Szondiana Hokusetsica

心理テストの広義の反応について

内田 裕之

 昔、マスター時代に、初めて病院で心理検査を取り始めた頃のこと。
 当然のことながら、心理検査を触るのも初めて、患者さんと接するのも初めて、という状態で、ともかく依頼をこなしていました。
 二つの病院を掛け持っていて、一方は山奥の単科の精神科、今書いているのはこれまた田舎の公立の総合病院での話。そこは温泉街だったので、リハビリに力を入れていて、脳器質疾患をもつおじいさん、おばあさん、おじさん、おばさんをたくさん見ました。
 その中の一人、あるおばさんにWAISを施行していて、こちらとしては精一杯丁寧にやっているのに、「先生は、言葉がなまっとるで、わからん」とずーーっと言われ続けて、〈では、わかりにくいようでしたから、丁寧にお話ししましょう。犬とライオンはどこが似ていますか?〉ととってつけたくらい、標準語にして、話しかけたら、その患者さんは泣き崩れてしまいました。
 その時、はっと気づき、“これはボクが泣かせてしまったんだ。PFで言えば、外罰自我防衛でボクのせいにしていたのに、この人の防衛を突破して、検査を突っ込んでしまったんだ”と思いました。〈ホントは、こんな検査されるのも嫌だったのかなあ〉と問いかけると、「あの時、倒れてから何があったのかわからん。気が付いたら、この病院にいて、手も足も動かんくなってまった」と涙ながらに話してくれました。
 この時のことは、今でも時々思い出すくらい、ボクには大きな出来事でした。知能検査も対人関係、検査場面、患者さんの置かれた外的内的状況を考えないとなあ、と思ったものです。

 こんなこともありました。もう一つ勤務していた精神科の病院で、院長からアルコール依存の患者さんのバウムを集めてくれと依頼がありました。今でも忘れないのが、バウムなのに、rejectionが出るわ出るわ。「そんなもん、子供にやってもらえ」「おれは酒の飲み過ぎで体をこわしたから入院してるだけや。あっちの病棟のここのおかしいのと一緒にすな。なんで、心理をやるんや」「書けやん」「....(無言で鉛筆も手に取らない。でもシゾのような空虚感ではない。給食を残した子と担任の先生みたいな感じだった)」などなど。
 忘れられないのが、ある50がらみの患者さんで、調子よく「よろしくお願いします」と診察室に入ってきたのに、教示すると「おい、兄ちゃん、言うてええことと悪いことがあるど!」と怒り出し、背中の入れ墨を見せられました。もちろん、びっくりしましたが、〈主治医の依頼が出ている。あなたはお絵描きと言うが、これはちゃんと保険診療の対象になるような正式な検査〉と伝えると、「おお、そうか。まあ、ともかくお絵描きだけはやめてくれや」ということで、ロールシャッハとソンディを取りました。
 部屋を出てから、その人の小指がなかったことも思い出し、ゾッとしましたが、自室に戻って少し頭を冷やすと、“待てよ。指を詰めてるということは、何かつまらんことで下手うってるんじゃん!”と思ったり、“こういう威嚇まで出さないと保てないのは大変なんだろうなあ”と思ったり。
 その後、この患者さんが退院して、検査から1年以上経った頃、外来の待合いを通ると大声で「おお!おお!」と呼ぶ声があって、〈うるさいなあ、落ち着いてないんだなあ〉と思って、声のする方を見遣ると、例の入れ墨を見せた患者さん。横にいたおとなしいそうな患者さんを捕まえて、「こいつ、こいつ、主治医の依頼の検査を俺、蹴ったんや。前代未聞やろ、こんな患者、な、な!」としつこくまとわりついてきた。飲み屋で酔っぱらいに絡まれた時の不快さと同じものを感じながら、〈静かにしよね。過敏になってはる人もいるんやから〉と制して、別れました。久々の通院で、何か思う所あって、こうして虚勢を張らないと保てなかったのかもしれません。

 ここしばらくソンディテストをめぐって、これもrejectionの一種だろうと思うことがいくつか。

1.「日本人の写真じゃない」
 これはよく聞く話。患者さんに施行していて、言われることもありますが、〈そうですね。で、この中で選んで欲しいんですよ〉と伝えて待ちます。たいていは、何とかなります。
 たちが悪いのは、同業者からのコメント。「是非標準化して下さい」と好意的に私に研究を進めてくれた人もあれば、暗に「そんないい加減なものをやっていてどうするんだ」と非難めいたニュアンスを込めて言う人も結構いるものです。
 その中には、もしかすると、ソンディテストを受けてみて、あまりに強烈な結果を直面化させられた人もいたのではないか、と思います。無防備に興味本位で心理検査なんてするものではないし、まして、衝動とか家族的無意識とかずいぶんディープな所に入るにはそれ相応の心の準備がいるのですから。

2.「嫌いとかそんなん言うたらあかん!!」
 これは、知的に低い人で、出会ったことがあります。「人間、仲良くしないと駄目でしょ?なんで嫌いとか、そんなん言うの?この人かわいそうや」と興奮して語った人にあったことがあります。〈ほな、これはやめとこか〉と言うと、すんなり「うん」となりました。こんなrejectionは、他の検査では絶対あり得ないでしょう。

3.「写真が気持ち悪い」
 「好きな人を選べっていっても選べない」という声。これもよくあります。〈比較的ましな人で〉とか〈一緒にエレベーターの中にいるとしたら〉とか教示を変えていくことになります。
 しかし、こういう具体的な場面設定までした教示をされたら、ますます生々しくなるのになあ、と思うこともあります。下手したら、ゲシュタルトセラピーみたいな直面化に近くなるんじゃないかなあ、と思ったりします。
 それと、これは、先日まだ経験のない若い人と話す機会があり、その人が「精神分析って面白いよね」と軽薄な語りをしていて、ソンディに話題が移り、「全部気持ち悪いから選べない」と言っていました。
 精神分析の概念に「手なづけ taming 」というものがあります。「不気味なもの」という言葉を聞くと、Freudの同名の論文を思い出しますが、これは、単に不気味という意味だけではなく、ドイツ語で「馴染みのないもの」という意味もあるそうです。  したがって、確かに見慣れない顔、決して見ていて快適ではなくむしろ不愉快さを伴う顔写真であるが、これをいかに被検者が手なづけるかという操作が暗に含まれている検査なんだなあ、と思いました。
 およそ今日の業界で蔓延しているベタベタとした生ぬるい“共感”では、考えることもない話でしょう。
 ボクは、この検査を覚えて、“嫌いという関わり方もあるんだ”とか“嫌いは自我としてはあんまり考えたくないことだけれど、こうして目を奪われるようにして、引きつけられてしまうこともあるんだなあ。抑圧だけでは、これをコントロールすることはできないなあ”と思うようになりました。
 快/不快という言葉尻だけから、「気持ち悪いから選べない」という人は、臨床家として、自身が不快に感じる体験をどう手なづけているのでしょう。クライエントから受ける不快な弁や不快な感情をどのように処理しているのでしょう、と、余計な心配までしなくなってきました。

4.「写真がいっぱいあって目移りする」
 その通りかもしれないが、その中で焦点化して、選択することを求めているわけです。これは、特に注意力散漫になっている人に出たりするし、そもそもこの場面に関心を持つ気がなかったり、ここにリビドーをカセクトしようとしていない場合なのでしょう。
 話は飛びますが、中学校でSCをしていて、全校生徒が体育館などに集まる場面で、うるさく騒いでいる子もいますが、つまらなそうな顔や表情のない顔をして、ずっと前髪をいじっている子を見ると、“ああ、今、この場にリビドーがカセクトできないんだなあ。それで、カセクト先が自分の前髪いじりか、、、”と寂しい気持ちになることもあります。
 ソンディテストの話に戻りますが、以前、日心臨の自主シンポで、奥野哲也先生がデモンストレーションをかねて、ノートパソコンと小さなプリンタを持参して、各組8人が印刷された写真帳を使って、希望者に解釈文を出力してあげておられました。その時、ボクの所に、ある人が「こんなの当たってませんよ。だって、選べっていっても図版が消えずに残ってるんだもの」とクレームを付けていました。“なんで、わざわざボクに言うねん?”と思いつつ、触らずにお別れしました。

 いくつか目にしたことを書いてきましたが、このようにソンディテストをどのように受けとめるかという問題の中に、その人の自我防衛の問題を考える必要がある、と考えることがあります。あるいは、防衛に頼らない、意識の“受けとめる姿勢”といった方がよいかもしれません。
 Szondi自身、ドストエフスキーに関して書いた文章の感想が賛否両論だったので、これは何か重要な問題に触れたから不快になる人が出たのだ、と思ったそうです。すごいなあと思います。  易は二度立ててはいけない、と言います。
 しかし、朝の出掛けのテレビ番組で流れている星占いで、あまりよいことを目にしなかった時、チャンネルを変えて別の番組で良いことを言ってないかなあ、という動きが出やすいものです。

 人生をめぐって、運命をめぐって、自分が生きていくということは、そんなに気軽で安直なものではないと思うのです。いかに受けとめるのか、いかに安直な防衛ではねつけることのないように受けとめていくのか、そして、放棄するような絶望するような形ではなく、いかに断念していくのか。もちろん、防衛を突破してしまう形ではなく、治療者との関係において、保護的な体験の中で、少しずつ受けとめていくことになるのでしょう。熱すぎるお茶を飲む時に、氷を入れてお茶を薄めるのではなく、空いているお湯飲みに移して熱伝導でお茶を冷ますという、そんな絵がボクには浮かんできます。
 テストの解釈文が文字情報として一人歩きするところでは、ボクの描いたお湯飲みの話にはつながらないでしょう。関係性を意識しながら、事を進めていくことが、大切だなあと思います。
 というのも、上に挙げてきた人たちは、ボクに話しかけているよういて、ボクと心の交流を通してボクに何かを言ったわけではなく、何かを受けつけることができずこぼすように、自身の身を守るために動いていた人の話ばかりだったのですから。

 Szondiの人間観が面白いなあと思うのは、青年期的な上り坂の克服や達成をモデルにした姿勢、神経症の治療から生まれてきた「自我が無意識を抑圧する。前性器的な未熟な衝動を性器的統制下に置く」という統制・統治・管理的な見方ではなく、「これもまたシクザール」と受容し、一種の諦めを感じる生き方も重要なことと言っていることです。
 自我防衛が強く働いている状態、自我にそれだけリビドーがカセクトされていては、無意識に向き合うことは、難しいでしょう。自分の力だけではどうすることもできない世界に、まだ向き合えないのかもしれません。
 心理テストとしてだけではなく、こうした人間観が心理臨床の中でどのように生かされるのか、今一度考えてみる必要があるのかもしれません。
 特に、現状のような技法や操作で、クライエントの問題が解決されるという誤解が流布している中では。精神分析の技法が有効であるとか、クライエントを受容さえすれば治るという公式化、家族療法的な介入ばかりに目が奪われてしまうことではなく、もう少し素朴に、クライエントさんと接する、という所で。気持ちの通った言葉が出てくるような所で。

 いささか大きな話題です。ゆっくりあたためて考えていこうと思います。

(2003/02/01)

Back | Home