Szondiana Hokusetsica

事例検討会のむずかしさ

内田 裕之

 最近、事例検討会に出る機会が少なくなった。勉強になったなあという感覚があまり得られなくなってきた。
 研究会の感想を参加した人に訊くと、よく「勉強になりました」と返ってくる。どの研究会でもこの同じ答えが返ってくるのに接していると、まるでロールシャッハのperseverationに接している感さえしてくる。DWでもいいし、F+のDをたくさんでもいいと思う。それは、いずれF+のWになっていくのだろうから。会にフロアとして臨む人についてはそんなことを思う。

 事例検討会に参加していて、発表者の意図がよくわからないことも多い。発表者が初心者で、事例における不安の解消が色濃く見えると、私は不快になる。事例への取り組み自体が、不安や葛藤を抱えつつ進んでいくという性質のあるものなのだから、そこはふんばりどころでもある。
 また、有名な先生がコメンテーターであるので事例を出すという人にも少し疑問を感じることがある。確かにまだ自分の臨床家としてのアイデンティティが固まっていない時には、同一化の対象として、偉い先生に寄りたくなることはわかる気もする。
 しかし、外食をする前に、家できちんとご飯を食べる習慣を付けるべきだと思う。自分が時間とエネルギーをじっくりかけて関係を築き上げたスーパーバイザーとの間で、栄養をつけるべきだと思う。親は厳しいが愛があるもので、よそのおじさんはたいてい優しいが親身にまではなってくれないものなのだから。
 以前、某有名な先生が事例検討会で「すばらしい。この事例は君でないとできない」と言っておきながら、その夜の飲み会で「あんなものは全然駄目だ」と別の人にこぼしていたのを見たことがある。嫌なものを見たなあ、と思った。

 そんなこともあって、コメンテーターの態度でも、最近鼻につくものが目立つ。いくつか私が懐疑的になった経験を挙げたい。
 以前、友人の発表を聴きに行ったら、彼は、素朴に治療関係の中で語られたことを大切にする姿勢を貫いており、そこで自分なりに感じたこともあまり付け加えず、一見淡々とした発表だったが、そのような姿勢を貫くところに静かだけどしっかりとしたものが見えてくる思いであった。これに対して、コメンテーターはやたらとユング心理学用語を使って「この夢、おもしろいですね」と話していた。このコメンテーターは「夢は関係の中で語られる」と書いたりしている人なのだが、コメントする様子は謎解きゲームそのものであったし、発表者との関係性の中で語ることもしていなかった。
 関係が生じていない中では、記号解釈(象徴解釈とは呼びたくない)を手がかりにしなければ、わかりにくいものなのだろう。それくらい、夢を関係の中でそっと聴くことは難しいのだなあ、と思ったことがある。とはいえ、コメントは友人が静かに進めている面接を評するにはうるさすぎた。
 友人が「わからなくて困っている。学会で偉い先生に教えてもらおう」と望んでいたのであれば、このような不協和には映らなかっただろう。しかし、上でも述べたように、事例提供に際して、不安や困惑の解消が動機づけになりすぎている人が多いように思う。もちろん、そういう側面もあっていいのだが、「偉い先生に教えてもらえば解消される」という期待を持って、それを実行に移す辺りは、果たしてこの人は日々の面接で大丈夫なのだろうか、とさえ思う。

 発表者について何かを言うことは簡単である。コメントする側が自分の感じたことを言葉にしていけばよいのであるから。
 しかし、発表者に対して何かを言うことは難しい。コメントする側は、その発表に接したことで感じたことを手がかりにしつつ、発表者の自我の状態、実力に応じて、発表者に有益となるように、解釈を投与しなければならないからである。
 また不特定多数が集まる全国規模の学会の中では、発表者の逆転移についてコメントすることも注意を要するものである。そうしたデリケートな問題は、秘密が守られる個室の中で、セラピスト/クライエント(ないしバイザー/バイジー)の二人の間で、継続する面接において、大切に扱うべきなのだから。

 また、フロアの人が一生懸命メモを取っているのを見て辟易することもある。はかなく消えていく自由連想やセラピストの解釈を書き取って、「暮らしに役立てます」というクライエントがいたら、我々はどう思うであろうか。それと同様、はかなく消えていくコメントに対して、後生大事に書き取るという姿勢で、自分の臨床活動が楽になると考えて動くのはどうしたものかと思う。
 文字情報だけでよいのであれば、もっと文献を精読する必要があるだろう。メモを一生懸命取る人に対して、最近こんなイメージが浮かぶ。楽譜だけ持って帰っても、その演奏者と同じプレイはできない。それよりは、その演奏者のプレイをもっと感じるべきではないのだろうか。また、知的には豊かでも感情的には貧困で形骸化したメモにすがる姿は、瞬間的にその人が強迫神経症になっているとさえ思うこともある。
 臨床心理士の養成のため、マンモス化した大学の中で、果たして素朴に関係性というものは成立するのであろうか。継続的に、自分が師として選んだスーパーバイザーとの関係の中で、語られる言葉と、一度きりでお客さんとして接する著名なコメンテーターの言葉とが並列されてよいのであろうか。こんなことも疑問に思ってしまう。

 形骸化した言葉と言えば、こんな経験もある。
 その昔、院生だった頃、大学のカンファレンスで、「受容ができていない」「もっと傾聴しなければ」というお決まりの言葉をよく耳にした。私が思うに、傾聴は面接の中で最低限成立していなければならない事柄であり、それは、字を書く時に筆記具を持ちなさいとか、持つ時には手の筋肉を使いなさい、という指摘と変わらない。
 ヨーロッパからアメリカに精神分析が流れていき、プラグマティックなアメリカ人には十分に治療の精神が伝わらなかった中で、安直な解釈(というよりは説得)が流布しすぎたことに対して、ロジャーズが批判を加えたこととしては、有益であった。その時点での警告として有効だったことが、他の文脈でも効果的であるかどうかは、熟考する必要があるだろう。
 特に、初心者には、まず受容、傾聴のあり方を、習字の喩えでいけば、筆の持ち方から教えなければならないであろう。しかし、残念ながら、習字の時間のように、先生の手の動きに身を委ねてお手本を書いてもらうことが、心理療法ではできない。面接では、クライエントと治療者の二人きりになり、そこに指導者はいないのであるから。
 このことは、なおさら初心者に不安を与えるのであろう。心理療法の学び方、臨床家としてのアイデンティティの確立は、他の現実的・可視的なこととは異なり、心理的に達成されなければならないのだから。
 その意味では、難解なラカン理論がわかるようになったり、難解なソンディテストの解釈ができるようになることは、一つのメルクマールになると思う。こうしたことが自分の臨床活動を支えてくれるものになったことは、私にとっては、心理的な達成だったのだから。

 いささか長い文章で、辛辣な内容であったが、少し前から考えていたことを言葉にしてみた。今の自分としては、偉い先生の言葉に同一化するよりも、若い人が育っていく姿を見る中に、むしろ今の自分を振り返り、学ぶべき所を感じる今日この頃でもある。こんな気持ちも少し言葉にしてみたくなった。
 ささやかで小さな集まりだが、大切に育ててきている研究会の中でしかできないことを考えていく手掛かりとなれば幸いである。外食ではなく家庭料理、雀荘デビューの前のファミリー麻雀なども連想しながら。

(2003/03/15)

Back | Home