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大阪教育大学 国語学特論2
受講生による 小説習作集

詩織

年度号
box猫阿部晃延
表裏 ―光と闇―藤井美和子
ためいき藤井宣樹
ずっとずっと
想いつづけたあなたへ
―みそひともじで
伝えたいこと―
稲室瞳
七色のリボン篭重友紀枝
ナニワ革命川口真祐子
カリスマパパ菊池聡美
松村祥子
カメラの視線松尾澄英
憧憬増田悠理子
心の隙間中野友絵
太田晃
幸せな世界下田代美樹
ロータリー谷澤素子
ムサシとサスケ山本芳弘
女神吉川万世
なつやすみのとも古田雄佑
関西教育大学殺人事件
問題編
國原信太郎
編集後記・奥付野浪正隆

「box猫」
阿部晃延


ドア  ボクはいつからここにいるのだろうか?
 外は11月の冷たい風にさらされている。時折吹く強い風が木々を強く揺さぶっている。ボクはサークル棟の2階の窓のそばの陽だまりにうずくまって外を眺めながら、ふとそんなことを考えた。
 ボクが物心ついたときには、確か、いわゆる普通の家庭にいたように思う。暖かい部屋で母さんからミルクを飲ませてもらうのが唯一の日課だった。最初は、兄弟が5人ほどいたように思う。でも、1人、また1人と彼らはどこかへ連れて行かれてしまった。そして、ボクともう一人が残った。そんな次の日、忘れもしないあの日がやってきた。
 その日は、春といってもまだ時折冷たい風が吹き付けるような日だった。まだ日も昇らない早朝に、僕はぐっすり眠ったまま車に乗せられた。
 そしてここに連れて来られた。
 ここに着くころには日も昇っていて、日の光が大気をほのかに暖かくしていた。ボクは車から出してもらった。ボクにとっては、初めての外の世界だった。今までは、家の窓ガラス越しに眺めていただけの草や木や花や土がそこには直にあった。ボクはあまりのうれしさに無我夢中で走り回った。土を踏んだらこんな感触がするんだ。花はこんな匂いがするんだ。木はこんなに高いんだ。すべてが初めての体験だった。そしてボクは、ここにつれてきてくれた喜びに声をあげながら振り返った。
 そのときボクの目に映ったのは、走り去ってゆく車と道端に置かれたダンボールと古びれた毛布。
 そう、ボクはその日、捨てられたのだ。
 そういえば、まだ自己紹介をしていなかったようだ。ボクはネコだ。雪のような白地に、そこに当たる陽光を背に帯びたような・・・といえば聞こえはいいが、いわゆる普通のトラネコだ。あと、鼻についた茶色のぶちがボクのトレードマークだ。
 ボクはD大のサークル棟というところに住んでいる。主な日課は、そこにいる人たちにえさをもらうことと気ままに散歩することぐらいだ。
 話を過去に戻そう。
 D大は山の上にあって、そこまではエスカレーターが山沿いに設置されている。ボクが捨てられたのは、そのエスカレーターとエスカレーターの間の小さな広場だった。
 走り去ってゆく車を最後まで見送ったとき、ボクの背後に複数の気配がした。振り返るとそこには5,6匹の猫たちがいた。彼らは、1匹だけが銀色で、後は皆黒ばかりだった。どうやら、銀色がその群れのリーダーのようだった。そして、その銀色がおもむろに口を開いた。
 「おまえも捨てられたみたいやな。悪いけどここは俺らの縄張りやねん。こどもやからって容赦できへん。とっとと出てってや。」
 銀色は笑顔でそう言ったが、その目だけはとても笑っているようには見えなかった。ボクは初めて会う他人にドキドキしながらも、もしかしたら助けてもらえるかもしれないと期待していただけに、その言葉はかなりつらく思えた。そんなボクの気持ちを知ってか知らないでか、
 「この山に住めばいろんな人がえさをくれるから飢えることはないさ。だから上の方にに行くといい。でもこの辺りはデブ銀一家の縄張りだから決して荒らすんじゃないよ。」
 人の、いや、ネコの良さそうな1匹の黒がそう教えてくれた。銀色はデブ銀という名前らしかった。そういえばここの猫たちは皆丸々と太っている。飢えることがないというのも間違いないようだ。
 ボクは縄張りに入ったことを詫びて、広場を後にした。頂上へと続く階段は果てしなく続いているように思われた。ただ、エスカレーターに乗るのはさすがの怖かったので、一段一段がんばって階段を上ることにした。途中何度もくじけそうになったが、ここにいるとあのデブ銀一家が追いかけてくることがわかっていたので、ひたすら歩みを進めた。
 やっとの思いで頂上まで着くと、あまりの疲労のためボクはそのままへたり込んでしまった。そして、そこはデブ銀一家の縄張りではないようだったので、とりあえずここで休憩することにした。そこはだだっ広く、不自然な自然がなんとも印象的だった。
 休みながら、ボクはほかの兄弟のこと、母さんのこと、捨てていった飼い主のこと、これからのことなどいろいろ考えることにした。
 兄弟もあんなふうに捨てられたのだろうか。いや、そうではないようだ。兄弟が連れて行かれたのは、決まって昼間だったし、知らない人の車に乗せられたりしていたからだ。どうやらいろんなところにもらわれていって、最後に残ったのがボクともう一人だったのだろう。そしてそのうちのボクが捨てられ、もう一人はあの家で飼われるのだろう。
 どうして僕が選ばれたんだろう?
 そうこうするうちに、朝日もだいぶ昇ってきて、何人かの人が山を登って建物のほうに歩いていった。そんななかで、ボクがこれからのことを考えようとしたとき、一人の女の人がおもむろにボクのところにきて、「かわいーー」と連発しながらごしごしと頭をなでた。これでは考えるどころではない。
 でもなぜ人は猫の頭をなでたがるんだろう。
 そう思いながらも、初めてかまってくれた見ず知らずの人に「ニャーニャーー」と愛嬌をふるった。
 すると彼女は、かばんの中からなにやら箱のようなものを取り出して、そのなかから変な棒を1本つまんでボクの前に置いてくれた。どうやらそれは食べ物らしい。後で知ったことだが、箱は弁当箱というもので、その棒はソーセージというものだった。もちろんそのときのボクはそんなもの見たこともないし、ましてや食べたことなんかなかった。かなり警戒してから、おそるおそるそれをなめてみた。どうやら「ニク」らしい。母さんが似たようなものを食べてたような気がする。そしてそれ以上にボクのおなかがそれを食べるよう訴えていた。そういえば、昨日の晩に母さんからミルクをもらったっきり何も口にしていなかった。
 ボクは勇気を出してそれをかじってみた。それは口の中でなんともいえない味をかもし出した。そしてがつがつと食べ終えると、おなかに収まって、ぐっと元気が沸いた。
 ほっと一息つくと、彼女はそれを待っていたかのようにボクを抱え上げた。彼女の腕の中は暖かく、柔らかかったので、ボクはいつのまにかうとうとと眠ってしまった。
 どのくらい寝ていたのだろうか、ボクは彼女に地面に降ろされて目が覚めた。そこは、さっきのところよりまだ広く、ボクはその煉瓦造りの地面に降ろされたのだ。
 「ここで友達と一緒に暮らしねーー」
 と、彼女は言った。僕はもしかしたら彼女がボクを飼ってくれるんじゃないかと思っていたのを残念に思いながら、あることに気づいていた。それはさっきのデブ銀一家のところで感じたような複数のネコの視線であり、またそれが好意的とは言いがたいものだ、ということだ。そしてボクは知っていた。すぐに逃げ出すべきことを。
 しかし、猫たちは彼女がいる前では手を出そうとはせず、愛想笑いを浮かべながらボクと彼女に近づいてきた。どうやらここの猫たちは皆うその笑顔が得意らしい。また、人間たちは皆この笑顔と「ニャー」という猫なで声にだまされやすいようだ。実際彼女も、
 「早速友達が来てくれたね、仲良くできそうでよかったね。」
 と、しっかりだまされていた。
 僕は猫たちに負けないような愛想笑いを浮かべながら、彼女がほかのネコに注意をそらしたすきに、一目散に逃げ出した。猫たちは彼女の手前、僕を追いかけることができなかったようだ。それでもボクは心臓が破裂してしまうほど一生懸命駆けに駆けた。
 どうやらこの山に住む猫たちは群れを作って縄張りのなかで生活しているものが多いようだ。それだけ生存競争が厳しいのかもしれない。
 そんなことを考えながら、彼らの縄張りを抜けたようなのでボクはゆっくりと歩き始めた。
 少し行くと、1人の年老いたネコが気持ちよさそうに惰眠をむさぼっていた。ボクは少し警戒しながら彼に近づくと、老猫はそれに気づいてゆっくりと目を開けた。ボクはさっきから怖いネコばかりに会ってきたので、ちょっと怖いかなと思ったが、その猫のなんともいえないイイヒトオーラに吸い寄せられていった。すると老猫はボクを見ながら、
 「ほっほー。これはまた見かけん顔じゃナ。どうやら今日ここに着いたばかりのようじゃ。息を切らしているところをみると学生課前のぶっちの縄張りに入って追い立てられたのじゃろ。ここは誰の縄張りではないから少し休んでいきなさい。その間にここで生きるコツみたいなものを教えてあげよう。」
 と言ってくれた。ボクはその言葉を聞いてその場に座り込んでしまった。そして少ししてから、
 「ここは皆が縄張りを持って生きているようです。ボクはどうやって生きればいいんでしょう?」
 と聞いた。老猫は、
 「それは自分で決めなしゃい。ただ、少し縄張りの事を教えといてやろう。この大学には大きな縄張りを持つ群れが3つある。1つはさっきの学生課前のぶっちの群れ。1つはエスカレーターのところのデブ銀一家の群れ。1つはB棟付近にある黒猫兄弟の群れじゃ。そこ以外ならどこに住んでもいいんじゃが、そうじゃの、お前さんはまだ屋外で生きるには幼すぎるから、サークル棟に行ってみてはどうじゃ。」
 その後もボクは老猫にいろいろなことを聞いた。この大学のこと、ここにいる人たちのこと、サークル棟のこと、どうしたらうまくえさをもらえるかということ。
 聞くことは山ほどあった。老猫はその一つ一つを丁寧に教えてくれた。さすがに人生経験豊富な彼は知識もまた豊富だった。
 多くのことを学んでから、ボクはじじいに(そう呼ばれているらしい)にサークル棟に連れて行ってもらった。サークル棟の前でじじいは、
 「ここから先は自分で行きんしゃい。まあがんばって生きるこった。たまにはわしのところにも顔を出しな。」
 と、言ってくれた。僕はじじいにお礼を言って別れた。
 サークル棟は2階建てで門がなぜか2つあった。いたって平凡な建物で、周りには何もなかった。じじいが言うには、ここには住んでいるような人もいるらしく、ほかの場所より週末や休みの日でも人の出入りが絶えないので、食べ物に困ることはないし、建物の中で暮らしていても誰にも何にも言われないので雨風もしのげる、ということだった。実はじじいも捨てられて大学に来た当初はここに住んでいたらしい。
 じじいはどうしてここに住むのをやめたんだろう?
 サークル棟に着いたボクだったが、なかなか中に入ることができなかった。というのも、ドアが閉まっていて、ボクの力ではどうしようもなかったからだ。そうして、ドアの前でおろおろしていると、通りかかった男の人がボクを抱え上げて、そのまま中に入ってくれた。どうも親切な人が多いようだ。彼は入り口のところでボクを下ろすと階段のほうへ歩き出した。僕は彼に付いていくことにした。彼は2階に上がって、角を曲がって二番目の部屋に入ろうとした。すかさずボクは開かれたドアの間をすり抜けて中に入った。その瞬間だった。僕は首をつかまれて外に放り出された。少し経つまでボクは何が起こったかわからなかった。とりあえずボクはその近くにあったビニールと鉄パイプでできた安っぽいソファの上に座った。
 どうしてボクは放り出されたんだろう?

 おいしそうな匂いに物思いは中断を余儀なくされてしまった。外は相変わらず11月の風が吹きすさんでいる。ボクの隣でニコニコしながらキャットフードの缶詰をせっせと開けている男がいる。彼はボクの飼い主の一人だ。ボクはここで何人かの飼い主を見つけた。彼らはボクをそれぞれが思い思いの名で呼ぶ。
 ボクは飼い主ごとに彼らが好むように自分の性格を使い分けている。あるいは人なつっこい猫、あるいはクールな猫、あるいはぐうたらな猫、といったようにだ。
 どれが本当の自分なんだろう?それともどれも本当の自分じゃないのかもしれない。
 なぜこんな風に考えるようになったのかというと、ある夏の日に、じじいを訪ねてどうしてサークル棟に住むのを止めたのか聞いたとき、じじいに変な答えをもらったからだった。じじいは、
 「いずれお前もわかる日が来るじゃろうて。ただ自分と言うものを決して見失うんじゃないよ。自分を見失ったらお前は猫であって猫でなくなるんだよ。」
 と、言った。どういう意味なのか聞こうとしても、そのままじじいは寝てしまって、何も答えてはくれなかった。
 そんなじじいも今はもういない。あれから何日かしてじじいのところに行ったときには、じじいは姿を消してしまっていた。どこを探してもじじいは見つからなかった。今思うと、じじいはボクに会うのが最後だと知っていたからあんなことを話してくれたのかも知れない。

 それから幾日も月日は流れた。それからのボクにはいろんなことが起こった。酔っ払った人にアルコール入りのキャットフードを食べさせられて二日酔いになったり、正月休でサークル棟が締め切られてどこにも出られず飢え死にしそうになったり。
 そんなこんなでボクがここに来て一年になろうとしていたある日のこと。その日は、ボクがここに来た日と同じような、春といってもまだ時折冷たい風が吹きつけるような日だった。まだ日も昇らない早朝に、ボクは作業服を着たおじさんにえさをもらった。眠い目をこすりながらボクはえさを食べた。どんなときでもくれたえさはしっかり残さず食べておく。これがここで生きるために必要なことだった。
 だがその日は少し違った。えさを食べれば食べるほどボクは睡魔の誘惑に勝てなくなってしまった。ボクはおじさんに抱えられるのを感じながら深い眠りに落ちてしまった。
 目が覚めると、ボクは車に乗せられた檻の中に入れられていた。そこには、デブ銀やその群れにいた親切な黒やほかにも何匹かの猫が入れられていて、皆しょげこんでいた。
 車が動き出した。皆何も言わずうつむいている。どうやらどこに連れて行かれるのか知っているようだった。

 今度はどこに連れて行かれるのだろう?



表裏 ―光と闇―
藤井美和子


「ごめんごめん待たせたね。」
「どーも、無理いってすみません、先輩。」
高橋圭介が研修医として勤務している病院のロビーで、圭介の大学時代の後輩である五十嵐かおるは、圭介と待ち合わせていた。
「いいよいいよ。もうすぐ主治医の先生が来るから、座って待ってて。」
「はい。」
「先生こちらです。」
黒服の上に白衣をラフにまとった辻 薫が、廊下をゆっくりとけだるそうに歩いてきた。
「いちいちそんな大きな声を出さなくても聞こえている。」
「どうも。お忙しいところすみません。私、五十嵐といいます。」
そう言って名刺を差し出した。
「どうも。波田伊吹の担当医の辻です。・・・ほう、フリーライターねぇ。で、フリーライターのあなたが、波田伊吹に何の御用ですか。」
「はい。今回ある週刊誌の特集記事のために、伊吹さんの病院生活をドキュメントで取り上げたいと思いまして、それで取材に。」
「あなたは、波田伊吹の病状をご存知ですか?高橋さん彼女のカルテを。」
「はい。」圭介はあらかじめ用意していたカルテを差し出した。
「確かに今は安定しているが、いつ病状が悪化するかわからない。もしそうなれば彼女はおしまいだ。それに彼女は誰にも心を開こうとはしない。そんなクランケを取材させるわけには・・・。」
「先生のおっしゃることはわかります。ですが、彼女が心を閉ざしているからこそ取材したいんです。彼女がこの病院で感じていること、思っていることを世間に知らせたいんです。」
「知らせてどうするんですか?」
「彼女の夢を語ってあげたいんです。心を閉ざしてはいても、その中には愛や希望がいっぱいにあふれているはず。何たって十三歳の女の子ですもの。」
辻は舞い上がっている五十嵐の姿に怒りを覚え、その場を立ち去ろうとした。
「先生!かおるの言うことも少しは聞いてやってください。」
圭介が「かおる」という名前を言った瞬間立ち止まり、振り返って言った。
「かおる?あなた五十嵐かおるさんとおっしゃる?」
「はい」
「そう、五十嵐かおるさん、はっはっは・・・。」
辻は不適な笑みを浮かべた。
「なにがおかしいんですか?」
不思議そうに、そして不愉快な気持ちを隠せない表情で五十嵐がそう言うと、辻は急に淡々とした口調で話し始めた。
「いえいえ、わたしも「辻 薫」というものですから・・・。ところで高橋さん。さっき「かおる」なんて呼び捨てにしてたけど、彼女とは・・・」
「大学の後輩です。」
「ということはあなたも医学部を?」
「はい。」
「なら話は別だ。高橋さんの後輩だし、医学部出身ということは、まんざら素人でもなさそうだ。わかりました。特別に許可します。」
「ありがとうございます。」
五十嵐と圭介は深ぶかと頭を下げた。
「但し、絶対にクランケを刺激しないでくださいよ。」
「はい。わかってます。」
「じゃ、わたしは仕事に戻りますので、失礼。」
そう言うと辻は足早に去ろうとしたが、険しい顔をして振り返った。
「あっそれと、あなたさっき、クランケの夢を語りたいっておっしゃってましたけど・・・。
病院においてクランケの夢なんてない。あるのは、病気との闘いだけだ。」
夢や愛など、偽善者じみたことを並べている五十嵐の思想とは正反対の思想を持った辻には、五十嵐の考え方が気に入らなかった。それを察した五十嵐を見た圭介は、彼女の気持ちをなだめるように言った。
「まぁ、あれで腕は抜群だからな。さっ、とりあえず病院を一回りしてから、波田さんの病室に案内するよ。」
「はい。」
五十嵐は、圭介の慰めに安堵し、すぐに笑顔に戻った。

波田伊吹の担当の看護婦が、朝のバイタルチェックのために伊吹の病室に入ってきた。伊吹はカーテンを閉めたままの窓辺に車椅子を寄せ、遠い眼をして座っていた。
「あっだめですよ、波田さん。ベッドにはいってなくちゃ。」
「・・・。」
「さっ、ゆっくり入って。カーテンも閉めてないで、朝の光をいれましょう。見て、今日もとってもいい天気よ。」
看護婦は笑顔で伊吹に話し掛けるが、何の反応も示さない伊吹に落胆し、ため息をついた。
「おはようございます。」
圭介が五十嵐を連れて病室に入ってきた。
「おはようございます、圭介先生。じゃ、あとよろしくお願いします。」
「はい、お疲れ様でした。おはよう伊吹ちゃん。」
「・・・。」
「今日はね。伊吹ちゃんに会いたいって人が来てるんだ。フリーライターの五十嵐かおるさん。伊吹ちゃんのことを取材したいんだって。」
「初めまして。伊吹ちゃん。よろしく。」
五十嵐は、伊吹に向かって握手を求めるために手を差し出したが、伊吹はそっぽを向いた。
「あっそうだ。伊吹ちゃん、もうすぐ回診の時間だから体温と脈拍を測らなくっちゃ。さっ、手をだして。はい、脈拍・・・七二。じゃ、体温測って。今日はいい天気だし、庭を散歩しようか。」
「・・・。」
「はい。三十六度八分っと。」
「回診です。」
辻が看護婦とともにポケットに片手を突っ込んで回診にきた。そして五十嵐を一瞥して言った。
「おや、あなたもいらっしゃったんですか。」
「はい。早く彼女に会いたかったものですから。」
「そう。高橋さん、クランケの今朝の体温は?」
「三十六度八分です。」
「脈拍」
「七二です。」
「そう。・・・異常はないな。すこし熱が高いか。おい君、薬に少し、アセトアミノフェン入れといて。」
看護婦にそう指示すると、「クランケを刺激しないように」と念を押し、看護婦にドアを開けさせた。
「先生 !」
圭介が辻を呼び止めた。
「あの、今日、伊吹さんに庭を散歩させてあげたいんですが。」
「・・・まったく。君はさっき何も聞いていなかったのか?」
「わかってます。でもたまには外に出て、太陽の光を浴びるのも・・・」
「必要ない!何が太陽の光を浴びるだ。だからあなたはいつまでたっても半人前なんですよ。」
「何もそこまでいわなくても。」
「あなたには関係ない。それに風も冷たくなっている。クランケの体に何が起こるかわからない。少しは考えてものをいって欲しいものですよ。まったく。あなたたちはわたしの言うとおりにさえしていればいいんだ。それがクランケを生かす道だ。」
「はい。すみませんでした。」
そう圭介が誤るのも聞かないうちに辻は病室を出て行った。
「どうして誤ったりするんですか、悔しくないんですか!」
「仕方がないよ。あの人の言うとおり、僕はまだ半人前だし。」
「でも・・・。」
「いいんだ、さあいこう。」
自分のために腹を立てている五十嵐を見て、圭介は精一杯の作り笑いを見せた。

次の日、五十嵐は伊吹のために花束を用意し、圭介とともに病室へ入ってきた。病室は看護婦の手によってカーテンが開けられているのでかろうじて明るいが、それに反して伊吹の表情はいつものとおり暗かった。五十嵐は精一杯の笑顔で伊吹に話しかけた。
「伊吹ちゃん、はいお花。綺麗でしょう。」
「よかったね、伊吹ちゃん。ん〜いい匂いがする。」
伊吹の反応を待ったが、何の反応も示さないため、しばらく沈黙が流れた。そんな沈黙を嫌って圭介は咄嗟に言った。
「そうだ、伊吹ちゃんりんご食べよっか。」
「じゃわたし、お花活けてきます。」
二人がりんごをむき、花をいけ始めようとしたとき、ドアがあいた。
「回診です。」
看護婦と、辻が足早に入ってきた。
「おや、また今日もいらしてたんですか。」
五十嵐は不愉快な顔で「はい」と返事をし、圭介は丁寧に挨拶をした。
「高橋さん、クランケの今朝の体温は?」
圭介は、うつむいたまま黙っていた。
「どうした。早く言いたまえ。」
「すみません。まだ測ってません。」
辻は嘲笑して言った。
「あなた、何しにここにきてるんですか。あなたが出来るのは体温と脈拍を測るぐらいでしょう。いや、それもできない能無しか。」
「違うんです。圭介先輩が悪いんじゃないんです。わたしが・・・。」
圭介をかばう五十嵐の姿を見て辻は「やっぱり・・・」と言いたそうな顔で五十嵐を見た。
「何なんですか。」五十嵐が言った。
「隠さなくてもいいじゃないですか。できてるんでしょ、あなたと圭介先輩。病院中その噂で持ちきりですよ。偉くなったものですね、高橋さんも」
圭介は、黙って伊吹のほうに近寄り、体温を測るために体温計を取り出した。辻の言葉が悔しくてたまらなかった。
「いいですよ、診察どころじゃないでしょ。お忙しい高橋さんは、五十嵐さんもごゆっくり。」

辻は回診の後、精神病棟へ行った。そこには精神科医である城山玲子がいた。辻は玲子にだけは心を許していた。なぜなら、辻の父親藤山吾郎が、この精神病棟にいるからである。吾郎は二十年前からずっとこの病院にいる。始めは交通事故で運ばれてきたのだが、入院中に精神を患って、普段はおとなしいが暴れだすと手がつけられない、獣同然の精神状態であった。当然主治医は玲子だった。
「ノックぐらいしてちょうだいよ、ビックリするじゃない。」
入ってきても黙っている辻を見て、玲子はクスクスと笑った。
「なにがおかしいんだ。玲子。」
「今日は珍しく嬉しそうね。」
辻は五十嵐かおるが自分に会いにきたことが、嬉しくてたまらなかった。何年も探していたからだ。
「あのこのことね。よかったわね。」
「ああ。ところで、あの人は?」
「ええ、とってもいい子。私の言うことはちゃあんと聞くし。」
「そうか。」
そう言って、病室の奥へ行こうとした。
「だめよ、おこしちゃ。今寝たとこなんだから。それにあなたじゃ噛み付かれるわ。・・・それはそうと、あなた今おもしろいクランケ抱えてるんですって?名前は確か・・・、そうそう、波田伊吹ちゃん。」
「お前どうしてそれを・・・。」
「私が知らないとでも思った?大変なんでしょ、彼女。」
「ああ。強直性脊髄炎。背筋の異常収縮により、脊柱が圧迫され、脊髄が炎症を起こし、脊髄神経が正常に機能しなくなる。」
「本当、珍しい。今日のあなたってお喋りね。そのクランケがお気に入りみたい。」
辻は、伊吹に複雑な思いを抱いていた。辻が回診するとき伊吹はいつも辻のほうを見ているからである。その純真無垢な視線の置くに、辻は何か重いものを感じていた。それが何なのか辻自身理解してはいなかった。そんな気持ちを玲子に見透かされたのに気づき、平静を装った。
「・・・俺は仕事に戻る。」
「そう、がんばってね、薫先生。」
玲子はそんな辻の姿をおもしろがっていた。

五十嵐は伊吹に会うためにに病室の前に立った。伊吹とのコミュニケーションが成り立たないとわかっていても、いつかは心を開いてくれると信じ、とにかく何かを話そうと思っていた。ドアの前で「よしっ」と自分に言い聞かせ、中に入った。
「いーぶきちゃん。今日は一人で来ちゃった。
そんな、ずーっとベッドのなかにいないで、散歩でもしない?私が車椅子押すからさ・・ってわけにもいかないか。そんなことしたらまた、薫先生に怒られちゃうもんね。悔しいなぁ。こんなに晴れてるのに。」
窓の外見ながら、伊吹の様子をうかがった。しかし何も返事がなく、ずっとうつむいたままであった。
「ねぇ。伊吹ちゃんの「伊吹」ってとってもいい名前だね。お父さんが付けてくれたの?それともお母さん?私の「かおる」っていうのはね、父さんがつけてくれたんだ。って言っても、父さんは私が小さいころ死んじゃって、顔も覚えてないけど。だから家は母さんと二人っきり。母さん女手ひとつで私を大学の医学部にまで入れてくれて・・・、そこで圭介先輩ともであったんだ。だけど、私にはもうひとつ夢があったの。お医者さんってあんまり向いてなかったし、それよりも、自分の書いた文章で人を感動させたくって、大学も結局やめちゃった。そしたら母さん怒るどころか、お前がやりたいことをやりなさいって、許してくれたんだ。その母さんも去年死んじゃったけどね。・・・母さんのためにも、これからもずーっとこの仕事続けようと思う。いろんな人の夢を語っていこうって。伊吹ちゃんの夢も・・・。」
五十嵐は祈るように伊吹を見つめたが、伊吹はそっぽを向いた。
「あっ、ごめん。なんか私の身の上話になっちゃったね。もうこんな時間。じゃあ、きょうは帰るね。また来るから。」
精一杯の作り笑いでそういって、五十嵐は病室を出て行った。

 病室を出てしばらく行ったところに、患者が集まって、テレビを見たり話をしたりできる空間がある。そこではよく、噂好きの主婦と見受けられる患者たちが、病院内の噂話をしている。この日もその集いは行われていた。五十嵐がその前を通ったとき、たまたま伊吹の話をしていた。
「・・・ああ、205号室の、・・・おとなしそうなかわいらしい子みたいだけど・・・」
「あの子も大変なのよ。何でもすごい病気らしくってね。病室に閉じこもりっきりで。なのに、親もお金出すだけで見舞いにも来ないらしくって・・・。かわいそうなのよ。」
五十嵐はその会話の内容に驚いて、主婦たちの輪に近づいて言った。
「そうなんですか。・・・私悪いことしちゃった。ご両親のこととか・・・。伊吹ちゃん気を悪くしちゃったかな。」
「おんなじよ。どうせあの子、誰とも口聞かないんだから。」
噂話のついでに五十嵐はどうしても聞きたかったことがあった。それは、お世辞にも人気があるとはいえない辻のことを、患者たちはどうして親しげに「薫先生」と呼ぶのかということだ。五十嵐はここぞとばかりに聞いてみた。しかし、なぜかということはわからなかった。彼らが知っていることは「辻先生」と呼ぶと嫌がるという理由だけであった。

巫女  今日もいつもと同じ朝を迎えた。五十嵐と圭介は毎日伊吹のところに通い必死に話そうとするが、伊吹は相変わらず話そうとしない。しかし回診の時間になると伊吹は心ばかりそわそわしている。圭介はその様子にずいぶん前から気づいていたが、なぜなのかわからなかった。
「回診です」という看護婦の声と共にドアが開かれ、辻と看護婦が入ってきた。ベッドに近寄ると圭介にバイタルを尋ね、伊吹の眼の様子をチェックし、異常がないことを確かめた。
「よし。特に異常はないようだな。」
「お疲れ様でした」
「高橋さんこそお疲れ様。やっと体温と脈拍の測り方を覚えたようですね。あなたも半人前の恋人を抱えて大変ですねぇ、五十嵐さん。」
その言葉にムカッときた五十嵐は咄嗟に、「辻先生こそお疲れ様です。」と返した。すると突然すごい剣幕で怒鳴った。
「苗字で呼ぶのはよせ!」
「すみません。・・・でもどうして薫って名前で・・・。」
「もうよせよ。すみませんでした。さあ、行こう。かおる。」
圭介と五十嵐は病室を出て行った。
伊吹はその間じっと辻のほうを見ていた。その視線に気づいた辻は伊吹のほうを見返した。
「どうして、いつも俺を見ている。」
そう伊吹に話し掛けた。伊吹はなにも答えすらしないが、辻に向かって少しの微笑を投げかけた。辻はその表情に気づき、慌てて眼をそらして病室から逃げるように去っていった。

伊吹に微笑みかけられた複雑な気持ちのまま、玲子と父親のいる精神病棟へ行った。辻のいつもと違う様子に気づいた玲子は不思議そうな顔をして言った。
「どうしたの、今日はご機嫌斜めじゃない。」
「そんなことはない。」
慌てて取り繕う辻のほうをじっと見て、その真意を確かめるように辻の顔を覗き込んだ。辻は少し間を置いて口を開いた。
「・・・あのクランケのことだ。」
「ああ、伊吹ちゃん。相当ご執心ね。」
「そんなんじゃない。・・・あのクランケに新しい治療法を施してみるつもりだ。」
「新しい治療法?」
辻はずいぶん前から伊吹の病気に対する新しい治療法を研究していた。それはかなりの苦痛を伴うもので、ほかの医者からはあまり歓迎されてはいなかった。しかし辻は伊吹にその治療を施すことに決めた。失敗を恐れてはいながらも、伊吹でなければ実行することが出来ないとも思っていた。むしろ、伊吹だからこそ無理な治療法でもできるような気すらしていた。

同じ頃病院のロビーで圭介と五十嵐は新しい治療法について話していた。五十嵐は伊吹の回復を望みながらも、そんな研究段階の治療法を押し付けている辻が自分勝手に見えてならなかった。辻に新しい治療法を止めさせたいという思いでいっぱいだった。圭介はどうしてこの状況を黙ってみていられるのかと、腹立たしくも思った。しかし圭介の立場上、辻に逆らうことは出来ないこともよくわかっていた。そんな圭介をかわいそうに思い、心から励ましたかった。人間には夢や愛そして希望があふれているということを伝えたいといっている五十嵐は共にそれを語ってきた圭介に弱音を吐いて欲しくはなかった。だから五十嵐は精一杯圭介を励まし、治療をやめさせるように辻を説得することを離した。圭介は五十嵐の言葉に自信をつけ、治療法の再検討を辻に申し出た。
「ほう。すると高橋さんはこの治療をやめろと。」
「はい。」
「理由はなんですか?」
「伊吹ちゃんの身体にかかる負担が大きすぎます。苦痛に耐えてるあの子を見てると・・・。第一、この治療法は危険すぎる!」
「危険?そんなものがどこにある。現にあのクランケは確実に回復している。あなたは、クランケの回復を望まないんですか?」
「それは・・・。」
「あなたごとき研修医が口をはさむことではない。」
「確かに僕は研修医だ。だけど、僕はいつかあなたを超えてみせる。世界一の外科医になるんだ。」
「口だけは一人前ですね。そんな暇があったら、クランケの様子でも見てきたらどうですか。」
「言われなくてもそうします。伊吹ちゃんが心配ですから。」
そう言って圭介は足早に伊吹の病室へ行った。
ちっ、高橋め、いまいましい。クランケの身体への負担など、言われなくてもわかっている。だが、この治療しかないんだ。この治療しか・・・。それにしてもあの小娘の眼だ。妙に気に障る。苦痛に耐えているときにも変わらないあの眼が・・・。
「薫先生、波田さんが!」
伊吹の急変だった。辻は慌てて伊吹の病室へ向かった。

10

圭介が病室へついたとき、伊吹は病室で一人苦しそうにもがいていた。それを見つけた圭介は慌ててナースコールを押し、看護婦と辻を呼んだ。
「伊吹ちゃん、頑張るんだよ!おい早く酸素マスク!もうすぐ先生がくるから頑張るんだよ。早くしろよ!」
「は、はい!」
「騒がしいぞ!」
病室がパニック状態のさなか、辻は至って冷静に病室へ入ってきた。
圭介は辻に助けを求めるようにいった。
「先生、伊吹さんは?」
「慌てるな、脈拍。」
「三十六です」
「血圧」
「五十・四二です。」
「ちっ、高橋さん、オペの用意だ。それと、君はクランケの家族に連絡して。」
病室にいる者全員に指示が行き届くと、、「はい!」という返事と共に全員病室を後にしてそれぞれの仕事を始めた。病室には伊吹と辻だけであった。伊吹は辻に助けを求めるように手を差し伸べた。そしてその口元からかすかに「かおる」と呼ぶ声がした。
辻はゆっくりとベッドに近づいた。伊吹は辻の白衣の端をつかみ必死に何かを訴えようとした。辻はベッドの端に手をつき、伊吹の顔をじっと見ていった。
「苦しいかい?苦しいだろう。でもね、もう苦しまなくていいよ。かわいい伊吹ちゃん。ありがとう、君は最高のモルモットだったよ。」
そういうと、白衣をつかんだ伊吹の手を振り払った。そのとき病室のドアが開いた。圭介だった。
「薫先生、オペの準備が。」
「高橋さん、後はあなたに任せますよ。」
「えっ、ちょっと先生それってどういう・・・」
「聞こえなかったのか。後はあなたに任せる。」
「それって、どういうことですか!伊吹ちゃんはもう・・・。だからって見捨てるのか!」
「高橋さんあなたもだいぶ分かってきたじゃ・・・」
「ふざけるなぁ!みんなあんたを信じてやってきたんだ。それを・・・。あんた、患者の気持ちを、伊吹ちゃんの気持ちを考えたことがあるのか!・・どうなんだよ、答えろよ。・・あんた、伊吹ちゃんの気持ちを考えたことがあるのか!この子はあんただけを・・・!」
「離せ!」
「あんたって人は、どこまでこの子を苦しめるんだ。」
「死ぬまでだ。」
辻は何の名残もなく伊吹に背を向け病室を出て行った。それとすれ違いに看護婦が入ってきた。
「高橋先生、波田さんのご家族と連絡が取れません。」
「そうですか。オペは僕が担当します。早く用意して。」
圭介は憤りを感じながらも、今は伊吹のことだけを考えることに徹した。ただ助かって欲しいと祈りながらオペ室へむかった。

11

辻の様子をうかがいに珍しく玲子が辻に会いにきた。何かを訴えたいような、それでいて無表情な顔で辻のほうを見て言った。
「愛していたのにね。いや、愛していたからかしら。」
「何のことだ。」
「あなたは波田伊吹を愛していた。」
「まったく。お前まで何を言っているんだ。ばかばかしい。」
「事実でしょう。あなたの彼女に対する感情は・・・」
「お前なら知っているはずだ。俺がどんな人間か。」
「ええ、知っているわ。辻 薫。光を持たない男。」
「そうだ。俺は闇だ。知っているなら・・・」
「そして私が愛した男よ。」
「俺が愛せるのはあの人だけだ。」
「そんなにあの子に勝ちたいの?」
「そうだ、闇が光にな。」

12

「どうしてなんですか!薫先生!」

玲子が辻の前から去った後、五十嵐はものすごい形相で辻のところにやってきた。
「あなたこんなに遅くに大声出して非常識だとは思わないんですか?」
「非常識なのは先生のほうじゃないですか。伊吹ちゃんの気持ちも考えずにあんな研究段階の治療をして、それで挙句の果てには、様態が急変したら彼女を見捨てるなんて。伊吹ちゃんはまだ13歳。これからやりたいことや行ってみたい所だってたくさん会ったはずなのに。人を好きになったことだって・・・。彼女の夢はどうするんですか。彼女の愛は。あなたは、彼女からそれまでも奪ったんです。あなたに医者の資格なんてない。」
「資格があるかないかは、あなたが決めることじゃない。それに、あなたはあのクランケを見捨てたと思っているらしいが、それは見当違いもいいとこだ。私は後の処置を高橋さんに任せるといっただけだ。」
「それが彼女を見捨てたといっているんです。」
五十嵐の言葉をを聞いて辻はにやりとし、五十嵐のほうを見た。
「ほう、あなたは高橋さんに任せたことを見捨てたといわれる。つまり、あなたは高橋さんでは無理だと思っていた。」
「私は圭介先生を信じてます。」
「なら、どうして。」
「それは・・・。」
五十嵐は自分の言ったことに後悔しつつ、口篭もった。すると辻は大声を上げて笑った後、五十嵐に言った。
「言ってましたよ、彼。「僕はあなたを越える。世界一の外科医になるんだ!」ってね。それがどうだ。そんな気持ちを知っているはずのあなたが、まるで彼を信用していない。かわいそうだ。ははっ。あまりにもかわいそうだ。かわいそうな圭介先輩。はーっはっは・・・。」
辻の笑い声をさえぎるように、五十嵐は大声で言った。
「かわいそうなのは、あなただわ、先生。どうしてそんな眼で人を見るの。
「ほう。私がどんな眼で人を見ているというんですか?」
「光のない眼。」
「光のない眼?」
「そうよ。あなたの眼からは、まるで光を感じない。希望とか夢とか,何かそういう温かいものを感じられない。まるで・・・。」
「闇、とでも。」
「そう、闇。出会った時から気になっていたんです、あなたのその眼。どうしてそんな眼をしてるんですか。」
「そういうあなたの眼も不思議ですよ。」
「私の眼?」
「なぜそんな眼をするんでしょうね。でも好きですよ、あなたのその眼。虫唾が走るくらいにね。」
辻はそらそうとする五十嵐の目線に無理やり入っていった。五十嵐は必死に眼をあわさないようにしていた。そして辻は五十嵐から離れ、遠くを見て言った。
「行きましょうか。あなた、どうして私がこんな眼をしているのか知りたいんでしょ。だったら行かないと。」
「どこへ?」
「ついて来ればわかりますよ。」
そういって、早足で病室をでていった。五十嵐は一瞬迷ったが、決心し辻の後を追いかけた。

13

辻と五十嵐が向かったのは精神病棟の玲子のところだった。玲子は、ここに来ることがわかっていたかのように彼らを迎えた。
「来ちゃったのね。」
五十嵐は病室の異様な雰囲気に戸惑い、あたりを見回した。その様子を察して玲子が五十嵐に話し掛けた。
「初めまして。」
「あっはい。はじめまして。あなたは?」
「玲子。」
「・・あっ、私、五十嵐かおるです。あなたもお医者様なんですか?」
「ええ。精神科のね。あなたのことは彼からよく聞いているわ。かおるさん。
えっ?・・・ところで薫先生。どうしてここに?」
「あなたにね、会ってもらいたい人がいるんですよ。」
「・・・だれですか?」
辻は少し考えてから五十嵐に聞いた。
「あなた、藤山吾郎という名前に聞き覚えはありませんか?」
「藤山吾郎・・・。いいえ。」
「なるほど、あなたは何も覚えていないようだ。・・・彼、特別病棟の患者でしてね。彼女が担当医なんですよ。ま、詳しい話は彼女のほうから。」
「もう二十年も前のことかしら、1件の交通事故があったの。」
「交通事故?」
「ええ。飛び出した子どもをよけようとして、乗用車がガードレールに突っ込んだの。飛び出した子どもにはけがはなかったんだけど、乗用車に乗っていた男性は瀕死の重傷だった。
その乗用車に乗っていたのが藤山吾郎。彼の身体は奇跡的に回復した。だけどね、・・・彼の精神は崩壊してしまったの。」
「崩壊・・・。」
「人間としての記憶はおろか、理性や知能まで失ってしまった。いまでは獣同然だわ。」
辻は五十嵐をにらみつけるような眼で言った。
「事故のショックでね。」
「それが私にどういう関係があるんですか?」
「まだ思い出さないのか!彼の乗っていた車の前に飛び出した子供。それがお前だ。五十嵐かおる。」
「その人はどこにいるんですか?」
「見えませんか?ほら、そこにいるじゃないですか。」
辻が指差すほうを見ると、暗い部屋の隅に人影が見えた。辻はその方向にゆっくりと歩いていった。近づくにつれて低姿勢になり、彼の表情もとても優しくなっていった。
「もうこわがらなくて大丈夫だよ、父さん。僕が守ってあげる。」

14

五十嵐は驚いて「・・・とうさん?」と聞き返した。
「ええ。この人は彼の父親なの。それだけじゃないわ。かおるさん、あなたの父親でもあるのよ。」
玲子の思わぬ言葉に五十嵐は動揺を隠せなかった。
「この人には子供が二人いるの。ひとりは愛人に生ませた子供で、名前は五十嵐かおる、あなたよ。そしてもう一人は正妻との子供で・・・」
「この俺だ。」
「でたらめよ!」
「いいえ。藤山吾郎はあなたの本当の父親よ。そして辻、いえ藤山薫は同じ日同じ時間に生まれたあなたの兄弟よ。」
「そんな・・・。だって私の父さんは私が小さいころ・・・」
「いい加減思い出せ!お前のせいで父さんはこうなったんだ。そしてお前は自分のトラウマを埋めようと意識にふたをし、あのときの記憶を消し去った。結果、お前は父さんのことなど忘れ、ぬくぬくと育った。そしてどうだ。フリーライターだと?何が夢だ、愛だ。へどが出る。・・・お前が、お前が父さんを殺したんだ!」
五十嵐は泣き崩れ、床に座り込んだ。もうこれ以上聞く気にはなれず、耳をふさいだ。しかし辻は、今までの恨みを晴らすかのように憎しみを込めて怒鳴りつづけた。
「俺がなぜ薫と呼ばれているかって聞いていたな。それは、俺を連れて父さんを捨てた女のせいを名乗りたくなかったからだ。そして、俺が医者になったのは、父さんを救うためだ。そしてお前に復讐するためだ。」
辻の罵倒がとぎれ、しばらく沈黙が続いた。しばらくして玲子が口を開いた。
「間違いだった。・・・やっぱり間違いだったのよ。・・・あなた達は分かれて生まれてはいけなかった。」
「分かれて産まれた?」
「本来人間は光と闇を持ち合わせた未完成な精神体。なのに、あなた達は光と闇のどちらかしか持っていない。」
「何が言いたいんだ。」
「今のあなた達見ていられないもの。自分の持っているものをかたくなに信じてて、もろくて傷つきやすい・・・。」
そのとき,ずっとうずくまっていた吾郎が、ゆっくりと起き上がり、泣き崩れるかおるのほうへ身をよせた。

15

「何してるの父さん!どうしてそんな奴に・・・。」
そういうと薫はかおるの身体を突き飛ばし、吾郎に近寄ろうとした。しかし吾郎は薫におびえ、かおるに助けを求めるようにしがみついていった。
「なぜだー!」
「・・・それはあなたが藤山吾郎から生まれた闇だからよ。」
玲子は言った。
「そしてかおるさんが光だから・・・。人間は、両方を持ち合わせてはいるけれど、光の持つ優しさ、温かさに惹かれるものなのよ。だからあなたは、光のかおるさんには勝てないの。」
そう聞くと薫は玲子を突き飛ばし、落胆したような眼でその場に崩れ落ちた。
そのときだった。どこからともなく幼い少女の声が聞こえた。三人があたりを見回すと、そこには伊吹がいた。
「そんなことないよ。先生は闇なんかじゃないよ。ただ愛されたかっただけなんだ。
私、先生に会えてよかった。先生は闇なんかじゃないよ。私は先生を愛してる。」
「伊吹ちゃん?」
「消えろー!」
そう辻が叫ぶと伊吹はにっこりと笑みを浮かべながら、静かに消えていった。伊吹の薫を思うきもちが、精神体となって現れたのである。
かおるは言った。
「かわいそうな人。あなたはそんなにも愛してくれるたった一人の人を失ってしまった。かわいそうな人・・・」
かおるはそっと薫の方に手を置いたが、薫は即座に振り払い下を向きつぶやくように言った。
「何が愛だ。・・・おれは闇だ。・・・そんな感情はない。」
「だったらどうして父さんを愛したの?伊吹ちゃんを愛したの?」
二人のやり取りを見ていた玲子が言った。
「やっぱり、あなた達は分かれて産まれてはいけなかった。光だけじゃ、闇だけじゃ、生きていけない・・・。」
「俺たちは分かれて産まれてはいけなかった。」
「戻そう、すべてを始まりに・・・」
薫とかおるが、そういうとまばゆい光が部屋の中を包み込み、吾郎と玲子を残して、二人はその光の中へと消えていった。二人の生命は一つとなり、玲子の子宮の中へと戻され、新しく生まれ変わるのである。
玲子は愛しそうにお腹をさすり、言った。
「みんなあなた達を忘れてしまうわ。覚えているのは私だけよ、かおる。すべてが最初から始まるの。」

16

二人が消えてから十年の月日が流れた。病院ではいつもと変わらない生活が続けられている。その中で、高橋圭介は独立し、小さな個人病院を開いていた。今年で40歳を迎える圭介は研修医を卒業し、医師として大学病院に勤務していたが、院長との意見の不一致により、退職したのである。圭介は「かおる」達がいなくなってからずっと、伊吹の墓参りは欠かさなかった。伊吹の死にいささかの疑問をもちながら今年も墓参りに行ったのであった。
 圭介は墓前にしゃがみこみ、伊吹に話し掛けた。
「伊吹ちゃん、久しぶりだね。あれから十年、ここで伊吹ちゃんに会うのも十回目になるね。僕は今年独立したんだ。ちっちゃな医院だけどね。やっぱりああいう大学病院は僕には合わないよ。・・・僕ももうすぐ四十だ。すっかりおじさんになっちゃっただろ。だけどね、この歳になって、何か大切なものを忘れてきたような気がするんだ。伊吹ちゃんといた頃に・・・。それが何なのか、ここに来たら思い出せそうな気がするんだけど・・・。」
圭介はそう言うとしばらく墓前にたたずみ、伊吹との無言の会話を楽しんだ。圭介の頭の中には、伊吹が亡くなった頃の不鮮明な記憶が繰り返し流れていた。しばらくして我に返った圭介は、伊吹にさよならを告げ、立ち去ろうとした。墓と墓の間の狭い道を歩いていると、車椅子に乗った老人と、それを押す三十代後半とみえる女性が向こうから歩いてきた。圭介は道の脇に寄り、二人を通した。二人は軽く会釈をし伊吹の墓前に立つと、しばらく無言でたたずんでいた。それを見て圭介は思わず二人に声をかけた。
「波田伊吹ちゃんのご縁の方ですか?」
「ええまぁ」
多くは語らない口調で女性は答え、圭介の後ろのほうを見て言った。
「そんなとこで遊んでないで、早くいらっしゃい、かおる。」
「はーい!」
「かおる?」
元気のいい返事が聞こえたかと思うと、まだ幼い少女が両手いっぱいに花を持って走ってきて、圭介にぶつかった。持っていた花を落とした少女は一生懸命拾い集め、拾い終わると満足げに満面の笑みを浮かべていた。
 その少女を見て、圭介は驚いた。伊吹にそっくりだったのである。
「伊吹ちゃん!」
驚きを隠せず、思わず伊吹の名を呼んでしまった。少女は怪訝そうな目で圭介を見、
「私、かおるだよ!」
といって、二人のもとへ走って言った。
ーおわりー



「ためいき」
藤井宣樹


 松田憲司は今日も会社の同僚二人といきつけの飲み屋で飲んでいた。松田憲司は電気会社に勤めるサラリーマンで、今年五年目の平社員だった。結婚も三年前にしておりこどもも一男一女をもうけていた。同僚は二人とも同期の入社で、その年に入社したのはこの三人だけだったので妙に気が合い、よくのみにいったり遊んだりする仲だった。そのうちの一人は男で、名前は金城誠。身長は195センチもありなかなかのハンサムなのだが、女性と付き合ったことはないとのことであった。もう一人は女性で、名前は出原佳子でこちらは美人というよりは、顔に幼さが残っており、かわいいといった表現が似合う女性である。しかし、金城とは違いこれまでに何人もの男性と付き合ってきたみたいである。
「そろそろ帰らない。」
 出原は二人に声をかけてきた。確かに十一時を回り松田もそろそろ帰ろうかと思っていたところであった。
「おいおいまだ十一時じゃないか。もう一軒別にいい所があるからそこで飲みなおそうじゃねえか。」
 いつもになく金城は飲んでいて、すでにちゃんとしゃべれていなかった。まー飲み過ぎているのは、上司に今日ひどくしかられたせいもあるのだが。
「今日はもうおまえ飲みすぎや。電車もなくなるから帰るぞ。」
「うるせい。今日はとことんまで飲むんじゃ。おまえらも付き合え。」
 一度言い出すと、人の話しを聞くやつではなかった。
「はいはい。わかった、わかった。おまえの言うとおりにしてやるからわめくな。出原、悪いけど付き合ってくれるか。」
「もう。仕方ないわね。」
 松田と出原は顔を見合わせて、やれやれといった表情をした。
 店を出てからも金城を両側から二人が支えてやらないと歩くこともできない状態だった。
「金城。やっぱり今日は帰ろう。」
 心配して松田が言うと、金城はわめき散らす始末で、まったく手に負える状態ではなかった。
 やっとの思いで着いた店は、三人でよく行くスナックだった。
「どうせこんなことだろうと思った。」
 出原はさっきからため息ばかりついていた。
 スナックで飲んでいるときも、金城は会社の上司の悪口ばかり言って飲んでいた。それを聞いている、松田と出原は本当にうんざりしていた。
 深夜も二時を回り、さすがに金城もテーブルの上で眠ってしまった。
「まったく世話の焼ける人ね。」
「ああ。せやけどこのままにしておくわけにもいかんやろうから、とりあえずこいつを起こして、どっかのホテルに寝かしにいかなしゃーないな。」
「そうね。」
「とりあえず、店を出てホテルを探そう。」
 二人は店を出てホテルを探したが、この近辺は普通のホテルはなくラブホテルばっかりだった。
「泊まれるところはないわね。」
「タクシーでもあればいいんやけどなー。」
 この辺はなぜだか分からないが、ほとんどタクシーは通らない所なのであった。
「困ったな。もうこいつをこれ以上連れまわすことはできないな。仕方ないな、そこのラブホテルに入ろう。」
「ええ。でも三人で入れるかしら。」
「うーん。大丈夫、入れるやろ。どうしてもあかんかったらそん時は悪いけど、二人で泊まったってくれるか。せやけど、大丈夫やとは思うけどなんかあったらあかんから、なるべく三人でとまったほうがいいと思うんやけどけど。あっ、別に変な意味でとらんといてや。そういう意味で言うたんと違うからな。」
「わかってるわよ。」
 そう言いながらも二人とも顔を赤らめて、入るのをためらっていた。
「よし。行くか。」
 松田は吹っ切るように言った。
「ええ。」
 出原は声がかすれていた。
 部屋は305号室で、一泊7800円の値段にしてはなかなかいい部屋だった。二人は金城の服を脱がしてベッドに寝かせて、一息ついた。部屋に入ってしまえば二人ともだんだん落ち着いてきて、会話が出だした。
「なんか落ち着いたらのどが渇いてきちゃった。松田さんもなにか飲む。」
「ありがとう。お茶がええな。」
「ウーロン茶と麦茶と緑茶があるけど、どれにする。」
「じゃあ、麦茶で。」
「残念でした。麦茶は私が飲むから松田さんはウーロン茶にしなさいよ。」
「えっ。何やねん、それやったら聞くなよ。」
 二人は楽しそうに笑い出した。松田はお茶を一気にのどに流し込んだ。とたんに酔いが覚めだしてきた。
「ねえ。松田さんは奥さんとはうまくいってるの。」
 不意に出原は聞いてきた。
「何だよ、いきなり。」
「だって、ちょくちょく私たちと夜遅くまで飲んでることだってあるし、お子さんだってまだ小さいんでしょ。」
「そらまーそうやけど、うちの嫁はわがままでヤキモチ焼きやけど、その辺のことはだいたい理解してくれてるみたいやからな。泊まって帰ったりしたら、帰ったとき子供のほうが、うるさいな。」
「ふーん。そうなんだ。」
「それより、君のほうはどうなんだい。」
「えっ、何が。」
「結婚だよ。君も僕と同じ年だから今年で28だろ。そろそろ結婚を考えてもいいんじゃないか。ボーイフレンドもいっぱいいることだし。」
「確かにボーイフレンドはいっぱいいるわよ。でも、私とつりあう男性がなかなかいないのよ。」
「ハハハ。せやけどあんまりより好みしてると、結婚する機会失うで。」
「失礼ね。じゃあ、松田さん、私をもらってよ。」
 意地悪く笑いながら言った。
「いきなり何をいいだすんや。」
「松田さんが意地悪いうからよ。」
「こら一本とられたな。」
 また二人は笑い出した。
「それはそうと今夜これから、どないしょうかな。」
「私は、今夜はここに泊まるわ。もう疲れたし、明日は会社休みやしね。」
「そっか。どうしょっかな。」
「松田さんも泊まりなさいよ。今から帰っても4時過ぎになるわよ。奥さんにはもう泊まるって言ってあるんでしょ。」
「うーん。せやな。今日は泊まるか。じゃあ君はソファーで寝なよ。僕はここで寝るからさ。」
「それは悪いわ。」
「まーいいじゃないか。まさか嫁入り前の娘をこんなところで寝かすわけにもいかないじゃないか。」
「そう。じゃお言葉に甘えてソファーで寝かせてもらうわ。」
「ああ。じゃお休み。」
「お休みなさい。」
 それから二人はしばらく、話していたがいつのまにか二人とも寝てしまっていた。

獲物を狙う白鷺 「松田さん、松田さん。」
 松田は出原に起こされて目を覚ました。
「今何時だい。」
「六時よ。」
「そうか。ちょっと待っててくれよ。」
 そういうと松田は顔を洗いに行った。
「それじゃあ、とりあえず君から出ていってくれるかい。2人一緒に出ていって怪しまれるといけないから。それと、金城はまだ寝かして置こう。あとここのお金もこいつに払わせればいいやろ。」
「そうね。それじゃあまた明日会社で会いましょう。」
「ああ。じゃ、お疲れさん。つきあわせて悪かったね。」
「そんなことないわ。疲れたけど楽しかったわ。それじゃあ。」
「ああ。気を付けて。」
 そういうと、出原は出ていった。出原が出ていった後、松田は一時間ほどテレビを見て部屋を後にした。部屋を出て通路を曲がった時思わぬ人物に出くわした。
「あっ。」
「あっ。」
 出会ったのは、自分の妻の姉だった。
「ねえさん。」
 義理の姉は隣に男性を連れていた。その男性は義理の姉の夫ではなかった。松田は姉をその男性から引き離して、
「ねえさん、これはいったいどういう事なんですか。この事を幸二さんは知っているのですか。」
 その頃には、義理の姉もだいぶ落ち着いたらしく、
「何言ってるの。憲司さんだって今まで女の人と一緒にいたんでしょ。女の人は先に帰したみたいだけど。でも、大丈夫よ。典子には黙っていてあげるから。」
「何を言うんです。僕はそんなことしてませんよ。」
 松田はかなりむきになって言った。その事がおかしかったらしく、義理の姉は笑い出した。
「こんな所にいて何もなかったなんて誰が信じるもんですか。」
「何もないといったらないんです。とにかく、僕はこのことを幸二さんに言いますからね。」
「そっちがそう出るならこっちも典子に言うわよ。」
「どうぞご勝手に。」
 しかし、義理の姉は少しもあわてた風もなく、
「そう。でも、典子はどちらの言うことを信じるかしらね。」
 自信満々に言った。
「何をばかな。」
 しかし、そう言われると、松田も自信が持てなかった。妻の典子は、この姉とは特に親しく、喧嘩をしたりするとすぐに姉の所に行って、しょっちゅう愚痴をこぼすのであった。
そして、帰ってくる時は、いつも機嫌を直して帰ってくるのであった。
「典子は僕の言うことを信じるさ。」
「そうかしら。」
 相変わらず、自信満々で言ってきた。
「何なら試してみる。」
 その時、この義理の姉には勝てないとはっきり悟った。
「フフフ、冗談よ。これからもお互い仲良くしていきましょ。」
 そういうと義理の姉は、男のところに歩いていった。
「ハー。」
 松田は深い溜め息をついた。典子にこのことをいおうと一瞬考えたが、すぐにその考えは消えた。
「俺は、あの女性には一生勝てないな。」
 松田はつぶやいた。
(デモ、あの人を敵に回さない限り、いいひとだし。まっいいか。)
 今度は心の中でつぶやいた。そしてもう一度、
「ハァー」
 大きな溜め息を吐いた


『ずっとずっと想いつづけたあなたへ』
― みそひともじで伝えたいこと ―
稲室 瞳


・ 素直に「はい。」何でもよく聞く優等生私らしさの「らしさ」って何?

小さいころから、そうだった。親の言うこと、先生の言うこと、素直に「はい」って。それでいいと思っていた。それでうまくやってきた。みんなと一緒のことをして、そこで一等をとればいい。少しでも上を目指して、上へ、上へ。その上には何がある?ほんとに一等がほしいの?ふと、立ち止まった高三の夏。違う、違う「私」がしたいと思うこと、「私」にしかできない何か、みつけるためにここ大学にやってきたのだから。

・ 何もかもヤ嫌なことみんなしまいこみ忘れることで身を守ってる

大学に来て、早三年。まだみつからない「私らしさ」。あれもしたい、これもしたい。でも足りない、未熟な私。未熟な自分に嫌気がさして、何もかもみな、しまいこむ。心の奥のまだずっと底。しまったことすら忘れるぐらい、ごまかし、ごまかし、やってきた。このまま、卒業していいの?今、できること、今、精一杯がんばること、それが一番大事なこと。もうごまかさずに、前へ行くこと。

・ 胸のおくとき、ときってささやいた かの坂歩きし星降る夜に

「がんばるのはいいことだけど、あんまりがんばりすぎるなよ。」星降る夜に、並んで歩いた坂道で、沈黙の後、あなたの言葉。あんまり、星がきれいだから、あんまり、空気が澄んでいるから、素直に胸の奥まで響く。それに答えているように、とき、ときって鼓動が早い。それを気づかれないように、それを気づかせないように、少し歩調を速めてみる。「ありがとう」ってつぶやきながら。

・ 手編みかな?机の上のあのマフラー会えなくなって気になっている

いつもの部屋のいつもの机にちょこんと置かれていたマフラー。いつでも聞けたはずなのに、会えなくなって気になっている。一緒に過ごしていた時は、一緒に話していた時は気に留めなかったはずなのに。どうして、気になる?どうしても気になる。あなたのためにマフラーを編む、誰かがいるのか、いないのか。聞くに聞けなくなる前に、なんでもないことであるときに。

・ いつからか視線を合わせられなくて伏し目がちに見る缶コーヒー

いつからか、あなたに会える日を指折り数えて待っている。あなたと会って話すとき
とても楽しみに待っている。なのにいつから、あなたの目を見られなくなったのだろう。いつもの部屋のいつもの机、マフラーの横の缶コーヒー。今日も私は、缶コーヒーを相手に話している。マフラーのこと、聞けないままで。たわいもないこと話している。ほんとに言いたいこと飲み込んで。

・ カゼひいたあなたと私二人してグスグスコンコン森のくまさん

ちまたで流行っていた風邪に、あなたも私もやられたね。こっちでグスグスいってたら、あっちでコンコンせき込むあなた。グスグス、コンコン、そのリズムが輪唱みたく聞こえてきて、なんだか楽しい気分になる。白い貝殻のイヤリング、落とせば追いかけてきてくれる?そんなことを考えながら、熱っぽい目で視線を送る。いつも以上に熱い視線で、いつも以上に熱い想いで。

・ あの人のスナフキン似のその瞳せつないくらい澄んだ湖

大きく、澄んだあなたの瞳。そうあのスナフキンによく似てる。自由気ままなスナフキン。多くは語らぬスナフキン。何でも知ってるスナフキン。ほんとは優しいスナフキン。あのマントに身を包み、今にも旅立っていきそうな。ふっと姿が消えそうなのは、きっとあなたの何も知らないせいなのね。だからせつない、なのに惹かれる。その澄んだ湖にそっと自分を映してみたい。

・ 「じゃ、お先に。」笑顔がさわやかな分だけコピー機の音やけに響くよ

ウィーン、ガシャン。ウィーン、ガシャン。無機質な音が響いてる。まだまだ、仕事は
山積みで、いつになったら帰られる?でもまだあなたがいるからと、辛い中でのささやかな幸せ。と思っていたら、「じゃ、お先に。」なんてさわやかな、笑顔残して去っていく。いつもの部屋にあなたがいなくなったぶんだけ、がらんとしてさわやかな笑顔吹き抜けて行く。ウィーン、ガシャン。コピー機の音響いてる。せつなく、さみしく、響いてる。

・ 「僕、野球やってたんです。」大きな手うなずきつつ見るごつごつした手

めずらしく、今日のあなたはおしゃべりで、昔のあなたを垣間見る。会話の相づちうち
ながら、今のあなたの大きな手を見る。ごつごつしているその手から、野球少年の姿を見る。試合に勝って喜んだこと、負けて悔しく思ったこと、一緒に夢見た仲間のこと。いつもはクールにきめているけど、昔は熱血野球少年。今日のあなたはいつもより、瞳がきらきら光っている。きれいに澄んだ湖の、奥底にある石たちが、日差しを浴びて光るように。

・クリームはニガテだけれどチョコは好き今日はあなたに2歩近づけた

バターサンドクッキーをほおばりながらの楽しい時間。甘いものが好きというあなたはなぜか手をつけない。もう飲み干してしまったコーヒー、缶を手の中で遊ばせる。「なぜ食べないの?」と尋ねたら、クリーム系はだめらしい。挟んであるのがチョコレートなら…と続いてこぼす。クリームはニガテ、チョコは好き。あなたの何も知らなくて、せつなく思っていた時からは、少しは前に進めたのかな?

・雪国よりホワイトチョコにすずらんの絵ハガキ添えて想いをこめて

真っ白な雪、音もなく降り積もる場所。もう、手放しで素直になれる。真っ白な雪、真っ白なチョコ、真っ白なすずらんに、真っ白な想いを託します。あなたの好きなチョコレートに、私の好きな、すずらんの花の絵ハガキ添えて。書いてあるのは、ただ旅先でのエピソード。雪とホワイトチョコとすずらんの白が私の素直な気持ち。それだけだけど、それだけで、メッセージ。

・信号待ち通過列車を待ち合わせ各駅停車キミノココロ″sき

ちょっとだけ、昔の話。大好きだった人がいて、一年かけて育んだ、想い伝えるその前に、ある日突然現れたかわいい誰かとその人は、あっという間に恋に落ちた。ひとつひとつの段階踏んで、あともう少しというところ、一瞬にして抜き去ったのは特急列車のひと女性だった。それから、なかなか発車のベルは鳴らなかった。特急列車になれなくて。でも今はもう、走り始めている。各駅停車で今日も行く、キミノココロ≠ヨ辿り着くまで。

・ 幸せhappyという名の香りを身につけて想いよ届け想いよ届け

いつもの部屋のいつもの机にいるあなたにいつも素直になれない私。だからあなたと会
う日には「happy」という名を持つ香水、ちょっぴりつけて現れる。あなたと会えて「happy」、あなたと話せて「happy」、笑顔もらって「happy」。口にはできないいろんな「happy」を甘い香りとともにあなたに届けたい。あなたといるだけで、いろんな色した「happy」に包まれて、また「happy」。

・ 手作りのクッキーみんなにあげたけどほし★よりはあと が多いの、ひとつ

二月十四日、バレンタインデー。女の子にとっては特別な日。手作りクッキー、いろんな形○、□、◇、☆、はあと …ほんとはあなただけに贈りたい、あなたのためだけに作りたい。そんな気持ちが表れたかな、あなたの分ははあと が多い。チョコ味のはあと 、紅茶の香りのはあと、こんがり焼けたはあと、黄身でつやつやのはあと。さまざまな想いをさまざまな はあと で伝えたい。
あなたの好きなコーヒーと一緒にひとつひとつ味わって食べてね。

・ 恋をして春めくピンクに色づいてルージュ、マニキュア、ロングスカート

今年の春はちょっと違う。春色ピンクのルージュをひいて、マニキュアをする。パステ
ルピンクのロングスカートを着こなしている。全身で春に色づいて、やさしくなれる、そんな春。春めくピンクに包まれて、今日もあなたを想っている。あなたへのこの想い、ハート色。笑顔もらって、ハートはピンク、見つめられたら、ほほ、桜色。ほんのり甘いピンクから情熱の赤になる日がくるのだろうか。

・ 青色のビニール傘にて即席の青空の下あなたと二人

突然の雨、天気予報ははずれたけれど、相合傘であなたと私。コンビニで買った青色の
ビニール傘を広げると、即席だけど、青い空。どんより曇った重い空が、傘の分だけ、青い空。「こんな傘しかなくて、ごめん。」と申し訳なさそうに言うあなた。あなたが作った青空の下、ずっと歩いていたいと思う。「青空作るこの傘が好き。」(青空作れるあなたが好き。)

・ 恋愛はドラマティックでなくていいシロツメクサの上でのlunch

恋愛はドラマティックでなくていい。普通に出会って、普通に展開すればいい。おしゃ
れなデートでなくていい。強力なライバル、とんでもない。ハードル、障害、高い壁、燃え上がるような恋は要らない。穏やかに続く恋がいい。シロツメクサの真ん中でおひるねするよな恋がいい。ぽかぽか日差しが気持ちよく、シロツメクサとクローバーの上で、サンドイッチをほおばって、一緒に笑える、そんな関係。

・風の中想いをのせてわたげふくアワナイアオウ アウトキアエバ

なかなか、あなたに会えなくて、会いたい気持ちがふくらんでいく。ふくらみつづけてこの気持ち、「会う」という動詞が活用する。アワナイ、アオウ、アイマス、アッタ、アウ、アウトキ、アエバ、アエ。いろんな形の「会う」のこと考えながら、綿毛ふく。来週「会います」、今度いつ「会おう」か、ちょっとふくれてもう「会わない」。来週「会うとき」、来週「会えば」きっと笑顔が待っている。そう願って風の中、想いをのせて綿毛ふく。

・ 一度だけだまされてあげるそのウソも優しさのうちと思いたいから

「彼女なんていないよ。」とさらりと言ってのけたよね。でも私には感じられる、見え隠れするひと女性の陰。いつもいつも、切れている携帯電話の電源や、直前までは決まらない自由きままなスケジュール、「多分」なんてあいまいな返事。普段何をしているか、尋ねる毎にはぐらかす。「休みはいつものんびりと寝て過ごす。」なんてきっとウソ。さっきの電話で気づいたの。気づかないふりしてあげる。そのウソもきっと優しさのうち。

・ 三分に一度はきっと想ってる朝一人石畳を歩く

列車に乗ってガタゴトとゆらり揺られてやってきた。ヨーロッパの街並みを楽しみたくてハウステンボス。あなたのいない、遠い街までやってきて異国の空気に触れた気分を味わいたくて。ヨットに乗って、優雅な気分。美味しい料理に舌鼓。夜の闇と光が作る幻想的な空間に酔いしれる。いつもと違う一日を過ごして迎えた次の朝、一人石畳を歩いてみる。今日の予定を考えていたはずなのに、あなたのこと、三分に一度想ってる。

・ 「おはよう」と送れば「こんにちは」と返すそのいぢわるがうれしくもある

午前11:00、「おはよう」とメール送ってみたら、返ってきたのは「こんにちは」。微妙な時間の微妙なあなたのいぢわるが、なんだか微妙にうれしく思う。「こんにちは」の言葉には「もうとっくに起きてるよ」とさわやか笑顔、「まだ寝てたのか?」とあきれ顔、「昨日、遊びすぎたんだろう?」と茶化す顔、いろんなあなたの表情が見えてくるよで、楽しくて。

・ おまじないハートの貝殻効いたかないつもより長いメールの返事

ハートの形の貝殻に願い事書けば、叶うという。いろんな雑貨のその中に、そっと置かれていたハート。赤、ピンク、白、緑、青。迷わず私は緑を選ぶ。スナフキン似のあなたのこと思い浮かべて緑色。「大好きな人に想いが届きますように」。その日に送ったメールの返事、いつもより長いメールの返事。あなたの一日語られた、少しだけ長いメール見て、緑のハート、効いたみたい。

・海に山 花火「いいね」と言ったのは(あなたと行けたら)「いいね」ってこと

夏休み、広い空、白い雲、青い海、高い山、夜空を彩る花火、あれもこれもしたい、見たい、行きたい。開放的な空気と気分で、いつもよりも欲張りな季節。海でこんがり日焼けする(いいね)、山でキャンプファイヤーをする(いいね)、ゆかたでしっとり花火(いいね)、今年の(いいね)はあなたなしでは語れない。あなたと行けたら(いいね)ってこと、この季節にも言えなかったね。

・ 泣けなくて素直になれずにふくらんだ想い入道雲になってく

今日もまた、素直になれずに帰途につく。ほんとに言いたいこと言えなくて、もうどれくらいたつのだろう。悲しくて、せつなくて、でも泣けなくて、ふくらんでいく。今にも雨が降りそうな空いっぱいの入道雲。青空のようにさわやかな、あなたの笑顔でいっぱいだったはずなのに、今にも泣き出しそうな空、ふくらみつづけて、はじけそう。いっそ、はじけて夕立くれば、きれいな夕焼け待っているかもしれないね。

・スーツ着てパンプスはいて背のびして大人演じて はりつめた糸

いつだってクールにきめていて、表情ひとつ変わらない。仕事はてきぱき効率よく、一つ上の大人なあなた。そんなあなたに近づきたくて、大人の女、演じている。スーツ着て、パンプスはいて、形から。きどった口ぶり、仕事の速さ、必死でするけど、ポーカーフェイス。私にだってできるわと強がり言って、意地はって。ほんとの私はどこいった?はりつめた糸切れそうで、ほんとの自分なくしそうで。

・ 私から投げた言葉で会話する壁を相手にキャッチボール

「あのね、…」最近いつも私から。私の「あのね」が最初の言葉。言葉をえいやっと投げかけて、やっと始まるキャッチボール。いい調子ではずんでいても、ちょっと受け損ねたものならば、次がなかなか始まらない。いつもボールを持つのは私。失敗するのも私の方。受けやすい球返って来るのも、私が投げた言葉次第。話題を探し、言葉を選ぶ。私の私による私のためのキャッチボール、楽しいけれど、寂しくて。

・ 無理をする言葉を探す努力するあなたに惹かれたはずだったのに

・ 「キレイだね」ドキドキしながらふりむくと遠い瞳に夕日が映る

オレンジ色の夕焼けの空、あなたと並んで帰り道。ふいに「キレイだね」なんてつぶやくから、驚いてふりむいた。あなたの瞳に映るのは、真っ赤に染まった夕日だった。そんなに遠い目をして一体どこを見ているの?何に想いを馳せている?せつなく澄んだ湖に夕日と夕焼けの空が映る。ドキドキしながら覗き込んでも、私の姿は映らない。あのときから、今もこれからも映ることはないのでしょう。

・百年の眠りにつけばこの恋もハッピーエンドを迎えられるの?

かの坂歩きし星降る夜から、私に流れる時間軸、あなたに会う日を中心に、いっせいに流れだしていた。月・火・水・木・金・土・日、一月・二月・三月・四月…あなたのことを想いながら、生活のリズム波打っていた。なのにあなたとの距離近づかず、時だけがただ過ぎていく。大人演じて失敗し、ほんとの自分がわからなくなる。手を尽くした今となっては、百年の眠りについてみる?眠れる森の姫のように、王子様のこと待ってみようか。

・ 捨てるのか告げられぬ想い一年分保存メールは100件になり

保存箱にメールを保存できるのは100件までとなっている。新しいメール、これから届くメール、もう保存するには過去のメールを消さなくてはならなくなってしまった。告げられなかった一年分の想いがつまっている100件のメール、捨てることができるのか。これを機にいっそ全部捨ててしまえたのなら。決断の時、引き際なのか、決戦なのか。ひとつの岐路に立たされている。
 



「七色のリボン」
篭重友紀枝


 その日は朝から雨が降っていた。水沢隆司はマンションのゴミ捨て場のゴミの山の前に降り立つと、さっそく仕事にとりかかった。ゴミの山の隅の方に、雨に濡れてぐっしょりとなったぬいぐるみがぽつんと置かれていた。ずいぶん古いもののようで、そのぬいぐるみは元の色がわからないほどだった。しかし、水沢はそのうさぎのぬいぐるみに見覚えがあった。
 ゴミの収集車にゴミをすべて放りこんでから、最後にぬいぐるみを手に取った。水沢は他のゴミのように、ぬいぐるみを処分するべきかどうか迷っていた。
 その時、「行くぞー。」と運転席から待ちかまえていた同僚が大きな声で言った。水沢は急ぎ足でゴミの収集車のステップに乗った。片手にうす汚れたぬいぐるみを持って。ゴミの収集作業は朝が早い。けれども、日が暮れないうちには仕事は終わっている。1人暮らしのアパートに帰り着いて、水沢はうさぎのぬいぐるみを丁寧に石けんで洗った。黒く汚れていたぬいぐるみが少しきれいになったが、年期の入ったものらしく、ぬいぐるみの着ている服がところどころほつれている。ぬいぐるみの花柄の服の裏地のところに、
“ねぎし さや”と名前が書いてあった。水沢は、捨てられて悲しげな瞳をしたぬいぐるみを見つめながら、持ち主の女の子のことを思い出していた。

さやはゴミの収集車が好きという、ちょっと珍しい女の子だった。ゴミの収集車がやってくるときの、「とおりゃんせ」の音楽が気に入っていたのかもしれない。音楽が聞こえてくると、目を輝かせて収集車に近寄って来た。ゴミがバリバリと音をたてて、収集車に飲み込まれるところを興味深そうにじっと見ていた。
「このかいぶつはくいしんぼうだね〜。」さやは楽しそうに言った。
「うん。ゴミが大好物なんだよ、こいつは。」水沢もそう言って笑った。
「そのぬいぐるみかわいいね。」
「うーちゃんっていうんだよ。」さやはいつも肌身離さずうさぎのぬいぐるみを持っていた。
「うーちゃんをもってたら、いいことがあるんだって。幸せを呼ぶぬいぐるみだよってママが言ってた。」
「へえ。僕にも幸せを分けてもらいたいなあ。」
「おじちゃんは幸せじゃないの?おじちゃんにもうーちゃんみたいなぬいぐるみがあったらいいのにね。」
 子どもらしく素直な言葉に、水沢は思わず笑った。それが水沢とさやとの初めての会話だった。
「さやー。幼稚園に行く時間よ。」とさやの母親がやって来て、水沢に軽く会釈をしてから、さやを連れていった。
「またね、おじちゃん。」さやは小さい手を降りながら言った。

 水沢は、さやと母親が遠ざかって行く姿をじっと見つめていた。作業の手を止めて2人に、いや、正確にはさやの隣にいる母親のほうに見とれていたのにはっと気がつき、我に返った。根岸幹世は、端正な顔立ちをしていて、いわゆる美人≠ナあった。独身だといわれても十分納得できる程若々しく見えた。水沢はさやと次第に仲良くなっていった。さやは人なつっこく、しかっりしている子だった。そのさわやかな笑顔を見ていると、母親の人柄も推し量れた。さやはよくしゃべる子で、会うたびにいろいろな話をした。うさぎのぬいぐるみは、さやが生まれた時の記念に祖母がプレゼントした、さやの大事な宝物であった。また、さやの母親はピアノの先生をしているということ、父親はすでに他界したことも、さやは水沢に話してくれた。
「いつも娘の相手をしてもらって、ありがとうございます。」幹世はある日水沢に言った。
「ちがうよー。さやがおじちゃんの相手をしてるんだよ、ママ。」無邪気な笑顔でさやが言った。
「まあ、さやったらそんな言い方して……。」そう言って幹世は水沢のほうを見た。お互いに目が合うと、幹世と水沢は、2人ともクスッと笑った。
 さやは素直で、かわいい女の子だった。さやと話しをすることは、水沢にとって楽しみの一つでもあった。しかし、それだけではさやとこれ程までに親しくはならなかっただろう。水沢がさやと仲良くなったもう一つの理由は、幹世に近づきたいためであった。幹世は娘の相手をしてくれる自分を嫌ってはいないだろう。けれども、水沢は今の関係からもう一歩踏み出せないでいた。

 水沢は広島の出身で、三人兄弟の末っ子である。高校卒業後、特にやりたいことが見つからなかったので、医者である父親の後を追いかけるように東京の大学の医学部に進学した。大学のサークルで、仲間と始めたバンドがきっかけとなって、ロック音楽に夢中になった。大学を中途退学し、アルバイトでなんとか生計を立てながら、街角でギター片手に歌をうたった。いつか大きなコンサート会場で、たくさんの人に向かって演奏できる日を夢見ていた。若さゆえの無鉄砲さでもって、有名なミュージシャンになれると信じて疑わなかった。しかし、水沢の青春時代は終わった。28歳になって、水沢は、はじめて就職活動をし始めた。大学中退後、定職につかず、フリーターであった水沢を雇ってくれる会社はなかった。職業安定所に通いつめ、やっと今の廃棄物処理業者の仕事を得た。廃棄物処理と一言で言っても、その労働はきつく、いわゆる「3K」と呼ばれる職種だった。
 が、水沢は自分の人生を全く後悔していなかった。元来、楽天的な性分なのである。今でも、時間のある時には、昔の仲間と音楽を演奏している。音楽のない人生など、水沢には考えられないだろう。

 ぬいぐるみを洗った後も、まだ水沢は迷っていた。しかし、意を決して幹世たちの住むアパートへと向かった。コンクリート造りの3階建てのアパートに幹世とさやは住んでいた。水沢はゴミの収集の時に、さやがアパートの2階のドアの1つからかけてくる姿を何度か見かけたことがあった。玄関の前まで来てみたものの、水沢は、まだためらっていた。気持ちを落ち着かせようと、大きく深呼吸をした。 おせっかいだったろうか。他人の家のゴミに関して詮索するのは、個人のプライバシーに踏み込むことになる。ゴミの収集をしている立場であるならなおさら許されることではないのかもしれない。けれど、さやとは仲が良く、全く知らないというわけでもないのだ。それに、さやがあんなに大事にしていたぬいぐるみを捨てたとは考えにくい。もし誤って捨ててしまったのなら、返してあげたほうがいいにきまっている。感謝されるか、迷惑がられるか、ふたつにひとつである。そう決心して、水沢がチャイムに手を伸ばしかけた時、いきなりドアが開いて、さやが飛び出してきた。
「あっ、おじちゃんだ!!」さやはうれしそうに叫んだ。
「びっくりしたー。どうして出てきたんだい。すごい偶然だなあ。」
「ママが、雨が上がったから、虹が出てるかもしれないよって言ったから、さや、見ようと思って。」
「それに、おじちゃん来てくれないかなあって待ってたの。」
水沢はうさぎのぬいぐるみを、さやに差し出した。
「あーっ、うーちゃんだ!!ママ、やっぱりさやが言ったように、おじちゃんがうーちゃん持ってきてくれたよ。」さやはぬいぐるみを抱きしめて飛び跳ねていた。
「すみません、わざわざ届けてくださって。」エプロン姿の幹世が出てきて、頭を下げてお礼を言った。
 やはり、ぬいぐるみは間違って捨てられたものだった。ゴミの収集の時に処分されてしまったと幹世はあきらめていた。けれども、さやは水沢がさやのぬいぐるみに気づいて、きっと届けてくれると信じて待っていたそうだ。
「本当になんとお礼を言っていいのか・・。」幹世はもう一度、深々と頭を下げた。
「本当によかったです。おせっかいかとも思って、迷ってたんです。でも、さやちゃんが宝物って言ってたのを思い出して、捨てるわけないと思ったので。」水沢は幹世に感謝されて、照れながら言った。
「ねえ、おじちゃんも一緒に、ごはん食べようよ。いいでしょ、ママ?」水沢は返答に詰まってしまった。
さやにしつこくせがまれて、幹世も照れながら、
「もしよろしかったら、どうですか?ちょうど今から夕食を食べるところなんです。」と言った。水沢が返事を言おうとする前に、さやは水沢の腕をひっぱって家の中に連れていってしまっていた。

海遊館のアクリルガラス 「ないなあ。」そうつぶやきながら水沢が押入の中をがさごそと探していると、幹よが2人分のコーヒーをおぼんにのせてやってきた。
「コーヒー入れたわよ。」
「ああ、ありがとう。」そうはいったものの、水沢は押入の中に頭をつっこんだままだった。
「何かさがしもの?」
「昔の楽譜を探してるんだ。たしか、押入のこの辺りにしまったと思ったんだけどなあ。」
「楽譜って今度のコンサートに使うの?」
「そうなんだ。まあ、昔作った古い歌をうたっても流行らないかもしれないが、思いでの曲がたくさんあるから……。」
「それにしても、コンサートで、たくさんの聴衆を前にして歌えるなんてすごいことだわ。ほんとによかったわね。」
「コンサートっていっても、地方の営業だから、たいしたお金にはならないよ。けれど、正直言って、まるで子どもみたいにわくわくしてるよ。」水沢は照れ隠しに頭をかいた。
「うまくいくといいわね。」幹世と水沢は微笑みあった。
「あっ、幹世。これは……」
水沢は幹世にうさぎのぬいぐるみを差し出して見せた。
「あら、うーちゃんだわ。こんなところにしまってたのね、なつかしいわね。」
「ほんとに、久しぶりだ、このぬいぐるみを見たのは。このぬいぐるみには感謝しないとな。」水沢は、ぬいぐるみの以前と変わらない黒い瞳をじっとみつめながら言った。
「さやも今では小学生になったから、ぬいぐるみをいつの間にか持ち歩いたりしなくなったものね。けれども、あの頃は、本当にかわいがってたわ。」幹世もあの頃を思い出すかのように、しみじみと言った。
「さやは、幸せを呼ぶぬいぐるみだって言ってたけど、ほんとにこのぬいぐるみが、ぼくらに幸せを運んできてくれたような気がするよ。」
「わたしも、あなたがうーちゃんを届けにきてくれたあの日に、運命的なものを感じたわ。」
「ああ、あの日の出来事がなかったら、今、僕たちはここにこうしていなかったかもしれないな。」水沢と幹世は、再びお互いに見つめ合い、微笑みあった。
「ただいまー。」玄関のほうで、さやのはじけるような、かん高い声がした。

「さや、そろそろ幼稚園に行きましょ。今日はたくさん雨が降ってるから、長靴はきましょうね。」朝食の片づけを済ませ、エプロンをはずしながら、幹世は言った。紺の制服を着て、黄色のカバンを肩にかけたさやは、「はあ〜い。」と言って、玄関へかけていった。
ふと、両手に何も持っていないさやに、幹世は「さや、いつものうさぎのぬいぐるみは?」
「いいの。」さやがあっさりとそう言ったので、幹世とさやは大粒の雨の中傘をさして出かけた。
「ねえ、ママ。今日はゴミのおじちゃんと会えるかなあ。」
「どうかしらね。たくさん雨が降ってるから、ゴミの収集車は少し遅れると思うわ。」
「そっか。さや、あのおじちゃんがパパだったらいいのになあ。」さやは、ぽつりとつぶやいた。
「さやは、あのおじちゃんと仲良しだものね。」
「うん、好き。」さやは幹世の言葉に素直にうなずいた。
「ママは、あのおじちゃんのこと好き?」
「え……、ママも優しそうでいい人だと思うわよ。」いきなりの問いに幹世はまごついた。
「おじちゃんもママのこと好きだよ、きっと。」さやはきっぱりと言い放った。
幼い子どもだが、意外と奥深いことを考えているのだろうか。水沢と幹世は、お互いに好意を抱きつつも、もう一歩前へ進む勇気がでないでいた。そのことに、しっかりとした性格のさやは気づいているのかもしれない。2人の中を進展させるために、突然こんなことを言ったのだろうか。まさか、そんなことまでは……。幹世は一瞬とまどったが、すぐに、さやは単に水沢が好きだから出てきた言葉だったと、自分の考えすぎを諭した。幹世はいろんなことを考えながら、ゴミ捨て場の横を通り過ぎようとしていた。そのときさやは、こっそりと、ゴミの山の隅っこのほうに、昨日さやが置いてきたうさぎのぬいぐるみがあるのを確認した。さやの大切な宝物は、ひょっとしたらもう二度と目にすることはないかもしれなかった。さやにとっては、いちかばちかの大きな賭であった。きっとうーちゃんは返ってくると、さやは水沢を信じた。ゴミ捨て場を名残惜しそうに見つめながら、さやはお祈りをした。
 気を取り直して、さやは「ママ、さやは雨あんまり好きじゃないなー。早くおひさまが出てくれたらいいのに。」さやはどんよりとしたくもり空を見上げながら言った。
「もし雨があがったら、虹がでるかもしれないわよ。」
「虹ってなに?」
「おそらに七色のリボンのひもみたいに線が出てくるのよ。とってもきれいよ。」
「へえ〜。さや、みたいなあ、虹。」
幹世とさやは手をつなぎながら、幼稚園へと歩いていった。



ナニワ革命
川口真祐子


吉田さーん。どうもありがとうございました。今度は、各地の日本の様子を、中継してもらいましょう?  プチッ
 6畳の部屋に、コタツ1つ。どこから入ってくるのか、隙間風が部屋の温度を下げる。顔だけが、冷たい。家族5人、こたつに肩まで突っ込んで迎える21世紀。戦いの火蓋は、きって落とされた。

ただいまより、述べる記録は、壮絶な戦いの記録の一部であり、21世紀を越え今なお、決着はついておりませぬ。

時は平成11年・11月。
舞台は、日本のニュ―ヨーク・大阪、西成。大阪のシンボル・通天閣を構え、食道楽まで地下鉄で、たった10分。動物園で有名な、天王寺までなら、自転車で。そんな町に住む、人情と愛嬌のかたまり、西成区民が、繰り広げる涙と笑いのストーリー。どうぞ、目を見開いて、しかとご覧になってくんなせぃ。

おそろいの黄色いヘルメットと、紺のユニホームをきた、オヤジたち10人ほど。でかいトラックと、その仲間たち。さびれた銀色の鉄骨。プ―,プー、バックします。バックします。何かが、始まろうとしている。
そもそも長い間、空き地だったその土地がキレイになることは、私たち地元住民には、嬉しい限りだ。なにせ、その空き地は、暴走族のたまり場だった。そして、荒れ狂った野良犬の遊び場になり、いまでは、ゴミ置き場。その上、ホームレスが、住み付き始めるありさま。とにかくエライことになっていた。

「あそこ、やっときれいなるねんなー。良かったわー。うちん家、空き地の前やったやろ。もう夜うるさて、うるさて。警察に通報したけど、オマワリさんも何もしてくれへんしな。」
「そらー、良かったですね。それにしても、あそこ、何が建つんやろか。結構広い土地やさかいに、ボウリング場とか、バッティングセンターとかかしら?今流行りのスポーツジムなんかできたらいいね。私エアロビクスって、1ぺんやってみたいんや。」
「私も。アクアビクスとかいうて、水の中で、体動かすのもあるらしいで。プールつくるんならサウナ付がええな。あと、一杯飲めるようになってたら最高やね。運動してから、生一杯か。ええなー。」
「いいですねー!めざせスリム美人やで。奥さん、これ以上きれいなってどうしますん。」
「もうー、おだてんといて。コロッケもう4つ、よけいに買おかな。」
「おおきに。」
「どうせやったら、温泉湧き出たらええのになぁ。」
「それ、ええなぁ。でも、そないなったら、加藤さんとこの風呂屋、潰れてまうがな。」
「そら、きのどくや。」
ハッ,ハッ,ハッ
「でも実際は,何が建つんかは、誰も知らんねんて。」
「何それ!何建てるか、知らされてへんの。」
「そうやねん。丸秘やって。うちの町会長さんも、ボーとした人やろ、まあ気楽に構えまひょう、やって。かなんわ。」
「へぇー、」
「あっ、私,友達と、お茶飲む約束してたんや。もう行かな。ごめんやで。」
「いえいえ。えーっと、コロッケ8つやから480円、毎度、おおきにー!また、ごひいきにー。」

「お父さん、聞いてた?あそこ、ようやく、工事するんやて。」
「聞いてるもなにも、まる聞こえや。声の大きさやったら、ニッポン1やなー。」
「それにしてもあそこ何が、建つんやろ。楽しみやな……あっ。いらっしゃい。今日は、何しましょ。」

そう、私の家は、ニッポン1、いや、チョット言い過ぎか、大阪1おいしいコロッケ屋。場所は、西成商店街の真ん中ほど。お父さんと、お母さんが2人で切り盛りをしている。商店街には、他にもいろんな店がある。同級生の、ちひろの店は、お茶屋。店の前を通ると、プーンと、お茶のいい匂いがする。たか子は、天ぷら屋の娘。耕平は、おまんじゅう屋の長男で、亮は、八百屋の次男坊。うどん屋の、ナオコ姉さんは、私より5つ年上で、美人で賢くって、憧れの人だ。あと、果物屋に薬屋。金物屋、それから、たこ焼き屋。とにかく、いっぱいお店が並んでいる。商店街の人が、全員仲いいわけではないが、大きなイザコザなく、やっている。この商店街には、西成の活気と温かさが、あふれていて、私は、物心ついた時から、ここが大好きだ。
そうはいっても、私は、お店を、よく手伝うようなイイ子ではない。なぜ?って。だって、店を手伝うと、手、服、髪の毛、とにかく全身油臭くなってしまう。それに、夏は、コロッケを揚げる油で死にそうに暑いし、冬は、ストーブをつけたら、コロッケがいたむからって、暖房なし。凍りそうに寒い。その上、手伝っても給料ナシ。以上の理由。
それに比べると私の、姉ちゃんは、えらい。土・日曜日には、必ず、店番をしている。お母さんもよく言う。
「姉ちゃんを、見習いなさい!あんたは、ほんと誰に似たのやら。情けないわ。」

そんな私の店は、うまい・安いで、それなりに、繁盛している。だから、いつも、仕事を終えて2人が帰ってくるのは、夜の9時。休みは商店街の定休日の、水曜日だけ。休みの日は、お母さんは、たまった家事に、追われているし、お父さんは、一日中寝てる。そんなわけで、昔から、私はおばあちゃん子だ。実は店を開業したのは、おばあちゃんで、“コロッケ1号店”という名前もおばあちゃんが付けたそうだ。だけど、60才を機に、現役を引退し、今は、お母さんの代わりに家事をしてくれている。これが、私の家族。

ごく普通のこの一家に、これから、何かが起ころうとしていた。

時は平成12年・5月
 ようやく春らしくなり、白やら、黄色のちょうちょが、何やら急がしそうに飛んでいる。学校の正門に咲いている、チュウリップも優しい午後の光を受け、気持ちよさそうだ。
 私は、この春、最高学年の6年生になった。一番、学校でエライ。毎日、少し偉そうに学校に登校するのも、板に付いてきた。体に合わなくなってきたランドセルもどこか、誇らしい。朝礼の後で、一番最後に退場するのも、カッコいいし、お昼の放送で、友達が、しゃべっている声を聞くのも、どこかくすぐったいし、気分がいい。
「ユー、もうすぐ帰る?」
「うん。今日さらすな公園に、紙芝居来るからタコせん食べて帰ろうや。」
「うん、そうしよ。」
「あっ、私今日お金もってへん。」
「じゃ、私がお金貸したるから、店寄ってから行こ。どうせ帰り道やしなぁ。」
「ウン、ごめんな。じゃ、そうしょ。帰ろか。」

「ただいまー!」
「お帰り!今日は早いやん。あっ、ユーちゃん。こんにちは!」
「こんにちは!おばちゃん。」
「お母さん、今から、さらすな公園行ってくるから。お金ちょうだいや。」
「なにゆうてんの。あんた、おこずかい渡したばっかやろ。」
「あんな、ユー、お金ないんやて。貸したろうとおもうねん。」
「あんた、お金の貸し借りは、あかんてゆうてるやろ。ユーちゃんもやで。分かった?」
「ウン。」
「返事は、ハイやろ!」
「ハイ!!」
「よく出来ました。じゃ、100円。どうせ、タコせんやろ。」
「ありがと!!」
「夕方には、帰ってくるんやで。」
「はぁい!いってきまーす!」
実は、この遊びコースは私たちの、お決まり。ランドセルのまま、さらすな公園に直行することもしばしば。さらすな公園にはヤンチャ坊主と、オテンバ娘が常時10人は集まっている。谷川 遊は、私の一番の仲良し。いっぱい遊びなさい、って意味で、ユーのお父さんが、つけたらしいけど、ほんとその願いは充分に叶えられてる。
公園へ行く途中に、巨大工事現場が出没したのは、半年ほど前。工事の音は、とてつもなくうるさいし、砂埃もすごい。汚れた青色のビ二ール布に囲まれた、鉄骨の中で、一体どんなことが、起きているのかなんて、興味はないけど、私はその工事現場を、好きになれずにいた。何となく……

「あいかわらず、工事してんなー。ほんま、うるさいなぁ!いい加減、はよ、終わらんかな?」
「なんか、昨日、お母さんがもうすぐ完成やって、言ってたで。」
「へー!そうなんや。さっすが、町の放送局!何でもよう知ってるなー!」
「もう、それ言わんとってや。」
「ごめん、ごめん。なんか、えらい高いビルみたいやけど。おばちゃん、何が建つって言ってた?」
「知らんねんて。」
「ふぅーん……」
「それより、急がな、紙芝居のおっちゃん帰ってまうで。」
「本間や。ヤバイ、ヤバイ。走んでー!競争や!」
キャッ、ハッ、ハッ!!

ブルーのうすぎたないベールを、脱ぎ、奴が姿を現したのは、この1週間後だった。
“サン”
白い壁にでかでかと、書かれた太陽の絵。5階建て。地下には駐車場。いたるところに
太陽マーク付き“サン”の旗が、バタバタ音をたて、はためいている。6月1日オープン!の文字。そう、あの空き地が、新しく命をおくりこまれ、変貌をとげた。最悪のかたちで……このニュースは、一瞬にして西成商店街を、駆け巡った。そして、一気に、商店街は、暗雲に包み込まれた。
“サン”それは、今一番店舗を拡大している、商店街潰しの大手スーパー。たちの悪いことに、“サン”は食料品だけにとどまらず、衣類・カバン・靴・文房具と、あらゆるアイテムを店内にとりそろえている。近代的雰囲気・新しい演出が、うけ、今やだれもが太陽マークを知っている。奴が、私の町、西成の、私の大好きな西成商店街を潰しにやってきたのだ。 六甲山野生のタヌキ

夜10時会合は、始まった。会合が行われるのは、1年のうち3回、新年のあいさつ・商店街恒例・夏祭りの進行の打ち合わせ・年末の仕事収め。それ以外で、これだけの人が集まることは、いままでにはなかった。

私は、いつものように9時に布団に入ったが、なんだか眠れなかった。何か恐ろしいことが、起きるんだ…そう考えると、どうしようもなく心細くなって、ムックリおきだして、お母さんに、会合に連れて行ってと、頼んだ。何とか、許可をもらい、私も黙って、お父さんと、お母さんの後ろについて会合場に向かった。。会合場には、ちひろと亮がいた。ナオコ姉さんも端の方に座っている。暗い表情で下を向いている、おっちゃんもいれば、白い歯を見せて、豪快に笑っているおばちゃんもいる。お父さんとお母さんは、そんなみんなの輪の中に入っていった。私は、何だか急に寂しくなってお母さんに、くっつくようにして、後につづいた。
「大変なことになったなー!」
「黙って工事してて、おかしいと思ってたんや。」
「そやけど……心配やわ。」
「大丈夫ですって。奥さん、元気だしなはれ。」
「そうやで、まだ潰されてへんのやで。」
「そうですね。落ち込んでてもしゃーないですね。」
「そやで。うちなんか、全然心配してへんで。くるなら来い、や。」
「ハッ、ハッ、ハッ!そら、おまえやったら、一押しで、出し投げやな。頼もしい関取女房や。」
「何よ、あんた。」
「ハッ、ハッ、ハッ」

(人の声って、あったかいな。)
今まで、怯えていた心が不思議と消えていく。
(笑い声って、元気をくれるな。)
今までの、不安が、ウソみたいに、どこかへ、飛んでいく。

私は、いつのまにか、ハンドパワーならぬ、おっちゃんandおばちゃんパワーで、元気100%に復活していた。

「みなさん、今日は、夜分に集まってもろて、ごくろうさんです。今日こうして、集まってもろたのは、もうご存知と思いますが、3丁目に“スパー・サン”ができました。いわゆる商店街潰しですわ。私たち、西成商店街も、これから、あそこと、戦うことになると思います。いろいろ心配してはる人もおるでしょうけど、みなさん力合わして、がんばりましょう。   これを言おう思て。」
 いつものように、気が弱そうな・頼りない声が、マイクを通して、か細くながれた。イイ人を、絵に描いたような、西成商店街の会長・豆腐屋のオヤジの登場だ。
「会長さん、“サン”か“ニャン”か、なんや知りませんけど。うちらの、商店街にかなわへんて。戦うやって。なんや、えらい大げさすぎるで。」
「そうや。あんな、スーパーなんか、ビビルような相手とちゃうって。ここの、商店街は、明治時代から続いてるんやで。そう簡単に潰れるかいな。お得意さんも、いっぱいおるし。」
「ほんまや、お客さんが、ようけついてくれとるがな。」
「最初は物珍しさで、スーパーに行きはるやろうけど、1週間ほどで飽きてまた、商店街に戻ってきてくれるって。会長さん、もっとドンッと、構えといてくださいよ。」
「そやけど、あそこの、スーパー、最近あちこちに店つくって、ようけ商店街潰されてるで。鶴見川商店街も、“サン”にやられて、今もう、ほとんど店閉めてるって聞きましたよ。」
「あそこの商店街と、うちとでは、店の数も歴史もちゃうがな。西成商店街は、そう簡単にやられへんて。みんな、心配しすぎや。」
「ほんまや。葬式みたいな顔してんで!今までどうり、活気ある商売してたらええんや。」
「そや、そや、イイ事言うなー。そのとうりや。みんな、今までみたいに、元気だしてやりましょうや。よそが潰れても、うちらは、うち。心配ばっかりして、そんな、情けない顔してたら、それこそ、お客さん逃げてまうわ。」
「なんか、気持ち楽になりましたわ。ビビッて、損しました。今までどうり、やっていけばいいんですね。」
「会長さんもそう思うやろ。」
「そっ、そうですね。私の心配し過ぎでしたわ。みなさん、夜遅くまで付き合ってもろて、すいませんでした。それじゃ、もう、そろそろ、お開きに。お世話かけました。お疲れさんです。」

この時、“サン”の力を知る者は、誰もいなかった。

時は平成12年・8月
 駐車場・只今満車  
 自転車臨時置き場 
 特設レジ設置
 クーラーのガンガンきいた店内
 新装開店1ヶ月 感謝をこめて みなさまに愛され続ける“サン”
(本日も、“サン”大感謝祭へおこし頂き、まことにありがとうございます。いつも、いつも、皆様に、愛され続ける“サン”今後とも、皆様の喜ぶ笑顔を大切に、サービスしていく次第であります。なにとぞ、“サン”をよろしくお願いいたします。)

 ガラガラの自転車置き場
 ひとけのないメインストリート
 ひっそりとした店先
 壊れかけの扇風機
 寂しげな風鈴の音

大手スーパー・サンの、商店街壊滅作戦は、生半かなものではなかった。商店街が安売りをしようとすれば、どこで調べたのか、商店街安売り前日に、“サン”のセール。その結果、お客さんは、みんな“サン”へ。冷蔵庫がいっぱいになってしまえば、次の日、商店街の安売りに、行く必要がなくなってしまう。商店街で、抽選会をしようと企画すれば、同じ日に、待ってましたとばかりに商店街より、豪華な賞品のくじ引き大会。また、商店街が休みの水曜日には、ポイント2倍デー。肉の日やら、魚の日、一週間全部が特売日なのだ。もちろんサンは、年中無休。あらゆる手段で、客を集め、巨大化していく。この勢いは、今となっては誰も止めることはできない。そんなスーパーに、庶民は、いいように踊らされる。そして、人々は何か大事なものを忘れていった。
 

西成商店街は、完全に“サン”に圧されていた。“サン”をなめていた。少し天狗になっていたのかもしれない。6月1日“サン”のオープンの日。急激にお客さんが商店街から、消えた。この時は、所詮1週間の辛抱だと、どの店主も信じていた。1週間が過ぎた。さあ、これからまた忙しくなるぞと、どこかで期待し、そうであることを、願っていた。2週間、3週間過ぎた。お客さんは、増えない。そして、2ヶ月が、過ぎた。明らかに、客足は、途絶えた。錆びれた空気が商店街を包み、いっきに老けてしまったかのように商店街から、活気が消えた。服屋と、文房具屋は、店をしばらく閉めると張り紙を出して、シャッターを下ろしている。他の店は、一応店を開けてはいるものの、“いらっしゃい”の声さえ聞こえてこない。

「お母さん、ただいま。」
「おかえり。」
「お母さん、なんか、元気ないで。しんどいん?大丈夫?」
「大丈夫や。ちょっと、疲れただけや。お母さん、元気だけが取り柄って、あんた知ってるやろ。」
「うん…知ってるけど…  私今から、ユーと、さらすな公園行ってくる。夕方には、帰るから。」
「はいはい。じゃあ、気付けてな。いってらっしゃい。」
「いってきます。」

「今日も、お母さん元気ないねん。あのスーパー出来てからお客さん少ななってしもたやろ。」
「そやな。みんな、“サン”で買い物してるもんな。」
「最近、痩せてきたみたいやし。」
「……。」
「お父さんも同じや。暇そうにポツンとイスに座ってて。それ見たら、悲しくなるねん。メッチャ寂しそうな顔してて…。私あんな、お父さんの顔見たの初めてやねん。もう、アカンのかな。」
「何言うてんの……」
「でも、このままやったら、お客さん誰もこぉへん。私どうしたらええんやろ。」
涙がボロボロこぼれてきた。今まで泣かずに、我慢していた気持ちが、ドンドン溢れてきて……。胸がはちきれそうになった。お父さんの顔・お母さんの顔が、頭に浮かぶ。泣いても、泣いても…どうしても涙が止まらない。
「ユー、ごめんな…私、悔しい…」
「……」
「私、ホンマに悔しい……あんなスーパーに負けて、私ほんまに、悔しい…」
「泣いたら、負けやで。泣いたら、アカン。泣いたら、アカンで。負けたらアカン。」
「うん…」
「私も西成商店街大好きやもん。一緒にがんばろや。負けたないもん、私も。」
「ユー、ありがとぅ……」
「うん…」

(あの、スーパー、絶対許さん!私、絶対負けへん!おばあちゃんが、言うてた。“コロッケ1号店”は、おいしいコロッケたくさんの人に食べてもらいたい思て始めた店やって。おばあちゃんの宝物やって。潰されてたまるか!負けへんで!商店街取りもどすんや!なめたらアカンで、ナニワっ子!ナニワ革命や!!)

時は平成12年・12月28日
『えぇー、次のコーナーにいってみましょう。ピックアップ・旬な人―!!毎週、関西各地のがんばっている人を紹介する、このコーナー。20世紀最後のこの、コーナーに登場してくれるのは、商店街の活気を取り戻そうと、がんばっている人です。おハガキには、商店街の良さを、知ってほしい!そして、ぜひ、一度立ち寄ってみてほしい!と、書いてあります。でっ、このおハガキを出してくれたのが、何と小学6年生なんです!!商店街を支える若い力、それでは、リポートしてもらいましょう!福井さーん!今日は、どちらにいるんですか?』
『はぁーい、福井です。ピックアップ・旬な人!!今日は、これぞ、関西の下町・大阪市西成区に来ています。実は、私は、今、明治時代から続いているという、古い歴史をもつ西成商店街にきているんですよ。たくさんのお店が並んでいます。どのお店も活気がありますね。これぞ、商店街ならではですよね。その上、どれも、新鮮で、安い!!』
『へぇー!あっ、福井さん、何食べてるんですか?おいしそう!!コロッケですか?』
『そうなんです!出来たて、アツアツで、おいしいですよ!こんな、おいしいコロッケがたった60円なんです。』
『えぇー、安いですねー!』
『そうでしょ。実は、このお店・コロッケ1号店は、今回、ハガキを出してくれた小学6年生の、笑ちゃんのお父さんとお母さんが、やっているお店なんですよ。では、さっそくお邪魔してみましょうか?こんにちはー!お忙しいところすいません。』
『はぁーい、いらっしゃいませ!』
『ハガキを、出してくれた、笑ちゃんですか?』
『ハイ!!!』



「カリスマパパ」
菊池聡美


 「俺は、カリスマ作曲家になる!」
 夕食中、康人は突然叫んだ。父は味噌汁を吹き出しそうになりながら、
「おまえ、何を考えてるんだ!頭どこかにぶつけたのか!?」
きらきら目を輝かせて宙を見つめる息子の頭に、軽く拳固を食らわせた。
「あなた、康人は冗談で言ってるのよ。ねぇ、康人?」
彼の方を見ずに母は漬物をつまみ、一口茶をすすった。
「冗談?本気だよ、俺は……」
食卓に手を叩きつけ両親の顔を交互に見やる康人に、父は手元の新聞をぐいと押し付ける。
「どうせこれに影響受けたんだろ。『作曲家、大室徹之助の半生。』ええと……?」
母が首を伸ばし、テレビ欄を凝視して夫の言葉を引き継いだ。
「『悲劇の少年期から音楽の道へ……。魂を揺さぶる旋律が、今日蘇る……!』……ああ、昨日の新聞じゃない、これ。そういえば見たわね、こんな番組。」
「これ見て作曲家なんて思い立ったんだろうが。本当、単純なやつだ。」
康人は唇を噛み、俯いた。図星のようだ。
 ただ、明美だけがにこにこと飯のおかわりをよそいながら、
「いいじゃありませんか、お義父さまお義母さま。カリスマ作曲家なんて、すてきだわ。」
と言った。康人は茶碗を受け取り、女神を見るような眼で妻を見つめた。
「明美……、おまえは応援してくれるのか……?」
「もちろんですよ。第二の人生、がんばってくださいね。」
康人は嬉しそうに、そして少し恥ずかしそうに箸を指先で弄んで、
「いや、銀行は辞めないさ。そんな大げさなものじゃないんだ。」
自分は一家の大黒柱なんだから、と爽やかに微笑んだ。母は大きな溜息をついたが、康人の決意が趣味の範囲内であることに安心したのか、もう口をはさもうとはしなかった。父も疲れた様子で、
「……風呂沸いてるか?うん、言ってくる。明美さん、ごちそうさま。」
食事を早めに切り上げ、逃げるように居間を出て行った。
「明美さん、だめよ、調子に乗せちゃあ。」
声をひそめて、義母が注意する。
「でも、こんなに活き活きした康人さんを見るのは久しぶりですよ。ずっと働き続けて、やっととれた連休ですし……。いいじゃないですか。」
「明美さんがいいって言うならまあ何にも言えないけど……、それこそせっかくの連休なの   に……」
そんな二人のやりとりには全く気づく様子もなく、康人は上機嫌で煮魚の骨をしゃぶっていた。母はもう一度嘆息し、夫の食器を引き寄せ自分のものと重ね、台所へと持って行った。そのまま自室に向かったのか、居間に戻ってくるけはいはない。

「……ありがとう、明美。」
母の足音が完全に遠ざかったのを確認してから、康人は輝く瞳を再び明美に向けた。
「思えば、俺はおまえと結婚してから二年三ヶ月、一度も連休を取ったことが無かった。だか  ら、今日明日と何をしたらいいのか……、正直戸惑っていた。今日はずっとテレビを見たりた めていた本を読んだりと非生産的な行動ばかりしていたが、明日は違う。金勘定以外のこと  で、こんなに心が燃えたのは初めてだ!」
「ええ、あなた。でも、無理はしないで下さいね。あさってからまたお仕事なんだから。」
明美は康人の手を取り、いたわるようにさすった。
 康人と結婚してから確かに二年と三ヶ月。周りの心配をよそに、明美は毎日楽しい生活を送っている。出会った時すでに康人は銀行員であり、彼の実直ぶりに明美は
「本当に銀行員の人ってまじめなんだ」
と、心の底から感動したものだった。だが、全く文句のつけようが無い夫との暮らしに少し──贅沢だと思うのだが──退屈を感じ始めていた今日この頃。今の康人の姿は義母・義父にしてみれば鬱陶しい病気のようなものかもしれないが、明美にとっては初めて知る夫のかわいらしい意外な一面であり、だから明美は彼が「カリスマ作曲家」だろうが「カリスマ浄瑠璃人形職人」だろうが何を夢見ようとも全く構わなかった。仕事以外のことに夢中になる康人の姿が、明美にはとてもまぶしかったのである。

 とはいうものの、翌日の昼過ぎ、玄関におもちゃのピアノを見た時には、さすがに明美も絶句せざるを得なかった。病院とスーパーとに行って明美が家を離れていた、ほんの二時間の間のことであった。
「止めたんだけどねぇ……。」
義母が力なく言った。
「あなた……、これは?」
「ん?これは……?あぁ、お帰り。」
康人はピアノから顔を上げ、ようやく明美の帰宅に気がついた。かと思うとすぐに満面の笑みを浮かべて、誇らしげにそれを持ち上げて見せた。
「すごいだろ、日本橋のリサイクルショップで見つけたんだ!たった五千円なんだぞ。こんなに 小さいのにな、ほら。」
ド…レ…ミ…ソ…ラ…シ…ド──
「どうだ、いい音だろう。すばらしいだろ。」
「あなた、『ファ』は出ないんですか?」
康人は人差し指で
──ファ
鍵盤を弾き、
「抜かしただけだよ。」
ちょっと傷ついた顔をした。
義母が目配せをした。「だから昨日止めたでしょ」と言っているようだった。
「本当に、こんなガラクタ買って来て……。」
「使うさ。作曲するんだって言ってるだろ。」
康人は母から目をそらし、子どものように口を尖らせた。明美は靴を脱いで中に入り、二人とピアノの横を抜けて、台所へ向かいすたすた歩いていく。慌てて康人が呼び止めた。
「あ、明美。おまえも呆れているのか?『ピアノも弾けないで作曲なんて』と思っているの   か?」
眉を八の字にして訴えかける康人に、明美は
「いいえ、ちょっと驚きましたけど。」
親指と人差し指とで「ちょっと」を作ってみせた。
「それなら、どうして黙って行こうとするんだ!」
「アイスクリーム、溶けちゃう前にしまわないと。」
反対側の腕を手首にぶら下げた買い物袋ごと少し持ち上げ、ぽかんと口を開けた二人を置いて台所に消えていった。義母がその後を追い、廊下をかけていく。独り残された康人は頭をぽりぽり掻きながら、ピアノを小脇に抱え部屋へと退いた。
 無事アイスクリームや他の食材を移し終わり一息ついた明美の肩を、後ろから義母が軽く叩いた。
「明美さん、もっと叱ってやらないと。……どうせすぐに飽きるのにあの子はもう……」
「すぐ飽きちゃうのですか?」
がっかりした表情で振り向いた嫁を、義母はまじまじと見つめ、
「明美さん、まさか『カリスマ作曲家』なんて真に受けてたんじゃ……」
怒りとも呆れとも採れる声を出した。明美は手と首を一緒に横に振り、それを否定する。
「私だってびっくりしました。あんな康人さんを見たのは初めてです。でも、それだけ本気でや ろうとしているわけですし……。ほら、もしも飽きてしまっても、あのピアノいつか何かの役 に立つかも。」
「立つわけないでしょ。スタインウェイならともかく、あんなガラクタ。『カワタ』の親父、絶 対喜んでいますよ。『邪魔な物が売れてくれた』ってね。」
それはそうだろうな、と明美は、店主が商品に埋もれて倉庫のようになっているリサイクルショップの様子を思い出し、考えた。のんびりした嫁の態度に諦めを感じたのか、義母は
「公民館に行ってくるわ。父さんもいるし。」
いつもならば不平ばかり溢している囲碁室に自ら向かおうとした。それで明美は、義母の味方についてやれなかったことを少し後悔し、今日の夕食は小芋の煮っ転がしを作ろうと堅く決意したのだった。

 部屋に鍵をかけたまま、康人はすっかり曲作りに熱中しているようだった。自分と彼とを分かつ大きい扉に、明美はそっと耳を寄せる。だが、中の音が漏れてくることはなかった。明美はノックをするかどうかしばし迷ったが、結局その場を立ち去った。集中力を乱されることを康人は嫌う。中の様子は気になるが、彼の邪魔はしたくなかった。
 
 日曜恒例の午後のお茶タイムになった。義父は囲碁に行く時は暗くなるまで帰ってこないし、義母も今日は義父と一緒に帰宅するだろう。独りぼっちのおやつになるかと思ったのだが、ちゃんと康人は台所に出てきた。なんだか久しぶりに会えた気がして、明美はとても嬉しく思った。康人が笑顔で近づいてきたので、さりげなく作曲について尋ねてみる。案の定夫は機嫌良く頷き、興奮した声で言った。
「ああ、もう頭の中で、おたまじゃくしが何千京も泳いでいるんだ!」
「おたまじゃくし……、あっ、『♪』ね。それが……ケイ?」
「いや、いい。つまり……もう、メロディーが沸きすぎて、すごい勢いで曲を形作っていくんだ よ。もう少ししたら、君に披露できるだろう。」
 それならかなりのハイペースである。もしかしたら本当に康人には「カリスマ作曲家」の素質があるのかもしれない。明美はうきうきしつつ、ホットケーキを高くひっくり返した。甘いにおいがキッチンにたちこめる。バターの香りに誘発されて、康人は戸棚から茶葉とカップを取り出した。何か鼻歌を歌っているようだ。それが「手をつなぎたくなる」某洗剤のCMソングであることに気づくまで、少々時間を要した。そのため、明美は危うくフライパンの中身を焦がすところだった。
 準備が整い居間に移っても、康人はまだ浮かれていた。明美が自分の分のホットケーキをちゃぶ台に運び込んだ時には、もう彼の前の皿は空になっていた。紅茶も既に入っている。康人が淹れた茶は苦かったが、明美は一口すすっただけで幸せな気持ちになった。
「おいしい、あなた。」
康人は満足気に笑い、ポロシャツの胸ポケットに手を入れ、ライターを取り出した。その仕草に明美ははっと何かを思い出したように慌ててカップを置き、口を開きかけた。しかし先に喋ったのは康人の方だった。
「もうガスが切れてたんだ。悪いが捨てといてくれないか。」
「あ、ええ……」
「それでは、再開するとしようかな。ごちそうさま。」
うーん、と伸びをして、さっさと立ち上がり居間を出て行ってしまう。話す相手を失い開いたままとなった上下の唇を合わせ、明美は心の内で「ま、いいか」と呟いた。そしてぺたりと台に突っ伏し、曲の完成を待つことにした。

日本人形  それから一時間ほど経過しただろうか、うとうとしかけていた明美は、ピアノを床に置く鈍い音で目を覚ました。康人が浮かぬ顔で隣に座っていた。右手に丸めたレポート用紙が握られている。声をかけようか躊躇している間に、彼と目が合ってしまった。
「起きたのかい、明美。」
康人の声は優しかったが、その表情からは明らかな疲労が見てとれた。
「あなた……、作曲は終わったんですか?」
おずおずと明美が尋ねると、康人は体を強張らせた。やはり訊いてはならなかったのだろうか。曲は完成しているように見えたのだが。
「あ、あぁ…、できたよ。さっそく君に聴かせようと思って……、うーん、困ったな。」
曲ができたなら、何をそんなに困ることがあるのだろう。康人は落ち着かぬ様子で、きょろきょろ狭い部屋を見回している。明美は辛抱強く、質問を変えて再びそっと尋ねた。
「……気に入らないのですか?」
「いや、そう──ううん。なんだかおかしい気がするんだけど……、よくわからない。」
またしても返事は曖昧である。しかし、康人がわからないことなど、明美にわかるわけがない。正直疲れてきた明美は、その気持ちは悟られないよう気をつけながら、
「……あなた、とにかく演奏してください。おかしいかどうかはその後話しましょう。」
夫の顔を覗き込みながら言った。そして
「聴きたいです。あなたの曲。」
と続けた。こちらは本心だった。
 明美の言葉に、ようやく康人は動いた。
「そうだ、おまえを思って作った曲に、おかしい所などあるわけがない。ようし、聴いてくれ、 明美。」
言うが早いか,レポート用紙を左手に持ち替えて広げ,ほぼ同時に右手の人差し指をすっと立てた。明美は指差されるのかと思いどきっとしたが、康人の指はまっすぐ鍵盤に下ろされた。

ド──ソソファミレド ソ ド!
 ピアノがぎこちなく音を弾き出す。音楽の心得がない明美でも、康人のメロディーは耳に入るとすぐドレミに変換された。意表をつかれ閉口する明美をさらに驚かせるかのように、康人は突然
「ま────!」
虚無僧が吹いた法螺貝のような奇声を上げた。
「まーい、すうぃーいぃと、はーつ。そーのうるわしき、ひーとーみー!」
   ファー ミ── ラ(♯)──……
明美の耳のコースタキー管にあった翻訳器はあっさりと破壊された。当の明美は、すっかり腰を抜かしてしまい、ただただ康人を見守るばかりであった。康人はそんな妻の様子には目もくれずその後三十秒ほど超音波を発し続けていたが、突如両手で頭を掻き回し、
「だめだ、やっぱり俺は『カリスマ作曲家』にはなれないっ!」
その手を鍵盤に叩き下ろして彼の歌声にも匹敵する不協和音を鳴り響かせた。
「明美……。」
そして、ゆるゆると首を動かし、焦点の定まらない目を明美に向ける。
「部屋を出る前、完成した歌を歌ってみて……、俺は作曲家としての重大な欠陥に気が付いた。 俺は、俺は……
 ──俺は、音痴だったんだ。」
「そ……」
そんなこと、と言いかけて明美は口を噤んだ。先ほどの音が金縛りを解いてくれたようだ。体が動く。立ち上がり肩を震わせる夫に寄り添い、背中をさすってやった。
 康人が音痴であることなど、明美は二年三ヶ月前から知っていた。ただ、音痴が作曲家の致命傷だということは初耳だった。
「俺はな、明美。どうしても愛の歌を作りたかった。そしておまえに届けたかった。この休みの 内に、俺は『カリスマ作曲家』としての感触を得たかった。明美にとっての『カリスマ』にな りたかったんだ、どうしても……」
康人は「どうしても」を強調しながら、しかし弱々しく声を絞り出した。彼の言う『カリスマ作曲家』は明美の考えるそれとは甚だしく食い違っているらしいことが、ここにきて初めて明らかになった。しかし、康人の言うこともなんとなくだが、理解できるような気がした。
明美は床に放られたレポート用紙に視線を落とした。演奏前にはてっきり楽譜だとばかり思っていたその紙には、康人の字で、読んで恥ずかしくなりそうな甘い詩とカタカナの音階が書かれていた。明美は胸が熱くなった。
 明美が感慨に耽っている隙に、康人はズボンのポケットからタバコの箱とマッチを取り出し、自棄気味に食卓に投げ出した。弾かれるように明美は夫に向き直り、彼の手の動きを自分の掌で封じた。なぜ、と情けない顔で漏らす康人に、
「あなた、あなたどうして歌を作りたいなんて思ったんですか?」
早口に質問を浴びせてごまかす。康人は泣き出しそうな顔のまま、
「愛の証だったんだ。」
拗ねた口調で答えた。
「アイ?」
「……そう、結婚してから今まで、おまえはとても良くやってくれた。俺の親との同居にして  も、仕事にしても、ずっと文句一つ言わずがんばってくれている。だから俺は……感謝の気持 ちを兼ねて、二人の愛の形となるものが欲しくて、そうしたらテレビで」
「なぁんだ。」
康人の言葉を途中で遮り、明美はころころと笑った。康人は顔をしかめて、
「なぁんだ……?」
いよいよ泣きそうな声で言った。そんな彼の前でひらひら空いている方の手を振り、
「愛の証なら、もういただいています。」
台に乗せた手を康人の手ごと動かし、明美は自分の腹部に当てた。二、三度上下に撫で、
「ね?」
含み笑い。康人は大きく目を見開いた。
「あ、ああああ明美、おまえ……」
「朝、病院ではっきり言われました。三ヶ月ですって。」
康人はへたへたとその場に崩れ落ちた。
「よぅし……、作曲なんてやめだ。俺は、働くぞ。どんどん働く。『カリスマ銀行員』──い  や、『カリスマパパ』──?明美、俺は……」
声が上ずっている。明美は笑い、
「別にカリスマでなくていいですから、無理しないでください。」
優しく声をかけた。
 がちゃがちゃと玄関の鍵を開ける音がして、反射的に二人とも立ち上がった。あっ、と明美が口元に手を当てる。
「たいへん、夕食の支度……」
「いい、いい!今日は外で食べよう。」
「でも、せっかく小芋の煮っ転がし作ろうと思っていたのに。」
「それなら芋を食わせてくれる店にしよう。さあ、急いで仕度して。」
じれったそうに言うと、康人は居間を飛び出した。廊下を走る足音が乱れていて、思わず明美は吹き出した。
 本当に楽しい一日だった──、明日もきっと幸せだろうな──。
 無意識のうちにまたおなかをさすりながら、明美はくすりと微笑んだ。その耳に、義父・義母の歓喜の声が飛び込んできて、その幸福感をさらに高めてくれるのだった。



「俺」
松村祥子


 ——今日は午後から雨が降るでしょう。
 俺の顔で天気予報のオネエサンがにこやかにそう言った。そういえば何となく、空気が湿っぽい。
それを聞いているのかどうか、この家の人たちの朝はいつも忙しい。ここの娘のサチコさんが俺の顔の左端を見て、
「わ、もう7時31分。お母さん、間に合わん。早く早く。」
そう言ったかと思うと鞄をつかんで走っていった。お母さんはその後をついて慌てて走っていく。
 ふう、大変だよなあ、毎日。何でもっと余裕を持って行動しないのかねえ。いつも走って行ってるじゃないか。お母さんも大変だよな、毎朝あんなのに付き合ってさ。現によく文句言ってるもんな、「もう、いいかげんにしてよ。」とか。——あ、そういえば今日は雨が降るってのにサチコさんは傘持っていってなかった。まあどうでもいいけど。
あきれて部屋を眺めていると、サチコさんのお姉さんのリサさんが部屋の中に入ってきて、俺のまん前に腰を下ろした。
「ふう。」
 あれ、今日はリサさんは学校が休みなのかな、と考えていたら、俺の隣りのステレオが目を覚ました。
「はあぁ、あ、テレビくんおはよう。相変わらず朝早いね。BR> 電化製品のくせに、なぜかステレオもこういう話題に興味を示す。こいつと俺とは何かが違う。画面がないとか、そんな外見のことじゃなくて、持って生まれた性格、いや、性質って言うんだろうか。そういうのが。
「俺たちには関係ないことじゃないか。なんでそんなことにいちいち驚くんだよ、お前は。」
——言ってやった。こいつはいつもうるさいんだよな。人間のことになんて驚かなくたっていいのに。そんな必要ないのに。ステレオは、なんだか人間に媚びてるようだ。俺はそんなのは嫌いだ。
 ステレオが黙りこくったので、この部屋に流れている音は俺のスピーカーから流れる人間の声だけになった。リサさんを見たら、まだ俺を見つづけている。
そこに、「ただいま。」
と、お母さんが帰ってきた。お母さんは、休むひまもなく働き始める。せかせかと、忙しい人だ。
「さ、洗濯しよう。リサ、洗うもの出しなさいよ。早く。」
「はいはい。今日は学校は昼からね。」
リサさんはそう言うと、部屋から出て行った。お母さんはいろいろ、あちらこちらのものを片付けながら出て行く。
「・・・今日はリサさんは昼からだったんだね。」
おずおずと、ステレオが話しで映像を映し出すことが出来る。要するに俺のほうが優れてるんだよな、どう見てもさ。
 そんなことを考えている間に、いつの間にか眠ってしまったらしい。スイッチを押されて慌てて起きた。あんまりびっくりしたので、俺の顔に映る映像を乱しかけたじゃないか。ああびっくりした。
 もう昼過ぎになっている。お母さんの休憩時間のようだ。お母さんは、映画を見るのが好きだ。俺には「ケーブルテレビ」だか何だかがついていて、いろんなチャンネルに回せる。
「今日は『イングリッシュ・ペイシェント』か。前に見たことあったっけなあ。」
お母さんはそうつぶやきながら、チャンネルを回した。
「最後のいいところになってサチコから電話かかってきたりするのよね、いつも。今日も最後まで見られるかなあ。」
おいおい、電話より何より、いつもいいところがくる前に寝ちゃうじゃないか。映画が好きなんだったら見てればいいじゃないか。
 案の定、お母さんは寝はじめた。しかも映画が始まってすぐ。俺は腹が立ってきた。俺だって寝ていたんだぞ。それを起こしておいて、自分はすぐに寝ちゃうんだから。しかも俺はスイッチをつけられている限り寝られやしないし、休憩も出来ないやっている。そのなかで人間たちは笑っている。お父さんも、ビールを飲みながら一緒になって笑っている。俺はもうしんどいのに、早く寝かせてくれよ。いらいらしてきたじゃないか。早くスイッチを消してくれ、早く、早く。
 そう願いつづけているとその願いがお父さんに届いたのかして、10分くらいで
「さ、寝るかな。」
俺のスイッチを切ってくれた。やっと寝られるぞ。今日もいろいろ嫌なことばっかりの一日だった。明日も嫌なことばかりがあるんじゃないかなあ。
 サチコさんやリサさんは夏休みに入ったようだ。朝に慌てて出て行くこともなくなって、のんびり起きてくるようになった。でも、家で過ごす時間があるせいで俺を見ている時間が格段に増えてしまった。おかげで俺には休む暇もなくなって、大忙しだ。俺はテレビだから、映像を流すのが俺の仕事なわけだけれども、流すものは俺には興味も何にもないものばかりだから、面白くもなんともなくて疲れるばかりだ。もうすっかり嫌になってしまった。
 ステレオとは、あまりしゃべらなくなった。俺が、態度に「お前とはしゃべりたくない」という雰囲気をかもし出しているからだろう。奴に何か言われたりするとしゃくに触る。緒だったんだよね、だから何となく心配なんだけど。」
そうか、こいつも俺よりずっと、この家では古株の電化製品だったよな。・・・と、ここまで考えて俺はステレオに言ってやるいい言葉を思いついた。
「お前さ、向こうにいる普段顔を合わせてないやつの心配なんかしてどうするんだよ。お前だって古いんだぞ。いつ捨てられるかなんて、人のことより自分のほうを心配したほうがいいんじゃないのか。」
「そんなこと・・・。・・・」
ステレオはまごまごしている。俺の言ったことが効いたのかな。よし、もっと追い討ちをかけてやれ。
「だいたいお前は、自分以外のものを気にかけすぎなんだよ。例えばここの家の人間に対してとかさ。関係ないじゃないか、何してたって、何があったって。俺たちはどちらも人間に娯楽を与えてやっているんだ。そんな奴らに対して何も気をかけたりする必要なんてない。向こうのテレビのことにしたって、何の関係もないんだ。お前は誰に対してもイイ顔をしたがるんだ。俺たちが存在するにあたって何も必要ないことじゃないか。」
きつい調子でさらに続けた。
「俺はお前みたいな奴が嫌いなんだよ。」
どうだ、少しは考え直したか。
 ステレオは黙りこくきっと痛い目に会うと思うよ。」
ステレオは怒ったように、一気にそこまでしゃべると向こうをむいた。ステレオがこんなに強い口調でしゃべるのを聞いたことがなかったので、少し驚いたが、俺は奴のことが嫌いだから、耳を貸す気にもならなかった。俺に嫌われていることが分かったんだから、奴ももう俺にうるさく言ったりしないだろう。
 ステレオはその日から、俺とはまったくしゃべらなくなった。一度も。俺ももう、関わりを持つことはないだろう、持ちたくないし。
「ねえお母さん、あっちの部屋のテレビはいつ替えるの?」
サチコさんがそう言っているのが聞こえた。ああ、あっちのテレビはやっぱり捨てられるんだな。まあ、ご苦労さんでしたってところだ。
「うーん、今日電気屋さんにでも行って見てくるけど。早いうちに替えるわよ、きっと。」
お母さんはそう言った。サチコさんはバイトがあるらしく、せかせか用意をしながら「ふうん。」と言った。
 ステレオは心配そうに聞いているみたいだ。馬鹿だな、まだ分からないのか。
 昼過ぎになると、お母さんは出かけていった。きっと電気屋に行くんだろう。俺は、最近ここの家のみんながよく家にいて俺を使うので疲れ。どうしてなんだ。
 そんな考えがぐるぐる回るなか、ふと俺の頭の中にある言葉が浮かんできた。「奢っているとあとで痛い目に会うと思うよ。」ステレオが言った言葉だった。俺が奢っていたのか?何でだ。
「それで、いつテレビ交換しにくるの?」
「三日後よ。」
そこの部分だけは何とか聞き取った。三日後、俺はここからいなくなる。どこかに行かなければならないんだ。
 いきなり、俺は捨てられることが決まってしまったのだ、他のテレビのせいで。俺はすごく腹がたってきた。向こうのテレビ、奴が悪いんだ、調子悪くなったりするから。俺のせいじゃないのに。奴のせいだ、奴のせいだ。夜中に寝られなくて、二時間くらいそうやって怒りつづけていた。けれども、何だかだんだんそうやって怒っているのが空しくなってきてしまった。怒ったって、俺はどうせ捨てられるんだ。そう思うと、空しさがもっとこみあげてきた。そして、空しさと同時に不安がこみ上げてきた。あと三日で、俺は、隣りのステレオを疎ましく思うことも、この家の人間たちに腹を立てることもなくなるんだ。
病院入り口 「な、なあ、ステレオ、起きてるか?」
今まで、俺は一度もステレオに話しかけたことなどなかった。初めてだ。誰かに今まで、何を偉そうにものごとを考えていたのか、分からない。俺はどうしたらいいんだろう。」
ステレオは、ゆっくりと口を開いた。
「君が今までのことをそう簡単に反省できるとは思わなかったから驚いたよ。でも気づいたのは良いことなんだと思う。・・・僕たちは、所詮人間の持ち物だから、捨てられるのはどうしようもないんだけど、君が捨てられるっていうのはとても悲しいよ。君はいつも僕の話し相手だったし、君がいなくなるっていうのは、・・・どうなんだろう、実感が沸かなくて上手くいえないけど、とても怖いことのような気がするんだ。」
俺はあんなに嫌な奴だったのに、ステレオは心配してくれている。こいつはどうしてこんなにいい奴なんだろう。俺はステレオの何を見ていたんだろう。
「テレビくん、君は確かにもうすぐいなくなっちゃうけど、僕は君に、君を長い間使ってきた人間たちや、君が置かれていたこの部屋のことを覚えていてほしい。今までじっくり見たことなんてないんじゃないかい?」
「・・・ない。」
俺はステレオさえじっくり見たことがないのに気がついた。
「じゃ、君がいってしまうまでに、いろんなものを見てみたらどうだろう。覚えておくために。」
朝、七時。おる。家族は五人だが、その五人分の椅子も置いてある。普通の家はここでご飯を食べるのでは・・・、とも思うんだがここの家族はそれが嫌らしい。そのおかげでテーブルは少し、物置き場みたいになっている。食器棚もいい感じで、キッチンとの仕切りになっている。この部屋って結構広いんだな。
「今日はみんなどこにも出て行かないのかな。」
「いや、行くんじゃないのかな。サチコさんはバイトみたいだよ。お母さんがユニフォームにアイロンかけてるもん。」
ステレオはよく分かるなあ、そんなこと。いつもこんな風に観察しているのか。
「サチコ。そろそろ起きないと間に合わないわよ。」
という、お母さんの声に、眠そうなサチコさんが部屋に入ってきた。
「わ、もうこんな時間。」
・・・夏休みに入っても変わらない人だ。いつも急いでさ。ステレオもちょっと笑っているみたい。
「ここの家族のみんなはね、お母さんがいないと大変なんだよ。何でもお母さんがやってるから。」
「それは俺も前から思っていたんだ。ここのお母さんは大変だよなあ、ってさ。」
嵐のようにサチコさんが去っていったあと、俺たちは顔を見合わせて笑った。
楽しいと思うと、すぐに時間が経ってしまうものなんだな。家族の人てきたところで、ステレオが言った。
「テレビくん、良かったね、きっと、この家の人たちは君がいなくなっても君のことを忘れたりしないよ。」
俺は言葉につまった。この家にいたことを感謝できる気持ちだった。俺に人間としゃべることのできる能力があったらなあ。ここの人たちに、お礼の言葉を述べられるのに。できないけど。
 最後の夜になった。俺は一生懸命に顔に映像を映し、そして一生懸命にステレオと話をした。この家の、この部屋の全てを覚えておこう、そして俺の親友のステレオのことを、そして、この家の人たちのことを。
 電気屋が来た。
「テレビくん、来ちゃったよ、どうしよう、来ちゃったよ。」
ステレオはすごく慌てている。悲しそうな顔でこっちを見つめている。
「ステレオ、今までありがとう。俺はいなくなるが、おまえはがんばるんだぞ。そして俺がいなくなったらすぐに、次の新入りテレビがやってくる。そいつには、そんな悲しそうな顔を向けるなよ、嫌がってるのかと思われたら仲良くなれないぞ。嬉しそうに迎えるんだ、『待ってたよ』ってな。俺はこれからどうなるのか分からないけど、でもおまえのことは忘れないし、この家のことも、ここの人たちのことも忘れないよ。本当にありがとう。」
「テレビくん、僕も忘れないよ、君のこと。ありがとう。ちゃんと次のテレビを嬉しそうな顔で迎えることにする。本当に、ありがとう。」
 ステレオの声を尻目に、俺は外に出て、トラックに乗せられた。そこには、別のテレビがいて、それは客間のテレビだと俺はすぐにわかった。俺が替えられることになった、あの原因のテレビだ。
 そいつは、おどおどしていた。俺ははじめて会うけれど、同じテレビだと思って、話しかけた。
「よう、おはよう。」
そいつは驚いた様子で俺を見た。俺の声が明るかったので驚いたんだろうか。
「・・・君は怒ってないのかい?僕のせいで君も替えられることになったんだろう?僕は最初に謝らなくちゃ、と思っていたんだ。」
あぁ、そうか、そんなことでおどおどしていたのか。
「いいんだ。」
「でも・・・」
「いいんだって。それより、なんか話でもしていこう。どこまで行くのかな、このトラック。」
トラックが走り始めた。



「カメラの視線」
松尾澄英


 「ねえ、最近さ、つまんないって思わない?」
 わたしは久しぶりにあったヒロユキに言った。
 わたしたちが週に一度くらいのペースで通ってくるこのバーは、適当に汚くて、適当に馴染みがあって、わたしたちのお気に入りだった。バーにはフランス出身の、なんとかという歌手の、泣きたいくらい悲しげなバラードが流れている。おそらく、マスターの趣味なのだろう。ここではよく耳にする歌声だった。マスターは変わった人で、有名な歌手の曲はかけない。ほとんど誰も知らないようなのを選ぶ。その理由を訊ねると、「だれの曲かと訊いてきた客と話すのが好きだから。」という答えが返ってきた。そういう客とはたいてい趣味が合うものなのだそうだ。わたしも最初のうちはマスターの趣味の相手をさせられたものだった。しかし、わたしがそのジングスを破った最初の人物だったようだ。
「なんか、あったの?」
 ヒロユキは少し心配そうに私の顔を覗き込んだ。今日のわたしもまた、飲み過ぎているようだった。ヒロユキといると、どうしても飲み過ぎてしまう。どうしてか分からないが、そう条件づけられているようだった。おそらく出会ったときからしてそうだったのだろう。
「なにもないから、つまんないんじゃないの。」
「そうか?」
 ヒロユキは不思議そうに首を傾げた。
「なにもないから、いいんじゃないか。」
 いつものバーで、仕事の帰りに待ち合わせをしていたが、ヒロユキは約束の時間を二十分も遅れてやってきた。
「たまに約束したときぐらいは待たせないでほしいものだ。」
 そう思っていたが、入ってきたヒロユキを見た途端、そんなことは頭からきれいに消え去っていた。店内をキョロキョロと見回しながら入ってきたヒロユキの肩には、大きなアルミ製のカメラケースが掛かっていたからだ。私ははじめて、ヒロユキが仕事道具を持っているのを見た。だが、それを見た途端、それが光を反射しているのに引き寄せられるように、わたしの心に根付いていた憂鬱のようなものが膨らんでいくのが感じられた。
 その銀色のケースは今、ヒロユキの足下に置かれてある。なんだか現実離れしたやつだとは思っていたが、こんな現実味のない仕事をしているとは思わなかった。主にファッション系の仕事をしているらしい。服装だけ見れば、たしかにその世界の人だということは分からないでもなかった。今日の服装も黒のジーンズに黒のジャケット、あざやかな青のシャツを着ている。仕事柄、目が肥えているのか、もともとセンスがいいのか、自分をいちばんスマートに見せるスタイルをよく知っていると思わせるような格好をいつもしていた。だから、その格好でモデルを前にカメラを構えている姿は容易に想像できた。
「似合うよね。」
 そう言うと、少し淋しそうに笑った。
「むかしはあるがままの世界とか、撮ってたんだけどね。」
 やっぱり、淋しそうだった。
「この商売って因果なものでさ、こうやって飲んでても、頭から離れないんだよ。」
「なにが?」
「酒瓶とか並んでるのを見てても、あそこの配置が悪いなぁとか、あれを撮ってみたいなぁとかってさ、考えてしまうんだよ。」
「ふーん、そんなもんなんだ。」
 わたしはそこまで仕事に馴染んでいるわけでもなく、機会があれば転職しようと考えているだけで、やりたいこともこれといってなかった。
「仕事なんかやってられないわよ。」
 そう言う友人の声を聞きながら、わたしにはそんなことさえ言えないんだなぁと、妙にあっさりした気分で思ったものだ。そう言えるのはその仕事に少しでも満足し、それなりに働いているからだ。もしかしたら、そのとき、わたしにもそう言えるくらいなにかしているだろうかと考えたのかもしれないが、次の瞬間には頭から消えていた。そのときのわたしには、どうでもいいことのように思えていたに違いない。
 しかし、わたしと同類だと思っていたヒロユキの口から、仕事のことを聞くと、わたしだけが取り残されたような気分になる。わたしは自分の思い込みにあらためて、うんざりとした気分にさせられた。
「あるがままの世界ってさ、もう撮ろうとか思わないわけ?」
 さっきの表情が気にかかって、訊いてみた。普段、落ち込んでいるところなどめったに見せないヒロユキであるだけに、いっそう気に掛かった。
「そうだなぁ、思わないわけじゃないけどね。」
「けど、なによ?」
「撮りたいと思うような現実が、見つからなくなったんだよ。」
 ヒロユキはやっぱり淋しそうに言った。
「その撮りたい現実って、どんなものなの?」
 その表情が今まで見たこともないものだったので、思わず訊ねた。
「それが分からなくなったんだ。」
「なにそれ?」
「高校の頃かなぁ、カメラ持ち始めたの。そのころはさ、こんな写真が撮れたらいいなぁとかって、目標とかあったわけ。」
 ヒロユキは何杯目かの、いつもと同じドライジンのグラスを空けた。
「でもさ、写真撮るのが仕事になった途端さ、自分がなにを撮りたかったのか、分からなくなったんだよ。写真って、正直なもんでさ、迷ってシャッター切ってても、納得のいくものなんか撮れないんだ。」
「じゃあ、なんで、ファッション雑誌のグラビアなんか撮ってんのよ?」
「そうだなあ、そういう世界もある意味、夢とかを撮ってるわけじゃない。いい仕事だなぁって思ってたの、始めた頃はさ。」
 マスターが新しいグラスを差し出した。ヒロユキが、ドライジン以外を頼むことはないので、マスターはいつも、注文を受ける前に作ってしまうのだ。
「それに需要も高いし、さ。」
 しばらくして小さくそう言ったヒロユキの声は、口を挟んできたマスターの声に消されてしまって、はっきりとは聞こえなかった。
「ほら、あそこに飾ってある写真。」
 マスターは立っている位置のちょうど後ろになる壁を指した。
「あれさ、ヒロユキが高校の時に撮ったやつでさ、店に飾るからって無理言ってもらったんだよ。」
「マスター。」
 ヒロユキはあわてて止めたが、マスターは無視をして続けた。
「あの頃は、こいつが本当にプロのカメラマンになれるなんてさ、思わなくって、カメラの修行をするから店をやめるって言ったとき、みんなで引き止めたよね。」
「えっ、ヒロユキってここで働いてたことがあったの?」
「知らなかったの?こいつ、高校の頃悪くってさ、あの頃からここに出入りしてたから、働かせてやってたの。」
「また、都合のいいこと言って。単に安くこき使ってただけじゃなかったっけ?」
 ヒロユキはそっぽをむいて、マスターには聞こえないように呟いた。その口調があまりにも子供っぽくって、つい笑ってしまった。それに気づいて、ヒロユキは睨み付けてきた。
「で、卒業間際ってところになって高校を中退してさ、カメラの修行を始めたんだったよな。」
 むっとしながらもマスターには逆らえないらしく、うなずいた。
「ちょうど、そのころにもらった写真が、あれ。」
 マスターが指さした先には、ラピスラズリの青のような薄闇に包まれたビルのシルエットが写っていた。
「写真って、客観的なもののようで、その実、見事に作者の視線を映し出すからね。あれが、あの頃のヒロユキには見えてたんだろうな。」
 マスターが銀縁眼鏡の奥の目を懐かしそうに細めて言った。
「今でも気取ってドライジンなんか飲んでるが、あの頃はもっとカッコつけててさ、ジャック・ダニエルのソーダ割りなんか飲んでたんだよ。」
 やわらかいブルーに浮かび上がる真っ黒なビルの群れ。額のかけられているところは黒い壁に小さなスポットが当たって、そこだけが浮き上がっているようだった。
 寂しさを表現するのによく使われるブルーだが、この青からは優しさが感じられた。この写真を撮った頃のヒロユキはもしかしたら、寂しさなんか知らなかったのかもしれない。
 わたしは首だけ巡らせて、しばらくその写真に見入った。
「へぇ、いいじゃない。どこで撮ったの?」
「……丸の内にあるビルの屋上。」
 ヒロユキは恥ずかしそうに赤くなりながらも、ぶっきらぼうに答えた。
「よくそんなところに入れたわね。」
「……昼のうちにこっそり入ってさ、日が沈むまで屋上に隠れて待った。」
 私たちが話しはじめたのを見て、マスターはグラスを研きはじめた。
「で、マスター、今日は俺に何の用なわけ?」
 わたしの問いに言葉少なに答えたあと、しばらく黙々とグラスを傾けていたヒロユキがマスターに言った。
「うん。ちょっとしたことなんだけど、彼女と一緒みたいだし、後にするよ。」
「彼女って、この人のこと?」
 ヒロユキが目を点にして訊ねた。
「違うの?」
 わたしとヒロユキは、そろって首を横に振った。
「違うんだ? いつも一緒だから、そうなんだって思ってたよ。」
「違うよ。この人は男になんか、興味ないんだよ。」
「そうなんだ?」
 真面目に訊かれて、わたしは困ってしまった。別にそんなつもりはなかったが、かといって、誰かとつきあうなんてことはいまはわずらわしかった。
「イイ男がいないんですよね。」
 しかたがないから、そう答えておくことにした。
「おまえ、そういうこと言うか。」
「なによ。」
「おまえに魅力がないだけなんじゃないの?」
「ひどいこと言うわね。あなたも、ルックスはいいかもしれないけれど、性格は最低よ。」
「……やっぱり、後にするよ。」
 マスターは笑って言った。
 わたしたちは顔を見合わせて笑い出した。たしかに間違われてもしかたがないかもしれない。
 ヒロユキとは二年前にこのバーで知り合った。そのときはまだ、わたしには彼氏が一緒だったし、ヒロユキも彼女を連れていたように思う。どうして知り合ったのかはまったく覚えていない。ただ、そのとき意気投合したのだけは確かだ。なぜなら、わたしの手元にはヒロユキの電話番号を書いたコースターが残されていたし、ヒロユキの手帳にはアルコールにかなり乱れたわたしの筆跡で住所と電話番号が記されていたからだ。それににもかかわらず、お互いの記憶にその日のことはまったく残っていなかった。が、記憶の断片が頭の片隅にでも残っていたのかもしれない。再び、バーであったとき、なんとなく知り合いのような気がして、わたしから声をかけた。それ以来、ヒロユキとはこのバーでよく一緒に飲む。が、それ以上の関係はなかった。そのことを何か物足りないと感じなくはなかったが、ヒロユキとは今のままの方がいいような気もしていた。

芦屋市造形展作品「うなぎ」 「あ、いらっしょい。」
 そうしているうちに、馴染みが来たらしく、マスターはそっちと話しはじめてしまった。
「人をよびつけておいて、ひどいな。」
 それを見ながら、ヒロユキがつぶやいた。
「なんだ、マスターに呼ばれたから来たの? わたしに、会いに来たわけじゃないんだ?」
 わたしは笑いながら言った。今日は金曜日で、金曜日の夜にはわたしが必ず来ていることをヒロユキは知っていた。はじめの頃をのぞいて、ほとんど連絡を取り合うことなどなく、偶然のようにこのバーで落ち合うことが当たり前になっていたヒロユキからの電話は、わたしにいつもとは違う、何かを感じさせていた。それは、いつもヒロユキに会うと考えるときのときめきでもなければ、よろこびでもなかった。胸を突くような淋しさと、息苦しい窮屈さを伴っていた。そして、その感覚は、ヒロユキと会っている今でも消えなかった。
「まあな。」
 どこか言葉を濁したようにヒロユキは答えた。その歯切れのわるさに、わたしは思わずからかいの言葉を口にした。
「なんだ、やっぱりわたしに会いたいんじゃないの。」
 今日のヒロユキはいつもより、どこか子どもっぽいような気がする。高校の頃の話なんかを聞いたから、そう思えるだけなのかもしれないが、それでも、いつものヒロユキとは明らかに違うような気がしていた。それが、わたしの心の曇りに拍車をかけている。
「あのね、その自信はどこから来るの?」
 ヒロユキは苦笑いをした。
「ま、いいか。いまに始まったことじゃないもんな。」
 私はからになったグラスを両手でもてあそんだ。指先でグラスを弾くと、高く澄んだ音がする。その音が少しでも、心の憂鬱をはじき飛ばしてくれるような気がした。
「マスター、もう一杯ちょうだい。それから、マティーニにいれるオリーブってある?」
「あるよ。」
「それだけ、くれないかな?」
「それだけでいいの?」
「うん。それだけで食べるの。おいしいんだよ。」
 ヒロユキが呆れた顔をしてみている。
「もう、よせば?」
「まだ、たいして飲んでないもん。」
「あんまり強くないんだからさ、ほどほどにしろよ。」
 わたしはヒロユキの言うことなど聞かずに、ドライシェリーを飲みながら、オリーブを食べた。端から見ると、気持ちのいい組み合わせではないのかもしれないが、無償にオリーブが食べたかった。
「ねえ、マスター、いつも入り口んところに立ってた、オーノくんは?」
 わたしはオリーブを頬張りながら、グラスを棚に並べているマスターに訊いた。オーノくんとは、ここのバーテンで、ひょろっと背の高い男の子だった。別に知り合いというほどではなかったが、いつも入り口の近くに立っているので、あいさつくらいはした。すると、決まって片手を軽く挙げて、
「ヨウ。」
 と、どこからあんな声が出るのかわからないくらい甲高い声で
言った。そして、歯を剥き出しにしてわらうのだ。その表情が長い顔とあいまって馬のように見え、わりと印象的な顔をしていた。
「ああ、彼ね、子どもが大きくなって金が要るから、昼間の仕事を見つけて、まともに働くとか言ってたなあ。」
 わたしは思わず、ヒロユキの顔を見た。オーノくんはどうみても、わたしと同じくらいの年にしか見えなかったのに、もう子どもがいるのか。そう思うと、オーノくんが急に遠くに行ってしまったような気がした。
「そうか、あの子、いくつになるんだっけ?」
「十二だってさ。」
 ヒロユキとマスターは当たり前のように話を続けていく。わたしは何だか、自分だけが仲間外れにされたような気になった。
「……オーノくんって、いくつだったの?」
 わたしがようやく口を挟むと、ヒロユキは「しまった」という顔をした。
「あいつ、二度目の結婚なんだよ。最初の奥さんは事故で死んじまってさ、その奥さんの連れ子がいま十二歳なわけ。で、あいつが引き取って育ててんの。」
「そうなんだ……。」
 あいさつのとき以外はいつも無表情に壁にもたれて立っていたオーノくんからはそんなことは思いもつかなかった。
「で、オーノくんって、いくつだったの?」
「そうだなぁ、オレより一つ年下だったから、二十五くらいかなぁ。」
 わたしと同じ年だった。
 わたしが見ていたオーノくんは二十歳そこそこに見えた。
「苦労してんだ……。」
 わたしがそうつぶやくと、カウンターの中でマスターが苦笑した。
「だれでも苦労くらい、してるもんだよ。」
 そう言うと、またグラスを研きはじめた。
 少なくとも、オーノくんはそうは見えなかった。逆に若く見えたくらいだ。そうすると、他人から見るわたしも、実際とかなり違っているのかもしれない。わたしの見ているヒロユキやマスターも本当の彼らではないのかもしれない。そう思うと、自分が見ているものが不思議なもののように思えてきた。
「あのさ。」
 ヒロユキが妙に改まった口調で言った。見ると、カウンターの上に置いた手を握ったり開いたりしている。それは困ったときにするヒロユキの数少ない癖の一つだということをわたしは知っていた。それは、忘れていた憂鬱さを思い出させた。いつのまにか、それは心いっぱいに広がっていた。
「じつは、オレ、おまえの写真、持ってるんだよ。」
 わたしは驚いた。ヒロユキに写真を撮られた覚えもなかったし、第一、今日までヒロユキがカメラマンだということさえ、知らなかったのだ。しかし、驚きのすぐ後にやってきた億劫さとともに問い返した。
「……なんでよ。」
「いつだったかな、街で見かけてさ。ちょうど、外で撮影やってたときで、あまりにもつまんなさそうに歩いてたから、つい撮っちまったんだよ。」
「いつのこと?」
「二ヶ月くらい前かな。」
 ヒロユキはカメラケースの中を探るようにして、一枚の大判の写真を出した。
「これがオレから見た、今のおまえだよ。」
 そこには、人込みの中、スーツ姿でうつむいて歩くわたしがいた。ほかの人々はわたしと対照的に前だけを見つめて足早に歩いている。わたしのまわりだけ、時間が止まっているように見える。スポットライトがあたったように、わたしだけ、くっきりと浮かび上がっていた。
「ひどい顔。」
 それを見るなり、わたしは言った。こんなところをヒロユキに見られていたなんて、考えただけでも情けない。だが、それとは反対に、わたしの心は軽くなっていた。ヒロユキに見られていた自分がどこかに抜け落ちてしまったかのように感じられた。
「おまえさ、そろそろ、潮時なんじゃないの?」
 ヒロユキは唐突にそう言った。
「そうかもね。」
 なにが潮時なのか、まったくわからなかったが、わたしもそう思った。ヒロユキの言うとおり、限界が来ているのだ。
「……ねえ、助手、いらない?」
「なに、唐突に?」
「てはじめに、今の仕事やめようかなって思って。」
 ヒロユキはため息をついた。
「そのまえに、やりたいこととか、ないのか?」
「ないから、あんな顔して歩いてたんでしょ。」
「そりゃ、そうだ。」
 ヒロユキは歯を見せて笑った。わたしも笑った。
「マスター、これ、いい写真でしょ。」
 さっきの写真を差し出しながら、ヒロユキはマスターに言った。
「いいね。むかしのおまえが戻ってきたみたいだよ。」
「オレさ、また、こういうのも撮ってみようかなって思ってるんだ。」
「きっと、そのほうがおまえには似合ってるよ。」
 ヒロユキはわたしを振り返って言った。
「しばらく、失業してみるのもいいかもよ。」
 それから、照れたようにマスターに大声で怒鳴った。
「マスター、ジャック・ダニエル、ちょうだい。」
 ヒロユキの言葉にわたしは大きくうなずいた。胸の窮屈さや息苦しさはいつの間にか消えていた。
 ……やっぱり、ヒロユキなんだな。  
 そんな思いが胸に残っていた。
 となりでは「うるさい」と、ヒロユキがマスターにこづかれていた。



「憧憬」
増田悠理子


 K大学附属図書館二階、一番奥の窓際の席。日野はいつもそこに座っていた。一人静かに辞書をめくりつつレポート用紙に向かう日野の横顔を、午後の太陽の光が照らしている。授業が始まっている時間なので館内は閑散としており、図書館特有の本のにおいがした。
 日野がよくその席に座っていることを知ってから、光子は用も無いのに図書館に顔を出すようになった。それでも会えない日が多く、光子自身それを愚かな行為だと思ったが、一目でもいいから会いたいという衝動は抑える事ができなかった。
 日野の姿を確認すると、光子は一回深く息をはきだしてから静かに日野の方へ歩いていった。少し高めのヒールの靴を履いていたので、コツコツと響く足音が少し大きすぎる気がしてドキリとする。
「日野君」
 声をかけると日野は手をとめ、ゆっくりと顔をあげた。一瞬目を細め、一言「ああ」とだけつぶやく。目が悪い日野は、いつもこの表情をするのだ。光子はこの顔がとても好きだった。それを確認すると光子は、いつもそうするように日野の斜め前の席に座った。何となく目の前に座るのは悪い気がするからだ。日野は再び辞書に視線を落とすと、あとはちらりとも光子の方を見ようとはしなかった。それもいつものことだったので、光子も黙って鞄の中から本を取り出す。それは何らいつもと変わらない日常。平凡で、退屈な。だが明日も明後日も明々後日も、こんな日が続くのなら、それで良いと光子は心底そう思えるのだった。午後の時間の流れ方はゆっくりで、秋の太陽の光がやさしかった。

 光子が日野陽介と出会ったのは――同じ学校に居たのだから、それまでもすれ違うことはきっと何度もあったので、正確に言うと日野と初めて話をしたのは、ということになるが――大学四年生の、向日葵が空を仰ぎはじめる夏になったばかりの頃だった。その頃の光子は、大学四年生という立場に拭いようのない空虚を感じていた。光子には、自分が本当になにをやりたいのかわからなかった。夢もなく空っぽで、ただ何となく時間に流されて大学生活を過ごしてきた光子は、未だにそこから抜け出せずにいた。そして、自分の進路を決め、目標に向かって着実に努力を重ねている友人達の姿を目の当たりにする度に、計り知れないほどの焦燥感を抱いたのだった。
 そんな時に、前期の授業の最後にグループ発表をすることになり、光子と日野は偶然同じ班になったのだ。放課後、図書館で発表について話し合うことになっていたが、他の皆はまだ授業が終わっていないらしく、光子と日野だけが先に来ていた。
 特に世間話をするでもなく、二人はただ黙って座っていた。その日は、まさに雲一つないと言うのにふさわしい晴天で、太陽の光が、机の上に置いてある安物のボールペンをキラキラと照らし出していた。
 その時、日野がぽつりとつぶやいたのだった。
――虹…。
――え?
 光子は、日野の独り言かと思った。だが日野は、一瞬光子の方に目線をやると、机の上のボールペンを見ながら淡々と語り出した。
――あのさ、昔部屋で遊んでた時にさ。
――うん。
――小学校…一、二年くらいだたかな。今日みたいにすごく天気の良い日で。
――うん。
――本棚の上にボールペンが置いてあったんだ。粗品で貰うどこにでもあるやつ。
――うん。
――そのボールペンの六角形の部分に光が当たって…床に小さな虹のようなものができてたんだ。プラスチックがプリズムの代わりになって。
――プリズム…。
――その頃はプリズムなんて知らなかったけどさ。で、それを日記に書いたんだ。「虹と同じ七色でした」って。先生に提出するやつだよ。
――それで?
――そうしたらそれが校内新聞に掲載されてさ。嬉しかったんだけど…書かなきゃ良かったって後悔したよ。
――え、何で?
――虹を作れるなんて、小学生の僕にとったら魔法…みたいなものだったんだよ。自分だけの虹にすればよかったって思ったんだ。
――へぇ…。
 それだけ言うと日野は、再びボールペンから目をあげ光子の方を見た。そして、照れたように少しだけ笑った。
 何故、今まで口も聞いたことのなかった日野がそのような話をしたのか光子にはわからなかった。だが、その話は光子の心を大きく揺さぶった。光子は思わず机の上のボールペンを見た。キラキラと光っているそこに、小さな虹こそ見えはしなかったが、光子には、それはとても繊細で壊れやすいもののように思えた。
 光子は何か言おうと思った。が、ちょうどその時授業を終えた友人がやってきて、話はそこで中断された。
 ただそれだけだ。
 少し変わった人だと思った。でも、少し素敵な人だと思った。その日から光子は、日野が気になって仕方なかった。

鳩  どれくらいの時間が経っただろうか。光子は、イスをひくカタンという音でそちらに目をやると、立ちあがった日野と思わず目が合った。日野は黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「…休憩、しに行くけど行く?」
「うん」
 日野が声をかけてくれるのは珍しかったので、一瞬戸惑ったものの、光子は本を閉じて立ちあがった。
 十一月になったばかりの構内の木々は徐々に色付き始め、その身に冷たい風を受けて葉を震わせていた。光子にとっては、こうして日野と二人で歩いていることが何だかこそばゆかった。
「日野君はもう就職決まった?」
「ああ、一応」
「そっか。やっぱり地元に帰るの?」
「うん。そうなるかな」
 その言葉は光子の上に重くのしかかった。
(卒業まであと数ヶ月…)
 日野の少し前を歩いていた光子は、その身をくるりとひるがえすと、努めて明るい声で話を続けた。
「わたしね、この前地元の市役所の面接受けたんだ。今結果待ちなの」
「市役所?」
「そう」
「モスグリーン」
「え?」
「市役所の職員って、そういう色の服着てるイメージ」
「…じゃぁ、受かったらモスグリーンのニット買おうかな」
 日野は相変わらず突拍子もないことを言う人だ。だが光子は、日野のそういうところを素敵だと思わずにはいられなかった。市役所の面接を受けたのは、光子の進路を心配する母親が執拗に勧めたからだった。相変わらず、何がやりたいのかわからないままだった。小さい頃は、確かに大きな夢を抱いていたはずなのに。夢はどこにいってしまったのだろうか。そんな中、日野の存在だけが、空っぽな日常を埋めてくれるかのように思えたのだった。それが根拠のない、一人よがりな、衝動に近い思いであったとしても、今の光子はそれにすがりたかった。
 自動販売機の前まで来ると、光子はホット缶コーヒーのボタンを押した。温かい缶がガタンと音をたてて下に落ちてくる。
「地元に…帰るのかぁ。」
 日野と一緒に、自動販売機の横のベンチに腰を下ろしながら、光子は言葉を繰り返した。缶コーヒーの熱が手に伝わってくる。遠くの方で、おしゃべりに夢中になっている女子学生の笑い声が聞こえた。穏やかな時間だった。ただ、同じ空気を、同じ目で。ささやかな温もりの、まるでホット缶コーヒーのような。
 光子の通っている大学は、少し辺鄙なところに建っており、自宅から通学する者よりも、一人暮らしをしている学生の方が多かった。光子も例外ではなかったが、卒業したら地元に帰ることが条件だった。
「地元に帰ったら…」
 もう二度と会えなくなるね、光子はその言葉を飲み込んだ。話の続きを待っている日野が不思議そうな目で光子の方を見た。言いたい事を言わないのは光子の悪い癖だった。妙なところが意地っ張りで、光子は昔から、欲しい物もついつい「要らない」と言ってしまうのだ。そして「要らない」と言う度に、本当はどんなに欲しいか実感するのだった。
「ううん、何でもない。」
 日野にとっては、光子に会えなくなろうがなるまいがどうでも良いことなのだ。そんなことは光子にもわかっていた。何の共通点もない人。ただ、図書館でたまに会うだけの人…。足元では落ち葉が風に吹かれてカサコソと音を立てていた。
「四年間、すごくはやかったね。」
 飲みこんだ言葉の代わりに光子はそう続けた。
「まだ卒業もしてないのに思い出話?」
「でも、卒業なんてあっという間だよ。」
 日野は返事をせず、どこか遠くを見ていた。日野が何を見ているのか光子にはよくわからなかった。日野の目には、七色の小さな虹が見えているのだろうか。光子はその日野の横顔をじっと見つめた。黒い髪も、二重の目も、ゴツゴツしているが細い指も、首筋のホクロも、声も、名前も、いつか忘れてしまうのだろうか。時の流れに負けて、ささやかな幸せさえも守れないのだろうか。
「どうかした?」
 光子の視線に気がついた日野が言った。
「ううん、何でも。」
 血が、沸騰するかと思うほど熱かった。忘れられるのは嫌だった。日野が光子のことを忘れてしまった時に、もし自分は日野のことを忘れられなかったら…。光子はただ、現実に目を瞑りたかった。女子学生の笑い声は、まだ遠くの方から聞こえてきた。何の悩みもないような、乾いた笑い声だった。だが彼女達も、家に帰れば人知れず涙で枕をぬらしているのかもしれない。
 光子は、缶コーヒーを横に置くと、ひょいと立ち上がった。何だか座っていると泣いてしまいそうだった。
 ふと空を見上げると、光子の視線の先に飛行機が飛びこんできた。青い空の中で、白い飛行機はとても小さく見えた。きっと、高い高いところを飛んでいるのだろう。虹も越えてしまうような高いところを。
 光子はおもむろにパンパンと二回手を叩くと、両手の人差し指と中指を重ね四角を作り、その間から飛行機を見た。こうやって飛行機を百回見ると願い事が叶うという、小さい頃に聞いたおまじないだ。
 日野はきっと、きょとんとした顔で光子のことを見ているだろう。そう考えるとなんだかおかしくなって、光子は一人ふふっと笑った。
(時が止まればいいのに。)
 いつの間に、嫌悪していたはずの繰り返していく毎日に依存するようなったのだろうか。結局、前へ進むことはできないのだ。
(二度と会えなくなるなんて…そんなの……)
 話をしたことも数えるほどしかない人。光子の知らない思い出をたくさん抱えている人。それでも、忘れたくない人。忘れられたくない人。失いたくなかった。ただ、失いたくなかった。
 目には涙がかすかに滲み、飛行機はぼやけて見え、ただ白い小さな蜘蛛が青い天井を移動しているように見えた。
 日野に見られている背中が熱くて、その場から消えてしまいたかった。空はあまりにも青く、その残酷さに光子は軽い眩暈を覚えた。
「寂しくなんか…ないよ」
 小さい声で呟いた光子の声は、日野には聞こえなかったようだった。
 夏のあの日、太陽は光子の心に小さな虹を作り上げた。それは少しずつ、少しずつ大きくなり、今痛いほど光子の胸を締めつけるのだった。
 



「心の隙間」
中野友絵


ある真夏の午後。空にはぎらぎらと輝く太陽が昇り、蝉がせわしなく鳴いていた。街の外れのスーパーマーケット。1階しかなく、レジは全部で5台あるが暇なためかレジを打っている人は2人しかいなかった。この暑い最中に買い物に来ようと思う人はあまりいないのか、店内にはすぐに数えられるほどの客しかいなかった。瑠璃子は顔に流れた汗も気にとめず店内へと入っていった。店名の入った緑色のカゴを入り口でとり、いつものように野菜売り場から店内を回り始めた。瑠璃子は野菜売り場を少しだけ見て、店の中央にあるお菓子売り場へ何かに導かれるように足を進ませた。ふと瑠璃子の目に赤いパッケージの板チョコが映った。瑠璃子の小刻みに震える手が、彼女の気持ちとは裏腹にチョコの箱に向かった。レジのアルバイトの学生らしき若い女の子が懸命にバーコードの読み取りをしている姿が見えた。客は目的の商品を買うのに夢中でこちらを気に求めていない様子だった。瑠璃子は板チョコを手にするとそっと自分の手提げ鞄の中へと忍び込ませた。誰にも見られてはいない。そう瑠璃子は確信した。瑠璃子はつい数分前の盗みを犯すという恐怖から解き放たれ、今はどこか満足した気分だった。何事もなかったようにカゴの中の商品をレジへもっていき、勘定を済ませた。瑠璃子は買った商品をスーパーのビニールの買い物袋に入れ、スーパーを後にした。
「すいませんが…」
スーパーを出てすぐ、誰かに呼び止められた。振り返ると白いTシャツに薄いジーパンを履いた自分と同年代と見える女性が一人立っていた。いったい誰なのだろう。娘の幼稚園のクラスメイトの母親に違いないと瑠璃子は思った。その女性はきつい声で、
「今、このスーパーで買い物をしていらしたわね。」
と言った。女性の鋭い目を見て、瑠璃子はもしかしてと思った。
「勘定を済ませていない商品があるんじゃないかしら?」

スーパーの事務室の中は、2つの椅子と机しかなくどこか閑散としていた。瑠璃子の目の前の机には、さっき万引きした板チョコがこれ見よがしに置かれている。そして、瑠璃子と向かい合うようにして、スーパーの店長らしき中年の男が腕を組んで不満そうな顔で座っていた。がっしりと大きな男の体は威圧感を感じさせ、瑠璃子を余計に不安にさせた。瑠璃子の横には、先ほどの女性が立っている。瑠璃子は女性に万引きを咎められたとき、自分でも意外なほどあっさりと白状してしまった。女性は、
「ちょっと話をしましょうか?」
と言って、瑠璃子の腕をぐいっと強引に引っ張ってスーパーの事務室へと連れていったのである。店長らしき男は長い沈黙の後、ようやくそのふあつい口を開いた。
「最近ね、主婦の万引きが増えて増すねん。それでうちのスーパーもつい1ヶ月前から、万引きを取り締まる警備員を置くようになったんですわ。奥さんは、うちのスーパーの3人目の万引き犯ですわ。」
男は、瑠璃子をまるで自分とは違う人間のような目で見ていた。横の立っている女性は万引きを取り締まる警備員だったのだというのを今ごろになってやっと瑠璃子は気づいた。男はさらに話を続けた。
「奥さんは、こんな100円もするかせえへんかのもんを盗んでどないしようとしたんですか。まあ、悪い子としてしもうたんやから、ご主人さんにでも一回ゆうたほうがいいですなあ。ご主人さんはどこにおられますか。」
瑠璃子は男の話を聞いているうちに自分がこれからどうなるのかという不安にかられてきた。
「私と娘の2人暮らしなんです。離婚したんです。」
と恐る恐る答えた。瑠璃子は半年前、4年間の結婚生活に終止符を打った。夫と別れてからパートの事後とをして生計を立てていたが、自分と娘が食べるのがやっとの生活であった。男は瑠璃子の言葉を聞いて少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに先ほどの不満そうな顔に戻った。そして、口を開いた。
「離婚されたんですか。お嬢さんもかわいそうですな。こんな母親を持って… 今回はたいしたもん盗まれてへんから警察には通報せんときますけど、板チョコ1個でも盗みは盗みでっせ。そのところ、肝に銘じておいてくださいや。まぁ、今回はたまたま運がよかったですな。奥さん。」
男は、いやみたらしくそう言って事務所からどたどたと出ていった。瑠璃子はさっきまでの緊張の糸が切れてふっとためいきをついた。瑠璃子がそっと席を立って部屋を出ていこうとした。
「かんばりなさいよ!」
と言って、警備員の女性の声が横から聞こえてきた。瑠璃子はちらりとも女性の顔を見ず、そそくさと歩き出した。瑠璃子は、現在の自分のけっして幸せとはいえない生活を思ってふと惨めになった。スーパーの外のアスファルトの路面には、まだ真夏の強い日差しが照り付けていた。

 気だるかった夏も終わり、街中を吹く風は冷たく、頭上にはどこまでも続く青い空が広がっていた。瑠璃子は少し納得の行かない気分で友人の麻子を待っていた。高校を卒業してはじめて開かれる同窓会。瑠璃子自信はあまり気が進まなかったが、麻子がどうしても同窓会に行きたいと言い張ったので、しぶしぶ瑠璃子も参加する事にしたのだった。しばらくすると、麻子が多くの人の波にまみれて駅の改札口から出てくるのが見えた。瑠璃子は屈託なく手を左右に大きく振りながら瑠璃子のところにやってきた。ピンクのスーツを身につけた麻子は自分よりかはるかに若く見えた。麻子は、高校の頃から明るいで性格で瑠璃子はこの明るさが自分にもあればと感じていた。
「だいぶん待った?来ていく服選んでたら遅くなっちゃって…ほんとごめんね。」
「私も今ついたところ。気にしないで…」
「よかった。じゃあ、行こう!」
2人はホテルに向かって歩き出した。

 ホテルの同窓会開催会場はたくさんの人でごったがえしていた。会場内は、外国の宮殿を思わせるほど豪華に飾りつけられ、ホテルの従業員が食事の準備の為にせわしなく動き回っていた。麻子はかつての友人たちをすぐさま見つけ、積極的に話しかけていった。瑠璃子は麻子についていけず、1人その場に立ちつくしていた。瑠璃子は何をする事もなく、ただなんとなく辺りを見回していた。友人と親しげに過ぎ去った過去を語り合う者。自分の身につけている服のブランド名を自慢げに話す者。黒いスーツをきっちりと着こなして、友人と楽しく話しをしている女性…
瑠璃子ははっと我に返った。黒いスーツの女性… 瑠璃子はいったん離した目をもう一度その女性に戻した。彼女はスーパーで万引きをした私を捕まえた、あの警備員の女性に違いないと瑠璃子は思った。今日はその時と服装や髪型が違い、雰囲気が違う。瑠璃子は見間違いかと思いもう一度よく目を凝らしてその女性を見てみた。やはり彼女だった。しかし、同じ高校の同窓生とはまったく気がつかなかった。瑠璃子は、同窓会に来てしまった自分を再び悔いた。万引きしたことを皆に言いふらされたらたまったものではない。それまでは万引きをした事を記憶の奥深くまで沈めていた瑠璃子だったが、その記憶がかきむしられる思いだった。とりあえず今は、彼女に会わない事が一番いいと瑠璃子はとっさに判断した。麻子におなかの調子が急に悪くなったと言ってこの場を抜け出そう。瑠璃子は友人と夢中になって話していた麻子に体調が悪くなったから家に帰ると嘘をついて、麻子が引き止めるのも聞かずに、慌ててその場から逃げ出した。必死に走っていよいよホテルの出口のドアが見えたとき、不意に誰かに腕をつかまれた。腕をつかまれた感触が、万引きをしたときを同じだと瑠璃子は思った。瑠璃子はしまったと思いつつ、頭の中でこのまま走って逃げようか、それとも観念してしまうかを考えた。瑠璃子はこのまま逃げ続ける力もないと悟り、後者を選択した。振り向くと、やはりあの女性が顔に汗を流して立っていた。自分を追って彼女も走ってきたのだろう。女性は息を切らしながら、
「逃げなくてもいいんじゃない?ちょっと、そこのロビーで話しましょうよ。」
瑠璃子は黙って、女性の後ろについていった。ロビーに座ると女性は顔中に流れた汗をハンカチで拭き取り、それからたんたんと話を始めた。
「そんなに私のこと、恐がらなくてもいいんじゃない?まんびきのことはもうきにしなくていいわよ。チョコ一つ盗んだって犯罪には違いないけど、人間にはふと魔が差すことだってあるわ。」
瑠璃子は、女性に万引きの事を咎められるとびくびくしていたので、女性の意外な言葉にびっくりしてしまった。女性は話を続けた。
「でも、まさかあなたが同じ高校の同窓生だとは思わなかったわよ。私、今は警備員なんかやってるけど、高校の頃はやんちゃしてて、ろくに学校に行ってなかったのよ。今は万引きを取り締まる立場だけど、かつては取り締まられてたんだから…」
女性は笑みを浮かべて話していた。瑠璃子は黙って女性の話を聞いていたが、万引きのことを誰にも告げられずにすみそうだと思った。瑠璃子はそう思ってみたものの、心配になって
「私が万引きしたって言うこと誰にも言いませんよね」
とたずねてみた。女性は少しぷっと吹き出して、
「誰に言うもんですか。それで私が特になるんなら考えるけど…なんてね。それに犯罪者であれどもプライバシーは守らないといけないわ。そんなことより、二度と間違えてもあんなことやっちゃいけないわよ。」
女性はそう言って席を立つと、
「じゃあ、私は同窓会を楽しんでいくわ。」
と言ってすたすたと会場へと戻っていった。瑠璃子はしばらくその場から動くことが出来なかった。

夕焼け  今日は日曜日だ。薄暗いアパートの部屋の片隅で娘の葵(あおい)が1人、くまのぬいぐるみで遊んでいた。カーテンの隙間から太陽の光が差し込み葵の顔を照らしていた。幼い子どものいる家族なら、こんな日はどこかに出かけるのだろうなぁと瑠璃子はテーブルでコーヒーを飲みながらふと思った。一年前に夫と別れるまでは、日曜日ともなれば葵を連れて親子3人で遊園地や動物園によく遊びに行ったものだった。今日はたまたま仕事が休みだったのだが、いつもの日曜日なら会社で大量の書類を整理している。瑠璃子は葵をこの一年の間、遊びに連れていってあげていないことに今更気がつき、娘を哀れに思った。昨日のテレビの天気予報では、今日はさわやかな秋晴れだと言っていたっけ…
「葵ちゃん。お母さんと一緒に久しぶりにどこかに遊びに行こうか?」
「えっ!?本当?葵ね、動物園に行ってゾウさんが見たいなあ…」
「それじゃ、お弁当でも持っていきましょうか。」
「やったあ!お母さんと出かけられるんだ!」
葵は今まで手にしていたくまの人形を手から離して顔に満面の笑顔を浮かべながら、何度も飛び跳ねて喜んだ。

 瑠璃子は駅へ行く途中、自分が万引きしたスーパーの前を通りかかった。葵が急に
「スーパーでお菓子買う!」
と言って駄々をこね出した。瑠璃子はスーパーには万引きをして以来、一度も顔を出していなかった。万引きをしたとき、説教をしたあの店長らしき男に二度と会いたくなかったし、警備員の女性と会うのもやはりどこか気まずかった。瑠璃子は、
「駅の売店でお菓子をかおうね。」
と言って葵をなだめたが、葵は、
「あのチョコ、このお店でしか売ってないもん。」
と瑠璃子の言うことを聞かなかった。瑠璃子は葵をなだめさせるのをあきらめた。瑠璃子は、葵に、
「お母さんは店の外で待ってるから、一人で行ってきなさい。」
と言った。瑠璃子は、かぶっていた帽子を目深にかぶり直して葵が戻ってくるのを待っていた。
店のガラス越しに見える店内は、日曜日の朝とあって客足もまだまばらだった。しばらくして、
葵がレジのところへお菓子を支払いに来たのが見えた。その瞬間、店内に悲鳴が上がった。女性の甲高い声がどこからか聞こえてくる。入り口のドアのところから見ると、瑠璃子が見たこともない光景が目に飛び込んできた。店内の床には真っ赤な鮮血がみるみるうちに広がっていく。中年の女性の前でうずくまっている女性…警備員の女性ではないか。瑠璃子はまるで夢でも見ているのかと錯覚しかかった。主婦が警備員の女性をナイフでさしたというのか!?中年の主婦は2人の男性店員に両方から腕をつかまれた。警備員の女性の顔から次第に血の気がなくなっていく。私の万引きを取り締まった女性。高校の同窓生の彼女。彼女が今、死の淵へと追いやられているのだ。そうは思っても、瑠璃子にはなすすべがなかった。救急車のサイレンがせわしなくこちらへ近づいてくるのが聞こえた。

 スーパーの事件から、2週間が経った。瑠璃子は、潮の香りのする海沿いの道を歩きながらこの間起こった事件のことを思い出していた。噂によると、事件を起こした主婦は瑠璃子と同じようにあのスーパーで万引きをし、あの警備員の女性に捕まえられていたのだそうだ。主婦は、自分自身が万引きをして、一家離散になったのにもかかわらず、万引きを捕まえたあの警備員をうらんでの犯行だったのだ。瑠璃子は、自分ももしかしたら同じようになっていたかもしれないとつくづく感じた。瑠璃子の目に、けっして大きいとはいえない病院が映った。沈みかけの夕日が海に真っ赤な光を落としていた。瑠璃子は、人気の無い病院の前の坂をゆっくりと登っていった。
 瑠璃子は、ある病室の前で立ち止まった。ドアの横の壁には、
−303号室 本倉美佳子−
という名札がかかっていた。瑠璃子は、少し深呼吸をしてからドアをノックした。中から
「はーい、どうぞ」
という女性の高い声が聞こえた。瑠璃子は、静かにドアを開けた。病室には一つのベットがあって、そこに女性が横たわっていた。
「あら…」
女性は、瑠璃子の姿を見ると、親しげな笑顔を見せた。
「長い間、お見舞いに来られなくてごめんなさい。仕事が忙しかったのと、あなたのお名前が解らなくて、それをたづねるのに店の人に聞くしか方法が無くて… でも、自分が万引きした店だからなんとなく行きにくくて… あなたの事を聞くのに時間がかかってしまったの。」
そう言って瑠璃子は、女性に詫びた。
女性は瑠璃子を責めることもなく、何もかもを納得した様子で瑠璃子の話を黙って聞いていた。女性は何か考えている様子だったが、窓の外を見ながら口を開いた。
「私は、早くに親に死なれて、母親の妹夫婦のところで育ったの。妹夫婦には子供がいなくてね。私のこと、随分可愛がってくれたわ。でも、わたしはいくら可愛がってくれてもどうせ本当の親じゃないんだ。と思ってしまって、中学校のころから少しづつ反抗し始めたの。悪い子と遊ぶようになってね。妹夫婦は何度もそんな私を更正させようとしたけど、私はそれがまた気に入らなくて。「高校だけはちゃんと行ってほしい」って言われたものだから、高校にはちゃんと行ったわ。私も高校ぐらいは行っておかないと行けないと思ってたし。実はね、あなたのこと高校のときから知っていたのよ」
瑠璃子は、女性が自分を知っていたことを聞いて驚いた。女性は続けた。
「あなたは、学校でも勉強のよく出来る生徒だったわね。ご両親もたしか、
会社の社長をしてるとか聞いたけど。私はそんなあなたがとてもうらやましかったし、それに、妬ましかったわ。私は、かしこくなかったし両親もいなかった。いつかあなたみたいな人を見返ることの出来る人間になりたいと思って、次第に勉強に力を入れるようになったの。一生懸命がんばったのよ。今までの分を取り返さなくちゃいけなかったし。悪い生徒とも遊ぶのをきっぱりやめたわ。あなたも今の状況は辛いと思うけど、いつかは楽になる時がくるからがんばるのよ。」
女性の目からは一筋の涙がほほを伝っていた。瑠璃子は、今の自分がいかに弱い人間かが思われた。高校のころは、何も恐れるものなんて無かった。女性の言うとおり、勉強も出来たし、親もよい職に就いていた。その時は、それが当たり前だと思っていたのだ。でも現在の自分は、夫と別れ、娘を自分一人の手で育てなければならない。自分の収入だけの生活もままならない。たくさんの不安を抱えて生きているのだ。女性は、自分の弱さを自分の力で断ち切ることが出来たのだ。女性は、
「私も夫と別れてね、一人で子育てをしているのよ。あなたと同じね。でも、もう現実から逃げないって誓ったの。お互い、これからが本当の勝負ね。」
そう言って、女性は小さく笑った。瑠璃子は、女性とかたい握手を交わして、病室を出た。女性の話を聞いて自分がいかに弱い人間だったのかを思い知らされた。瑠璃子は、自分が何か新しいものを得た気分がして、すがすがしさを感じた。満ち足りた瑠璃子の顔に、海の風が吹き当たっていたのだった。

「行ってきまーす。」
「ほらっ。帽子忘れてるわよ。気をつけていってらっしゃい」
蒼は自分よりも大きなランドセルを背負って、外へと元気良く駆け出していった。瑠璃子は、食べかけのパンをほったままにして、新聞に目を通した。
−15歳少年、主婦をナイフで切りつける−
−父親が我が子を折かん死させた−
今日も新聞には信じられないような事件が、当たり前のように載せられていた。瑠璃子は、損の記事にちらっと目を通すと、何気なく、新聞のページを次から次へとめくっていった。ふと、あるページで瑠璃子の手が止まった。
−少年厚生施設 ○△園指導員・本倉美佳子−
瑠璃子は、どこかで見たことのある名前だとは思ったが、すぐには誰なのかわからなかった。何かヒントになるものはないかとその記事を読み進めていった。
「2年前からこの仕事をさせていただいています。私も、昔は不良の一部で万引きなどしていました。子の仕事に就く前は、スーパーで警備員の仕事をして…」
あっ!そうだ。あの女性だ。瑠璃子は、三年前のことを思い出した。三年の月日は早かった。幼稚園に通っていた葵も、小学校二年生になった。瑠璃子は、自分の弱気なところを指摘し、勇気づけてくれた美佳子に会いたくなった。
 その日の晩、仕事を負えた瑠璃子は、隣町にある少年厚生施設をたずねた。住宅街の中にある子の建物は2階建てでまだ建てられて間も無いらしく、真っ白なペンキが建物の壁に塗られてあった。入り口の戸を開けようとすると、一人の女性が中から出てきた。瑠璃子は、すぐにそれが本倉美佳子だとわかった。3年前とまったく変わっていない顔がそこにあった。瑠璃子は感動し、思わず美佳子の手を握り締めた。美佳子は不意の出来事に驚きの表情を見せたが、瑠璃子の顔を見つめ、やがて、
「瑠璃子さん!?」
と瑠璃子に気づいた。
瑠璃子は施設の応接室に通された。美佳子が隣の部屋から、お茶とお菓子を持ってきた。
「いつも私からたずねていかないでごめんね。でも、前あなたと会ったのは3年前かしら。月日が経つのって早いわね。」
「あの、前の…刺された時の傷は大丈夫なんですか?」
「あぁ、あんなの大丈夫よ。傷は今でもくっきりと残っているけどね。でも、死ぬことを思えば傷の一つや二つぐらいどうって子と無いわよ。あなたはどうしてたの。」
「私は、3年前と生活事態はあんまり変わってませんけど。相変わらず娘と2人暮らしだし。一つ変わったことがありますよ。仕事のことなんです。今、警備員の仕事をしているんです。スーパーの…」
「えっ?じゃあ、万引きを捕まえている…」
「そうです。本当ですから」
瑠璃子は、真顔で美佳子の目を見つめた。美佳子は目を真ん丸くしていたが、
「人生ってわからないものね。元万引き犯が、万引きを取り締まってるんだから。私も人のこと言えないけどね。」
美佳子はそう言って、くすくす笑った。瑠璃子もそれにつられて笑った。瑠璃子はもう一度真顔になって口を開いた。
「私、この3年間、本当に辛いこともありました。でも、美佳子さんに言われた言葉を忘れないでここまでやって来れたんだと思います。3年間、私は自分の弱さにたくさん気が付きました。女手一人で子供を育てるのがこんなに大変だとは思わなかったから、でもここで負けたら駄目だって考え直してきました。」
「良くがんばってきたわね。これからも負けずにがんばるのよ。」
そういって、3年前のように再びかたい握手を交わした。
瑠璃子は、自分が気付かないうちに出来ていた「心の隙間」に何か暖かいものが入り込んだような思いだった。



「紙」
太田晃


 「今まで休んでいた分しっかり動きますよ」
 佐伯は、そう言って自身にいまだかかる負担を払いのけようとしていた。
「でも最敬礼は辛かったでしょう。ああ、いやね、私も腰にちょっとあるものですから」
近藤が言った。
「いや,なに、頭を下げることはなんてこと無いんです。ただ,来てくだすった方々の,あのなんともいえない雰囲気は辛かった。」
「無理もありませんな。」その場面を頭に浮かべながら近藤は言った。
「あのボケ―ッとした神田専務でさえあの場面の緊張を感じ取っていたぐらいですから。」
近藤は思い出すのもいやそうな顔をした。
「これから、もっと揉める事になるんです」
佐伯は半分覚悟したような表情を見せた。祖父の死とともに発覚した彼の愛人と隠し子。その愛人とただひとりの一族である叔母とが揉めに揉めたお通夜の晩。そして迎えた葬儀の日。二週間前、腰を痛めた佐伯であったが、ただひとりの孫であるので、無理をおして出た。その苦痛と心労が重なって、葬儀の終わりごろに倒れてしまった。かわりに動いてもらった近藤から経過を聞けたのは、三日後のことだった。
「あなたが倒れてからが大変でした。叔母さんが『直くんが倒れたのはあんたが出てきたからだわ』と山本さんに食ってかかりましてね、さっそくひと騒動起こりましたよ。周りの人がとめねば、つかみ合いの喧嘩になっていたでしょうな」
「葬儀に参列してもらうと決まった時にも、叔母は必死で止めさせようとしていましたからね。むかしから執念の人でしたから。まあ、まだ叔母だけでよかったですよ。祖母が生きていたならこんなものでは済まされなかったでしょうから」
「うん?すごくおだやかな方だったと思いますが?」
「近藤さんの前でならね。あの祖母にしてこの叔母あり、ですよ。父が生前よく言っていました。『じいさんのことになると般若になるんだ。とにかく、じいさんが女の人と話をするだけで雰囲気変わったものなあ』と。」
「なるほどねえ。そうすると、まあ、不謹慎な話ですが、おばあさんが亡くなられたあとでよかった、と言う事になりますか」
「まさにそのとおりです。もし祖母が生きていれば、私は三日で元気とはいかないでしょうね。一ヶ月かかるやも知れません」
そのとき、時計が正午を告げた。
「もう昼か。いや、たいした報告も出来ませんで申し訳ありません。」
「いいえ、だいたいどうなっているかはつかめましたよ」
「ありがとうございます。それにしても思ったよりお元気そうで何よりでした。詳しい事はまたご報告にあがりますので」
そう言って近藤は立ち上がった。
「いえ、明日私のほうからお尋ねいたします。あとの事は何とかします」
「まだ無理はいけません」
「もう大丈夫ですから」
押し問答の末、近藤が折れ、
「わかりました。ただし、私も手伝います。ここまで関わった以上最後までつき合わせていただきます」
「ありがとう近藤さん。ではまた明日お会いしましょう」
「では」
近藤がかえってから、佐伯はひとり考えをめぐらせた。祖父は金持ちであった。持っていた会社はなかなかの業績であったが、それ以上に土地が彼の財産であった。それも都心や京阪神の一等地に数がそろっていた。このごたごたも、その土地の権利争いに端を発している(佐伯の取り分のみ彼が独立した時に祖父が決めておいてくれた。佐伯の父母が早くに亡くなっていたためである)。額が額だけに叔母は必死である。
「果たして、この後どうなるのだろうか」
山積みになっている問題を前に佐伯は暗澹たる思いであった。しかし近藤の存在が佐伯には救いであった。近藤は祖父が持っていた会社の社長で、社の基盤を揺るぎないものにした実力者である。祖父の信頼も厚く、佐伯も独立の際にかなり助けてもらった。一族の事には口をはさまなかったが、今回、佐伯が倒れてしまったため代理を務めた。幅広い人脈を持つ彼は、先を見越して有能な弁護士も照会してくれた。明日、その弁護士と会う約束なのであった。
「どうしてもこれだけは自分の力でやり遂げねば」
と佐伯は思っていた。


「なに、そう難しい問題ではありませんよ。」
梶本弁護士は答えた。
「ただ、土地が各地に点在していますので、細かな処理は少し時間がかかりますがね。いえいえ、そんなに心配なさるほどではありません」
あきらかに不安な顔の佐伯を気遣いながら梶本弁護士は続けた。
「なんにしても、この問題に関してはきっちりとした判断が下されます。」
「そうですか。ならば事務的な処理は梶本さんにお任せします。」
佐伯はやや安堵の表情を浮かべたが、すぐまたくたびれたように言った。
「後はそれをどう納得させるかだなあ。今は完全に頭に血がのぼっているからなあ」
「ここでそんな事をいっても始まりませんよ。梶本さん、それではお願いいたします。」
成り行きを見ていた近藤が励まし気味に言った。
「ええ、なるべく双方納得のいくようにつとめます。」
「いいえ、そのほうは我々で始末をつけます。なんとしてでも」
佐伯は心に逆らって強く言った。


「ああ言ってはみましたが、具体的にどうするかまったく先が見えません」
佐伯は見るからに疲れの取れていない歩き方でそういった。もう日は西に傾いている。とはいえコートがなくても良いぐらいな温かさである。
「でも、まあ、法律の点で責めてゆく事は出来ませんし、しっかり構えておれば案外すんなりと解決するかもしれないですよ。頭に血がのぼっている間はなにを言ってもだめでしたけれど、冷静になって考えれば揉め事を起す事がどれだけ自分に損として返ってくるかわかるでしょう。時間をしばらく置いてみましょう。あなたも完全ではないのですし。ええ、その歩き方を見れば誰だってわかりますよ」
「しかし、時間が経てば、両方に恨みがつのってくるのではありませんか」
近藤の言に何か引っかかりを感じながら、力なく尋ねた。
「いいや、両方とも一時のような興奮はしていませんよ」
意外な一言に佐伯は近藤の顔を見た。
「山本さんは辰憲くんの父親をはっきりさせるのが一番の目的で、お金にそれほど執着はしていないそうで、叔母さんの方も、ここ三日間のうちにだんだんと落ち着いて、あなたの心配をしていらっしゃいましたよ」
佐伯は、自分が倒れていた三日間に、近藤が何をしていたかをさとった。佐伯が頭を抱えていた問題の大半を、すでに近藤は片付けていた。
「そろそろ戻りましょう。腰は休ませるのが一番ですから」
驚きで声も出ない佐伯を不思議そうに見ながら、近藤は言った。

神戸市ボンネットバス  国道へでたところ、ちょうどバスがこちらの停留所へやってきた。ただし郊外方面行きである。
この絶え間なく行き来する車道にも、いっときぽかんと車の絶える時がきていた。
近藤がまず車道に出た。都心方面の乗り場は向こう側にあった。
佐伯が後に続こうとしたが、たまった疲れがいっぺんに噴きだし、止まったバスに寄りかかってしまった。
それに気付いた近藤は、
「大丈夫ですか」
と言いながら反対側から引き返してきた。その声と同時に急ブレーキの音も佐伯の耳に入った。顔を上げると、黒いかたまりがゴムボールのようにはね、ころころと転がって道路わきの排水溝にはまった。それが近藤である事に気付いたのは、立ち上がった後であった。
歩道脇の近藤より2・3メートル手前に自家用車らしい大型の車が斜めに停まっていた。
佐伯は自分の行為がこれを引き起こしたのだと悟った。足までもすくんだ。近藤はただ尻もちをついただけのようにコートについた砂埃を払っている。そのなにげない動きが佐伯には不吉に見えた。
見ていた人たちが集まり、続いて真っ青な顔の運転手も降りてきた。ようやく、佐伯も近藤のほうへ行った。
「佐伯さん、参りましたね。こう人に集まられちゃあ」
「大丈夫ですか」
今しがたの近藤と同じ科白を佐伯は口にした。
「大丈夫も何も……」
と近藤が言ったとき、
「申し訳ありません。とにかく、すぐに病院までお送りしましょう」
と車の持ち主と思われる人が言った。
「いえいえ、この通り何ともありません」
「でも、診てもらわないとどうなっているか……」
持主と近藤の受け答えに、周りの人たちも意見をはさんでいる。
「そんなにおっしゃるのなら、一応名刺ぐらいは頂いておきましょう。なに、口をちょっと切ったぐらいです。心配ないですよ」
結局、その車で都心まで送ってもらった。
出発直前に警官がやってきたが、近藤が簡単に話を済ませた。


近藤のおかげで問題は二回の折衝で終わってしまった。実際に取り分をどうするかという問題は、実質一時間もかからず、その他は梶本弁護士のまとめたものそのままであった。あまりにもあっけない決着のつき方によその世界の出来事のような心地であった。


散歩を楽しむかのごとく、佐伯は近藤と道を歩いていた。
「どうやってあんなに上手く説得なさったんですか?」
この時期にはめずらしい夕焼を浴びながら、佐伯はたずねた。
「いや、何、どちらが得なのかよく考えてみれば、別に説得など必要なかったんですよ」
「しかし、あの叔母の性格からして、絶対に引くとは思えないものですから……」
佐伯は腰の痛みも引き、周りの世界が広がっていくような気がしていた。
「あれ?こんな所に骨董屋があったんですね。今まで気付きませんでした」
いかにもたてつけの悪そうな入り口を見ながら、近藤は言った。
「あまり通らない上に、こう地味じゃあ、わかりませんよ。それとも,目にとまらないほど疲れていたんでしょうかねえ,私は」
「目にとまったし、入ってみませんか」
中は、雑然と物が置かれていた。なにに使うのかわからないものから、使い道がわかっても、どうしようもないものでいっぱいである。店の主は無愛想である。
「それにしても、目の付け所がわかりませんね。ほら、鑑定の番組があるじゃないですか。その中で、どう見ても汚いものが何百万もしたり、きれいだなと思うものが安かったり、また逆なのもありますよね。あれの判断の基準がわかりません。なにをもって良いのか、なにをもって悪いのかがね」
佐伯は,自分に聞かせるようであった。
「欲しいと思えば値段がつく、欲しくなければ何もつかない、簡単な事ですよ。お金だって同じことでしょう。品物と交換できなければいくら持っていてもただの紙切れですからねえ。墓場まで持っていけてもあの世までは持っていけませんし」
「だからと言って、お金はやっぱりいくらあってもいいもんでしょう」
佐伯は不吉な予兆を感じていた。
「全くです。それならばあの自動車の持主からも、見舞金をいただきましょうか。そうそう、名刺がありました。持っておいて下さい。私はこういうものはよく落とすんで。あなたが証人になってもらいますよ」

次の日の朝に、佐伯は所轄から呼び出された。
係りつけの刑事から、近藤杜雄について聞かれた。
「昨日、出掛けに奥さんに、梶本法律事務所にあなたと一緒にゆくといっているんですが、そうでしたか?」
「ええ」
「何時にどこでおちあいましたか?」
「九時に錦糸町の駅前で」
不吉を感じながら、佐伯は聞いた。
「近藤さんが、何か……」
「死んだんですよ」
「ええ?」
調書を立てながら、刑事は佐伯をジロリと見た。
「錦糸公園内で打っ倒れていましてね。それでわざわざ御足労願ったんです」
「死因は?」
「頭部の内出血ということなんですが」
「じゃあ、他殺なんですか?」
「さあ、そいつは何とも……喧嘩口論の挙句の他殺かもしれんし、或いはまた交通事故だったのかも……九時に錦糸町の駅前でおちあった、そうですな?」
「ええ、間違いありません」
「梶本さんとは?」
「ええ、何度かお会いしましたが、それほど詳しくは……近藤さんとは旧知の仲のようでしたが」
「梶本さんの証言もとってありますから、時間や状況に間違いのないようにおっしゃってください」
佐伯はきっちりと思い出す事が出来た。帰路の途中に骨董屋へ寄ったと言ったときは、刑事が緊張したようだった。
「そのような事のあとで骨董屋というのも珍しい……」
「解決した開放感の中で、たまたま目にとまって、ただぶらりと……」
「骨董屋を出て、近藤さんと別れたのは?」
「吉祥寺までバスで、ええと、そのあと駅で近藤さんはパールを買って、私は切符……近藤さんと別れたのは、新宿でした。五反田の方に、何か用があると言う事で……私が家に着いたのが午後六時ぐらいでした」
自動車事故に就いては、遂に一言も漏らさなかった。
「他殺か、或いは交通事故かもしれない」
と刑事が言った時、佐伯はピンと来ていたが、刑事が切り出さぬので、おのれから言わずとも良いだろうと思った。
取調べが終わり、家に帰ると、あの名刺を取り出した。
佐伯は住所氏名も見ずに、それをやぶいてすてた。

(完)



『幸せな世界』
下田代美樹



 「あ、早紀?今日7時頃、そっち行くから。ヨロシク−。」
 早紀に返事をする間を与えることなく、電話は切れた。日曜日の午後4時ちょっと過ぎのことだった。
 「こっちの予定も考えてって、いつも言ってるのに・・・。」と、早紀の口から、ため息と同時に思わず独り言がこぼれた。一人暮らしを始めて3年、最初の3ヶ月くらいは、無意識のうちに独り言を言ったり、鼻歌を歌ったりしている自分にハッと気付き、苦笑したものだったが、今となっては独り言や鼻歌は、早紀にとって生活の一部として当たり前のものになっていた。
 今日もいつもと同じく無意識のうちにつぶやいた独り言だった。しかし、その内容とは裏腹に早紀の口元はもうほころんでいた。考えてほしかった「こっちの予定」といっても、コンビニに夕食を買いに行き、テレビを見、お風呂に入って寝るだけという予定とも呼べないような寂しいものだったのだ。電話がうれしくないはずはなかった。 
 早紀は、「予定変更!」と、自分に呼びかけるように元気よく言い、敷きっぱなしになっている布団を上げることから行動を開始した。休みの日にこんな時間まで布団が敷いたままであるのだから、もちろんパジャマ姿だ。こんな姿、お父さんに見られたら怒られるだろうなあ、と思いつつ、カーテンを開け、ベランダの窓を全開にした。
 心地よい風が部屋の中に流れこんでくる。暑くもなく、寒くもなく、何をするにも今が一番良い季節だ、と早紀は思う。春の風も心地よいが、秋の風は少しひんやりとした冷たさも混じり、空気が澄んでいるのを感じられる。
 早紀は、風に誘われるように、ベランダに出てみた。少し太陽は傾いているが、雲ひとつない快晴だった。そんな空を見ているうちに、早紀の頭の中には小学生の頃の運動会の情景が浮かんできた。運動会の日の空は高く、どんなに手を伸ばしても届かない真っ青なものだった。組体操でグラウンドに寝転んで、澄みきった青い空に響き渡る笛の音を聞くのはとても気持ちがよかった。今、ベランダから見上げている空も、それに似たものがあった。ただ、その下に立つ早紀は大きく変わっていた。
 視線を下に落とすと、公園が見える。それほど大きな公園ではないが、休みの日には、小さな子ども連れの家族や、バットとグローブを抱えた少年たちがよく遊びに来ている。その少年達の声で目が覚めることもしばしばだ。しかし、今日はあまりにも天気がよく気持ちがいいので、皆、遠出をしているのだろうか。人が少ない。若い夫婦がベビーカーを押しながら、散歩している姿だけが目に入った。2人は仲がよさそうに何かを話しながら、ゆっくりと歩いている。時折ベビーカーの中の子どもを覗きこんでいる様子からすると、子どもの話でもしているのだろう。子どもは眠っているようだ。青空の下、緑の中、そこには3人だけの幸せな世界があるように見えた。
 ケータイの着メロの音で、早紀は部屋の中へと呼び戻された。慌ててサンダルを脱ぎ捨て、布団を飛び越え、ケータイの元へと走り寄った。着メロが夏に流行った曲のままだったので、なんか違うな、という違和感を感じながら、ケータイを手に取りディスプレイを見ると、「渡辺さやか」という名前が表示されていた。
「もしもし、お姉ちゃん?」
「あ、早紀?今日さ、6時頃には行けそうになったんだ。何か夕食買って行こうか?どうせ何もないんでしょ?」
少し皮肉をこめた口調だった。夕食はコンビニ弁当で済まそうとしていたのだから、当然何もない。図星だった。
「どうせ何もありませんよー。それよりどうしたの?わざわざ電話してくるなんて。いつも約束の時間なんてお構いなしに来るくせに。」
「たまにはいいじゃん。で、夕食何がいいの?」
早紀の質問は軽く流されてしまった。早紀は、少し考えたが特別に食べたいものも思い浮かばなかったので、
「別に何でもいいよ。お姉ちゃんにおまかせする。」
と答えた。お姉ちゃんは、
「分かった。私の好きなもの、いっぱい買って行くわ。」
と笑いながら言って、電話を切った。
 時計を見ると、針はちょうど4時半を指していた。20分以上ベランダにいたらしい。電話がなければ、もう少しボーッとしていたかもしれない。早紀は中断していた布団上げを再開した。

 早紀がお姉ちゃんと知り合ったのは、3年前、大学に合格し、念願の一人暮らしを始めたばかりの頃だった。大学は実家から通おうと思えば通える距離の所にある。親は家から通うことを前提に、その大学を受けさせたつもりだったのだが、合格すると早紀は一人暮らしをすることを当然のように主張した。そして、2ヶ月がかりで親、特に父親を説得し、夢を叶えたばかりの頃だった。
 念願の一人暮らし、誰にも文句を言われない夢のような生活が始まるはずだったが、想像していた生活とは少し違っていた。大学にいる時間は、それなりに友人もでき、楽しく過ごしていたのだが、誰もいない真っ暗な家に帰ると毎日寂しさがこみ上げてきた。寂しさを紛らすためにつけるテレビも1人で見ると、味気ないものだった。自分から言い出して始めた一人暮らしだっただけに、家に毎日電話するのも気が引けた。早紀のプライドが許さなかったのだ。高校時代の友人たちも地方の大学に行っていたり、バイトやサークルで忙しそうにしていたりして、なかなか会うことはできなかった。
 この時、早紀は生まれて初めて「孤独」というものを知った。
 早紀がお姉ちゃんと出会ったのは、そんな頃だった。1人で家にいる時間を少しでも減らそうと思って始めたバイトの焼肉屋で、お姉ちゃんはチーフとして働いていた。
 初めてお姉ちゃんを見たのは、バイト初日だった。早紀よりも数時間前から入っていたらしいお姉ちゃんは、とてもテキパキと仕事をこなしていた。皿を運び、鉄板を片付け、レジも打つ。「いらっしゃいませー。」「ありがとうございましたー。」という声も、誰よりも先に出す。手も足も口も止まることはなかった。早紀の目に映ったその姿は、まるで働きアリのようだった。早紀は1度もお姉ちゃんに声をかけることができないまま、初日のバイトは終わった。
 高校時代、陸上部で鍛えたはずだったが、立ちっぱなしの5時間は想像以上の疲れを早紀の足にもたらしていた。初めてのバイトで、緊張もあったのだろう。疲れきって更衣室で着替えていると、突然後ろで、
「お疲れ様。」
という声がした。自分に言われたとは思わなかったのだが、更衣室には自分しかいないことに気付いて振り返ると、お姉ちゃんが笑顔で早紀の方を向いて立っていた。
「あ、お疲れ様です。」
ペコリと頭を下げて、笑顔で返したつもりだった。しかし、疲れすぎて顔が引きつっているのが自分でもわかった。声のトーンも低かった。そんな顔を見て、お姉ちゃんはニコニコしながら、
「疲れたでしょ。最初はみんなそんなもんよ。すぐに慣れるよ。」
と励ましてくれた。年上ばかりで、うまくやっていけるかと心配していた早紀にとって、最も近寄りがたそうなお姉ちゃんが笑顔で話しかけてきてくれたことは、意外であり、うれしいことでもあった。 
家が近かったこともあり、バイトの帰りに2人で帰ることが多くあって、いつの間にか2人はお互いの家を行き来する親友になっていた。「渡辺さん」と呼んでいたのが、「さやかさん」に変わり、「お姉ちゃん」に変わるのに、そう時間はかからなかった。
 お姉ちゃんは早紀のことをとてもかわいがってくれ、早紀もお姉ちゃんによくなついていた。年は3つしか変わらないが、外見も精神的にもお姉ちゃんは早紀よりも7、8歳年上のように思われた。友人であり、姉であり、時には母親でもあるような、早紀にとってお姉ちゃんは、孤独を忘れさせてくれる、なくてはならない存在であった。
 お姉ちゃんは、孤独の中で育ってきた人だった。だから、早紀の孤独を忘れさせることができたのだ。お姉ちゃんは、幼い頃に両親を亡くし、祖父母に育てられていたが、その祖父母もお姉ちゃんが5歳の頃亡くなり、児童養護施設で育ったのだと言う。早紀がそのことを知ったのは、つい最近のことだった。普段の明るいお姉ちゃんから、そんな過去は全く想像ができなかった。しかし、お姉ちゃんの強さの理由はそこにあったのだと納得することはできた。18歳になり施設を出てからは、美容師になるという夢を叶えるため、アルバイトをしてお金を貯めていた。そして、この春からついに専門学校に通い始めたのだった。

レノマワールド パレード ―――ピンポーン
「来た!」
早紀はインターホンに走り寄った。すぐにでも出たかったが、待ってました、と思われるのも嫌だなと思った早紀は、一息おいて、
「はい?どちら様でしょう?」
と、少し落ち着いた雰囲気を醸し出して聞いた。すると、ドアの向こうから、
「宅急便でーす。」
と、ふざけた返事が返ってきた。向こうの方が1枚上手だったらしい。ドアを開けると、お姉ちゃんが大荷物を抱えて立っていた。本当に宅急便のお兄さんのようだった。
「久しぶり!元気してた?」
その勢いに早紀は圧倒されていた。
「う、うん。元気元気。ホントに久しぶりだねー。とりあえず上がって。」
「言われなくても上がりまーす。」
と、荷物を早紀に渡しながら、お姉ちゃんはいつもの調子で「相変わらず殺風景な部屋だねー。」とかなんとか言いながら、ずかずかと上がりこんできた。
 早紀は、渡された荷物の多さに驚き、それを覗き込みながら、
「何で、こんなにたくさん買ってきたの?2人でこんなに食べられるわけないじゃん。」
と、口を尖らせながら言った。お姉ちゃんが買ってきたものは、スーパーの大袋3つとケーキらしき箱が1つだった。スーパーの袋には、寿司やお菓子やおにぎりや天ぷらやコロッケなど、ありとあらゆる食べ物が入っていた。ケーキの箱を開けると、イチゴのバースデーケーキが入っていた。
「早紀が、私に任せるって言ったんじゃん。私の好きなものいっぱい買ってきただけだよ。」
「何で、ケーキまであるの?パーティでもするつもり?」
「ピンポーン。よく分かったねー。今日はパーティするつもりで来たの。」
「エッ?!何のパーティ?」
パーティをする理由など早紀には全く思いつかなかった。しかし、いつも気まぐれで何かをやり出すお姉ちゃんのことだ。またこじつけに何かの記念日にでもしようとしているのだろう、と早紀は軽い気持ちで構えていた。
「とにかくパーティ、パーティ。何のパーティかは、あとのお楽しみ。とりあえず早く食べようよ。ワイン買ってきたから、飲もう。」
時計を見ると、6時半だった。早紀もお腹は空いていた。11時ごろ、食パンを1枚食べたっきり、何も食べていなかったのだ。しかし、実際のところは、お姉ちゃんが来る嬉しさで、空腹のことなど忘れていた。
「うん。飲もう。」
小さな折りたたみテーブルの真ん中にケーキを置き、その周りに料理を並べ、グラスにワインを注ぐと、本当にちょっとしたパーティのようになった。
「カンパーイ。」
何に乾杯なのかはよく分からなかったが、早紀は何でもよかった。とりあえずお姉ちゃんの調子に合わせて、飲み始めた。
お姉ちゃんと会うのは本当に久しぶりだった。2ヶ月ぶりくらいだろうか。2人とも同じバイト先に勤めていた頃は少なくとも週に3日は、一緒に食事をしたりしていたが、お姉ちゃんがやめてからは、ほとんど会うことがなくなってしまった。忙しそうにしているお姉ちゃんに、早紀のほうから電話をすることはできなかった。本当は忙しいはずなのに、電話をしても迷惑そうにしないお姉ちゃんだからこそ、早紀は余計に電話をすることができなかった。
2人とも、会わない間にたまっていた話をし、食もワインもよくすすんだ。
早紀は、焼肉屋の新しい店長の話や、今はまっているドラマの話など、たわいもないことを延々と話し続けた。誰と話していてもいいようなどうでもいい内容のことばかりではあったが、お姉ちゃんに聞いてもらっていると、他の誰に聞いてもらうよりも話しやすい。何より落ち着くのだ。いつまででも、話し続けていられるような気がした。
お姉ちゃんも、専門学校の話や、最近作った料理の話を楽しそうに話していた。特に、専門学校の話では、目を輝かせて小さな子どもが母親に話を聞いてもらうかのように楽しそうに話をしていた。自分の好きなことをやっている人ってきれいだな、早紀はお姉ちゃんを見てそう感じていた。やりたいこともなく、とりあえず大学に通っている自分が恥ずかしく思えた。

そろそろ2人とも話しのネタもつき、無言の時間が増えてきた頃だった。時計は10時を指していた。
―――ピンポーン。
「誰か来た。こんな時間に誰だろ?」
早紀が立ち上がると、お姉ちゃんは、
「やっと来たかー。」
と、笑顔で言った。
「エッ、誰?お姉ちゃん、知ってるの?」
「ひみつ。」
お姉ちゃんはうれしそうに笑っていた。お姉ちゃんのそんな笑顔を久しぶりに見たような気がした。早紀が急いで、インターホンに出ると、
「宅急便で−す。」
という返事。お兄ちゃんの声だった。
「エッ、お兄ちゃん、どうしたの?こんな時間に。」
お兄ちゃんが、早紀の家に来ることは珍しくはなかった。お父さんかお母さんに何かと用事を言いつけられて、早紀を偵察に来るのはお兄ちゃんの役目だった。しかし、こんな遅い時間に来たことは今までになかった。
「よっ。早紀。ごめんな、遅くに。」
お兄ちゃんは、右手をちょっと挙げながら、申し訳なさそうに靴を脱いで部屋の中へと入っていった。
 早紀が後から続くように、部屋へ入ると、お兄ちゃんは当然のようにお姉ちゃんの横に腰を下ろした。2人ともニコニコしながら、早紀を見ている。
「ちょっ、ちょっと、2人とも何よ。まさか、知り合い?もしかして、今日、お姉ちゃんがお兄ちゃん呼んだの?」
 早紀は、何が何だか分からなくなっていた。早紀の知る限り、お兄ちゃんとお姉ちゃんは、会ったことがないはずだった。しかし、今、この2人を見ていると、会ったことがないとは思えない。そんな早紀の様子を見て、お姉ちゃんは、
「驚いたー?私たち、知り合い。今日、呼んだのも私。」
「そうそう。早紀をいつか驚かしてやろうと思って、知り合いってこと、ずっと黙ってたんだ。ごめんな。」
 早紀は、その2人の様子からただの知り合いではないことをすぐに悟った。
「どういう知り合いなの?」
「前に、早紀がいなくて、私が留守番してたことあったでしょ?その時、お兄ちゃんがたまたま来たのよ。それからの知り合い。」
「いつだっけ?」
「半年ぐらい前かな?」
「それから付き合ってるの?」
「うん、まあね。」
お姉ちゃんは、とっても恥ずかしそうに顔を赤らめて答えた。お姉ちゃんのそんな表情を早紀は初めて見たと思った。「さっき、お姉ちゃんがきれいに見えたのは、好きなことをしているからだけじゃなかったんだ。好きな人がいたからなんだ。」早紀は、そう思い直した。改めて2人を見ると、お似合いの2人に見えた。しっかり者のお姉ちゃんとちょっと頼りないお兄ちゃん、気も合いそうだ。早紀がそんなことを考えていると、お兄ちゃんが、突然、
「早紀、実は俺たち結婚することにしたんだ。」
と言い出した。さすがに早紀もこれには驚き、しばらくの間絶句した。ようやく出せた言葉は、
「そうなんだぁ。」
というものだった。そして、その後すぐに飛び出した言葉は、
「まさか、お姉ちゃん、妊娠してるの?」
その問には、お姉ちゃんがすぐに首を横に振った。
「違う。違う。昨日、お兄ちゃんがプロポーズしてくれたの。天涯孤独の私に早く家族を作ってあげたいからって。だから、今日は、結婚パーティしようと思ったんだ。」
と、お姉ちゃんは満面の笑みでうれしそうに答えた。
「へぇー。お兄ちゃん、見かけによらず、いい事言っちゃって。お姉ちゃんが、ホントのお姉ちゃんになるんだー。何か変な感じ。でも、スッゴクうれしいよ。これからもよろしく、お姉ちゃん。」
「こちらこそヨロシク。早紀。」
握手したお姉ちゃんの手はとても暖かかった。今日は、忘れられない1日になるだろうな、早紀はそう思って目を閉じた。
「よし。さっきまで、お前ら2人で飲んでたんだろ?今度は、俺も入れて3人で乾杯しよう。」
新しいグラスを取り出しながら、お兄ちゃんが言った。
「カンパーイ。」
チリンと3つのグラスが重なり合った。幸せそうな2人の顔を見ていると、早紀は、ふと、夕方にベランダから見た若い夫婦を思い出した。ベビーカーを押しながら、仲睦まじく散歩する2人の姿が、お姉ちゃんとお兄ちゃんであるように思われた。数年後、この2人なら、きっとあんな風に幸せな世界を作り上げているだろう、早紀は、そう確信を持って、ワインを口に運んだ。



「ロータリー」
谷澤素子


ロータリー(名)〔rotary〕

  1. 輪転機
  2. 市街の交差点の中央に交通整理のために作られた丸い形の小高いところ。

 午前3時の非通知設定で起こされてしまった。カレシがいる人はわかると思うが、ケータイとにらめっこして、そのまま寝てしまうのは、すっかりナオコのくせになっていた。ナオコのカレシはたまに、非通知設定で電話をかけてくる。だから多分カレシからだろうとナオコは思った。眠い目をこすり少し甘美な気持ちでカレシにかけてみる。
「…もしもし」
「……ん、もしもし」
と意外に眠たげなカレシの声。あっちがったかな?と思ったけどもう遅い。さっきかけたかと尋ねると、かけていないと言う。社会人のカレシは明日も仕事があるので起こしてしまったことを詫び、電話を切った。ナオコも一寸気味悪かったがそのまま寝てしまい、その夜のことはそれでしまいになった。

 大学4回のナオコは進路をきめなければならなかった。大学生活全てをかけたバスケ部も6月で引退し、自由な時間が増えた。現役中は引退したらこれもしたいあれもしたいとやりたいことが山積みのように見えた。が、引退して2ヶ月で全てをやりきってしまい、何もすることがない不透明な時間をもてあまし、鬱々とした日々を過ごしていた。週3の塾講のバイトだけが外に出る理由だった。

 塾では高校生を教えていた。自分の出身高校の生徒もいた。彼女のトロピカルブルーの制服を見ると昔の自分がダブってくる。
「トロピカルブルーの制服はこの伝統ある○○女子高だけのものなのですよ」と家庭科の先生は言っていた。トロピカルブルーの制服が誘発材料となり、懐かしい断片をふと思い出すこともあった。ナオコは高校3年間をこの塾で過ごした。52番教室の前から二列目の席はナオコの自習に使う特等席だった。正方形の窓のない教室は集中力が高められる一番の場所だった。教科書、殴り書きするための白い紙束に囲まれて、二つくくりでルーズソックスをはいたナオコは一心不乱にガリ勉していた。進学校に通っていた当時、「良い成績をとり、良い大学に行く」ことが一番の優先事項であった。そうすれば、その先に楽しい未来が待っていると、今はサエナイ女の子でも、青春を費やしただけの見返りはかならずあると信じていた。少し勉強ができた。そのことがナオコの存在理由になっていたし、プライドにもつながった。それ以外は何一つしらなかった。踏み出せば壊れそうななにかを予感していたのかもしれない。恋もしたかった。カレシも欲しかった。部活もしたかった。しかしそれ以上に将来の野望のほうが大きかった。勉強のし過ぎで白髪が生えてきた時はさすがに驚いたが、逆に満足感もあった。つまり、白髪はそれだけ一生懸命やったことの証である。この分の未来の見返りは大きいと。
 英語の教科書だったか、こう書いてあった。
「ネックレスを作る時、色も形も同じビーズをつなげると、ビーズの長い列ができるだけで、一個一個のビーズ見分けがつかなくなり、巨大な単調ができあがる。単調な生活をしていたら、人生も然り。」
 まさしくナオコは毎日という同じビーズをせっせと紐に通していたのである。そんな自分を、一方でうっすら嫌悪しながら、ごまかしごまかししながらやっているうちに、いつしか歪ができてきた。ナオコの中で二極分解が起きていた。外ではイイ子だった。明るく素直だった。しかし家に帰ると、無意識のうちに、歪みの調整をするかのようにおしだまった。全てにいらついた。特に、なんの生産性のないものを激しく憎んだ。(それはあくまでナオコの狭すぎる主観のもとに識別された)結果、憎しみの目は母に向けられた。ナオコは母が嫌いになっていった。肉親であるゆえに、歯止めがかからなかった。母が専業主婦で、のうのうと暮らしているかのように見えた。(自分は神経をすりへらしているのに)と心の中でいつも思っていた。それは、本当にナオコの無知と傲慢の表れだった。冬の洗濯の寒さを知らなかった。毎日ナオコら姉妹3人分のお弁当を作るしんどさを知らなかった。毎日ナオコと同じ時間に朝ご飯を食べてくれるやさしさがうっとうしかった。帰ったら、おかえりと言ってくれるやさしさに気づかなかった。
 一度だけ倫理のテストだったか、母についてありのままを書いたことがあった。ナオコはすこし勇気を出したつもりだった。テストの点は最悪だった。(ああ、やはり本当のことを書いてはいけないのだ)と、思った。以来、ナオコはますます嘘の皮を厚く被ることにした。それからいつものようにせっせと教科書に向かう日々が続いた。ビーズネックレスの諺、そのイメージはたまに夢にでてきてナオコを押しつぶしたが、朝になると忘れて、同じ日常を繰り返すのだった。

海遊館  そんな16歳の夏休み。いつものように夏季講習を終え、夜10時の帰宅途中だった。人がいないことを確認して、流行のポップスを鼻歌で歌いながら、ふとナオコは翌日自分が誕生日だということを思い出した。何か16歳最後の思い出を作っておきたいと思った。時間も時間である。門限もある。何よりナオコはあまり大きなことはできない。自転車をこぎながら、なにかないかと考えた。考えながら、いつもの商店街にさしかかった。そこは、小さな商店街だった。昼はそれなりににぎやかだが、夜にはひっそり静まり返っていた。道の両脇にはライトが間隔を置いて立っていたが、光は弱く、さむざむしかった。ナオコは道の真中をどんどんすすんで行った。ふと、前方奥の白くぼんやりしたものに目が止まった。
 商店街の場末にあるロータリーは奇妙な形をしていた。直径3メートル、高さ50センチメートルの円柱の台があり、その台の真中に四角い柱がつきささっていた。そのうえに、名もない彫刻家が作った素人目に雲らしいと判別できるオブジェがのっていた。その円柱部分はすわりよかった。ロータリーの反対側は田んぼと荒地で、はてしない広がりがあった。
「あのロータリーまで行って一周して帰ってこよう。」そうつぶやきナオコはむかった。至極単純な課題だった。しかしナオコはできなかった。やらないまま帰ってしまった。ナオコは進路を変えるのがいやだった。勇気はもうなかった。特別なことができなかった。

 あれから何年か過ぎた。大学4回の大人となり、自由な時間はナオコの価値観を変えていった。母との関係もしだいによくなっていった。家事の大変さを知り、感謝の心ももった。しかし、奥そこでは何かをひきずるナオコであった。
 ある冬の夜だった。いつものように父以外の家族でテレビを見て団欒していた。母はいつも途中で抜けて夕飯の洗い物をするのだった。高校生の時は気づかなかった。今では気づいていた。しかし、「私がやる。お母さん休んでいて。」と言えないのだった。肉親にやさしい心を示すのは一番勇気がいるナオコだった。しかし、なにかの拍子で行動を導き出す誘発因子がプラスに働いた。今言わなかったら、いつ言うの?と尋ねる自分もいた。バスケの試合で、ここで必ず決めなければならない3ポイントシュートを打つ気持ちに似ていた。勇気を出して言った。
「かわるわ、お母さん。」
と。顔は緊張で多少歪んでいたかもしれない。母は少し嬉しそうに、
「あら、珍しい。」
と言って、エプロンを渡し、テレビを見に行った。事態は拍子抜けするぐらいあっさりすんだ。
――言えた。――
 バスケの試合でつらいことを乗り越えたあの気分に似ていた。母が家族とくつろぐ姿を確認し、ナオコはキッチンに隠れるように移動し、洗い物に取り掛かった。洗いながら、すこし涙ぐんだ。洗い物の泡がパチンと弾けた。何か解き放たれた心持だった。

 その夜の午前3時のことだった。また非通知設定がかかってきた。もう誰からかわかっていた。いそいで着替え、走って向かった。
 空気は冷たく頬に冷気がささった。まっすぐに走った。商店街には誰もいなかった。両脇のさむざむとした光の列をぬけ、あの、ロータリーへ。
 ぼんやり白いロータリーのフォルムが見えた。奥には果てしなく広がる深い闇があった。何でも飲み込んでしまいそうなくらいの闇だった。トロピカルブルーの制服が見えた。ナオコは近づいていった。
「遅かったね。」と彼女は言って、ナオコをじっと見た。
「ごめんね。」とナオコは謝った。
「もうできるよね。」と彼女は言った。
 ナオコはロータリーを一周した。彼女は消えていた。ナオコはロータリーにひざまずいて祈るように泣いた。涙があとからあとからぽろぽろこぼれ、自分が清浄になっていく気がした。。儀式が終わり、封印がとけ、素直な自分になれた気がした。頭が透明になり、何者かに許されたような安心感があった。ロータリーは冬の月をうけ、荘厳な美しい白と灰色の陰影を作っていた。
 



「ムサシとサスケ」
山本芳弘


 「遅い!佐助はまだ来んのか?」
 そう初老の武士がはき捨てた。かなりいらいらしている様である。
 時は正中五年、かの太閤様が倒れて早十年。島原の乱のちょっと前の話である。世は徳川幕府が新しい幕府を作るため意気盛んにあれやこれやと政策をうって出ているところである。もっとも、ここではそういうことはあまり関係ない。摂津(今の大阪)の、あるススキが繁っている野原でその武士は待ちあぐねていた。初老ながらも体格はしっかりしており、風格漂う剣豪のように見える。
 「もう何刻待たせれば気が済むのだ?怖じ気づき寄ったか?この柳川流剣術師範柳川幸之進に恐れをなして逃げ帰ったのか?」
 どうやらどこかの道場の師匠のようである。佐助という男と待ち合わせをしているらしい。
 風の音が聞こえる。ススキが風にそよそよとなびく。さらさらと秋の音が聞こえてくる。月明かりがこうこうと野原を照らしている。
 ふと。
 「幸之進、覚悟!」
 突然、何者かが襲ってきた。幸之進は剣を抜き、その切っ先をすばやく相手に向けた。相手もそれをすんでのところでかわし、間合いを取る。
「佐助か。返り討ちにしてくれるわ!」
お互いの時間が流れる。虫の声が聞こえる。一瞬のようで長い時間が流れていた。
 そして、一閃……。
 幸之進がその場に倒れた。おそらくこの目の前にいる佐助の剣の切っ先が一瞬早く自分に届いてしまったのだろうか。意識が遠のいていく、目がぼやけていく。
 佐助は、ゆっくりと剣を振り上げた。そして……。

 今日はものすごく天気がよく、見上げると秋空があたり一面に広がっている。ここは人気のない広々した剣術道場のようだ。古いながらもきれいに整備された道場である。ここで剣の練習をしている……はずだったのだろうが、絶好の昼寝日和となったのか、一人の男が道場の縁側で昼寝をしている。
 男は白い練習着に身をまとい、紺の袴をはいている。しかし特別屈強な体つきをしているわけでもなく、どちらかというとひょろっとした感じの若者である。若者の名 は武蔵。20前後の若者である。
 しばらくすると、向こうの方から一人の娘が洗濯物を持ってやってきた。昼寝をし ている武蔵を見てうんざりしている娘は武蔵を縁側からひきずりおろした。どすんっ!
「いてっ!なんだなんだ?何者だ?って姉さんか。もう何するんだよー。人がせっかくいい気分で眠ってたのに。」
武蔵はゆっくりと起き上がり、ねむそうな目をこすって言った。そして、姉に向かって手を動かしながらこういった。
「なんで起こすんだよ?」
(起こしてあげたのにどうしてそんなこと言うの?)
と言ったようである。
 娘の名は詩織。武蔵の姉である。一見は普通の娘に見えるのだが、実は聾である。音が聞こえないのである。従って武蔵との会話は手を動かして会話をする「手勢」というものが使われている。武蔵は耳が聞こえるため、詩織と会話する時にはしゃべりながら手勢をつける方法を取っている。
(あなた、昼寝ばっかりしてないで、少しは剣の練習でもしたら?そんなんじゃ立派なお侍にはなれないわよ)
「ほっといてくれよ。僕だっていざという時はちゃんとやるんだから」
(お父さんは今日もお城の道場に剣道を教えに行ってるのよ。少しはお父さんを見習って練習したらどう?)
「はあ。父上もよくやるよ。もういい歳だし、心臓もそんなによくないのに。」
詩織は空を見上げた。手勢で独り言を言っているようだ。武蔵には、ちゃんと薬を飲んだのかしら?というように見えた。そして詩織は再び武蔵を見てこう言った。
(お父さんは体に鞭打って今の若者のために剣術を教えているのよ。確かにお父さんのやり方が気に入らずに辞めた人もいるけど、すごく人気があるじゃない。あなたも教えてもらいに行きなさいよ。城内でもお父さんほどの剣の達人はそういないわ。そんな人が教えてくれるチャンスなんてそうあるもんじゃないわ。)
「はいはい。わかったよ。」
そう言って武蔵は後ろを向いた。うるさいなあ。そう思っていた。すると詩織は武蔵を突き飛ばした。
(見えてるわよ!ほんとに!)
武蔵は無意識のうちに手勢を使ってしまっていた。後ろを向いてても読み取られるのは当たり前である。なんせ詩織はゆっくりなら人の唇まで読み取ることができるのだから。武蔵はばつが悪そうに詩織のほうを見た。
「姉さんごめんなさい。でももうちょっとだけ昼寝してもいいだろ?」
(いつもいつもちょっとだけって言って結局何もしないじゃない!)
「ちょっとだけだって!頼むよ姉さん。」
詩織はあきれていたが、洗濯物をほさないといけないことを思い出した。早くしないといけない。そう思った。
(仕方ないわね。じゃあ私は表に洗濯物を干しに行ってくるわ。) そう言うと詩織は表に洗濯物を干しに行った。
 天気がいいなあ。武蔵は再び縁側でまどろんでいた。僕はこんな晴れた日の空の色が一番好きだな。さぞ満足そうにまたうとうとしていた。
 すると詩織が表から血相を変えて走ってきた。ずいぶん息を切らしている。詩織はまた武蔵をたたき起こしてた。必死になにかを伝えようとしている。
「なになに?どうしたんだよ?手勢をもっとゆっくりしてくれ。そんなに早くてはよく分からん。」
武蔵はゆっくりと起き上がった。すると、なにかを思い出したようだ。武蔵は詩織に向かってこう言った。
「わかったぞ。父上が前言ってた、姉さんのいいなづけが来たんだろ?もー。上がってもらえばいいじゃない。そりゃここの道場はそんなに新しくないけど大丈夫だって。父上が選んだ人なんだから間違いはないって。きっといい人だよ。いやー、弟として失礼のないようにしないといけないな。」
(違う!違うわよ!)
「何が違うのさ?いったいなんなんだよ?ええと、今、向こうで人が話してるのを読み取ったけど、父上がある浪人に殺されたらしい。ああそうなんだー。……え?なんだって?どういうことだ?父上が殺された?殺した浪人の名前は佐助……。そんな馬鹿なことがあるものか!父上は柳川流剣術師範、柳川幸之進だぞ!」
武蔵は愕然としてその場にひざまづいてしまった。そんなことがあるはずがない。そう思っていた。詩織は武蔵を心配そうに見ていたが、そのうち、武蔵は詩織の肩をぐっとつかみ、詩織の目の前で大きく口を開けていった。
「いつだ。いつの話なんだ?」
(そこまでは読み取れなかったわ)
ありえるわけがない!父上が他の剣士に敗れるなんて。そう思った武蔵は高ぶる気持ちを押さえられず、道場から自分の刀を持った。
「かたきうちじゃ!」
そう詩織に向かって言い、横切って走って出て行こうとした。すると、詩織は武蔵の手をつかんで止めようとする。
「離してくれ!」
そう言うが詩織は首を横に振って離さない。武蔵は詩織がつかむ手を強引に振り払い、道場を出て行こうとした。と、詩織はそばに合った竹刀をつかみ、武蔵のお尻を思いっきりひっぱたいた。
「いってー!」
(待ちなさいって言ってるでしょ!待ちなさい!)
武蔵はしばらく痛さでうずくまっていたが、やがて起き上がると目に涙を浮かべて言った。
「父上が殺されたというのに黙っておられるか!その佐助と申す浪人に果たし合いを申しこんで、仇討ちするのだ!」
(それは私も同じ気持ちです!でも手がかりがないでしょ?手がかりなしでどうやってその浪人を探すの?) 武蔵ははっとした。確かに何の手がかりもない。まして仇討ちのための準備を何もしていない。
「……それもそうだな。でも、それじゃあ一体どうすればいいんだ!」
(父上は摂津で殺されたそうよ。)
「摂津か。ならとにかく摂津に行くことにする。そこで手がかりをつかんで、佐助という浪人を探そう。」
武蔵は気持ちを押さえながらもとりあえずは冷静さを取り戻した。詩織も一安心して、
(わかったわ。それではさっそく一緒に行きましょう。私、身支度をしてくる。)
そう言って後ろを向いた。しかし、武蔵はその手をつかんでこう言った。
「姉さんは来てはだめです。ここに残ってください。」
詩織はびっくりして、
(どうして?)と尋ねた。
「姉さんは耳が聞こえないんですよ。危険です。このたびはそんなに甘いものじゃないはずです。だから」
(何を言ってるの!私にだってできることはあるはずよ。始めから何もできないって決めつけないで!きっと役に立つから。) しかし武蔵は首を縦に振らず、
「だめです!一緒には連れていけません!」
そう強く言い放った。しかしそれが詩織の感情を爆発させた。
(どうしてよ!私もあなたと同じ柳川幸之進の娘よ!思いはあなたと同じよ!)
武蔵はこの勢いに気おされてしまった。しかし同じ無念さを持っている限り一緒に仇討ちをするべきだ。そう武蔵は思った。
「……わかりました。それでは一緒に行きましょう。では、旅の準備を。」
そして二人は旅支度をし、道場を出た。

大阪オリンピック誘致ポスター  場所は変わってここは摂津のあるお茶屋である。ここで休憩をしている野武士がいる。髪もきっちり結われておらず、かなりくつろいだ感じである。
「おい!茶!」
「はーい!ただいま!」
店の中から娘がお茶を持ってきた。野武士はそれを手に取り、一口すすってため息を吐いた。
「ふー。なにかおもしろいことないかなー……こう、ぱっとするようなこと」
「はあ……どうでしょうか?」
野武士は空を見ながらまた茶を啜り、ため息を吐いた。すると、向こうのほうから若い男女が二人歩いてくる。しかし身振り手振りが多い。まるで手で会話をしているようだ。野武士は不思議そうに娘に尋ねた。
「なんやあれ?」
「えーと、多分あれは手勢というものではないでしょうか?」
「ほう。手勢……それはなんや?」
「確か耳が聞こえない人の言葉だそうですけど。」
「ほほう。じゃああれで話が通じているのか」
「そうだと思いますけど」
 武蔵と詩織が会話をしている。
「姉さん、その佐助という男はまだこのあたりにいるのかなー?」
(わからない。けど、探すしかないわ。ここにいたことは確かなんだから、なにか手がかりがつかめれば)
「んー……姉さん、佐助は他にも悪事を働いているかもしれない。ひょっとしたら、奉行所で指名手配になっているかもしれない。」
(そうね)
「ちょっと奉行所に行ってくる。その間……喉乾いてない?姉さんは、そこのお茶屋さんで団子でも食べて待ってて。」
(わかったわ)
 武蔵は奉行所まで走り去っていった。
 詩織はお茶屋の腰掛けに座った。そこに娘が注文を聞きに行った。
「なんにしはります?」
「??」
 詩織は娘の声が聞こえないので何を言っているのかわからないのだ。
「困ったわ。どうやって注文聞いたらええんやろか……そうや!」
娘は半紙に筆で字を書いた。一方には「団子」もう一方には「お茶」と。それを持って詩織に見せた。
「どっちにしはります?」
詩織は「団子」と「お茶」の両方に指差した。
「団子とお茶の両方ね。わかりました。おおきに。」
娘は団子とお茶を取りに店の中に戻った。詩織は心配そうに店の中を見ていた。
 「あーいい天気だ。たまにはこうやって外でボーッとするのも悪くないなー。」
男は大きく伸びをしてそう言った。 体格のいい武士である。歳は20代後半といったところか。ひょうひょうとした雰囲気の中になにか鍛え上げられた気を感じる。男は野武士と目が合った。男はすぐに目をそらしたが、野武士は男に何かを感じたらしい。しばらくは男を見ていたが。
「おい!茶をもういっぱい。」
すると団子とお茶をお盆の上にのせて出てきた娘が
「はい、ただいま!」
そう言って詩織に団子とお茶を持ってきた。
「お待たせしました。」
そう言って、一緒に紙を渡した。そこには「なにか追加注文があれば遠慮せずに呼んでくださいね」と書かれていた。
(ありがとう) 詩織は娘にそう言った。娘は微笑んだ。すると、
「おい!あと団子もくれ。」
野武士が追加注文をした。娘はそれに気づいて
「はーい、ちょっと待ってくださいね」
といってまた店の中へ入っていった。
 詩織はお茶を飲んで一息ついた。しかしもう一杯注文しよう、と思って、店の中へ行こうとした。すると、野武士とぶつかってしまった。野武士は肩をおさえて、
「いったー!おいこら!なにしてくれてんねん!」
どうやらかなり怒っている。詩織はびっくりしてしまった。そのまま野武士は詩織をつかみ、
「いったいどうしてくれるんや?」
野武士は詩織に言った。すると先ほどの男が間に入り、詩織をつかんでいた野武士の腕をつかんでこう言った。
「まあまあちょっと待てよ」
そのまま強引に腕を引き離し、そして言った。
「この人びっくりしてるじゃないか。ちょっとぶつかったくらいでそんなに怒ることはないだろう。」
「ああ?なんやと?おまえには関係ないやないか!」
野武士は男のむなぐらをつかもうとした。しかし男はうまく立ちまわって逆に野武士の関節を決める。
「いたたたたた」
男は野武士を突き放した。野武士は逆上して刀を抜いた。そして男に向かって振り下ろした。男の左腕から血が流れる。しかししかし男は血を見た瞬間、目の色が変わった。一瞬の出来事だった。男は再び向かってくる野武士の懐に入り、みぞおちに肘を入れた。倒れこんで刀を落とす野武士。男はその刀を拾って野武士に切っ先を向けて言った。
「今日のところは俺に免じて帰って欲しいのだが」
男は野武士の喉元に切っ先を向けている。野武士は急いで起き上がり、
「お、おぼえてろよ!」
そう言って立ち去ろうとした、しかし、
「おい!忘れ物だ」
男は地面に刀を投げ捨ててこう言った。野武士はそれを拾い上げ、ぐっと男をにらんで立ち去っていった。
 男は懐から布を出して切られた傷に巻き出した。そして立ち去ろうとする。すると詩織は男に近づいていって何度も何度も頭を下げた。
「別に構わん。当たり前のことをしただけだ。まあ、これから気をつけな。」
こう言って、男は去っていった。 詩織は何度も男に頭を下げた。お茶屋の娘は「はあ、かっこよかった。なんていうお侍さんやろか?」と言いながら詩織をゆっくりと座らせ、新しいお茶を汲みに店の中へ入っていった。
 詩織はうつむいてため息を吐いた。するとそこに武蔵が帰ってきた。だいぶ息が切れている。よほど走ってきたようである。
「姉さん!佐助の人相書きが手に入ったよ!」
(ほんとに?)
「なんか、仕官募集のところにあったんだ。父上にあんなことしながら、ぬくぬくとこんなところで仕官しようとしていた。あの事件のことがまだ知れていなかったから報告しておいた。これであいつはおたずねものさ。」
(早く、早く見せてよ) 武蔵は懐から人相書きを取り出した。そしてそれを詩織に見せた。
「これこれ。こいつが突然父上の後ろから襲ったんだ。なんて卑怯なやつだ。正式な果たし合いなら納得もするが、闇討ちとは武士の風上にもおけん!」
詩織は人相書きを見て愕然とした。さっきここで助けてくれた人と同じ顔なのでとてもショックだった。まさかあの人が?そう思いながら。
「姉さん、どうかしたのかい?」
詩織ははっとして顔を背けた。しかしそれが事実ならば仕方がない。とは言っても明らかに詩織は気が動転していた。
(ううん。なんでもない)
「それから、ついでにあいつがいつもいる古い寺も調べておいた。そこに行って待ち伏せしよう!とうとう父上の敵を討つ時が来たな……」
そう言うと武蔵は剣を抜き、一人で素振りを始めた。詩織はお茶屋の娘にお勘定を払いに行く。娘はこのことを一部始終見ていたようで、
「あの人相書きはさっきの人ですね。どうかしたんですか?」という紙を見せたが、しおりはそれを隠し、「しっ!」というしぐさをして勘定を済ませた。事の次第を察した娘は目で合図をすると、
「おおきに。また来てね」
と言って店の中に入っていった。詩織がお辞儀をすると、
「さあ、ではその寺に行こう!」
といって走っていった。かなり気合いが入っているようだ。しかしそれとは対照的に詩織はトボトボと歩き始めた。深くため息を吐き、ゆっくりと武蔵の後を着いていった。

 そうしているうちに古い寺の前まで来た。手入れがされていないせいか、ススキがあたり一面に繁っている。虫の声も聞こえてきている。武蔵と詩織は寺の境内に座った。
「ここがその寺だと思う。まだ佐助は来てないみたいだね」
武蔵は汗をぬぐいながら詩織に話しかけた。しかし詩織はすぐまたうつむいて元気がないように見える。
「さっきから様子が変だよ。何かあったの?」
武蔵は心配して詩織に尋ねた。しかし詩織は首を横に振る。武蔵は独り言のように、しかし手勢をつけて話した。
「佐助とやらはどんなやつなのだろうか。あの父上を闇討ちとはいえ討ったのだから、相当な剣豪のはず。果たして、父上の敵を討てるのだろうか……。いかんいかん!こんな弱腰では。必ず勝つ!そして、仇を討つ!」
(ねえ、武蔵、本当に決闘するの?) 詩織は尋ねた。武蔵はびっくりして詩織を見た。
「何言ってるんだよ。当たりまえじゃないか。何のためにここまで来たんだよ?」
(少し、佐助と話ができないかしら)
「話し合うことなんて何もない!」
(もしかしたら、私達が誤解しているかもしれない)
「何を言ってるんだ。やつは父上を殺した。それは事実なんだよ。」
(そうだけど。でも、いきなり切りかかるなんて、佐助と同じことをしようとしてるんじゃない?)
「……ここまで来たら引き下がることなんてできない!」
(少し話を聞いてからでも遅くないんじゃ……)
「ちょっと厠へ行ってくる。この辺で待ってて。」
武蔵は足早に立ち去ってしまった。
 どうしたらいいんだろう……。もしあの人相書きの人と助けてくれた人が同一人物だったら……。そう考えていると、誰かがこちらへ来るのが分かった。詩織は慌てて物陰に隠れた。さっきお茶屋で助けてくれた男である。やはり人相書きの人物に似ている。しかし、体中に傷を負っているようだ。男は先ほど武蔵と詩織が座っていた境内に座った。
「今日はどうしたんだ。突然いろんなやつが切りかかってきた。今まで誰も見向きしなかったのに……。今日奉行所に、俺が誰かを切ったと嘘を言ったやつがいるらしい。それで俺に賞金がかけられて、こんなことになったのだろう。それにしても、こう何人も相手にしては……もう限界だな……」
詩織には男が何を言っているかは分からなかったが、目つきはかなり厳しく、また怪我をしているのでただ事ではないと思っていた。詩織は我慢できなくなって物陰から出てきた。男ははっとして刀を手に取ったが、すぐに詩織だと気がついたようだ。
「あんたはさっきの」
そう言って刀をしまった。
「こんなところで何してるんだい?」
詩織は困ってしまった。どうやって言葉を伝えたらいいんだろう。手元には紙もない。詩織は一生懸命口を動かして伝えようとした。 さっきはありがとうございました
こう言ってお辞儀をした。しかし佐助にはよく分からない。
「ん?なになに?なんで声出さないんだ?」
(わたしは……)
「あ、分かった。あんた耳聞こえないんだろ?」
詩織はびっくりした。男が手勢を使ったからである。これはまったく予想していなかったことである。
(あなた手勢できるの?)
「ちょっとだけな。今、勉強してるんだ。おれのいいなづけがあんたと同じで耳が聞こえんらしい。それでな。少し。」
へえそうなんだ。詩織は思った。正直ちょっとショックだったようだが。
(なるほど。ところで、いいなづけってどんな人なの?)
「それが、会ったことないんだ。」
(へえ。だったらどうしていいなづけなんかに?)
「俺の剣のお師匠さんが自分の娘はどうかって言われて。顔も見たことないんだけど、まあこの人の娘さんなら大丈夫だろうと思って……」
(へえー)
「あんたはどうしてこの摂津に?」
詩織はうつむいた。
(父の仇を探しているの。私の父がある浪人に殺されたらしいの。その仇を討ちにこの摂津に」
「……そうか……それは残念だったな。でも、果たし合いなんかでは、やむを得ずそうなることもあるからな。」
(そうなのかもしれない。でも、あのままだと悲しすぎるから……)
しばらくの間時が流れた。しかし男のほうから会話を切り出した。
「そう言えば、名前まだ言ってなかったな。俺の名前は佐助というんだ。よろしく」
詩織は見間違えたのかと思った。自分の目を疑った。
(え?もう一回)
「さ・す・け」
詩織は確信した。やはりこの人に間違いない。そう思った。
 と、そこに武蔵が帰ってきた。
「ごめん遅くなって。ちょっと混んでたんだ」
そう言うと詩織を見た。と、隣に男がいる。どこかで見たような……武蔵は急いで人相書きを取り出して男と見比べた。佐助はその状況を見て目が殺気立った。
「やつに間違いない。おい、そこのおぬし、佐助と見た。否か?」
佐助はゆっくりと息を吐き、刀に手をかけた。
「まさしくそうだが」
「我は柳川幸之進が長男、柳川武蔵と申すなり!父上の仇佐助よ、いざ、尋常に勝負 !」
そう言うと武蔵は刀を抜き、佐助に切りかかった。ものすごい攻防である。どちらかが一つ間違えれば間違いなく命を落とすであろう。しかし佐助のほうが武蔵より剣の技術がまさった。やがて武蔵は押され気味になる。そして佐助は武蔵の剣を跳ね上げた。武蔵の剣が地面に転がる。佐助は剣を大きく振り上げた。
 と、詩織が身をていして武蔵をかばった。佐助は無理矢理剣をとめた。あと数寸で詩織を切ってしまっていただろう。佐助はものすごい形相で詩織を見た。
「なぜかばう!こいつからいきなり切りかかってきたんだぞ!」
しかしその瞬間佐助は二人との間を空けた。そしてこう言った。
「おまえの知り合いか?」
詩織は唇を読み取った。
(私の弟よ!)
「姉さん、こいつのこと知っているのか?」
詩織は佐助に言い続けた。
(私はあなたが切った幸之進の娘よ!) 佐助は愕然とした。その瞬間、武蔵が起き上がって詩織を払いのける。
「姉さんはどいてて!」
そう言って再び切りかかろうとした。しかし詩織は体で止めてこう言い続けた。
(お願い!待って!父上との時のことを話して!どうして父上を討ったの?)
「こいつに手勢が分かるわけがない!」
武蔵はそう言ってまた剣を構えた。しかし、佐助は詩織の手勢を読み取り、剣を鞘に 収めて手勢で話し始めた。
「……あれは稽古中の事故だったんだ。幸之進殿は自分の娘と婚約するための条件を俺に一つ出した。それが、剣で師匠を優るということだったんだ。自分を超えたものに自分の娘を嫁がせるということだったんだ。それで稽古をしていて……突然幸之進が発作で倒れたんだ。」
二人はびっくりした。そんなことがあったなんて……。
(じゃあ、それなら、父上は発作で……)
「う、嘘だ!そんなことはない!こいつが闇討ちをして」
(違うって言ってるじゃない!稽古中の事故だって!それなら佐助が斬ったんじゃない!佐助は仇なんかじゃない!だったらこれ以上戦う理由なんてあるの?)
しかし武蔵は言うことを聞かない。
「姉さんは佐助にだまされているんだ。誰がなんと言おうと、俺はやつを斬る!」
武蔵は剣を構えた。その構えは紛れもなく幸之進の血を引くものの姿だと佐助は確信した。
「……俺は師匠の体のことを考えずに稽古を無理矢理してもらった。その稽古の途中で発作が起こったのだから、俺が殺したのと同じだ。しかし、俺も手加減はしない。俺を討って気が済むのなら、かかってこい。」
佐助も剣を構えた。佐助も幸之進の弟子としてずっと稽古を受けただけに、構えは武蔵と酷似していた。詩織は心配そうに二人を見ていたが、
「姉さんは横で見ていてください」
武蔵が詩織を制し、そしてまた構えた。
 二人の頭には、共通の意識があった……柳川流剣術直伝の必殺技で決める!勝負は一瞬の出来事であった。風が吹き、落ち葉が一枚、二人の間に落ちた。
「いざ!」
二人が同時に踏み込んだ。そして二人は剣を振りかざした……。
 沈黙が流れる。二人の体は互いに交差している。風が吹き、ススキがなびく。
 と。一方が崩れ落ちた。佐助である。その左腕からは血が流れ出ていた。武蔵は佐助を追いつめた。そして……

 



『女神』
吉川万世


 初めて泳いだのは五歳の時。孫にべったりな祖父が、日曜の度に連れて行ってくれた温泉でのことだった。当時まだ五十代だった祖父は、一度サウナに入ると二十分はゆうに出てこなかった。退屈した私はひとり男湯につかり、指先から広がる波紋を数えたり、ワニのうろこのように、きらきらとお湯が反射する天井を眺めたりしていた。湯舟には、顔見知りのおじさんが二三人いたが、私は彼らの存在をすっかり忘れ、胸まであるお湯の中をゆっくりと歩き出した。前に出す足が、腕が、お湯に押し返されてうまく歩けない、その感触を楽しんでいた。怖い夢を見て、逃げたいのにうまく走れない、あの感じに似ているなと思った。
(今度また怖い夢を見た時のために、うまく走れるように練習しとこう。)
今まで慎重に運んでいた足を、一気にかけっこ用に切り替えた。右足を蹴り上げ、続けて左足も蹴り上げた。陸上では何の問題もない話だが、水の中では勝手が違った。右足が湯舟のタイルを捉えるには、意外なほどに時間がかかるらしく、私の両足は水中で行き場を失った。はっとした。手をつこうにも、両手はばしゃばしゃと水面をたたいて虚しく沈んだ。そのあとは、顔からお湯に沈むしかなかった。
 一件落着後、居合わせた人たちは、私の泣き声を聞いてサウナから飛び出し、溺れている私をすくい上げた祖父の敏捷さを、しきりに誉めていた。そして湯舟にいたおじさんたちは、ちいさな私が溺れながらもクロールをしていた、と興奮気味に言った。そして、この子には水泳の才能がある、と言って祖父を喜ばせた。彼らの無責任な予言のおかげで、私はそれからまもなく、スイミングスクールに通わされることになった。
 結論から言うと、無責任な彼らの予言は見事に外れた。しかし、だからといって誰も悔やまなかった。両親は、私を水泳の選手にしようとは思っていなかったし、私も、水泳の選手になりたいと思ったことは一度もなかった。むしろ、一度溺れかけたにもかかわらず、全く水を怖がらない私のたくましさを、両親は喜んだらしい。そんなレベルで喜んでくれる両親に恵まれたこともラッキーだったが、私自身、欲のない子供だったことが、本当にラッキーだった。私は人並みに上手に泳げればそれでよかった。才能の有無など考えたこともなかった。単純に、水に入って遊んだり泳いだりするのは好きだったし、普通にやっていれば、知らないうちに人並みに昇級もできていた。当たり前のように五年ほど通って、他の習い事が忙しくなったので仕方なくやめた。それから十年余り、泳ぐことから離れて生きていた。ただ、相変わらず水は好きだった。お風呂も好きで、子供の頃から長風呂だった。ゴーグルをして仰向けに湯舟にもぐり、きらきらうねる水面を眺めて喜んでいた。海、川、プール・・・とにかく水のある場所が好きだった。やがて私は、水の化身のような人に恋をして、十年ぶりに泳ぐ機会を手に入れることになる。

 「じゃあ、あとでね。」
市営プールの受付を通ると、彼はいつものように私に財布を渡しながらそう言った。私はうなづいて、緑色のざらざらした床を歩き、女子更衣室に入る。塩素の匂いとシャンプーの香りが充満する明るい空間で、OL風の女性が長い髪を乾かしていた。奥のロッカーの前では、太った中年の女性がふたり、体重が増えただの、さっき食べたケーキのぶん、いつもの倍泳ごうだのと話している。私はふたりの背後を静かに通り過ぎると、ロッカーのひとつに荷物をほうりこみ、まだ二回しか着ていない新しい水着に着替えた。ゴーグルを持って出口に向かうと、さっきのおばさんのひとりと目が合った。
「あら、久しぶり。いまから?今日も彼と一緒?」
善意のかたまりのような笑顔で近づかれるのは、私は得意ではない。ええ、まあ、と適当なことを、適当な笑顔で返す。
「この前の試合、テレビで見たわよ。応援してるからがんばってね。」
私は相変わらず笑顔を作り、社交辞令で礼を言い、その場を離れた。霧のような、不透明な空気のかたまりが、胸の入り口をふさいだような気がした。
 プールサイドを歩きながら、彼の姿を探した。7コースあるプールは、利用目的ごとに分類されている。長い距離を泳ぐ人用の第2コースが、彼の定位置だった。周りの誰よりも黒く日焼けした身体が、窓から降りそそぐ光に照らされてなめらかに輝いていた。力強く水をかく腕、ターンする時の鮮やかな身のこなし、いつまでも眺めていたいような衝動に駆られながらも、私は短い距離を泳ぐ人用の第4コースに、ゆっくりと身を沈めた。壁を蹴って、泳ぎだす最後の一瞬にまで、彼の姿を目で探した。
(まるで片想いだわ)
ひとり心の中でつぶやいた。

 彼と初めて会ったとき、彼の身体からは石鹸の香りが、洋服からは塩素の匂いがしていた。私はふと、懐かしいスイミングスクールにいるような錯覚を覚えた。
「プールに行ってきたんですか?」
私の質問に、彼は明るくはい、と答え、まだ濡れている頭を気にして照れていた。私は彼を好人物だと思った。それからまもなく、私たちは恋人同士になった。初めてのデートでは海に行った。夏が、くるりと背中を向けて立ち去ろうとしている頃で、海水浴場には人影がなかった。毛の長い、大きな白い犬が一匹、ぽてぽてと波打ち際を歩いていた。午後四時過ぎの太陽は、少し力を弱めて、あたり一面の海を真っ赤に照らしていた。私たちは、しばらく足を水に浸したり、景色を眺めたりしたあと、平らな岩の上で、二人並んでしゃがみこんだ。しばらくお互い黙っていた。不自然ではない沈黙だった。彼は身を乗り出すようにして、透きとおった水の中をじっと覗き込んでいた。私も同じように覗き込んで、彼が目で追いかける小さな魚たちを、同じように目で追った。けれど、すぐに飽きた。私は顔を上げ、きらきら輝く海を眺めた。魚は飽きるけど、海は一日中眺めていても飽きない。そう思えるくらい、変化しつづける海の表情は魅力的だった。少し離れた水面に、大きな岩が、不思議なくらいに堂々と顔を出していた。あまりにもできすぎた、絵葉書のような「瀬戸内海の夕暮れ」だった。私は、自分の頬が、海と同じ色に染まっているのを感じた。しかしそれは、おりからの夕陽に照らされたためだけではないことも、分かっていた。この景色を見せてくれた彼の気持ちを愛しく思い、嬉しさと気恥ずかしさで、寒くもないのに鳥肌が立った。生まれて初めて、時間が止まればいいのにと、体中の細胞で思っていた。ちゃぷんと魚のはねる音がした。目をやると、大きな岩のすぐ近くで、黒い魚がもう一度はねた。水面のきらめきを反射して、ワニのうろこ模様になった岩の側面が、視界の端に入った。
「あ、ワニ・・・。」
本当は、「あ、魚」と言いたかった。恥ずかしすぎる言い間違いだった。
「えっ!?わに?」
彼が急に、驚いたように私を見た。私はうろたえた。どう説明してよいのかわからず、ただ彼の顔と海を交互に見ながら口をぱくぱくさせていた。すると彼は、怪訝な顔をしながらも、私の視線の先を見やって、
「・・・ああ、ほんとだ。ワニが顔を出してるみたいだね。」
と静かに笑った。その瞬間、私は完全に恋に落ちた。21歳の平凡な大学生と、31歳のサラリーマンアスリート。年の差も、生活環境の違いも、一瞬にして二人の前から姿を消した。それくらい、重要な一言だった。
 それからふたりは、防砂林の松林の中を散歩した。さっきの犬が丸くなって昼寝をしていた。横を通ると、めんどくさそうに片目を開けてこちらを一瞥し、まためんどくさそうに片目を閉じた。
「ずいぶん横柄なやつだな。」
彼は呆れたように言った。私も同感だったので、思わず笑った。少し歩くと彼は立ち止まり、私の肩が並んだのを確認してから、ボート小屋の向こうの、大きな建物を指差した。
「あれに今度行こうか。クアタラソっていって、水着で入る温泉なんだって。海水の露天風呂もあるし、滑り台もあるらしいよ。5年くらい前まで、普通の温泉だったんだ。その頃はよく行ってたけど・・・。」
彼の言葉に、思わず笑った。その「普通の温泉」は、幼少の頃の私が溺れた、まさしくあの温泉だった。でも彼には内緒にした。男湯で溺れたというのが恥ずかしい、まだそんな、初々しい関係の二人だった。
「おもしろそう。いつか行ってみたいな。」
とだけ答えた。彼は嬉しそうに笑った。
 その水着で入る温泉には、その後何度かふたりで行った。行く度に私は、奇妙なめぐり合わせにひとり笑いをかみ殺していた。

  25メートルのプールをゆっくりと泳ぐ。設立されてまだ三,四年の市営プールは、利用料も高いが、それ相応に設備も整っている。館内放送で、最近のヒットソングが流れるなかをタイムもフォームも気にせずに、ただただ心を空っぽにして泳ぐのは、何よりのストレス解消になる。疲れたら少し休んで、ぼんやり周りを眺める。人が泳ぐぱしゃぱしゃという音、子ども用プールではしゃぐ女の子の声、大きな窓から差し込む光と、きらきら反射する水面の模様。天井を見上げると、やっぱりワニのうろこに見える。私はそこで少しにやけてしまって、あわてて顔を戻した。そしてゴーグルをつけると、後ろを向いて、飛び込み台をつかみ身体を収縮させた。誰も見ていないのを確認して、手を離し壁をける。背泳ぎの要領で水面に身体を投げ出し、あとはしばらくそのままの姿勢で漂っていた。手足をひらひらさせながら、ワニのうろこを見上げる。耳元でするちゃぷんという水音に、心が癒される。「私は幸せ。私は幸せ。」水がそう囁いているように聞こえる。確かに私は幸せだ、と思う。けれど・・・。
 こつん、と頭が壁にぶつかった。知らないうちに25メートルも漂っていたのだ。あわてて起き上がったせいで、耳に水が入った。プールに浸かったまま、変にスローモーションなケンケンをすると、拍子抜けするほど簡単に水は抜けた。大きなため息をついて、まっすぐに彼を探した。泳ぎ始めて40分が過ぎていたが、100メートル80秒のペースで泳ぐ彼に、疲れの色は見えなかった。私はもう一度ため息をつく。彼と付き合い始めてもうすぐ一年になる。彼の人柄を知るにつれ、彼の生活を知るにつれ、私はいつか、彼が自分を置き去りにしてどこか遠くへ行ってしまうような、そんな不安にさいなまれるようになった。根拠のない不安だと、自分でもわかっていた。私といる時の彼は、やさしくてわがままで、うっとりするほどのモノシリで、とにかく素敵な恋人だった。けれど・・・。なぜだろう、この不安は。更衣室で会ったおばさんみたいに、「がんばってね。」といわれると、もやもやするのはなぜだろう。 
「千春、帰ろうか。」
突然の声に思考を遮られた。振り返ると彼がいて、私が水から上がるのを、いつものように一歩も動かずに、少し笑って待っていてくれる。私は彼の、そういう小さな気遣いを愛している。ふたり並んで歩く時には、もう不安は消えていた。更衣室の手前で、彼は来た時と同じように、
「じゃあ、後でね。」
という。私はなぜか泣きそうな自分に気づいて、必要以上の笑顔を作っていた。
 
 翌日の早朝、私は彼の運転する車に乗っていた。30キロ西の港からフェリーで40分の離島に渡り、そこで行われるトライアスロンの大会に、彼が出場するためだった。仕事と競技を両立させている彼は、連日の無理がたたって夏風邪をひいていた。時々鼻をかみながらの運転は、とても辛そうだったが、私はいつになく饒舌に、くだらない話をけらけらし続けた。彼は時々うなづいて、後は黙って聞いていた。それはまさしく試合前のナーバスな彼で、それに気づいている私は、本当なら静かにしてあげるべきなのかもしれなかった。でも私には分かっていたのだ。この時間が、今日唯一のふたりの時間だということを。車がフェリー乗り場についたら、彼は私の「彼」ではなく、〈岩田宏樹選手〉になってしまうということを。そして私は、何度試合に同行しても、その現実に慣れることができないでいた。3年前まで実業団に所属していた彼は、どんな大会に出場しても、未だにたくさんの人に声をかけられる。初めは私もそれを誇らしく思っていた。しかし、だんだんと、それは私の身勝手な不安を増幅させる要因となった。彼が誰かから評価されるたびに、知らない人から声援を受けるたびに、私は自分の平凡さを見せ付けられたような気がして、彼と自分との間に距離を感じてしまうのだった。
「千春。」
突然、私の話を遮るように、彼が小さく、けれど力を込めて私の名を呼んだ。
「ん?」
驚いて彼を見た。彼はハンドルを握って、無表情に前を見つめたままだった。怒らせてしまったのかと思った。私の話し方は明らかにわざとらしかった。意識的にわざとらしく話して彼の気を引こうとした、そんな幼稚なやり方に少し反省した。しかし、彼は怒った様子ではなかった。
「悪いけど、頭痛薬取ってくれるかな?後ろのカバンの中、探してみて。」
私はうん、といって上半身を大きく後ろにねじり、大きなリュックの中に手を入れた。薬はすぐに見つかったが、私はしばらく後ろを向いたままでいた。目に涙がたくさん溜まって、瞬きをするとこぼれてしまいそうだった。
(彼は本当に頭が痛かったのだ。それなのに、私の話を我慢して聞いていてくれたのだ。一言「うるさい」といえば、黙らせることもできたのに。)
そう思うと、ますます自分がくだらなく思えてきた。
「はい、あったよ。水、これでいい?」
「うん。ありがとう、千春。」
彼は、だるい身体に鞭打つように、少ししかめっ面で薬を受け取った。私は、彼が言う「ありがとう、千春。」という響きが好きだった。特に今みたいに、私が自己嫌悪に陥っている時は、名前のところが念を押す感じになって、慰められているような気持ちになる。私は、彼のやさしさと、自分のくだらなさに、ますます自分を見失っていくようだった。
「ドーピング検査のない大会でよかったね。」
彼を元気づけるにも、こんなとんちんかんなことしか言えなかったが、それでも彼は笑ってくれた。大きな交差点を右に曲がると、車はもう目的地についてしまった。駐車場に車を入れ、サイドブレーキを引く彼を、ぼんやりと眺めた。できることなら、このまま二人で遠くに行きたい、そんなことを考えていた。ふいに彼の手が、がしっと私の頭をつかんだ。そのまま彼は無言で私を見詰めた。茶色い目が、一度にいろんなことを言い聞かせようとしているように見えた。「今から試合が終わるまで、構ってやれないから。」「他の選手の前では、恋人らしく振る舞えないから。」「取材が来てたら、そっちが優先だから。」その他、いろんなことが彼の目から読み取れた。
「じゃあ、行こうか。」
実際に彼の口から出たのはその一言だった。私も一言、
「うん、応援がんばるね。」
とだけ答えた。ふたりで手分けして荷物を持った。駐車場からフェリーに乗るまでの間に、もう何人かの選手が声をかけてくる。彼らと同じように、右手で競技用の自転車を押しながら、彼も愛想よくそれに答える。私はうつむいて、彼の影のように歩いた。真夏の太陽がじりじりと暑くて、私は不思議なくらいにイライラしていた。
高速船

 フェリ−は予定通り、40分で島についた。その間、彼はずっと私の知らない人たちと話し込んでいた。車の中ではろくに口も利かなかった彼が、人前ではこんなにも明るく笑っている。そんな彼の良識的な態度が、その日の私には耐え難く、私は彼の隣からそっと離れ、手すりにもたれて海を見た。一度、彼の話し声が少し大きく聞こえて、一瞬こちらを見たことが分かった。島に着くまでずっと、私は海を眺めるふりをしながら、目よりも耳に神経を集中させていたが、その後、彼がこちらを向いた様子はなかった。私は何度も泣きそうになった。そしてその度に、瞬きをたくさんして涙を乾かした。海は、真上からの太陽に照らされて、うるさいくらいにぎらぎらしていた。何もかもが気に障った。私はいつからこんなにも泣き虫になったのだろう。いつからこんなにも大人気なくなったのだろう。そんなことばかり、どうどう巡りに考えているうちに、フェリーは島に着いた。ぞろぞろと、出口に向かう人の列ができた。できるだけさり気なく彼の姿を探そうと、ゆっくりと船内を見渡したが、彼の姿はどこにも見当たらなかった。私は驚いた。今度はなりふり構わず、きょろきょろしながら船内を歩き回った。それでも彼は見当たらなかった。迷子になった幼児のような心細さが私を襲った。心臓がどきどきと大きな音をさせ、足ががくがくし始めていた。そんなに大きくない船内から、ほとんどの乗客が降りてしまった。みんな選手かその関係者らしかったが、私が「知り合い」と呼べる人は、もう船内にいなかった。急いで追いかければ追いつくだろう。けれど、そんなことは問題ではなかった。彼が私を独りにした、そのことがショックだった。今まで、彼が私を置き去りにしたことなど一度もなかった。プールの更衣室に入る間、たったの5分離れる時でさえ「じゃあ、後でね。」という彼。どんな時でも、肩が並んだのを確認してから歩き出す彼。私は、「いつか彼が遠くに行ってしまうのではないか」と不安になる半面、絶対にそんなことはない」と、どこかで思っていた。幼稚な私のいじけ方も、彼なら許してくれると、無意識に甘えていた。今こうして、本当の孤独に直面して、やっと本当に後悔した。しばらく動けそうになかった。これからどうすればいいのだろう。私は彼がいなければ、何にもできないんだなぁ、と思うと、情けなさがこみ上げてきた。さっきまで、彼が座っていた椅子に座ると、自分でも思いがけないくらい唐突に涙があふれた。どこかの機能が壊れたのかと心配になるくらい、止まらずにあふれた。
 「お嬢さん。」
誰かに声をかけられ、あわてて涙を拭いた。
「はい。」
顔を上げると、船長さんらしきおじさんが、心配そうに近づいてきた。
「あ、すいません。すぐ降ります。」
答えながら、まだこれからどうするか決めていないことに気づいて不安になった。
「ああ、いやいや。急がすつもりはないんですよ。ただお客さんにことづかったものがありましてね。」
人のよさそうなおじさんは、そういいながら一枚の紙切れを渡し、「じゃあ。」と船尾の方へ消えていった。その背中を見送って、ふたつ折りの紙切れを開くと、角張った文字が並んでいた。一度読んだだけでは意味が分からなかった。

〈女神はすぐに怒らない。女神はすぐに泣かない。女神は人を待たせない。
俺の自慢の勝利の女神は、もう15分も俺を待たせている。〉
繰り返し、3回読んで気が付いた。私はいきなり立ち上がって出口に走り、階段を転がるように駆け降りた。足がもつれて、じれったいほど前に進めなかった。階段を下りるとすぐ、彼の姿が目に入った。正面の電柱に競技用の自転車を立てかけ、その横にひざを抱えて座っている彼が、たまらなく愛しかった。さらさらした海辺の砂に足を取られながら夢中で駆け寄ると、深くかぶった帽子の下から、茶色い目がゆっくりとこちらを見上げた。
「ごめん。」
彼の前にへたり込んで、ぜえぜえ息を切らしながら、私は謝った。後に続く言葉が、なかなか見つからなかった。そんな私を見て、彼は少し笑った。
「勝利の女神がいないんじゃ、俺勝てないよ。」
「ごめん。」
「他人の前であんないじけ方するのは、あんまりよくないよ。」
「ごめん。」
「俺はどんな状況でも、千春がどこにいるか分かってるよ。」
「ごめん。」
「千春のことを見つめていない時でも、千春のことを想ってるよ。」
「ごめん。」
「でも、さっきのはちょっと荒療法過ぎたから、俺も謝るよ。もう二度としないから。」
「ううん・・・。」
たまらずに、私は泣いた。声をあげて、本当に子供のように泣いた。
「ほら、女神はすぐに泣かないんだよ。」
彼の大きな手が、背中をさすった。私はなきやもうとしたがだめだった。何で泣いているのか分からなくなっていた。ただただ彼の優しさと愛情が、心に染み込むようだった。
「千春。」
耳元で彼の声がした。
「見てごらんよ、フェリーの横っ腹。すっげー長いワニみたいだ。」
私は顔を上げると、彼の目線の先を見て思わず笑った。彼も笑っていた。ふたりで試合会場へ向かいながら、私は突然話したくなって、温泉で溺れたあの日のことを彼に打ち明けた。彼はいかにも愉快そうに聞いていたが、最後に真顔でこう言った。
「だめだよ千春。いくら子供でも、男湯なんか入っちゃ。そんなの嫌だよ。」
まるでだだっこで、私にはそれが嬉しかった。そこへ、高校生らしい女の子3人組が走ってきた。
「岩田宏樹さんですよね?浜名湖での試合、テレビで見ました。写真いいですか?」
女の子達に囲まれて、すまし顔の彼をファインダ−越しに見つめる。
(本当はただのヤキモチ焼きなのにね。)
シャッターをきると、女の子たちがいっせいに「ありがとうございました」と言った。
以前なら嫌で仕方なかったシャッター係りも、今は苦にならない。女の子のひとりがカメラを受け取りに近づいて、お似合いですね、と言った。思いがけないことだったので、ありがとう、のタイミングが少し遅れた。いつのまにか、彼が隣に来ていた。
「お似合いだってさ。」
私は、全身が得体の知れない自信にあふれていることに気づいた。
「お似合い?冗談じゃない。私は女神よ。」
彼が、大げさに呆れた顔をした。それからふたりで笑った。とても暑い夏の日、海と太陽と大切な人がいる。「私は幸せ。私は幸せ。」波の音が、そう聞こえるようだった。

なつやすみのとも
古田雄佑

 学校の裏門の側にはジイがあった。ジイは店である。六畳土間の駄菓子屋だ。そしてジイを経営しているのが爺なのである。何年か前まで開発地だったその町には、きれいな公園のブランコが沢山あった。四角いマンションもドミノ倒しの駒みたいにずらずら立ち並んでいた。爺の店はその間に隠れている。背の低い小学校の隣りで紛れたように小ぢんまりと建っている。私がその頃歩いていける所にあった数の少ない一軒家である。
 学校の四限の鐘がなって机を後ろに運んで、日直の二人を残して、私たちは揃ってジイへ行く。ジイには本当の名前があるというのだが私は知らない。噂だけはよく聞く。漢字二文字なのだとも言われているし、ローマ字の洒落た名前なのだともいう。これはクラスの学のあるやつの話だが、染みが付いて汚れた看板、ソーダの看板の裏を覗くと店の名前が隠されているらしい。もちろん、それを見た小学生は一週間以内に死ぬのである。私のクラスではまことしやかに言われている。そういえば去年、六年生の一人がジャングルジムから落ちて死んだ。これは見たのだと思う。だから私は日頃その看板とは目を合わせないようにしていた。
 正直な所、私は爺を好きではなかった。爺には機嫌のいい日と悪い日がある。機嫌のいい日には赤色一号のゼリーを、買った品物の上にチョンと乗せてくれる。この日はまあいい。だが機嫌の悪い日は何も言わずに袋を突き出してくる。ぶつかりそうな勢いでぶんとくる。時々は吸っている煙草をこちらの顔に吐きかけてきたりもする。これも学のあるやつの話であったのだが、彼はどこかの野球の負けた日には機嫌が悪くなるのだそうだ。私の見た所では機嫌のいい日よりは悪い日の方が多かった。要するに爺は大人ではなかったのだ。彼は機嫌のいい大人ではないし、かといって悪い大人でもない。どちら取らずの彼を大人と呼ぶことは誰にも出来ないだろう。
 蝉がうるさく鳴き始める頃に小学校は夏休みに入る。通知表に、健康手帳に、どうでもいい藁半紙が何枚かに、日記を兼ねたなつやすみのともが配られてお開きになる。ぺちゃぺちゃと先生が何やらを言う。外へ出るには麦藁をかぶれだとか、なんだとか。そういうのを上の空で聞いている。そういえば、そう、ジイを嫌っているのは別に私だけというわけではない。学校もそうだった。藁半紙の一枚は日射病への注意の他に、むやみにジイに行かないようといつも注意がしてあったように記憶している。ジイはそれくらいに嫌われているわけだ。この紙の束を抱えて家に帰ると、この日だけは母親がランドセルに手を伸ばそうとする。しかし甘い。私は心でほくそ笑んでいる。学のあるやつの提案で私たちは藁半紙を一番上に、通知表を一番下にして突っ込んでいるのだ。こうすると文句を言われにくいらしく、私のクラスでは大半がそれを真似ていた。すると母親が膝の上でランドセルをさかさまにして振った。通知表が一番上になってバラバラと落ちて来る。私は柄にもなく正座を崩さないでいる。
 その年は初めて国語に花マルをもらっていた。後は算数と理科がマルで、美術はサンカクだった。母親はいい所だけを見て誉めた。くしゃくしゃの絵を広げて見せると、これも一応誉めた。延々誉め殺してから、思い出したように昼飯になった。私が醤油の方で、母が味噌味である。一口すする度に通知表のどこかしらを指差して感想を言った。食事が終わっても未練がましくちらちらと見ていた。私にはそれほど面白いものだとは思われなかったのだが、母親はなんとも言えない曖昧な表情で飽かずにそれを眺めていた。

 休みに慣れて来た頃に友人が遊びに来る。エレベーターでやって来る。するとようやく仕舞った通知表をまた取り出して「あの子は優秀だからね」と母親が言う。母の言葉を信じるならば、私の友人は一人残らぬ優秀揃いなのである。サンダルを突っ掛けて出たら回覧を抱えて半袖に染みた汗をこすっていた。とても私にはそうは見えない。回覧を渡してから手すりにもたれて息をついている。マンションを回る回覧の表紙には、元気な小学生の絵が決まって描かれてある。私たちと同じ半袖で半ズボンを履いて、サンダルで。そして虫籠と虫取り網を持って屈託ない笑顔を振り撒いているやつだ。少なくとも私のクラスにこんな気味悪いのはいなかった。学のある例のやつだって、さすがにこれほどではない。私たちは揃って虫取りの子供が嫌いなのである。ウチに来るまでにも方々で同じ反感を買ったらしくて、今日は顔に水性マジックの髭が描かれてある。ひとしきりそれを友人と笑い合ってから玄関の中に乱暴に放り込んでドアを閉めた。サンダルがキュウと鳴る。
 アスファルトの熱気がサンダルを透かしている。私たちは影を伝いながら歩いている。どこに行くあてもない、日なたに出ては熱さに喘いで、慌てて日陰を追っている。或いは日なたに追われている。何十度目かの日陰の所で、ぬるい地面に腰を下ろして少し休んだ。風が吹くか吹かないかぐらいで吹いて埃を舞わせている。風に汗を流しながらサンダルをぱたぱたいわせた。目の前の車の下で消えかけた蝋石の絵を当てたり、手だけを出して影絵を作ったりした。もう少し、あと少し待てば日差しが収まるだろうかと待っていた。私は右手で犬を作った。友人が左手で犬を作った。手をふよふよと動かす影の境には、さっきからミミズが疲れたように這っている。日なたに出てきたら犬の口で食ってやろうと手を一杯に引き伸ばして、二人で待ち受けている。
 ミミズは中々日なたに顔を出さない。日陰の境をいつまでも這い回っている。時々日なたの方に顔を向けてじっと止まる。そこを犬を作った私たちが待ち構えて汗をかく。しかし、いくら待っても胴体だけが伸びたり縮んだりするだけで頭を動かそうとはしないのだ。億劫に持ち上げた頭は凍りついたように留まっている。しばらくすると頭を下ろして日陰に沿って進む。私たちは手の形を崩して、同じポーズで固まった指を振る。繰り返しに飽いた頃合いをみてミミズもぐっと日陰の奥まった方へ頭を向けた。ミミズは日なたに出る事を諦めた。ひょっとしたら私たちをからかうのに飽きただけかもしれない。私たちも手を日陰に引っ込めた。出していた手だけが黒く日焼けしたように思われた。先に友人が立ち上がってズボンを払い、私も立ち上がった。最後にミミズをちらっと見た。それからまた影を選んで歩いていった。
 これは不思議な話だが、夏に影を選んで歩くといつもジイのヒサシの下に着く。冬にやろうとしても薄い影しかできない。春にはマンションの18棟入り口で影が終わる。そして秋の長い影を使えばもっと、ずっと遠くまで行くことができる。私が滅多に行かないような所で夕日が影を作るのをやめて、私たちを途方に暮れさせた事がよくあった。春と秋は太陽が影を作る。冬には太陽は怠けて薄い影を作る。夏だけは爺が影を描いて回っているのだろうというのが私たちの昔からの見解である。それに騙されて私たちが痴呆のように影を追う。ジイに入ってジュースを買って、メンコを買う。友人はいつも菓子を山ほど買い込む。そして折り目のない1000円を出す。ジイは奥の方から100円玉を掻き集めて来る。彼の袋には決まってゼリーを一つ入れてくれる。
 その後は裏の学校に入る。これも夏休みには私たちの定番だったのである。校庭は半分破れた藁半紙によると開放されているらしいのだが、わざわざ夏に登り棒で遊ぶ人間はいない。焼けた鉄棒を握るやつもいない。だから校庭には猫もいない。所々ひび割れた地面の中に牛乳の蓋が埋まって残っている。宝捜しをした時のやつだ。私たちは水の嫌な臭いのするプールの壁によっかかってポテトの袋を破って食べる。友人は山ほどの菓子を両手に抱えて幸せそうな顔をしている。一度聞いた事があるのだが、別に食べる事が嬉しいのではない、持っている間がたまらなく楽しいのだという。選んでいる間も楽しいという。どちらにしろ1000円を持っていない私には分からない。私はメンコの封を開ける。当たりが出ると大きいのがもらえる。一番大きいので帽子のつばぐらいもあるメンコを持っているやつもいた。私は手の平くらいのがせいぜいだ。その代わりその帽子のつばはメンコの底板代わりに使われてボロボロになった。そんな物である。
 日差しが刺すほどでなくなるまでそこでぼんやりしている。火花の出る鉄砲を撃ったりする。日が翳ってくると温かさが頭を押さえてこなくなる。すると少し不安めいた物が頭をもたげてくる。校庭は急に寂しく映る。だから友人と目配せをして立ち上がる。腰の砂を叩いて落とす。そして、今度は日影を踏まないように気を付けながら薄く赤づいた日なたをケンケンで歩いて帰るのである。
 例のマンションの下に来る。ミミズがいる。さっき日差しが当たっていたアスファルトに後ろ半分を貼り付かせて潰れている。からからだった。きっと私たちが去った後で日なたに出ようと決心したのだと思った。そしてアスファルトに焼かれたのだろう、溶けた感じに貼り付いた後ろ半分は幾分茶色じみている。でも頭がまだ、少しだけ伸び縮みしている。私はサンダルに力を入れてミミズをにじり潰した。感触がないのが気持ち悪かった。私の足元を見た友人が「残酷だね」と口の中で言う。そして抱えているポテトをシャクシャクと食べた。
 私は友人と分かれてから公園の蛇口で靴の裏を洗った。サンダルがキュウ、キュウと鳴っている。

 夏になると祭りがある。八月の手前辺りに回覧の報せが回ってくる。無料券の三枚綴りが挟み込んである。それを破らないように気を付けながら切り取り握って、私は友人と連れ立って家を出る。祭りの日は無礼講というらしい。この日と金曜日と、算盤教室の帰りとだけは子供が夜、外を歩く事ができる日だ。もっとも友人は私と違って算盤をやっていない。だから彼は一年でこの夜にだけ外を歩くことが出来る。道ごとに並ぶ提灯に沿って歩くとやがては祭りをやっている空き地に到着する。しかしこの方法には問題もあるように感じている。道には当然ながら前と後ろがある。従って祭りでない方に歩いて行ってしまえば、真っ暗などこかで提灯が途切れてしまう。これでは祭りに行けない。ひょっとすると家にも帰れなくなるのかもしれない。だから私たちはすれ違う人を見ながら歩いていった。祭りに向かう人の浴衣は冷え冷えとしている。帰って来る人の浴衣は温もっている。祭りは温かい。そこから温度をもらって帰るわけだ。だから温もった人とすれ違う度に私たちは安心をした。水風船をぱちぱちやっている人には、尚更安心をした。これなら道は間違っていない。私たちはいつものマンションを越えて、学校を越えて、ジイの前を通る。夜にはジイは閉まっている。夕方頃になると子供を追い出して、出入り口を板で塞ぎ始める。途端にジイは冷えてくる。私は算盤の帰りに通るので見知っているが、友人は知らない。だから友人は物珍しそうにちらちらと板塀を見る。板塀の落書きを見ている。私はそちらを向かないようにして早足で行き過ぎる。落書きに何と書いてあるのかは私はまだ知っていない。学のあるやつはしきりに教えようとしているが、別に聞く気もしない。夜は方向が分からないから困る。そこを越えて、二つ、三つマンションを抜けた辺りでもう温もりが感じられる。建物に隠れて見えないが、祭りがあることがはっきりと見えてくる。もう少しすると太鼓の音が聞こえる。他所の町内会が前から練習をしていた太鼓である。練習の時の太鼓、あれは実にうるさい。むやみに叩いているだけで上手いとも思われないし、人がテレビを見ている時に限って叩く。だから嫌いだ。今日はそうでもない。叩き手が変わったのかもしれないし、今日が祭りだからなのかもしれない。ああ、ひょっとしたら太鼓が温もっているせいかもしれない。
 祭りが目に見える所まで来ると熱気が伝わってくる。橙の灯りも温かい感じがする。この熱気があるおかげで迷わずに来れる。だが、着いてしまうと今度は鬱陶しくなってくる。そもそも真っ暗な空き地をこれだけぶら下げた提灯で無理矢理明るくしている。やって来る人も常にないほど顔を明るくする。いつも難しい顔をしてすれ違う人が気持ち悪いほど明るい顔で押し合いへし合いしている。どこかに無理の来ない訳がない。友人はそれはあちこちに捨てられた分別されないゴミなのだと言う。私は中央のやぐらに無理が集まっていてそれが提灯を電線のように伝わっているのだと言う。ゴミは周縁の夜店をぐるり囲むようにまんべんなく捨てられている。やぐらから伸びる提灯は蜘蛛の糸を思わせながら半径150メートルの空を覆っている。どちらが原因かは分からないが、とにかく祭りは空々しいという事で私たちの意見は一致する。
 だから私たちは夜店の裏を歩いている。そこには提灯はなくて、表から漏れる光だけでいつもの空き地が照らされている。焼き蕎麦が捨てられている。表との対比で空気が引き締まっているからこちらは歩きやすい。他の皆は表を歩く。裏の方が面白いのに、それを知らずに表でがやがやとする。所々では排気用のダクトの出す熱気に髪を吹き流される。表の熱気が凝縮されて熱気が顔を吹く。夜店で囲われたぐるりを外から回る。夜店ごとの隙間から首を伸ばして暖簾のさかさ文字を読んでいる。読み取ると思い思いの店に寄って、また提灯に追い立てられるように、握った品物を得意そうに溜めつ眇めつしながら裏に戻って来る。私が綿菓子を買った。この日だけ、私は1000円札を使う事ができる。崩すのが惜しいので最初の一つを選ぶまでに時間がかかる。友人はさっさと買ってしまう。友人はこの日だけ5000円を使う事ができる。やはり最初は惜しそうにする。そして私はこの日だけ、5000円が使われる所を見物することができる。
 綿菓子を買って、フランクフルトを買って、お面屋を冷やかして、くじ引きに外れて、もう一度くじを引いてまた外す。そんな風に私の1000円がなくなる頃にぐるりの一週が終わる。入り口の手前には爺が陣取っている。毎年ここで金魚すくいをやっている。町内会の鉢巻をしていて似合わない。私は最後の200円をじゃらじゃらいわせて迷った後で、やはり毎年金魚をすくう。持って帰ると母親がいつも嫌そうな顔をする。今年は家で一番大きなコップを出して、そこに二匹を流し込んだ。最初の日に、叱られるまで何度も見に行って何度もご飯粒を入れてやった。朝起きると水が飯粒で濁り切っていた。二日目は食事の時に二回やった。三日目もそうだった。一週間経った頃、ふと思い出すとテーブルの上から金魚が消えている。爺が連れて帰るのかもしれない。祭りが冷めていくのにつれて金魚が消えたのかもしれない。とにかくいなくなる。

 八月の最後の日に婆が来る。これは店ではない、私の親戚だ。まあ祖母である。その祖母がマンションの11階まで遊びにえっちらおっちら登ってくる。どうも遊ぶ事がよほど好きな祖母なのである。だから私のファミコンを後ろから見ている。あれは遊びたがっているのだと思う。思い切ったように横に来てツーコンを困った風に持つ。私はリセットをして対戦モードに切り替えてやる。祖母はそれくらい遊ぶ事が好きなくせに、ファミコンの方はからきし弱い。何度やっても私に勝てない。小枝の入ったような手を体ごと揺らして、やはり負けている。爆発が鳴る。ボタンを押すたびに手の甲に枝が浮かぶ。いつかの土曜に隣でゲームをしていた父親の手の甲も同じであった。これは私の手には浮かばない。そのせいで二人ともゲームをするのが下手なのだろう。
 昼を過ぎると友人がやって来る。私がサンダルを突っ掛けると祖母は玄関まで送りに出てくる。祖母はこうしたことも好きである。頻りに傘を勧めた。確かに空は曇っている。しかし邪魔になる、いらないと断って柄をつき返した。置いてきたゲームの主人公の死んだらしい音が後ろでする。勿体無い気が少しする。
 私たちは川へ行った。少し離れた川である。ここは人工の川であった。私が昔、飼っていた亀を放した所でもある。時間毎に水が増減したりする。夏が終わると遊べなくなるのでそこで遊んだ。水をぱちゃぱちゃやったり、亀を探したり石を投げたり、色々のことをした。その内に雨が降った。ぽつぽつと落ちる雨粒が川を揺らして波紋を立てる。空を映した水面が俄かに暗くなったように見えた。冷えた足を慌てて抜いた。岸辺に置いた靴を履く。額に掌でひさしを作って私たちは小走りになった。もう少し走れば学校がある。傍らのジイがある。それを探して水溜りを蹴り飛ばした。ジイはひさしを高く張って裸電球を明るく灯していた。周りはしんと暗がっている。私たちは駆け込んで服を絞る。雨宿りのお礼でゼリーを三つ買う。爺はやたら咳をしながらそれを受け取る。追い返したかったのかもしれない。何しろ奥のテレビで例の野球がやっている。気もそぞろにそちらを覗き込んでいる。私たちはゼリーを噛み砕いて雨が止むのを待っている。
 ジイには椅子が据えてある。安っぽいスチールの錆びたやつだ。これに座っていたらぽたぽたと雨が漏ってきた。そいつが髪の毛の間を濡らして流れた。椅子をずらしても同じことで、ひさしに大きなかぎ裂きがしてあった。そういえば時計は六時を回っている。いつもだったら爺が子供を追い立てる頃合いだ。私たちは席を立って、ますますひどくなった雨の中に出ていった。外は随分暗くなっている。
 しかし雨もそう悪いものではない。服が全部濡れ切ってしまえば後は同じことである。友人と別れた辺りから先は歩くことに決めた。遠くでは雷が鳴っている。時々青白い光が顔を照らして頬を撫でていく。びしょびしょになった靴がふと深い水溜りに落ち込んだ。それからは歩く度にサンダルを真似た音がした。キュウキュウといっている。その音と、所々の電灯を頼りに道を歩いた。雷が近づいてくる。マンション入り口の見える辺りでガラガラと一つ、近くに落ちた。肩をすぼめて、光が走った。雷はマンションの白い壁を輝かしていった。入り口の側で一人、背中を縮めた人間が濡れそぼっていた。祖母である。私が帰ってきたのを見ると、濡れて禿げたようになった頭をごしごしとこすった。それから傘を渡してくれた。こういうことの好きな祖母であった。
 日記の最後に川の話を書いた。友人と遊んだことを書いた。雨に降られた事件も書くことにした。ただあの後すぐに帰っていった祖母については、書くのを忘れて鉛筆を置いた。

 始業式は昼までには終わってくれる。大概十時に終わる。通知表を学校に返して軽くなったランドセルを背負って、私たちはいつものようにジイに行く。私は爺が好きでないので後からのろのろ付いていく。すると休まないジイが閉まっていた。私たちはわいわい騒ぎ立てた。夜でもないのに板塀が冷たく立っていた。しきりに訝しがって、色々想像して、他に行くあてもないので別れて帰った。次の日学校が始まる前に、私は走ってジイへ向かった。友人が先に来ていてこちらに首を振ってみせた。その次の日は日曜でデパートへ行っていたから、私は何があったのか知らない。学のあるやつから23棟で通夜があったのだと後で聞いた。荒唐無稽にすぎたので誰も耳を貸す者はなかった。その後もジイはずっと店を開けてくれなかった。ただ板塀の落書きだけが少しずつ増えて黒々とした。その板塀は卒業の少し前に取り壊されて、整地された後の砂地にはきれいな公園が建った。上でブランコがきいきぃと揺れていた。

関西教育大学殺人事件 問題編
原作:國原 信太郎(大阪教育大学教育学部)
協力:古田 雄佑(大阪教育大学教育学部)

 この物語はフィクションであり、実在の人物、団体名とは一切関係がありません。また、いたるところで、いたる作品のパロディが用いられています。どこがどの作品のパロディになっているのかを探すのも一興かと思われます。また、書いてすぐ提出しましたので、所々におかしな点があるかもしれませんが、ご容赦ください。

その大学には緑が溢れていた。
キャンパスに植えられた木々の麓には古い木製のベンチが据えられており、木々に繁った葉がちょうど天然の日除けの役目を果たしている。冬場ながら厳しい日差しを避けて、そこに関西教育大学教育学部国語学科講師津山は腰を掛ける。
「あと・・・もう少しだ。もう少しで私もきちんとした学者として認められる。」
彼は数百枚の紙でも入ったかのような茶封筒を握り締めそう呟いた。

───3日前。
───津山研究室。

留学生の論文を真剣な眼差しで見つめる津山。
その前には碧眼の美男子の留学生ジョニーが座る。
「津山先生・・・・・・私の論文はどうでしょうか。」
不安げにジョニーが尋ねる。
「いや・・・・・・・もう少し読ませてくれないか。」
津山は上の空で答える。
「はい・・・。」
それから数十分、津山は真剣な面もちで論文に目をやる。
その真剣な眼差しに不安をおぼえてか、再びジョニーが尋ねる。
「私の論文何かおかしいところでもありましたか。」
「いや・・・すばらしい出来だ。」
津山は答える。
「一留学生の作品とは考えにくいできだよ。我々学者が書いてもこんなにうまい論文が書けるかどうか・・・。」
津山は続ける。
「ありがとうございます。」
緊張がとけたのか、ジョニーの顔に笑みが浮かぶ。
「いや、ひさしぶりに良い論文を読ませてもらった。近頃の日本の学生はほんとにつまらない論文しか持ってこないからね。」
津山もにっこり笑う。しかし、津山の内心は煮え繰り返っていた。
───こんな若造がここまでの論文を書き上げるなんて。
こう思った津山は、次の瞬間自分でも疑ってしまうような考えに達した。
───「この論文を自分のものにできないか。」と。

津山は今非常に厳しい状況に置かれている。次の学会までに最低一つの論文を仕上げなければ助教授への道を絶たれるからだ。だから、背水の陣で研究に没頭したが、自分の納得のいく論文が書けないでいる。そこで、ジョニーの論文を読んだ津山は、この論文を自分のものにできないかと考えたのである。それほどジョニーの論文は奇抜であり、面白みにあふれていたのだ。

ジョニーの論文を手に入れるための方策を、津山は頭の中でめぐらした。そして・・・津山はまさしく悪魔のような策を思いつき、それを実行に移す。
「ジョニー君、君のどかわかない?」
津山は優しく問いかける。
「あっ・・・緊張してたんですっごい乾いてます。」
緊張が完全に解けたのかジョニーは軽い口調で答える。
「そうかそうか、最近いい紅茶を手に入れたんだよ。あのダージリンのファーストフラッシュだよ。飲むかい?」
津山が尋ねる。
「はい、いただきます。紅茶って、僕好きなんですよ。」
ジョニーは答える。
この言葉を聞き、津山はにやっと微笑んだ。津山は慣れた手つきでお湯を沸かし、紅茶を入れ始めた。砂糖を入れる段階になって、津山は小さい瓶をズボンのポケットから取り出した。その瓶から一滴透明な液をジョニーのカップにそそぎ込む。再び、津山はにやりと微笑む。
「さぁ、ジョニー君召し上がれ。」
普段は使わないような津山の丁寧な言葉にも気にかけず、ジョニーは津山に礼を言い、紅茶を口に含む。紅茶を飲んで暫くすると、ジョニーは口から血を吐き椅子から転げ落ち、床に倒れこむ。
「津山先生・・・・・・・なにを。」
最後の力をふりしぼり、ジョニーは津山に言葉を吐く。
「ふっ・・・君にはこの論文はもったいない。私がかわりにつぎの学会で発表しといてやるよ。」
冷酷な目でジョニーを見つめ、津山はそう呟く。暫くしてジョニーは力つき、その場にぐったりとなる。
「・・・・・・この前UGで手に入れた、ジギタリスがこんなところで役に立つとは・・・。」
ジギタリスは葉に強心配糖体、フレグナン配糖体などを含み、強心作用があり毒性が強く、少量で致死量に至る。津山はこのジギタリスを用いジョニーの殺害を謀ったのである。そう・・・生徒の論文を手に入れるために。ここに至って、津山は会心の笑みを漏らさずにはおれなかった。しかし、津山も喜んでばかりいられなかった。自分を助教授へ導いてくれるであろう論文は手中に収めたが、ジョニーの死体をどうするのかといった最大の問題が残っているからである。
「さて・・・どうしたものかな。」
青ざめたジョニーの死体を一瞥し、津山は呟く。暫く考えたあと、津山は一計を思いつく。
(そうだ、死体を大きなスーツケースにでも入れて研究室から運び出し、山奥にでも運べばいいんだ。)
そう思いついたのはいいのだが、残念なことに津山の研究室にはスーツケースどころか、死体の入りそうな大き目の鞄さえ無い。再び考えた末、死体を誰にも気付かれずに研究室から運び出すにはやはりこの方法しか無いと思い、津山は大学生協へスーツケースを求めるために研究室を出た。研究室を出る際、津山はしつこいように鍵が掛かっているかをチェックした。部屋の鍵がきちんと掛かっていることを確認すると、津山は足早に大学生協へ向かった。津山は、生協でスーツケースなど取り扱っているかどうかが不安であったが、運良く生協で“海外旅行フェアー”というものが行なわれていたため、人が入りそうなくらいのスーツケースを容易に手に入れることができた。普段から生協のフェアーにはろくなものが無いと思っていた津山であったが、今日だけは生協に感謝した。スーツケースを手に入れた津山は研究室へいそいだ。研究室は四階にあるため、スーツケースを手にして研究室へたどり着くのはかなりの労力を要すはずだが、「早く研究室へ戻らねば。」という気持が強すぎて、津山はそのような労力を感じることはなかった。やっとの思いで研究室へ戻った津山は、研究室の扉をあけようとした際に体が凍りついた。あんなに閉まってることを確認した鍵が開いていたからである。おそるおそる研究室へ足を踏み入れた津山は、再び体を強張らせる。ジョニーの死体に薔薇の花が供えられていたからである。
「いったい・・・どうなってるんだ。」
津山はなにがどうなってるのかさっぱり分からず、その場に立ちすくんだ。
「・・・誰がこんなことを。」
頭の中が整理できずに呆然としていると、急に研究室の電話がけたたましく鳴り始めた。
おそるおそる津山は電話を手にとる。
「はい・・・もしもし。」
津山は声を抑えて応答する。
「もしもし・・・」
電話の声は誰か分からないようにヴォイスチェンジャーで偽装されたものである。その声は非常に奇妙なものであった。
「薔薇・・・お気に召していただけましたか?」
電話越しの人物は続ける。
「お、おまえが・・・これを?」
津山はいまにも泣きだしそうな声で応答する。
「そうさ・・・良い感じだろ?」
電話越しの人物が冷たく言い放つ。
「お、お前は一体何物なんだっ?」
津山は隣の研究室に聞こえない程度に叫ぶ
「私は・・・そう、“スルト”とでも名乗っておきましょうか。
「スルト!?」
「ふふふっ、なぁに、あなたの出世の邪魔をするものではありませんよ。ただ・・・」
「ただ何だ!?」
「・・・次の学会で私の言う通りに行動してください。」
「そ、それだけでいいのか??」
「ええ、それだけで十分ですよ・・・。」
「わ、わかった。そのかわり、今日のことは他言無用に願う。」
「ええ、分かっていますよ。ふふっ・・・」
電話越しの人物が気味悪く微笑む。
「では・・・また後ほどお電話いたします。」
そう言うや否や、“スルト”の方から電話が切られた。
「くっ、一体誰がこんなことを!」
ジョニーの死体に供えらている真紅の薔薇をながめ、研究室の机をちからいっぱいたたきつけた。
「なんにせよ・・・この死体をなんとかせねば。」
津山は目の前の死体を片付けることが最優先的事項だと思い、とりあえず死体の片付けにのりだした。

───二日前。
────国語学会運営委員会。

「大変なことになってしまったな。」
今年で定年を迎える国語学科主任兼国語学会運営委員長の仁志教授が呟く。
例の“スルト”から「学会当日天王寺学舎を爆破する。」といった脅迫電話がかかってきたため、国語科講座に所属する者達が集まって善後策を練っているのである。関西教育大学は、天王寺学舎と柏原学舎から成り立つ国立単科大学で、“スルト”は国語学会の行なわれる天王寺学舎を、学会当日爆破する脅迫してきたのである。
「まぁ・・・誰かのつまらんの悪戯ではないでしょうか?」
国語学科所属の井神教授が述べる
「しかし、万が一ということがあるからな。」
次期国語学科主任候補といわれる椎谷教授が言う。
「学会の邪魔なんかしてなにがおもしろいんでしょうか。やはり愉快犯では?」
国語学科で唯一の女性、松屋教授が疑問を投げかける。
「いやいやいやー、これは大事件だねー。いやいやいや、おもしろいことになりそうだよー。」
軽い口調で教養学科の田山教授が大きな声で言う。
「田山先生、こんなときぐらい少し真剣になってください。」
松屋にたしなめられる。田山は普段からこんな調子で、学生のうけも良く、田山の開く授業はいつも立ち見ができるくらいである。現在田山は、教育学部の国語学科に漢文の指導者として、教養学科より出講している。したがって、教養学科所属の教授であるが今回の学会には参加することになっている。
「いやいやいや、すんまそん。」
こんな答え方されたので、松屋は怒る気もなくす。
「いや・・・や、やっぱり、爆破される可能性ってあるんじゃないですか?ほら・・・わざわざ電話かかってきてるくらいだし・・・。」
おどおどした口調で津山が言う。“スルト”が実際存在していることを知っている津山にとってみたら、この爆破予告が狂言には思えなかったのだ。
「津山先生のおっしゃることも一理ありますな。」
ノート型パソコンに向かっていた野宮助教授がおもむろに顔を上げる。
「ここは、万が一に備え会場を変えてはどうですかな?」
野宮が続ける。
「しかし、野宮君。学会をするにふさわしい会場なんてどこがあるのかね?」
仁志教授が眼鏡を指であげながら尋ねる。
「柏原学舎でいいじゃないですか。あそこはまだできたばかりで荘厳さこそ無いですが、研究室には様々な情報機器が設置されいますし。」
野宮はノートパソコンをいじりながら答える。
「たしかに、あそこなら設備もそれなりにそろってるしいいかも。」
国語科所属の多仲助教授が言う。
こんなやりとりもあって、学会の会場は天王寺学舎から山奥の柏原学舎に移されることになる。

───昨日。
───柏原学舎津山研究室(仮設)。

「で・・・私に何をしろと?」
強い口調で津山が電話越しの人物に尋ねる。
「なぁに、簡単なことだよ。君の持っているジギタリスで、学会当日松屋教授を殺害して欲しいんだよ。」
電話越しの人物は人殺しの依頼をあっさり言ってのける。
「ば、馬鹿な!そんな依頼聞けるわけないじゃないか!!」
津山は強い口調で断る。
「君に選択権は無い。ただ言われた通りにすればいいんだ。さもないと・・・助教授への道は断たれるぞ。」
電話越しの“スルト”は脅しをかける。なんとしても今年中に助教授になりたい津山は、“スルト”の脅しに言葉を窮す。
「・・・やっていただけますね、津山先生。」
“スルト”はさっきまでの脅しの口調とうってかわり、優しい口調で津山に迫る。
津山は暫く沈黙を守ったが、どうしても助教授の道を諦められず“スルト”の脅しに屈した。
「・・・今回限りだぞ。」
津山は吐き捨てたが、“スルト”は不気味な笑いを残し電話を切った。
「しかたない。夢のためだ。」
津山は自分に言い聞かせるように呟いた。

「津山先生、津山先生。」
椅子で眠っている津山を研究室の学生が起す。
「ん・・・あぁ。眠ってしまっていたのか。」
「先生方が会議室のほうに集まっております。」
学生は津山に会議室へ行くように促す。
「ああ、分かっている。すこし歩いて目を覚ましてから行くと伝えといてくれたまえ。」
時計を見るとわずか数分転寝しただけであったが、津山はすごく長い時間寝ていたかのような錯覚に陥った。津山は目を覚ますため緑溢れるキャンパスを歩き出した。土曜日だというのに学生が騒ぎ、その喧騒がなんとなく津山に孤独感をもたらした。しばらく歩いて、国語科が管理している“古今園”という古今和歌集にでてくる植物を集めた庭園に出た。ここは様々な植物が植えられていて、冬場でも青々と植物が生い茂っている。
(人の中にいる時孤独を感じるが、自然の中を歩くときは寂しいとは思わないといったのはモンゴメリ。)
国語科の講師らしいことを考えながら庭園を闊歩する。すると、一瞬強い風が吹き、庭園に咲く柊の白い花が一斉に散り乱れる。
(ふっ・・・坂口安吾だな。───つれてかれてっちゃいそう。冷たい孤独。花びらになって消えてしまうのよ・・・)
また文学的なことが頭をよぎる。
庭園を抜けた津山は、なにか別世界へ引きずりこまれたような錯覚に陥った。
(今度は・・・・・・筒井康隆か。)
周りの環境で様々な作品を思いつく自分の頭にしばし酔った。文学なぞ必要ないと言う人もたくさんいるが、自分は絶対必要だと津山は実感した。いつまでもこうして歩いていたかったが、さすがに他の先生達を待たせるわけにも行かず津山は会議室へ急いだ。

会議室へ入ると和やかな不陰気が津山を包んだ。いろいろな悩み事に疲れている津山は、この雰囲気を意味も無く馬鹿馬鹿しいものに感じられた。
「いやいやいや、今学会の主役津山師がいらっしゃったよー。」
声をあげたのは田山。いつもながらのことだが、緊張感のかけらも感じられない。それが津山の機嫌をさらに損ねる。ただ、相手は自分より格上の教授なので、
「いや、主役なんておこがましい。」
っと、無愛想だが丁寧に返答する。
「今回の研究発表がうまくいけば君も助教授だからね。」
二日前の国語学会運営委員会に欠席していた池山教授が言う。
「まだ、昇格できるとはきまっていませんから。」
やはり愛想無く答える。
「また、ご謙遜を。仁志教授が津山先生の論文べた褒めでしたよ。」
助教授昇格のためには、この大学では資格審査委員会での認証を受けねばならない。その委員会で一番発言力のある仁志教授が論文を褒めていたとなれば津山の昇格は間違い無しである。しかし、松屋のこの言葉にさえも津山はただにっこり微笑むだけだった。助教授昇格を津山は素直に喜べないのだ。昇格の決め手になった論文は盗作であるし、それに・・・なんといっても、今から人を一人殺害しなくてはならないからだ。
「まぁ、そんなとこに立っていても仕方ないからここかけたまえ。」
自分の隣の席を指差し、椎谷が津山に声を掛ける。
「あ、はい。ありがとうございます。」
津山がそう返事すると、すぐに会議室の扉が開く。
「あの・・・昼食の用意が出来ましたのでここに運びたいんですけど、手伝っていただけませんでしょうか?」
と、学生が入ってきた。先生達の和やかさについていけないと思っていた津山は、
(しめた!)
と思い、
「私が行きましょう。」
即座に名乗り出た。
「では津山君にお願いしようか。」
仁志教授が言う。

学生に付いて津山は食堂へ赴く。その途中で、
「今日のお昼ってなんだい?」
と、津山が尋ねると、
「カレーです。」
と学生が答える。あまりにも普通のメニューに
「・・・金銭面に関してはせこい大学だな。」
津山はぼそっと呟く。
「仕方ないですよ、うちは国立大ですし、文科系に回ってくる予算もたかだかしれてますし。」
学生が答える。
食堂へ付くと、カレーが入った鍋、ご飯が入ったおひつ、食器が入ったカゴが用意されていた。さすがに二人で運ぶことが難しそうだったので、食堂の従業員にも手を借りる。
「津山先生、そこのポットも持っていってくださいな。多仲先生から紅茶の差し入れです。」
と、厨房から声が掛かったので、津山は紅茶が入ったポットを運ぶことにした。会議室へ戻る途中、津山は
(・・・この紅茶になら毒を盛れるな。)
と、ジョニー殺害の時と同じ殺害の仕方で、松屋殺害をやろうと考えた。会議室へ入ると、不愉快な和やかさがまた津山を襲った。
(なんか・・・この雰囲気は馴染めないな。)
そう感じていると、松屋が皆の分のカレーをよそい始めた。
今から殺そうとしている人を目の前にして、津山は一瞬ドキッとした。が、津山に躊躇している暇はなく、津山も全員の分の紅茶を入れ始めた。幸いなことに、会議室の皆はそれぞれ話に夢中で全くといって良いほど津山のことを気にしてない。津山は労せずカップの一つにジギタリスを入れることができた。
(あ、あとはこれを松屋の席に置くだけだ・・・)
津山は体を振るわせた。と同時に、
(これで・・・念願の助教授になれるんだ。)
とも思い、多少嬉しく思った。紅茶を入れ終わった津山は、ジキタリス入りの紅茶が松屋の席にくるように上手く紅茶を配置した。配置を終え、全てが上手くいった津山は、
「ふぅー。」
っと、軽く深呼吸をした。それを聞いた隣の席の椎谷が、
「津山君、疲れ気味??」
っと、尋ねてくる。まさか紅茶に毒を入れたということもできず、津山はとっさに、
「昨日緊張で寝れなかったんです。」
っと、引きつった笑みで答える。
「意外に小心者なんだね、君は。」
椎谷が言う。
「そ、そうですね。」
っと、津山。人の死が徐々に迫ってくる津山にとってみたら、こんなとりとめもない会話などどうでもよかった。暫くすると、カレーの配膳も終わり、皆が席についた。
「では、今回の学会が上手く行きますように乾杯でも。」
仁志が言う。
「えー、このお茶でですか??」
椎谷が不満そうに尋ねる。
「学会が無事終わったら宴席を設けるから。」
仁志が椎谷をたしなめる。
「この紅茶は僕からの差し入れです。アールグレイといっていい香りのする紅茶なんですよ。」
多仲が言う。
(アールグレイか・・・こんな気分じゃなかったら味わって飲めたのにな。)
津山はそう思った。
「では、乾杯。」
皆がカップを持ったのを見計らって仁志が音頭をとる。
(いよいよ・・・)
津山の心臓は激しく鼓動した。
乾杯の後それぞれが紅茶を口に含み、アールグレイの感想を述べる。しかし、津山だけは紅茶の味を味わっている余裕が無かった。掌からは汗がにじみ、心臓の鼓動は時間がたつごとに激しくなる。しかし、いっこうに騒ぎが起きない。気になった津山は、松屋の方をチラッと見たのだが、思わず声を出しそうなくらい驚愕した。松屋はアールグレイを一口も飲まず、カレーを食べていたのだ。それに気付いた多仲は、
「ああっ、松屋先生はアールグレイが苦手でしたよね。たしか、春の教授会の時もお飲みにならなかったですし・・・」
と言う。
「ええ。どうもこの独特の匂いが好きじゃなくって。せっかくの差し入れなのに、申し訳ありません。」
松屋はにっこり笑って多仲に言う。この会話を聞いた津山は愕然とする。
(なんてことだっ。)
その直後、さらに津山を追い詰めるような事態が起こった。
「いやいやいやー、こんなおいしい紅茶を残すのはもったいない。松屋先生が飲まないのなら私が頂こー。」
松屋のとなりに座っていた田山が軽い口調で言い、松屋のカップへ手を伸ばす。津山は思わず声をあげそうになったが、ここで声をあげると怪しまれると思い、成り行きをじっと見守った。紅茶を口に含んだ田山は、次の瞬間血を吐いて椅子から転げ落ちた。会議室内の和やかな雰囲気が一転した。
「きゃーッ。」
松屋が叫ぶ。
「田山先生ッ」
池山が駆けつける。
「・・・死んでる。」
田山の脈を取り、池山が呟く。田山の顔はすっかり血の気がなくなっている。
「きゃーッ。」
松屋が再び叫び声をあげる。
「何事です??」
池山が大きな声で松屋に尋ねる。
「た、田山先生が飲んだカップの裏にこんな紙がっ!」
四つ折に折られた紙には

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/5504/111111.html
・・・愚かなる者に死の制裁を。

と書かれていた。
「な・・・なんだ??このURL!?それに・・・この“死の制裁”って??」
紙を受け取った井神が言う。
「まさか、殺人??“スルト”かッ!?」
紙をのぞきこんだ仁志が言う。
「野宮先生。ノートパソコンでこのページ見れませんか??」
井神が尋ねる。
「ああっ、見れますよ。少し待ってください。」
野宮は慣れた手つきでパソコンをいじる。柏原学舎は無線LANの設備が整っているため、ノートPCさえあれば常時インターネットが使用できるようになっている。
「!?」
HPを開いた野宮は吃驚した。HPには“死神”のタロットカードがアップされており、「このHPは人が一人死ぬごとに更新されます・・・ふふっ。」と一文添えられてあった。
「け、警察に連絡をッ。」
仁志が叫ぶ。会議室は先ほどまでとうってかわって、騒然となる。椎谷が携帯で警察に連絡をとる。その他の先生達も会議室を出て、教務や学長室への報告に走った。
「何事です!」
会議室の異変を聞きつけて、国語科所属で国語学会学生委員の学生が数名はいってきた。
「!?」
田山の死体を見て学生達は一瞬ひるんだが、一人だけ死体を凝視している学生がいた。さらに野宮が開いているHPを見てその学生は
「毒殺ですね・・・。」
と、呟いた。
「な、なんでそんなこと君にわかるのかね??」
“毒殺”という言葉に肝を冷やした津山は、とっさにその学生に質問を投げかける。
「・・・タロットですよ。“死神”は“毒殺”を意味するカードなんですよ。」
学生が答える。
「!?」
津山は内心にえぐりかえった。
(一体・・・一体誰がこんなことをッ!)
「田山先生殺害時にこの会議室にいた人を教えていただけませんか?」
学生が自分の指導教官である松屋に尋ねる。
「き、きみはいったい??」
やたらと事件に首を突っ込みたがる学生を見て、仁志が尋ねる。
「この子は私の研究室の学生で、吉田雄介君といいます。たしか・・・お兄さんが警視庁の刑事さんだとか。」
吉田に代わって、松屋が紹介する。吉田は軽く会釈する。
(け、警視庁!!)
松屋の言葉を聞き、津山は背筋が凍りついたような感覚に陥った。
「田山先生は毒殺されました。さらに、犯人は・・・田山先生殺害時にこの部屋にいた誰かに限られます!」
吉田が力強く言う。
「な、なぜそんなことがいえるのかね?」
池山が尋ねる。
「カップが転げ落ちてることから、田山先生はカップの中の飲み物を飲んだ際に倒れた・・・違いますか??」
吉田が池山に尋ねる。
「ああ、そうだが。毒殺なのは分かるが、なぜこの中に犯人がいるのか分かるのかと聞いてるんだ。」
池山が言う。
「それは・・・毒を盛られた紅茶が一つだからです。もし外部の人が会議室内の人物を殺害しようとするなら、ポットの中に毒を入れればならない。そう考えると、毒が盛られたのは紅茶をカップに入れ終わった後になります。したがって、田山先生を殺害したのはこの会議室にいた誰かということになります。」
と、吉田が理路整然に言う。
「じゃぁ・・・誰かが田山先生殺害を狙ってカップに毒を混入したと?」
野宮が尋ねる。
「ちょっと待って。」
松屋が会話を遮る。
「あのカップ・・・私の席におかれていたものよ。」
松屋は田山の近くに落ちているカップを指差す。会議室にまたざわめきが走る。
「・・・なら、犯人が本当に狙ったのは松屋先生!?」
椎谷が言う。
「そうなりますな。」
井神が続ける。
「いやッ!なんであたしが殺されなきゃなんないのよッ!!冗談じゃないわッ!」
そういうやいなや、松屋は会議室をでようとした。
「松屋先生、どちらへ?」
吉田が尋ねる。
「こんなとこにいたらまた誰かに狙われるわッ!自分の研究室に戻ります!!」
強い口調で言い、松屋は研究室に向かった。
「・・・松谷先生って、なぜカップの中の飲み物を飲まなかったんですか?」
気になった吉田が尋ねる。
「あぁ、彼女アールグレイ飲めないんだよ。君、彼女の研究室に所属してるのに知らなかったの??」
多仲が答える。
「紅茶が苦手だって言うのは知ってましたが、研究室ではお飲みになるので。ところで、アールグレイってなんですか??」
紅茶など“午後の紅茶”か“紅茶花伝”しかしらない吉田はこんな質問をした。
「・・・実物があるよ。飲んでみるかい?」
多仲が自分のカップを吉田に差し出す。吉田は紅茶を一飲みし、
「・・・なんっすか、この匂い。」
顔を顰め感想を述べる。
「アールグレイは独特の匂いがあるからね。」
多仲はかすかな笑みを浮かべて言う。
「あ、そうそう。田山先生が毒入り紅茶を飲んだ時ってこの部屋に誰がいました??」
吉田は多仲に尋ねる。
「私と・・・仁志先生、椎谷先生、松屋先生、井神先生、池山先生、野宮先生、津山先生、それに田山先生だよ。」
多仲は丁寧に吉田に教える。他の先生達はそわそわしながらこの二人のやり取りを眺めていた。とくに、津山はいまにも発狂しそうなくらいの気持であった。
「松屋先生がアールグレイを飲めないってことは、誰か知ってたんですか??」
吉田が続けて質問する。
「春の教授会で松谷先生はアールグレイが苦手だってことおっしゃっていたけど・・・たぶん誰も覚えてなかったはずだよ。僕だって忘れていて、今日用意してしまったんだから。」
と、多仲。
「この紅茶、多仲先生が用意なさったんですか??」
「ええ、葉は用意しましたよ。入れてくれたのは食堂の方ですけど。」
「なるほど。・・・ちなみにポットからカップへ紅茶を入れた人はどなたですか??」
この吉田の声に津山は体をびくっとした。
「それは・・・たしか、津山先生でしたよ。」
多仲が答える。
「ねぇ、津山先生?」
多仲が同意を求める。
「ええ、そうですよ。僕が入れました。」
津山は声を上擦らせて答える。
「ってことは・・・犯人は気様かッ!!」
仁志が突っかかる。
「待ってください。」
吉田が二人の間に割ってはいる。
「まだ、犯人が津山先生と決まったわけじゃありません。会議室の中の誰もがカップに毒を混入するくらいできたんですから・・・。」
この言葉に津山は多少ホッとした。
そこに拍手をしながら入ってくる男がいた。身長はそれほど高く、目つきの鋭い男だった。
「いやっ。見事な推理力。」
男が言う。
「あなたは??」
吉田が不信そうに尋ねる。
「おおっと、申し訳ない。私は大阪府警刑事部捜査第一課の和泉と言います。」
「刑事さん??これはまた早いお着きで。」
「レスポンスタイムの短さが事件早期解決の有効手段だからね」
男はそう言い、さらに続ける。
「それより、先ほどから君の推理を見せていただいてました。一学生にしてはなかなかいい推理をなさる。」
「そりゃどうも。」
吉田は愛想無く答える。
「しかし、これ以上は我々警察の仕事だ。部外者は即刻この部屋から出たまえ。」
厳しい口調で和泉が怒鳴る。吉田は和泉を睨みつけるように見返したが、まさか刑事とはりあうこともできず、そのまま部屋を後にした。部屋を出たところで、吉田は30半ばの男に声を掛けられる。
「ごめんね、君。」
「え??」
吉田はなんに対して謝られているか分からず、すっとんきょうな返事をする。
「ほら。和泉警部補に怒鳴られたでしょ?」
男が言う。
「え??あなたは??」
吉田が尋ねる。
「あっ、申し遅れました。私は大阪府警捜査第一課の桜井と言います。」
男があまりにも丁寧に答えたので、厳しい表情だった吉田の顔が少し解れる。
「あの人・・・警部補だったんだ。若そうなのに。」
吉田は、和泉の若さで警部補と聞かされて少しびっくりした。
「彼は・・・警察学校でてすぐ警部補だから。」
桜井が呟く。
「え??ということは・・・警察庁の人??」
吉田が尋ねる。国家一種で本庁採用された人は、全員警部補スタートなのである。通常採用の警察官は、警部補より二階級下の巡査からのスタートであるので、国家一種採用の者がどれだけ破格の待遇を受けているかが分かる。
「詳しいね、君。和泉警部補は警察庁から大阪府警に研修できてる方だよ。」
と、桜井が説明する。
「研修!?そんな人がこの事件の捜査指揮にあたるんですか??」
吉田が尋ねる。
「まさか。どうしても現場に出たいって言うから連れて来ただけだよ。」
桜井が笑って答える。そんな取り止めの無い会話をしていると、部屋の中から
「桜井君、少し来てくれたまえ。」
と和泉の声が聞こえる。
「警部補様がお呼びだ。行って来るよ。」
桜井が部屋の中へ入っていく。和泉に締め出された吉田は、それでもなお事件のことが気になったので、部屋の外から中を覗こうとした。しかし、警官が立ち入り禁止のロープを張り、さらに部屋の扉も閉めてしまったため、中の様子がうかがえなくなってしまった。
「ちっ・・・」
吉田は舌打ちをしてその場を去った。

───会議室内
暫くして、部屋から出て行った先生達が全て戻ってきた。松屋も警官に連れられて会議室へ戻ってきた。
「誰が私のカップに毒を盛ったのよッ。」
松屋が叫ぶ。
「まぁ・・・落ち着いて。我々が真犯人を暴きますから。」
和泉が自信満々に答える。この言葉に津山は生きた気がしなかった。
「先ほどの学生クンがいってたように、犯人はこの中にいると考えるのが妥当だと思います。」
和泉が言う。
「もう一度確認だけします。」
和泉が続ける。
「紅茶を用意したのが、多仲先生。ポットに入れたのが、食堂の人。カップに入れたのが、津山先生ですね?」
「はい。」
多仲が答える。
「で、松屋先生が、紅茶を飲めないと知っていたのはどなたですか?」
和泉が尋ねる。
「春の教授会に参加なさった方は皆知っていると思います。」
仁志が答える。
「じゃあ、出席しなかった方は?」
和泉がさらに尋ねる。
「えっと・・・わたしと仁志先生、椎谷先生、松屋先生以外は欠席していました。」
多仲が答える。
「・・・出席者はたったそれだけですか??」
和泉は驚いて尋ねる。
「ええ。大した話はなかったですからね。」
仁志が答える。
「大学の先生方はいい御身分ですな。」
和泉が皮肉をこめて言う。
「警部補・・・。」
横で桜井がたしなめる。しかし、そんなことを気にも止めずに和泉が続ける。
「では、松屋先生が紅茶を飲めないことを知らなかった先生方からは詳しくお話を聞きたいので、署の方に来ていただきたい。」
和泉が言う。
「そ、そんな。午後から大切な学会があるんですよッ。」
と、反発したのは津山。学会が大切だからというわけではなく、警察に連れて行かれてしまってはボロがでるかもしれないと思ったからである。
「そうです、今学会は津山先生の昇進が掛かっています。」
と、仁志が後押し。ここで桜井の携帯が鳴る。
「ちょっと失礼。はい、もしもし。桜井だ。───あ、はい。おります。少々お待ちください。」
最初は荒い口調だったが、途中からは丁寧な口調に変わった。
「警部補、文部省の筒井さんからです。」
桜井が言った。
「はぁ??筒井だと??」
和泉が怪訝そうに言う。
「はい、和泉だ。何のようだ?」
電話越しの人物に冷たく言い放つ。しばしの会話のあと、和泉は悔しそうに電話の電源を切った。
「ちっ・・・文部省の介入か。」
和泉が呟く。そのあと、
「・・・学会は予定通りに進めてくださってかまいません。ただし、学会中といえども、警察の指示が最優先されます。このことを肝に銘じてください。」
と和泉が言う。どうやら、文部省の指示のようだ。
「よかった。」
と安堵を表すのは、多仲。
「津山先生の人生がかかっていますもんね。」
と、野宮。
「なにがよかったもんですか!また私が狙われたらどうするのよッ!!」
松屋が怒鳴る。
「松谷先生には一応警備の者をお付けいたします。」
と、桜井が気を利かせて言う。
「そうしてもらえるとありがたいわ。」
桜井の言葉に少し気を落ち着かせた松屋がいう。
「とりあえず、学会が終わってから各々事情徴収をいたしますので、ひとまずは研究室にお帰りください。」
と、和泉が言う。そして、各々会議室をあとにする。

───津山研究室。
津山が研究室に入るや否や電話が鳴りだした。
「もしもし───」
津山は不安げに声を出す。
「津山先生・・・先ほどはご苦労様でした。」
「ス、スルトかッ!?」
津山が電話口を手で抑え叫ぶ。
「ふふっ・・・」
“スルト”は奇妙な声で笑う。
「い、いったい何の用だ!?お前との取引は終わったはずだ!」
津山が言う。
「・・・なにか勘違いなされてません?」
と、“スルト”が言う。
「な、なにが勘違いなんだ!?」
津山は小さい声で怒鳴る。
「私が殺せといったのは松屋だ。誰も田山を殺して欲しいなど頼んどらんよ。」
“スルト”が核心を突く。
「したがって・・・もう一度松屋殺害を依頼したい。今度は確実になッ。」
“スルト”が続ける。その口調は冷たく、人間味の欠片も感じられないくらいであった。
「い、嫌だッ。もう人殺しなんかできない!」
津山は今にも泣き出しそうな声で訴える。
「貴方はもう後戻りは出来ません。ただ私に従って行動すればいいのです。」
“スルト”が抑揚を抑えて言う。
「頼むっ。もういやなんだッ!」
さらに津山が訴える。
「分かりました。なら、このジョニーを大阪湾に沈めた時の写真を警察に送ります。」
“スルト”が言う。
「な、な、な、なにッ!!どうしてそんなものを持っているんだッ!?」
津山は慌てて尋ねる。
「なぁーに、あの電話の後、貴方の後をついて行っただけですよ。」
っと、“スルト”。
「き、貴様ッ!・・・」
津山は何かいってやりたいが頭が回らず、言葉に窮した。
「・・・やっていただけますね?津山先生。」
“スルト”が再び尋ねた。
「・・・わ、わかった。ただ・・・今はムリだッ。奴は一度殺されかけて警戒している。」
津山が言う。
「───ならしかたありません。松屋はいいですから、椎谷を殺してください。」
“スルト”が冷酷に言い放つ。
「な、なにっ!?椎谷先生を!?」
津山は驚愕する。
「ええ。いまなら簡単に殺害できます。警察は会議室の検証に忙しそうですから。」
“スルト”は警察の動きを見てるかのように言う。
「───わ、分かった。それで、あの日の夜のことは水に流してくれるんだなッ!?」
津山が尋ねる。
「ええ。貴方が確実に約束を果たしてくださいますなら。」
“スルト”が答える。
「では、頼みましたよ。」
“スルト”が続ける。そして、電話は一方的に切られた。
津山は苦悩した。
(また殺人を犯さねばならないのか・・・。)
津山は一瞬自首を考えたが、どうしても助教授、さらには教授になる夢を捨てられずそれを思いとどまる。
(我が夢のためだ。そのためなら私は鬼にもなる・・・。)
そう決意し、机から果物ナイフを取り出して椎谷研究室へ向かった。

トントン、トントン。
津山が椎谷研究室の扉をたたく。
「どなたかな?」
中から椎谷が答える。
「津山です。」
津山はなるべく冷静を装いながら言う。
「なんだ、君か。入りたまえ。」
「失礼します。」
「どうしたんだ、いったい?普段はいっさいうちの研究室になんかこないのに。」
「いや、その、私の今回の論文についての批評を伺いに参りました。」
「・・・・・・ああ。ぱらぱらっと見ただけだが、なかなかよかったんじゃないか?三流私大出身の君がまさかあそこまでやれるとはな。がはははは。」
椎谷が無節操な声を出して笑う。津山は自分の出身大学を三流扱いされてむっとなった。その後、沈黙が暫し二人を包む。
「まぁ、せっかく来たんだから、お茶でも飲んでいかないかい?」
椎谷が沈黙を破る。
「ええ、いただきます。」
と答えた津山の手は汗でびっしょり濡れていた。津山は椎谷殺害の機を狙った。
「あ、しまった。」
椎谷がポットの前で声を上げる。
「すまんが、その机の上の砂糖をとってくれないか?」
津山に頼む。津山は席を立つ直前に懐に忍ばせてあった小さい果物ナイフを取り出し、椎谷にはナイフがばれないようにう細心の注意を払い、砂糖を取りにいった。そして、それを椎谷に手渡そうとした瞬間、手にもっていた果物ナイフで椎谷の心臓を一突きにした。椎谷は声を上げるまもなく倒れた。津山は暫くその場で恐怖に身を振るわせた。しかし、早くこの現場から逃げ出さねばなるまいと思い、考えられる全てのところから自分の指紋をふき取り、自分の研究室へ急いだ。凶器となった果物ナイフを研究室へ持ち帰るのはまずいと思った津山は、途中で果物ナイフの指紋をふき取って窓から投げ捨てた。自分の研究室へ戻る道のりが、津山にはとてつもなく長く感じられた。津山が研究室へ戻ると、ゼミ生と松屋ゼミの吉田がいた。津山は警察官を兄にもつ吉田を見た瞬間、頭を鈍器で殴られたかのような感覚に陥った。
「すいません、お邪魔してます。」
研究室に入ってきた津山を見て、吉田が言う。
「どうしても津山先生とお話したいということなので連れて来ました。」
ゼミ生が言う。
「ああ、かまわんよ。」
津山は平静を装ったが、心臓は激しく鼓動した。津山は吉田をいますぐにでも研究室から追い出したかった。しかし、そんな怪しげな行動をとると間違いなく自分にとってマイナスだと思い、招かざる客を受け入れた。
「さっそくですが・・・」
吉田が口を開く。津山は死刑台に連れてこられた囚人のような気持ちになった。
「この前の解釈学の課題持ってきました。」
吉田が言う。津山はきょとんとした。
「な、なんだ・・・そんなことか。」
思わず津山が呟く。いままでの津山の緊張が、雪崩のように崩れ落ちた。
「え?どうかされました??」
吉田が尋ねる。
「いやいや、こっちの話だ。では、課題のほうは預かっておく。後日採点して返却するから取りにきたまえ。」
津山が言う。
「はい。それと・・・」
吉田が続ける。再び津山は体を強張らせる。
「ま、まだ何かあるのかね?」
「はい。松屋先生が狙われた原因って何だと思います??」
吉田が尋ねる。事件のことに触れられ、津山は焦った。が、
「さぁ、私には分かりかねるね。」
と、できるだけ平静を装い、津山はそっけなく答える。
「すまないが、このあとすぐ私の研究発表会があるので、皆研究室から出てくれないか?いろいろ準備をしたいんだ。」
焦った津山が続ける。
「あ、はい。」
ゼミ生が答え、部屋を出る。吉田も
「お忙しいとこ失礼しました。」
と、一言礼を言って部屋を出た。

部屋を出た吉田は顔をしかめた。
「どうした?吉田?」
津山ゼミの学生が尋ねる。
「津山先生のとこの水槽って・・・ずっと何もいなかったの?」
吉田が変な質問をする。
「いや・・・たしか、熱帯魚がいたと思うけど・・・なんで??」
「今見たら何もいなかったから。」
「ああ、なんか、2週間前全滅しちゃったって津山先生が言ってたよ。」
「全滅??何匹くらいいたの??」
「たしか・・・八匹くらい。」
「八匹か・・・。」
そういうと吉田は黙り込んだ。
「熱帯魚の数がどうかしたのかよ?」
学生が尋ねる。
「いや。いいんだ。・・・さんきゅ、津山先生に会わせてくれて。」
そういうやいなや吉田は階段を降りていった。

───国語学会会場。
「なんか、さっきこの大学で殺人事件があったんだって。」
「だから警察が構内に入っているのか。」
「何もこんな時に学会なんかしなくても。」
吉田が会場入りをすると、集まった他大学の先生達がこのような会話を交わしていた。こんな会話を聞きながら、吉田自分が座れそうな学生席を探した。すると、前のほうから吉田を手招きで呼ぶ男がいた。
「よぉ。津山先生どうだった??」
男が声をかける。男の名は原。国語学科所属で吉田の友人である。
「・・・8割だな。」
吉田が答える。
「はぁ?8割??」
原が尋ねる。
「あぁ。8割方津山先生が田山殺しの犯人だよ。」
吉田は声を抑えて言う。
「・・・!?もう犯人が分かったのか?」
原は驚いた。吉田の推理力や洞察力はよく知っていたが、ここまで早く犯人の特定をできるとは思ってなかったからだ。
「ただ・・・」
「ただ??」
「動機がわかんねぇ。」
吉田は眉間にシワをよせて言う。
「おい、津山先生がきたぜ。」
原が壇上の津山を指差して言う。
国語科の他の先生達も壇上に上がり打ち合わせを行なう。
「まるで・・・なにもなかったかのようだな。」
原が呟く。
(なにか・・・なにか嫌な予感がするぜ。)
吉田はそう思い壇上の先生達を見つめる。暫くして吉田は椎谷先生がまだ会場入りをしていないことに気付く。
「おい。椎谷先生まだきてないよな??」
原に尋ねる。
「ああ。まだみたいだね。」
壇上を見渡し原が答える。
「あの先生ならいつものことじゃん。授業だってよく遅刻するし。」
原が続ける。
「・・・そうだよな。でも、殺人事件の犯人が構内に残ってるかもしれない。椎谷先生にも早く会場入りをしてもらったほうが安全だろう。」
そういうと、吉田は学会会場を後にし、椎谷研究室に向かった。研究室へ向かう途中吉田は嫌な奴に出くわした。大阪府警の和泉刑事である。その横には桜井刑事がくっついている。
「おお。推理ごっこの好きな学生クンではないか。」
和泉が吉田に声かける。
「あんたらの推理よりはまともな推理ができるとは思うけどな。」
まけずに吉田が反論。
「兄が刑事だからっていきがるな。捜査は警察が行なう。つまらん詮索で捜査の邪魔をするな。」
和泉が厳しい口調で言う。
「警部補。少し口が過ぎますぞ。」
横で桜井がたしなめる。
吉田は、まだ反論したかったが、椎谷先生を呼びにいくほうが先決だと思い、ぐっと我慢をした。
「では、僕はこれで・・・。」
「ちょっとまて。どこへいく!?」
和泉が厳しい口調で吉田に尋ねる。
「椎谷先生の会場入りがまだなんで呼びにいくだけっすよ。あんな事件のあとだし。」
「そんなことは警察がやる。かってなことをするな。」
和泉が怒鳴る。
「・・・いちいち怒鳴らなくってもいいでしょーがー。」
あきれた顔で吉田が言う。
「そんなにかっかしてると、キャリアでも出世できないよ。」
吉田が続ける。
「・・・きさまッ。」
吉田の一言にかなり腹が立ったのか、和泉は顔を赤した。
「まあまあ。」
桜井が仲裁に入る。
「相手は子供ではないですか、警部補。」
「分かっている。」
和泉は桜井にやつあたりをした。
「桜井君。椎谷教授をすぐに会場につれてきたまえ。」
「はい。」
返事をすると、桜井は研究室のほうへ足を向けた。
「・・・研究室まで遠いから助かったよ。」
事件に少しでも首を突っ込みたかった吉田は、ほんとは自分で椎谷を呼びに行きたかったが、こう負け惜しみを言った。
「君はもう会場から動くな。」
和泉がいう。
「へいへい・・・」
吉田は和泉を小馬鹿にしたような返事を返す。
「お前。兄が警察官だったら兄のことも考えて行動しろよ。俺達キャリア組は将来警察の中枢を担う者達なんだからな。お前の行動は、お前の兄貴の出世にも関わるぞ。」
和泉が脅迫めいたことを言う。が、この言葉に吉田は無反応であった。和泉の相手もほどほどに、吉田はすぐさま学会会場へ引き返した。

「椎谷先生どうだったよ??」
再び学会会場に入った吉田に原が声をかける。
「さぁ。」
吉田は気の無い返事を返す。
「さぁって、お前研究室に呼びにいったんちゃうの??」
「邪魔された〜。」
吉田が軽く言い返す。
「邪魔されたって・・・誰に??」
「嫌な奴に。」
「嫌な奴ってだれよ??」
吉田が何を言っているのか原にはさっぱり分からなかった。
「お前って、たまに変なこと言うよな。」
と、原が一言。こんな会話をしていると、壇上に桜井刑事があがってきた。そして、マイクに向かって、
「大阪府警の者です。学会開始は定刻よりかなり遅れるとは思いますが、ご了承ください。」
と言った。
「はぁ??なんで今更開始時間おくらすねん??」
原が呟いた。
「ま、まさか・・・」
桜井と国語科の先生達が話し合ってる姿が尋常ではなく、吉田はすぐに壇上へと向かった。
「何かあったんですか??」
吉田が桜井に詰寄る。
「椎谷先生が殺害された。」
桜井が言う。
「・・・!?」
吉田は驚きの余り言葉に窮した。
「現場を見たいんですがいいですか??」
吉田は桜井に申し出る。
「ああ。ここの先生方にも見ていただくつもりだったので一緒にきたらいいよ。」
桜井は吉田の申し出をあっさり受け入れた。吉田と国語科の先生達は学会会場を後にし、椎谷研究室へ向かった。
「・・・こんどは椎谷君かね。」
仁志教授が呟く。
「やはり、“スルト”とかいう人物の仕業でしょうか??」
多仲が言う。
「“スルト”??」
桜井と吉田が声を揃えて尋ねる。多仲は桜井と吉田に“スルト”と名のる人物から脅迫めいた電話があったことを話した。
「そのようなことはもっと早く言って頂かねば困りますな。」
桜井が言う。桜井は携帯を出して
「NTTに要請して、二日前に関西教育大学天王寺学舎にかかってきた電話の身元をあらえッ。」
といった。
「そんなことしてもたぶん犯人の特定には繋がりませんよ。」
吉田が横槍を入れる。
「なぜだ??」
桜井が尋ねる。
「犯人は恐らく携帯電話を使用してるでしょう。となると、NTTに残った通信記録からでは個人を特定する情報はちょっとでにくいと思います。」
吉田が答える。
「・・・なるほど。まぁ、いい。とりあえず調べるだけでも調べておこう。」
「それよりも・・・むしろタロットカードがアップされていたサーバーにハッキングして、どこのパソコンからタロットカードがアップされたのかを調べたほうが良いと思うんですが。」
パソコンの知識に長けた吉田がいう。
「なに??そんなことできるのか??」
桜井が驚いた眼差しで吉田を見る。
「ええ。たぶん。できますよね??野宮先生??」
吉田は学内一パソコンの知識に長けたと噂される野宮に同意を求めた。
「ええ。出来ますよ。サーバーにハックしてDOS上から個人情報を追っていけばたぶん・・・。」
野宮が答える。
「そんなことまでできるのか。」
桜井が感心する。
「ただ・・・犯罪ですけどね。」
野宮がつけたす。
「科捜研に頼めばすぐやってくれるでしょ??殺人事件が絡んでるんだし。」
吉田が言う。
「・・・詳しいな。」
警察の内情に明るい吉田に桜井が顔をしかめる。
「しかし・・・科学捜査研究所の力をかりると捜査は長期戦にもつれこんでしまう。結果でるのおそいからな。あそこは。他の事件もたくさん扱ってるし。」
桜井がどうしたものか思案に暮れていると、
「あの・・・。」
と、野宮が桜井に声をかけた。
「私でよければ明日までに結果だしますけど?」
「え??あなたにできるのですか??」
桜井が驚いた口調で尋ねる。
「今日一日あればなんとか。」
野宮が自信満々に答える。
「なら、是非お願いしたい。タロットカードがアップされたパソコンを特定できれば事件は一気に解決です。」
桜井が言う。
「わかりました。ただし・・・相手サーバーから訴えられた場合はそちらで対処してくださいね。」
野宮はにっこり微笑んで桜井に言う。
「ああ。それはまかせてください。」
桜井のこの一言を聞いて安心したのか、野宮は
「では、私は今から研究室でハックを開始します。私は椎谷先生の死体なんか見たくありませんしね。」
というやいなや、自分の研究室に向かった。
「・・・野宮先生、うかれてますね。」
井神が呆然と言う。
「前々からハッキングしたいっておっしゃてたからなぁ。」
多仲が微笑みながら続ける。
「こんな時にしか出来ませんもんね。普段は不正アクセス禁止法があるし・・・」
野宮の後姿を見ながら、吉田も言う。
「では我々は椎谷研究室に。」
桜井が言う。
「あっ、ちょっとまってください。」
と、多仲が皆を引き止める。
「少し寒くなったんで、研究室にオーバーコート取りに行ってもいいですか??」
多仲はそう申し出た。
「どうぞ。」
桜井が許可すると、松屋も
「あ、私も。」
といって、二人はそれぞれ研究室の扉をあけ、中へ入っていった。二人のこの行為に吉田は一種の違和感を感じた。
(な、なんだ・・・この違和感は。)
吉田は違和感の原因がつかめないうちに、二人とも上着を着て研究室からでてきた。
「では行きましょう。」
二人が合流すると、桜井が言った。
国語科教員の研究室は研究棟の4Fにある。4Fまで階段を上ると、まず松屋先生の研究室があり、そこから一列に研究室が並んでいる。一番奥の研究室が野宮研究室で、松屋研究室から二つはなれたところに椎谷研究室がある。椎谷研究室の前には“立ち入り禁止”のロープが張られ、背の高い制服警官が一人立っていた。桜井が近づくとその制服警官は敬礼をした。桜井はその警官に「ごくろう。」というと、椎谷研究室の扉を開けた。中には和泉と制服警官3人、それに眼鏡をかけた30前後の男がいた。その男を見るやいなや、桜井は敬礼し、
「こ、これは、羽柴警視。」
といった。
「羽柴だと!?」
声を上げたのは吉田。その声を聞き、吉田をちらっとみると、
「警視庁捜査一課管理官の羽柴です。本事件の捜査指揮を取らせていただきます。」
と先生達に挨拶をした。
「・・・それと、久しぶりだね。吉田君。」
羽柴は吉田に声をかける。吉田はたじろぐ。
「警視、この青年とお知り会いなのですか?」
大阪での研修を終えると上司になるであろう羽柴に、和泉が丁寧な口調で尋ねる。
「知り合いも何も、吉田君は警察庁刑事局の吉田和彦警視正の弟さんだよ。」
この一言を聞いて和泉の顔が青くなる。と、同時に、
「さ、参事官の弟さんだとは知らずに、暴言をたくさんはいてしまいました。申し訳ありません。」
と、深深と頭を下げる。横では桜井が唖然としている。
「い、いや。いいんですよ。」
あたふたして吉田が答える。
「本とに申し訳ありませんでした。」
和泉がさらに謝る。
「本当に気にしてませんから。」
吉田がさらっと言う。思わぬとこで羽柴と遭遇した吉田の眼中には、すでに和泉など無かったのである。
「なんであんたがここにいるんだよ?」
吉田が羽柴に尋ねる。
「なんでって・・・捜査のためですが。」
羽柴が微笑して答える。羽柴の物腰は柔らかかったが、凛然たる態度であった。
「そうじゃなくって・・・なんで大阪にいるのか聞いてるんだよ。」
「失敬な言い方ですね。私が大阪にいちゃいけないんですか??」
「警視庁の・・・しかも、捜査一課のNo.3が大阪にいるなんておかしいじゃないか?」
「ああ。そんなことですか。この前大阪で起きた連続殺人事件の捜査本部の指揮をとってるからですよ。」
「・・・連続殺人事件の捜査指揮に加え、この事件の捜査指揮までとるのか。相変わらず、働き者だな。」
「2つだけじゃありませんよ。今は4つの捜査本部の指揮をとってますよ。」
羽柴はけろっとして答える。
「あんた・・・過労死するよ。」
吉田が言う。
「あなたのお兄さんほどは働いてませんよ。・・・私は東大閥ですから。」
羽柴がいやみをこめた口調で言う。吉田は唇をかみ締める。通常、警察庁にキャリアとして登用される者のほとんどが、東大卒である。従って、警察庁の中では東大卒が優先的に出世していき、それ以外のキャリアは出世が遅い。吉田の兄は大阪市立大学卒業である。そのため、出世するためには東大卒の官僚の2倍3倍働かねばならなかった。羽柴はそのことを遠まわしに皮肉ったのである。
「さて雑談はこれくらいにして、皆さんには現場の確認と、椎谷先生の死体の確認をしていただきたいと思います。」
羽柴が切り出す。
「和泉君、写真を。」
羽柴が和泉に指示を出す。
「その前に、警視。一つご報告が。」
桜井が申し出る。
「なんですか?」
桜井は“スルト”の話と、タロットがアップされていたサーバーへのハッキングを野宮先生に依頼したことを述べた。
それを聞いた羽柴は、
「・・・巨人か。」
この一言に一同が呆然となる。
「巨人って??」
吉田が尋ねる。
「“スルト”とは、北欧神話にでてくる巨人の名前なんですよ。」
羽柴が答える。
「たしか、全てを焼き尽くそうとした巨人の名前ですよね。」
写真の用意が終わった和泉が言う。
「よく知ってますね、和泉君。そのとおりです。吉田君も北欧神話くらい読んどきなさいよ。」
と、羽柴。
「北欧神話??」
仁志が声を上げる。
「北欧神話がどうかしましたか?」
羽柴が尋ねる。
「いえ・・・昔うちの大学に北欧神話を研究していた方がおられましたから。」
仁志が答える。
「そうですか。まぁ、北欧神話がどんな風に事件に関係してくるかわかりませんが一応捜査いたします。」
と、羽柴は言い、続けて
「それより・・・ハッキングを警察が依頼するのは少し軽率すぎますね、桜井君。君の上司にばれると、確実に査問委員会行きですよ。」
羽柴が桜井を柔らかく咎めた。
「も、申し訳ありません。ただ、科学捜査研究所に依頼してもすぐに結果がでてこないと思いましたから。」
桜井が弁明する。
「ま、私は何も聞かなかったことにしてあげましょう。」
羽柴も事件早期解決のため、結果が早く欲しかった。事件早期解決で出世のスピードが速くなるからだ。だから、桜井の単独行動には目を瞑ることにした。
「あ、ありがとうございます。」
と、桜井。
「では、皆さんに椎谷先生の死体を確認していただきます。」
和泉が研究室の机の上に用意した写真を指差して羽柴が言う。
「・・・心臓の弱い方は見ないほうがいいかもしれません。」
意味深なことを羽柴が言う。写真を見た者達は、その羽柴の言葉を一瞬で理解した。
「な、なんなんだ、これは!」
仁志が声を上げる。
「こ、こんな殺され方って・・・」
池山が呟く。横では松屋が震えながら立っている。
「そして、椎谷先生の死体のそばにはこの紙切れが落ちていました。」
といって羽柴が紙を見せる。紙には

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Labo/5504/11111l.html
愚かなる者に死の制裁を・・・

と書かれていた。
「またタロットか!?」
吉田が声を上げる。
「そのとおり。」
羽柴が言うや否や、机の上のデスクトップパソコンを立ちすくんでいる先生達のほうへ向けた。
「・・・星??」
井神が言う。
「そう、今回のタロットは星です。そして・・・星のカードの正位置が示す意味は“希望”。」
羽柴が言う。
「希望??これでは“破滅”ではないですか!」
写真を指差し多仲が言う。
「そう。今回、犯人は前回と違ったカードの使い方をしてきたのです。」
羽柴が言う。一同はなんのことかさっぱり分からない。暫くして、
「そうか!北斗七星かッ!!」
じっと写真を見ていた吉田が大きな声で言う。
「北斗七星??」
先生達はきょとんとする。
「写真を見てください。椎谷先生の死体の形が北斗七星になってるんですよ!」
吉田が言う。
「・・・前回はタロットカードの意味に注目して殺人を犯した犯人が、今回はタロットカードの絵柄に注目して殺人を犯してきたんだ!」
吉田が続ける。
「さすが、吉田参事官の弟さんだ。見事な洞察力です。」
羽柴が言う。
「犯人はわざわざ椎谷先生の死体をばらばらにして、北斗七星の形になるように死体を並べています。」
一同がどよめく。
「確かに・・・北斗七星だッ。」
多仲が叫ぶ。
「しかし、なぜ北斗七星なんだ??」
井神が言う。
「椎谷先生は大の星座好きだからじゃないのかしら??」
松屋が言う。
「それは一理ありますね。椎谷先生は、星を見に行くためによく授業を休講にするって学生の間でも有名でしたからね。」
吉田が松屋に同調。
「・・・タロットカードを利用した見立て殺人か。」
と、羽柴。
「しかし、そんなくだらない理由でこんな酷い殺され方を!?」
井神が呟く。
「隣の子供が自分とこの子供より勉強がよくできるからといって殺されてしまう時代だ。そんなことがあってもおかしくはないな。」
和泉が言う。
「まぁ、詳しいことはこちらで調査いたしますので、皆様はとりあえず研究室のほうへお帰りください。」
羽柴が言う。
「・・・今日の学会は??」
仁志が尋ねる。
「今日は控えてください。今犯人のパソコンを特定してもらっているみたいだし、こちらも全力をあげて現場検証を行ないますので、近日中には犯人の特定が可能になると思います。学会のほうはそれ以降にお願いいたします。関係省庁には警察庁のほうから連絡しておきます。」
羽柴が答える。この言葉を聞いて、一同は不安を隠せないまま研究室を後にした。

───“スルト”の研究室。
(────まずいな。)
“スルト”は研究室へはいると、部屋の中を落ち着き無く歩いた。
(これほど早くパソコンの特定に乗り出す人物がいるとは予想外だ・・・。)
“スルト”の顔が険しくなる。
(約束の時はまだだ。ガフの部屋は閉じられた状態にある。・・・今一度奴に、“リリン”に働いてもらおう。)
“スルト”は自室の電話を取った。

───津山研究室。
津山研究室の黒電話がけたたましく鳴る。津山は電話の音に体をびくっとさせる。
「もしもし、津山です・・・。」
津山はおどおどした口調で電話に出る。
「・・・もしもし、先ほどはご苦労様でした。」
「ス、スルトかッ!?」
「そうです。貴方にお礼を言おうと思いましてね。」
「お、お礼だと!?お前は一対何を考えているんだ!!椎谷先生をあんなことにしたのはお前だろッ!?」
「・・・ふふっ。お察しの通りです。彼には個人的な恨みもありますからね。」
「なら、自分で殺せばいいだろ!」
「・・・使えるものは何でも使う主義なんだよ、私は。」
「くっ・・・。」
津山は言葉に窮す。
「まぁ、あまり細かいことは気になさるな。これで貴方は助教授、そして教授の道を歩いていけるのだからな。」
“スルト”が言う。
「し、しかし・・・吉田という学生は私が怪しいことに気付いてるみたいだぞ!!これはどうするんだッ!!」
津山が言う。
「心配ご無用です。いまからとっておきの方法であなたの無実を証明してあげましょう。」
“スルト”が言う。
「な・・・なんだと??そんな方法があるのか???」
津山が尋ねる。
「ええ。とっておきの方法がありますよ・・・ふふふ。」
と、“スルト”が妖しく笑う。
「ど・・・どうすればいいんだ??」
自分の疑いの晴れる方法が喉から手が出るほど欲しい津山は尋ねる。
「なぁに、簡単ですよ。野宮研究室でしばらく野宮先生と談笑していてください。」
「え??それだけでいいのか??」
また殺人をさせられるのではないかと思っていた津山は、驚いて聞き返した。
「ええ。それだけで十分です。」
「それでいったい何がかわるんだ??」
「・・・それは秘密です。」
「それで私の疑いは晴れるのだな??」
「ええ。確実に。」
「分かった・・・お前の指示通り動こう。」
「では・・・津山先生の健闘を祈ります。」
そういうと“スルト”は電話を一方的に切った。津山には何がなんだか分からない。
(野宮先生と話してるだけでいったいどうやって自分の疑いが晴れるのだ・・・)
津山はそう疑問に思ったが、万にひとつでも自分にかかっている容疑が晴れるならそうしたかったので、コートを羽織って自分の研究室を後にした。野宮研究室へいくまでに自分がやってきたことを悔いたが、もう後に戻れない津山は、
「時計の針は戻すことは出来ない・・・だが、自ら進めることは可能だ。」
と小さな声で呟いた。

野宮研究室の前に着くと津山は一息置いて扉をノックした。しかし、中からの反応は無かった。津山は再びノックをしてみたが一緒である。
(ハッキングに夢中なのかな??)
津山はそう思い、仕方ないのでドアノブを回してみた。すると、鈍い音を立てながら扉は開いた。
「野宮先生??」
津山は扉から顔を覗かせて野宮の名前を呼んでみた。その瞬間、津山は後ろから誰かに突き飛ばされた。
「うおっ!」
バランスを崩した津山は床へ倒れこむ。
「あ、あなたは!」
津山が言う。
「ほんとに、ご苦労様でした。津山先生。そして・・・さようなら。」
津山を押し倒した張本人が言う。
「も、もしや・・・おまえが・・・スル・・・」
そう言っている途中に津山は意識を失う。
「グッドラック。津山先生。」
津山を押したおした張本人はそう残してその場を立ち去った。

「津山先生・・・津山先生。」
「・・・ん??」
「・・・殺人容疑で逮捕状が出ております。」
「!?」

(っ・・・ゆ、夢か。っていうか・・・いったい私はどうしたんだ。)
目を覚ました津山は、割れるように痛い頭をフル回転して、自分の今の状況を整理してみた。
(そうだ・・・私は“スルト”に・・・奴に嵌められたんだ。)
状況を把握した津山は、部屋の中の異変に気付いた。
「・・・!?の、野宮先生!!」
津山は小声だが確かな口調で野宮に言葉を投げかける。しかし、野宮は口から血をたらし脈がない。
「・・・ひぃっ!!」
いままでに数人殺めてきた津山であったが、さすがに死体を目の当たりにすると畏怖した。が、どうすることもできずただ呆然とした。
(に、にげなきゃ・・・)
そうも考えたが、あまりにもとっさのことなので足が言うことを聞かない。しばらく呆然としたままでいると、研究室の前でが騒然としてきた。
「松屋先生、確かに“野宮先生が危ない”ってメールきたんですね??」
「はい。さっきメールチェックをしたら“スルト”の名前でメールがとどいてました。あとで実物お見せいたします。」
と会話が聞こえた。そして、
「野宮先生!!野宮先生!!」
多仲が何度も外から声をかけた。ほかの先生たちも同じように声をかける。が、中からなにも反応のないことに業を煮やした吉田が、
「扉を蹴破りましょう!!」
と提案する。
「よし。」
桜井が上着を脱いで扉に体当たりをする。何度か繰り返したが、扉のカギを壊すことはままならなかった。
(だめだ・・・こんなとこを見られると私が野宮先生を殺害したと思われる!!)
津山はあせった。
(扉が壊される前になんとかここを抜け出さなくては・・・)
考えれば考えるほど津山は焦った。手には汗をにぎり、額からは冷や汗が流れ出る。
「桜井君、どきたまえ。」
という強い口調が津山の耳に届いた。その直後、銃声が一発聞こえ、扉に銃弾があたる鋭い音が聞こえた。
(・・・考えてるひまはなさそうだな。)
観念した津山は、現在の唯一の脱出口である窓に向かった。その間に二発目の銃声が津山の耳に届く。焦りに焦った津山は、窓を開け脱出を試みた。
が、焦った津山は足を滑らして、4階にある研究室から転落してしまった。その直後、三発目の銃声が聞こえ、研究室の扉が壊された。と同時に、研究室へ一同が入ってきた。研究室に入ってきた皆は、野宮先生が口から血を流して顔を青くしてるのを見て仰天した。
「野宮先生・・・野宮先生!」
松屋が声をかけるが反応がない。
「の、野宮先生まで・・・」
井神が呟く。
「羽柴警視!!こちらへ!!!」
冬場に空きっぱなしになっている窓を不信に思って調べていた桜井が、窓のほうへ羽柴を招く。
「・・・・・・・桜井君、すぐに機捜に連絡。」
羽柴の指示が飛ぶ。
「はい。」
桜井は携帯を取り出して府警に連絡をとる。
「和泉君は現場の確保・・・急いで!」
続いて和泉に指示。指示を受けると和泉は数人の制服警官を連れて下へ向かった。
「うをっ!!」
仁志が声をあげる。
「どうしました??」
と、羽柴。
「こ、これが・・・また。」
と、一枚の紙を差し出す。
「こ、これは・・・例の“スルト”からですね。」
羽柴紙を見て言う。紙には今までと同様に

http://www.geocties.co.jp/CollegeLife-Labo/5504/1111ll.html
愚かなる者に死の制裁を・・・

「・・・一応確認しましょう。」
羽柴がそういって野宮研究室のノートPCに向かう。手馴れた手つきでURLを打ち込むと出てきたページは、”サーバーが見つかりません”であった。
「・・・あれ??おかしいなぁ。URL打ち間違えたかな??」
と羽柴はいい、紙のURLとPCに打ち込んだURLを見比べ、間違ってないことを確かめると“ENTER”ボタンを再び押してみた。しかし、出てるのは“サーバーが見つかりません”であった。
「このパソコン・・・ネット接続されてないみたいですね。」
と、羽柴。
「仕方ない、ページの確認は後にしましょうか。」
諦め口調で羽柴が言う。
「ちょっと待って。」
後ろで吉田が言う。
「羽柴さん、代わってくれませんか??」
「ああ、いいけど。ページの確認は出来ないよ。」
「はい、その前に少しやっておきたいことが。あと、それと、松屋研究室に僕の鞄があるんで持ってきてもらえませんか??」
この言葉に“何かあると”感じた羽柴は、すぐさま制服警官の一人に吉田の鞄を持ってくるように指示した。
「青い鞄で“adidas”と書いてあるやつです。」
パソコンに向かいながら吉田は付け足した。そして吉田はおもむろに
http://www.yahoo.ne.jp/
とパソコンに打ち込んだ。が、結果は同じくサーバーエラーだった。
「・・・そうか。そういうことか。」
吉田が呟く。
「やっぱりネットに繋がってないみたいだね。」
羽柴が吉田の後ろで言う。暫くして吉田の鞄を抱えた警察官が部屋に入ってくる。その鞄を受け取ると、吉田は鞄からノート型パソコンと携帯電話、そして接続ケーブルを持ち出した。
「このPCで見れないなら、僕のPCで見てみましょう。」
吉田が言う。
「おおっ、ノートPC持ってるのか。」
驚いたように羽柴が言う。
「今時の大学生の必須アイテムですよ。」
吉田がPCと携帯を接続しながら答える。静かな部屋に“ピッ”とPCの起動音が静かに響く。PCの起動が完了すると、吉田はすぐさまネットを始め、“スルト”の残した紙に書かれてあるURLを打ち込む。すると、今回はきちんとページが表示された。一同がどよめく。ページには以前のようなタロットカードは無く、ただ「私が“スルト”でした。いままでの殺人も私が起したものです。その罪を私の命をもって償います。───津山」と書かれてあるだけだった。
「今までの殺人は全て・・・津山君のしわざだったのか。」
仁志が言う。
「だから私は反対だったんですよ。無名私立大からわざわざ講師を連れてくる必要なかったんですよ。」
ここぞとばかりに井神が言う。津山は無名私立大学で講師をしていたのを、仁志が関西教育大学に引っ張ってきたのである。
「この責任は、大きいですわね。」
松屋も同調。
「・・・皆さん、いまはそんなことを言ってる時ではないでしょう。こんなことが起こってしまうと、我が大学の来年の受験者数は激減してしまいますよ!」
と、池山。
このような会話を聞いていて、吉田はあきれた。
(殺されていった人のことを考える人は、うちの大学にはいないのか・・・)
吉田はそう思い窓の外を眺める。
(それよりも、僕の推理がただしかったら真犯人は・・・)
そんなことを考えていると後ろで、
「しかたない。被疑者死亡で送検するしかないな。」
下の津山の検視を終えた和泉の報告聞き、羽柴が言う。
「待ってください。」
羽柴の方を向き吉田が叫ぶ。
「真の“スルト”は津山先生ではありません。」
この一言に部屋がどよめく。
「なんだと??」
和泉が吉田を睨みつける。
「どうみたって津山が殺人犯ではないか。状況証拠も揃っている。」
と、強い口調で和泉が言う。
「津山先生は“スルト”に操られていたに過ぎないと思います。」
吉田が言う。
「何故そんなことがわかるんです??」
羽柴が尋ねる。
「羽柴さん、ちょっとこっちへ。」
吉田は羽柴を研究室から連れ出した。研究室を出ると、吉田は羽柴耳元で、
「サーバーダウン。」
と小声で一言言った。この一言に羽柴が
「え??それはほんとうなのか??」
と、反応する。
「確かめてみてください。おそらくは・・・」
「分かった。となると、犯人は・・・」
羽柴にも真犯人の検討が大体のついた。
「しかし、動機がわかりません。」
吉田が言う。
「それはこちらで調べよう。真犯人の目星がつけば捜査しやすい。」
と、羽柴。
「一応、僕も独自で捜査します。学内の人間ですから動きやすいですし。」
にやっと笑って吉田が言う。
「邪魔だけはしてくれるなよ。」
羽柴が綺麗な髪かきあげながら言う。
「ええ。兄貴の名にかけて事件の真相に迫ってやるよ。」
その吉田の声は自信に溢れていた。


つづく。


【次回予告】

津山を操り、殺人を繰り返した“スルト”は一体誰なのか??
また、その動機とは??
次回、『関西教育大学殺人事件 解決編』乞うご期待!

 

末筆ではありますが、トリック案等で古田雄佑さんにはお世話になりました。この場を借りて、お礼申し上げます。

編集後記

 2000年度も、国語学特論2では、小説の創作を夏期休暇中の課題とした。これで、9年間続けていることになる。書きっぱなしでは仕方がないので、回覧し、互いに批評しあい、推敲の助けにしている。そのようにできあがっているのが、小誌である。
 ずっと以前は、受講者がワードプロセッサで打ち込んだ原稿を、野浪がパソコン上で編集し、版下を作った。演習室に集まって、リソグラフで印刷し、大型ホッチキスと両面テープを使って製本していた。100部の印刷・製本に半日かかった
 現在は、国語学特論2の掲示板を使って、回覧と批評と最終稿提出を行って、このように「詩織」のページを作って公開している。編集の手間は変わらないけれど、印刷・製本の手間と時間がかからない・配布数に制限が無くなったことが、ありがたい。
 2000年度は、多数の3・4回生が参加した。作品の質は、年々高くなってきているように思われるが、いかがであろうか。
 読後の感想を執筆者に伝えていただけるならば、幸甚これに勝るものはない。
(野浪 記)
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詩 織  2000年度号
2001年2月5日編集・発行
編集・発行2000年度大阪教育大学国語学特論U受講者
代表野浪正隆
住  所郵便番号 582
大阪府柏原市旭が丘4-698-1
大阪教育大学 教員養成課程
国語教育講座 国語学第二研究室
電話番号0729-78-3537 (直通)