Szondiana Hokusetsica

相澤論文「第14回大会を終えて:d因子の意義を知る」を読んで

内田 裕之

 相澤第14回大会委員長からの先の大会に寄せての想いと、丁寧に書かれた論考を読んで大変刺激を受けた。研究会の熱気が冷めないうちに、私なりの想いも形にしたくなり、筆を執ることにした。

 この北摂ソンディ研究会は、毎回の多くの示唆がある。
 少し前の話になるが、第11回大会の帰り道のこと。久しぶりに会合で、Melon,J.のCベクターに関する記述を最後まで読めた達成感、人気のない日曜日の大学前の駅のホームという雰囲気、こうしたことも働いて、程良い創造的な退行が起こっていたと思う。
 石橋第11回大会委員長がポツリとこんなことを言った。「ソンディの記号は記号じゃなくて、象徴なんやね」と。この発言は、私にはインパクトがあり、その後もずっと考えさせられるものがあった。
 思い返すと、最初のうちは、辞書を引くように大塚先生の本を読んで解釈を書くしかできなかった。その頃の自分では、石橋氏の「ソンディ反応を象徴としてみる」ということはわからなかったと思う。むしろ、記号として、文章に置き換えていたに過ぎなかっただろう。
 今回の第14回大会では、ブラインドアナリシスを行ったわけだが、この「象徴」という考え方が頭の片隅にある状態で、私自身は会に臨んでいた。
 また、第13回大会では易を取り上げていたが、「変化」の象徴としての陰と陽を考えていたことが下地となって、今回の相澤論文の中で取り上げられていたd因子の象徴性へとつながってきたのではないか、思い返してみて大変興味深く思った。
 特にd因子の理解が進んだことについては、第11回大会でMelon,J.のCベクターに関する記述を読んだ経験も、大きいだろう。文献講読も臨床家にとって必要な栄養補給であることを改めて感じた。

 話は変わるが、その昔、大学院生の頃、こんなやりとりを耳にしたことがある。恩師の西村洲衛男先生に専門家でない人が「箱庭で何がわかるんですか」と質問をしていて、西村先生は「自分が何に乗せられて生きているかがわかる」と手でお盆か何かがあるようなジェスチャー混じりで答えておられた。技法が変わっても、象徴の動きを見ていく視点として、印象に残っている。
 ソンディテストに反映されるプロフィールもまた、「その人が何に乗せられているか」を示していると考えられる。特に「変化」や「動き」「活動」という観点では、d因子の示してくれることは、「その人がd因子のどのような反応型に乗せられて、アクションを起こしたり、応答をしたりするか」であると考えられる。

 相澤論文で、d因子が「抑うつ感情や喪失感情が決してそのものとして本質的でも決定的でもないことを教えている」という記述に始まり、d因子の象徴性について論考されていく流れは、今回の事例を通して、相澤氏の生き生きとした理解が生まれた様子を見る思いがした。

 氏は、最後を“Schベクターいまだ遙かなり”と締めくくっておられる。今回は対象関係論の考え方も援用しながら、Cベクターを理解することができた。折しも偶然、私は今回の研究会の用に、Schベクターに関する資料を作成して参加した。自我心理学などの考え方も援用していくことで、それほど遠くない将来にSchベクターまで辿れるかもしれない。そんな感想を個人的には持っている。とはいえ、これには私のp+!が関与している可能性もあるが。

 最後に、第10回大会を前後して、この研究会が一時期停滞していたのも、今思えばd0反応だったのかもしれない。その後、会が再活性化されてきた流れは、「会全体が乗せられているもの」によるのかもしれない。第13回大会での「天地否」というスプリットした卦も併せ見て、研究会の運命を考えていくことも必要なのかもしれない。こんなことを考えながら、筆をおくことにする。

(2003/03/30)

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