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日本心理臨床学会第19回大会に参加して

内田 裕之

 去る9/13-16に日心臨があった。今回は、自分の発表もあり、毎年恒例のソンディの自主シンポにも参加し、また、遠方の友人と楽しい時間が持て、盛りだくさんであった。学会から帰ってきて1週間以上が経過し、少し冷静に振り返るべく、印象を記してみようと思う。

 全体的なことだが、研究発表については、何故か興味の惹かれる演題が少なかった。発表抄録集が簡素化されたことで、魅力が半減したのだろうか。ロールシャッハに喩えてみれば、生の反応ではなく、スコアしか資料がないような感触であった。簡略化されていても、そこからビビビッとくるような工夫をしなければ、と自分のこととしても反省した。

 さて、フロアとして参加したのは、石橋氏の発表であった。この研究は、ロールシャッハ反応の語尾の部分に現れてくるニュアンスから、被験者の反応態度、ひいてはその人が物事に取り組む際の姿勢を読み取ろうとする試みと、私は理解している。

 しかしながら、フロアの意見では、氏の注目している反応は出現頻度が多いのに何が言えるのか、というものであった。これについては、Exner然り、ロールシャッハ研究の中で伝統的に、病理群と正常群の群間比較によって、有効性を示そうとする研究の方法論が主流であることを痛感した。投影法の科学性を証明しようとして、先人が自然科学的方法論に準拠してきていた歴史を踏襲したものと言えるだろう。

 このことと関連して、ロールシャッハはスコアリングによって数量的にデータを示すことができ、得点化されてしまう。このため、解釈に際して、ある指標の得点が何点であれば問題あり、と考えることに終始してしまう危険がある。これを埋めようとする試みとして、多くの人は内容分析によって、質的な検討を行おうとする。

 氏の準拠する阪大法では、被験者がどのようにロールシャッハ課題に取り組んだか、を重視しており、一つ一つの反応をじっくり検討していくことが、解釈につながっていく。これは、内容分析ではない、反応の質的な分析をしているといえるのではないだろうか。 氏は「C'S%がいくつだと、こういうことが考えられる」ということは狙っていない。一つ一つの反応の検討の際の着目点を提起しておられる。もしかすると、文章型が阪大法にだけ現存し、他の流派には体系化されなかったのは、F+%のように、出現率をパーセンテージで示すことになじまない指標だったからかも知れない。

 こうした現状のロールシャッハ業界の中、数量でもない、象徴解釈でもない、阪大法が解釈のためにたどるの道筋のモデルが明確化され、反応のニュアンスの表記法として氏の提起が評価されることを切に願っている。

 この点は、私が自分の発表で感じたこともつながってくる。私は基本的にクロッパー法でスコアしているが、スコアの対象となる狭い意味での反応だけではなく、広い意味での検査場面で見られた全反応を視野に入れた思考言語カテゴリーを用いたり、阪大法の考え方を援用してスコア時に反応のニュアンスを検討している。このように、スコアリングはするが、スコアだけが全てではないという姿勢でいる。あるいは丁寧にスコアリングしていくことで、そこでスコア困難・スコア不可能というニュアンスを大切にしている。これに対して、スコアリングを重視する立場の人は、私がスコア困難あるいは典型的な該当例ではないと考えたことはあまり考慮されず、スコアしていくように私は感じた。

 このように、データの取り扱い方が、その人の立脚する解釈仮説によって、大きく異なってくることを痛感した。このような見解の相違を生まれること自体を、ロールシャッハの本質と考えて「私の解釈・理解が、他の立場から誤謬と一蹴されずに、その意義が伝わる」ような工夫をしていかなければならない、と自戒している。このような事情が、いくぶん氏への過剰な感情移入になっているかも知れないことを添えておきたい。


 これは「ソンディ研究」のHPなので、ソンディの自主シンポについても触れなければならないだろう。5人の事例提供があり、いずれも興味深かった。

 ソンディテストのわかりやすさの一つとして、「衝動が量的に高まっているかどうか」が挙げられるだろう。感嘆符のついた反応は「量的緊張」と考えるという点である。「緊張」というと、対人場面での緊張を連想しやすいが、興奮して高ぶった状態、ドライヴがかかっている状態と考えればよいだろう。イメージとして、試合を前にして内的な高ぶりから落ち着きを失っている選手は、うまくいくかなどうかなという不安だけではなく、鼻息を荒くするような鼓動が高ぶるような興奮状態にもあるわけで、この後者のような緊張を指すと考えればよいだろう。

 そこで、感嘆符のついた反応を拾っていくだけでも、ずいぶん被験者像が見えてくるものである。それだけ強く、その時の状態像を反映しているわけで、わかりやすい。

 私の場合、ここから、もう一歩進んで考えてみることが多い。まず@因子のどれかが高ぶれば、必ず低まっている因子がある、ということ。どこかに強く関心やエネルギーの流れがあれば、必ず「お留守」になっているところがあると考えて、0反応の出ている因子を見て、今の内的な高ぶりのせいでお留守になっていて、何か二次災害的なトラブルを起こしていないか、と検討してみる。また、別の因子で0反応を出してもいいのに、何故ある特定の因子で0反応を出しているのか、その人の中での因子間のつながりの必然性を考えていくと少し幅のある解釈にもつながってくるだろう。

 次に、A衝動の高ぶりは、解消や発散によって落ち着くことを求めている。果たして、カタルシスとして、その緊張して高ぶった因子を充足させることが治療的なのだろうか。健全な形での解決となるためには、どのような変化が必要なのか。ソンディの運命分析学も、広い意味での精神分析的・深層心理学的・力動的な理論である。単なるカタルシスではない問題の解決を考えていくことは、治療的な視点として意識しておかなければならないと思う。しかし、これは非常に大きな問題であり、ここで簡単に指し示すことはできない。ソンディ的治療学の今後の課題としていきたい。

 また、大塚先生からのコメントで、k的因子とp的因子に関する指摘があった。我々、心理療法家はややもするとロマンチストになりがちで、p的な世界へ目が向きやすい。ソンディは、リアリズムの世界としてk的世界も挙げている。むしろ、kとpがどのような形で統合されるのか、という観点が大切なのかも知れない。例えば、職業選択はソンディがきわめて重視したことであるが、その人の理想・希望が現実の中でうまく釣り合った形でなければ、長続きはしないものである。「あまりにも売れなさすぎる画家」は得てして、自己の世界に耽溺しすぎており、公共性や大衆の支持からはかけ離れている。内的な世界(p)が、いかに現実(k)の中で結晶化されるのか、これは誰にとっても大切なことなのではないかと思う。

 そこで、現実的な機能の停止(k0,hy0,s0,d0)を、うまくいかない「停滞」として、内的なテーマ、主観的世界(例えばp+など)と同等に目を配る必要があるのではないだろうか。大塚先生はどこかの論文で、生半可な共感や支持ではなく、徹底した物質的な関わりが有効なケースもあることを指摘している。

 これは、私の連想だが、内発的動機づけではなく、外発的動機づけが有効な場合があることは自明である。心理療法においても、主観的な心の世界からの内発的な効果だけではなく、物質的・客観的・可視的な現実の外発的な効果も評価されるべきではなかろうか。この点は、Winnicottが言う中間領域、移行現象ともつながる問題かも知れない。ここでは、少し風呂敷を広げすぎた感があるが、今後の検討課題として、指摘するだけにとどめておきたい。


 最後にひとこと、ふたこと。

 秋の実りの時期に学会という一つの収穫祭が行われたというイメージが浮かんだ。秋に実りがもたらされるためには、四季を通しての注意深い手入れが必要である。収穫した実りのことだけではなく、再び、土地の手入れもしなければならない。また来年の収穫に向けて、そろそろ動きだそうかなと思い始めたところである。

 今回は、友人達と収穫祭を祝うことができたことをうれしく思っている。ただ、学会レベルでこうした感触を味わうことができなかった。マンモス学会のさがであろうか。もしかすると、一度、学会全体をあげての、地鎮祭を行うことから始めなければならないのかも知れない。その意味で、ヒルマンの講演は意義深かったように思う。

(2000/09/26受稿・受理)


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