第六章 課題文型小論文問題を利用した取り組み

1 授業のねらい

 今回の意見文の取り立て指導では、代々木ゼミナールの新小論文ノート(九八年・九九年版)から実際、大学入試で出題された課題文型の小論文の問題を2つ選び出した。それは、「だらしな系ファッション」の是非をめぐる新聞投書の意見を扱った問題(九七年北里大学看護学部にて出題)と「ビートたけしの自然環境論」を読んで、自然と人との関わりについて論じる問題(九八年群馬大学教育学部にて出題)である。この問題を選んだ理由として、まず「対立的な構造」を発見しやすいテーマであることがあげられる。さらに、前者は高校生の身近な問題としてリアリテイーを持って迎え入れられること、後者はたけしの自然環境論が常識的ではなく新鮮さを持って生徒たちに受け入れられることなどを計算しての問題選択であった。特に「だらしな系」の問題では、見出しを十五字以内で立てることで、「要約する力」が問われ、5つのキーワードを使って三百字の反論を書き、さらに自分の立場に一番近い投書を選んで、その根拠を四百字で書くというように、学習活動も多様で論理的な文章表現力を磨くには、大変よい問題だと判断した。

 「ビートたけしの自然環境論」では、新編国語U・三省堂に収録された、文体も主張もたけしとは正反対の宮迫千鶴「魂と土」の随筆と比べ読みすることで、「対立的な構造」を際立たせようと考えた。また、国際コミュニケーション科の選択国語(2単位)履修の21名の女子生徒たちに、ポストイットを利用した対比表を作らせて、「対立的な構造」を意識した題材探しを行った。最後に、3年次の2学期の中間考査(小論文試験)で、この「ビートたけしの自然環境論」を論題として設定している。この授業のねらいとしては、次の点があげられる。

  1. 課題文の矛盾点や問題点を探し、反論を書く。
  2. 「対立的な構造」を発見し、意見の対比表を作成することで題材探しを行う。
  3. ポストイットを活用して「対立的な構造」を図式化することで、論点を整理して書く。

2 授業の指導過程

 だらしな系ファッションの是非を考える(計6時間・9/1〜9/14)

〈第一時〉新聞投書を読み、15字以内で見出しを立てる。
〈第二時〉反論のワークシートに、2.の投書に対する矛盾点や問題点を書き込む。
〈第三時〉矛盾点や問題点の一覧表をもとに、三百字の反論を書きあげる。
〈第四時〉反論の生徒作品集をつくり、互いの作品を読み合う。
〈第五時〉自分の立場に一番近い投書を決めて、その根拠を400字でまとめる。
〈第六時〉優秀作品を選考し、作成した生徒作品集の読み合わせを行う。

 課題文を読み、2つの投書に十五字以内で見出しをつけたあと、2. の投書に対する矛盾点や問題点をワークシートに書き込ませた。ワークシートを回収して生徒たちの意見の一覧表を作成し、配布した。それをもとに、2. の投書に対する三百字の反論を書かせ、優秀作品をそれぞれクラスごとに作品集(無記名)にして配布、読み合わせを行った。この際、ユニークで独創的な作品をほめることで、生徒たちの「書こうとする意欲」を高めようと努めた。最後に、自分の意見に一番近い投書の作品を選び、その根拠を四百字で書かせた。優秀作品を私の目で選び作品集にして配布し、読み合わせを行った。

 ビートたけしの自然環境論(計9時間・9/27〜10/18)

〈第一時〉宮迫千鶴、随想「魂と土」を読む
〈第二時〉宮迫千鶴、随想「魂と土」学習プリント 1・2 の問題を解く
〈第三時〉宮迫千鶴、随想「魂と土」学習プリント 3・4 の問題を解く
〈第四時〉ビートたけしの、の問題文を読む。(ワークシート配布)
〈第五時〉共感点・批判点のワークシートを記入する。(回収して意見集を作成)
〈第六時〉共感点・批判点の意見一覧表を配布し、題材探しを行う。(対立的構造の把握)
※なお、国際科では、ポストイットで題材探しを行った。(第五・六時)
〈第七時〉生徒意見一覧表やポストイット対比表をもとに、下書きを行う。
〈二学期中間考査〉
小論文問題として出題し、清書させる。(八百字・60分)
〈第八時〉優秀作品4編を読んだ後、最優秀作品1編を生徒たちの投票で選出する。

 ビートたけしとは、文体も主張の内容もまるで正反対の宮迫千鶴「魂と土」(「新編国語U・三省堂」に収められた随想)と比べ読みをすることで、「対立的な構造」を際立たせようと考えた。ビートたけしの文章を読んで、ワークシートに共感点と批判点を記入させた。それらをもとに、対比的な生徒意見一覧表を作成し、配布することで題材探しを行う基礎資料とした。なお、国際コミュニケーション科の女子生徒21名のクラスでは、ポストイットを利用して、対比的な意見一覧表を作成する作業を行った。2時間という限られた時間での慌ただしい取り組みであったが、4・5人の少人数グループで題材探しを行うことができた。二学期の中間考査では、このビートたけしの自然環境論を小論文試験として実施した。生徒一人ひとりに達成感を味わわせたかった為に、資料・下書き等、全て持ち込み可能の試験とした。

 これら2つの問題とも「対立的な構造」を意識させるために、反論の作品集、共感点・批判点の生徒意見一覧表、ポストイットを使った対比表などの資料を作成し配布して、意見の深化、拡充を図った。生徒たちには、それらの題材集にはない独自のアイデアを発見することが、独創性につながり、作品の評価もあがるのだということを繰り返し伝えた。

3 授業の実際

(1)『「だらしな系ファッション」の是非を考える』の授業例

 この問題は、一九九六年九月十七日、二十二日、二十八日の朝日新聞に掲載された、読者からの投稿文を素材に問題化されたものである。九七年に北里大学看護学部の小論文入試問題として作成されており、代々木ゼミナール新小論文ノート(九八年度版)に掲載されていたものを使用した。まずこの問題を紹介してみたい。

 小論文演習その1 

 次の1 〜 4 は、新聞の投書欄における「だらしな系ファッション」の是非に関するやりとりです。後の問いに答えなさい。

 

 1 何を着ようが僕たちの勝手(学生一九歳)

 最近「だらしな系」ファッションに対して批判が多いようですが、「だらしな系」ファッション派の一人として言いたいのは、なぜ批判されなければならないのか?ということです。
 僕らはそれが「カッコイイ」と思ったからこそやっているだけで、たとえ流行(はやり)に流されていようが、人が何を着ようと勝手だと思います。
 ダボダボのズボンをはいて何が悪いんですか?目障りなんですか?中年の方々にはそう映っても僕らは気に入ってるんです。
 いつの時代にも「流行」というものがあって、それも刻々と変化しています。中年の方々の若いころにもその時代の「流行」があったでしょう。僕らはファッションを楽しんでいるのに「そんな格好やめろ」「本当にだらしない」とか言われる筋合いはありません。
 何を着ようが勝手です。

 2 (高校生十六歳)

 私も「だらしな系」が理解できない一人です。しかし娘さんが言う通り、私たちと母親たちの時代は違うと思います。
 根本的な何か、例えば人前で恥をかかないようにする、これはいつも同じです。しかし、周囲が変化することによって捕らえ方が違う、それが時代の違いではないでしょうか。ですから、娘さんがいいと思ってやっていることは見守っていてほしいと思います。
 ただ気になるのは、若者がどうしてだらしなく≠オたがるのか、ということです。そこで娘さんに、なぜルーズソックスを履くのか聞いてみてください。人が納得できるような説明をさせてみましょう。正しいことは、だれだって納得するはずです。できるまで話し合いを続けるのです。時代が違うからいいという言葉は通用しないと思います。理解できなくても分かることはできるはずです。
 さて、私は普通の高校生。短い靴下に規則通りの丈のスカート、休みの日にはジーンズにTシャツ。母や妹たちによく言われます。「もっとおしゃれしたら?」「それ、ださいよ」。どうしたものでしょうか。

 3 (高校生一八歳)

 「だらしな」系ファッションに関して、白熱した討論が行われているのに、興味をひかれて、ペンをとったしだいです。
 私は、どちらかといえば「だらしな」系ファッション容認派ですが、私自身はそのような服装はしません。理由は至って簡単、単純。ダサイからです。
 特にズボンをずらしている姿。やっている本人は格好いいと思っての行為でしょう。しかし、私にはどう見ても胴長短足であることを誇りに思い、それを強調してアピールしているようにしか見えないのです。
 そして、ズボンのすそは地面を掃除するため、大変不潔です。なぜそのような服装をするのか、理解しかねますが、他人のことですから、とやかく言う必要もないと思います。
 中年の方々も、自分の子供ならともかく、他人の子供なら、そう嘆くこともないでしょう。彼らは、胴長短足をアピールし、掃除がしたいだけだと思えばよいのです。
 そう、彼らはボランテイアで掃除する良い人。温かい目線を送ってあげて下さい。ただし、自分の子供に関しては、止めることをお勧めします。
 彼らのズボンのすそに集められたゴミは、家のカーペットが回収しますから。

4 理解できない「だらしな系」 (編集業 23歳)

 私も「だらしな系」ファッションが理解できません。「何を着てもいい」でしょうが。一体どこがカッコイイのかしら?と首をひねる毎日です。
 私服での「だらしな系」ファッションはまだいいとしても、何より見苦しいのが、制服を改造したものです。自宅のすぐ前に高校があるため、毎朝たくさんの生徒とすれ違います。男はほぼ全員がズルズルズボン、女もルーズソックス一色。制服を着ている上、ほかの部分のファッションに個性が全くないという点が不気味です。
 一度、遅刻しそうになった男の子が走り出したのを見ました。彼はズボンを腰どころか股(また)まで下げていたため、走るに走れず、ペンギンみたい。ついに、ズボンが脱げかかったのを見て噴き出したのは私だけではありません。
 ファッションは自己満足に陥りがちですが、本来、服というものは他人が見るものだとも言えると思います。他人が見て不快感を覚えるファッションは、やはり納得がいきません。

 

 (以上の1 〜4 の四つの文章は、朝日新聞一九九六年九月一七日、二二日、二八日朝刊の投稿文による)

 問題

問一 2. と 3. の投書に、適当な見出しを一五字以内でつけなさい。
問二 2. の投書に反論する文を、十五字以内の見出しをつけたのち、三○○字以内で、左記の(指定語句)をもれなく使って、投書欄に書くつもりで書きなさい。
なお、文中で(指定語句)を一番初めに使用した時に限り、傍線を引きなさい。
(指定語句)  「校則」 「カッコイイ」 「自由」 「流行」 「勝手」
問三 あなたの考えに一番近い投書を一つ選び、その番号を書いてから、選んだ理由を400字以内で書きなさい。

 課題文を読んだ後、問二の問題を解くために、次のようなワークシートを作成し、生徒たちが指摘した2. の投書に対する矛盾点や疑問点を意見一覧表にして配布した。それらの資料を次にあげてみたい。

 反論を書くためのワークシート  「だらしな系ファッション」の是非を考える

3年( )組( )番 氏名(        )

2. の投書の文章構成図

 私も「だらしな系」が理解できない一人です。
しかし、私たちと母親たちとでは時代が違います。
時代が違えば、ものの捕らえ方も違ってくるので、娘さんがいいと思ってやっていることは、見守ってあげて下さい。
ただ、若者がどうしてだらしなく≠オたがるのかは、気になります。
娘さんには、人が納得できるような説明をさせてみましょう。
時代が違うからいいという言葉は通用しません。
なぜ、「だらしな系ファッション」をするのか、納得できるまで親子で話し合ってみましょう。
娘さんの言い分を理解できなくても、その気持ちを分かってあげることはできるはずです。
さて、私は普通の高校生です。
母や妹たちに、おしゃれをすすめられますが、どうしたものでしょうか。

 2. の投書に反論する文章を書く前に、何か矛盾点や気になる点はないか、あげてみよう。

  

  

 2 の投書の矛盾点や問題点(生徒意見一覧集)

 矛盾点や疑問点の意見一覧表をもとに、5つの指定語句、「校則」「カッコイイ」「自由」「流行」「勝手」をもれなく使って300字の反論を書かせた。次に紹介するのは、生徒作品集の中でも、ユニークで独創的だと私が判断し、ほめた作品である。5つのキーワードが設定されていても、様々な作品ができあがるおもしろさを生徒たちに味わってもらいたいと考え、作品集は、すべてワープロ打ちして無記名で配布した。誰の筆跡の作品かがわからなくなると、作品に対する評価の客観性が確保できる。授業準備としては、非常に労力を要することであるが、作品に対しても言いたいことが気兼ねなく言えて、評価の為の読み合わせとしては、良質の場を提供できることを実感した。最後に、私が作成した作品も配布して、この授業に参加する形をとった。


 4 生徒の実例(その1)

問二 2. の投書に対する反論(三百字)
指定語句は、「校則」「カッコイイ」「自由」「流行」「勝手」の5つとする。なお、該当のキーワードには傍線を引かせた。

正しいこととは?  3年7組 女子生徒 (2. の反論)

 正しいことは、だれだって納得するはずです、という主張に疑問を感じる。人それぞれ価値観は違うし、自分の意見を人に押しつけてしまうのではないだろうか。校則もまた、人により捉え方が違ってくる。校則を否定する人は自由を主張するが、肯定派はそれを自分勝手だと言いかえる。それぞれの言い分は正しいかも知れない。しかし、お互いに納得はつかないだろう。流行を追うことは決して悪いことではない。そうすることで、カッコイイ自分を作ることができる。一方で、校則もまた、規律を守ることや集団でのあり方を第一に考える人にとっては、正しいものである。人の気持ちや意見は多様なものであり、一概に正しいことの証明はできないのでは?

話し合いでは解決しない  3年3組 男子生徒 (2. の反論)

 納得するまで話し合いをと言っているが、それは難しいことです。話し合いをしたからといって校則通りになるとは限らないからです。だらしな系の若者たちは、そのファッションが流行であり、自由カッコイイと思っているので、他人の意見など耳に入るはずがありません。まして、自分が良いと思ったことを他人から文句をつけられるといい気分にはなりません。逆に反抗して「自分たちの勝手だ」と主張するでしょう。そういう若者たちと話し合っても両者の意見は平行線のまま終わります。「だらしな系」を批判する意見は確かに納得できます。しかし、若いときにしかできないファッションもあるのです。それなりに若者も道理を理解していると思います。

ファッションは自己表現です   3年5組 女子生徒 (2. の反論)

 「私は普通の高校生。」という発言に疑問を感じます。これでは「だらしな系」ファッションの人への皮肉に聞こえます。この人の言う「普通の高校生」とは何なのでしょうか。校則通りの格好をしている人でしょうか、流行を追わない人でしょうか。それが「普通」なら「わかることはできる」と言った作者自身が一番「だらしな系」を否定しています。
 確かに、周りの人から見れば「だらしな系」をカッコイイという理由で着こなしている人は、一見、自分勝手に見えるかもしれません。しかし、彼らにとってファッションは自己表現の手段なのです。誰だって自由で伸びやかな自己表現を求めています。作者からは彼らを理解しようとする気持ちが感じられません。

納得のいくまで話し合いを    3年4組 女子生徒 (2. の反論)

 あなたは、納得できるまで娘さんと話し合いをと言っていたのに、理解できなくても分かることはできるはずだと、述べていて意見が矛盾しています。
 現代の若者は流行に流される傾向があり、皆、雑誌などで見てカッコイイと思うファッションの真似をします。それをおかしいと考えるなら、親と子どもの両方が完全に納得するまで話し合いを続けるべきです。子どもが校則に反する姿をしていたら注意すべきです。
 その時子どもの方は、「自分の自由だ」、「どんな姿をしようと自分の勝手だ」と言うかもしれません。しかし、それではお互いに理解できないはずです。理解できなくても気持ちが分かるということは絶対にないのです。

時代の違いを受け止める     3年4組 男子生徒 (2. の反論)

 「正しいことはだれだって納得するはずです。」という意見に対して、「正しい」と思うことは世代によって違うと考えます。
 今の時代の若者たちは、学校という校則のある時間と、流行の服を自由に着れる私的な時間の中とで、それぞれ自分のスタイルで生活しています。それらは全て自分で納得し、カッコイイと思ってしていることなのです。
 しかし、大人たちは若者をだらしないなどと勝手なことを言います。つまり若者の服装を、頭から正しくないと決めつけているのです。それら全ては、時代の違いが生む大きな問題です。これからは何が正しいかを議論するよりも、時代の違いをお互いが理解することが重要であると思います。

 問二 2. の投書に対する反論の例文(田口・作)
 (指定語句)  「校則」「カッコイイ」「自由」「流行」「勝手」

ファッションは感性の賜物   (字)

 なぜ「だらしな系ファッション」をするのか、納得できる説明をさせてみようという主張に疑問を感じます。もともと個人がカッコイイと思って、時流に乗った流行現象ですから、深い理由はありません。娘さんにその説明を求めても、「何を着ようと私の勝手です。」もしくは「自分の好みに理屈なんかない。」と拒絶されるのがおちです。せっかくの親子の対話も平行線をたどりそうな気がします。校則に縛られた高校生たちのささやかな抵抗だと言えないこともありませんが、本人たちは、軽い気持ちで流行を楽しんでいるのではないでしょうか。個人の自由で伸びやかな感性に基づく行動に、きちんとした道理を求めるのはナンセンスなことだと思います。

(三百字)

正しいファッションて何?   (字)

 時代が違えば、流行も移り変わり、ものの考え方も変わってきます。娘さんの考え方を温かく見守ってあげて下さいと言いながら、正しい説明を求めようとするあなたの主張には矛盾を感じます。何を着ようが個人の勝手カッコイイものを着るのは若者の自然な感情、時代が違えば感性も異なる、といった主張は、正当な理由ではないのでしょうか。もともとファッションは、個人の好みの問題であって、多様な見解があっていいはずです。
 正しい服装を唱くはずの校則が、余り歓迎されていないのも、個人の自由な心を束縛するものとして敬遠されるからでしょう。誰にも説明できる正しい理由・ファッションって、本当に存在するのでしょうか。とても疑問です。

(三百字)

話し合いで全ては解決しない  (字)

 本人が流行を追い、カッコイイと思ってやっている個人的な感覚を他人に納得できるように説明させるのは難しいことです。説得力のある説明ができなくても、個人の心の自由を規制することはできません。「だらしな系」の是非を問うこと自体が、議論の対象になりにくいと思います。

 もちろん、校則で服装を規制して集団の秩序を維持しようとする学校側の意図は分かります。しかし、もともと服装は個人の自由であり、何を着ようと個人の勝手だという論調を完全に否定することはできません。個人の好みや感覚に属することを、理詰めで否定するには無理があります。話し合ってみても、感性の違いをそろえることは不可能です。

(三百字)
 

 最後に、自分の考えに一番近い投書を一つ選び、その投書を選んだ根拠を四百字という短作文で書かせた。圧倒的に1 の投書を支持する作品が多かったので、私の作例では、意図的に4 の投書を支持する文章を書いた。次に、生徒たちの作品と私が作成した例文をあげておきたい。

4 生徒の実例(その2)

 問三 支持する投書の根拠を書く(四百字)

  1.  3年3組 男子生徒

 私は「だらしな系」ファッション支持派です。理由は、ただ単純にそのファッションが好きだからというだけです。
 私の両親も世間の大人たちと同様に、「だらしな系」には、否定的です。私が「だらしな系」の格好をしていると、「そんな格好やめろ」、「本当にだらしない」という言葉が飛んできます。その際、「何を着ようが個人の勝手」とは言い返しませんが、内心ではいつも反抗的な気持ちでいます。「一体、だらしなくない格好ってどんな格好なのですか。どんな格好だったら大人に気に入ってもらえるのですか。」といつも思っています。私が仮に、今の質問を大人にしたところで、私たちに納得のいく説明をできる人は何人いるでしょうか。たちまち返答に窮してしまうと思います。
 確かに、私の意見は、へ理屈で詭弁に聞こえるかも知れません。しかし、その答えが多様である以上は、「だらしな系ファッション」を否定することはできないでしょう。

  1.   3年7組 女子生徒

 私は「だらしな系ファッション」容認・賛成派です。私自身は、そこまで「だらしな系ファッション」をしていませんが、そういう服装をしている人を見たところで批判したりはしません。やはり、服装というのは、その人の個性を発揮できる最高の方法だと思うからです。誰もがみんな同じ格好をしては、その人の個性を表現することができません。
 さらに、時代時代に応じて流行はあり、今、若者を批判している大人たちだって若い頃は流行に流されていた時期があったはずです。ただ、その「流行の服装」が違うだけで、若者が求めているものは、根本的に何も変化がないと考えています。
 服装はその人の個性そのものです。一人ひとりに応じて多様な個性があり、その人が何を着るかは全くの自由だと思います。今、若者を批判している大人たちも、自分の昔をふり返ってみてはどうでしょうか。そうすれば今の私たちの気持ちも少しは分かるでしょう。

  1  3年5組 女子生徒

  私は「だらしな系ファッション」について若者を責めることはできないと思います。問題の根本的な原因は、売り手側やマスコミの人たちにあるのではないでしょうか。
 たとえば、東京の方で流行の一つになったルーズソックスなどをマスコミがテレビで取り上げると、売り手側がそれに目をつける。そうやってマスコミと売り手側との仕掛けによって多くの流行がつくられています。今の高校生たちは、商業主義の被害者であり、若者たちを利益の対象として利用しようとする大人たちは加害者であると思います。
 もちろん流行に流されやすい若者たちにも責任がないわけではありません。しかし、流行を追いかけながら、実は巧妙に管理され踊らされている若者たちは、現代という時代の息苦しさを直感していると思います。自分自身の生き方や個性を見つけて自立したいと考えている若者たちに「常識」を説くだけでは説得力はありません。

  3.   3年3組 女子生徒 

 私もどちらかといえば「だらしな系ファッション」容認派です。しかし私は、制服でのルーズソックスの他は、そのような格好はしません。なぜならあまり格好良いものではないと思っているからです。
 今、だらしなく≠キることは流行とされています。流行だからと言えば、それは仕方のないことでしょう。しかし、個性だ個性だと言う割には、流行に流され、自分の個性を忘れている人が多くなってきているような気がします。
 だらしな系の服を着る人、それが個性的であると思っているならかまいません。しかし、その服装を見て不快に思う人もいます。流行なので皆に合わせて着ている人がいるなら、その服装は少し考えてみるべきだと思います。
 個性や流行だと騒ぐ時代。しかし本当の個性や自分らしさは一体どこにあるのでしょうか。言葉に踊らされているだけで、自分らしさを忘れている時代ではないでしょうか。

  3.   3年7組 女子生徒

 私は「だらしな系ファッション」容認派です。
 その理由は、ファッションというものは個性で演出するものだと思うからです。十人十色という言葉があるように、世の中には様々な人がいて、それを一まとめにするようなことはできないのです。私の個性でいえば、「だらしな系ファッション」というものは好みに合わないので自ら身につけようとは思いません。個人の好みの問題なので、文句を言う筋合もないし、言われる筋合もありません。ファッションについてとやかく言うのは、個人を攻撃しているようで、あまり聞こえがよくありません。
 現代の人々は常に個性を求めて生きています。自分のことを知らない他人にも自分がどういう人間であるかを主張できるファッションについて、人々はもっと寛容になっていくべきではないでしょうか。
 

  4.   3年4組 女子生徒

 私も「だらしな系ファッション」が理解できない一人です。私は駅の近くに住んでいるのですが、電車通学をしている人の服装のだらしなさにはあきれてしまいます。そして、その一部のだらしない人が駅から学校まで交通違反をしながら自転車で通ってくるので、住民の人たちはこの学校の生徒はだらしないと、生徒全員をそういう目で見てきます。私は生徒でもあり住民でもあるので東高生として恥ずかしく思うときがあります。
 私服のときにだらしなくしたり、茶髪でピアスをしたりするのは個人の勝手なので認めます。しかし、制服をだらしなく着ることは間違っていると思います。学校は勉強をしに来るところ、集団生活の場です。その学校に来るのになぜシャツを全部出し、茶髪でピアスをしてくるのでしょうか。校則を守れない人は学校に来る必要はないのです。
 どんな格好をしようと個人の自由ですが、時と場所をわきまえるべきなのです。


 問三 作品例(田口・作)
  1.

 服装やファッションは、個性を発揮する自由な自己表現であると思います。したがっていくら見た目がだらしなく、不快であろうともプライベートな空間で「だらしな系ファッション」を着る人たちを批判することはできません。問題となるのは、制服などの服装の規則が存在する公共の場での「だらしな系ファッション」だと思います。
 だぼだぼのズボン、ルーズソックスの高校生は、中年以上の層の人たちから見れば、嘆かわしい現象かもしれません。しかし、そのような自己表現しか選択できない窮屈な枠の中に閉じ込められて、若者たちが自分なりの個性を模索していることは理解してあげるべきだと思います。服装は着せ替え人形のようにあてがわれるものではなく、自分の意志で主体的に着こなしていくものです。
 教育が個性を尊重するものならば、学校での「だらしな系ファッション」も温かい目で見守ってあげるべきではないでしょうか。
 

  4.

 私は「だらしな系ファッション」が理解できない一人です。若者たちは、だらしなさをカッコイイという感性で捉えているのでしょうが、自分の姿が他人の目に不快に映ることに余りにも無神経だと思います。
 最近の若者文化を見ていると、自己の身体に対する恥じらいの感情が希薄化していることに気がつきます。コンビニの前に座りこんで食事するジベタリアン≠フ若者たち、キャミソールのように下着に近いファッションで街を闊歩する若い女性たち、人前での化粧やバスの中での携帯電話の使用など、これらの現象に共通しているのは、他人に見られて、はしたないといった「恥意識」の喪失です。その結果として周囲への思いやりや配慮に欠ける自己中心的な若者が増えています。
 何を着ようと自分たちの勝手という主張は余りにも無責任です。自己中心的な若者の行動は、マナーの低下をもたらしており、「だらしな系」を無条件には容認できません。

  4.

 登下校中に制服のシャツを外に出して帰る生徒たちが増えています。見るからにだらしない♀i好で、どうにかならないものかと思っています。ルーズソックスに代表されるように、「だらしな系」の着くずしファッションは、高校生の主流をなしています。
 ファッションの感性は、時代による違いが大きく、若者たちは「だらしなさ」におしゃれを感じているのでしょう。しかし、私服ならともかく、制服はもともと規律正しさや清潔感を演出するもので、「だらしなさ」とは、対極にあるものです。「だらしな系ファッション」自体が、制服の文化とは、相容れない面を持っていると言えましょう。
 生活の乱れや倦怠感、けだるさのようなものを感じさせる服装からは、若い輝きを失い、疲れ切った高校生の姿が浮かんできます。外見は無意識にその人間の精神に影響を与えるものです。だらしな系の服装は、学校という場にはふさわしくないものだと思います。

 5 まとめ(その1)

 この「だらしな系ファッション」の是非を考える取り組みでは、多様な授業展開をすることができた。まず、十五字で見出しをつける作業では、「要約する力」が求められ、2. の投書の反論では、矛盾点や問題点を探し出すという、批判的な思考や読解力が要求された。
 「だらしな系ファッション」に関する新聞投書は次のように分類できる。
容認派・賛成派何を着ようが個人の勝手。(1. の投書)
消極的容認派一応容認するが、しかし自分は「だらしな系」の格好はしない。(3. の投書)
消極的反対派気持ちは分かるが、でも理解できない。(2. の投書)
反対派不快感を覚えるファッションに納得がいかない。(4. の投書)

 この四つの投書の文章を読むと、「対立的な構造」が発見されやすい「場」が設定されていることに気づく。さらに、問三の文章を書く際に次のような文章構成図を提示した。
〈導入〉自分の立場(容認・中間・反対)を表明するか、問題を提起する。
〈展開〉自分の立場もしくは、提起した主張の根拠を述べる。
可能ならば、自己の体験・見聞などを具体例として述べるか、または予想される反対意見への反論を試みる。(確かに・もちろん〜。しかし…。)
〈結び〉自分の立場・主張を再確認する。

 生徒たちの作品を見ていくと、この文章構成にのっとって書きあげた作品が大多数であった。しかし、自分なりに問題点を発見し、独自の問題提起を行って、その根拠を書きあげていく作品は非常に少ない。この「問題発見能力」と「問題提起能力」こそが、独創性を支える命であると思う。
 今回の取り組みでは、問二の反論を書く段階で、矛盾点と問題点を見つける過程に力点を置いた。矛盾・問題点の意見の一覧表を配布する際も、まだおもしろい見方がないかどうか生徒たちに呼びかけた。こういう事前資料が、独創的な意見や発想を導き出すのに効果的であったのかどうか、残念ながら検証することはできなかった。さらに、このような事前資料が書くことに対してどのような影響を与えているのか、学習者側からの実感を明らかにすることで、そのあり方を検討する必要があると痛感している。この点は、今後の検討課題にしたい。



3 授業の実際

 (2) 「ビートたけしの自然環境論」の授業例

 課題文型小論文演習の2つ目として、ビートたけしの自然環境論をもとに、人と自然との関わり方について述べる論題を設定した。この問題は、九八年群馬大学教育学部で出題されており、代々木ゼミナールの小論文ノート(九九年度版)に記載された文章を利用したものである。まず、この問題を紹介してみたい。

 小論文演習その2

 次の文章、を読んで、人と自然との関わり方について、あなたの考えを八百字以内で述べなさい。

 環境サミットとか称する会議があるというんで、マスコミは「環境、環境」って大騒ぎ。と思ったら、とたんに政治家は「環境税」なんて言い出すんだから、全く人をバカにしているよ。
 オイラなんか「地球にやさしく」なんて言葉を聞くと鳥肌がたってくる。前から言ように「地球にやさしく」したかったら、人間殺せって。この地球上で六〇億もの人間が、なんとかかんとか食っていかなきゃならないんだからね。「地球にやさしく」なんかできるか。
 その上、「地球を救え」なんて言う奴までいる。そういう連中は、ついこの間までは、「人間の命は地球より重い」って言ってたんだよ。今度は地球の方が大事になったのか。
 地球なんて、救わなくたって、四五億年も前から、小惑星とぶつかろうが、氷づけになろうが、淡々と回ってきたんだろう。人間なんか絶滅しようが、どうしようが、地球はこの先充分やって行ける。
 地球上の生物で人間がここまで絶滅しないで勝ち抜いてきたのは、ひたすら数を増やすことに、優秀だったからだろう。
 その代わり、随分いろんな生物を絶滅させてきた。それは、人間に害があるものだったんだね。天然痘だろうと結核菌だろうと、みんな人間に害があるからといって絶滅させてきた。
 だけど人間に害があるものでも、地球全体から考えれば、案外必要なものかもしれないよ。
 環境サミットの本音は、「地球にやさしく」じゃなくて、「人間に一番都合のいい地球をつくる」ためにはどうしたらいいかということだろう。
 もっと言えば、一部の先進諸国の人間にとって都合のいい地球の作り方に過ぎないんだよ。
 ブラジルの森林伐採は止めようと言っているけど、ブラジルで暮している人は、それをしなきゃ食えないのにどうしてくれるということになる。
 ヘビースモーカーだった巨泉さんみたいなものだな。さんざんタバコを吸ってたあげくに、身体に悪いから止めようとなると、他の奴にも絶対吸わせない。「タバコ、やめろよ、おまえ」なんて。この前まですぱすぱ吸ってた自分は何なのって言いたくなる。
 二〇歳になって、さあこれからタバコを始めようっていう奴に、吸うんじゃないって怒っているようなもんでさ。止めるんだったら、巨泉さんと同じぐらい吸ってから止めたいよ。
 今まで先進国と言われた奴らがやったことと同じことを発展途上国の人たちがやってから、初めて、もう止めましょうって言うならわかる。毛皮でも何でも取り放題取った後、もう自然が危ないから止めましょうと言ったって困るよ。毛皮が着られなくなったら、エスキモーはどうしたらいいの。凍死しちゃうじゃないか。何でも自然のままがいいなんてはずはない。
 日本だって、つい最近までは、風土病があったり、伝染病でバタバタ死んだりしてた。それがすっかり衛生的な国になって、日本脳炎がなくなり、都会で蚊を見なくなった。やっぱり、みんなで化学薬品を使って蚊を殺したからだろう。
 蚊を殺して環境が悪くなったかと言うと、田舎で蚊帳をつって蚊取線香のにおいで暮らすより、都会の方が心地いいに決まってるんだよ。
 昔みたいに砂ぼこりをあげる道と、全部アスファルトで舗装されて、そんなにほこりが舞い上がらないのとどっちがいいか。靴が汚れない、ほこりが舞い上がらない方がいいに決まってるんじゃないか。
 ところが一部に、ほこりを舞い上げたい連中がいるんだね。有機農法の虫食いの野菜の方がおいしい。やっぱりきれいな野菜はよくないなんて言う。もともと人間が食べるために栽培された穀物や野菜が自然のままであるはずがないんだよ。
 自然食品という言葉自体が矛盾している。食品という以上、何らかの加工をしているんだからね。農薬を初めとする化学薬品の毒性は厳しい基準があるけれど、自然の植物が持っている毒性には規制がないから、かえって自然のままの食物のほうが恐ろしいという話を聞いたことがある。
 だいたい、品種改良とか自然に挑戦してきた昔の人たちの努力があったから、こんなに多くの人間が食えるようになったんじゃないのか。
 
 

 「子供に自然を教えましょう」というのもよくわからないね。どうして子供にそんなに自然を知らせる必要があるんだ。将来、マタギになるっていうなら話は別だ。山を駆けて、これが見えれば雪が降るとか、あそこにはクマがいるとか教えなきゃしょうがない。それは生活のためだからね。
 だけど、都会の子供たちに、膝小僧ぐらいの川やプールで魚を取らせたり、ウナギを追いかけ回させて、自然に親しませたなんて言っているバカな親がいる。そういう中途半端が一番危ないんだよ。魚というのはそういうところで取れるものだと思って本当の川へ行ったら、いきなり溺れたりするからね。
 都会の人間には、自然というのはやっぱり近寄りがたくておっかないもんだと教えるべきなんだ。平気でクマちゃん、クマちゃんなんて頭撫でたりしたら、バッと食われてそれで終わりなんだからね。
 動物園で飼っているものや家で飼うペットと野生の動物は、匂いからしてまるっきり違うということを教えてやれって。
 サファリパークのライオンなんて、爪まで抜かれちゃって、実際そこに居ても抜けがらだからね。そういう剥製まがいのものを子供に見せたから自然を教えた、なんて思ったら大きな間違いなんだ。
 昔は家の近所に自然があったから、オイラは自然の中で遊んでただけで、たった一日か二日、わざわざどこかへ連れていって、これが自然ですなんて言われたって、馴染むわけはない。自然なんか、そんな短期間で習うもんじゃないんだ。都会に住んでたら、都会の生き方を習うべきだよ。
 だから、無理にそんなことする必要はさらさらない。要するにどこで生まれたかといった環境で、自分の生きていく範囲は自ずと決まっている。
 漁師のせがれとして生まれ、漁師を目指すんだったら、海と戦うわけだから、海のことをちゃんとわからなきゃならない。山で生まれれば、山の生活に必要なことがある。
 サラリーマンの子が都会で生まれて、自分がサラリーマンになろうとしたときに何をやるかといったら、まず最初にサラリーマンとして生きる術を覚えることが大切なんだよ。
 それを一日や二日山へ連れていって、山の生活を覚えさせたって、そんなものは何の得にもならない。都会で雪崩に遭うことはないんだから。
 よく、脱サラしたような家族が山に住んで、自然と親しんでいますとかいって美談仕立てで紹介される。でも、オイラに言わせりゃそれは単なる落ちこぼれなんだよ。
 おやじは落ちこぼれても構わないけど、子供まで道連れにするなって。「子供の目の色がかわりました」なんて嬉々として言う。
 自然がそんなに良かったら、これほど人が東京に集中して出てこないんじゃないか。過疎の土地なんてできるわけがないよ。何でみんな村からいなくなっちゃったかというと、やっぱり自然はよくないからだろう。
 くみ取り便所で、暖房も冷房もないところで暮らしていたら、嫌になると思う。蚊がいっぱいいて、六時には真っ暗になっちゃうようなところに誰が住みたいかって。
 所詮、いまみんなが好きなのは、環境ビデオを見ているような自然なんだ。だから、都会的な生活をしながら、飲み水がきれいで、野菜は有機農法でちゃんとしたやつなんて、ぜいたくなことを言う。涼しくて、ダニとかはいなくて、自分に都合のいい虫だけが飛んでくるなんて、そんな所はどこにもないんだよ。

(ビートたけし「みんな自分がわからない」より
A・Bともに原文の一部が省略されています。)

 以上のように、やや暴論・極論とでも言えるようなビートたけしの自然環境論を読んで、人と自然との関係を考える論題設定となっている。事前にたけしの文章とは、文体も主張の内容も全く正反対の宮迫千鶴「魂と土」の随想を読んで、比べ読みを設定しておいた。たけし人気もあって、この文章に対する生徒の反応は非常によかった。教科書に登場する格調高い文章では、現実の高校生の共感を得ることが非常に難しい実態を改めて認識させられた。この実態が良いことか悪いことかは抜きにして、このレベルまで、降りてこないと「書く気にもなれない」学習者の実態を想定して、論題の「場」の設定をする必要に迫られていることを痛感している。

 この文章を読んだだけでは、「対立的な構造」を発見することが、困難であることが予想されたので、次のようなワークシートを作り、生徒たちに配布した。

 反論を書くためのワークシート  ビートたけしの自然環境論

3年( )組( )番 氏名(        )

ビートたけしの主張に対して、共感する点をあげてみよう。

  • 「地球にやさしく」じゃなくて「人間に一番都合のいい地球をつくる」のが本音。
  • 自然がそんなに良かったら、これほど人が東京に集中して出てこないんじゃないか。
  • みんなが好きなのは、環境ビデオを見ているような自然なんだ。
  • 一部の先進国の人間にとって都合のいい地球の作り方が本音である。
  • 発展途上国の人々は、地球環境を守ることよりも経済的な発展を望んでいる。
  • 六十億の人間が暮らしていくのだから、地球にやさしくなんかできっこない。
  • 都会の方が心地よく生活できるに決まっている。
  • 自然に対して挑戦してきた人類の歴史があるおかげで、多くの人間が食えるようになってきている。
  • 何でも自然のままがいいなんてはずはない。

ビートたけしの主張に対して、気になる点や納得できない点をあげてみよう。

  • 「地球にやさしく」なんかできるか。
  • 地球にやさしくしたかったら、人間殺せって。
  • 「地球にやさしく」なんて言葉を聞くと鳥肌がたってくる。
  • 都会の人間には、自然というものはやっぱり近寄りがたくておっかないもんだと教えるべきなんだ。
  • 都会に住んでいたら、都会の生き方を習うべきだ。
  • どこで生まれたかといった環境で、自分の生きていく範囲は自ずと決まっている。
  • 脱サラした家族が山に住んで、自然と親しんでいると美談仕立てで紹介されるが、オイラに言わせりゃそれは単なる落ちこぼれなんだよ。
  • 何でみんな村からいなくなったかというと、やっぱり自然はよくないからだろう。

 たけしの主張に対して、共感点と批判点を見つけ、それに対する自分の意見を書かせることで、「対立的な構造」を発見し、題材探しを行った。特に今回は、たけしの文章のどの箇所にこだわるのか、引用箇所とそれに対する意見・主張を分けて記入するように指導した。課題文型の小論文入試では、短い時間の中で、要旨をつかみ、問題となる箇所を発見し、自分の考えをまとめていかなければならない。その過程をわかりやすく明示する為に、生徒のワークシートを回収した後に、私の手で共感点・批判点の生徒意見一覧表を作成した。その一覧表を配布し眺めることで、題材探しの一助とした。
 また、国際コミュニケーション科の選択国語クラス(女子21名)では、同じ内容の作業をポストイットを用いて行った。少人数クラス編成の利点を生かして、4、5名の小グループで作業を行い、まず私の作成した実例をもとに、ポストイット形式の意見対比表を完成させた。次にそれらの資料を紹介したい。
 以上の記述前の指導を行った後に、二学期中間考査の小論文試験で、この「ビートたけしの自然環境論」の問題を出題した。次は、中間考査(小論文試験)の案内である。
 3年国語U(小論文)中間考査 99年10月13日(水)

 問題
 ビートたけしの文章A、Bを読んで、人と自然との関わり方について、あなたの考えを八百字以内で述べなさい。たけしの論点に触れることを糸口にして、あなた自身の自然環境論を展開すること。できれば、宮迫千鶴「魂と土」などの文章も参考にすること。
時間 60分

 タイトル(文題)について

 自然と人間との関わり方について論じるので、自己の主張の内容を的確に表現したタイトル(文題)を立てて、原稿用紙右上の欄内に必ず書き入れること。
 

 作文の条件

  1. 七百字を必ず越えること、越えないものは評価の対象にしません。
  2. ビートたけしの論点に対して、共感点・批判点の両方のとらえ方がある。そのどちらにも必ず触れて書くこと。
  3. 主題文(自分が一番、訴えたい一文)の右側に、赤い波線を引いて置くこと。
  4. 2の条件を守っていれば、段落構成は全くの自由です。

 作文の評価

 夏休みの課題点(5点分)を加えるので、95点満点とします。判定は、ABC判定としAの作品から(A)作品を選びます。ABCの基準点は、それぞれ85点、70点、60点とします。作品の状況を見て、A=75点を設定します。(A)は95点満点です。
 A 作文の条件を完璧に満たし、ありきたりの内容ではなく独創的な主張や書き方ができているもの。ただし、最終行まで書いていることを必須の条件とする。
 B 作文の条件を満たしてはいるが、ありきたりの内容で新鮮味や独創性に欠ける作品。
 C 作文の条件を満たしていないか、主題が何かはっきりわからない作品。
なお今回は、タイトル(文題)のできも、作品評価の対象とします。
 
 留意点

 資料のプリント、教科書・ノート・辞書・下書き等、全て持ち込み可能です。上質紙の清書用の原稿用紙を配布しますので、それを提出すること。1、2学期を通じた国語Uでの小論文の指導に対するアンケート調査(無記名)も配布しますので、それにも回答して下さい。定期考査では、最後の小論文試験となりますので、頑張って下さい。

(文責・田口)

4 生徒の実例(その3)

 中間考査でAの評価をつけた作品の中から、各クラスとも4編を私の目で選び、プリント化して配布した。その中から、最優秀作品を1編、生徒たちの投票によって選んだ。A判定の作品を紹介することで、AとBの評価の違いを生徒たちに説明することが大きなねらいであった。次に生徒たちが選んだ最優秀作品を含めて、各クラスごと2編ずつを実例としてあげたい。

 ビートたけしの自然環境論 生徒作品集

  「輪を戻す」    (A)評価作品    3年3組  A・M  女子生徒

 ビートたけしは、生まれた環境で、その人の生きていく範囲は自ずと、決まっていると言っているが、人は、生まれてくる環境を選べないのだから、その後どんな環境で生きたいと思うかはわからない。だから、他の環境でも生きていける多少の知恵はつけてあげなければならない。
 確かに、都会に生まれ育ち、楽な生活に慣れてしまうと、わざわざ田舎に行って不便な生活を送りたいとは思わないし、実際にしている人もほとんどいない。たけしが、自然がそんなに良かったら、これほどの人が東京に集中して出てこないんじゃないかというのもわからなくもない。
 しかし、だからと言って、たけしが言うように、子供に自然を教えないというのは良くない。世界の人口は、昨日、サラエボで生まれた赤ちゃんが、60億人目に達する勢いである。それだけの人々が、生きていくために必要なのは、やはり自然である。木があるから呼吸ができ、土があるから植物は育ち、それを食べて動物たちも育ち、それを食べる人も生きているのである。
 ただ、その食物連鎖の輪を壊したのは私たち人間である。だから、その輪を元に戻すのは、私たちの義務である。それは、そう簡単なことではない。一度壊した物を元に戻すということは、初めから、それを作るよりも、むずかしいことだからだ。
 これから新たに生まれて来る、何十億という人間のためにも、私たちからそれを元に戻すということに、取り組まなければならない。何十年、何百年という月日をかけて、一歩一歩進めていかなければならない。その一歩として、私たち一人ひとりがそのことを深刻に考え、行動しなければならないのではないだろうか。

 「自然について考える」 A評価作品    3年3組  M・Y  女子生徒

 ビートたけしは、自然環境について、「どうして子供にそんなに自然を知らせる必要があるんだ。」と言っているが、それは間違っていると思う。確かに自然というものは、近寄りがたくておっかないものかもしれないが、自然はそんな恐ろしいものばかりではないのだ。土に触れて、私たちは「今ここにいる」ことができている、ということを改めて感動した宮迫千鶴さんのように、ほんのささいな自然に触れただけで、これからの自分の考え方が大きく違ってくる人もいるのだ。
 小さい頃、どろんこ遊びをした経験がある人は多いと思う。そんな私たちは、その「どろ」を見たとき、昔の記憶を思い出し、どろの柔らかな感触と、太陽の光に当たった生温かいぬくもりを、当たり前のように思い出すことができるだろう。しかし、自然を子供に知らせる必要がないとなると、こんな当たり前のことを知らない子供が増えるのだ。そんな子供は不幸ではないか。子供は見るもの・聞くもの・手で触るもの、何でも体験したことを吸収する。だから私は、学習能力のすさまじい子供に、多くの自然と触れ合って欲しいと思う。
 「みんなが好きなのは、環境ビデオを見ているような自然なんだ。」とも、たけしは言っているが、これは私も共感できる。人間は自分たちの都合のいいものばかりを追い求めすぎている。そんなことでは、美しい自然環境など、取り戻すことなんて不可能である。環境ビデオのような自然を望むなら、今私たちが何をすべきか行動に移さなければならない。古紙や空き缶・ビンのリサイクル、野菜づくりなど、簡単なことでもどんな小さなことでもいい。それを多くの人が協力し、長続きさせることができれば、必ず大きな成果となるにちがいない。そして、今の環境問題の原因が、私たち人間の身勝手さのために起こりうるのだということを、一人ひとりが認識するべきだと思う。

  「自然との共存共栄」      (A)評価作品  3年4組 K・N 女子生徒    

 自然のサイクルの中で、人間はある意味で、頂点に立っているといえる。例えば食物連鎖。人間は肉食動物と同じように三角形の頂点にいる。しかし、人間は他の動物と違った独特の進化を遂げてきた。その独特の進化がだんだん自然とかけ離れ、自然のサイクルを乱している。
 ビートたけしの自然環境論の中で「人間に害があるものでも、地球全体から考えれば案外必要かも知れない」といった点があるが、私もこれには共感する。人にとってどんなに不快な生き物でも、他の動物から見れば、それは大切な食べ物かもしれない。地球上にあるすべての物は、地球が誕生してから四十六億年間、何らかの形でつながってきた。それを壊そうとするのは間違いである。
 又、この環境論には、納得できない点もある。「都会で蚊を見なくなった。それはみんなで化学薬品を使ったからだろう。蚊を殺して環境が悪くなったかと言うと、田舎で蚊帳をつって蚊取線香を使うより、心地がよい」というような事を言っているが、これでは前に述べた事と全く反対である。確かに蚊を二、三匹殺したからといって急に環境が悪くなるわけではない。しかし、蚊を殺す為に使った殺虫剤の中にはペルメトリンという毒性のある物質が含まれており、発がん性もあるという。スプレー缶の中にはフロンガスも使用されているかもしれない。このような物質が使われている中で心地よい≠ニはいえるはずもなく、まして、地球環境にいいはずはない。
 人間は、自分たちにとって都合のいい自然を求め、都合のいい地球環境を作ってきた。しかし、このままでは自然のサイクルが崩れて、いずれ自分の首を絞めることになるだろう。食物連鎖の頂点だけが残り、大事な下の土台が消えてしまうことになる。
 そうならない為にも、自然の中の、人間の本来の位置を再確認し、自然との共存共栄をはかっていかなければならないだろう。

   自分たちの手で守るべき「自然」 A評価作品  3年4組 T・K 男子生徒

 「この地球上で六十億もの人間がなんとかかんとか食っていかなきゃならないんだからね。」『「地球にやさしく」なんかできるか。』という、たけしの自然環境論の一文に、私は初め、共感を覚えたが、それは次第に疑問へと変わっていった。「地球にやさしく」が、出来ないなんて初めから決めつけずに、一人ひとりが考え、努力をすれば地球に良いことはたくさんあるのではないだろうか。
 現に今、地球上では、自然環境を救おうと立ち上がった人々が様々な活動をしている。世界中には、自然を守るためにたくさんの団体やグループ等が存在しており、国連のサミットでも、自然環境の問題はよく挙げられている。そういった動きは私たちの身近な生活の中にもある。例をあげれば、空き缶回収、スーパーでの牛乳パックやトレーの回収ボックス設置、ボランテイア団体によるゴミ拾い、ダイオキシンを出さないためのゴミ業者の努力等、地球に良いことはたくさん行われているのだ。最近ではTOYOTAが出した車に、プリウスというのがあり、この車はガソリンと電気で動くという画期的なエコカーである。自然保護のできる車なのである。
 しかし、そういった反面、私たちは自然を汚していることもたくさんしている。石油タンカーの事故での原油流出、ゴミや空き缶のポイ捨て、悪徳ゴミ業者による不法なゴミの投棄等、数えあげればきりがない程である。こういった現状からすると、たけしの言う『「地球にやさしく」なんて言葉を聞くと鳥肌がたってくる。』という言葉には、残念ながら共感を覚えてしまう。
 しかし、だからといって次々と破壊されていく地球の自然を黙って見ているわけにはいかない。一人ひとりが自然を自分たちの手で守るんだという自覚を持ち、行動を起こさなければ、私たちの住むきれいな地球は戻ってこない。一人ひとりの力が大切なのだ。

  中心となるもの 〜人と環境について考える〜 (A)評価作品 3年5組 H・S 女子生徒

 「みんなが好きなのは、環境ビデオを見ているような自然なんだ」という一文があるが、確かにその通りだと思う。私たちは、自分にとって不都合なものや、不必要なものを取り除いた、人間が生きていく上で最も理想的な条件の自然を、常に求めている。だから、豊かな自然よりも、人間中心の発想をとるため、環境破壊が深刻なのだ。それでも、人間が生きていくためには、自然から資源をとったり、自然の姿を変えて利用していかねばならない。何かが生きていく為に、何かが犠牲になるのは、仕方のないことなのだ。
 しかし、なぜここで人間を優先させるのか、また、人間が地球を破壊しても許されるのか、という問題点があげられる。
 都市化が進む現代、私たちは、自然を間近に感じる機会が少なくなった。自然も同じよう生きていることさえ忘れ、地球を支配しているのは人間なんだと、高慢な考えでいるのかもしれない。地球にとって人間は、地球上の生き物の一部に過ぎず、他の生き物より知性があっても、互いの感情を伝えあえる動物だとしても、それだけのものなのだ。
 だが、たとえそれを人間が理解したとしても、自己中心的な考え方を捨てることは、できないだろう。自然と共存したいとは思っていても、私たちが生きようと必死だからこそ、都合の悪い自然が邪魔になるのだ。それが地球に与える被害が大きいとしても、結局、大切なものは、まず、自分なのだ。
 ただ、ダイオキシンやオゾン層の破壊は、人間の生命にも関係する重大な問題だ。私たちが、自然をありのままに受け入れ、現実を直視しない限り、これを解決する糸口さえ見つけることは難しいのではないだろうか。地球にとっての自然を、もう一度深く見つめ直す必要がある。

  自然との関わりを大切に  A評価作品  3年5組  K・S 女子生徒

 みんなが好きなのは、環境ビデオを見ているような自然なんだ、というたけしの主張に共感する。人間は自分にとって都合のいいものばかりを追い求めていて、自然豊かな環境といいながらも現実をみつめようとはしていないと思う。
 例えば、食糧問題では、飽食の日本の場合、食べ残しで捨てられる食料が、一人一日平均200グラムに達すると言われている。これは、全て途上国の人々の飢えにつながっているのである。現実には、ひどい栄養不足に悩む人々が途上国を中心に八億人もいるという。貧しい国の人々のことを考えると、日本は非常に恵まれた国である。だから今、私たちにできることは何かを考えていかなければならない。
 確かに、口先では自然を守ろうなどと簡単に言えるものの、現実には何も状況は変わらないと言うたけしの主張には共感できる。しかし、「地球にやさしく」なんかできるか、というこの主張には納得がいかない。地球温暖化や酸性雨、オゾン層の破壊、森林伐採などといった環境問題は、私たち一人ひとりの命に関わる問題である。「地球にやさしく」しなかったら、毎日の生活はどうなるのか。人間が環境を改善して管理していかなければ、豊かな暮らしはできないと思う。
 私自身も環境問題について深刻に考えようと言いながら、実際には何も行動していない。自分さえよければいいという甘い考えが自然を汚しているのである。例えば、ゴミの分別などは誰にでもできることであるが、実行に移すとなかなかできないものである。つい、ペットボトルを他のゴミと分別せずに捨ててしまう。
 結局、人間は自然について現実を直視せず、自己中心的である。今、こうやって生活していられるのも自然のおかげである。もっと自然と関わりあって、自分の身の周りから自然環境を考えることが大切である。

  人間の存在と地球環境  (A)評価作品  3年7組  S・N 女子生徒

 最近、テレビや新聞を見ていてつくづく「環境ブーム」だなと、思う。街の至る所で環境にやさしく≠ニいう言葉を目にするし、先日も街角でエコバックなるものを配っていた。環境週間があったり、地球環境について学ぶ学科を新しく設置した大学もある。しかしこれだけの「環境ブーム」の割には、実際に環境問題を真剣に考え、取り組んでいるのはほんの一部の人々だけではないのか。
 私はその一部の人たちが環境問題に取り組んでいるのは全く無意味なことだと思う。人間は生きているだけで地球に多くの害を与えている。地球にやさしく≠オようと呼び掛けている人々はその罪悪感から逃れたいだけではないか。私から見れば彼らの単なる自己満足に過ぎない。たけしの言う通りだ、地球にやさしくしたかったら人間殺せばいい。たとえ一部の人々の自己満足が地球に何らかのいい影響を与えたとしても、それは残りの何十億人の人々が与えるものすごく大きな悪影響の中でかき消されて何の意味も持たない。地球にやさしく≠オようとしている人々も現代社会の人間として生きている。車やバス、電車だって使うだろうし、冷蔵庫やクーラー、電力発電によって電気も使っているだろう。自分にとって都合のいい時だけ地球にやさしく≠忘れるのだから、偽善者としか言いようがない。
 私はたけしの意見に多くの共感を持ったが、一つ納得の行かない意見がある。「子供に自然を教える必要はない」という部分だ。人間は地球上に生きている一動物として自分の住んでいる環境について知っておく必要があると思う。それは都会だとか田舎だとか人間としての環境ではなく、動物として地球や自然について知るべきなのだ。役に立つ、立たないではなく、地球に生きる者の義務として。それを子供にも教えるべきである。

 これだけ多くの人間の存在が地球にどれだけの負担をかけているのかを私たちはもっと学ぶ必要があるのだ。
 

 環境問題 ― 今、私たちがすべきこと ―  A評価作品  3年7組 R・Y女子生徒

 人類が進化し、あらゆる面で拡大してきたことで、現代社会の大きな課題である環境問題は生まれた。しかし、私たちはまだ、そのことの深刻さを理解できていない。
 まず、問題が個人としては大きすぎる。環境サミットなど行われても、一般人にはただのニュースである。テレビの中のことは、テレビで終わってしまうのだ。ゴミ問題という身近なものもあるが、分別収集もまだまだ一般化、定着していないのがほとんどだと言えよう。第二に、発展途上国は、環境問題を重要視すると生活苦に陥る人々が出てしまう危険性が高く、問題とうまく向き合うことさえできないのだ。「一部の先進諸国の人間にとって都合のいい地球の作り方に過ぎないんだよ。」という意見にも納得できる。しかし、そう言い切ってしまえば、環境破壊は進んでしまうだけだ。だからこそ、先進諸国の人々は、自然の大切さを見直し、環境破壊への有効な対策を考え、その豊かな経済力を自国のためだけでなく、世界のために使うべきである。つまり、私たち個々人に求められるのは、環境問題は他人事ではなく、一人ひとりに関係するものであること、人間は自然によって生かされていることを再認識することではないだろうか。私たちのこの社会を作ったのは人間であるが、それら全ての資源は自然から提供されたものであるからだ。
 もちろん、認識するだけではなく、解決策を考え実行していかなければならない。途上国の経済発展を妨げたり、先進国の生活レベルを落とすことは無理な話だろう。しかし、世の中にはムダが多い。過剰な区画整理、使い捨て商品の増加などを削減し、リサイクルを推進するだけで、随分と違うと思う。
 豊かな自然があったからこそ、今こうして豊かに暮らすことができている。私たちは、自然の大切さを忘れかけている。だからこそ、環境問題にちゃんと向き合い、改めてその重要性に気づくべきなのである。

(傍線部は、主題文にあたるとして、生徒たちが引いたものである。)
 
 

5 まとめ(その2)

 今回の中間考査での小論文ABC評価のクラスごとの分布は次の表の通りであった。

\クラス
評価 \
3の33の43の53の7
(A)評価
95点
1名
2.6%
1名
2.8%
1名
2.7%
1名
5.0%
A評価
85点
4名
10.5%
4名
11.1%
5名
13.5%
4名
20.0%
A'評価
75点
1名
2.6%
3名
8.3%
2名
5.4%
3名
15.0%
B評価
70点
20名
52.6%
22名
61.1%
23名
62.2%
9名
45.0%
C評価
60点
12名
31.6%
6名
16.7%
6名
16.2%
3名
15.0%
クラス
人数
38名36名37名20名
平均点71.7点73.8点74.2点78.5点
3年二学期中間考査(小論文試験の得点分布)

 生徒たちの作品は、たけしの主張に対する共感点と批判点の両方に触れるという条件をおおむね守っており、文章の流れに沿った主題文の設定もなされていた。右の表では、B以上の評価を受けた者がそれに該当する。多少のばらつきはあるが、八割程度の生徒たちがその基準をクリアーしていた。C評価の作品は、作文の条件が守れていないもの、文章のねじれが多くて論旨の流れがスムーズに読みとれないもの、主題がはっきりせず何を主張したいのかわかりづらい作品などであった。C評価の割合は、一学期の中間考査時に比べるとかなり減っており、一連の取り立て指導で論理的な文章を書くことに対して、生徒たちがかなり書き慣れてきたのではないかと思っている。
 「対立的な構造」を意識させる為に、共感点・批判点の意見一覧表やポストイット形式による意見対比表を作成したことは、題材探しにある程度の効果をもたらしたと考えている。ただ、時間の関係等もあって、題材探しのおもしろさを生徒たちが明確に認識する段階にまでに至っていないことが残念である。この指導の段階で、独創的でユニークな発想を発見できるような取り組みができれば理想的であるが、意見の一覧表や対比表を提示しただけで生徒たちの思考に確実な揺さぶりをかけることができたという実感には遠かった。この点に対して、どのように具体的な指導を行うのかは、非常に重要な課題である。
 「導入・展開・反論・結び」という意見文の型を、ずっと教えてきたが、今回は、「対立的な構造」を把握して、両方の意見の立場に触れれば、構成は全くの自由であるとした。
 「確かに、(もちろん)〜。しかし、…。」などの論理キーワードを利用して、予想される反対意見や別の見方や考え方に対して反論部を設定した作品の割合は、次の表の通りである。

クラス反論を設
定した人
数とその
割合
クラス人数
(受験者)
3の311名
28.9%
38名
3の411名
30.5%
36名
3の513名
35.1%
37名
3の712名
60.0%
20名

 約三割の生徒たちが、反論部を設定しており、「起承転結・四百字基本形」の練習を体験した国際コミュニケーション科の国語選択クラスでは、六割の生徒がきちんとした反論部を成立させていた。弁証法的な思考方法については、具体的な指導を行わなかったが、「導入・展開・反論・結び」の文章のリズムが定着しつつあることが見てとれた。
 生徒の実例を読んでいて感じるのは、主題文の設定が不十分である点である。優秀作品として例にあげた作品を見ていても気づくことだが、主題文が文章全体の流れをまとめ切れていないという問題点がある。その原因としては、文章構成を決めて文章の流れを作れても、文章全体が主題に向かって統合されていくという意識が希薄であることや、もしくは、書きながら主題が流動しており、うまく文章全体を、一つの主題文でくくれないという点にあるのではないかと考えられる。特に、流動的な自分の考えを書きながらまとめていくという点が難しいのではないかと考える。
 私の指導を振り返っても、大西道雄氏の意見文の生成過程モデルでは、分化想から統合想へと向かう過程に対して効果的な指導を加えることができなかった。自分自身の意見や主張を明確に表現するという論理的な文章では、どのようにして文章全体をまとめ、一つの主題として統合していくのかという大切な過程がある。今回の実践を振り返ると、その点を具体的にどう指導していくのかという課題が残った取り組みであった。