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面接の中で最近よく思うこと

相澤 直樹

 石橋氏からホームページ移転のご連絡をいただき、久しぶりにこのホームページを見せていただいた。私が以前投稿してからまだ何ヶ月も経たないが、いくつかの投稿が掲載されており、本研究会の方々の熱意に改めて接する思いがした。それに触発され、また、ホームページ移転のお祝いの意味でも、拙文を投稿させていただこうと思いたった。

 内田氏の投稿文の中に『ホーナイの最終講義』の一節が引用されおり、いたく私も気持ちを打たれた。心理療法を技法的に学ぼうとすることに関してである。結局『どうすればよいのですか?』という発想がその背景にあるのだと思う。それのみで行こうとすることに疑問を抱かない人は、案外多いのかもしれないが、少し関わる道がないような感じを抱く。しかし、それを率直に尋ねてくる人は私は好きである。多くの人がそれすら尋ねられないからであろう。「はいはい、分かりました」という返事しかできない場合も多い。率直に尋ねてくる発表者なら食いつきがよい、そういう発表者に出会うとなかなか「がんばれ」と私は思う。思わずテンションが上がってこちらも参加したくなる。ただ残念ながら、そこから直線的に導かれる答えというようなのはない、というのがつらいと言えばつらい。

 普通考えればひどい話ではないか?一般の研修会とかセミナーとかいうのは、だいたいどうすればいいのかを学ぶ場である。経営セミナーとかコンピューターの研修会とか。そこで「どうすればいいのか」という質問が出て、それに講師が答えられなければ講師失格であろう。しかし、人の心を扱う場合、どうやらそうはいかなそうである。で、「じゃあ、研修会で何を学べばよいの?」と尋ねれば、結局同じ問いかけになる。だから、それには答えない方がよいと思う。そもそもそれに答えることが本稿の目的ではないし、だから表題が違う。長い前置きになったが。

 最近日々臨床をしていて思うことだが、なかなか「こうすればよい」とはならない。毎回のように困った事態に直面するが、その都度私は面接が終わってから考え込むたちである。なにがどうなっているのか・・・どういうことが起こってるのか・・・云々と・・・。そうしているとハッと気がつくことも多い。それで、「次はこれで行こう!!」と気分が晴れることがある。が・・・だいたい次もそうは上手くいかない。結局困っている私がいる。そういうことを際限なく繰り返していると、いい加減「ちょっとこれは違うのではないか」と気づくものである。そう思うと、案外自分の背中に「楽になりたい」という気持ちがくっついていることに気がつく。「どうやらこれに乗っかってやっていると、あまり具合がよくないようだな・・・」と。しかし、そこから「じゃあ、しんどい方がよいのか」という発想になって、やってみても期待通り見事にしんどくなるだけである。と、しんどいだけの面接が続く。時に来談者と一緒にしんどくなっていることをアピールする人がいるが、ちょっと考えればいい迷惑である。来談者は何とかしようと思って面接に来ているのに、もう一人しんどい人が増えるのだから。案外そういう場合には、本当にはしんどくなかったりする。そうそう人はしんどい状態にとどまれるものでもない。そうなると、「楽になりたい」という気持ちはやっぱり無視する訳にはいかないか・・・と再び色々と考え出す。考えるというのには、必ず多かれ少なかれ「楽になりたい」という力が働いているものなんだなあと実感する。そうでもなければ、わざわざ考えようとはしないだろう。そこで、考え出すがやっぱり同じことが起こる。そんなことを再び繰り返してくると、「どうやら楽になりたいけど、この人の前では楽になることはできないのか」ということに気づくのである。「確かに楽になれればいい、良い方法が見つかればいいし、それを教えてあげたい、しかし残念ながら・・・」ということである。時々来談者の中に「カウンセリングってアドバイスしないんでしょ」という方がおられるが、決して意地悪でそうする訳ではないのだと思う。「こうすればいいですよ」と言うのは比較的楽だし決して難しいことではないが、心の問題はそれではどうしようもないことが多い。だから、「不本意ながら・・・」そう思ってくると、考える働きにも「楽になりたい」という縛りがとれてくるように思う。案外「こういうことか!」と気づくけれど、「ま、それはすぐには使えんだろうから、しばらく持っておこか」と。そうすると、私の中でその考えは底の方に沈んで、すぐに外に出ようとはしなくなるのである。そして、そういうものが下地になって、あるときふとしたチャンスに自然とそういう言葉がでるようになってくるのではないかと思う。「楽になりたい」という気持ちはそれは人間だから仕方がないが、それをあきらめるのは「わきまえ」の問題、つまり、こちらの「人格」が問われてくる。 そういう意味では、心理療法家の人格は大切な要素ではないかと思う。同時に、「僕の人格の問題やったらすぐにどうこうは無理やな」と納得も行くのである。

 そういうところが心理療法の難しさになっていると思う。と同時に心理療法を教えることの難しさにも直結しているのではないだろうか。ずいぶん長く書いてしまったような気がする。こんなことを書きながらも「楽になろう」という気持ちがここまで書かせたように気がする。まるで背後霊よろしくつきまとってくるこの気持ちにみなさんにおつきあいさせたことに関しては、私の未熟さを詫びるほかない。

(2001/05/28受稿;2001/05/31受理)


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