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紫野ソンディ研究会に参加して

内田 裕之

 去る10月18日に佛教大学の奥野哲也先生が新しく発足された「紫野ソンディ研究会」に石橋氏と参加した。その時の様子について、個人的な印象も交えながら、紹介したいと思う。

 筆者の聞いた限りで奥野先生をご紹介すると、立命館大学のご出身で、在学中に鈴木清先生からソンディテストをお知りになって関心を持たれ、その後、東京の佐竹隆三先生に接見されて、関西にいるのならと大塚先生をご紹介された、とのこと。一旦、病院臨床の仕事に就かれた後、法務省の技官として、長年、犯罪臨床の領域でご活躍されてきて、今年度から佛教大学に移られた。

 筆者が初めて奥野先生に会ったのは、1992,3年のことで、当時大塚先生が京都女子大学で開催されていたソンディ研究会でのことだった。以来、そのお人柄に惹かれ、公私に渡り、親しくおつき合いさせてもらっている。
 一方、日心臨では、先生を中心にソンディの自主シンポも回を重ねてきている。どうしても啓蒙的なニュアンスが入ってしまうこと、また、数人のシンポジストを据えての会であること、時間の関係などもあり、先生のお考えをまとまった形でお聴きする機会はこれまでにはなかなか持てなかった。今回、奥野先生のソンディ観、ソンディ理解を聴くという貴重な機会に恵まれたと、筆者は感じている。

 研究会の参加者は、関西で活動しておられる犯罪臨床の方々が多かった。中には、奥野先生作成のソンディ自動診断プログラムからソンディに関心を持った、という人もあったが、転勤の多い法務省の技官として全国各地を回ってこられた中で先生の赴任された先々で、「奥野の行く所、ソンディあり」だったのではないか、と想像している。

 さて、前置きはこれくらいにして、研究会の内容を紹介しよう。
 まず、L.Szondiの生い立ちと一生について紹介された。彼の家族的な背景、理論着想に至る人生の大きな出来事が取り上げられた。特筆すべき点として、Szondiが自身を「深層心理学の第3の男」と位置付け、FreudとJungの間に橋を架けようと考えていたことを受けて、Szondiのエピソードを紹介すると共に、同年のFreudやJungの活動が挙げられていた。また、2つの大きな世界大戦を挟んでいたことは、Szondiが「運命」を考える上で、「強制運命」と「自由運命」という概念を構成することに少なからず影響を及ぼしていたことが語られた。
 私の印象では、このような進め方で、ずいぶんとイメージが膨らんだ感じがした。歴史学者がp因子の影響下にあるということを連想したりしながら、興味深く聴くことができた。
 精神分析家が多数アメリカに移住し、Freud自身もイギリスに亡命し、精神分析学がそれぞれの地で展開していったように、Szondiの生活史を聴くことで、彼の理論の展開やその問題意識が随分理解できたように思う。

 次に、「人生は選択である」というソンディ学の重要な概念が取り上げられた。「人生は選択の積み重ねであり、そこには方向性が見られる」こと、「劣性遺伝子として代々伝わっているものがあり、普段は表面化してこないが、人生における大きな選択であればあるほど、選択に影響を及ぼし、選択を迫る作用を持つ」として、5大選択が説明された。

   @友人の選択:理想の顕在化
   A結婚の選択:性欲の顕在化
   B職業の選択:衝動の社会化、社会性の顕在化
   C疾病の選択:マイナスのもの、負因の顕在化
   D死の選択 :生の完結、生と死の関係

 ここでも、私の感想を述べると、@ABは、Eriksonが青年期の課題として挙げたものに当てはまる。自我心理学という立場から、アイデンティティという概念で論じられているわけだが、これらを自我を中心に据えて捉えるのではなく、個人の自我に帰結されない無意識の領域の問題として、焦点を当てているといえる。そう考えれば、Eriksonもユダヤ人として、また実の父親を知らないという生い立ちから、どこにも所属できない経験をして、アイデンティティ及びライフサイクル理論が出てきたわけだが、彼をソンディ学的見地から、「強制運命」「自由運命」の実例として取り上げても面白いかも知れない。
 CDは、自我の立場からすれば、およそあってほしくないものである。しかし、望むと望まざるに関わらず、身に降りかかることとして、人生の問題、運命として考えるべき問題であると感じた。もう少し詳しく考察してみると、Cは、Freudの症状言語という考え方の発展形でもあるし、「エス」という名称を提唱したゲオルグ・グロデックの考え方にも通じるだろう。Dは、ソンディ学の鍵概念「対立」の一つ、生と死、彼岸と此岸の対立の接点である。特に自らの手で生に終止符を打つ、いわば生の完全否定という形態で生じる自殺として、潜在化している劣性遺伝子の顕在化と考えれば、納得がいく。

 大塚先生の『衝動病理学』の中から、p.15の図1「運命とその規定要因」の説明がなされた。宿命論ではない新しい運命理論として、I.遺伝、II.衝動性質、III.社会環境、IV.精神的環境などは、強制的に決定づける傾向を持った要因として、強制運命につながること、V.自我、VI.魂を介して、その人が自由に決定できる意志や信念により、自由運命につながることが説明された。
 そして「どういう遺伝因子が自分にあるのかを知って、新しい生き方を見つけていく。そのためにソンディテストに意味がある」という考え方、「実験的に衝動が瞬間的に出てくるものをつかまえる」手段として、考案されたという背景が説明された。

  筆者は、これまでパーソナリティテストとしてソンディテストを用いてきて、診断と治療の問題について悩んできているが、ソンディの臨床観が少し見えた気がした。

 それから、筆者はこれが今回最大の収穫であったと考えているのだが、『衝動病理学』p.30-32の表2「8種の衝動因子の現象形態一覧」を一つ一つ丁寧に説明された。解釈に際して、因子の意味を理解することは非常に重要であるにもかかわらず、ただ表として掲載してあるだけで、どうもイメージが膨らまなかったのだが、奥野先生の理解を通して、現象形態において因子がどのように発現しているのか、非常にわかりやすかった。職業の欄をとっても、どうしてこれらがこの因子の名の下に分類されているのか、わかりにくかった点が、線となってつながった思いがした。

 大部に渡るので、ここでは私の感想を述べるにとどめておく。また、是非、奥野先生の手で、表ではなく、文章としてまとめていただきたいという願いをこめて、感想にとどめておきたい心境である。
 もしこれが、具体的に実現したとしたら、生活史に関する情報をソンディ学的に読み取ることがより一層明確になる可能性がある。このことが、クライエント理解につながるであろうし、ソンディ学独自視点からの理解が他派に対する刺激となるのではないだろうか。特に、生活史などの情報を十分に生かすことなく、安易にイメージ的接近法からクライエントの内的なテーマにばかり偏重している臨床家が散見される中、我々ソンディアンのマイノリティながらの存在意義にもつながると、個人的には考えている。

 最後に、因子間のつながりについて説明された。ここでは「対立」という視点で、各因子内の+反応と−反応、各ベクター内の二つの因子、核心ないし中核(PとSch)と辺縁ないし周辺(SとC)の対立、前景と背景がそれぞれ位置づけられていること、そして、その対立を大きく包み込むように「全体」という考え方で構成されていることが話された。
 具体的には、以下のような話であった。「対立・矛盾しているものとして人間は成り立っている。一つの因子の中で、バランスが悪いのを(ベクター内の)もう一つの因子が補ってカバーしてくれたり、逆にバランスの悪さを助長したりする」。ここから、Schベクターの反応型を例に挙げ、「今度は、Pベクターがそれをどうカバーするのか。さらに、周辺群の危険や偏りを中核がどうコントロールするか」と、テスト解釈における一つの道筋、否、人間を理解する際の一つの人間観が語られたという印象を持った。
 研究会の終わり際、「本を読むだけではソンディはわからない。これは、片口先生の本を読んでもロールシャッハがわからないようなもの。自分の臨床経験をふまえて、データを集めていくこと」の重要性を説かれて研究会が終わった。

 書いてみて、随分長く、冗長になってしまい、研究会の輪郭がぼやけてしまったかも知れない。いささか興奮気味の文章となったが、筆者としては、随分インスパイアされたと感じている。
 なお、次回の研究会は、11月17日(金)18:00-20:00で、同じく佛教大学、奥野研究室で行われる予定である。関心を持たれた方は、是非、門を叩いてほしい。
  私信によれば、今後、奥野先生自身もホームページ作成してみたいと考えておられるとのこと。これからの先生のより一層のご活躍と、ソンディ学の発展を願って筆を置きたい。

(2000/10/23受稿・受理)


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