アグニの神
芥川龍之介
一
支那の上海の或町です。昼でも薄暗い或家の二階に、人相の悪い印度人の婆さんが一人、商人らしい一人の亜米利加人と何か頻に話し合っていました。
「実は今度もお婆さんに、占いを頼みに来たのだがね、――」
亜米利加人はそう言いながら、新しい巻煙草へ火をつけました。
「占いですか? 占いは当分見ないことにしましたよ」
婆さんは嘲るように、じろりと相手の顔を見ました。
「この頃は折角見て上げても、御礼さえ碌にしない人が、多くなって来ましたからね」
「そりゃ勿論御礼をするよ」
亜米利加人は惜しげもなく、三百弗の小切手を一枚、婆さんの前へ投げてやりました。
「差当りこれだけ取って置くさ。もしお婆さんの占いが当れば、その時は別に御礼をするから、――」
婆さんは三百弗の小切手を見ると、急に愛想がよくなりました。
「こんなに沢山頂いては、反って御気の毒ですね。――そうして一体又あなたは、何を占ってくれろとおっしゃるんです?」
「私が見て貰いたいのは、――」
亜米利加人は煙草を啣えたなり、狡猾そうな微笑を浮べました。
「一体日米戦争はいつあるかということなんだ。それさえちゃんとわかっていれば、我々商人は忽ちの内に、大金儲けが出来るからね」
「じゃ明日いらっしゃい。それまでに占って置いて上げますから」
「そうか。じゃ間違いのないように、――」
印度人の婆さんは、得意そうに胸を反らせました。
「私の占いは五十年来、一度も外れたことはないのですよ。何しろ私のはアグニの神が、御自身御告げをなさるのですからね」
亜米利加人が帰ってしまうと、婆さんは次の間の戸口へ行って、
「恵蓮。恵蓮」と呼び立てました。
その声に応じて出て来たのは、美しい支那人の女の子です。が、何か苦労でもあるのか、この女の子の下ぶくれの頬は、まるで蝋のような色をしていました。
「何を愚図々々しているんだえ? ほんとうにお前位、ずうずうしい女はありゃしないよ。きっと又台所で居睡りか何かしていたんだろう?」
恵蓮はいくら叱られても、じっと俯向いたまま黙っていました。
「よくお聞きよ。今夜は久しぶりにアグニの神へ、御伺いを立てるんだからね、そのつもりでいるんだよ」
女の子はまっ黒な婆さんの顔へ、悲しそうな眼を挙げました。
「今夜ですか?」
「今夜の十二時。好いかえ? 忘れちゃいけないよ」
印度人の婆さんは、脅すように指を挙げました。
「又お前がこの間のように、私に世話ばかり焼かせると、今度こそお前の命はないよ。お前なんぞは殺そうと思えば、雛っ仔の頸を絞めるより――」
こう言いかけた婆さんは、急に顔をしかめました。ふと相手に気がついて見ると、恵蓮はいつか窓際に行って、丁度明いていた硝子窓から、寂しい往来を眺めているのです。
「何を見ているんだえ?」
恵蓮は愈色を失って、もう一度婆さんの顔を見上げました。
「よし、よし、そう私を莫迦にするんなら、まだお前は痛い目に会い足りないんだろう」
婆さんは眼を怒らせながら、そこにあった箒をふり上げました。
丁度その途端です。誰か外へ来たと見えて、戸を叩く音が、突然荒々しく聞え始めました。
二
その日のかれこれ同じ時刻に、この家の外を通りかかった、年の若い一人の日本人があります。それがどう思ったのか、二階の窓から顔を出した支那人の女の子を一目見ると、しばらくは呆気にとられたように、ぼんやり立ちすくんでしまいました。
そこへ又通りかかったのは、年をとった支那人の人力車夫です。
「おい。おい。あの二階に誰が住んでいるか、お前は知っていないかね?」
日本人はその人力車夫へ、いきなりこう問いかけました。支那人は楫棒を握ったまま、高い二階を見上げましたが、「あすこですか? あすこには、何とかいう印度人の婆さんが住んでいます」と、気味悪そうに返事をすると、匆々行きそうにするのです。
「まあ、待ってくれ。そうしてその婆さんは、何を商売にしているんだ?」
「占い者です。が、この近所の噂じゃ、何でも魔法さえ使うそうです。まあ、命が大事だったら、あの婆さんの所なぞへは行かない方が好いようですよ」
支那人の車夫が行ってしまってから、日本人は腕を組んで、何か考えているようでしたが、やがて決心でもついたのか、さっさとその家の中へはいって行きました。すると突然聞えて来たのは、婆さんの罵る声に交った、支那人の女の子の泣き声です。日本人はその声を聞くが早いか、一股に二三段ずつ、薄暗い梯子を駈け上りました。そうして婆さんの部屋の戸を力一ぱい叩き出しました。
戸は直ぐに開きました。が、日本人が中へはいって見ると、そこには印度人の婆さんがたった一人立っているばかり、もう支那人の女の子は、次の間へでも隠れたのか、影も形も見当りません。
「何か御用ですか?」
婆さんはさも疑わしそうに、じろじろ相手の顔を見ました。
「お前さんは占い者だろう?」
日本人は腕を組んだまま、婆さんの顔を睨み返しました。
「そうです」
「じゃ私の用なぞは、聞かなくてもわかっているじゃないか? 私も一つお前さんの占いを見て貰いにやって来たんだ」
「何を見て上げるんですえ?」
婆さんは益疑わしそうに、日本人の容子を窺っていました。
「私の主人の御嬢さんが、去年の春行方知れずになった。それを一つ見て貰いたいんだが、――」
日本人は一句一句、力を入れて言うのです。
「私の主人は香港の日本領事だ。御嬢さんの名は妙子さんとおっしゃる。私は遠藤という書生だが――どうだね? その御嬢さんはどこにいらっしゃる」
遠藤はこう言いながら、上衣の隠しに手を入れると、一挺のピストルを引き出しました。
「この近所にいらっしゃりはしないか? 香港の警察署の調べた所じゃ、御嬢さんを攫ったのは、印度人らしいということだったが、――隠し立てをすると為にならんぞ」
しかし印度人の婆さんは、少しも怖がる気色が見えません。見えないどころか唇には、反って人を莫迦にしたような微笑さえ浮べているのです。
「お前さんは何を言うんだえ? 私はそんな御嬢さんなんぞは、顔を見たこともありゃしないよ」
「嘘をつけ。今その窓から外を見ていたのは、確に御嬢さんの妙子さんだ」
遠藤は片手にピストルを握ったまま、片手に次の間の戸口を指さしました。
「それでもまだ剛情を張るんなら、あすこにいる支那人をつれて来い」
「あれは私の貰い子だよ」
婆さんはやはり嘲るように、にやにや独り笑っているのです。
「貰い子か貰い子でないか、一目見りゃわかることだ。貴様がつれて来なければ、おれがあすこへ行って見る」
遠藤が次の間へ踏みこもうとすると、咄嗟に印度人の婆さんは、その戸口に立ち塞がりました。
「ここは私の家だよ。見ず知らずのお前さんなんぞに、奥へはいられてたまるものか」
「退け。退かないと射殺すぞ」
遠藤はピストルを挙げました。いや、挙げようとしたのです。が、その拍子に婆さんが、鴉の啼くような声を立てたかと思うと、まるで電気に打たれたように、ピストルは手から落ちてしまいました。これには勇み立った遠藤も、さすがに胆をひしがれたのでしょう、ちょいとの間は不思議そうに、あたりを見廻していましたが、忽ち又勇気をとり直すと、
「魔法使め」と罵りながら、虎のように婆さんへ飛びかかりました。
が、婆さんもさるものです。ひらりと身を躱すが早いか、そこにあった箒をとって、又掴みかかろうとする遠藤の顔へ、床の上の五味を掃きかけました。すると、その五味が皆火花になって、眼といわず、口といわず、ばらばらと遠藤の顔へ焼きつくのです。
遠藤はとうとうたまり兼ねて、火花の旋風に追われながら、転げるように外へ逃げ出しました。
三
その夜の十二時に近い時分、遠藤は独り婆さんの家の前にたたずみながら、二階の硝子窓に映る火影を口惜しそうに見つめていました。
「折角御嬢さんの在りかをつきとめながら、とり戻すことが出来ないのは残念だな。いっそ警察へ訴えようか? いや、いや、支那の警察が手ぬるいことは、香港でもう懲り懲りしている。万一今度も逃げられたら、又探すのが一苦労だ。といってあの魔法使には、ピストルさえ役に立たないし、――」
遠藤がそんなことを考えていると、突然高い二階の窓から、ひらひら落ちて来た紙切れがあります。
「おや、紙切れが落ちて来たが、――もしや御嬢さんの手紙じゃないか?」
こう呟いた遠藤は、その紙切れを、拾い上げながらそっと隠した懐中電燈を出して、まん円な光に照らして見ました。すると果して紙切れの上には、妙子が書いたのに違いない、消えそうな鉛筆の跡があります。
「遠藤サン。コノ家ノオ婆サンハ、恐シイ魔法使デス。時々真夜中ニ私ノ体ヘ、『アグニ』トイウ印度ノ神ヲ乗リ移ラセマス。私ハソノ神ガ乗リ移ッテイル間中、死ンダヨウニナッテイルノデス。デスカラドンナ事ガ起ルカ知リマセンガ、何デモオ婆サンノ話デハ、『アグニ』ノ神ガ私ノ口ヲ借リテ、イロイロ予言ヲスルノダソウデス。今夜モ十二時ニハオ婆サンガ又『アグニ』ノ神ヲ乗リ移ラセマス。イツモダト私ハ知ラズ知ラズ、気ガ遠クナッテシマウノデスガ、今夜ハソウナラナイ内ニ、ワザト魔法ニカカッタ真似ヲシマス。ソウシテ私ヲオ父様ノ所ヘ返サナイト『アグニ』ノ神ガオ婆サンノ命ヲトルト言ッテヤリマス。オ婆サンハ何ヨリモ『アグニ』ノ神ガ怖イノデスカラ、ソレヲ聞ケバキット私ヲ返スダロウト思イマス。ドウカ明日ノ朝モウ一度、オ婆サンノ所ヘ来テ下サイ。コノ計略ノ外ニハオ婆サンノ手カラ、逃ゲ出スミチハアリマセン。サヨウナラ」
遠藤は手紙を読み終ると、懐中時計を出して見ました。時計は十二時五分前です。
「もうそろそろ時刻になるな、相手はあんな魔法使だし、御嬢さんはまだ子供だから、余程運が好くないと、――」
遠藤の言葉が終らない内に、もう魔法が始まるのでしょう。今まで明るかった二階の窓は、急にまっ暗になってしまいました。と同時に不思議な香の匂が、町の敷石にも滲みる程、どこからか静に漂って来ました。
四
その時あの印度人の婆さんは、ランプを消した二階の部屋の机に、魔法の書物を拡げながら、頻に呪文を唱えていました。書物は香炉の火の光に、暗い中でも文字だけは、ぼんやり浮き上らせているのです。
婆さんの前には心配そうな恵蓮が、――いや、支那服を着せられた妙子が、じっと椅子に坐っていました。さっき窓から落した手紙は、無事に遠藤さんの手へはいったであろうか? あの時往来にいた人影は、確に遠藤さんだと思ったが、もしや人違いではなかったであろうか?――そう思うと妙子は、いても立ってもいられないような気がして来ます。しかし今うっかりそんな気ぶりが、婆さんの眼にでも止まったが最後、この恐しい魔法使いの家から、逃げ出そうという計略は、すぐに見破られてしまうでしょう。ですから妙子は一生懸命に、震える両手を組み合せながら、かねてたくんで置いた通り、アグニの神が乗り移ったように、見せかける時の近づくのを今か今かと待っていました。
婆さんは呪文を唱えてしまうと、今度は妙子をめぐりながら、いろいろな手ぶりをし始めました。或時は前へ立ったまま、両手を左右に挙げて見せたり、又或時は後へ来て、まるで眼かくしでもするように、そっと妙子の額の上へ手をかざしたりするのです。もしこの時部屋の外から、誰か婆さんの容子を見ていたとすれば、それはきっと大きな蝙蝠か何かが、蒼白い香炉の火の光の中に、飛びまわってでもいるように見えたでしょう。
その内に妙子はいつものように、だんだん睡気がきざして来ました。が、ここで睡ってしまっては、折角の計略にかけることも、出来なくなってしまう道理です。そうしてこれが出来なければ、勿論二度とお父さんの所へも、帰れなくなるのに違いありません。
「日本の神々様、どうか私が睡らないように、御守りなすって下さいまし。その代り私はもう一度、たとい一目でもお父さんの御顔を見ることが出来たなら、すぐに死んでもよろしゅうございます。日本の神々様、どうかお婆さんを欺せるように、御力を御貸し下さいまし」
妙子は何度も心の中に、熱心に祈りを続けました。しかし睡気はおいおいと、強くなって来るばかりです。と同時に妙子の耳には、丁度銅鑼でも鳴らすような、得体の知れない音楽の声が、かすかに伝わり始めました。これはいつでもアグニの神が、空から降りて来る時に、きっと聞える声なのです。
もうこうなってはいくら我慢しても、睡らずにいることは出来ません。現に目の前の香炉の火や、印度人の婆さんの姿でさえ、気味の悪い夢が薄れるように、見る見る消え失せてしまうのです。
「アグニの神、アグニの神、どうか私の申すことを御聞き入れ下さいまし」
やがてあの魔法使いが、床の上にひれ伏したまま、嗄れた声を挙げた時には、妙子は椅子に坐りながら、殆ど生死も知らないように、いつかもうぐっすり寝入っていました。
五
妙子は勿論婆さんも、この魔法を使う所は、誰の眼にも触れないと、思っていたのに違いありません。しかし実際は部屋の外に、もう一人戸の鍵穴から、覗いている男があったのです。それは一体誰でしょうか?――言うまでもなく、書生の遠藤です。
遠藤は妙子の手紙を見てから、一時は往来に立ったなり、夜明けを待とうかとも思いました。が、お嬢さんの身の上を思うと、どうしてもじっとしてはいられません。そこでとうとう盗人のように、そっと家の中へ忍びこむと、早速この二階の戸口へ来て、さっきから透き見をしていたのです。
しかし透き見をすると言っても、何しろ鍵穴を覗くのですから、蒼白い香炉の火の光を浴びた、死人のような妙子の顔が、やっと正面に見えるだけです。その外は机も、魔法の書物も、床にひれ伏した婆さんの姿も、まるで遠藤の眼にははいりません。しかし嗄れた婆さんの声は、手にとるようにはっきり聞えました。
「アグニの神、アグニの神、どうか私の申すことを御聞き入れ下さいまし」
婆さんがこう言ったと思うと、息もしないように坐っていた妙子は、やはり眼をつぶったまま、突然口を利き始めました。しかもその声がどうしても、妙子のような少女とは思われない、荒々しい男の声なのです。
「いや、おれはお前の願いなぞは聞かない。お前はおれの言いつけに背いて、いつも悪事ばかり働いて来た。おれはもう今夜限り、お前を見捨てようと思っている。いや、その上に悪事の罰を下してやろうと思っている」
婆さんは呆気にとられたのでしょう。暫くは何とも答えずに、喘ぐような声ばかり立てていました。が、妙子は婆さんに頓着せず、おごそかに話し続けるのです。
「お前は憐れな父親の手から、この女の子を盗んで来た。もし命が惜しかったら、明日とも言わず今夜の内に、早速この女の子を返すが好い」
遠藤は鍵穴に眼を当てたまま、婆さんの答を待っていました。すると婆さんは驚きでもするかと思いの外、憎々しい笑い声を洩らしながら、急に妙子の前へ突っ立ちました。
「人を莫迦にするのも、好い加減におし。お前は私を何だと思っているのだえ。私はまだお前に欺される程、耄碌はしていない心算だよ。早速お前を父親へ返せ――警察の御役人じゃあるまいし、アグニの神がそんなことを御言いつけになってたまるものか」
婆さんはどこからとり出したか、眼をつぶった妙子の顔の先へ、一挺のナイフを突きつけました。
「さあ、正直に白状おし。お前は勿体なくもアグニの神の、声色を使っているのだろう」
さっきから容子を窺っていても、妙子が実際睡っていることは、勿論遠藤にはわかりません。ですから遠藤はこれを見ると、さては計略が露顕したかと思わず胸を躍らせました。が、妙子は相変らず目蓋一つ動かさず、嘲笑うように答えるのです。
「お前も死に時が近づいたな。おれの声がお前には人間の声に聞えるのか。おれの声は低くとも、天上に燃える炎の声だ。それがお前にはわからないのか。わからなければ、勝手にするが好い。おれは唯お前に尋ねるのだ。すぐにこの女の子を送り返すか、それともおれの言いつけに背くか――」
婆さんはちょいとためらったようです。が、忽ち勇気をとり直すと、片手にナイフを握りながら、片手に妙子の襟髪を掴んで、ずるずる手もとへ引き寄せました。
「この阿魔め。まだ剛を張る気だな。よし、よし、それなら約束通り、一思いに命をとってやるぞ」
婆さんはナイフを振り上げました。もう一分間遅れても、妙子の命はなくなります。遠藤は咄嗟に身を起すと、錠のかかった入口の戸を無理無体に明けようとしました。が、戸は容易に破れません。いくら押しても、叩いても、手の皮が摺り剥けるばかりです。
六
その内に部屋の中からは、誰かのわっと叫ぶ声が、突然暗やみに響きました。それから人が床の上へ、倒れる音も聞えたようです。遠藤は殆ど気違いのように、妙子の名前を呼びかけながら、全身の力を肩に集めて、何度も入口の戸へぶつかりました。
板の裂ける音、錠のはね飛ぶ音、――戸はとうとう破れました。しかし肝腎の部屋の中は、まだ香炉に蒼白い火がめらめら燃えているばかり、人気のないようにしんとしています。
遠藤はその光を便りに、怯ず怯ずあたりを見廻しました。
するとすぐに眼にはいったのは、やはりじっと椅子にかけた、死人のような妙子です。それが何故か遠藤には、頭に毫光でもかかっているように、厳かな感じを起させました。
「御嬢さん、御嬢さん」
遠藤は椅子へ行くと、妙子の耳もとへ口をつけて、一生懸命に叫び立てました。が、妙子は眼をつぶったなり、何とも口を開きません。
「御嬢さん。しっかりおしなさい。遠藤です」
妙子はやっと夢がさめたように、かすかな眼を開きました。
「遠藤さん?」
「そうです。遠藤です。もう大丈夫ですから、御安心なさい。さあ、早く逃げましょう」
妙子はまだ夢現のように、弱々しい声を出しました。
「計略は駄目だったわ。つい私が眠ってしまったものだから、――堪忍して頂戴よ」
「計略が露顕したのは、あなたのせいじゃありませんよ。あなたは私と約束した通り、アグニの神の憑った真似をやり了せたじゃありませんか?――そんなことはどうでも好いことです。さあ、早く御逃げなさい」
遠藤はもどかしそうに、椅子から妙子を抱き起しました。
「あら、嘘。私は眠ってしまったのですもの。どんなことを言ったか、知りはしないわ」
妙子は遠藤の胸に凭れながら、呟くようにこう言いました。
「計略は駄目だったわ。とても私は逃げられなくってよ」
「そんなことがあるものですか。私と一しょにいらっしゃい。今度しくじったら大変です」
「だってお婆さんがいるでしょう?」
「お婆さん?」
遠藤はもう一度、部屋の中を見廻しました。机の上にはさっきの通り、魔法の書物が開いてある、――その下へ仰向きに倒れているのは、あの印度人の婆さんです。婆さんは意外にも自分の胸へ、自分のナイフを突き立てたまま、血だまりの中に死んでいました。
「お婆さんはどうして?」
「死んでいます」
妙子は遠藤を見上げながら、美しい眉をひそめました。
「私、ちっとも知らなかったわ。お婆さんは遠藤さんが――あなたが殺してしまったの?」
遠藤は婆さんの屍骸から、妙子の顔へ眼をやりました。今夜の計略が失敗したことが、――しかしその為に婆さんも死ねば、妙子も無事に取り返せたことが、――運命の力の不思議なことが、やっと遠藤にもわかったのは、この瞬間だったのです。
「私が殺したのじゃありません。あの婆さんを殺したのは今夜ここへ来たアグニの神です」
遠藤は妙子を抱えたまま、おごそかにこう囁きました。
あけたままの窓
サキ
中西秀男訳
「伯母はすぐ下りてまいります、ミスター・ナテル。失礼ですがそれまでわたくしがお相手いたしますわ」
と、落ち着き払った若い女性がいった。実は十五歳である。
フラムトン・ナテルは何とかうまい挨拶はないかとしきりに考えた。いま目の前にいる姪だという女性をほどよくもち上げ、しかもやがて現われる伯母さんをあまりけなすことにならない挨拶でないとまずい。神経を休めるためということでこの土地へ来ているのだが、こう改まってまったくの他人ばかりつぎつぎ訪ねて廻るのがいったい休養になるかどうか、彼は心の中でなんべんも疑問に思った。
「どんなことになるかわかりきってるわ」
と、彼がこの田舎へ移ってくる準備をしているとき姉がいったものだ。
「きっとその村へもぐりこんだきり生きた人間とは口もきかず、年中ふさぎこんでいて結局いちだんとわるくなるぐらいのものよ。だからあの村の知り合い全部に紹介状を書いてあげるわ。覚えてるけど中にはとてもいい人が幾人もあってよ」
その紹介状を一通もって今日こうして訪ねてきたミセス・サプルトンという人は、果たしてその「とてもいい人」の部類に入るのかな、とフラムトンは考えた。
「この村にお知り合いがいくらもいらっしゃいますの?」
と姪だという女性がたずねた。差し向かいで黙りこんでいるのはもうこれで十分、と判断したわけだ。
「それがひとりもありません」
とフラムトンはいった。
「何年か前に姉がこの村の牧師館へ泊まっていたことがありましてね、その姉がいろんな方に紹介状を書いてくれたのです」
この最後の言葉には困ったなあという語調がはっきりあった。
「するとうちの伯母のこともほとんどご存じないのですね?」
と落ち着き払った女性は重ねてたずねた。
「お名前とご住所しか存じません」
とフラムトンはありのままをいった。ミセス・サプルトンには夫があるのかそれとも未亡人か、それさえわからない。しかし室内には何となく男も住んでいるらしい気配がある。
「ちょうど三年前に伯母は悲しい運命にあいましたのよ」
と姪がいった。
「お姉さまがこの村からおもどりになったあとですわね」
「悲しい運命ですって?」
とフラムトンは聞き返した。なぜかこののどかな田舎に悲しい運命は場ちがいの気がする。
「あの窓、十月の昼すぎなのにあけたままにしておくなんて変だ、とお思いでしょう」
と姪はいって、芝生に向かってあけ放してある大きなフランス窓を指さした。
「今の時節としては割に暖かですからね。ですがあの窓が伯母さまの悲しい運命というのに何か関係でもあるんですか?」
「ちょうど三年前の今日でした。あの窓から伯母の夫が、伯母の弟をふたりつれて狩猟に出て行きました。それきり戻らないんですの。いつものシギの猟場へ行こうと沼地をわたる途中で、足もとの 危ない湿地へ三人ともはまりこんだのですね。そら、あのひどく雨の多い夏でした。いつもの年なら大丈夫な場所なのが不意にめりこんだのです。三人とも死体はとうとう見つかりません。見つからないからこそ困るんです」
今までの落ち着き払った口調が、ここで胸がせまって途切れがちになった、
「気の毒に伯母はそれからずっと待ってるんですの。みんな、いつかは帰ってくる、いっしょに死んだ茶色のスパニエルも連れて、三人ともいつもの通りあの窓から入ってくる、と思ってますの。それで毎日すっかり暗くなるまであけたままにしておきます。かわいそうに伯母は三人が出かけたときのことをよく話しますわ。伯父は白地のレーンコートを腕にかけていたそうです。下の弟はいつものように伯母をからかって『パーティ、おまえはなぜはねる』を歌ってたんですって。ふだんそれを聞くといらいらする、って伯母がいってたんですね。ときどき、こんなしんとした静かな夕方など、あの窓から三人がスーツと入ってくるかと思うと、わたし、ゾーツとすることがありますのよ」
姪は身ぶるいすると話を切った。そこへ伯母という人がせかせか入ってきて、大へんお待たせしてすみませんとさかんに申しわけを並べ出した。フラムトンはホッとした。
「ヴィアラのお相手でご退屈だったんじゃありません?」
と伯母はいった。
「いや、大へん面白くお話を伺ってました」
とフラムトンはいった。
「あの窓、あけたままで構いませんか?」
とミセス・サプルトンはハキハキした声でいった。
「もうすぐ夫と弟たちが猟からもどります。いつもその窓から入ってきますの。今日はシギ撃ちに沼の方へ行きましたから、もどって来たらきっとカーペットが台なしでしょうよ。男の方ってみなそうですわね」
猟のこと、鳥が少なくなったこと、この冬のカモ猟の見こみ--ミセス・サプルトンは快活にしゃべりつづけた。それがフラムトンにはゾッとするほど恐ろしい。彼は一所けんめい話を気味わるくない方へ向けようとしたが、どうもあまり成功しない。気がつくと相手はあまり自分に関心がなくて、目は絶えずフラムトンを通りこして、あいたままの窓とその外の芝生の方へばかり向いている。悲しい運命にあったというその記念日に偶然たずねてきたとは、実に何という不運だろう。
「どの医者もみな完全に休養を取れ、興奮することは一切やめろ、身体をとかくはげしく使うことはよせ、というのです」
とフラムトンは話した。赤の他人でもふと知り合った人でもひとの病気や衰弱やその原因や療法など、こまかく聞きたがるものだ。というのは世間にかなり多い妄想の一つだが、彼もまたその妄想にとらわれてせっせと話したのである。
「ところが食べるもののことになると、どの医者のいうこともくいちがいましてね」
「まあ、そうですか?」
とミセス・サプルトンはいった。危なくあくびを咬み殺した声だ。突然、彼女の顔は急に晴々して何かにありありと注意を向けた。しかしフラムトンの話に向けたのではない。
「ようやく戻ってきましたよ」
と彼女は大きな声でいった。
「ちょうどお茶に間に合ってよかったこと。まあ、顔まで泥んこじゃありませんか」
フラムトンはブルブル身震いすると姪の方へふり向いた。なるほどわかりました、お気の毒ですね、という顔を向けた。姪はあけたままの窓の外をじっと見たまま、恐怖に立ちすくんだ目つきをしている。何といいようもない物凄さにゾーッとすると、フラムトンは椅子のまま向きを変えて同じ方向を見た。
暗くなりかけた夕やみの芝生を三人の人影が窓の方へやってくる。三人とも腕に銃をかかえて、中のひとりは白地のレーンコートを肩にひっかけていた。そのすぐあとを茶色のスパニエルが疲れ切ってついてくる。音も立てずに窓に近づくと、夕やみの中からしわがれた若い男の声が『パーティ、おまえはなぜはねる』を歌い出した。
フラムトンはやにわに帽子とステッキをつかみ、玄関のドアも門までの砂利道も表門もろくろく目に入らず夢中でかけ出した。往来を飛ばしてきた自転車が一台、生け垣へ突っこんで危なく衝突を避けた。
「おい、いま戻ったよ」
と白地のレーンコートを引っかけた男が窓から入ってきながらいった、
「かなり泥になったがもうたいがい乾いた。今かけ出して行ったのは誰だい?」
「とても変わった人よ、ミスター・ナテルとかいう名の」
とミセス・サプルトンがいった、
「自分の病気の話ばかりして、あなた方がもどるとさよならとも何ともいわずにパッと帰っちまったの。まるで幽霊にでも出会ったみたい」
「きっとスパニエルが来たからよ」と姪が落ち着いていった。
「あの人、イヌが大嫌いですっていったわ。一度どこかガンジス河の岸で野良イヌの群に追いかけられて墓地の中へ逃げこんで、掘り立ての墓穴でひと晩あかしたことがあるんですって。すぐ頭の上で唸ったりいがみ立てたり吠えついたりしてるんですって。誰だってふるえ上がりますわね」
即席の作り話は彼女のお得意だった。
あたまでっかち
下村千秋
一
霞ガ浦といえば、みなさんはごぞんじでしょうね。茨城県の南の方にある、周囲百四十四キロほどの湖で、日本第二の広さをもったものであります。
日本第一の近江のびわ湖は、そのぐるりがほとんど山ですが、霞ガ浦は関東平野のまんなかにあるので、山らしい山は、七、八里はなれた北の方に筑波山が紫の色を見せているだけで、あとはどこを見まわしても、なだらかな丘がほんのり、うす紫に見えているばかりであります。
ですから、この湖の景色は、平凡といえば平凡ですが、びわ湖のように、夏、ぐるりの山の上に夕立雲がわいたり、冬、銀色の雪が光ったりすると、少しすごいような景色になるのとはちがって、春夏秋冬、いつもおだやかな感じにつつまれています。びわ湖を、厳格なおとうさんとすれば、霞ガ浦は、やさしいおかあさんのようだともいえるでしょう。この湖の周囲には、土浦、石岡、潮来、江戸崎などという町々のほかに、たくさんの百姓村が、一里おき二里おきにならんでいます。大むかし、人間は波のおだやかな海岸とか、川の岸とか、湖のまわりなどに一番さきすんだものですから、このおかあさんのようなやさしい霞ガ浦のまわりには、もちろんずっと大むかしから人がすんでいたのです。いまでも、方々から貝塚がほりだされたり、矢の根石やいろんな石器が発見されたりするのでも、それがわかります。
それで、百姓村でもずいぶんふるい歴史をもった村があり、何十代つづいたかわからないような百姓家が、方々に残っているわけです。
林太郎の村も、このふるい歴史をもった村のひとつでした。湖の南の岸の丘の上にあって、戸数は五十戸ばかりでした。また林太郎の家も何十代つづいたかわからないという旧家で、村の一番北のはずれに、霞ガ浦を見下して、大きなわら屋根をかぶっていました。
しかし、旧家というのは名ばかりで、いまでは、屋敷まわりの大きな杉林はきりはらわれ、米倉はとりこわされ、馬もいないうまやと、屋根に草がぼうぼうにはえた納屋があるきりの、貧乏な百姓となっていました。同じ村の百姓も年々貧乏になっていきましたが、林太郎の家は村一番の旧家であるうえに、むかしは「名主」というのをつとめ、十年前ごろまでは村の、「総代」というのをやっていただけ、その貧乏がひじょうにめだつのでした。
林太郎のおじいさんは、それを年中苦にしていて、
「せめて子どもでも大ぜいいたら、にぎやかでいいのだが、林太郎ひとりきりだから、よけいに家の中がめいるばかりだ。」
といっていました。林太郎はことし十一才で、小学校の五年生になっていましたが、弟も妹もなく、まったくの一粒っ子なのでした。あとは、おとうさんとおかあさんとおじいさんの三人きりでしたから、がらんとした広い暗い家の中にいると、人はどこにいるかわからないほどで、まったく陰気だったのです。
二
さて、ひとりっ子というものは、わがままっ子のきかんぼうが育つものですが、林太郎はどっちかといえば、いくじなしの泣き虫子にそだちました。おじいさんがかわいがりすぎたせいだ、とおとうさんはよくいいましたが、そうばかりではなく、あんまり陰気な家の中にそだったためかもしれません。とにかく林太郎は、ちょっとしたことにもすぐめそめそとなきだすのでした。
それにもうひとつ困ったことは林太郎はからだのわりに頭でっかちで、それで口の悪い村の子どもらから、「ごろっこ」というあだ名をつけられていることでした。「ごろっこ」とはかわずの子という意味で、あの頭でっかちの「おたまじゃくし」のことです。村の子どもらは、なにかというと、
「やあい、ごろっこめ。」
とはやしたてるのです。すると林太郎は、すぐべそ口になり、くやしそうになきだすのでした。
「頭がでかい子は、えらい人になるんだぞ。なくことはない。」
おじいさんは、林太郎がなきながら家へかえってくるのを見ると、そういってその頭をなでるのでした。またおかあさんは、夜、林太郎をだいてねるたびに、その頭を平手でなでながら、
「林太郎は、学校がよくできるので、みんながやっかんであんな悪口をいうのだよ。子どもの頭は大きい方がいいんだぞ。みんなの頭は小さすぎるんだぞ。」
と、やさしくいってきかせるのでした。
実際、林太郎は学校の成績がよく、いままでに三番とさがったことはなかったのです。ただ、頭が重いため、運動がへたで、ことにかけっくらになると、いつもびりっかすでした。で、おとうさんはよくこういうのです。
「学校なぞはできなくてもいいから、かけっくらで一番になれ。いつまでたってもごろっこじゃ、百姓にもなれやしない。」
そういわれると、林太郎はまたくやしそうになきだします。するとおとうさんはまた、
「またなきやがる。乞食の子にくれてやるぞ。」
と、どなりました。
おじいさんとおかあさんは、頭が大きいのをほめてくれるのに、おとうさんだけは、いつもそんなふうにいっては、つらくあたるので、林太郎はおとうさんをこわがって少しもなつきませんでした。もの心がついてから、一度だっておとうさんにおんぶしたり、だかさったり、夜、いっしょにねたりしたことはなかったのです。
そのうえ、林太郎にはどうしてもおとうさんになじめないわけがありました。それはおとうさんが、ときどき夜おそく、お酒によっぱらい、人相まで変わってかえってきて、一晩中おかあさんをいじめてなかすことでした。林太郎はこわいので、ふとんの中に頭をひっこめ、かめの子のようにちぢまっているのですが、それでもおとうさんのあらあらしい声がきこえるのです。
ふだんでもこわい声をだすおとうさんですから、よっぱらってだす、そのあらあらしい声には、なにかこわい動物のほえ声みたいなところがあります。それが林太郎には憎らしくて憎らしくてなりませんでした。それにまたおかあさんをわけもなくいじめるのですから、たまらなかったのです。けれど、どうかすると、おとうさんはそのあらあらしい声の中で、「林太郎をどうする。」とか、「こうする。」とかいうことがありました。林太郎はふとんの中でそのことをきくと、からだ中、ぞくっとしました。それは、やっぱり自分の頭のことについていっているのだと、ひとりぎめにきめてしまうからでした。つまり自分は、「ごろっこ」のように頭でっかちなので、それがおとうさんとおかあさんとのあらそいのたねになるのだというふうに考えるからでした。
これには林太郎はすっかりまいって、ひとり頭をかかえてべそ口をしているばかりでした。そうして小さな胸の中で、おかあさんにすまない、といっているばかりでした。
三
それは、夏のはじめで、田植えのすんだ頃のある夜でした。林太郎は、右どなりの家のおきぬさんという娘につれられて、湖のふちへほたるをとりにいったのでした。
おきぬさんは、林太郎からみれば、もう「およめさん」になれそうな娘さんでしたので、ねえちゃん、ねえちゃんとよんでいました。おきぬさんもまた林太郎を弟のようにかわいがってくれるので、このひとだけには、おかあさんにもいえないことがいえるような気がしていました。
林太郎は、おきぬねえちゃんの手につかまって、たんぼのあぜ道を湖の方へ歩いていきました。月がでていましたが、かすみにつつまれてほの白く見えているだけでした。いくほどにかすみはだんだん深くなりました。そして湖の岸の土手までいくと、湖面はまるで夢を見ているように、とろんとかすんでいました。「霞ガ浦」という名はこういうところからでたのにちがいありません。まったくかすみにつつまれた霞ガ浦ほど、なごやかなやさしい自然はないでしょう。
林太郎はなんだかもの悲しくなりました。夢のようなかすみの中にいるせいか、それともおきぬねえちゃんに手をひかれているせいか、どっちだかそれはわかりませんが、なんだかひとりでになきたくなってきたのです。うす浅黄色のかすみの中に、ほたるがいくつもほの青い光の尾をひいて、高く低くとんでいましたが、林太郎はそれをつかまえようともしません。ばかりか、ほたるのその青い光までが、目にかなしくうつるのです。
「林太郎ちゃん、どうしたの。」
おきぬねえちゃんが、ふと林太郎の顔をのぞいてそういいました。
「…………。」
林太郎は、なんとも答えず顔をふせてしまいました。
「こんなとこ歩いてるの、おもしろくないの。じゃかえろうか。」
「……ううん、かえりたくないよ。」
林太郎はやっと鼻声で答えました。
「そんなら元気をだして、ほたるをとりなよ。そら、すぐそこを、すいすいととんでるじゃないか。」
「……ねえちゃん、おれ、おれ……死にたいんだ。」
「……なあに?」
「おれ、死にたいんだよ。」
「林太郎ちゃん、なにいってるのさ。夢を見てるんじゃない!」
「だっておれ、あたまでっかちだろう。それでみんなが笑うだろう。それでおとっつあんも、おっかさんをいじめるんだもの……」
林太郎は、大きなおでこの下の小さな顔をいかにも思いあまったというふうにして、そういうのでした。そのようすが、おきぬねえちゃんにはちょっとおかしくもなったので、
「林太郎ちゃんは、おばかさんだわねえ。」
といって、林太郎の肩をだいてやりました。と、林太郎はおきぬねえちゃんのからだへ、大きなおでこをおしつけて、うーん、うーんとむせびながら、
「おとっつあんは、おれのほんとのおとっつあんじゃないだろう。そうだい。だからおれのごろっこ頭が気に入らないで、あんなにおっかさんをいじめるんだろう。だからおら死にたいんだ。」
と、いうのでした。
林太郎のおとうさんは、きのうの晩も酒によってきて、林太郎のことをいっては、この家をでていけ、と、おっかさんをいじめたのでした。それがいま、林太郎の頭の中にありありと浮かんでいるのでした。これにはおきぬねえちゃんも困って、
「林太郎のおとっつあんはほんとのおとっつあんなのよ。ちがうのはおっかさんの方なのよ。だから林太郎ちゃんが頭でっかちだからといって、おとっつあんがおっかさんをいじめるわけはないのよ。」
と、いってきかせました。
すると、これがまた林太郎をひじょうにびっくりさせました。林太郎はこわい顔でおきぬねえちゃんをにらみつけながら、きゅうに大きな声で、
「そんなことないや、そんなことないや! おっかさん、おれのおっかさんだい。」
とさけびたてました。
これにはおきぬねえちゃんもはっとしました。悪いことをいったと思いなおして、
「ええ、うそよ、うそよ。そんなことないの。ほんとにそんなことないの。」
と強くうちけして、
「だからまま親なんていうのはみんなうそなのよ。おとっつあんもおっかさんもほんとの親なのよ。だから、林太郎ちゃんの頭でっかちのことで、おとっつあんがおっかさんをいじめるわけもないの。ただ、どこの家にもいろんな心配ごとがあるものだろう。それでおとっつあんとおっかさんがいいあいするんだろうけど、そんなこと子どもは知らないふりをしていればいいのよ。」
と、しみじみいいきかせました。
林太郎は、こんどは怒りもせず、またなきもまず、ただだまりこんでしまいました。林太郎には、自分が考えていることがほんとうなのか、おきぬねえちゃんのいったことがほんとうなのか、わからなくなったのでした。
四
それから三日ほどした朝のことでした。おとうさんは野らへ仕事にでかけ、おじいさんは湖の岸へ、「のっこみぶな」というのをつりにでかけたあとで、おっかさんはひとりでよそいきの着物にきかえ、ふろしきづつみ一つをもって、
「林太郎、おっかさんはむこうの家へいってくるから、おとなしく待っといで。」
と下をむいたままいいました。
むこうの家というのは、おっかさんのお里のことでした。林太郎の家の裏手の丘から北の方を見ると、霞ガ浦が入江になっていて、そのむこうに一つの村があり、その村におっかさんのお里があるので、それで「むこうの家」といっているのでした。
おかあさんはいままでその「むこうの家」へかえるときは、かならず林太郎をつれていきました。だのにきょうにかぎってそんなことをいいだしたものですから、林太郎の顔色はみるみる変わりました。
「おれもいくよ、おれもいくよ。」
林太郎はおかあさんの手にぶらさがってそういいました。
「きょうはつれていけないの。」
おかあさんはそっぽをむいていいます。
「なんでよ、なんでよ?」
「おとっつあんにしかられるから。」
そういうと、おかあさんはいきなり土間へおり、裏庭へでていきました。林太郎はもう夢中になり、はだしのままおっかさんの後をおいかけました。そうして、ひきつったような声でなきさけびだしました。
おかあさんもそれには困りました。おかあさんはかきの木につかまって考えていました。そして林太郎になにかいいそうにしましたが、それもいわないで、ただ、
「そんならつれていこ。」
とだけいって、林太郎の手をとりました。
おかあさんのお里の村までは、丘づたいに入江をぐるりと回っていけば、二里あまりありましたが、舟でまっすぐに入江を横ぎっていけば、十四、五丁しかありません。それに湖の岸にすむ人たちは、女でも子どもでも船をこぐことはじょうずですから、おかあさんもお里へかえるときは、いつも自分で船をこいでいきました。船は、このへんで「さっぱ船」という小さな船で、田植えをするときなどなくてならないものですから、どこの家でも一つぐらいは持っていたのです。
おかあさんは、そのさっぱ船のまん中へ林太郎をのせると、竹ざおをとってするするとおしだしました。その日はいかにも初夏らしいお天気で、丘の上の新緑はほんのりかすみ、空も水もふっくらとふくらみ、かわずはねむそうにないて、なんともいえないいい気持でした。
しかしおかあさんはだまりこくって、さおをあやつっています。林太郎はぼんやりとゆくての村の方を見ていましたが、その頭の中ではこんなことを考えていました。
「やっぱりおれの頭がでっかちなので、なにか困ったことが起ったんだな。」
五
まもなくおっかさんのお里のおうちが見えてきました。若葉がふっくらとしげった木々のあいだに、大きなわら屋根が見え、それから米倉の白い壁が見えてきました。その白い壁は朝の日をうけて、あたたかそうに光っていました。
おっかさんはそれが見えてくると、いつもにこにこして元気よく船をおしだすのでしたが、きょうはその方を見ようともしません。下をむいたまま、たいぎそうにさおをあやつっているばかりでした。
林太郎は悲しくなりました。それで、ふなべりから手をのばして、水面に白く咲いているすいれんの花をむしってはすて、むしってはすてて、泣きそうになるのをがまんしていました。
やがて船は、米倉の下の岸へつきました。水ぎわにあそんでいた、たくさんのあひるどもが、があがあなきながら泳ぎにげました。
おっかさんは林太郎の手をとって丘へ上がると、今わたってきた入江の方へ見返ってため息をつきました。それから米倉の前を通って母屋の庭へはいっていきました。
母屋の縁には、おっかさんのおっかさん、つまり林太郎にとってはおばあさんがめがねをかけて針仕事をしていましたが、林太郎たちの姿を見ると、めがねをはずしながら、
「おやおや、よくきた。林太郎もよくきたな。」
と、よろこんで、にこにこしながらいいました。
「きょうはおまえのうちは仕事が休みかい。林太郎も学校がお休みかい?」
と、聞きました。
けれどもその日は、林太郎のうちでは仕事が休みでもなかったし、林太郎は学校がお休みでもなかったので、ふたりともなんとも答えませんでした。
おっかさんは、持ってきたふろしきづつみを縁の上へおくと、おばあさんのそばへ腰をかけて、ひくい声でなにか話しだしました。話しているうちにおっかさんの顔はだんだんうつむいてきました。おばあさんは、うんうんといいながら聞いていましたが、やがておばあさんの顔も下をむいてしまいました。
林太郎は、自分が聞いては悪いことを話しているのだ、と思いました。自分のあたまでっかちのことを話しているのだな、とも思いました。それで、おっかさんのそばをそろそろとはなれて、米倉の方へとぼとぼと歩いてきました。
六
「林太郎や、遠くへいくんじゃないよ。」
と、おっかさんがうしろから声をかけました。
「うん。」
と林太郎はふりむきもしないで答えて、さっきおっかさんとのってきた船がつないである水際の方へおりていきました。そこにはさっきのあひるどもが、やっぱりがあがあなきながら、いかにもおもしろそうに泳ぎまわっていました。林太郎はそれをぼんやり見ながら、自分はとうとうひとりぼっちになってしまったような気持になりました。
すると、後の方で、おん、おん、おんというなにかのなき声がしました。ふりむいてみると、小さなまっ白なむく犬がいました。ひつじのようにむくむくした、毛ののびた前足を前へつっぱり、くりくりした茶色の目をきょとんとあけて、わん、わんというよりは、おん、おんというような声でほえたてています。
犬の大好きな林太郎は、いままでなきそうにしていた顔をきゅうに明かるくいきいきとさして、その場にしゃがみながら片手をさしだし、ちょっちょっと舌をならしてよびました。が、むく犬はかえってあとしざりしながら、おん、おんとほえたてます。林太郎はそれをつかまえてやろうと思い、立ち上がっていきました。と、むく犬はこんどはむこうをむいてばらんばらんとにげだしました。あんまりきゅうにかけだしたので、前へのめってころんとひとつもんどりをうって、それからあわてておき上がり、またかけだしました。
子犬というものはみんなあたまでっかちなものですが、そのむく犬はわけてもでっかち頭に見えました。それできゅうにかけだしたりするとのめるのでしょう。林太郎はおかしくなって、
「やあい、でっかちあたまあ……」
と、どなってやりました。しかしそれは、自分が村の子どもらからしょっちゅういわれていることでした。林太郎はへんな気持になりました。そしてそのむく犬がとてもなつかしくなりました。自分のきょうだい分のような気がしてきました。
それから林太郎は、なんとかしてそのむく犬を手なずけようと考えました。口をとんがらしてへたな口笛をふいてみたり、なにかたべるものをくれるように見せかけたり、いっしょに遊ぼうというように道ばたの草の上にねころんで見せたりしました。むく犬は、もうにげようとはしませんが、でっかち頭をくるくるまわしたりして、おどけるようなまねをしながらも、なかなかそばへよってきませんでした。
「おまえの名はなんちゅうんだい? 名なしの犬ころかい? 白いからしろだろう。そうだ、おれが名をつけてやるよ。しろ公とつけてやるよ。……しろ公や、こっちへこいよ。おれのでしにしてやるよ。でしでいやなら、弟にしてやるよ。」
しろ公はにこっと笑ったように林太郎には見えました。それから前足をちょいとあげて、ぼく、うれしいな、というようなようすもしました。が、それでも、そばへはよってきません。
と、母屋のお庭からおっかさんが、
「林太郎や、おひるだよお……」
とよびました。林太郎は残念そうにその場をひきあげました。
七
林太郎は、いろりのある台所で、おばあさんとおっかさんのあいだにすわって、おひるのごはんをたべていました。すると、さっきのしろ公が、いつのまにかそこの土間へきていて、みんながごはんをたべているのを、さもうらやましそうに、しっぽをふりながら見上げていました。林太郎はびっくりしてよろこび、
「やあ、しろ公だ、しろ公だ。」
と、のび上がっていいました。
「おやおや。」
と、おばあさんもしろ公を見下ろして、
「林太郎のうちのかい?」
「ううん、さっき、ひとりであそんでいたから、おれの弟にしてやったんだよ。」
「それじゃ、野ら犬かな?」
「野ら犬であるもんか。しろ公というなまえがついてるんだもの。」
「あの犬が、自分でそういったのかい?」
「……うん、そういった……」
おばあさんは、
「ああ、そうかよ。」
と、それから声をあげて笑って、
「それじゃ、なにかたべさしてやろうかな。」
「うん。おれ、くわしてやるよ。」
やがて林太郎は、おばあさんが、ねこのおわんへもってくれた汁かけ飯をもって、土間へおりていきました。しろ公はよっぽどおなかがすいているとみえて、もうにげだすどころか、小さなしっぽをふりちぎりそうにうちふりながら、がつがつとくいつきました。
それから林太郎としろ公はすっかり仲よしになりました。しろ公はまったくの弟になったように、林太郎のいくところはどこへでもついてきました。林太郎はもう、ひとりぼっちになってしまったような気持を、きれいに忘れてしまいました。
林太郎はしろ公をつれて、母家のまわりをかけまわりました。米倉のまわりもかけまわりました。入江のふちの道もいったりきたりしました。ときどきだきあげてやると、しろ公はあんまりよろこびすぎて、おしっこをもらしたりします。草の上へねころんでふざけると、しろ公は夢中になりすぎて、林太郎の手や足に歯あとがのこるほどかみつきます。そんなとき、
「しろ公のばか。気をつけろよ。」
そういってかるく頭をぶってやると、しろ公は目をしょぼしょぼさせて、ごめんね、とでもいうように林太郎の手の甲をしゃりしゃりなめたりします。
林太郎はどうしていいかわからないほど、しろ公がかわいくなりました。
そのうちに、晩春のながい日もくれかけました。けれど林太郎は、それも知らずにしろ公と遊んでいると、おっかさんがそこへでてきて、
「林太郎、もううちへかえりなよ。」
と、いいました。
「おっかさんもいっしょにかえるんだろ?」
「おっかさんはきょうはかえれないよ。そのかわり友さんをつけてやるから、いいだろう。」
友さんというのは、おばあさんのうちの作男でした。
「友さんでは、いやだ、いやだ。」
「そんなこといわないで、きょうだけおとなしくかえっておくれ。でないとおかっさんが困るから。」
「………」
「それじゃ、そのしろ公もいっしょにつれていきな。林太郎にはしろ公という弟ができたんだもの、もうさびしかないだろう。」
「………」
林太郎はしろ公をだきながら、指のつめをかんでいるばかりです。おっかさんは大きなため息をついて、
「困ったなあ。」
と、また、うつむいてしまいました。
林太郎は、うわ目でおっかさんのようすをしげしげと見ていましたが、なにか決心したように、
「そんじゃ、あしたきっと、おっかさんもかえってくる?」
「あした……」
と、おっかさんはちょっといいつまったが、
「そう、あした、かえるよ。」
と、小さなこえでいいました。
林太郎はそれがまた気になりましたが、とうとう、
「じゃ、おれきょうかえるよ。」
と、答えました。
八
林太郎は、しろ公をつれ、作男の友さんに船をおしてもらって自分のうちへかえりました。そしてその夜は、しろ公の寝床を土間のすみへわらでつくってやって、自分はおじいさんといっしょにねました。
つぎの朝はいつもより早く起きだして、しろ公をつれて家の裏の丘の上へのぼり、入江の方を見ていました。が、おっかさんはかえってきませんでした。林太郎は日がくれるまで、何度となくその丘へきてみましたが、やっぱりだめでした。
そうしてつぎの日も、またそのつぎの日もおっかさんはかえってきません。林太郎はおじいさんに、なぜおっかさんはかえらないのか、と一日に三度も四度も聞いてみましたが、おじいさんは
「そのうちに、帰るで、おとなしくしてるだよ。」
というばかりでした。
夜になるとしろ公も、ひとりでねるのはさびしいというように、くんくんなきたてます。すると林太郎もたまらなくさびしくなって、おじいさんの胸へ顔をおしつけて、しくしくなきました。おとっつあんはときどき、
「林太郎はこっちへきてねるんだぞ。」
と、いいましたが、林太郎はそんなことはいつも聞えないふりをしていました。
ある夜、林太郎は、おじいさんとねながら、とうとういいだしました。
「おじいさんよ。おれ、あたまでっかちだから、それでおとっつあんはおっかさんをおん出しちまったんだろう?」
「ばか。おまえがあたまでっかちだって、おっかさんの罪ではないんだよ。」
「そんじゃ、おれが悪いんだろう。……そんじゃ、おれ……死んじまえばいいんだろう。」
「こら、なにをいうだ。」とおじいさんは林太郎をまじまじと見守っていましたが、「よしよし、おじいさんがおっかさんをつれてきてやるから、もう余計なことを考えるでないぞ。」と林太郎を胸の中へだきこみました。
つぎの日おじいさんは、「さっぱ船」にのって、「むこうの家」へでかけていきました。そして夕方、暗くなってからやっぱりひとりでかえってきて、
「おっかさんはからだが少し悪いでな、なおったらすぐかえるといってたよ。」
と、いいました。
だが、それから半月たってもひと月たってもおっかさんの方からはなんの音さたもありませんでした。
九
そのうちに夏休みがきました。しろ公は、つれてきたときより三倍も大きくなり、夜はよく家の番をし、昼間は林太郎のいうことをよく聞いて、いっしょにふざけながら遊んでもおしっこをもらしたり、手や足をひどくかむようなことはしなくなりました。
それに、しろ公はひじょうにりこうで、林太郎が夕方などさびしそうにしていたりすると、ぴったりと林太郎のそばにすりついて、はなれませんでした。それはまったく林太郎のきょうだいのようでした。
それで林太郎もいつか、このしろ公といっしょなら、ひとりではできないこともできるような気がしてきました。そして林太郎は、ある日、ひとりではできないことを、しろ公といっしょにりっぱにしてしまいました。それは、しろ公を、例の「さっぱ船」にのせ、自分が船をこいで、とうとうおっかさんのお里まで、入江を渡ってしまったのです。
お里のおばあさんもそれにはびっくりして、
「まあ、林太郎は、ほんとうにひとりで船をこいできたのかい。」
と、なんべんも聞きました。
林太郎は、さすがに少し顔色も変わっていましたが、元気よく、
「おれ、ひとりじゃないよ。しろ公とふたりだよ。」と答えて、「おっかさんをむかいにきたんだよ。おっかさんはどこにいるの?」と、聞きました。
おばあさんは、これは困ったことになったぞ、という顔をしていましたが、
「おっかさんはな、まだからだがよくならないので、土浦の病院へいってるのだよ。よくなって退院したら、じき林太郎のとこへかえしてやるから、きょうはがまんして帰っておくれ。」
と、やさしくいいきかせました。
林太郎は、くちびるをくいしばって聞いていましたが、
「うん。」
と、ひとこと答えたきりでした。
さてその日、林太郎はしろ公をつれて、土浦の病院までおっかさんをたずねていこうと決心しました。土浦までは霞ガ浦のふちをぐるりと回って、五里ちかくあります。おとなは自転車で一日に往復しましたが、やっと十一才の林太郎が、それも小さな足でぽつぽつ歩いて、まだ一度も歩いたことのない道をいこうというのですから、それはずいぶんの冒険でした。が、林太郎はおっかさんに会いたい一心から、もうあぶないことも恐いことも忘れてしまったのでした。
一〇
林太郎はしろ公をつれ、土浦へむかって歩きだしました。左手は、松林や雑木林がつづいています。そこには、ひぐらし、みんみん、あぶらぜみなどがにぎやかにないています。右手は青々としたたんぼで、風がわたるたびに青い波がながれます。たんぼのむこうは霞ガ浦で、それは、いかにも夏の湖らしくきらきらと光っています。
林太郎は、生まれてはじめて歩く道ですが、そういう景色をながめながら歩いていると、そんなにさびしいとも感じませんでした。それに、土浦へいきさえすれば、おっかさんにあえると信じてもいるので。
ただ林太郎にとって少し困ったことは、しろ公をおともにつれてきたのに、しろ公はおともらしく神妙にしてついてこないことでした。しろ公もはじめて歩く道なので、いつものように横道へそれたり、見えなくなるほど先の方へ走っていったりはしませんが、道ばたにたっていつまでもくんくん、鼻をならしていたり、電信柱があるごとに、その根元へおしっこをかけたり、ほかの犬の姿をみつけると遠くからにらめていたり、ちっともおちついていないのです。林太郎は、
「しろ公、ばか。」
「しろ公、げんこつくわせるぞ。」
「しろ公、おとなしく歩かねえと、おっかさんのとこへつれてってやらねえぞ。」
などと、しょっちゅうどなりつけながら歩いていました。
そのうちに、きらきら光っていた霞ガ浦がだんだんうすむらさきに煙ってきました。丘の上でなきしきっていたせみの声もいつしかしずまり、かなかなのこえだけ、小さなかねをたたくように聞えて、あたりは夕もやにつつまれてきました。気がついてみると、あんなにさわぎまわっていたしろ公も、林太郎の足元にすりつくようにして、とぼとぼと歩いています。
林太郎はきゅうに心細くなりました。
「もう、どのくらい歩いたろうな。土浦はまだかしら。」
そう思ってゆくてをみると、白い道が夕もやの中へきえて、その先の空には二つ三つ、黄ろい星が光りだしているばかり。ときどきすれちがう人もなんだか気味が悪く、うしろからだしぬけに自転車が走りぬけたりすると林太郎はぎょっとしました。そこで林太郎は、こんどはやさしい声でしろ公へ話しかけました。
「しろ公、くたびれたかい。」
「しろ公、おなかがすいたかい。」
「しろ公、おっかさんのとこへいったら、うんとうまいものをくわしてやるよ。」
一一
そうして林太郎としろ公は、どのくらいの道を歩いたろうか。ふと目を上げるとはるか右手のほうに、たくさんの電灯が、まるで野原一面にさきみだれた花のようにきれいにともっているのが見えました。
「ああ、土浦だ、土浦だ!」
林太郎はとび上がってよろこび、
「やいしろ公、おっかさんのいる町がめえるじゃねえか。」
けれどしろ公はやっぱりとぼとぼと歩いています。林太郎はそのしろ公を両手で高くさしあげて、
「それ見ろよ。あれだよ。すてきだろう。」
林太郎はすっかり元気づき、走るように歩きだしました。
だが、町の灯はすぐそこに見えていながらなかなか遠いのです。林太郎が近づいていけばいくほど、町のほうで遠くへにげていくようにも見えます。それで林太郎は、はあはあいいながら夢中で進んでいきました。そしてやっと町の入口へついたときは、足は棒のようになり、頭はぽうーっとなっていました。しろ公もすっかりまいったとみえ、しっぽをおなかの下へまきこみ、ひょろひょろ歩いています。
この町の灯を遠くから見ながらくるときは、林太郎の目にはこの町がおとぎ話の竜宮のように美しいところに思われたのでした。が、きてみるとそれどころか、小さな店がごちゃごちゃとならんで、いやなにおいがして、むし暑くて、どこにも美しいところがありません。それに、人をふきとばしそうなサイレンをならしている自動車、往来いっぱいになってがたがた走ってくる乗合自動車、うるさくベルをならしながらとびまわる自転車などで、うかうかと歩いてもいられません。林太郎はしろ公といっしょに幾度となく往来のすみっこにたち止まっては、
「まったく、やんなっちゃうなあ。」
と、ひとりごとをいいました。
しかしそんなことをしていたら、いつまで歩いていてもおっかさんに会うことなどできません。林太郎はある荒物屋の店先へ立ち、学校でならったていねいな言葉で聞きました。
「土浦の病院はどこですか。」
「土浦の病院? それだけじゃ、わかんねえよ。」
荒物屋のことばはらんぼうです。
「土浦の病院だよ。」
「このでっかちあたま、土浦には、病院がいくつもあるんだからな、その名前を聞いてこい。」
林太郎はおずおずとその店先をさりました。林太郎は、この町へきて「土浦の病院」とさえいえばすぐわかり、それでまたおっかさんにも会えるものとばかり思ってきたのです。林太郎は困ったなと思いました。が、ひょっとしたらあの荒物屋はなんにも知らないのかもしれないと思いなおしました。で、またしばらく歩くと、ある乾物屋の前へたって、
「土浦の病院はどこでしょうか。」
と、聞きました。
「へえ?」と、乾物屋のおかみさんは笑いながら、「おまえさん、どこからきたの。」
「……」林太郎はそれには答えず、「おれのおっかさんのいる病院だよ。」
「おや。犬ころとふたありで、おっかさんに会いにきたのかね。だけど土浦の病院だけじゃわからないよ。なんという病院だえ?」
と、おかみさんはやさしくいいます。
そういわれると林太郎はなんだか少し悲しくなり、きゅうにおろおろ声で、
「土浦の病院というんだよ。そんな病院ないのけ?」
「なるほど、それじゃ、土浦病院のことだろう。それならね、これをまっすぐにいってつきあたったら、右へまがっていくと、左側にあるのがそうだよ。りっぱな西洋館だからすぐわかるよ。」
林太郎は、ああよかったと思いました。それでそのおかみさんへぼうしをぬいでていねいにおじぎをして、教わったとおりの道を歩いていきました。
町はだんだんとにぎやかになり、ならんでいる店もりっぱになり、ある店には、赤や青の電灯が、つばきの花を糸へさしたようにならべてあって、蓄音機が大きな声で歌をうたっています。林太郎もその前ではしばらく立ち止まって、
「やっぱり竜宮みたいなところもあるなあ。」と感心したりしました。
一二
病院はすぐわかりました。林太郎はおそるおそるその玄関へはいって、まっ白な円い天井に大きな電灯がともっている下に立ち、
「こんちは、……こんちは……。」
と、いいました。すると受付とかいてあるところの窓があいて、
「もう夜だからこんばんはというもんだよ。」という声がして、白い服をきた若い女が顔をだし、「なあに、くすりをとりにきたの。」
「ううん、おれのおっかさんいるけ?」
「ほっほほ。おれのおっかさんて、おまえさんなんという名?」
「林太郎……。」
「やな子、林太郎じゃわかんないよ。なに林太郎というの?」
「川並林太郎というの。」
「川並……? おまえさんのおっかさんだね。」
「うん。」
「そんなお方、うちには入院していないわ。」
「うそだあ。いるっていったよ。」
「だっていないんだもの。うそなんかいやしないよ。」
「……ほんとにいないの。」
林太郎はうらめしそうににらみました。
「おまえさん、病院をまちがえたんだろ。この前を左へいくと、むこう側にもひとつ病院があるから、そこへいってごらん。」
林太郎は、しおしおとそこをでて、教わった、つぎの病院へいってみました。が、そこにもおっかさんはいませんでした。林太郎はそこでもまたべつの病院を教わって、また、そこへいってみましたが、やっぱりおなじことでした。そこでは、
「病院の名も知らずに歩いたってわかりっこないから、おうちへおかえり、でっかちあたまさん。」
と、いわれました。
林太郎はもう顔も上げられないほど悲しくなりました。それでただもう足のむいた方へ歩いていきました。町の灯がちかちか光って見えます。涙が目の中にいっぱいたまっているのでそう見えるのですが、林太郎はそんなことは気がつきません。ただ町中がなんとなく恐ろしく見えてきて、早くちかちか光る灯のないところへ出たいと思いながら歩いていました。
そのうちやっと暗い通りへでました。それをどこまでもいくと、広い原っぱへでました。そこは霞ガ浦のふちで、一面に夏草がはえしげっています。夏草には夜露がしっとりとおりています。林太郎はその草の露をふみながら、またあてどもなく歩いていきました。
「しろ公、どこへいったらいいんだよ?」
林太郎は、いつか足元にすりついて歩いているしろ公へ、そう話しかけていました。
「なあ、しろ公、おっかさんは、どこにいるんだよ?」
「なあ、しろ公、たのむからおまえが探してきてくれよ。」
「しろ公、おらなんだか気が遠くなってきたよ。」
「しろ公、夢みたいだなあ。」
そういっていたかと思うと、林太郎は草の上にふらりとすわってしまいました。そこは湖の岸で、すぐ下は水です。林太郎はそこにすわったまましばらくはふらふらしていましたが、やがてずるずるとすべって、もう少しで水の中へすべりこむところを、そこに一カ所ちょっとしたくぼみがあり、林太郎のからだはその中へぐあいよくすぽりとはまりました。
林太郎はそこで、虫のようにまるくなって眠ってしまったのです。かわいそうに林太郎は、おっかさんのお里を出てから、水一てき飲まずに五里ちかくの道を歩きつづけ、この町へきてもなにひとつたべずに、あっちこっちの病院をたずね回ったので、もうからだも頭もへとへとに疲れてこんなところにゆきだおれてしまったのです。
しろ公も林太郎とおなじように飲まず食わずですから、もう少しでへたばりそうになっていました。が、林太郎がそんなにたおれてしまったのをみると、これは兄貴の一大事とわかったらしく、しっかりと両耳をたてて、林太郎のそばにきちんとすわっていました。主人のためには命をすてて主人の危険を救う犬がよくありますが、しろ公もまたそういう忠実な犬にちがいありません。といってしろ公は、そこにゆきだおれてしまった林太郎をどうして救うのでしょうか。
一三
こちらは林太郎のおとっつあんです。おとっつあんはその日がくれても林太郎の姿が見えないので、これはてっきりおっかさんのお里へいったにちがいないと思い、さっぱ船にのってお里へいってみました。と、林太郎はおひるすぎにきはきたが、すぐ家へかえっていったとおばあさんのはなしです。
「それじゃ、どこへいったろう?」
「ひょっとしたら、おっかさんに会いたい一心で、土浦までいったかもしれないぞ。」
「でも、あんな子どもがひとりでいけるだろうか。」
「いやいやいったかもしれぬ。そういえばきょうの林太郎はいつもと違って、くちびるをくいしばってなにか決心したような顔で、このうちを出ていったからな。」
「しろ公もいっしょだったか。」
「ああ、いっしょだった。」
「そんならやっぱりいったかもしれねえ。よし、じゃこれから迎いにいってくる。」
「ああすぐいっておくれ。それからひとつ頼みがあるが。」
と、おばあさんは目をしょぼしょぼさしていいます。
「どんなことでしょう?」
「ほかでもないが、林太郎はじぶんの頭がでっかちなので、そのためにおっかさんはおまえさんの家から追い出されたのだと、思っているのだから、な。それをよく考えてやっとくれよ。」
「ああ、よくわかりました。すみません。」
おとっつあんはそこで、その家の自転車を借り、それにのって、もうチェーンがきれるほどペタルをふんで土浦へ走っていきました。で、わずか一時間ばかりで町へはいると、林太郎のおかあさんが入院している病院へ、息せききってはいっていきました。
林太郎さんのおっかさんは、もう病気もよくなり、少しは外へもでられるようになっていましたので、おとっつあんがたずねたというしらせをうけると、ひとりで玄関へでていきました。おとっつあんはまず、
「林太郎がきているかね。」
と、聞きました。
「林太郎が? きていませんが……」
「きていない。ああそれじゃまい子になっているのだ。」
「どうしたのです?」
おっかさんも顔色をかえました。おとっつあんは手みじかに、実はこれこれだと、林太郎がいなくなったわけを話しました。するとおっかさんはもう涙声になり、
「林太郎はわたしの子ではないのに、わたしをほんとの親のようにしたってくれるのです。あんないい子をまい子にしてしまってはたいへんです。わたしもいっしょにさがしますから。」
と、外へ出ようとします。
「いや、おまえは病人だからむりをしないでおくれ。わしがひとりでさがす。きっとさがしだしておまえのところへつれてくるから、気をもまないで待っていておくれ。」
おとっつあんはそういいおいて、また自転車にとびのり、町の中へ走りだしました。
それからおとっつあんは、無我夢中で町中を走りました。が、どこにもそれらしい姿が見えないと、町はずれを、東へも南へも、北へも西へもでてみました。だが、それでも見あたりません。
おとっつあんはもう気がくるいそうになりました。それで、まっくらな原っぱへ出たりすると、大きな声をだして、
「林太郎やあー……林太郎やあー……。」
と、どなりました。
そのうちに夜はふけてきました。おとっつあんはもう声もかれはてて、林太郎をよぶこともできなくなりました。
一四
そうして、あるまっくらな道をよろよろと走っているときでした。どこからか一ぴきの白い犬が走りよってきたかと思うと、おとっつあんの足へかみつくようにしてほえたてるのです。見るとそれはしろ公ではありませんか。おとっつあんは自転車から飛びおり、
「ああ、しろ公だ、しろ公だ。林太郎はどこにいるのだ?」
と、しろ公をだいてさけびました。するとしろ公は、悲しいような、うれしいような声で、くうーんくうーんとなきながら、自分のからだをおとっつあんの胸へすりつけて、それからまっくらな道を走りだしました。
「ああ、そっちか。ありがとう、しろ公。ありがとう、しろ公。」
おとっつあんはいいながら、自転車でその後についていきました。
しろ公は、そのようにして、林太郎がゆきだおれている湖の岸へ、おとっつあんをりっぱに案内したのです。おとっつあんは、倒れている林太郎をだきあげると、
「林太郎やあ……林太郎やあ……。」
声かぎりよびました。林太郎はその声でやっと目をあけました。そして、おとっつあんだと知ると、
「おれ、もう死んじゃうんだよ。」
と、いいました。
「ばかなことをいうでねえ。」と、おとっつあんは林太郎のからだをゆすぶり、「おとっつあんが迎いにきただ。もう、だいじょうぶだからしっかりするんだぞ。」
「おれ、おとっつあんなんぞいらない。おっかさんだ、おっかさんだ……」
「だから、おっかさんとこへつれていくだ。それで、あしたは、おっかさんと林太郎とおとっつあんと三人で、うちへ帰るだから、しっかりするんだぞ。」
「そんじゃ、おっかさんの病院わかったの?」
「ああわかったとも。おっかさんも林太郎のくるのを一生けんめいに待ってるだ。」
「そんじゃ、おとっつあん、もう、おっかさんをいじめねえかよ。」
「だれがいじめるもんか。林太郎がしろ公をかわいがるようにかわいがってやるだ。」
「おれが頭でっかちでも?」
「林太郎の頭も、もうはあでっかちじゃねえだ。それ、しろ公だって、犬ころのときでっかちあたまだったが、いまはそうじゃねえだろう。林太郎もしろ公とおんなじよ。」
おとっつあんは林太郎を草の上へ立たせ、その前へしゃがんで、
「さあ、おんぶしなよ。おっかさんとこへいくだ。」
「待ってよ、おとっつあん。」
「どうするだ。」
「おとっつあんはばかだなあ。しろ公を忘れてるよ。」
「ああそうか。」と、おとっつあんはしろ公の頭をなでて、
「しろ公、ありがとうよ。われのおかげで林太郎は助かったぞ。林太郎のおっかさんもおとっつあんも助かったぞ。」
しろ公もうれしそうにしっぽをふっています。林太郎は、しろ公の前へしゃがんで、
「それ、しろ公、おんぶしなよ。」
「なるほど、そうか、そうか。」
おとっつあんはそこで、しろ公をだき上げて林太郎の背中へのせ、その林太郎をおんぶして、そうして自転車へのり、ちょうど曲馬団の曲芸師のようなかっこうで、元気よくおっかさんのところへ走りだしました。(昭10・2〜4)
あほう鳥の鳴く日
小川未明
若者は、小さいときから、両親のもとを離れました。そして諸所を流れ歩いていろいろな生活を送っていました。もはや、幾年も自分の生まれた故郷へは帰りませんでした。たとえ、それを思い出して、なつかしいと思っても、ただ生活のまにまに、その日その日を送らなければならなかったのであります。
もう、十七、八になりましたときに、彼は、ある南方の工場で働いていました。しかし、だれでもいつも健康で気持ちよく、暮らされるものではありません。この若者も病気にかかりました。
病気にかかって、いままでのように、よく働けなくなると、工場では、この若者に、金を払って雇っておくことを心よく思いませんでした。そしてとうとうある日のこと、若者に暇をやって工場から出してしまったのです。
べつに、頼るところのない若者は、やはり自ら、勤める口を探さなければなりませんでした。
彼は、それからというものは毎日、あてもなく、あちらの町こちらの町とさまよって、職を求めて歩いていました。
空の色のうす紅い、晩方のことでありました。彼は、疲れた足をひきずりながら、町の中を歩いてきますと、あちらに人がたかっていました。
何事があるのだろう? と思って、若者はその人だかりのしているそばにいってみますと、汚らしい少年をみんながとりかこんでいるのであります。
「さあ、赤い鳥を呼んでみせろ。」と、一人がいいますと、また、あちらから、
「さあ、白い鳥を呼んでみせろ!」とどなりました。
汚らしいふうをした子供は黙って立っていました。
「どんな鳥でも呼んでみせるなんて、おまえは、うそをつくのだろう? なんで、そんなことがおまえにできてたまるものか!」と、人々は口々にいって冷笑いました。
すると髪の毛の伸びた、顔色の黒い、目の落ちくぼんだ子供は、じろじろとみんなの顔を見まわしました。
「私は、けっして、うそをつきません。山にいて、いろいろほかの人間のできないことを修業しました。ほんとうに、みなさんが赤い鳥が呼んでほしいならば、どうか、私に、今夜泊まるだけの金をください。私は、すぐに呼んでみせましょう。」といいました。
群衆の中には、酒に酔った男がいました。
「ああ、呼んでみせろ! もし、おまえが呼んでみせたら、いくらでも、ほしいほどの金をやるから。」といいました。
子供は、うなずいて、空を仰ぎました。雲はちぎれちぎれに高らかに飛んでいました。そして、日がまったく暮れてしまうのには、まだ間があったのです。
たちまち、鋭い口笛のひびきが子供の唇から起こりました。子供は、指を曲げてそれを口にあてると、息のつづくかぎり、吹きならしたのであります。
このとき、紅みがかった、西の空のかなたから、一点の黒い小さな影が雲をかすめて見えました。やがて、その黒い点は、だんだん大きくなって、みんなの頭の上の空に飛んできたのです。そして、あちらの町の建物の屋根に止まりました。
それは、夕暮れ方の太陽の光に照らされて、いっそう鮮かに赤い毛色の見える、赤い鳥でありました。
「さあ、このように赤い鳥が飛んでまいりました。」と、子供はいいました。
「あんな遠くでは、赤い鳥だかなんだかわからない。もっと近く、あの鳥を呼んでみせろ!」と、酒に酔った男が叫びました。
子供は、ふたたび高らかに、口笛を吹き鳴らしました。すると、赤い鳥は、すぐみんなの頭の上の電信柱にきて止まりました。
「おい、あの鳥を手に捕まえてみせろ。」と、このとき、見ていた一人がいいました。
「私には、あの鳥を捕まえることもできますが、今日はそんなことをいたしません。」と、子供は答えました。
「なんで、おまえは捕まえてみせないのだ?」
「私は、ただ赤い鳥をここへ呼んだばかりです。」
「捕まえてみせなければ、金をやらないぞ。」と、群衆は口々に叫びました。
「赤い鳥を呼んでみせろというだけの約束であったのです」と、子供は答えました。けれどみんなは、口々に勝手なことを喚いて、承知をしませんでした。
「手に捕まえてみせなけりゃ、金をやらない。」と、酒に酔った男もいいました。
「私は、お金はいりません。そのかわり、今夜この町へ、黒い鳥をたくさん呼んでみせましょう。」と、子供はいいました。
黒い鳥という言葉は、なにか不吉なことのように、みんなの耳に聞かれたのです。けれど、だれも心から、ほんとうに信ずるものはありませんでした。なんでおまえにそんなことができるものか? この赤い鳥の飛んできたのは、偶然だったろうといわぬばかりの顔つきをして、この汚らしい子供の姿を見守っていました。
そのとき、だれか、小石を拾って、電信柱の頂に止まっている赤い鳥を目がけて、投げました。赤い鳥は驚いて、雲をかすめて、ふたたび夕空を先刻きた方へと、飛んでいってしまいました。
子供は、しょんぼりとそこを立ち去りました。この哀れな有り様を見た若者は、群衆を憎らしく思いました。自分も困っていたのですけれど、まだわずかばかりの金を持っていましたので、その金の中から幾分かを、子供に恵んでやりました。子供は、たいそう喜んで幾たびも礼をいいました。そして、忘れまいとするように、じっと若者の顔を見上げていました。
その晩のことであります。空はいい月夜で、町の上を明るく昼間のように照らしていました。どこからともなく、口笛の声が起こりますとたちまちの間に、黒い鳥が、たくさん月をかすめて、四方から飛んできて、町の家々の屋根に止まりました。
町の人たちは、みんな外に出て、この黒い鳥をながめました。そして、こんな鳥が、どこから飛んできたのだろうと怪しみました。
しかし、今日の暮れ方、町で、あの汚らしいふうをした、髪の毛ののびた子供が、みんなからからかわれていた有り様を見た人たちは、あの子供がだまされたために、復讐をしたのだろうということを知りました。なんという名の鳥か、だれも、この黒い鳥を知っているものがありませんでした。その鳥は、からすよりか、形が小さかったのであります。その鳥は、黙っていました。そのうちに、また、一羽残らず夜のうちに、どこへか飛んでいってしまいました。町の人たちは、なにか悪いことがなければいいがと、おそれていました。
「あの汚らしいふうをした乞食の子は、悪魔の子だ。見つけしだいにひどいめにあわせて、この町の中から追い払ってしまえばいい。」と、ある人々はいっていました。
数日後のこと、若者は、雇われ口を探しながら歩いていますと、先日の汚らしいふうをした子供が、職人体の男にいじめられているのを見ました。
「おまえは、どこから、この町へなどやってきたのだ。このごろは町にろくなことがない。火事があったり、方々でものを盗まれたりする。なんでも、口笛を吹く子供があやしいといううわさだが、おまえは口笛を吹くか? はやく、どこかへいってしまえ。」と、男は子供をにらみつけて、胸のあたりを突いて、あちらへ押しやっていました。
子供は、黙って、うつむいていました。これを見た若者はそばへやってきました。
「かわいそうなことをするものでありません。この子供は、あなたに悪いことをしましたか? 口笛を吹くということが、どうして悪いのですか?」と、若者は、職人体の男をなじりました。
職人体の男は、振り向いて、
「この子は、悪魔の子です。この子供が町にはいってからというもの、ろくなことがない。」といいました。
「そんな理由のあるはずがありません。私は、それを信ずることができません。」と、若者はいいました。
職人体の男は、返す言葉がなく、あちらにいってしまいました。
まもなく、五、六人連れの乱暴者がやってきました。そして、いきなり、汚らしいふうをした哀れな子供をなぐりつけました。
「おまえだろう、口笛を吹いて、夜中に、黒い鳥を呼んだりするのは? 火をつけたのも、おまえにちがいない。また、方々へ泥棒にはいったのも、おまえにちがいない。」と、彼らは口々にののしりました。
このとき、子供は、なんといって弁解をしても、彼らはききいれませんでした。そして、つづけざまにに子供をなぐりつけました。これを見た若者は、あまりのことに思って、
「なぐらなくてもいいでしょう。口笛を吹いて、鳥を呼んだことと、火事や、泥棒とが、なんの関係があるのですか? おおぜいで、こんな子供をいじめるなんてまちがってはいませんか。」と、若者は、彼らの乱暴を止めようとしていいました。
彼らは、これを聞くと、かえってますます怒りました。
「なにもおまえの知ったことじゃない。おまえは、この小さい悪い奴の仲間なのか? 生意気な奴だからいっしょになぐってしまえ!」といって、彼らは、若者の手や、足や、顔や、頭を、かまわず思うぞんぶんになぐりつけました。
若者の鼻からは、血が流れました。そして、子供と若者の二人は、これらの乱暴者から、ひどいめにあわされました。彼らは、思うぞんぶんに二人をなぐると、
「さあ、さっさと早くこの町から、どこへでもいってしまえ。まごまごしていると、また見つけて、こんどは許しておかないから。」といい残して、これらの乱暴者は去ってしまいました。
子供は、若者に二度助けられましたので、どんなにか、ありがたく感じたかしれません。若者が、自分を助けるために、鼻から血を出したことを知ると、ただすまなく思って、幾たびも礼を申しました。
「そんなに、お礼をいわれると困ります。私は、良心が、不正を許さないために、戦いましたばかりです。」と、若者は答えました。
二人は、とぼとぼと話しながら、町を出はずれて、あちらに歩いていきました。
「これから、あなたは、どこへおゆきなさいますか。」と、子供は、若者にたずねました。
「私はいままで、ある工場で働いていましたが、病気になったために、その工場から出されました。そして行き場がなく、毎日雇われ口を探しているのです。」と、若者は答えました。
すると、子供は、
「私は、山にいたとき、口笛を吹いて、いろいろな珍しい鳥を、捕まえることを覚えました。その珍しい鳥の一羽を持ってあちらのにぎやかな港にいって、金のある人たちに売れば、困らずに暮らしてゆくことができるのです。しかし、鳥をほんとうにかわいがる人は少ないのです。鳥がかわいそうでなりませんから、鳥を捕って売ることはいたしません。私は、独りでさびしいときには、いままで、いろいろな鳥を呼んで、その声をきくことを楽しみにしました。また、私は、これから西にゆきますと、広いりんご畑があって、そこでは人手のいることを知っています。そのりんご畑の持ち主を、私は、まんざら知らないことはありません、その主人に、私は、あなたを紹介しましょう。そして、私も、あなたといっしょに働いてもいいと思います。これから、二人は、そこへいって働こうじゃありませんか。」といいました。
若者は、これをきいて、たいそう喜びました。そして、二人は、西の方にあるりんご畑をさして旅をいたしました。
二人は、りんご樹の手入れをしたり、栽培をしたりして、そこでしばらくいっしょに暮らすことになりました。二人のほかにも、いろいろな人が雇われていました。若者は、金や、銀に、象眼をする術や、また陶器や、いろいろな木箱に、樹木や、人間の姿を焼き付ける術を習いました。
りんご畑には、朝晩、鳥がやってきました。子供は、よく口笛を吹いて、いろいろな鳥を集めました。そして、鳥の性質について若者に教えましたから、若者は、人間や、自然を彫刻したり、また焼き画に描いたりしましたが、鳥の姿をいちばんよく技術に現すことができたのであります。
しかし、二人は、幾年かの後に、また別れなければなりませんでした。子供は、青年になりました。そして、若者も年をとりましたから、二人は、もっと広い世の中に出ていって、思った仕事をしなければならなかったからです。
「私は、汚らしいふうをして、町の中をうろついていたときに、あなたに助けられました。あなたは、自分の身を忘れて、私を救ってくださいました。」と、その時分子供であった青年はいいました。
「ほんとうに、もう思い出せば幾年か前のことであります。私は、病気をして職を失っているときに、あなたにあって、このりんご圃へつれられてきました。そして、ここで幾年か月日を過ごしました。私は、ここにきたがためにいろいろの技術を覚えることができました。これから、また方々を渡って、もっといろいろのことを知ったり、見たいと思います。」と、当時の若者は、もういい働き盛りになっていて、こう答えました。
「おたがいに、この世の中から、美しい、喜ばしいことを知りましょう。私は、あなたが、私のために乱暴者からなぐられて、血を流されたことを一生忘れません。」
「いえ、いつかも、いいましたように、けっしてあなたのためではありません。たとえその人があなたでなくても、だれであっても、弱いものを、ああして乱暴者がいじめていましたら、私は、良心から、命を投げ出して戦ったでしょう。」と、昔の若者はいいました。
「みんなが、そのような、正しい考えを持っていましたら、どんなにこの世の中がいいでしょう? 私は、この話をみんなに知らしたいと思います。私は、珍しい鳥をあなたにあげますから、いつまでも飼ってやってください。そして、私を忘れずにいてください。」と、昔の子供はいいました。
口笛を上手に吹く彼は、山の方へはいっていきました。そして、どこからか、一羽の珍しい鳥を捕まえてきました。
「なんという鳥ですか。」と、年上の若者がきくと、
「どうか、あほう鳥という名をつけておいてください。この鳥をあなたにさしあげます。」と、年若の子供は答えた。
二人は、ついに南と北に別れました。
それから、幾十年……たったことでしょう。ある町の二階を借りて、年とった男が、鳥と二人でさびしい生活をしていました。
男は頭の髪が半分白くなりました。鳥も年をとってしまいました。男は、鳥の焼き画を描くことや、象眼をすることが上手でありました。終日、二階の一間で仕事をしていました。その仕事場の台の前に、一羽の翼の長い鳥がじっとして立っています。ちょうど、それは鋳物で造られた鳥か、また、剥製のように見られたのでありました。
男は、夜おそくまで、障子を開け放して、ランプの下で仕事をすることもありました。夏になると、いつも障子が開けてありましたから、外を歩く人は、この室の一部を見上げることもできました。
ちょうど隣の家の二階には、中学校へ、教えに出る博物の教師が借りていました。博物の教師は、よく円形な眼鏡をかけて、顔を出してこちらをのぞくのであります。
博物の教師は、あごにひげをはやしている、きわめて気軽な人でありましたが、いつも剥製の鳥を、なんだろう? ついぞ見たことのない鳥だが、と思っていました。男が、気むずかしい顔をして仕事をしているので、つい口を出さずにいましたが、ある日のこと、教師は、
「あれは、なんという鳥の剥製ですか?」と、唐突にききました。
下を向いて仕事をしていた男は、隣の屋根から、こちらを向いて、みょうな男が顔を出してものをいったので、気むずかしい顔を上げてみましたが、急に笑顔になって、
「やあ、お隣の先生ですか。さあ、どうぞ、そこからお入りください。」と、男はいいました。
男は、その人が、学校の先生であるのを、前からものこそいわなかったけれど、知っていたのです。
「なんという鳥ですか? 珍しい鳥ですな。」と、先生は、はいろうともせずにたずねたのであります。
「あほう鳥といいます。」と、男は答えました。
「あほう鳥?」といって、先生は、聞いたことのない名なので、びっくりしたように目を円くしました。
「なんにしてもいい剥製ですな。」と、先生は、ため息をもらしました。
「いや、剥製ではありません。生きているのです。もう年をとったので、いつもこうして眠っています。」と、男は答えました。
先生は、不思議なことが、あればあるものだと、ふたたび、びっくりしました。この先生もどちらかといえば、あまり人と交際をしない変人でありましたが、こんなことから、隣の男と話をするようになりました。
ある朝、あほう鳥が鳴きました。男は、なにかあるな? と胸に思いました。
はたして、隣の先生がやってきました。そして、大事に扱うから、ちょっとあほう鳥を学校へ貸してくれないかと頼みました。男は、あほう鳥をひとり手放すのを気遣って、自分も学校まで先生といっしょについていきました。
こんなことから、男は、多数の生徒らに向かって、昔、南のある町を歩いているときに、子供を助けたこと、それから、その子供といっしょに働いたこと、子供は、どんな鳥でも自分の友だちにすることができたこと、この鳥は、その青年が分れるときにくれて、いままで長い月日の間を、この鳥と自分は、いっしょに生活をしてきたことなどを、物語ったのであります。
それから、正直な「鳥の老人」として、この町の付近には評判されました。この人の、鳥の焼き画や象眼は、急に、名人の技術だとうわさされるにいたりました。
暗い、夜のことであります。この年とった男は、ランプの下で仕事をしていますと、急にじっとしていたあほう鳥が羽ばたきをして、奇妙な声をたてて、室の中をかけまわりました。いままでこんなことはなかったのです。
「おまえは、気でも狂ったのではないか!」と、男は、鳥に向かっていいました。けれど、鳥は、なかなかおちつくようすはありませんでした。
「先生に、きてみてもらおう。」と、男は、もうこのごろでは、親しくなった、隣の先生を呼んだのでありました。
「鳥は、ものに感じやすいというから、今夜、変わったことがあるのかもしれない。あるいは地震でもな……気をつけましょう。」と、先生は、しきりに騒ぐ鳥を見ながらいいました。
はたして、その夜、この町に大火が起こりました。そして、ほとんど、町の大半は全滅して、また負傷した人がたくさんありました。
この騒ぎに、あほう鳥の行方が、わからなくなりました。男はどんなにか、そのことを悲しんだでしょう。彼は、焼け跡に立って、終日、あほう鳥の帰ってくるのを待っていました。しかし、とうとう、鳥は帰ってきませんでした。煙に巻かれて、焼け死んだものか、南の故郷に、逃げていったものか、いずれかでなければなりません。
「私は、べつに、この町にいなければならない身ではないのです。もう一度、鳥のすんでいた国にいってみようと思います。」と、男は、先生にいいました。
「そうですか、そんなら、私も、あなたといっしょにいって、その口笛の名人について、珍しい鳥の研究をいたします。」と、先生がいいました。
こうして、男と先生は、旅に出かけました。遠くの空に、白い雲が漂っていました。三人が落ち合った日、どんな話を、たがいに睦まじく語り合うでありましょう。
ある男と牛の話
小川未明
ある男が、牛に重い荷物を引かせて町へ出かけたのであります。
「きょうの荷は、ちと牛に無理かもしれないが、まあ引けるか、引かせてみよう。」と、男は、心の中で思ったのでした。
牛や馬は、いくらつらいことがあっても、それを口に出して訴えることはできませんでした。そして、だまって人間からされるままにならなければなりませんでした。
牛は、その荷を重いと思いました。けれど、いっしょうけんめいに力を出して、重い車を引いたのです。
街道をきしり、きしり、牛は、車を引いて町の方へとゆきました。汗は、たらたらと牛の体から流れたのでした。松並木には、せみが、のんきそうに唄をうたっていました。せみには、いまどんな苦しみを牛が味わっているかということを知りませんでした。野原の上を越え、そよそよと吹いてくる涼しい風に、こずえに止まって鳴いているせみは眠気を催すとみえて、その声が高くなったり、低くなったりしていました。
牛は、心のうちで、せめてこの世の中に生まれてくるなら、なぜ自分は、せみに生まれてこなかったろうとうらやみながら、一歩一歩、倦まずに車を引いたのであります。
男は、手綱の先で、ピシリピシリと牛のしりをたたきましたが、牛は、力をいっぱい出していますので、もうそのうえ早く足を運ぶことはできませんでした。さすがに、男も、心のうちでは、無理をさせていると思ったので、そのうえひどいことはできなかったばかりでなく、またそのかいがなかったからです。
それに、真夏のことであって、いつ牛が途の上で倒れまいものでもないと思ったから、よけいに心配もしたのでした。
街道の中ほどに掛け茶屋があって、そこでは、いつも、うまそうな餡ころもちを造って、店に並べておきました。男は、酒呑みで、餡ころもちはほしくなかったが、牛が、たいそうそれを好きだということを聞いていましたから、やがて、その家の前へさしかかると、
「どうか、この荷物を無事に先方へ届けてくれ。そうすれば帰りに餡ころもちを買ってやるぞ。」と、男は、牛にいったのであります。
その言葉が牛にわかったものか、牛は重そうな足どりを精いっぱいに早めました。そして、その日の午後、町の目的地へ着くことができたのであります。
男は、そこで賃金を、いつもよりはよけいにもらいました。心のうちでほくほく喜びながら、牛にも水をやり、自分も休んでから、帰りに着いたのでした。
「牛もたいそうだし、自分も骨だが、多く積んで積めないことはないものだ。すこしこうして勉強をすれば、こんなによけいにお金がもらえるじゃないか……。」と、手綱を引いて歩きながら考えました。
町を出てから、田舎道にさしかかったところに居酒屋がありました。そこまでくると、男は、牛を前の柳の木につないで、店の中へはいりました。彼は、有り合いの肴でいっぱいやったのでありました。そして、いい機嫌になって、そこから出たのであります。
その間、牛は、居眠りをして、じっと待っていました。牛は疲れていたのです。赤々として、太陽は、西の空へ傾きかけて、雲がもくりもくりと野原の上の空にわいていました。
男は、牛を引いて、やがて餡ころもちを売っている店の前へかかりますと、その時分から、ゴロゴロと雷が鳴りはじめました。
「あ、夕立がきそうになった。ぐずぐずしているとぬれてしまうから、今日は我慢をしてくれな。明日は、きっと餡ころもちを買ってやるから。」と、男は牛にいいました。
牛は、黙って、下を向いて歩いていました。男は、けっしてうそをいうつもりはなかったのでしょう。すくなくも哀れな牛にはそう信じられたのでした。
明くる日も男は、昨日と同じほどの重い荷を引かせたのです。牛は、汗を滴らして車を引きました。そのうち、餡ころもちを売る店の前へさしかかると、男は、ちょっと店の方を横目で見て、
「今日は、帰りに餡ころもちを買ってやるぞ。だから、早く歩けよ。」といいました。
昨日と同じ時分に、町へ着きました。そして、男は、昨日と同じように、よけいに金をもらいました。男は、ほくほく喜んだのであります。この男は、よけいに金を持つと、なんで忍耐して、居酒屋の前を素通りすることができましょう。やはり我慢がされずに、店へはいって、たらふく飲みました。その間、牛は外にじっとして待っていました。
男は、いい機嫌で店から出ると、牛を引いてゆきました。
やがて、餡ころもちを売る店の前へさしかかりました。
「なに、畜生のことだ。人間のいったことなどがわかるものか……。」と、男は、ずうずうしくも知らぬ顔をして、牛を引いて、その前を通り過ぎてしまいました。そのとき、牛は、
「モウ、モウー。」と、なきました。
「さ、早く歩け!」と、男は、しかりつけて、ピシリと牛のしりを手綱で力まかせにたたきました。すると、いままで、おとなしかった牛は、急に、猛りたって、男を角の先にかけたかと思うと、五、六間もかなたの田の中へ、まりを投げ飛ばすように投げ込んでしまったのです。
彼は、顔を泥田の中にうずめてもがきました。そのまに、牛は、ひとりでのこのこと歩いて家へ帰ってゆきました。
男は、ようやく田の中からはい上がると、泥まみれになって村へ帰りましたが、あう人たちがみんな怪しんで、どうしたかと聞きましたけれど、さすがに、牛にうそをいって、復讐されたとはいえず苦笑いしていました。
彼は、家に帰ってから、黙っている牛が、なんでもよくわかっていることを覚って、心から自分の悪かったことを牛に謝したといいます。
ある日の午後
小川未明
新に越して来た家の前に二軒続きの長屋があった。最初私にはただこんな長屋があるという位にしか思われなかった。
ある新聞社にいる知人から毎日寄贈してくれる新聞がこの越して来てから二三日届かなかったので、私はきっと配達人が此家を分らない為であろうと思った。しかし私には無代価で送ってもらっているということが、わざわざハガキを本社に出して転居を報ずるのを差し控えさせた。何となればそうするのがあまり厚顔しいように感じられたからであった。たゞ私はどうかしてこのことだけを配達夫に知らせたいと思った。
此の新聞は午前の四時頃になると配達されるので常に家内のものが眠っているうちに戸の隙間から入れて行くのが例であった。私はもしこの時分に起きて家の外に出て道の上に立っていたなら、偶然にこの新聞配達夫が通り過ぎるのを見ないとは限らないと思ったので、或日の朝私は早く起きて家の外に出た。
まだうす暗かった、暁の風は、灰色の雲を破って、東の方から夜はほのりと明けかゝっていた。まだ道の上に人の通った気はいもしなかった。天地は風の木を吹くより、寂々として音がなかった。高い木立の頂きに暁の風は、自然の眠りを醒ます先駆の叫びのように聞かれた。私は世間の多くの人々が、此夜から暁になろうとしている瞬間の自然の景色を、自分の如くこうして外に立って親しく知る者が幾人あろうと考えた。……私は其処に新しい詩材を見出すことが出来るように覚えて観察を怠るまいと思った。
此時始めてこのニ軒長屋の一軒が、戸を開けてあるのを見て驚いた。もう此家は疾に起きていると思われたからだ。私は其の時からこの家にはどういう人々が住んでいるだろうかと思った。私は直ちに生活に奮闘している人々だと考えた。何となればこんなに朝早くから起きているのを見ると、多くの人々がまだ安眠している時分にも、生活の為に働いいているのであろうと感じたからであった。
私は新聞の問題よりも、此の方に多くの注意を惹いた。而して其の後此の家に注目したが、未だこの家の主らしい男を見たことがなかった。時々家の前にななつやっつの青白い顔の女の児が、乳飲児を負って立っているのを見た。妻がその女の児を見ながら、
『死んだ人の顔だってあんなに青くはない。』と言ったことがある。
なんでも其の顔付きは、極端な腎臓病に罹っているような徴候らしくあった。それだのにこうして医者にも見せずにしかも幼児の守をさして置くのは畢竟貧しいが為ではなかろうか。人は境遇によって自然と奮闘する力の強弱がある。此児は果して生を保ち得ようか?ある静な日の午後である。此家から老女の声と若い女の声とが聞えた。老女の声は低かった。若い女の声は激していた。
『早く此児は死んでしまえばいゝのだ。』と若い女の声が言った。つづいて子供の泣く声がした。ある日の正午頃男が来て大きな声で話をしていた。男は帰る時に、
『護国寺の方に出るには、どう行きます……』と言って女に道を聞いていた。
『そんなら、品を見てから……よろしければ……』と女は言った。すべてのことが私には見当がつかなかった。
其れから数日の後であった。私は散歩から家に帰って来ると長屋の前に荷車があった。それにいろいろの諸道具が載せられていた。小さな箪笥もあった。しかしすべて一台で足りたのである。軒下には窶れた女が乳飲児を負って悄然と立って車について行く処であった。其の日から、其の家の戸が閉って貸家となった。何処に行ったか知らない。
『あの乳飲児は、誰の児だろうか?』と私は考えた。
ある日の先生と子供
小川未明
それは、寒い日でありました。指のさきも、鼻の頭も、赤くなるような寒い日でありました。吉雄は、いつものように、朝早くから起きました。
「お母さん、寒い日ですね。」と、ごあいさつをして震えていました。
「火鉢に、火がとってあるから、おあたんなさい。」と、お母さんは、もう、朝のご飯の支度をしながらいわれました。
吉雄は、火鉢の前にいって、すわって手を暖めました。家の外には、風が吹いていました。そして雪の上は凍っていました。
「いま、熱いお汁でご飯を食べると、体があたたかくなりますよ。」と、お母さんは、いわれました。
そのうちに、ご飯になって、吉雄は、お膳に向かい、あたたかなご飯とお汁で、朝飯を食べたのであります。
「番茶がよく出たから、熱いお茶を飲んでいらっしゃい。体が、あたたかになるから。」と、お母さんは、吉雄の、ご飯が終わるころにいわれました。
吉雄は、お母さんのいわれたように、いたしました。すると、ちょうど、汽車の汽罐車に石炭をいれたように、体じゅうがあたたまって、急に元気が出てきたのであります。
吉雄は、学校へゆく前には、かならず、かわいがって飼っておいたやまがらに、餌をやり、水をやることを怠りませんでした。
夜の中は、寒いので、毎晩、やまがらのかごには、上からふろしきをかけてやりました。そして、学校へゆく時分に、そのふろしきを取ってやったのです。
その日も、吉雄は、いつものごとくふろしきを除けて、かごを出してやりました。そして、餌をやり、水を換えてやってから、鳥かごを、戸口の柱にかけてやりました。
太陽が、いちばん早く、ここにかけてある鳥かごにさしたからであります。けれども、あまり寒いので、鳥は、すくんで、体をふくらましていました。やがて、太陽が、かごの上をさす時分には、元気を出して、あちらに止まり、こちらに止まって、そして、もんどり打ってよくさえずるでありましょうが、いまは、そんなようすも見られませんでした。
しかし、鳥がそうする時分は、吉雄は、学校へいってしまって、教室にはいって、先生から、お修身や、算術を教わっているころなのでありました。
どこか、遠いところで、凧のうなる音が聞こえていました。そして、風が、すさまじく、すぎの木の頂を吹いています。その風は、また、かごの中のやまがらの頭の細い小さな毛をも波立てました。すると、やまがらは、ますますまりのように、体をふくらませたのであります。
吉雄は、こうしている間に、餌ちょくの水が凍ってしまったのを見ました。彼は、また新しい水を換えてやりました。凍ってしまっては、やまがらが、水を飲むのに、困るだろうと思ったからです。
このとき、ふと、吉雄は、さっきお母さんがおいいなされたことから、
「やまがらにも、あたたかなお湯をいれてやったら、体があたたまって、元気が出るだろう。」と、思いつきました。そこで、彼は、こんど餌ちょくの中に、お湯をいれてきてやりました。
「さあ、お湯をのむと、体があたたかになるよ。」と、吉雄は、やまがらに向かっていいました。
やまがらは、くびをかしげて、不思議そうに、餌ちょくから立ちのぼる湯気をながめていました。そして、吉雄が、そこに見ている間は、まだお湯をば飲みませんでした。
吉雄は、学校へゆくのが、おくれてはならないと思って、やがて、かばんを肩にかけ、弁当を下げて出かけました。
吉雄は、学校へいってから、友だちといろいろ話したときに、自分は今日くる前に、やまがらにお湯をやってきたということを話しました。
すると、その友だちは、たまげた顔つきをして、
「君、やまがらはお湯など、飲ませると、死んでしまうぞ。」といいました。
「だって、寒いじゃないか。お湯を飲むと、体があたたまっていいのだよ。」と、吉雄はいいました。
「お湯なんかやれば死んでしまう。君、金魚だって、お湯の中へいれれば死んでしまうだろう?」と、相手の少年は、いいました。
吉雄は、なるほどと思いました。いくら寒くたって、金魚をお湯の中にいれることはできない。そのかわり、たとえ水がこおっても、金魚は、生きていることを、思ったのであります。
吉雄は、たいへんなことをしたと思いました。大事にして、かわいがっていたやまがらを、自分の考え違いから、殺してしまっては取りかえしがつかないと思いました。けれど、どうしてもやまがらにお湯をやったことを、まだ、まったく、悪いことをしたとは思われませんでした。なんとなく、金魚の場合とは、異ったような気もして、疑われましたので、先生に聞いてみることにいたしました。
吉雄は、一年生で、もうじき二年になるのでした。彼は、先生のいなさるところへゆきました。
「先生、やまがらにお湯をやっても、死にませんでしょうか!」といって、吉雄は先生に聞きました。
「小鳥に、お湯なんかやるものはない。」と、受け持ちの先生はいわれました。
すると、このとき、受け持ちの先生の隣に、腰をかけていた、やさしそうな、やはり男の先生がありました。
吉雄は、その先生をなんという先生だか知りませんでした。
やさしそうな先生は吉雄の顔を見て、笑っていられました。そして、
「やまがらにお湯をやったんですか? どうしてお湯をやったのです。」と聞かれました。
「あまり、寒いものですから、お湯を飲んで体があたたかになるように、やったのです。」と、吉雄はきまり悪げに答えました。
「おもしろい。」といって、やさしそうな先生は、受け持ちの先生と顔を合わして笑われました。吉雄には、どうしておもしろいのか、その意味がわかりませんでした。
「小鳥は、人間とちがって、お湯を飲んだからって、体があたたまるものではない。」と、受け持ちの先生はいわれました。
吉雄は、どうして、人間と小鳥とは、そう異うのだろう。やはりその意味がわかりませんでした。
このとき、やさしそうな先生は、吉雄の方を向いて、
「小鳥は、山の中や、谷や、林の間にすんでいるのです。そして、どんな寒いときでも、外に眠っています。生まれたときから、お湯を飲むように育てられてはいません。ですから、寒いことも、水を飲むことも平気です。寒い国に生まれた小鳥は、もう子供の時分から、寒さに慣れています。あなたの心配なさるように、寒さに驚きはしません。」といわれました。
吉雄は、なるほどと心に、うなずきました。
また、先生は、
「鳥や、獣は、火でものを焼いたり、水を沸かしたりすることは、知っていません。火でものを煮たり、水を沸かしたりするものは、人間ばかりでありますよ。」といわれました。
吉雄は、なにもかもよくわかったような気がしました。そして、先生たちのいなさる室から出ました。けれど、やはり頭の中に、心配がありました。
「やまがらが、いま時分湯を飲んで、舌を焼いてしまわないか。」と、彼は思いました。
もし、舌を焼いてしまったら、きっといまごろは、やまがらは、苦しんで、死んでしまったかもしれない。こう思うと、彼は、気が気でなかったのであります。
吉雄は不安のうちに、修身の時間を、一時間過ごしました。そして、休み時間になったときに、彼は、いつも、はっきりと先生に、問われたことを答える、小田に向かって、
「やまがらに、僕は、お湯をやったんだよ。」と、吉雄はいいました。
「お湯をやったのかい。」と、小田は、目を円くして問いました。
「やまがらが、お湯を飲んだら、舌を焼くだろうかね。」と、吉雄は、小田にたずねました。
「お湯を飲めば、舌を焼くさ。」
「死ぬだろうね?」
「ああ、死ぬかもしれないよ。」
吉雄は、もう、じっとしていることができませんでした。さっそく、教室へはいって、荷物を持って帰り支度をしました。
「君、家へ帰るの?」と、小田が、そばにきてたずねました。
「ああ、僕、家へ帰って、やまがらにお湯をやったのを、水に換えてくるよ。しかし、もう飲んでしまったら、たいへんだね。」と、吉雄は、いいました。
すると、りこうそうな、目のぱっちりした小田は、吉雄を慰めるように、
「君、もう飲んでしまったらしかたがない。そして、いま時分は、お湯は、こんなに寒いんだもの、水になっているよ。帰ってもしかたがないだろう。」といいました。
吉雄は、なるほどと思いました。そして、帰るのをやめました。
この話を、だれか受け持ちの先生に、したものがあります。すると、先生は、みんなの前で、
「小田のいうことはよくわかる。頭がいいからだ。そして、いつまでもお湯が、あついと思ったり、やまがらに、お湯をやるようなものは、頭がよくないからだ。」といわれました。
このとき、吉雄は、顔を真っ赤にして、どんなにか恥ずかしい思いをしなければなりませんでした。
しかし、受け持ちの先生のいったことは、かならずしも正しくなかったことは、ずっと後になってから、吉雄が有名なすぐれた学者になったのでわかりました。
ある夜の星たちの話
小川未明
それは、寒い、寒い冬の夜のことでありました。空は、青々として、研がれた鏡のように澄んでいました。一片の雲すらなく、風も、寒さのために傷んで、すすり泣きするような細い声をたてて吹いている、秋のことでありました。
はるか、遠い、遠い、星の世界から、下の方の地球を見ますと、真っ白に霜に包まれていました。
いつも、ぐるぐるとまわっている水車場の車は止まっていました。また、いつもさらさらといって流れている小川の水も、止まって動きませんでした。みんな寒さのために凍ってしまったのです。そして、田の面には、氷が張っていました。
「地球の上は、しんとしていて、寒そうに見えるな。」と、このとき、星の一つがいいました。
平常は、大空にちらばっている星たちは、めったに話をすることはありません。なんでも、こんなような、寒い冬の晩で、雲もなく、風もあまり吹かないときでなければ、彼らは言葉を交わし合わないのであります。
なんでも、しんとした、澄みわたった夜が、星たちには、いちばん好きなのです。星たちは、騒がしいことは好みませんでした。なぜというに、星の声は、それはそれはかすかなものであったからであります。ちょうど真夜中の一時から、二時ごろにかけてでありました。夜の中でも、いちばんしんとした、寒い刻限でありました。
「いまごろは、だれも、この寒さに、起きているものはなかろう。木立も、眠っていれば、山にすんでいる獣は、穴にはいって眠っているであろうし、水の中にすんでいる魚は、なにかの物蔭にすくんで、じっとしているにちがいない。生きているものは、みんな休んでいるのであろう。」と、一つの星がいいました。
このとき、これに対して、あちらに輝いている小さな星がいいました。この星は、終夜、下の世界を見守っている、やさしい星でありました。
「いえ、いま起きている人があります。私は一軒の貧しげな家をのぞきますと、二人の子供は、昼間の疲れですやすやとよく休んでいました。姉のほうの子は、工場へいって働いているのです。弟のほうの子は、電車の通る道の角に立って新聞を売っているのです。二人の子供は、よくお母さんのいうことをききます。二人とも、あまり年がいっていませんのに、もう世の中に出て働いて、貧しい一家のために生活の助けをしなければならないのです。母親は、乳飲み児を抱いて休んでいました。しかし、乳が乏しいのでした。赤ん坊は、毎晩夜中になると乳をほしがります。いま、お母さんは、この夜中に起きて、火鉢で牛乳のびんをあたためています。そして、もう赤ちゃんがかれこれ、お乳をほしがる時分だと思っています。」
「二人の子供はどんな夢を見ているだろうか? せめて夢になりと、楽しい夢を見せてやりたいものだ。」と、ほかの一つの星がいいました。
「いや、姉のほうの子は、お友だちと公園へいって、道を歩いている夢を見ています。春の日なので、いろいろの草花が、花壇の中に咲いています。その花の名などを、二人が話し合っています。ふとんの外へ出ている顔に、やさしいほほえみが浮かんでいます。この姉のほうの子は、いま幸福であります。」と、やさしい星は答えました。
「男の子は、どんな夢を見ているだろうか?」と、またほかの星がたずねました。
「あの子は、昨日、いつものように、停留場に立って新聞を売っていますと、どこかの大きな犬がやってきて、ふいに、子供に向かってほえついたので、どんなに、子供はびっくりしたでしょう。そのことが、頭にあるとみえて、いま大きな犬に追いかけられた夢を見てしくしくと泣いていました。無邪気なほおの上に涙が流れて、うす暗い燈火の光が、それを照らしています。」と、やさしい星は答えました。
すると、いままで黙っていた、遠方にあった星が、ふいに声をたてて、
「その子供が、かわいそうじゃないか。だれか、どうかしてやったらいいに。」といいました。
「私は、その子が、目をさまさないほどに、揺り起こしました。そして、それが夢であることを知らしてやりました。それから子供は、やすやすと平和に眠っています。」と、やさしい星は答えました。
星たちは、それで、二人の子供らについては、安心したようです。ただ哀れな母親が、この寒い夜にひとり起きて、牛乳を温めているのを不憫に思っていました。
それから、しばらく、星たちは沈黙をしていました。が、たちまち、一つの星が、
「まだ、ほかに、働いているものはないか?」とききました。
その星は、目の見えない、運命をつかさどる星でありました。
下界のことを、いつも忠実に見守っているやさしい星は、これに答えて、
「汽車が、夜中通っています。」といいました。
ほんとうに、汽車ばかりは、どんな寒い晩にも、風の吹く晩にも、雨の降る晩にも、休まずに働いています。
「汽車が通っている?」と、盲目の星は、きき返しました。
「そうです、汽車が、通っています。町からさびしい野原へ、野原から山の間を、休まずに通っています。その中に乗っている乗客は、たいてい遠いところへ旅をする人々でした。この人たちは、みんな疲れて居眠りをしています。けれど、汽車だけは休まずに走りつづけています。」と、下界のようすをくわしく知っている星は答えました。
「よく、そう体が疲れずに、汽車は走れたものだな。」と、運命の星は、頭をかしげました。
「その体が、堅い鉄で造られていますから、さまで応えないのです。」と、やさしい星がいいました。
これを聞くと、運命の星は、身動きをしました。そして、怖ろしくすごい光を発しました。なにか、自分の気にいらぬことがあったからです。
「そんなに堅固な、身のほどの知らない、鉄というものが、この宇宙に存在するのか? 俺は、そのことをすこしも知らなかった。」と、盲目の星はいいました。
鉄という、堅固なものが存在して、自分に反抗するように考えたからです。
このとき、やさしい星はいいました。
「すべてのものの運命をつかさどっているあなたに、なんで汽車が反抗できますものですか。汽車や、線路は、鉄で造られてはいますが、その月日のたつうちにはいつかはしらず、磨滅してしまうのです。みんな、あなたに征服されます。あなたをおそれないものはおそらく、この宇宙に、ただの一つもありますまい。」
これを聞くと、運命の星は、快げにほほえみました。そして、うなずいたのであります。
また、しばらく時が過ぎました。空に風が出たようです。だんだん暁が近づいてくることが知れました。
星たちは、しばらく、みんな黙っていましたが、このとき、ある星が、
「もう、ほかに変わったことがないか。」といいました。
ちょうど、このときまで、熱心に下の地球を見守っていましたやさしい星は、
「いま、二つの工場の煙突が、たがいに、どちらが毎日、早く鳴るかといって、いい争っているのです。」といいました。
「それは、おもしろいことだ。煙突がいい争っているのですか?」と、一つの星は、たずねました。
新開地にできた工場が、並び合って二つありました。一つの工場は紡績工場でありました。そして一つの工場は、製紙工場でありました。毎朝、五時に汽笛が鳴るのですが、いつもこの二つは前後して、同じ時刻に鳴るのでした。
二つの工場の屋根には、おのおの高い煙突が立っていました。星晴れのした寒い空に、二つは高く頭をもたげていましたが、この朝、昨日どちらの工場の汽笛が早く鳴ったかということについて、議論をしました。
「こちらの工場の汽笛が早く鳴った。」と、製紙工場の煙突は、いいました。
「いや、私のほうの工場の汽笛が早かった。」と、紡績工場の煙突はいいました。
結局、この争いは、果てしがつかなかったのです。
「今日は、どちらが早いかよく気をつけていろ!」と、製紙工場の煙突は、怒って、紡績工場の煙突に対っていいました。
「おまえも、よく気をつけていろ! しかし、二人では、この裁判はだめだ。だれか、たしかな証人がなくては、やはり、いい争いができて同じことだろう。」と、紡績工場の煙突はいいました。
「それも、そうだ。」
こういって、二つの煙突が話し合っていることを、空のやさしい星は、すべて聞いていたのであります。
「二つの煙突が、どちらの工場の汽笛が早いか、だれか、裁判するものをほしがっています。」と、やさしい星は、みんなに向かっていいました。
「だれか、工場のあたりに、それを裁判してやるようなものはないのか。」と、一つの星がいいました。
すると、あちらの方から、
「この寒い朝、そんなに早くから起きるものはないだろう。みんな床の中に、もぐり込んでいて、そんな汽笛の音に注意をするものはない。それを注意するのは、貧しい家に生まれて親の手助けをするために、早くから工場へいって働くような子供らばかりだ。」といった星がありました。
「そうです。あの貧しい家の二人の子供も、もう床の中で目をさましています。」と、やさしい星はいいました。
それから後も、やさしい星だけは、下の世界をじっと見守っていました。
姉も、弟も、床の中で目をさましていたのです。
「もうじき、夜が明けますね。」と、弟は、姉の方を向いていいました。
また、今日も電車の停留場へいって、新聞を売らねばならないのです。弟は昨夜、犬に追いかけられた夢を思い出していました。
「いま、じきに、製紙工場か、紡績工場かの汽笛が鳴ると、五時なんだから、それが鳴ったら、お起きなさいよ。姉さんは、もう起きてご飯の支度をするから。」と、姉はいいました。
このとき、すでに母親は起きていました。そして、姉さんのほうが起きて、お勝手もとへくると、
「今日は、たいへんに寒いから、もっと床の中にもぐっておいで。いまお母さんが、ご飯の支度して、できたら呼ぶから、それまで休んでおいでなさい。まだ、工場の汽笛が鳴らないのですよ。」と、お母さんはいわれました。
「お母さん、赤ちゃんは、よく眠っていますのね。」と、姉はいいました。
「寒いから、泣くんですよ。いまやっと眠入ったのです。」と、お母さんは、答えました。
姉さんのほうは、もう床にはいりませんでした。そして、お母さんのすることをてつだいました。
地の上は、真っ白に霜にとざされていました。けれど、もうそこここに、人の動く気がしたり、物音がしはじめました。星の光は、だんだんと減ってゆきました。そして、太陽が顔を出すには、まだすこし早かったのです。
おおかみをだましたおじいさん
小川未明
北の国の、寒い晩方のことでありました。
雪がちらちらと降っていました。木の上にも、山の上にも、雪は積もって、あたりは、一面に、真っ白でありました。
おじいさんは、ちょうど、その日の昼時分でありました。山に、息子がいって、炭を焼いていますので、そこへ、米や、芋を持っていってやろうと思いました。
「もう、なくなる時分だのに、なぜ家へもどってこないものか、山の小屋の中で病気でもしているのではなかろうか。」といって、おじいさんは、心配をいたしました。
「どれ、雪がすこし小やみになったから、俺が持っていってやろう。」といって、おじいさんは村から出かけたのでありました。
山へさしかかると、雪は、ますます深く積もっていました。小屋へ着くと、息子は達者で仕事をしていました。
「おまえは、達者でよかった。もう米や、野菜がなくなった時分だのに、帰らないものだから、病気でもしているのではないかと、心配しながらやってきた。」と、おじいさんはいいました。
息子は、たいそう喜びまして、
「私は、明日あたり、村へ帰ってこようと思っていましたのです。」と、おじいさんにお礼をいいました。
それから、二人は、小屋の中でむつまじく語らいました。やがて、だんだん日暮れ近くなったのであります。
「お父さん、また、雪がちらちら降ってきました。このぶんでは道もわかりますまい。今夜は、この小屋の中に泊まっておいでなさいませんか。」と、息子はいいました。
たばこを喫いながら、火のそばに、うずくまっていたおじいさんは、頭を振りながら、
「俺は、やりかけてきた仕事がたくさんあるのだから、そんなことはしていられない。今夜は、わらじを五足造らなければならないし、あすの朝は、三斗ばかり米をつかなければならん。」と、おじいさんはいいました。
「いま時分、お父さんを帰すのは、心配でなりませんが。」と、息子は、案じながらいいました。
すると、おじいさんは、からからと笑いました。
「俺は、おまえよりも年をとっている。それに、智慧もある。まちがいのあるようなことはないから、安心をしているがいい。」といって、おじいさんは、小屋を出かけました。
道は、もう雪にうずもれて、どこが田やら、圃やらわかりませんでした。しかし、おじいさんは若い時分から、ここのあたりは、たびたび歩きなれています。あちらに見える、遠方の森を目あてに、村の方へと歩いてゆきました。
このとき、あちらから、黒いものが、こちらに向かって歩いてきました。もとより、いま時分、人間が、歩いてこようはずがありません。おじいさんは、なんだろうと思っていますと、そのうちに近づきました。おじいさんは、体じゅう水を浴びたように、びっくりしました。それは、おおかみであったからです。
おじいさんは、はじめて息子のいったことを思い出しました。「おお、息子のいうことをきいて、今夜は泊まって帰ればよかった。」と思ったのです。しかし、いまは、どうすることもできませんでした。
おじいさんは、じっとして、おおかみの近づいてくるのを待っていました。そして、いいました。
「おまえは、俺みたいなやせた、骨と皮ばかりの人間を食っても、なんにもならないだろう。もっとふとった、うまそうな人間のところへ、おまえをつれていってやるから、おまえは、黙って、俺の後からついてくるがいい。俺は、そのふとったうまそうな人間を、家の外へ呼び出してやるから。」といいました。
おおかみは、黙っていました。そして、おじいさんに、飛びつこうとはしませんでした。おじいさんは、自分のいったことが、おおかみにわかったものかと、不思議に思いながら、なるたけおおかみのそばをさけて、田や、圃の中を横切りながら、歩いていきましたが、その間は生きた気持ちもなく、村をさして急ぎました。すると、ずっと後から、黒いおおかみは、やはり、こちらについてくるのでした。
おじいさんは、懐にあるだけのマッチをすっては、火をつけて、たばこをふかしながら歩いてきました。獣は、みんな火をおそれたからです。
やっと、おじいさんは、村のはずれに着きました。そこには、猟師の平作が住んでいました。
「平作――早く出ろ、おおかみがきたぞ!」と、おじいさんはどなりました。
平作は、銃を持って、家の外に走り出ました。そして、おじいさんの振り向く方を見て、「あれか。」といって、黒いものをねらって打ちました。
しかし、弾は、急所をはずれたので、おおかみは、雪の上に跳り上がって、逃げてしまいました。
おじいさんは、自分は智慧者だろうと、家へ帰ってから威張っていました。
一方、息子は、こんな晩方、おじいさんを独りで帰したのを後悔しました。
「どうか、まちがいがなければいいが。」と、心配をして、じっとしていることができませんでした。それで、小屋を出て、父親の後を追ったのであります。
もう、あちらに、村の燈火が見えるところでありました。黒い大きなおおかみが、まっしぐらに、うなりながら駆けてきました。そしておおかみは、人間に出あうと、すぐに飛びついて、噛み殺してしまいました。
そのことを後から知って、おじいさんは、どんなに歎いたかしれません。そして、息子をなくした、おじいさんは、さびしく暮らしたのであります。
お姫さまと乞食の女
小川未明
お城の奥深くお姫さまは住んでいられました。そのお城はもう古い、石垣などがところどころ崩れていましたけれど、入り口には大きな厳めしい門があって、だれでも許しがなくては、入ることも、また出ることもできませんでした。
お城は、さびしいところにありました。にぎやかな町へ出るには、かなり隔たっていましたから、木の多い、人里から遠ざかったお城の中はいっそうさびしかったのであります。
お城の中には、どんなきれいな御殿があって、どんな美しい人々が住んでいるか、だれも知ったものがなかったのです。旅人は、お城の門を通り過ぎるときに、足を止めてお城のあちらを仰ぎました。けれど、そこからは、なにも見ることができませんでした。
「なんでも、きれいな御殿があるということだ。」と、一人の旅人がいいますと、
「美しいお姫さまがいられて、いい音楽の音色が、夜も昼もしているということだ。」と、また他の一人の旅人がいっていました。
こうして、旅人は、いろいろなうわさをしながら、そのお城の門の前を去ってしまったのであります。
お城の中には、美しい御殿がありました。そして御殿の一室に、美しいお姫さまが住んでいられて、毎日、歌をうたい、いい音色をたてて音楽を奏せられ、そして、窓ぎわによりかかっては、遠くの空をながめられて、物思いにふけっていられました。そのことはだれも知ることができなかったのです。
お姫さまは、このお城の中で大きくなられました。そして、このお城の内しかお知りになりませんでした。お城の中には、大きな林がありました。また、大きな濠がありました。林の中には、いろいろな鳥がどこからともなく集まってきて、いい声でないていました。またお濠や、池の中には、珍しい魚がたくさん泳いでいました。そのほか、御殿の中には、この世の中のありとあらゆる珍しいものが飾られてありました。けれどお姫さまは、もはや、そんなものを見ることに飽きてしまわれました。
「ああ、わたしは、このお城の中にばかりいることは飽きてしまった。このお城の中から外へ出てみたいものだ。」と、お姫さまは思われました。
このことをおつきのものに話されますと、おつきのものは、びっくりして、目を円くしていいました。
「それはとんでもないことです。このお城の内ほどいいところは、どこへいってもありません。お城の外に出ますと、それはきたないところや、暗いところや、また悪い人間などがたくさんにいまして安心することができません。お城のうちほど、いいところがどこにありますものですか。」と申しました。
しかし、お姫さまは、だれがなんといっても、やはり、お城の外に出て、世の中というものを見たいと思われました。
「世の中というところは、どんなところだろう。そこには、にぎやかな町があるということだ。その町へいったら、きっと自分の知らないおもしろいことがたくさんにあるに相違ない。そして、いろいろな歌を聞かれるにちがいない。どうかして、わたしは、その世の中を見たいものだ。」と、お姫さまは思われたのであります。
林の中には、いろいろな小鳥がきてさえずっていましたけれど、その小鳥は、もはやお姫さまには珍しいものではなかったのです。しかるに、あるとき、遠い南の方から渡ってきたという、赤と緑と青の毛色をした、珍しい鳥を献上したものがありました。
お姫さまは、この鳥が、たいそう気にいられました。そして、自分の居間に、かごにいれて懸けておかれました。小鳥は、じきにお姫さまになれてしまいました。しかし、小鳥も、自身の生まれた、遠い国のことをときどき、思い出すのでありましょう。かごの中のとまり木に止まって、遠くの青い、雲切れのした空をながめながら、悲しい、低い音色をたててなくのでありました。するとお姫さまも悲しくなって、涙ぐまれたのであります。そして、やはり、あちらの空を見ていられますと、白い雲が夢のように飛んでゆくのでありました。
「おまえは、なにをそんなに考えているの? しかし、おまえはこんなに遠い他国にくるまでには、さだめしいろいろなところを見てきたろうね。町や、海や、港や、野原や、山や、河や、また珍しいふうをした旅人や、その人たちの歌う唄などを聞いたり、見たりしてきたにちがいない。しかし、わたしは、そんなものを聞くことも見ることもできない。」
お姫さまは、こういってなげかれたのであります。
お城の内には、さびしい秋がきました。つぎに木の葉のことごとく落ちつくしてしまう冬がきました。いろいろな木の実が紅く熟し、それが落ちてしまうと雪が降りました。そして、しばらくたつとまた、若草が芽をふいて、陽炎のたつ、春がめぐってきたのであります。
お城の内には、花が咲き乱れました。みつばちは太陽の上る前から、花の周囲に集まって、羽を鳴らして歌っていました。ほんとうに、のびのびとした、いい日和がつづきましたので、お城の門番は、退屈してしまいました。どこからともなく、柔らかな風が花のいい香りを送ってきますので、それをかいでいるうちに、門番はうとうとと居眠りをしていたのであります。
ちょうど、そのとき、みすぼらしいようすをした女の乞食がお城の内へ入ってきました。女の乞食は門番が居眠りをしていましたので、だれにもとがめられることがなく、草履の音もたてずに、若草の上を踏んで、しだいしだいにお城の奥深く入ってきたのであります。
お姫さまは、おりから、怪しげなようすをした女がこちらに近づいてくるのをごらんになりました。そして、よくそれをごらんになると、自分と同じ年ごろの美しい娘でありました。お姫さまはこんなに美しい娘が、どうして、またこんなに汚らしいようすをしているのかと怪しまれたのです。
「おまえは、だれだ?」と、お姫さまは、おたずねになりました。
すると女の乞食は、悪びれずに、
「わたしは、貧しい人間です。親もありませんし、家もないものです。こうして諸方を歩いて、食べるものや、着るものをもらって歩く人間なのでございます。」と答えました。
お姫さまは、その話を聞いていられる間に、幾たび、びっくりなされたかしれません。そして、この女が、乞食であることをはじめてお知りになりました。
「おまえは乞食なの?」と、お姫さまはお問いになされました。
「さようでございます。」と、汚らしいようすをした女は答えました。
お姫さまは、つくづくと女の乞食をごらんになっていましたが、小さな歎息をなされました。
「なんという、おまえの目は美しい目でしょう。」とおっしゃられました。
女の乞食は、お姫さまを見上げて、
「そんなに、わたしの目がよろしければ、あなたに、目をさしあげましょう。」と申しました。
お姫さまは、なおつくづくと女の乞食をごらんなされていたが、小さな歎息をなされて、
「まあ、なんというおまえの髪の毛は美しいのだろう。」といわれました。
女の乞食は、長い、黒い髪の毛を手でかきあげながら、
「わたしの髪の毛が、そんなによろしければ、あなたにさしあげましょう。」と申しました。
お姫さまは、前後のわきまえもなく、女の乞食に抱きつかれました。
「ああ、なんというおまえの心はやさしいのでしょう。目も髪の毛もみんなおまえのもので、だれもおまえから取ることができはしない。わたしがどうして、これをおまえからもらうことができましょう。わたしは、それをほしいとは思いませんが、どうか、おまえのきている着物をおくれ。そして、おまえは、わたしの着物をきて、わたしのかわりとなって、しばらく、このお城の内に住んでいておくれ。わたしは、おまえになって、広い世の中を見てきたいから……。」と、お姫さまは、女の乞食にむかって、ねんごろに頼まれました。
女の乞食は、下を向いて、しばらく考えていましたが、やがて顔を上げて、
「お姫さま、わたしは、なんでもあなたのおっしゃることを聞きます。しかし、わたしみたいなものが、お姫さまのかわりとなっていることができましょうか。」と申しました。
お姫さまは、軽くうなずかれ、
「わたしがよく、侍女に頼んでおきます。そして、そんなに長くはたたない。じきにもどってくるから、どうかわたしのいうことを聞いておくれ。ぜひお願いだから……。」といわれましたので、女の乞食は、ついにうなずいて、お姫さまのいうことを聞きました。
お姫さまは、侍女をお呼びになって、そのことを話されますと、侍女は、びっくりして目を円くしました。
「お姫さま、そんなお考えをお起こしになってはいけません。どんなまちがいがないともかぎりません。」と、おいさめ申しましたが、お姫さまは、どうかわたしの希望をかなえさせておくれ、きっとその恩は返すからといって、ついに、女の乞食に姿をやつされました。そして、城を立ちいでられることになりました。
門番が見つけたら、またひと災難であろうと、お姫さまは心配をなされましたが、門番はこのときまで、まだいい心地に居眠りをしていましたので、乞食のふうをした若い女が、自分の前を忍び足で通り過ぎたのをまったく知らなかったのであります。
お姫さまは、往来の上に出られました。その道を歩いてゆくと、どこまでも道はつづいています。そして、ゆきつきるということがありませんでした。お城の内は、いくら広くても、一日の中には、まわりつくしてしまうことができますのに、往来はどこまでいっても、はてしがなかったのです。そればかりでない、青々とした野原や、花の咲く圃などを右に左に見ることができました。緑色の空は、円やかに頭の上に懸かって、遠く地平線のかなたへ垂れ下がっています。春風は、遠くから吹いて、遠くへ去っていきます。百姓が愉快そうに働いています。お姫さまは、なにを見ても珍しく、心も、身ものびのびとなされました。
「ああ、世の中というものは、なんという楽しいところだろう。」と、お姫さまは思われました。そして、いままでお城の内でしていた生活は、なんという窮屈な生活であったろうと思われました。
あるところでは、山が見られました。また、あるところでは、大河が流れていました。その河には橋がかかっていました。お姫さまは、その橋を渡られました。すると、あちらに、にぎやかないろいろな建物のそびえている町があったのであります。この乞食のようすをした、お姫さまに出あった人々の中には、気の毒に思って、お姫さまの側に寄ってきて、
「どうして、おまえさんは、そんなに若いのに乞食をするのですか?」と、聞いたものもありました。
お姫さまは、こういって聞かれると、なんといって答えたらいいだろうかとまどわれましたが、
「わたしには、両親もなければ、また家もないのです。」と、いつか乞食の女がいったことを思い出して答えられました。
すると、その人は、たいそうお姫さまを気の毒に思って、銭を出してくれました。
お姫さまは、旅費などは用意してきたので、べつにお金はほしくもなかったが、こうしてしんせつに知らぬ人がいってくれるのを、あだに思ってはならないと思って、深くお礼を申されました。
夜になったときに、お姫さまは、みんな自分のような貧しいようすをした旅人ばかりの泊まる安宿へ、入って泊まることになされました。そこには、ほんとうに他国のいろいろな人々が泊まり合わせました。そして、めいめいに諸国で見てきたこと、また聞いたことのおもしろい話や、不思議な話などを語り合って、夜を更かしました。また、それらの中には、自分と同じ年ごろの唄うたいがいて、マンドリンを鳴らして、いろいろな歌をうたって、みんなを楽しませていました。
お姫さまはもとからマンドリンを弾くことが上手であり、また、歌をうたうことが上手でございましたから、自分も、明日からは、唄うたいとなって、旅をしようと思われました。夜が明けて、太陽が、花の咲いたように空に輝きわたりますと、その宿に泊まったすべての人々は、思い思いに旅をつづけて、散っていってしまいました。お姫さまは、それを哀しいことにも、また、たのしいことにも思われました。そこで、自分は、すっかり唄うたいのふうをして、この町を立って、さらに遠い遠い、自由な旅をつづけることになされました。
お城の内に、お姫さまのかわりになって残った女の乞食は、その日からは、なに不足なく暮らすことができましたけれど、退屈でしかたがありませんでした。
「いまごろ、お姫さまは、どうなさっていられるだろう。早く帰ってきてくださればいい。」と、明け暮れ思っていました。
女の乞食は、ふたたび、気ままな体になって、花の咲く野原や、海の見える街道や、若草の茂る小山のふもとなどを、旅したくなったのであります。
女は、柱にかかっている小鳥に目をとめました。その小鳥は、お姫さまがかわいがっていられた美しい小鳥でありました。小鳥は、かごの中でじっとして考えています。女は、顔をかごのそばに近寄せました。
「小鳥や、おまえも産まれたふるさとが恋しいだろう。さあ、わたしが、いまおまえを自由にしてあげるから、早く飛んでおゆき。」と、女はいいました。
そして、女は、お姫さまの大事にしていられた小鳥を、放してやりました。赤と、緑と、青の羽色をした美しい小鳥は、いい声でないて、お城の上を舞っていましたが、やがて雲をかすめてはるかに、どこへとなく飛び去ってしまったのであります。
お姫さまは、足にまかせて、いっても、いっても、はてしのない遠くへといってしまって、帰ろうと思っても、そこがどこやらまったくわからなくなってしまったのです。お姫さまは、自分の国をばたずねても、だれもその名を知っている人はなかったのです。
「そんな国がどこか、遠いところにあるとは聞いたが、私どもはいってみたことも、またはたしてほんとうにあるのかさえも知りません。」と、人々は答えました。
お姫さまは、悲しくなりました。たとえこうしていることが、どんなに自由であっても、ふるさとのことを思い出さずにいられなかったのです。お姫さまは、いまは、ふるさとを恋しく思われました。晩方の雲を見るにつけ、空を飛んでゆく鳥の影を見るにつけ、ふるさとを思い出しては涙にむせばれていたのであります。
ある日のこと、お姫さまは、海の見える港のはずれで、独りマンドリンを弾き、ふるさとの唄をうたっていられました。そこは、ずっとある島の南の端でありまして、気候は暖かでいろいろな背の高い植物の葉が、濃い緑色に茂っていました。女の人は、派手な、美しい日がさをさして、うすい着物を体にまとって路を歩いています。男の人は、白い服を着て、香りの高いたばこをくゆらして歩いていました。
お姫さまは、太陽の輝いた、海の面をながめながら、心をこめて唄を歌っていられました。そのときお姫さまは、聞き慣れた、なつかしい小鳥の声を耳にされたのであります。
それもそのはずのこと、お姫さまの大事にされていた小鳥は、かごを出て、自由な身になりますと、夜も昼も旅をして、自分の産まれた南の方の島に帰ってきたのです。
そして毎日、のどかな空に、舞いさえずりながら遊んでいますうちに、ある日のこと、下の方の港で、御殿にいた時分、お姫さまのよくうたわれた唄と、そしてまさしく、なつかしい同じ声とを聞いたから、そばの木におりてみたのであります。
すると、まちがいなくお姫さまでありました。小鳥はすぐに、お姫さまが国へ帰りたいと思っても、その方角も、また道もわからなくて、困っていられるのを察したのでありました。
「おお、きれいな小鳥だこと、あの鳥は、わたしの飼っていた鳥とよく似ている……。」と、お姫さまは、目ざとくその鳥を見つけると、思われました。
小鳥は、すぐにお姫さまのそばまでやってきて、なつかしそうにくびをかしげてさえずっています。
「おお、おまえは、まさしくわたしの大事にしていた小鳥なのだ。どうして、ここへやってきたの? わたしは、国へ帰りたいと思っても、道がわからなくて困っています。どうか、わたしをつれていっておくれ?」と、お姫さまは、小鳥に向かって話されました。
それから、お姫さまは、小鳥について、その飛んでゆくままに、旅をされたのであります。
小鳥が、船のほばしらの先に止まって鳴いたときに、お姫さまは、船に乗られました。そして、はるばると波路を揺られてゆかれました。小鳥が岸に上がって、木に止まって鳴いたときに、お姫さまは、船から上がられました。そして、そこに休んでいたろばに乗られて、砂漠の中を過ぎられました。
お姫さまは、その道は、自分のきた時分に通った道でないので、ほんとうに、故郷に帰ることができるだろうかと、不安に思われましたが、小鳥がどこまでもついていってくれるのを頼りに旅を続けられていますと、ある日のこと、お姫さまは見覚えのあるお城の森が、あちらにそびえているのをごらんになりました。
「おお、わたしはお城へ帰ってきた!」と、お姫さまは覚えず叫ばれました。
小鳥は、「いま、あなたは、なつかしいふるさとにお帰りなったのです。あなたが、私をかわいがってくださった、ご恩を返すために、ここまで、あなたをおつれ申しました。」といわんばかりに、木の枝に止まってないていました。
「ほんとうに、ありがとう。」と、お姫さまは、涙に輝いた瞳を上げて、小鳥をじっとごらんなさいますと、小鳥は、やっと安心をしたように、空高く舞い上がって、どこへともなく、雲を遠く飛び去ったのであります。
ちょうどお姫さまが、お城を出られてから、三たびめの春がめぐってきたのでありました。その間に、どうしたことか、門番の姿は見えませんでした。お姫さまは、乞食の女のことが気にかかりながら、お城の内へとしずみがちに歩みを運ばれました。
「まあ、お姫さま、お帰りでございますか。」と、侍女は、お姫さまの姿を見ると、目にいっぱい涙をためて抱きつきました。
「おまえも無事でよかったね。そしてあの女はどうしました?」と、お姫さまも目に涙をためて聞かれました。
侍女は、声を忍んで泣きました。そして、
「お姫さま、まことにかわいそうなことでございます。去年の春、御殿にお客がありまして、ご宴会のございましたときに、殿さまから、お姫さまに歌をうたって舞うようにとのご命令がありました。あの女は、そんな歌も知らなければ、また舞いもできませんでした。それを知らぬというわけにもいかず、その前夜、井戸の中に身を投げて死んでしまいました。」と申しました。
お姫さまは、あの女が、自分の身がわりになったばかりに死んだことを、たいそうかわいそうに思われました。そして、女の身を投げて死んだという井戸のそばへいって、深く、深く、わびられますと、その井戸のそばには、濃紫のふじの花が、いまを盛りに咲き乱れていたのであります。
熊と車掌
木内高音
私は尋常科の四年を卒業するまで、北海道におりました。その頃は、尋常科は四年までしかありませんでしたから、私は北海道で尋常小学を卒業したわけです。
今から、ざっと二十年前になります。今では小学校の読本は、日本中どこへいっても同じのを使っておりますが、その当時は、北海道用という特別のがあって、私たちは、それを習ったものです。茶色の表紙に青いとじ糸を使い、中の紙も日本紙で片面だけに字をすったのを二つ折りにして重ねとじた、純日本式の読本でした。その中には、内地の人の知らない、北海道だけのお話がだいぶ載っていたようです。(私たちは、本州のことを内地内地と、懐かしがって、呼んでいました。)
たとえは、熊が納屋へ忍び込んで、数の子の干したのを腹一杯に食べ、喉が乾いたので川の水を飲むと、さあ大変です。お腹の中で、数の子が水を吸ってうんと増えたから堪りません。熊は、とうとう胃が破裂して死んでしまったというようなお話も載っていました。干し数の子がどんなに水へ漬けると増えるものかは、お母様方にお聞きになればよくわかります。
――私は、またもう一つ読本の中にあった熊の絵をありありと思いだすことができます。それは、大きな熊が後足で立って、木の枝に鮭をたくさん通したのをかついでいくところです。鮭が川へ上ってくる頃になりますと、川は鮭で一杯になり、鮭は互いに身動きもできないくらいになることがあるのだそうです。そういう時をねらって、熊は川の岸にでて、爪にひっかけては、鮭を欲しいだけ取ります。それから木の枝を折って、鮭の顎へ通し、それを担いで穴へ帰ろうとするのですが、さすがの熊もそこまでは気がつかないとみえ、枝の先を止めておかないものですから、鮭は、道々、一つずり落ち二つ落ちして、ようやく穴へ帰ったころには、枝に一匹も残っていない。そうした熊の歩いた跡へ通りかかった人こそ幸せで、熊の落した鮭を拾い集めさえすれば大漁になるというお話でした。
こんなふうですから、ふだんでも熊の話は、よく耳にしました。きょうは郵便配達が、熊に出会って危ないところだったとか、どこどこへ熊がふいに出て、飼い馬をただ一撃ちに殴り殺したとか、そういった話を度々聞きました。
家の父は、新しく鉄道を敷くために、山の中を測量に歩いていましたので、そのたんびアイヌ人を道案内に頼んでいました。アイヌ人は、そんな縁故から、熊の肉を、よく、私の家へ持ってきてくれたものでした。
北海道の熊といえば、こんなにも縁故が深いのです。しかし、数の子を食べすぎたり、さけを落して歩いたり、猛獣ながら、どことなく、熊には滑稽な、可愛いいところがあるではありませんか。
さて、つぎに私がお話ししようと思うのは、北海道にはじめて鉄道ができた頃のことで、今からざっと四十年も前になりましょうか。その当時、まだ二十代の青年で、あの石狩平野を走る列車に車掌として乗りこんでいた叔父から聞いた話なのです。以下、私とか自分とかいうのは、叔父のことです。
――なにしろ、その頃の鉄道といったら、人の足跡どころか、北海道名物の烏さえも姿を見せないような原野を切り開いて通したのだから、その寂しさといったらなかった。寂しいどころではない。凄いといおうか、なんといおうか、いってもいっても、両側には人間の背よりも高い葦や茅がびっしりと生え茂っているばかりで、人間くさいものなんか一つもありはしない。まったく夕方なんぞ、列車の車掌室から、一人ぼっちで外を眺めていると、泣きたくも泣けないような気持ちだった。そういう時には、川の傍へさしかかって、水音を聞くだけでも嬉しかった。――熊なども、初めは、汽車を見ると妙な獣がやってきたぐらいに思ったらしい。機関車の前へのこのこ出て来て逃げようともしないので、汽笛をピイピイ鳴らしてやっと追いはらったというような話もあった。
さて、私が、熊と、列車の中で大格闘をしたという話も、まあ、そんな時分のことなのだ。
秋のことだった。終点のI駅からでる最終列車に後部車掌を勤めることになった私は、列車の一ばん後の貨車についた三尺ばかりしかない制動室に乗りこんだ。制動室というのはブレーキがあるからそういうので、車掌室のことだ。自分はそこの硬い腰かけへ腰を下ろすと、薄暗いシグナル・ランプを頼りに、硬い鉛筆を嘗め嘗め、日記をつけた。つぎの停車駅までは、約一時間もかかる。全線で一番長い丁場だった。日記をつけてしまうと、することもなくなったので、まどから暗い外を透かして見た。黒い立木が、微かに夜の空に透けて見えて、時々、機関車の吐く火の粉が、赤い線を描いて高く低く飛び去る。風の加減で、機関のザッザッポッポッという音が、遠くなったり近くなったりする。全線中で一番危険な場所になっている急勾配のカーブにさしかかるにはまだだいぶ間があるので、私は安心してまた腰を下ろすと、いろいろと内地の家のことなどを思いだして、しみじみとした気持になっていた。
――ふと、顔をあげて見ると、貨車との仕切りにはまったガラスまどに、人間の顔がぼんやりとうつっている。私は、それが、自分の顔だということは知っていながら、なんだか友だちでもできたような賑やかな気持になって、しきりに帽子の庇を上げたり、下げたり、目を怒らしてみたり、口を曲げてみたりして、一人興がっていた。終いには、シグナル・ランプを顔の前に突き出してみたりした。(その当時は、客車にさえ、うす暗い魚油灯をつけたもので、車掌室はただ車掌の持つシグナル・ランプで照らされるばかりであった。その他に、蝋燭を不時の用意として、いつも持ってはいたが。)で、シグナル・ランプを顔のそばへ持ってきて見ると、自分の顔は、暗いガラスの中に、くっきりと浮かび出すように写って見えた。
と、自分は、鼻の頭に、煤煙であろう、黒いものがべっとりとついているのを見つけて苦笑した。指の先に唾をつけて、鼻の頭を擦りながら、私は、今まで自分の顔にむけていたランプをくるりむこうへまわすと、ガラスにうつっていた自分の影は消えて、サーチライトのようないなずま形の光が、さっと、ガラスまどを通して、貨車の内部へ差し込んだ。その貨車には丁度、石狩川でとれた鮭が積み込んであったので、自分は、キラキラと銀色に光る鱗の山を予想したのだったが、ランプの光は、ただ、ぼんやりとやみの中にとけこんでしまって、なんにも見えない。おかしいなと思ったので、自分は、立ち上がってガラスまどに鼻をつけるようにして覗き込むと、驚いた。鮭の山は、乱雑に取り崩され、踏みにじりでもしたように、滅茶滅茶になっているのだ。
鮭が盗まれるということは、その季節にはよくあることなので、自分は、鮭泥棒が貨車の中まで荒らしたのかと思うと、思わず、むッとして、手荒く仕切りの車戸を引き開けて、足を踏み込んだ。もちろん、まだ泥棒が貨車の中に愚図ついていようとは思わなかったけれど、用心のために、そばにあった信号旗の巻いたのを、右手に持ち、左手にランプを高く差し上げて、用心深く進んだ。
車の動揺のために、ともすると、蹌踉けそうになるのを、じっと踏み堪えて、ランプを片隅に差しつけると、大きな大入道のような影法師がうしろの板かべに一杯写った。ぎょっとして、目を見張ると、不意に、隅の方でピカッと光ったものがある。自分は瞬間、ぞおっとして、立ち竦んでしまった。光りものは二つ。ランプの光をうけて、爛々んと輝き、ぐるぐると炎のように渦巻いている。
「熊だ!」
そう気がつくと、自分は却って、一時落着いたくらいであった。どうして熊なぞがはいりこんだものか、そんな疑問を抱く余裕もなく、自分は、ランプを持った手を、ぐいと、熊の方にさしだして、一歩退いて身構えた。熊は火を恐れる、ということを咄嗟の間にも、思い出したものとみえる。
「ううううううう………。」
熊も不意をうたれて驚いたらしく、低い唸り声をあげながら、じりじりと尻込みをしはじめた。
「この隙に、逃げなければ………。」
ふっと気がついて、ランプを差しつけたまま、後ずさりに退き始めると、その拍子に、ひどく車がゆれて、自分は足もとの鮭に足を踏み滑らして、ドシンと横倒しに投げ出されてしまった。熊も、それと一緒に、いやっというほど、大きな体を壁板にぶっつけたらしく、激しく怒って、一層もの凄い唸り声をたてた。自分は慌てて、取り落したランプを拾い、立ち直った。幸せにもランプは消えなかったが、それといっしょに自分は、列車が例の急勾配に差し掛かろうとしているなと感じて、ひやりとした。自分は、ブレーキを巻かなければならないのだ。
後ずさりをして、羽目板にぶつかってしまった熊は、逃れ道のないことを悟ったものか、凄い形相をし、牙を剥き出して飛び掛かりそうな身構えをした。自分は夢中でランプを差しつけたまま、後ずさりに戸口へ近づき、旗を持っていた方の手を後ろへ回して戸口を探ってみると、ぎくっとした。いつの間にか戸は閉まっているではないか、いまの列車の動揺のために、ひとりでに閉まったのに相違ない。開けようと、焦っても、なにしろ前に熊をひかえて、片手を後ろに回しての仕事だから困った。熊はいよいよ牙を剥き出し、今にも飛びかかろうという気勢を見せている。
「いつものところで、ブレーキをかけることを怠ったら、列車は脱線するかもわからない。険しい崖の中腹を走っている列車は、それと同時に数十尺の下に岩を噛んでいる激流に、墜落するよりほかはない。」
そう思うと、自分は、もうじっとしていられなかった。恐ろしさも忘れて、いきなり、鮭を拾い上げると、それを熊の方に投げつけておいて、その暇に戸をあけようとあせった。
「うわう……。」
もの凄い叫び声が列車の騒音にも紛れずに、響き渡った。ガタピシと引っかかって、戸は動こうともしない。自分は振り返りざま、また、気違いのようにランプを振り回した。熊は、後足で立ち上がったまま赤いランプの光に怯えてか、爪を研ぐ猫のように、バリバリとそばの羽目板に爪をたてた。
一息ついた自分は、咄嗟に戸の上部のガラス窓を破ろうと考えた。いきなり、後ろを振り向くと、手にした旗の棒でガラスを突き砕いた。ガラガラとガラスの破片の飛び散る音が気味悪く響いた。同時に狂い立った熊は一声高くうなると、自分を目がけて飛びかかってきた。危ないところで向き直った自分は、夢中で、横ざまに体を投げだした。その拍子に、シグナル・ランプは、ガチャンと激しい音をたてて壊れてしまった。
生臭い、べとべとした鮭の中に這いつくばっている自分の、後ろの方で、熊はううううと、唸っている。幸いに、熊の爪にはかからなかったが、たった一つののがれ道である窓口を、熊のために占領されてしまったのである。
列車は、熊と自分とを真暗やみの貨車の中に閉じ込めたまま、なにも知らずに、どんどんと走っている。少し速度が緩んできたようだ。自分は、また、ブレーキのことを思い出して、ぞっとした。
「うううううう。」
熊はきゅうにまた、ものすごいうなり声をたてはじめた。さて、どうしたら、自分は制動室へもどることができるであろうか?
「うわう……。」
と、一声、凄まじい唸り声をあげたと思うと、いきなり飛びかかってきた熊の腹の下を、横に潜り抜けるように体を投げ出したので、危ないところで、自分は熊の爪にかかることだけは逃れることができたのだが、さて、少し気が落着いてくると、恐ろしさと不安とが、前の二倍になって自分の胸におしよせてきた。
たった一つの逃れ道だと思ったガラスまどは、熊の大きな体で、すっかり塞がれてしまったのだ。自分と熊は、さっきとはまったく、あべこべになったわけだ。自分はまるで熊の檻へ入れられたようなものだ。
さっきまでは、とにかく逃げられそうな希望があった。窓へ両手をかけてさえしまえば、飛越台の要領ででも、どうにか制動室へからだを運ぶことができると思っていた。それがだめだとなると、自分はまったくもう、どうしていいかわからなくなってしまった。自分の命が危ないばかりでなく、車掌として重大な任務をはたすことができない。非常信号機? ――そういうものがあればいいのだが、なにしろ、むかしの開通してまもなくの鉄道なのだから、そういう用意がまるでないのだ。
ともかく、じっとしてはいられないから、そろそろ体を起こしてみた。四つんばいになると、さっき投げだした、シグナル・ランプのこわれがジャリジャリと手のひらにさわる。なまぐさい魚のにおいにまじって、こぼれた石油がプンと鼻をうつ。――なによりも大事な、たった一つの武器とも思っていたランプが、メチャメチャになってしまったのである。
「自分はなにを持って熊と戦ったらいいだろうか?」
そう思うと自分はまったく絶望してしまった。――それでも自分は、ガラスのかけらで手を切らないように用心しながら、そろそろとあたりをかき探してみた。なんというあてもない、ただ自分は、むちゅうでそんなことをしていたのだ。
「うわう……。」
熊は、また唸り声をあげた。自分は、ぎょっとして、そちらを見すかしたが、真暗やみの中で、よくは見えないが、熊は戸口に前足をかけたまま、動かずにいるようだ。
自分は、その時、妙なことを考えた。――いや、考えたことがらは、妙でもなんでもないのだが、そんな、切羽詰まった場合に、よくも、あんな、暢気なことを考えだしたものだと、それが妙なのだ。
それは、自分が今までに聞いた熊についての、いろんな珍しい話なのだ。そんなものが、次から次へと頭に浮かんできた。
……そのうちの一つは、ふいに山の中で熊にでくわした人の話だった。そういう場合に、死んだ振りをするということは誰でも知っている。しかし、これは、それにしてももの凄い話だった。――その人は、やはり、どうすることもできず、仕方なしにたおれて息を殺していたのだそうである。熊が、頭のそばへきて、自分を嗅ぎ回しているのが、はっきりとわかる。かれは、まったく死んだようになって、心臓の鼓動までも止めるようにしていた。もっとも、そんな時にはかえって心臓はドキドキとはげしく打ったことだろうが……。冗談はさておき、二分……三分……そのうちに熊の気配がしなくなったように思われた。その男は、もういいだろうと思って、かすかにうす目をあいて見たのだそうだ。――その瞬間、ザクンと一打、大きな熊の手が、かれの右の額から頭にかけて打ちおろされた。男は、むちゅうでバネ仕掛のようにとび上がって、あとはどうしたのか自分にはわからない。ともかくその男は助かったそうである。大方、熊もふいをうたれてびっくりしたのだろう。しかし、目をあいて見るまでの時間は、わずか一分か二分だったのだろうが、その男には、どんなに長く感じられたことだろう。――
つい、話が横道にそれた。――しかし、熊といっしょに貨車の中に閉じ込められたまま、自分はまったく、そんな、人の話などを思い出していたのだから妙ではないか。
「ごーっ。」
という響きが、列車全体を包むように轟き渡った。
「鉄橋だ。」
と思うと、自分はもうじっとしていられなかった。川を渡ってから約二マイルのところが例の難所なのだ。機関士も、十分に速度を落しはするが、後部のブレーキは、どうしても巻かなければならないことになっている。が、速度のついた列車が、機関車のブレーキ一つで支え切れないとすると、脱線か転覆……か。わずか二、三両ではあるが、混合列車のことなので客車も連結されている。その乗客たちの運命は、まったく、自分ひとりの腕にあるといっていい。
自分は、足を踏みしめて立ち上がった。と、不意に明かるい光が一筋、目の前を走って、暗い車内にななめの線を落している。
「月だ……月の光だ!」
貨車の横腹にある大きな板戸の、隙間を洩れて今しがた上がったと思われる月が差し込んで来たのであった。自分は、なんというわけもなく勇みたった。月の光を辿って見ると、鮭の山にかけられた筵が二、三枚、足元に落ちている。
「これだ。」自分は、とっさに思った。「火だ、火だ。」
自分は、あせりにあせって、ポケットのマッチをさがそうとしたところが、どうしても手がポケットにはいらない。もどかしく思って、ぐッと手をおしこもうとすると、ポキリと折れたものがある。見ると、それはろうそくではないか。――さっき、ころんだひょうしにポケットからとびだしたのを、むちゅうで、手さぐりでつかんでいたものとみえる。
二、三本いっしょにマッチをすると、自分はまずそれを蝋燭に移した。――敗れたガラス窓へ片手を突っ込んだまま中腰に立っている熊の姿が、急に明かるく照らし出された。にわかに火を見た熊の目は、ギロギロと狂いだしそうに光った。
自分は、筵に火を着けた。メラメラと燃え上がったと思うと、湿り気があるとみえて、すぐに力なく消えそうになる。
熊は、低く長く唸りだした。それは、さっきまで吠えたような声とちがって、大敵に出会った場合に、互いに隙を狙って睨み合っているような、不気味なものだった。
こっちの火勢が弱ければ、今にも飛びかかろうかという気配が見えた。
自分は、さっき石油がこぼれたと思うあたりに、足で下に落ちている筵を押しやり、手に持った一枚の燃えかけた筵を、楯のように体の前にかざしながら、足先で、筵に石油を染み込ませようと、ごしごしと下の筵を踏み続けた。
熊は、まだ唸りながら、自分を睨み据えている。
手に持っている筵が、消えないうちに、手早く自分は、床の筵をひろい上げた。
石油が染みたのか、筵が乾いていたのか、今度は、勢よく一時にパッと燃えついた。
この機会を外してはと、自分は、もう、恐ろしさも忘れて――実は、恐ろしさのあまりだが――燃え上がる筵を、丁度、スペインの闘牛士が使う赤いハンケチのように振りながら、じりじりと前進した。
鼻さきで燃える火を見ては、熊も我慢ができなかったのだろう。どしんと大きな音を響かせて、後ろへ飛び退いた。
それと一緒に、また窓ガラスの落ち砕ける音がした。熊と自分は初めと同じ位置に戻ったわけだ。隅の壁板に背中を擦りつけて、立った熊は、まるで招き猫みたいな格好だった。(あとになってわかったことだが、熊は、ガラス窓に手を突っ込んだ拍子に片手に怪我をしたので、自然そんな手つきをしたのだ。)
この時、だしぬけに汽笛が、ヒョーと鳴った。下りのカーブにかかる合図なのだ。
自分でも、よく、それが、耳にはいったと思う。――自分は、なにもかもわすれて、うしろのガラスまどへ上半身をつっこんだ。
しかし、どうしても足がぬけない。死にものぐるいでもがいているうちに、さいわいに、手が、ブレーキのハンドルにかかった。
自分は、宙にぶらさがったままで力をこめてハンドルを回した。
……それから、あとのことは自分は何も憶えていない。
すぐ次の駅で、自分は腰から下に火傷をして、気絶しているところを助けられた。
転んだ時に、ズボンの後ろに染み込ませた油に火が着いたものらしいが、なるほど、尻っぺたを燃やしていたのだから、熊も、寄り着かなかったわけではないか。――ただ、この間二十分か三十分のことが、自分には実に実に長いことに思われてならない。
熊は、わけなく生捕られた。始発駅で、鮭の積み込みを終って、戸を閉める隙に入り込んだものだろうが、なにしろひとりで汽車へ乗りこんだ熊も珍しいというので、駅員たちが大事に飼っていたが、二年あまりで死んでしまった。
とんまの六兵衛
下村千秋
昔、ある村に重吉と六兵衛という二人の少年が住んでいました。二人は子供の時分から大の仲よしで、今まで一度だって喧嘩をしたこともなく口論したことさえありませんでした。しかし奇妙なことには、重吉は目から鼻へ抜けるほどの利口者でしたが、六兵衛は反対に何をやらせても、のろまで馬鹿でした。また重吉の家は村一番の大金持ちでしたが、六兵衛の家は村一番の貧乏でした。それでいて二人が兄弟のように仲がいいのですから、村の人々が不思議に思ったのも無理はありません。六兵衛は、その生まれつきの馬鹿のために、仲間からしょっちゅうからかわれて、とんまの六兵衛というあだ名をつけられていました。
「とんまの六兵衛さん、川へ鰹節をつりに行かねえか。」
「お前とお父さんは、どっちがさきに生まれたんだい。」
こんなことを言われても、六兵衛は怒りもせず、にやにや笑っているばかりでした。それを見ている重吉はつくづく六兵衛がかわいそうになりました。そしてどうしたら六兵衛を利口にして、金持ちにすることが出来るかと、そればかりを考えていました。それで、
「六さんは金持ちになりたくないかい?」と尋ねると、六さんは、
「うん、なりてえよ。」と答えます。
「利口になりたくないかい?」と尋ねると、
「うん、なりてえよ。」と言って、いつものようににやにや笑っています。
ある日のこと、重吉はなにを思ったか、お父さんが大切にしまって置いた掛け物を、そっと取り出して、台所の片隅にかくしてしまいました。するとお正月が来て、お父さんがその掛け物を床の間へかけようとすると、いつもしまってある場所に見当たりません。お父さんはびっくりして、家中を探し回りましたが、どうしても見つかりません。お父さんは弱ってしまいました。これを見すまして重吉はお父さんの前に行って、
「お父さん、私の友達の六さんは占いがうまいよ。だから掛け物のある場所をうらなわせてみてごらんよ。」と言いました。
すると、お父さんは笑いながら、
「なに、とんまの六兵衛がうらなうって? これほどさがしても見つからぬものを、あんな馬鹿にどうしてわかるものかえ。」と言って、まるで取り合ってくれません。
「お父さん違うよ。お父さんはまだ六兵衛さんのえらいことを知らないんだ。六兵衛さんは占いにかけては日本一なんだよ。」
あまり重吉がまじめに言い張るので、お父さんもついその気になって、
「じゃ一つうらなわせてみようか。」と言いましたので、とんまの六兵衛は、いよいよお父さんの掛け物のありかをうらなうことになりました。
「あのとんまの六兵衛の占いが当たったら、あしたからおてんとう様が西から出らあ。」と、村の人々は笑いました。
使いのものにつれられて六兵衛は、重吉の家にやって来ました。そして座敷のまん中に落ちつきはらって座り、勿体ぶって考えていましたが、やがてぽんとひざを叩いて、とんまに似合わないおごそかな声で言いました。
「皆さん、掛け物のありかはわかりました。こちらです。」と言って台所の方をゆびさしました。そこで重吉のお父さんは、その台所のあたりを探しますと、果たして掛け物が出て来ました。六兵衛は、もとより重吉から掛け物のありかを教えられていたのですから、こんなことはわけもないことだったのです。でも重吉のお父さん始め家の人々は、そんなことは知りませんから、六兵衛の占いにびっくりしてしまいました。そして、
「六兵衛は、すばらしい占いの名人だ。」ということがやがて家から村へ、村から城下へとひろがって、六兵衛は重吉のちょっとした悪戯半分のはかりごとのために、占いの大先生になってしまったのです。
ちょうどその頃、その国の殿様のお屋敷につたわっている家宝の名刀が、だれかのために盗まれました。これはまったくの一大事ですから、殿様は国中に命令を下して、盗人を探させましたが、どうしても見つけることが出来ませんでした。
その頃またちょうど、六兵衛先生の名が殿様のお耳に達しました。そこで殿様は早速、六兵衛先生をむかえて、名刀のありかをうらなわせることになりました。
さすがの六兵衛もこれには驚きました。あんまり重吉の悪戯がすぎたために、とんだことになったと、内心びくびくしていますと、やがて殿様から使いがやって来て、六兵衛ははるばると殿様のお城につれられて来ました。六兵衛は心配でたまりませんでした。どうしてうらなったらいいのかまるで見当もつきません。
さて、いよいよ明日は登城して、殿様の御前で占いをするという晩です。六兵衛はまんじりともせず考えこんでいましたが、なんにもいい考えは浮かんで来ません。そのうちに頭がぼんやりして来たので、六兵衛は頭をひやすつもりで庭の方に出て行きました。と、その時、一匹の虫が六兵衛の大きな鼻の穴へとびこんだのです。そこで六兵衛は、持ちまえの大声をはり上げて、
「ハックショ、ハックショ。」とくさめをしました。ところがだしぬけに、縁の下で何か言うものがありました。六兵衛は、
「だれだっ。」と言おうとしましたが、鼻の中がくすぐったいので、また大きなくさめをしました。と、こんどは、縁の下からおろおろ声で、
「ハイ、白状いたします。実は私が殿様の名刀を盗んだものでございます。名高い占いの先生がうらなうということをきいて、どんなものかと思って、今までここにしのんでいたのでございます。ところが、あなた様は私がここにしのんでいることまで占い当てて、ただいま『白状、白状』と申されました。名刀は、お城の裏のいちばん大きな松の根元にうずめてありますから、どうぞ命だけはお助け下さいまし。」
六兵衛はこりゃすてきなことをきいたと思い、大喜びで盗人はそのまま逃がしてやりました。
次の日六兵衛は、生まれてから一度も手を通したことのない礼服をきせられ、お城に参上しました。百畳敷もある大広間には、たくさんの家来がきら星のようにずらりと居流れています。六兵衛はとんまですからあまり驚きませんでしたが、それでもおどおどしながら殿様の御前に平伏しました。
「六兵衛とはその方か。御苦労、御苦労。」と殿様は声をかけました。
「さて、余の家に伝わる名刀のありかについて、その占いをその方に申しつける。正しく名刀のありかを判じ当てるならば、ぞんぶんの褒美を取らすぞ。」
六兵衛はこれをきくと、頭をあげてピョッコリとあいさつをして、
「はい、はい、ありがとうございます。」と答え、それから勿体ぶって考えこみました。ずらりとならんでいる家来たちは、せきばらい一つせず、六兵衛の振舞を見ています。すると、やがて六兵衛はひざをぽんと叩いて、
「殿様、わかりました。お家の名刀はたしかに、お城のうらのいちばん大きな松の根元にうずめてございます。」と申し上げました。
そこで、家来たちがさっそくその松の根元を掘って見ますと、果たして宝物の名刀が出て来ました。
ところが殿様は、大喜びと思いのほか、ことのほかの御立腹でありました。
「さてはその方、あらかじめ自分で盗み、松の根元にかくし置いたものにちがいあるまい。不届きもの奴!」
こう言うや、殿様はそばの刀を取って引き抜こうとしました。とんまの六兵衛も、これには驚き、がたがたふるえ出しました。
すると、かたわらに座っていた家来の一人が、
「恐れながら申し上げます。当人はあだ名をとんまの六兵衛とか申し、生まれつきの馬鹿者のゆえ、かかるものを切っては殿の刀のけがれ、いかがなものでしょうか、もう一度外のことをうらなわせて、それで当たらずば殿の前にて拙者が真っ二つにいたしましては。」
殿様も、これにも一理があると思いましたのか、さっそく六兵衛を次の占いに取りかからせました。
殿様はこんどは、手のひらに何やら字を書きました。そしてその手のひらをかたくにぎって、言いました。
「こりゃ六兵衛、汝が盗人でない証拠を見せるために、余の手のひらに書いた文字を当ててみよ。うまく判じ当てたならば、のぞみ通りの褒美をとらせよう。判じそこねた時は、汝の首は汝の胴にはつけて置かぬぞ。」
さあこんどこそ、六兵衛も死にものぐるいです。どうかして考え出そうとしましたが、もとよりのろまでとんまなのですから、とうてい考え出せません。のろまのとんまでなくとも、これを判じ当てることはちょっと出来ないことでしょう。六兵衛は急に悲しくなりました。このまま自分は殿様に殺されるのかと思うと、涙が出て来ました。
「コラ! 早く判じ当てんか。」と殿様は催促しました。
いよいよ絶体絶命です。これももとはといえば重吉の悪戯から出たことです。思えば重吉が恨めしくなりました。で、とうとう六兵衛はおろおろ声で、
「重吉さんが恨めしい。」と言おうとしましたが、涙が、こみ上げて来て、
「重……重……」とどもってしまいました。
「なに、十だと。六兵衛、でかしたでかした。」
殿様はさっと手をひろげて、そう叫びました。
どうでしょう。殿様の手のひらには、たしかに十という字が書いてあったのです。六兵衛はびっくりするやら、ホッとするやら、夢のような気がしてぼんやりしてしまいました。が、やがてたくさんの御褒美をいただいて、喜び勇んで村へ帰って来ました。
それからはだれも、六兵衛をとんまの六兵衛と呼ぶものはありませんでした。
飴チョコの天使
小川未明
青い、美しい空の下に、黒い煙の上がる、煙突の幾本か立った工場がありました。その工場の中では、飴チョコを製造していました。
製造された飴チョコは、小さな箱の中に入れられて、方々の町や、村や、また都会に向かって送られるのでありました。
ある日、車の上に、たくさんの飴チョコの箱が積まれました。それは、工場から、長いうねうねとした道を揺られて、停車場へと運ばれ、そこからまた遠い、田舎の方へと送られるのでありました。
飴チョコの箱には、かわいらしい天使が描いてありました。この天使の運命は、ほんとうにいろいろでありました。あるものは、くずかごの中へ、ほかの紙くずなどといっしょに、破って捨てられました。また、あるものは、ストーブの火の中に投げ入れられました。またあるものは、泥濘の道の上に捨てられました。なんといっても子供らは、箱の中に入っている、飴チョコさえ食べればいいのです。そして、もう、空き箱などに用事がなかったからであります。こうして、泥濘の中に捨てられた天使は、やがて、その上を重い荷車の轍で轢かれるのでした。
天使でありますから、たとえ破られても、焼かれても、また轢かれても、血の出るわけではなし、また痛いということもなかったのです。ただ、この地上にいる間は、おもしろいことと、悲しいこととがあるばかりで、しまいには、魂は、みんな青い空へと飛んでいってしまうのでありました。
いま、車に乗せられて、うねうねとした長い道を、停車場の方へといった天使は、まことによく晴れわたった、青い空や、また木立や、建物の重なり合っているあたりの景色をながめて、独り言をしていました。
「あの黒い、煙の立っている建物は、飴チョコの製造される工場だな。なんといい景色ではないか。遠くには海が見えるし、あちらにはにぎやかな街がある。おなじゆくものなら、俺は、あの街へいってみたかった。きっと、おもしろいことや、おかしいことがあるだろう。それだのに、いま、俺は、停車場へいってしまう。汽車に乗せられて、遠いところへいってしまうにちがいない。そうなれば、もう二度と、この都会へはこられないばかりか、この景色を見ることもできないのだ。」
天使は、このにぎやかな都会を見捨てて、遠く、あてもなくゆくのを悲しく思いました。けれど、まだ自分は、どんなところへゆくだろうかと考えると楽しみでもありました。
その日の昼ごろは、もう飴チョコは、汽車に揺られていました。天使は、真っ暗な中にいて、いま汽車が、どこを通っているかということはわかりませんでした。
そのとき、汽車は、野原や、また丘の下や、村はずれや、そして、大きな河にかかっている鉄橋の上などを渡って、ずんずんと東北の方に向かって走っていたのでした。
その日の晩方、あるさびしい、小さな駅に汽車が着くと、飴チョコは、そこで降ろされました。そして汽車は、また暗くなりかかった、風の吹いている野原の方へ、ポッ、ポッと煙を吐いていってしまいました。
飴チョコの天使は、これからどうなるだろうかと、半ば頼りないような、半ば楽しみのような気持ちでいました。すると、まもなく、幾百となく、飴チョコのはいっている大きな箱は、その町の菓子屋へ運ばれていったのであります。
空が、曇っていたせいもありますが、町の中は、日が暮れてからは、あまり人通りもありませんでした。天使は、こんなさびしい町の中で、幾日もじっとして、これから長い間、こうしているのかしらん。もし、そうなら退屈でたまらないと思いました。
幾百となく、飴チョコの箱に描いてある天使は、それぞれ違った空想にふけっていたのでありましょう。なかには、早く青い空へ上ってゆきたいと思っていたものもありますが、また、どうなるか最後の運命まで見てから、空へ帰りたいと思っていたものもあります。
ここに話をしますのは、それらの多くの天使の中の一人であるのはいうまでもありません。
ある日、男が箱車を引いて菓子屋の店頭にやってきました。そして、飴チョコを三十ばかり、ほかのお菓子といっしょに箱車の中に収めました。
天使は、また、これからどこへかゆくのだと思いました。いったい、どこへゆくのだろう?箱車の中にはいっている天使は、やはり、暗がりにいて、ただ車が石の上をガタガタと躍りながら、なんでものどかな、田舎道を、引かれてゆく音しか聞くことができませんでした。
箱車を引いてゆく男は、途中で、だれかと道づれになったようです。
「いいお天気ですのう。」
「だんだん、のどかになりますだ。」
「このお天気で、みんな雪が消えてしまうだろうな。」
「おまえさんは、どこまでゆかしゃる。」
「あちらの村へ、お菓子を卸しにゆくだ。今年になって、はじめて東京から荷がついたから。」
飴チョコの天使は、この話によって、この辺には、まだところどころ田や、圃に、雪が残っているということを知りました。
村に入ると、木立の上に、小鳥がチュン、チュンといい声を出して、枝から、枝へと飛んではさえずっていました。子供らの遊んでいる声が聞こえました。そのうちに車は、ガタリといって止まりました。
このとき、飴チョコの天使は、村へきたのだと思いました。やがて箱車のふたが開いて、男ははたして飴チョコを取り出して、村の小さな駄菓子屋の店頭に置きました。また、ほかにもいろいろのお菓子を並べたのです。
駄菓子屋のおかみさんは、飴チョコを手に取りあげながら、
「これは、みんな十銭の飴チョコなんだね。五銭のがあったら、そちらをおくんなさい。この辺りでは、十銭のなんか、なかなか売れっこはないから。」
といいました。
「十銭のばかりなんですがね。そんなら、三つ四つ置いてゆきましょうか。」と、車を引いてきた若い男はいいました。
「そんなら、三つばかり置いていってください。」と、おかみさんはいいました。
飴チョコは、三つだけ、この店に置かれることとなりました。おかみさんは、三つの飴チョコを大きなガラスのびんの中にいれて、それを外から見えるようなところに飾っておきました。
若い男は、車を引いて帰ってゆきました。これから、またほかの村へ、まわったのかもしれません。同じ工場で造られた飴チョコは、同じ汽車に乗って、ついここまで運命をいっしょにしてきたのだが、これからたがいに知らない場所に別かれてしまわなければなりませんでした。もはや、この世の中では、それらの天使は、たがいに顔を見合わすようなことはおそらくありますまい。いつか、青い空に上っていって、おたがいにこの世の中で経てきた運命について、語り合う日よりはほかになかったのであります。
びんの中から、天使は、家の前に流れている小さな川をながめました。水の上を、日の光がきらきら照らしていました。やがて日は暮れました。田舎の夜はまだ寒く、そして、寂しかった。しかし夜が明けると、小鳥が例の木立にきてさえずりました。その日もいい天気でした。あちらの山あたりはかすんでいます。子供らは、お菓子屋の前にきて遊んでいました。このとき、飴チョコの天使は、あの子供らは、飴チョコを買って、自分をあの小川に流してくれたら、自分は 水のゆくままに、あちらの遠いかすみだった山々の間を流れてゆくものを空想したのであります。
しかし、おかみさんが、いつかいったように、百姓の子供らは、十銭の飴チョコを買うことができませんでした。
夏になると、つばめが飛んできました。そして、そのかわいらしい姿を小川の水の面に写しました。また暑い日盛りごろ、旅人が店頭にきて休みました。そして、四方の話などをしました。しかし、その間だれも飴チョコを買うものがありませんでした。だから、天使は空へ上ることも、またここからほかへ旅をすることもできませんでした。月日がたつにつれて、ガラスのびんはしぜんに汚れ、また、ちりがかかったりしました。飴チョコは、憂鬱な日を送ったのであります。
やがてまた、寒さに向かいました。そして、冬になると、雪はちらちらと降ってきました。天使は田舎の生活に飽きてしまいました。しかし、どうすることもできませんでした。ちょうど、この店にきてから、一年めになった、ある日のことでありました。
菓子屋の店頭に、一人のおばあさんが立っていました。
「なにか、孫に送ってやりたいのだが、いいお菓子はありませんか。」と、おばあさんはいいました。
「ご隠居さん、ここには上等のお菓子はありません。飴チョコならありますが、いかがですか。」と、菓子屋のおかみさんは答えました。
「飴チョコを見せておくれ。」と、つえをついた、黒い頭巾をかぶった、おばあさんはいいました。
「どちらへ、お送りになるのですか。」
「東京の孫に、もちを送ってやるついでに、なにかお菓子を入れてやろうと思ってな。」と、おばあさんは答えました。
「しかし、ご隠居さん、この飴チョコは、東京からきたのです。」
「なんだっていい、こちらの志だからな。その飴チョコをおくれ。」といって、おばあさんは、飴チョコを三つとも買ってしまいました。
天使は思いがけなく、ふたたび、東京へ帰っていかれることを喜びました。
あくる日の夜は、はや、暗い貨物列車の中に揺すられて、いつかきた時分の同じ線路を、都会をさして走っていたのであります。
夜が明けて、あかるくなると、汽車は、都会の停車場に着きました。
そして、その日の昼過ぎには、小包は宛名の家へ配達されました。
「田舎から、小包がきたよ。」と、子供たちは、大きな声を出して喜び、躍り上がりました。
「なにがきたのだろうね。きっとおもちだろうよ。」と、母親は、小包の縄を解いて、箱のふたを開けました。すると、はたして、それは、田舎でついたもちでありました。その中に、三つの飴チョコがはいっていました。
「まあ、おばあさんが、おまえたちに、わざわざ買ってくださったのだよ。」と、母親は、三人の子供に一つずつ飴チョコを分けて与えました。
「なあんだ、飴チョコか。」と、子供らは、口ではいったものの喜んで、それをば手に持って、家の外へ遊びに出ました。
まだ、寒い、早春の黄昏方でありました。往来の上では、子供らが、鬼ごっこをして遊んでいました。三人の子供らは、いつしか飴チョコを箱から出して食べたり、そばを離れずについている、白犬のポチに投げてやったりしていました。その中に、まったく箱の中が空になると、一人は空箱を溝の中に捨てました。一人は、破ってしまいました。一人は、それをポチに投げると、犬は、それをくわえて、あたりを飛びまわっていました。
空の色は、ほんとうに、青い、なつかしい色をしていました。いろいろの花が咲くには、まだ早かったけれど、梅の花は、もう香っていました。この静かな黄昏がた、三人の天使は、青い空に上ってゆきました。
その中の一人は、思い出したように、遠く都会のかなたの空をながめました。たくさんの煙突から、黒い煙が上がっていて、どれが昔、自分たちの飴チョコが製造された工場であったかよくわかりませんでした。ただ、美しい燈が、あちらこちらに、もやの中からかすんでいました。
青黒い空は、だんだん上がるにつれて明るくなりました。そして、行く手には、美しい星が光っていました。
一房の葡萄
有島武郎
一
僕は小さい時に絵を描くことが好きでした。僕の通っていた学校は横浜の山の手という所にありましたが、そこいらは西洋人ばかり住んでいる町で、僕の学校も教師は西洋人ばかりでした。そしてその学校の行きかえりにはいつでもホテルや西洋人の会社などがならんでいる海岸の通りを通るのでした。通りの海添いに立って見ると、真青な海の上に軍艦だの商船だのが一ぱいならんでいて、煙突から煙の出ているのや、ほばしらからへ万国旗をかけわたしたのやがあって、眼がいたいように綺麗でした。僕はよく岸に立ってその景色を見渡して、家に帰ると、覚えているだけを出来るだけ美しく絵に描いて見ようとしました。けれどもあの透きとおるような海の藍色と、白い帆前船などの水際近くに塗ってある洋紅色とは、僕の持っている絵具ではどうしてもうまく出せませんでした。いくら描いても描いても本当の景色で見るような色には描けませんでした。
ふと僕は学校の友達の持っている西洋絵具を思い出しました。その友達は矢張西洋人で、しかも僕より二つ位齢が上でしたから、身長は見上げるように大きい子でした。ジムというその子の持っている絵具は舶来の上等のもので、軽い木の箱の中に十二種の絵具が小さな墨のように四角な形にかためられて、二列にならんでいました。どの色も美しかったが、とりわけて藍と洋紅とは喫驚するほど美しいものでした。ジムは僕より身長が高いくせに、絵はずっと下手でした。それでもその絵具をぬると、下手な絵さえがなんだか見ちがえるように美しく見えるのです。僕はいつでもそれを羨ましいと思っていました。あんな絵具さえあれば僕だって海の景色を本当に海に見えるように描かいて見せるのになあと、自分の悪い絵具を恨みながら考えました。そうしたら、その日からジムの絵具がほしくってほしくってたまらなくなりました。けれども僕はなんだか臆病になってパパにもママにも買って下さいと願う気になれないので、毎日々々その絵具のことを心の中で思いつづけるばかりで幾日か日がたちました。
今ではいつの頃だったか覚えてはいませんが秋だったのでしょう。葡萄ぶどうの実が熟していたのですから。天気は冬が来る前の秋によくあるように空の奥の奥まで見すかされそうに晴れわたった日でした。僕達は先生と一緒に弁当をたべましたが、その楽しみな弁当の最中でも僕の心はなんだか落着かないで、その日の空とはうらはらに暗かったのです。僕は自分一人で考えこんでいました。誰かが気がついて見たら、顔も屹度青かったかも知れません。僕はジムの絵具がほしくってほしくってたまらなくなってしまったのです。胸が痛むほどほしくなってしまったのです。ジムは僕の胸の中で考えていることを知っているにちがいないと思って、そっとその顔を見ると、ジムはなんにも知らないように、面白そうに笑ったりして、わきに坐っている生徒と話をしているのです。でもその笑っているのが僕のことを知っていて笑っているようにも思えるし、何か話をしているのが、「いまに見ろ、あの日本人が僕の絵具を取るにちがいないから。」といっているようにも思えるのです。僕はいやな気持ちになりました。けれどもジムが僕を疑っているように見えれば見えるほど、僕はその絵具がほしくてならなくなるのです。
二
僕はかわいい顔はしていたかも知れないが体も心も弱い子でした。その上臆病者で、言いたいことも言わずにすますような質でした。だからあんまり人からは、かわいがられなかったし、友達もない方でした。昼御飯がすむと他の子供達は活溌に運動場に出て走りまわって遊びはじめましたが、僕だけはなおさらその日は変に心が沈んで、一人だけ教場に這入っていました。そとが明るいだけに教場の中は暗くなって僕の心の中のようでした。自分の席に坐っていながら僕の眼は時々ジムの卓の方に走りました。ナイフで色々ないたずら書きが彫りつけてあって、手垢で真黒になっているあの蓋を揚ると、その中に本や雑記帳や石板と一緒になって、飴のような木の色の絵具箱があるんだ。そしてその箱の中には小さい墨のような形をした藍や洋紅の絵具が……僕は顔が赤くなったような気がして、思わずそっぽを向いてしまうのです。けれどもすぐ又横眼でジムの卓の方を見ないではいられませんでした。胸のところがどきどきとして苦しい程でした。じっと坐っていながら夢で鬼にでも追いかけられた時のように気ばかりせかせかしていました。
教場に這入る鐘がかんかんと鳴りました。僕は思わずぎょっとして立上りました。生徒達が大きな声で笑ったり呶鳴ったりしながら、洗面所の方に手を洗いに出かけて行くのが窓から見えました。僕は急に頭の中が氷のように冷たくなるのを気味悪く思いながら、ふらふらとジムの卓の所に行って、半分夢のようにそこの蓋を揚げて見ました。そこには僕が考えていたとおり雑記帳や鉛筆箱とまじって見覚えのある絵具箱がしまってありました。なんのためだか知らないが僕はあっちこちを見廻してから、誰も見ていないなと思うと、手早くその箱の蓋を開けて藍と洋紅との二色を取上げるが早いかポッケットの中に押込みました。そして急いでいつも整列して先生を待っている所に走って行きました。
僕達は若い女の先生に連れられて教場に這入り銘々の席に坐りました。僕はジムがどんな顔をしているか見たくってたまらなかったけれども、どうしてもそっちの方をふり向くことができませんでした。でも僕のしたことを誰も気のついた様子がないので、気味が悪いような、安心したような心持ちでいました。僕の大好きな若い女の先生の仰ることなんかは耳に這入りは這入ってもなんのことだかちっともわかりませんでした。先生も時々不思議そうに僕の方を見ているようでした。
僕は然し先生の眼を見るのがその日に限ってなんだかいやでした。そんな風で一時間がたちました。なんだかみんな耳こすりでもしているようだと思いながら一時間がたちました。
教場を出る鐘が鳴ったので僕はほっと安心して溜息をつきました。けれども先生が行ってしまうと、僕は僕の級で一番大きな、そしてよく出来る生徒に「ちょっとこっちにお出」と肱の所を掴つかまれていました。僕の胸は宿題をなまけたのに先生に名を指さされた時のように、思わずどきんと震えはじめました。けれども僕は出来るだけ知らない振りをしていなければならないと思って、わざと平気な顔をしたつもりで、仕方なしに運動場の隅に連れて行かれました。
「君はジムの絵具を持っているだろう。ここに出し給え。」
そういってその生徒は僕の前に大きくひろげた手をつき出しました。そういわれると僕はかえって心が落着いて、
「そんなもの、僕持ってやしない。」と、ついでたらめをいってしまいました。そうすると三四人の友達と一緒に僕の側に来ていたジムが、
「僕は昼休みの前にちゃんと絵具箱を調べておいたんだよ。一つも失くなってはいなかったんだよ。そして昼休みが済んだら二つ失くなっていたんだよ。そして休みの時間に教場にいたのは君だけじゃないか。」と少し言葉を震わしながら言いかえしました。
僕はもう駄目だめだと思うと急に頭の中に血が流れこんで来て顔が真赤まっかになったようでした。すると誰だったかそこに立っていた一人がいきなり僕のポッケットに手をさし込もうとしました。僕は一生懸命にそうはさせまいとしましたけれども、多勢に無勢でとても叶いません。僕のポッケットの中からは、見る見るマーブル球だま(今のビー球だまのことです)や鉛のメンコなどと一緒に二つの絵具のかたまりが掴み出されてしまいました。「それ見ろ」といわんばかりの顔をして子供達は憎らしそうに僕の顔を睨みつけました。僕の体はひとりでにぶるぶる震えて、眼の前が真暗になるようでした。いいお天気なのに、みんな休時間を面白そうに遊び廻っているのに、僕だけは本当に心からしおれてしまいました。あんなことをなぜしてしまったんだろう。取りかえしのつかないことになってしまった。もう僕は駄目だ。そんなに思うと弱虫だった僕は淋しく悲しくなって来て、しくしくと泣き出してしまいました。
「泣いておどかしたって駄目だよ」とよく出来る大きな子が馬鹿にするような憎みきったような声で言って、動くまいとする僕をみんなで寄ってたかって二階に引張って行こうとしました。僕は出来るだけ行くまいとしたけれどもとうとう力まかせに引きずられて梯子段を登らせられてしまいました。そこに僕の好きな受持ちの先生の部屋へやがあるのです。
やがてその部屋の戸をジムがノックしました。ノックするとは這入ってもいいかと戸をたたくことなのです。中からはやさしく「お這入り」という先生の声が聞こえました。僕はその部屋に這入る時ほどいやだと思ったことはまたとありません。
何か書きものをしていた先生はどやどやと這入って来た僕達を見ると、少し驚いたようでした。が、女の癖に男のように頸くびの所でぶつりと切った髪の毛を右の手で撫なであげながら、いつものとおりのやさしい顔をこちらに向けて、一寸首をかしげただけで何の御用という風をしなさいました。そうするとよく出来る大きな子が前に出て、僕がジムの絵具を取ったことを委しく先生に言いつけました。先生は少し曇った顔付きをして真面目にみんなの顔や、半分泣きかかっている僕の顔を見くらべていなさいましたが、僕に「それは本当ですか。」と聞かれました。本当なんだけれども、僕がそんないやな奴だということをどうしても僕の好きな先生に知られるのがつらかったのです。だから僕は答える代りに本当に泣き出してしまいました。
先生は暫し僕を見つめていましたが、やがて生徒達に向って静かに「もういってもようございます。」といって、みんなをかえしてしまわれました。生徒達は少し物足らなそうにどやどやと下に降りていってしまいました。
先生は少しの間なんとも言わずに、僕の方も向かずに自分の手の爪を見つめていましたが、やがて静かに立って来て、僕の肩の所を抱きすくめるようにして「絵具はもう返しましたか。」と小さな声で仰いました。僕は返したことをしっかり先生に知ってもらいたいので深々と頷いて見せました。
「あなたは自分のしたことをいやなことだったと思っていますか。」
もう一度そう先生が静かに仰った時には、僕はもうたまりませんでした。ぶるぶると震えてしかたがない唇を、噛みしめても噛みしめても泣声が出て、眼からは涙がむやみに流れて来るのです。もう先生に抱かれたまま死んでしまいたいような心持ちになってしまいました。
「あなたはもう泣くんじゃない。よく解かったらそれでいいから泣くのをやめましょう、ね。次ぎの時間には教場に出ないでもよろしいから、私わたくしのこのお部屋に入らっしゃい。静かにしてここに入らっしゃい。私が教場から帰るまでここに入らっしゃいよ。いい。」と仰りながら僕を長椅子ながいすに坐らせて、その時また勉強の鐘がなったので、机の上の書物を取り上げて、僕の方を見ていられましたが、二階の窓まで高く這い上った葡萄の蔓から、一房の西洋葡萄をもぎって、しくしくと泣きつづけていた僕の膝の上にそれをおいて静かに部屋を出て行きなさいました。
三
一時がやがやとやかましかった生徒達はみんな教場きょうじょうに這入って、急にしんとするほどあたりが静かになりました。僕は淋しくって淋しくってしようがない程悲しくなりました。あの位好きな先生を苦しめたかと思うと僕は本当に悪いことをしてしまったと思いました。葡萄などはとても喰たべる気になれないでいつまでも泣いていました。
ふと僕は肩を軽くゆすぶられて眼をさましました。僕は先生の部屋へやでいつの間にか泣寝入りをしていたと見えます。少し痩やせて身長の高い先生は笑顔を見せて僕を見おろしていられました。僕は眠ったために気分がよくなって今まであったことは忘れてしまって、少し恥しそうに笑いかえしながら、慌あわてて膝の上から辷り落ちそうになっていた葡萄の房をつまみ上げましたが、すぐ悲しいことを思い出して笑いも何も引込んでしまいました。
「そんなに悲しい顔をしないでもよろしい。もうみんなは帰ってしまいましたから、あなたはお帰りなさい。そして明日はどんなことがあっても学校に来なければいけませんよ。あなたの顔を見ないと私わたくしは悲しく思いますよ。屹度ですよ。」
そういって先生は僕のカバンの中にそっと葡萄の房を入れて下さいました。僕はいつものように海岸通りを、海を眺めたり船を眺めたりしながらつまらなく家に帰りました。そして葡萄をおいしく喰べてしまいました。
けれども次の日が来ると僕は中々学校に行く気にはなれませんでした。お腹が痛くなればいいと思ったり、頭痛がすればいいと思ったりしたけれども、その日に限って虫歯一本痛みもしないのです。仕方なしにいやいやながら家は出ましたが、ぶらぶらと考えながら歩きました。どうしても学校の門を這入ることは出来ないように思われたのです。けれども先生の別れの時の言葉を思い出すと、僕は先生の顔だけはなんといっても見たくてしかたがありませんでした。僕が行かなかったら先生は屹度悲しく思われるに違いない。もう一度先生のやさしい眼で見られたい。ただその一言があるばかりで僕は学校の門をくぐりました。
そうしたらどうでしょう、先第一に待ち切っていたようにジムが飛んで来て、僕の手を握ってくれました。そして昨日のことなんか忘れてしまったように、親切に僕の手をひいてどぎまぎしている僕を先生の部屋に連れて行くのです。僕はなんだか訳がわかりませんでした。学校に行ったらみんなが遠くの方から僕を見て「見ろ泥棒のうそつきの日本人が来た」とでも悪口をいうだろうと思っていたのにこんな風にされると気味が悪い程でした。
二人の足音を聞きつけてか、先生はジムがノックしない前に、戸を開けて下さいました。二人は部屋の中に這入りました。
「ジム、あなたはいい子、よく私わたくしの言ったことがわかってくれましたね。ジムはもうあなたからあやまって貰わなくってもいいと言っています。二人は今からいいお友達になればそれでいいんです。二人とも上手に握手をなさい。」と先生はにこにこしながら僕達を向い合せました。僕はでもあんまり勝手過ぎるようでもじもじしていますと、ジムはいそいそとぶら下げている僕の手を引張り出して堅く握ってくれました。僕はもうなんといってこの嬉さを表せばいいのか分らないで、唯恥しく笑う外ありませんでした。ジムも気持よさそうに、笑顔をしていました。先生はにこにこしながら僕に、
「昨日の葡萄はおいしかったの。」と問われました。僕は顔を真赤にして「ええ」と白状するより仕方がありませんでした。
「そんなら又あげましょうね。」
そういって、先生は真白なリンネルの着物につつまれた体を窓からのび出させて、葡萄の一房を取もぎって、真白まっしろい左の手の上に粉のふいた紫色の房を乗せて、細長い銀色の鋏はさみで真中からぷつりと二つに切って、ジムと僕とに下さいました。真白い手の平に紫色の葡萄の粒が重って乗っていたその美しさを僕は今でもはっきりと思い出すことが出来ます。
僕はその時から前より少しいい子になり、少しはにかみ屋でなくなったようです。
それにしても僕の大好きなあのいい先生はどこに行かれたでしょう。もう二度とは遇えないと知りながら、僕は今でもあの先生がいたらなあと思います。秋になるといつでも葡萄の房は紫色に色づいて美しく粉をふきますけれども、それを受けた大理石のような白い美しい手はどこにも見つかりません。
鬼退治
下村千秋
一
頭は少々馬鹿でも、腕っぷしさえ強ければ人の頭に立っていばっていられるような昔の時代であった。常陸の八溝山という高い山の麓の村に勘太郎という男がいた。今年十八歳であったが、頭が非常によくって、寺子屋で教わる読み書きそろばんはいつも一番であった。何を考えても何をしても人よりずばぬけていた。しかしその時代にいちばん必要な腕っぷしの力がなかった。体は小さく腕や脚はひょろひょろしていて、自分より五つも六つも年下の子供とすもうを取っても、たわいもなく投げ飛ばされてしまった。
だから勘太郎は人前に出るといつも小さくなっていなければならなかった。勘太郎から見れば馬鹿としか思われない男が、ただ腕力があるばかりに勘太郎をいいように引きまわしていた。勘太郎はそれを腹の中でずいぶんくやしがりながらも、どうすることも出来なかった。
勘太郎の村から十丁ばかり離れた所に光明寺という寺があった。山を少し登りかけた深い杉森の中にあって、真夏の日中でもそこは薄寒いほど暗くしんとしていた。この寺には年寄った住職と小坊主一人が住んでいたが、住職はついに死んでしまい、小坊主はそんなところに一人では住んでいられないと言って、村へ逃げて来てしまった。
それから四、五年の間、その寺は荒れるままに任せて、狐や狢の住み家となっていたが、それでは困るというので、村の人たちは隣村の寺から一人の若い坊さんを呼んで来てそこの住職とした。すると十日もたたないうちに、その住職は姿をくらましてしまった。やっぱり若いから一人では恐ろしくて住んでいられないのだろうと村の人は思い、今度は五十ぐらいのお坊さんを外の寺から頼んで来てその寺に住まわせた。が、このお坊さんは十日とたたぬうちに死んでしまった。いや死んだのではなく頭だけ残して胴や手足は骨ばかりになって殺されていたのであった。おおかた何かの獣に食われてしまったのだろうと村の人たちは言い合った。
三人目のお坊さんが外の寺から頼まれて来た。このお坊さんは元は武士であったので、今度は獣の餌食になるような意気地なしではなかろうと、村の人たちは安心していた。
ところが五、六日してこの坊さんは、左腕をつけ根の所から何かに食い取られて、生き血を流しながら村へ逃げて来た。
「どうしたのだ、何奴に食われたのだ。」と村の人たちはよってたかってきいた。
「鬼だ。あの寺には鬼が住んどる。口が耳まで裂けている青鬼赤鬼が何匹もいて、おれをこんな目に会わしたのだ。」と坊さんは苦しそうな息をしながら話した。
それを聞いた村の人たちもびっくりしてしまった。
「四、五年の間、あの寺を空き家にしといたので、その間に鬼どもが巣をくったのだろう。」
「そうだ。最初の坊主の姿が見えなくなったのも、二番目の坊主が骨ばかりになって死んでいたのも、皆鬼にやられたのだ。えらいことになったものだ。」
村の人たちはそう話し合った。この噂はすぐに方々へ伝わったので、もうだれもこの寺の住職になろうというものがなくなってしまった。
二
村の人たちは寄り合いをやって相談をした。そして結局、村の人の中で、寺の鬼どもを退治したものを寺の住職にしようということになった。その寺には村中の田や畑を合わせたほどの田畑がついているので、もちろんこの寺の住職になりたがらないものは一人もなかった。そればかりでなく、鬼を退治してみんなの前でいばってやりたいという力自慢、度胸自慢の若者も大ぜいいた。そこでみんなでくじを引いて、くじに当たったものが一番先に鬼退治に出かけることになった。ところで弱虫の勘太郎もそのくじを引く仲間に入ろうとすると、みんなは手をたたいて笑いながら、
「勘太郎が鬼退治をするとよ、鼠が猫を捕りに行くよりひどいや。阿呆もあのくらいになると面白いな。」と言った。
勘太郎はくやしくてたまらなかったが、仲間に入ることはあきらめてしまった。
くじに当たった男は新平という若い力持ちの男だった。猟に行って穴熊を生け捕りにしたことのある男で、村でも指折りの度胸のいい男であった。新平はもう寺を自分のものにしたようなつもりで、大鉈を一打腰にぶち込んだだけで、羨しがる若者どもを尻目にかけながら山の寺へ出かけて行った。
が、新平は翌日の明け方、お尻や背中の肉をさんざんに食い破られ、命からがら逃げ帰って来た。新平は驚きのあまり、死んだようになって、鬼退治の様子を話すことさえ出来なかった。
そこで二度目のくじ引きが行われて今度は力造という男がくじに当たった。この男は村一番の強者で、ある時村の一番強い牛と喧嘩をして、その牛の角をへし折り、あばら骨を蹴破って見事に倒してしまったことのある男であった。だから村の人たちもあの男が行ったら、さすがの鬼どももどてっ腹を突っこぬかれたり、首っ玉を引っこ抜かれたりしてしまうだろうと話し合った。
ところが、この男も退治に出かけた次の朝、片足半分食い取られ、おまけに鼻や耳や頬っぺたまでかみ切られて、おいおい泣きながら地べたを這うようにして逃げ帰って来た。
それを見た村の人たちは、始めはわれもわれもと鬼退治に行きたがったのに、今はだれ一人それを言い出すものもなかった。
「あの男でさえあんな目にあって来たんだから、おれなんか問題にならない。」と弱音を吐くものも出て来た。
もうだれもくじ引きをしようとはしなかった。
この時、弱虫の勘太郎が、
「だれも行けないなら、おれが行って立派に退治して来て見せよう。」と言い出した。
それを聞いていた村の人たちは、また笑い出した。
「お前に出来たら、この暑いのに雪が降るよ。」
「いやその雪が見たい。一つ退治してもらいたいもんだ。」
「お前の体じゃ鬼も食べでがあるまいが、鬼も食わないよりましだろう。一つ御馳走をしてやるさ。」
村の人たちはてんでにそんなことを言っては勘太郎をひやかした。けれど勘太郎はすました顔をして、
「馬鹿力さえあれば鬼退治が出来ると思っているのがおかしいよ。おれはそんな力はないから腕っぷしで退治しようとは思わん。まぁこの頭一つで首尾よくやっつけて来て見せるさ。」といった。
「お前に退治が出来たら、三年があいだ飲まず食わずで生きて見せる。」
「お前に退治が出来たら、おれは水の中にもぐって三日いて見せる。」
「お前に退治が出来たら、おひる前のうちに江戸まで三度往復して見せる。」
みんな勝手なことを言って勘太郎をからかったが、勘太郎はそんなことは耳にも入れず、身じたくをすると獲物一つ持たずに光明寺へ出かけて行った。
すべて怪物は、昼のうちはどこかに姿を隠していて、夜になって現れて来るものだということを知っていたので、勘太郎はまず明るいうちに寺へ着いて、どこかに自分の身を隠しておこうと考えた。
寺までの道には夏草がぼうぼうと生えて、勘太郎の小さい体を埋めるほどであった。山門の所からは杉森は暗いほどに繁り、奥へ行くにしたがって肌がひやりとするような寒い風が流れるように吹いて来た。大木の梢からは雨も降っていないのに滴がぽたりぽたりと垂れ、風もないのに梢の上の方にはコーッという森の音がこもっていた。
やがて寺の本堂へついた。大きな屋根は朽ち、広い回廊は傾きかけ、太い柱は歪み、見るから怪物の住みそうなありさまに、勘太郎も始めはうす気味悪くなった。しかしぐっと胆力をすえて、本堂の中へ入ってみた。そして中の様子を隈なく調べた。それから廊下つづきの庫裡の方へ入って行った。そこも雨は漏り、畳は腐り、天井には穴があき、そこら中がかびくさかった。勘太郎は土間の上がり框のところにある囲炉裏の所へ行ってみた。と、自在鉤の掛かっている下には、つい昨夜焚火をしたばかりのように新しい灰が積もり、木の枝の燃えさしが散らばっていた。さらによく見るとその炉端には、鳥の羽根や、獣の毛や、人間の骨らしいものが散らばっていた。
「なるほど、鬼どもは生け捕って来たえものをこの囲炉裏で焼いて食うのだな。それじゃ一つ、この炉の上の天井に隠れて今夜の様子を見てやろう。」
勘太郎はそうひとりごとを言って、それから土間の柱をよじ上って、ちょうど炉端がぐあいよく見える穴のあいている天井の上に隠れた。
三
やがて日は暮れた。日が暮れると短い夏の夜はすぐ更けていった。一寸先も見えない真っ暗な寺の中はガランとして物音一つしない。勘太郎は息を殺し、今か今かと鬼どもの来るのを待っていた。
すると夜中の一時頃であろうか。本堂の方の廊下を歩く大きな足音がきこえて来た。その足音は少なくも八本か十本ぐらいの足で踏みならす音であった。間もなくその足音は、勘太郎の隠れている天井の下の炉端に近づいた。そしてどさりと炉端にあぐらをかく音がする。木の枝を折る音がする。しかし真っ暗なので勘太郎はただ耳で様子をきくより外はなかった。
と、同時に囲炉裏には火がめろめろと燃え出した。勘太郎は天井の穴に目をつけて下を覗き始めた。めろめろとした赤い炎は、炉端に座っている四匹の鬼の顔を照らした。土間を正面に見た旦那座に座っているのが鬼の大将であろう。腰のまわりに獣の皮を巻いて大あぐらをかいている。口の両端から現れている牙が炎に照らされて金の牙のように光っている。勘太郎も一目見て、なるほどこいつぁうっかりかかったら、頭からひとかじりにやられそうだと思った。
家来の三匹の鬼は大将ほど大きな牙は生えていないが、目の光るところを見ただけでも勘太郎は体中がすくむような気持ちになった。勘太郎は、ぴったりと天井に腹ばったまま身動きもせず、じっと下の様子を見ていた。
間もなく鬼どもは話を始めた。まず家来の鬼がいった。
「今夜みたいに不猟なことはねえ。腹がへってやりきれねえよ。」
「ほんとにろくな晩じゃねえ。人の子一匹つかまえなかった。腹の虫がグーグー鳴るわい。」と外の家来が合槌を打った。
すると大将の鬼がみんなを見回して、
「そのうちに村の若者がやって来る。落ちついて待っていろ。」と言った。
「いや親分、いくら人間が馬鹿だって今夜も来るようなことはあるまい。もうこりてるはずだよ。」
「ところがきっと来る。人間という奴は、自分たちが世界で一番強いものだと思っているんだからしようがない。村中の奴らがみんな食われてしまうまでやって来るに違いないよ。」と大将の鬼は大将だけに偉そうなことをいった。
「そりゃそうだな。力もろくにないうえに、知恵が足りないと来てるんだから人間もかわいそうなもんだ。」と家来の鬼は言って鼻を高くした。
「ところで人間がおれたちより弱いとなると、世界中でおれたちより強いものは何だろう。」と今まで黙って火を燃していた家来の鬼が言った。
「何もないよ。おれたちの敵は世界中にないんだよ。」と外の家来がいばった顔をした。
「いや、一つあるよ。たった一つおれたちより強いものがいる。」と大将の鬼がまじめな顔をしていった。
「何だろう。」
「さぁ何だろう。」
「わからないかね。それは人間どもに飼われている鶏というけものだ。」
「鶏! 初めて聞く名だな。だが、いったいそれがどうしてそんなに強いんだね。」
「それはこうだ。その鶏という奴はトッテクーと鳴くのだ。取って食うと鳴いたら最後、どんなものでも取って食ってしまうのだ。恐ろしい奴だ。」
「なるほどそんな鳴き声をする奴は外にはいない。そいつぁよっぽど強い奴だろう。」
この話を天井で聞いていた勘太郎は「しめた」と思った。するとその時、大将の鬼が鼻を天井に向けてもがもがさせながら、
「何だか人くさいぞ。」と言い出した。
ぐずぐずしていたら、あべこべに取って食われると思った勘太郎は、そこで寺中に響くような声を張りあげて、
「トッテクー……」と叫んだ。
さぁたいへん、鬼どもはあわてふためきながら逃げ出した。家来の一匹は土間へもんどり打って転げ落ち腰を折ってしまった。他の二匹の家来は柱に頭をぶつけて頭の鉢をぶち割ってしまった。大将の鬼は旦那座から一足飛びに土間へ跳ね下りようとして、囲炉裏にかけた自在鉤に鼻の穴を引っかけてしまった。すると、
「鶏につかまった。ああ……鶏につかまった。」と叫びながら、もう手足を動かそうともせず、自在鉤にぶらりとぶら下がってしまった。
勘太郎は腹を抱えて笑いながら天井から下りて来て、大将の鬼を生け捕ってしまった。勘太郎は鬼の鼻の穴に引っかかっている自在鉤をそのままにして、残りの綱で両手をうしろに回して縛りあげ、先に歩かせながら村へ帰って来た。
今まで勘太郎をはずかしめた村中の人たちは、これを見て勘太郎の前にみんな両手をついてあやまり、勘太郎の偉い手柄をほめた。そして勘太郎を一番強い偉いものとしてあがめ奉った。
勘太郎は寺の住職となり、後には知徳すぐれた名僧となったということである。
牛女
小川未明
ある村に、脊の高い、大きな女がありました。あまり大きいので、くびを垂れて歩きました。その女は、おしでありました。性質は、いたってやさしく、涙もろくて、よく、一人の子供をかわいがりました。
女は、いつも黒いような着物をきていました。ただ子供と二人ぎりでありました。まだ年のいかない子供の手を引いて、道を歩いているのを、村の人はよく見たのであります。そして、大女でやさしいところから、だれがいったものか「牛女」と名づけたのであります。
村の子供らは、この女が通ると、「牛女」が通ったといって、珍しいものでも見るように、みんなして、後ろについていって、いろいろのことをいいはやしましたけれど、女はおしで、耳が聞こえませんから、黙って、いつものように下を向いて、のそりのそりと歩いてゆくようすが、いかにもかわいそうであったのであります。
牛女は、自分の子供をかわいがることは、一通りでありませんでした。自分が不具者だということも、子供が、不具者の子だから、みんなにばかにされるのだろうということも、父親がないから、ほかにだれも子供を育ててくれるものがないということも、よく知っていました。
それですから、いっそう子供に対する不憫がましたとみえて、子供をかわいがったのであります。
子供は男の子で、母親を慕いました。そして、母親のゆくところへは、どこへでもついてゆきました。
牛女は、大女で、力も、またほかの人たちよりは、幾倍もありましたうえに、性質が、やさしくあったから、人々は、牛女に力仕事を頼みました。たきぎをしょったり、石を運んだり、また、荷物をかつがしたり、いろいろのことを頼みました。牛女は、よく働きました。そして、その金で二人は、その日、その日を暮らしていました。
こんなに大きくて、力の強い牛女も、病気になりました。どんなものでも、病気にかからないものはないでありましょう。しかも、牛女の病気は、なかなか重かったのであります。そして働くこともできなくなりました。
牛女は、自分は死ぬのでないかと思いました。もし、自分が死ぬようなことがあったなら、子供をだれが見てくれようと思いました。そう思うと、たとえ死んでも死にきれない。自分の霊魂は、なにかに化けてきても、きっと子供の行く末を見守ろうと思いました。牛女の大きなやさしい目の中から、大粒の涙が、ぽとりぽとりと流れたのであります。
しかし、運命には牛女も、しかたがなかったとみえます。病気が重くなって、とうとう牛女は死んでしまいました。
村の人々は、牛女をかわいそうに思いました。どんなに置いていった子供のことに心を取らたろうと、だれしも深く察して、牛女をあわれまぬものはなかったのであります。
人々は寄り集まって、牛女の葬式を出して、墓地にうずめてやりました。そして、後に残った子供を、みんながめんどうを見て育ててやることになりました。
子供は、ここの家から、かしこの家へというふうに移り変わって、だんだん月日とともに大きくなっていったのであります。しかし、うれしいこと、また、悲しいことがあるにつけて、子供は死んだ母親を恋しく思いました。
村には、春がき、夏がき、秋となり、冬となりました。子供は、だんだん死んだ母親をなつかしく思い、恋しく思うばかりでありました。
ある冬の日のこと、子供は、村はずれに立って、かなたの国境の山々をながめていますと、大きな山の半腹に、母の姿がはっきりと、真っ白な雪の上に黒く浮き出して見えたのであります。これを見ると、子供はびっくりしました。けれど、このことを口に出してだれにもいいませんでした。
子供は、母親が恋しくなると、村はずれに立って、かなたの山を見ました。すると、天気のいい晴れた日には、いつでも母親の黒い姿をありありと見ることができたのです。ちょうど母親は、黙って、じっとこちらを見つめて、我が子の身の上を見守っているように思われたのでありました。
子供は、口に出して、そのことをいいませんでしたけれど、いつか村人は、ついにこれを見つけました。
「西の山に、牛女が現れた。」と、いいふらしました。そして、みんな外に出て、西の山をながめたのであります。
「きっと、子供のことを思って、あの山に現れたのだろう。」と、みんなは口々にいいました。子供らは、天気のいい晩方には、西の国境の山の方を見て、
「牛女! 牛女!」と、口々にいって、その話でもちきったのです。
ところが、いつしか春がきて、雪が消えかかると、牛女の姿もだんだんうすくなっていって、まったく雪が消えてしまう春の半ばごろになると、牛女の姿は見られなくなってしまったのです。
しかし、冬となって、雪が山に積もり里に降るころになると、西の山に、またしても、ありありと牛女の黒い姿が現れました。村の人々や子供らは冬の間、牛女のうわさでもちきりました。そして、牛女の残していった子供は、恋しい母親の姿を、毎日のように村はずれに立ってながめたのであります。
「牛女が、また西の山に現れた。あんなに子供の身の上を心配している。かわいそうなものだ。」と、村人はいって、その子供のめんどうをよく見てやったのす。
やがて春がきて、暖かになると、牛女の姿は、その雪とともに消えてしまったのでありました。
こうして、くる年も、くる年も、西の山に牛女の黒い姿は現れました。そのうちに、子供は大きくなったものですから、この村から程近い、町のある商家へ、奉公させられることになったのであります。
子供は、町にいってからも、西の山を見て恋しい母親の姿をながめました。村の人々は、その子供がいなくなってからも、雪が降って、西の山に牛女の姿が現れると、母親と、子供の情合いについて、語り合ったのでありました。
「ああ、牛女の姿があんなにうすくなったもの、暖かになったはずだ。」と、しまいには、季節の移り変わりを、牛女について人々はいうようになったのでした。
牛女の子供は、ある年の春、西の山に現れた母親の許しも受けずに、かってにその商家から飛び出して、汽車に乗って、故郷を見捨てて、南の方の国へいってしまったのであります。
村の人も、町の人も、もうだれも、その子供のことについて、その後のことを知ることができませんでした。そのうちに、夏も過ぎ、秋も去って、冬となりました。
やがて、山にも、村にも、町にも、雪が降って積もりました。ただ不思議なのは、どうしたことか、今年にかぎって、西の山に牛女の姿が見えないことでありました。
人々は、牛女の姿が見えないのをいぶかしがって、
「子供が、もう町にいなくなったから、牛女は見守る必要がなくなったのだろう。」と、語り合いました。
その冬も、いつしか過ぎて春がきたころであります。町の中には、まだところどころに雪が消えずに残っていました。ある日の夜のことであります。町の中を大きな女が、のそりのそりと歩いていました。それを見た人々は、びっくりしました。まさしく、それは牛女であったからであります。
どうして牛女が、どこからきたものかと、みんなは語り合いました。人々はその後もたびたび真夜中に、牛女がさびしそうに町の中を歩いている姿を見たのでありました。
「きっと牛女は、子供が故郷から出ていってしまったのを知らないのだろう。それで、この町の中を歩いて、子供を探しているのにちがいない。」と、人々はいいました。
雪がまったく消えて、町の中には跡をも止めなくなりました。木々は、みんな銀色の芽をふいて、夜もうす明るくていい季節となりました。
ある夜、人は牛女が町の暗い路次に立って、さめざめと泣いているのを見たといいます。しかしその後、だれひとり、また牛女の姿を見たものがありません。牛女はどうしたことか、もはやこの町にはおらなかったのです。
その年以来、冬になっても、ふたたび山には牛女の黒い姿は見えなかったのであります。
牛女の子供は、南の方の雪の降らない国へいって、そこでいっしょうけんめいに働きました。そして、かなりの金持ちとなりました。そうすると、自分の生まれた国がなつかしくなったのであります。国へ帰っても、母親もなければ、兄弟もありませんけれど、子供の時分に自分を育ててくれたしんせつな人々がありました。彼は、その人たちや、村のことを思い出しました。その人たちに対して、お礼をいわなければならぬと思いました。
子供は、たくさんの土産物と、お金とを持って、はるばると故郷に帰ってきたのであります。そして、村の人々に厚くお礼を申しました。村の人たちは、牛女の子供が出世をしたのを喜び、祝いました。
牛女の子供は、なにか、自分は事業をしなければならぬと考えました。そこで村に広い地面を買って、たくさんのりんごの木を植えました。大きないいりんごの実を結ばして、それを諸国に出そうとしたのであります。
彼は、多くの人を雇って、木に肥料をやったり、冬になると囲いをして、雪のために折れないように手をかけたりしました。そのうちに木はだんだん大きく伸びて、ある年の春には、広い畑一面に、さながら雪の降ったように、りんごの花が咲きました。太陽は終日、花の上を明るく照らして、みつばちは、朝から日の暮れるまで、花の中をうなりつづけていました。
初夏のころには、青い、小さな実が鈴生りになりました。そして、その実がだんだん大きくなりかけた時分に、一時に虫がついて、畑全体にりんごの実が落ちてしまいました。
明くる年も、その明くる年も、同じように、りんごの実は落ちてしまいました。それはなんとなく、子細のあるらしいことでありました。村のもののわかったじいさんは、牛女の子供に向かって、
「なにかのたたりかもしれない。おまえさんには、心あたりになるようなことはないかな。」と、あるとき、聞きました。牛女の子供は、そのときは、なにもそれについて思い出すことはありませんでした。
しかし、彼は独りとなって、静かに考えたとき、自分は町から出て、遠方へいった時分にも、母親の霊魂に無断であったことを思いました。また、故郷へ帰ってきてからも、母親のお墓におまいりをしたばかりで、まだ法事も営まなかったことを思い出しました。
あれほど、母親は、自分をかわいがってくれたのに、そして、死んでからもああして自分の身の上を守ってくれたのに、自分はそれに対して、あまり冷淡であったことに、心づきました。きっと、これは母の怒りであろうと思いましたから、子供は、懇ろに母親の霊魂を弔って、坊さんを呼び、村の人々を呼び、真心をこめて母親の法事を営んだのでありました。
明くる年の春、またりんごの花は真っ白に雪のごとく咲きました。そして、夏には、青々と実りました。毎年このころになると、悪い虫がつくのでありましたから、今年は、どうか満足に実を結ばせたいと思いました。
すると、その年の夏の日暮れ方のことであります。どこからとなく、たくさんのこうもりが飛んできて、毎晩のようにりんご畑の上を飛びまわって、悪い虫をみんな食べたのであります。その中に、一ぴき大きなこうもりがありました。その大きなこうもりは、ちょうど女王のように、ほかのこうもりを率いているごとく、見えました。月が円く、東の空から上る晩も、また、黒雲が出て外の真っ暗な晩も、こうもりは、りんご畑の上を飛びまわりました。その年は、りんごに虫がつかずよく実って、予想したよりも、多くの収穫があったのであります。村の人々は、たがいに語らいました。
「牛女が、こうもりになってきて、子供の身の上を守るんだ。」と、そのやさしい、情の深い、心根を哀れに思ったのであります。
また、つぎの、つぎの年も、夏になると、一ぴきの大きなこうもりが、多くのこうもりを率いてきて、りんご畑の上を毎晩のように飛びまわりました。そして、りんごには、おかげで悪い虫がつかずによく実りました。
こうして、それから四、五年の後には、牛女の子供は、この地方での幸福な身の上の百姓となったのであります。
犬と笛
芥川龍之介
8:55 2013/08/11
一
昔、大和の国葛城山の麓に、髪長彦という若い木樵が住んでいました。これは顔かたちが女のようにやさしくって、その上髪までも女のように長かったものですから、こういう名前をつけられていたのです。
髪長彦は、大そう笛が上手でしたから、山へ木を伐りに行く時でも、仕事の合い間合い間には、腰にさしている笛を出して、独りでその音を楽しんでいました。するとまた不思議なことには、どんな鳥獣や草木でも、笛の面白さはわかるのでしょう。髪長彦がそれを吹き出すと、草はなびき、木はそよぎ、鳥や獣はまわりへ来て、じっとしまいまで聞いていました。
ところがある日のこと、髪長彦はいつもの通り、とある大木の根がたに腰を卸しながら、余念もなく笛を吹いていますと、たちまち自分の目の前へ、青い勾玉を沢山ぶらさげた、足の一本しかない大男が現れて、
「お前は仲々笛がうまいな。己はずっと昔から山奥の洞穴で、神代の夢ばかり見ていたが、お前が木を伐りに来始めてからは、その笛の音に誘われて、毎日面白い思をしていた。そこで今日はそのお礼に、ここまでわざわざ来たのだから、何でも好きなものを望むが好い。」と言いました。
そこで木樵は、しばらく考えていましたが、
「私は犬が好きですから、どうか犬を一匹下さい。」と答えました。
すると、大男は笑いながら、
「高が犬を一匹くれなどとは、お前も余っ程欲のない男だ。しかしその欲のないのも感心だから、ほかにはまたとないような不思議な犬をくれてやろう。こう言う己は、葛城山の足一つの神だ。」と言って、一声高く口笛を鳴らしますと、森の奥から一匹の白犬が、落葉を蹴立てて駈けて来ました。
足一つの神はその犬を指して、
「これは名を嗅げと言って、どんな遠い所の事でも嗅ぎ出して来る利口な犬だ。では、一生己の代りに、大事に飼ってやってくれ。」と言うかと思うと、その姿は霧のように消えて、見えなくなってしまいました。
髪長彦は大喜びで、この白犬と一しょに里へ帰って来ましたが、あくる日また、山へ行って、何気なく笛を鳴らしていると、今度は黒い勾玉を首へかけた、手の一本しかない大男が、どこからか形を現して、
「きのう己の兄きの足一つの神が、お前に犬をやったそうだから、己も今日は礼をしようと思ってやって来た。何か欲しいものがあるのなら、遠慮なく言うが好い。己は葛城山の手一つの神だ。」と言いました。
そうして髪長彦が、また「嗅げにも負けないような犬が欲しい。」と答えますと、大男はすぐに口笛を吹いて、一匹の黒犬を呼び出しながら、
「この犬の名は飛べと言って、誰でも背中へ乗ってさえすれば百里でも千里でも、空を飛んで行くことが出来る。明日はまた己の弟が、何かお前に礼をするだろう。」と言って、前のようにどこかへ消え失せてしまいました。
するとあくる日は、まだ、笛を吹くか吹かないのに、赤い勾玉を飾りにした、目の一つしかない大男が、風のように空から舞い下って、
「己は葛城山の目一つの神だ、兄きたちがお前に礼をしたそうだから、己も嗅げや飛べに劣らないような、立派な犬をくれてやろう。」と言ったと思うと、もう口笛の声が森中にひびき渡って、一匹の斑犬が牙をむき出しながら、駈けて来ました。
「これは噛めという犬だ。この犬を相手にしたが最後、どんな恐しい鬼神でも、きっと一噛みに噛み殺されてしまう。ただ、己たちのやった犬は、どんな遠いところにいても、お前が笛を吹きさえすれば、きっとそこへ帰って来るが、笛がなければ来ないから、それを忘れずにいるが好い。」
そう言いながら目一つの神は、また森の木の葉をふるわせて、風のように舞い上ってしまいました。
二
それから四五日たったある日のことです。髪長彦は三匹の犬をつれて、葛城山の麓にある、路が三叉になった往来へ、笛を吹きながら来かかりますと、右と左と両方の路から、弓矢に身をかためた、二人の年若な侍が、逞しい馬に跨って、しずしずこっちへやって来ました。
髪長彦はそれを見ると、吹いていた笛を腰へさして、叮嚀におじぎをしながら、
「もし、もし、殿様、あなた方は一体、どちらへいらっしゃるのでございます。」と尋ねました。
すると二人の侍が、交る交る答えますには、
「今度飛鳥の大臣様の御姫様が御二方、どうやら鬼神のたぐいにでもさらわれたと見えて、一晩の中に御行方が知れなくなった。」
「大臣様は大そうな御心配で、誰でも御姫様を探し出して来たものには、厚い御褒美を下さると云う仰せだから、それで我々二人も、御行方を尋ねて歩いているのだ。」
こう云って二人の侍は、女のような木樵と三匹の犬とをさも莫迦にしたように見下しながら、途を急いで行ってしまいました。
髪長彦は好い事を聞いたと思いましたから、早速白犬の頭を撫でて、
「嗅げ。嗅げ。御姫様たちの御行方を嗅ぎ出せ。」と云いました。
すると白犬は、折から吹いて来た風に向って、しきりに鼻をひこつかせていましたが、たちまち身ぶるいを一つするが早いか、
「わん、わん、御姉様の御姫様は、生駒山の洞穴に住んでいる食蜃人の虜になっています。」と答えました。食蜃人と云うのは、昔八岐の大蛇を飼っていた、途方もない悪者なのです。
そこで木樵はすぐ白犬と斑犬とを、両方の側にかかえたまま、黒犬の背中に跨って、大きな声でこう云いつけました。
「飛べ。飛べ。生駒山の洞穴に住んでいる食蜃人の所へ飛んで行け。」
その言が終らない中です。恐しいつむじ風が、髪長彦の足の下から吹き起ったと思いますと、まるで一ひらの木の葉のように、見る見る黒犬は空へ舞い上って、青雲の向うにかくれている、遠い生駒山の峰の方へ、真一文字に飛び始めました。
三
やがて髪長彦が生駒山へ来て見ますと、成程山の中程に大きな洞穴が一つあって、その中に金の櫛をさした、綺麗な御姫様が一人、しくしく泣いていらっしゃいました。
「御姫様、御姫様、私が御迎えにまいりましたから、もう御心配には及びません。さあ、早く、御父様の所へ御帰りになる御仕度をなすって下さいまし。」
こう髪長彦が云いますと、三匹の犬も御姫様の裾や袖を啣えながら、
「さあ早く、御仕度をなすって下さいまし。わん、わん、わん、」と吠えました。
しかし御姫様は、まだ御眼に涙をためながら、洞穴の奥の方をそっと指さして御見せになって、
「それでもあすこには、私をさらって来た食蜃人が、さっきから御酒に酔って寝ています。あれが目をさましたら、すぐに追いかけて来るでしょう。そうすると、あなたも私も、命をとられてしまうのにちがいありません。」と仰有いました。
髪長彦はにっこりほほ笑んで、
「高の知れた食蜃人なぞを、何でこの私が怖がりましょう。その証拠には、今ここで、訳なく私が退治して御覧に入れます。」と云いながら、斑犬の背中を一つたたいて、
「噛め。噛め。この洞穴の奥にいる食蜃人を一噛みに噛み殺せ。」と、勇ましい声で云いつけました。
すると斑犬はすぐ牙をむき出して、雷のように唸りながら、まっしぐらに洞穴の中へとびこみましたが、たちまちの中にまた血だらけな食蜃人の首を啣えたまま、尾をふって外へ出て来ました。
ところが不思議な事には、それと同時に、雲で埋まっている谷底から、一陣の風がまき起りますと、その風の中に何かいて、
「髪長彦さん。難有う。この御恩は忘れません。私は食蜃人にいじめられていた、生駒山の駒姫です。」と、やさしい声で云いました。
しかし御姫様は、命拾いをなすった嬉しさに、この声も聞えないような御容子でしたが、やがて髪長彦の方を向いて、心配そうに仰有いますには、
「私はあなたのおかげで命拾いをしましたが、妹は今時分どこでどんな目に逢って居りましょう。」
髪長彦はこれを聞くと、また白犬の頭を撫でながら、
「嗅げ。嗅げ。御姫様の御行方を嗅ぎ出せ。」と云いました。と、すぐに白犬は、
「わん、わん、御妹様の御姫様は笠置山の洞穴に棲んでいる土蜘蛛の虜になっています。」と、主人の顔を見上げながら、鼻をびくつかせて答えました。この土蜘蛛と云うのは、昔神武天皇様が御征伐になった事のある、一寸法師の悪者なのです。
そこで髪長彦は、前のように二匹の犬を小脇にかかえて御姫様と一しょに黒犬の背中へ跨りながら、
「飛べ。飛べ。笠置山の洞穴に住んでいる土蜘蛛の所へ飛んで行け。」と云いますと、黒犬はたちまち空へ飛び上って、これも青雲のたなびく中に聳えている笠置山へ矢よりも早く駈け始めました。
四
さて笠置山へ着きますと、ここにいる土蜘蛛はいたって悪知慧のあるやつでしたから、髪長彦の姿を見るが早いか、わざとにこにこ笑いながら、洞穴の前まで迎えに出て、
「これは、これは、髪長彦さん。遠方御苦労でございました。まあ、こっちへおはいりなさい。碌なものはありませんが、せめて鹿の生胆か熊の孕子でも御馳走しましょう。」と云いました。
しかし髪長彦は首をふって、
「いや、いや、己はお前がさらって来た御姫様をとり返しにやって来たのだ。早く御姫様を返せばよし、さもなければあの食蜃人同様、殺してしまうからそう思え。」と、恐しい勢いで叱りつけました。
すると土蜘蛛は、一ちぢみにちぢみ上って、
「ああ、御返し申しますとも、何であなたの仰有る事に、いやだなどと申しましょう。御姫様はこの奥にちゃんと、独りでいらっしゃいます。どうか御遠慮なく中へはいって、御つれになって下さいまし。」と、声をふるわせながら云いました。
そこで髪長彦は、御姉様の御姫様と三匹の犬とをつれて、洞穴の中へはいりますと、成程ここにも銀の櫛をさした、可愛らしい御姫様が、悲しそうにしくしく泣いています。
それが人の来た容子に驚いて、急いでこちらを御覧になりましたが、御姉様の御顔を一目見たと思うと、
「御姉様。」
「妹。」と、二人の御姫様は一度に両方から駈けよって、暫くは互に抱き合ったまま、うれし涙にくれていらっしゃいました。髪長彦もこの気色を見て、貰い泣きをしていましたが、急に三匹の犬が背中の毛を逆立てて、
「わん。わん。土蜘蛛の畜生め。」
「憎いやつだ。わん。わん。」
「わん。わん。わん。覚えていろ。わん。わん。わん。」と、気の違ったように吠え出しましたから、ふと気がついてふり返えると、あの狡猾な土蜘蛛は、いつどうしたのか、大きな岩で、一分の隙もないように、外から洞穴の入口をぴったりふさいでしまいました。おまけにその岩の向うでは、
「ざまを見ろ、髪長彦め。こうして置けば、貴様たちは、一月とたたない中に、ひぼしになって死んでしまうぞ。何と己様の計略は、恐れ入ったものだろう。」と、手を拍いて土蜘蛛の笑う声がしています。
これにはさすがの髪長彦も、さては一ぱい食わされたかと、一時は口惜しがりましたが、幸い思い出したのは、腰にさしていた笛の事です。この笛を吹きさえすれば、鳥獣は云うまでもなく、草木もうっとり聞き惚れるのですから、あの狡猾な土蜘蛛も、心を動かさないとは限りません。そこで髪長彦は勇気をとり直して、吠えたける犬をなだめながら、一心不乱に笛を吹き出しました。
するとその音色の面白さには、悪者の土蜘蛛も、追々我を忘れたのでしょう。始は洞穴の入口に耳をつけて、じっと聞き澄ましていましたが、とうとうしまいには夢中になって、一寸二寸と大岩を、少しずつ側へ開きはじめました。
それが人一人通れるくらい、大きな口をあいた時です。髪長彦は急に笛をやめて、
「噛め。噛め。洞穴の入口に立っている土蜘蛛を噛み殺せ。」と、斑犬の背中をたたいて、云いつけました。
この声に胆をつぶして、一目散に土蜘蛛は、逃げ出そうとしましたが、もうその時は間に合いません。「噛め」はまるで電のように、洞穴の外へ飛び出して、何の苦もなく土蜘蛛を噛み殺してしまいました。
所がまた不思議な事には、それと同時に谷底から、一陣の風が吹き起って、
「髪長彦さん。難有う。この御恩は忘れません。私は土蜘蛛にいじめられていた、笠置山の笠姫です。」とやさしい声が聞えました。
五
それから髪長彦は、二人の御姫様と三匹の犬とをひきつれて、黒犬の背に跨がりながら、笠置山の頂から、飛鳥の大臣様の御出になる都の方へまっすぐに、空を飛んでまいりました。その途中で二人の御姫様は、どう御思いになったのか、御自分たちの金の櫛と銀の櫛とをぬきとって、それを髪長彦の長い髪へそっとさして御置きになりました。が、こっちは元よりそんな事には、気がつく筈がありません。ただ、一生懸命に黒犬を急がせながら、美しい大和の国原を足の下に見下して、ずんずん空を飛んで行きました。
その中に髪長彦は、あの始めに通りかかった、三つ叉の路の空まで、犬を進めて来ましたが、見るとそこにはさっきの二人の侍が、どこからかの帰りと見えて、また馬を並べながら、都の方へ急いでいます。これを見ると、髪長彦は、ふと自分の大手柄を、この二人の侍たちにも聞かせたいと云う心もちが起って来たものですから、
「下りろ。下りろ。あの三つ叉になっている路の上へ下りて行け。」と、こう黒犬に云いつけました。
こっちは二人の侍です。折角方々探しまわったのに、御姫様たちの御行方がどうしても知れないので、しおしお馬を進めていると、いきなりその御姫様たちが、女のような木樵と一しょに、逞しい黒犬に跨って、空から舞い下って来たのですから、その驚きと云ったらありません。
髪長彦は犬の背中を下りると、叮嚀にまたおじぎをして、
「殿様、私はあなた方に御別れ申してから、すぐに生駒山と笠置山とへ飛んで行って、この通り御二方の御姫様を御助け申してまいりました。」と云いました。
しかし二人の侍は、こんな卑しい木樵などに、まんまと鼻をあかされたのですから、羨しいのと、妬ましいのとで、腹が立って仕方がありません。そこで上辺はさも嬉しそうに、いろいろ髪長彦の手柄を褒め立てながら、とうとう三匹の犬の由来や、腰にさした笛の不思議などをすっかり聞き出してしまいました。そうして髪長彦の油断をしている中に、まず大事な笛をそっと腰からぬいてしまうと、二人はいきなり黒犬の背中へとび乗って、二人の御姫様と二匹の犬とを、しっかりと両脇に抱えながら、
「飛べ。飛べ。飛鳥の大臣様のいらっしゃる、都の方へ飛んで行け。」と、声を揃えて喚きました。
髪長彦は驚いて、すぐに二人へとびかかりましたが、もうその時には大風が吹き起って、侍たちを乗せた黒犬は、きりりと尾を捲いたまま、遥な青空の上の方へ舞い上って行ってしまいました。
あとにはただ、侍たちの乗りすてた二匹の馬が残っているばかりですから、髪長彦は三つ叉になった往来のまん中につっぷして、しばらくはただ悲しそうにおいおい泣いておりました。
すると生駒山の峰の方から、さっと風が吹いて来たと思いますと、その風の中に声がして、
「髪長彦さん。髪長彦さん。私は生駒山の駒姫です。」と、やさしい囁きが聞えました。
それと同時にまた笠置山の方からも、さっと風が渡るや否や、やはりその風の中にも声があって、
「髪長彦さん。髪長彦さん。私は笠置山の笠姫です。」と、これもやさしく囁きました。
そうしてその声が一つになって、
「これからすぐに私たちは、あの侍たちの後を追って、笛をとり返して上げますから、少しも御心配なさいますな。」と云うか云わない中に、風はびゅうびゅう唸りながら、さっき黒犬の飛んで行った方へ、狂って行ってしまいました。
が、少したつとその風は、またこの三つ叉になった路の上へ、前のようにやさしく囁きながら、高い空から下して来ました。
「あの二人の侍たちは、もう御二方の御姫様と一しょに、飛鳥の大臣様の前へ出て、いろいろ御褒美を頂いています。さあ、さあ、早くこの笛を吹いて、三匹の犬をここへ御呼びなさい。その間に私たちは、あなたが御出世の旅立を、恥しくないようにして上げましょう。」
こう云う声がしたかと思うと、あの大事な笛を始め、金の鎧だの、銀の兜だの、孔雀の羽の矢だの、香木の弓だの、立派な大将の装いが、まるで雨か霰のように、眩しく日に輝きながら、ばらばら眼の前へ降って来ました。
六
それからしばらくたって、香木の弓に孔雀の羽の矢を背負った、神様のような髪長彦が、黒犬の背中に跨りながら、白と斑と二匹の犬を小脇にかかえて、飛鳥の大臣様の御館へ、空から舞い下って来た時には、あの二人の年若な侍たちが、どんなに慌て騒ぎましたろう。
いや、大臣様でさえ、あまりの不思議に御驚きになって、暫くはまるで夢のように、髪長彦の凜々しい姿を、ぼんやり眺めていらっしゃいました。
が、髪長彦はまず兜をぬいで、叮嚀に大臣様に御じぎをしながら、
「私はこの国の葛城山の麓に住んでいる、髪長彦と申すものでございますが、御二方の御姫様を御助け申したのは私で、そこにおります御侍たちは、食蜃人や土蜘蛛を退治するのに、指一本でも御動かしになりは致しません。」と申し上げました。
これを聞いた侍たちは、何しろ今までは髪長彦の話した事を、さも自分たちの手柄らしく吹聴していたのですから、二人とも急に顔色を変えて、相手の言を遮りながら、
「これはまた思いもよらない嘘をつくやつでございます。食蜃人の首を斬ったのも私たちなら、土蜘蛛の計略を見やぶったのも、私たちに相違ございません。」と、誠しやかに申し上げました。
そこでまん中に立った大臣様は、どちらの云う事がほんとうとも、見きわめが御つきにならないので、侍たちと髪長彦を御見比べなさりながら、
「これはお前たちに聞いて見るよりほかはない。一体お前たちを助けたのは、どっちの男だったと思う。」と、御姫様たちの方を向いて、仰有いました。
すると二人の御姫様は、一度に御父様の胸に御すがりになりながら、
「私たちを助けましたのは、髪長彦でございます。その証拠には、あの男のふさふさした長い髪に、私たちの櫛をさして置きましたから、どうかそれを御覧下さいまし。」と、恥しそうに御云いになりました。見ると成程、髪長彦の頭には、金の櫛と銀の櫛とが、美しくきらきら光っています。
もうこうなっては侍たちも、ほかに仕方はございませんから、とうとう大臣様の前にひれ伏して、
「実は私たちが悪だくみで、あの髪長彦の助けた御姫様を、私たちの手柄のように、ここでは申し上げたのでございます。この通り白状致しました上は、どうか命ばかりは御助け下さいまし。」と、がたがたふるえながら申し上げました。
それから先の事は、別に御話しするまでもありますまい。髪長彦は沢山御褒美を頂いた上に、飛鳥の大臣様の御婿様になりましたし、二人の若い侍たちは、三匹の犬に追いまわされて、ほうほう御館の外へ逃げ出してしまいました。ただ、どちらの御姫様が、髪長彦の御嫁さんになりましたか、それだけは何分昔の事で、今でははっきりとわかっておりません。
(大正七年十二月)
古いはさみ
小川未明
どこのお家にも、古くから使い慣れた道具はあるものです。そしてそのわりあいに、みんなからありがたがられていないものです。英ちゃんのおうちの古いはさみもやはりその一つでありましょう。
英ちゃんの、いちばん上のお姉さんが小さいときに、そのはさみで折り紙を切ったり、また、お人形の着物を造るために、赤い布や紫の布などを切るときに使いなされたのですから、考えてみるとずいぶん古くからあったものです。
その時分にはこんな黒い色でなく、ぴかぴか光っていました。そして刃もよくついていてうっかりすると、指さきを切ったのであります。
「よく気をつけて、おつかいなさい。おててを切りますよ。」と、お母さんが、よく、ご注意なさったのでした。
お姉さんは、おちついた性質で、お勉強もよくできた方ですから、めったに、このはさみで指さきを切るようなことはしませんでした。使ってしまえば、箱の中に、ちゃんとしまっておきました。
お姉さんが、まだ十か十一のころです。ある日のこと、
「あれ、なあに。」と、ふいにお母さんにききました。
「なんですか。」と、お母さんは、おわかりになりませんでした。
「アカギタニタニタニって?」
「あああれですか、はさみ、ほうちょう、かみそりとぎという、とぎ屋さんですよ。」と、お母さんはお笑いになりました。
「私の持っている、はさみといでもらっていい。」と、お姉さんがききました。
このときの、アカギタニタニタニがいつまでもお家の笑い話の種となりました。
「ほら、アカギタニタニタニがきましたよ。」と、とぎ屋さんが、まわってくると、お母さんが笑っておっしゃいました。それからいくたびこのはさみは、とぎ屋さんの手にかかったでしょう。
お姉さんは、女学校を卒業なさると、お針のけいこにいらっしゃいました。そのときには、このはさみは、もう、そんな役にたたなかったので、新しい、もっと大きなはさみをお求めになりました。そして、いままでのはさみは、平常、うちの人の使い用とされてしまいました。けれど、ちょうど、英ちゃんの上の兄さんが、いたずら盛りであって、このはさみで、ボール紙を切ったり、また竹などを切ったりしたのです。
けれど、はさみは、不平をいいませんでした。あるときは、縁台の上に置き忘れられたり、また冷たい石の上や、窓さきに置かれたままでいたことがありました。そんなときは、さすがにさびしかったのです。
「はやく、お家へはいらないと、知らぬ人につれられていってしまうがな。」と、星の光をながめて心細く思ったことがありました。
「また、はさみが見えませんが、どこへいったでしょう。」と、あくる朝、お母さんが、つめを切ろうとして、はさみが見つからないので、こうおっしゃいました。
「きのうまで、箱の中にはいっていたんですよ。また、太郎さんが使って、どこかへ置き忘れたのでしょう。」
姉さんは、方々おさがしになりました。そして、子供たちが遊ぶご門の石の上に置いてあったのを見つけなさいました。
「まあ、こんなとこに置いてあって、よく人に拾われなかったこと。」
そういって、お姉さんは、子供の時分からのはさみをなつかしそうに、ごらんなさいました。すると、過ぎ去った日の記憶がつぎつぎと目に浮かんできたのです。
「長くあるはさみね、だいじにしなければならないわ。」
お姉さんは、なくならないように、赤いひもをはさみにおつけになりました。
しかし、はさみは、もう年をとって、たいした役にはたちませんでした。
「切れない、はさみだなあ。」と、太郎さんが、かんしゃくを起こして畳の上へ投げ出しても、はさみは自分の切れないのをよく知っていましたから、がまんをして、あきらめていたのであります。そしてこのごろは、げたの鼻緒を立てたり、つめを切ったりするときだけにしか使われなかったけれど、年とったはさみは、若いころ、お嬢さんが人形の着物をつくるときに、美しい千代紙や、折り紙を切ったり、また、お母さんが、お仕事をなさるときに使われた、いくつかの華やかな思い出を目に浮かべて、せめてものなぐさめとしていたのでした。
あるときのことです。いつもの、とぎ屋さんがやってくると、
「アカギタニタニタニがきた、はさみといでもらっていいでしょう。」と、太郎さんは、お母さんにいいました。とぎ屋さんのことを、いつか、アカギタニタニタニとしてしまったのでした。
お母さんが、いいとおっしゃったので、とぎ屋さんにたのむと、おじいさんは、しみじみとはさみをながめて、
「もう、古くなって、腰がよわくなりましたから、といでもそう切れませんよ。」といいました。人間と同じように、はさみの腰がまがって、よわってしまったのでした。
ちょうどその時分、いちばん小さい英ちゃんが学校に上がりました。そして学校で手工にはさみがいることになりました。
「英ちゃんが持っていくのに、ちょうどあぶなくなくてこのはさみがいいでしょう。」と、お母さんが、赤いひものついているはさみをお出しになりました。
はさみはまた筆入れの中にいれられて、その後英ちゃんのお供をすることになりました。お家の人はこのはさみならとみんな安心していました。なんでもすべて古くからのものには、こうした愛と安心と親しみがあるものです。
最後の一枚の葉
The Last Leaf
オー・ヘンリー作
結城浩訳
ワシントン・スクエア西にある小地区は、道路が狂ったように入り組んでおり、「プレース」と呼ばれる区域に小さく分かれておりました。この「プレース」は不可思議な角度と曲線を描いており、一、二回自分自身と交差している通りがあるほどでした。かつて、ある画家は、この通りが貴重な可能性を持っていることを発見しました。例えば絵や紙やキャンバスの請求書を手にした取り立て屋を考えてみてください。取り立て屋は、この道を歩き回ったあげく、ぐるりと元のところまで戻ってくるに違いありません。一セントも取り立てることができずにね。
それで、芸術家たちはまもなく、奇妙で古いグリニッチ・ヴィレッジへとやってきました。そして、北向きの窓と十八世紀の切り妻とオランダ風の屋根裏部屋と安い賃貸料を探してうろついたのです。やがて、彼らは しろめ製のマグやこんろ付き卓上なべを一、二個、六番街から持ち込み、「コロニー」を形成することになりました。
ずんぐりした三階建ての煉瓦造りの最上階では、スーとジョンジーがアトリエを持っていました。「ジョンジー」はジョアンナの愛称です。スーはメイン州の、ジョンジーはカリフォルニア州の出身でした。二人は八番街の「デルモニコの店」の定食で出会い、芸術と、チコリーのサラダと、ビショップ・スリーブの趣味がぴったりだとわかって、共同のアトリエを持つことになったのでした。
それが五月のことでした。十一月に入ると、冷たく、目に見えないよそ者がそのコロニーを巡り歩きはじめました。そのよそ者は医者から肺炎氏と呼ばれ、氷のような指でそこかしこにいる人に触れていくのでした。この侵略者は東の端から大胆に歩きまわり、何十人もの犠牲者に襲いかかりました。しかし、狭くて苔むした「プレース」の迷宮を通るときにはさすがの彼の足取りも鈍りました。
肺炎氏は騎士道精神に満ちた老紳士とは呼べませんでした。息が荒く、血にまみれた手を持った年寄りのエセ者が、カリフォルニアのそよ風で血の気の薄くなっている小柄な婦人を相手に取るなどというのは フェアプレイとは言えますまい。しかし肺炎氏はジョンジーを襲いました。その結果ジョンジーは倒れ、自分の絵が描いてある鉄のベッドに横になったまま少しも動けなくなりました。そして小さなオランダ風の窓ガラスごしに、隣にある煉瓦造りの家の何もない壁を見つめつづけることになったのです。
ある朝、灰色の濃い眉をした多忙な医者がスーを廊下に呼びました。
「助かる見込みは ―― そう、十に一つですな」 医者は、体温計の水銀を振り下げながら言いました。「で、その見込みはあの子が『生きたい』と思うかどうかにかかっている。こんな風に葬儀屋の側につこうとしてたら、どんな薬でもばかばかしいものになってしまう。あのお嬢さんは、自分はよくならない、と決めている。あの子が何か心にかけていることはあるかな?」
「あの子は ―― いつかナポリ湾を描きたいって言ってたんです」とスーは言いました。
「絵を描きたいって? ―― ふむ。もっと倍くらい実のあることは考えていないのかな ―― 例えば男のこととか」
「男?」スーは びあぼんの弦の音みたいな鼻声で言いました。「男なんて ―― いえ、ないです。先生。そういう話はありません」
「ふむ。じゃあそこがネックだな」医者は言いました。「わたしは、自分の力のおよぶ限りのこと、科学ができることはすべてやるつもりだ。でもな、患者が自分の葬式に来る車の数を数え始めたら、薬の効き目も半減なんだよ。もしもあなたがジョンジーに、冬にはどんな外套の袖が流行るのか、なんて質問をさせることができるなら、望みは十に一つから五に一つになるって請け合うんだがね」
医者が帰ると、スーは仕事部屋に入って日本製のナフキンがぐしゃぐしゃになるまで泣きました。やがてスーはスケッチブックを持ち、口笛でラグタイムを吹きつつ、胸を張ってジョンジーの部屋に入っていきました。
ジョンジーはシーツをかけて横になっていました。しわ一つもシーツに寄せることなく、顔は窓に向けたままでした。ジョンジーが眠っていると思い、スーは口笛をやめました。
スーはスケッチブックをセットすると、雑誌小説の挿絵をペンとインクで描きはじめました。若い作家は文学の道を切り開くために雑誌小説を書きます。若き画家は芸術の道を切り開くためにその挿絵を描かなければならないのです。
スーが、優美な馬のショー用のズボンと片眼鏡を主人公のアイダホ州カウボーイのために描いているとき、低い声が数回繰り返して聞こえました。スーは急いでベッドのそばに行きました。
ジョンジーは目を大きく開いていました。そして窓の外を見ながら数を数えて ―― 逆順に数を数えているのでした。
「じゅうに」とジョンジーは言い、少し後に「じゅういち」と言いました。それから「じゅう」「く」と言い、それから「はち」と「なな」をほとんど同時に言いました。
スーはいぶかしげに窓の外を見ました。何を数えているのだろう? そこには草もなく わびしい庭が見えるだけで、煉瓦の家の何もない壁は二十フィートも向こうなのです。根元が節だらけで腐りかかっている、とても、とても古いつたがその煉瓦の壁の中ほどまで這っていました。冷たい秋の風は つたの葉に吹き付けて、もう裸同然となった枝は崩れかかった煉瓦にしがみついているのでした。
「なあに?」スーは尋ねました。
「ろく」とジョンジーはささやくような声で言いました。「早く落ちてくるようになったわ。三日前は百枚くらいあったのよ。数えていると頭が痛くなるほどだったわ。でもいまは簡単。ほらまた一枚。もう残っているのは五枚だけね」
「何が五枚なの? スーちゃんに教えてちょうだい」
「葉っぱよ。つたの葉っぱ。最後の一枚が散るとき、わたしも一緒に行くのよ。三日前からわかっていたの。お医者さんは教えてくれなかったの?」
「まあ、そんな馬鹿な話は聞いたことがないわよ」スーはとんでもないと文句を言いました。「古いつたの葉っぱと、あなたが元気になるのと、どんな関係があるっていうの? あなたは、あのつたをとても大好きだったじゃない、おばかさん。そんなしょうもないこと言わないでちょうだい。あのね、お医者さんは今朝、あなたがすぐによくなる見込みは ―― えっと、お医者さんが言ったとおりの言葉で言えば ――「一に十だ」って言うのよ。それって、ニューヨークで電車に乗るとか、建設中のビルのそばを通るぐらいしか危なくないってことよ。ほらほら、スープを少し飲んで。そしてこのスーちゃんをスケッチに戻らせてね。そしたらスーちゃんは編集者にスケッチを売ってね、病気のベビーにはポートワインを買ってね、はらぺこの自分にはポークチョップを買えるでしょ」
「もう、ワインは買わなくていいわ」目は窓の外に向けたまま、ジョンジーは言いました。「ほらまた一枚。ええ、もう、スープもいらないの。残りの葉は たったの四枚。暗くなる前に最後の一枚が散るのを見たいな。そして私もさよならね」
「ジョンジー、ねえ」スーはジョンジーの上にかがみ込んで言いました。「お願いだから目を閉じて、私の仕事が終わるまで窓の外を見ないって約束してくれない? この絵は、明日までに出さなきゃいけないのよ。描くのに明かりがいるの。でなきゃ日よけを降ろしてしまうんだけど」
「他の部屋では描けないの?」とジョンジーは冷たく尋ねました。
「あなたのそばにいたいのよ」とスーは答えました。「それに、あんなつたの葉っぱなんか見てほしくないの」
「終わったらすぐに教えてね」とジョンジーは言い、目を閉じ、倒れた像のように白い顔をしてじっと横になりました。「最後の一枚が散るのを見たいの。もう待つのは疲れたし。考えるのにも疲れたし。自分がぎゅっと握り締めていたものすべてを放したいの。そしてひらひらひらっと行きたいのよ。あの哀れで、疲れた木の葉みたいに」
「もうおやすみなさい」とスーは言いました。「ベーアマンさんのところまで行って、年老いた穴倉の隠遁者のモデルをしてもらわなくっちゃいけないの。すぐに戻ってくるわ。戻ってくるまで動いちゃだめよ」
ベーアマン老人はスーたちの下の一階に住んでいる画家でした。六十は越していて、ミケランジェロのモーセのあごひげが、カールしつつ森の神サチュロスの頭から小鬼の体へ垂れ下がっているという風情です。ベーアマンは芸術的には失敗者でした。四十年間、絵筆をふるってきましたが、芸術の女神の衣のすそに触れることすらできませんでした。傑作をものするんだといつも言っていましたが、いまだかつて手をつけたことすらありません。ここ数年間は、ときおり商売や広告に使うへたな絵以外には まったく何も描いていませんでした。ときどき、プロのモデルを雇うことのできないコロニーの若い画家のためにモデルになり、わずかばかりの稼ぎを得ていたのです。ジンをがぶがぶのみ、これから描く傑作について今でも語るのでした。ジンを飲んでいないときは、ベーアマンは気むずかしい小柄な老人で、誰であれ、軟弱な奴に対してはひどくあざ笑い、自分のことを、階上に住む若き二人の画家を守る特別なマスチフ種の番犬だと思っておりました。
ベーアマンはジンのジュニパーベリーの香りをぷんぷんさせて、階下の薄暗い部屋におりました。片隅には何も描かれていないキャンバスが画架に乗っており、二十五年もの間、傑作の最初の一筆が下ろされるのを待っていました。スーはジョンジーの幻想をベーアマンに話しました。この世に対するジョンジーの関心がさらに弱くなったら、彼女自身が一枚の木の葉のように弱くもろく、はらはらと散ってしまうのではないか…。スーはそんな恐れもベーアマンに話しました。
ベーアマン老人は、赤い目をうるませつつ、そんなばかばかしい想像に、軽蔑と嘲笑の大声を上げたのです。
「なんだら!」とベーアマンは叫びました。「いったいぜんたい、葉っぱが、けしからん つたから散るから死ぬなんたら、ばかなこと考えている人がいるのか。そんなのは聞いたこともないぞ。あほ隠居ののろまのモデールなんかやらんぞ。何でらそんなんたらつまらんことをあの子のあたまに考えさせるんだら。あのかわいそうなかわいいヨーンジーに」
「病気がひどくて、体も弱っているのよ」とスーは言いました。「高熱のせいで、気持ちが落ち込んでて、おかしな考えで頭がいっぱいなのよ。えーえ、いいわよベーアマンさん。もしも私のためにモデルになってくれないなら、しなくて結構よ。でも、あなたはいやな老いぼれの ―― 老いぼれのコンコンチキだわ」
「あんたも女ってわけだ」とベーアマンは叫びました。「モデールにならんと誰が言ったらんか。いいかね。あんたと一緒に行くったらさ。モーデルの準備はできてると、三十分もの間、言おうとしたったらさ。ゴット! ここは、ヨーンジーさんみたいな素敵なお嬢さんが病気で寝込むところじゃないったら。いつか、わしが傑作を描いたらって、わしらはみんなここを出ていくんだら。ゴット! そうなんだら」
上の階に着いたとき、ジョンジーは眠っていました。スーは日よけを窓のしきいまで引っ張りおろし、ベーアマンを別の部屋へ呼びました。そこで二人はびくびくしながら窓の外のつたを見つめました。そして一言も声を出さず、しばし二人して顔を見合わせました。ひっきりなしに冷たい雨が降り続き、みぞれまじりになっていました。ベーアマンは青い古シャツを着て、ひっくり返したなべを大岩に見たて、穴倉の隠遁者として座りました。
次の朝、一時間ねむったスーが目を覚ますと、ジョンジーはどろんとした目を大きく開いて、降ろされた緑の日よけを見つめていました。
「日よけをあげて。見たいの」ジョンジーはささやくように命じました。
スーはしぶしぶ従いました。
けれども、ああ、打ち付ける雨と激しい風が長い夜の間荒れ狂ったというのに、つたの葉が一枚、煉瓦の壁に残っておりました。それは、最後の一枚の葉でした。茎のつけねは深い緑で、ぎざぎざのへりは黄色がかっておりました。その葉は勇敢にも地上二十フィートほどの高さの枝に残っているのでした。
「これが最後の一枚ね」ジョンジーが言いました。「昨晩のうちに散ると思っていたんだけど。風の音が聞こえていたのにね。でも今日、あの葉は散る。一緒に、私も死ぬ」
「ねえ、お願いだから」スーは疲れた顔を枕の方に近づけて言いました。「自分のことを考えないっていうなら、せめて私のことを考えて。私はどうしたらいいの?」
でも、ジョンジーは答えませんでした。神秘に満ちた遠い旅立ちへの準備をしている魂こそ、この世で最も孤独なものなのです。死という幻想がジョンジーを強くとらえるにつれ、友人や地上とのきずなは弱くなっていくようでした。
昼が過ぎ、たそがれどきになっても、たった一枚残った つたの葉は、壁をはう枝にしがみついておりました。やがて、夜が来るとともに北風が再び解き放たれる一方、雨は窓を打ち続け、低いオランダ風のひさしからは雨粒がぼたぼたと落ちていきました。
朝が来て明るくなると、ジョンジーは無慈悲にも、日よけを上げるようにと命じました。
つたの葉は、まだそこにありました。
ジョンジーは横になったまま、長いことその葉を見ていました。やがて、スーを呼びました。スーはチキンスープをガスストーブにかけてかき混ぜているところでした。
「わたしは、とても悪い子だったわ、スーちゃん」とジョンジーは言いました。「何かが、あの最後の葉を散らないようにして、わたしが何て悪いことを思っていたか教えてくれたのね。死にたいと願うのは、罪なんだわ。ねえ、スープを少し持ってきて、それから中にワインを少し入れたミルクも、それから ―― ちがうわ、まず鏡を持ってきて。それから枕を何個か私の後ろに押し込んで。そしたら体を起こして、あなたが料理するのが見られるから」
それから一時間たって、ジョンジーはこう言いました。
「スーちゃん。わたし、いつか、ナポリ湾を描きたいのよ」
午後にあの医者がやってきました。帰り際、スーも廊下に出ました。
「五分五分だ」と医者はスーの細く震えている手をとって言いました。「よく看病すればあなたの勝ちになる。これからわたしは下の階にいる別の患者を診なければならん。ベーアマンと言ったな ―― 画家、なんだろうな。この患者も肺炎なんだ。もう高齢だし、体も弱っているし、急性だし。彼の方は、助からんだろう。だが今日、病院に行って、もう少し楽になるだろう」
次の日、医者はスーに言いました。「もう危険はない。あなたの勝ちだ。あと必要なのは栄養と看病 ―― それだけだよ」
その午後、スーはベッドのところに来ました。ジョンジーはそこで横になっており、とても青くて全く実用的じゃないウールのショルダースカーフを満足げに編んでおりました。スーは、枕も何もかも全部まとめて抱きかかえるように手を回しました。
「ちょっと話したいことがあるのよ、白ねずみちゃん」とスーは言いました。「今日、ベーアマンさんが病院で肺炎のためお亡くなりになったの。病気はたった二日だけだったわ。一日目の朝、下の自分の部屋で痛みのためどうしようもない状態になっているのを 管理人さんが見つけたんですって。靴も服もぐっしょり濡れていて、氷みたいに冷たくなっていたそうよ。あんなひどい晩にいったいどこに行ってたのか、はじめは想像もできなかったみたいだけど、まだ明かりのついたランタンが見つかって、それから、元の場所から引きずり出されたはしごが見つかったのよ。それから、散らばっていた筆と、緑と黄色が混ぜられたパレットも。それから、―― ねえ、窓の外を見てごらんなさい。あの壁のところ、最後の一枚のつたの葉を見て。どうして、あの葉、風が吹いてもひらひら動かないのか、不思議に思わない? ああ、ジョンジー、あれがベーアマンさんの傑作なのよ ―― あの葉は、ベーアマンさんが描いたものなのよ。最後の一枚の葉が散った夜に」
秋空晴れて
吉田甲子太郎
一
「まったくでござんす、親方。御覧の通りの痩せっぽちじゃござんすが、これで案外胆っ玉はしっかりしてますんで。今まで乗ってました船でも、こいつぐらい上手にマストへのぼる奴はなかったそうでござんす。まるで猿みたいな奴だなんていわれてたくらいで――高いところの仕事にはもって来いの餓鬼です。どうでしょう、ひとつあっしと一緒にリベット(鋲打)の方へでも、ためしにお使いんなっては頂けねえでしょうか」
ガラガラ、ガラガラとウィンチ(捲揚機)の廻転する音、ガンガンと鉄骨を叩く轟音、タタタタタとリベット(鋲)を打ち込む響、それに負けないように、石山平吉は我にもなく怒鳴るような大声で一息に言い終ると、心配そうな眼をして監督の顔を覗き込んだ。なかなか仕事はないし、出来ることなら自分の手もとで働かせたい――そう思うと平吉は、どうしても一生懸命にならずにいられなかった。
監督は腕組をしたままの姿で、平吉と並んで少し笑を含んで自分の方を見て立っている少年へ眼を移した。息子の一男が笑を含んでいたのは、父親のいうことを聞いていると、つまりはこの自分を父親が自慢していることになるのがおかしかったからである。
なるほど、一男は十七という年齢にあわせては、小柄なばかりでなく痩せている方だった。しかし、潮風にやけたその面魂には、どこかしっかりしたところがあった。少し茶色がかった静かな瞳、きちんと結んだ唇、どっちかというと柔和な顔立だったが、眉のあたりに負けぬ気が見えて、顔全体を引き締めていた。それに何よりも監督を驚かしたのは、こんな場所に立っていながら、その少年の腰つきが少しもふらついていないことだった。眼にも怖がっているらしいおどおどした色はまるで現れていない。
今三人の男が立話をしている場所は、地上から二十五メートルも離れた空間だ。足場がわりに鉄骨の梁の上に懸け渡しただけの何枚かの板の上に立っているのだった。下を覗けば、地下室をつくるために掘りさげられた地底まで三十メートルはあるだろう。よほど馴れたものでも、何かにつかまらなければ眼がくらくらして覗いてはいられない高さだ。
監督はあらためて一男少年の顔を見なおした。平然としている。わざと平気な顔をしているのではない。
「ひょっとすると親爺のいうのは嘘ではないかも知れない」
監督はそう思った。それに彼は全体に一男の様子が気に入ったのだ。監督の満足そうな眼つきでそれが分かる。
そこで平吉はすかさずもう一度頼み込んだ。
「岸本さん、頼みます。使ってみてやって下さいよ」
監督は、「うん」と曖昧な返事をしてなお考えている様子だったが、やがて考えがきまったと見えて、平吉にいいつけた。
「山田を呼んで来てくれ」
山田というのは平吉の組の職工頭だった。
山田が来ると監督は一男をひきあわせた。
「石山の伜だそうだ。この間見習が一人いるように言っていたが、使ってやったらどうだ」
平吉も一男も思わず山田の顔を見つめた。この人の返事一つで運命がきまるのだ。
ずばぬけて背の高い山田は、見下すように一男を眺めていたが、遠慮なしにはっきり答えた。
「こんな子供じゃ役に立ちません。いれるだけ無駄です」
「だが、山田さん、柄は小さいけど――」
平吉がせき込んで言いかけるのを監督がとめた。
「石山、山田がいけないというものを雇うわけには行かないよ。じかに使うのは山田なんだからな」
平吉も一男も口をつぐまなければならなかった。
山田は、実は自分の知合を一人いれたかったのだ。折を見て監督に頼もうと思って、まず見習が一人いるということをほのめかしておいたのだ。一男をここで雇ったら自分の計画が駄目になってしまう。
ちょっとの間、四人は気まずい思いで突立っていた。
「石山、気の毒だが仕方がない。さア、二人とも仕事にかかってくれ」
「平さん、わるく思わないでくれ。この年じゃまだ無理だよ」
山田がまず立ち去った。
石山親子も監督に礼を言って、その場を去るほかなかった。
二
十七といっても一男は、両親のお蔭で中学校へ通わせてもらっている幸福な少年たちのように、呑気ではなかった。今自分に仕事が見つからなければ、家がどんなに困ることになるかということがちゃんと分かっていた。
だから今断られたことを悲しむ気持は、或は父親の平吉以上だったかも知れない。
一男は一年半程まえから、近海航路の貨物船の水夫をしていた。年が年だからむろん給仕で乗り込んだのだが、船が補助機関を設備した帆船だったため、その身軽なところを見込まれて、二箇月とたたないうちに水夫に採用された。実際、彼ぐらい楽々とマストに登って帆をあやつることの出来る水夫はなかった。どんなに風が吹いてもマストがしなうほど揺れようが、彼は平気で軍歌をうたいながらそのてっぺんで働いた。彼は船乗の暮しを少しもつらいとは思わなかった。皆から快活な性質を愛されながら、自由で男らしいその仕事をむしろ楽しんでいた。それに水夫になってからは給料もよく、家へも十分に金を送ることが出来た。
ところが、九月半ば頃、大荒の海をのり切って船が大阪港へ入った時、一通の電報が彼を待ち受けていた。
「ハハ ビヨウキ カエレ」
彼は別れを惜しんでくれる大勢の兄貴分たちを船に残して、暗い思いで大阪駅から汽車に乗った。
夕方、本所のごみごみした町の、とある路地の奥にある、海の上でも一日として忘れたことのない懐かしい我が家へ入ると、すぐ下の妹、十五になるすみが、前掛で手を拭きながら飛び出して来た。
奥の六畳の薄暗い電灯の下に寝ている母親の枕もとへ一男が坐ると、五人の幼い弟妹たちがもの珍しげに彼をとり囲んだ。
母の病気は脚気だった。足が醤油樽のようにむくみ、心臓を苦しがった。無理をして御飯ごしらえ、洗濯から大勢の子供たちの世話まで、この間までつづけて来たのだが、今では立っていることも出来なかった。すみが工場勤をやめて母代りに働くほかなかった。だが、そうなると母親はすっかり気が弱くなって、ここ半月ぐらいの間、毎日一男のことばかり言い暮した。はじめは相手にしなかった主人の平吉も、さすがに病人の心持が可哀そうになった。それほどに会いたがっている一男に一目会わせてやったら、或は病気も早くなおるのではあるまいかと思われ出した。
それで、電報を打つことになったのだ。
「一男か、よく帰って来てくれた」
そそけ髪の頭をあげて、母は幾日か夢に描きつづけた一男の顔を、じっと眺めた。涙が一滴、やつれた頬を伝って、枕の布を濡した。
「もう大丈夫、僕どこへも行きはしませんよ」
一男は胸が一杯になって思わずそう言った。彼も鼻の奥の方が変に痛くなって来るのを感じた。
だが、一男は突然ひょうきんな顔を妹のすみの方へふりむけた。
「ところで船長、お帰りはまだかい」
「船長?」
あっ気にとられている妹をからかうように一男はつづけた。
「わが石山丸の船長さ。お父つぁんはまだかってんだよ」
「まア、兄さんたらお家と船を一しょにして――」
「船さ、船だとも、世の荒波を勇ましく乗り切る船だよ。――だが、この機関長、腹が減ってるんだがなア」
「もう、お父つぁんも帰る時分よ」
「そうか、じゃ水夫ども、甲板掃除だ」
一男は後に控えた弟や妹を振りかえった。
「あっちの部屋を綺麗にしろよ」
「ようし、甲板掃除だ」
「あたち、水夫よ」
小さな弟や妹たちは急に元気になって、がやがや立ち上った。
しばらくぶりでこの貧しい家にも笑が帰って来た。病人はまだ眼尻に涙のたまったままの顔で、唇に笑みを浮かべていた。
「さア、お母さんも元気を出したと――、もう大丈夫ですよ。じきなおります。僕がきっとなおして見せます」
この一男の言葉が、母親には、医者に保証されたより頼もしく響いたのであった。
お膳が出るまでには父親も帰って来た。玄関兼居間の四畳半に、平吉と六人の子供たちが食卓を囲んで坐ると、船の食堂よりもっと窮屈だった。発育ざかりの弟や妹が次々に茶碗を突き出す様子は、出帆の準備をする時よりもっと忙しなかった。一男はその中で父から母親の病気の様子をきいた。
命には別状はあるまいが、長くかかるだろうという医者の見たてだった。寝てばかりいるせいか、物を食べたがらないのが困るということだった。
一男は、家へ送るほかに、小づかいを倹約して貯めておいた金を父親の前へおいた。今までは、医者のいう通りにもなかなか出来なかったらしい。
「これで出来るだけの養生をさせて上げて下さい」
平吉は黙っていつまでも息子の顔を見ていた。
翌日から一男は、誰の手も煩わさずに母親の看護を一人で引受けた。病人のある家とも見えず、明るい笑声が絶えなかった。そのためかどうか、おそらく一男が帰って来たという安心のせいもあったのだろう、母の病気はほんの少しずつよくなって行くように見えた。
しかし、石山一家は、いつまでこうしているわけには行かなかった。すみが工場で稼いで来る金が入らなくなった。一男の送金も来なくなったわけだ。その上、病人のために不断よりは余計に費用がかさむのだ。
ある晩、子供たちが六畳の方で寝静まった時、平吉と一男とは長いこと相談した。いま一男が船へ乗って海へ出るようなことをすれば、また病人はわるくなるにきまっている。だが一男が今のように看護婦の代りをしていたのでは、病人の薬代は愚か、米代もつづかないのだ。
翌日一男は父親について、彼が今働いている建築場へ行って見ることになったのであった。
三
平吉は一男を板張の外れへ連れて行って、監督に背をむけて立った。
「困ったな」
「なんか見つかるよ、お父つぁん」
一男にもこれという当はなかったけれども、わざと撥ね返すように彼は答えた。
平吉は監督に背中を見られているのを感じた。早く自分の仕事にかからなければならない。ゆっくり相談している暇はないのだ。
「じゃ、今夜、帰ってから相談することにしよう。気をつけて帰れよ」
平吉はさっきから人待顔にすぐ前に下っていた太い鎖の先の鈎に軽く右足をかけて鎖に全身を托した。ウィンチを捲く音が烈しく聞えて、鎖を下げた起重機は菜葉服の平吉を、蜘蛛の糸にぶら下った蜘蛛のように空中に吊り上げた。それから起重機はグーッとまわって、平吉の体を今までのところより五六メートル高い屋上の鉄の梁の上にぽとりと下した。すると殆ど間をおかずに、そこから鉄に鋲を打ち込むリベット・ハンマー(鋲打の槌)の音がタタタタタと聞えはじめた。一男には気のせいかその音が、ほかの音より元気がないような気がした。
よし、帰りに新聞を買って広告で就職口をさがしてやろう。見つけるといったら見つけずにはおかないから――
一男は、縦横に組み上げられた鉄材の間から、遠く澄んだ空へ眼を放った。上総房州の山波がくっきりと、彫んだような輪廓を見せている。品川の海に浮かんでいるお台場が、一つ二つ三つ、五つ六つ並んで緑色の可愛い置物のようだ。銀座、芝あたりの町は小人島のようだし、芝浦の岸壁に碇泊している汽船はまるで玩具だ。すぐ近くの日比谷公園は、飛行機から見下すように、立樹も建物も押しつぶされたように平ったく見える。
風がさわやかに吹いていた。
「なアに、なんとかなるさ。ならなきゃして見せるまでだ」
彼は急にはればれとした気持になって、シャツの襟をはだけて日にやけた胸を出した。まるで海へ帰ったようだ。
その時、うしろに立っていた岸本監督は、一男が無造作に歩き出したのを見て、はっとした。少年は今まで立っていた板張から出はずれると、ことさらに手で平均をとる様子もなく、両足をならべて立つ幅もない鉄梁を伝って、ひょいとビルディングの一番外側になっている鉄桁に足をのせた。そこで彼はポケットに手を突込んだまんま、目の下二十五メートルのところを白く流れている大通を見下した。自動車、自転車の往来でも眺めているのだろう。彼は無心にいつまでも見下している。
監督は大声が出したくなったのを、やっとのことで我慢した。足を踏み外したらどうするというのだ。彼はその時一男をひきずり倒して殴りつけたい程じりじりすると同時に、また一方では、その面憎いまで落ちつきはらった胆っ玉の太さに、思うさま拍手を送りたくなったのだった。
「うむ、大した胆だ。惜しいもんだな」
岸本監督は喉の奥でひとりうめいた。
そのうち、あたりに働いている職人たちのうちにも、何人かその危いところに立っている一男の姿に気づいたものがあった。彼等はその姿に気づくと一しょにもう眼をはなすことが出来なかった。仕事をつづけることも忘れて、あっ気にとられて見つめたっきりになってしまった。やや俯向き加減の一男の小さい姿は、遥かに青み渡った帝都の大空にくっきりと浮かんで、銅像かなんかのように微塵も動きそうにない。見ている職人たちの膝頭がかえってがちがち動きはじめて来た。そしてどの心の中にも、「えらい!」と大声に怒鳴ってやりたいような気持が動きはじめた。
その時、まったく不意に――と見ている方の連中には思えたのだ――少年は頭を上げると、くるりと向を変えて、ぶらぶらと監督のいる方へ帰って来た。皆が腹の中ではらはらしていたことなんか、彼はまったく知らないのだ。あらしの海で船のマストに登って仕事をすることにくらべれば、ガッチリ組み上げられた鉄骨の梁の上を歩くことなどは、それがたとえどんなに高かろうと、何でもないことだ。
一男がもう一度、板張の上に帰って来て、「お邪魔しました」と挨拶してからまるで平地を歩くような様子で急な段階を下りて行く姿を、監督は残り惜しそうな眼で見送っていた。
四
曲り曲って細々と地獄の底までつづきそうな階段を、一男は平気で、ポケットへ手を入れたまま、きょろきょろよそ見をしながらゆっくり下りて行った。だが、彼が二階分ほど階段を下りた時だった。あたりの騒がしい物音を突きぬけて、ガーンと鉄材が鉄材にぶつかる恐しい音響が強く鼓膜をうった。頭の芯まで響いて来た。けたたましい人声が聞えたような気もした。一男は立ちどまって上の方を見上げた。
気がつくと、仕事場中の物音が一斉にとまっていた。さっと風が吹いて一切の物音をさらって行ってしまったあとのようだ。変に気味わるく静まりかえっている。その中から監督の叫ぶ声がハッキリ聞えて来た。
「あいつを止めろ! 呼び戻せ! 今の子供を止めるんだ!」
誰かが、どたんどたんと階段を駈け下りて来るらしく、かすかな震動が一男の体に伝わって来た。
「おい、君!」
やや離れたところから呼ばれて振り返った一男の眼に、蒼ざめた監督の顔が鉄の枠の間から自分を熱心に見つめているのが映った。
「戻ってくれ! 故障だ、怪我人だ」
何人かの職人たちが一度にどっと監督のまわりへ駈け寄ったが、先頭に立っていたのは一男だった。彼はあっという間に、もう、さっきまでいた七階の板張の床の上に監督と並んで立っていた。
監督の眼を追って、頭の上を見上げた一男の顔からも血の気が消えた。
十五メートルもあろうかと思われる、途方もなく大きな鉄の梁が、起重機から、わずかに一本の鎖で危く斜に支えられて、ふらりふらりとさがっているのだ。どうした間違いか、もう一本の吊鎖が外れたのだ。その拍子に、人夫たちのたぐり寄せていた引綱も、彼等の手からぐいっと持ってゆかれて、すべり落ちてしまったのだ。平均を失ったその鉄の梁は、今にもずるずると滑って、骨組だけの八階建のその大建築を、てっぺんからぶち抜いて、がらがらと落ちて行きそうだった。
早くなんとかしなければ――だが、その時一男少年は思わずぐっと唾をのみ込んだ。彼は一人の職工が一番高い梁の上にまたがったまま、ぐったりとうつぶしているのを見つけ出したのだ。外れた鎖のさきが、大きく揺れる時彼の頭を撃ったものに相違ない。彼は明らかに気を失っている。その上、彼が跨がっている梁の片端は、さし込んであった支柱からぐいと外れている。吊った鎖が外れた途端、今斜にぶら下っているあの梁が、その職人の跨がっている梁に衝突したのだ。あのガーンという恐しい音響は、その時一男の耳を撃ったのであった。亀の子のように空中で首を振っているあの大きな梁が、彼の乗っている梁にもう一度ゴツンとでも触れて見ろ! 一男は目をつぶった。
五
だが、岸本監督はさすがに落ちつきをとり戻して、機敏に頭を働かせていた。今こそ一男を使う時だ! 大人がのればあの梁は落ちる。だが子供なら……そうだ、一男なら大丈夫だ。
「君、怪我人を助けに行ってくれ。頼む!」
その言葉より早く、一男の靴が飛んだ。監督は輪にした綱を彼の首にかけた。最初に太いのを、次に細いのを。
「いいか、さきに、怪我人を梁へしばりつけるんだ。それからあのふらふらしている鉄材に太い方の綱をかけて来い。落ちついてやれ。踏み外したらおしまいだぞ。あわてるなよ」
一男は、上を睨みながら岸本監督の言葉を聞いていた。分かった。あそこでああして、ここでこうして――彼は仕事の手順を、もう一度自分で腹へたたみ込んだ。深く息をのみ込んで、ぐっと胸を張った。よし! 彼は下っているロープに飛びついた。まったく猿だった。するすると一男の体は瞬く間にのぼって行った。そして気絶した人が倒れている梁が支柱に組み込まれている角に手がとどくと、ぐいと一度体を丸めてやんわりと梁の上に乗り移った。梁はかすかに顫えていた。気を失っている人の体までは八メートルある。梁の幅は十二センチにも足りない。そして足の下は三十メートルもあるうつろの空間だ。
「黙ってろ! やることは分かってるんだ」
誰かが下から指図しようとした時、岸本監督は低い声で押さえた。
一男はじっと怪我人に目をつけたまんま、じりじりと進んだ。彼は、時々、梁のゆるぎを止めるために立ちどまらなければならなかった。
いつの間にか風が強くなっていたらしい。一男の鳥打帽子がさっと風に捲きあげられて、いがぐり頭が剥出しになった時には、熱心な見物人たちは我しらずうめいた。帽子は鉄骨にぶつかりぶつかり長くかかって落ちて行った。
三メートル、五メートル、一男は気を失っている人に接近して行った。これからが危いところだ。片一方の支柱だけでやっと支えられている梁だ、ぐんと外れたらそれまでだ。
あと一メートル――。
皆は一度に息をついた。一男はゆっくりと梁の上に手をつき、やがて梁に馬のりになって、まず自分の体を安定させた。が、それからの仕事は手早かった。彼は細い方の綱の輪を首から外すと、死んだようになっている人の体にのりかかって、機敏に縄をかけた。あっという間に、怪我人の体は梁にしっかりと結びつけられていた。
見上げている連中は、ここで何とか声がかけたかった。だが、岸本監督はすぐに様子を察して皆を制した。
「まて、あいつが何とかいうまで黙っていろ」
しかし、一男は口もきかず、みんなの方を見ようともしなかった。彼にはまだ仕事が残っていた。第一に怪我人の様子をたしかめなければならない。それから、起重機の鎖から危くぶらさがっている物騒な梁に、巧く引綱をしばりつけなければならないのだ。
一男は怪我人の背中に手をつき、戦闘帽型の帽子をぬがせた。そして覗き込んだ彼の眼に映ったものは意外にも職工頭の山田の顔だった。ニベもなくさっき自分を断ったあの職工頭の顔だった。なんともいえぬ厳粛なものが彼の胸を打った。命にかかわるようなひどい怪我ではありませんように――彼は祈るような気持で丁寧に山田の頭を調べた。血は出ていない、骨が砕けている様子もない。どうも強く打たれたために気を失っているだけのことらしい。よかった、よかった。――と、彼は右足で足場をさぐり、左足を立て、そろそろ腰を浮かしはじめた。見ている人たちは今度はぐっと息をつめた。一男は真直にたってからゆっくり向をかえた。静かに静かに、梁のゆるぎを殺しながら、もと来た方へ引きかえす。進む時よりも気を配っている様子だ。右手をのばした。大支柱のところまでもう二三歩だ。ああ、抱きついた。彼の右手はしっかりと支柱を抱きかかえたのだ。そして、一男ははじめて皆の方を見下して、手を振った。恐しいような歓呼があがって、すぐやんだ。一男が猶予なく次の仕事にとりかかったからである。
だが、あとの仕事は楽だった。重々々しく揺れまわっている鉄梁には難なく引綱が結びつけられた。そして一男は残った綱のたまを、監督を中心に群がっている人たちの真中へ手際よく投げ下した。何十本かの手が夢中でそれをつかんだ。これで引綱が完全につけられたわけだ。鼻づらは、真すぐ落ちても差支えのない場所へ静かに引きよせられた。
大きなバケット(桶)をさげた起重機がぐうっと上って来て一男の鼻さきでとまった。彼がひょいとそれに乗りうつると、今度はバケットが梁にしばりつけられた怪我人のそばへ寄って行った。もう危険なふらふらした鎖につられた鉄材がわきへのけられていたから平気でそばに寄れるのである。一男の手は風のように早く動いて職工頭をしばってある細引をほどいて、そのぐったりした体を両腕で抱いた。体の重さで、彼はバケットの中でよろめいた。起重機はすぐにバケットをぐうっと上へ持ちあげ、ゆるく右の方へ廻転しはじめた。
その時、今まで職工頭をのせていた梁は支えきれなくなって、がらがらとあっちにぶつかりこっちにぶつかり、真逆様に墜落して行った。見ている人たちの髪の毛はさか立った。
二人を乗せたバケットが自分等の前までさがって来た時、監督をはじめ板張の床の上に立っている人々は、我にもあらず、一斉に歓声をあげた。その中に平吉の声もまじっていた。彼は監督とならんで、バケットの中に山田を抱いている伜の顔を一心に見つめていた。平吉の眼には涙があふれていた。
それを見ると一男も何かぐっとこみ上げて来て、わけの分からない涙が頬を伝って、抱いている人の顔へ落ちた。と、急に抱いている山田の体が重くなったような気がした。彼がぽっかり眼をあけたのだ。彼はまず不思議そうに一男の顔を見た。それからあたりをきょろきょろ見まわしていた。
「気がつきましたか」
言いながら一男は山田をバケットの底に立たせた。
その瞬間に閃くように山田の頭には一切が分かった。
「君は、君は――君が僕を助けてくれたのか。き、きみが――」
山田の両手が一男の両手をしっかりとつかんでいた。その様子を見てみんなはもう一度物凄い程の声で万歳を叫んだ。
一男は何かに感謝したいような気がして目をつぶった。今まで見ていた父の顔が、すうっと母の顔に変った。瞼のうらで母の顔はうれしそうに笑った。
秋空は高く澄み渡り、強い風に逆らうように、鳶が一羽ピンと翼を張って悠々と輪を描いていた。
笑わなかった少年
小川未明
ある日のこと、学校で先生が、生徒たちに向かって、
「あなたたちはどんなときに、いちばんお父さんや、お母さんをありがたいと思いましたか、そう感じたときのことをお話しください。」と、おっしゃいました。
みんなは、目をかがやかして、手をあげました。最初にさされたのは、竹内でありました。
「私が、病気でねていましたとき、お父さんは毎晩めしあがるお好きな酒もお飲みになりませんでした。そして、お母さんは、ご飯もあまりめしあがらず、夜もねむらずにまくらもとにすわって、氷まくらの氷がなくなれば、とりかえたりしてくださいました。僕は、コツ、コツと氷の砕ける音をきいて、しみじみとありがたいと感じました。」と、答えました。
先生は、これをきくと、おうなずきになりました。ほかの生徒たちも、みんなだまって、おとなしくきいていました。そのつぎに、さされたのは、佐藤でありました。佐藤が、立ちあがると、みんなは、どんなことをいうだろうかと、彼の顔を見守っていました。
「僕も、やはり竹内くんと同じのであります。いおうと思ったことを、竹内くんがみんな話してくれました。」
佐藤の答えは、ただそれだけでありました。先生は、こんど、小田をおさしになりました。彼は、組じゅうでの乱暴者でした。そればかりでなく、家が貧乏とみえて、いつも破れた服を着て、破れたくつをはいてきました。くつしたなどは、めったにはいたことがないのです。みんなの視線は、たちまち、小田の顔の上に集まったのはいうまでもありません。
彼は、立ち上がると、
「私のお母さんは、お金のないときは、自分のだいじなものも売って、僕のためにいろいろなものを買ってくださいます。そんなとき、私はじつにすまないと感じます。」といいました。すると、先生は、
「いろいろなものとは、どんなものですか。」と、おききになりました。小田は、その答えに困ったらしく、しばらく、うつ向いてだまっていましたが、やっと顔を上げると、
「僕の月謝や……また、どこかへ帽子をなくしたときには、お母さんは、自分の着物を売って、買ってくださいました。」と、答えました。
この言葉は、みんなに少なからず動揺をあたえました。なかには、また、くすくす笑うものさえありました。しかし、先生が、笑うものをおしかりなさったので、すぐに静かになったけれど、小田は、そのとき、みんなから、なんだか侮辱されたような気がして、顔が赤くなりました。
そのとき、ひとり隣に並んで腰をかけている北川だけは、笑いもしなければ、じっとしてまゆひとつ動かさず、まじめにきいていました。小田は、心の中で、彼の態度をありがたく思ったのです。
小田のお父さんは、もう死んでしまって、ありませんでした。ひとりお母さんが、手内職をして、母子は、その日、その日、貧しい生活をつづけていました。
彼は、学校から帰ると、今日のお話をお母さんにしたのでした。その日あったことは、なんでも帰ってからお母さんに話すのが常でありました。これをきくと、お母さんは、
「あんまり、おまえが家のことを正直にいったものだから、みんなに笑われたのですよ。」と、目に涙をためて、おっしゃいました。
「お母さんが、僕のために、自分の大事になさっているものもなくして、買ってくださるのを、僕がありがたく思っているといって、いけないのですか。」
「いえ、正直にいって、すこしも悪いことはないんですけど……。」
こういって、お母さんは、また目をおふきになりました。
「だが、お母さん、笑ったやつもあったけど、笑わないものだってありましたよ。笑ったやつは、こんどなぐってやるのだ。」と、小田が、いいました。
「そんなことをしてはいけません。おまえが、乱暴だから、みんなが、こんなときに笑うのです。どちらが正しいかわかるときがありますから、けっして、そんな乱暴をしてはいけません。」と、お母さんは、おいましめになりました。
小田は、考えていましたが、
「ねえ、お母さん、いつか、家へ遊びにきたことのある、北川くんなどは、だまってきいていましたよ。」といいました。
「よくもののわかる、おりこうなお子さんですね。」と、お母さんは、いって、また、涙をおふきになりました。
それから、二、三日してからです。小田は、学校へゆく途中で、あちらからきた、北川くんに出遇しました。彼は、今年から学校に上がったという、小さな弟といっしょでありました。
「おはよう。」
「いっしょにいこうよ。」
たがいに、声をかけ合って、三人が、並んで歩きました。そして、学校の門をはいったときであります。
「ひとりで、パンが買える?」と、北川くんが、立ち止まって、やさしく弟の顔をのぞくようにして、きいていました。
小さな弟は、だまって、うなずきました。
「もし、お金を落としたら、兄さんのところへいってくるのだよ。」と、北川くんは、いっていました。
兄弟を持たない小田は、この仲のいい二人のようすを見て、心からうらやまずにはいられなかったのです。
「僕たち、お母さんが、かぜをひいてねているので、今日は、弁当を持ってこなかったんだ。」と、北川くんが、小田に向かって、話しました。
そのとき、小田は、また自分のお母さんのことを思わずにはいられませんでした。
「いまごろ、お母さんは、いっしょうけんめいで、お仕事をなさっているだろう……。」
そう思うと、お母さんの、お仕事をなさっている姿が、目にありありと浮かんできて、しぜんと熱い涙がわいてくるのでした。
その日、ちょうど、お昼の前の休み時間でありました。北川の弟さんが、しきりに兄さんをさがしているのを見つけましたから、小田は、大きな声で、
「北川くん!」と、呼んで、知らせたのです。
北川は、すぐに走ってきました。そして、弟のそばへいって、なにかいうのをきいていましたが、
「だから、気をつけるようにいったじゃないか。」という声がきこえたかと思うと、小さな弟は、しくしくと泣きだしました。
小田は、弟が、パンのお金を落としたのだなと悟りました。しかし、いってたずねるまもなく、
「泣かんだって、いいのだよ。」といって、北川が、自分の持っているお金をやって、弟の頭をなでると、弟は、泣くのをやめて、急に、元気づいて、あちらへ駈け出してゆきました。
「なんて、朗らかな兄弟だろう。」と、小田は、この有り様を見て、感心しました。
そのうちに、話す時間もなく、ベルが鳴ってお教室に入り、授業がはじまりました。
いよいよお昼になって、みんながお弁当を食べるときとなったのです。ひとり、北川だけは机に向かって、宿題をしていました。
小田には、なにもかもわかっていました、自分が、パンを食べずに、弟にパンを買ってやったことも。この心があればこそ、このあいだも、自分の話をまじめにきいていてくれたのだと、小田は、思いました。
「これが、ほんとうの同情というものだ。」
そう小田は悟ると、自分の行為までが顧みられて、これから、自分も、ほんとうの正しい、強い人間になろうと決心したのでした。
雪子さんの泥棒よけ
夢野久作
夜中に雨戸のところでゴリゴリと音が始まりました。家中で雪子さんがたった一人眼をさまして、何だろうと思いました。鼠ではなく、どうしても人間が何かしているとしか思われませんでした。雪子さんは急いでお父さんとお母さんをゆすり起しましたが、なかなかお起きになりません。そのうちにゴリゴリと物を削る音が一そう高くなったようです。雪子さんはどうしようかと思いました。
音のするところへ行って見ると、雨戸の掛金のところを外から泥棒が切り破っているのです。雪子さんがそこらを見まわしますと、玩具のバケツがありましたから、そっとそこへ押し当てました。
そのうちに泥棒が雨戸を切り破って来ると、何か固いものがあります。小刀で突いて見るとカンカン音がします。雪子さんはおかしくなりました。
泥棒がどこかへ行ったと思ったら、今度は台所の方へ音が廻りました。雪子さんは又、そこへジッと押し当てて待っていました。泥棒は又カンカンと言う物に行き当りました。
「馬鹿に用心のいい家だナ。まさか家中、金で張ったるんじゃあんめえ」
と言いながら、今度はお座敷の床の間の壁のまん中をゴリゴリ始めました。
この時、お父さんとお母さんは眼をさまして御覧になると、雪子さんは寝床の中にいません。そして床の間を見ると、玩具のバケツを壁に押し当てています。外からはゴリゴリと壁を破る音……。
お父さんとお母さんは、初めはビックリしましたが、すぐに訳がわかり、雪子さんの勇気に大そう感心しました。なおも様子をジッと見ていますと、泥棒はとうとう厚い壁を切り抜いて、もういいと思って小刀の先で突いて見ると、どうでしょう。壁のまん中でもやはりカンカンカンと音がします。泥棒は腰を抜かさんばかりに驚きました。そしてため息をして言いました。
「これは驚いた。家中すっかり金張りだ」
家の中で、雪子さんとお父さんとお母さんとが一どきに笑い出しました。
「アハハハハハハ」
「オホホホホホホ」
「ウフフフフフフ」
泥棒は夢中になって逃げ出すと、すぐに通りがかりの巡査さんに捕まりました。
大力物語
菊池寛
一
昔、朝廷では毎年七月に相撲の節会が催された。日本全国から、代表的な力士を召された。昔の角力は、打つ蹴る投げるといったように、ほとんど格闘に近い乱暴なものであった。武内宿彌と当麻のくえはやとの勝負に近いものだ。
だから、国々から選ばれる力士も、その国で無双の強者だったのである。
ある時、越前の佐伯氏長が、その国の選手として相撲の節会に召されることになった。途中近江の国高島郡石橋を通っていると、川の水を汲んだ桶を頭にいただいて帰ってくる女がいた。
田舎に珍しい色白の美人である。氏長は、心がうごいて馬から降りると、その女が桶をささえている左の手をとった。すると、女はニッコリ笑って、それを嫌がりもしないので、いよいよ情を覚えてその手をしっかとにぎると、女は左の手をはずして、右の手で桶をささえると、左の手で氏長の手をわきにはさんだ。氏長はいよいよ悦に入って、いっしょに歩いたが、しばらくして手を一度ぬこうとしたが、放さない。
越前一の強力といわれる氏長が力をこめて抜こうとしても抜けないのである。氏長は、おめおめとこの女について行く外はなかった。家に着くと、女は水桶をおろしてきて氏長の手をはずして、笑いながら、「どうしてこんな事をなさるのです。あなたは一体どこの方ですか」という、近く寄って見ると、いよいよ美しい。
「いや、自分は越前の者であるが、今度相撲の節会で召されて参るものである」というと、女はうなずいて「それは危いことである。王城の地はひろいからどんな大力の人がいるかもしれない。あなたも、至極の甲斐性なしと云うわけではないが、そんな大事の場所へ行ける器量ではない。こうしてお目にかかるのも、御縁だからもし時間がゆるせば、私の家に三七日逗留したらどうか。その間に、あなたをきたえて上げましょう」と、いうた。
三七日とは、三七二十一日である。その位の日数は、余裕はあったので、氏長はこの家に逗留することにした。
二
ところがこの女の鍛錬法というのが甚だおかしい。その晩から、強飯をたくさん作って喰べさした。女みずからにぎりめしにして喰べさしたが、かたくて初はどうしても噛み割ることが出来なかった。初の七日は、どうしても喰いわることが出来なかった。中の七日は、ようよう喰いわることが出来たが、最後の七日には見事に喰い割ることが出来た。すると、女はさあ都へいらっしゃい、こうなればあなたも相当なことは出来るだろうといって、都へ立たした。この二人が情交をむすんだか、どうかはくわしく書かれていない。この女は、高島の大井子という大力女である。田などもたくさん持って、自分で作っていた。
ある年、水争いがあって村人達が大井子の田に水をよこさないようにした。すると大井子は夜にまぎれて表のひろさ六、七尺もある大石を、水口によこさまに置いて、水を自分の田に流れ込むようにした。翌日になると、村人が驚いたが、その石を動かすには百人ばかりの人足が必要である。その上、そんな多人数を入れたのでは、田が滅茶滅茶に踏み荒されてしまう。それで、村人が相談して大井子の所へ行って謝った。
今後は思召に叶うべきほど水をお使い下さい。その代りに、どうかあの石だけは、とりのけて頂きますといった。すると、大井子は夜の間にその石を引きのけてしまった。その後、水論はなくなってしまったが、この石は大井子の水口石といって、後代まで残っていた。この事件で、大井子の大力が初めて知れたのである。
ところが、近江の国にはもう一人大井子などよりもっと有名な大力の女がいた。それは近江のお兼である。この女のことは江戸時代に芝居の所作事などにも出ているし、絵草子にも描かれている。
この女は、琵琶湖に沿うたかいづの浦の遊女である。彼女は、ひさしくある法師の妻となっていた。妻とはいっても、遊女で妻もおかしいから、今でいえば妾である。
三
ところが、この法師が浮気者であったとみえ、近頃は同じ遊女仲間の一人に、心をうつして、しげしげ通っているという噂が、お兼の耳に伝わって来た。お兼は、安からず、思っていた。ある晩、ひさしぶりに法師がやって来た。いっしょに物語りしている間、お兼は何もいわなかった。いよいよ床に入ってから、お兼はその弱腰を両足でぐっとはさんだ。法師は、初めたわむれだと思って「はなせはなせ」といったが、お兼はいよいよ力をいれたので、法師は真赤になってこらえていたが、やがて蒼白になってしまった。すると、お兼は「おのれ、法師め、人を馬鹿にして、相手もあろうに同じ遊女仲間の女に手出しをする。少し思い知らしてやるのだ」といって、一しめしめたところ、法師は泡を吹いて気絶した。それで、やっと足をはずしたが、法師はくたくたとなったので、水を吹っかけなどして、やっと蘇生させた。
その頃、東国から大番(京都守衛の役)のために上京する武士達が、日高い頃に、かいづに泊った。そして、乗って来た馬どもの脚を、湖水で冷していた。すると、その中のかんの強い馬が一頭物に驚いたと見え、口取の男をふり切って、走り出した。
たくさんの男が、跡を追いかけたがどうにも手におえない。中には、引きづなに取りすがる者もいたが皆引き放されてしまう。ちょうど、そこへお兼が通りかかった。彼女は高いあしだをはいていたが、傍をかけ通ろうとする馬の引きづなのはずれを、あしだでむずとふまえた。すると馬が勢をそがれてそのまま止まった。人々はそれを見てあれよあれよと目をおどろかした。
さすがにあしだは砂地に、足首のところまで、埋まっていた。これ以来、お兼の大力が世間に知られたのである。常に、五、六人位の男が集まっても、私を自由に出来ませんよ、といった。五つの指ごとに、弓を一張ずつはらせたことがある。弓は、二人張三人張などいうから、指一本でもたいした力である。
四
昔、美濃国、小川の市に力強き女があった。身体も人並はずれて大きく百人力といわれていた。仇名を美濃狐といった。四代目の先祖が、狐と結婚したと云うことであった。狐と大力とは別に関係はないわけだが、狐の兇悪な性質を受けたと見え、現在の闇市の親分のように、商人をいじめては、いろいろな品物を奪いとっていた。ところが、同じ時に尾張国片輪の里に力強き女がいた。この女は、きわめて小柄の女であった。大力の聞え高い元興寺の道場法師の孫に当っていた。この尾張の女が、美濃狐のことを聞いて、一度試してやろうと云うので、蛤と熊葛で作ったねり皮とを船に積んで、小川の市へやって来た。こういう他国者の新顔を、痛めつけることは昔も今も暴力団的顔役の仕事である。美濃狐は、早速尾張の女の船へ行って、蛤を差し押えて、「お前は、一体、どこの者だ。誰にことわってここで商売をするのか」といった。尾張の女は、だまっていたが、四度目に(どこから来たか大きなお世話だ)と、返事した。すると、美濃狐が怒って、尾張の女を打とうと手を出すと、尾張の女はその手を捕えて、熊葛のねり皮で打った。すると、あまりに力が強いので、そのねり皮に肉がくっついて来た。返すがえす打つと、その度に肉がついた。さすがの美濃狐も、音を上げて謝った。すると、尾張の女は、以後商人達を悩ますなと、いましめてから許してやった。その後美濃狐は、小川の市に来なくなったので、市人達は皆欣び合って、平かな交易がつづいた。
この尾張の女は、そうした大力にも似合わず、その姿形は、ねり糸のようにしなやかであった。そして、その郡の大領(郡長)の奥さんであった。あるとき、主人の郡長のために、麻の布を織って、それを着物に仕立てて着せた。それは現在の上布のようなものでしなやかで、すこぶる品のよい着物であった。ところがこの郡長がそれを着て、国司の庁へ行くと、国司が、それを見て、ほしくなったと見え、「その着物をわしによこせ。お前が着るのにはもったいない」と、云って取り上げたまま返さない。
五
郡長が家に帰ると、今朝着せてやった着物を着ていない。妻である尾張の女がそのわけを訊ねると国司にまき上げられたと云う。妻は、あなたはあの着物を心から惜しいと思うかと訊いた。すると、良人は極めて惜しいと思うと答えた。すると、尾張の女は翌日国府へ出かけて行って、国司に面会を求めて返してくれと云った。すると国司は、うるさがって、この女を追い出せと、役人達に云いつけた。多勢の役人が、寄ってたかって連れ出そうとするが、ビクとも動かない。たちまち、役人を振りはらって国司に近づくと、片手で国司を引き倒すと、そのまま引きずって、国府の門外へ連れ出した。国司は、青くなって、「返す返す」と、悲鳴を揚げた。この女は、呉竹をねり糸のように、くしゃくしゃにする位強かった。ところがこうした強い女も、封建的な家庭制度には敵わない。良人の父母が云うには、国司を手ごめにした女を妻にしていては、お前はこの先、芽の出るわけはない。私達にも、どんなめいわくが、かかるかもしれない、早速離縁すべきだと。それで主人の郡長は、元々意気地なしだったと見え、父母の教に従って、たちまち妻を離縁した。
尾張の女は仕方なく、故郷へ帰って住んでいた。ある時、故郷を流れている川の南辺へ行って、洗濯をしていると、折から荷物を積んだ船が通りかかった。船の人々がこの女をからかった。あまり、しつこいので、「女だと思って馬鹿にすると、頬っぺたをなぐるぞ」と、いった。すると、船の人々は手んでに物を、女に投げつけた。
すると、女は怒って、川の中へはいると、舳をぐっと水の中へ押し入れた。荷物が水びたしになった。船の連中は、人を雇って荷物を陸にあげ、水をかい乾して、荷物を積んで、動き出そうとしてまた、女の悪口をいった。女は再び怒ると、今度はその船に手をかけて、人も荷物ものせたままグングン陸の上へ引きあげ、一町ばかり引きずって行った。船の連中は、青くなって、ひたあやまりにあやまった。女はやっと、機嫌をなおして、また船を川まで、引きずりもどしてやった。
六
もう一人の女大力は、相撲人、大井光遠の妹である。光遠は、横ぶとりの力強く足早き角力であった。妹は、形有様尋常で美しい女であった。光遠とは、少し離れた家に住んでいた。ある日、村人が光遠の所へ馳け付けて来て(たいへんです、妹さんが、盗人に人質にとられました)と云った。光遠は、それをきいたが、少しも驚かず(音にきく昔の薩摩の氏家なら妹を質にとられようが)と、すましている。村人は、拍子ぬけがして、妹の家の方へ引き返して来た。先刻、盗人は村人達に追われて逃げ損い、光遠の妹の家に走り込んで、(この女房を人質に取った。寄り近づく者あらば、この女房をさし殺すぞ)と、村人達に宣言したのである。それでその中の一人が、あわてて兄さんの家へ知らせに行ったのであった。
兄が相手にしないので、その村人は一体どんな容子かと家の中をのぞいて見た。すると、盗人は光遠の妹を背後から両足で抱いて、その胸に逆手に持った短刀をさしあてている。光遠の妹は、恥しいと見えて、袖で顔をかくしているが、だんだん退屈して来たと見え板の間に荒づくりの矢竹が二、三十ちらばってるのをいじっていたが、それを板の間におしつけると一本ずつわらをにじるように、にじりつぶしている。のぞいていた村人が、びっくりしたが、盗人もそれに気が付いたと見え、顔色が急に青ざめたと見ると、たちまち人質を放して逃げ出した。いったん怖気づいただけに、たちまち村人に捕えられてしまった。その男を村人達は、光遠の家へ連れて行って殺しましょうかと云うと、光遠は笑って(もし妹がその男の太刀を持つ手を逆にねじあげたら、その男の肩の骨はたちまち砕けただろう。危い目に逢っていたのは、妹でなくてその男だったのだ。殺すわけはないではないか)と、云って逃がしてやった。そして、言葉をつづけた。(妹は、わしより二倍は強い。男に生れたら、日本中に相手はないのだが……)と、嘆息した。
七
女大力物語のついでに、男の方も二、三人書いておく。叡山の西塔に実因僧都という人がいたが、この人が無類の大力であった。ある日、宮中の御加持に行って、夜更けて退出すると、何かの手違いで、供の者が一人もいない。仕方なく衛門の陣を出ようとすると、軽装した男が一人寄って来て(お供がいないのですか。私が負って差しあげましょう)と云う。それはありがたいと、云って負われると、大宮二条の辻まで行って、(ここで降りてくれ)と云う。僧都が(いや、わしの行く先は、ここではない)と、云うと、その男が声を荒らげて(命は惜しくないのか。その衣を脱いで、どこへでも勝手に行け)と、いった。すると、僧都は負われながら脚でその男の腰をぐっとしめつけた。まるで、腰が切れそうである。男は、びっくりして(失礼な事を申しました。お望みのところへ参ります)と、云った。すると、僧都は(宴の松原へ行って月見をしたい)というと、男はそこまで負って行った。そして、どうぞ降りて下さいといったが、下りようとしない。ゆうゆうと月にうそぶいてから(右近の馬場が恋しくなった。あすこへ行け)と、いうと、男は(そんなには、参れません。もう、御かんべんを)と云うと、僧都はまた脚をぐっとしめつけた。すると男は(参ります。参ります)と悲鳴をあげたので、僧都は脚をゆるめた。男は仕方なく、右近の馬場へ行った。そこで、歌など口ずさんでから、今度は喜辻の馬場へ歩けといった。そして、僧都の宿所まで負われて来たときはもう暁近くで、男はへたへたになっていた。僧都は男の背中から下りてから、その男に衣をぬいでやったが、男は地面にうずくまったまま、しばらくの間は起き上れそうにもなかった。
もう一人もやはり僧侶で、広沢の寛朝僧正という人である。大僧正になった人で、仏教の方でも有名であり、宇多天皇の皇子の式部卿の宮の御子である。この人は、広沢に住んでいたが、同時に仁和寺の別当をも兼ねていた。別当というのは、検非違使の長官をも云うのだが、神社仏寺の事務総長をも云うのである。ある時仁和寺が修理工事を始めていた頃の話である。
ある夕方、寛朝僧正は、もう工事がどの位進んだか見たくなって、一人で高足駄をはき、杖をついて、工事の現場を視察していた。現場には、足場のために、高いやぐらが組んである。その柱をくぐりながら見ていると、烏帽子を引き垂れて着た男が、つかつかと寄って、僧正の前に立った。見ると半ばかくすようにではあるが、刀をぬいて、それを逆手に持っている。
僧正、これを見て(何の用ぞ)ときくと、男は片膝をついて、(自分は御存じないものである。あまりに寒さに堪えないので、お召しになっている衣物を一つ二つ賜りたいのである)と、云ったが、今にも飛びかかりそうである。
僧正は(それはわけもないことだが、なぜ素直に頼まないのか。そのやり方が怪しからないではないか)と、いうと、横に立ち廻ったかと思うと、男の尻をハタと蹴った。すると、男はたちまち姿が見えなくなった。僧正はおかしいと思いながら周囲を見たが、どこにもいない。それで、庫裡の方へ行って、人を呼んだ。法師達が出て来ると、(今、わしを剥ごうとする者がいたのだが、急に見えなくなった。灯をともしてさがしてくれ)と、云いつけた。十人ばかりの僧が、手に手に灯を持ってさがしまわっていたが、そのうちの一人が上をさして(やあ、あすこにいる)と云うので皆が見上げると、一人の黒い装束をした男が、足場のために作ったやぐらの柱と柱の間に、はさまれて身動きが出来ずに、むくむく動いているのであった。二、三人昇って見るとさすがに、刀だけは持っていたが、ぼんやりした顔をして、目ばかりパチパチさしていた。僧正のところへ連れて来ると、僧正は(老法師とても馬鹿にしてはいけないぞ。また、わるいことは今後やらない方がいい)と云って着ていた衣の綿の厚いのを脱いでその男へ与えた。
これらの大力物語のいずれも誇張に違いないが、その誇張が空とぼけていて、ほほえましいものである。この話なども、蹴られて、積んであった材木の上にのっかっていた程度であろうが、それを話しているうちに、だんだんやぐらの上にのせてしまったのであろう。
壇ノ浦の鬼火
下村千秋
一
天下の勢力を一門に集めて、威張っていた平家も、とうとう源氏のために滅ぼされて、安徳天皇を奉じて、壇ノ浦の藻屑と消えてからというもの、この壇ノ浦一帯には、いろいろの不思議な事がおこり、奇怪な物が、現れるようになりました。
海岸に、這い回っている蟹で、その甲羅が、いかにも恨みを飲んだ無念そうな人の顔の形をしたものが、ぞろぞろと出るようになりました。これは戦いに敗れて、海の底に沈んだ人びとが、残念のあまり、そういう蟹に、生まれ変わってきたのだろうと、人びとはいました。それで、これを「平家蟹」とよび、いまでも、あのへんへ行けば、この蟹が、たくさん見られます。
それからまた、月のない暗い夜には、この壇ノ浦の浜辺や海の上に、数しれぬ鬼火、――めろめろとした青い火が音もなく飛び回り、少し風のある夜は、波の上から、源氏と平家とが戦ったときの、なんともいわれない戦争の物音が聞えてきました。また、そうした夜など、舟でこの海を渡ろうとすると、いくつもの黒い影が波の上に浮かび上がり、舟の周りに集まって来てその舟を沈めようとしました。
土地の人びとは、もう夜になると海を渡ることはもちろん、海岸へ出ることさえできなくなりました。しかし、それでは困るというので、みんな寄って相談をして、壇ノ浦の近くの赤間ガ関(今の下関)に安徳天皇の陵と平家一門の墓をつくりました。それからそのそばに、阿弥陀寺をたてて、徳の高い坊さんを、そこに住まわせ、朝に夕にお経をあげていただいて、海の底に沈んだ人びとの霊を慰めました。
それからというもの、青い鬼火も、戦争の物音も、舟を沈める黒い影も、現れなくなりました。しかしまだ時々、不思議なことが起こりました。平家の人びとの霊は、まだ充分には、慰められなかったとみえます。つぎの物語はこの不思議なことのひとつであります。
二
そのころ赤間ガ関に、法一という琵琶法師がいました。この法師は生まれつき盲でしたので、子どものときから、琵琶をならい、十二、三才のころには師匠に負けないようになりました。そして、いまでは天才琵琶法師として誰でもその名を知っているようになりました。
さて、多くの琵琶歌の中で、この法師がいちばん得意だったのは、壇ノ浦合戦の一曲でありました。ひとたび法師が琵琶を弾き出し、その歌を唱い始めると、なんともいえない哀れさ、悲しさが響き渡り、鬼でさえも泣かずにはいられないほどでありました。
この法師は、誰一人身よりもなく、また、ひどく貧乏でした。いかに、琵琶の名人とはいえ、そのころは、まだそれで暮らしをたてるわけにはいきませんでした。すると、平家の墓のそばにある阿弥陀寺の坊さんが、それをきいて、たいへん同情をし、また自分は琵琶も好きだったので、この法師をお寺へ引き取り、暮らしには、なに不自由のないようにしてやりました。法師は非常に喜びました。そして、静かな夜などは、得意の壇ノ浦合戦を歌っては坊さんを慰めていました。
それは春の宵でありました。坊さんは法事へいって留守でした。法師は自分の寝間の前の、縁側へ出て、好きな琵琶を弾きながら、坊さんの帰りを待っていました。が、坊さんは夜が更けてもなかなか帰ってきませんでした。法師は見えない目を空にむけ、なんとはなし、もの思いに耽っていました。と、やがて裏門に近づく人の足音がして、誰か門をくぐると、裏庭を通って法師の方へ近づいて来ました。坊さんの足音にしては、すこし変だと思いながら、耳を傾けていると、突然、太い声で、ちょうど武士が、家来を呼ぶように、
「法一。」
と、呼びかけました。法師はぎょっとして、すぐ返事もできずにいると、重ねて、更に太い声で、
「法一。」
「はい……私は、盲でございます。お呼びになるのは、どなたでしょうか。」
法師は、やっとそう答えることができました。
「いや、驚くには及ばぬ。」
と、声の主は、少し優しい調子になり、
「わしは使いのものじゃ。わしのご主君は、それは高貴なお方ではあるが、多くの、立派なお供をお連れになり、いま赤間ガ関に、おとどまりになっていられる。さて、ご主君は、そのほうの琵琶の名声をお聞きになり、今夜は是非、そのほうの、得意の壇ノ浦の一曲を聞いて、昔を偲ぼうとされている。されば、これより、わしと一緒においでくだされたい。」
この当時は、武士の言葉に、そう無闇に背くわけにはいきませんでしたので、法一はなんとなく気味悪く思いながらも、琵琶を抱えて、その案内者に手をひかれて寺をでかけました。案内するひとの手は、まるで鉄のように、かたく冷たく、そして大股に、ずしりずしりと歩いていきます。そのようすから察すると、そのひとは、厳めしい鎧甲を身につけた、戦場の武士のように思われました。
やがて、その武士は立ち止まりました。そこは、大きな立派なご門の前のように思われました。しかし、このあたりには、それほどに大きな、立派なご門は、阿弥陀寺の山門よりほかにはないはずだが、と法師はひとり思いました。
「開門。」
武士は、こう高らかにいいました。と、中で閂を外す音がして、大きな扉は静かにに開かれました。武士は法師の手をとって、中へ入りました。しっとりとした庭を、暫く行くと、また厳かな、立派な大玄関と思われる前に、立ち止まりました。武士はそこで、また高らかにいいました。
「ただいま、琵琶法師、法一を連れてまいりました。」
大玄関の内では、襖を開ける音、大戸を開ける音がして、やがて、優しい女たちの話し声が聞えてきました。その声で察すると、その女たちは、この高貴なお屋敷の、召使いであることがわかりました。その召使いの女のひとりが、法師の手を柔らかにとると、こちらへと、大玄関のうちへ案内しました。それから、滑るように磨き込んだ、長い廊下を幾曲がりかして、数えきれないほどの、部屋べやの前をすぎて、やがて大広間へ案内されました。そこには、かなり大勢の人びとが息を潜めて、居並んでいることが、その気配でわかりました。柔らかな衣擦れの音が、森の木の擦れ合うように聞えました。
法師は、大広間の床の間と、反対側と思われる所に、ふっくらとした座布団の上に座らせられました。法師はきちんと座り、持って来た琵琶を引き寄せると、耳元で老女らしい声がしました。
「平家の物語――壇ノ浦を弾じてください。」
三
法師は静かに琵琶を取り上げました。大広間のうちは、水をうったようにしんとなりました。はじめは小川のせせらぎのように、微かに微かに鳴りだし、ついで谷川の岩に砕ける水音のように響きだして、法師の哀れにも、朗らかな声が、漏れ始めました。その声は一段ごとに力を増し、泣くがように、噎ぶがように響き渡りました。その声につれて弾ずる琵琶の音は、また縦横につき進む軍船の音、矢の飛び交う響き、甲胄の音、剣の鳴り、軍勢の喚き声、大浪の唸り、壇ノ浦合戦そのままの有様を現しました。法師はもはや我を忘れて歌っていました。
「なんという名手でしょう……広い国じゅうにも、これに勝る者はありますまい。」
「まことに、わたしも生まれてはじめて聞きます。」
そういう囁き声が、そちこちから聞えました。
法師は、ますます声を張り上げ、ますます、巧みに琵琶を弾きました。平家一門の運命も、いよいよ極まり、安徳天皇を戴いた二位の尼が水底深く沈む段になると、今まで水をうつたようにしんとしていた広間には、一斉に悲しげな苦しげな声が上がりました。その声は、だんだんと高まって、はては大声で泣きさけぶ声さえ、聞えてきました。
法師はなんともいえない気持に打たれながら、静かに一曲を弾き終わりました。広間の人びとの声は、それでもまだ暫くの間、嘆き悲しみ続けていましたが、いつか流れが絶えるように消えていくと、今度はまた、恐ろしいほどの深い深い沈黙と、静寂が広間いっぱいに籠もりました。
暫くしました。と、さっきの老女の声が、また法師の耳もとでしました。
「かねて聞いてはいましたが、そなたの琵琶には、心から感服しました。ご主君も、ことのほかお喜びになりました。お礼に、なにか良いものをおあげしたいが、旅のことで、なにもなくお気の毒です。けれどこれからあと六日の滞在中、毎夜来て、今宵の物語を聞かしてくだされば、有り難いことです。あすの晩も、おなじ時刻に使いの者をあげますから、どうぞおいでくださいまし。なお、念のため申し添えますが、ご主君は、ただ今、お忍びの旅をなされていられるのですから、このことは、どのようなことがあっても、一切秘密に、誰一人にも話さぬよう、くれぐれもお頼み申します。」
まもなく法師は、また女の手に案内され、大玄関へ来ました。そこには前の武士が待っていて、法師を阿弥陀寺まで送って来てくれました。
四
法師が寺へ帰ったのは、夜あけ近くでありました。お坊さんも、夜おそく帰って来ましたので、法師はもう、寝ていることと思い、法師の部屋へ見にも行かなかったのでした。それで法師のその夜のことは、誰もしらずにしまいました。もちろん法師は、なにも話しませんでした。
次の夜でありました。法師は例のとおり、寝間の前の、縁側にいると、昨夜のとおり、重い足音が裏門から入って来て、法師を連れて行きました。大玄関の前、召使いの案内、長い廊下、大広間、そして、しんと居並ぶ人びとの前、そこで法師は昨夜とおなじように、壇ノ浦の物語をひきました。そうして、人びとは、またも泣き、噎び、悲しみました。法師は深い感激にうたれて、寺へ帰って来ました。
すると、寺では盲の法師が、誰の案内もなしに寺を抜け出していることを知りました。
つぎの朝、法師はお坊さんの前へ呼ばれて、優しく言い聞かされました。
「えらく心配しましたぞ。盲が一人出をするのは、わけても夜中に出るのは、なにより危ないことじゃ。どういうわけで、出ていくのか。わしは寺男にさんざん探させたのじゃ。いったいどこへいきなさるのだね。」
「これは申し上げられませぬ。手前の勝手な用事を足しにでかけたのです。どうもほかの時刻では、都合が悪いものですから。」
法師はただそう答えました。
お坊さんは、法師のようすがあまり変なので、これは少し怪しい、もしかしたら悪霊にでも取り憑かれたのかもしれない、と思って、それ以上は、聞き出そうとしませんでした。その代わり、ひとりの寺男に、密かに法師のようすを見はらせることにして、もし夜中に外へ出て行くようなことがあったら、跡をつけろと言い付けておきました。
すると、はたしてその夜も、法師は琵琶を持って、寺をひとり出ていきました。寺男は提灯に灯をいれて、その跡をつけていきました。その夜は、雨もよいの陰気な暗い晩でありました。しかし、盲の法師は、まるで目あきのようにさっさと歩き、いつか年よりの寺男をあとに、暗がりの中へ消えてしまいました。寺男は、そのように早く歩く法師を、不思議にも気味悪くも思いました。
寺男は法師が立ち寄りそうな家を、一軒一軒探し回りました。が、どこにもいませんでした。寺男は困って、ひとり、ぼつぼつ浜辺づたいに寺の方へ帰ってきました。と、驚いたことには、狂ったように掻き鳴らす琵琶の音が、どこからか聞えてくるではありませんか。しかも、その琵琶の音は、間違いなく法師の弾くものでありました。
寺男は、ただ意外に思いながら、音のする方へ近づいて行きました。行った所は平家一門の墓場でありました。いつか雨は降りだしていました。一寸先見えぬ闇夜、寺男は、両足が、がくがく震えましたが、勇気をつけて、琵琶の音のする墓場の中へ這入っていきました。そして、提灯の灯を頼りに、法師を探しました。するとこれはまた意外のことに、法師がただひとり、安徳天皇の陵の前に端座して、我を忘れたように、一心不乱に、琵琶を弾じ、壇ノ浦合戦の曲を吟じているのでありました。そうして、法師の左右には、数しれぬ青い灯、鬼火がめらめらと、燃えていたのでありました。寺男は、こんなに多い盛んな鬼火を、生まれて初めて見るのでありました。寺男は一時は声も出ない程に驚きましたが、やっと、心を落ち着けて、
「法一さん、法一さん、あなたは、何かに化かされていますよ。しっかりしなさい。」
と、耳元で言いました。
しかし、法師は、寺男の言葉を聞き入れるどころか、ますます一心に、ますます高らかな声で、吟じ続けています。
「法一さん、法一さん、どうなされたんです。こんな所で、何の真似をしているんです?」
すると、法師は怒ったように寺男を制して、
「静かになさい。黙っていてくれ。高貴な方々の前だ、ご無礼にあたるぞ。」
寺男は、これには、呆気にとられるばかりでした。もう、しようがないので、寺男は力ずくで法師を引き立て、その手をしっかり握って、無理矢理に、寺へ引っぱって来ました。
寺の坊さんは、びしょ濡れになっている法師の着物を着替えさせ、暖かいものを食べさせて、できるだけ心を落ち着かせました。何かに心を奪われたようになっていた法師は、そこでようやく我に省りました。そして、お坊さんや寺男が、自分の為に、どんなに心配をし、骨を折ったかを知り、大変済まないように思い、そこで、なにもかも、お坊さんに打ち明けてしまいました。
お坊さんはそれを聞くと、
「法一さん、それは、おまえの不思議な程に、巧みな琵琶の腕前が、おまえをそういう所へ導いたのじゃ。芸事の奥に達すると、そういうことがあるもので、これはおまえの芸道の為には、喜ばしいことじゃが、しかし、危ない所じゃった。昨夜、おまえは平家の墓場の前で、雨に濡れて、座っていたそうじゃ。おまえは、何か幻を見て、そうしていたのじゃろうが、いつまでも、そうしていたら、平家の亡者の中へ引き込まれ、ついには八つ裂きにされてしまうところじゃった。もう、どこへもいってはならぬぞ。わしは、今夜も法事で、留守をするが、おまえが使いのものに、連れて行かれないように、今夜は、おまえの体を、よく守っておかねばならぬわい。」
そこで、法師を裸にして、有り難い、般若心経の経文を、頭から胸、胴から背、手から足、はては、足の裏まで一面に墨黒々と書き付けました。そしてまた、着物を着せて、お坊さんは、
「わしは、間もなく出かけるが、おまえはいつもの縁側に座っていなされ。やがて、例の武士が来て、おまえの名を呼ぶだろうが、おまえは、どんなことがあっても、断じて返事をしてはならぬ。万一返事をしたなら、おまえの体は、引き裂かれてしまうのだ。また人の助けを呼んでもならぬぞ。誰も助けることはできぬのだからな。そうして、おまえが立派に、わしの言い付けを守りおおせたなら、もう、おまえの体から、危険なことは消えさってしまう。おまえはもう、恐ろしい幻を、見ないようになるのじゃ。」
と、懇ろに言って聞かせました。
五
法一は、言い付けられた通りに、縁側に座っていました。と、いつもの時刻がきて、いつもの武士が、裏門から這入って来ました。
「法一。」
しかし、法一は息を殺していました。
「法一。」
二度目の声は、威すように聞えました。が、法師は堅く口を結んでいました。
「法一。……こりゃ返事がないぞ。いないのか。」
と、武士は、縁側へ寄って来ました。
「おや、ここに琵琶だけある。が、法一はいない。返事のないのも無理はない。が、耳だけがあるぞ。使いに来た証拠に、これを持っていこう。」
こう武士は呟くと、法師の両耳は、いきなり鉄棒のような指先で、引き千切られていました。けれど法師は、声も出せませんでした。
武士は、それでいってしまいました。
夜がふけて、お坊さんは帰って来ました。そして法師が、両耳から流れでる血の中に座っているのを見つけました。
しかし法師は身動き一つせず、きちんと座っています。お坊さんは、吃驚しながら、
「法一、このありさまはどうしたのじゃ?」
と、叫びました。法師はそこで、初めて我ににかえり、今夜のできごとを話しました。
「ああ、そうじゃったか。いや、それはわしの手落ちじゃった。おまえの耳ばかりへは、経文を書くのを忘れたのじゃ。これは相済まぬ。が、できたことはしかたがない。このうえは、早く傷を治すことじゃ。それだけの災難で、命びろいをしたと思えば、諦めがつく。もう、これでおまえの体から、悪霊が消え去ったのじゃから、安心するがよい。」
お坊さんは、そういいました。
それから、この法師には、「耳なし法一」という渾名がつき、琵琶の名手として、ますます名声が高くなりました。
茶碗の湯
寺田寅彦
ここに茶碗が一つあります。中には熱い湯がいっぱい入っております。ただそれだけではなんの面白味もなく不思議もないようですが、よく気をつけて見ていると、だんだんにいろいろの微細なことが目につき、さまざまの疑問が起こって来るはずです。ただ一ぱいのこの湯でも、自然の現象を観察し研究することの好きな人には、なかなか面白い見物です。
第一に、湯の面からは白い湯気が立っています。これはいうまでもなく、熱い水蒸気が冷えて、小さな滴になったのが無数に群がっているので、ちょうど雲や霧と同じようなものです。この茶碗を、縁側の日向へ持ち出して、日光を湯気にあて、向こう側に黒い布でもおいて透かして見ると、滴の、粒の大きいのはちらちらと目に見えます。場合により、粒があまり大きくないときには、日光に透かして見ると、湯気の中に、虹のような、赤や青の色がついています。これは白い薄雲が月にかかったときに見えるのと似たようなものです。この色についてはお話しすることがどっさりありますが、それはまたいつか別のときにしましょう。
すべて全く透明なガス体の蒸気が滴になる際には、必ず何かその滴の心になるものがあって、そのまわりに蒸気が凝ってくっつくので、もしそういう心がなかったら、霧は容易にできないということが学者の研究でわかって来ました。その心になるものは通例、顕微鏡でも見えないほどの、非常に細かい塵のようなものです、空気中にはそれが自然にたくさん浮遊しているのです。空中に浮かんでいた雲が消えてしまった跡には、今言った塵のようなものばかりが残っていて、飛行機などで横からすかして見ると、ちょうど煙が広がっているように見えるそうです。
茶碗から上がる湯気をよく見ると、湯が熱いかぬるいかが、おおよそわかります。締め切った室で、人の動き回らないときだとことによくわかります。熱い湯ですと湯気の温度が高くて、周囲の空気に比べてよけいに軽いために、どんどん盛んに立ち昇ります。反対に湯がぬるいと勢いが弱いわけです。湯の温度を計る寒暖計があるなら、いろいろ自分で試してみると面白いでしょう。もちろんこれは、周りの空気の温度によっても違いますが、おおよその見当はわかるだろうと思います。
次に湯気が上がるときにはいろいろの渦ができます。これがまたよく見ているとなかなか面白いものです。線香の煙でもなんでも、煙の出るところからいくらかの高さまでは真っ直ぐに上りますが、それ以上は煙がゆらゆらして、いくつもの渦になり、それがだんだんに広がり入り乱れて、しまいに見えなくなってしまいます。茶碗の湯気などの場合だと、もう茶碗のすぐ上から大きく渦ができて、それがかなり早く回りながら上って行きます。
これとよく似た渦で、もっと大きなのが庭の上なぞにできることがあります。春先などのぽかぽか暖かい日には、前日雨でも降って土の湿っているところへ日光が当たって、そこから白い湯気が立つことがよくあります。そういうときによく気をつけて見ていてごらんなさい。湯気は、縁の下や垣根の隙間から冷たい風が吹き込むたびに、横に靡いてはまた立ち上ります。そして時々大きな渦ができ、それがちょうど竜巻のようなものになって、地面から何尺もある、高い柱の形になり、非常な速さで回転するのを見ることがあるでしょう。
茶碗の上や、庭先で起こる渦のようなもので、もっと大仕掛けなものがあります。それは雷雨のときに空中に起こっている大きな渦です。陸地の上のどこかの一地方が日光のために特別に暖められると、そこだけは地面から蒸発する水蒸気が特に多くなります。そういう地方のそばに、割合に冷たい空気に覆われた地方がありますと、前に言った地方の、暖かい空気が上がって行く跡へ、入り代わりに周りの冷たい空気が下から吹き込んで来て、大きな渦ができます。そして雹が降ったり雷が鳴ったりします。
これは茶碗の場合に比べると仕掛けがずっと大きくて、渦の高さも一里とか二里とかいうのですからそういう、いろいろな変わったことが起こるのですが、しかしまた見方によっては、茶碗の湯とこうした雷雨とはよほどよく似たものと思っても差し支えありません。もっとも雷雨のでき方は、今言ったような場合ばかりでなく、だいぶ模様の違ったのもありますから、どれもこれもみんな茶碗の湯に比べるのは無理ですがただ、ちょっと見ただけではまるで関係のないような事がらが、原理の上からはお互いによく似たものに見えるという一つの例に、雷をあげてみたのです。
湯気のお話はこのくらいにして、今度は湯のほうを見ることにしましょう。
白い茶碗に入っている湯は、日陰で見ては別に変わった模様も何もありませんが、それを日向へ持ち出して直接に日光を当て、茶碗の底をよく見てごらんなさい。そこには妙なゆらゆらした光った線や薄暗い線が不規則な模様のようになって、それが緩やかに動いているのに気がつくでしょう。これは夜電燈の光を当てて見ると、もっとよく鮮やかに見えます。夕食のお膳の上でもやれますからよく見てごらんなさい。それもお湯がなるべく熱いほど模様がはっきりします。
次に、茶碗のお湯がだんだんに冷えるのは、湯の表面の茶碗の周囲から熱が逃げるためだと思っていいのです。もし表面にちゃんと蓋でもしておけば、冷やされるのは主にに周りの茶碗に触れた部分だけになります。そうなると、茶碗に接したところでは湯は冷えて重くなり、下のほうへ流れて底のほうへ向かって動きます。その反対に、茶碗の真ん中のほうでは逆に上のほうへ昇って、表面からは外側に向かって流れる、だいたいそういうふうな循環が起こります。よく理科の書物なぞにある、ビーカーの底をアルコール・ランプで熱したときの水の流れと同じようなものになるわけです。これは湯の中に浮かんでいる、小さな糸くずなどの動くのを見ていても、いくらかわかるはずです。
しかし茶碗の湯を蓋もしないで置いた場合には、湯は表面からも冷えます。そしてその冷え方がどこも同じではないので、ところどころ特別に冷たいむらができます。そういう部分からは、冷えた水が下へ降りる、そのまわりの割合に熱い表面の水がその跡へ向かって流れる、それが降りた水の跡へ届く時分には冷えてそこから降りる。こんなふうにして湯の表面には水の降りているところと昇っているところとが方々にできます。従って湯の中までも、熱いところと割合にぬるいところとがいろいろに入り乱れてできて来ます。これに日光を当てると熱いところと冷たいところとの境で光が曲がるために、その光が一様にならず、むらになって茶碗の底を照らします。そのためにさきに言ったような模様が見えるのです。
日の当たった壁や屋根をすかして見ると、ちらちらしたものが見えることがあります。あの「陽炎」というものも、この茶碗の底の模様と同じようなものです。「陽炎」が立つのは、壁や屋根が熱せられると、それに接した空気が熱くなって膨脹して昇る、そのときにできる気流のむらが光を折り曲げるためなのです。
このような水や空気のむらを非常に鮮明に見えるようにくふうすることができます。その方法を使って鉄砲の弾が空中を飛んでいるときに、前面の空気を押しつけているありさまや、弾の後ろに渦巻を起こして進んでいる様子を写真にとることもできるし、また飛行機のプロペラーが空気を切っている模様を調べたり、そのほかいろいろの面白い研究をすることができます。
茶碗の湯のお話は、すればまだいくらでもありますが、今度はこれくらいにしておきましょう。
注文の多い料理店
宮沢賢治
二人の若い紳士が、すっかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴかぴかする鉄砲をかついで、白熊のような犬を二疋つれて、だいぶ山奥の、木の葉のかさかさしたとこを、こんなことを云いいながら、あるいておりました。
「ぜんたい、ここらの山は怪しからんね。鳥も獣も一疋も居やがらん。なんでも構わないから、早くタンタアーンと、やって見たいもんだなあ。」
「鹿の黄いろな横っ腹なんぞに、二三発お見舞もしたら、ずいぶん痛快だろうねえ。くるくるまわって、それからどたっと倒れるだろうねえ。」
それはだいぶの山奥でした。案内してきた専門の鉄砲打ちも、ちょっとまごついて、どこかへ行ってしまったくらいの山奥でした。
それに、あんまり山が物凄ものすごいので、その白熊のような犬が、二疋いっしょにめまいを起こして、しばらく吠って、それから泡を吐いて死んでしまいました。
「じつにぼくは、二千四百円の損害だ」と一人の紳士が、その犬の眼ぶたを、ちょっとかえしてみて言いました。
「ぼくは二千八百円の損害だ。」と、もひとりが、くやしそうに、あたまをまげて言いました。
はじめの紳士は、すこし顔いろを悪くして、じっと、もひとりの紳士の、顔つきを見ながら云いました。
「ぼくはもう戻ろうとおもう。」
「さあ、ぼくもちょうど寒くはなったし腹は空いてきたし戻ろうとおもう。」
「そいじゃ、これで切りあげよう。なあに戻りに、昨日の宿屋で、山鳥を拾円も買って帰ればいい。」
「兎もでていたねえ。そうすれば結局おんなじこった。では帰ろうじゃないか」
ところがどうも困ったことは、どっちへ行けば戻れるのか、いっこうに見当がつかなくなっていました。
風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。
「どうも腹が空いた。さっきから横っ腹が痛くてたまらないんだ。」
「ぼくもそうだ。もうあんまりあるきたくないな。」
「あるきたくないよ。ああ困ったなあ、何かたべたいなあ。」
「喰べたいもんだなあ」
二人の紳士は、ざわざわ鳴るすすきの中で、こんなことを云いました。
その時ふとうしろを見ますと、立派な一軒の西洋造りの家がありました。
そして玄関には
RESTAURANT
西洋料理店
WILDCAT HOUSE
山猫軒
という札がでていました。
「君、ちょうどいい。ここはこれでなかなか開けてるんだ。入ろうじゃないか」
「おや、こんなとこにおかしいね。しかしとにかく何か食事ができるんだろう」
「もちろんできるさ。看板にそう書いてあるじゃないか」
「はいろうじゃないか。ぼくはもう何か喰べたくて倒れそうなんだ。」
二人は玄関に立ちました。玄関は白い瀬戸の煉瓦で組んで、実に立派なもんです。
そして硝子の開き戸がたって、そこに金文字でこう書いてありました。
「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」
二人はそこで、ひどくよろこんで言いました。
「こいつはどうだ、やっぱり世の中はうまくできてるねえ、きょう一日なんぎしたけれど、こんどはこんないいこともある。このうちは料理店だけれどもただでご馳走するんだぜ。」
「どうもそうらしい。決してご遠慮はありませんというのはその意味だ。」
二人は戸を押おして、なかへ入りました。そこはすぐ廊下になっていました。その硝子戸の裏側には、金文字でこうなっていました。
「ことに肥ったお方や若いお方は、大歓迎いたします」
二人は大歓迎というので、もう大よろこびです。
「君、ぼくらは大歓迎にあたっているのだ。」
「ぼくらは両方兼ねてるから」
ずんずん廊下を進んで行きますと、こんどは水いろのペンキ塗りの扉がありました。
「どうも変な家うちだ。どうしてこんなにたくさん戸があるのだろう。」
「これはロシア式だ。寒いとこや山の中はみんなこうさ。」
そして二人はその扉をあけようとしますと、上に黄いろな字でこう書いてありました。
「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」
「なかなかはやってるんだ。こんな山の中で。」
「それあそうだ。見たまえ、東京の大きな料理屋だって大通りにはすくないだろう」
二人は云いながら、その扉をあけました。するとその裏側に、
「注文はずいぶん多いでしょうがどうか一々こらえて下さい。」
「これはぜんたいどういうんだ。」ひとりの紳士は顔をしかめました。
「うん、これはきっと注文があまり多くて支度が手間取るけれどもごめん下さいと斯ういうことだ。」
「そうだろう。早くどこか室の中にはいりたいもんだな。」
「そしてテーブルに座りたいもんだな。」
ところがどうもうるさいことは、また扉が一つありました。そしてそのわきに鏡がかかって、その下には長い柄のついたブラシが置いてあったのです。
扉には赤い字で、
「お客さまがた、ここで髪をきちんとして、それからはきもの
の泥を落してください。」
と書いてありました。
「これはどうも尤もだ。僕もさっき玄関で、山のなかだとおもって見くびったんだよ」
「作法の厳しい家だ。きっとよほど偉い人たちが、たびたび来るんだ。」
そこでふたりは、きれいに髪をけずって、靴の泥を落しました。
そしたら、どうです。ブラシを板の上に置くや否や、そいつがぼうっとかすんで無くなって、風がどうっと室の中に入ってきました。
二人はびっくりして、互いによりそって、扉をがたんと開けて、次の室へ入って行きました。早く何か暖いものでもたべて、元気をつけて置かないと、もう途方もないことになってしまうと、二人とも思ったのでした。
扉の内側に、また変なことが書いてありました。
「鉄砲と弾丸をここへ置いてください。」
見るとすぐ横に黒い台がありました。
「なるほど、鉄砲を持ってものを食うという法はない。」
「いや、よほど偉いひとが始終来ているんだ。」
二人は鉄砲をはずし、帯皮を解いて、それを台の上に置きました。
また黒い扉がありました。
「どうか帽子と外套と靴をおとり下さい。」
「どうだ、とるか。」
「仕方ない、とろう。たしかによっぽどえらいひとなんだ。奥に来ているのは」
二人は帽子とオーバーコートを釘くぎにかけ、靴をぬいでぺたぺたあるいて扉の中にはいりました。
扉の裏側には、
「ネクタイピン、カフスボタン、眼鏡、財布、その他金物類、
ことに尖ったものは、みんなここに置いてください」
と書いてありました。扉のすぐ横には黒塗りの立派な金庫も、ちゃんと口を開けて置いてありました。鍵まで添えてあったのです。
「ははあ、何かの料理に電気をつかうと見えるね。金気かなけのものはあぶない。ことに尖ったものはあぶないと斯う云うんだろう。」
「そうだろう。して見ると勘定は帰りにここで払うのだろうか。」
「どうもそうらしい。」
「そうだ。きっと。」
二人はめがねをはずしたり、カフスボタンをとったり、みんな金庫のなかに入れて、ぱちんと錠をかけました。
すこし行きますとまた扉があって、その前に硝子の壺が一つありました。扉には斯う書いてありました。
「壺のなかのクリームを顔や手足にすっかり塗ってください。」
みるとたしかに壺のなかのものは牛乳のクリームでした。
「クリームをぬれというのはどういうんだ。」
「これはね、外がひじょうに寒いだろう。室のなかがあんまり暖いとひびがきれるから、その予防なんだ。どうも奥には、よほどえらいひとがきている。こんなとこで、案外ぼくらは、貴族とちかづきになるかも知れないよ。」
二人は壺のクリームを、顔に塗って手に塗ってそれから靴下をぬいで足に塗りました。それでもまだ残っていましたから、それは二人ともめいめいこっそり顔へ塗るふりをしながら喰べました。
それから大急ぎで扉をあけますと、その裏側には、
「クリームをよく塗りましたか、耳にもよく塗りましたか、」
と書いてあって、ちいさなクリームの壺がここにも置いてありました。
「そうそう、ぼくは耳には塗らなかった。あぶなく耳にひびを切らすとこだった。ここの主人はじつに用意周到だね。」
「ああ、細かいとこまでよく気がつくよ。ところでぼくは早く何か喰べたいんだが、どうも斯うどこまでも廊下じゃ仕方ないね。」
するとすぐその前に次の戸がありました。
「料理はもうすぐできます。
十五分とお待たせはいたしません。
すぐたべられます。
早くあなたの頭に瓶の中の香水をよく振ふりかけてください。」
そして戸の前には金ピカの香水の瓶が置いてありました。
二人はその香水を、頭へぱちゃぱちゃ振りかけました。
ところがその香水は、どうも酢のような匂いがするのでした。
「この香水はへんに酢くさい。どうしたんだろう。」
「まちがえたんだ。下女が風邪でも引いてまちがえて入れたんだ。」
二人は扉をあけて中にはいりました。
扉の裏側には、大きな字で斯う書いてありました。
「いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう。お気の毒でした。
もうこれだけです。どうかからだ中に、壺の中の塩をたくさん
よくもみ込んでください。」
なるほど立派な青い瀬戸の塩壺は置いてありましたが、こんどというこんどは二人ともぎょっとしてお互にクリームをたくさん塗った顔を見合せました。
「どうもおかしいぜ。」
「ぼくもおかしいとおもう。」
「沢山たくさんの注文というのは、向うがこっちへ注文してるんだよ。」
「だからさ、西洋料理店というのは、ぼくの考えるところでは、西洋料理を、来た人にたべさせるのではなくて、来た人を西洋料理にして、食べてやる家とこういうことなんだ。これは、その、つ、つ、つ、つまり、ぼ、ぼ、ぼくらが……。」がたがたがたがた、ふるえだしてもうものが言えませんでした。
「その、ぼ、ぼくらが、……うわあ。」がたがたがたがたふるえだして、もうものが言えませんでした。
「遁げ……。」がたがたしながら一人の紳士はうしろの戸を押おそうとしましたが、どうです、戸はもう一分も動きませんでした。
奥の方にはまだ一枚扉があって、大きなかぎ穴が二つつき、銀いろのホークとナイフの形が切りだしてあって、
「いや、わざわざご苦労です。
大へん結構にできました。
さあさあおなかにおはいりください。」
と書いてありました。おまけにかぎ穴からはきょろきょろ二つの青い眼玉がこっちをのぞいています。
「うわあ。」がたがたがたがた。
「うわあ。」がたがたがたがた。
ふたりは泣き出しました。
すると戸の中では、こそこそこんなことを云っています。
「だめだよ。もう気がついたよ。塩をもみこまないようだよ。」
「あたりまえさ。親分の書きようがまずいんだ。あすこへ、いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう、お気の毒でしたなんて、間抜けたことを書いたもんだ。」
「どっちでもいいよ。どうせぼくらには、骨も分けて呉やしないんだ。」
「それはそうだ。けれどももしここへあいつらがはいって来なかったら、それはぼくらの責任だぜ。」
「呼ぼうか、呼ぼう。おい、お客さん方、早くいらっしゃい。いらっしゃい。いらっしゃい。お皿も洗ってありますし、菜っ葉ももうよく塩でもんで置きました。あとはあなたがたと、菜っ葉をうまくとりあわせて、まっ白なお皿にのせるだけです。はやくいらっしゃい。」
「へい、いらっしゃい、いらっしゃい。それともサラドはお嫌いですか。そんならこれから火を起してフライにしてあげましょうか。とにかくはやくいらっしゃい。」
二人はあんまり心を痛めたために、顔がまるでくしゃくしゃの紙屑のようになり、お互にその顔を見合せ、ぶるぶるふるえ、声もなく泣きました。
中ではふっふっとわらってまた叫んでいます。
「いらっしゃい、いらっしゃい。そんなに泣いては折角のクリームが流れるじゃありませんか。へい、ただいま。じきもってまいります。さあ、早くいらっしゃい。」
「早くいらっしゃい。親方がもうナフキンをかけて、ナイフをもって、舌なめずりして、お客さま方を待っていられます。」
二人は泣いて泣いて泣いて泣いて泣きました。
そのときうしろからいきなり、
「わん、わん、ぐゎあ。」という声がして、あの白熊のような犬が二疋、扉をつきやぶって室の中に飛び込んできました。鍵穴の眼玉はたちまちなくなり、犬どもはううとうなってしばらく室の中をくるくる廻まわっていましたが、また一声
「わん。」と高く吠えて、いきなり次の扉に飛びつきました。戸はがたりとひらき、犬どもは吸い込まれるように飛んで行きました。
その扉の向うのまっくらやみのなかで、
「にゃあお、くゎあ、ごろごろ。」という声がして、それからがさがさ鳴りました。
室はけむりのように消え、二人は寒さにぶるぶるふるえて、草の中に立っていました。
見ると、上着や靴や財布やネクタイピンは、あっちの枝にぶらさがったり、こっちの根もとにちらばったりしています。風がどうと吹ふいてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。
犬がふうとうなって戻もどってきました。
そしてうしろからは、
「旦那あ、旦那あ、」と叫ぶものがあります。
二人は俄に元気がついて
「おおい、おおい、ここだぞ、早く来い。」と叫びました。
簔帽子をかぶった専門の猟師が、草をざわざわ分けてやってきました。
そこで二人はやっと安心しました。
そして猟師のもってきた団子をたべ、途中で十円だけ山鳥を買って東京に帰りました。
しかし、さっき一ぺん紙くずのようになった二人の顔だけは、東京に帰っても、お湯にはいっても、もうもとのとおりになおりませんでした。
杜子春
芥川竜之介
一
ある春の日暮です。
唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。
若者は名は杜子春といって、元は金持の息子でしたが、今は財産を費い尽して、その日の暮しにも困る位、憐な身分になっているのです。
何しろその頃洛陽といえば、天下に並ぶもののない、繁昌を極めた都ですから、往来にはまだしっきりなく、人や車が通っていました。門一ぱいに当っている、油のような夕日の光の中に、老人のかぶった紗の帽子や、土耳古の女の金の耳環や、白馬に飾った色糸の手綱が、絶えず流れて行く容子は、まるで画のような美しさです。
しかし杜子春は相変らず、門の壁に身を凭せて、ぼんやり空ばかり眺めていました。空には、もう細い月が、うらうらと靡いた霞の中に、まるで爪の痕かと思う程、かすかに白く浮んでいるのです。
「日は暮れるし、腹は減るし、その上もうどこへ行っても、泊めてくれる所はなさそうだし――こんな思いをして生きている位なら、いっそ川へでも身を投げて、死んでしまった方がましかも知れない。」
杜子春はひとりさっきから、こんな取りとめもないことを思いめぐらしていたのです。
するとどこからやって来たか、突然彼の前へ足を止めた、片目眇の老人があります。それが夕日の光を浴びて、大きな影を門へ落すと、じっと杜子春の顔を見ながら、
「お前は何を考えているのだ。」と、横柄に言葉をかけました。
「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです。」
老人の尋ね方が急でしたから、杜子春はさすがに眼を伏せて、思わず正直な答をしました。
「そうか。それは可哀そうだな。」
老人はしばらく何事か考えているようでしたが、やがて、往来にさしている夕日の光を指さしながら、
「ではおれがいいことを一つ教えてやらう。今この夕日の中に立って、お前の影が地に映ったら、その頭に当る所を夜中に掘って見るがいい。きっと車に一ぱいの黄金が埋まっているはずだから。」
「ほんとうですか。」
杜子春は驚いて、伏せていた眼を挙げました。所が更に不思議なことには、あの老人はどこへ行ったか、もうあたりにはそれらしい、影も形も見当りません。その代り空の月の色は前よりもなお白くなって、休みない往来の人通りの上には、もう気の早い蝙蝠が二三匹ひらひら舞っていました。
二
杜子春は一日の内に、洛陽の都でも唯一人という大金持になりました。あの老人の言葉通り、夕日に影を映して見て、その頭に当る所を、夜中にそっと掘って見たら、大きな車にも余る位、黄金が一山でてきたのです。
大金持になった杜子春は、すぐに立派な家を買って、玄宗皇帝にも負けない位、贅沢な暮しをし始めました。蘭陵の酒を買わせるやら、桂州の竜眼肉をとりよせるやら、日に四度色の変る牡丹を庭に植えさせるやら、白孔雀を何羽も放飼いにするやら、玉を集めるやら、錦を縫わせるやら、香木の車を造らせるやら、象牙の椅子を誂えるやら、その贅沢を一々書いていては、いつになってもこの話がおしまいにならない位です。
するとこういう噂を聞いて、今までは路で行き合っても、挨拶さえしなかった友だちなどが、朝夕遊びにやって来ました。それも一日毎に数が増して、半年ばかり経つ内には、洛陽の都に名を知られた才子や美人が多い中で、杜子春の家へ来ないものは、一人もない位になってしまったのです。杜子春はこの御客たちを相手に、毎日酒盛りを開きました。その酒盛りのまた盛んなことは、中々口には尽されません。極かいつまんだだけをお話しても、杜子春が金の杯に西洋から来た葡萄酒を汲んで、天竺生れの魔法使が刀を呑んで見せる芸に見とれていると、そのまわりには二十人の女たちが、十人は翡翠の蓮の花を、十人は瑪瑙の牡丹の花を、いずれも髪に飾りながら、笛や琴を節面白く奏しているという景色なのです。
しかしいくら大金持でも、御金には際限がありますから、さすがに贅沢家の杜子春も、一年二年と経つ内には、だんだん貧乏になり出しました。そうすると人間は薄情なもので、昨日までは毎日来た友だちも、今日は門の前を通ってさへ、挨拶一つして行きません。ましてとうとう三年目の春、また杜子春が以前の通り、一文なしになって見ると、広い洛陽の都の中にも、彼に宿を貸そうという家は、一軒もなくなってしまいました。いや、宿を貸す所か、今では椀に一杯の水も、恵んでくれるものはないのです。
@@@
そこで彼はある日の夕方、もう一度あの洛陽の西の門の下へ行って、ぼんやり空を眺めながら、途方に暮れて立っていました。するとやはり昔のように、片目眇の老人が、どこからか姿を現して、
「お前は何を考えているのだ。」と、声をかけるではありませんか。
杜子春は老人の顔を見ると、恥しそうに下を向いたまま、しばらくは返事もしませんでした。が、老人はその日も親切そうに、同じ言葉を繰返しますから、こちらも前と同じように、
「私は今夜寝る所もないので、どうしたものかと考えているのです。」と、恐恐るる返事をしました。
「そうか。それは可哀そうだな、ではおれがいいことを一つ教えてやらう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その胸に当る所を、夜中に掘って見るがいい。きっと車に一ぱいの黄金が埋まっているはずだから。」
老人はこう言ったと思うと、今度もまた人ごみの中へ、掻き消すように隠れてしまいました。
杜子春はその翌日から、たちまち天下第一の大金持に返りました。と同時に相変らず、仕放題な贅沢をし始めました。庭に咲いている牡丹の花、その中に眠っている白孔雀、それから刀を呑んで見せる、天竺から来た魔法使すべてが昔の通りなのです。
ですから車に一ぱいあった、あの夥しい黄金も、また三年ばかり経つ内には、すっかりなくなってしまいました。
三
「お前は何を考えているのだ。」
片目眇の老人は、三度杜子春の前へ来て、同じことを問いかけました。もちろん彼はその時も、洛陽の西の門の下に、ほそぼそと霞を破っている三日月の光を眺めながら、ぼんやりたたずんでいたのです。
「私ですか。私は今夜寝る所もないので、どうしようかと思っているのです。」
「そうか。それは可哀そうだな。ではおれがいいことを教えてやらう。今この夕日の中へ立って、お前の影が地に映ったら、その腹に当る所を、夜中に掘って見るがいい。きっと車に一ぱいの」
老人がここまで言いかけると、杜子春は急に手を挙げて、その言葉を遮りました。
「いや、お金はもう入らないのです。」
「金はもう入らない? ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまったと見えるな。」
老人は審しそうな眼つきをしながら、じっと杜子春の顔を見つめました。
「何、贅沢に飽きたのじゃありません。人間というものに愛想がつきたのです。」
杜子春は不平そうな顔をしながら、突慳貪にこう言いました。
「それは面白いな。どうしてまた人間に愛想が尽きたのだ?」
「人間は皆薄情です。私が大金持になった時には、世辞も追従もしますけれど、一旦貧乏になって御覧なさい。柔しい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たとい一度もう大金持になった所が、何にもならないような気がするのです。」
老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑い出しました。
「そうか。いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか。」
杜子春はちょいとためらいました。が、すぐに思い切った眼を挙げると、訴えるように老人の顔を見ながら、
「それも今の私にはできません。ですから私はあなたの弟子になって、仙術の修業をしたいと思うのです。いいえ、隠してはいけません。あなたは道徳の高い仙人でしょう。仙人でなければ、一夜の内に私を天下第一の大金持にすることはできないはずです。どうか私の先生になって、不思議な仙術を教えて下さい。」
老人は眉をひそめたまま、しばらくは黙って、何事か考えているようでしたが、やがてまたにっこり笑いながら、
「いかにもおれは峨眉山に生んでいる、鉄冠子という仙人だ。始めお前の顔を見た時、どこか物わかりが好さそうだったから、二度まで大金持にしてやったのだが、程それ仙人になりたければ、おれの弟子にとり立ててやろう。」と、快く願を容れてくれました。
杜子春は喜んだの、喜ばないのではありません。老人の言葉がまだ終らない内に、彼は大地に額をつけて、何度も鉄冠子に御時宜をしました。
「いや、そう御礼などは言って貰うまい。いくらおれの弟子にした所で、立派な仙人になれるかなれないかは、お前次第できまることだからな。が、兎も角もまずおれといっしょに、峨眉山の奥へ来て見るがいい。おお、幸、ここに竹杖が一本落ちている。では早速これへ乗って、一飛びに空を渡るとしよう。」
鉄冠子はそこにあった青竹を一本拾上いげると、口の中に呪文を唱えながら、杜子春といっしょにその竹へ、馬にでも乗るように跨りました。すると不思議ではありませんか。竹杖はたちまち竜のように、勢よく大空へ舞い上って、晴渡れった春の夕空を峨眉山の方角へ飛んで行きました。杜子春は胆をつぶしながら、恐恐るる下を見下しました。が、下にはただ青い山々が夕明りの底に見えるばかりで、あの洛陽の都の西の門は、(とうに霞に紛れたのでしょう。)どこを探しても見当りません。その内に鉄冠子は、白い鬢の毛を風に吹かせて、高らかに歌を唱い出しました。
朝に北海に遊び、暮には蒼梧。
袖裏の青蛇、胆気粗なり。
三たび岳陽に入れども、人識らず。
朗吟して、飛過す洞庭湖。
四
二人を乗せた青竹は、間もなく峨眉山へ舞い下りました。
そこは深い谷に臨んだ、幅の広い一枚岩の上でしたが、よくよく高い所だと見えて、中空に垂れた北斗の星が、茶碗程の大きさに光っていました。元より人跡の絶えた山ですから、あたりはしんと静返まりって、やっと耳にはいるものは、後の絶壁に生えている、曲りくねった一株の松が、こうこうと夜風に鳴る音だけです。
二人がこの岩の上に来ると、鉄冠子は杜子春を絶壁の下に座らせて、
「おれはこれから天上へ行って、西王母に御眼にかかって来るから、お前はその間ここに座って、おれの帰るのを待っているがいい。多分おれがいなくなると、いろいろな魔性が現れて、お前をたぶらかそうとするだろうが、たといどんなことが起ろうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言でも口を利いたら、お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。いいか。天地が裂けても、黙っているのだぞ。」と言いました。
「大丈夫です。決して声なぞは出しはしません。命がなくなっても、黙っています。」
「そうか。それを聞いて、おれも安心した。ではおれは行って来るから。」
老人は杜子春に別れを告げると、またあの竹杖に跨って、夜目にも削ったような山々の空へ、一文字に消えてしまいました。
杜子春はたった一人、岩の上に座ったまま、静に星を眺めていました。すると彼これ半時ばかり経って、深山の夜気が肌寒く薄い着物に透り出した頃、突然空中に声があって、
「そこにいるのは何者だ。」と叱りつけるではありませんか。
しかし杜子春は仙人の教通り、何とも返事をしずにいました。
所がまたしばらくすると、やはり同じ声が響いて、
「返事をしないと立所ちに、命はないものと覚悟しろ。」と、いかめしく嚇しつけるのです。
杜子春はもちろん黙っていました。
と、どこから登って来たか、乱々と眼を光らせた虎が一匹、忽然と岩の上に躍り上って、杜子春の姿を睨みながら、一声高く哮りました。のみならずそれと同時に、頭の上の松の枝が、烈しくざわざわ揺れたと思うと、後の絶壁の頂からは、四斗樽程の白蛇が一匹、炎のような舌を吐いて、見る見る近くへ下りて来るのです。
杜子春はしかし平然と、眉毛も動かさずに座っていました。
虎と蛇とは、一つ餌食を狙って、互に隙でも窺うのか、しばらくは睨合いの体でしたが、やがてどちらが先ともなく、一時に杜子春に飛びかかりました。が、虎の牙に噛まれるか、蛇の舌に呑まれるか、杜子春の命は瞬く内に、なくなってしまうと思った時、虎と蛇とは霧のごとく、夜風共とに消失えせて、後にはただ、絶壁の松が、さっきの通りこうこうと枝を鳴らしているばかりなのです。杜子春はほっと一息しながら、今度はどんなことが起るかと、心待ちに待っていました。
すると一陣の風が吹き起って、墨のような黒雲が一面にあたりをとざすや否や、うす紫の稲妻がやにわに闇を二つに裂いて、凄じく雷が鳴り出しました。いや、雷ばかりではありません。それといっしょに瀑のような雨も、いきなりどうどうと降出りしたのです。杜子春はこの天変の中に、恐れ気もなく座っていました。風の音、雨のしぶき、それから絶間えない稲妻の光、しばらくはさすがの峨眉山も、覆るかと思う位でしたが、その内に耳をもつんざく程、大きな雷鳴が轟いたと思うと、空に渦巻いた黒雲の中から、まっ赤な一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました。
杜子春は思わず耳を抑えて、一枚岩の上へ伏ひれしました。が、すぐに眼を開いて見ると、空は以前の通り晴渡れって、向うにそびえた山山の上にも、茶碗程の北斗の星が、やはりきらきら輝いています。して見れば今の大あらしも、あの虎や白蛇と同じように、鉄冠子の留守をつけこんだ、魔性の悪戯に違いありません。杜子春は漸く安心して、額の冷汗を拭いながら、また岩の上に座り直しました。
が、その息ためがまだ消えない内に、今度は彼の座っている前へ、金の鎧を着下した、身丈の三丈もあろうという、厳かな神将が現れました。神将は手に三叉の戟を持っていましたが、いきなりその戟の切先を杜子春の胸もとへ向けながら、眼を嗔らせて叱りつけるのを聞けば、
「こら、その方は一体何物だ。この峨眉山という山は、天地開闢の昔から、おれが住居をしている所だぞ。それも憚らずたった一人、ここへ足を踏入みれるとは、よもやただの人間ではあるまい。さあ命が惜しかったら、一刻も早く返答しろ。」と言うのです。
しかし杜子春は老人の言葉通り、黙然と口を噤んでいました。
「返事をしないか。しないな。好し。しなければ、しないで勝手にしろ。その代りおれの眷属たちが、その方をずたずたに斬ってしまうぞ。」
神将は戟を高く挙げて、向うの山の空を招きました。その途端に闇がさっと裂けると、驚いたことには無数の神兵が、雲のごとく空に充満ちて、それが皆槍や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻寄めせようとしているのです。
この景色を見た杜子春は、思わずあっと叫びそうにしましたが、すぐにまた鉄冠子の言葉を思い出して、一生懸命に黙っていました。神将は彼が恐れないのを見ると、怒ったの怒らないのではありません。
「この剛情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り命はとってやるぞ。」
神将はこう喚くが早いか、三叉の戟を閃かせて、一突きに杜子春を突き殺しました。そうして峨眉山もどよむ程、からからと高く笑いながら、どこともなく消えてしまいました。もちろんこの時はもう無数の神兵も、吹き渡る夜風の音といっしょに、夢のように消失えせた後だったのです。
北斗の星はまた寒そうに、一枚岩の上を照らし始めました。絶壁の松も前に変らず、こうこうと枝を鳴らせています。が、杜子春はとうに息が絶えて、仰向けにそこへ倒れていました。
五
杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れていましたが、杜子春の魂は、静に体から抜出けして、地獄の底へ下りて行きました。
世このと地獄との間には、闇穴道という道があって、そこは年中暗い空に、氷のような冷たい風がぴゅうぴゅう吹荒きんでいるのです。杜子春はその風に吹かれながら、しばらくはただ木葉ののように、空を漂って行きましたが、やがて森羅殿という額の懸った立派な御殿の前へ出ました。
御殿の前にいた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまわりを取り捲いて、階の前へ引き据えました。階の上には一人の王様が、まっ黒な袍に金の冠をかぶって、いかめしくあたりを睨んでいます。これは兼ねて噂に聞いた、閻魔大王に違いありません。杜子春はどうなることかと思いながら、恐恐るるそこへ跪いていました。
「こら、その方は何の為に、峨眉山の上へ座っていた?」
閻魔大王の声は雷のように、階の上から響きました。杜子春は早速その問に答えようとしましたが、ふとまた思い出したのは、「決して口を利くな。」という鉄冠子の戒めの言葉です。そこでただ頭を垂れたまま、唖のように黙っていました。すると閻魔大王は、持っていた鉄の笏を挙げて、顔中の鬚を逆立てながら、
「その方はここをどこだと思う? 速に返答をすれば好し、さもなければ時を移さず、地獄の呵責に遇わせてくれるぞ。」と、威だけ高に罵りました。
が、杜子春は相変らず唇一つ動かしません。それを見た閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言いつけると、鬼どもは一度に畏って、たちまち杜子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞い上りました。
地獄には誰でも知っている通り、剣の山や血池のの外にも、焦熱地獄という炎の谷や極寒地獄という氷の海が、真暗な空の下に並んでいます。鬼どもはそういう地獄の中へ、代代るる杜子春を放りこみました。ですから杜子春は無残にも、剣に胸を貫かれるやら、炎に顔を焼かれるやら、舌を抜かれるやら、皮を剥がれるやら、鉄の杵に撞かれるやら、油の鍋に煮られるやら、毒蛇に脳味噌を吸われるやら、熊鷹に眼を食われるやら、その苦しみを数へ立てていては、到底際限がない位、あらゆる責苦に遇はされたのです。それでも杜子春は我慢強く、じっと歯を食いしばったまま、一言も口を利きませんでした。
これにはさすがの鬼どもも、呆返れってしまったのでしょう。一度もう夜のような空を飛んで、森羅殿の前へ帰って来ると、さっきの通り杜子春を階の下に引き据えながら、御殿の上の閻魔大王に、
「この罪人はどうしても、ものを言う気色がございません。」と、口を揃えて言上しました。
閻魔大王は眉をひそめて、しばらく思案に暮れていましたが、やがて何か思いついたと見えて、
「この男の父母は、畜生道に落ちているはずだから、早速ここへ引き立てて来い。」と、一匹の鬼にいいつけました。
鬼はたちまち風に乗って、地獄の空へ舞い上りました。と思うと、また星が流れるように、二匹の獣を駆立りてながら、さっと森羅殿の前へ下りて来ました。その獣を見た杜子春は、驚いたの驚かないのではありません。なぜかといえばそれは二匹とも、形は見すぼらしい痩せ馬でしたが、顔は夢にも忘れない、死んだ父母の通りでしたから。
「こら、その方は何のために、峨眉山の上に座っていたか、まっすぐに白状しなければ、今度はその方の父母に痛い思いをさせてやるぞ。」
杜子春はこう嚇されても、やはり返答をしずにいました。
「この不孝者めが。その方は父母が苦しんでも、その方さえ都合が好ければ、いいと思っているのだな。」
閻魔大王は森羅殿も崩れる程、凄じい声で喚きました。
「打て。鬼ども。その二匹の畜生を、肉も骨も打砕ちいてしまえ。」
鬼どもは一斉に「はっ」と答えながら、鉄の鞭をとって立ち上ると、四方八方から二匹の馬を、未練未釈なく打ちのめしました。鞭はりゅうりゅうと風を切って、所嫌わず雨のように、馬の皮肉を打破ちるのです。馬は、畜生になった父母は、苦しそうに身を悶えて、眼には血の涙を浮べたまま、見てもいられない程嘶き立てました。
「どうだ。まだその方は白状しないか。」
閻魔大王は鬼どもに、しばらく鞭の手をやめさせて、一度もう杜子春の答を促しました。もうその時には二匹の馬も、肉は裂け骨は砕けて、息も絶絶ええに階の前へ、倒れ伏していたのです。
杜子春は必死になって、鉄冠子の言葉を思い出しながら、緊く眼をつぶっていました。するとその時彼の耳には、殆声とはいえない位、かすかな声が伝わって来ました。
「心配をおしでない。私たちはどうなっても、お前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰っても、言いたくないことは黙って御出で。」
それは確に懐しい、母親の声に違いありません。杜子春は思わず、眼をあきました。そうして馬の一匹が、力なく地上に倒れたまま、悲しそうに彼の顔へ、じっと眼をやっているのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思いやって、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨む気色さえも見せないのです。大金持になれば御世辞を言い、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何という有難い志でしょう。何という健気な決心でしょう。杜子春は老人の戒めも忘れて、転ぶようにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頚を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん。」と一声を叫びました。……
六
その声に気がついて見ると、杜子春はやはり夕日を浴びて、洛陽の西の門の下に、ぼんやりたたずんでいるのでした。霞んだ空、白い三日月、絶間えない人や車の波、すべてがまだ峨眉山へ、行かない前と同じことです。
「どうだな。おれの弟子になった所が、とても仙人にはなれはすまい。」
片目眇の老人は微笑を含みながら言いました。
「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかったことも、反って嬉しい気がするのです。」
杜子春はまだ眼に涙を浮べたまま、思わず老人の手を握りました。
「いくら仙人になれた所が、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母を見ては、黙っている訳には行きません。」
「もしお前が黙っていたら」と鉄冠子は急に厳な顔になって、じっと杜子春を見つめました。
「もしお前が黙っていたら、おれは即座にお前の命を絶ってしまおうと思っていたのだ。お前はもう仙人になりたいという望も持っていまい。大金持になることは、元より愛想がつきたはずだ。ではお前はこれから後、何になったらいいと思うな。」
「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」
杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子が罩っていました。
「その言葉を忘れるなよ。ではおれは今日限り、二度とお前には遇わないから。」
鉄冠子はこう言う内に、もう歩き出していましたが、急にまた足を止めて、杜子春の方を振返りると、
「おお、幸、今思い出したが、おれは泰山の南の麓に一軒の家を持っている。その家を畑ごとお前にやるから、早速行って住もうがいい。今頃はちょうど家のまわりに、桃の花が一面に咲いているだろう。」と、さも愉快そうにつけ加えました。
(大正九年六月)
二人の兄弟
島崎藤村
一 榎木の実
皆さんは榎木の実を拾ったことがありますか。あの実の落ちて居る木の下へ行ったことがありますか。あの香ばしい木の実を集めたり食べたりして遊んだことがありますか。
そろそろあの榎木の実が落ちる時分でした。二人の兄弟はそれを拾うのを楽みにして、まだあの実が青くて食べられない時分から、早く紅くなれ早く紅くなれと言って待って居ました。
二人の兄弟の家には奉公して働いて居る正直な好いお爺さんがありました。このお爺さんは山へも木を伐りに行くし畠へも野菜をつくりに行って、何でもよく知って居ました。
このお爺さんが兄弟の子供に申しました。
「まだ榎木の実は渋くて食べられません。もう少しお待ちなさい。」とそう申しました。
弟は気の短い子供で、榎木の実の紅くなるのが待って居られませんでした。お爺さんが止めるのも聞かずに、馳出して行きました。この子供が木の実を拾いに行きますと、高い枝の上に居た一羽の橿鳥が大きな声を出しまして、
「早過ぎた。早過ぎた。」と鳴きました。
気の短い弟は、枝に生って居るのを打ち落すつもりで、石ころや棒を拾っては投げつけました。その度に、榎木の実が葉と一緒になって、パラパラパラパラ落ちて来ましたが、どれもこれも、まだ青くて食べられないのばかりでした。
そのうちに今度は兄の子供が出掛けて行きました。兄は弟と違って気長な子供でしたから「大丈夫、榎木の実はもう紅くなって居る。」と安心して、ゆっくり構えて出掛けて行きました。兄の子供が木の実を拾いに行きますと、高い枝の上に居た橿鳥がまた大きな声を出しまして、
「遅過ぎた。遅過ぎた。」と鳴きました。
気長な兄は、しきりと木の下を探し廻りましたが、紅い榎木の実は一つも見つかりませんでした。この子供がゆっくり出掛けて行くうちに、木の下に落ちて居たのを皆な他の子供に拾われてしまいました。
二人の兄弟がこの話をお爺さんにしましたら、お爺さんがそう申しました。
「一人はあんまり早過ぎたし、一人はあんまり遅過ぎました。丁度好い時を知らなければ、好い榎木の実は拾われません。私がその丁度好い時を教えてあげます。」と申しました。
ある朝、お爺さんが二人の子供に、「さあ、早く拾いにお出なさい、丁度好い時が来ました。」と教えました。その朝は風が吹いて、榎木の枝が揺れるような日でした。二人の兄弟が急いで木の下へ行きますと、橿鳥が高い枝の上からそれを見て居まして、
「丁度好い。丁度好い。」と鳴きました。
榎木の下には、紅い小さな球のような実が、そこにも、ここにも、一ぱい落ちこぼれて居ました。二人の兄弟は木の周囲を廻って、拾っても、拾っても、拾いきれないほど、それを集めて楽みました。
橿鳥は首を傾げて、このありさまを見て居ましたが、
「なんとこの榎木の下には好い実が落ちて居ましょう。沢山お拾いなさい。序に、私も一つ御褒美を出しますから、それも拾って行って下さい。」と言いながら青い斑の入った小さな羽を高い枝の上から落してよこしました。
二人の兄弟は榎木の実ばかりでなく、橿鳥の美しい羽を拾い、おまけにその大きな榎木の下で、「丁度好い時」までも覚えて帰って来ました。
二 釣りの話
ある日、お爺さんは二人の兄弟に釣りの道具を造って呉れると言いました。
いかにお爺さんでも釣りの道具は、むずかしかろう、と二人の子供がそう思って見て居ました。この兄弟の家の周囲には釣竿一本売る店がありませんでしたから。
お爺さんは何処からか釣針を探して来ました。それから細い竹を切って来まして、それで二本の釣竿を造りました。
「針と竿が出来ました。今度は糸の番です。」とお爺さんは言って、栗の木に住む栗虫から糸を取りました。丁度お蚕さまのように、その栗虫からも白い糸が取れるのです。お爺さんは栗虫から取れた糸を酢に浸けまして、それを長く引延しました。その糸が日に乾いて堅くなる頃には、兄弟の子供の力で引いても切れないほど丈夫で立派なものが出来上りました。
「さあ、釣りの道具が揃いました。」と言って兄弟に呉れました。
二人の子供はお爺さんが造った釣竿を手に提げまして、大喜びで小川の方へ出掛けて行きました。小川の岸には胡桃の木の生えて居る場所がありました。兄弟は鰍の居そうな石の間を見立てまして、胡桃の木のかげに腰を掛けて釣りました。
半日ばかり、この二人の子供が小川の岸で遊んで家の方へ帰って行きますと、丁度お爺さんも木を一ぱい背負って山の方から帰って来たところでした。
「釣れましたか。」とお爺さんが聞きますと、兄弟の子供はがっかりしたように首を振りました。賢いお魚は一匹も二人の釣針に掛りませんでした。
その時、兄弟の子供はお爺さんに釣りの話をしました。兄はゆっくり構えて釣って居たものですから釣針にさした餌は皆な鰍に食られてしまいました。
弟はまたお魚の釣れるのが待遠しくて、ほんとに釣れるまで待って居られませんでした。つい水の中を掻廻すと、鰍は皆な驚いて石の下へ隠れてしまいました。
お爺さんは子供の釣りの話を聞いて、正直な人の好さそうな声で笑いました。そして二人の兄弟にこう申しました。
「一人はあんまり気が長過ぎたし、また、一人はあんまり気が短過ぎました。釣りの道具ばかりでお魚は釣れません。」
納豆合戦
菊池寛
一
皆さん、あなた方は、納豆売の声を、聞いたことがありますか。朝寝坊をしないで、早くから眼をさましておられると、朝の六時か七時頃、冬ならば、まだお日様が出ていない薄暗い時分から、
「なっと、なっとう!」と、あわれっぽい節を付けて、売りに来る声を聞くでしょう。もっとも、納豆売は、田舎には余りいないようですから、田舎に住んでいる方は、まだお聞きになったことがないかも知れませんが、東京の町々では毎朝納豆売が、一人や二人は、きっとやって来ます。
私は、どちらかといえば、寝坊ですが、それでも、時々朝まだ暗いうちに、床の中で、眼をさましていると、
「なっと、なっとう!」と、いうあわれっぽい女の納豆売の声を、よく聞きます。
私は、「なっと、なっとう!」という声を聞く度に、私がまだ小学校へ行っていた頃に、納豆売のお婆さんに、いたずらをしたことを思い出すのです。それを、思い出す度に、私は恥しいと思います。悪いことをしたもんだと後悔します。私は、今そのお話をしようと思います。
私が、まだ十一二の時、私の家は小石川の武島町にありました。そして小石川の伝通院のそばにある、礫川学校へ通っていました。私が、近所のお友達四五人と、礫川学校へ行く道で、毎朝納豆売の盲目のお婆さんに逢いました。もう、六十を越しているお婆さんでした。貧乏なお婆さんと見え、冬もボロボロの袷を重ねて、足袋もはいていないような、可哀そうな姿をしておりました。そして、納豆の苞を、二三十持ちながら、あわれな声で、
「なっと、なっとう!」と、呼びながら売り歩いているのです。杖を突いて、ヨボヨボ歩いている可哀そうな姿を見ると、大抵の家では買ってやるようでありました。
私達は初めのうちは、このお婆さんと擦れ違っても、誰もお婆さんのことなどはかまいませんでしたが、ある日のことです。私達の仲間で、悪戯の大将と言われる豆腐屋の吉公という子が、向うからヨボヨボと歩いて来る、納豆売りのお婆さんの姿を見ると、私達の方を向いて、
「おい、俺がお婆さんに、いたずらをするから、見ておいで。」と言うのです。
私達はよせばよいのにと思いましたが、何しろ、十一二という悪戯盛りですから、一体吉公がどんな悪戯をするのか見ていたいという心持もあって、だまって吉公の後からついて行きました。
すると吉公はお婆さんの傍へつかつかと進んで行って、
「おい、お婆さん、納豆をおくれ。」と言いました。すると、お婆さんは口をもぐもぐさせながら、
「一銭の苞ですか、二銭の苞ですか。」と言いました。
「一銭のだい!」と吉公は叱るように言いました。お婆さんがおずおずと一銭の藁苞を出しかけると、吉公は、
「それは嫌だ。そっちの方をおくれ。」と、言いながら、いきなりお婆さんの手の中にある二銭の苞を、引ったくってしまいました。お婆さんは、可哀そうに、眼が見えないものですから、一銭の苞の代りに、二銭の苞を取られたことに、気が付きません。吉公から、一銭受け取ると、
「はい、有難うございます」と、言いながら、又ヨボヨボ向うへ行ってしまいました。
吉公は、お婆さんから取った二銭の苞を、私達に見せびらかしながら、
「どうだい、一銭で二銭の苞を、まき上げてやったよ。」と、自分の悪戯を自慢するように言いました。一銭のお金で、二銭の物を取るのは、悪戯というよりも、もっといけない悪いことですが、その頃私達は、まだ何の考もない子供でしたから、そんなに悪いことだとも思わず、吉公がうまく二銭の苞を、取ったことを、何かエライことをでもしたように、感心しました。
「うまくやったね。お婆さん何も知らないで、ハイ有難うございます、と言ったねえ、ハハハハ。」と、私が言いますと、みんなも声を揃えて笑いました。
が、吉公は、お婆さんから、うまく二銭の納豆をまき上げたといっても、何も学校へ持って行って、喰べるというのではありません。学校へ行くと、吉公は私達に、納豆を一掴みずつ渡しながら、
「さあ、これから、戦ごっこをするのだ。この納豆が鉄砲丸だよ。これのぶっつけこをするんだ。」と、言いました。私達は二組に別れて、雪合戦をするように納豆合戦をしました。キャッキャッ言いながら、納豆を敵に投げました。そして面白い戦ごっこをしました。
あくる朝、又私達は、学校へ行く道で、納豆売のお婆さんに逢いました。すると、吉公は、
「おい、誰か一銭持っていないか。」と言いました。私は、昨日の納豆合戦の面白かったことを、思い出しました。私は、早速持っていた一銭を、吉公に渡しました。吉公は、昨日と同じようにして、一銭で二銭の納豆を騙して取りました。その日も、学校で面白い納豆合戦をやりました。
二
その翌日です。私達は、又学校へ行く道で、納豆売のお婆さんに逢いました。その日は、吉公ばかりでありません。私もつい面白くなって、一銭で二銭の苞を騙して取りました。すると、外の友達も、
「俺にも、一銭のをおくれ。」と、言いながら、みんな二銭の苞を、騙して取りました。お婆さんが、
「はい、有難うございます。」と、言っているうちに、お婆さんの手の中の二銭の苞は、見る間に二つ三つになってしまいました。
そのあくる日も、そのあくる日も、私達はこのお婆さんから、二銭の苞を騙して取りました。人の良いお婆さんも、家へ帰って売上げ高を、勘定して見ると、お金が足りないので、私達に騙されるのに、気がついたのでしょう。そっと、交番のお巡査さんに、言いつけたと見えます。
お婆さんが、お巡査さんに言ったとは、夢にも知らない私達は、ある朝、お婆さんに出くわすと、いつもの吉公が、
「さあ、今日も鉄砲丸を買わなきゃならないぞ。」と、言いながら、お婆さんの傍へ寄ると、
「おい、お婆さん、一銭のを貰うぜ。」と、言いながら、何時ものように、二銭の苞を取ろうとしました。すると、丁度その時です。急に、グッグッという靴の音がして、お巡査さんが、急いで馳けつけて来たかと思うと、二銭の苞を握っている吉公の右の手首を、グッと握りしめました。
「おい、お前は、いくらの納豆を買ったのだ。」とお巡査さんが、怖しい声で聞きました。いくら餓鬼大将の吉公だといって、お巡査さんに逢っちゃ堪りません。蒼くなって、ブルブル顫えながら、
「一銭のです、一銭のです。」と、泣き声で言いました。すると、お巡査さんは、
「太い奴だ。これは二銭の苞じゃないか。この間中から、このお婆さんが、納豆を盗まれる盗まれると、こぼしていたが、お前達が、こんな悪戯をやっていたのか。さあ、交番へ来い。」と、言いながら、吉公を引きずって行こうとしました。吉公は、おいおい泣き出しました。私達も、吉公と同じ悪いことをしているのですから、みんな蒼くなって、ブルブル顫えていました。すると、吉公はお巡査さんに引きずられながら、「私一人じゃありません。みんなもしたのです。私一人じゃありません。」と言ってしまいました。するとお巡査さんは、恐い眼で、私達を睨みながら、
「じゃ、みんなの名前を言ってご覧。」と言いました。そう言われると、私達はもう堪らなくなって、
「わあッ。」と、一ぺんに泣き出しました。
すると、傍にじっと立っていた納豆売のお婆さんです。私達が、一緒に泣き出す声を聞くと、急に盲目の眼を、ショボショボさせたかと思うと、お巡査さんの方へ、手さぐりに寄りながら、
「もう、旦那さん、勘忍して下さい。ホンのこの坊ちゃん達のいたずらだ。悪気でしたのじゃありません。いい加減に、勘忍してあげてお呉んなさい。」と、まだ眼を光らしているお巡査さんをなだめました。見ると、お婆さんは、眼に一杯涙を湛えているのです。お巡査さんは、お婆さんの言葉を聞くと、やっと吉公の手を離して、
「お婆さんが、そう言うのなら、勘弁してやろう。もう一度、こんなことをすると、承知をしないぞ。」と、言いながら、向うへ行ってしまいました。すると、お婆さんは、やっと安心したように、
「さあ、坊ちゃん方、はやく学校へいらっしゃい。今度から、もうこのお婆さんに、悪戯をなさるのではありませんよ。」と言いました。私は、お婆さんの眼の見えない顔を見ていると穴の中へでも、這入りたいような恥しさと、悪いことをしたという後悔とで、心の中が一杯になりました。
このことがあってから、私達がぷっつりと、この悪戯を止めたのは、申す迄もありません。その上、餓鬼大将の吉公さえ、前よりはよほどおとなしくなったように見えました。私は、納豆売のお婆さんに、恩返しのため何かしてやらねばならないと思いました。それでその日学校から、家へ帰ると、
「家では、納豆を少しも買わないの。」と、お母さんに、ききました。
「お前は、納豆を喰べたいのかい。」と、お母さんがきき返しました。
「喰べたくはないんだけれど、可哀そうな納豆売のお婆さんがいるから。」と言いました。
「お前が、そういう心掛で買うのなら、時々は買ってもいい。お父様は、お好きな方なのだから。」と、お母さんは言いました。それから、毎朝、お婆さんの声が聞えると、お金を貰って納豆を買いました。そして、そのお婆さんが、来なくなる時まで、私は大抵毎朝、お婆さんから納豆を買いました。
白
芥川龍之介
一
ある春の午過ぎです。白と云う犬は土を嗅ぎ嗅ぎ、静かな往来を歩いていました。狭い往来の両側にはずっと芽をふいた生垣が続き、そのまた生垣の間にはちらほら桜なども咲いています。白は生垣に沿いながら、ふとある横町へ曲りました。が、そちらへ曲ったと思うと、さもびっくりしたように、突然立ち止ってしまいました。
それも無理はありません。その横町の七八間先には印半纏を着た犬殺しが一人、罠を後に隠したまま、一匹の黒犬を狙っているのです。しかも黒犬は何も知らずに、犬殺しの投げてくれたパンか何かを食べているのです。けれども白が驚いたのはそのせいばかりではありません。見知らぬ犬ならばともかくも、今犬殺しに狙われているのはお隣の飼犬の黒なのです。毎朝顔を合せる度にお互の鼻の匂を嗅ぎ合う、大の仲よしの黒なのです。
白は思わず大声に「黒君! あぶない!」と叫ぼうとしました。が、その拍子に犬殺しはじろりと白へ目をやりました。「教えて見ろ! 貴様から先へ罠にかけるぞ。」――犬殺しの目にはありありとそう云う嚇しが浮んでいます。白は余りの恐ろしさに、思わず吠えるのを忘れました。いや、忘れたばかりではありません。一刻もじっとしてはいられぬほど、臆病風が立ち出したのです。白は犬殺しに目を配りながら、じりじり後すざりを始めました。そうしてまた生垣の蔭に犬殺しの姿が隠れるが早いか、可哀そうな黒を残したまま、一目散に逃げ出しました。
その途端に罠が飛んだのでしょう。続けさまにけたたましい黒の鳴き声が聞えました。しかし白は引き返すどころか、足を止めるけしきもありません。ぬかるみを飛び越え、石ころを蹴散らし、往来どめの縄を擦り抜け、五味ための箱を引っくり返し、振り向きもせずに逃げ続けました。御覧なさい。坂を駈けおりるのを! そら、自動車に轢かれそうになりました! 白はもう命の助かりたさに夢中になっているのかも知れません。いや、白の耳の底にはいまだに黒の鳴き声が虻のように唸っているのです。
「きゃあん。きゃあん。助けてくれえ! きゃあん。きゃあん。助けてくれえ!」
二
白はやっと喘ぎ喘ぎ、主人の家へ帰って来ました。黒塀の下の犬くぐりを抜け、物置小屋を廻りさえすれば、犬小屋のある裏庭です。白はほとんど風のように、裏庭の芝生へ駈けこみました。もうここまで逃げて来れば、罠にかかる心配はありません。おまけに青あおした芝生には、幸いお嬢さんや坊ちゃんもボオル投げをして遊んでいます。それを見た白の嬉しさは何と云えば好いのでしょう? 白は尻尾を振りながら、一足飛びにそこへ飛んで行きました。
「お嬢さん! 坊ちゃん! 今日は犬殺しに遇いましたよ。」
白は二人を見上げると、息もつかずにこう云いました。(もっともお嬢さんや坊ちゃんには犬の言葉はわかりませんから、わんわんと聞えるだけなのです。)しかし今日はどうしたのか、お嬢さんも坊ちゃんもただ呆気にとられたように、頭さえ撫でてはくれません。白は不思議に思いながら、もう一度二人に話しかけました。
「お嬢さん! あなたは犬殺しを御存じですか? それは恐ろしいやつですよ。坊ちゃん! わたしは助かりましたが、お隣の黒君は掴まりましたぜ。」
それでもお嬢さんや坊ちゃんは顔を見合せているばかりです。おまけに二人はしばらくすると、こんな妙なことさえ云い出すのです。
「どこの犬でしょう? 春夫さん。」
「どこの犬だろう? 姉さん。」
どこの犬? 今度は白の方が呆気にとられました。(白にはお嬢さんや坊ちゃんの言葉もちゃんと聞きわけることが出来るのです。我々は犬の言葉がわからないものですから、犬もやはり我々の言葉はわからないように考えていますが、実際はそうではありません。犬が芸を覚えるのは我々の言葉がわかるからです。しかし我々は犬の言葉を聞きわけることが出来ませんから、闇の中を見通すことだの、かすかな匂を嗅ぎ当てることだの、犬の教えてくれる芸は一つも覚えることが出来ません。)
「どこの犬とはどうしたのです? わたしですよ! 白ですよ!」
けれどもお嬢さんは不相変気味悪そうに白を眺めています。
「お隣の黒の兄弟かしら?」
「黒の兄弟かも知れないね。」坊ちゃんもバットをおもちゃにしながら、考え深そうに答えました。
「こいつも体中まっ黒だから。」
白は急に背中の毛が逆立つように感じました。まっ黒! そんなはずはありません。白はまだ子犬の時から、牛乳のように白かったのですから。しかし今前足を見ると、いや、――前足ばかりではありません。胸も、腹も、後足も、すらりと上品に延びた尻尾も、みんな鍋底のようにまっ黒なのです。まっ黒! まっ黒! 白は気でも違ったように、飛び上ったり、跳ね廻ったりしながら、一生懸命に吠え立てました。
「あら、どうしましょう? 春夫さん。この犬はきっと狂犬だわよ。」
お嬢さんはそこに立ちすくんだなり、今にも泣きそうな声を出しました。しかし坊ちゃんは勇敢です。白はたちまち左の肩をぽかりとバットに打たれました。と思うと二度目のバットも頭の上へ飛んで来ます。白はその下をくぐるが早いか、元来た方へ逃げ出しました。けれども今度はさっきのように、一町も二町も逃げ出しはしません。芝生のはずれには棕櫚の木のかげに、クリイム色に塗った犬小屋があります。白は犬小屋の前へ来ると、小さい主人たちを振り返りました。
「お嬢さん! 坊ちゃん! わたしはあの白なのですよ。いくらまっ黒になっていても、やっぱりあの白なのですよ。」
白の声は何とも云われぬ悲しさと怒りとに震えていました。けれどもお嬢さんや坊ちゃんにはそう云う白の心もちも呑みこめるはずはありません。現にお嬢さんは憎らしそうに、
「まだあすこに吠えているわ。ほんとうに図々しい野良犬ね。」などと、地だんだを踏んでいるのです。坊ちゃんも、――坊ちゃんは小径の砂利を拾うと、力一ぱい白へ投げつけました。
「畜生! まだ愚図愚図しているな。これでもか? これでもか?」砂利は続けさまに飛んで来ました。中には白の耳のつけ根へ、血の滲むくらい当ったのもあります。白はとうとう尻尾を巻き、黒塀の外へぬけ出しました。黒塀の外には春の日の光に銀の粉を浴びた紋白蝶が一羽、気楽そうにひらひら飛んでいます。
「ああ、きょうから宿無し犬になるのか?」
白はため息を洩らしたまま、しばらくはただ電柱の下にぼんやり空を眺めていました。
三
お嬢さんや坊ちゃんに逐い出された白は東京中をうろうろ歩きました。しかしどこへどうしても、忘れることの出来ないのはまっ黒になった姿のことです。白は客の顔を映している理髪店の鏡を恐れました。雨上りの空を映している往来の水たまりを恐れました。往来の若葉を映している飾窓の硝子を恐れました。いや、カフェのテエブルに黒ビイルを湛えているコップさえ、――けれどもそれが何になりましょう? あの自動車を御覧なさい。ええ、あの公園の外にとまった、大きい黒塗りの自動車です。漆を光らせた自動車の車体は今こちらへ歩いて来る白の姿を映しました。――はっきりと、鏡のように。白の姿を映すものはあの客待の自動車のように、到るところにある訣なのです。もしあれを見たとすれば、どんなに白は恐れるでしょう。それ、白の顔を御覧なさい。白は苦しそうに唸ったと思うと、たちまち公園の中へ駈けこみました。
公園の中には鈴懸の若葉にかすかな風が渡っています。白は頭を垂れたなり、木々の間を歩いて行きました。ここには幸い池のほかには、姿を映すものも見当りません。物音はただ白薔薇に群がる蜂の声が聞えるばかりです。白は平和な公園の空気に、しばらくは醜い黒犬になった日ごろの悲しさも忘れていました。
しかしそう云う幸福さえ五分と続いたかどうかわかりません。白はただ夢のように、ベンチの並んでいる路ばたへ出ました。するとその路の曲り角の向うにけたたましい犬の声が起ったのです。
「きゃん。きゃん。助けてくれえ! きゃあん。きゃあん。助けてくれえ!」
白は思わず身震いをしました。この声は白の心の中へ、あの恐ろしい黒の最後をもう一度はっきり浮ばせたのです。白は目をつぶったまま、元来た方へ逃げ出そうとしました。けれどもそれは言葉通り、ほんの一瞬の間のことです。白は凄じい唸り声を洩らすと、きりりとまた振り返りました。
「きゃあん。きゃあん。助けてくれえ! きゃあん。きゃあん。助けてくれえ!」
この声はまた白の耳にはこう云う言葉にも聞えるのです。
「きゃあん。きゃあん。臆病ものになるな! きゃあん。臆病ものになるな!」
白は頭を低めるが早いか、声のする方へ駈け出しました。
けれどもそこへ来て見ると、白の目の前へ現れたのは犬殺しなどではありません。ただ学校の帰りらしい、洋服を着た子供が二三人、頸のまわりへ縄をつけた茶色の子犬を引きずりながら、何かわいわい騒いでいるのです。子犬は一生懸命に引きずられまいともがきもがき、「助けてくれえ。」と繰り返していました。しかし子供たちはそんな声に耳を借すけしきもありません。ただ笑ったり、怒鳴ったり、あるいはまた子犬の腹を靴で蹴ったりするばかりです。
白は少しもためらわずに、子供たちを目がけて吠えかかりました。不意を打たれた子供たちは驚いたの驚かないのではありません。また実際白の容子は火のように燃えた眼の色と云い、刃物のようにむき出した牙の列と云い、今にも噛みつくかと思うくらい、恐ろしいけんまくを見せているのです。子供たちは四方へ逃げ散りました。中には余り狼狽したはずみに、路ばたの花壇へ飛びこんだのもあります。白は二三間追いかけた後、くるりと子犬を振り返ると、叱るようにこう声をかけました。
「さあ、おれと一しょに来い。お前の家まで送ってやるから。」
白は元来た木々の間へ、まっしぐらにまた駈けこみました。茶色の子犬も嬉しそうに、ベンチをくぐり、薔薇を蹴散らし、白に負けまいと走って来ます。まだ頸にぶら下った、長い縄をひきずりながら。
× × ×
二三時間たった後、白は貧しいカフェの前に茶色の子犬と佇んでいました。昼も薄暗いカフェの中にはもう赤あかと電燈がともり、音のかすれた蓄音機は浪花節か何かやっているようです。子犬は得意そうに尾を振りながら、こう白へ話しかけました。
「僕はここに住んでいるのです。この大正軒と云うカフェの中に。――おじさんはどこに住んでいるのです?」
「おじさんかい?――おじさんはずっと遠い町にいる。」
白は寂しそうにため息をしました。
「じゃもうおじさんは家へ帰ろう。」
「まあお待ちなさい。おじさんの御主人はやかましいのですか?」
「御主人? なぜまたそんなことを尋ねるのだい?」
「もし御主人がやかましくなければ、今夜はここに泊って行って下さい。それから僕のお母さんにも命拾いの御礼を云わせて下さい。僕の家には牛乳だの、カレエ・ライスだの、ビフテキだの、いろいろな御馳走があるのです。」
「ありがとう。ありがとう。だがおじさんは用があるから、御馳走になるのはこの次にしよう。――じゃお前のお母さんによろしく。」
白はちょいと空を見てから、静かに敷石の上を歩き出しました。空にはカフェの屋根のはずれに、三日月もそろそろ光り出しています。
「おじさん。おじさん。おじさんと云えば!」
子犬は悲しそうに鼻を鳴らしました。
「じゃ名前だけ聞かして下さい。僕の名前はナポレオンと云うのです。ナポちゃんだのナポ公だのとも云われますけれども。――おじさんの名前は何と云うのです?」
「おじさんの名前は白と云うのだよ。」
「白――ですか? 白と云うのは不思議ですね。おじさんはどこも黒いじゃありませんか?」
白は胸が一ぱいになりました。
「それでも白と云うのだよ。」
「じゃ白のおじさんと云いましょう。白のおじさん。ぜひまた近い内に一度来て下さい。」
「じゃナポ公、さよなら!」
「御機嫌好う、白のおじさん! さようなら、さようなら!」
四
その後の白はどうなったか?――それは一々話さずとも、いろいろの新聞に伝えられています。大かたどなたも御存じでしょう。度々危い人命を救った、勇ましい一匹の黒犬のあるのを。また一時『義犬』と云う活動写真の流行したことを。あの黒犬こそ白だったのです。しかしまだ不幸にも御存じのない方があれば、どうか下に引用した新聞の記事を読んで下さい。
東京日日新聞昨十八日(五月)午前八時四十分、奥羽線上り急行列車が田端駅附近の踏切を通過する際、踏切番人の過失に依り、田端一二三会社員柴山鉄太郎の長男実彦(四歳)が列車の通る線路内に立ち入り、危く轢死を遂げようとした。その時逞しい黒犬が一匹、稲妻のように踏切へ飛びこみ、目前に迫った列車の車輪から、見事に実彦を救い出した。この勇敢なる黒犬は人々の立騒いでいる間にどこかへ姿を隠したため、表彰したいにもすることが出来ず、当局は大いに困っている。
東京朝日新聞軽井沢に避暑中のアメリカ富豪エドワアド・バアクレエ氏の夫人はペルシア産の猫を寵愛している。すると最近同氏の別荘へ七尺余りの大蛇が現れ、ヴェランダにいる猫を呑もうとした。そこへ見慣れぬ黒犬が一匹、突然猫を救いに駈けつけ、二十分に亘る奮闘の後、とうとうその大蛇を噛み殺した。しかしこのけなげな犬はどこかへ姿を隠したため、夫人は五千弗の賞金を懸け、犬の行方を求めている。
国民新聞 日本アルプス横断中、一時行方不明になった第一高等学校の生徒三名は七日八月)上高地の温泉へ着した。一行は穂高山と槍ヶ岳との間に途を失い、かつ過日の暴風雨に天幕糧食等を奪われたため、ほとんど死を覚悟していた。然るにどこからか黒犬が一匹、一行のさまよっていた渓谷に現れ、あたかも案内をするように、先へ立って歩き出した。一行はこの犬の後に従い、一日余り歩いた後、やっと上高地へ着することが出来た。しかし犬は目の下に温泉宿の屋根が見えると、一声嬉しそうに吠えたきり、もう一度もと来た熊笹の中へ姿を隠してしまったと云う。一行は皆この犬が来たのは神明の加護だと信じている。
時事新報 十三日(九月)名古屋市の大火は焼死者十余名に及んだが、横関名古屋市長なども愛児を失おうとした一人である。令息武矩(三歳)はいかなる家族の手落からか、猛火の中の二階に残され、すでに灰燼となろうとしたところを、一匹の黒犬のために啣え出された。市長は今後名古屋市に限り、野犬撲殺を禁ずると云っている。
読売新聞 小田原町城内公園に連日の人気を集めていた宮城巡回動物園のシベリヤ産大狼は二十五日(十月)午後二時ごろ、突然巌乗な檻を破り、木戸番二名を負傷させた後、箱根方面へ逸走した。小田原署はそのために非常動員を行い、全町に亘る警戒線を布いた。すると午後四時半ごろ右の狼は十字町に現れ、一匹の黒犬と噛み合いを初めた。黒犬は悪戦頗る努め、ついに敵を噛み伏せるに至った。そこへ警戒中の巡査も駈けつけ、直ちに狼を銃殺した。この狼はルプス・ジガンティクスと称し、最も兇猛な種属であると云う。なお宮城動物園主は狼の銃殺を不当とし、小田原署長を相手どった告訴を起すといきまいている。等、等、等。
五
ある秋の真夜中です。体も心も疲れ切った白は主人の家へ帰って来ました。勿論お嬢さんや坊ちゃんはとうに床へはいっています。いや、今は誰一人起きているものもありますまい。ひっそりした裏庭の芝生の上にも、ただ高い棕櫚の木の梢に白い月が一輪浮んでいるだけです。白は昔の犬小屋の前に、露に濡れた体を休めました。それから寂しい月を相手に、こういう独語を始めました。
「お月様! お月様! わたしは黒君を見殺しにしました。わたしの体のまっ黒になったのも、大かたそのせいかと思っています。しかしわたしはお嬢さんや坊ちゃんにお別れ申してから、あらゆる危険と戦って来ました。それは一つには何かの拍子に煤よりも黒い体を見ると、臆病を恥じる気が起ったからです。けれどもしまいには黒いのがいやさに、――この黒いわたしを殺したさに、あるいは火の中へ飛びこんだり、あるいはまた狼と戦ったりしました。が、不思議にもわたしの命はどんな強敵にも奪われません。死もわたしの顔を見ると、どこかへ逃げ去ってしまうのです。わたしはとうとう苦しさの余り、自殺しようと決心しました。ただ自殺をするにつけても、ただ一目会いたいのは可愛がって下すった御主人です。勿論お嬢さんや坊ちゃんはあしたにもわたしの姿を見ると、きっとまた野良犬と思うでしょう。ことによれば坊ちゃんのバットに打ち殺されてしまうかも知れません。しかしそれでも本望です。お月様! お月様! わたしは御主人の顔を見るほかに、何も願うことはありません。そのため今夜ははるばるともう一度ここへ帰って来ました。どうか夜の明け次第、お嬢さんや坊ちゃんに会わして下さい。」
白は独語を云い終ると、芝生に顎をさしのべたなり、いつかぐっすり寝入ってしまいました。
× × ×
「驚いたわねえ、春夫さん。」
「どうしたんだろう? 姉さん。」
白は小さい主人の声に、はっきりと目を開きました。見ればお嬢さんや坊ちゃんは犬小屋の前に佇んだまま、不思議そうに顔を見合せています。白は一度挙げた目をまた芝生の上へ伏せてしまいました。お嬢さんや坊ちゃんは白がまっ黒に変った時にも、やはり今のように驚いたものです。あの時の悲しさを考えると、――白は今では帰って来たことを後悔する気さえ起りました。するとその途端です。坊ちゃんは突然飛び上ると、大声にこう叫びました。
「お父さん! お母さん! 白がまた帰って来ましたよ!」
白が! 白は思わず飛び起きました。すると逃げるとでも思ったのでしょう。お嬢さんは両手を延ばしながら、しっかり白の頸を押えました。同時に白はお嬢さんの目へ、じっと彼の目を移しました。お嬢さんの目には黒い瞳にありありと犬小屋が映っています。高い棕櫚の木のかげになったクリイム色の犬小屋が、――そんなことは当然に違いありません。しかしその犬小屋の前には米粒ほどの小ささに、白い犬が一匹坐っているのです。清らかに、ほっそりと。――白はただ恍惚とこの犬の姿に見入りました。
「あら、白は泣いているわよ。」
お嬢さんは白を抱きしめたまま、坊ちゃんの顔を見上げました。坊ちゃんは――御覧なさい、坊ちゃんの威張っているのを!
「へっ、姉さんだって泣いている癖に!」
(大正十二年七月)
不思議な
帽子
豊島
与志雄
ある大都会の大通りの下の下水道に、悪魔あくまが一匹住んでいました。まっ暗な中でねずみやこうもりなんかと一緒に、下水の中の汚物等をあさって暮らしていました。ところがある時、下水道の中に上の方から明るい光がさしていましたので、何だろうと思って寄ってゆくと、下水道の掃除口が半分ばかり開いているのです。悪魔は何の気もなくその掃除口につかまって、そっと外をのぞいてみて、びっくりしました。街中に明るく燈火がともっていて、大勢の人がぞろぞろ通っていて、おもしろい蓄音機の音までも聞こえています。
「ほほう、まっ暗な汚いこの下水道の上に、こんな立派な賑やかな通りがあろうとは、今まで夢にも知らなかった。何ときらきら光ってる燈火だことか。何と大勢の美しい人間共が通ってることか。何という賑やかさ華やかさだ。下水の掃除人がこの掃除口を閉め忘れてるのを幸いに、俺も少しこの賑やかな通りを散歩してみるかな」
そしてこののん気な悪魔は、下水道からひょいと飛び出して、小さな犬に化けて、街路樹の影をうそうそと歩き出しました。昼のように明るい街路、美しい賑やかな人通り、宮殿のようにきらびやかな店先、うまそうな食物の匂、楽しい音楽の響、そんなものに悪魔は気がぼーっとして、いつまでもうろついていました。
そのうちに夜はだんだんふけてきて、人通りも少なくなり、商店の窓もしめられ、賑やかだった街路が淋しくなり始めました。悪魔はふと気がついて、自分が飛出び出したあの下水の掃除口のところへ、大急ぎに戻ってゆきました。ところが、いつのまにか掃除人が戻ってきたとみえて、大きな鉄の蓋がかっちり閉め切られています。
「ほい、これはとんだことをした」
そして悪魔は、方々の掃除口を探して歩きましたが、どこもここもみな、頑丈な鉄の蓋が閉め切ってあって、下水道へはいり込む隙間もありません。
「弱ったな。どうしたら下水道へ戻ってゆけるかしら」
思い迷ってふらふら歩いていると、酔っぱらいの男や商店の子僧などから、野良犬だといっておどかされたり追っぱらわれたりしますし、巡査ががちゃがちゃ剣を鳴らしてやって来たりするものですから、悪魔はすっかりしょげかえりました。そしてどこかもぐり込む隅でもないかと、きょろきょろ探し廻ってるうちに、ある立派な帽子屋の店が閉め残されてるのを見つけました。店の中には誰もいないで、奥の方に番頭ばんとうが一人居眠りをしています。
「しめたぞ。今夜はこの店の中に隠れるとしよう」
そーっとはいり込んで、陳列棚の上に飛び上がって、ひょいと帽子に化けて素知らぬ顔をしていました。間もなく、奥の部屋から二三人の子僧が出て来て、表の戸締りをして、電気を消して、また引っ込んでいきました。
悪魔はほっと息をついて、やれやれ助かったと思うと、急に疲れが出て、帽子に化けたまま、ぐっすり眠ってしまいました。>
さてその翌朝、悪魔が眼を覚ますと、もう明るく日がさしていて、店の中には大勢の番頭ばんとうや子僧達が、掃除をしたり帽子を並べ直したりしていました。
「おや、寝過ごしたのかな。汚い下水道の中とちがって、あまり寝具合がよかったものだから、早く眼を覚ますのを忘れていた。今逃出げせば見つかるし、まあいいや、も少しここにじっとしていたら、そのうちに逃出げす隙があるだろう」
ところが、その隙がなかなかありませんでした。店の中には幾人もの店員が控ひかえていますし、表には大勢の人が通っています。とうとう昼頃になりました。
その時、すてきにハイカラな洋服を着て、胸に金鎖をからましている紳士が、帽子を買いにはいって来ました。そして番頭に案内されて、陳列棚の帽子を見て廻りました。
「しめたぞ」と悪魔は考えました。「一番上等な帽子に化けて、あの男に買われて、ともかくも外に出てみるとしよう。ここにこうしていたんでは、窮屈で仕方がない」
その考えがうまくあたって、金鎖の紳士は、悪魔が化けてる帽子ぼうしに眼をとめました。
「この帽子はすてきだな、格好といい色つやといい、どうも……珍らしいよい帽子だ。これにしよう。いくらだね」
番頭ばんとうはその帽子を手に取って、小首を傾げて眺めました。自分の店にあるのだが、どうも見馴れないすてきな帽子なんです。でも、高く買ってさえもらえば損はないわけですから、とび離れた高い値で売りつけました。紳士はその帽子がよほど気に入ったとみえて、たくさんのお金を払い、古い帽子は打ち捨ててしまって、新しい帽子を頭にかぶって外に出ました。
悪魔はおかしさをこらえて澄ましてきっていましたが、今こうして、ハイカラな洋服の紳士の頭にのっかって、賑やかな大通りを通ってるうちに、非常に愉快な得意な気持ちになって、ぐっと反り返りながら、逃げ出すのも忘れてしまいました。
やがて紳士は、ある立派な洋食屋へはいって昼の食事を始めました。悪魔の帽子がよほど気に入ったとみえて 入口の釘にもかけずに、ちゃんと食卓の上にのせておきました。
次々に見事な料理の皿が運ばれました。食卓の上に帽子となってひかえてる悪魔の鼻にも、うまそうな匂いがぷーんと伝わってきました。すると悪魔は急に空腹を覚えました。考えてみると、昨日の晩から何にも食べていなかったのです。
「うまそうな料理だな。下水の中に流れてくるものなんかとは、比べものにならない。ああいい匂いがしてる。それに俺の腹はぺこぺこだ……構うもんか、少し盗み食いをやれ」
そして悪魔は、紳士がビールのコップを手にとって、ぐーっと飲んでる隙すきに、皿の中の料理をぺろりと頬張ってしまいました。それに味をしめて、次の皿のもその次の皿のも、大きい口でぺろりと頬張ってしまいました。
紳士はビールを一口飲んで、さて料理を食べようとすると、皿の中にはもう何にもありません。
「おかしいな。どうも……」
次の皿もそうなものですから、しまいに紳士は両腕をくんで考えこみました。
「今日は変な日だな。夢でもみてるのかしら」
こつんと額を一つ叩いて、それから急いで勘定をして外に飛び出しました。大事な帽子を頭にのせることは忘れませんでした。
空はやはりからりと晴れて、日が照っていました。けれど、いつしか風が出て、大通りをさっさっと吹き過ぎていました。それでも悪魔は、うまい料理に腹がいっぱいになって、紳士の頭にのっかったまま、ついうつらうつらと眠り始めました。
しばらくたって眼を開くと、そこもやはり賑やかな大通りで、ハイカラ洋服の紳士はステッキを打ち振りながら変なしかめ顔をして歩いていました。きっと腹が空いてるんだな、と思うと悪魔は、急におかしくなって、ははははと笑い出しました。がその声に自分でもびっくりして、首を縮こめるとたんに、何だか寒くなって、うつらうつらしてる間に風邪かぜをひいたとみえ、大きなくしゃみが出てきました。
紳士は驚いて立ち止まりました。頭の上で笑声いがして、次にくしゃみの音がしたのです。まさか、悪魔の化けてる帽子をかぶってるとは思わないものですから、あたりを見廻したり空を仰いだりして、きょとんとした顔つきで考えました。
「変だな」
その時またさっと風が吹いてきました。悪魔はそれにま正面から吹きつけられて、くしゃんと、も一つくしゃみをしました。
「おや」
こんどは紳士も頭の帽子に気がついたとみえて、手をあげて帽子を取ろうとしました。もう悪魔は絶対絶命です。手に取って見現されたら大変です。どうしようと思ったとたんに、ふといいことを考えついて、紳士の頭が横に傾いた拍子に、風に吹き飛ばされたふうをして、ふーっと往来いに飛び降りて、ころころと転がって逃げ始めました。
紳士は大事な帽子が風に吹き飛ばされたのを見て、後を追っかけてきました。悪魔にとっては、つかまえられたら一大事です。一生懸命に転がって逃げました。
紳士はどんど18:29 2013/04/27追っかけてきます。そのうちに、立派な紳士と帽子とが駆けっこをしてるのを見て、大勢の人がおもしろがってついて来ました。
「よく転がる帽子ぼうしだな」
「まるで生きてるようだな」
「おかしな帽子だな」
「つかまえてやれ、つかまえてやれ」
大勢の人が紳士と一緒になって追っかけてきます。つかまったら最後だ、と悪魔は思って、くるくるくるくるまわりながら、一生懸命に逃げ出しました。あまり転がったので眼がまわって、めくら滅法に逃げてるうち、ある橋のところへやってきて、道をあやまったものですから、あっというまに川の中へ落ち込みました。
「川に落っこった、川に落っこった」
「ぽかんとして浮いてやがる」
「竿を持って来い、竿を」
大勢の人ががやがや騒ぎ立てました。
悪魔は川に落っこって、眼を白黒さしていましたが、やがて気が静まると、きらきら光ってる太陽が見えます。岸に立って騒いでる大勢の人が見えます。うらめしそうな顔をしてるハイカラ紳士も見えます。
「はてどこへ逃げたらいいかしら」>
そう思って見廻すと、川の岸の石垣に、大きな円い穴が口を開いて、汚い水が中から流れ出ています。嗅かぎなれたくさい匂がしています。
「これだ」と悪魔は心の中で叫びました。「俺の住居だ。下水道の出口だ」
そして、帽子ぼうしが水に流されるようなふうをして、つーっと泳ぎだして、下水道の口の中に飛びこみました。
それを見て、岸の上では大変な騒ぎになりました。
「帽子が泳いだ」
「下水道の中に飛び込んだ」
「お化けの帽子だ、お化けだ」
「不思議な帽子だ」
わいわい騒ぎ立てて下水道の口をのぞいています。しかしいつまでたっても、もう帽子は二度と出て来ませんでした。
帽子はもうちゃんともとの悪魔の姿になって、下水道の口からちょっとのぞいて大勢の人を見ると、こそこそと中の方へはいってゆきました。
「あぶないところだった。だがここまでくればもう大丈夫だ。どうも変に寒い。珍しいごちそうを食べて、あの男の頭の上で居眠りをしたので、風邪でも引いたのかな」
そしてそこの下水道の奥のまっ暗な中で、悪魔は、また大きなくしゃみをしました。
不死の薬
小川未明
一
ある夏の夜でありました。三人の子供らが村の中にあった大きなかしの木の下に集まって話をしました。昼間の暑さにひきかえて、夜は涼しくありました。ことにこの木の下は風があって涼しゅうございました。
赤く西の山に日が沈んでしまって、ほんのりと紅い雲がいつまでも消えずに、林の間に残っていましたが、それすらまったく消えてしまいました。夜の空は深い沼の中をのぞくように青黒く見えました。そのうちに、だんだん星の光がたくさんになって見えてきました。
「さあ、またなにかおとぎ噺をしようよ。」
と乙がいいました。
「今日は丙の番だよ。」
と甲がいいました。
この三人は同じ村の小学校へいっている、同じ年ごろの少年で、いたって仲がよく、いろいろの遊びをしましたが、この夏の晩には、このかしの木の下にきて、自分らが聞いたり、覚えていたりしているいろいろのおとぎ噺をしあって遊びました。
このとき、かしの木の葉が、さらさらといって、青黒いガラスのような空で鳴りました。三人はしばらく黙っていましたが、乙が丙に向かって、
「さあ君、なにか話してくれたまえ。」
といいました。
三人の中のもっとも年下の丙は、空を見て考えていました。このとき、遠く北の方の海で汽笛の音がかすかに聞こえたのでありました。三人はまたその音を聞いて心の中でいろいろの空想にふけりました。
「さあ話すよ。」
と丙はいった。そのりこうそうな黒いかわいらしい目に星の光がさしてひらめきました。
「ああ、聞くよ、早く話したまえ。」
と甲も乙もいいました。
丙は、つぎのような話をしました。……
昔、支那に、ある天子さまがあって、すべての国をたいらげられて、りっぱな御殿を建てて、栄誉・栄華な日を送られました。天子さまはなにひとつ自分の思うままにならぬものもなければ、またなにひとつ不足というものもないにつけて、どうかしてでき得ることなら、いつまでも死なずに、千年も万年もこの世に生きていたいと思われました。けれど、昔から百年と長くこの世の中に生きていたものがありませんので、天子さまはこのことを、ひじょうに悲しまれました。
そこであるとき、巫女を呼んで、どうしたら自分は長生きができるだろうかと問われたのであります。巫女は秘術をつくして天の神さまにうかがいをたてました。そしていいましたのには、これから海を越えて東にゆくと国がある。その国の北の方に金峰仙という高い山がある。その山の嶺のところに、自然の岩でできた盃がある。その盃は天に向いてささげられてある。星が夜々にその山の嶺を通るときに、一滴の露を落としてゆく。その露が千年、万年と、その盃の中にたたえられている。この清らかな水を飲むものは、けっして死なない。それは世にもまれな、すなわち不死の薬である。これをめしあがれば、けっして死ということはないと、天子さまに申しあげたのでありました。
二
「君! 金峰仙って、あの山かい。」
といって乙は、あちらに見える山の方を指して丙に問いました。
「ああ、あの山だって、死んだおじいさんがいったよ。」
と丙が答えました。
「君はその話をおじいさんから聞いたのかい。」
と甲が問いました。
「ああ。」
と、丙は軽くそれに答えて、また話を続けました。
天子さまは家来をお集めになって、だれかその薬を取ってきてくれるものはないかと申されました。みなのものは顔を見合わして容易にそれをお受けいたすものがありません。するとその中に一人の年老った家来がありまして、私がまいりますと申し出ました。天子さまは、日ごろから忠義の家来でありましたから、そんなら汝にその不死の薬を取りにゆくことを命ずるから、汝は東の方の海を渡って、絶海の孤島にゆき、その国の北方にある金峰仙に登って、不死の薬を取り、つつがなく帰ってくるようにと、くれぐれもいわれました。
その老臣は、謹んで天子さまの命を奉じて、御前をさがり、妻子・親族・友人らに別れを告げて、船に乗って、東を指して旅立ちいたしましたのであります。その時分には、まだ汽船などというものがなかったので、風のまにまに波の上を漂って、夜も昼も東を指してきたのでありました。
老臣は船の上で、夜になれば空の星影を仰いで船のゆくえを知り、また朝になれば太陽の上るのを見てわずかに東西南北をわきまえたのであります。そのほかはなにひとつ目に止まるものもなく、どこを見ても、ただ茫々とした青海原でありました。あるときは風のために思わぬ方向へ船が吹き流され、あるときは波に揺られて危うく命を助かり、幾月も幾月も海の上に漂っていましたが、ついにある日のこと、はるかの波間に島が見えたので大いに喜び、心を励ましました。
その家来は島に上がりますと、思ったよりも広い国でありました。そこでその国の人に向かって金峰仙という山はどこにあるかといって尋ねましたけれど、だれひとりとして知っているものがなかったのです。
その時分は大昔のことで、まだこの辺りにはあまり住んでいるものもなく、路も開けていなかったのでありました。家来は幾年となくその国じゅうを探して歩きました。そして、ついにこの国にきて、金峰仙という山のあることを聞いて、艱難を冒して、その山にのぼりました。
「そんな年老った家来が、どうしてあんな高い山にのぼったのだい。」
と甲が不思議そうにして丙に問いました。
「ほんとうに、あの山へはだれも上れたものがないというよ。」
と乙は声をそろえていいました。
「いつであったか、探検隊が登って、そのうちで落ちて死んだものがあったろう。それからだれも登ったものがないだろう。」
と甲がいいました。
「だけれど、その家来はいっしょうけんめいになって、登ったんだって、おじいさんがいったよ。」
と丙がいいました。
「そうかい。それからどうなったい。」
と熱心に乙と甲の二人が問いました。丙はまた語り続けました。
山へ登ると、巫女がいったように石の盃がありました。そしてその中に清らかな水がたまっていました。家来は携えてきた小さな徳利の中にその水を入れました。そして早くこれを携えて、国へもどって天子さまにさしあげようと思って、山を下りました。
家来は山を下って、海辺へきて、毎日その海岸を通る船を見ていたのであります。けれど、一そうも目にとまりません。毎日、毎日、沖の方を見ては、通る船を見ていますうちに、そのかいもなく、ふと病にかかって、それがもとになって、遠い異郷の空でついに死くなってしまいました。
三
「それからどうなったい。」
と、甲が丙に尋ねました。
「これで、もうお話は終わったんだよ。」
丙が星晴れのした空をながめて答えました。
「その家来は死んでしまったから、天子さまも死んでしまったんだね。」
と乙がいいました。
「それはそうさ、天子さまも不死の薬を飲むことができなかったから、やはり年を老って死んでしまいなされたろう。」
と丙がいいました。
「ばかだね、その家来は自分もその薬を飲んで、そして天子さまへも徳利の中へ入れて持ってゆけばよかったのに。そうすれば二人とも死ななかったろうに。」
と、乙が考えながら家来の智慧のないのを笑っていいました。
「だって、天子さまより先に飲むのは不忠と思ったかもしれないさ。」
と甲がいいました。
三人は、かしの木の下に腰を下ろして、西南の国境にある金峰仙の方を見ながら、まだあの高い山の嶺には不死の泉があるだろうかというようなことを話して空想にふけりました。星晴れのした夜の空に高い山のとがった嶺が黒くそびえて見えます。その嶺の上にあたって一つ金色の星がキラキラと輝いています。
三人の子供らは、よく祖母や、母親から、夜ごとに天からろうそくが降ってくるとか、また下界で、この山の神さまに祈りをささげるろうそくの火が、空を泳いで山の嶺に上るとかいうような不思議な話を胸の中に思い出しました。
「神さまというものはあるものだろうか。」
と、もっとも年少の丙が、たまらなくなってため息をしながらいいました。
「学校の先生はないといったよ。」
と、乙が教師のいったことを思い出していいました。
「先生はどうして、ないことを知っているだろう。」
と、甲が乙のいったことに疑いをはさみました。
「僕はあると思うよ。そんなら、だれがあの星や、山や、この地球や、人間を造ったのだろう。」
と、丙が輝く瞳を星に向けて涙ぐみました。夜の風に吹かれて、かしの木がサワサワと鳴っています。
「そして、だれがこの人間を造ったんだろう。」
と、丙が声を慄わせて叫びました。
三人はしばらく黙って、深く思いに沈んでいましたが、
「不思議だ。」
といい合いました。
すでに北国の夏の夜はふけてみえました。
僕は兄さんだ
小川未明
「お母さん、ここはどこ?」
お母さんは、弟の赤ちゃんに、お乳を飲ませて、新聞をごらんになっていましたが、義ちゃんが、そういったので、こちらをお向きになって、絵本をのぞきながら、
「さあ、どこでしょう。きれいな町ですね。義ちゃんも大きくなったら、こんなところへいってごらんなさい。」と、おっしゃいました。
「お母さん、この大きなお魚は、なんというの?」と、義ちゃんが、またききました。お母さんは、
「このお魚ですか。これは、たらといって、北の寒い海にすんでいるのですよ。」と、おっしゃいました。義ちゃんが、お父さんから買っていただいた、絵本をねっしんに見ていますと、もうお乳をたくさん飲んだ赤ちゃんは、こちらを見て、不思議そうな顔つきをして、きれいなご本を見ていましたが、かわいらしい手を出すと、ご本をしっかりとつかんでしまいました。
「お母さん、たいへん、僕の大事なご本を繁さんが、取ってしまった。」と、義ちゃんは、わめきました。
お母さんは、びっくりして、どうかして、小さな繁さんの手をご本から離させようとしましたが、なんといっても繁さんは、はなしませんでした。
「いい子だから、義ちゃん、すこしかしておいてくださいね。いまじきにはなすから。」と、お母さんは、おっしゃいました。
繁さんは、ご本をめずらしそうにながめていましたが、そのうちこれをお口に入れてなめようとしました。
「あ、お母さん、なめますよ。僕、もうきたなくしちゃったからいやだ。」といって、無理にそのご本をひったくりました。すると、今度、赤ちゃんは、大声を上げて泣き出してしまいました。お母さんは、お困りになりました。
「さあ、チンチンゴーゴーを見てきましょうね。」と、泣き叫ぶ、赤ちゃんを抱いて立ち上がられました。
「お母さん、どこへゆくの?」と、義ちゃんは、もはやご本どころではありません。それよりも、やはりお母さんといっしょに、電車を見にゆきたかったのです。
「繁さんが、きげんを悪くしたから、すこし外へつれていってくるのですよ。あなたは、お家に留守をして、ご本を見ていらっしゃい。」と、お母さんは、おっしゃいました。
義ちゃんは、自分がわるくないのに、なぜこんな結果になったのだろう。ご本を見ることよりは、お母さんとごいっしょに、外へいってみたほうが、どれほどおもしろいかしれぬと思いましたから、
「いやだ、僕もいっしょにゆくんだよ。」と、義ちゃんは、泣き出しそうになりました。
「困りましたね。じゃ、あんたもいっしょにいらっしゃい。ご本をちゃんとしまっておいでなさい。」と、お母さんは、おっしゃいました。
外へ出ると、冬の日は、暖かそうに枯れ草を照らしていました。ある家の横を通ると、前の圃にさくがしてあって、鶏がたくさん遊んでいました。
もう、お母さんに抱かれている、小さい弟の繁さんも、後からついてきた、義ちゃんも、うれしそうな顔つきをして、元気でありました。しばらく立ち止まって、鶏の遊んでいるようすを見ていますと、けんかをせずに、一つの餌を見つけても、たがいにつつき合って、仲よくそれを食べていました。
これを見た義ちゃんは、
「お母さん、おりこうの鶏さんですね。」と、感心して、いいました。
「それごらんなさい。赤ちゃんは、小さいのだから、気に入らぬことがあっても、しかってはいけませんよ。」と、お母さんは、おっしゃいました。なんにもわからない、小さい繁さんは、ただ、鶏の動くのを見てうれしそうに、きゃっきゃっと喜んでいました。
それから、町へ出て、電車を見ました。
「チンチン、ゴーゴー。」といって、赤ちゃんは、いつまでも帰ろうとはしませんでした。義ちゃんは、早くお家へ帰ってご本が見たくなりました。やがて、帰ってから、赤ちゃんが、義ちゃんの大事なおもちゃや、ご本をいじっても、いままでのように怒らずに、笑って見ていましたから、
「なんて、義ちゃんは、いいお兄さんでしょう。」と、お母さんは、おほめになりました。
「そうだ、僕は兄さんだもの。」と、義ちゃんは、はじめて強く心に思いました。
明るき世界へ
小川未明
一 小さな芽
小さな木の芽が土を破って、やっと二、三寸ばかりの丈に伸びました。木の芽は、はじめて広い野原を見渡しました。大空を飛ぶ雲の影をながめました。そして、小鳥の鳴き声を聞いたのであります。(ああ、これが世の中というものであるか。)と考えました。
どれほど、この世の中へ出ることを願ったであろう。あの堅い土の下にくぐっている時分には、同じような種子はいくつもあった。そして、暗い土の中で、みんなはいろいろのことを語り合ったものだ。
「早く、明るい世の中へ出たいのだが、みんながいっしょに出られるだろうか。」と、一つの種子がいうと、
「それはむずかしいことだ。だれが出るかしれないけれど、あとは腐ってしまうだろう。しかし出たものは、死んだ仲間の分も生きのびてしげって、幾十年も、幾百年も雄々々しく太陽の輝く下で華やかに暮らしてもらいたい。もし、二つなり、三つなりが、いっしょに明るい世界へ出ることがあったら、たがいに依り合って力となって暮らしそうじゃないか。」と、他の種子が答えました。
みんなは、その種子のいったことに賛成しました。しかしみんなが明るい世界を慕ったけれど、そのかいがなく、土の上に出ることを得たものは、ただ一つだけでありました。
こうして、一本の木の芽は、この世界に出たが、見るもの、聞くものに心を脅かされたのであります。みんなの希望まで、自分の生命の中に宿して、大空に高く枝を拡げて、幾万となく群がった葉の一つ一つに日光を浴びなければならないと思いましたが、それはまだ遠いことでありました。
最初、この木の芽の生えたのを見つけたものは、空を渡る雲でありました。けれど、ものぐさな無口な雲は、見ぬふりをして、その頭の上を悠々と過ぎてゆきました。
木の芽は、鳥をいちばんおそれていたのです。それは、代々からの神経に伝わっている本能的のおそれのようにも思われました。あのいい音色で歌う鳥は、姿もまた美しいには相違ないけれど、みずみずしい木の芽を見つけると、きっと、それをくちばしでつついて、食い切ってしまうからです。そのくせ、鳥は木が大きくなってしげったあかつきには、かってにその枝に巣を造ったり、また夜になると宿ることなどがありました。そんなことを予覚しているような木の芽は、小鳥に自分の姿を見いだされないように、なるたけ石の蔭や、草の蔭に隠れるようにしていました。
口やかましい、そして、そそっかしい風が、つぎに木の芽を見つけました。
「おお、ほんとうにいい木の芽だ。おまえは、末には大木となる芽ばえなんだ。おまえの枯れた年老った親は、よくこの野原の中で俺たちと相撲を取ったもんだ。なかなか勇敢に闘ったもんだ。この世界は広いけれど、ほんとうに俺たちの相手となるようなものは少ない。はじめから死んでいるも同然な街の建物や、人間などの造った家や、堤防やいっさいのものは、打衝っていっても、ほんとうに死んでいるのだから張り合いがない。そこへいくと、おまえたちや、海などは、生きているのだから、俺が打衝ってゆくと叫びもするし、また、戦いもする。俺は、じっとしていることはきらいだ。なんでも駆けまわっていたり、争ったり組みついたりすることが大好きなのだ。」
木の芽は、まだ地の上に産まれてから、幾日もたたないので、ものを見てもまぶしくてしかたがないほどでありましたから、こう、風におしゃべりをされると、ただ空怖ろしいような、半分ばかり意味がわかって半分は意味がわからないような、どきまぎとした気持ちでいたのであります。
「しかし、おまえは、大木になる芽ばえだとはいうものの、それまでには、おおかみに踏まれたり、きつねに踏まれたりしたときには、折れてしまおう。そうすれば、それまでのことだ。だから体を鍛えなければならない。」と、宇宙の浮浪者である風は、語って聞かせました。
哀れな木の芽は、風のいうことをともかくも感心して聞いていましたが、
「それなら、どうしたら、私は強くなるのですか。」と、木の芽は、風に問いました。
風は、いちだんと悲痛な調子になって、
「それには、俺がおまえを鍛えるよりしかたがない。いまおまえは、まだ小さくて教えても歌えまいが、いんまに大きくなったら俺の教えた『曠野の歌』と、『放浪の歌』とを歌うのだ。」と、風は、木の芽にむかっていいました。
無窮から、無窮へ
ゆくものは、だれだ。
おまえは、その姿を見たか、
魔物か、人間か。
黒い着物をきて
破れた灰色の旗がひるがえる。
風は、歌って聞かせました。そして、強く、強く吹き出しました。木の芽ばかりでなく、野原に生えていた、すべての草や、林が、驚いて騒ぎ出しました。中にも、この小さな木の芽は、柔らかな頭をひたひたとさして、いまにもちぎれそうでありました。
粗野で、そそっかしい風は、いつやむと見えぬまでに吹いて、吹いて吹き募りました。木の芽は、もはや目をまわして、いまにも倒れそうになったのであります。
このとき、太陽は、見るに見かねて、風をしかりました。
「なんで、そんなに小さい木の芽をいじめるのだ。おまえが騒ぎ狂いたいと思ったなら、高い山の頂へでも打衝るがいい、それでなければ、夜になってから、だれもいない海の真ん中で波を相手に戦うがいい。もうこの小さな木の芽をいじめてくれるな。」と、太陽はいいました。
風は、太陽に向かって飛びつきそうに、空へ躍り上がりました。そうして叫びました。
「私は、この小さな木の芽をいじめるのではありません。強く、強く、強くならなければ、どうしてこの曠野の真ん中でこの木の芽が育い立ちましょう。そうするには私が、木の芽を、強くするように鍛えなければならないのです。」
太陽は、あきれたような顔つきをして、しばらくぼんやりと見下ろしていましたが、
「私のいうことを守らんと、おまえを三千里も四千里も遠方へ追いやってしまうぞ。これから、芽が大きくなるまで、おまえはけっして、あんなに烈しく吹いてはならない。」と、太陽は風に命じました。
風は、声低く、「放浪の歌」をうたいながら、海の方をさして去ってしまいました。後で、太陽は哀れな木の芽をじっとながめたのであります。
「もう驚くことはない。おまえを苦しめた風は遠くへ去ってしまった。これから後は、私がおまえを見守ってやろう。」と、太陽はいいました。
木の芽は、生まれて出た世の中が予想をしなかったほど、複雑なのに頭を悩ましました。そして、空恐ろしさに震えていました。
「おまえは寒いのか。なんでそんなに震えているのだ。」と、太陽は、怪しんで聞きました。
木の芽は、風に吹かれて、体がたいへんに疲れてきました。そして、のどがこのうえもなく渇いていたので、ただ雨の降ってくれることを望んでいましたが、しかし、そんなことを口に出していいもされずに、不安におそわれて震えていたのです。
「かわいそうに、おまえは、ものがいえないほど寒いのか。それで、震えているのだろう。もう安心するがいい。風は、あちらへいってしまった。私が、おまえを思いきって暖めてやるから。」と、太陽はいいました。
そして、太陽は、急に熱と光をましました。その熱は雲を散じてしまいました。そして、やっと地の上に伸びたばかりの木の芽は、小さな葉がしぼんで、細い幹は乾いて、ついに枯れてしまいました。
太陽は、そのことには気づかずに、日暮れ方まで下界を照らしていました。
二 幸福の島
ある国にあった話です。人々は、長い間の版で押したような生活に疲れていました。毎日同じようなことをして、朝になるとはね起きて、働き、食い、そして日が暮れると眠ることにも飽きてしまいました。
みんなは、仲よく暮らすことを希望していましたけれど、どうしても、このことばかりはできなかったというのは、ある人がたくさん金がもうかったときには、一方ではまたたいへんに損をするというようなぐあいで、みんなの気持ちがいつも一つではなかったから、怒るものもあれば、また喜ぶものがあり、中には泣くものまた笑うものがあるというふうで、その間に嫉妬、嘲罵の絶える暇もなかったのでありました。
「ああ、なんで俺たちは、産まれてきたのだろう。産まれたかいがないというものだ。毎日、こんなような同じことを繰り返して死んでしまわなければならないのか?」と、人々はため息をついていいました。
春になると、花が咲きました。ちょうどその国全体が花で飾られるようにみえました。夏になると、青葉でこんもりとしました。そして、秋がくる時分には、どこの林も、丘も、森も、黄色になって風のまにまにそれらの葉が散りはじめました。冬が過ぎ、また春がめぐってくるというふうに繰り返されたのであります。
この国には、昔からのことわざがありまして、夏の晩方の海の上にうろこ雲のわいた日に、海の中へ身を投げると、その人は貝に生まれ変わる。また、三年もたつと、海の上にうろこ雲がわいた日に、その貝は白鳥に変わってしまう。白鳥になると自由に空を飛ぶことができる、白鳥は遠い、遠い、沖のかなたにある「幸福の島」へ飛んでゆくというのであります。
「幸福の島があるというが、それはほんとうのことだろうか。」
ある人が、この国でいちばん物知りといううわさの高い人に向って問いました。物知りはもうだいぶ年をとった、白髪のまじった老人でありました。
「それはほんとうのことだ。幸福の島へゆけば、いまこの国でまちがっているようなことは、たとえ見ようと思っても見られない。そのうえ、山へゆけば木がしげっている。土を掘ればいい水がわいてくる。岩を破れば、金・銀・銅・鉄などが光っている。野原には花が咲き乱れ、田や、畠にはしぜんと穀物が茂っている。そこへさえゆけば、人は眠っていて楽に生活がされるから、たがいに争うということを知らない。ただ、しかしその幸福の島へいくのが容易でない。波が荒いし、恐ろしい風が吹く、また、深い海の中には魔物がすんでいて、通る船を覆してしまう。だれも、まだその島にいったものがないが、島には、人間が住んでいるということだ。また幸福の島の女は、天使のように美しいということだ。昔から、その島へいってみたいばかりに、神に願をかけて貝となったり、三年の間海の中で修業をして、さらに白鳥となったり、それまでにして、この島に憧れて飛んでゆくのであった。白い鳥は、その島にゆくと、花の咲いている野原の上で舞うのである。またあるときは、いつも緑の色の変わらない林の中で歌い、あるときは、美しい女の肩に止まって愛されもするというが、じつに不思議なことだ。」
物知りの老人は答えました。この話を聞いた人は、目をみはりました。そして驚きました。
「なぜ、こんな不思議な話をもっと早く、みんなに聞かせてはくださらなかったのですか。」と、老人に向かっていいました。
「こういう話は、世の中を騒がせるものだから、あまりしないほうがいいと思ったのだ。」と、物知りは答えました。
この話は、いつか国じゅうに伝わり広まったのであります。
生活に興味を失っている若い人々の中では、毎日うなだれて沈んでいるものもありましたが、一命を賭けても、幸福の世界を見いだしたいと思ったものもありました。そして、夏の日が海のかなたに傾いて無数のうろこ雲が美しく花弁のように空に散りかかったときに、身を投げて死んだものもありました。
こうして、死んだ人々に対しては、だれも悲しいというような感じを抱きませんでした。このままこの国に朽ちてしまって土となるよりは、生まれ変わって幸福の島へゆくことがどれほど楽しい愉快なことであるかしれなかったからです。
そして、海の中に身を投げて死ぬほどの勇気もなく、いたずらに、醜く年を取って木の枯れるように死んでしまうことが、その美しい死に較べたら、どんなにか陰気で、また暗い事実でありましたでしょう?
日が沈むころになると、毎日のように、海岸をさまよって、青い、青い、そして地平線のいつまでも暗くならずに、明るい海に憧れるものが幾人となくありました。海は、永久にたえず美妙な唄をうたっています。その唄の声にじっと耳をすましていると、いつしか、青黒い底の方に引き込められるような、なつかしさを感じました。
まれには、月の光が、波の上を静かに照らす夜になってから、感がきわまって、とつぜん海の中に身を躍らしたものもあったのです。
生まれ変わるという信仰が、どれほど味気ない生活に活気をつけたかしれません。「死」ということがこんなに、このときほど意義のあることに思われたかわかりません。
「死なずに幸福の島へ渡れないものだろうか。」
多くの人々の中には、身を海に投げてしまって、はたして、ふたたび生まれ変わるだろうかという疑いをもったものもおります。その人々は死なずに、どんな冒険でもやってみて、その島へたどり着きたいものだと思いました。そして、そのことを年よりの物知りにたずねました。
「ゆけないこともあるまいが、なにしろ遠い。その島へ渡るまでには怖ろしい風の吹いているところがある。また、大波の渦巻いているところがある。魔物のすんでいる深い海をも通らなければならない。その用意が十分できるなら、ゆけないこともないだろう。」と、なんでも知っている老人は答えました。
考え深い、また臆病な人たちは、たとえその準備に幾年費やされても十分に用意をしてから、遠い幸福の島に渡ることを相談しました。
それからというものは、みんなは働くことに張り合いを得ました。あるものは、海を渡る船について工夫を凝らしました。あるものは、いろいろな器具について考えました。またあるものは、その島についてからのことなどを研究して頭を悩ましました。しかしその悩みは、行く末の幸福を得ることのために愉快でありました。早く、その未知の島にゆきたいものだとみんなは心で思いました。どんな困難や辛苦がこの後あってもそれを切り抜けてゆこうという勇気がみんなの心にわいたのであります。
太陽は、赤く、暮れ方になると海のかなたに沈みました。そのとき、炎のように見える雲が地平線に渦巻いていました。
「幸福の島は、あの雲の下のあたりにあるのだろう。」と、みんなはその方を望みながら、いいました。やがて、日がまったく沈んで、空の色がだんだん暗くなると、地平線は波に洗われて、雲の色の消えてゆくのを惜しんだのであります。
ある日のこと、人々がいつものごとく、海岸に立って沖の方をながめていました。そのとき、なにか一つ黒い点のようなものが、夕空をこなたに向かってだんだん近づいてくるように見えたのであります。みんなはしばらく、目をみはってそのものに気をとられていました。
「あれは、なんだろうか。こちらに向かってこいでいるようだ。」
「幸福の島から、魁をして、こちらの国へやってきたのではないか。」
「なんにしても、いまに着いたら、すこしぐらい沖のようすがわかるだろう。」と、みんなは、くびを差し伸ばして黒いもののこの岸に近寄るのを待っていました。
だんだんとその黒いものは近づいたのであります。すると、小さな船で、それには三人のものが乗っていたのであります。やっとその船は汀に着きました。船から下りた三人のものは、目ばかり鋭く光って、ひげは黒く、頭髪はのびて、ほとんど、骨と皮ばかりにやせ衰えていたのです。
「みんな俺たちの顔をば忘れてしまったろう。十年ばかりまえに沖へ出て、大風のために遠くへ流されたものだ。」と、その中のいちばん背の高い男がいいました。
人々は、十年ばかり前にあった大暴風雨の夜のことを記憶から呼び起こしました。そして、三人のものがいまだに行方不明であることを思い出したのであります。
「よく帰ってきた。もうみんなは死んだものと思っていた。おまえたちは、幸福の島にでも救われていたのか?」と、群集の中から、一人がいいました。
「幸福の島?」と、そのとき、三人の中一人が、自分の耳を怪しむように、大きな声で聞き返しました。
「そうだ。幸福の島に長い間、住んでいたかと聞くのだ。」と、群集の中から一人が答えました。
「ばかにするのか? 地獄から、やっと逃げ出してきた俺たちに向かって、幸福の島とはなんのことだ?おまえがたは、久々で帰ってきたものを侮辱するつもりなのか。」と、三人は、青い顔をして怒りました。
みんなは、意外なできごとに驚いて、三人をやっとのことでなだめました。
「ちょうど、ここから見ると、あの太陽の沈む、渦巻く炎のような雲の下だ。その島に着くと、三人はひどいめにあった。朝から晩まで、獣物のように使役された。俺たちはどうかしてこの島から逃げ出したいものだと思ったけれど、どうすることもできなかった。日が暮れると海辺へ出ては、火をたいて、もしやこの火影を見つけたら、救いにきてはくれないかと、あてもないことを願った。三人は、ついに丘の上の獄屋に入れられてしまった。そして、長い間、その獄屋のうちで月日を送ったのだ。たまたま月の影が、窓からもれると、その月を見て遠い海のかなたのふるさとをしのんだ。ある晩のこと、三人は、その窓から逃げ出した。そして、ようようの思いで、助かってここまで逃げてきたのだ。」と、三人は、くわしく物語りました。みんなは、年寄りの物知りにあざむかれたことを憤りました。
「ああ、俺たちはばかだった。あの老人が、自分でいきもしない『幸福の島』などというものを知っているはずがなかったのだ。あの老人を、だれがいったい物知りなどといったのだ。そして、あの老人のおかげで幾人海の中へ身を投げて死んだかしれない。」
みんなは、老人を海岸へひきずってきました。そして、みんなをあざむいたことをなじりました。すると、老人は、案外平気な顔をしていいました。
「昔は、『幸福の島』だったのだ。しかし、それがいま『禍の島』に変わってしまったのだ。それをだれが知っていよう。けっして、私の罪じゃない。」
けれど、みんなは老人のいうことを承知しませんでした。そしてついに老人を三人の乗ってきた小船に乗せて、沖の方へ流してしまいました。みんなは、これで復讐がとげられたと思いました。もうこれからは、みんな物知りなどというものがいなくて、この国の人々が迷わされる心配のないのを喜びました。しかし、そうした喜びもつかのまのことでありました。
みんなは、また、前のように生きている望みを失ってしまいました。なんのために、自分らは、こうして味気ない生活をつづけなければならぬのか。
「禍の島でもいいからいってみたい。」といって、まれには船を押し出していくものもありました。
未知の世界に憧れる心は、「幸福の島」でも、また、「禍の島」でも、極度に達したときは変わりがなかったからです。とにかく、みんなは、たがいに欲深であったり、嫉妬しあったり、争い合ったりする生活に愛想をつかしました。そして、これがほんとうの人生であるとは、どうしても真に信じられなかったのであります。
夕焼け物語
小川未明
一
三人の娘らは、いずれもあまり富んでいる家の子供でなかったのです。
ある春の末のことでありました。村にはお祭りがあって、なかなかにぎやかでございました。
三人の娘らも、いっしょにうちつれてお宮の方へおまいりにゆきました。そうして、遊んでやがて日が暮れかかるものですから、三人は街道を歩いて家の方へと帰ってゆきました。
すると、あちらの浜辺の方から、一人のじいさんが一つの小さな屋台をかついで、こっちに歩いてくるのに出あいました。それはよく毎年春から夏にかけて、この地方へどこからかやってくる、からくりを見せるじいさんに似ていました。
三人の娘らはたがいに顔を見合って、ひとつのぞいてみようかと相談いたしました。
「おじいさん、いくらで見せるの?」
と、娘の一人がいいますと、じいさんはかついでいた屋台を降ろして、笑って、
「さあさあごらんなさい、お金は一銭。」
といいました。
三人は一人ずつその屋台の前に立って、小さな穴をのぞいてみました。すると、それには不思議な、ものすごい光景が動いて見ました。よくおばあさんや、おじいさんから話に聞いている人買い船に姫さまがさらわれて、白帆の張ってある船に乗せられて、暗い、荒海の中を鬼のような船頭に漕がれてゆくのでありました。三人は、それを見終わってしまうと、
「ああ、怖い。かわいそうに。」
と、小さなため息をもらしていいました。
そのとき、じいさんは、三人の娘らを見て、笑っていましたが、
「おまえさんがたは、いずれも正直な、おとなしい、しんせつないい子だから、私がいいものをあげよう。この紙になんでも、おまえさんがたの欲しいと思うものを書いて、夕焼けのした晩方に海へ流せば、手に入れることができる。」
といって、じいさんは三枚の赤い小さな紙きれを出して、三人の娘に渡したのでありました。三人は、それを一枚ずつもらって帰りました。
三人の娘らは、みんなの希望を、その赤い紙に書きました。一人は、
「どうかきれいなくしと、いい指輪をください。」
と書きました。一人は、
「わたしにオルガンをください。」
と書きました。もう一人の娘は、髪の毛の少ない、ちぢれた子でありました。その娘は、いたって性質の善良な、情けの深い子でありました。彼女は、死んだ姉さんのことを思わない日とてなかったのであります。なんでも希望を書けば、それを神さまが聞きとどけてくださるというものですから、娘は、その赤い紙に、
「どうか姉さんにあわしてください。」
と書きました。
三人の娘は、それぞれ自分らの望みを書いた紙を持って、ある夕焼けの美しい晩方に浜辺にまいりました。北の海は色が真っ青で、それに夕焼けの赤い色が血を流したように彩って美しさはたとえるものがなかったのです。
三人はある岩の上に立ちまして、きれいなたいまい色の雲が空に飛んでいました。娘らは手に持っている赤い紙に小さな石を包んで、それを波間めがけて投げました。やがて赤い紙は大海原の波の間に沈んでしまって、見えなくなったのであります。
三人は家へ帰って、やがてその夜は床についてねむりました。そうして、明くる日の朝、目を開いてみますと、不思議にも、一人の娘のまくらもとには、みごとなくしと、光った高価な指輪がありました。また一人の娘のまくらもとには、いいオルガンがありました。そうして、もう一人のちぢれ髪の娘のまくらもとには、赤いとこなつ草がありました。その娘は、不思議に思って、その花を庭に植えました。そうして、朝晩、花に水をやって、彼女はじっとその花の前にかがんで、その花に見入りました。すると、ありありと姉さんの面影が、その、日に輝いたとこなつの花弁の中に浮き出るのでありました。
少女は、声をあげんばかりに驚き、かつ喜びました。そして、いつでも姉さんを思い出すと、彼女はその花の前にきて、じっとながめたのであります。その姉さんの姿は、ものをこそいわないけれど、すこしも昔のなつかしい面影に変わりがなかったのです。
少女は、毎日、毎日、その花の前にきてすわっておりました。
二
またほかの二人の娘らは、一人は、美しいくしを頭に差し、きれいな指輪をはめています。一人は、いい音色のするオルガンを鳴らして歌をうたっています。ある日のこと、ちぢれ髪の少女は、友だちにあってみますと、一人は、美しいくしと指輪を持っているし、一人は、いい音色のするオルガンを持っていますので、なんとなく、それを心のうちでうらやみました。
彼女は家に帰ると、独りで、花の前に立って、
「ああ、わたしも、あんな指輪とオルガンが欲しいものだ。」
と、小さな声でいったのであります。
このとき、どこからともなく、白い鳥が飛んできました。そして、不意に庭に咲いているとこなつの花をくわえて、どこへとなく飛んでいってしまいました。
少女は、この有り様を見て驚きました。そして、そこに泣きくずれました。
「ああ、わたしが悪かった、他のものなどをうらやんだものだから……神さまにたいしてすまないことをした。ああ、どうしたらいいだろう。」
といって、地に伏してわめきました。けれど、もはやどうすることもできません。
いくら姉さんにあいたいたって、もはや、とこなつの花はなかったのであります。もう二度と、その花の前に立って、なつかしい姉さんの顔を見ることができなかったのです。
少女はどうかして、あのとこなつと同じい花はどこかに咲いていないかと思って、毎日のように浜辺を探して歩きました。浜辺にはいろいろな青や、白や、紫や、空色の花などがたくさんに咲いていました。けれどあの赤いとこなつと同じい花は見つかりませんでした。少女は姉さんの面影を思い出しては、恋しさのあまり泣きました。そして、その明くる日も、また彼女は浜辺に出ては、草原の中を探して歩きました。
夕焼けは幾たびとなく、海のかなたの空を染めて沈みました。少女は岩角に立って、涙ながらにそれをながめたのでありました。
ある日のこと、彼女は、いつか赤い紙に石を包んで投げた岩の上にきて、海を望みながら、神さまに手を合わせて、静かに祈りました。
「どうぞもう一度、あのとこなつの花をくださいまし。わたしがほかのものをうらやみましたのは悪うございました。どうぞおゆるしください。」
といいました。
すると、夕焼けのしたかなたの空の方から、また白い一羽の鳥が飛んできました。そして、少女のすわっている頭の上にきて、くわえてきた一本のとこなつの花を落としました。少女はそれを見て、夢かとばかり喜んで、これを拾いあげました。それは、いつか庭に植えておいた花とまったく同じでありました。彼女は、その花に接吻して神さまにお礼を申しました。しかし、その花には根がなかったのであります。
少女は、せっかく白い鳥がくわえてきてくれた花に根のないのを悲しみました。けれど、彼女はどうかして大事にして、いつまでもその花を枯らさないようにしなければならぬと思って、髪に差して勇んで家に帰りました。すると、花はいつのまにやら、まったくしおれていました。少女はあまりの悲しさに、花を抱えて声をあげて泣きました。
みんなは、少女が泣くもので、どうしたのかと思って入ってきてみてびっくりしました。
「まあ、どうしておまえさんは、産まれ変わったように髪がたくさんになって、しかも黒くなって、美しくなったのか。」
といって騒ぎました。
少女はこれを聞きますと、そんなら自分の少ない、ちぢれた赤い色の髪の毛が変わったのだろうかと思って、手を頭に上げて触れてみますと、なるほど、ふさふさとしてたくさんになっています。これは夢でないかと驚きまして、さっそく鏡の前にいって映った姿を見ますと、真っ黒なつやつやした髪の毛がたくさんになって、そのうえ自分の顔ながら、見違えるように美しくなっていました。少女は、これを見ると、いままで泣いていた悲しみは忘れられて、思わずほほえんだのでありました。
日ごろから、この娘はおとなしい、情け深い、優しい性質のうえに、急にこのように美しくなったものですから、村の人々からはその後ますますほめられ、愛されたということであります。
梨の実
小山内薫
私がまだ六つか七つの時分でした。
或日、近所の天神さまにお祭があるので、私は乳母をせびって、一緒にそこへ連れて行ってもらいました。
天神様の境内は大層な人出でした。飴屋が出ています。つぼ焼屋が出ています。切傷の直ぐ癒る膏薬を売っている店があります。見世物には猿芝居、山雀の曲芸、ろくろ首、山男、地獄極楽のからくりなどという、もうこの頃ではたんと見られないものが軒を列べて出ていました。
私は乳母に手を引かれて、あっちこっちと見て歩く内に、ふと社の裏手の明き地に大勢人が集まっているのを見つけました。
側へ寄って見ると、そこには小屋掛もしなければ、日除もしてないで、唯野天の平地に親子らしいお爺さんと男の子が立っていて、それが大勢の見物に取り巻かれているのです。
私は前に大人が大勢立っているので、よく見えません。そこで、乳母の背中におぶさりました。すると、そのお爺さんのしゃべっている事がよく聞えて来ました。
「ええ。お立ち合いの。わたくしは皆様方のお望みになる事なら、どんな事でもして御覧に入れます。大江山の鬼が食べたいと仰しゃる方があるなら、大江山の鬼を酢味噌にして差し上げます。足柄山の熊がお入用だとあれば、直ぐここで足柄山の熊をお椀にして差し上げます……」
すると見物の一人が、大きな声でこう叫りました。
「そんなら爺い、梨の実を取って来い。」
ところが、その時は冬で、地面の上には二三日前に降った雪が、まだ方々に白く残っているというような時でしたから、爺さんはひどく困ったような顔をしました。この冬の真最中に梨の実を取って来いと言われるのは、大江山の鬼の酢味噌が食べたいと言われるより、足柄山の熊のお椀が吸いたいと言われるより辛いというような顔つきをしました。
爺さんは暫く口の中で、何かぶつぶつ言ってるようでしたが、やがて何か考えが浮んだように、俄にニコニコとして、こう申しました。
「ええ。畏りました。だが、この寒空にこの土地で梨の実を手に入れる事は出来ません。併し、わたくしは今梨の実の沢山になっているところを知っています。それは」
と空を指さしまして、
「あの天国のお庭でございます。ああ、これから天国のお庭の梨の実を盗んで参りますから、どうぞお目留められて御一覧を願います。」
爺さんはそう言いながら、側に置いてある箱から長い綱の大きな玉になったのを取り出しました。それから、その玉をほどくと、綱の一つの端を持って、それを勢よく空へ投げ上げました。
すると、投げ上げた網の上の方で鉤か何かに引っかかりでもしたように、もう下へ降りて来ないのです。それどころではありません。爺さんが綱の玉を段々々にほごすと、綱はするするするするとだんだん空の方へ、手ぐられでもするように、上がって行くのです。とうとう綱の先の方は、雲の中へ隠れて、見えなくなってしまいました。
もうあといくらも綱が手許に残っていなくなると、爺さんはいきなりそれで子供の体を縛りつけました。
そして、こう言いました。
「坊主。行って来い。俺が行くと好いのだが、俺はちと重過ぎる。ちっとの間の辛抱だ。行って来い。行って梨の実を盗んで来い。」
すると、子供が泣きながら、こう言いました。
「お爺さん。御免よ。若し綱が切れて高い所から落っこちると、あたい死んじまうよ。よう。後生だから勘弁してお呉れよ。」
いくら子供がこう言っても、爺さんは聞きませんでした。そうして、唯早くしろ早くしろと子供をせッつくばかりでした。
子供は為方なしに、泣く泣く空から下がっている綱を猿のように登り始めました。子供の姿は段々高くなると一緒に段々小さくなりました。とうとう雲の中に隠れてしまいました。
みんなは口を明いて、呆れたように空の方を見ていました。
そうすると、やがて不意に、大きな梨の実が落ちて来ました。それはそれは今までに見た事もないような大きな梨の実でした。西瓜ぐらい大きな梨の実でした。
すると、爺さんはニコニコしながら、それを拾って、自分の直ぐ側に立っている見物の一人に、おいしいから食べて御覧なさいと言いました。
途端に、空から長い網がするすると落ちて来ました。それが、見ている間に、するするするすると落ちて来て、忽ち爺さんの目の前に山のようになってしまいました。
すると爺さんが青くなって叫びました。
「さあ、大変だ。孫はどうしたのでございましょう。孫はどうして降りて来るのでございましょう」
そう言ってる途端に、どしんという音がして何か空から落こって来ました。
それは子供の頭でした。
「わあ、大変だ。孫はきっと天国で梨の実を盗んでるところを庭師に捕まって、首を斬られたに違いない。ああ、わしはどうして孫をあんな恐ろしい所へ遣ったんだろう。なぜ、皆様方は梨の実が欲しいなどと無理な事を仰しゃったのです。可哀そうに、わたくしのたった一人の孫は、こんな酷たらしい姿になってしまいました。ああ、可哀そうに。可哀そうに。」
爺さんはこう言って、わあわあ泣きながら、子供の首を抱きしめました。
そうしてる内に、手が両方ばらばらになって落ちて来ました。右の足と左の足とが別々に落ちて来ました。最後に子供の胴が、どしんとばかり空から落っこって来ました。
私はもう初め首の落っこって来た時から、恐くて恐くてぶるぶる顫えていました。
大勢の見物もみんな顔色を失って、誰一人口を利く者がないのです。
爺さんは泣きながら、手や足や胴中を集めて、それを箱の中へ収いました。そして、最後に、子供の頭をその中へ入れました。それから、見物の方を向くと、こう言いました。
「これはわたくしのたった一人の孫でございます。わたくしは何処へ参るにも、これを連れて歩きましたが、もうきょうからわたくしは一人になってしまいました。
もうこの商売も廃めでございます。これから孫の葬いをして、わたくしは山へでも這入ってしまいます。お立ち会いの。孫はあなた方の御注文遊ばした梨の実の為に命を終えたのでございます。どうぞ葬いの費用を多少なりともお恵み下さいまし。」
これを聞くと、見物の女達は一度にわっと泣き出しました。
爺さんは両手を前へ出して、見物の一人一人からお金を貰って歩きました。
大抵な人は財布の底をはたいて、それを爺さんの手にのせて遣りました。私の乳母も巾着にあるだけのお金をみんな遣ってしまいました。
爺さんは金をすっかり集めてしまうと、さっきの箱の側へ行って、その上を二つ三つコンコンと叩きました。
「坊主。坊主。早く出て来て、お客様方にお礼を申し上げないか。」
爺さんがこう言いますと、箱の中でコトンという音がしました。
すると、箱の蓋がひとりでにヒョイと明いて中から子供が飛出しました。首も手も足もちゃんと附ていて、怪我一つしていない子供が、ニコニコ笑いながら、みんなの前に立ちました。
やがて、子供と爺さんは箱と綱を担いで、いそいそと人込の中へ隠れて行ってしまいました。