Szondiana Hokusetsica

いよいよ第11回大会:Cベクターを考える

内田 裕之

 ここしばらく、本誌への投稿もご無沙汰していた。私の中のソンディ熱が冷めたわけではなく、何となく雑事に追われて、気がつくといたずらに日が過ぎていた感がある。
 思うに、会員の皆さんも多かれ少なかれ似たような状況だったのではないかと想像している。日々の臨床業務と並行して、書き物までするというのはなかなか難しい。フロイトはよくやっていたなあ、と思う。あるいは、彼の神経症的な性質はそのままに、リビドーの向ける先が、書き物としてカセクトされていたとも考えられる。
 そう考えると、自分の個性、長所、また病理も含めて、どのように現実を生きるのか、これを考えていくこと自体、自己分析であり、文脈は異なるが串崎先生の「臨床とは生きることそのもの」という言葉にもつながってくるかもしれない。

 第9回大会に引き続き、第11回大会では、Cベクターの問題を取り上げる。Cベクター、特にm因子については、私の大きく関心を寄せるところである。臨床活動において、関係性は中核に当たるわけだが、その個人内の関係性能力を見ていく際に、初回面接で取ったソンディでのm因子反応型は、かなり有益な資料となる。

 m+反応を示す場合、スンナリとラポールがつくか、あるいはm+に感嘆符がついて、過度で稚拙な依存性を示してくることがわかる。イメージとして、セラピストである私が椅子ならば、クライエントはその椅子に座ろうとする印象であったり、セラピストがさしのべた手をスッと握り返してくるような感じである。
 m−では、なかなかこういう感触が得られない。m0では、m+以上にベタベタの印象か、満ち足りた牛のごとく、満腹感にも似た感触で対人接触を求めてこないボンヤリした印象がある。
 m±反応だが、先の椅子の喩えでいけば、座ろうとするが、腰を下ろしかけてはためらったり、あるいは座っているのだが、体重を全部あずけていない感じで、文字通り「座りが悪い」印象である。物言わぬ椅子であれば、何も感じないであろうが、セラピストは人間であり、またできる限りクライエントを理解しようと身をさしのべているわけで、こうした座りの悪さは、何ともじれったく歯がゆいものでもある。
 まだ経験が浅く、しかも大学のカンファレンスで教官から「受容が足りない」とお決まりのフレーズで叩かれていた頃は、“セラピストである自分に問題があるんだ”と過度に自責的になり、“何とかしなければ”と焦っては、かなり不用意に余計なことをしたものである。
 今、SCをしていて、日常場面にいる中高生に接していて、「自分もその年頃の時は、訳知り顔の大人ってどこか嫌な感じがしたなあ」と思い出す。こちらが何気なく学校の中で過ごしていれば、冷やかしでやってくる子もあれば、相談に来る子もある。
 また、大学生を被験者にデータ集めをしていて、m±を示す人と話すと「なかなか打ち解けられないけれど、ほんとに仲良くなれた友人が少数いる」という話題がよく出た。
 少し経験を積んで、面接での不安が軽減してきた頃には、椅子として、動かずじっとして、その人の体重が受けとめられるのであれば、座った人は自然に安心してくつろぐようになっていく、というイメージも描けるようになってきた。
 その時々の個人の内界にある衝動タンクの状況をとらえることができ、繰り返し施行できるので、ソンディテストを勉強してきたおかげで、その時々のクライエントの心境に敏感であろうとする姿勢、そして心境は変化することを前提として見ていく姿勢は身についたと感じている。

 単にテスト学的な分類に終わらず、治療につながる視点が、今回の研究会で議論になれば、と願っている。久しぶりに会う北ソンのメンバーと熱い議論になることを楽しみにしつつ。

(2002/05/23)

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