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大阪教育大学 国語学特論2
受講生による 小説習作集

詩織

1998年度号
17 迷宮真鍋弥里
葉山千希里
掌編集林沙衣子
深い森中家真理
最後のプレゼント中木基恵
ガラス窓


17 迷宮
真鍋弥里

 私の家は、坂を登った高台にある。町全体を見下ろすことができる。ここは、わたしの姉が生まれた年に越して来た家だから、今年で、ちょうど17年目になる。

 「ただいまぁ」
勢いよく玄関のドアを開けたと同時にお母さんが、
「おかえり。」
と出迎えてくれる。玄関でいつもチェックすることが、姉の靴があるかどうかである。
「お姉ちゃん、また、お休みしたの?」
「そうなの。熱がでてね。でも、よくわかったわね。」
「だって、靴が今朝のままだもん。」
と、言いながら階段を駆け上がり、姉の部屋に直行することがいつものことである。
「ただいま。杏奈ちゃん。また、学校休んだんだって?」
「お帰りなさい。雪奈ちゃん。」
ベットの上に体を起こした姉が、私を、出迎えてくれる。
「元気そうじゃない。だめだよー。学校ズル休みしちゃあ。」
「今は、だいぶ気分が良くなったけど…………朝は、貧血がひどくて…………」
 私には、2つ違いの姉がいる。お姉ちゃんは、生まれつき体が弱い。今、高校2年生だけれど、体の調子が悪い時のほうが多くて、学校にも数えるほどしかいっていない。それに比べて私は、体が丈夫で病気なんてほとんどしたことがない。お姉ちゃんは、妹の私が言うのもなんだけど、病気がちなせいか肌が透けるように白くてとても奇麗である。私の自慢の姉である。
 「なに?人の顔なんかじっと見て…………」
「ううん。杏奈ちゃんて、きれーだなーって思って。」
「えーっ!私がーっ?こんな顔色悪くてガリガリなのに…………やめてよー。」
お姉ちゃんは、学校にあまり行っていない為か友達がいない。だから、私達は、友達のように何でも話し合うのだ。話し合うと言ってもお姉ちゃんは、もの静かだから私が1人でしゃべってるって感じだけれど…………
「こら!雪奈は、着替えもしないで。お姉ちゃんの部屋に入りびたって…………制服は1日中着ててほこりだらけなんだから、帰ったらすぐ着替えてブラシをかけなさいって言ってるでしょう!」
「はーい。じゃあ杏奈ちゃん。着替えてくるね。」と、声をかけて自分の部屋に帰った。部屋に入るとすぐに制服を脱いで部屋着に着替え、制服をハンガーにかけて、しみじみと、自分の制服を見てみた。
「あーあ。スカートのプリーツもとれちゃってヨレヨレだー。まーあと4か月の辛抱だし…………」
 私は、今、中学3年生である。3年間もほとんど毎日着てたわけだから制服がヨレヨレになるのは、当然である。それだけ私が、この制服をよく着ていたかがよくわかる。それに比べて、お姉ちゃんの高校の制服は、ま新しいままである。去年の春に入学してから、まだ数える程しか通学していないからだ。
 「お母さん。ちゃんと着替えたよ。」
台所にいるお母さんに言った。
「それじゃあ、ご飯が炊けたから、仏壇にお供えしてきてちょうだい。」
と、言われたから、ご飯を仏様用の器によそった。家の1番奥の部屋には、仏壇がある。その仏壇にご飯をお供えするのが、私の毎日の役目である。いつも、手を合わせて何かしらをお願いしてみる。
(おじいちゃん、おばあちゃん、今度、実力テストがあるのでいい点がとれますようにお願いしますね。)
仏壇には祖父母の他に子供の位牌がひとつある。赤ちゃんの時生まれてすぐに亡くなった母の姉のものだそうだ。お姉ちゃんは、この仏壇のある部屋を異常に嫌って、1歩も近づこうとしない。仏壇の部屋から出ると、父が、玄関に立っているのが、目に入った。
 「あ!お父さん、お帰りなさーい。早かったんだね。」
「ただいま。雪奈。」
「お帰りなさい。」
2階からお姉ちゃんが、声をかけた。
「あのね、お父さん。杏奈ちゃんね、今日も学校お休みしたんだよ。」
「え?そうなのか?大丈夫か?杏奈。顔色悪いぞ。」
お父さんは、仕事から帰ってくると1番にお姉ちゃんの心配をするのだ。
「大丈夫よ、お父さん。いつもの貧血なんだから。」
お姉ちゃんが笑顔で言った。そこへ、お母さんが、
「3人とも何を玄関で、立ち話してるの?もうご飯よ。」
 家中のみんなが、お姉ちゃんを気遣うことで、家族が一つに温かくまとまっていた。夕食後、居間で家族でおしゃべりしてたら、急にカメラのフィルムが、あと少しだけ残っていることを思い出したから、お姉ちゃんを撮ろうと思った。カメラごしに、
「杏奈ちゃん、はい、笑ってー。」
…パシャッ…シャッターをきったとたん、お姉ちゃんが身をよじらせてよけてしまった。「ああ!杏奈ちゃん、なんで逃げるのよー。フィルム1枚しか残ってなかったのにー!」と、ふくれながら言うと、お姉ちゃんも負けじと、アッカンベーをしながら、
「べーだっ!あたし、写真てきらい。ブスに写るんだもん。」
と、あっさりとかわされてしまった。せっかく、奇麗なお姉ちゃんの写真撮りたかったのに…………

 それから何日か経ったある日、この前のカメラのフィルムを現像して、学校に持って行った。
「わぁー!これって、この間の遠足の時の写真!?」
「そうだよ。上手に撮れてるでしょー?」
「うん。やだー。さちこったら、大口あけてるー。」
「なになに?みせて、みせて。」
と、みんなガヤガヤと、集まってきた。
「ねぇねぇ、雪ちゃん。この写真焼き増ししてね。」
「私もー。」
「私もーっ。」と、すごく盛り上がった。
「うん。いいよー。」
「ねー、雪ちゃん。この写真なんでソファーしか写ってないのー?」
写真を見てた子の1人が言った。
「ああ、それ?この前さぁ、フィルムがあまってたんで、お姉ちゃん写したの。」
「へぇー、雪奈ちゃんのお姉さんって、すっごい美人なんでしょーっ。」
「じゃあ、なんで、この写真にお姉さん写ってないのー?」
「逃げられちゃったんだ。お姉ちゃん、写されるのが、嫌いなんだってー。」
「なぁんだーっ。お姉さんの顔見てみたかったのにーっ。」
「ほんとにー。見たかったなー。」
「見たい、見たい。ねえ、他に写真ないのー?」
みんな口々にお姉ちゃんの顔が見たいって言うから、おもわず、
「それじゃあ、うちに遊びに来るぅ?」と、言ってしまった。すると、即座に、
「あっ、それいいっ!」ってことでその日に、みんな家に来ることになってしまった。

「ただいまー。」と、同時に、
「おじゃましまーす!」といった元気な声が玄関に響いた。私は、いつものように、玄関のお姉ちゃんの靴をチェックした。そこには、今朝私が出かける時にあったお姉ちゃんの靴がそのまま並べられてあった。(また、具合が悪いのかな?)と、考えていると、みんなが、
「どうしたの?」
という声で、我にかえった。
「あ、ううん、なんでもない。はいってー。階段上がって右が私の部屋だから。」
と、いいながら階段を上がって行った。
「あー、ここねー。」
「それじゃあ、こっちがお姉さんの部屋?」
「わーい、お姉さんだ、お姉さんだ。」
などと、後ろから、みんなワイワイガヤガヤと言いながら、私の後についてきた。
「お帰り、雪奈のお友達?いらっしゃい。」
みんなと部屋に入ろうとした時、お姉ちゃんの部屋から出て来た母にでくわした。
「あ、お母さん、ただいま。」
「こんにちはー。」
「おじゃましてます。」
と言いながら、みんな部屋に入っていった。私も入ろうとすると、ふいに、
「雪奈、ちょっと…………」と、母に呼びとめられた。
「なあに?」
「お姉ちゃんね、今日も具合悪くてお休みしたのよ。今寝てるからね…………だから、お友達とあまり、騒がないようにしてね。」
それを聞いた時、あ、やっぱり、と、思った。
「あ、雪ちゃん。どうしたの?」
「ごめんね。お姉ちゃん、今日は具合悪いんだって。」
「えー、じゃあ、お姉さんに会えないのォ。残念ーっ。」
せっかく来てもらったのに、みんなに悪いなと思ってたら、ふと、思いついた。
「そうだ。アルバムだ!アルバムみせてあげる。お姉ちゃんの子供の頃のやつ。ちょっと待っててね。」
と、みんなに言って部屋を出て行った。
 仏壇のある部屋へ急いで行った。仏壇の横の押し入れの上の段に昔のアルバムなどをしまってあるので、踏み台を持って来てそれに乗ってみた。それでも見えないから、手探りであちこち探してみた。
「えーーと、たしかこの辺にあったような…………」
大小色々な箱が何段にも積まれているので、なかなかアルバムをみつけだすことができない。
「もう、お母さんったら…………もうちょっと考えて整理したらいいのに…………」
などとブツブツ言いながらゴソビソとめぼしそうな箱を取り出しては見てみて、違ってたらまたもとに戻すといったことを何回か繰り返した。そのうち、私の箱の戻し方が悪かったのか、積み上げられていた箱のバランスが崩れてガラガラと私をめがけて何個も落ちてきた。その拍子に仏壇の上のものも一緒に畳の上に落ちてちらばってしまった。
「いったー!」
何個かの箱があたったので、おもわず声がでてしまった。すぐに畳の上の状態をみて、
「いっけな〜い!」
そこには、線香やロウソクや位牌がバラバラにちらばっていた。ちらばった箱などを順番に片付けていった。すると、畳の上に、1枚の写真があるのが目に入った。
「あれ?なんだ?この写真は。」
近寄って、手にとってみると、その写真には、かわいらしく笑った赤ちゃんが、写っていた。
「なんだ、赤ちゃんの写真?」それは、見覚えのない写真だった。
……………あ…………?ひょっとして、これが赤ちゃんの時亡くなった伯母さんの写真かも……………
写真の赤ちゃんをみながら、そう思った。じっとその赤ちゃんの顔を見てると、急に何だかわからないけれど、背筋のあたりが、ゾクッとした。
……………やだ………この写真見たら、急に変な気分になっちゃった……………
私は、見てはいけないものを見てしまったような感じがして怖くなったのですぐに、部屋をもとのとおりに片付けて、アルバムも探さずにそのまま部屋を出た。
「ごめん、アルバム奥のほうに入ってるみたいで、みつからなかった。」
と、自分の部屋に帰ってみんなに言った。
「いいよ、いいよ。私達、もう帰るから。それより、雪ちゃん、どうしたの?顔真っ青だよ…………」

 「それじゃあ、元気な時に会わせてね。バイバーイ。」
「うん、今日はごめんね。また、明日ねー。」
「バイバーイ!」
門のところまでみんなを見送った。
 
 その後すぐに、お姉ちゃんの部屋に行ってみた。ドアを少し開けてみると、ベットで眠っているお姉ちゃんの顔が見えた。ベットのそばに座ってお姉ちゃんを見てると、お姉ちゃんが目を開けて、私のことに気付いた。
「雪奈ちゃん。」
「ごめん、起こしちゃった?」
「そんなことないよ。」
「あのね、さっき私の友達が来てたんだ。みんな、杏奈ちゃんに会いたいって言ってたよ。」
「えー、なんで、私なんかに?」
「だって、杏奈ちゃんは、私の友達の間で美人って言われてんだよー。だから、1度見てみたいって…………」
「うそー、よく言うよ。わたしが美人なわけないじゃん。」
と言って、みんながお姉ちゃんに会いに来たことを、信じてくれない。それにしても、とうしたらみんなに杏奈ちゃんを見せてあげられるだろうと考えていると、いいことがひらめいた。私は、美術部にはいっている。だから、デッサンなどは他の人よりは上手に描けるのだ。きっと写真ほどは似せられないだろうけど、雰囲気や顔かたちくらいはみんなにわかってもらえるのではないかと思った。そこで、お姉ちゃんのイラストを描いて、明日学校に持っていこうと考えた。
「ちょっとォ、杏奈ちゃん。うごかないでよー。」
「もうちょっと体起こしてくれる?」
などと騒いでいたのが下に聞こえたのか、お母さんが部屋に入ってきた。
「あら、何してるの?あんたたち。」と、私達をみて言った。するとお姉ちゃんが、
「雪奈ちゃんが、私のイラスト描いてくれるんだって。」
と、うれしそうに答えた。
「あらまぁ、それじゃあがんばってちょうだいね。美術部さん。」
「もう、うるさいなー。人が真剣に描いているのに…………」
本当に真剣だった。できるだけ忠実に描くようにこころがけた。
…だって杏奈ちゃんが、どんなに奇麗か、みんなに教えてあげたいんだもん…

 翌日、昨日描いたお姉ちゃんのイラストをもう1度見直してみた。
「ん…………結構うまく描けてるじゃんーっ。さっそくみんなに見せちゃお。」
と、イラストをカバンにいれていつものように、学校へ行く準備をしてから下に降りて行った。降りてみるとお母さんが、2階に上がったり降りたり、せわしなく動いていた。私は、ふとお姉ちゃんのことが気になって、聞いてみた。
「おはよう、お母さん。どうしたの?杏奈ちゃん具合悪いの?」
「ええ、ちょっとね…………」
「大丈夫なの?私今日学校休もうか?」
「雪奈はいいから、学校へ行ってらっしゃい。」
と、言われてしまった。その後すぐに、
「そうそう、お母さんは杏奈を連れて病院に行くから、もし帰ってなかったら、鍵は裏の戸袋の中に入れとくから、それで中に入ってちょうだいね。」
「うんわかった…………」
「じゃあ、いってらっしゃい。」
と言われたので仕方なく学校に行った。

 学校に来たものの、お姉ちゃんのことが気になってしょうがない。
…どうしよう、どうしよう。…
人間心配事があると無口になってしまうのか、いつもだったら友達の輪の中にはいっておしゃべりをするのだが、今日はそんな気になれずに1人であれこれとお姉ちゃんのことを考えていた。そんな私のことを心配してみんなが集まってきた。
「雪ちゃん、どうしたの?どっか具合悪い?」
「ううん、何でもない…………」
心配してくれてるのにそれどころではなかった。
…病院行って…………そのまま入院なんてことになったらどうしよう…………もしかして杏奈ちゃんは実はすごく悪い病気だったりして……………
学校に行ってる間もずっとこんなことばかり考えていた。その日は、本当に長く感じられた。
 学校が終わるとすぐ友達とのあいさつもそこそこに急いで家に帰った。家のドアを開けようとすると鍵がかかっていた。
…やっぱり…………まだ帰ってない…………もしかして?……………
戸袋から鍵をとりだし家の中にはいった。まだお母さん達は、帰ってきてなかった。
「大丈夫だよね。きっと病院が混んでて、時間がかかってんだよね…………」
と声に出して自分にいいきかせた。
…やだな、玄関にお姉ちゃんの靴がないと、とっても不安……………
自分の部屋にいても全然落ち着かない。時間が気になって仕方なかった。しばらくしてから、玄関のドアがバタンと閉まった音がして、ビクッとなった。でもすぐに
「だだいまーっ。雪奈ちゃん帰ってるのー?」
と玄関からお姉ちゃんの声がした。急いで玄関まで降りていき、
「杏奈ちゃん!」
玄関にお姉ちゃんが、笑顔で立っていた。
「おかえりなさーい。遅かったね。どうだった?病院…………」
「うん、何ともないって。貧血がひどいくらいだって。」
そう言っているお姉ちゃんの後ろに、元気のないお母さんが立っていた。
…でも、杏奈ちゃんは、なんともないっていってるけど、お母さんの顔は、何ともないって顔じゃないんだけど……………
居間に行くと、お姉ちゃんが紙袋を私にさしだして、
「雪奈ちゃん、あのね…………これお土産…………」
「わーなあに?うれしいっ。」
紙袋をうけとって、すぐに開けてみた。中には、前からほしかった真っ赤なバックがはいっていた。
「ありがと、杏奈ちゃん。」
「いつも、雪奈ちゃんに買ってもらうばっかりだから…………病院の帰りに、かわいいお店があったから寄ってみたの。」
今日1日の心配がいっぺんにふきとんでしまった。
「今日ね、久しぶりに外に出たら元気でちゃった…………そうだ、明日休日でしょ。どこか、行こうか。」
「ええっ、本当?うれしいっ。」
お姉ちゃんからそんなこと言うことが、すごくめずらしかった。でも、すぐにお母さんのさっきの元気のない顔が気になって、いいかどうか聞いてみた。
「お母さん、行ってもいい?」
「いいわよ、行ってきたら?」
といわれたので、2人で相談して、隣町まで行くことにした。

 翌日、私達はお昼頃に出掛けて、あちこちをぶらぶらした。
「杏奈ちゃん、いいお天気でよかったね。うれしいーー。」
私は、あまりにもうれしくて、お姉ちゃんにしがみついて言った。
「ずいぶん、オーバーな子ねぇ。」
「だって、お姉ちゃんと出掛けるなんて、何か月、ううん、何年かぶりだもん。」
「何年かぶり…………ていうのはオーバーよ。」
などと、話をしながら歩いていると、急に、お姉ちゃんの姿が透けていまにも消えそうなふうに見えた。私は、もう1度目をこすって見直してみると、いつものお姉ちゃんがいた。「雪奈…………」
「ん?なあに?杏奈ちゃん。」
「…………お母さんのこと、雪奈ちゃんに頼むね。」
「え?」
突然、お姉ちゃんが言ったことは、私には何が何だかわからなかった。そして、別に気にもとめなかった。
「あれー、雪ちゃん、すっごい偶然だね。雪ちゃんもショッピング?」
後ろからの声に振り返ると、友達のかなちゃんがたっていた。
「うん、今日は、お姉ちゃんと一緒なの。」
「うそ?ラッキー、あわせてよ!」
「うん、そこにいる…………あれ?」
さっきまで一緒にいたお姉ちゃんの姿はどこにもなかった。
「ごめん、またね!」
急いであたりを探しまわったけれど、お姉ちゃんの姿はどこにもなかった。
…お姉ちゃん、どうしたんだろ、急に消えちゃって……………
とりあえず、家に連絡しようと思って電話してみると、お母さんがすぐにでた。
「はい、北川です。」
「あ、お母さん。お姉ちゃんと、はぐれちゃった。どうしよう…………」
「あら、杏奈なら帰ってるわよ。気分が悪いとか言って…………」
「え!?帰ってる?うそでしょう?」
変だ…………まださっきから15分しかたってないのに。家に帰るのに少なくとも30分はかかるはずなのに…………何かおかしい。とにかくすぐに帰ろうと思った。ここ数日の得体の知れない不安が、確実なものになっていく気がした。
 家のドアをあけると、そこには母が玄関で倒れていた。
「お母さん!どうしたの?しっかりして!お姉ちゃんは帰ってるの!?」
お姉ちゃんの部屋に行ってみると、中には誰もいなかった。何がどうなってるのかわからなかった。そうしているうちに、お父さんが帰ってきた。
「ただいま。おい!どうしたんだ、これは。琴江、おい………」
「お父さん!お姉ちゃんが…………杏奈ちゃんがいないの。」
救われたかのように思えた。でも、父の口からは、思いもよらぬ言葉が返ってきた。
「杏奈…………?誰のことだ?」
「だから、お姉ちゃんよ!誰なんて!なに言ってんのよ、お父さん!」
「お前こそ何を言ってるんだ。そりゃあ、杏奈っていう姉さんはいたが…………雪奈が生まれる前に、赤ん坊の時に死んだんじゃないか?とにかく…………お母さんを病院に連れていくぞ!」
目のまえが真っ暗になった。お姉ちゃんが赤ちゃんの時に死んでるなんて……私の中で確かだったすべてのものが崩れようとしている…………
「お母さんは、長い間病気だったんだ。………心の病気でね。こんなに強い発作は久しぶりだ。この頃ずいぶん落ち着いていたのに…………」
「心の病気?」
「そうだ………杏奈が…………お前の姉さんが死んだ時から…………初めての子だったからね。生まれる前からそりゃあ楽しみにしてて…………ところが…………杏奈が生まれて8か月頃、急性肺炎であっけなく死んでしまって…………お母さんは、ひどいショックをうけてね…………杏奈が死んだことを受け入れられなくなってしまったんだ。まるで、杏奈が生きてるように振る舞って。2年して、お前が、雪奈が生まれてからはますますひどくなって…………小さなお前にまで杏奈がいるように話しかけてたんだ。」
「うそだ!お姉ちゃんちゃんといたじゃない。お父さんだっていつも、お姉ちゃんと楽しそうに話てたじゃない!!」
信じられなかった。病院のベットで眠っていたお母さんが目をさました。お母さんならそんなこと言わないと思って必死でお姉ちゃんのことを言った。
「お母さん!大丈夫?お姉ちゃんはどこ行ったの?お父さんったら変なこと言うのよ。」「え…………お姉ちゃん?あの子は赤ちゃんの時に死んだじゃないの…………」
お母さんも、お父さんと同じことを言った。…じゃあ、いままでの生活は何だったの?…気がつけば、家に向かってはしっていた。病気がちで家に閉じこもっていたお姉ちゃん、写真をすごく嫌ったお姉ちゃん、そして、いくら探しても見つからないお姉ちゃんのアルバム…………いろいろな断片がまるでパズルのように1つにむすびついていった。…そんなことない。お姉ちゃんはちゃんといた!…
お姉ちゃんの部屋にとびこんでいくと、ベットで起き上がっているお姉ちゃんがいた。
「よかった!お姉ちゃんいたんだね。お父さんもお母さんも、お姉ちゃんが死んだなんて変なこというから…………」
不安だった気持ちがいっぺんにふきとんだ。しかし、お姉ちゃんは真面目な顔をしてわたしの不安な気持ちに追い打ちをかけるようなことを言った。
「ごめんね、雪奈…………もう、さよならね。もっと一緒にいたかった…………ゆき……な、長い間とっても………たのし………かった………」
と、そう言いながらお姉ちゃんは、目の前でどんどんと小さくなっていって、小さな小さな赤ちゃんの姿になってしまった。赤ちゃんの鳴き声だけが部屋にひびいていた。無意識に赤ちゃんを抱き抱えていた。すると、その赤ちゃんが笑った。いつかみた写真の赤ちゃんだった。あたたかい、やわらかい、お乳のにおいが胸いっぱいにひろがった。
「あなたは…………お姉ちゃんね、杏奈ちゃんなのね………」
しぜんに涙がほほをつたわってきた。抱きしめていた腕の中でお姉ちゃんは消えてしまった。

 長い夢をみていたような、そんな気がする。父と母が駆けつけた時、私は自分の部屋で倒れていたという。姉の部屋があったはずの階段のつきあたりには、壁だけしかなかった。あの位牌と写真は、伯母のものではなく姉のものだったのだ。もう、だれも、父も母でさえも、姉のことは憶えていなかった…………私でさえ日ごとに姉といっしょにすごした日々の記憶もだんだんとうすれてきている。あれが夢だったのか現実だったのか…………ただあのデッサンの絵だけが残された形見として私をつなぎとめる。
  
 17年めに閉じられた姉の迷宮…………私はあの出来事を、姉が夢だったのではなくて私達が姉の迷宮からこぼれでた夢なのだとおもった…………


葉山千希里

 会社をクビになった。俺は会社に不要だということだ。自分なりにちゃんと働いているつもりだった。会社以外に俺の世界はなく、他のことにうつつを抜かすような事もなかったと思う。確かに仕事ができるというわけではないが、できなくもないのだ。他にできない奴ならいるというのに、何故俺なんだ。目立って良いことをしたわけではない。しかし、目立って悪いことなんかさらにしてないじゃないか。俺が何をしたというんだ。そんなことを考えながら、明日からやることをなくした俺は家に帰ろうとしていた。

 やけくそになって俺はいつもは電車で帰る道を1人で歩いて帰っていた。こんなにもあっさりと、昨日までいた世界と離れてしまうことなど、俺には今まで考えもつかなかった。家も会社から2駅の所にわざわざ引っ越したのに。俺の生活は会社中心だった。大学を卒業してからずっと会社に縛られているような感じだった。自分をまるっきり否定されているようだ。俺が存在することが無意味だといわれているようだった。こんな事は生まれて初めてだと思う。しばらく人には会いたくない。会う以前に人を見たくなかった。この悲しみのような怒りのような、訳の分からない、はけ口のない感情をぶつけてしまいそうだったからだ。同じ事ばかり考えながら、俺にとって会社がどれだけ大きな存在だったかを痛感していた。すると1人の中年の酔っぱらいとすれ違った。酔っぱらいといっても、陽気にはしゃいだいつも見るその辺にいるものではなかった。彼は悲しそうな顔をしていた。歩くスピードは誰よりも遅く、周りの景色も見えていないようだった。きちんとしたスーツがとても不釣り合いだった。何かあったのだろう。今にも泣き出しそうだったが、男というプライドだけで涙を抑えているようだった。俺はじぶんの事に精一杯で、周りのことが見えていなかった。歩き始めて人を見たのは、彼が初めてだった。クビになった俺よりましだろう、と思いながら見ていたが、俺は会社のことで酒を飲みたいと思ったことがない事に気づいた。酒を飲むとき、俺は会社のことなど忘れていた。会社のことを忘れるために酒を飲むのではなく、忘れられるから飲んでいたという感じだった。現にクビになった今でさえそう思わないのだ。現実逃避したくなかったというのもあるが、それだけなのか。歩いている間、俺はずっと会社のことばかり考えていた。普段ならあんなにも簡単に忘れることができていたはずなのに、今は頭から離れない。今更考えても遅いというのに。

 そうしているうちに、俺は家に着いた。このまま家に入ってしまうのが少し怖かった。クビになったことにまだ実感のわかなかった俺だが、無理矢理踏ん切りをつけさせられるみたいだった。少し考えた。誰かの家にグチりに行くこともできた。しかし、そんな格好の悪いところを見せられるほどの友達は近くにはいなかった。しょうがなく俺は家に入り、だるい足を布団に入れ、そのまま眠ってしまった。

 何もしたくなかった。何もする気が起きなかったのだ。布団を出ることも今の俺には億劫だった。それなのに俺は、普段会社に行くときに起きる時間より早く起きた。昨日早く眠ったせいだ。体は正直だなと思う。いつもの睡眠時間どうりに起きていた。これからどうしたらいいのか全く思いつかなかった。考えることすら面倒くさくなっていた。それでも頭から離れることはないのだが。1日だけ何もせずに、何も考えずに過ごすことを、自分に許そうと思った。急に、頭の中も心の中も変えることは無理だ。1日だけ休憩を取ろう、そう思ったのだ。そうすれば自分に区切りがつくのではないかと思った。明日から始めよう、明日に延ばそうと思うことで、逃げていただけかも知れないが。
 
 目覚ましが鳴った。
      「ああそうか、会社に行く時間なんだ。」
気がつけばそうつぶやいていた。会社に行く必要はない事をさらに自覚させる音だった。目覚ましをオフにして、また寝ようとした。すると電話が鳴った。今度は会社の同僚のリョウからだった。
「もしもし。」
「リョウだけど、おまえクビになったって本当か?」
「うん。おまえ知らなかったのか。だから今誰とも話す気になれないんだ。特に会社の奴とは。」
「そうか、すまない。心配になってかけてみたんだ。大丈夫か?」
「ああ、たぶん大丈夫だと思う。一つだけ聞かせてくれ。俺は何故クビになったと思う?」
「俺にもわからないが、俺が見てて思ったのは、おまえが仕事に対して真剣じゃなかったという事だ。お前があの会社に合わなかっただけだろ。」
少し胸が締めつけられるような感じがした。
「そうか。考えてみるよ」
いつにもまして、俺は冷静だった。いつもの俺ならきっとリョウに言い返していただろう。
「いけるか?本当に大丈夫なのか?」
「まだ自分でも実感がわかないんだ。どうなるかわからない。」
「落ち着いたら連絡してくれ。」
「わかった。」
「それじゃあ。」
大丈夫じゃなかった。何も考えられないほど、俺は落ち込んでいた。ただ、会社の奴にはそんなところを見られるのが、たまらなく嫌だったのだ。クビになった上に、劣等感なんか感じたくなかった。俺はリョウの電話でさらに、会社をクビになったことを実感させられることになった。今の俺は、鈍感であると同時にとても敏感だった。今つけられる傷は、直接心の中についてしまうだろう。心を守るべき「自分」というものが、今の俺には全くないからである。

 1日経ってもやはり、何もする気が起きなかった。明日に延ばしたことをきちんとやれるほどの精神力など、今の俺にはなかった。誰かに助けてほしかった。自分の力で何かしようと、思うことすらできなかった。自分の力で何かできると思えなかったのだ。その日も俺は寝ていることで時間をつぶした。起きて、時計を見ては寝る。それの繰り返しだった。それから何回もリョウからは電話があったが、1回もとらなかった。あいつに負けたみたいで悔しかったし、何より同情されているみたいで嫌だったのだ。それから俺は何日間か、寝たままの日々を過ごした。結局次の日へ、次の日へと延ばしていくことしかできなかった。これからの苦労のことを考えると、始めるのが怖かったのかも知れない。

 体がだるい。あれから何日経ったのだろう。時間の感覚はすでになかった。しかしそんなことはどうでもよかった。自分が生きていることすらもうどうでもよくなってしまった。生きている意味など今まで考えたこともなかったが、どうやら今それを失っているらしかった。今までどうやって生きてきたのだろう。それすらも忘れてしまうほどだった。生きる意味などいらなかった。ただ生きているだけで、他に何もなかった。他の人間と同じように生きていたからだと思う。人と違うように生きようとは思わなかった。同じように生きることで、安心していたのだ。よく考えてみると、俺は今までたいして挫折というものを味わったことがなかった。学生時代、俺は勉強も運動も人並みにはできた。何もかも中位の、個性のない平凡な人間だった。たいして苦労もせずに、入れる高校、入れる大学を選んでいた。何故か、無理をしたり、努力をすることを格好悪いと思っていたのだ。クラブに入っても休んでばかりだったし、行っても真面目にやる方が少なかったように思う。会社を選ぶときにも、俺にはやりたい仕事もなかったし、やりがいという面では考えなかった。そういえばリョウが言ってたな、俺は真剣じゃなかったって。今思えば確かに俺は真剣に生きてきていなかったように思う。それが仕事にも反映してしまったのかも知れない。でも、真剣に生きるってどういうことなんだ。みんなそうやって生きているのだろうか。わかっていることは、今俺は進むべき道と反対の方向に向かっていて、それを自分でもどうしたらいいかわからない、ということだけだ。

 そのうち俺はかかってくる電話すべてを取らなくなった。人と話すことすら億劫になった。テレビも見なければ、外にすら出なくなった。ただひたすら寝ていた。どれだけ眠ってもまだ眠いのだ。もう起きる必要のない俺は、体の感じるままに生きていた。以前の睡眠時間は、5、6時間だったが、今の俺には考えられない時間だった。時間が解決してくれるだろうと思い、俺はひたすら待っていた。しかし、時間をつぶすために眠れば眠るほど、取り返しのつかないところまで落ちていきそうだった。

 そして電話は全くかかってこなくなった。そんな日が何日続いただろう。俺の部屋には音がなかった。最初はそれが心地よかった。俺は何にも関係していない、世界には自分だけのような気がしたからだ。しかし、音のない世界では、時間の過ぎるのが非常に遅いのだ。俺はだんだんそれに耐えられなくなっていった。待っても待っても過ぎない時間を待つことが苦痛になったのだ。そのうち俺は誰からも必要とされていない寂しさを感じるようになった。誰とも関わりのないことに虚しさをおぼえた。感情なんてもうないと思っていた。自分ですら自分を必要としていないと思っていたが、そうではなかったようだ。そして俺は突然会社にたいして腹が立ってきた。今までになかった感情である。俺の仕事の内容を否定することはできるが、俺自身を否定することはできない。俺は会社をクビになったことで、生きていてはいけないような気がしていた。生きていくことを、拒否されているように感じていたのだ。そんなことを思う必要などなかったのである。
 それからも電話はいっこうにかかってこなかった。しかし、俺の中に変化が生まれた。外に出てみようと思うようになったのである。1人でいることがこんなにつまらなく感じたのは、生まれて始めてである。そして俺は自分以外の動くものを久しぶりに見た。光で目が痛かったが、それすらも心地よかった。俺は自分が生きているという事を思い出したような感じだった。痛みが生きていることを思い出させてくれたのだ。何もするわけでもなく、俺はただ公園のベンチに座っていた。部屋の中とは別世界だった。風があり、太陽があり、何よりもつながりがあった。俺はすべてのものとつながっているように感じていた。そういえば昔そんな映画を見たな。生物は死んでもエネルギーは残り、そのエネルギーでまたたくさんの命が生まれる。だから皆つながっているのだ、と。そのときには少し宗教的な感じがしたし、実感もできなかったが、今ならそのことがわかるような気がする。 それから俺はまた部屋に戻った。何故か部屋が今までとは違って見えた。俺を隔離しているように感じた壁も天井も、また前のように存在感をなくしていた。すると電話が鳴った。
「もしもし。」
俺は無意識のうちに電話を取っていた。そうするのが当たり前のことだと思ったからだ。以前の俺ならきっと取らなかっただろう。冷静になって考えてみると、俺は電話を取るのが怖かったのだ。誰かに罵られると思っていた。責められると思っていた。そして何より、それを受け止められるほどの自信がなかったのだ。
「もしもし元気にしてる?」
それは母からの電話だった。人の声を聞いたのは何日ぶりだろう。母の声は何となく落ち着かない感じだった。
「全然連絡無いから、少し心配になってね。」
俺は会社をクビになったことを話そうかどうか迷った。話したらきっと悲しむ。しかし話さなかったらもっと悲しむだろうと思った。
「少し話しにくいことなんだけど・・・。会社をクビになったんだ。」
母は何も答えなかった。やはり悲しませてしまった。そう思ったが、そうではなかったようである。
「実はね、電話をかけたのは違う理由があるんだよ。おまえを悲しませると思って、話すのを迷ったけど。おまえと仲の良かった、トミオ君が自殺したんだよ。」
俺は言葉を失った。実感なんか少しもわかなかった。
「今日見つかったらしいのよ。トミオ君の恋人が見つけたそうよ。それで心配になって、おまえの所に電話したんだよ。」
「何で自殺なんか。」
俺は頭に強い衝撃を受けたような気がした。
「とりあえず今日お通夜があるから帰ってきなさい。会社のことも考えないと。」
「わかった。」
トミオ、トミオ、トミオ。おれはトミオのことで頭がいっぱいになった。あいつは自殺なんか考えるような奴ではなかった。明るくて、みんなから好かれていた。考え方も前向きだったし、何よりやりたいことをやっているようだった。おれは高校までトミオと一緒だった。その後にトミオに何か変化があったのかも知れないが、おれにはやはり信じられなかった。

 家には電車で帰ろうと思った。久しぶりに人をたくさん見たかったのと、トミオのことを考えるためである。トミオとは本当に幼い頃から一緒だった。一番古い記憶の中に、既にトミオはいた。おれたちはすごくいい関係だったと思う。お互いがいなければ生きていけないような、存在を依存しあった関係ではなく、一緒にいたいときにいる、それでも関係の切れてしまわない、いい距離を保っていたように思う。トミオは変わらなかった。いつあってもすぐに昔のように戻ることができた。どんなに会わなくても、ぎこちなさなどかけらもなかった。トミオはそんなに変わった奴ではなかった。小学校のときは、それ故に目立たなかった方だと思う。しかし中学校、高校と年齢が上がるにつれ、集団はルールに逆らわない、その集団にとって良すぎず悪すぎない人間を受け入れていくようになる。だからトミオは、どんな集団にでもすっとなじんでいった。トミオ自身努力していたのかも知れないが、それは水に砂糖が溶けるようだった。トミオはうまく生きている、きっとこれからもそうだろうと思っていたのに。何かがトミオを変えたのだ。トミオを死にまで追いやってしまったもの、俺は無性にそれを探したくなった。会社をクビになり、やることが無くなってしまったからかもしれない。しかしそうすることで、俺自身何か変われそうな気がしたのだ。

 家に着いた。久しぶりに母の顔を見た。ふと力が抜ける感じがした。安心していたのである。するととたんに眠くなり、海に飲まれるように、眠りに落ちていった。それから、母に起こされるまで気がつかなかった。
「起きなさい。」
俺は10分前に帰ってきたような気持ちで起きたが、既に1時間経っていた。
「これからお通夜に行くんでしょう。」
そうだった。俺はお通夜のことも、トミオのことさえ忘れていた。そして、自分のことも、自分が生きていることすら忘れていた。眠りとは怖いものだ、そう思った。眠ることと、死ぬことはもしかしたらすごくよく似ているのかも知れない。眠ることと、死ぬことの違いはそうなっていく本人にはわかるのだろうか。俺は眠る瞬間もわからなかったし、眠っていることもわからなかった。同じように、死んでいくときにもわからないのではないか。ただ違うのは、眠りは覚めてしまうということだ。覚めてしまえば、寝ていたことも生きていることも思い出せる。死んでしまえば何も思い出すことはない。トミオは何もかも、自分が生きていることさえも思い出したくなかったのかも知れない。

 通夜に行くとさすがに悲しくなってきた。それまで実感がわかず、悲しいという感情を感じずに済んでいたが、一気に悲しみが湧いてきた。そんな自分と同じように、そこにいる誰もが悲しんでいた。みんな同じように、一目見て悲しいとわかる表情を浮かべていた。そんな中に1人だけ、毅然とした表情で座っている女の人がいたのだ。彼女の顔から悲しみを感じ取ることはできなかった。まるでトミオが死んだことを当然のことのように思っているようだった。彼女はそこには似つかわしくなかった。表情はいうまでもなく、服装もそうであった。シャツのボタンを二つ開け、スカートはスリットが深く入っていた。普通の女なら自分の格好に物怖じしてしまうところだろう。しかし彼女は常に堂々としていた。男に媚びるというよりも、自分に似合うものを知っていてそれを纏っているという感じだった。俺は不覚にも、その潔さにしばらく見とれてしまった。吸盤が壁に吸い付くようなじっとりとした視線を送っていることに自分でも気づいた。すると彼女がこちらを向いたので、あわてて目をそらしてしまった。

 俺は通夜の間中彼女を目で追いかけていた。何か悪いことをしているようで、久しぶりにドキドキしていた。その間おれはトミオのことを忘れていた。ぼーっとしていたのだろうか、ふと彼女を見失ってしまった。周りの人にばれないように少しだけ首を振って探していたそのときだった。
「ずっと私のこと見てたでしょう。」
俺はギクリとした。一瞬誰かに力強く抑えられているかのようにクビが固まって動けなかった。ばれていない、そう思っていたのに。心臓は早く強く脈打ち、彼女に聞こえてしまいそうで怖かった。
「君は誰なんだ。トミオとどういう関係なんだ。」
心臓の音を一生懸命に抑え、やっと取り繕ってでた言葉だった。
「名前を聞くときは自分から名乗るものよ。」
強い衝撃を加えられたようだった。彼女は他の女とは違う、俺はその瞬間にそう思った。そして俺は名前を告げ、トミオと友達であることを告げた。
「私はカナよ。トミオが死んでるのを見つけたのは、私。」
ということはトミオの恋人か。なるほど、だから見たことがなかったんだ。
「ずいぶん不釣り合いな格好をしているね。」
俺は少し皮肉っぽく言ってしまった。彼女の何かがそうさせたのだ。
「あなたには関係ないわ。」
彼女は悪びれた様子もなく、さらっと言いのけ去っていってしまった。それからも彼女の姿を探していたが、見つけることはできなかった。

 葬式はやはり悲しかった。俺はずっとトミオと過ごしてきた日の事を思い出していた。あいつはいい奴だった。きっと誰にも恨まれずに死んだのだろう。するとまた彼女が目に飛び込んできた。やはり涙は一滴も流さず、堂々としていた。トミオと彼女を重ね合わせて考えてみると、二人の印象は全く違っていた。違いすぎて驚くほどだった。おれはトミオと彼女の関係についてもの凄い興味を覚えた。二人はどこで知り合い、何故愛し合うようになったのだろうか。俺の足は自然と彼女の方へ動いていた。

 彼女に声をかけようと背後に回ったときである。彼女の肩は小刻みにふるえていた。彼女は背中で泣いていたのである。声をかけるのを戸惑ったが、俺の手は彼女の肩におかれていた。まるでその震えを止めるかのように。
「何?」
「ずいぶん辛そうだね。」
彼女は驚いていた。何故わかったのだろうと言うような顔をしていた。
「これから二人で飲みに行かないか。」
「何か下心がありそうね。」
「別に、そんな・・・」
彼女には何もかも見透かされているような気がした。その大きな輝いている目には、本当のことしか映っていないかのようだった。隠してもそれを剥いでしまうほどの威力があった。
「いいわよ。行きましょう。」

 酒が飲みたいんじゃなく、俺は彼女と話がしたい、そう思って彼女を静かな店へと連れていった。
「トミオとはどこで知り合ったの?」
「ずいぶん唐突ね。そういうことは最初に聞くもんじゃないわ。あなたはワイドショーのレポーターじゃないんでしょう。」
彼女のこういう言い方に、俺はいちいちいらついていた。それだけ彼女は俺に冷静さを失わす人間だという事になるのだが。
「あなたの方から話して。そして話したくなったら、私の方から話すから。」
「俺は、トミオとは本当に幼い頃からの友達なんだ。」
そして俺はトミオとの思い出をたくさん話したように思う。酒が手伝ったせいもあるが、何より彼女のまっすぐな視線が、俺を話す気にさせるのだ。トミオはとてもいい奴で、何故死んだのかわからない。俺の知っているトミオは、快活でどんな人ともうまくいっていて、自殺を考えるような奴ではなかった。それを何度も彼女に説明しているようだった。すると彼女が口を開いた。
「あなたはトミオの表面ばかりを知っているのね。」
「表面?」
俺は怒りがこみ上げてくるのがわかった。
「君より俺とトミオは付き合いが長いんだぞ。君に何がわかるっていうんだ。」
「長さなんて関係ないわ。濃さで決まるのよ。」
何かで叩かれたような衝撃があった。彼女といるといつもこうなってしまう。
「あなたはトミオのこと本当は何も知らないわ。あの人本当はすごく恐がってた。」
「何を?」
「人間をよ。だから傷つけられるのが怖くてずっといい人でいたのよ。生まれてから私と出会う迄ね。そうするのが楽だったのよ。あの人にとってね。」
何も気づかなかった。俺は今まで何をしていたんだろう。トミオは俺に何も打ち明けてくれなかった。でも彼女は知っている。この大きな差は何なのだろう。悔しくてならなかった。
「どんな人間ともうまくいく人なんていないのよ。いたとしたら、私はその人のこと信用なんかできない。自分にまでうそをつく人を信頼しろという方が無理よ。」
「君の言っていることは正しいと思うよ。でも正論に過ぎない。実際にそうやって生きていける人間なんかいるのか。」
「私、トミオからあなたのこと聞いていたのよ。顔見ただけですぐわかったわ。名前聞いて、ああやっぱりと思った。あなたトミオとすごくよく似てるわ。」
何かが胸に刺さった。トミオと似ているという事は、俺は人を恐がっていて、誰の前でもいい人ぶっていて、自分に嘘をついているという事なのか。
「でも、あなたトミオよりましよ。お葬式のとき、私が悲しんでいることをちゃんとわかわかったもの。トミオみたいな人間は自分のことばかり考えて、他の人が見えてないの。自分が傷つけられることばかり恐れて、周りのことなんか少しもわかってない。だからやりたいこともやれないのよ。」
「トミオは自分のやりたいように生きていると思っていた。」
「あの人の両親知ってる?トミオにすごく期待してたのよ。だからトミオはその期待を裏切らないようにしながら生きてたわ。怒られるのが怖かったのね。トミオがやりたいと思って始めたことも、勉強も、運動も、あの人器用だから人並み以上にできてたのよ。親は全ての面で優れているトミオを誇りに思ったかも知れないけど、本人は他人に負けない一番の才能って言うのが無くて悩んでたわ。期待されればされるほど、トミオは自分をつくって、自分の上にたくさん泥を塗って見えなくしてたのよ。あなたが何も知らないのも当然だわ。」
「何故君は知ってるんだ。」
「私は彼にちゃんとぶつかっていったもの。彼に付いている泥を落としてあげようと思った。ずっと泥に包まれてたから、彼の心の中はとてもきれいだった。」
俺は何故か涙がでていた。トミオがそんなに苦しかったのを知らなかった自分を恥じた。「トミオが死ぬ前の日に、私、彼の両親にあったの。あの人たちはトミオの連れてくる人なら安心だって、またトミオに期待するような事を言ったの。そして私を連れていった。あの人たちすごく驚いてたわ。一瞬時が止まったかと思ったもの。そしてトミオだけ呼んで、3人で話をしてた。こっちをちらちら見ながらね。私はそんなの慣れてるから知らないふりしてたの。そしたらトミオが怒ったのよ。
『もういい。俺は俺のために生きてるんだ。あんたたちのためじゃない。カナが良いとか悪いとかを決めてもらいに来たんじゃない。彼女を会わせたかっただけなんだ。』
彼は泣いてた。気持ちのいい涙だったと思う。帰ってからもトミオは満足して微笑んでた。やっと泥がはげ落ちたのよ。私そのときトミオが死んでしまいそうな気がしてたの。次の朝やっぱりと思った。彼はもうこれ以上生きる必要がなかったのよ。」
彼女が話し終わる頃には俺の涙も乾いていた。俺はすごくさわやかな気分になっていた。「ありがとう君と話せて良かった。また会ってもらえないかな。」
「私達会わない方がいいわ。あなたにはあなたの泥をはいでくれる人が居るはずよ。」
そういって俺たちは別れていった。

 帰り際に俺はたくさんのものを見た。本当に心から見た。見慣れた景色が新鮮なものとして目に入ってくる。すると電話が鳴った。
「もしもし。リョウだけど。」
俺はすごく安心して、その声を聞いていた。話じゃなく、声に耳を傾けていた。声の奥にあるものを見つけるために。

大阪駅

掌編集
林沙衣子 

あれからX年……


「あら、あなたYさんじゃありませんか」
知らない女だった。現に僕はYではない。しかし、女はいかにも懐かしい目でこちらを見ている。
……僕はちょうど暇を持ち合わせていたところだった。
「やあ、ひょっとしてM子君かい?」
「そうよ、嬉しいわ、覚えてくれてて。あれから五年も経ってしまって……」
 え?
「あんまり久しいのですもの、少しお話なりしたいわ。お時間はあって? お茶でもいかが?」
 誘われるままカフェに入る。ちょっとおもしろいことになってきた。それにしても恐ろしく勘のさえる日だ。名前を言い当ててしまった。

 ふたりは他愛のない話を続けた。
昔の話には、適当に相づちを打ちながら。しかしM子とは話が合うらしい。次第に大きくなる罪悪感に、思わず席を立つ。
 「失礼。ちょっと電話を」
電話をかけるあてなどない。少し頭を冷やそうと、トイレの個室に閉じこもり、煙草に火をつける。
 あれから五年、とM子は言った。五年前、僕は何をしていたろうか。ひょっとして、M子と生きていた……? いや、そんなことのあるはずはない。……しかし、どうしてそう言い切れよう?
 煙草をもみ消す。とりあえず、何とかごまかして切り上げるしかあるまい。
 席へ戻ろうとM子の方を見やると、僕の席に誰か座っている。
 誰か……?
 僕は、その誰かが僕自身であることに気付いた。……ああそうか、そうかもしれない。僕は、妙に納得して、意外にも冷静に、その店を出たのだった。
 それにしても、あれは、そして僕は、いったい誰なのだろう?


コイン


 冬独特のきりりとした空気はそのままに、気持ちよく暖かい日だった。簾は久々に朝から散歩に出かけた。
 少し歩くと、石ころを敷き詰めたような河原には先客があるらしかった。「けばけばしい」というのがいかにも似合いの女。僕はちょっと気になって、その女の様子を遠目に見ていた。
 女は、足元の石ころを拾い上げては、川の中へ嬉々として放り投げていた。その光景があんまり奇妙で、しかも延々続くものだから、僕はますます興味を持って、もう少し近づいてみることにした。
 足の裏に刺さるような石ころの感覚。
女はやっと僕の気配に気付き、こちらを振り返る。
「あら、見ていらしたの。いえ、別にかまわないのよ」女はさも笑いをこらえているといった風だ。
「一体君は何をしているの」
「何って、見た通りでしょう。石を投げているだけ。でも、私はそうは思ってないの」そう言って女はまたーつ石ころを拾い上げた。
 「これは本当は石なんかじゃないの。コインなの、お金なんだわ。そう考えるとおかしくって、おかしくって」
 女はまた嬉々として石ころを放り投げ始めた。
確かにそうかもしれない。これがただの石ころだと、どうして僕に言い切れよう?
 僕もなんだかひどくおかしいような気がしてきた。そして、彼女をそのコインの河原に残して、立ち去ることにしたのだった。
 コインの感触を足に踏みしめながら……


好きなもの


「すみません、もしお時間よるしかったら、アンケートに答えていただけませんか?」
派手目な顔立ちの、きれいな女だった。しかし印象がきつすぎないのは、その少し下がった目元のせいだろう。何にしても僕はこの女にちょっと興味を待ったらしかった。
「アンケート? 少し急ぐんだが……、少しなら」
女は心底嬉しそうな顔をしてこちらを見つめた。ごめん、本当は急いでなんかない。
「ありがとう、そんなにお引き留めもできないから早速。……あなたの一番好きな物は何ですか?」
「……なんだ、いきなり抽象的な質問だね。こういうのが一番難しいんじゃないの。……そうだ、他の人はたとえばどんな答えを?」
「ごめんなさい、このアンケート、あなたが初めてだから……」
すまなさそうにする表情や仕草もかわいい。もうちょっと、困らせてやりたい衝動。
「そうか、じゃ、君なら何と? 君は何が一番好き?」
……少しの沈黙の後、女の表情がー変した。
「あなた」
こちらを見つめる月が、冷たく、鋭い。否、嘲笑を含んでると言っていい。
……僕は背中に冷たいものが走るのを感じた。
 僕は急に恐くなって、思わずその場を逃げ去った。


見えないもの


「もし、落とされましたよ」
振り返ると女がこちらを見ていた。
「ご親切にどうも。はて、僕は何を落としました?」
女は目をきょとんとさせて何か手のひらに乗せる仕草をしてみせたが、僕には何も見えないのだ。
「何です、それは?」
「あなたの鼻じゃありませんか。見えないの?」
「鼻だって? 見えやしませんね」
「まあ何てことかしら。人間の身体なんて不確かなものね。本体を離れただけでこんなに存在が曖昧だなんて。いいわ、私が元に戻してあげる。ちょっと眼を閉じてて頂戴」
 言われるままに眼を閉じると、女は僕の首に腕をまわして口づけたのだった。
「もう大丈夫。これからは気をつけなきゃだめだわ」
 そう言い残して女は去っていった。そよ風が僕の鼻をそっと撫でる。今日はなかなか気持ちのよい日ではないか。僕はちょっと微笑んで彼女の背中を見送った。
 ところで僕の鼻は歪んでやすまいね?

冬芽  

深い森
中家真理

 私が、はじめて谷村竜也をみたのは、つめたい北風が吹いていた早春の、ある夕暮れであった。もう、十年以上も、昔である。しかし、その時の事、そしてそれから一年間ほどの、谷村竜也の印象は、今でも色あせない。その頃、幼かったたくさんの友達は、徐々に、記憶のなかから消えていったが、彼のことは、時折、ふっと蘇るのである。そんなときはたいてい貧しくて、そのくせ妙に素直な、優しい気持ちになっている。多分、谷村竜也の思い出は、私自身の幼い日々につながるからなのだろう。もちろん、彼も、多くの友達と同じように、長い間、何の消息ももたらしてはくれない。
 彼が、たっていたのは、夕暮れの、小学校のグランドだった。四月の、冷たい風が吹きぬけて、グランドは、表面がうすく凍っていた。でも、その上を歩くと、とけかかっている時には、足をとられた。広いグランドには、もう子供たちも遊んではいなかった。校舎も人気なく、しんとし、寒々とした滑り台のそばに、谷村竜也が、一人で立っていたのである。
 私たち、六年生の女の子は、ちょうどその時、広いグランドを、肩をすくめて家へ帰るところだった。私たちは、受験勉強の帰りであった。四月に入るとすぐ、市立の女子校への入学希望者は、放課後日没ころまで、教室にのこって、受験勉強を始めていたのである。そうしなければ、市立の女子校には入れないものと、子供達も、親も、先生も思い込んでいたようである。そして、わたしもそういう苦しい過程ののちは、あこがれの学校の生徒になることができるのだと信じていた。希望というより夢が、小さな胸いっぱいを占めていた。それに、厳しい受験勉強も、始められたばかりであっ。私の心にも、体にも、まだゆとりがあり、いたずらっぽい無邪気さが、たくさんのこっていた。
 私たちは、冷たい手をつないで、校庭をかけていった。あちこちの家に明かりがともり夕食の、匂いが流れていた。私は、早く家へ帰りたかった。その時、誰かが、滑り台のそばにしょんぼり立っている少年、谷村竜也の姿をみつけたそのときだった。
『残されてたのよ』
 と、だれかが言った。
『へんんだよ、こんなにおそくまで』
『へんじゃないわ、よほど悪いことしたからよ』
 私たちは、いっせいに声を合わせてわらった。少年は、よほど長く、そこに立っていたと見え、耳も、頬も、鼻の先も、真っ赤になっていた。ズボンのポケットに両手をつっこんでいる姿は、ひどく寒そうにみえた。
『生意気ね、残されてるくせに。ポケットに手を入れてるなんて』
『お行儀よくたってなきゃだめ』
 私たちはまた笑った。その笑い声に、少年は、顔をまっすぐ私たちのほうにむけた。ぶしつけな少女たちに、あきらかに抵抗をかんじているような、それでいて卑屈ではない、眼差しで、ちらと彼は私たちをみた。しかし、その顔は知らない顔であった。六年生の子なら、クラスは別だったが、たいてい知っていた。私と手をつないでいた大崎亜美も、そのことに気づいていたらしかった。
『京ちゃん』
 と、亜美は私に呼びかけた。
『あの子、五年生かもしれないわ。だったらからかうのかわいそうね』
 でもその日の私は、へんにはしゃいでいた。
『へいき、そんなこと』
 私たちは、少年のそばに、わざと近づいてかけぬけていった。
亜美は怒って、私から手をはなしてしまった。
『京ちゃん、あの子にらんだわ』
かけつづけて、校門のそばまで来たとき、亜美がそういったので、私はふりむいた。でも、そのときはもう、少年は滑り台のところにいなかった。どこにいったのか、広いグランドのどこにも、彼の姿はみえなかった。
 谷村竜也−−夕暮れの校庭に、寒そうな影を落として立っていたあの少年が、転校生だということが分かったのは、それから二、三日後だった。
 その翌日も、私は竜也の姿を、校舎の廊下で、ちらっと見かけた。隣の教室からでてくるのも見た。隣のクラスは、六年生の男の子の学級だった。だから大崎亜美が、心配したように、彼が五年生ではないということが分かった。二、三日竜也を見かけたが、いつも彼は一人ぼっちであった。友達といることはなかった。そのことを、私は、ちょっと得意そうに、亜美に教えたが、彼女はもう、竜也のことには興味無さそうだった。
 竜也が、転校生だという事を、知らせてくれたのは、浅川浩であった。浅川浩は、やはり六年生で、家が、隣同士であった関係から、私とは小学校に入る前からの友達だった。女の子も、男の子も、もう五年生くらいから、一対一で話したりするようなことは、めったになかったが、私と浩とは平気で遊んだ。もっとも家に帰ってからの事で、学校では、顔を合わせれば、笑いかけるくらいだった。それに浩は、父親が、警察官で、家も明るくなによりも浩自身が利発な少年だったので、私の母の信用もあった。
 そのころ、私の家は、新開地にあった。その辺りは、道路に面し新しい中流住宅が、ぽつぽつ立ち並んでいる程度だった。道路の前は小学校のグランドで、私の家の左手は浅川家、裏には新しいアパートがあり、アパート飲む浩には、いくらか家がつずいていた。右手の原っぱは、六月から、十月までの間は、青々としたクローバーに、おおわれており、近所の子供達の、格好の遊び場だった。そんな場所柄だったから、街の喧騒はとおく、時折通る列車の響きと、にぶい海鳴りが、その辺りの空気を、いっそう静かにしていた。
 浩が、谷村竜也の事を、教えてくれたのも、ことのほか静かな黄昏時で、私は、妹たちと、門の側で遊んでいたときだと思う。
『京ちゃん、このあいだ谷村君をからかったろう、僕見てたよ、あの日から僕のクラスにきたばかりなんだぜ。』
『そう。』
 私は、首をすくめた。
『けど、あいつ、油断ならないや。』
 と、浩はちょっと、きつい目をした。
『とにかくさ、すごく頭いいんだ。僕ら、負けるかもしれないな。』
 浩は、委員長をしていた。でも、私はその時、すごく頭がいい、というその言葉に、心が動いた。幼い日、できる子という存在は、絶対強い位置を仲間の中にもっていたから。浩は、『谷村君の家、この近くらしいよ。』と、いいのこして帰って行った。

 六月になって、間もなく、私は、谷村竜也が、すぐ裏のアパートに住んでいることを、発見した。アパートは、私の家の塀にくっついている二階建てで、そのために、塀の下の鶏小屋は、いつも日当たりが悪かった。アパートができるまでは、西陽のよく射す、鶏小屋の前は、砂場で、小さかったころ、私たち姉妹は、そこでばかり遊んでいたものである。そのころも、砂はおいてあったけれど、私はもう、そこで遊ぶことはなかった。勉強が忙
しかったし、それよりも、もう土や草などより、さまざまな書物が教えてくれる未知の、果てしなく広い世界が私の心をとらえていたからであった。
 ある朝、末の妹と鶏小屋にいった私は、なにげなくアパートを見て、その二階のひとつの窓から、顔を出している谷村竜也を見た。朝陽が、少年のやわらかな頬に当たって、竜也は、まぶしそうな目をしていた。確かに、それは谷村竜也であった。私はしばらくみていたけれど、彼は鶏小屋の前の少女にはきづかなかった。
 竜也が、アパートにいるということは、私にひそかな楽しみをあたえた。その日、学校の廊下で竜也を見かけた時も、なんとなく、楽しかった。それは、竜也を最初に見たときから、他の男の子と違う、なにか得体のしれぬ興味を感じていたせいかも知れない。そういう興味をそそるなにかが竜也にはあった。私は、彼がすぐ裏のアパートにいるということを、仲のよい大崎亜美にだけ知らせようかと思った。けれど、昼休みに、亜美とはなしていて、言おうとしたとき、言葉をのんだ。言ってしまうのが、急に惜しくなったのだ。
 その日から夜、一人遅くまで受験勉強をして、ねる前になると、私はアパートの窓を見た。それぞれの窓はきちんと、とざされカーテンが引かれて、その影に灯がついていた。その灯は、私の家や、浅川家のあかりにくらべて、いくらかほの暗く見えた。けれど、私はアパートの灯にひかれて、そこには、人々のさざめき、不思議な楽しさが、みたされているように思えてならなかった。もちろん、谷村竜也のせいもあった。しかし夜遅くなると、竜也の窓も、ほかの窓とおなじように、固くしまっていた。少年の影が、窓にうつることもなかった。
 竜也と、初めて言葉をかわしたのは、よく晴れた、六月の日曜日であった。たまには、おもてにでて遊びなさい、体に悪いから、と母に、言われて、私は、妹たちといっしょに庭に出ていた。ほんとに、そのころは、受験勉強も、山場で、おもてにでて遊ぶなどということはめったになかった。私の体も、徐々にやせはじめ頬の色も消えかかっていた。でもその日は母にいわれなくとも、庭に出たいような、明るい光が、ふりそそいでいた。夏がちかかったからだ。
 私は、金魚草のそばにしゃがんで、草むしりをしていた。忘れていた土と、花の匂いが、私の体を甘く包んだ。すると、その時白いものが鶏小屋におちてきたのが目にふれた。シーツだった。アパートの誰かが、干していたのが、落ちてきたのだろうと思い、私は鶏小屋のほうにかけだし、上を見上げた。私の目にはいったのは、窓から上半身をだしている谷村竜也の、ちょっと困ったような顔だった。
『あんたのとこの?』
 と、私は乱暴にいった。なんとなく、あわてたからだった。
『うん、僕が落としたんだ。』
『私ね、もってってあげたいけど、とりにこない? 手が汚れてるの。玄関あけとくわ。』
 早口にいって、私は玄関をあけにいった。竜也は、すぐ玄関からはいってきた。白いセーターに、半ズボンをはいていたので、いつも見るときより、子供じみていた。竜也は、鶏小屋の屋根に上って、シーツを取って来た。
『きたなくならない?』
『うん、ごめんね。』
 といって彼は笑った。目があかるかった。そのとき、ふいにわたしは、竜也がほかの子供たちとちがってみえるのは、その大きい、すんだ目が、いつもは、誰もよせつけぬような、強い輝きをもっているからだと思った。しかし、そのときの竜也は、あかるい、やわらかい感じがした。そして、私は、こんなに近くで、竜也を見たことがなかったので、戸惑った。
『私ね、時々、あんたの窓見てるの。』
 言ってしまったあと、はっとした。どうして急に、あのひそかな夜の行動を、この人に言ったのかしらと、思った。竜也は、相変わらず、あかるい眼差しをしていた。
『なんだ、しってたの?』
『うん、すこし前から。でも、あんたは、ずいぶんまじめね。夜なんか、いつも勉強してるのね。』
『だって、僕、夜はー人きりなんだ。』
 竜也は、少し頬を赤くした。
『どうして?』
『どうしてって、父さんは、僕が小さかった時に死んだんだ……』
 彼は、言いよどんだ。私も、ちょっと黙って、それから、せっかちにたずねた。
『どこからきたの?』
『神戸から。』
 低い声であった。言いながら、竜也の目が、花壇のほうにむけられ、まるで、別のほうに世界のものを見るように無表情な色になった。私はまた戸惑った。
『私ね、受験勉強してるの。わかんないとこあったら、今度、ききに行ってもいい?』
 竜也は、またあかるい眼差しになった。
『いいよ。お母さんに聞いてね。』
 大人びた口調で言い、竜也はシーツを抱えて、玄関からでて行った。
 竜也が、神戸から来たこと、父親がいないこと、そのニつを知っただけで、私の心は、急に彼にちかづいた。校庭や、学校の廊下などで、竜也にあうと、私は、そっと笑いかける事ができた。けれど、そんなとき、竜也は、浩のように笑い返してはくれなかった。きつい、かげのある目を、背けてしまうのである。私はあの日曜日に彼に言ったように、竜也の部屋に、はやく行ってみたかった。しかし、それまで私は、夜、友達の家に行くような習慣は、全くなかった。母は、長女の私を育てるのに、ひどく神経をつかっていたようである。私ばかりではないけれど、できるだけ、かわった空気にふれさせず、姉妹どうしの雰囲気の中におき、うつくしく、素直に育てあげたかったのかもしれない。でも、もう、おもてのほうを見つづけていた。
 ある夜、夕食のあとで、私は谷村竜也の家へ、勉強しに行きたいと母に言い出した。母はまごついて、お勉強なら浩くんのところに聞きにいきなさいといった。私はたちまちすねた。
『お母さんは、何も知らないからそんなこというんだわ。浩くんだって、谷村くんにはかなわないって言ってるんだから。わたし、この分数の宿題、分からないの。浩くんだってきっと分からないと思うわ。もしできなかったら、明日先生におこられるわ……』
 最後の言葉で、母はあっさり許してくれた。宿題ができなかったり、テストで八十点以下をとれば、先生にひどくおこられることを、母も充分知っていたからである。私はさっそく、筆箱と、ノートをかかえて家をでた。
 アパートの竜也の部屋は、六畳と、四畳半の、こじんまりとしたところであった。その六畳のほうの部屋で、竜也は、小さなテーブルを出し、前に言ったように、一人で勉強を していた。
『だれもいないの?』
 おのずと入っていって、竜也のそばにすわると私は聞いた。
『うん。』
『おかあさんは?』
 母親のものらしい、壁にかかっている洋服を見ながらたずねた。部屋には、そのほかにテレビと小さな食器棚しかなかった。この部屋の明かりが、自分の家から見えるものだと思い、ものめづらしそうに、きちんと整頓されている部屋のなかをみわたした。となりの部屋のすみに、若い男の人の写真が、かざられていた。
『あれ、お父さんなの?』
『うん。』
『似てるわね。いつ亡くなったの?』
『僕が、六歳のとき。父さんは教師だったんだ。』
『じゃあ、小学校にはいってすぐ亡くなったのね。竜也くんも、お父さんのように教師になるの?』
『ううん。』と言って竜也は笑った。笑顔をみてかたくなっていた私も、急に元気になった。
『僕は、海へ行くんだ。船員になって、大きな客船で世界中まわりたいんだ。』
『いいわね、でも、そしたらお母さん寂しがるわ。そうでもないかしら、今もいないから。ほんとに竜也くんのお母さん、どこに行ったの?』
 そういうと、竜也は、あのつよい、つめたそうな眼差しになった。
『そんなことより、わからない分数はどこなんだい?』
 私は、たちまち打ちしおれてしまった。
 そのときから、私はときどき竜也の部屋へ行くようになった。いちど、だだをこねたので、母はもう何もいわなかった。ときおり心記そうな眉をしたが、私の子供っぽいようすは、母の心配を、そうつのらせはしなかったらしい。じっさい、私たちは、まだ無邪気でなれてしまうと、ちいさい兄妹のような、けんかまでした。竜也はよく、いろんな話をした。神戸の街や、父親のことや、大好きな海のことなどであった。けれど、彼はけっして母親のことをいわなかった。私がいってもいわなかった。ちょっと、そのことにふれると、彼はたちまち友達から、未知の、近寄りがたい少年にかわってしまった。だから私も、そのことにだけは気をつけた。気をつけながら、だが、彼の母親にたいする好奇心はつのっていった。


 竜也の母親が、ホステスをしているということを知ったのは、夏休みになってからだった。夏休みになってからも、私たちは、毎日学校へいって、受験勉強を続けていた。外からきこえてくる子供たちの笑い声が、私の心を無性にさそったが、勉強をなまけることはゆるされなかった。でも、そのころになると、教室から解放されるのが、ひどく待ち遺しいようになっていた。家にかえっても、勉強しなければならなかったが、教室で、教師にしかられるよりは、ましであったからだ。
 ある日、その日も勉強がすんで、いちはやく玄関をとびだした私は大崎亜実によびとめられた。
『京ちゃん!』
 亜美の目は、いつもに似ずいじわるなひかりをおぴていた。
『あんた、谷村くんと仲いいんでしょ? 私知ってるわ。』
 突然だったので、私はすっかりまごついた。
『あんな子と遊ぶのやめたはうがいいわ。』
『どうして?』
『あんた知らないの? あの子のお母さんてホステスしてるのよ。』
 その言葉は、ひどく私をおどろかせた。なにかで、ひどく打たれたような感じがした。と、いうのもホステスという言葉は、妙に不潔なひびきを、おさない心にあたえていたからであった。
『タべね、雨が降ったでしょ。そうしたら、谷村くん、傘もって、お母さんをむかえに来たの。あの子のお母さんたら、お酒飲んで酔ってたみたいで、谷村くんを抱きしめて、そして急に、なぜお店になんかきたのってぶったのよ。私ちゃんと見てたわ、わかった?』
 亜美は勝ちほこった顔をした。彼女の家は、二流のバーを経営していた。私はひどい屈辱感に、体がふるえてきた。それは、竜也や彼の母からもたらされた屈辱感ではなかった。私自身が、はずかしめられているという、たまらない思いだった。
『でも、ホステスをしていたら、なぜいけないの?』
 やっと私は、低い声でいった。亜美の目をまともに見ていた。
『わるいわ。京ちゃん、ホステスって知らないんでしょ? お酒飲んで、煙草も吸って、それから……』
『それから、どうするの?』
『とにかく、わるい女の人よ、そんな人がお母さんなんだから。』
『でも竜也くんは、なんともないわ。あの人は勉強もできるし、それにちゃんとした夢も、もってるわ。』
 私は急に力づいた。しかし、亜美は容赦しなかった。
『ちいさな子供を、夜一人でおいて、あんなことするなんて。』
 少女たちには、まだ複雑微妙な、生活のかなしさがわからなかった。
『そうでしょ? 京ちゃん。』
『そうかもしれないね。』
 言ってしまってから、急に怒りがこみあげた。
『でもちがうわ、亜美ちゃんがそういうなら、亜麦ちゃんの家で、バーなんかしてるからよ。わるい女の人をつかうなら、わるい商売だわ。』
 亜美の目に、怒りがみなぎった。
『あんた、いつのまにか不良になったわ。私もう、京ちゃんとは話しないから、あの子と遊べばいいんだわ。』
 私は亜美に妥協しなければならなかった。谷村竜也とわかれるよりも、仲のよかった亜美にいじわるくされるほうが、私には耐えられなかったのだ。
 私は、竜也の部屋に行くのをぷっつりやめてしまった。そのかわりむづかしい宿題にぶつかると、ひどくだだをこねて母をてこずらせた。母の手に負えなくなると、彼女は浩を家へ連れてきた。しかし、彼にもつらくあたった。ひとつの無邪気さが、失われ、私の心には、はじめての、ちいさな傷が刻まれていた。
 アパートの少年が、私の豹変に気づいたのは当然であった。亜美といさかいをするまでは、三日にいちどは、竜也といっしょに勉強をしていたからである。朝食のまえ、私はよく庭にでて、朝顔に水をやったが、そんなとき、ちらっと竜也の窓を見上げた。朝、その窓は、たいてい開けはなされていて、竜也が顔をだしていることもあったが、私は、ぬすみ見るだけで、すぐ顔をそむけた。ときには、彼が、私の名前をよんだこともあった。しかし私は、ふりむきもせずに、家にかけこんでしまった。
 竜也が、私の家に来たのは、ふかい霧が、街をおおっていた、そんな夏の夜であった。ちょうど、その夜は、父と母が妹たちをつれて温泉に行ってしまい、家には私と、六〇歳をすぎた祖母しかいなかった。勉強にも疲れ、しょざいなく、温泉に行った妹たちのことを思っていた私は、ふと庭にでて、夏祭りの残りの、線香花火をともしはじめた。竜也が、裏から、影のようにはいってきたのは、そのときだった。突然だったので、私は家にかけこむこともできなかった。
『京ちゃん。』
 よばれて私は、しゃがみ、花火を五・六本いっしょにして火をつけた。
『どうしたんだよ。なにかおこっているの?』
 落ち着いた、けれど無理に落ち着かせようとしているような声だった。私はたちあがった。なにか、我慢ならないような、いらだたしさがこみあげた。その気持ちをおさえることはできず、ゆっくり、いいだした。
『私、もうあんたには勉強教えてもらわないわ。一人でも、ちゃんとできるようになったから。』
 声がかすれていた。
『あんたとは、もう話もしないわ。いままでどおりだと、私、友達いなくなるから。そんなお母さんの子と、いっしょだったら。いままでお母さんがいつもいなかったわけ、ちゃんと分かったわ。』
 竜也の顔色が、青白くなった。彼は唇をかみしめると、一瞬私を見て、ものもいわず、走って行ってしまった。私が、自分の言った言葉に、激しい後悔を感じたのは、竜也の姿が見えなくなってからだった。言ってはならない言葉でだった。けれど、もう取り返しはつかなかった。私は、竜也との仲が、無残にこわれたのを知った。その思いは私をうちのめし、その場で声をあげて私は泣き出した。


 そのころから、私の成績は、急にさがりはじめた。自分でもそれがよくわかり、わかるだけにいらだった。教室でも、家でも私は不機嫌になり、友達にあたったり、妹たちともよくけんかをしていた。
 試験に落ちるかもしれないという不安が、ときどき頭をかすめ、不安をおいはらうように、深夜まで机にむかっていたが、集中力が続かなかった。重い疲れがかんじられ、体がへんに熱っぽいこともあった。
 二学期がはじまる二・三日まえであった。すでに、秋の色をした陽射しのはいる教室で、私ははじめて、教師にひどくしかられた。その日のテストで、私は四〇点という、ひどい点数をとったのである。私ははずかしさでいっぱいだった。唇がふるえた。皆のまえでしかられる――そんなことは、思ってもみなかったことである。青ざめ、涙をこらえ、こらえながら私は、受験勉強への情熱が、ぬけていった。
 そんなことが、二・三日つづき、私はすっかり憔悴してしまった。目は血走り、ときどき、体じゅうの力がぬけていくような錯覚に陥った。私が、森の奥に迷い込み、沼に落ちてしまったのも、そうした、疲労と傷心のせいであったかもしれない。
 私は、森にはいきたくなかった。しかし、受験生を皆、二学期になるまえに、ちかくの森へ遊びにつれてゆくという、そのプランに、私だけ参加しないわけにもいかなかった。
 残暑のきびしい日であった。男の子も、女の子も、なんとなくはしゃぎながら、せまい道を歩いていた。私も、さいしょは亜美たちといっしょに、わらいざわめいていたが、やがて気が重くなってきた。足が疲れていたからである。しだいに私は無口になり、さいごには列からはなれてしまった。でも、だれも、付き添いの教師たちさえも、私には気をとめなかった。
 森につくと、私は、やはり、友達から離れて、一人で奥へはいっていった。木々のにおいが、冷たく、あまくながれ、森は、ひっそりと静まりかえっていた。ときどき女の子たちの、かんだかい笑い声がひびいた。それらの声から、遠くへ離れようとするように、私は深く、暗い奥にはいり、木漏れ陽のさすところにねころんだ。
 私は急に、自然をいとおしんだ。頬を土におしあて、黒板や教科書、ノート、教師を憎んだ。もう、勉強なんかしたくないと思い、それでもあすはまた、教室が私を待っているんだ――と、唇をかんだ。
 疲労と静けさが、私を短い眠りにさそった。それはほんとうに、みじかいあいだであったかもしれない。しかし目が覚めたとき、随分長い間、ねむっていたような気がして私はうろたえた。身近に、人の気配はなく、私はほかの友達が、みんな帰ったのではないかと、不安になった。あわてて立ち上がったが、はいってきた方角を見失っていた。
 森は、そう大きなものではなかった。けれども、おさない狼狽が、森を迷いやすいものにかえていた。眠るまえまでは、静かにやさしかった森が、急にあやしい魔女のように、しっかり、私を包んでいた。おそろしさに私はかけだした。陽はかげって、白い霧が流れてきた。私はとにかく走りだした。
 いくらも、走らなかったかもしれない。まもなく、私はせの高い雑草の繁みにはいり、目のまえに、緑色によどんだちいさな沼を見た。沼は、まったく、突然雑草のかげから、あらわれたのである。あっと思ったが、足はいうことをきかなかった。走ってきた勢いで、私は沼におちてしまったのである。
 沼は、あまり深くなかった。しかしそれでも、水は私の胸まであった。私は青ざめて、草につかまり、必死になって、はいあがろうとしたが、ぬるぬるとした底に足をとられ、なんども、水のそこにたおれそうになった。そして、肌にささる水の冷たさよりも、強い恐怖に失神しそうになった。沼の底で靴はぬげ、スカートは、ぴったり体につき、細い腕は、雑草の葉で無数に傷ついていた。声をだそうにも、喉がかわいて出なかった。
 絶望に目をとじたとき、私は誰かに腕をとられた。竜也であった。混乱していた私は、暗い木の蔭から、走ってきた竜也の姿に、ぜんぜん気づかなかった。
『大丈夫だよ、京ちゃん。』
 その声で、私の気はゆるんだ。体じゅうの力がじょじょに抜けていった。気がついたとき、私は沼のふちのやわらかな草の上に寝ていた。気を失っていたのは、ほんの、わずかな時間であったらしい。竜也が、私の顔をのぞいていた。
『京ちゃん。』
 と、竜也は笑った。心配そうな、それでいて、ひどく優しい眼差しをしていた。その竜也の目が、私に、いままでの、彼にたいするむごい仕打ちや、晩春の夜の楽しさなどを思い出させた。なにか、言おうとしたが、寒さと、疲れのため、言葉がでなかった。
『僕、誰かよんでくるよ。』
 と、しばらくして、竜也は立ち上がった。
『いや。』
 と、私は、ふいにさえぎった。自分でも思いもよらなかった。
『行かないで。行かないで。』
 言葉が、悲しさをさそった。
『私、ここにいたいの。二人でいたいの。だから行かないで。』
 竜也は、ちょっと、とまどったが、私の横に座った。
『寒くない? これ着てたはうがいいよ。』
 彼の上着をかしてくれた。寒かった。けれど、体の寒さより、私の心は、はげしくうずいていた。
『ごめんね。竜也くん。』
 その言葉を、かすれた声で、ようやく言い、私は泣き出した。竜也は黙っていた。泣きじゃくりながら、私は少し落ち着いた。
晩夏の森の匂いが、またあまく感じられた。
『私、ひどいことしたわ。ほんとにごめんね。』
『いいよ、そんなこと。』
 竜也は、早口にいい、急にかなしげな顔つきになった。


 その翌日から、私はねついた。一カ月ほど高い熱がつづいて、両親を心配させた。病気の原因は、もちろん沼におちたことではあったが、苛酷な受験勉強で、体をむしばまれたのは、明らかであった。二カ月目ころから、熱は微妙に下がったが、起きることはできなかった。
 ふだん、あまりつかっていなかった部屋が、病室にされ、その部屋で、私はクリスマスをすごし、正月を迎えた。そして長い病床でのあけくれが、私から、子供らしさを拭い、急速に大人びていった。夜よく眠られず、木枯らしや、雪の降る音をききながら、私はなにかを考えていた。
 私立中学校へいくという希望はすでになかった。けれど、それは不思議に、悲しみとはならず、私の心に、なにかにたいする抵抗、冷たい反発を育んでいった。私立中学校なんか――と、私はよく思った。――いかなくっても平気だわ、私は、みんなと違うんだから。
 私は、大崎亜美や、その他の友達と、違う世界にいきていることをかすかに感じた。彼女たちは、知らない世界へいき、その後をおうこともできず、べつの、未知の世界へ足をふみいれたかんじであった。浅川浩や、谷村竜也さえも、もう見知らぬ少年に思われ始めていた。
 しかし、竜也のことを思うと、私の気持ちは、やはり和らいだ。明日からのことは、どうであっても、あの深い森でのことを思うと頬があつくなった。かげのある優しい目や、冷たくなった私の足や腕をあたためてくれた少年の、手のぬくもりがよみがえり、ある甘さが、こみあげてきた。だが、それらも、すでに遠いものであることを、私はぼんやり意識した。もう、あんなことはないのだと、思った。きびしい勉強も、森の土に頬をあてることも、少年の窓の明かりを見上げることもないのだと思った。

黒猫

最後のプレゼント
中木基恵 

 あと10分、あと5分…と優美はもう1時間以上も待ちぼうけをくらっていた。
 確かに、昨夜の電話でここで会う約束をしたのは優美の一方的なものだったが、浩二は
「行かない」とは言わなかった。
 最初の10分はいつもの遅刻だろうと考え、次の20分は事故ではないかしらと不安になった。最後の30分はそんな自分にあきれていた。
 結局これが彼の答えなのだ。
 優美は大きくため息を吐き、少ししらけた気分で隣の椅子に目を向けた。そこには綺麗にラッピングされた包みが置いてある。それは浩二のバースデイプレゼントにと、ちょっと無理して買ったダイバーズウォッチだ。それほど高価なものではないけれど、これを買うためにバイトを増やし、欲しかったピアスは延期した。
 自分が欲しいものを我慢して彼にプレゼントする。それは恋がそうさせる。けれど『恋』という修飾がはずされたとき、どこかしら姑息な手段が見えてくる。
優美は自分に苦笑した。…別れの予感をまったく感じていなかったわけじゃない。なのにこんなプレゼントを用意して、なんとか繕おうとしている自分がいる。
 いつの頃からだろう、浩二の中の優美が消えてしまったのは。気づいていたのに、そう認めることに少し躊躇していたのだ。その間に浩二が答えを見つけていた。
 そして優美はひとりここにいる。
 優美はテーブルに両肘をつき、あごを乗せた。
 恋に落ちるのは簡単だ。偶然ときっかけと時間があれば、促成栽培のようにすぐに実がなる。けれど恋を終わらせるとき、その偶然ときっかけと時間が仇になる。作為だけが頼りになる。
 所詮、別れはどちらかがどちらかに無理を通すもの。その理不尽さにやりきれないものを感じながら、ささやかなプライドに頼ってそれを受け入れる。けれど受け入れるほうが自分になるなんて、恋のはじめに考えている人なんていないのだ。
 1年前の今日、優美は浩二とここで待ち合わせた。ふたりはお互いを見つめることで精一杯だった。プレゼントなんてどうでもよかった。浩二はどうやって今夜誘おうかと頭を悩まし、優美はどうさりげなくうなずこうかを考えていた。
 浩二は優しかった。とんでもなく優しかった。
 風邪をひいたといった日は、急に講義室から姿を消した。やがてこっそり入ってきて、汗をぬぐいながら薬を差し出した。
「早く飲んだほうがいいと思って」
 1年という月日を甘くみていたわけじゃない。人が変わるのに充分な時間だったことに改めて驚いているだけだ。

「優美?」 
 突然名前を呼ばれて顔を上げた。
「あ…」
 懐かしさと気恥ずかしさがミルク色したベールの向こうから蘇ってきた。
森本貴志。優美と高校時代仲のよかった友達だ。
「久しぶり。こんなところで何してんの?待ち合わせ?」
「んーまぁ…」
「何時に?」
「1時」
けれど、その時刻からはすでに20分が過ぎていた。
「まだ来ないの?もしかして…振られちゃったとか?」
「…みたいだな」
貴志はあっさりと認めた。
「ごめん傷つけちゃった?」
「かなり。おまえに言われるまで、遅刻だと思うようにしてたから」
「…」
「うそうそ、冗談。来ないなら来ないでいい相手だったし」
 時間がルーズになる。つまり気持ちがルーズになる。
 浩二がはじめて10分遅刻したとき、彼はふたりで過ごす時間の大半をその言い訳に費やした。聞いているほうが可哀想になるくらいだった。でもいつか「悪い」の一言で済ますようになり、近頃では何も言わなくなった。
「立っていないで座ったら?」
 優美は自分の気持ちの曇り具合を知られぬよう、快活に貴志を見上げた。
「ひとりなのか?」
「ええ、それよりこの店よく来るの?」
「時々な。駐車場広いし」
「私もよく来てたけど」
「会わなかったわね」「あわなかったな」
言葉が重なって、ふたりは思わず顔を見合わせた。優美も貴志も多分同じことを考えたに違いない。どんな相手と来ていたのか、お互いに興味のあることだった。
 会話が途切れると、貴志はポケットから煙草を取り出し、火をつけた。
「煙草、吸うようになったのね。いつから?」
「大学入ってから」
高校時代、周りが吸っていても、貴志だけは決して真似しなかった。それは野球のためであり、彼はただ甲子園出場だけを目標にしていた。
「残念だったわね、甲子園」
優美は、出場をかけた決勝戦で、結局負けてしまった試合を思い出しながらつぶやいた。あのとき3塁側のスタンドで、親友だった智子と抱き合って泣いた。
「いきなりなんだよ。ま、仕方ないさ」
「そうね。でも楽しかったよね、あの頃」
本当は大して楽しいことなどなかった。制服はダサかったし、校舎はボロかった。校則が厳しくてバイトもできなかった。ピアスの穴をばれないように隠したり、制服検査のときだけスカートの長さを戻したりしていた。
 それでも楽しく思い出せる。なんでもなかったことが、何時の間にか思い出と呼べるものにすり替わっている。
「でももうやめたんだ。今はテニスをやってるよ。冬はボード。」
「そう…なんだか一般大衆になっちゃたのね。」
正直なところ、優美は少しがっかりしていた。確かにそれらのスポーツは人気がある。しかし、女の子と遊ぶ時間さえなかったくらい野球に打ち込んでいた貴志のほうが、なんだか素敵だったような気がする。事実、あの頃貴志はモテていたし、優美自身、同じクラスで仲が良かったことを少し自慢に思っていた。
「まぁ、野球バカだったからその反動みたいなもんさ。それよりどうせ話すんだったら場所を変えないか」
「彼女来るんじゃないの?」
「今更来って手遅れさ。おまえのほうこそどうなんだよ。誰か待ってたんじゃないのか」
「そんなんじゃないわよ」
貴志の誘いに、優美は隣の包みを見た。貼り付けてあるミントグリーンのリボンが、なんだかしなびた朝顔の蔓みたいに見える。まるで自分みたいだ。いつまで貼り付いているつもり?もう中身が空っぽになてしまった浩二に。
 来ない、来ない、浩二は来ない。
 来るな、来るな、浩二なんか来るな。
「いいわ、行こう」
優美はふっきるようにバッグを引き寄せて微笑んだ。

 外に出ると、湿り気をたっぷり含んだ熱気が優美の身体を包み込んだ。クーラーで暑さを忘れていたひとつひとつの細胞が、急に活動をはじめ、汗がどっと吹き出てくる。
 空を見上げると、、西のほうには鉛色の雲が広がり始めている。今は眩しいほどの日差しだが、予報通り、夕方からは雨になりなりそうだ。
「行くぞ」
 貴志に呼び声に、優美は小走りに彼のパジェロに近づいた。

 金曜の午後ということもあり、道はかなり込んでいたが、駅前を右折して2キロほど行くと渋滞もようやくすいてきた。
「さあ、とばすぞ」
 貴志は子供のようにはしゃいだ表情を見せて、力まかせにアクセルを踏み込んだ。その笑顔は高校時代とまったく変わらない。部活のあと、自転車で二人乗りしてコンビニまでとばした。

 やがて海が見えてきた。
「窓、開けていい?」
「どうぞ」
 貴志はクーラーをきった。
 風が潮の匂いを運んでくる。波の音が響いてくる。髪が湿り気を帯びてくる。海が光を眩しく反射している。ただそれだけで、人はちょっと幸せな気分になれる。
 車はそのまま海岸沿いを突っ走っていく。けれど車が進むにつれ優美は少し不安になってきた。いつもの道…実はここを過ぎたところに、浩二と優美の行き付けの店がある。あの角を曲がったところにある。
「ねぇ、いまからいくお店ってなんていうところ?」
「着いてからのお楽しみさ」
 まさかそんな偶然はないだろうと思っていると、貴志は不意にウインカーをつけた。すぐに見慣れたロゴマークが目に入ってきた。
「ここなの?」
「そうさ、知ってた?」
「うん、まあね」
「なんだ、残念」
 店に横の駐車場にはすでに5,6台の車が止まっていた。
 そのときふと、1台の車が優美の目の端をかすめた。浩二のセリカだ。もう一度シートからからせ伸びをして振りかえった。間違いない。いつもあのサイドシートに座り、何度もこの店に着た。
 悪い想像ならすぐついた。助手席の背もたれには、白いカーデガンが掛けてある。もちろん優美のものではない。
「どうしたんだよ、行くぞ。」
「……うん」
 迷った。店に入れば、浩二との別れは決定的なものになる。
 別れはとっくに感じていたはずだ。貴志と店を出たとき、自分に確認したはずだ。来ないが返事。もう元には戻らない。それなのにどこかでまだもがいている。こうして現実をつきつけられて慌てている。
「ね、別の店にしない?」
「どうしたんだよ、ここが嫌なのか?」
「嫌ってわけじゃないんだけど…」
「じゃあ一体何なんだよ」
「…中に、店の中に、今は会いたくない人がいるの」
「何だよそれ。だれ?」
「私を1時間以上う待たせたヤツ」
 貴志は目をしばたたいた。優美の顔をまじまじと見つめ、やがて大きなため息とともにハンドルに持たれかかった。
「そっか、そいつはまずいな」
 しばらく無言が続いた。貴志はぼんやりと窓の外を眺めている。気遣っているのか、気まずがっているのか
 やがて貴志は顔を向けた。
「で、どうなんだ?おまえはそいつと会うのが嫌なのか?それとも俺と一緒にいるところをそいつに見られたくないのか?」
「………」
 返事に詰まった。それがどちらなのか、優美にもよくわからなかった。
 たった1,2分だったが、優美の頭の中でいままでのこうじとのことや、白いカーデガンの彼女のこと、そして浩二とのわかれ、そんなありとあらゆることがぐるぐると駆け巡った。
 優美の想像を遮るように、エンジンの音が響いた。
「待って、私入る」
 浩二とのわかれ。それを自分で見届けるのも悪くない。そんな気がした。
 ためらいがちにドアを開けると、彼女の姿がいきなり正面に現れた。
 ぐっと心臓が素手でつかまれたような気がした。優美は唇をかみしめた。わかってた。わかっていた。納得したつもりだった。それでもやはりどこかで否定していた。『もしかしたら』と『勘違い』と『多少のうぬぼれ』をしつこく味方に引き入れながら。
 ドアのベルに彼女はちらりと顔を上げた。知らない子だった。ストレートの髪がさらりと肩にかかった可愛い子。浩二の好きなアイドルになんとなく似ている。
 優美は顔を伏せながら、貴志の後ろをついていった。奥まったカウンターまでが、いつもの倍くらいの距離に感じられる。
「ドアのすぐ横だろ。勝ってるよ」
「え?」
「おまえのほうが可愛いってこと」
 優美は緊張していた頬を少し緩ませた。
「そういう女のこの慰め方なんかも何時の間にか身につけたんだ」
「いつまでもおれを野球バカと思うなよ」
 貴志はスツールをくるりと一回転させ、じっくりと浩二を観察した。
「それに、俺のほうがいい男じゃないか」
「私もそう思うわ」
「なら話は簡単だ。あいつから俺に乗り換えろよ」
「そうね、そういうのもアリかもね」
 彼女の笑い声が途切れ途切れに聞こえてくる。含むような、囁くような、そして時には色っぽく。優美は思わず振り向いてしまいそうになる自分を必死に抑えていた。貴志との会話が耳に入らなくなる。
「…だろう」
「えっ」
「なんだ聞いてなかったのか。ま、仕方ないか。大丈夫か?後悔してるんだろ」
「平気、納得してる」
「何を」
「恋の終わりが形になってそこにあることに」
「まるで恋の遍歴に疲れた女のセリフみたいだな」
「遍歴がなくても、恋はいつも疲れるものよ
 天井には大きな羽根が回っている。もちろん風を送るためじゃない。ただ無意味に飾られたもの。でもその無意味さは、どんな意味付けをしても構わないという優しさがある。それは今の貴志との会話に似ている。
「出ようか」
 振り向けば、今度は浩二と向き合うことになる。
 優美はゆっくり立ちあがり、ゆっくり振り向いた。浩二は優美の存在に気づくこともなく、彼女の話に相槌を打ちながら、にこやかな表情を浮かべている。
「長い髪って好きだな」
 浩二が囁いた。その声が聞こえた瞬間、優美の中で何かが切れた。
 1年前の今日、優美にも同じセリフを使ったのだ。
 こんなきっかけを待っていたのかもしれない。別れの理由はいくらでも用意できる。ただ、きっかけがなかっただけなのだ。きっかけさえあれば恋の修羅場も演じられる。
 優美の足は、すでに意思を持って浩二たちのほうへ歩き出していた。
「こんにちは。偶然ね」
 浩二は顔を上げると、よはど驚いたのか一瞬言葉を詰まらせた。
「あ、あぁ」
 わけのわからない彼女は、微笑みながら優美を見上げた。優美もとびきり上等の笑顔を返した。
「私、高岡優美。浩二、浩二君と同じ大学に通ってるの」
 優美は浩二を無視して、彼女のほうに話し掛けた。
「私は芹沢涼子。k女子大の2回生。よろしくね」
「こちらこそよろしく。この店にはよく来るの?」
「ううん、私は今日がはじめて。彼はよく来るらしいけど」
「そう、なかなかいい店でしょう?私もよく来るのよ。そういえば今日、浩二君の誕生日じゃなかった?いいわね、誕生日に一番好きな人と過ごせるなんて。それにしても、浩二君にこんなに可愛い彼女がいたなんて知らなかったな。大学じゃちっともそんな素振り見せないんだもの」
 自分でも驚くほど、口からすらすらとセリフが出る。アイドルになれなかった女は演技に開眼するしかないのだ。
「やだぁ、私たちまだそんなんじゃないのに、ねえ」
 彼女は微かに頬を染めて、浩二に同意を求めた。
「…」
 浩二は黙っている。黙っていることが得策だと思っている。事実それは得策だ。何か言ったら、その何十倍にもして返してしまうだろう。
 彼女と過ごす誕生日。これも1年前と同じことを言うつもり?名前だけ変えて「一緒にいてほしい」「好きなんだ」…なんなら代わりに言ってあげても言い。
「優美、行くぞ」
 しびれを切らしたのか、貴志がドアを半分開けながら優美を呼んだ。
「彼が呼んでるから行かなくちゃ。せっかくのデートを邪魔しちゃってごめんね」
「ううん」
 それは浩二に向かっていったのだが、彼はすっかりうろたえていた。
「サヨナラ」
 優美はくるりと背を向けた。

 貴志はあきれた顔つきで待っていた。
「驚いたな、よくやるよ」
「ホント、自分でも褒めてあげたいくらい」
「あ、雨だ」
 ドアを開けると外には小雨がぱらついていた。
 貴志は空を見上げると、不意に笑い声をもらした。
「何?」
「ああ、ちょっとさ、あのときのことを思い出したんだ。ほら、あの決勝戦。俺のヘッドスライディングがアウトになったとき、おまえ、スタンドから審判にくってかかっただろ。でっかい声でさ。審判も苦笑いしてたもんな」
「そうだったかしら」
「だけど俺、うれしかったんだ。それだけ真剣に応援してくれたってことだろう」
 貴志は照れくさそうに、もう一度空を見上げた。
「今わかった。私、きっとあの時、貴志のことが好きだったのよ」
「へぇ、偶然だな。俺もそうだよ」
 ふっと目が合う。
「走るぞ」
 貴志は片手で優みの肩を抱き、二人は雨の中を車まで駆け抜けた。
 彼のもう一方の手が、何気ないようでいて、優美をぬれないように雨からかばってくれている。それに気付くと、優美はなんだかとてもあたたかい気持ちになった。
「さっきのこと、もう時効かな?あいつから俺に乗り換えろよ」
「今そんなこと言うの、ちょっと弱みに付け込んでいると思わない?」
「私ね」
「ん?」
「私、さっきお店に入るのをためらったのは、貴志のことを誤解されたくなかったからじゃないわ。あいつにホッとされたくなかったのよ。なんだ、おまえもうまくやってるんじゃないかって、気を楽にされたり、この状況をチャラになんかされたくなかったのよ。でも今は……私のほうがそう思ってる」
「それ、返事として受け取っていいのかな」
 優美は「うん」と言う返事と同時に、貴志にキスをした。
 たぶん浩二はあのガラス窓の向こうから、スクリーンに映る優美たちを眺めているだろう。まるで外国映画を見るように、雨の中でキスをしている二人を呆然と見つめているに違いない。
 優美は、浩二に見せつけるための単なるまやかしだと思っていたはずなのに、そんなことはどうでもいいような気分になっていた。そして唇を離すと、目の前には貴志の顔があって、そこにいたのはもうずっと前から貴志だったような気がした。
 そして今度は誰のためでもない、二人のためのキスをした。
 ……浩二、これが最後のプレゼントだよ。
 優美は貴志の背中に回した指先で、小さくさよならの合図を送った。

ガラス窓