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北摂ソンディ研究会第21回だいかいをふりかえって
−午後の部に焦点をあてて−

石橋 正浩

 去る8月27日,名古屋にて標記だいかいが開催された。名古屋での開催は「発展の航跡」によると8回目であり,ということは初回から7年が経過しているということである。本会からの参加状況は若干停滞気味ではあるが,名古屋からの参加状況は8年前よりも活発になっている印象がある。参加者の熱意には頭が下がる。

 今回の筆者の主な役回りは,午後のロールシャッハ事例におけるコメント,ならびに『ロールシャッハ検査法』読書会という,辻先生の同書を講読している勉強会からの質問にお答えするというところだった。事前に三点,終了後にも数点の質問を頂戴したが,ここで現時点での筆者の理解を書き留めておきたいと思う。今後の議論の糧にでもなれば幸いである。

(1)阪大法の形体水準の考え方について

 当日話したように,阪大法成立の過程においては,1940年代後半から1950年代前半における,長坂五朗先生によるクロッパー法の導入という歴史がある。しかし,実際に現場レベルでの使用に際してのクロッパー法の抱えるわかりにくさや不都合が明らかとなり,フィリップス&スミスの知見を加えた新たな評定法が開発されていくという歴史的経緯がある。

 堀見ら(1958)にもあるように,諸家による形体水準の評定はつまるところ,1)選ばれた概念の形体上の正確さに関する図版との適合性,2)形体上の正確さ以外の部分での,図版との適合性,3)複数概念の結合に関する論理的妥当性,4)1)から3)の総合的評価,にわけられる。であるのならば,クロッパーのように最終結果のみを示すのではなく,上記のそれぞれを別個に評定した方が系統だった解釈がおこなえるのではないか,というのがこうした評価法の目論みの基礎にある(ちなみに,1)は基礎形体水準(Basic Form Level; BFL),2)は特殊要素(Specification),3)は結合反応(Organization),4)は評定(Rating)となる)。こうすることにより, BFLのレベルの様相,結合反応を含むSpecificationの様相とを別個にとりあげて検討することが容易となる。クロッパーの方法や,それをさらに簡略化した片口の方法では,いったんまとめてしまった評定をもう一度見直さなければならないというわけである(もっとも,これらの方法ではこうした視点は採用されていないので考慮する必要もないことになるが)。

(2)「動」感覚の影響とその意義

 これも当日述べたように,「動」感覚は先天的に獲得されているものとしてわれわれの内側に絶えず生起し,実際の行動を導く一つの源泉となっている。その意味では,発達的には後天的に獲得していくものである識別的な認知(F)と対極をなすものであり,この両者が静止図形であるロールシャッハ図版の上に複合的にまとめられることで運動反応(M)が生起する。

 運動反応,とりわけロールシャッハの言う「一次性運動反応」とは,静止図形である図版に対して,内側に生じた内的「動」感覚を無視するでもなく,それにかかりきりになるでもなく,検査に対する回答としての妥当性を保った形で表現できるということにある。この処理は単に《何に見えるか》への最低限の回答としての純粋形体反応(F)よりも多くの処理を必要とすると考えられるゆえに,その意義は高く見積もられてきたと言える。噛み砕いて言えば,ただ単に「人」と回答するよりも,「人が荷物を持ち上げようとしている」と回答する方が,なぜそう見えたのかと問われたときに必要とする根拠は必然的に多くなる。回答者は,《なぜ人間に見えたのか》という理由に加え,《なぜ荷物を持ち上げようとしているように見えたのか》という理由を説明しない限り,検査者を納得させることは難しい(〈なぜ持ち上げようとしているように思ったのですか?〉という問いに「ありません」と答えられれば,多くの検査者は途方に暮れるはずである)。その意味で運動反応は純粋形体反応よりも複雑な処理を必要とし,それゆえに阪大法ではそうした複雑な見方が自由反応段階でなされていない限り,運動反応としてはスコア上採用しないというルールを採用している。

 おそらく他のスクールでは,ロールシャッハ以来の運動反応(とりわけM)のもつ肯定的な心理学的意味に拘泥してきた。しかし,辻(1997, 2003)の言うように,運動反応は成熟型のそれと未成熟型のそれとに大別される。辻(1997)に従う限り,初期集約的把握型に到達していないプロトコルで成熟型の運動反応が支配的に現れることは理論的に考えにくい(スコア上F+となるか否かの問題ではなく)。初期集約的把握型の意義とは,『これはこれ,それはそれ』という質による区別をもとにそれぞれの部分を意味づけることが定着するとともに,『その中でいま自分が扱っているのはこれ』という観察的な認識が成立することを指す。その意味で成熟型の運動反応とは,『あまたある中でいま自分はこのことを扱っていて,その中で自分はこうしたことを感じている』ということが表現可能となることを示唆する。これは『グロリア』におけるロジャースの《あなたは○○と感じているんじゃないか,ということを私は強く感じています》という発言とも一脈通じるものであろう。

 ただし,われわれは日常すべてのことをこうした成熟型の運動反応で処理しているわけではない。むしろ,われわれは日常の多くのことを,ジャネの言う「自動症」的におこなっているとも言え,いちいちその意味なんぞ考えてはいないことの方が多い(その意味で,パールズのゲシュタルト療法は,今自分がした行為の意味をとことんまで考えさせられるというアプローチとも言えよう)。これまで述べてきた脈絡からすれば,たとえば慌ててしまったり不安になってしまうとおかしなことをしてしまうというのは,“慌てる”とか“不安だ”いう内的感覚と,“いま何をすべきか”という相対化の複合の不十分さを示すことになる。あるいは,同じ「怒る」という行動でも,その行動にいたる動機が他者から理解されるか否かの区別は,その行動が起こった文脈や状況に依存するわけであるが,理解されない場合であればあるほど,その行動にいたるまでの「動」感覚の相対化およびそれと外的状況との理解との複合が不十分であるということになる。

 そのように考えると,一概に未成熟型の運動反応を残していることを,心理学的によろしくないことと直結させて考えることは,必ずしもよろしくないようである。いっぽうで,検査という状況に立ち返る限り,図版は動かないものとして定位している。静止しているものが動いていると言うことは,先に述べたように,より多くの根拠を必要とするゆえに大変である。

 たとえば,10枚の図版のうち7枚や8枚以上において運動反応(ないしは運動関連表現)をおこなう人は,その根拠を明確化するということよりも,内に生じた動的感覚をとにかく表現することの方に力点がありがちである。あるいは,その理由を『図版がそのようになっているから』とする場合もあるかもしれない。場合によっては,そのような理由づけさえどうでもいいかのような場合もある。かと思えば一般的にMが与えられやすい図版も含めて,まったく運動反応が与えられない場合もある。あるいは,運動反応が与えられていても,阪大法で言う姿態運動反応(postural movement)ばかりという場合もある。こうした個々の例において,運動反応はすべからくポジティブに扱われるべきなのかどうか,再考の余地があることを辻の知見は示しているようである。

(3)把握型の可逆性について

 事前に受けていた質問のもう一つは,思春期以降に病態が悪くなるような事例においては,それまで獲得していた把握型が逆行していることはないのかということであった。たとえば描画等ではそれ以前とそれ以後で表現が大きく変化することが知られている。そうしたことがロールシャッハ検査上ではどのように考えればよいのかという問いであろう。

 筆者が実際にそのような事例に接したことがないという限界もあるが,辻に従う限り,こと把握型に関してはその可能性は低いと考えられる。把握型は先にも示したかと思うが,識別的な認知(F)のありよう,すなわち合理的認識のありようを示す領域である。

 たとえばピアジェは,自らが構築した認知発達の各段階を非可逆的なものと捉えた。このことは,いちど高次の認識が獲得されそれが支配主導性をもつにいたった場合,それ以前に用いていたより低次の認識が支配的な位置を占めることのないことを示している。いっぽうフロイトは「退行」という概念を用い,自我がかつて用いていた低次のそれへと一時的であれ逆行する可能性を示している。しかし退行そのものが認識の側から見れば扱いきれない体験や感情を回避するための手段であり,それはそのまま辻の言う複合不全の状態として理解することができる。そうであれば,退行により自我が守られるという発想そのものが,初期集約に代表される合理的認識が支配主導する主体からは生じないことになるから,退行により主体のあり方が以前の状態に戻るということは,ことFに関する限り考えにくい。

 辻は「統合失調症の好発時期は思春期・青年期であることが知られている。それまでは当然子どもの時期に該当する。思春期・青年期にそのつまづきを示す事例は,それまでの子どもの時期の外界現実との対応を,必要な認識を身につけていない見かけの正確さで覆うことができて,残りは成人のカバーにゆだねることが許されていたのである。思春期・青年期という精神的な自立が問われる時期になって,それでは対処ができなくなってつまづきが現実のものとなるのである」(『途』p.34)と述べている。ここでの「見かけの正確さ」とは,必ずしも認識をともなわないという特徴をもつとされる。簡単に言えば,「そちらがそのようになっている」という,自分からのコミットをともなわない区別であるとも言えよう。いっぽうで,それはそれで日常生活においては大きな内的資源ともなっており,たとえば辻の言う「つまずき」がいつ頃どのような状況で発生するかという個人差に影響を与えているようである(見かけの正確さによったものとは言えF+%が70%近い事例STの発症が40歳を過ぎてからということにも着目)。

 また『検査法』では,体験型は比較的検査状況の影響を受けやすいのに対し,把握型は相対的に検査状況に左右されないことが示されている。したがって,まず把握型と識別型の認知がどのように現れているかを丁寧に読みこんでいくことが,特に臨床においては重要な作業となる。

(4)「事例ST」と「事例25」の相違について

 懇親会で話題になった事柄である。事例STは妄想型の統合失調症,事例25はいわゆる非定型精神病と医学的には考えられる臨床像を呈した事例である。両事例に共通する特徴としては,継時性の問題が挙げられよう。しかしその継時性の現れ方が,事例STでは反応概念のシフトを中心としたものであり,しかもその着想の推移が自らの内で生じているということの気づきが低いまま,すべてが外側にある図版の側の問題として扱われているという特徴がある。いっぽう事例25では継時性の中心は反応概念に付随する運動内容に関するものが中心となっており,またほぼすべての図版で運動関連反応が示されていること,およびとりわけ色彩が関与するとその運動表現が図版から遊離していく傾向が示されている。

 したがって,同じ継時性という括りでも,両事例のプロトコルに現れてきている特徴の力点が異なることが読みとれよう。また事例STには色彩反応とpostural movementを除く運動反応が見られない一方で,事例25には色彩反応も(その形体質を不問にすれば)比較的豊富に産出されている。したがって端折って言えば,事例STにおいては各種の体験相が表現可能なものとして位置づいておらず,内的に生じたであろう体験がその都度外界の状況と同質のものとして位置づけられるという特徴を見ることができる。いっぽう事例25においては,外界から触発されて生じた内的感覚が支配主導性をもち,それゆえに“それが生じている自分”への気づきが留守になったまま,外界を正確に捉えるという課題が二の次になってしまっているとみることができる。したがって,「事例STにおいては,外界が動かし難い支配性を持つかの如くに位置づけられて,妄想型精神病像を呈し,事例25は活発な内部の感覚に支配されて,非定型精神病の病像を呈しているのである」(『検査法』p.155)という理解ができよう。

 とりあえずの「後付け」のつもりであったが,思っていたよりも大部なものになってしまった。参加者からのリコメント等頂戴できれば幸いである。

[文献]
堀見太郎・辻悟・長坂五朗・浜中董香(1958)阪大スケール. 本明寛・外林大作編, ロールシャッハ・テスト(1)(心理診断法双書). 中山書店.
辻悟(1997)ロールシャッハ検査法. 金子書房.
辻悟(2003)こころへの途. 金子書房.

(2006/09/07)

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