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祝? 続いて、移設されて:そこからの連想

内田 裕之

 先日、HP間の相互リンクについて、拙文を寄稿したが、今度は移転となった。橋が架かることで「渡る」という運動が伴ったようである。個人的には、先の拙文で祝辞を述べたばかりなので、重ねて祝辞を送ることに少しとまどいもある。そんな中で、筆者の関心として、ここしばらく「架橋」というテーマについて、少しずつ考えてきているのだが、今回は「渡る」ということから、こんな連想が浮かんだ。

 今から10年くらい前まだ修士課程在学中の頃、名古屋でユング派の目幸黙遷氏の講演を聴いたことがある。内容は道教に関するもので、筆者の理解力不足で十分に消化できなかったが、一つだけ明確に覚えていることがある。
 それは、「十字路」に立った時、いくつ選択肢があるか、という問いだった。十字路イコール四つ辻ゆえ4つと思ったが、答えは5つであった。どうにも最後のもう一つがわからず、説明を聴くと「あっ!」と思った。その答えは「そのまま十字路の真ん中に立っている」という選択である。

 「渡る」「行く」「進む」「通る」といった運動は方向性を持っており、そこには「決断」や「決意」とともに「実行」という姿、具体的なアクションが示される。それに対して、「立ち止まる」というのは、「選択をしない」「動かない」「行かない」「何もしていない」と目に見える形にならない分、消極的で非生産的な印象を受けやすい。しかしながら、「どの選択をすればよいのか」と考えつつそこにとどまること、それは、そこでの内的な緊張感だけではなく、周囲の問いかけや現実的な要請など外界から来る軋轢にも耐えて、自分で考えていく作業であり、きわめて能動的で生産的な営みである。
 葛藤やアンビバレンスといった内的緊張感に耐えきれなかったり、外界の軋轢に耐えきれずに、動いてしまうことは、アクティングアウトと言えるだろう。ソンディ記号的に言えば、何か具体的なアクションや問題行動などの表出(客観的症状反応)という形で動いてしまう0反応と言える。これに対して、葛藤を抱えることで生じる内的な緊張感にグッと堪えている状態、周囲の目からは見えない個人の内界での主観的な苦悩(主観的症状反応)として、±反応が理解できるだろう。

 このように、心理療法的に見れば「立ち止まる」こともまた重要なのである。しかし、こういう言い方をすると、内向的な人の肩を持つような形になったり、悩むことの方がよいとか、0反応よりも±反応の方が優れているとかいう、極端な受け取りが生じるかもしれないが、単純に考えてはいけない。あるいは、境界例で起こるアクティングアウトに困らされた経験からくる、アクティングアウトそのものがいけないという考えにもつながるだろう。しかし、時と場合、その人の人格の統合水準などを丁寧に見ていけば、実際に行動してみることは、客観的現実への働きかけ、周囲へのアピールやメッセージとして機能することもある。ただ心の中で思索を深めているだけでは、周囲に伝わらないこともけっこうあるものだ。

 ソンディテストの手続き上のこととして、10回法に「傾向緊張商」という指標がある。これは、10回分のVGP全反応の中で、0反応の総数を±反応の総数で割ることによって算出されるもので、アクティングアウト(0反応:客観的症状反応)が優位か、葛藤(±反応:主観的症状反応)が優位か、を大まかに分けることができ、その有効性は高い。
 しかし、このテストの醍醐味は、代表値による集約的な分析だけでなく、むしろ8因子のダイナミクスを見ていくことにある。それゆえ、こうした指標を参考にしつつも、さらに傾向緊張表を見返して、8因子全体に目を配って、どの因子で0反応になりやすく、またどの因子で±反応になりやすいのか、と幅広く考えてみる必要があるだろう。その際、当然のことながら、どんな人も、全ての因子に均等に葛藤を保つことは不可能で、ある因子でアクティングアウト的になってしまうことを念頭に置くべきである。その個人での葛藤及びアクティングアウトの現れ方を踏まえていくと、その人のあり方がより一層理解されることだろう。
 内的な適応に目を配れば、葛藤を解消させることは大切な作業であるが、この点について、比喩的な表現を取れば、架けられた橋の全てを渡る必要はないと言えるだろう。橋の上で迷ったり恐くなったりしながら立っているだけ(±)でも意義はある。そうした迷いの中から、渡るべきであれば渡ればよい(+)のだし、渡るべきでないと判断すれば渡らなければよい(−)ことだってずいぶんあるものだ。
 また、0反応については、アクティングアウト的に飛び出してしまってトラブルになることもあれば、その行為が「ここには橋を架けないといけないな」という問題意識や自覚につながることもあるだろうし、中には、現状では(あるいは恒常的に)橋が架からないことを自覚的に受けとめる必要もあるだろう。

 ところで、再び十字路の話に戻ると、十字路だけが独立して断片的に存在していることはあり得ない。図式的にとぎれた形で表記されるが、その十字路にはそもそもそこに至るまでの道筋が当然あったはずである。このように、そこに立つことになった経緯や道筋も大切な資料である。
 このような「流れ」「つながり」という視点を導入して、因子反応を考えることも重要である。ソンディテストには、時間の流れに伴う因子反応型の変化をとらえやすい構造的な利点がある。具体的な因子反応型に即して、思いつくままに列挙してみると、@そもそも0反応的に動いてしまうのか、A何も考えず肯定(+)or否定(−)となっているのか(継列的に±反応から分化してきた+や−ではなく、恒常的に示されている+や−の動きとして)、B葛藤を抱えている状態なのか(±)、C葛藤を抱えた末の肯定型(+)なり否定型(−)あるいは解消型(0)なのか、など少しイメージが膨らんでくる。

 個人はある因子に何らかの因子反応型を示すわけだが、丁寧に面接の中で話を聴いていくと、こんなイメージが沸いてくる。「そういえば、先回はこういうテスト反応を示していたけど、今語ってくれたエピソードは何かそのことに関係しているかもしれない」と、何となく意味のつながりがあるような感じがしてくる。  もちろん、これは、全部テスト反応にくっつけてそれで説明しきってやろうということではない。いわば、治療者がテスト反応の意味がはっきりとわからない中で十字路に立って迷いつつ、クライエントの話を聴いていると、何となくつながりが見えてくる、といった感触である。例えば「こんな反応を出していたけど、それで本人にこういう体験や受けとめがあったのだなあ」とか「面接と面接の間でこういう出来事があったわけか、だとすると心の中の衝動タンクはこういう動きをとってくるのか」とか「今日聴いた話は、この前のテスト反応が形を取ってきたみたいだなあ」とか、こういった感触である。こんな感じが出てくると、グンとテスト解釈が面白くなるし、治療的な見立てもしやすくなると思われる。
 マニュアル的に因子反応型の意味を教科書から拾い上げるだけのテスト解釈は不十分である。恐らくこれでは「ソンディテストはわからない」という不快な体験になりやすいだろう。こうなると、解釈者がテスト反応をただの記号としか認識できず、結局ソンディテストは難解だと投げ出したり、意味がない、妥当性がないと、わからなかったことに由来する不快感への報復まじりに、ソンディテストを批判したくなってくるかもしれない。

 こう考えると、ソンディテストを血圧計のような現状把握のための「衝動圧計」として用いるだけではもったいない。テスト結果だけからブラインドで、固定的な診断鑑別を求めるのはそもそも誤用しているとさえ言いたくなってくる。さらには、テストによって「あなたはここが問題だ」と問題点を拾い出し、そこに最近注目されている遺伝子治療のような処置をすることが心理療法である、と考えているのであれば、誤解も甚だしい。
 繰り返しになるが、どういう流れがあってそのような反応を出したのか、ここまでの流れ、ここからの流れ、そしてその人の今の地点を丁寧に考えていくことは重要であろう。それが、10回法であれば、10回分の反応の流れで見えやすくなる。たとえ、1回法でも、丁寧に面接で話を聴いていくことから、その来し方行く末が見えることはあるだろう。
 さらには、ソンディテストに限らず、他のテストにおいてもこのような考え方は重要であろうし、言葉による面接ならびに非言語的媒介を用いた治療的接近でも、有効な考え方であると思われる。言葉による面接という形態をとっていても、ややもするとクライエントの言葉に対して「ブラインドアナリシス」をして、勝手な解釈をしてしまう人も案外多いもので、今一度、自戒の意味で自身の臨床活動全般を見直しておきたい。

 このような「流れ」を意識した考え方はもちろん現在と過去とのつながりを重視しているが、過去の心的外傷や固着のために問題が発生したと原因を追及して、そこに還元して考えるモデルとは異なった印象を受ける。来し方行く末を考え、またその関連において現状を考えること、個人の運命のゲシュタルトを描くこと、そのような状況で治療関係に身を置いてクライエントとともにいることが、筆者の場合ソンディを学んだことで意識するようになったことと言えるのかもしれない。

 架橋の問題は、簡潔に言い尽くすことのできない複雑な問題であり、臨床に直接つながる問題でもある。筆者の経験不足・能力不足のため、うわずった形で連想が膨らみすぎてしまい、内容を詰め込みすぎて、拡散した内容になってしまった感が否めない。また稿を改めて、考えていきたいと思う。
 このHPを、引き続き、その思索の場にさせて頂きたい、と考えている次第である。
 研究会全体で、より一層の活発な討論が進むことを願いつつ、筆を置きたい。

(2001/06/06受理)


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