Szondiana Hokusetsica

Mental Sketch in the 22nd Meeting of AJCP

相澤 直樹

 平成15年9月12日から15日にかけて、日本心理臨床学会の第22回大会が京都で開催された。連日晴天の中、京都国際会館というすばらしい環境の中での開催であった。京都は私の生れ故郷でもあり、近くにある宝ヶ池は子どものころ何度か遊びに行った場所であった。行く道すがら、目に映る風景に応じて昔の思い出がいくつも流れすぎていった。

会場は相変わらずの人の多さであったが、人ごみが苦手な私にとっても何故かさほどつらいものとはならず、不思議と4日間毎日出向いた。人の多さが却って個々の人たちの個別性を希薄化させ、丁度自身の鏡映に向き合うような機会になったからかもしれない。巨大な大会に参加しつつ、どこか新鮮な孤独感と安堵感を得る人は私だけではないだろう。そんなことを思い返していると、ふと感じたことや考えたことをぽつぽつと描きたくなった。

 私の学会参加は、自主シンポジウム『臨床場面におけるソンディ・テストの活用について』に話題提供者として参加することに始まった。今回始めて(だと思われるが?)、初日でしかも昼間の自主シンポジウム開催となった。なにぶん初めての経験であり、何を発表すれば良いか、正直に言って事前にかなり考えあぐねた。しかし、結局自分が今やっていることを素直に出せば良いと思い事例解釈を提示した。それに対し、串崎さんと内田さんが話題提供を行い、また、企画者の奥野先生と司会の松原先生がコメントをされた。指定討論者の大塚先生も後半になって参加された。その中で一つ私が考えさせられたのは抽象ということであった。串崎さんは、自身の学校コミュニティという視点から独自の『異界研究』とソンディ・テストを関連づけた発表を行い、内田さんは、事例を提示しつつもそこから読み取れる『家族の無意識』について語り、独自の臨床実践観を主張していた。そこには両氏それぞれの個性的な抽象化の道筋が感じ取れた。それに対し、私の発表と発言は終始事例に関するものであった。もちろん、自身の発表を悪く言うつもりはないし、思えば、抽象の作業は非常に恐ろしいものでもある。個々の具象から離れるのであるから、道を誤る危険性もある。しかし、人の前に立っていざ自分の発表を行ってみると、抽象化の作業にこそその人のその人らしさが現れ出るものだと改めて実感した。「僕自身、どのような抽象化の道を歩むのか」と、そのようなことを考えながら会を終えた。

 自主シンポジウムを終え、かなり気持ちが楽になったところで、大塚義孝先生、奥野哲也先生のお誘いもあって、近くのレストランで参加者の皆さんと昼食をとった。そこで、大塚先生にビールをご馳走になり、また、奥野先生には食事もご馳走になったが、そのときの大塚先生の「おとうさんのおごりやでぇ」との言葉に無性に安堵した気持ちになった。やはり「故郷」という思いが私の中でどこか大きな位置をしめていたのかもしれない。

 いよいよ大会初日、13日は、大会企画シンポジウム『無意識とイメージの事例研究』に参加した。ユング派精神分析家のギーゲリッヒ氏、ラカン派精神分析家のウィトマー氏、対象関係論学派の藤山直樹氏という錚々たる論客を指定討論者にすえ、1800名収容可能のホールも多数の参加者によってほぼ満員に埋め尽くされた。会は、事例発表の後、指定討論者同士によって各派の考え方に関する議論が活発に展開された。それらの議論は、おそらく他では聴けないような貴重な内容であり、大変興味深く聴くことができた。しかし、正直に言って私には若干不満足感が残った。それは、各指定討論者が、コメントの最初に事例の展開に意見を述べた以外、ほとんど事例に言及することがなかったためである。発表者もなぜか事例発表の後ほとんど発言することがなかった。もちろん、それは発表の場の雰囲気や事例の内容を反映していたのかもしれない。しかし、各派の抽象的な議論を展開するだけでなく、それを発表された事例を媒介として行ってほしいという思いがあった。私自身、事例発表を聞きながら自分がその事例に向き合ったと仮定して読みと関わりを考えていたし、それが各派でどのように捉えられ検討されるのかを大変楽しみにしつつ参加していたからかもしれない。特にギーゲリッヒ氏が事例に即してどのような詳細な議論を展開されるのかと期待していた。そのため、漠然とした淋しさが気持ちの中に残ることとなった。

 14日は、いくつかの事例発表に参加した。その一つに出社拒否の事例発表があった。その事例を事前に読んで、私はこの事例の本質は選択決定の問題だと考えていた。実は、このところしばらく、私はあるロールシャッハテストの事例論文で選択決定の問題を考えていた。そのことを確認したいとの思いもあって参加した。事例の詳細を知ってもその確信には変化がなかったので、また、フロアの議論にも明らかに選択決定について触れたものがあったので、自分の意見を述べてみたが、その後は沈黙が続くだけであった。どこかかみ合っていないと感じて、意見を述べることを中途で止めた。そのときは、なぜ先ほどまで議論に上っていた主題であるにこうなるのかと不思議に感じた。しかし、後で考えてみると、同じ選択や決定などの概念を使っていてもその意味が異なっていたのかもしれないと気づいた。会の中では、それを職業選択の問題として捉える人もあったし、遅延した青年期の発達課題として捉える人もいた。その点、それぞれが選択決定の問題に言及しつつも、その概念に至る抽象化の道筋が異なっていたといえるだろう。そこに議論のズレが起こったように思う。多くの人と議論するとき、この点は大切な問題だろう。ただ、今抽象化の最中にある私にとっては、それをまとめて説明せよと言われてもなかなか難しいものがあるとも感じた。

 15日は、午前中の資格化問題に関わるシンポジウムにだけ出席した。現状が報告されるとともに、指定討論者からは主に臨床心理士への期待と激励が述べられた。その中でも厳しい現状は随所で垣間見ることができたし、自分はどこに足場を置いてゆけば良いのかと漠然と感じていた。

   会を終えて帰る道すがら、周りの美しい風景には緑豊かな中にも秋の気配が確かに感じ取れた。毎回のことであるが、学会はどこかあっという間に過ぎていく感じがする。連日色々な人に出会い、知識面でも気持ちの面でも多くのことを経験しているはずなのにいつもそんな感じがする。振り返り思うにつけ、結局のところ、今回の学会でもどこか自分自身に向き合うところが多々あったようである。それが一つの収穫と言える。「どうもいかんなあ」「えらいこっちゃなあ」としきりに独り言を言いながら京都を後にした。 

(2003/09/20)

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