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内田裕之氏「日本心理臨床学会第19回大会に参加して」
(00/09/26)を読んで(雑記)

石橋 正浩

 内田氏の非常に丁寧に書かれた文章を読み、自分ももう少しまともなことも書いた方がいいんじゃないかという気持ちに駆られた。貴重な助言を頂戴した氏に感謝しつつ、思ったことなどをつらつらと書いてみた。内容的にはソンディよりもロールシャッハに比重がかかることになるが、ご容赦願いたい。

 まず、筆者の発表に関して。

 氏の指摘のとおり、筆者としてはC'Sをいわゆる「サイン=アプローチ」にもっていくつもりは毛頭ない。サイン=アプローチはつまるところMMPI等に代表される尺度法の援用であり、今回発表したC'Sを含む文章型の統計値が特定の人格特性ないしは障碍やリスクの有無を弁別しうるかという尺度法的観点から見た場合、おそらくほとんど意味を持ちえないだろう。古い『ロールシャッハ研究』には阪大法以外のスクールをプロパーとしつつ阪大法の文章型標識を記載している論文が散見されるにも関わらず現在では阪大法にのみ残存しているという事実もおそらくはこのことを暗示していると思われるし、長坂先生以降の阪大法プロパーの間ですらほとんど文章型は検討対象とされてこなかったことにもつながってくる。文章型カテゴリーはpsychometricな観点から見る限り、決定的に重要な標識ではおそらくない。

 今しがた、筆者自身がC'Sを+か−かという二元論ではなく一種のスペクトル的広がりを持つものとしてイメージしていることに思いがいった。発表時にフロアからC'S表現はノン=クリニカル圏の大学生でも頻発するではないかという指摘を頂戴したが、もしかすると我々全体がこうした微妙なニュアンスに鈍感になってきているという部分もあるのかもしれない。頻度的にPであれば+ないしはn.s.だという論旨は本論を棄却する根拠としては弱いように思う(そう言い切るほどには本論もまだまだ強くないのだが)。当会の顧問をお引き受けいただいている(正式には「ウルトラスーパー顧問」だが)老松先生の言うアマテラスとスサノヲの顕現としての日本人の自己愛性とてんかん性ほどクリアーではないがC'Sに反映されているものが文化的な部分に少しはかすっているかもしれないという感触を持っているし、それゆえのこだわりでもある。

 研究会の帰りのエレベータの中で辻先生に文章型について考えてみたいと話した時に「文章型は面白いけれども難しいですよ」と一言仰られたことが思い返される。

 浅学ゆえ実際のところどうなのかは知らないが、おそらくTATでもC'S表現は頻度的には多いのであろう。TATをプロパーにしている方々がこのへんのニュアンスについて何か感じとってはいないだろうか、機会があれば聞いてみたいなあと思う。

 次に、内田氏の発表に関して。

 私の理解では、氏の発表はロールシャッハ実施過程の流れの中に生起し変化していく検査者−被検者間の微妙な力学(関係性と言い換えることも可能だろう)に着目したものと考えている。課題遂行に要する負荷という点から考えた場合、各カードの開始から終了までほとんど被検者に委ねられている自由反応段階と検査者が適宜介入する質疑段階とではその関係性の質も自ずと変化していくはずと筆者は考えている。臨床においてその必要性を感じながらロールシャッハ(他の検査でも同様)を実施している者ならば少なからず思い当たる節はあるだろう。

 氏の発表を聞いていて思い浮かべたのが『これからのロールシャッハ』で藤岡喜愛先生が提起しておられる「ロールシャッハ面接」である。飛躍を恐れずに言えば、氏が目論んでいるのはロールシャッハにおける"Participant observation"であり、「ロールシャッハ面接」構築のための一つの試みなのではないだろうか。惜しむらくは時間の制約から事例の個別性に即して氏がどのように対応をしているのかというところを詳しく聞くことができなかったことである(筆者が聞き逃しているだけかもしれないが)。そのためか、提供事例での手続が氏のルーティンなのかそれともこの事例ゆえあえてルーティンを外したのかというところで一部フロアとの齟齬が生じたように思う。「限界吟味」というテスト学的一作業を看板に据えたことも、その齟齬を加速させていたのかもしれない。

 風景構成法などのいわゆる芸術療法的手法ではなかば当たり前のように起こっている過程がロールシャッハになると途端に当たり前でなくなるというのはロールシャッハが「心理検査」であるがゆえであろうが、心理検査の王様であることに伴う権威の部分もあるのかもしれないなあ、などとついつい考えてしまった。

 「被検者を通してロールシャッハを理解していく」のか、
 「ロールシャッハを通して被検者を理解していく」のか。自戒を込めて。

 ソンディについても一言二言。

 ソンディの面白さの一つは(と言っても今のところこれ一つしか言語化できないが)、幾何的な記号(k)からさまざまな文脈にもとづいて膨大なイマジネーション(p)を賦活されるところにあると思っている。筆者の場合は往々にしてイマジネーションのつもりがただの知性化であったり、そのくせ解釈において文学的になってしまったりするきらいもあるのだが、それでも自分にとってはいいトレーニングだと思っている。

 「pに走りすぎず、kに捉われすぎず」。

 大仰な文章になったが、現時点で出せることを出してみた。読者諸氏のご意見を頂戴できれば幸いである。

(2000/10/20受稿・受理)


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