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Szondiana Hokusetsica

投影法の初心者が初心者でなくなるとき

石橋 正浩

 ロールシャッハ学会第11回大会のシンポジウムで,若手ロールシャッハ研究者(ロールシャッカーと言うらしい)と円熟ロールシャッハ研究者との対話を通してロールシャッハを学ぶ意義を考えるという趣旨の討論がおこなわれていた。その場での発言の機会を逸したので,そのときに思ったことを書いてみたい。

 シンポジウムの最後に司会者が,「ロールシャッハを好きになることですね」というようなまとめをした。このまとめは初心者には酷である。どこかに書いた気もするが,私はかつて辻先生に「興味があると思うからには,興味をもつだけの理屈がそこにあるはずだ。その理屈に気がついていないのならば,それはわかっていないということだ」と言われた。その意味で,初心者と呼ばれる人たちは自分がロールシャッハ法の何に興味をひかれているのかという言語化をする努力をするべきであるし,若手でない人はそれを何らかの形で言語化できないといけないはずである。そこが件のシンポジウムでは消化不良のままであったようにも思われる。

 筆者は,今ならば,その理屈をある程度言語化できる。その意味で,筆者は初心者ではない。

 第一に,ロールシャッハ法をはじめ投影法の魅力は,「わからない」と言える余地があることである。尺度法(包括システムと言い換えてもよい)による検査では,得られた結果(数値)が自ずと何らかの意味をもたらしてくれることになっている。そこに実施者が主体的にコミットして考える余地は少ない。

 しかし投影法では,現れた結果がそのまま何かを直接的に意味することの方が,むしろ少ない。したがって,当然自らその意味を問うことが求められる。その意味を問うだけのスキーマとゆとりがない限り,投影法は尺度法と変わりない形で扱われることになる。

 辻(1997)の言う形式・構造解析のアプローチでは,スコアそのものよりも「スコアに至るまでのプロセス」を問題とする。シンポジウムにおける「円熟ロールシャッカー」の一人であった氏原先生も,辻先生からの影響を隠さず,スコアに拘泥することがロールシャッハ法への親しみやすさを滅殺している旨の発言をされていた。

 投影法はpsychometricな方法とは異なり,結果を理解する主体としての自分の参加が求められる。これが面接のやりとりならば,このプロセスは至極当然のことである。ここで重要なのが,面接におけるクライエントは絶えず変転するのに対し,ロールシャッハへの反応は「形を変えず」残されることにある。形を変えないプロコトルからクライエントの内面の営みをつかむトレーニングは,辻(1997)のまえがきで河合先生が言うように,臨床のトレーニングとしてきわめて重要な意味をもっている。プロトコルという客体化され動かない対象に対する理解の姿勢ができていない者が,絶えず変動する主観的なクライエントの語りに対応できるはずがないからである。

 またシンポジウムの中で着想したこととして,初心者と呼ばれる人はどの段階で初心者と呼ばれることがなくなるのだろうか。

 筆者が初心者から脱却したときはいつなのだろう。この理解は明らかに後づけであるが,筆者にとっては,道具に使われているという姿勢が,道具を使うという姿勢に変化したと自覚できたときである。このことはすなわち,道具を使う主体(すなわち検査者)が自分の中に形成されたことを意味する。これが包括システムを含むpsychometricな道具であれば,この感覚はおそらく違ったものになる。

 結局のところ,ロールシャッハ法で何が理解できるのか,という仮定をどこに置くのかということによって,目的地は随分と異なるようである。それはつまるところ,psychometricな方法ではない投影法とは何で,投影法に投影されるものは何か,という根源的な問いの問い返しである。その問いに真摯に向かい合うことを回避するのであれば,投影法に取り組むことは時間の無駄でしかない。筆者自らの投影法に対する姿勢と,業界の趨勢との間に大きな懸隔を感じつつ,大会をあとにした。

(2007/12/19)

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