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祝!石橋研究室との相互リンク

内田 裕之

 先日、本研究会の柏地区筆頭である石橋正浩氏がHPを作成された。これにより、北摂ソンディ研究会HPとのリンクが実現した。こうした展開ができたことに、まず何より祝辞を述べたいと思う。

 思えば、私は名古屋で暮らしていて、ご縁がなければこの研究会の人たちと出会うことができなかったわけである。「これもまたSchicksal」と考えれば、本当に不思議なものである。このことに刺激されて、私と北ソンとの出会いについて、少し昔話をしたくなった。いささか個人的な話になること、その中で個人名が出てくるが、ご容赦の程を。

 それは、平成8年の上智大での心理臨床学会から始まった。私は、ポスター発表に自主シンポにどっぷりとソンディモードで参加していた。その時、心理療法を考える上で、興味深い研究をしている人が同室で発表していた。発表論文集が送られてきた時から是非話を聴きたいと思っていて、どうせ自分の所は暇だろうから話をしよう、というつもりだった。ところが当日は「ソンディテストの図版はどこに行ったら買えますか」という問い合わせに始まり、「難しいですよね?どこに行ったら教えてもらえるのですか?」と話が長引き、片付けの時間が来てしまい、私の目をひいたその研究者とは結局話ができずじまいに終わった。

 翌年、東北大での大会では、もうポスターはこりごりで口頭発表にした。発表論文集を見たら、昨年気になっていた研究の続報があると知った。当日、そのポスターに近づき、いささか興奮気味に話しかけてみた。もしかすると彼は「何だろう、この人は」と思ったかもしれない。その人物が、本HPの作成者、串崎氏である。彼はソンディの発表をしていたのではなく、氏が当時取り組んでおられ、その成果が学位論文となった「心理的支え」に関する発表であった。一方、私の事情として、心理アセスメント以外のもう一つの関心事で「世間」に関する研究を細々とやっている。その中で、世間を渡ることの大変さを考えているのだが、私と共通したテーマとして、自分の中に「心理的支え」をもつことの意義を研究している人がいることを知り、2年越しでやっと話ができたことがとてもうれしかったのである。

 その後、串崎氏は丁寧に質問項目や紀要の抜き刷りを送って下さった。私の方の作業が遅々として進まないために、その時はお礼の手紙を書いたくらいでそれ以上は交流が発展しなかった。その翌年、忘れた頃に、串崎氏より手紙がきた。それほど親しく話したわけではないのに、私のことを思い出して北摂ソンディ研究会に誘って下さったのだ。その手紙の中に、阪大式ロールシャッハに造詣の深いメンバーがいます、という旨も書かれていた。これが石橋氏のことであった。ロールシャッハテストも私の大きな関心事であり、書物を通してしか触れることのできなかった辻先生の考え方に触れることができたのは大きな収穫であった。まだ『ロールシャッハ検査法』も『阪大法マニュアル』も出版されていなかった時であり、しかも講習会を通して、口伝(石橋氏曰く、辻説法)で辻先生から教わった人との対面は私にとっては大事件だったのだ。

 知らない所に飛び込んでいくので、どういう展開になるか不安とワクワクで阪大に着いた。ほとんど初対面に近い串崎氏がバス停に迎えに来てくれ、日曜日で誰もいない大学の教室で、石橋氏と「是非勉強したいので」と熱意ある相澤氏と初めて会った。その回は確かロールシャッハとソンディの両方を取った事例を持っていったと記憶している。初めて触れる阪大法との他流試合の感もあり、最初少し緊張したが次第にうち解け、話が弾んでとても面白かった。その流れで夜は打ち上げで飲んだが、その時は私はまだ控え目で、まだギリギリボーイではなかった。

 後日談であるが、串崎氏は、私と石橋氏が絶対気が合うと思ったらしい。確かに、石橋氏と私はお互い、ロールシャッハへの思い入れの強さ・熱さ、お酒をたしなむのが好きなこと、漫画の趣味が共通していることもあり、すぐに仲良くなった。今年は共同研究という形で、日心臨でポスター発表も行う。このように振り返ってみると、ご縁というのは本当に不思議なものである。こんな風にソンディが前面に出てつながったわけではなく、互いの持つ誘発性というか、衝動因子の布置による好悪選択から引きつけ合ったところが、面白いと思う次第である。

 少し詩的な表現を取れば、名古屋にいる私と関西在住の皆との間に、橋が架かったのだろう。最初から目的があって「私達が橋を架けた」のではなく、何か不思議な力が働いて「橋が架かった」のだ。私が「大阪に行きたい」と考えていたのでもないし、彼らが「名古屋の人を呼びたい」と思ったわけでもない。ましてや最初の接点そのものがソンディに関する話ではなかったのだから。

 少し話が飛ぶが、「架橋」というイメージは、ソンディの考え方の中で非常に重要なものである。学問的な話はまたの機会に譲るが、ソンディは「架橋者自我」という概念を用いている。何もソンディに限らなくとも、「橋を架ける」というイメージ、「架け橋」というイメージは心理療法的にみて、肯定的で理想的なイメージであるだろう。実際、橋の象徴的な表現は箱庭や風景構成法の中でも重視されている。

 しかし「橋を架ける」と言うが、人為的な営み、意志や意識的な努力で「橋を架ける」ことはできるのだろうか。日々の自分の仕事を振り返ってみると、私が橋を架けたというよりは、気がつくと橋が架かっていてクライエントはもうそれを渡っていた、という実感の方が強い。例えば、親面接という形で不登校事例に関わっていて、気がつくと子どもが学校に行くようになったということが挙げられるが、我々心理臨床家は橋を架けたのだろうか。

 安易に「橋を架ける」ことが語られる中に、治療技法への偏重や、時には自分の所為を偉大な業績であるかのように錯覚してしまう自我肥大的・自己愛的な姿を、私は感じてしまう。事例発表の場で「治療者のお手柄の自画自賛」に近いようなことも散見され、辟易することも少なからず経験している。よしんば「橋を架ける」ことの中心になっていたとしても、たとえ小さな小川でも橋の建設は、たった一人の手ではなく、多くの人の協力があって実現したということを忘れてはならないだろう。

 これは宗教的なイメージになるかもしれないが、古代ローマでは司祭が橋の建設に携わっていたことをソンディは述べている。これは単に安全を祈願する地鎮祭としての意味合いだけではなく、神聖な気持ちで「橋が架かる」ということを見守るという意味合いも含まれているのだろう。果たして、我々は神聖な気持ちで「橋が架かるのを見守る」ことがどれだけできるのだろうか。日々の臨床の中でも、この祈りにも近い感覚、私が心の中で祈りを捧げるという能動的な動きをもってクライエントに会うことができているのだろうか。このことは、もしかすると河合隼雄の「何もしないこと」という弁にもつながるのではないかと思う。

 また、橋脚がしっかりとしていなければ、その橋は渡るものを支えることができず崩壊してしまうだろう。あまりに長い橋は構造上、どうしても強度に問題が出てくる。こうした設計上の問題は事前に検討しておくべきことであり、欲を出したり、経費や建材、労力を削ったりしては、事故のもとである。倫理的にまた合理的に、橋の建設計画に携わらなければならないだろう。あるいは、スクールカウンセラーの「橋渡し」機能もよく耳にする言葉である。橋として強度や耐久性は十分なのだろうか。橋脚はしっかりと地面に足をつけているだろうか。臨床の中で橋のイメージを使うのであれば、記号的に橋渡しと考えるのではなく、橋のイメージをもう少し丁寧に、一つ一つのケースの中で常に自問自答しておきたいものである。

 もう少し心理療法全般の問題として具体的に考えると、心理療法の初期の段階で「治療計画」「治療目標」が取り上げられるが、我々は人為的な営みによってクライエントを治してあげることなどできないと、私は思う。むしろ、どのような設計であれば事故が起こらないか、確実に向こう岸に着けるようにするために川幅の狭いところ、しかも不便で実際的に活用されない町のはずれではない所へ、渡る人の交通の便を考えて橋を設計しなければならないのではないだろうか。

 ここで言う川の幅は、社会生活との距離と読み替えてよいだろうし、病態水準などのアセスメントと関連してくる点である。渡る人の交通の便は、クライエントのもつニーズ、その家族のニーズから考えていけばよいであろう。また、交通量として、クライエントからの外界への動きだけではなく、社会復帰していく場からクライエントに入ってくる情報や刺激の量も考慮する必要があろう。こうしたことを的確に判断して、実際に心理療法を進めるのかどうか、十分に話し合わなければならない。こうした意識的な準備作業をした上で、橋が架かるのを待つということなのかもしれない。

 我々の昔話に戻るが、知らない所に行くのは不安を伴うものだが、不安混じりで訪ねていくと、彼らはあたたかく私を迎えてくれた。リプライとして、名古屋で私が主催する研究会に、合同研究会という形で来てもらうこともできた。どちらの岸の橋脚もしっかりしていたのだろう。交通量も上り下り共に順調だったのだろう。研究会で大阪に行き、日帰りで名古屋に帰ってくるという物理的な移動の中で、心理的には、行き帰りに同じ橋を渡って、自分の暮らす方の岸に戻れば、また日頃の生活を送り、研究会での収穫は、少しだけれど確実に、日頃の私を豊かにしてくれているように感じている。

 楽しい時間なので、どうしても立ち去りがたく、少しでも長くとどまりたくなる。これが、私がギリギリボーイになっていったゆえんでもある。名古屋で会う時には、石橋氏に「バシさん、そろそろ帰らな、電車なくなるで」と言うのだが、『いや、わしはもっと飲む!帰らへんど』と怒られてしまう(?)。そういえば、昨年の名古屋での会合後の打ち上げで「そろそろ、、、」と相澤氏に伝えたところ、彼はものすごく悲しそうな顔をしていたのを思い出す。よほど未練があったに違いない。「出会いあれば別れあり、そこにギリギリボーイ」とは世の常かもしれない。なお、この時の未練は、昨年の学会時に京都で石橋氏と私と相澤氏の3人で飲んで、充足されたらしい(?)。

 こうして研究や臨床活動を通して、物理的には接触のない土地にいながら、不思議なご縁があって、よき友人にしてよき理解者、よきライバルができたことをうれしく思っている。今後、HPという場も活用して、一層親交を深め、切磋琢磨できればと願っている。

(2001/05/03受稿;2001/05/05受理)


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