短編習作集『詩織』平成八年度号 「生の歌声」

 生の歌声

首藤 聡美 






序章



 彼の瞳はいつも遠くを見ていた。
 形のないもの、それでいてどこかに存在するはずのもの、つかみどころはないが、どこかしら優しく広大なものの中へ、その夢見がちなまなざしは絶えずそそがれていた。
 私はそんな彼の瞳を愛していた。何ものにも揺るぐことのない透き通ったその瞳は、空を風を光を受けとめ、永遠の空間を溶け込ませているかのような謎めいた美しさに満ちていた。
 五つ年上の吉沢拓人と出会ったのは、三年前のことだ。ある日のある図書館の一隅で、まるでそれが定められたことのように私たちはめぐり会い、引かれ合った。言葉もなくまなざしを交わしたあの瞬間に、二人はそれぞれの心に根ざし続けたどこかしら通じ合う孤独を、互いの瞳の中に確かに感じとったのだった。
 拓人は中学の時に父親を、高校の時に母親を亡くし、ひとりきりの兄は結婚して家庭を持っているため、自動車工場で働きながらアパ−トで一人暮らしをしていた。私はといえば、両親と姉の住む自宅から大学へ通い、すでに三年目をむかえていた。
 今から思えば、決して恵まれていたとはいえぬ家庭環境の中で非行少年時代をおくった拓人と、家族からの愛をいっぱいに受け苦労を知らずに優等生時代をおくった私とが、あの瞬間になぜ同じ心の揺らめきを感じ合ったのかは分からない。だが彼といるとき、私は今までに感じたことのない愛の在り方にとらわれるのだった。
 彼との愛がこの心を満たすとき、私のすべては空へ風へ木々へと次々に解き放たれて一体化し、それはやがてこの世に存在する一切のものとの同化を導く。この瞬間、私の内部には神的な愛が宿り、すべてのものがどれほど愛しい存在であるかに気づくのだ。その時私は、どんなに限りない広さですべてを同じように愛しているだろう。

 拓人と私は、本を読んだり、空想に耽ったり、絵を描いたりすることが好きだった。それで二人でいるときには、本について語り合ったり、一緒に絵を描いたりすることも多かった。
 拓人の描く絵は、いつも不思議なものばかりだった。どこだか分からない風景の中にたたずむ女、赤い血の流れる薄暗い階段、宇宙の中に浮かぶ子供たち……、そうした現実を超えた何かを、彼は描き続けていた。
 ある秋の夜、私は拓人の部屋で、彼が最近描き上げた三枚の奇妙な絵をかわるがわる眺めていた。それらの絵は別々なようにも、つながっているようにも見えた。私がそれらの絵の意味を理解するようになるのはもう少しあとのことなのだが、彼の今までに描いてきた作品の中で、間違いなく、最も私の心の琴線を震わせる力を持つものであった。
 拓人は私のすぐ横で、スケッチブックの最後のぺ−ジに鮮やかな手つきで鉛筆を走らせていた。彼が体を動かすたびに、蛍光灯の白い光を留めているその艶やかな黒髪が、やわらかく揺れ動いた。部屋のあちこちには、描きためた何十冊ものスケッチブックやキャンバスが積み重ねられ、その合間に、数えきれないほどの様々な書物が散らばっている。何箇所もの絵の具の染みができた白い壁紙は、くたびれたようなくすんだ色合いに黒ずんでおり、そこから、彼が時折口にする煙草やアルコ−ルの匂いが強く立ち昇ってくるようだった。
 私は彼の生活の匂いに満ちたこの部屋で、こうして彼の隣に座りながら何でもない時間を過ごすのがとても好きだった。そしてよく、彼の端正な彫りの深い顔立ちや、均整のとれたほっそりとした体付き、繊細に動く形のよい指先などを飽きもせずに眺めていた。彼の行う何気ない仕草のひとつひとつは、そのどれもが一々美しかった。物思いに耽っているときなどに、額にかかる長い前髪を物憂そうにかきあげる仕草は、特に私が愛したものだ。拓人はそんな私の視線に気づくと、何ともいえぬあたたかいまなざしでこちらを見つめ、そして決まって優しい微笑をおくってくれるのだった。
 その日の私は、それらの三枚の絵を眺めることに夢中になっていたため、拓人がスケッチブックから顔をあげてこちらに意味深な視線をそそいでいることに気づかなかった。
「────夏美」
 低音とも高音ともつかぬ微妙な高さをたもった聞き慣れた声が、やわらかく部屋に響きわたる。
「え?」
呼びかけられて振り向くと、私を見つめる拓人の優しげな瞳がそこにあった。彼はスケッチブックと鉛筆をわきにおいて、無言のまま、そっと身を寄せてきた。そのスケッチブックには、私の姿ばかりが何枚も描きためられていることを、私は知っている。
「この三枚の絵が気にいったのか」
そうたずねる拓人の息が髪にかかり、私は少し目を細める。そしてうなずきながら、一語一語力強く答えていく。
「うん、好きよ。……何がいいのかって聞かれたらうまく言えないけれど、とっても好きよ」
それを聞くと彼は小さく声をたてて笑い、ありがとうとつぶやいた。それから愛惜しそうに私の肩を抱き寄せたのだった。その腕に引き寄せられるままに拓人の胸に身をゆだねた私は、かけがえのないぬくもりに包まれながら、あいかわらず、それらの絵ばかりを見つめ続けていた。

 拓人の死の知らせを受けたのは、それから一週間後のことだった。
 バイクでの事故だった。山道の崖淵のガ−ドレ−ルに猛スピ−ドで突っ込み、そのまま谷底へ転落した、と聞いた。
 私は何日もの間彼の部屋の中にこもり、あの日のままに置かれている三枚の絵の前に座り込んだ。そうしてたったひとりで、いつまでもそれらの絵を見つめ続けた。



1. 別離



 砂漠の上を歩いていた。
 ゆっくり足を踏みしめるとさらさら音がして、細かなほこりがけむるように舞い上がった。───そこはただ一面に黄土色の砂の世界。空はわずかなにごりさえ見せない、まっさらな青。かげりない太陽は頭上高くから、ぬくもりを帯びた砂の上に激しい光をそそいでいる。耳を澄ますと、遠い大空の向こうから、静かな息遣いがそっと聞こえてくるようだった。
 私はずいぶん長い間歩き続けてきたに違いない。振り返ると、遥か遠くのほうまで私の足跡だけが点々と孤独に残り、そのまた先のほうは、もうすでに風にかき消されてしまっている。しかし不思議にも、少しとして疲れを感じてはいなかった。
 私はさまよい歩いているというよりは、何かあるものによって導かれているという感覚に包まれていたのだ。それは、心の奥底から沁みだすようにあふれてきたり、どこか遠くから香のようにそよいできては、やわらかく私を包み込むのだった。
 私は歩き続けた。
 ふと顔をあげると、高く盛り上がっている大きな砂の山が眼前に静かに広がっていた。そこを登りつめると、ずっと遠くの方までを───しかしそれはどこまでいっても砂と空の世界だけだったが───一望に見渡せるのだった。私は顔をうつむけた。すると、すぐ下に平らな砂地がどこまでも広がっていて、そこに、ひとりの男の姿が見えた。
 その男は、長く平ぺったい汚れた板を両手にかかえて、何やら一心に砂をかきあげていた。その隣には、三・四メ−トルもある大きな十字架が突き立てられている。よく見渡すとその辺りには、他にも同じような十字架がいくつも、哀しげな色を帯びて点々とそびえていた。
 私はまた視線をもとに戻した。熱い陽差しの中で動き続ける男の姿はどこかしら見覚えがあるような気がしたが、激しい光にぼんやりと白くかすんではっきりと見ることはできなかった。
 私は砂山を下りていった。砂は踏みしめるたびにきしきしと快い音をたてた。男の背中が近づいてくる。長身の体を屈め、熱心に作業を続けている。私は足をとめてその姿に見入った。
─────あれは─────かすかな風が彼の髪を静かに揺らし、その香をのせたまま私のもとへ吹き寄せてきた時、体の奥から沁みだしてくる懐かしい感覚にとらえられて、私は確信した。
「───拓人さん」
思わず声を発し、彼のすぐそばへ駆け寄っていく。拓人は少しこちらに顔を向け、美しい微笑をわずかに浮かべると、またすぐに視線を戻して板を持った手を動かしはじめた。
 彼は何度も何度も砂をかきあげては、神聖な空気を漂わせる十字架のふもとに、それをそっとかぶせている。太陽の光に透けて薄茶に見える髪は、そのたびにさらさらと顔に垂れかかっていく。なめらかな額にはうっすらと汗がにじみ、それは陽射しを受けてきらきらと輝いていた。
「何をしているの?」
たずねながら彼を見つめる。拓人はゆっくり顔をあげると、初めて会った時に私を驚かせたにごりのない研ぎ澄まされた瞳で、真っすぐこちらを見つめ返してきた。
 彼と出会った時、私はこれほど美しく、これほど哀しい瞳は見たことがないと思った。ガラスのように冷たく透き通り、それでいてその奥には燃える激しい情熱が秘められているかのような、一瞬ごとに表情を移り変えていく純粋な瞳。それは切りつけるように鋭く輝いていたかと思えば、次の瞬間には驚くほど優しい光を満たしていたりするのだった。
「墓をつくっているんだ」
 静かな声だった。私は黙ったまま、この人の母さんのお墓なのだろう……と思った。なぜそう思ったのかは分からない。切ないほどの憂いを秘めた彼のまなざしに、それを感じたのかもしれない。けれど、悲しみを増すごとに一層美しくなっていくに違いないこの人が、なぜこんなにも愛惜しいのか、それだけは分かるような気がした。

 私たちは並んで歩き始めた。
 こうしているだけで心が満たされるのを感じながら、ただ真っすぐに互いの瞳を見つめ合った。言葉はいらなかった。視線を交わすたびに心が溶け合った。私は今こそ私が私として生きていることに大きな意味があるのだと感じた。不思議な安堵感に取り巻かれる。寄り添い、触れ合わせる肌のぬくもりが、限りない優しさで心を満たしていく……
 ─────その時だった。
 突然、私と彼との間の地面が、強大な音を轟かせて真っ二つに切り裂かれた。
「…………!」
 揺らぐ砂上で私はとっさに彼を振り返った。こちらの地とむこう側の地の上に別々に立ち尽くす私たちの距離は、みるみるうちに広がっていった。膨大な砂粒があふれるように裂目の中へとなだれ込んでいく。天高く舞い上がる砂けむりは、お互いの姿さえかき消してしまっていた。
「────拓人さ──んっ!」
 私はほとばしりでる激しい想いを破裂させるように、必死になって叫び続けていた。だがもはや、この声が届くはずもない。
 ぼやける視界の向こうで、彼の姿が砂中へと埋もれていく。いつの間にかつくりあげられた深い砂のくぼみが彼を飲み込もうとしている。拓人は動かなかった。かたく唇を閉ざしたまま一言さえ叫ぼうとはせずに、憂いを漂わせたその美しい瞳をゆっくりと伏せた。
────拓人さん……!
 体が動かない。進みたくても進めない。救いたくても救えない。目に見えない巨大な壁が私たちの間に立ちはだかっていた。
「どうして……」
 なぜ私はここにいるのだろう。なぜ彼のそばにいてあげられないのだろう。
 彼の体は音もなく、暗い砂中の奥深くへと、静かに静かに沈み込んでいった。

 私はさまよい歩いた。
 もはや行くべき場所はどこにもありはしない。帰りつくぬくもりをなくした人間にとって、あとはこのまま乾いた砂の上に朽ちていくだけだ。
 目をあげれば、せまりくるゆるやかな砂山。私はそこをふらふらと登りつめた。もう二度と輝くことのないこの瞳で見下ろした景色は、変わりない砂漠と空の世界だ。広大な青空の天中に燃えさかる太陽は、今音もなく、ひっそりと欠けはじめようとしていた。
────ああ…………
 熱く熱くたぎる炎が溶け入るように痩せ細っていく。それと同時に、私の心のすべての情熱が失われようとしている。生きていることは、あの刹那からこんなにも空虚なことだった。
 私はきしきしと音をたてる砂山を下っていった。穏やかな静寂の中に広がる平地にたどりつき、くるくると舞い上がる砂の動きを無心に見つめる。
 その時不意に、懐かしい匂いが体を包み込むのを感じた。私はそっと顔をあげてみる。
「─────!」
 数歩だけ離れた砂の上に、静かに横たわる拓人の姿が目に映った。胸の上で組み合わされた彼の両手に気づいたとき、私はすぐそばに歩み寄り、そっとひざまずいた。
 悲しみを含んで切なく揺らめいていた黒い瞳を隠すように、やわらかく閉じられたまぶた。それをふちどるつややかなまつげが陽の光を受けて頬に影をつくる。赤い唇は、この乾いた空気の中でなおもしっとりとしたぬくもりを帯びているようだった。
 私はそのほっそりとした彫りの深い顔立ちを見つめ、ゆっくりと指先を触れた。
─────あなたはその胸の痛みのために死んでいくのだろう────
 奥底から沁みだすように確かな感情が満ちてくる。未知の可能性を秘めてまだ何事もなし得なかった若い体、人知れずひそやかに美しいつぼみをたずさえていながら明るい外の世界に向かって花開くこともなかった、孤独で純粋な魂。
 ゆるやかな黄土色の砂漠が、さらさらと音を奏でている。その上に、もう動かぬ愛しい人の体が静かに横たわっている。どこまでも続いてゆく神聖な大空の下で、私はその美しい死顔に、そっとくちづけた。

 太陽が消えていく。
 激しい炎はすでにわずかなかけらとなって、最後をむかえようとしている。今、その光がかすかな輝きだけしか解き放てなくても、あたりは何一つ変わりない明るさで続いているように、太陽がやがて完全に消滅してしまったとしても、この砂漠は少しの狂いもなく穏やかな時を刻んでいくのだろう。
 私は歩きはじめた。
 たどりつく安らかな場所を失ったままで。帰りつけるぬくもりだけを求める心に、このまま狂うとしても。生きるのでもなく、死ぬのでもない。たださまようためだけに、私は歩き続けた。



2. 根源



 いつからか、暗黒の世界をさまよっていた。ここはどこなのか、まったく見当がつかない。暗闇の中を進んでいくと、薄明りの中に浮かび上がるひとつの螺旋階段に突きあたった。それは遥か下の方まで、どこまでもどこまでも続いているようだった。
 私は一段一段、その感触を確かめるように足を下ろしていった。
 何という優しい闇だろう。すべてのものが形を無くしてひとつにかたまり、じっと息をひそめてこちらの様子をうかがいつつ、今か今かと一斉に襲いかかる時を狙っているかのような暗闇を、私は決して好きではなかったはずだ。だがこの闇は懐かしい甘い匂いに満ち、私の細胞のひとつひとつにまでやわらかく語りかけてくるかのような安堵感を漂わせている。
 私は足を止めずに、どんどん下っていった。
────トクン……トクン……
 その時どこからか、聞き覚えのあるような不思議な音が聞こえてきた。それは静寂の中でのみ聞き取れるほどの小さな小さな高鳴りだったが、決して途絶えることのない確実な力強さを秘めているように思えた。
「何の音?」
 誰に話しかけるともなく、私は声を発してみる。すると下の方から、聞き慣れた澄んだ声色が、かすかでありながら闇全体を覆うような響きを持って聞こえてきた。
「夏美、そこにいるの?」
 その声が耳に届くなり、私は反射的に階段を駆け下りていった。誰が聞き間違えるであろう、しっとりと濡れたような響きを持つ、この愛しい愛しい声を。
 ゆるやかな螺旋は続き、闇は次第に密度を希薄にしていく。トクン、トクン……と強まっていく音が、駆け抜けるこの体をあたたかく取り巻いては流れていく。そうして私の中で、ひとつの記憶がよみがえってきた。あれはいつのことだったろう。拓人の部屋で、私たちはいつものようにたわいない会話を交わし続けていた。揺らめく熱いアスファルト
鬱蒼と生い茂る青草の匂い、なまぬるい微風、蝉の声────、ああ……そうだ、あれは夏の日のことだ。

─────拓人さん、死のシノニムってなんだろう?
 床に投げ出されていた太宰の小説を拾い上げ、ペ−ジを繰りながら何気なく尋ねてみる。拓人はスケッチしていた手を止め、考え込むように窓の向こうの青い空の中へ視線を注いだ。しばらくの間の、静寂。無造作にかきあげられた彼の前髪が、再びさらさらと額に垂れかかっていく。美しい瞳が外界からのまぶしい光をいっぱいに受けて輝いている。
─────夏美はどう思うの?
 静かにたずねる優しい声、やわらかな口調。私は彼の話し方がとても好きだ。
─────わたし……は……
 そう問い返されてとまどい、そっと口をつぐむ。そして同じように窓の外に目を向ける。今私たちのまなざしはあの青空のどこかで溶け合っているのだろうか……、そんなことをふと思ってみる。長い長い沈黙。
 そして次の瞬間、二人はほとんど同時に吐息をもらすような調子で言葉を吐き出した。
─────胎児…………
 二つの声は美しく重なり合って、どこかしら切なげな響きを秘めながら部屋の空気に浸透していった。私たちは驚いたように顔を見合わせる。けだるい蝉のうなり。行き過ぎる飛行機の遠いジェット音。かすかな風が、互いの髪をやわらかく揺らしながら通り過ぎていく。
 それから二人は声をたてて笑った。
─────それは生のシノニムであり───
─────死のシノニムであるもの。
─────同じこと考えてたね……
─────うん……

 長い時間をかけて下まで降り切ると、楕円形をした同じように薄暗いひとつの部屋に行き着いた。そこは一隅に小さな鉄の扉がついているだけで、他には何もない殺風景なところだった。
 ドクン ドクン……
かすかだったあの音が、強さを増してはっきりと響き渡っている。この部屋のどこかにその源があるのだ。私はようやく暗がりに慣れてきた目を凝らして、ゆっくりとした足どりで部屋の中を歩き回ってみた。何もない空間をうめるものは、神秘的な響きを持つこの音と頼りなげな私の足音だけだ。
 その時不意に、背後からかすかな物音が聞き取れた。とっさに振り向くと、今下ってきたばかりの螺旋階段の下から、ひとつの人影がゆっくりとした動作で立ち上がるのが見えた。
「───拓人さん!」
 薄明りの中に浮かび上がる整えられた輪郭は、まぎれもなく彼のものだ。
「───夏美」
 その声に誘われるままに近づいていくと、拓人はそのあたたかな腕の中に私をそっと抱きとめた。
「ここにいたのね。死んじゃったのかと思ってたのよ」
 拓人はそれには答えず、黙ったままただ静かに微笑んだ。私は彼に体をもたせかけて、この部屋に響き渡る力強い音にもう一度耳を傾けた。
────ドクン ドクン……
「拓人さん、これ何の音なの?」
「───心臓の音だよ」
「心臓の?」
 私は目を閉じ、その響きにじっと神経を集中した。それはどこか哀しげなものを秘めているようにも聞こえたが、たくましい生命力に満ちた高鳴りをいつまでも規則正しく繰り返していた。
「これはどこから聞こえてくるの? 誰の鼓動なの?」
「部屋全体から響いてくるんだ。誰のものというわけではない、すべてのものの鼓動だよ」
 音が澄んでくる。それとともに、頬を押しあてた拓人の胸から同じような響きをもつ力強い音があふれてくる。私の内側は熱くなり、それらに呼応するかのように激しく高鳴りはじめる。
「こうしていると拓人さんの音が聞こえてくる……」
「夏美の音も聞こえているよ。分かるかい、君と僕とこの部屋と、すべて同じリズムで動き続けている」
 心地よく耳に広がる拓人の言葉。私の音、拓人の音、すべてのものの音───、入り混じり、溶け合って、熱く熱く高まりながらひとつの音楽に変わっていく。かけめぐるこの血の流れは今にも体からあふれ出て、拓人を、この部屋を、いっぱいに染め上げてしまいそうだ。
 私は拓人の胸にうめていた顔をそっと起こし、闇と淡い光に彩られた相も変わらず美しい彼の容貌を見つめた。拓人は穏やかな色に満ちた静かなまなざしで、こちらを見下ろしている。
「───ねえ拓人さん、ここはどこなの?」
 私は子どものような気持ちになりながら、あどけなくたずねてみる。拓人はそれには答えず、少し首をかしげて微笑すると、そのまま私から体を離して一歩一歩踏みしめるように扉の方へ歩いていった。そして扉の前に立つと、ためらいもなくその取手に手をかけ、ギイッ……という重いきしみをたてながらゆっくりと扉を押し開いたのだった。
 部屋の中に少しづつ満ちてくる光。何者かの意志のように破りがたく支配する静寂。そこには、神々しい輝きを放つ数えきれない星の渦をちりばめた、冴々と澄み渡る青く深い闇の世界があった。
─────宇宙だ─────
 私は目を見開き、開け放たれた外の世界に心を奪われる。わけもなく涙がこぼれ、この部屋も宇宙も拓人の背中も、何もかもがにじんで色や形を崩し溶け合って映る。拓人はふわりと振り返り、真っすぐに私を見つめた。そして聞き慣れたよく通るつややかな声でゆっくりと語りかけてきた。
「────この部屋はね、子宮なんだ」
 心に直接届いてくる響き。ふっと目を細めてやわらかく笑う拓人。そうして短い言葉と微笑みだけを残して、彼は扉の外へと足を踏み出した。
「拓人さん……!」
 その瞬間、どこからかあふれてきた神聖な光の束が彼を包み込んだ。その背中は白い明るみにまぎれて漠然とした輪郭になっていく。
 そして彼は飛び立った。
 光はいっそうまぶしく輝き、行く先を示すように遥かかなたまで真っすぐに広がっていく。私は開け放された扉のそばへ駆け寄っていった。だが立ちつくす以外に何ができるというのだろう。
 なすすべもなく見上げる私の頭上で、拓人はゆるやかに飛翔していく。

  ………降りそそぐ月の光の中であなたは振り返った。赤くかわいた薄い唇は金色に潤い、空へうつろう遠い瞳はまだ胎児であった頃の自分を夢見ていた。あの青い空間の向こうには、すべての命を受けとめるやわらかな腕がある。匂い立つ母体の香。それは地上の泥にまみれた肉体をゆっくりと溶かし、優しい安堵の中で深い眠りにつかせるのだ。
  ────キミハウツクシイ
 舞い上がる黒髪、ほどけていく衣服。細い背中は青く染まり、それを受けとめようとする白い指先に音もなく導かれていく。ここからのばした腕はもう届かない。このけがれた体では追いかけることもできない。心を圧する予感に打ち震え、その面影に想いこがれて熱くゆがんだ瞳で見つめ続けるだけだ。
  ────キミハ ソノニオイヲオイモトメテ トビタツトイウノカ
 その足がまだこの地上のものであった時、逃げることだけがあなたのすべてだった。それにもかかわらず私の心の琴線は共鳴して震えた。それは遥かな過去、私の鼓動があなたの中で息づいていたからだ……

 彼の姿は次第に遠ざかり、宇宙のかなたへと消えていった。私はぼんやりとした意識のまま、その方向を見つめ続けるしかなかった。
 そして私は不意に軽いめまいにおそわれ、徐々に体の力が抜けていくような感覚にとらわれていったのだった。



3. 融合



 目覚めると、抜けるような青空があった。
 ときおり、様々に形を変える白い雲が地上に影を落としながらゆるやかに視界をよぎっていく。陽差しはまぶしく照りつけ、やわらかな風のそよぎに混じって甘い香が漂っている。
 私はけだるい体をゆるゆると起こしてみた。
 見渡すと、そこにはただ一面名も知らぬ花々が咲き乱れていた。
────この中で眠っていたのか……
 そう思いながら、透明な空気を胸いっぱいに吸い込んでみる。どこまでもどこまでも空と花ばかりの世界だ。
 私は顔を上げて、もう一度切ないほど澄み切った空を眺めた。
────私が生まれた日の空も、ちょうどこんなまっさらな青色だったのだろうか。
 ふとそんなことを思うと、父と母と姉の顔が浮かび上がり、その面影はまぶしい青みの中へゆっくりと溶け込んでいく。そうして色々な思い出があふれるように胸の中に満ちてくるのだった。あの場所、あの人々、あの出来事───、様々な愛しい記憶が浮かんでは消え、浮かんでは消えて、ゆるやかな渦となって脳裏を駆けめぐっていく。

 私をめぐるすべての人たちの目に、私はどのように映ってきたのだろう。時がたっても彼らの胸に私の存在は少しでも残されているのだろうか。残されているのだとしたら、どんな感情をともなって思い起こされるのだろうか。私はただ、私にかかわったすべての人々が愛惜しいだけだ。すべての出来事が、今ある「私」を形づくってきたのだから。
 私たちは時の流れとともにあまりに多くのものを失っていく。この世に生まれてきて無駄な命など何もないと、私たちはいつも互いに言いきかせているはずなのに。無駄でないのなら、いつまでも存在し続けることが許されていいはずなのに。
 頼りなげな生を受けて、私たちは決して同じではない日々を営んでいく。喜び、哀しみ怒り、感動……、愛しい感情の起伏。そうして私は、あらゆる感情を繰り返して自分自身の日常を不器用に生き抜いていく────。

「───夏美」
 突然、懐かしい声がした。気配を感じ、息を止めてそっと振り向くと、愛さずにはいられなかったただひとりの人が、何か言いたげなまなざしをしてたたずんでいた。私は思わず立ち上がった。
「拓人さん……!」
 言葉にならない声がわずかに唇からもれていく。立ちすくむ二人のかたわらでは、やわらかに吹き寄せる風にそよいで鮮やかな花の群れが様々に揺れ動いている。二人は黙って見つめ合った。
────心が満たされる────
 言葉にしない互いの心が強くからみ合って溶けた。言葉も時間も場所もない空間、そこに私たちだけが二人、互いの内面から熱く揺らめき立つ呼吸のからまりに動きを封じ込められ、歓喜の色に染まりゆく瞳だけを唯一動きあるものとして輝かせて、その恍惚とした切ないほどにあふれくる感動を隠しきれないまま、心を震わせていた。
「……どこにいっていたの……?」
 私は沈黙を破り、燃えるような花の色が揺らめいているその瞳の中をのぞき込む。拓人はいつものようにやわらかく微笑し、しなやかな指先で優しく私の頬に触れた。
「どこでもない場所だよ」
「───どこでもない?……よく分からないわ」
「どこにでもいるということだ」
「どこにでも……? ───拓人さん、じゃあここはどこなの?」
「世界の果てだ」
 彼はそこで口をつぐむと、どこまでも透き通っていくその瞳に内部から立ちのぼる様々な感情を映し出しながら私を見つめ続けた。大きく開かれた切れ長の目を縁取るつややかなまつげの下で黒い瞳は光に濡れてきらめき、薄くあいた唇からは歯の白色がかすかにのぞいている。そのまま微動もしない彼の姿は、ひとつの美しい彫像のように見えた。
「───君があんまり悲しそうな顔をしていたから、ここにいるんだよ」
 拓人はささやくような声でそう言うと、不意に私の額にそのしっとりとした唇を優しく押しあてた。そのぬくもりを痛いほどに感じながら、私はこの時初めて、そのくちづけからすべての意味を理解したような気がしたのだった。
「行こう」
 強い意志をはらませて拓人が私の手を取る。それに答えるように、指先に力を込めて握り返す。
「私分かったの、だから確かめにいくわ───」
─────宇宙へ─────
 言いかけて途切れた言葉の、届かないほどかすかな響きが風にかき消される。にじむ瞳に映る彼の微笑が淡くかすんで見えた。
 私たちは走りはじめる。花々の間を抜け、風をいっぱいに受けて、あの青い深みの中へ駆け上がっていく。空気が体中にあふれるほど流れ込み、驚くほどたやすく二人は空中へ浮かび上がる。
 そうしてそのまま雲を超え空を超えて、どこまでも果てしなく広がっていく深い深い宇宙の闇の中に突き抜けていった。
 ────すべてのものよ、私の中になだれ込んでこい……!
 鮮やかな金色の道を放つ星々が、おごそかに動き続ける惑星たちが、近づいては遠ざかり遠ざかっては近づいて、やがては私たちの中に吸い込まれていく。
 若い私は限りなく愚かだから、掌から失われていく愛しいものたちの存在の大きさに自らを責める時がきても、走ることをやめないだろう。だがすべては、今を生き抜こうとする私の体と精神の美しさを、そのふところに抱きとめるだろう。
 そっと顔を上げて横を向くと、何もかもを許容しているかのような愛に満ちた瞳をした拓人がいて、分かっているよ…いうように優しく優しく微笑んでいた。
 あふれてくる光を身にまとった私たちは、すべてを吸収しながら次第に速さを増してこの空間を突き進んでいく。
────ドクン ドクン────
 すべてに呼応する音が赤い血のめぐりに合わせて私たちの中で激しく熱く脈打っている。私はすべての中に取り込まれる。そうしてすべては私なのだ。
────カノジョノクチビルニ カレノコドウガ イキヅクノハ……
 歌うような拓人の声。響き渡る原子の鼓動。増していく光の中で、私たちはやがてひとつに溶け合い、宇宙を飲み込みながらどこまでもどこまでも飛び続けていった。



終章



 もうじき、春がやってくる。
 私は窓を開け放ち、まだ冷たい風を部屋の中いっぱいに流し込んだ。外は朝の明るい光に満ちあふれ、爽やかな小鳥のさえずりが澄んだ空気の中に響き渡っている。
「夏美、早くしなさい!村瀬さんが待って下さっているのよ」
下から母の呼ぶ大きな声が聞こえてくる。
「今行くわ!」
 私は同じように声をあげて返事をすると、上着とハンドバックを急いで手に取り、ドアの取手に手をかけた。その時、ふっと視界に入ったものがあった。私は思わず足を止めて振り返り、ベットの上の壁を真っすぐに見つめた。
 そこには、ある三枚の絵が、きっちりと並べて飾られてあるのだった。
 ───それはかつて、私の最も愛する人が命を込めて描いたものだった。その人は、今はもういない。
 癌だった。気付いた時には、もう末期だったのだ。彼は自分の体がどんな状態にあるのかをよく知っていた。そしてついに私にそのことを一言も告げないまま、悪化して動けなくなる前に、バイクの事故でこの世を去っていった。私は彼の葬儀の後に、初めて彼の兄の口からその病気について知らされたのだった。
 自殺だったのではないかとささやく人たちがいた。だが彼は決して死のうとしたのではない。彼はただ青空の向こうへ飛び立とうとしただけなのだ。すべてに生まれ変わるために。すべてを愛し続けるために。
 私はそれらの絵に明るく微笑みかけると、ドアを開けて、勢いよく階段を駆け下りていった。

 私はこの秋、職場で知り合った村瀬という男性のもとに嫁いでいく。
 玄関の扉を開くと、彼が穏やかに笑いながら車のドアを開けて待っていてくれた。
 ゆるやかに風が流れ、木々の梢をさわさわと揺らしながら行き過ぎていく。私は不意に空を仰いだ。その音に混じって、どこからか、あの人の祝福する声が聞こえたような気がしたのだ。私は心の中で、ありがとう……とつぶやいた。
 そして青く高い空に向かって、とびきりの表情で笑いかけた。






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