平成12年度 修士論文

「論理的文章における書き手の意図の表現」
- 事実と意見、条件表現を手がかりとして -

国語教育 999201 内田 浩


目次
1章 研究目的(問題の所在)
  1-1 論理的文章における「事実と意見」の問題
  1-2 論理的文章における条件表現「ば」・「たら」・「と」の問題
  1-3 論理的文章の一助としての「事実と意見」と「条件表現」
2章 先行研究
  2-1 「事実と意見」の先行研究
  2-2 「条件表現」の先行研究-「たら」「れば」「と」を中心に
3章 研究の方法
 3-1 事実と意見の研究方法
 3-2 条件表現の研究方法
 3-3 論理的文章における条件表現の研究方法
 3-4 言葉の定義の補足
4章 考察・研究結果
 4-1 事実と意見の間-形容詞文・だ・である文・形容詞文の中の「擬似事実」-
 4-2 条件表現と原因・理由の表現(仮定と既定)
 4-3 論理的文章における条件表現
5章 結論と今後の課題
おわりに
参考文献
引用資料
 
 
 

 0.概要

 本論文は論文・レポートの書き方や説明文の読解技術の一つである「事実と意見」と、その「意見」の中に頻出する条件表現を、文章分析の一助として応用しようとするための論文である。

 事実と意見は従来からある読解技術である。典型的な事実と典型的な意見は明らかになっているが、その間のレベルに関しては様々な見解がある。本論文では、その間に「疑似事実」を仮にもうけることにより、分析の精度を上げようとする。

 その事実と疑似事実を合わせたものが、書き手にとっての「既定事態」とする。既定事態は、原因・理由の表現の前件に置かれる。この表現と対比される表現として条件表現といわれる「ば」「と」「たら」があり、それは「意見」の部分に頻出する。よって、「事実と意見」の境目を考えることは、既定と仮定の境目を考察することによって精度が増す。よって、この境目を特定すべく分析した。

 分析の結果、「は・も」や「こ・そ・あ・ど」がこの使い分けに影響を与えていることがわかった。これは個別と一般に関係している。そこで、個別と一般を文例から分析することにより、条件表現と原因・理由の表現がどのような場合に同じで、どの場合に違うかの一部を特定した。その個別から一般の分析を、文章構成の二類型に応用した。

 最後に、「ば」「と」の文法的な使い分けを考察した後、表現の使い分けに関して仮説を立て、それぞれの仮説に見合う文章を分析した。

1章 研究目的(問題の所在)

1-1 論理的文章における「事実と意見」の問題

  トップに戻る

1-1-1「事実と意見」を分けるべきか、分けるべきでないか?

 レポートの書き方や論文の書き方マニュアル、中学校の教科書、あるいは論理的文章関連の研究書を見ると、いくつかの本に、「事実と意見」を分けて書く手法が提案されている。しかし、事実と意見とは、分けることができるのだろうか?これらの本には、典型的な「事実」の文が書かれ、典型的な「意見」の文が書かれている。その二つの文には明らかに違いがある。しかし、「事実」と「意見」の間のレベルについては様々な見解がある。本の著者によって概念が異なる「事実」と「意見」は、分ける必要があるのだろうか?

 仮に、「事実」を書き手の価値観が入らないこと・存在、「意見」を書き手の言いたいこと・判断とする。

 論理的文章の中で、「事実と意見」を文単位ではっきりと分けるという作業は、山田(1908,p.19)の語と文の定義と矛盾する。山田(1908,p.20)は、

語といふは思想の發表の材料としての名目にして、文といふは思想その事としての名目なり。
としている。つまり、語を材料として、書き手は思想をこめて、「文」をつくる。書き手が文を書いた時点で、文が書き手の思想を表すならば、全ての文は程度の差こそあれ、「意見」の文となる。つまり、文が思想を表す以上、その時点で「事実」と「意見」は究極的には分けることができないという宿命を背負っている。それでは、「事実」の表現は、何のためにあるものだろう?

 本論文では、究極的に分けることが難しい「事実」と「意見」を、可能な限り分割し、その境目を確定させることを提案する。そのために、以下の三つの理由を述べる。

@ 論理的文章の分類から(書き手と読み手の共通基準としての「事実)

   土部(1990,p.8)による論理的文章の分類を示す。

(1)「記録文・報告文」
あるものごとを、そのものごとのなりたちかた・しくまれかたに即して書きとめ、とらえやすいように伝え知らせることを基本的な表現機能としている文章。
(2)「説明文・解説文」
あるものごとのなりたちかた・しくまれかたを、あるものの見かた・考えかたによって説き明かし、そのものごとの内部・外部の事情を分からせる文章
(3)「論説文・評論文」
あるものの見かた・考えかたがなりたつすじみちを示して、その見解の正当性を認めさせ、その意向に同調させることを、基本的な 表現機能としている文章

 この場合、(1)から(3)を分けるキーワードは「ものごと」と「見かた・考えかた」である。「ものごと」の中で、時間内、空間内に存在する、あるいは存在した文を示すために「事実の文」がある。逆に、「見かた・考えかた」を示すためには「意見の文」が必要となる。「見かた・考えかた」は多種多様であり、様々な価値観を含む。その価値観を認めさせ、同調させるためには、書き手と読み手の間に何らかの共通の基準が必要になる。その基準が「事実」になる。「事実」は、虚偽の情報を排除する論理的文章においては、読み手と書き手の共通基準となるものであり、「見かた・考えかた」を具体的にするために必要なものである。だから、全ての「思想」を込めた文の中から、時間・空間に存在する、あるいは存在した文を分離することを提案する。

A 文章の種類から-新聞を例にして(書き手の知識としての「事実」と「意見」)

 上記の土部(1990)の定義の(1)-(3)の機能を含んだ文章である新聞を例にして挙げると、「記録・報告」では「事実」に基づいて伝達しており、「評論・論説」を基本的機能とする社説では「見かた・考えかた」を中心に発表している。このように、論理的文章では、その文章の目的に応じて、「事実」と「意見」の割合や質が異なる。逆に「事実」と「意見」の量的な割合や、それらの出し方によって、文章種が分かれる。つまり、論理的文章において書き手は、「事実」と「意見」の違いを認識した上でその操作を行う必要がある。だから、書き手は「事実」と「意見」に関する知識と、その使い分けが必要である。

B 論理(ロゴス)の定義から(具体例・根拠を形として提示するための「事実」)

 「論理」の原義であるロゴスは、『哲学・思想事典』で以下のように定義されている。

ロゴス
【ギリシャ哲学】
 logos は語源の上では「拾い集める」(legein)を意味する動詞から出ており、その語義はドイツ語のlesen(文字を拾う=読む)、Auslese(選り摘み)などに残っている。ばらばらに散らばった事実(事の端)を筋目・順序にしたがって取りまとめることから、理由、原因、説明、理性、秩序、意味、根拠、比例、算定などを広く表す。
 しかし何よりも事の端を掬い取りまとめる結集力は言葉(言の葉)にあり、〈ロゴス〉は言葉を意味する。
 このことから、ロゴス(論理)とは、ばらばらに散らばったものごと=「事の端」を、筋目・順序にしたがって言葉を並べていくことであることが分かる。論理的ではない、ということは、言葉の並べ方が支離滅裂であるということであり、「ものごとの法則的連関」(土部(1990))が筋目・順序にしたがっていないということである。筋目・順序に従うということは、出発点が必要である。出発点として、原因・理由や具体例を言葉に示したものとして、「事実」が必要である。

 よって、「事実」は、論理の出発点として、また判断を支える根拠・具体例として必要であると考えられる。

 実際には、「事実と意見」を分けないで文章を分析することも可能であろう。しかし、分けた場合に、文章分析がより整合性をもつ。ではどのように整合性が保たれるのか? それを明らかにするのが、4-1 全体としての課題 である。

1-1-2言語教育と、言語技術としての「事実と意見」の信頼性

 教える職業を目指す者にとって、教授するための技術はなくてはならないものである。そして「事実と意見」は、教育への応用としては、言語教育における読解・表現技術の一部である。文章に書かれている事態の具体と抽象に関わる技術であり、接続語の前件と後件の分析などに使うことができる。結果、評価可能なものであり、受験指導などにおいて得点を取る補助となり、小論文の指導に応用することができる。国語の教授法の中で、特に技術的な手法である。

 国語教育では近年、学習者中心の教育が叫ばれ、2002年度から導入される総合的な学習が議論されている。この場合、教師は、学習者が学習したいことをするための補助者としての役割を持つ。このことを考えると、技術的な「読み・書き」に携わる手法は、どちらかといえば現在、あまり省みられないといえるだろう。まして平均的に見れば、日本人の学習者は、西洋の学習者と比べ論理的でない。ならば、何故「事実と意見」を学習する必要があるのだろうか?

 この問に対して、筆者は、「事実と意見」は教師の教授技術の一部として身につけるべきものであると考える。いくつかの理由を列挙する。

@ 説明文・論説文・評論文のカリキュラムの効率化
 従来の国語の授業では、個別の論理的文章を説明していくのに何時間もかかり、毎年学習者は似たタイプの説明文を読んでいくことになる。これらを効率的にまとめると、時間の節約が出来、余った時間を国語の他のカリキュラムにまわすことができるのではないだろうか。論理的文章の読解はある程度パターン化できるのではないか、ということである。本論文のいくつかの「事実」「事実に近い文」「意見」の概念は、実際には典型的な「事実」と「意見」の補足であり、典型的な「事実」と「意見」の説明を含めてカリキュラムを作るにしても、三、四時間の授業時間で済むものである。この程度の時間で、読解の枠組みをある程度提示できれば、学習者は、大量に、しかも効率的に読むことができるようになる可能性がある。
A 授業内容の一つとしての「事実と意見」
 仮に学習者中心主義を貫き、教師の役割が管理者から補助者に変わったとしても、授業の教える内容については大きく変わるものではない。教える内容があるから、その教師は学習者の知的欲求に対応できるのであり、その部分に教師の需要があると思われる。
 論理的文章の読解において、「事実と意見」は、具体と抽象、個別(特殊)と一般の概念と関連する。具体で個別的である現象と、一般的・普遍的な性質や評価をつなげるものである。これは文章読解になくてはならない技術である。よって、論理的文章の読解をするための授業内容の一つとして、論理的文章は不可欠であるといえる。
B 表現技術について
 昨今、小論文を出題して、受験者に意見を述べてもらい、学習者を評価する大学が増えている。それら受験者に共通の欠点として、「事例不足」を挙げることはできないだろうか。判断文と判断文が直接つながり、接続詞の「そして」「しかし」が連鎖する。更には「〜と思うからです」「〜たいので」が原因・理由となるケースが見受けられる。言いたい意見を一つに絞り、適切な具体例を間に入れることが小論文では非常に重要である。同じ文章の中に対立する概念を入れた場合には、どちらかを否定し、どちらかを肯定する必要がある。これら表現技術を得るために、「事実と意見」は必要であると考える。

 ここまで、「事実」と「意見」が言語教育にとって必要である理由を三つ述べた。いずれも、言語技術として「事実と意見」を見た場合しかし、実際に文章を一文ずつ分析した場合に、事実と意見が明確に対立しない。例えば、以下の例である。

(1)地球は丸い。
(2)この山を越えると、富士山が見える。
(3)子供には遊び場が必要である。
 (1)-(3)は「事実」であるだろうか?「意見」であるだろうか?多くの学習者は、これらの文を「事実」と見るかもしれない。しかし、「事実」は時間内・空間内に存在する。これらの文に描かれた事態は現実の空間の中に存在するわけではない。
 このような問題を解決するために、比較的分析が容易である「事実」についての定義とその要因を4-1-1から4-1-3の間で考察する。

1-1-3日本語文法と「事実と意見」

 文法論の中の文論に、現象文と判断文、題述文と存現文、コトとムード、叙述内容と陳述、描写・記述・評価・解釈などの「事実と意見」に応用可能な分析がある。いずれも客観・主観、具体・抽象、個別・一般の分類に関わる問題である。

 これらの中で、客観・描写・具体は、おおよそ「事実」と一致する。しかし、「意見」の下位分類については、様々な見解がなされる。「意見」の中には、何らかの客観的・描写的・具体的な要素があり、主観的・評価的・抽象的な要素がある。しかし、どのレベルかを特定する場合に、様々な見解に分かれる。

 本論文は、事実と意見をいったん空間軸・時間軸の中に存在するものとそれ以外のものとして分ける。このように分けると、基本的に、動詞文と形容詞文・だ、である文・形容動詞文の二つに分割できる。これにより、日本語文法の諸研究の応用が可能となる。

 しかし、形容詞文・だ・である文、形容動詞文の中には、非常に事実に近く、書き手にとって事実と同じような役割が与えられる文が存在する。例えば、

(4)リンカーンは初代の大統領である。
(5)走っているのはTさんだ。
 これらは、ほとんど「事実」と同じような扱いをうける。これらの判断文は、「既定条件」といわれる原因・理由の表現「から」「ので」の従属節の中にあっても、そのまま文意が通じる。 (6)リンカーンは初代の大統領なので、日本でも有名だ。
(7)走っているのはTさんだから、金メダルは確実でしょう。
このように、従来の文法論の「現象文と判断文」の区別は、「事実」と「意見」を決める根本的要素、つまり、事態の具体・抽象や個別(特殊殊)・一般とそのまま一致しているわけではない。文章における思考の「すじみち」の出発点、言い換えれば推論の出発点は、常に土部(1973)で示された描写の文から始まるだけではなく、根拠の確かな判定文、書き手がほぼ事実と認定している他人の意見、書き手の直接体験など、さまざまな事態から始まることがある。  これらの問題を、三人称間接体験の「だ・である文」、形容詞文、形容動詞文の一部を「擬似事実」と仮に設定することにより、4-1-4 で明らかにする。

1-1-4「事実と意見」は、文のどの要素で決まるか?

 -本論文の観点についてー

 1-1-1の山田(1908,p.20)の文の定義から、一つの問題をとりだしたいと思う。

 「語」は、意味内容がアプリオリに決まっているため、「材料」として使われる。その材料を取りまとめることで、思想が表される。そこで、文末表現を見ることにより、およそ書き手がどのようにして書いているかが判断可能である。これは論理的文章の分類やロゴスの定義上からも言えることである。

 文末表現は、確かにその文がどのような性質を決める重要な要素である。それらは語と語とを繋げる関係語であるため、書き手の意図が出やすい。

 このことから、日本語の構造を実証するのに、述語や文末の形から事態の客観的と主観的、叙述と陳述の度合いなどを確かめようとする手法がなされている。この手法は記述的アプローチをとる上で、重要な認識ではある。しかし、ほかに手法はないのだろうか?実質的意味を持つ語、特に名詞を全て「材料」とする場合、その「材料」の量や質は問われないだろうか、という疑問がある。関係語の中の推量を考えた場合、不確実なものを確定的に叙述する書き手がいれば、確実なものを丁寧に配慮をもって述べる書き手もいる。この場合、「事実と意見」を区別することがしにくくなる。

 しかし、母語話者の読み手は、一見して書かれたものが事実の文であるか、意見の文であるかを高い確度で見分けられることもまた確かである。ということは、文末表現以外に、文章の中でなんらかの判断材料があるはずである。

 本論文の立場としては、「事実」「客観」「具体」これらがどこから生ずるかを、主に語の意味内容に求める。ある文を「事実」の文に見せている要因は、主に名詞の意味内容と述語の空間的意味・時間的意味、更に語と語との共起関係に求める。これらは多岐にわたるものなので、どのような場合に「事実」あるいは「事実」に近い文(仮に擬似事実と呼ぶ)となるのかは、まだ明らかにされているとはいえず、それを明らかにするのが、本論文の一つの課題である。

1-1-5事実と既定との違いに関する問題と「事実と意見」の適用範囲

 複文の中に、原因・理由・根拠などを示す表現手法として、「〜から」「〜ので」がある。これらは「確定条件」もしくは「既定条件」と呼ばれ、前件は書き手にとって「既定」の事態である。この前件の事態は、全て「事実」であるわけではない。根拠の確かな判定詞文(だ・である文)や形容詞文が「既定」になることがある。書き手にとって、どんな事態が既定事態かということは、まだ明らかになっていないのではないだろうか。

 書き手と読み手における共通の「既定」が、「事実」と「擬似事実」を合わせたものとほぼ等しければ、事実と意見の間における擬似事実の存在を検証したことになる。4-1-6では、その「事実と意見」の間において、「擬似事実」の存在を検証することを課題とする。そして、他の文章種(ルポルタージュ・随筆・文学的文章)の「から」「ので」と比較することにより、「事実と意見」を利用した分析の適用範囲を明らかにする。

1-2 論理的文章における条件表現「ば」・「たら」・「と」の問題

トップに戻る

1-2-1 なぜ条件表現が論理的文章の分析に必要か?

 ロゴス(論理)が、言葉を筋目・順序にしたがって並べていくことであるとすると、その筋道を示す表現、つまり推論の表現形式が必要となる。論理学において、この形式は、典型的には「〜ば、〜である」という形式で示される。

 しかし、論理的文章においては、「〜ば、である」形式のみでは論理が展開されない。論理的文章では、推論形式に多彩な表現形式が使われ、更に所々に書き手の直接体験や具体的な例を挙げながら展開される。結果日本語の条件表現は、多彩な表現形式を持ち、その使い分けが難しくなる。これは、英語の条件表現においても同じである。(cf.Asher(1994)

 従来の日本語の条件表現の研究に、れば/たらの使い分けに関する研究がある。一般的な見解は、「れば」が抽象的・恒常的で、「たら」が具体的・個別的であるということである。

 この「具体的・個別的」と「抽象的、恒常的」という概念は、論理的文章の分析に必要となる。「事実」の表現は具体で個別的である。そして書き手の言いたい「意見」の表現は真実に近い表現で、時間と関係のないものを目指すものであるから、少なくとも書き手の認識の中では恒常的な事態であるはずである。この関係から、「たら」「れば」の使い分けが何らかの文章分析に応用できるのではないかと考えた。

 しかし、実際の用例を見た場合、個別的な意味内容の「れば」、抽象的な意味内容の「たら」が用例として存在した。更に、実際の文章を読む際に、書き手が具体的な場面で「たら」、抽象的な判断を示す場合に「れば」を用いている形跡は見当たらなかった。

 ただし、「事実と意見」の中の「意見」と目される地点に条件表現とされる「ば」「と」が頻出していた。これらの現象は、条件表現が、論理的文章の中で、「意見」を構築するものであって、更に何らかの複数の働きを有していることを示す。よって、条件表現といわれる「ば」「と」の機能を追及することが、論理的文章の分析を進める一助となることが明白となった。これら条件表現の機能の解明が、この論文の大きな課題の一つであり、この課題に対してごく一部でも解明を試みることが、4-2全体の課題である。

 従来の研究では、「れば」「たら」「なら」「と」「ては」「ても」が、条件表現の研究の対象にされてきたことが多い。本論文は、その中で論理的文章に頻出する「ば」「と」「たら」に絞って分析を行う。実際には一部の「〜ときに」・「〜ては」「〜てからは」もしくは、シテ形接続などが、条件表現になることがある。

1-2-2 日本語文法における条件表現の問題@(定義の問題)

 「条件」の定義は、研究者によって様々であるが、大きく分けて二つの流れがあると思われる。条件の中に、原因・理由の表現「から」「ので」を含める立場と、含めない立場である。この二つの表現は類似している。

 「条件」と「原因・理由」の類似点と相違点はどのような点であろうか?『日本国語辞典』から引用する。
「条件」
  1. 約束事や契約などの箇条・項目。くだり。また、物事について限定したり制約したりする事柄。
  2. 物事の成立・生起に欠くことのできない事情。物事が実現するのに必要な事柄
  3. ある物事をするに当たっての事情
  4. 法律行為の(以下略)
  5. 数学でいう、命題「pならばq」のp。仮定、仮説 
  6. 哲学で、「もしAならばB」という含意型命題の条件節Aをさす。また十分原因と区別して、必要原因を表す
「原因」
  1. ある物事や状態を引き起こすもとになること。また、その事柄。もと。おこり
「理由」
  1. 物事がそのようになったわけ。子細。
  2. いいわけ。口実
  3. 哲学で、論理的関係では正しく結論 を導き出す論拠を言う。前提に置かれる。実在的関係では原因と同義。前者を論理的理由といい、後者を実在的理由ということもある。
類似点としては、「条件」(6)の「含意(二つの命題P、Qについて、Pが真であればQが真であること)型命題の条件節」ということと、「理由」(3)の「正しく結論を導き出す論拠」という表現を使っている点である。命題が真であればそれは正しい、あるいは間違っていないことに通じるであろう。更に、類似点として、「条件」(2)の「物事の成立・生起に欠くことのできない事情」と「原因」の「ある物事や状態を引き起こすもとになること。」が類似している。出来事や事柄が生起する順番は同じである。実在的関係では、原因と理由は同義であるので、「条件」「原因」「理由」は類似する。

 相違点としては、「条件」(5)の「仮定、仮説」という点であろう。原因・理由は推定することができるが、仮定することはできない。

 ここまでの考察は、「条件」と「原因・理由」の考察であり、条件表現と原因・理由の表現の考察ではなかった。言語表現としては、どのような定義となっているのであろうか。以下に定義を列挙する。

小林賢次ら編『日本語学キーワード事典』より
「条件表現」
 接続表現のうち「て」「つつ」などによる事態の単なる時間的連続、あるいは並行的な現象として把握されるものを除き、前件と後件とが、なんらかの因果関係をもって接続される表現。通常、順接条件、逆接条件に二大別され、それが仮定条件・確定(既定)条件のように分類される。なお、「条件表現」「条件文」を順接仮定条件に限るものとする立場もあり、その場合には逆接条件にあたるものを、「譲歩文」と呼んだり、確定条件にあたるものを「原因・理由文」と呼んだりすることになる。ここでは、上述の立場で説明する。
 ここから、因果関係をどう捉えるかが、条件表現をどう捉えるかにつながることが分かる。また、単なる時間的連続は「条件表現」から外れることが分かる。

 仁田(1987,p.17)より

 我々の世界に生起・存在しているもろもろの出来事や事柄の間には、ある出来事や事柄の成立が、他のある出来事や事柄の成立を前提とし、その、他のある出来事や事柄の存在が自らの成立の基因や要件になる、といった関係にあるものがある。これは、言い換えれば、ある出来事や事柄は、他のある出来事や事柄に条件付けられて、成立している(成立する)といったことである。・・・・
 仁田(1987)では、 に分割している。基本的用法として、この分割は一般的に受け入れられていると思われる。しかし、この場合の事実的であるということは、発話時に既に成立・存在することを意味していない。このことから、厳密に「事実」と「仮定」の表現とを分けると、例外の用例がいくつか存在することが分かる。このいくつかの例外を減らすため、4-2-2で「仮定条件の事実化」について考察する。条件として仮に設定されたものが、「こ・そ・あ」の働きによって事実化してしまう現象である。

南(1993,pp.198-199)の条件

 条件=「一般的に言って,あるものごとの成立(いわゆる後件として表現されるもの)にともなう別のものごととして設定されたもの(前件として表現されるもの)である。実際に起こる(起こった)ものごとでもよいし、仮定されたものごとでもよい。」
 この定義の観点では、条件が基本的に従属節であるということをしていると考えられる。また、この定義から「事実」、またそれを含めた「既定」と「仮定」が簡単に対立しないことが分かる。

 豊田「条件」(『日本語の文法U』アルクの通信講座)の定義

後件が成立するために必要なことを表す形で、普通は、未成立のものを成立しものと仮定して表す。
 この定義では、条件を明白に「仮定」と捉えているが、やはり「普通は」という言葉が、この定義であった場合に若干の例外を含むことを示唆する。

 欧米言語学の事典である Asher(ed.)et al.(1994)には、Conditional(条件法)について、以下のように書かれている。

Conditionals(条件表現)

In making plans, in evaluating actions, in justifying beliefs as well as In theorizing, hypothetical situations or deliberate counterfactual possibilities are frequently considered. Conditionals directly reflect this ability to reason about alternative situations.
They consist of two constituents, the first of which is called the ‘protasis’ or ‘antecedent’ and the second the ‘apodosis’ or ‘consequent’’. The antecedent expresses what is hypothetically (counterfactually, possibly)so, while the consequent states what, given this condition, will be(would have been, might be)

(日本語訳)
理論化する時と同様に、計画を立てる時、行動を評価する時、信念を正当化する時に仮説的な状況や計画的で反事実的な可能性は頻繁に考えられます。条件表現は、代替的な状況について推論する機能を直接表します。条件表現は二つの構成要素からなっており、一つは「前提節」あるいは「前件」とよばれ、二つ目は「帰結節」あるいは「後件」とよばれます。前件は仮説的に(反事実的に、可能性として)そのようであることを表現し、一方後件は、その条件のもとで、そうなるであろうことを言明します。
 この定義では、前件を完全に「仮定・仮説」として捉えており、その後に「推論する」(reason about)動詞がある。この定義から、条件の機能として、理論化、計画の立案、行動への評価、概念の正当化、推論などがあることが分かる。論理的文章には、評価や推論が頻繁に使われるので、この定義に、条件表現と論理的文章の大きな関わりが見られる。

 更に、Asher,et.al(1994)の条件表現の文法的な定義は以下の通りである。

Conditional, Grammatical(文法的な条件表現)

‘ Conditional’ or ‘if-clauses’ differ from other adverbial clauses of circumstance chiefly by virtue of having been adopted for special treatment by logicians. The logicians’ hook has been associated with ‘ and’ ‘or’ and negation as one of the handful of primitive semantic operators on sentences, and have elevated the ‘if’ clause to a suitable subject of study for philosophers and psychologists, as well as linguists.Nevertheless, the conditional protasis clause has much more in common with circumstance.
(1)a unlike the negative operator, but like both ‘and ‘ ‘or’, thehook connects two situations.
(1)b unlike the other semantic connectors,the hook is asymmetrical.
(2)a he conditional protasis is a dependent clause.
(2)b the relationship of protasis to apodosis is roughly analogous between cause and consequence, The protasis is a cause clause, and the primacy of the protasis reflects the primacy of cause over effect.
(2)c the protasis is hypothetical

(日本語訳)
「条件表現」あるいは「if-節」は、主に論理学者が特別に採用してきたことにより、他の副詞節と異なっている。「論理学者の鉤」は、「and」、「or」、否定など、文における根本的な意味操作の一部と関連付けられてきた。そして、「論理学者の鉤」は言語学者と同様に哲学者、論理学者の間で、「if節」を適切な研究題目として高められてきた。しかしながら、条件の前提節(前件)は、以下のような性質を持っている。

(1)a 否定の操作と違い、「and」「or」と同じように、二つの事態を結びつける。
(1)b 他の意味操作と違い、「鉤」は非対照的である。
(2)a 条件の前提節は従属節である。
(2)b 前提節と帰結節との関係は、大体原因と結果の関係と類似している。そして条件節が最初に来ることは、効果としては原因節が最初に来ることを反映する。
(2)c  前提節は仮説的である。

 この定義から、条件表現の特性としては、二つの事態をつなげること、従属節であること、非対称的であることが分かる。

 この定義から、どんなものが「条件表現」であるかは明らかである。しかし、このように仮定条件とそれ以外がはっきり分割されている英語にしても、やはり原因・理由の表現と類似しているようである。

 ここまで、いくつかの定義を見てきたが、日本語の条件表現に共通する点としては、

  1.  英語の条件表現のように、仮定条件のみとして捉えた場合に、例外が存在する
     例 :前件が事実の条件表現 (8)ここまで来れば、後は一人で帰れます。
    (9)それだけ食べれば、お腹も壊すよ。
  2.  条件について、広く捉える立場と狭く捉える立場がある。それは、「原因・理由の表現」を条件として含む立場と含まない立場である。
  3.  仮定と既定が対立しない。
がある。

 この問題を解決するためには、日本語の原因・理由の表現である「から」「ので」と、いわゆる順接仮定条件に使われる「ば」「と」「たら」を対比する必要がある。よって、一旦両者を別のものとして扱い、「条件表現」を狭く捉える。そして、仮定と既定の境目について考えていく。定義さえ、明確な共通見解が存在しない日本語の条件表現を、上記の3点に絞って分析することを、本論文の4-2-1の課題とする。

1-2-3 日本語文法における条件表現の問題A(事実をどう捉えるか)

 古典文法では、条件表現は、順接条件と逆接条件に二大別され、更にそれらが仮定条件、確定条件に二分される。「未然形+ば」が順接仮定条件、「已然形+ば」が順接確定条件、「と・とも」が逆接仮定条件、「ど・ども」が逆接確定条件である。このように整合的な分類に対して、「たら」「と」「なら」が加わると、非常に複雑な体系となる。更に、古来「已然形+ば」の意味領域は、現代では「から」と「ので」に取って代わられ、学校文法における「仮定形+ば」は用例の頻度で見た場合には圧倒的多数で仮定条件を示す用法となった。

 しかし、有田(1993,p.226)他多数が指摘するとおり、事実として明らかな事柄が条件節に来て、後件の時間内・空間内に存在しない事態に対する条件となることがある。実例を挙げると、

(10)ここまで来れば、後は一人で帰れます。
(11)それだけ食べれば、お腹もこわすよ。
 また、一回性の事実が連鎖する用例が「ば」「と」「たら」全てに存在する。この用例における「ば」「と」「たら」は、条件表現と取ることができない。以下の例がある。 (12)誰かと思えば、君だったのか。
(13)振り返れば、若い男が立っていた。
(14)どんぐりは、転がると、ころころ谷へおちていきました。
(15)薬を飲んだら、よく効いて、朝方までには回復した。

 また、確定条件の中の「ので」「から」の前件に、時間・空間の中に存在しない事態で、一般的な因果関係を表す用法がある。この問題が存在するため、時間的推移に関わる「確定条件」ではなく、「既定(条件)」として扱う。以下の例のような場合に、確定しているとは言いづらい。

(16)金星は、大きさも地球よりは少し小さい程度なので、「地球の双子星」といわれている。(ので-1を改変)
(17)夏は疲れるから、日中は仕事に出ない。(から-6)

 この問題を複雑にしている点は、仮定を「未実現のことがら」と捉えた場合に仮定は事実とならないが、既定もまた事実と限らないという点である。また、仮定を「仮に設定する」とした場合には、事実を含むことができるものの、事実は全て既定である。その結果、既定と仮定の境目は存在しないに等しい。この問を解決するためには、「事実」を特定した後、更に「既定」をどう捉えるかを提示する必要があり、それは「事実」より更に広い概念でなければならない。ここに、4-1と4-2のつながりがある。特に4-1-4の「数ルール」に関する概念は4-2-3で考察する際の基礎知識となる。

1-2-4 日本語文法における条件表現の問題B(前件と後件の関係)

 「ば」「と」「たら」の使い分けは、置き換え可能な用例が多い。条件表現相互を比較した場合に対立的な概念を当てはめると、例外の数が著しく増加する。「ば」「と」「たら」に関する使い分けの基準に関しては、未だ明らかになっていない。現在までの分類では、どう分類したとしても、共通した用例が存在するか、若干の例外を含むことになる。筆者もおおよその傾向のみでしか言うことができない。前件・後件の意味内容から見た場合には、影響を与える要素を複数考える必要がある。

 従来の条件表現に関する研究の中には、前件・後件との関連性によって分析する手法がとられているものがある。その中には、大きく分けて

がある。「従属節」に着目した分析の中には、 したものがある。

 しかし、「個別・一般」で条件表現を見た場合には、「ば」「たら」「と」全てに一般条件の用例が存在する。静的述語・動的述語で見た場合に於いても、一応、全ての用例に「動的述語」「静的述語」が使われている。

接続全体から見た場合には、「たら」「と」「ば」「ので」がほとんど同じ従属度である。「から」がその独立性の強さから分離されるかどうかが議論される。

これら、前件・後件の意味内容の関連(個別と一般、静的と動的など)と従属節の従属度が、「と」「ば」「たら」「から」「ので」の使い分けに影響を与えていることは間違いがないと思われるが、それらの複合は未だ解き明かされている訳ではない。筆者の分析では、静的述語もしくは客体から働きかけを受ける場合を「状況」とし、主体が積極的に働きかけるものを「行動」とした上で分析を行い、資料に入れた。それは4-2-1の分析の基礎資料となる。

更に、論理的文章の条件表現については、「ば」「と」の使い分けに絞り、ごく常識的な分析を4-3-1で行う。それは4-3-2の簡単な文章分析にとって、一つの仮説となる。

1-2-5日本語文法における条件表現の問題C(一般条件と個別条件)

 条件表現には、仮定と既定の区別とは別に、一般もしくは恒常条件と個別条件の区別がある。一般条件は「ば」「と」に存在する用法であるといわれ、個別に当てはめる時には必ず一般条件が背後にあるとされる。

 この一般的因果関係の表現は、時間を問題にしない表現で表され、主に「だ」「である」文で表される。形容詞文においては、複数の主体をまとめた主語から性質を引き出した形容詞文などは一般的因果性を持つであろう。

 この一般的因果関係は、「事実と意見」の中で、扱いが非常に難しいものである。個別的な事実では決してなく、かといって作者の言いたいことや判断であると分類するには、出来事・事柄間のつながりである因果関係と矛盾する。

 また、「一般」という言葉に二つの方向がある。語の概念に対する判定や語の概念から引き出された属性は、その語の適用範囲が広ければ広いほど多くの性質を含み、主体の間で見解が相違する確率が高くなる。つまり、「意見」として扱われやすくなる。しかし、その概念が全ての主体にとって共通認識である場合には、全主体の認識の中で「既定」の概念や属性となり、具体的な事態に変化してしまう。この場合、「意見」とすることはできない。つまり、「個別」と「一般」との関係と、「具体」と「抽象」との関係は同じではない。

 個別と一般の関係に、条件表現が関わっていることは、「一般条件」という言葉から明らかであるが、条件表現や原因・理由の表現に一般条件がどのように関わるかは未だ明らかになっていないと思われる。

 この関係がどうなっているかについて、ごく一部ではあるが、4-2-2で考察を加える。そして、この分析を論理的文章の構成の二分類に応用し、論理的文章における従来の一般的構成の是非を論ずる。

1-3 論理的文章の分析の一助としての「事実と意見」と「条件表現」

 これら条件表現に関する問題が明らかになったとして、最初の問題として、なぜ条件表現とされる「ば」や「と」が、論理的文章の、しかも「事実」以外の部分に頻出するかが明らかになっていない。また、原因・理由の表現である「から」「ので」は、評論文・説明文・論説文などの文章種に、筆者が予想したほどには多く出てこなかった。この原因について考察しなければならない。これら、条件表現や原因・理由の表現が論理的文章の中にどのように使われるかを示すとともに、文章分析の一助としての「事実と意見」「条件表現」の有効性を試す。

2章 先行研究

2-1「事実と意見」の先行研究

トップに戻る

2-1-1 文章論

 本論文は、文章論の中における論理的文章の分析である。日本語における文章論の分析の重要性を時枝(1950pp.242-250)が指摘して以来の素材や詞・辞の概念と対立するものではない。むしろ、時枝(1950)の素材の下位分類をし、そしてそれが詞や辞に与える影響について考察する論文である。
 他に、文章論における研究では、森岡(1972)に「意見」の記述がある。

 本論文の「事実と意見」は、さらに文章論の研究書のなかで、特に土部(1973)、土部(1990)における文章分析のための叙述層と関係する。叙述層のなかのごく一部の分析であるといってもよいだろう。

2-1-2 日本語学

 「事実と意見」は、日本語学のなかの現象文・判断文の別と、そのすべての応用分析に関連する。よって、1.現象文と判断文の定義に関する一部の先行研究と、本論文で数多く使用した 2.事物と事態にかんする先行研究とのみを挙げる。

  1. 現象文と判断文について

     「事実」と「意見」は、現象文・判断文と関係する。この用語は三尾砂『国語法文章論』で使われた用語であり、「場」の理論として捉えられたものである。
     しかし、本論文では、その後の佐久間(1966,pp.153-176)で分類された動的事象と静止的状態の区別として捉える。
    その分類は、寺村(1982)や寺村(1984,pp.81-82)で分類の基本となり、「物事の動作、でき事、変化」を表す文と「物事の状態」を表す文の区別として残っている。
     よって、本論文に使う「現象文」を主に寺村(1982)のいう動的事象の描写、「判断文」を、寺村(1984,p.81)の表にある、名詞+ダ(の類)、名(詞的形)容詞+ダ(の類)、形容詞、状態を表す動詞、とする。この分類は一般的なものである。

  2. 事物と事態について

     本論文で繰り返し使われる事物と事態を

    とする。

    この分類に関しては、基本的に渡辺(1971)の叙述内容と陳述、そして寺村(1982)の「コトとムード」などに従った分類である。

2-1-3 レポートの書き方

 「事実と意見」に関して知名度が広がった点については、木下(1982)や木下(1990)によるところが大きいといえる。

2-1-4 その他 哲学など(言葉の定義を中心に)

 本論文は、論理的文章に関する論文であるから、論理学・あるいは哲学の概念を使う。しかし、本論文の目的は論理的文章における文章分析手法の確立であるので、ここでは、本論文の目的に関わる

  1. 「真理観」
  2. 「概念」
の定義をしめし、本論文で使う語句については以下の定義に従うものとする。

  1. 真理観
     岩波書店『哲学・思想事典』より
    真理
    確実な根拠に基づいて正しいと認められた事柄。偽あるいは虚偽と対立する。
    真理の探究は哲学そのものの目標であり、特に西洋哲学では真理概念の解明は〈真理論〉と称され、論理学および認識論の中心主題となってきた。真理の担い手が事物・観念・思考・信念・認識・判断・文・命題のいずれかであるかをめぐっては論争がある。
    ……真理を表すギリシャ語のaletheia は「隠蔽」や「忘却」を意味するletheに否定や欠如を表す接頭辞aを加えた言葉であり、字義どおりには「非-隠蔽性」あるいは「隠れなさ」を意味する。すなわち、事象が覆いを剥ぎ取られて明らかになる〈発見される〉ことが真理の原義であり、ここには存在論的真理観の萌芽が見られる。事象を隠蔽や忘却から救い出し、それが己を提示する通りに〈語る〉ことがロゴスの本来的な働きであり、その意味で真理とそれを表現するロゴスとは不可分である。ハイデガーの言葉を借りれば、「ロゴスには隠れなさ(aletheia)が備わっている」のである。この点に、真理が言語表現に則して論じられるべき理由がある。

     真理観については、この「存在論的真理観」を採用する。論理的文章の中で書き手が真理を目指すということは、書き手が自己の概念を存在に限りなく近づけようとすることであるとする。

  2. 概念について
    概念 concept
     概念を表す西欧語の語源が「一つにして掴まれたもの」(conceptum)や「把握する(Befriff)」であるように、概念とは複数の事物や事象から共通の特徴を取り出し、それらを包括的・概括的に捉える思考の構成単位を意味する。概念は一般に内包(意味内容)と外延(適用範囲)をもち、その包括度に応じて上位概念と下位概念が区別される。表象や観念が心理的色彩を帯びているのに対し、概念はイメージよりも言語との結びつきが強く非心理的かつ論理的色彩が強い。概念が表すのは〈個物〉ではなく〈普遍〉であるが、その存在身分をめぐっては中世において〈普遍論争〉が繰り広げられ、普遍は実在するのか単なる名前にすぎないのかが争われた。

     書き手の認識の中に存在する思考の構成単位を「概念」とする。しかし、この定義と比べ、「共通した特徴を取り出し」という部分は用いない。これは、「共通の特徴」を人間が簡単に取り出せるかどうかを筆者が疑問視していることによる。

2-2「条件表現」の先行研究-「たら」「れば」「と」を中心に

トップに戻る

2-2-1 日本語史

 条件表現の起源は、山口(1994,p.18)によれば、順接仮定の「未然形+ば」、逆接仮定の「終止形+とも」順接仮定の「未然形+ば」、逆接仮定の「已然形+ば」、逆接確定の「已然形+ども」という、相互に対応性のめだつ四種である。これらの形式は、古代語から既に出揃っているという。その中で、順接仮定の「未然形+ば」の原形は、「未然形+む+は」と見てよい、(山口(1994,p.22)参照)ということが、日本語史における一般的な見解である。

 更に小林(1991)によると、順接仮定条件を表す形式は、古代語では「未然形+ば」に統一されていたものの、現代語では「バ」とともに「ト」、「タラ」、「ナラ」形式が共存し、それらの形式の異同が現在も問題となっているという。(小林(1991,p.122)参照))また、現在、学校文法で仮定形と呼ばれる「ば」形式の中に、

(18)花は、咲けば必ず散るものだ。 という恒常的・普遍的な〈条件-帰結〉の関係を示す場合、もしくは (19)桜も咲けば、梅も咲く。 という並列的な用法も広く認められ、また「思えば」の例をみると、 (20)だれかと思えば君だったのか。 のような確定条件の表現も行われている。(用例をいずれも小林(1991p.123)より抜粋

 つまり、日本語史的、通時的に非常に大きな問題として、何故「未然形+ば」が衰退して「仮定形+バ」「タラ」「ナラ」「ト」形式に取って代わられたのか、また何故「バ」形式が「確定条件」を一部残して失い、一部に関して自然な形でその用法を残しているのか、という問題が存在する。この問題に関して、仮定条件・確定条件の境目を研究することにより、解決する方法があるかもしれない。しかし、これらの表現の異なりには、方言による差異や書き手による認識の違いによる個人差が多く、簡単に解決できる問題ではないようである。

 これらは接続法の研究として扱われており、これら全ての表現を指して、「条件表現」といわれている。条件表現の定義が欧米言語の条件に比べて広い場合が多いのは、このような歴史的事情によるものであろう。

2-2-2 日本語学

 日本語の条件表現の歴史に関しては、有田(1993b)に詳しい。よって、本論文では、論理的文章の分析に関係する点に絞って分析を行う。

@仮定条件と確定(既定)条件について

 日本語条件表現研究にとって初期の、そして大きくまとまった研究に松下大三郎の研究がある。その研究成果をまとめた松下(1977)に、以下の記述がある。

「ば」の用法には、假定と確定との二種が有る。しかし世の文法家の間には假定と確定との區別に誤解が有る。次の區別に對して讀者の特に注意せられるやうに望む。
(以下仮定条件の部分のみ抜粋)
假定 未然 1 轉地(転地療養)したらば効果がありませう。
 常然 2 轉地(転地療養)すれば効果があります。

 確かに松下(1977)のいうとおり、2は仮定条件である。
対して、阪倉(1970,pp.258-259)は、

(21)常陸なるなさかの海の玉藻こそ、引けばたえすれ・・・(万葉集より) という例をあげ、これを「恒常確定」と呼ぶべきであるとした。この事をさらに、こどもにおける言語発達の段階を引き合いにだして、説明している。

 こどもにとっては、最初、その前に現れたり消えたりする事態の性質は、それが現れるたびに、非連続的に把えなおされる。一つの事態の構造の条件は、もちろん一定しない。こどもはその「おはなし」のなかで、しきりに接続詞をもちいて、これらの偶然的・瞬間的な状況の、客観的なつながりをつかもうとするが、しかし、事件とその前提条件とのあいだに、ある関係を設定して、これを「説明する」ことはできない。しかし、やがてこどもは、これらに脈絡をつけようと試みるが、その場合にも、まず生まれてくるものは、シュテルンのいわば転導性原理、すなわち一般的なものの媒介なしに、特殊なものから特殊なものを推理する方法である。これは、もちろん、合理的な思考法ではない。しかし、とにかくこのような推理をはたらかしながら、こどもは次第に、事物には原因から結果へと移行する性質のあること、結果にはかならず原因が含まれていることを、認識するにいたる。こうして、やがてこどもは、その日常経験の中になまの形でおかれている事態(類推の材料)を、その具体的場面から切りはなして、実在するもののそれぞれの因子を一定の系列の中に導き入れて、原因と結果の特別の系列をかたちづくり得るにいたるが、そのためにはまず、それぞれの因子を実在から切りはなして、範疇的な次元におくことが必要である。そういう範疇的思考の発達があって初めて、こどもにおける因果性の認識は可能なのであり、それが法則の概念にまで導かれるのは、青年時代に達してからのことである、といわれている。いま仮に、こういう精神発達の段階を、さきの条件表現の三段階にあてて見るならば、偶然確定は、ごく初期の段階に、必然確定は、せいぜい転導的推理の段階に、そして恒常確定は、一般的因果性認識の段階に、相当することもできようか。とにかく、この最後の段階においては、二つのがらが、もはや単に語られるのではなくて、説明されるに至っているのである。

 確かに、この段階説は、こどもの発達のみでなく、条件表現や、論理的文章を書く場合などに広く応用可能と思われる。4-2-3で応用する。

 この現然仮定か、恒常確定か、という問題は、山口(1980,p.80)がこのような現象を、一般条件と呼ぶことにより、解決したかのように思われる。筆者もこの一般条件という用語を使う。「現然」も「恒常」も「確定」も時間に関係する用語であり、完全に時間を捨象した関係である一般的な因果関係に使いづらいからである。

 しかし、問題を解決させる前に、ここに一つの問題がある。何故、松下(1977)と阪倉(1970)で、全く異なる見解が出されたのか、という問題である。松下(1977)と阪倉(1970)では、以下の用例を提出している。現代日本語に置き換える。

(22)転地療養すれば、効果があります。
(23)藻をとれば、絶える。
 これら二つの文には、いくつかの違いが見られる。まず、前件の意味内容であるが、(22)文では、転地療養する、という一定の期間を経ることを問題にしているのに対して、(23)文の「藻をとる」ことそのものを問題にしていて、時間が恒常的に反復している。これは、主体を明示すれば判断がつく。 (24){彼は/彼女は/その他個別の主体/誰もが}転地療養すれば、効果があります。
(25){*人間/*関西人/*病人/結核患者が}、転地療養すれば、効果がある。
(26){人間が/誰もが/*関西人が/*彼が}藻をとれば、絶える。

 また、後件であるが、「効果がある」は前件の行動を前提にした主体の評価であるのに比べ、「絶える」は前件の非特定、不定期の行動からの主体の意志が入らない結果を示すものである。つまり、(22)文は、非常に一般条件になりにくい文であり、(23)文は、一般条件にしかなることができない文である。

 更に、本論文では、二つの事態をつなげる条件表現で、前件・後件が時間を問題としない静的述語であれば、条件表現は、ほぼ原因・理由の表現と等しいことを4-2-1の分析結果Cで示した。

 このことにより、(22)文は明らかな仮定条件となり、(23)文は原因・理由の表現とほぼ同じ、恒常的な確定条件に近いものと認識されてしまう。

A個別と一般

 松下(1977,p.291)に以下のような、「ば」「と」の用例がある。

(27) 雨降りに外へ出れば濡れてしまふ。
(28) こんな日に外へでると濡れてしまふ
(29) 誰でも酒を飲めば酔ふ。
(30) 私は酒を飲むと眠くなる。
 ここから、松下(1977)では、「ば」は理論的、「と」は実際的なものとしている。この見解は、「ば」が一般的、「たら」が個別的であるとする立場と共に、多くの研究書でとられている立場である。

 しかし、本論文では、これらの立場と違った立場に立つ。事態の個別と一般を決める要因は、

  1. その事態が空間に出現する事態かどうか?
  2. 主体が特定か非特定か?
  3. 時間が一回限りか書き手の想定する時間軸の中で無限に繰り返すか?
  4. 「この」「その」などで時間が特定されているかどうか?
少なくとも、この四つの要因が主要であり、「ば」「と」「たら」に事態の一般・個別や具体・抽象、理論・実際を操作する要因は、あったとしてもごくわずかであると考える。先ほどの松下(1977)の用例を説明すると、
 (27)文が若干ながら「と」が使いにくい理由は、「濡れてしまう」の主体の評価の性質にあると考えられる。本論文の4-3-1で明らかにしたように、「と」は前件・後件ともに、何らかの主体の評価が入る語を入れにくい。しかし、 (31) 雨降りに外へ出ると濡れてしまう。
(32) 雨降りに外へ出ると濡れる。
どちらも許容されると思われる。
28文は「こんな日」が、事態を具体的・個別的・実際的に見せている。
29文が「と」に置き換えにくい理由としては、「誰でも」の「も」による可能性がある。 (33) 人間は、酒を飲むと酔う。 ならば、許容される可能性が高い。

 30文は、個別主体が実際的に見せる機能を果たしている。「私は、酒を飲めば酔う」は、やや不自然であるが、許容され得る。条件表現が主体を明示した場合に使いづらくなる可能性は、本論文の4-2-1の分析結果Eで提示した。

 このように、条件表現における「個別」「一般」「具体」「抽象」「理論」「実際」の概念に対しては、従来の通説とかなり異なった立場をとっている。

2-2-3 日本語教育

 久野(1973)に、物語調の文と会話調の文種に分割した上で、「たら」と「と」の事実的用法に関する現象の観察がなされた。「と」の用法に関する豊田(1977)の一連の研究、蓮沼(1993)の「たら」と「と」の事実的用法の使い分けを中心とする研究などがある。本論文では、資料における事実連鎖についての分類は、蓮沼(1993,p.78)に従った。

3章 研究の方法

3-1 事実と意見の研究方法

トップに戻る

3-1-1 事実の定義の分析方法

 「事実とは何か」については、様々な見解がある。よって、木下(1981)の「事実」と、「広辞苑」の事実を抜き出し、比較する。その方法により、論理的文章の「事実の表現」をする上で、妥当と思われる「事実」を定義する。

3-1-2 動詞文を「事実」の文にする要因の分析方法

 まず、従来、典型的な「事実」の文とされる動詞文を、時間的要因により「事実」になるケースと、空間的要因により事実になるケースに分割する。そして、先行文献(主に土部(1990)、土部(1973))を参考にして、事実の下位分類を行う。

3-1-3 直接体験・間接体験の違いによる「事実」の分析方法

 先行文献により、一人称・三人称や直接体験・間接体験の区別により、「事実」を支配する法則が明らかである。よって、これらをまず区別した後、一人称・三人称の区別と直接体験・間接体験の別の関係を考察する。

3-1-4 三人称の判断文における「事実と意見」を決める五つのルールの分析方法

 三人称の判断文は、基本的に間接体験領域であり、時間的意味から独立であるので「事実の文」といえない。しかし、原因・理由の表現などに判断文が使われるなど、書き手と読み手にとって既定の判定や事物の属性を表現した文がある。それらを「擬似事実」と仮に名づけ、そのような文になるケースを5つに分割して、それぞれを可能な限り実例をもとに考察する

3-1-5 想定された個別主体の行動(想定事例)の分析方法

 時間・空間内に存在しない事態で、個別の行動を想定することにより、具体的な事実の事態とほぼ同じ機能を持たせる手法が存在する。その手法をとっている渡辺実「言葉と意味と経験と」から、その用例を抜き出して、分析する。

3-1-6 論理的文章における事実と既定の分析方法

 論理的文章(説明文・評論文・論説文)の中から、「から」「ので」の前件の事態を抜き出して、既定が擬似事実と同じものかどうかを検証する。更にそれを文学的文章の「から」「ので」と比較し、その違いを考察する。

3-2 条件表現の研究方法

3-2-1 条件表現の範疇(仮定と既定) 分析手法

  • 中学校国語教科書における文学的文章以外の文章から、「ば」「と」「たら」「から」「ので」の用例を抜き出す。
  • 新潮文庫における文学的文章から、8つの短編を抜き出して、「ば」「と」「たら」「から」「ので」の用法を抜き出す。
  • 相互に置き換え可能な表現と、置き換え不可能な表現を提示する。
     ○  問題なく置き換えられる。
     ○▲ 置き換えられないこともないが、表現としていいにくい。
     ○? 置き換えられるかどうかあやしい。
     ×  置き換えられない。
  • 前件と後件の関係を分析していく。述語を中心に考える。
     前後関係については、以下の通りに分析する。
    主体が積極的に働きかける事態 行動
    静的述語もしくは客体から働きかけを受ける事態 状況
    「だ・である」文の場合 判定
    「ある」文の場合
    可能表現である場合
     存在
    前件を前提にした主体の評価(主に形容詞) 評価

    3-2-2 「こ・そ」に関する若干の前提と、仮定条件の事実化についての研究方法

     4-2-2で、一般と個別の操作を「こ」・「そ」で行うため、前提条件を場面指示の「こ・そ」に概念を絞ることによって分析する。さらに従来から問題となっていた「前件が事実化された条件」について「こ・そ」との関係を元にして考察を行う。

    3-2-3 一般と個別における条件表現と原因理由の表現

    ―論理的文章の構成の二類型との関連から―の研究方法

     まず、既定知識を持った場合の書き手を想定し、その書き手の知識が個別事例に当てはめられた場合にどのような表現を取るかを考察する。

     つぎに、阪倉(1970)が提示した事例から、個別事例から一般にいたるまでの過程を想定する。

     最後に、一般から個別へ至る文章構成と個別から一般へ至る文章構成とを比較する。

    3-3 論理的文章における条件表現の研究方法

    トップに戻る

    3-3-1 論理的文章における、「ば」「と」の文法による選択と表現による選択の研究方法

     中学校教科書の「ば」「と」から相互に置き換えられない用法を抜き出して、その違いについて考察する。

     そして、文法的な使い分けから、3-3-2における文章分析における「ば」と「と」の表現の選択理由を仮説として提示する。

    3-3-2 実際の文章分析の研究方法

     今までの考察から得たものを検証し、文章分析の一助とするために、実際に文章分析を行う。

    3-4 言葉の定義の補足

     ここまで、定義をしていない概念で、説明が必要と思われる定義を列挙する。

    事実
    時間内、空間内に存在した、あるいは存在すること
    意見
    時間内、空間内に存在していない書き手の見かた、考えかた。
    仮定
    事態を仮に設定すること
    既定
    書き手にとって、既に定まったことであり、時間の推移により変更できないこと 
    客観的
    主体が、客体の立場から見る、あるいは判断するとした場合の状態。論理的文章の表現においては、書き手はできる限り書き手の概念を公共の場で読み手に認めさせ、同調させようとするため、書き手は公平な判定者として、客観的な(誰が見ても同じほど主体の価値観を排除しようとする)立場をとる。
    客観的な文
    文に表現された事態を、表現主体・理解主体が客体の立場から見る、あるいは判断したと想定して、変わらないと判定した文。「誰がみても同じ」文。
    擬似事実の表現
    空間・時間内に存在しない事態で、書き手が変わらないもの(既定)であると認識している表現。論理的文章の場では、書き手は読み手に対して自分の見かた・考えかたに同調させようとするので、書き手は、自身が既定と認識する表現は、読み手にとっても既定であると認識する。
    書き手の想定した時間軸
    書き手が、自らの概念の中において想定している時間軸
    絶対的な時間軸
    現実態として流れている時間軸
    確言
    述語の言い切りの形を代表とするムードの形式。寺村(1984)に従う。
    概言
    何らかの判断を伝えるべき立場にいると主体が感じているときに主体が概してこのようであることを、相手に情報として提供する形式。寺村(1984)に従う。

    4章 考察・研究結果

    4-1 事実と意見の間-形容詞文・だ・である文・形容詞文の中の「擬似事実」

    4-1-1 事実の定義

    トップに戻る

     『広辞苑』第四版に、「事実」の辞書的意味として次のように書かれている。

    事の真実、真実の事柄、本当にあった事柄。
    (哲)本来、神によって為されたことを意味し、時間・空間内に見出される実在的出来事または存在。実在的なものであるから、幻想・虚構・可能性と対立し、個体的・経験的なものであるから、論理的必然性はなく、その反対を考えても矛盾しない。

     また、木下(1982,p.104)の事実の定義は以下のようになっている。

    (a) 自然に起こる事態(某日某時における落雷)や自然法則(慣性の法則);過去に起こった、人間の関与した事件(某年某日における某氏の出生)などの記述で、
    (b) しかるべきテストや調査によって真偽(それが真実であるか否か)を客観的に確認できるもの

     この二つの事実の定義は、一つ大きな点で異なっている。具体的には(b)の点である。広辞苑の「事実」は「その反対を考えても矛盾しない」と書いてあるのに対し、木下(1982)の「事実」は「しかるべきテストや調査」を行わなければ、「事実」とは言えない。

     この違いがなぜ出現するかを検証する。木下(1982)の「事実」の(a)における情報を3分割すると、

    1. 自然に起こる現象(某日某時における落雷)
    2. 人間の関与した事件(某日某時における某氏の出生)
    3. 自然法則(慣性の法則)
    1.2.3.を、広辞苑の「事実」の定義に使われた語彙に当てはめる。 1. 2.のグループと 3.とは、「経験的」「実在的」から見て、明らかに違うものである。また、広辞苑の定義の中でも、事実は個別的である、とは言い切れない。例をあげると、
    (34)人々は、強風や寒さと闘いながら、家を作り、暖をとるなど、生きるために森の木を切り続けた。(『魚を育てる森』)
    このように、一般的、要約的な事実が存在する。(土部(1973)の「記述」)
    また、
    (35)富士山がある。

    のように、書き手の時間認識の中で恒常的に存在する「事実」もあるだろう。

     3.の自然法則は、「経験的」「実在的」という「事実」のキーワードに合致しない。更に、これらの事態は、その自然法則が真であるかぎり、論理的に矛盾しないという制約が付く。

     これらの論拠から、木下(1982)と比較して、「事実」をより狭く定義する。つまり、1. 2. のみに「事実」を絞って考えると、(b)の定義も必要なくなり、定義がより厳密に、より整合的になる。よって、事実を以下のように定義する。

    事実≡時間内、空間内に存在した、もしくは現在存在すること

    4-1-2 事実の要因と動詞文(事実性)

     4-1-1で定義した「事実」を元に、なぜ動詞文/現象文で書かれた文が、論理的文章の中で、「事実」の文になるのかを考察する。@時間的要因 A空間的要因に分割して考える。

    1 時間的要因
     論理的文章の中に表現された事態を考える。まず、ある一定時点で実在した事態は、時間軸のなかに必ず存在する。事態を動詞文で描写する場合、動詞は、動的事態の描写が基本であるから、ほとんどの動詞に語彙的意味として時間の幅が存在する。つまり、時間軸内に必ず存在する。

    2 空間的要因

    動詞を形容詞とを分ける一つの区分として、動詞は、「何らかの表情、顔の表情や身体の動きによって現れる点」(寺村(1982,p.141))で形容詞と区別される。つまり、動詞で描かれた文は、外に動きがでることにより空間内に形として現れ、誰もが見ることが出来る。つまり、その事態は具体的であり、客観的な(誰が見てもおなじような)「事実」の文である。このように、動詞文に描かれた事態は、現実の空間内に存在すると書き手が認識したことにより、「現在」という時間軸の一部に存在することが自動的に保証され、「事実」の文となる。

     書き手が動的事態を論理的文章に写す場合の時間的要因と、空間的要因により、動詞文は基本的に事実の文となる。その事態は、描写可能であり、具体的である。しかし、全ての動詞に語彙的意味として、時間の幅があるわけではなく、事物と動詞意味との関係によっては、空間内に出現しないものが存在する。一例をあげると、

    (36)その動物は見た目に比べ、はるかに残虐性を持っている この例は、動詞文の形式をとっているものの、時間内、空間内に存在しない事態を写した文であるため、判断文となる。

     つまり、動詞文であるから、当然の結果として事実の文になる訳ではなく、動詞文が基本的に空間へ出る動きを描写し、それが時間軸に関連付けることができる文であるため、動詞文は事実の文になり、その文は具体的な記述や描写となる。

     このように、「事実」を表現することは、動詞文を書くこととほとんど同じであるが、全く同じではない。動詞の持つ空間的意味と時間的意味が要因となって、書き手と読み手にはそれが「事実」として見える。これら、「事実」の表現の背後に存在する意味内容を、「事実性(Factuality)」と名づける。「事実性」は、空間的意味と時間的意味からなる。空間に存在した、あるいは存在する表現は時間軸内において存在を保障され、時間軸の中に存在した、あるいは存在する表現は空間への出現を保障される。

     事実性により、事実を以下のように四つに分類する。土部(1973)を参考にしている。

    1. 一回限りの出来事のうち、現実に存在した、あるいは存在する場面における会話、情景描写(描写)
      (37)「危ないっ。」(『切ること創ること』)
    2. 一回限りの出来事のうち、現実にある、あった行動を描写したもの(行動的描写)
    3. 反復される出来事を一つにまとめたもの(記述)
      • 個別の主体が習慣にしているか、反復している事実(記述・個別主体) (38)「人間もゴキブリも、皆同じ仲間です。」生物科学について話をするときには、まず、ここから始めることにしている。
      • 複数の主体の動きをまとめた事実(記述・複数主体) (39)日本人はその昔、南太平洋の島々、あるいは東南アジア、中国の江南地方、朝鮮半島などからさまざまなコースを経て日本列島にやって来た。
      • 書き手が想定する時間軸の中に、存在しつづける事実(恒常的事実) (40)デューク大学はダーラムという町にある。 (恒常的・個別的事実)(『なぜ車輪動物はいないのか』)
        (41)ゾウリムシはこれを波打たせるように動かして、前進したり回転したりする。(恒常的・一般的事実)(『三十五億年の生命』)

    4-1-3 事実性と直接体験・間接体験 (一人称と三人称の問題)

     もう一つ、事実と意見を区別するために必要な概念が存在する。直接経験と間接経験の概念である。なぜなら、論理的文章においては、書き手がその事態を直接体験したか、間接的に体験したかによって、事実と意見を支配する法則が異なるからである。

     4-1-1で定義した事実に該当しない事態を表現主体(書き手)が論理的文章に書いた文は、判断文になる。判断文は、書き手の想定した時間軸に存在しない事態を写した文であるため、決して事実の文になることはないが、ある複数の基準を設けることにより、事実に近い文とそうでない文に分類することができる。よって、ここでは、事実の文と判断文に二分割することを目的とする。

     論理的文章において、書き手と文章中の動作主体が同じ場合、つまり一人称である場合、直接体験したことならば、それが可視的空間に存在した事態であっても、心理の内面を描写した事態であっても、書き手が直接体験したものとして、同じ事実の文になる。具体例を挙げる。

    (42)私はその案に納得できない。どうしても違和感が残る。(判断文)
    (43)私はその案に納得できなかった。どうしても違和感が残った。(事実の文)

     直接体験を描く一人称事態の場合には、可視的であるかどうかは問題とならない。事態が絶対的な時間軸に関連付けられるか、関連付けられないかによってのみ、事実の文であるか、判断文であるかが分類できる。

     三人称が動作主体である文は、多くの場合、間接経験領域の事態である。しかし、書き手が直接目撃した場合は、その事態は直接経験領域に取り込まれる。例えば、

    (44)彼はテニスをした。(という事態を私は目撃した。)
    このような事態であるなら、事実の文という認定ができる。

     間接経験領域では、表現主体(書き手)に経験的な事態として書いただけでは、まだ事実の文とは認定できない。これは、一人称では、事実の文と認定できる事態に概言のムード形式(〜だろう、〜と思われる、〜といえる、など)をつけることができないのに対して、三人称では概言のムード形式をつけることが可能であることからわかる。事実は書き手の中で存在認識が変化しないため、概言のムードがつかない。

    (45) 彼はテニスをしたと考えられる/思われる。
    (46)?私はテニスをしたと考えられる/思われる。
    (47) 彼はテニスをしたようだ。
    (48)?私はテニスをしたようだ。
    (44)と(45)の違いは、(44)が目撃したことにより直接経験領域に取り込まれた「事実」の文であるのに対し、(45)は推量で、間接体験しかありえない点である。

     このように、間接経験における事実の文が判断の文にゆれてしまう問題は、文章を論理的文章に区切ることで、かなりその可能性を小さくすることができる。論理的文章はできる限り客観的に読み手に情報を伝達することを目的とする文章であるため、書き手が不確実だと認識する情報が文章の中に出る可能性が少ない。しかし、歴史的な事態であり、かつその事態が、万人が認識するような確実な事態ではない場合に、まれに間接経験による動詞文が判断の文と解釈される可能性が存在する。一例を挙げる。

    (49)この論拠により、豊臣秀吉がこの寺を立てたといえる。

     このような特殊ケースを除き、論理的文章の中では、間接経験で描かれた動詞文も、事実の文として認定することができる。そうすると、残る問題として、三人称の判断文(形容詞文、形容動詞文、名詞+だ・である文)をどう事実に近い文と意見に分類するか、に絞られる。これらの文に描かれた表現は、書き手の想定する時間軸の中に存在せず、しかも間接体験領域となる。しかし、論理的文章では、これらの判断文が、数多く出現する。これらの判断文の中で、事実にきわめて近い事態を除くと、書き手が論理的文章の中で本当に述べたい意見の箇所をより明確に抜き出すことができるようになると考えられる。その分類法を提示する。

    4-1-4 三人称の判断文における「事実と意見」を決める五つのルール

     論理的文章の中で多く存在する文は、三人称であり、間接経験領域であり、判断文である。これらの文は時間軸の中に存在しないため、事実の文となることはできない。しかし、これまでの要因と事実の文との関係を応用することによって、それらの判断文を、書き手にとって既定である、事実に近い文と意見の文に分けることができる。これらの文を、「擬似事実」と名づける。擬似事実かどうかの判定は、形式的には「〜だから」、「〜なので」として、使用可能かどうかによって判定できる。

    以下のルールを提案する。

    T.空間ルールその事態が空間に形や色として存在すると書き手が書いているか否か?
    U.概念ルールその事態に対する概念が書き手と読み手の間で一意的に決まるか否か?
    V.時間ルール@(テンス的)その事態が絶対的な時間軸の一時点に存在したと書き手が書いているか否か?
    A(アスペクト的)その事態は書き手の想定する時間軸の幅の中に、反復して起こると書き手が書いているか否か?
    W.数ルールその事態は数多く存在すると書き手が書いているか否か?
    X.書き手の既定情報ルール書き手がそれを自明なものとして書いているか否か?

     これらは、今まで考察した事実の文と判断文の考察や、直接体験、間接体験の区別などから考察したものである。以下にその根拠と、そのルールに該当するケースを当てはめる。

    T.空間ルール

     間接経験領域の事態を書き手が最も具体的に読み手に提示するには、読み手の目の前にその事態を見せればよい。そうすると書き手も読み手もその事態が空間に存在することが確認でき、その事態は事実であると確認できる。

     実際には、論理的文章では、可視的な事態はいちいち検証する必要がない。論理的文章は、できる限り客観的に読み手に情報を伝達することを目的とする文章であるため、書き手が空間に見える事態が存在すると書いた場合、自動的に読み手もそれを確認できる事態として認識する。言い換えれば、空間に存在する事態を描く判断文は、限りなく事実に近い文である。

     これらは、寺村(1982,p.170)の「絶対的性状規定」のうちの一部に相当する。ただ、「絶対的」という言葉を使いづらい(例えば、「レンガが赤い」という事態でも、レンガの赤さに様々な度合いが存在する)ので、この名称で使う。この空間ルールを支える要因は、書き手にとっても読み手にとっても概念が一意的となること、つまりUの概念ルールであるのだが、視覚的に現れることにより、Uのルールよりもより具体化されるので、一番強いルールとして提案する。具体例として、

    (50)地球が丸い
    (51)赤い花が咲いている。
    などが、事実に近い、言い換えれば具体的な文として認定される。

    U.概念ルール(検証可能性)

     間接経験領域で示される事態は、形や色などの視覚要素が存在しないと、具体性が落ちる。しかし、明確な基準を設けてその事態を表すことにより、その事態は、書き手と読み手との共通認識となる。

     この「概念を一意的」にする手法として、いくつかの手法が存在する。その手法のうち、代表的な手法を3つ列挙する。

    @計測

     その事態の性質(長さや重さなど)を読み手と書き手双方に認識された基準で測ることで、書き手と読み手の概念を一致させることができる。論理的文章では、計測した結果を偽ることは、文の目的上あってはならないことなので、書き手が測定した事態を論理的文章の中に描いた場合、その事態は具体的な事実に近い文となる。

    (52)あの子は私より大きい。
    (53)あの子は私より3センチ大きい。
    (52)文よりも(53)文の方がより具体的である。 また、このような基数的(数えられる)ものではなく、序数(何番目)で事態を計測することも、具体性は落ちるものの、計測のうちに含まれる。

    A反対語

    反対語を利用することによって、具体的な説明を行うこともできる。反対語は、その概念の内容が、明確な基準を持って分割され、かつ読み手と書き手の間で共通認識となっているので、反対語が明確に存在する概念を事態に使用することで、具体的となる。例えば

    (54)この駐車場の料金は無料(有料)だ。

    この文は、お金を払う/払わない基準を意味に含む語彙なので、具体的な事実に近い文となる。

    B二項対立

    この概念は、反対語とよく似た概念であるが、対立する基準を書き手が主体的に決めることができる点で、反対語より広い概念である。読み手が同じ基準を採用すれば、その事態は具体的となる。

     

    概念ルールは、概念に対する判定やそれから引き出された属性に対する「検証可能性」と関係する。計測は、書き手と読み手の共通の基準で事物を判定したり、評価することから、最も具体的な検証手法である。反対語・二項対立は、測定しにくい事物や、もともと測定不可能な、概念に対する判定・評価に具体性を持たせるための検証手法である。

    基準を明確化することにより、書き手の概念の判定・評価の検証可能性が増す。論理的文章の場では、書き手が情報を偽って提出することは許されないので、書き手が検証可能な事態を論理的文章に表現した場合には、全ての主体はその表現を具体的な事態として扱うことができる。

    V.時間ルール

     間接経験領域では、書き手の想定する時間軸に存在した、とするだけでは十分ではないが、論理的文章の中で、書き手は情報を偽って載せることは許されないことから、書き手が論理的文章に、時間軸に存在したと事態を書けば、読み手はその文を客観的・具体的な文として認識する。時間軸に存在する事態の分類として、

    1 テンス的 絶対的な時間軸の一点に存在した、あるいは存在すると書き手が認識する場合

    2 アスペクト的 判定詞の前の事態が、書き手の想定する時間軸の幅の中に反復する場合を想定する。テンス・アスペクトの用語や意味内容については、工藤(1995,pp.43)の表に従う。

    @テンス的(絶対的な時間軸の一時点に対する関連付け)

    事態の中の述語(特に動詞)に、時間的な幅が認められ、そのことが、事態が時間軸に存在することを保証する場合があることは、すでに述べた。判断文においては、時間軸への存在を保証する語彙の場合を述べる。具体例として、木下(1982,p101)で指摘された例文を挙げる。.

    (55)ジョージ・ワシントンは米国の最も偉大な大統領であった。

    (56)ジョージ・ワシントンは米国の初代の 大統領であった。

    米国で、「初代の」大統領という語彙的意味が、絶対的な時間軸に関連付けられているため、(56)文は具体的な文となる。注目すべき点は、この文は過去形であっても、決して4-1-1で定義した「事実の文」にならないことである。また、下の例の場合、「ジョージ・ワシントンは米国の初代の大統領である。」としても、文の表す意味は変わらない。 

    Aアスペクト的(過去の事態における効力、もしくは影響力の持続)

     間接経験領域の形容詞文、だ・である文、形容動詞文は、基本的に文法のアスペクトから独立の用法であると思われる。

     しかし、「〜の作品である」「〜の発見である」などの、ある絶対的な時間軸の一時点で行われた事態が、変わらない事態としてその後の時間軸に存在しつづける場合、書き手が論理的文章を書く一時点においても変化することがない。そのような語を「だ・である」文の述語に書き手が描いた場合、具体的な事実に近い文となる。以下のような用例である。

    (57)三平方の定理は、ピタゴラスの発見である。
    (58)この絵は、菱川師宣の作品である。
    W.数ルール

     論理的文章の形容詞・形容動詞・だ・である文に関わる事態を考える。論理的文章の中で、「一般」には少なくとも二通りあると思われる。

    @述語によって表される、概念による判定や概念から抽出された属性を、まだ書き手と読み手双方に共通の概念となっていない、広い概念の判定あるいは広い概念の属性に当てはめる場合の「一般」

    A述語で表される、概念による判定・評価や、概念から抽出された属性が書き手と読み手双方にとって「既定」の概念であり、その概念の判定あるいはその概念の属性が多くの主体に信じられている場合の「一般」

    @の場合は、ある事例について説明したのち、事例から出た判断や属性をより大きな概念にあてはめる手法である。例えば、以下のような場合である。 

    森と海だけではない。自然界は、微妙なバランスを保ちながら、互いに関係し合って存在している。そのことを肝に銘じて、わたしたちは、自然の状態をよく知り、できるかぎりバランスを壊さないように考えるべきであろう。(魚を育てる森)   

    Aの場合は、「そちらの方が一般的だ。」などで使われる。「一般的」に多くの人が共通の概念を持っているという意味となる。

     このAの用法を利用して、間接経験領域の事態を書き手が具体的に述べる場合が存在する。論理的文章で、動作主体が「人間は」、「子どもは」など、動作主体が三人称で複数の事態であり、かつその事態が推論過程なしに論理的文章に表現される場合がある。その場合には、概念あるいはその属性は、多くの主体にとって「既定」である。論理的文章においては、書き手はその概念および属性を具体的な事態として表現したことになる。

    (60)人間は、果てしなく賢明で、底知れず愚かだ。(『この小さな地球の上で』)
    (61)人間は、車輪を支えるには軸の真上でまっすぐに支えればよいと、無意識に考えるものです。(『自転車の機能と形』)

    数ルールは、主体の数の多さだけでなく、主体が経験した出来事の数の多さにも関係する。以下のような事例で、「経験が多い」を使って、書き手が具体的なこととして書いている場合がある。

    (62)自分ではAだと思っていたものが、人からBとも言えると指摘され、なるほどそうも言えると教えられた経験は多いことだろう。(「ちょっと立ち止まって」)

     この文は、書き手は読み手の経験の数を知っているわけではないが、読み手にもこういう経験が必ず多いはずだ、という書き手の一方的な類推によって表現が成り立っている。読み手が同じ経験を数多くしている場合、「経験が多い」という属性は、書き手と読み手にとって共通認識となる。

     このように、主体の数、経験の数が多ければ多いほど、共通認識となる確率が高くなることを利用して、具体性を持たせる表現手法がある。

    X.書き手の既定情報ルール

     これは語と語との関係に関するルールである。また、書き手・読み手の知識構造に依存する。

     例えば、「きれいな人」「偉大な人」のように、概念が人によってまちまちであり、その概念に対する評価も人によって異なる事態がある。しかし、共起する事物が、読み手と書き手双方の共通認識であるほど評価の固定した事態であれば、その事態は、その事態は自明の事態として扱われる。例えば、「きれいな花」「クレオパトラは美しい。」「偉大なアレクサンダー大王」などである。

     このルールに抵触するような事態は、書き手が自明なこととして描いているので、読み手にとっても自明な事態である必要がある。よって、読み手による検証の方法として、以下の方法が利用できる。

    (63)花はきれいだ。
    (64)花はきれいでない。(汚い)

    (63)の事態と(64)の事態のような、反対の事態を比較して、片方がありえないのならば、書き手も読み手も自明である事態として論理的文章の具体例や根拠に使うことができる。

     しかし、論理的文章の中で、推論過程を経ない事態で、反対事態がありえない事態は、ありふれた一般論として、表現されるに過ぎない。

    以上、5つのルールを、三人称、間接経験領域の判断文の中で、具体的になる事態として提案する。事実と擬似事実をまとめた具体的な事態は、「空間に存在するか、概念が一意的であり、時間の中に存在するか、反復しても同じ事態が出現するものであり、しかもありふれたもので、自明なものである。」という事態であり、意見はその逆の事態である。つまり、この5つのルールに当てはまらない事態が、典型的な意見となる。

     

     4-1-5 想定された個別主体の行動(想定事例) 

     三人称・単数の間接体験の事例で、空間・時間内に存在しないが、ほぼ事実として扱っても良い場合がある。以下のような事例である。

    例えば、一人の幼児が道でワンワンと鳴く動物を見かける。幼児を抱いて散歩に来ていた母親は、あれは「イヌ」なのよと教えるであろう。このときに幼児は、自分がその特定の生き物を見た経験と、「イヌ」という言葉とを結び付ける。翌日、その幼児が、また別のワンワンと鳴く動物を見るとする。母親は、あれも「イヌ」だと教えるであろう。

                          (渡辺実「言葉と意味と経験と」)

     これは、絶対的な時間軸の中や空間の中に存在しない事態である。しかし、動きがある。その動きを表現として読み手に伝えることにより、読み手はそれを「動きのある事態」として受け取る。

     実際にこの表現が読み手に事実の表現として受け入れられるためには、読み手の経験の中にこのような経験が存在したか、もしくは経験していなくても、このような経験が広く存在することを読み手が認めていなければならない。

     論理的文章においては、書き手の意図を分析する手法の一つとしての「事実」と「意見」の分析をする場合、想起された個別的行動は、読み手にとっても想起しやすく、現実の経験や行動の中に事例を当てはめやすい。このことを書き手は既に予測していると考えられる。つまり、書き手がこのような事例を書いた場合には、書き手は一方的にではあるが、読み手の経験の中にこの想起された事例があると判断している。

    よって、分析者として読み手が書き手の意図を読む場合には、上記の連文は事実に近い連文、つまり「擬似事実」の連文として扱うことができるだろう。

     4-1-6 事実と擬似事実(既定とは?)と文章種について

             -「事実と意見」の有効性とその範疇-

    4-1-4で示された「擬似事実」の表現とは、意味内容として考える場合には、事実とほぼ同じ意味をもった書き手の判定・評価あるいは事物の属性を示す表現である。これは、書き手にとって、「既定」の表現であるということにほかならない。 擬似事実」の表現を形式的に考えた時には、論理的文章の中の「から」「ので」の前件になることができる事態、ということであった。この概念は本当に使えるのであろうか?また、使える範疇はどの文章種あたりまでであろうか?具体例から検証する。

    評論文・説明文・論説文の場合
    (65)金星は、大きさも地球よりは少し小さい程度である。(ので-1)

    この場合の「金星・大きさ」は形に見えるものであり、ここで、既に具体化がなされている。更に地球と比較することにより、大きさの度合いが定まりつつある。この文に、概言のムードがつくことが出来ないことからも、この文が、ほぼ事実として扱われていることがわかる。

      

    (66)この現象は、農家が普段使う温室の中の状態と似ている。(ので-2)

     「この現象」(地球の温度が上がっていく現象)そのものは長期的であり、視覚性のあるものではないが、「農家が普段使う温室」のような可視的で、しかも見る確率の高いものと比較することにより、具体性を持つ。

    (67)DNAは、細胞を構成する主な物質の一つである。(ので-4)
    この書き手の中には、既に「主な物質」のリストが出来上がっており、その中にDNAが入っているものと推測する。高校生以上の学生にはごく常識となっている事態であるが、「主な」をどのように解釈するかによっていくつかの意見に分かれる可能性のある文となる。

    (68)DNAは、どんな生物の細胞中にもある。(ので-4)
    やはり、この書き手の中に、「生物の細胞にはどんな細胞の中にもDNAがある」という「既定」の情報が出来上がっている。条件表現とのかかわりを考えると、

    (69)生物であれば、細胞中にDNAがある。

    という一般的因果関係の知識がこの書き手の中で既定化しており、それが根拠になっている。 (70)水が蒸発するときに熱(気化熱)を奪う。(ので-13) これも、書き手の既定情報である。この情報の話し手である物理の専門家の知識には、「水が蒸発すれば、熱(気化熱)を奪う。」という一般的因果関係が知識の中にある。 

    (71)ダニは、数や種類が多い。(ので-22)  これも、やはり一般知識に支えられているような、「書き手の既定情報」に支えられた情報である。 (72)(このしゃべりは)職業的に十分訓練と経験を積んだ者の、野球という限定された状況のもとでの「しゃべり」である。(から-32) この文が根拠になるためには、「アナウンサーがしゃべりについて、訓練と経験を積んでいる」という一般知識と、ラジオのアナウンサーの野球放送についての知識が前提となる。このうち、ラジオの野球放送の具体例については、文章の前の文脈で提示されているので、もし「アナウンサーはしゃべりについて、訓練と経験を積んでいない」という反対知識が成り立てば、この根拠は崩れる。

    (73)日本の次は韓国の一六・七パーセントである。(から-37) 計測による具体化である。この場合、文章中に表現されたものに関していうと、事実に限りなく近い事態であるということは、この事態に概言のムードをつけることができないことから明らかである。しかし、この統計の計測方法や出所によっては、これが事実を正確に反映した表現であるかどうか疑わしくなる。 

       (74)めいめいの持っている心理的領域が大きく、ふところが深い。(から-42) この場合、完全に「書き手の既定情報」のルールに依存するほかはない。反対事態を考え、 (75)めいめいの持っている心理的領域が大きくなく、ふところが深くない。 という判定・評価・属性判断のいずれかが成り立てば、原因・理由として成り立たない。 ここまでの文例から、「事実」と「擬似事実」で、「既定」を説明可能であるといえる。しかし、書き手の既定情報ルールは、書き手と読み手の知識に依存するルールであるため、読み手の判断によっては、擬似事実にも意見にもとれる可能性がある情報である。この点について、4-1-7で書き手の既定情報の有効性について考察する。

    ルポルタージュの場合

    (76)肌寒い。 書き手の直接体験による行動に対する原因・理由であるから、このような場合も「事実」の事態と判断することができる。 (77)風そのものは見えない これは、全ての人にとって、「既定情報」と呼べるものであろう。

    随筆 の場合

    (78)若い非常勤講師の月給は安い。       書き手の既定情報 (79)小さな店である。             直接体験、空間ルール (80)夏は疲れる。               直接体験 (81)日本は島国、海に囲まれた国である。    空間ルール (82)時間は貨幣と同じく大切なものである    書き手の既定情報 (83)盆地である。               空間ルール (84)この地下室は、自分たちがほった穴である。 直接体験、時間ルール(アスペクト的) (85)「ウイ・ケイム」は、この世に生まれてきたということである。 書き手の既定情報 (86)ミルクはヒロユキの御飯である。      書き手の既定情報 (87)下の妹はあまりに幼く、不憫だ。  直接体験 随筆の文章種では、「直接体験」までをルールに含むことによってなんとか既定を分類できる。しかし、ルポルタージュや随筆は、個別主体の出来事の連鎖を表現する文が多く、その文においては、個別主体の感情や時間によって揺れ動く属性が原因・理由の表現となり、書き手と読み手にとっての「既定」とは言いがたくなる。

    文学的文章の「から」「ので」

    文学的文章の場合、「事実を述べる」「見かた・考えかたを書き手と読み手の間で共通させる」といった制約が外れる。よって、既定の一般的因果関係を述べる「から」「ので」はごく少数であり、登場人物の個人的事由を物語文章の作者が見通して書く原因・理由が多数である。書き手と読み手の共通認識としての「既定」として分析不能なものを☆印でしめす。

    (88)洛陽は、天下に並ぶもののない、繁昌を極めた都である。(文から-1) 空間ルール    (89)御金には際限があります(文から-3) 書き手の既定情報    (90)元より人跡の絶えた山です。(文から-6) 時間ルール    (91)税金が高い。 書き手の既定情報    (92)月がある(文から-41)  空間ルール ☆この男の父母は、畜生道に落ちている筈だ(文から-8)

    ☆きっと車に一ぱいの黄金が埋まっている筈だ(文から-5)

    ☆ほんの暫くでいい(文から-19)

    ☆その時には自分が酔っていて故人を認めずに襲いかかるかも知れない。(文から-15)

    ☆そいつは象のことだ(文から-24)

    ☆それでも仕事が忙しいし、かかり合ってはひどい(文から-26)

    ☆かかりあっては大変だから(文から-25)

    ☆待て居ると気の毒だ(文から-38)

    ☆道が悪くってお菊が可哀そうだ(文から-40)。

    ☆関わない(文から-42)

    ☆今日は自宅へ持て帰て少は手を入れたい(文から-35)

    ☆その家を畑ごとお前にやる(文から-10)

    ☆小屋に備えてある衾が余りきたない。(文ので-6)

    ☆厨子王は姉のと自分のと貰おうとする(文ので-7)

    ☆優しい処が有る。(文ので-18)

     ここまで、様々な文章種における「から」「ので」から、擬似事実と既定との関係を探ってきた。説明文・評論文・論説文まで、ほぼ、事実+擬似事実=既定といえるであろう。ルポルタージュについては、書き手が直接体験したことをある個別の出来事の連鎖として書くため、「から」「ので」の前にある文が書き手と読み手にとって「既定」であるとはいいにくくなる。

     随筆に関しては、やや考察を加える必要である。随筆の論理的文章との類似点は、架空の出来事を書くことが許されない点である。これは、随筆の字義どおりの定義である「筆のおもむくままに書いた文章」という定義と矛盾する。また、随筆の文学的文章との類似点は、出来事の連鎖が含まれる点である。この出来事の連鎖は、架空の出来事を書くことが許されないため、書き手の直接体験となる。この意味で、通常の随筆とは異なった定義を置く。

     

    随筆=ある書き手の見かた・考えかたを、自らの個別の直接体験を通して読み手に認めさせ、同調させようとすることを、基本的機能とする文章

    一つの個人的体験を提示することで、一般因果関係を導くことは、論理としては非常に成り立たちにくい。事実は多ければ多いほど真実を示す確率は高くなるのに、ひ とつの出来事のまとまりで、真実を説明しようとすることに無理があるからである。 よって、随筆は論理的文章といえない。しかし、架空の出来事が許されないという制約によって、「事実と意見」の分析の枠組みが使用可能となる。

     文学的文章は、あるものの見かた・考えかたを出来事を通して間接的にのべる文章であるため、出来事が事実かどうかを問う必要はない。

     よって、「事実と意見」の分析可能な文章種の適用範囲は、架空の出来事を書くことが許されない文章種までであるとする。

    4-1-7「事実と意見」と一般的因果関係

           -書き手の既定情報ルールの問題点と有用な点-

     本論文は、「事実と意見」の中の「意見」の範疇、すなわち時間・空間に存在しない事態から更に「擬似事実」の事態を取り出し、その表現はどのようなものであるかを分析した論文である。「擬似事実」の表現の特徴は、

     ・述語の性質が、ほぼ時間的意味と関係のない表現である。

     ・書き手と読み手にとって、共通の認識となる可能性がある意味内容が表現されている。

    である。このような事態は、自然法則や数式・定理、経験則などの一般的因果関係を含む。これらを事実とした場合に起こる一番大きな問題は、一般的因果関係を事実として書き手と読み手の共通概念として捉えてしまうと、その法則を読み手が知っているかいないかによって、事実が揺れ動いてしまう、という問題である。論理的文章における「事実と意見」は、事実が書き手と読み手の共通基準となるから有用なのである。

     だから、「事実」と「擬似事実」の境目を分けた。しかし、これでもやはり、「擬似事実」の中に読み手の知識によって揺れ動くルールが、「書き手の既定情報ルール」として存在する。

    書き手の既定情報ルールを設けた理由は、専門性を重視した評論文の読解や科学的論説文の読解の場合にはっきりする。専門性の高い文章の場合、暗黙の常識を提示する部分が必ずといってよいほど存在するからである。例えば、(67)文の「DNAは、細胞を構成する主な物質の一つである。」の判定の裏にある知識は、「DNAは、生物における主な物質の一つである」ことが前提となっている。

    文芸評論におけるものでは、

    (93)『十六歳の日記』は、そのみずみずしさにおいて、『伊豆の踊り子』に匹敵する作品である。

     このような文が推論過程なしに入った場合、その反対の命題が成立しない、書き手の既定情報ルールとするよりほかはない。「書き手の意図を読む」という点において、かなりあいまいなルールである。

     しかし、このルールには一つの利点がある。「書き手の既定情報ルール」の部分を抜き出すことによって、「書き手がどのような読み手を対象としているか」という書き手の意図を読むことができる点である。DNAの文では、少なくともDNAという物質が存在して、それが細胞の主要な物質であるという知識を持った読者を対象としている。文芸評論の例においては、書き手は少なくとも川端康成の作品をほぼ全て読破し、その中で『伊豆の踊り子』と『十六歳の日記』を比較できるほど読み込んだ技量の読者を対象としている。

     これらのことから、書き手の既定情報ルールは、分析の一方法として有用であり、「擬似事実」の中に加えられるべきルールであるとする。

     

    4-2 条件表現と原因・理由の表現(仮定と既定)

      トップに戻る

    4-2-1 条件表現の範疇(条件表現と原因・理由の境目を中心に)

    意味内容として、条件表現と原因・理由の表現を分ける根拠を、「設定」に求める。

    「条件」は設定することができるものである。

    「原因・理由」は設定できないものである。

     「条件を設定する」ということはできるが、「原因・理由を設定する」ということはできない。前件の意味内容の違いを考慮した場合、特に前件と後件との関係を比較して「仮定」「既定」の意味内容を把握しようとした場合に、「条件」と「原因・理由」の表現を分割することが必要となる。この場合、「条件表現」はかなり狭いものとなる。

    別の立場として、「ば」「と」「なら」「たら」「のに」「ので」「から」「ても」などを全て条件=主体が設定できて、設定したもの」と捉えることも可能であろう。しかし、「既定」と「仮定」の構造、そして「事実」を可能な限り追及するため、いったん両者を分割する。

    原因・理由の表現をする場合、表現主体(書き手)は原因・理由の表現を、書き手が設定できないもの=書き手にとって既に決まったことであり、変わらないこと(既定)として扱っていると思われる。そして「から」「ので」は、原因・理由の表現の一部であるので、書き手は「から」「ので」節に、既定の事態を表現していると言って良いだろう。

    一方、条件表現で、論理的文章に出現する頻度は、「ば」「と」「たら」の順で多くなる。これらは、前件(従属節)の事態を仮に設定する(仮定)用法を持っている

     では、「ば」「と」「たら」と「ので」「から」では、どの場合に類似の表現となり、どの場合に異なる表現となるのだろうか。既定(書き手にとって既に定まったこと)と仮定(書き手が仮に設定すること)の意味が重なる部分と相違する部分を考える。

      条件表現と原因・理由の表現が完全に相違する部分
    ・「ば」「と」「たら」が「から」「ので」に置き換えられない場合

     資料の用例全666例中、条件表現と原因・理由の表現が置き換えられる可能性のあるもの(○▲以上で、一つでも○▲がつけば数える)ものは、 73 例である。このうち、完全に置き換えられるものは、その数分の一である。

     まず、「ば」「と」「たら」の中で、「観点の提示」や「連想」、「思考」に関わるもの、つまり「〜見れば」「〜いえば」「〜聞けば」「考えれば」「思えば」などが、「から」「ので」に置き換えることができない。言い換えれば、思考作用の表現や観点の提示の表現は、ほぼ「ば」「と」「たら」で表されるといってよいだろう。

     次に、行動仮定の場合、あるいは空間にでる動きの表現が仮定される場合に置き換えることが出来ない。これは、条件表現においては、時間・空間に出る事態を「ば」「と」「たら」で仮に設定すると、非現実の事態になりやすい、ということが挙げられる。逆に、書き手にとって既定の事態をそのまま提示する原因・理由の表現では、空間・時間に存在する事態の表現がそのまま事実の表現になる。

    ・「から」「ので」が「ば」「と」「たら」に置き換えられない場合

     以下のようにまとめることができる。

    @主節の事態が、事実(特に過去)・擬似事実の事態である場合の要因説明

    (から‐1、2、3、17、25、26、42、44、ので‐1、2、12、13、16、17、19、20、24、27、28、32、35、44、)

    (93)毎土曜の夕食をそこでとっていたから、二か月もすれば顔なじみになった。(から-2)   (94)特に金星は、大きさも地球よりは少し小さい程度なので、よく「地球の双子星」とさえいわれていた(ので-2)    条件表現と大きく異なる。条件は、後件の事態は、前件の条件なしに成立しないが、この場合、後件の事態は、前件無しでも成立する。

    A行動、もしくは働きかけられる状況→行動の因果関係(から‐43、ので、-7、8、9、16、25、34、36、40、42、) (95)勘定のときパンも一人分しか要求されないので、「パンは二人分です。」と申し出たら、(ので-7) 「ば」「と」「たら」と大きく異なる。条件表現の前件と後件が行動である場合、価値観の入らない単なる継起表現(事実的用法)」になる。(資料 6-11ページの「と」の用例の事実的用法より)

    B既定事態(事実、擬似事実)→一人称の感情(から-、5、9、10、15、20、23、ので-6、23、26、)

    (96)「夫の弟がベトナムで日本兵に虐殺されているので、あなた個人になんの恨みもないけれど、日本人だけはこの家に入れたくないのです。(ので-6) 条件表現に感情的表現が後件に入ることは少ない(資料1-11ページより)

    C既定事態(事実、擬似事実)+否定的表現→否定的な判断 (から-4、6、14、15、24、30、33、34、38、39、41、ので-14、31、) (97)そのころは食べ物が十分になかったので、母は僕たちに食べさせて、自分はあまり食べませんでした。(ので-16)
    D既定事態(事実、擬似事実)→対人的な要求(から-8、12、21、ので-18、30、)

    (98)しかしだれもが、障子は欠陥商品だから、もっと強度を上げろとは主張してはいない。(から-21)
    E既定事態(事実、擬似事実)で過去の状況→肯定的な推量、評価 (から-40、35、36、37、ので-4、5、11、13、15、21、29、33、37、38、39、43、)

     前件の「既定性」を排除することで、条件表現になる可能性がある。

    (99)それに無意識に反発しているから、ああいうふうに疲れるのであろう。(から-40) ・条件表現と原因・理由の表現が共通する部分

     条件表現が原因・理由に置き換えられるケースでは、大多数が前件・後件共に静的述語である用例となった。以下に前件・後件のパターンと、その用例を挙げる。

      「ば」の場合

    ・存在仮定→状況

    (100)雲があれば{あるから/あるので}、雨が降る。(ば-4) 存在の表現の場合、「雲がある」という事態を仮に設定すると、書き手はその背後に「雨が降った時に雲があったケース」と、「雨が降らなかったときに雲がなかったケース」と「雲がなかった時に雨が降ったケース」「雨が降った時に雲がなかったケース」を想定すると推測する。前2つのケースになる確率が圧倒的に多く、後2つのケースになる確率が圧倒的に小さいので、この推論が成立する。

    既定事態として提示した場合、二つの状況が考えられる。 @圧倒的な確率で、「雨が降った時に雲があるケース」と、その対偶が成り立ち、そのため、書き手にとって一般的・普遍的な「既定」となってしまっている状況。この文章の前後の文脈は、「金星」における話であり(地球に置いては「雲があるから必ず雨がふる」とは限らない。)雲の存在/非存在を問題にしているので、時間の幅を問題にしないほど長くとれる。よって、この文が既定事態として成立する。 (101)雲がある{から/ので}、必ず雨が降る。 A「雲があれば、雨が降る」という一般的因果関係を、個別に適用した場合 (102)今、雲が{*あれば/あるから/あるので}雨が降る。 時間を捨象した場合には、以下のようになる。 (103)金星では、雲が{あれば/あるから/あるので}雨が降る。 ・存在仮定→評価

    (104)時が来たとき自動的にチンチンと鐘が鳴る時計があれば{あるから/あるので}祈りの時刻を気にしなくてすむ。  (ば-21) この場合、書き手は、条件として仮に想定した場合には、「時が来たとき自動的にチンチンと鐘が鳴る時計」があるケースと、「時が来たとき自動的にチンチンと金がなる時計」がないケースを想定して、あった場合に関して評価をしている。 既定として想定した場合には、時計があるケースの個別化といえるだろう。 (105)今日は、時が来たとき自動的にチンチンと鐘が鳴る時計が{*あれば/あるから/あるので}祈りの時刻を気にしなくてすむ。 時間を捨象した場合のケースでは、逆に「から」「ので」が使えない。

    (106)時が来たとき自動的にチンチンと鐘が鳴る時計が{あれば/*あるから/*あるので}祈りの時刻を気にしなくてすむものだ。 ・ 状況仮定→状況

    (107)大雨が降り続いていれば{いるから/いるので}、金星の表面には海が生まれているはずである。(ば-5) この場合、時間の限定ができないので、(金星の表面に地球人が存在することはできないので)一般条件としてのみとらえられる。 (108)大雨が降り続いてい{れば、るから/るので}、金星の表面には海が生まれている。(原命題)   (109)金星の表面には海が生まれていな{*ければ/いから/いので}、大雨が降り続いていない。(逆) (110)大雨が降り続いてい{なければ/ないから/ないので}金星の表面には海が生まれていない。(対偶) (111)金星の表面には海が生まれてい{*いれば/いるので、いるから}大雨が降り続いている。(裏) 原命題の裏と逆の表現では、前件の事態に「は」が入ることによって、「れば」が使えなくなる。このことから、前件の「は」は条件表現の使用の可否に関わると考えられる。

    (112)金星の表面に海が生まれていな{*ければ/いから/いので}、大雨が降り続いていない。 ・判定仮定→存在(所有) (113)アサガオであれば{あるから/あるので}、「種子で増える・つるがある・葉の形は・・・花の色は・・・」などという、アサガオとしてのさまざまな性質を示すための情報をDNAがもっている。 (ば-11) この場合、時間的な個別化ができない。また、この場合逆も対偶も成り立つ。 
    (114)アサガオであれば{あるから/あるので}、アサガオとしてのさまざまな性質を示すための情報をDNAがもっている。(原命題)
    (115)アサガオとしてのさまざまな性質を示すための情報をDNAがもって{いれば/いるから/いるので}、アサガオである。(逆)
    (116)アサガオとしてのさまざまな性質を示すための情報をDNAがもってい{なければ/いないから/いないので}、アサガオでない。(対偶)
    (117)アサガオでな(ければ/ないから/ないので)、アサガオとしてのさまざまな性質を示すための情報をDNAがもっていない。(裏) 

    また、この場合、以下のような個別化が可能である。
    (118)この花は、アサガオ{*であれば/であるから/であるので}、アサガオとしてのさまざまな性質を示すための情報をDNAがもっている。
    (119)この花も、アサガオ{であれば/であるから/であるので}、アサガオとしてのさまざまな性質を示すための情報をDNAがもっている。
    このように、「は」「も」が、条件表現の成否を左右する場合がありうる。 ・判定の仮定→判定

    (120)快便であれば{あるから/あるので}健康であるのは言うまでもない(ば-122)
    この表現に関しては、類似の表現で、4-2-2で考察する。

    以下の場合も、条件表現と原因・理由の表現が置き換え可能となる。しかし、これらの用例の分析を行うためには、否定表現の知識、可能表現の知識、事実連鎖の知識が必要となる。よって、これらは用例を示すにとどめる。

    ・状況の非存在の仮定→類似した状況の否定

    (121)大人が気がつかなければ(つかないから/つかないので)、子供だって空を見ない。(ば-12)
    ・存在仮定→状況の可能

    (122)弱いダニがいなくて、強いダニばかりになっていれば{いるから/いるので}、そこは自然が荒らされつつある所と診断できるはずだ。(ば- 74)
    ・行動の否定+仮定→状況の否定

    (123)当人に似ていなければ{似ていないから/似ていないので}ファンは買ってくれない。
    ・行動の否定+仮定→否定的評価

    (124)動かなければ{ないから/ないので}見えないかというと、必ずしもそうではない。
    ・反応

    (125)「横着者奴」と宮崎が叫んで立ち掛かれば、{るので/るから}「出し抜こうとしたのはおぬしじゃ」と佐渡が身構をする。(文ば-20)
    「たら」の場合

    明確に意味が同じで置き換えられるものは用例にはなかった。やや意味が異なる表現では、 ・判定の仮定→状況

    (126)犬だったら、すぐテーブルから飛び下りて鼻先を床につけ、くんくんかぎ回って、たちまち肉を探し当てる。(たら-4)
    ・判定の仮定→評価

    (127)カメラだったら{だから/なので}二千分の一秒くらいか。(たら-23)
    ・状況仮定→評価

    (128)「いなくなったら{なるから/なるので}寂しいでしょう。」(たら-39)
    ・「と」の場合

    ・非存在仮定→状況

    (129)腐植土がないと{から/ので}、こうした調整作用が失われ、雨は地表を流れ、直接河川に入る。 (と-87)

    ・状況仮定→状況

    (130)さらに、森林がなくなり腐植土層が消失すると{から/ので}、その下の鉱物土層がむき出しになる。   (と-88)

    ・反応

    (131)台風が去って、太陽が照りつけると{から/ので}、強い塩を含んだ水をかぶっている葉っぱは、太陽の熱で、塩焦げるのです。

             

    ・発見(反応)

    (132)たまたま志村さんのような人がそれを樹木全身の色として見せてくれ ると、{から/ので}はっと驚く。          (と-109)

    置き換えられるが、表現の意味が異なる場合

    ・反復的な時

    (133)お正月になると{から/ので}、大阪で商いをしているおじさんのところに、縁者が集まる。   (と-12)

    ・状況(行動の受身)仮定→判定

    (134)この線でくぎられると{から/ので}、ことばが違う異国である。(と-66)

    ・反応

    (135)艶かしいほどの黒い体が宙に舞うと{から/ので}、海水は銀色に輝くしぶきになってはじけ散る。

    このようなケースが考えられる。

    前件・後件が静的述語であっても、条件表現と原因・理由の表現が置き換えられないケース

    ・状況仮定→否定的評価

    (136)気持ちが晴れなければ{*晴れないから/*晴れないので}おいしくないことを教えられたのは、この鰻屋だった。      (ば-56)  

         

     これは、連体修飾の中に「から」と「ので」が使えないことによる。以下のように変更すると、置き換え可能になる。

       (137)気持ちが晴れなければ{晴れないから/晴れないので}おいしくない。

    ・判定仮定→どこでも+状況

    (138)太陽光線が十分に得られる所であれば{*あるので、/*あるから}どこの海にでも造礁サンゴが成育し、サンゴ礁が発達するかというと、必ずしもそうではありません。

     「どこの海にでも」の場合、複数の場所を後件で表すので、前件が・原因・理由とならない。このケースは、「〜さえ〜すれば、〜する」といった場合の十分条件を示す場合である。

    (139)太陽光線が十分に得られる所であれば{あるので、/あるから}造礁サンゴが成育し、サンゴ礁が発達する。

     主体の明示+状況仮定→可能

    (140)日本もふくめて、ほんのひと握りの一五パーセントが、きれいなお水が飲め、病気

    にかかれば{*かかるから/*かかるので}お医者さんにも行ける。

     この場合、病気にかからないケースが想定できない。後件の可能は、「評価」に近いものと思われる。暗に、「日本を含まない、残りの85パーセントはきれいな水が飲めなくて、病気にかかっても医者に行けない」という事実がある。

    ・状況仮定→可能

       (141)自分自身が少しずつでもわかってくれば{*くるから/*くるので}、人に対して、  

            自然に優しい心を持つこともできると、わたしは思います。

    前件の条件節の中に入っている「でも」の問題である。ここに「でも」が入ると、前件に評価性が入り、既定の事態になりにくいと推測する。

    (142)自分自身が少しずつわかって{くれば/くるから/くるので}、人に対して、自然に優しい心を持つこともできる。  

    ・主体明示+状況仮定→評価

    (143)背中の傷が脊椎カリエスになれば{*なるから/*なるので}致命傷になりかねないが、そんな事はあるまいと医者に云われた。{文ば-36}

     この場合、前件はまだありえない状況でしか想定されない。「脊椎カリエスになる場合」と「脊椎カリエスにならない場合」が想定される。

    「と」で、静的述語にも関わらず、「から」「ので」に置き換えられない場合

    ・状況仮定→判定

    (144)川の水かさが増してくると{*ので/*から}、そこから水があふれ出る仕組みです。(と-14) 

     これは、連体修飾の中に「から」「ので」が入らないことによる場合である。以下の分にすると、「から」も「ので」も使われる。

    (145)川の水かさが増してくると{ので/から}、そこから水があふれ出る 。

    ・行動の否定的仮定→状況

    (146)これでは、目を開けて外を見ていないと{*から/*ので}、うっかり乗り過ごしてしまうことであろう。 (と-18)

     これは、後ろの推量の助動詞「であろう」による影響である。

     

    「たら」の場合

    ・ありえない状況仮定→それは+判定→評価

    (147)目を閉じている乗客がいたら{*いるから/*いるので}、それはほんとうに眠ってしまっている人であると断じて、ほぼ差し支えあるまい。(たら-9)

     推量の助動詞「まい」と、「それは」が影響を与えている。構造的に、仮定の状況でしか捉えられない文例である。

    「から」の場合

     「から」「ので」の場合、後件に過去形がくると、多くの場合置き換えができなくなる。そのため、「ば」「と」「たら」が「から」「ので」に置き換えられるものより少なくなる。

    ・状況(非意志的動作)→評価

    (148)みんなばらばらで死ぬから{死ねば/死んだら/死ぬと}もっとかわいそうだった。(から-16)

    ・不可能→状況

    (149)だれも泳げないのですから{であれば/であったら/?であると}、カヌーで湖や川を渡っている時にカヌーが転覆すれば、必ずでき死者が出ます。  (から-44)

      前の文脈から、書き手が「ヘアーインディアンが誰も泳げない」ことを既定としているか、仮定としてとらえているか、両方に解釈できる。主題を明示した場合、書き手が、前件を書き手と読み手の共通認識であると思っている場合

    (150)ヘアー・インディアンは、だれも{泳げないから/泳げないので/*泳げなければ/*泳げなかったら}、カヌーで湖や川を渡っている時にカヌーが転覆すれば、必ずでき死者が出ます。

     書き手が、前件を書き手と読み手の共通認識と思っていない場合

    (151)(ヘアー・インディアンの中の)だれも泳げないのであれば、カヌーで湖や川を渡っている時にカヌーが転覆すれば、必ずでき死者が出ます。

    ・判定→可能

    (152)野球という限定された状況のもとでの「しゃべり」ですから{であれば/であったら/であると}スリリングな雰囲気とともにその内容を聞き取り、理解することができるのです。 (から - 32)

    ・行動の否定→状況

    (153)相手が全く動揺を示さないので{*なければ、/なかったら/ないと}雄猫は次第に不安になってきた。(ので-3)

    ・状況→判定

    (154)外側にしみ出る水が蒸発するときに熱(気化熱)を奪うので{奪えば/奪ったら/奪うと}、いくら火をたいても、外側の熱は中まで伝導しないからだという。

    ・不可能→不可能

    (155)二人とも歩くことができないので{できなければ/できなかったら/できないと}顔を見ることもできません。

     

    以上、これら実例の分析より、考察された結果を述べる。

    分析結果

    分析結果@「考えれば」「思えば」などの思考関連と、「〜から見れば」「〜からいえば」の立場・観点の表示は基本的に「ば」「と」「たら」で表される。この場合、前件の意味内容が存在するかしないかによって、条件と呼ぶことができないものがある。

     論理的文章に区切って話をする。この分析結果は、書き手が思考することと観点として提示することが、文章を書く時点において書き手と読み手の既定事態でないことを考えると、ごく常識的な分析結果であろう。しかし、このことから、論理的文章に於いて、思考のすじみちを示す表現は基本的に条件表現であり、論理的文章の組み立てに条件表現が深く関わっていることを示す。

    ただ、どのように深く関わるかについて、ここまでの考察では明らかになっていない。条件表現がどのように論理的文章に深く関わっているかを実証するには、文章全体の分析が必要である。よって、4-3で「ば」と「と」の使い分けを観点の中心にして、文章分析を行う。

     

    分析結果A行動を仮に設定する場合と、既定事態をそのまま提示して原因・理由として前件に提示する場合、「ば」「と」「たら」と「から」「ので」は、明らかに置き換えができない。

     空間に出る動きを仮に設定すると前件は非現実の事態になり、空間に出た事態として原因・理由としてそのまま提示すると、それは既定の事実の事態になる。基本としては以上であるが、この場合、前件が明らかに事実の事態である場合が例外として残る。この前件が事実の条件表現について、4-2-2で若干の考察を加える。

    分析結果B前件と後件がともに、存在・判定・状況・評価などの静的述語の場合、相当数の「ば」「と」「たら」と「から」「ので」の置き換えが可能である。

    不可能・行動の否定などの空間に出現しないものを含む。

     空間に出現しない事態の場合、「から」「ので」の理由や原因が、判定や存在であると、一般的な共通の知識として「既定」である場合と、一般条件を「既定」とした個別への適用との場合がある。主体や時を明示した場合に、両者は分割される。

     この詳しい考察については、4-2-3で行う。

    分析結果C前件・後件が含意関係の場合、原因・理由の表現と条件表現は同じ表現となる。

     前件を仮に設定した場合の事態に対する判定や属性であっても、その前件と後件との関係が恒常的に成り立つ関係であれば、それは、真の関係として全ての主体にとって共有される判定か、属性となることになり、ほぼ存在することに等しくなる。その結果、原因・理由による因果関係とほぼ同じことになる。

    行動仮定の前件の事態は、空間・時間軸の中に存在する事態である。その事態を仮に設定すれば、必ず非現実の事態となる。逆に、空間・時間軸の中に存在する事態を「既定」として提示すると、それは「事実」の事態となる。このことにより、行動仮定の場合、両者は別の表現となる。2章の阪倉(1970)と松下(1977)の恒常確定と現然仮定の明確な対立は、ここに由来する。

    また、行動仮定がどれだけ時間の中で繰り返す事態であったとしても、それは確率的にしか、結果の事態と結びつかない。よって、行動仮定→結果の関係は、原因→結果の関係と全く同じとなりにくい。この事から、行動仮定の条件表現は原因・理由の表現と同じ意味になりにくいことを説明することが可能であるだろう。以下のようにことわざを変形するとわかる。

         (156)犬が{歩けば/*歩くので/*歩くから}、棒にあたる。

    分析結果D条件表現と原因理由の選択は、個別と一般の選択に関係する。この場合、「は」 「も」を入れることによって、個別と一般の操作が可能である。また、「は」を入れることに関係するが、「主体+は、が(主体の明示)や、時の明示によって、個別と一般を操作できる。更に、個別と一般を操作する方法は、「こ・そ・あ・ど」で行うこともできる。更に、「こ・そ・あ・ど」は、既定に関連し、「から・ので」と条件表現を分割する要因となる。

    これらの操作により、条件表現と原因・理由の表現の使い分けが異なる。

     「こ・そ・あ・ど」がどのように既定に関連するかは、4-2-2の仮定条件の事実化で考察する。一般と個別と「こ・そ・あ・ど」、「は・も」との関連については、4-2-3で分析を行う。

    分析結果E主体の明示、特に主題の明示をした場合に、条件表現と原因・理由の表現の使い方が明確になるものの、日本語では条件表現に主題を明示すると、文法的に誤りとはいえないまでも、表現として使いにくい。

     この考察については、4-2-3で行う。

    分析結果F前件と後件の事態が、状況→状況の場合と、状況→主体の評価の場合とで、分けて考える必要がある。前者は対偶や裏が存在するのにたいして、後者はその状況が存在する場合としない場合しか想定できない。

     これは、論理学を学習していれば、常識であったかもしれない。「〜であれば、私は〜と評価する」という文が、一般的因果関係を表わすことができないのはいうまでもない。本論文の4-2-3では、一般的因果関係と個別との関係を考察するため、状況→主体の評価の部分を考察しない。

     しかし、今までの条件表現の研究においては、この二つを明確に分離しているものはあまり存在しない。また、本論文では、便宜上主体の意志性に関わり得るものをほぼ「評価」としたが、何が評価であるかについて考察が加えられていない。今後の課題とする。

    以上、七つの分析結果を並べた。解決していない考察については、次節以降により詳しい考察を加える。

     

    4-2-2「こ・そ」に関する若干の前提と、仮定条件の事実化について

    4-2-1で、条件表現と原因・理由の表現の使い分けに関して、「こ・そ・あ・ど」が影響を与えている例が若干見られた。4-2-3で一般と個別に関する理論的な考察を加える際にも、これら指示詞と呼ばれているものを応用する。

     このうち、後件に「ど」を使う場合には、複数の事例を想定できてしまうため、原因・理由の表現になりにくいことは、4-2-1で述べた。実例を再掲すると、

    (157)太陽光線が十分に得られる所であれば{*あるので、/*あるから}どこの海にでも造礁サンゴが成育し、サンゴ礁が発達するかというと、必ずしもそうではありません。     

    また、論理的文章では、「あ」系の指示詞はあまり多くない。中学校国語教科書の論理的文章中で、連体詞の「あの」「その」「この」の用例の多さについて調べてみると「あの」が 48 例であり、「その」は 788 例であり、「この」は 537 例であった。よって、「この」「その」について、若干の考察を加える。ある状況における「この」「その」の違いが、4-2-3の用例の一般と個別を操作する上で、必要になるからである。

     まず、以下の状況を想定する。

    (158)この象は、耳が大きい。

    (159)その象は、耳が大きい。

     この場合、両方の例とも現実の場面に表現主体(話し手・書き手)が存在し、話していることが想定できる。いわゆる場面指示の「こ・そ」である。これは「耳が大きい」という視覚情報による。

    (160)*この象は、耳が大きければ、アフリカ象である。

    (161) この象は、耳が大きいので、アフリカ象である。

    (162) その象は、耳が大きければ、アフリカ象である。

    (163) その象は、耳が大きいので、アフリカ象である。

     この用例の場合、「この」が使えなくなる。この要因について考察する。「この」の文では、表現主体は場面に存在している。現在、象を見ているのである。一方、「耳が大きい」という情報は、視覚情報である。場面に存在する表現主体にとって、視覚情報は動かすことの出来ない既定情報である。よって、場面に存在する表現主体は、視覚情報を条件として想定することはできない。

     「その」の文では、視覚情報であれば、同じように条件として想定することはできない。しかし、「その」の場合、聴覚情報として受け取ることが可能である。書き手が象のいる場面に存在しない場合を想定できるようになる。

     この「こ・そ」の違いは、場面指示の中の、しかも「こ・そ」が修飾する名詞が空間に存在できる名詞である場合の想定である。しかし、このケースでは、以下のことがいえる。

     空間にでる名詞の場合、

    「この」の文では、主体は場面(個別場面)の中に存在している。「この象」は視覚情報である。

    「その」文では、主体は場面の中に存在しているとは限らない。「その象」は聴覚情報と視覚情報の両方の可能性を持つ。

    4-2-3では、「この」の性質を利用して、個別と一般の操作を行う。
    ・仮定条件の事実化について

     条件における一つの問題として、事実として明らかな文が条件として設定される場合がある。この場合、「こ・そ」が、仮に設定した条件を事実化してしまうケースがある。以下のような例である。

    (164)ここまで来れば、後は一人で帰れます。

    (165)そこまで来れば、後は一人で帰れます。

    下の文は仮定の条件文であり、上の文は事実として明らかな事態の条件文である。しかも、下の文の主体は「あなた」であるだろう。この違いを説明すると、

    「ここまで」の場合、到達地点は表現主体と理解主体が発話時点に存在する地点であり、「来る」動作は現時点までの時間軸内に収まる。この場合、主体はこの「来る」動作を仮に設定したとしても、「ここまで」という指示詞によって、「来る」動作が自動的に過去の時間軸の中に設定されてしまう。

    「そこまで」の場合、到達点は、少なくとも表現主体と理解主体ともまだ到達していない地点であり、「来る」動作は、自動的に未来までの動作となる。この場合、仮定条件として扱うことしかできない。また、私が「来る」動作は、未到達の地点へ続く動作としては不自然であり、「行く」動作でなければならない。

    (166)*私は、そこまで来れば、後は一人で帰れます。

    (167)私は、そこまで行けば、後は一人で帰れます。

    このように、仮に設定した事柄であった場合でも、「これ」「それ」などの指示詞によって事実化してしまう場合がある。これを、「仮定条件の事実化」とよぶ。以下の用例である。

    (168)それだけ食べれば、お腹も壊すよ。

    (169)これだけ食べれば、お腹も壊すよ。

     これら仮定条件が事実化する用法には、いくつかの特徴がある。

    ・指示詞がある。

    ・行動仮定である。

    ・後件は、状況を表わすものではない。(本論文で使っている主体の「評価」である。)

    これらの特徴が重なった上で、事実として明らかなことが条件として設定される。

     事実として明らかな事態が条件設定される事態が、このような特殊な状況でのみ成立するものならば、これらを例外として扱うことができる。よって、「既定と仮定」の境目を狂わせる要因が、(ほんのひとつだけであるが)解消されたといえるだろう。

    4-2-3 一般と個別における条件表現と原因理由の表現

               -論理的文章の構成の二類型との関連からー

    論理的文章の中で、「一般」には少なくとも二通りあると思われる。

    @述語によって表される、概念による判定や概念から抽出された属性を、まだ書き手と読み手双方に共通の概念となっていない、広い概念の判定あるいは広い概念の属性に当てはめる場合の「一般」

    A述語で表される、概念による判定・評価や、概念から抽出された属性が書き手と読み手双方にとって「既定」の概念であり、その概念の判定あるいはその概念の属性が多くの主体に信じられている場合の「一般」

    この@とAとの違いを述べる。

    @は、文章の構成に関係し、個別から一般にいたる過程で、事実から中心意見を述べる際に使われる、論理的文章で広く使われる手法である。

    Aは、文章の中に突然出現する「一般」である。既定化された一般的因果関係・あるいは知識といえる。

     ここでは、まずAのケースを考え、それが論理的文章にどのようにして出現するのかを考える。ついで、書き手がその一般的因果関係にたいして未知のケースを2章で引用した阪倉(1970)の事例から想定し、その擬似構成としての@のケースを考える。

     既定化された一般条件や原因・理由が文章に出現するケース

    一般的因果関係が既定である場合を考えるため、前件・後件ともに状況(主体の意志が入らない)ケースを考える。

    対比がはっきりしており、なおかつ性質が時間によって揺れ動かない性質である用例

    (170)耳の小さい象で{あれば/あったら/?あると/あるから/あるので}インド象である。 

    (171)耳の大きい象で{あれば/あったら/?あると/あるから/あるので}アフリカ象である。

     書き手は、「世界にいる象は二種類に分けられる。インド象とアフリカ象である。そしてアフリカ象とインド象を見分ける個所は耳であり、耳が大きければアフリカ象、耳が小さければインド象である。」という知識をもっているとする。

     主体が明示的に描かれていない場合、特定(個別)の主体を考慮することもできれば、非特定(一般的)の主体を考慮することもできる。非特定の主体を入れる。

    (172)象は、耳が小さい象で{あれば/あったら/*あると/*あるから/*あるので}インド象である。(一般条件)

    「象は、耳の小さい象であれば」という表現に無理が存在するので、以下次のように言い換える。

    (173)象は、耳が{小さければ/小さかったら/?小さいと/*小さいから/*小さいので}インド象である。(一般条件)
    非特定(一般的)主体が明示的に描かれる場合、「から」「ので」は使えない。これは、「象の耳が小さい」という属性が、全ての象に当てはまらないことによると考えられる。

    この文の背後には、以下のような対比があるものと推測する。
    (174)象の中では、耳が小さければ{小さかったら/?小さいと}インド象であり、耳が大きければ{大きかったら/大きいと}アフリカ象である。
    (173)文の主体を個別に適用する方法は、少なくとも二通りあると思われる。 
    (175)この象は、耳が{*小さければ/*小さかったら/*小さいと/小さいから/小さいので}インド象である。 (種の性質を利用した一般条件の個別への適用)
    (176)この象も、耳が{?小さければ/?小さかったら/?小さいと/小さいから/小さいので}インド象である。(他の個体を利用した一般条件の適用) 

    種の性質を利用した一般条件の個別主体への適用は、基本的には「から」「ので」でなされる。この場合、「この象の耳が小さい」という事態が、書き手にとって視覚情報であるため、条件を想定することができない。視覚性が抜け落ちた場合には、条件を想定することが可能になる。
    (177)その象は、耳が{小さければ/小さかったら/?小さいと/小さいから/小さいので}、インド象である。 (聴覚情報を含む場合の判定)
    前件が視覚に現われる情報であり、その視覚情報が時間によって揺れ動く事態の場合

     次に、前件に動詞文を入れ、「行動仮定」の場合を考える。この場合、カバの例をだす。書き手は、カバについて一定以上の見識があり、「鼻の穴を丸くしていれば健康であり、鼻の穴を丸くしていなければ病気である」という既定知識をもっているとする。

    (178)鼻の穴を丸くしていれば、健康である。

    このケースに、非特定(一般)の主体を入れる。
    (179)カバは、鼻の穴を丸くして{いれば/いたら/いると/*いるから/*いるので}健康である。(一般条件)

     この場合、やはり、「から」「ので」は相当いいにくい。これは、「カバが鼻の穴を丸くしている」という状態が、全ての個体の状態に当てはまらないために、「から」「ので」が使いにくいのではないかと思われる。

    (179)文の一般条件の個別主体への適用は、少なくとも三つのケースが考えられる。
    (180)(目の前でカバが鼻の穴を丸くしている場面で)このカバは、鼻の穴を丸 くして{?いれば/?いたら/?いると/いるから/いるので}、健康である。(種の性質を利用した一般条件の個別化)
    (181)鼻の穴を丸くして{いれば/いたら/?いると}、このカバは健康である。(行動の時間的変動を利用した一般条件の個別化)
    (182)このカバも、鼻の穴を丸くして{いれば/いたら/いると/いるから/ いるので}健康である。  (他の個体を利用した一般条件の個別化) 

    (175)(176)文の一般条件の個別主体への適用と比べ、このケースでは、(181)文のような行動の時間的変動を考慮した個別主体への適用が可能である。(181)文の場合、背後に以下のような対比があると推測する。

    (183)鼻の穴を丸くしてい(れば/?ると/たら/るから/るので)このカバは健康であり、鼻の穴を丸くしてい(なければ/なかったら/?ないと/*ないから/*ないので)このカバは健康でない。(ケース分け)

    (184)このカバは、鼻の穴を丸くしている時には健康であり、鼻の穴を丸くしていない時には健康でない。(行動の時間による変動)

     (180)文で、条件表現で示すことができるかどうかは、場面によって異なるだろう。(180)文の場合、表現主体とこのカバが初対面である場合には、条件表現を使うことは出来ないが、話す時点以前に、何回も会っており、経験上、「このカバが鼻の穴を丸くしていれば健康である」ことを知っている場合には、条件表現の使用が可能となる。

     このことから、一回きりの場面においては、条件表現は条件として使うことが出来ないことが分かる。条件は場面が回数として反復する場合以上で使われる表現である。

    (182)文の場合、条件表現と原因・理由の表現ですこし状況が異なっていると思われる。この場合、原因・理由の表現の場合、書き手は確実に「鼻の穴を丸くしているカバ」を見ているのに対し、条件表現の場合は、このカバ自体は視覚情報として認識の中に入っているが、鼻の穴を丸くしているかどうかをまだ確認していない。

    この違いは、条件表現が、条件節の空間に出る事態を仮に設定するのに対し、原因・理由の表現が、原因・理由節の空間に出る事態をそのまま空間に存在したものとして提示することによると思われる。(182)文の条件表現を使用した表現主体にとって、「鼻の穴を丸くしている」ことは、未知のことであり、既定のことではない。原因・理由の表現をとった主体にとっては、「鼻の穴を丸くしている」ことは既定でしかありえない。

    このことから、前件が「空間に出る事態」である場合には、原因・理由の表現と条件表現の境目が、ほぼはっきりするといえる。

     しかし、この境目に関しては、若干補足する必要がある。「空間に出る事態」は、主体が特定であれば、大きな問題はない。しかし、主体の抽象のレベルが高くなるにつれ、多人数の、不定期の行動になっていく。全ての主体「人間は」になると、動詞文といえども、時間や空間を問題にする表現ではなくなる。よって、2-2で示したような阪倉(1970,p.258)の動詞文の一般条件になるのであろう。そのような場合、

    (183)藻を取ってしまえば、なくなる。

    (184)藻を取ってしまうので、なくなる。

    上の文が、書き手にとって既定となった場合、この表現はほぼ同じ表現として扱われてしまう。

    次に、視覚情報でない場合で、時間によって変動する場合を考える。

    (185)食欲旺盛で{あれば/あったら/あると/あるから/あるので}健康である。  (ば-121を改変)

    やはり、主体が明示的に描かれていない場合、特定の主体を考慮することもできれば、非特定の主体を考慮することもできる。非特定の主体を入れる。

    (186)カバは、食欲旺盛で{あれば/あったら/あると/*あるから/*あるので}健康である。 (一般条件)

    この場合、やはり「から」「ので」を使うことは出来ない。これは、「食欲旺盛である」事態が、変動する事態であるという理由による。
    次に、3通りの一般条件の個別化を行う。

    (187)このカバは、食欲旺盛で{あれば/あったら/あると/あるから/あるので}健康である。    (種の性質を利用した個別への適用)

    (188)食欲旺盛で{あれば/あったら/あると}、このカバは健康である。(性質の時間的変動を利用した個別への適用)
    (189)このカバも、食欲旺盛で{あれば/あったら/あると/あるから/あるので}健康である。 (他の個体を利用した個別への適用)

    (187)文は、主体が視覚情報であるものの、「食欲旺盛である」が必ずしも視覚情報といえないため、条件表現が使いやすくなる。

    最後に、固体全てに共通する判定であり、時間によって変化しない性質の場合を考える。

    (190)昆虫は、足に環節を持つ動物で{*あれば/*あったら/*あると/あるから/あるので}節足動物の一類である。

     「ので」「から」の用法には、一般条件の個別場面における適用に関連する用法のほかに、このような時間に影響されない用法がある。一般条件との違いは、一般条件が、前件に、否定の命題や選択可能なケースがあり得るのに対し、この場合否定命題がありえない点である。

     以上(190)までの文例で、書き手と読み手の共通知識が既にある場合の一般条件の個別への適用について、考察を加えた。ここから、前提となることを述べる。

    書き手と読み手の既定知識を前提とする場合、一般的な既定知識には、以下のものがある。

    (190)昆虫は、足に環節を持つ動物で{*あれば/*あったら/*あると/あるから/あるので}節足動物の一類である。    (全個体が全て同じ性質である場合)

    (173)象は、耳が{小さければ/小さかったら/?小さいと/*小さいから/* 小さいので}インド象である。  (全個体の中で、性質に異なる例がある場合)

    (186)カバは、食欲旺盛で{あれば/あったら/あると/*あるから/*あるので}健康である。(個体の中で、時間によって揺れ動く性質)

     ここから、五つの考察結果を出す。

     

    考察結果T 主体が明示された場合、書き手が全個体に共通し、時間によって変動しないと考える事物の属性や判定は、「から」「ので」でなされる。

    主体の提示による情報の不変・個体の性質の不変・時間的性質の不変というケースで、全く変動するものがなく、全て既知であるケースでは、「から」「ので」のみしか使うことができない。逆に、条件表現は、想定するために、何らかの「変動する事態」が必要である。

    考察結果U 主体が明示された時、書き手が個体間に性質の異なる例があると考えるか、時間によって変動する性質が想定できると考えた場合、一般的因果関係を示す表現には条件表現が使われる。「から」「ので」は使われない。

    主体が明示された場合、その後に既定の事態を入れることはできない。これが、一般条件・あるいは恒常条件と言われるものである。一般条件と恒常条件は、行動仮定ならば、以下のどちらかである。

    @主体が全くの不特定多数で、期間がどの期間においても成り立つ行動

    (191)半径一万分の一ミリメートルという細い繊毛を輪切りにして顕微鏡で見ると、見事な模様が見える。     (と-122)

    A特定主体の行動が、書き手の想定する時間軸の中に於いて、無限に反復する行動(時の反復による恒常化) 

    (192)彼が歌い出したら{出せば/出すと}、みんながうっとりとして聞きほれる。

     この場合、「彼が歌い出した→みんなうっとりとして聞きほれた」という個別の行動→結果が何度も反復し、その複数の事例が、書き手の想定した時間軸の中で無限に繰り返されるほど多い場合に起こる現象である。恒常化された事態は、目に見える事態の無限の繰り返しであるから、誰が見ても同じ事態である。その結果、恒常化と一般化は、特定主体と非特定主体の違いを考えなければ、ほぼ同じ表現になる。

     なお、行動仮定の場合の(192)文の場合は、特定主体の行動を反復される出来事の数により恒常化しても、書き手を認めさせ、同調させることはできない。

     このように、変動する事態が存在に近づいていくにつれて、既定となり、「から」「ので」に近づく。

      考察結果V 論理的文章において表現される、あるいは暗黙の知識となる一般的因果関係を示す文は、何らかの時間的変動・性質的変動を持つ。「から」「ので」は、その個別場面への適用である。よって、「から」「ので」は論理的文章にはあまり使われない。

     中学校国語教科書の論理的文章に絞ったところ、「から」の用例は17例、「ので」の用例は26例に下がる。「ば」「と」と比べ、あまりにも少ないのではないだろうか。「から」「ので」が二つの事態の因果関係を示す場合、二つのケースが考えられる。

    @書き手と読み手の共通認識であると書き手が判断した一般条件の個別場面への適用に使われる。このケースの「から」「ので」は、論理的文章の「自身の見かた・考えかたを、他人に認めさせ、同調させる」という過程と逆になる。

    A全ての個体について共通の性質の場合に使われる。この場合、最初から明らかなことであるので、論理的文章では、暗黙の知識から既定として文章の中に突然出現する。

     論理的文章の中では、@は、論理的文章の個別から一般へという方向と逆である。Aの場合は、最初から全ての個体に当てはまる概念の判定や属性なので、論理的文章の中に使いにくい。

     考察結果W 主体が明示されない場合、しかも述語が空間・時間の中に出ない事態の場合に、一般条件から適用した「から」「ので」と、条件表現はほぼ同じ表現となる。

     個別の場面に適用した場合の「から」「ので」は条件表現と置き換えが非常にしにくい。しかし、主体が明示されない場合、個別の場面であるか、一般的な状況であるかの判定ができない。この場合、条件表現と原因・理由の表現はほぼ同じ表現となる。

     考察結果X 論理的文章における条件表現の前件の主体が明示されないのは、表現としていいにくいからである。これは「は」が既知の意味を持つことにより、変動を許容しにくいことが、要因の一つであると考えられる。

    一般条件の文を主体として明示した用例を示したが、相当無理ぎみの用例である。日本語として文法的な誤りではないが、こういう表現をとることは少ない。これは、おそらく、「は」に既知の意味があることにより、変動を許容しにくいのではないかと考えられる。

     ここまで、五つの考察結果を出した。このことにより本論文で意見として提示したいのは、以下のことである。

    条件表現が個別場面で使われることはまれであり、事実に関する事態、もしくは擬似事実の場合には、「から」「ので」の領域である。しかし、時間を問題にしない表現で、主体を明示しない場合、変動する事態(想定・仮定できる事態)と変動しない事態(既定)の区別がつかなくなるので、「から」「ので」と「ば」「と」「たら」は、ほぼ同じ表現となる。

     

    つまり、一般と個別の両方に既定事態はまたがり、「から」「ので」は存在するが、「ば」「と」「たら」は、条件としては、一般にしか存在しない。更に個別と一般の操作に「は」「も」と指示詞の「こ・そ・あ・ど」が関係する。また、既定に関する操作に「こ・そ・あ」が関連する。

     どのように関連しているかについて、ごく一部を本論文で明らかにした。

    ここまで、既定で一般の表現→個別の表現のメカニズムについて、考察してきた。今度は、個別→一般の論理的文章を書く前の思考回路を、二章で挙げた阪倉(1970)の引用を参考にして、考察する。

    書き手は、論理的文章において、何らかの真実で、しかも読み手の知らないことを書こうとする。真実の事態は、変化しない事態であり、多くは時間に関係のない事態である。書き手の中に、いきなり一般的因果関係が存在する訳ではなく、最初は個別事例として、いくつかの経験した事例が認識の中に存在する。

    書き手は、用例が少ないうちは、個別と個別を「も」でつなげ、転導性原理として考えることになる。しかし、これらは正しい推論にはならない。

     用例を集めるうちに、ある程度の一般的因果関係が見えてくることになる。一般的因果関係が見えてくると、それを体系化する。

    そしてその体系を、より大量の事例を元にして検証すると、その体系の現実への適用が明らかとなる。

     

     このような過程を経た場合、書き手はその体系について既知である。この体系を論理的文章の構成に書く場合に、少なくとも二通りの構成方法が考えられる。

     @結果重視の構成方法

     まず、読み手が知らないと書き手が推定する一般的因果関係について述べ、その後それに対する原因・理由を大量に述べる。結果に価値がある場合に用いられる。論文として、短くまとめることができる。

    例     

    結論  〜は〜である。

        なぜなら @〜    だから

             A〜    だから

    Aすじみち重視の構成方法。

    書き手がまず個別事例を出し、その書き手がたどった思考のすじみちをたどることにより、読み手に思考を疑似体験させる。すじみちのたどり方そのものに価値がある場合に用いられる。教育的配慮がある場合、読み手(学習者)がその思考を疑似体験させることができるので、有効である。

      例   

           〜は〜ということを経験した。

           これは、〜であると思われる。

           〜すれば、〜である。〜すれば〜である。

        結論 〜は〜なのである。

     俗に、@が欧米式、Aが日本式と呼ばれている構成方法である。この違いは、思考回路を文章によって疑似体験させることを目的とするか、その思考回路から出た結果のみをその目的とするかの違いである。

     このことから、従来の「欧米式の構成方法」、「日本式の構成方法」の違いは、文化の違いではなく、むしろ目的による違いであるのではないかと推測した。

     この説は、まだ仮説の段階ではあるが、欧米であっても、教育的配慮がなされた場合の文章は、@の構成方法で書かれることは少ないのではないだろうかと思われる。

     日本の、少なくとも中学校における論理的文章は、全てAの構成方法であるといってよい。これは、読み物としての面白さを出すだけでなく、読み手に書き手の思考を疑似体験させるという教育的配慮によると考える。

     日本の、少なくとも中学校における論理的文章に「から」「ので」があまり使われない理由として、このような構成方法が影響を与えていると考えられる。

     

    4-3論理的文章における条件表現

      トップに戻る

    4-3-1論理的文章における、「ば」「と」の文法による選択と表現による選択

     資料からも分かるとおり、論理的文章では「ば」「と」が使われる回数が多い。この「ば」「と」は、置き換え可能な例が多々存在し、現在でも、その使い分けが明らかになっていない。以下のように、辞書の記述においても、非常に類似した表現である。 

      

    『日本語教育事典』より(仁田義雄執筆)

    「ば」 

    (1)未成立の事がらを成立したと仮定すれば、後で述べる事柄がそこからの順当な展開として成り立つことを示す。

    (2)後で述べる事柄は、前に述べた事柄が成立するところでは、常に成立することを表す。

    (3)既成立・未成立の前件が、きっかけや理由などとして、後件成立の条件となっていることを示している。

    (4)後で述べる事柄が前に述べた事柄と並列・共存することを示す。

    (5)後に述べる事柄の前置きとして述べる。

    「と」

    (1)次に述べる動作・状態等が、前で述べた動作・状態等と同時的、もしくはそれから少し経って起こることを示す。

    (2)前件が理由やきっかけといった仮定条件として働き、後件はそこからの順当な展開として成立することを示す。

    (3)ある条件が存在すれば常に次に述べる事柄が成立するときの、その条件を示す。

    (4)次に述べる事柄の前置き

    (5)後件の成立が前件からの拘束を受けない展開によるものであることを示す。

     このように、微妙な説明の差異があるものの、非常に類似した表現である。

    この「ば」「と」の選択に関しては、文法的に使える/使えないという選択と、表現として使う/使わないという選択がある。まず、「ば」と「と」が文法的に使えない事例を考察し、ついで表現の選択について述べる。

      「ば」「と」が文法的に置き換えられない用例

     「ば」と「と」の置き換えられない表現は、前件・後件に主体の何らかの認識や「評価」の強いものである。以下に用例を挙げる。

    (193)こちらに向けた顔に手を触れる気になれば、本当にそうできただろう。

                                      (ば-41)

     主体の「評価」に関わる表現がでる場合には、置き換えられない傾向が非常に強い。とくに「本当に」などで強められた場合、置き換えられない。

    (194)根気よくやれば、もりも釣り針も作れぬはずはないと半ば確信していただけに                 (ば-75)

     「〜はずはない」は、信念に関わる表現である。

       (195)しかし、どこまで旅すれば台風は消えるのか。(ば-78)

     疑問・反語の場合に「ば」と「と」は置き換えできない。

    (196)仕事さえしていれば、よけいな社交など不要である。(ば-98)

     「さえ」「など」「よけいな」が影響を与えている。これら一つのどれかが文中にあった場合、「ば」は「と」に置き換えができなくなる。

    (197)枝があり、ポリプがまるで花のように開いているのを見れば、植物とまちがえるのも無理はありません。(ば-105)

     「無理はない」は主体の評価である。

    (198)わたしたちの立場に立てば花が美しいのはありがたいことですが、(ば-116)

     「ありがたい」、という主体の評価が入っている。

    (199)太陽光線が十分に得られる所であれば、どこの海にでも造礁サンゴが成育し、サンゴ礁が発達するかというと、必ずしもそうではありません。(ば-106)

          

    いわゆる十分条件と言われる用例である。この場合、「ば」が使われる。

    (200)行ってお話ししてあげればいいのに。    (ば-123)

    「のに」の表現に評価性が含まれている。

    (201)どんな方法でやれば、あんなばかでっかい直線が引けるのか。(ば-131)

     

    これらは皆「ば」「たら」が「と」に置き換えられない用例である。

     「と」が「ば」に置き換えられないもの

     「と」の用例の中で、事実連鎖による、一回性の出来事をつなげる表現は、ほぼ「ば」に置き換えられない。

     他は大体置き換えられる。しかし、例外が若干あり、

    (202)それにしても、島じゅうの木の葉を焼き焦がされようと、水をもらうほうがありがたいのだ。(と-6)

            

     これは、古典におけるいわゆる逆接仮定条件の「と・とも」の流れを引き継いだ用法であるので、「ば」と本質的に置き換えられないものと考えられる。

    (203)旅先でおいしいと思い、お土産に持ち帰って家で食べてみると、必ずしもおいしくは感じられなかったという経験は、よく味わいます。(と-67)

     後件が、「必ずしも〜しない」の場合、「ば」に置き換えにくい。

    文法的な使い分けを考えると、用例によるこの考察結果は、極めて常識的である。条件表現の起源から考えても、「ば」は係助詞の「は」をその起源とし、「と」は江戸の元禄時代あたりから、格助詞の転用として使われだしたことを考えると、格助詞をその起源とする「と」が書き手の認識に関わる事態と事態をつなげるのに不適当であることは、順当である。また、いわゆる順接仮定条件において、「ば」が「と」に置き換えられない用例が比較的多く存在し、逆に「と」の用例が「ば」にほとんど置き換えられるという言語事実は、「ば」が係助詞を起源とし、叙述内容を包み込む階層にあると考えることにより、説明できる。

     

     論理的文章における表現としての「ば」と「と」

     では、表現としての「ば」と「と」はどう選択されるのだろう?

     仮説を考える。

     仮説T 読み手の行動を制御するような問題意識の強い科学的論説文において(いわゆる「主題」が「自然を守れ」となるような場合)中心意見に「ば」、推論に「と」、その他比較的「ば」が多い。

     

     この場合、問題意識を強く相手に訴えかける必要があるものの、推論はできる限り客観的である必要がある。よって、このような傾向があるものと推測する。

    仮説U 書き手が公平な観察者としてものごとを見ようとする場合「ば」が使われない。

        

     この仮説を完全に検証できるほど、大量の文章分析をするには制約があり、厳しい。よって、このような仮説に当てはまる文章を取り出して、簡単な分析を行う。

    4-3-2いくつかの簡単な文章分析例

     仮説Tに当てはまる文章例を提示する。

    魚を育てる森   松永勝彦

     北海道襟裳岬。北海道を背骨のように南北に走る日高山脈の先端が、沖合数キロメートルまで海藻のしげる岩礁となって太平洋に延びている。緑の丘の上には白い灯台が建ち、浜辺には見わたすかぎりクロマツの針葉樹林が続いている。

     ところが 四十年前 、この辺りは「襟裳砂漠」とよばれていた。どこまでいっても草木のない砂地と砂山であり、風速十メートルをこえる風にその砂が飛ばされて、目も開けられないほどであったという。のさらに昔、 江戸時代 までのここは、カシワ、ナラ、シラカバなどの広葉樹が生いしげる大森林地帯だった。

     いったいなぜ、広葉樹林帯が「砂漠」と化し、今はクロマツの針葉樹林帯となっているのだろうか。そこには今日の環境問題にかかわる重大な意味をもつ歴史がある。

      江戸時代後半から 、主に岩礁に生えるコンブを求めて、この辺りへの人々の移住が始まった。 明治 になると(時)、開拓農民も加わった。人々は、強風や寒さと闘いながら、家を作り、暖をとるなど、生きるために森の木を切り続けた。さらに、 明治中期以降 は、紙の材料としての森林の伐採も行われた。その結果、森は年ごとに失われ、ついに一帯は砂漠となった。同じ時期、コンブの生育が目に見えて悪くなっていった。沿岸部にすむ魚たちも姿を消し、サケなどの回遊魚も来なくなった。

     森が消え、海は死んだ。しかし、当時はその関係を考える人はなかった。ただ、せめて強風によって家の中まで侵入する砂から解放されたいという住民の願いによって、飛砂防止の緑化事業が着手された。厳しい環境の中、四十年をかけて、ようやく草を植えることに成功し、風に強いクロマツによる防砂林を作るまでに至ったのが 現在 である。そして、この緑を再生する過程で、人々は海にコンブや魚がもどってきたことに気づいた。

     緑がよみがえることで、失われた漁場がもどったのはなぜなのだろうか。森は、海にとってどのような役割を果たしているのだろうか。

     森林では、底部に落ち葉や枯れ枝が積み重なる。森にすむ動物たちのふんや死体もある。これらは、微生物によって次第に分解され、風化によってくだかれた岩石と混じり合って、黒い湿った土になる。これを腐植土という。

     腐植土は、上に積もった落ち葉の層が水分の蒸発を防いで、いつも湿っている。水を吸ったスポンジのようになっていると思えばよい。スポンジに少し水分を含ませておいて上から水を垂らす と(推論) 、水はスポンジにしみこんでいく。さらに垂らし続ける と(推論) 、やがてスポンジの下から水が流れ出す。同じように、湿った腐植土は雨水を地中に保ち、適量を地下水として流し続ける役割を果たしている。それで、森林は「緑のダム」ともよばれている。

     腐植土がない と(推論) 、こうした調整作用が失われ、雨は地表を流れ、直接河川に入る。これは、大洪水になったり渇水になったりと、河川の水量が著しく変動する要因になる。河川の生物が生きるためには、一定の水量が必要であるが、渇水になれ ば(推論) 淡水魚や河川で産卵するサケなどの魚は生活できない。

     さらに、森林がなくなり腐植土層が消失する と(推論) 、その下の鉱物土層がむき出しになる。ここに大雨が降ると、大量の雨水と共に土砂が流れ出し、一気に海まで運ばれる。この影響を直接受けるのが、海底で生活する動植物である。ウニ、二枚貝などは土砂に埋もれて死んでしまう。土砂におおわれた岩場にはコンブやワカメは付着できない。沿岸の漁場や、岩場に生える海藻に産卵する魚たちは、そこが土砂に埋まれば(評価へ)二度ともどってはこない。森は、土を陸地につなぎ留めることで、海の生物を守る役割ももっているのである。

     そのうえ、腐植土そのものには、海の生物を育てる大事な役割がある。 腐植土の中には、岩石の風化や動植物の分解によってできた、窒素、りン、ケイ素などが含まれている。これらは、植物の生育に欠くことのできない栄養分のもとである。 これらが腐植土から地下水にとけこんで川から海へと運ばれる。そして、沿岸付近で、海藻や植物プランクトンを育てる栄養となる。

     また、 海藻や植物プランクトンは、光合成のために微量の金属を必要とする。 海水中には、必要なほとんどの金属が水にとけた形で存在しているのだが、鉄だけは粒子となっている。粒子状の鉄を、生物は利用できない。ところが、腐植土の巾で作られる有機物質と腐植土中の鉄が結合すると(推論)、水にとけるようになる。これが海へ流れこむことによって、海藻や植物プランクトンは鉄を取りこむことが可能になるのである。

     実際に、函館湾に流入している久根別川河口で植物プランクトンの量を測定してみると(行動仮定)、河川が影響する海域では、影響しない海域の五十倍から百倍高い数値が得られる。つまり、河川が運ぶ森林起源の物質が、沿岸部の植物プランクトンを育てているのである。植物プランクトンは、動物プランクトンや小魚のえさになり、小魚は大形魚のえさになる。アワビやウニは、コンブやワカメなどの海藻を食べる。こうして みると(観点の提示)一語化 、魚介類は、えさとなる植物プランクトンや海藻の量によって生存量が決められることになる。したがって、魚介類を増やすためには、そのいちばんもととなる種物プランクトンや海藻を増やさなければならない。それには、森林の腐植土から流れてくる物質が必要なのである。

     このように、海の生物は、森とたいへん強く結び付いている。森が海の貝や魚を育てているともいえよう。だから、襟裳岬のように、森が消えれば(状況仮定海も死んでしまうのである。この状況は、日本各地で現実化している。そこで、 例えば(例示) 気仙沼の漁民のように、漁業を行う人たちが、自分たちの漁場を守ろうと川をさかのぼって植林を始めている所もある。

     砂漠化した土地にクロマツを根付かせるまでに、えりも町は四十年間も苦労をしてきた。ただし、これはクロマツが最も活着しやすかったためであり、元の広葉樹の森林の姿にもどすには数百年かかるだろうといわれている。

     森と海だけではない。自然界は、微妙なバランスを保ちながら、互いに関係し合って存在している。そのことを肝に銘じて、わたしたちは、自然の状態をよく知り、できるかぎりバランスを壊さないように考えるべきであろう。

     この場合、明確に推論に「と」、中心の意見に「ば」(森が消えれば海も死んでしまうのである)が使われている。また、問題意識が強く出る点において、「ば」が表現として選択されている。

     しかし、このようにうまく分かれるケースは珍しい。特に推論の「と」を見せるような説明文は、中学校の国語教科書のレベルではあまり出てこない。

     次に、仮説Uに当てはまる文章例を出す。

    日本人と文字    樺島忠夫

      わたしたちは文章を書くとき、「洗いざらしのTシャツとGパン」のように、漢字・平仮名・片仮名・ローマ字を交ぜたにぎやかな文字遣いをしています。 このように、四種類もの文字を使って文章を書く国は、世界中探してもほかにはありません。どうして、わたしたちは、このような文字遣いをするようになったのでしょうか。

      三世紀あるいは四世紀ごろまで、日本人は文字をもっていませんでした。日本人が読み書きするようになったのは、当時の朝鮮を通して中国の文章である漢文、中国の文字である漢字が伝わってからです。

     出来事を記したり考えを述べたりするときには、漢文に翻訳するという方法があります。しかし、漢字しか文字がないときに、日本の人名・地名、特に日本独特の和歌をそのまま文字で書き表すときにはどうしたでしょうか。

     これは江戸時代になってですが、愚仏という人が、上段に示した「犬の咬み合ひ」という歌を、下段のように漢字だけで作っています。 犬の鳴き声を「椀」で表しているように、漢字を自由に使って,おもしろく作った詩です。

    ワンワンワンワンまたワンワン

    またまたワンワンまたワンワン

    夜が暗くて何匹かとんとわからぬ

    始終ただ聞くワンワンワンだけを

    椀椀椀椀亦椀椀

    亦亦椀椀又椀椀

    夜暗何匹頓不分

    始終只聞椀椀椀

     漢字しか文字がなかった時代に日本語を書き表すには、こういう工夫をこらすことが必要でした。

     では、漢字で日本語を書き表す方法を、具体的に見てみましょう。漢字の「風」は、日本語の「かぜ」という意味をもっています。また、「吹」は、日本語の「ふく」という意味をもっています。そこで、「かぜふく」という日本語を漢字で「風吹」と書くことができます。また、「海」は「うみ」、「荒」は「あれる」という意味ですから、「うみあれて」という日本語は「海荒」と書きます。このように、日本語と同じ意味をもつ漢字を並べることによって、なんとか日本語を漢字で書き表すことができます。

     しかし、この書き方では、意味はほぼわかっても、どう読むのかがはっきりしません。「風吹」は、「かぜふく」とも「かぜふきて」とも「かぜふけば」とも読める から(既定知識) です。

     どう読むのかをはっきり表そうとする と(行動仮定) 、漢字で日本語の意味を表すのではなく、漢字で日本語の発音を表す方法を採ることになります。漢字一字を日本語の一つの発音に当てて、「みやこ」を「美夜故」、芽吹いたばかりの緑の「わかくさ」を「和可久佐」のように書くのです。このように使った文字を万葉仮名といいます。この 書き方だと 、どう読むかはわかりますが、意味はとりにくくなります。また、画数の多い文字をたくさん並べなければならない ので(既定知識) 、書くのが大変です。

     そこで、漢字の意味を使って書く方法と、漢字の発音を使って書く方法とをあわせて「なつくさの」を「夏草之」、「のじまのさきに」を「野島之崎尓」と書く方法も採られました。これは、今の漢字仮名交じりの「夏草の」「野島の崎に」と書くのと同じです。このことから、「万葉集」のころから、日本人は漢字仮名交じりと同じ書き方を始めていたことがわかります。

     ところで、日本人はいつまでも漢字だけを使っていたのではありません。 僧侶や学者は、仏典や漢文を学ぶときのテキストへの書き入れ文字として、漢字の部分を省略して片仮名を造り出し、漢字片仮名交じりの文章を書くようになりました。いっぽう、日常の実用のために、また歌を書くために万葉仮名が使われ、その形をくずして書いた文字から平仮名ができました。「いろは歌」なども手習いのために用いられ、万葉仮名や平仮名が学ばれました。

     平仮名は日本語を書き表すのに適した文字ですが、 平仮名ができたあとも、日本人は漢字を捨てることはしませんでした。そこで日本人は、その形によって意味を表す漢字とともに、発音を表す平仮名、片仮名の三種類の文字をもつことになったのです。 考えてみると、日本語の発音を書き表すうえで、平仮名と片仮名との二つをもつ必要はありません。しかし 、日本人は、これを統一することはしませんでした。

      そのうちに、漢字・平仮名・片仮名の三種の文字を交ぜて使う文章が現れるようになりました。江戸時代の町人の文学作品です。

     北「アゝ退屈した。ナント弥二さん、道々謎を懸けよう。おめえ解

     くか。」

     弥「よかろう。懸けやれ。」

     北「外は白壁中はどんどんナアニ。」

     (十返舎一九「東海道中膝栗毛」)この文章では、「アゝ」「ナント」「ナアニ」など、感動や疑問を表す言葉は片仮名で書かれています。この書き方は、現在のジュニア小説に見られる書き方に似ています。

    「なーに見とれてんの?」

    「えっ!?」

    -ドッキン☆オレンジ色の夕陽の中で、シュンチがニヤニヤしながらあたしをのぞきこんでる。 (折原みと「時の輝き」)

     こうした事実を見る と(観点の提示) 、漢字・平仮名・片仮名を交ぜて書くことは、文字をよく知っている学者ではなく、一般の人の好みだということがわかります。最近は、ローマ字を計量の単位に使うだけでなく、会社の名前や略語にも使っています。

     そして、もう一つわかることは、わたしたち日本人は、文字の在り方によって、言葉の意味だけでなく、言葉の種類や、そこに含める気持ちを表したがる国民だということです。つまり、漢語は漢字で、外来語は片仮名で書き、また、特別のニュアンスを出したい言葉は片仮名で書くというように、文字の使い分けをするのです。ジュニア小説では、「!?」とか「☆」「ハート」などを句点の代わりに使って気持ちを表しています。

     わたしたち日本人が漢字・平仮名・片仮名・ローマ字交じりの文章を書くようになったのは、 最初に日本語とは性質が異なる言語である中国語の文字(漢字)を使った ことによります。しかし、昔から今までの日本人の文字遣いを見る と(観点の提示) 、わたしたち日本人が、意味やニュアンスの在り方、言葉の種類を視覚的に表現したい、映像として形に表したいという気持ちを強くもっているからだと考えられます。

    この文章では、「ば」が全く使われていない珍しいケースである。問題設定そのものが深刻なものではなく、作者自身が国語学者なので、このように意見を述べる場合に意図的に「ば」を使っていないものと思われる。

    最後に、「ば」「と」の論理的文章の中で一番大事な役割であろう、「対比」が極端に多く使われる文章例を出す。

    ちょっと立ち止まって        桑原茂夫

     自分ではAだと思っていたものが、人からBとも言えると指摘され、なるほどそうも言えると教えられた経験は多いことだろう。

     左のページの図は「ルビンのつぼ」と題されたものである。よく見る と(観点の提示)、この図から二種類の絵を見てとることができるはずだ。白い部分を中心に見る と(観点の提示) 対比、優勝カップのような形をしたつぼがくっきりとうかび上がる。このとき、黒い部分はバックにすぎない。今度は逆に、黒い部分に注目してみる。する と(対比) 、向き合っている二人の顔の影絵が見えてきて、白い部分はバックになってしまう。

     この図の場合、つぼを中心に見ているときは(対比)、見えているはずの二人の顔が見えなくなり、二人の顔を中心に見る と観点の提示(対比) 、いっしゅんのうちに、目からつぼの絵が消え去ってしまう。

     このようなことは,日常生活の中でもよく経験する。今、公園の池にかかっている橋の辺りに目を向けているとしよう。すると、橋の向こうから一人の少女がやって来る。目はそのカメラでいえ ば(観点の提示) 、あっという間に、ピントが少女に合わせられてしまうのである。少女に引きつけられる。このとき、橋や池など周辺のものはすべて、単なる背景になってしまう。ところが逆に、その橋の形がめずらしく、それに注目しているときは、その上を通る人などは背景になってしまう。

     見るという働きには、思いがけない一面がある。いっしゅんのうちに、中心に見るものを決めたり、それを変えたりすることができるのである。

     左の図の場合はどうであろうか。ちょっとすまして図の奥の方を向いた若い女性の絵と見る人もいれ ば(対比)、 毛皮のコートにあごをうずめたおばあさんの絵と見る人もいるだろう。あるいは、ほかの絵と見る人もいるかもしれない。

     だれでも、ひと目見て即座に、何かの絵と見ているはずだがそうする と(一語化)、別の絵と見ることは難しい。若い女性の絵だと思った人には、おばあさんの絵は簡単には見えてこない。おばあさんの絵と見るためには、とりあえず、今見えている若い女性の絵を意識して捨て去らなければ(必要性・義務)ならない。

     左の図を見てみよう。化粧台の前に座っている女性の絵が見えるであろう。ところがこの図も、もう一つの絵をかくしもっている。目を遠ざけてみよう。すると、たちまちのうちに、この図はどくろをえがいた絵に変わってしまう。同じ図でも、近くから見るか遠くから見るかによって、全くちがう絵として受け取られるのである。

     このことは、何も絵にかぎったことではない。遠くから見れば(観点の提示)対比秀麗な富士山も、近づくにつれて、岩石の露出したあらあらしい姿に変わる。また、遠くから見れ ば観点の提示(対比) きれいなビルも、近づいて見る と(観点の提示) 、ひび割れてすすけた壁面のビルだったりする。

     わたしたちは、ひと目見たときの印象にしばられ、一面のみをとらえて、その物のすべてを知ったように思いがちである。しかし、一つの図でも風景でも、見方によって見えてくるものがちがう。そこで、物を見るときには、ちょっと立ち止まってほかの見方を試してみてはどうだろうか。中心に見るものを変えたり、見るときの距離や角度を変えたりすれ ば(行動仮定)へ、その物の他の面に気づき、新しい発見のおどろきや喜びを味わうことができるだろう。

    文の外の対比がこの短い文章の中で3回使われている事例である。このように、複文においてはただの「観点の提示」であったとしても、文の外にもう一つ「観点の提示」をおくと、「対比」となり、論理的文章の中でもっとも重要であるといえる表現となるのである。

     以上、個別事例を元に、「ば」と「と」の選択の表現主体による可能性を示した。

    補足すべきことには、「魚を育てる森」以外の説明文に推論を文章に表現した形跡があまり見あたらなかったこと、出来事の連続の形で描かれる説明文があり、その場合条件表現の使用が極端に経ること、対比は、文の中の対比は〜もあれば〜もあるのように事態間の書き手の重要性の度合いを示さないが、文の外の対比は書き手がどちらの事態を重く見ているのかがはっきりするので非常に重要であることを挙げる。

    5章 結論と今後の課題

      トップに戻る

    結論

     ここまで、「事実と意見」と「条件表現」を手がかりとした文章分析の手法を探ってきた。本論文での意見は、

     

    ・事実と意見の間に、時間・空間に存在しない事態で書き手がほぼ事実であると考えている事態(疑似事実)が存在する。そして「事実」の事態と「疑似事実」の事態をあわせると既定事態となる。

     

    ・その既定事態は「から」「ので」の前件に使われる事態である。この事態と仮定された事態との関係は、その事態が空間に出る事態であった場合には、明確に区切られる。

     

    ・空間・時間内に出ない事態であった場合に既定・仮定の境目が基本的には消えてしまう。含意関係(前件と後件の一般的因果関係が真である)になった場合、既定事態の表現と仮定事態の表現は、ほぼ同じ表現である。

     

    ・条件表現と原因・理由の使い分けを考える場合に、個別・一般の操作が必要となる。個別と一般の操作は、「は・も」や「こ・そ・あ・ど」ですることができる。

     

    ・「こ・そ・あ」によって、既定性を操作することができる。既定は、一般と個別にまたがる。この指示詞の働きにより、仮定条件の前件が事実の事態になることがある。

     

    ・個別と一般の事態を決定する要因は、

      @その事態が空間に出現する事態かどうか?

      A主体が特定か非特定か?

      B時間が一回限りか書き手の想定する時間軸の中で無限に繰り返すか?

      C「この」「その」などで時間が特定されているかどうか?

    が主な要因である。個別と一般に関する操作は論理的文章の中で重要である。本論文では、その操作の一部を文章構成の個別→一般と一般→個別に応用した。

     

    ・これら「事実」「疑似事実」「条件表現」を組み合わせて、文章分析を行うことが可能である。条件表現は、主に時間に関わりのない一般的因果関係へのすじみちをつかさどり、文の外のレベルの「対比」に関連する。これらの表現は、文章分析を行う者にとって、機能をできる限りしっておくべき表現である。

    今後の課題

     論理的文章における条件表現には、様々なレベルが存在する。今現在分かっている例を挙げただけでも、

     観点の提示、例示(例えば)、接続詞化したもの(そうであれば、これだと)、事態と事態をつなげる条件(演繹推論)、ある事態を前提にした評価、必要性・義務の表現(〜なけれ(ね)ばならない)文の中の対比、文以上のレベルの対比

     これだけある。最初からこの様々なレベルを少しでも使い分けていれば、こんなに苦労することもなかったのに、というのが正直な感想である。

     この他、本論文で使った「評価」という言葉が曖昧であるのが気にかかる。条件がついた場合に、後件が空間・時間に出ない属性は、評価と取れる可能性はあるものの、これをすべて評価と取るのは無理があるのではないかと考える。「主体性」に関連するので、やっかいである。今後の課題とする。

     また、今回文章分析は簡単な分析にとどめたが、土部(1973)の接続の分類を応用した複雑な分析も行う必要がある。一例を資料30-33ページに示した。

     論理的文章の中の論理をより深く勉強するためには、可能表現、否定表現の勉強や、「は、も」「こ、そ、あ」に関する適切な理解が不可欠である。今回、直前まで条件表現で詰まっていなければ、このあたりを勉強していたのであるが、とてもそこまで手を回すことができなかった。あとの祭りである。

     つまり、課題はまだ山積みといえるだろう。

     

    おわりに

     この2年間、あっという間でした。30前になんとか二度目の修士論文を書き上げることができて、ほっとしております。短くも充実した日々でした。厳しく、時に優しく指導していただいた国語教育講座の御教官の方々、ありがとうございました。御学恩は、今後様々な場所で自分が「先生」として生徒に教えるときに、優しく、時に厳しく還元しようと思っております。

     また、野浪研究室の後輩方、大学院の年下の先輩、同輩、年上の後輩方、色々お世話になりました。時に熱くなって暴言を吐き、時にお菓子を独り占めにする我儘で強欲な内田としては、色々ご迷惑をかけたことと思います。ここで深くお詫びをするとともに、またいつか、互いに成長して会える日を楽しみにしております。

     最後に、指導教官の野浪正隆先生をはじめとする大阪教育大学の方々、ありがとうございました。他大学の、しかも経済学部という全く畑違いの人間が、ここまで国語教育専攻、国語学専修コースの修士論文のページを埋めることができたのも、ひとえに皆様方の温かさのおかげであると感謝しております。

    【参考文献】

       トップに戻る

    有田節子(1993)「日本語条件文研究の変遷」益岡(1993)所収

    木下是雄(1982)『理科系の作文技術』中公新書

    木下是雄(1990)『論文・レポートの組み立て方』筑摩学芸文庫

    工藤真由美(1995)『テンス・アスペクト体系とテクスト』ひつじ書房

    久野ワ(1973)「日本文法研究」大修館書店

    国語学会編(1980)『国語学大辞典』東京堂出版

    小林賢次(1990)「条件表現の歴史」辻村編(1991)所収 

    小林賢次(1994)「条件表現の変遷-仮定表現形式の地理的分布とのかかわり」『日本語学』 第十三巻九号

    阪倉篤義(1970)『文章と表現』角川書店

    佐治圭三(1991)『日本語の文法の研究』 くろしお出版

    佐久間鼎(1966)『現代日本語の表現と語法』恒星社厚生閣

    鈴木義和(1994)「条件表現各論-バ/ト/タラ/ナラ」 『日本語学』 第十三巻九号

    辻村敏樹編(1991)『講座日本語と日本語教育 第10巻』 明治書院

    寺村秀夫(1982)『日本語のシンタクスと意味T』くろしお出版

    寺村秀夫(1984)『日本語のシンタクスと意味U』くろしお出版

    時枝誠記(1950)『日本文法 口語篇』 岩波全書

    豊田豊子(1982)「発見の『と』」日本語教育36号

    豊田豊子他編(1999)『日本語の文法U』アルク通信教育講座

    仁田義雄(1987)「条件づけとその周辺」『日本語学』第六巻九号

    野浪正隆(1990)「評論文の表現特性」(土部編(1990)所収)

    野浪正隆(1995)「物語文の構成分析試案」『学大国文』第38号

    蓮沼昭子(1993)「「たら」と「と」の事実的用法をめぐって」 益岡(1993)所収

    土部弘(1973)『文章表現の機構』くろしお出版

    土部弘(1990)『評論.論説の表現』表現学体系27巻 教育出版センター

    益岡隆志編(1993)『日本語の条件表現』くろしお出版

    益岡隆志・田窪行則(1991)『基礎日本語文法』くろしお出版

    松下大三郎(1930)『標準日本口語法』中文館

    松下大三郎(1977)『増補改訂 標準日本口語法』勉誠社

    三尾砂(1958)『話しことばの文法』法政大学出版局

    宮島達夫・仁田義雄 編(1995)『日本語類義表現の文法』(下)複文・連文編 くろしお出版

    森山卓郎(1992)「文末思考動詞「思う」をめぐって」『日本語学』第十一巻九号

    森岡健二(1972)『文章構成法』 至文堂

    南不二男(1993)『現代日本語文法の輪郭』大修館書店

    山口尭二(1980)『古代接続法の研究』

    山口尭二(1994)「条件表現の起源」『日本語学』第十三巻九号

    山田孝雄(1908)『日本文法論』宝文館

    渡辺実(1971)『国語構文論』塙書房

    Asher.,R.E.,et.al.(ed.)(1994) The Encyclopedia of Language and

      Linguistics , Pergamon Press.

    引用資料

        トップに戻る

    中学校の国語教科書より

    東京書籍(中1)

    一万羽のコハクチョウ(ルポルタージュ)/立松和平、

    火の風(随筆)/早坂暁

    島で見たことから(随筆)/高田宏、

    縄文人の釣り針(説明文)/楠本政助

    方言のクッション(随筆)/俵万智

    暴れ川を治める(説明文)/富山和子

    話し方はどうかな(説明文)/川上裕之

    東京書籍(中2)

    春のいぶき(随筆)/畑山博、

    神奈川沖浪裏(評論文)/赤瀬川原平

    視線を避ける文化(評論文)/井上忠司

    「日本語」ってなんだろう(説明文)/林巨樹

    ヴェロニカ(評論文)/遠藤周作

    生き物たちの知恵(ルポルタージュ)/高田勝

    想う(随筆)/五木寛之

    東京書籍(中3) 

    イメージからの発想(評論文)/森本哲郎

    ごはん(随筆)/向田邦子

    障子の破れに学ぶもの(評論文)/森政弘

    人との共存を選択した野鳥たち(評論文)/唐沢孝一

    日本のゴミ(ルポルタージュ)/佐野眞一

    変わりゆく図書館(説明文)/竹内紀吉

    羊飼いの村で(ルポルタージュ)/清水克雄

    壺(評論文)/出川直樹

    三省堂(中1)

      

    カバこそ僕の人生/西山登志雄 

    クジラの飲み水/大隈清治

    この小さな地球の上で/手塚治虫、

    ボランティア、はじめの一歩/黒柳徹子

    花があれば自然?/中村桂子

    切ることと創ること/原ひろ子

    三省堂(中2)  

    サンゴ礁の秘密/中村庸夫

    一枚の地図/高野孟

    「見える」ことの落とし穴/清水邦夫

    文化というもの/木村尚三郎

    三省堂(中3)

    あいさつは心のパスポート/外山滋比古

    「ありがとう」と言わない重さ/一之瀬恵

    わたしたちと世界/武田清子

    生命の青い光/毛利衛

    地球環境の危機/伊藤和明

    平和を築く-カンボジア難民の取材から-荒巻裕

    光村図書(中1)

    かげとひかりのひとくさり/小森陽一

    ちょっと立ち止まって/桑原茂夫

    巨鯨の目/水口博也

    魚を育てる森/松永勝彦

    自然の小さな診断役/青木淳一

    大人になれなかった弟たちに・・・/米倉斉加年

    日本人と文字/樺島忠夫

    光村図書(中2)

    遠く、でっかい世界/椎名誠

    シンデレラの時計/角山栄

    アジアの働く子供たち/松井やより

    言葉の力/大岡信

    江戸の人々と浮世絵/高橋克彦

    字のないはがき/向田邦子

    縄文土器に学ぶ/後藤和民

    比喩の世界/森山卓郎

    光村図書(中3)

    マスメディアを通した現実世界/池田謙一

    温かいスープ/今道友信

    金星大気の教えるもの/伊藤和明

    言葉と意味と経験と/渡辺実

    言葉はどこからどこへ/宮地裕

    三十五億年の命/中村桂子、山上の景観/辻まこと

    猫の動物学的宇宙誌/日高敏

    新潮文庫より

    芥川龍之介『杜子春』 新潮文庫

    森鴎外『山椒大夫』  新潮文庫

    志賀直哉『城の崎にて』新潮文庫

    中島敦『山月記』   新潮文庫

    菊池寛『藤十郎の恋』 新潮文庫

    梶井基次郎『Kの昇天-或はKの溺死』 新潮文庫

    宮沢賢治『オツベルと象』 新潮文庫

    国木田独歩『郊外』   新潮文庫