「カメラの視線」
松尾澄英
「ねえ、最近さ、つまんないって思わない?」
わたしは久しぶりにあったヒロユキに言った。
わたしたちが週に一度くらいのペースで通ってくるこのバーは、適当に汚くて、適当に馴染みがあって、わたしたちのお気に入りだった。バーにはフランス出身の、なんとかという歌手の、泣きたいくらい悲しげなバラードが流れている。おそらく、マスターの趣味なのだろう。ここではよく耳にする歌声だった。マスターは変わった人で、有名な歌手の曲はかけない。ほとんど誰も知らないようなのを選ぶ。その理由を訊ねると、「だれの曲かと訊いてきた客と話すのが好きだから。」という答えが返ってきた。そういう客とはたいてい趣味が合うものなのだそうだ。わたしも最初のうちはマスターの趣味の相手をさせられたものだった。しかし、わたしがそのジングスを破った最初の人物だったようだ。
「なんか、あったの?」
ヒロユキは少し心配そうに私の顔を覗き込んだ。今日のわたしもまた、飲み過ぎているようだった。ヒロユキといると、どうしても飲み過ぎてしまう。どうしてか分からないが、そう条件づけられているようだった。おそらく出会ったときからしてそうだったのだろう。
「なにもないから、つまんないんじゃないの。」
「そうか?」
ヒロユキは不思議そうに首を傾げた。
「なにもないから、いいんじゃないか。」
いつものバーで、仕事の帰りに待ち合わせをしていたが、ヒロユキは約束の時間を二十分も遅れてやってきた。
「たまに約束したときぐらいは待たせないでほしいものだ。」
そう思っていたが、入ってきたヒロユキを見た途端、そんなことは頭からきれいに消え去っていた。店内をキョロキョロと見回しながら入ってきたヒロユキの肩には、大きなアルミ製のカメラケースが掛かっていたからだ。私ははじめて、ヒロユキが仕事道具を持っているのを見た。だが、それを見た途端、それが光を反射しているのに引き寄せられるように、わたしの心に根付いていた憂鬱のようなものが膨らんでいくのが感じられた。
その銀色のケースは今、ヒロユキの足下に置かれてある。なんだか現実離れしたやつだとは思っていたが、こんな現実味のない仕事をしているとは思わなかった。主にファッション系の仕事をしているらしい。服装だけ見れば、たしかにその世界の人だということは分からないでもなかった。今日の服装も黒のジーンズに黒のジャケット、あざやかな青のシャツを着ている。仕事柄、目が肥えているのか、もともとセンスがいいのか、自分をいちばんスマートに見せるスタイルをよく知っていると思わせるような格好をいつもしていた。だから、その格好でモデルを前にカメラを構えている姿は容易に想像できた。
「似合うよね。」
そう言うと、少し淋しそうに笑った。
「むかしはあるがままの世界とか、撮ってたんだけどね。」
やっぱり、淋しそうだった。
「この商売って因果なものでさ、こうやって飲んでても、頭から離れないんだよ。」
「なにが?」
「酒瓶とか並んでるのを見てても、あそこの配置が悪いなぁとか、あれを撮ってみたいなぁとかってさ、考えてしまうんだよ。」
「ふーん、そんなもんなんだ。」
わたしはそこまで仕事に馴染んでいるわけでもなく、機会があれば転職しようと考えているだけで、やりたいこともこれといってなかった。
「仕事なんかやってられないわよ。」
そう言う友人の声を聞きながら、わたしにはそんなことさえ言えないんだなぁと、妙にあっさりした気分で思ったものだ。そう言えるのはその仕事に少しでも満足し、それなりに働いているからだ。もしかしたら、そのとき、わたしにもそう言えるくらいなにかしているだろうかと考えたのかもしれないが、次の瞬間には頭から消えていた。そのときのわたしには、どうでもいいことのように思えていたに違いない。
しかし、わたしと同類だと思っていたヒロユキの口から、仕事のことを聞くと、わたしだけが取り残されたような気分になる。わたしは自分の思い込みにあらためて、うんざりとした気分にさせられた。
「あるがままの世界ってさ、もう撮ろうとか思わないわけ?」
さっきの表情が気にかかって、訊いてみた。普段、落ち込んでいるところなどめったに見せないヒロユキであるだけに、いっそう気に掛かった。
「そうだなぁ、思わないわけじゃないけどね。」
「けど、なによ?」
「撮りたいと思うような現実が、見つからなくなったんだよ。」
ヒロユキはやっぱり淋しそうに言った。
「その撮りたい現実って、どんなものなの?」
その表情が今まで見たこともないものだったので、思わず訊ねた。
「それが分からなくなったんだ。」
「なにそれ?」
「高校の頃かなぁ、カメラ持ち始めたの。そのころはさ、こんな写真が撮れたらいいなぁとかって、目標とかあったわけ。」
ヒロユキは何杯目かの、いつもと同じドライジンのグラスを空けた。
「でもさ、写真撮るのが仕事になった途端さ、自分がなにを撮りたかったのか、分からなくなったんだよ。写真って、正直なもんでさ、迷ってシャッター切ってても、納得のいくものなんか撮れないんだ。」
「じゃあ、なんで、ファッション雑誌のグラビアなんか撮ってんのよ?」
「そうだなあ、そういう世界もある意味、夢とかを撮ってるわけじゃない。いい仕事だなぁって思ってたの、始めた頃はさ。」
マスターが新しいグラスを差し出した。ヒロユキが、ドライジン以外を頼むことはないので、マスターはいつも、注文を受ける前に作ってしまうのだ。
「それに需要も高いし、さ。」
しばらくして小さくそう言ったヒロユキの声は、口を挟んできたマスターの声に消されてしまって、はっきりとは聞こえなかった。
「ほら、あそこに飾ってある写真。」
マスターは立っている位置のちょうど後ろになる壁を指した。
「あれさ、ヒロユキが高校の時に撮ったやつでさ、店に飾るからって無理言ってもらったんだよ。」
「マスター。」
ヒロユキはあわてて止めたが、マスターは無視をして続けた。
「あの頃は、こいつが本当にプロのカメラマンになれるなんてさ、思わなくって、カメラの修行をするから店をやめるって言ったとき、みんなで引き止めたよね。」
「えっ、ヒロユキってここで働いてたことがあったの?」
「知らなかったの?こいつ、高校の頃悪くってさ、あの頃からここに出入りしてたから、働かせてやってたの。」
「また、都合のいいこと言って。単に安くこき使ってただけじゃなかったっけ?」
ヒロユキはそっぽをむいて、マスターには聞こえないように呟いた。その口調があまりにも子供っぽくって、つい笑ってしまった。それに気づいて、ヒロユキは睨み付けてきた。
「で、卒業間際ってところになって高校を中退してさ、カメラの修行を始めたんだったよな。」
むっとしながらもマスターには逆らえないらしく、うなずいた。
「ちょうど、そのころにもらった写真が、あれ。」
マスターが指さした先には、ラピスラズリの青のような薄闇に包まれたビルのシルエットが写っていた。
「写真って、客観的なもののようで、その実、見事に作者の視線を映し出すからね。あれが、あの頃のヒロユキには見えてたんだろうな。」
マスターが銀縁眼鏡の奥の目を懐かしそうに細めて言った。
「今でも気取ってドライジンなんか飲んでるが、あの頃はもっとカッコつけててさ、ジャック・ダニエルのソーダ割りなんか飲んでたんだよ。」
やわらかいブルーに浮かび上がる真っ黒なビルの群れ。額のかけられているところは黒い壁に小さなスポットが当たって、そこだけが浮き上がっているようだった。
寂しさを表現するのによく使われるブルーだが、この青からは優しさが感じられた。この写真を撮った頃のヒロユキはもしかしたら、寂しさなんか知らなかったのかもしれない。
わたしは首だけ巡らせて、しばらくその写真に見入った。
「へぇ、いいじゃない。どこで撮ったの?」
「……丸の内にあるビルの屋上。」
ヒロユキは恥ずかしそうに赤くなりながらも、ぶっきらぼうに答えた。
「よくそんなところに入れたわね。」
「……昼のうちにこっそり入ってさ、日が沈むまで屋上に隠れて待った。」
私たちが話しはじめたのを見て、マスターはグラスを研きはじめた。
「で、マスター、今日は俺に何の用なわけ?」
わたしの問いに言葉少なに答えたあと、しばらく黙々とグラスを傾けていたヒロユキがマスターに言った。
「うん。ちょっとしたことなんだけど、彼女と一緒みたいだし、後にするよ。」
「彼女って、この人のこと?」
ヒロユキが目を点にして訊ねた。
「違うの?」
わたしとヒロユキは、そろって首を横に振った。
「違うんだ? いつも一緒だから、そうなんだって思ってたよ。」
「違うよ。この人は男になんか、興味ないんだよ。」
「そうなんだ?」
真面目に訊かれて、わたしは困ってしまった。別にそんなつもりはなかったが、かといって、誰かとつきあうなんてことはいまはわずらわしかった。
「イイ男がいないんですよね。」
しかたがないから、そう答えておくことにした。
「おまえ、そういうこと言うか。」
「なによ。」
「おまえに魅力がないだけなんじゃないの?」
「ひどいこと言うわね。あなたも、ルックスはいいかもしれないけれど、性格は最低よ。」
「……やっぱり、後にするよ。」
マスターは笑って言った。
わたしたちは顔を見合わせて笑い出した。たしかに間違われてもしかたがないかもしれない。
ヒロユキとは二年前にこのバーで知り合った。そのときはまだ、わたしには彼氏が一緒だったし、ヒロユキも彼女を連れていたように思う。どうして知り合ったのかはまったく覚えていない。ただ、そのとき意気投合したのだけは確かだ。なぜなら、わたしの手元にはヒロユキの電話番号を書いたコースターが残されていたし、ヒロユキの手帳にはアルコールにかなり乱れたわたしの筆跡で住所と電話番号が記されていたからだ。それににもかかわらず、お互いの記憶にその日のことはまったく残っていなかった。が、記憶の断片が頭の片隅にでも残っていたのかもしれない。再び、バーであったとき、なんとなく知り合いのような気がして、わたしから声をかけた。それ以来、ヒロユキとはこのバーでよく一緒に飲む。が、それ以上の関係はなかった。そのことを何か物足りないと感じなくはなかったが、ヒロユキとは今のままの方がいいような気もしていた。
「あ、いらっしょい。」
そうしているうちに、馴染みが来たらしく、マスターはそっちと話しはじめてしまった。
「人をよびつけておいて、ひどいな。」
それを見ながら、ヒロユキがつぶやいた。
「なんだ、マスターに呼ばれたから来たの? わたしに、会いに来たわけじゃないんだ?」
わたしは笑いながら言った。今日は金曜日で、金曜日の夜にはわたしが必ず来ていることをヒロユキは知っていた。はじめの頃をのぞいて、ほとんど連絡を取り合うことなどなく、偶然のようにこのバーで落ち合うことが当たり前になっていたヒロユキからの電話は、わたしにいつもとは違う、何かを感じさせていた。それは、いつもヒロユキに会うと考えるときのときめきでもなければ、よろこびでもなかった。胸を突くような淋しさと、息苦しい窮屈さを伴っていた。そして、その感覚は、ヒロユキと会っている今でも消えなかった。
「まあな。」
どこか言葉を濁したようにヒロユキは答えた。その歯切れのわるさに、わたしは思わずからかいの言葉を口にした。
「なんだ、やっぱりわたしに会いたいんじゃないの。」
今日のヒロユキはいつもより、どこか子どもっぽいような気がする。高校の頃の話なんかを聞いたから、そう思えるだけなのかもしれないが、それでも、いつものヒロユキとは明らかに違うような気がしていた。それが、わたしの心の曇りに拍車をかけている。
「あのね、その自信はどこから来るの?」
ヒロユキは苦笑いをした。
「ま、いいか。いまに始まったことじゃないもんな。」
私はからになったグラスを両手でもてあそんだ。指先でグラスを弾くと、高く澄んだ音がする。その音が少しでも、心の憂鬱をはじき飛ばしてくれるような気がした。
「マスター、もう一杯ちょうだい。それから、マティーニにいれるオリーブってある?」
「あるよ。」
「それだけ、くれないかな?」
「それだけでいいの?」
「うん。それだけで食べるの。おいしいんだよ。」
ヒロユキが呆れた顔をしてみている。
「もう、よせば?」
「まだ、たいして飲んでないもん。」
「あんまり強くないんだからさ、ほどほどにしろよ。」
わたしはヒロユキの言うことなど聞かずに、ドライシェリーを飲みながら、オリーブを食べた。端から見ると、気持ちのいい組み合わせではないのかもしれないが、無償にオリーブが食べたかった。
「ねえ、マスター、いつも入り口んところに立ってた、オーノくんは?」
わたしはオリーブを頬張りながら、グラスを棚に並べているマスターに訊いた。オーノくんとは、ここのバーテンで、ひょろっと背の高い男の子だった。別に知り合いというほどではなかったが、いつも入り口の近くに立っているので、あいさつくらいはした。すると、決まって片手を軽く挙げて、
「ヨウ。」
と、どこからあんな声が出るのかわからないくらい甲高い声で
言った。そして、歯を剥き出しにしてわらうのだ。その表情が長い顔とあいまって馬のように見え、わりと印象的な顔をしていた。
「ああ、彼ね、子どもが大きくなって金が要るから、昼間の仕事を見つけて、まともに働くとか言ってたなあ。」
わたしは思わず、ヒロユキの顔を見た。オーノくんはどうみても、わたしと同じくらいの年にしか見えなかったのに、もう子どもがいるのか。そう思うと、オーノくんが急に遠くに行ってしまったような気がした。
「そうか、あの子、いくつになるんだっけ?」
「十二だってさ。」
ヒロユキとマスターは当たり前のように話を続けていく。わたしは何だか、自分だけが仲間外れにされたような気になった。
「……オーノくんって、いくつだったの?」
わたしがようやく口を挟むと、ヒロユキは「しまった」という顔をした。
「あいつ、二度目の結婚なんだよ。最初の奥さんは事故で死んじまってさ、その奥さんの連れ子がいま十二歳なわけ。で、あいつが引き取って育ててんの。」
「そうなんだ……。」
あいさつのとき以外はいつも無表情に壁にもたれて立っていたオーノくんからはそんなことは思いもつかなかった。
「で、オーノくんって、いくつだったの?」
「そうだなぁ、オレより一つ年下だったから、二十五くらいかなぁ。」
わたしと同じ年だった。
わたしが見ていたオーノくんは二十歳そこそこに見えた。
「苦労してんだ……。」
わたしがそうつぶやくと、カウンターの中でマスターが苦笑した。
「だれでも苦労くらい、してるもんだよ。」
そう言うと、またグラスを研きはじめた。
少なくとも、オーノくんはそうは見えなかった。逆に若く見えたくらいだ。そうすると、他人から見るわたしも、実際とかなり違っているのかもしれない。わたしの見ているヒロユキやマスターも本当の彼らではないのかもしれない。そう思うと、自分が見ているものが不思議なもののように思えてきた。
「あのさ。」
ヒロユキが妙に改まった口調で言った。見ると、カウンターの上に置いた手を握ったり開いたりしている。それは困ったときにするヒロユキの数少ない癖の一つだということをわたしは知っていた。それは、忘れていた憂鬱さを思い出させた。いつのまにか、それは心いっぱいに広がっていた。
「じつは、オレ、おまえの写真、持ってるんだよ。」
わたしは驚いた。ヒロユキに写真を撮られた覚えもなかったし、第一、今日までヒロユキがカメラマンだということさえ、知らなかったのだ。しかし、驚きのすぐ後にやってきた億劫さとともに問い返した。
「……なんでよ。」
「いつだったかな、街で見かけてさ。ちょうど、外で撮影やってたときで、あまりにもつまんなさそうに歩いてたから、つい撮っちまったんだよ。」
「いつのこと?」
「二ヶ月くらい前かな。」
ヒロユキはカメラケースの中を探るようにして、一枚の大判の写真を出した。
「これがオレから見た、今のおまえだよ。」
そこには、人込みの中、スーツ姿でうつむいて歩くわたしがいた。ほかの人々はわたしと対照的に前だけを見つめて足早に歩いている。わたしのまわりだけ、時間が止まっているように見える。スポットライトがあたったように、わたしだけ、くっきりと浮かび上がっていた。
「ひどい顔。」
それを見るなり、わたしは言った。こんなところをヒロユキに見られていたなんて、考えただけでも情けない。だが、それとは反対に、わたしの心は軽くなっていた。ヒロユキに見られていた自分がどこかに抜け落ちてしまったかのように感じられた。
「おまえさ、そろそろ、潮時なんじゃないの?」
ヒロユキは唐突にそう言った。
「そうかもね。」
なにが潮時なのか、まったくわからなかったが、わたしもそう思った。ヒロユキの言うとおり、限界が来ているのだ。
「……ねえ、助手、いらない?」
「なに、唐突に?」
「てはじめに、今の仕事やめようかなって思って。」
ヒロユキはため息をついた。
「そのまえに、やりたいこととか、ないのか?」
「ないから、あんな顔して歩いてたんでしょ。」
「そりゃ、そうだ。」
ヒロユキは歯を見せて笑った。わたしも笑った。
「マスター、これ、いい写真でしょ。」
さっきの写真を差し出しながら、ヒロユキはマスターに言った。
「いいね。むかしのおまえが戻ってきたみたいだよ。」
「オレさ、また、こういうのも撮ってみようかなって思ってるんだ。」
「きっと、そのほうがおまえには似合ってるよ。」
ヒロユキはわたしを振り返って言った。
「しばらく、失業してみるのもいいかもよ。」
それから、照れたようにマスターに大声で怒鳴った。
「マスター、ジャック・ダニエル、ちょうだい。」
ヒロユキの言葉にわたしは大きくうなずいた。胸の窮屈さや息苦しさはいつの間にか消えていた。
……やっぱり、ヒロユキなんだな。
そんな思いが胸に残っていた。
となりでは「うるさい」と、ヒロユキがマスターにこづかれていた。