大阪教育大学  国語教育講座  野浪研究室  戻る  counter

大阪教育大学 国語学特論2
受講生による 小説習作集

詩織

2003年度号
目次
SORA11503
気麗むすび12101
異邦人12102
我に五月を12103
ヒーター12104
記憶12105
空へのエール12106
終わらない歌12107
遥かに12108
 

SORA

11503

 「やったぁー!俺の勝ち!!俺が先なっ!」
 「くぅぅ、今の後出しじゃねぇの!?」
 じゃんけんに勝ったトシは、悔しがるコータに満面の笑みとVサインをむけた。
 2人がはしゃいでいるのは、物々しい機械やうず高く積み上げた資料が置かれた大学の研究室である。数ヶ月前、この研究室で一大プロジェクトが完成したのだ。
宇宙旅行が一般化してきている現代において、人類はついに、長年の夢であった時空間旅行を可能にした。まだ試作段階ではあるが、人為的に時空間にゆがみを作り、そのゆがみから過去・未来へと行く事に成功したのだ。
それを可能にしたのがこの機械、いわゆるタイムマシーンというやつである。通称『ソラ』という。ソラとは「空」や「宙」のように「無限に広がる可能性」という意味をこめてつけられた。そう、人類はまた新たな一歩をこの『ソラ』をもって踏み出したのである。
 この歴史的な一歩を踏み出したのは、子どもたちのやり取りを笑顔で見守っている2人の男性、トシの父親である塚本博士とコータの父親である染谷博士を中心とする研究チームである。2人は学生時代からの学友で、共同で研究を続けてきた。今回のタイムマシーンの完成により、彼らの名前は一躍有名になった。
 いや、「有名になる」と言い直そう。なぜなら明日『ソラ』のお披露目があるからである。多くの人の目の前で、研究の成果を発表し、それを認められてこそ、この研究は成功したといえる。
 「明日が楽しみやなぁ♪」
 鼻歌交じりにトシが言う。どうしてトシがこんなに嬉しそうなのかというと、実はこうだ。
 明日の『ソラ』のお披露目の際に、デモンストレーションとして公衆の目の前で、時間旅行(タイムトラベリング)を行うことになっている。その「旅行者」としての権利を先ほどのじゃんけんでトシは勝ち取ったのだ(といっても旅行者の権利を争ったのはトシとコータの2人だけだったのだが)。
 「ちぇっ、俺も『ソラ』に乗りたかったわぁ。」
 コータはつまらなそうに手近にあった紙で紙飛行機を折りながらつぶやいた。
 「あぁっ!こらコータ!それは明日使う資料や!」
 染谷博士の怒鳴り声が飛んできた。しかし博士の顔は緩みきっていて少しも迫力がない。しかられたコータもやっぱりニコニコしている。
 なぜ、デモンストレーションの「旅行者」として子どもを選んだかについては二つほど理由がある。
一つは子どもでも簡単に旅行が出来るということをアピールするためである。トシもコータも12歳なのだが、現在の法律では12歳から宇宙旅行に一人で行くことが出来ると定められている。宇宙旅行と同じような感覚で時空間旅行も出来るということも暗に含んでいる。
2つ目の理由は単に大人が行くより子どもが行くほうが絵的にいいからだ。子どもの無邪気な反応の方が、大人の計算されたコメントより実直に人々に伝わると博士たちは考えていた。
 もちろん試運転を何度も繰り返し、ちゃんと過去・現在・未来を安全に行き来できることは研究チーム内では確認されている。何より、博士たちは研究の成果に自信を持っていた。だから自分たちの子どもをデモンストレーションに参加させることを決めたのだ。
 「明日は頼むで、トシ。さぁ、明日は早いんやから2人とももう寝なさい。」
 「はぁい。じゃ、おやすみなさぁい。」
 意気揚々と引き上げていく子どもたちを見送ったあと、
 「あの様子じゃ、あいつら眠れへんのとちゃうか。」
と少し冷めたコーヒーをすすりながら塚本博士が苦笑いをした。
 「おまえもコーヒーなんか飲むと余計眠れなくなるで。」
 2人の博士は満足げに微笑みあった。
 窓の外はいつの間にか冷たい雨が降り始めていた。

  * * * * *

 「本日は天気の悪い中、『ソラ』の披露にこんなに多数の方々に集まっていただいたこと、大変嬉しく思います。今回の研究では…」
 決まりきった挨拶をもってソラのお披露目パーティーは始まった。確かにたくさんの人が集まっている。スーツを着た科学者らしい男性や、カメラを持った記者らしき女性など目を輝かせた人々が、挨拶よりも『ソラ』そのものの説明を待ち望んでいる。
 「ふぁぁ。この話が長いんだよなぁ。おっ!トシ、何お前緊張しとんねん!」
 披露が始まってものの2分、すでに退屈してしまったコータは隣に小さくなって座っているトシを茶化した。
 「うっさいわ!俺はお前と違ってナイーブやねん!」
 トシに一瞬笑顔が戻ったが、またすぐ下を向いてしまった。デモンストレーションに出るということで無理やり着せられた普段と違う服装が、余計にトシの緊張感をあおっていた。そんなトシの様子を感じ取ってか、コータも口をつぐんだ。
 2人が待機しているのは舞台の裏側である。ここでトシの出番を待っているのである。防音された舞台の方向からは、かすかに『ソラ』について説明する塚本博士と染谷博士の声と会場のどよめきが聞こえてくる。外は相変わらず雨が降っているようである。雷の音も聞こえる。
 「…『ソラ』とは、この具体的にこの二つの装置の事を言います。この筒状の巨大な装置は人間を他の時代に飛ばす装置です。時間旅行者はこの筒の中に入って、中のコンピューターで行きたい時代と場所を設定します。もう一つの小型の、これですね。この電話の子機を少し大きくしたような装置は旅行者が旅行中に帯同するものです。旅行中の万が一の事故に備えて現代との連絡を取るために使います。…」
 凛とした雰囲気の中、長かったような、短かったような沈黙を破ってトシが口を開いた。
 「…なぁ、コータ。今日は俺1人だけで、時間旅行に行くことになったけど…次行ける事になったら、絶対に一緒に行こうな。やっぱり1人じゃおもんないわ!」
 コータはドキッとしてトシの顔を見つめたが、やがて少し照れくさそうに、
 「おう!これからも2人で色んなトコ、冒険しよな!」
と言った。コータは「自分も時間旅行に行きたかった」という気持ちが、トシにもわかってしまうほど態度に表れていたことを恥じた。だから、トシは緊張しているのにも関わらず、自分を気遣って声をかけてくれたんだと思うと、(自分は小さいなぁ)と感じた。そして、トシと友達になって本当によかったと思った。
 「トシ、そろそろスタンバイよろしく!」
 染谷博士が舞台の方から上気した顔を出した。
 「じゃあ、ちょっと行って来るわ。」
 そう言ったトシにコータは手を差し出した。
 「頑張れよ!」
 と笑顔で見送った。

 「お待たせいたしました。では、これより『ソラ』を使っての時空間旅行の実演をご覧に入れようと思います。と言っても現在(こちら)で待っている人間にとっては、筒の中に入った人間がただ消えるだけに見えるかと思います。しかし、実際には旅行者は時間を旅しているのです。疑わしいとお思いになるでしょう。皆様に体験してもらえればいいのですが、今回は私の息子であるトシに旅行させようと思っています。この試みが成功したら、いずれは時空間旅行も自由にいけるようになるでしょう。このデモンストレーションはいわばその最初の第一歩です。」
 塚本博士の言葉に会場はざわめいた。疑わしそうに隣の者と話す人、食い入るように『ソラ』を見つめる人、反応はそれぞれだが、皆一様に興奮しているのが伝わってくる。
 「でははじめたいと思います。トシ!」
 トシが呼ばれ、トシが大きい筒状の『ソラ』の中に入る。
 「今回は過去を旅行してもらおうと思います。今から500年前の日本、ちょうど江戸幕府が開かれた頃ですね。これに時間と場所を設定して…」
 塚本博士は説明しながら、もう何度も確認した作業を慎重に行っていく。トシは幾分硬い微笑を浮かべながらその時を待っていた。そんな様子を固唾をのんで見守る人々。
 「設定は終わりました。あとはこのボタンを押せば…」
 博士がまさにボタンを押そうと手をかけた瞬間、轟音と共に会場の電気がふっと消えた。落雷により全ての電源がショートしてしまったのだ。混乱状態の真っ暗闇の中、光を放っているものがある。
 「『ソラ』が光ってるぞ!」
 誰かが叫んだ。皆あっけに取られて見つめる『ソラ』はますます光を増していく。
 「トシ!おい、トシ!!」
 コータの叫びが聞こえる。
 『ソラ』の発した光は会場全体を飲み込んだ。目も開けていられないほどの一瞬のまぶしさのあと、静寂と闇が訪れた。
 どれ位の時間が経っただろう。実際にはほんのわずかな時間だったのかもしれない。
「ザンッ」という音とともに会場の電気が点いた。
 時間が動き出した会場の混乱の叫びの中、チカチカする視界でコータが見たものは、からっぽになった『ソラ』であった。
 バタバタ駆け回る大人たちの中で、コータはただ一人じっと『ソラ』をにらみつけていた。
 雨はまだ激しく降り続いていた。

  * * * * *

 「おーい、コータ!今日飲みに行こうぜ!」
遠くからの声にコータは振り向いた。ケンが息を切らせて追いついてきた。
「悪いな、ケン。今日は俺、デートなんだ。また今度誘ってくれよ!」
「…わかったよ。しゃーないなぁ。じゃ、また明日な!」
軽く手を振り走り去っていくケンを、心の中で感謝と別れを告げつつ見送った後、コータはいつものように研究室に向かって歩き出した。
あの『ソラ』の事故から8年が経過していた。当時12歳だったコータは20歳の電子工学を専攻する大学生になっていた。4年間の大学のカリキュラムを2年間で終了してしまうほど勉強に打ち込んでいる。すべてはトシを助けるために。
あの事故でトシは「時空間における行方不明者」になった。停電による一時的なコンピューターの誤作動で、『ソラ』の時間管理機能が麻痺してしまい、500年前と設定されていたトシを送る時代が「∞」になってしまったため、救出に行くことが困難になったのだ。「∞」つまり有史以前である。『ソラ』のプロジェクトチームは更に研究を重ね、トシの救出を何度も試みたのだが、何しろ、膨大な時間があるであろう有史以前のどの時期にトシが飛ばされたのかがわからず、どうしても発見に至らなかったのである。そのうち、この歴史的な「時空間行方不明者」を出してしまった『ソラ』のプロジェクトチームは、世間から集中的な非難を浴び解散させられた。時空間旅行の実現はもうしばらく検討を重ねられることになった。
しかし、『ソラ』プロジェクトの中心的研究者であるトシの父親である塚本博士とコータの父親である染谷博士は研究を続けた。3年ほど前からコータも研究に加わっている。
あと少しでトシが飛ばされた時期区分を特定出来そうになった去年の暮れ、塚本博士が過労で倒れた。かろうじて一命は取り留めたものの、今だに一進一退の病状である。
その穴を埋めるためにコータはここ数ヶ月研究室に通い詰めなのである。
その甲斐あって昨日ついに、トシが飛ばされた時期区分の解析に成功した。話し合いの結果、本人の強い希望により今日コータがトシの救出に向かうことになっていた。
「コータは絶対に生きて、俺の助けを待っているはずや!それに俺らには約束があるんや!」
この8年間、ずっとコータは思い続けてきた。
「父さん、どう?『ソラ』、動きそう?」
研究室に着いたコータは書類に埋まりながらキーボードをたたいている染谷博士に興奮した声をかけた。
「コータか。いつでもいけるぞ。」
父の声にうなずきながら、コータはさっさと『ソラ』の筒の中に入っていった。『ソラ』の筒の中に入ったコータは、昨日解析成功の報告に行った病院での塚本博士を思い出していた。
「コータ、どうかトシを見つけてつれて帰って来てくれ。」
苦しそうな呼吸で涙を流しながらそう訴える塚本博士は、年齢以上にずっと老けて見えた。自分の息子をこんな目に合わせてしまったことに対する自責の念と、自分自身が助けに行くことが出来ないことの後悔の念を、そしてコータへの期待をコータは痛いほど感じた。
それと同時にコータは昨晩の父との会話も思い出していた。
「コータ、解析よくやった。お前がトシを思う気持ちは十分すぎるほどわかっている。
だからおまえが行ってトシをつれて帰って来い。ただし、約束してもらう。必ず帰ってくるんや。」
 コータはしばらく答えることが出来なかった。
この8年、父親は自分の研究に自信を持って臨んでいた。しかし、そんな彼もやはりこの時空間移動を不安に思っている。
「…わかってる。絶対2人で帰ってくるから。」
それだけやっと言うと、コータは席を離れた。
それぞれの人々の思いを受け止めて、コータは筒の中でそのときを待った。
染谷博士は、コータが解析した時期区分を丁寧にコンピューターに入力し、場所をトシのときと同じように日本に設定した。後はENTERを押せば『ソラ』が作動する。
博士はコータに向かって、笑顔で左手の親指を立てて見せた。準備OKの合図である。
コータも笑って父に向かって親指を立てた。その直後「カチッ」という音とともにコータの体はスッと筒の中から消えていった。
研究室に残された染谷博士は、一人震える手を見つめながら、リノリウムの床に座り込んだ。

  * * * * *

「…〇△☓▼※…※●▲×…」
聞き覚えのない声に、コータは目を覚ました。どうやら気を失っていたらしい。「長い時間を飛び越えたからなぁ」などと冷静に考えていたコータは、自分の周りを見てぎょっとして飛び起きた。
青い大きな空を巨大な鳥のようなものが飛んでいる。更にすぐ側の水場ではこれまた巨大な何かが群れているのが見える。いわゆる恐竜に見とれていたのだが、やっと、コータは自分の周りにたくさんの人だかりが出来ていることに気付いた。褐色の肌にプラチナブロンド髪、そしてその髪よりも更に色の薄い真っ白な衣服をまとった人間が、コータには理解できない言葉で何かを一生懸命語りかけている。
「何を言っているんだ?」
思わず日本人固有の愛想笑いを浮かべながら、コータはつぶやいた。
その言葉を聞いた『褐色ブロンド人』たちはお互いに何かを話し始めた。そしてその中の一人が、
「あなたは、どこから、来たの、ですか?」という、たどたどしいがコータにもわかる言葉を発した。見ると、長い髪の背の低い女性が笑顔で一歩前に出た。年のころはコータと同じぐらいだろうか。
「日本、という国からきました。言葉がわかるのですか?」ちょっと嬉しくなって、コータは聞いてみた。
「●△!!」『褐色ブロンド人』の群集から歓声らしき声が上がった。
「よかった!もしかしたら、カモトと、同じ国の人、なのではないかと、思いまして…」女性はにっこり笑ってまた言った。
彼女の話によるとつまりこういうことであった。二年ほど前に(ここでは「2ノン」というそうだが2年と同じことだろうとコータは勝手に判断した)突然空から降ってきた『カモト』という男と、コータは外観がよく似ていたので『カモト』が話していた言葉なら通じるかと思った、というのである。
「『カモト』はトシだ!」直感的に思ったコータは、『カモト』に会わせてくれるよう頼んだ。しかし、
「カモトは、今、隣の、集落に、治療に、行って、いない。」といわれた。母国語ではないから仕方ないにしろ、あまりに話すペースが遅いので、コータはそろそろいらいらしてきたが、『カモト』に会わなければどうにもならないと思い、彼が戻ってくるまでこの村に滞在させてもらうことにした。
話がひと段落ついて、コータはとても重要なことを思い出した。
「あの、これ位の箱みたいなヤツ、落ちてませんでしたか!?」両手で小さな四角を作りながら聞いてみた。『ソラ』である。小型で電話の子機のような形をした、旅行者が帯同する方の『ソラ』である。説明するときにも、「電話の子機みたい」といえればよかったのだが、多分わからないだろうと踏んだコータは、「箱」と表現した。しかし、コータの言葉は、彼らが聞き取るには少し速過ぎたようで、彼らは小首をかしげている。コータはため息をついて、今度は出来る限りゆっくり同じ事を伝えた。すると、
「これのことですか?」
一人の男性が探していた『ソラ』を持って走ってきた。
「それ!それです!」
お礼も言わずに男性の手からそれを奪うようにひったくった。もし『ソラ』が壊れていなければ、父親の染谷博士に連絡を取ることが出来るはずなのである。しかし、無残にも『ソラ』は反応を示さない。コータは失望した。そしてこちらに来て初めて不安と孤独を感じた。トシに会えなかったら、一体どうすればいいのだろう、という思いが一気にこみ上げてきた。唯一の救いは、『ソラ』が大破していなかったことである。外見的には別段以上はないので、修復は可能であるとコータは思った。もちろんそれなりの設備と材料があればの話であるが。

「はぁ。ホント疲れたなぁ。」
宛がわれた部屋で横になったコータはどっと疲れがこみ上げてくるのを感じた。あの後、村に滞在することになったコータを、初めに日本語で話しかけてくれた女性、ナタリという、が村の長老に紹介た。長老はなぜ『カモト』に会いたいかなどは別段聞くこともなく快く滞在をさせてくれるといった。村が来客を迎えたときのしきたりである歓迎の宴会に参加し、やっと今一人になれたのである。
コータは疲れでぐったりしながら、今日あったことを考えていた。父親と一緒に自分の研究室にいたことが、もうずっと昔のことのように感じる。そんなことを考えていると切ない気分になってきた。
「センチメンタルなんて柄でもないだろ。」自分につっこむことで気分を紛らわそうとしたコータは、次に、今日発見したことを論理的に整理しておくことにした。まず一つ目は、この時代が間違いなく有史以前であることである。恐竜と人が共存している、というより人が恐竜を家畜のように飼っているという時代である。有史にそんな時期はなかったはずだ。二つ目は、そんな時代であるにもかかわらず、発達した技術が所々で見られるということである。例えばこの家である。どのようにして建てられたのかわからないが、見事な設計で、二階、三階部分まである。材質も木造ではなくコンクリートのようなものが主材料のようである。さらに今この部屋の中を照らしているランプ(の様なもの)。おそらく動物からとった油を燃やすことで火を燃焼し続けさせているのであろうが、これらのようなことがこの時代にされていたということに、コータは驚いた。「古代と近代の融合」。そんな不可思議なところだとコータは感じていた。三つ目は暦がはっきりしているということである。村人たちは『カモト』は2年前にやってきた、といった。コータのいた時代では8年の歳月が流れているので、時期区分の間隔もしくは、時間の流れ自体がコータの時代とは違うのかもしれないが、「時を計る」という概念はあるようである。しかし、時間の流れ自体が違うのなら、トシは年をとっているのだろうかとコータは少し心配になった。
「どうであれ『カモト』がトシである可能性は高い。トシなのだったら、早いトコ『ソラ』を修復してトシと一緒に俺たちの時代に帰ろう。」枕元に置いた『ソラ』を眺めながら、今の時点で考えても仕方ないと思ったコータは、結局そういう結論に達した。考えることを辞めるととたんに睡魔が襲ってきた。そしてだんだん視界が薄ぼやけていった。

それから二日間は、コータは村人たちの仕事の邪魔をしながら、色々な話を聞いた。というのも、この村の人々は、片言ではあるがみな日本語を話せたのである。それは『カモト』が教えたのだという。
この村の生活は、主に狩猟と農耕で成り立っていた。大型の恐竜を狩り、小麦と野菜を作る。少しイメージしていたものと違うが、昔歴史で習った通りだとコータは思った。
コータは『カモト』のことについても聞いた。やはりこちらの方に興味がある。村人の話では、『カモト』は2年前空から降って来て、言葉が通じないのでお互いに戸惑っていたら、突然『カモト』は呪文を唱え始めたらしい。何かの詩だったようだが(当時国語の授業で習っていた「かっぱ」という詩ではないかとコータは思った)、その言葉遊びにも似たリズムがおもしろかったらしく、彼らはそれを真似ていくうちに、日本語を覚えていったらしい。その『カモト』は現在は医者兼学者をしている。今回の出張は医者としての出張だが、学者としてもよく研究と称して出かけているらしい。そして、『らんぷ』という火を長く灯し続けるものを作ってくれた、とナタリは説明してくれた。ナタリは村人の中で一番日本語に長けていた。
そのナタリが、「カモトが帰ってきた!」と息せき切らせて伝えにきたのは、コータがこちらに来て5日目のことだった。待ち望んでいたはずなのに、コータは動けなくなってしまった。トシに会いたいという気持ちと、もし、トシではなかったらという気持ちが入り混じった複雑な表情を浮かべている。そんなコータを促すようにナタリはコータの手をつかんで走りだした。
村の中心部にある広場に村人たちの人だかりが出来ていた。その中心に村人たちとは違う外観の(それはコータとよく似た外観だったが)、長身の男が立って何か話をしている。話している言葉は日本語ではないが、とても打ち解けた感じで、楽しそうに笑っている。近づくにつれてだんだんとその男の顔がはっきりと見えるようになってきた。コータの心臓はこれでもかというほど早鐘を打っている。「もう少しでトシかどうかわかる…」
「トシだ!」コータはすぐに確信した。成長して青年になってはいたものの、昔の面影があり、何よりも笑い方があの頃のトシにそっくりであった。「トシが成長しているということは時間の流れ方が違うのではなくて、時期の区分が違うのだな。」などとなぜか冷静にここへ来た日に考えたことの分析をしていると、ナタリが顔を覗き込んできて聞いた。
 「あなたが、会いたがっていた、カモトですよ。どうしたのですか?」
 そう言われて、我に返ったコータは「トシ!」と大声で友の名前を呼んだ。
 群集がこちらを振り返る。中心にいたトシもコータに気付いたようだ。大きく目を見開き、やがて口を開いた。
 「…あなたは私と似ていますね。あなたは私を知っているのですか?」
 聞きなれない声でトシは言った。
「俺だよ、コータだよ。おまえを迎えに来たんじゃないか!おまえは塚本トシだろ!俺たちの時代に帰るぞ。」
予想もしていなかった展開にコータは声を荒げて言った。ただならぬ雰囲気に、村人たちはコータとトシを残して去っていった。「まさか、トシが覚えていないなんて、冗談きついぜ。」コータは両の拳を握り締め、トシの次の言葉を待った。
「私は、本当は『塚本トシ』というのですか!そういえば私はここに来たとき、『ツカモト』と名乗ったそうですが、『ツ』が聞き取れなかったんでしょうね。今では『カモト』という名前になっていますよ。」
ニコニコしながらゆっくりトシは話した。論点があっていないことに軽いめまいを覚えながら、コータはなお聞いた。
「本当に覚えてないのかよ?まぁ、記憶の方は未来の発達した医学で何とかなるだろうし、とりあえず帰るぞ。『ソラ』の修理を手伝ってくれ。」
そういったコータにまたも信じられないことをトシは言った。
「帰る?どこへです?私の住むところはここですよ。そりゃ、私は2年前ここに来たものですから、それ以前はどこかに住んでいたのでしょうけれど、私は覚えていないんです。そんな故里に帰ろうとは思いません!」
きっぱり言い放ったトシをコータは思わず殴りつけそうになった。コータは失望と混乱で頭が変になりそうだと感じた。どうしてこんな状況になったのだろう、と黙り込んでしまった。
「落ち着け。何かいい方法があるはずだ。」ぶつぶつつぶやいているコータに、トシはとどめの一撃を加えた。
「どうです?あなたもここで一緒に暮らしましょう!」
コータは絶句した。

 「ちくしょう!どうなっているんだ!」コータは自分の部屋で頭を抱えている。久しぶりに会ったトシは変わってしまったとコータは感じた。あの後コータとトシは長い時間話をしたのだが、ついぞかみ合わず、夕闇が迫ってきたことをきっかけに物別れに終わった。しかし、コータの気は治まらない。トシを連れ戻すためにこちらに来たのに、連れ戻そうと思っていた当事者に「帰らない」と断言されてしまったのだから、当たり前といえば当たり前なのだが。
 「絶対に連れ戻してやる!あいつの親父さん、塚本博士だって待ってるんだ。」
 ここに来る前に、報告に寄った病院での塚本博士の様子を思い出し、コータは改めて決意を胸にした。
 「まずは思い出させないといけない。幸いトシは自分の事に関すること以外の知識はすべて記憶されているようだ。『ソラ』にも興味を示していたし、『ソラ』の修理をしていく上で何か思い出してくれるといいんだけど…いや、思い出させて見せる!トシの住む場所はここではなく未来にあるんだから。」
 そこまで考えたコータは、明日からの気が遠くなるであろう作業を予測して、眠りにつくことにした。それでもコータに会えた喜びと、腹立たしさからの興奮で眠れはしないだろうが。

  * * * * *

 

気麗むすび

12101

 リリリリリリーン♪授業終わりのベルが鳴った。
 「お腹すいたー!早く食堂行こ〜っと。」
 真希は立ち上がるとそそくさと教室を出た。食堂に着くとすでに友人たちが座って待っていた。
 「おはよう。」
 「おはよう。」
 真希はいつものメンバーにあいさつすると、財布を持って人の列に並んだ。
 「あー、何かいいことないかな?」
 食堂での六人の会話はもっぱらこんなことばかりである。
 「大学生になったっていうのに、平凡な毎日やんなー。」
 「誰かいい人おらんのかな?」
 真希は今年、大学に入学したばかりの十八歳。本名は山田真希。夏休みを目前に控えて少々焦りを感じている。
 「出会いといえば、大学生になったし、もうすぐ夏休みやし、バイトでも始めてみるかー。」
 「そうやな。何だかんだお金もいるし、毎日をボーっと過ごすのももったいないしね。」
 「んじゃ、みんなで恋の花を咲かせましょー!」
 「オ―ッ!」
 さっそく真希は帰り道にバイト情報誌を買った。
 「う〜ん、何かいいバイトないかな?出会いがありそうな・・・。やっぱ地元より大学の帰り道で探した方がいいかな。梅田とかの方が時給もいいしなぁ。」
 真希はそんなことを考えながら電車に揺られていた。
 学校も終わりに近づき、いよいよ待ちに待った夏休みが明日に迫った。高校とは違う二ヶ月間の長い休み。真希は胸を躍らせながら帰路についた。そして今日は悩みに悩んで決めたバイトの面接日だった。結局、真希は梅田のカフェでバイトをすることにした。面接時間は五時。五時までまだ時間があったので、真希はそこら辺をブラブラして緊張を紛らわしていた。
 コン、コン。
「失礼しまーす。アルバイトの面接に来たのですが・・・。」
「あぁ、山田さんやね?お待ちしておりました。」
真希はドキドキしながら通された奥の部屋のイスに腰掛けた。
「じゃあ、面接を始めたいと思うねんけど、オレは堅苦しいの嫌いやから、リラックスして聞いてな。そんな緊張せんでいいから!」
 真希はその言葉に少しホッとした。
 面接も無事に終わり、あとは結果を待つだけだった。もし合格すれば、五日以内に電話をくれるとのことだ。真希はこの五日間、特に電話に張り付いていた。携帯が鳴るのを今か、今かと待ち望んでいた。
 タラララン、タラララン♪真希の携帯が鳴った。
 「はい、もしもし!」
 真希は着信が誰かも見ずに、携帯をとった。
 「もしもし、真希?元気してる?」
 「なんや、恵子か〜。」
「なんやとは何よ〜。てか着信見てなかったん?ところでさぁ、うちバイト決まってん。難波のカラオケ屋さんやねんけど・・・。それがまたかっこいい人、いっぱいいてさぁ。今からウキウキやわ。真希はバイトどうなったん?」
「それやん。今、面接終わって返事待ってるところやねん。んで、てっきりその電話かと思って・・・。」
「そうやったんやぁ。ごめん、ごめん。でも真希なら絶対受かるよ!」
「そうかなぁ。でもバイト受かってくれな、私の夏休みが花咲かへんから困る〜!恵子いいなぁ。これで夏休みも楽しく過ごせるやん。」
「うん、やといいけど。とにかくがんばるわ!真希もがんばれ!」
真希は電話を切った後もしばらく携帯を眺めていた。するとまた携帯が鳴った。
「もしもし!」
真希は着信音を聞く間もなく携帯をとった。
「もしもし、山田さんですか?SALIAカフェの桜木ですけども・・・。」
「はい、そうです!山田真希です!」
真希は思わずフルネームで応えてしまった。
「ハハハッ。何回か電話してんけど話し中やって・・・。でもやっとつながった。良かった!」
「すみません。ちょっと友達と話し込んでしまって・・。」
「なんや。オレはまた彼氏と電話してるんかと思った。」
「そ、そんな・・・。」
「あっ、ごめん。それでバイトの件やねんけど、山田さんに働いてもらうことにしました。元気も良かったし、何より楽しくやってくれそうやしね。期待してるで!これから頑張ってください。」
「あっ、はい!ありがとうございます。がんばります!」
「やった〜!」
電話を切った真希は跳び上がって喜んだ。
「よっしゃー、これで私の夏も少しは期待できるかな☆」
その日、真希は色々なことを想像しながら眠りについた。
そしてとうとう初バイトの日がやって来た。期待と緊張でドキドキしながら、真希は電車に揺られていた。
「あー、緊張する〜。どうしよう!?うまくできるかな・・・。」
そんなことを考えているうちに電車のアナウンスはもう終点を知らせていた。
「よし、がんばるしかないな!きっとなるようになるさ!」
「おはようございまーす。」
真希は大きな声で元気良くあいさつした。
「あぁ、山田さん、おはよう!」
そこには笑顔の店長が立っていた。
「志穂ちゃん、今日から新しくバイトに入る山田さん。色々と教えてあげて。」
「はい。」
「じゃあ、山田さん、志穂ちゃんについていって。」
「あっ、はい!」
真希は言われるままに女の人の後についていった。
「今日からバイトなんやー。ちなみに今日は忙しいけど、がんばってなぁ!あっ、言うの遅くなったけど、うち南志穂っていいます。よろしく!」
「山田真希です。よろしくお願いします。」
「真希ちゃんかぁ。うちは志穂でいいからね。えーっと、ここが真希ちゃんのロッカーで、制服は中に入ってるから着替えられたらさっきのとこに来てください。」
「はい。分かりました。ありがとうございます。」
真希はまだドキドキしていた。
「あー、でもバイトの人、感じ良さそうな人でよかった!」
真希は慣れない手つきで制服に着替えると、さっきの場所へ走っていった。その日は何が何だか分からないうちにバイトが終わった。
「南さんも言ってたけど、今日はほんまに忙しかったなぁ。さすが水曜日は映画がレディースデーだけあるわ。でも忙しいのに慣れといた方がいいもんね。明日からもがんばろう!」
真希は電車でそう思いながら、いつの間にか眠りこけていた。
真希は家に着くと、恵子にメールを送った。
 〔初バイト終了です★とにかく疲れた〜(>〜<)しかもちょっと残念なんが、バイトの男の子四人だけやねん・・・。出会い薄やわ(泣)まぁ、でも明日からもがんばるよ♪〕
 真希はベットに寝転がりながら他の友達にも同じようなメールを送った。
 バイトを始めてから早くも一ヶ月が経った。真希はバイトにもだいぶ慣れ、バイトの人たちとも仲良くなった。そしてその頃、真希にある感情が芽生えていた。それはバイトの男の人で気になる人ができたことだった。これまで真希は一目惚れしかしたことがなく、見かけにかっこいいというだけで人を好きになっていた。それが今回はいつもと違った。その男の人は顔は決してかっこいくないが、それでも話しているとすごく楽しくて、一緒にいるだけで落ち着けた。真希は知らず知らずの間にその人に惹かれていたのだ。真希は恵子に電話した。
 「もしもし、恵子?あのさー、言わんとあかんことがあるねんけど・・・。」
「何?彼氏できたん?」
「いや、違う、違う、でも私好きな人できてん!バイトの人やねんけど・・・。」
「まじでー!やったやん!んでどんな人なん?」
「うん、顔は全然かっこいくないねんけど、何か人を惹きつけるオーラをもってる人やねん。私、今まで一目惚れしかしてへんからこんな気持ちになったん初めてかも・・・。」
「へぇ〜、でも初めて中身を好きになったってことやろ?いいことやん!やっぱ人間中身が大事やからねー。ところでさぁ、真希。実はうちも真希に言わなあかんことあるねん。」
「何、何?」
「実はさぁ、・・・うち彼氏できました。」
「まじでー!てか何でもっと早く言ってくれへんのよ〜!バイトの人?」
「うん、そう。でもまだ昨日付き合ったばっかりやから実感わかんくて・・・。もう少し経ってからちゃんと言おうと思っててんけど・・・。」
「そうなんやー。でもおめでとう!また紹介してな。」
「うん、ありがとう!がんばるわ。」
真希は電話を切ってからもなぜか自分の方がドキドキしていた。私も恵子に負けず、がんばらないとと思った。
夏休みも一ヶ月半が過ぎ、街の風景もだんだん秋模様になってきた。真希は毎日、バイトに行くのが楽しみになっていた。
「今日は高橋君、バイト入ってるかな?」
真希はもう洋介のことばかり考えていた。バイト先に着くと、彼はすでにバイトに入っていた。
「やったぁ。今日も一緒や☆」
真希は浮かれ気分で着替えに行った。
彼の本名は高橋洋介。真希の二つ上、二十歳で大学の三回生である。三ヶ月前に彼女と別れてからは彼女がいないということだった。真希は洋介に聞いてみた。
「最近どうですか?もう夏休みもあとちょっとやけど・・・。」
「オレ?オレはさっぱり・・・。バイトばっかりの毎日やわ。そういう真希はどうなん?」
「私もさっぱり。もう街は秋やっていうのに。人肌恋しい季節ですよね(笑)。」
「ほんまに、ほんまに(泣笑)。そっかぁー。夏休みももうすぐ終わりやねんなぁ。バイトしすぎで日にちの感覚ないわー。最後にバイトのみんなでどっか旅行にでも行きたいなぁ。」
「ほんとや。みんなでどっか行きましょうよ。夏の思い出にパーッと!」
「んじゃ、みんなでパーッと行くか〜!」
こうして真希たちバイトのメンバーは店の定休日を利用して、旅行に行くことになった。場所は真希が率先して金沢に決めた。なぜ金沢にしたのかというと、秋の金沢は涼しくて過ごしやすいということとは別にもう一つ大きな理由があった。それは金沢に気多大社という有名な縁結びの神社があるのだが、その神社が創建二千百年を記念して、真希たちが行く日にちょうど祭典をやるということだった。真希はこの祭典で限定発売される「気麗むすび守」がどうしてもほしかった。そしてこのお守りを買うと、自分が願い事を書いた紙を花火と一緒に打ち上げてくれるという催しも同時にやっているそうだった。真希の願い事はただ一つ、はっきりと決まっていた。
彼氏彼女がいないメンバーたちはこの企画に快くのってくれた。旅行当日、メンバーは朝早く、京都駅に集合した。
「ういーっす!」
「おはよう!」
「やっぱ朝早いのは眠いな・・・。まぁ、バスで思いっきり寝るわ。」
「行く前からそんなんでどうすんのよー。まったく(笑)。」
「いやいや、ここで寝てパワーをためとくんやん!」
「はいはい、分かりました!」
志穂と洋介は相変わらずのお笑いコンビだった。
メンバーは金沢行きのバスに揺られ、長い道のりを進んだ。真希は、バスが一回ドライブウェイに停まったのは覚えているが、次に気付くとバスはもう金沢市内を走っていた。
「わぁ、金沢って京都と似てるな。」
「ほんまや。道が碁盤の目みたいになってるなぁ。」俊樹は嬉しそうに応えた。
「ところでこっからはどうやってホテルまで行くん?」
「えーっ、俊樹、今頃何言ってるん!?」
「えーって知らんもんは知らんもん!」
「まったく、あんたら二人はほんましっかりしてよね!」
志穂はあきれ顔で言った。
「金沢からホテルまではレンタカーですよ!その方がブラブラできると思って・・・。」
「そっかぁ、さすが真希ちゃん!志穂とは違うね〜。」
「そうね〜。どうせ真希ちゃんはうちと違って気がきいて、優しいですよーだ!」
真希は二人のやりとりに吹き出してしまった。志穂と洋介もそうだが、志穂と俊樹はさらにナイスコンビだった。
メンバーはレンタカー屋さんに行くと、レンタカーを借りて兼六園に出発した。車は淡いミントグリーンのかわいい車だった。四人とも免許を持っていたので、最初誰が運転するかはジャンケンで決めることになった。
「てか、私免許取ったばっかりなんで市内の運転とか絶対無理です!」
「そうなんやぁ。じゃあ、うちらもこんなところで死にたくないし、ここはひとまず三人でジャンケンするかー(笑)。」
「志穂さん、ひどい!(笑)」
「ハハハハハハハッ(笑)。」
ジャンケンの結果、最初に洋介が運転することになった。
「よっしゃ〜、オレに任せとけ!」
「あー、こわ〜。」
車にはカーナビがついていたので道に迷うことはなかった。真希は洋介の運転姿にドキドキした。
「最初から高橋君の助手席に乗れるなんて、ちょっと彼女になった気分☆」
真希は洋介にバレないように彼の横顔を見つめていた。
兼六園に着くと、さっそくみんなで記念写真を撮ることにした。真希たちは、虹橋という橋の前で見知らぬおじさんにシャッターを押してもらった。
兼六園をぐるっと一周すると、ちょうどいい時間になった。四人は兼六園下の休憩所でお昼をとった。
「それにしてもこっちは涼しいなー。」
「大阪とだいぶ気温違うんちゃう?」
「最近、いきなり涼しくなってきたっていうのもあるけど、やっぱ二、三度は違うんかな。」
みんなは何でもない世間話をしながら、天丼を食べた。
「じゃあ、そろそろ行こっかー。次は誰が運転する?」
「さっきは洋介が運転したから、次は女ということで志穂なぁ。」
「えーっ、別にいいけど。てかうち、こう見えてもミッションで免許取ってるから運転うまいで!任せといて!」
志穂はとても心強く見えた。
「では、ホテルに向けていざ出発!」
四人は車内で色々な話をした。バイトのこと、それぞれの大学のこと、そしてこれまでの恋愛のことも・・・。
「真希ちゃんは今、彼氏いーへんねんな?」
「うん。大学に入ってからは・・・。」
「じゃあ、オレなんてどう?なーんてね(笑)。」
「改めて聞くんですけど、岸田君って彼女いないんですか?」
「うん。残念ながらね。最近彼女にフラれちゃってさぁ。てか真希ちゃん、オレらに敬語使わんでいいで。な〜。」
「うん、そうそう、オレら先輩って柄じゃないし・・・。」
「あっ、はい。分かりました。」
「ほら、また敬語使ってる〜(笑)。」
「ごめんな・・・、あっ、ごめん。」
「ハハハッ。まぁ、オレも色々あったけど、こいつも色々あったからなー。洋介。」
「まぁね。ってオレ、お前ほど波乱な人生送ってへんぞ。」
「そうやねー。オレと違って前の彼女もお前がフッたしなぁ。」
「別にそんなん関係ないやろ!」
「ところでさー、みんなは今、好きな人おらへんの?」
志穂が不意にみんなに尋ねた。
「オレは今のところ募集中って感じやな!そういう志穂はどうなん?」
「うち?うちはねぇ・・・、あんたたちには秘密!真希ちゃんだけに教えてあげる★」
「何やそれ!自分から言い出しといて。」
「いいやん。女の子には女の子の事情ってもんがあるねん。なー、真希ちゃん!」
「うん☆」
「そうですかー。じゃあ、洋介はどうなん?そういえば最近のこと、全然聞いてなかったけど・・・。」
「オレは別に何もないよ。今のところ好きな子もおらんし・・・。」
真希はその言葉に安心し、それと同時に少し切なくなった。窓を開けると、秋の風がわずかに吹いていた。
車は能登有料道路を進み、千里浜なぎさドライブウェイへと向かった。千里浜なぎさドライブウェイは海岸沿いを車で走れるようになっていた。真希はここなら運転できるだろうと少し運転させてもらった。
「うわぁー。すごい。めっちゃキレ〜!こんなに海の近く、走るなんて初めてやわ!」
「オレも。ちょうど夕焼けでめっちゃいい感じやん!真希、久々の運転はどう?」
「気持ちいいけど、緊張して周り見る余裕なんてありませ〜ん!」
「んじゃ、ちょっと車停めて降りてみようや!」
「いいねぇー。」
四人は車から降りると、落ちてゆく夕日を眺めた。
「ここ、まじでいいなぁ。こんなところ彼女と来たいわー!」
俊樹は半分叫びながらそう言った。
「一緒にいるのがうちらで悪かったねー。俊樹はほっといてみんなで写真撮ろー。」
「別にそんなつもりで言ってへんし。志穂のバ〜カ!」
真希は志穂に引っ張られて海辺まで走った。志穂は「いくよ、ハイ、チーズ!」と言って真希と洋介を写真に撮った。真希は洋介とのツーショットだと心の中で喜んだ。
「じゃ、ここからは俊樹が運転ね!」
ミントグリーンの車はホテルへと走り、五時過ぎにホテルに到着した。
「うぉー、大きいホテルやん!真希ちゃん色々ありがとうな!」
「実はこのホテル、店長の知り合いがいるらしく、宿泊費かなり安くしてもらってんな!」
「はい。じゃなくて、うん。ほら店長もともとホテルマンやったじゃないですかー。それでこのホテル、経営先が一緒やったみたいで・・・。」
「さすが店長!顔が広いねぇ。」
真希たちはホテルに荷物を置き、部屋で一服した。そして早めの夕食を食べた。
「もうそろそろ行った方がいいよな?花火、八時からやったやろ?」
「うん、早く行こう★今回の旅行のメインやし!みんなで縁結び祈願して、いい出会い見つけんと。レッツゴー!」
四人は再び車に乗り込み、気多大社へと出発した。
気多大社に着くと、若いカップルでごった返していた。
「すげぇ〜、若者だらけやん!」
「みんなお祭りあることよく知ってるなぁ。」
「地元の人が多いんちゃう?」
そんなことを話しながら真希たちは境内へ入った。境内はあちらこちらがライトアップされ、縁日などの催しでにぎわっていた。真希はすぐさま目当てにしていた「気麗むすび守」を買いに行った。お守りは売り切れ寸前だった。
「良かったぁ☆間に合って!志穂さんもどうですか?」
「うん、じゃあうちも真希ちゃんとおそろで買おうっと!」
二人はお守りを買い、願い事を書く紙をもらった。
「ところで、お二人さんは何て書くんかな?」
俊樹はちゃかすように言った。
「もう、あんたはうるさいな。女の子には女の子の事情があるって言ったやろ!」
「はい、はい、まったく、洋介何とか言ったってよ。」
「まぁまぁ、女の子にも色々あるねんて。お前みたいにな(笑)。」
真希は白い紙にあの人の名前を書いた。そして気持ちが伝わるようにと願いながら、巫女さんにその紙を渡した。
「よし。みんなで縁結び祈願でもしてくるかー!」
四人は神門をくぐり、御払いをして身を清めてもらってから拝殿に行った。そして拝殿に向かってそれぞれ願い事をした。みんながしばらく目をつむって拝んでいると、後ろから花火の上がる音がした。
パン、パン、パーン!
「おー、ついにお前らの願いが空に舞うで〜!」
真希たちは花火のよく見える駐車場まで走った。秋の夜空にきれいな花火が打ち上がった。夜風が涼しく吹いていた。真希はその花火を黙って眺め続けた。
花火はクライマックスにさしかかり、夜空を一層鮮やかに彩った。
「ほんまにきれいやなぁ。」
志穂が一言ぽつんと呟いた。真希にはその志穂の顔がとてもきれいに見えた。
「花火、ほんま良かったなー。」
帰りの車で四人は話した。
「ところで真希ちゃんと志穂が書いた紙、ちゃんと打ち上がったんかな?」
「絶対、打ち上がってるし!これでうちらの願いもかなうな☆」
「はい☆」
「いやいや、それは本人次第ってやつやろ。」
「俊樹はほんまに夢ないんやから!」
「そうそう、ちょっとは女の子の気持ち考えろ。だからフラれるねんぞー。」
「洋介まで女の味方かー!」
「ハハハハハッ(笑)。」
「でもそういえば、真希ちゃんは紙に何て書いたん?」志穂は突然、真希に尋ねた。真希はこの時の志穂が真剣に見えた。
 「えっ、それは女の子の事情じゃないですか!(笑)」
「あっ、そうやった。つい、つい、ごめんねぇ(笑)。」
車は来た道を戻り、ホテルに到着した。ホテルに着くと真希たちはお風呂に行き、露天風呂につかりながらそれぞれの疲れを癒した。
「真希ちゃん、今日は楽しかったなぁ。」
志穂は大人っぽく言った。
「はい、みんなで来た旅行、すごい、いい思い出になりそうです。」
「うん。・・・あのさー、さっきも聞いたことやねんけど、真希ちゃん、紙に誰の名前書いたん?」
「えっ?」
真希は恥ずかしそうにうつむいた。
「てか、うちがだれの名前書いたか当ててもいい?実はだいたい分かってるねん!(笑)」
志穂は真希の返事を聞かないうちに、真希の耳元でささやいた。
「・・・・・。」
真希は何も言えずにただ真っ赤になっていた。
「やっぱりなぁ。だって見てたら分かるもん。かわいいな〜。」
真希は必死に何か言い返そうと言葉を考えた。
「そういう志穂さんはどうなんですか?紙に何て書いたんですか?」
「うち?・・・うちはねぇ・・・、それは言わん方がいいと思う。」
「何でですか?車に乗ってる時も私だけに教えてくれるって言ったじゃないですかー!」
「うん、そうやねんけど・・・。でもねぇ・・・。」
真希はしばらく考えてやっと理解した。志穂がこんなに言うのをためらっている理由も何もかも、全てが当てはまる答えだった。
「分かっちゃった?そういうことやねん・・・。」
それからしばらく二人は黙ったまま、夜空に浮かぶ月を見つめていた。
楽しい夏休みも終わり、前期と同じように真希の大学生活が始まった。バイトも前と変わらず楽しい毎日だった。しかしただ一つ、前の自分と違うところがあった。真希には恋のライバルができた。あの日、お風呂でできた恋のライバルが・・・。真希は以前にも増して洋介のことが好きになっていた。真希の恋はまだ動き出したばかりだった。

 

異邦人

12102

ときどき、なにかのきっかけで、ふと、昔のことなんかを思い出すことがある。それは、いつも突然で、僕をひどく感傷的な気分にさせる。そして、そのとりとめのないフラグメント達は、曖昧で、そのために僕は、なんとなく今の自分を嘘のような存在に感じてしまう。今まで、自分の経てきた時間がまるで無かったかのような、夢の中の出来事であったかのような、あるいは、今、この現在が透明感のある夢であるかのような気がしてくるのだ。そのような感じは甘い痛みを伴いながら、僕を憂鬱にし、全ての存在から僕を少しだけ遠ざけてしまう。しかし、それは何とも言えない快感で、そのために、僕は出来る限り過ぎ去ったモノ達を、全てを淡いセピア色に染め上げてしまう時の流れの穏やかな光から守ろうとするのだ。しかし、どんな出来事であってもきっと、一秒でも時間が過ぎてしまうと悲しくらいにあっけなく、時の流れのキャンバスに滲み、ぼやけてしまうものなのだ。
また僕は、思い出などという照れ臭い言葉を思い浮かべてしまうと、つい自分の今の生活について考えてしまう。そうすることは、やはり精神的にもポジティブなことなのだろうけれど、どうしても少し馬鹿気ているようで、正直、そういった考えは好きにはなれそうもない。ある人が、「失ったものや過ぎ去ったことばかりを考えてしまうと人は先には進めなくなる。」というようなことを言っていた気がする。それが誰であったか、もう今では、思い出すことはできないし、また思い出す必要はないだろう。とにかく、そのある人が言った言葉は、僕も確かにそのとおりだと思う。もし、仮にその言葉が、「良く生きる」為の必要十分条件だとするならば、僕は、リビングデッド(なるほどそう考えると、うまい渾名だ。僕は、通院していた病院の看護婦たちに、自分がそう呼ばれていたことを知っている。陰口というものは、大体の場合において、本人の耳に届く性質のものであるのだ)なのだろう。僕は、いつも失ったモノばかりを見つめながら生きているのだから。
そう。あの日以来。
今ならよく理解できる。あんな日がくるまでは、僕は確かに良く生きていた。いや、むしろ、誰よりも良くあろうとしていた。両手を広げて手の平を上にし、目一杯、指と指とを広げながら、一秒ごとに落ちてくるあらゆる貴重なモノ達、誰がしかの顔、懐かしい写真、真心の言葉、成功、そして失敗。何の役にも立たないゴミくずに至るまで、全てを、文字通り、手中に収めようとしていた。それは、初雪の日に無邪気な子どもがするような姿に、残酷にも似通っていたに違いない。その子どもは、上に掲げた手を下げ、どれだけの雪が手の平に集まったかと、胸を高鳴らせながら、何も無い、濡れて寒さのために少しだけ赤くなった手の平を見るだろう。その時、その子供は何を思うのだろうか。少なくとも僕ならば、もう、二度と、天に手を掲げることはしないだろう。
そんなことを考えながら、今、僕はフェリーの甲板で、一人ぼんやりと流れ行く風景を眺めている。強い潮風が僕の頬を痛いくらいに吹きつけ、その湿り気を帯びた潮風は、僕の髪を無茶苦茶に掻き回している。朝日は優しく辺りを照らし、海原は、鋼のように白く輝いている。その乱反射を受けて、誰もが目を細め、昨日までの友達を懐かしむかのように、口をつむぎ、時折、何物にか微笑む。秋の海はいたずらに感傷的なものだ。彼女は、夏よりもなお、その存在を主張し、誇張する。僕たちは、ようやく狂騒的な物事から解放され、彼女の巨大さに、ようやく、気づく。もっとも大なる者は、それだけで至高の存在となり得る。遥か向こうに点在する島々もひっそりと、過ぎ去りし日々に想いを馳せ、火照ったその身体に、ただただ強い潮風を望んでいる。彼らも、ラプソディーに少し踊り疲れたのかもしれない。この僕のように。しかし、彼らは待ち焦がれているだろう。あの濃密な空気を、陽炎の季節を。しかし、いくら時が満ちたとしても、もう、僕には踊る相手は見つからない。僕は哀しい、「壁の花」だ。あぁ、今はとうとうこの甲板には、僕の他には、誰もいなくなってしまった。しかし、一人には随分と慣れているし、それに、それは望むところでもある。僕は、しばらく一人になりたくて、いや、僕はいつだって一人だった。僕は、孤独に疲れたがゆえに、このフェリーに乗り込んだのだから。孤独とは、他者が存在して、初めて感じるものなのだから。だから僕は、この寂しい旅をする気になったのだ。
ニューからの電話があったのは、五日前のことだ。夕方、太陽の最後の残り日がやけに眩しく僕の部屋へと差し込んできていて、帰宅した僕が、ジャケットを脱いでいるところに電話のベルが鳴ったのだ。僕はジャケットを着直してから、電話にでた。そして、受話器を顔の側面に当てた瞬間、何故だか電話の相手はニューに違いない、と僕は考えた。その時、ニューから最後に連絡があってから三週間と少し経っていて、それは、自分なんかきっと彼女から忘れさられているに違いない、と確信するのには十分な時間だった。それでも、そんなことを感じたのは、もしかしたら受話器から彼女の匂いがしたのかもしれないし、あるいは、以前に彼女と今日、この日のこの時間に電話をすることを約束していて、僕はその約束を愚鈍にも忘れ(この手の約束を、いかに僕が忘れがちなことか!)でも、それでも無意識ではその約束を覚えていて、僕にそのように考えさせたのかもしれない。またあるいは、電話が鳴る度に、この電話はニューからに違いない、と考えていたのかもしれない。とにかく、電話はやはりニューからのものであった。ニューの声を聞くのがあまりに久しぶりというかんじがしたので、僕は、なにをどうしゃべったら良いのか、どのような会話上のスタンスに立てば良いのかわからなくなり、憐れにも少しだけ混乱した。しかし、彼女のほうは、そんな僕の様子を楽しむでもなく、蔑むでもなく、淡々と自分が伝えたい用件だけを話した。そんな、彼女の態度に、僕は腹を立てたけれども、僕は、「ああ。」とか「うん。」だとかしか言うことができなかった。ようやく冷静に物事を考えることができるようになったときには、すでに電話は切れており、僕は自分のことをまるで、カエルのようだ、カエルのように無様だと思った。電話の脇のテーブルにはメモがとってあり、そこには出発の日にちと、ある住所が書かれていた。それは、恐らく今彼女が泊まっている宿の住所であり、そして、現在の僕の寂しい旅の目的地でもある。
もう、フェリーが港を出港してから、小一時間も経ったろうか。海の色が薄いエメラルドグリーンから、いつの間にか濃い群青へと変わり、相変わらずの強い向かい風は、僕をだんだんと快活とした気分にさせた。甲板には、僕の他に、やはり誰もいず、それゆえに僕はなんだかこの世界には僕一人しかいないんじゃないか、というような妄想にとりつかれた。しかし、そのような妄想はなんと魅力的なことだろうか。
朝からの小雨が嘘のようにあがった青空の彼方に、季節外れの入道雲が夏よもう一度と、モクモク横たわっていたが、そのような風景を、このように、うきうきとした気分で見ることができたのは、恐らく自分が学生であったとき以来ではないかという考えが頭に浮かんだ。そして、次に学生服が浮かび、ある人物達のことも思い出しそうになり、慌てて、僕は違うことを考えようとした。しかし、もう確実に僕のそれらの思い出。ここ数年は思い出しもしなかった物事が僕を再び取り巻き、何かしら、僕に対する力をもちはじめているようだった。僕は、何かがまた、狂い始めていく音が聞こえたような気がした。
ふいに、後ろの、乾いた甲高い音がした方を振り向くと、一人の女が立っていた。僕は、少しだけぎくりとして、しばらくその少女から目を離すことができなかった。少女も、なぜか僕を見つめたきり、少しも動こうとはしなかった。おかしなことだけれど、僕はこの時、傍目から見れば、彼女を凝視しているように見えたわけだが、しかし、僕は彼女のことを見ていたわけではなかった。僕は、彼女を見つめながら、彼女から見える自分を見つめていた。つまり、僕は、彼女とは、身体は対の位置にいながら、精神は全く逆にいて、彼女に眺められている自分というものを見つめていたのだ。僕が、そのようなことをしたのは、もしかしたら、さっきまでの妄想が、そうさせたのかも知れなかった。または、彼女の大きな黒い瞳(実際、それは普通よりも少しだけ大きいくらいだったのだが)に、僕という存在が引き込まれてしまったせいだったのかもしれないし、僕はずっと昔からそんな風に、誰を見つめていても、結局は自分ばかりを眺めてきたのかもしれない。あるいは、それは太陽のせい、などということもできるかもしれない。いずれにしても、「ご旅行ですか。」という言葉が、果たして、彼女が言った言葉なのか、それとも自分で言った言葉なのか全く分からなかったのもそのようなわけがあってのことなのだ。
「え。」
僕は、こう言ってから初めて、ようやく彼女に注意を向けた。窮屈そうな、色褪せたジーンズに真白のブラウス。少し日焼けした肌に、黒くて、清潔そうな、セミ・ロングの髪。潮風にはためいているその髪を、僕はなんとなく心安く感じた。
「この船の行き先。あそこは、この季節に来るべきところじゃないわ。」
彼女は、真っ直ぐ僕の眼を見て言った。僕も、やはり彼女を見ていた。しかし、僕は、彼女の眼ではなくその下の、鮮やかに赤い唇が動くのをじっと眺めていた。
「聞こえてる?とにかく、あなたは。きっと、変な人ね!」
「変な人?」
僕は少し笑った。彼女は、なんだか難しい顔をした。
「急にごめんなさい。私は、リョウコよ。」
「苗字は?」
「あら、せっかくただのリョウコになってあげたのに。あなた、もしかして欲張りね?」
そう言って、彼女は少し微笑んだ。僕は、その笑顔がタクヤのそれに似ているような気がして、鳥肌がたった。
「もうすぐ、着くわ。」
彼女は、そう言って僕に背を向け立ち去ろうとした。
「僕は、狂人なんだよ。」
僕は、そう彼女に向かい呟いた。彼女にそれが聞こえていたのかどうかはわからない。彼女は、甲板から降りていった。途中で、一度だけ僕のほうを振り返ったようだったが、その時の表情は良く分からなかった。
僕が、再び海のほうへ目をやると、海鳥が何羽か、船のすぐ傍を飛んでいるのが見えた。本当に港はもうすぐだった。
〜続く〜
 

我に五月を

12103

人の肌は五月の温度だ。
生温くまとわりつく
からめとって 離さない

 その年は例年に比べて寒さが厳しく、年末には連日雪が降り続いた。どこまでも白く空間を染め上げる色は郊外に建った大きな洋館をより一層静かに見せた。周囲に人の気配はなく、雑木林でさえもひっそりとしている…。洋館の住人である坂田はその静寂を味わうべく寝室の大きな窓を開け広げた。結核を患っているため、そのようなことは友人にして主治医である羽生に固く止められていた。しかし、坂田にはこの広い屋敷が自分を閉じ込める籠のようで、窮屈であった。何度注意されようが、朝一番に窓を開ける習慣はやめられなかった。いつものように窓を全開にし、冷たく澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込む。…ふと坂田はいつもと違う光景を目にした。
(何だ?)
真白い雪の上に小さな黒いかたまりが埋もれている。遠くからでは良く見えない。慌てて枕もとの眼鏡を取ると…
「…! こどもだ」

 「はいもしもし…何だ坂田か。どうしたんだ?」
僕はきっと気が動転していたのだろう。名前も名乗らずに取次ぎをしてもらっていたらしい。羽生の声を聞いて、ようやく落ち着かないといけないと、思い立った。今朝子どもを拾ったこと、その子どもが目を覚まさないことをしどろもどろになりながら告げると、すぐさま彼は洋館へと駆けつけてくれた。世間に触れる機会を持たない僕だって、そうそう莫迦ではなく、雪の中で倒れる子どもには何らかの事件性を予測していた。羽生は優秀な医者であり、数少ない僕の友人の中で最も信頼の置ける男である。真っ先に彼に連絡したのはそういう理由からだった。放っておいてもよかったのだろうが、目の前で倒れている人を見ぬ振りをするということが僕に到底できるはずはなかった。
 「大丈夫だ。死んではいない…寒さと疲労で気を失ったんだな。」
 「ああ、よかった…。すまないね羽生、ありがとう」
 「いいよ別に。それより―――」
羽生は急に厳しい眼差しになった。僕はきっとその言葉を予想していた。でなければ僕がすぐさま反論するなんて出来なかったし、彼が真面目なごく一般的な人間であることはわかりきったことだったから。
 「こいつが目を覚ます前に警察に電話を」
 「どうして!倒れていたんだよ!?」
 「子ども使った物取りだっているんだ。」
 「この子がそうとは限らないじゃないか…」
 「用心しとかないこともないだろう。…興奮すると熱が上がるぞ。」
今思えばどうしてあんなにむきになったのかよくわからない。放り出される子どもに同情したのか、それとも…。兎に角、口論を制したのは僕の方だった。羽生曰く得体の知れない子どもは、身元を確かめるまで僕が世話をすることになった。

 坂田の生活はその日から一変した。今まではただ寝て、起きて、本を読むだけだったのだが、あの子どもが来てからは羽生があきれるほど甲斐甲斐しく世話を焼いた。病に伏した自分以外何もないこの屋敷で、退屈させないように躍起になっているようにも見えた。
 「お腹すいたかい?さっき羽生がごはんを持ってきてくれたから一緒に食べよう。」
 「……」
 「待っててね、お茶を持ってくるよ。」
立ち上がったその時、袖が引かれるのを感じた。驚いて振り返ると子どもが袖をつかみ、無言で首を横にふっていた。
 「…お茶は、いらない?」
また、首をふる。
 「ご飯がいらないの?なにか言わないとわからないよ」
そう言った後、坂田はハッとし、すぐに自分の言葉を後悔した。ここに来てから子どもは一度も声を発していない。そういえば昨日熱い湯を膝にこぼしてしまった時も、顔をしかめるだけでうめき声すらあげなかった。それだけではない。子どもを風呂に入れようと服を脱がせた時、坂田はその背中にいくつもの火傷痕や裂傷痕を見た。
(もしかしたらこの子…)
唖であることはまず間違いないようだ。背中の傷は、素人目に見ても過失とか自然についたものとかではないように思える。とすると、この子どもは家で虐待を受けていたのだろうか。そうでなくても唖や盲は嫌われる時代だ。これでますます、得体の知れない子どもだろうと、放り出すわけにはいかなくなった。

 翌日羽生が見舞いに来たとき、僕はあの子供について推理したことをかいつまんで説明した。彼は一瞬驚いたように子どもを見たが、すぐに難しい顔をして向き直った。
 「もしお前の話が本当だとしたら、ここに置いておくわけにはいかないよ。」
 「どうして…帰る場所がないかもしれないのに…」
 「お前は自分が重病人だって忘れているんじゃないか?俺が本当はこんな所に住むのに反対していることも!」
いつになく厳しい口調で責められる。けれど僕も負けてはいられなかった。
 「それとこれとは話が違うだろう!君はかわいそうだとは思わないの?」
 「思わないわけじゃないさ。でもお前は今すぐにでも入院が必要な患者なんだ!普通の子どもならまだしも…」
 「彼だって、普通の子どもだよ」
そこから先は、お互い言葉が続かなかった。羽生が黙ったまま診察をする間、僕は同じく黙ったまま庭で遊ぶあの子を見ていた。雪をつかみ、天へ投げる。雪はフワフワと花びらのように落ちて、元の地面に帰る。つかむ、投げる、落ちる、またつかむ、投げる…単調な遊びを繰り返す子どもが、僕には孤独を背負う仲間のように思えてならなかった。診察が終わると雑談をする間もなく、羽生は帰ってしまった。お前が何を思っていても勝手だが身元を調べないといけないのは変わらない、手がかりになるものが聞けたら聞いてくれ、そう言ったきりあとは無言だった。
 子どもの名前はすぐに知れた。彼は字が書けたのだ。惣一郎といって今年で12歳になるそうだ。僕はすぐに彼のことを根掘り葉掘り聞こうとした。家はどこ、ご両親は、どうして家を出てきたの、その背中の傷は…。一つ一つの質問に対し、惣はゆっくり首を振った。なだめすかして喋らせようとしても、話したくないのかやはり首を振るだけだった。しかし、万策尽きて休憩をしようかと呼びかけたとき、彼の筆が動いた。
『イエ ハ ヤケタ  カエレナイ』
 「焼けた…火事にあって…?」
なんということだろう。彼は身寄りを失ってあそこに倒れていたのだ。僕は思わず惣の手を握り締めた。病でやせ細った僕の腕よりも数段細く小さな手だった。この子は今まで、どんなにつらく悲しい気持ちで、雪の中にいたのだろうか。僕は知らないうちに泣いていた。
 人の肌は五月の温度だという。でもこの子の腕の、なんという冷たさよ…。僕と惣一郎はその日、孤独を埋めあうように同じ布団で眠りについたのだった。

 同じ頃羽生の事務所には興信所からの書類が届いていた。
『○×村で火災。家主を含む3名が死亡、行方不明長男が放火の疑い』

 「惣がその長男だとは限らないよ」
羽生はきっと僕がそう言うのを予想していたんだろう。とても落ち着いた様子でやんわりと反論した。
 「どちらにしろ、警察に届ける必要があるよ。」
僕は頭が混乱していた。警察に届けるなんてことは昨晩感じた彼への同情を、裏切ることだと思った。守っていこうと、助け合って生きようと決めたのに。
 羽生は目を伏せたままだ。彼の真意が読めない。落ち着いた様子が逆に冷徹さを感じさせて、優しいはずの彼が非情な男のように見えた。僕に判断を任せようというのだろうか。だとすると、なんと残酷な…。僕は頭を抱えてしまった。
 「坂田、落ち着けよ。犯人でなかったらそれでいいし、もし犯人だったとしてもお前に責任があるわけじゃないんだぜ?」
縮こまってしまった僕の肩を、羽生は母が子にそうするように丁寧に丁寧にさすった。しかし惣への裏切り(と感じられたこと)をせまられた僕が落ち着けるはずもない。
…責任?ああ羽生、君はわかっていないんだ。たった二日でも、惣は僕の大切な仲間になってしまったんだ。家を失った孤独と、死を迎える孤独を背負った仲間なんだ。彼は僕の生きるうえでの支えなんだ。
 言いたいことは何も言葉にならなかった。僕は惣がいつもするようにただ首を横にふった。
 
 肩を震わせ、うつむき、それきり坂田は喋らなかった。羽生にはますますわからなくなった。なんだって、捨て子に執着するんだ。家を焼け出されたにしても、虐待を受けていたにしても、それなりの然るべき施設に行くのが一番良いことだという考えが、彼にはあった。面倒を見切れるかわからない状態の者が、引き受けていいことではないというのが正直な思いだ。しかし坂田はその病弱さによらず、兎角頑固だ。いや頑固というよりは…
(生真面目なんだ。一度こうと思ったらそれが間違っていても曲げやしない)
 学生の頃もこんなことがあった。その時は人間の子どもではなく、猫の仔だったが…。よくある話で、大学から帰る道すがら道の脇に厚紙の箱に入れられた生まれたばかりと思われる小さな猫がじっと居たのを、二人で見つけたのだ。当時から坂田は病気の傾向が出ていて、医師志望の羽生に検査を勧められていた。もっとも、まだ体力のある頃だったので教員採用の試験があるからと断り続けていたのだが。ともかくそんなとき、今にも息絶えそうな小さな命を彼は見つけた。箱の中で泣くことも適わずに、それでも懸命に生き続けている子猫の姿が、どれだけ彼の同情を誘ったかは想像に易い。まして普段から自己犠牲心の強い(と羽生は考えている)彼が自分の体調を理由にして死掛けた子猫を放っておけるはずがなかった。彼はすぐさま駆け寄り、自分の手布をかけて暖めるようにそっと小さな猫を手で包んだ。手にとって見ると息が絶え絶えなのがすぐにわかった。目の前の肩が震えるのを羽生は見た。次の行動はおのずとわかる。
『助けてやれんことはないがな、お前が飼うことは出来ないぜ。』
眼鏡の奥の眼が大きく見開いて羽生を見た。どちらが捨てられたのだかわからない。
『助けたところで行き場がないのなら、そいつも寿命がほんの少し延びただけだ。どっちが可哀想か…』
『どうして僕が飼えないのさ』
静かに、しかし強い反発が羽生の言葉を遮った。穏やかで争いを好まない男の意外な力強さは、しかし、親友の心を動かさなかった。
『お前自分がどういう体かわかっているか?』
 口論はその場で延々一時間続けられ、子猫の処置は一応したもののその後どうするのかについて決着がついたのは五日も経ったあとだった。(その間猫は坂田の部屋で飼われていた。喘息もアレルギーも幸い起こさなかったことがもしかしたら討論が長引いた原因かもしれない。)猫は羽生の医学部の友人が引き取ることになった。
 今回も非常に強い同情心からのことだろうと羽生は高を括っていた。引き離すのに前よりは時間がかかりそうだが、少年の引き取り先を決めてくれば預けてくれるだろうと。ただ例の火事の一件はどうにもひっかかる。坂田が少年を拾った日と火事が起きた日は同じである。失踪した長男は10歳くらいで家の主人の前妻の息子だそうだ。唖であるかどうかまではわからないが、偶然にしては出来すぎている。
「…もう少し、調べてみるか」
その声は坂田の耳には届かなかった。我ながら物騒な台詞を言うものだ。羽生はかすかに口元を歪めた。

 雪は止むことなく降り続いている。惣一郎が、坂田の家に来てからすでに一週間がすぎていた。相変わらず坂田は病床に臥せっていたし、羽生は往診に訪れていた。しかし二人の様子は明らかにぎこちない。坂田は唯一の友人を警戒するようになっていた。いつもなら軽い冗談を言いながらの診察は重苦しい雰囲気の中で行われた。その重たさから逃げるように、坂田は窓の外を見る。外では惣が無心に雪をつかんでは空に放り投げ、ふわふわと舞わせる例の遊びをやっていた。家の中は薪が常に焚いてあるので暖かい。しかし今の坂田には、惣が舞わせている雪のほうが暖かい物のように思えてならなかった。掴んでは投げ、掴んでは投げ…そうして、この重苦しい心も小さくちぎってどこかへ放り投げて欲しかった。
 惣一郎が外で遊んでいる姿を羽生も同じように見ていた。坂田の体はいつ診ても悪いまま、むしろ悪化しているぐらいだ。療養所に入りたがらない彼は自ら死にたがっているのかとさえ思えた。だったら何故惣をそばに置いておきたいのかがわからない。素性の知れない子供は、羽生にとって油断ならない存在だ。もし坂田がこの子供に尽くして、裏切られでもしたら…。その時の悲しみと落胆はどういうことになるか、今までの経験から充分に推察できた。ただでさえ志初めに病に倒れ傷ついた親友の心が、更に傷ついていくのを指をくわえて見ているわけにはいかなかった。
 ふと、雪が止んだ。二人は同時にそれに気がついた。そしてまた同時に思い直した。
 雪は最初から降っていない。外で無邪気に舞い上がっていたのは、惣が投げていた…
「坂田…」
「羽生…!そ、惣が」
「ちょっと待ってろ。外に出るなよ!」
体が動かないことを坂田は今ほど忌々しく思ったことは無かった。はやる気持ちとは裏腹に足はもつれ、肩を壁にしたたか打ちつけた。羽生はすでに庭に出ている。惣を呼ぶ声が聞こえる。早く外へ行かなければ。制止されたのも忘れて坂田は外に飛び出した。
「惣一郎!!」
 そこには何もない。真っ白な雪が満遍なく視界を覆っている。少し窪んでかき混ぜられたようになっている箇所があって、先ほどまでそこに惣がいたことが思われた。踏みしめられて硬くなっているはずの足元がやけに不安定に感じる。惣はいったいどこへ行ってしまったのだろう。孤独を分け合う唯一の仲間。奪われないように大事に大事にしていたはずなのに。突然体が傾き、寝巻きに半纏を掛けただけの坂田はそのまま雪にうずもれた。遠くで羽生の叫び声が聞こえた。

 惣一郎は、現れたときと同じように突然姿を消した。坂田は倒れた後すぐに羽生に助けられ意識を取り戻したが、ショックから抜けることができず、以前に増して寝室から出ようとしなくなった。少年が消えた翌日、羽生は看病から一旦診療所に戻って自分の書棚から興信所に調べさせた放火事件の資料が根こそぎ無くなっているのを発見した。そのことを坂田に伝え、やはりあの惣一郎という少年は火事にあった家の長男で、放火の犯人であったのではないかという私見を話した。坂田は「そうだったのか」とだけ言って、後は喋らなかった。それから数日は、少年が現れる前と何ら変わらないように過ぎていった。ただ、坂田の容態だけが非常な速さで変わっていった。
 10日目の朝。
 羽生はいつものように回診に訪れた。坂田の体はもうあばらが浮き出ていて、少し床ずれができ始めていた。枕元の洗面器に血が溜まっているのも、差し入れた弁当が渡したまま部屋の隅に置かれていることも、もう日常になっていた。「療養所に入る気は無いのか」という問いかけに、静かに首を振って答える姿も、もう日常だ。
 しかし慣れるはずなどなかった。痛々しいまでに変化した坂田の外見は病的を通り越して死ぬのを待っているだけの人のようだった。耐え切れなくなって、羽生は目を逸らした。
「はにゅう」
はっとするほどはっきりとした口調だった。顔を上げた羽生を見据える目は落ち窪み周りが黒ずんでいたが、純粋な光を湛えていた。
「僕のことは心配しなくてもいい。僕はもう大丈夫だから。」
「大丈夫って…」
不思議に力強い言葉は、逆に羽生を不安にさせた。心配してその日泊まりこんで看病することを申し出たが、やはり力強い言葉で拒否され、帰宅を促された。後ろ髪を引かれる思いで家路に着く途中、羽生は信じられないものを目にした。
 坂田の家がある高台から診療所へ向かう途中にある商店街の雑踏の中、視界に入ったのは見覚えのある着物を着た少年の姿…
(惣一郎…!?)
少年は人波に隠れるようにして歩いていき、やがて雑踏にまぎれて見えなくなった。あの着物の柄は確か坂田が惣にしつらえたものだ。それに今の少年が向かっていた方向は…
ただならない不安感が羽生の身を包んだ。嫌な予感がする。羽生は今きた道を全速力で戻っていった。

「来てくれたんだね、惣。」
病人の笑顔が蝋燭の光に浮かび上がる。少年はこくりとうなずき近寄った。手には小さな箱を持っている。空いているほうの手を差し出すと、病人も同じように手を持ち上げた。
『サミシカッタ ノ』
「うん、とても」
『モウ ドコニモ イカナイ』
「…ありがとう」
少し笑って少年が箱を差し出す。病人は中から5センチの棒を取り出して箱と擦り合わせた。

 翌日、羽生の診療所にいつもより遅めに新聞が届けられた。
『○○市で洋館が謎の炎上 放火の疑い  住人の坂田博仁(27)さんが焼死、同じく発見された子供と思われる焼死体は身元不明』

終劇

 

ヒーター

12104

「冷たい…」
 しばしば、ぼくはそんな感覚に襲われる。いつからかはっきりとは覚えていないが、雪の降る真冬に冷水を浴びたようなそんな感覚に陥ることが多い。
 大学に入学して2年が経つ。やりたいことがあってこの大学に入ったわけではなく、周りが大学に行くから。という理由で、自分に合ったレベルの学校を選んだ。間違いだったとは思わない。自分の時間というものが格段に増えたし、やろうと思えば好きなことは何でもできる。高校の時の友人が、同じ大学に進んでいたこともあって交友関係は順調に拡がった。いろいろな地方から集まった友人たちと過ごす時間は、楽しくかけがえのないものだ。自宅から1時間をかけて大学に通うぼくとしては、バイトしながら家事もこなす友人たちは、素直に尊敬できた。友人たちは、自宅ということをうらやましく思っているようだが。
 大学でのぼくは、地元の友人たちと過ごす時のぼくとは違っている。大学が楽しくないわけでもないのに、壁を作ってしまっている自分がいることに気がつく。もっと自分をさらけだしたいとは思うが、できない。大学に入るまでは、自分はそういう類の人間だとは感じていなかった。誰とでも気さくに話すことができ、うちとけあい、社交的な、積極的で明るい人間だと確信していた。また、周りもそのように認知していた。
 しかし、本当の自分はそうではなかったみたいだ。最近になってそれがわかってきた。消極的で、内向的な自分からはあまり動こうとはしないタイプの人間だった。人間だったと言うよりも、そんな一面も持っていたと言った方が正しいのかもしれない。大学に入るまでは、少しも顔尾を見せなかったその人格が、最近のぼくを支配することが多くなっている。大学の友人たちはそのことには気づいていない。気づいているとすれば、それは中学からの腐れ縁で同じ大学に通うトシぐらいだろう。

「ミツル!ごめん!待った?」
「10分前に来たばっかりだよ。」
「じゃあ、行こうか。」
 着慣れないスーツに身を包み、桜で華やかに飾られた道を歩いたのは2年前のこと。あの時の自分はまだ積極的な方のぼくだっただろう。
「トシ、あの子かわいくない?」
「おっ!いいね。でも、おれは…」
 トシには付き合いだしたばかりの彼女がいた。同じ高校だったぼくたちの1つ下の学年、バスケ部のマネージャーのアキは、一般的に見て顔はかわいくはないが、明るく、気の利いた、素直な子で、トシがそこに惹かれたのも納得ができる。卒業式の日にアキは、トシに自分の秘めた想いを伝え、トシはそれにすぐさま応えた。それ以来、2人は休みの日には必ずデートを重ね、今でもとても仲が良い。ぼくもいれて、3人で遊ぶことも多い。そのたびにアキは、
「ミツくん、彼女は?紹介したげよっか?」
と言うが、ぼくはいつも聞き流している。アキの気の利いたところは好きだが、少し世話を焼きすぎるところがあり、そういう部分は好きではない。
 入学式の日、ぼくたちは(トシはアキと付き合いだしたばかりだったので、あまり乗り気ではなかったが)、2人の女の子たちと飲みに行くことになった。ミユキとカオリは、まるで以前からとても仲の良かった友達のように、一緒にいて気が楽な子たちだった。ミユキは、真っ黒の長い髪が印象的で、大人びた落ち着きのあるお姉さんのようで、カオリは、いかにも今風の大学生といった外見で、背は小さく、活発な女の子だった。それからというもの、大学では4人で行動することが多くなり、時間割も同じように組み、常に一緒に行動していた。
 1回生の冬、4人でスノーボードに行くことになった。ぼくとトシは、高校の卒業旅行でスノーボードに行ったことがあり、ある程度自信があった。ミユキはぼくたちよりも経験豊富で、自分の板とウェアを持っており、冬が来るたびに3、4回は行っているようだった。カオリはまったくの初心者で、初めは嫌がっていたが、ぼくたちの強い押しに負けてしぶしぶ行くことになった。3泊4日の行き先は長野県に決まった。
 初日、ミユキはカオリにつきっきりで丁寧に優しく教えていた。あれだけ怖がっていたカオリは、持ち前の運動神経の良さから、見る見るうちに上達していった。
「ボードって楽しいね!」
そんなことを言いながら、カオリは何度もしりもちをついていた。ミユキはそんなカオリを完全にフォローしており、さすがとしか言いようがなかった。ぼくたちも1年ぶりだったので、最初は感覚が戻らず、思っている方向に行けなかったり、カオリのようにしりもちをついたりを繰り返していた。
「やっぱ、ダメだな。」
「明日になったら、カンがもどるよ。」
ぼくとトシは、そんな会話を交わしてはいたが、雪の上を滑り降りるのを楽しんでいた。
「日も暮れてきたし、そろそろ帰ろうよ。」
ミユキの言葉にすぐさま反応したのはカオリだった。
「やだよ〜!もうちょっと滑ろうよ。」
「明日もあるって。さあ帰ろう。」
ぼくはカオリをなだめ宿へと足を向けた。ペンションで出された食事は、ぼくたちの疲れを癒してくれた。オーナーもとても良い人で、そのことがさらに食を進めさせた。夜は4人とも語り明かすことになるだろうと予測していたが、ぼくも含めみんなはいつのまにか別世界へ行ってしまっていた。
 2日目、ぼくとトシは目を疑った。昨日初めてボードをしたはずのカオリが、ミユキと同じスピードで斜面を滑り降りて行ったからだ。カオリのセンスには参った。
「何だよ、あれ。すごいな。」
トシはそう言うなり、ボードの向きを変え、カオリを追った。
「ちょ、ちょっと待てよ!」
ぼくも慌てて3人を追いかけた。
「カオリ!すごいな!1日でこんなに滑れるようになるなんて思ってなかったよ。」
「そう?ボードって慣れれば簡単じゃん?」
トシの言葉に対するカオリの返事はあっけらかんとしていて、少し拍子抜けした。それを聞いたミユキが提案した。
「じゃあ、もっと上の方まで上ろうよ。」
頂上付近から見下ろすと、予想以上に急な斜面だった。
「そうだ!レースしようよ。」
カオリの突拍子もない言葉にぼくは驚いた。でも、それよりもおもしろそうだという気持ちが顔に強く出ていたようで、
「ミツル、自信ありそうな顔だな。」
「おまえには負けないよ。」
トシの顔が少しムキになったように見えた。
「この雪玉が落ちたらスタートね。」
ミユキは足下の雪を集め、テニスボールほどの雪玉を作った。
「よし!」
みんな立ち上がり、スタートの瞬間を待った。ぼくはトシの言っていた通り自信があった。昨日はしりもちをついてばかりだったが、今日滑った感触は悪くなかった。若干の筋肉痛はあったが、むしろそれを心地よいぐらいに感じていた。
「行くよ?せ〜の!」
ミユキが雪玉を、空めがけて高く放り投げた。胸が高鳴る。雪玉はまだ空の青の中に、小さな雲のように浮かんでいる。まだ落ちてこない。ゆっくりとボードの先をリフト乗り場の方へ傾ける。自分の胸の鼓動が聞こえた瞬間、雪玉は足下の白と同化した。4人が一斉にスタートを切った。ぼくは周りにいるスキーヤーたちなんか気にならなかった。冬の空の青さと降り積もったばかりの雪の白さに挟まれ、最高に気持ちよかった。
 ゴールのレストラン前には、ミユキが立っていた。
「おかえり!」
「2番か。」
ミユキに負けても悔しくはなかった。少ししてから、トシとカオリが2人同時にゴールした。

「あの時は後ろから来たスキーヤーにぶつかられたんだって。」
 夏、一昨年の冬の話でぼくとトシは盛り上がった。トシの言い訳を聞くのはもう何度目かわからない。3回生になって、授業の減ってきたぼくたちが会うのは久しぶりだった。長野以来、旅行というものに出かけていないぼくは、張り合いのない毎日をただ流れる時に身を任せて過ごしていた。その点、トシはアキとよく旅行に出かけ、将来の夢に向かい着々と準備し、生き生きと毎日を過ごしているようだった。
「カオリどうしてるかなぁ?」
「元気にやってるだろ。あいつならどこへ行ってもマイペースでやるよ。」
ぼくの言うことに対し、トシはその通りだと言わんばかりに笑った。カオリは3回生になる前にカナダへ留学していた。カオリの行動力の高さにはいつも驚かされる。
「来月からカナダに行くから。」
と、突然カナダ行きを告げ、ぼくたちの度肝を抜いた。ミユキは前々から話を聞いていたようで、ぼくたちの驚いた顔を見て笑っていた。
「帰ってくるのはミツルたちが4回生に上がる頃だから。その間、ミユキをよろしくね。」
 カオリがカナダへ出発し、3人グループになったぼくたちだったが、ぼくとミユキはどちらからともなく、自然と付き合うことになった。トシはこのことに大賛成で、気を利かせて2人にしてくれることが多かった。(こういうところは、アキのそれがうつっているとぼくは感じている。)
 ミユキとぼくは、友達関係が長かったこともあり、付き合いだしてもその接し方はさほど変わりなかった。(変わったといえば、それは男と女の関係になったぐらいのことだろう。)ぼくはそれで良かった。堅苦しくないこの付き合い方が。ミユキの方はそう思っていなかったようで、たびたびぼくに文句を言うことがあった。ミユキは見た目とは裏腹に、意外と寂しがり屋で、2,3日会っていないと、泣きそうな声で電話をしてくる。その声に誘われ飛んで行くと、さっきとは別人のような声で文句を言う。女は難しいものだ。
「そりゃ、愛情の裏返しだって。」
トシに言わせると、そういう部分も受け止めてやるのが、男の包容力らしい。
 トシとぼくは、クーラーの効いた電車を降り、バイト先であるカラオケ屋に向かった。トシが大学入学当時から始めていたこの店に、紹介で入れてもらえたのはラッキーだった。3回生ともなると、なかなか新しいバイトは見つからず、困っていた。トシは2年間勤めていることで、結構な権力を持っていた。おかげでぼくもとても働きやすかった。と言っても、トシと同じ時間帯に入ることはあまりなかったけれど。
「ミツル、これ15番に持って行って。」
「はいよ。」
 15番は2階の奥の部屋。急いで階段を上っていった。その時、ちょうど踊り場のところで誰かとぶつかった。
「すいません!」
お客さんにぶつかってしまったと思い込んでいたぼくは、すぐに謝った。
「いえ、こっちこそすいません。」
見ると、目の前にはぼくと同じ制服を着た女の子が頭を下げている。
「あれ?新しい子?」
初めて見る子だった。小柄で、黒い髪を後ろで1つくくりにしていた。
「はい。昨日からなんですけど、まだ慣れてなくて…。すいません。」
「そうなんだ。よろしくね。あ!15番に持って行かないと。じゃあね。」
 その日、ぼくの頭から1つくくりの女の子は離れることはなかった。なぜだかわからないけど、その子のことばかり考えていた。
「ミツル?どしたの?ボーっとして。」
「なあ、トシ。あの新人の子何て名前?」
「あの子はハヅキちゃん。まだ高校3年生。若いよねぇ。」
「へぇ。そうなんだ。」
高校生という言葉に少しひっかかったが、それ以来ハヅキを意識するようになったのは事実だ。
「ミツルさん!おはようございます!」
「おっ!ハヅキ、おはよう。今日も元気だね。」
「それだけが私の取り柄ですから!」
 ハヅキはいつも元気だった。少しおっちょこちょいなところはあるが、何があってもハヅキの顔から笑顔が消えることはなかった。ハヅキは不思議な力を持っていて、周りにいる人たちまで元気にするという力を持っていた。ぼくもそのうちの1人だった。ハヅキといると、自然と笑顔になる。今までに会ったことのないタイプの子だった。だから余計に気にしていたのかもしれない。
 バイト帰りにハヅキとぼくは、夕食を食べに行き、2人で何気ないことを話し、笑い、楽しい時間を過ごした。その時の流れで、ぼくたちはカラオケに行った。ぼくはそこでもハヅキの虜になった。ハヅキの歌声はとても居心地が良く、ついつい聞き入ってしまった。
「ハヅキ、歌うまいね。」
「私、歌手になるのが夢なんです。今も週に3回はレッスンに通ってるんですよ。」
知らなかった。普段のハヅキからそんなことを想像するのは難しかった。
「へぇ〜!どうりでうまいわけだ。じゃあ次、これ歌ってよ!」
ハヅキはぼくのリクエストに素直に応えてくれ、ぼくもハヅキのリクエストに笑顔で応えた。2人で朝まで歌っていたが、時間が過ぎるのがとても早かった。
「また遊んでくださいね、ミツルさん!」
「こちらこそ。また遊ぼうね。」
 家に戻っても、さっきまでの余韻に浸っていた。ハヅキの声がぐるぐると頭の中を回り続けていた。
 数日後、大学でトシに会った。トシに話したいことがあったから、ぼくが連絡して会うことになった。
「話って何?何かあった?」
どこか言いづらい部分があった。話というのはミユキとのことだった。ハヅキのことが気になりだしたぼくは、ミユキに対し、後ろめたい気持ちでいっぱいだった。1人で考えていると息が詰まりそうになり、誰かに話せば少しは気が楽になると考えていた。誰かにというより、トシに聞いてもらいたかった。
「ミユキのことなんだけど…」
 ぼくは、この数日間1人で考え込んでいたことを一気にトシにぶつけた。ハヅキが気になりだしたこと、ミユキとの今後どうするかなど、溜めていたものを一挙に吐き出したので、話す順序はメチャクチャで、話を知っている自分が客観視してみてもわかりづらかった。それでもトシは、真剣に、それでいてぼくを落ち着かせながら、話を聞いてくれた。トシは人の話を聞く能力が誰よりも秀でていた。
「それで、ミツルはどうしたいの?」
正直困った。ぼくが悩んでいることを、まさに直撃されたからだ。ハヅキは気になるが、ミユキの魅力も捨てがたい。気持ちはハヅキの方に傾いていたが、無意識にそれを止めている自分がいることもわかっていた。
「正直になるのが1番。変な気を使うより、素直な気持ちを自分自身にぶつけてみたら?」
心の中の重い石がふっと消えてなくなった気がした。自分でも、そうしたいという気持ちがあったのだけれど、誰かに背中を押してもらうと、すぐに心は軽くなった。
「わかった。そうだよな!自分に正直になるよ。ありがと。」
「ミツル、これだけは言っとくぞ。ミユキに対しても、ハヅキに対しても、正直になれよ。おまえが真剣に話せば2人とも理解してくれるよ。」
勇気がでた。いつも悩んだときはトシに相談するが、今回は今までの相談の中で、1番ぼくを勇気づけるものだった。
 その日の夜、ぼくはミユキのもとへ向かった。ちょうど季節の変わり目にさしかかったらしく、半袖では少し肌寒かった。ミユキの家の前にある小さな公園のベンチで、缶コーヒーを2本強く握り締めて、ミユキを待った。その間はやっぱり緊張した。落ち着かなくて、足は地面の砂を何度も何度も移動させていた。遠くから足音が聞こえる。こっちに近づいてきているので、ミユキに違いないと感じた。目線を上げることはできなかった。
「ミツル。」
聞き慣れた声。自然と目線は上がっていた。
「ミユキ。ごめんね。急に呼び出して。」
「うん、全然いいよ。で?」
ミユキはいつもと変わらない。隣に座ったミユキの長い髪から、ふっといい匂いが漂った。風呂上がりだったらしく、まだ少し濡れているのがわかった。
「あ、あのさぁ… 最近どう?」
「どうって何が?」
ミユキは笑いながらそう言った。そりゃそうだ。最近どうと言われても、何をどう答えたらいいのかもわからない。ぼくもそう思いながら話していた。何かしらの言葉でつないでおかないと、押しつぶされそうな気持ちになっていた。
「どうしたの?何か変よ。」
その通り。何か変だ。心の中を落ち着かせるために、トシの言った言葉を思い出し、目をつぶり、ふーっと大きく1つ息を吐いた。
「ミユキ、あのさ…」

 2人の結末は、思っていた以上にあっさりしていた。ミユキはぼくを責めることもなく、受け入れてくれた。しかも、また友達として接していくという方向に話は進んだ。あんなに悩んだのは何だったんだろう。良かったのか悪かったのか、こんなに簡単に終わってしまうなんて。
 この時、しばしば襲われるあの感覚の意味が少しわかった気がした。満たされていなかった自分がいる。自分では気づいていなかったけれど、繰り返し続く毎日を、どこか冷たく機械的にこなしていた自分を感じた。
 次の日のバイトに向かう足は軽かった。気持ちが軽いせいか、バイトは一瞬にして終わり、またハヅキと夕食を食べに行った。
 ハヅキと過ごしているぼくは、
「温かい」
と心の底から感じていた。

 

記憶

12105

毎日滞りなく過ぎていく。時間は流れる。いつも一定に。取り残された感じがするのは、自分だけだろうか・・・。

 また一日が始まる。
 朝ベッドから出るのが一番嫌だ。昨日の疲れを肩に乗せたまま、のろのろとキッチンへ行く。ガチャ。冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぐ。トポトポトポ・・。静かな朝。ゴクッ。一気に飲み干す。まだ覚めない目をこすり、顔を洗う。寝起きの悪い俺はこうして一日を始めていく。家族の出かけたリビングで、ぼそぼそとパンを食べながら昨日のコトを思い返していた。am1:00にバイト先から帰ってきたのは覚えている。いつの間にか眠ってしまったようだ。それにしても後味の悪い一日だったな・・。そんなことを考えながら、ふと時計を見た。(やべぇ、もうこんな時間だ。また遅刻してしまう!)慌てて着替え、放り投げたままの鍵をつかみ、寝ぐせのついた髪をヘルメットに押し込んで、猛スピードで学校に向かう。この季節の朝のバイクは気持ちいい。学校なんか行かず、風に乗ってそのままどこかへ行ってしまいたい気分だ。まぁ、小心者の俺には絶対無理な話だけど。今日はそんな思いに浸る余裕もなくバイクをとばした。
 大学も3年生ともなると授業も少なく暇が多い。俺もどうにか無事単位を取れている。部活も中心の学年になって、それなりに充実した日々。バイトもお給料が上がったばっかりだ。半年付き合っている彼女もいる。なかなかの大学生ライフだな。でも何かが足りない。そう何かが。それは俺にも分からない。ただ何か満たされない気がする。
19分。最短記録だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昨日は特別な一日だった。朝、珍しく郵便ポストを覗くと何枚ものダイレクトメールに混ざって、見覚えのない字で書かれた封筒が1枚、入っていた。宛名は「佐伯様」としか書かれていない。開けない方がいいのかなと思いながらも、部屋に持っていくと、つい好奇心で封を切ってしまった。中には、几帳面そうな字が並べられていた。

  お元気ですか。
   手紙を差し上げたのは、迷った挙句の苦渋の選択です。取り急ぎの用なのでやむなくペンをとりました。
   急ではありますが、来月日本を離れアメリカへ行くことになりました。前々から父の海外転勤の話がありましたし、そこでの手術の予定も立ったので、この機会に向こうで生活することにしました。当分日本に帰ることもできないと思いお知らせした次第です。手術を行うにあたって多少の不安はありますが、成功すると信じています。直接会って伝えたかったのですが、そういうわけにもいかず手紙で失礼しました。
   お父さんお母さん、お身体に気をつけて。遼平、なつみにもよろしくお伝え下さい。皆様が健康で幸せでありますよう遠地より祈っています。
                                  中井 隼人

目を疑った。これは一体どういうことだ?頭の中が真っ白で整理ができない。差出人の名前も聞き覚えのないものだ。「中井隼人」。こいつは誰だ?
その手紙はすぐには渡さなかった。いや渡せなかった。動揺していることを隠そうとして、いつも通りの自分を装って何事もなかったかのように食卓につく。今日は日曜日。遅い朝食だ。母も仕事は休みで朝食の支度をしている。親父はゴルフ、妹は部活に行ったようだ。今しか手紙のことを話すチャンスはないかもしれない、そう思うと無意識のうちに手紙を差し出し、口を開いていた。
「さっきポストに入ってたんだけど・・・」
封を切られたその手紙に俺の視線が集中する。
 「誰から?」
 「分からない。聞いたことのない名前なんだ。」
 「そう。」
背を向けていた母が振り返り、おもむろに手紙をとった。手紙に書かれた名前を見た母の顔色が、一瞬変わった。
 「中見ちゃったんだけど、中井隼人って誰?」
 「・・・・」
 「俺らのことも知ってるようだし・・」
 「・・・・」
母は何も言わず、手紙のあの几帳面な字に目を落としている。俺は返事を待った。
 
何分が過ぎたのかは分からない。とてつもなく長い時間に感じられたが、ほんの一瞬だったのかもしれない。母がその重そうな口を開いた。
「その人はあなたの双子のお兄ちゃんなのよ・・。生まれてすぐに親戚のご夫婦に引き取られたんだけれど、まさかこんな形であなたたちに知らせることになるなんて思いもよらなかったわ。黙っているつもりはなかったんだけど、お父さんも私も話しにくくて・・。いつか話そうと思っているうちにここまできてしまったのよ。あなたたちには本当に悪いことをしてしまった・・ごめんなさいね・・。」
母が沈んでいく様子が分かった。今はこれ以上何も話すことができそうもない、と感じられたのに、俺は追及することをやめられなかった。自制できなかった。
 「手術って何だよ?日本を離れるってことみたいだし、このままでいいのか?」
 「・・・・」
 「俺もなつみも、顔も知らないまま別れるんだな。今さら兄貴だって言われても納得できないけど、このままにしておくのはもっと納得できねぇよ・・。」
 「急にこんな手紙を見てどうしたらいいのか分からないのよ。お父さんにも話してみないと・・・。」
母も動揺を隠し切れずにいる。うろたえているのだろう、涙目になってしまっている。もう話すのは無理だった。用意された朝食にはほとんど手をつけることができずに、そのまま重い頭を抱えバイトに向かった。一日の始まりから衝撃がきつすぎる。頭が混乱しきっていて何も整理できない。時間の経つ感覚もない。いつもの何倍にも感じる長い一日だった。バイトしていても何も手につかず、何をしたかもよく覚えていない。家に帰ったところの記憶だけがかろうじて残っている。am1:00。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 目覚めると何もかもがいつも通りだった。普段通りの生活。
 遅刻ギリギリで教室に滑り込む。何とか間に合った。見慣れた顔ばっかりだ。
 「おはよう、今日もギリだね。」この前ケンカしたのは嘘みたいに明るい声の香穂。
 「今日も遅れて来るんかと思ったぜ。」悪友のシンがからかう。
 「お前もよく遅れて来るじゃねぇか。」
 「おっと、それは失礼失礼。」茶目っ気たっぷりの顔でシンは笑う。憎めないやつだ。
ありふれた毎日。変わらないことの安心感と虚無感。そういった一切のものが、今、心に充満していていつかはちきれるんじゃないかという不安に襲われる。考えすぎなんだろうか。
 昨日のこともあるし家に帰るのは憂鬱だった。特に、バイトも部活もない今日は真っ直ぐ家に帰っても何もすることがなく、手持ち無沙汰になるだけだ。そんなこともあって、香穂とシンを誘い3人で近くの海に行くことにした。
 暮れかけた空はどんよりと重く、気持ちのいいものではなかった。それでも、垂れ込めた雲間からのぞく赤い夕日は格別にきれいだった。そういえば最近は夕焼けも見ていなかった。ゆっくり空を眺めることなんてしばらくぶりだ。いつ以来だろう・・。そんなとりとめのないことを考えていると、気付けば目の前には真っ青な海が広がっていた。2人との会話も上の空だったようだ。
 「キレー!久しぶりに来たけど、やっぱいいねー。」透き通るような香穂の声。女の子にしてはそれほど高くないが、耳障りがよい落ち着く声だなといつも思う。
 「青春って感じだな!ってもうそんな歳じゃねぇか。」はきはきしたシンの話しぶりも心地いい。
 「よし、じゃあいっちょ砂浜ダッシュといきますか!」とシン。
 「体もなまってるしな。」
 「まぁ、勝利の女神がここで見てるから、勝負してきたら?」
 「え、女神ってどこだ?」
 「目の前にいるじゃん!」
 「俺には見えねぇんだけど、遼平には見えるか?」
 「見えないね。」
 「もー、微笑んでなんかやんないから!」
 「ハハハハ・・・」
こうしていると、嫌なことも忘れてしまえる気がする。屈託のない顔で笑う2人を見ていると、自然に頬が緩んでいるのが分かる。きっと、俺は相当キツイ顔をしていたんだろうな。ここに来るまでは。海のさわやかさと仲間の居心地のよさに癒される。
 さんざん海ではしゃいだら、身体はぐったりしていたが気持ちは落ち着いていた。何かが片付いたわけじゃないが、昨日のことの気持ちの整理が少しだけできた気がする。帰りは沈んだ太陽を背にして、記憶にも残らないようなたわいもないことを話していた。
 家に帰っても、昨日のことなんてまるで何事もなかったかのようだった。いつもの見慣れた光景がある。ちょうど親父が食事中で、母がその支度をしていた。なつみはもう部屋にいるらしい。いつも帰ったらそうするようにおもむろに冷蔵庫を開ける。ガチャリ。冷えたお茶を取り出そうとすると、
 「ついでにお父さんのビールも取ってもらえる?」そう言われ、缶ビールに手を伸ばした。コトリ。親父の前に置く。缶についた滴がひんやりと心地いい。
「お前も一緒に飲まないか。」珍しい親父の誘いに少しびっくりした。普段はこういうこともめったにない。(たまには付き合ってやろうか。)いつの間にかコップも用意されていた。そっと手を伸ばす。
「お前、手紙見たらしいな・・。」親父のほうが沈黙に耐えられない、という風に話を切り出した。
「あぁ・・。」
「黙っててすまなかった。驚いただろう。」
「・・・・。」
「ちゃんと話せばよかったんだが、うまく気持ちの整理がつかないままここまできてしまった。お前たちには悪いことをしたな。すまん。」ここまで一息で話すと、親父は言葉を探しているらしく黙ってしまった。
「どうして離れることになったのか話してくれよ。」今度は俺がこの沈黙に耐えられなかった。困ったときにいつもするくぐもった表情を顔に浮かべて、親父は口を開いた。
「お前たちが生まれたとき、ちょうど養子が欲しいというご夫婦がいたんだ。もちろんその話を受ける気なんて全くなかった。そのご夫婦には子どもができないらしく、どうしても親戚筋から養子を頂きたいと懇願されていたよ。その時、生まれたばかりだったお前の双子の兄、隼人に重い心臓疾患があることが分かったんだ。先天性のもので手術や治療には相当の費用と労力がかかるという話だった。一気に二人の子どもを抱え、その一人は困難な病気を持っていると知ったときの気持ちは言葉では到底表せないよ。そのご夫婦は隼人のことを責任を持って治療するから、養子にと願い出てこられたんだ。俺たちにはどれだけ治療費を出せるか分からないし、満足な治療を受けさせてやれるか分からない。けれど兄弟離れて暮らすのはよくないと思っていた。だからその話はやはり断ろうと。しかし、十分な治療が受けられるのならば、その方が隼人のためかもしれない。悩みに悩んで考えた結果、預けるという形で引き取ってもらうことになったんだ。親として、この選択が正しかったとは思っていないよ。ずっと悩み続けてきた。結局、我が子を捨てたと言われても仕方のないことをしてしまったんだからな。隼人が引き取られてからは、ほとんど会うことはなかった。中学を卒業した頃に一度会い、それからは時折会うくらいだった。こんな手紙をもらうなんて全く予想していないことだったよ。ある意味これで良かったのかもしれないな。お前たちにも本当のことを話すことができた。謝っても謝りきれないがな・・。」
親父が話している間、俺はその目を見ることができなかった。うつむき加減に話していたせいもあるかもしれないが、なぜか目を見てはいけないという気がしていた。その目を見ることで、親父の感情に直に触れてしまうような気がした。触れてはいけない領域に踏み込んでしまうような・・・。怖かった。ただそれが怖かった。親父が壊れてしまうんじゃないかという気さえして、目を合わさないようにする以外何もできなかった。
事実を知ってからも、俺は案外冷静だった。自分でも驚くくらいに。実感がわかないという方が正しいだろう。胸のつっかえがおりたわけじゃない。頭もすっきりしたわけじゃない。でも、何も知らずにいたときよりは、ずっとずっと気分が落ち着いているのだ。
親父と二人でお酒を飲み、真剣に話をすることなんてあっただろうか。こんなことでもない限りなかったかもしれない。ただ話が少々重すぎる。かなりこたえた。簡単に割り切れないものが心に残った。もちろんどちらにとってもだろうが。
釈然としないままではあったが、この時親父は語れるだけのことを語ってくれたと思う。俺には何も言うことなんてできなかった。言うべき言葉が見つからなかった。

そんなことがあったせいか、その後数日のことは何も覚えていない。おそらく何てことのない平凡な日々を過ごしたんだろう。特に記憶にも残らないような。一日一日記憶にとどめない限り、思い出すこともない日々。それが俺の生きている人生なんだろう。穏やかに平和に流れていく。しかし、今までドラマの中の世界だと思っていた話が、自分の身に実際の問題として降りかかってくるなんてことは考えてもみなかった。こんなに突然に、大きな衝撃を持ってやって来るなんて想像もできなかった。まだ頭のどこかで、事実だと信じ切れていない部分があるのが分かる。
きっとこれは平凡な毎日の転換期なんだろう。物足りないと感じていたのは、こういうことを期待していたということだろうか。これで、心は満たされるんだろうか。スリルといった類のものを、心のどこかしらで期待していたのに、思いもよらないドラマチックな展開についていけない自分がいる。これは現実なのか。全てが夢であったら楽なのに・・。そう思っている自分がいることに気付く。平凡な日常が、小心者の俺には合っていたんだな。これまで平凡すぎて何か満たされないと思っていたのは、その穏やかさが大切だということに気付いていなかった証拠だ。失ってみて初めて気付くというのは本当だった。
今になって家族の過去を知らされた俺のショックもかなり大きいが、俺たちにずっと隠し続けてきた両親は、言葉では言い尽くせないような多大な苦労をしてきたんだなとしみじみ思った。こう言うと他人事みたいだけど、もし自分だったら耐えられたかどうか。それに知ってしまった以上、やはり兄には会ってみたい気がする。内心はすごく怖い。けれど、血のつながった兄弟がいることを知ったのに、会わないまま過ごしていくのはきっと落ち着かない。兄は俺の代わりに病気になったのかもしれない。俺がなっていたっておかしくはないんだから。そうでなければ、今頃は双子として仲良く暮らしていたかもしれない。家族の誰もこうして悩まなくても幸せに暮らせたかもしれない。全ては架空の話にすぎないけれど・・・。好奇心と不安が入り混じった複雑な心境だ。

たった一日二日の間にいろんなことが起こりすぎている。変わらない毎日だったのに、ほんの一つヒビが入っただけで全てが音を立てて崩れていくような錯覚に襲われる。今まで生きてきたことが夢みたいに消えていく・・・。このどうしようもない不安感は何だろう?大きな闇に飲み込まれてしまいそうな感覚にとらわれている。
ありふれた毎日に対する安堵と不満。心のどこかでスリルを求めていながらも、いざ急に思いもかけない事態に出会ったら、人間なんてものは案外もろく崩れ去ってしまうのかもしれない。

このことを知ってからというもの、俺はやっぱり兄に会いたいと思い、両親とも話し合って向こうに発つまでに会えないか手を尽くしたが、時すでに遅し、兄はもう日本を出発した後だった。迷うにまかせ早く行動に移さなかったことを、後悔してもしきれなかった。すぐには会えないと分かった以上どうすることもできないが、今は兄の手術が成功することを願うしかない。手紙を見てからまだ5日にしかならないのに、事態は急速に変わっている。取り残されている。俺の中でだけ時間が進んでいないかのようだ。まるで時間の流れが感じられない。その一方で、取り残されたと感じているのに焦っていない自分がいる。これは自分の手ではどうにもならないことなんだとでも悟っているように。自分でも不思議だ。
そう、思えば不思議なことが続いている。手紙を見たときあれほど動揺していたのに、実際、親父に話を聞いて事実が分かっても冷静だった。本来の俺なら間違いなく気が動転していたに違いない。あのときは本当に落ち着いていた。それからの俺も気が変にしっかりしているというか、自分じゃないみたいに感じるときがあった。成長したということだろうか。それにしては何も変わってはいないような気もするし・・・。分からない。
それに、いつまでたっても記憶がはっきりしない。数日間のことだし、思い出せないほどたくさん出来事があったようには思えないのに、記憶が断片的にしか残っていない。こんなにも印象に残らないほど、何も考えず日々を送っているとも考えにくい。時は経っているはずなのに、一向に、時間が経過しているという実感が伴わない。自分の外でだけ世界が動いている・・・。周りは闇に包まれているのに、頭の中には白い靄がかかっているみたいだ。だんだん記憶が薄れていく・・・。

「遼平の様子はどうだ?」
「何も変わらないわ。安定はしてる。意識はまだ戻らないけれど・・・。」
「そうか。どうにか隼人と連絡を取ることができそうなんだ。いつかここに連れてくることができるかもしれないよ。こんな形で会ってもつらいだけだろうけどな。」
「そうね。こんなところで会わせるのはかわいそうよ。遼平がよくなってからの方がいいわね。まだいつになるか分からないけど・・・。」
「気長に待とう。きっと意識も戻るさ。」
「隼人を手離して、このうえ遼平まで失うなんて耐えられないもの。」
「縁起でもないことは言うもんじゃないよ。命が助かっただけでも奇跡といえるような事故だったんだから。俺たちに出来るのは待ってやることしかないんだ。」

そう、俺は手紙を見た次の日の朝、通学途中に事故に遭ってしまったのだ。俺の乗っていたバイクに、カーブを曲がりきれなかった車が追突してきたようだ。相当大きな事故だった様子で、意識不明で病院に運ばれてから、ずっと昏睡状態であるらしい。兄の話は、親父が意識の戻らない俺に語りかけてくれていたものだった。シンや香穂も見舞いに来て話をしてくれたみたいだ。意識がなくても耳だけは聞こえていて、みんなの声はちゃんと脳へ届いたらしい。俺は、意識のないまま、自分の頭の中だけで架空(兄のことは全て本当だが)の生活を送っていたのだ。自分では元の世界にいると思って・・・。時間が進まないと感じていたのは、いわば当然のことだったのだ。自分のなかでは事故の日以来時間が止まっているのだから。そして、今もまだ止まったまま動かずにいる。記憶が断片的なのも無理はないのだ。元々記憶にはないものも含まれているのだから。想像の世界に生きているのだから。いつ抜け出せるか検討もつかないまま、時間を止めてじっと待機している状態で。
俺が本当にこのことに気付く日は来るのだろうか・・。

 

空へのエール

12106

 遠くで救急車のサイレンが聞こえる。未来は妙にふわふわとした感覚に襲われながら、ぼんやりと考え事をしていた。はやく行かなくちゃ…。しかし、瞼すら自由に動かすことができないのだ。
「大丈夫か!?」
 意識が薄れていく中で、どこか懐かしい感じのする男の叫び声を聞いた。その声だけが、妙にいつまでも未来の耳に残っていた…。

 ***

 未来はその日の朝も、いつも通り七時きっかりに目を覚ました。お気に入りのピンクの目覚まし時計を止めて、カーテンを開けた。暖かい日差しが一瞬で部屋を満たす。未来は朝のこの瞬間がたまらなく好きだった。別に用事もないのに、朝早く起きてしまうこともよくあった。
「そっか。今日日曜日だっけ。」
窓から人通りの少ない道を見下ろしながら、未来はそんなとぼけた独り言を言った。野球帽をかぶった少年が大急ぎで通りすぎていった。ぼうっとその少年を見送った後、急に未来の日常が返ってきた。
「やばっ!!遅れちゃう!」
そう言って未来はくるりと身を翻して、家中に音を響かせながら階段を駆け下りた。
「もうちょっと静かに降りられないのぉ?」
母親は、いつものようにのんびりした口調で小言を言ったので、返事の代わりにふくれっ面をして見せた。未来は、朝のもう一つの楽しみのミルクティーを一口だけ啜って、急いで着替えをすました。鏡の前で笑顔を浮かべ、毛先だけくるんっとまるまったクセっ毛を梳かした。
「今日は学校休みだぞ?」
今目覚めたばっかりの休日スタイルの父親を横目に見ながら、
「学校に行くんじゃないもん!直希との約束なの。」
と、ぶっきら棒に答えた。未来はまだぼーっとしている父親を放り出して、洗面所を後にし、さっそうと家を飛び出した。訝しげな父親の表情に気づくはずもなかった。
 遅れたら怒るだろうなぁ…。ずっと昔にデート(と言えるほどのものではなかったが…)に遅れてしまった時の直希の怒った顔を思い浮かべながら、未来はいい訳になるようなことをあれこれと考えていた。その内に、逆に直希が遅れてきた時のことを思い出していた。直希は几帳面だったので、約束に一度も遅れたことがなかった。たった一度をのぞいては。未来はそのとき駅前でぼんやり待っていた自分を思い出した。記憶にはしとしとと振り続ける雨と鮮やかな赤い色しか残っていない。もっと他のことも思い出そうとするのだが、どうしても出てこない。
「…えぇっとぉ。赤色??…あ!」
喉のつかえがとれようとしたその瞬間だった。
キィッキーッ!!けたたましい音が未来を襲った。と同時に鈍い衝撃が走る。未来は、のん気に世界がクルクルと回るのを長い間感じていた。

 ***

 ふと目が覚めると、そこには清潔で白い天井が拡がっていた。未来はこの整えられた白さに驚きながら、なぜか嫌悪感を覚えた。何を探すでもなく、ぼうっと辺りを見回す。まず、目がはれて少しやつれた母親の顔が映った。
「未来!!あぁ良かった!…」
もうかなりの間泣いていたのだろう。母親の声はからからに枯れていた。未来は何がなんだか事情がつかめないまま、きつねにつままれたような顔をして母親を見つめている。しかし、体中が筋肉痛の時のように痛み、思うように動かせなかった。懇親の力を込めて、指を動かして見る。ゆっくりと動く物体は、まるで他人の手のように感じた。この奇妙な感じをかみしめながら、未来はだんだんと記憶を蘇らせた。あの声は結局誰だったのかな…?
「…!!今何時なの!?」
泣き出しそうになるのを堪えながら、早口でまくしたてた。
「何時って…五時だけどぉ?時間なんて気にしなくていいから寝てなさいよぉ。」
いつもなら大好きな母の、このおっとりした口調にさえ腹が立った。
「もぉ最悪っ!!」
 うなだれる未来を見て、母親はあわてて頭をなでた。けれど、未来にとっては何の慰めにもならなかった。
 「っお!気がつきましたか。立花さん。」
白衣を着た男が話し掛けてくる。人の良さそうな顔だった。未来はその男の顔には目もくれず、下を向いて考え事をしていた。
「すみません。この子ったら…」
母親がしきりに頭を下げているようだ。その男は一言二言何か言って、四角い病室を後にした。未来にはもちろん聞こえていなかったが、「車イス」という単語だけが、鮮やかに耳に残った。未来は、やっと顔をあげて心配そうな母親の顔を見た。
「大丈夫よぉ。慣れるまでの辛抱だからね!」
 明らかに無理した作り笑顔の母親を見て、未来は笑うより仕方なかった。自分の行く末を少し不安に思いながら…。

 ***

 本来なら、未来は雨の日が好きだったのだ。大抵の人には理解してもらえないのだが、窓の外から聞こえてくる穏やかな、何ともいえない感じの音に限りなく親しみを感じるのだ。
 しかし、あの日からは事情が違う。時が流れた最近でもそれは変わらない。雨の音を聞くとなぜか憂鬱な気持ちになってしまう。今日もせっかくの退院日だというのに、灰色の雲が未来の心までどんよりと曇らせている。未来はそんな心を少しでも晴らそうとするかのように、車の助手席から落下していく雫をじっと見つめていた。
 曲がり角を曲がると、小さい頃直希と一緒によく遊んだ公園がある。小さな体には不似合いなバスケットボールを抱えて、よくここへ通ったものだった。胸に数十年前の風が吹き込んできて、苦しかった。
「お母さん。ここで下ろして?一人で帰れるし。」
パートを辞めてしまった(もちろん未来の世話の為だが…)母親と始終一緒で、息ぐるしさを感じていた未来はそう申し出た。車イスに未来を乗せた後も心配そうに未来の目を覗き込んでいた。
「ありがと。早めに帰るから。」
そういい残して、未来はさっさと公園へと向かった。雨が久々に気持ちよく感じた。
 こんな雨降りの日だったな。そう思ったときには白衣を着た男の言葉が未来の頭の中をぐるぐる駆けめぐっていた。
…もう怪我は完治しています。後は本人の気持ちですなぁ。ご家族の方もたいへんだとは思いますが…
 「本人だって大変だいっ!全くぅ。」
などと憎まれ口をきいて、おどけてみた。全く未来自身にもわからないのだから、人にわかるはずもなかった。傷は治っているのに歩けないなんて。歩きたいのに歩くのが怖い。どうして??何十回も、何百回も自分に問い掛けたが、誰も答えてはくれなかった。
…みんなに会いたいなぁ。
 急に寂しくなって、そうつぶやく。事故で壊れてしまって新しく買った携帯電話にはほとんどメモリーが入っていなかった。もちろん直希のもだ。最後の約束を守れなかった。そのことが未だ未来の胸を痛めている。
 「もう間にあわないよねぇ。」
 そう声にした瞬間、視界がゆがんで世界が見えなくなった。

 まさにその瞬間だったように未来には感じられた。懐かしい音が、耳慣れない音と一緒に聞こえてきた。ふとそちらに目をやると、バスケットコートが昔のまま残っていた。しかし、そこには見たことのない少年がボールと戯れていた。
 未来はその光景を、涙を流すのも忘れて見つめた。雨の中で光る汗が驚くほど綺麗だと思った。
 その少年が顔をあげ、目が合った。意思の強そうな目が、少し長めの前髪に隠れていた。ゆるやかで穏やかなウエーブを描く、髪の茶色が未来の目にやきついた。未来にはその数秒がひどく長く感じられた。少年はすぐにくるりと背を向けた。少年の投げたボールが綺麗な放物線を描いた…。

 ***

その晩、未来は何度も公園での出来事を思い出していた。未来の頭の中で、ボールは何度でも放物線を描いてみせた。いつまでも薄れない直希の姿と公園で見た少年の姿が重なってみえた。窓の外では、まだ雨が降り続いている。雨は悲しい思い出を運んでくる。
 …そういえばあの日も雨だったな…。未来は直希と会った最後の日のことを思い出した。
      
十一時きっかりにと約束した駅前で、未来は時計を気にしていた。時計はすでに十一時三十分を指していた。目の前を忙しそうに駆け抜けていく人たちをぼんやり眺めて、ふうっと小さいため息をついた。道路を挟んで並んでいる店のショーウィンドーに飾られた、かわいらしいドレスの赤が、行き交う人たちの間からちらちらと見えた。その人波の中に、ちょっと罰の悪そうな顔をして、走ってくる少年がいた。未来は思わずにっこりと微笑んだ。ドレスの赤のように横断歩道の信号は鮮やかな赤い光を放っていた。

溢れて来る涙をこらえながら瞳を閉じた。
 

 ***

 あの公園を散歩するのが、未来の日課になっていた。公園には若い主婦や子どもが大勢いるのだが、言葉をかわすことはなかった。大人は未来とわざと目をあわさないようにするし、子どもは遠慮なく視線を投げかけてくる。車イスのどこがそんなに珍しいの!?と思いながら、居心地の悪い思いをしていた。
それでもよくこの公園に来るのは、淳平がいるからだった。彼は無口で、多くの言葉を交わすわけではなかったが、未来は充分満足していた。恋愛とは違う、穏やかな感情を感じていた。
未来は、暖かい午後の日差しを感じながら、ぼーっと淳平が投げたボールを目で追うというこの時間がとても気に入っていた。いつものように二人はお互いの時間を過していた。 未来は独り言のようにぽつんと言った。
「どうして歩けないのかなぁ。」
 淳平は、シュートを打とうとしていた手を下げて、未来の方を振り返った。しばらくの間未来を見つめていた。そして、もう一度ボールを持ち直して、リングへと放り投げた。未来には、淳平とはじめて会った日に見た綺麗な放物線と重なってみえた。淳平はボールをはずませながら、
「シュートってさ、気持ちがまっすぐじゃないと入らない。お前のはそれと同じなんじゃないかな。」 
未来は昔の傷をえぐられたような胸の痛みを感じた。淳平の一言で、守れなかった約束が自分を縛りつけていることに気づいた。未来はうつむいていた顔をあげた。

 ***

 未来はやっと今、ずっと来たかった場所に立っている。あの日、未来があの事故にあった日来るはずだった川辺に。直希との最後の約束だった。五時にこの川辺で、確かにそう約束した。果たされることはないとわかっていたけれど、未来はどうしても忘れたくなくて、あの日家をでたのだ。今思えば、あの日、直希と同じように車に跳ねられたのも何か仕組まれていたんじゃないか、とふと考える。やっぱり直希がいるはずもなく、未来は一人ぽつんと立っている。この場所にいれば、直希がいつものようにちょっと罰の悪そうな顔をして、走ってきてくれる、そう思っているのかも知れない。
どうして直希は五時なんて言ったんだろう?約束した時から気になっていた疑問が再びよみがえってくる。 
…あの日、約束守れなくて、ごめんね…。
未来は心の中でつぶやいた。ちょうど時計が五時を回った時、一日の仕事を終えた太陽が、優しく暖かい光を放ちながら、ビルの下に隠れようとしていた。その優しい赤色に包まれながら、未来は長い間抱えていたものが溶け出して、なんとも言えない幸せな気持ちになった。ありがとう、何度もそうつぶやいた。我慢していた涙が堰を切ったようにあふれてくる。未来はそれを拭おうともせず、だた、ずっとその場所に立っていた。

 ***

 未来はある決心を胸にリハビリをがんばっている。それは直希の墓参りに行くことであった。 
そういえば、あの時、私が事故にあった瞬間に聞こえたあの声、一体だれの声だったんだろ?など、公園に向かいながらぼんやり考えていた。公園中にひろがった、ピンク色の桜の花びらが目の前を散っていった。一枚の花びらが地面に落ちようとしたその瞬間、未来にはすべてがわかった。誰のこえだったのか、淳平に報告しようと走り出した。
 

終わらない歌

12107

『プロローグ』

語られない歴史がある。
それは先人たちが語ることを拒んだのか、あるいは時の流れに淘汰されていったのか・・・これから始まる物語もまた、時の波にのまれていくのかもしれない。

『大犯罪時代到来』

時は大犯罪時代。もはや秩序や規律などというものは紙の上のものでしかない。窃盗、強盗、略奪、詐欺、そんな事は世間の人々の“日課”になっており、取るに足りない些細な出来事だった。
爆弾テロや暗殺が毎日どこかで起こり、人々は常に死の恐怖に怯えながら、(それでも盗みや強奪はしていたが)暮らしていた。今日はAブロックで無差別テロが起こり、昨日はBブロックで集団殺人が起きたといった有様だった。明日はわが身・・・まさに巨大規模のロシアンルーレットである。だからこの時代に会社勤めのサラリーマンをやっている余裕など誰にもない。生活に必要なものは全て自らの手で調達せねばならない。もちろん他所から奪って・・・そう、全ては“生きるため”に。
生きるために食糧を盗む。盗まれた者はそれを取り返そうと必死になる。当然、ここで流血沙汰になるのがお決まりの結末だった。しかし、このような暴力をよしとしない連中は“口”を使って必需品を手に入れようとした。詐欺師である。
もちろん、少々弁が立つ程度では疑心暗鬼の塊と化した人々を騙せる筈もない。そこで彼らは、大掛かりな組織を作って詐欺をはたらいた。詐欺のシナリオを作る者、ターゲットの身辺を徹底的に調べ上げる者、実際に詐欺をはたらく者、と様々な役割があった。だがこのように組織化された詐欺集団の末路は二つだった。一つは“報酬”を巡って内部分裂するパターン。もう一つはテロ集団や被害者の一般人によって闇に葬り去られるパターン。この事実が世間の常識となってからは、詐欺師たちは周到な計画を立てて個人で行動するようになった。だが、時代が時代である。成功率は天文学的な数字になる事は誰にでも予想がつく。そして全てにおいて失敗はサバイバルゲームの敗北を意味する。単純明快な、そして黄金比よりも壮麗な方程式。結局のところ、この時代に頭でっかちなインテリは不要なのだ。必要なのは生き残るための知恵と力である。
人類は生まれながらにして生きるための知恵をはたらかせる能力が備わっているらしい。個人での犯罪リスクの高さを知った人々は、誰が言い出すという訳でもなく、自然に犯罪集団を形成していった。人々はその集団を“チーム”と呼んだ。しかし、皆がチームに入った訳ではない。一部の腕力自慢たちがチームを形成したのだ。そしてそのチームを束ねるのは、徳のある人間でない事は言うまでもない。弱肉強食の世界を支配するのは“力”である。それも権力ではなく、腕力。強い人間が犯罪集団の権力者となりえたのである。
以後、犯罪規模は瞬く間に拡大した。集団どうしの潰し合い。勝ったチームは負けた方の食糧、住居、全てを奪えるという唯一絶対のルールが暗黙のうちに出来上がっていった。まさに命がけのマスゲーム。そこに論理や感情は存在しない。全ては生きるという欲望のために・・・
最初のうちは腕力さえあればそれでよかった。しかし犯罪集団の形成が進むにつれて闘い方は変わっていった。
戦略。正面からの激突よりも、ローリスクで勝つ事が主流になっていったのである。だが腕力だけが取り柄の彼らにそんな芸当が出来る筈もない。そこで登場するのが、例の詐欺師たちである。彼らは頭と口を使わせれば右に出る者のない連中だった。彼らの役割は三国時代でいうと諸葛孔明のような軍師といったところである。彼らはチームの中で重宝された。
詐欺師が重宝される時代・・・犯罪集団は挙って頭のキレる詐欺師を探し始めた。だが詐欺師とてむざむざと弱いチームに入る筈もない。そこは連中も心得たもので、五、六人の小さいチームを襲って自軍に吸収し、戦力の拡大を図ったうえで詐欺師をスカウトしに行ったのである。過去には学力低下が懸念された時代もあったがこの時代、生きる為の知能指数はそう、低くは無い。
チームvsチーム。この図式が出来上がってからは一般人の盗みなど気にする者はいなくなった。それよりも集団の抗争に巻き込まれはしないかと、びくびくしながら暮らしていたのである。時として犯罪集団は一般人を支配する事もあったのだ。

ここで、なぜこのような世の中になったのかを簡単に説明しよう。
原因は二つ。一つめは、金の価値がなくなった事である。無能な政治家たちが己の私腹を肥やすのに夢中になっていたために、気がつけば経済の機能が完全に崩壊してしまったのだ。会社は相次いで倒産し、失業率は70%を超えた。これでもなお金に頼る人間はいない。
二つめは著しい環境破壊による食糧不足である。現在では、辛うじてその機能を回復した政府が細々とした貿易で食糧を輸入しているという噂があるが、定かではない。
金の力が無力化した世界で少ない食糧を手に入れる方法。それは盗む事だった。この事に気付いた後、人類の生活と思考回路は激変した。数百万年かけてきた進化の歴史は一瞬で崩壊し、人間は“動物”の原点に返ったのである。
こうして世の中は無法地帯と化した訳だが一人だけ、このような世界に似つかわしくない男がいた。その男の名は義男。

『義男』

義男はある犯罪集団のリーダーである。しかし彼は腕力でこの座に就いたのではない。彼は確かに腕もたつが、それよりも彼がチームのリーダーになった最も大きな要因は“人徳”があったことである。彼は人心掌握術に長けていた。失敗を怒りこそすれども責めず、部下の功績は惜しみなく称えるので、チーム内で彼に対する信頼は厚かった。また義男の率いるこのチームは唯一、他の犯罪集団を駆逐、壊滅させるためのものだった。
目には目を、犯罪には犯罪を・・・これまでに義男が壊滅させたチームは五十にものぼる。一つ壊滅させるたびに義男たちは民衆から称賛され、手厚いもてなしを受けた。なぜか。理由は二つある。
一つめは、民衆を恐怖から救った事である。そして二つめは、(この点が、義男がこの時代に似つかわしくないのだが)民衆を支配しなかった事である。その代わりに町の警護を買って出るのだ。
町を襲う者に対しては、全力でこれを阻止する。そのためにはどんな手段を使ってもかまわない。それが義男の方針だった。こうする事で義男は犯罪を正当化したのである。民衆は町を救ってくれた謝礼として食糧や住居を義男たちに提供した。民衆が自主的にそうするので、義男は強迫観念によって彼らを支配する必要がないのだ。そして、町を襲うチームがあればこれを駆逐する。他にも犯罪集団に支配されている町があればそこへ赴き、これを排除する。そして民衆の不安を和らげるために町の警護を買って出る。そして民衆から称賛される。この循環が彼をカリスマへと仕立て上げていったのである。
部下からの不満も殆どなかった。犯罪に手を染めたいだけの輩も時代が時代だけに、二日に一度は何らかの形で犯罪に加担できたし、正義感の強さからこのチームに加わっている者たちにしてみれば、民衆から英雄扱いされる事が堪らなく快感だった。
少々不満があるとすれば、物足りないという事だった。相手が弱すぎる、もっと犯罪に手を染めたい、といった類のものである。前者は民衆にとっても、また義男にとっても心強いのだが、厄介なのは後者である。もし、集団で民衆を襲うような真似をすれば、せっかく築きあげてきた民衆との信頼関係が一気に崩れてしまう。実際、過去に二度だけ危機があった。この時義男はその部下を容赦なく斬り捨てた。他の部下への見せしめとして・・・そして同時にこれが、民衆との信頼関係を継続させる唯一の手段だった。
だが、三度目の危機が訪れた。

「大変だ!リョウのやつが一般人を襲いやがった!」
激しくドアが開き、古いマンションの一室に一人の若者が血相を変えて飛び込んできた。若者はその目に不安と焦りを滲ませ、一点を凝視している。その視線の先には全身を黒で染めた総髪の男が脚を組み、ソファにゆったりと腰を落ち着けている姿がある。
この男こそが、義男だった。
義男はおもむろに口を開いた。
「そうか・・・で、場所は?」
染み入るような、微かでいたって冷静な口調でそれだけ言うと、義男はゆっくりとソファから腰を持ち上げた。立ち上がった義男の背はゆうに百九十センチを超え、肩幅は広く、筋骨隆々のがっちりした見事な体格をしていた。
義男の言葉が耳に届いていないのか、何も言わずその表情にただただ焦りの色を浮かべる若者をよそに、義男はソファの後ろの長机に無造作に立てかけてある刀を手に取り、ベルトとズボンの間にそれを押し込んだ。その一連の動作は緩やか、かつ滑らかだった。
一方の若者に心の余裕などない。額に玉のような汗を光らせ、その水分をたっぷりと含んだ黒く長い前髪が頬にへばりついていたが、それすら気付かない様子である。義男とドアとを交互に見ながら、落ち着きのない足取りでウロウロしている。
そんな若者には目もくれず、義男は流れるような動作で上着を羽織ると口を真一文字に結んだ。それが合図だったのか、若者は
「こっちだ!義男!!急いでくれ!!」
と早口に捲し立てると弾かれたようにドアの向こうへと飛び出した。
「やれやれ・・・」
義男もすぐさま後を追った。今までの緩やかな動きからは想像もつかない俊敏な動きだった。若者に続き部屋を出ると、水の流れにのるかのごとく大理石で創られた螺旋階段を滑るようにして下って瞬く間に若者に追いついた。総髪を風になびかせ、義男は尋ねた。
「もう一度聞くぞ。リョウの居場所はどこだ、京輔?」
義男の前を走っていた京輔は一瞬、何かを思い出した表情をしたが、すぐ真顔に戻して言った。
「すまねえ、義男。場所はこの近くのFブロックだ。」
「よし、わかった。」
それだけ言うと二人は無言で走り続けた。

今後の物語の展開上、義男のチームの構成を少し紹介する必要がある。
まずリーダーは義男。その下に参謀がいて、さらにその下に幹部がいる。京輔は幹部の一人で、義男が直接命令を下すのはここまでである。幹部の下には隊長がいて、これが各幹部につき五名。また一つの隊は十名構成なので、幹部一人につき五十名の部下を従える事になる。しかも幹部は複数名いるので、義男のチームは総勢二百名以上にもなる。他のチームは多くてもせいぜい三十名程度なので、この数が義男のチームの強さと彼がいかに統制力があるかを物語っている。
さて、これだけの大所帯であるから、当然のように小さないざこざは日常的なので誰も慌てはしない。たとえそれが一般人を襲ったとしても・・・だ。先程、一般人を襲うことで訪れた危機は三度目だと言ったが、少々言葉を継いでおこう。チームが分裂する危機にまで陥ったのが三度目なのである。隊員クラスならこれまで幾らでもそのような“悪事”をはたらいた。だが、この程度なら隊長やそれを束ねる幹部の管轄である。義男が直接手を下すまでもない。しかし、幹部クラスがこの禁を犯すとなると話は別だ。義男のチームの幹部は、他のチームではリーダーを張ってもおかしくない実力を持った猛者たちである。自らの手で粛正をかけねば、血で血を洗う戦いが待っている。
今回、一般人を襲うという禁を犯したリョウもまた、その幹部なのである。だから京輔は慌てて義男の下に駆け込んだのだ。
京輔が慌てた理由はもう一つある。実はリョウは元々は別のチームの人間だったのだ。ある時、義男のチームと抗争したリョウたちは、義男たちの前に完膚なきまでに叩きのめされた。その時リョウは瀕死の重傷を負った。しかし義男はリョウにとどめを射さず、彼の命を助けた。そればかりか、抗争の中において仲間を庇ったという理由だけで、義男はリョウを自分のチームの一員に加えたのだ。だが、メンバーは誰も驚かなかった。これが義男のやり方だと知っていたからだである。
チームに加えるに当たって、その選択は本人に委ねた。この時義男に恩を感じた者はチームに加わった。そうでない者は逃げ出した。しかし義男は後者を斬らなかった。殺める事が自分の目的ではない。自分の目指すものに向かって真っ直ぐに突き進む同志を集める事こそが彼の目的だからだ。リョウは、一度は義男の目指すものを追い求めた。しかし、今回のこの暴挙は明らかに義男に反旗を翻したとしか思えない。しかも幹部である。頭はキレるのだ。単独でケンカを売る事は考えられない。リョウのように、義男に命を助けられながら不満を抱く者を引き込んでいるに違いない。そうなるとこれを境にチームが分裂する可能性が出てくる。これが、京輔が慌てたもう一つの理由である。
過去二度はいずれも義男が最初から率いていた者の“犯行”だった。しかしその二人にはチームを結成した時から、ただ犯罪に手を染めたいという気配がしていた。だから一般人を襲った時の対応も迅速に行えたのである。しかも過去二度は犯行以前から不穏な空気が流れていたので、それなりの対応策が取れた。しかし今回は全くそのような気配が感じられなかった。

(リョウ・・・)
義男は心の中でそう呟きながら螺旋階段を下りると植え込みの間を駆け、風のようにマンションの玄関を抜けた。この時代に不釣合いな、白い大きな大理石を敷き詰めたマンションだった。義男と京輔は綺麗に磨かれた大理石の上を、地面を走るのと遜色ない速さで駆け抜けていった。
二人が去った後、この白く大きな建物を異様なまでの静寂が包み込んだ。玄関の両脇を固め、門に向かって一直線に延びる植え込みの黄色い葉の一枚すらも、まるで時間が止まったかのように微動だにしない。現在この建物の中に義男のチームの人間は一人もいない。京輔が全員をFブロックへと向かわせたのだ。万が一の事態に備えて・・・
京輔は嫌な胸騒ぎを覚えた。その不安を打ち消そうと京輔は隣を走る義男を一瞬、横目で見やった。義男は真っ直ぐに前だけを見つめていた。だが、その目は明らかに怒りに燃えていた。

空には重い灰色の雲が一面にたちこめていた。巨大倉庫が聳え立つ波止場のFブロックには、潮の香りに乗って一触即発の空気が漂っている。潮の香りに混ざって、微かに腐乱臭がする。波止場に繋がれた小舟に人が一人、うつ伏せになって倒れている。生きているのか定かではない。ただ波の動きに合わせて小舟が揺れるばかりである。
大通りを挟んで西側には銀髪で逞しい体躯の男を筆頭にした一団が陣を構えている。男の年齢は二十歳を少しこえたくらいである。しかし、彼の後ろにいる男たちには明らかな動揺の色が見える。彼らの背後では例の小舟が力なく揺れている。東側には坊主頭で顔にまだ幼さの残る男を筆頭にした一団が西側の男たちを睨み付けていた。
「オ、オイ・・・リョウさん!い、いったい何の真似だ?!」
坊主頭は拳を構え、体を強張らせながら銀髪の男に向かって叫んだ。
リョウは坊主頭を一瞥し、鼻で笑うと視線を宙に泳がせた。
「何の真似?それは一般人を襲った事か?それとも俺がチームを捨てた事か?」
「・・・両方だっ!!!」
坊主頭はそう吼えると二、三歩後退りした。リョウから発せられる、威圧感。まるで彼の周りに電熱を帯びた壁が張り巡らされているかのようである。
近寄れない・・・
坊主頭たちの顔にあぶら汗と共に恐怖の感情が滲み出していた。
「強がるな、ケイ。お前もわかっているだろ?隊長クラスのお前が幹部の俺に敵うはずがないと。」
「う・・・うるさいっ!!それより、どうしてこんな事をしたんだっ?!」
ケイは必死の形相でリョウに食らいついた。リョウは泳がせていた視線を地に落とすと抑揚のない声で語り出した。
「フン・・・単刀直入に言おう。欲求不満だ。犯罪が横行するこの時代に民衆を守るためだけに罪を犯すのはどうもストレスが溜まるんでな。だいたい、おかしいと思わないか?俺たちが他のチームを潰すという事はこの世から犯罪が減るということだぞ。もし俺たちが全ての犯罪集団を壊滅させたとしてだ、その後俺たちはどうなる?俺たちの存在価値は消えるじゃあないか。しかも民衆は唯一残った犯罪集団の俺たちを潰しにかかるだろう。それこそ総力を挙げてな。なぜか?仕事の無くなった俺たちがいつ連中を襲うとも限らないという疑念が湧くからだ。」
ケイは渇いた喉に無理やりつばを流し込んだ。リョウの言う事も一理ある。
「人間なんて脆いもんだ。今までの恩なんか綺麗さっぱり忘れて、掌返して牙を剥くぞ。それこそ今の俺みたいにな。それを考えたら守るための犯罪など阿呆らしくなってきてな。俺はもっとスリルを味わいたい。だから部下と共にチームを捨てるのだ。」
リョウが一通り喋り終わると、対面から思いもよらぬ言葉が返ってきた。
「阿呆め・・・」
これを聞いたリョウは一瞬体を硬直させた。しかしすぐに緊張を解き、次第に憤怒の形相になりながらゆっくりと視線を上に滑らせていった。
「なかなか・・・」
視線の先に黒いブーツが見える。ケイのものではない。さらに視線を上へと滑らせていく。
「生意気な口を・・・」
ブーツの主は黒服に身を包んでいる。そして右の腰に刀を差している。
「きくじゃあないか!!」
顔を上げたリョウの視線の先に、義男の姿があった。
「身の程知らずなやつだ・・・」
そう言うと義男は口許に笑みを浮かべた。リョウもまた、別段驚いた様子も無く、義男と同じく口許に笑みを浮かべた。しかし二人とも眼は笑っていなかった。

『決闘』

どれ程の時間が流れただろうか。義男とリョウは互いに睨み合ったまま動かない。秋を告げる冷たい風が二人の間を吹き抜けるばかりである。
京輔は一秒ごとに心臓の鼓動が大きくなるのを感じていた。実力から言えば義男のほうがリョウよりも僅かに上である。いや、京輔はそんな事に不安や緊張を覚えたのではない。この二人の闘いがチームの、いや、この時代の今後を左右しかねない事に対してのものだった。

義男が京輔に自分の壮大な夢を語ったのは今から二年前の事だった。
暗く狭い部屋の中には義男と京輔の二人だけしかいない。
「今の犯罪社会・・・いや、こんな秩序の無いものは社会とは呼べないか・・・今の世の中を変えるには犯罪集団を一掃するしかない。だが、警察では奴等を抑え切れないのが現状だ。そこで・・・」
義男が考えたのは逆転の発想だった。目には目を、犯罪には犯罪を。自ら犯罪集団を組織し、他の集団を潰そうというのだ。もちろん、一般人に対して盗みや暴行を加える真似はしない。それには理由があった。
「人を動かすのは地位や権力かもしれない。だがそれは見た目だけで心までは動かない。結局、人の心を動かせるのは人の心だけだ。俺は全ての犯罪集団を潰して、人と人が心で繋がる世の中を、新しい国家を創りたい!それにはまず、人々の心を掴まなければ・・・」
そこで考えたのが町の警護である。犯罪から町を守る。今の時代に他人のために命を張る人間はいない。だからこそ人々の信頼を得る事が出来る。信頼関係が築ければあとは互いに支えあいながら共同戦線を張れる。支配ではなく提携。これが義男の理想だった。しかし課題があった。
「でもメンバーはどうする?よっぽど強い奴を集めねえと義男の言うような社会にはならねえぞ。しかもこんな時代だ。ただ犯罪に手を染めたいだけの奴はごまんといる・・・」「確かにそうだ。しかし、それは皆が時代の流れにのまれて自分を見失っているだけだと俺は思う。俺たちは物心ついた時から盗みや強奪が当たり前の世の中で生きてきた。だから他の生きる術を知らないだけなんじゃあないか?」
「あ・・・」
義男の言葉に京輔は唖然とした。自分は義男との付き合いが長いので今の世の中に対して疑問を抱いているが、他の人々は違う。高いリスクを冒してまで罪を重ね、物資を調達するのが唯一の生きる術だと思い込んでいる。
「そんな連中に俺たちの理想を話す。誘いに乗ってくれば力を見極めたうえでメンバーに加える。もちろん、京輔の言うように染めたいだけの奴もメンバーに加わる可能性はある。だが、そんな連中は必ずどこかでボロを出す。その時は、俺が斬る。
粛清をかける・・・支配を嫌う義男がたった一つだけメンバーに嵌める枷であり、これは一種の賭けだった。和の存在しない時代において、敢えて和をもって尊しとなす。そして理想国家建設を試みようというのだ。だが、同じチームのメンバーを手にかける事は一歩間違えばチーム全体が崩壊する危険を孕んでいる。

過去二度の危機を義男は人徳という天賦の才で乗り切った。禁を犯したものを斬る事で逆にチーム内に義男の理念が浸透したのである。
それ以後、義男のチームは一丸となって“悪”と闘い、勝ち続けた。そして徐々に勢力を拡大し、現在では首都圏でも五本の指に入るほどの強力なチームになった。しかも唯一民衆を味方につけたチームに。
人々は彼らを世直し新撰組と呼んだ。
「新撰組か・・・悪くないな。」
幕末を駆け抜けた新撰組には、武士になる事、武士である事という確固たる想いがあった。その想いは自分たちにもある。
理想国家建設・・・

(今、新撰組が二分するような事があれば、俺たちへの人々の信頼は確実に崩れ落ちる・・・そうなったら全てが水の泡じゃねえか。)
京輔は唇をかみ締めながら、握った拳を小刻みに震わせていた。
と、その時。リョウがこの重苦しい沈黙を破った。
「俺は義男、アンタが嫌いなんじゃあない。アンタのやり方が気に入らないだけだ。だから、もしアンタが考え方を変えるなら俺は・・・」
リョウは言葉を継ごうとしたが、義男がそれを遮った。
「黙れ。」
この一言でリョウは己の迷いを払拭した。
「どうやらアンタとは判りあえないようだな!」
リョウの短い銀髪が、怒りのせいか逆立ったように見えた。義男の総髪もそよ風にくすぐられ、僅かにふうわりと浮いた。それが合図だったかのように二人は同時に動いた。
リョウは背中の剣を抜き、義男は腰の刀を抜いた。
激しい金属音をたてて二つの刃が交じり合った。双方全くの五分。
「く・・・さすがだな。」
「だてにリーダーをやっている訳じゃない。」
二人は一度距離を取った。そして間髪いれずに二合目を入れた。
刃が重なる度に小さな火花が散った。リョウが剣を振り下ろすと義男は峰でこれを受け止める。そしてリョウの剣を払い返す刀でリョウの胴元を狙うとリョウは剣を逆手に持ち替えてこれを防いだ。
「やるな、リョウ・・・だが、剣を逆手に持っていたら攻撃は出来ないぞ!」
義男はリョウから離れ、刀を両手で持ち直すと瞬時にリョウとの距離を詰めた。リョウは今漸く剣を順手にも誓えたところである。
義男はリョウの懐に入ると思い切り下から刀を振り上げた。
(受けると弾かれる!!)
咄嗟の判断でリョウは刀の軌道と平行に体を捩った。
空気を切り裂く音と共に切っ先がリョウの鼻先を掠めた。だがかすり傷だ。それよりも、義男は今、完全に一撃で決めに来た。防御体勢が取れていない。
(もらった!!)
リョウは剣を握り直し横に一閃した・・・いや、しようと思った。しかし丁度その時こちら側を向いた義男の表情を見て、リョウはその手を止めざるをえなかった。
なんと義男は、口許に笑みを浮かべていたのだ。
リョウは理解に苦しんだ。とにかく頭の中を整理せねば・・・リョウは後ろに飛び義男との距離を取った。
「ハァ・・・ハァ・・・ハァ・・・なぜだ?なぜ今笑った?」
リョウは己の動揺を鎮めるかのように呼吸を整えた。一方の義男は涼しい顔をしている。
「フ・・・俺に勝ったら教えてやる。それよりリョウ。お前はこのチームを離れてどうするつもりだ?」
もうリョウは冷静さを取り戻していた。
「好きなようにするだけだ。俺の部下を連れて暴れまわるさ。あんたのところには迷惑はかけない。アンタは俺の命を救ってくれた。そのせめてもの恩返しだ。」
「やれやれ・・・その気持ちがあるならチームに残ればいい。」
「そのチームに残りたくないからこうしてアンタと闘っているんだろ?」
二人の間だけ、時が止まっていた。もはやここが波止場である事すら彼らは忘れている。
「それもそうだ。だが、チームを去りたいだけなら何も一般人に手を出す事はないだろ?」
「フ・・・こうでもしないと俺の覚悟が判らないだろう?」
「覚悟を決めたんなら最初からこうやって闘え。」
「言っただろう。俺はアンタが嫌いなんじゃあない。だから俺から仕掛ける事はできん。」
「甘いな・・・そんな事じゃ俺には勝てんぞ。」
「余計なお世話だ。それに甘いのはアンタ譲りだ。」
今、義男とリョウは互いが敵だという事を忘れていた。まるで、仲の良い兄弟のような、そんな気分に浸っていた。正直なところ、リョウは少し後悔していた。自分は義男のやり方が気に入らず反旗を翻した。しかし同時にリョウは義男に惹かれているのだ。矛盾のような葛藤の中、再び時が動き出そうとしていた。
「舟の上の人を気絶させたのは、あれはわざとか?」
不意に義男の口からそんな言葉がついて出た。リョウの鼓動は再び上昇気流を描き出した。なぜ?義男はいつその事に気付いたのだ?今の会話の時間を除けば、他所を見る時間などなかったはずだ。しかも義男は今海に背を向けているから舟の様子が判る筈が無い。
焦りを隠せないリョウを前にして、義男は笑っていた。
「やはりな・・・一合目から薄々気付いてはいた。お前の剣から血の臭いがしない事にな。それなのにお前の部下は怯えていた。さてはお前、自分の部下にも内緒にしていたな?」
「アンタに隠し事は出来ないな・・・そうだ。俺は部下にはチームを離れる事しか言っていない。だから言っただろう?こうでもしないと覚悟が判らないだろう、とな。」
「つくづく甘いな・・・」
そして時は動き出した。
義男とリョウは同時に地を蹴ると一気に間合いを詰めた。今度は互いの呼吸が聞こえるほどの近距離である。相手の剣先が目の前にある。この常態では一瞬の隙が勝負を分ける。そのような生と死の境界線にいてなお、リョウの心はそこにはなかった。
自分がチームを離れる決意をした時、部下は全員リョウに付いて行くと言ってくれた。その理由は、リョウのように義男のやり方に疑問を持ったり、単純にリョウを慕っているから、とかリョウの決意に従うのが部下としての務めだから、など様々だった。だが理由はどうあれ、リョウは部下が自分についてきてくれるのが嬉しかった。
思えば自分は義男に憧れていた。その憧れの男のようになりたくてチームを離れたかったのかもしれない。自分も和でもってチームを引っ張りたい。しかしその一方で義男と共に理想郷を見てみたい、という気持ちもあった。義男のやり方が気に入らない、などというのはただの口実に過ぎない。チームを離れたとて、自分も結局は義男の取った道を選ぶのだ。しかし・・・
リョウは剣を横に払った。義男は冷静に見極め、これをかわした。リョウは続けざまに剣を縦に振った。義男は仰け反ってこれをよけた。
究極の葛藤の中、リョウが出した答えはチームの禁を犯す事だった。幹部である自分が一般人に手を出せば間違いなく義男が粛清をかけにくる。ここで義男を倒せば己の迷いを払拭できる。憧れだった人を自分の手にかける事で自分は義男のような男になる決意を固める事ができる。それは歪んだ決意だった。自分でもそれは判っていた。だが、リョウは義男になりたかった。そんなリョウの屈折した浅はかな目論見を見透かして、義男は(阿呆め・・・)と言ったのかもしれない。

「阿呆め・・・」
この一言でリョウは我に返った。今までの間、リョウは目の前の義男に本能だけで対していたのだ。義男は今、刀を左手に持ち、中段に構えてその切っ先をリョウに向けている。
「阿呆め・・・」
三度義男はこれを口にした。そして大きく息を吸い込んだ。
「全力でこい!!隙だらけだぞ、リョウ!!」
義男の一喝でリョウの体に電撃が走った。この男、自分に隙があるのを承知の上で敢えてとどめを射さなかった。そればかりか、義男にとって優位なはずの闘いを自ら五分の位置まで引き下げたのだ。
(この人は、やはり器が大きすぎる・・・)
リョウは淡く儚い幻想を断ち切った。形だけ義男の真似をしても何の意味もない。それはただの自己満足でしかない・・・そんな事をするよりも、自分自身を磨かなければならないのではないか・・・真の漢になるために。
(俺は俺だ。どう足掻いてもこの人にはなれない。かといって、ここまできた以上引き返すわけにもいかない。それならばせめて・・・)
この手で義男を眠らせたい。それが、男として全うすべき道である。出藍の誉れ。弟子が師を超える。師弟関係においてこれ以上の悦びはない。
「うおおおおおお!!!!」
リョウは天に向かって咆哮すると、剣を上段に構え、決意に満ちた眼で義男に向かっていった。
「いい眼だ。」
義男は自分の耳に微かに聞こえるくらいの細い声で呟くと、腰を落としリョウの攻撃に備えた。リョウは獣のような雄叫びをあげ、義男めがけて渾身の力で剣を振り下ろした。義男は口を真一文字に結び、その一撃を受け止めようとしていた。と、その時だった。突然緩やかな風が吹き、二人の間を撫でるようにしてすり抜けていったのだ。
義男の総髪がその風になびき、左の視界を完全に遮った。
「あ!!!」
誰もが驚きの声をあげた。予想だにしない事態・・・
義男は思わず顔を右へそむけた。しかしそれと連動して意図せず、義男の体も若干右へと流れてしまったのである。
今までリョウの攻撃を受けるべく盾となっていた刀が、義男の体と共に右へと流れ、今リョウの目の前にあるのは無防備な姿を曝け出した左半身である。リョウは慌てて剣を止めようとした。しかし勢いのついたそれを二の腕の膂力のみで制止する事は不可能に近かった。
鋭く乾いた音がして鮮血が舞った。リョウの一撃は義男の左肩から肘までを綺麗な直線を描いて切り裂いたのだ。しかし腕を切断せずに済んだのは、咄嗟の判断でリョウが剣を引いたからである。
義男は顔を俯けたまま、力なく左腕を垂れ、膝を折った。
その場にいた誰もがこれを目の当たりにして、息をのんだ。何という結末・・・義男の腕は振り子のようにゆっくりと前後に揺れている。
やがて振り子の揺れが止まった。義男は顔を上げ、静かに立ち上がった。左腕からは夥しい量の血が流れ出している。
「どうした?続けるぞ。」
もはや勝負は決している。
「義男!!やめろ!!死ぬな!!」
今までじっと二人の闘いを見守ってきた京輔は、見るに耐えかねて叫んだ。その目からは大粒の涙が溢れている。京輔の叫びを皮切りにメンバーたちは次々とその思いのたけをぶつけた。
「リーダー!!もう闘うな!!」
「あとは俺がやる!!だからリーダーはさがってくれ!!!」
「リーダー!!」
「リーダー!!」
「リーダー!!」
無常にもその声は義男の耳には届いていなかった。激痛の余り意識が朦朧としているのだ。既にその目は虚ろである。左の指先からは血が滴り落ち、小さな泉を作り出している。
義男は右手で刀を握るとリョウと対峙した。まともに闘える力など残っている筈が無い。リョウは首を横に振り、ただただ涙を流すばかりである。頬を伝う幾筋もの涙を拭う事もせず、ただただ義男を見つめている。
「なぜ泣く?」
義男は掠れた声で尋ねた。
「判らない・・・でもなぜか悲しくて、そして嬉しいんだ・・・」
リョウは涙声でそう言った。義男にその声が届いているのか、定かではない。
「来い・・・リョウ。」
リョウは激しく首を振った。涙が溢れて声にならない。
「来い・・・リョウ。」
義男は繰り返した。それでもリョウは動かない。すると今まで虚ろだった義男の目が、精気を取り戻したかのように鋭く光った。そしてリョウを睨み付けると最後の力を振り絞って叫んだ。
「俺を超えてみろ!リョウーーーーーーー!!!!」
再びリョウの体に電撃が走った。リョウは涙を拭うと一直線に義男めがけて走り出した。みるみるうちに義男の顔が近づいてくる。その顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。しかしリョウは迷わなかった。リョウは剣を振り上げた。義男は右手一本でこれを受けようとしている。
(間合いに入った!)
リョウがまさに剣を振り下ろそうとした瞬間だった。
「良い漢になったな、リョウ。」
恐らく義男はリョウへの遺言のつもりで言ったのだろう。しかしリョウの剣が振り下ろされる事はなかった。代わりに義男の刀が、リョウの左のわき腹を割っていた。
義男とリョウはしばらくの間、その場に固まっていた。苦しい息の中、二人は互いの顔を見やると満足そうな笑みを浮かべ、同時に倒れた。
「義男!!リョウ!!」
京輔たちは急いで二人に駆け寄った。
義男も、リョウも、意識は無かったが、口許に幸せそうな笑みを浮かべていた。

『エピローグ』

この後、義男やリョウ、及び新撰組は歴史の中に姿を消す。調べた限りでは、その後の彼らの存在を示す文献は今のところ見つかっていない。唯一その生涯を追う事の出来る京輔は、これらの事に関して一切の口を噤んだという。だがとある文献によると後年、彼は非常に興味深い事を口にしている。
「暴力がはびこるこの時代で、人と人が心で繋がる世の中にする事が我々の夢である。」

−完−

 

遥かに

12108

秋になると、この地方では独特の強い、冷たい風が吹く。今年も十月に入ると、その風が授業中の遙の頭を揺さぶった。風の音と一緒に、隣の席の沙樹の声がきこえる。
「はるかっ、はーるかっ!どこ見てんの?ほら、当たってるよ。」
「あっ…ありがと。」

放課後、沙樹が待ちかねた様子でせきを切ったように話しかけてきた。
「はるか、今日はどうしたの?ずっとぼーっとしてるじゃない。何か悩みでもあるの?」
風が吹き、木々がざわめく。
「…まだ、あのことがひっかかってるの?もう三年も前のことじゃない。はるかは悪くない、あれは…事故、だったのよ。」
また、ざわめく。今日の風は特に強く、冷たく、彼女達の行く手を阻む。
沙樹は「気にしちゃだめよ!」と言い残し、いつもの四つ角を曲がっていった。
遙の家は、川を隔てて向かい側の新興住宅地にある。ここからは橋を渡り、川沿いに数百メートル歩かなければならない。川の上を覆うようにアーケード状にのびた桜並木が、もう色づいている。遙はこの桜並木が好きだった。以前は春に咲き誇っている花桜以外は好きにはなれなかった。秋の桜の木には花を咲かせ終え、祭りの後のような寂しさを覚えてしまうのだ。そのおもいは今もかわらない。むしろ、寂寥感はより深くなったような気がする。
―事故…か…。
不意に、三年前の日々がよみがえってきた。

中学にあがる年、遙はこの町に引っ越してきた。転校するのは初めてだが、社交的ですぐに誰とでも打ち解けることのできる彼女にとっては、さほど不安を感じさせるものではなかった。そのうえ、一戸建ての家に住めるのだ。自分の部屋ももらえることになっている。インテリアはどうしよう、机はどこに…などと考えると、不安どころか嬉しさのあまりかえって興奮してしまう。
入学式の前日、母に連れられて学校へ挨拶に行った。八分咲きの桜並木が風にそよぐ。まるで初めてこの道を通る遙たちを歓迎してくれているかのようだ。
「桜はこれぐらいがちょうどいいわね。満開になるとうるさくて。」と母が言う。その通りだ、と遙は思った。満開の桜はたしかに美しいが、それは同時に、すぐに散ってしまうという寂しさをもはらんだ美である。花が散ってしまった桜の木、また、道に落ちて人に踏まれてしまった花弁ほど虚しいものはない。それに至る一歩手前の満開の桜は、人々を一瞬の美の世界へ誘いはするが、いつ壊れるとも知れぬもろい世界を提供しているのでもある。遙はそうした危うい状態を好まないのであった。
「この川よりこちら側は」母が続ける。
「昔の街並が残っているのねえ。ほら、遙、立派なお家よ。」
言われるままにそちらの方角を眺めると、たしかに大きな家が目に入った。瓦ぶきの屋根、土壁、広い庭。どれをとっても遙たちの住む新興住宅地にはないものである。
「懐かしいわ。まだ残っているのね、こんなお家が。…それにしても大きいわね。地主さんかしら。いったい何坪ぐらいあるのかしらねえ…。」
母が感嘆の息をもらしている間に、遙は観察でもするかのようにその家を眺めまわした。広大な敷地に建てられた、このあたりでもひときわ大きな家。庭には小ぶりながら美しく咲く桜の木があり、家の風景に一定の秩序を与えている。こんな家に住んでいるのは、どんな人なんだろう。こわそうなおじいさんかなあ。ぼんやりと考えていると、遠くで母の声がした。
「ほら遙、早く帰って夕食にしましょ。今夜は遙の大好きなコロッケよ。」

中学校は、想像していたよりもずっと楽しかった。不安はあったが、転校生という存在に慣れているためか、皆気安く遙を受け入れてくれた。中でも、沙樹は今でも一番仲の良い友達になった。
ただ、クラスで一人だけまだ話したことのない人がいる。大橋達也、背が高くて華奢で、遙の印象ではあまり目立たない生徒であった。
「ねえ、大橋くんって、どんな人?私、まだ話したことないんだけど…」
「ああ、大橋ね。どしたの?遙、…まさか好きになったの?悪いこと言わないから、アイツはやめといた方がいいよ。」
真面目な顔で沙樹が言うので、彼に対して少し興味が湧いてきた。どんな人なんだろう?どうして沙樹はやめとけって言うんだろう?
その日の帰り道、遙は大橋の姿を見かけた。幸い沙樹も一緒じゃないし、話しかけちゃおっかな。そう思って遙はあとをつけた。新緑の桜並木をぬけ旧家街の方に入っていくと、遠くにあの立派な家が見えてくる。どうしよう…このままずっとついてく訳にもいかないしなあ…あの家を越えたら、声、かけよっかな。遙がやっと決心して前方を見ると、なんと大橋がその家の中に入っていくところだった。
―えっ、大橋くん…の家、だったの?
門を開けるその手つきはいかにも幼い頃から慣れ親しんだものであった。きっと間違いない、大橋の家だ。声をかけそびれた遙はうなだれて家路についた。明日こそ話しかけてみよう。

翌日学校で、遙は大橋を観察した。授業中は真剣な顔で先生の話に聞き入っている。相槌を打ったり首をかしげたりと、先生の方を見て一生懸命だ。でも休憩時間になると、男子数人で集まって話したり、運動場でバスケットやサッカーをしたりしている。
―どうして沙樹はやめとけって言ったんだろう。別に、普通の人じゃない。
しかし、放課後になると、大橋は何かに追われるように慌てて帰っていった。
「はーるかっ、帰ろう?」
明るい沙樹の声。
「何見てんの?…まさか、大橋?もう、やめとけって言ったじゃない!本当、知らないよ!」
「ごめん、沙樹!今日、用事あるから、先に帰るね…バイバイ!」
そう言うが早いか遙は教室を飛び出し、大橋のあとを追った。
下足室で大急ぎで靴をはきかえ、かかとを踏んだまま駆けていく。今の遙には、はき直す時間ももどかしく思われた。初夏の涼しい風が髪をなで、後ろの方へと走る。
―次の角を曲がったら、大橋くん、家に入っちゃう!その前に、声、かけなきゃ…
「お、大橋くんっ!」

 大橋は振り返り、不思議そうな顔で遙の方を向いた。
「あれ?高橋さん…どうしたの?」
「あのね…大橋くんと、お話、したいなあ…と思って…」
走ってきたからか、緊張しているからか、ともかく息の切れた声で、遙はそう言った。
「ぼくと、話?…とにかく、落ち着いて。立ち話もなんだから、家で聞こうか。」
そう言うと大橋は玄関扉を開け、遙を招き入れた。家の中はまるでテレビの豪邸訪問で出てきそうな感じだな、と遙は思った。長い廊下を通ると応接間に通され、大橋と向かい合ってソファに座るよう促された。外見に相応しい、立派な部屋である。あまり見るのも失礼かと思い、いろいろ眺めたい衝動を抑えて大橋の顔の方を見る。少しうす茶色の、澄んだ瞳をしている。今頃になって、突飛なことをしてしまったのではないかという思いと恥ずかしさとがこみあげてきた。
 「それで、話って?」
「えっと…私たち、同じクラスだけど、一度も話したことないじゃない?それで…話してみたいなって、友達になってみたいなって思ったの。」
そこまで言うと、あまりにも下らない理由に自分でもあきれてきた。
次の瞬間、急に大橋が声をあげて笑い出した。
「なんだ、そんなことか。いいよ?なろうよ、友達。ただし…」
真面目な顔に戻って続ける。
「ひとつだけ約束してほしいんだ。学校や外では絶対に、話したり、挨拶したりしないで。それだけ守ってもらえれば…」
「そんな!じゃあ、どこで話すの?今までと変わらないじゃない。」
「ここに来ればいいよ。」
大橋が微笑んでそう言うので、遙はすっかり彼のペースにのせられてしまい、ついには毎週金曜の放課後ここに来て会うことまで約束した。

 その日から、遙は金曜日を待ち遠しく思うようになった。あと五日、あと四日…、指折り数えて会える日を待つ。会っても学校や最近みたテレビドラマなど、他愛無いことを話しているだけだったが、そうしていると心が安らいだ。
 桜並木が葉を茂らせ、つややかな緑色をたたえて歩行者に木陰を与えるようになった。もうすぐ一学期も終わり、夏休みが来ようとしている。
 遙は約束どおり、家以外の場所では大橋と話すことはもちろん、目を合わせることさえしなかった。そうすることでしか、彼との時間はつくりだせないのだから…。でも、夏休みの間はどうするんだろう。大橋が何も言い出さないので、遙が切り出した。
「ねえ、夏休み中も会いたいんだけど…ダメかなあ?」
すると大橋は、「ダメじゃないよ。一緒にどこか行こうか…そうだ、うちの別荘にでも行く?」と、こともなげに言った。遙は驚いて、思わず彼の顔を見つめた。相変わらず澄んだ瞳をしているが、実際のところ何を考えているのかは全く分からない。
「断らないってことは、いいんだよね?いつがいいかな…七月中の方が涼しいかな。」
呆気にとられている遙を横目に、着々と予定がたてられていく。七月十九日、終業式が終わってから大橋の家に行き、その後彼の別荘に行くことになった。
 
それは思いのほか近かった。家から執事さんが車で送ってくれたので、一時間もかからなかっただろう。車内では、初めて大橋の隣に座った喜びと緊張とが入り混じって、何も話すことができなかった。ただずっと、窓の外を流れていく木々を見つめていた。緑色の流れがだんだん途切れ、ようやく木を一本ずつ判別できるようになった頃、大橋は、
「ありがとう。帰るときにはまた連絡するから、迎えにきてよ。」
そう執事さんに礼を言うと、遙に車を降りるよう促した。
 別荘内は広くて手入れも行き届いていたが、なにか落ち着けない感じがした。生活感がないというか、人間味が感じられないというか…。ともかく、誰かが使用した気配が全くないのだ。まるでテレビドラマに出てくる家みたいな感じがした。
 「ここがリビング、こっちがキッチン、廊下をまっすぐ行ってつきあたりを右に行くと寝室になってるから。」少し前を歩きながら大橋が案内してくれた。
 バタン!
 不意に物音がして、遙は思わず大橋の手を握った。彼は優しく握り返し、「大丈夫、僕がいるよ。」とささやいてくれた。それだけで大丈夫だと思えた。その後リビングに戻り、ソファーに並んで座っていろいろなことを話した。内容はあまり覚えていないが、ただはっきりしているのは、遙をおちつかせようと思ってか、ずっと手を握ったままでいてくれたことだ。彼の冷たい手は優しく遙の手を、いや、遙全体を包み込んでいるようにさえ感じられた。心地よい空気の中、遙はすこしずつ大橋の肩にもたれかかり、寝ようとしていた。
 どれぐらい経ったのであろうか、目をあけると窓の外はぼんやり暗くなっていた。
「たいへん!私、家に連絡してない…。今頃お母さん、きっと心配してるわ。」
「大丈夫だよ、僕から連絡しておいたから。ほら、目覚めのミルクティー、どうぞ。」
どこからか大橋が現れ、遙に温かい紅茶を手渡して隣に座った。ほどよい甘さが遙の心をやわらげてくれる。
「ねえ、大橋くん。私、夢をみてるみたい。こうして、あなたと二人で紅茶を飲むことができるなんて…。」
「何いってるんだ、これまでも二人で話したりしてたじゃないか。 …遙、これからも、僕と一緒にいてくれないかな?」
「…私も、できることなら、そうしたい。でも、私なんかで、いいの?」
「遙じゃなきゃ、意味がないよ。遙が好きなんだ。」
「私も、大橋くんが好き…!」
そう言いながら大橋の肩にもたれかかり、遙は再び眠りにおちた。

「起きた?」
大橋の顔が目の前にあったので、遙は少し驚いた。
―夢じゃなかったんだ。私、大橋くんと一緒にいて、彼に、好きって言われたんだ…!
昨日のことが現実だと改めてわかった。外からはすずめのさえずりが聞こえる。
「すこし、散歩しようか。」
別荘のまわりはとても静かで、何か話していないと互いの息づかいまで聞こえるようだった。時折、木漏れ日の向こうから二、三羽小鳥が飛んできてさえずりあう。
大橋の手は冷たく、ちゃんと握っていないとどこかへ飛んでいってしまいそうな気がした。
―手が冷たい人は心が温かいって言うけど、あれは本当なんだろうな。大橋くんは私にすごく優しくしてくれるもの…。
「遙…何があっても、僕と一緒にいてくれる?」
突然大橋が足を止め、こちらを向いて真剣な顔で言った。少し栗色がかった黒髪が風に踊る。眼鏡の奥の瞳の中には遙が映りこんでいる。
「うん…もちろんだよ。私はずっと、大橋くんと一緒にいるよ。」
言いながら、大橋の手を両手で包み強く握った。
「ありがとう…。」
大橋は遙を抱きしめ、そう何度も繰り返した。その口唇は、小刻みに震えているような気がした。
不意に、晴れわたった空を引き裂くようにサイレンの音が聞こえた。音はだんだん大きくなる。こっちに向かってくるようだ。別荘の前にパトカーが止まり、警官が一人おりてきた。
「大橋達也くんと、高橋遙さんだね?帰ろう、お家の方が心配してるよ。」
「はい…。」
うなだれた大橋は、遙の手を離し、重い足取りで警官についていこうとしている。遙は訳がわからないで、独り取り残された気分だ。
「どうしたの?いったい何があったの?」
「遙とずっと一緒にいたいから…家に電話したんだ…『遙さんは、これから僕と暮らしていきます。』って…。」
「それで、高橋さんのお母さんから通報があった、という訳だよ。」
―電話?そういえば、昨日の晩大橋くん、「家に電話しといたから」って言ってた。でもまさかそんなこと言ってたなんて…!
遙も警官のあとについていった。爽やかな風だけが虚しくそよいでいた。

 暑かった夏が過ぎ、二学期が始まった。例年ならまだ暑い九月も、今年は台風が来たりしてもう秋の気配だ。桜並木も色づき、葉が散り始めているものもある。
 あの日から、遙は大橋に会っていない。というより、会わせてもらえない、のだ。個人的に会うことはもちろん母親に禁じられているし、大橋はあれから学校に来ていない。欠席理由を先生に聞いても、分からないと言うばかりである。次第に遙の心からは、大橋の存在が薄れていった。
 ある日、学校の帰り道、いつもの四つ角で沙樹と別れて、橋を渡ろうとしていた。
―そういえば、大橋くんの家って、このへんだったな…。
そう思った瞬間、あたりの空気を揺るがすような声が聞こえた。
「遙!」
―大橋くん…?
声のした方向を振り向くと、背が高く、華奢な、あの大橋が走ってくる。
「あのときは、悪かった…!俺、とにかく、遙と一緒にいたくて…それだけしか考えてなくて…遙には迷惑かけたと思ってる。ほんとに、ごめん。」
遙は大橋のその声を振り切って、自分の家の方に向かって橋を渡っていった。
「遙!待ってくれ…!」
「大橋くん…もう、私には、関わらないで…。私とあなたは、もともと知り合わなかった。そういうことにしましょ。」
立ち止まりそう言うと、前方から冷たく強い風が吹いてきて、桜の葉が空に舞った。その風に、遙のカチューシャが、とられた。色づいた葉とともに空に舞い、川に向かって落ちてゆく。
 と同時に、大橋が橋の欄干に足をかけ、川に飛び込んだ。
そして、遙のカチューシャはすぐに浮いてきたが、大橋は、水面に姿を現すことはなかった。
「達也ーーー!!!!!」
遙の瞳から涙がとめどなく溢れ出し、風に舞ってきらきらと光った。それは、どんな美しい宝石よりも綺麗な光沢をたたえていた。

 あの日から、三年。
―達也、私は高校生になったんだよ。達也もほんとなら、高校生になってたのにね…。
橋を渡りながら、遙は持っていた花束を川に、投げた。花束が強く冷たい風に舞い、遥かに弧を描き、水面に届いた。


大阪教育大学  国語教育講座  野浪研究室  頁頭  戻る

mailto: nonami@cc.osaka-kyoiku.ac.jp