浮世離れの研究 時代開く


 ホテルの一室から,うめき声が漏れた。かけつけた支配人が床の上の死 体を見つける。かたわらにレモンのしぼりかすと青酸カリの結晶。遺書なし。 所持金は52ドル。

 フィラデルフィアの新聞が一面で報じたウォーレス・カロザースの最後 は,こんな具合だ。

 見出しは,「合成ゴム発明者,当地で自殺」となっている。

 世界初の合成繊維を完成したことは書かれていない。大発明は企業秘密 だった。ナイロンという名前すらついていなかった。

 1年6ヶ月後。

 約3千人の聴衆の前で,デュポン社のスタイン副社長は,新製品「ナイ ロン」を発表した。

 「石炭と水と空気といった,ありふれた素材が原料で,鋼鉄のように強 く,クモの糸のように細く,しかもどんな天然繊維よりしなやかで美しい光沢 を持っています」

 1938年,ニューヨークで開かれたフォーラムでのことだ。発明者の ことは語られなかった。

 翌年,サンフランシスコ国際博覧会にナイロンストッキングが出展され た。

 ポーラ・ヒルさん(91)は,試作品のストッキングをよく覚えている。 夫のジュリアン さんが,カロザースの共同研究者で親友でもあった。

 「シルクに比べてひんやりするとか,肌になじまないと言う人もいまし た。でも,伝染しないのが素晴らしかった。チューインガムやせっけんでとめ なくてすむんですから」

 「それに,シルクより薄かった。男性は薄いのが好きでしょ。男の人を 喜ばそうとしてナイロンに代えた人も多かったはずですよ」

 アデリーン・ストレンジさん(80)はデュポン本社のあるデラウェア 州ウィルミントンに住んでいる。発売直後の騒動について話してくれた。

 「500足売り出したデパートに1500人詰めかけたわ」

 「結婚してカリフォルニアに行った友達がいたの。駅に見送りに来たお 父さんが持ってきたのがナイロンストッキング。それが娘への結婚祝いだった のよ」

 絹の輸出大国,日本が受けた衝撃は大変なものだった。

 ナイロンの特許が公示されるやいなや,商社のニューヨーク支店はその 写しや見本の糸を日本に送った。大学や紡績会社の研究室で,小数点以下何_ グラムという糸くずの分析が行われた。

 しかし日本のナイロン開発は戦争のために中断した。アメリカでも,戦 時中ナイロンが市場から消えた。パラシュートなどの軍事用品に使われたから だ。


 カロザースは1928年,デュポン社に入社した。ハーバード大講師か らの転身だった。

 創設間もない基礎研究グループのリーダーとしてスカウトされた。持病 の鬱症状が心配だったが,破格の条件にひかれた。

 優秀なスタッフ。高級と潤沢な研究費。それに大学と違って,人前で話 す必要もない。

 研究テーマも自由に選んでいいといわれた。「純粋に科学的な研究」が 約束された。

 第一次世界大戦前,黒色火薬で大もうけしたデュポン社は,すでに綜合 化学メーカーになっていた。実用化を前提としない研究をするだけの余裕があ った。

 「純潔ホール」

 カロザースの研究棟は,同じ敷地で従来の応用研究をしている科学者た ちから,こう呼ばれた。

 ちょっとした,やっかみとからかいの対象だった。

 カロザースは,「高分子合成」を研究テーマに選んだ。

 そして入社3年目の春,2週間のうちに,合成ゴムと,世界初の合成繊 維を発明することになる。

 「博士はゴムや繊維を作ろうとしていたのではないのです。」

 助手をつとめたジョセフ・ラボフスキーさん(85)が言う。

 「とてつもなく長い分子を作ろうとしていました。コロイド性物質の正 体を突き止めるためです」

 コロイド性物質というのは,水や油に溶けずにどろどろになる物質。絹 やゴム,樹脂などが知られていたが,当時その構造は分かっていなかった。あ まり大きくない分子同士が特別な力で結びついたものだろう,と考える学者が 多かった。

 しかしカロザースは「鎖のように長い一つの分子」と考えた。

 それを証明するために,小さな分子を次々につなげて人工的にコロイド 性物質を作り出そうとした。

 ただただ,大きな分子をつくる──。

 合成繊維を生み,合成樹脂の時代を開いたのは,そんなたわいない試み だった。


 1930年4月。

 最初の合成繊維が実験室で生まれた。しかしそれは熱すと溶けてしまう。その まま商品にはなりそうもなかったが,自説を実証したことでカロザースは満足 だった。

 しかし,研究室の雰囲気は様変わりしていた。

 大恐慌のまっただ中。

 上司は実利派の研究者に代わった。もともと「純粋化学」のプロジェク トに難色を示した人物だ。

 この新しい上司が,カロザースの作り出した合成繊維の製品化を強力に 進めた。

 「純潔ホール」は,応用研究の場に変わった。カロザースは異を唱えた が,入れられなかった。上司にせかされながら,さまざまな原料を組み合わせ た試行錯誤を続けた。

 1935年。熱にも薬品にも強く,しなやかな繊維が完成した。ナイロ ンである。商品化が決まった。

 この時点でナイロンは生みの親のカロザースの手を離れた。多くの技術 者が集められ,量産体制ができてゆく中で,カロザースは自殺したのである。

 学生時代から悩まされた鬱症状が,この2,3年悪化していた。抗鬱剤 などない時代だ。「生活習慣を変える」ことが治療とされ,新婚の妻と別居す ることを勧められたりした。

 前年,アメリカ科学アカデミーの会員に選ばれた。産業界の有機化学者 として初めてだった。シカゴ大学から教授に招かれた。遅い結婚は,地元新聞 の社交欄に写真入りで紹介された。

 しかし名声を得て気が晴れるタイプではなかったようだ。国際会議で講 演するのが苦痛だった。可愛がっていた妹は病死した。病気を悪くする事情が 重なった。

 実のところ,なぜカロザースが自殺したのか,はっきりしたことが分か らない。

 「彼は若いころ,甲状腺を取ってしまったの。中西部の風習なんです。 それが,鬱のもともとの原因じゃないかって,死んだ主人は言っていました」

 ポーラさんは言う。

 「静かに部屋に入ってきて静かに座っている。三ぞろいの背広姿でね。 人嫌いというのではないのだけれど,いつもぎこちなかったわ」

 カロザースの伝記を書いたマシュー・ハーミーズさん(62)は,アル コールの問題を指摘する。

 「鬱から逃れようと酒を飲む。悪循環です。禁酒法が終わるまで密売人 から酒を買っていました」

 ハーミーズさんは,79年までデュポンの研究者だった。しかし社内で カロザースの話を聞いたことがほとんどないという。

 「彼が死んだ当時,会社は罪悪感を持ったかもしれません。自殺を巡っ ていろいろな憶測が流れました。会社が彼を追いつめた,という見方まであっ たのです」


 アメリカの女性は,ストッキングのことを「ナイロン」と呼ぶ。シャツ やワンピースは後発のポリエステルにとってかわられたが,ストッキングは今 もナイロンの独壇場だ。

 「ピーチ色のパンスト。1日中探してるんだけど,ありますか」

 聞かれてリック・ブラウンさん(38)は,店の奥の大きな段ボール箱 をかき回し,淡いオレンジ色を取り出した。黙って客に差し出す。ちょっと誇 らしげだ。

 フィラデルフィアの目抜き通りにある靴下問屋。小売りもするし,古い 在庫を染めて売ることもある。

 「ピーチ色」くらい何のことはない。40年前のストッキングだってあ るのだから。後ろに縫い目のあって,ふくらはぎがきれいにカーブしたやつだ。 義父が仕入れたのがずっと残っている。セクシー好みの客が買わないとも限ら ない。

 「楽じゃないよ。今はだれもストッキングなんかはかなくなってしまっ た」

 「角の銀行の女の子を見なよ。昔はみんなスカートだった。今じゃジー ンズにスニーカーばっかりだ」

 かつてない好景気も,ナイロンには無縁らしい。

 デュポン社は一昨年,ナイロン生産の合理化を発表した。

 シーフォードにある世界で最初のナイロン工場で,衣類用の生産を 2000年に中止する,というものだ。1250人いる工場従業員は半分に なるという。

1998.7.12(日) 朝日新聞 100人の20世紀「ウォーレス・カロザース」より

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