Szondiana Hokusetsica

フォルムとコンテント

石橋 正浩

 先ごろおこなわれた日本ロールシャッハ学会第7回大会においてシークエンス・アナリシスを主題としたシンポジウムが開かれていた。筆者はそこにいちおう参加していて何とも言えぬ違和感を感じていたのだが,帰ってきてからもどうもこの違和感が消えないでいる。この違和感は筆者が日頃きわめて慣れ親しんでいない方法であるということ以上の問題を含んでいるようであると思うようになり,少しく書き残しておくべきことであるかもしれないと,浅学の非才を顧みず筆を進めてみることにする。

 ロールシャッハ自身は"Sequenz"を把握型の問題として採り上げ,各カードにおける反応順序と用いられる領域の問題として扱っている。しかしながらロールシャッハの死後,諸家によりこのSequenzにさまざまな意味が付与されることになる。たとえば片口(1987)にはKlopfer & Kelly(1942)からの引用として,各カードで展開される各標識の推移をカード特徴と合わせて検討していくことが紹介されており,このことを視覚化する手段(と片口は理解している)としての長坂の動的表示法についても一定の評価を与えている。しかしながら最後に「実際の臨床場面に直接役立てうる系列分析的解釈は,客観性を多少犠牲にしても共感的・直観的・了解的な観点に重点を置かざるをえないであろう」(p.231)と述べている。この発言はSequenzが客観的検証に少なくとも馴染みにくい性質を持つものであることを端無くも示すことになっているのだが,片口法(少なくとも片口自身の解釈例)ではSequenzを中心に持ってくるような解釈はおこなわれていない。

 ちなみに,Sequenzの訳語であるが,「継起」のほかに「継列」「系列」などの語があてられており,統一された訳語は存在していない。件のシンポジウムの表題が「継起分析」でも「継(系)列分析」でもなく「シークエンス・アナリシス」というカタカナ表記であったことの背景もそれとなく看取することができるような気もしている。"Psychodiagnostik"のオリジナルであるドイツ語なら「ゼクヴェンツ・アナリーゼ」となるところだが,あえて英語読みで設定されていることも,この方法がアメリカ経由である,すなわちロールシャッハのオリジナルではないことを端的に示すことになっている。

 いわゆる力動的解釈(小此木・馬場, 1989)の立場はSchaferの主題分析を端緒としているらしい。Schafer然り,その共同研究者のRapaport然り,いずれも「自我心理学」の大家である。Klopferも自我心理学の流れで理解されるが,彼自身がロールシャッハに分析的な方法論を持ち込んだようには見受けられない。したがって,分析(特に自我心理学)をプロパーとする人々にはおそらくきわめて馴染みやすい方法なのであろう。逆に言えば,プロパーでない者にとってはきわめて馴染みにくいものであるということでもある。

 少なくとも,ロールシャッハ自身はSequenzを「形式性」(注:原語は"das Formale",鈴木訳では「形式的なもの」と訳出されている)の問題として採り上げている。ロールシャッハ自身が短命に終わったため彼の着想の全貌を知ることは叶わないが,形式性とは「主題(内容)性」に対置するものとして単なる量的比較にとどまるものでなかったことは読み取ることができよう(このことに従えば.ロールシャッハ法では形式分析を「量的」,内容分析を「質的」とする区別は適当でない)。もし彼が,形式性よりも内容(主題)性に強い関心を持っていたとするならば,精神分析の概念や分析的解釈手法が"Psychodiagnostik"の中心となっていても何らおかしくはないはずである。ロールシャッハが精神分析に大きな関心を持っていたという事実から考えれば尚更のことである。しかし,彼はそれをほとんどまったくといっていいほどしていない。

 辻(2003)は自身のロールシャッハ法へのアプローチである形式・構造解析を,「被検者が図版に接したことから始まってスコアという結果に至る間の,被検者の認知と反応という内面のプロセスそのものに焦点をあて」(p.8)たものと述べている。したがって,ここで言う形式性とは単なる量的指標では決してなく,「内面のプロセス」のありように他ならない。さらに考えていくと,1つの反応の「内面のプロセス」に始まって,1枚のカードを手渡してから手許に戻ってくるまで,あるいは10枚のカードの自由反応段階を通して,さらに自由反応段階から質疑段階へといったさまざまなレベルでの「内面のプロセス」を追っていくことは,そのまま形式性にもとづいたSequenz Analyseとなりうることになる。このアプローチを実態のよくつかめない「シークエンス=アナリシス」と区別するという意味で「ゼクヴェンツ=アナリーゼ」とあえて呼んでみるのもいいのかもしれない(めんどくさいのでしないだろうが)。

 またこの辻の言及には,なぜロールシャッハで標識(スコア)を「わざわざ」つけるのかという疑問への回答がそれとなく準備されているように思われてならない。

 ロールシャッハは彼の実験が内包していた「形式性」を理解していくために,領域,決定因,形体水準,反応内容,出現頻度という1つの文法,ならびにそれぞれに用いられる単語を開発したと言える。そのようにイメージすると,スコア(単語)は単なる整理の道具などではなく,いわばロールシャッハ文化(知識の体系)を背景に持つロールシャッハ語という言語システムであることが理解されよう。熟達者がスコアリングという作業をしないままに解釈をおこなうかのように見えるのは,実際のところ熟達者の頭の中には自立した翻訳システムがすでにできあがっておりスコアリングという作業が具体的な作業として外側に現れてこないだけのことである場合が多いためである。したがって,ロールシャッハの着想を尊重する立場に立つ限り,スコアという作業が不要であるということは基本的にないと言ってよい。

 ロールシャッハ語の意義は,ロールシャッハ語にいったん翻訳することによって千差万別のプロトコルが一定の「形式性」をもったものとして理解されることにある。その意味でスコアはプロトコルのもつ形式性を理解してく上で必須であり,スコアリングという行為は被検者の反応産出の過程を追体験することにほかならない。ロールシャッハが用意した言語システムがもしなければ,ロールシャッハ法が投映法における現在の位置を獲得することはまずなかったであろうとさえ思われる。"Psychodiagnostik"執筆の契機となったとされるシモン=ヘンス(Hens, Szyman)の実験が現在ほとんど顧みられないのは図版図形の出来もさることながら,分析の方法が内容面に終始したことも無視できない要因であるように思われる。空想をたくましくしてみると,ヘンスの論文を読んでロールシャッハはそれほど「やられた!」とは思わなかっただろうな,などと考えてしまったりもする。上梓後に手を入れている現在の時点で,ちょっとそんな感じがした。

 話は多少とぶが,たとえば「DWはpsychotic signだからスコアをし忘れてはいけない」などと講習会などで言われることがあるかもしれない。いわゆるサインアプローチの立場ならば違和感のない話なのだろう。しかしながら,「形式性」を中心に据えた場合には,重要なのはDWを忘れずにスコアすることなのではなく,DWとスコアされうるプロセスが目の前の反応の中に現れてきていることに気づくことである。サインアプローチやそれこそ「形式的」な量的基準といったかかわる側の都合で用意されたものによりかかる姿勢からはなかなか出てこない気づきであろう。
 このような構えができれば,スコアしにくいことそのものが被検査者の内面のプロセスに近づくきわめて重大な手がかりとなっていることに容易に気づくことができる。こうしたトレーニングを重ねていくと,面接の中でもクライエントの発言の「内容」にいちいち振り回されることが少なくなっていくものである。また阪大法でマイナスのForm Level(F−)をつけることにさして躊躇がないのは,F−がいくつあるからどうという視点を持つ代わりにF−に反映される被検査者の内面のプロセスを追うことを徹底的にトレーニングしているからである。

 徹底的に内容分析をおこなうのであればスコアは究極的には不要となりうるのであるが,そのことはロールシャッハの開発したロールシャッハ語を放棄することに等しい。それはうどん専門店がうどんのついてないトンカツ定食をお勧めメニューに載せるようなもののように思われる。そうしたアプローチが客のニーズに十分応えているものであるならばそれはそれでいいのかもしれないが,うどん以外のメニューが妙に充実しているうどん専門店のうどんは案外手抜きであることも少なくない。
 まったくの蛇足となるが,麺類という括りでは同じ括りであるものの,そば屋の場合だと,そばがおいしいことは最低条件であり,おいしいお酒があって,そばの味のするそば湯が飲めて,天ぷらが上手であることが求められる。そもそもうどん屋では酒が飲みにくいがそば屋では当り前のように酒が飲める。したがってうどん屋とそば屋は本質的に異なると筆者は考えている。あるそば屋の主人がテレビで「そばは手をかけないほどおいしい,うどんは手をかけるほどおいしい」とこの二つの麺の違いを語り,「この二つをいっぺんに一人でこなすのは不可能だからうちはそばだけ扱ってます」と誇らしげに語っていたのを思い出した。それはそんでええこととして,ロールシャッハ法における形式性(フォルム)と内容性(コンテント)の関係はうどん専門店のうどんのついてないトンカツ定食ではなく,おいしいそばと天ぷら(とお酒)のようにあるのが理想である(これは複合以外のなにものでもない)。
 メインのうどんに自信がないからサイドメニューで勝負というのはうどん専門店の名にかかわる問題であろう。その意味で,阪大法はざると釜揚げに辿り着いたうどん屋のようなものであるのかもしれない。

 「内容分析は形式・構造解析をマスターしてからでも遅くはない。私は(形式・構造解析をマスターするのに)50年かかりましたけどね」と『検査法』出版後の辻先生はよく言われる。件のシンポジウムはこの言葉の重みを改めて感じた機会となった。

 やっぱり原点はロールシャッハの開発したスコアです。

【引用・参考文献】
Ellenberger, H.:中井久夫訳. (1999) ヘルマン=ロールシャッハの生涯と仕事. エランベルジェ著作集1, 3-82. みすず書房.
片口安史 (1960) 心理診断法詳説. 牧書店.
片口安史 (1987) 改訂・心理診断法. 金子書房.
村上宣寛・村上千恵子 (1988) なぞときロールシャッハ. サイエンス社.
小此木啓吾・馬場禮子 (1989) 新版・精神力動論. 金子書房.
辻悟 (1997) ロールシャッハ検査法. 金子書房.
辻悟 (2003) こころへの途. 金子書房.

(2003/11/19;2005/08/03改稿)

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