゃろう?」
 曹操の顔に皮肉な笑みが浮かぶ。
 「は、おおせの通りで…」
 「お主その病名を知っておるか?」
 意地悪い笑いとともに、曹操は訊ねる。
 「は…」
 答えようとする使者の台詞を、又も遮って、曹操は言う。
 「腐儒の病、と言うのじゃ。」
 言って曹操はくっくと笑った。
 周りの文官たちは、一瞬その言葉の毒にぎくりとしたが、曹操は意に介する風もなく、
 「再び行きて荀或に告げよ。…参軍は、帝の思し召しだ、とな!」
 きらり、と、その鳳眼を光らせ、曹操は席を立つ。
 残された文官たちは、沈黙したまま動けないでいる。そんな彼らを尻目に、曹操は奥へ引っ込んだ。―帝は曹操の操り人形である。聞き入れられぬ上奏などあるはずもない。曹操の命令はそのまま帝の勅命となる。そこを強調されれば、いかに荀或とて、参軍せぬわけにはいかないのだ。

5,

 錦の御旗が冬空にはためく。
 帝から下賜されたその大将旗を、荀或は複雑な思いで見上げる。
 「………。」
 「…荀或様、お顔色がすぐれません。」
 北風に衣をなびかせる荀或に、兵士の一人が声をかけた。
 その言葉に、荀或は振り返る。
 「あまり、ご無理なさいませぬよう…」
 「心配せずともよい。」
 荀或はかすかに微笑んで言った。
 風が強まり、荀或の頭上の御旗がばたばたと音をたてる。
 彼は思わずもとどりに手をやった。
 「…私のことなら、案ずることはない。さあ、持ち場にもどるがよい。遅れてしまうぞ。」
 兵士はぎこちなく一礼し、そそくさとその場を去る。…一介の兵卒如き身分で、荀或などの高官に、気安く声などかけてしまったことを、恥じてでもいたようである。
 (………。)
 荀或は目を伏せる。

―建安十七年冬。
 曹操の南征が始まった。
 曹操自ら指揮する総勢四十万の軍団が、赤壁の仇を報じんと、江南を目指す。
 再三従軍を拒んだ荀或も、帝の勅を示され、今こうして寒空の下にいる。

 兵士が案じたとおり、彼の健康はすぐれなかった。
 大地を吹き渡る荒涼たる風の音を聞きながら、彼は人に言われるまでもなく、それを感じる。
 出立前の飲まず食わずの不摂生が、ここへ来てたたったとみえる。勿論、精神的なものも大きい。例の九錫の礼の話は、いったん沙汰止みになったとはいえ、戦が終わればどうなるかはわからない。―いや、それは確実に実行されるだろう。曹操とはそういう人物だ。
 彼がみつめる遥か先に、紅の征旗がたなびいている。先鋒を行く我が軍であろう。
 (…我が、軍?)
 思わず湧いた疑問に、荀或は苦虫を噛みしめたようになる。―自分はもう、この組織の中核などではない。あからさまに光る監視の目からも、そのことをひしひしと感じる。
 (私は、間違っていたのだろうか?)
 (…いや。)
 あいかわらずばたばたと音をたてている、御旗を見上げて、彼は独りごちる。
 (…私は私の信念を、貫かねばならない。)
 ふ、と、荀或は額に手をやった。
 (………。)
 眉根を、わずかにひそめる。
 ―頭が、痛い。
 漏らした息が白く、彼の身体は火のように熱い。
 (…いかんな。)
 彼は独りごち、征旗のしんをつかんで崩れおちる。

 「何、荀或が倒れたと!」
 曹操の天幕に急使が訪れて告げた。
 側には参謀の程翌(ていいく:「いく」の本当の字は「日」「立」を縦にしたもの)がいて、ちょうど作戦を練っていたところであったとみえる。
 二人の目に同様に驚きの色が走り…ややあって、曹操が重々しく告げる。
 「…わかった。ごくろう。」
 使者があわただしく去ったあと、曹操は程翌の顔に視線を移す。
 「本当でしょう。」
 なにも問われないのに、程翌は静かに答える。
 「彼は、出立前から、思わしくなかったようです。」
 荀或の体調のことである。
 「…あれのことだが、」
 曹操はそこでいったん切った。
 程翌の瞳が動く。彼には主が、とある決断を下そうとしていることに気づいている。
 「…どうしたものだろう。」
 曹操は、重い口ぶりで言った。
 「それは…」
 程翌も、そこで言葉を切る。
 「…殿のお心次第にございます。」
 荀或の処分のことではない。…曹操には、それが分かる。
 「わしはもちろん、」
 さすがの曹操も、息を吸い込んで、
 「…天下を狙う。」
 程翌は深々と頭を下げる。
 「御意。…ならば、」
 「ならば?」
 曹操は程翌の言葉尻にそうかぶせる。
 程翌はその心を察している。自分が口火を切らねばなるまい、とそう覚悟した。
 「…死を賜わりなさいませ。」
 緊張した沈黙がおとずれる。
 程翌は口を引き結び、その目に強靭な意志をたたえて、なおも言う。
 「彼を生かしておいては、危険です。元々彼は尊皇派の代表。ましてや、あんな事件があったといえば、彼にその気がなくとも、殿に仇なす連中の中心となって担ぎあげられてしまいます。」
 非情なほど冷静な声で程翌は続ける。
 「…禍の元は、断ち切らねばなりません。」
 「…わかった。」
 曹操は一瞬詰めた息を、ふうっと吐いた。そして言う。
 「お主、帝には忠誠心を持っておらぬのか?」
 曹操は皮肉に笑った。…士大夫たる者、漢王朝への忠誠が第一とされた時代である。
 「…お言葉ですが、」
 程翌は静かに答える。
 「…殿が帝の忠実なる臣であらせられようとおっしゃるのなら、それがしとても、漢の忠臣であり続けるでしょう。しかし、時代は動いているのです。―二兎を追う者は一兎をも得ず、とか。なにかを得ようとするならば、どちらかを切り捨てねばならない―そういうものではございませんでしょうか。」
 これまでも、非情とも思えることをしてきた彼である。―しかし、冷静なその面の下には、哀しいあきらめのようなものがあった。

6,空の器

 器が、卓の上にあった。…器だけだった。今し方、見舞いと称して届けられたものだ。器の上には「丞相(曹操の役職)自らこれを封す」という張り紙があった。中身は空だった。その意をしばらく考え、荀或は愕然とした。蓋をもどすとき、不覚にも手の震えを覚えた。…己が主は、彼に死を命じたのである。
 (………………。)
 荀或は、ただ、眉根を寄せた。…こうなることを、あらかじめ予見していたかのように。
 (…丞相。)

 荀或の胸に、とある思いが去来していた。
 (私は、………なぜ。)
 自問する。答は得られない。が、望み通りの結末ではないか。
 (私は、漢の忠臣として、死ねるではないか。)
 全身を突き抜ける悪寒と震えを鎮めつつ、思う。
 (…存外、意気地ない。)
 彼は自嘲した。
 その途端、激しい咳が、喉を突く。
 (あるいは、運がいいのかも、知れない。)
 激しい気管支のうずき。燃えるような身体。
 (…私は、もう長くはなかろう。)
 彼の横たわる天幕が、強風にあおられてばたばた揺れた。兵士たちのざわめき。
 (間に合った、とでも、云うべきか。)
 荀或は哀しげに微笑んだ。
 ―私が死ねば、殿は魏公になられるだろう。そして―
 (…ああ、そうすれば、今度こそは、争わぬ時代がおとずれるのか?)
 永遠に答を見ることのない、疑問である。なぜなら…
 (殿。ああ、私には、殿とその世界を共に望む生き方は叶わなかったのだろうか…?)
 (…馬鹿な。今更。)
 荀或は泣き笑いのような表情をした。
 (私には、そんな先祖の名を辱めるような生き方は、出来なかったであろう。何度生きても同じことだ。)
 きっぱりと、荀或は独りごちる。
 (だが…)
 ふと、揺らぐ心を正しく据え直して、荀或は思う。
 (しかし、私は、自分で選んできたのだ。…こういう生き方を。ならば、最期まで、それを貫くほかないではないか。)

 荀或は、その夜、毒を服んで死んだ。
 毒酒をあおったと思しき美杯が、きちん、と卓上にたたずみ、冴え冴えとした光を放った。

 「…そうか。」
 悲報をもたらした急使が、足元にひざまづく。
 「…丁重に、あつかうよう…敬侯と、諡する。」
 それだけ言うと、曹操は席を立った。
 背後にたたづんでいた程翌が、その背に向かってこう言った。
 「殿、お心を強く持たれますよう―」
 「…わかっておる。」
 曹操は、後ろを見ないでそう言った。

 荀或が死んでのち、曹操は魏公となり、その四年後、さらに位を進めて魏王となる。建安二十五年、六十六歳で逝去するまで、ついに皇帝となることはなかったが、その子、曹丕が即位してのち、武帝と諡された。
 魏で重きをなし、曹操の覇業に力を尽くした荀或の死に関しては、謎が多い。自殺、病死、諸説飛び交うが、その死期が、曹操の魏公就任の時期であることだけは、真実であるようだ。荀或が死んだ本当の理由など、今更知るすべなどないのかもしれない。こんなものを天上の荀或が読めば、さだめしお笑いになることだろう。
 しかし、三国志で一番好きな彼を思い、勉強不足なうえに、つたない文章力をものともせず、厚顔無知にも書いてみた。皆様がたそれぞれの胸に、何らかの思いを残すことができたなら、作者として幸いこのうえない。

〈了〉

「台風」

山本幸代

 九月も終わりの朝、目覚めると夜明け前かと思うくらい周りは暗かった。目覚し時計の音を消すと他には何の音も聞こえなかった。けれども、それはシンとした静けさではなかった。何かすっきりしない、どよどよした空気が流れていた。すべてが不気味に見えた一瞬だった。
「ひなたー!」
母はどんな時も元気な人だ。こんな朝の母の元気は特にありがたい。陰鬱な気分を晴らしてくれる。そして、私は忘れていた。不気味に見えた、ということを。
「ひなたー!おきろー!」     「はーい!」

「おはよう、気持ち悪い天気やなぁ」
「台風近づいてるねんて。姉ちゃんもさっき電話かけてきて、警報出たから帰ってくる言うてたわ。ひなたもきっと休みやろ。美佳ちゃんに聞いてみたら?」
「神崎に?あいつに聞けって事が、どういうことかわかってる?休めって言ってるのと一緒やよ。『警報出てるから休みと思ってましたって、言おう』って、晴れてきたってそう言うよ、あいつは」
「だからいいのっ!あんたもちょっとは美佳ちゃん見習ったら?クソ真面目っ!」
「真面目で親に怒られるとは思ってませんでしたよ」
そのとき、電話が鳴った。
「ぜったい神崎やよ。─────はい、西川です」

 ひなたの想像どおり電話の相手は美佳だった。警報が出ていることは既に知っているらしい。学校にいくつもりのないことも、ひなたの予想を裏切らなかった。
「せっかくやし、どっか行く?」
「どっかって…じゃあ、買い物でも行く?」
「はぁ?買い物ぉ?なんでまた台風来てる時にわざわざ」
────神崎も意外と普通なんや。受験生らしく図書館で勉強か?

 しかし、美佳に限ってそんなはずはなかった。
「海、見に行こう!」
 この一言には、さすがにひなたも驚いた。やはり美佳は美佳だった。美佳は、買い物なんていつでもできる、台風の日には台風の日にしかできないことを、と考えているのに違いなかった。ひなたは中学入学以来二年と六ヶ月の間に、美佳の思考回路を十分理解しているつもりだった。しかし、ごく一般人の彼女はこう聞かなければならなかった。
「うみぃ?なんでまた台風来てる時にわざわざ」
 先に自分の言った言葉をひなたが繰り返すのを聞いて、美佳は笑った。
「じゃあ、用意できたら駅に行くから」
 いつも美佳はこうだった。自分がしたいと思ったことは必ずした。けれど、一人でするわけではない。必ずひなたを誘った。少々強引でも、ひなたなら付いてきてくれる。困ったことがあってもひなたが一緒ならだいじょうぶ。美佳はいつもそう思っていた。
 そんな美佳の気持ちをひなたは知らなかった。ひなたは、美佳の行動力に引きずられる自分が嫌だった。自分一人だと楽しみさえも見つけられないような不安があった。そして、周りの人もそう思って見ているかと思うと悔しかった。
 ひなたの母は特に引き止めもしなかった。彼女と美佳はどうやら同種の人間らしく気があった。ひなたも、自分の母親が美佳のものであるほうがしっくりくるような気がしていたし、”ひなた”という名前も美佳になら似合うのにと考えることがあった。
─────わたしは“ひかげ”

 ひなたはこんな風に考えてしまうのが嫌だったが、特に最近どんどん卑屈になっていくのを感じていた。何かに付けて美佳と比較しては、自分のほうが劣っていると思った。けれども、ひなたは美佳を嫌っているわけではなく、自慢にさえ思っていた。性格がよく、男の子にも女の子にも人気のある美佳が一番の親友であることがうれしかった。だが、それゆえに傷つくことがあった。ひなたはよく他のクラスの人からこう言われた。“あぁ、あの神崎さんの友達のー”
 この言葉は何度もひなたを傷つけた。────神崎は、私にないものを全部もってる。あんな風になれたらなぁ。母さんも言ってた、あんたもちょっとは美佳ちゃん見習ったらって…
 駅までの道、ひなたはこんな事を考えていた。母の言葉が妙に腹立たしかった。
 ひなたが駅に着いた時、美佳はまだ来ていなかった。
 台風が近づいているせいで、風は強くなっていた。雨も降りはじめている。電車は徐行運転しているようだ。ひなたは少し不安になっていた。
─────やめようか。

 と思ったとき美佳が現れた。うれしそうな顔をして笑っている。
「さあ、行こう!」
 そう言って、美佳は改札をくぐった。ひなたもその後をついて行った。
 この駅から、九つ先に海の近い駅がある。ふだんなら三十分で着くところだが、まだ五つ目の駅だというのに一時間は経っている。長い時間がひなたを不安にした。雨と風はどんどん強くなってきている。ふと、今朝目覚めたときの不気味な風景がひなたの頭に浮かんだ。
「どんなんやろなぁ」
美佳は相変わらずだった。うれしそうに外を見ている。
「だいじょうぶかなぁ?」
「だいじょうぶって。心配性やな、西川は。ちょっとは、おばちゃん見習ったら」
これが耳に障ったのか、ひなたはそのまま黙ってしまった。美佳は、ひなたの態度が変わったことに気づく様子もない。
 電車は、海に続く最後のトンネルに入った。急に顔がはっきりと映し出されて、ひなたはハッとした。そして真っ暗な中に浮かんだ顔をしばらく見つめて、ため息をついた。
「すっごーい!大荒れ!」
 駅について、美佳は一段と、はしゃいでいた。
「堤防まで行ってみようよ」
「危ないから、やめよう」
「何言ってんの。テレビでほら、レポーターの人がさ、中継でやってるやん、風に飛ばされそうになりながら。あれに比べればこれくらい全然平気」
 美佳がこんな風になると、何を言っても無駄だった。諦めたひなたは、後を追った。どんどん歩いて行く美佳に遅れないように、ひなたは足を速めた。
 海は、荒れてはいたが、確かにテレビで見るより落ち着いている、とひなたも思った。それでも、やはり怖かった。自然と足が止まった。美佳は、はじめて後ろを振り返り立ち止まった。美佳が何か言おうとしたときだった。
 突然、美佳の背後から大きな波が、二人を襲った。ひなたは、思わず美佳に飛びついた。ザザザッーゴゴゴッー、くり返しくり返し波が打ち寄せた。波と波の合間の一瞬に堤防が姿を見せたが、そこに人影はなかった。
 ひなたは、必死で美佳にしがみついた。水面まで出ようと懸命に頑張った。美佳も意識があり、足をバタつかせている。それはひなたの励みになった。
 ようやく水面に二人の顔が現れた。幸いそんなに遠くまで流されていなかった。ただ、波がきついので沖のほうに流されて行く。二人は、今度は固く手をつないで岸に向かって泳ぎ出した。美佳は、あまり泳げなかった。その分、ひなたへの負担は大きかった。二十分も経つ頃には、美佳は引っ張られているだけだった。
「もう、いいよ。あんただけ泳いでって」
「あほっ!そんなことできるわけないやろ!」
「けど、わたしもう泳げへんし、あんた一人やったら助かるやん。もう、いいから」
そう言った美佳の手に力はなかった。ひなたは離れないように力を入れた。美佳の手がこなごなになるほど握りしめた。けれど、頼りのない美佳の手はどんなに握りしめてもしっかりとつかんだという感触がない。ズルズルと抜けていく。ひなたの手のひらの空間は少しずつ小さくなり、握りこぶしになった。
 美佳はもう、見えなかった。
 ひなたはどうにか岸に着いた。ずぶ濡れで歩いていたところを、巡回中の警官に保護された。聞かれるままにいろんな事に答えているが、ひなたが正気かどうか、警官は分からなかった。それほどに、ひなたは弱っていた。涙さえ流さなかった。
「お願いですから、神崎を捜してください」
最後に一言、強い口調でそう言ったまま、ひなたは黙ってしまった。
 美佳の捜索が始まった。
 生きている望みのないことは、誰もが分かっていた。けれども、美佳の遺体は想像もできなかった。あんなに元気な女の子が死ぬなんて誰にも想像できなかった。
 二日後、美佳は遺体で見つかった。
 美佳の遺体を見ても、ひなたは泣きわめいたりしなかった。
 葬式でも、泣かなかった。一人っきりになっても、泣いている様子はない。それが、余計に周りの人を心配させた。自殺でもしそうな、無気力さが感じられた。
 葬式も終わり、また普通の生活が始まった。母は、ひなたが登校拒否でもするかと思っていたが、毎日変わらず学校には行った。ただ何も考えず決められたように生活している風だった。
 学校でも、家でもみんながひなたに注意を払った。しきりに話しかけたが、ひなたは一言も話さなかった。母の元気も今は何の役にも立たなかった。

 神崎が死んで、私は一人になった。
“悲しいか?”私は自分に尋ねてみた。“悲しい”と答えた。
“淋しいか?”    “淋しい”
けれども、私はあれから一度も泣いたことがない。“悲しい”という言葉がぎこちなかった。何か自分に嘘をついているように思った。
 何週間か経ったある日のホームルームの時だった。机の上に置いてある花を見て、“なんであんな所に?”と一瞬考えた。すぐに理由が分かったが、こんな事を思う自分が不思議だった。
“神崎のことを忘れているのか、私は。────そんなはずはない。あんなに仲が良くて、いつも一緒にいた友達がいなくなったことを忘れるはずがない。だったらどうして…?”
 私は、何度もそこで行き詰まった。
“あんなに楽しかった学校も楽しくなくなった。一番大切な友達を無くして、忘れるはずがない。それに、私は、神崎が好きだった、…はず”
“神崎が好きか?”   “……”
“悲しいか?”     “悲しくない”
“悲しくない?”    “悲しくない”
 私はいつも神崎の陰にいた。みんなは神崎に注目して、私のことを見てくれる人なんていなかった。明るくて、見た目も性格もかわいい神崎は、先生からも友達からも人気があった。私は、“西川ひなた”でなく“神崎の友達”として知られていた。中学に入学して同じクラスになってから、ずっと私と神崎は一緒にいた。二年のクラス替えのときも、三年の時も二人で飛び上がって喜んでいたけど本当は違うクラスになることを待っていたのかもしれない。神崎と違うクラスになって、神崎のように振舞ってみたかった。そんなこと考えたこともない、と言ったら嘘になる。
 神崎には、付き合っている人がいた。私たちより一つ上で、陸上部の人だった。一年のときから二人で追っかけじみたことをしていた。学校中でも有名な人で、私たちには高嶺の花だった。この人のことでは、二人は平等だと思っていた。それが、卒業式の日、どういうわけか先輩が神崎を呼び出した。
 神崎は、いつも欲しいものを手に入れ、したい事をやってのけたが、欲を出すわけでなく、がむしゃらになるのでなく、ごく自然にやり遂げた。私は、神崎と一緒にいながら、仲良くしていながら、心の中に劣等感をもっていた。そのために神崎から離れるのは醜いことだと分かっているから私はいつも我慢して、神崎の側にいた。笑って神崎を見守った。けれど、本当は神崎がいなくなることを望んでいたのかもしれない。
“そういえばあの時、私の手の力はゆるんだんじゃ?”
恐ろしい考えが頭に浮かんだ。
“違う”
否定してみたけれども、あまり自信がなかった。考えれば考えるほど、頭が混乱していく。“私が手を放して、神崎が必死に私の手をつかんだ…?”
そんなことまで考えた。
“殺したのは私?”
この疑問は、私の中でどんどん大きくなった。誰に尋ねることもできない疑問を、どうすることもできなかった。
 みんなが最近、私を見ていることが急に気になり始めた。
“みんなが私を疑っている”
私の隠していた醜い心を見透かされているように思えた。
“本当のことは私にしか分からない。その私にも、あの時の状況をはっきりと思い出せない。もう、どうしようもない。みんな私を疑っている────”

 「そうです!神崎を殺したのは私です!」

 そう言ったとき、私は立っていた。先生も、みんなも茫然と私を見ていた。私はもう一度くり返した。「神崎を殺したのは私です!」
今度は涙がボロボロこぼれた。そして、今まで頭のなかで考えてきたことが口をついて出てきた。みんなは黙って聞いてくれた。私がしゃべり終わったとき、先生がおっしゃった。「そんなことはないわよ。あるはずがないでしょう。あなたは見なかったの? 神崎さんの手にあざがあったのよ。あなたが力一杯握ったあとだろうって、助けようとしてくれたこと神崎さんのお母さん喜んでらっしゃったわ。それからね、西川さん、あなたはあの事故以来、一言も口をきいていないことに気づいてる? 神崎さんの死に耐え切れなかったのね、あんなにふさぎ込んでしまって。一人で考えすぎたために、神崎さんを殺したなんてことを考えてしまったんですよ。それにみんなは心配してたんです。あまりにあなたがしゃべらないから、何かするんじゃないかって。心配して、目を離さないようにしてただけ。もういいでしょ、楽にしなさい。こんなにたくさん友達がいるんです。これからは、一人で悩んでないで、みんなに相談してください」
 その後、みんながいろいろと話してくれた。
 神崎は、私を頼りにしていると、いつも話していたらしい。二人は夫婦みたいなもので、奥さんが先に死ねば、旦那さんが何もできずに困るように、私が先に死んだら困るから絶対自分が先に死ぬ、とも言っていた。今になると、淋しい気がしたが、神崎らしい表現が笑いを誘った。気持ちが徐々に和らいだ。
 最後には、神崎の思い出話を口々に言い合った。私も一緒になって話した。ドジ話もたくさんあった。みんなが、私たちを羨んでいてくれた、ということが何よりうれしかった。“私たちを”羨んでいてくれた。足りないところを補い合っている二人が魅力だったのだ。すべてが思い過ごしのように思えた。もう、“私が殺した”なんていう考えはすっかり忘れていた。
 学校を出ると、空は真っ青だった。台風の季節も過ぎて、完全に秋の景色だった。風も少し冷たくなっていた。
“昨日はどんな天気やったっけ?”
全く覚えていなかった。今日まで私は何も見ずに、何も感じずに暮らしていたようだ。
 はじめての大きな悲しみに、私はどうしていいか分からなかった。まるで台風のようだった。どうすることもできないまま向かい合い、過ぎた後は荒野だった。修復までには、もう少し時間がかかりそうだ。けれど、完全に立ち直る自信がある。不器用にぶつかってしまった分きっと強くなる、なりたいと思う。
 大人になれば、上手に悲しみを乗り越えるようになるのだろうか?今と何が変わるのだろう?『涙には浄化作用がある』って詩か何かで見たけれど、大人は、涙をうまく使うのだろうか?
 でも、私は今のまま大人になりたい。神崎と最後にあった気持ちのまま、大人になりたい。器用な大人になんかには、なりたくない。

「妊娠」

宮本篤子

 だれも知らない。 私の中に、もう一人いる。
 愛しい、私だけの、私だけを愛するもう一人の自分。
 だれも知らない。だれも、引き離せない、こわせない、私だけの……

 生理が来ない。
 私は、便器にこしかけたまま、体を折ってのぞき込む。でも、やっぱり、白い陶器を赤く染める血は出て来ない。
 予定日から、もう10日も遅れている。

 信号が、赤に変わった。車が静かに止まる。いつのまにか空は深いあい色に染まっている。黄色や白や水色の車幅灯が、ほのかに浮かび上がる。道路は会社帰りの車両で混雑していた。
 私は、そっと広之の横顔を盗み見た。長いドライブの後の疲労が、額に影を落としている。こんなときの渋滞は、ますます彼を不機嫌にさせる。
「あのね、宏之」
「何だよ」
 信号が青に変わる。車は静かに動きだし、また静かに止まる。そして少しずつ前進する。
「来ないの」
「何が?」
 宏之はいら立ちの混じった声で、返事をする。
 私は、一瞬ためらった後、やっぱり口を開くことにする。
「生理」
 車の中の空気がピンと張り詰める。車はまた動けなくなった。信号待ちで、狭い路地からダンプカーが割り込んできたのだ。視界が遮られ、信号が見えなくなる。
 宏之は、ちっ、と舌打ちする。白い歯のすきまから、赤い舌が顔をのぞかせる様子を、なぜか私は静かに見ていた。
「大丈夫だよ。ちょっと遅れているだけだろ?」
 語尾にかすかな動揺を含ませ、宏之は優しく言った。
 そして、冗談まじりで言葉を続けた。
「おれ、高収入だけど、赤ん坊は養えないよ」 
 宏之は、そういって困った顔をする。私は、そんな無責任な宏之を優しい気持ちで眺めている。私は、宏之の顔色を見ながら付き合っていくことに、もう何も思わなくなっていた。宏之の言葉は、私にとっては絶対だった。宏之の世界が、私の世界だった。宏之の好きなものを好んで食べ、長かった髪も、言われるままにバッサリ切った。
 自分の人格が変えられていくことより、宏之に嫌われることを恐れた。

 だから、私は宏之を悲しませない。責めない。私の苦しみを分け与えたりしない。 私はずっと、そう思っていた。思っていたはずだった。
 なのに、私の下腹部を軽くたたいた宏之の手を、思わず払いのけていた。
(イタイ)
だれかが、小さく叫んだ。
「なにするの」
 思わず声が出ていた。
宏之はけげんな顔をする。
「血、出て来ないかなって思って」
 私は両手で下腹部を押さえながら、笑った。
「大丈夫、出てくる出てくる」

 車が流れ出した。宏之はアクセルを踏み、車はスムーズに加速する。
 息苦しい。今まで、同じ空気を共有していたはずの宏之が、なぜか遠くに感じられた
 ぷつん。
 私にだけ、そんな音が響いた。
 (イタイ)
 私にだけ、そんな声がまた聞こえた。

 家に帰ると、私は真っ先に押し入れを開け、アルバムを取り出した。
 ベッドの上に寝転び、懐かしいにおいのするアルバムを開く。中学のころの、幼い私。ぷっくりとしたほお、あのころは気にしてたっけ。無邪気に笑っている私。何も知らない私。(ねえ、知ってる?私、生理が来ないんだよ。)
(イイジャン、アンナノメンドクサイダケダヨ)
(でも、妊娠なんかしたら、私生きていけないよ。)
(ドウシテ?)
(大学もやめなきゃいけないし。親も恥かくじゃない。子供なんて、育てられないし)
(フウン、カワイソウ)
 写真の中の私は、無邪気にそう言ってそれきり黙ってしまった。そして、相変わらずの笑顔で、私を見ている。
 仕方なく、私は次のページをめくる。担任の先生と、かしこまった様子のクラスメートたちの写真が、見開きいっぱいにのっている。
 中学を卒業するころ、仲の良い友達と離れ離れになるのが、悲しくて悲しくて教室のすみで泣いたっけ。離れても、一緒に遊ぼうね、しょっちゅう会おうねって言ったのにいつのまにか新しい友達ができていた。どんなに仲がよくても、ずっとは一緒にいられないことが、そのとき分かった。
 そう、どんなに好きでも、どんなに身体を重ねても、だれとも私は一つにはなれなかった。どんなに固く抱き合っても、汗や、産毛や、微妙に異なる体温は、二人の間に境界線をつくり、肌と肌は決して溶け合うことを許されないのだった。
 それでも、一瞬の間、私たちは溶け合ったような、一体となったような錯覚を覚える。呼吸が同じように乱れ、全身が波にのまれていく……。
 海の中、思ったように呼吸出来ず、息苦しさの中、それでも陸に上がろうとしない。心臓はどくどくと鳴り、目はかすみ、生暖かい水が裸の体にまとわりつき、やがて意識が遠のいていく。塩辛い海の水、体液の、命の、羊水……。
 私は胎児になる。母親の胎内の中、たった一人孤独も感じず、ぷかぷかと羊水に浮かんで、すくすく育って行く。外界のことなど何も知らず、自分だけの世界で、愛情の海のなかで。
 私はやがて知るようになる。
 母親から生まれ落ちた瞬間から、人はもう、決してだれとも結ばれることのないことを。
 人の中に存在していたころの自分が、どんなに幸福だったかを……。

 朝めざめると、すぐにトイレに行った。尿の後に、生暖かい液が流れるのが分かる。
 私は、ほっとため息をもらし、のぞき込む。でも、そこにあったのは、赤い色彩の液ではなかった。あたりの水と同化してしまうような、控えめで、遠慮深い体液。
 私はのろのろと、下着をはき、学校へ行く準備をする。
 楽しく話しているのに、私のことなどどうでもいい友達の待つ場所へ。
 大学の講義では、生理が来るにはどうしたらいいか、なんて教えてくれない。私が突然、姿を消しても、だれも気づかない。

 ガラスケースにたくさんの薬が並んでいる。白衣を着たお姉さんが、にこやかに立っている。(うれしそうな顔をしたら、若奥さんだと思われるだろうか)
 私はそんなことを思いつつ、手にした妊娠判定試薬をお姉さんに差し出す。お姉さんは別段驚きもせず、レジを打つ。
 部屋で、袋を開けて、説明書を読む。予定日より1週間遅れから、判定が可能らしい。(もう少し待ってみよう。あせることはないんだ。)
 私はそうつぶやいてみる。早く試して、安心したいという思いと、もし妊娠してたらという不安感が交錯していた。私は机の中に、それを袋のままほうり込んだ。

 お互い大学生だから、宏之はそういって、たまに約束を破った。昨日も、明日提出のレポートがあるからと、家に来なかった。
 いつもなら、そんなことはしないのに、なぜだろう? 気がつけば、宏之の電話番号を押していた。
「ただいま留守にしております、メッセージを入れて下さい……」
 ピーッ、無機質な機械音が、耳に響いた。
 私は受話器を置いた。何より誠実だった宏之が、初めてうそをついた。信じられない行動に、そのあと何度もかけたが、やっぱり、宏之は出なかった。
 (イタイ)
 私の中で、そんな声が聞こえただけで、涙は不思議と出なかった。

 生理が来ない。
 私の中に、捨ててしまえるような余分な血液がない。
 予定日から、もう2週間遅れている。
 女性向きの雑誌で、予定日から2週間生理が遅れると、お腹の中の胎児は、もう1カ月たっていると読んだことがある。
 ちょうど、頭と心臓がはっきりし、鼓動を始めるときだ。
 私の中で、生命が育っている。
 ふと、そんな言葉が脳裏をよぎった。私の気持ちが、なぜか明るくなった。
 私だけが愛情の対象で、私だけが世界の住人。
 私は、思い出していた。 自分の存在と、目の前にいる母親の存在だけが全てだった、あの幸せな日々。存分に愛されながら、それを認識さえせず、当たり前のように過ごしていた日々。
 母がいなければ、私は飢え、凍え、いや、生まれることさえ出来ず……。
 なのに、あんなに必要としていた母親から、いつのまにか離れたくなった。
 私は、部屋を見渡してみる。テレビ、ビデオ、コンポセット、鏡台の前に並ぶ甘いにおいのする化粧品、一生懸命お金をためて、買いそろえた。(私、いつのまにこんなに欲張りになったんだろう?)
(私、いつのまに、一人になってしまったんだろう?)
 私は、たまらない孤独感に襲われた。あのとき、母の子宮にいたときのように、私はもう、だれとも結ばれていないのだった。
 お腹に手をあてると、とくとくと心臓の音。安ど感が、私を包む。
 身体の中で、もう一つの生命が育っている。。私の中の栄養を、共有して、私の吸った空気で呼吸しているもう一人の私がいる。
 私は、いま一人じゃなくなった。

 私は机の中から、それを取り出した。
 銀色のパッケージを開けると、体温計を平たくしたような形のものが出てくる。
 説明書は、飽きるほど読んだ。先端についている紙に尿をかけ、10分待つ。
 丸い紙の中央に、紫色の点が現れたら、妊娠。
 私は、大きな丸の中に、ちょこんと収まった紫色の丸を想像してみる。小さいけれど、自分の存在をしっかり主張している生命。でも決して、外側の丸をはみ出したりしない。子宮の中に、ぷかぷか浮いている小さな胎児。羊水の中に浮かんでいる限り、母体より大きくなったりしない。私の中に収まった、小さな私。私を、傷つけたり、裏切ったりしない。私が死ねば、消滅してしまうはかない存在。
 私は尿をかける。銀色のパッケージにしまい、待つ。
 とくとくと心臓の音、血液の柔らかな布団にくるまれて、すやすやと眠る私。
 水洗レバーを押すと、ごおーっと音を立てて水が流れていく。水はくぼみのところで渦を巻き、水位はいったん低くなってから、ごぼごぼと元の水位に戻る。
 水は穏やかに波打った後、何事もなかったかのように平静を装っている。
 かち、かち、かち、もうすぐ小さな命が認められる。

 パッケージを再び開け、中身を取り出す。ゆっくり、いたわりながら。
 目を細め、私は黄色い染みの付いた丸い紙を見る。

 紫色の小さな丸は、なかった。

 突然、白く冷たい壁が私にせまってくる。息が、できない。四角い箱に、裸で閉じ込められたかわいそうな親子。
 私は、足をひろげ、私がでてくるのを待っている。腰が、しめ付けられるように、重たくなる。感覚を失いかけた、乾いた指が、潤いを求め、足の間をそっとすくう。
 指は、潤い、喜びで紅潮している。赤く色づいた、二本の指。白い壁に映えて、自己主張する、血まみれの、胎児。
 私は、小さな私にほおずりをする。(イタイ)
 私は、もう何も言わない。(イタイ)

 だれも知らない。私の中に、だれもいない。
 だれも知らない。私はなにも生み出せない。
 でも……。

「彩」

宮本篤子

彩はいつも突然に、すごい話をする。その日の話も、私がトイレから出て来て、手をふいているときに聞かされた。
「ねえ、麻紀、今まで友達だった二人がさあ、何かの拍子でキスしちゃったらどうなるかなあ?」
 そんなことを聞かれても、私には、そんな経験がないので、あいまいにうなづくだけだ。「うーん、そういうこともあるんじゃないの?」
気のない返事に、彩はじゃばじゃばと手を洗いながら、すごいけんまくでまくしたてた。「でもねえ、デイープキスだよ。やっぱり、お互いなんらかの気持ちがあったんだと思わない?」
 ちらりと横を見やると、そこには彩の紅潮した顔がある。そこでやっと、私は事の重大さに気づくのだ。(こいつ、また、しでかしたな)
「野中君?」
彩のこめかみがピクリと動く。だてに、五年間友達でいたわけではない。野中君はなかなかの男前で、最近の彩のターゲットだった。
「この間、みんなで泊まったじゃない?あのときに、となりで寝たのよ。そしたらねえ」彩はそこで言葉をくぎる。私はそんなこと興味がないから、くぎられても全然平気だ。でも友好のため聞くと、どうやら寝ているうちに、手をつながれ、抱きしめられ、ついにはデイープキスに至ってしまったようだ。
 実は、彩には、長い付き合いの彼氏がいる。なのに、彩はいつも恋をしている。一度、彩に、どうして、彼氏がいるのに他の男の人に目がいくのかと聞いたことがある。すると彩は、にっこりと笑い、言ったものだった。
「そうそう、私も悩んだんだけど、この間分かったのよ。」
「何が?」
「愛情と恋心はべつものなのよ。ほら、直喜とは長いから、恋は愛にかわってしまったのね。すると、まだ恋はできるじゃない?」
「はあ、」
「だから、好きにはなるんだけど、その恋は、愛には育たないのよねえ……」
哲学的なことを言われて、一瞬納得してしまったが、しばらくすると腹が立ってきた。(それじゃ、愛に育てようと思っている男の子がかわいそうじゃあないかあ)
 今回だって、困ったふりをしているが、実は目が笑っている。
 私なんか、彼氏以外の男の人どころか、彼氏と呼べる男の人でさえ、キスまでしかしたことがない。それも、ちゃんとキスしていい?と聞かれてからだ。すごく感動したのを覚えている。私たちのキスはキスミントのジャスミンミントの味だった。正直に言うと、あまりに舞い上がっていたので覚えていないのだが。
 「よく、雑誌なんかでさあ、ファーストキスはレモンの味って書いてあるじゃない?」彩はよく、唐突にそんな話を始める。私は、あのキスを思い出しながら、彩の顔を見る。三日月になった目で、彩は私を見上げ、言葉を続ける。
 「あんなのうそうそ。私のはねえ。こう、やみの中で生のたらこがあ、ふにょふにょふにょ……ぶちょって感じだった。」
 そう言って彼女は本当にうれしそうに、キャハハと笑う。私はそのとき、まだ経験してなかったから 笑うしかなかったのだが、人生の大イベントを、そんなふうにいってしまえるのってちょっとすごい。
 「でもそれから、何の音さたもないのよねえ。」
 彩はそう言って、まゆをひそめた。そして、次の瞬間、のけぞるようなことを言うのだった。
「忘れられるようなキスをした覚えはないのになあ」
(ど、どんなキスなのよ)
 思わずつっこみたくなる。彼女が言うには、とろけるようなキスだったらしい。何も言えないのはしゃくなので、平静を装い、どんな味だった? と聞いてやった。
 私としては、大人の意見をしたつもりだったのに、その瞬間、彩はけげんな顔になった。
「えっ? 舌の味だよ。柔らかくて、いい味。」
(し、舌に味なんてあったのかあ?)こうして、いつも私は、彩に驚かされる。そしてその度、私はいろんなことを知っていく。自分が、とても出来ないようなことを、彩がかわりにやってくれるのだ。
 彩は、いつも事後報告だ。何か、すごいことをやらかしているはずなのに、そんなことは、おくびにも出さない。だから、いつのまにか彩は、車でしか行けないようなところの夜景を知ってたり、男の子の誕生日が、いつのまにか手帳に書かれていたりする。
 今まで恋した男の子を、グループに分けていたときは、笑わせてもらった。
「私ねえ、分けてみたの。まず、Aグループは、彼氏に似てるから好きになって、今はいい友達ね。加藤くんと、中井くん。Bグループは、男前だけど、振り回された人。横田君と、石田さんと、野中君。Cグループは、失敗した人。金沢くんと、木村君。」
 真面目な顔で、何を言い出すかと思えば、それである。
 おちまで、ついているところがすごい。
 そんなことを、一人でこっそり考えているかと思うと、思わずほおがゆるんでくるのだ。
 こんなこともあった。ある日、彩が手紙を持って来たのだ。そこには、きれいな字で次のように書かれてあった。『めっきり風が強くなって、冬の兆しが見え始めました。最近は、空がすがすがしい青に色づいて、りんとした冬の準備をしているのに、私は追いつけずに ただ一人、吹きすさび荒れ狂う台風に、心を翻ろうされています。
 そんな状況から 早く逃げ出したいのか、それとも目茶苦茶にされたいのか、したいのか、分からずにいます。
 最近 心地よく揺れる満員電車の中で、眠りにつけない私が目につくようになりました。何の存在もない空虚な時間に、深く身をうずめてしまいたい、外界の揺れと異なるリズムで揺れる心を、静めたいという願いを裏切って、私は眠りにつかないのです。
 あるいは、制御できない何かが、私を別世界に逃避させてくれないのかもしれません。 あるいは、そんなもの存在さえしないのかもしれない。
 私はただ、自分を見つけ出したい。冷静な私を捜しだし、会いたい。
 「なるようになるのよ」と、助言してくれる私を。
 なぜ私は、私の前から姿を消してしまったのでしょう。
 足を踏み入れれば、沈み込み、溶けてしまいそうな問いかけの答えは、分かっているはずなのに、答える術を知らないわけでもないのに、ただ明らかにされてしまうことへの少しの恥じらいと恐怖から、姿をさらけだせずにいるのです。
 けれども、やがてそのおく病な心は、勇気を試され、傷ついて泣きながら本質をさらけだしてしまうのです。
 ここに舞台があります。
 シナリオ不足の、キャスト不足の、演出不足の、沈黙のなかでの夢の断片のようなステージが与えられているのです。
 あなた、というたった一人の、通りすがりの観客を目の前にして、衣装も与えられずセリフも覚えられず、恥ずかしさとおののきと、裸の寒さに凍えながら、右往左往している私がいるのです。
 いっそ冬が訪れたならば、飢えを嘆き、寒さに耐え、身を細らせながら、春を望めるというのに。
 台風のさなかにいる私には、ただ冬が待つだけなのです。』     

 読み終わって、ぼう然としている私の前に、彩の得意げな顔が近づいてくる。
「ねえねえ、すごいでしょ」
 私はとりあえず すごいねえ、とうなづいておいた。何がすごいかって、文章もすごいが、こんなものわざわざコピーして、私に見せる彩の根性のほうがすごい。自分で書いて満足しているだけならいざしらず、男に渡しているのだ。私にはとても真似できない。
「わたしねえ、この最後の行気に入ってるんだあ。最初の行と呼応してるでしょう」
 彩はとうとう、満足気に手紙を音読し始めた。
 しかし、こんな手紙をもらった男は何も思わないのであろうか。彩の話だと、感動していたというが、私が男なら絶対、拒否反応をおこすだろう。いくら好きな女の子からでも、ちょっと遠慮してしまう。こんなふうに、彩は型破りだ。
 でも、優しいところもある。面倒見もいい。また、全てにおいてパワフルである。
 彩は、可愛くも、色っぽくも、知的でもない。笑うと目がたれて、愛きょうはあるが愛くるしくなど、決してない。さばさばした性格で、面白いから、同性には人気がある。よく相談もされているし、調子よく協力もしている。私も、彼氏とうまくいかなくなったときなど、よく話を聞いてもらったものだ。
 だからといって、どうして、もてるのかというと疑問である。たぶん、素直で動物的なところが、気を使わずいいのだろう。そうでも思わないとやっていけない。人間、自分が一番、かわいいのだ。そして、他人にも、それを認めてほしいものだ。だから、私は彩の欠点を探そうとする。これ以上彩に魅かれないように、そして、彩より自分を、好きでいられるように。
 でも、そんな努力が無駄だと、私はすぐに、気づくことになる。

 あの彩が、私の前で泣いた。
 そのとき、彩は、私の顔を見るなり わあーんと声をあげた。大きな口がへの字に曲がり、たれた目からは、ぽろぽろ涙が出てくる。涙は生まれた瞬間から、自分の意志を持って転げおちていくようだった。彩は、 ひざをかかえ、胎内にいるような格好で、腕をぎりぎりとかみながら、真っ赤な顔で悲しみに耐えている。そんな彼女を見たのは初めてだったので、私はうろたえた。何か言ってあげなきゃと思えば思うほど、私の中の言葉は空々しいものになっていく。
 そういえば私は、彩と違って、相談をされないタイプの人間だった。いつも、おろおろしているだけで、結局、「大丈夫だって」を連発するはめになる。そして、そういうときにかぎって 全然大丈夫じゃない。
 私は気の利いた言葉一つさえ言えず、沈んだ奮囲気のまま時間がたった彩は、目を真っ赤にはらしながら、むくっと起き上がり、ごめんねとぼそりと言った。私は、あれほど言うまいと誓っていたのに、大丈夫だよ。とつい、言ってしまい情なくなる。彼女は、力なくうなづいていたが、大丈夫じゃないのは彼女が一番よくわかっていたであろう。
 次の日あった彩は、少し元気がないくらいで、いつもと変わらない様子だった。私が何も言わなければ、きっとだれにも分からない。
 女の武器は涙だと、よく言われるけれど、彩はその武器を使わない。きっと彩のあんな姿を見れば、男は守ってあげたくなる。世間には、わざわざ男の前で涙を生んで、面倒を見させる女もいるが、彩はそんなことをしない。自分の中で、生んだ涙は、自分で面倒を見る。涙は、彩の中で自由に動き回った後、静かに彩の中に帰って行く。
 彼女は、悲しみを生み出したりは、決してしないのだった。
 だから、彩の涙の理由は分からないままだ。彩はもう何も語らない。私も何も聞かない。ただ、彩はそれから、野中くんのことも、他の男の人のことも、あんまり話さなくなった。

 そんな彩のかわりに、野中君については、後輩が語るようになった。
 彩は、ふんふんと聞いて、ときどき野中君の情報を、どこからか手に入れてきては後輩に伝えるという、まめなことをしているようだった。未練がないわけではなさそうだが、きっと、それどころじゃないことがおこったのであろう。
 彩も落ち着き、全てが平和にいってるようだった。
 そんなときだった。後輩が、爆弾発言をしたのは。
 「先輩、野中さんと小人数でとまったことあります?」
 いつものように、彩がアドバイスした後、後輩がおもむろに口を開いた。
 彩のこめかみがピクリと動く。
「え、ああ、うん……でも何もなかったよ」
そこまで聞かれてないのにと 一瞬ひやりとするが後輩は気づいていない。
「先輩には話してなかったんですけどね。私にとってうれしいことがあったんですよ」
冷や汗が流れる。彩は、はにわのように口を開けて硬直している。
 後輩は、顔を上気させて話始める。
「この間、野中さんも一緒にみんなで泊まったんです。で、私の横で野中さんが寝ることになって……。野中さん、始めは私を寝かそうとしてくれていたんです。そのうち 手をつながれて……」
 私はそっと彩の顔を見た。はにわのまま、口元がぴくぴくと動いている。その彩の横で 後輩は幸せそうに、 目を潤ませ、話し続ける。
 「気がついたら、私、抱きしめられていて……」
 私は思わずのけぞりそうになった。
(お、同じ手口じゃないかあ)
 「へえーその後キスとかされなかったの?」
 ほほ笑みを必死でつくっている彩。しかし、その目は笑っていない。
 「いえ、そのままです。でも、おでことおでこがずっとくっついていて、眠れませんでしたよお」
 「…………」
 彩はそれきり何も言わなくなってしまった。彼氏のいない女なら、だまされたと、野中の不実を責めるのだろうが、彩にはそれさえできない。それどころか、これから後輩に協力しなければならないのだ。
 私は、硬直している彩を横目で見て、調子がいいのも大変だなあと、同情しつつ、(やってくれたよ野中君)と内心ほくそ笑むのであった。

「習性」

徳原綾乃

 「……あんなあ聞いた話やねんけど、猫ってな死ぬ時絶対誰にも見られへんとこに行ってほんでから死ぬねんて。」
 「へえ、えらい哲学的なやっちゃな。でもこんな街中やってもか?そんなとこないから無理やろ。」
 「いやあるらしい。せまーい路地とかビルとビルのほんの隙間とか……。猫はちゃんと知ってて自分の墓場にするんや。ほんまに。そういう習性持ってんねんって。」
 「ほんならうちのミイ公もいつか…… おっ、お冷やか、ありがとさん。」
 ……まあーあのおじいちゃんらよーしゃべんな、今度は猫の話かいな。修平は残りのコーヒーをぐっと飲みほした。それにしても値段のわりになかなか美味い。横の椅子に掛けた背広のポケットから煙草を出して火をつけながらガラス越しの往来に目をやった。平日の真っ昼間だけに、道行く人はほとんどが皆スーツ姿に仕事顔、方向は様々でも歩くペースはなぜか均一だ。ここんとこ忙しかったなあ。俺もいつもあんな風にせかせか歩いてるんやろか。外を歩く背広の上に自分の顔をのっけてしまい、あわててそれに煙を吹きかけた。今日、修平は会社を休んだ。一応権利とされてはいても活用し難いのが常の有給休暇を思いきって取ったのだ。疲れ切っている自分に気付き、一日ゆったり身も心もリフレッシュするぞと決意して、やっと……。とは言っても、まあ、自分一人が休んだところで会社は少しの影響もなく機能するのはわかっているが、そういう寂しいことは考えないようにする。
 昼前に起き気の向くままに散歩している途中にこの喫茶店を見つけて入った。
 「……でももしわしやったら、死ぬ時はばあさんや息子夫婦らに見守られて死にたいわ。」
 「なに情けない事言うてんねん。おりゃあ独りのんびり逝きたいわな。死んだらみんなどうせ独りや。」
 「そんなん言うて、そん時なったら絶対寂しがるでお前は……。」
おっ、次は死に際の話始まったで。心配せんでも俺らより長生きしそうな元気さやで、ほんま……。じいさん達三人が耳の遠い者どうしさっきから大きな声でしゃべっていた。修平が店に入ってランチセットを注文した時から食べ終わって一服してる今まで、話は一度も途切れずはずんでいる。一時を二、三分まわっていた。……加織……ちょうど今ごろ昼休みが終わって社に戻った頃か……。修平は今見た腕時計の贈り主である恋人の加織の事をふと考えた。今日も加織の仕事の後待ち合わせをしている。俺だけこんなのんびりしとっていいんかな、と休みを満喫できている満足感にしばし浸った。さてそろそろ……と灰皿に煙草をこすりつけ伝票をつかんだ。じいさん達の笑い声がまた店内に響いた。

  「佐倉くん、すまんがこれもコピー頼むわ。」
……もう、またかいな。すまんなんて思ってへんくせに。なんで私にばっかりやらせんの。ちょっとは自分で覚えーな。……なあんて事は微塵も態度に出さずに、加織は得意の業務用スマイルで応えた。
 「はい、増崎課長、」
 昨日のやり残しのために朝から大忙しだった。その上何度も上司にコピーを頼まれる。心中ぶーぶー言いながら、それでもなんとかてきぱきとこなせていた。仕事が早いほうなのだ。ああ、今ごろ修ちゃん何してんねやろ。ええな有休。うちの会社じゃそんなんようとらんわ。でも修ちゃん、休みゆうても何したらええか思いつかんのちゃうか。………そうや、今日の待ち合わせ六時やな。まあ、残業さえなかったら間に合うやろ……。
 「ちょっと、佐倉くん。こっちもコピー頼む。悪いな。」
 「はい、石田係長。」
……ほんっまに、悪いわ。ええかげんにしてや、もう……。

   ぱあん  たたんたたん たたんたたん 

 遠くで電車の音がしている。ちょっと涼しめの風が眠気に逆らえずに緩まった顔をさわさわ撫でた。青いなあ……。昼食の後、散歩するにも行き場に困ってついいつもの電車に乗ってしまった。車中うんと考えたすえに思いついた案が、降りたことのない途中の駅で降りてみる、これだった。ここでええかと電車を降り、ぶらぶらと古めの民家が建ち並ぶ中を適当に歩いた。そうしてる間にえらくややこしい路地に入り込んでしまい、はたと気づいたら小さなビル一個分程度の広さの草むらに出ていた。人気はなくよく繁った木々がその周りを囲んでいた。歩き疲れた修平はごろんと仰向けに寝転んだ。目に映るのは木と空だけだった。……青いなあ。十分程ぼーっと眺めてようやく出てきた感想だった。大阪の空もなかなかきれいに思えた。帰りの電車からの夕焼けならいつも見ている。あれもけっこうええけど。せや、えっと、六時に梅田やったっけ。今度こそ遅れんと行かななあ。修平は待ち合わせによく遅れる。前の時も遅れた。その前も遅れた。そのも一つ前は………どうやったかいな。「明日はちゃんと来てね。」にっこりと言った加織の笑顔が空の中に浮かんで消えて行った。これが一番恐いんや。大分怒っとる。今日はちょっと早めに行っとったろ………。
 十月九日、今日は加織の誕生日なのだ。二十八歳になる。俺らも長いことつきあってるなあ。大学時代同じ学部で入学当初からずっと仲のよかった加織を二年間ほど密かに想い続けて、ようやく伝えたのが三回生の時だった。ちょうど七年前の今日だ。修平はその前日、告白を固く決意して電話をかけ次の日会う約束をした。そうして呼び出しておいて、当日なんと遅刻した。あわてまくった修平は不器用さを痛感しながら必死で苦しい言い訳をした。加織は少し呆れたふうだったが、すぐに許してくれたので何とか本題に入ることができたのだった。あん時はあせったわ。……そうそう、前の日言うことば考えてたら全然寝つけんかってんや。そんで寝坊やてかっこ悪すぎて言われへんかと思ったでほんま。……ああ、それより今日や……今日はどうしよう……、五時には家出て………今日は………。
 眠気に逆らう気など彼方に押しやられて緩みきった修平の顔を、風がまたそっと撫でた。

 あとちょっと、ここまでやってしまお。……よし。さあ休憩、休憩。課長たちに雑用を頼まれないうちに、と加織は素早く席をたって目を合わせないように気をつけながらそっとオフィスを出た。足早に歩いて給湯室まで来ると、ふうー、とやっと息をついた。給湯室には机と数個の椅子があり会社で唯一くつろげる空間だ。女子社員たちはよくここでお茶を入れるついでに一服する。何人かでおしゃべりに花を咲かすこともしばしばで、中にはお菓子を持ち込む者もいた。加織はやかんを火にかけて腰をおろした。……私ももう二十八か。やかんの下で揺れる青い火をぼんやり見つめながら大きくため息をついた。
 「あっ、加織も来てたん。」
ふいの声に驚いて振り向くと、お茶仲間の百合子が来ていた。百合子とは同期で、部署は違うが社では一番仲のいい親友だった。
 「今日誕生日やろ、おめでとう。」
 「ありがとう。でもそんな喜ぶ齢やないな、もう。葉桜みたいなもんや。」
 「男顔負けにバリバリ仕事できるあんたが何言うてんの。二十八いうたら今からやで。」
 「はは……ありがと。」
湯が沸いたのでお茶を入れていると、もう一人のお茶仲間の美咲が入って来た。
 「あら、あんたらも休憩か。」
この三人はよく気が合い、飲みに行ったりなんだりと行動を供にする仲間だ。三人寄れば話が尽きず、特にしゃべり好きなのがこの美咲だった。
 「あんなあ、聞いた話やねんけど………」
いつもの決まり文句で情報屋美咲の話が始まった。今日のねたは結婚の決まった別の同僚の子の事だった。相手はどんな人でプロポーズはどんな言葉だとか、どんな指輪にどんなお返しをしただとか。何処から聞いて来たのかと改めて情報網の広さに感心させられる細かさだった。
 「そろそろもどろか。」
話が一段落したところで百合子が言い、お開きにすることにした。それじゃあまたね、と部署に持って行くポットをそれぞれ抱えて給湯室を出た。
 結婚、か……。加織は、人のよさ丸だしのどう見ても企画よりは営業にむいている修平の顔を思い浮かべた。のんきな奴やもんなあ。……そこがええとこやけど……。でも今日遅れて来たら許さへんで。気づいてないやろけど4回連続で記録更新やで。そや、こっちが遅れて行ったろかしら。たまには待たしてみても…。まあ、後で考えよ。
 さっと仕事の顔にもどって前を向き、ドアを開けてオフィスに入っていった。

   にあー  にあう 

 何かが聞こえて、修平はふっと目を開けた。
     ……… にあー にあう にあうー ……
 猫だ。細く微かだが猫の鳴き声が何処からか聞こえて来て、それに目を覚ましたのだった。少し肌寒く感じたが、辺りは明るく空もまだ青かった。どれくらい寝てたのかぼんやり考えながら目をこすった。あっ、いた、あそこだ。体を起こして声のする右手の方をよく見ると、端っこのほうに一匹の猫がいた。うずくまっているのかほとんど動かない。草むらを隅から隅までぐるっと見たが、誰もおらずひっそりと静かだった。……にあー……。じっと猫を見つめた。猫と自分だけがいるこの空間以外は全て、修平の意識からすーっと消えた。修平はその猫に不思議な存在感を感じた。この静寂には壊してはならない厳然としたものを感じた。
 そーっと這って近寄って行った。まだ少し離れているところで止まってまたじっとその猫を見つめた。うずくまってると思っていたが、ゆっくりゆっくり草むらの中央に向けて歩いているようだ。薄汚れて灰色がかった白地に黒のぶちのその猫は首輪も何もしていなかった。よろっと猫の足がふらついたが、にあーっと弱く鳴いてまた歩いていく。
     猫ってな、死ぬ時絶対誰にも見られへんとこ行って、
      ほんでから………… 。
 昼に喫茶店で聞いたじいさんたちの話を思い出して、はっとなった。こいつ……死によるんちゃうか……。辺りの静寂はそれを肯定していた。……にあうー……。猫は鳴くことで残りわずかの生を示しているように思えた。ここにいていいのだろうか……頭の奥に浮かんだその思いを鳴き声が消していった。気がつくと猫はほんの目の前を通り過ぎようとしていた。修平に気づかないのか、前方に向けた視線も進む方向も変えることなくやはりゆっくりと歩いていく。修平はじっと見守った。
 草むらの真ん中辺りまで来ると猫は歩くのをやめ、すーっと振り向いた。じっとこちらを見つめている。修平も動けぬままに見つめ返す。……………………。穏やかな沈黙。猫はまたすーっと視線をはずすと、静かにうずくまって目を閉じた。修平はそっと近づきしゃがみこむと、息をひそめてまたじっと見守った。自分が神聖なこの空間の一部になっていくのと、選ばれてここにいるというそんな慎み深い優越感とが、漫然と感じられた。……にぅー……。猫は目を閉じたままさっきよりも細く鳴いた。そしてより強い静寂が残った。しばらくしてまた鳴いた。今度はさらにもっと細い。猫の生が静寂の強さにだんだん奪い取られていくように思えた。修平は待った。その静寂に耐えながら待った。しかし待っても待っても猫は鳴かなかった。
 風がすーっと猫と修平とを吹いた。修平は何も感じず何も考えず、ただじっと見つめていた。

 「お疲れさん。残業する者以外、各自終わってくれていいぞ。」
 課長がそう言うと、皆ばらばらと退社の用意をし始めた。あまりセンスの良くない終業の音楽が鳴りだす。加織は片付けを終え、何人かに続いてオフィスを出た。更衣室でもあるロッカールームに入ると美咲も着替えをしていた。
 「お疲れさん。」
 「おっ、加織、お疲れ。今日はこの後デートやろ。」
 「うん。」
 「誕生日祝いの飲み会はまた別の日にしたるわ。百合子にも言ったあるから。」
 「ありがとう。百合子はまだ?」
 「残業やって。ほな、私帰るわ。また明日な。」
 「ばいばい。」
すたすた出て行く美咲を見送って加織は自分のロッカーを開けた。終業直後のロッカールームはがやがやと騒がしくせわしない。使用する人数とそのロッカーの数のわりにはちょっと窮屈なのでよけいにそう感じる。着替えながら壁の時計を見ると五時十分だった。ここから梅田までは三十分もあれば行けるので、待ち合わせの六時には余裕で間に合ってしまう。ちょっと遅れて行ってたまには待たしてみようかとも考えていたが、こんな時にかぎって残業もなけりゃ呼び出しもない。それに何もわざわざ誕生日のデートに遅れて行くこともない。ここまで思い至ると加織はちゃっちゃと身支度を整え終わってその狭苦しい空間から抜け出した。
 夕日に淡く染まったオフィス街の間には人の流れが合流しながら駅へ向かって続いていた。その中を歩いて行く加織の足は、急がずともよいのに自然に速度を上げていった。駅に着くとちょうど電車が入って来た。加織は階段を駆け上がって満員電車に体を押し込んだ。……がたんごとん……。これでいくと結局いつものごとく十分前には待ち合わせ場所に着くことになる。……がたんごとん……。かなり苦しい体勢でドアにへばりつきながら、加織は右から左へ流れる建物と煌々と動かない夕日とを眺めて揺られていた。

     ぱあん  たたんたたん たたんたたん
 遠くの電車の音が耳に入ってきた。それをきっかけに修平はようやくゆっくり立ち上がった。猫はもう鳴くことはなかった。静寂の中で生を終えた猫の最期の声を耳に残しながらそれから目を離した。不思議な空間は消え、またもとの世界が動きだす。ここにはなんだか、もういてはいけない気がして、修平は草むらを出るために始めに入って来た方へ歩いて行った。一度も振り返らずに静かにゆっくり出て行った。
 狭い路地を抜けて民家の立ち並ぶ通りに出た。修平は別の次元にいたような感覚を徐々に頭から消しながら、ぼんやりと歩いていった。ほとんど人影はなく夕日に染まった橙色の空気が自分と辺りの家々を包んでいる。夕餉の支度をする音が聞こえて来た。その匂いも通りを漂っている。頭にエプロン姿の加織が思い浮かび、ひとりでにやけた……。
 はっ、と止まって時計を見た。次の瞬間、さあーーっと血の気が引いて全身が一瞬にして凍った。
    し、しまったぁぁぁぁ……
修平の意識から何処か遠くへ飛んで行ってた加織との約束が、無情にも今になってやっと帰って来たのだ。もう一度時間を見た。五時四十分は、何度見ても五時四十分だった。……ここはどこだぁー……。とりあえず取り乱した頭を整理する。そして道行く人をつかまえて駅への道を聞くと、お礼と同時に走り出した。
    やばいやばいやばいやばいやばい…………かなりの間抜け、完全なる大遅刻。何かを恨んだりする余裕もなくただひたすら走る。頭の中までいっしょに走る。
    どうしよどうしよどうしよどうしよ………

 明るいターミナル。滑り込む電車。鳴り響くアナウンス。流れ出る乗客。騒然とした人ごみの中、加織はリズムよく階段を降りて行く…………。

    ……やばいやばいやばいやばい……………………
 走っているその頭の中をさっきの猫が、ふっ、とよぎる。喫茶店でのじいさんの言葉がそれに続く。
  ―……ほんまに。そういう習性持っとんねんって……―
 駅が見えた。スピードを上げる。走る走るとにかく走る。
    ……かたっ かたかたっ かたかたかたかた………
 完璧に考え抜いたプロポーズの言葉でしぶくきめてバシッと渡そうと用意した、指輪の入った青い小箱が、修平の胸のポケットで苦笑しながら揺れていた。

「海辺のレストランにて」

小谷珠絵

 「海岸物語」
 ── 四年前に来た時は、どちらかというと
    庶民的な温かさのあるレストランだったはずだが ──

 私はキョロキョロと店内を見渡す。一番隅の窓際の席に腰を落ち着けて、夫が来るのを待つ。それにしても、たった四年の間になんて都会的な、洗練された雰囲気に変わってしまったのだろう。四年前にたったの一度だけ訪れたこの海辺のレストラン「海岸物語」を、私は今でも鮮やかに覚えている。
 今となってはもう「過去」の、 思い出す度にわたしの胸をしめつけることもない記憶だけれども。それでも時折、日常の慌ただしさから離れて私が「自分」
に戻るとき、何度この場所を彷徨ったことか。「妻」でも「母親」でもないただの「わたし」。
 窓の外に目をやる。そろそろ日が沈む頃だ。砂浜には人影ひとつなく、夕日が波に反射してとても正視できない。目を閉じる。すると視界は夕焼け色に染まって、なにも見えなくても眩しさだけがわかる。ふいにそのとき、私のなかである景色がフラッシュバックした。

 鰯雲が空いっぱいに広がる秋晴れの正午近く。街中の公園。私は公園のベンチに腰掛けている。人はまばらだ。それもそうだろう、午前十一時三十五分。普通サラリーマンならとうに出勤している時間だし、街の隅に隠れたようなこのちいさな公園に、人の多いはずがない。いつもの場所、いつものベンチ。 思わず溜め息をついて、辺りを見回す。白いブランコ。貝殻のかたちをしたクリーム色の滑り台。その横に、玩具みたいなシーソーがある。そして、砂場。赤いスコップが、半分埋もれている。私の口から、再び溜め息がもれる。そう、彼と初めて会ったのも、確かここだった。夕方だったと思う。
 その頃夫の幸二は仕事が忙しくなってきたせいか、夫婦らしい会話も交わせないまま日々が過ぎていた。五年生になった長女の清香は週に四日熟通いをしていたし、三年生になる弟の卓哉はサッカーに夢中だった。
 結婚して十三年目。家族四人、平凡ながらも明るく、それなりに幸せに暮らしてきたと思う。
 夫は私が短大を卒業してすぐに見合いをした相手だった。某公告会社の社長をしていた父の部下で、頭が切れて堅実で、仕事に関してはなかなかやり手の存在だったらしい。父がかなり気に入って見合いをすすめたせいもあり、あれよあれよという間に話は進んでまとまった。もちろん本人の意志が全く無視されたわけではないが。自分で言うのも変な気がするが、箱入り娘として育てられた私らしく、なんとなく周囲に流されて将来を決めてしまったと言えばそうとも言える。けれども、何をするにも、同姓の友達と出掛けるのにさえ親の許可が必要だった私にとって、「結婚」はまるで自由への片道切符のように思えたのだ。
 勿論、現実はそう甘くなかった。確かに、幸二はまるで理想を絵に描いたような夫だった。子供好きで、休暇には必ず子供たちの喜びそうな所へドライブに連れて行ってくれた。家事の手伝いもしてくれるし、頼りになる。仕事を大切にするからといって、家庭をないがしろにするような人ではなかった。そんな模範的な夫の、一体何が不満なのか。おそらく誰もが不思議に思うだろう。夫が良い人だからこそ、言えないことだって妻にはある。私は夫との夫婦としての営みに、ほとんど苦痛に近いものを感じていた。何に原因があるのかは私自身、全くわからなかった。ただ演技をすることにのみ神経を集中するだけのあの時間。そのとき、私にとって夫は、まるで知らない人のように映る。時として、憎らしくさえ感じるのだ。
 十二時七分。時計を見る。約束の時間を少し過ぎた。胸の鼓動が、激しく波打っているのが、自分でもわかる。彼が来なければ、と願った。ほとんど祈りにも似たような気持ちで両手を組んでうつむく。その時だった。
 「蓉子さん。」
 はっとして顔を上げると、明が立っていた。ラフなトレーナーに色褪せたジーンズ。
 「ごめん、遅れて。今日こそは間に合うつもりだったんだけど、朝まで仕事してたから寝過ごしちゃって 。お詫びに昼飯おごる。行こう。」
 私はうなずき、立ち上がった。
 私達が入った店は、「飛行船」というレストランで、白を基調に赤と緑が取り入れられた、イタリアを思わせる陽気な雰囲気の漂う店だった。小さな飛行機の模型やら地図やらが、店のちょっとした空間を飾る。ここに来ると、いつも学生のような気分になれる、と私は思う。自由で、何ものにもとらわれない感じ。それはやはり、この店の醸し出す雰囲気のせいなのか。それとも、明と一緒に来るからだろうか。
 ふと考え込む。いつの頃 からか、私は「自由」につながると自分が考えるあらゆるものを求め続けていたような気がする。
 「こっち座って。」
 明が椅子をひく。彼はずいぶん年下だが、時折そう思えない時がある。たとえば今のようによく気のつくところなど。明の何に惹かれて、今、私はここにいるのか。そんなことは、わからない。仮に今世界中にいる全ての恋人たちに尋ねてみても、お互いのどこに惹かれて一緒にいるのかということを明確に答えられる人は少ないのではないか。全てのことに「正当な」理由がなければいけないのか。
 「何考えてるの。」
 「え、べつに。」
 「何か今日はおかしいと思うけど 。良かったら、話てみて。」
ジーンズのポケットから取り出して口にくわえた煙草に、火をつけながら言う。明の吸う煙草は、キャビン・マイルドだ。
 「ねえ、最近趣味のほうは?」
 「趣味って、音楽のこと?なんで?」
 「あまり話さないから。」
 「そうだったっけ。今、練習してる曲は」
 まったく、明は音楽のこととなると話は尽きない。普段無口なぶん、その饒舌さには驚く。しかも、本当に嬉しそうに話す。私はそんなときの明を見るのが好きだった。
 明の話す様子を見つめながら、ふと私は自分の歳を考える。今年で三十四。明は二十三。ほとんどひとまわりも違う、ということを何回確認してみても、ついつい苦笑してしまう。そんな私の思いに気付くのか気付かないのか、明はいつも楽観的だ。
 「今日は天気いいから、海、いこうか。前から約束してたし。」
 明の笑顔にはかなわないと思う。大きな瞳は、彼の顔の中で最も印象的だった。何か、彼の強い意志を感じさせるものがあった。長い睫毛、濃く引き締まった眉。窓から差し込む陽に透けて、栗色に見える柔らかそうな髪。背は低めかもしれない。最も、私にとっては丁度いいぐらいだが。ごつごつしてやせた身体は、一見華奢にみえるけれども筋肉質だ。少し髪をかきあげなから、こちらをのぞく眼が、私の瞳をまっすぐにとらえる。
 ある人間を「所有」するのが可能なら、私は明を自分のものにするだろう。けれどもそれは彼の「自由」を奪うことになる。「自由」な彼に憧れているはずなのに、何だか矛盾している。
 食事を済ませた私達は、街を目的もなくぶらぶら歩いた。いつもその調子だった。会ってから、二人の気分に合わせて行くところを決める。勿論そう頻繁に会うこともできなかったので、ただ一緒に街を歩くだけでも二人にとっては貴重な時間の積み重ねだった。会えるのは月に多くて一、二回といったところ。
 「あ、この映画知ってる。前から宣伝してるやつ。」
 映画館の前で立ち止まって指を指すと、
 「観よっか。」
 と言って明はスッと館内に入って行った。
 私の観たいと言った映画は、今世紀初頭に生きた奔放な人物が、激しい運命の荒波に翻弄される生涯を描いた年代記である。悲劇の主人公の数奇な運命と共に、恋愛、家族愛、死、狂気、冒険、復讐といったものが大きなスケールで、詩情豊かに描かれていた。
 映画が始まって二十分と経たないうちに、私は「しまった」と思った。思った時はもう既に遅かったのだが。主人公の瞳が、明と似ていたのである。俳優は日本人ではないから、瞳の色はもちろん違う。ただ、前を真直ぐ見つめるときの澄んだところとか、笑ったときの眼の伏せ方などが、明そのものだった。私はたまらない気持ちになった。今、この瞬間で永遠に時間が止まればいいと思った。

 ── 私はこの人が好きだ。
    この人の側にずっといれたら、どんなにいいか。 ──

気がつくと、両頬をぽろぽろと熱いしずくが伝っていた。夫を裏切ってきたことに対しての後ろめたさを感じていないわけではなかった。ただ、私は愛することを求めていたのだ。愛に恵まれて育ったはずの自分が、「愛すること」に飢えていると気付いたのは一体いつ頃からだっただろうか。恋を知ることがあまりにも遅過ぎた自分を、ただ哀れに思う。
 何故私は愛されるだけで満足できなかったのだろう。
 自分に対するやりきれなさが胸 を締め付ける。と同時に、明に対してこみあげる愛しさが溢れそうになる。
 しかし、こみあげる情熱とはうらはらに、冷静に自分を見つめるもう一人の自分がいることに、私は気付いているのだ。自我を閉じ込めようとする、もう一人の自分。彼女はつぶやく。

 ── 馬鹿なことはもうおしまいにしなさい。もう十分に愉しん
    だはず。このまま明と会っていても、いずれ捨てられるの
    は貴女なのだから。賢い大人の女の分別を持ちなさい。 ──

 自分自身との激しい葛藤に、私の心はいまにも引き裂かれそうだった。
 映画が終わると、二人は電車に乗って海岸近くの駅で降りた。海岸近くといっても、海まで歩いて三十分はかかる。もう五時になろうとしていた。
 海に向かう途中、ふと夫と子供のことが頭をかすめた。
 今日は夕食の準備もしてき たし、裕子と一緒に出掛けると言ってある。裕子というのは、私が短大に入って以来の親友だった。お互いに結婚をして家庭に入ってからも、相談をし合ったり旅行に出掛けたりと、何かと言ってはよく会っていた。彼女には明のことも話していた。だからこうして月に一、二度明と過ごす時は、夫や子供に悪いと思いながらも、裕子と一緒だという口実を作って家をあけていた。裕子は、私という人間を理解している数少ない人間の一人だった。
 砂浜を並んで歩く二人を、真っ赤な夕日が包み込む。夕日に照らされたものは、全てが表情を持った美しさで人をうっとりさせると思う。隣にいる明の存在を、何度も確かめる。しっかり記憶のなかに焼き付けたい。私は強く唇を噛んだ。
 三十四年間生きてきた なかで、忘れられない光景というものが幾つもあった。
「今」という時間がやがてはその一つになるであろうということを、直感していた。それは諦めにも似た感情である。これが、私と明を隔てているものなのかもしれない。
 二人は様々なことを話した。幼年時代の思い出、嬉しかったことやら、悲しかったことやら。そういった取り留めのないことを、思いつくままに話した。そして、初めて二人が出会ったときのこと。
 「初めて会ったのは、あの公園かな。」
 「うん。」
 「俺がスタジオの練習から帰る途中、あの公園のベンチにぽつんと座ってる蓉子さんを見つけたんだっけ。」
 「うん。夕食の買物をスーパーで済ませた後だった。何か家に向かって足が動かなくなって。ふらふら歩いてたら、あの公園を見つけた。私あの時、魂が抜けた人間みたいに、何もできなくて、何も考えられない状態だった。うまく言えないけど。きっと日常に息が詰まってたんだと思う。そして、本当の自分が見えなくなってたんだと思う。何もかも忘れたくなった。自分の名前も住所も、明日のことも全部。」
 「すごく思い詰めた顔してた。はじめは、俺の姿なんて全く見えてなかったと思う。なんか俺、そんな蓉子さんを見ていて、無性に教えてやりやくなった。もっといろんなものを見ろ、って。親もまともじゃないけど、学歴ないって馬鹿にされるけど、こんなに一生懸命な奴もいるって。自分の人生に色をつけるのは自分だってことと、その絵の具はどこにでもあるってことを、言いたかった。」
 「言葉じゃなくて歌で?  全然知らない人がいきなり目の前で弾き語り始めたから、 一瞬何だろうと思った。」
 「もっぺん歌ったげよっか。」
 「うん。でも私10メートルぐらい離れててもいい?」
 冗談だと思ったのに、なんと明は本当に大声で歌い始めた。私の腕をしっかりと掴んだまま。
 明の将来の夢の話も聞いた。音楽の道を歩んでいきたいと思っていること。夢を話す時の明の瞳には、不屈の精神が宿る。とてつもなく力強い意志を秘めたような。
 ところで私は明の家庭環境というものを、実のところ全くと言っていい程知らなかった。知ろうとしなかったわけではない。明が話そうとしなかった。話そうとしないことを、敢えて聞くものではないと思った。それでも、明が時折見せる何とも言えない淋しそうな表情や、不器用な自己表現は、少なくとも自分とは全く違う環境で育ったことを感じさせた。
 しかし、たとえどんな環境で育ったにしろ、明には、環境とか運とかといった、人間が自分の意志とは関係なく決定されてしまうものに対して、決して卑屈にならないようなところがあった。自分が情熱を抱いたものに対して、ひたむきだった。常に、そういったエネルギーを秘めた人だった。私が明に惹かれた理由はまさにここにあるのだと、今なら言える。

 「風が冷たくなってきたから、どこか暖かいところに行こう。」
  二人は海から一番近い、小さなレストランへと向かった。
 正直言って、明を失うことを考えると今にも気が狂いそうだ。辛うじてそれを抑えているのは、もう一人の“分別ある“自分である。今日明と別れることは、やはり正しかったのだといつか思い出すだろう。けれども、それと同じくらいの強さで後悔するのではないかと思うのだ。
 しかし、私のなかでは既に答えがでていた。
 明に出会ってから、私は変わった。私は流されて生きるのではない。自分の意志で、何もかもを選んでゆく。今日の明との別れでさえも。
 海の見えるレストランで、私は明と最後の食事をした。

 あれから四年。夫の転勤で各地を転々としてきた私は、偶然にも、この海岸から車で一時間程のところにある郊外で暮らし始めていた。つい一ヵ月程前からである。
 ここ数年のうちに私に起きた大きな変化が二つある。ひとつは、車を運転できるようになったこと。だからこうして、好きなときに好きな場所へ行ける。そしてもうひとつは、こうして文章を書くようになったこと。

 ── いつか貴方に偶然会えたなら、今度は私が元気づけて
    あげられると思う。
    あきお、貴方に会えて良かった。 ──

END

「父親」

近藤泰子

 改札に据え付けられた小さなカン箱に切符を入れて駅を出た。駅員は椅子に腰を掛けてこちらをみているだけで、駅員室から出てくる気配はない。平日の昼すぎであるせいか、買物帰りの女性が二人私と一緒に降りただけだった。今乗ってきた電車が通過するまでは、遮断機に阻まれ向こうへは行けない。カンカンと左右に赤いランプが移動するのをちらっと見て、それから目の前の動きだした電車の車輪をじっと見た。次第に黒光りする鉄の塊は形を留めなくなり、やがて向こう側の景色が現われた。
「直人にいちゃん。」
 大きな麦わら帽をかぶった少女が手を振っている。帽子が影になって顔が見えない。従妹の風花である。あがり切らない遮断機をくぐり抜け、私の方へ駆けてくる。私の所まで来るとくるりと向きを変え、今来た方へ私と肩を並べて歩きだした。
「どうせそっちへ渡るんやから待ってれば良かったのに。」
 少女の麦わら帽のてっぺんを見ながら私は言った。
 少女はぱっと私を見上げ
「それもそうやねぇ。」
 と納得したような調子で答え、視線をまた前方へ移した。
 古い家々が雑然と立ち並ぶ間をすりぬけ、雑木林とグリーンティーのような色をした小さな池の間の小道を行くと、風花の家がある。五年前までは、私もここに風花や彼女の両親、そして祖母と暮らしていた。私が二歳になるかならないかの時に、母は事故に遭い死んでしまった。まだ若かった父はしばらくは私を育てていたのだが、祖母に私を預けたきり戻ってこなかった。それからはずっと祖母や叔父夫婦に育てられた。

 今日は祖母の命日で、有休をとり久しぶりに就職先の広島からこの家に帰ってきたのだ。こどもの頃からそうしていたように、縁側から中へ入ろうと靴を脱いだ。縁側の手前には上にあがりやすいようにと平たい石が置いてあるのだが、その上には先に中へ入った風花のサンダルがきれいにそろえて並んでいた。
「直ちゃん、いらっしゃい、暑かったでしょう。」
 脱いだ靴をそろえようと、しゃがみこんだ頭の上から、叔母の萌子の声がした。彼女は私よりも後にこの家にきた。叔父の悟、(私と十三しか年が離れていないので、さとるにい、と呼んでいる)と結婚してここに住むようになった。彼女の声は、低いが艶がありとても心地のいい声で、昔から好きだった。

 夕方、食事をすませ縁側に腰を下ろした。ここは、都会から外れているためか、夜は夏でも涼しい。家の西側は、小さな茶畑になっていてそこを渡って風が吹く。光沢のある茶の葉が、月の明かりに照らしだされて、昼間とは別の姿を見せる。子どもの私にとって昼間は格好の遊び場であったのだが、夜の茶畑にはどうしても近寄る気にはなれなかった。何だか怪しげで、魔物が潜んでそうに思われたのだ。風花が隣で理科の宿題だとかなんだとか言って、しきりに星座盤と空の星とを見比べている。縁側に垂らした足をぶらつかせながら、なつかしい歌をうたいはじめた。

  一つ 二つと星が降る
   ふうちゃん 三つめを
    月に内緒で あげるから
     可愛いおまえに あげるから
      だから 静かに ねんねんねん

「直人にいちゃん、この歌知ってる。」
 歌い終わった風花が、くびを傾けて私に尋ねた。
「知ってる。おれの父さんがつくった子守歌なんや。悟兄がおまえによく歌ってたなあ。」
 私はそう言いながら、十三年前、ちょうど風花が生まれた年のことを思い出した。
 風花が生まれてからは、当然叔父も叔母も彼女の親という役割をはたすようになる。中学生になったばかりの私は、彼らが日に日に風花の父親にそして母親になっていくのがおもしろくなかった。家族という箱が現われて、自分だけがそこには入れないような気がして、淋しさは反発という形で表わすしかなかった。 

 その頃、一度叔父が私をひどく叱ったことがあった。友達と制服のまま駅前のゲームセンターへ行き、調子にのって遊びたおし、家戻ったのは九時を優にまわっていたのだ。怒鳴る叔父に私は「父親でもないくせに、偉そうなこと言うな」
と叫んだ。こんなふうに叔父に反抗したのは初めてだった。叔父も少し戸惑ったのか「心配させるな」とだけ言って後は何も言わなかった。
 その夜も風花を寝かせ付けながら、叔父は例の子守歌を歌っていた。ふてくされて、布団を頭までかぶっていた私に「この歌知ってるか」と聞いた。私は、先程反抗した手前「しらんわい、そんな歌。」と正味期限のきれたパンを捨てるように答えた。叔父は、この子守歌は私の父親がつくったという。いつも、赤ん坊の私に歌って聞かせていたという。「ふうちゃん」という箇所には実は私の名前が入っていたのだ。その時、叔父が何を言いたくて私にそんなことを伝えたかは私には知る由もなかったが、ただ、私は父親のことを強く想った。そして父に会ってみたくなった。母が事故で死んだことは聞かされていたが、父親のことは叔父夫婦も祖母も余り詳しく私には話したがらず、ただ大阪のどこかに居ることはそれとなく知っていた。私は布団から頭を出し、しかし叔父の方は見ずに、父親に会わせてくれと言った。叔父はしばらく何も答えなかった。豆球だけがついた、橙色の天井を私は食い入るように見つめていた。目覚まし時計の針の音が、妙に鮮明に聞こえ、長い時間が流れているように感じた。
「わかった、明日父さんの所に連れたる。ええな。」
 私は黙って頷いた。
 叔父は付け足すようにぼそっとつぶやいた。
「でもな、俺もおまえが好きやねんぞ。子守歌はようつくらんけどなあ。」

 次の日、私は叔父に連れられて商店街を歩いた。大阪の下町の商店街で、夕食の材料を買い出しに来た人でごった返している。各々の店からクーラーで冷やされた空気が流れ出て、時折私の頬を撫でた。叔父は黙って、買物に足を止める客の間をすりぬけるようにして進んでいく。私の父とその弟である叔父の間がどうであったかは定かではないが、叔父にとっても父との再会は何年ぶりかの事らしかった。必死で叔父の後を追うのだが、私の方はすぐに人にぶつかってしまう。最初のうちは「すみません。」と謝っていたが、叔父の頭の向こうに、商店街の途切れ目を見付ける頃には、ぶつかることが気にならなくなっていた。商店街の途切れ目は、小さな道路と交差していて、その道を渡れば次のアーケードが同じように続く。
「直人、こっちや。」
 叔父と私はそこで左に曲がりつきあたりの三叉路をを右へと入った。
 その通りは、今まで歩いて来たところとは様子を異にしていた。陽が傾き、ピンクやブルーのネオンをつけたホテルが両側にいくつも軒を連ねている。一瞬にして私の体中の血管が脈打ちはじめた。さっきの喧騒とは一転して、人気は少ない。買物袋を下げた人など一人も見当らない。全く別の空間にぶち込まれた気がした。いくら都会の外れで育ったとはいえ、私も思春期の入り口に足を踏み込んでおり、これらの場所についてのいくらかの知識は持っていた。覗いてはみたいが、今の自分はまだ覗いてはいけないような、そんな大人の世界に思われた。
 私と叔父の横を一台の車が通り過ぎ、二十メートル程先のパーキングの入り口へと呑み込まれていった。ホテルのパーキングの出入口は、どこも真っ暗で何かを呑み込もうと待ち構えているようだった。身体は硬直していた。私は、できるだけ道路側により叔父にひっついて歩いた。いったい、ここで私の父親が何をしているというのだろうか。向こう側の自動販売機で誰かが缶ジュースを買っていた。「ゴトン]という音に私の肩は反応し、びくついた。気が遠くなりそうだった。叔父は相変わらず黙り込んでいて、時折車のエンジン音に後を振り返るだけだ。
 突然、叔父は立ち止まり
「おまえの親父さんや。」
 といって前方を指差した。
 もう、日はすっかり暮れネオンの明かりだけがぼんやりと路上を照らし出している。私は叔父が指差したほうを恐るおそる見た。男の人が二人、車がその前を通過しようとするたびにしきりと腕を振っている。どうやらホテルのパーキングへと、客を呼び込んでいるらしい。車が来るのが見えると、パッと道の中央近くまで飛び出し、身体を半分に折り曲げ、腕を大きく振って「どうぞ、どうぞ。」と言いながら車を誘導している。体中をめいっぱい使い、車が来るたびに何度も何度も同じ事を繰り返す。はいる気のない車は、大半がそうなのだが、二人の男を避けるように反対車線にはみ出して通り過ぎていく。
「なあ、どっちの人や。」
 私は何度かためらった末、叔父に尋ねた。
 二人の男の人は、パーキングの出入口を挟んで、呼び込みをしていた。手前の一人は私たちに背を向けた格好で、向こう側の一人はこちらを向いていた。
「向こうの、白いシャツを着た人や。」
 と叔父は教えてくれた。
 初めて父親というものを見た。車のライトでときどき顔が照らし出される。ライトがわずかの間、父を照らすたびに私は、目、鼻、口、襟元、と食い入るように見た。紺色の運動靴をはいていてさっきからそれが引っ切りなしに動き回っている。私は、どうしようもなく悲しくなった。何が悲しいのか良くわからなかったが、あれが父の仕事で、毎日毎日止まりもしない車にむかって同じ事をしているかと思うと、身体が縮んでいく気がした。
 十分程、私はじっと父を見ていた。向こうからは暗くて見えないのか、父が私と叔父に気付く気配はなかった。しばらく見ていて私はあることに気付いた。
「どうぞどうぞ」と言って呼び込む父の顔が笑っているのだ。どの車が来ても手を抜かない。常に笑顔で、一生懸命に体を動かしていた。不思議な気分だった。白くて、大きな乗用車が一台、真っ暗なパーキングに吸い込まれていった。私は、ホッとした。縮んでいた身体が少しもとに戻った気がした。いつのまにか私は、車のライトが父を照らすたびに、左側のウィンカーが点滅する事を、両手に力を入れて願っていた。悲しいという感情は、どこかへと消えていた。
「おうていくか。」
 叔父は私の肩をぐっとつかんで、半ば私に尋ねるように半ば自分に言聞かせるように言った。ネオンの光でピンクやら青やらに変わる叔父の顔を私はゆっくり見上げ首を振った。叔父は「なぜ。」という表情をしたが、理由はごく単純なものだった。父の仕事を邪魔したくなかったのだ。彼の仕事がおわるのを待てば済むことなのだが、その時の私にとっては、それは選択肢の外の理論にすぎなかった。ただ目の前で舞台の上の役者のように、大きな声と大きな振りで動き回る父の何ものをも、停止させたくないと思った。今になって思えば、恋しくて仕方のない父親というものは、当時の私には存在しないもので、会ったところで抱きつける人でもなかったからであろう。かつて生まれたばかりの私を腕に抱き、私の名前を入れた子守歌を唄ってくれた父なる存在を、確かめられれば満足だった。叔父も私の気持ちを何となく理解したのか、無理矢理私と父を引き合わす事はせず、その日はそのまま家に戻った。
 帰りの電車の中で、さっきまで自分がいたホテル街の灯りに目を遣りながら、父がつくったという子守歌のことをぼんやりと考えていた。先ほど見た父が私を抱いて星空を見上げている姿を想像してみたが、どうもうまくいかない。なぜ、わざわざ子守歌なんかを自分でつくったのか、どんな風につくったのか、父に聞いてみたくなった。私と暮らさない理由や、母のことなどほかにも父に尋ねるべきことは私のなかにたくさんあった。しかし、今でなくてもいいような気がしていた。ただ、いつかは逢うことになるような気もしていて、
「今度は、ちゃんと父さんに会う。」
 と叔父に言った。
「それがええなあ。うん。」
 吊り革をもつ手に体重をかけ少し身を乗り出すようにして窓の外を見ながら返事をした。

 今でも鮮明に覚えている。父に会いにいった日から数日経った日のことだ。友達と二つ向こうの町の夏祭りに行って帰ると、叔父が縁側に胡坐をかいて座っていて、小さな風花をその上に抱いていた。そして、父の子守歌を唄っていた。私はとっさに、叔父に尋ねた。ラムネの詮をあけたときみたいに私の口から言葉があふれた。
「なあ、悟兄、父さんもそんな風に俺を抱いていたんやなあ。その歌唄いながら、俺を抱いてたんやなあ。」
 じっと叔父の目を見つめた。
 眠りに入り、腕からずり落ちかけた風花を抱き直しながら、叔父は静かに力強くうなづいた。私は、近寄り、叔父の腕からゆっくりと風花を自分の胸に抱き取り、空を見上げた。風花の体の温かさが重みと共に私の腕に伝わってきた。この時の私の感情は風花への愛情というのではなかったと思う。ただ、確かにあったはずである父親の自分への愛情を、そして自分にも家族という名の箱があるのだということを、私は私の内へとある種の温もりを持たせて刻み込んでいた。

「直人兄ちゃん、空見て何してるん。なんか飛んでるんか。」
 風花が不思議そうにわたしを見た。
「今日は星がようさん出てるなあ。」

編集後記

 平成6年度も、国語学特論2では、小説の創作を夏期休暇中の課題とした。これで、四年間続けていることになる。書きっぱなしでは仕方がないので、回読し、互いに批評しあい、推敲の助けにしている。そのようにしてできあがっているのが、小誌である。
 受講者がワードプロセッサで打ち込んだ原稿を、野浪がパソコン上で編集し版下を作った。演習室に集まって、リソグラフで印刷し、製本した。本年度も両面印刷に挑戦した。そして、空白の美を解さないわけではないが、やはりもったいない感じがするので、鳥の絵のカットを入れてみた。
 作品の質は、不思議なことに年々高くなっているように思われるが、いかがであろうか。今年の作品群には、「作者の個性」を強く感じる。読後の感想を執筆者に伝えていただけるならば、幸甚これに勝るものはない。(野浪記)

2002.2.9にHTML化を行った。
そうか、震災の年の2月だったんだ。
HTMLにも、鳥の絵を入れれば良かったかもしれないが、ちょっと疲れてきたのでパスします。

詩織 1994年度号
1995.2.8 印刷・製本
1995.2.9 発行
編集・印刷・製本・発行 平成6年度 大阪教育大学国語学特論2受講者
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郵便番号・住所 〒582-8582
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