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最近出たいくつかの研究会の中で思ったこと

内田 裕之

 先日、部屋の中に埋もれていた本が出てきた。近藤章久訳『ホーナイの最終講義』という本である。訳者もすでに鬼籍に入られたが、約50年前の講義録が今日出版されたと考えると、すごいことだなあと思う。直接ホーナイに触れた人が解題よろしく印象的な文章をつけているので、ずいぶん伝わってくるものがあった。

 この本の初めの方、つまり講義を始めるに当たっての導入部でホーナイがこんなことを話している。受講生が事例を多く挙げてほしいと強く要望することに対して、「私は、この臨床例を求める要望の裏面にあるものについても考えをめぐらせています。しばしばそれは、私の挙げる具体的な例が、具体的で困難な当面の問題から受講生を救ってくれるかもしれないという希望でもあるからです。私は、あなた方が、この講座で身につけたことから推論して何かを学んでくれることは望みますが、患者との間での具体的な問題からあなた方を楽にすることを目標にしようとは思いません。」また、こんなことも書いている。「技法というものは、ただある限られた程度しか教えることはできません。なぜなら、技法は、結局、こころの自由さ、創意、そして指先の感覚のようなものによるからです。」

 いささか、前置きが長くなったが、この文章がここ数日妙に気になり、そういうコンプレックスの布置の中で、見聞きしたことが形になってきた。それは、私の中にわき起こった個人的なものであるが、少し言葉にして、人の目に触れることで整理してみたくなった。何か感想やご指摘が頂ければ幸いである。

 この文章が気になってから数日後、後輩の川出英行君と紫野ソンディ研究会に向かう道中、新幹線の中、日常の雑事から離れられたちょっとした旅行気分で、ソンディテストのおもしろさを話していた。数値による尺度得点ではなく、+や−という記号で表現することについて、ただの羅列ではなく、意味のあるまとまりとして見えてくる醍醐味があることを二人で熱っぽく話していた。

 「ただの羅列」にしか見えなければ、ソンディデータというものは学習者にかなりの苦痛や不快を与えるかもしれない。描画や箱庭なら、知らなくても何かは言える。ロールシャッハでも、初心者な内容分析とはいえないお粗末な感想を述べることくらいはできる。こう考えれば、ソンディデータはずいぶんストレスフルなものである。

 先のホーナイの引用で「指先の感覚」という話があった。その点、奥野先生の研究会で先生が経験の中での感じたことを話して下さるのはものすごく興味深い。研究会ではレジメを使わず、先生が+/−の記号をホワイトボードに転記して提示される。書きながら、「へえ」とか「こういうのが出るんやね」「何やこれ、わからへんなあ」と何気なく話される時に、こちらに伝わってくるものがあり、それがおもしろい。また、すでに印刷されたレジメを目で追うだけではなく、ノートに書き取る我々参加者も手先を動かしている。こういう感触から学んでいけることを大切にしたいものである。

 それからまた数日、とある臨床心理士の集まる大きな研修会があった。経験の差、学派の違い、育った教室の雰囲気の違い、勤務内容・対象の違い、などなど、大きな会になればなるほど、色々な人が集まってくる。

 人の事例を聴くことがどうして自分の臨床に役立つのだろう。考えてみれば、不思議なことである。それはヤクザ映画を見た後に高倉健の台詞をまねるのと同じなのだろうか。著名な先生の話や解釈の言葉や技法をまねようという人があまりに多い気がする。また、人の発表を聴いていて、フロアから自分の事例での困ったことを挙げてくる人がある。座長や発表者に、自分の困ったことを教えてくれという態度が強すぎる場合、何か白けた感じがすることもしばしば目にする。

 こういうわからないこと、何ともならないことに立ち向かっていると、その人の中で何かが起きてくる。それを受けて、自分ができることをしていく。それが臨床につながっていくのではないだろうか。

 先のホーナイの話でいくと、講座で全てを教えてもらおうと思うこと、救ってもらえると思うことの裏には不安があると言い換えてもいいのかもしれない。わからないことや手の討ちようがないことに対する不安、こういう不安を持ちこたえながら、向き合っていくと何かおもしろい動きが出てくる。

 以前、ある若い人にロールシャッハの個人指導をしていたことがある。その時に「わからない」とプロトコルを持ってこられるのだが、途中からその人はわからないことに耐えられなかったのだろう、私のコメントを一生懸命書き取るだけになっていった。考えてみれば、年長者に小遣いをやって所見の代筆をさせているわけで、はっきりとそのことを伝えたらそれっきりになった。

 ソンディはわかりにくい。ロールシャッハも、どうしてそうなるのかじっくり考えていくとわからない。Exnerがこう言ってるからと自分で考えず数字だけを当てにしたり、いい加減な内容分析とも言えないような、検査者の感想や記号置き換え的な象徴解釈では、不安は解消されていかない。すぐにはわからなくても、じっくり考えていくことは大切であると思う。こうしてつかんできたことは自分の中ではなくならないし、また、学習心理学でいうところの転移が起こるようになり、他のことでもうまくこなせることが出てきたりする。

 思えば、わかりにくいことがわかるようになってきた私の興奮や陶酔感と、わからなくて困っている人の不安がコンテインできなかったことで、私とその若い人とはうまくいかなかったのだろう。自分としても反省している。

 そう言えば、研究会や学会でも、司会や発表者、講師の中に、すぐ答えを教えようとしてしまう下手な人もあれば、質問者に対して「それでどうされてますか」と返しながら対話をしていって、フロア全体が活性化されていくこともある。こういう研究会に出た時も具体的に何かを学んだわけではないが、いい勉強になったと思える瞬間である。心理療法の関係性の中でこういうことが起こるのが、臨床的な接近法の有効性といえるかもしれない。

 偶然見つけた本の一節からこんな連想を書いてみた。散らかった自分の部屋の中から本が出てきたのは、まるで自由連想のような体験であった。また次回、紫野ソンディ研究会だけでなく、我が北摂ソンディ研究会の第9回大会でも、皆と連想を膨らませていきたいと思う。

(2001/04/23受稿・受理)


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