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大阪教育大学 国語学特論2
受講生による 小説習作集

詩織

2002年年度号
カーネーション李智恵
患者萱野竜輔
生きる川崎裕子
青林檎 坂本昌樹
プラスマイナスゼロ竹中愛
梅雨の日田中啓行
ある町のある事件東伸相一郎
フライト山口瑞穂
話したかったけれど…石田春美
思い出小島ゆきこ
少女と私永井友子
記憶六車美麻
ジアイ階段小原里海
カブトムシ松崎聖子
相互批評

カーネーション
李智恵

“お母さん、お母さん。もう朝だよ。早く起きてよ。”
それは5月8日の朝のことだった。学校の先生をやっている私に5月は楽しいながら、疲れる月であった。親の日の準備のため先生がやることがあるかと思うかもしれないが、カーネーションの作り方や、手紙の書き方のために毎年5月7日は徹夜の日である。仕事を始めてもう10年。長い間のちょっと慣れた手振りのおかげで昨日は3時まで準備を終わらせることができた。3時に寝たら、6時の起床は無理じゃないと我が娘は思っているのかまだ夢の中で泳いでいる私を起こしている。
“お母さん、早く。”
“ユジン、母さんもうちょっと寝たいから、起こさないで。昨日も3時に寝たのよ。せめて7時までは寝かせて。”
“駄目だよ。お母さん私が起こして起きなかったら、いつもすぐ文句言うくせに、先生がそんなことしたら、お母さんの弟子もそのまま見習うからね。”
負けた。私の娘との喧嘩で私の職業の話が出たら、最終の脅迫だということだ。この悪い子。私の弱いところを……。
“分かったよ。今日は何?いつも8時ぎりぎりまで寝る寝坊すけが今日はなんで朝から私を起こしてるわけ?”
 “速くこっちこっち。”
 理由もいわずに私の手を引く娘に引かれて、食卓まで寝ながら歩いた。
 “パンパラパン。見て、見て、私の作品だから。見てほめてもいいよ。”
  我が娘ながらあの言い方は本当に感動そのものだな。誰に似たんだろう。前の試験のテストがよかったのかなと思いながら、目を開けた私は開いた口を閉じられなかった。
 私の目に入ってくるカーネーション。食卓の上には娘が準備したらしい朝食とカーネーションが花瓶に刺されていた。
 “お母さんよだれ、よだれ。よだれたれるよ。口閉じないの?やっぱり私って偉い?すごい?自分の娘にしては上できだと思う?
 “また、それって自己満足?”
 “えっ?らしくないね。お母さん寝ないと口うまくなるの。偉い。やっぱり、私のお母さん。ユジン様の手作りの朝ごはん食べる資格あるよ。”
 私は娘がしゃべり終わるまで待ってから、ありがとうって言った。小学校4年生の娘に朝ごはんを作ってもらったら誰でも感動するだろう?私も親ばかなのか、自分の娘に心を打ってしまった。
 “そんな……。”
 いつも自分のことを偉そうに言ってる娘らしくなく、娘は小さい顔を赤色で染めながら、私の感謝の言葉に冷めないうちに食べないとと話をそらしながら、食卓に座った。恥ずかしがっている娘のために私はそれ以上は何も言わずに食卓に座った。
私の席の前には赤いカーネーションがあった。娘の心がこもっているおかげか、香るはずのない香りまで、私に伝わってきた。娘は赤くなった顔でご飯を食べ始めた。早く食べないといくらおいしく作ったものでもおいしくなくなるよと偉そうな口をきくことは忘れてないみたいだったけど。
 私はスプーンを持ちながら、カーネーションを見つめた。赤いカーネーション。私にカーネーションはお母さんの愛を教えてくれた花である。一生忘れられないお母さんの笑顔も……。
 “ユリ?早く起きないと遅刻するよ。”
 “お母さんもうちょっとだけ、まだ時間あるじゃない。”
 “10分もっと寝るから、眠たくなくなるわけじゃないでしょう?”
 “…。”
 お母さんを無視して寝ようとする私に出たお母さんの必殺技……
 “寝ることって死んでからやっても遅くないよね。 ある博士がなんて言ったっけ   ……。”
 “分かったよ、お母さん。いつもその話、飽きない?”
 “飽きないよ。ユリがいつも起きてくれるもの。”
 一年、三百六十五日の朝、目を開けた時私の目に最初に映るものはお母さんの笑顔である。お天気の日でも、雨でも、雪でも、お母さんは六時半になったら、いつも私の部屋をノックもせずに入ってくる。−正直なところ、寝ているからするかどうか分からないけど…… 私のお母さんはそんな優雅な行動をとる人ではないと私は思う。私もハンサムな王子様が起こしてくれるなら、一発で起きられるのに……。笑顔の人に怒ることもできず、結局私は顔も洗わずに食卓に座らせられる。―今考えて見たら、‘いつも笑顔’がお母さんの武器だったに違いない。
 “おはようございます、お父さん。”
 私が食卓に座ったら、見ていた新聞を折って隣に置きながら、私の顔を見るお父さん。
 “いつになったら、きれいな顔の娘が待ってくれてる食卓に座ることができるんだろうね。せめて顔ぐらい洗った娘と食事したいのに、お母さんはそうじゃない?”
 お父さんのひにくが入っている言葉に恥ずかしい気持ち半分、またかという気持ち半分で私はお父さんをにらみながら、お父さんって言った。一生寝坊というものをしたことのないお父さんの朝は5時半に始まり、6時半には家族三人での朝食と決まっている。その前に私に一言をいうのは絶対忘れないけど……。
 “お父さん私のような完璧な人が寝坊までしなかったら、神様が寂しがるから、やってるんだよ。完璧すぎる人間って魅力無くない? お母さんもそう思うでしょう?”
“ユリはあなたに似て、溺れても、魚と話すのに夢中になって、水から顔を出さない人だよ。”
“それはお母さんに似てるからじゃない? どうみても私じゃないような気がするけど。”
 そういうお父さんにお母さんは微笑みで答える。いつも最後は何も言わずに微笑むお母さんが私の家族の最強者である。その微笑の次は食事だった。主に私の仕事に関する話だけど。子供の時は学校の話で、高校の時は受験のことで、大学の時は未来の不安のことなど、私の家族の朝の食卓は私の話でいつも満開であった。
 “で、昨日はどうだったの?”
 お父さんだった。先生になって、7ヶ月。先生になりたいと思ってた私はどこかに消えたように、私は学生の時より学校を嫌がっていた。天使に見えていた子供は実は悪魔の方が多いと分かったのは先生になって一ヶ月も経ってない頃である。
 “別に何もなかったよ。カーネーションの学生が誰かもまだわからないままだし。”
 “……。”
 “心配することないよ。もう子供じゃないんだから。 それに今は結構慣れてきたし。”
 “別に心配してるわけではないけど。我が娘は何もできないかもしれないが、学生を愛することだけは誰にも負けてないからね。”
 お父さんの一言である。優しくないようで、最高の優しさ。
 “忘れようとしてもここにいらっしゃる二人が忘れさせてくれないからね。毎朝聞いてるから、耳にたこができるくらいだよ。”
  普通の大学に進学してから、私は人生で最初の壁にぶつかった。目標がないということだった。高校までは次の学校のことを考えたけど、大学の次は自分が決めなければいけなかったなかった。1年は何もせず、友達と遊びながら、費やしてしまい、2年はクラブにはまって毎日が歌と一緒だった。3年になってから、やっと気づいた自分の位置。人生最初の絶望であった。3年生の一年間、私は悩みに悩んで、4年生になって教育大学の免許を取り始めた。おかげで大学を5年も通ったけど、自分の夢を見つけられたことですごく満足した私だった。しかし、今の状況をみたら、その満足は大学生時代になにか一つは成せたという自己満足だけだったということがわかる。先生になってから、私は顔に微笑を浮かんだことがない。一つ勉強したことは、引っ張るだけでは駄目だってこと、後ろから見守ることができないといけないということだ。一つをやりこなせない私に、二つはかなり重荷だったし、その上、学生の親ともうまくいかず、重荷が重ねて私の肩を押してつけていた。
 そんな毎日の中の5月15日から私にカーネーションが贈られてきた。手で作ったような紙のカーネーション。教室に入ったら、誰かと思いながら教える私に、いつの間に怒りと涙が無くなってきた。おかげでだんだん周りも見えてきて、学生をこうだとばかり思ってきたことや、自分の間違っていることが一つずつ見えてきた。
  5月15日。師匠の日。学生は先生にカーネーションを贈ったり手紙を書いたりして、先生に感謝の気持ちを伝える。その一日だけの行事のはずのカーネーションが10月になった今も毎日贈られている。初めは誰か知りたかった気持ちだけだったけど、今はその学生に感謝の気持ちを伝えたいと思っている。おかげで学生を愛することができたよと感謝の気持ちを伝えたい。でも、その手作りカーネーションはいつも名前も痕跡も残さないで私の机の上に置かれてある。
“水要るの?”
 お母さんの掛け声で食事に戻った私はうんと答えて、残っているご飯を一口に入れて、カップを持って、水を飲みながら、学校に行く支度をしに行った。
 “おはようございます。先生。”
 “おはよう。”
 “おはようございます、先生。”
 “おはよう。”
学生と挨拶しながら、教務室に入った私は机の上のカーネーションに目をやった。半分以上家に持って帰っているはずなのにと思いながらも、笑顔をなくすことはできなかった。
“金先生、今日も笑顔だね、いいことでもあった?彼氏でもできたんじゃない? 金先生はいつ素麺食べさせてくれるんだよ。”
*韓国は結婚式の時、来てくれた人のために素麺をごちそうする風習がある。今は洋食とかもあるらしいけど……
“買って食べた方が絶対早いですよ。崔先生。”
私は自分の机に座って、1限の本を開けながら、答えた。算数の本には昨日作っておいたものが入ってあった。私はそれと赤いカーネーションを見ながら、今日も頑張るぞと自分に言い聞かせてから、一日を始める準備を終わらせた。
その日はいつもとあまり変わらないお天気の朝であった。あるアナウンサーが流れる前までは・・・・・・
私は授業中流れるアナウンサーに自分の名前を聞いて、急いで、教務室に行った。そこで私を待っていた電話は学生のお母さんからの電話だった。警察のとこだという。私は詳しい話はそこに行ってから聞くと言って、急いでそこに足を運んだ。そこには私のクラスの学生が自分のお母さんと座っていた。それを見て私はまず胸騒ぎを鎮めてお母さんに話をかけた。私の声でやっと安心できたという顔をするお母さんは私にゆっくり事情を説明し始めた。
“先生、実は……。”
 自転車を盗もうとしたのに、捕まったらしい。小学校4年生の彼には何も問わないけど、一応学校に知らせるべきだと言われたらしい。学生の長袖のシャツは涙と鼻水でぬれていた。涙はもう出ないようだったが、まだまともに息ができない状態だったのを見たら、ずっと泣いていたようだった。その学生はお母さんと二人で暮らしている子で、無口な子だった。私はかえって嬉しかった。泣いてはいたが、自分を表してくれていたからである。勿論、私に対してではないけど。私はお母さんに子供を預かっていいかを聞いて、とりあえず私の家に連れて行くことにした。私はまず学校に適当に言い訳をし、遅れるということを伝えて、学生に小さい手をつないで歩きはじめた。その子はお母さんと一緒じゃないことが嫌だったようだが、何も言わずに私についてきた。
“ジフン、今から先生のとこに行くつもりだけど、今日は先生と二人だけでご飯食べようね。” 
 そう言った私はつないでいる手に力を入れて、ジフンに勇気付けの微笑を顔に浮かべて、足を家に向けた。家に行く途中、ジフンは何も話さなかったけど、だんだん緊張が解けてきたみたいで、私の質問に簡単にでも答えてくれた。そして実はその自転車を盗もうとしたわけではなく、自分を父もいない子とからかった子の自転車にいたずらをしただけだということもわかった。そう言っている間、私たちはもう家の近くまで着いていて、私はスパーで子供の好きなお菓子を買って、家のベールを鳴らした。 
“誰ですか?今は……。”
 家から出てきたお母さんは私の顔を見てびっくりしたようだった。そのようなお母さんをからかおうと思って、一言おうとした私はお母さんの手に持たれているカーネーションを見つけた。それで、隣に学生がいることも忘れて、持っていたお菓子を落としてしまった。わけもわからず子供は私の顔をみてどうしたらいいかわからなかったのか、私の顔に怯えたのか、小さい声で私を呼んだ。
“先生……。”
 子供の声に元に戻られた私はお母さんにちょっと事情があって、戻ってきたとお母さんに簡単に説明して家に子供を連れて入った。お母さんはその話を聞いてからすぐ私の隣にいる小さいお客に目を移した。そしていつものお母さんの笑顔で、子供を迎えてくれた。やはりお母さんは偉大だということは正解だった。自分の子供でもないのにも、私のお母さんはすぐ子供と友達になり、一緒に笑って、お菓子を食べて、子供の笑顔を戻してくれた。楽しい2時間を過ごしてから、私は子供を家まで、送った。それから、学校に行って何をしたかはあまり覚えてない。私の目はなにをしてもすぐカーネーションに固定されてしまったからである。そうか。お母さんか。よくもへたくそなカーネーションを毎日、毎日、私に・・・・・・ 私はジフンを学校まで送って、仕事を終わらせて家に帰るまで、何をしたか、覚えてない。覚えていることがあったとしたら、家に帰ったときに、私を迎えてくれたお母さんの笑顔くらいかな……。
“お母さん、お母さん、何考えてるの?人が話してるのに。”
“ごめん、ちょっと昔のことを思い出して。”
“おばあちゃんのことでしょう?いつも言ってるじゃない、本当に小学生が作ったよりへたくそなカーネーションだったって。”
娘は口の中にご飯をいっぱい入れたまま私の真似をした。
 “本当にそうだったよ。てっきりだまされたからね。”
 “まさか、お母さんよりへたくそなの?”
 娘は地震でも起きたような顔で昨日3時まで作った私のカーネーションを私の前に出した。
 “ユジン、いつの間に私の部屋に……。”
 “だってお母さんより早く起きられたもん。でも、これはちょっとひどいよね。見て、私が作ったものの方が何倍もきれいじゃない。 10年も無理だね、こりゃ。”
 私をからかえる自分が偉い人にでもなったように、カーネーションをあちこち見ながら言った。
 “なんだと!”
 “だってそうじゃない。私はいい学生だから、嘘はつきませんよ。”
 そう言ってから、自分の部屋に向かう自分の子を私は笑顔で見つめるしかなかった。確かに娘のカーネーションの方がうまかったには違いないから。開けた掌をちらっと見ながら、私は自分が不器用なのはお母さんの血が流れているからだとお母さんのせいにしてしまいながら、カーネーションを眺めた。

 いつもの学校だったが、私にはいつもの朝とは違ったので、普通よりもっと軽い足で歩けた。学生の挨拶を後ろに教務室に入った私の目にはいつもと同じように私の机の上のカーネーションに目を向けた。そして、携帯に慣れている電話番号を押して、相手出るまで待った。私を200%にしてくれる声を……
 “もしもし”
 “お母さん。”

患者
萱野竜輔

ふと目が覚めた。白い天井、白い布団、異様に大きい窓。目の前に白い服を着た女性がいた。
「気分はいかがですか。」
胸元に『畑埜』という名前がつけられている。私は病院にいるようだ。記憶がぼんやりしている。なぜ私はここにいるのか?

 看護婦が部屋を出て行く。初めて聞く名前だった。私はいつからここにいるのだろうか?
 少しずつ思い返してみよう。私の名前は横矢盤雄。大学に通っている。毎日のようにバイトをして、大学をサボることがしばしば。よい学生とはいえないが、ワルという部類では無いように思う。
 壁や天井と同系色の机がベッドの横にある。その上にはかなりの枚数の紙が積まれている。手にとって見ると、一枚一枚びっしりと字で埋め尽くされていた。

六月三十日(金)

 今日もバイトだった。このバイトを始めてもうかなり経つが、なかなか体が慣れない。大学が遠方にあるために、始まりが遅いバイトというのは少なく、ありがたいのだが、こう毎日帰りが2時3時となるのはつらいところだ。
 しかしながら、子供たちの顔を見ているとそんなことは二の次になる。半年後、彼らは受験である。子を思う親の気持ち、とは言い過ぎかもしれないが、何とか志望校に通してやりたい。これから過去問を解き、問題を作り、大変だが、まぁ大学に差しさわりが無い程度にやっていこうと思う。
 とりあえず順風満帆、これからが楽しみだ。

 私のものだ。そう、大学に入ってから、パソコンの入力に慣れるには良いよ、と勧められ、日記をつけているのであった。一番上が六月というのはいささかおかしいようにも思ったが、追究するような気力はない。思い出す手掛かりにはなりそうだが、気分が優れないのだ。天気もあまり良くなく、それも影響しているのかもしれない。

部屋を出た。どこまでも白い。長い廊下は奇妙で不気味だ。殺風景な廊下には誰もおらず、突き当りを左に行くと談話室があった。朝刊を手に取る。日付は2002年9月18日(水)。私の記憶の中の、一番新しい日付がまた思い出せない。
気分が悪いものの、どこといって体に不完全な部分はないし、怪我をしているとか、体に痛みがあるとか、そういうことはない。しかし、この自分の状態に体が慣れていることが感じられる。きっとこの生活は長いのだろう。思い出せないものは仕方が無い。+思考でいこう。悩んだって仕方がない。
 部屋に戻ると食事が置かれていた。白いご飯に漬物に味噌汁に鮭の塩焼き。ご丁寧に、小骨がとりのぞかれている。以前母親が消化器官系の病気で入院した時は、最初は点滴だけで絶食、結局退院する頃でも5分粥と、離乳食のようなおかずであった。とすると、私は内臓器官の病気ではないようだ。それにしてもかなり冷めた食事だ。ま、猫舌だから、丁度いいくらいか。

 何もすることが無い。外を見ても、目の前は山が近く、風景を楽しむことはできない。しかも転落防止であろう金網が窓一面を覆っており、鳥かごにでも入れられている気分である。部屋の中には必要最低限のものしかなく、あるといえば自分の書いた日記があるばかりである。さっきは身体状況から気が乗らなかったが、今は何か見てはいけないような、そんな気がする。
 訪ねてくる人もおらず、ただいたずらに時が過ぎていく。すると、看護婦が入ってきた。朝と同じ看護婦である。
「気分はいかがですか?」
「あの、ちょっと伺いたいんですが……。」
看護婦は少し驚いたような顔つきをした。
「はい?」
「私はどこが悪いんでしょう?別にどこか痛いとかありませんし、何でこんなところにいるのか教えていただけませんか?」
「いえ、どこも悪くはないんですよ。しばらくですから。」
看護婦は大きく口をあけてそれだけ言うとさっさと部屋を出て行ってしまった。まだ聞くつもりでいたのだが、しばらく、ということを耳にしたので口をつぐんだ。なぜ、など、後からわかるではないか。いらいらするのはよそう。
 朝からのもどかしい気分が晴れて安心すると、余計に暇になった。そうすると、自然と机の上の紙に気を引かれる。一枚読むと、もう一枚、もう一枚。机の上の紙がどんどん薄くなっていった。

 七月二十一日(金)

 夏期講習二日目。大学そっちのけで、朝から授業が四コマあった。親に随分怒られた。当たり前か(笑)就職はおいといて、卒業が危うくては話にならない。ま、来年もあるし、どうにかなるだろう。
 それにしても今日は疲れた!八時間喋るというのはかなりきつい。常勤の先生方はこれを毎日続けているのかと思うと敬服するばかりだ。それでいて毎日元気で、あのやかましい(言い過ぎ?)子供たちの相手をしている。授業が終われば当然会社の仕事にかかる。絶対働きすぎだ。
 そんな中、先生方と子供たちの話になった。いつもは子供たちの面白エピソードを聞いたりするのだが、今回は少しばかり違っていた。子供の間で、いじめらしいことが起きているというのだ。詳しいことははっきりしていないが、気をつけてみてあげるように、とのお達しだった。

 随分適当な日記だ、と、思う。およそ一か月分読んだが、だらだらとした報告文である。おもしろくはないが、そのころの記憶をたどっていると、心が弾む。
辺りはもう暗くなっていた。あれだけ読むつもりがないと思い続けた自分を思うと、口元が緩んだ。ちょうどその時ドアがノックされ、晩御飯が運ばれてきた。
「まー、こんな暗い中で読んでらしたんですか?」
 看護婦が部屋の明かりをつけた。私は、ひとり微笑んだ顔を、見られているはずもないのに、気恥ずかしくて目をそむけていた。

 ブーンという重い音がして、部屋のファンコイルが動き始めた。夜は冷え込むのだろう。私はまた日記を手に取った。なぜもっと早く読み始めなかったのかと後悔するくらい、そわそわして目を紙に向けた。

 八月一日(火)

 とりあえず大学一休み。二ヶ月も休みだ。今日から改めてバイトの方に精が出せると思うとそちらのほうが嬉しかった。
 実は今日からバイトの詰め込み勉強合宿なのである。周りから見ると、缶詰で、一日中勉強しているようなイメージがあるようだが、少なくとも私がお世話になっている塾は違う。もちろん遊びにいくわけではないが、メリハリをつけた、よい合宿のように思う。体験学習を含め、フィールドアスレチックなどで遊んだりもする。よい結果を得てもらうために犠牲(?)になるのは教師である。授業をはじめ、休憩時間の子供たちの相手に、風呂の監督。なにより大変なのが夜の見回りである。合宿なんかになると、決まって子供たちの盛り上がりようが激しい。次の日にへばられては困るので、さっさと寝るよう見回りをするのである。
 そんな中で見つけた楽しみは、子供たちの寝ている姿をみることだ。さすがに夜中も二時をまわった頃には全員(起きている不届き者もいるが)寝ており、その寝顔や寝相は良いネタになる。ドアを開けた瞬間、起き上がったかと思うと、ラジオ体操をしだすようなやつがいたりするのだ。さて、今年はどんなやつがいるのか楽しみだ。

 ここまで読むと、急に睡魔に襲われた。

ここから先は読んじゃいけない
 まるで体が何かに反応したように眠りに落ちていった。

 朝から雨が降っていた。朝食を済ませ、しばらくしてから机の上の紙を手に取った。

 八月二日(水)

 合宿二日目終了!しかし、浮かれてはいれない。以前常勤の先生方と話をしていた、いじめが浮き彫りになったからだ。
 この合宿では、クラスごとに部屋割りをしている。当然いじめられているであろう子もいじめているであろう子供とクラスが同じである以上、同じ部屋である。浮き彫りになった、というのは、夜の見回りの時間である。あからさまに布団を突き放され、その子(女の子。飛鳥という)は泣いていた。幸い、常勤の先生と一緒に見回っていたので事なきを得た。
 確かに気の弱い、おとなしい子ではあるのだが、こちらからみていても、別にいじめられる理由は見当たらない。常勤の先生とも首をかしげたものだ。何とか無事合宿を終えられればいいのだが……。

ここから先は読んじゃいけない

 極度の眠気が私を襲った。さっき起きたばかりというのに、一体どういうことであろうか。私は眠気を振り払うべく、自分の顔をぴしゃりと叩き、顔を洗いに起き上がった。徹夜をした日はたまにこのような、不思議な眠たさを味わうことがあるが、十分睡眠はとっている。なるほど、この辺りに入院の要因があるのか、と妙に納得した。
 話の続きが気にはなったが、じっとしてばかりでは、と思い、部屋から出ることにした。
 談話室には誰の姿もなかった。このごろ、あまり他人と会話らしい会話をしていない。まぁあまり喋るほうではないし、喋らなくてもそう苦ではないのだが。
 新聞をぱらぱらめくっていると、三面記事に目を惹かれる。やれ企業の賄賂だ、隠蔽だ、だれかれが責任を取って辞任だ、と、いたちごっことも子供のけんかとも思えるようなしょうもない記事と、殺人・放火・強盗・自殺…、といった事件の記事がほぼ半々くらいで載っている。一日いったいどれだけの人間が命を落としているのだろうか。ドラマやゲームといった、フィクションの中でしかありえなかったような事件が平然と起きているのである。テレビを消したり、ゲームをリセットしたりするような按排で済むことではないのだ。空恐ろしい限りである。

 雨は上がったものの、重たい灰色の雲が空を覆っている。雨が降ったせいか、腰が痛む。目もさえて、先ほどの続きを読もうと、紙を手に取った。

読んじゃうんだね

 八月三日(金)

 合宿の全予定は終了。明日帰るだけだ。
 気が重い。日記を書く気分ではないが、とりあえず書き記しておこう。飛鳥の口から意外な言葉を聞いた。いじめの原因は私にあるのだ、と。厳密にいうと、彼女が私に恋心を抱いているといい、そのことを知られ、いびられているのだという。
 去年もそういう子どもはいたが、あきらめ同然で、笑い話程度であった。ところが飛鳥の場合は違う。クラスでいびられるほどなのだから、その気持ちの純粋さがわかる。
 彼女には不思議な魅力があった。彼女の目を見ると、吸い込まれそうな、深い、悲しい瞳を持っていた。そして今日、その心の内を知らされ、どうにかしてください、と頼まれたのである。
 私はどうしたらいいのだろうか……。

読んじゃうんだね
 八月四日(土)

  無事帰宅。それどころではなかった。
 彼女は荷物を親に預けると私を喫茶店に、呼び出した。合宿の疲れもあってか、頭がボーっとしていた。そんな私を前に、彼女は今までのいじめられてきたことや私への想いをぶちまけた。私は適当に相槌を打ち、どう説き伏せるか、それで頭がいっぱいになっていた。しかしいざ彼女の目を見て話そうとすると、口が開かなかった。
 彼女の口から思いがけない一言を聞いた。あいつらを殺してほしい、と。それから後のことはあまり覚えていない。なぜか口をつぐんでしまっていたように思う。

私の手は震えていた。しかし、記憶をたどることを意識的に抑えていた。目を大きく見開いて、次の紙を手にした。
八月五日(日)

  飛鳥を守りたかった。

読んじゃったね

 そう、私は人を殺めたのだ。あの瞳に魅了され、体の歯止めが利かなかった。バイト先の住所録を調べ、いじめていた者たちを呼び出し、次々に殺していったのだった。飛鳥のところに行くと、彼女はもういなかった。話をもちかけたあの日、引っ越したようだった。そこからの記憶は出てこないが、精神的に病み、この病院に収容されたのだろう。
 ふらふらと立ち上がり、廊下に出た。丁度問診の時間だったらしく、入り口で看護婦と出くわした。
「ちょっといいですか?記憶がはっきりしました。聞いてください。私は人を殺しました。私の欲求を満たすだけのために人の命を奪いました。部屋にある日記が証拠です。今からでも警察に突き出していただいて構いませんから、連絡していただけませんか?」

彼はこれだけのことを一気にまくし立てると、いつもの沈うつな表情に戻った。いつもの老人の顔に。部屋の原稿用紙の山が、ばさっと床に落ちた。白服の女性がかき集め、紙を整理して机の上に戻した。

「畑埜さん大変ねぇ、ご主人。」
「いえ、あの人、作品を書く時だけああなるんですよ。確かに合わせるのは大変よ。わざわざ格好まで変えたりね。今回はもう二年になるかしら。」
「あの建物は?」
「あれは、主人が今回の作品を書くからって言って、特別に作っていただいたんです。今のあの人を見てると、あの人があの人じゃないようなんですよ。今は大学生の、横矢という人物みたいですけど、長年連れ添ってる私に敬語使うんですよ。おかしいったらありゃしない。それにあの人、最近ボケがひどくなってきてて、この作品に没頭したまま、帰ってこない気がするんです。あの建物を注文したのだって、とうの昔に忘れちゃってるんじゃないかしら。作品も進んでないみたいですし。まぁこのままぽっくり、なんてことになったら、それはそれで…。」
「まっ、奥さん、縁起でもないこと言っちゃあだめですよ。気持ちはわかりますけどね。それじゃ、飛鳥さん、晩御飯の支度がありますから、失礼しますね。」
「まぁ、飛鳥なんて呼ばれたの、何十年ぶりかしら。それじゃあね。」

重たい雲は、まだ空を覆っていた。

生きる
川崎裕子

 7月29日の朝だった。
 普段たいがいの物音では目覚めることのない私が飛び起きたのだ。相当な音だった。何が起こったのかまったく理解できなかった私は、しばらくの間ベッドの上で、寝ぼけ眼をこすっていた。セミがうるさく鳴いている。夏の晴れ渡った朝だ。
 階下からお母さんの叫び声が響いてきた。あの音といいこの叫び声といい、きっとただ事ではない何かが起こったのだ。勢いよくベッドから飛び降り、ドアを開け放った。いつもなら、床が抜ける!、と怒鳴られるような音を立てて、階段を駆け下りた。
 お母さんの声は洗面所から聞こえる。甲高い声で何かをまくし立てているが、早口すぎて聞き取れない。ほんとにいったい何なんだ!洗面所に駆け込んで私は言葉を失った。すぐには、何がなんだか理解できなかった。
水道や床に血が飛び散っている。お母さんが血を吐いたのだろうか。いや、そうじゃない。しゃがみこんでいるお母さんの前にはおばあちゃんが倒れている。おばあちゃんが血を吐いて倒れたのだ。
そこまで理解できても、そこから何をすればいいのかわからなかった。理解できた時点で、私の思考は完全停止状態に陥った。「何をすれば」の「な」の字も思い浮かばなかった。
お父さんの声で我に返った。電話で現状を伝えている。そうだ、救急車を呼ばねばならなかった。少しずつ思考は戻りつつあるが、その場から動くことができないでいた。

病院とはこんなにも殺風景な、凍てつくような空気の流れる場所だったのだろうか。真夏なのに寒気すら感じる。手術室の前を歩き回るお父さんの靴音が、病院中に響き渡っているようだ。
あのけたたましい救急車のサイレン音が耳について離れない。救命士はテキパキとおばあちゃんを救急車に運んでいった。お父さんが付き添った。だから私は車内でのおばあちゃんの状態を知らない。どうなってしまうのだろう・・・。一刻も早く出てきてほしい。
ほんとだったら、私は今頃テニスコートにいるはずだった。高校2年の夏休み。部活三昧の時期だ。でも、この夏はそんなこと関係なくなりそうな予感がする。あの血の量、いつまでたっても開かない手術室の扉。「一命は取り留めましたが・・・」、そんな医師の声が聞こえてきそうだ。そんなことになれば、部活にも行かない。補習だって行かない。塾だって、遊びにだって行くもんか!
案の定医師は「一命は取り留めましたが・・・」と言った。顔中汗だくで、手術服も濃い色と薄い色でまだらになっている。やっぱりすごい手術だったんだ。
おばあちゃんが寝台に乗せられて出てきた。駆け寄ってみたが、動かない。
「まだ麻酔が効いてますから。」
医師のその言葉と同時に、看護士たちはおばあちゃんを連れて行ってしまった。
「ご家族の方ですね。こちらへどうぞ。」
医師にそう言われ、三人とも重い足取りでついていった。お母さんはハンカチで目頭を押さえている。私だって泣きたい。
 診察室に通された。医師の表情は暗い。「一命は取り留めましたが・・・」の後に続く言葉はやはり悪い言葉なのだろう。そこは病院の廊下よりも冷たい場所だった。

 おばあちゃんの病気は癌だった。もう末期らしい。今までおばあちゃんが耐えてきた痛みは相当なものだ、と医師が言っていた。それに気づけなかった自分に腹が立つ。おばあちゃんはたまに、おなかが痛いと言っていた。ただの腹痛だと思っていたのに。まさか胃癌だなんて。ごめんなさい・・・。おばあちゃんは自分の病気についてどこまで知っているのだろう。医師があれこれと説明していたが、まったく耳に入ってこなかった。ただひとつ響き続けている言葉、「もっても後半年でしょう・・・」。ひどすぎる。

 あの病院の冷たさは、おばあちゃんも感じていたらしい。8月お盆を過ぎたころ、おばあちゃんは転院したいと言い出した。「家に帰ってもあんたたちに迷惑かけるだけだから、どこか海辺の病院を探しておくれ。」何度も何度も頼むので、両親は転院先の病院を見つけ出した。主治医の先生ともよく相談した上で、転院が実現した。
 ここは病院という感じがしない。海辺にあり、病院の庭から直接海岸に出て行ける。庭には緑がいっぱいで、ベンチの上にはほどよい木陰ができている。院内も木が多く使われている。鉄筋の真っ白な病院とはぜんぜん違う。各病室はそれぞれがほぼ個室になっている。二人部屋が最大らしい。もちろん各部屋にも木が多く使われている。大きな窓からは海が見える。太陽がいっぱいに入ってくる。なんと部屋には2つベッドがある。1つは患者のものでもう1つは、付き添いの者用に置いてあるのだそうだ。応接セットも置いてある。やっぱり病院という感じがしない。おしゃれなロッジの一室かとさえ思えるほどだ。おばあちゃんはこの部屋で何を思っているのだろう。

 「おばあちゃん、大丈夫?ねぇ、大丈夫?しっかりして!」
「・・・美樹。早く・・・、早く看護婦さんを呼んどくれ。」
「すいません、おばあちゃんが苦しんでるんです!早く来てください!」
ナースコールに必死に呼びかけた。癌の痛みはやっぱり相当なものだ。半分その痛みをもらってあげたい。ベッドの上で身をよじらせてうなり声を上げるおばあちゃんを見ているとほんとにつらい。
「小山さん。どうしました?大丈夫ですか?」言いながら、若い看護士が入ってきた。手にはいろいろな医療器具と薬を入れたトレイを持っている。
「大丈夫ですか?お薬飲みましょうね。少ししたら楽になるからね。はい、お口開けてください。」
看護士はどんどんとやるべきことをこなしていく。そのうちにおばあちゃんの痛みも少しはましになってきたようだ。呼吸が少しずつ落ち着いてきた。
「小山さん、これでまたしばらくの間は大丈夫だと思うから。また、何かあったら呼んでくださいね。」
「ごめんねぇ、中村さん。ありがとう。」
「いいの、いいの。気にしないでどんどん呼んでよ。」
「ありがとうございました。」
看護士は笑顔で去っていった。
 「おばあちゃん、大丈夫?少し寝る?」
「いいや、大丈夫だよ。急にあんな痛みがきたからびっくりしたよ。」
「うーん。疲れてない?」
「ほんとに大丈夫だよ。」
「お母さんたち何やってんだろ?すごい遅いと思わない?」
「・・・どっかで買い物でもしてるのかねぇ。ねぇ、美樹。お日様があんなにきれいに見えるよ。」
「うわぁ、ほんとだ。すごい夕日!きれい・・・」
「ここはあんなにきれいなお日様がみえるんだねぇ。」
 ここにやってきて、今日で4日目になる。3日目までは雨降りか曇りだった。この部屋から夕日を拝んだのは今日が初めてになる。おばあちゃんがここに入院してから、私もずっとここで寝起きしている。ずっとおばあちゃんの隣にいる。
 「おばあちゃん・・・、私よくわからないんだけど、普通ね、癌って放射線治療とかするんじゃないの?」
 おばあちゃんはここに転院してくるときに、自分の病名・病状について、前の主治医から詳しく説明を受けている。それまでにも、自分でうすうすは感じていたらしい。だから、別段取り乱す様子もなかったし、落ち込んでもいないように見えた。
 「そうだねぇ。普通ならそんなことするんだろうね。」
「普通なら、ってどういうこと?」
「おばあちゃんがね、先生に頼んだのさ。」
「どういうこと?」
「・・・。そのことについてね、今ごろお母さんたちは先生から説明を受けてるはずだよ。」
「ちょっと、母さん!」
おばあちゃんが言い終わるか終わらないかのうちに、ドアを乱暴に引いてお母さんが入ってきた。
「私たちはそんなこと絶対に許さないわよ!」
「そうですよ、お義母さん。お母さんには少しでも長く生きてもらわないと。」
「・・・そんなこと言われてもねぇ。」
「私たちはぜんぜん負担じゃないんだからね。治療費のことなんて、おかあさんは気にしなくていいのよ。だから、お願いだから治療を受けてちょうだい。お母さんが気に入る病院、私と和夫さんで一生懸命探してきたんじゃない。居心地のいいところに来たんだから、治療に専念してよ。」
「お義母さんが、治療に専念できるように、こんないい自然環境のところをみつけだしたんですよ。しかも、ここが運良く空いてたんだ。せっかく思いどおりのところに来れたんだから。」
「そんなこと言ったって、私は後半年ほどしか生きられないんだよ。つらい治療に耐えたとしても、寿命はそんなに延びないよ。」
「いい環境に身をおいて治療を受けて、後は患者の気持ちさえ健康だったら、癌も治っていく、っていう話最近よくあるじゃないですか。長生きして、美樹の花嫁姿を見て、初孫も抱いてもらわないと。」
「・・・私はね、そうまでして生きたいと思わないんだよ。確かに美樹の花嫁姿も初孫も見てみたいよ。でもね、私は自分に与えられた命だけを生きたいんだよ。」
「・・・ねぇ、いったい何なの?お父さん、お母さん、私にも教えてよ。ねぇ、おばあちゃん!」
「・・・とにかく、私たちは絶対に反対ですからね!」
 おかあさんは目にいっぱい涙をためて、部屋を出て行った。お父さんもお母さんの後を追って出て行った。おばあちゃんはじっと夕日を見つめている。さっきの話から、だいたいの察しはつく。でもちゃんと聞きたい。ちゃんと知りたいのに。
 その晩、お母さんたちは家に帰っていった。私は今までどおりおばあちゃんの病室に残ったものの、じっと外を見つめ続けるおばあちゃんに何も聞くことができなかった。おばあちゃんは何を見ていたのだろう。夕日なのか、雲なのか、空なのか、海なのか、月なのか、星なのか・・・、それともおばあちゃんにしか見えない何か、を見ていたのだろうか。

 「美樹・・・、おばあちゃんね、無理に生きたくないんだよ。昨日お母さんたちはあんなに反対してたけどね・・・。」
散歩に出たい、と言ったおばあちゃんを車椅子に乗せて、庭に出てきた。8月の末でも夏の陽射しはまだまだ厳しい。潮風が頬に心地いい。木陰のベンチに並んで座った。おばあちゃんとこんな風にベンチに並んで座るなんて、いったい何年ぶりなんだろう。いくら同居してるといっても、なかなかこんな機会はなかった。小学校の低学年以来だろうか・・・。それなのに、おばあちゃんの口から出た言葉は、とてもショッキングだった。
「・・・生きたくない、ってどういうこと?」
「生きたくないっていうかね、生かされたくないんだよ。もちろん今だっていろんな人のお世話になって生きてるんだから、生かされてることにかわりはないんだけどね。でもね、毎日毎日数え切れないくらいの薬を飲んで、点滴されて、すごい痛みに耐えて、おっきな機械に通されたり、体にいろんな管をつながれてまで生きたいと思わないんだよ。美樹にはこんな気持ちわかるかい?」
「あんまりわからない。・・・だって、私おばあちゃんにはもっと生きててほしいもん。」
「おばあちゃんだってね、健康な体だったらもっともっと生きてたいよ。昨日お父さんが言ってたみたいに、美樹の晴れ姿とか見てみたいよ。でもね、今頑張っていろんな治療して、命を先延ばしにしてもね、美樹が成人や結婚するころには、おばあちゃんただ生きてるだけかもしれないよ?息をしてるだけで、何にも見えてないかもしれない、聞こえてないかもしれない。そんなのって嫌じゃないか。ちゃんと自分の意思があるうちに死を迎えたいんだよ。・・・・・・そういうことをね、この病院に来たときに、主治医の河野先生に話してたんだよ。じゃあ、『ご家族の方ともよく相談しましょう。』って。それを昨日お母さんたちが聞かされてね、あんなに怒ってたのさ。」
 涙がこみ上げてきた。
「おばあちゃんは、死ぬのが怖くないの?」
「そりゃ怖いさ。」
「じゃあ、もっと生きてよぉ・・・」
「怖いけどね、でもね、自分で生きてるのか死んでるのかもわからない状態になっちゃうことのほうがね、もっともっと怖いんだよ。」
「・・・・・・」
「美樹はね、小さかったから覚えてないかもしれないけどね、おじいちゃんが死んじゃうとき、どんなだったか覚えてるかい?」
「覚えてない・・・。そのとき、まだ3歳くらいだったから。」
「おじいちゃんもね、胃癌だったんだよ。最期のほうにはね、ずっと点滴されてて痩せ細っちゃってね。見てられないくらいだったよ。おじいちゃんってね、背の大きい人で、体格も結構あったんだよ。その人がね、いつの間にかみるみる小さくなっちゃって。見ててすごくつらかったんだけど、やっぱり一番つらいのはおじいちゃんだろ?だからおじいちゃんの前では泣かないようにしてたんだ。でもある日泣いちゃったんだよ。病室で2人きりになったときにね、おじいちゃんがね、『迷惑かけてすまないなぁ。こんなことならぽっくり死んじまってればよかったんだけどな。こんな管で生かされてるなんて、情けないよなぁ。』って言ったの。おばあちゃんそれ聞いて悲しくて悲しくてね。おじいちゃんの目の前でわんわん泣いちゃったよ。そのときはね、おじいちゃんが本当に言いたかったことがわからなくてね、『死ぬなんて言わないでくださいよ。私はあなたに生きていてほしいんですよ。あなたが生きていてくれて幸せなんですよ。』って言ったのさ。ちょうど今の美樹やお母さんやお父さんみたいにね。それから一月くらいしておじいちゃんが死んじゃって、少し落ち着いてから、おじいちゃんの言った言葉の意味をもう一回考えてみたんだ。おじいちゃん本当は、こんな生かされてる状態は嫌だ、って言ってたんじゃないのかなぁって思ったんだ。そしたらね、自分がおじいちゃんに言った言葉がすごく失礼に思えてきてね。私の幸せのために無理して生きてください、って言ったようなもんだろ?・・・」
おばあちゃんの目にも涙が光っている。声も少し震えてる。私も流れる涙を止められないでいた。
「・・・おじいちゃんね、死ぬ二週間くらい前からね、意識がなくなってたんだ。放射線とか抗がん剤とかの影響だったのかなぁ?そんなおじいちゃんの姿思い出したらね、おばあちゃんはおじいちゃんの生きたかったように生きてみようって思ったんだ。生かされるんじゃなくて、生きられるだけを精一杯生きてみよう、ってね。だからね、今は痛み止めの薬にだけ頼って生きてるんだよ。おじいちゃんがずっと見たいって言ってた海を見ながらね。美樹はわかってくれたかい?おばあちゃんとおじいちゃんの気持ち。」
 涙があふれて、しゃくりあげてしまって声にならなかった。ただうなずくだけしかできなかった。おばあちゃんは一生懸命生きようとしている。おじいちゃんとともに生きている。おばあちゃんを応援しようと思った。家族のために生きてもらうんじゃない。おばあちゃんはおばあちゃん自身のために生きるんだ。お母さんたちを説得しよう。おばあちゃんとおじいちゃんの生き方をわかってもらおう。
「病院はね、土曜日や日曜日は休みになるけどね、病気には休みがないんだよ。毎日毎日闘っていないといけないんだよ。どんなに疲れても、自分で生きてるって自覚できる間は、闘わなけりゃいけないんだよ。・・・病気にも休みがあったらねぇ、寿命ももうちょっと長くなるのにね。」
そう言っておばあちゃんは笑った。自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
「さぁ、そろそろ病室に戻ろうか。泣くのはもうおしまいにして、ね、美樹。」

 私がおばあちゃんの気持ちを聞いた夜、お母さんたちは病院に来なかった。どんなふうに説得するか一晩考え抜いた。やっぱり、おばあちゃんの言葉をそのまま伝えるのが一番だと思う。昼、バスと電車を乗り継いで3時間かけて家に帰った。お父さんが仕事から帰ってくるのを待って、2人を前に精一杯の説得を試みた。涙が止まらなくて、声にならなくて、うまく言えたかわからない。
 その晩2人で夜通し話し合ったようだ。朝、お母さんの目は赤く腫れていた。
「美樹、お母さんたちもおばあちゃんのこと応援するわ。美樹がおばあちゃんのこと理解して、あんなに一生懸命話してくれたんですものね。おばあちゃんとおじいちゃんの気持ちがわかってよかったわ。ありがとう。」
そう言いながら、お母さんはまた泣いた。
「美樹、こうと決まったんなら、できるだけ誰かがおばあちゃんのそばにいてあげるほうがいいんじゃないかと思うんだ。だから、平日は、美樹とお母さんで、交代で病院に行ってあげてくれないか?まだ夏休みだし、当分は大丈夫だよな?土日には、お父さんも行くようにするから。」
「うん、もちろん大丈夫。私できる限りおばあちゃんのそばにいたいの。」
「よかったよ。ありがとう、美樹。」
 残り少ない夏休み。残り少ないであろうおばあちゃんの命。できるだけ大切にしたい。
昼、昨日来た道を戻って病院に帰った。
おばあちゃんに、お母さんとお父さんのことを話したら、本当に喜んでくれた。おばあちゃんの肩や腕をさすりながら話していたら、なんだか悲しくなった。おばあちゃんの腕が痩せ細ってしまっている。骨と皮だけのようになってしまっている。いつに間にこんなに痩せてしまっていたのだろう。私よりも背が高かったのに、今は私を見上げるようにしている。いったい、いつの間にこんなに小さくなってしまったのだろう・・・。すごく悲しかった。

9月、2週目の日曜日。
おばあちゃんは自分の命を精一杯生き抜いた。ほんの少しだけ、秋の空が見え始めたころだった。
抵抗力の弱くなっていたおばあちゃんは、肺炎にかかってしまった。9月のはじめ、いったん夜の気温がぐっと落ち込んだ。その2、3日後にまた夏の夜へと戻ったが、おばあちゃんはその気温変化についていけなかったらしい。ずっとそばにいたのに・・・。おばあちゃんを守ってあげることができなかった。
最期の日、おばあちゃんはほんとに苦しそうだった。自力ではうまく息ができないようで、人工呼吸器がつけられていた。おばあちゃんのベッドの周りには、たくさんの機械が置かれていた。その機械が、ピー、っという嫌な音を鳴らして画面に横に一筋に線を引いた。その間、河野先生や看護士の中村さんたちが心臓マッサージをしたりしてくれた。でも、おばあちゃんの意思をよく知っていた先生たちは、それ以上のことをしなかった。お母さんもお父さんも、
「それ以上は結構です。ありがとうございました。」
そう言ったきり、一言も口を開かなかった。

 おばあちゃんの顔はとても安らかだった。あんなに苦しんでいたのに、息を引き取ったときには、私の大好きなとても優しいおばあちゃんの顔になっていた。生きられるだけを闘い続けて生き抜いた、満足の笑みなのだろうか。おじいちゃんに会える喜びなのだろうか。
 おばあちゃんはとてもかっこよかった。おばあちゃんの一生を知ってるわけじゃない。でも、私にとっては、最後の夏の約1ヵ月が、おばあちゃんが一番輝いているときだった。一生懸命生きているとき、生きようとしているときが、人間が一番輝く瞬間なんだ。8月の終わりに家族4人で撮った写真。誰よりも、一番おばあちゃんが輝いている。

青林檎
坂本昌樹

今から紡ぐ言葉たちは、あなたが昔に置いてきたものかも知れない。人は常に何かを捨て、何かを拾って生きていくものだから。だから、生きていくってことはつらい。でも、捨てたものはふとした拍子に心の深淵から浮かび上がってくることがある。そのとき、あなたはまだ熟れきっていない青林檎をかじっているような気分にならないだろうか。
 カリ、シャリ、シャリ、シャク、シャク、ゴクン。
 口の中から沸き立つ香り。それは鼻腔を通り、決して甘いだけでなく、鼻を刺すような独特の酸っぱい香りで、ときに涙をも誘う。
 口に広がる味。まず甘みが、次に酸味が口の中で勢いよく踊り出す。その踊りは、荒々しくも、繊細で、さながら海のようにも思える。
 全ての構成要素が、瑞々しく、未熟。しかし、何物にも変えがたい甘美な存在。
あの頃のあなたにとって全てが新鮮だったように、その味わいもまた新鮮。
その喜びは切なさを含む、ある種マゾヒストが感じるそれに近いものがあるのかも知れない。

 烏が鳴いて、ボクは目が覚めた。どうやらウトウトとしていたようだ。空は蜜柑色にほんのり染まり、昼間のような気だるい蒸し暑さは息を潜め、変わって涼しさが一陣の風に乗ってその存在を主張し始めていた。
 もう夏休みに入ってずいぶんと経つ。日ごろのように時間に縛られることもない。学校の時間だと母親に起こされることもない。急いで、学ランに袖を通し、鞄を襷がけにしょって、自転車に飛び乗り、滝のように流れる汗に苛々しながら学校に向かったことも遠い昔のことのように思える。
 ボクはボーっとしながら、天井を見つめた。まだ、頭が上手く回ってくれない。今日は何か用事があったように思える。とても大事な用事が。
 何だったかな。
ボクは、頭を振った。記憶が篩に掛けられた小麦粉のように落ちて行く。そして、篩に残っただまのような記憶をその形が崩れないようにそっと拾った。
 ああ、そうか。今日は隣町で夏祭りがあるんだった。
寝返りを打って、ボクは時計に目をやった。時刻は4:50になろうとしていた。
 そろそろ着替えなきゃ。
ボクは洋服箪笥から、白地にトランジスタがデザインされたTシャツと、膝の部分がかなり色落ちしている濃紺のジーンズを取り出した。二つとも、ボクの細身にフィットするサイズだ。
 髪も直さなきゃ。
ボクは、生来の赤茶色がかった猫毛を慣れた手つきで整える。
 そういや、髪がずいぶん伸びたな。最近、散髪いってないからな。
そんなことを思いながら、寝ぼけた頭を起こすために、何度も水をすくって顔を洗った。冷たさが心地よい。止まっていた時間が動きだすようだった。
 そろそろ行くか。
ボクは、財布をポケットに入れて、家を出た。隣町に行くためには、電車に乗らなければならない。足を駅へと進める。途中で、顔見知りに会わないことを祈りながら。
 だんだんと歩みが速くなる。灰色の電柱や、茶色の塀、緑色の葉っぱ、蕨もち売りのおじさんの白く濁った透明の蕨もち、黄色と黒の踏切。
 駅に着いた。少し息が上がっている。ボクは息を落ち着けながら、財布から150円を取り出した。
 ほんの2、3年前は80円だったのに、時が経つのは早いな。
そんな大人みたいなことを考えながら、切符を買って、改札口に向かった。駅員さんに切符を切ってもらって、ホームへと入る。
 雨が降らなくてよかったな。
空はもう薄暗くなっていた。幾筋かの紫がかった雲と、一番星が淡く輝いているのが見える。ボクは淡い輝きをボーっと見ながら、そう思った。
 プラットホームに横から強い光が差して、電車が滑り込んできた。ボクは、その電車に乗った。車内には2、3人が座っているだけで、顔見知りは誰もいなかった。ボクはホッとした。いつもなら退屈だが、今日に限っては顔見知りには会いたくない。たった一人を除いては。
 なんかドキドキしてきた。
何もすることのない電車の中に入ると、意識していなかった緊張と期待が入り混じった感情が急に気になって、落ち着かない。ボクは座席に座らずに、入り口の吊り革に掴まった。
 しばらくすると、電車が動きだした。ガタンゴトンと音が鳴り、振動が身体に伝わってくる。
身体に伝わった振動は心臓とリンクする。加速とともに鼓動が高まる。窓の外で世界が溶けていく。溶けた世界は川のように流れて行く。元々、夜になれば真っ暗になるくらい何もないところなのだが、今日はいつも以上に輪郭が掴めない。緊張が生むかすかな不安が頭をよぎる。
 ほんと田んぼばっかだよな。
ボクは闇を振り払おうと、友達と交わす何気ない会話で良く使われる言葉を頭の中でつぶやき、目を凝らすようにして外を見た。緑色の稲が気持ちよさそうに風に身を委ねているのが見える。そして、空には月が・・・。
 あ、今日、満月だ。
月はまんまるに、それでいてどこか引っ込み思案な子どものようにうっすらと満ちていた。ボクは思わず軽い笑みを浮かべる。
 なんかアイツみたいだな。
緊張が音も立てずに消えていった。時間が確かに流れていくのを感じた。
  

 ガタンゴトン、ガッタン・・・ゴットン・・・・・ガッタン・・キー。
電車が駅に着いた。駅の時計を見る。時刻は6:00くらい。
 ちょっと急いだほうがいいな。
ボクは改札口をまるで徒競走のスタートラインのようにして走り出した。人を避けながら、街を颯爽と駆けていく。大通りを抜け、左手の方向に曲がる。水路を右手にわき道を走る。橋を渡り、徐々に神社へと近づいていく。バスがボクを追い越していく。ボクは息を切らせながら、それを
目頭で捉え、負けるものかとさらに速度を上げる。しかし、バスはさすがに速い。すぐに姿が見えなくなってしまった。それでも、ボクはバスの幻影とでも競争するように脚を必死で動かし続けた。神社の境内へと続く道がおぼろげに見えてくる。その道はだんだんと鮮明になっていく。
ボクはブレーキをかけてスピードを落とした。ゆっくりと景色がもとに戻っていく。
 ハアハア・・・やっぱ、これだけ走るとしんどいや。
膝に手を当てて、肩で呼吸をする。地面がすぐ近くで上下しているように見える。その揺れが治まっていく。ボクは上半身を起こし、前を向いた。道が2本ある。1つは境内へと続く道、もう1つは神社の周りの森に続く道。境内へと続く道は、お祭りに行く人たちで混雑している。ボクは森に向かった。ゆっくりゆっくり、動悸を抑えながら、気持ちを落ち着けながら。

 空気が爽やかな植物の香りに支配されたそこはまさに時間の澱のようだった。普段から人があまり通らない場所だが、今日は予想通り誰一人として通る人がいない。すぐ近くでお祭りが行われているはずなのに祭囃子の音もここには届いてこない。聞こえるのはせせらぎの音と、鳥の鳴き声、そして澄み切った虫の声だけ。青々とした木々は月明かりに照らされて、乳色の靄がうっすらと立ち込め、輝く青、赤色の蝶、蛍の発する光がまるでイルミネーションのように煌めいていた。そして、小川のすぐ近くにキミがいた。
 キミは薄い青色の生地に橙や、赤、黄色の蝶が舞っている浴衣を紫の帯で留めて、肩甲骨くらいまである長い黒髪を結わえ上げた姿で立っていた。学校で見慣れているはずのキミを、ボクは眩しいものを見るように目を細めて見た。そんな神々しいものを見るような視線に気づいたのか、キミはこちらを振り返り、ちょっと恥ずかしそうに微笑んだ。ボクはなんだか照れくさくて、少し顔を背け、頬を人差し指で掻きながら苦笑いをし、キミの傍に行った。
50センチメートルくらい距離を置いて木にもたれながら、ボクたちはたわいもない話をした。お互いの友達のことや、家での出来事、夏休みの宿題のこと、その他最近の面白い話。もっとも詳しい内容は覚えていないけれども。なんだか沈黙が怖くていつもよりも多分に饒舌だったように思う。印象に残っているのは、石鹸の香りだけ。
石鹸の香りって、こんなにも心臓を高鳴らせるものなのか。
そう思ったことだけはよく覚えている。
 会話のネタは無限にある訳じゃない。しばらくすると口数は減っていき、ついにはお互いに黙ってしまった。約束していた夏祭りに行けばいいのに、なんだかここを離れるのが嫌でボクは頭を木に預け、空を見た。無数の星が輝いているのが見えた。そう、まるで光の雨が降ってくるような夜空だった。
 星、綺麗だよ。
そう言おうとしたとき、ボクは不意に左手にぬくもりを感じた。キミの右手が震えながらそっと触れていた。鼓動が高鳴るのがわかった。トクントクンがドクンドクンと、ドクンドクンがバクバクへと変わっていった。心臓の音が、世界中の人に聞こえやしないかと心配になった。体中の血が沸騰し、体温が異常に上がっていった。ボクは動揺を隠すように、一呼吸ついた。そして、まるで宝物を真綿で包む様にキミの手を握った。キミの手は血の通ったガラス細工のようだった。強く握ったら壊れてしまいそうに思えた。同時に、ボクたちが生きるこの世界よりも大切に思えた。ボクたちの距離は縮まっていった。肩が触れ合い、キミの鼓動を感じた。ボクの鼓動もそれに呼応するように激しくなった。
ヤバイ。このままだと本当に死ぬ。
そう思った。真実、心臓が張り裂けんばかりに脈うって、痛いくらいだった。でも、とても幸せな気持ちがした。
このまま死ぬならそれでもいいかな。
そうも思った。ボクたちはお互いの視線を交錯させ、それからゆっくりとしゃがみこんだ。

 永い、永い時間が経ったように思えた。夜空を、花火が彩り始めた。ボクの鼓動はいつしかおさまり、キミは頬を赤らめながら、嬉しそうに空を見ていた。そんなキミをボクはずっと見ていたいと思った。
ずっと傍で笑っていてほしい。
そう思った。何故だかわからないが、涙がこぼれそうな気持ちになった。その涙は心の外壁を伝わり、内部を潤してくれそうに思えた。

 空に咲いていた七色の花が枯れ、その残滓が消えていった。ボクはキミの大きな目を見た。キミもボクを見ていた。ボクたちは無言で立ち上がり、境内へと歩いた。
境内は、金魚すくいや、綿菓子などの出店が軒を連ね、人々の熱気でとても暖かかった。ボクたちはそこで、300円の林檎アメを二つ買った。真っ赤で艶があり、指先に確かな重さを感じる林檎アメだった。ボクはそれを右手で、キミは左手で持ち、舐めながら境内を歩いた。また、たわいない、しかし先刻よりずっと楽しい話をしながら歩いた。人がいるので多少の恥ずかしさがあったが、繋いだ手は離さなかった。この時間が永遠に続けばいいと思った。

「おーい!!」
後ろから誰かが呼ぶ声がした。ボクたちは急いでお互いの手を離して、声のした方向を見た。そこにはボクの友達、それからキミの友達のグループがいた。そのとき、急に二人きりで来たということがとても恥ずかしいことのように思えた。だから、ボクたちはお互い偶然会っただけだと言った。ボクたちはお互いの友達と一緒に遊ぶことになって別れた。別れ際、友達に気づかれないように後ろを振り向くと、キミもこちらを振り返った。キミは友達に気づかれないように、ボクに笑顔で小さく手を振った。ボクは照れ笑いでそれに応えた。

 
 ボクは友達たちと一緒に金魚すくいや、射的の出店で遊んだ。それから神社の裏の石段に腰掛け、いつものようにくだらない話をした。今日の祭りでの出来事や、夏休みの宿題、最近の面白い話。周りはすっかり暗くなっていたので怪談めいた話なんかもして、とても盛り上がった。ボクは案の定、キミのことについて訊かれた。ボクはアイツとは偶然会っただけで何とも思ってないと言って、林檎アメを齧った。中の林檎はまだまだ青く、とても酸っぱかった。

プラスマイナスゼロ
竹中 愛

私は学校が嫌いではない。だが、月曜日と水曜日になると、いつも憂鬱になるのだった。
「茜ちゃん、朝よ」
どこかで女の人の声が聞こえる。声の主が自分の母親だとわかって目を開けるまでに、少し時間がかかった。
意識がはっきりしてくるにつれて、汗を大量にかいている事に気づいた。今日も暑いんだろうなと、額の汗をぬぐった。
仰向けの体制のままで、手を頭のほうに伸ばして枕元をさぐる。いつのまにか枕の下のほうに移動していた時計を見つけ出すと、顔の前までもってきた。
「六時かあ」
 時計を見ながら、私は思わずため息をついた。
「学校いきたくないなあ・・・・・・」
 居間に入ると、母が台所で洗い物をしている最中だった。この暑さなのでクーラーがかかっているかと期待したが、扇風機だけが活躍していた
「おはよう、茜ちゃん」
「おはよう」
朝の挨拶を交わして食卓につくと、テーブルの上にはすでに、朝ご飯とお昼のお弁当が用意されていた。朝ご飯はいつもトーストと、お弁当のおかずの余り物となっている。それに加えて季節によって、インスタントのコーヒーか、麦茶が用意されるのだ。今日は七月九日水曜日、最高気温三十七度。よって麦茶である。
イスに座ったものの、食欲はなく、テレビの朝のワイドショー番組をぼんやりと見ていた。テレビはテーブルがある居間ではなく、襖がはずされて一続きなっている、となりの和室にあった。テーブルとテレビの位置関係から、顔を横に向けなければならない。
テレビの画面にうつし出される時間表示を見ると、起きてから二十分が経過していた。
足元の扇風機は空気をかきまぜるだけで、熱風で汗がよけい出てくるように感じた。
「ぼーっと止まってないで動きなさい。時間はどんどん過ぎてくわよ」
着替えすらすませていない娘に、母親の叱咤がとんできた。
通っている高校まで行くには、バスに乗らなければならない。そのバス停はここから徒歩十五分かかる場所にあり、七時には家を出なければ行けない。
学校に行かなくてはならないと思うと、さっきよりも気が余計に重くなる。つい、いつもの愚痴を言ってしまった。
「はぁ、学校行きたくないな。」
ほんの小声で言ったつもりだったが、母には十分、聞こえていたらしく、こっちを振り返った。
「また始まった。朝からぐずぐず言って、嫌になるわ」
 少々いらいらした調子で母は言った。月曜と水耀の朝は、大抵この調子である。毎度のことに、母も疲れているに違いない。
 母の気持ちがわかりながらも、私がつい毎週同じ愚痴を言ってしまうのは、それ程までに重大な悩みだったからである。
「はい、体操着と運動靴はこの袋に入れてあるから、さっさと制服着替えてかばん持ってきなさい」
 そういって母は、テレビのある和室の押入れから、赤いチェック柄の手提げ袋を出してきた。母からそれを受け取ると、私は疎ましげに悩みの元凶である白い布地を見つめた。
私は体育が大の苦手であり、最も嫌いな科目だった。
徒競走ではいっつも最下位、バスケでは数合わせ、体力テストでは判定ランク外という、典型的な運動オンチである。
高校生活自体は楽しくて嫌いではないのだが、体育の授業がある月曜日と水曜日は憂鬱でたまらなかった。
 母の言葉には腹が立ったが、自分でもぐちぐち言っても、仕方の無いことだとわかっているため反論できない。椅子に座ったままじっと俯いていた。冷や汗なのか暑さのせいなのかわからない汗が、じんわりと額ににじんでいた。
「学校行かないの?」
母が追い立てるように言った。
――さすがにこれ以上じっとしてたら、怒り出すだろうな――後がこわいので、仕方なく着替えることにした。
母は、私が学校に行くのを嫌がっても、無理に行かせようとする人ではない。むしろ、「だったら好きにしろ。行くな。」と言う人だ。「行け。」と説教されるのもごめんだが、「行くな。」と言われても私は困ってしまう。この不況時に、大学までちゃんと出ておかないと就職の時に困るだろうし、高校中退では後先がないのは確実だ。安定したルートを歩むには、たった一教科の苦手科目ごときで、学校を休むなんてあまりにばからしい。
だけども、そこまでわかっていながらも私は体育が嫌で仕方なく、考えを何度もループさせてしまうのである。
いつも口にする愚痴にしても、もしかしたら、「体育見学しなさい」という返事をもらえるかもしれないという、期待を抱いてのこともあるのだが、実際の反応は「学校行かないの」や「学校やめたら」であり、私の望む言葉を返してはくれない。失望すると同時に、他人の決断を頼りにする、自分の優柔不断さが時々いやになった。
母の声が怒声に変わる前に、観念して制服に着替えに、自分の部屋に戻った。

高校前のバス停を降りると、冷房のきいた車内から一転、むうっとした暑さが襲ってきて、校門につくころには体じゅうが汗でべとべとしていた。
そばに植えられている桜の木は青々と健康そうな葉を繁らせ、一帯にセミの大合唱がこだましている。
正門からまっすぐ歩くとすぐに校舎に着く。そこから左に進むとプールと体育館があり、そのまた向こうにはグラウンドがあった。校舎と体育館との距離はそれほどないが、入り口が裏側にあるために、遠い回り道をしなけれなればならなかった。一限目が体育だったりすると、ある程度余裕をもってこなければならないので大変である。
運が悪いことに、私たちのクラスは一限から体育があった。校舎には入らず、まっすぐ体育館に向かった。
体育館横の更衣室に入ると、友達の早紀の姿を見つけた。後姿だったが、独特の天然パーマのかかった髪のおかげですぐにわかった。
「おはよう、早紀」
「あ、おはよう茜ちゃん」
「今日も暑いね、制服着てるだけでうっとおしいよ」
「そうだよねぇ、カッターなんか体にはりついてちゃってるもんねえ。クーラーつけてくれたらいいのに」
早紀はそういって手で仰いだ。セメントでかためられた更衣室は、換気が悪く、とても汗臭い。外の空気を一刻も早く吸いたくて、早紀の横に荷物を置くと着替え始めた。
「クーラー欲しいけど、絶対無理だろうね。貧乏だもん、うち」
「廊下にアリが歩いてるぐらいだから」
 私と早紀は声をあわせて笑った。この前、どこから入ってきたのか、三階の廊下の端から端まで、アリの行列が威風堂々と歩いていたのだ。
「こういうとき、私学がうらやましくなるよ」
「うん、そうだね・・・・・ところで茜ちゃん。今日、バレーの試合だって知ってた?」
「えっ、知らない、今日バレーなの!?」
「なんかねえ、総当たり戦みたいなのやって、一番負けたチームにはモップがけさせられるらしいよ」
「うわー・・・・・・」
 最悪の結果になった。運動種目に好きなものなんてないが、バレーボールは特に嫌いだった。厳密に言えば、バレーのサーブの順番とポジションが変わる、ローテーション制が嫌なのだ。
 個人競技の場合、自分がいやな思いをするだけですむ。私はすでにこの場合はかまわなかった。
 だが団体競技には他者の利益も関わってくる。私はそれが苦手だった。自分のせいでチームメイトに迷惑がかかると、とても申し訳ない気持ちでいっぱいになる。そして、失敗ばかりする自分を呪いたくなるのだ。
「あーあ。私と一緒のチームになる人かわいそう。絶対モップがけだもん」
「大丈夫だって」
二割冗談、八割本気でつぶやいた私に、すかさず早紀のフォローが入った。
「茜ちゃん、そんなに下手じゃないよ。さ、行こう。あと五分しかないよ」
「まあ、周りの人がすごく上手ければいいわけだけど」
それでも私は足を引っ張るんだろうなと、思ったが口には出さずに、空気のこもる更衣室を後にして美貴と一緒に体育館に向かった。

案の定、私は役に立たなかった。
モップがけこそまぬがれたものの、サーブが回ってくるたびに見事にネットに命中させ、妨害行為ばかりやってしまった。
それでも今日一番嫌な授業を乗り越えると、解放された気分になった。教室に戻り窓側ある自分の席に座ると、とてもいい気分になって大きく伸びをした。
開け放された窓から、風が入ってくる。運動のあとの、大量に汗をかいた体には心地よかった。
カバンから水筒を出して、きんきんに冷えたお茶を飲んでいると、二限目の授業開始を告げるチャイムが鳴り響いた。
「これでもう、今日は何も心配する事はないなあ・・・・・・」
 二限目以降は、数学、日本史、国語・・・・・・教室から出る事はない。椅子に座ってじっとしていれば、そのまま時間が過ぎていく。
 ところが今日は、そうはいかなかった。
「この前の小テスト返すぞー」
 先生の言葉に、クラス中がざわめきだった。
「いつも通り、四十点以下の人は追試だ。明日の昼に数学準備室にくるように。あと、十点台の人が二人いたぞ、次は良く復習してくるように」
「返さなくてもいいのに」という声があちこちから漏れた。先生は苦笑しながら、チョークで大きく「平均点四十五点」と黒板に書いた。
 数学の小テストは、いつも難しい。平均点が六十点以上になることはなかなかない。もう少し解ける問題を用意して欲しいのだが、数学の先生というものは、生徒にいい点を取られるのが嫌なのかもしれない。
 テストが返されていくたびに、私はどきどきし、憂鬱感がまたおそってきた。私は数学が得意なほうではなく、テストでは、いつもボーダーラインぎりぎりのところにいるからであった。今回のテストは特に自信がなかったせいもあった。
 答案に赤ペンで「十六点」と書かれているのを見たとき、私はなにか重いものを一気に背負わされたような気分になった。
(再試決定・・・・・・しかもクラスで最低ランクだ)
 最低――そう思うと思わずこみ上げてきて、目頭が熱くなった。泣き顔を見られたくなくて、授業中はずっと寝たふりをしていた。
こういう時になると時々思う。
私は運動が全くだめだ。でも、だからといって勉強ができるのかというとそうでもない。まだ得意な方な国語や社会系でも、一番を取れるほどではなく、苦手な数学や英語になると、下から数えた方が早いような点をとってしまう。不器用で、料理も裁縫も上手くできないから、家庭科はいつも並の点である。
私は体育が大嫌いで苦手だ。しかし、他の教科も嫌いではないけれど苦手だった。
そんな自分を省みて思う。運動オンチで、頭も並で、不器用で、凡人以下なんじゃないかと。
自分は、なんてつまらない人間なんだろう、と。
休憩時間になると早紀がやってきた。
「茜ちゃん、目赤いよ、どうしたの」
「授業中、おなかがどうしようもないくらい痛くって」
まずい言い訳をつくろって、窓の外を見た。このまま早紀の顔を見ていると、また泣き出してしまいそうな気がした。
いやなくらい真っ青な空と白い雲がひろがっていた。

家に帰ると、誰もいない筈の居間から「おかえり」という声が届いた。
(お姉ちゃん?こんな時間に帰ってくるはずはないんだけど)
うちは母も姉も働いている。父は五年前に離婚した。
母も姉も帰宅はいつも六時以降だ。私が帰っても誰もいないのが普通だった。
自分の耳を疑いながら居間に入ると、姉が椅子に座って、俯いていた。私に気付くと顔を上げて「おかえり」と、もう一度言ってきた。
「ただいま」と返しながら壁にかけてある時計を見る。四時十五分、会社づとめの姉が、こんな時間に帰ってくるはずがない。
「どうしたの、今日」
「頭が痛いから午後休んで帰ってきたの。薬飲んだんだけどおさまらなくて」
姉はそう言って額に手をあてた。
服も着替えていないところを見ると、動けないほど辛いのだとわかったが、私はそのまま自分の部屋に戻ろうとした。数学の追試の為に勉強しなくてはならない。気分が滅入っていて姉にかまっている余裕はなかった。気になっていたことだけ聞くと、
「ふーん」
といって去ろうとした。すると、姉はその態度が気に触ったらしく、
「なに、その態度。いかにも面倒くさそうにして。あんた普段は何もしてないんだから、こういうときには洗濯物取りこむとか家の手伝いしたらどうなの。お母さんだって、パートから帰ってきて疲れてるんだから、私たちが手伝わないとダメでしょ」
「だって勉強あるもん」
姉の非難に無性に腹が立って言い返した。
「勉強って、自分の部屋でマンガ読んでるだけでしょ。本当の勉強は十一時以降からじゃない、いっつも。」
「毎回毎回、遊んでるわけじゃないよ。ちゃんと勉強もしてるよ。お姉ちゃんはどうしてそう決めつけるの!」
「だって本当ことでしょ。違う?」
姉の言う事はほとんど当たっている。しかし、姉が、私に対して「いつも何もしていない」という評価を下した事について、私は言い返さずにいられなかった。姉の帰りが遅いときは、私も母を手伝っている。姉はそれに対して「私がいるときは手伝ってくれないのね」と非難がましく言う。そのくせ手伝おうとすると自分がやるからいい、というのだ。
(お姉ちゃんは、自分勝手だ)
 私はそっとつぶいやいた。だが姉も母と同じくらいの性能の言い耳をもっていた。
「なに、なにか言った?」
「なんでもない。ごめんなさい、洗濯物取りこんでくる」
姉と論争しても分が悪いのはこっちだ。いやな事はさっさときりあげて、自分の部屋に戻りたかった。私は負けをみとめて、ベランダにむかった。だが姉は許さなかった。
「はっきり言いなさいよ。なんて言ったの」
「なんにも言ってないよ。だから私が悪かったよ、ごめんなさい」
「またそんな言い方する。ああ言えばこういう、こう言えば今度はだんまりで嫌になるわ」
 私は黙っていた。弁解の言葉が見つからずに、ただ「ごめんなさい」とだけ繰り返した。
「ごめんなさい、ごめんなさいって、そればっかり。私とお母さんが働いているのってなんのためだと思う。家や自分たちのこともあるけど、あんたの為なのよ。大学までいかせてあげなきゃって、お母さんがんばって仕事行ってるんじゃない。私だって、本当なら会社なんて行きたくないわよ。でも三人でぎりぎりの生活送ってるんだから、仕方ないでしょう。それをあんたは、学校行きたくないとか、勝手なこと言って」
 姉の言葉は続かなかった。途中で声をふるわして泣き出した姉の姿を見て、私は何度目かわからない「ごめんなさい」を言った。
 私は部屋に戻り、制服をさっさと脱いで放ると床に寝転がってじっとしていた。数学の勉強をする気などとっくに失せていた。
さっきのことを考えると、とても後ろめたい気持ちになった。
悪いのは自分だ。それを言い返したあげくに、あやまって逃げようとした。私は自分のことしか考えていなかった。私は、なんてとりえがなくて、つまらなくて、いやな人間なんだろう。
 外は夕暮れに変わりつつあった。セミの声も聞こえなくなった。
 
姉と口をきいたのは、母が帰ってきた後だった。母には心配かけたくないという共通の思いによって、私たちは不自然ながらも仲直りをしていた。母の前では普通を装いながらも必要以上の口は聞かなかった。
 夕食後、すぐに姉は自分の部屋に入ってしまった。私が椅子に座って時間を持て余していると母が食器を片付けながら言った。
「明後日はおばあちゃんの月命日だから、明日お供え物買ってきてくれる」
 祖母は三年前に他界した。私が物心つく前に脳の病気で倒れ、右半身が麻痺して動かなくなった。私が知っている祖母は、一日中座椅子に座って動かない祖母だった。
祖母は元々裕福な家の育ちだったと、聞いた事がある。地主の長女で、その昔お殿様から名字を頂いたそうだ。江戸時代で名字が許されていたのは、武士などの限られた人間だけだから、よほど大きな家柄だったのだろう。
私はふと、そのことを思い出して、母に聞いてみた。
「おばあちゃんって昔、裕福だったってほんと?」
「おばあちゃん?そうよ、大地主の娘だったからね。家の庭が盆踊りできるぐらい広くて、蔵がたくさんあって、戦時中でも白米のご飯しか食べた事がないと言ってたもの」
私は小学三年生の時のことを思い出した。夏休みの宿題で「おじいさん、おばあさんの戦争体験」を聞いてくるというものがあったが、クラスメイトが兵器工場や出兵の話を聞いてきたのに対して、私は空襲に遭ったこともないという祖母の話を聞いて、困ったことがある。
「なんでもできる人だったわね。頭もよくて運動神経も抜群で、徒競走ではいつも一番で、賞品で文房具をいっぱいもらってエンピツを買う必要がなかったというほどだから。」
私は、ため息をついた。どうしてこうも違うのだろうか。
人間は平等だというけれども、不平等だらけのような気がしてならない。恵まれた人はどんどん恵まれて、ついてない人間はどんどん下降線をたどるように定められているのかもしれない。
「あーあ、ばあちゃんがうらやましいなあ。なんでもできるってうらやましい。」
「そうでもないわよ」
母がそういったので、私は少し不思議に思った。
「何が?」
「運がなかったわ」
「運?」
「おばあちゃん本当は薬剤師になりたかったの。それで試験受けてね、筆記試験は合格であとは面接だけって時にお母さんが、つまりひいおばあちゃんね、手に大やけどして、看病につきそったせいで、結局合格できなかったの。」
「やけど?どうして?」
「その頃、おばあちゃんのお母さんが病気で寝込んでで、おばあちゃんはおかゆを作って持っていったんだけど、ひおばあちゃんが食べるときに入れ物をひっくり返して・・・・」
「中身が全部手にかかって大やけどしたの?」
「そう、両手がぱんぱんに膨れ上がって大変だったらしいわ。おばあちゃんも一緒に病院に泊まることになって、次の日の面接にいけなかったのよ。腫れがひいてからも大変で、手の皮膚が全部めくれて大変だったって言ってたわ。」
その時のひいおばあちゃんの手を想像すると、私は少し気持ち悪くなった。
 母は食器をすべて棚にしまうと、私の向かい側の椅子に座って家計簿をつけ始めた。
「確かについてないね」
「おばあちゃんの実家も、戦後にほとんど小作人に土地を取られて小さくなってしまった上に、あとをついだおばあちゃんの弟が事業に失敗して完全に家をつぶしてしまった。脳の病気で倒れたのも、楽しみにしてた旅行に行く前日だったわ」
 この話を聞いたとき、GHQとおばあちゃんの弟を恨みたくなった。もしかしたら、私たちもお嬢さまでいられたのかもしれない。
「ほんと運がないね。おばあちゃんもかわいそうだなあ。」
才能に恵まれながら、それをいかせなかった人生を歩んできたおばあちゃんの無念さは、さぞ大きいだろうと思った。何をするにも不自由な体で、座椅子にじっと座ったまま何を考えていたのか気にかかった。
「たしかについてない人生だったわ。天は二物を与えずってこういうことをいうのね。でもね、おばあちゃんは、かわいそうじゃなかったと思う」
「どうして」
「おばあちゃん、いいとこ育ちだからわがままでしょう。だから誰かが傍についていないと嫌なのよ。右半身は麻痺してしまったけど、面倒を見る人ができて、一人暮しということがなくなったから、よかったかもしれない」
 祖母の世話は、母の妹の和子おばさんがしていた。母を含めて他三人の子供たちも、たびたび様子を見に行っていた。祖母は、あれからもときどき倒れる事があった。母はよくその場にいあわせて、救急車に一緒に乗った。
「おばあちゃんよく言ってたわ。人生はプラスマイナスゼロだって」
「プラスマイナスゼロ?」
「いいことも悪いことも結局は半分ずつだって。人生いい事ばかりじゃなくて悪い事ばかりでもない。前半がどんなによくても後半はうまくいかない。その逆もある。どれだけ波乱の人生を歩んでいても、死ぬときにはプラスとマイナス半分半分、ゼロになるってね」
「そういうものかな」
「そうそう、病気とか大変だったけど、おばあちゃんけっこう贅沢してたもの。周りの私たちがとめるのも聞かないで油ものばっかり食べて、お寿司もよくとってたしね。それに、おばあちゃんがもし薬剤師になってたら、きっと一人で生きていたと思うわ。何でもできる人だし。そしたら私たちが生れることもなかったし、茜ちゃんもいなかったのよ。運がない人生ではあったけど、いつも家族に囲まれて、死ぬときも家族に看取られながらぽっくり死んで、幸せな人生だったんじゃないかしら。本人は後半はマイナスだらけの人生だって、言ってたけど、プラスだったような気がするわ」
 もう少し話を聞こうかとも思ったが、母は電卓で計算を始めたので、邪魔になるのでやめて、部屋に引き返すことにした。姉の事を聞かれても困ると思った。「おやすみ」というと居間を出た。
向かいの姉の部屋のドアから電気がもれているのを見て、気配を悟られないようにこそこそと部屋に入った。
電気をつけずに真っ暗なまま、夕方と同じように寝転がった。
私はプラスマイナスゼロについて考えていた。もし、おばあちゃんの言うような法則が存在するとするならば、私の今日はマイナスだらけだった。明日はプラスの人生がまっているのだろうか。ここ当分プラスの人生はこない気がする。
暗い天井をぼーっと見つめていると、いつの間にか眠ってしまった。

気がつくと私は居間にいた。なぜか制服を着ている。そして窓からは夕日が差し込んでいた。
私はふと異常に気付いた、居間の大きなテーブルが見当たらなかった。テーブルだけでなく、食器棚も冷蔵庫もなくなっていた。
それは居間だけではなかった。テレビのある和室も、私の部屋も、お姉ちゃんの部屋も、家具が引越し前の状態のように、きれいに無くなっていた。
私は広くなった居間でたたずんだまま、ある不安にかられた。お母さんとお姉ちゃんは、もしかして私を置いてどこかに行ってしまったのかもしれない。
夕日はどんどん赤くなっていった。私の不安はどんどん強くなった。たまらず外に飛び出していた。
「お母さぁん、お姉ちゃぁん」
 私は大声で母と姉を呼んだ。外の道路にも人は見当たらなかった。まるで私ひとりを残して消えたみたいに。
「おかあさぁん、おねえちゃぁん」
 私はなおも呼びつづけた。そして走った。道路は一面、太陽によって赤色になっている。焦りばかりが大きくなった。何かに心臓をぎゅっとつかまれたような感じがした。
「おかあさぁん、どこにいるの?おねえちゃぁん、まだおこってるの?私もうわがまま言わないよ。手伝いだってちゃんとするよ。だから出てきてよ。私ひとりじゃ何もできないよう」
 走っても走っても道路は続いた。息切れして立ちどまると、夕日が私のからだを赤く染めた。胸がいっぱいになってこみあげてきた。
「かえってきてよう」
私は声を振り絞って叫んだ・・・・・・
 
目をさますと元通り自分の部屋にいた。
私は泣いていた。自分が夢を見ていたんだと気付くと、少し恥ずかしくなった。そして寝汗をふきながら、さっきの夢のことを考えた。
(人が死んだ時の気持ちって、あんな感じなのかな)
母や姉が死んだら、あんな思いをするのかと想像してみた。すると、ふいに祖母が死んだときを思い出した。
三年前、風呂場で倒れた祖母は、そのまま意識不明状態になった。
病院に駆けつけたとき、祖母は体にたくさんのチューブをつながれて、やっと生きている状態だった。このまま延命処置を施す事もできるが、という医師の話に母や叔父さんたちは、スイッチを切って死なせてやってくれと言った。今までの不自由な体で過ごしてきた日々を思っての決断だった。
最後のお別れをするために、緊急治療室に入れてもらい、祖母と対面した。消毒液のただよう部屋の中で、祖母は眠っているように横たわっていた。機械によってかろうじて胸が上下している状態だった。
黄色くむくんだ祖母の手をにぎりながら、私はただ、ああ、お別れなんだな、とだけ思った。涙はでなかった。
暗闇と静けさに包まれた部屋の中で、時計の音が異様に大きく聞こえた。
(どうして悲しくなかったんだろう)
(やっぱりおばあちゃんは幸せだったからかな)
(……プラスマイナスゼロ)
祖母の口癖を思い出した。もし、その理論が成り立つのだとすれば、祖母は途中マイナスの人生を送ったが、最後はプラスで終わったということなのだろう。
さっきの夢を思い出した。誰もいない町に私は一人だった。
祖母は家族全員に看取られながら去っていった。それが、大きなプラスだったのだろうか。
頭の中でそのことばかりがぐるぐる回っていた。

「茜、朝よ、って布団もしかずに寝たの」
 姉があきれたようにいった。私はどうやらあのまま寝てしまったらしい。おまけに畳の上で寝たせいで、背中と首の辺りが痛かった。
「おはよう、お姉ちゃん」
 私は姉の姿を見てほっとした。昨日の夢は本当じゃないかという不安が片隅にあったのだ。ようやく上半身を起こすと、まず言うべき言葉を思い出した。
「昨日はごめん」
 姉はきょとんとしていたが、笑いながら
「あー、こっちこそごめんね。気分悪かったもんだから、つい言いすぎちゃって。これで終わりにしよう。こんどどっか遊びに行こうか」
「うん」
「本当に、ひどいこと言っちゃったけど……気にしないでね。あんたががんばってるってわかってるから。」
「うん」
「ついでに、なまけがちなとこもね」
「それはお姉ちゃんもね」
二人は顔を見合わせてくすくす笑った。和解はほんの数分ですんだ。
 着替えを済ませて居間に入ると、母がいつも通り朝ご飯を用意してくれていた。今日はトーストではなく、おにぎりと熱い緑茶というめずらしい取り合わせだった。
「おはよう、茜ちゃん」
「おはようお母さん、今日おにぎりなんだ」
「お弁当用のご飯多め目に炊いちゃったからね、たまにはこういうのもいいでしょ」
「うん」
いつもと朝食が違うというだけでとてもうれしい。私はつくづく単純な人間だな、と思う。でもそれでいいんだ、幸せなんだから。
私は何のとりえもなく、マイナスだらけの人間だけども、お母さんがいて、お姉ちゃんがいて、友達がいて、好きな人たちに毎日囲まれている。それは大きなプラスだと思う。
 私がマイナスの人間だから、それを埋め合わせるようにお母さんたちが傍にいてくれるのだとしたら、私はずっとマイナスのままでもいい。良すぎもせず、悪すぎもせず、ゼロの状態がきっと一番いいのだ。
 お母さん、お姉ちゃん、大好きです。早紀も、おばあちゃんも、みんなみんないつもいっしょにいてくれてありがとう。
 私はがんばって生きます、学校もちゃんと行きます。
そう、私は大切なことに気付いたのだ。

「今日、数学のテストだったんだ……」

梅雨の日
田中啓行

 私には、誰にも決して信じてもらえないと言い切ることができる過去がある。
 大変昔の出来事なので今となっては、それは夢の中での出来事だったのかもしれない。だが、それにしてはあまりにも現実的で、印象的なものとして私の心に焼き付いている。まあ、夢とはそんなものなのかもしれないが。
定年を向かえた私の頭の中にいまだに残っているのは、人生そのものに影響を与えられたからである。 
 あれはもう半世紀近く前のことだ。
 その日も今日と同じような梅雨の蒸し暑い日だった。
 記憶の断片を繋ぎ合わせるために私は一人家の畳の上で寝転んでいた。だが、あまりの蒸し暑さにうっとうしくなり、起き上がった。
 そのまま縁側に向かい、ただ外から聞こえてくる近所のこどもたちの声にぼんやりと耳を傾けていた。
 今日は本当に蒸し暑い。雨こそ降っていないものの、こどもたちの声にもどこか元気が無いようだ。こんな日に家にいるだけでは気分が悪くなる。私は読みかけの本を持って、どこか涼しいところを探しに、外に出ることにした。

 家の外では休日であるにもかかわらず、数人の子どもたちが気だるそうに歩いているだけで、他に誰も出歩いていない。
 家の近くの公園に入ると、数人の子ども連れの母親が砂場の周りで談話をしているのが見えた。公園の中に植えられている木々はどれも腰の高さまで刈られていて、休めるような場所を私には与えてくれなかった。日陰を探すために辺りを見渡しても、母親たちがいる砂場の横のベンチにしかそれを見つけることができなかった。
「ここは無理だな。」
 そうひとりごとをつぶやきながら、砂場の横のベンチを横目に公園を突っ切り、向かいの煙草屋でタバコを買った。タバコを一本抜き取り、それを吹かしながら歩いていると、家々の屋根の先に図書館が見えた。
 私は図書館に入って、持ってきた本を読もうと思った。
 冷房の効いた図書館は、やっと見つけることのできた楽園に感じられた。誰にとってもそうらしく、受験生と思われる学生たちや、私と同じように暇を持て余しているように見えるおとなたちで溢れていた。みんな考えることは同じだなと思い、たくさんの人をよけながら座ることのできる場所を探した。
 だが思ったよりも人の数が多く、なかなか空いた場所が見つからない。
 やっとのことで図書館の二階の奥にある窓に面した椅子の中に、誰も座っていない椅子をみつけることができた。
 座って読みかけの本に目を通し始めてみたが、どうしても周囲の学生たちの話す声が気になる。私は注意することのできるような性格をしていないので、静かになることを期待して軽く咳払いをしてみた。しかし一向に話し声はなくならない。そこで我慢して本を読むことに集中しようと思った。だが一度気になりだしてしまったものはどうしても気になってしまう。私はそういう人間だった。
 私は耐え切れなくなり、場所を変えることにした。しかしながらそうは思ってみたものの他に場所はない。
 そこでとりあえず一度外に出ることにしてみた。何も図書館にこだわることはない。要は涼しくて静かな場所であればいい。
 外は相変わらずうっとうしい気だるさで満ちていた。私は図書館の横にベンチがあることを思い出し、とりあえずそこに行ってみた。そこは静かな上に、運良くベンチには誰も座っていなかった。
 ここは図書館の中に比べるとかなり蒸し暑かったが、他の場所を探すのも面倒だ。
 そのとき私はさっきまで家の中で考えていたことを思い出した。というのも、あれはこの図書館ができる前の、相当古かった図書館で起こった出来事だったからだ。

 その日は本当に蒸し暑い休みの日だった。小学六年生の事だったと思う。決して豊かではなかった家庭のために、両親は日曜といえども、仕事を手放すことはできなかった。年がら年中そんな感じだったので、休みの日になると私は近所の友達を誘って日が暮れるまで遊ぶことが習慣となっていた。
 だがその日は誰もつかまらなかった。こんなことはほとんど無かったので、一日何をしようかと、その図書館の裏の木陰で一人考えていた。
 私は城の周りに張り巡らされたこの堀川と図書館にはさまれた図書館裏が好きだった。一人になりたい時はよくここに来た。この場所に来るためには、図書館を囲む金網の、小さく破れたところをくぐらなければならない。だから、大人が入ってくることは決してなかった。しかも私は一人でいる時にこの場所を見つけたため、友達でさえも知らない場所だったのだ。    ここは私だけの秘密の場所だった。

しかしその日は違った。
 一人の男の子が私の前に姿を現わしたのだ。私よりも体が少しほど大きい少年だった。どこか淋しそうな顔をしたその少年は、私の方にまっすぐに進んできて、私の顔に目をやり、にこっと笑った。その顔は懐かしいようでいて、一度も見た事が無いような、不思議な印象を私に与えた。
 そしてその少年は私の座っていた木の反対側に腰をおろした。
どれほどの時間が過ぎただろうか。彼の与えた不思議な印象とにらめっこをしていた私はこの状況に居たたまれなくなって、思い切って彼に話しかけてみることにした。
「ねえ、どこの人だい?どこかで会ったことがあるっけ?」
 彼は振り返りながらさっきの笑顔を私に向けた。だが答えようとはしない。
「この場所を何で知ってるんだい?よく来るの?」
 私は質問を変えてみた。
 彼はその笑顔のままでこう言った。
「妹がよく来るんだ。」
「妹?」
 ここのあたりは住宅街だったので確かに当時もこどもの数は多かった。小学校は私の通う公立の学校のほかに、電車で一駅の所にある私立のものがあった。裕福な者が通う、いわゆるおぼっちゃま学校だった。私は彼が自分の学校の生徒ではないことはわかっていた。友達の多い私は同じ学校の生徒の顔と名前ぐらいはみな一致させることができた。だから彼を私立の学校に通っている奴だなと思い、暇つぶしに話をすることにした。彼なら、この町以外の世界をほとんど知らない私に面白そうな話をしてくれると思ったからだ。明日になれば、その話をまるで自分が体験したかのように周りの連中に聞かせてやることができる。そうすれば自分は皆の羨望の的になれる。これは良い遊び相手ができたぞと私は喜んだ。
「なあ、デパートって行ったことある?」
「遊園地ってどんなところ?」
「イルカって大きいんでしょ?」
 私はそのような普段の自分には関係のない世界の話を、まるで外国に行ってきた人に聞くように尋ね続けた。彼は私の尋ねるひとつひとつにゆっくりと丁寧に答えてくれた。私は自分の想像力を最大限活用してそんな彼の話に聴き入った。
 気付けばもう夕暮れで、六時に閉まる図書館には明かりが減り、後処理をする人の姿しか見当たらなかった。
「もう帰らなきゃ。今日はありがとう。」
 すっかり満足してしまった私は、彼に心からお礼を言った。
 彼は出会ったときのように私に笑顔を見せた。だがやはり淋しそうな表情は変わらなかった。 私はその表情がどうしても気になり、
「ねえどうしてそんなに悲しそうな顔をしてるんだい?なんかいやなことでもあったの?」
と聞いてみた。
 彼は、
「いや、君はとても楽しそうだなと思って。」
と返してきた。
「どうしてだい?僕よりも君の方が十分幸せそうじゃあないか。」
 私がそう言い返したと同時に、六時を告げるサイレンが私たちの頭上のスピーカーから鳴り響いた。そのとき彼は確かに口を開いた。そして何かを言った。だが、その声はサイレンの音に掻き消され、私には聞き取ることができなかった。
 サイレンが鳴り止み、彼は問いただそうとする私の言葉を遮るように
「それじゃあ。」
 彼はそれだけ言って、すっかり暗くなった闇の中に消え入ってしまった。
 私はまた会ったときに、彼が何を言ったのか聞こうと思い、今日のところはもう家に帰ることにした。もし彼が来なくても妹がくると言っていたので、また会えることを疑いはしなかった。
 立ち上がり、ふと彼の座っていた場所に目をやった。そこには何か落ちていた。
 拾い上げてみるとどうやら木でできた犬の玩具らしい。私はそれを彼の忘れ物だと思い、持って帰ることにした。
 私は家に帰ってその玩具を箪笥の上に置き、両親の仕事が終わるのを待っていた。
母親が先に仕事を切り上げ、私の待つ部屋に入ってきた。
 タオルを出すために箪笥の前に立った母は驚いた表情で、私にこの犬の玩具はどうしたのかと聞いてきた。私は今日会った男の子が落としていったものだということを告げた。すると母はさらに驚いた顔で私に事の詳細を尋ねてきた。私はいぶかしげに思いながらも母に今日の出来事を話してやった。
「こんなことって・・・」
 母は目に涙を浮かべながら私にこう言った。
「この犬はね、私が私のお兄ちゃんの誕生日にあげたものなの。ここに覚えたての漢字でお兄ちゃんの名前を書いてね。」
 母はその名前の書いてあるところを私に見せてきた。暗かったので外では気付かなかったが、確かに犬の横に名前が書いてあった。
「お兄ちゃんはとっても喜んでくれてね、いつもその犬を持っててくれたのよ。でもね・・・」
 母の声は震えていた。
「・・・お兄ちゃんは中学生になった一番最初の梅雨の時期にね・・・、死んじゃったのよ・・・。だいぶ年の離れた兄妹だったからね、お母ちゃんは死ぬっていうことがよくわからなくてね。なんで寝てんだろうと思ったのよ。お兄ちゃんを送るときにお母ちゃん・・・あ、お前のおばあちゃんがね、棺桶にこの犬をいれてくれたのよ。いっつも大事にしてたものだからこれがないとお兄ちゃんさみしがるでしょってね・・・」
 母は淋しそうな笑いを浮かべた。その顔が彼の顔とよく似ていた。私はその話を聞き驚くとともに、最後に言った彼のことばがどうしても気になった。
「お兄ちゃんはね、死ぬ前にね、死ぬのはいやだもっと生きたい、辛くっても生きたいって言ってたらしいのよ。おばあちゃんから後で聞いたんだけどね。それでお母ちゃんにはあいつには頑張って生きてほしい、辛いことや悲しいことがあっても生きていること自体が幸せなことなんだって言ってくれっておばあちゃんに伝えたらしいのよ・・・。お母ちゃんはそれを聞いてね、頑張って生きようって思うのよ。辛いときでも勇気づけられるのよ・・・」
 母は私にそう言った。

 今日は本当に蒸し暑い。
 私は新しい図書館の横の屋根付きベンチの上でそんな過去の出来事を思い返していた。梅雨になると子どものころはこの話を毎年思い出していたが、いつのころかあまり考えないようになっていた。
 あのとき彼が言ったことば・・・それは今でもはっきりとはわからない。だが母に彼が伝えようとしたことを、当時同じ年齢だった私に伝えてくれたのだと私は勝手に考えている。
 どんなことがあっても頑張って生きろ、死んでしまっては意味がない。
 私はそんな彼の意思をしっかりと引き継いで生きている。これからもその意思だけは絶対に守って生きていく。
 あの図書館裏が改築とともに消え、母が死んでしまった今、この話を誰かに伝えることはないだろう。

ある町のある事件
東伸相一郎

「くそっ、ここを右に曲がるとさっきの道だ・・・左に行ってみるか」
男はそうつぶやきながら、真っ黒な塀づたいに、T字路を左に曲がった。遠くの方で金きり音が聞こえる。
キャシーンッ、キャシーンッ・・・
(よし、この距離なら今回も逃げ切れそうだ!)
男は金きり音との距離を測りながら、同じような曲がり角を何度も曲がった。何度も振り返りながら・・・。

「これで四件目ですね…高嶋さん」
スーツに革靴と、几帳面そうな若い警察官が、死体を穴があくほどじっと見つめている中年の男に言った。一見、リストラにあった会社員のようにも見えるほど、みすぼらしい風貌のこの高嶋という男も、警察官であった。高嶋は無精ひげをさすり、片ひざをついた状態でじっと死体を見つめている。
「ガイシャは常盤 雄太、22歳、無職です」
若い警官は、高嶋を一瞥した後、続けた。
「前の三件同様、死因は心筋梗塞です。年も同じくらい・・・一体何なんでしょう」
苛立ちをあらわにし、若い警官は頭をがりがりと掻いた。
「おいっ、大久保!フケとか落としてんじゃねぇぞ!」
「そんな、高嶋さんじゃないんですから」
大久保はさらりとかわすように、答えた。
「・・・どう見る、大久保」
すっと立ち上がり、高嶋はどこを見るでもなく窓から外を見た。ビルに反射した夕日が、彼の目をさした。
大久保は、眼鏡を拭きながら、
「偶然とは思えないですね、この区でここ一週間に立て続けに起きている似たような・・・事件」
とそこまで言い切ると、高嶋の横で眼鏡を射し日にかざしながら、またつづけた。
「今回でもう四件目・・・偶然ではなさそうです。しかし、原因はまったく見当がつきませんが」
鑑識や現場検証のためにカメラのシャッターを切る音が、二人の沈黙の中を流れた。時折、鑑識員の溜め息混じりの会話が聞こえる。
ここ一週間の間におきた四件の変死事件は、皆同じ状況、死因であった。被害者は睡眠中に心筋梗塞を起こし、突然死している。死ぬ前日までは何とも無い様子だったという証言も取れている。
今回の常盤 雄太もまた、まったくそんなそぶりの無いまま、この世から去っていった。
「・・・行くか」
高嶋は、無精ひげをさすりながら、常盤の部屋を出て行った。
「・・・」
大久保も常盤を一瞥した後、何も言わずに部屋を出た。

二人が車に乗り込んだ後、しばらくの間沈黙が続いた。静かな車内に、雑音混じりのラジオの音だけが流れている。窓からは、立ち入り禁止の黄色いテープがかかった常盤の部屋と、興味本位で集まってきた野次馬が見える。
「・・・とりあえず、聞き込みしかねぇか」
大久保は、答える代わりに車を発車させた。

―三日後―
「ここか・・・」
手の中のメモと表札を見比べながら、大久保は誰に言うとも無く、言った。
「ふーーっ・・よしっ」
大久保は意を決して、インターホンのベルを押した。
ピーンッ・・ポーーンッ
緊張と期待が高まり、指を離すまで時間がかかったようだ。しばらくして、髪をひっつめにした、三十代半ばの女性が出てきた。
「あ・・・警察の方ですか・・?」
大久保が警察手帳を出す前に、女性の方が察したようだ。大久保は一礼した後、続けた。
「警視庁の大久保というものです。木村さんのお宅でしょうか」
(あたりまえだ、さっき表札を見て確認したじゃないか)
改めて自分が緊張していることに大久保は気づいた。
「はい。どうぞ中へ」
木村は笑顔少なに、大久保を奥へ案内した。見たところ、外も中もいたって普通の一軒家だ。大久保はなるべく自然に歩き、なるべく自然に家に上がった。玄関から続くフローリングの廊下の先は、リビングにつながっている。すぐ右には二階に続く階段があった。
(この上にいるのか・・・)
一瞬、階段の横で立ち止まり、上を覗いた。しかし、人の気配はしない。そのとき、
「紅茶でよろしかったですか?」
木村がリビングの入り口で振り返り、言った。
「あ、・・・いえ。おかまいなく」
家の様子をうかがいながらだったので、大久保は一瞬戸惑った。
「そんなこと言わずに。恐らく長くなると思いますので」
木村はそう言うとリビングに入り、そのままキッチンの方へ向かった。大久保もつられてついて行く。
「・・・で、何にします?」
木村は、振り返りもせずに大久保に訊いた。
「あ、じゃあコーヒーで」
ばつの悪そうにリビングの入り口に突っ立ったまま、大久保は答えた。
(・・・)
見渡すと、ノートパソコンやテレビが並んでいる。テレビの上にある写真立ての中には、木村のほかに、同じくらいの年の男性と、中学生くらいの男の子が写っている。
(この子が・・・)
思わず、大久保の足は写真立ての前まで進んでいた。その写真に手を伸ばしたその時、
「翔っていうんです、息子。」
木村がすぐ後ろで、大久保の思っていることに答えた。大久保が振り返ると、木村は遠くを見るかのように、写真を眺めていた。すると、不意に大久保の視線に気づいたのか、
「さっ、座ってください。コーヒー、冷めちゃいますから」
と言い、テーブルをはさんで向かい側に座った。大久保も、つられるようにして向かいに座った。
「どうも。コーヒー、頂きます」
コクッと一口、コーヒーを口に含んだ大久保は、木村の顔色をうかがいながら話を切り出した。
「・・・ここ最近の変死事件について有力な情報をお持ちと伺って、足を運んだのですが。」
大久保は、おもむろに持っていたファイルを広げながら、訊いた。ファイルと木村を交互に見つめながら先を続ける。
「同僚の警官が聞き込みにきたときに、事件に関して詳しく話がしたいということだったので、担当の僕が直接来たんですけれども、確か息子さんの事で・・・」
そこまで言うと、木村はさえぎるかのように、話し出した。
「はい。最近、ここ一週間ぐらい前から、息子の翔が、変な夢を見るってうるさいんです。確かに毎晩毎晩うなされているみたいで、ニ・三日前から学校にも行けなくなって・・・部屋でも電気をつけたままで、何もせずにじっとしているんです」
カップを手で包み込むように持ちながら、木村は伏目がちに話した。
「それで、事件とどういった関係が?」
大久保は、コーヒーを一口飲んだあと、先を促した。右手はせっせとメモを取っている。
「その夢の内容なんですけど、真っ暗な世界に、黒い塀が迷路みたいにたっているんです。で、その迷路にはいつも何人かの人が迷い込んでいて、何かに追われながら、出口を目指しているらしいんです。何におびえているかはわからないらしいんですけど・・・そんな夢を、ずっと見ているんです」
まるで自分のことのように、木村は目の前にいる刑事に訴えかけた。しかし、大久保には事件との関連性がまったく見えなかった。
木村の次の言葉を聞くまでは。
「それで、この間亡くなった常盤さん、あの人が夢の中でその何者かにつかまったのを、翔は見てたらしいんですよ」
大久保は常盤という名前を聞いて、背筋に電流が走ったように、過剰に反応した。
「!!常盤・・・常盤がつかまる夢を見たのはいつ頃ですか。正確に知りたいのですが。」
やっと事件に関する有力な情報が聞けると思い、大久保は身を乗り出さんばかりに、木村に食いついていった。少し憎しみがこもっているようにも見える視線は、じっと木村の口元に向けられている。
「ちょうど、常盤さんが亡くなった朝にいってました。今でもよく覚えてるんです。急に朝からあの子、お母さん、お母さんって泣きそうな声出しながら、二階から降りてきたんです。常盤さんはあの子も私も知っていたから、少し動揺してたんでしょうね。」
「で、夢が現実になった・・・ということですね?」
木村は何も言わずにうなずいた。
大久保は、自分の体が熱くなっていくのに気づいた。右手に握っていたペンに汗がじとっと染みていくのを感じる。自分でもどこを見ているのかわからない。
(どういうことだ・・・翔君の夢の中に常盤もいたって事か?そして夢の中で常盤は何者かにつかまって、翌朝息を引き取った・・?)
大久保は、この半ばファンタジーのような話を受け入れ難かった。
(現実に人が死んでいるんだぞ・・・それが実は夢の中とリンクしているだと?そんなことがあり得てたまるか!)
「今、翔君はどこにいるんですか?部屋にいるんですか?今すぐ確認したいことがあるんですが」
大久保は早口で木村をまくし立てた。その形相に木村は戸惑った様子だったが、
「・・わかりました。一度、話してみます」
というと、おもむろにいすから立ち、そのまま二階へと向かった。
独りリビングに残された大久保は立てひじを突きながら少しの間、ボーっと写真立てのなかの写真を眺めていた。写真の中の翔は、幸せそうに笑っている。
大久保はいすから立ち上がり、窓際まで歩いた。外を見てみると、休日だというのに、ベランダから見える公園はあまり活気のあるものではなかった。
(殺風景な公園だ・・・人が死ぬと街も死ぬ、か・・・)
曇った空模様もまた、殺風景なものであった。

「・・・・・・というわけだったんですけど、その翔君が、今は会いたくないらしく、あと一時間くらいしたら話をしてくれるそうです。それまで、ここで待ちましょう。ね?」
大久保は、車を店の前につけ、窓から見えるミスタードーナツの看板を指差した。
「ドーナツかよっ、今日は俺非番なんだから、お前おごれよ。ったく。人が家でくつろいでるってのに、先輩を呼び出すとは、お前もえらくなったもんだなあ、大久保」
「仕方ないじゃないですかっ、有力な手がかりがつかめたんですから・・・一応」
「有力、ねえ・・・」
高嶋はそうつぶやきながら、車を降りた。
(・・・やな雲が浮いてやがる、こりゃ一雨降るな)
そんなことを思いながら、自動ドアへと歩を進めた。
「うわっ、降りそうだな・・・」
そんな大久保の声を背に聞きながら。

二人の読みどおり、店に入ってまもなく雨が降り出した。店の窓をたたく雨の音や、店頭のテントのふちから軒下に落ちる雨の塊の音が、予備校帰りの高校生の黄色い会話や、主婦の世間話と混じって、空模様とは裏腹に店内は賑やかだった。
二人は窓際に座ることにした。大久保は注文したドーナツには手をつけず、ボーっとファイルを眺めている。やがて、キョロキョロとあたりを見ていた高嶋が大久保に詰め寄った。
「・・・おい、大久保」
高嶋は内緒話をするように、口元を手で隠していた。おもわず大久保を身を乗り出す。
「・・・どうしたんです?」
高嶋は目を細め、なにやらあたりをちらちら見ながら、
「最近の高校生って、なんと言うか・・・オシャレだな」
「・・・はぁ??」
がっくりといった様子の大久保。そんな彼をよそに高嶋は、今店に入ってきた女子高生にまた目移りしたは、はーっ、とか、へーっ、とかうなっている。
大久保は気を取り直して、黒いかばんの中から黒いファイルを取り出した。ぱらぱらとページをめくる音が雑踏にかき消された。
「・・・で、どう思います?この木村 翔って子。僕はやっぱり鵜呑みにするわけにはいかないと思うんですよ。彼の言うことを。可能性としてはこの翔君が常盤を殺害した、というのも考えられますからね。それに、夢で死んだら現実でも死ぬ、ってのが気になるんですよね、本当にそんなことが・・・・高嶋さん・・高嶋さん・・・?」
大久保が熱心に話していた間も、この男は女の子を物色していたようだ。大久保の怒りが頂点に達した。
「高嶋さんっ!」
「おおぅ!・・・そ、そうだな、多分そうだ。さすが大久保君、警視庁きっての優秀な警官だ!そうだ、ドーナツ、食わないのか?」
というなり、思い出したかのように目の前のドーナツに手をつけ始めた。
「おっ、久し振りに食うとうまいもんだな、ねーちゃん、コーヒーおかわり」
(・・・・・だめだこりゃ)
大久保は、あきらめたようにドーナツに手をつけ始めた。周りを見てみると、やはり女子高生や大学生らしき人、豪勢に金をかけて井戸端会議をしてる主婦。めいめい雑誌を開いては笑い転げたり、学校の話をしたり、家庭事情を告白し、苦労をねぎらいあったり・・・。
(皆、人が死んだことなんてどうでもいいみたいだな)
そうしているうちに、大久保の携帯がポケットの中で震えた。
「はい、大久保ですけど・・・はい・はい・・わかりました。すぐ行きます」
大久保は電話で話しながら、高嶋に目で合図した。
「やーっと、話が出来るか。最近のガキはわがままに育ちすぎて困る」
そういいながら、高嶋は使い込まれた灰色のコートに身を包んだ。
電話を切り終えた大久保も、お気に入りの黒いコートをまとった。
「さて、いきましょうか、この事件初の有力な情報を聞きに」
と言い残すと、大久保は颯爽と店を出て行ってしまった。高嶋は、タバコに火をつけながら、今度は口に出さずにこう言った。
(有力、ねえ・・・)
曇天は俄然天空を支配し、降り注ぐ雨は俄然その勢いを増していた。

ピンポーンッ・・・
呼び鈴の鳴らした腕の袖から一瞬姿をあらわした腕時計は、ちょうど五時をさしていた。返事がない。腕時計はもう一度その姿を袖からあらわし、そして身を隠した。
ピンポーンッ・・・
戸ががちゃりと開く音がした。が、実際には大久保たちの耳に届く前に、その音は雨音にかき消された。
昼間と同じように、髪を後ろにひっ詰めた、三十代半ばの女性が、疲れきった様子で出てきた。
「どうぞ・・」
警官が独りから二人に増えていることにも動じず、木村は二人を中に案内した。大久保が先に歩を進めた
「おじゃまします」
後に高嶋が神妙な面持ちで続く。
「おじゃまします」
戸ががちゃりと閉まる音が、雨音にかき消された。
高嶋は、大久保がはじめてここにきたときと同じような視線を、家中のいたるところに投げかけた。
(殺風景な家だ・・・)
家中の全ての電気がついてるにもかかわらず、高嶋は単純にそう思った。
木村は、どうぞと言ったきり何も言わず、今度は二人をそのままの足で二階に案内した。
あがるとすぐに戸があったが、木村はそこには目もくれずに、左に伸びた廊下を突き当たったところにある戸の前で立ち止まり、振り返りもせず、言った。
「ここが翔の部屋です」
そういわれると、二人はこの部屋に、何かとてつもないものが潜んでいる気がしてならなかった。
少しして、大久保が促した。
「・・お話しをさせていただいても?」
高嶋がふと木村に目をやると、彼女の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「・・・・・」
二人の沈黙が、彼女の涙に吸い込まれていく。そして、意を決したかのように、おもむろに、そしてゆっくりと、木村は翔の部屋の戸をノックした。
コンッ、コンッ・・・・・ガチャッ・・・
静かに戸が開き、その隙間から独りの少年の鋭い眼が現れ、彼らを一瞥した。
「何?」
変声期前の声が廊下に響く。しかしそれは、全てのものを否定するかのような刺々しさと冷たさを合わせ持っていた。
「警察の方が見えてるのよ、ほら、昼間言ったじゃない。翔、お話してくれるわよね?」
と、木村は困った表情で、頼み込むように言った。翔の眼が彼女を睨みつけている。
(なんて子だ・・・ここまで性格に影響が出ているなんて・・・)
大久保は、木村をにらみつけている翔の鋭い眼を、じっと見つめた。無論、高嶋も。
「・・・・」
やっとのことで少年の眼が戸の隙間から消えると、部屋の戸が静かに開いた。
大久保が先に入り、続いて木村の背中をぽんぽんとたたくと、高嶋も翔の部屋へと入っていった。

部屋の中は、電気がついてるにもかかわらず、殺風景であった。翔は、部屋の中央にあるテーブルを指差し、
「これを四人で囲もう。うん、それがいい」
と言って、部屋から一番奥の場所に腰を下ろした。
(・・・)
言われるがままに、三人も腰をおろした。すると、翔は散らかりきった勉強机の上からバインダーを引っ張り出し、机の上に広げた。引っ張った拍子に、机の上にあった教科書やノート、雑誌なんかがどさどさっと音を立てて落ちた。
「・・・!」
翔の異様な行動に大久保と高嶋は思わず身をすくめた。木村は本を直そうと、溜め息混じりに机から身を出すと、とたんに鬼のような形相とともに、翔yの怒声が響いた。
「死ぬぞっ!勝手な行動をするな!あいつはそこまできてるんだ!」
翔は木村の服を引っ張り、机のところまで力づくで引き戻した。
「・・・」
三人とも、事の重大さに気づき始めていた。そして、大久保の言っていた『常盤殺害のもう一つの犯人説』が、高嶋の頭をよぎった。
(この子・・・もしかしたらこの子が・・・いや、現実問題として考えにくい。言ってもまだ中学生、腕力も大の大人にはかなわないだろう。しかし、聞いてた印象とずいぶん違う。現実と夢の区別がつかないほど、夢の影響力は大きいものなのか)
目が覚めたとき、たまに自分のいる場所がわからなくなるという錯覚を起こしたことは高嶋もあった。しかし翔の不可解な行動は、高嶋の想像を超えるものであった。
「では、作戦を練ろう」
翔の意味不明な言動は続く。
「まず、これが俺の調べた迷路地図だ。ほぼ合っているだろう」
大きな紙が机の上に広がり、所々に赤ペンで×印がかかれている。
「この×印のついてるところは、これまでにつかまったやつらの場所だ」
そして続けざまに、黒いファイルが開かれた。そこには誰かの似顔絵と、軽い特長なんかがかかれているようだ。
「そしてこれがメンバーだ。この中でも、つかまったやつらは×印がついてる」
そういいながら、翔は、ファイルをぺらぺらめくった。そして、あるページまで来ると、大久保は背筋に電流が走ったような、強い衝動を受けた。
「こ、こいつは!」
大久保が一人の似顔絵を指差していった。
「ああ、そいつね、常盤って言うんだけど、一番最近やられたんだ。だいぶいいとこまで行ったんだけどねー。」
翔はまるでゲームの世界の出来事のように言い放った。
「そろそろ時間だから、もう俺は行くぜ。悪いが今回も逃げ切ってみせるからな。皆、気を抜くなよ」
そう言うと、翔は横になり、ゆっくりと目を閉じた。
(・・・・・さて、どうする?)
大久保は、迷っていた。この少年の不可解な行動をやめさせて、もっとまじめに話をさせるか、はたまた息子のこういう状況を踏まえて、木村の今の心境を聞くか、一旦席をはずし、高嶋と相談するか。
そうしているうちに、高嶋が口火を切った。
「・・・今日はちょっと気が動転していたんですかね.とにかくここで息子さんの寝顔を見ているのもなんですし、詳しくはまた別の日にでも」
そう木村に促すと、おもむろに手元に置いてたコートを持ち、立ち上がった。木村は動揺を隠せない表情だったが、翔が眠ってしまった今、二人がここにいる理由もなくなったので従うことにしたようだ。大久保もそれに続いて立ち上がろうとした。その時、
「う・・・しまった・・・」
翔が苦しそうに、何かを言った。三人の手が止まり、一斉に翔に視線が注がれる。さっき眠ったばかりなのに、もう翔の額には汗が浮いていた。
「う・・・助けて・・・・」
たまらず木村が横に添い、手を取って叫んだ。
「翔!!大丈夫!?帰って来るのよ、翔!母さんはここにいるわ!!」
二人は何も言えず、ただそこに立っているだけだった。木村の呼びかけもむなしく、翔はさらに苦しんでいる。
「来るなっ・・・来るなっっ!!」
何かを払いのけるような仕草で、翔の手が中をかく。木村もその様子を見て過ごすほか無かった。
「嫌だ・・・助けて・・・来るな・・・うっ・・」
翔の体が痙攣を起こし始めた。そして時折、心臓あたりを抑えて、体を縮ませたり、のたうちまわったりしている。
「助けて、お母さん・・・殺される・・・」
かすれた声でそういい残し、翔は三人の目の前で絶命した。

それから、三人の更なる死者を出した後、事件は迷宮入りのまま幕を下ろすこととなった。知る者のいなくなった『事件』は、また別の町で、別の犠牲者を出していることだろう。
新たなる目撃者を求めて・・・。

フライト
山口瑞穂

 機体が重苦しく唸った。体が空中に運ばれるのを足の裏から感じた。窓の外では、片寄るように景色が落ちていく。私はまた、世界の上へと飛び立ったのだ。
 赤い唇のスチュワーデスが、アイスティーを注いでくれた。黄金色の水の中で氷が踊るのを、ぼんやりと眺めていた。

 父が亡くなったのは、今から三年前のことだ。
 余命宣告を受けた直後、パスポートの手続きを行った。しかし、パスポートが届く前に、悲報の知らせが届いてしまった。出会いがしらの赤の他人に、刃物で胸の真ん中を一突きにされたような気分になった。痛いやら、理解できないやらで、私はただ泣き叫んだ。受話器を握り締め慟哭する私を、十八になる娘は、ただ呆然と見つめていたような気がする。
 彼女はその年、大学受験を控えていた。受験生という状況に置かれた時期に、母親が家を留守にすることは、あまり望ましいことではなかったはずである。母として家を空けることを拒んでいた私に、娘になれといったのは彼女であった。普段から私とは親しい友人のように接する娘ではあったが、このときほど彼女の存在を大きく感じたことはなかった。私は立ち上がり、夏の日差しが注ぎ始めた町の中を、駅に向かって駆け出していた。

 あれから三年の月日が流れた。私は再び飛行機に乗り、弟の家に向かっている。地球を半周する旅はこれで何度目になるだろう。私は学生の頃から世界中を見て回っていた。しかし結婚し子どもを産んでからは、ほとんど海を超えることは無くなった。小さな窓から覗くと広大な海や砂漠や街は、どこも光り輝いて見えた。世界は驚きの連続で、美しく、私を魅了した。
 弟は両親と同居していた。父の悲報を知らせてくれたのは彼だった。病弱であるくせに、ひどく頑固で負けず嫌いだった彼は、一人で世界中を駆け回り、気がつくと異国の地で大学教授という職についていた。その地に彼は両親を呼び寄せた。彼に両親を任せることには何の不安も心配もあるはずがなかった。穏やかな声の内に、激情を押し堪えつつ、彼は電話の向こうで、ぽつりぽつりと悲報を告げたのだった。その声を今でも夢で聞く。
 三回忌のようなものはキリスト教にはない。私が再び海の果てを目指しているのは、父の遺書の内容に従うためである。父の遺書には奇妙な記述があったのである。

 「開けちゃ、だめかな」
「でも、お父さんの遺志だし」
私と弟は、ふんぞり返って構えている金庫を前に、延々とこのような会話を繰り返していた。
「お母さんはどう思う」
私たちのやり取りを側で聞いていた母は、マニキュアを塗る手を止めた。白っぽい部屋にはシンナーのにおいが充満していた。
「―お父さんの言うとおりにしなさい。」
眼鏡のふちから黒い瞳がのぞいた。
「三年、待ちましょう。」
 父の生前から両親の寝室の片隅には、小さなダイヤル式の金庫が置かれてあった。しかし使われている様子は無かった。レースや花で飾られた部屋には、それはとても重たく不似合いであった。

 アイスティーのストローをかじりながら、窓の外に目をやった。オレンジ色の雲のうねりが、一面を敷き詰めていた。三年前のあの日、そこに地獄を見たような気がしたことを、今でも覚えている。父は神の元に召されたに違いない。いっそのこと、この機体と共に塵になってしまいたい。二度と地上を踏むことがなくてもかまわない。そんなことを考えていた私のいき先は、神の元ではないのかもしれない。
 氷が鳴り、しずくが流れた。雲海の彼方に一番星が現れていた。三年経った今では、そこに地獄は見当たらない。代わりに空虚な物質世界が、広漠と存在しているだけであるかのように感じる。不意に、潮風のような香りが鼻先をかすめた。アイスティーを一口飲み下し、私は右隣の座席に座る人をそっとうかがった。整えられたスーツに身を固め、さわやかな雰囲気を漂わせている。左手の薬指には、控えめに輝く指輪がはめられている。出張が無事終わり、愛する家族のもとへ帰る、そんなところだろう。彼の蒼い瞳には、若い光彩が宿っている。
 ふと、彼が私のぼんやりとした視線に気づいた。
「お一人なのですか。」
順序良く並べられた艶やかな歯が印象的だった。
「はい、皆都合がつかなくて」
「どこまで行かれるのですか。」
「トロントまで」
「観光ですか。」
急に、彼の顔の輪郭がはっきりと現れた。濃い睫毛の中から私を見つめていた。
「―里帰りです」
私は父の金庫を開けるために、家に向かっている。その中に納められているものを確認するために、あの家を目指している。しかし、それを確認したところで、私に受け取ることのできるものが、あるのだろうか。私は、何を手にすることが許されるのだろうか。
 私は、あの瞬間に間に合わなかったのである。
 再びアイスティーを口に含み、四角い窓の外に目を移した。空は群青色に染まりつつあった。

 愛する家族へ。
 こんなに幸せな人生を送ることができたのは、世界中で私ひとりに違いない。私はこの上ない幸せに包まれている。
 しかし、残念なことに年月の流れにはかなわない。私はもうすぐこの世を去ることになるだろう。一週間ほど前から、体中から力が抜けていくのを感じ始めた。
 どうか悲しまないでほしい。私はとても幸せだ。病には勝てなくても、体中が痛んでも、誰がなんと言おうと、私はとても幸せなのだから。
 ひとつ、みんなにプレゼントがある。寝室においてある金庫のことなのだが(メイが寝室の雰囲気に合わないと言って嫌がっていたあの金庫のことだよ)、その中身をみんなにあげたいと思う。何が納められているかは開けてから確認してくれ。
 ただ、約束してほしいことがある。中を確認するのは、家族全員で、私の命日からちょうど三年経った日にしてほしい。それまでは、どうか、この金庫をそのままにしておいてもらいたい。
 みんなの幸せを願うよ。今までも、これからも。みんなには幸せになる権利がある。いや、義務かもしれない。どうか私を喜ばせてくれ。もっと幸せを感じさせてくれ。このことについては、私は誰よりも貪欲になれる自信がある。
 心の底から、君たちみんなを愛している。
 ありがとう。さようなら。
君たちのエドワード
 私は南の島で生まれ育った。家は裕福だった。大きな邸宅に住み、数人のメイドを雇っていた。私と弟の通学には、運転手つきの高級車を使用していた。広い庭があり、さまざまな動物が我が物顔で闊歩していた。帰宅するたびに、腰のあたりをつまみに来る首の長いアヒルには、毎日困らされたものだった。犬も猫もいた。鶏もいたし、なぜか巨大なトカゲのような生き物もいた。私は動物たちには無関心で、かわいいと思うことはあっても、世話をすることはなかった。母はよく苦笑いしながら、侵入してくる猫たちがベッドを陣取るのを追い払っていた。父と弟がこれらの動物をよく世話していた。主な仕事はメイドがこなしていたが、この動物園を作った父が、特に飼育を楽しんでいた。休日の午後には、陽の光を浴びながら庭の真ん中に寝そべり、動物たちを眺めていた。時には、近寄ってくる好奇心旺盛なものたちに静かに語りかけていることもあった。
 また父は、美を感じるものには目がなかった。教会の聖歌隊の歌声を聞いたとたんに、その虜になってしまった。お世辞にも歌は上手だとは言えなかったので、父は指揮者という役柄に目を付けた。美しい歌声を自らは奏でることはできないが、他人の美声を引き出すことはできるに違いない。また、聞く人に歌の持つ力や感動を伝えることもできるはずである。父は夕食の席で、頬を薄紅色にふくらませ、穏やかにそのようなことを語っていた。その何ヵ月後かには、父はその役を立派にこなすようになっていた。
 まったく、自由な人だった。社会人としても、夫としても、父としても、父は決して力を抜くことはなかった。どの立場においても、合格点をはるかにこえた人物だった。しかし、自分の安らぎや憧れや感動に対して素直になることにも、同じように情熱を注いでいた。自由に生きることが、とても似合う人だった。
 そんな父が残した遺書である。不思議な内容があって、当然なのかもしれない。父は、子どものような甘酸っぱい空気をいつまでも漂わせていた。
 金庫の中にはいったい何が入れられているのだろう。

 機体が傾いたような気がした。空の濃紺に覆われたトロントの街が見え始めていた。ちっぽけだった光が次第に大きくなりつつあった。どうやら着陸の態勢に入ったようだ。飲みかけていたアイスティーはいつの間にか下げられていた。
 飛行機が降下するときの、無重力になる感覚はいつまでたっても慣れない。宇宙にたった一人放り出されたようで、落ち着かなくなる。どこまでいっても、何にもぶつからないような心細さが、のどの奥にこみ上げてくる。三年前のあの日には、離陸の際にもそのよう感覚を味わった。大きな手をつかみ損ねて、一人で空の底に落ちていく気分だった。空は人々の憧れであるが、私にとっては残酷すぎる場所である。私は目をつぶり、静かに呼吸の固まりをはきだした。

 「おかえり。」
ゲートを出ると、弟が迎えに来てくれていた。分厚い眼鏡は相変わらずだったが、髪がもう一段薄くなったような気がする。
「―久しぶりね。元気だった。」
「まあね。クリスティンも一緒だよ。」
人ごみを縫って、茶色のポニーテールを揺らしながら、笑顔の少女がかけて来た。
「クリスティン、久しぶり。背が伸びたね。」
私は姪を両腕で抱きしめた。髪からやわらかな香りがした。
「元気だった、ジュリー。私、とってもあなたに会いたかったの。ミミーとシシーは今回も無理だったのね。残念だわ。」
「二人とも、学校があってね。でも、そのうちまた来るよ。」
長い睫毛に縁取られた大きな瞳がほころんだ。姪は私のトランクを意気揚々と運び始めた。
姪の母親は、台湾の出身である。トロントに移住し、福祉関係の仕事をしていた。父親は、トロントに住む白人男性だった。七年前に二人は離婚し、一人娘である姪は、母親とともにトロントで暮らすことになった。その母親の再婚相手が、私の弟なのである。弟が父親になるなんて、始めは信じられなかった。しかし弟は、父親というものの見本になれるほどの父親ぶりを発揮した。厳しく、優しく、おおらかに、弟は娘を育てている。いつの間に、父親というものを覚えたのだろう。

 縦にも横にも広がる黒いアスファルトの道は、日本のそれとは比べ物にならないほど、巨大でおとなしかった。どこまでもまっすぐだった。月が青白く光る夜を、私たちは高速で通り過ぎた。家に着いたのは、現地の時間で真夜中に近かった。玄関に立ったとき、私は言い知れぬしびれを目の奥に感じた。この扉を開けると、中には暖かな光がともっていることだろう。
「ジュリー、寒いから入ろう。」
姪が私の顔を覗き込んだ。初夏とはいえ、この国の夜気は氷の表面のように冷たい。玄関の扉を開くと、姪の母親が笑顔で立っていた。
「お帰りなさい。長旅大変だったわね。」
懐かしいにおいがした。慣れているはずなのに、一瞬無感覚を望んだ。
「―うん。キャロル、元気だった。」
「ええ、このとおりよ。荷物、運ぶわね。」
義妹は私の両手の荷物を受け取ると、リズムよく階段を上っていった。私は後を追って、階段を一段ずつ上った。
 二階の廊下の突き当たりにある部屋が、私に用意されている部屋である。そこへ向かう途中に、私の両親の部屋がある。半開きになった扉から、中をうかがってみると、月明かりの中、母の寝息が響いてきた。小柄な母が使うには広すぎるベッドである。端のほうで小さくなって眠っているので、白いシーツは大きな無人島のように見えた。部屋の隅に目をやると、金庫が鈍い光を放ってたたずんでいた。明日には正体が暴かれるというのに、三年前に別れたときと変わらない、堂々とした態度で部屋の隅を占めていた。母が寝返りを打ち、月が甘い光で母の肩を照らした。
「ただいま。いい夢を、ママ。」
 用意された私の部屋に入ると、義妹がすでに荷物を置き、部屋を整えてくれていた。
「ジュリー、シャワー浴びる?必要ならお湯もはるけど。今日は疲れただろうから、早く休んでね。」
義妹は、とてもよく働く人である。弟の収入だけでも十分にやっていけるのに、福祉関係の仕事を今でも続けているのは、辞められないからなのだろう。
「ありがとう。シャワーだけでいいよ。」
「明日は、約束の日でしょう。よく眠れるように、お茶でも入れようか。キッチンに用意しとくから、お風呂上りにでも飲んでね。」
義妹はそう言うと、軽い足取りでキッチンに向かった。
 入浴の準備をし、部屋の明かりを消すと、私の部屋の窓にも月光が差し込んできた。レースのカーテン越しに、ほの暗い影を作っている。母を照らした光と同じ光が、ここをも明るくしている。ふと、金庫の姿が目に浮かんだ。あの箱は、あの場所で、三年間沈黙を守り続けてきた。いったいあの銀色の箱の中には、何が隠されているのだろう。また、そのものは、私が手にしても良いものなのだろうか。月明かりは、カーテンの波を通り、部屋の中を透かして見せていた。
 
 寒気を感じて、私は目が覚めた。起き上がってみると、薄い毛布一枚で眠っていたことに気がついた。昨晩、月光が照らして見せていた部屋は、別の光によって、表情を変えていた。寒い朝は久しぶりだった。日本では、二ヶ月も前に寒い朝は来なくなった。日本に来て初めて寒い朝を味わったときは、凍死を思い浮かべたものだった。赤道付近の国に住んでいたときは考えられなかった。凍死とは、こんな状態のことかと思ったほどだ。日本人である夫と結婚することを決めた日の朝も、とても寒かった。凍えた指で夫の背中を触り、ひどく驚かれたことを覚えている。陽の光が窓から注いでいるが、今日の朝は、あの日以上に冷たく感じる。
 海を越えた日本という土地からきた恋人を紹介したとき、両親は快く迎え入れてくれた。その日本に嫁いでいくことを決めたときも、両親はそろって賛成してくれた。二人とも内心では不安やとまどいを感じずにはいられなかったはずである。しかしそんな顔色ひとつ、こちらにうかがわせることなく、頑張れと送り出してくれたのだった。笑顔で手を振る両親の姿を肩越しに振り返り、私はここへは戻らないことを誓った。しかしそれと同時に、二人の元へ帰ることも心に決めたのだった。
 ―私は、父の娘として、失格かもしれない。

 その日一日は、ゆっくりと時間が過ぎていった。私は、弟とともに近くのスーパーに行ったり、近所を散歩したりした。緑に囲まれた住宅街を歩いていると、この国の香りが体に入り込んできた。赤ちゃん用の石鹸のような、ミントの葉のような香りだ。自由を感じる香りだった。私はその香りを体中で吸い込もうとしたが、肺がうまく呼吸しなかった。
夜になると、月が東の空に金色の光をつれてやってきた。星たちも待ちわびたように一つずつ現れ始めた。
「何が入っているのかな。私はおじいちゃんの宝の地図が入っていると思うの。だっておじいちゃん、冒険の話がとっても好きだったもの。」
夕食の席で、姪は目を輝かせて言った。
「僕は、写真じゃないかなと思うよ。家族全員の。」
「私は、家族一人一人に対するプレゼントが入っていると思うわ。お母さんには宝石、クリスティンには髪飾り、というようにね。」
親子の会話を、耳の表面で聞きながら、私はスープをすくって口に運んでいた。
「ジュリーは、何が入っていると思う?」
姪の声で、スープがなだれ込み、体を熱くした。
「―さあ、見当もつかない。」
「隕石とか、恐竜の化石とか入っていたら素敵だよね。」
声を弾ませながら、姪はおかずを小皿にかき寄せた。
 そう、見当もつかない。三年間、父の最後の言葉を思い出そうとしたが、無理だった。父は、私になんと言ったのだろう。金庫の中身は、見たくないような気がしてきた。

 物思いに耽っていると、母がポテトを私の小皿に入れた。
「考えなくていいの。」
「―何。」
「お父さんのこと。間に合わなかったこと、後悔してるんでしょ。―そんなこと求めなかったわよ。それは穏やかだったんだから。こっちが青ざめるくらい落ち着いてたわ。そんな雰囲気で、どうやって引き留められるのよ。ジュリーがその場にいても同じことだったわよ。求めたのは、目の前に来てもらうこと以上のものよ。」
母はほとんど一気に話し終えた。聞いているうちに、目が閉ざされていくような感覚に陥っていった。耳の中に靄が入り込んできたように、親子の声も、食器が触れ合う音も、何もかもが遠くなっていった。私は、今見えるものを見ようとしなければと思い、重い目をゆっくりこじ開けるように見開いた。光が目を射たその瞬間、私は父の顔を見たような気がした。母の隣に、タンスの時計に、ろうそくの明かりに、空気の隙間に、父は存在していたのだった。風のように目には見えないけれども、あらゆるところを揺らし、やわらかく存在を証明しているかのようだった。
 やわらかな光のある家。広い空の下で育まれてきた、光をともす家。
 きっと幸せな夢が、あの金庫にはしまわれているのだろう。
 私は肌でそれを感じた。

 夕食後、私たちは母の寝室に入った。とうとう秘密が明かされてしまうというのに、金庫は動揺した様子を、微塵も見せていなかった。
「番号は遺書の裏に書いてあったよ。」
弟は、遺書を裏返し、記された番号を一つ一つ回した。ダイヤルがカチカチと音を立てるたびに、私の頭は不思議と落ち着いていった。ほかに何の音も聞こえなかった。自分の鼓動が、ダイヤルと重なるのを静かに体の内で感じた。
 鉛色の小さな扉が、無防備になった。
「開けるよ。」
弟の指が扉をゆっくりと引いた。指はかすかに震えていたように見えた。
鉛色の中には、暗闇が占領していた。中の様子は、私からは見えなかった。弟は中を探った後、困惑したように立ち上がった。口の端が少し微笑んでいた。私も中の様子をうかがった。中に手を突っ込み、ばたばたと壁を撫で回した。私はそっと手を引き、思わず笑い声をあげてしまった。家族全員が中を確認すると、金庫は肩身の狭そうな顔をして、正体を現していた。私たちはお互いの顔を見合わせ、「おじいちゃんらしいね」と笑い合った。
 銀色のいかめしい箱は、今や部屋の黄色い光に照らされた、無邪気なおもちゃ箱と化していた。
 
 父は、私たちに夢を見ることを教えてくれたのだろう。金庫は空っぽだった。私たちは、この三年、金庫の中身を考えずにはいられなかった。しかし、金庫はまったくの空っぽだったのだ。目を輝かせながらあれこれと人が思案するさまを、横から眺めることは、父の好みそうなことである。私たちは、金庫の中身を通した世界を夢見ずにはいられなかった。
 それとともに、私は、いつも自分を許せなかった。父に許してもらえるとも思えなかった。私は、日常の全てから身を隠そうと逃げていたように思う。見えるはずのものが、見えなくなっていた。三年間、全てから自分を遮断し、後悔することしかしてこなかった。夢を見ることさえも、自分に禁じていた。
 父の空っぽのプレゼントは、この世で最高のプレゼントだった。

 トロントの緑の風が、私を機体ごと空へと運んだ。紺碧の空を追い越し、雲の波打ちを飛び越え、私は帰ろう。これ以上無いという幸せをお土産に、私は私の家へ帰ろう。私の家族が、笑顔で私を迎えてくれるはずである。窓の外の景色は、星屑をまいたような美しい光の世界だった。天国でも、地獄でもない、そこは美しさが植えられた世界だったのだ。

話したかったけれど…
石田春美

家の外に出ると、冷たい空気が全身を震えさせた。直接空気に触れている顔と脚が、すぐに冷たくなる。手袋をしていても指先が痛いくらいである。空はまだ薄暗い。道を通る人もほとんどいない。自動販売機の明かりと街灯がまだ明るい、とても静かな朝である。
 そろそろ来るだろうと思ったとき、学校指定のカバンを重そうに右肩にかけ、左手には体操服が入ったバックを持っている絵里が、走ってくるのが見えた。毎日変わらぬ、見慣れた姿で、すぐにわかった。絵里は耳を真っ赤にして、白い息を吐きながらやって来た。
「おはよう。」
「おはよう。」
二人の吐く息がとても白くなっている。私はマフラーを巻いた首を縮め、手袋をした手に白い息をかけ、手を擦りながら、絵里を待っていた。
「ごめんね、少し遅れちゃったね。」
絵里の息が乱れている。
「ううん。それより大丈夫?」
私が聞くと、絵里は大きな息を一つ吐いてから答えた。
「うん。大丈夫だよ。行こうか。」
「うん…。」
私は反射的に答えた。待ち合わせに遅れたことのない絵里が、ほんの少しだけでも遅れてきたことが気になりながらも…。
 そして、私は待っている間足元に置いていた、教科書やノートがたくさん詰まっている指定カバンと体操服の入ったバックを持ち上げ、歩き始めた。絵里もとなりを歩いている。

絵里とは、私の家の前で待ち合わせをして、一緒に学校に行くことにしている。絵里の家は私の家よりも、学校から遠いところにある。しかし、遠いとはいっても、それほど変わりはなく、私の家からほんの少し先に行ったところであって、近所なのだ。だから、私たちは幼稚園に通う前からの幼なじみで、学年が一緒であることもあって、小さいころから一緒に行動することが多かった。
そして、中学生になっても、それまでと同じように、部活も一緒に入り、二人一緒に通学しているのである。

「朝練、嫌だね。寒いのに…。」
絵里が顔をしかめて言った。
「うん。寒いときはボールが腕に当たると痛いんだよなぁ。」
私も同じように嫌な顔をして言った。
 冬になると、バレーボールをレシーブするとき腕の芯が痛くなり、私はそれが一番嫌いだった。絵里もほかの部員も皆嫌っていた。
「そうそう、今度の日曜日、練習試合だったよね?」
私は大変なことを忘れてしまっていた。
「そうだよ。」
絵里は冷静に答えた。私は、絵里が少しだけ羨ましく思えた。

日曜日がやって来た。練習試合の日である。私は朝からとても気が重い。しかし、体操服に着がえ、ウインドブレーカーを上から着て、お茶とタオルの入ったバックを持ち、家を出た。私は家の前で絵里を待ち、一緒に学校へ向かった。
 私たちの目の前の信号が赤になった。
「はぁ…。」
私は思わずため息をついてしまった。
「洋子、どうしたの?」
絵里は心配そうに聞いた。
「ううん…。」
私ははっきりと答えなかった。しかし、絵里にはなんとなく見当が付いているようであった。
 練習試合は、何セットも連続でゲームをするので、レギュラーのメンバーにとっては、普段の練習以上に疲れて、大変なことなのである。だから、練習試合の日は朝から気が重くなってしまう。
 信号は青になり、また歩き出した。
「はぁ…。」
ボーっと地面を見つめ、今度は絵里がため息をついた。いつも明るい絵里の元気のない姿が珍しかった。
「どうかしたの?」
私も心配になり、絵里の顔を覗きこみながら聞いた。
「なんでもないよー。真似しただけ!」
絵里は顔をぱっと上げ、笑いながら言った。しかしその笑顔は、どこかいつものとは違っていた。
 その後、絵里は学校に着くまで、練習試合とはまったく関係のない話をずっとしていた。練習試合のことは気にはなっていたけれど、私も絵里と一緒になって、楽しい話をするように努めた。
 学校に着くと、ほかの部員も部室に集まっていた。いつもより皆、口数が少ない。外の空模様と同じようだ。外はずっと曇っていて、重苦しい空模様である。絵里も私も、皆につられて元に戻ってしまった。
 それでも、全員でネットを張り、準備を進めた。
「おはようございます!」
準備が終わると、ちょうど顧問の近藤先生が体育館に入ってきた。
「おはよう。よしっ、ランニングから始めて!」
「はいっ!」全員、大きな声で返事をした。
ランニング、柔軟体操を終え、基本練習を始めると、練習試合の相手が来た。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
相手はとなりの中学校で、前の大会で戦って負けたチームだ。レベルはあまり変わらないので、また負けるわけにはいかない。アタック、サーブの練習は相手と一緒にやり、ついに、練習試合をするときが来た。
 私はライトのポジションに入った。絵里はベンチで応援をしている。サーブは相手からである。
「ピーッ」
主審の笛がなった。相手のサーブはキャプテンのところにきた。キャプテンは上手くレシーブをし、セッターがトスしたボールを相手のコートに鋭いアタックで返した。アタックは見事に決まった。

 キャプテンは小学生のころからバレーボールをやっていた経験者で、バレーボールがとても上手い。レギュラー六人のうち経験者は四人いる。その中でもキャプテンは最も上手く、メンバーも頼りにしている。キャプテンとは逆に、私はレギュラーでも、いつもミスばかりで迷惑をかけている。
 私は、バレーボール初心者で、バレーボールを始めてまだ、大体一年半である。はじめに部活を選ぶときにも、バレー部に入ることはまったく考えていなかった。むしろ、私の考えの中では、バレー部に入ることは、絶対にないことだった。一方で絵里は、少し経験があったから、バレー部に入ることを決めているようだった。
 部活見学で絵里のバレー部見学に付き合ったときにも、まったく興味がなく、なんとなく見ている私の横で、目を輝かせてボールの行方を追っていた。
「すごいねぇ。今のサーブ見た?」
絵里は結局、すぐにバレー部に決め、嫌がる私も強引に説得され、バレー部に入ることになった。バレーボールは絶対にやらないと決めていたけれど、絵里には負けてしまったのだ。

 ゲームは接戦である。23対22、あと2点で1セットは勝つことができる。サーブは私の番になった。そのとき笛がピッとなり、私は絵里と交代させられてしまった。このセットでも、私はミスばかりしていたからのようだ。
 絵里のサーブはラインぎりぎりに入り、すばらしいサーブになった。そのまま絵里が活躍し、そのセットは勝つことができた。私はとても複雑な気持ちだった。コートの中でゲームをしているときには、コートの外にいる人がしんどい思いをせず、羨ましく見えたけど、外から見ていると、コートの中でプレーしている人がすごく羨ましく思えた。
 次のセットでは、はじめから私のポジションに絵里が入った。私はいつコートに戻ってもいいように、コートの中の人たちの動きをしっかり見るようにしていた。すると、顧問の近藤先生に呼ばれた。
「洋子、交代!」
 私は絵里と交代し、コートの中に戻った。ベンチに戻る絵里は笑顔だった。
 私は、コートの中に戻ってからは精一杯動き回った。疲れてしんどくても、ミスをしても、関係なかった。
 この日の練習試合の帰り道は、私も絵里も朝の気持ちは忘れ、晴れ晴れとした顔だった。

 年が明け、三学期に入った。二年生もあと三ヶ月で終わりだ。始業式があるので、全校生が体育館に向かう。体育館の中では、各クラスの委員長、副委員長が列の一番前に立って、クラスの人たちを整列させている。
 となりのクラスの列の一番前には、絵里が立っている。
「並べたら前から座っていって!」
列の真ん中あたりの私のところにまでよく聞こえる声であった。絵里は副委員長として、クラスの人をまとめているのである。
 絵里には、下に弟と妹がいる。そのせいか、すごくしっかりしている。それに、誰にでも自分から話しかけ、すぐに仲良くなれるし、とても明るい性格の絵里は人気者で、クラスの中でも中心的な存在のようである。副委員長になったときも、絵里がやりたいと言ったわけではない。推薦され、引き受けることになったのだ。
 バレー部では、キャプテンでも副キャプテンでもないけれど、やはり、話の輪の中心にはいつも絵里がいる。練習中でも、絵里はレギュラーではないけれど人一倍大きな声を出し、目立つ存在である。

 二月には大会がある。大会まであと、八日、七日とどんどん近づいてくる。練習は激しく、顧問の指導も厳しくなる。その中で、私も絵里も必死に練習し、汗を流していた。
 そして、大会の日が来た。私はユニホームを着て、上からジャージを着て、さらに上からウインドブレーカーをはおった。カバンには、シューズやお弁当、水筒をつめた。私は、同じようにカバンを持って、同じ格好をした絵里と大会に向かった。外の空気はひんやりとしていたが、雲はひとつもない快晴で、気持ちよく感じた。
 大会の会場は、試合前から熱気で外の空気とはまったく別のものだった。
 開会式も終わり、ついに試合が始まった。まずリーグ戦で3チームと試合をする。2セット先取で勝ちである。そして、リーグ上位2チームずつが決勝トーナメントに進むことができる。私たちのチームは第二試合からであった。
 第一試合から会場は、応援に来る親たちでいっぱいだ。絵里と私の親も、大会の度に必ず揃って応援に来る。今回も来るはずである。
 試合が始まった。私はライトのポジションに入り、絵里はベンチにいる。
「がんばれー!!」
上のほうから大きな声が聞こえた。よく聞く声だ。それは私の母だった。会場2階の応援席から声を上げていた。
タイムアウトになった。近藤先生のアドバイスを皆真剣な顔で聞く。その間も会場は、応援の声でいっぱいだ。タイムアウトが終わり、コートの中に戻る前に、私はふと応援席を見た。
(おかしいなぁ…。)
絵里の母親がいないのだ。私の母と必ず一緒に来る絵里の母親がいなかった。絵里の母親は、絵里が試合に出ないことがわかっていても、大会のときには必ず応援に来ている。
 秋の大会のときもそうだった。
「洋子ちゃーん!ナイスサーブ!!」
私の母以上に大きな声を出し、応援してくれるのだ。その絵里の母親が見当たらなかった。
 私たちにとって一つ目の試合が終わった。結果は1‐2で負けだった。
「おばちゃん来てないね。」
私は絵里のとなりへ駆け寄り、言った。
「うん…。今日は体調が良くないから来ないよ。」
絵里はボールなどの荷物を片付けながら答えた。
「風でも引いたの?」
「うん、たぶんね。」
はっきりとしない返事で、私はすっきりしなかった。
大会のほうは、リーグ戦が終わり、一勝二敗の成績だった。決勝トーナメントには、もう少しのところで進めなかった。私たちの大会は終了した。
 家に帰ると母からも絵里の母親のことを聞いた。
「絵里のおばちゃん来てなかったね。」
「おばちゃんね、去年の十二月くらいから調子良くないんだって。」
母は顔を曇らせて言った。
「そうなの?去年から?」
絵里から聞いたときとは、受ける印象が少し違っていた。
「そう。今年に入ってからは調子良くなってきていたようだけど、最近また良くないみたいだよ。」
「おばちゃん、大丈夫かな?あっ、そうか。それで最近、絵里の様子がおかしかったのかな?」
「ん?」
母は首を傾げた。
「待ち合わせに遅れたり、ボーっとしたりして…。ちょうど十二月くらいからだったし、きっとそうだよ。」
私が絵里の様子におかしく感じていた理由が、何となくわかったような気がした。
 翌日、朝から電話が鳴った。絵里との待ち合わせ時間の十分前である。
「もしもし、絵里ですけど…。」
「あぁ、絵里?おはよう。」
私はなぜか不安な気持ちになった。
「今日の朝練、休むよ。近藤先生にも伝えて。」
絵里は簡単に用件を伝え、理由は話さなかった。声はなんとなく暗いように聞こえた。
「うん、わかったよ。」
私も一言だけ答えて、電話を切った。時間がなかったのだ。理由が気になり聞きたかったけれど、私は聞くことができなかった。それよりも、聞いてはいけないような気がしたのだった。
 そして、絵里は部活を休むようになった。それと同時に、絵里と私はまったく話をしない日が続いた。登下校が別々になったことも理由の一つである。学校内でも顔を合わす程度で、話をすることはなかった。
 ある日の昼休み、私はバレー部のキャプテンと話をした。キャプテンとは同じクラスで、しかも席がとなりなのである。
「数学の宿題してきた?」
机の中から、教科書とノートを取り出しながら、キャプテンが言った。
「うん、してきたよ。今日のところは多くて大変だったけどね。」
私も教科書とノートを机の上に出した。
「ちょっと見せてくれないかな?一問解けなくて。」
手を合わせて、目で訴えてくる。
「はい。」
私は、キャプテンの机の上にノートを置いた。
「ありがとう。」
キャプテンは、早速ノートを開いて、自分のノートに写し出した。そして突然、絵里のことを話し出した。
「絵里、最近部活に来ないね。」
そう言いながら、キャプテンの目は私のノートの字を追い、手は自分のノートに字を書き写している。とても器用である。
「そうだね。」
私は意味もなく、教科書をパラパラと開いた。
「どうかしたのかな?洋子、知らないの?」
キャプテンはまだノートを写している。
「うーん、知らない…。何も聞いてないから…。」
私は目を伏せながら言った。
「え!?本当に?」
キャプテンは手を止めて、私のほうを見た。目を丸くしている。
「本当…。」
ほかに何も言えなかった。
「‥‥‥。」
キャプテンも何も言わなかった。机に向き直したけれど、手は止まったままで、目は一点を見つめている。キャプテンは私たちの間に流れる、それまでとは違った空気を感じているようだった。いつも仲良く一緒にいる私たちが、お互いに放れていくようで心配になったようだ。
 私には、周りのざわざわと騒がしい声が遠くに聞こえた。
「早く写さないと昼休みが終わっちゃうよ!」
私はキャプテンの肩をたたいて言った。変な空気を吹き飛ばしたかった。それ以上に、動揺を隠したかったというのが正直なところだ。私自身も絵里との関係に少し違和感があったのは確かである。

「絵里ちゃんのおばちゃん、病院に運ばれたの!」
練習を終え帰ってきた私に向かって、母が言った。
「どうして!?」
私は驚きのあまり、カバンを下ろすことも忘れて、声を上げてしまった。
「まだ詳しいことはわからないけど、二時間くらい前に救急車が来て…。」
母は落ち着きがない。
「あまりにも近くに止まったから見に行ったら、絵里ちゃんのお家だったの。」
「絵里は?」
「ちょうど帰ってきたところだったみたいよ。救急車に一緒に乗って行ったから。」
私は、おばちゃんのことも心配だったが、絵里のことも心配だった。

 詳しいことがわかってきたのは、次の日だった。母がお見舞いに行き、おばちゃんと直接話しをしたらしい。その話によると、ちょうど絵里が部活を休みだした日に、一度病院で診察してもらったそうだ。そのときはただ風邪をこじらせただけと言われ、薬をもらって帰って来たけど、ぜんぜん良くならないので、もう一度別の病院で診てもらおうかと考えていたときに、倒れてしまったということだった。おばちゃんが倒れたとき、絵里の弟は、小学校からもう帰ってきていたので、あわてて119番に電話したらしい。そして、おばちゃんは病院に運ばれたということだ。
 絵里が部活を休むようになったのは、家のことをしないといけなかったからのようだ。体調の良くないおばちゃんの為に、家事を手伝っていたらしい。
 入院してベッドで横になっているおばちゃんは、母には少しやせて見えたようだった。しかし、それ以外はいつもと変わらない、明るいおばちゃんだったと母は言う。私は少しだけ安心した。
 その後も絵里は相変わらず部活は休んでいるが、学校にはしっかり来ている。部活の方でも、事情がわからないこともあり、絵里のことがみんな心配だった。キャプテンも絵里のことをずっと心配していた。
私はキャプテンにだけは絵里が部活を休む理由を話すことにした。絵里とほとんど話をしなくなってからは、私は部活の面だけでなく、いろいろな面でキャプテンを頼りにしていた。授業でも部活でも同じ場所にいるキャプテンがとても身近な存在であったからだ。キャプテンは真剣に私の話すことを聞いていた。
 その日、私は廊下で絵里に会った。
「おばちゃん大丈夫?」
絵里を呼び止めて聞いてみた。
「うん。今日検査らしいけど、元気にしているよ。」
絵里は優しく答えてくれた。
「おばちゃんが病院に運ばれたって聞いて、すごくびっくりしたよ。」
「うん。私もあのときはびっくりした。」
「少し前から調子良くなかったんでしょ?」
「そうなの。だから、私も家事を手伝っていたの。それで、部活にもいけなくて…。ごめんね。話さなくて…。」
「ううん。おばちゃん何ともないといいね。」
私は普通を装った。しかし、この時まで絵里の口から直接理由を聞くことが、少しでもなかったことが寂しく感じた。何かちゃんとした理由があるのだろうとはわかっていたつもりだが、何か納得のいかない部分もあった。
 絵里と話をしたのは久しぶりのことだった。

 おばちゃんの検査結果が出た。私は電話で呼び出され、絵里の家にいた。学校も部活もない日だった。
「ガンだって。」
絵里の口から聞かされたその結果は、衝撃的なものだった。
「‥‥‥。」
私は一瞬、言葉が出なかった。何か言おうとしても、言うべき言葉が見当たらなかった。
 絵里の話をよく聞くと、幸いにも、おばちゃんのガンはまだ早期で、摘出すれば問題ないということだった。
 数日後、おばちゃんはガン摘出手術を受けた。手術は成功し、順調に回復して家に戻ってきた。絵里も安心したことだろう。
退院後も、絵里は部活に戻ってこなかった。おばちゃんも戻ってきたとは言っても、まだ万全ではないのだ。だから、しばらくは絵里も部活には戻らず、家のことをするようにしていたようだ。
そんな日が続く中、私は風邪を引いて二日間学校を休んだ。高熱を出したのは何年ぶりだろうか。どんなにしんどくても学校を休むことはなかったのに、高熱にはかなわなかった。
熱も下がり学校に戻るなり、私は信じられない話を耳にした。キャプテンの口から、絵里が転校するという話を聞いた。私は、となりのクラスの絵里のもとへ走った。
「絵里、転校するって本当?」
自分の席に座って本を読んでいる絵里を見つけるなり、強張った顔で聞いた。
「‥‥‥。」
絵里は何も答えない。読んでいた本を閉じて、ただずっと下を向いているだけだ。
「絵里…、転校するの?」
私も今度は落ち着いて、優しく聞いた。
「うん、そう…。」
口を開いた絵里は、声を震わせていた。下を向いたままで顔は見えないが、涙を流していることがはっきりとわかった。
 私はショックだった。なぜ私には教えてくれなかったのか。そして、なぜ一番初めに言ってくれなかったのか。気持ちの中には、直接聞きたかったというのもある。私にはいろいろ疑問があった。仕方なかったとはいえ、学校を休んだことも後悔した。
 私は一番の疑問を絵里にぶつけた。
「どうして話してくれなかったの?」
私も泣きたい気持ちだった。
「話したかったけれど…。」
絵里がゆっくりと言った。
「話したかったけれど?何?」
絵里を責めたいのではなく、私はどうしても続きが知りたかったのだ。
「話したかったけれど、話せなかったの。」
今度は大粒の涙を流していた。そんな絵里の姿を見て、私はすべてわかったような気がした。部活を休み出した時もそうだったが、なぜ絵里は私に話してくれなかったのか。そして、絵里の本当の想いを…。
 キャプテンは絵里から転校の話を聞いたときのことを私に話してくれた。絵里は私にどのように話せばよいのかとても悩んでいたらしい。そのことを目には涙を浮かべながら、キャプテンに相談したようだ。そんな絵里の気持ち含め、これまでの私と絵里のことを考えてキャプテンが先に私に話そうとしたのに、私は転校という言葉を聞いただけで飛び出してしまったのだ。キャプテンの話からも絵里が私のことを気にしてくれていたことはよくわかった。それまでの絵里の行動は私の気持ちを考えてのことだったのだ。そのことに気付いて、私は嬉しく感じるとともに絵里に対して疑問を感じていたことを恥ずかしく思った。
後に、引越しの理由を詳しく聞くと、絵里の母親のことが関係していた。ガンは摘出したけれど、おばちゃんのこれからの体調のことを考え、おばちゃんの実家近くで暮らすことを家族皆で決めたらしい。
 私は、絵里が自分の前からいなくなることなど、考えたこともなかった。だから、本当に絵里が引っ越すとわかっても、それがどういうことなのかということは、引越しのそのときまでわからなかった。
引越しの日は、さわやかな風の吹く少し暖かい日だった。春は、もう近くまで来ているようであった。絵里は普段と変わらぬ笑顔を振りまき、私も笑顔で応え続けた。二人とも会えなくなるのは寂しいけれど、悲しい気持ちはなかった。
絵里たち家族は、車に乗り込んだ。ついに出発のときが来たのだ。
「絵里、元気でね。連絡ちょうだいね。」
伝えたいことはまだあったはずなのに、言葉が続かなかった。
「洋子も連絡してね。またね。」
そういうと、車は発進し、見る見る遠くなっていった。そして見えなくなったのだ。
出発する直前に、私は絵里から小さな手紙を貰っていた。読んでみると、内容はとても簡単なものであった。
『洋子へ  今度休みのときにでも遊びに来てね。絶対だよ。あともう一つ、ちゃんと連絡ちょうだいね!!  絵里より』
 
 春休みがやって来た。絵里のところへ遊びに行ときが来たのだ。
 絵里と久しぶりに再会し、私たちは時間を忘れて遊んだ。夜も遅くまで話をして楽しい時間を過ごした。しかし、帰るときはすぐに来てしまったのだ。
 私たちはまた、別々になった。新学期には、私たちは二人とも三年生になる。これから先、暮らしているところは違っても、私たちの関係はずっと変わらないだろう。

思い出
小島ゆきこ

人の記憶というものは確かなものなのだろうか。
記憶というものは、時と共にうすれ、曖昧なものになっていくものなのだろうか。
私は電車に揺られながら、そんなことをぼんやりと考えていた。

私は大学進学を機に上京しもう三年になる。今日は週末に行われる同窓会のために実家に帰るのだ。いつもならそういうめんどうくさいものはパスするのだが、断る理由もなく、また三連休ということもあり、なんとなく出席することにした。

 そう、なんとなく出席した同窓会のはずだった。
 おかしなことに気づいたのはこの電話からだ。
「もしもし加奈?わたしわたし!!久しぶり。同窓会のことだけど、もちろん出席よね!?」
 幹事をしてくれる私の親友、真里絵はいつもこんな調子だ。私にはない独特の人懐っこさをもっている。
「うん。行くわ。」
「やった!これで全員参加ね!!」
 なんということだろう、みんな出席とは。みんなよっぽど暇なのだろう・・そう思った瞬間、私は咄嗟にこんな質問をしていた。
「全員って、岡本君もくるの?」
自分でもびっくりした。9年も前の記憶が急によみがえってきたのだ。おとなしく、目立たない岡本君。あの子はくるはずがない。
「岡本?誰それ!?30人全員くるわよ。」
「岡本くんよ!ほら影がうすかったけど・・」
「そんな子いないわよ。中学か高校の友達じゃないの?9年も前じゃわからなくなるわよね。じゃまた電話するわ。」
私は、そのあとしばらく考えてみた。「岡本」という男の子のことを。しかし、やっぱり私の記憶の中にはいる。中学でも高校でもなく小学6年のあの教室に。一言も口をきいたことはないけれど、顔も覚えている。私の記憶違い・・そうに決まってる。そう思えば何ともないことなのだが、どうしても納得いかない。

色々考えつつも解決しないまま、同窓会の前日になってしまった。気持ち悪い感覚を引きずりながら、私はこうして地元に向かう電車に乗っている。
そうだ、卒業アルバムを見よう。きっと岡本くんは冴えない顔で隅のほうに写っているに違いない。散々悩んだ挙句、私は自分の記憶を信じようと思った。

「ただいま!!」
「おかえり!どうしたのそんなに慌てて・・」
実家に帰ったとたん、母親がびっくりするほどの勢いで、私は自分の部屋に向かった。もちろんアルバムで「岡本君」を確かめるために。
アルバムは押入れの奥にあった。ほこりをかぶり、こんなことさえなければ探し出されないだろうこのアルバム。9年前の私が、そして9年前のクラスメートの岡本君がこのなかにいるはずだ。私の手はゆっくりとページをめくった。
「・・・・いない。」
自分のクラスにも、その他のどのページを探しても岡本君はうつっていなかった。そんなはずはない。どうしてうつっていないのだろう。途中で引っ越したのだろうか・・いや、それならなぜ真里絵は「岡本」という名前をしらないのだろう。真里絵は転校したからといって、クラスメートの名前を忘れるようなタイプではない。
そのとき、アルバムの中から何か紙切れのようなものが出てきた。ふたつに折ってあるその紙切れを広げると、そこには決してきれいだとはいえない小さな文字がならんでいた。
『けしごむ ありがとう 岡本』
確かに岡本と書いてある。間違いなくこれは岡本君が書いたものだ。岡本君はやっぱりいたのだ。そう!私が岡本君に消しゴムを貸してあげたときのお礼の手紙だ。私は岡本君はやっぱりいたのだと確信し、うれしく思った。しかし、そのせいで謎は深まるばかりだ。私はその夜一晩中悩みつづけた。

「加奈!こっちこっち!!」
同窓会の会場に着くと、私が真里絵の姿を探す暇もなく真里絵が私を呼んだ。
「みんなひさしぶりよね。みんな変わっちゃって。小田さんなんてもう子どもがいるらしいわよ!」
真里絵がすごい勢いで話し始めた。ちゃんと聞きたいし私だって色々話したい、しかい今の私にはその余裕がない。やっぱり気持ちが悪い。私の記憶違いにしては岡本君の存在がはっきりしすぎている。どう考えてもおかしい。
「ねえ、ほんとに岡本って名前の男の子、このクラスにいなかった?」
話の途中だというのに私は真里絵に質問していた。
「どうしたの急に?岡本ねえ・・・あの電話の後考えてみたけどやっぱりいないわよ。だって名簿にも名前のってないし。」
「うそ?!絶対いたって!!」
私は夢中になって話し始めた。おとなしくて目立たない子だということ。でも私の記憶ではおなじクラスにいたということ。手紙も出てきたこと。アルバムにはうつっていないこと・・でも真里絵は不思議そうに私をみつめるだけだった。

そのあと他の友人に聞いてみた。しかし、結果は同じことだった。どうしてみんなは覚えていないのだろう。私だけが覚えている・・ちがう、私だけが勘違いをしているのかもしれない。結局何もわからぬまま、その夜も実家の布団に横になった。

ここは僕の研究所。灰色の壁に囲まれたこの部屋で、今目の前に水島加奈が眠っている。彼女は小学校のときの僕の同級生だ。といってもそれをしっているのは僕と、そしてこの水島さんだけ。そうなったのは僕のせいだ。そのために僕はこの歳でまだ研修員のまま。そして、このままではいけないと思って今ここに水島さんを連れてきたのだ。
「・・・ここはどこ?」
水島加奈はこわばった顔で、あたりをきょろきょろ見渡した。そして、その視線は一人の男のところで止まった。その目は怯え、小さいからだが余計に小さくなっている。

連れてきてすぐに仕事をすればよかった。水島さんが目を覚ましてしまったようだ。別に彼女が目を覚ましたからといって、仕事ができないわけではない。また何かで寝らせることができればいいのだから。でも、仕事は慎重にやらなければ。
「僕の研究所だよ。」
僕はできるだけ自然に答えた。
「・・・だれ?なんでこんなところに・・私が・・」
会話をするには、彼女はあまりに混乱している。

そして、水島加奈がようやく落ち着いた頃、ぼくはゆっくりと話し掛けた。
「・・びっくりしただろ?いきなり変なとこに来ちゃったもんね。」
「・・・うん」
彼女は顔を上げずに、静かに答えた。

「さっき、誰?ってきいたよね?きみは僕のことを知ってるはずだよ。顔とか変わったからわからないか。何年もまえのことだし。」
僕は作業をしながら、そう言った。
「あの・・もしかして。」
僕は何も言わなかった。黙々と作業を続けた。
「・・もしかして岡本君・・?なんでここに?どうして私がここにいるの?」
彼女はぱっと明るい表情になり、僕の顔を覗き込んだ。
「僕の仕事を手伝ってもらおうと思って。」
あらかじめ用意しておいたうそを僕はできるだけさらりと言った。本当のことはしゃべってはいけない。後でややこしくなってしまう。
「ちょっと待って!岡本君?あなたは6年生のとき、私と同じクラスだったわよね?」
「そうだね。」
決心がにぶってしまわないよう、僕はうわべだけの会話を心がけた。
「なんでみんなあなたのことを覚えていないの?」
「さあ?影が薄かったからじゃないの?」
と僕が答えた。本当は僕がみんなの記憶を消したからなんだけどね・・そう心の中つぶやきながら。
「でも、私は覚えてるよ。岡本君のこと。」
僕は答えに困った。素直にうれしかった。僕が水島さんの記憶だけを消さなかっただけなのに。覚えていてくれたわけじゃなく、記憶を消していないだけだとわかっているのに、その言葉はとてもうれしかった。
「けしごむ貸してあげたの覚えてる?岡本君からの手紙まだもってるよ。」
「・・・・」
「でもどうしてみんな岡本君のこと覚えていないんだろう。ひどいよね・・」
気づけば僕は泣いていた。
「僕が悪いんだ。ごめん。」
僕はそのとき、もうどうなってもいいと思った。ずっと考えて出した末の結論だったのに、それが今ではちっぽけに思えた。
「どういうこと?」
水島さんは取り乱している僕に気づいたのか、その声はとても静かだった。
「・・・僕は、人の記憶を管理する仕事をしているんだよ。その仕事の研修は小学校のころからはじまった。研修というのは一年間一緒に過ごしたクラスメートの記憶を整理すること。」
僕は決して話してはいけない内容を口にしていた。
「整理・・?つまり『岡本君』という存在を消してしまうということね。」
水島さんは僕を軽蔑するのかと思ったが、そうではなかった。すごく冷静に、僕の話をきいてくれた。

僕は、生まれたときからこの仕事をすると決まっていた。そして、初めての仕事がこの研修というかたちのもの。僕は順調に一年間を終え、クラスメートの記憶の整理を始めた。そのとき、僕はとても充実していた。記憶の整理をするということにとても興味をもっていたし、研修がもうすぐおわるという達成感。そんな気持ちで、僕は記憶の整理にとりかかった。
しかし、作業を進めるうちにその気持ちはどんどんと変わっていった。その人の頭から情報を読み取り、その中から僕に対する記憶だけを削除していく。人の記憶を整理するということは、その人の頭の中をのぞくことと同じなのだ。僕はこの作業をするうちに、罪悪感とそして孤独感を感じるようになってしまった。
 
「でもどうして、私の記憶だけ残ったままなの?」
それまで静かに僕の話を聞いていた水島さんは、ぽつりとそう言った。
「消せなかったからだよ。最後にきみの記憶を整理しようとしたとき、もう耐えられなくなった。」
僕はうつむきながら、答えた。
「耐えられなくなった・・・?」
「・・そう。僕は、みんなの記憶から自分の存在を消してしまうのがつらかった。そして、みんなの頭の中をのぞくことで、僕のことをどう思っていたか、その人がどんな人間かというのが見えてしまうことに耐えられなくなったんだよ。」
「なるほどね。だから9年経った今、あらためて私の記憶を消すつもりでここに連れてきたのね。」
水島さんは本当に強い人だ。こんな事実を目の前にしても、取り乱したりはしなかった。
「そういうこと。そうじゃないと僕は一人前になれないからね。」
僕が精一杯明るくそう言った。すると、水島さんは笑顔でこういった。
「・・じゃあ、はやく私の記憶を消して。そうしたら岡本君の研修が終わるんでしょ。」
意外な言葉に、僕はすぐには返事ができずにいた。
「最後に一つ聞いていい?どうして私のは最後にしようとしたの?」
僕は答えられなかった。「きみだけには僕のことを覚えておいてほしかった。きみに僕がどう思われているのか知るのがこわかった。」なんて言えなかった。
「ううん、ごめんね。いいわ。私の記憶を消しても、あなたは私やクラスの子のことは覚えているんでしょ。それならいいよ。せっかく同じクラスだったのに残念だなと思っただけ。岡本君は私のこと忘れないでよね。あなたと出会えてよかったわ。」
水島さんは少しさみしそうにそう言った。そして、僕の用意した睡眠薬を一気に飲んだ。

「ナンバーkt−73886不合格です。」
その声は灰色の部屋に響いた。
「やはり無理だったか。」
博士は遠い目をしてつぶやいた。そして彼の前には「岡本」が横たわっている。もう二度と動くことはない「岡本」が。
「かわいそうに、人間の心の部分が成長しすぎたせいだな。最後まで水島加奈の記憶を消すことができなかったのか。この組織の秘密を知った人間を、そのままもとの世界に返すことがどれだけ危険か、あれだけ忠告したのに。」
博士は、そういうと目の前の助手にこういった。
「kt−73886を処分しろ。それから、水島加奈の記憶を急いで消してくれ。」
「わかりました。」
助手はそういうと、kt−73886の体をかかえ部屋を出て行った。かかえられたkt−73886の顔にはうっすらと涙のあとがあった。そして幸せそうな笑顔をうかべていた。

「やばい!今日も寝坊だ!!」
私はいつものように飛び起きて、大学へと急ぐ。今日もまたいつもと変わらない一日が始まる。
「おはよう、加奈!」
「おはよう。今日も寝坊しちゃったよ。」
この前の三連休は久しぶりに実家に帰り、同窓会に出席した。なんだか、とても大切なことを忘れてしまったような気がする。でも何のことかさっぱりわからない。そして、それは気持ちの悪い感覚ではない。
私は思う。人間の記憶なんてそんなものだ。時と共に少しずつうすれていくものなのだと。
今見ている景色も、10年後には記憶にないのだろう。この澄んだ青い空の色も。

少女と私
永井友子

うわー早く学校行かな!お母さん何で起こしてくれへんのよー!」
私は、起きて目覚まし時計を見るやいなやそう叫んだ。
「あんた、さっきから何回起こしに行ってると思ってるの!もう…大学生にもなって。」
今日は、よりによってテストである。
私は、こういう大事な時に限って寝坊してしまう癖がある。
「あかん。ご飯食べとったら間に合わん。行ってきますっ!」
家を飛び出し、一目散にバスの停留所に向かって走り出した。
私の乗ろうとしているバスはもう目の前に迫っている。
(やっばー。何で今日に限っていつもより早く来るわけ?)
自分の運の無さに呆れてしまったが、ここで諦めるわけにはいかない。
バスと私、どちらが早く停留所に着くか競争だった。
水泳でいうならばタッチの差といえるのか。
辛うじてバスより前停留所に滑り込んだ。
(よかったー。これで遅刻せーへんわぁ…。こんなに真剣に走ったの久しぶりや。
あーしんど。)
息を荒らしながら、私は席に着いた。
ふと窓の外を見ると、大きなランドセルを背負った女の子が、
うつむき加減に歩いていた。
横には母親が付き添っている。
空はどこまでも青く、やわらかな日差しが木々を照らしている。
それなのに、まるでその女の子の上だけには、
厚くて黒い雨雲がかかっているかのように
重苦しさが漂っていた。
(あれ、もう小学校は授業始まってるはず…。どうしたんやろう、あの子)
女の子の足どりは重い。小学校はもうすぐそこなのに。
バスがその女の子の側を横切る瞬間、うつむいている女の子が、
鼻を真っ赤にして嗚咽をあげて泣いているのをみた。
「がっこうにいきたくないー!!」
私は胸がギュッと締め付けられるような思いがした。
一体何があったのだろう…。
(私もあんなんやったなぁ。)
バスを降り、電車に乗ってからもあの女の子の姿が頭から離れなかった。
大嫌いな朝がきてしまった。さっき寝たばっかりなのにもう空は明るい。
「おばあちゃん、やすこな、あたまいたい。きょうがっこうおやすみする。」
「どれ、おでこ出してみぃ…。康子、熱ないで。そろそろ起きて学校行きや。
もう二年生やからな。お姉さんやでぇ。」
「うん…。」
私は布団から出ることが出来ずにいた。
朝になると体が重く、どうしても学校に行く気にならない。
それでも、学校に行こうとすれば、いっそう体は鉛のように重くなり、
ベッドから起き上がることすら出来ない。
「康子、ほら起きて。もうこんな時間よ。」
今度は母が呼びに来た。
「なぁ、おかあさん、やすこがっこういくのいやや…。おやすみする。」
「何言ってるの。早く起きて。しんどくないでしょ。
服着替えて、ご飯食べなさい。」
「がっこういやや…。おやすみしたい。」
家を出る時間が近づいてくると、学校に行く準備をしながらも、
何とも言えない気分になり、涙で目の前がかすんでしまう。
 私は決してクラスでいじめられていたわけではなかった。
担任との相性が合わなかったのだ。
授業中、少しでも騒がしくするとすぐに手をあげ、怒鳴りちらす。
自分の気に入らない子どもには、口汚くののしったり、
そっけない反応をしてみたり。
とにかくこんな先生がいてもいいのかと思うような教師だった。
もちろん、私は例に漏れず、その教師の嫌いな子どものうちの一人に入っていた。
私は、そんな教師が怖くて、嫌で嫌でたまらなかったのだ。
家の前をギィギィと自転車が通る音がした。
先生が来たに違いない。私はとっさにそう感じた。
「ピーンポーン」
玄関のチャイムが鳴った。
「南野です。」
「康子、先生よ。先生迎えに来てくれたよ。ほら、行ってらっしゃい。」
やはり担任だった。背筋が凍りつく。顔も見たくない。
玄関で靴を履いたものの、恐怖で足が前に進まない。
さっきまで必死にこらえていた涙がどっと頬にあふれ出た。
「いややー。いきたくない。がっこうなんかきらいやー。」
私は泣き叫び、その場にうずくまって先生が帰るまで動かなかった。
泣き過ぎて酸欠状態になった頭を上げ、おそるおそる辺りを見回してみた。
「もう先生はおらへんよ。みんなのところに戻りはった。」
母と祖母がこちらを向いてそう言った。
「そうや、おばあちゃんと一緒に学校行こか。」
祖母は私の手をとり立ち上がった。
「うん。やすこ、おばあちゃんとやったらいっしょにいく。」
「よっしゃ、そしたらぼちぼち行こか。ほれ、涙ふいて。」
誰か家族が付いていてくれる。
それが私にとって何より心の支えになっていたのかもしれない。
母の見送りを受け、私は祖母と学校への通学路を歩き始めた。
祖母が脳梗塞になって退院してから、余り月日が経っていなかった。
後遺症は幸い残らなかったものの、それ以来、
めっきり運動することもなくなっていた。
きっとこの時も無理をしていたに違いない。
「おばあちゃん、あのきはなんていうん?」
「あの木か?変わった葉っぱしてるやろ、銀杏や。
もうちょっとしたらな、緑から黄色の葉っぱになるでぇ。綺麗やで。」
「ふーん。あっ、こんなとこにむしおる。おばあちゃん、かまきりやぁ。
かお、さんかくでおもしろいねぇ。」
「かま上げてこっちを威嚇してる。今は触ったらあかんでぇ。」
大人なら十分もかからない道を三十分以上かけて二人で歩く。
小学校のチャイムが聞こえる距離になると、
運動場から子ども達の甲高いはしゃぎ声が聞こえてくる。
段々重くなる足を、祖母を困らすまいとして必死に前へ出す。
校門は、一歩一歩近づいてくる。
「康子、おばあちゃんこの辺で帰るわな。頑張って勉強してくるんやで。」
「おばあちゃん、もうかえるん…?うん…。うん…。やすこ頑張る。」
寂しさでこみ上げてくる涙をぐっとこらえ校門をくぐった。
「おばあちゃん、バイバイ!」
何度も何度も、後ろを振り返りながらこう繰り返した。
ちょうど二時間目の図画工作が始まるところだった。
『ジャックと豆の木』の話の自分の好きな場面を、画用紙に描くという授業だ。
私は、ジャックが蔓を斧で切ろうとしている場面を描き始めた。
絵は全く上手ではなかったが絵の具を使って真っ白な画用紙に、空の綺麗な色、草の青々した様子を自分の手で加えていくのが楽しかった。
「西川さん、どう描けてますかー?」
担任が声を掛けてきた。
「…うん。ちょっとだけ。」
担任は私の絵を見た途端、声を荒げてこう言った。
「何、この絵。先生は、『ジャックと豆の木』を描きなさいって言ったのよ。
一体何の絵を描いてるの?」
一斉に他の子ども達がこっちを見る。
「みんなー。今は『ジャックと豆の木』を描く時間ですねー。
勝手に他の絵を描いたりしないようにー!」
周りに座っている子に見られまいと腕で自分の描きかけの絵を隠した。
私は、確かに『ジャックと豆の木』の絵を描いていた。
(せんせいは、やすこのえぜんぜんわかってくれへんかった…。
いっしょうけんめいかいてたのに…。やすこ、なんもわるいことしてへんのに…。
なんでおこられなあかんのかなぁ…。)
机に突っ伏したまま、悔しさに身を震わせていた。
(やすこのえはへたなんや…。だから、せんせいあんなこといったんや…。)
給食の時間も、私の気分は晴れることはなかった。
大好物のクリームシチューなのに、今日はいっこうにスプーンを
口に運ぶことができなかった。
口をつけていないおかずだけも残していいかと担任に聞いたところ、
一言、駄目だと付き返されてしまった。
運動場にみんなが遊びに行って誰もいない教室で、私は1人給食と格闘していた。
食べることが、何とも耐え難い苦痛に感じられた。
(せんせいはやすこのこときらいなんやわ、ぜったいに。)
早く家に帰りたい。学校から出たい。
私の頭の中はそれでいっぱいだった。
だらだらと続き、憂鬱以外言いようのない終わりの会が終わった瞬間、
逃げ出すかのように廊下を走り、校門を出た。
胸がつまるような息苦しさからやっと開放されて、大きく深呼吸をした。
狭い真っ暗な部屋から、見渡す限り一面の花畑に来たかのような感覚がする。
「康子。おつかれさん。」
少し離れたところから大好きな祖母の声がした。迎えに来てくれたのだ。
「おばあちゃん…。」
張りつめた気持ちが、ぷつりと音を立てて切れた。
祖母に駆け寄り、祖母の胸に顔をうずめた。
「どうしたんや…。何かあったんか?よしよし、泣かんでもええで。
ちょっと遠回りして帰ろうか?なっ、康子。」
「うん…。おばあちゃん、やすこきょうがんばったで。
きょうはがっこうで『ジャックと豆の木』のえ、かいたん。
きゅうしょくもぜんぶたべたんよ。」
担任に言われた言葉は、どうしても祖母に言うことが出来なかった。
「そうか。偉かったんやな。そしたら今日は、おばあちゃんが康子のために、
お豆さん炊いたろ。」
「やったー。おばあちゃんのたいてくれたおまめさんだいすき!
はやくおうちかえろ。」
「はいはい。ほんまに食いしん坊やなー。康子、しりとりしよか?
しりとり…康子、『り』やで。」
「り…り…。あっ、りんご!」
「『ご』かぁ…。ごりら。」
「らっぱ!」
「『ぱ』か。難しいのを言うたなぁー。
うーん、そうやな、何があるかな…?」
「ガタン。」電車が大きく揺れて、はっと気が付いた。
どうやら寝ていたようだ。
視界に飛び込む建設中のビル。電車はそろそろ終点に近づいている。

私は、小学校二年生の頃いわゆる登校拒否児だった。
毎日、毎日、学校に行くのを嫌がってぐずっていた。泣かない日はなかった。
このまま学校に行かなくなってしまってはいけない。
何とかして学校に行かせなければ。
両親と祖母は相当苦心していたようだ。
その後、様々な人の助けを借りて、元気に学校に通えるようになった。
しかし、『ジャックと豆の木』のことをはじめ、当時起こったことについて話せるようになったのは大分たってからだった。
『ジャックと豆の木』のこと以来、絵を描くたびそのことが思い出され、人前で絵を描くことが出来なくなってしまった。

あれから長い月日が経った。
学校まで付いて来てくれたり、美味しいご飯を作ってくれたりした祖母は、
先月天国へ旅立った。祖母が死んでしまうなんてあり得ない、
不死身だと思っていた祖母が…である。
祖母のことを思い出すときは、不思議と元気な頃の祖母の姿ばかりである。
つい最近の、病気でやせ細った姿はなぜか思い出せない。
祖母は、私の最大の理解者であり、いつでも暖かく、我慢強い人だった。
きっと今頃、天国で見守っていてくれるにちがいない。

それにしても、担任の南野先生はどうしていることだろう。
もう十年ほど経ったのだから、ベテランの先生になってどこかの学校で教鞭をふるっていることと思う。
相変わらずあんな感じなのだろうか。
もっとも、会いたくはないけれど…。

電車のドアが開いた。もわっと熱気のこもった車内から、どっと人が改札へ向けて流れ出していく。
私はしばらく待って、電車の中に誰もいなくなってから、席を立った。
それから大きく足を踏み出してホームに降りた。
そして一つ深呼吸をした。
実に外の空気は気持ちがいい。
電車の乗り換えをするため、私は足早に改札をぬけ、階段を一段飛ばしで下りた。
(今日はテストやったんやー!勉強してないっ…。でも、まっいっか。)
学校に着くと、一緒に授業を取っている仲良しのメンバーは既に席に着き、ノートやら教科書を広げ、ぶつぶつと呪文のように読みながら覚えるのに血眼になっていた。
「おはよう。勉強したー?」
「ううん、全然っ。この授業の評価良くても可やね。」
「えーまじでぇ。そんなこと言って昨日めっちゃ勉強したんちゃうん?」
「この私がすると思う?」
「そう言われてみれば…。」
「なっ、失礼な!そういう時はお世辞でも、してそうって言うもんよ。」
「そうかなぁ…。」
私は、大学の友達とのこんなたわいない会話をしている時が楽しい。
学校っていいものだと感じる。

私の通う大学は福祉系の大学だ。
高校時代、教育関係に進むか、福祉関係に進むか悩んだ。
高校三年生の時、祖母が寝たきりになったのをきっかけに、
介護福祉士になろうと思い、この大学を選んだ。
学校の授業はとても興味深いものばかりで充実している。
就職のバックアップ体制もなかなかなもので、自分としては満足している。
私の周りも同じ目標をもった人ばかりなので話しているといい刺激がある。
現状に不足は無いはずなのに、最近ときたま頭をよぎることがある。
(もし、教員への道を選んでいたら…。)
友達に一度尋ねてみたことがあった。
「私みたいな先生ってどうかな…?向いてると思う?」
「康子が先生かぁ…おもろいんちゃう?変わった先生で。私は向いてるような気がするけどなぁ。」
(ほんまに向いてるんやろうか…。ていうか、私、何で今頃になって
こんなこと考えてるんやろ。)

テスト始め!の合図とともに、私は配られたテストに大きくかつ、
丁寧に名前を書いた。
(あかん、全然解かれへん…。これは再履修への道まっしぐらやな。)

何とかテストを終え、友達とも別れた大学からの帰り道、
ふと今朝の少女を思い出した。
今頃は、もう元気に授業を受けているのだろうか。
(大丈夫かな…。泣いてへんかな…。)
ここでまた、「教師」の二文字が私の心の中に頭をもたげた。

私が登校拒否になったのは先生が原因だったが、
再び学校に通えるようになったのは祖母をはじめ、
家族のお陰であり、バックアップして下さった先生方のお陰でもあった。
いつしか自分もこんな風に子どもと触れ合いたい、
私と同じように苦しんでいる子どもの心を、
ほぐしてあげられるような先生になりたい。
祖母が病気で倒れるまではそう思っていた。
とぼとぼと1人歩きながら、自分の選んだ道について考え始めた。

それから私は、来る日も来る日も、家で仏壇の前に座り、
祖母の遺影を眺めながら考え続けた。
偶然見かけた少女が思わぬ方向に私を引っ張り始めていた。
(お婆ちゃん、お婆ちゃんやったらこんな時なんて言ってくれるかな…)

「康子、自分が進みたいと思った道へ進めばええんやで。
それであかんかったときはあかんかった時や。悔いの残らんようにするんやで…。」
どこかで祖母の声がこだました。

「こらー!!廊下は走ったらあぶないでしょー!!」
「はーい。みんなおはようございますー。日直さん、朝の会を始めて下さい。」
私は、小学校で新米教師として教壇に立っている。
一度大学を卒業して、また、別の大学に入りなおすなんて、
人から見ればひどく遠回りをしているかに見えたかもしれない。
実際、周りの人たちから色々なことを言われてきた。
「いいじゃないの、福祉の仕事。康子ちゃんは何に不満があるの?」
「今までの大学四年間、棒にふるようなもんよねー。」
こんなことを言われたら、誰しも余計なお世話だと言いたくなるだろう。
それなのに、私は、不思議とちっともそんな周囲の雑音は気にならなかった。
これはきっと両親の深い理解があったからだろう。
正直なところ、全くもう一度大学に入りなおすことに不安がないわけではなかった。
この時になって、物凄く世間の目というのをひしひしと感じた。
少子化が言われている今日、必ずしも教師になれるとも限らない。
自分はこの先どうなってしまうのだろうか。
やはり妥協して、福祉関係の仕事についた方が賢明だったのではなかったのか…。
「もう一度大学に入って教師になりたいんです。よろしくお願いします。」
こう私が言った時、両親は、私の予想していた反応とは違い、
すんなり了承してくれた。
「あんたの好きなようにしたらええ。反対したところで、康子の思いは変わらんやろ。自分が納得するまでやったらええ。」
一年間の受験勉強を経て、教員養成系の大学に入りなおした。
そして今、毎日子ども達に囲まれて生活している。
仏壇の祖母の遺影が、前にもましてやわらかな表情をしているようにもみえる。
教師になってから二人目の「私」に出会った。
その子は、学校に来るのがわけもなく嫌になるのだという。
この子をどうにか助けてあげたい。力になってあげたい。
私に何ができるだろうか…。
答えはまだまだ見つかりそうにもない。
昔の私がきっとヒントをくれるはずだ。
そのことを信じて今日も元気よく教壇に立つ。

記憶
六車美麻

つまらない今はいらない。今まで生きてきた過程なんて何の意味ももたない。ただ、新しい今さえ手に入れば、あたしはもう一度輝ける。新しい今さえ手に入れば、他には何にもいらないのに・・・。
 目を開けると、綺麗な青空がすぐに飛び込んできた。空は高く、薄雲がところどころに見える。少し冷たい風が部屋の中を通り、カーテンがオーロラのようにキラキラ光りながら揺れる。それらをサチはただただボーっと眺めていた。
「目を覚まされました?」
突然、白衣を着た女の人がサチの顔を覗き込んだ。
「サチさん!?大丈夫ですか?どこか痛いですか?」
彼女の白衣が驚くほど眩しく見えて、思わず顔をしかめたのが彼女には苦しんでいるように見えたんだろう。
「いいえ。どこも・・。ただ眩しくて。それに何だかボーとしているの。」
「当たり前ですよ!サチさんが発見されてからもう三日以上たっているし、その間ズーと眠っていたんだもの。」
「眠っていた!?・・・三日・・発見!?」
「そうですよ〜。最初あの海岸で人が倒れているから、てっきり海へ飛び込んだ人の死体かと思って近づいてみたら、眠っているだけなんだもん。驚いたわよ。ここへ運んでくる時も何度も身体を揺すって起こしているのに起きないし・・。怪我か病気なんじゃないかと思って検査してみたけど、何処も異常はないし・・。このまま目を覚まさなかったらどうしようかって心配してたんですよ。サチさん覚えてない?」
顔をマジマジと覗き込まれて、驚いて我に返ったけれど、何だか遠い所で話しているかのようで、ぼんやり彼女の顔を見ているだけなのに気づかれたのだろう。彼女は驚くほど大きな声で、
「サチさん!聞こえてます?サチさん!」
ふと、違和感を感じた。
「・・サチ?サチって?」
「えっ・・サチさんじゃないんですか!?プリクラ見て、てっきりサチさんだと思ってました。ごめんなさい。」
「違いますよ!私は・・・。私は・・。・・・私・・私って・・!?」
サチが倒れている横に携帯電話と二万円が置いてあり、携帯電話の裏にはプリクラが貼られていたそうだ。確かに、見せてもらったプリクラには間違いなく自分の顔があり、その自分の顔の下には、はっきりと「サチ」と書かれていた。しかし自分がサチだということも、プリクラの隣に写る「シュン」と書かれた男にも全く見覚えがなかったのだ。
「そんなに気を落とさないで。記憶なんてきっとすぐ、ふとした拍子に思い出すわよ。」
しかしそれから一ヶ月経っても記憶は戻らなかった。ただ不安と疑問ばかりが大きくなっていく。どうして怪我でもない病気でもない私が突然、記憶をなくしたりするの。そんな事ありえない。このままずっとここにいることも出来ないし、それにきっと誰か私のことを心配して探しているはず。少なくともあの「シュン」という人は私を探してくれているはず。
不安の中にいるサチにとって、プリクラの中の自分は本当に幸せそうに思えた。このままじっとしているんじゃなくて、自分から過去の自分を探しに行こう。サチの中にそんな思いが溢れていた。
「記憶が回復するまでここで静養していたらいいのに・・・。それに記憶をなくしてしまう人は、思い出したくない事やつらい事があったりする事が多いのよ。もし真実を知った時の衝撃が大きかったらどうするの?ここで一から出発するのもいいじゃない」
「ありがとう。でも今まで自分がどんな風に生きて、どんな事を考えて生きてきたのかを知らないと、これからどうやって生きたらいいかなんて分からないの。もしかするとつらい事があったのかもしれないけれど、きっと生きる糧になる大切な思い出もあると思うの。未来の中で、その思い出に生かされると言う事もあるじゃない。だからどうしても自分を探したいの」
サチの中でシュンの隣に写る自分の笑顔がこべりついて離れなかった。
私はきっと幸せだったはずだ・・・
手がかりは番号の抜かれた携帯電話と現金二万円。この二万円を使おうか悩んだが、結局使う事が出来ずに施設から少しのお金を貸してもらった。
何の成果もないままに一週間が経ってしまった。あてもなくフラフラと歩き回り、ビジネスホテルに戻っては疲れて眠るだけの毎日だった。そんな中、サチが無意識に携帯を触っていると何種類かの画像が残っている事に気が付いた。全部で三枚。全てシュンを写したものだったが、ふとシュンの後ろに写った風景に見覚えがある気がしたのだ。
「この公園みたことがある。どこかで・・」
笑うシュンの後ろに野球の練習をしている子供たちと大きな河があるのが分かった。見た感じではとても大きな公園のような気がする。サチはすぐにこの画像を見てもらうために市役所へ訪れた。
係りの人はいくつかの川沿いにある大きな公園を探してくれ、地図に赤丸をつけて持たしてくれた。もう夕方の時間で日も沈みかけていたが、明日まで待つ事が出来ずに、すぐさまそれらの場所を回ってみた。今までに訪れた事があるのだろうか。しかし、訪れたいくつかの公園には全く記憶はなかった。
また、明日で直そう。そう決めてホテルに戻り、市役所の人がつけてくれた丸印の上から今日回って何の記憶もなかった場所には黒いバツをつけた。このまま黒いバツばかりに埋ってしまったらどうしよう。そんな不安にサチは孤独を感じ、眠れなかった。このまま1人で・・
次の日も次の日も公園へ回ってみたが、何の成果もなかった。
ふとある日、その日も公園を捜し歩いてホテルへ戻ろうかと川沿いを歩いていたら、公園ではないが広場のようなところで子供たちが野球をして遊んでいた。
サチの中で何かがカチリと音を鳴らしたようだった。同じような雰囲気を味わった事がある気がするのだった。記憶にないはずのこの場所がとても居心地が良くて、サチはこの場所を知っていると確信した。かといってこれからどうすればいいのか分からず、どんどんと暗くなる風景をドキドキしながら見ていた。知らないうちに真っ赤だった空が紺色に変わり、車のテールランプが数珠をつなぐように綺麗に並んでいた。突然むしょうに恐怖を感じて心臓が痛くなった。
そういえば朝から何にも食べてない事を思い出し、このままここにいるのを避ける為に軽く食事できる場所を探す為に立ち上がった。
少し歩いていくと小さな喫茶店があり、そこに入る事にした。その店には他に客はいないようで、マスターが1人本を読んでいた。サチが入ってきたのが分かるとすぐさま立ち上がり、水とフキンを用意して運んできた。
「お久しぶりですね。今日はお一人ですか?」
マスターはテーブルの上にコップを置きながらサチに親しげに話し掛けた。
突然の事でなにがなんだか分からなかったが、この人は私のことを・・。
「お久しぶり?あなたは私を知っているんですか?」
「もちろんですよ。よくいらしてくれてたじゃないですか。でも、1人で来られたのは今日をいれて二度だけですかね。」
「私がなんと言う名前か知ってますか?何処に住んでいるんですか?ここにはいつも誰と来ていたんですか?」
サチという人間を知っている人物がいた。その感激で沢山の質問をマスターに投げかけたが、マスターは名前も住所も知らなかった。マスターが知っていのは私が時折この店を訪れる客だったという事と訪れる時はいつも同じ男性ときていたこと。しかし三ヶ月程前に1人で来て以来、一度も来店する事はなくなったということ。最後にこの店へ1人で訪れた時にあるご婦人と話し込んでいたということ。
「そのご婦人にどうしても会いたいのですが、どうしたら会えますか?」
「すいません。お客様の具体的なことは何も聞かない事にしてますから。何にも知らないんですよ。ただ、そのお客様は今も変わらず毎日午後三時にコーヒーを飲みに来られますよ。今日も来られましたから。明日もきっと三時に来られると思いますよ。」
ドキドキしていた。時計の針はもうすぐ三時を指そうとしていた。するとカランとドアが開き、とても上品そうなご婦人が入ってきた。一瞬サチと目があったが彼女はどうともせずに、いつものお決まりなのであろう窓際の席に腰をかけた。マスターが注文を聞きに彼女のところへ行くとこちらを見ながら何かご婦人に伝えてくれている様子だった。サチはじっとその婦人を見つめていたが、彼女は一度もこちらを見なかった。(覚えていないんだ・・)頭の中をそんな事が過ぎった。マスターは注文をとって、こちらへ戻ってきたがすまなさそうに言った。
「あの方は貴方をご存じないみたいです。すいませんね。おかしいなあ。確かにあの時、偉く長い間話し込んでいたと思ったんだけど・・」
もうだめだ。もう全て手がかりはなくなった。どうしようもない。サチの中であれこれと考えを及ばしていたが、いい案なんて思いつかなかった。
そのご婦人はゆっくりと運ばれてきたコーヒーを口に運んだ。サチがこんなに見つめているのに、一度もこちらに顔を向けようともしない。何て冷たい人なんだ。いくら知らない人だとしても、私のことが気になったりしないのだろうか。一度くらいこちらに顔を向けてくれたっていいじゃないか。まるでわざわざ無視するみたいに・・。確かにマスターは私のことを知っていたのに。あの人やっぱりおかしい。普通ならマスターが「あの人のこと知っていますか?」って聞いている時にこちらを見るはずじゃないか。あの人は一度も私の顔を見ていないのに、知らないなんて。自分が忘れているだけかもしれないのに、考える事もしないで、知らないなんて。絶対おかしい。そう思いついたと同時にサチはその婦人の前に座っていた。
「あなたは私を知らないんですよね。私のことをほとんど見ていないのにあなたはどうして私のことを本当に知らないってお分かりになったんです?本当は私をご存知なんじゃないですか?あなたがどうして私を見ようともしないのかわからないけど、今困っているんです。私は記憶が全くありません。なんという名前で、今までどんな生活をしていたのか。自分のことなのに確かなことは何ひとつ覚えていないのです。私は今まで自分が生きてきた道をちゃんと覚えておきたいんです。その上でこれからの人生をしっかり選んで歩いていきたいんです。どんな小さなことでもいいんです。どんなに残酷な事だっていいんです。今まで私と言う人間が生きてきた証が、記憶がほしいんです。」
そこまでずっと無言でサチの言う事を聞いていた彼女がやっと口を開いた。
「おかしなものですね・・。あなたはほんの三ヶ月前、初めて出会った私に今言った事と全く逆の事をいったんですよ。なんと言ったと思います?記憶が邪魔なんだと、思い出に潰されるんだと、あなたは泣いて私に訴えたんですよ。」
名前はサチだった。サチは17歳で家を飛び出した。それから男と生活をはじめたが、どの仕事をしても長続きする事はなく、長くて二ヶ月程度しか働かなかった。そのうちに食べていく事が出来なくなり、自分から大きい事を言って飛び出したはずの実家に、何食わぬ顔で戻った。自分のカードは男に貢いで使い果たし、自己破産し自分のカードが使えなくなると、すぐに母親のカードを持ち出して、男への貢物を続けた。親はあきれ果て、マンションで1人暮らしを始める為の頭金を出して貰う代わりに、親子の縁を切ることを約束させられた。1人になってしっかり仕事をして自立し、両親に借金を返そうとしていたが、しかしまたすぐに男ができ、その部屋に転がり込んできた。それがシュンのようだった。始めのうちは仲良くしていてこの喫茶店にも2人で来ていたようだったが、半年も経たないうちにシュンは暴力を奮うようになり、家賃も払えない状態で闇金融からお金を借りた。その後シュンに部屋から出て行かないと殺すと脅され、行く所もなく借金だけが残ったと言う。それでもまだ、シュンが好きなんだと宛てもなく彷徨っていたサチが、ようやくたどり着いたこの喫茶店で初めて出会ったその婦人に語ったようだった。
「あなたは、私につまらない今はいらないんだといいました。つまらない今を作った過去はもっといらないと。今さえ幸せになれば他には何にもいらないと。全てをリセットして、全てを忘れて初めからやり直す事が出来ればなんて素晴らしい事なんだと・・過去が邪魔なんだと・・ですから私はある薬を貴方に差し上げました。飲んだ瞬間深い眠りにつき、目覚めた時は今までの全ての記憶をなくしてしまうという秘薬です。しかし、私はその薬を差し上げる時何度も貴方に注意をしました。つらい記憶がなくなるということは幸せな記憶も全てなくなるんだということを。0からスタートする事がどんなに大変な事かと言う事も。あなたは私に過去がなくなるなんてたいしたことではないと言いました。だからその薬を差し上げたのです。」
何も言えなかった。言う事が思いつかなかった。サチと言う人間が本当に今ここにいる自分なのか恐ろしかった。なにも考え付かなかった。
「私には家族がいるようですが、何処にすんでいるのかわかりますか?」
やっとの思いで出た言葉がそれだった。
「貴方は家族に会わない方がいいでしょう。家族と言ってもご両親は先月事故死なされて、妹さん1人です。その妹さんが貴方の借金三千万円を返済しておられます。それに貴方は二万円を持っていたでしょう。そのお金は妹さんが貴方に投げつけて渡したお金だと貴方自身がおっしゃってました。これで縁を切って欲しいと。それだけ妹さんはあなたを恨んでいるのです。今貴方が会いに行ってもきっと会ってはくれないでしょう。」
季節が変わろうとしていた。あのご婦人から話をきいた日から二ヶ月が経とうとしていた。未だに妹と会っていない。というよりも、あのご婦人が言った通り、会ってはくれないのだ。姉は死にましたと・・。しかし毎月十万ずつ妹あてに送ることにした。
記憶はいらないと薬を飲んだ自分と記憶が必要だと探し回った自分。結局サチと言う人間は何が欲しかったのだろうか。今の私は何を手にしたのだろうか。ただ一つ言えるのは、自分の愚かさにようやく気がついたと言う事だけなのだ

ジアイ階段
小原里海

 久しぶりに夢を見ていた。目の前にはなにやら見た事もない階段。それをただ、ひたすら上がっている自分がいる。しかし、いやな気分はしない。もともと自分は階段を上がっていく感覚は嫌いじゃない。
一歩、一歩・・・確実に。

六月の下旬、治が住んでいるのは一般に避暑地と呼ばれる場所だったが、今年の夏の暑さは相当なものだった。治はこの地に一人暮らしをしており、年に5ヶ月間だけ、(つまり避暑で来る人たちの為に夏場だけ雇われる)小料理屋でアルバイトをして生計を立てていた。起きない頭でカレンダーを眺めた。
 もうこんな時期なんだな
 治はこの時期になると退屈な日常にも係わらず、この五ヶ月のバイトがなければ、と重く心が沈むのだった。治は働くのが好きではなかった。元来怠け者の性質があったわけだが、治は今の仕事をくだらないものとして軽蔑していた。毎年、一緒に仕事をする社員の人は変わるし、バイトで来る人も初めて会う人なだけに、人間関係が他の仕事に比べて希薄になることが必然であり、その部分では、治は満足していた。
しかし時々、治に対してやたら馴れ馴れしくしてくる社員の男や、何故か治を見るとやたらに面白がるバイトの女がいる場合などは、たとえこれっきり会わないんだからと分かっていても我慢ならないものである。仕事内容はさして面白いわけでもなく、やりがいも感じられない上に、人間関係が時々耐えられなかった。調理場の人に失敗を注意されたりすると治は謝りはするが、心の中で相手をさんざん馬鹿にして軽蔑せずにはいられなくなるのである。さらに客が混んでくる八月などは、料理の仕込など夜遅くまでかかる日が続き、店全体が慌ただしく走り回るので疲労がピークに達し、その間中治は必ず毎年、辞めることばかり考えているのであった。
 しかし、治にはどうしてもやめられない理由があった。治には、ここ何年かはまっているものがあった。それは高校をでて、働き出した頃に偶然手にした、ある恋愛シュミレーションゲームである。治は今年で26になるが、今まで付き合った事がなかったし、高校時代に漫画の主人公の女の子にのめり込んだこともあり、いわゆるバーチャルな世界にそれほど抵抗を感じなかったのだろう。それどころか、治の中にその世界は自然に溶け込んでいくようだった。それからもう5年近く、このゲームと付き合っているのである。仕事は半年だけで、残りの半年は全く何もしないでただのんびり過ごしていたから(といっても、はじめの二三年は攻略法、キャラグッズ、キャライベント、レアキャラの出ているソフトなどを探し求め、お金も時間も馬鹿にならなかったが)、今でも一日に一回は必ずするのである。もちろん、そのソフトはシリーズものでシリーズ10まであったとはいってもキャラの攻略は済んでいたのだから、今は他のソフトも買って試している。しかし、治にとってはじめに出会ったそのゲームが今でも特別な存在であった。
 シオリ。
 治が一番好きなキャラクターの女の子の名前である。詩織に治はオー君と呼ばれていた。詩織はゲームの中でもいわゆる高嶺の花的存在の女の子であり、攻略も難しいとされた。何度も失敗を繰り返して試行錯誤した後に、詩織に告白させることが出来た時は、感動で身体が熱くなり、現実のことのように甘い達成感に包まれ、身体が震えたようだったものだ。治は一度パソコンのスイッチを入れてしまうと何時も、何時間でも半日間も続けるのが常であった。誰が尋ねてくる訳でもないし、空腹感に襲われてもチョコレートなど簡単に口にできるものを、治はパソコンの横に常備していた。
今日もいつもと同じように、パソコンのスイッチを入れ、ソフトの会社の名前が出てくる。そこまではほかのゲームと変わりがないのだが、このゲームではそこで女の子の声が入る。会社の名前を言うのである。
やっぱり可愛い。
治はこの始まり方を気に入っていた。次に好きだったのは、オープニングテーマである。懐かしいような、悲しいような、どうしようもない切ない気持ちに襲われるのである。
なつかしいかぜにーふかれながらー・・・
この手のゲーム愛好者の多くがそうであるように、治にとってもこのゲームと喜怒哀楽を共にし、生活していくことは自然なことであり、まさに生活そのものになっていた。よって、「生身の女の子がどうしても愛せない」というようなことは決してない。それは治自身も自覚していた。いつかは自分にも恋人が出来、結婚なんてするんだろうということも想像してたし、なにより、「ゲームの中でしか生きられない」だとか「ゲームの中でしか恋愛できない」なんていう奴の事を軽蔑していた。たくさんの恋愛シュミレーションファンのなかでも、割り切ったところのあるほうだと自覚できていた。
そうこうしてるうちに、治は働く日々に入っていった。

 このコ、詩織に似てるなぁ。
 初めて短期間バイトで来た女の子達が、一人ひとり自己紹介してる間、治は一人の女の子を集中的に見ていた。
 はじめまして、吉野かおりです。兵庫からきて、今大学二回生で・・・
 似てるなぁ。髪の毛がもうちょっと長ければ、あ、笑った。スカートが似合うのになんではかないんだろう。かおりちゃんかあ、仲良くなりたいなあ。
 治は他のコの自己紹介など全く聞いていなかった。それもそうだ。ドキドキしていたし、初めてあう子なのに何か懐かしい気持ちに駆られ、治は完全に浮かれていたからだ。しかも、治は毎年来るバイトのいわば常連であるため、あたらしいバイトの女の子のしつけ役はいつも治に任されていたのである。
 これからは、いつでも近くにいれる。やっと理想のコに出会えたんだ。
 治は自分の部屋に帰って行く女の子達を見送ってから、仕事に入ったが、店も暇な分、その新しく入ってきた、かおりちゃんの事が頭から離れなかった。
 午後十時、閉店の時間になり最後のお客を見送った時は、外はかなりひんやりしていた。店内との温度差が、治に心地よい刺激をあたえた。店を閉めて座敷に集まり、みんなで「まかない料理」を食べる時間が来た。この日は週末でこの時期には珍しく混雑し、全員が終始慌ただしく動いていなければいけない状況だったので、この晩御飯の時も全員汗をかいているほどであった。板前の男たちはそれぞれ、今日の客の愚痴を言ったり、もくもくと煙草をのんだりしており、バイトの女の子達はせっせと調理場から料理を運んできていた。
 治はかおりの動く姿を見ていた。というより体型を見ていた。始め、私服で居るところを見た時よりも、少しスマートな感じに見えたのだ。きっと、ぴったりした服を着ていたからそう見えたのだろう。ますます好みに思えてきた。
 かおりは治のテーブルより一つ向こうのテーブルに座った。少しがっかりしたが、治の位置からかおりの姿が丁度見えたので、気にしないことにした。
 見てるうちに、気が付いたことがあった。こうして少し明かりの落とした部屋で見ると、おでこ一帯ににきびがある。全体的にはきれいな肌をしているのに、その辺りだけ荒れているようだ。かおりはそれを隠すように、前髪を眉の下あたりで切りそろえていたのだ。見ているうちに、目が合った。
 え?
 治はとまどった。かおりは唇に少し力を入れているように、不愉快な顔を治に向けたからだ。治にはその意味が分からなかった。仕方なく治は自分の前に置かれているチャーハンに手をつけ始めた。口に入れてすぐ治は嫌な顔をした。またか、と思った。「まかない料理」は料理人の下っ端が担当することになっている為、毎日それを食べるものたちにとっては担当の腕がどれほどかというのは大問題なのである。その人の腕により、ここ何ヶ月かの食生活が、疲れを癒すものになるかただ空腹を満たすのみの作業になるか決まるからである。
 今回の新入りは、明らかに治に後者を予感させた。治は醤油に手を伸ばしながら、心配になっていた。
 かおりちゃんもきっと物足りないだろうな。僕みたいに醤油をかけたらまだましになるんだけどな。しかし、かおりちゃんも食べるのに一体何を考えてこんな料理出すんだ、あいつは。
 治は先輩板前にからかわれながらも、楽しそうに自分の作った「まかない」をたべている若い男を軽蔑した。無神経で軽率な男だと思った。その時である。
 あ、ありがとう〜ごめんねぇ。
 かおりの声がした。かおりの顔は、横に座っている男に向けられていた。抑えた調子の声であったが、治にははっきりと聞こえたように感じた。かおりは笑っていた。かおりは、その男にこっそり醤油を渡されていたのである。
治は、後悔と憤慨を感じた。
なぜだ?自分は何もかもわかっていたはずだ。現に自分もかおりに醤油を渡したいと思っていたのだ。彼女に必要なもの、彼女がほしがるもの、すべて自分が一番良く知っているはずであり、それは積み重ねられたこまめな観察、つまり治の努力の成果を表すものであった。隣に座っていれば自分のこの誠意は伝わり、その笑顔は自分に向けられるものだったのだ。
考えだすとだんだんその不条理さに、腹が立ってきた。
なぜだ?
席が離れていたというだけで、結果的に自分の印象は圧倒的不利になってしまったのだ。結局、横に座った男と自分の間に取り返しのつかない「仕切り」が出来たように感じた。
確実にかおりちゃんのなかで、となりの男に対して好感度は上がっただろう。
 そう思うと、なんだか虚しく思えてきた。突然の出来事に、改善策など見つかりそうもなかった。
 もしかしたらかおりちゃんは、もともとその男に好意を持っていたのかも知れない。見た目はシオリチャンに似ていたけれど、彼女の中身は全くシオリチャンとは違って、下品で浅はかで誰にでもついていくタイプなのかもしれない。シオリチャンのようなかわいい言葉も言わないし、何しろ僕の誠意を踏みにじるようなことをしたじゃないか。僕がどれだけ君を思って行動しようとしてるか、気も付かないなんて・・・。
 周りは既に片付けを始めていた。治は醤油味のチャーハンを胃袋に押し込み、なんだか気が抜けたようになっていた。

 その日、家に着いたのは12時前だった。治はいつも通りシャワーを浴び、寝床に入りながら、考えていた。今日出来事を自分の中でどのように消化したらいいのか、わからずに、よく分からないやるせない思いだけが残ったようだった。だが、無性にあの詩織が歌うエンディングテーマが聴きたくなった。治は思い出したようにむくっと起き、パソコンに向かった。エンディングまで行くにはかなりの時間がかかる。それはわかっていたが、
どうしても、もう一度あの幸福感を味わいたい。そのエンディングは、今の自分のもやもやした気持ちを解決してくれるように、なぜか治には思えたのであった。
 その思いは、治の中で嵐のような勢いを持ち始めていた。
 スイッチを入れた。詩織の声が聞こえてきた。そのセリフにあわせて精一杯の親しみを込めて治も呟いた。
 こんにちは、シオリチャン・・・ 

カブトムシ
松崎聖子

世界中で、私が今ここに生きているということを何人の人が認識してくれているのだろう。小さいころはよく透明人間になりたいと思ったが、今本気でそんなことを考えると間違いなく自分の体なんて誰の視界からも消え去ってしまうに違いない。ああ、危ない危ない、こんなこと考えるのはやめよう。また、ヤツのおもうがままになってしまう・・。自分でも何故だか分からないが、環状線に乗ると、聖子はいつもこんな映画のセリフみたいな言葉の火の玉に脳みそを侵食されていくのを感じてる。まして人がたくさん電車に乗り込んでくるタイミングに遭遇してしまえばひとたまりもない。完敗だ。あとは、寝ているふりをするしかない。どうして、人が増えれば増えるほどこんな気持ちがつよくなるのだろうか。隣では中年の男性が目を閉じて何だか難しそうな顔をしているが彼も自分と同じようにもしかしたらたった今、見えない敵に負け寝たふりをせざるを得なくなったに違いない。いつもはわれに返るのに少々時間を有するが、なんだか隣の男性を見てそんな想像をふくらましているうちにやけに落ち着きを取り戻してしまった。車両にはたくさんのざわめきとともに生暖かい空気がまってました、といわんばかりにものすごい勢いで流れ込み、聖子は油断した隙に次の見えない敵に危うくやられてしまいそうとこだった。「大阪」。ふとその文字が目に飛び込んできたので、二番手の敵には不戦勝を告げる余地もないまま、立ち向かっていかざるをえなくなった。ふと時計に目をやると五時十五分前。一気に噴出した汗に気遣う暇もなくダッシュ、ダッシュ、ダッシュ。店に駆け込んだときには、午後五時一分をさしていた。タイムカードの時計に一分の誤差を期待して夢中でカードを突っ込んだが、打ち出され、記されたカードの時間は午後五時二分。そしてその時間を記した後ろに「チ」という文字が浮かび上がっているのが目に入った。たいていの場合そうであるように、今回も例外ではなく、気がぬけたとたんに自分がどれだけの水分をティーシャツに献上したかということがはっきり脳に知らされるのである。「チ」という文字は何を隠そう「ち・こ・く」の「ち」だ。別にこの文字がカードに刻まれたのは今日だけじゃない。出勤日数の三分の一はこの文字に汚染されている。つまりのところ、例え五時に間に合っていたとしてもこの文字は刻まれる。要は午後に出勤してきたバイトはみんな遅刻の「チ」がカードに刻まれるのだ。これを免れる日は土日のうち、午前はいりのときだけだ。いったい何のためにこんな文字がカードに刻み込まれるようなつくりになっているのかまで考えるのは面倒だが、遅刻もしてないのに「チ」の文字が刻まれるのはどうもしゃくにさわる。(ちなみに「ザ」もある。「残業」の「ザ」だ。午後十一時をすぎて店を出るときにはこの文字が浮かび上がる。残業費なんて一円もでないのに・・。「よくはたらいた」なんて自己満足のためにこの「ザ」をあつめるほどまわりのバイトたちは熱くなんてないけど・・)なにはともあれ、今日聖子は正真正銘の「チ」を刻んでしまった。彼氏との約束もキャンセルし、四時間目の「国語学演習」もサボり、ありえないくらいごった返す近鉄線と恐怖の環状線を乗り継ぎ、二つもの敵もなんとかつきとばし、水分を献上してまできたのに一体何なんだ。今からいざ、落ち込んでみようか、はたまたぶつけどころのない怒りをどう処理しようか、そんなことを考えているとつかつかと思いなまりのような音がこちらに近づいてきた。ふいにカードを覗き込んだその顔の大きいこと、大きいこと、初めてであったわけでもないのに聖子はうっかり驚いてしまった。自分は、たった今ここに駆け込んできたばかりだから汗をかいているのは分かるが、なんでこの男まで汗をかく必要があるのか、いつも理解に困る。「遅刻やん。アウト。」ちょっとおちょくられたようなきがして腹がたったが、遅刻をしてしまったという事実はかわらない、そして社員にたてをつくわけにもいかず、そっと心の中で「お前なんかが横文字使ってもかっこよくもなんともないんだよ」と聖子は社員の太田にさけんでおいた。彼の名誉のためにちょっとつけくわえておくが、太田は汗なんてかいてる事はそんなにない。普通の人間並みだ。でも、なぜか聖子の目にはいつも太田の額をしたたりおちるしぶきが勝手に頭にインプットされているのだ。早い話、イメージはどうにもならないということでその話は片付けておこう。でも、大田の顔が役立つこともあるから、そうは彼の顔も否定できない。聖子が見る太田の顔は瞬間的にその顔がだんだんと彼氏の幸樹にかわっていくのである。太田の顔がなぜ幸樹の顔に変わるのか、聖子には全く分からない。太田を見ていると、突然そのおおきくて遠慮のないまるで団子のような鼻はすっと高くて上品な鼻に変わる。きみの悪いくらいにやたらと白くて厚みのある顔は黒く日に焼けた健康的でスポーツ万能を思わせる皮膚に変わる。太田の目の上にくっきりと刻まれた二重まぶたはそんな顔では勿論居場所も見つからず、ただの腫れぼったい目となるが、幸樹の顔ならより顔全体をシャープに演出する。世の中これで平等であるはずがない。「ただ、違いすぎて比べてるだけかっ・・」今更ながら太田の顔がだんだんと幸樹に変わっていく理由を納得することができたので鼻歌でも歌いだしたくなったがここはさすがにバイト先なのでとりあえず今はやめておくことにした。「さ、仕事、仕事」、遅刻をしたことはもう聖子の記憶から抜け出していた。金曜日の5時、ファーストフード店はまさに戦場だ。色とりどりの制服を身にまとった高校生、きっとこの子達は今から今日一日の反省会を面白おかしく何時間も行い家路につくとまた馬鹿な夢を見るに違いない。そしてそのばかげた夢の内容はその次の日の反省会のメインの内容として仲間の間でのお披露目の機会を待っているのだ。こんなことでは将来の日本の発展は望めない。日本が発展しようが、そんなことはどうでもいいが、何時間もここに居座られてもめいわくだ。コーラsと59円のハンバーガーでねばられてもね・・ふと自分がまるで店のオーナーにでもなったかのような思考回路に迷い込んでいることにきがつき、「バイト代さえもらえたら売り上げなんてどうでもいい」と必死に思考回路を修正した。さすがに最近は少ししんどくも感じるが、今大事なのは短期間でどれだけのお金を稼ぐことができるか、これに尽きる、だれにどう思われようともこの思いは譲れない。幸樹の誕生日はもう二ヶ月後にせまっている。聖子は二ヵ月後に自分にふりそそがれるであろう幸樹の笑顔に後押しされて、今日のデートも断り、この戦場へとのりこんできたのだ。「ごゆっくりどうぞ」満面の笑顔を高校生に向けそんな言葉を吐いている自分をもう一人の自分が見ていたら、きっと腹をかかえて大笑いするに違いない。やっぱりマクドにくるときはタイトスカートもパンプスも脱ぎ捨てた「お客様」としてくるに限る。だが、状況が状況名だけに必死に笑顔をつくった。勿論ここでバイトを一ヶ月前からしていることは幸樹には内緒だ。何度言ってしまいたいという気持ちになったか分からない。でも驚きとうれしさに満ちた幸樹の顔はもうそこまで迫っている、そんなことを考えるともう口を世界中で一番頑丈な板と大きな釘でふさいでしまいたい思いがした。マクドナルド大阪駅北口店はここに店が入り込んでからもう十二年になるそうだ。社員の太田がそんな雑学めいたことを毎日一人で自慢しているのでもう脳裏に焼きついてしまった。最近では、このお手軽さに加え、経済不況の渦のまっただ中にいる日本人の安息の場所としてここに君臨している。学校帰りの高校生の諸君はもちろんのこと、ここ2.3年ではサラリーマンのランチ、土日の家族団らんにも利用されている大阪駅屈指のお食事処なのだ。ここに来る大半の年配客は、自分がつい最近まで280円の牛丼のお世話になっていたことを忘れ、「狂牛病が気になってもう牛丼なんてたべれないよ。」と鼻でわらいながら、ハンバーガーを誇らしげにほおばっている。やっぱり日本に明るい未来はない。聖子はいつもそんな半ば批判的な目で客を見ている。そんな客に敬語で接するしかないマクドの店員なんて絶対なりたくないと思ったこともあったが、あえてその場所を戦場に選んだわけは二ヵ月後にけなげに働く自分の姿を幸樹が想像してくれるであろうことも計算に入れておいたからである。
それにしても客足は途絶えない。もう七時だ。そろそろすいてきてもよさそうなものだがさすがに今日は金曜日だ。これから迎える二連休を思うと客は大船にでも乗ったきになるのだろう。大船に乗ってマクドなら沈没しかけの泥船に乗って帰宅の途についたほうがいいのではないか、ひそかに聖子はそんな批判をまた、続々とご来店する客に浴びせかけていた。「お姉ちゃん、灰皿とってよ」4,5人で会社帰りに来ているであろう、スーツを身にまとった客が聖子に手をあげた。「はい」。軽快に返事をして彼らへ灰皿を運ぶ自分を幸樹がふいにどこかで見ているような気分になれたので、感謝と尊敬の眼差しでしっかりとスマイルを彼らに投げかけてやった。「おっといけない」聖子はくるりと方向をかえた。七時は最後のごみ捨ての時間だ。もう十五分もオーバーだ。小走りで店内のごみを集めるとおおきなゴミ袋は三つになった。往復で運ぼうとも考えたが、そんな考えはすぐに消え、一度に運びだすことにした。両手に大きなごみ袋、そしてその大きなゴミ袋を持った手でもうひとつのごみ袋を抱えたが抱えているというよりは上半身に乗せて支えているといったほうが適切なのであろう。ごみは容赦なく小柄な聖子の顔の半分ほどを隠すと、ずしりとその全体重をかけてきた。早くこのゴミとの醜い格闘を終わらせたくて階段を駆け下りたつもりだが、実際には、普通に歩くより何十倍も遅く周りからは見えていただろう。階段を降りる途中、会計を追え、二階へ向かおうとする客と、すれ違い様に少しぶつかったみたいだったが前もほとんど見えない状態、頭もさがらないなら・・と聖子は二人のカップルの背中を階段の途中で見上げたが、侘びの言葉をかけるのをさぼってしまった。持ち運びようのトレイを持っているにもかかわらず、しっかりとつながれた二つの手に少し嫉妬しかけたが、男のほうのジーパンのポケットから顔をのぞかせている携帯電話のストラップが幸樹と同じミッキーマウスだったのでまた、幸樹の顔を思い出し、いい気分になれた。ミッキーマウスの携帯ストラップは聖子が携帯電話に今つけているものとおそろいのもので自分の名前を幸樹の携帯電話に油性のマジックで書くかわりに幸樹につけてもらっているものだ。愛らしく笑ったミッキーの笑顔はまるで二人のこれからの幸せを祝福しているように感じるのでもう古くなってはいるが、聖子のお気に入りだった。何とか階段を全部降りきったとこで二階へ上がろうとする太田とすれ違い、辛くも階段を下りきっていていたことに思わずホッとした。ゴミとの格闘を終え、店内に戻ると二階からさっき運んでいたはずのハンバーガーをもったまま、太田がまた下におりてきた。ごみとの格闘を終えた聖子にすかさず目をやると「5番の札のお客様に至急チーズバーガー二つ」と階段のほうを指差して太田が指示をだした。太田に指示されたのも嫌だが、チーズバーガーとハンバーガーを間違えた太田の間抜けさのほうが腹だたしかった。二個のチーズバーガーを手にし、二階へ行くと先ほどの会社員はもういなくなっていた。「5番のふだ・・5番のふだ・・」窓際の奥から二番目の席には先ほどすれ違ったカップルがいた。店内にはまだ結構な人数の客がいるが、大人数で来ている客が多く、二人できている客がそのカップルだけであることが不思議なくらいだった。後で考えると、チーズバーガーが二個だから、二人できている客が5番の札を持っているに違いないと考えた自分は太田に勝るとも劣らない間の抜けた奴であるが、なぜかそのとき聖子はこのカップルに一直線にチーズバーガーを届けようとしていた。あともう5.6歩でカップルのいるテーブルに到達しようとしたときこちらに背を向けていた彼の広い背中のかげから、タバコを持つ右手が顔をみせた。そこが禁煙席であることにもきづかないほど、まっすぐに天井に向かってひたすらに伸びているタバコの煙に見とれていた。いつもタバコ臭い喫煙席に行くのは嫌なのに、なぜかそのタバコの香りはわずかに懐かしいにおいのように感じ、甘い砂糖水におびきよせられたカブトムシのように聖子は煙に吸い寄せられていった。何やら楽しそうに会話する声がだんだん耳に多く入り、なんだか話の最中に割って入るような気がして一瞬こえをかけるのを躊躇した。彼氏の背後からみえるタバコにふいに目を落とすと幸樹が吸っているのと同じものだ。そして窓に映ったその顔にも幸樹と同じ顔が映っていた。今日デートするはずだった聖子の彼氏の「幸樹」、いまここでチーズバーガーの到着を待ちながら彼女と話し込む「幸樹」、そして窓に映っている「幸樹」、この世の中に三人の幸樹がいる・・。聖子は案外冷静に、本気でそう思った。ショートカットで小柄なところまでは聖子とそうは見分けがつかないが、多分自分よりは目がもう少しくっきりと大きい。でも間違いなく肌の白さでは自分のほうが色白だ。彼女をこれからじっくり観察しようと、体のありとあらゆる触覚に電源をいれやっと温まったエンジンが動き出そうとしたのに、彼女はチーズバーガーを持ってこちらに来た聖子に気がついた。「幸樹、チーズきたよ」彼女の口からなにやら声がもれた。聖子の耳にはそれがはっきり聞こえたはずなのに鼓膜のもっと奥でなにか雑音が聞こえ、その声を掻き消そうとした。何かの音楽だろうか、それとも誰かの声か・・、「どっくん・・・どっくん・・・どっくん、どっくん、どっくんどっくんどっくん」心臓が緩やかにスピードを増す。幸樹の右肩上空50cmのところを、チーズバーガーを持った聖子の手が通過する。それを受け取ろうとする幸樹の彼女・・。「いや、渡そうとしている私が彼女、受け取ろうとしているこの子は・・幸樹としっかり手をつないだ彼女。じゃあ本物の幸樹は窓がらすに写っている・・」聖子は確かに幸樹がいるガラスを見つめながら、自分でもわけの分からない、つじつまが合っているのかあっていないのかもよく分からない自分の思考を疑った。窓ガラスにのむこうにはそれに映った映ったもうひとつの世界があると思いたかったが、先ほどから明るい店の中へ入ってこようと必死に窓に「こん。こん・・・」と音を立てて体当たりしている一匹のカブトムシのせいで窓の外は現実の世界しか存在しないことを再確認させられた。彼女の手にチーズバーガーが渡った瞬間、彼女の柔らかな手が聖子の小さな手に触れた。これも、また、なぜだかわからないが今までにない緊張だった。窓に映った幸樹を見たときより、「幸樹」と口にする彼女の声を聞いたときより、見知らぬ女と手と手が触れた瞬間が一番緊張した。「お待たせいたしました」という代わりに幸樹の背中に深々と頭をさげた。さっきまでこちらを見ていた彼女の視界からはもう聖子の姿は、とっくに消え去っている。会話に割って入って間を悪くしたらどうしようなんて心配はご無用だった。幸樹という名の男との会話に夢中だ。もう少し二人を見ていたい気もしないではなかった。しかし足が階段に自然と向いていた。「幸樹がもしふりむいていたら、迷わず今もって来たばかりのアツアツのチーズバーガーの包みを開け、パンとパンとの間に体をねじ込み、とけたチーズと一緒になって身を隠そう。」そうおもっていたが、その必要はなかった。幸樹が自分の背中に視線を投げかけてくれることを少し期待していたが背中に幸樹の視線を感じることもなく、その場から離れた。二人からの距離は遠ざかっているはずなのに二人の笑い声は階段を降りる聖子にのしかかってきた。下手をすればさっき運んだゴミ袋よりもすごい重量だ。聖子の頭の中では、まだ理解できない大量の情報がひしめきあっている。一つずつ整理すれば一本の紐となり記憶の一部として脳のメモリーに焼き付けられるのだろうが、今はありのままの出来事をそのまま一時保存しておくことしかできない。まだ一本の紐にするための順序を考える余裕はうまれてはいない。一階に降り、壁にかけてあったカレンダーで幸樹の誕生日までの日にちを、一日ずつ指で追いながらうつろに数えると、あと52日だった。店の時計は七時四十分をさしていた。閉店まではまだまだだ。「幸樹は今、チーズバーガーを運んでもらうというサービスを買った。そのサービスはやがてその恩賞として私の元へお金となり、戻ってくる。私がそのお金で幸樹にプレゼントを買う・・。そんなややこしい事をするくらいだったら、いっそのこと幸樹が自分にプレゼントを買い与えても何の代わりもないじゃないか、」聖子はふとそんな事を考えたら、急に体が熱くなりもうすぐで自分を支えることさえできなくなるところだった。「レジ来て」太田の目が聖子を見ていた。聖子は急いで体勢を整えレジへむかった。目の前にはハンバーガーを好む黒い瞳の日本人が列を成していた。どんなに黒髪の上のブロインドを気取ってみたところで日本人には変わりない。自分は自分なのだ。やたらと腹がたち、イライラした。そう思ったとき足元のこぼれていたオレンジジュースに溺れる虫が聖子の目を釘付けにした。さっきいたカブトムシがここまできたのだろうか。客の対応よりも先に、しばらくそのぶざまな姿に見とれていたがしばらくして彼を陸地に戻してやった。自分がどうしてそんなことしたのかは分からない。カブトムシは、甘い蜜のにおいにさそわれて、それを求め、力強い一歩一歩を踏み出すと聞いたことがある。例え運良くそれが自分の身を滅ぼすための罠であると途中で気がつき引き返したとして、カブトムシは、うれしのだろうか。身を滅ぼしたとしても甘い甘い蜜にまっしぐらに突進していく足取りは、引き返す足取りとは違い自信に満ちている。聖子はもし自分がカブトムシなら、危険というリスクを背負っても必ず蜜に向かって突き進もうと決めた。元いた場所へ無事に帰ることを考えるより、蜜をえた瞬間にふりかかるであろう困難を予想するより、先に目の前にある幸福を手に入れようと必死にもがく自信がほしい、聖子はそう思った。「自分はカブトムシではない。でも、私が幸樹のために必死に働いてきた」という自身はある。「目の前に列をなす客をすべて片付けたら、もう一度階段をのぼってみよう」小さな勇気が聖子は心の奥底でそっと芽生えた。

相互批評>

感想、というよりは批判的な点・指摘だけを書き込んでいます。何やこいつ、とか思われた方、すいません。すでに改訂されてる方は、そちらを読みました。そういう方はもう見ないか…。

カーネーション…様々な比喩や言い回しが見られたが、少しニュアンスをつかみにくくしているような部分もあったように思う。表現自体のミスが・・・。

青林檎…最初の部分が言葉は洗練され、見事だが、少し内容との乖離があるように思う。

ひと夏のコイ…結末からすると恋してなくはないか、と思う。

カブトムシ…少し設定に無理が感じられる。カブトムシ…。

思い出…斬新!もう少し描写を加えて表現の仕方を変えてもよかったと思う。いきなり見知らぬ部屋にきたにしては少し落ち着きすぎているか?

ある月曜日…全体的にやや平坦な気がした。

プラスマイナスゼロ…描写が薄いように思う。

記憶…展開が早いなぁ、と思ったが、文字制限上、しかたがないのかも。

ほかは特に何か指摘すべきところはありませんでした。全部読んでみて、面白い設定や構成に驚きました。

2103

992104さんの小説「ひと夏のコイ」について
 治の心情が明確なので、どんどん読むことができて良いなぁ、と思いました。恋愛シュミレーションゲームという題材もおもしろくて良いと思います。
 しかし、その一方で、結末部が物足りない、という気がします。

994305さんの小説「カブトムシ」について
 カブトムシと女の恋心をかけるという設定が良いと思います。ユーモアがあっておもしろく読めました。
 もう少し読点があると読みやすいと思います。また、冒頭部とそれ以降の関わりがあまり明確でない気がします。

004203さんの小説「思い出」について
 題材が新鮮で良いと思います。場面の移り変わりも無理なく読めてよかったです。
 岡本が加奈に真実を語る場面で、岡本の心情描写がもう少しあればいいのになぁ、と思いました。

002106さんの小説「ある月曜日」について
 「彼はそこにいた。彼は何も・・・・・・」のフレーズの繰り返しが効果的だと思います。娘を失った父と、父を失った少女の交流がなんとも切なくて良いと思います。
 「彼」は自分ことをあまりホームレスだと思っていないことが書かれていましたが、「彼」の現在の心境がもっとわかればいいのに、と思います。
 素朴な疑問ですが、サチコは佐々木の娘ですか?(深読みしすぎですか?)

002107さんの小説「プラスマイナスゼロ」について
 日常がありありと描写されていて良いと思います。茜の心情がよくわかるので読みやすいです。
 茜の考えが変化していく過程(夢から覚めた後の場面とか)が、もう少し詳しく書かれていれば、より良いと思います。

004207さんの小説「少女と私」について
 関西弁で書かれているのが、自然な感じがして良いと思います。小学校2年生のやすこのせりふ・考えたことは、すべて平仮名で表記するという工夫が見られて良いと思います。
 教員になることを決断する場面が、かなり急だと思いました。そのあたりをもう少し詳しく読みたいな、と思いました。

004210さんの小説「記憶」について
 どうしても過去を取り戻したくて動き出したサチが、過去を知ることによって自分の愚かさに気付く、というストーリーが、なんとも切なくて良いと思います。人間は、いったい何を求めているのであろうか、という問いを感じました。
 そのような問いを感じたので、結末部がもっと詳しくても良いかなぁ、と思います。

004201さんの小説「話したかったけれど・・・」について
 幼稚園入園前からずっと一緒だった二人が、結末では離れ離れになる、という冒頭と結末の対照的な状況設定が良い、と思います。
 教室での、キャプテンとのやりとりがもっと後の展開と関われば良いと思います。

002110さんの小説「フライト」について
 表現がかっこいいと思いました。(日が東の空に金色の光をつれてやってきた。など)擬人法も効果的に使われていると思います。
 機内での男性との会話で「トロント」という具体的地名を出しているのは良いと思いますが、この場面が後の展開ともっと関わっていけば、より良くなると思います。

002108さんの小説「梅雨の日の出来事」について
 梅雨のけだるい感じが、文章にもよく現れていて良いと思います。
 しかし、結末部で、なぜ「彼」が「私」にその言葉を言ったのか、唐突だったような気がします。理由というか、過程というか、もう少し段階があれば良いと思います。

002101さんの小説「カーネーション」について
 2組の親子のほのぼのとした様子がありありと見えてよいと思います。母であり子どもでもある女性という設定がよいと思います。
 「こぼれても、魚と話すのに夢中で、水から出ないかもよ」という表現がありますが、その意味がよくわからないので、注をつけるなどしてもらえるといいな、と思います。

002102さんの小説「患者」について
 「まさか!」と思うような結末が良いと思います。新鮮で凝った設定がすごいと思います。
 しかし、そのような結末であるため、もっと描写や説明があるほうがわかりやすいと思います。

002104さんの小説「青林檎」について
少年の心情がありありと伝わってきてよかったです。色彩表現の豊かさが良いと思いました。
 一方で、あっさりしすぎているのが気になりました。冒頭が、後の展開をかなり期待させるものになっていると思うので、もう少し濃い部分があってもいいかな、と思います。

2104

992104さんの「ひと夏のコイ」
 治の心情が読み取りやすく、タイトルから連想できることの上を行くアイデアに面白さを感じました。治を「気持ち悪い」と感じさせる手法において見事なものだと思わされました。しかし、結末部にかけて話の飛躍が感じられないので、その治の気持ち悪さだけを表現する小説という感じがするのも正直な感想です。

 994305さんの「カブトムシ」
 句読点、改行を入れてもらえると読みやすいです。内容としては聖子とカブトムシの関わりが面白く、「汗をシャツに献上する」という件など、個性的な表現は魅力的であると思います。一方では、表現を変えたら、もっと内容がわかりやすいのではと思う箇所もありました。(「遅刻」の説明など)

 004203さんの「思い出」
 最後の一文がある種自嘲的な響きを持ち、独特な世界観を醸し出していると思います。展開も楽しんで読むことができました。ただ、SF小説はその世界観についての説明がないと多少入り込みにくいのでもう少し説明部分を丁寧にすれば、もっと良くなるのではないかと思います。

002106さんの「ある月曜日」
これといった表現ではなく、全体的に安定した表現力があり、凄いと思います。内容としては、結末部の寂しさが冒頭部と関わり、後を引くものがありました。ただ、部長とホームレスの男性の関わりがよくわからなかったのでそこで一度断層ができたとも感じます。正直、少し難しかったです。

002107さんの「プラスマイナスゼロ」
家族のこと、友達のことなどを描いていきながら、話が二転三転と変わっていく。まさに、「プラスマイナスゼロ」というタイトルを実感できる作品だと思います。もう少し、心情描写があってもおもしろいと思いますが、十分楽しめました。結末部の結びは、個人的に好きです。ただ、途中で結末がある程度予測できてしまうので、少しひねりを加えるともっといいかも知れないと思います。

004207さんの「少女と私」
話の流れが安定していて、読みやすかったです。自叙伝のような感じの文章も新鮮で面白く感じました。特に、お祖母ちゃんの件は実際にモデルがいるのではないかと思ったくらいです。ただ、教師になろうとする件はもう少し動機付けがないと厳しいかなと感じました。

004210さんの「記憶」
結末部の展開が面白かったです。謎が解消されるのと、同時にある種の寓意も感じさせるあたりは良い構成になっていると思います。タイトルも良く作品を表していると思います。ただ、記憶を失った後のサチと記憶を失う前のサチが同一人物のように思いにくく、この状態は果たして愚かだと自覚できるのか、それだけでいいのかは少し疑問に残ります。サチについてもう少し丁寧な心情描写があればいいなと思いました。

002101さんの「カーネーション」
カーネーションが実は祖母(母でもありますが)から送られていたものだというところが、見事なものだなと思いました。ただ、「子供の声に元に戻られた」は「子どもの声で我に返った」位が適当でありますし、「溺れても、魚と話すのに夢中になって、水から顔を出さない」というのはどういう意味なのか少々解りかねますので、もう少し全体的に文章表現を変えれば抵抗なく読み進められるのではないかとも思いました。

004201さんの「話したかったけれど…」
話の流れが良く、読み進めやすい作品だと思います。表現もまとまっていて、過不足がなかったように感じました。一方で、キャプテンと私の件のように比較的長い文章がある部分で、後に展開が続かない点などが気にかかりました。そういった部分に含みを持たせるとより良くなると思います。

002110さんの「フライト」
「出会いがしらの赤の他人に、刃物で胸の真ん中を一突きにされたような」といった独特な表現が面白く、また解りやすかったと思います。話の展開も箱の中身が実は空だったという裏切りがあって、最後まで楽しく読めたと思います。人物名が異邦人というのも新鮮でした。ただ、作品自体が国際的という点で広がりを感じさせるものだったので、そのことがもう少し話に関われば良いとも感じました。全体的にはまとまっている作品だと思います。

002108さんの「梅雨の日の出来事」
「母が死んでしまった今、この話を誰にも伝える気は全くない。」という部分が印象的で話を綺麗に切っていると思います。話の内容や、主人公の性格設定も随所に見られ、矛盾点も感じませんでした。ただ、個人的な意見で言えば、「母が死んでしまった今、この話を誰にも伝える気は全くない。」という部分の「全く」という部分は他の言葉に置きかえるか、無くしてしまったほうがスムーズに読み終われると思いました。

002103さんの「生きる」
非常に読みやすく、気がついたら読み終わっていたという感じでした。流れのスムーズさもあることながら感情描写も見事で、心に訴えかけてくるものがありました。しかし、「セミがうるさく鳴いている。夏の晴れ渡った朝だ。気持ちいい。」という部分の「うるさく鳴いている」の後の「気持ちいい」など、部分部分は解るのですが、一節の文章と見た場合、矛盾が生じるのではと思ったところもあったので、手直しを加えることでさらに良くなる作品だと思います。

002102さんの「患者」
最後の最後にどんでん返しがあって、面白い作品になっていると思います。「読んじゃうんだね」といった部分が徐々に恐怖を高めていき、最後にオチがある。しかし、最後の部分でまた狂気を感じさせる。面白い構成だと思います。「いれない」という「ら抜き言葉」もだらだらと報告書みたいな文章を書く若者という設定にあっていて細かいなと驚かされました。ただ、このラストは「現実に殺した」か「殺していない」か、2通りに読めるので流れを変えたら、もっと良くなると思います。

2109

002104 「青林檎」
改行と表現がうまくかみ合って、風景や心情が理解しやすかったです。作品を通して比喩や表現がかみ合ってない気もしましたが、後半は特に勢いがあり、読みやすかったです。

992104  「ジアイ階段」
一人称と三人称が混合してて、多少作品世界に入りにくかった点があります。しかし、治の悲しい失恋と、結局ゲームの世界に逃げ込むというエンディングは、現代の若者の象徴に見えて面白かったです。

994305  「カブトムシ」
文章自体が読みやすく、布石もいくつかあって世界に入り込めました。もう少し聖子の心の移り変わりを丁寧に描写したらもっと心情が伝わると思います。

004203  「思い出」
岡本君はかなりかわいそうですね(笑)中盤は台詞が先行して、岡本君と加奈の心理変化が余り見えてこなかったように感じました。また、作品の雰囲気は伝わってきましたが、筋があいまいだったようにも感じました。

002106  「ある日曜日」
ホームレスの男が人々の依り代になるという設定と、男自身、依り代を求めている心理が見えて深く読めました。繰り返し使われている表現も、心に残るものでした。
002107  「プラスマイナスゼロ」
茜の成長物語ですね。祖母の言葉に心動かされ、自分の存在価値を見出していくという、中学生日記さながらのラストシーンは、共感できる部分がたくさんありました。全体のバランスも良く、展開もついていきやすかったです。

004207  「少女と私」
回想シーンの終わりまでは一気に読めましたが、大学再入学の話から区切れを感じました。しかし、風景から回想、心理描写、結末まで、康子の思いが良く伝わってきました。

004210  「記憶」
細かいところで重なった表現や文章があり、また文と文の間が開きすぎているので、頭に入るのに幾ばくか抵抗がありました。題材はすごい面白いと思うので、もう少し丁寧につづっていけば、心理や風景も生きてくるのではないでしょうか。

004201  「話したかったけれど・・・」
一つ一つの出来事の意味の持たせ方が、『物語の中でいいたいこと』にリンクして無いように感じました。その出来事に対する文章のつづり方で印象が変わってしまっているように思います。

002102  「患者」
まさに主人公は患者になってしまったわけですね。オチが良く出来ていると思います。

002110  「フライト」
内容は感動的で、いい話なのに、なぜか悲観的なイメージを受けました。一つ一つの文章を紡ぐときの言葉の使い方でそういう印象になっているのかもしれません。それが狙いなら良いのですが。

002108  「梅雨の日の出来事」
最初のベンチを探すシーンが少し長く感じました。しかし、その後は勢いよく読めました。

002103  「生きる」
所々にある主人公の気持ちを表した一文が特徴的ですね。主人公の成長がわかりやすい文章でかかれていて、心情変化が手にとるように伝わってきました。

002101  「カーネーション」
回想シーンのカーネーションの意味合いと、現在のカーネーションの意味合いが少しずれているのがわかりづらかったです。それにしても、いいお母さんですね。

2110

992104さん「ひと夏のコイ」主人公に同化しにくく感じられましたが、非常に読みやすく、次々と読み進められました。題材も面白かったです。

994305さん「カブトムシ」衝撃的な内容なのに語り口が淡々としており、その落差が面白く感じられました。段落わけや句点などにもっと注意を払うと、読みやすくなるように思います。

004201さん「話したかったけれど・・・」わかりやすい表現で、簡単に主人公に同化して読み進めることができました。ただ、あっさりと流れすぎているようにも感じましたので、もう少し表現にひねりがあってもよいように思います。

004203さん「思い出」構成が面白いと思いました。読後の余韻をさらに持たせるように、結末部を改善すると、さらに印象深い作品になるように思います。

004210さん「記憶」読後、余韻が残りました。結末部の最後の段落を、抽象度を上げるとさらにおもしろく感じられるのではないかと思います。

002101さん「カーネーション」読んでいてとてもほのぼのした気持ちになりました。家族の暖かさがひしひしと伝わってきました。構成をもう少し吟味するとさらに良い作品になるように思います。

002102さん「患者」設定が面白いと思いました。「患者」というタイトルから、勝手に大江健三郎を連想してしまいました。彼ほどグロテスクでなかったので安心しました。心情表現が良かったと思いましたが、もう少し抽象度を上げても良いかもしれません。

002103さん「生きる」わかりやすい表現で読みやすかったです。ストレートでありながら深い意味を感じるタイトルも良いと思いました。ただ、語りすぎているようにも感じられました。

002106さん「ある月曜日」寂しさが詳細に語られているように感じられました。読みやすかったです。冒頭部と結末部が対応していましたが、結末部にもう少し厚みがあっても良いと思いました。

002107さん「プラスマイナスゼロ」主人公に同化しやすく、次々と読み進めることができました。良いことを教えられた気持ちになりました。しかし語りすぎているように感じられる部分もありました。

002108さん「梅雨の日の出来事」死者との対面が自然に語られており、題材の面白さが生きていたように思いました。前半部分に同じ表現が反復していたのですが、少し減らしたほうが良いように思いました。全体的にもう少し厚みを持たせたら、印象的な作品になると思います。

004207さん「少女と私」幼い子の心情表現がわかりやすく描かれていたので、とても読みやすかったです。感動しました。小説ということを考えると、少し語りすぎているようにも考えられたので、もう少し抑えても良いように思います。

002104さん「青林檎」少年の淡い心情が、しっかりと描かれていて面白かったです。色彩表現も豊かできれいな作品に仕上がっていたと思います。結末部をもっと工夫すると、さらに深みのある作品になると思います。

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改訂されている方のものはそちらを読ませて頂きました。

002110さん…文章が簡潔で、最後まですっと読めました。金庫の中がからっぽだったのが、爽やかな気分になりました。

002104さん…描写がとても細やかで情景を思い浮かべ易かったです。「ボク」の心情がありありと伝わってきました。

002102さん…最後で「あっ、こういうことだったのかー。」と思いました。オチがついていて面白い小説でした。

992104さん…バーチャルな世界にのめりこむ主人公が今っぽいと思いました。治のかおりを見る目がある種の怖さをかもし出していました。

002106さん…サチコとホームレスの男のやりとりが何とも言えない気分になりました。最初と最後の繰り返しの表現がと小説全体を印象付けてると思います。

002107さん…主人公に自分を投影して読める、読みやすい文章でした。読み終わった 時、ほろっと温かい気分になりました。

004210さん…記憶をなくしたかったサチと、記憶を求めるサチ。矛盾するサチの行  動が心に響き、考えさせられました。興味深い、面白い話の展開でした。

002109さん…翔が現実にもいそうで怖くなりました。(笑)話の後半でぐぐっとすいよせられました。言い回しがすっきりとした読みやすい小説でした。

002101さん…読んでいてこちらまで心が温かくなるようでした。「地震でも起きたような顔」という表現が、個人的に気に入っています。(笑)

994305さん…独特な表現が小説を引き立てていると思いました。近鉄線など馴染みのあるものが出てくると親近感がわきました。

004203さん…SF小説!って感じで新鮮さを感じました。岡本君が可哀想で切なくなってしまいました。読み進めるのが楽しかったです。

004201さん…中学生の若々しい感じがよく伝わる文体でした。さらさらと読んでいくことができ、まとまりのある話の展開だと思いました。

002108さん…落ち着いた感じの文章でありながら、非常に勢いも感じる面白い小説でした。最後の一文がとても印象に残りました。

002103さん…自分のお婆ちゃんと重なって見えてじーんときてしまいました。(笑)心にぐっとくる感動的な話でした。

992104

 002106さんの小説について。
内容に一貫性があり、主体が変わっても最後にはきっちりまとまっていたと思います。何にも持っていないと締めくくられている男についても、サチに笑顔を与える事は出来ている。その記述は美しいと思いました。
 あえて読者の立場から云うと、途中の「男の過去」についての記述がながいので、会話文などコンパクトにまとめて、こっちが想像力をかき立てる事が出来るようにしたら彼の悲哀について的確に表現出来ると思いました。